...

176号

by user

on
Category: Documents
28

views

Report

Comments

Description

Transcript

176号
上
杉
と お な じ 地 域 の相 模 国 長 尾 荘 ︵横 浜 市 栄 区
長 尾 台 町 ︶を 本 拠 に し た 。
東 国 武 士 団 が 源 頼 朝 を 担 い で阪 起 し た と
き 、長 尾 氏 は大 庭 、梶 原氏 ら と と も に 平氏
さだ かげ
かげ ち か
方 に属 し た が 敗 れ 、大 庭 氏 は 景 親 が 斬 首 さ
れ て滅 亡 し た も の の 、長 尾 氏 は定 景 が 同 門
で源 氏 に加 担 し た 三 浦 義 澄 に 預 け ら れ て生
き 延び た 。
よし むら
そ の定 景 は 、三浦 義 村 の命 を 受 け て 三 代
将 軍 貿 朝 を 暗 殺 し た 公 暁 を 討 って功 名 を 立
やす
て たが 、 のち の五代 執 権 北 條 時 頼 と 三 浦 泰
村 が 対 立 し た質 治 合 戦 で討 ち 死 に し て長 尾
03--3712
坂
事
0651
下 山 田 方
のり ふさ
長 尾 景 為 が室 町幕 府 初代 将 軍足 利 尊氏 の
のり あき
伯 父 ︵母 清 子 の兄 ︶上 杉 墨 房に登 用 さ れ て
執 事 にな った 。
会
の
ら
せ
晶 t ズ L Z 狙 t t 凌 だ ﹂と し ぃ
■
知
一万二千円。
お
5 例会
月
7 日 ︵水 ︶
︲ 年 5月 2
日 時 平 成 2
午 後 6時 ∼ 8時
社 会 教 育 館 第 2研 修 室
人ム 場 目 黒 区 民 セ ンタ 1 7階
講 演 松 川博 光 氏
テ ー マ ﹁近 代 観 の修 正 ﹂
・隆 恵 ・
自 由 執 筆 は大 田精 一
中 山 喬 央 の諸 氏 。
締 切 り は 5月 末 日
4 日 ︵水 ︶
︲ 年 6月 2
日 時 平成 2
午 後 6時 ∼ 8時
6月 例 会
人ム 場 目 黒 区 民 セ ンタ 1 7階
かげ ただ
田義 貞 の残 党 を 平 定 し て越 後 守 護 に な った
社 会 教 育 館 第 2研 修 室
テ ー
マ
千 坂 精 一の諸 氏 。締 切 り 6月 末 日
自 由 執 筆 は高 橋 由 貴 彦 ・新 井 宏 ・
﹁漢 詩 の作 り 方 ﹂と
﹁漢 詩 ・船 村 徹 先 生 讃 歌 ﹂
鯨 沸 海氏
とき 、景 為 の子景 忠 が 守 護 代 にな ったが 、
こと に な った ので 、景 忠 も 越 後 守 護 代 を 弟
景 恒 に譲 って憲 顧 に供 奉 し 、上 野 白 井 城
︵渋 川 市 白 井 ︶に 入 って主 君 憲 顧 不 在 の上
野 守 護 代 にな った 。
そ の自 井 長 尾 氏 か ら 足 利 、絶 社 の 二家 が
分家し た 。
講 演
そ の後 憲 顧 が 関 東 管 領 にな って鎌 倉 へ戻 る
そ し て 、憲 房 の子 憲 顆 が 越 後 の南 朝 方 新
例
日 本 社 会 学 会 の会 長 も 務 め た
が 、 死 後 と は いえ 、 こ のよ う
局
け 加 え た 増 補 版 と な って い る 。
年日
6︲ 行
7 7
︲2
成月発
O.
N
平5
残
務
●
権 威 、 新 明 氏 の手 にな る 原 著 は
し
な 処 置を 受 け た こと は無 念 の
極 み で あ った ろ う 。
承
長 尾 氏 が 再 び 表 舞 台 に現 れ た のは 、室 町
継
武 帝 の御 世 、長 岡 京 造 営 の 建 設 長 官 藤 原 種
家
庭 氏 ︵藤 澤 市 大 庭 ︶、梶 原氏 ︵鎌 倉 市 梶 原 ︶ 期 に 入 って から であ る 。
を
継 が 何 者 か に 暗 殺 さ れ た 。犯 人 は す ぐ に 捕
氏
ま った が 、 そ の 調 べ か ら 、 家 持 の 死 後 二 十
四月 講 演
長 尾 氏
主
坂 東 平 氏 か ら 興 った長 尾 氏 は 、同 族 の大
は
一族 の名 は 消 え た 。
た
精
て
千
史遊会通
No 176 (1)
史遊会通信
No 176 (2)
史遊会通信
足 利 は 室 町将 軍 足 利 氏 の所 領 であ るが 、
そ れ 以 前 に 平路 門 を 斃 し た 田 原 藤 大 こと藤
原 秀 郷 系 の足 利 氏 が いた 。
渡 瀬 川 の北 方 現 在 の足 利 学 校 や 銀 阿 寺 が
R 両毛 線 足 利 駅 側 を 領 し て いて 、織 姫
あ るJ
神 社 背 後 の雨 崖 山 ︵二五九 メ ー ト ル ︶の尾
根 道 を ニキ ロほ ど歩 いた と こ ろ の 一帯 に城
跡 があ る 。
し ば た
越 後 の府 内 長 尾 氏 の末 裔 上 杉 謙 信 を 頼 って
落 ち延 び た 。
あが つま
そ の後 、天 正十 一年 の新 発 田 攻 め に出 陣
し て討 ち 死 にし てし ま い断 絶 し た 。
白 井 長 尾 氏 の居 城 白 井 城 は 利 根 川 と 吾 妻
川 に挟 ま れ た断 崖 の上 にあ った 。
近 く の子持 山 中 腹 にあ る 菩 提 寺 臨 済 宗 空
上 杉 憲 政 が 北 條 氏 康 に遂 わ れ て上 野 平井 城
︵藤 岡 市 ︶に追 い詰 めら れ 、あ わ や 滅 亡 の
