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vol.451-500

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vol.451-500
赤の舞台 vol.451-455
eine rote Buhne vol.451-455
□□□
「無論、助勢には吝かでない。しかし、この場の保守はどうする。蛻の殻となっても
構わんのか?」
現況に関する情報をほぼ持ち合わせていない為、彼としてはそれが単なる提案なの
か、それとも上から下ってきた命令であるのかの判断も付かぬ。ただ、最低限の確
認だけはしておかねばならなかった。
「懸念は無用。
」
すると駆け付けた衛士の一人が、委細は承知しているというように頷いた。彼は組
まれている手順について早口に略述した。
「城内から通用口に到る区域は我らで押さえ既に封鎖済みである。そして念の為、こ
こは巡検に警備を委ねる。こちらも手配は済んでいる。
」
「わかった。それで全体の指揮を執っているのは?」
「末端の我らには与り知らぬところ…などとは口の端に乗せるのも恥ずかしいことだ
が。そのお姿を未だ拝見してすらいないものの、恐らくシュタインベルク卿だろう
さ。
」
ブルーノなる衛兵は、相手が煩わしさを嫌わずに一通りの説明を行なったことに満
足した。彼は後背を振り返り、下僚と思しき他の兵らに手早い準備を促す。
「全て聞いていたろうな?身拵え、忽せにするなよ。急ぐぞ。」
「ところでブルーノ、出立する前に一つ質しておきたい。いいか?」
「何か?一刻を争う火急ではないのかね。
」
「いや、そこに控える者たちは?」
応援を要請しにやって来た兵士は、先程から些か気になっていたことについて尋ね
た。彼の視線の先には、所在なげに立ち尽くしている二人のマウレーク人の姿があ
る。
「連中は宮仕えの下男どもだ。そっちの爺さんは今日の務めを終えて退去するところ
さ。
」
「退去?」
「そうだ。知らんということはあるまい。特別な許しを受け日々この城への出入りを
繰り返す下男の話を。
」
「ああ…耳の聞こえない、とかいう。
」
「耳は聞こえるが、口が利けぬというのではなかったかな。実際のところ、どちらで
あったかおれにとっては曖昧だがね。
」
「それで?」
「そして今宵はあの通り、供を連れているのさ。城門までの道すがら、手を引いてや
るというお役目でね。爺さん、足の具合が大層悪くて、一人歩きも億劫でならない
のだそうだ。これにもまたご丁寧にタルナート子爵のお墨付きがある。」
「行かせるのか?」
「そのつもりだ。不都合があるかね。若い方は門扉までは行かせるが、その後取って
返させる。それ以外に手続き上これまでと変わるところは全くないよ。」
「そうか。了解した。ではそちらは哨兵長に任せよう。
」
ブルーノなる衛兵は無意識の内に己をも納得させるつもりで整然と次第について述
べた。そして相手にとっても(恐らく表面的には)合点がいったようである。間も
なく彼らは武具を携え、鈍く重々しい金属音を周囲に響かせながら一斉にその場か
ら目指すところへと疾駆した。結局二人のマウレーク人は半ば打ち捨てられたかの
ようにその場にぽつねんと取り残された。衛兵を一名彼らに付き添わせて張り番の
役目を負わせるという案は成り行きから自然と消滅した模様である。ある意味では
虎穴にも等しい場面において、為す術なくひたすら息を殺しているだけでそこから
脱することが叶ったわけだが、当然ながら彼らの表情は凡そ晴れやかとは言い難い。
矢庭に突風が辺りを吹き抜けると、巻き上がった細かい砂粒が彼らの衣服をぱらぱ
らと打った。
「西の国」の番兵らは忽ちの内に立ち去ってしまったが、周囲に暗夜の
静寂が息を吹き返す気配はまるでない。そこから遠からぬ所で断続的に起こる喧号
が、城壁に反射して二人の耳元にも生々しく届いていた。
「ご老体。一刻も疎かには出来ない。さあ。
」
突いた杖の上に両手を重ねて乗せたまま、老マウレーク人は目を閉じて暫し身動ぎ
一つせずに佇んでいた。ほっとしたのか青年の声音は幾分軽やかである。
「気を抜くな。痴れ者が。
」
老人は目をかっと見開くと吐き捨てるように言って、無造作に一人歩き始めた。
「愚鈍とまでは思わぬが、存外肝が小さいな。汝には失望したぞ。」
「面目ない。
」
「どうやら連中、存外目敏く我らの動きを察知したようだ。先程の遣り取りから想像
するに、既に追っ手も放たれておろう。
」
「しかし、我々二人を怪しむという風はなかった。
」
「思い上がるな。只管幸運であったに過ぎぬ。」
抑制してはいるが、老人は怒り心頭に発するといった様子を顕わにして、歩みなが
ら青年の先程の振る舞いについて忌憚なく辛辣な評を下した。
「汝については、悪質というより他に目下言葉はない。己の為すべきことへの精進が
足りぬ。信任を得た技能について、練磨を怠るな。
」
「……」
ら んだ
「弓師ディヤブの例を見よ。青二才の慢心と懶惰が、月日を費やし丹念に編んだ秘計
を忽ち灰燼へと帰さしめた例を。漸く働きどころを得て穀潰しとの汚名を雪ぐ好機
を得たと言うに、奴は一代では到底贖い切れぬ罪を犯した。浮付いた者どもよ、己
の本分を今一度肝に銘じるがよい。妙理に辿り着く道程は峻険である。汝らが物心
も付かぬ内から我らなどはこうして仇の腹に忍び込み、遥かに遠い大成の時を夢見
て七転八倒、苦闘の日々を送ってきたのだ。
」
項垂れる青年に一瞥もくれることなく、老人は低く聞き取り難い声でまるで断罪す
るように小言を続ける。それらの言葉はその実、僅かに口篭って束の間狼狽を垣間
見せたもののその後どうにか持ち直した傍らの青年に対するものというよりは、寧
ろ概ね件の若きディヤブに対する怨嗟に過ぎなかった。老人は彼をディヤブの影法
師と見立てて、気の済むまで罵倒したい心持ちでいたのだ。彼らは、すぐに城と城
門とを繋ぐ大道へと辿り着いた。時折、巡検と思しき兵馬が二人の間近を掠めるよ
うに過ぎ去るので、その度に身を竦めて目立たぬよう心掛けねばならない。身を隠
おおせ
し 果 せれば重畳なことであるが、万が一不振な素振りがその連中の目に留まってし
まった折には全てが徒労に終わる。見咎められても首尾よくその場を切り抜けられ
るような態を仕立てておく必要もあった。その為潜行を徹底することも出来ず、彼
らは何ともあやふやな態度で闇夜を進んでいたのである。
「老台。
」
「何だ。
」
「一つ申し上げておかねばならない。
」
老人はじろりと青年に険しい眼差しを向けた。
「先程、
『西の国』の兵がおれに言い渡したことを。
」
「話してみよ。
」
「曰く、このおれは老台を飽くまで城門に送り届ける手引きであり、門外に足を踏み
出すことは認めぬと。
」
「そうか。
」
老人は冷淡な笑みを浮かべた。
「ならば致し方あるまい。それが定めであると信じて抗わぬがよかろう。
」
「しかし…」
一瞬たじろぎそうになって青年はすぐさま表情を引き締めた。
「そう。城へ戻れば汝は最早孤立無援だ。汝が恭順を示す唯一のものとは果たして何
であるのか、改めて考え直せ。今あるきさまの命の出自について、思いを至らせる
がよい。
」
「……」
「そうすれば、左様愚痴にも等しい事柄をわしに言うだけ無駄と予め判るであろうに。
試練と心得、己が力で乗り越えてみせよ。頭を使え。わしと同様、掃き溜めに生を
受けた汝である。そのまま野放図に暮らしておれば、無知文盲を払拭せぬまま市中
の何処からでも目に付く忌々しきこの城を遠目に仰ぎ見て今頃は汚泥に塗れ野垂れ
死にを遂げていたかも知れぬて。
」
君子を気取って老マウレーク人は次々と得意気に過剰な説教を披露していたが、流
すぼ
石に語彙も尽きてきたらしくその後は尻窄みになった。しかしながら見計らったよ
うに彼ら二人のマウレーク人たちが目指すところは眼前に迫っていた。
「気を引き締めることだ。奴らがある程度の勢を動かすとなれば、我々からも幾ばく
かの犠牲を出すことは避け難い。先程、ディヤブを搬出する際に抜かりはなかった
のだろうな?」
「無論。時間は掛かったがその分堅調にことは済んだ。
」
「だといいがな。全く唾棄すべき輩だ。ディヤブは死して後も、相応の辱めを免れま
い。
」
青年は呟くような何気ない老人の言葉に眉を顰めた。
「辱め?確かに愚昧ではあったが、あの者もまた探究に殉じたことに変わりないので
は?なけなしであれ、一掴みの敬意が払われるものと聞いていたのに。」
「方便だよ。
」
老人はからからと酷薄な笑声を立てた。彼らは城門近くに立てられた物見台に辿り
着こうとしていた。掲げられた篝火は煌々と明るく、周囲に立つ番兵らの慌しい様
子を窺うことが出来た。青年は益々、不敵且つ悠揚と構える同行者と対照的に顔を
引き攣らせて緊張感に心身を焦がしてやまない。
「例えば、汝はその場面を想像すら出来ぬかも知れないが、先刻あの阿婆擦れの前で
彼のディヤブの末路についてわしは偽りの弁明を買って出た。言わずもがなあ奴如
きの名誉を保持する為ではない。崇高なる務めに身を捧げる端くれとして、この程
度の方便を操ることは止むを得んのだよ。」
余りに低くか細い為その声が彼ら以外の者の耳に届くことは恐らくなかったであろ
うが、老人は「西の国」の兵士らの側近くに寄る寸前まで語りを続けていた。
「止まれ。
」
二人のマウレーク人がのそりと近付いて来る様を暫し前より視界に認めて以降ずっ
と留意していた一人の門兵が、待ち焦がれたというように鋭く命じた。門前に屯す
る兵士らの佇まいは一様に物々しい。抜け目なく老マウレーク人は少々前より若者
に自分の手を引かせている。彼は赤砂岩の城門をちらと見上げた。城が「西の国」
によって占有されて以降は夜毎こうしてその前に立っているのであるが、斯様とく
と仰ぎ見ることは久方振りであるように思われる。不浄の白昼、言わば仮の住処も
同様永らく勤め暮らしてきたが、それも今宵で最後になるとしみじみ考えてみたと
ころで胸に去来する感情は全く豊かなものではない。老人は場違いな深い溜息を吐
いた。
「現下は前代未聞と言ってよい非常時である。従ってこの夜ばかりは特例も認められ
ぬということを覚悟するがよい。
」
兵士は冷厳と言った。灯りに薄っすらと照らされたその顔をよく窺えば老人にとっ
ては顔馴染みと言ってもよいほど日々見慣れた者であった。しかし常日頃は横柄な
口振りのその男にもこの時ばかりは厳格な態度で臨むという気負いがひしひしと感
じられる。
「…そもそもおまえは何者だ。
」
門兵の関心は至極当然に若く逞しいマウレーク人の方へと向いた。何時しか彼ら二
人の周辺には一人また一人と衛兵が取り囲むように集結している。
「類稀な恩寵を賜り禁城への参上をお許し頂き、天から賦与されたにも等しき勤めに
日夜精励する者であります。
」
若いマウレーク人の応えは徒に仰々しく、その言い回しもどこかぎこちなくて不自
然であった。訛りが酷く聞き取り難いにも拘らず、当人は気後れした様子など皆目
見せずに胸を張る。兵士らは思わず顔を見合わせた。
「珍しい。どうにか我らの言葉を操れる、と言うにしては随分と勿体付けた言葉遣い
を心得ているんだな。それで?ここにこうしてやって来た訳を話してみろ。
」
「はい。然様に控える忠僕マラクの手を引き、御城を罷り出る為で。
」
この辺りの返答は先程通用口にて行った口上とさして変わらぬ。定めし、入念に稽
古したのであろう。
「哨兵長。
」
男の言い分には不備が多く如何にも要領を得ないというところであったが、その兵
士は頭ごなしに突っ撥ねることも更に問い詰めることもせず、後背にて気忙しく引
っ切り無しに現れる伝令との応対に腐心する上官の指示を仰ぐことにした。そのま
ま続行しても埒が明かぬと考えたのだ。この遣り取りの最中、老人はそっと懐から
先程は大きな効力を発揮した紙片を再び取り出していた。
「やれ、面倒な。
」
乞われて渋々彼ら歩哨の長が煩雑な連絡を中断してマウレーク人たちの方へ歩み寄
った。これまでにもちらほらとその名が聞かれたベルゲンなる者である。
「足の具合は大分悪いのかね。なるほど杖だけでは足りぬというわけだ。そのような
介添えが必要なほどに。
」
ベルゲンは酷く疲弊している様子であった。並々ならぬ緊迫感の故かその顔は幾分
歪んで見える。お座なりな感慨を表した彼の言葉は当然ながら凡そ気の利かぬ代物
で没個性的、その為「西の国」の言葉に些少ながら覚えのある屈強そうな若い方の
マウレーク人は、今しがた通用口での問答がこれからそっくりそのまま反復される
のではあるまいかと思った程である。一瞥して事情を察すると、ベルゲンは老マウ
レーク人が大切そうに携えている紙切れを引っ手繰るように受け取った。
「周到なことだ。
」
素早く紙面に視線を落とすと、走るように彼はそれを読んだ。小刻みに忙しなく動
く彼の眼球は、さっさとこの瑣末な事柄を片付けて目下の難題へと立ち戻りたいと
いう当然の心の内を有り有りと表明していた。
「…今この時ばかりは易々と承諾出来んな。
」
ベルゲンは苦々しく呟いた。そして隣に立つ兵士を鋭く睨み付ける。
「門を開けるなど如何なる事情があるといえども到底認められない。
」
「ご尤もです。書状はタルナート子爵のお手に成るもので?」
老マウレーク人にまつわる事情をよく心得ているらしき傍らの兵士は明察した。
「そうだ。書状などという大層なものではないがね。しかしあの御仁の顔を潰すこと
となっても枉げるわけにいくか。賊の侵入が我らの手落ちによるものであるとすれ
ば、それだけで万死に値する大罪だ。この上ここを破られ得るような隙を作るなど
以ての外。
」
哨兵長の面持ちは悲壮な覚悟のせいか半ば引き攣っていた。彼の重苦しい心情は四
囲にも満遍なく伝播しているようである。他の衛卒らの表情から等しく安定が欠落
しているのはその所為であろう。
「今宵に限っては城へと追い返すのが妥当でありましょう。
」
「そうしろ。しかし、その旨をどう連中に伝えるか。」
「手立てがあります。
」
「どんな?」
「その付添い人、我らの言葉に心得があるようで。
」
ベルゲンは頷き掛けたが留まり、すぐに首を傾げた。
「爺さんは耳が聞こえないのではなかったかね。それとも口が利けんというだけか?」
「さあ。何れにせよ、その若いマウレーク人に申し付ければ事は足りると存じますが。
」
「それもそうだ。ではおまえに任せる。首尾よくいかないようであれば仕方がない。
捨て置け。
」
「承知致しました。
」
下役に委ねると哨兵長はそそくさとその場から離れてしまった。文字通り闇夜で手
探りするも同然に限定的な情報を元に門の警護を全うせねばならない彼として、頼
れるものは騎兵がもたらす種々の通知事項くらいしかなかったのだ。この時点で、
匪賊が城内に侵入したということ、そして何某の令嬢の身柄が略取されたというこ
とのみが伝えられており、細部は全くもって彼らにとっては詳らかでない。従って
前者については、どれほど堅牢な警備を行っているかという自負を確認するという
以前に、一体何時如何様な術を用いて敷地内に入り込んだのかという点で正しく晴
天の霹靂以外の何ものでもなかった。何故なら日没後門扉を通じての人の出入りに
は殊更入念な点検が実行されており、この夜も市中を巡検する兵士らに通行を認め
たに過ぎない。この場にいた全員が概ねその記憶を共有しているので、彼らの動揺
は一方ならぬ。また後者について。勾引かされた者に関する事細かな情報が下りて
来ることも今のところない。
「令嬢」ということは明らかにされていたのである程度
その人物を絞ることは出来たものの、誰のどのような計らいによってかは知れず名
は伏せられたままになっていた。
「先程前口上で述べた通り、今宵に関しては慣例として特に御身に認めていた城門の
開扉を行うことは出来ない。
」
番兵は先ず厳かに型通りとも思われる通達をした。
「…ということだ。すまないが、今我らが迎えている状況がどれくらい抜き差しなら
ないものであるのかという説明をしている暇はない。酌んでくれ。今夜は城へと一
度引き返し、通常奉公人に割り当てられている房にて休んでくれないかね。
」
殊に慇懃であろうと心掛けていたので、その衛兵の言葉付きは随分と柔和なものに
なった。裕りの如きを未だ充分に持ち合わせているなどとはとても言えなかったが、
所詮些細な手続きに過ぎないのであるから出来れば波風立てず穏便に済ませたいと
いう彼の意向がそこには窺える。
「おれの言ったことをきちんと理解出来るか?何ならもう少し平易な言い回しで語り
直すべきかな?」
「…いえ。
」
暗がりである為見て取ることは難しかったが、若いマウレーク人は顔を紅潮させて
いた。口の中は乾き、焦燥感故に彼の判断力は著しく低下しているのであった。そ
の為母国語ならば兎も角、すっかり習得したというには程遠い言語をこの場で適切
に用いるには大層な苦労が伴うようだ。
「いえ。大体…大体理解することが出来ます。」
「そうか。それならばよい。では。
」
「いえ、ここで。
」
「うん?」
「ここで待ちます。このマラクを是非とも送り届けたい。今夜の内に。ですから…」
「何?それは出来ない。諦めろ。何が何でも今日は戻れと、そう言っているのがわか
らんかね。
」
「全てが決着すれば、わたくしどもはここを出ることが許されるのでしょう?それま
でここで幾らでも待ちます。
」
マウレーク人青年は朴訥とした口振りで必死に食い下がる。
「駄目だ。すぐに戻れ。事態が何時収拾するのか、現時点では全く見当が付かんのだ。
それだけではない。事後もこの件に関する綿密な検証が行われることは疑いない。
つまり、これから日が昇るまでの間にこの門が開かれることは余程の例外を除いて
はあり得ぬということだ。
」
「しかし…」
「くどいぞ。
」
堪え切れず兵士は大喝した。他の番兵らの視線が一斉に彼らの方へ集まる。
「いいかね。現在市中の巡検に当たる我らの同士たちも任務完了の報告を棚上げして
都内の詰め所にて夜を明かさねばならないくらいなのだ。そちらを差し置いておま
えたちにだけ便宜を図るようなことは断じてない。
」
このままぐずぐずと管を巻かれやがては膠着状態に陥ることは力ずくでも避けねば
ならないとその衛兵は気色ばんだ。最早これまでと思いつつ、見兼ねて老マウレー
ク人が駄目で元々という覚悟でその押し問答に無言で割って入り再び例の紙片を取
り出して見せた。
「爺め、それが何だというんだ。この非常時にあっては紙切れも同然だ。これ以上の
遣り取りは無用と心得ろ。去ね!」
兵士は威嚇する為に、鞘から刀身を僅かばかり抜いて見せた。それでも青年は苦悶
するように剃り上げた頭を何度も撫でながら、この事態から脱するより良い上策は
ないかと思案する。しかし、そのように自失する彼を諌めたのは傍らの老マウレー
ク人であった。老人は彼の袖をぐいと引っ張り、他者の目も憚らず強い語調で語り
掛けた。
「ここまでだ。
」
「老台…」
「観念するがよい。取り乱して醜態を晒すような真似は許さぬ。ここまでだ。」
老人がどこまで青年と門兵の応酬の内実を理解しているのかはわからぬが、互いの
剣幕から大凡を察しているのであろう。とすればこの老マウレーク人の態度が益々
泰然自若とした様子であることは些か奇妙であった。老人は現状では既に用済みで
あるはずの杖を態々突きながら、青年の腕を引っ張ってその場から離れようとする。
彼らの身を処する為応対に当たっていた兵士は唖然とした表情で暫しこの有様を見
詰めていた。彼は初めて老人の声を耳にし、何ごとかを語る場面を目の当たりにし
たのである。これをどのように受け止めるべきか、より急迫した状況に己が注意を
占められている兵士にはぴんと来るところがない。よってこの時、これまで長々と
自身というより彼らの全てが担がれていたのだということに思いが至らずにいた。
「何か策でもおありか?」
青年は次第にその度合いが増してくるよう思われる老人の不敵な振る舞いにどぎま
ぎしつつ、縋るような声を出した。それを聞いてこの夜もう何度目になるかわから
ぬが、老人はまたもせせら笑った。
赤の舞台 vol.456-460
eine rote Buhne vol.455-460
□□□
「策…策とな。
」
彼はこれ以上堪え切れぬと言うように更に呵々と声高く笑った。そして再び強く青
年の黒衣を引っ張り、暗がりの方へと誘うのである。
「言うたであろう、ここまであると。先程わしは汝に頭を使えと申した。よもやその
真意を履き違えておるのではあるまいな?試練を乗り越えよ、と。よいか。試練を
よすが
乗り越える 縁 が何時でも頓知の内にあるなどとはゆめゆめ思うな。わしにとっても
無論今宵は、何とも稀有なる慶福の夕べ。湧き上がってくる畏怖の念を抑え切れず、
実のところ誰彼構わず平伏して回りたいと思うほど浮き足立っておったのだ。そう
とも。そうは見えなかったろうが正に迷妄の極みにあったよ。願わくは常と同じよ
うにここより出で、至幸の時に僭越ながら立会いたいと望んだとも。その為策を講
じて、下拵えを怠ることもなかったつもりだ。連中の横着故かそれはこうして挫折
を迎えようとしておるがな。
」
老人は場を弁えず、悠長に長広舌を振るった。洞のように虚ろな瞳もこの時ばかり
は妖気を宿したかのような強い輝きを放っている。正にこれは熱弁であった。しか
し焦慮に苛まれる若いマウレーク人の心を揺さぶるものではなかったようだ。
「この期に及んで一体何を暢気な…」
「馬鹿者め。暢気なものか。
『西の国』の連中は揃って魯鈍。我らの尻尾を掴むどころ
か、存在そのものを感知しておるかも疑わしい。黙殺ではない。元より奴らには、
このマウレークの暗夜を統べる絶対者を賛美する為命を焦がす我々についてなど知
る由もなかったのではないかとさえ思われてくる。
」
ここで改めて彼ら二名のマウレーク人の素性を明かしたところで、唐突という感は
最早ないであろう。これまでに為された間接的な仄めかしや暗示から容易に推測出
来る通り、彼らはこのところ再び看過出来ぬ策動を開始している結社「暗い眼差し」
の構成員である。
「暗い眼差し」なる組織の概容についてはこれまでにも折に触れて
幾度か記してきた。かつてマウレークの民に厄災と恐慌をもたらした特異なる集団。
外面的には「反国家・反王家」の不穏分子という括りをされているが、これは意図
的な誤謬であり、この団体が依拠する信条はそう単純なものではない。公称「三百
十四年」というマウレークの歴史にあって、その最後の二十余年間に顕著な汚斑と
いえばこの連中にまつわる事柄が先ず挙げられる。明らかに記名的な凶行、行為そ
のものが一つの声明であるというような蛮行から、その可能性が薄いにも拘らず関
与が噂される様々な事件に至るまで世を騒がすことは絶えなかった。彼らが現実に
は有名無実化している時期に起こった凄惨な殺生沙汰の殆どに人々は「暗い眼差し」
の影法師を錯覚した。そして今老人が得意気に話したことは全く真実と異なる。現
にその老人が言うところの「絶対者」とやらと対峙して絶命したかつてのアンハル
ト将帥ヴェルナーは、カンドの森にて起こった一連の猟奇的騒動に関する調査の初
期段階で図らずも彼らの存在を意識することとなったし、この集団が国外に拠点を
移したという当時の根拠なき風説の裏付けについてそのヴェルナー配下のクローグ
が極秘裏に探るなどこれまでにも関心は確かに寄せられているのである。
「それ故…それ故この日の為周到・隠密に支度して参った企てが斯くも容易く露呈す
るとは、信じられぬ。
」
「……」
「確かに偶然発覚に至ったと言うには手回しが早い。だが事前に奴らが我々の動きを
察知していたとも考え難い。連中の追跡が適時に開始されたとは思えんのでな。た
だ、何時からか…何処からか…我らに仇なす邪な視線が纏わり付いていたと見るこ
とに間違いはあるまい。
」
老人は、語りながら声音を少しずつ絞っていく。そして城へと引き返して行くよう
見せ掛ける為に今一度青年の腕を引っ張り、歩みを促した。
「どうしろと言うのだ。まさかこのまま城へと後戻りするなど…」
「覚悟を決めろ、小僧。周章狼狽、見るに耐えん。覚悟だよ。」
老人は端から、脱出が首尾よくいかない場合即刻自害して果てる心積もりでいたの
である。罷り間違って身柄を拘束されるなどということは、己にとっての恥辱とい
う以上に百遍死しても購えぬ粗相、そして師と同志への背信を意味した。先程通用
口で青年は身体の検めを受けたが、この老人は受けていない。既に彼が夜に城を退
去することは慣例化していた為、何時頃からか省略されるようになっていた故だ。
平生は如何なる時に検査を受けても良いよう老人は丸腰で城を出る。しかし、今宵
に限ってそれは異なったようである。
「備えはある。
」
老人は腰元に潜めた匕首をちらと見せた。
「案ずることは何もない。あの異国の阿婆擦れならば、同志から幾ばくかの犠牲を出
そうとも必ずお大尽の仰せ付け通りに城外へと運び出される。何故ならかつてマウ
レーク王を僭称した一族の病理を心得る我らは同時にこの醜悪な城の結構をもよく
よく存じておるからだ。そして…そして。」
既に錯乱して昏迷状態にあるかのような青年は最早物申さぬどころか、視点も定ま
らぬ。老人はそれでもお構いなく木石でも相手にするように更なる問わず語りを続
けた。
「縦しんば、この企みが頓挫しようとも…我らの大願は成就される。否、もうこの時
きっと果たされているであろう。陽動、図らずも。案ずることなど何もないのだ。
