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台湾液晶産業の発展における日系部材メーカーの役割

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台湾液晶産業の発展における日系部材メーカーの役割
名城論叢
99
2014 年3月
台湾液晶産業の発展における日系部材メーカーの役割
呉
目
嘉
鎮
次
はじめに
1.液晶製造プロセスと半導体製造プロセスとの関連性比較
2.日本の半導体技術の台湾移転過程
2-1
日本の半導体産業の発展
2-2
台湾半導体産業の発展
2-3
台湾電子産業の特徴
2-4
台湾が半導体産業のキャッチアップに成功した要因
3.日系部材メーカーの台湾進出
3-1
台湾の液晶工程発展と日系部材メーカーの台湾進出
3-2
日系部材メーカーの影響力
おわりに―半導体と液晶工程のつながりから見る日系部材メーカーの重要性
はじめに
至った。その中でも 1998 年以降,日本企業か
らの技術導入で立ち上がった台湾企業は 2003
日本の機械情報産業は戦後,急速な拡大を伴
年までの5年間で液晶パネルの世界の生産能力
いながら日本の経済成長に大きな役割をはたし
の半分以上を占めるに至り,液晶産業での地位
てきた。テレビの生産から始まり,半導体の革
を確固たるものにした。
新から液晶パネルの量産化に至るまで,日本が
90 年代に入り,電子産業の新戦場となった液
戦後電子産業の先駆者として東アジアで成功的
晶産業で東アジア諸国の産業の特徴が顕著にな
な経済モデルを構築した。しかし,80 年代以
る。雁行理論の常識を破って後発国が技術革新
降,日本に影響された東アジアの国々がアメリ
する事例が東アジア市場に生じ,東アジアに集
カからの技術導入や日本企業との提携によって
中していた電子産業に変化をもたらした。塩地
電子産業に多くの革新を起こしてきた。その結
洋らが『アジア優位産業の競争力』の中で,東
果,90 年代に日本に隣接する韓国と台湾も電子
アジア産業の形態を技術移転後先発国側の技術
産業の領域で大きな進歩を遂げた。90 年代半
等の変化と技術移転後後発国側の技術等の変化
ばから台湾と韓国のメーカーは相次ぎ液晶産業
の二つの軸を組み合わせて,
「雁行形態」型の他
に参入し急速に液晶の生産量を拡大した。日本
に「後発国革新」型,
「先発国革新」型,
「双方
の液晶ディスプレイシェアが急激に低下したの
革新」型に類型化した 。
(1)
に対し,2008 年の韓国と台湾の液晶ディスプレ
確かにこれまで日本や韓国や台湾など後発国
イの生産能力は各々約 42%のシェアを持つに
が電子産業に成功したモデルでは技術革新研究
⑴
塩地(2008)7頁
100 第 14 巻
第4号
が殆ど技術提携にこだわって,後発国の技術模
増えてきたのが産業発展のプロセスとなってき
倣を強調する研究者が多かった。だが,技術提
た。赤羽淳
携は後発国が成功した大きな要因と見られるも
湾政府の役割と台湾液晶産業の発展と技術移転
のの,すべての産業発展が先進国技術模倣の前
の仕組みを分析した。台湾人研究者である王淑
提で後発国が産業を立ち上げたと考えるのであ
珍
れば,台湾や韓国が日本を乗り越えることはで
系統的に液晶産業の全体像を描いた。しかし台
きなかったであろう。現在でも,スマートフォ
湾液晶産業の発展を研究する時,日系液晶パネ
ン等液晶パネルの関連製品でサムスンや
ルメーカー以外の日本メーカーはあまり重視さ
VIZIO,HTC などのメーカーの製品は品質で
れてこなかった。
(2)
(4)
と新宅純二郎
(3)
は日本企業や台
は台湾の液晶産業の発展をテーマにして
日本に勝っているわけではない。台湾と韓国が
台湾電子産業の発展と構造は日本に影響され
一部の電子産業(半導体産業,液晶産業)のシェ
た典型的な事例である。それについての研究も
アで日本を越えるためには,コスト面の優位性
少なくない。日本からアジア諸国の電子産業へ
以外にも技術の吸収と製品の標準化など大きな
の技術移転は台湾に大きな影響を与えた。台湾
理由があったと思われる。
には特殊な歴史的背景と文化などがあり独特な
後発国の産業が労働集約型から資本集約型に
地理的要因も相まって台湾が半導体でキャッチ
移行したら,先進国もそれに対抗して技術優位
ア ッ プ の 成 果 を 活 用 し,さ ら に 液 晶 産 業 の
を拡大することになる。この点について塩地洋
キャッチアップ期間を短縮することにも成功し
も同じ見解を示した。電子産業の先進国として
て,特徴的なアーキテクチャを持つに至るので
日本が半導体産業と液晶産業製品の標準化と製
ある。その見解について,藤本隆宏はアーキテ
造プログラムを創出した。
クチャの代表的な分け方としては,
「モジュラー
生産設備は技術力が濃縮されたものである。
型」と「インテグラル型」の区別,また「オー
アジア諸国が半導体産業や液晶産業を発展させ
プン型」と「クローズ型」の区別があると言っ
た時に日本の設備に頼る現状は今でも変わらな
ている。だが藤本も「台湾の産業発展には日本
い。さらに半導体産業と液晶産業は他の産業と
や中国や米国というモジュラー製品を得意とす
異なり異業種の知識が凝縮されている。材料や
る『モジュラー軸』や日本から一部 ASEAN 諸
部品製造などの日本メーカーに累積している技
国に至る擦り合わせ型製品の生産拠点を多く擁
術は日本が独占しているものが少なくない。
する『インテグラル軸』の交差点に位置する」
(5)
技術先進国が新たな産業を発展させた時はい
と指摘した 。つまり台湾の電子産業には日本
つでも国内で開発と基幹部品の調達をし,組立
企業が得意とした部品設計の相互調整や工程管
工程だけ人件費が安い国で生産するという形を
理,部門間調整など擦合せによる「インテグラ
とってきた。こういう自国を核とした事業モデ
ル型」の特徴と,製品を標準化し,大量生産す
ルが構築された後,技術の普及や後発国への技
る「モジュラー型」の特徴も持っているという
術移転によってその産業に参入する国と企業が
のである。台湾の楊も,液晶産業のアーキテク
⑵
赤羽(2004)12-14 頁
⑶
新宅(2006)9頁
⑷
王(2003)153 頁
⑸
藤本(2002)487 頁
台湾液晶産業の発展における日系部材メーカーの役割(呉) 101
チャのポジショニングの移動戦略の分析でこの
(6)
視点を支持したが ,両者ともなぜ台湾液晶産
ことによって,どのように独自な産業モデルを
見出したかを明らかにしたい。
業この特殊な構造になったのかという要因まで
は議論しなかった。
本論文は台湾液晶産業が立ち上がる時期の日
台間の液晶産業と半導体産業の事例を取り上
1.液晶製造プロセスと半導体製造プロ
セスとの関連性比較
げ,日本の部材メーカーの動きによって先進国
