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シンガポール華人商業会議所の とその背景

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シンガポール華人商業会議所の とその背景
シンガポール華人商業会議所の
設立(1906 年)とその背景
移民による出身国での安全確保と出身国との関係強化
篠崎香織
はじめに
今日の世界では、出身国を離れて公権力を後ろ盾に自らの身の安全を確保する際、出身
国の政府に保護を求めるか、居留国の国民となりその国の政府に保護を求めるかという二
つの方法が一般的である。これらはいずれも一つの権威にのみ庇護を求めるという点で、
同じ発想のものである。庇護を受ける者はその庇護を与えてくれる公権力に忠誠を誓うも
のとされる。庇護は「権利」と、忠誠は「義務」と同列に置くこともできるだろう。
移民について論じる際、このような発想になじむように移民を理解するか、あるいはこ
の発想を相対化する契機を移民に見出すかのいずれかであるように思われる。前者の場
合、移民は出身国と居留国のいずれを忠誠の対象として選んだのかが二者択一の問題とし
て論じられる。後者の場合、国境を越えて自由に往来する存在として移民をとらえ、国家
権力や閉じられた排他的な国民国家システムから個が自由になれる可能性を見出そうとす
1)
る 。
2)
二者択一のアイデンティティの問題は、華人 研究においても主要テーマの一つであっ
た。特に東南アジアの華人に関しては、中国国民である「華僑」から居留国の国民として
の「華人」への意識の変遷が重視されてきた。この背景には、
「原住民」を自称する人々
から「外国人」であるとして攻撃されたり排除されたりしないよう、居留国の国民として
生きる意志を表明すべく、
「華僑」ではなく「華人」と名乗るに至った東南アジアの華人
に対する深い理解がある。東南アジアの華人がいかに自らを居留国の国家建設や国民統合
3)
の中に位置付けてきたかが論じられ、中国の華人とは異なる歴史的経験が示されてきた 。
だがこうした視点は脱植民地期・国民国家形成期のみに限定され、植民地期の東南アジ
アの華人は常に中国社会の延長線上に論じられてきた。東南アジアの「華人」が「華僑」
であったことは前提で、20 世紀初頭以降中国から波及してきた「中国ナショナリズム」が
東南アジアの華人に華人意識を覚醒させ、その意識は中国との関係において維持されたと
説明される。だが東南アジアにおける華人の歴史的経験の固有性は、脱植民地期・国民国
4)
家形成期のみに限定されず、それ以前に関しても論じられてしかるべきだろう 。また国籍
において属地主義をとるマラヤと血統主義をとる中国の間に華人の二重国籍が存在したこ
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とや(田中、2002: 41–43)、海峡植民地で行政サービスを受ける際にイギリス国籍の有無は
5)
重要でなく、権利を享受しうる人が市民や国民に限定されない状況があった ことも考慮
に入れる必要がある。
6)
移民を通して国民国家を相対化する試みは華人研究でも行われてきた 。長男に居留国
籍を、次男に米国籍を取得させ、家族の構成員が異なる国籍を所有することでリスクを
分散することを、華人が国家を頼りとしない事例とすることもある(游、1990: 154)。だが
これは、保護を求める公権力を出身国の政府に限定しないという点で自由ではあるが、国
家は自国の国民を保護するという認識を前提とした生存戦略にほかならず、国民国家シス
テムを超越するものではない。個と権力の関係を論じる際、公権力の強制力からいかに自
由になるかという視点だけでなく、公権力の強制力をいかに運営していくべきかという視
点も重要となろう。公権力の強制力の運営をめぐる過去の試みを振り返り、今日を理解す
る一端とすることも意味があると思われる。
本論は以上のような問題意識を踏まえ、1906 年 4 月に設立されたシンガポール華人商
業会議所(Singapore Chinese Chamber of Commerce⿉新嘉坡中華商務総会)の設立背景を論じる。
先行研究では、シンガポールの華人は同会議所の下で地縁・血縁の枠を超えた汎華人の統
合を初めて実現したとされる。同会議所の設立において、清朝政府の使節チャン・ピー
7)
シー(Chang Pi Shi/Cheong Fatt Zte⿉張弼士) のイニシアティブが見出せることから、シンガ
ポールの華人は中国の公権力による上からの働きかけがあって初めて華人意識に覚醒した
と理解されてきた。中国の公権力との関係は、海外で安全を確保する上でも必要とされ、
シンガポールの華人は中国に忠誠を強める一方で、居留地の政治に無関心であり続けたと
される。マラヤのほかの地域でも華人商業会議所が設立されるに伴い、同様の状況が進展
したと言われている。今日のマレーシアでは、国民が資源の公的分配を受ける際、華人
など非「原住民」の権利が「原住民」を自称する人々の権利の前に制限されることがある。
その一因を、華人は居留地の政治に無関心であったため、脱植民地期および国民国家形成
期にマラヤのあり方が決定されていく際、その対応に遅れをとり、自らに不利な状況が展
8)
開していくのを阻止し得なかったと説明することも多い 。
