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中世人の 「古代」 観に関する覚書 上杉和彦

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中世人の 「古代」 観に関する覚書 上杉和彦
中世人の﹁古代﹂観に関する覚書
上杉和彦
て中世という時代を理解しているというのが現状であろう︵2︶。
しかし、古代と中世の連続と断続を考える、あるいは古代と中世
を比較する視角として、可能な限り﹁現代﹂からの価値判断を相対
化した別の方法のものはありえないのだろうか。本稿は、そのよう
た﹁古代﹂という時代をどのように見ていたかについて、政治思想
はじめに
我々が中世という時代の本質をとらえようとする際、好むと好ま
および地域社会における人々の歴史意識という二つのテーマについ
な問題意識から、我々が﹁中世﹂と呼ぶ時代の人々が、我々から見
ざるにかかわらず、我々が生きる現在︵11現代︶と遠い昔の時代︵11
て、素描を試みたものである。
一 政治思想の問題からー﹃愚管抄﹄を中心にー
古代︶を意識した後に、その二つに挟まれた時代としてはじめて中
世を認識可能な対象としされる。
その点をふまえて、中世という時代に対する認識を、あえて二つ
j問題の設定
本章では、﹁中世﹂人の政策決定・政治的価値観に影響を与える
の価値観を基準とした本質把握である点では共通している。
ということになるが︵1︶、この対極的な二つの認識は、実は現代人
した仮名書き・編年体の史論書である。第一次成立は承久二年︵一
周知のごとく、﹃愚管抄﹄は、天台座主慈円︵九条兼実の弟︶が著
たい。
一182−
(8)
のタイプに集約するならば、第一に、古代の価値観が崩壊し、近代
の﹁優れた﹂価値が成立するまでの﹁劣った﹂時代︵いわゆる﹁暗
黒の中世﹂観︶、第二に、古代よりも発展し、近代への発展の前提と
日本史学の現状・においては、﹁古代﹂という時代と﹁中世﹂とい
二二〇︶十月、第二次成立は貞応三年︵=︸二四︶と考えられてお
﹁古代﹂の政治のあり方について、﹃愚管抄﹄を素材に検討を加え
う時代の本質的相違に関する議論は必ずしも活発ではない。さしあ
り、全七巻からなり、天皇の代による時代区分を叙述の基礎として
慈円は、﹃愚管抄﹄著述の動機を、﹁道理﹂の変化を自覚し、道理
たり、政治権力の分散・軍事専門家層の優越・全国規模の人的ネッ
心とする宗教の役割の社会における卓越といった事象を、中世とい
の観念にもとつく歴史の展開の理解を試みることと述べているが、
いる。
う時代の特徴として認識し、研究の対象となる所与の時期区分とし
トワークの形成・重層的な土地の権利関係の普遍的存在・仏教を中
なる時代、となろう。後者は、発展段階論的アプローチによる認識
(一
同時に慈円は、.﹁御ウシロミヲ用テ大臣ト云臣下ヲナシテ、仰合ツ
円は認識していたことになる。.
のいうところの﹁古代﹂という時代をどのように見ていたかを示唆
ツ世ヲバヲコナヘトサダメツル也︵巻七︶﹂などと述べている、天皇
﹃愚管抄﹄には、我々がいうところの﹁中世﹂に生きる者が、我々
する、興味深い叙述内容が見られる。
のみによる正しい統治の実現がかなわなかったりn﹁悪王﹂が出現し
れた﹂時代区分の考え方が示されている︵3︶。層慈円のいう﹁道理﹂
解され︵人々がどれほど﹁道理﹂に従っているかを基準としてなさ
周知の通り﹃愚管抄﹄には、人々によって﹁道理﹂がどれほど理
いうまでもなく慈円の生毒た時代には、’院政が政治の基本形態と
れたとされる武内宿禰としている。
て現れた最初の人物は、景行天皇の時代に初めて﹁大臣﹂・に任じら
をも指摘しているのである。そして慈円は、そのような補佐者とし
たりした時のために、正しい政治的補佐者が出現することの必然性
の本質をめぐっては、多くの議論がなされてきたが、﹃愚管抄﹄の
なっており、天皇を補佐する摂関は常置され、東国では朝廷からの
︵二︶﹃愚管抄﹄における﹁道理﹂.
