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送る言葉 - 帝京大学
送る言葉 経済学部長 柴 川 林 也 昨年3月末を以って、佐貫利雄教授と大塚香代教授はそれぞれ定年退職され、名誉教授の称号を 授与された。佐貫教授は昭和58年の着任から数えて19年、大塚教授は平成2年から12年間の長きに わたって本学の教育・研究の発展のために多大な功績を残された。ここに経済学部を代表して心か ら感謝の意を申し上げたい。お二人はそれぞれ専門分野を異にしているため、お一人ずつ簡単なご 紹介をさせていただき、僭越ながら送る言葉とさせていただく。 1. 佐貫利雄教授は経済学部にあっては異彩を放つ学者であられた。昭和21年に早稲田大学経済学部 を卒業されて、復興金融公庫に入行され、翌年1月に日本開発銀行(現在の日本政策投資銀行)に 吸収合併された後は、31年間開銀の業務を通じて日本経済の復興と成長のために歩んでこられた。 調査部次長、設備投資研究所副所長と主要なポストを歴任された。 開銀の設備投資研究所は、様々なプロジェクトに高名な学者と研究員が一緒に議論し、研究レポ ートの作成を通して学界や実業界に大きな影響を及ぼしてきた。佐貫先生の学問への関心はこうし た環境の中で醸成されていったと推察されるが、一方で元一橋大学学長故中山伊知郎教授とその弟 子達での勉強会(背広ゼミ)での交流を通して伊藤善一元帝京大学教授や、加藤 寛千葉商科大学 学長などとの知遇を得たことも、佐貫教授のその後の学者人生を大きく羽ばたかせる契機となった といえるであろう。 佐貫先生の関心は2つに大別される。一つは都市環境論である、もう一つは日本経済論である。 都市環境を多元的に把握しようとする主張のうちに、首都機能を喪失しつつある東京の遷都構想に 一つの切り口を与えるものと評価することができる。21世紀の都市環境について、経済環境を多少 とも犠牲にしてでも、知的環境と自然環境とを極大化する一方、情報・交通・自由時間・住宅・医 療環境をバランスよく向上させなければならないといわれる。この多元的都市環境論は佐貫先生の 学位請求論文(東京大学、工学博士、1970年)のテーマにほかならない。 わたしは佐貫先生が2つの博士号を取得されていたことは知っていたが、その内容については全 く無知であった。都市計画論という学問分野があるが、これをハードとして認識する場合には都市 工学の分野になるし、これをソフトとして認識する場合には都市経済学になる。佐貫先生が前者を 選ばれたのは、それまでの開銀での経験の蓄積と豊富な独自で開発された技術(情報係数を使っての 都市の指数化の手法)によるのであろう。 1982年には、「日本経済の構造分析」で名古屋大学から経済学博士号を授与された。このテーマ は恩師の中山博士のかっての研究テーマをさらに佐貫教授の独自の切り口で深めたものとされる。 −4− 当時の名古屋大学には、近代経済学の権威者の一人である水田 洋教授がおられ、論文博士の提出 先としては当を得たものといえるであろう。 佐貫先生の業績は多数にのぼるが、そのなかでもベスト・セラーにもなった「日本企業の勝者と 敗者」(東洋経済新報社、1994年12月)は、いわゆる『勝者と敗者』シリーズの先駆けになった書 物であるが、他の類書に較べてその内容と分析手法はひときわ際立っている。今でこそ、パソコン の普及によってエクセルを使えば簡単に作図や作表ができるが、佐貫先生の場合にはすべてハンド メードである。さて、その内容で興味を覚えるのは、銀行、自動車、百貨店・スーパーなど殆んど の業種について、開銀時代に審査部において磨いた財務分析の手法を駆使して一刀両断に、勝者と 敗者を分類しその根拠を明確に指摘していることである。したがって、その遡上にのぼった会社 (敗者)の中にはクレームを付けたくてもできないのが実情ではあるまいか。 21世紀に入って、注目すべき超優良企業はキーエンス、マブチモーター、ローム、マキタ、村田 製作所など、メカトロニックス産業の中堅企業である。これらの会社はいずれも研究開発の技術力、 その持続性と資金力そして経営哲学などに基づくとされている(「日本企業の勝者と敗者−エスカレ ーターからエレベーター時代へ−」、アークヒルズクラブでの講演より、2002.4.11)。けだし、炯 眼というべきであろう。 