これに対して本論は、シンガポール華人商業会議所が清朝の意思ではなく、それとは別
個の意思を持つ二つのアクターによって設立されたことを示し、シンガポールの華人を中
国の影響によって説明する見方に再考を迫る。まず、チャンは清朝政府の使節として華人
商業会議所設立という清朝政府の意思を実現したという理解を批判的に検討する。そもそ
もチャンは正規の官僚ではなく、経済力と東南アジア華人社会での影響力を評価され、臨
時に役職を付与されていた実業家であった。チャンは中国での事業拡大のために清朝政府
から便宜と庇護を得ようとし、清朝政府から期待された役割、すなわち東南アジアの華人
資本の動員を引き受けた。その目的のためにチャンは自ら資金を捻出し、方策を考え、奔
走した。その一方策が、商業会議所を通じて中国各地の有力商人のネットワークと、公権
力である商部とのパイプをシンガポールの華人に提供することであった。以上について確
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認すべく、チャンの経歴を辿る。
次にシンガポールの華人にとって、中国の商業会議所との私的なネットワークと商部の
権威と関係を確立することがいかなる意味を持っていたのかを探る。その背景には、中国
における公権力の強制力の運営に対するシンガポール華人の強い不満が存在していたこと
を示す。シンガポールの華人が中国とのつながりで解消しようとしたのは、公権力の強制
力不足のために中国で生じうる問題と、中国に持ち越されてしまった問題であり、シンガ
ポールで生じる問題そのものではなかったことを明らかにする。
9)
10)
以上について『光緒朝東華䣘』、『清光緒朝實䣘』、『৏報』、『檳城新報』 、海峡植民地
の『破産法令年次報告』などの資料に依拠して論じていく。
Ⅰ チャン・ピーシー⿉東南アジアでの富の蓄積と中国進出
1.Ʒȿɻȴɥʀɳ▗ު⿉1905 ౫ 12 ሰ
シンガポールの華人商業会議所は、1905 年 12 月に商部の時楚卿と共にシンガポールを
訪問したチャンの主導で設立されたと言われている。この時チャンは、海外商務視察官
(考察外埠商務大臣)と福建・広東農工鉱業・鉄道事業監督員(督辦閩廣農工路礦事宜)とい
う役職に任命されていた。シンガポール滞在中は海峡植民地総督や華人護衛官を訪問し、
その許可を得て港湾施設や学校や牢獄などを視察したほか、華人商人や銀行を訪問した
り、その訪問を受けたりした(৏報、1905 年 12 月 13 日; 檳城新報、1905 年 12 月 19 日)。
12 月 14 日に同済医院(Tong Chai Hospital)で盛大な宴会が開かれ、そこでチャンが行った
演説がシンガポールの華人に商業会議所を設立する契機を提供したと言われている。チャ
ンは「商業会議所を設立すれば中国各地の商業会議所との提携が可能となり、一致団結し
て事に当たることができる」(৏報、1905 年 12 月 18 日)と述べ、また「シンガポールの商業
において最も重要なのは、方言の違いに関わらず一体となることである。それに必要なの
は商業会議所の設立である」(৏報、1905 年 12 月 16 日)と述べ、商業会議所設立の費用と
して 3000 元を寄付した(৏報、1905 年 12 月 27 日)。この演説からわずか 4 日後の 12 月 18
日に、商業会議所設立のための会議(後述)が開かれたことを考えると、チャンの訪問が
商業会議所の設立にある種の契機を提供したのは間違いないだろう。
だが、商業会議所設立という清朝政府の意思をチャンが実現したという見方は再考を要
する。朝廷がチャンに与えた任務のうち、資料で確認しうるのは在外華人の資本動員だけ
で、商業会議所設立に関する記述はない。商業会議所設立は以下で見るように、むしろチ
ャンの意志であった。
2.Ʒኇ‫ٷ‬ȪɀȪǶǽૡǽ⋧᳒
チャンは 1841 年に広東省潮州府大埔に生まれた。客家系である(檳榔嶼客属公会四十周年
40
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記念刊、1979: 737)
。中国で教育を受けた後、18 歳の時にバタビアに移住した。華人米商人
の下で店員として働き、その娘と結婚し、義父の助けを得て 19 歳の時に自らの事業を興
した。そこで食料品を扱っているうちにオランダ陸海軍への食糧供給を請け負うことにな
11)
り、次第に植民地政府の信頼を得てアヘン、タバコ、酒精の専売 も請け負うようになり、
西ジャワの市場をほぼ独占するに至った。また当時、プランテーション開発や土地開発も
盛んで、オランダ植民地政府やこれらの事業に参入するオランダ系企業は、開発に必要
な労働力を中国に期待した。そのような中で、チャンは華人労働者を供給・管理する事業
も請け負うこととなった(Godley, 1981: 10–11)。25 歳の時にユー・ホップ社(Yoo Hop Company[Lee and Chow, 1997: 10]⿉Sjarikat Yu Huo Tidak Terhad[Godley, 1981: 11]⿉裕和無限公司[檳
榔嶼客属公会四十周年記念刊、1979: 737])を立ち上げ、コメやココナツのプランテーション
を経営した。
1875 年にオランダ軍がスマトラ征圧を開始すると、チャンもスマトラに移り、アヘン