叙述の中で、具体的にどのような変化が﹁道理﹂をめぐ9る変化とし
一定の政治的自立をかちとった武家の政権すなわち鎌倉幕府があ
った。皇位継承をめぐっての戦乱さえ引き起こした政治の現実のあ
ここには、慈円によって﹁道理が道理として通る世﹂として理解
一向国王世ヲ一人シテ輔佐ナクテ事カケザルベシ︵巻三︶
・.ハ十三代マデ、㌔継体正道ノママニテハ
バ摂簿家ト武±家下ヲヒトツニナシテ、文武兼行シテ世ヲマモリ、
して積極的に肯定゜する認識を持ち合わせていた。すなわち、﹁サレ
実の政治のあり方は、新たな時代に対応した﹁道理﹂のあらわれと
だが慈円は、°そのような﹁末世﹂の現実を悲観視する一方で、現
(9)
て認識されているのかを確実に読み取れる叙述の一例を次に示す
︵4︶。
された神武天皇から成務天皇の代の理想性︵5︶が、父子間の皇位
君ヲウシロミマイラスベキニナリヌル.カトミユルナリ﹂︵巻七︶と
り方を、’慈円の想定する﹁古き理想の時代﹂の政治のあり方に比較
継承が維持され、政治的輔佐者の存在なしに天皇の治世が全うされ
あるように、慈円は、天皇の政治的輔佐者と七て、政治面では摂関
神武ヨリ成務マデハ十三代、御子ノ王子ツガセ給ヘリ。第十四
た事に求められていたことが示されている。従って、天皇の父子間
家︵11﹁摂籏家﹂、軍事面でほ鎌倉幕府︵11﹁武士家﹂︶の存在を不
した時、その懸隔はあまりに大きかった。
継承が断絶し︵6︶、天皇の政治を補佐する人物が出現した時、﹁道
可欠とする﹁道理﹂が支配する時代こそが、自分の生きている時代
ノ仲哀ハ景行ノ御ムマゴニテゾツガセ給ケル。︵中略︶最道理
理﹂のあり方に変化が生じ、,日本の歴史は新たな時代に入ったと慈
一181−
彼自身・が摂関家出身の人物であったこと、および中世的な家秩序が
このような楽観的現状肯定へと転回する慈円の認識の背景には、
であると考えていたのである︵7︶。
規範とする歴史観念や政治理念は、個々の置かれた立場の違いを越
日本中世の支配者層あるいは知識人層の有する﹁古代﹂の出来事を
の単独統治の時代が長期に存続なしたとするなどの虚構性を含む、
抄﹄に基本的な違いはない。﹁万世一系﹂・古代に存在した﹁正王﹂
ワタクシニヌスメリトハサダメガタシ。
後室ソノ跡ヲバカラヒ、 義時久ク彼ガ権ヲトリテ、人望ニソムカ
ハ ゑけチリ
レミナ法皇ノ勅裁也。
ハに レ
鳥羽上皇を批判した箇所で、﹁頼朝高官ニノボリ、守護ノ職ヲ給、コ
また意外にも﹃神皇正統記﹄には、鎌倉幕府に戦いを仕掛けた後
えて、かなりの程度の共通性を持っていたといえるのである。
確立した鎌倉時代前期の現実があったことは、いうまでもない。
9︵三︶中世の知識人の﹁古代﹂観.