さて、帝京大学での佐貫先生の功績に触れておかなければなるまい。先生は退職されるまでの6 年間、大学院経済学研究科の研究科長をされていたが、税理士志望の学生が毎年多く、合格者は毎 年50名を越えていたと思う。したがって、志望者は軽く100名を超えていたのではあるまいか。旧 税理士法により、異なる研究科を終了して経済学修士と経営学修士などを取得し、かつ会計学ある いは経営学、財政学あるいは税法を修士論文のテーマにして合格しておれば、税法の試験免除の特 典が与えられた。しかし、一昨年度入学の修士課程の学生からは、このダブル・マスターの制度は なくなり、少なくとも税法及び会計学の分野から各1科目は受験して試験に合格しなければならな くなったのである。 佐貫先生が研究科長を勤められた時は、この特典が与えられた時期にほぼ相当していたため、国 税庁の学識経験者などを帝京大学大学院の専任教授に招聘し、多くの学生の論文指導に当っていた だくための粘り強い交渉が実を結び、帝京大学経済学研究科の名声を高からしめることになったの である。 2. 大塚香代教授は、私が帝京大学に着任した時には既に学部及び大学院において統計学(数の論理) 、 プログラミングそして統計学研究を教えておられた。その後になって、短大専攻科では茶道を学生 に教えておられることを知り、数学と茶道との結びつきについて考えさせられるものがあった。京 都大学理学部数学科の教授を長年勤められて、本学経済学部に昨年3月まで教育・研究指導に当ら れた。京都から東京まで毎週新幹線で通勤され、東京では府中にある大学の寮に泊られ、週3日お 一人で過ごされた。 大塚先生は昭和25年に京都大学理学部数学科をご卒業になり、京都府立大学で教鞭をとられた後、 昭和41年に母校に戻られ京都大学助教授、教授を経て平成2年より本学経済学部に就任された(京 都大学名誉教授)。大塚先生のご専門は、数学のどの分野なのかを知るためホームページで検索させ ていただいた。したがって、素人ゆえに間違いがあることを恐れる。 −5− 昭和39年に京都大学に提出された学位論文は、「トーラス群による軌跡の空間について」である。 トーラス・グループ(torus group)は、一点穴空きトーラス群ともいい、それを変形して極限集合 させるとどのようなことが起こるか、現在でも研究者の多大の関心が寄せられている。双曲幾何学 やクライン群論の研究支援ソフトウェア(OPTiのプログラム)が開発されたことによって、長年謎 とされた研究に強い光が当てられ、それは脳科学・神経系などにも応用されているといわれる。 大塚先生がトーラス群で博士論文に取組まれた頃は、無論コンピュータなどが存在しなかった時 代のことであるから、まさに鉛筆と紙でこの神秘的な分野に切り込まれたように推察される。当時、 京都大学の数学科には女子学生は大塚先生がお一人ということで、いまでは到底考えられないよう な教育・研究環境であった。京大の数学科は全国的に見てもトップを走っていたわけであるから、 大塚先生が周囲の数学の天才仲間に囲まれて自信を喪失されたのは不思議でもなんでもない。大学 には、先生のお母様から茶道をやることを条件に進学を認められたというから、大塚先生にとって は茶道にのめり込むことによって、数学の分野での研究上の苦闘を乗り越えることができた、と裏 千家家元の千 宗室氏との対談の中でご自分のことを述懐しておられる(「身近な数学−日本文化の 中に息づく数学的なことども」 )。 一昨年の経済学部の研究会で、数学と茶道について興味深い研究発表を大塚先生から伺うことが できた。その中でいまでも忘れないのは、魔方陣(magic square)についてである。先生がこのテ ーマに取組まれたのは、藤原定家の百人一首の選択と魔方陣が何らかの関係があるらしいというこ とを聞きつけたことによる。魔方陣とは、整数を正方形に並べてその縦、横、斜めがすべて等しく なるようにしたもので、1から連続した整数を用いるのが普通である(大塚著、前掲書31頁参照)。 そこには、3方陣∼8方陣の書き方(解き方)が詳しくかつやさしく書かれているので、ぜひ参考 にお読みいただくことをお薦めしたい。なお、これについては、「帝京経済学研究」第28巻第1号 (1991年3月)に掲載されている。 さて、千 宗室氏との対談において、「お茶の道具の置き合わせの位置には、数学的な原理がちゃ んと生きているように感ずる。