本章では,液晶産業がいかに半導体産業の影
の技術移転速度を加速させてきたことを明らか
響を受けているかを明らかにするために,両産
にする。本研究の目的は,台湾の電子産業を研
業の製造プロセスを比較し検討する。
究対象として,産業の歴史を遡り,台湾政府に
90 年代後半から 2000 年代後半までの 10 年
育成された半導体産業と液晶産業を比較しつ
間を経ても,多くの日本の部材メーカーのシェ
つ,現在も台湾が依存している日系部材メー
アは依然 60%を超えている。変化が大きかっ
カーの視点を入れて,台湾の電子産業の特徴を
たパーツはカラーフィルター,ドライバ IC や
まとめて議論することである。
バックライトに集中している。(図表1,及び
以下では,まず,1で,液晶産業と半導体産
図表2)そして,この三つのパーツは台湾や韓
業との関連をその製造プロセスの比較から検討
国の液晶メーカーによる内製化がうまく進んで
する。そして,2では,世界の先頭を走ってい
いる部分と重なっているという特徴がある。
た日本の半導体産業技術がいかに台湾に受容さ
TFT-LCD 産業の立ち上げ時,台湾国内の周辺
れていくかを検討する。3では,液晶産業の成
素材の基盤産業を整備するため多くの台湾メー
立に欠かせない部材メーカーの動きを跡付け,
カーが日系部材メーカーとの技術提携や合資な
台湾液晶産業の成立及び発展における日系部材
どによって,カラーフィルター,バックライト
メーカーの役割について検討する。
などの分野に進出し始めた。日系部材メーカー
最終的に,後発国の台湾は日本の追随者とし
と台湾メーカーの提携によって生産ラインの建
て同じ産業に進出したが,日本メーカーが圧倒
設速度が加速化し,2004 年までに台湾は独資で
的な世界シェアを持っていた分野に参入できた
偏光板メーカーを設立する能力を持つことに
図表1
1998年台湾TFT-LCDのキーコンポーネントの調達先
液晶パネル製造原価に占
める素材コストの割合
主要な日本メーカー
日本メーカーの
市場占有率
カラーフィルター
23.2%
凸版印刷,大日本印刷,東レ
80%
ドライバIC
20.7%
NEC,シャープ,日立,東芝
40%
バックライト
15.4%
スタンレー電気,デンソー,
茶谷電気,富士通化成
84%
液晶のキーコンポーネント
ガラス基板
5.6%
旭硝子,日本電気硝子
62%
偏光板
5.4%
日東電工,住友化学
64%
出所:光電科技工業協進会のデータにより筆者作成
⑹
楊(2006)17 頁
102 第 14 巻
第4号
図表2
部品名
カラーフィルター
偏光板
ドライバIC
バックライト
2009年台湾液晶材料メーカーの生産量とシェア
台湾部材メーカーと日台提携メーカー
生産量とシェア
達虹
日本凸版印刷と提携した凸版国際彩光
達虹の月生産量は40万枚で,凸版国際彩
光の月生産量は16万枚に達した。
三立電子と提携した力特光電
日東が設立した台湾日東
住友化学が設立した住華光電
2008 年 ま で 住 華 光 電 台 湾 年 生 産 量 が
8,000枚に達した。
聯詠科技
奇景科技
2008年にドライバICのシェアについて,
サムスンは世界第一のシェアを占めて聯
詠科技は世界第2のシェア,奇景科技は
世界第3のシェアを占めていた。
中光電,瑞儀,輔祥,奈普,大億
2009年台湾バックライト総生産量は4.4
億ドルに達した。
出所:「台湾2009平面顕示器年鑑」及び「液晶・PDP・ELメーカー計画総覧2009年版」のデータにより筆者作成
なった。
回路図を作り検討を積み重ねる。パネル設計用
台湾がうまくこの三つのパーツにだけ高い模
装置,回路設計時には半導体産業にも液晶産業
倣能力を発揮した理由はもう一つある。この三
にもいちばん重要なことである。これはフォト
つの部品の生産は,台湾が 90 年代前半から得
マスク作製のパターンをガラス基板に焼付けす
意としてきたパソコン OEM と緊密な関係を
るための写真のネガに相当する。こちらの工程
持っていることである。
も半導体の製造工程と共通点が多いのである。
電子産業と関係のあるパーツと光学,化学,
(図表3)
材料を応用し独自に発展して来た液晶パネル構
違う所は,液晶パネルの製造プログラムでは
成部品から考えると,パソコン産業と関連度が
アレイ工程,液晶セル工程,液晶モジュール工
高い汎用製品の製造に台湾は強かった。それ以
程の三つに分けられる。各工程では特有の製造
外の偏光板,ガラス基板や化学材料などは 10
装置や部品・材料が使われる。三つのプログラ
年経っても,日本メーカーが依然絶対優位を占
ムの中で TFT アレイ工程と液晶セル工程は液
めている。NEC,日立,東芝などのメーカーが
晶パネルの表示性能を左右する重要な工程であ
これらのシェアの優位性を失ったのは液晶パネ
り,特に TFT アレイ工程はパネルの製造コス
ルのコア技術とのつながりが意外に少ないから
トに与える影響も大きい。その中で主に液晶産
である。
業に応用される半導体生産プログラムが前工程
つまり,日本の半導体産業の失速と後退と関
に集中している。液晶パネルはアレイとカラー
係がある。一方,台湾の半導体生産と台湾液晶
フィルターの2枚のガラス板で構成されてい
産業の発展とは大きなつながりがある。以下に
る。アレイ製造工程ではガラス基板上にトラン
液晶産業と半導体産業を比較してみよう。
ジスタや配線が形成される。その後ガラス基板
半導体の製造前工程にも,回路設計やフォト
の上に各種薄膜の成膜,洗浄,フォトレジスト
マスク作製作業がある。回路設計ではパネルを
塗布,パターン露光,現像,エッチング,レジ
生産する前に回路の配置を考える必要があるの
スト剥離,検査の工程を数回繰り返す。液晶ア
で,画素や周辺回路を効率よく配置するために,
レイ工程との比較で半導体アレイはウェハーの
台湾液晶産業の発展における日系部材メーカーの役割(呉) 103
図表3
液晶産業と半導体前工程比較と液晶産業後工程の製造プロセスの説明
液晶アレイ工程
半導体アレイ工程
アレイ製造工程
1.回路設計
2.フォトマスク作製
3.基板製造用装置―基板洗浄
4.レジスト塗布
5.現像
6.ウェットエッチング
7.レジスト剥離
8.アニール
完成
1.回路設計
2.フォトマスク作製
a フォトマスクの生産工程
b ガラス基板の研磨
c 遮光膜の形成
d 描画
e 現像
f エッチング
g レジスト除去
完成
カラーフィルター側製造工程
1.配向処理作業
2.液晶滴下・貼合せ作業
3.切断作業
4.偏光板貼り付け作業
セル製造用装置
1.ブラックマトリクス形成
2.着色パターン形成
3.保護膜形成
4.透明電極形成
液晶モジュール工程
1.ドライバIC取り付け
2.バックライト設置
3.点灯検査
出所:日本半導体製造装置及び各液晶メーカーの資料により筆者作成
