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ブック 1.indb - Kyushu University Library
グローバルな会計基準設定主体としての IASB グローバルな会計基準設定主体としての IASB ― IASC から IASB への組織改革 ― 大 石 桂 一 1.はじめに 近年、グローバル化の進展に伴って、一国の統治だけでは解決できない問題が増加してきた。そう したトランスナショナルな問題に対しては、主権国家の合意のもと、各国の規制機関および国際機関 がネットワークを形成して解決にあたることが多い。しかも、このようなグローバル・ガバナンスに 参加するアクターは、いまや政府機関・公的機関に限定されておらず、民間主体もその中で重要な役 割を果たしている。国際標準化機構(International Organization for Standardization: ISO)に代表される ように、国際的なルール作りを民間主体が担うことが多くなったことは周知の通りであろう。いうま でもなく国際会計基準審議会(International Accounting Standards Board: IASB)による会計基準設定も その代表例の1つである 1)。 こうした「国内規制からグローバルな民間規制へのシフト」(Büthe and Mattli[2011],邦訳6頁) は、国家あるいは地域が国際的な民間主体へルール形成を「アウトソース」する局面が増加している ことを意味する。例えば、現在の欧州連合(European Union: EU)は、IASB の設定する国際財務報告 基準(International Financial Reporting Standards: IFRS)を、エンドースメントを経て域内基準化して いる。つまり、EU という地域(国家連合)は、加盟国の国内市場で適用される会計基準の設定を、地 域レベルで、国際的な民間主体である IASB にアウトソースしているのである 2)。さらに、EU 以外に も IFRS を何らかの形でアドプションしている国や地域は数多い。いまや IASB は単一の国家、あるい は単一の規制機関からではなく、複数の国家・地域・規制機関から会計基準の形成をアウトソースさ れているのであり、いわば「マルチ・プリンシパル(multiple-principals)」のエージェントとなってい るのである(Mattli and Büthe[2005b] ) 。 では、こうした変化は、どのように生じ、またそれは何をもたらすのだろうか。本稿は、これらの 点を明らかにするための最初のステップとして、IASB の前身である国際会計基準委員会(International Accounting Standards Committee: IASC)が組織改革を行い、2001年に IASB へと再編成される過 * 本稿は、JSPS 科研費24530563の助成を受けた研究成果の一部である。 1)これを「グローバル・プライベート・ガバナンス」の典型例と見る多くの国際政治学者などが、近年、IASB に関心を 寄せるようになってきている。例えば、Martinez-Diaz[2005];Mattli and Büthe[2005a,b];Dewing and Russell[2008]; Posner[2010];Büthe and Mattli[2011]などを参照。 2)会計基準設定のアウトソースについては、大石[2011a, 2011b, 2012a]を参照。 -161- 経 済 学 研 究 第 80 巻 第5・6合併号 程を跡づけることを目的としている。 2.グローバル・スタンダードへの関心の高まり 1980年代、先進諸国は相次いで規制緩和や金融自由化を実施した。その結果、企業活動の国際化が 進み、国際的な資本移動も活発化したが、そうした中で会計基準が国ごとに相違していることが、企 業がクロス・ボーダーで資金調達する際の障害として顕在化してきた。この問題への対応策として、 1986年に発足した証券監督者国際機構(International Organization of Securities Commissions: IOSCO) は国際会計基準(International Accounting Standards: IAS)に着目した 3)。IOSCO は IASC に対して会 計基準の選択の幅を縮小することを求め、これを受けて IASC は1987年に「比較可能性・改善プロジェ クト」を開始した。 米国証券取引委員会(Securities and Exchange Commission: SEC)は当初、IOSCO の主要メンバーで ありながら、その活動を必ずしも積極的に推進してはいなかったが、1987年10月の「ブラック・マン デー」で米国発の株価暴落が世界の証券市場に波及して大きな衝撃を与えたことから、その後、国際 的な証券規制における責任を果たすべく、そのイニシアチブをとり始めた(杉本[2009],65頁)。例 えば、SEC の D. S. Ruder 委員長は、1988年11月に開催された IOSCO 総会で、国際規制の目標の1つ は最低限の開示基準を開発することであり、そのためには「相互に承認しうる国際的な会計基準」の 開発が鍵となると述べている(SEC[1988] ) 。この総会で IASC の取り組みに対する支持を表明した IOSCO は、IASC のコンサルタティブ・グループへの参加を通じて IASC の活動への関与を強めていく ことになる 4)。 この時期、多国籍企業は世界最大の資本市場を持つ米国で資金調達することを望んでいた。しかし SEC は、外国企業が米国で上場するにあたっては、完全に米国基準(US-GAAP)に準拠して作成され た財務諸表を提出することを原則とし、本国基準による場合には詳細な US-GAAP との調整表を添付 することを求めていた。それゆえ、企業が米国の証券市場で資金調達するには、事実上、US-GAAP に 従って財務報告を行わなければならなかったのである。SEC は、その厳格な規制が外国企業による米 国での上場の足かせとなっている可能性があることは認識しつつも、「底辺への競争(race to the bottom) 」は容認できないとして(Ruder[1988] ,pp.1-2)、米国企業と外国企業との間で “level playing field” を確保しなければならないという立場をとっていた。 これに対して、ニューヨーク証券取引所(New York Stock Exchange: NYSE)は、外国企業の上場を 増やすことを目論んでいた。国内外の他の証券取引所に対する優位性を保持したかったからである。 