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Title ジョルジュ・バタイユにおける「否定性」と「承認」の 問題

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Title ジョルジュ・バタイユにおける「否定性」と「承認」の 問題
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ジョルジュ・バタイユにおける「否定性」と「承認」の
問題 : 第二次大戦以前のヘーゲル読解を通して
安川, 奈緒
仏文研究 (2011), 42: 77-97
2011-10-11
https://doi.org/10.14989/161947
Right
Type
Textversion
Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
ジョルジュ・バタイユにおける「否定性」と
「承認」の問題
―第二次大戦以前のヘーゲル読解を通して―
安川 奈緒
始めに- 1930 年代のジョルジュ・バタイユ-
ジョルジュ・バタイユは、1920 年代後半から徐々に、ヘーゲルの著作やドイツ哲学に関する
著作に接している 1)。しかしながら、「否定性」と「承認」2) の概念に決定的な仕方で出会うこ
とになるのは、アレクサンドル・コジェーヴが高等研究学院で行った「『精神現象学』講義」を
通してである。バタイユの「否定性」の概念についてはジャン = ミシェル・ベニエ 3)、ジョ
ルジョ・アガンベン 4)、イサベル・リウーゼ 5) ら多くの著者が言及し、ジャン=ミシェル・エ
モ ネ は Négativité et communication (Jean-Michel Place, 1990) お よ び Pourquoi Bataille ? trajets
intellectuels et politiques d’une négativité au chômage (Kimé, 2000) において包括的に取り扱って
いる。だが、エモネの著作においては、エクリチュールこそが否定性を上演する舞台であるとの
結論が導かれる。よって、バタイユの思考における概念としての「否定性」をつきつめて論じて
いるとは言いがたい。また、他の著者においても、バタイユにおける「否定性」の概念は多くの
場合に他のバタイユ的と呼ばれる概念、「異質性」や「至高性」といった概念といささか性急に
接続され、「否定性」の概念のバタイユ思想における展開そのものが考察されることは少ない。
また、「承認」の概念については、ジェレミー・バイルスがそのすぐれた著作 Ecce Monstrum :
Georges Bataille and the Sacrifice of Form (New York , Fordham University Press, 2007) のなかで
一章を割いている。しかしながら、この章では、バタイユにおける主体と他者との関係は「承認」
ではなく「同一化」へと向かう傾向があるとの結論が導かれる。これに代表されるように、他者
との関係における「承認」の契機は、バタイユにとって退けられるべきものであったと結論され
ることが多い。
さらに、そもそもこれらの先行研究は、「否定性」と「承認」の二つの概念が同時期にバタイ
ユに与えられたことそのものを考察しようとはしていない。だが、これら二つの概念が特定の時
期に、一度にバタイユに与えられたことのインパクトは一考に価するのではないだろうか。本論
は、バタイユがこの二つの概念を、それを受容した時期にどのように展開したかを考察すること
を目的とする。まず、どのような文脈において、バタイユに「否定性」を別様に考察することを
促し、また「承認」の概念をもたらしたアレクサンドル・コジェーヴと出会ったかを振り返るた
めに、1930 年代後半のバタイユの活動に触れておきたい。この頃のバタイユの活動は何よりも
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ジョルジュ・バタイユにおける「否定性」と「承認」の問題
まず、ファシズムとの対決を中心としている。
まずバタイユは、すでに関わりのあった民主共産主義サークルの主宰者ボリス・スヴァーリン
の雑誌『社会批評』に寄稿を開始する。「消費の概念」(1933)、「国家の問題」(1933)、そして
「ファシズムの心理構造」(1933)といった、戦前のバタイユの代表的な論考はここで発表されて
いる。この後、スタヴィスキー事件、1934 年 2 月 6 日の、15 人の死者を出した極右リーグのデ
モなど政治情勢の緊迫を横目に、『フランスのファシズム』、『ファシズム定義の試み』といった
書物の執筆を計画(1934 年頃)したものの自らの体調不良などによりかなわず、その代わりに、
情勢に悲観的な反政治的小説『空の青』を 1935 年 5 月に完成させる。そして、政治運動を陰険
に嘲笑しているとも見えかねない主人公に自らの疲労と悲観的な態度とを肩代わりしてもらうか
のように、この小説完成ののちバタイユは、仲たがいしていたアンドレ・ブルトンと組み、1935
年に「コントル・アタック」という運動を開始する。反資本主義、反議会主義的なマニフェスト
やビラでは、労働者に、資本家や国家主義者たちに対する反撃を準備することを呼びかけている。
しかし、この運動の機関紙となるはずだった「コントル・アタック手帖」は 1936 年 5 月にその
一号が日の目を見たのみに終わり、バタイユらはシュルレアリスト・グループと決裂し、同年に
運動は終わりを迎えている。ほぼ同時期にバタイユは政治から距離をとった宗教的秘密結社「ア
セファル」を結成し、1936 年同名の雑誌を創刊する。秘められた規則に従いカフェや、時には
森で会合を持つ運動と、ニーチェをファシストの読解から引き剥がそうとする試みや悲劇的な死
について考察する雑誌とは直接の関連を持たないが、どちらの活動でも、バタイユはアトム化し
た個人を動員するファシズムの全体主義に抗しうる、少数の者たちより成る選択的共同体を対置
しようと考えていたことは確かだ。そして、1937 年には社会における聖なるものとその牽引力
と反発力が可能にする共同性について、社会学的アプローチによって考察する「社会学研究会」
をロジェ・カイヨワ、ミシェル・レリスとともに設立する。二年にわたって、時にはクロソウス
キー、ドニ・ド・ルージュモンなどを迎え発表と討論の場を持つ。このあいだにも、ミュンヘン
協定に反発する文書を発表するなど、時勢との緊張感は保たれたままであった。
この 1930 年代後半に、バタイユの思想に大きな影響を与えたのが、先にも言及したアレクサ
ンドル・コジェーヴによる「ヘーゲル『精神現象学』講義」である。1934 年から 1939 年まで、
アレクサンドル・コイレの講義を引き継ぐ形で高等研究学院で行われたこの講義は 1947 年に、
レイモン・クノーの講義ノートを元にして『ヘーゲル読解入門』として出版されている。当時こ
の講義にはジャック・ラカン、レーモン・アロン、モーリス・メルロ=ポンティらが参加してお
り、戦後のフランス思想の中心に位置するこれらの思想家のヘーゲル理解に影響を与えたことは
疑えない。バタイユはこの年 11 月から 1939 年まで講義に出席しており、このハイデガーとマル
クスを経て、階級闘争のアナロジーを交えて読み直された『精神現象学』によって、人間の欲望
のドラマ、承認のための闘争のドラマとしての、また当時の政治的文脈と響きあう思想としての
ヘーゲルを発見することになる。そして、このコジェーヴによって再導入されたヘーゲル、その
闘争のドラマの中心となる概念が「否定性」と「承認」の概念なのである。これまで振り返った
ように、1930 年代後半のバタイユの活動は共同体を立ち上げる試みに捧げられているが、バタ
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ジョルジュ・バタイユにおける「否定性」と「承認」の問題
イユの共同性の考察そのものはコジェーヴの講義以降、特に「社会学研究会」の枠内で、この二
つの概念をふまえつつ練り上げられることになる。本論考では、「否定性」と「承認」の概念を
バタイユがどのように受容し、それによって、バタイユ自身の思考がどのように変化したかを考
察することを目的としたい。
1 コジェーヴの講義以前のヘーゲル論「ヘーゲル弁証法の基礎の批判」
1932 年、バタイユは先に挙げた『社会批評』誌第五号で、レイモン・クノーとの共同執筆に
よる「ヘーゲル弁証法の基礎の批判」を発表する。おもにここではエンゲルスの『反デューリン
グ論』における自然の弁証法の考察の試みとその失敗を論述している。そして、対立とその止揚
としての弁証法は生物の成長や、自然の変化、数学的事象にあてはめられるべきではないが、そ
の代わりにヘーゲルがそれを適用した領域、すなわち歴史以外の領域、生きられた経験の領域に
も、弁証法的考察をさしむけることは可能であるだろう、と結論が出される。いわば、弁証法の
社会学、精神分析への応用が提案されているのである。そしてバタイユは、この応用の例として、
オイディプス的な父-息子の関係の弁証法的な解釈を試みる。
Par exemple, aucune opposition de termes ne peut rendre compte du développement biologique
d’un homme qui est successivement enfant, adolescent, adulte, vieillard. Par contre si l’on envisage le
développement psychologique du même homme du point de vue psychanalytique, on peut dire que l’être
humain est d’abord limité par les prohibitions que le père oppose à ses impulsions. Dans cette condition
précaire, il est réduit à désirer inconsciemment la mort du père. En même temps, les souhaits qu’il dirige
contre la puissance paternelle ont leur répercussion sur la personne même du fils qui cherche à attirer sur
lui-même la castration, ainsi qu’un choc en retour de ses désirs de mort. […] c’est cette négativité qui pose
