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旅 券 記録 に見 る女 性 人 口移 動 一帝国日本から植民地朝鮮へ 宋連玉 1.は じめ に 日本 軍 「慰 安 婦 」 問 題 が 歴 史 観 論 争 の 焦 点 に な っ て い る 。 日 本 版 歴 史 修 正 主 義 とい わ れ る 「新 し い 歴 史 教 科 書 を つ く る会 」 の 描 く 「慰 安 婦 」 像 に は 女 性 差 別 ・民 族 差 別 的 な 限 界 を指 摘 で き る が 、 そ れ に 真 っ 向 か ら対 立 す る韓 国 の 「挺 身 隊 問 題 対 策 協 議 会 」 の 描 く 「慰 安 婦 」 像 に、 民 族 主 義 的 な観 点 が 強 調 され て い る とい う批 判 も よせ られ て い る(1)。 一 方 「フ ェ ミニ ズ ム は ナ シ ョナ リ ズ ム を超 え られ る か 」 と い う提 言 に対 し て は 、 マ イ ノ リ テ ィー ・フ ェ ミニ ズ ム か ら の 反 論 が 寄 せ ら れ て い る(2)。 ナ シ ョ ナ リ ズ ム と フ ェ ミニ ズ ム の 問 題 、 「慰 安 婦 」 制 度 と公 娼 制 の 相 関 関 係 を 考 え る 際 に、 日本 人 「慰 安 婦 」 を ど う位 置 付 け る か と い う 問 題 は 重 要 で あ る に もか か わ らず 、 「慰 安 婦 」 問 題 が 広 範 囲 に 注 目 さ れ る よ う に な っ た 過 去10余 年 に お い て も 、 日本 「慰 安 婦 」 当 事 者 の 証 言 は も と よ り、 実 証 的 な 研 究 も ほ とん ど な さ れ て い な い 。 帝 国 の 領 域 拡 張 に 伴 う 日本 人 の 人 口 移 動 を 研 究 し た 業 績(3)や 、 「か ら ゆ き さ ん 」 とい う 名 で 東 南 ア ジ ア 、 朝 鮮 、 旧 満 州 、 中 国 へ 人 身 売 買 さ れ た 女 性 の 歴 史 を 研 究 し た も の(4)は あ る 。 ま た 農 業 恐 慌 と冷 害 に よ り1930年 代 に 東 北 地 方 か ら多 くの 若 い 女 性 が 人 身 売 買 さ れ 、 社 会 問 題 に な っ た こ と に つ い て の 研 究 が あ る(5)。 こ の よ う に 地 域 や テ ー マ に よ り個 別 に 女 性 史 研 究 は 進 ん で い る もの の 、 同 時 代 に 生 きた 日本 の 東 北 地 方 の 女 性 と植 民 地 統 治 下 の 朝 鮮 人 女 203 性 の人 生 との連 関性 を知 りう る研 究 は まだ十 分 とは い え な い(6)。 本 稿 で は以 上 の よ うな 問題 関心 に も とづ き、外 務 省 に残 され て い る 旅券 記録 を分 析 す る こ とで、 帝 国 日本 か ら植 民 地 朝 鮮 へ と生 活 の 場 を 移 した 日本 人 女性 の生 活 を明 らか に しよ う とす る もの で あ る。 近 代 史 の なか に埋 もれ て し まい、 忘 却 され て い る 日本 人 女 性 の 姿 を 掬 い上 げ る こ とは、 国民 国家 の枠 組 み を超 え られ な か った 従 来 の 近代 史叙 述 を批 判 す る作 業 で もあ る。 日本 の近 代 史 は コ イ ン の裏 側 をな す 朝 鮮 、 台 湾 との 関 わ りで見 るべ きだ が 、 と同時 に底 辺 に あ った が た め に近 代 史 の 捨 石 とされ、 帝 国 か ら辺境 へ と押 しや られ た 存在 も忘 却 さ れ て は な らない 。 そ れ ら全 体 像 を明 らか にす る こ とで 、初 め て近 代 史 叙 述 が な され た とい え よ う。 2.旅 ① 券 に見 る 日本人女 性 の渡航 状況 『 旅 券 下付 数 累 年 比 較 』 に見 る清 国 ・ロ シア ・朝 鮮 渡航 状 況 朝 鮮 に在 留 した 日本 人 の 職 業 別戸 口調 査 は1903(明 治36)年 よ り始 め られ た の で(7)、それ まで の 渡 航状 況 を しるた め に外務 省 通 産 局 編 纂 の 『 旅 券 下 付 数 累 年 比 較 』(自 明治 元 年 至 同38年)(8)と 外 務 省 外 交 資 料 館 に残 さ れ て い る旅 券 記録(9)で窺 い知 る しか な い 。 も ち ろん朝 鮮 へ 渡 航 す る人 び とが すべ て 旅 券発 給 を受 けて いた とは 考 え られ な い し、 釜 山 で 実業 家 と して成 功 した大 池 忠助 な どの よ うに (10)日 朝修 交 条 規 締 結 前 に対 馬 か ら渡 航 した 人 につ い て の記 録 は残 され て い な いが 、 しか しな が ら現 存 す る旅 券発 給 記 録 か ら どの よ うな人 び とが どん な 目的 で海 外 へ 出 て い った のか を概 観 す る こ とが で きよ う。 まず明 治20年 ご ろ まで に欧 米 へ 出か けた人 び との 中 に は、 歴 史 の教 科書 な どで 名 を知 られ た人 物 も多 く、 その大 部 分 は帰 国後 の恵 まれ た 待 遇 が約 束 され て い た人 び とで あ る。 欧米 の文 明 に学 んで 新 しい 時代 に活 躍 す る人 物 の実 力 養 成 が 明 治 政 府 の積 極 的 な後 押 しで な され た こ とが わか る。 そ れ に対 し、 中 国 の上 海 や 朝 鮮 に出 か けた人 び とは欧 米 に行 った人 204 び と とは 対 照 的 に 無 名 の 庶 民 が 多 く、 確 か な ビ ジ ョ ン も約 束 さ れ な い ま まの海 外 渡 航 で あ った 。 ま た1872年 の 壬 申 戸 籍 で 国 民 に 苗 字 を 定 め る こ とが 義 務 付 け られ る 以 前 に発 給 さ れ た 旅 券 は 、 苗 字 の 記 載 さ れ て い な い も の も少 な く な い 。 た と え ば 上 海 行 き の パ ス ポ ー トで 「長 崎 、 吉 野 清 七 郎54歳 宇 和 島 、井 関 家 右 衛 門 」 「予 州 米 田 忠 兵 衛 」 な ど と あ る 一 方 で 、 「備 後 国 大 江 村 、 百 次 郎25歳 」 「東 京 中 橋 南 伝 馬 町 州 巨摩 郡 三 ノ輪 村 直右衛門 弟 長 吉倅 竹 次 郎36歳 新 吉21歳 」 「甲 」(11)とあ る 。 同 じ く 上 海 行 き の パ ス ポ ー ト発 給 を 受 け た 初 期 の 女 性 は 長 崎 丸 山 町 遊 郭 の 「遊 女 」 で 外 国 人 に 伴 わ れ て の 旅 行 で あ っ た が 、 欧 米 人 に 雇 用 さ れ て 上 海 や ウ ラ ジ オ ス トク に 向 か う若 い 女 性 が そ れ に 続 く(12)。 1866年 の 関 税 改 定 交 渉 で 江 戸 幕 府 が 外 国 船 へ の 日本 人 水 夫 の 乗 り組 み と、 在 留 外 国 人 が 日本 で 雇 っ て い た 奉 公 人 を 海 外 へ 出 国 さ せ る こ と を認 め た の で 、 当 初 は 外 国 人 の 雇 い 人 と い う形 で 渡 航 す る もの が ほ と ん ど で あ っ た た め で あ る(13)。 朝 鮮 に む け て は 、1876年2月 に 日朝 修 好 条 規 が 締 結 さ れ 、 同 年10月 か ら対 馬 の 人 に 限 ら れ て い た 朝 鮮 へ の 渡 航 が 日 本 人 全 体 に 自 由 化('4)さ れ て 以 来 、 旅 券 発 給 が 増 加 す る(15)。 日朝 修 交 条 規 の2年 後 の1878年 に 日 本 で は近 代 旅 券 法 が 確 立 す る が 、 発 給 場 所 に よ り若 干 異 な る と は言 え 、 旅 券 下 付 記 録 の 体 裁 も徐 々 に整 い 、 旅 券 番 号 、 人 名 、 満 年 齢 、 本 籍 、 身 分 、 渡 航 事 故(事 由)、 港 名 、 許 可 年 月 日 、 年 限 、 旅 券 渡 し 年 月 日、 帰 朝 年 月 日 、 返 納 年 月 日 が 記 載 され る よ うに な る。 