とりわけ、1986年のいわゆるビッグ・バンによって活気を取り戻したロンドン市場が、当時の NYSE 3)もともとは南北アメリカの証券監督機関の集まりであった米州証券監督者協会(Interamerican Association of Securities Commissions)が、1986年にメンバーシップをアメリカ大陸以外にも拡大して IOSCO となった。 4)IOSCO は当初この総会の声明において、将来的に IAS をエンドースする可能性に言及しようとしていたが、これには SEC の Ruder 委員長が反対したことから、当該部分は声明から削除された(Camfferman and Zeff[2007],pp.303-304)。 -162- グローバルな会計基準設定主体としての IASB にとっての脅威であった。NYSE の W. H. Donaldson 理事長は、1993年5月20日に連邦議会上院で開催 された公聴会 5)で、SEC の方針によって米国人投資家が優良なワールドクラスの企業に投資する機会 を奪われているのは国家的な損失であり、このままでは米国市場は単なる「ローカル市場」の1つに 成り下がってしまうと証言した 6)。その上で Donaldson は、当面は先進諸国の会計基準を相互に承認 することがこの問題の解決策となるのであり、そうすることで米国企業がグローバルな舞台で競争す ることが可能になり、ひいては米国市場の競争力も高まるのだと述べた。 この Donaldson の証言の背景にあったのは、ドイツの Daimler-Benz 社の NYSE 上場をめぐる動きで ある。NYSE と Daimler-Benz 社は、同社の NYSE 上場にあたってドイツ基準に準拠した財務諸表を調 整表なしで提出することを認めるよう SEC と交渉してきた。しかし、当時の SEC 委員長であった R. C. Breeden は頑としてこれを承認せず、結局3者は US-GAAP との調整表を添付することで1993年3 月に合意していたのである(Breeden[1994] ) 。 このように、1990年代の前半まで NYSE は主要国の会計基準と US-GAAP との相互承認を SEC に求 めてきたが、SEC が他国基準との相互承認には否定的な態度を示し続けたことから、その後 NYSE は IAS を支持する方向へと方針を転換し、米国市場での資金調達を望む多国籍企業も調整表なしでの IAS による上場を求めるようになった。Donaldson の後継者として NYSE 理事長に就任した R. A. Grasso は、米国証券市場の国際的な優位性を維持するためには、調整表の作成を求めることなく IAS に基づく財務諸表を受け入れることが必要だとして(Grasso[1997])、連邦議会の議員や SEC の委員 へ活発なロビイング活動を展開した(Sutton[2005])。この NYSE の動きには、アメリカン証券取引 所やナスダックも同調した。 こうしたロビイングの結果、1996年10月には「国内証券市場改善法(National Securities Market Improvement Act) 」が制定されるに至った。 「米国証券市場の国際的卓越性の促進」と題する同法の第 509条は、 「SEC は、できるだけ早期に高品質の国際的な会計基準が開発されるよう、その支持を強化 しなければならない」 (第509条(4) )とした上で、国際的な会計基準の開発の進展状況と、外国企業 が米国で上場するに際して SEC が承認しうる一組の国際基準の完成についての見通しを、1年以内に 連邦議会に報告するように SEC に求めた(第509条(5))。 もっとも、前述のように SEC は、議会からの指示を待つまでもなく IOSCO を通じて IASC に関与 していた。1993年8月、IASC の「比較可能性・改善プロジェクト」の終了を受けて、その成果を吟味 した IOSCO は厳しい評価を下し、IASC にさらなる努力を要求した。IOSCO は、多国間公募および上 場の際に使用できる最低限の基準として、コア・スタンダードと呼ばれる会計基準の一覧を指定し て、IASC にその完成を求めたのである。そこで IASC と IOSCO は1995年7月に、IASC が1999年6月 5)“The Securities and Financial Markets,” Hearing before the Subcommittee on Securities of the Committee on Banking, Housing, and Urban Affairs, United States Senate, 103rd Congress, 1st Session, on the Major Issues Facing Congress and the Administration in the Securities and Broader Financial Markets Relating to Capital Formation, Job Creation, and Trends in Trading and Technology, May 20, 1993. 6)なお、NYSE が最初に外国上場企業に対する規制緩和を SEC に公式に提案したのは1991年である(Schneider[1994], p.304)。 -163- 経 済 学 研 究 第 80 巻 第5・6合併号 までにコア・スタンダードを完成させ、しかるのち IOSCO がその承認を検討するという「コア・スタ ンダード作業計画」に合意した。翌1996年4月3日には、IASC はコア・スタンダードの完成目標を1 年前倒しすることを公表した(Camfferman and Zeff[2007],p.329)。これを受けて SEC は、4月11日 にプレス・リリースを発して歓迎の意を表するとともに、コア・スタンダードが完成したあかつきに は外国企業による適用を SEC として認めるかどうかを検討すること表明した(SEC[1996],p.1)。こ のように SEC は、国内証券市場改善法が制定される前の1996年4月の時点で、外国企業に IAS の適用 を認める可能性を示唆していたのである。 SEC がこうした動きを見せたのは、NYSE や多国籍企業のロビイングに加えて、欧州の動向もその 要因の1つであったと考えられる。1993年の Daimler-Benz 社の NYSE 上場以降、これに追随する欧州 大企業が相次いだ。主要国の証券規制機関が、特段の調整を求めることなく US-GAAP に基づく財務 報告を国内でも認めていたこともあって、本国に加えて米国でも資金調達したいと考える欧州の多国 籍企業の間では、US-GAAP を採用する動きが広がっていった。