お手前をしておりますと、お茶の世界には無駄がないというか、実 に数学的に整理されていて、だからこそ、本当に美しいのだ・・・・」また、「大事なお客さまをも てなすのに、本当にたった一杯のお茶をどのような心で差し上げるか・・・。お茶一杯に、どのく らいの精神世界を込められるか、表現できるか、それが問われる」と、語っておられる。 3. お二人とも75歳でなお現役である。佐貫利雄教授は学部、大学院で「日本経済論」を、また大塚 香代教授は短期大学で「茶道」を教えておられる。アメリカの大学は定年制がないと聞く。わたし がかってマサチューセッツ工科大学(MIT)の客員研究員をしていた時に、ノーベル経済学賞を受 賞したモジリアーニ教授が同じフロアの研究室にいた。ある時、中国人民銀行(日本の日銀に当る) から来ていた研究員が約束の時間に遅れたことがあった。これを厳しく叱っておられたことを思い 出す。あの当時で75歳を過ぎていたと思う。だれでも定年がないというのは嘘のようで、連邦政府 やペンタゴンあるいは民間会社などから多額の寄付金を集める教授には、大学としては辞めて貰っ ては困るのである。しかし、日本では国情の違いもあるが、定年は理に適った制度だと考える。佐 貫先生も大塚先生もこれからの人生を心豊にいつまでも健康で過ごされるよう祈ってやまない。 −6− 佐貫利雄教授 年譜・著作目録 略 年 譜 1.学 歴 1951年3月 早稲田大学政治経済学部経済学科卒業 1971年3月 工学博士(東京大学第2468号) 1982年6月 経済学博士(名古屋大学論経済博第20号) 2.職 歴 1951年4月 復興金融公庫入行 1952年1月 日本開発銀行入行(復金を吸収合併) 1963年12月 人事部調査役 1966年4月 地方開発局企画部副長 1971年3月 調査部次長兼設備投資研究所次長 1976年3月 設備投資研究所副所長 1982年2月 定年退職 1982年4月 国際大学大学院国際関係学研究科教授 1983年4月 帝京大学経済学部教授 1996年4月 大学院経済学研究科長 2002年3月 定年退職 2002年4月 帝京大学名誉教授兼客員教授 3.審議会・委員会 1964年6月 科学技術庁資源調査会専門委員 1970年6月 内閣総理大臣国土開発審議会専門委員 1973年6月 建設省河川審議会専門委員 1975年3月 内閣総理大臣首都圏整備審議会専門委員 1985年4月 建設省不動産産業中長期ビジョン研究会産業組織小委員会委員長 1994年11月 経済企画庁2010年地域・居住研究会委員長 1996年6月 建設省建設投資中長期予測検討委員会委員長 1994年3月∼2002年3月(9年間) 通商産業省産業開発指導員 4.著作目録 (1) 著書 『都市の自然淘汰論』(経済学全集24巻別冊、筑摩書房、1966年1月) −8− 『地域開発と金融』(全国地方銀行協会、1968年11月、355頁) 『都市と情報』(情報社会科学講座第17巻「情報文明の展望Ⅱ」、学習研究社、1974年3月、266頁) 『現代都市論』(学習研究社、1975年4月、347頁) 『日本経済の構造分析』(東洋経済新報社、1980年11月、229頁) 『産業構造』(日本経済新聞社、1981年4月、179頁) 『成長する都市・衰退する都市』(時事通信社、1983年11月、522頁) 『日本経済のルネッサンス』(東洋経済新報社、1984年7月、212頁) 『都市の経済力』(時事通信社、1989年1月、214頁) 『日本経済・新論』(東洋経済新報社、1993年9月、260頁) 『日本企業の勝者と敗者』(東洋経済新報社、1994年12月、211頁) 『都市の偏差値』(ごま書房、1995年2月、254頁) (2) 共著 『日本の知識産業』(片方善治、ダイヤモンド社、1970年3月、294頁) 『21世紀の日本』(丹下健三他、新建築社、1971年7月、343頁) 『超高速新幹線』(京谷好泰、中央公論社、1971年12月、185頁) 『ザ・ジャパンコリドールプラン』(石井威望・伊藤滋・天野光三・月尾嘉男、PHP研究所、 1986年6月、270頁) 『東京改造計画の緊急提言』(黒川紀章・尾島俊雄、1987年5月、192頁) (3) 主要論文 1.「人口移動の実態と都市形成」(大来佐武郎編『都市開発講座第1巻』、鹿島研究所出版会、 1967年5月) 2.