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精神分析をめ ぐっての考察

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精神分析をめ ぐっての考察
精神分析をめぐっての考察
一ルーシーのケースー
堀
淑 昭
ミス・ルーシー,R.のケースは,フロイトの「ヒステリー研究」の2
番目の症例である.
精神分析理論を検討する具体的手がかりとして,このケースを利用する.
検討するのは,転換,幻覚,象徴,抑圧,無意識,等の精神分析理論の中
心概念について,である.これらの概念は,ある事実の記述概念なのでは
なくて,フロイトの考えにもとつく説明概念である.そのフロイトの特定
の考え方にそのまま従うことをやめ,その特定の考え方をカッコの中に入
れて,事実そのものからあらたに考えなおしてみる.そうすると,フロイ
トの報告している事実はそのまま認めて,どんな別の考え方ができるか.
できるならぽ事実そのものをして語らしめるならば,フロイトがそうだと
思い込んだ筋書きと異った筋書きがあらわれてくる.それを目指しての仕
事をしてみようと思う.
ひとびとは,ひとつの事実をさまざまに解釈する.その解釈の際に自ら
の先入観や好みをもちこみ,そこに立って解釈する.歴史的な伝統,当時
の主流となっている考え方に基づいて解釈する.そのことを何人も免れる
ことはできないだろう.しかし,無自覚にその上に乗って解釈するのでな
く,事実へと問い返しながら,事実から見抜いていくこと,事実をして語
らしめようと努めることはできる.しかしながら,そう努めたところで,
純理論的には,いくっかの解釈可能性が残ることになる.そこで,今度は
考える者の選択,主体的なえらびによる方向性が,自覚的にえらびとられ
ざるを得ない.
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この稿では,一方では事実そのものを明らかにしようと努め,仮説を廃
しようとしながら,他方,なまの経験事実に立ちかえりそこから考えるこ
と,人間の高次な存在様態としての「精神」から考えること,を行なって
いる.結局ここには,ある哲学,人間存在論があるのである.
ルーシー,R.の症例
フロイトがルーシーの症例として報告している大要を述べてみる.
1892年,耳鼻科の同僚が,患者ルーシーをウィーンのフロイトのとこ
ろに紹介してよこす.ルーシーには,プディングの焦げるような臭いと
いう幻臭があるのだ.その他に気分のふさぎ,倦怠感etcの軽いうつ
症状がある.これをヒステリー症状とみて,フPイトは精神分析を行う.
プディングが実際に焦げたのを興奮時にかいだのが始まりだと,フロ
イトの問いに答えて,ルーシーはいう.ルーシーはイギリス生れの30歳
の独身の女家庭教師であるが,教え子の娘たちに料理を教えている際に,
イギリスの母から手紙が届き,娘たちがふざけてその手紙をうばって逃
げるのを追いかけているうちに,作っていたプディングがこげてはげし
い匂いがしたのだと.
その時の興奮とは何だったのか.ルーシーは,娘たちのかわいさ,そ
の娘たちと離れて故郷へ帰ろうかと迷っていたこと,それは故郷の母が
自分を呼びよせているからというわけではなくて,今の家の召使たちが,
御主人たちに自分のことをあしざまに告げ口しているからだ,と告げる.
フロイトは,それだけでなくてあなたはその男やもめの御主人を愛し
ているのではないか.結婚して娘たちの母親になることを夢みているの
ではないか,と解釈する.ルーシーは,そうだと思う,でも,私はそれ
を考えまいとして,近頃はそうなれたのだ,と答える.
フロイトとすれば,愛(性欲)の抑圧とその転換症状としての幻臭と
いう,彼の理論にピッタリの事実を得たわけである.
この愛情は,御主人から,娘たちの教育にはあなただけが頼りだと,
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ジッと見つめられたとき芽生え,それからというものは楽しい空想を描
いていた,とルーシーがいうと,フロイトは,御主人の眼差しは亡くな
った奥さんのことを想ってのものでしょうと応ずる.ルーシーはそれに
同意し,愛情は望みないものだと認める.
ここまでが分析第一段であって,フロイトは,彼の治療理論からして,
無意識の愛が抑圧から解放され意識化したのだから,症状は消えるだろ
うと期待するが,治ゆは起らず,症状はハマキの匂いの幻臭に変わる.
そこでフロイトはこの匂いの分析に着手する.前の分析のようにルーシ
ーはスラスラと答えてくれず,フロイトは半強制的暗示的な前額法(額
を手で圧し,その手を放す瞬間に,何かの着想かイメージが起るはずだ
から,かならずそれを報告しなさい,という)を用い,抵抗を排除しな
がら,次のような回想をルーシーが得るまで続ける.その回想は二段に
分れているが,つづめていえば,お客が娘たちに接吻し,主人がそれを
みだらなこととして憤激し,ルーシーの教育が悪いからいけない,もう
一度こんなことが起ったら首にする,と叱ったことである.ルーシーは
無実なのにこんなにひどく叱られるのなら,御主人は私にやさしい気持
など持っていないのだと悲しんだ,のである.この回想が想起されて次
の回にルーシーは晴々としてフロイトを訪れる.フロイトは,御主人の
花嫁になれたのではないかと想像するが,ルーシーは,別に何もあった
わけではない,きのうの朝目がさめたら重苦しいものがすっかりとれて
いた,自分は主人を愛しているが,自分ひとりで好きなことを考えたり
感じたりするのは自由ですから,という.幻臭も抑うつ気分もすっかり
なくなっており,4ヵ月後にフロイトが逢ったときも,彼女は健康で,
快活であった.
これが,ルーシーのケースの大要であるが,読者は,必要ならば,フロ
イトの報告そのものを読んでいただきたい.
ここでは,いくつかのテーマにっいての私の考察をのべてみたい.