恩師は城の外へと、遂にお出になられた。」
彼は恍惚とした表情でそう語った。滅多なことは語るまいと己を厳しく律していた
はずの老マウレーク人は感極まるように、自身にとって途方もない大事の核心を口
にしていた。大いなる厄災の訪れを告げる狼煙か、はたまた脈動する時勢の転換点
か。或いはそのどちらでもない、取り立てて言うには及ばぬ些事なのか。無論この
時点では彼の伝える事柄が結果するものが一体何であるのかという以前に、その真
否すら定かでない。
「…であればこそ。
」
「うん?」
「であればこそ、居ても立っても居られん。一刻も早く…」
「まだ言うか。それとこれとはまるで別の話だ。妄執を捨てよ。見苦しいぞ。」
「一刻も早く、例え遠目にであれ、恩師の玉体を仰ぎ見たい。叶うならば、お近くに
参じて伺候したい。
」
青年の額には汗が滲んでいる。身震いが自然に起こるほど寒冷な外気にも拘らず。
彼はどうにか声を絞り出すという態で呻くようにそう言うと、城門の方を振り返り
落ち着きなく視線を彷徨わせた。そして聞き分けのないその様子に老人が遂にかっ
となって、彼の胸倉を掴んだその時のこと。どすんと鈍い音が一つ、彼ら周囲の空
気を震わせたのである。
「きさま、何を…」
「許せ、老台。どれほど知恵を絞ろうと四苦八苦したところで、所詮おれが思い付く
のはこの程度だ。浅知恵と笑ってくれ。この虎穴をうまうまと脱することが叶った
暁には気の済むほどおれを叱責し、この身を打ち据えるがいいさ。」
「この…戯けが!」
唐突に若いマウレーク人は先程コルネリアが被ったような強烈な腹部への一撃を、
目上の男に見舞ったのだ。加減するよう心掛けるつもりではいたが、思いの外熱が
篭った。老人は泡を吹いて地に崩れ落ちた。意識があるのかどうか判断はし難いが、
掠れた弱々しい声での最後の喝破の後はもう呼吸をしているかどうかも疑わしい程
で身動き一つしない。青年は地面に倒れ込んだ老人の体を素早く引き起こして肩に
担ぎ上げると、再び用心深い眼差しで門扉の付近を窺い意を決して踵を返し、そち
らへ歩み始めた。老マウレーク人は暗に自害を促したのであったが、到頭それは青
年の心に届かなかった。彼は老人の言葉を取り違えたのだ。
「まだいたのか、おまえ。
」
差し迫った事態ゆえ過敏になっている兵士たちの一人が、近付いて来るマウレーク
人青年の姿を目敏く認めて荒々しい声を掛けた。当然ながら他の番兵らの注意も一
斉に彼の方へと向く。ややあって「西の国」の兵らは異変に気付いた。闇夜に浮か
ぶマウレーク人の影は一つであったが、よく目を凝らせばこれが二つの人影である
ことがわかったからだ。マウレーク人青年は老人を担いだまま兵士らの方へ更に近
寄ると、大きく息を吸い込んで集中力が高まるよう心中で念じた。確かに、生き死
にの係った大きな賭けに乗り出そうという覚悟を定めることは容易ではなかろう。
つわもの
元より相手とする連中は 兵 であるから、血の気は少なくない。加えてこの時は、
再三述べているように輪を掛けて物騒な状態にあるのだ。
「どうか…」
血相を変えて自分の方へと向かってくる兵士に対し、機先を制するように彼は凛然
とした声音で語り掛けた。相手方が先に口を開いてしまえば、こちら側からは一言
を発する間もなくやり込められてしまうに違いないと想像した為である。
「どうか、ご慈悲を賜りたい。ご覧下さい。
」
マウレーク人青年は肩に担いだ老人を両手で抱え直し、まるで捧げ物でもするかの
如く彼ら番兵らの前に差し出して見せた。老人は失神していた。無論身動ぎ一つし
ない。
「西の国」の者たちは、一体これから何が始まるのであろうかと思わず一様に
気圧されて口を噤んだ。この時青年には次第神経が研ぎ澄まされてくるよう感じら
れ、その思考はひんやりと冷たく、しかし休むことなくよく働いた。持てる語彙を
余さず稼動させ適宜な言葉を紡ぎ出す自信が湧いて来る。
「一刻を争うのです。忠僕マラクはこの通り、意識を失っております。」
「どういうことだ。
」
「はい。仰せ付けに従い、わたくしどもは御城へと引き返す心積もりでおりました。
まさ
しかし、この者の手を引き将に、というところでマラクは突如として足元が覚束な
くなり身悶えをし、そのまま地に倒れ伏しました。顔は蒼白、呼吸も乱れている。
その時わたくしはこの者がもう二度と起き上がることはないのではないかと思いま
した。
」
マウレーク人青年は必死の形相で厳かにそう言った。彼の物言いには驚くほど乱れ
も誤りもないが、訛りだけはやはり酷い。一部始終を目撃していた者が存在するな
らばこれほどの茶番はないと感じたことであろうが、当人は死に物狂いで真剣その
もの、勿論左様な自覚を持つ余裕などない。そう、それに真実はどうあれ、この黒
衣の青年には、何者にもこの企みの顛末を目撃などされていないという自負ならば
あった。その為に、先程からたとえ意識が如何に紛乱しようとも注意深く目配りを
し、自身らに対する「西の国」の衛兵たちの視線が全て逸れる瞬間を只管に待ち続
けていたのだ。
「生きているのか?」
「息はあります。しかしこの忠僕も既に老いて久しく、ご存知の通りこのところは体
の具合も大層宜しくない。あなたがたに縋るより他、我らは術を持たぬのです。そ
れ故、わたくしは申しました。ご慈悲を賜りたい、と。
」
「……」
「再び御門の開扉をお願い申し上げようなどという考えは最早ございません。ただ、
どのように振舞えばよいのか、途方にくれておるのです。何卒…ご教示を請いたく。
」
闇雲に望みを押し通そうとすれば、事は決して上手くは運ばない。先ずは相手に判
断を委ね、少しでも時間を掛けることが肝要だと彼は考えたのである。
「ベルゲン哨兵長!」
応対に当たった兵士は頭ごなしに突っ撥ねたりはせず、ただこれは手に余るとだけ
考えてあっさり上官の指示を仰ぐことに決めた。マウレーク人青年の目論見に当て
られた格好である。
「凡その話は聞きたくなくとも聞こえてきた。」
ベルゲンは煩わしそうに兵らを掻き分けて再びマウレーク人たちの前に立った。そ
の表情は先程よりも遥かに険しい。
「どうにもきな臭い。即刻そいつらを捕縛せよ、と心の声が命じているという気もす
る。何よりそ奴が実に巧みに我らの言葉を操るのはどうしたわけだ?おまえたちは
どう考えるね。
」
問われた衛兵たちの反応は区々。何よりこのように詰まらぬことに神経を割きたく
ないというものが大半であろう。
「だが、今このおれは混乱していて正しい判断が出来ぬ。詭弁を弄するのは本来好み
でない。しかし、詭弁こそがおれの強みだと陰口を叩く輩がいることも事実だ。
」
彼は妙に自虐的な口振りでそう言った。面持ちには疲れが濃厚に窺える。
「タルナート子爵に全てを転嫁してしまおうという覚悟が出来れば、この厄介ごとか
らすっかり解放されるとは思わんか。
」
「と仰いますと?」
「つまり…」
この際、さっさと門を開いてその二人のマウレーク人を城外へと放り出してしまえ
ばいっそ気楽でよい。そして万一そのことが発覚し、後日重大な咎として責め立て
なす
られるようなことがあったとしても、タルナート子爵にそっくり擦り付ければ事足
りる。ベルゲンは、自ら碌でもないとはっきり認めるこの投げ遣りな考えを、一つ
の案として下僚たちの前で口にするべきか否か暫し逡巡した。これが先程示した意
気込みとは全く相容れぬ上、何とも拙劣な代物だということは承知しながら。だが
結局、この虚しい躊躇のお陰で彼はどうにか不必要に面目を潰さずに済むこととな
るのである。未聞の騒動の幕切れは、彼ら雑兵にとって余りにも呆気なく訪れた。
「哨兵長、哨兵長。
」
矢庭に、傍らの兵士がその肩を揺さぶるような勢いでぼんやりと虚ろな眼差しのベ
ルゲンの注意を喚起した。それとほぼ同時にその場にいた全ての者が青天の霹靂の
如き馬蹄の響きを確かに耳にする。それは城から門へと到る大道を疾駆して来る複
数の騎馬のものであった。彼ら門兵はその轟きが近付くに連れ、揃って息を呑みす
っかり身動きを止めた。或いは立ち竦んでいたのかも知れないが、裏腹に彼らの心
が動揺で右往左往していたことは疑いなかろう。連中はただ視線だけを一斉にそち
らへと射掛けたのであった。中にはそれが賊であると早合点してそっと剣の柄に手
を掛ける者もいた。しかしながら、直ぐに彼らはそれが味方からの早打ちだと知る。
「賊は残らず掃討、若しくは捕縛された。勾引かされし貴人は無事その御身に保護を
受けた。しかし、現下の厳戒態勢はこれ以降も引き続き維持。」
逸早く辿り着いた馬から一人の兵士が転げ落ちるように下馬し、ベルゲンの前でそ
う捲くし立てた。そしてその者は間髪入れずに言葉を続けて、安堵と歓喜のどよめ
きが彼ら番兵たちの口から迸るのを強引に塞き止めたのである。
「身構えを解くな。襟を正せ。間もなく将軍閣下がお成りである。間もなくだ。
」
「ここにか?」
ベルゲン以下一同、成り行きの目まぐるしさに追い付けずきょとんと呆けた様子だ。
「そうだ。
」
時折突風の巻き上げる砂粒が兵士たちの頬を打つ。その都度、彼らは束の間ながら
我に返った。果たして今の刻限は如何ほどなのか。殊に城門に詰めている兵らの、
時間に対する感覚は等しく麻痺している。もうこの天の漆黒も程なく溶けて黎明の
紺碧へと転じる頃合なのか、それとも暗闇が未だタールのように濃密な、深更の只
中にあるのか。今宵彼らの脇をすり抜けて行った時は、永遠とも一瞬とも思える模
糊としたものであった。
しかし、一方でマウレーク人下男たちにとってこの夜はずっと奔流でしかなかっ
た。取り分けこの若き黒衣の男にとっては。彼は老人を地に寝かせ自身も片膝を突
き、急転する事態を前に為す術なくただただ息を殺して傍観者のように衛兵たちの
まなじり
影に控えていた。 眦 を吊り上げて眼光鋭く次第に目を凝らすのみである。
「掃討」、
「捕縛」
。それらの言葉は確かに彼の耳にも届いていた。やがてその場に、わらわら
と騎馬の一団が到着した。分けても、一方ならぬ風貌を持つ長躯の騎士が現れると
「西の国」の兵士たちの様子は一変した。彼らが整然と隊列を作りその男に恭しく
敬礼するのを見て、うずくまるように気配を潜めていたマウレーク人青年はすぐさ
まこれこそが「将軍閣下」とやらに違いあるまいと思った。おや、と彼は目を細め
て視覚を研ぐ。奇妙なことにその傍らには、些か場違いに瀟洒な身形をした男が馬
を並べている。勿論青年にはそれが何者であるか見当も付かないがしかし、何処ぞ
でその姿を見掛けた憶えがあるという気もする。何故か心惹かれて、彼はその異国
の男の横顔に抉るような視線を送っていた。
「西の国」のとある令嬢がマウレークの無頼漢に拉致されたという椿事は、翌日城
内のみならず都下にまで報じられ、衆人の知るところとなった。類稀な失態である
為、叶うならばこの一件については公にせず闇から闇へと葬りたいというのが首脳
いとま
部の願いであったが、碌な対応策を講じる 暇 もなく彼らもこの時ばかりは人の口に
戸を立てることの困難さを改めて認識する羽目になった。アンハルト大公リヒャル
トが事の次第を知ったのは、
「とある令嬢」ことコルネリアが救出される僅かばかり
前のことである。この夜彼はラウラなる端麗な女性を私室の閨房に引き入れ秘戯に
耽った後、夜陰が深々と濃密に成り行くことにはお構いなく彼女を相手に延々四方
山話を繰り広げていた。それは情交の後に彼らの周りに漂う気だるく艶めかしい気
配を蔑ろにするかのような、何とも色気のない代物であった。
「トマスやヴォルフがこのマウレーク遠征に従軍を希望した時、あなたは取り付く島
もないというくらい頭ごなしに拒んだのにね。」
「いや、君は少し誤解している。確かにヴォルフガングの一件について難色を示した
のは間違いのない事実だよ。そうせざるを得なかったのだから。先ず何より奴の身
を案じた上で、おれは易々と認めるわけにはいかないと撥ね付けた。そこには勿論、
リシャールへの配慮もある。奴がおれの友人であるという事実は、あの男の前では
実に空虚で意味を為さぬもの。厳然と存在する序列を一向揺るがすものではないん
だ。
」
「トマスとは違うということね。
」
「それはそうだ。どれほど露悪的に振舞ったとしても、やはりあいつはハインリヒの
養子ということで目を瞑ってもらえた。破格の恩恵を受けてこれまで暮らしてきた
わけだよ。
」
「ええ。
」
「そう、それで今言った誤解というのはトマスのことなんだがね。あいつは正規の従
軍志願など出しちゃいないよ。口頭でそうしたいと仄めかしたに過ぎない。
」
「でもあなたは認めた。
」
「ああ。トマスには危険に対する嗅覚が備わっているから。ああ見えて生存への執念
は人一倍あるんだよ。だから特に何も言わなかった。…だがまあ、奴がマウレーク
にやって来た顛末はご存知の通りさ。おれの顔を潰すことなんて何とも思ってない
んだからな。帯同を認める為の手続きにおれが些か骨を折ってやったというのに、
好き勝手な単独行動で応えるというね。
」
「物見遊山で遠征軍に加わろうなどという魂胆は許さない、ってあなた事ある毎に言
っていたのに。
」
「当たり前のことだ。その点でトマスに対して寛容になった憶えはない。
」
「でも、例えばオイゲン卿を始めとする…」
リヒャルトはわかっているというように言葉を遮る。
「オイゲンは兎も角。アンネが同行を認めたという他の穀潰し連中についておれは殊
更異を唱えるつもりはなかったし、本心を言ってしまえば奴らがこの苛酷な旅で命
を落としたって別に痛くも痒くもないというわけだよ。オイゲンには曲がりなりに
も実用性があった。語学に秀でる者だということはある程度周知の事実だしな。当
時は東方の言語に通じる者を一人でも多く掻き集めなければならなかったから。…
あとはトマスの場合にも通じるが、身も蓋もないことを言えば家格が物を言ったと
いうわけさ。
」
「他人事じゃないわね。
」
ラウラなる女は聡明そうな眼差しを暗がりで煌かせて、横たわるリヒャルトの胸に
手を置いた。
「監察官たる父ヨハンがこの土地にやって来なければ、当然君がここでこうしている
ことも恐らくなかったろうね。
」
アンハルトにおける「監察官」という官職は、文武の官吏を監督し査察するだけな
く、これらに対する罷免権を併せ持ち、国勢調査も取り仕切るものであった。しか
しながら、実質的には然程自由な裁量権が与えられているというわけでもなかった。
「でも父は帰ってしまった。
」
「この土地の砂と風に心身を蝕まれてな。
」
「それなのにわたしは残ったわ。
」
赤の舞台 vol.461-465
eine rote Buhne vol.461-465
□□□
リヒャルトはラウラの髪をそっと撫でた。
「君を縄で荷馬車にでも括り付けアンハルトに送り返したって別によかったんだ。お
れとしてはね。
」
「あら、本当はそうしたかったの?でも、あなたはあの時わたしに何も言わずにいて
くれた。
」
「つまりはもう出鱈目なのさ。そもそも君はこの土地に来てしまったんだし。事ここ
に至って、今更口やかましく言うべきことなどあるのかと考えてね。リシャールな
らこうはいかない。
」
「お陰でわたしは自分が幸運だったって思える。
」
「何が幸運かね。
」
「マウレークに残れたことがよ。
」
「そんなことを平然と言えるのは、向こう見ずな人間だけだよ。
」
「どうかしら。
」
「まあいい。話は戻るがね、他の志願者どもに許認を与えてやった裏にもこうして、
概ねトマスと似たような事情が働いている。ヴォルフガングの奴だってやんごとな
き身の上には違いない。ただ、アンハルト王家に所縁ありと言えど、既に形骸化し
て久しいものだから。それにマーセル王が殊更ヴォルフガングを目の仇とばかりに
軽んじていたという事実もある。おれなりに友人を庇護してやりたいという心持ち
はあったんだよ。
」
「……」
「それよりもな。未だ権力には程近いつもりでいて、矜持だけは手が付けられないく
らいに肥大しているああした穀潰しどもの愚かさというか…端的に言って想像力の
著しい欠落ぶりには憤りを通り越してただ呆れるばかりだ。先程と同じ論法になる
が、奴らがこの地で野垂れ死にを遂げたら遂げたで胸が空く思いだよ。」
「今日は随分開けっぴろげなのね。でももし本当に彼らが命を落とすようなことがあ
ったら、アンハルトに残る彼らの一族は責め立てるに違いない。
」
「…言わせるものか。
」
刹那に過ぎぬがリヒャルトはぞっとするような笑みを浮かべた。
「おれが帰国した後、そこにあるアンハルトはもう、かつてのそれではないのだ。」
「リヒャルト…」
「兎に角、トマスやヴォルフガングに対して、このおれがなけなしの友誼を感じてい
ることはわかったろう。
」
丁度その辺りでリヒャルトは、自身らの睦言の低い声音に靴音が混ざるのを聞いた。
この夜は、余程のことが起こらぬ限り寝所付近への立ち入りは控えよと周囲の者に
予め注文を付けておいたので、彼の表情は曇った。傍らの女はまだ気付かぬようだ。
「不思議ね。何だか言い訳してるみたい。
」
「言い訳。何故おれが君に弁明しなければいけないんだ。」
「あなたがわたしに言い訳をしてるなんて言ってないわ。だから不思議なの。本当は
他に、聞いて欲しい人がいたんじゃないのかしら。
」
女は笑った。
「どうしてわざわざそんなことをわたしに話してくれたの?」
「…さあね。退屈させたな。
」
「そんなことはない。
」
リヒャルトは矢庭に起き上がった。ラウラなる女は彼が気を悪くしたのかと思って、
そっとリヒャルトの腕を掴む。
「無粋の輩が押し掛けて来たようだ。おれは身支度を整えるよ。悪いが君はもう暫く
ここにいてくれ。
」
「え?」
「きっと、余程のことが起きたんだろうさ。
」
彼はラウラに口付けてからその頬を優しく撫でた。そして今述べたこととは裏腹に
寝衣のまま部屋を静かに滑り出る。リヒャルトは室外における何者かの逡巡を静寂
の内に聞き取ったのだ。案の定、そこには数名の兵士と思しきが物々しさを押し殺
すように佇んでいた。
「殿下…」
「フェルマーか。
」
「お休みのところへ斯様不躾に押し掛けて参ったこと、ご寛恕願いたく存じます。」
「碌でもない用事ならば鞭打ちだ。さあ、用向きを言えよ。
」
フェルマーというのは武官で、シュタインベルクの下僚である。彼はアンハルト大
公にこの夜勃発した変事についての次第を報告した。それは判明していることを具
に列挙したもので、その口調はやけに淡々として滑らかであった。この時点で未だ
コルネリアの救出は果たされていない。リヒャルトは驚愕するというよりはただた
だ呆然と耳を傾けていた。歎息すら発せず黙りこくって、彼はその小説的な叙述を
聞いたのである。そこには現実味が全く欠落しているよう思われて仕方がなかった。
出来の悪い作り話を聞かされているような気分と言うべきか。何故コルネリアが。
彼が夜更けに急報を携えた部下どもをこうして迎えること自体は目下の切羽詰った
情勢にあって珍しいことではなかった。何より大公はあの夜のこと、即ちヴェルナ
ーが城門にて命を落とした時のことをぼんやりと思い起こしもした。とは言え、極
めて似通った状況だが、全ての者が動転・狼狽していたあの夜とは些か対照的であ
る。そしてフェルマーなる男は意外な一節によってその物語を締め括った。
「どうかご安心下さい、殿下。ともすれば狡知に長けた賊どもの企みに遅れを取るこ
ともあり得ましたが、ある御仁のお導きによって我らは電光石火の追撃を行なうこ
とが叶ったのであります。
」
「ある御仁?」
「はい。ハインリヒ公のご後嗣、彼のトマスさまが賊徒の巧みを逸早く看破なされた
からで。
」
しばた
ま どろ
リヒャルトはあんぐりと口を開いたまま、目を 瞬 かせた。我知らずの内に微睡むな
どして、話の筋道を見失ったのかと彼は思った。
「何?」
「ですから、トマスさまが。
」
「トマス?トマスというのは、あのトマスかね?」
「はい。正に左様申し上げたところでございますが。」
アンハルト大公は珍しく、自分の立場として如何様な指示を下したらよいのかとい
う判断に窮して束の間その場に棒立ちしていた。身繕いを整える為に再び部屋に戻
るべきか、はたまたその前に、重大な報告を直ちに告げることなく寝所の外で躊躇
していた彼らを嗜めるべきか。脳裡に浮かぶのは精々がこのように瑣末な事柄ばか
りという始末であった。何れを優先しても大勢に影響はない。コルネリアの安否は
無論一方ならず気掛かりであるが、リヒャルトには武官フェルマーが伝えた報告を
今一度確認してみようという気が起こらなかった。錯綜する思案の中で彼は心の疲
弊を押し隠すこともなく深い溜息を吐き、果たしてこれから幾度このような場面に
立ち会うことになるのかと天を仰いだ。
城門に集結した騎馬の数がそれ以上膨らむことはなかった。到着した一団は騎乗
したままその場に待機し、その後彼らからは何らの動きも窺えない。城内に侵入し
たとされる匪賊が討伐されたという吉報と、その後すぐ門扉に彼ら騎馬隊が到着し
たことで、この顛末は瞬く間に大団円を迎えるものかと思われたのであるが、降っ
て湧いた怒涛は突然に凪いだ。司令官と思しき長躯の騎士は哨兵らに一声を掛ける
こともなく傍らに馬を立たせる奇異な男と際限なく談笑するばかりである。そもそ
も彼には緊張感というものが凡そ見受けられない。相手の男が武人でないことは風
采からしても明らかであるが、さりとて文人という風でもない。恐らく貴顕の子女
の類であろうと想像出来るが、何とも世慣れた様子であり些か如何わしくすらある。
番兵らは無遠慮に彼を好奇の眼差しで見詰めていた。取り分けアンハルト人であれ
ば、その男の風評に疎い者はいない。そう、彼は何故か今宵の事態収拾の功労者と
されているトマスその人であった。そして彼と語らう長身の武人は同じくアンハル
ト人たるシュタインベルクである。彼らは門扉へと駆け付けた意図を何者にも明ら
かにはしようとせず、暫し歓談に耽った。
「全く弱りました。わたしとしては面目丸潰れですよ。陛下に対しても、大公殿下に
対しても合わせる顔がない。
」
言葉とは裏腹にまるで屈託のない調子で、シュタインベルクは言った。彼に対して
トマスは然程面識がなく当然言葉を交わす機会もこれまでに殆どなかった。ヴェル
ナーほどではないものの確かにこの男からも掴み所の無さを察することが出来る。
しかしそれも一抹といった程度で、表向きはどこまでも気さくであった。それが生
来のものであるのか、それとも栄転を遂げてから当人が殊更そう心掛けているのか、
トマスにはわからぬ。
「何故です。
」
「賊徒を一網打尽にしたからとて、わたしが負うべきものは依然として大きい。
」
「ふむ。
」
「あなたの告知がなければ、恐らく彼のご令嬢の御身は危うかった。その場合、わた
しは縛り首ですよ。
」
「まさか。
」
トマスは飄々としたシュタインベルクの態度に思わず頬を緩ませた。
「全ては良きように収まりました。リヒャルト大公とわたしとはご存知の通り、古馴
染みです。きっと今頃はただただげんなりとしているであろう彼の姿が目に浮かぶ。
けれど彼があなた一人に責めを負わすなどとは考えられない。」
シュタインベルクはトマスの沈着な口振りに対して、思わずおどけたような表情を
してみせた。
「縛り首はどうにか回避出来たと思いますが。メルヴィル卿不在の現在、都下の治安
維持は専らわたしの任務です。にも拘らず、あろうことかこの城内にてかくも破廉
恥な振る舞いを危うく見過ごしそうになるとはね。
」
「破廉恥ですか。
」
トマスはシュタインベルクの言い回しに再び相好を崩しつつ、視線を素早く周辺に
這わせる。彼の視界には忽ち老若のマウレーク人下男二名の姿が映った。
「だからこそトマス公、あなたの炯眼に感謝したい。」
「節穴ですよ。ご存知でしょう。
」
「いや、本心から申し上げているのです。わたしは皮肉な物言いを余り好まない。」
「さようですか。
」
「ええ。折に触れて嗜むことは勿論ありますが、今宵はその時ではない。
」
「何れにせよ。どうもこの一件の背後には容易ならざる事情が潜んでいるような気が
します。そうは思いませんか。
」
「……」
シュタインベルクはトマスの問い掛けには答えずただ目だけを輝かせた。
「全てが詳らかになれば…断罪されるべきはあなたなどではない。きっとまるで別様
な機構に属する者でしょう。
」
「なるほど。しかし、何故そこまでおわかりになるのです?」
アンハルト将帥の表情は変わらず柔和であったが、その眼に鋭い光が灯ったことを
トマスは見逃さなかった。どうやら彼は無意識の内に随分と高揚していたようで、
そのせいで多少饒舌になっていた。どのようなものであれ手柄を立てるということ
に彼の関心が赴くことはない。それは変わらぬが、この時未曾有の変事を首尾よく
回避することに一役買い、しかもそれによって所縁ある者をどうにか救出出来たこ
とに深い安堵感を覚えて気が緩んだのであろう。トマスはこれ以上迂闊なことは言
うまいと口を拭った。
「失礼。シュタインベルク卿が炯眼などと煽てるものだから、ついその気になって軽
口を叩いてしまいました。お聞き流し頂きたい。
」
「確かに、この企みを裏で糸引くは只ならぬ曲者であろうと、わたしも肌でひしひし
とは感じておりますよ。これまでとは手口が異なるのでね。広義には逆徒の仕業と
いうことになるのだろうが、『敵方』の在り様も千篇一律というわけではないよう
だ。
」