等の専売権を獲得した。同年、バタビアのカピタン・チナと提携し、ペナンに交易会社
(Li Wang Kongsi⿉笠旺公司)を設立した。1880 年にはデリ(今日のメダン)にも同社の拠点を
置き(Wright and Cartwright, 1908: 777–778)、彼の甥であるチョン・アーフィー(Tjong A Fie/
Tiong Yiauw Hian⿉張耀軒、または Chang Hang Nan⿉張鴻南)12) とともに、ココナツやゴム、茶の
プランテーション経営を手がけたほか、デリ銀行を設立した。チャンはオランダ軍の対ア
チェ侵攻作戦の際にもオランダ陸海軍への食糧供給を請け負い、自身もアチェに進出し、
アヘン専売を請け負ったほか、海運会社(Kwang Hock Kongsi)や、1886 年に蒸気船運航会
社(Ban Yoo Hin⿉萬裕興)を設立し、アチェ一帯の交易を支配した(Lee and Chow, 1997: 10)。
1895 年までにチャンの蒸気船航路はデリ、ペナン、ペラを結び、マラッカ海峡を覆うま
でに成長した。
1895–97 年には、ペナンとシンガポールを拠点にアヘン専売を請け負っていたシンジ
ケートに、ペナンの提携者の一人として参加した(Trocki, 1990: 192–197)。1898 年にはペナ
ンのチア・チュンセン(Cheah Choon Seng⿉謝春生)およびクアラ・ルンプールのロク・ヨ
ウ(Loke Yew⿉陸祐)と共にパハンのベントンにトン・ヒン採掘社(Tong Hin Mining Company)
を設立したほか、スランゴールの錫鉱業にも参入した (Lee and Chow, 1997: 10)。この頃、
1893 年 3 月 – 1894 年 7 月に駐ペナン清朝副領事を、1894 年 7 月 – 1897 年に駐シンガポール
清朝総領事をそれぞれ務めた。
以上の経歴から分かるように、チャンはオランダ植民地政府から請け負った様々な事業
を基盤に、事業を発展させていった。チャンはこの経験から、政府と密接な関係を維持し、
様々な便宜を得て事業を請け負うことが事業発展への最も有効な近道だと認識したのであ
ろう。チャンが 1916 年に世を去った時、オランダ東インド政府とイギリス植民地政府は
半旗を掲げ、追悼の意を表したという(Godley, 1981: 188)。このエピソードから、両植民
地政府のチャンに対する認識の大きさをうかがい知ることができよう。
シンガポール華人商業会議所の設立(1906 年)とその背景
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3.Ʒ˛࡛⢳լ
チャンは東南アジアで蓄積した富を資本に、1895 年頃から中国に進出し始めた。マラ
13)
ヤの華人には中国を無限の可能性をもつ広大な市場ととらえる者も多く 、チャンも「中
国は広大で物産や資源が豊富で、外国人の垂涎の的である」(東華䣘、1904)と認識してい
た。
チャンが中国進出の足がかりとしたのは、李鴻章の片腕として数社の官立企業の役職
14)
を兼任していた大企業家の盛宣懐 との提携であった。チャンは盛宣懐の誘致を受けて、
1895 年 9 月に烟台にワイン製造会社(Chang Yu Pioneer Wine Company/張祐醸酒公司)を設立
し、15 年間のワイン専売権と 3 年間の免税を認められた(Godley, 1981: 85)。1896 年に盛宣
懐が鐵路總公司の理事長に就任すると、チャンは広州−漢口鉄道建設計画の最高責任者に
任命され、広州に事務所を開いた。1898 年夏にはこの計画のための資金調達を命じられ
てマラヤに赴き、同年末には同社の株を販売する支店をシンガポールに設置した。1897
年には盛宣懐が上海に設立した大清銀行の最高責任者に就任した(莊、1989: 272)。
チャンは鉄道敷設・運営のほかに、工業や鉱業、農業など様々な分野において中国全
土での事業展開を視野に入れていた。そのために彼はさらに上の権威との関係を必要と
した。1903 年初め頃、チャンは清朝の鉄道・鉱業局に付設学校を設立する資金として 20
万両を寄付した。これが朝廷の賞賛を得て、チャンは 1903 年 6 月初めに西太后と光緒帝
15)
16)
への謁見の機会を得たうえ、三品京堂候補 と侍郎 の称号を付与された(實䣘、1903; ৏報、
1903 年 6 月 30 日)。だがこれらはいずれも実権を伴わない名誉称号であった。
チャンは商部の上奏により、1904 年 10 月 21 日に西太后と光緒帝に謁見する機会を再度
得た。チャンはこの時、中国の商業を振興させるには豊かな資本を持ち、経営に秀でてい
る海外の華人商人を招致することが不可欠だとし、在外華人商人を多数輩出している福建
と広東から商業を振興させるべきと説いた。そのために、商業都市から名声も人望もある
誠実な人材を選び、海外商務視察官と福建・広東農工鉱業・鉄道事業監督員に任命し、華
人商人を保護する任務を与え、各都市を訪問させるべきだと陳情した(東華䣘、1904)。そ
の結果、チャンは自らが提案したこの二つの実権を伴うポストに任命された。
しかしこれは「3 年後に商部が調査し、効果をあげていればそのまま継続し、南から北
に徐々に拡大する。効果がなければ、商部はこの臨時ポストを廃止する」(東華䣘、1904)
という条件付きであった。つまりチャンの中国での事業発展の前途は自身の業績にかかっ