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1.ルーシーにおいて,なぜプディングのこげた匂いが,幻覚となった
か
フロイトはこの点について,ハッキリしたすじ書を考えてはいない.彼
女は興奮した状態でこの匂いを感じたのであり,その際何らかの観念,
一主人への愛一が抑圧され,そのリビドが転換されて幻覚を産み出す
のだという.症状すなわちプディングのこげる臭いの幻覚は代理形成ある
いは象徴だという.どうしてこの臭いが象徴になり得たかということをフ
ロイトは書いていない.むしろ事実として臭いの幻覚がある.他方抑圧さ
れた一これを抑圧と考えてよいかどうかは,後で論じるが,ここではフ
ロイトの考えに従っておく一愛もしくは性欲がある.これだけでフロイ
トは,症状は抑圧された観念の象徴であるはずだという理論を適用するこ
とができる.しかし,なぜこのケースで,こげた臭いが愛の象徴になりう
るか.
プディングがこげる,ということのルーシーにおける意味として,次の
ようなことが考えられる.
(1)プディングがこげてしまったということは,失敗を意味する.
(2)この失敗は,甘い菓子ができることが期待されていたのに,こげた
苦い塊ができてしまったという失敗である.
(3)それは,お菓子を作ってあげるという主婦,少くも家庭的な女性と
しての仕事の失敗である.
(4)子供にお菓子の作り方を教えることの失敗,すなわち教育の失敗で
ある.
(5),この失敗の責任は,ルーシーにあるというよりも,子供たちの方に
あるとも思える.
この5つをまとめると,プディングがこげたことは,恋が成功して主婦
になれる期待が,実はルーシーに責任がないのに,教育の失敗と非難され,
ニガ
苦くくるしい結果に終ってしまった,ということになる.このように失恋
の姿と臭いの意味とは,実によくパラレルである.しかし,このパラレル
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さは,このように解釈することができる,ということであって,ルーシー
が,そう考えた,意識したということではない.にもかかわらず,このパ
ラレルさの発見は,臭いが愛の歴史のシンボルとなることに,ある解明を
与えうるだろう.たとえば,ルーシーが,ハッキリとワザワザ意識的に考
えたり感じたりしたのではなくても,しかしなお,姿(相ぽう的知覚)と
して意味を感じとっていた,ということがありうるだろう.これを事実に
おいてたしかめるには,ルーシーの幻臭という体験事態をもっとくわしく
知ること,ルーシー自身が自らの幻臭経験の意味の構造を解明できなけれ
ぽならない.症例報告にはそれが与えられていない,フロイトがこの探究
を行っていないので,われわれは,この解釈を可能性として残しておくほ
かはない.
2. フロイトのいう転換とは事実か
フロイトのこの症例研究の中心は,ヒステリー転換にある.すなわち,
愛情の抑圧が幻臭を惹き起すということ,この心理の身体(生理)への転
換こそがフロイトの新発見なりとの主張の中心である.この(精神分析)
理論は,愛情を抑圧から解き放すこと,意識化,によって身体(生理)症
状が解消できたという治療事実を理論的に記述したものである.ここで,
愛情といら心理的事象が,幻臭という生理的事象に転換するということを
納得するために,心理・生理にまたがるリビドと名づけられたエネルギー
を仮定し,愛情はリビドを伴っており,愛情という(意識的な)気持ちは
なくなっても,リビドは存在し,生理的な抑制や興奮をつくり出すと考え
る.これがフロイbの理論である.
ここで,幻臭が生理的事象だということは,理論的想定であって,報告
によれぽ,幻臭はまさに幻臭という心理的事実なのである.幻臭が心理的
事実であることを認めると,もはや転換という考え方は,心理一生理の転
換ではなくて,心理一心理の内容転換でしかないことがわかる.ここで,
心理一生理の転換に転換という用語を残して,心理一心理の場合には,
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「転化」ということばをあてることにしよう.
私の立場はこうである.心理と生理との関連を強調するのは最近の動向
であり,心身症の研究などは,その動向を促進している.しかし,心理は
心理としてうけとっていこう,と私は思う.フロイトのヒステリー研究に
あらわれる,運動麻痺,知覚喪失,幻覚,は心理現象である.運動や知覚
は,生理器官を通して起るものであるけれども,だからといって運動や知
覚が生理現象であるのではない.
現象としては,ルーシーは,こげた臭いを感ずるのである.このとき,
中枢神経にこげた臭いに対応する興奮が起っている,という生理の問題に
おきかえてしまう必要はない.むしろそのような置きかえで説明を完了し
てしまった顔をしない,というのが現象学の立場である.現象をそのまま
に,それとしてよくみきわめるのが現象学である.
と,ルーシーは,こげた臭いを感ずる。そして外界にこげた臭いはない.
知覚が外界の認識(だけ)だと仮定すれば,これは異常なことだと考えら
れ,幻臭だとされる.しかし,知覚とはそもそも何であろうか.知覚の特
殊な様態である幻覚は,知覚の成立と同じ原理で理解されるべきではない
だろうか.
ルーシーの場合に幻覚といわれているのは臭いがするということだが,
これは単に臭いが感じられるという感覚で,何かがこげているという判断
ではない。たとえば,残像が見えるのは誰でもあることだが,その場合外
界の実在として見えるのではなく,自分に主観的に残像が見えるので,外
界には何もないということを知っている.耳鳴りも同じことで,外で音が
しているのをききとっているのと,それはちがう.直観像の場合も同様で
外界に自分の見ている像が実在しないことは本人がよく知っている.
フロイトはルーシーが主観的なにおいに悩まされていた,と記述してお
り,幻覚であるともいっている.ルーシーは,感覚がおかしくなってにお
いがしてしまうが,別に外界にこげたものがあるのだとは思っていなかっ
たにちがいないから,術語でいえば,幻覚よりは幻覚症というべき体験で
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ある.
3.知覚と幻覚の統一的理解
知覚がどんなものかを誤解せしめるのは,写真のメカニズムと知覚のメ
カニズムとが同じであろうと想定する臆説はでないだろうか,写真機は,
レンズによってフィルムに像を生じ,フnルムに化学変化を起こさせる.
眼の生理構造はたしかに写真機のそれと似ている.フィルムにあたる網膜
と,さらに大脳の視覚中枢までをも含めて,生理現象からして知覚現象を
説明しようとする傾向が心理学にはある.
知覚には,物理的生理的条件が必要であり,光の眼への到達,網膜の化
学変化,神経伝導,それらのどれを欠いても外界の知覚は成立しない.し
かし他方,夢や幻覚や直観像は,それらがなくても,知覚(すくなくとも
知覚様の像)が成り立つことを経験的に明らかにしている.
