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富岡さんはきっと脱法的なアレなんだ。

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富岡さんはきっと脱法的なアレなんだ。
富岡さんはきっと脱法的なアレなんだ。
すみやき(明日から休講です。)
!18禁要素を含みます。本作品は18歳未満の方が閲覧してはいけません!
タテ書き小説ネット[R18指定] Byナイトランタン
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁ノクターンノベルズ﹂﹁ムーンライトノ
ベルズ﹂﹁ミッドナイトノベルズ﹂で掲載中の小説を﹁タテ書き小
説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は当社に無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範囲を超え
る形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致します。小
説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
富岡さんはきっと脱法的なアレなんだ。
︻Nコード︼
N2720CL
︻作者名︼
すみやき︵明日から休講です。︶
︻あらすじ︼
※ upppiさん主催のガールズラブ小説コンテストにおいて
佳作をいただき、電子書籍化していただけることになりました。
ここで連載中の第一話と第二話を改稿したものです。
編集部さんに問い合わせたところ、﹁なろう﹂での掲載も取りやめ
なくていいとのことなので、引き続きここでの連載は続けたいと思
1
います。
電子書籍化は﹁電子書店パピレス﹂﹁Renta!﹂様にて配信予
定となっていますが、詳細が決まり次第またこちらでお知らせした
いと思います。
引き続き、﹃富岡さんはきっと脱法的なアレなんだ。﹄をよろしく
お願い致します!
=========================
休みと放課後にしか起きないクラスメイト、富岡さん。
彼女に恋する私は、富岡さんをこっそり観察する毎日を送っていた。
ある日、私は富岡さんの頬に付いたご飯粒を見つけてしまい⋮⋮。
富岡さんを中心とした登場人物達のちょっと複雑でいて、そして甘
い恋愛模様を描いた百合短編連作小説。
==========================
※主要登場人物は女性です。というか男性登場人物はほとんどいま
せん。背景的に出てくる程度です。
※オシリス文庫 第1回次世代官能小説大賞において一次選考を通
過しました! 2
富岡さんはきっと脱法的なアレなんだ。 1
ご飯粒が食べたいと思った。
なにー? ダイエット中? そんなに日頃、おなかすいてるの?
だめだよ。ちゃんと食べなきゃ。そんなことを言う人もいるかも
しれない。
だけど、私は別に特別おなかがすいているわけではないし、絶賛
ダイエット中というわけでもない。
今は現在進行形でお昼休みのランチタイム。お母さんの作ってく
れたたまごサンドにご満悦中なわけなのである。
柔らかいマヨネーズの酸味にとろけそうになる。
おっきくて、ふかふかたまごサンドをベッドにすやすや眠りたい
⋮⋮そんな衝動にかられていたりもする。
たまごサンドでおなかがふくれているのだけれど、まだどうして
も食べたいものがある。
窓際の一番後ろの席。ばれないようにそっと振り返ってみた。
彼女は一人、おにぎりを食べている。両手でおにぎりを持つ姿は
ハムスターそのもので、なんだかもう見てるだけでほわほわしてく
る。
ゆっくりゆっくりとおにぎりを口に運ぶ。
ぷっくりとした唇がご飯粒に触れる。
3
左頬には、一粒のご飯がちょこんとお留守番状態。
おべんとつけて、どっこいくの? って状態のあれだ。
私は、あのご飯粒が食べたい。
もっというと彼女の頬に口づけしたい。
ていうか、好きだ。
彼女が、富岡さんが好きだ。だからご飯粒が食べたい。というよ
り、富岡さんを食べてしまいたい。
ものすごく好きだ。
うん、好き。
4
富岡さんはきっと脱法的なアレなんだ。 2
◇
なんで、私は富岡さんより前の席なんだろう。一日、三〇回はこ
の人生の疑問にぶつかる。富岡さんよりも後ろの席だったらずっと
彼女を見ていられるのに。
彼女の姿を見るためには、わざわざ後ろを振り返らないといけな
い。つまり、彼女の姿を想像しながら、一日過ごさなければならな
いわけ。
頭の中の富岡さんは、すごく優しい。
私を怒るわけでもないし、無視するわけでもないし、いじめるわ
けでもなく、ただただ私に向かって笑ってくれる。
彼女が私の脳内にいるだけで幸せなのだけれど、本物の富岡さん
が実際に私の後ろに座っていると思うと興奮さえ感じる。だって、
大好きな富岡さんが二人もいるのだ。
私の頭の中とこの教室の中にそれぞれ一人ずつ。
なんだかものすごく贅沢な気分だ。
カレーライスにオムレツとコロッケを載せた︱︱そんなくらいに
贅沢。贅沢すぎて油酔いしてしまいそうになる。
けど、今の私はものすごく欲張りになっているみたい。
脳内の彼女だけでは飽きたらず、現実の彼女を目に焼き付けたく
なっている。
5
これだけ、贅沢な気分を味わっているのにも関わらず、私はまだ
欲しがっている。
オムレツ、コロッケ載せカレーライスを食べ終わった後にまだデ
ザートのチョコレートバナナサンデーを欲しがってるみたいな感じ。
明らかにカロリーオーバー。だけど、私は富岡さんを眺めたくてし
ょうがない。
たぶん、富岡さんはものすごく中毒性を持っているんだと思う。
チーズたっぷりのハンバーガーがやめられないように、ニンニク
アブラカラメなラーメンがやめられないように、私は、富岡さんを
欲してしまうのだ。
スマホを取り出し、カメラアプリを起動。レンズを反転させると、
私の顔がアップで映し出される。自分撮りモードというやつ。
そして、私は髪の毛をいじりはじめる。あたかもスマホを鏡代わ
りにして、髪を整えているように演技する。
実際は髪の毛をいじりたいわけではない。スマホを少しずつ顔か
らずらす。すると、私の顔と富岡さんが⋮⋮写る。
どきっとする。
体全体がふわふわして、なんだかどっかに飛んでいってしまいそ
うになる。やっぱり、私この人好きだ。どうしても、どうしても、
私は富岡さんが好きだ。
富岡さんは、机に突っ伏して寝ているようだった。ご飯後の現国
だもん。しょうがないよね。
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まあ、食後とか現国とか関係なく、いつも机に突っ伏して寝てい
るのだけれど。ホームルームだろうが、保健体育だろうが、自習の
時間だろうが、常に富岡さんは眠っている。
なぜ、ずっと寝ていられるのか。
これは推測でしかないのだけど、たぶん誰も起こす人がいないか
らだろう。
ここはいわば﹁名前が書ければ入れるレベル﹂の高校なわけで、
当然ながらまともに授業を聞いている人なんていないわけで︱︱。
現国の先生は、誰に向けているのかわからない方向に向けて口を
開くし、誰に見せているのかわからないような小さな字で板書をす
る。
生徒は、だいたいスマホをいじっている。携帯ゲームしたって雑
誌を読んでたって、怒る人もいないし、叱る人もいないし、あきれ
る人もいない。そんなよくわからない空間。
だけど、そんなよくわからない空間だからこそ、スマホ越しに富
岡さんを眺めることができる。富岡さんは富岡さんで熟睡ができて
いる。今の私にはものすごくありがたい環境なのかもしれない。
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富岡さんはきっと脱法的なアレなんだ。 3
◇
富岡さんは一日で二回だけ起きるタイミングがある。お昼休みと
放課後、である。
お昼休みは、しばらく寝ぼけ眼でぼーっとした後、ハムスターの
ようにおにぎりを食べる。おにぎりを食べておなかがいっぱいにな
ったらまた眠る。
そして、最後の授業が終わったと同時にむっくり起き出してしば
らくぼーっとする。その後はひっそりと教室を出る。その後は下校
している⋮⋮のだと思う。
これは教室を出る彼女を遠くから見ることしかしていない私の推
測でしかない。だって、後からついて行ってしまったら完全なスト
ーカーだもの。いや、スマホ越しに彼女を眺めている段階でストー
カーっぽいと言えばストーカーっぽいのはわかってる。
だけど、尾行という行為は踏み越えちゃいけないラインのような
気がするのだ。ていうか、おそらくばれるし。ばれたら困るし。
今日も今日とて、放課後がスタート。いつもなら、富岡さんはむ
っくり起き出す⋮⋮はずだった。
でも、まだ起きていない。彼女の中の時計の電池が切れてしまっ
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たのかな。
またスマホ越しに彼女を見る。五分たっても一〇分たっても富岡
さんは起きない。
そんなことをしているうちに、いつのまにか教室には富岡さんと
私の二人だけになってしまった。
思わず、富岡さんに見入ってしまう。スマホ越しじゃなくて、直
接︱︱だ。
小柄な富岡さんの突っ伏している机はなんだか大きく見えてくる。
この机を含めて富岡さんは、とても可愛らしい。
そっとその大きく見える机に近づいてみる。
死んじゃうかと思った。
あまりに彼女の寝顔が綺麗だったから︱︱。
いつまでも見つめていたいような気がした。
ぎゅっとしたいと思う。強く、ぎゅっとしたいと思う。
間近でこの寝顔を感じたいと思う。
そして、ご飯粒が食べたいと思う。
彼女の唇についたままのご飯粒が食べたいと思う。
彼女の唇からは、甘い匂いがした。この匂い、私大好物だ。
大好きな彼女から大好きな匂いがする。それだけで無性に嬉しい。
そして、私は唇を重ねて︱︱。
ご飯粒を食べる。
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ご飯粒は、少し堅くて、少し甘くて、優しい味がした。
唇を重ねている間、今までにないくらい私の心臓が大変だった。
人生で今が一番心臓がどくんどくんいっている。
彼女の唇を咥えてみる。溶けてしまうかと思った。いや、いっそ
のこと私ごと溶けてなくなってしまえばいいのに︱︱。もう、この
ままいなくなってもかまわないと思った。だって今、大好きな富岡
さんと唇を通じて一つになっているのだから。
私の髪と彼女の髪が重なる。もう、いっそのこと私は富岡さんの
一部になってしまえばいい。
唇が急に熱くなる。それと同時にざらっとした感覚が私の唇に残
った。
べろだった。富岡さんのべろだった。
前歯に彼女の舌がぶつかる。大変だ。本当に大変だ!
思わず、彼女から口を離してしまう。
顔の火照りが尋常じゃない。今だったら本当に顔から火が出るん
じゃないだろうか。マッチ箱のざらざらした茶色の部分に私をこす
りつけたらきっと勢いよく燃えさかるに違いない。
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富岡さんはきっと脱法的なアレなんだ。 4
こんなにも私は熱くなってしまっているのに、富岡さんのまぶた
は閉じたままだった。
ほっとしたと同時にちょっと心配になってしまう。自分の唇が奪
われているのに熟睡できているなんて︱︱。
間近で見る富岡さんはとてつもなく⋮⋮よかった。綺麗だった、
とか可愛いかった、とかそんな言葉じゃ足りなくて、とにかく、よ
かった。
まつげが長いんだなーって思う。このことを知ってるのは私だけ
ではないだろうか。
まるでお人形みたいだ。そこが、こう、すごく︱︱いい!
そのお人形みたいなまつげが少しずつ動いてるのがわかった。ゆ
っくり、ゆっくりとあがっていく︱︱。
目があった。
一瞬、石になるかと思った。
試しに親指を少し動かしてみる。何の抵抗もなく動くので石にな
ることはどうやら避けられたみたいだ。
いかにも寝起きって感じの富岡さんは教室全体を見渡し、そして、
また私に視線を移す。
私にむかってぺっこり、とお辞儀をする富岡さん。本当に﹁ぺっ
こり﹂という言葉が横から浮かんできそうなくらい可愛らしい。
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私もつられてお辞儀を返す。すると、向こうはあきらかに﹁あ!﹂
と何かを思い出したような仕草をすると、机の中から一枚のルーズ
リーフを取り出した。
授業はほぼ寝ているのに一応持ってるんだ、ルーズリーフ⋮⋮な
んて、どうでもいいことに感心している私を横目に、富岡さんはペ
ンを走らせている。
そして、そのルーズリーフを私に渡した。
︻起こしてくれたんだよね? ありがとう!︼
﹃書写﹄とか﹃かきかた﹄とかそういう授業の教科書に載ってるお
手本みたいな字だなと思った。
反射的にまたおじぎをしてしまう。
それを見て富岡さんが、笑った。
初めて見る富岡さんの笑顔。
それが、嬉しいのと同時になんだか信じられない気分になる。な
んだか今日はうまくいきすぎている。
夢じゃないだろうか。この後、高級そうな壺やら浄水器やらイルカ
の絵画やらを買わされてしまうんじゃなかろうか。
でも、そんなことはどうでもいい。
夢だとしても覚めたらいい。壺でも浄水器でも絵画でもなんでも
買ってやる! 毎日コーヒー一杯を我慢するだけと思えば決して高
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くはない! 富岡さんの笑顔が見られたのだから︱︱。
この笑顔をもっともっと見られたらいいのにな。今まで特にこれ
と言ってわがままを言ってこなかった私にとって、これは初めての
希望というものなのかもしれない。
富岡さんの笑顔をもっともっと見られたらいいのに。
そして、富岡さんの声を聞けるようになればいいのに。
彼女がわざわざ私のために書いてくれたルーズリーフの文字を見
つめながら、私は耳元を軽くひっかく。
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富岡さんはきっと脱法的なアレなんだ。 5
◇
チャイムの音だとか、誰に向かって言ってるんだかわからない教
師の説明だとか、椅子の足が床にこすれる音だとか︱︱、そんなも
のは聞こえなくったってもはや何とも思わない。
ただ、富岡さんの声が聞こえないのは、損だ。すっごく損だ。
今日は午前中から富岡さんの姿が見えなかった。机には彼女のバ
ッグがかかっているので、欠席というわけではない。
私には彼女がどこにいるのか、わかる気がした。何でわかるのか、
と聞かれたら﹃勘﹄と答える以外ない。
犬のようにするどい嗅覚を持ち合わせてはいない。なのになんで
私は、犬のように彼女の在りかを捜し当てることができるだろう。
だって、好きだから。好きで好きでたまらないから。その好きで
たまらない彼女のところへ、私は今から向かいます。勘を使って⋮
⋮。
結論から言うと、私は富岡さんを見つけることができた。保健室
の一番右のベッド。そこで富岡さんは眠っていた。
保健室という場所、そしてその中で三つあるベッドの中から富岡
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さんの居場所を見つけてしまったのだ。
自分で自分が怖い。もしかしたら私は妖怪とか化け物の類なのか
もしれない。
ベッドで寝ている富岡さんもやっぱり、こう、すごくいい! 百
点満点。
保健室には富岡さん以外に休んでいる生徒はいない模様。保健室
の先生も席を外しているようだった。
えっと⋮⋮私は何をすればいいのだろうか。
会いたくて会いたくて仕方がなかったはずなのに︱︱ いざ彼女
を目の前にすると何をしたらいいかわからなくなる。どうしたらい
いんだろう。こんなことしてて、もしも富岡さんが起きちゃったら
⋮⋮。
その瞬間、私から﹁どうしよう﹂とか﹁何をしたらいいんだろう﹂
とか、そういった考えは全て頭の中から消えてなくなってしまう。
富岡さんが起きた。
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富岡さんはきっと脱法的なアレなんだ。 6
﹁どうしよう﹂とかいう問題ではなくなった。もはや﹁ヤバい﹂と
か﹁もういっそのことここで死んじゃえないかな﹂とか﹁私は貝に
なりたい﹂とかそんなことを考える余裕もない。
ただただ汗が頬を伝った。耳の後ろから汗が吹き出てくる。たぶ
ん身体が私に教えてくれているのだ。もう限界だよ! って。観念
したほうがいいよ! って。ユー謝っちゃいなよ! って。
たぶん私は、この後、富岡さんに叫ばれるんだろう。
その叫びを聞いた職員室の先生達がおそらくやってくるだろう。
その職員室の先生達は、警備員のガチムチお兄さんを呼んでくる
だろう。
そしたら、警備員のガチムチお兄さんは、警察のガチムチおじさ
まを呼んでくるだろう。
私は署まで連行されて、ガチムチ刑事さんに取り調べ室でカツ丼
を口に含まされ、ガチムチのハゲおじいさま裁判長に懲役を言い渡
され、ガチムチ模範囚と一緒に余生を過ごすことになるだろう。
もうガチムチはたくさんです。おなかいっぱい。
おじいちゃんおばあちゃんの家に遊びに行って出された好きでも
嫌いでもないものを建前で﹁おいしい!﹂って言ったら大好物と勘
違いされて、遊びにいくたびに大量に出されるあの感覚と一緒だよ!
もうたくさんです! おじいちゃんおばあちゃん。
もうそんなにたくさんの﹁らくがん﹂はいりません。口の中がか
らっから︱︱。
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ごくっと唾を飲んでみる。
らくがんを想像したせいでからっからの私の喉に生ぬるい唾が居
心地が悪そうに通りすぎて行く。
長いまつげがこっちを向いてる。
緊張でさらに汗が吹き出てきた。もう、私の中の水が全て出て行
ってしまう気がする。このまま干からびてぺらっぺらになって﹁い
ったんもめん﹂みたいに飛んでいってしまえたらいいのに。
富岡さんは、叫ばない。叫ばずにずっと私を見てる。思わず逃げ
出したくなってしまう。
だけど、どこへ逃げていいのかわからない私は、ただただ立って
いることしかできない。
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富岡さんはきっと脱法的なアレなんだ。 7
ふわふわしている。
何もできないで立っているだけなのに、なんだかふわふわする。
何だろうこのふわふわは⋮⋮、そう思い、右手を見てみる。
富岡さんが私の手を握っている。
そうか、富岡さんの手ってふわふわしてるんだ。
気持ちがよかった。女の子に手を握られたのってどれくらいぶり
だろう。
女の子の手って人を幸せにしてくれるんだ。ふわふわふわふわし
て、決して人を傷つけることがない。ぜひノーベル平和賞を受賞し
ていただきたい。
富岡さんは私の手を引っ張る。拒むこともできず、身を任せるま
まに引っ張られてみる。
結果的に私と富岡さんは、ベッドに川の字になった。いや、二人
だけだから川の字ではないか。﹁り﹂の字、もしくは﹁=﹂の字と
でも言うべきか。
これは、いわゆるひとつの﹁添い寝﹂という状態。
富岡さんと、私が、添い寝。大変だ。
巷ではお金を払うと女の子が添い寝してくれるお店があると聞く。
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場所が場所だったら私が富岡さんにお金を払わなければいけないの
だ。
っていうことは、富岡さんは私にお金を請求しているってこと?
払えません払えません。私は月々の携帯料金だって困っている身
分の人間でございます。私の身体でなんとか! ⋮⋮なんてことを
言い出せるわけもない。
富岡さんは、ふわふわな手を私の頭に乗っける。さっきまでの緊
張だとか不安だとか、私の頭の中のマイナスなものが全て抜けてい
くような感覚。
そうなんだ。きっと富岡さんは麻薬なんだ。
脱法的なアレなんだ。そうなってくるといろんな意味で捕まって
しまう。ガチムチな以下略にいろいろされてしまう。
富岡さんの指が私の髪に絡んでいくのがわかる。こんなことだっ
たら高級なシャンプーと高級なリンスと高級なコンディショナーで
朝シャンとしゃれ込めばよかった。まあ、当然ながらそんな高級な
シャンプー一式的なものは持っていないどころか見たこともないん
だけど。
富岡さんの指が髪から私の耳のほうへと移動していくのがわかる。
そこはだめ。耳だけは、どうか耳だけは。本当に耳だけは!
そんな私の心の声は彼女に届くはずもなかった。そして、富岡さ
んは、私の耳元に指をかける。
富岡さんが、私の耳から、ヘッドホンを、外した。
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富岡さんはきっと脱法的なアレなんだ。 8
私はいろんな人からいろんなことを言われる。
みんながみんな私のことを見ているし、指を指すし、私の悪口を
言う。髪を笑う。服装を笑う。そして顔を笑う。
そんな笑い声が、私にとっては恐怖でしかない。
私の前で笑うな! 笑うなら私のいないところで笑え! 話すな
! しゃべるな! だべるな! じゃれるな! とにかく声を出す
な!
そんな私もヘッドホンをつけてれば普通でいられた。
これさえつけていれば私は透明になれる。
誰も私のことは見えないし、当然私を笑うこともできない。
自転車や車にひかれそうになるけど、思い通りに自分の声を出せ
なくなるけど、笑われるよりはずっとマシだ。 自転車にだって車にだってひかれてやる。ひかれてやるから私の
耳から声を取り除いてくれ。
だからヘッドホンは私にとっては心臓と同じだ。なかったら死ん
でしまう。
そんな私にとっての心臓を、取り上げられてしまった。たった今、
大好きな富岡さんの手によって︱︱。
﹁耳、きれいだね﹂
21
鼓膜を通して聞こえてくるそれが﹁声﹂であることを理解するの
に少し時間を要し、さらにその声が富岡さんのものであると理解す
るのにもさらに時間を要した。
こんな気持ちのいい音は初めてだった。声って気持ちがいい。や
っぱり富岡さんは脱法的なアレなのだ。
声を出そうと思った。声に出して私の思いを彼女に伝えようと思
った。
でも、できなかった。富岡さんの唇が私の口をふさいでしまって
いるから。
﹁ん⋮⋮﹂
富岡さんの息づかいが聞こえる。それだけで、体温が三度くらい
あがってしまいそうになる。
口の中がざらっとした。前にも一度味わったことがあるこの感覚。
べろだった。
吐息と熱い舌が私の口に入る。
溺れてしまうかと思った。いっそのこと溺れてしまえと思った。
さっきまでからからだった口が瞬く間に潤っていく。
ゆっくりと熱い舌は私の口から出て行ってしまった。
﹁この前の続き﹂
気持ちのいい富岡さんが気持ちのいい声を出す。
﹁起きてたんだ?﹂
22
私の声に自分自身で驚いてしまう。自分で声を出すのなんてどれ
くらいぶりだろう。自分がまだ声の出し方を覚えていたなんて⋮⋮。
﹁その声が聞きたかった﹂
富岡さんは、また熱い舌を私にいれた。手にはヘッドホンを握っ
たままだ。どうやら返してくれる気はないらしい。
ヘッドホンなしで私はどうしたらいいのだろう。もしかしたら生
きていけないかもしれない。だって心臓がなくなってしまったんだ
もの。
そうか。死ねばいいんだ。
溺れて、死んでやる。
私は、自分のべろを押しつけた。もう、明日なんてどうにでもな
れと思った。
富岡さんの口から甲高い吐息が漏れる。
彼女の手から離れたヘッドホンが床に落ちて、そして割れる。
そんな音が聞こえた。
23
富岡さんはきっと脱法的なアレなんだ。 8︵後書き︶
第一話 富岡さんはきっと脱法的なアレなんだ。︵了︶
24
耳と唇と豆腐だと、どれが柔らかくて美味しいのでしょうか。 1
口笛はなぜ遠くまで聞こえるの、あの雲はなぜ私を待ってるの︱
︱、ぶっちゃけそんなことはどうでもいい。
切実に私が知りたいこと、それは、なんで私は悪い夢ばかり見て
しまうのか、ただそれだけ。
私は夢の中で知りもしない人物に追いかけられるし、どこだかわ
からない建物から真っ逆さまに落ちていったりするし、なんだかよ
くわからない液体に沈められて苦しかったりする。
こんな夢ばっかりだから、私は眠ることが嫌いだ。人間の三大欲
求、食欲、性欲、睡眠欲なんてことを言うらしいけど、正直そんな
ものは欲してないし求めてもいない。
睡眠欲なんてものがあるから、私は眠らなければいけない。眠る
と必ずと言っていいほど夢を見なければいけない。その夢が私を苦
しめる。
汗だくになって目が覚める。怖い思いをいっぱいしたのに。時計
の針はちっとも進んでない。
だから私は、起きている。
同じ町の全員が寝たとしても私は起きている。夢を見たくないか
ら。睡眠欲なんてものがあるから、私は毎日起きていないといけな
い。
25
食欲なんてものもいらない。そんなものがあるからお金なんても
のが必要なんだ。
食べていくために人は働かなければならない。
楽しくもないのに笑顔を作り、聞きたくもない話に相づちをうち、
そして、酒の匂いがぷんぷんする唇をキスをする。
私のお母さんはそうやってお金を稼いでいる。夕方から出かけて
いき、朝方帰ってきてはトイレで嘔吐する。
そこまでして何でお金をかせぐのか。私にご飯を食べさせるため
だ。ご飯を食べさせるために毎日、飲みたくない酒を飲んで、しゃ
べりたくもない相手と話し、好きでもない相手と唇を重ねる。
そうしないと生きてけないから。おなかが空いてしまうから。だ
からお金を稼がないといけない。食欲なんてものがあるから食べて
いかないといけないし、お金がないといつまでもおなかをすかせて
いないといけない。
性欲もおそらくいらない。
なんで﹁おそらく﹂なんて言葉を使うかというと、性欲っていま
ひとつよくわからないから。
人を好きとか、愛するとか、欲情するという感情が全くわからな
い。今まで十六年間生きてきたけど、そういった感情がなくて困っ
たことはないし、これからも困ることはないんじゃないかと思う。
26
だからいらない。後、性欲があるから男の人と女の人が結婚して
子供ができて⋮⋮なんて結局お金がかかるから︱︱いらない。お金
がかかるようなものは一切いらない。
教えて、おじいさん。なんで人間はお金が必要なんですか。いつ
まで私は怖い夢を見るんですか、いつまでお母さんは酒臭い男の人
とキスをするんですか、いつになったら︱︱私は欲情を覚えるので
すか。
おそらく、おじいさんもアルムの森の木もヤフー知恵袋も教えて
くれないこの疑問を誰か教えてくれる日がくるのだろうか。
そんなことを思いながら私は今日もなかなか動かない時計の秒針
をぼんやり眺めている。
27
耳と唇と豆腐だと、どれが柔らかくて美味しいのでしょうか。 2
◇
性欲ってどこに落ちてるんだろう。
向かいのホーム、路地裏の窓、こんなとこにあるはずもないのに
⋮⋮。
ましてや、この女子校の教室⋮⋮なんてところに落ちているとは
思えない。だってこの教室は腐ってるから。
授業中だと言うのに教室の九十パーセントは携帯をいじっている
し、残りの生徒だって雑誌を読む、マンガを読む、化粧をする︱︱、
まあ絵に描いたような腐り具合。
腐ったみかんどころじゃない。
腐ってもう原型が何かわかってない﹃何か﹄だ。そんな、なんだ
かよくわからない﹃何か﹄で構成されたこのクラスという箱の中に
性欲なんてものが転がっているわけがないんだ。
箱が腐ってれば、教師だって腐っている。だって、誰に聞こえる
わけでもなく﹁それって声なの?﹂ってレベルで何かを発している
のだから。
まあ、そりゃ原型をとどめていない﹃何か﹄なんだから、おそら
く聞く耳なんて持ってない。食パンでも耳はあるってのに、この箱
の中に耳を持ってる人がいないんだ。
28
だから、別に授業しなくたっていいんだろうけど、一日何も考え
ずに声じゃない﹃何か﹄を発しててお金がもらえるんだから、本当
に腐っている。
こんなに楽してお金をもらって、ご飯を食べて、あったかくして
寝られるなんて本当に本当に本当に、腐っている。
こんなことを言っている私だって端から見たら、原型をとどめて
ない腐った﹃何か﹄には違いないのだ。
もっと私が頭が良ければ腐らずにはすんだのかもしれない。これ
と言った特技もなく、成績がクラスで中の上。そんな私が学費全額
免除の特待生として入れる学校は、この腐った箱しかなかったんだ。
もしも、私に食欲なんてものがなかったら、食費の全額を学費に
あてられるのに。
そうしたら、もうちょっとマシな箱に入れたかもしれない。そし
て、お母さんが酒臭い男の人とキスをしなくてよくなったかもしれ
ない。全部欲のせいだ。欲のせいで私は腐ってなければいけないん
だ。
腐ってる﹃何か﹄が密集してるせいかこの箱は、ぽかぽかしてる。
暑すぎず、寒すぎず、絶妙のぽかぽかだ。
このぽかぽかのご紹介で私の睡眠欲がゲストとしてやってくる。
私の両腕を枕に、教師の声じゃない﹃何か﹄をBGMに︱︱。よう
やく、私は睡眠をとることができる。
29
この腐った﹃何か﹄だらけの箱でもほめられる点はある。それは、
ここで眠っても夢をみないということ。そして、チャイムという目
覚ましアラームもついていること。そして、いくら眠っても無料で
あること。
つまり、この環境であれば私は問題なく生活していくことができ
るというわけ。⋮⋮悔しいけど。
30
耳と唇と豆腐だと、どれが柔らかくて美味しいのでしょうか。 3
今日もチャイムの音で目が覚めた。
我ながら器用な睡眠スタイルだと思う。まあ、それだけ授業中静
かだと言うことだろう。悪い意味で。
今のチャイムが四時間目の終わりを告げたので、それと同時に昼
休みが幕を開けた。長い長い昼休み。長すぎて石になっちゃうんじ
ゃないかと思うくらい。
しゃべる相手もいない、行くところもない私にとって一時間も自
分の席に座って過ごすなんて至難の業だ。
仙人か何かになってしまいそうだ。
だけど、私は仙人のように霞を食べて生きていくことはできない。
これも、食欲なんてものがあるせいだ。
いっそのこと仙人にでもなってやろうか。白いお髭を生やして、
頭をつんつるにして、クリスマスには、赤い服を着て、トナカイが
引くソリに乗り、プレゼントを配る。
そんな仙人に私はなりたい。
仙人になるには、まずこの長い一時間を昼食でつぶさなければな
らない。
それも、このラップに包んだおにぎり一つで︱︱。
ラップに包まれた真っ白なおにぎり。シーチキンマヨネーズとか
31
炙り鮭ハラスとかそんな気のきいた具が入ってるわけじゃない。
シンプルな塩おにぎり。山に芝刈りに行ったおじいさんがうっか
り穴に落としてしまいそうな、ランニング、短パン姿の絵描き大将
が好きそうな、焼いて醤油を塗ったらおいしい焼おにぎりになりそ
うな、そのくらい絵に描いたようなおにぎりなのである。強いて言
えば海苔が巻いてないことくらい。
といっても、私はおにぎり特有のウェットタイプ海苔があまり好
きではないので、これはこれでいいのだが︱︱。
ラップを開けると冷めたご飯特有の﹁のわーん﹂とした匂いが鼻
孔をくすぐる。
あーむっ。
うん、お米ってスイーツだ。甘い。ゆっくり噛み噛みすると余計
に甘い。魔法瓶に入ったちょっとぬるめの緑茶をすすると、なんだ
か優雅なお茶の時間を楽しんでる⋮⋮気がしないでも⋮⋮いや、し
ないな。所詮、米は米だ。
おそらくケーキとかの方が甘くて美味しい。米がなかったらケーキ
を食べればいいじゃない。甘くて美味しいし。
甘いのは最初のほうだけで、中盤にさしかかるとやっぱり何かし
らおかずも欲しくなってくる。美人は三日で飽きるらしいが、お米
は十五分で飽きますな。
ふと、周りを見渡すと腐ってる﹃何か﹄のみなさん、まあ、クラ
スメイトとか言うらしいですが、そのみなさんも各自それぞれお食
事中のご様子。
32
ぶっちゃけ、そのみなさんが食べているものにそれほど興味がな
い。ただ、みなさんに常時着いてるアレが気にかかるのです。
昼食に塩おにぎりを食べる時に思うのです。
耳って、口に含んだら、おそらく美味しいんじゃないか、なんて
ことを︱︱。
33
耳と唇と豆腐だと、どれが柔らかくて美味しいのでしょうか。 4
最初は、単純に餃子食べたいなーって思ってた。だって、この箱
の中には生徒数の二倍の餃子が宙に浮いているようなものだもん。
リンゴ狩りならぬイチゴ狩りならぬ、餃子狩りができちゃいます
ね。
けど、実際とって食べないことを考えると、紅葉狩りとかに近い
のかもしれない。
餃子食べたいなー、ってこっそりと周りの耳を見ていた。いろん
な形の耳があるんだって思う。大きかったり、小さかったり、髪に
かかってたり、かかってなかったり、柔らかそうだったり、堅そう
だったり⋮⋮。
だんだん、あれを噛んでみたいって思うようになってきた。
噛んだらみなさんはどんな反応をするんだろう。そう考えると、
なんだかおなかがもやもやしてきちゃうのだ。
私って変だ。
だって、食欲が発動してきちゃうのだから。こんな時におなかが
もやもやしてきちゃうとかもう特殊な身体としか考えられない。
けど、なんだろう。このおなかのもやもやは、なんとなく今まで
の食欲とは違う気がする。
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もしかしたら、本当に特殊な身体になってしまったのかもしれな
い。
私は人間じゃないかもしれない。怪獣だ。近いうちにヒーローに
やっつけられてしまう怪獣なんだ。
そう、考えてみればこの箱も非常にカオス。だって腐ってる﹃何
か﹄と怪獣で構成されているのだから。
もう、地獄絵図でしかない。
耳ウォッチングをしてるうちに私はなんとか長い長い昼休みの一
時間を終えることができる。
おにぎりを食べ終わったというのに、おなかのもやもやは止まら
ない。
でもそれもまた授業が始まって、眠り始めたらいつのまにか治っ
てるから不思議だ。やっぱり私は怪獣なのかもしれない。
毎日見ているとさすがにほとんどの耳は見終わってしまっている。
こんだけ見ていたら、多少髪が長くて耳を覆っていても、髪をかき
あげた瞬間に見えてしまう。だからほとんどの耳はコンプリート済
みなのだ。
あと二つの耳を除いて⋮⋮。
それは、私の斜め前に座っている彼女の耳だ。
腐った何かで構成されているこの箱、その中でも彼女だけはどこ
となく違っていた。
教室でノートと教科書を広げている。
ごくごく当たり前の授業態度ではあるが、この箱の中ではすごく
35
珍しい光景である。
つっぷして眠るために私はもちろん教科書ノートなんて広げてい
ない。私だけじゃない。みんな机の上には基本的には雑誌、マンガ、
ペットボトル、ちょっとしたお菓子、そんなものが散らばっている
だけで筆記用具さえおいてないのがこの箱の常だ。
だって、授業をしていないのだもの。
教師の声は聞こえないし、試験は何を持ち込んでもいい形式なの
で特に授業を受けなくったってまず点数を落とすことはない。
ただ、出席しないと進級はできない関係で、席にはみんな座って
いる。携帯電話をいじろうが、雑誌やマンガを読もうが化粧をしよ
うが、︱︱寝てようが出席は出席なのだ。
そんな中、彼女は一人だけ休み時間には次の授業のノートと教科
書そして、筆記用具を並べ、授業が始まると前を向いて板書をとる。
異様な光景だった。
私はそんな異様な光景を薄目に見つめ、眠りにつくのである。
おそらく、彼女は私が眠っている間にもちゃんとノートに授業内
容をまとめているのだろう。
何でなんだろう。
あれだろうか。内申点をよくして大学進学をねらっているのだろ
うか。こんな学校でも一応指定校推薦はあるからね。
36
もしかしたら、彼女は根っからまじめな性格なのかもしれない。
ちゃんと校章を襟に付けてるし、スカートは短くしてないし、髪
だって真っ黒だ。
何か間違ってこの学校に入ってしまったのだろう。大学くらいは、
ちゃんとした人が集まったところに行って欲しいもんだ。
だけど、釈然としない。そのくらいまじめな彼女には、一つだけ
彼女にそぐわないものがある。
そして、それが彼女の耳を見えなくしている理由でもあるのだけ
れど︱︱。
彼女は常時、ヘッドホンをしているのだ。
37
耳と唇と豆腐だと、どれが柔らかくて美味しいのでしょうか。 5
全く癖のないさらさらの黒髪。
その上に真っ白なヘッドホンがちょこんと乗っかっている。
なんだか、遠くから見るとまっしろな耳あてをしてるように思わ
せる。そんな真っ白なヘッドホン。
なんだか、シロクマの耳みたいで可愛いなーとは思ってた。けど、
よくよく見ると堅そうなプラスチックで彼女の耳を覆っている。
彼女は、このシロクマをいつもつけている。
どんな授業だろうがつけてる。
体育だって音楽だってホームルームだって常につけてる。
だから、彼女が人としゃべってるところを見たことがない。とい
うより、声を発しているところを見たことがない。
というのも、出席をとる時にいちいち点呼をしないし、授業中、
教師に当てられて答える、なんてことをしないこの学校だから何も
困ることなんてないんだけど。
声を出さない。という点では私と一緒だ、と思う。
だって、私は基本的に学校の中では寝ているだけだし、起きてる
時はおにぎり食べてるだけだし、授業が終わったらそのまま帰るだ
けだし。
もしかしたら、彼女と私は似ているのかな、と思う。まあ、似て
いるのかどうかすらわからないのだけど。
だって、授業中の彼女を私は知らないのだから。
38
ノートと教科書と筆記用具を広げただけであとは、私と同じよう
に寝ている可能性だってある。⋮⋮いや、ないか。
もしかしたら、携帯をいじるくらいはするかもしれないけど、基
本的には真面目に授業を受けてるのだろう。
シロクマの中の耳はどうなってるんだろう。柔らかいのだろうか、
いや、プラスチックを毎日つけているのだから堅くなってしまって
るのだろうか。 傷がついてしまってるのかもしれない。
もし、傷がついたら舐めてあげたい。
そうしたら、どんな味がするんだろう。そして、彼女はどんな声
を出すんだろう。
昼休みが終わり、教師が教室に入る。私は、シロクマを眺めなが
ら、また眠りについた。
◇
夢を見ていた。
あれ、確か私学校で寝ていたはずなのに⋮⋮。
学校では夢をみないはずなのに⋮⋮。どうしよう。学校で夢をみ
ちゃったらもう、どこでも眠ることができない!