comme une nécessité que le fils prenne la place du père, ce qu’il ne peut accomplir qu’en détruisant la
négativité elle-même qui l’avait caractérisé jusque-là.6)
冒頭でバタイユは、生物としての人間の成長に、弁証法を始動させるような二項の対立を見出す
ことはできない、しかしながら、精神分析が提供する父と息子との対立においては、それを見出
すことができる、とする。そして父の法に対して向けられた息子の否定性、法を否定しようとす
る欲望そのものが、結局は現実化されず否定されることによって息子は父の位置を占めることに
なる。この論考でバタイユが重視しているのは、否定性の否定という契機であり、ここでは、否
定性とは乗り越えられるべき何ものか、積極的なものに転化されるべき何ものかであるという
ヘーゲル的前提は疑われていない。そして、この息子が息子であることを否定して父となる契機
としての弁証法は、マルクス主義的階級闘争の解釈にも応用される。先にも述べた、コジェーヴ
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ジョルジュ・バタイユにおける「否定性」と「承認」の問題
による、ハイデガーとマルクスを経たヘーゲル解釈を受容する以前からすでにバタイユはこの階
級闘争と否定性とを結びつける観点を自らのものとしていた、といえる。そして、弁証法が人間
によって生きられるものであることに意識的である点において、マルクス主義の歴史観を評価す
る。
Il en va tout autrement si l’on se réfère aux exemples que nous croyons vraiment valables, dans lesquels
la négativité prend une valeur spécifique. Or, il serait facile de montrer que, dans l’ensemble, les thèmes
dialectiques fondamentaux de la conception marxiste de l’histoire appartiennent à cette dernière catégorie
[ =生きられた経験に由来するカテゴリー ] et que leur originalité profonde et en même temps leur
importance pratique consistent précisément en ceci qu’ils introduisent dans la tactique un recours constant
à des forces ou à des actions négatives, non comme à des buts mais comme à des moyens exigés par le
développement historique. L’étude de cette caractéristique de la dialectique est d’autant plus importante
que, de toute évidence, ce sont de tels recours qui conditionnent à la fois la souplesse et la puissance
du marxisme, qui l’opposent radicalement aux solutions réformistes, qui en font l’idéologie vivante du
prolétariat moderne, en tant que classe vouée par la bourgeoisie à une existence négative, à l’activité
révolutionnaire qui constitue dès maintenant la base d’une société nouvelle.7)
ここでは、プロレタリアートの、所与のブルジョワ的価値体系に対して向けられた否定性を積
極的な革命的潜勢力として取り出そうとするマルクスの階級闘争のプランが讃えられている。
「否
定性が特定の価値を帯びる」といった表現や、プロレタリアートの否定的な力や活動が、歴史の
展開に要請されたものであり、マルクス主義の戦略はこれを利用することによって新しい社会を
打ち立てるとバタイユが考えている点を考慮するならば、ここでも否定性は、積極的な力に転化
され、利用されうるものとして思考されているといってよい。こうしてバタイユは、既存の秩序
を打ち破る力としての否定性を「父の息子」、
「プロレタリアート」といった、特定の範疇の人間、
集団に割り当て、世代の引継ぎや、階級闘争を展開する積極的な契機として評価する。「社会学
研究会」の活動を体系的にまとめたドゥニ・オリエはいささか性急に、この頃すでにバタイユは
「階級闘争やエディプス・コンプレックスを主と奴の弁証法および、承認のための闘争といった
観点から読解している」8) と評しているが、この時点でバタイユはまだ、「主」(Maître)や「奴」
(Esclave)といった用語で論述してはいないし、ましてや「承認」(reconnaissance)の観点も見
られない。ここでは、父へと向けられた否定性を自らに向けなおし、否定性を克服する父の息子
や、ブルジョワジーに対して「否定的なもの」と位置づけられたプロレタリアート自身がその境
遇を克服する革命が考察されており、あくまで否定性は、否定されうるものであることによって
積極的な力なのである。
ここまで、バタイユがコジェーヴの講義以前に否定性をどのように考えていたかを見てきたが、
では、バタイユが参加したコジェーヴの講義において、主と奴の弁証法、承認といった概念はど
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ジョルジュ・バタイユにおける「否定性」と「承認」の問題
のように伝えられたのだろうか。さらに、それらの概念は、バタイユの論考においてどのように
展開されたのだろうか、次章で考察していきたい。
2 「ヘーゲル『精神現象学』講義」以降 -闘争のドラマとしての弁証法-
「ヘーゲルの宗教哲学」として高等研究学院で開始されたコジェーヴの講義は、『精神現象学』
の訳と解説が中心の講読であった。対象と区別された主体として自らを意識する自己意識が、別
の自己意識とどのように対峙するか、つまり自己と非-自己とを区別するようになった人間が、
その同じ条件を持つ人間とどのような弁証法的関係に入るかが問題になる箇所において、「否定
性」や「承認」の概念が登場する。ここでは、主と奴との弁証法についての 1933 ‐ 1934 年次の
メモ書きのような講義ノート、また 1939 年に『ムジュール』誌に発表された 「序文として」を
踏まえて、この弁証法がどのようなものであるかを解説したい。
Être homme c’est n’être retenu par aucune existence déterminée. L’homme a la possibilité de nier la
Nature, et sa propre nature, quelle qu’elle soit. Il peut nier sa nature animale empirique, il peut vouloir
sa mort, risquer sa vie. Tel est son être négatif (négateur : Negativität) : réaliser la possibilité de nier, et
transcender, en la niant, sa réalité donnée, être plus et autre que l’être seulement vivant.9)
まず、人間であることとは、いかなる外的存在にも依存しないことであり、自らの動物的生、
所与の生命として存在することを否定する能力である。すなわち自らに死を与える能力として、
否定的存在としてある。この、「人間」の定義に埋め込まれてある、死へ向けられた存在性を別
の自己意識に認めさせること、死を与える能力があることを知らしめること、これが「承認」で
あり、この承認のために二者が闘争することが必要になる。死の否定性を駆使することができる、
つまり人間である別の自己意識を相手として、自らの否定性を認めさせる必要がある。
[…] il doit se faire reconnaître par l’autre, avoir en lui-même la certitude d’être reconnu par un autre. Mais
pour que cette reconnaissance puisse le satisfaire, il faut qu’il sache que l’autre est un être humain. Or, au
prime abord, il ne voit en lui que l’aspect d’un animal. Pour savoir que cet aspect révèle une réalité humaine,
il doit voir que l’autre aussi veut se faire reconnaître, et qu’il est prêt lui aussi à risquer, à « nier » sa vie
animale dans une lutte pour la reconnaissance de son être-pour-soi humain.10)
死への用意がある二者がこうして承認のために闘い、勝利したほうが「主」、死の恐怖とひきか
えに敗北を受け入れた方が「奴」となる 11)。主は死の否定性を有するものとして承認され、奴は
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ジョルジュ・バタイユにおける「否定性」と「承認」の問題
主を承認する。死を受け入れなかった奴はこの瞬間、自然的生に囚われたものとして、自然に対
する労働へと自らの否定性を差し向けることが運命付けられる。一方主は、否定的な力を承認さ
れて後は、自然に対しては奴を通してしか関わらない。結果的に、歴史の主役となるのは奴であ
る。所与を否定し、作り変え、自らではないもののために仕える。
Il lui [Esclave] suffit de se libérer lui-même en se faisant reconnaître par le Maître pour se trouver dans la
situation de la reconnaissance véritable, c’est-à-dire mutuelle. L’existence du Maître est « justifiée » en tant
