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Page 1 Page 2 の大学教師の理不尽な振舞いによって東京での学生
井伏鱒二と大正末年の因島・御調郡三無町 一井伏文学における因島検証の前提として一 前田 貞昭 住民は農、工、商、漁其他に分つも多くは農を業とし、傍ら商工を兼営せ駒もg融からず、島の南部即ち 土生町、田熊、三庄村に在りては、土生町に大阪鉄工所因島工場、三庄村に備後船渠株式会社の大造船工場 あり、其他各所に大小の造船工業勃興せるを以て、遠近此地に集まり来る職工の数は、万事に達し、土着の 村民も亦多くは、其職に従事せるを以て南部地方は工業化せると云ふも、過言にあらず、従って之に伴ふ、、 商業も亦可なり股盛を極めり。 田丸実太郎「因島案内」(因島案内社、大正8〔1919〕年3月10日、11頁) ママ 密柑と除虫菊と長閑な内海風景に取り巻かれて、然も近代的大工業の息吹きの中にある……1 広島県警察部編『広島県警察史』(警察協会広島支部、昭和16〔1941〕年2月11日、1077頁) 1、回想された因島あるいは三庄町 大正10〔1921〕年上頃から翌大正11〔1922〕年春頃までの凡そ半年間く注1)、井伏鱒二は、因島一 みつぎぐん 当時の呼称に従えば、町制が敷かれたばかり(大正10〔1921〕年6月1日町制施行)の広島県御調郡 みつのしょうちょうちもり 三 庄町千守(現・広島県尾道市因島三野町)一に暮らした。近傍の景観や暮らしぶりについて、 代表的自伝「難肋集」(『早稲田文学』昭和11〔1936〕年5月目12月。初出標題「自叙伝」)では次の ように語っている。 , 私は中学時代の英語の教師磯部茂先生といふ人の紹介で、因の島の三庄町伊賀義憲氏(注2)を訪 ね、伊賀氏の紹介で同じ町の土井医院の二階に下宿した。その南の部屋は見はらしがよかった。 正面に百貫島が見え、その向ふに四国の連山が見えた。窓の下は海である。北の部屋は城山に面 し、、蜜柑畑や除虫菊の畑のつづく岡が見えた。城山はむかし和冠がここを本城にしてみたといふ ことで、小高い岡になってみる。岡の頂上にのぼると周囲の岡の切れめから各方角の海が見え、 海賊の本城としてはまことに好都合な場所であったらうと思はれる。 この島に移ってからの私の操行は従前にくらべ一変した。私は酒をのむことを覚え、艶福を求 める目的から夕方になると顔を剃って酒をのみに出かけた。ときどき私のみる部屋の窓の下に、 小太郎といふ船員相手の芸者が妹芸者をつれて来て、海にどぶんと石を投げた。それを合図に私 は外に出て小太郎といっしよに城山にのぼり、また蜜柑畑や除虫菊の畑の畦みちを散歩した。 (新全集第6巻30頁。以下、井伏文の引用は同全集に拠り、引用箇所の収録巻・頁を附す。) 井伏伝においてしばしば引用されるのは、後半段落の「酒をのむことを覚え、艶福を求める目的か ら夕方になると顔を剃って酒をのみに出かけた」と「操行」の「一変」を言う一節である(注3)。「難 肋集」には、初めは「日向の教会に行って暫く教へを受けようといふ計劃」を立てたとか、「世捨人」 になって「九州へ流浪の旅」に出たいと母に嘆願したとか書かれている(第6巻29頁∼30頁)。一人 3一 の大学教師の理不尽な振舞いによって東京での学生生活を放棄せざるを得なくなり、「文学的には殆 んど精進する気持を失ってみた」とも回想する(注4>井伏が、「世捨人」になることや、「流浪の旅」 を願うこと、実際に〈田舎〉に暮らしたこと、あるいは、また、それまでの「操行」が「一変」した ことも、それぞれ個別には了解できる。 だが、自然に恵まれた長閑な〈田舎〉ふうの景観を強調してきたところに、女性を相手に酒を呑め る場所があった(それも、夕方から出掛けられるのだから、そう遠くない所である)と続けたり、あ るいは、田園的景観に〈都会〉的歓楽の象徴ともいうべき芸者とが取り合わせられると少々唐突な感 は否めまい。 実際の地理上においても、そういう田園風景のつい鼻先に、「艶福」を求め得る料亭・検番・芸妓 置屋(芸妓はそういうシステムの中にあるわけだ)がある、ということも私には呑み込みにくい。加 えて、妹芸者を連れていれば密会といった雰囲気は捨象されてしまうにしても、面々相知った人々が 暮らす農村地帯(「蜜柑畑」や「除虫菊の畑」があり、その「畦みち」を歩くのである)で芸者連れ の散歩は相当に人目を惹くように思うが、さしてそれを気にする気配もなく、そのことで風評が立っ たようなことも書かれてはいないのが不思議でもある。当時は城山に登る道も整備されていたらしい が(注5>、それにしても急峻な坂道であって難儀しただろうとも思われる。のちに引用するが、因島生 活を振り返る回想記・随筆類には「近所の人」の「無関心」(「因ノ島」、『婦人臨写』昭和30〔1955〕 年5月)や「遠慮」(「因島半歳記」、r市政」昭和33〔1958〕年8月)が有難かったと書かれているの だが、それぞれ「怠け者がみる」ことや、「病人のやうに海岸や岡を歩きまはる」ことに寛容だった という意味であって、芸者を連れた散歩にまで及ぶと想像できるような文脈にはない。 「難関集」には、確かにく事実〉として〈操行の一変〉は記述されている。しかし、一変した操行 の領域から立ち現われてくる小太郎たちの形姿は具体的には描かれず、私たちの眼前に出現する彼女 たちはは、近くの小高い丘に登って四囲の海や島を眺めるという、健康的な構図の内に配された点景 人物でしかない。他方、井伏が「艶福を求める目的」で訪れた場面(芸者と親しんだとなれば、料亭 などを想定することになるが)が描写されないために、土井医院附近の自然描写に比肩し得るイメー ジの具体性を持たないのである。結局、「四丁集」に描かれる因島は、自然景観に恵まれた島として の印象が大きく損なわれることはないようなのだ。続いて記される、井伏の生活も田園生活的情調の 内に封じられる。田園生活的情調と評したのは、先の「難撃墜」からの引用部分には以下のような文 章が続くからだ。 私はつまらない見えから小太郎に、自分はトルストイにかぶれてこの島に来たなどと大げさなこ とを云ってみた。もっとも私はこの島に滞在中、退屈しのぎにトルストイを読んでみた。当時、 田舎へ逃げ出して行った私の級友はどういふものがたいていトルストイを愛読してみたやうであ る。 (第6巻30頁∼31頁) 井伏は、このように当時流行した都会から田舎(田園生活)への逃亡者としての自己を語る言葉で、 因島生活を書き継いでゆく。そして、級友たちは、それぞれ、大島(伊豆大島)で養鶏業を営んだり、 日向(宮崎県)の山奥に移住したと述べ、かれらの逃避先はく田舎〉として括られる。城趾・蜜柑畑 ・除虫菊畑、そして、投げ入れた石がどぶんと音をたてる長閑な海、その海の向こうに眺められる百 貫島・四国連山……と、「難肋骨」に具体的に描写された因島も、井伏が後年「なぜ居心地が競いの か一言には云へないが、田舎でありながら、怠け者がみても近所の人が無関心でみてくれるので気が 一4一 楽であった」(注6)と語るように、級友たちが「逃げ出して行った」先と同じく<田舎〉とされ、トル ストイアン・井伏鱒二が灰めかされる。 同じような例が、因島時代に取材してその頃の井伏の心情を描いたと推定される、最初期の作品「岬 の風景一長篇のプロツトー」(『鷲の巣』大正15〔1926〕年8月。同年2月の『陣痛時代』第2号 に発表か)にもある。主人公「私」は、村上家の系図を小説風の物語に書くために、「岬の南端に位 みする小都会」に招かれる。「私」が住むのは、岬の突端に建てられた病院跡の空家である。その空 家は「漁師達が博突をうちに忍びこむ位なもの」と紹介されていて、周囲には人家もないようだ。「私」 は、時として「小柄で顔に雀斑のある一人の職業女」と「よくない外泊」をする。外泊先では「はる か向うの島で時をつくる鶏の声を聞いたり」、「見越し硝子に描いてある風景画が、百貫島の(灯台の 明滅する)灯に透かされて白く浮き出るのを見」る。「私」が鉄道や船で、岬の世界の外に出た様子 もなく、「私」の住まいと「よくない外泊」先との距離が余りにも近いように思われる。そればかり ではない。毎目の食事を出前するような「賄の料理屋」が、果たして、隔絶された趣きの強い病院跡 の空家近くに存在し得るのだろうか。 「岬の風景」の舞台が「岬の南端に位みする小都会」と設定されながら、「何の身よりもなく謎責 する人もないこの田舎に迷ひ込んで来て」(第1巻69頁)と、「難肋集」同様、その場を〈田舎〉と規 定する表現も見られることも附け加えておこう。 「岬の風景」のような虚構の作品ではモデルとなった土地を忠実に再現することを必ずしも要しな い。現実離れした仮構の舞台だと言えるかもしれない。だが、「岬の風景」の舞台設定に実際の因島 が濃い影を落としていることは否めない。ジャンルは違っても、「手署集」・「岬の風景」に設定され た生活空間や地理的状況に関して、両者に共通する、何か呑み込みにくいところが残るのだ。この素 朴な疑念を解消したいと考えたところに、本稿執筆の出発点はある。そして、先回りしていえば、こ の呑み込み難さが、実は、井伏の描く<因島〉を特徴づけるものだと評してもよいように思うのであ る。 例えば、同時代に生き、井伏と同じ時期に何度か因島を訪れたことのある林芙美子が書いた『続放 浪記』〈新鋭文学叢書〉(改造社、昭和5〔1930〕年11月10日)には、そういうところを余り感じない。 その「恋日」の章(末尾には「一九二二」とある)には、一月だというのに陽光に溢れた、因島(田 熊)の農村風景が描かれている。 ひ 丘の上は一面の蜜柑山、灯のやうな実のなった、レモンの木が、何か少女時代の風景のやうで とてもうれしかった。 牛二匹。 腐れた藁屋根。 レモンの丘。 チャボが花のやうに群れた庭。 ひかり 一月の太陽は、こんなところにも、霧のやうに光荘を散してみた。 (9頁∼10頁〉 井伏が「難肋集」で描いたのと同じような牧歌的田園風景である。だが、同じ『続放浪記』に収録 された「旅の古里」の章(末尾に「一九二五」とある)では、「恋日」とは全く異なった因島の相貌 が出現する。「糸のやうに細い町筋を古着屋が軒をつらねてみる」(『林芙美子全集』第1巻、文泉堂 出版、1977年4月20日、396頁には「糸のやうに細い町筋を、古着屋や芸者屋が軒をつらねてみる」 一5一 は ぶ とある)土生町で宿を取った「私」は、造船所正門向かいの丘に登り、「菜つば服を旗に押したて・ マ マ 通用門みたいなとこに、黒蟻のやうな職工の群が、ワンワン稔ってみる」造船所内の様子を目にする。 遠い潮鳴の音を聞いたか! 何箇と群れた人間の声を聞いたか! こ・は内海の静かな造船港だ 貝の蓋を閉ぢてしまったやうな 因の島の細い町並に 油で汚れたヅボンや菜つば服の旗がひるがへって 骨と骨で打ち破る工場の門の崩れる音 その音はワァン ワァン ママ (108頁) 早いつばいに吠えてみた。 「恋日」は林の恋人・岡野軍一の生家があった田熊村の風景であり、「旅の古里」に描かれるのは 土生町の大阪鉄工所因島工場正門(現・日立造船所西門)向かいの丘に立つ、荒神社から目にした争 議の光景である。当時の土生町は、人口ば1万人を超え、大阪鉄工所因島工場を核として栄えた賑や かな町であった。その土生町に比べれば、井伏が滞在した三半町は人口にしてもその半分程度で(大 正9〔1920〕年の国勢調査では、土生町13,315人〔面積0.16方里、人口密度では83,219人/方里〕、田 熊村3,416人〔面積0.22方里、人口密度では15,527人/方里〕、三庄村6,448人〔面積0.46方里。人口密 度では14,017人/方里〕である)(注7)、三庄町・田熊村ともに農村地域だと思われるかも知れないが、 後述するように、三野町には大阪鉄工所備後工場(三庄工場)のみな、らず、同工場の従業員や同工場 に入渠する修繕船を目当てにした歓楽地域や商店街が存在していた。林は『続放浪記』で、農村風景 を描くだけではなく、繁華な街や労働者の輯めく姿も書き落とすことはなかった。その点、因島を捉 える林の目配りは十分に利いている。だが、井伏の「難肋集」では芸者小太郎は因島の牧歌的風景の 中に溶かし込まれ、「岬の風景」では歓楽地域の一角に所在すると想定される外泊先が曖昧に量かさ れていた』そして、その後も、井伏は回想記・随筆類では、因島を牧歌的風景の中に置き、繁栄する 造船業や賑やかな街の存在について、長く言及を避けて来たふうがある。 それらしい歓楽地域の存在について具体的に触れた回想・随筆を井伏が発表したのは、柑橘類の匂 う因島の印象についてずいぶん語ってきたあと(二十篇ほどの回想記・随筆類で、井伏は大正末年の 因島滞在のことに触れている。それらの殆どで因島は牧歌的風景に囲まれた島として語られている。 因島滞在中の体験に取材したと思われる創作は六篇ほどあるが、創作の中には、回想記・随筆類とは 様相を異にする作品がある。本稿では原則として回想記・随筆類に限定して考えたみたレ、)、その滞 在から数えれば三十年以上も経った頃である。井伏は、全国市長会が発行していた『市政』という余 り目立たない場所に、因島時代を回想する「因島半歳記」(昭和33〔1958〕年8月15日。井伏生前の 再録はない)を発表する。そこで、初めて、隣町の土生町にまで足を伸ばしたことに触れ、入渠船を 迎えようとして活気が溢れてくる港町の様子を具体的に描く。 私は三ノ庄町にみるとき土井さんといふ医者のうちの二階にみた。近所の人は私のことを入院 患者だと思って遠慮してくれたので、私も病人のやうに海岸や岡を歩きまはるには好都合であっ た。この町には港のわきに相当な規模を持つた造船所がある。海沿ひの岡を越えると土生町とい 一6一 ふ港町があって、ここは三ノ庄の三倍も四倍もの人ロで、更に大規模な造船所や船渠がある。内 海を行く汽船がこの港に寄るときには、岬の突端に船体を見せると同時に合図の汽笛を吹き鳴ら す。港に寄らない汽船は何の合図もしないで通りすぎて行く。 この港に立ち寄る汽船は修理を目的としてみるやうである。たいてい船渠に入れられて、修理 がすむまでの一週間か二週間は船員が上陸して金銭を無駄つかひする。だから汽船が岬の突端で 汽笛を鳴らすかどうか、港の人は固唾を呑む思ひであるやうだ。そこで汽笛が鳴ると、宿屋では 大急ぎで部屋の掃除をして活花を取りかへる。料理屋では浜の生費へ魚を取りに行く。医者は注 射器の熱気消毒に取りかかる。芸者は急いで銭湯へ出かけて行く。俄然町ぢゆう活気を帯びて来 る。 私はこの島にみた六箇月間に、汽船の進水式を土生の船渠と三ノ庄の船渠で一度つつ見た。