欧州委員会(European Commission: EC)は、このように主要企業が US-GAAP を採用していく状況に危機感をおぼえた。このときの EC の危機感の強さは、次の文章によく表れている(EC[1995],pp.7-8) EU は、米国およびその他の世界的市場での上場を目指す企業が EU の会計フレームワーク内に とどまることができ、米国会計基準 ― それは当該企業およびその政府が影響力を行使すること ができない ― だけが唯一の選択肢ではないという明確な展望を財務諸表の作成者と利用者に提 供するために、速やかに行動する必要がある。 そこで EC は、1995年11月、IASC の取り組みに対する支持を表明するとともに、IASC への EU の 影響力を確保しつつ IAS を域内基準として採用することを、将来における選択肢の1つとして提案し 7) たのである(EC[1995] ) 。 たしかに SEC は1996年の時点で、将来的に IAS での上場を認める可能性を示唆してはいたが、あく までも可能性にすぎなかった。しかも、それは必ずしも IAS を「包括承認」することを意味してはお らず、SEC は特定の IAS のみを部分的に承認するにとどめる可能性もあったのである(杉本[2009], 68頁) 。1996年4月11日付のプレス・リリースで SEC は、IASC のプロジェクトを評価する上での「鍵 となる要素」として、①包括性、②高品質、および③厳格な解釈と適用、の3つを提示し、それらを SEC が IAS の承認を検討する際の規準とすることを明言していた。SEC はまた、国内証券市場改善法 の求めに応じて議会へ提出した報告書でも、IASC に対して米国基準と同レベルの基準を開発するよ うに促す努力を続ける旨を強調している(SEC[1997])。 このように、多国籍企業や証券取引所からグローバル・スタンダードを求める声が高まっていた 7)もっとも、この段階では、IAS を EU の域内基準として採用することを EC は明確にしていたわけではなく、会社法第 4号指令と第7号指令をできるだけ維持しながら IAS との調和を図ることを計画していた(徳賀[2006],47頁)。 -164- グローバルな会計基準設定主体としての IASB 1990年代半ばにおいても、SEC は依然として、US-GAAP と同等のものでなければ調整表なしで IAS を受け入れることはできないという立場を堅持しており、IAS はまだその水準に達していないと考え ていた(杉本[2009] ,69-70頁) 。 3.IASC の組織改革 1995年7月の IOSCO との「コア・スタンダード作業計画」の合意、さらには SEC の1996年4月11 日付プレス・リリースを受け 8)、IASC はグローバルな会計基準設定主体となるべく、組織改革に着手 した。IASC が組織改革を進める上で最大の争点となったのは、ボード(基準設定機関)のサイズとそ の構成であった 9)。IASC の組織改革の完了(IASB への改組)に至るまでの動きに関しては検討すべ き重要な論点が多くあるが、以下ではボードのサイズとその構成の問題に焦点を絞り、主に Kirsch [2006] 、Street[2006a,b] 、および Camfferman and Zeff[2007]に依拠しつつ、アングロ・アメリカン 諸国(とりわけ米国)と大陸欧州諸国との対立とその帰結を明らかにしたい 10)。 (1)SWP の設置 IASC が組織改革に着手したのは、IAS が IOSCO から承認されるにはコア・スタンダードを完成さ せるだけでは不十分であることを認識していたからである。とりわけ SEC は、各国会計士団体の集ま りである IASC の組織構造とその基準設定プロセスには問題があると考えており、SEC がそうした懸 念を抱いていることを IASC 自身も十分認識していた(Camfferman and Zeff[2007],pp.14-15)。そこ で IASC 事務総長の B. Carsberg は、1996年6月に開催された常任委員会(Executive Committee)にお いて、次のような内容のアジェンダ・ペーパー(Future Strategy of IASC: Agenda Paper X)を提示した。 IASC は目標を IAS と各国基準との「統一性(uniformity)」の達成に据えるべきであり、そのために は各国基準設定主体との関係を構築しなければならない。そうする上では IASC の手続と構造を変え る必要があるので、常任委員会と諮問委員会(Advisory Council)との合同会議でこの点を検討してほ しい(Kirsch[2006] ,pp.339-340) 。 この提案は合同会議で承認され、IASC の将来戦略と組織構造の見直しを検討するための作業部会 の設置要項を策定する任務が Carsberg に与えられた。同年9月の常任委員会において Carsberg は要 綱案を提示し(Strategy Working Party: Agenda Paper VI)、これを承認した常任委員会は、IASC の将来 戦略と組織構造の見直しを検討する「戦略作業部会(Strategy Working Party: SWP)」を設置すること を決定した。その後、理事会も全会一致で SWP の設置を承認した(Kirsch[2006],pp.340-341)。 Carsberg は、1997年 1 月 の 常 任 委 員 会 に 提 出 し た ペ ー パ ー(Strategy Working Party: Introductory 8)IASC はこの SEC のリリースを IASC への「激励」と受け取ったようである(Carsberg[2000],邦訳100頁)。 9)IASC の組織改革の過程では様々な名称の基準設定機関が提案された。それゆえ、本稿では混乱を避けるために、特に 必要な場合を除いて基準設定機関を「ボード」という呼び名で統一する。 10)IASC の組織改革については、その「正統性」という観点から分析した真田[2012]も参照。 -165- 経 済 学 研 究 第 80 巻 第5・6合併号 Paper)において、各国基準設定主体を惹き付け、また現在の IASC メンバーにも受け入れられるよう な構造を開発する上で、問題となるであろう現行理事会の欠点として、①独立性の欠如 11)、②デュー・ プロセスの不十分さ、③会計基準を設定する上での専門能力の不足、および④大きすぎる規模、の4 点を指摘した。