上に配線を構成するが,同じ電子産業の分野で
かし,コストや参入障壁で偏光板とカラーフィ
も両工程の内容と手順は一致している部分が多
ルターはガラスより低いので,この二つの日本
い。(図表4)
部品メーカーは 90 年代末期から 2000 年代初
ガラス基板工程よりカラーフィルター製造工
期,積極的に台湾に進出する傾向が見える。そ
程 の方が液晶産業の特徴が強く,日系部材
(7)
れと比べて,液晶モジュール工程が必要なドラ
メーカーがこの工程で現在も重要な地位を持っ
イバ IC 取付けとバックライト設置には専門的
ている。カラーフィルター製造用装置製作工程
技術というよりも台湾が得意な電子産業分野に
とセル製造用装置が成膜技術や材料,液晶特有
近いので,自給率が高い。
な偏光板,配向膜,カラーフィルターの製造技
以上,二つの製造工程を分析すると,半導体
術が入って,もっとも液晶産業の特徴が見える
製造国が液晶産業に参入するメリットとパソコ
工程と言える。液晶製造の後工程は前工程と
ン製造大国の台湾液晶産業が特にドライバ IC
違って,液晶製造専門の工程が入る。特にメイ
分野とバックライトなどの製造・組立に強い理
ンパーツの偏光板とカラーフィルターを製造す
由を説明することができる。
る時に重要な材料と技術は台湾が液晶産業を発
展させる際足りなかった項目の一つである。し
⑺
カラーフィルター側の製造工程は四つのパターンがある。ブラックマトリクス形成,カラーレジストを使い塗
布,露光,現像する工程を3回繰り返して赤,緑,青のパターンを形成する。着色パターンを形成してから着色工
程に入る。その後,セル製造用装置にも配向処理,液晶滴下・貼合せ,切断,偏光板を貼り付けるセル組立工程に
入る。液晶モジュール工程は最後の仕上げ,主にバックライトやドライブ IC の組立と検査手続を行う。ドライ
バ IC 取付け,液晶パネル上の配線とドライバ IC の端子を位置合わせし,熱圧着により電気的・機械的に接続す
る。バックライト設置,液晶パネルとバックライトユニットを所定の位置に位置決めし,組み立てる。点灯検査,
液晶パネルを点灯して,欠陥,色度,色むら,コントラストなどを検査する。
104 第 14 巻
第4号
ニ
図表4
液晶の生産プロセス
出所:日本半導体製造装置及び各液晶メーカーの資料により筆者作成
2.日本の半導体技術の台湾移転過程
本章では,台湾の液晶技術獲得の根幹を成す
64KDRAM と 128KRAM の半導体の開発に成
功したのである。その後,1976 年に旧通産省の
主導によって「超 LSI 技術研究組合」で工業技
日本の半導体技術の台湾への移転過程について
術院電子技術総合研究所と富士通,日立,NEC,
検討する。
三菱電機,東芝による共同研究が行われた 。
(8)
その結果,製造技術の標準化が進み,ステッ
2-1
日本の半導体産業の発展
パー,電子ビーム描画装置などの新しい技術が
80 年代には日本は半導体産業の全盛期を迎
開発された。この二つの大型研究開発によっ
えた。メーカー間の競争で新しい商品が相次い
て,日本が半導体製造技術を大きく発展させる
で開発され,技術の進化が早まった。その中で
ことができた。その上,日本は半導体技術の製
東芝は 70 年代から既に大分県に工場を設け半
造装置の開発もこの時期に大幅に拡大した。
導体開発を行い,80 年代に入ると日本の半導体
80 年代後半,世界の半導体生産ランキングで
開発でもっとも技術力を有するメーカーとなっ
NEC,東芝,日立の3社が 1∼3 位を占めた。
た。その少し前,日本政府が半導体発展をサ
東芝の技術者,舛岡富士雄は 1984 年に世界初
ポートするため「超 LSI プロジェクト」を策定
の NOR 型フラッシュメモリを開発,1985 年に
し,国策で半導体産業を育成した。この計画に
世界初の 1 M DRAM を開発した 。新しい技
参加する富士通,日立製作所,NEC3 社が通信
術によって東芝が次世代メモリに開発重心を移
用超 LSI の研究開発を目指した。その成果に
行させた。1988 年当時,サムスンはまだ 256 K
よって 1975 年から3年間に渡る第1期計画で,
のフラッシュメモリの生産技術しか持っていな
(9)
⑻
編集者泉谷涉(2003)
⑼
Tech 総研『舛岡富士夫教授「日本発の三次元半導体で歴史を創る」』インタビュー(2005.3)
台湾液晶産業の発展における日系部材メーカーの役割(呉) 105
図表5
2000年台湾IC産業世界ランキング
単位:億台湾元
項目
生産額
世界シェァ
世界ランキング
トップ
全IC
9,159
5.1%
4位
米,日,韓
DRAM
4,941
15.3%
4位
韓,日,米
SRAM
398
6.1%
4位
日,韓,米
MASK ROM
630
57.5%
1位
台
IC設計
3,669
20.7%
2位
米
IC製造
14,886
7.8%
4位
米,日,韓
レットチップ
9,446
76.8%
1位
台
封止
3,115
34.1%
1位
台
検査
1,045
34.6%
3位
日,米
製造生産能力
13.5%
出所:台湾IT IS(2001)
かった。80 年代後半から IT 産業に激しい変化
DRAM の開発に成功,日本の東芝を抜いてつ
が起き,PC の市場が急拡大し,この傾向に合
いにシェア世界1位となった。80 年代から日
わせて PC 用の DRAM が安価に大量生産され
韓の半導体提携は主にサムスンと当時日本の半
るようになった。
日本は官民協同で半導体産業を立ち上げた
導体産業で優位にあった東芝を巡って進行し
た。
が,品質重視な開発体制のため,かかったコス
一方,台湾は国策で半導体を発展させ,メー
トが大きかった。半導体メーカーが好調な時は
カーもパソコン部品の製造や組立からノートパ
膨大な設備投資に伴って開発体制を維持するこ
ソコンブームに乗ってパソコン最大の輸出国と
とができたが,景気が悪くなったら,膨大な開
なった。サムスン電子が 90 年代から DRAM
発費用が会社の重い負担になってしまった。そ
を重点投資として行うと共に製造装置が安くな
のため,80 年代後半に入り,特にプラザ合意後
り日本メーカーの力が弱まる不況期を利用して
日本半導体メーカーは計画的な開発計画の代わ
投資を拡大した。90 年初頭でサムスンはこの
りに保守的な投資行動に陥った。日本半導体
ような経緯で収益を上げられた。設備を購入し
メーカーの投資が中断したことが台湾韓国勢半
て,サムスン電子は PC 用の DRAM を安価に
導体産業の台頭のきっかけになったのである。
大量生産した。より安価に生産したその技術は
90 年代に入って,日本の半導体メーカー各社の
破壊的であった。その結果,技術を集約して高
収益がメーカーの投資方針に大きく影響した。
品質にこだわる日本の DRAM が高コストの欠