万 国旗で飾られた船が海に出て行くところは素晴らしい。当日は大勢の人が見物にやって来て、新 造船の甲板からお祝ひの餅投げをするのを待ってるる。船が動きだす直前に餅投げが開始される。 一見、歌舞伎座で俳優が舞台から見物人に手拭を投げるときの光景に似通ってみる。 (第20巻323頁。圏点は前田が附した。以下同様。) この「靹ノ津付近」の記述に曖昧さはないだろうか。宿屋・料理屋や医者・芸者が上陸する船員目当 てに大慌てしているのは、引用第二段落冒頭のように「この港」のこととして書かれている。「この 港」とは、い、つたい、どこの港を指すのだろうか。「三ノ庄町」なのか「土生町」なのか。三半町に は「造船所」があると書かれているが、土生町には「更に大規模な造船所や船渠がある」と「船渠」 の文字が書き加えられている。そして、その「船渠に入れられ」る船の乗組員を目当てに「町ぢゆう 活気を帯びて来る」というのだ。「ここ」(引用4貫目)、「この港」(引用5行目、7行目)という指 示語の対象も曖昧だが、引用第二段落中程の「港の人」を含めて、圏点を附したところは、いずれも 土生町・土生港あるいはそこの人々を指すと解するのが自然だろう(注8)。井伏が繰り返し強調してき た田園風景が井伏の因島生活を馬弓するものとして、既に読む者の脳裏に焼き附いていれば、井伏の 暮らした三庄町ではなく、土生町のことだと読んでしまうだろう。引用最終段落の「進水式」の光景 にしても、三庄町と土生町が二重写しになり、裁然と区別されていない。否、この文章においては、 三庄町に賑わいがあったとしても、土生町のそれと重ねることによって、その背後に隠されてしまっ ているような印象を受けるのだ。 「因島半歳記」の二年後、殆ど同じ内容を書いた「靹ノ津付近」(『世界の旅・日本の旅』昭和35〔1960〕 年5月。年少者向けに改稿して『ふるさとを訪ねて』〈少年少女文学風土記9・広島〉泰光堂、1960 年9月25日に再録。井伏生前にはこの再録しかない)で、ようやく入渠船で活気づく港が三尉にあっ たらしいように書かれるのである。 そのころ因ノ島には、土生の港と三ノ庄の港に造船工場があった。沖を通る汽船が岬のはつれ に見えだして、汽笛を鳴らした場合にはその汽船が修繕のため港の船渠に入って来る。汽笛を鳴 らさなければそのまま通りすぎて行く。したがって港の人たちは、汽笛が鳴るか鳴らないかに多 大な関心を持ってるる。もし汽船が船渠に入って来ると、その汽船の修繕がすむまでには、すく なくも一週間以上は船員たちが上陸して金銭を浪費してくれる。港の人たちは汽笛が鳴るのを今 か今かと待ってるる。 そこで汽笛が鳴ると、たちまち町が活気を呈して来る。旅館では女中が部屋の掃除にとりかか 7一 り、板前が八百屋かどこかへ電話をかける。芸者屋の妓は銭湯へ出かけて行く。病院では看護婦 が注射器の煮沸にとりかかる。私の泊ってみた土井医院で転汽笛が鳴ると院長はすぐ分院へ馳 せつけてみた。 私の泊ってみた本院は船着場から十丁ほど離れ、岸壁をめぐらした埋立地に建ってるた。 (第21巻263頁∼264頁) 文中には、「靹ノ津の西にある因ノ島に行き、そこの土井医院に六箇月ばかり止宿した」という表現 しか見当たらない。次に引く段落の冒頭で「三ノ庄から土生まで海沿ひの道を行くと」とあり、弓削 島へ渡った体験を語る際にも「三ノ庄の港」を起点にして説明していることから、井伏が暮らしたの は、その起点とされる三庄であるらしいと推測するしかない。その上で、土井医院本院から「十丁ほ ど離れ」たところに、入渠船で活気づく「船着場」「港」「町」があること、また、そこに土井医院分 院があると説明されていることを根拠として、土井医院本院・分院ともに三庄町内に所在するのであ ろうと判断するこ.とになろうか。このあたりは曖昧だ。この「十丁ほど」の距離を近いと見るか遠い と見るかは別にして、慎重な言い方をすれば、この「靹ノ津付近」から理解されるのは、井伏が暮ら した土井医院本院から「十丁ほど離れ」た「船着場」の近辺に、「旅館」・「芸者屋」・「銭湯」が存在 していたという事実にとどまる。 「靹ノ津付近」でもう一つ目を惹くのは、 三ノ庄から土生まで海沿ひの道を行くと、岡を越えてまた次の岡を越える途中の埋立地に、整 然とした区劃割になってみる女郎屋街があった。これは寄港中の船員を収容するためのもので、 全国でも模範的な遊廓であると云はれてるた。 (第21巻264頁)、 かろう と と、それまでの因島をめぐる回想記・随筆類で全く井伏が触れなかった遊廓一家老渡(浪速/浪花) 遊廓にまで言及し、上の引用の後では、身投げした娼妓の噂に触れ、その不気味な水死体の様子も描 かれていることである。家老渡遊廓やそこの娼婦など、これまで強調されていた牧歌的田園風景には 不似合いな事物が出現する。ただし、ここでも、「三ノ庄から土生まで海沿ひの道を行くと、岡を越 えてまた次の岡を越える途中」と、井伏が住んだらしい三庄から距離があるとされていることにも留 意しておきたい。 こよう 実際を言えば、井伏が三庄町千守の土井医院に寄寓していたこと、その分院が三庄町南部の小用に あったことを知識として持っていた上で、「本院は船着場から十丁ほど離れ」(1丁を約109mとする と、10丁で1km強。本稿末尾に置いた国土地理院1/25,000地形図「備後土生」で測ると土井医院か ら小用港までは直線距離で1.2kmほどで・ある)という記述を手掛かりに地図と照合して、ようやく、 文中の「三ノ庄の港」というのは、小用の港を指すと推測することになろう。「靹ノ津付近」でも、 これらの地理的関係が十分に明瞭になっているとは言えないのである。 ともあれ、林芙美子は『続放浪記』で牧歌的農村風景に囲まれた因島と造船工業で栄える因島との 両面を提示していたのだが、井伏は、牧歌的農村地域に焦点を合わせることに急で、造船業で栄え、 それに関連する歓楽地域を抱えた因島のもう一つの面については三十年間に亘ってほぼ口を嘆んで来 たし、その存在について言及することはあっても(先に述べたように因島に触れた井伏の回想記・随 筆類は約二十篇あるが、その存在について触れた回想記・随筆類は、ここに引いた「因島半歳記」「靹 ノ津付近」の二点にとどまる)、その所在地と井伏が暮らした地域との地理的関係は曖昧さを残し、 一8一 井伏が暮らした場所(土井医院)からは距離があったように書いて来たように見えるのである。 因島は井伏作品で言及されることが多い。しかし、特に大正末年に因島に滞在した体験を語る回想 記・随筆類に描き出されるく因島〉を、一歩踏み込んで地理的に再現しようとすると、どこか呑み込 みにくいところが残るのである。また、大正末年の滞在を語る際に登場する因島と、郷里疎開中に訪 れた作品に描かれる因島とでは、その表象に大きな差がある。 そこで、本稿では、井伏滞在時期(大正10〔1921〕年秋から翌大正11〔1921〕年春)に絞って、そ ちもり の頃の因島あるいは三庄町が、実際にはどのような地域であったのか、また、曖昧だと指摘した千守 こ よう ・小用といった因島在島中の井伏の生活空間の実態はどのようなものであったのか一これらの点に ついて、現地踏査と周辺資料から得た結果を報告し、井伏作品における因島の表象の特徴を検証する ための資料としたい。 ちもり こよう じんでん 2、千守から小用・神田へ一尾道市因島三庄町の現況一 ちもり こよう かろうと 前節では、千守・小用・家老渡などと三庄町内の地名(字名)を挙げた。実は、井伏の回想記・随 筆類にこれら三庄町内の地名(字名)は一度も書かれたことがない。そのため、井伏が描く三庄町内 の地理的関係が非常に曖昧になっていたのだが、現在の地形図・空中写真などによって、井伏の滞在 場所とその行動の跡を確認しておこう。 末尾に置いた国土地理院1/25,000地形図「備後土生」(昭和53年改測/平成18年更新。平成18年6 月1日発行第1刷)や、「国土画像情報(カラー空中写真)」(国土交通省〔整理番号CCG−81−4/撮影年 度昭和56年/撮影コースC4C/写真番号15〕)、「国土画像情報(カラー空中写真)」(国土交通省〔整理番 号CCG−74−6/撮影年度昭和49年/撮影コースC21/写真番号32〕)等でも、井伏が住んだ千守と、「因島半 歳記」に「港のわきに相当な規模を持つた造船所」があると書かれた小用、「更に大規模な造船所や 船渠がある」土生町や、当時の大阪鉄工所因島工場(注9)が確かめられる(地図・写真などは印刷の 都合上モノクロとし、また、必ずしも原寸とは一致しない)。 土井医院は、現在の千守バス停留所近くに建物が残っている。地形図の上端に「千守」の文字が見 える。その「千守」の文字の下方にある城趾記号の右下(南東)で、西から来る市道土生三庄線が、 海岸線に沿って走る県道西浦三庄田予予に突き当たって、三叉路をなしている。この三叉路傍に現在 の千守バス停留所がある。この千守バス停留所脇から北へ分岐して県道に平行する細い道を、「千守 … 一9 道路記念碑」(地形図上では記念碑の記号で示されて いる)に向かって50mほど歩けば、旧・土井医院があ る。前頁の写真(2007年1月8日撮影)では、中央正 面が千守バス停留所の「通学児バス待合所」、カーブ ミラーが設置されている防波護岸沿いの道が県道西浦 三庄田熊線、「通学児バス待合所」の向かって左脇道 奥に旧・土井医院の建物が残されている。 先に引いた「難肋集」に「北の部屋は城山に面し、 蜜柑畑や除虫菊の畑のつづく岡が見えた。城山はむか し和冠がここを本城にしてみたといふことで、小高い 岡になってみる。岡の頂上にのぼると周囲の岡の切れ めから各方角の海が見え、海賊の本城としてはまこと に好都合な場所であったらうと思はれる」とあった。 これが城趾記号で示された千守城趾である。圏点を附 した城山というのは、標高79,2mの高さを持つ、この 丘の固有名である。写真では、「通学児バス待合所」 の奥に見える二階建ての民家と、木々が疎らに生えた 背景の山との問に、やや黒く写っている山影が城山の 東端である。土井医院から50mほど北のところで城山 へ続く小道が分かれ、現在では左上の写真(2007年1 月8日撮影)に示したように尾道市教育委員会による 勝磁. 難 「千守城跡 (頂上まで百五十米)」と表示する道標 と案内板が立っている。また、城山北国から安楽寺を 経て頂上へ至る登り口があり、案内の道標も蜜柑畑の 中に立っている。ただ、いずれの道を通っても頂上へは急峻な坂道を登ることになる。左下の写真(2007 年1月8日撮影)が現状で、倒木が覆い被さる狭くて急な坂道である。 さて、地形図に戻って、千守から小用に向かって南下すると「室ノ内」という地名表示の右上、長 く北西に突き出た防波堤がある。その根本に工場らしい大きな建物が見えるが、これは昭和43〔1968〕 年にこの地に移転してきた石田造船建設株式三相である。石田造船の創業そのものも大正12〔1923〕 年、すなわち、井伏が因島を離れた後である。「因ノ島一瀬戸内海の十一」(「信濃毎日新聞』昭 和7〔1932〕年10月23日∼24日)等に描かれた造船所と誤解されそうだが、念を押しておけば、井伏 滞在時にこの規模の造船所がここにあったわけではない(注lo)。 その「室ノ内」の文字の左上、ホームベース状に見える一士が興浜で、大正4〔1915〕年に廃止さ れた塩田の跡地である。現在は市営住宅等が建っているが、井伏滞在時は塩田跡地として利用されな いままに残されていた模様である(注m。 千守から乗車するとバスは地蔵鼻(三ヶ崎)の山塊を東側に見つつ県道を南下する。千守バス停留 所から同じ三庄町内の小用バス停留所(県道が直角に曲がる所)まで、所要時間は5分ほどである(途 中数箇所の停留所があり、また、道路も狭いので実際の走行距離は長くない)。「室ノ内」の文字の下 (南側)の道路際に軽車道を示す短い実線がある(実際は堤を兼ねた軽車道である)。掲げた地図で は見難いが、この堤の所が「室内池」であり、この室内池と三期中学校停留所の間(地形図では「平 10一 木」の文字の、県道反対側)が赤崎と呼ばれ、かつて、常盤座という劇場が建てられていた。 ひらきじんでん 「平木」と「小用」の文字の中間辺りで県道から逸れて、「神田」の文字の方へ向かうのが平木神田 じんでん 道路である。この道を行けば、後述する神田の旧・池政旅館前に出る。なお、この道路は井伏滞在時 には既に改修を終えていて(神田側に大正8〔1919〕年5月建立の「平木神田道路改修記念碑」があ る)、井伏が神田に直接向かう場合は、この道路を利用できたと思われる。 「因島半歳記」に「この町には港のわきに相当な規模を持つた造船所がある」と出て来る港(小用 港)には、地形図・空中写真でも防波堤が設けられているのが分かる。「相当な規模を持つた造船所」 とはこの小用港に隣接する大阪鉄工所の「備後工場」(大正11〔1922〕年1月からは「三庄工場」と 改称。本稿では、以後、備後工場と称する)を指す(注12)。「岡の上のスケッチ」(『作品』昭和6〔1931〕 年1月)や「因ノ島一瀬戸内海の今一」(r信濃毎日新聞』昭和7〔1932〕年10月23日∼24日)で 丘の上から眺められたのは、この大阪鉄工所備後工場以外には想定されない。二つの空中写真では整 然と並ぶ30棟弱のブロック建築住宅が見える所が、大阪鉄工所備後工場跡地である(現在は、日立造 船関連の住宅や生協売店、日立造船因島工場建設廃材保管場所、介護老人福祉施設等となっている)。 この備後工場跡地の道路を挟んだ反対側、山が迫るまでの間(地形図で建物密集地を示す斜線部)に、 後述するように旅館・料理屋・芸妓置屋・検番などがあった。 いつはしら 小用の五柱神社(地形図で神社の記号で示された地点)附近から西南西の大阪鉄工所備後工場跡 地方向を撮影したのが、上の写真である(2006年2月24日撮影)。 た お 写真右側から迫り出した丘(この丘の字は「田尾」である。写真では、丘の上に観自在寺の建物が 見える)が小用と神田を分けていて、手前が小用、丘の向こうが神田である。(なお、この写真の手 前右端に、2階の窓にクーラーの室外機が見える民家が、旧・土井医院小用分院である。民家の前の アスファルト舗装の狭い道〔県道西浦三庄田熊線〕をバスが通る。)その神田を過ぎて、地形図の「家 老渡」の文字の上方、工場を示す記号と道路との間に、旧・家老渡(浪速/浪花)遊廓の建物が現在 も残っている。 