シュタインベルクはトマスが拙くはぐらかそうとしたことに踏み込もうとは思わな
かった。だが、彼が口にした「別様な機構」という言葉には引っ掛かりを覚える。
一体何を仄めかしているのかこの時点では皆目見当も付かぬが、彼がこの件の経緯
に一方ならぬ知識を持っていることだけはシュタインベルクにも既に明らかであっ
た。ただ、最悪の事態を免れた今となっては寧ろそっと目を凝らして以降の成り行
きに注視することの方が、彼にとっては興味深いように思われた。
「時に、その連中は何だね。
」
頃合を見計らったように、シュタインベルクはそこで漸くこのように仰々しく城門
へと駆け付けた目的を果たすべく、哨兵長ベルゲンに声を掛けた。暗に行なわれた
トマスの促しに従ったのである。
「連中」とは言うまでもなく、例のマウレーク人下
男たちである。ベルゲンが回答の為に一歩前に出るのを見て、当のマウレーク人青
年は身を強張らせた。
それまで八方塞にも係わらずトマスらの様子を身動きもせずじっと食い入るよう
に見詰めていた彼であるが、到頭自身らが運命の俎上に上がったことを悟った。彼
らの逃奔の企みは恐らくまだ看破されていないものの、露見までは時間の問題であ
る。老人の下城自体は正式な手続きを踏んでおり最早慣例と化しているので見咎め
られることはなかったはずだが、焦燥感ゆえに行なってしまった彼らの幾分不審な
振る舞いは番兵たちの注意を徒に集めたに違いない。平時ならば兎も角このような
異変の最中にあっては取り分け、怪訝な眼差しは鋭いものだ。そして何より、既に
略取された「令嬢」が無事保護を受けたことは不可避の致命的一撃となる。老人は
その女に面が割れている。彼がその「令嬢」に近付きこの勾引を主導したことは、
遠からず当人の口から暴かれるであろう。マウレーク人青年は焦がすような視線が
己に集中する中、突然背中に氷のように冷たい刃が突き立てられるような感覚に襲
われた。その時、腕の中で何かが蠢くのを感じたのだ。はっとして彼は視線を落と
した。確認するまでもない。彼はそれが一体何ごとであるか電撃の如き閃きで悟っ
たから。即ち、気を失っていた老人がいよいよという際で意識を取り戻したのだ。
何とも間が悪い。老人は朦朧とした眼差しで青年を見据えると、どうにか声を絞り
出した。失われた意識の中で只管それだけを強く念じていたのか、老人の働き掛け
は余りにも迅速であった。開口一番、彼は自分の命を直ちに奪ってくれるよう懇願
したのである。
「頼む…後生だ。
」
老人は弱々しい手付きで、身に潜めた匕首の在り処を示す。青年の意識は混乱と動
転の為に朦朧としていたが、そのか細い声は雷鳴よりも強く彼を揺るがした。彼は
そっと老人の懐に手を伸ばす。
「取りあえず、そいつらの身柄は拘束するのがよかろう。」
しかしシュタインベルクは見逃さない。彼は哨兵長ベルゲンの伝えることに耳を傾
けつつ、用心深くそのマウレーク人たちの様子を見詰めていた。傍目には青年の挙
動にまだ特に警戒すべき点は見受けられないよう映った。老人を介抱しようとして
いるようにしか見えぬ。しかし言い付けに従い、ベルゲンは直ちに青年と老人を引
き離した。
「縛り上げますか。
」
「身体の検めは済んでいるのだろうね?」
「わたしが行なっております。
」
応えはベルゲンのものではない。騎馬の一団からそれは上がった。本城周辺に配備
されていた歩哨の統率役である。今は騎乗している。
「このようなところで落馬するなよ。慣れぬ乗馬ゆえか腰が浮いているぞ。
」
シュタインベルクは場違いに快活な笑声を立てた。
「おまえの名は、ブルーノ。間違いないな?」
「はい。
」
「ベルゲンが申したところとおまえたちが検分した時のことに概ね齟齬はないか。」
「ございません。
」
「では信用しよう。ベルゲン、まだ縄は勘弁してやれ。そいつらは丸腰であるという
ことだ。
」
シュタインベルクはトマスの方に向き直った。
「…実のところ、連中が今も丸腰である確証などはないのですよ。例えば、城を出た
後、門扉に到る道中に潜めてあった凶器を回収して今は携帯しておるとかね。」
「?」
「だが、改めて検分などは行わない。仮にこ奴らが一暴れしたところで、どれほど我
らが惰弱であっても殲滅されるようなことはありますまい。寧ろ、どのように尻尾
を出すのか見届ける為にも敢えて芽は摘まずにおくのがよい。」
トマスは面食らったように相手の顔を見るのみで、何と答えたらよいかわからぬ。
それが本意なのか、所構わずに為された戯言なのか判断し難い。
「なるほど。何分わたしにはこうしたことについての心得がない為、聞き入るより他
に術を持たないのですが…それは常道ですか?」
「いやいや。わたし個人の嗜好に従った遣り方に過ぎません。」
「尻尾を出す、芽を摘む、と仰いましたが、一体?」
トマスの意想外な生真面目さをシュタインベルクは愉快そうな眼差しで眺めた。
「あの老人で間違いないのでしょう?」
「……」
「少なくとも、先程からあなたの双眸はそのようにわたしに告げていますよ。」
シュタインベルクはトマスの心を見透かすように低く柔らかい口調でそう言った。
「あなたがどのような思惑を抱いているのかはわからないし、ここでそれを暴こうと
も思わない。
」
「思惑など。
」
「いいのです。今はいい。結局わたしは無粋な人間なのですよ。黙って注視しておれ
ばいいものをね、結局はこうして言葉にしてしまうのだから。しかし、我らはあな
たに促されたからこそ、斯様な刻限にこの通り、馬を並べているわけです。あなた
は言った、この暴挙を指揮していたはずの者がまだ野放しになっている。捕縛乃至
は討ち取られた者たちの中にその姿を認めることは出来なかった、と。」
「……」
「あの老人が首魁であるとすぐにわたしに告げないのは、あなたが迷っているからだ。
奴をどう捌くかによって、最も理想的な結末を迎えられるか否かというところは大
きく変動する。土壇場を目前にあなたは戸惑った。違いますか。
」
「…仰る通りです。
」
トマスは張りのない声で相手の指摘を受け入れた。しかし、シュタインベルクの言
葉をそっくりそのまま肯定するということはなく、如何にも取って付けたような口
実を付与して、話のすり替えを試みる。
「しかし、あなたがたを混乱させようなどという心積もりは微塵もないこと、それは
わかって頂きたい。一度しゃしゃり出てしまった手前、どんどん厚かましくなって
いるのかも知れません。何か妙案があれば、あなたに上申したいと身の程知らずに
も思っているのですから。だが、それが中々捻り出せない。
」
「ふむ。
」
「あの老人が首魁であるかどうか、そこまではわたしにはわかりません。
」
「しかし指導的な立場にあることは間違いありませんね?」
「恐らく。わたしが偶然の導きによって垣間見た一団の中にあの男は確かにいまし
た。
」
これは嘘であった。トマスはコルネリアの周囲に不穏な空気が立ち込めていること
を直感を頼りに察知していたし、この夜もその勘に従って自発的な巡視を行ってい
たのである。彼が賊徒らの遁走を目撃した時、既に老人の姿は一団の中になかった。
「粗放な所見でも構いませんよ。あなたならばこの局面でどのように動くのが得策で
あると思いますか。忌憚なく仰ってみたらいい。
」
「わたしは…」
トマスは暫し躊躇った。元来不遜な性分の彼もこの時は酷く用心深く、且つ控え目
である。
「城外にて、逃走の手引きをする者らが待機している可能性について考えていまし
た。
」
「ほう。
」
「だからここで、あの連中を望み通り門扉から出してやれば…」
「つまり、泳がせると、そういうことかな?」
「はい。或いはもっと根深い病根を抉り出せるかも知れない。」
「なるほどね。しかしそれは出来ない。
」
「何故?」
「もうその時機は失しています。こういうことは周到に行わなければなりません。彼
らも恐らく愚鈍ではないでしょう。この物々しい状況から一転してあっさり放免さ
れれば勘繰るに違いない。
」
「では彼らがどのような肚でいるのかいま少し見極めるべきだと、そうお考えです
か。
」
「いや、わたしとしてはそれももう充分だと考えていますよ。まあ、あの者らにとっ
ては幸いと言うべきか、ここに集まる兵たちの殆どがまだ奴らを決定的に訝しんで
はいないのですがね。少なくとも我々のようには。しかし、わたしは奇を衒うよう
な仕方を好まない。この者たちを締め上げてことの次第を吐かせる方が余程楽だし
確実でしょう。
」
「はあ。
」
気の抜けた返事をしながらも、トマスは心中穏やかでない。
「聞けばあの老人、旧マウレーク王族付きの使用人であったという。そして我らによ
るこの地の統治が始まって以降も城勤めを引き続き許され、とある公認も受けてい
るそうな。
」
「公認とは?」
「飽くまで我々がこの土地にいる限りにおいて、ということでしょうが、
『アンハルト
王室付き』というお墨付きをね。
」
彼らは共に周囲の者たちからその内容に聞耳を立てられぬよう声を絞っていた。シ
ュタインベルクは泰然とした様子を崩そうともしないが、トマスは延々と続く立ち
話に次第苛立ちを覚え始める。
赤の舞台 vol.466-470
eine rote Buhne vol.466-470
□□□
「事情がよく飲み込めませんが。
」
「そうでしょうとも。一つ一つ丹念に解きほぐしていかねばなりませんね。トマス公、
あなたが先程仰った通りに、これは中々根が深そうだ。永らくそれと知らず、間者
を懐で飼っていたのです。取り分けタルナート子爵などは、奴を中々に厚くもてな
していたと聞いていますよ。遠からず、彼の御仁は査問を受けることになるでしょ
うな。尤もわたしの私的な見解では、この件に関してあのお人よしを幾ら責め立て
たところで定めしこれといった成果は上がりますまい。
」
シュタインベルクは不敵に笑った。彼は横目でちらと老マウレーク人の方を窺う。
その所作が既に何度目になるかわからない。表面的には剽軽な態度で悠揚と構えて
いても、やはりシュタインベルクは強面の武人である。トマスはそれをすぐに思い
知ることとなった。シュタインベルクはトマスとの語らいを唐突に終えると、腰の
佩剣を抜き放って身を翻した。
「将軍…何をなさいます。
」
一同の眼差しは一斉にシュタインベルクに注がれた。哨兵長ベルゲンが驚いて彼に
呻くように弱い声を掛けたが、応えはない。シュタインベルクは徐に老人の前に立
った。長躯の男が眼前に迫ってきたので、彼は身を竦ませてその顔を仰ぎ見る。
「おまえたち。
」
シュタインベルクは静かに言った。
「聞こえないのか。誰でもよい、この老人の腰元を探ってみよ。
」
アンハルト将帥の声は依然然程大きくはなかったが、今度は鞭のように苛烈である。
呆気に取られていた兵士たちは、皆一様に慄いて我先にと老マウレーク人の下へと
駆け寄り、指示の通りに彼の身体を検めた。乱暴に扱われて老人は顔を顰めた。し
かしその眼光は自身に群がる兵らではなく長身の大将の双眸を射る。果たしてシュ
タインベルクの洞察通り、老人の携帯していた匕首は直ちに発見されて取り上げら
れることとなった。ブルーノなる歩哨の統率役は何ともばつの悪そうな顔をして項
垂れたが、無論シュタインベルクは彼になど目もくれぬ。この時漸くその場に会し
た全ての者が、夜毎城門を潜り翌朝早くには奉仕の為に登城してくることが慣例と
なっていたその老人、黙々と日夜雑務に精励するという姿勢の故もあり無害なる奴
僕と見下していたその老人に対する不審の念を顕わにした。その匕首をもて何ごと
を為そうとしたのか。詰め寄る雑兵に胸倉を掴まれ、老人は気勢など微塵も示せぬ。
翻弄され雑作もなくそのまま手折られるかにも見えた。
「退け。
」
シュタインベルクはそれらの衛卒らを力ずくでそのマウレーク人から引き剥がした。
咽て屈み込む老人。暫しの間、彼はそれをじっと見下ろした。その時城門に居合わ
せた者たちの視線は全て、ごく自然にシュタインベルクの大きな背部に吸い寄せら
れていた。だが、彼の次なる挙動は多くの者たちが予期していたそれとは大きく異
なった。彼は矢庭に手にしていた抜き身を振り被ると無造作にそれを老人の首目掛
けて振り下ろしたのだ。周囲に響いた鈍く不快な音は、夜風に吹き散らされること
なくその場にいるあらゆる者の鼓膜を打った。老人の首は綺麗に切り落とされはせ
ずに半ば損壊した状態で、未だ胴体と繋がっている。だが、首の骨は疑いなく圧し
折れた。老人は即死した。隣に立つ者の飲み込む生唾を彼らは互いに聞いたかも知
れない。静寂を破ったのは、若い方のマウレーク人下男であった。彼は獣の唸り声
のような、明らかに言葉の形を取らぬ不気味な声を発した。そしてシュタインベル
クはそれにまるで注意を払うことなく、また辺りを統べる呆然たる空気にもお構い
なく今度は地を揺るがし風を引き裂くような大音声で下命したのである。
「直ちに城門を開扉せよ。これより、手持ちの兵を総動員し、且つ現在も門外にて都
の巡検に当たる者どもにも号令を発し城下にて手引きを行っていると思しき賊の残
党を余さず平らげる。暇は幾ばくもない。剣を取れ。」
動揺は瞬く間に霧散した。シュタインベルクの求心力が並々ならぬものであること
を目の当たりにして、何故かトマスは些か鼻白んだ。傑物であったヴェルナーは既
に故人であるし、アンハルト国内に留まる老シュルツも名目的には未だ国軍の長と
いうことになっているがアンネ及びリヒャルトの帰国を待ってから隠居生活に移る
ことは確実であるので、現在アンハルト軍事を実質的に司る者はクローグとその次
位たるシュタインベルクである。今宵ここに集った衛卒らの中には、この時初めて
将帥が発する命を直に聞いたという者もいた。何れにせよ、大喝にも似たシュタイ
ンベルクの言い付けに彼らは先ず面食らったようだが、直ぐにその意気は漏れなく
揚がった。改めて己の職分に強い自負を抱いたらしい。シュタインベルクは城を出
て都下へと繰り出す旨を告げたわけだが、城門の番兵らには「但し…」と、引き続
き持ち場に留まりこの後も正常な保守を行うよう追って指示を与えた。また、彼は
更に補遺として事細かな指令を下しながら、思索を整理し命令の整合を目指した。
一方彼のマウレーク人青年はと言えば、同志の惨殺に逆上し、その後も大いに暴れ
たが斬首されることはなくそのまま捕縛されて城へと連行された。この狂える雄牛
を取り押さえるのは大層骨だった模様で、番兵が一名頭を打って昏倒した。シュタ
インベルクは麾下の者たちが纏まりをもって動き始めるのを見届けると番兵らにも
今一度発破を掛け、自身は援兵を迎える為そこに暫時留まった。ややあって思い出
したようにトマスのところへ戻って来たのだが、その態度はいつの間にか再び飄々
としたものへと回帰していた。彼は口を開くなり、まるで他人事の如くに言った。
「図らずも奴らがどのような肚でいるのか最後まで見極めることになってしまいまし
た。結果はご覧の通り。
」
「何故です?」
トマスは、シュタインベルクが自ら兵士たちに釘を刺した通り、悠長に言葉を交わ
している時など幾ばくもないことは重々承知していたのだが、それでも今しがたの
手荒な振る舞いについて訊かずにはおれなかった。
「うん?」
「何故あの老人を殺したのですか。
」
シュタインベルクは困惑したように何度か頷いてから、肩を竦めた。
つわもの
「ここに、何故と尋ねる者はあなた以外にはいない。それは彼らが 兵 で、指揮命令
に理由など求めぬからです。連中は同様に上官たるわたしの決断を問い質すことも
ありません。
」
「はい。勿論わたしとて左様なことはよく存じているつもりです。しかし…」
「好奇心には勝てんかね?」
さす
シュタインベルクは屈託なく笑って顎の辺りを擦った。
「宜しい。余り時間はありませんが…しかし折角ですから、あなたの問いに答えるに
吝かであってはいけませんね。
」
シュタインベルクはそう語りつつ、再び馬に跨った。
「あの匕首、あれが果たして何の為に使われるものであったかあなたにはわかります
か。
」
「……」
「あれは、我らに捨て身の反骨心を示す為にあの老人が所持していたものではないの
です。つまり我らを闇雲に斬り付ける為のものではなかったということです。」
「と仰ると?」
「あの匕首は、自害を選択する局面に備えて奴が恐らくは予め懐に忍ばせていたもの
でしょう。
」
「なるほど。しかし、ではどうして、自害の手段となるものをわざわざ取り上げてお
いて…」
「そこが正にあなたが知りたいことの核心でしょう。だが、あなたにとって満足のゆ
く回答をわたしの持てる語彙の内から組み立てることはどうも出来そうにない。
」
「はい?」
「例え当代随一という嗜虐性を備えた拷問吏に任せたとしても、あの老人が口を割る
ことはなかったのではないか。奴が自刃の隙を窺っていることを悟った時、わたし
はもうこの者を生かしておいても益はないであろうと忽ちに判断したのです。」
シュタインベルクは記憶を反芻するようにぼんやりとした表情でそう言った。
「その根拠は?」
「目ですよ。
」
相手が怪訝な眼差しを向けることを承知で、アンハルト将帥は即答した。すかさず
彼の顔には、だから言ったろうという諦念を表す苦笑が浮かぶ。
「因業者…乃至は偏屈者。あの者の眼差しが表していたのは、頑固な老人に対するこ
うしたお決まりの形容では凡そ足りぬほど硬直した精神だった。あなたには特に左
様感じられる瞬間はありませんでしたか。」
「さあ…」
トマスにはシュタインベルクの言わんとするところが今ひとつ見えてこなかった。
例えば、一部のマウレーク人に顕著である態度、装われた平静と温順さによって徹
底して「部外者」を排斥しようという態度について彼が仄めかしているのではない
かと安易に予想してみてもどうもしっくりこない。時を惜しむトマスは多少無遠慮
に心の儘を切り出してみた。
「つまりは…シュタインベルク卿の勘がその根拠であると。あの者の口からこの企み
の重大な意図、或いは少なくともからくりに関わる真実が漏れ出でることはないで
あろうと、直感を頼りに推測した。そういうことですね?」
「身も蓋もない言い方をすればそういうことになりますね。
」
シュタインベルクはおどけたような顔付きで再び肩を竦めてみせる。そこで彼は突
然何かを思い起こして目を見開いた。
「それにほら、知っていますか、あの老人…」
「何です。
」
「聾唖だか聴唖だかで、話すことは出来なかったそうですよ。どの道、締め上げて自
白を促そうとしたところで捗々しくはいかなかったわけだ。
」
聾唖、聴唖。言葉が話せない。取り立てて驚くべき事情とは思えぬが、トマスは小
首を傾げた。そして我知らず口元に手を当てて、湧き上がる違和感の正体を突き止
めようと試みる。シュタインベルクはその様を見て意味深な笑みを浮かべた。
「埒もないことを言ってしまった。聞き流して下さい。さて、わたしは何をどこまで
話していたか…」
「あの老人の目についてです。お話の途中でした。
」
くろがね
「そうそう。 鉄 の球体、亡者の眼球。老人の眼窩に埋まっていたのは何れにせよ、
そんな類のものであったに違いない。何ものかに心を雁字搦めにされている者には
往々にして見受けられる特徴ですがね。
」
「
『硬直した精神』というやつですか。
」
「そう。
」
「雁字搦めとは?」
「民族的に引き継がれてきた信条か、それとももっと素朴な祖国愛のようなものか。
何でもよい。そのようなものならマウレーク人でなくとも、胸の内で養っておる人々
は少なくないことでしょう。我々だってそれは然りだ。或いは、偏に復讐心である
とかね。これもまた充分に理解することが出来ます。」
「はあ。
」
「だが、己の命にすら恬淡と見切りを付けるよう促す代物だとしたら、それはどんな
ものであれ中々厄介なのです。彼らにとっては宝珠よりも貴い純正を示す境地へと
導く光なのかも知れないが、立場が変われば見方も変わる。我らにとっては所詮、
硬直した精神、はたまた袋小路の魂を結果させる瘴気でしかない。」
シュタインベルクは跨る馬の鬣をゆっくりと撫でた。
「このような魂の持ち主を相手にして得られる成果というのは、飽くまでわたしの経
験上ですが、余り芳しいものではない。従ってそのような輩を屈服させる苛みをあ
れこれ考えることは面倒でしてな。
」
「ちらと目を覗き込んだだけで、即座にそこまでおわかりになると?」
「わかったわけではありませんよ。
」
シュタインベルクの表情はその物言い同様に如何にも率直な様子であった。その言
葉は時に抽象的であったが、トマスを煙に巻こうという気配は窺えない。
「しかしあなたはあの者の首を切り落とした。」
「いやいや。流石に思い込みの集積だけを恃みにして剣を握る手は振れません。わた
なまくら
しの腕なのか、それとも剣の質なのか、ご覧の通り 鈍 でね。だからこれでもわた
しは刃物を振り回す時にはそれなりに慎重になるのです。」
「他にも理由があったということですか。
」
「果たして、あったと言うべきか。もしかしたら、そうする為の口実を無意識に自ら
追い求めたのかも知れない。今にしてみれば誰しもがこうした場面では咄嗟に思い
付きそうな考えだったとも思いますよ。
」
「それは?」
「わたしは頑迷そうな老大人を早々に見限った。しかし逆にあの若造の方には期待を
したわけです。責め苛んで何かしら得る余地があるのかどうか確かめてみようと
ね。
」
「……」
「それには、事前に少し強い衝撃を与えておく必要があった。一切の仮借なく徹底的
にやるという意志をわかり易く示してやる必要が。老人を斬り、それを以ってあの
若いマウレーク人への示威とする。一石二鳥などと言ってはさぞかしわたしが酷い
人でなしに見えるかも知れないが、まあそういうことです。でもほら、あの暴れっ
ぷりを見るにつけ、奴の方は然程意固地な成り立ちをした人間ではないのかも知れ
ませんな。
」
「そううまくいくとは思えませんが。
」
「まあ見てみましょう。
」
興が乗ったのかシュタインベルクは饒舌で、まだ物足りぬというように更に細説の
言葉を重ねようとしたが、城の方から騎馬の一群がこちらに向けて疾駆してくるの
を確認すると口を噤んだ。
「残念、お仕舞いです。思うところを悉く言葉にし尽くすというのは不可能なことだ
と改めて実感しましたよ。取り分けわたしのように口下手な男にとってはね。先に
述べた通り、やはりあなたを納得させるに足るものではなかったはずだ。
」
「いえ、充分に過ぎます。わたしの…」
トマスの言葉を遮り、その時突然シュタインベルクは馬を寄せて彼にそっと耳打ち
した。その内容は全く別の事柄についてであり、トマスはここで為されたシュタイ
ンベルクの唐突な告白に面食らった。
「麾下の者たちの耳には入れたくない。あのようには言い付けたもののわたしはね、
正直これが功を奏すとは考えていないのですよ。
」
「これ?」
「そう、今から眠い目を擦りつつ、賊の胴元を追って陰気な城下の街を虱潰しに当た
るという行いがね。
」
「何かしら心当たりがあって下した命令ではなかったのですか。
」
「あっても些細なものです。ないに等しい。後は、我らが不審と一方的に決め付けた
者らを片っ端から連行するというお決まりの遣り口でお茶を濁して終わり、ともな
り兼ねない。
」
思わず呆然としてトマスには返す言葉が思い浮かばなかった。彼が何故このような
ことを明け透けに語るのか理解が出来ない。
「リシャール陛下に合わせる顔というのを少しでも拵えておかねばならないので仕方
がない。これはまあ見せ掛けの行動、つまり一つの仕種なのです。」
シュタインベルクがそれに対する論評の言葉など望んでいないことは明らかであっ
たので、トマスは何も言わなかった。叩き付けるような一陣の強い砂風が城門にい
た者たちの間を力任せに通り抜ける。二人は共に顔を顰めた。場違いに安閑とした
語らいは自ずから終焉を迎えていた。トマスは耳に入った砂を払い出しながら、粘
るつもりはなかったがふと心に浮かんだことを思わず口にした。
「最後に一つだけお聞きしておきたいことがあります。
」
「何でしょう。手短に。もう本当に時は幾ばくもありませんよ。
」
「はい。シュタインベルク卿は、今宵わたしがお伝えしたことに疑いを差し挟むこと
なくほぼその全てを聞き入れ動いて下さった。」
「どうでしょうね。碌に裏も取らず鵜呑みにしたということかな。」
「あのマウレーク人下男たちについては顕著で、わたしの躊躇する様を見るだけで直
ちに下手人と断じておられたようにもお見受けします。
」
「わたしはそんなに迂闊な人間ではありませんよ。
」
長躯のアンハルト将帥は憮然と答えたが、その眼は愉悦で輝く。
「しかし、あなたの言葉に重きを置いたのは確かだ。それはね、やはり勘です。
」
「え?」
「そうとでも言うより他はない。あなたが先程指摘したように、わたしには確かに直
感を頼りにするようなところがある。
」
シュタインベルクはにやりと笑った。
「寧ろ信用の置ける部下の言葉に対してこそわたしは用心深い。勘が働きにくいので
ね。今回に関しては、相手があなただったからだ。あなたは本来こうした局面でわ
たしの傍らにいるべき人間ではない。だからこそ、それだけわたしにとっては説得
力を発揮したと、そういうことですよ。
」
濃密な夜陰を照らすものは月明かりと篝火だけであったが、シュタインベルクの面
容は陽の光の下にいるかのように鮮やかに伝わって来た。それに比べて、とトマス
は我を振り返る。彼は己の顔が無造作に引っ掴んだ土くれよりも不分明であるよう