この時期から韓国,台湾など東アジア諸国の電
点で逆に駆逐されてしまった。
子産業投資が拡大した。
80 年代半ばから韓国が驚異的なスピードで
2-2
台湾半導体産業の発展
半導体産業を発展させた。その中でも DRAM
台湾半導体産業が立ち上がったのは 60 年代
に最初に投資したのが韓国のサムスンであっ
である。日本,韓国よりは遅かったが,台湾半
た。サ ム ス ン は 1992 年 に は 世 界 初 の 64 M
導体産業は台湾政府の力によって育てられ,産
106 第 14 巻
第4号
図表6
台湾半導体産業発展初期の提携状況
年
メーカー
1966
高雄電子が半導体事業を開始
1967
高雄電子がウェハーの製造を開始
1969
HPLIPS建元がウェハー配置工程に参入
1970
徳儀がウェハー配置工程に参入
1971
RCA社と台湾安培がウェハーの製造を開始
1973
萬邦がウェハー封装業務を開始。三菱と台湾菱生の提携が始まる
1974
州際電子が二極体の封装業務を開始
出所:台湾電子発展月刊(1982.2)
業の基盤を整備した。70 年代初頭まで台湾は
からアメリカのスタンフォード大学に留学,
製造工業を中心とする第2次産業の比率が高
1940 年に博士号を取った。その後潘文淵は米
まって,主な輸出品は織物であった。国家の競
RCA 社に入社し,プリンストン研究室主任を
争力を失っていることを危惧する蒋介石の後継
担当した。彼が台湾に帰って国家建設委員会海
者である当時の台湾行政院長蒋経国が国の発展
外学人会議に参加した時,台湾は半導体技術を
方向を考え,国の危機を乗り越えるため「十大
発展させるべきであるとを提案した。その後潘
建設」という大型建設を打ち立てた。さらに産
文淵博士の意見を引き受け,孫運璿氏が一千万
業を支援するため,1973 年台湾行政院経済部長
米ドルを借り受け,四年かかって台湾の半導体
孫運璿の主導で高度な科学技術産業に投資する
産業の基礎を築いた。当時,潘文淵氏が「積體
ことを決めた。経済部所属の連合工業研究所,
電路基体草案」を作成した後,アメリカの RCA
連合鉱業研究所,金属工業研究所を合併し工業
研究室主任の職務を辞退し,台湾に帰って半導
研究院を設立した。台湾の産業構造を労働力集
体製造技術の計画を推進した。1974 年3月台
約から技術力集約に変えるため 1974 年7月,
湾「電子顧問技術委員会」が提携する会社を探
当時の行政院院長蔣經國の指示で秘書長費燁が
し,国際入札を行った。アメリカの RCA 社に
国立交通大学時代の友人の電信総局局長の方賢
よって国際入札が応札され,台湾の技術者を正
齊や経済部長孫運璿,交通部長高玉樹,電信研
式に訓練した。
究所所長康宝煌が当時半導体開発の大手企業ア
1958 年,台湾新竹市の交通大学の台湾最初の
メリカ RCA 社部長の潘文淵の意見を伺って,
電子研究所の中に台湾最初の半導体研究セン
工業技術研究院の半導体技術導入案を作った。
ターが設立されて,1960 年にドクタークラスが
現在台湾半導体の父と呼ばれる潘文淵がこの契
設立された。その主な教師は,アメリカの Bell
機として,台湾半導体産業のリーダーとして
研究室,RCA 社及び Fairchild 社等のアメリカ
1976 年から台湾経済部第一期計画に参加した。
の著名な半導体会社で仕事をした研究員及び技
台湾半導体技術の誕生と育成に力を入れたい
術者だった。工業研究院の下で「電子工業発展
ちばんの貢献者はアメリカ RCA 研究室の主任
センター」の建設や台湾最初の半導体メーカー
に就任した潘文淵博士と言われた。潘文淵氏は
高雄電子の後段工程工場の建設などが行われ
1935 年中国交通大学機械工学学科を卒業して
た。
台湾液晶産業の発展における日系部材メーカーの役割(呉) 107
電子腕時計の IC 研究成果が 1977 年に開花
作るより高度な技術を集約して生産専門のファ
した。1977 年電子センターがモデル工場を開
ウンドリー企業が多くなったのである。台湾の
き,RCA 社から導入した技術を使って,IC を
ファウンドリー業界トップの TSMC(台湾積体
試作し始めた。1978 年,ようやく生産良率が8
電路製造)は 2012 年に 145 億米ドルで,第二位
割を超え,台湾が自立腕時計 IC を生産し始め
の UMC(聯華電子)も 13 億米ドルの売上を記
た。パソコン用の IC の研究開発は 1979 年か
録 し た。パ ワ ー チ ッ プ の 製 造 も 2012 年 に
ら始まった「電子工業研究発展第二期計画」の
LCD-TFT ドライバや CMOC センサーで 4.3
段階から技術導入された。台湾で初めてのウェ
億米ドルまで大幅に業績を拡大した 。TSMC
ハーメーカー「聯華電子」
が 1980 年に成立され,
と UMC がその代表企業である。半導体の生産
1982 年新竹科学パークで量産し始めた
(10)
(11)
。台
設備だけを持つ会社で自らは回路設計を行わ
湾研究員が RCA 社で習得した技術で,最初は
ず,ファブレス・メーカーや設計と製造の両方
電子時計用の集積回路を作るのに,IC モデル
を行う企業からの要望に応じて半導体の委託生
工場の設備が必要であった。その後台湾の腕時
産を行っている。前工程に強い台湾半導体に
計 IC,音楽 IC,の大量生産によって,ウェハー
とっては液晶生産に必要な技術が一部手に入れ
の生産量が 500 枚から 4,000 枚まで増え,電子
られるようになった。
センターの成功によって,台湾は世界第3位の
電子時計の輸出国となった。
ファウンドリー産業に強い台湾企業はプロセ
スの改良と特化に強く,独自の優位性を獲得し
た。ウェハー関連 IC 設計の強みが,液晶産業
2-3
台湾電子産業の特徴
の IC ドライバなどの工程に反映している。最
台湾政府と韓国政府が産業を発展させる際,
近,台湾にスペシャリティ―ファウンドリーが
国の力で技術開発をしたが,研究成果が出てか
CMOS プロセスやアナログ,パワー,CMOS セ
らは,台湾政府が技術提携メーカーを選定し技
ン サ ー に 特 化 し た 企 業 が 現 れ た。TSMC や
術移転をした後は,台湾政府は市場に干渉せず
UMC など大手メーカーとは完全に一線を画し
メーカーを自由に競争させる道を選んだ。それ
た事業スタンスを貫いている。受託企業が持た
故 90 年代に台湾の資本と技術が分散され,サ
ないようなプロセスを持つことで自ら企業の価
ムスンのような政府主導の企業が出てこなかっ
値を高めている。このようにしっかりとプロセ
た。技術開発も台湾ではメーカー主導で開発す
スを保有する能力とその管理が台湾ファウンド
るので中央集権型で産業発展している韓国より
リー企業最大の特徴である。韓国は台湾と同時
も製品の開発は模倣段階から革新段階に行くス
期にファブレスを開始したが,台湾の TSMC
