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渡 探 訪
渡 探 訪 (福津郷土史会 2011. ) 渡半島は白砂青松の浜と奇岩奇石の景勝が豊富にあり、九州の鎌倉といわれています。 古くから馬牧があったと云われています。 江戸時代には俵瀬に山之口がいました。又、黒田藩主が狩をしたり、朝鮮通信使の膳に に使用する鹿や猪狩りが行われました。 明治初期 152 戸・733 人(梅津を含む)。 大正 11 年(1922)、渡と津屋崎を結ぶ橋が出来、交流が容易になりました。 ① 天満神社( 天満神社(内浦) 祭神 菅原道真。 道真公が太宰府左遷の折、立ち寄ったところだろうという。 お堂の中に御神鏡がある。昭和 53 年改築。 カナ石(玄武岩)の石碑があり、「右太宰府道」と刻まる。 天神様の祭日は 9 月 25 日だが、道真公は 21 日に内浦に立ち寄られたので 21 日が祭日。 ② 修験者の 修験者の墓 とよふく 天正 13 年(1585)豊福式部卿が、宗像宮の儀式に参列したのがいちばん古い記録で、 豊福家は渡の草分けと言われている。代々英彦山豊前坊の山伏に属し、昭和の始め頃まで 楯崎神社の神職だった。 明治時代の始め頃まで大峰山に真言宗の修験者が春夏峰入りの時は接待をしたという。 墓・権大僧都智法院良山塔(明和 9 年・1772)、豊福虎姫、・・・ さやのかみ ③塞神 木の祠でご神体は石。 ノドケの神様で、風邪引き、喘息、流行り病の時、サザエの殻に甘酒を供えて祈る。 治るとお礼参りをする。 ④ 薬師神社 薬師神社 祭神 大己貴神 少彦名神 昭和 28 年まで、楯崎神社(明治 5 年以前は楯崎寺)が薬師神社のすぐ前にあり、薬 師神社はその境内社。現在、楯崎神社の奥の院。宝暦 3 年(1753)に薬師仏の御開帳 「年代記(桑野家文書)」によると、宝暦 4 年大木村大庄屋・中村治助斉保が石灯籠 を寄付とある。又、この文書に渡村薬師仏となっていることから、薬師寺であった。 中村治助斉保は、寛保元年(1741)津屋崎塩浜塩田開基にあたり、郡代より「御普請総 裁」を命じられ、製塩の祖大社元七の上司として 40 ヘクタール余の開発に成功した。 今存在するのは、宝暦 9 年(1759)の石灯籠。 薬師様は子育ての仏様といわれていて、子ども連れで参拝する人が多い。 旧楯崎神社跡の左側に、神社に植えられる大きなオガタマの木がある。 1 ⑤ 不動明王祠 不動明王祠 石像の不動明王を祀る。病気祈願にお百度参りがあっていた。楯崎神社の奥の院。 おぞの ⑥ 楯崎神社( 楯崎神社(御園) 祭神 大己貴神・綿津見神・少彦名神、相殿に飛龍権現(神功皇后) 大楯崎神社縁起(文化 14 年 1817)によれば、異賊が来たので、大己貴神と宗像姫大 神が神軍を率いて、神霊の威光を振るい楯を立て鼓を鳴らして外敵を防いだ。楯崎・ 唐船・御手洗瀑布・五色浜・楢の葉浜の名はこれより起こったと云う。 宗像社記によれば、一説には神功皇后が三韓より帰られ船が着いた所を京泊といい、 楯を蔵め置かれた地を楯崎山と云う。 楯崎山三所大権現略記(享保 15 年 1730)によれば 桓武天皇(天応 1 年 781~大同 2 年 807)の御代に、最澄(伝教大師)が薬師・彌陀・観音の三仏を木に刻み三所大権 現の御本尊とし、講堂を建てて「楯崎寺」とし、宗像大宮司清氏から 79 代氏貞に至る じんでん まで祭り事が行われた。