でも、この夢はいつもと違った。
私は大きなもこもこしたものに抱きついている。
それは暖かくって、安心感に満ちあふれていて⋮⋮すごく気持ち
39
いい。
いつまでもずっとかおのもこもこしたものに抱きついていたい。
そんな気がしていた。
なんだろう。このもこもこしたものは︱︱。
シロクマだった。
見上げると優しそうなシロクマが私を包み込んでくれている。
シロクマは今まで私が夢で見た真っ黒でトゲトゲした怖いものじ
ゃなくて、白くって、丸くって、柔らかくって、それでいて暖かい。
優しい、と思った。これが優しい、って感覚なんだろう。今まで
感じたことがないようなふんわりして気持ちのいい感覚。
もしかして、天国ってこんな感じなのかもしれない。私は何かの
拍子に死んじゃって今、天国にいるのかもしれない。
シロクマは、わたあめみたいだと思った。
白くて、ふわふわして⋮⋮甘そう。
私は目の前のシロクマにかぶりついてみた。
シロクマは柔らかくて、そして甘い。でもわたあめと違っていつ
までも口の中に残っている。
40
シロクマをもっと食べたい。私はまた、シロクマを食べた。
シロクマはなんだか熱くなってくるようだった。
そして、なんだか息苦しい。
私は、このシロクマが離れていってしまうのを感じた。
やめて。シロクマさん行かないで!
⋮⋮そうか。これは夢なんだもんね。また、私は、教室に戻るん
だ。あの、箱に戻るんだ。
ばいばい、シロクマさん。
また、会えるといいな。
◇
重いまぶたをなんとか開けると、やっぱりそこはいつもと同じ箱
だった。
けど、いつもと同じ⋮⋮というには周りがやけに静かだった。
そして、夢の中と同じ甘くて柔らかい感触が口に残る。
あ、そうか。まだ夢の中なんだ。
だって。今私は⋮⋮ヘッドホンをつけた女の子とキスをしてる︱
︱。
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耳と唇と豆腐だと、どれが柔らかくて美味しいのでしょうか。 6
ヘッドホンの彼女は、シロクマと同じ味がする。
暗くてよくわからないけど、キスをしている間の彼女はどうやら
目をつむっているようだ。
今まで、まじまじと見たことがなかったけど、女の子のまつげっ
てこんなに愛くるしいものなんだ。
いや、彼女のまつげが特別可愛いのかもしれない。
お人形さんみたい⋮⋮っていったらちょっと違うんだけど。何だ
ろう。私の全てを預けてもいいような、そんな安心感が感じられる。
不思議な目。
彼女の息づかいが荒くなってきている。
どうりで私も苦しいわけだ。私の夢にしてはリアルにできている。
私の夢の演出担当さんが変わったのだろうか。
彼女の荒い吐息を聞いてるとまたおなかがもやもやしてくる。
やっぱり私変だ。キスしてる最中にまたおなかが空いてきてる。
そうか、夢の中のキスはおなかが空くんだ。
甘い、甘い、甘い。
42
こんなにも口の中は甘いのに、なぜかおなかのもやもやは止まら
ない。なんなんだろう。このままもやもやが続いたら壊れて消えて
しまいそう。もやもや続き、壊れて消えた、そんなシャボン玉亜種
として人生を終えてしまいそうなくらいにもやもやがおなか中を攻
撃してくる。
やっぱ私、変だ。だってそのもやもやがたまらなく気持ちいい⋮
⋮。
彼女のまつげが動いたのを見て、思わず私は目を閉じた。
すると、私の口からシロクマはいなくなった。ただシロクマがい
た残り香はまだまだ甘い。
けど、その甘い匂いの基がだんだん離れていくのを感じた。
やだ、行かないで︱︱。
だって、私は怪獣だから。どうしようもない怪獣だから。
もっともやもやしたいんです。まだ夢から冷めたくないんです。
だからお願い! キスを、やめないで⋮⋮。
無意識のうちに私は目を開けていたようだ。目の中のレンズはし
っかりとヘッドホンの彼女をとらえていた。
びっくりした顔の彼女が映し出される。そして、彼女は急に動く
のをやめてしまった。
43
あれ、この夢は一時停止機能がついてるのだろうか。総合演出さ
ん! 止めないで! 動かしてー!
すると、彼女の親指がちょっとだけ動いた気がした。もうちょっ
とです。がんばって動かして!
なんだったら、もう一度巻き戻して、もう一度シロクマを食べさ
せて! もっともやもやさせてください!
静かだった。あれ、ミュートモードもできるの? この夢。
周りを見渡すとやっぱりここはいつもの箱で、だけど、なんだか
静かで、それでいてなんだか少し寒いような気がした。
外を見ると、体操着姿でランニングをしている生徒⋮⋮体育の授
業にしては速いペースのランニング。まるで陸上部みたいに⋮⋮、
ん、陸上部?
部活の時間? 放課後?
変な時間設定! 時計の針を確認すると現実の私だったらとっくに下校してる時間
だ。
ヘッドホンの彼女はまだ固まっている。もしかして私自身も一時
停止されてしまっているのだろうか。
とりあえず、私は彼女に向かっておじぎしてみる。
44
オハヨウゴザイマス。
すると、向こうもつられるようにお辞儀をしてきた。なんだなん
だこの夢は、操作が複雑だなー、まあ私の夢なんだからそんなもん
だろうけどね。
とりあえず、私は彼女に話しかけてみることにする。普段は絶対
人になんか話しかけることなんてできないけど、夢の中だもん。大
丈夫だよね。
あのさ。
そう、話しかけようと﹁あ﹂と口にした瞬間、ふと思った。
あれ、声ってどうやって出すんだったっけ?
45
耳と唇と豆腐だと、どれが柔らかくて美味しいのでしょうか。 7
そういえば、最後に声を出したのっていつだったっけ? とっさ
に思い出せないレベルで発声、という行為をしていないことに今更
になって気づく。
そうか、ヒトって忘れる動物だったっけ。そもそも私は怪獣の前
にヒトだった模様。
っていうより、現実で声の出し方を忘れるのは、百歩譲ってあり
えるとして、夢の中までも声の出し方を忘れるってなんなんだろう。
だって怪獣だって声の出し方くらいわかるよ。がおーっとかぎゃ
おーっとか言ってるもの。
だって、そもそも今、﹃あいうえお﹄の﹃あ﹄の発声でつまづい
てるってどうなんだろう。
生まれたばかりの赤ちゃんだって声出せるよ? おぎゃーって。
もう、私は、怪獣よりも赤ちゃんよりも劣ってしまってるんだ。
私こそ腐った﹃何か﹄だ。腐った﹃何か﹄の最下層だ。
腐った﹃何か﹄カースト制度の三角形があるとすれば、私はその
三角形から落下してるレベルで下の存在なのかもしれない。底辺以
下。
せめて、底辺には乗っかっておきたい。私にだってプライドって
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もんがあるんだ。ミジンコほどだけど。
せめて、彼女に何かを伝えないと⋮⋮そうだ。怪獣も赤ちゃんも
できないことで私ができることと言えば︱︱。
私は、机の中のよくわからないプリントの残骸達の中から未開封
のルーズリーフを引っ張り出した。
買ってから三ヶ月は経ってるのに新品同様だ。なぜなら使ってな
いから!
そんな、まっさらさらのルーズリーフを一枚取り出し、さらに机
の中からめったに使わないボールペンもサルベージ成功!
⋮⋮なんて書こう。
全く言葉が出てこない。やっぱ底辺以下は底辺以下だったご様子。
というより、彼女に何を伝えればいいのだろう。
もう、一回キスして⋮⋮いやいやいや。
ど変態じゃないか。怪獣な上に底辺以下の上にど変態じゃないか
︱︱。
んーと、そもそも何で彼女は、私にキスをしてきたんだろう。
⋮⋮夢の中の出来事だから。うん。それ以外ない。
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よくよく考えたら夢の中なんだから別になんだってかまわないだ
ろう。
夢から覚めたらいつものように彼女は机に向かっているシロクマ
ヘッドホン少女なのだから︱︱。
だから、勝手にストーリーを作ってしまえ。
えっと⋮⋮私は毒リンゴを食べさせられて、それで眠ってしまっ
たんだけれど⋮⋮彼女のキスで起きた⋮⋮みたいな?
だめだ。怪獣な上に底辺以下の上にど変態、なのに一切ストーリ
ーを作る才能もないらしい。
誰か私に長所を!
まあ、とにかくルーズリーフに書いて渡してしまえ。
︻起こしてくれたんだよね? ありがとう︼
さすが夢の中! 自分の中ではうまく字が書けた!
とりあえず、彼女にルーズリーフを渡す。
そうしたら、また彼女は一時停止してしまう。そりゃそうだろう。
意味がわからないもの。
まあ、いいか。総合監督さーん。そろそろ夢を終わりにしちゃっ
てかまいませんよー!
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そろそろ、現実の世界では授業も終わるだろうし、そうしたら私
は下校しますんでー。
⋮⋮返事がない。まるで屍のようだ。
とりあえず、何か刺激を与えれば目が覚めるだろうか。
とっさに私はほっぺをつねってみる。まあ、夢の中だから痛くは
ないんだろうけど⋮⋮あれ、ちょっとした刺激が? 本当にリアル
な夢じゃありませんこと? やるね! 監督!
怪獣で底辺以下でど変態で⋮⋮そんな私でもさすがにうっすら感
づいてきた。
これが夢じゃなくって、現実なんだってこと。
つまり、本当の夢の中でシロクマさんとバイバイして︱︱この教
室、もとい箱に戻ってきた時にはすでに現実だったってわけで︱︱。
ってことは、彼女は本当に私と口づけを交わしたってことで。
ルーズリーフを渡したのも本当のことで。
たった今、一時停止した彼女が逃げるように教室を出て行ったの
も⋮⋮現実?
誰もいない教室。ほっぺがじんわりと痛む今、この瞬間も現実だ
ってことなのか。
私自身、もう何がなんだかわからなくなった。
49
ただ、おなかのもやもやだけはずっと健在で、私が教室を出て家
を帰ってもまだ治ることはなかった。
50
耳と唇と豆腐だと、どれが柔らかくて美味しいのでしょうか。 8
◇
ちっちゃい鍋に昆布でとったダシ、お豆腐、しめじ、白菜を入れ
て、料理酒をちょこっと入れて、ぐつぐつ煮る。
まだかな、まだかなー。ってじっと待ってると白菜がしなっとし
てくる。そうしたら出来上がり。
ポン酢にチューブの紅葉おろしをちょっと入れていただきます。
﹁ん。おいしっ﹂
⋮⋮あ、なんだ声出るじゃん。よかった。
喉を温めたのがよかったのかもしれない。
﹁⋮⋮やっぱり独り言とかでもいいから口に出していかないと忘れ
ちゃうよな﹂
でも、アパートの一室で一人ぶつぶつ言ってるのってなんだか変
な子みたいだ。
誰かに見られた日にはもうこのアパートで生きていけない。
⋮⋮って別に誰に見られるわけでもないんだけど。
51
ポン酢に浸したお豆腐をご飯の上に乗っける。
豆腐丼。
こっこれは! ﹁うーまーいーぞぉー!﹂
とどっかの料理界の偉い人並みのリアクションをしてみせる。こ
んなの人に見られたら本当にお嫁に行けない。
豆腐ってえらいよなー。だって、こんなに柔らかくてー。ずっと
噛んでると甘くなってくるし︱︱。
こうやって湯豆腐にするとあたたかくてさらにおいしいし︱︱。
柔らかくて、甘くて、あったかい。
豆腐を食べている最中だというのにまたおなかがもやもやしてく
る。
やっぱり私のおなかは異常だ! 変なおなか!
彼女の唇、舌を思い出しては、おなかをもやもやさせている。
﹁ど変態! 私、本当にど変態!﹂
部屋で一人﹁変態!﹂と叫ぶ私。本当にどうしようもない。
けど、なんでこんな変態な私とキスをしたんだろう。
52
もう一回キスしたいな⋮⋮。寝ぼけてた状態であんなに気持ちが
いいのに、本気でキスをしたら私はどうなっちゃうんだろう。
爆破しちゃうんじゃないだろうか。私、怪獣だし。
それと耳。ますます彼女の耳が見てみたい!
どんな耳なんだろう。もしかしたら、彼女にとって耳がコンプレ
ックスだったりするのだろうか。
キスして、ついでに耳をいただいちゃったりして⋮⋮。
もう、豆腐の味も触感もよくわからない。というより私の頭の中
で耳とキスと豆腐がごっちゃになってくる。
とにかく柔らかくて、甘くて、あったかい。
そういうものを私は食べたい。
顔がぽっぽぽっぽ熱い。豆腐ってすごいな。こんなに私を熱くさ
せるのだから。
53
耳と唇と豆腐だと、どれが柔らかくて美味しいのでしょうか。 9
◇
次の日、顔がぽっぽぽっぽ熱い理由が判明した。保健室で借りた
体温計には﹃38,50℃﹄の表示。
あー、あれですか。風邪ですか。
よく言いますもんね。居所寝すると風邪ひくって⋮⋮。
机の上なんて居所寝の最たるもんですもんね。
そりゃ風邪ひきますわ。
早退する? おうちの人は? そう、いらっしゃらないのね? じゃあ、少し寝てるといいわ。おやすみなさーい。
私が何も言葉を出さないまま、保健室の先生は私をベッドに寝か
せる。
いっつもそうだ。私が何か言う前に物事が進んでいっちゃう。
まあ、それも楽と言えば楽なんだけれど、そのせいでこっちは声
の出し方を忘れているのであまりいいことではないよね。
三つあるベッドで寝ているのは私一人だった。
54
保健室なんて、サボり魔のたまり場だと思ってた。少なくとも中
学の時はそうだったから。
けど、この学校は調子悪かったら無理を通してまでわざわざ通学
してくる生徒もいないし、常にサボってるような学校生活を送って
るので、わざわざ保健室にくる必要もないのだろう。
現に他の生徒どころか、養護教諭の先生もどこかへ行ってしまっ
た。
今、保健室には私一人。
保健室のベッドに横になるのは初めてで緊張する。眠らなきゃい
けないのになかなか寝付けない。
ああ、人目でもいいから彼女を見ておきたかった。教室に入って
すぐに、くらっ⋮⋮って来たからバッグを教室においてすぐに保健
室に来てしまったのだ。
見たからと言ってどうなるわけでもない。人目を気にせずまた、
キスをしてくるわけでもないし、耳を見せてくれるわけでもない。
けど、無性になんだか彼女に会いたくなってきた。なんだろう。
人に会いたいなんて思うのは生まれてから初めてだ。
これが﹃欲求﹄なんだ。
会いたい会いたい会いたい。キスしたいキスしたいキスしたい。
祈るように頭の中でつぶやいた。
55
眠れない。顔はぽっぽぽっぽする。頭がぐらぐらする。
でも会いたい会いたい会いたい。キスしたいキスしたいキスした
い。
今、キスをしたら風邪がうつってしまうだろうか。いいじゃない。
二人してこのベッドに眠ってしまえばいいじゃないのー。
そんなことを考えてるうちに一時間目、二時間目と過ぎていき、
三時間目に突入していた。
今頃、彼女は何をしているのだろう。また真面目に授業を受けて
いるに違いない。
私とキスした翌日にも彼女は平常通りにノートにペンを走らせて
いることだろう。
彼女の頭に私が少しでも残ってくれたらいいのにな⋮⋮そんなこ
とを思っているとますます眠れない。
すると静かに保健室の扉が鳴るのがわかった。
なんとなくだが、彼女な気がした。
真面目な彼女がなんで授業をサボってまでこの保健室に来るのか
は正直わからない。
ただ、彼女な気がした。
56
勘としか言いようがなかった。
57
耳と唇と豆腐だと、どれが柔らかくて美味しいのでしょうか。 10
彼女であってくれ、と願った。熱のせいだろうか、無性に人が恋
しい。
こんなこと初めてだった。だっていっつも一人だから。
それが当たり前だと思ってたし、これから先もそうなんだと思っ
てた。
だけど、今は彼女が欲しくてしょうがない。
そうだったんだ。
性欲ってそういうことなんだ。今、食べることよりも眠ることよ
りも、今彼女とキスがしたい︱︱。
しゃあ、っとカーテンを開く音と同時に私は目を閉じた。
タヌキ寝入りってやつ。また、こうしてれば彼女は私と唇を重ね
てくれる︱︱かもしれない。
けど、まぶたを閉じてみて気づいた。カーテンを開けたのが彼女
であることがまだ決まったわけじゃないのだ。
保健の先生かもしれないし、もしかしたらサボりに来た生徒がい
ないとも限らない。
58
私はゆっくりと目をあける。
ポケットから延びる白いコードが見えた。そのコードは耳の方に
延びて⋮⋮シロクマにたどりついた。
彼女と目が合った。
ああ、タヌキ寝入りが台無しじゃないか。
相変わらず白いシロクマヘッドホン、そして癖がひとつもない髪。
もう、嫌だ。我慢できない。
もう一人きりは嫌なんだ。声も出せないくらい寂しいのは嫌なん
だ。
そう、寂しかったんだ。だけど、それを自分の中でごまかしてた。
誰かとぎゅっとしたかった。だれかにぎゅっとされたかった。
誰かに愛して欲しかった。
自分だけを愛してくれる人が現れるのを待ってたんだ。
そんな人と、私はキスがしたい︱︱。
彼女の︱︱手を握る。すごく冷たくて、それでいてすべすべして
る。
59
彼女はまた固まっているようだった。もしかしたら、私に戸惑っ
ているのかもしれない。これ以上何かをしたら、私、嫌われるかも
しれない。
でも、今、この瞬間に欲しいんだ。あなたを⋮⋮ください。
握った手を私の胸によせる。すると、彼女もベッドの中へ入って
くる。
ああ、なんだろう。すごくかわいい。
いい子いい子したい。このかわいいものの頭をなでたい。
ぽんっと頭に手をのっけると一瞬びくっと身体を震わせた。
あ、怖がらせちゃったかな。けど、彼女のそんな表情もたまらな
くかわいい。
今までとは比べものにならないくらい、おなかがもやもやしてく
る。
あ、そうか。
好きなんだ。私は⋮⋮この人を。
そう頭で思った瞬間にもやもやが強くなってくる。それがたまら
なく気持ちいい。
麻薬をやってる人とかってこんな気分なんだろうか。今まで生き
60
てきてこんなにいい気分になったことないよ。
彼女の髪の毛を指にからめてみる。彼女の吐息が漏れるのがかす
かに聞こえる。
もっと、彼女の声を聞きたい。
そうだ。私はいじわるになっちゃえばいいんだ。彼女にいたずら
をすれば、きっと彼女はかわいい声を出すに違いない。
私はそっと、彼女のヘッドホンに手をかけた。
61
耳と唇と豆腐だと、どれが柔らかくて美味しいのでしょうか。 11
﹁⋮⋮いぁ﹂
蚊が鳴くよりも小さな声で彼女が鳴いた。それを聞くだけで、も
やもや、もとい、私の性欲がぴくぴくしてくる。
いいよ⋮⋮その声。かわいいよ。もっと聞かせてくれたまえっ!
ヘッドホンをとられることはひょっとしたら彼女にとって本当に
嫌なことかもわからない。
けどもう私はいじめっこになっていた。
﹃自分がやられて嫌なことはしないようにしよう!﹄とか﹃人を思
いやる心をもとう!﹄とかさんざんいままで先生は言ってきたし、
道徳の教科書にもいっぱい書いてあった。
だけど、今だけはそんなこと考えていられない。
彼女のかわいい声が聞きたいんだ! そして彼女の耳が見たいん
だ!
謝るから! 一生懸命謝るから!
とにかく今だけは私はいじめっこになるんだ!
いじめっこ⋮⋮といいつつ耳を傷つけないように⋮⋮そっとヘッ
62
ドホンをずらす。
もしかして、女の子の下着をずらす時も、もしかしたらこんな感
じなのかもしれない。
けど、今日はそこまでしないかもしれない。だってそんなことし
たら本当に彼女は泣いてしまうから︱︱。
初めてみる彼女の耳は、きれいだった。
こぶりで少しかたそうな耳たぶがたまらなくえっちい。えろきれ
い︱︱。
﹁耳、きれいだね﹂
勝手に口から声が出た。湯豆腐を食べたせいだろうか。するっと、
それこそ豆腐みたいに口から言葉が出てくる。
﹁⋮⋮ぁ﹂
彼女が何か言おうとしてる。もしかしたら、彼女自身も声を出せ
ずにいるのかもしれない。
くそう。かわいいなあ。
湯豆腐を食べさせてあげたいよ。
だけど、今、この保健室には当然そんなものはない。
じゃあ、豆腐のかわりに私が彼女を喉を潤せばいいんだ。
63
私は初めて、自分からキスをする。
そして、いじめっこな私は舌を入れてみたりする。
﹁んきゅっ⋮⋮﹂
彼女が小動物のように鳴くのを聞いて、私もなんだか息苦しくな
ってくる。
苦しい。気持ちいい。苦しいって気持ちいいんだ。本当にど変態
怪獣だな、私は。もうどうしようもないや。
口ってあったかい。これだったら湯豆腐と一緒だね。彼女が声を
出しやすいようにもっともっとあっためてあげないと。
あったかい。そして甘い。苦しい。気持ちいい。
普段は交わらないような感覚が交互に私の頭をもみほぐすような、
そんな今まで味わったことのない気分。
生きてればいいことってあるんだね。知らなかったよ。
彼女の息がだんだん荒くなってきた。さすがにやめてあげないと
まずい。
﹁この前の続き﹂
また口から言葉が出てくる。そうだ。私はこの前のキスの続きが
したかったんだ。
64
おなかが減るのと同じように、時間が経てば経つほど唇が恋しく
なってくるあの感覚。
その間も幸せな時間ではあったのだけど、私の口は⋮⋮舌は彼女
を求めていた。
﹁⋮⋮起きてたんだ?﹂
ちっちゃくて透き通るような声だった。うん、間違いない。
やっぱり私彼女が好きだ。好きで好きでしょうがないんだ。
﹁その声が聞きたかった﹂
声を出せたご褒美に私はまた舌を入れる。よくできましたよくで
きました。
ぺろぺろと彼女の舌を舐めてやる。
彼女の目はとろーんとしてきている。私の首もとはよだれで濡れ
てきている。
もう、どっちのものだかわからない。私たちのよだれが首もとを
ぬるぬるさせる。
えっちい耳たぶを人差し指でなぞってやる。
目だけでなくとろーんとした彼女の身体がぴきっ⋮⋮と震える。
65
その瞬間、ベッドの上のヘッドホンが床に落ちた。
ああ、これは割れた音だ。どうしよう。大事になものに違いない
のに⋮⋮。
彼女の目がヘッドホンに向く。
ごめん。ごめん。あなたの大切なものを︱︱。
何も考えられずにいると、彼女は私に覆い被さってきた。
ぎゅう⋮⋮と私に抱きついてくれる。
なんで? だって私あなたの大切なものを壊しちゃったかもしれ
ないんだよ。
﹁⋮⋮ぅ⋮⋮き﹂
﹁え?﹂
﹁好⋮⋮きぃ﹂
もう苦しいくらい彼女は私をぎゅっとする。
ああ、やっぱり苦しい。けどやっぱり気持ちいい。
私の目の前には、彼女のえっちい耳があった。
はむっ⋮⋮と耳を頬張ると、また彼女はぴくっと震える。だけど、
震えながらもまだ私をぎゅっとしてくれている。
私は耳を唇ではさむ。
66
豆腐くらい温かい。だけど豆腐よりは堅い。
唇くらい温かい。だけど唇よりも堅い。
彼女のえっちい耳はすっぱくって、そして、どこかほろ苦かった。
もう、私は眠らなくてもいい。おなかがすいてたって食べなくて
いい。
彼女がいない方が⋮⋮おそらく苦しいもの。
授業を終えるチャイムが鳴る。カーテン閉めないと誰かが見てし
まうかもしれない。
だけど、やっぱりぎゅっとしてくれてる彼女をどけることはでき
ない。
彼女が私をぎゅっとする。そして私も彼女をぎゅっとする。
保健室に近づく足音は聞こえなかった。
私たちはぎゅっとしあって、何回もキスをする。
聞こえるのは、お互いの吐息、そして加湿器の動く音がかすかに
するだけだった。
67
耳と唇と豆腐だと、どれが柔らかくて美味しいのでしょうか。 11︵後書き︶
第二話 耳と唇と豆腐だと、どれが柔らかくて美味しいのでしょう
か。︵了︶
68
やっぱり砂糖は甘いし、コーヒーは苦い。ビールはもっと苦い。
1
大人って楽しいもんだと思ってた。
だって、私の周りにいた大人っていっつも笑ってたし、苦しい顔
をしてる人なんて一人もいなかった。
だから、大人になれば無条件に楽しい毎日になるんだと思ってた。
子供だから、楽しくもない勉強をしなければいけないし、嫌な体
育をやらなければいけないし、まわりにいじめられるんだって思っ
てた。
早く大人になりたかった。苦いコーヒーを飲んだり、苦いビール
を飲んだり、苦いふきのとうを食べたりすることが大人だと思って
たし、そうすることで楽しい生活を送ってるんだと思ってた。
いつのまにか二三歳になっていた。
コーヒーはミルクと砂糖をいっぱい入れるし、ビールは苦いし、
そもそもおいしくないし、ていうよりお酒にそれほど強くないし、
ふきのとうは別においしいものじゃない。
そもそも二十歳を過ぎたあたりから笑ってない。
なんとか入った大学では友達もいなかったし、就職活動もうまく
いかなかった。
69
というよりいろんなものから逃げた。楽な方楽な方へと逃げた。
人と接したくないからサークルやゼミに入らなかった。企業説明
会やらに一回言っただけで立ちくらみをしたのでその時点で一般企
業への就職をあきらめて、なりたくもない教師への道を選んだ。
そして、競争率の低そうな地方の私立高校になんとか採用された。
喜んだのは両親くらいのもので昔から言葉数が少なくっていじめ
られっこだった私が学校の先生になんかになったもんだから、ここ
ぞとばかりに周りに自慢して回っているらしい。
地元と違う県の私立高校でよかったと思う。
だって、この学校のことを知ってる人だったら、決して褒めるな
んてことはしないから。
あと、両親が機械音痴なのも助かった。
携帯電話はもってはいるものの、通話しかできなく、インターネ
ットはおろか、メールもろくにできないほどの機械音痴で助かった。
検索サイトで学校名、そして一つスペースを開けただけでこの学
校が決して褒められない理由がわかる気がする。
そもそもいじめられっこだった私は、高校生なんて別に好きでは
ない。
好きではない、というよりも怖い。
70
どうしても自分が高校時代の同級生を思い出してしまうのだ。
そんなの慣れだと思ってた。いくらなんだってもう二三歳にもな
るんだし、高校生なんて五つ以上も年下だ。
だけど、やっぱり怖いものは怖かった。
そりゃそうだ。子供の怖かったホラーものの映画だって今見たっ
て怖いのだから。
だって、彼女らは私を人として見てはくれない。そもそも会話が
なりたたない。
ただ、その場所にいるだけ。教室という中にいるだけ。そうすれ
ば出席になるから。
教室にいる人数を把握して、私が出席簿に記入する。彼女達はそ
れが目的なのだから。私が先生としてどんな話をするか、なんてこ
とはどうだっていいのだ。
だから、私は今日も誰も聞いていない中、教科書を進める。
やってることは自分の部屋でただぶつぶつぶつぶつ言ってるのと
変わらない。
そして、チャイムが鳴ったら職員室に戻る。
こうしてれば、勝手にお給料は振り込まれる。
71
おそらく、完全に私が授業をせずにただ教卓で眠りこけていても
同じ額が振り込まれるだろう。
たまに授業中に窓ガラスに自分が映る。
私が子供のころ描いていた大人と全く違う自分の姿がそこにはい
る。
大人って、こんなに楽しくないもんなんだ。
72
やっぱり砂糖は甘いし、コーヒーは苦い。ビールはもっと苦い。
2
私も高校は私立だった。
自由な校風が︱︱とかやりたい勉強ができるから︱︱とかは建前
で、いじめられないためだった。
公立高校はいじめられる。
いじめられっこの中での暗黙の了解だった。
いじめられないためには頑張って勉強していい私立に行くしかな
い。
だから、いじめられっこはできるだけ頑張って勉強したのだ。
教科書を隠されても、ペンケースにチョークを粉ごと入れられて
も勉強するしかなかった。
それで、なんとか私立に入ったいじめられっこは、いじめられっ
こではなくなる。
代わりに立派な人間不信ぼっちができあがっていた。
いじめられない代わりに誰とも関わることがない、ただ授業を受
けて、お昼ご飯を食べて、まっすぐに帰る。
誰ともしゃべることなく︱︱。
73
その人間不信ぼっちの一部は﹃大学デビュー﹄という名の生まれ
変わりに成功するのだが、大半の人間不信ぼっちは、そのままずる
ずると社会人まで人間不信ぼっち引きずる。
そして、挫折に次ぐ挫折、大挫折。私、今ココ!
仕事を辞めることができたらどんなに楽か! 辞めることも怖い
し、仕事に行くのも怖い。
なんだかずっと怖い怖いお化け屋敷の中で過ごしてるみたいだ。
怖いお化け屋敷をうろうろしているだけでお金がもらえて、ご飯
が食べられる。もしかしたら、実にホワイト企業なのかもしれない。
精神上はよくないけど。
ここも私立高校ということでは私の通っていた高校と一緒。
だけど、あのときの私に似たような人間不信ぼっちがいるかとい
うと、そうではなかった。
私の地元とは違い、この地方では公立こそ名門であり、上位の公
立高校に通う生徒こそエリートなのだ。
この公立高校エリートは、そのまま地元の国立大学に進学し、そ
のまま県庁や地元の銀行員となる。
それが昔からある勝ち組コースなのだ。
74
そして、その偏差値ピンキリの公立にも入れない生徒がいる。
その生徒が通うのがうちの学校。
つまり名前が書けて、入学金を払うことができれば誰でも入れる
︱︱そんな学校。
そんな生徒が集まる教室で、ぶつぶつぶつぶつ言う。
お化け屋敷の中で誰も聞いてないお話をする。それでお化けたち
からもらったお金でお給料がいただけてるというわけ。
お化けにゃ学校も⋮⋮試験もなんにもない!