ピードがやや遅いが,台湾の電子産業ではコス
の 2011 年売上高は 145 億米ドルを記録した 。
ト削減を重視しながら新技術を開発すると共に
中小企業が林立している台湾電子業界には液晶
モジュラー設計に力を入れているという強い特
の専門メーカーではないが,このように台湾企
徴を持っている。
業が半導体産業から液晶産業に進出する事例が
この特徴が半導体産業に体現し,ブランドを
⑽
財団法人孫運璿
⑾
編集者小岩吉一(2012)27 頁
⑿
同上
(12)
多 い。台 湾 経 済 部 の デ ー タ に よ る と 聯 電
108 第 14 巻
第4号
( UMO )
,聯 詠( UMO 傘 下 企 業 )
,茂 矽
発が始まった。韓国はさらにサムスンが技術提
(MOSEL),華邦(Winbond)
,奇景光電などは
携を行う他に,企業と国家が積極的に自主開発
台湾の主な液晶ドライバ IC メーカーである。
を推進した。企業ではサムスンが R & D 活動
その中で,聯電(UMO)
,聯詠(UMO 傘下企
を強化した。その R & D 投資は 1980 年の 850
業),茂矽(MOSEL),華邦(Winbond)は液晶
万ドルから 1994 年 8,916 億ドルまで増加した。
産 業 や 半 導 体 産 業 両 方 に 進 出 し て い る。
総売上の R & D 比率も 14 年間で 2.1%から
DRAM 中心に展開した台湾パワーチップも近
6.2%に増加した
年は LCD ドライバ IC を製造している
(13)
(14)
。
台湾政府が設立した中央研究院は 70 年代か
。
らスタートした。1979 年4月,電子センターが
2-4
台湾が半導体産業のキャッチアップに成
電子工業研究所に改組された。この時期電子セ
功した要因
ンターの IC 工場は電子時計用 IC とおもちゃ
台湾は日本にキャッチアップしたが,どちら
IC などローエンド IC の需要が多かった。その
も政府の援助で大幅な進歩を遂げた。ある産業
時は4インチウェハーを製造した。1990 年李
でキャッチアップしようとする時,台湾と韓国
登輝が総統になってから工業研究院の「次世代
などの東アジア諸国はアメリカの方からも人材
メモリ製造技術発展計画5ヶ年計画」が台湾政
で吸収した。韓国サムスンはシリコンバレーで
府は8インチのウェハーのために策定された。
も開発センターを設置した。国家主導型の産業
「次世代メモリ製造技術発展計画5ヶ年計画」
開発政策の日本半導体産業発展とは異なり,中
は台湾政府と民間の共同研究で今まで最大の大
国を含めて東アジアは多方面から技術を習得
型開発計画であった 。1990 年当時,台湾はま
し,オリジナルの発想や新技術の開発よりも効
だウェハーの技術を持っていなかったので,
率的に先進国から先端技術を習得することを重
ACER がアメリカ TI 社と共に徳碁科技を成立
視する。そして本国の産業特徴や国情によって
した。ACER は台湾 DRAM 発展の最初の会社
発展方向を調整する。以下では同じ半導体で成
であった。
(15)
功した韓国と比較しながら台湾が半導体産業
1982 年 に 台 湾 の パソ コ ンは 92% が 輸 入 に
キャッチアップに成功した要因をまとめてみ
頼っていたが,10 年後の 1992 年に台湾製のパ
る。
ソコンは 95%を海外に輸出し,台湾のハイテク
1958 年台湾最初の半導体研究センターが設
産業も新竹と台北の間に主に1万社の中小企業
立された時もアメリカの Bell 研究室,RCA 社
が集積するようになった。90 年代後半から中
及び Fairchild 社等のアメリカの著名な半導体
央研究院が提携メーカーに技術を移転してか
会社で従事した研究員及び技術者を雇った。
ら,技術の開発は民間企業に任せ,自由競争が
1974 年3月台湾「電子顧問技術委員会」は提携
進んだ。韓国の電子産業も政府資本主導型の産
する会社を探し,国際入札を行った。入札はア
業開発政策を行ったが,工業研究院が研究成果
メリカの RCA 社によって落札され,台湾の技
を企業に移転させることに対して,韓国政府が
術者が正式な訓練を受けてから台湾に戻って開
徹底的に企業の発展方向をコントロールした。
⒀
台湾経済部電子組工業局映像顕示産業辦公室(2004.3)
⒁
LINSU KIM(1997)95 頁
⒂
財団法人國家実験研究院科技政策研究資訊中心編集(2001)604 頁
台湾液晶産業の発展における日系部材メーカーの役割(呉) 109
台湾メーカーとは異なり,韓国政府には強烈
カーの台湾進出の経緯が台湾液晶産業成立に
な決意と支配力があった。韓国政府の狙いは
とっていかに重要であったかを本章で検討して
DRAM の開発と量産など生産システムを研究
おきたい。
することによって,半導体技術を向上させるこ
とであった。そして新製品の開発で韓国の技術
力と日本企業との技術格差を縮めることを目指
3-1
台湾の液晶工程発展と日系部材メーカー
の台湾進出
した。韓国の三社連合開発が 1986 年から 1989
台湾の半導体産業は 70 年代から既に発展し
年まで三年間に1億 1000 万ドルの R & D 費を
てきた。注目すべきは,台湾の半導体産業が発
費やし,韓国政府が総 R & D の 57%を支出し
展する時,中央研究院の技術源のアメリカの材
た。このような政府支出金額は他の国家主導の
料メーカーだけでなく,当時アジアでもっとも
開発プロジェクトと比べて,膨大な金額であっ
半導体産業に強い日本メーカーも早い時期に台
(16)
。台湾工業技術研究院(ETRI)は開発に参
湾に参入していたことである。信越化学が設け
加するために三つの財閥から研究者を招聘,
た台湾信越,小松製造所と台湾プラスチック,
ETRI が作った施設で共同のコア技術を開発し
亜太投資が設けた台湾小松,アメリカヒュース
た。
電子材料が設置した中徳材料等日本やアメリカ
た
メーカーがあって,どちらも 70 年代から台湾
3.日系部材メーカーの台湾進出
の半導体メーカーに材料やテストの技術を供与
し始めた。その中の菱生精密は三菱電機と大生
後発国がある産業でキャッチアップしようと
電子が共同出資した会社で,1970 年に台北で設
する時,外国の技術導入と政府の資源の重要性
立された。台湾通用器材も IT 封止事業を開始
がいつも強調されている。しかし高度な技術で
し,台湾最初の IT 封止メーカーとなった。そ
精密な製品を生産する時,政策面と技術面以外
の後,信越半導体株式会社も 1967 年3月台湾
に電子産業にとってもう一つ重要なのは生産面
信越半導体株式会社を設立し,半導体シリコン
である。つまりその製品の生産プロセスが精密
の製造を始めた 。
(17)
機械によって量産化が可能かどうかということ