2 町歩の神田も与えられたが、天正 14 年(1586)氏貞が没し たのを伏せていたため翌年豊臣関白が来た時神田を没収され、以後寺は衰退の一途を たどった。 元禄年間(1688~1703)に寺の廃絶を嘆き、一祠を建て再び祭祀を行うようになり 「楯崎権現社」として、明治 5 年(1872)村社になるまで続いた。 昭和 28 年 6 月の豪雨で薬師神社のすぐ手前の平地にあった神社が傾いたので、現 在地に再建した。 現在、祭りは元旦の歳旦祭と、4 月 15・16 日のお薬師様をおこなう。 御利益は、神功皇后が三韓から帰られた時平和を祈願するため楯と弦を切った弓を 納められたことから‘幼児のヒキツケ病除けの神様’として昔から信仰が篤い。 今でも弦のない弓を持ってお参りする。 ・絵馬 「伊勢神宮図」昭和 5 年(1930)松僊 106cm×131cm ⑦ 大峰山自 大峰山自然 山自然歩道 コースⅠ 曽根の鼻→親子灯台→東郷神社→大峰山→渡北部集落 (1.5km) コースⅡ 大峰山山頂(114m)→自然探索歩道→薬師神社→展望所→楯崎神社 広葉樹の原生林は県内でも珍しく、ヤブツバキ・タブノキ・エノキ・ホルトノキなど の大木があります。ブクシ池のアマシ(余った水を流す所)が御手洗の滝。 ⑧ 大峰山キャンプ 大峰山キャンプ場 キャンプ場 豊かな自然環境を思いっきりエンジョイできる自然歩道・芝生広場・キャンプ場はバ ードウオッチングや森林浴に最適で、家族や青少年の野外活動などに、夏季(7/18 ~ 8/31)のみ、(財)福津市公園管理センターが下記の物を有料で貸し出しをます。 6 人用テント(34 張) ・炊事・食器類・シャワー・毛布・キャンプファイヤー一式等。 2 ⑨ 日本海海戦紀念碑 明治 38 年(1905)5 月 27 日、東郷平八郎司令長官率いる連合艦隊 41 隻がロシアバ ルチック艦隊 30 隻と對馬海峡で決戦して大勝し、装甲海防艦「アプラキシン」等 5 隻 を捕獲した。 アプラキシンは戦後日本艦籍に編入され「沖ノ島艦」と改名、第一次世界大戦(大正 3 年→大正 8 年ブェルサイユ条約調印)では青島戦に参加した。 大正 11 年(1921)津屋崎町町会議員だった安部正弘は私財を投げ打って日本海海戦 記念事業を始めた。寄附募集を全国的に呼び掛けたが、不運にも関東大震災で苦境に立 たされた。ところが海軍軍縮のワシントン条約で、大正 14 年「沖ノ島艦」が津屋崎町の 要望で海軍から払い下げられ津屋崎港口につながれて、海洋思想普及の展示艦として参 観料5銭で一般公開された。 昭和 9 年東郷平八郎が亡くなった翌月「日本海海戦紀念碑」が建てられた。碑は戦艦 の半舷司令塔型で、字は自筆、三笠艦の副砲が玄海灘を向いて備え付けられた。 昭和 12 年には他の場所にあった東郷記念館が貝島炭鉱社長(太市)の寄附で完成。 昭和 14 年、戦争による鉄材不足の為「沖ノ島艦」が解体され、八幡製鉄に運ばれそ の代金の一部で、海軍の水上偵察機「沖ノ島号」が作られた。又山頂の海戦図も「沖 の島艦」の一部である。戦後占領軍の指示で諸事業は一掃された。 ⑩ 東郷神社 祭神 東郷平八郎。例祭日 5 月 27 日の海軍記念日・12 月 22 日の誕生日。 社殿は神明造り。拝殿は古墳に由来し埴輪型。東郷元帥の偉業に感銘した安部正弘が 大正 11 年から昭和 46 年まで 50 年かかって現在のようにした。 御神徳は、勝運・長寿・夫婦和合・国土鎮護。 かち お土産には、勝守り・東郷平八郎ビールのほか、和英のおみくじが珍しい。 ひころく みずかみ ⑪ 彦六神社 (水上) 祭神 彦六稲荷大明神 石祠があり、五穀豊穣・大漁・商売繁盛の神様。 