ており、在外華人の資本動員は至上課題であった。だがその課題の達成は容易ではなかっ
た。当時のシンガポールの華人は、中国投資には非常に消極的だった。シンガポールの華
人は、中国の官僚は投資家の利益を保障しえないため、中国投資は損失と同義だとし、広
州−漢口鉄道への投資を拒否した(ST, 17 February 1898)。そもそもシンガポールの華人は
中国を、財産や命さえ失いかねない危険な場所と見ていた。そのような場所への投資が躊
躇されるのは、自然なことであった。
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Ⅱ 「視中国為畏途(中国は険しくて恐ろしい道)」
1.Ʒై࡛‫‮‬ȡ⡥ǗȚ˛࡛ǽᣞᗇ
清朝は雍正年間(1678–1735 年)および乾隆年間(1711–95 年)に海禁条例を発布し、海外
への渡航を禁止した。この条例は嘉慶・道光年間(1796–1850 年)には有名無実となったが、
条例自体は廃止されなかった。地方官の中にはこれを口実とし、帰国者に対して十分な保
護を与えないばかりか、ゆすりを働く者も現れた(莊、1989: 259–260)。1842–60 年の厦門
では、イギリス領事からも清朝の地方官からも十分な保護を得られなかったイギリス領か
らの帰国者が、自衛組織(小刀会)を結成する動きもあったが、地方官の徹底した弾圧に
遭い、反乱を起こしたのち鎮圧された(村上、2000)。
同治年間(1862–74 年)以降、在外華人の富に注目し、華人商人を誘致して国内産業を振
興すべしとの議論が清朝政府内に登場し(莊、1989: 259–260)、在外華人の招致促進のため、
1894 年 1 月に海禁条例が撤廃された(৏報、1894 年 4 月 26 日)。駐シンガポール清朝総領事
17)
は同年、帰国者に対して「保護証(護照)」 の発給を開始した。
しかし状況はあまり改善されなかった。入国時に役人から脱税や禁止物品があると言い
がかりをつけられ罰せられる帰国者が続出した。地方の役人に金をせびられ、それに応じ
なければ、墓地を荒らされ、偽の借用書を根拠に先祖の借金返済を迫られ、虚偽の罪で訴
えられ、殺人の罪をなすりつけられた(檳城新報、1895 年 12 月 24 日)。あるペナンの華人は
親戚を訪ねて 1893 年に中国に帰国した際、悪徳名士と地方役人に濡れ衣を着せられ投獄
された。彼の家族や友達は彼の無実を訴え釈放を求めたが、1895 年に至るまで未解決の
ままであった。シンガポールの華人はこれを知ると、駐シンガポール清朝総領事を訪ね、
事件の処理を迅速に行わず、悪人と結託して悪事を働く中国の地方役人に対する不満を訴
え、事件の解決を求めた(檳城新報、1895 年 8 月 29 日)。
この時、駐シンガポール清朝総領事を務めていたのはチャン・ピーシーその人であっ
た。チャンは総領事館を訪れた華人に応対する中で、中国の治安維持のあり方に対して彼
らが強い不信感を持ち、帰国を恐れていることを認識した。また事件の解決を巡りチャン
18)
が直接やり取りした汀漳龍道の道員 は迅速に行動したが、道員の命令を村長まで貫徹す
ることができず、問題解決が円滑に進まなかった。チャンはこの経験から、中国では上か
ら下に向かって権力を有効に行使できないことを強く実感した。
1896 年に御史19) の陳璧の上奏に基づき、帰国者に対する詐欺やゆすりを禁止する詔勅
が公布された(檳城新報、1896 年 3 月 17 日)。だがこれもあまり効果がなかったようである。
1899 年においてもシンガポールの福建人商人は帰国するたびに詐欺やゆすりなどあらゆ
る悪事に遭い、悪習は依然として変らず、特に漳州や泉州一帯の状況が悪いことが報告さ
れている(檳城新報、1899 年 5 月 25 日)。
シンガポール華人商業会議所の設立(1906 年)とその背景
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2.Ʒ‫⫨ڧ‬Єަୋ
このような中で 1899 年 5 月に、帰国者を保護するための最初の公的な機関である厦門
保商局が設立された。保商局は保護証の発行や荷物の運搬を行うほか、帰国者が被害に
遭った場合、その調査を行うとした。また道員に対して、地方官がこれまでの悪弊を追及
し、帰国者保護を徹底するよう命じることを要請した(৏報、1899 年 6 月 12 日)。福建省以
外の沿海各省にも保商局の設立を促す詔勅が公布され(東華䣘、1899)、同年 9 月末までに
汕頭で(৏報、1899 年 9 月 29 日)、1900 年 2 月に広東で(檳城新報、1900 年 4 月 2 日; 東華䣘、
1900)、保商局がそれぞれ設立された。
シンガポールの華人は厦門保商局の設立を一大善政として評価した。だが、帰国者保護
をめぐる問題は官の能力不足に由来するため、地方官が監督する保商局では同じ問題を繰
り返すだけだと見ていた。シンガポールでは、保商局の設立を命じた総督の真意や命を受
けた地方官の取り組みを疑い(৏報、1899 年 6 月 7 日)、保商局の設立は形式だけではと訝
しがり、総領事に直接問い合わせようとする人もいた(৏報、1899 年 6 月 10 日)。保商局員
の大半が役人で、民間人は 1、2 人ほどしかいないことを指摘して批判し(古梅鈍根生、