そんなことはなく、学校も試験も存在する。ただ、限りなくイー
ジーモードではある。
出席も席に座ってればいい。試験も持ち込み可能な上、試験問題
そのものの学習プリントを配る。
それでもクリアできないお化けたちには超イージーモードとして
補習をなんとか受けさせてクリアさせる。
ここまでくるともう完全にチートを使ってるみたいなもの。
そのお化けたちをクリアさせるこっちはハードモードな上、アイ
テムなし縛りプレイをやらさっれている⋮⋮そんな感じ。
ホワイト企業でハードモードアイテムなし縛りプレイ。それを毎
日一二時間近くやってるのだから、そりゃ精神がおかしくなるって
75
もんだ。
ゲームは一日一時間!
とある偉い名人は言ったけど、それを私は十時間以上やってる。
お外で遊んできなさい! って言ってくれる母親もいないので今
日もひたすらお化け屋敷でハードモード縛りプレイ。
もういっそのことお化けになってしまいたい気分だ。
76
やっぱり砂糖は甘いし、コーヒーは苦い。ビールはもっと苦い。
3
このお化け屋敷にはいろんなお化けさんがいる。たぶん、いいお
化けもいれば、悪いお化けもいるんだと思う。
だけど、たいがいのお化けは私の方を向いてはいない。
ほとんどのお化けが携帯電話をいじる。ぴこりん、ぴこりんと﹃
らいん﹄とやらの音が教室のあちこちで鳴り響く。
携帯をいじっていないお化けさんがいたと思ったら、化粧をして
いたりだとか、雑誌を読んでいたりだとか、寝ていたりだとか︱︱、
とにかく授業を聞いているようには見えない。
唯一、板書をノートに移している生徒もいるにはいるんだが、ヘ
ッドホンで音楽を聞きながら︱︱というありさま。
きっと、音楽を聞くついでに暇だからノートでもとるか⋮⋮みた
いなスタンスなのだろう。
時計の針は今日もゆっくり流れている。
私が高校生の時も同じことを感じてた気がする。
学校の時計っていうのは何かしらおもりがしてあって、本当はと
っくに授業なんか終わってるんじゃないかって思ってた。
まさか、学校の先生になってからも同じことを思うなんてね。
77
もう、いい大人なのに。
教科書をぶつぶつぶつ読んでいる。なんだかお経を読んでるよう
な気分。
これでお化け退治もできればいいんだけれど、宗教の関係か、向
こうのヒットポイントが強いのか、全く持って効果はいまひとつの
ようだ。
私は、全く攻撃をしかけてこない相手に対して全く効かない呪文
をひたすらかけている状態。
とりあえず、私のマジックポイントが終わらないように︱︱なる
べく疲れないように︱︱とにかく一日を無事過ごすことに一生懸命
だ。
なんだ。やってることなんてずっと変わらないじゃないか。
だって学生時代もずっとこうだったから。
むしろ、大人になってからの方が生きるのにめんどくさくなった
くらいだ。そうか、みんな子供には言わないんだ。
大人ってめんどくさいよ⋮⋮って。
それで笑ってた。大人っていろいろ嘘つきだ。
そんな嘘つきの中、嘘つき候補のお化けさん達にお経を読み、嘘
78
つきな偉い人からお金をもらう。そんな毎日。
もしかしたら、めんどくさいお化け屋敷にいるのは自分だけで、
他の大人の人は楽しいメリーゴーランドだとか、ジェットコースタ
ーとか、そういうところで楽しく過ごしてるのかもしれない。
だけど、私はずっとお化け屋敷にいなければいけないんだと思う。
そんなことを思いながらお経を読み続けると、なんと重い時計の
秒針が今日の終わりを告げてくれた。
◇
﹁ただいまー﹂
なんて、言ってはみるけど﹁おかえり﹂って返してくれる相手も
いない。
それだったら、何も言わずに部屋に入ればいいものだけど、それ
はそれで無性に寂しくなってしまう。
結局のところ、寂しいのだ。人間だもの。
寂しさをひきずりながらも、手を洗ってうがいをする。
別にもう褒めてくれる人はいないけど、やらなきゃやらないでな
んだか気持ち悪い。
私は私なりの帰ってからのやることリストがもう頭に入ってるの
だ。
79
家に帰ってきたら、まず誰に伝えるわけでもない﹁ただいま﹂を
言う。
そして、手を洗い、うがいをする。
コートを脱ぎ、眼鏡を外す。
服を脱ぎ︱︱、ブラとショーツも外す。
そして︱︱、はだかんぼになる。
誰に見せるわけでもなく、私ははだかんぼになる。
昔からはだかんぼでいるのが好きだった。嫌なこととか悲しいこ
ととか寂しいこと、そんなことが全部忘れられるような気がしたか
ら。
よく実家の時ははだかんぼでいるとお母さんに怒られた。それも
そのはず。ちっちゃい子ならまだしも、中学、高校になっても娘が
はだかんぼでいるのだから。
でも、もう誰にも怒られない。だから開放感あふれるまま、私は
明日への鋭気を養うことができるのだ。
はだかんぼのまま冷蔵庫へ行き、きんきんに冷えたカルピスサワ
ーを取り出す。
本日もお疲れさまでした。⋮⋮何もしてないけど。
はだかんぼのままベッドに腰掛け、缶のままカルピスサワーに口
80
をつける。
おなじみの甘さが口の中に広がる。安心して飲み続けられるよう
な安心感のある優しい甘さ。
小さいころから大好きだけど、やっぱり大人になってからもやめ
ることができない。たぶん、お母さんのおっぱいを卒業できない赤
ちゃんのように、私はこの年になってもこの甘さを求めてしまう。
だけど、大人の違うところは、この甘さにアルコールが入ってる
というところだ。
のどが少しずつあったかくなってきて、だんだん頭がとろんとろ
んになっていい気分になってくる。
ビールとかワインとか焼酎とかそんな大人の飲み物のおいしさは
わからない。
だけど、カルピスサワーだけは私を裏切らない。昔ながらの味で
私を気持ちよくさせてくれる。
もし、カルピスサワーがなくなってしまったら生きていけるかど
うかもわからない。
もう、麻薬みたいなもんなのだ。
本当の覚醒剤とかドラッグと違って、この乳製品ドラッグは規制
されないからいい。
もし、禁酒法なんてなったらカルピスサワーの飲めるところに高
81
飛びしてしまうかもしれない。
それがどこだかはわからないけど。
一缶飲み干すと、とろんとろんのふわふわになってくる。
姿鏡で身体を見てみる。うん。いい感じに酔っぱらって来ていま
す。
おっぱいもおしりもほんのり赤い。
あんまり飲み過ぎると、次の日に起きれなくなっちゃうので仕事
のある日は一日二缶までと決めている。
それくらいの方が気持ちよく眠れるから。逆にそれ以上飲むと気
持ち悪くなっちゃうのだ。
冷蔵庫を開けると、ストックのカルピスサワー顔切れているのに
気づく。
⋮⋮しょうがないなあ。
私は、クローゼットから白のダッフルコートを取り出し、はだか
んぼの上に羽織る。
玄関で裸足にロングブーツを履く。
そして、部屋を出る。
冷たい風が吹く中、私はコンビニに向かうのだ。
82
肌にコート生地がちくちくする刺激とか、酔ってる肌にあたる風。
実に気持ちいい。
そして、人とすれ違うたびにわくわくする。
きっと、この人達はこのダッフルコートの下がはだかんぼである
ことなんて夢にも思わないだろう。
最上級に気持ちがいい。
説明しよう。私は、酔っぱらうとちょっと変になるのである!
というより、元からちょっと変なので、ある!
83
やっぱり砂糖は甘いし、コーヒーは苦い。ビールはもっと苦い。
4
すれ違う人の顔をじっと見てやったりもする。
普段は人の目なんて見ることができないのに、眼鏡を外してぼん
やりとしか見えないことと、アルコールが入ってる今の私だからで
きることだ。
相手がどんな反応をしてるか、なんてこともこっちはわからない。
そこがまた楽しい。
楽しい。楽しい。楽しい。楽しいっ!
アルコールの入ってる時ってすごく楽しい。あんなに楽しくなか
った日常がこんなにも愉快に変わるんだもの。
普段はお化け屋敷にいるのにお酒が入るとナイトパレードを見て
いるみたいに周りがキラキラして見える。
ずっと、酔っぱらっていられればいいのに!
酔っぱらっていても勝手にお金が入ってくればいいのに。
いや、この際お金なんていらない! 冷蔵庫に勝手にカルピスサ
ワーが補充されてればいいのに!
そうすれば、お化け屋敷でお化けさんを相手にぶつぶつぶつぶつ
言ってなくったっていいのだ。
84
いっそのこと、お酒を飲んで授業をしてやろうか。そうすればあ
のお化け屋敷もナイトパレードに変わる。
さまざまなお化けが軽快なリズムに乗って、明るい音楽と楽しい
パレード!
もう、なんて日だ! あはははっ!
◇
﹃ぴろぴろぴろーん、ぴろぴろろーん!﹄ ﹃らっしゃせー﹄
﹃お買い物中のみなさんこんにちはー。今週からこのコンビニだけ
にお送りするラジオプログラム︱︱﹄
お酒の力を借りれば、いつもと同じコンビニ風景もなんだか無性
におかしい。
なんだかコンビニコントでも始めたい気分!
﹃うぃーん﹄
﹃いらっしゃいませ﹄
﹃何名様ですか?﹄
﹃それ、客のセリフじゃねえだろ! あと、コンビニでそんなこと
聞かねえよ!﹄
的なね! オチは特に思いつかないけど! わー。あはははっ!
そんな私を出迎えるかのようにお酒コーナーにはカルピスサワー
85
のみなさんが並んでいた。
ありがたいありがたい。全部買い占めてしまおう。あるったけの
カルピスサワーを買い物かごに詰めると、レジの列に並ぶ。
時間がちょっと遅めなのか、いかにも飲み会あがりで酔っぱらっ
てます、みたいなお兄さんお姉さんたちが目立つ。
酔っぱらってる人たちはいっぱいいても、この中でコートの下が
はだかんぼなのは私だけだろうな、なんてことを思って勝手に一人
でほくそ笑む。
﹃お待ちのお客様どうぞー﹄
レジのお姉さんが私を呼んだ。
え? お姉さん。私を誘ってるの? なんてことを言い出したら真の酔っぱらいだけど、元の私が根暗
を絵に描いたような性格故、アルコールが入ってるとはいえそこま
で饒舌になることはない。
アルコールは内気な人を陽気にするくらいの力はあると思うけど、
私みたいな根暗のドンくらいになると、根暗のドンが普通の根暗に
なるくらいなので、端から見てもそこまでは変わらないとは思う。
どうでも、いいけど﹃根暗のドン﹄ってなんか恐竜みたいじゃな
い。ネクラノドン。なんか﹃プテラノドン﹄みたいな! まあ! どうでもいいんですけどね!
﹃すいませーん。年齢確認のボタン押してくださーい﹄
86
お姉さんが私の目を見てる⋮⋮気がする。いや、見てないかもだ
けど、近視パワーでここは見てることにする。
︻私は二〇歳以上です︼
のボタンを見てちょっと考えてしまう。そりゃ、私は実年齢上は
二〇歳以上ですよ?
ただ、二〇歳以上の大人と呼ばれている人達ははだかんぼの上に
コートを来て夜道を闊歩するのだろうか。
そもそも未成年だってそんなことしないんじゃないだろうか。
だったら、このボタンは
︻私は、はだかんぼの上にコートを着てコンビニに来るレベルです
ので、お酒を買う資格なんてございません!︼
とかにしてもらった方がいいな! ⋮⋮いや、だめだ。だって私がカルピスサワーを買えなくなるも
の。
︻私は、はだかんぼの上にコートを着て、おっぱいのさきっちょが
生地に触れるたびに少しえっちい気分になってるレベルなので、店
員のお姉さん、私をいただいてください︼
ってボタンがあったら速攻で押す。名人もびっくりの連写でレジ
を故障させる勢いで押す!
87
っていうか、お姉さん可愛いな。赤縁の眼鏡可愛いな。
お姉さん若いからおそらく深夜のシフトじゃないんでしょ。だっ
たら私をお持ち帰りしてください。
私なんでもします。うまく目を合わせられなかったり、うまくし
ゃべる言葉が見つからなかったり、足震わせたりとか。
人見知り、口べた、そしてネクラノドンと、全てのスキルを解放
してますから! 安心安全の実績で対応しますからー!
⋮⋮まあ、そんなことを言えるわけもなく、無難にお札と小銭を
渡し、無難にお釣りを受け取ることに成功した私は、ちょっとお辞
儀をする。
お姉さんに誘われることもなく、私はコンビニを後にする。
まあ、しょうがない。というか誘われたら困る!
誰も待ってないお部屋に戻るとしますか。︱︱飲みながら!
ぷしゅう、とプルトップを開けて、炭酸があふれないうちに口に
そそぎ込む。
冷たい風と温まってる身体、そこに甘い炭酸が流れ込む。
あー、なんとかなっちゃいそう。全てがなんとかなっちゃいそう。
88
﹁先生?﹂
誰かが誰かを呼ぶ声が聞こえた。
﹁はい!﹂
⋮⋮あ、癖で答えてしまった。どう考えても私を呼ぶ声じゃない
のに。
だって、そうでしょ。眼鏡も外してるし、いつもと違うコートだ
し、しかもお酒飲みながら歩いてるし⋮⋮そりゃお化け屋敷の私と
は思わないでしょ。
しまった。誰か別の人が別の人を呼んでる声に反応してしまった。
恥ずかしい。ネクラノドン、一生の恥。
﹁やっぱり先生だあ﹂
その声の主は私に近づいてくる。
⋮⋮え? 本当に私に用なの? 急に酔いが覚めていく気がした。
89
やっぱり砂糖は甘いし、コーヒーは苦い。ビールはもっと苦い。
5
﹁せーんせっ!﹂
﹁ぬわっ!﹂
後ろから思いっきり抱きつかれた。ふわっとした髪の毛が私のう
なじにあたってるのがわかる。
あ⋮⋮いい匂いだ。このシャンプー好き⋮⋮?
一瞬、髪の毛のいい匂いがしたと思ったら今度は別の匂いが漂っ
てくる。
甘い⋮⋮ような、それでいてちょっと土臭いような。
あ、あれだ。これ、無理矢理出席させられた先生方の懇親会の時
と同じ。
ワインの匂いだ。ブドウから作られてるってのにブドウジュース
とは違って変な味のするやーつ!
ワイン? 先生? ってことは⋮⋮この抱きついている誰かは私の生徒で⋮⋮なおか
つお酒を飲んでいる?
未成年の飲酒は法律で禁止されています!
90
そんなことは小学生だって知ってる。コンビニだって未成年には
お酒を売っちゃいけないんだ。
だけど、コンビニのあのタッチパネルで﹃二〇歳以上﹄を押して
しまえば誰だって買えてしまうのは事実。
あのパネルさえ押すことができれば赤ちゃんだってお酒を買えて
しまうのだ! まあ、その前に店員が止めるだろうけどね。
未成年飲酒を注意しなければ!
腐っても私教師なんだから!
腐り腐って、腐葉土になって、カブトムシの幼虫とかにいい栄養
を与えそうなレベルで腐ってるけど、私教師なんだ!
﹁⋮⋮あ、あの!﹂
抱きついてる腕をほどいて相手を見た。
びっくりした。
二十三歳年間生きてきて、それでいても今までに味わったことの
ない感覚があるなんて⋮⋮。
こんなことあるんだ。
顔を見た瞬間、私、この人のこと好きだ⋮⋮って感じることって
︱︱。
91
好き。癖ひとつない髪の毛とか、可愛らしい奥二重とか。
そして、思わず抱きしめたくなっちゃうほど華奢な身体。
わんこみたいだ。ちっちゃなかわいいしっぽをふんふんさせて私
を見ている。
好きだ。好き過ぎて吐くたくなってくる。
﹁せんせ?﹂
最初は、未成年飲酒を注意するつもりだった。だって教師だもん。
当然でしょ?
教師じゃなくて、大人としても当然でしょ。
それなのに、私は︱︱。
怒るどころか、彼女を抱きしめていた。
可愛い耳を鼻でつんつんする。
﹁ん⋮⋮﹂
ふと漏れた彼女の吐息まで好きだ。
好きだ。はあ、好き。
顔を髪に押しつける。わしゃわしゃわしゃ。
92
可愛いですねー。よーしよしよしよし! とどっかの動物王国の
人なみに鼻をなすりつける。
何やってるんだろう。私。
未成年飲酒を注意できてないどころか、外で女の子に抱きついて
いる。
そして、何よりもだめなのが⋮⋮。
私が抱きついているこの子︱︱。
この子⋮⋮いったい誰なんだろう。
公衆の面前で︱︱、片手に缶のカルピスサワー、もう片方に袋に
入った大量のカルピスサワー。
そして、私の腕の中には誰だかわからない女の子。
そんな二三歳、酔っぱらいの夜だ。 93
やっぱり砂糖は甘いし、コーヒーは苦い。ビールはもっと苦い。
6
◇
気が付いたら、またカルピスサワーを飲んでいた。
カルピスサワーはすごいなあ。いつ、どこでのんでも同じ味がす
るんだもの。
全く知らない子の家であっても︱︱だ。
なぜか、知らない子に抱きついたらあれよあれよという間に⋮⋮
その子の家に上がり込んで︱︱、一緒に飲んでる。
酔いが一周回って来て、だんだん冷静に物事を考えられるように
なってきてる。
うん、問題が山積みだ。
まず、知らない女の子の家に上がり込んでるということ。
そして、知らない女の子と一緒にお酒を飲んでること。
最後に、なにより︱︱このコートの下は、はだかんぼだと言うこ
と。
お酒の力って偉大だって思う。だってこの状態であっても何事も
94
なく時間が過ぎていくんだもの。
携帯をいじるふりをして時間を確認する。
久々に現実から逃げたくなった。
だって、もう午前三時を過ぎているのだ。やばい。さすがに帰ら
なければ。
明日だって仕事なのだ。八時前には家を出ないといけないのだ。
でも、帰るにもここがどこだかわからない! わかったとしても
家までの道のりが全くわからない!
そうだった。勢いだけでこの子についてきただけだった。ただ、
後ろをついていったらこの家︱︱このアパートに来ちゃったのだ。
この家はアパート、というにはしっかりしすぎているほど、しっ
かりした作りだし、それでいてどことなくおしゃれだ。ちゃっかり
オートロックだし、防音もしっかりしてそう。
家具も統一感がある⋮⋮っていうのかな。オサレすぎてよくわか
らないや。
とにかく、私ように近所のカインズホームで適当にやすいやつを
買う⋮⋮みたいなことはしてないのだろう。
﹁せんせ、いっぱい飲んだねー﹂
改めて、この知らない子を見る。私を﹁先生﹂と呼ぶからには学
95
校の生徒だとは思うのだけれど⋮⋮なんかうちの学校特有の派手さ
がない。
ちゃんと黒髪だし、そこまで長すぎない髪だし、ピアスもしてな
いし⋮⋮。
いや、まあ、そういう生徒だって中にはいるから珍しくはないの
だけれど、少数派である分、私が覚えていない、ってことにすごく
違和感がある。
それに私を﹁先生﹂って認めてくれてる生徒なんているのだろう
か。本当にぶつぶつぶつぶつ言ってるだけの授業をしてる私を﹁先
生﹂扱いしてくれる子がいたなんて︱︱。
当の本人は、家に入るなり開けたワインがもう一本空になってい
る。
私には、未知の世界だ。そんなにお酒を飲んじゃったらいったい
どんな光景が広がっているのだろう。
﹁ねえ、せんせ。私もせんせも明日学校だから﹂
あ、そういえば明日が学校なのは、私だけじゃないんだ。
ん⋮⋮でもこのタイミングで帰らされても道が⋮⋮。
まさか、今更、ここがどこって聞ける空気でもないし⋮⋮。って
いうより私が聞きたいのは、﹁ここはどこ?﹂っていうよりも﹁あ
なたは誰?﹂ってことだし。
96
私は得意のフリーズをしてみせる。どうしたらいいかわからない
時の昔からの得意技だ。
まあ、フリーズから解除されたところで解決策なんて見えてはこ
ないのだけれど。
﹁よいしょっ﹂
可愛らしい声を出すと彼女が立ち上がる。
そして、服を脱ぎだした。
フリーズが解除されるどころか、ますます私の身体は固まってし
まう。
水色を基調とした可愛らしいデザインの下着、彼女はそれをぽー
んと投げ捨てる。
彼女もはだかんぼになった。
お酒のせいでおしりもおっぱいも真っ赤に染まっている。
全体的に赤くなってる彼女の身体はどことなくえっちい。
﹁寝よ! 先生も脱いで!﹂
ねねねね⋮⋮寝る?
なぜか頭の中には﹃ねるねるね∼るね﹄というお菓子が浮かび、
そのCMに出てくる魔女のおばあさんが頭の中をいったり来たり。
97
うまい! てーれってれー。
寝る? 脱ぐ? ⋮⋮脱いで? 寝る?
ますますフリーズに磨きがかかっているところに、彼女が私のコ
ートのボタンを外す。
あ、だめです。そのコートを外されると⋮⋮。
私もはだかんぼになった。
﹁だって、もともと裸なんでしょ?﹂
ば、ばれてました!
﹁別に恥ずかしいことじゃないよ。私も裸好きだし﹂
そういうなり、彼女は私の手をぎゅっとつかむ。
ふぅあ⋮⋮、人に手を握られるなんて、高校の時のフォークダン
ス依頼⋮⋮ってことは女の子に手を握られるのなんて⋮⋮初めてだ。
すべすべしてるんだな、って思う。
すごく上等なシルクをさわっているような、そんな感覚。
私は、彼女のオサレベッドに連れて行かれる。
あああああ、これがベッドインとかいうやつですか! いや、ま
だ心の準備が!
98
っていうか、そもそも私も女で彼女も女なわけだし。そんな知識
も技術も持ち合わせてないっていうか!
﹁じゃあ、おやすみ!﹂
⋮⋮え?
ふかふかの掛け布団を私にかけると、彼女はそこに潜り込んでく
る。
そして、リモコンで部屋をやや暗くしていく。
なんで、照明までオサレなんだろう。
うっすらとオレンジ色な照明に包まれながら、私と彼女は横にな
っている。
知らない女の人と裸で横になる。私の人生の中にそんなことがあ
るなんて︱︱。
﹁ねえ、せんせ。ぎゅっとしていい?﹂
私が答える前に、彼女がぎゅうっとしてくる。
さっきの上等なシルクを身体中に纏っているような、そんな柔ら
かい感覚を彼女の肌から感じ取っていた。
ぎゅうううう。
99
うん。抱きしめられるって。こんなにいいものだったんだ。
こんなにいいもんだったらずっと誰かしらに抱きしめられていた
かったよ。そうすれば今まで何も悩むことなんてなかったのに、寂
しいことも悲しいことも何も、感じることはなかったのに︱︱。
100
やっぱり砂糖は甘いし、コーヒーは苦い。ビールはもっと苦い。
7
﹁せんせ、かわいい﹂
彼女は笑う。あー、こんなに可愛い子がいたんだ。
近視な私には、この距離で初めてわかる彼女の顔。
人見知りな私が思わず気を許してしまうような、そんな人なつっ
こい顔。
子犬のようで、子猫のようで︱︱、それでいて人間の赤ちゃんの
ようで︱︱。
この子に対する不信、だとか疑うことだとか、そんな感情は一切
湧いては来ない。
そうか、だから私はこの子についていったんだ。酔いに任せて︱
︱、とかテンションに任せて︱︱、とかそんなんじゃなくって必然
だったんだ。
ちっちゃい頃から神様なんて信じちゃこなかった。神社で日本の
神様に手を合わせ、お寺で仏様に願い事をし、クリスマスにはキリ
スト教の神様にお祈りした。
やっぱり他人におびえるような毎日は変わらなかったし、特にい
いことだと言えるような日々を送ってきたとは言い難い。
101
だけど、この子に出会うために私に生を与えてくれたのだとすれ
ば、もしかしたら神様はいたのかもしれない。
全てはこの日のためのスパイスだったかもしれない。
悲しいことも寂しいことも、辛いことも鳴きたいこともあった。
だけど、それは今日のためにわざわざ用意してくれた試練だったん
じゃないかって思えた。
今度は、私から彼女の頭を撫でて、ぎゅうっと抱きしめてやる。
あー、すっごく気持ちいい。
撫でること、撫でられること。
抱きしめること、抱きしめられること。
似てるようで全然違う。
共通してることは、ただただ気持ちいいってことだけだ。
﹁かわいい﹂
思わず声に出してしまう。だけど、言ってしまったことに対して
後悔だったりとか恥ずかしさとかはなかった。
だって、本当のことだったから。
﹁せんせ、私そんなかわいくないよ﹂
﹁そんなこと言わない。かわいいよ。赤ちゃんみたい﹂
﹁⋮⋮じゃあ、私、せんせの赤ちゃんになっていい?﹂
102
彼女の小さな頭が私の胸にうずくまってくる。私はそれを包み込
む。
﹁いいよ﹂
ゆっくりと彼女の背中をさする。華奢な彼女の身体は、頬ってお
いたら壊れてしまいそうだ。
元々、友達もいなかったし、一人っ子だったし、小さい子の面倒
なんてみたことない。
自分の子供がいてもおかしくない年頃だけど、子供の扱い方なん
てわからない。
わからなかったはずなのに、まるで自分の子供のように彼女を抱
きしめ、肌を︱︱髪の毛を愛おしんでいる。
好き。
ただ、好き。
103
やっぱり砂糖は甘いし、コーヒーは苦い。ビールはもっと苦い。
8
﹁よしよし﹂
頭をゆっくりと撫でてやると、ぎゅっ、と彼女が身体をまんまる
くする。本当に赤ちゃん帰りしてるのかもしれない。
﹁甘えていいよ﹂
私の胸の中でこくっと頷いたのがわかった。
彼女が顔をすりすりとこすりつけてくる。それがくすぐったくっ
て、それでいて、気持ちよくなってくる。なんだか変になってきち
ゃいそうだ。
ちゅっ。
﹁ぁぅ⋮⋮﹂
思わず声が出てしまった。
だって、彼女が私のおっぱいを吸ってきているのだから︱︱。
﹁だ、だめ。だって、で⋮⋮ないよ﹂
本当に赤ちゃんなんだな、って思う。そんな、彼女を、またゆっ
くりと甘えさせてやりたいのだけれど、おっぱいを吸われる度に、
今まで味わったことないような刺激が体中を駆け抜ける。
104
知らない子におっぱいを吸われて感じちゃってる。
もう、だめだ。私、変態だ。
だって、それが気持ちいいんだもん。はだかんぼにコートを着て
町を歩くよりも、コートの生地が乳首にあたって得られる快感なん
かよりも、ずっとずっと気持ちいい。
もしかしたら、全国の赤ちゃんを持つお母さんはおっぱいをあげ
るたびに感じてるのかもしれない。
だから、女の人は赤ちゃんを生むのかもしれない。
けど、私のおっぱいを吸ってる誰だかわからない赤ちゃんのおっ
ぱいの吸い方はすごく⋮⋮えっちくって、気持ちがいい。
﹁⋮⋮んっ﹂
﹁せんせ、おいしい﹂
もう、先生なんて呼ぶのはやめて。お願いだから。ねえ。だって、
今、私、知らない生徒におっぱい吸われて感じちゃってるんだよ?
そんな変態を先生なんて呼ばないでよ。私はだめなんだって。だ
めな人なんだって。
自分のクラスの生徒をおばけ扱いしてる場合じゃないんだって。
私が一番のおばけなんだって! 105
おっぱい吸われて感じてる変態おばけさんなんだって!
◇
まぶたが重かった。セロハンテープでも貼ってるのか、ってくら
い目が開かない。
やっとこさのところで目を開けると、そこは私の部屋ではなかっ
た。
なんで、こんな状況なのか、それを考えようとすると、頭を思い
っきり殴られたみたいな頭痛が襲ってくる。
⋮⋮ああ、これか二日酔いって。
今まで、そんなにいっぱい飲んだことなかったし、飲んだとして
もこんなに睡眠時間が短い朝は迎えたことがない。
なんとか、頭を持ち上げる。こんなに身体って重かったっけ?
﹁おはよ、せんせ﹂
その声とともに目の前にコップが現れる。
﹁お水飲める?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮すいません﹂
声になってるんだか、なってないんだか、それくらいの音量の発
声だった。
106
コップの水がやけに冷たい。飲むと口の中に残ってるお酒の苦さ
が洗われていくような感覚が広がる。
あ。
そこで今の状況を完全に把握できた。
私は、家で酔っぱらってはだかんぼにコートでコンビニ行っちゃ
って、そこで見知らぬ生徒に声をかけられて、なぜか家についてい
っちゃって、そんで一緒に飲んで、一緒のベッドに寝っ転がって︱
︱それでおっぱい吸われて、気持ちよくって︱︱。
それで、知らないこの子が好きなんだ。私。
⋮⋮いや、そんなこと言ってる場合じゃないんだ。まず、言わな
くちゃならないことがあるんだ。ごめんなさい。そもそも、あなた
は誰ですか? って。
ついてっちゃって、泊まっちゃって、それでおっぱい吸ってもら
ってなんですけど。
あなた誰ですか。って。
﹁⋮⋮あの!﹂
﹁せんせ、着られそうな服。ここに置いとくから。一回、家戻るで
しょ?﹂
﹁ありがとうございます⋮⋮っていや、そうじゃなくって!﹂
ん? って首を傾げた彼女と目が合った。彼女は、銀縁の眼鏡を
かけて⋮⋮それで髪を後ろで一つに結んでる。
107
あんなに重かったまぶたが一気に開いた。
この子⋮⋮いや、この人は!
﹁何? そんな驚いた顔して?﹂
彼女は、ライトブルーのシャツに白いスカート、その上に白衣を
羽織っているところで︱︱。
﹁保健室の⋮⋮﹂
生徒なんかじゃなかった。未成年の飲酒なんかじゃなかった。
職場の︱︱、学校の、保健室の先生。
まさかの、同僚だったとは︱︱。
いや、だって、白衣の姿しかみたことなかったし、そもそも眼鏡
はずしてたし、髪だってまとめてなかったし、そもそもそれほど話
したことないし!
﹁ふつう気づくだろ!﹂ってツッコミをする自分と﹁わかるわけな
いだろ!﹂と逆ギレする自分が頭の中で大紛争を初めている。
﹁ああ、この格好? 普通の養護教諭って学校着いてから着替える
んだろうけど、めんどくさいしね。それになんか、この格好で登校
した方が﹃保健の先生﹄! って感じじゃない?﹂
どうやら、先生は私が今の今まで、彼女自身の正体に気がつかな
108
かった︱︱なんてことは思っていない様子。
いや、その方が好都合なんだが。なんだか、私だけが勝手にあた
ふたしてる感がハンパない。
﹁眼鏡なくて、歩ける?﹂
﹁大丈夫⋮⋮だと⋮⋮思います﹂
﹁まあ、そうだよね。視力検査の時もそこまで悪くなかったもんね﹂
⋮⋮そういうことか。
どおりで眼鏡を外してるのに、私だとわかるはずだ⋮⋮。
私は、学校で眼鏡を外したことはない。
保健室での職員用視力検査以外では︱︱。
保健室にいる養護教諭だけは、裸眼の私を見ていることに︱︱。
あー。もう、何がなんやら。
﹁じゃあ、行こっか﹂
頭が混乱したまま、私は彼女の部屋を出る。
すると、見覚えのある光景が広がっていた。
教室からいつも見えるグラウンドが⋮⋮目の前に。
まさか、このワンルームマンション、学校の裏口のそばだったと
109
は⋮⋮。
ここはどこ? っていう騒ぎじゃない。
だって、学校の隣だもの。
そして、私のアパートまで徒歩五分の距離じゃないか。
お酒の怖さを改めて思い知らされた二三歳の早朝︱︱。
110
やっぱり砂糖は甘いし、コーヒーは苦い。ビールはもっと苦い。
9
◇
すぐにアパートに戻り、いつもの眼鏡、いつものスーツ、いつも
の精神不安定を持ち合わせて、ドアを開ける.