日系部材メーカーの韓国と台湾への進出に
が要となる。それはこれまでの日本電子産業の
よって台湾と韓国の半導体産業の発展が早ま
強みでもある。70 年代半導体と 80 年代後半の
り,70 年代から日系部材メーカーが韓国,台湾
液晶パネルの量産は生産設備と部品で日本電子
の半導体メーカーにフォトマスクやフィルムを
産業はこの強みを発揮した。日本からアジアに
提供し,海外業務を始めた。日系部材現地生産
拡散した自動車産業や家電産業と違って,電子
の深化が進むに従って,液晶ブームにより業務
産業部材には幅広くいくつかの分野が含まれ
を拡大した。以下では日系半導体部材メーカー
る。特に塗料やフィルム分野などの製品は機械
の海外進出によってアジア,特に台湾の液晶産
部材のように標準化しにくく,特許を取得する
業の発展スピードが加速したことを検証した
のが難しいので現在でも多数の日本のメーカー
い。台湾と韓国に進出している日系メーカーの
がシェアを握っている。これら日系部材メー
発展過程に見られる日系部材メーカーの現地化
⒃
朴英元(2008)192 頁
⒄
菱生精密工業
110 第 14 巻
第4号
図表7
台湾半導体前工程の発展沿革と日本前工程材料メーカーの台湾進出関係
時系列表
年
発展沿革
1971年
台湾徳州儀器TI/発光ダイオード
台湾RCA/RCA/華万
1973年
菱生精密三菱/万邦電子/トランジスター
1974年
集成電子/発光ダイオード
台湾琭旦/岡谷/トランジスター
1975年
台湾通用器材TI/(IT封止)
菱生精密(三菱の子会社)/万邦電子/華旭が台湾に進出した
1976年3月
アメリカRCA社と「集積回路技術移転契約書」に署名した
1976年4月
19名の技術者がRCA社に研修
1977年
集積回路モデル工場完成
1979年
電子工業研究発展センターが電子工業研究所に改組した
1979年
聯華電子準備処の成立
1980年
聯華電子が工業研究院最初のスピンオフ企業として設立した
1986年
張忠謀氏が3代目院長に就任
1987年
台湾積体電力製造が設立(スピンオフ企業2)
1989年
台湾光罩が成立した(スピンオフ企業3)
1990年
光電周辺設備技術研究発展センターが光電工業研究所に改名した
1991年
次世代集積回路実験室完成
出所:台湾工業研究院のデータにより筆者編集
と後発国がキャッチアップする段階における日
し,96 年における汎用 DRAM 価格の大暴落を
系企業の役割を確かめていくことにする。
起点にして,電子材料事業売上高が一転して
半導体産業と液晶産業を比較する時,生産設
2000 年 ま で 数 年 間 停 滞 し た。日 本 の 半 導 体
備の購入や企業提携の事例で証明することは難
メーカーが世界市場における競争力を弱化させ
しいが,両産業のアレイ工程部分を比較すると
ていったことによって液晶材料部門の重要性が
材料を提供したメーカーの一致性が高いという
高くなった。以下は韓国と台湾に進出している
特徴がある。本論文は半導体産業と液晶産業,
主要な材料メーカーをまとめたものである。
二つの産業の生産工程と材料メーカーの動きを
日本にも半導体と液晶の共同メーカーは多
整理しそのつながりを検証する。それによって
い。90 年代半導体材料を作り,液晶領域に進出
韓国と台湾など半導体製造に強みをもつ国だけ
した大手メーカーは現在,東京エレクトロン,
が短い期間で液晶産業を成長させることができ
JSR 社や東京応用化学(TOK)の三社である。
た理由を見つけたい。電子・ディスプレイ・光
まず,東京エレクトロンは半導体関連生産設
学材料事業の各々の発展プロセスを見ると,ま
備事業を初め,コンピュータ設備事業や電子商
ず電子材料事業が 80 年初頭から 90 年代半ばに
品部門及び FPD(flat panel display)関連生産
至る日本の半導体産業の急速な発展と共に他の
設備事業や物流機械など複数の事業に進出し,
二事業を大幅に上回る形で急成長した。ただ
開発と製造とも有名な日本で第1位の生産装置
台湾液晶産業の発展における日系部材メーカーの役割(呉) 111
図表8
半導体や液晶部品の世界シェア
生産品目
半導体用体フォトマスク
半導体用フォトレジスト(材料)
液晶カラーフィルター
液晶用偏光板
液晶用偏光板保護フィルム(材料)
液晶用ガラス基板
液晶感光性スペーサー(材料)
液晶用位相差フィルム(材料)
液晶用着色レジスト(材料)
企業名
世界シェア
大日本印刷
約20%
凸版印刷
約13%
JSR
約30%
大日本印刷
約30%
凸版印刷
約40%
住友化学
約12%
日東電工
約50%
コニカミノタル
約20%
富士写真フィルム
約80%
旭硝子
約30%
日本電気硝子
約10%
JSR
約80%
JSR
約24%
日本ゼオン
約15%
JSR
約80%
出所:JETRO海外調査レポート「世界危機後のアジア生産ネットワーク∼東ア
ジア新興市場開拓に向かて」(2010)
メーカーである。2002 年の時点で幅広く応用
出した。2001 年,東京応化工業のフォトジスト
されていた。2002 年通期東京エレクトロンの
の売上は全体の 34.3%,22,0 億円を占めた 。
売上を見てみると,東京エレクトロン連結売上
さらに東京応化工業がフラットパネルディスプ
が 418 億円,半導体部門の売上は約 300 億円を
レイ,パッケージモジュール分野での製造材料
占めた。そのうち,日本市場での売上は 97 億
の需要増加,特に第5,第6世代と投資の進む
円で台湾市場での売上は 60 億円であった。
液晶ディスプレイ分野での大幅な需要拡大に対
2005 年になると半導体部門の売上は 300 億円
応するため,2003 年 10 月に生産能力の増強を
を超えた。日本市場での売上は 112.4 億円で台
決定し,
台湾東應化社の生産能力は倍増したが,
(18)
(19)
湾市場での売上は 111 億円であった 。さらに
液晶パネルの大量生産により値引きも始まっ
FDD 製造装置は,短期間に 75 億円の売上に達
た。その後一時アジアに流行した SARS(重症
した。2000 年半ばまでに液晶市場の活況によ
急性呼吸器症候群)の影響で業績が落ちたが,
る旺盛な投資で液晶部門の売上が半導体部門の
立ち直るのが早かった。さらに台湾液晶産業の
売上の七割に上昇した。
成長で台湾の業績が伸びた。2008 年のリーマ
次に,東京応化工業は 1998 年1月に台湾の
新竹と苗栗に東應化社を設立し,台湾に直接進
⒅
東京エレクトロン 2006 年次報告書
⒆
東京応化工業 2001 年次報告書
ン シ ョ ッ ク ま で 一 時 売 上 は 255 億 円 を 超 え
た
(20)
。
112 第 14 巻
第4号
図表9
項目
主要メーカー
日系部品材料メーカーの台湾進出
台湾支社
重要記事
2000年後半に液晶産業の不況によって販売