1899a)、官語が話せず、地方官に対する礼儀に不慣れで、誰が悪人で誰が善人か状況を把
握していない帰国者が頼れるのは、日ごろから気心知れている在地の商人だとし、保商局
の管理・運営を在地の商人に任せるべきだという主張もなされた(古梅鈍根生、1899b)。
シンガポールの華人が最も身近に接する清朝の官である、駐シンガポール清朝総領事の
権威も疑問視された。シンガポールの総領事館で保護証の発行を受けたある商人が、厦門
保商局で保護証を提示したところ、その保護証では心もとないので厦門の有力商人に保証
書を頼み、それを保護証と換えるべきだと言われた。これに対し「朝廷が南洋に派遣した
総領事の保護証は、厦門の商人の保証書に及ばないのか」という問いかけがなされた(古
梅鈍根生、1899a)。
同年 11 月頃には、厦門保商局の財政難が伝えられ始めた(檳城新報、1899 年 11 月 3 日)。
従来、駐厦門アメリカ領事はルソン島に向かう渡航者から 7 圓を徴収し、そのうち 2 圓半
を厦門保商局に支払っていた。これが厦門保商局の主な財源だったのだが、この徴収金は
全てアメリカ領事に納入されることになった。保商局の財政は逼迫し、その廃止もささや
かれ始めた(檳城新報、1899 年 12 月 27 日)。だが最終的に、出港地を問わず全ての帰国者か
ら 1 ドル(洋一元)ずつ徴収し、それを運営費に充てることで、保商局は維持されること
となった(৏報、1902 年 3 月 13 日)。これに対して厦門に戻る帰国者は 1902 年 12 月に駐シ
20)
ンガポール清朝総領事に陳情書 を提出し、不満を訴えた。帰国者は依然として頻繁に犯
罪に巻き込まれており、帰国者を保護しえない有名無実の機関が帰国者から金銭を徴収
するのは納得がいかないとした。また帰国者はこの陳情の中で、中国で被害にあった場
合、黙って怒りをこらえるか、被害調査を依頼して賄賂や多額の費用を要求されるなど
余計な面倒を招くかのどちらかで、生きていくよりどころがないと嘆いた(৏報、1902 年
44
アジア研究 Vol. 50, No. 4, October 2004
12 月 11 日)
。
帰国に不安を抱き、問題解決をどこにも持ち込めない状況に諦めを覚え、中国への帰国
より南洋に留まることに安定を見出す華人も少なくなかったであろう。実際、
「異国で築
いた事業や財を子孫に伝えることのみを考え、もう故郷の地に足を踏み入れようと思わな
い。中国への帰国は恐ろしい道である。これは官が匪賊を捕え、民心を安定しえないこと
に由来する」とし、華人の心は日に日に中国から遠ざかりつつあるとの声もあった(漁古、
1902)21)。
3.Ʒަ⤴ǺȗȚై࡛‫‮‬Є⚘ǽ▿Ȏ
1903 年 9 月 14 日(光緒二十九年七月二十三日)に商部が開設されると、商部は朝廷に対し
て帰国者保護に関して様々な上奏を行い、朝廷からの詔勅や諭旨の発布という形で各方面
に命令を発してもらった。保商局は弊害が多いとして廃止を求め(৏報、1904 年 1 月 22 日;
檳城新報、1904 年 1 月 26 日; 東華䣘、1903)
、それに代わって商部が各省に「商務局」を開設し、
人員を選んで派遣し、帰国者を保護することが認められた。1903 年 11 月から 12 月にかけ
て、朝廷は商部の上奏に基づき詔勅や諭旨を出し、福建・浙江総督をはじめ各省の長に帰
国者保護の規約作成と帰国者保護の徹底を命じた(৏報、1904 年 1 月 23 日; 檳城新報、1904
年 1 月 27 日; 東華䣘、1903)。
だが、1905 年 5 – 6 月頃の商部の報告によると、保商局の改編や、帰国者保護の規約作
成は順調には行かなかったようだ。詔勅の発布から「1 年余り経つにもかかわらず、広東・
広西総督(両広総督)が保商局の規約の写しを送ってきたのみで、ほかの省からは何の連
絡もない」との報告がなされた(東華䣘、1905)。このように 1905 年に至っても、清朝の中
央・地方政府など官による帰国者保護は効を奏していなかった。
この頃シンガポールでは、駐シンガポール清朝総領事に対する不満が存在した。当時の
総領事である鳳儀は、華人商人と何年も連絡を取らず、官僚風を吹かせ、トラブルの解決
を求めても聞こえないふりをして取り合わず、部下の外でのもめごとを放任し、保護証の
領収料を倍にして余分なお金を部下と山分けしていると批判された。「全ての悪行が露見
しており、シンガポールに住む華人はみな不満に思っている」との不平が聞かれた(檳城新
報、1905 年 3 月 25 日)。
Ⅲ 帰国者保護に関するチャンの持論とその実践
1.Ʒǃ12 ǚቷǽ๟╀ሤDŽ
チャンは以上のような状況の中で、在外華人の資本を動員して中国で事業を発展させる
には、帰国者やその家族および財産の安全を確保するための治安維持制度や、問題を持ち
込んで処理する紛争調停機関や調停者を中国に確立することが必要だと考えた。その構想
シンガポール華人商業会議所の設立(1906 年)とその背景
45
22)
は 1903 年 6 月末 – 7 月末に「12 か条の意見書」 として朝廷に提出された。この中でチャ
ンがしばしば東南アジアの事例を参考としているのも興味深い。
チャンがまず問題にしたのは、官と民の隔たりであった。チャンは、自らを尊大視し民
に会おうとしない役人の態度こそが帰国者を保護し得ぬ原因であり、在外の富裕な商人か
らの資本流入を妨げ、ひいては中国の発展を停滞させていると説いた(益智録、1905 年 12 月