すると、彼女が待ってくれていた。
昨日、はだかんぼで一緒に寝た彼女が目の前にいる。それはなん
だか変な気持ちで、それでいて未だに信じられないという思いも同
時に溢れてくる。
﹁あの⋮⋮おまたせ⋮⋮しました﹂
﹁じゃあ、いこっ!﹂
手を、ぎゅっとされる。
お酒のせいで忘れかけていた昨晩の彼女の肌のすべすべだとか、
柔らかさだとか。そういう気持ちいい感覚が指を通じて私の脳天を
直撃する。
﹁大丈夫だよ。今の時間、生徒もまだ来てないし﹂
﹁は、はい﹂
恋人つなぎってやつはいいものだな。
お互いの指と指でこすりあう気持ちよさ、それだけ、とろけてな
くなってしまうかもしれない。
111
眼鏡を通して見る彼女は、昨日よりも、落ち着いて見える。それ
は、眼鏡のせいかもしれないし、白衣のせいかもしれないけど、も
し、私が昨日、ちゃんと眼鏡をかけて、それでいて素面だったとし
たら彼女のことを生徒だとは思わなかったかもしれない。
彼女の人差し指と薬指のくすぐりが止まる。
﹁ねえ、昨日言ったのは本当?﹂
優しい目だな、って思う。人間の目っていうのは、私が思うより
も怖くないのかもしれない。
﹁昨日?﹂
﹁その⋮⋮甘えてもいいって﹂
少し、恥ずかしそうな彼女の顔を見ると、昨日の少女と今日の目
の前にいる彼女が同一人物なんだ⋮⋮ということがわかる。
うん、やっぱり好き。
﹁⋮⋮はい﹂
私は、また声になるかならないかギリギリの音量で答える。
声の音量を補うために力強く頷いたりもしてみる。
﹁⋮⋮ありがとう﹂
笑って見せた彼女の口元には可愛らしい八重歯が浮かぶ。
112
ああ、やっぱり可愛い。そして、この人は少女だ。生まれながら
の少女なんだ。
身分は、学校の養護教諭かもしれない。でも外見も中身もすごっ
く無垢でいて、それでいて思わず抱きしめたくなるような︱︱、要
は、かわいくて、かわいくて、どうしようもない。
﹁じゃあ、また﹂
保健室の前に差し掛かるところで彼女と私は別れることになる。
なんだか、急に現実に引き戻されたようで心が弾けそうになる。
また、あのおばけさん達と戦わなければいけないのだから。
﹁はい⋮⋮また﹂
きびすを返して、職員室に向かおうとした。
﹁ねえ!﹂
え? と声を出す余裕もなかった。
彼女の唇が、私の口をふさいでしまっているから︱︱。
これが、きす なんだ。と思う。
漫画の中だけの存在だと思ってた。あの、きす なんだ。
113
実在するかどうかで言ったら、おばけさんと同等のレベル。
少女時代の私に言ってあげたい。
現実には、おばけもきす も実在します!
気がつくと、舌が私を優しく包み込んでくれていた。私も負けじ
と舌で彼女の歯をなめとる。
八重歯のさきっちょが私の舌にあたる。
かわいい、かわいい、かわいい!
学校の中、かわいい!
学校の廊下、かわいい!
保健室の前、かわいい!
生徒に見られるかもしれない、でも。
かわいい!
ちょっとだけ、苦い味がする。
それは、おそらく、昨日彼女が飲んだワインの味。
それも悪くないな、と思う気がした。ずっと、のこの苦さに染ま
っていたい気がするくらいだ。
114
私は彼女の背中に手を回す。
てれれれって、てってー。
私の中のどこかで、レベルのあがる音が、聞こえた気がした。
115
やっぱり砂糖は甘いし、コーヒーは苦い。ビールはもっと苦い。
9︵後書き︶
第三話 やっぱり砂糖は甘いし、コーヒーは苦い。ビールはもっと
苦い。︵了︶
116
酔っ払った彼女の火照った素肌、あったかいんだから⋮⋮。 1
女っていうのは、なんでこうめんどくさいのだろう。
女っていうのは、まず群れたがる。
買い物をするために群れる。
物を食べるために群れる。
トイレに行くために群れる。
衣・食・住、すべての行動において群れる。
それで、女っていうのは、群れるためにグループを作る。
大きいグループもあれば小さいグループもある。
いや、大きなグループの中で小さいグループをさらに作るって言
ったほうがいいか。
その小さなグループで服を買い、物を食べ、トイレに行くってわ
け。
小さなグループで行動する女っていうのは、フォーメーションを
大事にする。
一人でも欠いてはいけない。そのメンバーはいなくちゃいけない。
野球だったりとか、サッカーだったりとか、ラグビーだったりと
か、一人が欠けると成り立たないグループがたくさんあるなか、女
117
のグループフォーメーションって言うのは、少しの崩れも認めない。
仮に四人グループの中の一人がひょんなきっかけで抜ける場面が
あったとする。
四人グループが三人になると、どうなるか。
その抜けた一人の陰口、悪口合戦が始まる。
別に、その三人が三人ともその抜けた一人のことを悪くいいたい
わけじゃない。
三人の中の一人が悪口を言うと、それに合わせて悪口を言わなけ
ればいけないというルールが存在する。
そんなグループなんだ。女ってやつが作るグループは。
でも、本当に稀だが、その女グループってやつに入れない、ある
いは入らない女ってのも存在する。
いじめられっこ、もしくは、男に囲まれている女だ。
いじめられっこは、グループを作る依然からいじめられてて、グ
ループに入ることすらできなかったエリートの内部組と、どこかし
らのグループに属していたものの、何かが引き金となってはぶられ
てしまい、中途半端な時期に誕生してしまった転入組がいる。
その転入組と内部組が新たにツートップのフォーメーションを組
むパターンもあったりする。
118
うむ。実に⋮⋮めんどくさい。
男に囲まれてるパターンってのは、女友達がいない代わりに男友
達がいるという構図。
いじめられっこの風格を持ち合わせていない女はこのパターンに
なりやすい。
いじめられっこの風格を持ち合わせていない女は、基本一人で行
動することに抵抗を感じない。
一人で買い物するし、一人で物を食べるし、一人でトイレに行く。
そんな一人で行動し、なおかついじめられない空気を持っている
女には、自然と周りに男が集まってくる。
比較的、社交性がある男子、その連れの男子、そして、その女。
女性ボーカルバンドにありがちな男二、女一のグループができあ
がる。
そのグループは孤立系女にとっては心地よかったりもするが、他
の女グループにとってはおもしろくない。
おもしろくなくても、その女についてる男二人は、だいたいクラ
スの中心だったりするから手出しができない。
だいたいそんな男女トリオは、卒業間際にどっちかに告白された
りする。
119
それはすごく自然な流れ。
だって男は、一緒にいる女を勝手に好きになるような生き物なん
だから。
だけど、女の方は、その告白を断ったりする。だって、別にこっ
ちは恋愛対象としてつき合ってるわけじゃないから。
そもそも、恋愛感情ってのがその女にはわからなかったりする。
フラれた男ともう一人の男とは、それ以降交流がなくなる。
すると、携帯電話のメモリーには、既に変えたであろう二人の男
のメールアドレスと家族の携帯番号、そして職場関係の電話番号し
か入ってなかったりするんだ。
こういう女はこういう女でめんどくさい。
ああ、こういう女︱︱こと私って改めて考えると本当にめんどく
さいな!
自分でもびっくりするレベル。
こんなめんどくさい自分自身が実はそんなに好きになれない。
自分も好きになれない。そして、他人を好きになれない。
そんな私はたぶん一生一人なんだろうって思う。
たぶん、生まれて来たときに﹁好きになる﹂というねじを一本母
120
親のおなかの中に忘れてきたんだ。
けど、不思議なことはあるもんで、急にその忘れてきたねじが差
し込まれてるのがわかった。
私︱︱、好きな人ができた。
その人のことを考えていると、いつのまにか仕事が終わってたり
だとか、いつのまにか家についてたりだとか、いつのまにか朝にな
ってたりとか⋮⋮とにかく生活のリズムが狂う。
もしかしたら﹁好きになる﹂ってねじの中でも﹁恋愛感情﹂って
ねじが何かの不具合で差し込まれたんだと思う。
たぶん恋愛感情ってねじは生活のリズムをわざと狂わせるように
できているんだろう。
このねじを作った人には後にノーベル物理学賞とかが送られるだ
ろう。
だけど、この私についたねじはさらに特殊なねじだったんだと思
う。
どこかが少し欠けてるんだと思う。
だって、私が初めて好きになった人が︱︱あのめんどくさい︱︱
女ってやつなんだから。
めんどくさい私が、めんどくさい女ってやつを好きになってる。
121
めんどくさいことこの上ない。
めんどくさいのだけれど、彼女のことを思ってる今の瞬間っての
は、何事にも変えられないくらいに幸せなわけで。
まあ、それを含めても非常にめんどくさい。
でも幸せなんだな、これが。
そんで、そんな自分が少しだけ好きなんだなー、これが。
122
酔っ払った彼女の火照った素肌、あったかいんだから⋮⋮。 2
◇
遮眼子。
何その、中国語っぽくて若干中二病臭い響き! って感じだが、
﹁視力検査の時に持つあれ﹂という風に言うと、﹁あー、あれね!﹂
と納得してもらえる。
黒くて、スプーンみたいで、片目を一瞬見えなくする﹁あれ﹂だ。
この黒くてスプーンみたいな﹁あれ﹂を使って、黒い太字のCの
字みたいな﹁あれ﹂を見て、視力検査ってのは行われるわけ。
遮眼子を使って、片目でランドルト環を見ることによって視力検
査は行われる⋮⋮なんて文章は今の日本では使わなくても生きてい
ける。
だからあれの名称は、もう﹁あれ﹂で十分!
そんなスプーン状の﹁あれ﹂が常に私の机の中に入っている⋮⋮
と言ったら、ちょっとおかしいと思われるかもしれない。
この﹁あれ﹂は曲がりなりにも学校の備品であるし、ちゃんと消
毒して保管しておかなければならないものだ。
保健医の私といえども、机の中に放置していいものではない。
123
けど、これはいいのだ。もう、私のものだから。
一個くらい無くなったところでバレるわけじゃない。私しか使わ
ないものなわけだし。
﹁あれ﹂を片目に当ててみる。
ひんやりとした感触が非常に心地よい。本当は、誰かが使った後
はきちんと消毒して保管して置かなければいけないこの﹁あれ﹂が
なんで無造作に机になんか置いてあるのか。
これを使えば、私とあの子が間接的につながることができる⋮⋮
ただそれだけだ。
彼女の瞼につけたこの﹁あれ﹂を私の瞼に押しつける。
唇と唇が重なり合えばキス。
何かを通じて唇と唇が重なりあえば間接キス。
今は、間接的に瞼と瞼が重なりあってる。
ほんわりと、胸があったかくなる。ほんと、大好き。
むちゃくちゃにしたいくらい好き!
たぶん、人を好きになることってもっと単純なことだと思ってた。
顔がかっこいい、とかスポーツができる、とか高身長、とか高学
124
歴、とかお父さんがお金持ち、とかそんなもんで決まるんだと思っ
てた。
だけど、違った。
空気がもう好きだった。一緒の空間にいるだけで好きになれた。
青いタヌキ型ロボットの秘密道具でも使われたんじゃないかって
思うくらい。自分でも説明できなくて、自分でも納得ができなくて、
でも、どうしようもなく、好きになってしまっていた。
だって、その人は女の子なわけで、しかも同僚の学校の先生なわ
けで。
彼女が私のタイプだったか、と言われるとそれも違う気がする。
男は女を﹁かわいい系﹂か﹁キレイ系﹂かという単細胞感まるだ
しなタイプの区分けをするらしい。
﹁かわいい﹂ってなんだろう。﹁キレイ﹂ってなんだろう。そもそ
も誰がその線引きをするんだろう。
国会ですか? 国会で青島幸夫が決めたのですか?
エックスジャパンを聞きながら青島幸夫が決めたのですか? エ
ックスジャンプをしながら青島幸夫が決めたのですか? 青島幸夫
がエックスジャンプをしながら青島幸夫が線を引いたのですか? そいつはすげえや!
そもそも、女でもわからない線引きを男にやられても困る。
125
だって、﹁かわいい﹂から﹁キレイ﹂だから好きになったわけじ
ゃない。
別にかわいかろうが、キレイだろうが、いいじゃないか。
好きなんだから。
そんなわけで、私が好きな彼女は、﹁私が好きでしょうがない﹂
タイプの声、外見、振る舞いをしてる。それしかいいようがない。
私が好きな綺麗な声をしているし、私の好きな文化系女子だし、
私の好きな内気系女子、それが彼女。
というより、彼女が好きだから、私の好きなタイプが初めて決ま
ったのだ。
﹁あれ﹂を眼から離して、お気に入りの眼鏡をかける。
どこがお気に入りか。それは、彼女と同じフレームの眼鏡、とい
うこと。
︱︱それだけ言うとなんだか、本当にストーカーちっくになって
しまうのでちょっとだけ説明しておく。
これは言ってみれば偶然の一致だ。フレームは、一緒だけど私が
銀縁で、彼女が赤縁という大きな違いはある。
それにテレビでCMをやってるくらい支店がいっぱいあるお店の
眼鏡。
126
だから、フレームが一緒だとしてもおかしくはないレベルなのだ。
だけど、それは、それですごく私にとって嬉しいことであり、胸
のぽかぽかは絶好調だ。
自分の眼鏡をかける、ってことだけなんだけど。
127
酔っ払った彼女の火照った素肌、あったかいんだから⋮⋮。 3
そうやって、遠くから見てるだけだと思ってた。
彼女の瞼に触れた﹁あれ﹂を自分に当てて、喜び、彼女と同じフ
レームだと言うことに興奮を覚え、ただ彼女と同じ建物で働いてい
るというこに幸せを感じていた。
ただ、人間ってものすごく欲張りなんだと思う。幸せが長く続い
てると感覚が麻痺してくるんだ。
気がついたら、彼女の姿を追っていた。彼女が早く帰宅する時に
は、仕事が終わっていなくても帰ったし、逆に、彼女が残業してい
る時は、仕事がないのに彼女と同じ時間を過ごした。
ただ、話かけることができなかった。
嫌われることが怖かったのかもしれない。
そんなこと初めての経験だった。
今まで、同じ女って種族に嫌われるように生きてきたから。
群れることをしなかったし、周りに合わせることもしなかったし、
男二人と行動を共にしてた。
たぶん、全ての女子が私を嫌っていたんだと思う。
嫌ってないにしても好いてはいなかったんだと思う。
128
ただ、今の彼女には嫌われたくなかった。
だって、初めて自分から好きになった人だから。
失ったら二度とこんな幸せな気分になることはないだろうし、彼
女以外に私をこんなにも夢中にさせる人もいないだろう。
女だろうが男だろうが関係ない。
たまたま、好きだった人が女の人だった。ただそれだけ。
同姓愛者だとかレズだとかそんなことは思ったことがない。
だって、私は彼女しか興味がないし、他の女は今まで通り⋮⋮嫌
いだ。
もう、ストーカーになってしまっていた。
彼女がいつもいくコンビニも、彼女がいつも買うお酒の種類も、
彼女が酔っぱらうと眼鏡を外してコンビニへ行くことも知ってる。
コンビニへ行くときのコートの中には、彼女の裸が隠されている
ことまでも︱︱。
火照った彼女の顔も好きだ。眼鏡を外した彼女も好きだ。
そして、裸コートで出歩く酔っぱらいの彼女も好きだ。
彼女と話がしたかった。保健医としての私じゃなくて、仕事上の
つき合いの関係だけの私はなくて、彼女が好きで⋮⋮好きでどうし
129
ようもなく好きで⋮⋮どうしようもない、そんな変態でストーカー
な私の状態で⋮⋮彼女とお話がしたい。
肌を触れたい。
何よりも、ぎゅっ⋮⋮としたい! 彼女の胸に飛び込んでしまい
たい。
思いは止まらなくなって⋮⋮私は彼女に接近することを決めた。
コンタクトレンズを作った。
そして、ヘアゴムを外した。
最後にお酒を一杯飲んだ。
缶チューハイでは酔えなかった。
缶ビールでも酔えなかった。
ワインを飲み始めたあたりから、なんとなく酔いが回ってきた気
がする。
いい気持ちになってから鏡を見てみた。
自分でも、驚くレベルでの他人がそこにはいた。
眼鏡と髪型と⋮⋮お酒。ここまで人間の印象を変えるなんて正直
思わなかった。
130
なんとなく、いける気がした。
今日こそ、彼女に近づける気がした。
彼女が行くいつものコンビニ、彼女のいつものコート。
いつもの、可愛らしいピンク色の肌。
それを見た瞬間、過去の自分が、私の背中を押した︱︱。
131
酔っ払った彼女の火照った素肌、あったかいんだから⋮⋮。 4
◇
あったかくて、それでいて、柔らかい。
それだけ言うと﹁中華まん﹂かな? なんて思われるかもしれな
い。
確かに、あれもあったかくて、柔らかいけど、中身は驚くほど熱
い餡が入ってたりする。危ない!
中華まんはあったかくて、柔らかくて、それでいて危ない。あと、
食べたらなくなっちゃう。
あったかくて、それでいて柔らかくて、しかも危なくない。
最後に食べてもなくらない。
なーんだ。
正解はこちらーです。あむっ。
﹁⋮⋮んっ﹂
透き通るような声、そんな表現は今まで大げさだと思ってた。
132
人間の声って、実際には汚いと思う。つき合いたくない人間に言
いたくもない言葉を発する。
そうやってしか、人間って時間を潰せない。たぶん大人ってボー
カロイドと一緒だ。
頭に入ってる定型文を無感情に吐き出す。そうやって生きてる。
寝て、食べて、排泄しなきゃいけない分、ボーカロイドよりめん
どくさい世界。
そんな世界の中で過ごしていった人間の声ってだんだん汚くなる
んだ。
ただ、そんな世界の中で透き通るような声を出す裏技が存在する
ことを私は知ってしまった。
あったかくて、それでいて柔らかくて、しかも危なくない。
最後に食べてもなくらない。
つゅぅ⋮⋮ちゅっくっ。
﹁あ⋮⋮﹂
そして、おいしい。
カルピスサワーで酔った女の子のおっぱい。
しかも、好きで好きで好きで好きで、好きな女の子のおっぱい。
133
中華まんとは比べものにならないくらい、愛おしくて、おいしい。
そして、透き通るような声のスイッチにもなってるんです。みな
さん、知ってました? この裏技! 伊藤家のみなさんにもぜひ試
して欲しいくらいです。
﹁ぃ⋮⋮ぅ﹂
綺麗だと思う。声もおっぱいも綺麗だと思う。
たぶん、ピカソもゴッホも葛飾北斎も手塚治虫もびっくりするく
らい綺麗だと思う。
コンタクトレンズをしててよかったと思う。
こんなにくっきりと彼女の身体を見ることができるのだから。
裸眼だったら、こんなにも綺麗な身体を見ることができないだろ
うし、眼鏡をしていたらフレームで彼女の綺麗な身体を傷つけてし
まう。
たぶん、コンタクトレンズを発明した人も大好きな女の子の身体
を綺麗に見たかったに違いない。
じゅっ⋮⋮ちぃ⋮⋮ちぅ。
﹁ぅん﹂
彼女の指が私の髪を通り抜ける。
134
なでなでって⋮⋮偉大だ。だって本当に私が彼女の赤ちゃんにな
ってしまいそうになる。
﹃せんせの赤ちゃんになっていい?﹄
おそらく、私はそう口にしたんだと思う。
何言ってるんだろう、って思った。
お酒のせいだろうか、裸の彼女を前にしてテンションがあがって
しまったのだろうか。
だってそんな言葉、私というボーカロイドに登録されていない。
ものすごいバグが発生したんだ。
もしくは、ものすごいウイルスが進入したんだ。
カルピスサワーで酔った彼女からものすごくやっかいなウイルス
が生まれたんだと思う。
自分の頭にない言葉を発してしまう。そんな怖い怖いウイルス。
ノートン先生もウイルスバスターでも駆除できない。そんな、怖
い怖いウイルス。
ただ、そのウイルスのおかげで、私は今、彼女の赤ちゃんになっ
ている。
135
全ての力が抜けた。ただただ彼女に委ねていた。
もう既に自分の子供がいるんじゃないだろうか、そう思えるくら
い彼女は私のお母さんになっていた。
私のよだれで湿ったおっぱいをちょんと触ってみる。
声はなかった。
ただ、今までになかった震えと私を抱く腕の力がちょっとだけ強
くなる。
たぶん、悪い子の私をしかったんだと思う。これ以上いたずらを
しないように、強くぎゅっとしたんだ。
お母さん、ごめん。私、悪い子なんだ。
もうちょっとだけ、いたずらさせて︱︱。
左のおっぱいを口に含む。
すると、腕の力がちょっとだけ弱くなる。
そして、反対側のおっぱいをさっきと同じように⋮⋮ちょん、ち
ょん︱︱。
﹁んぅん!﹂ その透き通るような声は、まるで私を叱るように部屋に響く。
136
そして、口から漏れる吐息は、ますます私をいたずらっ子にさせ
る。
137
酔っ払った彼女の火照った素肌、あったかいんだから⋮⋮。 5
ぷっくりとした彼女の唇、そして、テーブルの上に置いてある飲
みかけのカルピスサワー。
ぴこーん!
マンガだったら私の頭の上の電球が光ってるレベルでいいことを
思いついた。
私は、カルピスサワーを口に含み、そして彼女の口へ持って行く。
ゆっくりと、彼女の中にカルピスサワーを移す。あまーいあまー
い液体がだんだんと入っていく。
すると、彼女は私の口をちゅうちゅうちゅうちゅう⋮⋮まるで赤
ちゃんがお母さんのおっぱいを吸うかのように唇を弄ぶ。
本当に⋮⋮えっちな唇だな。顔が火照って火照ってしょうがない。
もう、どっちがいじめっ子でどっちが赤ちゃんなのか。わからな
い。
﹁おいし⋮⋮﹂
笑った。情とか、わざとらしさとか、そんな添加物が一切入って
いない顔。
138
人間ってこんな優しい眼をしてるんだ⋮⋮って思う。
絵画とか、写真とか、映像とか⋮⋮そんなもんじゃ絶対お目にか
かれないだろう。
神秘的ですらあった。
その神秘的な眼、そのすぐ横にそっと口づけをする。
﹁くすっぐたいよう﹂
もう、明らかに私が知っている彼女ではなかった。
もしかしたら、もう次の日に忘れてしまっているレベルで酔っぱ
らっているのかもしれない。
酔っぱらいってそんなに好きじゃなかった。
臭いし、それでいてうるさいし。
だけど、今の彼女はこんなにも甘くて、それでいて、可愛らしく
て、神秘的で⋮⋮。
こんな酔っぱらいだったらずっと見ていたいと思うのだ。
小さな口元からこれまたちっちゃな八重歯が顔を出す。
食べちゃいたいくらいちっちゃくてかわいい八重歯。
もう一度、カルピスサワーを口に含み、目の前の赤ちゃんに飲ま
139
せる。
ちゅうちゅう吸われて、カルピスサワーがなくなったのを見計ら
って、ちっちゃな歯に私の舌を押しつける。
舌に伝わるちっちゃな刺激がますます私の脳を気持ちよくさせて
くれる。
小学生の時、抜けた乳歯を口の中で頃がしてる感覚がよみがえる。
あの、なんともむず痒くって、それでいて心地よい感覚。
今、思えば、あれも欲情だったのだろうか。
だって、今、同じ感覚を味わってるのに、脳が忙しくってしょう
がない。
気持ちいいって感覚が追いつかないんだと思う。ひたすら、彼女
の歯を舐めた。
本当はこんなはずじゃなかった。
ただ、おしゃべりすればよかったはずなんだ。
私は、ここまでして、明日、どんな顔で彼女と会ったらいい!
どんな顔で働けばいい!
もう、もうもうもうもう!
140
それもこれも、保健室のベッドでいちゃつく生徒がいるからだ。
昼間っから、保健室でべろちゅうなんかしおってから!
そりゃ⋮⋮こっちだってべろちゅうの一つや二つしたくなっちゃ
うだろう!
メスですよ! こっちだって!
そりゃ⋮⋮勝手に覗いた私だって悪いですよ。っていうか、そも
そもベッドでサボってた私だって悪いですよ。
そりゃあ⋮⋮私だって。
そろそろ初めて、キスしたっていいだろうがー!
141
酔っ払った彼女の火照った素肌、あったかいんだから⋮⋮。 6
◇
あの時、なんとなく、一つのベッドに二人生徒がいるのは、わか
っていた。
だって、熱があるっていって掛け布団にくるまった生徒のベッド
からキシキシと軋む音が聞こえてくるのだもの。
そりゃあ、女子生徒が二人よろしくやってますわな。
実は、こんなことは珍しいことじゃない。
というより、ただ単純に体調不良でベッドで大人しく寝ている⋮
⋮なんて生徒の方が少ないくらい。
だいたいの生徒はキスをしに保健室にやってくる。
この学校が共学であったならキス以上のことも行われているのか
もしれないけれど、女子同士、ベッドですることは、ぎゅっ⋮⋮と
抱き合い、そしてキスをする。
だいたいこういう子たちは、最初こそここが保健室であり︱︱、
そして学校であるということを意識してか、静かに口づけを交わす。
しかし、たぶんキスっていうのは麻薬的な効果を持ち合わせてい
142
るのだろう。
しばらくすると、彼女たちのキスは激しくなってくるのである。
唇と唇が激しくぶつかり、ベッドのパイプ部分が悲鳴をあげる。
そんなことを聞いてるともう仕事どころじゃなくなってしまう。
本来、ちゃんとした保健教諭、いやちゃんとした大人だったら割
って入って注意するのかもしれない。
なんですか! はしたない。
もしかしたら、そんな言葉を彼女たちに浴びせるのかもしれない。
それが正しい保健室の先生のあり方かもしれない。
そして、それが正しい大人のあり方なのかもしれない。
だけど、私は彼女たちに声をかけるどころか近づくこともできな
かった。
彼女たちがものすごく神聖なことをしている様に思えたから。
そして、彼女たちと同じような神聖なことができない私がなんだ
かものすごくちっぽけで、それでいて子供に感じた。
逆にまだまだ子供なはずの彼女らがものすごく大人に思えたのだ。
キスって気持ちいいのかなあ。
143
そう、彼女たちに聞いたら、きっと変な顔でこっちを見るに違い
ない。
何言ってんのこの人⋮⋮みたいな感じで。
あなた大人でしょって目で見ると思う。
あなた保健の先生でしょって目で見ると思う。
でも、私は知らない。
初めてのキスがしょう油の味がするのかレモンの味がするのか、
メントスの味がするのか、フリスクの味がするのか、そんなことは
私は知らなかった。
小学校でも中学校でも高校でも大学でも学校の研修でも教えては
くれない。
でも、保健室でキスをしている生徒たちはそれを知ってるのだ。
私の身体の中の劣等感の固まりがさらにもう一段階増えた気がし
た。
こぶとりじいさんのこぶがもうひとつ増えた、そんな感じ。
劣等感で身動きがとれなくなった。
劣等感のこぶをとってくれる存在はないのか、そう考えた時に一
人しか浮かばなかった。
144
それが彼女だ。 145
酔っ払った彼女の火照った素肌、あったかいんだから⋮⋮。 7
ふゅー、しゅう。
古くなった風船がどこからともなくゆっくりと空気が抜けていく
みたい。
けど、この音は眠ってしまっている彼女の口から聞こえてくるも
の。
寝息ってこんなに可愛いものだったんだ。
ずっと聞いていたいくらい。ものすごくゆったりとしていい気持
ちになってくる。
ずっと聞いていたい⋮⋮というより、彼女をずっとそばに置いて
おきたいくらいだ。
そうすれば、手をつなぎたい時には手をつなげるし、ハグをした
いときにはハグができる。
キスをしたい時にはキスができるし、おっぱいを食べようと思っ
たらおっぱいを食べられる。
おっぱいって偉大だと思う。食べることもできるし、こうやって
まくらにもできる。
そば殻まくらよりも、テンピュールまくらよりも、世界中のどん
146
なまくらよりも気持ちがいい。
⋮⋮いや、いかんいかん。せっかく彼女が横にいるのだ。あやう
く、このまま寝てしまうところだった。
ぷにぷにぷにぷに。
柔らかくて綺麗な桃色のさきっちょを触る。
ぷにぷにぷにぷにぷに。
世界で一番柔らかくて、気持ちいいボタンなんだろうな。おっぱ
いのさきっちょってのは。
バスも止まらないし、店員さんも注文を取りに来るわけでもない、
ただ気持ちいいだけの押しボタンだ。
その、気持ちいいだけの押しボタンが、だんだんと堅くなってい
くのがわかった。
柔らかいだけだったのが、弾力がちょっとずつついてくる。
無性に、興奮してくる。
あれだけ可愛いかったおっぱいが意志を持ってきているようで、
なんだか嬉しくもある。
そんなおっぱいを見てると、自分のおっぱいも堅くなってきてし
まう。
147
私は彼女に覆い被さる形をとる。
そして、堅くなったおっぱい同士をキスさせた。
私のとがった部分と彼女のとがった部分をこすりあう。
﹁ひぅ﹂
安らかな吐息が急に盛り上がる。
どんな夢を見ているのだろう。その夢の中に私はいるんだろうか。
少なからず、私の夢の中に彼女は、頻繁に登場しているし、夢の
中では何回も彼女を抱きしめ、何回もキスをした。
その度に幸せな気分になって、夢が覚めたら落ち込んで、そんな
ことの繰り返し。
もしかしたら、これも夢なのかもしれない。だって、今、夢の中
よりも何倍も、何十倍も、何百倍も気持ちいい。
夢から覚めたらどんな失望が待っているんだろう。
そんなの考えたくもない。
私はただただ、彼女のおっぱいに自分におっぱいをこすりつけた。
この気持ちよさを知らないであろう、保健室のカップル生徒たち
に若干の優越さを感じながら︱︱。
148
酔っ払った彼女の火照った素肌、あったかいんだから⋮⋮。 8
◇
私が眠ったら、彼女はいなくなってしまう。そう思うと眠ること
はできなかった。
今まで徹夜で出勤したことは何度もあるけど、今朝ほど疲れがた
まっていることは初めてだ。
そうか。
幸せって疲れるんだ。
楽しいってエネルギー使うんだ。
嬉しいって体力がいるんだ。
きっと、ものすごく幸福な毎日をこれから送るのだとしたらきっ
といっぱい疲れて倒れちゃうんじゃないだろうか。
けど、それはそれでいい気がした。彼女のためなら死ねたらそれ
は本望。
そう思えること自体にも幸せを感じるのだ。
これはこれで悪くないのかもしれない。
149
カーテン、そして窓を開ける。
まぶしいくらいの朝日と優しい鳥の声。そして、見慣れた景色を
ぼうっと眺める。
そして、ミネラルウォーターのペットボトルに口をつける。
今まで、こんな絵に描いたような朝の過ごし方をどこか馬鹿にし
ていた。
けど、これはこれで、うん、悪くない。
やっと人並みになれた気がする。
生きることに引け目を感じたりとか、こぶ状になってた劣等感と
か、足に着けられた鉄球みたいな重りがどんどんと軽くなっていく
みたい。
つぶしたペットボトルをゴミ箱にスルーイン。
眼鏡をかけて、白衣を羽織る。そして、髪をひとつにまとめる。
あっという間に保健の先生に早変わり。
⋮⋮さてさて、この二日酔いの姫を起こしてあげるとしますか。
お酒のせいでぷっくりとふくらんだ可愛い瞼。
そのぷっくり瞼に軽く口づけ。
150
すると、ゆっくりと彼女が目を開く。
毒リンゴを食べた白雪姫が王子様のキスで目覚めるワンシーンを
思い出す。
すると私は王子様⋮⋮か。
それは、それで、うん、悪くない。
151
酔っ払った彼女の火照った素肌、あったかいんだから⋮⋮。 8
︵後書き︶
第四話 酔っ払った彼女の火照った素肌、あったかいんだから⋮⋮。
︵了︶
152
君が好きだと、叫びたい! 1
富岡さんは相変わらず眠っている。
まるで冬眠中のクマみたい⋮⋮って冬眠中のクマなんて見たこと
はないのだけれど。
前までは、スマホの自撮りモードでこそこそ見ていたのだけれど、
今となっては隠れる必要がない。
机に小さなスタンドミラーを置くというスタイルでがっつり観察、
もといストーキング。
最近は、ノートをとることもしないでひたすら富岡さんの冬眠を
見守る。
今まで私は授業を受けるふりをしていた。
授業を受けるふりをしていたのは、先生が可愛そうだった⋮⋮と
いうことがあった。
特に現国の先生は、誰も聞いてないのにとんとんと小さな声で一
生懸命授業をしている。
だから、私くらいは聞いてあげないと⋮⋮そんな心境で授業を受
けるふりを決め込めていた。
授業を受けるふり⋮⋮というのは、先生の話を聞いてるわけでは
153
なかったから。だって、私の頭の中には富岡さんで溢れていたわけ
で⋮⋮。
そもそも私は常にヘッドホンをしていたわけで⋮⋮、先生側から
したら私はヘッドホンをして音楽を聞いてるにも関わらず、前を向
いてノートをちゃんととってる子⋮⋮という真面目なのか不真面目
なのか全くわからない生徒だ。
ちょっと頭の弱い子だと思われてるかもしれない。まあ、実際に
頭が強いわけではないので弱い子だと思われても何も支障はないの
だけれど、客観的に見ても私は変な子に見えていただろう。
唯一授業を聞いてるのが、ヘッドホンをした頭の弱い子⋮⋮現国
の先生はどんな心境だったんだろう。
でも、ここ最近の現国の先生の授業はちょっと違う。
まず本当にささやくような声だったのが、多少なりとも聞こえる
レベルの音量になったし、弱々しいイメージがなんだか自信がつい
たような姿勢になってるのだ。
その様子に、今まで化粧をしたり、雑誌を呼んでた生徒たちがだ
んだんと先生の話を聞くようになってきていた。
聞こえるんだから聞いてやるか、おそらくそんなテンション。
それでも、今まで私しかいなかった受講生が複数人になってる、
それだけでも今までと違っていた。
これで、私の役目は少しは楽になる。
154
前を向いて黒板を移す⋮⋮ふりをしつつ富岡さんストーキングに
全力を尽くすことができるのだ。
ああ、なんて素晴らしい学園生活。⋮⋮まったく推奨される行為
ではないけどさ。
それにしても先生に何があったんだろう。高いお金でも出してセ
ミナーを受けたとか、人気の自己啓発本を真に受けすぎたとか、何
かしら彼女に影響を与える何かがあったとみたね。
悪い宗教とか悪い薬とかじゃないことをお祈りいたします。
まあ、私は脱法的なお薬を毎日のように接種しているので、人の
ことを心配している場合じゃないのだけれど。
その私にとっての脱法的なお薬は、現在、絶賛冬眠中。
そろそろ私にとってのお薬が必要になってきた。
リップクリームをこっそりと塗って、お薬の接種に備えることに
しよう。
155
君が好きだと、叫びたい! 2
◇
﹁君の唇は、リップクリームの味がするんだね﹂
富岡さんは、私の唇をぺとぺとと触ってくる。
﹁⋮⋮嫌だった?﹂
恐る恐る聞いてみる。すると、富岡さんはゆっくりと私の唇をふ
さぐ。
頭の中に甘い甘いカスタードクリームを流し込まれたような、そ
んな幸福感。
悪い病気にでもなってしまいそう。そのくらい甘い。
﹁悪くない。思わずおかわりしてしまったくらいだ﹂
﹁お客様。当店はおかわり自由となっております﹂
﹁ブラック企業並に充実したお客様サービスだ﹂
おかわりをいただきました。はい、よろこんでー!