qu’il transforme – par la Lutte - des animaux conscients en Esclaves qui deviendront un jour des hommes
libres.12)
ここで自らではないものに常に仕えてきた労働者としての奴が最終的に解放されるビジョンが示
されている。自らが最終的に自由になる世界に至るまで、世界を作り変え続ける、これがコジェー
ヴの、マルクスを経て解釈された世界史である。否定性はただ所与に対して駆使されるのではな
くて、承認という契機を必要とする点や、承認される者と承認する者との分割のドラマは、これ
まで『精神現象学』をきちんと読んだことのなかったバタイユにとって、大きな衝撃であったは
ずだ。バタイユがこの講義に出席したのは 1934 年 11 月からであり、1935 年の終わりごろに書
かれた「コントル ‐ アタック手帖」の予告で、バタイユはすでに « La dialectique hégélienne du
maître et de l’esclave clé de voûte de la « phénoménologie de l’esprit » et de la doctrine marxiste. »13)
というタイトルの論考の準備があるとしている。「コントル・アタック」の活動の支柱となるマ
ルクスの理論の中心に、このヘーゲルの主と奴の弁証法があることをはっきりと指摘し、労働す
る者が人間的であること、この労働こそが奴を最終的に解放することがうたわれる。コジェーヴ
の影響は明らかだ。だが、同時期に書かれ、1935 年から 1936 年まで出版された雑誌『哲学研究』
の第五巻に発表され、大幅な改稿を経て『内的体験』にも収録されることになる「迷路」では、
この主と奴の弁証法を以下のように記述している。
Dans le premier mouvement où la force dont dispose le maître met l’esclave à sa merci, le maître prive
l’esclave d’une partie de son être. Beaucoup plus tard, en contrepartie, l’ « existence » du maître s’appauvrit
dans la mesure où elle s’éloigne des éléments matériels de la vie. L’esclave enrichit son être à mesure qu’il
asservit ces éléments par le travail auquel son impuissance le condamne. […] La séparation fondamentale
des hommes en esclaves et en maîtres n’est que le seuil franchi, l’entrée dans le monde des fonctions
spécialisées où l’ « existence » personnelle se vide de son contenu : un homme n’est qu’une partie d’être et
sa vie engagée dans un jeu de création et de destruction qui l’excède apparaît comme une parcelle dégradée
à laquelle la réalité manque.14)
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ジョルジュ・バタイユにおける「否定性」と「承認」の問題
エ ピ グ ラ フ に は ヘ ー ゲ ル か ら の 引 用 と し て « La négativité, c’est-à-dire l’intégrité de la
détermination » の一文が掲げられてあり、これまでの、それじたい否定されることによってのみ
積極的な力として取り出しうるものとしての否定性の解釈からはいくぶん距離があることが分か
る。そしてこの箇所においては、労働する者としての奴の力が称えられるのではなく、むしろ主
と奴への人間存在の分割が人間の「実存」からその内実を奪っている、いわば疎外の状態である
と指摘されている。
この論考「迷路」が扱うのは、こうした弁証法ではなく、むしろハイデガー的な問い、すなわ
ち「存在」とは何であるか、の問いである。ハイデガーを踏まえてなされたコジェーヴのヘーゲ
ル解釈を受けて、バタイユが『存在と時間』を読んだのはこの頃だとされているが 15)、ハイデガー
の提起する存在論的差異の射程をとらえることはできていない。存在者はどのように存在しうる
か、という存在的問いにとどまっている。『存在と時間』では、「存在者たち」の「おしゃべり」
のなかで「存在」の問いが忘却される様態が分析されていたが、おそらくバタイユはそれをふま
えて、会話し相手を「知る」(connaître) ことであいまいに結びつきあう人間同士の関係とは逆に、
真に全的に「存在する」(être) こととは耐え難いものであり、「夜のなかで、自分だけで単独で
存在する」という恐るべき事態であるとする。存在者はこの夜を全的に自らのものとすることは
できず、そのかわりに、いかなるものとも関係しない全体という仕方で在るとみなされる超越的
なもの、そのもっとも典型的なものは神であるが、これを中心に据え、これに、真に「存在する」
というありようを投影し、体現させる。そして、常にすでに関係性に差し向けられた、専門化さ
れた役割を果しあうことで互いを補い合う存在者たちがこの中心のまわりに集合するという階層
構造が要請される。主と奴の弁証法がここでは、闘争、承認、労働という契機を取り除かれ、人
間が真に単独で全的に「存在する」ことの不可能性の問題へと転換されている。 « L’être en effet
ne se trouve NULLE PART. »16) とはそのことを意味している。だが、この超越的であるとみなさ
れたものそのものの「存在する」ことへの無力、不能、つまりは神の死があばかれ、人間存在が
全的に存在することの不可能性に由来するピラミッドのような階層構造が一瞬揺らいだとき、
「笑
い」が引き起こされる。
Le rire intervient dans ces déterminations des valeurs de l’être comme expansion du parcours des
mouvements d’attraction à travers un champ humain. Il se manifeste chaque fois qu’une dénivellation est
donnée brusquement […]. Une sorte de joie incandescente […] se libère chaque fois qu’un aspect frappant
est donné en contraste à son absence, au vide humain. Le rire plonge dans le vide de la vie un regard chargé
de la violence mortelle de l’être.17)
このように、階層秩序がなしくずしになる契機が引き起こす笑いの歓喜が記述されているのだが、
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ジョルジュ・バタイユにおける「否定性」と「承認」の問題
それが喜ばしいのは、堅牢な構造のなかに自らを当てはめて日々を送る存在者たちのうつろさと
「存在」の死にいたる暴力性とが強烈なコントラストを成すからだ。そしてバタイユの言う「存
在する」とは、この暴力性との緊迫した関係に入ること、以外のことではない 18)。
A la dénivellation qui provoque le rire commun – qui oppose le manque d’une vie absurde à la plénitude
de l’être réussi – peut être substituée celle qui oppose au sommet de l’élévation impérative l’abîme obscur
qui dérobe toute existence. Le rire est assumé ainsi par la totalité de l’être. […][L]’être lui-même, en tant
qu’il est l’ensemble des existences à la limite de la nuit, est secoué spasmodiquement à l’idée du sol qui se
dérobe sous ses pieds.19)
こうして、主と奴、超越的な中心とその周辺といった階層秩序の最終的な崩壊が、あらゆる実存
を暗い深淵に滅しさる。そしてこれこそが、コジェーヴによるヘーゲル解釈とハイデガーの読書
を経たバタイユによってあたらしく記述された否定性の運動だということができる。現存する体
系、価値を否定したうえで自らが積極的なものに転化するような運動、つまり否定の否定ではな
く、主と奴の分割、ヒエラルキーが無化される予感に「笑い」は対応し、その無化の予感によっ
て開示された虚無、基底の不在と向き合う。そして、この虚無の出現に対峙する笑いを担うもの
は、階層の中で分化されたおのおのの存在者ではなく、「存在の全体性」 であり、それは怪物で
あると名指される 20)。
[…] il [le monstre] ne s’y [le néant] abîme que pour le déchirer et pour en éclairer la nuit, un instant, d’un
rire immense, - auquel il ne serait jamais parvenu si ce néant ne s’ouvrait pas totalement sous ses pieds.21)
このようにして、虚無を裂き、その夜を照り輝かせる笑いがあり、この笑いには虚無が足元でさ
らに開かれることによってのみたどり着く。こうして、笑いと虚無とが互いを激化する運動には
終わりがなく、「笑い」や「虚無」が最終的に到達すべき価値として実体化されることはない。
さらに、この運動それ自体も実体化されていないことを付け加えねばならないだろう。なぜなら、
この階層と秩序のない状態に完全に至ることはできないし、ましてやこの状態が特定の存在者に
よって経験として我有化されることもないからだ。よって、現実的、実態的でないこの「存在」