外的刺激に基づく外界の知覚も,内的なイメージや記憶像によって,姿
と意味をもった知覚による.初めて目の開いた盲人の知覚は,この記憶像
やイメージを欠いているが故に,こんとん知覚でしかあり得ない.
外界の知覚像というものも,内的な像との関わりの中で,姿と意味をも
つ.だからチラと見た顔や字は,内的なイメージの補充を受けて,自分の
知った顔や字として見えてしまう,というような現象も起ってくる.知覚
というのは,内的イメージ中心にいえぽ,外界の刺激に制約されながらの
内的イメージの実現であるし,内的イメージに問いかけられて,その通り
と姿をあらわす外界の存在者なのである.
幻覚は,直観像に似て内的イメージが相対的により強くなった知覚であ
って,外界の存在者の知覚と原理において断絶してはおらず質的に違った
ものなのではない.
においについての体験は次のようににおいにっいての“思い”から,外
的実在としての“幻覚”へと移行している.
(1)におい,ということを思う。においの一般的観念をもつ,においと
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いうコトバを使って話したり書いたりする.しかしこの際,においを感
じていはしない.
(2)におい,を弱く表象する,こげたにおい,香水の香り,というよう
に比較的個別化したにおいを思い,同時にぼんやりしたにおいの表象を
もつ.そのにおいが,比較的イキイキと思い浮べられており,うっすら
とした感覚様の感じを伴う.
(3)においを強く表象する.においの個別化は強く,あの時あそこで感
じたにおい,というところまで行きうる.これが強くなれぽ,よいにお
いを思って気持よくなる.強烈ないやなにおいを思い出して軽いハキケ
を感ずることもある.実際に今においがしているのではないが,におい
がしているような気分により,においのイメージは相当はっきりしてい
る.
(4)においを感ずるが,客観的ににおいが実在するとは思わない.表象
が感覚化するともいえる.客観対象のない感覚という点で幻覚といえば
幻覚である.ルーシーの幻臭がこれに当る.正確には幻覚症とよばれて
いる,直観像もこれであるが,客観的には実在しないのだという判断が
ハッキリとある.
(5)においを感じ,しかも外界にその匂いが実在すると信じこむ.これ
が真性幻覚とよばれる.このときは心理学の用語としては,感覚という
より,対象の知覚ということばが使われる.
この(1)∼(5)の変化は連続的であり,(1)においてもほんのうっすらとした
感じは伴っている.大人ではこの各段階は比較的はっきりと分化し区別さ
れるが,子供,未開人,もうろう状態等では,未分化であり,表象はすぐ
幻覚になる.逆に幻覚も当然のこととして体験され,さほど奇異の念はも
たれない.
さて,ルーシーの場合,彼女の幻臭は,真性幻覚ではなくて幻覚症であ
り,それは観念,表象と連続していて,その時の未化分な心性から生ずる,
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と考えられる,そのときの未分化な心性とは,フロイトが興奮と記述した
状態にあたるものである.
この未分化さ,あるいは未分化な状態におちいりやすさ,が,ヒステリ
ーの一つの特徴であることは昔からいわれているし,クレッチマーが原始
機制の発動ということでヒステリーを理解しようとしたのも,この未分化
さと関連して考えられることである.
フロイトは,この未分化という概念を捨てて,抑圧,転換という考へと
進んでいった.フロイトの共同研究者であったプロイエルは,類催眠状態
という,恐らく未分化な心性,未分化な自我状態と同じ内容をもった概念
を考えていた.この未分化という概念と,抑圧転換という概念は,別に矛
盾するものではなく,前者が状態や働き方の質を言っているのに,後者は
働きの種類や内容を指しているのである.もともと,どちらか片方で片が
つくことではなく,両系列の概念は協力しあって事象解明に当るべきもの
である.この後もフロイトは,内容・種類主義で進んで行き,状態・質を
無視する傾向が強い.
ヒステリーの治療法としても,この両系列があるわけで,フロイト流に,
まさにこの症状を起した内容,すなわち個別の記憶,欲求,抑圧を追求し
分化せしめれば,この症状は消えていくであろうが,ヒステリー症状を起
しやすい心性は残ってしまう.このパーソナリティあるいは自我状態の未
分化さが,成熟によって分化すれば,ふたたびヒステリー症状を起さなく
なる.この両系列が,症状療法と根本療法に当るわけだが,そうかといっ
てこのふたつを機械的に分けることは事実にそぐわないので,一つの症状
の洞察は成熟をよび起す可能性をもっており,一ルーシーの場合は実際
にそのことが起っているようである(後述)一成熟を起させるといっても,
具体的にどうしたらよいのか.現在では,グラッサーのリアリティセラピ
イとかフランクルのPゴテラピーが,もっぽらこの方向からの働きかけで
あるように見える.
本題に戻ろう。フロイトの理論のように,抑圧されたリビドが生理過程
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を起して,外界の知覚の際と同じような神経興奮を起させるという考え方
がたとえその通りだとしても,それとは別系列の,あくまで心理学レベル
の考え方,あるいは既成の生理学理論をもちこまずに,現象そのものをた
どっていくと,ヒステリー症状,具体的にはルーシーの幻臭はどのように
考えられるか.
いままでのところ,1において,臭いとルーシーの心情の象徴関係をの
べ,2,3,で知覚が外在する実在と心的イメージとの両老を契機として
なりたち,未分化な心性においては心的イメージが実在と混同されうるこ
とをのべた.
次にこの問題をもう一歩進め,未分化な心性における内的イメージと外
的知覚の混同について考えてみる.
4.幻覚,妄想における自我主体の判断
前節で,未分化な心性では,内的イメージ表象が外界知覚として体験さ
れるという現象事実をのべたが,未分化ということぽは,一応の様子を伝
えるものの,具体的なメカニズムの分析をあいまいにもする.ここでは,
未分化は未分化としても,そこに起っている内容をもう少し考えてみよう
とする.その際に解明のいとぐちを与えるのは,意識そのものではなくて,
意識をそのような意識として構成する働きである自我主体の態度,考え方,
判断のしかたである.