かげ とら
危 機 に晒 さ れ た とき 、同 族 越 後 春 日山 ︵上
し よ つし ょ っ ふさ ■■
越 市 ︶の長 尾 景 虎 を 頼 る し か家 名 存 続 の道
はな いと 考 え た 。
あき さだ ため
し か し 、景 虎 は越 後 守 護 上 條 上 杉 房 能 と
そ の兄 関 東 管 領 顕 定 を 発 し た謀 叛 人 長 尾 為
沼 市 ︶か ら妻 有 荘 ︵十 日 町市 から 中 魚 沼 郡
そ こ で景 盛 は 、南 北 朝 以 後 上 田 荘 ︵南 魚
恵寺一
異山 の歴 代 墓 所 中 央 に ︿上 杉 禅 秀 の乱 ﹀ 景 の子 な ので 一抹 の不安 が あ った 。
や ︿永 享 の乱 ﹀で大 活 躍 し た長 尾 景 仲 の宝
えい き ょ つ かげ なか
源 姓 足 利 氏 のほう は 渡 瀬 川 の南 、東 武 伊
筐 印 塔 が あ って宗 家 の墓 所 に相 応 し い 。
ひ ヽ
っ 一
O L や
津 南 町 一帯 ︶に か け ては 山 内 上 杉 氏 の所 領
であ った こと か ら 、旧 臣 の薄 生 ︵小 千 谷 市 ︶
の意 響 を 窺 い 、得 心 し た う え で憲 政 を 春 日
た い らく ふさ を か
双林 寺 を 創 り 、月 江 正 文 和 尚 を 招 いて開 山
城 主 平 子 孫 太 郎 房 長 を 介 し て念 人 り に景 虎
景 仲 の子 景 信 が 歿 し た と き 、主 君 の関 東
とし た 。
そ の景 仲 が 、近 く に宗 派 のち が う 曹 洞 宗
勢 崎 線足 利 市駅 から 野州 山 辺駅 に か け て の
一帯 梁 田御 厨 を 領 し て いた 。
藤 原姓 足 利 氏 は 雨 崖 山 城 に 五 代 在 城 し た
が 、平氏 滅 亡 後 足 利 荘 は 源 姓 足 利 氏 の所 領
に な った の で北 の足 尾 山 地 へ逃 れ た が 、皆
代 一二五 年 つづ いた が 、小 田 原北 條 氏 に従
そ のあ と へ足 利 長 尾 氏 の景 長 が 入 って六
定 に内 政 干渉 と誤 解 さ れ て 不調 に 終 わ った 。
田道 灌 ︵資 長 ︶が 調 停 に乗 り 出 し た が 、顕
春 に泣 き つか れ た 扇 谷 上 杉 定 正 の家 老 大
練 社 長 尾 忠 景 を 家 老 に取 り 立 てた の で 、景
そし て 、謙 信 の養 子 に な った甥 の景 勝 が
政 虎 、輝 虎 と 改 名 し て謙 信 とな った 。
前 に お いて憲 政 か ら 正式 に上 杉 氏 を 継 承 し 、
ん で威 嚇 し た のち に 、鎌 倉 鶴 岡 八 幡 宮 の社
そ の景 虎 が 、永 禄 四 年 二 月 小 田 原城 を 囲
山 の長 尾 景 虎 の許 へ忘 命 さ せ た 。
属 し て いた た め 天 正 十 八年 に 減 び た 。
慣 憑 遣 る方 な い景 春 は古 河 公 方 足 利 成 氏
あ と を 継 いで戦 国 乱 世 を 乗 り 切 る と 、徳 川
管 領 山 内 上 杉 顆 定 は 子 の景 春 では な く 弟 の
縄 社 長 尾 氏 は 、聖 武 帝 十 年 の人 平 五 年 に
と 提 携 し て鉢 形 城 ︵埼 玉県 大 里郡 寄 居 町 ︶
政 権 の幕 藩 体 制 に お け る 米 澤 藩 初 代 藩 主 と
澤 山 中 の小 村 で討 た れ 滅 亡 し た 。
上 野 国 内 の名 社 五 四 九 社 を 勧 請 し て上 野 の
に拠 り 、武 蔵 の 家族 た ち を 取 り 込 ん で叛 乱
な り 、自 井 長 尾 氏 の系 が 長 尾 権 四 郎 家 と し
し ょ う む ´
ヽん び ょ う
総 社 神 社 と し た こと から 現 在 の前 橋 市 一帯
を 起 こし たが 、結 局 道 灌 に鉢 形 城 を 陥 とさ
て重 臣 の列 に加 わ って幕 末 廃 藩 置 県 ま で つ
・﹂ が ´
ヽ ぼ つ しげ つし
を 練 社 ︵惣 社 ︶と い って いた こ の地 の蒼 海
げ
あ
きか
城 ︵元総 社 町 ︶を 本 拠 にし て いたが 、穎 景
れ て古 河 へ逃 れ 、成 氏 を 頼 った 。
そ の子 景 盛 ︵一費 齋 ︶は 、主君 関 東 管 領
づ いた のであ る 。
の代 の永 禄 六 年 武 田 信 玄 の上 野 攻 め で総 社
神 社 とも ど も 焼 討 ち さ れ てし ま った の で 、
NQ 176 (3)
史遊会 通 信
城 ︵元 総 社 町 ︶を 本 拠 に し て いた が 、顧 景
れ て古 河 へ逃 れ 、成 氏 を 頼 った 。
を 起 こし た が 、結 局 道 灌 に 鉢 形 城 を 陥 と さ
て 重 臣 の列 に 加 わ って 幕 末 廃 藩 置 県 ま で つ
な り 、自 井 長 尾 氏 の系 が 長 尾 権 四 郎 家 と し
づ いた の であ る 。
に行 った高 松 彦 三郎 と いう 人 は御 小 人 日付
彦 二郎 が 私 に 話 し ま し た ﹂とあ る
況 が よ く わ か る 話 であ る 。
わ けだ が 、こ の使 節 団 は ヨー ロ ッパ諸 国 で
入り 新 聞 ﹁イ リ ュスト ラ シ オ ン ﹂の 一八六
二年 四 月 一九 日号 に は 、日 本 人 の名 前 が と