すうけい 地元民、津屋崎漁協、福間漁協の崇敬篤い。例祭日は 2 月初午の日でお膳座りがある。 ⑫ 彦六古墳( 彦六古墳(水上) 水上) 古墳時代後期の円墳。彦六稲荷の周辺を美化する計画がもたれ、頭頂部が削られた径 10m の小円墳を津屋崎郷土史会が発掘し、羨道部(横穴式石室の玄室と外部とをつな ぐ通路)から須恵器の提瓶 2 個と平瓶 1 個、蓋受けのある坏若干が出土したのを、た またまこの事を知った教育大生が大学に報告したので作業が中断され、土地管理者の正 式手続を待って、津屋崎町教育委員会ならびに津屋崎郷土史会の参加を得て、福岡教育 大学考古学グループの手で、昭和 45 年 3 月 8 日から 10 日間発掘調査を行った。 出土品は土器のほかに、7 個の金環と 6 個の鉄器(小刀子と鉄塊)。 盗掘が江戸時代以降に行われたのか、寛永通宝 1 枚が石室中央部で採取された。 3 からふね ⑬ 唐船遺跡 個人住宅建設に伴い、平成 16 年 5 月から 11 月に津屋崎町教育委員会が国庫補助を受 けて発掘調査し埋め戻された。 大峰山の東に伸びる尾根の南側緩斜面に、10m弱の円墳が 3 基あり、横穴式石室を主 体部に持つ。副葬品は土器のみで、7 世紀に造られたと思われるが、削平・盗掘の跡が ある。土器は須恵器の甕・壷・土師器の坏・長頸壷。 ⑭ 津屋崎鼻灯台( 津屋崎鼻灯台(親子灯台) 親子灯台) 津屋崎漁港沖の航行安全のため、海上保安庁に要望して、外海を照らす大きい灯器と 近くを照らす小さいも灯器を備えた国内では珍しい親子灯台が、昭和 39 年 1 月に設 置された。 ⑮ 唐船岩 楯崎山三所大権現略記(享保 15 年)に「崇神天皇のときに至りて 飛龍権現天竺より からふね 渡らせ給ふ。折節この所に上り給ひ 乗り来たらせ給ひける御船を 唐船と申す」とある。 又、大楯崎神社縁起(文化 14 年 1815))に「神功皇后が御手を洗われた御手洗の滝の側 いわゆる に一大巌あり。形状軍艦の如し 所謂加羅船なり」とある。 又、唐船の地は、昔僧最澄が渡唐した時に静養した「薬師温泉」の跡という言い伝えが あった。 昭和 43 年頃、海岸に海藻が生えないのは温泉が出るのではと試掘、昭和 47 年県衛生 研究所から、泉温 26 度(温泉法では 25 度から)の単純温泉とされたが、ここの地形等 から開発に応じようという業者は現れなかった。 みたらい ⑯ 御手洗の滝 大楯崎神社縁起に「神功皇后が 御手を洗いし処を 御手洗の瀑布という」。 高さ 15m。ブクシ池のアマシがこの滝。 いつもは水がとぼしいが、雨の後には白水を引いたように、滝が海中に流れ落ちる。 ⑰ くぐり岩 くぐり岩 洞窟の奥に、お大師様・大日如来・地蔵菩薩かお不動様が祀られているという。 大潮干潮でも膝ぐらい水があり、岩の先は危険なので行かない方が良い。 旧城山観光「恋の浦」が出来る前は(昭和 44 年)、くぐり岩・重箱石・楢の葉海岸・ 千畳敷・鼓島などが、津屋崎町恋の浦海岸一帯の観光地として紹介されていた。 4 い す ば ⑱生け簀場 明治 41 年(1908)から明治 43 年迄。鉄道開通でさびれゆく津屋崎の晩回策として、 資本金 3 万円、渡の醤油醸造家占部太平を社長に、麻生太吉、伊藤伝右衛門、貝島栄三 郎、野見山栄吉ら筑豊の炭鉱主らが大株主となり開業。240mの堤防を築き、50 種の魚 あずまや を客に観賞させ、四阿(四方の柱だけで壁がなく屋根を四方に葺き下ろした小屋)で生 け簀料理を出した。