ヒステリー性のつんぽで,私は何も聞えなくなったと患者がいう.何に
も聞えないんですね,と医老がいうと,ええそうです,何もきこえないん
です,と答える,この場合,聞こえないのだという思いがあるのであるこ
とは明らかである.
ルーシーがこげた臭いがする,というとき,こげたにおいがする,とい
う思いがあるのである.この思いが,興奮すると,起ってくるのである.
臭う,ということと,臭いがすると思う,ということとの区別はどこに
あるだろうか.健康な人ならば,臭うということはまず臭いに襲われる,
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そして,その臭いが本当に(外在的に)しているかどうか,たしかめる態
度をとり,たしかめる行為をする.
そして臭いがしていることがたしかまる.臭うAということに襲われて,
それから,臭いがしてるB,と思う,この経過が逆になって,臭いがして
ると思うことB’で,臭いがするA’気がする.この臭いがするAノは先に
のべたAと同じ「見え,ニオィ」ではなかろう.Aよりももっと観念的で
外界に実在を確かめる態度で,たしかめられたものではない.だから,今
もにおいがしますか,と間われたときに,さてと,匂いをかいでみる,外
在の臭いをたしかめる,ことをするならば,今は臭わない,ことが必ずわ
かる.そして多分,今は興奮をしていませんから,と言い訳するだろうが,
興奮してないからというよりは,外界に向って臭いをかごうとする態度に
なっているから,なのである.
ヒステリーの患者の症状は,人が見ていないところでは起らないといわ
れる.それを仮病だとか,演技だと考えることは,必ずしも当ってはいな
い.人がそばで見ているという事態では,その症状があると患者は思って
いる.あると思ってもらわねば困るし,あると主張したいし,何よりもあ
るはずであるが故に,あると思う.
この辺の消息は,妄想においてもあきらかである.たとえば,対人恐怖
のある患者は,自分が人を気にしていることが相手に分られしまうので,
いっそうこちらが気になる,という.相手が分っているのかどうか疑われ
もするが,しかし,たしかに相手は分っているのだ,と主張する.その際
面白いことは,では,その相手がどう思っているかを想像してみてほしい,
と問うと,この想像がどうしてもできないのである.すなわち,自分が相
手にわかられているのだと思う,確信をもつことはできる.しかし,外在
する相手がどう思っているか,すなわち自分の観念ではなしに相手の方へ
と思いを移すと,相手の思いというのが,自分の観念的確信に対応するも
のとして思い描けない,あり得ないことがわかるのである.これが先に述
べた,幻覚症における臭うと思いながら,しかも外在的匂いを欠いている,
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という事態に相当する.
ここのところは分りにくいかもしれぬからもう一度説明してみよう.な
ぜ分りにくいかといえば,文章を読むときは,読むに従って思いはできて
いくが,その思いに対応する外在的な事実を構成しないですますことが多
いからである.
たとえば,全てのものが全部二倍の大きさになる,と書くと,一応その
ことがわかる気がする.しかし,外在の事実としてクッキリとそのことを
思い描いてみようとすると描けない.全てのものが二倍になる限り,二倍
になったことは分り得ない.すなわち,全てのものが二倍の大きさになる
ということはそもそも無意味であるのだ.物さしも二倍になるし,眼から
の距離も二倍になるから視角は変らないし,背景も自分自身も二倍になる
から,結局二倍になることは,思えはするが,ないのである.時間の進み
が倍あるいは半分になるというのも同じで,我々はそれに決して気づき得
ないし,それ以上に,そのことはそもそも無意味なのである.この例は,
われわれの思いというものが,観念的ないわば内在的な思いと,外在的な
うけとりとの,異った二つの秩序に分かれ得ることを示している.
判断・意見の領域にっいては,このことは何も力を入れて説かなくてよ
いことなので,人間の歴史が,外在の事実に合わない意見や判断,学説や
主義や迷信に満ちていることは,あらためていうまでもないことであろう.
しかし,知覚や実在判断の領域でも,幻覚や妄想として,同じことが起
る.人間の知覚や実在判断の構造からして,そのことは当然起るのだとい
うことを,私はのべているのである.
知覚や実在判断の構造といったのは,大まかに動物のレベルと人間のレ
ベルと,二つに分けてみた方がわかりよい.動物の場合も,知覚や実在判
断は写真のように外在するものの全部を平等に知覚判断するのではない.
動物の欲求や本能に応じて,ほしいもの緊急なものはクローズ・アップさ
れ,関心のないものはぼやけて“地”(背景)になっている.これらにつ
いては,ゲシュタルト心理学が研究を重ねている.地理的(客観的)空間
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とよぼれるものと区別された,生活空間が動物中心に形成される.
その点で人間も同じであるが,知能,思考とよばれる機能が高度に発達
している人間では,もうひとつの抽象世界,思考された観念世界がこれに
加わる.抽象概念や思考された概念,イメージなどは,対応する外在的事
実とピッタリは一致せず,外在的事実を欠いていることもある.あると思
うことと,あることとは別であり得る.あると思う,信ずることが,外在
的事実なしに,知覚や実在判断を生ずるのである.
夢やヒステリー症状や催眠状態や幻覚妄想はこのことを事実をもって示
している.その際問題なのは,そのような観念やイメージを生じせしめた
契機である暗示や欲求が何かということと,その観念やイメージを,外在
的事実の知覚や実在判断と思いちがわせる,すなわち幻覚や妄想として,
それが実在だと思わしめる判断主体のあり方(自我状態)なのである.フ
ロイトは前老を研究して精神分析学を作ったが,彼はもうひとつ重要な主
体のあり方,自我状態の研究を十分には進めなかった.彼は,主体,自我
を暗黙のうちに客観的なものと仮定していた.当時の理性概念を彼は信じ
こみ,主体,自我は理性的であると思い込んでいたのである.となると,
異常が起きるのは,欲求の方が特別である,生理現象の方がその欲求によ
って特別な事態になっている,と考えることになった.ここで主題とした,
転換という概念はこのようにして生まれたのである.