感じられた。闇の吐息に耳を傾けている気になって瞑想に耽るより、この時トマス
にとって隣にいる男の言葉は余程面白かったのだ。
「…最後まで取り留めのないことをくどくどとお尋ねして申し訳ない。」
「お気になさらず。わたしは時折自分でも驚くほどお喋りなのですよ。ところで…」
「はい。
」
「この夜の顛末を最後まで見届けたいとそうお考えかな?」
改めて左様に問われるとトマスは実際のところ自分の望みが果たしてどのようなも
のであるか、よくわからなくなった。しかし、彼は多少お座成りに小さく頷いた。
「ならば先ずはわたしと共にいらっしゃい。御身の安全ならば、このシュタインベル
クが保証しよう。尤も、只今申した通り夜が明けるより前に芳しい成果が手に入る
ことは恐らくないでしょう。
」
言い終えるや否や、彼は矢庭に右手の親指と人差し指で輪を作り口元に当て合流す
る増援部隊に向けて指笛を強く鳴らした。そして隊を便宜的に率いるマーセル人の
武官を通さず十把一絡げに自ら再び大音声で此度の用兵の趣旨を伝えると、それが
正しく伝わったかどうかなど確かめることもなく即刻馬に鞭を入れた。シュタイン
ベルクが先程言ったように彼らは「手持ちの兵」であり、その数は多くの者が予想
したものに比べるとやはり僅かである。将帥としての専断によって夥しい人頭を投
入することは元より可能であるが、それは彼の本意ではなかった。また、手持ちと
は言っても無論これらはシュタインベルクの私兵というわけではない。彼は諸侯で
はなくアンネに(厳密に言えばマーセル王リシャールにも)仕える一介の武人に過
ぎず、当然私兵を所有することなど許されていないからだ。援兵として駆け付けた
連中もシュタインベルクによって麾下へと選出された軍兵の一部ではあるが、その
資格や要件は戦士としての才幹や技量のみに特化されていた。彼が私意を排して客
観的な判断で戦績等を元に抜擢したので、比較的階位の高いマーセル人も混ざって
いるなど、アンハルト兵士だけで構成されているのではなかった。シュタインベル
クは悠揚と既に開け放たれている城門を潜った。彼に陣頭指揮を執る心積もりはな
いので、その傍らを意気込んだ騎馬隊が猛進しやがて追い抜いて行く。トマスにも
馬術に関してはそれなりの心得がある。指揮官が奔走を開始するならばそれに喰ら
い付く自信はあった。
「慌てる必要はありませんよ。わたしの務めは急拵えの本営に流れ込んでくる報せを
集約するというだけのこと。あなたも、目を只管に見開き、後はただ睡魔に屈せず
朝日が昇るその時をじっと待てばそれでよい。」
しかし、シュタインベルクは気勢を削ぐようにそう宣告した。そしてそれが、彼か
らトマスに投げ掛けられたこの夜最後の言葉であった。都下の往来或いは地方都市
へと延びる街道を封鎖するほどの人員など到底確保出来ていない為、この捜索はシ
ュタインベルクが予め告げた通り効率的には運行しなかったのである。ごろつき、
酔漢、夜盗の類が網に掛かることはあったが、どれもこれもコルネリアの勾引を企
図した一団との繋がりを見出すことは例え乱暴なこじ付けを試みようとしても困難
であった。件のマウレーク人下男たち、シュタインベルクに処刑された老人が夜毎
ねぐら
その 塒 としていた粗末な小屋の場所は疾うに調べが行われていた為一目散に踏み
込んで捜査がされたが既に蛻の殻であった。一方、拘禁された青年にはそれから数
日に渡って身の毛もよだつ凄惨な糾問が執行された。結果、姦策の全貌が明らかに
なるような自白は搾り出せなかったが、遂に屈服した彼の口から一つの人名が漏れ
出でた。それは、
「商人ウマル」なるものであった。
赤の舞台 vol.471-475
eine rote Buhne vol.471-475
□□□
大仰に言えば質量を感じさせるほどの漆黒に、この夜の心許ない月影だけでは到
底太刀打ちが出来ぬ。だが時折起こる突風はなけなしの雲を吹き散らして星辰を際
立たせた。都大路から分岐する往来を暫し西に下ると小径の入り組んだ蕭条たる区
域が姿を現す。昔日の活気に満ちた様相から現在を想像することは難かったであろ
う。辺りには住居が密集しているにも拘らず、凡そ有機性を微塵も感じさせない。
取り分け戦後は偸盗を生業とする者らも滅多に近付くことのない、一面墓地のよう
なところなのである。左様な界隈をこの夜、何れ闇に溶け入るか掻き消されるかと
いう如何にも陰気な集団が徒党を組んで馬を走らせていた。よく目を凝らせばどう
やら彼らはほぼ揃いの衣服に身を包んでいるようで、それは弊衣とまではいかぬも
のの大分傷んで古び近くに寄れば黴の臭いが鼻を突きそうであった。全身をゆった
り包む黒褐色の単衣に覆面のような頭巾。そうした風体の物乞いなどを日中街中で
見掛けることはあるので然程あからさまな薄気味悪さはないはずだが、このような
刻限に群れを成し、しかもどこか荘重な雰囲気を醸しつつ裏通りを進む様子はやは
いかめ
り只ならぬものがあった。 厳 しい気配を漂わせてはいるものの、彼らが足早である
ことは確かだ。取り澄ましていてもこの連中は何とも大胆な遁走の最中にあった。
追手はマーセル・アンハルト、即ち彼らが言うところの「西の国」である。この者
たちは「西の国」の巡検の採る経路についてある程度の知識を持っているつもりで
いたが相手は思いの外神出鬼没で、その為幾度も迂回を余儀なくされ予定よりも大
幅に時を浪費する羽目になった。追われるとは言え、彼らがその確かな標的になっ
ているわけではない。この時点ではまだシュタインベルクの下した指令は城下の巡
視兵らに行き渡ってはいなかったし、そのシュタインベルク当人にしたところで自
ら認める通り、城に侵入した(と思われる)賊の手引きを行う者たちが本当に周辺
に潜んでいるのか、いるとすればそれが果たしてどのような志向を持つ者なのかと
いうことに確信が全く持てず、手探りでの捜索を指揮しているに過ぎなかった。か
つて誠に寡勢であるにも拘らずマウレーク社会を震撼させた「暗い眼差し」なる結
社について、マーセル・アンハルト上層部は丸で無知というわけではない。しかし
その実態の報告及び研究の為に作成された文書の菲薄さ、旧マウレーク時代に詳密
に綴られた夥しい数のこの組織に関する秘書の、煩雑を極める翻訳・編纂が遅々と
して進まず着手後間もなく頓挫したままになっていることなどを窺うに上層部が重
大な関心を寄せていたとはとても言えそうにない。従って既に彼らが長き休眠より
目覚め、徐々にその活動を本格的に再開していることを正しく感知している者も恐
らく未だ皆無に等しいであろう。
(今は亡きアンハルト将帥ヴェルナーなどは熱心な
穿鑿を行っていたはずであり、当時股肱の配下であったクローグは彼の指示で疑い
なく一方ならぬ調査を行っている。しかし、彼らはこの成果を全て当局に遍く知ら
せて共有しようとはしなかった。
)シュウバ人街区に惨たらしく屠られた女の骸が遺
棄されていた近頃の一件。これなどは行為自体が犯行声明という彼ら一流の仕業に
ついての示唆に富んだものであったが、巡り合わせの悪さか、折りしも同時期に起
こったマウレーク西南国境侵犯の急報によってすっかり霞んでしまい、きちんと取
り合われることはなかった。そして。仮にこの時充分な注意が払われていたとして
も、正気の沙汰とは思えぬ次なる一手を見越すことの出来た者は「西の国」に何人
もいなかったに違いない。そう、これまで数多の仄めかしが判然と指し示す通り、
不敵にも王城からアンハルト貴顕の子女たるコルネリアを拐かさんと企図したのは
「暗い眼差し」である。即ち言うまでもなく、目下斯様都下の枝道に分け入り仮初
の根城を目指して逃亡の最中にあるこの集団こそ正しくそれであった。
「西の国」の
者たちは賊を王城敷地内にて悉く一網打尽にしたと目していたが、それは事実では
ない。確かにコルネリアの勾引を実行した一団はほぼ全て平らげられた。ただ彼ら
の一部には、どうした手妻を用いたのか虎口を躱し旨々と城から脱することの出来
た者がいたのだ。そしてここにいる彼らの様子に企てを仕損じての潰走という趣き
は皆無である。そこには何故か連中の薄気味悪い高揚感を見て取ることすら出来た。
つまり、目論見の真の狙いは別にあった、乃至はより重きを置かれた異なる当て所
が平行して存在していたということになる。城の域内で朽ちたのは言わば雑兵であ
ったが、目下うらぶれた通りに注意深く馬を走らせる彼らはその組織の中核を成す
衆で、分けても中には領袖とされる者らを含んでいた。ハイダル、そしてウマル。
前者は城下にてひっそりと隠者の如くに暮らす石工であり、後者はマウレーク国内
にては高名な大商人である。ウマルについては、これより後日不遜な悪計を企てた
疑いのある謀反人としてその消息が大いに取り沙汰されることになるのだが、実は
これまでにも幾度か様々な嫌疑を掛けられてその都度巧みに剣呑な橋を渡りきって
来たという過去がある。例えば、
「暴徒」の侵入を防ぐ為城門においてヴェルナーが
命を落とすことになった例の一件の後、裏で糸を引くと思われる首魁が一向に割り
出せず、挙句手当たり次第の粛清策に乗り出した「西の国」がその対象とした被疑
者目録には彼の名も含まれていたとされる。しかし、サルワンなどが調べ上げて指
摘する通り、ウマルにはマーセル・アンハルトの権力付近にも「侵食が及んでいる
と聞く人脈の豊かさ」が強みとしてあった。
一行はウマルをその中心に、周囲を守り固めるようにして進んでいた。時折彼ら
は揃って暗黒に煌く星々を見上げた。どうやらそれによって何かしらの方角を確か
めているというわけではなさそうで、定期的に空を仰いでは一様にぶつぶつと不平
そうな呟きを漏らすのである。それは何とも奇異で滑稽な、儀式のようにも見えた。
密行中であるにも拘らず、この者たちの傲然と誇らしげな態度は不可思議であった。
背反する感情が彼らの内で渦巻き、そして彼らを統べていた。今一つ、この夜一同
には皆等しく畏まっている様子がありありと窺えたことも記しておかねばなるまい。
連中はハイダルも含めて、ウマルを守護するかの陣形を取っていたが不思議と彼の
方へ徒な視線を送るのを憚り意識的に目を逸らしていた。しかも更に妙なことには、
ウマルその人自体も常からは考えられぬ物腰で顔は強張り呼吸を乱しており、加え
てまるで遺忘と夥しい雑草に埋もれた誰のものともわからぬ墓石のように寡黙であ
った。ただそれ以外の点では凡そ挙措を乱すような振る舞いなどもなく、依然その
慎重さに変わりはない。恐らく武装はしているであろうが、巡視兵と思しき集団の
気配が察せられれば危機を未然に回避する為すぐに進行の順路を改める。彼ら自身
もこの時点で自分たちの素性が割れているとは考えていなかったものの、不審と認
められて検めを受けるわけにはいかないのであった。それは彼らがマウレーク市民
から恐れられ嫌厭されていることを顧慮したからでもなければ、
「西の国」にこれま
での活動の足跡を掴まれていると想定し何れは弾圧を受けるであろうと怯えていた
からというわけでもない。それでは一体何故なのか。
石工ハイダルは幾度も傍らを騎行するウマルの方を凝視したい衝動に駆られたが、
その度に己のそうした軽率さを自戒した。同志たるウマルに遠慮してのことではな
い。無論彼に対する畏敬の念はある。寧ろ此度それは一層強まったとさえハイダル
には思えた。冒涜者、それも異国の女。それをあろうことか確固たる保安系統が機
能しているとされる城から攫い出すなどという暴挙を企て、しかもその巧みが功を
すんで
奏すように策を講じた。ところが、 既 のところで綻びが生じてこれは失敗に終わっ
た。
「しかし、思えばあの時…」
ハイダルは心中で独白した。全ては織り込み済みであったのか。恩師の御意による
ものなどと前置きしておきながら、冒涜者の目録に師の与り知らぬ異国の者の名を
独断で忍び込ませ屁理屈とも取れる強弁で丸め込む。しかしこの目論見の全てが奇
計として機能したことは結果的に事実である。先程ウマルは王城を背に虚無的な笑
みを浮かべながら呟くように言った。
「奴らには師を城よりお連れするのと同等な熱意を持ってその女を浄化の為に城から
攫えと伝えてある。結果がどうであれ、陽動を意図したつもりはない。おれを策士
のように思うのはよせ。
」
ハイダルは無意識の内にウマルの緊張に歪む横顔を盗み見ていた。そして遂に強烈
な欲求が勝って、畏れ多いこととは重々承知しながらも彼ウマルの懐の辺りに視線
を落としたのである。ウマルは一人で馬に跨っているのではなかった。彼の前には
丈夫な木綿の衣で恭しく包まれた、恐らく小さな人影とどうにか言えるような何も
のかが確認出来た。一見すると積荷の類に見えぬでもなかったが、それは確かに人
であった。馬に跨る両足がその外衣の下より覗いていたからだ。しかしウマルと比
してもその身の丈は彼の腰ほど、即ち半分くらいしかなく、まるで年端のいかぬ子
供のように見える。全体の様子から察するにこの者は宝物の如く丁重に扱われてい
るらしかった。取り分けウマルは「それ」を死守するという強い意気込みを面に表
していた。しかしながら一方で遠慮の為その身に易々と触れることは躊躇われると
いう幾分どっちつかずで及び腰である様子も窺わせる。畏敬の念が大き過ぎたのだ。
砂風から守る為、そして人目に決して触れぬようその身体は厳重に包容されていた。
勿論鼻口まで覆うわけにはいかないから時折その顔立ちが暗夜に妖しい影を投げ掛
けることも幾度かある。
「暗い眼差し」の面々がウマルの方に気安い視線を送ること
そ かい
がないのは、その者に対する畏れのせいである。何人も、そうしたいという素懐と
は裏腹に断じて「それ」を視界に収めようとはしなかった。他の連中と揃いの黒褐
色の衣をどうやら着ているようであるが、たっぷりとした木綿の外衣のせいでよく
わからぬ。その矮躯の者が風除けの外套として羽織らされていたのは、丹念に藍染
され薄ら紫がかって見える上質な代物であった。そう、ウマルやハイダルよりもこ
の「侏儒」に集まる尊崇と心服の質と量は遥かに大であった。真っ当な社会通念に
頼れば、この時裏通りに揃いの出で立ちで馬を走らせる薄気味の悪い集団を統べる
者が斯様身体を庇われながら、心許なく馬上に座する異形の小人であるなどとは想
像出来まい。子供などではあり得ぬ。これこそが「暗い眼差し」の首魁、この集団
を真に主導する闇のカリスマ、自らを諧謔として「朱の小人」などとも呼称する者、
カラドである。
かつてカラドはマウレーク王イスマイルの「奇策」により囚われの身となった。
その「奇策」にはあのサルワンの重大な寄与がある。何故かその後も彼の者は永ら
く地下牢に堅く幽閉されたまま生かされ続けた。理由は公には無論のこと秘文書に
も一切記録が記されることがない為詳細は謎のままである。その真実については、
以前サルワンが王宮の衛士シャリフに仄めかした言葉などから大筋で推測するより
他ないが、王イスマイルが碌でもない迷信に中てられたからだという考えが妥当で
あろう。マーセル・アンハルトによるマウレーク支配後、カラドがどのように取り
扱われたかは極めて曖昧である。彼らは「暗い眼差し」なる不穏分子の首領が依然
地下牢を住処としていることを把握せぬまま全てを文字通り闇に葬ったとされてい
る。地下牢最下層に存在する異容の堅固な房。分厚い鉄板を貼り付けられその中を
窺うことの出来ないその房にカラドは封印されていた。この措置はカラドが収監さ
れて後に行われたものである。この、如何にも臭い物に蓋をするというような急場
凌ぎの繕いから時の王イスマイルがこの者に対して抱いていた異様な恐怖心の程を
忖度出来ようというものだが、その実ここにもまたサルワンの混沌として読み難い
思惑が働いている。王イスマイルとも血縁の関係にあり、かつてマウレークにおい
て類稀な貴人であったサルワンが、乱心者の巣窟などとも忌避される不穏分子の首
おお
魁を巡る捕り物沙汰で何故斯くも重大な役割を演じ果せたのか。その謎の核心へと
近付く事実が、この後間もなく思いも掛けず明らかにされることになるので今は措
く。あたかも手に負えぬ猛獣を力ずくで閉じ込めておく為の拵えのようなその鉄の
板にはごく小さな刳り貫きが作られていた。そこから内部の様子を覗き見ることは
困難であったものの、イスマイルが未だ健在であった頃には一日に二度、何者が囚
われているか露程も存ぜぬ獄吏が粗末な食事を運んではこの穴より差し入れた。た
だ、問題となるのはそのイスマイルが死に、マウレークがマーセル・アンハルトの
支配を受けるようになってから後のことであろう。マウレーク王政期に地下牢に拘
禁された囚人たちの大半は死罪を免れた訳ありの叛徒や未決の重大事件の被疑者で、
その他は微々たるものだが軽罪の受刑者などによって占められていた。房の数から
しても、収容能力があるとは到底言えない。そうした戦前の収監者を形式的にマー
セル王リシャールは引き継ぎ、更に恭順の意を一向示さぬ旧マウレークの豪族や行
く行くは看過出来ぬ影響力を持つと判断した有力者たちをこの牢に押し込めた。
しかし…
戦後も暫くはより限定的ながら地下牢への「施し」は継続されていたのだが、ある
時を境にそれはぴたりと止まった。リシャールは牢へと到る扉を独断によって封じ
たのだ。闇に葬ったとは、この兵糧攻めにも似た放棄という責め苦によって勢力家
らを地の底で餓死させたことである。その者たちの末路について、リシャールは確
認すらさせていない。現在、木乃伊の如くに干乾びて、彼らが断末魔の想像を絶す
る苦悶をその顔に張り付かせたまま息絶えた姿をそこに残しているのかどうかを知
ることは、想像に頼るより他はないのだ。当然ながら、戦前に囚われた者が例えば
恩赦などによって再び陽の光を浴びることはなかったということも付け加えておか
ねばなるまい。カラドのその後が曖昧というのは、こうした事情故である。無論「西
の国」の者たちも、その最奥に鎮座する異形の牢に対して好奇心を抱かなかったわ
けではない。記録が残されていなかった為そこに果たして何者が収められているの
かは突き止められなかったものの、実地の調査は行われた。しかし、一体如何様な
ものが露になるのかという期待に反して、厳封された独房からは何も出てこなかっ
た。そこは蛻の殻であったのだ。
十年とまでは行かぬが実に久方振りに外気を自由に浴びることが出来たはずのカ
しょうじょう
ラドは、時折息苦しそうに咽たり、馬の進行方向が変わる度に 猩 々 の鳴き声のよ
うに奇妙な声を上げた。また、唐突に薄気味悪い忍び笑いを洩らしたり、ぶつぶつ
まじな
と 呪 いの文句とも聞こえる何ごとかを一人延々と呟いたりもした。やがて退屈した
小児の如くその身体を忙しなく馬上にて揺らし始めると、彼の者を包む外衣は何度
かはだけそうになった。長い年月に渡る幽閉より漸く解き放たれた者が示すような
染み染みとした安堵などを認めることはどうも出来そうにない。そしてやはり、こ
れらの様子からだけではこの者が半ば伝説的に語られるような常闇を統べる頭目で
あるなどとは想像し難かった。歪ながらも厳密な教義によって狷介な者らの心を捉
え、思うが侭にこれを操るという仕業を為し得るなどとは。だがウマルはカラドの
左様な振る舞いには一切注意を払わぬ振りをする。何かを口走っているのが聞こえ
ても、彼はそれを己に投げ掛けられた言葉とは思わぬようにしていた。ただその身
の安全のみを絶対的に考慮し、落馬などせぬように肩の辺りに恐る恐る手を宛がっ
て保護するのみである。ところが、密行ももう間もなく終結を迎えようかという時
になって、落ち着きなく散漫な態度に終始していたこの頭目は矢庭にはっきりと認
識することの出来る言葉を発した。
「ウマル、ウマル。
」
それは耳障りにきいきいと甲高い声であった。その小さな身体から発せられる声と
して意想外というわけではなかったが、例えばカラドの寸描を聞き知る者であれば
けんかく
恐らく皆一様にその懸隔に驚いたであろう。無論「暗い眼差し」の面々の反応は異
なる。彼らは驚愕して一斉に馬を止めた。それを永年に亘り待ち焦がれた預言の端
緒であるかのように考えたのかも知れない。中には早々と馬から下りて跪く者が現
れたほどで、流石にその場が未だ剣呑であることに変わりはないのでウマルが身振
りで慌てて諌めた。
「ジヤダの息子、バンダールの孫。ウマル、商人ウマル。我が同胞よ。」
「はい。師、恩師よ。斯様御側にて御言葉を賜る非礼をお許しあれ。
」
ウマルは幾分震える声で、抱くようにして自分と同じ馬上にあるカラドの背後から
返答した。心情的には直ちに下馬して平伏したいところであるが、事情がそれを許
さない。彼は用心深く周辺に視線を配りながらも、心の内を法悦の如きで満たして
いた。既に数え切れぬ程その声による語りには耳を傾けてきたはずであるが、まる
で空から降って来た師の原初の言葉のようにウマルもまたそれを至尊のものとして
待ち構えたのだ。
「汝は今もまだあの幻を夢見ることがあるのかね。
」
「はっ…は?」
「幻の都の白金の塔をだ。かつて臆面もなくこのおれに語り聞かせた、あれさ。
」
「いえ…」
カラドはウマルの恐縮振りに対してかはわからぬが、突如けたたましく哄笑した。
他の連中の厳かな佇まいを嘲笑うかのようにカラドの言葉遣いは砕けたもので、し
かもそこには野卑な響きすらあった。カラドは上衣で丁重に包まれたままの姿であ
ったので未だその風貌がどのようであるか傍目にはまるで明らかでない。声も若干
くぐもって聞き取り辛い。その時、カラドは不器用に布を取り除けながら両腕だけ
を衣服の外に出した。この者の左腕は手首より先が欠落しており、右は手先まで伸
びているが指が三本数えられるのみである。それが戦傷か幽閉期間に為された拷問
の傷痕であるのか、はたまた生来のものであるのかは定かでない。また両腕が顕わ
になってはっきりしたのは、相当な猫背であるらしいということだ。倒れんばかり
に前屈しているようにも見える。
「暫く会わん内に随分と老けたな。あの白面郎の面影はすっかり消え失せた。」
「……」
カラドは背を向けたままウマルの風姿をそのように評してみせた。そして再び笑う。
何が可笑しいのかはまるで不明ながら、今度もまた引き付けを起こすのではあるま
いかという程甚だしい仕方である。或いは激情を抑えられぬ性分であるのかも知れ
ぬ。だが、これまでのところ感情の発露を際立って窺わせるものは徒な絶笑以外に
ない。
「ハイダル、石工ハイダルはおるか。
」
突然の指名を受けて当人は慌てふためいた。通常の思考が働けば当然己にも声が掛
けられて然るべきと判断するであろうが、彼もまた他に等しく熱に浮かされた状態
にあるようだ。
「ここに控えております、恩師。
」
「おまえは相変わらずだな。その死人のように陰気な風情。ふん…相変わらずだな。
」
カラドは時折咳き込むことはあったが、その声音には張りと艶がある。
「何を恐れる、ウマルよ。おまえの身体をそのように震わせる源はどこにある?」
「震え…おお、恩師よ。畏れながら何とつれないことを仰います。わたしがこの日こ
の時を迎えるのをどれほど待ち侘びてきたことかお察し下さいませ。
」
「違う。違うな、ウマル。
」
赤の舞台 vol.476-480
eine rote Buhne vol.476-480
□□□
「とはまた、何がでございましょう。
」
常の、飄々として捉えどころがなく鷹揚且つ不遜なウマルの性向はこの時すっかり
雲散していた。その代わりに生硬とさえ表現したくなるようなぎこちなさや神妙さ
が、分別盛りと言って差し支えのない彼の面持ちや物腰には顕然と見受けられる。
「おまえは胸中にある事柄をこのおれに全く隠し立て出来ないと考えている。それは
よくわかっているとも。また、おまえはお為ごかしを口にする者でもあるまい。
」
「ご高察に感服致します。
」
「ふん。抜け抜けと言う奴だ。しかしおまえを震わせるものはそれだけではなかろう。
おまえは追っ手がいつ背後に迫るか、それを恐れている。違うか?」
カラドの声は変わらず鋭く耳映ゆいものの、その調子には変化がある。次第それは
凄みを帯びて不気味さを増した。ここまで馬に揺られてきたことがその小さな身体
には大きな負担になったのか呼吸は更にしばしば乱れたが、あの騒々しい高笑は止
んだ。
「如何にも。恩師の仮初の御所となるべきところはもう目前にございます。何卒…」
「安心せい。穢れた獣の一味の鼻先には既に霧が立ち込めておる。奴原はここには辿
り着かん。
」
「えっ?」
絶句したままウマルの動きは石のように馬上にて固まった。息を呑むと言うにはま
るで窒息するかに思える程長い時間である。彼だけではない。一味の者ら全てに戦
慄にも似た衝撃が漣のようにじっくりと走っていくのがわかった。目下のマウレー
クの気候から考えても霧が立ち込めるようなことはないし、現にこの時空気はひん
やりと澄み視界は冴え渡っている。何ごとかを仄めかす比喩的な物言いか、或いは
単なる戯言か妄言の如きものか。だがその二言三言について、師に根拠を問い質す
者はいない。ウマルにとって、そして勿論他の面々にとっても、カラドのその言葉
に裏付けが有るか否かということは全く顧慮する必要のないことであった。緻密な
推理に基づくものなのか、それとも只異常に山勘が鋭いのかはわからぬ。かつてカ
ラドのこうした「予言」は客観的に見ても実によく的中した。無論神通力のような
ものを備えているわけではなかろう。しかし、