29 日)。チャンは、帰国した商人は担当部署で登録し、問題が起きたらいつでも訴えを提
出し、官の保護を得ることができるとした。その際、追加手数料などを要求してはならず、
取調べの際は裁判所で跪く必要はなく、地方官は礼儀をもって帰国者に接するべしとした
(益智録、1905 年 12 月 23 日)。
チャンはこのような制度が備わっている例として、蘭領東インドやマラヤを例にあげ
た。彼は「オランダにはカピタンやルーティナントという役職があり、イギリスには治安
判事という役職があり、それぞれ我々華人に応対している」とし、中国においても同様の
役割を担う人物をおくべきだとした。そのために、
「資本を集めて商業を行う商人に、名
誉称号(虚銜頂戴、官職の権限を伴わない位階のみの称号)を授けて名誉を与え、商業訴訟の
陪審員としうるようにする(益智報、1905 年 12 月 23 日)」ことを提案した。
チャンのこの提案では、中国で商業を行う在外華人も陪審員たりえた。清朝政府は
1870 年代末より、中国各地での災害に義捐金を出したり、政府に寄付を行ったり、中国
の国内産業に巨額の投資をしたりする在外華人に積極的に名誉称号を与え始めた。清朝政
府は財源を確保する一手段として 1890 年代から名誉称号の販売を一般化し、『৏報』など
に各称号の価格リストを掲載した。金銭を介して名誉称号を得た在外華人は少なくなく、
マラヤでは 1877 年から 1912 年の間に 291 人の富裕な商人が名誉称号を付与された(Yen,
1970)
。
チャンはまた、商業にまつわる犯罪や問題を未然に防ぐため、「商務部」を設置し、地
方政府が管轄する既存の制度とは別個に治安維持制度を「商務部」の下に設置することを
提案した。
「商務部」は各省に商業知識のある人物を「商務大臣」として派遣し、その下
に「商務取調官」をおいて道員以上の者をこれに任じるとした(益智録、1905 年 12 月 28 日)。
さらにその下に「商務同知」を置き、各省の警察事務を担当する同知および通判の候補を
これに任じて府庁州県の商業活動を監視させ、一番下のレベルに各地域の巡察官から選ん
だ「商務巡察官」を置くとした(益智録、1905 年 12 月 29 日)。だがこの提案に対して政府か
らは、すでに商部もあり、商務取調官などの官吏をこれ以上設ける必要はないという回答
がなされた。チャンはこれに対し、
「商務取調官などの各官がいなければ、大臣に責任を
課すことができない」とし、
「商務は天下の大局であり、どうして費用を惜しむことがで
きようか」と述べ、商人自身が経費を出し合い、治安維持制度を確立・維持することすら
主張した。社会安全の維持費として海外の税制を紹介し、税が安全を保障しうるため、海
外では税の支払いに誰も不平を言わないと論じた(益智録、1905 年 12 月 29 日)。
農業や鉱業の発展に関してもチャンは法律や規則を重視し、以下のように論じた。南
46
アジア研究 Vol. 50, No. 4, October 2004
洋では規則が全て定められているため華人は喜んで開墾を引き受ける。荒れ果てた南洋
の島々が現在繁栄を極めているのは、外国人が華人の力を借りて開墾したからである。一
方、中国には規約がなく、開墾したくても引き受けられない。土地の所有者が不在の場合、
皆こぞって開墾しようとし、争いが絶えない。土地の所有者がほかに開墾者を募る場合、
所有者は土地の値段を吊り上げてしまう。そこで以下の方法を提案する。所有者がいる場
合、地方官が土地の契約書と実物が符合する事を確認し、所有者不在の場合、商務大臣か
商務取調官が土地を計測した上でそれを登録し、それぞれ期限を設けて開墾する。もし期
限内に開墾を開始できなければほかに開墾者を募り、命令に逆らった場合は処罰する(益
智録、1905 年 12 月 7 日)
。
2.ƷЄ⚘☟ǽી➍
チャンは 1904 年 10 月半ばに上述の二つのポストに任命され、官吏としての権限が与え
られると、以上の議論を実践に移していった。まず商部を通じて広州に「福建・広東農工
路鉱総公司」を設立することを上奏し、それは 1904 年 12 月頃許可された。富裕商人を公
司に招き、商業に関して意見交換をさせて事業を行い、必要なら商部に法律の制定を訊ね
ることもできるとした(檳城新報、1905 年 1 月 4 日; ৏報、1905 年 1 月 5 日)。また、帰国者が
何らかの被害を蒙った場合、いつでも公司を訪ね、名指しで加害者を訴える事ができると
し、いかなる人に対しても厳密に取調べを行い、その訴えが事実であった場合、地方官に
引渡し、法に従って厳重にこれを処するとした(৏報、1905 年 3 月 2 日)。
「総公司」の設立後程なくして、1905 年 1 月、チャンは商部の規約を援用して「総公司」
23)
内に「接待所」 を設けた。「接待所」は日曜日を除いて毎日午前 10 時から 12 時、午後 2
時から 4 時まで面会を受付け、直訴・嘆願書を受理した。礼儀にとらわれず、形式を重視
せず、所員は誠意を持って対応すべしと定められた(৏報、1905 年 3 月 2 日)。
ほぼ同じころ、チャンは在外華人商人に保護証を与えることを論じた。官と商の隔た
りを避け、コストを節約するため、保護証は領事ではなく在外の有力商人によって発給
されるべきだとした。各都市の商人や指導者が保護証を保管し、これを商人に発給し、