フロイトがこのように,自我(主体)を信用するとなると,勢い異常の
原因をそれ以外に求めることになる.そして意識を理性的自我と同一視す
るとなると,意識以外の何か,に原因を求めることになる.しかもこの意
識以外の何かは,意識の内容がそこに移されていながらも意識されておら
ず,また生理現象をも起こしうる性質を持った何かである.これを無意識
としてフロイトは構想するに至ったのである.
無意識へと抑圧する方の働きは自我であるが,でき上ったフロイトの理
論では,これも無意識の働き,自我の無意識部分の防衛作用と考えられて
いる.しかし,このルーシーの場合は,ルーシーが“考えまいとし,そう
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できるようになった”,とのべているように,意識的な努力なのである.
ルーシーのケースにかぎらず,「ヒステリー研究」ではフロイトはこの種
の意識的な抑圧の例を多くあげている.ここでは少くとも,自我の態度,
人格の方に問題,異常の原因があると考えねばならぬ事実があるのである。
もちろん,自我主体は,っらいことを忘れようとする,考えまいとする,
人情として当然のことをしたとも考えられるが,それは自己の真実を掩い
ゆがめることであり,また予測できないことも当然としても,そこからし
て自分が異常におちこんでいく端緒を自ら開いてしまったのである.
5.意識の直接与件と判断・知覚.無意識の問題
無意識という構想(概念,仮定)は精神分析の基盤である.私は以前か
らこの構想になじめない.意識の働きの基盤として,また,意識内容の材
料として何かを考えるのは,おそらく必要であろう.しかし意識と同じよ
うな性質をもったしかも意識されない意識を考えるということ自体が,心
中にもうひとり小人が住んでもいる,とでもいうような,お伽話的発想に
思える.また精神分析が意識と呼び解ったものとして過してしまっている
意識とはどういうものであろうか.意識と無意識という考え方は,私には
なじめず,むしろ,C.R.ロジャースの経験と概念という考え方の方が事
実に合うように思われる.しかしまた,精神分析学者のひとりである,R.
A.サンディソンの次の文が正確であるとすれぽ,われわれは無意識の意
識されないという特質を,さほど厳密に考えずともよいことになり,後に
のべるような,「ワザワザの経験」という概念の方がより正確であろう.
「人間はその未開状態では,ちょうど幼児や老人,また女性のように,
そして今日残っている少数の未開人種のように,ほとんどもっぱら無意
識レベルで生活していた…….意識とは,個性化過程の一部として,人
間のなかに発達してきた合理的な,事実に即した事物説明の能力を意味
する.」
老人や女性が無意識レベルで生活している,という説は見過すにしても,
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ここにのべられている意識の定義は,理性(悟性)と呼ばれる働きをのべ
ているので,いかにもせぽまっているために,これではなるほど人間が無
意識を沢山もっていることになってしまう.これでは概念があまりにもル
ーズに使われている.フロイトは意識・無意識という概念をハッキリ考え
ずあいまいに使っているが,しかし彼の無意識の概念は,意識されていな
い働き,という性質をキチッと保っている.フロイトが無意識という概念
を使って説明しようとした事象そのものを,事実に即して別様に考えるこ
とができるはずである.私の考えはこうである.フロイトは,普通の状態
においては人間は意識的だとしておいて,意識できない心(無意識)が別
にあるという.私の考えているのは,普通の生活で人はいちいちハッキリ
と意識している一わざわざそうだと思っている一とは限らない.むし
ろ,はっきりわざわざそうだと思うことなくして大部分を過しており,そ
の中の思うことが必要なことだけをワザワザとりあげハッキリと畢うので
あると.
この部屋には,音や匂いや,色や形や,物や時間や距離やらが無数に充
満しており,それらを私は無数に感じているだろうが,何か特別に対応し
なけれぽならぬことが起らぬかぎり,特に意識する,そのことを思うこと,
はしない.そのものを特に意識するには,そのものに向って(志向性)態
度することが必要である.
ついでにいえば,現象学でいう志向性も,このワザワザの意識について
しか言えることではない.
そもそも考える,ということは,自然な生活の流れに身をゆだねるので
なく,あることをワザワザとりあげている,ということである.知覚する
とか,想い出す,といわれていること全てが,実は,ワザワザの知覚,特
に注意を向けた想起をだけ問題にしているのである.ワザワザ意識注意
を向けた対象でない意識や対象にっいて語ったり,報告することはできな
い.なぜなら,語り報告するときには,その対象をワザワザ意識してしま
うからである.量子論における不確定性と同じことがここで起っており,
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観察することで観察対象が動かされてしまう.ただ量子論と異なるのは,
観察者と観察対象とが分れておらないので,観察をするという態度,気を
つけるという態度そのものが,意識を,観察し気をつける意識に変えてし
まうのである.古くW.Jamesが,自分の感情を観察することは十分に
はできないといったあのことが,ここでくりかえしいわれているだけであ
る.
知覚や想起や感情は,自然に与えられ起ってくるものと,ワザワザとた
しかめようと見,想い出そうとして想い出し,浸ろうとして感じる,意図
的なワザワザのものと,二種類がある.生きた生活現実では,自然に与え
られ起り特に意味なく過ぎさっていく全体の流れの中に,島のようにワザ
ワザの知覚・想起・感情が行為されている.心理学で研究するそれらは,
知覚で代表していえば,ワザワザ見定めようとするときにあらわれる知覚
である.そして,ひとは自分でもそういう態度であらわれる知覚が普通の
知覚だと思い込んでいるから,心理学の知覚研究が,知覚の特殊な一様式
を研究しているのであることに気附かない.ひとは生活のなかで,見定め
る知覚を必要とする,逆にいえば,必要だからこそそういう態度をとりそ
ういう知覚を得ようとするのであるから,この知覚に優位を与え,それこ
そが知覚だと思いやすいのである.しかし,この種の知覚が,生きた自然
の流れの知覚の全部であると思うのは誤解である.
さて,幻覚の問題にもう一度もどれば,幻覚は,必ずワザワザの知覚で
あるに相違ない.普通のワザワザの知覚は,生きた自然の流れの知覚の中
から,その一つがワザワザ注意されたしかめられてワザワザの知覚となる.