「交通革命と地方都市の未来像」(伊藤善市編『日本の経済空間』、鹿島研究所出版会、1970 年3月) 3."The City in Information Society", Japan Center for Area Development Reserarch Area Development in Japan. No3-1970.pp9∼23. 4."What will be Japans forth trigger industry". Athene center of EKISTICS. EKSTECS, Vol.35. No207.1973年2月 5."Japan's economy face five major walls". The Japan Economic Journal Co. The Japan Economic Journal. Vol.12.1974.6.25. 1979年6月25日 6.「情報の地域格差とテレビ放送産業」(伊藤善市、『電波情報の地域構造に関する理論的・実証 的研究研』(統計研究会、1976年11月) 7.「我が国自動車産業の国際競争力」(中山伊知郎、『新段階におけるわが国産業の国際競争力の 研究』、統計研究会、1977年3月) 8.「医療産業の構造とその変化」(伊藤善市、『医療経済に関する理論的実証的研究』、統計研究 会、1977年3月) 9.「成長産業の対先進国関係―自動車産業をケース・スタディとして」(中山伊知郎、『新局面の 産業構造』、統計研究会、1978年5月) −9− 10.「物流と情報」(加藤寛・伊藤善市『経済政策』、基礎経済学大系−6、青林書院新社、1979 年9月) 11.「設備投資と景気調整」(篠原三代平『赤字財政下における景気調整策に関する分析研究』、統 計研究会・経済企画庁委託調査、1981年3月) 12.「先端技術産業の展望」(篠原三代平『アメリカは甦るか』 、東洋経済新報社、1982年10月) 13.「日欧貿易摩擦」(大来佐武郎・佐藤隆三『貿易フリクション』 、有斐閣、1983年6月) 14."The Blossoming of the Third Industrial Revolution", International University of Japan. Bulletine of thgratuate School of International Relations, International University of Japan. 15.「わが国産業構造の高度化と貯蓄・投資」(日本銀行『貯蓄の論理』 、1984年3月) 16.「多元的都市環境論」(帝京大学『帝京経済研究』第17巻第2号、1984年3月) 17."Woxing and Waning job markets", Japan Echo Inc, Japan Ecko, VolⅩⅠ.No1 1984 18.「技術革新と企業の盛衰」(東洋経済新報社『経済統計年鑑1986年』、1986年5月) 19.「ゴルフ会員権相場を予測する―過剰流動性と会員権価格」(毎日新聞社、「エコノミスト」、 1986年6月23日) 20."Changing Fortunes of occupations in Japan", M.E.Sharpe Inc. Japanese Economic Studies, Winter 1985∼86. 21.「設備投資と技術革新」(石井威望『経営戦略とイノベーション』、(東京大学出版会、1986年 7月) 22.「最近の設備投資の質的変化」(日本経済研究センター「日本経済研究センター会報518号」、 1986年8月15日) 23.「都市の成長と衰退(上)(下)」(日本不動産研究所「不動産研究月報」、1986年10・11月) 24.「企業のライフ・サイクル」(帝京大学「帝京経済学研究、第20巻1・2号」 、1986年12月) 25.「先端技術革新と企業の盛衰」(石井威望『高度情報社会の企業経営』、東京大学出版会、 1987年9月) 26.「リニアモーターカーと遷都」(サンケイ新聞社「正論」 、1988年4月) 27.「ニューハード論」(日本立地センター「産業立地」Vol.27、1988年5月) 28.「盛衰の歴史上の地方都市」(東洋経済新報社、月尾嘉男『都市開発のターニングポイント」、 1987年7月) 29.