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理科・科学教育

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理科・科学教育
第Ⅱ部 昭和・平成期の教科教育と教科書
理科・科学教育
はじめに
新しい理科教科書は科学教育変遷の歴史の中で、どのように位置づけられるのだろうか。ど
の時代においても、教科書は、教育行政の方針と教科書執筆者の願いの緊張関係の結果として
立ち現れている。教科書の表面に現れている変化の意味を理解するために、理科学習の視点か
ら、科学教育に関する日本の教育行政あるいは教科書執筆者の教育観の変遷をたどってみるこ
とにする。
1 2つの理科学習論
まず初めに、学習者を一つの情報変換システムとみなすような学習者モデルを考えてみる。
このモデルの概略は、以下のとおりである。学習者の感覚器から入った情報は、知識として記
憶されている情報を活用しつつ、対象認識領域で「それが何であるか」と解釈される。その結
果は、新しい知識として記憶されると同時に次の価値評価領域に伝達される。ここでは、価値
観として記憶されている情報を参照しながら、「それが自己にとってどんな意味を持つか」「だ
からどうしたい」ということに変換される。
その結果は、新しい価値観として記憶されると同時に、次の意思表現領域に伝達される。こ
こでは技能として記憶されている情報を活用しつつ、「それを実現にするにはどうしたら良い
か」と解釈される。それは、新しい技能として記憶されると同時に、運動器に指令として出力
される。
学習者を取り巻く環境の中にある自然の事物・現象などの対象は、運動器を通して物理的な
作用を受けると変化し、その変化は感覚器入力の変化としてとらえられる。学習者が活動・思
考するということは、この情報変換の連鎖が外部の対象との物理的相互作用を介して回路を形
成し、情報変換が連続して進行するということである。
この学習者モデルで学習活動の意味を考えると、情報変換の能力(何が真実であるかを知る
対象認識の能力、何が自分自身にとって大切かが判断できる価値評価の能力、意図したことを
実現できる意思表現の能力)を高めることによって生きる力としての環境適応能力を育むこと
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こそが、学習の本質である。
この情報変換能力を育てる具体的な方法として、次のような2つの教育方法がとられてきた。
一つは、先人によって発見・整理・貯蔵されてきた知識・価値観・技能などの情報の伝達とい
う方法であり、情報変換に活用できる記憶情報(知識・価値観・技能)を増やすことで情報変
換能力を高めようとするものである。
もう一つは、学習者自身による活動や思考の繰り返しを通して、自ら知識・価値観・技能な
どの情報を生成する過程を体験するという方法であり、学習者の情報変換能力を直接的・経験
的に高めようとするものである。
「理科」の主たる役割は、対象認識の能力の育成であるが、理科学習論の歴史をふり返って
みると、これまでは前者の情報伝達の過程を重視してきた。以下では日本の科学教育の変遷を、
このような2つの理科学習論という視点からみていく。
2 日本の理科・科学教育の変遷―戦前―
(1) 「学制」まで 1771∼1872(明和8∼明治5)年
漢方医の「五臓六腑説」に端的に表われているような儒教的観念論の時代にあって、西洋外
すぎ た げん ぱく
ふ
わ
科医術に魅了された杉田玄白らによる1771(明和8)年の小塚原の「腑分け」の試みの中に、
科学の必要条件としての実証精神をかいま見ることができる。また、杉田玄白はオランダ医学
書の翻訳の必要を痛感し、苦心の末、1774(安永3)年に『解体新書』を出版した。やがて日
本人の関心はオランダからイギリス・フランス・アメリカヘも広がり、この蘭学は洋学へと移
った。
お がたこうあん
江戸と大坂にいくつかの蘭学塾が開かれ、1838(天保9)年に緒方洪庵が大坂瓦町に開いた
てき じゅく
適 塾からは、明治維新の人材が輩出した。適塾での学習方法は、オランダ語の医学書・物理