は「存在者」にとっての「否定性」そのものであるといってよいだろう。「存在者」たちが自ら
を当てはめている体系の底を抜かんとし、また「笑い」のなかに存在者の自己意識を消滅させる
否定的な「存在」が、その否定性が、存在者によって対象化されることなく、存在者を通して自
らを現わすのである。「笑い」と「虚無」との終わりのない運動の中で、「存在」の「否定性」は
価値として実体化されず、「存在者」はそれで「あること」しかできない。「笑い」のなかで存在
者は否定性で「あること」
(être) しかできない。そして、このように記述され描写された否定性
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ジョルジュ・バタイユにおける「否定性」と「承認」の問題
は、コジェーヴが展開した否定性からはきわめて遠いところにある。コジェーヴによって記述さ
れた、死を与える能力としての否定性は、主と奴の分化と後者の労働への運命付けをもたらした
のであったが、第一章でバタイユが提唱した「生きられた経験としての弁証法」をパラフレーズ
するなら、この「迷路」という論考では、「生きられた(非)経験としての否定性」が記述され
描写されているのだ。よって、この論考においてこの否定性の運動が「否定性」であるとして名
指され、論述中の一つのモメントとして位置づけられることもない。階層分化を開始するもので
あった否定性そのものが、その階層の全体を否定しにかかる運動それ自体の記述である。そして
この「笑い」を通しての否定性の運動の出現は、講義以前のように「息子」や「プロレタリアー
ト」といった特定の存在者によって担われるものではなくなっている。否定性の運動はいつ、ど
のように始まるか分からない。ここで否定性の運動として記述されている「笑い」とは、誰がそ
れを担うかをあらかじめ定義することのできない運動であり、局所化による実体化をこうむらな
いのである。ハイデガーを踏まえ、援用することによって、ヘーゲル=コジェーヴの思想からの
離脱が始まっている。
3 「社会学研究会」におけるコジェーヴの発表とバタイユの私信 ところで、序章でも述べた「社会学研究会」の 1937 年 12 月 4 日の会合での発表は、他でもな
いアレクサンドル・コジェーヴによるものであった。この年度の「社会学研究会」参加申し込み
用紙に掲げられている発表のタイトルは「ヘーゲル的概念」というものである。1979 年にドゥニ・
オリエの編纂によって出版された『社会学研究会 1937 ─ 1939』でオリエは、この「社会学研究会」
での発表原稿をまとめ、詳細な解説を付し、それぞれの会合でどのようなことが問題になってい
るかを同時代の思考との関わりに基づいて立体的に明らかにしようと試みている。しかしながら
コジェーヴの発表に関しては、ロジェ・カイヨワの証言、そして後に検討する、この発表直後に
バタイユがコジェーヴに送った手紙の内容から発表の内容を推測し、『ヘーゲル読解入門』のな
かの 1936 ─ 1937 年度の講義ノートから二箇所を参考として引用するにとどめている。この発表
用の原稿などはみつかっていない。
カイヨワは 1970 年の『キャンゼーヌ・リテレール』のインタビューで、コジェーヴの発表に
ついて「発表は皆を唖然とさせました。コジェーヴの知的能力と、コジェーヴが導いた結論との
せいです。覚えていらっしゃるでしょう。ヘーゲルがした、歴史と哲学の幕を下ろさせる馬に乗っ
た男の話を。ああ、コジェーヴはあの日の発表で「ヘーゲルは正しかった。しかし一世紀ほど早まっ
た。歴史の終わりの人間とはナポレオンではなく、スターリンだ」と言ったのです」 と証言し
22)
ている。この歴史の終わりの概念については、のちの 1938 ─ 1939 年度、『精神現象学』の解説が
最後の段階に入ったところでも詳しく展開されるが、ここではオリエが発表に関して参照すべき
箇所として挙げた部分を検討したい。行為を体現し、ヨーロッパを統一するナポレオンと、彼が
統一の体現者であり、対立と止揚からなる歴史を終わらせるということを「知っている」、すな
わちナポレオンの自己意識を完成させる者としての知を体現するヘーゲルとの関係が述べられる
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ジョルジュ・バタイユにおける「否定性」と「承認」の問題
箇所である。この関係には、スターリンとコジェーヴ自身の関係が投影されている。少なくとも
このころコジェーヴは、共産主義的全体主義国家の出現をもって、歴史は終わると考えていた。
Esprit absolu = plénitude du Bewusstsein [ =意識 ] et du Selbstbewusstsein [ =自己意識 ] , c’est-à-dire
le Monde réel (naturel) qui implique l’Etat universel et homogène, réalisé par Napoléon et révélé par Hegel.
Cependant : Hegel et Napoléon sont deux hommes différents ; le Bewusstsein et le Selbstbewusstsein
sont donc encore séparés. Or Hegel n’aime pas le dualisme. S’agit-il de supprimer la dyade finale ?
Ceci pourrait se faire (et encore!) si Napoléon « reconnaissait » Hegel, comme Hegel a « reconnu »
Napoléon. Hegel s’attendait-il (1806) à être appelé par Napoléon à Paris, pour y devenir le Philosophe
(le Sage) de l’État universel et homogène, devant expliquer (justifier) – et peut-être diriger – l’activité de
Napoléon ? […]
Quoi qu’il en soit – l’Histoire est terminée.23)
ここにおいて、統一され対立が止揚され、以降普遍的で単一のヨーロッパ(当然のことだが、世
界史、歴史とはヨーロッパを目的としてしか思考されていない)をいったんは作り上げたことに
なるナポレオンを、そのことを「知」として知っているという点においてその行為に対して否定
的に関わる哲学者が「承認」している。自らの意味が相手によって体現されていることを認める
ことによってこの「知」は充実した世界史的、現実的内実を獲得し、自らを完成させる。この講
義ノートだけを見れば、ナポレオンからの承認を求めるヘーゲルという像は小さな逸話のように
付け加えられているが、重要なのは、対立が終わり、そのことを十全に知っている「知」が存在
するということである。この徹底的に目的論的なの世界像のもとで、この窮極の行為の体現者で
あるナポレオンと対比される形で、フランス革命ののちのロマン主義的精神の分析が行われてい
る。いわゆる「美しい魂」の分析である 24)。革命後のナポレオンが、行為によって自らを課す者
であるのに対し、ロマン主義者とは、無害な言辞を弄し、虚構に生きる「人間」の逃避形態とし
て現れているのだという。
Cet homme [= l’Homme post-révolutionnaire romantique] croit donc qu’il pourra être « satisfait » par
des paroles : certes par des paroles qui seront acceptées (« reconnues ») par la Société. Par là, il croit être lui-
même universellement accepté et en être satisfait. Il doit donc mener une existence purement littéraire.[…]
[Cet Homme] crée un Monde à partir du néant, dans le seul but de se faire « reconnaître ». (= Dieu chrétien,
qui crée le Monde pour s’y « révéler » ; seulement le « Monde » du Romantique n’est qu’un roman). […]
Le Poète [ ロマン主義者の中でももっとも極端な者のこと、ここではノヴァーリスが例に挙げられてい
る ] n’est jamais reconnu que par le petit nombre, par une « chapelle » (même pas une Église !) qui se réduit
86
ジョルジュ・バタイユにおける「否定性」と「承認」の問題
à lui-même, s’épuise lui-même enfin, et s’anéantit lui-même.25)
ナポレオンが全世界(ヨーロッパのことだが)に自らを知らしめるのに対して、ロマン主義者は
言語の中に満足をもとめ、逃避し、とくに詩人はわずかな人間たちにしか知られず、世界を虚構
でしか獲得できないそのことによって死んでゆく。この、
「美しい」だけの無用な者たちが「行為」
から逃避する姿が、厳しくナポレオンと対比されている。
以上、バタイユからコジェーヴへ送られた 1937 年 12 月 6 日付けの手紙をもとに、コジェーヴ
の 1937 年 4 月に行われた発表内容に関わると推察された講義の箇所を見てきた。もちろんこれ
は「社会学研究会」の発表そのものではない。しかしながら、これから考察するバタイユの手紙
は、こういった観点も含めて、おそらく聴講することのできた講義の中で提出されたすべての問
題系への、全身での返答となっているはずだ。そして、バタイユの問いはまたも、否定性の問題
に関わっている。
J’admets (comme une supposition vraisemblable) que dès maintenant l’histoire est achevée […]. Je me
représente toutefois différemment les choses (je n’attribue pas grande importance à la différence entre le
fascisme et le communisme ; d’autre part, il ne m’apparaît nullement impossible que, dans un temps très
éloigné, tout recommence.)