「日本の産業改革」(毎日新聞社「エコノミスト」、1988年7月4日号) 30.「第3次円高時代の産業」(日本経済研究センター「日本経済研究センター会報」、1988年10 月15日号) 31.「四全総下の地域開発」(東洋経済新報社『全国地域プロジェクト総覧』) 32.「東京の都市機能分散」(情報通信学会「情報通信学会誌」7巻第1号、1989年5月) 33.「第3の交通革命―リニアモーターカー」(寺井精英『インテリジェント日本の創造』、東洋経 済新報社、1989年8月) 34.「人的資源からみた産業構造の転換」(毎日新聞社「エコノミスト」 、1989年8月1日号) 35.「国際平和文化都市広島の可能性」(プレヂデント社「プレヂデント」 、1989年8月1日号) 36.「国際化・ハイテック化時代の都市再開発」(日本経済研究センター「日本経済研究センター −10− 会報594号、1998年10月15日) 37.「地域振興と交通体系整備」(交通工学研究会『交通工学』 、1989年、Vol.24) 38.「グローバル時代の高速交通ネットワーク」(建築学会「建築雑誌」 、1989年11月、Vol.104) 39.「産業構造―80年代の回顧と90年代の展望」(日本経済研究センター「日本経済研究センター 会報」、1990年8月) 40.「一億総貴族社会の新経済学」(ダイヤモンド社「週刊ダイヤモンド新春特別号」、1991年1 月5日) 41.「成長する都市・衰退する都市」(東洋経済新報社「週刊東洋経済」 、1991年4月13日) 42.「日本経済のニュー・トレンド」(日本経済研究センター「日本経済研究センター会報」、 1991年7月15日) 43.「東京一極集中に勝つ仙台」(プレヂデント社「プレヂデント」 、1991年11月) 44.「先端技術と花形産業」(産業創造研究所『産業技術の経済社会にもたらす役割に関する調査 研究報告書』、1992年3月) 45.「リニア新幹線技術開発論」(統計研究会『技術および社会変化と交通輸送システムの対応』、 1992年3月) 46.「景気と企業マインド」(日本経済研究センター「日本経済研究センター660号」、1992年7 月15日) 47.「リニア・エキスプレス技術開発をめぐる選択的視点」(統計研究会『リニアエキスプレス技 術開発をめぐる選択的視点』第8章、1993年1月) 48.「在来型新幹線とリニア新幹線をめぐる技術開発とその建設効果」(統計研究会『技術の高度 化と交通輸送システムの適応に関する研究』 、1993年3月) 49.「日本的経営のルネッサンス」(日本経済研究センター「日本経済研究センター会報」、1993 年8月) 50.「首都移転論」(鹿島出版会、菊竹清訓『建築を考える―21世紀の建築像』、第2部「21世紀 の建築像」、1993年11月) 51.「日本経済・五つのハードル」(帝京大学経済学会『帝京経済学研究』第27巻第1号、1993年 12月) 52.「日本経済浮上の条件」(日本経済研究センター「日本経済研究センター会報」 、1994年11月) 53.「財務でみる日本企業の勝者と敗者」(日本経済新聞社「日経ビジネス」 、1994年11月) 54.「首都移転と多元的都市環境論」(日本建築学会「建築雑誌」Vol.109、No1362、1994年9 月号) 55.「21世紀における国土利用計画のビジョン―複合主軸論」(日本計画行政学会「計画行政」第 17巻第4号、1994年12月) 56.「リニア新幹線をめぐる技術開発とその建設効果」(帝京大学経済学会「帝京経済学研究」第 28巻1号、1994年12月) 57.「迫りくる産業空洞化」(ダイヤモンド社「週刊ダイヤモンド臨時増刊」、1995年 Global Business. 英〔エコノミスト〕セレクシVol.1) 58.「花形企業のライフ・サイクル」(朝日新聞社『'96会社ランキング』、1995年4月) 59.『大規模地域開発事業円滑化調査・民活施策の新展開』(平成6年度通商産業省委託調査委員 −11− 会 (委員長・佐貫利雄) 報告書、1995年3月、三井情報開発総合研究所) 60."Multidimensional Urban Envirometal Issuess", Office of the University Publisher Harbard University. Enviroment, Health and Medical Care for the 21st Century. 