⋮⋮それにしても、この学校の保健室というのは、こっちが心配
しちゃうレベルで誰もいないんだな。
156
そもそも放課後なんてものはさっさと帰るもので学校に残るなん
てリア充のすること⋮⋮だと思ってた。
この学校にはリア充がいないらしい。授業が終わり、掃除当番が
帰るころには教室には誰もいなくなる。
あとは、少数の本当に物好きな人達が部活を細々とやっているか、
保健室でいちゃついているか⋮⋮だ。
ぎゅぅ。
抱きしめられるっていうのは実にいいものだ。
カスタードクリームの上にさらにチョコレートソースを流し込ま
れたみたい。
だめだよう。もう、そんなに甘くしたら身体が壊れてしまうよう。
泣きたくなるくらいに富岡さんはいい匂いがする。
食べたいくらいにいい匂い。
なので食べてみる。
がぅ。
﹁君は、衣類を食べる民族なのか?﹂
﹁宗教的には問題ありません。お客様﹂
﹁人類的には問題があると思うのだけれど﹂
157
富岡さんのワイシャツに私のよだれがくっきりと浮かんだ。
富岡さんの肩はおいしい。柔軟剤の味がする。
﹁それは私の肩の味じゃなくて、柔軟剤そのものの味だと思うのだ。
柔軟剤をがぶがぶ飲んだとしても同じ味がすると思うぞ﹂
﹁柔軟剤塗りっこがしたいな﹂
﹁肌荒れしそうだから却下。あと、非常にもったいない﹂
﹁私が石油王になって大量の柔軟剤を購入いたしますお客様!﹂
﹁もっといいものが欲しいなー肉とか﹂
﹁お客様。私のお肉開いてますよ﹂
今度は、富岡さんが私を食べた。私の腕を優しく、優しく噛んで
くる。
お客様、まるでわんちゃんのようでとっても可愛いです。飼いた
いくらい。首輪をつけたい。
﹁首輪をつけたらつけたでなんか別の趣向な気がしないでもない﹂
﹁お客様犬は黙ってお肉をかみかみしなさい﹂
﹁なんだよその新種は。大発見だな君は。ノーベル賞を贈呈しよう﹂
かみかみしているお客様犬の頭をなでてやる。生意気なくらい毛
並みがいいなこのわんこ。犬小屋を建ててあげたい。
﹁私はもっといいところの住みたいのだが﹂
﹁犬小屋の横にはたくさんの柔軟剤を並べてあげます﹂
﹁猫除けにもなりそうもない﹂
頭の中ではふわふわ犬耳とぷっくらしっぽをつけた富岡さんが撫
158
でて欲しそうにこっちを見ている。
危ない。危うく妊娠しかけた。
159
君が好きだと、叫びたい! 3
﹁そうだ。今日は君にあげるものがあるんだった﹂
富岡さんのバッグの中からは、有名チェーンの服屋さんの袋が出
てくる。
﹁し﹂で始まって﹁ら﹂で終わる。間に﹁ま﹂と﹁む﹂が入るあの
服屋さんだ。
﹁何ですか? お客様。柔軟剤ですか? いらないです!﹂
﹁ここで柔軟剤だったら私はエスパーだろう。仮にエスパーだとし
てもここで柔軟剤を買ってくるのはおかしいし﹂
がさごそ、と袋の中から取り出したるものは⋮⋮耳当てだった。
白くて、ふかふかしてて、うさぎのおしりについてる可愛らしい
しっぽのような綿毛がついた耳当て。
﹁ごめん。本当は電機屋さんに行ったんだ。でも⋮⋮あの﹂
言わせねーよ!
富岡さんの唇を食べる。するとどうでしょう。富岡さんがそれ以
上何も言えなくなっちゃった。
富岡さんは私のヘッドホンを壊したことに責任を感じちゃってい
るらしい。
160
本当に見た目によらず礼儀正しくて、真面目で⋮⋮本当に大好き。
なんで神様はこんなにも可愛い創造物を作っちゃったんだろう。
そして、私の目の前にもって来ちゃったんだろう。
こんな現代にも生きる希望が見えて来ちゃったじゃないか。どう
してくれるんだ。このまま生きてしまいそうだよ。幸せなまま生き
てしまいそうだよ。
私は耳当てを文字通り耳に当ててみた。
ヘッドホンをしてた時よりも軽い。密閉型だったあのヘッドホン
に比べて耳がすごく自由になる感じ。
﹁お客様。こんなプレゼント困ります﹂
﹁ごめん。ちゃんとヘッドホン︱︱ぅ﹂
あまりにもお客様が謝るので、耳を食べてやった。
どうです。耳を食べてもそれ以上何も言えなくなってしまうので
す。
科学の力ってすごいでしょう?
﹁はぁ⋮⋮かがく⋮⋮関係⋮⋮ない﹂
右耳を食べながら、左耳を指先でぺとぺとして差し上げると特に
このお客様はお喜びになるんですよ。
161
﹁んっ﹂
富岡さんがぎゅっと肩に手を回す。それでも私は耳を食べるのを
やめない。
ちょうど、口が寂しかったんだ。
私の口は本当に寂しがり屋みたいだ。肩とか唇とか耳とか、それ
とうなじとか。
なんでも口にしてみたくなってしまうんだ。
物をつかむことを覚えた赤ちゃんみたいなんだ。
そう、富岡さんという母親並の安心感をもった存在におんぶにだ
っこの赤ちゃんなのだ。 162
君が好きだと、叫びたい! 4
最近、声が出るようになってきている。そういえば、富岡さんと
出会う前は、声を出す必要なんてなかったんだ。
学校でも、家でも︱︱、私が一言も発することをしなくても、何
一つ不自由なく生活ができた。
自分の意思を表に出す⋮⋮そんなことはめんどくさいと思ってた。
首を縦におろしたり、横に振ったり、そんなことでもとてつもな
く、おっくうになってきていた。
出されたものを食べて、出された服を着た。
それでも特に不便だとは思わなかった。逆に自分の環境を大きく
変えることが嫌だった、怖かった。
今の状況の自分に好都合で幸せな人生なんてやってこない。むし
ろ、これ以上不幸になることが嫌だった。
何も変わらなければいい。
何も入ってこなくてもいい。何も外に出さなくてもいい。
そもそも時間なんて止まってしまえばいい。今のこの平穏な時間
のまま、一〇年、二〇年、一〇〇年、続いてしまえばいい。
163
大きくなっても、おばあちゃんになってもこの考えは変わらない
んだろうな、って思ってた。
ひねくれた子供はひねくれた大人になってひねくれたおばあちゃ
んになるもんだと思う。
彼女︱︱富岡さんが現れなかったら、私はずっとひねくれていた
んだ。
今は、声を出したいと思う。
声を彼女に届けたいと思う。
だって、私の声を彼女は褒めてくれるし、好きでいてくれる。
最初は、自分自身の何かしらが必要とされているなんて信じるこ
とができなかった。
今まで他人というものは、慈愛だとか思いやり、だとかボランテ
ィアだとか、そんなことで私に接してくれているように思ってた。
だけど、富岡さんは私を欲してくれている。私の声を、私の唇を、
そして私の身体を求めてくれる。
私は彼女に尽くしたいと思うし、彼女のためなら死ねると思う。
彼女が欲するものはなんでもやってやる。
自分の意思というものは既になくなってるのかもしれない。だっ
て、もう全ての行動に対する原動力が富岡さんの存在だから⋮⋮。
164
﹁ねえ、あれ欲しい﹂
はいはい、あれですね。いつものあれですね。
バッグの中からお菓子の袋を取り出す。学校にお菓子を持ち込ん
でるなんて、普通の学校だったらやっちゃいけない行為なんだろう
けど、無法地帯のここだったら別に珍しい行為ではない。
お菓子、といっても可愛らしいものではない。
いろいろな薬草がパッケージに描かれている︱︱のど飴の袋だ。
大阪のおばちゃんやないねんから!
と、完璧なエセ関西弁で自分につっこみたくなるほど、おばちゃ
ん、もしくはおばあちゃんが御用達なのど飴。
その小袋を開けると、茶色いあめ玉からでる独特の匂いが鼻孔を
刺激する。
あめ玉をちょっとだけ口に含む。
﹁ん﹂
口を富岡さんに向けて突き出す。
﹁うん﹂
富岡さんは、のど飴を舐め始めた。
165
私の口の中で︱︱。
166
君が好きだと、叫びたい! 5
のど飴を舐めたらちゃんと声が出る、なんとなくそんな気がした。
﹃なんとかの生き血﹄とか﹃高麗人参のなんとか﹄とか﹃皇閏﹄と
か身体によさそうな全治万能な食品を買うお金はないわけで。
コンビニで買えるのど飴に頼る他なかった。
私と富岡さんは、声を出すのが得意ではない。私は私で、口の中
に言葉を封じ込めてきていたし、富岡さんは富岡さんで、ずっと寝
ている関係で﹁のどが毎日、夏休み﹂といった状態だった。
誰もいない保健室、一粒ののど飴を二人で舐めることが日課にな
っていた。
なんてお金のかからないデートだろう。ケーキがなければのど飴
を舐めればいいじゃない!
かちゃ、かちゃ、かちゃ。
のど飴が私たちの歯に当たる。
べろとべろを使った私たちのキャッチボールだ。
キャッチボールをしていると、だんだんと私たちの口の中がほろ
苦くなってくる。
167
苦くて、気持ちいい。
本当に脱法的なアレを接種してるかのような気持ちよさ。⋮⋮と
言っても本当に﹁脱法的なアレ﹂を接種したことなんてないから、
本当の気持ちよさなんてわからないんだけど、これより気持ちいい
瞬間ってこの世の中にはないんだろう。
本当に、富岡さんは脱法的なアレなんだ。
この脱法的なアレがなくなってしまったら、私はどうなってしま
うんだろうって思う。
かちゃかちゃのど飴キャッチボールを進めていくうちにだんだん
と口の周りがよだれだらけになってくる。
どっちのだかわからないよだれがお互いの唇を伝ってこぼれる。
これは近いうちによだれかけの公式着用を考えなくてはいけない。
ただ、それっていったい何のプレイだ?
かちゃぁ。
だんだんキャッチボールに使うボールが小さくなってくる。
キャッチボールを一時中断。すると、富岡さんの瞳孔がこっちを
向いてるのがわかった。
相変わらずお人形みたいなまつげをつけた可愛らしい目が私だけ
をとらえている。
168
こんなに嬉しいことはない。
だって、今、富岡さんの頭のシアターの中には私しか映っていな
いのだから。
そう考えると、とてつもなく嬉しいのと同時にとてつもなく恥ず
かしい。
マンガだったら﹁かあぁぁ﹂って効果音がかかれてるレベルで赤
面するくらいに恥ずかしい。
穴があったら入りたい。穴がなかったら掘りたいくらい。
富岡さんはゆっくりとその可愛らしい瞼を閉じる。
私も目をつぶり、彼女の瞼に重ねた。
目と目で、キスをした。
目と目のキスを終えると今度はまたキャッチボールを再開する。
目と目、口と口。
もっといろいろなキスがしたい。誰もが羨むような、お金なんか
よりも名声なんかよりも、おいしい料理なんかよりも欲しいものが
ある。
とにかくキスが欲しい。いろんなキスが欲しい。
169
君が好きだと、叫びたい! 6
リップクリームとのど飴、それと富岡さんが合わさって、苦みと
甘みが合わさって、とってもおいしいです。
キスの味って、すごい。ミシュランとか食べログとかクックパッ
ドとか、そんなサイトでは決してレビューされることがない。でも
どんな高級店よりも、どんな隠れた名店よりも、どんな安くて簡単
なレシピよりも︱︱富岡さんのキスの味には勝てはしない。
味皇でも雄山でもかかってきなさい。とっておきの味をごちそう
してあげますよ。
﹁なんで私は、味皇とか雄山みたいなおじさんにキスして回らなけ
ればいかんのだ﹂
⋮⋮それは盲点でした。そうされて、一番困るのは私です。
私以外の人が富岡さんとキスをしているところを見てしまうなん
て大変困る。
凍ったマグロで味皇とか雄山の頭をぶったたいて回ってしまいそ
う。
﹁おまわりさん。連続マグロ叩き殺人の犯人がこちらにいます﹂
﹁もし、刑務所に入ったら面会の時にまたキスしようね﹂
﹁おそらく、できないし、そもそも凍ったマグロでおじさん方をぶ
ったたいて回らなければいいだけの話﹂
170
確かに、この年で前科持ちは困るなあ。
﹁いや、困って済むならいいけども。⋮⋮いや、よくないけども﹂
◇
﹁じゃあ、また明日﹂
私たちがバイバイする時には、周りがうっすらと暗くなる。
普通の高校生だったら、部活に熱中してこの時間⋮⋮とか、一生
懸命勉強してこの時間⋮⋮とか、教室のカーテンにくるまって遊ん
でこの時間⋮⋮とかまあ、そんなところだろうけど、キスをしてこ
んな時間になってしまうのなんて、私と富岡さんくらいのものだろ
う。
﹁あ、見て見て﹂
私は富岡さんを呼び止める。ちょっと待ってちょっと待ってお姉
さん!
﹁ん?﹂
一部欠けた愛用のヘッドホン。それを外して︱︱。
﹁じゃんっ!﹂
うさぎのしっぽ耳当てを装着。
171
ヘッドホンよりも軽くて、それでいて耳が自由になった。
今まで、がんじがらめに縛っていた耳、それを紐をほどいて解放
した。そんな気分。
﹁⋮⋮どうか⋮⋮ひゃ﹂
﹃どうかな?﹄と聞くつもりだった。でも聞けなかった。
だって、富岡さんが抱きついてきているから。
ぎうう、って抱きしめられているから。
あー、もういっそのこと、このまま私と富岡さんを縛ってくれ。
今まで耳を縛ってた紐で私と富岡さんを縛ってくれ。
そうすれば、私と富岡さんは、ずっと一緒にいられるから。
でも、富岡さんが苦しいのは嫌だな。
紐の縛り具合は﹁ぎゅっ!﹂じゃなくて﹁やんわり﹂程度でよろ
しくお願いします。
﹁どうしたん?﹂
私は、富岡さんの頭を撫でる。指と指の間に髪の毛を絡ませて、
スパゲッティまぜまぜ状態。
﹁⋮⋮かわい⋮⋮すぎたっ﹂
172
可愛すぎたってあなたが買ってきたんですが?
﹁いや、君が、可愛いぃ﹂
今度は、私がぎぅぅってする。
﹃可愛い﹄って言ってくれてる富岡さんも十二分に可愛いよ。
けど、言葉には出さなかった。
その分、いつもよりもよけいに指で富岡さんの髪を絡ませた。
173
君が好きだと、叫びたい! 7
◇
駅は知らない制服を着ていた生徒で溢れていた。
普段は駅にどんな人がいるか、なんてことを気にかけたことがな
かった。
ヘッドホンっていうバリアが常に張られていたから︱︱。
だけど、今は違う。
うさぎのしっぽ耳当てをしているだけで、道行く人の足音だとか、
道路を走る車のクラクションだとか、駅員さんのアナウンスだとか、
そういったいろんな音の振動がダイレクトに私の鼓膜を震わせる。
世の中は、いろんな音で溢れてるんだ。
なんだか、これはこれで楽しい。
なんだ、世の中って以外と私に優しいじゃないか。
鬼が金棒を持ってるわけでもないし、厳しそうなお髭をたくわえ
た憲兵さんがいるわけでもない。
今まで、自分からシャットアウトしていたのが損だったんじゃな
174
いか。そんな若干の後悔。
これも、全部富岡さんのおかげだ。富岡さんに出会ってから、周
りの景色まで変わってしまうんだ。
もしも、万が一、富岡さんが悪い宗教かなんかの勧誘者だとして、
私を引きずり込もうと思っているんだとしても、私はしっぽをぶん
ぶんふってついていってしまう気がする。
⋮⋮いや、いかんいかん。富岡さんに依存してばっかじゃだめだ。
私は、私でしっかりしないと。
しっかり、しっかり⋮⋮しっかり!
よしっ。
そこまでは、よかった。いつも通りスイカを改札に﹁ぴっ﹂って
やって電車に乗り込めばよかった。
﹃きもっ﹄
私の耳の中に毒のついた矢が放たれた。
﹃きもっ、何あれ﹄
﹃うけるんですけどうけるんですけどうけるんですけど﹄
﹃マジで死んで欲しいですけどー﹄
175
耳の中から一気に全身に毒が回った。
あ、そうか。これだった。
私がシャットアウトしてた理由。
あーあ、毒が回ってきちゃった。
みんなが私を笑っているんだ。
みんなが私を指さしてるんだ。
みんなが私を写メにとってるんだ。
深い深い笑いジワがこっちを向いている。死ねばいいのに死ねば
いいのに死ねばいいのに。
みんな死ねばいいのに。今、いっせいに死ねばいいのに。
隕石が落ちてくればいいのに、地球が爆発すればいいのに、遅れ
てきた恐怖の大王が人類を滅亡させればいいのに。
ああ、もう立てないや。ああ、もう歩けないや。しゃがみ込むし
かないや。
ああ、なんて邪魔なんだろう。駅の中でしゃがみ込んで動けない
なんて、なんて邪魔な乗客だ。
いや、まだ改札すら通ってないから客でもないか。
176
まだ、虫の方がみんなを邪魔しない。だってただ踏まれればいい
んだもの。
だけど、私は踏むにはでかすぎる。地球で今、一番邪魔なんだ。
ベスト邪魔賞だ。
ベスト邪魔賞の報酬として、今ここでみんなの前で射殺されれば
いい。
﹃ちょっと、誰か呼んできた方がよくない?﹄
﹃大丈夫ですかー。あははっ。ちょっとお前、押すなよって、俺そ
ういうんじゃねえからー。いや、大変じゃん。あははは﹄
うるさいうるさいうるさい。黙れ。
そして、消えてしまえ。
写メでもとればいい。しゃがみ込んでるベスト邪魔賞の私を見て
笑えばいい。そして、石でも投げればいい。
それから消えろ。消えてなくなれ。
みんなみんな消えてなくなれ!
もう、だめだ。動けないや。
動けない、動けない、でも、一気に私は、柔らかいものに包まれ
177
た。
それは私を背中から包み込んでくれて︱︱そして。私の耳を耳当
てごと包んでくれる。
誰だろう。
そんなことを考える必要はなかった。だって、さっきまで包まれ
ていたのと、まったく同じ匂いがするんだから。
そして、私の目の前に見慣れた髪が垂れ下がる。
思わず、くるくるとスパゲッティ巻きをしてしまう。
﹁ちょっとだけ歩ける?﹂
その声には聞き覚えがあって、彼女の口からは、甘くて、ちょっ
とだけ薬草の匂いがした。
私の頭の中には、自分のバッグに入ってるはずの、あの、のど飴
のパッケージが浮かび上がる。
178
君が好きだと、叫びたい! 8
肩を組む。そして、歩く。
こんなこと生まれて初めてだった。
だって、肩を組むなんて男の子同士がやることだと思ってたから。
歩けないと思ってた。完全に毒でやられてしまったと思ってた。
だけど、彼女によりそって、一歩ずつ、一歩ずつ足を前に出す。
どこへ行くかはわからなかった。ただただ、彼女に身体を預けた。
いっぽ、いっぽ、またいっぽ。
彼女の横顔は、素敵だ。
素敵で、それでいて愛おしい。
好きだ。
やっぱりこの人が好きだ。
それはどんな毒が回っても変わらない、不変的なもの、それは、
私が、富岡さんを好きということ。
さっきまで私を笑ってた人たちはまだ私のことを見てるだろうか。
179
へへん。いいだろう。好きな人に介抱されてるんだぜ? うらや
ましーだろ!
すっげえ好きなんだ! そんな人が助けに来てくれたんだぜ!
羨ましがったってあげないよー。
富岡さんは、私だけのものなんだ。
ごめんね! ありがとうね!
私だけ幸せで本当にごめんね!
◇
富岡さんに連れて行ってもらった場所は、駅近くの市立図書館だ
った。
入り口横の休憩所。そこのベンチに私は横になる。
木製のベンチの冷たさがすごく気持ちいい。だけど、私にはひと
つ足りないものがあって⋮⋮。
﹁ねえ﹂
﹁ん?﹂
﹁まくら﹂
﹁⋮⋮ん﹂
富岡さんの太ももに頭を預けてみる。
180
ふわあ。
これはいいものだ! さっきまで体中に回っていた毒が一気に身
体から抜けていくみたい。
﹁いいこいいこして欲しいなー﹂
﹁めんどうな客だな﹂
そんなこと言って富岡さんは、私の頭を撫でてくれる。
いい仕事してますね。お姉さん。気持ちよすぎてお空へ飛んでい
っちゃいそうになるよ。
﹁飛んでいったら困るからこのへんでやめとこうか﹂
﹁大丈夫。私はただの豚だ﹂
飛べない豚は、ただの豚なんだぶー。
﹁また、毛並みのいい豚さんだな﹂
﹁うそだよ、くせっ毛なんだよ? くせっ毛豚なんだぶー﹂
﹁そこがふんわりとして気持ちいいんだ﹂
今度は、富岡さんが私の髪をスパゲッティまぜまぜ。
ああ、もうこのまま私の髪を召し上がっていただきたい。
﹁ねえ﹂
私が声をかけると、スパゲッティまぜまぜ中の富岡さんの指が止
181
まる。
﹁どうして、駅に来てくれたの?﹂
富岡さんの家は、学校を出て駅から反対方向と聞いている。
﹁ん⋮⋮勘?﹂
富岡さんが保健室にいるのを見つけた時のことを思い出す。
あの時も何かの勘が働いたのだと思った。
確かに﹃勘﹄としか言いようがない。
だけど、もしかしたら﹃勘﹄じゃないのかもしれないと思うのだ。
だって、私はしゃがみ込んだ時に心の中で呼んだんだ。
富岡さんを呼んだんだ。
その結果、富岡さんが来てくれた。
もしかして、あの時、富岡さんも私を呼んだのかもしれない。
⋮⋮いや、それはうぬぼれすぎかも。
182
君が好きだと、叫びたい! 9
もう、暗くなってきているからだろうか。休憩所には、いつまで
たっても私たち二人だけだった。
もしかしたら、神様が気を使ってくれてるのかもしれない。
私たちをいちゃいちゃさせるために神様がくれたちょっとしたご
褒美。
くれたものは、ちゃんといただきます。
ちゃんと、二人っきりでいちゃいちゃしてさしあげます。
富岡さんの太ももを指でつんつんつんつんする。
﹁くすぐったい﹂
﹁だと思った﹂
でもやめてあげない。つんつんつんつん。
﹁ねえ﹂
さすがにやりすぎたかな? と思ったところだった。
﹁うち⋮⋮来る?﹂
フリーズした。
183
私がパソコンだったらブルースクリーン一歩手前の状態。
﹁うん﹂
何も考えてなかった。正直、何を富岡さんが私に何を聞いたのか、
それすらもよく思い出せない。
反射的に頷いていた。
今、富岡さん何て言った? 来る? うちに? うちって家? 家って誰の? 誰のって富岡さんの。
フリーズした頭で一生懸命考える。どうやら、私は富岡さんの家
に行くことになるようだ。
◇
﹁うちの母親、遅くまで帰ってこないから﹂
駅から歩くこと十五分、富岡さんについて歩いて到着したのは、
いわゆる団地ってやつだった。
うちの学校の近くは、たくさんの団地が連なっている地域で、最
寄り駅名にも﹁団地﹂ってつくくらいにも全国的に有名な団地⋮⋮
らしい。
富岡さんの家もその団地の一室にあるらしい。いいなー、学校か
ら近くて。
184
だって、こんなに近かったら一人とも顔をあわさずに学校へ行く
ことが可能じゃないか。
何よりも電車に乗らなくてすむ。
初めて、団地に足を踏み入れたのだけれど、私の大好きなジブリ
映画を思い出す。
その主人公の女の子が確か団地に住んでるんだけれど、その団地
とそっくりだ。
全て四角形でできてるって感じ。
四角い立方体のブロックをひたすら積み上げていけばこういう建
物ができましたーって感じ。
団地ってのは、みんな同じような作りになってるのかもしれない。
﹁コンクリートロードはやめたほうがいいと思うぜ﹂
﹁人の家着いてそうそう意味の分からない発言はやめよう﹂
そうしよう。
﹁今、お布団敷くから﹂
え! 本当にちょっと待ってちょっと待ってお姉さん!
そんな、あのいきなり布団だなんて。
あの⋮⋮ふつつかものですが、よろしくお願いします。 185
正座をして待ってると、慣れた手つきでお布団を一式敷いてくれ
た。
なんだか、旅館みたい。ふつつかものですが、よろしくおねがい
します!
﹁少し眠ればいいよ。そうすれば楽になる﹂
あ⋮⋮そうゆうこと⋮⋮だよね。
少しだけがっかりしながら、遠慮なく、布団に潜り込む。
富岡さんの家の布団は、やっぱり富岡さんの匂いがする。
死ぬときはこの布団の上で死にたい⋮⋮。 186
君が好きだと、叫びたい! 10
人の家、そして人の布団ってたいがいすぐには寝付けないものだ。
だけど、どうしてだろう。だんだんと落ち着いてきて、きもーち
よくなってくる。
ぽーんっぽん。ぽーんっぽん。
富岡さんが子どもを寝かしつけるかのように背中をぽんぽんして
くれてる。
なんだかすごく懐かしい気分。
身体の中の全ての悪いものが出て行ってしまいそう。
富岡さんはお母さんみたいだな。いいお母さんになれそう。
いっそのこと私のお母さんになってくれればいいのに。
﹁お母さん﹂
つぶやいてみた。
﹁⋮⋮ん﹂
いつもだったら、﹁誰がお母さんだよ﹂とか﹁そこまで老けて見
えるとは心外だな﹂とかそんな言葉が来るはずなのに。
187
声色といい、私を見る優しい眼差しをいい、もう完全にお母さん
じゃないか。
本当に同い年の同級生なんだろうか。もう、既に子供を生んでた
りするんじゃなかろうか。
﹁お母さん、一緒に寝よ?﹂
﹁その布団ちっちゃいぞ?﹂
﹁いいよ。一緒にぎゅっとちっちゃくなれば大丈夫だよ﹂
はいはい、とだけ言って、富岡さんは布団の中に入ってきた。
ぎゅうぅ。歓迎のハグ。
﹁よし、よし﹂
今までも頭を撫でてくれたけど、今日のいいこいいこは格段に優
しい。
誰かが指で触れたらすぐにくずれてしまうくらいに柔くて、そし
て優しい空間。
﹁お母さん﹂
﹁⋮⋮何?﹂
﹁おなかすいた﹂
そう言って、シャツを引っ張った。胸の部分をつんつんってする。
﹁いいよ﹂
188
富岡さんはシャツのボタンを一つ一つ外すと、薄い空色のブラが
顔を出した。
そして、ブラを少し上にずらすと、富岡さんのおっぱいが顔を出
す。
すごく可愛いと思う。
こんな間近で他人のおっぱいを見るのなんて、初めてじゃないだ
ろうか。
それこそ、お母さんのおっぱいを吸ってたころ以来とかだと思う
けど、当然そのころの記憶なんて持ち合わせていない。
﹁いいの?﹂
自分で頼んでおきながら、なんだか恐縮してしまう。
﹁いいよ﹂
とろりとした優しい目。そうだ。今、私はこの人の子どもだった
んだ。
可愛らしいピンク色のおっぱいの先端をゆっくりと口に含む。
その瞬間に、安らぎと興奮が入り交じった独特な感情が私をとて
も変な気分にさせる。
おっぱいを加えながら、富岡さんの身体をぎぃうと抱きしめる。
189
それに答えるかのように、富岡さんは、私の頭をゆっくり、ゆー
っくりと撫で続けてくれる。
そうか。甘えればよかったんだ。
いっつも背筋をぴんっとしてなきゃいけないんだと思ってた。
だって、そうしないとやられちゃうから。
悪いことをいっぱい言う人たちにやられちゃうから。
背筋をぴんとして生活して、それってすごく疲れることで。
いっぱい食べても、いっぱい眠ってもすごく疲れてしまうことで。
それでも日々、生活していかなきゃならなくて。
こんな毎日が一生続くのかと思うと見えない大きなラスボス級の
不安が出てきてしまうんだ。
疲れた身体で大きなラスボスと戦うなんてできなかった。
だけど、戦わなくていいんだ。逃げていいんだ。
私は、逃げに逃げて、そしてこの人に甘えればいい。
甘えながら吸うおっぱいは、どことなく甘さを感じた。もしかし
たら、富岡さんはおっぱいが出るのかもしれない。 190
君が好きだと、叫びたい! 11
ちゅくっ、ちゅく。
富岡さんのおっぱいにキスをする。
﹁ん⋮⋮﹂
それが気持ちいいのか、私を撫でてる手が時折、ぴたっと止まる。
今日助けてくれたご褒美。
おっぱいにいっぱいキスをした。
いっぱいのキスをした後、ふと目が合う。
それがおかしくて、二人して笑った。
﹁ねえ﹂
﹁どうしたの?﹂
さくっと噛んだら、その瞬間に口の中に甘さだけ残る、そんな赤
ちゃん向けおせんべいみたいに優しい。ふわふわとろろんな声が私
の耳を幸せにしてくれる。
﹁ちゅう﹂
191
さんざん自分がしたからだろうか、今度は私の方が富岡さんの唇
を欲している。
﹁ん﹂
まずは、ほっぺ。次に鼻、おでこ、まぶた︱︱そして、富岡さん
の唇が私の耳に行き着いた。
ちゅじゅぅ。
えっちい音と共に私の頭に快感が走り抜ける。すんごくもやっと
した気持ちいい感覚で私の頭が溺れてしまいそう。
ああ、耳。気持ちいい。耳、べろ、耳、べろ、耳。
気持ちよすぎて耳がとれちゃうかと思った。
富岡さんが耳たぶを口に含んだのがわかる。
私の耳たぶが富岡さんの口の中で弄ばれ得る。
もう、もっと、遊ばせてください! 富岡さんに耳たぶをあげち
ゃいたいくらい。
ぷつっ、ぷつっ、と今度は富岡さんが私の胸のボタンを外してい
く。
ああ、こんなことだったら勝負ブラをしてくればよかった。
そんなの持ってるのかって? 持ってないよ!
192
でも、今日のブラはだめなのだ! だめなのだー!
富岡さんはゆっくりと私のブラをずらす⋮⋮。
﹁はぅ﹂
耳たぶは口で、おっぱいが指で︱︱、それぞれ富岡さんによって
弄ばれる。
それぞれの部位でそれぞれの快感が直接脳に突き刺さる。快楽が
脳みそ直撃!
もうだめだ! 大好きだ! 富岡さんの口の中も指の動きも大好
きだ!