ま ず 東 ア ジ ア 地 域 へ の 渡 航 状 況 を 『旅 券 下 付 数 累 年 比 較 』 に よ り概 観 す る と、 表1の よ う に な る。1884年 朝 鮮 、 ロ シ ア(ほ と ん どが ウ ラ ジ オ ス トク)へ 域 へ の 渡 航 者 の85%以 1885年 に25%に ま で は 清 国(大 部 分 は 上 海)、 の女 性 渡 航 者 は外 の地 上 を 占 め るが 、ハ ワ イ官 約 移 民 が 開 始 され た 落 ち 込 む 。 し か し 日清 戦 争 後 、 日露 戦 争 後 に83%、71 %と 高 い 率 の 渡 航 者 が 東 ア ジ ア 地 域 に 戻 っ て く る。 こ れ を 朝 鮮 に 限 っ て み る と、1879年 、1880年 に60%の 高 い 数 値 を示 す が、 そ の他 の 時期 205 も ほ ぼ渡 航 女 性 総 数 の4分 の1を 国 へ の 渡 航 で1882年 、1883年 ら1905年 集 め て い る 。 男 女 性 別 比 で 見 る と清 に 女 性 が 男 性 の 数 を上 回 る が 、1868年 か ま で に 清 国 ・ロ シ ア ・朝 鮮 へ の 旅 券 発 給 を 受 け た 男 性 総 数 に 対 し女 性 は5分 の1と い う極 端 な ア ン バ ラ ン ス を 見 せ る 。 旅 券 記 録 が 渡 航 先 別 に ま と ま っ て 残 さ れ て い る の は1881年(16)か らで あ る。 こ こ で1881年 を例 に と っ て 清 国 、 ロ シ ア 、 朝 鮮 へ 渡 っ て 行 っ た 女 性 を比 較 す る な ら ば、清 国 、 ロ シ アへ 渡 航 した 女 性 の 平 均 年 齢 は 22.7歳 、21.6歳 で あ る が 、 朝 鮮 の 場 合 は26.5歳 とな る。 朝 鮮 に渡航 し た 女 性 の 平 均 年 齢 よ り清 国 、 ロ シ ア が 低 い の は 、 朝 鮮 へ の 渡 航 が 家 族 を伴 う ケ ー ス が 相 対 的 に 多 い の に対 し、 縫 針 稼 、 洗 濯 稼 を 渡 航 事 由 に あ げ て 単 身 で 渡 航 す る若 年 女 性 が 後 者2地 域 で多 い た めで あ る。縫 針 稼 、 洗 濯 稼 の 占 め る率 が も っ と も多 い ウ ラ ジ オ ス トク 行 き で 見 る と 、 そ の 稼 業 に従 事 す る年 齢 は48歳 か ら11歳 ま で 広 が り を 見 せ な が ら も10 代 が78%、20代 が33%と 若 年 に偏 重 し て い る 。 縫 針 稼 、 洗 濯 稼 は朝 鮮 へ の 渡 航 事 由 と し て も決 し て 少 な い 数 で は な い が 、 清 国 で は50%、 ラ ジ オ ス ト ク で は65%を ウ 占 め て い る。 帰 朝 年 月 日 の 欄 に は 数 ヶ 月 や 数 年 後 に 帰 国 し た こ とが 記 載 さ れ て い る 者 も い る が 、 記 載 さ れ て い な い 者 も男 女 を 問 わ ず 少 な くな い 。 ウ ラ ジ オ ス トク 渡 航 女 性 で の 場 合 、25 %強 が記 載 され て い ない 。 また身 分 的 に は全 員 平民 出 身 で あ る。 ま た 朝 鮮 に 出 稼 で 渡 航 し た 数 ヶ月 後 に ウ ラ ジ オ ス トク に 渡 航 し て い る ケ ー ス も旅 券 記 録 に見 ら れ る(17)。 ② 渡 航 事 由 に み る記録 と記 憶 の懸 隔 1880年 の海 外 旅 券 付与 表(18)に よれ ば、外 務 省 、 す な わ ち東 京 で 発給 した 朝鮮 行 き の旅 券 は男 性181人 、 女 性24人 に付 与 され て い る。 この 年 に は まだ 釜 山、元 山 しか開 港 され て い な か っ たが 、 長 崎 発 に比 べ る と女 性 の比 率 は は るか に低 い。 旅 券記 録 に よ る と、 長 崎 発 給 の 旅 券 で は単 身 渡 航 す る女性 が多 い の に対 し、東 京 とい う地 域 柄 か ら女性 た ち は官 公 吏 の 家族 か 、 そ の 「下 婢 」 で あ るが、 中 に は朝 鮮 開 港 地 の 女性 の少 な さ に 目 をつ けた売 春 業 者 も混 じっ て いた 。 206 明 治13(1880)年4月19日 の 赤 倉 藤 吉(47歳4か 京 町1丁 に発 給 さ れ た 浅 草 新 吉 原 京 町2丁 月)、 同 年5月7日 目在 住 の 小 川 ア イ(46歳8か 目在 住 に発 給 され た 浅 草 区新 吉 原 月)と 小 幅 松 之 輔(33歳)は そ れ ぞ れ 渡 航 事 由 を商 業 と し て 旅 券 を 申 請 し て お り、 小 川 は900日 間 有 効 の も の を許 可 され て い る 。 ま た 小 川 ア イ と小 幅 松 之 輔 は27歳 と14歳 の 養 女 を 同 伴 し て い る 。 ち な み に返 納 、 帰 国 欄 は 全 員 が 空 欄 と な っ て い る。 小 幅 が ど の よ う な 人 物 で 朝 鮮 へ 具 体 的 に 何 を 目 的 に渡 航 す る の か に つ い て は 同 年5月11日 の 『有 喜 世 』 の 記 事(19)が参 考 に な る。 す な わ ち ママ 「先 年朝 鮮 へ貸 座 敷 を開 い て 当 た とい う中米 楼 の 二 の米 を踏 み、 吉 原 の お で ん猫 は又 同地 へ 貸 座敷 を始 め る とて、 明12日 出 帆 の貫 効 丸 へ 、 夫 小 幡 松 之 助 と共 に乗 り込 む と言 は、棒 の余 物 を 占 て福 を取 込 目的 さ」 とあ るが、 記 事 の小 幡松 之助 は旅 券 発 給 を受 けた小 幅松 之 輔 で あ ろ う し、 そ の妻 のお で ん猫 と は小 川 ア イ の養 女 の で ん(20)の こ とで あ ろ う。1900年 に定 め られ た 「 娼 妓 取 締 規 則 」 に18歳 未満 の者 の娼 妓 稼 業 を禁 じ、 娼 妓 稼 業 をす るた め に 同一 戸 籍 内 に あ る最 近 尊 族 親 か 戸 主 の 承 諾 を必 要 と したが 、 「 娼 妓 取 締 規 則 」 以 前 に も以 後 に も、 売 春 業 者 は娼 妓 稼 業 の条 件 を満 た さな い もの に対 し、 養女 に す る のが 通 例 とな って い た ⑳。 くだ ん の小 幅(小 幡)は 明治16年 「海 外 旅 券下 付(附 与)返 納 表 進 達 一 件(含 附 与 明細 表)」 にふ た た び旅 券 発 給 され て い る が、 名 前 は 小 幡松 之 助(36歳7か 月)、 渡 航 事 故 は商 業 とな っ て い る。 新 聞 記 事 の名 前 と一致 す る こ とか ら、 明治13年 の外務 省 に は小 幅 と記 録 され て い るが 、 同 時 代 の人 び との生 活 情 報 か ら書 か れ た新 聞記 事 の小 幡 の ほ うが 正 しい と判 断 で き るの で は な いだ ろ うか 。 しか も外 務 省 記録 に書 か れ て い る商 業 の具 体 的 な 中味 が 人 々 に共有 され て い た 当時 の記 憶 か ら新 聞 に は明 らか に され て い る ので あ る。 官公 記 録 資 料 の限 界 を示 す 一 例 で もあ る 。 1880年 春 以 前 に す で に吉 原 の 売 春 業 者 が 朝 鮮 に渡 っ て い た こ とが 『 有 喜 世 』 の記 事 か ら もわ か るが 、 ち なみ に経 営 者 の代 わ った 中米 楼 207 は新 中 米 楼 と して 新 京 町2丁 目 に オ ー プ ン し て い る(22)。 ま た 『京 城 発 達 史 』 に 明 治20(1887)年 を以 っ て3年 「小 川 ブ イ は 風 俗 壊 乱 の 廉 間 在 留 を禁 止 さ れ た り」 とい う記 述(23)があ る が 、 小 幡 を 小 幅 と書 き違 え て い る と こ ろ か ら も、 小 川 が 小 幡 と同 伴 し た 同 一 人 物 で あ る可 能 性 は 否 定 で き な い 。 