あんこう 平成18年更新地形図上の地名でいえば、家老渡・安郷までが当時の三庄町で、「日立造船所」と表 示されているのが、「海沿ひの岡を越えると土生町といふ港町があって、ここは三ノ庄の三倍も四倍 もの人口で、更に大規模な造船所や船渠がある」(「因島半歳記」)と紹介されている、当時の大阪鉄 11一 工所因島工場である。 なお、拙稿「井伏鱒二「岬の風景」私注稿一木津川丸と大阪商船一」(本誌第17号、2006年1 月25日)では木津川丸の入港先を三思とだけ記載していたが、千守近辺の本村ではなく、小用港であ ったらしい(注13>。注5に引いた『ふるさと三野』は「明治三十年代(一八九七)の初めころ合資会社 住友鉱業所は愛媛県新居浜町(市)から今治経由尾道行の貨客船(約一五〇「トン」の蒸汽船)の運 航(一日一往復、大正のころになると二往復)を始めたので、村上卓一氏(六区平野屋)」が「小用 港に寄港方を同社に陳情、その結果聞き入れられ間もなく実現した」と伝える(100頁)。ただし、『ふ るさと三彩』は住友汽船の運航年次等に関して多少事実と違うところがあるようだ。拙稿で述べたよ うに新居浜一尾道線の運航開始年は明治26〔1893〕年であって、同線の三庄寄港開始は明治35〔1902〕 年8月と推定され(因みに、注12に述べたように、小用における備後船渠株式会社の創設は明治34 〔1901〕年6月である)、また、明治38〔1905〕年においては三野(小用)へは2往復併せて4便の 寄港が確認されることを附記しておく。 3、大正末年頃の御調郡三下町 前節では因島の現状を中心に述べたが、井伏滞在中の因島・三庄町はどのような状況にあったのだ ろうか。大正10〔1921〕年あるいは大正11〔1922〕年当時の地図はないが、井伏滞在を間に挟んだ二 枚の陸地測量部地形図(国土地理院所蔵)で探ってみたい。その二枚目は、次頁右上の1/50,000地 形図「瀬戸田」(明治31年測図、大正14年8月30日発行)と同右下の1/50,000地形図「土生」(明治31 年測図、昭和3年修正測図、昭和7年1月30日発行)である。二枚の地形図を比較すると、三十年の 問に、小用・神田で生じた人口膨脹が狭隙な地域に収まりきらず、本村へ向かう道沿いに及んでいる 様子が窺える。 地名や地図に加えて、空中写真を参照すれば、三洋町が天狗山(浅問山)から地蔵鼻(三ヶ崎)に 至る山塊によって、地形上も交通上も、北部と南部に隔てられていたことが理解されるだろう。 明治31年測図では、千守から南下すれば、もはや室ノ内近辺で家屋が途切れ、田が広がっている。 小用で造船業が盛んになるまでは、三庄町北部と南部を繋ぐ道路は十分に整備されず(海上交通が陸 上交通よりも重要であったにしても)、この明治31年測図では、現在のバス通りも里道(聯路〔片側 破線で示されている〕)として表示されている。そして、この家屋が途切れた辺りから神田にかけて、 ひら たお この二つの地図には示されていないが、平木(開き)・田尾(峠〉といった地名が残っている。 明治31年測図においては、北部・南部ともにほぼ道路沿いに集落が形成されている様子が見えるが、 この時点では、まだ北部の方に家屋が広く分布し、現在でも北部を「本村」と呼んでいることで分か るように、北部が三庄村の中心と認識されていたようである。地図に示された村役場(字政所1741番 地)はもちろんのこと、神田にもう一つ設置されるまでは村内唯一の郵便局(当初は二区201番屋敷。 のち「三区1723番地の2」に移転。現在の因島三庄郵便局は「三区1723番地の5」に所在)も「本村」 に置かれていた(注14)。 しかし、造船業が盛んになるに従って、南部でも家屋が増え、昭和3年修正測図では北部と拮抗す るかのような状況が出現している。空中写真からも推測されるだろうが、商店街・普通家屋が11頁の 写真に見える観自在寺がある丘を取り巻くように現われ、さらに、北へ伸びる道路沿いにも家屋が出 現している。この現象は、南部の人口増の圧力が、急傾斜地は避けて、北へ伸びる道路沿いの比較的 傾斜の緩やかな地に居住地を求めさせたことを意味する。 一12一 三郎町南部の人口増による新 たな中心地の形成の様子が、昭 和3年修正測図における普通家 2一・4艦 轟 屋の増加のほか、学校・郵便局 露σ 鞭・ の出現にも読み取れるのは言う 懸張 ’ 晒 職 までもない。特筆しておきたい 鑓嚇 匁∂ のは、網掛で示された商店街が 出現していることである(昭和 3年修正測図において、網掛で 躍渕・顯《 1壷 き } 双 鵡準 嚢鮭 ノ の 魯 蔽 @ 曳 卿』 鵜嘉 ・畔 示されているのは「商賃連撫」 纂駕 すなわち商店街を表わす(注15))。 妻蘇総 N ぎ 》 明治31〔1898〕年月図の「三庄 〆 村」の表示が、三十年後の昭和 3 〔1928〕年修正測図で「三ノ 庄町」と改められたとき、南部 の繁栄に引きずられるかのよう に南に移されていることが、こ 峯 獣 瀦1 タ {ノ 曝 ’ ン 、 め 劉 κ 窪 趣 巻 嫡「》繍飾輸齢^ うした状況を象徴していると評し てよいだろう。 盛業を迎えた備後船渠株式会社 の請願によって、神田には、巡査 派出所・郵便局が設置され る(注16)。それだけではなく、昭 和3年修正測図では、北部にもな い商店街が、小用・神田には出現 しているのである。 轟 響 頑」 験P なお、昭和3年修正測図に避病 盛ぴP 院及隔離病舎の記号が見えるが、 φ 墾 これは明治36〔1903〕年設立の後、 一 験 大正9〔1920〕年に改築された隔 離病舎である(注17)。 模式化された地形図が土地利用 の詳細を示し得ないにしても、平 成18年更新地形図と同様、明治31 等測図・昭和3年修正測図におい ても、千守周辺に果樹栽培を示す記号が散見されることは注目しておいてよい。井伏が「難肋集」で 描いていたように、千守周辺には果樹が広がっていたことを意味する。 明治31〔1898〕年測図と対比しながら昭和3〔1928〕年修正測図から読み取れることを述べてきた が、井伏滞在(大正10〔1921〕年∼大正11〔1922〕年)から数年後の地形図を以て井伏滞在中のこと を計るのは蕪雑だとの誹りを免れがたいかも知れない。そこで、次頁に、田丸実太郎『因島案内」(二 一13一 \㌔ ノ ㍉〆 こ「’ ≧ 匁.^ 諦ベノ 島案内社、大正8〔1919〕年3月10日)巻頭の「因島三庄村備後船渠工場及附近市街平面図」を掲げ ておいた。小用では昭和3年修正測図の方がさらに市街化が進捗しているところが見られるが、この 市街平面図も、井伏滞在以前から三園町南部が既に市街化されていた状況を十分に示して得ているだ ろう。 「難肋集」にあった芸者小太郎の挿話以外、一変した「操行」について井伏自身は殆ど語って来な かったが、それに類する因島滞在中の動静が垣間見られる周辺の証言もないわけではない。土井冨久 江(土井医院院長・土井浦二の長女)は、「(井伏が一前田注)小用の方にいた芸者さんと仲良くな られたなどということも家人からちらと聞いたことがございます」と語ったという〔注18)。また、土井 医院を手伝っていた高橋智恵子の談話には、「分院の方で仕事をしていると、折古の浜(電柱神社東 ママ 側の海岸一前田注)に魚釣りに来たといっておいでになっていました」、あるいは、「あのころ三庄村 ママ 神田(じんでん)の池政旅館に、高尚芸者と呼ばれるほど見識の高い芸達者な『お玉さん』という芸 者が居て、井伏さんもその芸者に三味線や小唄を習われていたようですが、お上手だったですよ」(注19> おり こ といった、小用・折古・神田に出歩いた井伏の姿が登場する。 「因島三庄村備後船渠工場及附近市街平面図」においては、先に触れた平木神田道路の神田側、現 「びんご倶楽部」の敷地に、高橋談話で言及された「池政旅館」の名前が文字注記されている。平成 18年更新地形図では、現・因島三庄南郵便局脇の道路を山側に向かって北西へ80m程行った所である。 注11に引いた『目で見る尾道・三原・因島の100年』(112頁)は、この道路を撮影した写真を収載し、 「この道路は南端に備後船渠の正門があり、北端に料理・宴会・宿泊の万事整った備後クラブ(写真 中央)があり、大正中頃は三弦の音賑やかな歓楽街でもあった」と解説を加えている(注20)。 「小用の方にいた芸者さん」と「お玉さん」とが同一人物か否かは分からないが、それらの女性た ちや、「難肋集」に出て来る芸者小太郎を知っていたということは、井伏が土井医院小用分院のみな らず、神田まで足を伸ばしていたということでなければなるまい。そして、「因島半歳記」や「靹ノ 14 津付近」に触れられていたように、その向こうの土生町には因島繁栄の基礎である大阪鉄工所因島工 場が所在して’いた。土生町は、大阪鉄工所の事務所・病院・職員住宅・職工住宅だけではなく、警察 署・劇場・映画館・旅館・商店街を具えて、大阪鉄工所の企業城下町というべき様相を呈していた。 その土生町の手前には、家老渡(浪速/浪花)遊廓も存在していたのである(注2D。 この神田・家老渡の歓楽地域の成立時期について、先に触れた『ふるさと三庄』は、大正7〔1918〕 年8月に家老渡に浪速遊廓が出来て(35頁、271頁)、全盛期には妓楼14軒、遊女は100人を超え、遊 客は船員が80%、工員が15%、一般が5%くらいだったと伝える(35頁)。また同書は、時を同じく して、神田に旅館・料亭・芸妓置屋・検番も出来たとし(33頁∼34頁、271頁)、昭和17〔1942〕年12 月にこれらの遊興施設は営業を停止したと記している(34頁、35頁)。 神田に歓楽施設が出来上がったのが、『ふるさと三拝』が言うように家老渡(浪速/浪花)遊廓開 設と前後する大正7〔1918〕年8月頃であるとすれば、井伏が三庄町に住み始める三年ほど前のこと である。その区域は極く限られていて、海岸線の方角は造船所によって阻まれ、残る三方は山で区切 られた狭隙なものであったにしても、その一劃だけは市街とも称し得るような繁華なものであったよ うだ。 また、常盤平なる劇場施設があったことについても、渥ふるさと三庄』は次のように記している。 もく 常盤座は赤崎地区の通称杢左衛門の地に設立された島しょ部最大の劇場で、ラジオやテレビが 普及していなかった大正の中期から昭和の初め頃、三庄唯一の娯楽の殿堂として栄え、現在の公 民館的な町民集会場であり憩いの場であった。大正六年(一九一七)五月、土生の大竹屋こと宮 地兵三郎氏が土生塩浜地区に帝国座を、三庄の有志の協賛を得て赤崎に常盤座を設立し、そのコ ケラオトシ(落慶式)に関西歌舞伎の中村雀右衛門、嵐歌升ら四十余名が来演した。大阪道甲骨 の角座と同型設計で、総工費一万二千余円で完成したという。地形石には楠見米太郎氏、宮地要 どんちょう 平氏らの工事者の名が刻まれている。大阪鉄工所(日立造船)が寄贈した鍛帳、各地の有志が寄 進した揚げ幕、引き幕などが保存されていて当時の盛況を物語っている。 (36頁) 『ふるさと≡:庄』が赤崎地区にあったと記録する常盤座の建物は現存しないが、先に触れたように 三庄中学校の、県道西浦三庄田熊線を挟んだ向かい側、室内池の南に建てられていた(注22)。 以上のように地図や周辺資料を参照すると、大正7〔1918〕年前後から急成長してきたく街〉の要 素を抱える三庄町の様相が浮かび上がってくるわけで、それは、次頁の「図1 三洋町概念図」のよ うに模式化できるだろう(注23)。 田園風景の中に柑橘類が香る千守附近から真っ直ぐ南下すれば、まず、歓楽地域の始まりともいえ る赤崎の劇場・常盤座があり、更に南へ足を運ぶと、やがて、三庄町南部に繁栄をもたらした大阪鉄 工所備後工場、土井医院分院や港・商店街のある小用に着く。その港からは尾道だけではなく、住友 汽船によって今治・新居浜へも定期航路が通じていた。途中から分かれて平木神田道路を行けば入渠 船船員や造船所従業員を相手にした芸妓置屋・料理屋・旅館等がある神田の一碧が待つ。さらに神田 の先には因島唯一の免許地・家老渡(浪花/浪速)遊廓がある。 果樹の育つ長閑な田園地域からほど遠くないところに成立した新興歓楽地にあっては、そこから一 歩外れれば、傾斜地には柑橘類が植わり、平野部には田畑が広がっていた。逆に言えば、井伏が住ん だ同じ三半町内で牧歌的田園地域からほんの少し足を伸ばした所に、芸妓置屋・旅館・料理屋等が営 業していたのであった。造船学が第一次世界大戦で俄に活況を迎えると、このように緩衝地帯を殆ど 15 図1 三在町概念図 訓…噂’口’o圓’……’層”●贈、・% .〆’ oO ◆◆■. ・9 /’ 繍 贈 ・ヒ ξ ○■◆◆◆ oO■◆ リロロロロのロ の コ ■A唇 8鱒● ∼ ノ土 / /’ ㌃.巽 _ ・◆◎ .宗 鱒● 小用 ・■. ...諾’ 、・・,..馳.. _..、糊“日脚. 備後工塙〔神田・小用沿岸】 荘町 置くことなく市街地・歓楽地域と田園地域とが極く僅かな距離で接するという状況が生じるのは、平 野部の少ない三庄町南部にあっては当然のことであったし、また、それが一つの特徴であったと考え られる。 4、大阪鉄工所備後工場と御調郡三庄町(村) 昭和3〔1928〕年修正測図に見られる三庄町南部の変貌が、井伏滞在より以前に生じていたらしい ことは、『因島案内』掲載地図等によって示し得たと思う。だが、大正8〔19ユ9〕年刊行の『因島案 内』掲載地図や昭和3〔1928〕年号不測図に捉えられた上庄町南部の姿が、井伏が滞在していた大正 10〔1921〕年から大正11〔1922〕年頃のものと、どの程度まで重なり得るのかという点については記 しては来なかった。 このような僅かな年次の差まで言うのは、井伏が因島に滞在したのは第一次世界大戦(大正3〔1914〕 年7月28日∼大正7〔1918〕年11月11日)による好況が終息、した後のことであり、因島の基幹産業で あった造船業にも大きな変化が生じていた可能性があるからだ。事実、注12に記したように、三庄町 南部繁栄の唯一の基盤であった備後工場は大正15〔1926〕年5月一時閉鎖され、昭和13〔1938〕年4 月に再開されるという経過を辿っている。昭和3〔1928〕年修正測図は、備後工場一時閉鎖から数え て三年目に入っていた時点の地形図なのである。 造船所の盛況が三庄町南部の急激な変容をもたらしたのだが、実際にそれがどのようなものであり、 また、井伏滞在中には、どのような動きを示していたかということについても検証しておきたい。曖 昧な物言いではなく、具体的な数字を示しつつ、井伏が暮らした因島の姿を捉えたいと思う。 先に、本節での目論見を述べてしまえば、井伏が滞在していた大正10〔1921〕年から大正11〔1922〕 年頃は、まだ好況の余韻が残っていて、備後工場一時閉鎖中の昭和3〔1928〕年修正測図当時よりも むしろ盛んであったことを示すことになろう。 