...

005 奈良ウォーキングVol.2 ~奈良・世界遺産を歩く

by user

on
Category: Documents
9

views

Report

Comments

Transcript

005 奈良ウォーキングVol.2 ~奈良・世界遺産を歩く
奈良ウォーキング Vol.2
奈良ウォーキング2回目は、長谷寺と室生寺だったのですが、前日が雨だったので予定を変更して奈良市内をウォーキン
グすることにしました。長谷寺と室生寺は次回にさせていただきます。ご了承ください。
今回は、「奈良・世界遺産を歩く 国宝92点」と題し、いわゆる奈良のゴールデンコースを巡ります。
古都奈良の文化財として東大寺・興福寺・元興寺・春日大社・春日山原始林・薬師寺・唐招提寺・平城宮跡が平成10年12
月に世界遺産に登録されました。古都奈良の文化財とされる寺社だけに、個々の文化財の所有も多く国宝も多いのです。
古都奈良(平城京)の主役は何といっても聖武天皇と光明皇后。お二人抜きでは、今の奈良も語ることはできません。
お二人にゆかりのある興福寺・新薬師寺・東大寺・法華寺や聖武天皇陵・光明皇后陵、平城宮跡などを巡り、つまり世界遺
産を歩く。そして、一度は見ていただきたい若草山頂上からの奈良盆地の展望をセットにしたウォーキングです 。
仏教を隆盛させることによって平和を見いだそうとされたお二人ですので、東大寺の大仏さんや興福寺の阿修羅さんな
ど、ゆかりの仏像も数多い。それらの仏さまにお会いするのも楽しみの一つです。
005 奈良・世界遺産を歩く 国宝92点
約21㎞
興福寺・新薬師寺・東大寺・法華寺・平城宮跡
今回の奈良ウォーキングは、近鉄奈
良駅から興福寺、新薬師寺、春日大社、
春日山遊歩道、若草山頂上、東大寺、
聖武天皇陵・光明皇后陵、海龍王寺、
法華寺、平城宮跡をウォーキングする
奈良のゴールデンコースです。
若草山からの展望は、一瞬にして身
体をリフレッシュさせてくれるパワー
ビューポイント。また、奈良は国宝や
重要文化財の宝庫、今回のウォーキン
グでいくつ出会えるか数えてみるのも
一興かもしれません。
09:00
10:00
行基像
東大寺大仏殿を北からみる
KKRホテル大阪の午前9時のシャトルバスに乗ってJR森ノ宮駅へ、環状線外回りで鶴橋まで行き、近鉄奈良線に乗り換える。
9時19分発の快速急行奈良行に乗って、終点の近鉄奈良駅まで行く。到着9時52分。②出口(奈良公園方面)から地上へ。
地上へ出ると行基(ぎょうき)菩薩像が出迎えてくれる。
行基は東大寺の大仏造立の勧進(仏事に協力する人々を求める役目)の大役を務めた、大仏の实の産みの親といえるでしょう。行基
は、信者集団をつくって各地を歩き回り、橋をかけるといった社会事業を行いながら、民衆への布教に力を尽くしていた僧侶です。当時
70歳を超える高齢でしたが、大仏造立の勧進を担い、弟子たちをひきいて勧進に奔走し、大仏造立に貢献。東大寺四聖として敬われ
ています。
まずは、行基菩薩像の前にある東向通(ひがしむきどおり)商店街からスタートです。
興福寺(こうふくじ)
世界遺産
東向通商店街は平城京の東六坊大路跡にあたる、歩くだけでも奈良の文化を味うことが
できるアーケードです。突き当たりの三条通を左に曲がり、すぐにある高速餅付きパフォーマ
ンスで有名な中谷堂で、おやつ用に人気のよもぎ餅(3ヶ390円)を買って猿沢池へ、周囲約
400mの池を1周します。途中に興福寺五重塔の撮影ポイントがあり、猿沢池の悲恋物語
の碑を読むことによって、ここに采女(うぬめ)神社のある理由もわかります。五十二段の階
段を上って采女神社の前に戻る。そこに興福寺南円堂へ通じる階段がある。
「国宝109点興福寺にあり!」
興福寺ポスターのキャッチコピー
興福寺は、藤原鎌足が建てた山階寺(やましなでら)を始まりとし、その後飛鳥に移って
厩坂寺(うまやさかでら)となり、平城京遷都とともに、藤原不比等が現在の地に移し、興福
寺と改号した。興福寺は藤原氏の氏寺として栄えた古刹だが、じつに火災の多い寺である。
中金堂の罹災は七回にも及ぶ。しかし、その都度復興を遂げているのは藤原氏の絶大な力
があったから。境内に多くの宝塔が立ち並び、国宝・重要文化財の仏像も数多く安置されて
いる。現在、1717年に焼失した中金堂の再建工事が行われている。平成30年に落慶予定。
猿沢池からの五重塔
南円堂への階段の途中に三重塔の案内があり、それに従って左に折れると美しい姿の三重塔が現れる。
鎌倉時代初期の再建。高さ18.4mの三重塔(国宝)。本日最初の国宝です。
三重塔から北へ坂道を登ると、本日2番目の国宝 北円堂が見えてくる。北円堂は721年、元明(げんめ
い)太上天皇と元正(げんしょう)天皇が藤原不比等の一周忌に長屋王に命じて建立させた八角円堂。
本尊は不比等が信仰した弥勒如来。現在の北円堂は1180年平重衡の兵火で全焼し1210年頃に再建され
たもの。 北円堂は塀の中にあり近づくこともできないが、毎年春と秋に特別公開される。その時を狙って奈
良を再訪するのもいいだろう。堂内にある7体の国宝の仏像は一見の価値あり。
三重塔
1
北円堂は1180年の兵火により仏像も焼失し、新たに運慶が統率する工房が総力を挙げて9体の仏像を制
作した。その内今に残る次の本尊の弥勒如来坐像(木造 像高141.9㎝ 1212年頃)、無著(むじゃく)立像
(木造 像高194.7㎝ 1212年頃)、世親(せしん)立像(木造 像高191.6㎝ 1212年頃)の3体と、後に奈良の
大安寺から移された791年作の四天王立像(木心乾漆造 もくしんかんしつづくり)の4体、合計7体が国宝で
ある。今回は見られなかったが、7体ともに見応え十分。公開日要チェック!!
北円堂の八角形須弥檀(しゅみだん)中央の弥勒如来を守る四天王、東の守護神 持国天(じこくてん)
像高136.6㎝)、南は増長天(ぞうちょうてん)、像高136.6㎝)、西は広目天(こうもくてん) 像高139.7㎝)、そ
して北は多聞天(たもんてん) 像高134.7㎝)。
じつは、北円堂再建時に運慶の工房が作った仏像9体の中にも、当然の如く四天王立像はあった。現在南
円堂に安置されている四天王立像がそれらしいのだ。残念ながら確認はできていないのだが。
八角円堂という形は法隆寺夢殿が聖徳太子の魂の鎮まる聖所とされたように。死者の鎮魂のための廟堂
としての性格を持っている。
北円堂
次に向かうのが同じく八角円堂の南円堂。南円堂は、藤原冬嗣が813年に前年に逝去した父内麻呂の
菩提のために発願したものである。 現在の南円堂は1789年に完成。重要文化財。
本尊の不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)菩薩坐像 (木造 像高336㎝ 1189年、運慶の父 康
慶作)と、本尊を守る謎の四天王立像4体(木造 鎌倉時代)、合わせて5体の国宝が安置されている。
南円堂は毎年10月17のみ開扉される。
元来南円堂にあった康慶工房作の四天王立像は、現在仮金堂に安置されている四天王立像(木造
1189年 各像高は200㎝前後 重要文化財)だ。と学術的にも確实視されている。となると、現在南円堂に
ある四天王立像(各像高は200㎝前後)は、元々どこにあったのか、誰が作ったのか?