同 一 人 物 で あ れ ば 、 小 川 ア イ は熊 本 県 天草 出身 で あ る。 また外 務 省 記 録 で は小 川 ア イ の旅 券 返還 日の記 載 が 空 欄 に な って い る が 、 同 一 人 物 で あ る な ら 、 小 川 ア イ は900日 の 滞 在 許 可 を 更 新 し た か 、 オ ー バ ー して い る と い う こ と に な る 。 仁 川 が 開 港 した の が1883年 で あ る た め 、 小 川 ア イ が 渡 航 した 当 時 は 京 城(現 、 ソ ウ ル)に 行 くた め に は 釜 山 か ら上 陸 す る しか な か っ た の で あ る 。 こ こ で 記 録 と記 憶 の 隔 た りが さ ま ざ ま な 理 由 か ら存 在 す る こ と を確 認 し た 上 で 、 東 ア ジ ア 地 域 で 渡 航 事 由 と し て も っ と も多 か っ た 縫 針 稼 、 洗 濯 稼 に つ い て考察 した い。 1883年1月 に 開 港 した 仁 川 に お い て 売 買 春 問 題 は 領 事 を悩 ま せ る難 問 で あ っ た が 、 政 府 に 有 効 な 取 締 り と公 娼 制 度 の 許 可 を 求 め て 外 務 省 へ 送 っ た 現 状 報 告 に 次 の よ う な もの も あ る 。 す な わ ち 「明 治17年2月 28日 附 仁 川 港 小 林 領 事 発 信 吉 田 外 務 大 輔 宛 公 信 第 三 十 一 号 」 に 「当 港 の 売 淫 者 は 一 般 普 通 の 売 淫 と は 自 ら性 質 を異 に し総 て 名 は洗 濯 針 仕 事 髪 結 い の 営 業 に候 え ど も そ の 実 雇 主 あ りて 」 「そ の 婦 女 の 如 き も年 期 又 は 人 身 売 買 類 似 の 約 束 を 雇 主 に な す 者 あ り」(24)と 。 ウ ラ ジ オ ス トク へ の ケ ー ス か ら見 て も、 渡 航 先 の 日 本 人 社 会 で の 需 要 を越 え る縫 針 稼 、 洗 濯 稼 従 事 者 が い る。 仁 川 の よ う に 公 娼 制 が 許 可 さ れ て い な い 地 域 で の 売 春 業 の 隠 れ 蓑 と し て 縫 針 稼 、 洗 濯 稼 が 語 られ た 可 能 性 も あ る。 『京 城 発 達 史 』 の 「明 治18年 」 の 記 述 に も、 こ の 年(1885年)の 「末 に は我 在 留 官 民 は89名 に 達 し こ の 中 婦 女 は18名 に 達 し半 ば 妻 女 な る も他 は 或 い は妾 た り酌 婦 た り し な り(25)」と あ る 。 渡 航 事 由 の 要 用 、 商 業 、 縫 針 稼 、 洗 濯 稼 が 売 春 と結 び つ け て 解 釈 で き る 論 拠 と し て は3章 208 の 職業 比 較 で 論 じ る こ とに した い 。 ③ 植 民 政策 と渡 航 手 続 きの簡 素化 い ずれ にせ よ、渡 航 目的 を要 用 、商 用 あ る い は縫 針 稼 、 洗濯 稼 とす るだ けで 簡 単 に旅 券 発 給 され 、 雇 主 で あ れ渡 航 当事 者 で あれ渡 航 費 用 さ え準 備 す れ ば朝 鮮 、 清 国、 ロ シア へ の渡 航 が可 能 で あ った 。渡 航 手 続 きを簡 便 にす る こ とで 、明 治 新 政府 の矛 盾 を海 外 に吐 き出 す こ とが で きた か らで あ り、植 民 の見 地 か ら も海 外 に送 り出す 必 要 が あ った か らで あ る。 近 代 旅 券 法 が 確 立 した1878年3月 則 」(1878年2月)の に外 務 省 布 達 第 一 号 「海 外 旅券 規 第1条 で旅 券 申請 機i関を外 務 省 と開港 場 管 庁 と 定 めた が、 朝 鮮 行 き に限 り広 島、 山 口、 島根 、福 岡、 鹿 児 島 、 長 崎 県 厳 原 支庁(対 馬)と し、 第3条 で定 め られ た 旅券 出願 手 数 料2円 を朝 鮮 国 渡 来 に限 り 「当分 之 内」(1881年 ま で)50銭 と した(26)た め に、新 政 府 の下 で生 活 に困 窮 す る人 び とに とって朝 鮮 は期 待 で き る新 天 地 と な った。 この よ うに旅 券 発行 手 続 き の簡 素化 に よ り若 い女 性 に とって も就 業機 会 を と らえ るた めの朝 鮮 渡 航 は簡便 とな った(27)。 朝 鮮在 留 日本 人 に対 し、 明 治政 府 は今 日の 軽 犯 罪 法 とい える違 警 罪 目(釜 山 は1882年 、 京 城 は1887年)や1885年 に 「密 売 春」 取 締 りを付 け加 え た 「清 国 及 朝 鮮 国在 留 日本 人 取 締 規 則 」(1883年)(28)で、 「 安寧 妨害」「 風 俗 壊 乱 」 に対 処 し よ う と し、1885年 か ら1905年 の11年 間 に 前 者 は484名 、 後 者 は132名 の 在 留禁 止 処 分 者 を 出 した(29)。 開港 直 後 か ら朝 鮮 の商 圏 は 日本 が独 占 し、 そ の た め に も居 留 民 の増加 は国策 で も あ った た め に、渡 航 手 続 きの 簡 素化 は必 要 で あ った が 、 同 時 に それ に 付 随 して起 こ る上 記 の よ うな問題 は避 け られ な い もので もあ っ た。 日本 と結 ん だ一 連 の修 交 通 商 条約 が 関税 免 除 と領 事 裁判 権 、 日本 貨 幣使 用 権 を認 めて い た た め に、 開港 以 降 の7,8年 間 は 日本 商 人 が 朝 鮮 貿 易 を独 占す る傾 向 を見 せ てい た。 しか し壬 午 軍 乱(1882年)を 契 機 に清 の政 治 的 圧力 が 強化 さ れ、 資本 と信 用 面 で 日本 商 人 を上 回 る清 国商 人 が 浸 透 して きた 。 同年 に は美朝 修 交 通 商 条 約,英 朝 修交 通 商 条 約 、独 韓 修 交 通 商 条 約 、 清朝 商 民 水 陸貿 易 章 程 が締 結 され 、 開港 場 に 限 定 され て い た 外 国 人 の 活 動 は1882年 に50里 、1884年 に100里 、 許 可 209 を受 けれ ば内 陸地 方 へ の旅 行 、行 商 が可 能 とな った 。 日本 人 の朝 鮮 渡 航 は 日本 政 府 の 方針 として 奨励 され て い た た め に、 旅 券 の発給 には便 宜 が 図 られ て い た の は以 上 に述 べ た とお りで あ る。 渡 航 者 へ は飴 と も言 え る渡 航 便 宜 、 『 違 警 罪 目』 とい う鞭 の使 い 分 け が な され た が、 そ の鞭 は渡 航者 を 日本 へ 強 制 退 去罰 金 を支 払 わせ て朝 鮮 へ 滞 在 させ る方 向 へ と少 しず つ軌 道 修 正 され て い った。 ④ 明 治29年 法 律 第80号 「 清 国 及朝 鮮 国在 留 帝 国 臣民 取 締 法 」以 後 の渡 航 政策 朝 鮮 にお ける 日本 と清 国 の経 済 圏 の対 立 は 日清戦 争 で火 を噴 き、 日 本 の勝 利 で 終 結 した 。 そ の 結 果 「 朝 鮮 渡 航 の 希 望 を抱 く もの 日 に増 し」 「居 留 地 開 闢以 来 の激 増 」 とな った(30)。 渡 航 者 が増 加 す る の に 拍 車 をか けた のが 「居 留 民 の一 時 帰 国 者 は帝 国領 事 館 現住 証 明 書 に よ っ て再 渡航 許 可 証 が必 要 な くな っ た こ と もあ る(31)。 朝 鮮 関係 の書 籍刊 行 も増 大 し、 各 種 の朝 鮮 語学 習書 も見 られ る よ うに な る〔32)。 人 口の増 加 に伴 って営 業 者 が増 加 し、芸 妓 営 業 税 、染 物 業 、人 力車 業 、 土 方 業 、 ラム ネ製 造 業 、焼 酎 味 噌濁 酒 製 造 業 な どに新 税 を課 す こ とに よ り京城 居 留民 会 の増収 につ な が っ た(33)。 