因島にあった備後船渠株式会社や大阪鉄工所については注12に引いた『広島県史丑近代2通史Wの 「造船工業の発達」(145頁∼153頁)に詳しいので、そちらに譲る。本節では、因島に所在した大阪 一16 鉄工所の職工数や現住人口の推移を押さえることで、可能な範囲で、第一次世界大戦後の三庄町南部 の状況について確かめておきたい。 広島県知事名義の一通の書類から始めよう。広島県知事から内務大臣等に宛てた文書(大正11〔1922〕 年7月11日附)(注24)である。そこでは、因島に所在する大阪鉄工所の職工大量解雇が与える影響につ いて、 両工場(本文書中では咽島工捌と「三庄分工場」と表記されている 前田注)ノ所在地タ ル因ノ島ハ御調郡ノ南端二位セルー島喚ニシテ土生町井二三庄ノ各商工業者ハ殆ント両工場職工 ヲ唯一ノ得意トシ営業ヲ経営セル関係上今回ノ解雇二関シテハ多大ノ影響ヲ及スモノノ如クー般 二悲観ノ念二目ラレ諸種ノ敢引漸次沈滞シツ、アリ と報告している。裏返せば、これ以前は(井伏が因島を去るのは、これよりも三四箇月前のことであ る)、大阪鉄工所の二つの工場で働く職工たちを相手に「沈滞」しない取引がなされていたと読み取 ってよいだろうし、また、土生町・三三町の商業がこのこつの工場に大きく依存していたことは今更 言うまでもない。 実際には、どれほどの人数が細工場 表1 因島工場・備後工場職工数 で働いていたのだろうか。大阪鉄工所 大阪鉄工所因島分工場備後船渠/大阪鉄工所 因島工場及び備後工場(大正8〔1919〕 年6月までは備後船渠株式会社)の職 工数を、その数が記録されている『広 島県統計書』から抜き出し(*を附し た年次のもので、各年とも12月31日現 在の数値)、他の資料から多少補っ た(注25)のが、右の「表1 因島工場 ・備後工場職工数」である。次頁の「図 2 因島工場・備後工場職工数グラ フ」は、その内の『広島県統計書』掲 大正2年* 大正3年* 大正4年* 大正5年* 大正6年* 大正7年10月 大正7年* 大正8年* /因島工場(±生) @ 備後工場(三庄) 450 350 560 232 560 455 3,800 6,420 5,917 5,829 3,867 1,962 2,356 大正咋* 大正11年1月 大正11年5月 大正11年7月 大正11年lI月 2,156 1,505 1,017 954 一 1,434 1,126 781 一 } 639 600 合計 800 792 1,015 4,817 7,374 一 7,263 4993 2743 一 一 2,756 一 載の数値だけをグラフ化したものである(大正9〔1920〕年までの『広島県統計書』には事業所毎の 職工数が掲げられているが、大正10〔1921〕年以降はそれを欠いている)。 こうした数字は、注25でもその異同について触れたように、曖昧な要素を基本的に含まざるを得な いようだが、従業員の総数は、表やグラフに示した職工の数を上回っていたらしい。例えば、大正7 〔1918〕年10月の職工数の根拠とした「戦時船舶管理令による従業員届出数(大正7〔1918〕年10月 10日現在)」(注26)は、因島工場に関して、 職員数366人 職工数5,917人(造船4,445入、造機1,472人) 人夫1,037人 職工人夫合計6,954 人 従業員総計7,320人 という数字を掲げている。ここで職工」というのは全従業員の一部であって、従業員数にはそれ以 外に「職員」・「人夫」が加わる。大正7〔1918〕年10月に限っても、「従業員総計」は、「職工」の1.24 倍になっている。 一17一 人 図2 因島工場・糟後工場職工致グラフ 7,000 6,000 5,000 一〇一大阪鉄工所因島分工場/因島工場(土生} ォ備後船渠/大阪鉄工所備後工場(三庄}・ 4,00⑰ 3,0GO 2,000 ユ,000 o 大正2年 大正3年 大正4年 大正5年 大正6隼 大正7年 大正8年 大正9年 そうした細かな事情は措いて、表1を見る限り、大正11〔1922〕年7月の大量解雇までは、因島工 場と備後工場の両工場を併せて、『広島県統計書』にある大正9〔192Q〕年12月末日の職工数をほぼ 維持していたようだ。すなわち、井伏が滞在した大正10〔1921〕年秋から翌大正U〔1922〕年春頃ま での間は、大阪鉄工所の職工数に大きな変動はなかったと見られる。 因島工場の場合は、3,000総噸級船台3基を始めとした拡張工事が大正4〔1915〕年末にほぼ完成 し(大正5〔1916〕年11月完工。因島船渠が明治41〔1908〕年に工場を閉鎖した際には石造船渠3基 と附属施設があった。大阪鉄工所が買収して明治45〔1912〕年3月操業再開)、さらに、翌大正5〔1916〕 年3月に10,000総噸級船台3基新設ほかの:更なる拡張工事に取り掛かり、同年内にほぼ完成を見てい る(大正6〔1917〕年6月完工)(注27)。大正5〔1916〕年・大正6〔1917〕年に見られる、因島工場 職工数の急増は、このような工場の拡張の結果である。拡張策を支えたのはいうまでなく、第一次世 界大戦による船腹不足である。大阪鉄工所因島工場と職工を奪い合っていた当時の備後船渠株式会社 (注12に述べたように、大正8〔1919〕年6月大阪鉄工所が買収・合併し、同年7月から備後工場と 称する)も、大正4〔1915〕年・大正5〔1916〕年の両年は、それぞれ前年に倍する数の職工を雇用 し、大正7〔1918〕年にピークを迎える。第一世界大戦休戦翌年の大正8〔1919〕年末には、因島工 場・備後工場ともに大正5・〔1916〕年末の水準に下がる。 当然のことながら、職工数急減の最大要因は解雇によるものであって、『戦前の因島労働運動史』 掲載「年譜1(注28)は、 大正8〔1919〕年2月20日 備後船渠株式会社 150名解雇 2月25日 因島工場 60名解雇 3月5日 因島工場 350名解雇 3月8日 因島工場 1,330名解雇 12月6日 因島工場 200名解雇 18 と、備後船渠株式会社と大阪鉄工所因島工場とを併せて、大正8〔1919〕年中の計2,090名に及ぶ職 工の解雇を記録している。 ただし、『戦前の因島労働運動史』本文30頁には、大原社会問題研究所編『日本労働年鑑』(大原社 会問題研究所出版部、大正10〔1921〕年7月28日、164頁。覆刻版第2集/1921年版)から、大正9 〔1920〕年12月6日の職工約200名戯首、23日の同980名引首の件が引かれている(『戦前の因島労働 運動史』では引用の形式を採っているが、必ずしも原文通りではない)が、この「年譜」には落ちて いる。また、この「年譜」では、大正9〔1920〕年に掲げるべき工場幹部の辞職が、誤って大正8〔1919〕 年の項に記載されている。これらを勘案すると、「年譜」にある大正8〔1919〕年12月6日因島工場200 曲解雇というのは、大正9〔1920〕年12月6日の誤りかと思われる。 F日本労働年鑑』に拠って再度計算すると、解雇者数は大正8〔1919〕年中に計1,894名、大正9 〔1920〕年中に計1,180名となる。さらに附け加えれば、『日本労働年鑑』(大原社会問題研究所出版 部、大正11〔1922〕年7月18日、109頁。覆刻版第3集/1922年版)は、大正10(1921〕年3月中旬 に因島工場職工200名が解雇されたことを記録している。 かくして、大正9〔1920〕年末においては、因島工場で最大時(大正6〔1917〕年)の約30%、備 後工場では最大時(大正7〔1918〕年)の約54%の職工数に落ちている。労働者を解雇しながら、優 秀な大手造船所として、大阪鉄工所そのものは第一次世界大戦後の不況を堪えていたようであり、大 正11〔1922〕年に入っても、ほぼ大正9〔1920〕年の職工数を維持していた(すなわち、井伏滞在中 には記録に残るような大量の人員整理が実施されなかった)のだが、それは、既に大正8〔1919〕年 ・大正9〔1920〕年の大量解雇、さらには、大正10〔1921〕年3月の200名の解雇を終えていたとい うことに過ぎない。別言すれば、この小康状態は、やがて訪れる大量誠首・事業整理の前段階であっ たのである(注29)。 ただし、大阪鉄工所が堅実な経営を目指していたことは述べておかなくてはなるまい(注30)。大戦景 気に乗った無謀な配当や投資に奔ることはなく、海軍艦艇の建造にも依存しなかったので、軍縮によ って経営困難に陥った他社とは相違するところがあるようだ。当時の造船業に関わる記事を、神戸大 学附属図書館デジタルアーカイブ新聞記事(http:〃www.lib.kobe・u.acjplsinbunlindex.htm1)から拾 ってみると、強固な経営基盤を持った大阪鉄工所などの大手造船所が生き残って行く様相が見えてく る。 大正8〔1919〕年の時点では、造船業に関わって、新聞各紙は、一様に前年11月の休戦以来の不況、 また、造船所の使用人の削減などを報じているが、それは群小造船会社の淘汰に留まり、大型鋼船を 中心とする大規模造船所が強みを発揮するだろうと観測している(例えば「我が造船業の整理は一段 落」、『大阪朝日新聞』大正8〔1919〕年5月1□日、日興部分不明)。事実、逓信省の調査に基づいた 『中外商業新報』(大正8〔1919〕年7月21日)掲載「上期造船実績/進水六十九隻」という記事で は、大正8〔1919〕年上半期の実績が噸数において前年同期を上回ったことを報じている。以下、大 阪鉄工所の出て来る記事を中心に抜き出してみよう。「戦後の造船事業」(『大阪新報』大正8〔1919〕 年8月14日)は、「今本邦に於ける造船所としては三菱造船所、川崎造船所、石川島造船所、大阪鉄 工所等其の一流のものと算せられ代表造船所視され本邦に於ける有数の船舶は勿論今や海外殊に仏国 方面より頻々として註文到来するの傾向に在る」とし、「造船業の現状/註文復活の徴」(『時事新報』 大正8〔1919〕年8月27日)は、 休戦後一時我国船舶界の沈静に依り小造船所の閉鎖又は休業を為したるもの勘からざりしも基礎 19一 箪固なる大造船所にありては依然として事業を継続し相当の新造船を為しつ・ありしが最近斯界 の復活に依り大造船所は新造註文に、仕人船に益多忙の傾向あり .と造船業界の状況を総括し、大阪鉄工所においては、因島工場で竜骨男袴済が2隻・IL800総噸、竜 骨未据附が7隻・43,500総噸、備後工場で竜骨鋸目済が1隻τ4,500総噸、竜骨未据附が1隻・4,500 総噸あって活況を呈していると報じている。「造船界の活況/不良分子淘汰」と題する「中外商業新 報」の記事(大正8〔1919〕年9月18日)は、「実力ある造船所」が拡張策を採った・例として大阪 鉄工所の備後船渠買収(大正8〔1919〕年6年11日)を挙げている。また、大正8〔1919〕年の造船 界を回顧する「造船好況永続/好材料弗々出現」(「時事新報j大正8〔1919〕年12月17日)は、大正 8〔1919〕年春の不況を顧みつつも、.「「流造船所の如きは少くも来年上半期若くは年一杯の註文を 握り居るの盛況なり」と言い、「・両年中に大不況時代到来するが如き事はなかる可く或は相当永く 好況を持続するやも測られずと思はる」との観測で記事を結んでいる。 しかし、このような希望的観測は裏切られ、大正9〔1920〕年に人ると修繕船減少と入渠料ド落、 また、新造船発注減少と船価下落といった造船の不振の報道が相次ぐ。例えば、r大阪時事新報」(大 正9〔1920〕年7月16日)は「造船界愈行詰る/新規の註文船無し」という記事を掲げ、大正9〔1920〕 年4月以来の金融恐慌の影響が加わ?て、いよいよ造船業が逼迫してきた状況を報じている。ただし、 「中外商業新報」(大正9〔1920〕年8月13[)は、見出しには「造船所は閑散/海運不況影響」と 掲げながらも、丁大造船所は何れも明年上半期又は明年・一杯の注文を有し」ているとして、三菱・横 浜船渠の受注状況に具体的に触れ、次いで「浦賀、大阪鉄工所等も夫々相当の注文を握り居る上海軍 拡張に伴ふ艦船の建造の注文をも受け居れば当分操業を中止するが如き状態に陥る事無かる可し」と 消極的な言い方だが、大手造船所に関しては操業持続が可能だと観測している。 そういう観測は必ずしも当たらなかったようだ。大IE 9〔1920〕年の実績を振り返る「中外商業新 報』(大正9〔1920〕年12月28日)掲載「本年造船成績」は、大正9〔1920〕年6月までは毎月ほぼ50,000 総噸前後で推移していた1,000総噸以上の鋼船進水状況が、7月・8月が30,000総噸代で、9月以降 は20,000総噸代あるいはそれを割り、12月目おいては22,000総噸というr想を出している。すなわち、 大手造船所でさえ困難な状況が見えて来て、大正9〔1920〕年「前半期に於ては相当の成績を挙げ得 たるも後半期に至り事業甚だしく衰退し」、「造船界は月を逐うて事業不振に赴きつ・あり」としてい る。 大正10〔1921〕年にみればさ、らに逼卜する状況が伝えられる。大阪鉄工所因島工場を含む人員整理 の報道(「造船の九時間労働」、f大阪毎日新聞』大正10〔1921〕年2月8日)では、浦賀船渠が労働 時間を8時間から9時間に延長し、延長分の割増賃金を支給しないようにしたことを報じた上で、 其他鈴木系の鳥羽造船、播磨船渠、大阪鉄工所の因島、備後橋本汽船の苅藻造船工場等の大会社 が何れも五百名乃至一千五百名の職工大淘汰を行ひ事業の整理縮少に余念もない と記している (大阪鉄工所因島隠匿に関わる「職工大淘汰」とは、r戦前の因島労働運動史」本文30 頁に引用された大正9〔1920〕年12月6日・23日の計1,180名に上る誠首を指すものだろう)。そして、 「事業の縮小閉鎖職工の解雇は益甚だしからんとして居る」とする報道(「造船不況甚し」、「東京朝 日新聞』大正10〔1921〕年2月9日。同日の「大阪毎日新聞」にも類似の記事が「造船業益不振」の 標題で掲載)も登場する。大IE 10〔1921〕年1二半期を振り返る「上半期造船界」(r東京朝日新聞」大 20一 正10〔1921〕年8月8日)は、 海運界の不振に伴うて造船界も著るしく不況に陥り殊に本年に入りてより新規註文減少し約定書 のものにありても解約続出し造船所の如きも千九百十三年度の六工場より戦時中の五十七に激増 し更に本年七月末現在に於いては二十六に減少し船台数の如きも戦時中の百五十七個より半数の 八十七個となり之に要したる造船職工の如きも一時十万を算したるも今や四万二千に減じたるの みならず今後益造船所の縮小と共に職工の解雇は已むを得ざるもの・如し と書いている。 