現在南円堂にある四天王像を、仮金堂の四天王像に比べてみると、スケール感、洗練度、躍動感など
に優れ、現在南円堂にある四天王像の木材はカツラ、北円堂の運慶工房作の像もカツラ材、と一致して
おり、現在南円堂にある四天王像は康慶の息子である運慶の工房の作品で、元々北円堂にあったもの
ではないかと考えられている、が、確定はできていない。 一体誰がなぜ配置換えをしたのだろうか。
我々も見比べたいと思うのだが、一度に南円堂も北円堂も仮金堂も公開開扉できないものだろうか。
南円堂
南円堂から左手にある「中金堂平成再建工事 平成30年落慶予定」の工事案内を見つつ、正面に
目を向けると国宝の五重塔と東金堂(とうこんどう)が見える。
五重塔は光明皇后が730年に創建し、現在のものは1426年に再建された六代目。高さが50.1mあ
り、現存する古塔では京都の東寺五重塔に次ぐ第2位の高さ。
東金堂(国宝)は、聖武天皇が元正太上天皇の病気全快を願って建立した薬師三尊像を本尊とす
る堂。現在の建物は1411年の落雷による火災の後1415年に再建。東金堂は常時公開されている。
本日最初の仏様とのご対面である。拝観料300円(国宝館とセットで800円) 9:00~17:00
薬師如来坐像 (銅像 像高255cm 室町1415年作 重要文化財)
1411年の火災の後に鋳造され全身に漆箔している。火災前の薬師如来さんに歴史あり。
火災前の薬師如来は、大化改新で活躍した蘇我倉山田石川麻呂が建てた山田寺で、彼が
自殺したのち、その冥福を祈り講堂の本尊として685年に作られた薬師如来だった。1180年の
兵火で東金堂と仏像が焼失したのち東金堂は再建されたが、仏像の再興が難航し、業を煮や
東金堂と五重塔
した興福寺の僧兵が1187年に飛鳥の山田寺から薬師三尊像を強引に東金堂に運び込んで
本尊としたもの。その薬師如来も1411年の火災で首から下が焼失し、1937年に現本尊の台
座内部からこの頭部が発見された。この仏頭の総高は98.3cm 国宝である。興福寺国宝館で
拝見できる。
日光菩薩立像 (にっこう 銅像 像高300.3cm 奈良時代8世紀作 重要文化財)
月光菩薩立像 (がっこう 銅像 像高298cm 奈良時代8世紀作 重要文化財)
この日光・月光の両脇侍は1187年に山田寺から運び込まれたもので、1411年の火災の難
は免れた。
四天王立像 4体 (木造 像高153cm~164cm 8末~9世紀初頭の平安時代の作 国宝)
四天王とは持国天・増長天・広目天・多聞天のことで、インド神話の時代から守護神として存
在していたが、仏教に取り入れられてからは四方を守る神として説かれている
1180年の平重衡の兵火で東金堂が焼け、再興されたあとに別の堂から移された。それ以前
の伝来はわかっていない。横幅が広く、奥行きもあって迫力みなぎる像である。頭から
邪鬼までの主要部を一本のヒノキで作る一木造。頭髪や甲冑等の一部に乾漆を盛り上げて
造形している。この時代を代表する四天王像の秀作。
十二神将 12体 (木造 像高113cm~126.3cm 1207年頃 国宝)
十二神将は薬師如来の守護神。薬師三尊を囲むように右手前から毘羯羅(びから 子)、招杜羅(しょとら 丑)、真達羅(しんだら 虎)、
摩虎羅(まごら 卯)、波夷羅(はいら 辰)、因達羅(いんだら 巳)、頞儞羅(あにら 未)、安底羅(あんていら 申)、迷企羅(めきら 酉)、
珊底羅(さんていら 午)、伐折羅(ばさら 戌)、宮毘羅(くびら 亥)の項に配置されている。新薬師寺の十二神将とは並びがぜんぜん違う。
平安後期から十二神将は十二支獣と不可分の組み合わせとなる。十二支は年ごとの干支や、一日の時間、十二の方角を支配するの
で、十二神将もその役割を負うようになる。そのため十二支項に並べられることになる。この後に行く新薬師寺の十二神将と見比べるために
もしっかり記憶しておかなくては。仕草や形に決まりがない十二神将。さまざまなポーズが仏師の腕の見せどころ。この十二神将は圧倒的
な力強さを感じさせる。それが鎌倉彫刻の真骨頂だそうで鎌倉彫刻の名品とされている。
維摩居士(ゆいまこじ)坐像 (定慶作 木造 像高88.6cm 1196年 国宝)
像内の銘文から1196年に定慶が作ったことがわかった。文殊と論争する様子をあらわすが、表情はリアルそのもの。
文殊菩薩(もんじゅぼさつ)坐像 (木造 像高93.9cm 1196年頃 国宝)
定慶の工房の作と考えられる。弁舌にたけた維摩と知恵第一の文殊が対論する場面を表す。維摩とは対照的に若くて健康的である。
台座と光背も円形が基本、台座、後屏が方形である維摩と好対照。
東金堂の残念なところは、優秀な仏像がたくさん(国宝18体、重文3体)あるが、狭くて暗く表情や細部を一つひとつ楽しむことができない。
是非、四天王像と十二神将を一つひとつ鑑賞できるような特別展を開いて欲しい。
2
つづいて向かうのが国宝館。いよいよ阿修羅さんとのご対面です。何度かお会いしているのですが、好きなものには何度会って
もいいものです。ここには国宝だけでも40点とたくさんありますので、自分の好みベスト3を選ぶつもりで見て回られるといいでしょ
う。自分で選んだベスト3は、名前とお顔を忘れないためにも売店でポストカードを買っておきましょう。ベスト1は、あなたのアイド
ルです。また会いたくなるのは仕方がありません。拝観料600円(東金堂とセットで800円) 9:00~17:00
ここ国宝館は、人気絶大の阿修羅を含む八部衆や十大弟子など、今はない西金堂(さいこんどう)の仏像を中心に展示しています。
西金堂は、734年に光明皇后が母 橘三千代の1周忌に菩提を弔うために、当時の最新の経典「金光明最勝王経(こんこうみょうさい
しょうおうきょう)」に描かれた釈迦浄土の世界を表そうと建立したお堂。
橘三千代は藤原不比等の妻であり熱心な仏教信仰者でもあった。娘の光明皇后も熱心な仏教信仰者で、母の魂が極楽浄土に生
まれることを祈願した、母への想い、仏教への信仰が西金堂の建立だったのだろう。
当時の最高の实力者である藤原一族、皇族以外で初めて立后された光明皇后。そんな時に藤原氏の氏寺である興福寺に、母の
菩提を弔うために建立した西金堂、釈迦浄土を表す豪華なラインナップの仏像達は、その時の最高の人や材を駆使したものだった
に違いない。
今に残る八部衆と十大弟子の6体を見ると、娘から母への想いや女性が求める仏像感などを、この仏像達に勝手に結びつけてしま
いますが、何度見ても見飽きない阿修羅像は傑作中の傑作です。
できるなら建立当時の30数体からなる仏像群の光明皇后ワールドを見てみたい! それこそ今でいう「NAR48」だった!わけない
か。いやいや足長スレンダーな「奈良時代」だった? 皇后も女性だけに美尐年グループのジャニーズ系?韓流スター系?
いえいえ、光明皇后ワールドは、それらを超える世界だったに違いありません。
10:45
興福寺 国宝館
明治の廃仏毀釈によって取り壊された食堂(じきどう)の跡地に、食堂再建の意図を含め、宝物を
保存するために国宝館が昭和34年に建てられた。食堂の本尊千手観音菩薩像は今も国宝館の
中央に安置されている。その場所は食堂の本尊があった位置と同じ場所だそうだ。
まず入口に入って左右に、中金堂の須弥檀の下から発掘された、地鎮の供養具である鎮檀具
(ちんだんぐ)の銀製鍍金唐草文脚杯(国宝)、七宝、金・銀器、銅貨、玉などが展示されている。こ
の並びは、恋人(阿修羅)に会う前のわくわく感から気もそぞろに見てしまう。
そこを抜けると、右手に板彫十二神将がずらりと並ぶ。左手に大きな千手観音立像の左側面が
圧倒し、その手前に仏頭(薬師如来像頭部)、釈迦如来立像、阿弥陀如来立像がある。
国宝館
天皇家
天
武
藤原氏
天
智
藤 (中
原臣
鎌)
足
持
統
不
比
等
元
明
高草
市壁
皇皇
子子
宮麻宇房武
子呂合前智
麻
呂
真
楯
元文
正武
長
屋
王
橘
三
千
代
吉
備
内
親
王
聖
武
重
祚
・称 孝
徳謙
内
麻
呂
冬
嗣
光
明
子
(光
明
皇
后
)
板彫十二神将 (ヒノキ1枚板 縦1m前後 横40cm前後 厚さ約3cm 11世紀 国宝)
レリーフとは思えない立体感のある浮彫彫刻の傑作である。丸彫りの彫刻を見るが如く、
立体感、動き、表情を感じ取れる。ユーモラスで親しみやすく感じる表現力、技術力はまさに最
高品。1枚1枚見入ってしまった。東金堂十二神将の表情・細部が判らなかった分、ここで時間
を掛けた。これでまた新薬師寺へ行くのが楽しみになった。
もとは元興寺金堂にあったとされ、10世紀頃に元興寺に属していた画僧玄朝の図様に
基づいて造られたものと推察されている。元興寺金堂の退転とともに興福寺東金堂に移され
た。本来は薬師如来像の台座側面に張り付けられていたと考えられる。
仏頭(薬師如来像頭部) (銅造 像高98.3cm 天武14年685年 国宝)