「暗い眼差し」の者たちはそう信じて
いたのかも知れない。
「声は変わらんなあ、ウマルよ。
」
カラドは不意に背後のウマルを振り返る。大儀そうに緩慢な動作である。しかしウ
マルは、思わず仰け反りそうになるのをぐっと堪えた。薄っすらとした月明かりに
よってはっきりと目にすることは出来ないが、彼は師の顔を追憶から補ってその闇
に透かし見ていた。白く濁って機能せぬ右目、裂けた上唇。
「声…声だ。おれも汝らの前から去って後、随分と種々雑多な声を耳にしてきたとい
う気がする。穢れ、蒙昧、粗忽に高慢。どれもこれも美音とは言い難い奇声、蛮声、
濁声。これならばいっそあの忌々しき鶏鳴にでも耳を傾けていた方がまだましとい
うような代物ばかり。
」
「それはさぞかし…」
「耳汚しとな?利いた風なことを言うな、小僧。己の声がどれ程のものであるのか、
今一度省みるがいい。
」
カラドはふんと鼻で笑った。
「僭王イスマイルがまだ生きておった頃には、奴の豚児があろうことかこのおれに教
えを請いにやって来たこともあった。ラシードではない。今一人の子。名は思い出
せん。兄の変質振りを高みより見下し、敢えてそれを中庸などと嘯く。万能者を気
取る倣岸な輩だった。
」
「アルシャーテにございますか。
」
「知らんな。
」
「……」
いやしく
「また、おれは何度か牢を抜け出て、 苟 も自らを王と称する獣の子が塒とする場所
へも忍んで行ったことがある。その折にはそ奴の瘴気にも等しい口臭を嗅がされた
ものだ。城の腹を徘徊するそ奴の目障りな走狗を直ちに引き上げるよう直々に言い
付けてやったが…」
王城で小火騒ぎがあった晩のことである。大胆にもカラドはマーセル王リシャール
の前に出て、確かにマウレーク語にて一方的な申し付けを行った。カラドの口調は
追憶に浸って昔語りに酔い痴れるという具合ではない。どうも何かしらの間合いを
計っているという様子がある。
「その折、張り合うつもりはなかったが柄にもなくこのおれも妙に仰々しい物言いを
してしまった。獣がおれの言葉を理解しているようには見えなんだがな。果たして
何万、何十万の烏合の衆を従えておるのかは知らんが頭目であることには変わりな
い。気負ったのかも知れん。
」
「恩師よ…」
無根拠に捺された師の太鼓判を疑うつもりは毛頭なかったが、ウマルもそう心安ら
かにはいられない。しかしカラドは聞く耳を持たぬ。
「翁から聞いておろう。獣の子が我が沙汰を黙殺したことに由来する顛末を。小人丸
出しながら官吏を気取る愚か者。翁はそうおれに説明した。名は知らん。畜生の王
が放った鼠は黴臭い穴倉でこのおれの毒刃を受けてくたばりおったわ。」
「暗い眼差し」の首魁は同志たちの前で、ひっひと気味の悪い露悪的な笑声を立て
た。
「翁は年に見合わず様々な局面で実によく立ち回ってくれた。時に奴はどうした?」
「…夜明けまでに我らの前に現れることがなければ、恐らく。」
「あたら勿体ない命を失ったものだ。後々大いに悔いるであろう。斯様姑息な策を考
案したのは汝に違いあるまい、ウマル。
」
「面目次第もございません。
」
「おまえを褒めることはないが責めるつもりもまたない。おれが城から出ようと望め
ば、何時でも左様することは叶った。おれが類稀な果報者であることは折り紙付き
よ。イスマイルとしては最も強固堅牢な房におれを封じたつもりでいたのであろう
が、そうではなかったのだから。当世に伝わる王城内の見取り図、設計図面の全て
は謄本か、原本と同時期に設計者本人によって作られた模造に過ぎぬ。」
その場にいる者の殆どが既に粗方を承知している事情である。更にカラドは、勿体
付けるように故事を口にした。王城を築いた当代の君主がその甥によって玉座を追
われたことはマウレーク史上においては名高い椿事だが、その後囚われの王が如何
様な末期を迎えたかということについて史伝は詳細を語らない。
「猜疑心だけは人一倍強かったと伝わる敗者ナージの性向は、必ずしも勝者から一方
的に押し付けられた汚辱、或いは後世の創作ということでもなかったわけだ。何れ
にせよそうした者であれば、甥の猛る野心に感付かぬはずがない。奴は永らくこれ
を警戒しこれに怯えて、備えをしてきたと。しかし中でもこの備えは飛び切り消極
的な代物だったがなあ。
」
カラドは再び引き付けを起こすように笑い崩れた。
「無論史書は今日まで口を噤んだままだが、ナージが獄死を遂げることなどなかった
のさ。このおれが、今この時ここにあるようにな。
」
「全ては恩師の御心のままにと、この景福の日を手前どもは指折り数えて参りまし
た。
」
「斯くも長きに渡っておれがあそこから離れようとしなかったのは、それを耐え忍ぶ
べき苦行や試練と心得ていたからではない。性根の卑しい者どもの滑稽なる日々を
覗き見る愉しみから逃れることは容易ではなかったよ。
」
頭領が口を閉ざせば、結社の他の者らは一言も発しようとはしない。彼らは縋るよ
うにカラドの言葉に耳を傾けていた。ただウマルのみが暗黙の内に一人焦れたのだ。
「恩師よ、僭越ながら今一度申し上げます。御体にも障る。どうかあと僅かばかりに
て辿り着く拙家にお出で下さい。
」
「急くな、ウマルよ。暫し待て。おまえの言う御所とやらにて、おれはもう何も語ら
ぬぞ。おれの言葉を心待ちにしていたならば、それを聞く機会は今をおいて当分な
いと心得よ。
」
「…何と?」
「無様だな。ウマルだけにはあらず。汝らのその全てが。おれを恩師などとはもう呼
ぶでない。我らは同胞、同朋であろう。汝らの屍の上をおれが歩いて渡ることを当
然と考えているのは、当人たるこのおれでなく汝ら自身である。これこそが由々し
きことだ。我を崇めよ。おれがいつ何時左様なことを申したと?それこそ心得違い
も甚だしい。
」
ウマルを始めとする黒褐色の一同は揃いも揃って師の言わんとするところを捉えか
ね、面食らって蒼褪めた。
「まあよい。言うたはずだ。獣の一味はここにはやって来ぬ。しかし代わりに招かれ
と
わ
ざる客が間もなく姿を見せる。永久に解れぬ呪われた定め。それでもおれは唾棄す
べき狒々しかし腹違いの兄、サルワンの言葉をここで聞かねばならんのだ。
」
その予言と告白が、雷鳴よりも重大な衝撃となって発言者を除く全ての者の心を激
しく打ち据えたことは明らかであった。しかし、元よりその場を制していた巌のよ
うな沈黙は益々揺るがぬものとなった。高潮に埋もれるが如く、ウマルやハイダル
ですら絶句して一言も発することが出来ない。カラド当人にそうした意識は希薄で
あったようだが、既に頭目の出生の秘を多少なりとも知るこの二人にとっては取り
分け、これは例え身を八つ裂きにされても他言することは許されない絶対的な機密
であったのだ。その気になれば何時でも剣呑なるサルワンを亡き者にすることは出
来ると自負していたウマルが、敢えてその決行に踏み切らなかった理由がここにあ
る。やがてサルワンが姿を現すという師の前知が現実のものとなることの方がより
深刻であるはずだが、彼らの意思はこの思い掛けぬ開陳によってすっかり痙攣して
いた。この事実が他の構成員たちにどう伝わり、彼らの精神をどう揺るがしたのか。
ウマルもハイダルも迂闊ながらそちらの方に注意を奪われてしまったのである。
「結構。目に見えてうろたえるというような醜態を見せることはなかったな、汝ら。
」
カラドは依然余裕綽々、輪の中心にありながら高みより俯瞰するような様子を崩す
ことはない。言葉を紡ぎ続けるに連れてその振る舞いや発話に当初の下卑た雰囲気
は薄れた。他の「頭目級」の二人に比すればカラドはより砕けて平易な物言いに終
始していたが、これは晦渋な言い回しを嫌うが故のものであるのかも知れぬ。他者
には理解し難い絆の為か何時しかこの首魁を中核として強力な磁場が形成されてい
る。或いはこれこそがカラドなる者が人心を操作する術に長けていることの証左で
あると言うべきか。
「一寸先は闇よ。おれの視界もいよいよきかぬようになってきた。明日のことすら朧。
最早自明なことは何一つない。だからといって悲嘆に暮れるつもりなどもないがね。
くれぐれも早まった真似はするな。汝らにわざわざこのようなことを語り聞かせた
のは、いざその時となって出過ぎたことを仕出かさんよう釘を刺しておく必要があ
ったからさ。
」
「畏れながら恩師よ、いやさ、尊崇すべし同胞よ、あのサルワンこそは、意趣を晴ら
さんと我らが永らく怨敵と認めてきた者。そしてこれからも永遠に貴辺に仇なす存
在であることが瞭然とした、生ける厄災ではありますまいか。それを一体…」
激したハイダルの忍耐は容易く限界に達したようで、突如として馬を下りるや師の
前に躍り出て堰を切ったように息巻いた。しかし輪を掛けて苛烈な叱責がその舌鋒
を忽ちに封じる。ウマルである。
「控えろ、石工ハイダル。きさま、何たる言い草、看過せぬぞ。
」
「騒ぐな、阿呆ども。
」
カラドは鷹揚にからからと笑った。
「そ奴の性根は元来牡牛の如くに直情的だ。他の者が憚って言えぬことをよくぞ申し
たと寧ろ褒めてやりたい。おまえも内心では溜飲を下げる思いであろうが、ウマル
よ。ハイダルはおまえがうじうじと心の内に溜め込もうとしていた事柄を代弁して
くれるところだったのだからな。
」
「……」
「しかしおまえの愚かな言い分を最後まで聞き遂げるほど、おれもまた辛抱強くはな
いのだ、石工ハイダル。汝はサルワンを口先では怨敵だなどと言うが、それは欺瞞
であろう。違うかね。
」
「何を仰います、恩師。
」
「おれが僭王イスマイルの手により虜囚の身となって今日まで、果たして幾年が過ぎ
去ったのか。その気になれば機会は幾度となくあったはず。ところがどうだ。息災
かどうかは知らんが、サルワンは未だしっかりと存命しているではないか。確かに
おれは獄中から号令して奴を殺せとは言わなんだ。
」
ウマルは再び固く口を噤んで何も語らない。ハイダルも気圧されて棒立ちしたまま
である。
「大事を為すに数多の血が必要となるのは当然である。しかし返報とはそれがどのよ
うな背景を持つものであれ、私事であり逸脱なのだ。そこで流れる血は穢らわしく、
先ず執行者を辱めるであろう。
」
「その教えならば無論、肝に銘じてあります。」
その時これまで以上に強烈な疾風が吹き付け、またも砂を激しく宙に巻き上げた。
黒褐色の一団は揃って身を屈める。彼らをその背に乗せる馬たちまでもが狼狽して
いなな
しわぶ
嘶 くほどそれは甚だしかった。カラドはウマルに庇われながら、ごほごほと 咳 き
に苦しんだが、語りを中断したのは僅かばかりの間であった。
「では、そうした訓示に沿ったからこそ汝らはサルワンを亡き者にすることを躊躇っ
たのかと言えば…そうではあるまい。そうであれば、このおれの前で抜け抜けと奴
を怨敵だなどとはほざくまい。ハイダルよ、あろうことか今おまえは迂闊にも意趣
を晴らすなどと放言しおったのだ。ウマルも然り。おまえが単純な復讐心の虜にな
ったかどうかは如何とも判断のしようがないが、サルワンを禍根と見做し目の上の
瘤のように忌んだことは一度や二度ではないはず。目障りであるという理由のみで
奴を殺したというのならば、どの道サルワンとおれは不倶戴天の因縁の下に生きる
間柄、おまえたちに拍手喝采を送ることこそあれ責めるなどは断じてなかったろう
とも。
」
「……」
「しかし汝らは思い留まった。何故か。理由は他でもない、奴がおれの兄だからだ。
否とは言わせぬ。故に欺瞞だと言うのさ。」
「…言い逃れは致しません。仰る通りにございます。」
「結構な温情ではないか。ウマルにハイダル、おまえたちがおらねば、確かにこのお
れが今日まで生き延びることはなかったであろう。そしてその情け心は同様にサル
ワンの命をも救ったと、そういうわけだ。無論結果としてサルワンが生きて今も在
ることは実に重畳だ。知っての通り、奴は屈折などという表現では凡そ足りぬ格外
に複雑怪奇な変質者。揺らぐことのない確固たる真意のようなものがその心内に存
在するかどうかも疑わしいが、それでもおれはあの狒々爺に問い質したい儀が幾つ
かあるのでね。しかしおまえたちの情け心…気味が悪いのは間違いないな。
」
語りながらカラドは幾度も込み上げる可笑しさを噛み殺していたようだが、最後に
は堪え切れず再び呵々大笑した。ウマルにせよハイダルにせよ師を思う心を足蹴に
されても落胆するどころかただ恐縮するばかりである。他の者どもはと言えばまご
ついて息を呑むように頭目たちを見守るしか為す術がない。
「おや。
」
沈鬱且つ物々しい気配が濃厚にその場に立ち込めていたので、輪の中心にある矮躯
の首魁を除いては何人からも口を開こうとする気概すら失せているよう窺えたが、
当人はそのような状況を顧みたりはせず突然素っ頓狂な声を上げるや、周りの連中
に沈黙を強いるような仕種をしてみせた。明敏なウマルははっとして、カラドのそ
の振る舞いが示唆するところを感じ取った。呼吸を止めて耳を澄ます。軋むような
風音のせいではっきりと聞くことは出来ず、またその音源を突き止めるのも容易で
はないが、どうやら砂利を踏む馬蹄の響きと思しきが彼らの方へと近付いているら
しい。ウマルは左様判断した。
「ようやっとお出でなすったようだ。よもや連中もおれがこのように奉迎気分で待ち
受けているとは思わんだろうて。奴がどう出るかということまではわからん。勿論、
くろがね
問答無用、 鉄 によってのみ語り合いたいとあの爺が望むとはとても考えにくいが、
万に一がないとも言えない。心して迎え撃つ備えはしておくがよい、汝ら。連中は
手練。言うまでもなかろうが真っ向から遣り合おうとは思うなよ。サルワンの手に
掛かるなどという死に様は、さすがにこのおれとしても不本意極まりないのでな。
」
どのような手妻を用いたのかは遂にわからぬままだが、果たしてそれはカラドの予
言が的中したであろうことを意味した。ウマルは目の前の鞍上に座する師に寄り添
いつつ、次第により判然としてくる馬足の音に不安を募らせた。カラドの心底を未
だ察することは出来ぬまま、危険極まる虎狼を迎えようとしているのだから。自身
の考えではサルワンと対峙するなど以ての外である。精鋭揃いのサルワンの手駒と
一戦を交えるというような展開になれば、現在ここにいる者らで太刀打ちするのは
恐らく至難の業、最悪一網打尽にされて果てるという結末も大いにあり得る。元よ
りそのような想定をしておらず、備えもない。この夜己の私兵を結社の護衛に充て
るという考えも端から彼の頭にはなかった。商人としての生活を目晦ましの為の仮
面と割り切っているわけではないが、
「暗い眼差し」なる組織の純度を保つ為に徹底
した守秘を自ら実行せねばならず、白昼の世界と闇のそれとの気軽な横断は到底許
されぬと固く弁えていたからだ。何れにせよウマルにとってカラドの意向は絶対で
あり、それを遮るなどは畏れ多く言語道断な振る舞いであった。師に如何様な目算
があろうとも常に己の思慮の及ぶところではないし、仮に当て所など定めずカラド
が事に臨もうとしていてもそこには深遠な意志が存在する。彼は左様確信していた
のだ。カラド自身は斯くあるよう望んでいるわけではなく寧ろそれを忌むべきもの
と認める節も窺えるが、洗脳と表現する方が適当な程の病的な心酔である。ウマル
は無意識の内、頭巾を更に目深にそっと引き下ろして素顔が判別出来ぬように繕っ
えんぺい
ていた。組織に属する者たちが各自入念にその素性を掩蔽して「仮初の生」を送っ
ていることは言わずもがなだが、取り分け上位にある者、ウマルやハイダルらの凝
り方は尋常ではない。その証左としては、あのサルワンが辣腕の家人ナーシフを操
るなど百手を尽くしてもその尻尾を掴む糸口には容易に辿り着けず豪商ウマルの得
体が彼にとって依然曖昧模糊としたままであるということが何より明快な例として
挙げられようか。ウマルには家業を背景とした巨富があり防衛手段にも事欠かず、
一筋縄ではいかなかった。
サルワンとウマル。二人の最初の邂逅がいつ何時であったのかということは、今や
双方にとって忘却の霧に包まれ朦朧とした遠い過去の記憶でありはっきりとしない。
サルワンは国内にあっては高名な大貴族で、万両分限の商家に生まれたウマルにと
っても天上の存在には違いなかったが、若い頃より不遜な性分が顕著であったウマ
ルの目には当初ただの典雅な好事家程度にしか映らなかった。一方、未だ年若な門
前の小僧という風情のウマルを知って程なく、サルワンには全く裏付けも根拠もな
い奇妙な直感が働いた。萌芽こそ漠然とした違和感であったが、直にそれは闇雲な
警戒心へと育つ。勿論彼の鼻に付いたのはウマルの下支えとなる社会的地位や勢力
などではない。サルワン本人に言わせればそれは、
「その人本来の匂い」であったと
いう。初めの内は単なる自覚的な思い込みであったものが次第に、それがどのよう
な形であれ具現化すれば面白いというあの老貴族特有の邪な好奇心に変わったと言
ってもよい。彼はウマルの内に、後ろ暗い何ものかを見出すことを欲したのだ。当
時のマウレークという国家において反社会性を象る途方もない企みを水面下で推し
進める。しかしサルワンの念頭にあったウマルの「後ろ暗さ」とはせいぜいがその
ようなものであった。実際内々に調べを進める内、これと断定出来る確かな痕跡を
何一つ見出すことは叶わなかったものの、常に不穏な残り香はそこここに漂った。
だが、さしものサルワンも、よもや因縁浅からぬ「暗い眼差し」にてこのウマルが
指導的な立場の一角を担っているなどとは想像だにしなかった。
「今宵あの爺がおまえの姿をこの一団に見出したからとて…」
浮動するウマルの物思いを見透かすように、カラドは振り返ることなく背後に向け
てぞっとする声を掛けた。
「それみたことかと囃し立て、その事実を城下にて喧伝するなどということがあると
思うかね。
」
「…これまで永らく、厠に向かう際の己の足音にすら毎度神経を研ぐという日々を送
って参ったのです。これは最早、身にこびり付いて離れぬ習癖にございます。」
「そうか。
」
赤の舞台 vol.481-485
eine rote Buhne vol.481-485
□□□
その時、ざわっと四囲の空気が鳴動するような錯覚が起こった。だが無論暗夜を統
べる妖魔の到来を告げる不吉な瘴気などではない。一味の者らが何かを視界に認め
馬上で慄いたのだ。ウマルは顔を上げ、目を細めて闇の奥をじっと凝視する。驚き
はなかった。だが、噴出するような唐突な緊迫感の高まりに彼の身は総毛立つ。そ
こには二騎の黒影が呆然と立ち尽くしていた。既にそれらは歩みを止め、非常に際
どい間合いを保ったまま、此方を窺う構えである。相手方もよもやという事態に酷
く面食らったようで、蛇に睨まれた蛙さながらに身動ぎ一つしない。その者たちも
また、頭巾の付いた外套ですっぽりと身を包み一瞥しただけではその正体を把握出
来ないような拵えをしていた。
「一つ、二つ…」
カラドは空々しくその人馬一体、二つの影を数え上げてみせた。
「これはしたり。姿を現したのは僅かに二人。あれのどちらかが果たしてサルワンそ
の人なのかねえ。そうだとすればちと無防備に過ぎるとは思わんか。ウマルよ、お
まえもこれはとんだ肩透かしを食わされたと今胸中に思っていることだろう。やれ、
畜生め。
」
しかしそれは確かにサルワンであった。繰り返しになるが、流石の古狐もこのよう
な形で永年に渡り容易くその実体を掴ませずにきたあやかしの如き一団に出くわす
などとは予断の埒外であったと思しく、やはり一驚を喫したらしい。そもそも一体
じゃくまく
どのような目的でこの夜、都下にあっても物騒というよりは墓場のように寂 寞 とし
た界隈を彼が徘徊しているのかはまるで検討も付かぬ。サルワンは供を一人連れて
いるのみでその後ろに兵団が潜んでいる様子はない。ただサルワンの傍らに馬を並
べている今一人の者に呆けた気配は微塵も窺えず、この場の何人よりも強烈な殺気
を放って警戒していることがありありとわかる。これが何者であるかは、カラドや
ウマルにもすぐに推察することが出来た。サルワンの放埓な「道楽」を実行に向け
て常に組織・計画し、執行する者。また一騎当千の猛者として、身を呈して主を守
る番犬、ナーシフであろう、と。凍て付くような雰囲気ではあったが、そのまま睨
み合って膠着状態に陥るということはなかった。最初に動いたのは、サルワンであ
った。彼はゆっくりと下馬して、黒褐色の陰気な一団の方へとじりじり歩み寄り始
めた。従者が佩剣に手を掛けることまでは許したが、抜かせない。一方、大胆に予
言をしておきながら、耳を澄ませば息遣いも感じられるかに思えるほどの距離をし
か間に差し挟まぬ相手がサルワンであるかどうかという判断が未だカラドには付か
なかった。
「尊崇すべし同胞よ…」
「黙れ。流石のおれとて神通力を備えているわけではないのだ。どうしたことか。鼻
は人一倍利くつもりだが、目睫にも迫らんかというあの者が奴であるかどうか、確
信が持てん。
」
サルワンは注意深く摺り足である程度まで隔たりを詰めると、徐に頭巾を外してそ
の顔を完全に外気に晒した。そして、舌なめずりをしながら、
「暗い眼差し」の面々
一人一人に値踏みするような好奇の眼差しを送った。視線が交差することはなかっ
たが、同様にカラドもまたサルワンを鋭く睥睨した。
「あれは正しくサルワンか?」
「はい。間違いありますまい。
」
一応は左様答えたものの、ウマルにとっても、実に僅かばかりの空白期間を経たに
過ぎないにも拘らず今宵目の当たりにしたこの老貴族の姿は些かの違和感を呼び起
こすものであった。危うく見損ずるかと思われたほどに。カラドとサルワンが最後
に顔を合わせる機会を持ったとすれば、それは恐らくカラドが奸計によって捕縛さ
れた頃であろう。当時の知る人ぞ知るといった歪で無闇矢鱈な活力は、目下衰微の
兆候が著しいサルワンの内にはその痕跡すら見出すことが出来そうにない。今も殊
にくてい
更憎体な物腰を顕わにしているが、ややもするとそれは痛々しく映った。カラドが
すぐにそれと判別出来ぬくらい、彼は枯れた古木のような風情であったのだ。
「サルワンのあの老いさらばえた姿を見て言うのではないが…疑いなく事態は既に最
終の局面へと差し掛かっているようだよ、ウマル。
」
「最終?」
「そうとも。既に世は混迷の極みにあるのではないかね。最早おまえに引導を渡す者
が奴であるということはあり得まい。面を、見せてやったらどうだ?」
いかめ
カラドの口調は重大な占卜の結果を言い渡すかのように 厳 しかったが、反面見世物
を待ち侘びる傍観者の無責任な囃し立てという趣もある。しかしそうしたことより、
師の言う混迷なる言葉だけが独り歩きしてウマルの耳を打った。所縁浅からぬサル
ワンの姿を目前にして只今このカラドの胸にどれほど錯雑とした思いが渦巻いてい
るのか、とても己には推し量れそうにないと彼は殊勝にも思ったのだ。
「御身ら。
」
しわが
感興を満足させたのか、そこで漸くサルワンが口を開いた。痰が絡み、尚且つ 嗄 れ
て聞き取り難い声であるが、弱々しさはない。彼の物言いには、揶揄や嘲弄の響き
が判別し易くはっきりと含まれていた。
「御身らが何者であるか、このわたしには幾ばくかの知識がある。そして御身らも当
然、わたしの顔を見て心当たりの一つもないということはあるまいね。」
サルワンの勿体付けた言い回しに何者も応えを返さない。揃いの暗色の衣に身を包
んだ彼ら一同には、意志や魂の備わっていない泥人形のような気配が共通してある。
頭目たるカラドかそれに次ぐ立場のウマルやハイダルが声を発するより前に、率先
してサルワンに物申そうなどという者は恐らくいなかった。サルワンはカラドがこ
の場にいるとは想像もしていないようだが、一団を取り纏めるのがどのような人物
であるのか、抜け目なくその彼らに向け更なる視線を彷徨わせて探りを入れていた。
「尋ねるも野暮ながら、御身らは、かつてその名を王国に木霊させた無類の講学所に
属する学徒らであろう?」
「暗い眼差し」という結社を私塾の如くに捉えている者など、当事者を含めてこの
マウレークには恐らくいまい。老貴族は直接的な侮蔑を回避してわざわざ迂遠にそ
う言ったが、その皮肉は挑発としての効果を充分には表さなかった。
「或いは、深黒晦冥に魅入られ、また自ずからもこれを賛美する使徒たち。違うかね。
今更否とは言ってくれるな。これは言わば待ち焦がれた邂逅であるが、一目でわた
しは御身らがそれとわかった。御身らの足跡ならばこのわたしも、長い年月を掛け
て追ってきたつもりではある。しかしそれは易々とは叶わぬ望みであったのだよ。
それがどうしたことか。どうやらこの夜わたしは思い掛けず秘境に足を踏み入れて
いたとでも言…」
「サルワン公。
」
「…?」
それはただ只管に寒々しく陰鬱な光景で、そこに劇的な情緒が入り込む余地はまる
でなさそうであった。供人ナーシフが主の背後にぴたりと寄り添うとほぼ同時に、
黒衣の群れの中心に馬を立てる者が痺れを切らすといった具合に到頭サルワンに声
を掛けたのだ。カラドではない。
「おまえは…まさか。
」
まなじり
サルワンはきっと 眦 を吊り上げて、声の主を睨み据えた。ナーシフもまた驚愕を
押し隠すこともせず、唖然として目を見開く。
「まさか…ウマル?ウマルか!」
その場にあって狼狽を顕わにしているのはサルワンとナーシフのみである。
「暗い眼
差し」の面々は彼らの周章ぶりに冷笑的な眼差しを送った。だがサルワンの後背に
控える従者ナーシフは、いつまでも驚愕に浸ってはいない。そこから彼は直ちに心