以上を総括すれば、大阪鉄工所が大正8〔1919〕年に備後船渠株式会社を買収・合併したのは、第 一世界大戦後終結の翌年以降も大阪鉄工所が好況を維持した結果であり、大規模で経営基盤の確固と した一流造船所として、競争の中を生き残ってきたと見てよいだろう。『戦前の因島労働運動史』は、 大正8〔1919〕年の大量解雇が未熟練労働者を対象にしたものであり、厳しい状況を迎えた大正9 〔1920〕年下半期からは熟練労働者にも戯首が及んだと、その質的相違を指摘しているが(30頁)、 その職工数で見る限り、大阪鉄工所は戦後不況を海軍艦艇・漁船の建造や修繕船で凌ぎ、先述したよ うに、大阪鉄工所因島工場・備後工場では、大正11〔1922〕年7月までは、大正9〔1920〕年と同程 度の職工を抱えていたと見られる。 造船不況の波を被りながらも、大手造船所の経営が相対的に安定していた状況については先に引い たように一般全国紙や経済紙の報道に見られるが、大阪鉄工所因島工場・備後工場に関しては地元紙 の報道でも凡その見当がつけられるだろう。 ここでは、井伏が因島に滞在した大正10〔1921〕年秋頃から大正11〔1922〕年春頃までの、『中国 新聞』(本社広島市)を覗いてみよう。『中国新聞』の大正10〔1921〕年10月頃の造船業に関わる報道 はワシントン軍縮条約(実際の調印は大正11〔1922〕年2月)の動向が中心で、やがて11月に入ると 呉海軍工廠の職工削減の報道が現われる(注3D。しかし、大阪鉄工所因島工場・備後工場の人員整理に 関わる報道は2件しか見当たらない。しかも、その記事は当面の解雇を否定する内容である。最初の 記事は、第9913号大正11〔1922〕年3月14日第3面掲載「因島工場の声明/遠き将来は兎も角も差当 り/職工を解雇せぬ方針」と題した、 御調郡土生町大阪鉄工所因島工場では備後工場と合して約三千の職工を使用して居るが軍縮其他 海運界不況の影響を受けて近く縮小の挙に出つるならんとの噂を流布するものあり工場側に於て は遠き将来はいざ知らず今差当り職工を解雇するやうなことは無いと断言し上半期間の仕事は既 に注文を貯へて居る模様である、 という職工解雇の「噂」を打ち消す内容のものであり、二つ目の記事は、それの続報ともいうべき第 ママ 9917号3月18日第3面掲載「因島分工場員/解雇停止歎願/に対する大阪/鉄工所の回答」と題する、 現在に於ては会社は当分解雇しない方針である、解雇手当の規定は目下攻究中であるが大阪の本 工場と共に近々満足する規定が新考されると信ずる若し事業経営の急変に依って制定前に解雇す るやうなことあれば決して職工諸君の不満足な処置は執らない 21 との宮冨工場課長の言を引いたものである。当面解雇しないと方針としながら、解雇手当規定を作る と言い、更にはその制定前に解雇があり得ることも否定していない。どのような事態を迎えようとも 言質を与えまいとする極めて無責任な言明である。 注31に引いたように、既に大正10〔1921〕年U月には近くの呉海軍工廠職工の整理・縮小が報道さ れている以上、事業主体や建造・修繕の船種に違いがあるとはいえ、同じ造船業の大阪鉄工所因島工 ママ 場・備後工場の職工に不安が生じないわけがない。内務省『大正十一年労働運動概況』も「軍備縮少 の問題一度新聞紙上に伝へらる・や直接之に関係ある造船界及軍需品製造の官民営工場等の職工は一 大動揺を見るに至れり」と伝えている(注32)。解雇の「噂」の流布や、「解雇停止歎願」という行動は、 そうした不安の証明にほかなるまい。海軍艦艇の建造減少はその分だけ造船業界が縮小し、シェア争 いの激化をもたらすことは容易に想像されるし、注29に述べたように、「解雇停止歎願」の僅か二箇 月後の大正11〔1922〕年5月末には労働争議が発生し、同年7月、因島・備後物工場併せて652名が 解雇されることなる。 とはいえ、この時点(事業整理をめぐる労働争議が起こったのは井伏が因島を去った後であった) では、「噂」は、責任者の言によって打ち消されたのである。 加えて、大阪鉄工所の職工数の減少が直ちに三庄町(村)・土生町(村)の人口を減少させていな いことにも注目しておきたい。大正8〔1919〕年の2,000人に近い解雇、翌大正9〔1920〕年の1,000 人目超える解雇について先述した。また、表1に示したように、大正8〔1919〕年末における因島所 在大阪鉄工所の職工総数は、大正7〔1918〕年末(この大正7年時点では大阪鉄工所因島工場と備後 船渠株式会社の職工数を合わせた数字だが)よりも2,270人減少し、同様に大正9〔1920〕年末にお いては前年末よりも2,250人が減少している。しかし、大正8〔1919〕年末の現住人口を前年の大正 7〔1918〕年末と比べると、土生町の現住人口は502人の減に留まり(入寄留人口で683人の減)、逆 に、三庄村の現住人口は264人の増(入寄留人口で304人の増)を見ている。同様に、大正9〔1920〕 年末の現住人口を前年の大正8〔1919〕年末と比較すると、土生町の現住人口は739人の増(入寄留 人口では567人の増)、三庄村の現住人口は143人の増(入寄留人口では36人の減)を見ている(早牛 表2・表3・表4・表5を参照)。土生町の現住人口(あるいは、その内の入寄留人口)の減少数が 解雇職工数よりも遙かに少ないことや、年次によっては却って増加していることは、職工の居住地が 土生町・三庄村以外(生名島・弓削島、あるいは、因島島内の他地域)にあった(注33)のが一つの要 因だろうし、加えて、人員整理に伴って職工の居住地を工場に近い土生町・三庄村に移転させた可能 性も想定されるが、差し当って本稿では取り上げる必要はないだろう。 ここでは、もっぱら三庄町(村)・土生町(村)の現住人ロについて取り上げて、それらと大阪鉄 工所の盛衰との関係を追っておこう。 三主町(村)・土生町(村)の現住人口推移に、比較のため「岬の風景」のもう一つのモデルとも 考えられる靹町のそれを加えて(なお、大正7〔1918〕年1月1日土生村が町制を敷き、続いて、大 正10〔1921〕年6月1日三庄村が町制を敷く)、もっぱら『広島県統計書』早年の数値に拠って作成 したのが次頁「表2 靹町・中庄町(村)・土生町(村)現住人口推移表」と本稿末尾に置いた「図 3 靹町・三庄町(村)・土生町(村)現住人口推移グラフ」(以後、図表は本稿末尾に掲載)である。 なお、表2においては、大正9〔1920〕年の第1回国勢調査と大正14〔1925〕年の第;2回の国勢調査 (調査は享年10月1日)の数値を加えた。図3の大正9〔1920〕年は『広島県統計書』の数値を用い、 大正14〔1925〕年のみ国勢調査の数値を示した。なお、数値を欠く年度についてはマーカーを示さず、 前後の数値をそのまま結んだ形式にしている。 22 井伏滞在中の大正10〔1921〕年と大正11〔1922〕年 を欠き、それらについては推測するしかない。その点 で問題を含んだものではあるが、『広島県統計書』の数 値範囲内でも経年変化のだいたいを把握することはで きるだろう。 明治20〔1887〕年頃には、三庄村が2,500入をやや下 回る規模で、土生村が2,000人規模の人口であった。し かし、明治30年代に差し掛かる頃から順次人口を増や した土生村はやがて三庄村と拮抗するようになり、明 治末年から大正期におけるその急激な人口増は三庄村 に倍する規模にまで至る。殊に、明治44年に急成長の 萌しを見せて、大正4〔1915〕岸以降に急激に伸長す る土生村の状況、および、大正3 〔1914〕年以降の三 庄村の人口急増ぶりが際立つ。(なお、売卜の入寄留人 口で見れば、両村ともに大正4〔1915〕年が劃期とな っている。)それと比べれば、1万人を前後する靹町は 概して穏やかな曲線を描いている。三庄村も大正2 〔1913〕年頃までは、靹町と相似た状況である。第一 次世界大戦開戦の大正3〔1914〕年に始まる三庄村の 人口急増は、単に造船所の職工数の増加に留まらず、 それに関連する移入増であったことはいうまでもない。 「表3 靹町・三庄町(村)・土生町(村)人口構成推 移表」は、広島県統計表から継続して取り出せる明治43 〔1910〕年から大正9〔1920〕年までの人口構成を一 表2 輌町・三庄町(村)・土生町(村)山住 人口推移表 明治18年 明治19 明治20年 明治21年 明治22年 明治23年 明治24 明治25年 明治26 明治27年 明治28年 明治29年 明治30 明治31年 明治32年 明治37年 明治38年 明治39年 明治40年 日治43年 明治44年 明治45 大正2年 大正3 大正4年 大正5 大正6年 大正7年 大正8年 大正9年 大正9年* 大正14年* 9,630 9,477 9,165 9,188 9,280 9,319 9,461 9,490 9,448 9,514 9,544 9,739 9,848 9,714 9,786 9,978 9,875 10,177 10,225 10,332 10,738 10,743 10,842 10,789 10,582 10,883 11,138 10,885 10,808 10,764 9,555 9,673 三品 土生 2,774 1,965 2,338 2,295 2,291 2,318 2,265 2,014 2,023 2,076 2,063 2438 2,474 2,456 2,491 2527 2,595 2,632 2,441 2,441 2,535 2,618 2,839 3,212 3240 3,165 3162 3,168 1977 2114 2,110 2,120 2,128 2,166 2,299 2352 2,313 2,398 2,751 2,991 3,116 3,103 3261 3,565 3,855 3,997 3410 4146 3,937 5,383 4,458 5,117 5,381 5,524 6,448 4,502 8,364 11,364 10,862 11,601 13,315 7,709 4250 6557 覧表とし、「図4 中庄町(村)・土生町(村)入寄留 人口推移グラフ」は、その内の入寄留人口だけをグラ フ化したものである。続く「表4 三州町(村)現住 大正9年*と大正皇4年*は『戦前期山勢調査報告集』大正14年4(府 県別(中国・四国・九州)〉 (クレス出版、1993年7月25日)に 拠る。その他は『広島県統計書』 (各年に月3田)の各年「町村 役場ノ位置及戸口ま 「郡市町村別ノ戸二二里程ユなどに拠る。な 人口構成表」・「表5 土生町(村)現住人口構成表」(「本 籍居住」は本籍人口から他出人口を除いた数値であり、 「本籍居住」に「入居留」を加えれば現住人Pとなる。 「入居留比率」は、現住人口に占める入居留人口の百 お、同統計書は、明治33年中36年および明治41隼、42年が欠け、 大正10年∼12年は町村別人ロを掲載していないので、掲出できな かった。明治43隼の『広島県統計書』が掲げる柄町の「現在人 員」は正0,竃32人であるが、 (本籍H,540人)一(他出1,572人}十 (入寄留364人}軍(現住10,332人)となるので、再計算した数値 を掲げた。 分比を示す)、それらをグラフ化した「図5 三庄町 (村)現住人口構成グラフ」・「図6 土生町(村)現住人口構成グラフ」から窺えるように、大正7 〔1918〕年以降、三庄町(村)の約4割、土生町の6割強が、町村外から流入した人口であった。井 伏が滞在した大正10〔192ユ〕年・大正11〔1922〕年の数値は欠けるが、大阪鉄工所因島工場・備後工 場の職工数に大正9〔1920〕年から大きな変化がなく、また、三庄町(村)・土生町(村)の人口変 動が職工数の減少に即座に対応するものではないどころか、却って現住人口の増加を来している様子 からすると、井伏滞在期間中の現住人口や、現住人口に含まれる入寄留人口にしても、大正9〔1920〕 年の規模と大きく変わらなかったと推定される。そして、地形図を根拠に述べてきたところがら理解 されるように、骨導町(村)においては、その多くが南部の小用・神田一帯および家老渡に居住して 23一 いたとしてよいだろう。なお、大正7〔1918〕年の三庄村の入寄留人口が前年の1,158人から1,902人 目744人も増えているのは、『ふるさと三庄』が大正7〔1918〕年8月と言う神田・家老渡の歓楽地域 の成立や、大正7〔1918〕年において備後船渠株式会社で最大の職工数を記録していることを反映し ていると見られよう。 以上のように、井伏が滞在した大正10〔1921〕年秋から大正11〔1922〕年春においては、戦後不況 の波を被って、因島工場・備後工場を併せた大阪鉄工所の職工数は最盛期の4割弱程度に落ち込んだ と見られ七里に軍縮の影響も懸念されていた。とはいえ、職工数は大正9〔1920〕年当時の水準を維 持する小康状態とも言うべき状況であって、三庄町の現住人口・入寄留人口の推移を辿ってみても、 好景気の余波が完全に去ったわけではない。懸念を抱えながらではあったが、小用・神田・家老渡と いった今庄町南部の歓楽:地域はそれなりに賑わっていたと見られる。 というのも、昭和3〔1928〕年修正測図段階においては、愕然とする程に現住人口が落ち込むので ある。昭和3〔1928〕年12月31日の現住人口は、三聖町4,087人、土生町6,937人、畑町10,222人であ った(昭和3年『広島県統計書』の「40 現住世帯人口及職業郡市町村別(本業者)」に拠る)。昭和 3〔1928〕年の現住人口を、大正9〔1920〕年に対する百分野で示せば、三庄町74%、土生町60%、 靹町95%となる。広島県壁体では大正9〔1920〕年の1,648,844人から昭和3〔1928〕年には1,685,025 人(百分比102%)へ増加しているのに対して、これら三町では軒並み減少している。現住人口の減 少が直ちに地形図の様相を変容させるものではないが、昭和3年修正測図に現わされた時点よりも、、 井伏滞在期間の方が三庄町の現住人口が多かったと推定されることは確認しておきたい。 また、三庄町(村)の人口は、大正3〔1914〕年・大正4〔1915〕年の頃から急激に伸びたもので あって、その歓楽地域も僅かな歴史しか持っていないことも強調しておきたい。