﹁す、ぅ、すぅ﹂
好き、って言いたかった。この涙が出るくらいの大好きを彼女に
伝えたかっった。
だけど、あまりに気持ちがよくて、あまりに刺激的に、口の中か
ら言葉が飛び出していかない。
私にできることは、ただただぎゅううううと彼女の背中を強く抱
きしめることだけだった。
◇
いつのまにか寝てしまったようで、時計の針は午後の九時を越え
193
ていた。
携帯には、お母さんからの着信が二件。さすがにそろそろ帰らな
いとだ。
いくら、放任的な母親だとしてもさすがに九時を過ぎたら心配を
したんだろう。
横にいる富岡さんは、気持ちよさそうに寝息をたてている。
なんだか、寝る前のことを思い出すだけでちょっただけ恥ずかし
さで顔が赤くなっちゃいそうだ。
つんつんつん。
指で彼女のほっぺをつっついてみたり。
やっぱり富岡さんの寝顔はかわいいなあ。
﹁好きだよ﹂
言えた。今、一番言いたいことは言えた。
﹃おはよう。鍵はそのままでいいよ﹄
テーブルに一枚のルーズリーフ。
なんていい子なんだろう。やっぱり大好きだ。本当に大好きだ。
そのルーズリーフに一言添えて、私は富岡さんの部屋を後にする。
194
こんな時間に変えるなんて不良にでもなったかのよう。
おらーおらー、どーけどけどけーどーけどけどけー。
そんな風に誰も歩いてない道を闊歩してみる。
お母さんにどういいわけしようか、考えながら︱︱、うさぎのし
っぽ耳当てをした不良は、駅へと急ぐのでありました。
195
君が好きだと、叫びたい! 11︵後書き︶
第五話 君が好きだと、叫びたい!︵了︶
196
キス、アマメ、ハグ、マシマシ。 1
最近、お母さんが帰ってこない。
お母さんは、いつも仕事柄、私が帰ってくる時はもう既に出勤し
ていて、私が学校へ行くころには熟睡している。
そんな生活スタイルなので、私にとっては正直いてもいなくても
同じようなものだ。
それでも、毎日帰れば炊飯器に炊き立てごはんは用意してあるし、
冷蔵庫には豆腐をはじめとした私のごはん用の食材は買っておいて
くれている。
そこまで、やってくれるんだったら夕食ぐらい作っておいてくれ
たって罰はあたらないと思うのだけど、そこがお母さんらしいっち
ゃお母さんらしいものなのだったりする。
だけど、最近は炊飯器にご飯は炊いてないし、食材も冷蔵庫には
入れてくれてない。
ただ、テーブルの上に千円札が二枚おかれているだけだ。
毎日、毎日、二千円が置かれているので﹁帰ってこない﹂という
表現は、もしかしたら間違ってるかもしれないけど、朝も夜も︱︱、
お店が休みの日曜もお母さんを見ることはない。
帰らないじゃなくて、私の前に姿を表さない⋮⋮といった方が正
197
しいかも。
もしくは、自動でこのテーブルの上に決まった時間になったら二
千円が浮き出てくるようなシステムになってるとか。
現実的に考えるとありえないのだけれど、その夢のシステムを使
ってる︱︱ということがしっくりくるレベルで、お母さんは現れな
い。
別に初めてのことではなかった。おそらく、男の人のところにい
るのだ。
男の人のところで何をしているか⋮⋮なんてことは考えたくもな
い。
そもそも、いい年の男と女が何もしない⋮⋮なんてことはないだ
ろう。
ウノとかジェンガとかツイスターゲームとか、そんなことをして
るわけでもないだろう。
ましてや、お母さんは夜の商売をしているわけで⋮⋮なにかしら
やましいことをしていない⋮⋮なんて方が不自然だったりもするの
である。
別に帰ってこないお母さんをとやかく言うつもりはない。
だって、現にお金は支給されているわけだし、家事全般だって今
まで通り何も変わらずに自分が生活するだけのことを適当にこなし
ているだけだ。
198
それに私だって人のことは言える立場にない。
だって、娘の私は今、保健室で女の子とキスをしているのだから。
◇
やぎはらともよ
八木原知代はヘッドホン女子だ。
通学、休み時間はもちろん授業中もヘッドホンを離さない。体育
は基本見学、音楽の時間はどうするんだろう⋮⋮って考えてはみた
ものの、このクラスは美術専攻なので音楽の授業自体存在しないの
だった。
彼女が中学、小学校時代もこうだったのか、そして、随時ヘッド
ホンをすることになった何かしらの出来事があったのか⋮⋮それは
わからない。
学校から徒歩数分の距離である私と違って、彼女は電車で片道一
時間かけて学校へとやってくる。
だから、彼女の過去を知る人はこの学校にはおそらくいないだろ
う。まあ、そもそもいたとしても私のコミュニケーション能力で彼
女の過去を知る人を捜し当て、コンタクトをとる⋮⋮なんて推理小
説の主人公みたいな行動はできやしない。
だって、今の私が興味があるのは、今の彼女であり、私が愛して
いるのは今の彼女だ。
彼女が人前で唯一ヘッドホンを外すタイミングを私だけが知って
199
いる。
それは、私とキスをする時だ。
200
キス、アマメ、ハグ、マシマシ。 2
◇
今日の八木原の唇はおいしい。
最近の八木原は私のためにリップクリームなんて塗ってきてくれ
る。
おかげで私の唇は知らず、その上、リップクリームを通じてずっ
と八木原の唇とつながることができるってわけ。
リップクリーム風味の唇を味わいながら、彼女をそっと抱きしめ
てやる。
相変わらず、ちっちゃくて、風にでも飛ばされてしまいそうな八
木原を見てるだけで、胸がきゅぅっと締め付けられる感覚に陥る。
だってこんなに小さな身体で家から電車を使ってこの学校に通っ
ているのだ。
ちゃんと家に帰れてるのか︱︱、そればっかりが気になってしま
う。
最近、ようやく眠れるようになってきたというのに彼女が心配で
また寝付けなくなってしまっているくらいだ。
201
そもそも、ちゃんと家に帰ることができたとしても、朝学校に来
る間に何かあったらどうしよう⋮⋮そんなことを考えていると今か
ら彼女の家に行って身体を抱きしめたくなってしまう。
翌朝、彼女が登校してきたのを確認できた時の安堵感はものすご
く、その後に猛烈な眠気が襲ってくる。
だから、眠れるようになったにもかかわらず、学校では今まで通
りがっつり睡眠をとる⋮⋮今までと変わらない学校生活。
八木原のおかげで眠れるようになったと思ったら、八木原のせい
で眠れなくなる⋮⋮まあ、私は結局、眠っちゃいけない星の元に生
まれてしまったのだ。
授業中眠っていると、最近はふとした瞬間起きてしまうことがあ
る。
それは、授業中に妙に静かになってしまう瞬間があるのだ。授業
中静かなのは、当たり前のことなんだけど、この学校に限ってはそ
の当たり前も通用しない。
私語、携帯、飲食。
おそらく日本の学校の九割で禁止されているようなことが日常茶
飯事に行われているのがこの学校。
だから、授業中は若干にぎやか、そして、教室の人数が少なくな
る休み時間、放課後は若干静か。
だから、静かになると自然に目が覚めてしまう傾向にあるのだ。
202
静かだから、目を覚ますとまだ授業をしていたりする⋮⋮なんだ
か、小学校だとか中学校を思い出して、少し懐かしく思う反面、無
駄に起きてしまうことへの後悔も少し頭の片隅にじめっと存在はす
る。
八木原に聞くところによると、現国の先生の授業態度が少し変わ
ったのだとか。
現国なんて授業はフルにレム睡眠を貪るもんだから、私には関係
ないのだけれど⋮⋮えっとあの眼鏡かけたいかにも大人しそうな先
生だったっけ。
私と違ってちゃんと授業を受けてる八木原は偉い。
模範的生徒な八木原はとっても偉い。
だから、たまに起きた時に八木原を見ると頭を撫でたくて撫でた
くて仕方がなくなるのだけれど、それは保健室でのお楽しみにして
おく。
授業を受けている八木原にはいつも通り、シロクマヘッドホンが
つけられている。
ただ、前と違うのは、シロクマヘッドホンの右耳が少し欠けてし
まっているということである。
誰を隠そう私のせいだ。
あんなに可愛いシロクマの耳を壊してしまった︱︱自然保護団体
203
の偉い人達にかんかんに起こられるレベルでいけないことだ。
204
キス、アマメ、ハグ、マシマシ。 3
なんとなく、シロクマヘッドホンは彼女には大きすぎる気がする。
入学したばかりの小学生がおっきなランドセルを背負っているよ
うに、小さな八木原の顔におっきなヘッドホンが背伸びをして乗っ
かっている。
それが彼女自身、そして、彼女の可愛い耳に負担をかけてやしな
いだろうか。
可愛い餃子の皮がやぶれてしまっては大変。
どうにかしなければ⋮⋮と思ってた矢先に家のテーブルには毎日
二千円が浮き出てきている。
私は決めた。
餃子を守ろう︱︱と。
学校帰り、電機量販店を覗いた。どのヘッドホンも八木原には大
きい、あとなんだか色が真っ黒だ。
あんなに大きくて、真っ黒なヘッドホンをつけてたら千葉県にあ
る夢の国の有名ネズミみたくなってしまう。
それはいけない。
だって、八木原が世界的な人気者になってしまうもの。
205
どこの誰だかわからない子どもが急に八木原にハグしてきても困
る。
だって、八木原をぎゅぅってするのは、私の特権だから。
誰にも渡したくない特権だから。
⋮⋮とは言っても、意外と白いヘッドホンって売っていない。
ベッドタウンにある電機量販店だからそれほど種類があるわけじ
ゃないのか。
それに白いヘッドホンがあったとしたって耳に負担をかけてしま
うのは同じこと。
軽くて小さめのヘッドホンもあることはあるのだけれど、耳にひ
っかけるタイプだったり、眼鏡みたいにかけるタイプだったりで、
餃子を守るという目的には適していない。
ヘッドホンを買うわけでもなく、電機量販店をぐるぐる回る。
どこかに、小さくて、白くて、安くて、それでいて餃子を守れる
ような︱︱それでいて可愛いやつは︱︱。
そしたら、いつのまにかおもちゃコーナーに来てしまっていた。
ちっちゃなお友達とそのお母さんたち、それに混じって制服姿の
私。
206
なんだか、場違い間がハンパない。
なんでだろう。ついこの間までこのおもちゃコーナーにいた気が
したのに。
ちっちゃいころから、おもちゃを買ってもらえるうちじゃなかった
から、ここに来て穴が開くんじゃないかってくらいにおもちゃを凝
視して⋮⋮なにも買わずに帰った。
ただ高校生という身分になって学校の制服を着ている、ただそれ
だけなのにとてつもない疎外感を感じてしまうのだ。
あの頃は、お金を持たずにただ眺めるだけだった︱︱それが今は、
財布の中に千円札が数枚。
あの時、欲しかったおもちゃ⋮⋮。
小さなぬいぐるみくらいは買えるかな。
そうだ、ちょうど目の前のちっちゃなお友達がお母さんにねだっ
ているあのうさぎのぬいぐるみくらいだったら買えるかも。
⋮⋮買ってどうするんだ。欲しくもないものを︱︱。
うさぎのぬいぐるみなんて今は欲しくないんだ。
今欲しいのはシロクマ︱︱、シロクマ?
うさぎ?
207
シロクマ、うさぎ、どっちも可愛い。
けどどっちが可愛い?
審議中。
⋮⋮審議の結果、今回はうさぎの方が可愛いということに決定い
たしました。
シロクマより可愛いうさぎ⋮⋮それを八木原につけたらどうなる?
困る。
想像以上に可愛いくなりそうで困る。
餃子を守ることができて、それでいて安くて、そしてうさぎ⋮⋮。
あ⋮⋮。買いたいものめっけ。
そうと決まればここには、用はない!
ありがとね! ちっちゃなお友達!
心の中で絶叫して、電機量販店を後にした。
208
キス、アマメ、ハグ、マシマシ。 4
うさぎはシロクマよりも安かった。
これだけ聞くと毛皮を買ったのかお前! とか、そんな動物の肉
を食うのかお前! もしくは、シロクマってペットショップ売って
るのかよ! すげえな昨今の流通の発展は!
なんて、つっこみが来そうだが、別に皮を買ったわけでも肉を買
ったわけでも、ペットショップに行ったわけでもない。あと、おそ
らくシロクマはペットショップにはいない。
私が行ったのは、ペットショップではなく、安いことで有名な大
手ファッションセンター。ここでの買い物を極めると﹁しまむらマ
スター﹂という称号をいただけるらしいけど、そこまで頻繁にもの
を買うわけではない。
そこで買ったのが白くもこもこした耳当て。なんと野口さん一枚
でお釣りが来た。
シロクマヘッドホンの三分の一、四分の一の値段で買えてしまっ
た。
なんだか、こんなプレゼントで申し訳ない気がしてくる。
だって、最初はヘッドホンを買うつもりが、いつのまにか耳当て。
耳当てじゃアイポッドに差し込めない。音楽が聞けない⋮⋮。は
209
かったな! ジョブズ!
⋮⋮いや、一方的に私が悪いのだけど。
ただ、かわいさを優先してしまった私が︱︱。
でも、これをつけた八木原はかなりかわいいと思うのだ。
地球温暖化を止めるレベルでかわいいと思うのだ。
想像するだけで鼻血がでちゃいそうだ。
◇
はむはむっ。
今の八木原はうさぎではなく、わんこになっていた。
わんこは、私のシャツをゆっくりゆっくりと噛む。その噛む力が
とっても歯がゆい。
甘噛みってこういうことなんだな、って思う。あまーくかみかみ
はむはむされるたびに胸がふわんふわんしてくる。
かわいい。飼いたい。
うさぎじゃなくても十分この子は愛くるしい。
だってわんこだもの。見えないかわいいしっぽをぶんぶんふって
210
甘えてくるわんこだもの。
口から漏れる息を感じるたび、ふわんふわんしてた胸がさらにも
にゃもにゃしてきた。やばい。すごくやばい。
なにがやばいって、彼女の唾液のついた私の服を見て思わず思っ
てしまったことがあるのだから︱︱。
私も八木原をかみかみしたい。
私もわんこになりたい。
もとい、私は彼女の犬になりたい︱︱。
﹁私のお肉開いてますよ﹂
八木原のOKがでた。
じゃあ、いきますよ。
あなたの犬がいきますよー。
白くて、やわらかそう。そう、マシュマロみたいな八木原の二の
腕を︱︱、私はかみかみした。
マシュマロと違ってしつこい甘さはなかった。
そして、ほんのり塩っぽかった。 211
キス、アマメ、ハグ、マシマシ。 5
塩っけのある八木原の二の腕は、かみかみするのに非常に適して
いる。
かみかみぺろぺろ、かみかみぺろぺろ。
わんこの飼い主である八木原は私を撫でてくれている。まるで毛
並みゆっくりと確認するかのようなゆっくりと優しい手の動き。
飼われたい、と思う。
このご主人様の下でかみかみして、ぺろぺろして、それでいてし
っぽ振って、甘えていたい。
本当はちっちゃい八木原を私が甘えさせるべきなのかもしれない。
もちろん、八木原は私に甘えてきてくれるし、それに応えなきゃ
⋮⋮って思う。
だけど、なんだか、甘えさせるだけじゃだめなんだ。
ずるいのだ。
甘えられる存在がいる八木原がなんかずるいのだ。
私は一人っ子だからわからないけど、もし妹とか弟とかいたとし
て︱︱お母さんに甘えていて、自分も甘えたいって感情が芽生える、
212
そんな感じなんだと思う。
自分はずっと大人だと思ってた。少なからず、同じ学校のクラス
メイトなんかよりはよっぽど大人だと思ってた。
身の回りのことは全部自分でできたから⋮⋮。
ご飯の用意も洗濯も掃除も全部やってきたし、親に頼る⋮⋮なん
てこともしてこなかった。
よくよく、考えてみればそれ以外は何も知らなかったんだ。
キスは、リップクリームの味がすることも二の腕に塩っけがある
ことも、そして、好きな人に甘えている時の胸のむにゅむにゅした
感覚も⋮⋮。
今の今まで何も知らなかったんだ。
そして、結局は私は子どもだったんだ。甘えたかったんだ。
私の全てを包み込んでくれるものが欲しかった。
全てを委ねられて、何も考えずにただ人を愛することがしたかっ
たんだ。
たぶん、私は生まれた瞬間に紙粘土みたいなものが周りに塗られ
ていって︱︱、それで大きくなるごとに周りがどんどん堅くなって
いって、だんだん身動きもとれなくなってきてた。
213
身体も動かせない。表情も変えられない。
ただただ同じ格好で座って、眠る。そして、また帰って眠れない
夜を過ごした。
世界が堅い堅い金属でできている気がした。
堅くて、それでいて冷たかった。
だからたぶん眠れなかったんだと思うし、なにより、楽しくなか
った。
でも、世界って簡単に変わるんだ。
だって、キス一つで私の周りの紙粘土がどんどん壊されて行くし、
堅い堅い金属も柔らかくて、甘い甘いお菓子に変わっていく。
私は、かちかち紙粘土から不思議の国のアリスちゃんみたいな衣
装になって、お菓子でいっぱいの甘い甘い世界をかけずり回るのだ。
おそらく、大人はそんなことはしない。
甘えなくても大丈夫。堅い堅い金属の世界でもきっと平気。
でも私はまだお菓子の世界で、柔らかいマシュマロをぎゅーっと
抱きしめていたいんだ。
214
キス、アマメ、ハグ、マシマシ。 6
◇
キス、かみかみ、キス、かみかみ、ハグ、ぎゅっ⋮⋮。
そんなことをしているうちにあっという間に放課後なんていうの
は過ぎていってしまう。
外はうっすら暗くなってしまっていた。私としてはいつまでも八
木原と一緒にいたいけど、電車で通学している彼女を遅くまで学校
に残しておくわけにはいかない。
﹁あ、見て見て﹂
﹃見て﹄なんて言われなくてもずっと彼女のことは見ていた。
小さな身体にぶかぶかなダッフルコートを来た八木原は、います
ぐ抱きついちゃいたいくらいかわいい。
だから、ずっと目に焼き付けておくためにできるだけ彼女のこと
を見ていたいのだ。
たくさんのキスをしたから、口の中があまあまで、そしてほんの
り苦い。
このうっすらと肌にしみる冷たい風、遠くで聞こえる五時の時報、
215
そして目の前には八木原がいる。
なんだか、目の前に広がっている全ての世界が作り物に見えてく
る。
それくらいに、今という時間が、楽しくて、そして愛おしい。
﹁じゃんっ!﹂
そんな愛おしい世界に、私はおそらく天使を作ってしまったんだ。
だぼだぼのコートの八木原に白いもこもこの耳当て︱︱。
うさぎだった。
天使と同じ真っ白なうさぎ。
うさぎのぽわぽわ耳当てが八木原の可愛らしい耳を守ってくれて
いた。
泣きたくなった。
だって、可愛すぎたから。
好き。たまらなく、好き。
思わず、抱きしめてしまっていた。
何も考えてなかった。ただただ彼女を抱きしめてしまっていたの
だ。
216
どんとしんく、ふぃーる!
感じたままに私は八木原をぎゅっとする。肌触りの優しいコート
とぽわぽわの耳当てが私の顔をくすぐる。
そして、ゆっくりと鼻孔に入ってくる八木原の気持ちいい匂い。
﹁どうしたん?﹂
八木原も私をぎぅってしてくれる。
かわいいなあ。かわいいなあ。
どうしても何もない! どうもしてない! ただ、ひたすらに目
の前にいる彼女がかわいくて、どうしようもない。
そして、頭に感じる八木原の細い指。撫でてください。ご主人様。
あなたのわんこである私をもっともっと撫でてください。
そうしたら、敬愛のしるしを差し上げます。
わんこは、ご主人様の、首筋をはむはむします。
﹁ぅん﹂
ご主人様はかわいい声を出してきます。そのかわいい声は何度聞
いてもいいものです。
217
ちゅる。
私は悪いわんこなので首筋にいっぱいキスをします。
だって、しょうがないです。ご主人様がこんなにもかわいいのが
いけないんです。
かわいい声を出しながらも、ご主人様は指で私の髪をからめて、
そして、撫で続けてくれます。
わんこは幸せものです。
だって、こんなにかわいいご主人にかわいがってもらえているん
ですから。
私は、何度もキスをして、何度も見えないしっぽを降り続ける。
218
キス、アマメ、ハグ、マシマシ。 7
◇
私は人として踏み入れてはいけない領域にいるのかもしれない。
だって、⋮⋮だって、今、私は帰る八木原の後を追っているのだ
から⋮⋮。もちろん隠れて⋮⋮だ。
いや、心配じゃないか。だってあんなに可愛いんだよ?
悪い男や変な大人、宇宙人、未来人、超能力者とか、そんな人達
が八木原に変なことしないとも限らないじゃないか!
うさぎ狩りを楽しんでる英国の貴族なんかが飛び出して来た日に
は、八木原は狩られてしまうじゃないか!
だから、私は後から隠れてついていって彼女を見守らなければい
けないんだ!
そ、そう! ストーキングじゃない! これは任務だ!
人として踏み入れてはいけないどころか、誇るべきことをしてい
るんだ私は!
国民栄誉賞でも流行語大賞でもベストジーニストでもいろんな称
号をもらえちゃうくらい立派なことをしてるんだ。
219
そう、思おう! っていうかそう思わないとやってられない!
そんな私に尾行されているとも知らない八木原は特に寄り道する
こともなく、学校の最寄り駅へと向かっている。
そういえば、私は八木原が電車通学⋮⋮ってことしかしらなくて、
どこの駅で降りるのかとか、駅から家までどれくらいなのか⋮⋮と
かはわからないままなんだ。
そもそも、お互いの家のことなんて話したことがなかった。
私がぼろい団地に住んでいることも、お母さんが夜の商売をして
いることも、そのお母さんが帰ってこないことも、テーブルから自
動的に二千円札がセットされることも何も知らない。
というより、私たちはお互いの携帯番号もメールアドレスも知ら
ない。
ツイッターとかフェイスブックとかラインとかも交換してない。
そもそも、私がそのツイッターだかフェイスブックだらラインだ
かをやっていない。
だって現役パカパカガラケーだもの。
ワイファイ? 何それ? ハリーポッターには出てきそう⋮⋮。
もしも私が魔法を使えたら箒に八木原を乗せてどこか遠くの国へ
飛んでいきたい⋮⋮。
220
そこで二人っきりでいちゃいちゃしながら、おばあちゃんになる
まで一緒にいたい。
ピラミッド見て、スフィンクス見て、自由の女神見て、北海道の
時計台見てがっかりして⋮⋮そんな毎日が過ごせたらいいのに⋮⋮。
って⋮⋮いかんいかん。ストーカーの上に誘拐犯になってしまう。
危険だ! 私は危険だ!
誰か、私を止めてくれ! だって、八木原が好きで好きでどうし
ようもないんだ!
だって、ここまで他人のことを考えたのなんて生まれて初めてだ
し、学校へ行くのが楽しいなんて初めてだし、シャンプーとかリン
スとかコンディショナーとか、歯磨き粉とかマウスウォッシュとか
そんなのまで選ぶのが楽しかったりとか、なんていうか楽しいんだ!
楽しすぎて、怖いんだ。
私の前からいなくなってしまう八木原が困るんだ。
また、眠れない夜が来てしまうのが怖いんだ!
また、嫌いな自分になるのが嫌なんだ!
でも、こんな私の思いはもしかしたら、八木原には負担になって
しまうのかもしれない。
221
ただでさえこの時間に帰宅するんだ。これ以上八木原を束縛する
のは⋮⋮だめだ。
改札に向かう八木原を見送ってから、私も帰ろうと思った⋮⋮そ
の時は。
でも、できなかったんだ。
束縛とかじゃない。ストーキングでもない誘拐犯でもない。
彼女の元に走っていくことしかできなかった。
だって、だって⋮⋮。
改札の前で、八木原がしゃがみ込んでる⋮⋮。
222
キス、アマメ、ハグ、マシマシ。 8
うずくまってしまった八木原が震えている。それは、遠くから見
ていてもわかった。
だって、私はわんこだもの。
八木原のわんこだもの。飼い主が震えていて、それでいてピンチ
だってことくらいわかる。
わんこがすることは何か。
わんこまっしぐら。
ピンチのご主人様の元へ一直線⋮⋮のはずだった。
もう、私の足は八木原に向いてはいたんだ。
だけど、一歩が踏み出せなかった。
八木原の周りに一組の集団がいたから︱︱。
﹁ちょっと、誰か呼んできた方がよくない?﹂
﹁大丈夫ですかー。あははっ。ちょっとお前、押すなよって、俺そ
ういうんじゃねえからー。いや大変じゃん。あはははは﹂
﹃心配﹄とか﹃介抱﹄とか⋮⋮そんな単語は頭の中に一ミクロンも
存在していないような彼ら。
223
それは、ここらへんでは有名な私立の進学校の制服を来ている男
女の集団で︱︱。
私の中学時代の同級生だった。
◇
﹁なあ、お前の母ちゃん﹃フーゾクジョー﹄なんだって?﹂
﹁ちょっとお、やめなってぇ! 富岡さんかわいそーじゃん! 何
そういうこと言うのー! おもしろすぎるんですけどー﹂
風俗嬢じゃない。スナックのフロアレディだ。
⋮⋮とは言えなかった。そもそも彼ら中学生の男女にとっては、
夜の商売をしている人はみんな﹃フーゾクジョー﹄なわけで、﹃フ
ーゾクジョー﹄はもれなくエッチなことをしてお金をもらっている
と思ってるのだ。
私だって別にお母さんが働いているところを見たことがあるわけ
でもない。見たくもない。
だから、私自身もお母さんと彼らの言う﹃フーゾクジョー﹄との
違いはよくわからなかった。
根暗な中学生女子にはそんなこと考える余裕がなかった。
やれることと言えば、彼らが私に話しかけている間もひたすら自
分の机につっぷしていることだけ。
224
強く強くおでこを自分の腕に押しつけていた。
どこにぶつけていいかわからない。寂しさと悲しさを、ただただ
自分の腕にぶつける。
﹃なあ﹄
突然だった。
耳元に感じる吐息に驚いた。近くに感じる男子の匂い。きつめの
制汗スプレーとヘアワックスの匂い。
私の耳元に男子が囁いてきている。
今までになかったような体験に胸がどきどきしてしまっていた。
あんなことを言われたばっかりなのに。
男子の柔らかい音程のささやきといかにもな男子の匂いにどうし
たらいいかわからなくなっていた。
でも、私は寝ているフリをしていることしかできない。
ただただ、高鳴る鼓動をどうしたらいいかわからないまま突っ伏
している。
なんで男子が私の耳元で囁いているのか、それもわからないし、
なんで急にクラスの中心にいる男女グループが私に近づいたのかも
わからない。
225
そもそも、ただ、随時机に突っ伏している私よりも彼らのおもち
ゃになっている生徒は他にもいたのに。
いじられ要員、パシリ要員、カツアゲ要員⋮⋮。
彼らのおもちゃはそろっているのに、なぜか私に近づいてくるの
だ。
﹃なあ﹄
男子の声は⋮⋮甘い。
﹃お前も金だせば、やらせてくれんの?﹄
いかにも甘そうなもの、それはとびっきり辛くて、そして痛い。
226
キス、アマメ、ハグ、マシマシ。 9
◇
トラウマ、という言葉を当てはめては失礼かもしれない。
だけど、現に今私の身体はフリーズしてしまっているし、机があ
ったら突っ伏したい気分。
彼らが身につけている制服。学校案内で何度も何度も見た制服。
着たくて着たくてどうしようもなかった制服。
模試でもA判定はもらっていた。でも特待生にはなれなかった。
この学校以外でも特待生試験はことごとく落ちた。
受かったところが、家から近い、おバカ学校だった。
そんなことは、彼らも知っている。あの中学校からおバカ学校へ
行くこと自体が本当に稀なことだったから。
まあ、私のことを覚えていれば⋮⋮ということが前提なのだけど。
もしかしたら、私のことなんか忘れているかもしれない。
名前を言っても覚えていないかもしれない。
227
﹁﹃フーゾクジョー﹄の娘﹂と言えば思い出すかもしれない。おそ
らく、彼らにとっては私は中学時代の同級生とかではなく、その程
度の存在なのだから。
ただ、今の私は﹃フーゾクジョー﹄の娘ではない。
私はわんこだ。八木原のわんこだ!
重い足が一気に軽くなる。その足で私は八木原の元へと向かう。
見えないしっぽをぶんぶん振りながら︱︱。
◇
夢だけど、夢じゃなかった。
私の家、そして私の部屋に八木原と一緒にいる。
たぶん、感覚がいろいろと麻痺してたんだ。
図書館のベンチで八木原を休ませたのはまだいい。
私の足を枕代わりにしている八木原を見ているうちに、こう︱︱
お持ち帰りしたくなってしまったんだ。
もちろん、あの状態の八木原をまた駅へ放り出すことはできなか
った。
だからと言っていきなりうちへ上がらせるとか⋮⋮我ながら思い
切ったというか、なんというか⋮⋮。
228
っていうか、そもそも誰かを家にあげたのなんて生まれて初めて
だ。
自分の家がせまいことなんてちっちゃなころからわかってた。そ
もそも、うちみたいな貧乏な家がそんなに広い家に住んでるわけが
ないってことくらいはわかってた。
八木原は、どう思ってるんだろう。
せまい団地の一室に連れてこられて、そして、せまい布団に二人
で寝ている今の状況を︱︱。
そして、そのせまい布団の中で、私のおっぱいを吸っている今の
状況を︱︱。
ちゅぅ⋮⋮。ちぅ。
私は彼女の頭を撫でて︱︱、彼女は私の乳首に吸いつく。
世の中の高校生はみんなこういうことをしてるのだろうか。
クラスメイトの家にあがってすることとしてあってるんだろうか。
授乳するって行為は︱︱。
正しいか、正しくないかはよくわからない。
ただ、今がとても気持ちよくて、そしてとてつもなく幸福だって
ことだ。
229
230
キス、アマメ、ハグ、マシマシ。 10
ご主人様を気持ちよくさせるのもわんこのお仕事。
ゆっくりと彼女のブラを下にずらす。
真っ白なファーストブラはちっちゃな身体の八木原にマッチして
すんごく可愛い。
﹃かわいい﹄と言うより﹃かあいい﹄って感じ。
八木原のおっぱいを指でぴっぴっぴっと押してやる。
柔らかいスイッチを何度も何度も押す。
﹁ぁっ⋮⋮ゅ﹂
ご主人様のえっちい顔を見ているとなんだかまたいたずらをした
くなってきた。
駅であんな目に合っているというのに、さらにいたずらをする。
またいじめっ子な私が出て来そう。
だけど、今日はご主人様のわんこなわけで⋮⋮。
そう、これはご主人様に対する忠誠心のあかしなのであります!
231
忠誠として、私は八木原の耳を食べる︱︱。
柔らかい餃子を傷つけないように、上唇さんと下唇さんでゆっく
りとついばむ。
はむはむっ。手の方はおっぱいを丸くなぞる。
﹁ぃぃ⋮⋮﹂
そのえっちい吐息をすべて飲み込んでしまいたくなる。
餃子を食べるのを休憩して今度はべろを舐める。
甘くて、楽しい味がする。
今日、駅で会った彼らに伝えたいくらいだ。フーゾクジョーの娘
だからこそ、八木原の耳とべろを食べられるんだ︱︱って。
あなたたちと一緒の学校に通ってたらたぶん勉強に追われてキス
とかハグとかしてる暇なんてないだろう。
おかげで私は今すごく幸せです。
あなたたちが勉強して偉くなる間に、私はその分いーっぱいキス
をして、いーっぱいハグをして、いーっぱいいちゃいちゃしてやる
んだ。
卒業後? 進路? 将来? 職業? 夢?
知らないよ!
232
そんなことより八木原の唇をちゅうちゅうする方が大事だよ!
お金とか名声とかいらないよ!
私が八木原をずっと好きでいられればそれでいいんだ!
﹁⋮⋮ねえ﹂
八木原の口の周りは涎でいっぱい。
リップクリームがいらないほどぷるんぷるんだ。
﹁私ね⋮⋮いろんなキスがしたい﹂
そういうなり、八木原は、スカートをショーツを下ろし、めくれ
上がったブラを外した。
八木原は、はだかんぼになった。
﹁富岡さん、私のこと好き?﹂
そんなことを聞かないでくれよ。
私が八木原のことを好き、それ以外の選択肢を考えただけで悲し
くなっちゃうじゃないか。
﹁八木原は、私のこと好き?﹂
八木原の目が潤んでいる。もしも、彼女の目から涙が溢れたとし
233
たら、私はそれを舐めたいと思った。
だけど、八木原を泣かせるようなことはさせない。させたくない。
泣かせるようなやつがいたらそれこそ私が泣かせてやるんだ!
﹁せーの、で言お?﹂
そんなこと決まりきってるのに。
でも、私と八木原は確認したいんだ。
お互い、どうしようもなく好きで、どうしたらいいかわからなく
なってる⋮⋮ってことを︱︱。
﹁﹁せーの!﹂﹂
ぎゅぅー。
思いっきりハグした。はだかんぼの八木原を抱きしめた。
﹁好き﹂の言葉なんていらなかった。
ただ、お互い身体が壊れちゃうくらいにおもいっきりハグしたか
ったのだ。
はだかんぼの八木原はほんとうに柔らかい。
あったかい雪見だいふくを抱きしめているかのようだ。
234
あったかい、雪見だいふくの感触を存分に味わった後、私も服を
脱いだ。
二人のはだかんぼ。
待ちきれなくて、またあったかい雪見だいふくを抱きしめる。 235
キス、アマメ、ハグ、マシマシ。 11
いろんなキスがしたい。
八木原が言った意味を私は理解した。
口と口、べろとべろ、瞼と瞼、鼻と鼻⋮⋮いろんなキスがある。
そして、私と八木原は二人してはだかんぼな状態︱︱。
私はゆっくりと自分の足を八木原のやわらか太ももに絡めていく。
どうやら正解だったようで、八木原も足を優しく私に合わせる。
今まで私たちはいっぱいキスをした。
いつもの保健室でもそうだし、この家に来てからも︱︱。
そんな私たちがまだやっとことのないキス。
﹁ぅ⋮⋮ん!﹂
私と八木原がゆっくりと腰を動かす。
またとまたで、キスをした。
ぴちゅっ。
236
唇とべろでキスをする時に出るえっちい音とは、またえっちい音
が耳に入って、抜けていく。
そして、頭に雷が落ちてきたかと思うほどの大きな大きな気持ち
よさ︱︱。快楽のハンマーで頭をガンガンガンガン叩かれているみ
たい!
ふわふわした幸せのキスじゃない、もうこれ以上気持ちよくなっ
たら死んでしまうんじゃないか⋮⋮。それくらいリミットに限りな
く近い快楽がまたから私の頭に突き刺さる!
﹁はぅ⋮⋮好きぃ⋮⋮好きぃ、好きい!﹂
今まで聞いたことのない八木原の声色。おそらく私以外誰も聞く
ことのできない八木原の声、そして八木原の姿!
いや、誰にも聞かせてやるもんか! 見せてやるもんか! だって、私はわんこだもん! ご主人様のこんな姿! わんこの
私以外は見ちゃいけないんだもん!
もう、身体が壊れてもいいと思った。
一生懸命、腰を動かし、一生懸命、見えないしっぽを降り続ける
︱︱。
◇
起きた時にはもう八木原は部屋にいなかった。結局、疲れに疲れ
た私たちはそのまま一つの布団にはだかんぼのまま寝ちゃったんだ。
237
眠気を振り切って書いた書き置きもどき⋮⋮八木原は読んでくれ
たんだろう。鍵はそのままでもう出て行ってしまったんだろう。
テーブルの上の書き置きもどきを見ると、私の文字の下あたりに
新たに書き足した文字が⋮⋮。
﹃何度も言ってごめん。だけど言うね。大好き! PM 9:14﹄
⋮⋮ずるいよ。私だって言いたいのに!