急激 な渡 航 者 増 加 に伴 い生 じ る問題 に対 処 す るた め に、 「清 国 及 朝 鮮 国 在 留 日本 人 取 締 規 則 」 を手 直 し し、 「清 国 及 朝 鮮 国在 留 帝 国 臣民 取 締 法 」(34)が 制 定 され た。 「 取 締規 則」か ら 「 取 締 法 」、 「日本 人 」 が 「帝 国 臣民 」 とな っ て い るが 、 第 五 条 と第 七 条 で む しろ 「 安寧妨害」 「 風 俗 壊 乱 」 を犯 して も保 証 金 さ え準 備 す れ ば在 留 で き る条件 が緩 和 され た ともい え る。 退 去 よ り も定 住 の 方針 が 明 確 に打 ち出 され た の で あ る。 1900年 には韓 国へ の漁 業 者 の 旅 券 を必 要 と しな くな った が 、実 際 に は漁 業 者以 外 の者 も自 由渡 航 して い た よ うで あ る。 朝 鮮側 で は 日本 の 朝 鮮 渡 航 奨 励 を次 の よ う に見 て いた 。 「釜 山港 に下 陸 した 日本 人 は80 名 だが 、様 子 か ら皆 が 労働 者 に見 られ るが 、 日本 の 警 吏 の検 問 に際 し、 旅 券 を携帯 す る者 もい るが 、 大概 は旅 券 を持 た ず あ れ これ と弁 明 をす 210 るが、 警 吏 の 方 も別 段 詰 問 しな い と ころ を見 る と、 日本 政府 は 自由渡 航 を奨 励 して い る よ うで あ る」 と(35)。 さ らに京 城 商 業 会 議 所会 頭 の淵 上 貞 助 が 日清戦 争 後 に提 出 した海 外 旅 行 券 下 付 手 続 きに関 す る建 議 書 に は 「無頼 不 良 の徒 又 は醜 業 婦 等 の渡 航 を取 り締 まる に は別 に 方法 あ るべ く在留 禁 止 令 もあ る こ とに付 き、一 般 の渡 航 手 続 き に就 い て は大 い に取 り扱 い を寛 に して、 邦 人 渡 韓 の便 宜 を 旨 とせ られ ん こ と」(36)が 要 請 され て い たが 、 明治 政 府 の 方 針 も この よ うな 要請 を くみ上 げて い た ので あ る。 渡 航 奨励 に拍 車 をか けた のが 日露戦 争 で あ り、 これ を契機 に朝 鮮 は 移 住 先 として さ ら に喧伝 され る よ う にな った 。 山本 倉 太 郎 の 『 朝鮮移 住 案 内』(民 友 社)が 刊 行 され た の も1904年 の こ とで あ る。統 監 府 が 設 置 され 、 日本 の朝 鮮 支 配 が 具体 的 な青 写真 と して描 か れ る よ うに な る と、 日本 人 居 留 民 に対 し、 在 留 禁止 と教 育 費 ・衛 生 費 の 寄付 行 為 者 へ の頻 繁 な 木杯 ・賞 状 下 賜 とい う、飴 と鞭 が巧 み に使 い分 け られ て い っ た ので あ る(37)。 朝 鮮 で の 日本 の足 場 が 固 ま り、 在 留 日本 人 の 数 が 増 え る と同 時 に職 種 も多様 に な った 。 これ は女 性 に おい て も同様 に見 ら れ る現 象 で あ っ た。 や が て1910年 に 「 韓 国 併 合 」 を果 たす と、 在 留 禁 止 は営業 停 止 、 禁 止 に とっ て変 わ る よ うに な る。 3.女 性 の職 業比 較一 日本人、朝 鮮人 、在朝 日本人 朝 鮮 に暮 ら した 日本 人 女 性 が どの よ う に暮 ら し、 日々 何 を考 え、 暮 ら しの現場 で あ る朝 鮮 へ どの よ うな まな ざ し をむ けて い た か、 引 き揚 げ体 験 者 の 記録 か ら断片 的 な こ とを知 る こ と はで きる。 しか し それ ら の書 き手 の 多 くが記 録 す る た めの識 字 教 育 を受 け、 引 き揚 げた 後 に も 体 験 を ま とめ るだ けの生 活 の ゆ と りを もち 、 自分 の人 生 を振 り返 るだ け の幸 せ に恵 まれ た人 び とで あ った。 どん で ん返 しの人 生 な ど とい っ た もの は存 外 少 な い こ とを考 え る と、朝 鮮 へ押 し出 され た底 辺 の人 び との声 を聞 くこ とは難 しい。 211 朝 鮮 へ 渡 航 し た 人 び と の 職 業 別 戸 口調 査 は 外 務 大 臣 訓 達 に よ り明 治 36(1903)年 よ り始 め られ た(38)ので 、1904年 と1905年 の 戸 口 調 査 は 戦 争 の 影 響 で 朝 鮮 渡 航 者 が 激 増 し た た め に臨 時 に 調 査 さ れ た も の で あ る 。 表2は1903年 の 釜 山 に お け る 「在 留 本 邦 人 員 表 」 か ら作 成 し た も の で あ るが 、 兼 業従 事 者 は省 略 して本 業従 事 者 だ け を統計 に出 した もの で あ る。 こ の 表 に よ れ ば 下 婢34%、 の71%を 芸 妓 、 酌 婦 で37%と な り、 こ れ ら で 全 体 、 日雇 い 、 裁 縫 、 髪 結 い 、 洗 濯 、 で 残 りの12%を 占 め、 合 計 す る と これ ら で す で に83%を し め て い る。 専 門 職 と し て の 教 師 、 看 護 婦 、 産 婆39は そ れ ぞ れ1%で 合 計 し て も わ ず か3%に に 女 性 人 口総 数(4816人)か ら比 率 を 出 せ ぼ 、 教 師0.1%、 芸 妓 ・酌 婦5%、 下 婢4.7%、 あ た る 。 こ の 数 は1876年 産 婆0.1%、 日 雇 い 、 裁 縫 、 髪 結 い 、 洗 濯 で1.6%と な る 。 ま た 身 分 を あ らわ した 第3表 %に 満 た な い。 さ ら に よ る と士 族 が 平 民 と の 対 比 で14 の 士 族 の 比 率5.5%を は るか に超 え る も の で あ る。 新 時 代 に 既 得 権 に与 か れ な か っ た 多 くの 士 族 が 新 た な 利 権 を 求 め て 朝 鮮 に 渡 っ た こ と を こ の 数 字 は 物 語 っ て い る。 表4は 統 監 府 統 計 年 報 に よ り作 成 し た も の で 、 男 女 の 本 業 ・家 族 を 分 け て 数 字 を 出 し て い る も の か ら女 性 だ け を と りあ げ て い る 。1906年 の 本 業 で 見 る と、 芸 娼 妓 ・酌 婦 の 合 計 が 全 体 の49.2%、 商 業 が20.2%、 産 婆 は1%、 教 員 は0.5%と も 、 芸 娼 妓 の 比 率 は48.2%と 雑 業 が16.2%、 な る 。1910年 高 い が 、 教 員 比 率 も1%に と比 較 し て まで 倍 増 し て い る。 これ を 朝 鮮 で 国 勢 調 査 が な さ れ た1930年 日本 人 、 朝 鮮 人 と比 較 す る と表5,6の 耕 従 事 者 は 朝 鮮 女 性 の79.8%、 の5.7%よ り低 い4%で み に 朝 鮮 人 女 性 は5.9%で 日本 内 地 の 日本 人 の 郡 部70.1%、 市 部 の34.4%よ 市部 占 め る商 業 で あ りは るか に高 い 。 ち な あ る 。 有 業 者 比 率 で 見 る と、 在 朝 日 本 人 女 高 く、 次 に 商 業22.6%、 朝 鮮 人 女 性 の 場 合 は 農 業72.4%、 212 よ う に な る 。 在 朝 日本 人 の 農 あ る 。 最 も高 い の は52.0%を るが 、 日本 内 地 の 郡 部10.2%、 性 は 接 客 業 が28.65と の統計 結 果 を使 っ て、在 朝 蚕 業6.7%、 農 業11.8%の 紡 織5.8%と 順 とな る。 な る。無 業 者 の比 率 は 日本人 女性 の ほ うが 朝 鮮 人 女性 よ りは るか に高 いが 、 これ は扶 養 を受 け られ る経 済 的余 裕 の相 対 的 高 さ と解 釈 で きるだ ろ う。 総 じて在 朝 日本 人 は郡 部 よ り市 部 、 す なわ ち都 市 に多 く暮 らす が 、 女 性 の接 客 業 に従 事 す る比 率 の高 さ は開 港 後 の居 留 地 と変 わ らな い。 