こ こに 彦 三郎 の名 が 出 てき た こと であ った る
で私 の知 人 だ 。伝 馬 町 へは検 視 に は 行 った
ても 読 み に く いこ と を 記 し た な か で 、数 人
の響 き のよ い名 前 と し て高 松 彦 三郎 が ﹁タ
寺 の過 去 帳 によ れ ば 、文 久 三年 四 月 二 四 日
は大 変 な 歓 迎 を 受 け 、新 聞 な ど にも 多 く 取
コ ハ ンチ ュ ッ ・ヒ ッコシ ヤ ツ ロ﹂と し て挙
げ ら れ て いる ︵朝 日奈 美 和 子 =東 洋 大 ︶。
に 死亡 し て いる こと にな って いる 。と ころ
り 上 げ ら れ たよ う であ る 。 フラ ン ス の挿 絵
そ の 子 景 盛 ︵一費 齋 ︶は 、主 君 関 東 管 領
かげ もり い うせ い さ い
の代 の永 禄 六 年 武 田 信 玄 の上 野 攻 め で 総 社
神 社 と も ど も 焼 討 ち さ れ て し ま った の で 、
自由執筆
タ コ ハ ンチ ュ ッ ・
の開 市 ・開 港 の延 期 を ヨー ロ ッパ諸 国 に 認
と こ ろ で彼 ら は 所 期 の目 的 を 達 す る こと
、あ と で
が 、ま こと にき のど であ っ
く
た
と
。時 代 状
め て貰 う た め 、勘 定 奉 行 兼 外 国 奉 行 の竹 内
は でき な か ったが 、福 沢 や 福 地 な ど は 大 変
ヒ ッ コシ ャ ツ ロ
下 野 守 保 徳 を 代 表 と す る総 勢 三六 人 ︵遅 れ
な 刺 激 を 受 け 、維 新 後 これ が 大 いに 役 立 っ
あ る 。す な わ ち 彦 三郎 は 文 久 二年 に は 死 ん
の新 聞 記 者 福 地 源 一郎 ︵二 一才 ︶な ど が い
メ リ カ を 訪 問 し た福 沢 諭 吉 ︵二七才 ︶や 後
行 を す る の であ るが 、
一行 の中 に は前 年 ア
お さ れ た 幕 府 は 、江 戸 ・大 坂 、兵 庫 ・新 潟
文 久 二年 ︵一人 六 二 ︶、尊 嬢 派 の圧 力 に
柴 田 弘武
て 二人 が 合 流 し 三 八 名 とな る ︶の遣 欧 使 節
た 。し かし 帰 国 当 時 彼 ら を 襲 った のは凄 ま
じ い接 夷 運 動 であ った 。
あ る蓮 光 寺 ︵文 京 区関 口 町 ︶に 行 って み る
ん と か 始 末 を し な けれ ば な ら ぬ 云 々と 書 い
配 の こと だ 、ど う か明 君 賢 相 が 出 てき てな
った脇 屋 卯 三郎 が 、親 類 に 宛 て た手 紙 の中
で ﹁ま こ と に穏 や かな ら ぬ ご 時 節 が ら で心
隠 さ ね ば な ら な い何 かが あ った と し か思 わ
心 の彦 三 郎 の名 が 無 い の であ る 。
彦 七郎 夫 妻 の名 は刻 ま れ て いるも の の 、肝
工兵 少 佐 高 松 寛 剛 夫 妻 と彦 二郎 の父 であ る
不思 議 な こと は ま だ あ る 。高 松 家 の墓 の
でな か った のであ る 。
が 脇 屋 卯 三郎 の自 裁 し た 日を ﹃柳 営 補 任 ﹄
や ﹃藤 岡 屋 日 記 ﹄で調 べ て み る と 、それ は
元治 元 年 ︵一人 六 四 ︶ 一〇月 一九 日な の で
と いう のは 、彦 三郎 は高 松 家 の書 提 寺 蓮 光
し か し 私 が 驚 いた のは そ の こと では な く 、
団 を 派 遣 す る 。彼 ら は ほ ぼ 一年 に 亘 る 大 旅
そ の こ と は福 地 源 一郎 の ﹃懐 往 事 談 ﹄に
詳 し いが 、福 沢 諭 吉 の ﹃福 翁 自 伝 ﹄にも 、
文 久 三年 ︵一人 六 三 ︶神 奈 川 奉 行 組 頭 であ
る 。そし て 、御 小 人 日付 とし て高 松 彦 二郎
け て築 造 さ れ た 品 川 沖 台 場 の いわ ば 現 場 監
督 とし て派 遣 さ れ 、そ の過 程 を ﹁内 海 御 台
てあ った ⋮ ﹂そ れ が 謀 反人 の嫌 疑 を 受 け 、
﹁そ のま ま 当 人 は 伝 馬 町 に 入牢 を 申 し つけ
れな い 。
幕 末 動 乱 のな か高 松 家 では 彦 二 郎 の名 を
と 、そ の墓 石 に は彦 三郎 の息 子 であ る陸 軍
場 築 立 御 普 請 御 用 中 日記 ﹂と し て残 し た人
物 であ り 、安 政 三 年 ︵一人 五 七 ︶か ら 同 六
ら れ 、な に か タ ワイ も な い吟 味 の末 、牢 中
︵四 三才 ︶な る人 物 が いた 。
年 ま で長 崎 海 軍 伝 習 所 にも 派 遣 さ れ て いる 。
で切 腹 を 申 し つけ ら れ た 。そ のと き に検 視
彼 は嘉 永 六 年 ︵一人 五 三 ︶か ら 翌 年 に か
そし て今 回 は遣 欧 使 節 団 の 一員 と な った
176 (4)
騎
it遊 会通信
自 田執 筆
我 が 国 最 古 の 通 貨 ﹁和 同 開 称 ﹂ は
﹁か い ち ん ﹂ か ﹁か い ほ う ﹂ か
鯨 済海
先 般 、新 井 宏 会 員 か ら 掲 題 の訓 み に つい
年 ︵七 〇 八 ︶に 発 行 さ れ た わ が 国 最 古 の銀
さ て ﹁和 同 開 弥 ﹂ ︵別 図 下 ︶は 、和 銅 元