りんこう
書を生徒が交代で読んで訳す「輪講」であった。科学書を使った語学教育というもので、漢学
塾における漢籍の素読・講釈と相似形であった。
一方、幕府は黒船が現れて2年後の1855(安政2)年に、「洋学所」を開き、洋書による軍
ばん しょ しらべ しょ
事技術の教育を始めた。翌年これを「蕃書 調 所」と改称して洋書の検閲も行った。1858(安
しゅ とう じょ
政5)年には蘭方医の寄付によって造られた「種痘所」を1881(文久1)年に「西洋医学所」
と改称した。
1868(明治元)年、新政府は多数の人材を必要としたので旧幕府の教育機関を復興すること
しょうへい ざかがくもんじょ
しょう へいがっこう
い がっこう
とした。漢学の「昌 平 坂学問所」を「昌 平学校」に、西洋医学の「医学所」を「医学校」に、
かい せい がっ こう
洋学の「開成所」(もとの蕃書調所)を「開 成 学 校 」とした。翌年、これら三者をまとめて
だい がっ こう
「大学校」と改称(昌平学校を「大学本校」、医学校を「大学東校」、開成学校を「大学南校」
と改称)した。制度の変更は新政府最初の教育方針の「太政官より大学校への達」によって発
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第Ⅱ部 昭和・平成期の教科教育と教科書
表され、その中で学者の第一の義務は国学の研究であり、漢学と洋学の必要はその次であると
した。
1870(明治3)年に、政府は「大学規則」を出して国学優先の方針の変更を発表した。大学
南校で「理科」(自然科学と数学を含む)を、大学東校で「医科」を教えることにし、「大学規
はんこう
しじゅく
てら こ
や
則」とともに「中小学規則」も出したが、廃藩置県の前年で藩校・私塾・寺子屋が重要な役割
を果たしていた。大学南校では各藩から選抜された青年310人が「原書」を用いて外国人教師
かく ぶつ きゅう り
から「西洋ノ格物 窮理開化日進ノ学」を学ぶことになり、科学教育の伝統は蘭学塾から大学
校へ引き継がれた。実験はなされなかったようである。この時期は、何を学ぶべきか・学ばせ
るべきかについての模索の時代であり、洋学の優勢が明らかになってきたけれども、理科学習
論がどうであるかを論じる以前の状態であった。
(2) 「学制」時代 1872∼79(明治5∼12)年
1872(明治5)年、「学制」が発布され満6歳から14歳までの子どものための8年制小学校
が全国に開かれた。これとともに出された太政官布告は、日本の近代教育の方針を初めて発表
したもので、民生向上のために日常の技術を教えることを小学校の目的とした。
「学制」第27章中の「小学教則」では、数学と自然科学の時間数は全体の40%以上を占め、
上等小学(10∼14歳)の自然科学は週4時間以上もあった。下等小学(6∼10歳)で「養生
法」・「地学大意」・「理学大意」を、上等小学で「博物学大意」・「化学大意」を学習する
ことになっていた。
物理学・化学では「教師兼テ器械ヲ用ヒテ其説ヲ実ニス」と教師が実験をしてみせることに
なっていて、新政府が科学教育の普及に熱心であったことを示している。しかし、教科書は洋
学者による啓蒙書が中心で、学習方法は相変わらず蘭学塾以来の「読書輪講」であった。
同じ年に師範学校が設立され、1873(明治6)年に文部省「小学教則」とは別の「師範学校
創定小学教則」を発表した。大学南校に招かれたアメリカ人スコットの指導によるもので、文
部省の教則のように教科名はあげずに、暗記・読法・書取・筆算というように学習方法で表現
されていた。
理科の教科書としては、アメリカ科学読物の代表とされるウィルソン・リーダーを訳した
『小学読本』が「読本」の時間に指定された。この教則に基づく理科学習法は、輪読・輪講・
暗記であった。スコットは一斉授業の形式を日本に輸入した人である。この時期の理科学習論
は、文部省の「小学教則」でも師範学較の「小学教則」でも、教科書を読んでひたすら暗記す
るという素朴な知識伝達主義であった。
― 137 ―
(3) 「教育令」時代 1879∼86(明治12∼19)年
国民の経済力の弱さが主因となって「学制」が効果をあげなかったことを反省して、政府は