帰国時にこれを証明書とし、地方官に保護を求めるべしとした(檳城新報、1905 年 3 月 21
日; ৏報、1905 年 3 月 28 日)。
商部が上奏した「商会簡明商程」が 1904 年 1 月 11 日(光緒二十九年十一月二十四日)に朝
24)
廷に認可されて以降、中国の主な都市に商業会議所が設立され、短期間に発展した 。商
業会議所の設立・運営に関する規約は商部が定め、商業会議所は商部と直接的なパイプを
持っていたが、各商業会議所の設立・運営それ自体は役人の指示・監督を受けず、各地
25)
の商人がそれを担っていた 。チャンは広東省の商業会議所設立に関わり、規約の制定
なども行った(৏報、1905 年 9 月 1 日)。商人が管理し運営する商業会議所は、官の保護に
懐疑的だったシンガポールの華人の需要にも見合っていたと言えよう。
シンガポール華人商業会議所の設立(1906 年)とその背景
47
Ⅳ シンガポール華人の反応
シンガポールの華人は、チャンのシンガポール訪問の意図が資金調達であることは認識
26)
していた 。だが、チャンの呼びかけに応えた。彼らは、チャンの提示した中国各地の商
業会議所とのネットワークと、商部という権威との関係強化によって、自らの二つの問題
が解消できると考えた。二つの問題のうち一つはチャンも意識していた帰国時の安全確保
であった。もう一つはチャンが提示したことのない問題で、中国に持ち越されたトラブル
の解決であった。これは、1905 年 12 月 18 日に 100 人余りの出席者を迎えて同済医院で行
われた商業会議所設立のための第一回会議の発言の中に確認しうる。ゴー・シウティン
27)
28)
(Goh Siew Tin⿉呉寿添) とイェ・チーユン(Yeh Chi Yun⿉葉季允) 、ツァン・ティウラム
(Chan Teow Lam⿉曾兆南)は会議の目的と商業会議所を設置する利点について、それぞれ福
建語、広東語、潮州語で説明した。シンガポール華人は商業会議所の下で方言の枠を超え
た団結を達成し、商業上のトラブルの仲裁や倒産の回避に努めうると説き、さらに以下の
利点を挙げた。
商業会議所を設立すれば、中国各地の商業会議所と連携することも可能となる。悪
徳商人に騙され、その人物が中国に逃げてしまっても、その人物を捕まえて賠償させ
るなど様々な便宜を、シンガポールの商業会議所を通じて中国の商業会議所に依頼す
ることもできる。中国には帰国者を狙ったゆすりや詐欺、脅しなどが久しく存在する
が、商業会議所から保護証を発行してもらい、郷里の商業会議所に連絡することで、
騙された時にその商業会議所から保護を得ることができる。
チャン(・ピーシー) 侍郎が出発する前に商業会議所を設立することができれば、
侍郎を通じて商部に公印を授けてもらうよう上奏してもらえる。そうすれば商部に直
接いろいろな事を伝えることができ、下意が塞がれる心配もない(৏報、1905 年 12 月
20 日)。
シンガポールの華人は、中国各地の商業会議所のネットワークに参入し、商部という権
威と関係を強化するという形で中国とのつながりを確立しようとした。それは第一に中国
に逃亡した負債者の追及、すなわちシンガポールで生じたが中国に持ち越されてしまった
問題解決のためであり、第二に中国に帰国した時の身の安全の確保、すなわち中国で生じ
る問題解決のためであった。同様の内容は、第 1 回会議から 2 週間余りを経て 12 月 26 日
に開催された第 2 回会議でも確認できる。ここでは商業会議所は海峡植民地と中国の政府
の認可をそれぞれ受けるべし(৏報、1905 年 12 月 27 日)ともあり、双方の政府との関係を
重視していた事が分かる。
帰国時の保護に関してはすでに説明した通りなので、ここでは中国に逃亡した負債者や
48
アジア研究 Vol. 50, No. 4, October 2004
悪徳商人の追及についてその背景を確認しておく。海峡植民地では破産法令に基づき、年
次報告書が出されていた。破産法令は、債権者あるいは負債者から出された陳情を調査
し、負債者に負債の返済能力がないことを認めた後に破産宣告を行い、植民地政府の管財
官に負債者の全ての資産を委ね、債権者との間で負債を処理していくことを定めた法令で
ある。その年次報告書には、管財官による負債処理を受けた負債者数、負債処理の前に逃
29)
亡してしまった負債者数、およびそれぞれのエスニック集団ごとの内訳 が記載されてい
る。1891 年から 1906 年までの数字は、以下のようになる。
この表からは 1903 年以降、全体の負債者数が増大するに伴い、華人の負債者数も増大
していることが分かる。また、華人負債者の 3 – 4 人に 1 人が破産後の整理を行わず、逃
亡している。破産した当事者以外に、共同出資者が逃亡するというケースも頻繁に起こっ
ており、それも負債者の資産接収と負債処理を困難にさせていた(Report, 1903)。破産法
令の下で負債の処理を行わず、示談で解決することも多く、その件数は破産法令の下で処
理された件数とほぼ同数と見られていた(Report, 1891)。実際の破産者数はこの表に示さ
れた数より多く、また破産に至らなかった人を含めると、逃亡にまつわるトラブルは表中
の数字より多かったと思われる。逃亡者の逃亡先が中国とは限らないが、その可能性は大