狭隆な空間に形成さ れた俄仕立ての歓楽地域であればこそ、地形図で確認してきたようにそこから一歩外れれば、田園風 景が広がっていたのであった。 5、労働争議と労働災害 大阪鉄工所と三庄町(村)・土生町(村)との関係を追ってきたが、因島所在の大阪鉄工:所に関わ る労働争議・労働災害と、‘ 苺嘯フ回想記・随筆類との関係について触れておこう。 本稿第1節に引用したように、林芙美子の『続放浪記』には因島工場内の労働争議の様子が描かれ ていた。一方、因島をめぐる井伏の回想記・随筆類や、因島を舞台とした井伏の創作には、そうした 労働争議に関わる記述は一切欠けている。井伏作品全体を見渡しても労働争議を題材にしたのは「晩 春」(『文芸春秋』〈臨時増刊オール読物号〉昭和5〔1930〕年7月)程度であって、それも労働争議 自体を正面から題材にした作品ではない。因島を舞台にした創作や回想記・随筆類に労働争議が登場 しなかったのは、こうした左翼運動・労働争議に対する井伏の姿勢・関心もさることながら、因島在 島中、井伏の耳目を惹くような大規模争議が起こらなかったということが最大の理由であるようだ。 『広島県史』近代2通史VIの「表157 労働争議一覧(大正九∼十一年)」(447頁∼449頁)に掲げ られた大阪鉄工所関係の労働争議は計7件を数え、その内、井伏在島中の争議は、大正11〔1922〕年 1月17日目26日の〈大阪鉄工所因島工場の賃上げ・待遇改善要求争議〉(争議主体、大阪鉄工所因島 工場職工(2,356人)/参加人員2,356/原因・要求・その他、賃上げ・待遇改善要求(完徹))と、 同年同月29日目〈大阪鉄工所因島工場病院看護婦による風紀の改善要求・罷業争議〉(争議主体、大 阪鉄工所因島工場病院看護婦(15人)/参加人員15/原因・要求・その他、風紀の改善要求、罷業) 一24 の2件が記録されている。病院看護婦による争議については、『中国新聞』第9871号大正11〔1922) 年1月31日第3面に「看護婦の/同盟休業/因島病院で」という見出しの下に看護婦十余名が29日突 然同盟休業したことがゴシップふうに伝えられているのだが、『広島県史』が大正11〔1922〕年1月17 日から26日までの十日間に亘って2,356人の職工が参加したと伝える争議は、日立造船の社史はもち ろんのこと、『戦前の因島労働運動』や、大正11〔1922〕年を対象とする『日本労働年鑑』(大原社会 問題研究所、大正12〔1923〕年7月13日、覆刻版第4集/1923年版)にも見えず(ただし、その36頁 には、5月と10月の二度の大阪鉄工所備後工場の争議については掲出されている)、当時の『中国新 聞』にもその報道がない。島警部という要因が働いて新聞に報道されなかった可能性も否定はできな いのだが、『広島県史』の記録が誤っていなければ、罷業に至らず就業を続けながら交渉が行なわれ て妥結を見たということが想定し得る(注34)。大正11〔1922〕年5月以降は大正12〔1923〕年・大正13 〔1924〕年と引き続いて争議が起こっているし、『戦前の因島労働運動』はこれらの年次においては 争議に伴う同盟休校また官憲の介入・弾圧などがあったことを記録しているのだが、井伏滞在中また それ以前に、工場内外における大規模な示威行動や、争議に関わる活溌な活動が行なわれたことを示 す記録を見出せない。 また、附言しておけば、争議に発展する以前のこととして、仮に大量の解雇があったとしても、そ れが井伏の耳目に届かなかった可能性が高い。というのも、経営側や官憲は巧妙で、例えば大正8 〔1919〕年3月の解雇に触れた『日本労働年鑑』(大原社会問題研究所出版部、大正9〔1920〕年5 月28日。覆刻平戸1集/1920年版)は、解雇職工の〈不穏〉な動きを回避するために、かれらを因島 から早々に立ち去らせたと次のように書いている。 官憲は此等の職工の去る迄警戒を怠らず、他方会社側にては賃銀、手当、旅費等を支給し次第直 ちに所属汽船にて尾道、三原、糸崎に向けて解雇職工を送りつけ、暴動の危険を避けて居る。併 し職工側もコレ幸と家賃、下宿料及懸章を不払にて立退く者多いと云ふ (354頁〉 大正9〔1920〕年12月の解雇の際にも、会社側が逸早く解雇職工を因島から退居させた記事が翌年版 の同年鑑(大正10〔1921〕年7月28日、覆刻退嬰2集/1921年版、164頁)にある。先に大正10〔1921〕 年3月中旬に因島工場職工200名解雇の記録が該当年の同年鑑(大正11〔1922〕年7月18日、109頁。 覆刻版第3集/1922年版)に見えると記したが、この時も会社型は同様の処置:を採った可能性が高い と思われる。 このように労働争議に関する事実関係をあらためてみると、井伏が回想記・随筆類また小説作品で、 因島における労働争議に言及することがなかったのは、事実次元において、因島で労働争議を井伏が 目撃せず、そうした解雇に関わる伝聞も耳にしなかったことが最大の要因だったと見られる。 労働災害については、因島在島中の見聞に基づくとおぼしい短篇小説が一つだけある。造船所のペ ンキエが足場から転落した事故を書いた「生きたいといふ」(『近代生活』昭和5〔1930〕年1月)で ママ ある。「因ノ島」(『小説新潮』昭和45〔1970〕年5月)に、「船の帆柱からタンブルした怪我入が土井 医院へ一度だけ助けを求めに来た」(別巻1、105頁)とある。「生きたいといふ」は、その場所が明 示されてはいないが、「因ノ島」に記された事件に題材を得ている可能性が極めて高いだろう。 大阪毎日新聞社編『毎日年鑑』〈大正15年版〉(大阪毎日新聞社、大正14〔1925〕年9月20日)掲載 「工場災害職工負傷及死亡」(465頁)では、大正11〔1922〕年の1年間で229人(男220人、女9人) の職工が死亡し、31,085人(男26,803人、女4,282人)の職工が負傷したとされている。同じく「工 一25一 場災害職工負傷及死亡原因」(465頁)に拠れば、その内「高所より墜落」が原因で32人が死亡し、289 人が負傷している。同年鑑所載の工場労働者総数(450頁)に拠れば、大正12〔1923〕年末の職工数 は1,765,133人であり、対象年次が異なって乱暴な計算になるが、大正11〔1922〕年の「工場災害職 工負傷及死亡」の総数31,314人を大正12〔1923〕年末の職工数1,765,133人で除すれば1。774%という 極めて高い数値が出現する。因島所在大阪鉄工所の職工総数を大正9〔1920〕年の2,800人程度だと すれば、年間に50人弱、1箇月に2人強の負傷者あるいは死亡者が出ることになる。井伏因島滞在中 の『中国新聞』に大阪鉄工所関係の労働災害に関わる記事を見ることはできなかったが、同紙には呉 海軍工廠内で起こった労働災害が毎月数件は報じられている。 こうした現実的背景があって、「生きたいといふ」は書かれたようだ。僅か一作だがこの「生きた いといふ」の例を見れば、井伏の因島滞在がもう少し長引いて林芙美子と同じように労働争議を身近 に見る機会を得ていれば、それに言及した可能性も措定できなくもない。しかし、井伏はそうした機 会に接することなく、大規模な労働争議が起こった時点では既に因島を離れていたのである。 6、終わりに このように井伏滞在中の三庄町の地理的状況を再現してみれば、「難肋集」に芸者小太郎が現われ、 「岬の風景」に設定された「職業女」との「よくない外泊」が近所で可能な条件も実際に備わってい た、と言える。すなわち、井伏は現実の因島の地理と全く異なった虚構を構えて「難肋集」や「岬の 風景」を書いていたのではなかったのである。その点では、本稿冒頭に引いた『因島案内』が、島填 部ながら工業化の進んだ因島南部を取り立てて工業とともに商業の盛んなことを特筆し、備後工場再 開後に書かれた『広島県警察史』が、〈街〉とく村〉が共存する地理的環境こそ因島の特徴であると 強調していたことから、大きく外れるものではない。 大まかなものに過ぎないが、本稿第3節以降で素描したところがら浮かび上がるのは、造船工業と いう近代的産業にその盛衰を左右される因島や三庄町の姿であった。因島は決して歴史的過程から取 り残された、瀬戸内海に浮かぶ自然景観に恵まれた長閑な島ではなく、好不況の波を受けやすい造船 工場が所在することによって歴史的過程や社会的変遷の大きな潮流のただ中に置かれた島であった。 しかし、このような因島の固有の事情に、井伏は詳しく触れようとはしなかった。また、その固有 の事情がどのようにして生まれたのかということにも井伏は関心を払わないままに、もっぱら因島の 自然景観を描いてきた。そして、検証を省いて言えば、因島に暮らす人々も個別の表情を見せること はなく、その自然景観の一点景として描いてきたのであった。それは、造船所やその隆盛を背景にし た「にぎやかな港町」に連なる要素に触れることを忌避したということであって、僅かに「因島半歳 記」・「靹ノ津付近」の二作において「にぎやかな港町」の状況を描いたに過ぎない。しかも、この二 作でも地理的説明は実に曖昧であったし、歴史的過程や社会的変化の相において眺めようとする視点 には欠けていた。 歴史的過程や社会的変化の相において捉える視点に欠ける一すなわち、時間的変化の過程におい て捉えないという点では、因島の自然景観や因島の人々を見る目と相似形をなしていると見てよい。 機会を得て詳しく検証したいが、井伏の回想記・随筆類においても、井伏が因島に滞在した大正10 〔1921〕年から大正11〔1922〕年という特定の歴史的時間の中を因島に生きる人々の生活やその意識 を捉えようとする視線は認められないのである。そこに登場する因島の人々は、井伏の眼前に広がる 風景を形成する一点景・一要素として捉えられていたと言ってよい。これについても、結論だけを雷 一26一 えば、井伏の側から一方的に眺められる、そして、歴史性を持たない〈風景〉として、因島は存立し たと言えばよいであろうか。 本稿では、回想記・随筆類に対象を絞って来たが、昭和6〔1931〕年に入ると、「実写の小型フイ ルム」(『婦人サロン』昭和6〔1931〕年2月)、「隣りの簡単服」(『文学時代』昭和6〔1931〕年5月。 初出標題「隣りのワンピース」)、「三入の俳優」(血気春秋オール読物号』昭和6〔1931〕年10月) といった因島滞在中の体験に題材を得たと思われる短篇が相次いで書かれる。特に「隣りの簡単服」 や「三人の俳優」には、巡業にやって来た俳優が登場するなど、牧歌的農村風景には収まらない要素 を含んでいて、これまで指摘してきたような回想記・随筆類とは様相を異にする。これらの短編につ いては、『夜ふけと梅の花』(昭和5〔1930〕年4月)・『なつかしき現実』(昭和5〔1930〕年7月) を出した後に、文学的停滞を指摘されていた井伏の文学的課題と関連させて検証する必要があると思 われる。これについても、稿を改めて論じたい。 注1、井伏は「酒」(「文芸道』昭和3〔1928〕年1月)で初めて「七ヶ月ほど住んで」と因島滞在期間に触れ、 「完結しない月なみな生活」(「文芸通信』昭和9〔1934〕年1月)では具体的に「九月から翌年の四月まで 三ノ庄に」いたと記している。「七ヶ月ほど」・「七箇月間」・「七箇月ばかり」と書いているのは「島雑話」(r旅 とカメラ」昭和12〔1937〕年8月)までで、「郷土大概記」(「文学界』昭和15〔1940〕年11月∼昭和16〔1941〕 年1月目以降は、「九月から翌年三月まで」・「六箇月間あまりみた」と変わる。後に引く「因島半歳記」(『市 政』昭和33〔1958〕年8月)では「大正十年秋」から「翌年の三月末」まで滞在したとする。 注2、土井医院近くに建つ「千守道路記念碑」(碑文に拠れば、道路の起工は大正8〔1919〕年3月、竣工は大 正10〔1921〕年3月)には村会議員11名の一人として伊賀義憲の名前がある。また、『芸備日日新聞』第10031 号(大正6〔1917〕年5月27日)第7面の「御調郡通信」は、三庄村村会議員当選者12名の末尾に伊賀義憲 の名前を掲げる。 注3、例えば、安岡章太郎「井伏鱒二伝」(r井伏鱒二』〈現代日本文学館29>、文芸春秋、1967年11月1日、19頁 ∼20頁)、小沼丹「評伝的解説」(『現代日本の文学』21〈井伏鱒二集〉、学習研究社、1970年9月1日、434 頁)、相馬正一r井伏鱒二の軌跡』(津軽書房、1995年6月10日、67頁∼68頁)、松本武夫『井伏記田ー人 と文学一』〈日本の作家100人〉(勉誠出版、2003年8月30日、66頁)など。 注4、井伏「後記」(『オロシや船」〈新選名作叢書〉金星堂、昭和14〔1939〕年10月20日)。全集第7巻62ユ頁。 注5、松本賢編著『ふるさと三庄』(三曲老翁連合会、1984年6月12日)は、神道系の旧徳教会本部があって賑 わっていたと伝える(25頁)。井伏「因ノ島一瀬戸内海の旅一」(『信濃毎日新聞』昭和7〔1932〕年10 月23日∼24日)には「闊葉樹の疎林のなかを、細い坂路がたどたどしく丘のてっぺんまで続いてみる。てつ ぺんは僅ばかりの平地に切り拓かれ、竜舌蘭が茂ってみる」(全集第3巻581頁)とあり、また、井伏「瀬戸 内海にて」(r海』昭和10〔1935〕年1月)にも「頂上の館の跡と思はれる平坦な空地には、今は庵寺のやう ママ な家が建ってるる。冬咲きの桜や竜舌蘭が乱雑な配置に植えてある」(全集第5巻154頁)とあって、しかも 「庵寺みたいな家のおやぢ」が倭竃のことを説明したとある。現状とは違って、当時はそれなりに人の往来 があったと推定される。 注6、井伏「因ノ島」(r婦入之友』昭和30』 k1955〕年5月。全集第18巻108頁)。「造船所のある案外にぎやかな 港町もあるが、蜜柑畑のほかに、除虫菊の畑、ウイキョウの畑などに仕立ててある」という行文もある。そ ういう「にぎやかな港町」と「田舎」との両要素を持つと認める井伏が、どちらに焦点を合わせようとした のかということが、ここでの問題である。 注7、大正9年の国勢調査の数値は、r戦前期国勢調査報告集』大正14年4〈府県編(中国・四国・九州)〉(ク レス出版、1993年7月25日)に拠り、土生町以下の面積は『広島県統計書」に拠った。なお、各回のr広島 県統計書」は、広島県地域振興部統計管理室(http:〃db1.pre£hiroshimajp1FolderO11Fra田eO1.htm)の、 「広島県統計書」(http:〃db1.prefhiroshimajp1Folder111Folder11011Frame 1101.htm)で公開されている 一27一 ものに拠る。 