ところで,幻覚は外在する事象の刺激から起るものでなく,内在的な欲求
やイメージから起ってくる.前にのべたように,催眠暗示によって知覚が
作り出されるのと同じに,そしてまた夢で知覚が作り出されるのと同じに,
いわば内的状態からだけで,外在刺激を欠いたままに,知覚が作り出され
るのであろう.では,内的状態と呼んだものは何か.それはフロイトが抑
圧された無意識とよんだものであろう.ワザワザの知覚へと作り出す働き
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は何であろうか.フロイトは,エス内容それ自体がエネルギー(リビド)
を持っていて,自我の抵抗のすきまがあれば,意識へと自分で出てくるの
だと考えている.今のところわれわれは,それがマイクロ・フィルムの倉
庫のようなものか,あるいは電子計算機の磁気ドラムのようなものかわか
らないが,莫大な量の記憶の貯えが何かあり,また判断がその線にのって
行われる公式のようなものがたくわえられていると考えざるを得ない。そ
れらのたくわえを無意識とよぶのならば,無意識の存在を承認しないわけ
セこをまし・カ・なし・.
しかし,フロイトが無意識とよび,意識と画然とした区別をしたものは,
先に生きた自然の流れの意識(知覚)と呼んだものの中に,組み込んで考
えることができるのではないだろうか.ルーシーがかぐ“プディソグの焦
げたようなにおい”は,ワザワザの意識としては客観的な,まさににおい
でしかないにおい,として対象化されているが,生きた自然の流れの中で
は,“悲しい重苦しいにおい”として体験され,そういう情感として,あ
の失恋の悲哀とくやしさと通じているのではないか.失恋の悲哀とくやし
さをまた,ワザワザの意識にもたらすには,それなりの志向性と明瞭化の
努力が必要であるにしても,である.それは,ルーシーのうつ状態とよぼ
れた,あの悲哀と絶望の情感とひとつの情感である.生きた自然の流れの
意識では,こげるにおいと悲哀感とは切り離せず,においそのものが悲哀
のうちにかがれ,かがれたにおいは悲哀感でしかかがれていない.しかし,
ルーシーの自我主体は,その如実の純粋経験の中から,対象的に客体化し
抽象化した,情感をとりおとした“プディングのにおい”だけをしか意識
しない.
さきのヒステリー性のつんぼの患者は,生きた自然の流れの意識として
はたずねかける医者のことぽを満足して受けとりながら・それとは別に・
自分はきこえないのだという信念を固執している・
対人恐怖の患者は,ひとに自分を知られるこわさから・ひとが自分を分
ってしまっているのではないか,と考え,その推測考えが,ひとはもう分
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ってしまっている,という観念をうみだし,その観念が強力に働いてワザ
ワザの意識知覚までも作り出しているが,それだけ生きた自然の流れの
意識とは離れてしまっている.このように,生きた自然の流れの意識から
離れる度合はさまざまであって,情感のとり落し,意識そのものの否認,
新たなワザワザの意識のねつ造へと進んでいる.
しかし,私の経験では,完全な分裂病性の妄想であっても,それが現実
認識ではなくて,自分が推理し想像したものであることをわずかながら知
っており,おちついたとき,よくなったとき,ひとに主張しなくてもよい
ときは,それを認めるものである.
治療法としていえば,たとえば森田療法は,理知的な想像,推理,一見
合理的と思われる対策の活動を悪智とよんで封じ,生きた自然の流れの中
に,ひとを戻すことをよくしている.
6.病気の責任性,道徳の問題
4。の終りに書いたように,中期以後のフロイトの考えでは,自我の防
衛機制は無意識であり,それ故に抑圧についてひとは無責任である.それ
以外にも,無意識であるところの,超自我,エス,あるいは起ってくる感
情にもひとは無責任であることが,たびたびその著作の中で強調されてい
る.フロイトの考えるような合理的理性的な部分こそが自我であり人格で
あるならぽ,当然そういうことになる.無意識は,その人格を法外にもお
びやかす他者,自我主体の自由にならぬ,むしろ自由をそこなう‘‘もの”
的なもの,となる.そのような観点も可能なのかもしれない.しかし,臨
床の事実は,むしろ自我そのものが偏っている(ego・distortion),あるい
は人格そのものが貧困化し歪んでいることを示す方が普通である.自我主
体や人格の歪みが,防衛機制を用いさせ,思考のゆがみ認知のゆがみとし
て具体化しているように思われる.
先にのべたように,「ヒステリー研究」の時代のフロイトは,このこと
を認めていたように思える.たとえば,ルーシーのケースをめぐって,フ
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ロイトは次のように書いている.
「一抑圧や転換という ヒステリーを産み出す機制は,このように一
面においては道徳的臆病の行為に対応し,他面においては,自我の意のまま
に動く防衛装置であることを意味している.症例によっては,ヒステリーを
産み出すことによって興奮の増大を防衛することが,その時でもいちばん
目的にかなっていたと認めざるをえないような症例も少なくはない.しか
し,もっと多くの道徳的勇気があったら,その人にとって利益になったであ
ろう,という結論に達する場合の方がさらに多いことはいうまでもない.」
いままでにのべてきたように,フロイトが無意識の働きと考えるところ
を,自我主体の働きと考える私の理論では,いっそう道徳的勇気が重要な
ことになる.それは,まず真実を真実と認めること,真実を掩って虚偽に
生きることをしないという道徳的勇気である.第二に,人間的な生きた自
然を生きる,観念と抽象の世界に飛び出さずに,情感と価値の現実世界に
生きる,ということである.
人間は往々にして,自己の生の現実,実存から離れて,客観的普遍的な
抽象世界を構想する.近代科学はこのような構想から生まれ得たのである.
教育が科学的思考を発達させることに主眼を置いていることにも一因して,
ひとは,自然から離れる,というよりも,自己自身,主体性から離れた思
考,意識(先にワザワザの意識とよんだ意識)をもつようになった.