和 飼 の略 字 を 用 い て い る ︵異 説 も あ る ︶ 。
か 、略 字 と み る か で あ る 。な お 同 は 年 号 の
し た 略 字 ﹂と あ る 。珍 も 宝 も 珍 宝 と 熟 す る
通 り ,貴 重 な 品 ﹂ の 意 で 、 両 者 に 意 味 の違
いは 無 い ︵少 な い ︶ 。要 は 跡 を 俗 字 と み る
者 の説 に も 見 当 ら な い視 点 か ら 私 見 を 述 べ
﹁ほ う し説 を 採 る が 、氏 の論 考 に も 他 の学
の卓 論 は 、極 め て 説 得 的 で 同 感 出 来 、私 も
元 に 論 理 的 、実 証 的 に 述 べ ら れ た 新 井 宏 氏
後 世 の 例 、中 国 通 貨 の諸 例 等 詳 細 な 考 証 を
れ た 文 字 、以 後 に 発 行 さ れ た 皇 朝 卜 二 銭 等
珍 宝 ﹂ と 読 め る が 、開 の意 味 が 何 か し っく
用 いる 必 然 性 は 無 い 。即 ち 珍 で は な い こ と
と 。同 画 数 な ら 正 字 の珍 を 用 いた 筈 。公 的
て みた い 。
今 一度 ﹁和 同 開 跡 ﹂を 眺 め て み る 。
一は 珍 と 跡 の字 面 数 が 共 に 九 画 で あ る こ
豊 富 な 資 料 と 文 献 、金 石 文 や 仏 像 に 刻 ま
貨 幣 に あ や か ろ う と 模 倣 し た に 違 いな い 。
貨 と 銅 貨 。円 形 で 中 央 に 四 角 い穴 が あ り 、
り こ な い ︵実 は こ の事 が ヒ ント と な る ︶。
に な る 。ま た 十 四 画 の銅 は 、六 画 の同 と 略
て私 見 を 問 わ れ た 。氏 自 身 は ﹁ほ う =宝 ﹂
説 で 、卓 越 し た 論 考 が 同 人 誌 ﹁ま んじ W 号
当 時 の 日 本 は 先 進 大 国 の中 国 に 学 ぶ こ と
が 多 か った の で 、中 国 の通 貨 ﹁開 元 通 費 ﹂
︵別 図 L ︶に 手 掛 り を 探 って み よ う 。 これ
字 を 用 い て いる 。 つま り 俗 字 よ り 略 字 を 上
二 は 開 の字 に 注 目 し た い 。何 故 通 と し な
時 計 廻 り に 北 東 南 西 の位 置 に 四 字 が 刻 ま れ
て いる 。意 味 は ﹁和 銅 に 発 行 す る 開 か れ た
は 、そ の 約 九 十 年 前 、初 唐 の武 徳 四 年 ︵六
位 に み て いる こ と に な る 。
= 年 5月 1 日発 行 ﹂に掲 載 さ れ て いる 。
私 も ﹁ほ う ﹂と習 った 記 憶 が あ り 、長 年
そ う 訓 ん でき た が 、近 年 は ﹁ち ん =珍 ﹂説
が 優 勢 で学 校 でも そ う 教 え て いる 。改 め て
周 り の人 に 尋 ね て み る と 年 輩 者 に ﹁ほ う ﹂、
若 年 層 に ﹁ち ん tが 多 い 。
一体 誰 が 何 時 、
ど のよ う な 根 拠 で変 え た のだ ろ う 。
二 一︶に 発 行 さ れ 唐 代 三 百 年 間 を 通 し て 流
通 し た 代 表 的 、象 徴 的 な 貨 幣 で あ った 。サ
権 威 を 示 さ ね ば な ら な い通 貨 に 態 々俗 字 を
新 井 氏 に よ る と 歴 史 学 者 穂 井 田忠 友 、考
イ ズ や 形 、中 央 の 方 形 の穴 、刻 印 さ れ た 四
字 等 そ っく り で あ る 。
か った の か 。通 貨 と いう か ら に は ﹁流 通 し
通 用 す る 貨 幣 ﹂ で あ り 、開 よ り 通 が 自 然 で
あ る 。然 も 他 に 開 を 使 った 例 は 皆 無 で あ る 。
字 の配 列 は 北 南 東 西 の順 で異 な り 、意 味
で は な い か 。漢 字 に は 四 字 を ■ 字 に 短 縮 表
古 学 者 山 中 笑 ら が 戦 後 の著 作 で提 唱 し た と
いう 。実 は 江 戸時 代 に は ﹁ち ん ﹂が 通 説 だ
った 。 これ を 狩 谷 椴 斎 が ﹁ほ う ﹂と論 証 し
以 後 成 島 柳 北 ら に 引 き 継 が れ 、明 治 、大 正 、
昭 和 前 半 迄 は ﹁ほ う ﹂が 通 説 だ った のに戦
は ﹁世 の 元 を 開 き 広 く 通 用 す る 宝 tと 読 め
る 。先 の ﹁和 同 開 弥 t の読 み よ り し っく り
く る 。武 徳 と は 、随 を 亡 ぼ し た 唐 朝 最 初 の
こ の こ と は お 手 本 と し た ﹁開 元 通 費 ﹂の
四 字 の 頭 尾 を 採 って ﹁開 弥 ﹂と 短 縮 し た の
後 、狩 谷 液 斎 以 前 に後 退 し て 了 った と いう 。
所 で辞 書 によ る と 弥 は ﹁O 珍 の俗 字 。③
記 す る 例 は 多 い .謹 言 実 百デ ヽ
逆 貞 、大 散 神
つ
年 号 で 、 二 の大 岩 帝 鋼 を 象 徴 す る め で た い
,かた
宝︱
︲資 の 一 , と 員 を 省 き 、缶 ← な に 変 形
後 、狩 谷 被 斎 以 前 に 後 退 し て 了 った と いう 。
所 で辞 書 によ る と 称 は ﹁⑥ 珍 の俗 字 。③
年 号 で 、 こ の大 唐 十 日 を 象 徴 す る め で た い