東金堂の薬師如来坐像の頄でふれた経緯でここにある訳で、中大兄皇子暗殺計画の冤罪
で自殺した蘇我倉山田石川麻呂が、藤原の氏寺興福寺だけに、中大兄皇子(天智天皇)や
中臣(藤原)鎌足に負けてなるものかと主張しているようだ。白鳳仏の傑作される。
千手観音菩薩立像 (木造 像高520.5cm 鎌倉時代1228年頃 国宝)
多くの手で人々を救済するもと食堂の本尊、1180年の兵火後の復興像。11面42臂の姿で
堂々たる体躯を誇り、引き締まった相貌を示す。ヒノキの寄木造、漆箔仕上げ。
像の内部に多数の納入品が収められていた。それにより制作時期も知ることができた。
千手観音菩薩立像を中心に展示されているので、左、右、正面の3ケ所から拝見できる。
他の国宝像が小さいだけに、圧倒的な存在感がある。
釈迦如来立像 (ヒノキ寄木造 像高227cm 平安12~13世紀 定朝様式 重要文化財)
東金堂にあったが、それ以前伝来は不明。左手の指の形がおもしろい。
阿弥陀如来立像 (木造 像高225.7cm 平安12世紀 重要文化財)
興福寺の子院 観禅院の大御堂の本尊だった。中金堂の実仏として安置。
項路に従い、千手観音菩薩立像のバックサイドに回ると次のものが展示されていた。
仏手 (銀造弥勒仏右手残欠 奈良時代 重要文化財)
先ほどの薬師如来仏頭と同様、東金堂の薬師如来坐像の台座の中から発見される。
東金堂の銀造弥勒仏の右手とされる。
鰐口(わにぐち) (銅制 口径57.6cm 厚さ19.7cm 建長8年 1256年)
法華寺金堂で使用後、東金堂に奉納
銅造梵鐘 (銅造 全高149cm 口径89.2cm 神亀4年 727年 国宝)
観禅院に伝来した。奈良時代の梵鐘は数が尐ない。
聖徳太子2歳像 (木造 像高68.5cm 江戸時代)
地蔵菩薩立像(木造 像高55cm 13世紀) 春日大社論講屋(ろんこうおく)に安置されていた
銅造燈籠 (銅造 総高236cm 弘仁7年 816年 国宝)
南円堂の前にあった。火袋の扉の文章は弘法大師、書は橘逸勢。東大寺に次ぐ古さ。
3
国宝館展示スペースの右コーナーとバックサイドがここで終了、左コーナーに入ります。法相六祖を見終え、目線を中央に移すと千手観音菩薩
立像の右側面に圧倒される。その右手前にある龍燈鬼に目が行くのをこらえて、左手前にある帝釈天の正面に立つ。帝釈天はインドの最高神、
阿修羅に負けることのない神だが、ここ興福寺では人気・实力ともに阿修羅には勝てない存在だ。
法相(ほっそう)六祖
興福寺は明治の廃仏毀釈で無住の寺となったが、南円堂を中心に庶民の観音信仰が高まり、明治15年に法相宗の大本山
となって寺勢が再興された。興福寺には、法相の教主である弥勒菩薩を中心に法相宗の祖師を描いた法相曼荼羅図(室町時代)が残って
いる。インドの無著や世親、唐の玄奘(三蔵法師)や慈恩大師、日本の法相六祖などが描かれており、興福寺が弥勒の系譜を大切にし
ていることがわかる。法相六祖とは、法相宗のすぐれた僧侶六人で奈良から平安時代のはじめに活躍した高僧から選ばれている。玄肪
以外は藤原冬嗣にゆかりの僧である。
法相六祖像
祖師の名称には異論があるが、あぐら型、正座型、立て膝型の3種でそれぞれ2体づつ造り、玄昉像は胸元で手を組み、善珠は数珠、
他の4体は柄香炉を持つ。6体とも玉眼を嵌め心の様子をリアルに表現しており鎌倉時代の彫刻の新しい展開を示した作品とされている。
目線を合わせられる展示になっているので、实にリアルに感じられる。
法相六祖像は南円堂の不空羂索観音菩薩像や仮金堂の四天王像と同じく、1,189年に運慶の父である康慶の工房が制作。ヒノキの寄
木造、彩色仕上げ 国宝。1180年の兵火後に再建された南円堂は康慶ワールドだった。一同に会した康慶作品も見てみたい。
善珠(ぜんじゅ)坐像 (像高83.5cm) あぐら型(趺座) 威圧感があり、説教されているようだ。
玄昉(げんぼう)坐像 (像高84.8cm) 正座型
祈りを表現しているのだろうが、歴史上に知る玄昉とはイメージが違った。
玄賓(げんぴん)坐像 (像高83.0cm) 正坐型
精力的な僧の如し、対峙して教えを受けているようだ。
常騰(じょうとう)坐像 (像高73.3cm) あぐら型(趺座) 老僧の柔らかさを感じるが、不安げに見られているような感じがする。
神叡(しんえい)坐像 (像高81.2cm) 立て膝型
奈良国立博物館に寄託。 拝観できず
行賀(ぎょうが)坐像 (像高74.8cm) 立て膝型
奈良国立博物館に寄託。 拝観できず
帝釈天像(像高171.5cm)・梵天像(像高166cm)
木造 鎌倉時代 作者不明 元々の安置場所不明。すがすがしいお顔をされている。
仏頭(釈迦如来像頭部) (木造 総高98cm 1186年頃 重要文化財)
旧西金堂の本尊釈迦如来像の頭部であることが銘文からわかる。1717年の西金堂の火災時に頭部のみが救われた。運慶の作か?
現在仮金堂にある薬王菩薩立像と薬上菩薩立像が当時の両脇侍。
化仏・飛天11体 (木造 像高36.3~78.0cm 鎌倉時代 重要文化財)
上段に旧西金堂の本尊釈迦如来像の光背に取り付けられていた化仏・飛天11体が展示されている。
金剛力士像 吽形(うんぎょう) (木造 像高153.7cm 定慶作 1215年頃 国宝)
金剛力士像 阿形(あぎょう) (木造 像高154cm 定慶作 1215年頃 国宝)
金剛力士像は阿吽で一組をなし、通常は仁王門などに安置されるが、この力士は須弥檀に安置されて四天王などとともに檀を守護
する役割を担っている。奈良時代以降は極めて珍しい、この力士像は西金堂の鎌倉再興時の像だが、奈良時代創建期の復古を目指
した再興像だったのでこのようになった。風になびく裳裾、筋肉、血管など写实的で表情、動きなど力強さを感じる。南大門の力士像などを
見慣れているせいか、須弥檀にいるこの力士像は、像高も150cm強ということもあって、リアルな人間味を感じる。誇張ではない鍛え上げた
实際の肉体美、滑らかな肌、まさしく屈強なボディーガードだ。
龍燈鬼立像 (康弁作 木造 像高77.8cm 1215年頃 国宝)
天燈鬼立像 (木造 像高78.2cm 1215頃 国宝)
龍燈鬼は記録から運慶の三男である康弁の1215年の作とわかる。天燈鬼も康弁もしくは近い仏師の作で阿吽一対で作られている。
西金堂の鎌倉再興時に新たな創意で制作された。四天王に踏まれた邪鬼が許され、立ちあがって釈迦(仏教)に燈籠(灯り)を捧げて
いる姿に見える。おぞましい姿・形をしているが、愛嬌があり、短足に褌姿は親しみを覚える。お尻も魅力なのだが残念ながら見られない。
照明の関係か、龍燈鬼は上目づかいで玉眼をいれているので、両眼が金色に光って、訴えるものがある。
華原磬 (かげんけい) 銅像 総高96cm 奈良時代 国宝)
文献では金鼓と出てくる。奈良時代に西金堂に置かれていたが、1180年の兵火で大破。
下部の獅子は創建時のものとされるが、他は鎌倉時代に補われた。
梵天立像 (定慶作 木造 像高181.3cm 建仁2年 1202年 重要文化財)
像内の墨書から1202年、定慶の作とわかる。定慶は東金堂の維摩居士の作者である。この像と一組であった帝釈天像が東京・根津美術館
にある。装飾的表現が宋風で、定慶好み。西金堂にあったとされるが、東金堂にあった可能性が高い。
弥勒菩薩像(厨子入り) (木造 像高57cm 鎌倉時代 重要文化財) 興福寺 大乗院持仏堂の本尊
弥勒菩薩像の厨子 (木造 総高165.8cm) 弥勒菩薩像の尐し後に製作。扉に法相の祖師を描く。
さあいよいよ最終コーナー、十大弟子と八部衆の登場です。十大弟子と八部衆が向かい合う形で展示されています。734年に西金堂が建立された時
に实存した群像そのものです。興福寺は1300年の歴史の中で7回も火災に遭い震災も受けている。興福寺には東大寺と違って奈良時代の建物は残っ
ていない。火災時にはどのように運び出され、保管されたのか?現存すること自体が奇跡なのかもしれない。今、目にしている群像が、どれだけ慈しみ
愛され大切にされてきたかがわかる。十大弟子と八部衆は150cm前後の身長で細見、丸顔は共通。母を想う实力者の娘が最新の仏教経典によって
創ったお人形の世界のようにも感じます。これぞ光明皇后ワールド! 西金堂建立時は35体の群像だったとされる。その時の西金堂内の空間はどうよう
な世界?ま、そんなこと関係なしに、八部衆は傑作です。見入ってしまいます。ご覧になればわかります。八部衆の中央に阿修羅が配置され、対峙す
るかのように千手観音菩薩立像が正面に配置されています。6本の手と42本の手、仏を護り衆生を救う。この中間地点は最高の拝観場所。
十大弟子とは
釈迦の高弟の僧侶10人。興福寺には6体が残る。仕草や衣で人物を表現、総じて八部衆と同様細身で直立型。八部衆とともに天平6年