国家資本による殖産興業の道を選択し、中央集権の強化が必要であると考えた。1879(明治12)
年に「学制」を廃止し「教育令」を発表したが、自由主義的であるとの非難が起こり、翌年修
正した。
修正した「教育令」の特徴は、修身科を最も重視することと、教科書を文部省が検定または
著作する方針を確立したことであった。1881(明治14)年に「小学校教則綱領」が発表され、
理科は中等科(9∼12歳)で「博物」、「物理」を、高等科(12∼14歳)で「博物」、「化学」、
「生理」を内容として、いずれも事物・現象の名称・性質をなるべく実物・実験などによって
授けることにした。
たか みね ひで お
これはアメリカから帰国した高嶺秀夫が輸入したペスタロッチの開発教授法の影響であっ
た。ペスタロッチは、子どもに実物を感覚させつつ順序よくいろいろな経験を与えていけば、
知識を増加させつつ原理・法則に気づかせることができると考えた。高嶺は科学教育が知性・
判断の訓練に適しているから教育の中心であるとした。
わかばやしとらざぶろう
しら いこわし
彼の開発教育の考え方に共鳴した若 林 虎三郎・白井毅は、『改正教授術』を1883∼84(明治
16∼17)年に書いた。物理、化学は原因・結果を考える力を訓練するのに適しており、博物は
身近な自然物を観察・実験して子どもの能力を鋭敏にするために教え、教師あるいは生徒代表
が実験を行うべきだと主張している。
ご とうまさ た
後藤牧太他『小学校生徒用物理書』1885(明治15)年では、生徒にできることは生徒自身の
実験によって発見させるという方針をとったが、実験の羅列に過ぎないという面もあった。
「学制」時代の本や絵による問答から、実物による問答へ移ったけれども、開発教授法の入口
に立ったばかりであった。開発法を時間の浪費であると批判し、注入法を主張する文部省官吏
の攻撃もみられた。
この時期の理科学習論は、開発教授法の影響による実物教育という知識生成体験主義であっ
た。しかしながら、修身を優先させるという価値観注入型(=価値観伝達主義)の教育観を基
礎としていたので、学校教育の現実としては、はなはだ不十分であった。
(4) 「小学校令」検定時代 1886∼1910(明治19∼43)年
1886(明治19)年に初代文部大臣森有礼によって「小学校令」が発布され、小学校を尋常
(6∼10歳)と高等(10∼14歳)に分け、尋常小学校を義務制とした。1891(明治24)年には、
「小学校教則大綱」によって、高等小学校で初めて教科としての「理科」を学習することにし
た。全国民が理科を学習することになったのは、1907(明治40)年に義務制の尋常科が6年に
延長されてから後であった。
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第Ⅱ部 昭和・平成期の教科教育と教科書
理科の取扱いについては、実物・標本・模型・図画について観察・実験しつつ、自然物・自
然現象の大要を理解させることした。ただし、実物の役割は羅列的知識を詰込む手段となって
いた。
小野太郎『小学理科書』1887(明治20)年の緒言は、次のように述べている。「小学校の理
科では整然とした自然科学を教えるのではないから、この本の目的は、児童の観察し実験でき
る事物現象を選んでなるべく実物・模型・器械を使って筋道を説明し、それによって知識を発
展させることにある」と。
けれども、内容を見ると既成の自然科学の本に書いてある事実の羅列が多く、法則は生徒自
身の観察・実験から帰納するようには仕向けないで、結論として与えているだけである。
博物教材による雑学的・実用的知識の教育が優先している中で、1892(明治25)年に東京高
たな はし げん た ろう
等師範学校の棚橋源太郎は、附属小学校の「教授細目」として、ヘルバルトの五段階教授法
(予備・提示・比較・整理・応用)による概念・法則の学習を中心とした理科学習を提案した。
しかし、観察・実験・考察を経て概念を形成するという教育方法は、手数のかかるものである
ことと、教育界が国民道徳という価値観の注入を優先する「小学校教則大綱」の下に置かれて
いることが原因で、主流とはならなかった。