1996 年 61.「技術革新と国土開発」(環太平洋産業関連分析学会「産業連関」第6巻3号、1996年1月30 日) 62."Technological Development and Construction of the Linear Motor Shinkansen and the Conventional Japanese Shinkansen", Edited by Y.Matsuda and M.Fushimi, "Uarban Life and Traffic", Marugen Planet Co, Ltd. 1996.4 63.「日本企業の勝者と敗者」(日本経済研究センター「日本経済研究センター会報」、1996年6 月) 64.「新多元的都市環境の理論」(帝京大学経済研究所「帝京大学経済研究論文集No9」、1996年 3月) 65.「先端技術革新PartII移行と新国土開発計画」(帝京大学経済研究所「帝京大学経済研究論文集 No9」 、1996年3月) 66.「産業空洞化時代における都市の成長と衰退」(運輸調査局「運輸と経済」 、1996年9月) 67.「企業域下町における都市盛衰比較」(日本実業出版社「ビジネス・データ」 、1997年1月) 68.「長野新幹線をめぐる技術革新と沿線都市への波及効果と逆流効果」(帝京大学経済学会「帝 京経済学研究」第31巻第2号、1998年3月) 69.「長野新幹線の開発効果(上)(下)」(運輸調査局「運輸と経済」、1998年6月) 70.「ゴルフ会員権価格決定の理論」(日本ゴルフ学会「ゴルフの科学」第13巻第1号、2000年) 71. 「高齢化社会への移行と多元的都市環境」―経済・交通環境・そして安全性 第1回∼第3回、 運輸調査局「運輸と経済」、2001年1∼3月) 72.「高齢化社会に関する一考察」(帝京大学経済学会「帝京経済学研究」第34巻1号、2000年 12月) 73.「都市環境と安全」(帝京大学経済学会「帝京経済学研究」第34巻2号、2001年3月) (4) 日本経済新聞「経済教室」等への掲載論文(代表的) 1.「第四の“ひきがね産業”はなにか(上・下)」(日本経済新聞「経済教室」、1972年1月7 日・8日) 2.「花咲く第三次産業革命」(日本経済新聞「経済教室」 、1974年4月3日) 3.「テクノポリスの効果」(日本経済新聞「経済教室」 、1983年5月21日) 4.「地域産業とテクノポリス・第1回∼第30回」(日本経済新聞「経済教室」、1983年11月18日 ∼12月30日・30日間) 5.「設備投資・急速にハイテック化」(日本経済新聞「経済教室」 、1984年10月3日) 6.「産業構造」(日本経済新聞「経済教室」 、1985年1月18日) 7.「地方都市・変わる成長パターン」(日本経済新聞「経済教室」 、1986年1月30日) 8.「新産業論―伸びる先端技術産業」(日本経済新聞「経済教室」 、1986年3月1日) 9.「産業構造論―新しい視点必要」(日本経済新聞「経済教室」 、1988年10月31日) −12− 10.「企業の優勝劣敗」(日本経済新聞「経済教室」 、1997年3月15日) (5) 学会・財団 日本未来学会々員(理事 1985年から現在まで) 日本計画行政学会々員(会員 1977年から2002年まで) 財団法人統計研究会(理事 1980∼92・13年間) 財団法人クマヒラセキュリティ財団理事長(1996年以降・理事'89年以降) 財団法人山種美術館監事(1994年以降現在まで) (6) その他 佐藤内閣総理大臣賞(総合賞『21世紀の日本』コンペティションで丹下建三教授と共同受賞、 1971年4月16日) −13− 大塚香代教授年譜・著作目録 略 年 譜 昭和2年兵庫県生まれ。 昭和25年京都大学理学部数学科卒業。理学博士。 昭和51年京都大学教授。 平成2年退官、京都大学名誉教授。 平成2年帝京大学教授。 平成14年退官、帝京大学名誉教授。 停年退職の日を迎えて 3年間も続けられたら―と頼りない気持ちでお世話になりましたのに、12年間も勤 めさせて頂きました。毎週京都と東京の間を往復するということで、いろいろ勝手を 申し上げ、御迷惑ばかりおかけ致しましたが、皆様の御温情を頂き、大過なく停年の 日を迎えられましたことを心より御礼申し上げます。