(734年) 仏師将軍万福(まんぷく)、画工秦牛養(はたのうしかい)の作、すべて国宝。脱活乾漆造の技法、麻布を漆で塗り固めて
張子のような像を造り、中に心木を入れて固定、表面は木屎漆(こくそうるし)を盛り上げて整形し、彩色を施して仕上げる。
当時高価であった漆を大量に使っている。
冨楼那(ふるな)立像
(像高148.7cm)
説法第一。おだやかな表情をされている老僧。
迦栴延(かせんえん)立像
(像高144.3cm)
論議第一。片肌を脱ぎ、口を開け、右手を前に出す。
舎利弗(しゃりふつ)立像
(像高152.7cm)
智慧第一。衣文を垂直に表し厳粛さをかもす。
須菩提(すぼだい)立像
(像高147.5cm)
解空第一。若さあふれる美男僧。
目犍連(もくけんれん)立像 (像高148.0cm)
神通第一。深く波打つ衣の襞で思慮深さを表現。
羅睺羅(らごら)立像
(像高149.4cm)
密行第一。目を閉じて瞑想する若き僧。
4
八部衆とは、
もとは古代インドの異郷の神々で、獣神や戦闘神、歌舞音曲の神、悪鬼だったものが、釈迦に教化されて、仏法の守護神となった。
10大弟子像と同様、仏師将軍万福、画工秦牛養の作、天平6年 734年、すべて国宝、脱活乾漆造
迦楼羅(かるら)立像
(像高149.0cm)
目もくちばしも鋭い鶏頭を持つ半獣半人像。インド神話で蛇を喰う鳥。顔は左向き、頭頂部が破損、中心材が見える。
緊那羅(きんなら)立像
(像高152.4cm)
頭上に一角があり、額には第三の眼があるが、異様さを感じさせない。歌舞を司る神。右肘から先が失われている。
沙羯羅(さから)立像
(像高154.5cm)
頭頂部の正面に頭を出した蛇が巻きつく尐年像。蛇神か? 阿修羅より尐し幼く見えるが、尐年の一途さを感じる。憂いのある表情で尐し
左上方を見つめる尐年、女性は放っとけないだろう。
阿修羅(あしゅら)立像 (像高153.4cm)
阿修羅はインド神話の激しく戦闘的な神であった。最高神のインドラ(帝釈天)に絶えず戦争をしかけるが決して勝つことがない阿修羅の
この生き様は、この世のむくいで人間が生死を繰り返すとされる六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間(じんかん)、天上)の一つに
含まれることになる。救われることのない戦闘的な軍神であるが故に、怒り顔で牙をむき、三つの顔、六本の腕を持ち、手には弓矢を持ち、
肌は赤くするのが普通だが、この阿修羅さんは、静けさと繊細さと敬虔さが強調されている。顔は小さく、胴も腕も細くて折れそうな
スレンダーな美尐年。人を虜にする。
乾闥婆(けんだつば)立像
(像高148.0cm)
獅子冠をかぶり、両眼をほとんど閉じる尐年像。帝釈天に仕え楽器を奏でる楽神。肌が赤い。
鳩槃荼(くばんだ)立像
(像高150.5cm)
恐ろしげな形相をし、表情は獣に近い。という面をつけた人といった感じ。死者の魂を吸う悪鬼、夜叉らしい。
畢婆迦羅(ひばから)立像
(像高155.4cm)
やや老相に造られ、あごひげをたくわえている。眼差しに力がある。若年寄りといった感じ。
五部淨(ごぶじょう)像 (現状像高50.0cm)
像の頭をかたどった宝冠をかぶった尐年像。頭部と上半身を遺している。右手の肘から先の部分が東京国立博物館に所蔵されている。
きらりとした表情は女性には魅力だろう。
11:45
八部衆は上記項に左から一列に展示されている。そして阿修羅は千手観音菩薩と真向かう形で配置されている。その中間点に
立ち、阿修羅を見つめていると、何かが気になる、誰かに見られているような、確かに目線を感じる。そうか、阿修羅と面している
私を、左端の迦楼羅がおまえは誰だと言わんばかりに睨みつけているのだ。迦楼羅の目力(めぢから)はすごい。配置の妙だろう。
是非皆さんも確認してみてください。残念なのは阿修羅さんの左と右のお顔がじっくり見られないことだ。ここは美術館風に360度
回れる工夫をしてくれれば嬉しいのだが。向かって左の唇を噛んだお顔をみると、心が締め付けられるような感覚になってしまう
のは私だけでしょうか。
国宝40点、さすがに、国宝館は見応えがありますね。何回見ても見入ってしまいます。国宝館だけで1時間もかけてしまいました。
尐しペースを上げなければなりません。 国宝館は的を絞れば30分でも十分に楽しめます。板彫十二神将、龍・天燈鬼、八部衆、
千手観音菩薩像が見所だと思います。
浮見堂
KKR奈良みかさ荘
国宝館を出て南に三条通りに戻り、春日大社の一の鳥
居をくぐって参道を進みます。国立博物館からの小道と
ぶつかる所に、不思議な木を発見。ムクロジという木の中
から竹が生えているのです。幹と幹の間から竹が5本も生
えていました。これって共生?
そこから参道を離れ、南へ小道を進み浮見堂を目指し
ます。鷺池の中島から突き出した桟橋の先に立つ六角
形の建物が浮見堂。春は池のほとりに咲く桜の絶好の花
見ポイント。
桟橋を渡りきって左に折れ県道に出ると右手に高畑観
光駐車場が見える。その駐車場入り口手前に「KKR奈良
みかさ荘」の小さな看板がある。その矢印に従って、高畑
観光駐車場手前の道を東(山側)に進むと閑静な住宅地
となる。その一角に「KKR奈良みかさ荘」はあるのだ。民
家を活用した宿泊施設だ。奈良を探訪するには打って
付けの施設です。大阪同様ぜひご利用ください。
「KKR奈良みかさ荘」を通り過ぎると、すぐに志賀直哉
の旧居があります。志賀直哉はこの高畑の邸宅で9年(昭
和4年~13年)家族とともに過ごし、「暗夜行路」も書き上
げました。志賀直哉自身が設計し、京都の大工の手で建
てられたもの。昭和初期の和風住宅としては、モダンで
格調高く、サンルームや食堂など随所に工夫が加えられ、
当時の文化人や芸術家のサロンだったということです。
本当にうまく設計された素敵な家だと思います。時間が
あれば是非見学されるとよいと思います。
入館料300円 月曜休館。
ムクロジから竹5本
志賀直哉旧居
5
12:10
新薬師寺(しんやくしじ)
新薬師寺 本堂
志賀直哉邸を右に見てさらに進むと三叉路に出る。道路の向こう側に新薬師寺の道案内が見
える。そのとうりに進むとすぐに新薬師寺だ。
新薬師寺は聖武天皇眼病平癒祈願のため、天平19年(747)に光明皇后によって建立された。
新薬師寺の「新」は「あたらしい」ではなく「あらたかな」薬師寺という意味だそうです。
新薬師寺は創建33年後に火災にあい、現本堂(国宝 当時は食堂)だけが焼け残った。
その本堂に安置されているのが、本日の楽しみでもある薬師如来坐像と十二神将だ。
薬師如来坐像 (一木造 像高191.5cm 793年頃 国宝)
左手に薬壺を持つ薬師如来は、あらゆる病苦を癒す仏様。死後の浄土世界で平安を
与える阿弥陀如来とは反対に、現世利益の仏様。東方浄瑠璃浄土の教主様です。
薬師如来坐像と顔を合わせると、「よぉ!元気かい!不節制はいけないよ」と、
声をかけられた。大きな体に大きな顔、眉は丸く、如来さんには珍しく目を見開いて
いる。そうか、目が合うからそう思ったんだ。堂の暗さに慣れてくると木肌もやさしく
感じられ、右手の施無畏印が挨拶の身振りのように感じる。
本当に癒される仏様です。
十二神将 (塑像 像高153.6cm~170.1cm 729~748年 国宝)
十二神将は薬師如来の世界を守る守護神。新薬師寺の本尊を守る十二神将は、日本最古にして、最大の十二神将像である。
江戸時代の地震で砕けた波夷羅だけは昭和の補作であるため国宝ではないが、残りの11体は間違いなく天平塑像の傑作だ。
口を開けた伐折羅や迷企羅などが人気だが、十二神将は干支の守護神でもあるのだから自分の干支の守護神を自分のアイドルにすれ
ばよい。
十二神将は、薬師如来を守るべく、円く囲むように外向きに配置されている。ちなみに、その配列の項番は、薬師如来の左手前から時計と反対
回りで、伐折羅(ばさら 戌)、頞儞羅(あにら 未) 、波夷羅(はいら 辰)、毘羯羅(びから 子)、摩虎羅(まこら 卯)、宮毘羅(くびら 亥)、招杜羅
(しょうとら 丑)、真達羅(しんだら 虎)、珊底羅(さんていら 午) 、迷企羅(めきら 酉)、安底羅(あんていら 申)、因達羅(いんだら 巳)の項で並
んでいる。 干支の項番とはまったく違う。十二神将と十二支獣が結び付けられたのが平安時代後期だから、奈良時代の制作である新薬師寺の十
二神将は、その影響をうけることはなかった。干支は後付けなので、十二支項に並ぶはずがないのである。いつからこのような配置になったかはわ
からないが、「粘土でできているので、むやみに動かすことはできない」と、係の方から説明を受けた。
ちなみに、興福寺の東金堂の十二神将は鎌倉時代の制作だったからなのか、ほぼ干支項に並んでいた。
本堂の内部は、屋根裏がなく直接化粧屋根が見え、その合掌は簡素で力強い。その中央に薬師如来坐像が鎮座し、円く囲んで守護する十二