フPイトの精神分析理論も,抽象概念を先においてしまい,人間が現に
生きている情感や意識(生きた自然の意識)をそのままひろいあげないと
ころがある.近代以降の学問というものが,そもそもそのような概念化,
対象化によってなり立っているという事情は,歴史的全体なので,フPイ
トひとりを責めることはできないのであるが.むしろ,フロイトが,あの
ような抽象概念を駆使して,そのかぎりではよく人間の心の,情感の世界
を探究し得たことに,感謝すべきでもあろう.
フロイトが,ヒステリー患老の道徳的勇気の欠如とよんだのは,自分の
自然な感情の事実を認めないこと,合理的理性的にそれを処理しなかった
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こと,単に抑圧ですまそうとしたことである.これを一方からいえぽ,合
理主義・理性的であることのすすめ,ともとれるが,反対側からいえぽ,
自らの自然,情感,価値(価値は,すき,きらいから始まり,尊い,きよ
い,聖なる,までにいたる,感情,感動である)にひたり,それを生きる
こと,である.
合理性,理性,は,それが生きる現実,価値と感情から切りはなされた
先のサンディソンの定義のような「事実説明の能力」であって,感動と主
体的自発性ではないとすれぽ,合理主義,理性主義は,人間の生をしぼま
せゆがませ,精神障害のもととなる.それは先にのべた,生きた自然の流
れとしての意識を無視し,ワザワザの意識を対象的(非主体的),普遍的
にのみ作りあげることによる.しかもこの意識合理性は,ひそかな閉じ
た感情に実は支配されてしまうことにもなりかねない.
思考は現実を離れうる能力である.目前に現存しない過去を想い,未来
を想像し,遠隔の地のことを考え,ありえぬ仮構をも構想しうるのが人間
の特性であり,人間の偉大さもここにあると同時に,悲劇の種もここに潜
んでいる.
森田療法の理論をここでまた援用すれぽ,あるがままの事実から離れて,
悪智をめぐらし,理想を描き,期待不安をもち,思想(思考)の万能とい
う迷誤の中であがくことが神経症のもとであるという.ここであるがまま
の事実というのは,単なる客観的事実という知性の仮構物でなく,純粋体
験の事実,美も情も備えた人間と交流する(自然)世界の事実である.こ
ういう世界の中で生き生きと生きる人間の心を,純な心と森田はよぶ.悪
智と理想と思考がひとをこのような生きた調和から引き離し,いのちを失
った神経症者は故郷を喪失して,凝固した計算理性の砂漠をさまよう.
ミンコフスキーが「現実との生きたつながりの喪失」というのは,森田
のいう純な心の喪失であり,病的幾何学主義へのたい落である.
科学的幾何学的客観世界のことをここで長々と描こうとは思わない.た
だ,世界現実から,対象をワザワザとり出し,実感や情をとり去ってその
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対象だけのことを特定の観点から調べ考えるという態度に対応して他者を
あらわせしめる,そのように私という個人性を捨象した世界記述であり,
そのようなものとして対象を思念することである.逆にいえば,科学的客
観的世界は,ひとの生活現実を作る一つの契機にすぎず,生活現実では価
値や情感やをひとつひとつ全体の対象にかぶせて自分をその中心として,
自分という主体から世界をみ,感じて,その中で暮しているのだといって
もよい.
この生きた現実を恢復させるのが心理療法の仕事である.その点で,フ
ロイトの理論はどうであれ,フロイトのルーシーの場合における仕事はま
ちがっていない.
人間の道徳とは何か,人間の責任はどこにあるか,と問うならぽ,人間
の人間的な生,生きた現実を損わず,満たし,生長させ,高みへと至らさ
せることだといえるだろう.
そして,満たし生長させ高みへと至らせるということは,単に現実を快
復すること,自然に戻ること,では終わらないとすれぽ,ここで次のこと
が問題になるだろう.
7. アイデンティティの問題個性と精神性.
ひとは,この世で生きる中で,自分のする仕事,自分が関与する事柄,
自分の果たす役割を決める.シャーロックホームズは,自らを探偵と定め
それになり,それを維持する.アイデソティティとそれは呼ぼれる.それ
は自然に任せて,なりゆきにまかせてそうなったというよりは,自ら選ん
だ道である.シャーロックホームズは,地球の公転の事実に関心をもたな
いどころか,ジャマな知識としてそれを忘れてしまおうとする.彼におい
ては,いかにも撰択がはっきりしている.全ての教科でよい点をとろうと
する優等生という現代の人間像とは,はっきりことなっている.彼の周囲
にある全現実の多くは無視され,彼の生活にとって意味あるいくつかだけ
が深くコミットされる.しかし彼の生活はまだ精神的とはいえない.彼の
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仕事は結局犯人をつかまえるという現実的事実に向かっているからである.
彼がそれをめざし,しかも現にそれができているならば,彼は精神障害に
はなりようはない.なるとすれば,思うほどの事件のない退屈と,ヒマつ
ぶしのコカインとのためである.
ひとがこの世で生きるには,動物のように本能で十分ということはない.
世の中の複雑な事態の中で,社会一般の生活のし方を身につけるだけでな
く,まさに自分ひとりの生き方を創造していかねぽならない.世襲的な固
定的な生き方が崩れて来た現代では,そのことは特に顕著である.
ルーシーは,イギリスから離れてひとりウイーンで暮している.そして
インテリゲンチアであり,独身の職業婦人である.御主人と結婚して家庭
に入れぽ,そこには依存対象もあるし定まった主婦の座があった.ルーシ
ーはそのような安定を求めたのかもしれない.しかし,ルーシーが外国で
の独身のインテリ職業婦人という生き方を,そもそもどうして撰んだのか
われわれは知らないが,それを彼女自身が撰んで生きて来たのだ.失恋し
た彼女は,もう一度もとの生き方へ戻っていく.もしかしたら,家庭に入
ろうかというのは一時の気の迷いでしかなくて,ルーシーは自らの生き方
を相当はっきりと決めていたのかもしれない.アイデンティティを維持し
ていくこと,という点から見れぽ,このことは相当重要なのだが,フロイ
トは衝動論に立っていたから,この点にっいては思い及ぽなかったのであ
ろう,特別の言及はない.しかし,ルーシーのなおり方のきっぱりさ,諦
念の持ちようからすると,先の推測は多分当たっていようと思われる.