持ちを切り替えた。その覚悟は忽ちの内に定まったと見え、すぐさま切れ物を抜き
放ったのだ。衝撃の事実に呑まれたサルワンはその雷名に相応しからぬ取り乱し様
で、これまでに散漫を極めた謎と疑問を繋ぎ合わせて合点を構成する為に四苦八苦
しているという有様である。
「サルワン公、先ずは行儀の悪い御身のご家来に抜き身を収めるようお言い付け下さ
い。
」
「黙れ。きさま、一体…一体何時から?」
「御意思を整理し、そこここに点在するままであった断章を纏め上げたいというお気
持ちはお察ししますよ。しかし、今この時わざわざそれをせずとも宜しかろう。元
より御身がお持ちの御威光は我らには届かぬ。況してや、今宵はここに手前どもが
尊崇して止まぬ同胞がおいでであるが故に尚更。
」
「何だと?」
サルワンが眉を顰めたことをその場の殆どの者らが、直接見たか、或いはそうした
であろうと「感じ取った」
。彼は束の間、ウマルの言わんとするところを掴み損ねた
のだ。だが間もなく脳裡の黒雲が晴れたことを示すように、サルワンは口をぽかん
と開いて目を細めた。
「おのれ今何と申した…尊崇して…止まぬ何某とな?」
そもそも彼にとって、この組織の中枢に名の知れた高人が混ざっているという考え
自体はまるで突飛なものではなかった。事実、かつてサルワンは現在故人たるあの
隻眼のカシムに対して、
「よく知る名士がその連盟に名を連ねて」いる可能性が想定
の内にあることを示している。しかしながら、それでもウマルの姿をこうしてその
円の中心に見出すことは何故かとても受け容れ難かったようだ。故に、それに輪を
掛けて驚愕すべき状況が既にそこにあったということを認識するのは益々容易では
ない。尊崇して止まぬ何某。それが指し示すものには無論ぴんとくる。だが、言葉
と心像が痙攣して出て来ない。彼は更に刮目して、馬上のウマルに鋭い注意を向け
た。そして、その懐に。
「結構。よくぞ言った、ウマル。あな、愉快。」
サルワンの視線が注がれていることを意識しながら、ウマルに庇われて馬上にある
「暗い眼差し」の首領はよく通る耳障りな声でそう言うと、猿が吼えるように大笑
した。そして突然、その身を包む木綿の外衣を不器用に脱ぎ始めたのだ。カラドは
その笑声や言葉とは裏腹に、サルワンのらしからぬ動揺ぶりを目の当たりにしても
興が乗るということは全くなかったようだ。寧ろ茶番も同様に見做し、退屈してい
る様子さえ窺える。カラドはウマルの幇助を受けて漸く薄紫の外套を取り除けると
苛立ち、少々癇癪を起こして舌打ちした。月の明かりも実に朧な濃い闇の最中とは
いえ、師の姿が遂に顕わになったことで、ハイダルを始めとする組織の者らからは
思わず、という微かなどよめきの声が漏れた。
「サルワンよ。
」
カラドは、目を剥いたまま馬の背で強風に手折られそうになっている老人に向けて
ぞんざいに話し掛けた。
「汝との再会を祝して先ずは一献とでもいきたいところだが、おれはもう疲れた。」
「馬鹿な。馬鹿な…」
「これはまた、白々しい。
」
どのような者らに担ぎ上げられているにせよ、この馬上の小人に他を圧倒するよう
な威厳はない。しかし、カラドには亡国の大貴族を相手にしても、臆するどころか
卑下するような態度が露骨である。
「汝の走狗の働きぶりは、僭王イスマイルが血気盛んであった頃よりも寧ろ、国が破
れて後の方がずっと懸命であったと言えるのではないかね。至難を押してこのおれ
の消息を探りに参ること、実にまめまめしい。」
「馬鹿な。
」
「いつまで左様うわ言を続けるつもりだ。耄碌したか、爺め。」
「…流石に、このサルワンとてもこればかりは肝を潰したと認めざるを得んわ。よも
や、本当に今日まで生き延びておろうとは…」
「おれが獄中で干乾びたか、はたまた霞を喰らいつつ超越的な生を謳歌しているのか。
知りたくて仕方がなかったのだろう。結局、下世話な汝の好奇心が満たされること
はなかった。何故ならおれは下手をせん。しかし…」
「……」
「しかし、汝はおれが到頭くたばったという証もまた何一つとして掴みはしなかった。
狐疑することに掛けては人一倍の汝が、そこでおれが死んだとすっかり胸を撫で下
ろしたとは思えんね。おれが生き永らえていることを汝は確信していたはずだ。そ
のおれがこうして再びきさまの前に姿を現したからとて、何をそこまで驚くことが
あろうというのか。
」
サルワンは乱れる呼吸をゆっくりと整えながら、本来ならば永訣にも等しいはずで
あった断絶の日以来実に久方振りにカラドの顔をまじまじと見詰めた。そして大き
な溜息を一つ吐くと、口元に歪んだ笑みを取り戻した。
「化け物め。
」
「ふん。人の生血を啜ってここまで命を養ってきた男が何を言う。化け物とは、きさ
まのことだ、サルワン。
」
「厳重、堅牢であった獄舎からどのようにして抜け出た?そもそも、あの城の支配者
が代わってより後、牢獄はその虜囚をそのままに封じられたと聞いているが…」
「答える必要があるかな。おれは汝がその答えを知り尽くしているであろうとさえ考
えているよ。
」
「……」
「それよりも、驚くべきは汝のその相も変らぬ耳の早さだ。汝が今宵王城にて起こっ
た騒動を既に聞き付けているのだとすれば、これはもう閉口するより他ない。」
「買い被りであろう。わたしの耳も随分と遠くなって久しい。況してやおまえなどと
は異なり、元来千里眼の如きが備わっているわけでもない。全ては…余りにも出来
過ぎた偶然の導きによるもの。
」
苛酷な砂風が、その間幾度もこの憂鬱で重苦しい再会に容赦なく水を差した。言葉
が風に吹き散らされることを嫌って、彼らは幾度も舌の先にまで上がってきたそれ
を一頻り留め置かねばならなかった。
「見違えたな。
」
「わたしの重ねた齢からすれば、五年十年は然したる年月とは言えぬ。しかし、この
身に降り掛かるのは時ばかりではない。引き受けねばならぬ因果の重さゆえ流石に
わたしの心身も音を上げているというところさ。
」
「知ったことか。自業自得だ。爺ならではのそうした感慨になどおれの関心はまるで
向かんよ。先程汝がサルワンであるという断定を中々下せぬおれであったが、その
傍らに馬を並べる者が何者であるかはすぐにわかった。
」
カラドはサルワンを死守する構えでいる従者の獰猛な表情に冷やかすような視線を
送る。
「ナーシフであろう。皮肉なことだが、ナーシフがいるのでそこからの帰結として汝
がサルワンであると証明されたようなものだ。いやはや随分と老けたな。見違えた
ぞ。
」
サルワンはそこで不毛な応酬を更に続ける気は毛頭ないようで、そのまま目を閉じ
暫し黙りこくった。そして未だすっきりとはしない思いのせいか、その牙は突然再
びウマルに向けられた。
「…なるほどな。御身は全てを知った上で、わたしに嘲笑うような眼差しを送り続け
てきたというわけかね、ウマルよ。
」
彼は恨みがましさ晴れずといった具合にウマルの顔をちらと見遣る。
「面憎い。わたしとしたことが、種明かしをされて漸く色々な疑いが氷解するところ
を目の当たりに出来たという無様さだ。このサルワンをこけにしてさぞ胸がすく思
いであろう。違うか?」
「……」
ウマルは口を引き結んだまま応えを返さぬが、代わりにカラドが揶揄する口調で答
えた。
「くどいな。先ずは己の不甲斐なさを恥じるがよい。こ奴の悪知恵に転嫁して罵るの
はよいが、それはウマルを称揚することも同然だ。
」
「ウマル、御身がわたしに固執した理由もまたこれですっかり明らかになった。つま
ゆ かり
り、その化け物とわたしとの間に如何様な忌まわしき所縁が存在するか先刻承知と
いうことだな。
」
「サルワン公、師を愚弄する言葉は、それが何人の口から出たものであれ、聞き流す
わけにはいきませんよ。
」
「わたしを威嚇するとは、やはり御身には見所があるよ。己の何が世に明かされよう
とも今更うろたえたりはせんがね。わたしの考えるところとは関わりなく、これが
世間を驚かす秘事ではあることは確かだ。しかしそれを保守することにわたしは最
早汲々としたりはしない。
」
サルワンは取り囲むように馬を並べる黒衣の一団を見渡した。
「御身だけではない。きさまらの全てがこの秘中の秘ともいうべきを分け合っている
と考えるのは当然であろう。
」
「何を仰りたいのです。
」
「知るということは時に一つの力となり得る。木っ端庶民どもが力を得る畏れ多さ、
諸君はそのことに自覚的かね?せめて幾らかの覚悟は持ち合わせているのだろう
ね?」
何時しかサルワンはもう、常のサルワンへと回帰していた。彼の内に束の間立ち込
ぎゃくろう
めていた動揺の霧は綺麗に晴れ、その場所には再びお馴染みの悪意と謔 浪 が顔を覗
かせる。老貴族は回りくどい前口上を述べた。これはどうやら、これから彼ら「暗
い眼差し」の連中にとって何か存外の事柄を語るつもりであるという暗示らしかっ
た。
「それは恫喝か。とすれば一体何の為に?」
カラドは嘲りを込めた奇妙な声音で問うた。
の
ぼ
「恫喝などと。天をも恐れぬ狂気に逆上せたおまえたちを脅して得るものがあると考
える阿呆が果たしてこの国にまだいると思うのか。暖簾に腕押しとはこのことだ。
」
「ではこの期に及んで何を始めるつもりだ、サルワンよ。老いぼれてもまだ己が獅子
であることに変わりはないと誇示したいのかい。そうだとするならば、中々どうし
て、汝もすっかり愚鈍な世評に即した愛すべき好々爺に成り果てたと考えてよかろ
うな。
」
「随分と突っ掛かってくるな。久方ぶりにこのわたしに見えて、感奮しているのか。
疲れたなどと言っていたにしては、気乗りは充分であると見える。そもそもおまえ
はわたしがやって来ることを見越してここで待ち受けていた。違うかね?」
「如何にも。
」
「先程の口振りからすれば、我々の足跡を逐一追って先回りをしたという風でもなさ
そうだ。
」
「我らにそのような真似が出来るとしたら、さぞかし汝の矜持には酷い傷が付くのだ
ろうな。だが、生憎流石のウマルにも汝の足取りはこのところ全く掴めていなかっ
たようだよ。
」
「ふむ。きさま一流の、例の化け物染みた閃きによるものか。」
「虫の報せさ。
」
「わたしに今更何の用がある。勿論聞くまでもなく、積年の意趣を晴らすにこれ以上
の機会はそうそうあるまいと思うがね。
」
「ああ。無残に引き裂かれた汝の屍を塵も同然に裏通りに打ち捨てるのはさぞかし愉
快であろうとも。それは、おれにとって永年の望みではあるよ。
」
そこで初めて、これまで只管主に影の如くに寄り添い険しい形相で防護に当たって
いたナーシフが堪り兼ねて口を開いた。
「無勢とはいえ、きさまら狂信の青瓢箪どもに易々と遅れなど取らんぞ。
」
「よい、よい、ナーシフ。控えておれ。
」
サルワンは穏やかに嗜めたが、ナーシフの憤りに容易く収まりは付かぬ様子だ。
「さしもの、よく調教された番犬もこうした状況では徒に吼えるより他為す術がない
のかね。分限を超えて左様口を差し挟むところを見ると、なるほどきさまは目下己
に っち
さ っち
が袋小路にあって二進も三進もいかぬということをよく認識しておるようだ。
」
思わぬ横槍にカラドは珍しく苛立ちで応えた。
「よいか、サルワン。これまでにおれの同胞たちが汝の首を取ろうと本腰を入れてい
たら、今この時を待たずとも、疾うにそれは果たされていたはずだ。胸に手を置い
てじっくりと振り返ってみよ。
」
「…無益だよ。本日わたしが生きて在ることは確かな結果だ。しかしおまえたちが二
の足を踏んだというたった一つの因子がそれを決定したと考えるのは余りに浅はか。
よくわかった。どうやらわたしをここで亡き者にしようという肚はなさそうだとい
うことがな。
」
「そうとも。今のところはな。
」
「用向きを言うがいい。
」
「恐らく今宵を措いて、おれと汝らが相見えることはもう二度となかろう。サルワン
よ、おれは汝に問い質したいことが幾つかある。
」
「身勝手な言い分だ。おまえの願いを受け容れる謂れなどわたしにはないぞ。」
「無論、無論。天下のサルワン公に無理強いをするほどおれは畏れ多くはない。
」
どこまでも不敵な様子のカラドであったが、語りの途中で幾度か咳き込んだ。
「だが、汝はこの国の男にしては類稀に饒舌だ。このおれの問いに耳を傾け、口を噤
んでいるようなことが出来るならばそれでもよいさ。」
その時、サルワンはカラドの言葉の内に何か強く刺激されるものを見出した。一瞬
彼は眉を顰めたが、忽ちの内にその口元にはまた件の笑みが浮かんでいた。
「男。男か。
」
「うん?」
「男の顔と男の言葉。それが元来どのようなものであるのか、果たしておまえに理解
し得るのかね。
」
「……」
「おまえは自らカラドと名乗っておきながら、その名を他者が気軽に呼ぶことを固く
戒める。わたしはその珍妙なる名に如何様な意味が込められているかは知らん。元
よりおまえに左様な名前で呼び掛けるつもりはないのだ。カラド、いやさ、マイス
ーンよ。
」
赤の舞台 vol.486-490
eine rote Buhne vol.486-490
□□□
長く重い沈黙が辺りを統べる。深更、それも本来その界隈は人気どころか凡そ生あ
るものの気配すら疎らな、廃家の並ぶ裏通りである。改めてそのことに思いを致せ
ば、この時ここに展開されている光景は奇妙奇怪といった度合いを超えて、異様な
ものであった。正しく異形の首魁を囲んで、揃いのゆったりとした単衣を身に纏い
頭巾にて顔を覆い隠す一党とそれに対峙する著名な旧マウレークの大貴族。一幅の
絵画であるとしてもそれは悪趣味な代物と言えよう。前者の頭数は現下二十に満た
ぬ。カラドの、理知に従った読みなのかそれとも単なる閃きなのかは結局のところ
不明ながら、サルワンの到来に備えてここで待つべしという指示によって彼らがこ
の場に留まることになってから、実は密かな構成員の移動がある。数名が闇の奥へ
消えたかと思うと、またそれらとは異なる数名が現れる。ウマルが暗黙の指令を下
しているのであろう。
「仮初の御所」を目前にしている為、何らかの連絡を兼ねた行
き来があるものと思われる。王城からの遁走が開始した時の人数にどれ程の増減が
あったかは不明である。彼らは頭目たるカラドやウマルなどを除いては誰一人何も
語らず、時に微かなどよめきを発することはあるものの、道中で幾度か聞かれた不
気味な呟きも完全に封じていた。従って、この静寂がサルワンの発言によって引き
起こされたと見做すことは難しい。自身の言葉が黒褐色の一団の内に波紋を引き起
こすことをサルワンが望んでいるのは確かであったが、そこで透かさず嬉々とする
ほど彼も卑俗ではない。何しろ当のカラドに動じる気配が微塵も窺えぬのだ。この
者は寧ろ、サルワンが更に何を口にするのかということを傍観者の如く従容と心待
ちにしている様子ですらある。また「暗い眼差し」の面々の殆どがサルワンの言葉
をしかと聞いたが、何者もその意図を読み取ることは未だ出来ずにいた。何れにせ
よ、誰が何を語ろうとも彼らの頭目カラドに対する信頼は信仰にも等しく絶対であ
り簡単に揺らぐものではなかった。マイスーン。恐らくそれがカラドの幼名であろ
うということはすぐに察しが付く。しかし…
「眉一つ動かさんな、ウマル。御身の師は存外、その身の上についても徒弟どもに対
して明け透けであったということかね。
」
「……」
「まあよい。マイスーンよ、おまえの望みを叶えてやることはわたしの本意ではない
が、答え得るものについては答えてやろう。但し…」
「但し、先ずは己が隠し持つ醜聞を語り聞かせる暇を与えろとな。これまた忌々しく
も大層懐かしい古名を掘り起こしてきたな。それが切り札かね。
」
カラドは呆れたと言うような歎息を聞こえよがしに洩らすと、失笑した。
「切り札?」
「そうとも。汝はそれでおれを苛むことが出来ると信じているであろう。
」
「人聞きの悪い。これはわたしの誠意だよ。
」
「好きにするがいいさ。汝が押っ始めようとしていたことがこの程度とはがっかりさ
せてくれる。同胞たちの心をそれで揺るがすことが出来ると考えるならば、いいと
も、語りたいように語るといい。
」
サルワンはカラドの泰然たる態度を受けて、思わず心の底から苦い笑みを洩らした。
「結構。
」
彼はウマルの方に再び眼差しを据える。
「ウマルよ、御身は先程わたしに発言の意図を尋ねた。
」
「…ええ、確かに。何を仰りたいのかとね。
」
「うん。つまり今度はわたしが興味深い秘事を語る番であるということさ。既に知っ
た話であるならば無駄言としてただ砂風に吹き散らされるのみ。しかしもし、そう
でないのならば…」
「仰るとよい。恩師はそれをあなたに許した。」
「これを知ることが果たして汝らにとって一つの力となるか否かはまるで予測が付か
ぬが、ともあれ座興程度に聞くがよかろう。御身らが師と崇めるその者について、
どの程度御身らに深い理解が備わっているのか試してみようではないか。
」
「追っ手が何時ここに押し寄せて来るのか、現下わたしの関心はそれ以外にない。簡
潔にお願い致しますよ。
」
「つれないね。だが、いいとも。
」
サルワンは渋い表情で顎を二、三度撫でながら言葉を整理し、そして徐に語り始め
た。
「御身らは既に聞き及んでおろう。このサルワンが、その者の血縁者、即ち兄である
ということを。
」
「存じておりますとも。
」
「それは疑いのない事実である。異腹ではあるが、確かにわたしはその者の兄である。
しかし、わたしがその者を弟と呼ぶことはない。何故か。」
「……」
「マイスーン。その者がこの世に生を受け、最初に授かった名がそれだ。命名者はわ
たしの父である。だが言わずもがな、マイスーンとは女に与えられる名。
」
「一体何を…」
「ここまで言えばもうわかるはずだ。わたしがその者を弟と呼ぶことはない。何故な
らば、我らは兄妹であるのだから。そ奴の存在をわたしは永らく異母妹として認識
してきたのだよ。
」
「嘘をつけ。
」
鞭声のように鋭いそれは、ウマルではなくカラドの口から思いがけず飛び出した。
「今更何を以って嘘と言う。おまえの生理を痛切に思い知る者は、この世におまえ自
身を措いて他存在しない。流石のおまえにとってもやはりこれは絶対的な急所であ
り、広言されるには忍びないというところか。恬然と構えていたはずが、何故ここ
で唐突にそのような声を上げる必要があるのだ。
」
「早まるな、馬鹿め。そうではない。誰が命名したと?仮にもあの男を父などと呼ぶ
ことは穢らわしい。おれに名を授けた者があ奴などとは出鱈目であろうが。
」
「出鱈目なものか。我らの父は類稀な酔狂であった。それはおまえのような者が今も
こうしてのさばっていることで実証済みだ。如何わしい妾が孕んだ子の誕生を心待
ちにし、そして遂に生まれ出たその呪われた姿を見ても直ちにおまえを亡き者にし
ようなどとは考えなかったのだからな。
」
「……」
「幼児期の記憶は曖昧なはずだ。違うかね。
」
「今も鮮やかに記憶に残るのは、迫害と漂浪の日々のみ。他にはない。」
「それは掏り替えだ。おまえの母の一族が辿ってきた道程に過ぎぬ。父に見初められ
るまでのおまえの母の人生がどのようであったか、わたしにも正確な知識はない。
しかし、おまえが生まれてより暫しの間はきっと安息の日々であったに違いなかろ
うとわたしは考えておるよ。
」
何気なくサルワンが述べた所懐を耳にするや、カラドは激して顔を赤らめた。だが
濁った右目にすら怒気を漲らせて忽ち癇癪を起こすかと思いきや、必死に自制しど
うにか震える声で笑ってみせる。虚勢にしては余りにも情けない。
「きさまに何がわかろうと言うのか。戯言も程々にするがいい。
」
「偏物ではあったが、父にも世間体を気に掛ける心はなけなしながら備わっていた。
その為屋敷の離れにおまえたち母子を住まわせ、軟禁も同様人目から隔離した。わ
かるか。左様することでおまえたちを匿い、守ろうとしたのだ。
」
「爺め、今になってきさまは一体何を試みようとしているのだ。己の父はその実人並
み程度には慈愛に満ちた情け深い人間であったとでも言いたいのか。そしてそのよ
うな偽りの像を作り上げてでも父の弁明を買って出たいのか。父の名誉を誰から守
りたい?このおれからか?」
カラドの口調には闇雲な侮蔑がこれでもかと籠っていたが、後半は殆ど息切れする
程か細く力がなかった。
「何とでも言うがいいさ。真実は一つではない。父を悪し様に言うことでおまえの矜
持が保たれるのならば、それもよし。ずば抜けて狡知に長け、その性質は邪気に満
ちる。自らを正当化し、その身を鎧うものにおまえが窮することはあるまい。全て
が呪わしく、全てが仇。その妄執だけがおまえをどうにか人の形に留まらせてきた
のだ。
」
「おれに名を与えようとなどと考えた者は、母以外にあり得ぬ。軽佻浮薄で、己が身
すら律することが出来ぬ暗愚な女ではあったが、母にだけは今も深い恩義を感じて
いる。
」
「いいとも。おまえを説伏しようなどという肚はない。たとえ狂者の盟主と市民から
恐れられる者であっても、心穏やかにはいられない事情というものを持つ。弟子ら
の前でそのように取り乱すところを目の当たりに出来ただけでも、わたしの駄弁に
は意義があったよ。
」
サルワンは、ウマルやハイダルを始めとする結社の一味の表情を代わる代わる嬲る
ように見詰めた。
「その様子からすると、どうやらカラドと名乗る御身らの師が女であるなどとは、畏
れ多さの故もあろう、想像だにしなかったようだな。本来ごろつき同然でありなが
そそのか
ら、邪なるこの者に 唆 され世の理を高みから観想する哲人のような気分にあった
し こめ
御身らだ。自らが醜女に尻を叩かれ身の程知らずな凶行に手を染めてきた惰弱者の
集団であったと知らされ、直ちに唯々諾々と飲み込めるはずもあるまい。青天の霹
靂とはまさにこのことだ。そうは思わんかね、ウマルよ。」
「思わんね。
」
ウマルは横を向き、馬上から勢いよく唾棄した。どうにかこれまでのところは激情
の発露を厳しく自制していたようであるが、彼も到頭サルワンの悪辣とした挑発に
憤怒した。
「言外にもよくわかるよう伝えたはずだぞ、サルワン。この吾の前で師を辱めるよう
な振る舞いの一切を許さんと。きさまが何者であろうと、吾らの知ったことではな
い。いよいよ以ってきさまの下劣な弁舌には辛抱ならん。これ以上続けるならば、
その首を叩き斬り犬に喰らわせてくれるぞ。
」
「何とまあ…」
「きさまはとんだ思い違いをしている。吾らは師を師たらしめている理性の下に導か
れて集った盲目の徒、その集団に他ならん。無限の存在がお遣わしになったこの尊
崇すべし同胞が牛頭の怪人であろうと南海のあやかしであろうと、その在り様に目
を眩まされることはない。
」
サルワンは激したウマルの言葉を聞くや堪え切れずに吹き出した。
「度胸は買うが、その啖呵は如何にも凡庸極まりないな、ウマルよ。わたしを殺すと
な。そうしたいのなら、やってみるとよいよ。御身の師であるそ奴が先程申したで
はないか。わたしを亡き者にしようと試みれば、何時でもそれは果たせたと。しか
し、わたしの横に控えるナーシフはそう容易い相手ではないぞ。
」
「たとえ一騎当千の猛者が立ちはだかろうとも、命を惜しまぬ吾らがその気になれば、
きさまを仕留めるなど葦を手折るにも等しい。」
「なるほどなるほど。気の触れた向こう見ずどもを相手にするのは厄介だ。狂人に付
ける薬はないといったところかね。師たらしめる理性?無限の存在?最早揚げ足を
取る気にもならんよ。真面目腐ってよくも左様なことを淀みなく言えるものだ、狂
信の阿呆どもめ。
」
「……」
「しかし笑わせてくれる。牛頭の怪人、南海のあやかしか。師を讃える修辞のつもり
なのだろうが、わたしの耳にそれは扱き下ろしの雑言としか聞こえぬ。無限の存在
とやらは御身らを試す為に、この者にこうした容姿を与えたとでも言うのか。あな、
愉快。それは中々気が利いておるな。
」
「そこまでだ。
」
聞くに堪えぬとばかり、カラドが漸くその不毛な遣り取りに口を差し挟んだ。
「無益だ、ウマル。その爺の思惑はただ一つ、只管この場を混ぜ返すことにしかない。
おれの頭もやっと冷めてきた。向こう見ずとは汝のことだよ、サルワン。
」
「何?」
「まるで与太者のように悪罵の限りを尽くし、我らを焚き付けて混乱のみを引き起こ
そうとする。結果として、縦しんばこの夜ここでくたばることになろうとも構わぬ
というその自暴自棄な態度は一体何ゆえのものか。まるで既に己の命脈に見切りを
付け、たとえこのような場所であれ死に処となるならそれもまた已む無しという諦
まみ
念の如きすら見受けられる。今生二度と見えることはないと考えていたはずのこの
は
おれを目の前にして、手に負えぬほど溜りに溜まった懊悩の澱が俄かにその捌け口
を見出し暴発でもしようかという趣きだ。」
さしもの露悪的な振る舞いに終始してきた不敵なサルワンも斯様冷静な指摘を受け
て、その舌鋒も小休止という具合になった。彼は眉を顰めたまま応えを返さず続く
カラドの言葉を待つ。
「おれにとって汝の存在は然程重大なものではない。塵も同然、顧慮に値せぬとまで
ほうてき
は言わん。しかし、汝の父が我ら母子を放擲して以来それは一貫して変わらぬ。
」
「…違う。正におまえたち母子を生んだ不浄の血筋、その眷属どもが父の庇護を打ち
破っておまえたちを強奪したのだ。
」
「それはもうどうでもよい。おれに、その真偽をここで議論し白黒付ける気はない。
よいか。どのような経緯があったにせよ、汝ら父子をおれが、いずれきっとこれを