ニコン
台湾ニコン
キヤノン
台湾キヤノン
東芝
ウォルシンリュウワ社
台数も減った。
露光
清浄,現像,エッチング,
レジスト剥離,清浄
2011年で台湾キヤノンを成立,規模は世界
最大。
液晶産業発展の早期段階から投入してい
る。
ガラス基板検査装置/ウェットプロセスシ
ステム/洗浄装置/ガラス基板露光装置/PS
清浄,測定
日立
高さ測定装置/基板重ね合わせ装置/モ
日立DECO
ジュール組立システムに幅広く進出してい
る。
前工程用検査装置,大面積高輝度有機EL
パネルと製造プロセスを発表,抵抗率透明
成膜
アルバック成
現地法人台灣成膜光電
導電膜,三層有機EL膜形成技術,MRAM
膜
株式会社
用TMR膜形成用超高真空スパッタリング
装置,単層カーボンナノチューブ製造装置,
装置CNT成膜装置CNT成膜装置の開発。
出所:『液晶・PDP・ELメーカー計画総覧』産業タイムズ発行,2009年度∼2012年度データのまとめ
最後に,同じ日本化学材料大手である JSR
け保護膜や感光性スペーサーの台湾現地生産を
は,同社が 100%出資で設立した子会社の JSR
2007 年秋に開始した。第2期工事の総投資も
マイクロ台湾(JSR Micro Taiwan)の台湾雲林
30 億円に達した 。台湾工場は JSR 四日市,
県中部科学工業園区にある新工場を 2002 年に
日 本 JSR Micro 九 州( Kyushu )
,韓 国 JSR
立ち上げることを決めた。台湾雲林虎尾に工場
Micro Korea に次ぐ第四の液晶パネル材料供給
の建設地を選んだ理由は雲林県が当時台湾二大
拠点となった。JSR は,着色レジストをはじめ,
液晶メーカー AUO と CMO の中間地点であっ
保護膜,感光性スペーサー,配向膜,偏光板用
た。JSR は東京エレクトロンと東京応化工業よ
位相差フィルム,ディスプレイ用コーティング
り遅く台湾に進出するが,投資については積極
材料などを台湾現地で生産した。
的であった。2005 年6月台湾における JSR 第
(21)
液晶装置設備メーカーと違って,東京エレク
1期計画の新工場総投資額は約 30 億円であり,
トロンなどのメーカーは 90 年代後半から半導
2005 年7月から本格的な商業生産を開始し台
体設備を提供するために台湾に進出し始めた。
湾 LCD 産業に対する製品供給を開始した。そ
液晶産業の急成長がきっかけで 2000 年前半か
の後 JSR が台湾・雲林県の「中部科学工業園区」
ら,各社がまだディスプレイ部門を設置し,中
内にある液晶パネル向け材料工場の第2期工事
国支社を設立した企業もあった。それと共に
に着手した。既に生産中のカラーフィルター向
2000 年 初 頭 の 時 点 か ら 既 に 半 導 体 の 発 展 に
け着色レジストに加えて,カラーフィルター向
よって,台湾支社の存在感が欧州と米国を越え
⒇
東京応化工業 2009 年次報告書
JSR 株式会社ニュース JSR
台湾液晶産業の発展における日系部材メーカーの役割(呉) 113
る傾向が見えた。その後台湾の位置づけがます
と材料の自給率を意識的に高めることを目指し
ます重くなってきた。2003 年以降台湾半導体
ているからである。そのため韓国でサムスンの
の製造装置の売上だけで各メーカーの売上は各
発展とともに自国の検査設備を強化している様
社 全 売 上 の 25% 以 上 の 割 合 を 占 め,さ ら に
子が見える。日本メーカーの韓国進出は困難に
2004 年 以 降 日 本 国 内 を 越 え も っ と も 大 き な
なってくるかもしれない。
マ ー ケ ッ ト と な っ た。2008 年 の リ ー マ ン
液晶産業と半導体産業の生産プログラムの比
ショックから立ち上がったのも早かったのであ
較と日系部材メーカーの進出状況と後発国の視
る。半導体メーカーの製造プロセスと発展規模
点で韓国と台湾が液晶産業キャッチアップに成
を見ると,台湾液晶産業の前工程技術が効率的
功する要因をまとめたい。後発国が技術導入で
に発展できた理由がわかるのである。
効率的に自国の産業を成長させると思われて
も,実際後発国にとっては先進国を模倣する時
3-2
日系部材メーカーの影響力
いろんな困難がある。同じ先進国の模倣から始
他の設備メーカーの進出時点を見たら,他の
まる後発国のキャッチアップが成功することが
液晶専門メーカーについては,液晶材料は 2000
できるかどうかは後発国のそれまでの工業発展
年前後から台湾に支社を設立したが,複数事業
方向と関係がある。
で台湾に進出するメーカーもたくさん存在する
ことが分かる。例えばコニカが市場から撤退し
てから,露光メーカーはニコンやその後参入し
たキヤノンの二社しか存在していない。ニコン
おわりに―半導体と液晶工程のつながり
から見る日系部材メーカーの重要性
は 2000 年後半に液晶産業の不況によって販売
本研究は台湾液晶産業の発展には日本との緊
台数もかなり減ってしまった。露光装置市場の
密なつながりがあるという前提で日台間の液晶
冷え込みにより,2005 年の 87 台のピークから
産業と半導体産業の事例を取り上げ,部材メー
2011 年の 42 台まで減った
(22)
。液晶市場全体の
カーの動きによって先進国の技術伝播速度を加
不況と言っても部品メーカーの台湾進出は進ん
速させることを明らかにしている。事例を比較
でいる。もう一社の露光企業キヤノンも対台湾
検討した結果,次の二つの結論を見出すことが
投資が年々拡大している。他には日立 DECO
できた。
と東芝も 90 年代後半,台湾の液晶産業発展の
第一は,半導体工程生産プログラムと液晶工
早期段階から台湾市場に進出し,各種設備を台
程生産プログラムの前工程を比較し,半導体
湾メーカーに提供している。ブランドメーカー
フォトマスク作製の流れを見れば,現像やエッ
だけでなく,成膜のような専門メーカーも 2002
チング,レジスト除去などの工程が液晶パネル
年台湾に進出し始めた。特に近年には材料メー
生産プログラムと同じ部分が多いと分かる。実
カーの対台湾投資を拡大する傾向が見える。そ
際,東アジア液晶産業は日本と日本を対象に
れも日本メーカーにとって台湾の重要性が高い
キャッチアップした台湾と韓国を中心に発展し
ことを説明している。
てきた。これまでの事例から見ると台湾と韓国
台湾に比べて,韓国への液晶材料メーカー進
が液晶産業を発展させることができた要因とし
出がやや少なくなっている。それは韓国が設備
て,半導体産業への進出で蓄積した技術を活用
台湾ニコン(2012)
114 第 14 巻
第4号
し液晶産業に顕着な成果が出たことが分かる。
出る。台湾の液晶メーカーは技術提携によって
長年半導体産業を発展させてきた台湾製造業
一部の部品製造で成長した。偏光板,バックラ