有り難うございました。 大塚香代 著作目録 論 文 1.七乗数の和について 京都府立西京大学理学及び家政学、vol.2、No3、1−2、1956年12 月 2.加法的分割数Pnの表示について 同上、vol.2、No4、1−4、1957年8月 3.On matrices of triangular form. 同上、vol.3、No1、1−4、1959年12月 4.Closedness of some subgroups in linear algebraic groups (with T.Miyata, T.Oda). Journal of Math. Society of Japan vol.14、No3、272−275、1962年7月 5.線形代数群からコンパクト群の中への準同型写像について 数学、vol.14、28−30、1962年 6.On existence of a resolved surface of a singular surface. Journal of Math. of kyoto Univ. vol.3、No1、81−84、1963年 7.On orbit spaces by torus groups. Journal of Math. of Kyoto Univ. vol.3、No.3 287− 294、1964年 8.不変元についての注意 京都府立大学学術報告 理学、生活科学、福祉、vol.15、別冊、1964 年10月 −14− 9.Some remarks on the 14th problem of Hilbert (with M.Nagata). Journal of Math. of Kyoto Univ. vol.5、No1、61−66、1965年 10.On tensor products Gorenstein rings (with K.Watanabe, T.Ichikawa, S.Tachibana). Journal of Math. of Kyoto Univ. vol.9、No3、413−423、1969年 11.Some remarks on formally real fields. Tamkang Journal of Math. vol.9、No1、1978 年 12.身近な数学(1) 源氏香 帝京経済学研究 vol.24、No2、1991年3月 13.身近な数学(2) 花月の式 帝京経済学研究 vol.25、No1、1991年12月 14.身近な数学(3) 雪月花の式 帝京経済学研究 vol.26、No2、1992年12月 15.身近な数学(3) 雪月花の式(その2) 帝京経済学研究 vol.27、1994年3月 16.身近な数学(4) 魔方陣 帝京経済学研究 vol.28、No1、1994年12月 か ね わ り 17.身近な数学(5) 曲尺割の美学 帝京経済学研究 vol.29、No1、1996年1月 18.身近な数学 続(1) 源氏香 帝京経済学研究 vol.30、No2、1997年3月 19.身近な数学 続・続(1) 源氏香―源氏香図と源氏物語巻の番号との関係についての一考察 帝 京経済学研究 vol.32、No1、1998年12月 著 書 1.統計学入門への手びき 産図テクスト 1996年4月 2.身近な数学―日本文化の中に息づく数学的なことども カイト 1998年3月 −15− 大塚香代先生を送る 経済学研究科長 川 崎 昭 典 帝京大学経済学部大学院の紅一点の教授として、12年間在職された香代先生を送る言葉を述べる のは、私が最適任であるとも思えないが、同じ廊下に部屋を持ち、時に食堂で昼食もともにして頂 いた間柄であるので、少々の思い出とともに、先生を称える言葉を綴ってみよう。 香代先生は、2、3年のつもりで奉職したのが、いつの間にか12年にもなったと述べられている が、毎週1回京都から八王子へ往復されて、頗るお元気で愉快に勤務されているようにおみうけし ていた。先生には変ったところが、二つあった。変ったというのは悪い意味ではないが、大変賞賛 に価するというわけでもない。一つは、常に白衣を着ておられたことである。白衣姿がよく似合っ ていたので、私ははじめ帝京大学医学部の先生がときたま八王子へ来られているのかなとお見向け していた。しかし、そのうち女医さんでもないらしいから、化学の先生かと思った。