Si l’action (le « faire ») est – comme dit Hegel – la négativité, la question se pose alors de savoir si la
négativité de qui n’a « plus rien à faire » disparaît ou subsiste à l’état de « négativité sans emploi » […].26)
この箇所はすでに多分に示唆的である。本稿の「始めに」で確認したように、1930 年代のバタ
イユは、アトム化した個人がファシズムに動員されないためには新たな共同体が必要だと考え、
そのために活動をしていたのだった。だがしかしここでは、コジェーヴの言う歴史の終わりを、
すなわち世界はもはや行動が無用な段階に至っていることを半ば認めている。具体的には、コミュ
ニズムの世界化かもしくはファシズムの世界化によってもう行動は不要になるということを認め
ている。しかしながら、すべてはもう一度、さらにもう一度繰り返されるという仕方で、「終わ
る」ことができない可能性が示唆されてもいる(tout recommence)。ここでバタイユがニーチェ
の「永劫回帰」の概念を思い起こしていたことは想像に難くない。さらに、第二章で考察したバ
タイユの論考「迷路」でもすでに、否定されることによって有用なものに転化する否定性ではな
い、否定性そのものの運動が描写されていたのだったが、ここでもまた、行為という行き場を失
い、行為=否定性という等号が外され、何ものとも等しくない「否定性そのもの」が現れること
がありうるのではないか、とバタイユは考えている。コジェーヴとは異なり、バタイユは行為と
否定性とを完全に同一のものであるとは考えていないのだ。そしてそれは、「使いみちのない否
定性」と名付けられている。ヘーゲル的な目的論的時間性を担保してきた否定性ではなく、ニー
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ジョルジュ・バタイユにおける「否定性」と「承認」の問題
チェ的な、無時間的に「回帰する」否定性とでも言えばよいだろうか。そしてバタイユは、ナポ
レオンが「行為」を、ヘーゲルが行為の自己意識、すなわち「絶対知」を体現していたことに倣っ
て、自らをこの「使いみちのない否定性」であると定義する。先の引用の直後では以下のように
書かれている。
[…] personnellement, je ne puis décider que dans un sens, étant moi-même exactement cette « négativité
sans emploi » (je ne pourrais me définir de façon plus précise). Je veux bien que Hegel ait prévu cette
possibilité : du moins ne l’a-t-il pas située à l’issue des processus qu’il a décrits. J’imagine que ma vie – ou
son avortement, mieux encore, la blessure ouverte qu’est ma vie – à elle seule constitue la réfutation du
système fermé de Hegel.27)
第二章においては、人が「否定性」で「ある」ことしかできない、「存在」へと漸近してゆく段
階についてのバタイユの記述を検討したが、この箇所では、自らの実存の問題として、私自身「は」
まさに「使いみちのない否定性」なのだ、とされている。この 30 年代後半、ファシズムの体制を、
勢力を、その心理的構造をどのように思考し、それにどのように抵抗するかを模索していたバタ
イユ、さまざまなグループを作り、時事的な論考を次々と発表していたバタイユがここでは、
「行
為」の不可能性を口にするコジェーヴを正面から受けとめている。思えばこの「行為」の不可能
性という主題はこの私信以前、1935 年前半に書かれた小説『空の青』においてすでに全面に展
開されていたのだったし、「ゼネストを待ちながら」や「人民戦線の失敗」といった時事評論に
おいてもそうであった。さらには、この行為の不可能性の意識がバタイユを、政治的に有効であ
ることを積極的に放棄した「秘密結社」アセファル、また「社会学研究会」という知識を交換し
合う共同体の試みへと向かわせたのだ。なぜなら、これらは、「行為」以外によって共同するこ
とは可能か、との問いに基づいた共同体の試みであるといえるからだ。また、この「私」が、自
分が論じている概念それ自体(ここでは否定性の概念)である、という話法が、バタイユの著作
の至るところに見出される、文体上の重要な特徴であることを指摘しておく。
ところで、ここでは、「私」であるところの「使いみちのない否定性」は、自らの人生である
ところの「開いた傷口」でもある。こうして、「使いみちのない否定性」という概念に人称が与
えられ、肉が与えられている。こうして、
「使いみちのない否定性」で「ある」(être)というこ
とは、生存と身体を巻き込む事態であるということが、慌しいサンタグムのパラディグム化とも
言えるようなエクリチュールの運動によって提示されている。サンタグムのパラディグム化とは、
例えば「私は否定性である」という、「私」「〜は〜である」「否定性」の三つの要素のサンタグ
マティックな関係として成立している文が、「私の生は、その生の堕胎は、開いた傷口としての
私の生は…」といった文に次々と言い換えられることによって、もとの文の「私」と「否定性」
もまた互いに可逆的かつ、他の単語と交換可能であることが明らかになる事態のことを指す。こ
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ジョルジュ・バタイユにおける「否定性」と「承認」の問題
れはバタイユの文体の諸特性の中で、もっとも重要なものの一つである。ロラン・バルトが『眼
球譚』について 1963 年の論考「眼の隠喩」28) で論じているのはこのことについてであり、バル
トは再サンタグム化によって、最終的にパラディグムとサンタグムとの交差配列が行われること
そのものをバタイユの文体、文学であると名付けている。だがしかし、バタイユは何よりもまず、
このサンタグムのパラディグム化を実践しながら、サンタグムのパラディグム化を可能にする条
件を可視化しようとしているのではないか。つまり、ほんらい文の要素を結びつける役割を果た
す繋辞としての être が、終わりない文の言い換え、文の要素の置き換えを可能にするものでも
あるということを。
第二章では、「存在」(être) と名指された状態、「存在者」が完全にその状態に至ることはでき
ず経験として感受できない、存在的な秩序のない状態へと漸近する運動が、否定性の運動そのも
のであった。ここでは、存在そのものを意味する être ではないにせよ、繋辞としての être が可
能にするエクリチュールの上での運動が問題になっている。この、サンタグマティックな関係と
して成立している文を結び付けているが、切り離しもする繋辞としての être がもたらす、文の
各要素を交換可能にし、文の秩序を突き崩し不安定にし、サンタグマティックな関係を横滑りさ
せるエクリチュールの運動のなかで作用しているのはまたしても être の否定的な力、« Je » « suis
» « une négativité sans emploi ». の文中における «suis»「(で)ある」という繋辞の、文の要素を切
り離し、結果として文を破砕する否定的な力そのものの露出である。バタイユのエクリチュール
は、概念としての否定性について述べると同時に、否定性の運動としてパフォーマティブに遂行
されているのだ。
ところで、概念としての「使いみちのない否定性」それ自体はバタイユによってどのように論
じられているだろうか。コジェーヴが宣言した歴史の、行為の無化のあとに、使いみちのない否
定性とはどのような仕方で存在すると考えられているのだろうか。バタイユは歴史の終わり以降
の否定性に、二種類の異なった相貌を与えている。
En ce qui me touche, la négativité qui m’appartient n’a renoncé à s’employer qu’à partir du moment
où elle n’avait plus d’emploi : c’est celle d’un homme qui n’a plus rien à faire et non celle d’un homme
qui préfère parler. Mais le fait – qui ne paraît pas contestable – qu’une négativité se détournant de l’action
s’exprime en œuvre d’art n’en est pas moins chargé de sens quant aux possibilités subsistant pour moi.