その上で彼は、小規模で独立性の強いボードと、大規模な「総会(General Assembly) 」 から成る二元構造の案を提示した。その後、1997年4月の常任委員会で、Carsberg は SWP のメンバー 候補者のリストを示した(Kirsch[2006] ,pp.341-342)。 ここで重要な点は、SWP のメンバーの半数がいわゆる G4 出身者によって占められていたという事 実である(Camfferman and Zeff[2007] ,pp.449-450)。G4 とは、1993年に英国、米国、カナダ、およ びオーストラリアの4カ国(のちにニュージーランドが加わる)の会計基準設定主体が、共通の課題 を解決すべく、基準設定のための調査・提言を行うために立ち上げた非公式のグループであり、1994 年には IASC がオブザーバーとして参加して G4 + 1となった。G4 の設置は、アングロ・アメリカ以 外の一部(特に大陸欧州)に、アングロ・アメリカは世界の会計基準設定を牛耳ろうとしているので はないかという疑念を抱かせた 12)。それゆえ G4 からすれば、そうした国々からの反発を和らげる上 で IASC の参加は望ましいことであった(Street[2006a] ,p.113)。他方、IASC には G4 + 1の成果を IAS に取り込みたいという思惑があった(澤邉[2005],113頁)。 G4 + 1は精力的に活動を行い、いくつも重要なポジション・ペーパーを公表した 13)。その結果、 G4 + 1は IASC のアジェンダ設定、さらには IASC の基準の内容そのものにまで大きな影響を及ぼす ようになった(澤邉[2005] ,113頁) 。米国財務会計基準審議会(Financial Accounting Standards Board: FASB)に代表されるように、G4 は会計基準設定に必要なリソースを豊富に持つ国々であるのに対し て、IASC には G4 + 1での調査・研究に貢献する人材が不足していたからである。そうしたことから、 G4 のメンバーは IASC の会計基準設定主体としての資質に疑問を抱くようになり、 「拡大 G4」あるい は「FASB の国際バージョン」が IASC に取って代わる可能性をも検討するようになった(Street [2006a],pp.113-114) 。IASC が SWP を設置したのは、そうした G4 の脅威に対処するためでもあった のである 14)。 前述のように、IASC の組織改革にあたってボードのサイズと構成が焦点となったのは、それが IASC の正統性と深く関わっているからである(澤邉[2005] ;真田[2012] ) 。民間主体であり、しか 11)ここでの「独立性」とは、会計士団体からの独立性と、所属会計事務所からの独立性を意味していた(真田[2012],26 頁)。 12)実際、欧州諸国は1996年に G4 + 1に対抗する形で E5 + 2を立ち上げた。E5とは、フランス、ドイツ、オランダ、ノ ルディック連合、および英国であり、+ 2とは EC と欧州会計士連盟である。しかし、英国が独自の立場を貫いたことも あり、E5 + 2は目立った成果は挙げられず、2001年に解散した(Camfferman and Zeff[2007],pp.445-446;宗田[2007], 86頁)。 13)G4 + 1の議長を務めた FASB 副議長の J. Leisenring は、国内での会計基準設定とは異なり政治的圧力がない分だけ、 G4 での作業はスムーズに進み、その結果、優れた内容のポジション・ペーパーを公表することができた、という趣旨の ことを述べている(Leisenring[2011],p.37)。この「政治的圧力からの解放」という点については、Street[2006b]も参 照。 14)当時の英国会計基準審議会の議長で、G4 + 1の初代議長でもあった D. P. Tweedie は、IASB 議長に就任したあとの2001 年11月に、IASC 自身が変わらなければ G4 がその役割を果たすことになるだろうということを IASC は十分に認識してい た、と述べている(Securities and Exchange Commission Historical Society[2001],p.133)。 -166- グローバルな会計基準設定主体としての IASB も公的機関の明示的な後ろ盾を持たない IASC はその正統性が脆弱であるため、それを何らかの形で 補強しなければならない。その1つの方策が、様々な国や地域、あるいは組織の代表でボードを構成 し、決定の民主性を確保することである。つまり、その決定によって影響を受ける可能性のある人た ちの「代表者」が、ボード内で「利害調整」のための交渉を行うのである。 このように「代表性」によって IASC の正統性を補強しようとすれば、ボードの規模が大きくなる のは避けられない。他方で、大きすぎるボードは迅速に意思決定できず、基準設定の効率性が損なわ れる。このトレード・オフについては、Carsberg が1996年に作成したアジェンダ・ペーパーでも言及 されており、IASC が解決すべき課題として認識されていた。大陸欧州諸国は様々な地域や組織の代表 からなる大規模なボードを望んでいたのに対し、G4 は少人数の専門家のみでボードは構成されるべ きだと考えていた(Camfferman and Zeff[2007] ,p.15)。 G4 は特に、理事会の3/ 4の賛成がなければ IAS が公表されないという IASC の議決ルールを問題 視していた。規模の大きなボードにおいて、メンバーは出身国あるいは所属組織の利害を代表して行 動するので、3/ 4の賛成を得るためにはどうしても会計基準は妥協的なものとならざるをえず、し かも合意に達するまでに時間がかかってしまう。さらには、IASC のボード・メンバーの中には、いわ ば「名誉職」あるいは自国の会計士団体への貢献に対する「ご褒美」として派遣された者もおり、彼 らは往々にして基準設定に必要な能力が不足していた(Street[2006a] ,p.115)。直面する問題を共有 し、高い専門能力によって迅速にそれらを解決してきたという自負を持つ G4 にしてみれば、IASC に そうした構造を温存させることなど、とうてい認められないことであった。 この点に関連して、FASB の D. R. Beresford 議長は、1996年6月に開かれた世界基準設定者会議に おいて、IASC に対していくつかの提言を行っている。なかでも特に重要なのは、 「パートタイムのメ ンバーのみで構成されるボードが、自らが従い、監査しなければならない基準を設定する場合に生じ る『固有の利害対立(inherent conflict of interest) 』を減じる」べきである、と彼が提案している点で ある(Kirsch[2012] ,p.28) 。