前 章 で見 た1880年 代 の渡 航 事 由 で、 縫 針 稼 、 洗濯 稼 、 商 業 が部 分 的 に 売 春 業 の隠 れ 蓑 とな って い る と解 釈 す る ゆ えん で あ る。 そ れ に対 し、教 育 従事 者 は在 朝 日本 人 女性 が2.7%、 が0.9%、 朝 鮮 女 性 は0.05%で 日本 内 地 女 性 あ る。 医 師 、産 婆 、 看 護 人 を含 ん だ 医 療 従 事 者 は在 朝 日本 女 性 が5.8%だ が 、朝 鮮 女 性 は0.02%と な る。 日 本 内 地 女 性 は産 婆 と看 護 人 を加 えて1.1%と な る。 この 結 果 か ら専 門 職 にお い て在 朝 日本 人 女性 の ほ うが高 い比 率 を示 して い る。 以 上 の分 析 か ら、 在 朝 日本人 女 性 の階 層 格 差 は 日本 内地 の それ よ り 大 き く、 扶 養 家 族 に あ るか 、専 門職 に従 事 す るか 、 あ るい は商 業 、接 客 業 に従 事 す る とい った極 端 な 開 きが 見 られ る。植 民 地 に おい て は 日 本 内地 で見 られ た 以 上 の 階 層 間 の乖 離 が 存 在 し、 そ の 階層 間格 差 ゆ え に記録 を残 せ る女 性 た ち に不 可視 の存 在 として底 辺 の 日本 人 女 性 が 存 在 した。 植 民 地 朝 鮮 で は民 族 、 階級 に よ る住 み分 けが 幾重 に もな され た が 、 階級 間 の断 絶 は民 族 間 の 断絶 以 上 に互 い の存在 を見 え な い もの として し まっ た とい え るだ ろ う。 4.在 朝 日本 人女性 の暮 らし 開 港後 最 初 に朝 鮮 に渡 った 女性 は誰 か。 高 崎 宗 司氏 は難 波 専 太 郎 の 『 朝鮮 風 土 記 ・上 巻 』 の 「明治 初 年 頃 は 朝 鮮 に行 こ う と して もなか なか 渡 れ な か っ た。 男 で あ って さえ そ うだ か ら、 ま して女 等 は先 ず 行 け ない と言 っ て過 言 で な い。 ところが 明 治 9年 に 日韓 修 交条 約 が締 結 され て 、 時 の海 軍 大 軍 医 矢 野 義徴 氏 が 奥 さ んや 女 中 を伴 わ れ て着 任 され た 。 …(中 略)… そ の次 に女 を伴 れ て来 た のが 大 倉 組 み の富 田重 五 郎 氏 で 、」(40)を 引 用 して1876年 に最 初 に朝 鮮 に渡 っ た の が 矢野 義 徴 の妻 と女 中 だ と述 べ てい る ω。 『 旅 券下 付 数 累 213 年比 較 』 で1876年 に朝 鮮 行 き の旅 券 を2通 発 給 した とあ るの で 、 旅 券 を携 え て渡航 した の は この二 人 の 女性 か もしれ な いが 、 難 波 専 太 郎 の 記 述 は大 池 忠助 とい う対 馬 出 身 で1876年 以 前 か ら朝 鮮 に渡 っ て いた 者 か ら の伝 聞 に も とつ い て い るの で、 資 料 の信 憑 性 は確 か で は な い。 1977年 の陰 暦1月 に朝 鮮政 府 は 日本 の 外 務省 に 日本 商 人 の家 族 同伴 入 国 禁止 を要 請 して い るが 、家 族 を 同伴 す る 日本商 人 が い たた め に 出 さ れ た 要請 で はな い だ ろ うか 。 ともあ れ、 ほ ぼ同 時期 に長 崎 港 か ら商 用 、 要 用 、 縫 針稼 な どの名 目で 無 名 の 女性 が朝 鮮 に渡 って い るだ ろ うが 、 大 池 忠助 の よ うな成 功 した 実 業 家 に は下 層 階級 の後 者 の 姿 を映 し出 さ れ なか った だ ろ う し、 当事 者 に よ って も自 らの記 録 を残 す とい う こ と は不 可能 で あ っ た ろ う。 朝鮮 で の生 活 記 録 が 残 され て い る女 性 はほ とん どが 上 層 階 級 に属 し て い るが 、 そ の 中で も奥村 五 百子 や淵 沢 能 恵 は有 名 で あ る。 奥 村 五百 子 は肥 前 国(長 崎)唐 津 出 身 で 、 東本 願 寺 派 住 職 の 家 族 として 布教 す るた め に1896年 に朝 鮮 に渡 って い る。 全 羅 道 光 州 で 養 蚕 ・農 業 指 導 の 実 業 学校 を設立 と 「日本 村 」建 設 を試 み るが、 地 元 朝 鮮 人 の 激 しい抵 抗 に あ って計 画 は頓 挫 した 。 帰 国 後 、1901年 に 「 愛 国 婦 人 会 」 を創 立 して い る。 奥 村 五 百 子 は1898年 に貴 婦 人 会 結成 の 志 半 ばで 日本 に戻 るが 、 淵沢 能 恵 は1906年 に創 立 さ れた 韓 日婦 人会 の総 務 と して活 躍 した 。1905年 春 に朝 鮮 へ 渡航 した淵 沢 は 日本人 女教 員 の 先駆 け とな り、 淑 明 女 子大 学 の前 身 で あ る淑 明高 等 女 学 校 、 淑 明 女 子 高等 普 通 学 校 の学 監 を務 め る傍 ら、 矯 風会 朝 鮮 支 部 長 、 組 合 キ リス ト教会 長 な どを務 めた(42)。 淑 明 女 子 高 等 普 通 学 校 に学 ん だ小 説 家 、朴 花 城 も自伝 『 吹 雪 の運 河 』(43) で 学監 の淵 沢 能 恵 につ い て触 れ て い る。 淵 沢 以 外 に も近代 的女 子 教 育 を進 め る に あた り、 多 くの 日本 人 女性 が 動 員 され て い る こ とが 当時 の新 聞 記 事 か ら窺 い知 れ る。 長 崎 市 の女 子 学 校 の教 員 、 斎 藤 多 賀 子 は朝鮮 で女 子 教 育 の必 要 性 を 説 く講 演 を行 って い る(44)。 大 邱(慶 尚北 道)で 新 設 され た養 成 女 学校 で は西 山熊 助 夫 人(45)が 、木 浦(全 羅 南 道)で の新 設 女 学 校 に は朝 鮮 語 214 に も精 通 し た 横 山 女 史(46)が教 師 と し て 招 聘 さ れ て い る。 官 立 漢 城 女 学 校 で も学 監 に赤 穂 千 春(47)、翌 年 に は10名 の 日本 人 教 員 が 招 聘 さ れ る(48)が、 そ の 内 、 板 野 徳 は 一 年 足 らず で 結 婚 退 職 を し て い る(49)。 女 性 が 職 業 婦 人 と し て 自 立 で き、 な お か つ 当 時 の 女 性 の 専 門 職 とい え る の は 助 産 婦 で あ る が 、 助 産 婦 養 成 所 も朝 鮮 の 高 官 夫 人 の 後 援 で 1910年 に 創 立 さ れ る(50)。こ こ で も教 授 陣 に 日本 人 女 性 が 迎 え られ る が 、 朝 鮮 人 との 軋 轢 か ら す ぐ に 退 職 す る者 も い た 。 女 子 教 育 に お い て も朝 鮮 で は 日本 の 近 代 化 に 範 を 求 め た が 、 そ の た め に教 育 理 念 や カ リ キ ュ ラ ム に お い て 日本 の 良 妻 賢 母 主 義 が 導 入 さ れ る 一 方 で 、 各 現 場 で 民 族 的 対 立 も生 ま れ て い る 。 朝 鮮 で 暮 ら し た 日本 人 女 性 との 交 流 が 実 現 し た の は、 朝 鮮 人 女 性 で も親 日 派 と い わ れ る上 層 に 属 す る人 び とで 、 そ れ 以 外 の 日本 人 女 性 は 「日 本 街 」 「日 本 村 」 の ゲ ッ トー を 形 成 し て 日 本 の 生 活 様 式 を そ の ま ま持 ち 込 ん で 暮 ら し た 。 朝 鮮 に た くあ ん 、 お で ん 、 海 苔 巻 と い っ た 食 文 化 が 朝 鮮 人 の 食 生 活 に 浸 透 し た が 、 キ ム チ が 在 朝 日本 人 の 食 卓 に 上 る こ と は ほ とん ど な か っ た 。 5.お わ りに 女性 、民 族 、 階級 とい う切 り口 か ら在 朝 日本 人 女性 と朝 鮮 人 女 性 の 関 係 を考察 す る と、 女 性 とい う共 通 項 は民 族 の前 に有効 で は なか った 。 