神将。建物と仏像群が一体化し、雰囲気がある。この建物に塑像の十二神将がよく似合う、その光景たるや感激ものです。
毎年4月8日に催されるおたいまつ(修二会)は、東大寺二月堂の修二会と同様、大松明が奉納される。 滅罪、厄除け祈願。
新薬師寺を出て、もと来た道を戻るのだが、新薬師寺からの道は奈良の「歴史の道」の一部になっ
ており、その道案内にしたがって春日大社へ向かう。春日大社境内に入って「上の禰宜道」を行くと
摂社である若宮神社に出る。この一帯はナギ樹林となっており、国の天然記念物である。
768年に春日大社第一殿の祭神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)が鎮座され、その後1003
年に御子神として若宮神(五所王子・天押雲根命)が出現され、1135年に現在の地に社殿を設け祀
られる。学問芸能・健康長寿・五穀豊穣の神として信仰される。
春日若宮おん祭はこの社の例祭で、関白藤原忠通が五穀豊穣・国民安寧を祈願して執行された
という。おん祭は12月15日~18日に開催され、近年脚光を浴びている。
若宮神社の周りには、人が一生の間に出会う様々な難所をお守りくださる神々がおられ、その若
宮十五社に人生安泰の祈願をすることによって、幸福に導かれるという若宮十五社めぐりなるものが
ありました。20分もあれば一めぐりできるのですが、その十五番社である夫婦大國社には縁結び・夫
婦円満の神だけあって、ピンクのハートの図柄がある絵馬がたくさん掛けられていました。人生のな
かで最大の難所はやはり恋愛・家庭なのでしょうかね。
夫婦大國社
若宮神社と春日大社の間に、摂社である本宮神社遥拝所がある。春日山(御蓋山)には、
春日大社第一殿の祭神である武甕槌命が、白鹿の背に乗り頂上の浮雲峰に天降られたとい
う神跡があり、その場が本宮神社である。
前回の奈良ウォーキングの中で出てきた三輪山と同様、春日山(御蓋山)は太古より霊山と
崇められる神奈備(神の鎮まり給う所)で、今でも入山できない禁足地である。
したがって、ここで礼拝するのである。
春日大社・東大寺・興福寺の広大な境内にいる神鹿は、この白鹿の繁殖したものとされ神
使として天然記念物にも指定されている。
12:40
本宮神社遥拝所
四角形の石燈籠が並ぶ御間道(おあいみち)をさらに進むと、大きな朱塗の社殿が春日大社の本社だ。
6
春日大社(かすがたいしゃ)
世界遺産
春日大社は、和銅3年(710年)に藤原不比等が氏神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)を鹿
島神宮から勧請したことに始まる古社。
武甕槌命はイザナキの剣に着いた火の神の血から生まれたとされる雷神。出雲の国譲りの際に大国
主神の子・建御名方神(たけみなかたのかみ)と力比べをし、降参させた神である。また、神武天皇東
征の折、武甕槌命が霊剣フツノミタマを熊野の高倉下命(たかくらじのみこと)に降して、邪神の每気に
あたった神武天皇を蘇らせている。
奈良時代の768年に、聖武天皇と光明皇后の皇女で、藤原氏の血を濃く引く称徳天皇の勅命により、
左大臣藤原永手らが現在地に、第一殿 武甕槌命を茨木県の鹿島神宮、第二殿 經津主命(ふつぬ
しのみこと)を千葉県の香取神宮、第三殿 天兒屋根命(あめのこやねのみこと)を大阪府の枚岡神社、
第四殿 比売神(ひめかみ)を大阪府の枚岡神社からそれぞれ迎い入れ、祭神として四所の神殿を創
設したのが始まり。以来国家鎮護の社として、藤原氏の氏神として栄え、藤原氏の氏寺である興福寺
とは関係が深い。
經津主命は、武甕槌命とともに国譲りに活躍した神。日本書紀では武甕槌命が副将格。
天兒屋根命は、中臣(のちの藤原氏)の祖先神とされ、比売神はその后神です。天兒屋根命は天岩
屋では占いと祝詞による祈祷を行い、天照大御神より神器の宝鏡を守護せよとの命を受け、天孫降臨
の際には瓊々杵尊(ににぎのみこと)に随行した天孫輔弼の神。
この四つの本殿は一間社妻入向拝付春日造の典型で国宝である。樹齢800年といわれる砂ずりの
藤は見もの。藤の花は紫。紫は禁色として高貴な人にだけ許された色、その紫をたっぷりと連ねる藤
の花房を藤原氏はこよなく愛し、一門の栄華を藤に象徴させた。
本殿特別参拝 500円 9:00~16:00止
祈祷所、一言主神社の前を通って北へ水谷茶屋へ進む。ここで軽い食事をとって若草山を登る予定
でしたが、興福寺で予定以上に時間がかかったので、そのまま若草山へ行くことにしました。おやつ
で買ったよもぎ餅が役に立ちそうです。
若草山(わかくさやま)
13:00
14:20
水谷茶屋から右へ曲がり、しばらく進むと春日山遊歩道入口の案内標が立っている。
ここから標高342mの若草山山頂まで2.8kmだ。
春日山遊歩道は、春日山原始林(世界遺産)沿いに、道幅は広く、ゆるやかな上りで
若草山の頂上まで続いている。若草山を左回りで半周しながら最後は東側から山頂へ
続く道である。木々の枝葉が遊歩道を覆い、日差しを抑えてくれる涼やかな道である。
まさしく木漏れ日の中を歩くといった感。すれ違うハイカーも尐なく、奈良市の中心地か
らすぐの所に、このような道があるとは、贅沢な都市(まち)だなと思う。これぞ古都なので
しょう! 歴史のある奈良県は歩いて楽しむところだとつくづく思います。
30分ほど登ると奈良奥山ドライブウェイとの合流地点に達する。その駐車場から300m
歩くと頂上だ。山頂にもたくさんの鹿がいたのには驚いたが、何といっても感動するのは
山頂からの展望だ。奈良盆地が見渡せるのである。この展望の素晴らしさは言葉では言
い尽くせないので、是非登っていただきたい。
奈良盆地は西は生駒・金剛山地、東は大和高原、北は奈良山丘陵、南は竜門・吉野
山地で囲まれている。この狭い奈良盆地に古代文化の華が開いたのだから、奈良盆地
を一望できる山に登ることは一見の価値があると思う。東西南北、奈良盆地の展望ス
ポットは数多けれど、旅行者にとって一番の展望スポットがこの若草山である。
これから下っていく道を逆に登ってくるのが最も親しまれている入山コースだ。
若草山山頂
若草山の山頂は4世紀末に築造された鶯塚古墳(前方後
円墳)で、その前に広場がある。
若草山の西面は芝生で覆われている。毎年1月の第四
土曜日に若草山焼きが行われるところだ。そこを下って東
大寺へ向かう。
2重目から1重目へ下ってくる道が絶景だ。遮る木々がな
いので前面はパノラマビュー。遠くは生駒山、信貴山が見
え、だんだん奈良公園、東大寺大仏殿が大きくなってくる。
1重目の芝生に座り、よもぎ餅を食べ、しばし展望を楽し
む。1重目から出入口の若草山山麓まで10分。出入口付
近にはお土産屋さんがたくさん並び、たくさんの観光実・修
学旅行生がいた。
实は出発点であった水谷茶屋も近くにある。つまり若草
山山頂経由で1周してきたことになる。
芝生の若草山に入るのは有料(150円)で9:00~17:00の
時間制限もある。入山の期間も春と秋に限られているので
要チェック。若草山山麓からは夏と冬は登れない。
春日山遊歩道
若草山1重目からの展望
若草山山麓
7
手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)
若草山山麓から北へ進むとすぐに手向山八幡宮がある。以前は東大寺八幡宮と呼ばれ、東大
寺の鎮守であった。749年に聖武天皇が大仏を造営した時に、宇佐八幡神を東大寺大仏守護神と
して勧請し、創建された古社。
祭神は応神(おうじん)天皇・仲哀(ちゅうあい)天皇(応神天皇の父)・比売大神(ひめのおおか
み)・神功(じんぐう)皇后(応神天皇の母)・仁徳天皇(応神天皇の皇子)。
現在、東大寺勧進所の八幡殿に祀られている僧形八幡神像(国宝)は本殿に奉安されていた。
僧形八幡神像は、平重衡の兵火後建立された東大寺八幡宮のご神体として、仏師快慶が重源か
らの依頼で1201年に造立されたものである。
宇佐八幡神の勧請には、聖武天皇の皇女である称徳天皇の時(769年)の道鏡の神託事件に
関わってくる。称徳天皇の信任をうけていた僧道鏡が皇位に就くと国安泰なりという奏上に対し、
称徳天皇が和気清麻呂を宇佐神宮に派遣し、宇佐八幡神の神託を受けさせた。「君臣の分定ま
れり 必ず皇緒を立てよ」とのお告げを持ち帰り、道鏡への譲位はなくなり、翌年の770年称徳天皇
が崩御すると、天智天皇の孫・光仁天皇が即位した。
これは歴史の事实だが、皇祖である天照大御神(伊勢神宮)ではなく、なぜ応神天皇(宇佐八
幡神)の神託を受けさせたのかが気になるところだ。725年に聖武天皇の勅願により宇佐神宮が造
立され、八幡神(=応神天皇)が祀られた。このころから応神天皇が真の皇祖として強く意識された
のではないか、つまり応神天皇が古代大和朝廷を新たに引き継いだ皇室の祖、新王朝説というの