﹃愚管抄﹄とならぶ代表的な中世の歴史書に﹃神皇正統記﹄が
ある。﹃神皇正統記﹄は、=二一二九年︵北朝暦応二年・南朝延元四年︶
に、後醍醐天皇の厚い信任を受け︵建武政権の中心的人物であった
北畠親房が、常陸国小田城で執筆したものであり、.周知のように、
ザリシカバ、下ニハイマダキズ有トハイフベカラズ﹂︵順徳天皇条︶
﹃神皇正統記﹄と﹃愚管抄﹄は、前者は天皇親政の正当性を主張
である︵8︶。
めに用意した﹃日本書紀﹄講義録を、兼文の子兼方がまとめたもの
頃︵一二七〇年代︶に、平野社の祠官卜部兼文が関白一条実経のた
紀﹄が深い関わりを有していた。﹃釈月本紀﹄とは、文永・建治年間
には、神道の立場からの歴史書であり鎌倉末期に成立した﹃釈日本
像は、近代史学が実証した﹁古代﹂像とは大きくかけはなれている。
もちろん、中世人の想定する﹁古き理想の時代﹂としての﹁古代﹂
房の認識には共通性が見られるのである。
天皇の政治を補佐する者の出現を必然視している点でも、慈円と親
日本国ノ人民イカガナリナマシ﹂︵後嵯峨天皇条︶とまで述べている。
リガハシサニ、頼朝ト云ヒトモナク、泰時ト云者ナカラマシカバ、
る記述を行っているし、さらには﹁保元・平治ヨリコノカタノミダ
(10)
﹁百王思想﹂﹁神国思想﹂を基本理念として、日本の歴史を叙述した
ものである。
し、後者は摂関政治や幕府の存在を容認し肯定する主張を持つもの
慈円が理想とした時代の天皇の多くは架空の存在であり、日本列島
︵9︶のように、幕府や執権のような政治的補佐者の存在を肯定す
として、対極的な歴史書と理解される。確かにその理解に大きな誤
において王権が成立する時期の政治のあり方にしても、複数の王権
親房は伊勢神道の影響を受けた人物であり、﹃神皇正統記﹄の叙述
りはないが、古代の皇統の理解に関しては、﹃神皇正統記﹄と﹃愚管
一180−
の並立や有力豪族の連合政権の存在が想定されるように、決して天
歴史認識の研究は現代的意味を持ちうるものなのである。
ない︵13︶。その意味で、古代史の実証的研究とともに、中世人の
前章では、中世の貴族層・知識人の.﹁古代﹂観について述べたが、
黶j.播磨国鵤荘の概要 ・ ン
二 地域社会における‘﹁古代﹂の伝承﹂播磨国鵤荘の事例から
皇あるいは大王の単独統治などではなかった。
また、摂関家の統治を天皇の親政に続く日本の政治の始原的存在
と位置づけ、その立場を擁護する上で重要な位置づけを慈円により
与えられた武内宿禰についても、﹁その伝承の史実性は極めて薄いの
で、理想的な大臣として描かれた説話上の人物だと考えられている。
あるいは、各天皇に仕えた何人かの忠臣に対するイメージが統合さ
反撃を理由としてなざれたという、記紀には見られない話が見られ
いわゆる﹁三韓征伐﹂が、朝鮮半島の勢力から受けた攻撃に対する
また﹂鎌倉時代末期に成立した﹃八幡愚童訓﹄には、,神功皇后の
0︶という評価がなされている︵11︶。
ぼ全期間を通じて、法隆寺の直接支配が貫徹していた︵14︶。鵤荘
林田川の下流域の氾濫源を開墾←た田地から成っており、中世の億
保郡︵現兵庫県揖保郡太子町︶にあった法隆寺領荘園で、揖保川・
とりあげるフイールドは、播磨国鵤荘である。鵤荘は、播磨国揖
への認識について考えて見ることとしたい。
本章では、視点を大きく変えて、中世の在地社会に存在した﹁古代﹂
る。これが、文永・弘安年間におけるモンゴル・高麗軍という﹁中
の起源に関しては、﹃法隆寺伽藍縁起流記資財帳﹄に、推古天皇六年
みの後世への影響の大きさは、決して無視しうるものではないだろ
たことが知られよう︵12︶。だが、そのような中世人の思想的営
意味で中世人の創出した﹁古代﹂像とも呼び得るものが含まれてい
これらのような事例から、中世人のいだく﹁古代﹂.像には、ある