る 。先 の ﹁和 同 開 称 ﹂ の読 み よ り し つく り
く る 。武 徳 と は 、随 を 亡 ぼ し た 唐 朝 最 初 の
oかん むつ
︱ 三 島 由 紀 夫 ﹃奔 馬 ﹄ ︱
あ る山 狭 村 の文 学 散 歩
自由執筆
宝 =賀 の 一 と 員 を 省 き 、缶 ← 示 に 変 形
戸 を 阪 神 の如 く 。更 に賓 に ついては十 九 画
と 複 雑 な の で 、鋳 造 技 術 上 か ら 九 画 の弥 に
簡略化し た 。
つま り ﹁あ の世 界 に 冠 た る 大 唐 帝 国 を 開
四 字 の 頭 尾 を 採 って ﹁開 弥 ﹂と 短 縮 し た の
で は な い か 。漢 字 に は 四 字 を 三 宇 に 短 縮 表
記 す る 例 は 多 い 。謹 言 実 直 を 謹 直 、 大 阪 神
ら く 休 養 し たあ と 、精 力 的 に仕 事 に取 り か
か る そう だ 。
私 自 身 は 三 島 ほ ど超 一流 の仕 事 は し て い
な いし 、 ﹁肉 体 の改 造 ﹂に賭 け た こと も な
いが 、野 良 仕 事 で肉 体 を 疲 労 さ せ 、神 経 と
私 は退 職 を き っか け に 二地 域 に居 住 し 、
痩せ た 。
は畑 でび っし ょり と汗 を か いて ニ キ ロほ ど
私 は農 閉 期 に は ニキ ロほ ど 大 り 、農 繁 期 に
山本 鎮雄
いる と思 う のであ る 。但 し 意 気 旺 んな 新 生
晴 耕 雨読 の生 活 を 始 め た 。東 京 の郊 外 の自
のバ ラ ン スを 保 って いる 。そ し て メタボ の
独 立 国 の アイ デ ンテ ィテ ィを 出 す べく 字 の
私 は 最 初 は定 年 前 の生 活 習 慣 か ら 週 末 に
いた め で た い開 元 通 費 にあ や か って創 った
﹃和 銅 の開 元通 費 ﹄ であ る ぞ ﹂と 宣 言 し て
配 置 を 工夫 し た 。独 立 語 の漢 文 に 対 し 膠 着
雑 草 を 取 り 除 い ても 、す ぐ 雑 草 は 生 え てく
出 か け 、畑 に野 菜 作 り の テ キ スト を 持 ち 込
る 。週 一回 の野 良 仕 事 で は手 が 回 ら ず 、雑
宅 では も っぱら 本 読 み と物 書 き で過 ご し 、
一週 間 に 一回 、J R中 央 線 に 乗 って妻 の実
最 初 は じ ん ど か ったが 、デ スク ワー ク で
語 の和 文 の場 合 、字 順 が 接 着 連 続 し て いる
鈍 った身 体 を 思 い切 り 動 か し 、身 体 に な る
草 は 生 え る に 任 せ る し か な か った 。
畑 の雑 草 を 見 た古 老 か ら ﹁あ れ じ ゃあ 、
み 、野 良 仕 事 に 励 んだ 。耕 転 機 や 刈 払 機 で
べく 負 荷 を か け た 。身 体 の疲 労 が か え って
家 が あ る 山 梨 県 大 月 市 梁 川 町 に出 か け 、二
精 神 を 快 適 に し た 。ゴ ル フや ジ ョギ ング は
畑 を ダ メ にす る ﹂と 盛 ん に陰 口を た た かれ
方が落ち着く 。
趣 味 と健 康 に最 適 だ が 、野 菜 作 り は 収 穫 と
だ と居 直 り 、陰 口を 無 視 す る こと にし た 。
そ の後 、 ﹁毎 日 が 日 曜 日 ﹂ のわ が 身 を 考 え 、
たが 、 これ は 伝 統 農 法 で はな く 、自 然 農 法
快 晴 の週 日を 選 ん で出 か け る こと にし た 。
あ と で述 べ る 作 家 の三 島 由 紀 夫 は 、多 忙
な 暮 ら し にも か か わ ら ず 、自 ら の健 康 法 と
晩 秋 の梁 川
こ で 、運 動 によ って肉 体 を 十 ま で疲 れ さ せ 、
にあ る 。二段 の河 岸 段 丘 の平坦 地 に 集 落 と
はさ ん で丹 沢 山 地 の北 端 、秩 父 山 地 の南 端
私 が 通 う 梁 川 は相 模 川 の上 流 部 の桂 川 を
肉 体 十 と 頭 脳 十 のバ ラ ン スを 心 が け 、し ば
十 疲 れ ても 、肉 体 は 三 し か 疲 労 し な い 。そ
道 を 日 課 にし た 。作 家 活 動 そ の他 で神 経 が
し て 一週 間 に 二 回 のボ デ イ ビ ルと 一回 の剣
いう 実 益 が あ る 。
百坪 の畑 で野 菜 作 り に取 り 組 んだ ◇
た かが 一字 の訓 み 、さ れ ど 真 実 は 一つ。
博 雅 の反 論 、ご 叱 声 を 僕 つ次 第 であ る 。
(708)
晦
No 176 (5)
史遊会通信
和 同開称
開元通費
武徳四年 (621)
No 176 (6)
史遊会通信
ン 、ガ チ ャ ンと鳴 る た び に 万 の金 が 入 る ︱
最 盛 期 に は ガ チ ャ万 1 機 屋 の織 機 が ガ チ ャ
昭 和 初 期 ま で養 蚕 と 甲 斐 絹 を 生 業 にし た 。
原 な ど の集 落 から な る 。江 戸 時 代 初 期 か ら
田 畑 が 点 在 し 、斧 窪 、彦 田 、立 野 、綱 本 、
津 駅 ︶で 下 車 し 、桂 川 沿 いに 一里 ほ ど 歩 い
ら 中 央 線 で 二時 間 近 い塩 津 駅 ︵現 在 、四方