しか し民族 とい う断絶 以 上 に階級 とい う断絶 も否 定 す べ くもな い ほ ど に障壁 とな って い た 。 す なわ ち 同 じ 日本 人 女 性 で あ りな が ら、 階 級 が 異 な って い る こ とで互 い に存在 す る こ とす ら知 らず 、見 え な か っ た。 もち ろん上 層 女性 の存 在 は庶 民 の女 性 に はメ デ ィアな どを通 じて流 通 し、情 報 が上 流 か ら下 流 に一 方 的 に流 れ た た め に、 下層 の女 性 た ち は 反 発 や憧 れ をな い まぜ に して 上層 の女 性 の 姿 を断 片 的 に知 っ て い たで あ ろ う。 しか し上 層 の女 性 た ち は逆 に下 層 の女 性 の 存在 す ら知 らず に 暮 らす こ とが で きた 。 215 日本 人 女性 の引 き揚 げ体 験 記 に登 場 す る底 辺 女 性 は、 往 々 に して 家 事 使 用 人 として雇 用 され て い た朝 鮮 人 女 性 の 姿 で あ る。 歴 史 を記録 す る術 と情 報 を独 占 して いた側 、 す な わ ち教 育 を受 け ら れ る女性 に とっ て 「縫 針稼 」 「要 用」 「 芸 娼 妓 ・酌 婦 」 の在 朝 日本 人 女 性 の姿 は可視 的で なか った。 存 在 は して も同性 の記 録 者 に は見 え ない 存 在 で あ っ た がた め に、記 録 の 中 で存 在 しな い もの とな っ て しま った 。 彼 女 た ち の そ の後 の 人生 に つ い て も断片 的 に研 究 が な され て い る に過 ぎ ない 。 本稿 で見 た よ う に、 日本 の女 性 は明 治初 期 か ら貧 しさ に比 例 して朝 鮮 、清 国 、 あ るい は ウラ ジ オ ス トクへ と遠 隔地 に 出稼 ぎ に行 った が 、 彼 女 た ち の歴 史 は旅 券記 録 に破 片 と して残 され て い るだ けで あ る。 そ して朝 鮮 を は じ め とす る海 外 へ 出稼 ぎ に行 っ た 日本 人 女 性相 互 の 階級 間 の 断絶 は 内地 の そ れ を は るか に超 え る もの で あ った 。 専 門職 に あ る 日本 人 女 性 た ち は男 性社 会 で あ る植 民 地 で は数 少 な い 「帝 国 臣民 」 の 女性 エ リー トで あ るた め に本 国 以 上 に既 得権 に与 か り、 優 遇 され たが 、 と くに教 育 は衛 生 と並 ん だ帝 国 の 基 幹 事 業 で あ った た め に、 頻 繁 な褒賞 な どを通 して特 別 な任 務 を 自覚 させ られ た 。 ゆ え に 当事 者 の女 性 が皇 国思 想 や 当 時 の ジ ェ ンダ ーバ イ ア ス を よ りい っ そ う 内面 化 す る ことが求 め られ た 。 社 会 的 、経 済 的格 差 に加 えて思 想 的 な 面 にお いて も彼 女 た ちが母 国 の最底 辺 か ら押 し出 され た女 性 た ち に向 け る ま な ざ し は植 民 地 にお い て はい っそ う冷 や や か で 、双 方 の あ いだ に横 た わ る断絶 は よ り深 い もの が あ った。 記 録 す る術 と力 を もつ側 に いた 女性 た ち は しか しな が ら階 級 的偏 見 とジ ェ ンダ ーバ イ ア ス か ら娼 妓 た ち、底 辺 女 性 の存 在 に心 を留 め ず、 同時代 に生 きた 同胞 女 性 の歴 史 を書 き留 め られ なか った 。 最底 辺 の女 性 を救 済 し よ う と人 道 的活 動 を展 開 し、 日本 内地 か ら遠 くウ ラ ジオ ス トク まで活 動 の場 を広 げ た廃 娼活 動 家 た ち に よ り、貴 重 な記録が 『 廓 清』『 婦 人 新 報 』 な どに残 され て い る が 、彼/彼 女 らで す ら売 春 をす る底 辺女 性 へ の卑 賎 視 か ら免 れ な か っ た た め に、 日本 社 会 が 高度 経 済 成 長 を成 し遂 げ、 日常 生 活 か ら貧 困 が 見 え な くな る と、 216 い つ し か 歴 史 の 記 憶 が 継 承 さ れ な くな り、 封 印 さ れ て い っ た の で あ る(51)。 表2女 性職 業(本 業) 学 校 教 師51 穀 物 商10 酒 ・醤油 小 売30 古 物 商81 呉 服20 陶 器20 小 間 物雑 貨71 表3釜 山 日本居 留 地 戸 別表 1903年12月 末 戸数 男 女 合計 士 族2645984801,342 平 民1,8535,3714,3369,707 2,1175,9694,81611,049 (出典)外 務 省 外 交 資 料 館 所 蔵1-6-117-1 荒 物30 金 貨10 青 物 果物41 菓 子71 砂 糖10 産 婆71 按 摩 ・鍼 灸10 看 護 婦51 旅 館41 下 宿61 料 理 屋102 飲 食 店102 鳥 獣 肉20 豆 腐10 芸 妓18227 酌 婦6810 遊 芸 稼51 湯 屋30 海 士41 船 乗 り203 下 碑23034 日雇 い254 裁 縫203 洗 濯122 屠 牛10 履 物20 理 髪20 「 韓:国各 港 駐 在 帝 国 領 事 館 管 轄 内 情 況 取調 一 件 京城 、 釜 山、馬 山」 1903年 釜 山 日本 居 留地 戸 別 表 女髪 結 い213 685100 (出典)外 務 省外 交資料 館所 蔵 1-6・ 一H7-1「 韓 国 各 港 駐 在 帝 国 領 事 館 管 轄 内 情 況 取 調 一 件, 京域,釜 山,馬 山 」 1903年 釜 山 日本 居 留地 戸 別 表 217 表4在 朝 日本人女性職業別人 口 1906 官 公 教 神 吏 吏 員 官 1908 本業 家族 2,524 6 4,002 267 5 273 0 537 169 32 194 27 8 0 新聞雑誌記者 僧侶 ・ 宣教師 弁護士及 訴訟代理人 医 師 産 婆 農 業 商 業 工 業 漁 業 雑 業 1907 家族 1 1909 家族 本業 家族 5,024 0 7,631 340 0 33 574 426 1910 本業 家族 本業 0 10,415 0 5 1,477 0 69 783 93 11 0 13 0 13 0 159 0 150 0 1 28 164 0 133 0 60 0 48 0 80 0 129 0 127 1 42 0 28 0 60 0 70 0 117 0 1 301 1 475 1 80 552 25 1 152 671 54 393 32 1,485 13,262 3,753 717 7,032 芸娼妓・ 酌婦 本業 303 68 147 1,259 1,209 13,508 4,224 68 142 1,904 121 230 18,569 3,300 2,079 152 25,469 1,458 54 4,570 97 5,809 212 38 1,145 0 1,439 20 593 6,939 1,084 7,808 1,978 137 213 14,134 1,517 1,002 5,574 473 4,143 589 5,744 73 1,841 156 2,730 399 2,243 58,182 8,018 70,294 労 力 無職業 3,265 244 34 3,525 1,197 183 1,999 合 計 34,469 37,011 5,301 6,481 3 46,781 4,238 9,242 1,024 4 3,941 171 3,009 21,292 2,562 172 1,007 4 75 708 6,760 3,063 6,225 59 1,232 6 229 261 4,093 578 341 8,498 (出典)『 統 監 府続 計 年 報(第 一 次)』(明 冶40年)『 朝 鮮総 督 府 統 計 年報 」(大 正 元 年) 注1.新 聞雑 誌 記者 の項 目は1907年 か らで あ る 表5 ① 日本 女性 農 業 水産業 鉱 業 工 業 商 業 交通業 30.4 1.4 ② 日本 朝鮮 4.0 79.8 2.2 0.7 0.6 o.o o.o 11.7 0.1 27.8 6.0 0.9 101.5 19.1 52.0 5.9 8.1 4.0 0.0 4.2 0.4 0 260.1 公務 ・自由 業 25.6 0.1 1.3 家事使用人 14.1 8.8 7.2 2.7 2.2 6.6 1.1 2.0 そ の他 の有 業 無 業 805 注1.