注8、例えば、清水英子『林芙美子・ゆきゆきて「放浪記」』(1998年6月15日、新人物往来社、113頁)も「こ の港」を「土生港」と解している。なお、同書114頁∼117頁に当時の大阪鉄工所因島工場についての記述が ある。 注9、明治44〔1911〕年7月、工場閉鎖に追い込まれていた因島船渠株式会社を大阪鉄工所が買収。明治44年〔1911〕 年11月から因島分工場として操業準備。明治45〔1912〕年3月、操業再開。大正3〔1914〕年4月1日、因 島工場と改称……という経過を辿っている。日附は、文献によってに相違するところがあるが、『日立造船 株式会社七十五年史』(日立造船株式会社、1956年4月1日、本文48頁∼49頁、年表7頁)と「日立造船百 年史』(日立造船株式会社、1985年3月31日、736頁)に拠った。 注10、石田造船建設株式会社のホームページ(http:〃www。ishida・zosen,cojp)には、「大正12〔1923〕年5月 石田造船として石田五左衛門が木造船事業を三農町で個人創業」とある(2006年5月26日確認)。 マ マ 注11、前掲注5rふるさと三庄」は、「明治二十七年(一八四九)一月、竹原市忠海町の「西宗元次郎」氏がこ れ(三庄の塩田一前田注)を買収し、大正四年(一九一五)十一月まで製塩業を営んだ。しかし後半にい たりしだいに経営困難になって遂に同年廃業した。廃業後用地および施設は他に転用することなく放置した ため、荒廃地になった」(258頁)としている。寺岡昭雄ほか編「目で見る尾道・三原・因島の100年」(郷土 出版社、1997年3月12日)は、大正10年頃とする三庄塩田跡の写真を掲げている(40頁)。この塩田に関連 して、井伏「私の愛好する島や港」(「セルパン」昭和6〔1931〕年8月)には、「宮地理髪屋のおやぢは、 裏の塩焼き小屋まで路の片側にカンナを植ゑた」(全集第3巻193頁)と出て来る。 注12、「広島県史」近代2通史W(広島県、1981年3月31日、146頁∼147頁)が明治34〔1901〕年6月創設、明 治36〔1903〕年11月営業開始と伝える備後船渠株式会社がその前身である』前掲注9の「日立造船株式会社 七十五年史」(127頁∼128頁)及び『日立造船百年史』(99頁)に拠れば、株式の過半を買収した大阪鉄工所 が大正6〔1917〕年から備後船渠株式会社の経営に乗り出し、大正8〔1919〕年6月11日に吸収合併、同年 7月1日から大阪鉄工所備後工場と称した。大正11〔1922〕年1月には三庄工場と改称する。井伏滞在時は、 大阪鉄工所に所属する「備後工場」あるいは「三口工場」の名称であった。なお、その後、同工場は大正15 〔正926〕年5月一時閉鎖され、昭和13〔1938〕年4月に再開されている(『日立造船百年史』736頁∼737頁)。 注13、本村(「本村」の呼称については注14を参照)に船が着かなかったというのではない。本稿13頁に掲載し た1/50,000地形図「土生」(明治31年測図、昭和3年修正測図、昭和7年1月30日発行)にも、本村には停 船所の地図記号が見える。後年(昭和10〔1935〕年)の記録になるが、土生町長崎桟橋を出た尾道行きの東 廻り定期船は、三庄町内では、 三庄家老匠港(サンパンで岸辺と繋ぎ、遊郭があった集落) 三巴小用港(サンパン、海水浴が楽しめる折古の白砂の海岸が近い) 三庄浜上港(サンパン、現在の三庄三区の海岸) ママ 組置本村港(サンパン、現在の干守と通りの境あたり。干潮時は遠浅海岸) に寄港したとあり(r因島汽船社史』因島汽船株式会社、1997年11月13日、240頁)、昭和16〔1941〕年の回 漕店名簿には、三庄町内の寄港先に対応して、家老渡1店、小用1店、本村2店の回漕店が登載されている はしけ (同書、213頁)。なお、サンパンとは本船と港を結ぶ艀のことを言う。 注14、役場庁舎の新築は明治25〔1892〕年で、それ以前の戸長役場は歴代戸長の私宅に置かれたという(前掲注 5rふるさと三庄』55頁)。なお、村役場の所在地である字政所1741番地というのは、現在の因島三五郵便 局の150mほど北のブロックに相当する。「本村」の呼称は三庄町の現状を記載する際にもrふるさと三庄」 (26頁等)で使用され、「因島市都市計画図」NQ13(2001年10月修正)等には「本村桟橋」の呼称も見える。 郵便局については前掲注5rふるさと三庄』115頁∼116頁を参照。 注15、『地図記号のうつのかわり一地形図図式・記号の変遷一』(日本地図センター、1994年3月31日)104 頁。 注16、備後船渠の請願によって集配機能を持たない三庄船渠前郵便局(現・因島三庄南郵便局)が開設されたの 一28 は大正6〔1917〕年のことである(前掲注5『ふるさと三庄』117頁∼118頁。『広島県統計書』〈大正7年版〉 の「土地16広島通信局直轄区域及広島県管内2、3等郵便局」には、3等局として登載されている。なお、 個人・町村の請願によって開設が認められるのは大正4〔1915〕年11月から)。また、『ふるさと三庄』は、 大正4〔1915〕年前後から大正10〔1921〕年頃まで、請願巡査派出所が神田にあったという古老の話を伝え ている(同書120頁)。この請願巡査派出所について、広島県警察部編『広島県警察史』(警察協会広島支部、 昭和16〔1941〕年2月11日)は、大正8〔1919〕年4月1日の尾道警察署因島分署再設置に関わる記事中に 「三庄村備後工場に請願巡査派出所を置いて居た」とする(1077頁)。なお、現在、因島警察署三庄北警察 官駐在所は、三庄小学校前バス停留所附近にあるが(沖田2170番地の1)、それ以前は、かつての村役場か ら50m程東(政所)にあって、道路を挟んで三豊湾に面していた。『ふるさと三庄』(119頁∼120頁)に拠れ ば、巡査駐在所は最初江口(千守附近)に置かれ、次いで小用・平木と移り、昭和15〔1940〕年に政所に増 設されたという。 注17、前掲注5『ふるさと三連』72頁。 注18、涌田佑「「岬の風景」を語る三ノ庄の土井冨久江氏」(涌田佑『図説・井伏鱒二 その人と作品の全貌 一』有峰書店新社、1985年5月30日、67頁)。なお、この涌田筆録には、 当時、父は1この三ノ庄の医院の外に、三ノ庄から一・五キロほど南にあたる小用というこれも港町 じんでん に分院をもっておりました。当時、小用からその西方にかけての神田.あたりの海岸にかけて、大阪鉄 工の因島分工場として大規模の造船所がありまして、世界大戦の造船ブームで大量の工員宿舎が立ち 並び、医院の経営も、小用の分院の方がはるかに多忙という状態でした。父は看護婦と共に分院で仕 事をする時間の方が多く、三ノ庄の家には、おこまと申しました私の母と、私たち家族が住んでいま し牽ので、井伏さんはそんなところへお出になったのです。 (66頁) という証言も録されている。なお、この筆録は、それぞれ表現に多少の相違はあるが、涌田佑『私注・井伏 鱒二』(明治書院、1981年1月25日)には「「岬の風景」を語る土井冨美子氏」(3頁∼7頁)として掲載さ れ、r井伏鱒二事典」(明治書院、2000年12月8日)の「因の島時代」(43頁∼44頁)の項にも「土井冨久江 談話」として再録されている。 注19、清水凡平「路傍の詩」第17回第51章(http:www.bes.nejplfbrumlbingoohra旋oboutalold10171robouta/rob outa.htm)、2006年12月31日確認。 注20、これに関連して、「せとうちタイムズ」(http:〃0845.boojpltimeslarchives/001341.shtml。2007年3月17 日確認。2005年8月27日号掲載の記事「備後クラブ(三庄町)高齢者福祉施設に再生 12月上旬オープン予 定」がウェブ上で公開されたもの)には、「時代とともに姿をかえる三型町・神田(じんでん)」として、「備 後クラブの歴史は、三戸町神田(じんでん〉の移り変わりの歴史でもある。備後クラブは大正初期に大阪鉄 工所因島三庄分工場が賑わったころに会社の接待などを目的に建てられた高級割烹料亭で、その周囲には、 工場長宅や課長宅など赤壁の洋館があったという。坂の下は花街で、夜でも昼間のように明るく賑わってい た。芸妓置屋、三味線の先生、日本髪結い、玉突き、下駄屋、写真館、銭湯など各種の店があり、因島随一 の繁華街であった。太平洋戦争末期には、この町並みは空襲に見舞われ犠牲者がでた。/戦後の備後クラブ は日立造船に受け継がれた。やがて日立造船健康保険組合管理下で、従業員の保養所、結婚式、忘新年会な どで利用された。昭和60年、菅垣綾子医師に所有権が移行し、民宿の観音山荘に変わった。」とある。その 名称は、この記事で見る限り、備後クラブ(大阪鉄工所・日立造船)→観音山荘(民宿)→びんご倶楽部(高 齢者福祉施設)と変遷したようであるが、池政旅館との関係は不明である。 注21、家老渡遊廓開設の時期については、参照した文献で区々である。忍甲一編著:『近代広島・尾道遊廓志稿」 (日本火災資料出版、2000年10月2日)は、その第7巻「《尾道駆梅院》考」に引用した「大正九年五月二 十一日県令第三十八号」を解説する中で、文献によって開設時期の記録が由仁することを次のように指摘し ている(165頁)。 〈尾道市史〉(『尾道市史』中巻、尾道市役所、昭和15〔1940〕年5月30日一前田注)は、大正八〔1919〕 年被免許の口慰町家老頭廓について「遊廓開設と同時に当院の管轄に編入」としているが、被免許三 一29 年前の、五〔1916〕年三月二十四日県令第十五号は尾道診療院の所轄として、家老渡の活字を掲げて いる。/本令第三十八号(大正九年五月二十一日県令第三十八号一前田注)は、第十五号規則改正 として、「第二陣中、尾道診療院、検診所の位置欄糸崎大字東野、ノ下二r三庄村字家老渡』ノ七字ヲ ママ 加ウ」、としている。 なお、『尾道市史』の「県立尾道診療院」に関する記述中には、r近代広島・尾道遊廓志稿』が引くように、 「翌八年(大正8年を指す一前田注)御調郡三庄町字家老渡を貸座敷免許地に指定、遊廓開設と同日に当 院の管轄に編入」とあり、続いて管轄区域を列挙する中に「御調郡三庄町(大正八年八月新設編入)」とあ る(中巻541頁。「大正八年八月」段階では三寸は「三庄町」ではなく「三庄村」とあるべきところだが、後 年の呼称を用いたか)。『近代広島・尾道遊廓志稿』の「半世紀後の十三僚廓訪跡」(296頁)では、家老渡遊 廓の免許を大正8〔1919〕年4月としている。 他方、前掲注5『ふるさと三庄』は大正7〔1918〕年8月の設立とし(35頁)、中島忠由・岡本馨編『写 真集明治大正昭和因島』〈ふるさとの想い出242>(図書刊行会、ユ982年6月30日)は「34 因島浪花遊廓」 とした写真の解説で「大正の中期、海運界の好況時、遊廓を三庄町家老渡の姫小島のあたりに誘致して「因 島浪花遊廓」と云った。大正四・五年頃が最も盛況であった。設置されたのは大正三年であった」と記して いる(22頁)。 また、『全国遊廓案内』(日本遊覧社、昭和5〔193G〕年7月。『近代庶民生活誌』第14巻く色街・遊廓H> 三一書房、1993年6月30日所収)には「三訂町浪花遊廓」として掲出されていて、「遊廓は大正八年に新設 されたものである。貸座敷は目下六軒あって娼妓は五十人居る。」(三一書房版、133頁)とある。 『広島県警察統計書』〈大正8年〉(広島県警察部、大正10〔1921〕年6月5日)掲載の「第58 貸座敷娼 妓及遊客」(72頁∼73頁)では、因島分署所轄の免許地として「御調郡三庄村」の地名を掲げ「貸座敷数12、 娼妓107」といった数字を挙げている。「貸座敷」と「娼妓」に関する比年(大正7〔1918〕年)末現在の欄 には記載事項のないことを示す「一」の記号を掲げているので、この『広島県警察統計書』を見る限り、大 正8〔1919〕年に家老渡が免許地として認められたことは間違いないだろう。ただし、遊廓の施設建設や関 係官庁への折衝等開業以前の準備に時日を要する。『ふるさと三障』に言う大正7〔1918〕年8月頃に、免 許交付・開業前の準備が既に始まっていたことは想定される。 『広島県警察統計書』〈大正8年〉、同く大正12年〉(大正14〔1925〕年3月5日、79頁)、『広島県統計書』 〈大正14年〉(81頁)、同〈大正15年〉(75頁)、『近代広島・尾道遊廓志稿』の「大正11;昭和4年〈県下19遊 廓地の貸座敷・娼妓・遊客数〉較べ」(286頁)、同「大正10年〈県下18遊廓の年間登楼人員・遊興費一覧〉」 (286頁)から、井伏滞在中の大正10〔1921〕年・ll〔1922〕年を中心に前後の数値を拾い出せば、 貸座敷数 登楼人員(遊客数) 娼妓数 107 消費金額 大正8〔1920〕年* 12 12,256 大正10〔1921〕年 6 28,288 大正11〔1922〕年 7 44 大正11〔1922〕年† 7 47 大正12〔1923〕年* 8 大正13〔1924〕年† 9 大正14〔1925〕年* 7 8,354 48 33,551円00銭0厘 大正15〔1926〕年* 7 7,682 48 31,271円28銭0厘 111,820円00銭0厘 104,920円00銭0厘 49 7,119 25,259円05銭0厘 50 といったことになる(*は『広島県統計書』・『広島県警察統計書』の該当年、†は同書掲載の前年数値に拠 る。それ以外は『近代広島・尾道遊廓志稿』が引く数値)。 当時の『中国新聞』第9802号〈大正1G〔1921〕年11月23日、第3面〉の「因島から」には、 ▲家老渡の浪花遊廓は造船界好況時代に素破らしい勢ひで生れたものだが昨今の凋落は曝しいもので 閉店相亜ぎ今は三分の一に減じて僅かに五戸十数名の娼妓を包容して居るのみとなり徒らに今昔の感 を深からしめて居る。▲現在の位置が折花千旦の情調を味ふに余りに配所的であることが不振を為す 一30一 の一因でもあらうと云ふので土生町の西端に移転説が起って居るがそれでも三川町方面には大分反対 があるらしい とある。 注22、大正9〔1920〕年6月創設とする三庄劇場株式会社(営業種類・劇場経営、所在地・御調郡三庄町1489番 地、資本金又ハ出資額19,000円)が、『広島県統計書』第3編附録1昭和2年会社通覧に見出せるのだが、 これと常盤座との関係は未詳である。 なお、前掲注5『ふるさと三庄』が常盤座と共に名前を挙げた帝国座の焼失について、『芸備日日薪聞』 第9993号(大正6〔1917〕年4月18日、第3面)が「因島帝国座焼く」の見出しで報道している。