経済学部のプ ロパーの数学教授ということは、かなり後で知ったのである。私も帝京大学に在籍して、ついつい 8年にもなったので、大学院の先生方の中でも、二番目に古いということになったのだが、香代先 生の白衣のいわれをお尋ねしたのは、つい1年ほど前のことである。白墨で服や手が汚れるので、 教壇服として白衣を研究費であつらえて貰ったというお話であった。私も白墨で手が汚れるのは好 きではないので、なるほどと感心したのであったが、いまだに白衣を注文するのも面倒で、先生の 行動力に敬意を表したというところにとどまっている。 もう一つ、先生の変ったところは、研究室を畳の部屋に模様替えをされていたことである。これ は、お茶をたてるという御造詣からきたもののようだが、畳へすわって、こたつに入って、お茶を 嗜んでから授業にむかわれるのである。このことは、私はたまたま研究室に招かれて、お茶の接待 を受けたので、知っているのだが、その際自作の茶碗などもみせて頂いた。なかなかいゝ御趣味を お持ちだと感心したのだが、そのお茶碗は、売りに出しても買手はあるまいというような、樂しい ものであった。とにかく先生は、明瞭なかつ清潔なお人柄で健康そのもののようであった。 私とは一つ違いのお姉さんのはずであるが、早生まれということで、学齢的には二つ違いのお姉 さんであった。日米戦争は、私が中学(旧制)1年生の12月に始ったが、先生はそのとき高等女学 校3年生のはずである。敗戦となって、新憲法ができるより早く、帝国大学は帝国の名前をとって、 たゞの東京大学、京都大学となって、女性を受け入れることとなった。女性が旧制の国立大学(3 年制)に最初に入学したのは、昭和21年である。先生は最初の女子学生として、昭和22年に京都大 学に入学して、25年に女子学生として、京都大学数学科の最初の卒業生となられた。 当時は、女子学生は1人、2人という感じで、ごくごく少なかった。今から思えば、もう半世紀 以上昔のことである。 先生は、数学者として数々の業績を残されたが、特に帝京大学の『経済学研究』には沢山の論文 −16− を残された。残念ながら、数学が嫌いで不得意な私に理解できるものは一つもないが、『源氏香の研 究』のお話は面白かった。『身近な数学』として、1998年に出版された御著書も、それに関するこ とや、お茶のはなしを書かれたもので、大学院の研究会で、それについての御話をされたのを拝聴 したが、これは私にもしっかり理解できた面白い内容のものであった。2001年10月19日の研究会 である。わが国における女性の活躍は源氏物語の紫式部の例をあげるまでもなく、卑弥呼の昔から 古い歴史がある。といっても、実際に体感できるのは、1945年の敗戦以降のことである。先生は、 女性が社会的に男女同権として活躍することとなった第1号というべき人で、京都大学における女 性教授の第1号でもあったわけである。個人的な業績という以上に、社会的に人間的な大業績を残 された方である。明朗で親しみやすい性格が、先生の大成された所以であろうが、何よりも優れた 頭脳の持主であったことも重要な要素であろう。そこへくると、大学院の学生達が、どこまでこの 先生の偉大さを理解して教えられていたか、少々疑問がないでもない。つまり十分に教え甲斐があ ったかどうか、ということであるが、そのようなことをあまり気にされている様子もなかったよう に思う。 大変健康であったにも拘わらず、かなり偏食の傾向があって、入学試験の当日、大学がお弁当を 支給してくれるが、赤身の魚のおすしなどは、とんと駄目で、私の卵焼きとよく交換したのも、今 はなつかしい思い出である。大学の入学式や卒業式にも必ず出席され、美しい和服姿でわざわざ九 段下までこられていた。私は式典にはあまり出ない方なので、毎回おめにかかったわけではないが、 入学式のときの美しい桜は、誰にとってもなつかしい思い出として残るものであろう。その桜が今 年は異常高温で卒業式のときに満開となっていた。先生にとっては最後の卒業式であったのだから、 2週間も早い桜の満開は、なお一層記憶に残るよい思い出となったのではないだろうか。 幸い先生はお元気で、今後もときどき帝京大学のお茶会に顔を出されることになっているときい ている。ますます御健康で、いろんな意味で多方面にわたって、後進の指導をされることを期待し たい。末長い御多幸を心からお祈りいたします。 −17−