克服せねばならぬ巨大な仇敵として認識したことはこれまでに一度もない。
」
「……」
「つまり、今もこの土地で徒な生を日々繰り延べているその他大勢有象無象どもと取
り立てて区別すべき存在ではなかったということだ。汝が奸計によりおれを僭王イ
スマイルへの捧げ物とした後も、無論その気持ちに変化はなかった。
」
「どうかな。それを確かめる術はない。何れにせよ、おまえの弟子どもも同じ心境に
あったとは必ずしも言えんのではないかね。
」
「少なくともおれ個人の気持ちに於いては、ということだ。しかしおれにもまた、路
傍にあってしばしば行く手を阻む捨石の如き存在としてならば…」
「このサルワンを捕まえて、随分と好き放題に抜かしおるものだ。」
「汝を忌む心がなかったとは到底言えぬであろう。何故ならきさまは捨石にしては稀
な大きさであったから。煩わしいものに寛容になることは容易ではない。それはお
れとても同じだ。ところが…」
カラドは大きく息を吸い込んで暫し黙考した。何時しかこの者の口振りから当初の
粗暴な調子はすっかり抜け落ちていた。発話の仕方に変化はないが、語調はやや厳
かなものへと改まった。
「ところが、どうやら汝にとってのおれの存在とはそうした軽微なものではなかった
ようだな、サルワン。
」
「それは一体どのような自惚れかね。
」
「元より、予が汝を思うところと汝が予を思うところが見事に均衡するということは
あり得ぬ。もし、そのような均衡があったとすれば、汝は目前より消失したおれな
ど歯牙にも掛けず、互いの間にあった所縁を予めなかったものとして直ちに忘却の
淵へと放り込んだに違いない。つまり、我らの別離後のあり方というものも大分変
わっていたであろうと考えられる。
」
「回りくどいな。何を申したい。
」
「汝はおれに拘泥した。
」
しわぶ
巻き起こる砂塵の故かサルワンはごほごほと 咳 いてカラドの断定に応えを返さな
い。
「否定は出来んはずだ。汝はおれを決して忘れなかった。僭王イスマイルにおれを差
し出したのは何故だ?」
「忌々しい奴め。
」
「うん?」
「先程は辛うじて聞き流してやったが、これ以上大恩ある我が主をそのような蔑称に
て呼ぶことはよせ。そしてゆめゆめ忘れるな。このわたしには陛下と同じ尊い血が
幾ばくかであれ流れている。それは即ち、その血がおまえにも同様に分け与えられ
ているということだ。
」
「…話を逸らすな、爺め。偸盗の血脈を何ゆえそこまで誇らしげに思えるのか。おれ
にはその穢れを易々と払拭するほどの高潔な血が流れておるわ。
」
「大王の思し召しは天のそれに等しい。わたしが身命を賭してごろつきの捕縛に応じ
たとしてそこに何の不思議がある。
」
「それだけでは説明出来んのさ。おれには汝の執心の根源を如実に突き止めてみたい
という気持ちがある。例えばだ。きさまが子を為さなかったのは、おれの存在が深
く心の傷痕となっていたからと見てまず間違いはなかろう。どうだね。」
「これ以上付き合う気にはなれんと思わせるに充分な、実に下らん当て推量だ。
」
「そうかねえ。
」
「躍起になって否定すればおまえは益々嬉々としてそれを真理と思い込むのだろうが、
生憎わたしはお人よしではない。
」
「一つ教えておいてやろう。汝はおれが女であると暴くことで同胞たちに動揺を引き
起こせると信じたようだが、それは思惑ほど上手く果たされなかった。大方の連中
が信じるような単純な名義によって我らは集っているのではない。ウマルも申した
通り、おれが何者であろうとこの者らは最終的にこうしておれの下に流れ着いたで
あろう。血についてもまた然り。おれにどのような血が流れていようとも、瑣末な
切欠とはなり得たがそれが決定したことは何一つなかったのだ。
」
「……」
「おれの生理を知る者はおれ以外にないと汝は申した。だからこそ、おれにのみ語れ
ることがある。聞くがよい。このおれは、厳密には女というわけではない。
」
「どういうことだ。
」
「勿論汝の父は知っていたはずだよ。当然おれの母も。交わってはならぬ血が生んだ
飛び切り皮肉な奇跡というやつかね。汝ら凡夫からすれば、おれはある皮相な点に
おいてやはりずば抜けて特異な存在なのさ。おれは男であり、同時に女でもある。
」
カラドはくすくすと奇怪な笑声を立てて続く言葉を敢えて飲み込み、勿体付けた。
サルワンの瞳孔は大きく開いたまま、焼き付けるようにその小柄な異形を映し続け
た。
「つまり二つの性を具有する者だ。魯鈍な取り上げ婆は人智を越えるものをこの世に
く すし
召喚してしまったとして、その後物狂いに取り付かれたと聞いている。薬師は、お
れの命数は五年と持たぬと断じた。しかしおれは生きた。誰が何と申そうとも、こ
のおれがこうして存在することだけは真実だ。これはおれが持って生まれた誠にさ
さやかな力の結果である。そしてこの力こそが汝らにとって看過の出来ぬ重大な禍
事なのだ。
」
「…驚かんさ。
」
サルワンは激しく咳き込んでから嗄れた声で言った。彼がカラドと思いも掛けぬ再
会を果たしてからここまで、既にかなりの時が経過していた。互いに会釈を交わし
てすぐさまその場を後にするという収まり方など元より彼らの間においては選択肢
として存在するはずもなかったが、少なくとも立ち話をするには些か冗長な時が流
れたのは確かであろう。今生にて再び邂逅することは恐らくない、とすら考えられ
うずたか
た決別以後に積み重なった年月は 堆 い。にも拘らず、この二人がそれぞれに抱く
所懐はほぼ色褪せることがなかったようで、それが丁々発止の遣り取りをこうして
延々と続けさせていた。カラドが指摘した通り、取り分けサルワンの胸にあるそれ
はより複雑怪奇且つ混沌としたもので、きっと本人にすら正確にその形を把握する
ことは困難であったに違いない。常よりも挑発的で放胆なところが濃厚なサルワン
であったが、逆に飄然とした部分は当初から影を潜めておりここに至っては遂に全
て霧散してしまったかとも見受けられる。カラドの言葉に耳を傾ける中で、極めて
微細ながらサルワンの内なる湖面には漣が起き始めていたのである。
「ほう。それは何故。
」
「驚かんとも。目下のところ何一つ根拠の見えぬ話であるが、さりとてこれが取り留
めのない妄言であるとも如何した訳か思えない。
」
「おれなら突然こんな話を聞かされて、なるほど左様ですかと容易く受け容れること
など出来んがね。しかし根拠…根拠か。いいとも、何ならそいつを今ここで見せて
やっても構わんよ。このような暗がりで言うのも何だが、これほど揺るがし難く明
瞭な証もあるまいて。百聞は一見に如かずさ。」
「おまえを形作るものについて、傍目にどれほど突拍子もないと映る事柄が新たにわ
かろうとも今更逐一驚いてみせるのは誠に馬鹿馬鹿しい。特異な存在か。確かにそ
の通りかも知れない。
」
「随分と殊勝ではないか。おれも汝も若さとはもう久しく無縁である。斯様な夜半に
峻烈な砂風を受けて街外れに長居するのは酷く骨身に堪えよう。さあおれは充分汝
のしたい様にさせてやった。今度はおれの番ではないかね。汝の持つ一抹の公明さ
を示してみせよ、サルワン。
」
カラドはそう言いながら、ちらと周囲の同胞たちの様子を気に掛けた。ウマルは背
後にいるので掴み難いが、結社の面々は書割の如くに単なる背景の一部と化してい
た。カラドが付加的に明かした新たな事実に対して何らかの強い感懐が湧き上がっ
ていることは疑いないようだが、彼らは一様にそれを面に顕わにすることはない。
狼狽する者は一人としてそこには存在しなかった。
「…よかろう。おまえがこのわたしから聞き出したいこととは何だ。試みに問うてみ
るがよい。但し、望むものを全て得られるなどとはゆめゆめ思わぬことだ。
」
カラドは片目をすっと細めてサルワンの表情を如何にも狡猾そうな眼差しで余すと
ころなく探った。サルワンの身を鎧う物が崩れたとまでは到底思えなかったが、ど
うやら何かしら心境の変化とでも呼ぶべきものがそこにはあるようであった。彼に
は揺さぶりに敢えて応じるような気配がある。
「おやおや一体…一体どうしたというのだ、突然。
」
「そのような揶揄でわたしの口が固くなることをこそ恐れたらどうかね。どれほど猜
疑心が強くても、それを上回る直感の閃きがおまえには度々訪れるのであろう。
」
「……」
「ならばわかるはずだ。今がその時であると。」
カラドは声を立てずにくっくと笑った。
「結構結構…流石にもう潮時だよ。手短に済ませようじゃないか。問いたいのはおれ
が今日までこうして生き永らえることの出来た不思議についてさ。」
「果たしてそれはわたしに答え得ることかね。」
「例えば、おれに生来備わっていた神通力によるものであるなどと戯言を吹聴して同
胞たちの崇拝を掻き集めてみてもよいのだがね。しかし無論それは真実ではない。
或いは年月を掛けて城内に潜り込ませた同胞たちの活躍があったからこそ、おれは
命を拾うことが出来たのだという美談に酔い痴れてみてもよい。だが残念ながらこ
れもまた真実とはとても言えんのだ。
」
赤の舞台 vol.491-495
eine rote Buhne vol.491-495
□□□
「単に野放図な生命力が備わっていたからということではないのか。実際おまえのし
ぶとさには舌を巻く。
」
「元来手にしていた命数は常人に比すれば実に菲薄であり、それをどうにか繰り延べ
てここまでやってきた。つまり人の手を借りねばおれの生は片時も成立しなかった
というわけだよ。
」
「では偶々そういう幸運な巡り合わせの下にあったに過ぎぬと思え。それをただ只管
に有り難き僥倖であると割り切るのがよい。
」
「況してや虜囚の身。おれは、自らの意志で御し得ない力によって生き延びることが
出来たのだと考えている。これはそう突飛な考えでもあるまい。余程の愚鈍、乃至
は真の狂人でないのであれば、寧ろ自ずと導き出される至極真っ当な考えであろう
さ。
」
「悪運もまた天運だ。その仕組みは人智の及ぶところにはきっとない。そのようなこ
とにあれこれ下らぬ知恵を働かせても詮無いことであり、寝付きが悪くなるだけだ。
そうは思わんか。
」
「ぞんざいに話を摩り替わて欲しくないね。おれはそのような途方もない力を想定し
ているのではない。
」
「では何だと言うのだ。
」
「端的に言えば、政治力だよ。当時イスマイルはおれの身柄を欲して止まなかったは
ずである。しかしやっとのことでその望みを果たしたにも拘らず、何故その後奴は
おれを殺さなかったのか。
」
「…死人に口なしだ。陛下にお伺いするより他知り得る術のない事柄ではないか。」
「あるさ。当事者が今日全てくたばっているわけではないのだからな。何より汝がこ
うして健在であり、そしておれはその汝に答えを求めようとしているのだよ。」
サルワンは言葉に詰まり、無意識に目を伏せた。そこには明らかな逡巡が見て取れ
る。カラドが答えを得る為に焦ることはなかったが、その問い掛けは迂回を好まず
無駄を排した。
「そもそも汝は一体何を恐れたのだ。主の不興を買うことか。それとも…」
「わたしは…」
老貴族は咳払いをして喉を整える。しかしその実絡んだ痰のせいにしつつ、言葉を
整えているのであった。
「わたしは恐れた。確かにおまえを恐れた。おまえの並々ならぬ力、その生来の力が
暗がりで更に伸長していることを知ったのだ。それは当初際立った奸智としてのみ
ひとしずく
顕れたが、わたしはもっとずっと忌まわしいものから流出した一 滴 に違いないと考
えた。何れ大王イスマイルの御代に重大な禍を為すことが確実な、更なる大きな力
に育つと。実際例の長老たちがおまえに一目置いていたことは知っておろう。」
カラドは異母兄の絞り出すようにして為される重厚な陳述を聞きながら、遠慮なく
猿のような声を上げて大笑した。しかし、サルワンは気にも留めぬ。
「また、あの当時わたしは漠たる畏懼の念に苛まれていた。それがおまえに由来して
いたかどうかはわからない。おまえに対する警戒心とはまた別のもので、今尚どこ
から沸き起こったのかは我ながら説明が付かん。だが、悶々としていたのはわたし
だけではなかった。陛下とわたしがこのような感情を等しく共有していたわけでは
ないが、混沌、模糊とした憂慮を陛下も持て余しておいでであることがわかったの
だ。
」
「それでまさか、目障りなこのおれを取っ掴まえて差し当たり憂さを晴らそうなどと
考えたのではあるまいな。
」
「シメオン…」
「何?」
「記憶が定かでないが、恐らくその頃のことであろう。とんだ道化が一匹、この王都
にのこのこ迷い込んで来たのは。折が好かったのか、それとも悪かったのか。今と
なっては却ってすっきりと判断を下すことが出来ぬ。おまえにとってはさぞや呪わ
しく、そして忘れ難き名ではないかね。預言者…」
「朱の小人か。
」
「そうだ、預言者シメオン。本来ユダヤ人シメオンはイスマイル陛下に庇護を求めそ
れを許された賓客であった。しかし、西国の隊商の内に身をやつしてまで決行した
マウレークへの亡命は正に達成寸前で失敗に終わった。既に国内に入っていたにも
拘らず。保護の為に差し向けられた尖兵が辿り着く前に、その隊商の面々もろとも
シメオンは斬殺されその身に火を掛けられたのだ。隊商の人員はシメオンを含めて
十四名。死亡者は十三名。つまり生存者が一名いた。そしてこの襲撃はシメオンに
漂泊の日々を強いた敵手によって断行されたものだと永らく信じられていた。」
カラドが思わず口走った「朱の小人」なる言葉は、シメオンについて語られる時に
一部の者が共通して反射的に想起する語句であり、シメオン自身を指す異名の如き
ものではない。本来実質を持たぬ空虚な戯言であったが、後に皮肉な意味合いを孕
むに至った。また何時頃からかカラドは時折これを自分に対する呼称として当座凌
ぎに用いるようになったが、事情を知る者はそれを幾分自虐的な振る舞いであると
感じずにはいられなかった。
「或いは、今日も尚信じられていると言った方が適当かも知れぬ。一人その惨禍を生
き延びた者は我々を欺き自らをシメオンであると偽称した。言うまでもなかろうが、
そ奴こそが惨禍を引き起こした張本人である。その後ふてぶてしくもシメオンに成
り済まし陛下の寵遇を受けるのみならず、この偽シメオンは数多の者を似非占卜に
たぶら
て 誑 かしたのだ。
」
「やれやれ目も当てられんね。ただ、その辺りの事情の機密性は、汝が思うほど強固
ではなかったようだよ。何しろこのおれですら先刻承知というわけだからな。」
「ややあって我々は思い掛けずこの狂言のからくりを知る羽目になった。だが、そこ
に至るまでにはもう随分と時が経過していた。実に徒な時がね。我らの目は正に節
穴であった。特にわたしには、シメオンその人の真贋を論ずる以前に卜者そのもの
への根強い不信感があった。これが却って厄介な目晦ましになったようだ。
」
サルワンは場違いであることを自覚しながら、微かな悔恨を表す溜息を吐いた。
「時既に遅し。陛下はこの与太者を大層御贔屓にした。そして似非易者の似非託宣を
事もあろうに陛下が御採用あそばされた手前、全てを詳らかに公表することは困難
になったのだ。
」
「何者だったのだね、その偽シメオンというのは。
」
「ユダヤ人であるという点以外、そ奴の口から絞り出した供述には悉く信憑性がない。
シメオンの従者か、同調者であったとも言われているが、これらは当人が述べた事
柄ですらなく定かでない。シメオンとその贋物を除くと、西国からの隊商の人員は
十二名である。この中にはシメオンの真の協力者がいたことが判明しているが、こ
の協力者たちと偽シメオンとの係りを裏付ける証が何一つ出てこなかったのでな。
」
「シメオンなる占い師に関する世評がぱたりと巷から消え失せた時、奴はまだこの都
にいたのかね?」
「いなかったであろうな。奴はその胡散臭い手腕を見限られて次第に凋落していった
というわけではないのだから。
」
「では偽シメオンはどうなったのだ。西からやって来たユダヤ人占星術者がどのよう
な末路を辿ったかについて、風説は何も伝えていない。
」
「忽然と消えたのだよ。
」
「馬鹿な。
」
「忽然と消えたのだ。
」
サルワンは薄く笑ったきり、それ以上何も語る気はないという態度を示した。カラ
ドにもそこに食い下がる気はない。
「汝が今、心に描いているのが果たしてどの時期であるかおれには全く判然としない
のだがね。シメオン…否、偽シメオンがこの王都に姿を現してからおれが囚われる
までの間。ここにはかなりの時の開きがある。幾つかの矛盾があるのではないかね。
でなければ、汝の記憶が錯綜しているのか。
」
「さてな…わたしの記憶が曖昧になってから既に久しい。合点がいかぬのはどこだ?」
「確かに『暗い眼差し』の存在が世に知れるようになった時期とシメオンがマウレー
クにやって来た時期は概ね符合するように思える。しかし当時は未だこのウマルも
連盟に参じておらぬ黎明の頃。ともすると小僧であったウマルがその似非卜者に観
相を請うていたかも知れぬ程の砌だよ。
」
「つまり何だと言うのだ。
」
「イスマイルはシメオンが偽者であるという事実を受け容れたのかね。」
「…その問いには答え兼ねる。
」
「何故だ?」
ひ
「その問いには答え兼ねるが、陛下は偽シメオンが苦し紛れに放り出した譫言を聞き
流すどころかこれを一つの紛れもない託宣とお認めになった。都下の目ぼしい碩学
を集めて討究に当たらせるほど重大な関心を寄せたのだ。似非易者が都から消え失
せた後も、その熱情に冷める気配は一向窺えなかった。
」
「
『朱の小人』だな。
」
「左様。しかし陛下はこの語からの連想で直ちにおまえのことを思し召しになったわ
けではない。
」
「おれの腑に落ちなかったのは正にその点だよ。一国の王からすれば、どのような志
を持っていたにせよ当時のおれなど取るに足らんならず者程度の存在でしかなかっ
たろう。それを目の敵としたのなら、捕縛するまでに何ゆえ斯くも無駄に時を必要
としたのか、とな。
」
「払拭し難い強烈な印象となって陛下の御心にその言葉は長く留まったのだと思われ
る。それが指し示すものを正確に見定める為に、御探求は続いた。逆しまに考えて
みるがよい。偽シメオンの占卜からおまえの拘引までの間に流れた歳月の長さがそ
の御執心の程を示しているとわかるはずだ。
」
「呆れるほどに暢気だな。
」
カラドは忌憚なく乾いた嘲笑を周囲に響かせる。それに対してサルワンは不快そう
な一瞥を投げ掛けるものの殊更反応は示さぬ。
「破天荒なお人ではあった。しかし同時に生涯日の差すことのない暗がりをその内に
宿しておいであることもわたしにはわかった。取り分けマウレークの王だけにとい
うわけではない、同胞国家の王者たちに共通する頭痛の種というものがある。現在
ではやや形骸化した観もあるが当時は未だ長老たちの影響力が揺るぎなく、これを
軽んじることは容易くなかった。
」
「だからどうだと言うのか。
」
「縋ったのであろう。人智を越える閃きや超人的な力を仄めかすものに。或いは抵抗
し難い権力と対峙する手段をそうした空虚な出鱈目の内に見出そうとなされたのか。
御自身それを内心では荒唐無稽と認めつつ、奴原を牽制する方術に仕立てる為敢え
て魯鈍を演じ妄信するふりをしたのか。全ては推測である。畏れ多さの故だ。当時
わたしには御真意を尋ねることなど出来なかった。
」
今しがた彼が言葉を濁した事柄の真相はどうやらここにあるらしい。興が乗ったの
か思わず語り過ぎてしまったことを自覚して、ばつが悪そうにサルワンは咳払いを
したが、カラドは何も言わなかった。
「……」
「しかし実に皮肉な巡り合わせだ。こともあろうに天が遣わしたのは、向こう見ずな
道化者であったのだからな。
」
「先程から聞いておれば、どうも汝はそこで嬉々として、
『朱の小人』なる妄言が示唆
する者について心当たりがあるとイスマイルに耳打ちしたわけではなさそうだな。
」
「都にて不届き者の一団が不遜な蛮行を繰り返していることは当然ご存知であったが、
陛下がおまえの名を知るのはずっと後になってからだ。大王は『朱の小人』という
言葉が黙示するものを最初から単に個人であろうと臆断したりはせず、一つの現象
である可能性までを視野に入れてお考えであった。わたしも無論一度ならず意見を
求められたが、途方もないことであり憶測にてお茶を濁すなどは憚られると毎度判
で押したような謝辞を述べるに留まった。この件に関わることは出来る限り御免被
りたいと考えていた。つまりは逃げたのだよ。」
「…どういうことだ。
」
カラドは己が知りたいと欲していた事実がサルワンの口から語られるまでにもう幾
ばくも段階を踏む必要のないことを悟っていたが、それでもまだ話の運び方には神
経を研がねばならぬと考えた。その為には個人的には充分首肯し得る点についても、
故意に不必要な疑問を呈したり否定してみせたりといった小賢しい立ち回りをする
ことにも躊躇しなかったのである。
「汝はおれを危険視していたとそう申したではないか。そこで直ちにおれを捕らえる
よう進言しなかったとは信じ難い。この矛盾にはどう答えるつもりだ、サルワンよ。
」
「何度も言うが…そこからおまえが囚われの身となるまでの間に積み重なった時こそ
がその証左である。わたしがすぐにその気になっておればおまえの収監時期はもう
少々早まっていたはずだと思うが、どうだ?まだわたしが虚偽と矛盾に満ちたこと
を述べていると詰り続けるのかね。
」
「それは結果に過ぎぬ。おれが問うておるのは、何故口を噤んだのかということだ。
」
サルワンは苦笑して、頬の辺りを擦った。相手の誘導にまんまと乗ってやるのは癪
であるが、ここまで来て今更応えを渋るような小人物的な振る舞いをすることは彼
にとっても好ましくなかった。
「錯雑とした感情が働いたのだよ。その葛藤を具に述べてやることは出来ぬ。わたし
がそれを望まぬからではない。名状し難い混沌とした心情である為年月を経て尚、
これを整理し秩序立てては語れんのだ。
」
「ならば任意に申してみるがよい。
」
或いはその方が事実に近付く為には余程望ましいかも知れない。そう言い掛けてカ
ラドは用心深く言葉を飲み込んだ。カラドの声に些かの熱が籠っていることは明ら
かであったが、それとは裏腹にこの者の小さな身体は深夜の凍えるような冷気に到
頭音を上げたと思しくがたがたと震えた。それも無理からぬことで、井戸端会議を
するには余りにも時と場を弁えていないと言うより他ない。
「おまえを捕らえるべしと本能が警鐘を鳴らしたのは確かであるが、その一方でそれ
をすべきでないという意思が強く働いたことにも触れておかねばなるまい。
」
「何?」
「如何様に言えば適当な表現となるのかはわからんがね。…あの当時仮におまえが捕
囚の身となっていたら、恐らく時を待たずして即座に処刑されたであろう。
」
「汝にとってそれは結構な結末ではないか。躊躇う理由がどこにある。」
「いや…そうした光景を目の当たりにすることが、果たしてわたしにとって好ましい
のか否かと考えていたある晩にふと気付いたのだ。
」
サルワンの声音は次第低く聞き取り難いものへと変じていった。そこにはまた、幾
分の苦々しさが混和している様子でもある。
「おまえの死を、きっとわたしは望んではいないのであろうとね。」
「……」
「初めておまえと対面した時わたしはもう齢十三か十四ほどにはなっていたはずだ。
或いはもっと歳を重ねていたかも知れない。何れにせよ、物心も付かぬ、という年
齢ではなかった。あの日のことは忘れもしない。最初に被ったその強烈な印象、そ
して同時に漠然と感じ取ったある予兆がその晩鮮やかに甦って来たのだ。いいかね。
わたしは実に様々な時点でおまえの前途を嘱望していたのさ。」
サルワンの回想は気侭に時を縦断するので、ウマルにせよナーシフにせよ他の者た
ちは彼の語りを正しく追い切れなくなっていた。しかしカラドはそうではなかった。
一際険しい表情を保ったまま言葉を返そうとはしない故、胸に去来する感情の程が
どういったものであるかその鬼面からは何一つ伝わってこないが、集中力は極限ま
で高まっているのであった。
「当時すっかり明らかとなっていたのは、おまえにはわたしなどではとても太刀打ち
出来ぬ甚大な磁力が備わっているということだった。」
「磁力?」
「ものの喩えだ。先程おまえの徒弟がほざいたように何かしら超越的な存在におまえ
は魅入られているのかも知れぬとは確かにわたしも考えてみたことがある。また羨
んだことこそなかったが、おまえが授かった定めに比べれば確かにわたしのそれは
随分と凡庸で色褪せて見えた。どうだ、わたしが何を言わんとしているかわかるか
ね。
」
サルワンはカラドから応えがあるとは期待せずに、ただ痛烈に吹き付ける砂風をや
り過ごす為だけに言葉を切り暫し押し黙った。
「…つまり、わたしは芝居が見たかったのだ。未だかつて想像すらしたこともない、
誠に破天荒な芝居をね。前代未聞、未曾有、突飛、奇抜。わたしが快楽と認めるも
のは概ねそのようなところにある。おまえがしでかそうと企む何か途方もないこと
を恐れる反面、胸の奥底にはこれを待望する気持ちがしかと存在することを自覚し
た。大王イスマイルに対する思いが絶大であったにも拘らず、それには完全に背反
するこの邪念を持て余し、わたしの心は引き裂かれた。
」
「忠臣が聞いて呆れる。
」
「結果的にわたしは後年陛下が下した『暗い眼差し』の首魁捕縛命令に協力せざるを
得なかった。しかしながら、加勢するからには主導権を握る必要があった。その後