Il indique que la négativité peut être objectivée. Le fait n’est d’ailleurs pas la propriété de l’art : mieux
qu’une tragédie, ou qu’une peinture, la religion fait de la négativité l’objet d’une contemplation. Mais
ni dans l’œuvre d’art, ni dans les éléments émotionnels de la religion, la négativité n’est « reconnue en
tant que telle », au moment où elle entre dans le jeu de l’existence comme un stimulus des grandes
réactions vitales. […] Il y a donc une différence fondamentale entre l’objectivation de la négativité, telle
que le passé l’a connue, et celle qui demeure possible à la fin . En effet, l’homme de la « négativité sans
emploi », ne trouvant pas dans l’œuvre d’art une réponse à la question qu’il est lui-même, ne peut que
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ジョルジュ・バタイユにおける「否定性」と「承認」の問題
devenir l’homme de la « négativité reconnue » […] Il est devant sa propre négativité comme devant
le mur. Quelque malaise qu’il en éprouve, il sait que rien ne pourrait être écarté désormais, puisque la
négativité n’a plus d’issue.29)
先に検討した「社会学研究会」での、行為の逃避のために、芸術を選ぶロマン主義者としてで
はなく、なすべき行為の欠如によって、芸術や宗教の方へと否定性を向けざるをえないのが歴
史の終焉後の人間だとバタイユは言う。歴史の終焉後の人間がそうであるところの「使いみち
のない否定性」もまた、作品として対象化されたり、宗教的理念として観想の対象になるのを
やめはしない。行為として結実しない使いみちのない否定性にも、空虚な内実のない、形式と
しての対象化の可能性、対象化そのものを自己目的とした形式的な対象化の可能性は、奪われ
てはいないのだ。この形式的なものと化した否定性の対象化が、使いみちのない否定性の第一
の可能性である 30)。
しかし、ここでバタイユは、こういった対象化は否定性の否定にすぎないととらえているので
はないだろうか。否定性が作品として固定化、実体化してしまえばそれはもう否定的ではない。
端的に否定的なもの、としてとどまることに失敗しているのだ。これが、「否定性はそのものと
して承認されていない」という言い方でバタイユが指摘していることではないだろうか。歴史の
終わりにおける、使いみちのない否定性には、別様の対象化があらねばならないはずだが、あら
ゆる対象化とは、すでに過去の歴史が遂行してきた否定性の否定であるゆえに、歴史の終わりに
おける使いみちのない否定性としては承認されないという結果にいたる。この隘路に至るがゆえ
に、「否定性にはもう出口がない」のだ。
二章で分析した、コジェーヴの解釈による主と奴との弁証法においては、否定性を限界まで駆
使する権能を所有してあることが積極的な価値として取り出され、それが承認の対象であった。
「行為」のナポレオンと「知」のヘーゲルとは、互いが互いに否定的な関係にあることによって、
相互承認の関係に入ることが可能であった。しかし、歴史の終わりの段階では、使いみちのない、
対象化されず、宛先のないまま放置された否定性がまるごと残ってしまうのだ。
ところで、バタイユはこの手紙を 1944 年に出版される『有罪者』に、「X への手紙」と題し
て改稿したのち収録している。しかし、バタイユは手紙の半分しか収録しなかった。そして収録
されたのはこの箇所までである。つまり、出口のない否定性、その承認との関係にまつわるパラ
ドックスを指摘したところで、
『有罪者』に収録されたコジェーヴへの手紙は終わっている。だが、
続きはどうなっているのだろうか。
Mais l’horreur éprouvée par lui en regardant en lui-même la négativité n’est pas moins susceptible de
se résoudre en satisfaction que dans le cas de l’œuvre d’art […]. Car il a reconnu la négativité exactement
dans le besoin d’agir. […] [Il] trouve une satisfaction totale dans le fait de devenir l’homme de la « négativité
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ジョルジュ・バタイユにおける「否定性」と「承認」の問題
reconnue » et il n’a plus cesse dans l’effort qu’il commence pour la reconnaître jusqu’au bout. […] Ainsi, il met
en jeu les représentations les plus chargées de valeur émotive, telles que destruction physique ou obscénité
érotique, objet du rire, de l’excitation physique, de la peur et des larmes. […] ce qu’il est devenu malgré lui se
propose maintenant à la reconnaissance des autres, car il ne peut être homme de la « négativité reconnue » que
dans la mesure où il se fait reconnaître comme tel. Il se trouve ainsi, de nouveau, quelque chose « à faire » dans
un monde où du point de vue de l’action rien ne se fait plus. […] [C]e qui lui importe, c’est exactement le fait
qu’il est condamné à vaincre ou à s’imposer.31)
こうして、歴史の終焉ののちの人間は、自らが使いみちのない否定性であることそのものを承認
させるために、自らを他者たちに課し、他者たちを凌駕せねばならない。ここにおいて、密かに
否定性の価値としての実体化が回帰しているように見える。「使いみち」がなかったはずなのに、
他者に承認させる「必要」と「価値」がここにおいて復帰しているからだ。そして、この「使い
みちのない否定性の承認」を展開する箇所が『有罪者』に収録されなかった理由を、オリエは「自
己検閲」と呼び、「このときバタイユは、否定性が承認されねばならないと思っていたし、承認
のための最後の資源として、否定性が使用されねばならないと考えていたが、『有罪者』出版の
時には、承認とは否定性を裏切るものでしかありえない、と考え直したのだ」32) と言う。しかし
ながら、この指摘は、バタイユにおける承認の概念が、ヘーゲルやコジェーヴが展開したそれと
同じであることを前提としている。確かにバタイユが記述している、歴史の終焉以降の、他者に
自らを課さねばならない、他者を凌駕しなければならない人間存在のありようは、歴史が始まる
前、主と奴に存在者が分化する前の、否定性の承認のための闘争に似ている。ただし、バタイユ
が思考しているのはあくまで、対象化されない「使いみちのない否定性」の承認、つまり、歴史
の終焉以降の否定性、その承認である。つまり、ここではもはや、ヘーゲルにおいては重要であっ
た、二つの自己意識が他在の破棄のために否定性を直接行使しあうという相互的な契機、自己意
識を精神へと高めるための契機はもはや存在しない。その円環はすでに閉じられたあとなのだか
ら。二つの自己意識が相互承認のために闘いにおもむくどころか、バタイユは、ここでは引用し
なかった箇所で、使いみちのない否定性の人間はまず無視される、その後排除されると言ってい
る。使いみちのない否定性が自らを課さねばならないならない他者との関係とは、このように非
相互的なものなのだ。さらに、コジェーヴにおいてはつねに前提とされていた、否定性の、行為
としての自らを提示ももはやない、なぜなら歴史は終了しているのだから。よって、否定性は「す
ること」(faire)の権能として承認されるのではなく、「することがない」(rien à faire)状態で承
認されねばならない。主体が対象に向けて駆使するのではない否定性、行き場を失い、主体自身
へと内向する否定性の承認が問題になっているのだ。よって、歴史の開始における否定性の、別
の自己意識を対象とした闘争、それを経た承認とは違う仕方での、相互性なき承認が、使いみち
のない否定性には対応しなければならないのだ。引用 29、つまり『有罪者』に採録された箇所、
およびこの引用の両方でバタイユは devenir l’homme de la « négativité reconnue » もしくは être
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ジョルジュ・バタイユにおける「否定性」と「承認」の問題