この時期の理科学習論の主流は、学習に実物を用いるとしていても、その役割が羅列的知識
を詰込む手段となっていたので、どちらかといえば知識伝達主義に属するであろう。「学制」
時代に比べると、実物を活用するという点では伝達方法に進歩がみられたといえる。
(5) 大正自由教育時代 1910∼26(明治43∼大正15)年
1903(明治36)年の「小学校令」の改正で国定教科書制度が実施された。修身・国語・歴史・地
理などの教科より7年遅れて、理科の教科書も国定となった。1910(明治43)年に発行された『尋
常小学理科書』は、
「知識ノ一斑ヲ得シメ……観察ヲ精密ニシ」という「小学校令施行規則」に
沿った知識・技能詰込み主義で書かれていた。翌1911(明治44)年から使用された。
「科学戦」としての第一次世界大戦(1914∼1918年)を経験した政府は、科学教育の必要を
痛切に感じて、1918(大正7)年、中学校・師範学校の物理・化学の実験のために多額の予算
を出すことにした。科学を重視する機運は、小学校にも及び児童実験が盛んになった。また、
国定教科書を使わせないで、自作の(考えの進め方や観察・実験の方法は書いてあるが、結果
は書いていない)
「学習帳」を使わせる教師も一部に現れた。
一方では、すでに1908(明治41)年に「教育とは子どもの自発的活動を助けることである」
こ にし しげ なお
と主張していた小西重直や、1913(大正2)年に『新理科教授法』の中で、「何を学習するか
は子どもが自分で考える必要がある」とした棚橋源太郎のような、児童中心主義を主張する
人々が存在した。第一次世界大戦後に、子どもの必要と興味を中心としたデューイらの教育思
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想の流れをくむ「新教育」が輸入された。
また、1919(大正8)年、民間の教育団体「理科教育研究会」が小学校1年から「自然科」
し ぜん
を入れる建議をした。「小学校令」の下で低学年理科が許可されることはなかったが、「自然
か
ちょっかん か
かんさつ か
科」・「直 観科」・「観察科」などの名で低学年理科が自発的に行われた。
この時期の理科学習論は、明らかに知識生成体験主義に属するといえるだろう。国民道徳という
価値観の注入を優先する「小学校令」の下にもかかわらず、棚橋源太郎のような児童中心主義の主
張や新教育思想が「理科教育研究会」の創立に代表されるような形で広まったからである。
(6) 皇国教育・「国民学校令」時代 1926∼47(昭和元∼22)年
1934(昭和9)年小学校教員に出された「国民精神作興に関する勅語」に象徴されるように、
政府は「日本精神」なるものを強調し、理科教育の合理精神を警戒し始めた。1941(昭和16)
年には、
「国民学校令」が公布されて小学校は国民学校となり、理科は1年から教えられること
になった。戦時という状況の下、日本精神の強調と科学教育の振興という、理科教育の視点か
らすれば矛盾する方針が共存したのである。この年から発行されはじめた低学年理科『自然の
観察』(図1)は、教師用のみで児童用を作らなかった。
「本で教える」理科を変えようとした
り、子どもが自然にふれて自
分で考えるようにしたりと、
大正自由教育の精神を引き継
ごうとした。しかし、この意
図は現場ではあまり理解され
ず、戦争末期にはほとんど実
行されなかったといわれる。
この時期の理科学習論は、理
科教科書編纂者の意図は知識
生成体験主義に属するけれど
も、国民の合理精神を警戒する
図1『自然の観察』一 教師用 1941(昭和16)年
ような社会状況下にあって、理
科教育は空回り状態であった。
3 日本の理科・科学教育の変遷―戦後―
(1) 生活単元学習時代 1947∼58(昭和22∼33)年
1945(昭和20)年の敗戦に伴う処理としての教科書の「墨塗り」から始まった戦後の教育は、
1947(昭和22)年に「教育基本法」と「学校教育法」の公布、「国民学校令」の廃止と続き、
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第Ⅱ部 昭和・平成期の教科教育と教科書