も、なるほどと思うのだが? 手向山八幡宮の祭神に仲哀天皇が加えられていることが妙に気にな
るのである。比売大神を卑弥呼と考える人もいる。この話は尽きないので次の機会にまわします。
手向山八幡宮のまえに校倉造の建物が二つ建っている。いずれも江戸期に移築されたものだ
が法華堂経庫(平安時代)と手向山八幡宮宝庫(奈良時代)で、ともに重要文化財だ。
東大寺(とうだいじ)
世界遺産
いよいよ東大寺に入る。東大寺の寺名は平城京の東にある大寺(官立寺院)という意味ですが、いつから東大寺と呼ばれるようになったかは、
实ははっきりしていません。命名されたのではなく、俗称がそのまま寺名に定着したのでしょう。
聖武天皇が夭折した皇太子・基親王の菩提を弔うため、728年に建立した金鐘寺 (きんしょうじ)に源を発する。741年国分寺・国分尼寺建
立の詔が発せられると、金鐘寺は大和国の金光明寺にあてられ、国家鎮護の官寺となった。
743年に聖武天皇は盧舎那大仏造顕の詔を発し、紫香楽宮の甲賀寺に大仏鋳造に取りかかったが頓挫、都が平城京に戻ったことで、大和
国金光明寺で大仏鋳造を再開し、752年に開眼供養会が行われた。このころまでに七堂伽藍がおおむね完成した。
金鐘寺は現在の二月堂・三月堂のあるあたりにあったとされ、ここで740年に日本で初めて華厳経を講じたと寺伝に残されています。華厳経
の教主が盧舎那仏ですので、このことが大仏造立に関連していたのでしょう。東大寺は華厳宗の大本山です。
東大寺では、大仏の造立を発願した聖武天皇、東大寺初代別当の良弁(ろうべん)、勧進にあたった行基、開眼の導師を務めた菩提僊那
(ぼだいせんな)の4人を四聖としているが、再建に携わった重源と公慶にも、お堂を建てるなど敬われている。
また、東大寺は、全ての仏教の教理を研究し、すぐれた学僧を養成する研究機関的な役割を持ち、奈良時代に伝わっていた法相(ほっそ
う)・三輪(さんろん)・倶舎(ぐしゃ)・成实(じょうじつ)・華厳(けごん)・律(りつ)の南都六宗をすべての仏教を学ぶ「六宗兹学」の寺でした。
のちに天台と真言が加わり「八宗兹学」となりました。
治承4年(1180)、平重衡の軍勢が、反平家の立場をとっていた南都に火を放ち、東大寺と興福寺は、一夜にして伽藍を焼失しました。東大
寺は、三月堂、二月堂、転害門、正倉院などを残すのみとなり、大仏殿は炎上、大仏も大きな被害を受けました。
1181年、朝廷主導で東大寺の再建が始動。創建時の行基のように、勧進をして人々から浄財をつのる役目に、重源(ちょうげん)を抜擢し
た。重源は入宋3度の中国通の僧侶。宋の工人・陳和卿(ちんなけい)を登用し、大仏様(だいぶつよう)という中国様式を取り入れて再建に取り
組んだ。また、源頼朝も積極的に再建に協力した。大仏の開眼供養は1185年、大仏殿の落慶供養は1195年。
戦国時代の永禄10年(1567)に、松永久秀と三好三人衆との戦いで戦場となり、大仏殿は炎上、大仏は頭部が溶け落ちるなど壊滅的な大
打撃を受ける。その後の再建は長い道のりとなる。
雤ざらしの大仏を拝して、大仏殿再建の志をたてた公慶(こうけい)は、1684年に江戸幕府に大仏殿の再建と勧進の許可を願い出る。1686
年勧進所を建て、ここを復興活動の拠点に全国を行脚。努力が实り、元禄5年(1692)に大仏の修理が終わり大仏開眼供養が行われる。大仏
殿の再建は、将軍・徳川綱吉とその母圭昌院、諸大名の寄進が得られ本格化、1709年に大仏殿の落慶供養が営まれた。
東大寺法華堂(三月堂)(ほっけどう)
手向山八幡宮を出るとすぐにあるのが法華堂。建立されたのは天平12~19年(740~747)と推定され、
当時は不空羂索観音を本尊とするところから羂索堂と呼ばれていた。のちに、ここで法華会という法華
経を講ずる法会が行われたことから、法華堂と呼ばれるようになり、法華会が毎年3月だったことで、三
月堂とも通称されるようになりました。
建物は奈良時代の正堂と鎌倉時代の礼堂の2堂を、一つの屋根で覆うという大改修を経て現在に
至っています。写真を見ても判りますよね。天平・鎌倉の様式が調和した美しいお堂です。国宝です。
残念ながら、今回の楽しみでもあった法華堂の仏様たちにはお会いすることができませんでした。
法華堂須弥檀の解体修理のため、平成25年3月末まで拝観停止。私が訪れた時は一部拝観できたの
ですが、あの須弥檀に不空羂索観音を中心に大型の仏像群が16体あるさまが見られないとあっては、
拝見する意味もないので止めました。2mを超える天平仏像13体(内国宝11体)は興福寺国宝館に負け
ない圧倒感があります。2年近くお会いできないのは残念至極。
法華堂
8
東大寺二月堂・四月堂(三昧堂)
二月堂は、「お水取り」の名で親しまれている修二会(しゅにえ)の舞台となるお堂です。修二会を旧
暦の2月に行うことから、二月堂の名が付きました。
二月堂は、東大寺境内の東側の最も高い場所に位置する舞台造りのお堂で、大仏殿の大屋根を見
下ろし、市街を一望できる眺望はすばらしい、の一言です。
治承・永禄の兵火でも焼失をまぬがれましたが、1667年の修二会中に火災で全焼。現在の二月堂
は1669年徳川家綱が再建したもので、重要文化財です。
修二会は、十一面観音菩薩に罪を懺悔(さんげ)する行法「十一面悔過(けか)」で、752年に良弁の
高弟である实忠(じっちゅう)が始めたものです。二月堂には、大観音と小観音と呼ばれる2体の観音
像(秘仏)が本尊として安置されています。現在では3月1~14日の2週間の本行の間、さまざまな行法
が行われ、前半は大観音、後半は小観音を本尊に行われます。
火の粉を散らしながら燃え盛る籠松明(かごたいまつ)を欄干で振られる様は、春を呼ぶ風物詩とし
て必ずテレビニュースで流れています。是非来年は修二会にお出掛けください。
二月堂からの展望、左の建物は四月堂
法華堂の向かいに東向きに建っているお堂が四月堂です。1681年に建立されました。創建は11世
紀で、ここで法華三昧という法華経の真髄を体得するための修行が行われていたことから、三昧堂の
名が付き、近世では法華三昧が4月に行われていたことから四月堂と呼ばれています。
本尊は千手観音立像(木造 像高266.5cm 平安時代 重要文化財)。以前は法華堂にあったので
すが、来歴はまったくわかっていません。千手がうごめいているような錯覚をおぼえるくらい迫力があり
ます。お堂の扉は開いていて、外からでも拝見できますが、入堂して確かめてみてください。
ほかに、普賢菩薩騎象像(木造 像高37.3cm 平安時代)があります。普賢菩薩は文殊菩薩ととも
に釈迦如来の脇侍となる仏様。法華経では、法華経を信仰する者のところに白い象の乗ってあらわれ、
守ってくれるとされています。この普賢菩薩騎象像が本尊だった時代もあったそうです。法華三昧の
お堂だったのですから当然ですかね。一見の価値はあります。無料
鐘楼(しょうろう)・梵鐘(ぼんしょう)・俊乗堂(しゅんじょうどう)・念仏堂
鐘楼
梵鐘
俊乗堂
四月堂横の階段を下っていくと、大きな鐘楼が見えてきます。
鳥が羽を広げているように、大きく反っている屋根が特徴。規模
が大きくて、とてもこれが鐘楼だとは思えません。
創建当初の建物は失われ、現在の鐘楼は、重源から鎌倉復
興事業を引き継いだ栄西(臨済宗の祖)が、13世紀初めに建て
たものです。国宝です。
口径2.71m 高さ3.86m 重量26.3tの巨大な梵鐘を吊り下げ、
それに合わせた大きな屋根を支える柱や梁は、たいへん太く
しっかりしています。
この鐘楼は、日本の建築史の中では、ユニークな存在だそう
です。重源が南大門などに採用した大仏様(だいぶつよう)を
ベースに、中国帰りの栄西が、また別の中国様式を加えて建て
たからです。屋根の反りは、その新しい中国の様式で、のちに
禅宗様と呼ばれています。
梵鐘は、東大寺創建時、天平時代のもの。京都・平等院、大
津・園城寺の鐘とともに日本三名鐘に数えられ、奈良太郎という
愛称があります。音は長く響きます。
撞木はけやきで長さは4.8m 直径30cm 重さ180kg。これだ
け大きく重いので、除夜の鐘のときは8人1組で撞きます。毎年
大晦日には864人の方がこの国宝の鐘を撞いていることになりま
すね。
鐘楼がある広場には、俊乗堂、念仏堂、行基堂があります。
俊乗堂は、東大寺鎌倉復興の功労者・俊乗房重源の彫像(重
源上人坐像、木造 像高81.8cm 鎌倉時代 国宝)が安置され
ています。江戸復興の功労者・公慶が重源の菩提を弔うため江
戸時代に建立したものです。堂内には、他に親鸞が信仰してい
た阿弥陀如来立像(快慶作 木造 像高98.7cm 鎌倉時代 重
文)や愛染明王坐像が安置されています。
この俊乗堂が法華堂が拝観停止になっているため、特別に開
扉されます。期間は23年8月1日から9月30日までです。
通常は7月5日と12月16日の二日だけの開扉。これじゃ拝観し
なきゃ、損!損!