IASC のボード・メンバーは全員が非常勤であり、また基本的に国際会 計士連盟が指名しているため、ボード・メンバーの会計士が自国の団体あるいは所属事務所の利害を 反映して行動するのが常態となっていることを Beresford は問題点として指摘したのである。 1997年3月に G4 + 1は初めて公開で会議を開いた 15)。その場で G4 は、IASC が各国の基準設定主 体を取り込む形で組織改革することを全会一致で勧告した。さらに G4 は、このとき IASC が第1回 SWP 会合に向けて予備的に検討していた案、すなわちボードは最大で9カ国の基準設定主体から成る 小規模なものとするという案に対する支持を表明した。「専門性」を重視する G4 は、必要な専門能力 を IASC に提供できる少数の国の基準設定主体のみがボード・メンバーになるべきであり、 「代表性」 は総会のようなもので保証すれば十分だと考えていた(Street[2006a] ,p.115)。 15)このとき G4 + 1が会議の公開に踏み切ったのは、前述の Beresford の IASC に対する提言の1つに「会議を公開で行 うこと」 (Kirsch[2012],p.28)があったことが影響しているのであろう。なお、Carsberg が1996年9月に作成したアジェ ンダ・ペーパーでも、会議を公開で行うべきか否かについて言及されていることから、Beresford の提案は Carsberg にも 影響を与えたと考えられる。 -167- 経 済 学 研 究 第 80 巻 第5・6合併号 (2)SWP での検討 1997年7月に開かれた SWP の第1回会合で Carsberg が提示した案は、①主要国から選ばれた少人 数(9~11名)の専門家から成るボードと、②多くの国の代表が参加する大規模な上位機関、という 二元構造であり、上位機関に最終基準を承認・拒否する権限を与えるというものであった。これは、 会計基準の質、基準設定の効率性、および十分な代表性による正統性の確保、という3つのバランス をとるための案であり、二元構造は前述のように、早い段階から Carsberg が考えていたものであった (Kirsch[2006] ,pp.338-340) 。とりわけ大陸欧州諸国が「十分な代表性」を求めていることを Carsberg は意識していたのである。この事務総長案に対して、1997年9月に開かれた SWP と G4 + 1との合同 会議で、G4 は上位機関が政治的に基準案を拒否するシステムは許容できないとして反対した(Camfferman and Zeff[2007] ,pp.450-455) 。 G4 + 1との合同会議の後に作成された SWP の勧告書草案では、IASC はそれまでの「ハーモナイ ザー」から「イノベーター」へと転換する必要があるという認識が示された。コア・スタンダードが 完成した後は、各国の既存の会計基準を調和させるだけでなく、新しく生じる会計問題に対応してい く必要があるからである。そこで IASC は、それまでの「調和化」に代えて「コンバージェンス」を 目標に掲げ、各国基準設定主体のデュー・プロセスと歩調を合わせて基準を開発していく体制の構築 を目指すことになった。つまり、IASC は各国が抱えているのと同じ問題を一緒に解決していくという 方向に舵を切ったのである。そのために SWP は、会計プロフェッションが国際会計士連盟を通じて ボードの任命を支配するのはもはや不適切であるとして、ボード・メンバーの多くを各国基準設定主 体の代表(フルタイムが基本)とするという勧告書の草案を起草した(Camfferman and Zeff[2007], pp.456-457) 。 この SWP の草案について、IASC は1998年1月に開催された諮問委員会とコンサルタティブ・グ ループで意見を聴取した。大陸欧州諸国は、 「代表性」こそが IASC の正統性の源泉であり、現在の構 造を大きく変える必要はないと主張した。その後に開かれた理事会でも、かりに比較的少人数のボー ドが会計基準を設定するとしても、基準を最終的に公表するか否かを決定する権限は、各国代表が集 う上位機関が保持すべきであると欧州諸国は主張した。さらに、ボードが少人数の専門家で構成され るとすればそのメンバーになれる可能性が低い小国や新興国は、自分たちの影響力が失われることを 恐れて、SWP の草案に強く反対した。一方、G4 諸国は、上位機関に覆されることなく、専門家のみ で構成される小規模なボードが会計基準を設定するという構造でなければ、IASC の組織改革には協 力できないという姿勢を貫いていた(Camfferman and Zeff[2007],pp.457-459)。 (3)DP の公表 諮問委員会、コンサルタティブ・グループ、および理事会で出された意見を踏まえ、SWP は1998年 12月にディスカッション・ペーパー (Discussion Paper: DP)として『IASC の将来像』を公表した(IASC [1998] ) 。注目すべきは、DP が、IASC の基準とデュー・プロセスが受容されるには「独立専門家モ デル(independent expert model) 」と「構成員モデル(constituency model)」という2つのルートがあ -168- グローバルな会計基準設定主体としての IASB るが、これら2つの極端は実現不可能であるため混合モデルを提案した、としている点である(paras. 166-167) 。DP は、会計基準を起草する「基準開発委員会(Standards Development Committee: SDC) 」 と、上位機関としての「理事会」の二元構造を提案した。 SDC は、フルタイムとパートタイムの混合11名で構成され(うち6名は各国基準設定機関の代表)、 そのメンバーは基準設定に必要な専門能力があり、セクショナルな利害ではなく、公益のために貢献 することが条件とされた(paras. 127-128) 。一方、理事会については、合理的な地理的広がりが重要 だとして、従来の16名から25名に規模を拡大することを DP は提案した(para. 137)。基準の承認に関 して DP は、次の4つの代替案を示した(para. 170)。すなわち、①理事会が基準を承認する、②理事 会は SDC の提案を拒否することができる、③理事会は基準案を SDC に差し戻すことができる、およ び④基準の作成にあたって SDC は理事会と協議しなければならないが、理事会は基準の公表を拒否し たり、遅らせたりする権限を持たない、の4つである。