① は総 人 口の比 率,1000分 比 ② は有 業 者比 率,100分 比 218 朝鮮女性 673.9 表6本 業人 口割 合(1930年 国 勢調 査) ① 日本女性 朝鮮女性 ② 日本 朝鮮 接客 業 従 事55.8 商業 従 事44.1 農耕 従 事23.1 家事 使 用 人14.1 医療 従 事11.5 通信 に従 事7.2 農 耕 従 事235.9 蚕 業 従 事21.9 28.6 72.4 22.6 6.7 紡織従事19 商業従事10 11.8 5.8 7.2 5.8 3.1 2.8 そ の 他 の 有 業 .6.6 3.7 3.1 2.7 蚕業従事6 教育 従 事5.3 被服 製 造 従事4.3 木 竹 蔓 製造5.2 畜 産 従 事2.2 漁 業 従 事2.2 2.7 1.6 2.2 0.7 2.0 0.7 無 1.5 飲食嗜好品製造4 官吏 雇 用 員2.9 無 業802.8 接 客 業9.1 家 事 使 用人8.8 業672.3 2.0 表5・ 表6の 出典 『 昭和5年 朝 鮮 国勢 調 査報 告 』 219 表1 N N O 朝鮮 『 詳 赫 凶 認 こ お Φ 饅 O 1868-75 1876 1877 1878 1879 1880 1881 1882 1883 1884 1885 1886 1887 1888 1889 1890 1891 1892 1893 1894 1s95 1896 1897 1898 1899 1900 1901 1902 1903 1904 1905 合計 清 北米 男 女 男 女 男 女 1821 78 144 2 26 144 210 311 123 113 142 89 91 254 282 352 429 427 761 598 501 815 2158 992 .1209 1050 224 204 205 205 156 124 153 173 344 214 275 439 254 286 303 275 409 475 285 1277 721 4512 2724 1600 6973 4931 5000 4366 2825 4558 1s4 60 95 66 114 !21 95 244 219 116 13 90 78 63 87 87 103 183 152 !17 233 159 76 205 373 566 755 1005 1091 477 698 557 123 33 53 35 41 53 55 53 277 278 319 445 722 545 556 1321 2267 1854 1416 945 1645 1798 2788 6539 10155 1858 4866 4676 3252 2569 7905 52094 479 401 450 623 311 335 417 368 316 588 836 1080 1284 1363 2339 1567 1275 5250 8233 3753 3338 3762 3659 3201 3654 3541 2388 4477 496 61683 1225 1042 1126 1189 717 638 636 27 16773 45540 39 5 2 4 2 7 2 5 6 7 34 13 16 35 54 55 140 77 124 81 104 119 147 148 403 407 128 349 420 238 555 3726 合計 その他 露 総計 男 女 男 女 男 女 90 70 59 55 37 76 198 147 100 72 91 134 204 27 201 214 514 791 911 1109 3476 6906 4594 3043 3384 5159 4416 3504 3861 0 202 0 30 12 7 13 46 108 100 146 34 27 50 46 4 59 59 68 150 186 309 1245 271 305 332 617 660 487 377 493 0 28 748 113 89 193 61 116 43 103 122 221 2049 999 2062 3321 4007 4041 6490 3609 7109 6356 4102 11138 6582 16301 27620 12037 5900 13717 13699 13645 9008 24 4 3 12 6 13 10 19 12 26 348 285 327 694 820 1061 1607 767 !082 988 638 1861 1296 2769 5820 !055 716 !126 1268 1045 1325 4266 608 864 907 788 1012 729 793 865 1282 2948 2315 3986 5404 6323 6477 10939 8643 11624 14416 18033 24163 20824 28618 42802 37525 20759 371 101 138 233 345 498 338 481 525 272 513 692 749 1148 1449 1689 2679 1775 2045 2310 4378 3402 3033 4679 8255 3814 3275 3574 3910 2396 2633 43645 6269 175601 27027 30628 28990 24199 16833 378563 61700 4637 709 1002 1140 1133 1510 1067 1274 1sgo !554 3461 3007 4735 6552 7772 8166 13618 10418 13669 16726 22411 27565 23857 33297 51057 41339 24034 34202 32900 26595 19466 440263 註 (1)山 下 英 愛 「韓 国 に お け る 「 慰 安 婦」問題 解決 運 動 の位相 」 『 戦争 責 任 研 究 』34,35号 (2)日 本 の 戦 争 責 任 資 料 セ ン タ ー 『ナ シ ョ ナ リ ズ ム と 「慰 安 婦 」 問 題 』 青 木 書 店 、1998年 。 (3)木 村 健 二 『在 朝 日本 人 の社 会 史 』 未 来 社 、1989年 。 今 野 敏 彦 ・藤 崎 康 夫 『移 民 史IIIIII』 新 泉 社 、1996年 。 (4)宮 岡 謙 二 『娼 婦 海 外 流浪 記 一 も うひ とつ の 明治』三 一 書 房、 1968年 。 森 崎 和 江 『か らゆ き さ ん 』 朝 日新 聞 社 、1976年 。 倉 橋 正 直 『 北 の か ら ゆ き さ ん 』 共 栄 書 房 、1989年 。 山 崎 朋 子 「サ ン ダ カ ン八 番 娼 館 』 筑 摩 書 房 、1972年 。 (5)山 形 県 ・山形 県 女 性 の 歩 み編 纂 委 員 会 『時 を紡 ぐや まが た の 女 性 た ち 』 み ち の く書 房 、1995年 、 参 照 。 (6)朝 鮮 に 戦 後 も住 み 続 け た 女 性 の 記 録 と し て 、 藤 崎 康 夫 『棄 民 』 (サ イ マ ル 出 版 社 、1972年)、 上 坂 冬 子 『慶 州 ナ ザ レ園 』(中 央 公 論 社 、1982年)が (7)外 あ る。 務 省 警 察 史 「公 使 領 事 官 歴 任 、 管 轄 区 域 在 留 邦 人 ノ戸 口 韓国 の部 」 高 麗 書 房 版 、622頁 参 照 (8)大 正10(1921)年9月 刊行 。 (9)外 務 省 外 交 資 料 館 所 蔵 「旅 券 」1.5.6 (10)「 開 港 五 十 年 を迎 え て 余 は 最 も感 慨 無 量 」 『 釜 山開港 五 十 年紀 念 号 』 大 正 八(1919)年 釜 山 府 、29-31頁 (11)海 外 旅 券 勘 合 簿1巻 (12)注11に 長 崎 之 部3.8.5.5-1 同 じ。 一 例 を あ げ る と 「辰(1868年)4月14日 月帰国 立 。 上 海外 国人 御 連 同9月15日 帰国 丸 山町 司 上 海 外 国人 御 連 出 立 、 同9 辰22歳 」 「辰2月13日 丸 山町 羽山 出 辰22歳 」 これ以 外 に も同 じ よ うな ケ ー ス で 丸 山 町 「遊 女 」 が 上 海 に数 ヶ月 の期 間 滞 在 して い る。 