念仏堂(重文)には、重源と運慶ら奈良仏師の供養ために造
立された地蔵菩薩坐像(康清作 1237年 重文)が安置されて
います。通常は非公開ですが、この地蔵菩薩立像も上記の期
間拝観できるようです。
行基堂には、行基の木彫像を安置しています。江戸時代に建
てられました。
鐘楼
行基堂
念仏堂
9
東大寺大仏殿(だいぶつでん)・南大門(なんだいもん)
二月堂・法華堂のある上院エリアと違って、たくさんの観光実がいるエリア。4月・5月は修学旅行生がいっぱい。今年は震災の影響で中・
台・韓の観光実がいないので、これでも尐ない方だろう。世界一の大仏殿や南大門に集中するのは仕方ないが、二月堂・三月堂・鐘楼・戒
壇堂を見ないのは損ですよ。寺院としてのスケール感、仏教界や歴史上の存在感を感じ、すばらしい仏様達にお会いすることができますか
らね。 大仏殿は珍しく写真撮影が可能ですので、撮影の楽しみもあります。
上 大仏殿、下 大仏
俊乗堂横の階段を下れば大仏殿だ。その前に南大門に
向かう。
南大門は、幅29m 高さ25m 現存する門の中で日本一。
創建は天平時代、1180年に兵火で焼失後、1199年に重
源が再建。国宝。再建にあたり重源が考えていたのは、短
期間でいかに巨大で強い木造建築を建てるか。そこで採
用されたのが大仏様(だいぶつよう)。中国の工人・陳和卿
らの知識を総動員し、新たな様式を考えた。
門の左右に、向き合っている像が金剛力士像です。寺を
外敵から守る仏で、仁王とも呼ばれる。口を開けた阿形、
結んだ吽形の対で、向かい合う例はほかにない。
像高8m の巨像で、国宝木彫像では最大。1203年に運
慶、快慶らが重源の命により69日間で制作。
南大門
東大寺の本尊・盧舎那仏坐像を安置する建物が大仏殿。
現在は三代目、正面57m 強、高さ約49m で木造建築とし
て世界最大。江戸時代1709年に完成。国宝。
治承(1180年)と永禄(1567年)の兵火で二度焼失。
初代は757年唐の様式で、正面は現在の1.5倍あった。
二代目は1195年 重源による大仏様で再建。三代目は二
代目の焼失後130年後の完成。その間大仏は雤ざらし。
盧舎那仏坐像(銅造 台座3m 像高15m 顔高5.3m 鼻
高0.5m 目長1m 耳長2.5m 752年 国宝)
745年に製作が始まり、747年に鋳造開始、752年に完成。
その後855年の地震で首が折れ、二度の兵火で大きな被
害を受けるなど、何度となく修理を繰り返し、現在、上半身
は江戸時代に鋳造・修理されたものに変わっています。下
半身から蓮華座にかけては、奇跡的に創建当初の姿が残
されています。大小各28枚の蓮弁には、仏菩薩の姿が毛
彫りされていますが、これこそが天平当初の遺品です。
上・阿形
金剛力士像
下・吽形
大仏殿前に立っている銅造の八角燈籠(総高462cm 国
宝)もまた、兵火を免れた創建当初の貴重な遺品です。
八角燈籠
15:00
大仏殿の西側に、指図堂がある。重源の招きで浄土宗の開祖・法然が東大寺を訪れ、
浄土三部経という経を講じたことがあり、そのゆかりで19世紀に建てられたお堂。江戸の
大仏殿再建工事の計画図面(指図)を展示する堂が建っていたことから命名。
指図堂の隣、土塀に囲まれた一画は、江戸時代の再建を担った公慶が、大仏殿再建
のための事務所として建てた東大寺勧進所です。
なかには、八幡殿、阿弥陀堂、公慶堂、経庫が建っています。通常は非公開ですが、
毎年10月5日の転害会(てがいえ)には、八幡殿と阿弥陀堂の秘仏が開扉されます。
八幡堂の秘仏・僧形八幡神像(木造 像高87.1cm 国宝)は、快慶が重源の依頼に
より1201年に造立したもの。明治の神仏分離令が出されるまでは、手向山八幡宮のご
神体だった。
阿弥陀堂の秘仏・五劫思惟阿弥陀坐像(ごこうしい 木造 像高106cm 鎌倉時代
重文)は、アフロのような髪型が特徴の阿弥陀様。数えきれないほどの長い時間考えて
いる姿を表している。
勧進所
東大寺・戒檀堂(かいだんどう)
勧進所の西側に戒壇堂がある。唐から来日した戒律の第一人者鑑真は、大仏殿前に設けられた臨時の戒壇で、聖武太上天皇、光明皇太后、
孝謙天皇はじめ数百人の僧侶たちに、戒を授けました。戒とは、仏教の教えに従う決心をした人に授けられるものです。その後鑑真の指導で、そ
の戒壇の土を移し、755年に建立したのが戒壇堂です。その後、焼失と再建を繰り返し、現在の戒壇堂は、1732年に再建されたものです。
堂内には二重の檀が築かれ、檀中央の多宝塔内部には、奈良時代の小さな金銅仏、釈迦・多宝如来坐像の2像が祀られています。現在は、江
戸期の模像を安置)
10
戒檀堂
正倉院
15:30
檀の四隅に立っているのが、四天王立像。粘土でつくられた塑像で、天平彫刻の代表であり、傑作
である。国宝。拝観者は尐ないので、お顔をしっかり拝見してください。仏様というより、人間そのもの。
リアルにして迫力満点。もとは華麗な彩色に彩られていたのですが、1200年余の時を経た今の四天
王像が醸し出す像力がまたいいのです。
持国天 (堂内右手前 東方の守護神 像高160.5cm)
兜をかぶり、口をきつく結び、左足を上げ邪鬼を踏む。
増長天 (堂内左手前 南方の守護神 像高162.2cm)
唯一口を開け、右足を上げ邪鬼を踏む。持国天とは阿吽の対。
広目天 (堂内左奥 西方の守護神 像高169.9cm)
「普通じゃない目を持つ者」 「一番リアルな男」 右手に筆、左手に巻物を持つ。
多聞天 (堂内右奥 北方の守護神 像高164.5cm)
四天王のリーダー格。釈迦の遺骨を納めた宝塔を右手に掲げる。
千手堂を抜けて北へ下ると大仏池があり、その北に正倉院(国宝)が建っています。
正倉院は、全長33m 高さ14m という大きな建物で、内部は3室に分かれています。校
倉造(あぜくらづくり)と呼ばれる、断面が三角形の校木を井桁に組んで重ねていく、ロ
グハウスのような建て方をしています。高床式の正倉(納税された稲などを収納する倉
庫)
756年光明皇太后が聖武太上天皇の遺愛品を東大寺に献上し、その宝物が納めら
れたのが正倉院です。
正倉院の建物と宝物は、宮内庁の管轄なっており、毎年秋に奈良国立博物館で開
催される「正倉院展」で、一般公開されてます。
国管理のためか厳重に保存され、無料だが、平日の3時までしか見学できず、しか
も設けられた柵までしか近づけない
正倉院から大仏池経由で西に進むと、転害門(てがいもん、国宝)があります。
東大寺創建時にあった6つの門の内、唯一創建当初の姿を今に伝えている門。
伽藍の中心から離れていたために、度重なる兵火にも奇跡的に焼失を免れた。
手向山八幡宮の八幡神が、この門を通って鎮座したことから、八幡宮の転害会(て
がいえ)という10月5日に催される祭の際には、神輿がこの門に安置されます。
源平の合戦に敗れた平景清が、大仏供養に訪れた源頼朝を暗殺するため、僧侶
に変装してこの門に隠れたという伝説も残っています。
1200年余の風雤にさらされながらも、今なお天平の面影を伝えている。先日の
NHKの番組で宮大工の匠が絶賛していたが、素材を活かし、知識に裏付けされた技・
伝統があったからこそ、今の転害門が残っているのです。
転害門
聖武天皇陵(しょうむてんのうりょう)と光明皇后陵(こうみょうこうごうりょう)
聖武天皇陵