いずれの場合も、理事会には基準自体を作成 したり修正したりする権限を与えない(para. 174)としたことは、G4 に対する「重要な譲歩」であっ た(Camfferman and Zeff[2007] ,p.466) IASC 議長で SWP のメンバーでもある S. Enevoldsen(ノルディック公共会計士連盟)はもともと、 大陸欧州が主張する「代表性モデル」 (構成員モデル)を支持していた。これに対して、FASB に勤務 した経験のある事務総長の Carsberg(英国籍)は、次第に「独立専門家モデル」に傾いていった。DP には86通のコメントレターが寄せられた。IASC の組織改革の趣旨と目的については、おおむね賛同が 得られたが、個別の論点では多くの反対が出され、意見は特に大西洋をはさんで割れていた(IASC [1999a])。 (4)最終勧告書の公表と IASB への改組 DP の公表後、Enevoldsen と Carsberg は主要国の会計士団体や会計基準設定主体と協議を重ねた。 その結果、1999年6月の IASC 理事会の前に、IASC 議長と事務総長の連名で新たな提案を行うに至っ た。彼らの提案の骨子は、① DP で提案された二元構造を撤回し、単一のボードとする、②ボード・ メンバーはフルタイムとパートタイムの混合とし、各国基準設定主体の代表者を含める、③基準を公 表する際の議決ルールはフルタイムのメンバーの投票を重視したものとする、④人数は25名または17 名のいずれかとする、および⑤北米と欧州の人数を同じにし、新興国からも3~5名ほど加える、と いうものであった(Camfferman and Zeff[2007] ,pp.472-473)。こうした IASC の方針転換について新 聞は、SEC と FASB からの支持が得られなければ立ち行かなくなると考えた IASC が米国寄りになっ た、と報じている(Financial Times, July 8, 1999, p.31)。 この Enevoldsen と Carsberg の判断に決定的な影響を与えたのは、FASB が1999年1月に公表した 『国際的な会計基準の設定:将来へのビジョン』と題する報告書であった(FASB[1999])。FASB [1999]は、質の高い国際的な会計基準設定主体が備えるべき特徴として、①自律的で独立した意思決 定組織、②適切なデュー・プロセス、③十分なスタッフ、④独立した資金調達、および⑤独立した監 視、の5つを挙げた。その上で、そうした基準設定主体を確立する方法として、① IASC が構造を改 -169- 経 済 学 研 究 第 80 巻 第5・6合併号 革する、② G4 + 1をベースとして IASC の後継となる国際機関を設立する、および③ FASB をより国 際的に受け入れられるものにする、という3つのオプションを示した。これは明らかに IASC に対す る脅しであるが、こうした考えを FASB と SEC はほぼ共有していた 16)。 これに対して、EC は DP へのコメントレター(1999年4月28日付)で FASB の報告書に言及しつ つ、「IASC はいかなる国の基準設定主体、あるいは国内基準設定主体のグループ(any one national standard setter or any group of national standard setters)からも独立していなければならない」と述べた (IASC[1999a],p.245) 。これは IASC が実質的な「拡大 G4 」あるいは「FASB の国際バージョン」と なることに対する牽制であり、少数の国の基準設定主体とだけ結びつくのであれば「国際的な政治的 正統性」は確保されないと EC は指摘した(IASC[1999a] ,pp.249-250)。 Enevoldsen と Carsberg の提案は、1999年6月30日に開催された SWP と理事会との合同会議におい て検討された。ボードのサイズについて、大陸欧州は国際的な正統性を確保するには25名とするのが 望ましいとする一方、G4 は基準設定を効率的に行うには17名以下でなければならないと主張した。 また、米国はフルタイムのメンバーでなければ独立性は保たれないと主張したが、それ以外の国(英 国など G4 諸国も含む)はパートタイムでも独立性は保てるのであり、より重要なのは個人の資質で あると主張した。オランダは、むしろ独立性の観点からは各国基準設定機関の代表が入る方が問題で あると指摘した。つまり、彼らは自国の基準設定機関と IASC のどちらに忠誠を尽くすのかというの である(Camfferman and Zeff[2007] ,pp.474-475)。 続いて7月1日から2日にかけて開催された SWP 会議では、議論の結果、ボードは20名とし、う ち5名以上がフルタイム(基準設定の経験がある者が望ましい)、少なくとも7名が基準設定機関代表 (フルタイムまたはパートタイムで、リエゾンとなる)、残りは様々な専門家(パートタイム)とする ことで合意に達した。地理的広がりも論争となったが、最終的には北米と欧州からそれぞれ6名を選 出することにした(Camfferman and Zeff[2007] ,pp.475-476)。 しかし、この案に SEC は納得しなかった。SEC の主任会計士 L. Turner の主な不満は、①ボードの サイズがまだ大きすぎること、②リエゾンとパートタイムのメンバーが基準の公表をブロックするこ とができること、の2点であった。Turner は、IASC がボードの人数を12名から15名の間に収めなけ れば、G4 か FASB が国際的な基準設定主体となるべきだと考えていた。そこで、アングロ・アメリカ だけでなく幅広く支持を得る必要があると感じた Turner ら SEC のスタッフは、1999年9月、欧州に 出向いて各国の証券規制機関や基準設定主体を説得して回った。SEC の強い意志を認識した欧州の各 機関は、EC を除いて SEC の考えにおおむね理解を示した。その結果、Enevoldsen はさらに譲歩せざ るをえなくなった(Camfferman and Zeff[2007] ,pp.478-480)。 9月22日と23日に開催された SWP の会合で合意に達した案は、①ボードの人数を16名(パートタ イムは4名以下)に減らし、その代わりに諮問委員会等への広い参加を求める、②様々な見解を反映 16)DP に対する1999年3月10日付の FAF/FASB のコメントレター(IASC[1999a],pp.325-358)、1999年5月14日付の SEC スタッフのコメントレター(IASC[1999a],pp.405-415)、および2000年の SEC のコンセプト・リリース(SEC[2000]) を参照。