欧 米 人 に雇 用 さ れ る ケ ー ス は 「東 京 麻 布 谷 町 大 和 屋辰 右衛 門 厄介 当 県(長 崎 県)下 萬屋 町 商 て い」 「英 人 ヒ ョ ン ス ニ 雇 レ 山賀 国八 次女 国18歳 上海行 」 「仏 人 221 ア ン リニ 雇 レ 年8ケ 露 国 ウ ラ ジ オ ス トッ ク行 石川 県 山下 シ テ21 月」 な どが 見 られ る。 (13)鈴 木 譲 二 『日本 人 出稼 ぎ移 民 』 平 凡 社 、1992年 、12頁 。 (14)木 村 健 二 前 掲 書 、1989年 、33頁 。 (15)た だ し、 旅 券 とい う名 称 が 用 い られ る の は近 代 旅 券 法 が 確 立 した 1878年 か ら で あ る。(柳 下 宙 子 「戦 前 期 の 旅 券 の 変 遷 」 『 外 交資 料 館 報 』12、1998年 、 参 照) (16)海 外 旅 券 下 付(附 与)返 (17)畠 納表 明治14年 府 県 渡 し3.8.5.8 山 力子(熊 本 県 出 身 、 平 民 、19歳)は 明 治14(1881)年4月8 日 に朝 鮮 行 きの 旅 券 を発 給 さ れ て い るが 、 同 年6月3日 オ ス トク行 き の 旅 券 発 給 を 受 け、2年 (「海 外 旅 券 下 付(附 与)返 にウラ ジ 後 の10月 に 帰 国 し て い る 納 表 進 達 一 件(含 附 与 明 細 表)明 治 14年 」3.8.5.8) (18)外 務 省 外 交 史 料 館 所 蔵 、 海 外 旅 券 下 付 返 納 表 進 達 一 件 、 明 治13年 、 3.8.5.8 (19)『 新 聞 集 成 明 治 編 年 史 』4巻 、 同編 纂 会 編 、 東 京 財 政 経 済 学 会 、 1935年 。 (20)国 際 日本 文 化 研 究 セ ン タ ー 主 催 「日本 の 植 民 地 支 配 一 研 究 と課 題 」 シ ンポ ジ ウム 会 場 で 並 木 真 人 氏 の ご指 摘 で 小 幡 とで ん の 関係 が判明。 (21)拙 稿 「朝 鮮 「か ら ゆ き さん 」」 『女 性 史 学 』4号 (22)『 全 国 遊 廓 案 内』 昭 和5(1930)年(『 、17頁 参 照 。 近 代 庶 民 生 活 誌 』 第14巻 、 三 一・ 書 房 、1991年)。 (23)『 京 城 発 達 史 』 京 城 居 留 民 団 役 所 、 明 治45(1912)年 (24)『 外 務 省 警 察 史 史 』、第1巻 、35頁 。 韓 国 の 部 』 「条 約 及 び 同 関 係 法 令 」(『韓 国 警 察 、427∼428頁 、 高 麗 書 林 、1989年)た だ し現 代 か な 遣 い に変 え て表 記 し た 。 (25)同 上 、30頁 。 (26)『 法 令 全 書 』 明 治11年3月 無 号。 222 外 務 省 布 達 第2号 、 同 年3月 外 務省 達 (27)注11に 同 じ、1879年 に長 崎 県 出 身 の 高 村 婦 美(14歳)、 (20歳)、 道 上 喜 与(16歳)、 広 佐 古 与 志(19歳)は 申 請 目的 を縫 針 稼 と し て お り、 高 橋 亀(26歳)は そ の 他 、 縫 針 稼1人 (28)明 治16年 第9号 第一条 本 田和 佐 朝 鮮 行 き旅 券 要 用 と し て い る。 、 要 用 で10人 が 旅 券 を得 て 朝 鮮 に渡 っ て い る。 布 告(明 治18年 第26号 第 一 条 改 定)。 朝 鮮 国 及 朝 鮮 国 駐 剳 の領 事 は在 留 の 日本 人 該 地 方 の 安 寧 を妨 害 せ ん と し若 くは風 俗 を壊 乱 せ ん とす る者 又 は其 の 行 為 に依 り該 地 方 の 安 寧 を妨 害 し若 くは風 俗 を壊 乱 す る に至 るへ き者 と認 定 す る 時 は一 年 以 上 三 年 以 下 在 留 す る こ と を禁 止 す べ し但 其 の 情 状 に 由 りて は其 の 期 限 間 相 当 の保 障 金 を 出 さ し め る こ と を得 第 二条 在 留 を禁 止 せ られ た る者 は十 五 日以 内 に退 去 す べ し若 し 期 限 内 退 去 し難 き正 当 の 事 由 あ りて其 の 旨 を 申 し立 る 時 は領 事 は相 当 の猶 予 期 限 を与 え る こ とを 得 第 三条 保 証 金 を 出 した る者 再 び 第 一 条 の 挙 動 あ り と認 定 す る 時 は領 事 は其 の保 証 金 を没 収 し仍 お在 留 を 禁 止 す べ し 第 四条 退 去 期 限 若 くは猶 予 期 限 内 に退 去 せ さ る者 及 禁 止 期 限 を 犯 した る者 は十 一 日以 上 一 月 以 下 の 重 禁 固 に 処 し二 円以 上 百 円 以 下 の罰 金 を付 加 す 第 五条 この規 則 の 処 分 に対 して は上訴 を ゆ る さ ず (原 文 は カ ナ混 じ り文) (29)拙 稿 「朝 鮮 「か ら ゆ き さ ん 」」(『女 性 史 学 』1994年 第4号)参 (30)同 上 、74∼75頁 。 照。 (31)木 村健 二 前 掲 書 、21頁 参 照 。 (32)国 会 図書 館 所 蔵 に 『 新 撰 朝 鮮 会 話 』 『実 用 朝 鮮 語 』 『 朝 鮮会 話編』 が ある。 (33)同 上 、74∼75頁 。 (34)『 法 令 全 書 』 第 一条 朝 鮮 国 及 朝 鮮 国 駐 在 の 領 事 は在 留 の 帝 国 臣 民 該 地 方 の安 寧 を妨 害 せ ん と し又 は該 地 方 の 風 俗 を壊 乱 せ ん とす る者 223 あ る とき は一 年 以 上 三 年 以 下 在 留 す る こ とを禁 止 す べ し 第 二条 在 留 を禁 止 せ られ た る者 は十 五 日以 内 に退 去 す べ し若 し 期 限 内 退 去 し難 き正 当 の 理 由 あ りて其 の 旨 を 申 し立 つ る と き は領 事 は相 当 の 猶 予 期 限 を与 え る こ とを得 第三条 在 留 禁 止 の命 令 を 受 けた る者 其 の 命 令 に対 し不 服 あ る と き は命 令 を受 け た る 日 よ り三 日以 内 に領 事 を経 て 外 務 大 臣 若 は駐 剳 帝 国 公 使 に該 命 令 取 り消 し の 申 請 を為 す こ と を得 但 し こ の場 合 に於 い て は其 の命 令 の 執 行 を停 止 せ ず 第 四条 前 条 の 申請 を う けた る と き は外 務 大 臣若 は駐 剳 帝 国 公 使 は其 の事 実 を審 査 し領 事 の命 令 を認 可 し若 は 之 を取 り消 しす べ き命 令 を為 す べ し其 の命 令 は確 定 の もの とす 第 五条 在 留 を禁 止 せ ら れ た る者 営 業 上 若 は 其 の 他 の 関 係 に於 い て其 の 地 を去 り難 き事 情 あ り と認 む る と き は領 事 は其 の 期 限 間相 当 の保 証 金 を 出 さ し め在 留 せ しむ る こ と を得 第 六条 保 証 金 を出 し在 留 の 許 可 を得 た る者 其 の期 限 内再 び第 一一 条 の挙 動 あ り と認 定 す る 時 は 其 の 保 証 金 を 没 収 し仍 お 在 留 を禁 止 す べ し 第 八条 在 留 禁 止 を命 せ られ た る者 改 悛 の 状 あ る と き は領 事 は 何 時 に て も職 権 に依 り又 は所 轄 地 方 長 官 の 証 明 に依 り該 命 令 を取 り消 す こ と を得 第 九条 退 去 期 限 若 く は猶 予 期 限 内 に退 去 せ さ る者 及 禁 止 期 限 を 犯 した る者 は十 一 日以 上 一 月 以 下 の重 禁 固 に処 し二 円以 上 百 円以 下 の罰 金 を付 加 す (原文 は カ ナ混 じ り文) (35)『 高 宗 時代 史5』1901年12月23日 。 (36)前 掲 『京 城 発 達 史 』103頁 。 (37)『 統 監 府 公 報 』 に み る と在 留 禁 止 よ りむ し ろ 木 杯 授 与 が 頻 繁 に見 られ 、 勝 利 を背 景 に 自信 を もっ て 居 留 民 を取 り込 み始 め て い る の が わ か る。 224