のおまえの処分に関して物を言える立場を保持する為にな。おまえを殺さぬよう陛
下に言上したのは他でもない、確かにこのわたしだよ。
」
サルワンはその言葉が相手に及ぼす効果の程を見定めるような眼差しを送ってから、
口の端を歪めた。腹を空かせた牛馬に飼葉を与えるが如き仕方であったが、カラド
は気を悪くはしなかった。カラドにとっては正にこれこそがサルワンと交わす問答
の焦点となる部位であったようで、概ね満足したという様子が窺える。
「おれを生き永らえさせ、その先に一体何を予見したのだ。
」
「何も。わたしは何かを見越して左様な振る舞いに及んだというわけではなかった。
」
「では何故。
」
「わたしの口からどのような言葉を聞き出したいのか。おまえが掛け替えのない肉親
の一人であるということが、わたしのなけなしの温情を揺さぶったのだとでも?お
まえに何を語ってやればそれを快しと感じるのか、生憎とわたしにはさっぱり汲み
取れんのでね。そうした感情がなかったとは断言出来んよ。しかし言うたであろう、
錯雑とした感情が働いたのだと。心の内のその不可解な紋様はおまえを捕らえるこ
とに尽力して後も未だ健在であった。
」
「その点だけは何度聞いても判然とせんな。まあよい。それでイスマイルをどう言い
くるめた。
」
「
『暗い眼差し』の旗頭に天誅を下すことは何時しか陛下にとって御宿願となっていた。
それを思い留まって頂かねばならなかったわけだが、実のところその為の説伏は然
程の骨折りではなかった。きさまの磁力が面倒なしがらみを拵えてくれていたおか
げでな。
」
「例の全能者気取りの爺どものことを申しておるのか。
」
「そうとも。しかし無論他にも色々と煩わしいことはあったがね。その辺りの事情を
わたしが巧みに使って陛下の御心を誘導したことは確かだ。長老たちのご機嫌を損
ねることは好ましくないという、要は誠に月並みな論法だよ。ただ最も功を奏した
のは皮肉にもあの似非占者の戯言そのものであった。わたしはそれを大王イスマイ
ルの傍らで共に聞いていたのだ。
」
サルワンは深く息を吸い込み、空気を一度頬に溜めるとすぐに勢いよく吐き出した。
「時として、実に下らぬものほど人の記憶にしかとこびり付き、拭い難く何時までも
残るということがある。あの時あの阿呆が勿体付けて行った放言を、腹立たしいこ
とこの上ないが、今でもわたしは憶えている。
『朱の小人』とは彼岸と此岸の狭間に
庵を構え、国家の行く末に災厄と大禍を撒き散らす異形の存在であり、頭の先から
爪先に至るまでその皮膚は文字通り赤いのだという。挙句の果てに、奴はこう宣っ
たのだ。そしてその小人は生きものではない、と。
」
「ふん、当たらずとも遠からずではないかね。尤もおれの命は無限どころか、余りに
儚いがな。
」
カラドは自虐的な笑みを浮かべた。
「生きものではないという存在を殺すことは可能であるのか、或いはそうした存在を
実際に殺すことが叶った場合その後その行為は如何様に結果するのか。わたしは陛
下にお尋ねした。そこから先の遣り取りはやや形而上学的なものとなった。勿論ま
やかしのな。詭弁を弄する為に胃が痛くなるほど慎重になったことは後にも先にも
例がない。あれ一度きりだ。
」
「主を舌先三寸で誑かしてか。汝が折に触れて強調する愛国心とやらには懐疑的にな
らざるを得んな。
」
「誤解してもらっては困る。わたしの心がマウレークそのものに捧げられたことは稀
である。大王イスマイル…というより彼の御仁が最後の代表となったこの国の王の
系譜にわたしは深い敬意と尊崇を抱いて参ったのだ。元より、王を裏切ったという
心持ちもない。おまえには母から受け継いだ血ゆえ、国賊、朝敵となるに充分な大
義名分があった。そしておまえを収監しその影響力を封じることは叶ったわけさ。
それ以上を望んで仮に何かが得られるとしても、瑣末な余禄以上のものとはならな
かったであろう。例えば、きさまを殺して門人どもの逆上を招くくらいなら、生か
し人質として切り札にする方がよい。つまりは方便だよ。忠臣を自任することは厚
顔が過ぎると思うが、わたしを指して逆臣と呼ぶことは出来まい。」
赤の舞台 vol.496-500
eine rote Buhne vol.496-500
□□□
その時後背に控えるウマルが痺れを切らして、恐る恐るカラドの肩に手を置いた。
カラドとサルワンを除く他の者らにとって、夜明けまで続くかと思われるこの長尺
の遣り取りは既に不安・憂慮を掻き立てるものでしかなくなっていたようである。
勿論サルワン側の従者ナーシフにとっても同様で、彼もまた表向きこそ取り繕って
いるが内心では焦れていた。たとえ、時は深更且つここが荒涼とした廃屋通りであ
るにせよ、都下の現況を考慮すれば剣呑でない場は稀である。一つ所に留まって不
毛な論議を差し挟みつつ噛み合わぬ回想談に耽る主、乃至は師に自制を促したいと
いう点でナーシフ、ウマル双方の心情には共通するものがあった。しかしながら、
カラドは煩わしそうに肩に置かれたその手を跳ね除ける。またとはないこの機会を
最大限に利用して好奇心を満たそうと考えていたのだ。ただ最初に自らサルワンに
向けて宣言した通り、カラドの体力は益々消耗し困憊の色がはっきりと見て取れた。
「正しく、物は言い様、というやつだ。そのように調停者面をしてあちらへこちらへ
としゃしゃり出てくるところが全く鼻について我慢ならないのだよ。そのくせ己の
手を汚すことはなく、机上で捏ねた策謀の成果のみを労せず閨で聞いてほくそ笑む。
例えば、あの流離の民とその長を巡る一件などにもそれは顕著であった。憶えてい
るかね。
」
「他人事のように言うな。わたしが差し伸べた手にここぞとばかり狂喜し喰らい付い
てきたのはきさまらであろうに。
」
「どのような経路を取るにせよ、結果的に我らは大志を果たせればそれでよいと割り
切った。葛藤を乗り越えて、妥協したのだ。故に今でもまだ、汝に巧みに利用され
たという屈辱は拭えんよ。
」
「利害が一致したのだと思えばそれでよかろう。世間と同様に、このわたしも先ずは
誤解したのだ。おまえが何れは大王イスマイルの持つ王権を、如何わしき名分を振
りかざし奪取せんと牙を研いでいるのではないかとな。一方であの連中、不浄の民
どもが内に秘める反骨心は只事でない。奴らが子を為し血を絶やさぬようにしてお
るのは只管、いつの日か謀叛を成就させる為に他ならぬ。そして、根は同じだとい
うのにどういうわけかおまえと連中は不倶戴天の間柄。その詳細な理由をわたしは
理解し兼ねたが、折り合うところがないということだけは知れていた。おまえたち
は、奴ら一族を根絶やしにするという大願に近付く致命的な一撃を加えること、即
ち長の殺害を成し遂げることが叶ったのであるし、わたしは大王の治世から禍根を
一つ取り除くことが叶った。取り合えずは、まずまずの団円といったところではな
かったかね。
」
長広舌の最中も、そしてようやく言葉を収めた後も、サルワンの表情は碑石のよう
くだり
に硬く微動だにせず、その双眸はどろりとして輝きを封じていた。彼はこの 件 を語
る際にのみ取り分け細心の注意を必要とした。カラドに己が隠し持つ秘中の秘につ
いて意図せぬ何かしらの示唆を与えぬ為の用心、つまりは決して心の内を読まれて
はならぬという強固な気構えである。何故ならここには、サルワンがかつて不分明
な目的の下、密かに仕掛けた一つのからくりが存在するからである。それは、あの
『黄金海』出身の若き野心家ムーサに関わる事柄であり、既にある程度明らかにな
っているか、若しくは今後また幾らか明らかになるある事情により、特にこのカラ
ドにはその端緒ですら決して知られてはならなかった。
「大仰な。左様なものを果たしてそこまでして守る価値があったと今日でも思うか
ね?」
如何に察しのよいカラドとはいえ、ここで何かを嗅ぎ取ることは不可能であったよ
うで、返ってきた言葉は別のもの、充分予測し得るものであった。カラドは痛烈な
皮肉を言外に含めて左様尋ねた。マーセル・アンハルトにより、いとも容易くマウ
レークが破れたことを暗に指摘しているのであろう。サルワンは何も答えない。
「代を重ねて子孫どもは生まれながらに、王侯貴族でございますとふんぞり返っては
いるが、どいつこいつも元を質せば所詮は盗人に毛が生えた程度のごろつきの血を
引き継いでいるに過ぎない。
」
「誠に面白味のない御高論、畏れ入る。耳が痛いよ。」
「試みに問うが、もしおれの野心がマウレーク王の座を志向していたら、汝の態度は
どう変じたのかね。
」
「さあな。それでも尚単純なものとはなり得なかったと思うがね。」
「錯雑とした何とやらか。
」
「おまえが妹であれ弟であれ最早それはどうでもよいが、血族であるからこそこの珍
奇な感情は生まれる余地を得たのであろうさ。縁も所縁もない赤の他人であれば、
そもそもおまえのような輩を排除することに吝かではなかったはずだ。尤も…」
そこまで言ってサルワンは思わず嘲笑を洩らした。
「どれほどの狡知と胆力、そして狷介な勢力家どもがこれまでに固持してきた地歩を
自ら投げ打つような出自を備えていたにせよ、おまえがこのマウレークの玉座を占
めるなどという幻が現出することは永遠にあり得ぬ。それこそ同胞国家の物笑いの
種というやつだ。マウレークの民とてそこまで寛容ではない。たとえ救いようもな
く愚鈍であったとしてもな。
」
カラドがその種の侮蔑に目くじらを立てることはない。取り合わずに飄々と受け流
すのみである。永らく抑圧してきた一様でない思いを僅かばかりとはいえ吐露する
中で、サルワンが柄にもなく決まりの悪さを感じて取り繕おうとしているのであろ
うとカラドは気侭に推測した。
「所詮は顔のない民どもさ。糞を食らわされたと最初の内は顔を顰めているであろう
が、存外時と共にそれもまた己の運命として已むなく受け容れるのではないかね。
それにだ、何人が笑おうとも、あの爺どもだけは仏頂面をしたまま見て見ぬ振りを
したかも知れんよ。
」
「民衆が顔を持たぬというわけではなかろう。ただ余りに蔑ろにされており、連中に
ついて語られる機会がまるでないから左様思えるだけのこと。」
「何を申しておるのか。
」
「造物主気取りの語り部の怠慢についてだよ。戯言だ。聞き捨てるがよい。
」
「それは一体誰に向けた言葉だ、お節介な老いぼれめ。…ともあれ。話を幾ばくか引
き戻すが、対抗者の力が削がれれば我らの勢いがいよいよ以って増すということに
は敢えて目を瞑ったのか。確かに俗世の覇権を巡る小競り合いには露程も関心を持
たぬ我らであるが、いざ大儀を為さんとなれば他の一切を顧慮することはない。つ
まり我らの妨げとなるものは存在しないのであり、例えば汝が愛して止まなかった
マウレーク王の庭を踏み荒らすに何らの躊躇いも感じぬということだ。」
「重々承知しての決断であったとも。無論、元来一途な性分のわたしだ。気掛かりと
なる事柄に対し早々に高を括ったり、お座成りな態度で臨むことはない。きさまら
についての調べを疎かにするなどあり得ぬ。だからこそ『暗い眼差し』とやらの真
の教義の根源がかつて不浄と呼ばれた血脈を復活させ栄華を求めることにあるので
ないと判断するまでには、幾らかの時を必要とした。」
「それは確かだ。先程も言った通り、おれの体に流れる血は多くの契機を呼び込んだ
が、希求するものへの道標となったことはない。我らの内、あの血を引くのはこの
おれ一人だ。どうにかその程度のことを理解出来ただけでも汝にとっては充分重畳
であろう。永劫を費やしたとしても、どうせ汝ごときに我らを照らす理の在り処な
ど決してわかりはせんのだよ。
」
サルワンは不明瞭な表情のまま、曖昧に二、三度頷いた。そして意味ありげな間を
置いてからカラドの言葉には呼応しないことを語り始める。
「おまえが今宵求めた全ての問いへの答えは一つだ。おまえの命が今この時まで持ち
堪えたのは、偏におまえが並外れて強運であったからに過ぎない。あの時わたしに
し得たことは誠に僅かであったのだし、また実際に行ったことも些少であった。そ
の微かな心付けがおまえにとっては図らずも事の外良きように作用したのだ。わか
るか?おまえがわたしによって生かされたなどと本気で考えるとは思えぬから言う
までもなかろうが、おまえを生かした者はおまえ以外ではないということだ。わた
しは大王イスマイルの御代が大過なく成就することを望んだが、その為に道が一つ
しかないとは考えなかった。それをわたしの思い上がりであると詰る者の気持ちも
わからんではない。
」
「……」
「但し、どのようなことを心に描こうとも、その実わたしは全くの無力であったよ。
元より重臣というわけでもなく、皆はわたしの言葉に傾聴する振りこそしてくれる
が、内心では、詰まるところ道楽者の放埓な物言いに過ぎぬと聞き流しておったに
違いない。
」
たばか
「それでも汝は自惚れておるのだ。人心を操り 謀 ることなど朝飯前だとな。
」
「そもそも欲したものが誠にちっぽけであったのだから、成果も高が知れている。よ
り大局に視点を引き上げれば、わたしの求める全てが実にささやかであると誰しも
が理解出来るはずなのだ。
」
「盗人猛々しいとはこのことだ。
」
カラドは乾いた笑声を交えて応じた。
「黄昏時に紫紺の空をうっとりと見上げる。そうした甘美なる時に日毎立ち会いたい
と願うが如くに。
」
た
ち
「なるほどな。隠居して後、より性質が悪くなったのはそういうわけか。その哀れな
見た目とは裏腹に、老け込むどころか、汝は益々化け物染みて血気盛んであるとい
うことがよくわかった。
」
「潮時だよ。
」
サルワンは含みのある一言でカラドの舌鋒をいなすと暫し黙した。しかしそれも片
時のことであり相手に先んじて再び口を開く。
「わたしにおまえたちを理解する時が訪れることは永遠にないと申したな。
」
「当然であろう。汝はそれを知る為の言語を持たぬのだから。」
「確かに。おまえたちを雁字搦めにし凶行へと駆り立ててきた原理がどのようなもの
か、わたしには一向わからぬ。抗弁する気などありはせんよ。しかしながら最後に、
わたしとおまえを繋ぐものが血だけではなかったことについて言い及んでおきたい
のだ。
」
「唐突に何のことだ。
」
「…かつてわたしは王宮の衛士シャリフを前にこう宣言したことがある。大王イスマ
イルに対する忠誠よりも、同胞として尊ぶべきものが存在するとな。
」
「王宮のシャリフ…何者だ。
」
「誰でもよい。それは半ば虚仮威しも同然に口にした言葉であり、丸々本心から出た
とは言い難いのであるが…」
「同胞として尊ぶべきもの?」
「つまりは『闇の住人』についてだよ。
」
「言うな、馬鹿者め!」
聞き終えるまでもなく、反射的にその顔色は見る見る変わりカラドは激昂した。
「このおれの前で気安くそのような蔑称を用いるなど以ての外だ。おれが汝の主イス
マイルを悪し様に言うのとは次元が異なる。その畏れ多さがわからぬというなら、
くろがね
鉄 の刃をもって今すぐきさまの身に叩き込んでやるぞ。」
その反応の苛烈さはそれまでのどれとも異なって、正しく心の奥底から突出してき
た真の怒りであった。それは直ちにその場にいた弟子と見做される他の構成員たち
にも伝播したので、やや間延びしつつあった空気は最終盤にきて俄かに一変し凍り
付いた。
「それが蔑称だとは知らなんだ。
」
サルワンは薄ら笑いを浮かべたが、鼻白む気配はない。
「何分不勉強でね。尊ぶとはいってもおまえたちのするのとはまた別の仕方である。
わたしはあれの賛美者ではないが、年老いたマウレーク人ならば共通に持っている
心構え、即ちそれについて人前で易々と語ることは憚られるというほどの畏れ多さ
は持ち合わせているつもりだよ。
」
カラドの怒りに容易く収まる気配は窺えなかったが、それでもそこで感情に任せた
血戦が始まるということはなかった。カラドは熱り立つ徒弟らを目で制してから呼
吸を整える。
「下郎ならではの度し難さ、聞き捨てならん妄言だ。これでいよいよ問わずにはおれ
ぬ。城門にて騒動の起こった晩、きさまがあの場に居合わせたのは何故だ?」
「何時のことを言っているのやら。
」
「
『西の国』の武人が、彼方にて闇の生を賜ったあの崇高なる存在に手向かい、峻烈な
報いを受けた晩のことだ。あの夜汝は一体、如何ばかりの身の程知らずな望みをも
ってあの場に臨んだのか。
」
「口碑にのみ残る常ならぬものの英姿をこの目にしかと焼付け、崇める為だ。これは
おまえたちからすれば冒涜的な欲求かね。」
サルワンは殊更言葉を選ぶようなことはせず、自身の発言で何かしらの悶着が勃発
しようともお構いなしという挑発的な態度を崩さない。
「あの夜、その宿望は確かに叶った。しかしながら、結末は格外と呼べるものではな
かったのか。今おまえは報いと言った。わたしにはとてもあれをそのように見るこ
とは出来なかったがね。
」
「異国の男は無残な死を遂げたはずだ。
」
「思いも掛けぬ眼福に与ったのだ。故に今尚鮮烈な記憶としてあの夜のことはわたし
の脳裡に焼き付いている。
」
未だ一年とは月日の経たぬ出来事を酷く懐かしむサルワンの姿をウマルやハイダル
は苦々しく眺めた。彼らもまた、その夜の出来事には立ち会ったのであり、
「宿望」
を果たし「鮮烈な記憶」として心の奥底に秘蔵している。それは正に一回性の奇跡
であり、喪神するほどの至幸の時であった。つまりサルワンの感慨程度のものと比
することはとても出来ぬという強い自負が働いたのだ。
「どちらかが一方的に報いを受けているようには見えなかったということだ。おまえ
もあの場にいたのではなかったのか。どのように見てもあれは相討ちであったよ。
」
「……」
「マウレークの霊異が『西の国』の奴らの手に落ちるという失態だけは避けねばなら
ぬという思いの為、少々出過ぎた真似をしてしまったというのがことの次第だ。ど
うだね。わたしの振る舞いや望みは悉く冒涜的であったか?」
カラドの癇癪は未だ燻っている様子であるものの、徒弟らの手前抑制に応えてどう
にか辺際の内に留まり今一度の噴出は免れた。
「冒涜的というよりは、身の程を超えた欲求であると心得るがよい。どのような虚飾
を施したとしても、汝の口から紡がれた言葉は途端に下世話な響きを帯び、やがて
は腐臭を放ち始めるのだ。…否、どれほど高邁な精神を備えた者であれ、我らが有
するのと同等な言語を持たぬのであれば、あの存在について語る全てが空虚で内実
を持たぬ単なる記号としかならない。
」
老貴族は揶揄する眼差しを向けたが、敢えて口に出しては何も言わぬ。
「我らを、無根拠な選良意識を肥大させる狂信者と侮ることは容易い。汝の物言いを
真似れば…大局へと視座を引き上げた時に市井の阿呆どもと我らを区別するものは
その実然程多くない。所詮他者によって見られた夢であるかのように虚ろなのだ。
しかし我らと連中の間には決定的な差異が一つ存在する。それは我らが、自分が無
知であることを心得ているという点であろう。」
「確かに。おまえたちが『それ』をどれほど崇めようとも、そもそも市民からすれば、
時折吹く瘴気に中てられた、無差別な殺戮を繰り返す傍迷惑な物狂いでしかあるま
い。
」
「汝にとっても本来同様であるはずさ。それが訳知り顔で物を言っている内に、己で
己に妙な暗示を掛け蒙が啓けたと勘違いしているというだけのこと。
」
サルワンは痛烈なカラドの言葉を受けて、屈託なく笑った。
「なるほどな。言い得て妙だとわたしは思うよ。一つ…」
「?」
「最後に一つだけ聞かせてはもらえぬか。
」
「何だ。
」
「では一体おまえは、どのようにしてその崇高であるという存在について一抹であれ
何ごとかを知り得る機会を得たのだ。
」
カラドはやや困惑を示して束の間沈黙した。
「…それには答えぬ。いや、答えることがおれには出来ぬ。
」
「何故?」
「言うたであろう。何も…何一つとしてこのおれに知り得たことなどないのだと。」
微かに天を仰ぐような仕種をした後で、サルワンは吹き付ける疾風に呼応するよう
に深い溜息を一つ吐いた。再び別離の時がもう手元にまでやって来ていることに気
付いたのだ。そして此度のそれは疑いなく真の永訣となるであろう、とも。
「そうか。ならばそろそろお開きにしようではないか。このまま夜が明けるまできさ
まと昔語りに耽るというのはぞっとしないね。それとも、劇的な現象を呼び込むこ
とに長けているおまえのことだ。この辺りで適宜に『西の国』の兵どもが乱入して
うまい具合にこの場は散会となるのかな?」
「ここには誰も来んよ。夜が明けるまでは。
」
カラドは顔を歪めて相好を崩した。
「汝とおれを繋ぐものなど既に朽ち果てて久しい。その最後の残滓は今宵の砂風によ
ってすっかり吹き散らされた。元より夢か幻であったのかも知れぬ。
」
「そうだな。
」
「もう二度と会うこともあるまい。これが汝とおれが交わす最後の言葉である。去る
がよい。このまま踵を返せば、我が同胞は汝に意趣返しの刃を突き立てぬであろう。
さらばだ、サルワンよ。
」
サルワンはカラドの左目をきっと睨み据えて暫し視線を外さなかった。そしてウマ
ルの方にも僅かに一瞥をくれてから、ナーシフに退去を促す仕種をした。カラドは、
彼らがそこから完全にいなくなるまでは自ら動く気配を一向見せなかった。そして
二騎の影が夜陰に掻き消されるのを確認すると、到頭精根尽き果てて馬上から崩れ
落ちたのであった。
マウレーク人賊徒によるアンハルト貴人の身柄略取という未曾有の事件の勃発は、
事件そのものがもたらした軽微な損害とは裏腹にマーセル・アンハルトの支配体制
に重大な波紋を投じる結果となった。数多の謎を孕むこの一件は全体像の見極めが
容易でなかったので、事態収拾が叶って後もマーセル王リシャールとアンハルト王
アンネを頂点とする首脳部からその概容すら公的に報じられることは遂になかった。
首脳部に程近いところからはマウレーク人による国土回復の為の闘争が新たな局面
に入ったことを告げる変事であるという声も頻繁に聞かれ始めたが、この頃の時局
を勘案するとそれは余りにも悠長な認識と言わざるを得ない。深夜の捕り物は効を
奏して、暫定的に首謀者と見做されたマウレーク人下男の処刑及び共謀者らの掃
討・捕縛、また勾引された者を無事保護するなど芳しい成果を上げたものの、その
後の全容解明の捜査は困難を極めた。事件そのものは一定の解決を見ている為、視
座を限定すれば顛末の洗い出しは容易であると言えたが、不審な点も数多くこの件
を独立した一つの椿事として片付けてしまうことも躊躇われる。一つの大きな謀略
の枝葉と捉えるか、それとも終始が漏れなく収まりこれだけで完結した些細な企み
と片付けるか。議論の余地は少なからずあった。下手人の一部は城内に住み込み下
男としての勤めを果たしてきた者らであったが、その他は恐らく直前に外部から侵
入してきたであろう素性知れずのごろつき風情の連中である。特に日没後、城門の
管理は厳重さを増す。事細かな検めを摺り抜け、こうした輩が大挙して域内に入り
込むなどとは考えられない。彼らが如何様にして門扉の内側に侵入したのかという
ことが先ずは焦点となったのであるが…
身柄を拘束された賊徒らに苛烈な尋問を繰り返しても出て来る答えは、日中、御用
商人の出入り時に牛車などに身を隠してうまうまと忍び込む、或いは巡検の目を逃
れて城壁を乗り越える、等々凡そ周到且つ綿密に企図されたとは思えぬような場当
たり的なものばかりで、実行時のそつのなさを考えるとどうにも釣り合いが取れて
いるとは思えない。そもそもが大胆不敵に過ぎる巧みであり、計画から実行までの
間に相当な演習が繰り返されたのではないかと想像してみることも難くはない。し
かし予め用意された戯曲の台詞を諳んじているかのように彼らは凄惨な拷問に対し
ても易々とは音を上げず、その内容に辻褄の合わぬ点が見受けられたが自白そのも
のはほぼ終始一貫、ぶれるところはなかった。彼らは、所属は解放団なる小規模武
装組織であり、目途は「西の国」に対する天誅及び示威であると語った。国内で頻
発している蜂起との連携に関しては口を割らず、他勢力との繋がりの有無には黙秘
を貫いて僅かな仄めかしすら一切洩らすことがない。但しその中でも、マウレーク
時代より王室付きの使用人として長年忠勤に励み最期はシュタインベルクにより斬
首された老マウレーク人と行動を共にしていた青年はより苛酷な責苦に屈して他の
者らからは引き出すことの出来なかった幾つかの事項を供述している。既に触れた
通り、その中にはマウレーク人商人ウマルの名が含まれ更なる展開への大きな一歩
となったが、組織の詳細は依然判然とせぬままでこの豪商がどのような形で関与し
ているかなどについては一向にわからない。この青年も他の連中と同じくコルネリ
ア誘拐の裏で密かに行われていた「暗い眼差し」の首魁カラドの城外への脱出行だ
けはおくびにも出さずに死守し、最終的にその糸口すらマーセル・アンハルトに掴
ませることはなかった。半ばカラド自身の希望もあって続いた幽囚の日々が、排水
の為の暗渠を通じて終焉を迎えたことも当然ながら「西の国」には知る由もないま
まである。アンハルト将帥シュタインベルクはこの騒動の全貌を手ずから徹底して
明らかにする心積もりでいたが、折りしも古都ラジャーシュにて起こった武装蜂起
を鎮圧する為の軍編成を行わねばならず中途にて手を引かざるを得なかった。
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