田地・畑地・封戸の個別的集積からなる古代の寺院領が、土地・
大徳条よりうかがえる。’ 乞
世紀中ごろの時代に四至が確定したことが、﹃法隆寺別当次第﹄親誉
段・山林・池・封戸などを勅施入したという記事が見え、また十一
の用途として、推古天皇が揖保郡の水田二十九町余・薗地十二町二
(11)
れ、それがひとりの人物として説話の中で具現化されたものか﹂︵1
世の現実﹂に規定されて生み出された﹁古代の伝承﹂であることは、
う。やや話は飛躍するが、それは近世人の歴史認識を経由して、現
百姓に対する領域的な一元支配を確立させることで中世荘園へ転化
︵五九八︶四月に聖徳太子が行った岡本宮における法華勝婁経講説
代人の﹁古代﹂認識にも影響をもたらし、皇国史観とは別の形で、
する過程を、鵤荘の歴史より読み取れることができよう。匿
いうまでもないだろう。
漠然とした天皇万世﹁.系観を植え付け続けているように思えてなら
一179−
・(
法隆寺が鵤荘を領有するという中世になって新たに生じた事象は、
膀示として石が用いられる例は他の地域に存在するものの、鵤荘
た。
記された黒点の表記との関係をめぐって古くから注目を集めてき
跡として存在し、中世に作成された鵤荘絵図の中で﹁御膀示﹂と注
称される、兵庫県指定文化財とされているものを含む九点の石が史
社とともに、かつて荘園の境界の目印とされたという﹁膀示石﹂と
・鵤荘地域には一斑鳩寺や稗田神社など法隆寺と深い関係を持つ寺
で、中世の法隆寺の鵤荘支配は実現維持され、荘民たちもまた、膀
えられる必要があった。聖徳太子という古代人の権威を借りること
が見られる場合もあり︵16︶、膀示には相応の権威と不可侵性が与
がからむ場合などに、荘園の膀示を打つことには在地の住人の抵抗
という現実の秩序を支えていたことである。・土地の領有権争いなど
どまることなく、法隆寺による鵤荘支配を権威づけ、法隆寺の領有
ここで注意すべき点は、聖徳太子に関わる伝承が単なる伝承にと
いたのである。
在地の伝承世界では、古代に生じた状況の持続としてとらえられて
の﹁膀示石﹂が本当に中世にまで遡るものであるかどうかは確かめ
示石に象徴された聖徳太子への事績への畏敬信仰を通じて、法隆寺
関わりが現実の出来事であった可能性はある。しかし、いうまでも
水田の司として派遣した記事が見えており、鵤荘地域と聖徳太子の
二月に、太子が連公を播磨国揖保郡内にある二百七十三町五段余の
当然ともいえ、実際﹃日本霊異記﹄には、推古十七年︵六〇九︶
大見山。大見と名つくる所以は、品太天皇、此の山の嶺に登り
の地名の由来に関する記述である︵18︶。
れる。次に示すのは、﹃播磨国風土記﹄揖保郡の項に見える﹁大見山﹂
子の投げ石﹂伝承を考える上で、興味深いものがあったことが知ら
・ところで、古代の播磨国揖保郡地域の伝承には、中世の﹁聖徳太
(12)
︵二︶鵤荘の﹁膀示石﹂伝承について
られていない。だが、ここで注目したいのは、﹁膀示石﹂をめぐって、
の支配を受け入れたのである。中世の鵤荘地域には、このような形
で﹁古代﹂が生き続けていたのである︵17︶。
これを聖徳太子︵15︶が檀特山︵行道岡︶の上より投げた石であ
るとする﹁聖徳太子の投げ石﹂伝承が在地に残されていることであ
る︵文末の図を参照︶。
なく投げ石の話は非現実的なものであり、ある領域を明確な境界を
て四方を望み覧たまひ.き。故、大見と日ふ。
︵三︶伝承の変質
設定して排他的に占有する事は、領域型荘園が普遍的に存在する中
﹁大見山﹂は、現在の檀特山に比定されており、すなわち中世の
法隆寺領である荘園に聖徳太子に関する伝承が残されているのは
世に固有なものであり、古代の出来事ではない。にもかかわらず、
一178−
の出来事の持続が意識されていたのである。 冒 ・