なお、SWP には、FASB 委員の A. Cope と前 SEC 委員長の Ruder がメンバーとして参加していた。 -170- グローバルな会計基準設定主体としての IASB させるために専門家としてのバックグラウンドの多様性を確保する(作成者、利用者、監査人、学者)、 ③地理的バランスも取り、最低3名が南北アメリカ、3名が EU、3名がアジア太平洋、それ以外の 国は各2名以内とする、というものであった。この案に対する支持を得るべく、すぐさま Enevoldsen と Carsberg は主要な会計団体や規制機関と協議を行った。EC は SWP の案に失望の念をあらわにし た。他方、SEC も16名のボードはまだ大きすぎると主張し、地理的バランスを取ることにも反対した (Camfferman and Zeff[2007] ,pp.483-486) 。 10月22日に開かれた SWP の会合では、ボード・メンバーの地理的バランスに関して、依然として アングロ・アメリカと大陸欧州は鋭く対立していた。しかし、前回の案のままでは SEC の支持が得ら れないことは明らかであった。そこで SWP は、評議員の地理的バランスを取ることとし、ボード・メ ンバーの「適切なバランス」を取るという任務を、ボード・メンバーを選任する評議員会に負わせる ことで折り合った。この案を持って Enevoldsen と Carsberg は10月末に渡米し、SEC と協議を行った が、SEC は依然としてボードが大きすぎると主張したことから、ボードの人数をさらに減らして14名 とすることになった。しかも Enevoldsen と Carsberg は、この案を SWP の承認を得ることなく、2人 の連名で11月15日から19日にかけて開催される IASC 理事会に提示することにした(Camfferman and Zeff[2007] ,pp.486-487) 。 理事会に先立って11月14日に開かれた常任委員会において、Enevoldsen と Carsberg は SEC の承認 を得ることを最優先にしたことを示唆し、その上で彼らが提示した案は、なぜかボードの人数は以前 の16名に戻っていた(おそらく Enevoldsen の最後の抵抗だったのであろう)。彼らは、この案は SWP では未承認であることを認めた上で、常任委員会に支持を求めた。しかし委員会メンバーは、これで SEC の支持が得られるのか疑問を感じた。そこで、Enevoldsen に不信を抱いた委員会のメンバーは、 常任委員の1人であるアメリカ公認会計士協会の M. Crooch に SEC の Turner へ電話をかけさせ、確 認を取らせた 17)。Turner は、ボードは14名以内でなければ認められないと返答した。その後、Crooch らは何度も電話で Turner と交渉し、最終的には、①ボードは14名とする(パートタイムは2名以下)、 ②ボード・メンバーを選任する評議員を選定するための指名委員会を設置する、③指名委員会の人選 は SEC が主導する、④ SEC は IASC の改革を支持する声明を出す、ということで合意に達した(Camfferman and Zeff[2007] ,pp.489-490) 。 予定より2日遅れて、11月17日の理事会に SEC との間で合意に達した改革案が示された。説明に 立った Crooch らは、IASC の組織改革が成功するためには SEC の承認が不可欠であり、Turner もこの 案に同意している、ということを強調した。理事会メンバーは、これ以上は交渉不可能であることを 認識した。大陸欧州の代表は不満を表明したが、提案を受け入れる他に選択肢はなかった。あらかじ め用意されていた Turner の支持表明も読み上げられ、改革案は全会一致で承認された。すぐさま SEC と FASB は、理事会の決定を歓迎するリリースを出した(Camfferman and Zeff[2007],pp.491-492)。 17)Crooch と Turner は旧知の仲であり、彼らは以前から IASC の組織改革について頻繁に連絡を取り合っていた(Kirsch [2012],p.29)。 -171- 経 済 学 研 究 第 80 巻 第5・6合併号 SWP は理事会で承認された内容を勧告書に盛り込み、12月6日に最終勧告書『IASC の将来像への 勧告』を公表した(IASC[1999b] ) 。この勧告書は12月13日から16日にかけて開催された理事会で承 認され、それに基づいて定款が改定されることとなった。2000年3月には理事会で新しい定款が承認 された。この新定款の発効により、2001年4月、親組織として IASC 財団が設立され、その下に IASB、 評議員会、基準諮問会議、および国際財務報告解釈指針委員会等の主要機関が設立された。 (5)小括 以上のように、IASC の組織改革は「独立専門家モデル」に依拠したボードの設置という結果に終 わった。IASC は当初、アングロ・アメリカが主張する「独立専門家モデル」と、大陸欧州が主張する 「代表性モデル」の混合形態を模索していた。それは、IASC が組織改革を進めるにあたっては SEC の 要求を満たす必要があると認識していた一方で、近い将来 IAS を包括採用する可能性のあった EU か らの支持も得たいと考えていたからである。しかし、SEC の強硬な姿勢の前に Enevoldsen ら IASC の 「代表性モデル」派は屈し、最終的に EU(大陸欧州)の主張は IASC の組織改革にほとんど反映され なかった。 大陸欧州諸国の主張が取り入れられなかった理由の1つは、アングロ・アメリカに比して EU の足 並みが揃っていなかったことにあるのかもしれない(Botzem and Quack[2009])。この点については、 さらに詳しく検討してみる必要があるが、例えば、ドイツは独自の戦略に基づいて1998年から US-GAAP のみならず IAS での上場も認めるように法整備を進めていた(木下[2007] ;潮﨑[2009])。 EU において大きな影響力を持つドイツのこうした動きは、EU として取りうる選択肢の幅を狭めるも のであった可能性がある。このように、EU 加盟国は自国の利益を追求する一方で、EC は、 「EU の公 益」を追求しなければならなかった。EC はまさに、国家/地域/グローバルなレベルでのコンフリ クトに直面していたのである。 他方、「独立専門家モデル」が優勢となった要因の1つとして、G4 + 1が豊富な会計リソースを活 用して高い生産性を見せつけていたことが挙げられよう。