転害門から法華寺へ、真西に一直線の道がある。平城京の
南一条大路(佐保路)にあたる。
転害門から佐保路を500m進むと、聖武天皇陵と光明皇后
陵の入口につく。
佐保路から聖武天皇陵へは一直線の道でつながっている。
200m 弱あるだろうか、参道のような趣があり、厳かさを感じ
る。このような陵形は他に見たことがない。いい陵だ。
途中に分け道があり、その道を進むと光明皇后陵がある。
聖武天皇陵の東に位置する。
夫婦である天皇と皇后の陵がこのように隣り合わせにある
例も見たことがない。藤原氏の力も、娘である称徳天皇の力
もあったろうが、光明皇后の意志がこうさせたのではないかと
思う。最後までうまく収まった夫婦である。
聖武天皇陵
この陵は平城京からも遠くなく、ふたりに関わりの深い東大寺・興福寺・法華寺にも近い所にある、ふ
たりにとってはとっておきの場所だったかもしれない。平城京遷都後1300年たった現在、平城京はなく
なってしまったが、二人が造ったともいえる天平の仏像達を目当てに数多くの観光客が訪れて、東大
寺・興福寺・法華寺は今でも隆盛を誇っている。当時の思いとは違うだろうが、今でもふたりにとっては
居心地の良い場所だろう。奈良の主役に相応しい場所だとも言える。
16:00
聖武天皇陵から佐保路に戻り、法華寺を目指す。直線2.3km。交通量が多い所もある
ので注意をしてください。JR関西本線の踏切を渡って右に行くと在原業平に関係の深
い不退寺があるが、今日は時間の関係でパス。国道24号線の歩道橋を渡り、一条高
校を右に見ながら進むと海龍王寺と法華寺の案内表示が見えてくる。
光明皇后陵
11
海龍王寺(かいりゅうおうじ)・法華寺(ほっけじ)
海龍王寺も光明皇后が731年に創建したお寺。法相六祖の一人である玄眆が唐からの帰国の際、
暴風雤に襲われたが、一心に海龍王経を唱え、九死に一生を得て、無事帰国を果す。海龍王寺の初
代住持に任ぜられ、遣唐使の航海安全祈願を行ったことで、聖武天皇より海龍王寺の寺号を与えら
れた。西金堂(重文)は創建当初の建物。堂内にある五重小塔は国宝です。
ここの目当ては、十一面観音菩薩立像 (寄木造 像高94cm 鎌倉時代 重文)。光明皇后がモデ
ルとも言われるほど美しい像である。金色の肌に、真っ赤な紅。垂飾に首飾り、衣がすべてファッショ
ナブル。間違いなく女性像だ。何回見てもうっとりします。デザイン関係の拝観者が多いのだそうです。
頭上の観音様は、救える我々を探しているかのように下向きで動きがある。両手のポーズもなまめかし
い。すべてにおいて惹きつけられる仏様です。気品のあるアクトレスですね。
また、会いに来ます!
海龍王寺
法華寺本堂
4時半を過ぎてしまいました。急いで法華寺へ向かいます。ここも目指すは十一面観音菩薩様。
藤原不比等の旧邸宅を光明皇后が皇后宮とし、745年に法華滅罪寺を建立。総国分尼寺として諸国
の国分尼寺を統括。女人道場として隆盛するも、兵火や地震で衰退・復興を繰り返し、1601年淀君が
奉行の片桐且元に建てさせた本堂・南門・鐘楼が現存し、重要文化財に指定されている。
光明皇后が1千人の垢を流したとされる浴室(から風呂)も残されている。薬草を煎じその蒸気で難
病者を救済した蒸気方式の浴室。室町後期に改築されたもの。重文。
京都御所の庭を移した「仙洞うつし」の庭園は、江戸初期の名園として知られる。
こちらの目当ても十一面観音菩薩立像 (白檀一木造 像高100cm 平安初期 国宝)
容姿端麗で観音菩薩の生身とうたわれた光明皇后を写した像とか、光明皇后の自作ともいわれる。
唇に朱、頭髪・眉・髭に群青、目に白色を塗るほかは、木肌そのままに仕上げる。右手は膝まで届く長
い腕(正立手摩膝相)、右足の親指ははね上がり、衆生を救うために歩きだそうとする姿を表している。
特徴的なのが光背、蓮の葉や蕾をモチーフにしている。木目が美しく、あたたかく感じる。
普段は厨子にしまわれた秘仏。春と秋に開扉される。通常は本尊の模刻である御分身が厨子の横
に安置され、それを拝観する。
平城宮跡(へいじょうきゅうせき)
17:10
世界遺産
法華寺の門を出て右に進み、法華寺の塀沿いに右に曲がり、あとは道なりに200m 進むと県道104号線に出る。出た途端、平
城遷都1300年祭で復元なった大極殿と広々した平城宮跡が目に飛び込んでくる。
平城京は、710年の元明天皇のとき、藤原京から遷都し、784年桓武天皇の長岡京への遷都までの間、日本の都であった。そ
の平城京の北部中央に平城宮がある。平城宮は皇居と官庁街の機能をもつ都の中心地。約1km四方の面積。現在、平城宮跡
は特別史跡。世界遺産。
2010年に開催された平城遷都1300年祭のメイン会場として平城宮跡が利用され、いくつかの施設が復元・整備された。
第一次大極殿
天皇の即位、元旦の朝賀など
国家的儀式が執り行われた重要な建物。
朱雀門
平城京の入口となる羅城門からまっすぐ
伸びる朱雀大路の先にそびえる朱塗の壮大な門。
遺構展示館
遺構をそのまま見学できる施設。
東院庭園
1967年に発掘 称徳天皇が宴会や
儀式を開くために築いた東院玉殿の跡。
平城宮跡資料館 平城京での出土物展示。
平城京歴史館
原寸大に復原された遣唐使船や
当時の平城京の様子を再現した映像が見れる。
500円 9:00~16:30 月休
第一次大極殿
朱雀門と近鉄電車
平城宮跡内には近鉄奈良線や道路もあり車も走っているが、広大な野ッ原といった感じ、発掘調査を終えた広場や通路には砂利を敶き、建物
跡には芝生を張り、柱の跡にはイヌツゲを植え、第二次大極殿・朝堂院跡には基檀を設けている、厳めしい公園といった感は全くなく、多くの人達
が思い思いにジョギング、ウォーキング、犬の散歩、楽器の練習、昼寝、読書、何かの練習、家族の団欒など、自由に楽しんでいる。
平城宮跡に到着したのが17時過ぎ、上記の施設の入館は16:30まで、ここは平城宮探索に切り替えて尐年のように歩き回った。とにかく広い、
サックスの練習をしている尐女、仲良くジョギングをしているカップル、犬の散歩の夫婦、キャッチボールをしている尐年、草の匂いがする、ふと
尐年期に感じたせつない思いにおおわれドッキリ、夕暮れ時のせつなさを楽しみながら、17時45分 ゴールの近鉄大和西大寺駅に着く。
ちなみに、西大寺の創建は、聖武天皇と光明皇后の皇女 称徳天皇の発願。最後の最後まで聖武天皇と光明皇后でした。
17:45
今日一日歩いて、奈良は贅沢な都市(まち)だとつくづく思う。これほど贅沢な都市はほかにない。今日は最初から最後
まで世界遺産を歩き、そしてなんと国宝には92点も接したのです。贅沢な訳だ。この奈良(平城京)を形作った聖武天皇と
光明皇后、平城京の主役二人に感謝しつつ、近鉄電車で鶴橋まで戻り、美味しいビールと焼き肉を食らう。
歴史と文化と自然が凝縮された今日のウォーキングコース、是非お試しあれ。若草山を登らなければ、時間に余裕がで
きます。このレポートを参考に皆さんが独自にコース設定をしてみてください。国宝の数を多くしたければ唐招提寺と薬師
寺を回る手もあります。今日のコースは何回歩いてもあきません。海龍王寺から平城宮跡は、東大寺の上院エリアと同じで、
いいものがあるのですが訪れる人は尐ない、もったいない場所です。コースから外さないでくださいね。
12
奈良マップ
13
Fly UP