川 に出 か け た 。そ の当 時 、梁 川 は新 宿 駅 か
息 子 の勲 が 合 宿 し て いる甲 斐 国 南 都 留 郡 梁
飯 沼 茂 之 は旧 知 で判 事 の本 多 繁 邦 を 誘 い 、
発 し た 昭 和 七 年 の設 定 で 、右 翼 塾 の塾 頭 の
ク 、国 内 では奈 良 、大 阪 、京 都 、熊 本 、そ
景 と 心 象 を 融 合 し て創 作 し た のであ ろ う 。
﹃豊 饒 の海 ﹄に 限 っても 、三 島 は 国 外 で は
イ ンド の聖 地 ベ ナ レ ス 、タ イ の首 都 バ ン コ
綿 密 に 練 り 上 げ 、現 地 を 丹 念 に取 材 し 、情
写 であ ろう 。三 島 は お そ ら く 小 説 の構 想 を
三 島 文 学 の魅 力 の 一つは 的 確 な 風 景 の描
か い みな み つ る
と いう 言 葉 が 流 行 し た 。
た と ころ にあ る 。
と ころが 、三島 文 学 に精 通 し た文 芸 評 論 家 、
こ の山 狭 村 は 、三 島 由 紀 夫 の絶 筆 と な っ
川 の河 岸 段 丘 に 二 町 五 反 の田 畑 を 持 ち 、神
し て梁 川 な ど の各 地 を 精 力 的 に取 材 し た 。
た長 編 小 説 ﹃豊 饒 の海 ﹄第 二巻 ﹃奔 馬 ﹄二
十 二章 以 降 に登 場 す る 。私 は ﹃奔 馬 ﹄ ︵新
社 と楔 所 と練 成 会 の道 場 を 主 宰 し て いる 。
神 道 の篤 胤 派 の崇 拝 家 の真 杉 海 堂 は 、梁
一九 六 九 年 ︶の刊 行 後 、本 書 を 携
潮 文庫 、
雑 誌 ・出 版 社 の編 集 者 の誰 も が 、 ﹃奔 馬 ﹄
の決 定 的 な 舞 台 の 一つ、 こ の梁 川 に は触 れ
みた い 。
て いな い 。そ こ で 、梁 川 に ついて言 及し て
三島 は 古 い吊 橋 を 渡 る情 景 と 周 囲 の風 景
を 次 ぎ のよ う に幻 想 的 に描 写 し て いる 。
え て晩 秋 の梁 川 の集 落 、紅 葉 の山 野 、桂 川
の渓 谷 を 散 策 し 、三 島 の風 景 の観 察 力 と 巧
みな 描 写 力 に 改 め て敬 服 し た 。昨 年 、晩 秋
こ の朽 ち か け た吊 橋 が 、丁度 淵 と瀬
私 は ﹁こ こかな ﹂と思 い 、し ば ら く 瀬 音 と
岩 走 る 水 の流 れ を 見 聞 き し た 。 こ こ で ﹃奔
の梁 川 に出 か け たが 、畑 は数 日来 の雨 で ぬ
が 軽 く にじ ん で いる 。あ と に残 し た岸
馬 ﹄ の主 人 公 の飯 沼 勲 が 昭 和 神 風 連 の同 志
を 分 け て いる 。渡 り き った本 多 は 、粛
の榛 林 や 桑 畑 や や つれ た 自 膠 木 の紅葉
と と も に ク ーデ タ ー計 画 を 謀 議 し た 。
か る み 、野 良 仕 事 を あ さ ら め 、久 し ぶ り に
や 、官 能 的 な ほ ど黒 い幹 か ら 赤 い実 一
私 は 梁 川 の綱 本 の田園 の畔 道 を 歩 き な が
ら 、陶 淵 明 の ﹁田 園 ま さ に来 れ な ん とす ﹂
と いう 一句 を 思 い出 し 、桂 川 の川 原 に来 た 。
と こ ろが 、最 初 の散 策 時 、三 島 が 書 いた
朽 ち か け た 吊 橋 ︵ ﹁釜 橋 ﹂、そ の当 時 は 通
行 禁 止 ︶、立 野 の集 落 にあ る 半 鐘 を 吊 し た
つを か ざ し た 柿 や 、袂 の小 屋 を 背 景 に 、
一同 は黙 々と 勲 に 従 い 、田 の南 端 の
々と 吊 橋 を 渡 ってく る 若 者 た ち の姿 を
火 の見 櫓 、草 に 埋 も れ た嘉 永 年 間 の大 念 仏
一人 一人 玉串 を 提 げ て来 る 若 者 が 、橋
巨 岩 の社 のかげ へ来 て車 座 を 作 った 。
﹃奔 馬 ﹄に 登 場 す る 舞 台 を 散 策 し た 。
供 養 の石碑 を 見 か け たが 、昨 秋 の二度 目 の
半 ば で 、折 か ら 山 の端 の雲 を わ ず か に
見 下 ろす 瀬 は 、あ た か も 桂 川 が 直 角 に
見 返 った 。橋 板 に は と ど めも な い震 動
散 策 時 に は 、それ ら は す べ て撤 去 さ れ 、日
破 った 西 日 に よ って照 ら さ れ る 。
曲 が る と ころ で 、瀬 音 は高 く さ や いで
に す る こと は出 来 な か った 。
﹃奔 馬 ﹄は 血 盟 団 事 件 、五 ・一五 事 件 な
ど の右 翼 や 軍 部 によ る ク ーデ タ ー事 件 が 頻
No 176 (7)
史遊 会通 信
“1
l ス オ
熙 ヶ l
′
1
1
,
メ
マ J彗 ブ ゼ
,
に す る こ と は 出 来 な か った 。
,
●
﹃奔 馬 ﹄ は 血 盟 団 事 件 、 五 ・ 一五 事 件 な
ど の右 翼 や 軍 部 に よ る ク ー デ タ ー 事 件 が 頻
破 った 西 日 に よ って照 ら さ れ る 。
半 ば で 、折 か ら 山 の端 の雲 を わ ず か に
見 下 ろ す 瀬 は 、あ た か も 桂 川 が 直 角 に
巨 岩 の社 の か げ へ来 て 車 座 を 作 った 。
曲 が る と こ ろ で 、瀬 音 は 高 く さ や い で