1990年代に G4 + 1の影響力が拡大して いったのは、各国基準設定主体が潜在的に抱えていた問題を定義し、解決策を提案し続けることがで きたからである(澤邉[2005] ,114頁) 。その結果、IASC の内部でも G4 の発言力が高まった。ハー モナイザーからイノベーターへの転身を目指す IASC にしてみれば、G4 の持つリソースは魅力的であ る一方、G4 が「拡大 G4 」となり、IASC に取って代わるようになること、つまり IASC 自体が消滅す ることは避けなければならなかった。このように、G4 (あるいは FASB)がグローバルな会計基準設 定主体としての役割を果たすようになる可能性があることを IASC は脅威に感じていたのであり、そ れが SEC にとって、自らの要求を IASC に飲ませる上での強い手札となった。 もっとも、G4 + 1の議長を務めた FASB の J. Leisenring が述べているように(注13を参照)、G4 + 1の生産性の高さは、国内の基準設定の場合とは違って、会計基準によって富の移転がもたらされる 可能性のある利害関係者からの圧力や、政治の介入がないからこそ達成できたという面もある。つま り、G4 + 1はその調査・研究の成果をそのまま自国で基準化するわけではなく、それゆえ基準設定に -172- グローバルな会計基準設定主体としての IASB おける「利害調整」をほとんど顧みる必要性がないために、 「専門性」に特化することができたのであ る。 では、なぜ SEC は FASB 型の独立専門家モデルにこだわったのだろうか。もちろん、米国のヘゲモ ニーという面はあろうが、それ以外の理由があったのも確かである。SEC は、IAS の受け入れを求め る NYSE とそれに呼応する連邦議会(の一部)の動向を考えれば、外国企業が米国で上場するにあ たって、調整表なしで IAS 準拠の財務諸表を提出することをいずれは認めざるをえなくなるであろう ことは認識しており、そのときのために最低限の “level playing field” は確保できるようにしておきた いと考えていた。要するに、IASC が US-GAAP と同等の基準を作成できる組織になってもらわないと、 SEC としても将来的に困ることになりかねないのである。この点に関連して、前 SEC 委員長の A. Levitt は2001年に、IASC の設定する会計基準が現在各国で使われている基準よりも質の高いものにな れば、US-GAAP より厳格でなくても SEC は受け入れるだろうという期待は間違いだと述べ、あくま でも US-GAAP と同等でなければ SEC は IFRS を受け入れないだろうということを強調している (Levitt[2001] ) 。 SEC と FASB は直近で、ストック・オプション会計をめぐる基準設定の政治化を経験していたこと から(Leisenring[2011] ) 、政治の介入によって会計基準が歪められることを、とりわけこの時期は 嫌っていたと考えられる 18)。それゆえ、大陸欧州が主張する代表性モデルでは、会計基準設定の場で 国家や組織の利害を背景にした交渉が繰り広げられかねず、その結果、会計基準が妥協的なものにな ることを SEC は懸念していたと見るべきであろう。つまり、SEC は新生 IASC が設定する会計基準が US-GAAP の水準に達しないことを懸念していたのであり、自国の市場が制度として成り立つために 必要な選択的介入を行うという「ゲートキーパー」としての役割(藤原[2008],131頁)を強く認識 していたといえるのである。 4.おわりに 本稿では、グローバル・スタンダードへの関心が高まった時代から考察を始め、IASC が IASB へと 組織改革する過程を跡づけた。IASC が IASB へと改組したとき、その正統性の源泉は「独立性」と 「専門性」に求められた。そこでの独立性は、もともと「会計プロフェッションが基準設定を支配しな いこと」を意味していたのが、次第に「いかなる特定の利害にも偏らないこと」と「国家(政治)か ら独立していること」の2つを意味するようになっていった。 その後、これらの「独立性」が、IASB がグローバルな会計基準設定主体としての地位を確立する上 で重要な役割を果たすことになる。この点については大石[2012b]で一部検討しているが、さらに詳 しい考察は稿を改めて行いたい。 18)実際、SEC が IASC の組織改革へ関与するにあたっては、政治の横槍が入るのを未然に防ぐべく戦略的かつ周到に行動 した結果、この問題について議会や政府から圧力がかけられることはほとんどなかったと Turner[2005]は述べている。 この点については Posner[2010]も参照。 -173- 経 済 学 研 究 第 80 巻 第5・6合併号 参考文献 大石桂一[2011a] 「国際的会計基準の形成とエンフォースメント」『會計』第179巻第1号、14-27頁。 大石桂一[2011b]「会計基準」 、斎藤静樹・徳賀芳弘編『企業会計の基礎概念』中央経済社、435-472 頁。 大石桂一[2012a] 「会計基準設定のアウトソースと会計基準設定機関の変化」 『企業会計』第64巻第1 号、26-32頁。 大石桂一[2012b]「会計規制の枠組み」 、大日方隆編『金融危機と会計規制』、中央経済社、167-201 頁。 木下勝一[2007] 『会計規制と国家責任:ドイツ会計基準委員会の研究』森山書店。 真田正次[2012] 「グローバル会計基準の正統性と会計基準設定主体の組織化に関する一考察」『会計 プログレス』第13号、15-28頁。 澤邉紀生[2005] 『会計改革とリスク社会』岩波書店。 潮﨑智美[2009] 「ドイツ会計制度改革の本質的特徴:IFRS 導入との関連において」 『国際会計研究学 会年報2008年度』 、35-47頁。 杉本徳栄[2009] 『アメリカ SEC の会計政策』中央経済社。 宗田健一[2007] 「企業結合会計基準の収斂過程における G4 + 1の果たした役割」 『會計』第172巻第 6号、82-92頁。 徳賀芳弘[2006] 「EU の国際会計戦略:インターナショナルアカウンティングへの再挑戦と『同等性 評価』問題」 『国際会計研究学会年報2005年度』 、45-54頁。 藤原帰一[2008] 「ゲートキーパーとリーダーシップ」、城山英明・大串和雄編『政策革新の理論』東 京大学出版会、119-138頁。 山田辰巳[2003] 「IASB と FASB のノーウォーク合意について」 『企業会計』第55巻第2号、81-87頁。 Botzem, S. and S. 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