ひとがこの世に生きる生き方を定める,っまり,何を価値あることとし
て求め,何を自分には無意味なこととして無視するか,これがハッキリと
確定し実践されれぽされる程,生まれっきの性格なぞというものを超えた
個性を彼は持つ.いくっかの迷い,いくっかの苦難に際しての身の処し方の
危機にさらされて,その中でひとつの方向性を撰び価値を守ってくればく
る程,だんだんと彼は堅固な生き方を作っていくし,その観点からの,自
分の世界解釈を統一していく.世界への被投的投企とよばれる,生き方が
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確定していく.このようにしてして高度に作りあげられた世界解釈と生き
方は,精神とよぼれる.精神は必ずしも一個人によって作られずとも,一
民族の歴史の中での形成でもよい.しかしそれが単に生活習慣として同一
化されるだけでなく,まさに精神として成立っためには,一個人における
苦難を通しての確立が必要であろう.
精神は,本能衝動理論や欲求理論を超越している.ルーシーが考えるこ
とと感ずることの自由を宣言するとき,それはもはや精神であると,私は
言いたい.
心理療法には,恐らく二っの目標を区別できるだろう.一方は本能満足
や純な心を含めての,自然への還帰である.ロジャースの経験主義もこれ
に属する.他方はフランクルのnゴテラピーを代表とする,精神の確立で
ある.
ルーシーとの最後の面接で,フロイトは花嫁になったのでは,という衝
動満足による治ゆを推測する.そのようなフロイトの治療にもかかわらず,
先にのべたように,ルーシーが獲得したのは,精神のアイデンティティと
自由であったようである.
つけ加えれぽ,意味と無意味の確定,価値と生き方,被投的投企におけ
る態度の確立ということは,プラスの意味をもつとは限らない.頑固な歪
んだそれもある.神経症者や精神病者をこの点から見ることもできる.分
裂病者はこの試みにおいて手ひどく失敗した者であろう.彼等はこの世の
事実性を超えた意味の世界を恣意的に追求し,事実性をも変造した世界解
釈を,苦しまぎれに重ねあげねばならぬ苦境に自分自身を追い込んでいく
者と考えられる.この点については予想だけに止めて,まとめに入る.
7.ルーシーのケースの再構成とまとめ
今まで述べてきたことをまとめ,いくつかの追加も加えながら,ルーシ
ーのケースを再構成してみよう.
ルーシーの症状がどのようにして起ったかにっいて,フnイトの抑圧一
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転換理論に対して,人格もしくは興奮時の心性の未分化さを考える必要が
ある.さらに,抑圧の反対に,とりおとしを私は考えている.というのは,
ルーシーは,興奮時にプディングの焦げる臭いを嗅いだ時以来,その悲しさ
とくやしさを失恋の悲哀とくやしさと二重にダブらせて体験したのであろ
うと想定する.しかし,彼女は,悲しさとくやしさを考えること,感じる
ことをやめようとしたが故に,ハッキリと(ワザワザ)意識するのは,情
感を失ったところの,焦げたにおいだけにしてしまった.逆にいえぽ,フロ
イトに失恋の悲しみを意識化させられたのちは,彼女は両方ともを悲しく
くやしい事件として,関連して想起し体験したであろう.もうひとつ,彼
女の症状が成り立ちつづいた理由として,彼女の執着の強さ,空想性が強
く現実的な断念をしないというヒステリー性格を,つけ加えねばなるまい.
そもそもこの事件全体は,御主人に見つめられて以来,彼女が愛され結婚
するという空想にふけった,というところから出発しているのである.こ
の,事実にしっかりと基づかぬ空想に走ることができるという性質は,逆
に,考えるのを,空想するのを止めようとすれぼやめられるということ,
フロイトのいう抑圧が可能であるということと表裏一体だと思われる.
さて,このようにして症状の起ったルーシーは,耳鼻科医の紹介で,フ
ロイトのところに廻されてくる.このことは,ルーシーがどれだけ精神療
法へのモチベーションを持っていたかの疑念を起こさせる.ルーシーの精
神分析への自発性が少なかったとすれば,フロイトの分析のしかたは,む
しろ適切であったかもしれない.
というのは,フロイトはルーシーの人格を問題にするのではなく,ルー
シーの悲しみやくやしさをあらわすうつ状態をも問題にせず,対象化され
客観化された幻臭という症状の分析に終止しているからである。ルーシー
は自らの情感にふれることなく,客観的事実の想起説明をすればよいとい
う,楽な入口から入って行けたのである.しかし,分析はたちまちに,失
恋の悲しさにまで届いてしまう.ここのフロイトの進行はみごとである.
しかし,ルーシー側からすれば,あまりにも早期につらい感情にまでふみ
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こまれたのであるかもしれない.それから以後のハマキのにおいの分析が,
必ずしも楽には進まなかったのは,ルーシーのこうした抵抗が働いていた
からと考えられる.しかしともかく,意識化はみごとに成功した.
ルーシーのなおり方は,フロイトの正直な記述の通り,フロイトの想像
と違う方向のものであった.フロイトの衝動満足理論と異って,ルーシー
は,事態は少しもよくなっていないが,にも拘らず自分は自由である,と
宣言する.ルーシーは自由な精神となったのだと,私は言いたい.といっ
ても,このことはフロイトの意識化理論,不合理な超自我の規制を放れて,
合理的な自我のコントロールによって生きるという主義に違反するわけで
はない.反しはしないが,それを超えてもいるだろう.
最後につけ加えたいのは,ルーシーの,「先生は私を御存じないのです
わ」ということばについてである.このことぽに,ルーシーのフロイトに
対する反抗と独立宣言がこめられているように,私には感じられる.それ
が,ルーシーのアイデンティティの発露であると同時に,臭いの症状の解
釈にぼかりこだわっていたフロイトへの皮肉であると思うのは,私の勘ぐ
りすぎであろうか.
使用したテキストは,白水社版,フロイト選集第七巻,「ヒステリー研
究」懸田克躬訳,である.
サンディソン(R.A. Sandison)の引用は, C. A.ニューラソド 「私
の自己と私」(川口正吉訳 河野心理教育研究所出版部)の序文から行っ
た.
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