耐 を 滋 べ 、そ こ から さ し のべ た 紅 葉 の
岩 肌 が 歯 噛 みを し て いる よ う な 強 い忍
を 攪 乱 し 、戒 厳 令 を 施 行 し 、維 新 政 府 の樹
た桂 川 の川 原 で車 座 とな って 、帝 都 の治 安
は昭 和 神 風 連 の同 志 と とも に 、す で に触 れ
一日 の課 業 を 終 え た勲
そ の翌 日 の夕 刻 、
と いう 職 名 が 注 記 さ れ て いる 。週 日 に 二人
注 記 さ れ て いる 。
さ ら に唐 突 に ﹁警 察 庁 次 長 、警 備 局 長 ﹂
鉄 橋 、甲 州 街 道 、御 前 山 ﹂そ の他 の地 名 が
﹁山 の図 ﹂を スケ ッチし たが 、お そ ら く 不
鮮 明 のた め か割 愛 さ れ て いる 。た だ ﹁丹 沢 、
に メ モし て いる 。三 島 は 立 野 か ら 眺 望 し た
川 の里 山 や 田 畑 、山 野 の樹 木 の情 景 を 克 明
が 収 録 さ れ 、三 島 は 晩 秋 の権 川 の渓 谷 、梁
枝 々も 、早 く か ら 日影 は 入 って暗 鬱 な
立 を 促 す ク ーデ タ ー計 画 と 、そ の決 行 の日
の警 察 庁 高 官 が 、三 島 の取 材 に同 行 し た と
に迷 った と記 述 し て いる ︵二十 三 章 ︶。
色 を し て いるが 、は る か 見 上 げ る 頂 の
時 を 綿 密 に謀 議 し た 。三 島 は勲 に託 し て 、
事 件 決 行 後 に ﹁ど こか に自 分 を 待 って いる
は 考 え ら れ な い 。私 は 三 島 を 案 内 し た のは 、
い る 。 対 岸 の峻 険 な 断 崖 は 、灰 白 色 の
本 立 の空 だ けが 、光 り か が や く 夕 雲 の
清 浄 な 切 腹 の座 が あ る か のよ う に夢 み て ﹂、
死 に場 所 を 空 想 す る 。次 で触 れ る ﹁三 島 事
は が き つ
乱 れ を 覗 か せ て いる ︵二十 四 章 ︶。
件 ﹂の結 末 を 予 測 さ せ る 。
私 は 三 島 文 学 の熱 狂 的 な フ ァン では な い 。
し か も ﹁文 学 上 の謎 ﹂ 、 ﹁思 想 上 の謎 ﹂と
言 わ れ る ﹁三 島 の死 ﹂に つい て全 く 関 心 は
く に情 景 の観 察 と描 写 に は 大 いに感 服 し た 。
が こ の地 に 取 材 に 来 た とき 、誰 が 案 内 し た
哲 も な い山 狭 村 の梁 川 を 伝 え た のか 、三島
﹃奔 馬 ﹄創 作 ノー ト か ら
私 の最 大 の関 心 事 は 、誰 が 三 島 に 何 の変
猟 期 、さ ら に雉 子 の習 性 や 姿 態 が 精 細 に メ
三 島 は ﹃奔 馬 ﹄で勲 が 射 殺 し て手 にし た
雉 子 の姿 態 を 詳 細 に 記 述 し て いる 。 ﹁創 作
お そら く 現 地 に精 通 し た 非 番 の警 察 関 係 者
ではな いか と推 定 す る 。
な い 。だ が 、三 島 の スト ー リ ー の展 開 、 ロ
にぎ みた ま
のか 、と いう こと であ る 。
﹃決 定 版 一
二島 由 紀 夫 全 集 ﹄第 四 十 二巻
警 察 関 係 者 一人 か 、あ る いは 彼 が 紹 介 し た
あら
め た 。三 島 は勲 が 抱 き 上 げ た 雉 子 の様 子 を
を 徘 徊 し 、足 も と か ら 飛 び 翔 つ雉 子 を 射 止
魂 を 持 つ勲 は 、村 田 銃 を 片 手 に丹 沢 の山 野
を 招 き 入 れ る こと を 奨 励 し た 。猛 々し い荒
ケ ー シ ョンと シ チ ュエー シ ョン の設 定 、と
真 杉 海 堂 は塾 生 に神 道 で言 う 柔 和 な 和 魂
︵二 〇 〇五年 新 潮 社 ︶の ﹁年 譜 ﹂に よ れ
いさ がわ
ば 、三 島 は ﹃奔 馬 ﹄ のた め に奈 良 の率 川 神
老 練 の猟 師 か 、に わ か に判 明 でき な い 。
警 察 流 剣 道 の結 末
の書 籍 を 購 入し 、 ﹁昭 和 四 十 一年 十 一月 八
三 島 と警 察 官 と の接 点 は お そ ら く 剣 道 で
日 ︵火 ︶、 ﹃奔 馬 ﹄執 筆 のた め 、山 梨 県 の
あ ろう 。原稿 の締 切 に胃 痙 攣 に悩 ま さ れ る
梁 川 を 取 材 ﹂し て執 筆 を 開 始 し た 。
、
さ ら に ﹃決 定 版 ﹄第 十 四 巻 ︵二 〇 〇二年 ︶ 肉 体 的 に非 力 な 三 島 は 三十 代 に な って自
、
。
に は ﹁ ﹃奔 馬 ﹄創 作 ノー ト ︵三 冊 目 よ り ︶﹂ 宅 でボ デ ィビ ル の練 習 を 始 め た そ の後
モさ れ て いる 。三 島 の取 材 に協 力 し た のが
ノー ト ﹂に は 詳 し く 猟 銃 の値 段 や 許 可書 や
社 、奈 良 の大 神 神 社 、熊 本 では神 風 連 関 連
克 明 に記 述 し て いる 。そ の後 の勲 の行 動 、
つま り 、経 済 界 の要 人 の ﹁暗 殺 ﹂と 自 ら の
﹁割 腹 自 殺 ﹂の終 末 を 予 感 さ せ る か のよ う
に 、死 んだ 雉 子 に感 情 移 入 し 、そ れ が ﹁果
た し て殺 す こと の感 覚 な のか 、そ れ と も 自