六・三制が開始された。1948(昭和23)年には教科書の検定規則が公布され、小学校教科書は
国定から検定に戻った。
1947(昭和22)年に文部省が出した『学習指導要領 理科篇(試案)』に記された理科教育
の方針は、ほとんど普及しなかった国民学校理科の精神と基本的には同じであった。生活単元
学習という一つの問題解決学習が紹介され、この「生活理科」の考えに沿った教科書として
1947∼48(昭和22∼23)年に文部省から『理科の本』第4・5・6学年(図2)、『小学生の科
『小学生の科学』は粗末ながら初めての色刷り
学』や、『私たちの科学』(図3)が発行された。
理科教科書であり、科学読み物であったが、児童の活動に結びつけるためには、教師の実力が
必要であるという限界を持っていた。やがて、生活理科は生活から材料を取った雑学理科であ
るとの批判が起こった。
この時期の理科学習論は、子ども中心の知識生成体験主義に属する。子どもが自発的に問題
解決活動に取り組む過程で学習の成立することを期待しているからである。しかし、知識生成
体験主義の理科が文部省の方針として主流になった時に、その本質的な欠点としての自然科学
図2 『理科の本』
1947(昭和22)年
図3 『私たちの科学』1948(昭和23)年
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の体系との関連づけの弱さが批判されたことは皮肉であった。
(2) 現代化時代 1958∼77(昭和33∼52)年
1958(昭和33)年、小・中学校学習指導要領が官報で告示されたが、生活理科に対する批判を先
取りする形で、小学校上学年や中学校の内容について系統化がみられた。中学校理科の内容を物
理・化学の1分野と生物・地学の2分野に区分する方法は、このとき以来現在まで続いている。
一方、1957(昭和32)年のいわゆるスプートニク・ショックに刺激されたアメリカの一連の
理科教育現代化運動やイギリスのナフィールド計画は、「探求学習」・「発見的学習」・「科学の
方法」などの理科学習の方法論的側面に焦点を当て、これらの影響を受けてわが国でも現代化
運動が起こった。1968(昭和43)年の小学校、翌1969(昭和44)年の中学校学習指導要領の改
訂において、教材の精選・科学の基本概念や探究の過程の重視などが盛りこまれた。
この時期の理科学習論は、子ども中心の知識生成体験主義に属するようにもみえるけれども、
教えるべき知識や技能を科学者や教師の側から精選しているという点で、知識・技能伝達主義
であった。単に認識の結果としての知識だけではなく、認識の技能まで含めて伝達しようと試
みた点は、過去にみられた知識伝達主義学習論より一歩進んでいたと考えられる。
(3) 総合化時代 1977(昭和52)年∼現在
1977(昭和52)年の小・中学校学習指導要領の改訂は、「ゆとり」のある学校生活の中で、
基礎的・基本的な内容を、児童・生徒の個性や能力に応じて学習することを目標にした。改訂
の背景には、現在の学校教育が必ずしも児童生徒にうまく対応できていないという反省があっ
た。しかし、学習内容をいくら「精選」しても問題は解決しなかったし、変化の速い時代にあ
って学校教育が対応できる方法は、子どもの自己学習力の育成しかないという時代背景がある。
そこで、1989(平成元)年の指導要領改訂では、子ども自身の問題解決能力に焦点を当て、
小学校1・2年の理科を廃止して新しい教科「生活科」を新設した。1998(平成10)年の指導
要領改訂では、「生きる力」の育成を目標に、既存の教科の授業時間を大幅に削減して、小学
校3年以上のすべての学年に「総合的な学習の時間」を設けた。
この3回の指導要領改訂で文部科学省がめざしたものは、子どもの主体的・自発的な学習の
能力・態度の育成であった。この時期の理科学習論は、対象認知・価値評価・意思表現の3つ
の能力を連続する一体のものとして、学習者の活動体験を通して育てようとする知識(価値
観・技能)生成体験主義であると見なすことができるのではないだろうか。
(東田 充弘)
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