まだまだ好きっていいたりないのに。
そう思うだけで、無償に八木原の身体が恋しい。
携帯で今の時間を確認する。
PM 9:21
近所迷惑とか無視してドアを叩き閉める。
鍵? 大丈夫! 金目のものなんてあの部屋にはない!
そして、わんこは走る!
運動なんて苦手だったけど、徒競走とかマラソンとか苦手だった
けど︱︱運動音痴わんこだけど!
だって好きだもん! 好きって言いたいんだもん。
238
言わないと、私今日は眠れないよ!
わんこの目には、見慣れた背中が見えてきた。
ご主人様! わんこが来ましたよ!
ご主人様の耳にはうさぎ耳当て、それを見るだけでわんこの目が
潤んでくるようだった。
ご主人様のびっくりした顔はよく見えなかった。
私はただただ八木原に飛びつき、思いっきりハグをした。
最初の目的、﹁好き﹂って言葉はでてこなかった。
言おうと思ったんだ。
だけど、できなかった。
八木原の唇が私の口を塞いだから⋮⋮。
ご主人様の唇を思いっきり堪能してやった。
夜の住宅街。
遠くで、本当のわんこが鳴いているのが、聞こえる︱︱。
239
240
キス、アマメ、ハグ、マシマシ。 11︵後書き︶
第六話 キス、アマメ、ハグ、マシマシ。︵了︶
241
布団は柔らかい。たぶんおっぱいくらい柔らかい。 1
コンビニの店員ほど楽な仕事はない。
だって、人間観察してたらいつの間にかお金が振り込まれてるん
だから。
仕事は勝手に手が動いてくれる。六年も同じコンビニで同じ仕事
をしていれば、何も考えなくても手は勝手に動く。
もう、感覚だけで仕事が終わる。ぼーっとしてたら仕事が終わる。
やった覚えがないのに手が勝手にレジを打ってる。勝手に性別ボ
タンと年齢ボタンを押してる。
公共料金の支払いあたりで若干我に返る時もあるけど、あとはも
うオート機能。
惰性で生きてるなー、って思う。
もうこの惰性ワールドからたぶん抜けられないんだろう。
大学を卒業して、バイト一本になってからと言うもの、ますます
考えることがなくなってきてしまっている。
だから、人間観察をすることにした。
このままだとただの置物になってしまいそうだから。
242
ちっちゃい子からおじいちゃんおばあちゃんまで、いろんな人を
見る。
楽しそうな人もいるし、寂しそうな人もいる。怒っている人もい
れば、泣きそうな人もいる。
こういう人を見てると私は無力なんだなーって思う。
楽しみを共感することも悲しみを受け入れることも、寂しさを紛
らわすこともできない。
ただ、怒ってる人に関しては、こっちに矛先をぶつけてくれるこ
ともあるので多少は怒りを沈めることに一役買ってる、ということ
もある。
だけど、基本的に私はただ人を見て面白がったり、面白がらなか
ったりしているだけだ。
人間観察をしていて特に私が興味を引かれるのが、﹁酔っぱらい﹂
という人種だ。
酔っぱらっている人を見るのは本当に面白い。
私はアルコールを全く受け付けない身体だから、気持ちよく酔っ
ぱらっている人たちは見ていてこっちも気分がよくなってくる。
泥酔して、絡んできたりしたら嫌だけど⋮⋮。
でも、酔っぱらいと言っても私みたいな地味系眼鏡女子にはあま
243
り声をかけよう⋮⋮とか困らせてやろう⋮⋮とかそんな気分になら
ないらしい。
なんだろう。助かるけど、なんだか複雑な気分。
金曜日、土曜日、日曜日はいろんな酔っぱらいが見られて楽しい。
絵に描いたように酔っぱらったサラリーマン集団。入り口前でつ
ぶれた仲間を介抱している大学生集団。アルコールのせいで度を増
していちゃいちゃしているカップルさんたち。
逆に平日は来店する酔っぱらいは決まってくる。
定年をとっくに過ぎたであろうおじいちゃん。
近所のスナックのチーママと決まった常連の男性。
そして、一人のある女の人。
彼女は、酔っぱらっている、というよりは﹃ほろ酔い﹄程度に見
える。
肌寒い今の季節。
敏感肌の人ならお酒を飲んでなくても、顔が赤くなってしまうよ
うな気候。
彼女もその敏感肌の一人のようには見える。
だけど、コンビニに入ってくるとすごく楽しそうに店を歩き回っ
244
て、カルピスサワーを嬉しそうに買い物かごに放り込む。
そして、笑顔でレジへとやってくる。
私は、彼女を見るともなんだか身体がもわもわしてくる。
目がとろーんとして、こっちもなんだか酔っぱらってしまいそう。
そして、どことなく身体が熱い。
なんで彼女を前にするとこんな風になんてしまうのか。
なんとなく理由はわかる気がする。
だって、彼女は裸の上にコートを羽織って︱︱私の前に立ってい
るのだから。
245
布団は柔らかい。たぶんおっぱいくらい柔らかい。 2
白のダッフル越しに見えるお姉さんの肌もまた真っ白だった。
真っ白で、それでいてもちもちだ。
﹁お願いします﹂
お姉さんはとろーんとした目で私を見る。
その目線は真っ正面に私をとらえていて、それだけで私は目の下
あたりがひりひりしてくるのを感じる。
まっすぐな目線なんて、コミュ症の私にはできない芸当。
きっと、彼女は人見知りとか無縁の人生なのかもしれない。
お姉さんがかごに入れた大量のカルピスサワーのバーコードを読
みとる。
﹁すいませーん。年齢確認のボタンを押してくださーい﹂
マニュアルが勝手に口から出てくる。中身の私はお姉さんの裸に
ほわほわしてるのに、一日何十回も言っている台詞は私のコンディ
ションに関係なくするする出てくる。
本当に私はレジロボットだ。ただレジを打つだけのロボットだ。
246
だけど、このレジロボットは欠陥品のようで、生身の女性に興奮
している模様。
﹁はーい﹂
なんだか少し考えた後、お姉さんは確認ボタンを押した。
あれ、もしかして未成年だったとか? いや、そもそも裸コート
なんて芸当は、未成年ができるわけがない。⋮⋮わからないけど。
というより、こんな色気を振り回しているんだ。年下⋮⋮という
ことはないだろう。
﹁⋮⋮ありがとうございます﹂
本来は、わざわざ確認ボタンを押してくれてありがとうございま
す、という意味なのだけれど、なんだか私の口から出ている﹁あり
がとう﹂は別の意味な気がする。
お姉さんありがとう。このコンビニに来てくれてありがとう。こ
のレジに並んでくれてありがとう。
真っ白な肌を見せてくれてありがとう。私の目を見てくれてあり
がとう。
私は彼女の目をじっと見つめてみた。
虹彩だか瞳孔だか、習った気がするけど、なんて表現したらいい
かわないが⋮⋮とにかく、私は彼女の目の丸い部分を見つめる。
247
彼女も私の目をじっと見つめる。
ああ、お姉さん、私をこのまま連れて行ってください。
もう、そろそろバイトも終わりです。この際早上がりしますので
連れて行ってください。
そして、コートの中を見せてください。お姉さんの綺麗な肌を見
せてください。
その真っ白な肌をしたおっぱいとかおしりとか見せてください。
そうすれば、私はこの眼鏡にやきつけます。
あわよくば、そのまっしろなおもちみたいな肌でぎゅーってして
くれればもう死んでもいいです。
二十三年しか生きてませんけど、いい人生で終われます!
後ろにお客さんがいないのをいいことに私たちは見つめあった。
だんだん、私のほうが恥ずかしくなってくる。
私の⋮⋮負けです。
レシートと小銭を渡す。
﹁ありがとうございました。またお越しくださいませ﹂
248
これまた今まで何百回、何千回と言ってきたマニュアル通りの言
葉。
だけど、こんなにも﹁またお越しください﹂と思ったのは初めて
だった。
お姉さんはちょっとだけお辞儀をして、店を後にした。
並んでいるお客さんがいないことを見計らって、更衣室へダッシ
ュ。
更衣室の鏡には、お姉さんなんかよりもさらに真っ赤になってい
る私の顔が映る。
それが無償に恥ずかしくって、さらに顔が紅潮する。
とっさにロッカーからマスクを取り出して、レジに戻る。
別に熱なんてないのに。
熱で顔が赤いなかバイトやってます︱︱ってスタンスで残りの一
時間バイトをこなした。
249
布団は柔らかい。たぶんおっぱいくらい柔らかい。 3
◇
布団は偉大だ。
悲しくても、寂しくても、空しくても、辛くても、私を包んでく
れるから。
昼間、からっからのお日様に干した布団に洗濯したてのシーツを
かける。
これで準備は万全。
ショーツもブラも全部脱ぎ捨てて、私は裸になる。
眼鏡も外す。
そして、お日様のにおい溢れる布団へと飛び込んだ。
潜って、くの字状になる。
かけ布団越しからうっすらと電灯の光がもれる。聞こえるの自分
の吐息だけ。
まるで赤ちゃんに戻ったみたい。
250
すごく気持ちがよかった。
すべてを解放した私をふかふか布団が包んでくれる。
何も怖いものはない。
ずっと、このままいられればいいのに。
気持ちよくてたまらないこの空間に。
うっすら明るい布団の中、目をつぶるとお店でのお姉さんが浮か
び上がる。
お姉さんのもっちもちのおもち肌。そして、とろんとした目。
私の想像スクリーンには完全にあのときのお姉さんが映っている。
現実のお姉さんと映像スクリーン上のお姉さんは何が違うか。
お姉さんを好き放題にできるか、そうじゃないかの違い。
つまり、私は今お姉さんを好き放題しようとしてる。
お姉さんは、白いダッフルコートを脱いでくれた。
目の前にはまっしろで綺麗なおっぱい。
思わず、ついばみたくなる。
おっぱいを口に含んでみた。
251
柔らかくって、それでいて、布みたいな味がする。
それでいてお日様のにおい。
私はちょっとだけ目を開けて妄想スクリーンを一時停止。
目の前には、私の涎で濡れた跡がくっきりと残る。
現実では、ただの掛け布団。
もう一回目を瞑って、妄想スクリーンを映し出す。
すると、またお姉さんのおっぱいが目の前に現れる。
お姉さんのおっぱいを口に含みながら、私は自分の乳頭をぴっと
弾く。
自分の意志とは関係なく、吐息が荒くなるのがわかった。身体も
だんだん熱くなってくる。
すごい。
気持ちのいい場所で、私気持ちのいいことしてる⋮⋮。
思わず、おっぱいをついばむ力も強くなってしまう。
﹃あ⋮⋮﹄
お姉さんはえっちぃ声を出す。その声を聞いてますます私の身体
252
が火照る。
乳頭を弾いてた指を⋮⋮今度は股の方にもっていく。
指を入れてもにゅもにゅした。
すごく、気持ちいいことをしてる。
気持ちいいことはいいことだ。
気持ちいいことはえっちい。
えっちいことはいいことだ。
お姉さんが私に唇を私に近づけてくる。
唇、そして舌を私は舐め回す。
お姉さんの唇は、おっぱいと同じく、布の味がした。
253
布団は柔らかい。たぶんおっぱいくらい柔らかい。 4
◇
お姉さんが店に来なくなった。
必要以上にカルピスサワーを補充しているというのに待てど暮ら
せどお姉さんはやってこない。
風邪でも引いたんだろうか。確かにいかにも風邪引きそうな格好
で外歩いてるんだから風邪を引いても仕方がない。
ああ、彼女の家に行って看病してあげたい。
私も裸になってあっためてあげたい。
キスをして風邪を移されたい⋮⋮。お姉さんのためだったら発熱
でもインフルエンザでもノロウイルスでも何でも来い!
くそう、早く帰って布団もにゅもにゅがしたい。普段だったらも
うバイトが終わっているこの時間は、部屋に帰って布団もにゅもに
ゅをしているっていうのに︱︱。
なぜか、私はバイト先のコンビニを出て家とは逆方向にとぼとぼ
歩く。
これも全部お姉ちゃんのせいだ。
254
お姉ちゃん⋮⋮と言っても私が妄想モニターで布団もにゅもにゅ
のために上映されている﹁お姉さん﹂ではなく、実の姉の﹁お姉ち
ゃん﹂。
お姉ちゃんのせいだ。お姉ちゃんのせいだ。お姉ちゃんのせいだ。
今年に入って急に一人暮らしを始めたお姉ちゃんのせいだ。
そして、お姉ちゃんに袋いっぱいのリンゴを持って行くように私
に頼んだお母さんのせいだ。
もっと言えば、私の家宛にたくさんのリンゴを送ってきたおばあ
ちゃんのせいであり、そもそもそのリンゴを作ってる農家さんのせ
いであり、そもそもリンゴが落ちて万有引力を発見したニュートン
のせいだ!
私が早く帰って布団もにゅもにゅしたいのにお姉ちゃんの住むマ
ンションまで行かなきゃいけないのはニュートンのせいだ!
なんだなんだ! 万有引力ってなんだ! ⋮⋮まあ、お姉ちゃんの住んでるところが私のバイト先のすぐそ
ば⋮⋮ってのが一番の問題なのだが。
このバイト先を選んだのは私であって、未だにだらだらとここで
バイト先をしているのも私である。
ニュートンさんごめんなさい。万有引力万歳。
255
お姉ちゃんが住んでいるマンションが、バイト先のコンビニから
歩いて五分、ちなみに実家がコンビニから逆方向に歩いて十分。
だから、お姉ちゃんが住むマンションは実家から歩いて十五分の
ところにある。
今まで、ずっと私たち姉妹は一緒に実家にパラサイトしていたの
だけれども、何を思ったかお姉ちゃんは急に一人暮らしを始めた。
二十代後半になって思うところがあったのだろうか。
⋮⋮私も人のことはいえないか。
家事とか一切やらないお姉ちゃんが一人暮らしを始めたわけだか
ら、お父さん、お母さんが心配してしょうがないのである。
だから、私はいっつも家で作った保存の効くおかずだのお歳暮の
あまった残りの素麺だの、おばあちゃんが送ってきたリンゴだのを
運ばなければいけないのだ。
あんた、暇でしょ? だの、どうせすぐ近くだからついででしょ
? とか言いながら私はいろいろなものを持たされる。
暇じゃねえよ! 布団もにゅもにゅしなきゃならないんだよ! 逆方向だからついででもねえよ!
⋮⋮なんて言えるわけもなく、今日も今日とて、お届け物をしに、
私はお姉ちゃんのマンションのインターフォンを押す。
お母さんから既に連絡がいってるらしく、インターフォンに応え
256
ることもなく、お姉ちゃんは玄関のドアを開けた。
﹁やっほ﹂
いつもながらの適当な挨拶である。まあ、姉妹で丁寧すぎる挨拶
もなんであるが⋮⋮。 ﹁どうも⋮⋮あれ? 仕事中?﹂
お姉ちゃんはいつもの銀縁の眼鏡にゴムでひとつにまとめたポニ
ーテール。
﹁いや、この方が保健室の先生っぽいでしょ﹂
そして、お姉ちゃんは白衣を着ていた。
257
布団は柔らかい。たぶんおっぱいくらい柔らかい。 5
◇
お姉ちゃんは決して家事ができるタイプでもないし、家事をやっ
てきたわけでもない。
だけど、部屋はちゃんと片づいてるし、年相応の女性が住んでる
ような部屋作りができてることに驚く。
だって、実家のお姉ちゃんの部屋は見るも無惨な状態だったから。
女性⋮⋮というより、人が住んでいて大丈夫なのかと疑うレベル
での有様だった。
食べかけのポテトチップ、飲みかけのペットボトル⋮⋮なんての
は可愛いもので、食べかけのハンバーガー、飲みかけのシェイクな
んてのも何日間か放置されている状態だったのだ。
よく保健の先生なんてやっていられるもんだとあきれるレベル。
ちゃんと学校の備品を扱えているのかなんて聞くのも怖かった。
そんなお姉ちゃんが、こんな小綺麗な部屋に住んでいるなんて誰
が想像しただろう。
一人間がここまで変わるきっかけ。
258
それは、おそらく⋮⋮恋だと思う。
お姉ちゃんはきっと恋をしてるんだ。
いきなり、一人暮らしをしたのも、職場の学校の目の前に住んだ
のも⋮⋮。
おそらく、相手は学校の同僚。それも教師だからこんなにもきっ
ちりした部屋になってるんだろう。
きっちりしてそうな数学とか化学とかの先生だろうか。
私は、四角い眼鏡の理系イケメンを想像する。まあ、必ずしもイ
ケメンである必要はないのだけれど、裸の酔っぱらいお姉さんしか
興味のない最近の私は、もう﹁男の人﹂っていうイメージが湧いて
こなくなってきていた。
それくらい頭の中にお姉さんが占める割合が高くなってきている
のだ。
自分でも異常だと思う。
だけど、こればっかりはしょうがない。だって好きなんだから。
お姉ちゃんも私と同じ様な恋をしてるのだろうか。
お姉ちゃんの周りにはいつも男の人がいた。逆に女の人が周りに
いるところを見たことがない。
259
たぶん、お姉ちゃんは女の子でいることが疲れちゃうんだと思う。
決して女の子らしくないわけじゃない。
ただ、ちょっとばかし不器用なのだ。
イエスかノーか。それだけで生活していけるほど女子の世界は甘
くない。
いい匂いはするけど、よくみたらちっちゃなトゲが広がっている
ような、そんな世界。
ちっちゃなトゲにいつも痛がったり、かゆがっていた私にとって
お姉ちゃんはうらやましかった。
そんなお姉ちゃんが恋をしている。たぶん、お姉ちゃんにとって
初めての恋なのだろう。
妹としては祝福してあげなければいけないのだろうけど、ちょっ
と複雑な気分。
今まで通り妹として甘えられなくなるのが、ちょっとだけ怖い。
260
布団は柔らかい。たぶんおっぱいくらい柔らかい。 6
﹁ねえ﹂
ただ、お姉ちゃんにそうつぶやいただけだった。
たった二文字。
それを聞いただけでお姉ちゃんはゆっくりと頷いて優しい笑顔を
見せる。
﹁いいよ。おいで﹂
お姉ちゃんが手招きしてる先には可愛らしい抹茶色の二人掛けソ
ファー。
なんでもお見通しなんだ。自分の姉ながらなんだか嫉妬してしま
う。
やっぱり、ほっとかないよなー。だってお姉ちゃん、綺麗だもん。
モデルになれる、とか女優になれる、とかそういう綺麗は私には
よくわからない。
ただただ、私はお姉ちゃんを綺麗だと思ってた。一緒に暮らして
る間も、そして今も。
よく、私とお姉ちゃんは似てないと言われる。別に血がつながっ
261
てるとかつながってないとかそういうのじゃない。
だって、私はお父さんにそっくりだし、お姉ちゃんはお母さんに
似てる。
お母さんも五十代にしては綺麗⋮⋮だと思う。だけど、お姉ちゃ
んはなんだか輝いて見えたんだ。
小学生の時に集団登下校のリーダーになってるお姉ちゃんとか中
学の時の学校指定のシャツにハーフパンツのお姉ちゃんとか高校の
時の大人びたブレザー姿とか︱︱。
キラキラしてたんだ。
お姉ちゃんみたいになりたかったけど、典型的内気眼鏡だった私
は、何も変わることなく典型的内気眼鏡だったし、今は典型的内気
眼鏡フリーターなのだ。
そんな、私はとにかくお姉ちゃんに甘えた。
親にも先生にも﹁しっかりした子﹂って言われてきたけど、いっ
つも心が疲れてた。
いい子に授業を受けて、いい子に人付き合いをして、いい子に嫌
がらせを受けた。
疲れるたびに私が行き着く甘えられる場所、それはお姉ちゃんの
お腹だった。
失礼しまーす。
262
心の中で勝手につぶやいて、ソファーに座ってるお姉ちゃんの太
股を枕にする。
そして、お姉ちゃんのお腹に頭をぎゅっと埋める。
お姉ちゃんの匂いがした。
離れて違う場所で住んでいるにもかかわらず、お姉ちゃんはいつ
もと同じお姉ちゃんの匂いがする。
お姉ちゃんはお母さんだ。
変な日本語だけど、ずっとそう思ってきてしまっているのだから
仕方がない。
ぽこぽこぽこ。
耳を当てると、お姉ちゃんのお腹の中が活動しているのがよくわ
かる。
もしも、お姉ちゃんに赤ちゃんができたら私はお腹からキックを
もらっちゃうな。
そんな日が来るのかな。
お姉ちゃんはお母さんだから、きっと子育ては問題ないんだろう
な。
263
だって、今、二十歳をとっくに越えた子どもをあやしてくれてい
るんだから。
人間の指っていうのは人の頭をなでるために神様が作ってくれた
んだと私は思う。
そうじゃなきゃこんなにも頭をなでてもらうことが幸せな理由が
つかないもん。
お姉ちゃんの指が私の頭にある幸福のツボを押してくれてるみた
いだ。
幸福のつぼ⋮⋮なんだか、ちょっと変な宗教チックだな。そんな
ことを考えながら私はお姉ちゃんお母さんにあやされる。
264
布団は柔らかい。たぶんおっぱいくらい柔らかい。 7
お姉ちゃんのお腹の音と匂いはいつもの通りだったのだけれど、
今日のお姉ちゃんからは少し大人な香りがした。
よくわからないけど⋮⋮これって。
﹁お姉ちゃん。お酒飲んでる?﹂
﹁⋮⋮するどいなあ。ほんの一口、二口飲んだだけなのに﹂
いや、その一口二口だから今の今まで気がつかなかったんだ。
やっぱり、お姉ちゃんは一人暮らしをして変わってしまったのか
もしれない。
今まで実家に暮らしてた時は一滴もお酒なんて飲んでいなかった。
私と違って職場での付き合いもあるのだろうし、お酒だって強い
のかもしれない。
だけど﹁お酒よりジュースの方がおいしくない?﹂ってのがお姉
ちゃんの口癖だった。
もしかしたら、お付き合いをしてる人がお酒好きなのかもしれな
い。
やっぱりお姉ちゃんはどんどん変わろうとしてるのだ。
265
いつまでも、私はお姉ちゃんに甘えていてはいけないのかもしれ
ない。
お姉ちゃんが変わることの邪魔になっちゃいけないんだ、きっと。
﹁今度、いっぱいお酒持ってくるよ﹂
﹁いいよ。別に﹂
﹁いいんだよ。うちね。カルピスサワーが余ってんの﹂
そう言った瞬間、頭を撫でていた、お姉ちゃんの指が、止まった。
﹁もしかして、今飲んでたお酒がカルピスサワーだったとか﹂
﹁ははは⋮⋮エスパーか。君は﹂
﹁秘技、お姉ちゃんが飲んでるお酒を無駄に仕入れるパワー﹂
﹁それで世界を救ってくれたまえ﹂
お姉ちゃんの指がまた動き出す。私は一生懸命お姉ちゃんの匂い
をかいで。お姉ちゃんのお腹の音を聞いた。
もう、お姉ちゃんに甘えなくていいように⋮⋮がっつりと甘え納
めしておかなければ⋮⋮。
◇
やっぱり裸コートのお姉さんはやってこない。たくさんあるカル
ピスサワーはやっぱり裁ききれずに段ボールごと放置されていた。
⋮⋮といっても、私がこっそりとやったことなので別に売れ残ろ
うが売れようが私には関係ないのだが⋮⋮。
266
まあ、だけどこのカルピスサワーたちはお姉さんに飲まれるため
にこの店にやってきたようなもんで、このまま、在庫処分されてし
まうのもなんだか申し訳ない気分。
本当にありったけのカルピスサワーをお姉ちゃんのマンションに
持って行ってあげようかしら。
そうすれば、お姉ちゃんとその彼氏も喜ぶだろう⋮⋮。
いや、彼氏さんからすれば別にお姉ちゃんが飲むお酒が増えたと
ころで別に関係ないか⋮⋮カルピスサワー好きの彼氏さんだったら
いいな。
もう少しでシフトが終わる時間だった。もう、しばらくお姉さん
に会ってないから、妄想シアターに映ってるお姉さんの顔も若干ぼ
やけてきている。
まるで近眼の私が裸眼で人を見ているかのよう。
その時だった。
来たのだ。
︱︱お姉さんが。
お姉さんは眼鏡をかけていた。そう、お姉ちゃんと同じようなフ
レームの下だけ縁がついてる形の可愛いやつ。
服装もコートでも裸でもなく、スーツだった。就活中の大学生が
着ているような地味な色の二つボタンジャケットにタイトスカート。
267
一見、お姉さんじゃないみたいだ。だから店に入ってきた時も見
逃してしまったのだろう。
ただ、髪だけは一緒だった。思わず触れたくなるようなまっすぐ
なストレート。
そして、お姉さんの優しい目。
お姉さんは、買い物かごをレジ前に下ろす。
よかったね。カルピスサワーくんたち!
君たちは買われるべきお姉さんの元へと旅立つんだ。
私はリーダーを買い物かごに近づける。
そこに入っていたのは⋮⋮カルピスサワーではなく、一本の赤ワ
インだった。
268
布団は柔らかい。たぶんおっぱいくらい柔らかい。 8
声が出なくなるなんて初めてだった。完全にコンビニマニュアル
ロボットと化しているはずだったのに、そのロボットが急に故障し
てしまったという感じ。
でも、身体はまだマニュアル通りの動作を続けている。身体はま
だロボット。でも頭脳は、ただただお姉さんが好きな私。
回線がショートしちゃってるんだ。
だって、お姉さんはがスーツを着ているのはもちろんだけど、眼
鏡が私の見覚えのあるフレームなんだ。
﹃お姉ちゃん﹄と﹃お姉さん﹄が重なる。
私の中の冷却液が切れてしまったみたいだ。身体が熱くて熱くて
仕方がない。
私もお姉さんも何も言わないまま、会計は終了し、お姉さんはお
店から出ていった。
しばらく、ほかほかしていた。
入ってもいない温泉にのぼせていた。
あまりに顔が火照りすぎて、なんだか肌がひりひりしてくるくら
い。
269
控え室でマスクをとってくることも忘れて、ただただレジでゆで
だこになっていた。
今の私でたこ焼きを作ったら、きっと美味しいに違いない。
◇
久しぶりに布団でもにゅもにゅした。
干すのを忘れた布団は、なんだかぺとぺとしている。
まるでペンギンの肌をなでなでしているみたいだ。⋮⋮触ったこ
とないけど、
しばらく、触ってなかったので乳頭が敏感になってるのがよくわ
かる。
ちっちゃなコマを回すみたいにひねってみる。とっても小さな針
をちょこちょこ差し込まれているようなむずがゆさと思わず身体が
反り返ってしまうくらいの痛さ。
たぶん、痛さとかゆさが合わさると気持ちよくなるんだ。
気持ちいいってのは結局は刺激なんだ。
だったら、みんながみんなエムなんじゃないか。
みんな、刺激が欲しいんだ。
270
私の妄想シアターの中では﹃お姉ちゃん﹄と﹃お姉さん﹄が並ん
でいる。
並んでる二人が一緒になる。
﹃お姉ちゃん﹄と﹃お姉さん﹄が一つになる。一つになっても眼鏡
のフレームは一緒だ。
さらにおっぱいをつねった。
いや、つねられてる。
大好きなお姉ちゃんと大好きなお姉さんが合わさって、それでい
て私の乳首をつねる。
大好きなんだ。とてつもなく好きでしょうがないんだ。
そのことを思う。やっぱりそれは痛くて、そしてかゆい。
大好きな人も痛くてかゆいんだ。
痛くてかゆい人が私のおっぱいを痛がゆくする。
︱︱会いたい。
頭の中で、何かで叩かれたような痛みが走る。
妄想シアターがつるされた鉄球で壊されてる。
とてつもなく、胸が痛い。
271
会いたいって感情がこんなに危険だなんて。
会えないって感情がこんなに冷たくて、痛いだなんて。
いろんな傷で心がぼろぼろになった。
そして、それを癒すかのように、股に湿ったものを感じる。
272
布団は柔らかい。たぶんおっぱいくらい柔らかい。 9
◇
カルピスサワーっておっぱいの味がする。
⋮⋮と言ったところで、別におっぱいの味なんて覚えちゃいない
のだけれど。
覚えてたら覚えてたで問題なのだけれど⋮⋮。
そもそも、私にとってはおっぱいがどういうものなのか⋮⋮それ
すらもわからない。
そりゃ自分のはわかりますよ。二十年以上も一緒にいるんだから。
だけど、自分意外のおっぱいってどうなんだろう。
やっぱり柔らかいのだろうか。今座っている布団くらいに柔らか
いんだろうか。
そうしたら、私はおっぱいの上で眠りたい。おっぱいと一緒に苦
楽を共にしたい。
ちびちび、っていう表現のままにカルピスサワーを飲み進めてい
く。
273
すすっていくというべきか、なめていく、と言うべきか。
カルピス持ち前の甘さ、アルコールの苦さ、舌に突き刺さる炭酸
の痛さ、そんな愉快な仲間たちが口の中でお祭り状態だ。
孤独でそれでいて哀しい祭りだ。
甘いけれど、苦くて、痛い。
お酒ってのはもうちょっと陽気なもんだと思ってた。
ネクタイを頭に巻いて、寿司折りもって、千鳥足!
そんな陽気になれるんじゃなかったのか! ホワイジャパニーズ
ピーポー! おかしいだろ!
お酒を飲んでも陽気にならないじゃないかよ!
それどころか若干陰気だよ!
自室のテーブルの上に並ぶ大量のカルピスサワー。
元はお姉ちゃんに持って行こうと思ったんだけど、なんだか妙に
切なくて寂しいから、飲んでみた。
お酒は愛しさと切なさと心強さに効くんだと思ってた。
お酒を飲めばなんとなくだいたいの精神不安定はどうにかなるん
だと思ってた。
実際のところはそうではないらしい。
274
それどころか、よけいに不安定だよ私! ホワイジャパニーズピ
ーポー!
どうやら、カルピスサワーは私のことを嫌いらしい。
このカルピスサワーはちゃんと飲んでくれるところに連れて行っ
てやろう。
ちょうど、お姉ちゃんに会いたくってしょうがなかったことだし
⋮⋮。
◇
今日もお姉ちゃんは酔っていた。﹃ほろ酔い﹄って言葉はお姉ち
ゃんのためにあるんじゃないだろうか、って思うレベルで絵に描い
たように気持ちよさそうだ。
お姉ちゃんの元だったらこのカルピスサワーたちも成仏できるだ
ろう。
﹁おみやげ﹂
﹁お母さんから?﹂
﹁いや、私から﹂
ちょっとだけ驚いた顔をするお姉ちゃん。いや、まあそうだろう
ね。だって今まで自分から進んでお姉ちゃんにものを差し出したこ
とはなかったもんね。
﹁あがって﹂
275
言われなくてもあがりますとも。
姉妹そろってお姉ちゃんのおしゃれソファーに腰を下ろす。
﹁飲もうよ。せっかく持ってきてくれたんだし﹂
お姉ちゃんの手にはコカコーラのグラスが二つ。マックのキャン
ペーンでもらえるやつだった。
そんなグラスで飲まれるカルピスサワーも注がれるコカコーラグ
ラスも心中は穏やかではないであろう。
﹁いいよ私は﹂
﹁どうして?﹂
﹁さっき飲んだら、そんなによくなかった﹂
﹁カルピス嫌いだっけ﹂
﹁いや⋮⋮楽しくない﹂
お姉ちゃんはコカコーラグラスにカルピスサワーを注ぐ。
しゅわあ、といういかにもな炭酸がコップの縁から元気よく弾け
る。
﹁それはね。一人で飲むからだよ﹂
はい、とお姉ちゃんからグラスを渡される。
そして、かちゅっ、と乾杯。
276
お姉ちゃんと二人で飲むカルピスサワー。
私にとってはやっぱりおっぱいの味がした。
277
布団は柔らかい。たぶんおっぱいくらい柔らかい。 10
お姉ちゃんが着ているのは、カルピスサワーと同じ真っ白なもこ
もこセーターだ。
私はこのもこもこセーターが大好きだ。
顔を埋めた時にとっても気持ちがいいから︱︱。
ただそれだけの理由なんだけど⋮⋮。
それにしても不思議だ。
コカコーラのグラスに注いだだけでこんなにもカルピスサワーが
美味しくなるなんて。
これも企業同士のコラボレーションってやつなのだろうか。
いや、たぶんお姉ちゃんの言うとおり二人で飲んでいるから美味
しいのかもしれない。
しゃべって喉が乾いたら、お酒を飲む。
舌がお酒の味に飽きたらまたしゃべり始める。
なんとも優雅で楽しい時間じゃないか。
貴族にでもなったかのようだ。次に来る時は髭でも蓄えて襟の立
278
った濃い色の貴族服でも着てこようか。
﹁それどこに売ってるんだ?﹂
﹁⋮⋮ドンキ?﹂
﹁パーティグッズだそれ!﹂
真っ赤な顔のお姉ちゃんは可愛い。特に真っ赤な鼻が愛くるしく
てしょうがない。
サンタさんが真っ赤なお鼻のトナカイさんを連れて行っている理
由、それはぴかぴかのお鼻が暗い夜道で役に立つ⋮⋮なんてのはた
ぶんうそっぱちなんだと思う。
たぶん、可愛かったんだと思う。
真っ赤なお鼻が可愛かったんだと思う。
だって、お姉ちゃんの真っ赤なお鼻は可愛いんだもん。
真っ赤なお鼻のトナカイさんだってきっと可愛いよ!