それに拠 れば、初興行の市川左団次公演期間中(4月13日から8日間の予定)の4月17日午前1時前出火、全焼し、 二階建(186坪)の建物は26,500円の損害だった。なお、同記事は「大阪府下豊能郡池田町当時大阪鉄工所 因島工場社員小山忠太郎の所有名義となり居るも実際は鉄工所の経営となりみたるものなり」と説明してい る。注21に引いた『写真集明治大正昭和因島』に「198 帝国座のこけら落し」として掲げられた写真(97 頁)には、「座主大竹屋」の幟が立ち並び、その説明文にも「座主大竹屋宮地兵三郎」とある。また、本稿 に引用した『ふるさと三庄』36頁にも「土生の大竹屋こと宮地兵三郎氏」とあるので、地元有力者が表に立 っていたと見るべきだろう。なお、『写真集明治大正昭和因島』の解説には帝国座の焼失を「大正七年四月」 とするが、大正6年の誤りだと思われる。 また、r中国新聞』第8522号(大正7〔1918〕年5月20日、第3面)の「因島鉄工所の格闘」は、帝国座 の芝居見物帰りに、大阪鉄工所因島工場内の人夫たちが起こした乱闘事件を報じているので、この乱闘事件 の起こった大正7〔1918〕年5月18日には既に帝国座は再建されていたと見られる。 注23、木内信蔵『都市地理学原理』(古今書院、1982年5月20日第2版、29頁。〔1979年1月20日初版〕)は、舘 稔・上田正夫の研究成果を引いて、昭和5〔1930〕年の国勢調査においては、人口1万人を以て都市的集落 と村落的集落とに二分できるとしている。本稿23頁掲載「表2 碁勢・三庄町(村)・土生町(村)現住人 口推移表」に示すように、舘・上田が言う昭和5〔1930〕年を10年余遡る大正7〔1918〕年の段階で、土生 町の現住人口は既に1万人を超え、「都市的集落」という規模を満たしている。三庄町の人口は大正9〔1920〕 年の国勢調査で6,000人程度であるが、市街化した状況が窺える南部地域に限定すれば、「都市的集落」の要 素を持っていたと思われる。 村上雅康「造船工業地域の研究一相生・因島両地区の場合 一』(大明堂、1973年3月29日)の「表皿・6 因島地区の地 項目別 就業人口 区別就業構成の変化」(84頁)から、土生町・三庄村の大正9〔1920〕 年の就業別人口を引けば右表のようである。土生町では工業人口 が過半を占め第一次産業人口は11%と極めて低い。三庄村でも似 たような状況である。 職工はもちろん、サービス業に直接従事してい左のは、村落地 工業入口 その他 域の一角に俄に成長してきた造船所を目指して他地域から移動して来た人々が殆どであり、それに、入渠す る修繕船の船員たちが加わρて、その流動性は極めて高いと言える。 だが、三値町南部は土生町には及ばず、人口・面積、あるいは、交通・情報・物資の結節性において、そ の要素を欠くか、あるいは、規模が小さい。三庄岡r南部の都市集落は、土生町を補完する面が強く、相対的 に独立性は低いと見てよいだろう。例えば、『因島案内』に掲載された哩土生仁心編禽市街図」と「因島三 庄村備後船渠工場及附近市街平面図」(本稿に引用)との二枚の地図を較べると、前者では医療施設4、呉 服店2、洋服店1、洋物店1、劇場1、映画館1など計20箇所の建物・施設が記号を用いて地図上に注記さ れているのに対して、後者では二つの建物に文字注記が施されているだけである。 注24、法政大学大原社会問題研究所(http:〃ohara.mt.tama.hosei.acjp)大原デジタルアーカイブス (http:〃ohara.mt.tama.hoseLacjlarcli轟dex.htm1)で公開されている協調会資料、「争議 各会社争議1− 36」の内、情報課「大正一一、七/大阪鉄工所因島工場職工解雇ノ件」に収録(Ree1055、00437餉)。 一31一 注25、大正7〔1918〕年10月は「戦時船舶管理令による従業員届出数(大正7年10月10日現在)」(前掲注9「日 立造船百年史」、86頁)、大正11〔1922〕年1月と5月は「表157 労働争議一覧(大正九∼十一年〉」(前掲 注12r広島県史」近代2通史VI、447頁∼449頁)、大正11〔1922〕年7月は前掲注24の資料〔Reel O55、00435 餉〕に拠る。なお、『広島県史』近代2通史VI掲載「表29 造船所の職工数の推移」(149頁)が備後船渠株 式会社の大正6〔1917〕年・大正7〔1918〕年の職工数を共に954とし、同8年を計上していないのは、何 かの錯誤の結果と思われる。また、前掲注23『造船工業地域の研究』が大阪鉄工所因島工場の従業者数とし て43頁・82頁に掲げた数字は、1911〔明治44〕年・121人、1914〔大正3〕年・1,071人、1916〔大正5〕年 ・3,947人、1917〔大正6〕年・6,647人、1918〔大正7〕年・6,769人となっていて、本稿17頁「表1 因 島工場・備後工場職工数」とはズレが生じている。 注26、前掲注gr日立造船百年史』86頁。なお、注12に記したように、大阪鉄工所が備後船渠株式会社を吸収合 併するのは大正8〔1919〕年6年11日のことであって、この「戦時船舶管理令による従業員届出数(大正7 年10月10日現在)」は大阪鉄工所因島工場の数値である。 注27、前掲注9『願立造船百年史』(72頁∼73頁)に拠り、完工年月は『戦前の因島労働運動史』(日立造船労働 組合因島支部、1965年10月1日)掲載「年譜」(9頁)で補った。 注28、前掲注27「戦前の因島労働運動吏』9頁∼10頁。なお、「戦前の因島労働運動史』が拠ったと思われる、r日 本労働年鑑』(大原社会問題研究所出版部、大正9〔1920〕年5月28日、354頁。覆刻版第1集/1920年版) は3月8日の解雇数を1,334名としている。本稿の職工解雇数はこれに拠った。 注29、大正11〔1922〕年5月、大量解雇に備えて解雇手当を要求したところに端を発した労働争議が因島工場と 備後工場(大正11年当時の呼称は「三庄工場」)とで起こる。経営側は「事業整理」の名目で組合関係者約600 人の解雇を目論み、結局、大正11〔1922〕年7月、因島工場で618人、備後工場(三士工場)で34人の職工 が解雇される(前掲注24の情報課「大正一一、七/大阪鉄工所因島工場職工解雇ノ件」。解雇職工数は、同 文書末尾掲載の数字に拠る〔Reel O55、00456駒∼00457餉〕)。 注30、前掲注27「戦前の因島労働運動史』28頁。その不況対策については、前掲注gr日立造船百年史』96頁㌘ 97頁に記述がある。 注31、例えば、『中国新聞」第9798号(大正10〔1921〕年11月19日)第6面「海軍将校が千人も余る/更に問題 は造船界滑万の職工」では軍縮の影響で海軍将校が1,000人も余り、さらに造船業に従事する職工が問題だ と報じ、第9802号(大正10〔1921〕年11月23日)第3面「年末迄に/工廠職工/一千名減少」では、呉海軍 工廠においては、11月10日目19日の間に300人が退廠し、徴兵の関係で年末までに380人退廠予定者がある上 に、新たな就職者がいないので、年末までに1,000人の職工が減ると伝えている。 注32、同書「労働団体の概況」28頁。引用は、覆刻版「大正十一年労働運動概況』(明治文献、1971年6月30日) に拠る。 注33、前掲注23『造船工業地域の研究』81頁∼106頁。 注34、内務省「大正十一年労働運動概況』(注32の覆刻版に拠る)の「労働争議の概況」掲載「同盟罷業及怠業 二半ラサル争議件数人員月別調」(156頁∼157頁綴込)には、大正11年1月の広島県の項に、争議件数3件、 全員2,510人の内参加数2,510人という数字が掲げられているので、広島県史に言う大阪鉄工所因島工場の大 正11〔1922〕年1月17日∼26日の争議は、この数字に含まれているかとも思われる。 附記:本稿の作成に当たっては、同僚で因島出身の吉本剛典氏に特段の御配慮と御教示を賜った。また、因島で 勤務されたことのある小竹光夫氏にも御教示を賜った。現地に赴いた際には、城山、赤崎、荒神社、五柱神社で 偶々お会いした方々から貴重なお話を伺うことができた。御教示を十分に生かし切れていない点や誤解した点が あるとすれば、全て私の責任である。また、兵庫教育大学附属図書館の架蔵資料はもちろんだが、尾道市立因島 図書館、尾道市立中央図書館、広島県立図書館、広島県立文書館、広島市立中央図書館、兵庫県立図書館の架蔵 資料を利用し、同僚の遠沈猛氏からも資料を拝借した。記して感謝申し上げる。 一32一 雛 ∴黛汐講譲 夢 饗鷺砂壁膨 ぢ 噂”‘1.蒔』.’も囑畜摂.=3 b ‘電。 ↓6、 1へ・.\・.・亨・・弓1マ,際‘ 魍 悪灘 プ.旨 義二瀕澤灘 6 ノへ コ 壇.こ;1,6 、批・.環 黙認灘羅 .1 D〆 ゆロコさやゆ 署啄 、 タ’』 ....「.59乱.∵・≒ 町.縣i馨 職錯神郵’.㌧酵 / 鴨 ’..6 ・42 ド ご / へ 麹冒・ ;:.. ド コ リロ 京ノ小1 .§:! .,. S、働v , . へ械鯉 1・・)漁 国土地理院1/25,000地形図「備覆土生」(昭和53年改測/平成18年更新。平成18年6月1日発行第1刷) 一33一 国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省〔整理番号CCG−81−4/撮 影年度昭和56年/撮影コースC4C/写 真番号15〕 国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省〔整理番号CCG−74−6/撮 影年度昭和49年/撮影コースC21/写 真番号32〕 一34 図3輌町・三夏町(村)・土生町(村)現住人口推移グラフ 人 12,じOO n,ooじ 10.Doo 9、Oゆ0 B.000 7,000 6,000 5,000 ら。σo 3,00D 2,000 1,000 o 量{些量抵鷺鴛彗琶量世駐{監隔壁鷺壁せ量慧匙鷺盤磐量嚢世収量篶世匙鴛慧澄鷺盤壁抵軒合駐 量諜禦譲諜曇曇漂譲譲謬暴謬処士譲毒漂譲暴譲羅諜壽壽諜譲嚢異堤襲袈累翼翼嚢月震襲婁 表3 靭町・三由町(村)・土生町(村)人口構砿唯移表 年 明治43 明治44 明治菊 大正2年 大正3年 大正4年 現住 10,332 11,540 11,689 11,677 10738 10743 10,842 10,789 10,582 10,883 11,770. 大正6年 11138 大正7年 10885 大正8年 10808 12280 .大正5年 入寄留 3斑 12,243 12,089 12,140 12,367 12,365 10764 12355 他出 現住 1,572 3240 3165 3377 3299 3,248 241 312 1,192 336 308 439 467 530 510 590 564 1,264 3,162 3,168 1,762 3,410 3462 1,946 3,937 3,581 入寄留 303 376 425 464 470 941 1,724 4,250 3,670 1,101 511 607 522 585 521 1,672 4458 3,736 1158 1902 2206 2170 436 587 702 732 L246 1992 2,147 5,117 5,381 2155 5524 3,311 3802 3,877 4086 他出 440 510 現住 3,261 3,217 3,565 3305 3,855 3,401 3,997 3,473 3,639 3,544 3,736 4,146 5,383 6,557 8,364 11,364 10,862 11601 3901 入寄留 他出 123 360 550 79 100 1,045 868 96 521 361. 2,019 180 3,045 224 278 216 4741 4,106 7,474 4312 4478 6791 7358 241 235 *上記の「本籍」は当該の町村に本籍を置く者の数である。従って、 「現住」;「本籍」一「他出」+「入居留」となる。 *明治43年の『広島県統計書』が掲げる靹町の「現在人員」は10,132人であるが、 (本籍11,540人)一(他出1,572人)+ ひ居留364人)エ(現住10,332人)となるので、再計算した数値を掲げた。. .図4 三田町(.村)・土生町(村)入寄留人ロ推移グラフ 人 8.000 7.000 零◎一土生町{村}入寄留人ロ 5.000 p嶺一三庄町{村}入寄留人ロ 5.ooo 4,000 3.OOO 2.000 1,000 ノ’ o 壁 鷺 慧 醤 曇 遜 曇 圏 5 罫 鷺 彗 壁 圏 田 一35一 量 鷺 固 琶 監 嚢 表5 土生町(村)親住人ロ構成推移表 表4 三庄町(村)現住人口構成推移衰 入寄留 303 376 425 464 470 941 年 明治43年 明治44年 明治45年 大正2年 大正3年 大正4年 大正5年 大正6年 大正7年 大正8年 大正9 本籍居住 入寄留比率 2,887 9.35% 2789 12.05% 2,737 2,704 14.65% 13.44% 2940 13.78% 23.90% 25.91% 2,996 3,149 3,300 3,215 3,175 1,101 1,158 1,902 2,206 25.98% 3354 2170 入寄留 年 123 明治43年 明治44年 明治45年 大正2年 大正3年 大正4年 大正5年 大正6年 本籍居住 入寄留比率 1,045 868 3278 3,045 4,741 3,364 3,512 3,623 3,890 2019 37.17% 41.00% 大jE 7年 7474 大正8年 6,791 3928% 正9 3.77% 3,138 3,205 3,305 2,952 360 550 10.10% 14.27% 26.14% 20.94% 37.51% 46.44% 56.68% 65.77% 4071 4243 7358 62.52% 6343% 図5 三一町(村)琉住人ロ構成グラフ L2,000人 10,000 ロ入嵜留 。 8、000 6,000 曾 4.000 2,000 0 毯 導 鎗 雪 鷺 慧 鷺 慧 世 還 羅 蓮 田 田 H 田 円 H 量 雪 図6 土生町《村)現住人口構成グラフ 人 12,000人 1D,ゆDO ロ入嵜留 怐@ 住 8,000 6,0DO 4,000 2,000 o 慧 雪 塁 嚢 蓮 蓮 蓮 異 雪 導 36 塁 塁 世 墨 盤 翼 田 H 翼 田