分 が 死 ぬ こ と の感 覚 な のか ﹂と問 い 、判 断
No 176(8)
史遊 会 通 信
シ ムに 通 って 、文 筆 のか た わ ら .本 格 的 に
﹁肉 体 の改 造 ﹂に 取 り 組 んだ 〓さ ら に 中 央
刀 ではな く 、真 剣 白 刃 の ﹁関 の孫 六 ﹂で大
立 ち 回 りを 演 じ 、自 衛 隊 幹 部 八 名 に 重 軽 傷
公 論 社 長 で剣 道 の達 人 の嶋 中 鵬 二 の紹 介 で
を 負 わ せ た 。そ の後 、三島 は 正 面 バ ル コ ニ
第 一生 命 本 社 の地 下 剣 道 場 で剣 道 を 始 め た ^ ー で大 皇 護 持 、憲 法 改 正 、自 衛 隊 の決 起 の
三 島 は最 初 は ﹁ド タ バ タ 、シ ヤモ の喧 嘩 の
アジ 演 説 を し たあ と 、割 切 ・
目殺 を し た 。
よ う な 剣 道 ﹂と述 懐 し て いる 。
そ の時 、私 は 広 島 に いた 。理 髪 店 で散 髪
そ の後 、三島 は 東 調 布 警 察 署 の剣 道 助 教
を し て貰 って いた ら 、テ レビ で 三島 の演 説
の古 川 正実 七段 に教 え を 乞 い 、毎 週 土 曜 日
が放 映 さ れ て いた 。三 島 の演 説 は ヘリ コプ
の ﹁十 年 剣 道 ﹂で 一拳器 則 な 精 古 ﹂に励 み 、 タ ー の騒 音 で聞 き 取 る こ と は でき ず 、そ の
自 決 す るま で剣 道 五 段 に 昇 段 し た .三 島 は
翌 朝 の新 聞 で割 腹 自 殺 を 知 った 。
一貞 女 は 一
人 に見 え ず ﹂と 称 し 、古 川 の転
三島 壽行 為 に シ ョ ックを 受 け な か った と
勤 先 の警 察 署 の剣 道 場 でも 稽 古 に 励 ん だ 。
言 え ば 、嘘 にな る 。ただ 、私 は そ の前 年 、
吉 川 は 、三 島 ら の問 下生 に使 宜 を計 り 、毎
数 画 ﹃人 斬 り ﹄で 三島 の ﹁乱 闘 シー ン ﹂と
週 日曜 日 に 碑 文 谷 警 察 署 、のち に 京 橋 の警
酷 た らし い ﹁切 腹 シー ン ﹂ の迫 真 の演 技 に
視 庁広 報 セ ンタ ー の剣 道 場 で指 南 を 続 け た 。 シ ョ ックを 受 け た 。私 はあ の映 画 は ﹁三島
要 す る に 、三 十 代 にな って剣 道 を 始 め た
事 件 ﹂の予 行 演 習 だ った のか と 、冷 め た思
三 島 は 、文 字 通 り ﹁中 年 剣 道 、旦 那 剣 道 ﹂
いで事 件 を 受 け と め た 。
だ が 、 ﹁好 き を 通 り 越 し て 剣 道 き ち が い 一
三 島 は 、自 宅 で は 日常 的 に酒 を たし な む
︲
島 は こ こは警 察 署 の中 だ か ら 、未 成 年 者
ノか ま る こと もな か ろ う と 言 って
でも 、 ︵
﹂
高 校 十一
剣 ■ にし ︱ ルを つぎ 廻 った と いう エ
と し て修 業 に励 んだ 一三 島 由 紀 夫 ﹁わ が 警
習 慣 は な か った そ う だ が 、文 人 や 演 劇 人 、
察 流 剣 道 ﹂ ︶。
そ し て剣 道 の稽 古 や 親 善 試 合 のあ と の親 睦
と ころ が 、三島 が 剣 道 五段 ︵居 合 道 初 段 ︶ 会 で酒 宴 に つき 合 う こと は 厭 わ な か った 。
の腕 前 を 存 分 に発 揮 し た のが 、あ の ﹁三 島
警 察 署 の剣 道 場 の稽 古 のあ と の酒 宴 で 、三
事 件 ﹂だ った ■三島 は自 衛 隊 市 ケ谷 駐 屯 地
︲
の総 監 室 で総 監 を 不法 監 禁 し て 自 ら の要 求
を 貫 徹 す る た め .剣 道 の竹 月 や素 振 り の本
︱
ピ ソー ド が 伝 え ら れ て い る 。
三 島 は ﹃奔 馬 ﹄ で ク ー デ タ ー 計 画 を 謀 議
す る 格 好 な 舞 台 を 物 色 し て い た 頃 、警 察 関
係 者 の ル ー ト で 梁 川 の情 報 を 得 た の で あ ろ
うか。
私 は 東 京 で の いわ ゆ る ﹁雨 読 ﹂ の生 活 で
こ の エ ッセ ー を 書 いた 。梁 川 の ﹁晴 耕 ﹂ の
生 活 は ﹁猫 の手 も 借 り た い ﹂ほ ど 畑 仕 事 に
忙 殺 さ れ 、 こ の地 で の聞 き 取 り 調 査 を し な
いこ と に し た 。
梁 川 の住 民 は 、 ﹃奔 馬 ﹄ で 描 か れ た 当 地
の晩 秋 の風 景 は あ ま り に も 日 常 的 で あ って
そ の絶 景 の醍 醐 味 を 満 喫 し て も 、 三 島 のよ
う に文 学 的 な 表 現 に思 い至 る こと も な か ろ
う 。 そ の こ と も あ って 、私 は こ の拙 文 を 書
いてみた 。
一事 務 局 だ よ り 一
※史 遊 会 発 足 当 時 の メ ンバ ー が 十 年 に 亘 っ
て 書 き と め た 冊 子 を ま と め た 合 本 ﹃史 遊 ﹄
が で き ま し た 。 7 月 の討 論 会 は 、 これ を も
と に し た ﹁感 想 討 論 会 ﹂と の こ と .
二千 円 に て配 布 いた し ま す 。
Fly UP