そんな、可愛い真っ赤なお鼻に︱︱。
私は、軽くキスをする。
﹁⋮⋮酔ってきたのか?﹂
さすがにお姉ちゃんもびっくりした様子だ。そりゃそうだろう。
いままで、お姉ちゃんにキスなんてしたことがなかったから。
279
私たち姉妹ってそんなに普段からキスをするような間柄ではなか
ったし⋮⋮、って普段からキスをする姉妹がどれだけ存在するかは
謎なのだけれど。
﹁そんなに真っ赤なお鼻だとサンタさんに連れて行かれちゃうぜ?﹂
﹁だからと言ってキスをする理由にはなってないんだけど﹂
それもそうだ。やっぱり酔ってきてるんだ。
酔いってもしかしたら⋮⋮楽しい?
そして、もしかして私はやっぱりお姉ちゃんが好きなんだ。
目と、目が合う。
真っ赤なお鼻をしているお姉ちゃんはやっぱり私の知ってるお姉
ちゃんだ。 だけど、不思議だ。
私の目にはお姉ちゃんが映っているのに、私の妄想スクリーンに
は、またお姉ちゃんとお姉さんが重なって映る。
なんだか、頭が重い。
なんだかくるくるくるくるする。
﹁やっぱり酔っぱらっちゃったね﹂
﹁らねぇー﹂
280
もはや、ろれつも回らない。
もう、自分の意思通りに身体を動かせなかった。
私は重力に負ける。
頭がだんだんとソファーに向かって落ちていく。
ソファーって柔らかいんだ。
まるでお姉ちゃんの太ももみたいだ。
281
布団は柔らかい。たぶんおっぱいくらい柔らかい。 11
◇
お酒には無意識に眠らせてしまうという効果があるみたいだ。
気がついたら、お姉ちゃんの膝まくらで眠ってしまったみたい。
お姉ちゃんの太ももまくらって本当に気持ちいい。
膝まくらって言うけど、実際にまくらになってるには太ももだよ
ね⋮⋮なんてことを思ってしまうのだけれど、たぶんそんなことを
気にしている私ってきっと可愛くない。
口の中がなんだか苦い。飲んでないのにウーロン茶を飲んだ後み
たい。
﹁起きた?﹂
お姉ちゃんの顔はまだ赤いままだった。真っ赤なお鼻でいつもの
ように頭を撫でてくれている。
﹁私、いっぱい寝た?﹂
﹁いや、三十分くらいかな﹂
思ったより眠ってなかったけど、その間、ずっと頭を撫でていて
くれたのか。
282
非常によくできた女だ! さっさと嫁にでもいったほうがよい!
テーブルの上のお酒がカルピスサワーからワインに変わっていた。
コカコーラのグラスに今度はワインが注がれている模様。
いくらコカコーラさんもカルピスサワーを注がれた後、キリスト
の血まで注がれることになるとは思ってもみないだろう。
ワインか。眼鏡をかけたあのお姉さんが壊れかけの妄想シアター
に映る。
あのお姉さんも今頃あのワインを飲んでいるの
だろうか。
もしかしたら、お姉さんにもいい人ができたかもしれない。
その人のためにワインを買ったのだろう。
お姉さんが買ったワインとここにおいてあるワイン、どっちが高
くてどっちが美味しいのだろうか。
私にはよくわからない世界だ。ワインの色もパッケージもみんな
同じに見える。
﹁ねえ、そのワイン美味しい?﹂
﹁よくわからん﹂
﹁そんなにワインばっかり飲んでると元気な赤ちゃん産めなくなる
ぜ!﹂
283
﹁そんなの初耳だし、赤ちゃん産む予定はなっしんぐ﹂
嘘ばっか。いい人いるくせにー。
一瞬、口に出して言おうと思った。
でもやめた。だって、お姉ちゃんがそれを認めるのが怖かったか
ら。
聞かなければ、ずっと知らないでいられる。その方がたぶん今の
私には幸せな気がするんだ。
お姉ちゃんのもこもこセーターに顔を埋める。本当にこのもこも
こってやつは気持ちいい。
顔を埋めるために開発部のみなさんが日夜努力なさってるに違い
ない。
うーん、いつまでも姉離れできそうにない。
もしかしたら、お姉ちゃんの代わりに頭を撫でてくれてもこもこ
セーターを着てくれる人がいてくれたら解決するのだろうか。
そんな人が私の前に現れるのだろうか。
﹁ねえ﹂
﹁うん?﹂
﹁⋮⋮おっぱい﹂
そう言ってもこもこセーターをひっぱってみる。私がそんなこと
284
を言っても顔色を変えたり、怒ったり、叱ったりするわけでもなく、
お姉ちゃんはゆっくりと撫でる手を止めた。
﹁赤ちゃんがここにいるんだから、私は赤ちゃんなんて産んでる場
合じゃないんだよなー﹂
お姉ちゃんはもこもこセーターをまくり上げる。ぽろん、とお姉
ちゃんのおっぱいが顔を出す。
ブラをしていないのも、まくり上げやすいもこもこセーターを着
ているのも、私におっぱいをあげるためかのようだ。
﹁はい、どうぞ﹂
やっぱり、お姉ちゃんはお母さんだと思った。私を見つめる瞳も
私にかける声色も︱︱。
お母さんだった。
私は、お姉ちゃんのおっぱいを傷つけないようにそっと口に含む。
﹁⋮⋮ぁむ﹂
お姉ちゃんの声がお母さんから女の人のそれに変わる。
ゆっくりゆっくりお姉ちゃんのおっぱいを吸った。
もちろん、お乳はでない。
でも、やっぱり甘い。カルピスサワーの味がした。
285
﹁ぅん﹂
お姉ちゃんに頭が撫でてくれてる間、壊れかけていた妄想スクリ
ーンがまたよみがえってくるようだ。
妄想スクリーンの中には、あのお姉さん。眼鏡はかけてない。そ
して、裸にあのコートを着ている。
そして、私はお姉さんのおっぱいを吸う。
﹃ぃ⋮⋮ぅ﹄
お姉さんもまた女の人の声を出す。
まだ、お酒が抜けきらない夜。
私は、お姉ちゃんとお姉さんのおっぱいを吸い続けた。
お姉ちゃんのいい人に申し訳ないな⋮⋮。
顔も知らない男の人に心の中で謝りながら︱︱。
私は、おっぱいにちょっとだけ歯を立ててみたりもするのであっ
た。
286
布団は柔らかい。たぶんおっぱいくらい柔らかい。 11︵後書
き︶
第七話 布団は柔らかい。たぶんおっぱいくらい柔らかい。 ︵了︶
287
かちゃかちゃ、ぷちゅり。 1
裸と裸で抱き合うとあったかい。
お互い裸だと寒いだけなのに、くっつくだけでなぜかあったかい。
あったかくて、それでいてすべすべしてる。
あったかくて、もこもこしてるものって世の中にはいっぱいある。
でも、あったかくてそれでいてすべすべしてるものって、実は少
ないのかもしれない。
おでんの卵とかこんにゃくとか?
たしかにすべすべしてるし、あれは食べることができる。
でもね。
このすべすべしたものも食べることができるのだよ!
はむっ。
はむんはむん。もむもむ。ぺろぺろっ。
なんだか甘い味がする。おでんの具がもってない甘さがある。
その分こっちの勝ち。
288
﹁おなか空いたのかな?﹂
はむはむ。
答えることもせずひたすら、はむはむはむはむ。
﹁私もおなかが空きました﹂
はむはむはむはむはむ。
﹁先生だけずるい﹂
はむぅっ。はむはむ。ぺろぺろ。
それにしても﹃もも﹄って名前のつくものはどれもおいしい。
果物の﹃もも﹄、鶏の﹃もも﹄。
そして、裸の保健教諭の﹃もも﹄。
あったかくて、すべすべでそれでいてもちもちだ。
﹁じゃあ、私も先生食べる﹂
私のことを﹃先生﹄と呼ぶけどあなたも﹃先生﹄では? という
ツッコミが間に合わないまま、先生は私の耳を食べる。
ぷつっ。ちゅぅ。
289
さすが、保健の先生は耳を食べる音までえっちい。
保健の先生になるための試験に﹃耳を食べる学概論﹄とか﹃えっ
ちい音入門﹄とかそんな数々の難関を突破して私の耳を食べている
のだろうか。
だとしたら嬉しい。そんなわけはないけど。
だって、私だって﹃地味眼鏡女子1﹄とか﹃おいしいカルピスサ
ワーの飲み方総論﹄とか﹃人と目を合わせる演習﹄とかそんなこと
をやって教師になったわけじゃないし。
私なりの方法で彼女を満足させなきゃいけないのかも。
だから、唇と唇でちゅうをした。
かちゃかちゃかちゃかちゃ。
眼鏡と眼鏡でもキスをした。
私のフレームと彼女のフレームがぶつかりあう。
唇と唇もぶつかり合う。
柔らかいぶつかり合いと堅いぶつかり合いとで大変な状態だ。
ぶつかり稽古中のおすもうさんもびっくりのぶつかり合いだ。
もしも、私と彼女がおすもうさんだったら大変だ。
290
だって、眼鏡は割れてしまうだろうし、唇も切れてしまうだろう。
危ない!
もっと優しいぶつかり合いを! お願いします横綱審議委員会の
みなさん! 私と彼女のぶつかり合いはきっと宇宙一優しいものだと思う。
だって、眼鏡は割れないし、唇は切れるどころか潤っている。
それにちょっとだけお酒の味がする。
それはそうだ。
私と彼女は裸でいちゃいちゃしているのだから⋮⋮お酒を飲んで。
それ自体は別にいいんだと思う。
だって二人ともいい大人だし、今はお互い仕事が終わった後だし
⋮⋮。
ただ、一つだけ問題があるとすれば、場所であろうか。
ねえ、先生。
さすがに保健室はまずいでしょう!
291
かちゃかちゃ、ぷちゅり。 2
夜の保健室というのは、なんだか複雑な居心地。
夜の学校っていうのは、意外と居心地が悪い。だって、居残りを
させられている気分だから。
⋮⋮いや、教師となった今では、実際に夜の学校に﹁宿直﹂とい
う名で居残りをさせられることは多々あるのだけれども。
けど、そんな居心地の悪い建物の中、なぜか保健室はなんだかほ
っとする。
この保健室は、特有の薬臭さがない。
しきしまあおい
それは、保健教諭の敷島葵があえてそうしているのか、たまたま
なのかはわからない。
ただ、今の保健室に漂うのは、はだかんぼの保健教諭の甘酸っぱ
い匂い。
シャンプーとかボディソープの甘さに彼女の汗の酸っぱさが合わ
さる。
そんな甘酸っぱさに囲まれながら私は彼女の肌を舐める。
彼女の小さな産毛が鼻をくすぐってなんともくすぐったいやら、
甘酸っぱいやら、美味しいやら、彼女のことが好きやら、まあ大変
292
なわけである。
それに加えて、この保健教諭がやってしまったハプニングが余計
に私を興奮させる。
今、学校に電気がついているのはこの保健室だけ。
そして、その唯一の明るい部屋のカーテンが︱︱開いているので
ある。
もう、マジックミラー号どころの話じゃない。
裸の私たち二人をどうぞ見てください、お代はいりません。︱︱
そんなスタイル。
もう生徒たちはもちろん、先生方もいない、そして経費削減かこ
んな学校に盗まれるものがないのか、理由かはわからないが、この
学校、守衛さん︱︱という存在がいないのである。
だから、実質上、この学校にいるのは私たち二人︱︱その二人が
裸でお互いを舐めたり、食べたり、抱き合ったり、ちゅうをしたり
︱︱。
とにかくだめな大人なんだ。
ていうか、だめな教育者なんだ。
私たちが今、学校の生徒たちに教えられること︱︱それは、何で
資料集の正岡子規は横を向いているのか︱︱とか、田山花袋ってえ
らそうにしてるけど結局教え子の残り香かいで喜んでるちょっと危
293
ない人じゃないか︱︱とか、女性なのに﹁よしもとばなな﹂ってお
前! とかそんな現代文教師ならではのことではない。
ただ、裸同士で抱き合うことはすばらしいと言うことだ。
授業でみんな一回裸にしちゃって、﹁いまからみなさんに裸で抱
き合ってもらいます。ダンカンばかやろう﹂なんて、バトルロワイ
ヤル授業をしちゃってもいいかもしれない。
よくはないけど。
だって、クビになるから。
路頭に迷うから。
そもそも、田山花袋以上に危ない人じゃないか。
路頭に迷ったら、この保健教諭のヒモになろう。洗濯して料理を
作って、仕事で疲れて帰ってくるこの保健教諭を抱きしめておでむ
かえするのだ。
⋮⋮悪くない。
悪くないどころか︱︱なんて理想郷。
294
かちゃかちゃ、ぷちゅり。 3
◇
私はカルピスサワーを、彼女はワインを飲んだ。
おつまみは、スモークチーズにポテトサラダ。
彼女曰く、これが一番ワインに合うんだそうだ。
スモークチーズのなめらかな舌触りと薫製特有の濃厚な風味が鼻
に抜ける。
そして、大好きなマヨネーズを身にまとったほくほくじゃがいも
のポテトサラダが口の中をしっとりとさせる。
そこにカルピスサワーの炭酸ですっきりと洗い流す。
流し込むだけカルピスサワーを流し込む。
こうなると、無限にお酒を飲めてしまうのだ。危ない!
﹁相変わらず美味しそうに飲むね﹂
敷島さんの眼鏡のレンズに私が映っているのがわかる。
レンズに映った私の顔は、ほんのりとピンク色。
295
敷島さんの顔色は変わらない。このまま、いつもの白衣を着てい
たら、誰もお酒を飲んでる人だなんて思わないだろう。
敷島さんのレンズに映る私の眼鏡のレンズ。
今までは、人と目なんて合わせられなかったけど、今ではずっと、
ず︱︱っと相手の目を見ていられる。
それがお酒が入っているからなのか、相手が敷島さんだからなの
かはわからない。
お酒の酔いに任せて見つめ合う二人。
それがおしゃれなバーとかなら絵になるかもしれない。
だけど、今ここは、夜の保健室。それに私たち二人はキャミソー
ルに下はショーツ一枚。
ロマンのかけらもない。
だけど、いいんだ。好きだから。
﹁ねえ﹂
ずずずい、と彼女の顔が近づいてくる。
﹁カルピスちょっとください﹂
はい、喜んで。
296
口にちょっとだけカルピスサワーを含む。
﹁んー﹂
彼女の顔に口を近づけると、敷島さんの唇に襲われた。
じゅぅ⋮⋮ちゅりぃ。
敷島さんは私を吸う。
目の前には、瞳を閉じた敷島さんの顔があった。
目をつぶった敷島さんはなんだか、えっちい。
そのえっちい顔でえっちい音で唇を吸われると頭から胸から足の
先から⋮⋮すべてがもやもやしてなんだか気持ちいい。
ここがおしゃれなバーじゃなくてよかったと思う。
だって、おしゃれなバーでこんなことしてたらおかしいもん。
たぶん、バーのマスターに止められちゃうもん。
羨ましがってるバーのマスターが私たちの口づけを妨害しちゃう
んだ。
そんなのいやだよ!
私は好きなときに好きなだけキスするんだよ!
297
好きなだけお酒飲んで、好きなだけ抱きしめあって、好きなだけ
眼鏡と眼鏡をかちゃかちゃさせるんだよ!
保健室で唇を吸い合ってる私たちも十分におかしいけどね!
いいんだよ! 好きだから!
298
かちゃかちゃ、ぷちゅり。 4
酔っぱらってくると、とろーんっとしてくる。
そのまま溶けてしまって液体になって用水路にでも流れてしまお
うか。
﹁ねえ、そろそろ時間だよ﹂
敷島さんも心なしか目がとろろろーん。
まぶたがぷっくりしてくる。ぷっくりかわいい。そもそも﹁ぷっ
くり﹂って言葉がかわいらしい。
思わず抱きしめたくなる。
抱きしめたくなるフレーズで賞を贈呈します!
﹁いつもの⋮⋮しよ?﹂
敷島さんのあったかい手が私を包みこむ。そして、引っ張る。
◇
﹁はい、じゃあここのKが言った言葉﹃精神的に向上心のない者は
ばかだ﹄というところ。この精神的な向上っていうのはどういうこ
となのか、それを考えてみたいと思います﹂
299
教室に響く私の声に自分でびっくりする。小さな頃から﹁もっと
大きな声で!﹂と怒られていたのを思い出した。
声を出すのが恥ずかしかった。口を開かずに生きていければいい
⋮⋮そう思った。
だけど、学校というものは口から言葉を発さないことには物事が
進まないことが多々あった。
音楽の歌のテストは地獄だった。教科書を音読するのも地獄だっ
た。日直の時の一分間スピーチなんて血の海に沈められたも同然だ
った。
学校っていろんな地獄がある。小学校一年の時からそう思ってた。
大人になるにはいろんな地獄を通過しなきゃいけないんだ⋮⋮っ
と思った。
いろんな地獄を通過して大人という鬼さんになるんだと思った。
大人はおっきな鬼だ。
鬼は怒ると怖い。
そして、いろんなことで怒る。
休み明けにお母さんに雑巾を縫ってもらうのを忘れたりとか、お
母さんに給食着を洗濯してもらうのを忘れたりとか、お母さんに体
操着の名前をマジックで書いてきてもらうのを忘れたりだとか、そ
ういうことすると怒る。
300
がおーって怒る。
がおーってされたくないから私は雑巾を縫ってもらったし、給食
着を洗濯してもらったし、体操着に名前を書いてもらった。
そうやって、鬼に怒られないように地獄を通過してたら、いつの
間にか大人と呼ばれる年齢になっていた。
大人って呼ばれる年齢になった。
でも地獄はある。
雑巾を縫うことも給食着を洗うことも、マジックで名前を書くこ
ともできるようになった。
でも、まだ鬼に怒られるし、鬼は未だに怖い。
そもそも、私が鬼になれてない。
頭をどれだけさわっても角は出てくる気配はないし、どれだけ鏡
で口の中をのぞいても牙は生えてくる気配はない。
がおーって怒ることもできない。
ただ、一つだけ鬼に近づいたことがある。
それは、顔が真っ赤になるということだった。
つまり、私はカルピスサワーを飲んだとき、肌の色だけは鬼にな
る。
301
人見知りで口べたで⋮⋮弱い弱い鬼だ。
302
かちゃかちゃ、ぷちゅり。 5
そんな弱い弱い鬼な私は今、授業をしている。
教室で授業をしている。
﹁古典を読むこと︱︱、それによって自分自身を成長させる、また
武道をもってして自分自身を成長させる︱︱そんな様々な鍛錬を通
じて、自己修養に励む、そんな人をKは﹃精神的向上心のある人﹄
と考えているわけで︱︱﹂
弱い鬼でいながらも、教科書を左手に持ち、右手に白チョークを
握り、教壇に立つ。
こうすれば弱い鬼な私もいっぱしの鬼のようには見える。
ただ、この鬼には問題があったのです。
この鬼さんは、酔っぱらっていて、生徒のいない教室で授業を行
っているのです。
そして、極めつけ︱︱。
鬼さんは︱︱はだかんぼだったのです。
﹁そういった鍛錬をせずに怠けて遊んでしまっていたり、恋愛にう
つつを抜かしているような人たちを﹃精神的向上心のない人﹄と考
えたKはこのような人たちを馬鹿にしか見えなかった!﹂
303
馬鹿は、裸で一人授業してるお前だろう!
この文章を書いた夏目漱石先生もご自慢のお髭がふっとぶ勢いで
ツッコミを入れてくれることだろう。
﹁はい、先生! しつもーん﹂
生徒がいないはずの教室から私を呼ぶ声が聞こえた。
﹁パンはパンでも食べられないパンはなーんだ!﹂
それは、質問じゃなく、なぞなぞだろう。
そのなぞなぞを出した張本人も私と同じように裸で⋮⋮それでい
て、同じような眼鏡をかけている。
﹁⋮⋮かびたパン﹂
この場合の答えは﹁関係ない質問どころか関係ないなぞなぞを出
してくる裸眼鏡を叱る﹂なんだろうけど、この裸眼鏡は生徒じゃな
くて、まがりなりにも養護教諭という立派な職についている方なの
でありまして⋮⋮。
だから私もそこまで叱る気にもならないのでありました。
何せ、彼女が座っている席の上にはワインがボトルごと置かれて
いて、たびたびそれをラッパ飲みしてる裸眼鏡養護教諭に対して、
何を叱ることがあろう。
304
こっちだって酔っぱらいの裸眼鏡鬼だ。
﹁ぶっぶー。正解は、﹃死んだおばあちゃんがよく焼いてくれたあ
のおいしいパン﹄だよー!﹂
リアクションが取りにくい!
﹁まあ、私のおばあちゃんは、父方、母方ともに生きてる上、パン
なんて焼いたことない!﹂
世界一不毛な時間だこれ!
夏目漱石先生もまさか自分の書いた小説がこんな裸眼鏡教師二人
に適当にあしらわれるとは思いもよらなかっただろう。
タイムマシンで現代に来た漱石先生に猫を投げつけられても文句
は言えないだろう。
可愛いから別にいいけど。
305
かちゃかちゃ、ぷちゅり。 6
﹁先生もう一つ質問﹂
はいはい、なんですか。
﹁裸と裸で抱き合ったら、それはお相撲ですか?﹂
起立をしてこっちに向かってくる裸眼鏡さん。
授業中に立って、先生に向かってくる生徒がいたら、私はとても
怖がってしまうだろう。
おそらく、その生徒は悪い生徒だから。
だけど、今の私は彼女を受け入れることができるだろう。
悪い生徒には違いないけど︱︱。
そもそも生徒じゃないけど︱︱。
﹁相撲の定義は︱︱﹂
教師風に相撲の歴史を紐解こうと思った矢先⋮⋮私のおっぱいと
彼女のおっぱいがくっついた。
おっぱい同士がくっつくとやっぱり気持ちよくて、授業どころで
ではなくなってしまったりもする。
306
持っていたチョークが地面に落ちて弾ける。
彼女の足に破片がつくけど、今はそんなことこの裸眼鏡にそんな
ことは既に関係ないのだろう。
今は、私の鎖骨をぺろぺろするのに夢中だから。
そんなところをいくら舐めても美味しいスープはでやしないのに。
﹁⋮⋮おすもう﹂
嘘です。これはお相撲なんかじゃないです。
ていうか、相撲の技の中に﹃鎖骨舐め﹄なんて存在しません。
木村庄之助もびっくりして逃げ出してしまうかもしれない。
そもそも、お相撲に眼鏡で臨む前には眼鏡はとってください。
﹁お前の可愛い顔をよく見るためだよ﹂
そ、そんなあかずきんちゃんの狼さん的な意味で眼鏡をつけてる
とは⋮⋮。
ぺちゃぺちゃぺちゃぺちゃ。
子どもの時に飼ってた猫が指を舐めてたのを思い出す。
あの時の猫はべろがざらざらだったけど、今、私を舐めるべろは
307
とっても柔らかくて、それでいてくすぐったくって気持ちいい。
でも、なぜだろう。
くすぐったくて、気持ちいいのはいつものことだけど、無性にほ
わほわして時々胸が痛い。
急に呼吸困難になるんじゃないかってくらいに胸が苦しくって、
その苦しさをほわほわした感覚が包みこむ感じ。
そりゃ、暖房をつけているとはいえ、今の状態は素っ裸なわけで
すし?
アルコールなんて摂取しちゃってるし?
明らかに身体には悪いことはしている。
病気になっちゃいそうなことはしている。
だけど、どうしてだろう。この苦しみがものすごく愛おしい。
この苦しみがなくなっちゃったらそれこそ死んじゃうんじゃない
かってくらい︱︱。
この苦しみを感じたまま死にたい。
ふっかふかの布団に包まれながらこの気持ちいい苦しみと一緒に
死にたい。
その隣にこの裸眼鏡の保健教諭がいたら、なおいい。 308
かちゃかちゃ、ぷちゅり。 7
つっちゅる。
裸眼鏡の保健教諭さんの唇が鎖骨から首筋に移動してるのがわか
る。
なんか、今までのキスと違う。
敷島さんは私の首筋にゆっくりゆっくりキスをする。
なんだか、キスをされているというより吸血鬼に血を吸われてる
気分。
ちぅい。
どんどん吸われる私の血。
この吸血鬼にだったら血を吸われてもいい。
吸血鬼に血を吸われる鬼って変なの。
吸うだけ吸ったら、またぺろぺろと舐め始める吸血鬼。
もう⋮⋮なんかえっちい吸血鬼さんだ。
ぺろぺろが終わるとまた吸い始める。
309
かっちかちのビーフジャーキーを口の中で柔らかくしているかの
よう。
舐めて、吸って、舐めて、吸って。
そんなに規則正しくやられたらますますえっちいのが止まらなく
なってしまう。
﹁うん⋮⋮できた﹂
敷島さんは、満足げな笑顔を浮かべる。
できたって何?
﹁きすまーく﹂
キスマークって何? 美味しいもの?
﹁ほら 見て⋮⋮﹂
夜の教室の窓ガラスは、鏡に負けないくらいに私と敷島さんの姿
を映す。
私の首筋には、ちっちゃく痣のような跡。
そうか、私はこの短時間の間にこの吸血鬼さんによって虐待を受
けていたのか。
﹁虐待とは失礼な⋮⋮、ちゃんと唇の形がしてるでしょ?﹂
310
そう言われてみれば、そんな気がしないでもない。
﹁じゃあ、今度は君の番だよ﹂
吸血鬼が髪の毛をかきあげると、鎖骨と一緒に首筋が顔を出す。
﹁え? でも私、今日口紅なんてつけてきてない⋮⋮﹂
まあ、今日に限らずつけてくること何てないんですけど!
﹁本当に君は何も知らないんだな。だめだぞ。勉強ばっかりできて
も﹂
おっしゃっる通りです。
﹁私がやったみたいにここをちゅうちゅうすればいいのだ﹂
彼女の指さす首筋はとても私が好きなやつだった。大好物のやつ
だった。
だって、首筋を攻めると、彼女のえっちい声が聞けることはわか
っているから。
﹁いいんですか?﹂
﹁んー﹂
では失礼して︱︱。
数本髪の毛が垂れる首筋をゆっくりゆっくり吸っていく。
311
ちゅりゅ⋮⋮っちぃ。ちゃ⋮⋮ちゅぅ。
﹁んぅ⋮⋮ぃ﹂
ほら、えっちい声が出て来た。えっちい声が出て来たら、私の方
だってえっちくなってきますよ。本当にいいんですか?
ゆっくり、ゆっくり。
そしてちょっとだけ強く吸ってみる。
びくっ!
彼女の身体が震える。
震えた彼女の背中をゆっくりゆっくり撫でてやる。
すると、呼吸がだんだんゆっくりになってくるのがわかる。
そこですかさず吸う!
つぅ⋮⋮ちゅ⋮⋮ちゅぅり。
﹁ん⋮⋮んぃ﹂
やばい。私の鬼の本性が現れちゃったかも。 312
かちゃかちゃ、ぷちゅり。 8
鬼ーのパンツはいいパンツ。つよいぞーつよいぞー。すごいぞす
ごいぞ鬼のパンツ。
たった二ヶ月間履いただけで理想のボディに!
私は、鬼のパンツを履いたおかげで運命の相手とめぐり合いまし
た。
私も、大学受験に合格することができました!
私なんて、完全密室犯罪に成功しました! 未だにバレてません!
そんな、たくさんの人が効果を実感している鬼のパンツが今なら
お祭り価格でご提供!
⋮⋮ってな具合に鬼はすごいパンツを履いてるはずだ。
黄色くて、黒い稲妻が入った鬼のパンツ︱︱。
だけど、パンツを履いてない鬼も世の中にはいる。
ちぅい。ちゅ⋮⋮じゅぅ。
彼女の首筋にできたのは、唇の形とはほど遠いもので、口紅の色
とも違うものだった。
313
なんだか、にきびとも違うし、吹き出物とも違う。
といっても、にきびと吹き出物の違いもわからないのだけれど。
先生なのにそんなことも知らないの、なんてことを言われてしま
いそうだけど、だって知らないものは知らないんだもん。教職の授
業でも教わってないし、教員採用試験でも出てきてない。
そもそもキスマークの付け方も知らない。
本当に勉強しかできないのかもしれない。現代文ができても、古
文ができても、漢文が読めても、実生活は役にたたない。
孔子さんの偉い教えを漢文で読めたからといって、お腹はふくれ
ないし、誰かを気持ちよくさせることもできない。
けど、この目の前の保健教諭は本当にすごいな。だって、ケガは
治せるし、病気も治せるし、キスマークもつけれる。
﹁なんか、保健教諭を馬鹿にしてないか?﹂
してないしてない。現代のブラックジャックだよ。あなたは。
﹁こちとらちゃんと資格もってやってるんだよー。あと、私は手当
ができるだけでケガも病気も治せないんだ。何もできないんだよ﹂
そんなことないと思うなー。
ちゅぅ⋮⋮⋮じゅ⋮⋮づゅぅぃ。
314
﹁んっ﹂
口づけに震える保険教諭をぎゅうっと包んでやる。火照っている
はずの素肌はまだつるつるだ。
保健教諭ってやつは、もしかしてゆで卵なのかもしれない。ゆで
卵のトップエリート達が立派な保健教諭になれるのだ。
確かにケガを治せないかもしれない。病気を治せないかもしれな
い。
だけど、この背中、この胸で何人も⋮⋮何百人もの生徒を見てき
たんだ。
弱っている生徒に⋮⋮寄り添ってあげてたんだ。
それってすごいことだと思うんだ。
生徒だけじゃなくて、先生の私にも寄り添ってくれる。
そんな優しい優しい吸血鬼だ。
今、窓ガラスにはパンツを履いてないどころか、そもそも何もつ
けてない鬼とその鬼が愛してやまない女の人⋮⋮二人そろって首筋
にキスマークがついてる。
明日、この教室に入ってくる生徒は夢にも思わないだろう。
教師が二人してはだかんぼでだっこしあってる⋮⋮その教室で授
315
業を受けてるなんて⋮⋮。
恥の多い生涯を送ってきました
教師として、大人として、⋮⋮というより人間として恥ずかしい。
いやいや、太宰師匠。私の方が今よっぽど恥が多い人生を送って
おりますよ。
だって、この恥ずかしさに快感さえ覚えてしまっていますもの!
恥の上塗りですよ。その上塗りが乾いてかっぴかぴですよ!
保存食用のお湯注いでできるわかめごはんくらい乾いてかっぴか
ぴですよ!
私だってお湯をそそいだらお手軽にわかめごはんができちゃいま
す。
316
かちゃかちゃ、ぷちゅり。 9
学校のシャワールームなんて先生になってから使う機会なんてな
いと思ってた。
普段はごく一部の真面目な運動部員が使うだけのこの施設、ただ
の国語教師の私は存在自体忘れていた。
だって、想像を越えてるよ。先生としてこんなことになるなんて
︱︱。
同僚の︱︱、そして、保健の先生と一緒に一つのシャワーを浴び
てる。
足下には、彼女のシャンプー、リンス、コンディショナー、そし
てボディソープ。
本当にこの学校に住んでいるかのようになんでも持っている。
彼女の白衣はちょっとした四次元ポケットなのだ。
もしも、彼女が四次元ポケットを持っているあのタヌキ型ロボッ
トだったら、この狭いシャワーの一室は﹃もしもボックス﹄なのか
もしれない。
受話器を通じて﹁もしも○○だったら﹂と言うとその通りの世界
になってしまうというアレだ。
317
﹁一つだけ秘密道具もらえるとしたら何欲しい?﹂って質問に﹃も
しもボックス﹄って答えたら盛り下がるレベルでチートな秘密道具。
もしも、ボディソープで洗いっこして、ぬるぬるプレイがしたい!
じりりりりーん、⋮⋮なんてね。
﹁じゃあ、身体洗いあいっこだ!﹂
⋮⋮え? 今なんて?
﹁お互いの身体を洗うという昔ながらの風習だよ?﹂
どこの国、どこの地域の風習なのかは全くわからないが、どうや
ら私の願いごとが叶ってしまった。
もしかしたら、私の思ってることがほわんほわんの吹き出しとな
ってみんなに見られるようになってるのかもしれない。
便利だ!
⋮⋮いや、困るか。実際そうだったら。
﹁⋮⋮はーい。お客さん、お身体お洗いしますねー﹂
お、おう。⋮⋮っていうか、どっかの風俗嬢と化してるわけです
が、この保健教諭。
﹁もうちょっとリラックスしてくださいね。緊張しちゃってるのか
な⋮⋮ふふっ可愛い﹂
318
変なマンガとか変な小説とか変な動画とか見すぎなんじゃないの
かな? ﹁お客さん今日はお仕事帰りですかー?﹂
さては、勤務経験があるな? もしくは、今現在も⋮⋮。
﹁私も今日初めてなんですよー。だから私も緊張しちゃってー﹂
設定はばっちりだな。
﹁ほら⋮⋮私の心臓の鼓動、わかります?﹂
ボディソープでぬるぬるな彼女の胸に私の手のひらがちょこんと
触れる。
柔らかいのと、ぬるぬるなのと、とくん、とくんっていうのとが
合わさって、こっちの心臓も口から飛び出しそうだ。
っていうか、何でいまさら心臓がとくとくしてえるんだろう。
私の心臓も彼女の心臓ももしかしたら酔っぱらってるのかもしれ
ない。
きっと、お酒を飲み過ぎたんだ。いっぱいいっぱい飲んだんだ。
そのせいで心臓が酔っぱらって、頭の中はとけてなくなってしま
いそう。 319
320
PDF小説ネット発足にあたって
http://novel18.syosetu.com/n2720cl/
富岡さんはきっと脱法的なアレなんだ。
2017年1月9日20時37分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
321
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