は,その蓄積ノウハウを活用することによって,
イトはパソコン部品と同じように,日本メー
液晶前工程に簡単に乗り換えられたのである。
カーへの製品の依存度が低いという特徴を持っ
それも台湾液晶の前工程に日本メーカーの参入
ている。台湾液晶産業は「モジュラー型」アー
事例が少なくて,台湾が日本から導入した技術
キテクチャとなっており、その部品の多様性と
が主に液晶セル工程に集中することができたか
汎用性こそが台湾ファブレス産業が持つ特徴で
らである。
ある。
第二は,これまで台湾に進出してきた多数の
台湾の電子産業には日本企業が得意とした部
日本材料メーカーは,半導体材料を提供するこ
品設計の相互調整や工程管理,部門間調整など
とで液晶ブームの時から台湾の液晶産業の業務
を擦合せる「インテグラル型」の特徴と,製品
に移行した会社である。日系部材メーカーの中
を標準化し,大量生産する「モジュラー型」の
に合資や子会社の設立などによって,独自で材
特徴も持っている。しかしファブレスとしての
料を今でも提供しているケースもある。2000
特徴が強い台湾は,液晶産業の発展では明らか
年代初頭カラーフィルターや偏光板など既に台
にオープン型とモジュラー型の構造に近い。
湾メーカーとの技術提携によって標準化した部
シャープのような液晶メーカーが存在せず,
品もある。特に台湾液晶産業が飛躍的に成長し
ノートパソコンをメインに生産していた台湾
た 2000 年代前半にこのような連携がたくさん
メーカーにとっては液晶パネルを部品の一つと
行われて,この時期に日本材料メーカーの対応
して生産し,提携先のインターフェイスに合わ
によって台湾液晶産業構造の特徴が形成され
せ,提携先に安定した製品を供与することを重
た。塩地洋らは後発国の競争力を分析する時,
視してきたのである。提携段階が終わってから
自国の技術を強める「後発国革新」型と「双方
部品メーカーが業界標準に従っていることも,
革新」型の2類型にまとめており,その液晶産
台湾液晶部品メーカーがコストを下げることに
業事例を見ると台湾液晶産業の革新が製造工程
力を入れる理由の一つである。
の成長に結びつけられている。しかし台湾を含
確かに台湾メーカーは開発と製造両方の特徴
む東アジアの液晶発展国では材料面の革新が遅
を持っているが,そのバランスをよく取らない
かったのが現状であり,日系部品材料メーカー
と高度な技術を必要とする IT 産業が,ただの
の海外進出は日本液晶産業の競争力の一部とし
組立労働集約的産業になってしまう恐れがあ
て含められるべきである。
る。現在,台湾はファブレスに強い特徴が見え
これまでの検討から,以下のような問題も指
るが,ファブレス企業の競争が激しいのに利潤
摘しておきたい。「モジュラー型」と「インテグ
が薄いという特徴もある。現在,TSMC とサム
ラル型」の区別,また「オープン型」と「クロー
スンがアップルとクァルコム等の米国企業から
ズ型」の区別は藤本によるアーキテクチャの代
の受注獲得合戦を激化させている。液晶産業で
表的な分け方である。藤本も「台湾の半導体産
は過去 10 年間,液晶ディスプレイが劇的な進
業発展には『モジュラー軸』や『インテグラル
化をし,大画面液晶テレビの普及をわずか数年
軸』の交差点に位置する」
(本稿注⑸参照)と主
で実現できたが,それは機械の組立工程だけで
張した。ただ日系部品材料メーカーを比較する
なく,エンジニアによる開発と技術進化があっ
と台湾液晶産業と日本液晶産業の構造の違いが
たからこそである。特に,有機 EL 等新世代の
台湾液晶産業の発展における日系部材メーカーの役割(呉) 115
技術が高度集約パーツの生産を多数必要とする
しての大型液晶研究発展計画がなく,その代わ
分野であるので,過去の技術蓄積に頼るだけで
りに『CHI-WAN』 など中国市場を奪う市場
は 産 業 の 競 争 力 が 弱 い の で あ る。台 湾 勢 は
向けの販売計画が主流になってしまった。ただ
2000 年に対中国市場が開放されたことと,日本
し,台湾や韓国は電子産業のキャッチアップに
液晶メーカーの韓国対抗戦略で一時液晶産業を
成功したが,材料メーカーの発展のためには光
飛躍的に成長させた。しかし台湾メーカーが言
学,化学塗料など複数の領域の知識が必要とな
語やコストダウンの面で中国進出するのが他の
り,材料面で日本メーカーに頼る現状が存在し
国より容易というメリットを持っているもの
ている。
(23)
の,2004 年液晶産業の世界シェアが世界一の
半導体の全盛時代から海外に進出し始め,液
ピークに達した後再び落ちてしまった。生産量
晶産業ブームに乗って業務範囲を拡大しなが
で相手を圧倒した台湾企業がこれからの国際競
ら,東アジア諸国の液晶産業の成長を促進する
争で生き残りたいなら,技術面に力を入れない
日系部材メーカーが 2000 年代半ばから中国に
わけにはいかない。
支社や拠点を設立し始めている。次世代液晶技
現在,韓国は意識的に自国の設備の国内生産
術で画期的な技術逆転がない限り,これらの日
の強化や材料面の脱日本化を目指して次世代
本半導体 / 液晶部材メーカーも東アジアをリー
ディスプレイの開発を進めている。台湾にも
ドしながら,台湾,そして韓国と中国の液晶産
2002 年の『二兆双星』計画以来,台湾を主体と
業の発展に影響を与え続けることになろう。
参考図表
1.台湾ノートパソコン製造台数の世界割合変化
2006
2007
2008
2009
2010
台湾ノートパソコン製造台数
66,897
93,254
125,464
145,879
223,692
世界ノートパソコン製造台数
74,350
104,165
137,228
157,028
239,534
台湾企業年間成長率
33.2%
39.4%
16.3%
53.3%
53.3%
世界年間成長率
31.7%
40.1%
31.7%
14.4%
52.5%
台湾企業シェア
90.0%
89.5%
91.4%
92.9%
93.4%
出所:EMSOne
2.台湾パソコンOEM/EMSメーカーの業務対象
メーカー名
対象メーカー
ASUS
ASUS,Toshiba
Quanta
HP,Dell,Apple,Acer,Lenovo,SONY(Apple,HPからの生産依頼50%以上)
Compal
HP,Dell,Acer,Toshiba,SONY
Wistron Corporation
Acer,Dell,SONY
Inventec
HP,Toshiba
出所:新聞記事やネットの資料により筆者作成
呉(2010)
116 第 14 巻
第4号
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95
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