l’homme de la « négativité reconnue » という表現を用いている。対象を破棄する、自己意識どう
しが互いに差し向ける否定性の相互的な行使なしで、ただ承認された否定性「である」こともし
くは「になる」ことが必要なのだ。
ヘーゲルやコジェーヴが展開した歴史の開始における相互的な承認の闘争と、バタイユがここ
で述べている歴史の終わりにおける承認との差異こそが検討されねばならない。バタイユがここ
で考えているのは、歴史の終わりにおいて明らかなものになる、特殊な承認のあり方なのではな
いだろうか。
この点を検討するにあたって重要なのは、使いみちのない否定性の人間が、自分自身が否定性
であることをますます強く承認するために、「情動的価値を担う表象、たとえば体の破壊、性的
なわいせつさ、笑いの対象、肉体の興奮をかきたてる対象、恐怖、涙の対象の表象」、つまり情
動をかきたて、自らの否定性をあぶりだすような表象(représentations)を用いて自らを刺激し、
魅惑するという方法が記述されていることである。これは、自分自身が否定性であることをます
ます強く承認する方法の記述である。ここにあるのは、自分自身であったはずの否定性が承認の
対象として対象化されるという事態である。しかしながら、重要なことは、この、主体の自分自
身の否定性の対象化が可能になるのは、破壊された人体の、エロスの情動の表象を見ることによっ
て、それらを見ることを通して、とされていることある。つまりは、否定性に貫かれてある他者
の表象を見ることによってである。すなわち、ここでは、自身の否定性の承認の構造の内部に、
この表象された他者の否定性へのまなざしがしのびこんでいるのだ。自身の否定性を承認するた
めに、あらかじめ、他者の否定性を見つめることが必要であるという構造が記述されているのだ。
そして、ここで起こっていること、それは、自分自身の否定性を承認するより先に、他者の否
定性を承認してしまっているという事態なのではないだろうか。自身の否定性の発露とその承認
には、なによりもまず、それに先立つ他者の否定性の承認が構造的に含まれているのではないだ
ろうか。他者の否定性を承認することによって、自らに、自らが「使いみちのない否定性」であ
ることを明らかにできるのだ。なぜなら、自分自身が否定性で「ある」ことは対象化できない、
しかし他者の否定性、例えば二章で検討した「笑い」の中で存在 (être) それ自体に接近してゆく
他者の状態を見つめ、これを、「使いみちのない否定性そのものである」と承認することはでき
る、そして、その認識によってかきたてられた情動によって、視線を向ける主体の側もまた、否
定性そのもので「ある」状態へと、無意識のミメーシスによって近づいてゆくことが可能になる
のだ。つねにすでに、「使いみちのない否定性」に貫かれ、視線にさらされた他者があり、そう
して、主体の側も自らの「使いみちのない否定性」を発見し、それに貫かれる運動、使いみちの
ない否定性そのもので「ある」ことの運動へと巻き込まれてゆくのだ。
そして、バタイユがここで使いみちのない否定性である者が他者から承認される可能性をあく
まで思考するのは、この点に、自己の否定性の承認の構造に他者の否定性へのまなざしが含まれ
ている点に由来しているのではないだろうか。表象された他者の否定性を見ることによって、自
らの否定性を煽り、「否定性であるところの自ら」に漸近するこの者自身が、「表象された他者」
として他者の前に現れるときに、初めて「使いみちのない否定性」であることが完遂されるので
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ジョルジュ・バタイユにおける「否定性」と「承認」の問題
はないか。結局、「使いみちのない否定性」そのものが「ある」ためには、他者の存在が、他者
の視線が必要なのだ。自身は意識において自己の否定性を見つめ、対象化するという契機を通過
して、「使いみちのない否定性」そのもので「ある」ことに漸近することしかできない。しかし、
この否定性である者が他者のまえに現れたとき、この者は、その他者にとって、身体を基底とし
た「使いみちのない否定性そのもの」であるように見えている。否定性が自己意識を持つことに
よって起こる分裂が、他者の視線のなかでは統合されているのだ。これこそが、「使いみちのな
い否定性」の承認である。そして、表象された他者の否定性の承認によって「使いみちのない否
定性」そのものに近づく運動そのものが、他者へと差し向けられているこの一連の流れは、一方
通行の承認の連鎖であるといえる。なぜ一方通行かといえば、それは、この承認に関わるまなざ
しが非相互的なものであるからだ。表象された他者として見られるがままになる「使いみちのな
い否定性」が、この、自らを承認するものを見返さず、自らが承認されたことを確認しないこと
において、確認しないことにおいてのみ、自らの否定性を裏切らず、肯定的なものに転化しない
承認が成立するからだ 33)。
確かにこのコジェーヴへの私信の後半を読めば、自らの否定性を課す、承認させるといった、
主体の積極的はたらきかけによって得られる承認といった側面が濃厚なのは明らかである。『有
罪者』採録の際の削除もゆえなしとしない。しかし、この表象された否定性とその承認に関わる
まなざしの構造こそが、バタイユの後期の著作群に付された写真のあり方を規定しているのでは
ないだろうか。また、バタイユが、自らの著作の品を落とすのも構わず決してやめなかった、ス
カトロジックでエロティックな身体の即物的な描写のあり方も、このまなざしの構造の問題をと
おして別様に考えることが可能ではないだろうか。それらの描写や写真は、「使いみちのない否
定性」の表象として読者に差し向けられ、読者が自らの「使いみちのない否定性」を発見し、否
定性の運動へと巻き込まれることを求めているのではないだろうか。確かにバタイユは、ここで
は承認を放棄し純粋な否定性のままとどまる「使いみちのない否定性」に到達して以降の記述を
削った。しかし、この 1937 年、ほぼ歴史の終わりとコジェーヴによって規定された時間の中で、
歴史を開始した否定性の承認が別様に回帰する可能性をバタイユが思考したことは確かだ。そし
て、これは「主」と「奴」の分化を伴わない「開始」の条件そのものの回帰、ニーチェの永劫回
帰や、フロイトの反復強迫の概念 34) とともに思考されるべき重大な問題でありつづけるだろう。
これらは以降の課題となる。
終わりに-アセファルの像-
バタイユがコジェーヴの『精神現象学』講義以前には、「否定性」は否定されることによって
ポジティブなものに転化する契機であるとして自らの思考を展開していたことを第一章で指摘し
た。第二章では、コジェーヴの、ハイデガーとマルクスを経たヘーゲル解釈を受けて、バタイユ
が否定性を別様に思考する歩みを検討した。そして、第三章では、行為が知と統一された段階、
歴史の終わりにおいて、歴史を開始するものであった否定性はどこへゆくのかを思考するバタイ
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ジョルジュ・バタイユにおける「否定性」と「承認」の問題
ユのコジェーヴへの私信を検討した。ここにおいて鍵となったのは、バタイユが、歴史の終焉の
のちの有用でなくなる否定性につりあうべき「承認」の概念を模索したことであった。
ところで、バタイユは 1936 年に「獰猛なまでに宗教的である」ことを宣言するとともに、ファ
シストの読解に抗してのニーチェ再読を試みることになる雑誌『アセファル』を創刊した。この
雑誌のシンボルとして掲げられ、また各号の挿画となっているのが、生涯の友人アンドレ・マソ
ンの手による頭部のない「怪物」の表象である。(まさに第二章の「怪物」だろうか、バタイユ
は美術雑誌『ドキュマン』の時期にも畸形すなわち怪物的な身体について考察していた)ここで
バタイユらは、この、自らを自らに対して表象することのできない、また決してこちらを見返す
ことのない頭部を持つ怪物を、読者の眼前に突き出してみせている。いわばこの、否定性のとり
こになってしまった畸形の人体のような形象を、読者による承認へと差し向けてみたのだ。とこ
ろで、バタイユが表象と読者との関係にもたらす非-対面性、対面の不可能性は、この『アセファ
ル』に始まったことではない。眼球との性交を試みる『眼球譚』、1928 年の最初のバージョンに
してすでにそうだったといえるのではないか。バタイユにおける否定性と承認の問題の展開は、
バタイユにおける人体の表象の、また小説中の人物と人物との互いの「非-対面性」の考察とと
もに、進められるべきだろう。
アンドレ・マッソンのデッサン、『アセファル』第二号、1937 年。
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ジョルジュ・バタイユにおける「否定性」と「承認」の問題
注
1) La politique de l’impossible (Paris, Éd. La Découverte, 1988)でのジャン=ミシェル・ベニエの記述を
もとに、コジェーヴによる講義以前のバタイユのヘーゲル受容についてまとめておきたい。まず、バタ
イユは自身の勤務先である国立図書館で 1925 年に『精神現象学』及び『論理学』の仏訳、1927 年に『歴
史哲学講義』の英訳を、次いで 1931 年に『イエスの生涯』の仏訳を借り出している。ドイツ語の『精
神現象学』の借り出しは 1934 年のことである。さらにバタイユはジャン・ヴァール、ベネデット・クロー
チェといった著者のヘーゲル論にも触れている。これに関しては Georges Bataille, Œuvres Complètes ,
Gallimard, 1970-1988(以下バタイユの全集は O.C. の略号で、巻数はローマ数字で表記する)tome Ⅻ
の巻末、549 ページ以降に収められたバタイユの国立図書館での借り出し記録も参照されたい。また、
1932 年 9 月の『社会批評』誌第 6 号での哲学雑誌レビューでヴァールの『ヘーゲルとキルケゴール』を
取り上げた際には、同じ著者による『ヘーゲル哲学における意識の不幸』に賛辞を送っている (cf. O.C. I,
p.299)。しかし、バタイユ自身は「ヘーゲルに真に出会ったのはコジェーヴの講義からだ」と述べてい
る(voir O.C. , Ⅶ , p.615.)