しかし、近くでコレラが発生して 1 ヶ月休業、再開したものの厳冬 や台風で堤防が壊れたり、他にも諸事情が重なり解散。 えびす ⑲蛭子神社( 神社(蛭子ノ 蛭子ノ元) 祭神 事代主神。 海上安全、漁方の神様。祭日 12 月 3 日。 石祠に、 「安永 2 年(1773)再建・天保 7 年(1836)再建・津屋崎浦漁方中・石工 長 右衛門」と記さる。側の生け簀場が盛んだった時は、神社社殿・日の出門などがあり、 盛大に祭られていた。現在は、楯崎神社に合祀。 ⑳ サナトリウム 明治 40 年ごろ、日本の結核死亡率は人口 1 万人に対し 20~23 人と疾病死亡率で一 位という時代が続き、政府も大正 3 年(1914) 「肺結核療養所ノ設置及国庫補助ニ関ス ル法律」を制定した。 サナトリウム建設の発端は、当時九大の武谷広内科教授がドイツ留学中に肋膜炎に罹 りその療養体験から、知人を通じて賛同した三野原愛四郎が大正 2 年、渡を適地として 「津屋崎療養院(北九州津屋崎病院)」を開院し、続いて4病院が開設した。しかし入院 料は一日 7 円と高かった。当時渡は炭鉱主の別荘があり、その一族で入院する人もいた。 渡の人達にとっては迷惑な事で、住民反対運動の動きもあった一方、病院建設のヒヨ ウトリ(日雇い)で収入になった。 昭和 40 年代には結核死亡率も激減し、閉鎖になったり一般の病院に衣替えし、現在 に至っている。 き ぶ ね さま 21貴船 21貴船様(字・山の上) 牛の神様。昔は黒色の牛石像を木祠に安置していたが盗難にあう。 昭和 60年、コンクリートの神社に変わり、現在ご神体は丸い石。 祭りは、駄祭り(牛馬の祭り) ・植え上がり・9 月。字北・中・南の農家の小組合が 5、 6 軒組んで、当番制でお座をし、鶏ご飯、小豆ご飯、トコロテンなどを作る。イレコに白 団子を入れてお参りした。 5 わたりつ 22渡津 22渡津神社( 神社(字・南) 祭神 大己貴命 海津見神 少彦名神 境内社(祇園社・塞ノ神) もとは、楯崎山奥の院の薬師様(楯崎寺)の遥拝所だったが、参拝の便宜を図って、元 禄4年(1691) 分霊を勧請したと伝えられ、明治初期の社格制定で新宮としている。 平成 14・5 年頃、三神は御園(オゾノ)の楯崎神社に合祀された。 ・棟札(享保9年 1726・ 明治 23 年 1890・ 明治 45 年 1912) ・神鏡台(寛政 7 年 1795) ・神殿戸張(安政 4 年 1857)・狛犬付灯籠(昭和 18 年北支那鉄工所に溶鉱炉の耐火レ はな だ に ンガをきるノミの焼き入れで徴用された渡石工・芲田仁三郎親子の作)。 しょうせん 92cm×122cm ・絵馬 「旭日に山羊図」大正 7 年(1918) 松 僊 ・庚申塔 「猿田彦命」 高さ 100cm 巾 60cm 23 道路改良記念碑 ムラの道は入り込むとなかなか出口がわからない道だったので、昭和 8 年(1933 ,町長占 部文蔵)に改良工事をした記念碑。 24 祖神社( 祖神社(中) 村人が海難に遭ったため、大正 2 年(1913)3 月個人が現在の公民館の場所に祀った が、昭和 23 年現地に移転。現在、村中の祖先を祀る神社。お薬師様(4 月 15 日)の日 に祭る。 25 清風園記念碑 渡の公民館・忠霊塔の敷地を占部家が寄付した時の記念碑。 あんよう 26安養庵 昔は教安寺(浄土宗)の末寺で、大峰山安養寺。安寺(アンデラ)とも云った。 本尊は、観世音菩薩。千手観音菩薩、十一面観音菩薩、阿弥陀如来菩薩、不動明王石 像、弘法大師像がある。 