て、その一方で、中世の鵤荘に生きる人々の観念においては、古代
ては、古代から中世にかけて伝承も変化をしていたのである。そし
すなわち、在地支配のあり方の変化に対応して、鵤荘地域におい
である︵20︶。 。
る境界設定によって領域を支配しようとする中世の志向とは対照的
ていた゜ことがうかがえる。この点は、石のような具体的なモフによ
においては、領域を支配する行為が﹁見る﹂という行為に象徴され
国見乏王権の支配の関連性については夙に指摘がありλ19︶、古代
界では品本天皇︵応神天皇︶が国見を行っ﹁たとされていたのである。﹁
伝承、世界では聖徳太子が石を投げたという場所から、古代の伝承世
者ととらえ、太子の予言する現実を生きているという意識を持って
人々がこれに関心を抱いたように、中世の人々が、聖徳太子を予言
この記文が何者の手によるものかは不明だが、藤原定家など多くの
六年前に起きた承久の乱を予言するものであったことになる︵21︶。
われ、また﹁東夷﹂は鎌倉幕府を指すと見られるから、この記文は、
文を実見している。﹁人王八十六代﹂とは後堀河天皇に相当すると思
り出土した馬璃石に刻まれた﹁人王八十六代時、東夷来﹂という記
藤原定家は、安貞元年︵一二二七︶に、河内国にある太子の墓よ
た。
た人﹂にはとどまらない特別な権威を、聖徳太子に対して抱いてい
聖徳太子の問題に関していえば、中世の人々は、﹁日本仏教を広め
鵤荘では、中世人のいだく﹁古代﹂の出来事への観念が、中世の
︵四︶関連する問題
をいだき、大江広元に命じてそれらを入手させ、実見したという。
屋逆臣跡収公田員数在所﹂などの天王寺・法隆寺の宝物に強い関心
また鎌倉幕府第三代将軍源実朝は、﹁聖徳太子十七箇条憲法﹂﹁守
いた事がうかがえるのである︵22︶。
現実的社会秩序を支えていたことを見た。このような状況の普遍性
実に・この主張が認められて境界相論に勝訴している。開成をめぐる
埋めたという伝承を持つ﹁八天石像﹂を、寺域の膀示と主張し、現
光仁天皇の子であったとされる初代座主開成が結界を定めるために
荘園の領域支配という点に関していえぱ、・中世の摂津国勝尾寺は、
これらは、ほんの一部の事例にすぎないが、聖徳太子に関わる伝
れない︵23︶。
して、実朝は聖徳太子に対し、統治者の理想像を見ていたのかもし
敵から没官︵睦収公︶した所領を経済基盤の中核の持う幕府の主と
いに興味をそそられるが、朝敵を追討することを存在理由とし、朝
﹁守屋逆臣跡収公田員数在所﹂なるものの中身がいかなるものか大
伝承が事実であるか否かという問題とは無関係に、﹁古代﹂の伝承が
承には、古代から続くものだけでなく、中世において創出されたも
を考えるために、同様な事柄を他の若干の事例から指摘してみたいb
中世の現実を規定していたのである。
(13)
177−
のがあったといえるだろう。
三 まとめにかえて
以上のように本稿では、第一に、中世の知識人による﹁古代﹂の
︵5︶注︵3︶前掲大隅著による。
︵6︶﹃皇統譜﹄によれば、第十四代天皇仲哀は、第十二代天皇景行
の子である日本武尊を父に持ち、第十三代天皇成務にとって
は甥にあたる。これが、慈円の認識の前提とした皇位継承の
状況に相当する。
治の後見は、伊勢大神と鹿島大明神、さらには八幡大菩薩と
︵7︶慈円は﹃愚管抄﹄の中で、摂関家と鎌倉幕府による天皇の政
出来事﹂を基にした秩序意識を考察の対象としてとりあげ、不十分
春日大明神の結びつきによって必然的なものとされていた
政治のあり方の理解を、第二に、中世の在地社会における﹁古代の
ながら、中世人が、単なる追慕ではなく、中世の現実を生きる規範
と説いている︵巻七︶。
︵8︶﹃坂本太郎著作集第五巻 修史と史学﹄︵吉川弘文館、一九八
として﹁古代﹂の出来事を解釈していたことを垣間見た。そして中