2) 以降、文脈に応じてこの二つの語は「」に括って表記する。
3) Jean-Michel Besnier, « négativité sans emploi » in La politique de l’impossible, op.cit ., pp .71-80.
4) Georgio Agamben, le langage et la mort, traduit de l’italien par Marilène Raiola, Paris, Christian Bourgois,
coll. « Détroits », 1991 (1982), pp.95-99. Et aussi L’Ouvert ―De l’homme et de l’animal, traduit de l’italien
par Joël Gayraud, Paris, Rivrages, 2006 (2002).
5) Isabelle Rieusset, « La déchirure du cercle : une éthique de la négativité » in Georges Bataille et la pensée
allemande , Association des Amis de Georges Bataille, 1986.
6) O.C. , I , pp.287-288.
7) Ibid ., pp.289-290. 下線による強調はこれ以降すべて引用者による。それ以外の強調はすべて原著者によ
る。
8) Le Collège de Sociologie 1937-1939, Denis Hollier éd., Gallimard, 1979, pp.66-67. 以下 CS の略号で表記
する。
9) Alexandre Kojève, Introduction à la lecture de Hegel, collection “tel”, Gallimard, 2005 (1947), p.52.
10) Ibid. , p. 20.
11) もちろん、コジェーヴによる解釈は、ヘーゲルの記述に完全に忠実というわけではない。この点は本論
の範囲を超える主題である。ただし、ヘーゲルにおいては、死による自然な否定ではなく、意識におい
ての否定が重要であり、この間接性のために人間存在の主と奴への分割と承認が要請されているが、コ
ジェーヴにおいては、承認への欲望、欲望への欲望が先立って、闘争の必然性が呼び出されているよう
に思われる。言い換えれば、ヘーゲルにとって、闘争は意識の経験の一契機としてあるが、コジェーヴ
によって闘争は人間学的に解釈されている。ヘーゲルの実存主義的解釈といわれるゆえんである。こ
の点に関しては、 « Alexandre Kojève, I Reconnaissance et altérité » in Jarezyk Gwendoline et Pierre-Jean
Labarrière, De Kojève à Hegel : 150 ans de pensée hégélienne en France, Albin Michel, 1996 を参照され
たい。
12)
13)
14)
15)
Ibid. , p.55.
O.C. , I , p.388.
Ibid. , pp.433-434.
Voir O.C. , Ⅻ , « Emprunts de Georges Bataille à la B.N. (1922-1950) », p.594. プレイヤッド版のクロニッ
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ジョルジュ・バタイユにおける「否定性」と「承認」の問題
クは、バタイユが 1934 年にドイツで出版され、『存在と時間』を含む『哲学年報』を借り出しているこ
とを踏まえている。バタイユがどこまで原語を理解したかはさだかではないにせよ、アンリ・コルバン
訳のハイデガー『形而上学とは何か』の 1938 年の出版より 4 年さかのぼる。ところで、戦後、自身が
主幹を務める『クリティック』1950 年 10 月号のコラム「実存主義」においてバタイユは、コルバンが『NRF』
にハイデガー「形而上学とは何か」の仏語訳の発表を持ちかけた際に、翻訳の原稿を読ませてもらった
思い出に言及している。またこれもバタイユ自身の証言に寄るが、この原稿の『NRF』への発表は結局ジュ
リアン・バンダの反対によってかなわず、その代わり 1931 年の『ビヒュール』第8号にアレクサンド
ル・コイレの序文とともに発表されることになる。(Critique, n° 41, 1950, octobre p.83. (O.C. , Ⅻ , p.11.))
つまり、少なくとも 1931 年より前にバタイユはハイデガーの思想に触れる機会があったということに
なる。これに関しては『至高性』の注(O.C. , Ⅵ, pp.666-667)も参照のこと。ところで、これらハイデガー
受容についての自身による証言で、バタイユはつねに『ビヒュール』発表の「形而上学とは何か」の翻
訳者をコイレと勘違いしている。また、フランスにおけるハイデガーのコルバンによる翻訳に関しては、
Dominique Janicaud, Heidegger en France, tome I, Récit, pp.40-48 が詳しい。
16) O.C. , I , p.435.
17) Ibid. , p.440.
18) こうして、バタイユにおけるハイデガー解釈においては、
「存在者」と「存在」とが理論上峻別されている。
たとえばこれは「存在者」と「存在= il y a」を区別して論じるレヴィナスにおいても同様である。こう
いった解釈の中では、ハイデガーの存在論的差異の「差異」が実体化されすぎているのだ。こうしたフ
ランスにおけるハイデガー受容の特性の由来と射程の検討は、これからの重要な課題である。一言添え
ておくならば、バタイユにおいてはその実体化された「存在者」と「存在」との差異が「笑い」という
身体の運動において縫合されている、といえなくもない。
19) Ibid. , p.441.
20)「存在の全体性」のような、人間的範疇にとどまらない存在論的問題が「怪物」といった名に言い換え
られ身体として形象化されるのは、バタイユの思考につきまとう、抽象的な概念に身体を与えずにいら
れないという傾向にかかわっている。この点については第三章で触れる。
21)
22)
23)
24)
25)
26)
27)
28)
Ibid. , p.441.
CS. , p.68, オリエによる引用。
Ibid. , pp.71-72. 1936-1937 年度の講義はこの箇所で終わっている。
講義では、『精神現象学』の順序に対応してこの分析が先に来ている。
Ibid. , pp.72-74.
Ibid. , pp.75-76.
Ibid. , p.76.
« La Métaphore de l' oeil » in Critique, n° 195-196, août-septembre 1963, Édition de Minuit, pp.770-777.
のち Essai critique (Seuil, 1964) に所収
29) CS ., pp.77-79.
30) ここでのバタイユによる、歴史の終焉の段階での、芸術作品として対象化されうる否定性の記述は、
1959 年にコジェーヴが日本を旅行したのちに、自身の『ヘーゲル読解入門』に付した有名な注で展開し
た議論を想起させる。コジェーヴは日本の能、茶道といった芸術を、歴史の展開に寄与しない、形式的
なものと化した所与の否定であるとし、この形式性をスノビズムと呼んでいる。そして、このスノビズ
ムが、歴史の終焉以降、人間が人間にとどまる方法、つまり所与、自然を否定する存在であり続ける方
法だとしている。バタイユの議論は、こういった仕方で延命する否定性とは別の仕方で残存するであろ
う否定性、その行方にかかわっている。(cf. Alexandre Kojève, Introduction à la lecture de Hegel, op.cit. ,
p.437.)
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ジョルジュ・バタイユにおける「否定性」と「承認」の問題
31) Ibid. , pp.79-81.
32) Ibid. , p.79, note 1.
33) ここで、サルトルが『存在と無』の「まなざし」の章で展開している視線の問題との差異を指摘してお
くならば、サルトルにおける倫理的主体は、自分が他者から見られ、自分が他者にとっての対象となり
うることを知り、主体としての権能を奪われる経験の主体であり、ここでこの主体は、自分が見られ、
対象化されうる存在であることを「知っている」。バタイユにおける否定性に貫かれた存在は、自分が
見られていることを知らないという限りで存在する。( cf. « Le regard » in L’être et le néant, Gallimard,
coll. « tel », 2009 (1943) p.316.)
34) Sexe et texte (collectif, Press Universitaires de Lyon, 2007) に お い て フ ロ イ ト の 初 期 バ タ イ ユ へ の
影 響 を 検 討 し た ジ ル・ エ ル ン ス ト の 論 考 « Bataille et le dualisme pulsionnel de Freud, ou la grande
différence » には、この反復強迫とバタイユの思想とを関係付ける視点はない。しかし、フロイトにとっ
て生の側に属していた「エロス」が、バタイユにとっては死の欲動の側に属しているのではないか、と
の指摘がある。
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