はな だ 境内仏は、十三仏像。渡の仏像彫刻専門の石工 芲田仁三郎吉安(明治 31年生ま れ 65 才没)の作。仁三郎の仕事場は「茜山荘」といい、安寺の後ろにあった。 ・庚申塔 「庚申塔」 宝暦五天(1755)三月二十日 高さ 110cm・巾 30cm ・ 「庚申塔」 宝永二天(1733) 高さ 110cm・巾 45cm 〃 27 占部家の 占部家の墓所 先祖は、宗像大宮司六家臣のひとつ。 こうじょう 宝暦3年(1753)占部太郎次秀勝は、上 八 村より渡入庄屋格を勤め、現在の渡公民 館一帯に移居して農業を営んでいた。 文政8年(1825)渡庄屋柴田家の酒造業廃止の後を受けて、秀勝の孫・占部太平興 6 い ず み や 光が継ぎ、屋号を「和泉屋」と称した。 興光の子・興繁は酒米増産に尽くし、福岡藩公からの恩遇をうけた。興繁の次男・ 伍平重治が酒造業を引き継ぎ、渡の内海までレールを引いて出荷していたという。 興繁は酒造業の傍ら薬種ハゼの実を原料として、文久 3 年(1863)絞油、絞蝋業 を始めた。明治5年(1872)これを長男・太平重光に譲り、明治 16 年に廃業。絞油業 は、津屋崎東町の花田太八によって引き継がれた。 重光は明治 17年、津屋崎・上本町(伊能忠敬宿泊地)で醤油醸造業をはじめ、その 長男・伍一と励んだが、明治 36 年伍一が亡くなり、杜氏が引き継いだ。 祖神社・渡公民館・忠霊塔・清風園記念碑等の敷地や神田は、占部家が寄附した。 28 津屋崎橋( 津屋崎橋(渡橋ともいう 渡橋ともいう) ともいう) 橋が建設される前は、区有の船底が浅いダンベイ船が人や荷物・牛などを渡していた。 しかし、渡が療養地として発展するに伴い交通量も年毎に増加、又、住民の不便を解 消するため、大正 11 年(1922)津屋崎と渡が費用を半分づつ出して橋を完成、渡・津屋 崎区民以外は有料だった。昭和 4 年(1929)渡の九州帝国大学臨海実験所(旧津屋崎ホ ーム病院)が町役場(それまでは波折神社裏)になって道路が県道になり、無料となった。 橋は帆船が出入り出来るように一部開閉式になっていたが、帆船が通わなくなって開閉部 分をなくし拡幅された。昭和 53 年(1978)現在の橋となる。 橋のたもとの両側はハチガメ(カブトガニ)の産卵場所。生息は全国で 7 箇所だけで 夏の大潮の満潮時に産卵。絶滅危惧種。 橋の北側をイリウミ(津屋崎干潟)といい、中央部の小高い処をマテズマという。 江戸時代の初め頃までは勝浦の西東や梅津に船繋ぎ石がある事から解かるように、勝浦 迄入江だった。 寛文 6 年(1666)勝浦、寛保元年(1741)津屋崎塩田が開基、明治 36 年(1903)には、 両塩田あわせて福岡縣の製塩高の 36%(48,310 石)に達し盛んだったが、明治 38 年「塩 専売法」が公布され明治 44 年には止んだ。今も岡ノ三に旧熊本塩務局塩倉庫(文書庫)が ひっそりと建っている。 イリウミには、勝浦平野の水が注ぎ、昔はヨシ(葦)が沢山生え、その茎は業者が浅草海苔 すのこ を干す 簀 用として買い付けに来て、住民の小使い稼ぎになったという。 干潟には野鳥がエサをついばみ、最近は絶滅危惧種のクロツラヘラサギも毎年飛来する。 干潟の海底にはアマモが生え小さな生物の命をささえている。タイ、メバル、チヌ、ヒ ラメ、ハゼ、エビ等の稚魚や、ウナギ、貝類、タツノオトシゴ等もいる。 ウマンツメ(オキシジミ貝)は、ミを茹でると赤くなるので、ひな祭りや渡のお薬師の ハレの膳で、ミを入れた具入りのお寿司に使われた。 (大賀康子 7 記) 8