世人の抱く﹁古代﹂観は、現代の我々が復元した﹁古代﹂の実態と
九年︶
︵9︶﹃神皇正統記﹄の引用は、岩波書店﹃日本古典文学大系本﹄に
の観念を基準に七つの段階に時代区分されているとする
群が存在し、研究者の注目を集めている。
出した、いわゆる﹁中世日本紀﹂と称される一連のテキスト
一176−
(14)
は必ずしも重ならないものでありながら、観念的な﹁古代﹂観が中
世の現実に働きかけ、それを規定していたのである。
よる。
︵10︶﹃朝日日本歴史人物事典﹄﹁武内宿禰﹂の項︵佐佐木隆氏執
筆︶より。
︵11︶ちなみに、﹃古今著聞集﹄第二十四段には、北条義時が武内
宿禰の後身であるという所伝が見えており、執権すなわち鎌
日本の近代歴史学における中世に対する認識の主流がこの考
︵明治大学文学研究科史学専攻日本史学専修︶
←
え方であり、そのような時代区分観が、マルクス主義歴史学
倉幕府将軍の後見者たる北条義時の立場になぞらえる認識の
﹃愚管抄﹄の引用は、岩波書店﹃日本古典文学大系﹄による。
︵12︶﹃日本書紀﹄神代紀に対する中世人による独特の解釈が産み
存在がうかがえる。
の発展段階論を導入する前提の一つとなっている。
︵4︶
︵3︶大隅和雄﹃愚管抄を読む﹄︵平凡社、一九八六年︶は、﹁道理﹂
︵2︶石井進﹃中世のかたち﹄︵中央公論新社、二〇〇二年︶など。
_注
える地名伝承には、瓶が落下した場所であるために﹁瓶落﹂
の影響を見ることも不可能ではない。﹃播磨国風土記﹄に見
系の是非をめぐる自由な意見開示がなされているようであ
という地名が生まれた︵印南郡の項︶というような、モノ
︵13︶最近の女帝をめぐる喧しい論議では、一見すると女帝・女
るが、漠然とした天皇万世一系観が議論そのものを拘束し
の落下に関わるものが多い︵永藤靖氏の御教示による︶。﹁投
が聖徳太子とされている点は、まさに中世の現実に規定さ
つであったことは十分に考えられる。しかし、伝承の主役
げ石﹂の話もまた、そのような伝承のバリエーションの一
ている感をぬぐえない。
︵14︶鵤荘の歴史については、水藤真﹃片隅の中世 播磨国鵤荘
の日々﹄︵吉川弘文館、二〇〇〇年︶を参照。
︵15︶最近の歴史書では、大山誠一﹃﹁聖徳太子﹂の誕生﹄︵吉川
れたものなのである。
︵21︶﹃明月記﹄安貞元︵=一二七︶年四月十二日条。
弘文館、一九九九年︶などで展開された聖徳太子の実在を
疑う議論の影響を受けて、﹁厩戸王﹂と表記される場合がし
︵22︶この事例については、佐藤弘夫﹃偽書の精神史﹄︵講談社、
二〇〇二年︶六頁以下の記述を参照されたい。
︵23︶
大江広元が、文武両面での優れた統治者たらんとする実朝
(15)
ばしば見られるが、人物の実在・非実在にかかわらず、中
世の伝承世界においては﹁聖徳太子﹂は確固たる存在であ
った。
元﹄︵吉川弘文館、二〇〇五年︶﹁第七 将軍実朝と北条氏
の意志に忠実に従っていたことに関しては、拙著﹃大江広
野山住僧等解︵﹃鎌倉遺文﹄一〇八号︶に見える紀伊国荒川
のはざまで﹂を参照。
︵16︶﹁高野山文書宝簡集二十七﹂文治二︵一一八六︶年五月日高
荘の事例など。
︵17︶鵤荘の地域に相当する現代の兵庫県太子町では、現在でも
聖徳太子に関わる祭礼が行われている。
︵18︶引用は、沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編著﹃播磨国風土記﹄
︵山川出版社、二〇〇五年︶による。
︵19︶土橋寛﹃古代歌謡と儀礼の研究﹄︵岩波書店、一九六五年︶
など。
︵20︶ただし、﹁聖徳太子の投げ石﹂伝承に、古代伝承のモチーフ
一175−
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