きい。1905 年の『破産法令年度報告書』は、中国に逃亡した負債者に対して令状を発行し、
負債者の引渡しを要請したが、負債者が中国の朝廷にいる友人によって篤く保護されてい
るため効果はなかったと報告している(Report, 1905)。
中国の商業会議所は、負債や倒産をめぐる紛争調停の役割を期待され、徐々にその権限
30)
を強化させていった 。シンガポールの華人も商業会議所を通して、負債や倒産の問題を
表 海峡植民地管財官による負債処理を受けた負債者数と逃亡者数⿉1891–1906 年
1891
1892
1893
1894
1895
1896
1897
1898
1899
1900
1901
1902
1903
1904
1905
1906
負債者総数
華人負債者数
(海峡華人)
逃亡者総数
華人逃亡者数
65
41
29
19
15
36
41
34
41
35
38
34
46
84
92
76
26
23
18
10
11
26
21
20
21
21
22 (5)
22 (4)
35 (8)
62 (22)
46
53 (21)
19
9
7
4
5
5
1
7
8
0
7
11
10
20
19
10
16
5
6
2
4
5
1
4
6
0
7
8
7
15
12
8
Report on the working of “ The Bankruptcy Ordinance 1888” , 1891–1906 より作成。
シンガポール華人商業会議所の設立(1906 年)とその背景
49
解決しようとした。シンガポールでも中国でも商業会議所に対して同じような役割が望ま
れていた。だがこのことが、シンガポールの華人を中国社会の延長線上に置いて理解しう
るということにならないことは確認しておきたい。またシンガポールの華人はシンガポー
ルの華人商業会議所にシンガポールで生じる問題の解決を期待していたが、それを中国の
商業会議所に期待したわけではない。繰り返しになるが、彼らが中国の商業会議所に期待
したのは、中国で生じた案件および中国に持ち越された案件の解決に限定されていた。
シンガポール華人商業会議所は計 6 回の会議を経て、1906 年 4 月 8 日に設立された。発
起人達は自らの方言集団に属する商店や企業に入会を勧めた結果、800–900 人の入会者を
得た。設立会議では、会長や副会長、委員など役員 54 人が選挙によって選出された。海
峡植民地の結社法令下での登録は免除され(৏報、1906 年 4 月 19 日)、清朝政府の商部には
同年 7 月に登録を申請し(檳城新報、1906 年 7 月 20 日)、9 月頃承認を得た(檳城新報、1906
年 9 月 16 日)。また同年 8 月 29 日(光緒三十二年七月初十日)の会議では、帰国者への保護証
の発給が提案され、それに関する細則案を作成して商部に送り(新加坡中華總商會大廈落成
紀念刊、1964: 150)、11 月に商部の承認を得た(৏報、1906 年 11 月 7 日)。
シンガポール華人商業会議所の設立前後、設立の中心人物で初代会長に就任したゴー・
シウティンは中国に帰国し、強盗に遭った。ゴーは地方官吏の防犯・案件処理能力を不満
とし、商部に名指しで地方官の罷免を求めた。商部に対する同様の要求はシンガポールの
ほかの福建系商人からも相次いだ(商部奏参保護回籍華商不力官員摺、1906)。従来、シンガ
ポールの華人は中国の地方官に対する不満をまず駐シンガポール清朝総領事に持ち込ん
だ。その上で地方総督に嘆願してもらうか、地方総督に対する命令権を持つのは朝廷のみ
であったため(清国行政法、1914: 59–60)、イギリス大使や外務部を通じて朝廷に上奏し、
詔勅や諭旨の発布という形で地方総督に命令を発してもらうかのいずれかだった。商部も
地方総督に対する命令権を持たなかったため、商部とのパイプは地方官に対する直接的な
圧力を保障するものではなかった。だが、上奏を行いうる主体である商部に直接の意見表
出が可能となったことに、シンガポールの華人は意義を見出していた。
おわりに
シンガポールの華人にとって中国は、財産や生命の安全が確保できない危険な場所であ
った。特に地方官の紛争調停能力に強い不信感が持たれていた。清朝の中央・地方政府は
在外華人の資本を誘致するため、1890 年代頃から状況の改善を試みたが、成功しなかっ
た。
同じ頃、東南アジアで財を築き、中国での事業拡大を夢見た実業家チャン・ピーシーが
いた。チャンは、富裕な在外華人から資金を調達して国内産業を育成しようという清朝政
府の政策に乗じ、在外華人の資本動員と引き換えに中国で優先的に事業を行う権限を獲得
50
アジア研究 Vol. 50, No. 4, October 2004
しようとした。チャンは、中国各地の商業会議所の民間ネットワークと、商部という公権
力にシンガポールの華人を結びつけて中国での安全を保障し、シンガポールの華人資本の
動員を成功させようとした。シンガポールの華人はチャンの提案を受け入れ、さらに中国
に逃亡した負債者や詐欺の追跡という独自の意義を盛り込み、華人商業会議所を設立し
た。
シンガポールの華人が中国との結びつきで解消しようとした問題は、中国で生じる問
題、および中国に持ち越された問題に限られていた。一方、イギリス領では治安判事が
華人に応対しているとするチャンの発言からは、シンガポールの華人はシンガポールでは
海峡植民地政府の制度を通じて問題解決を図っていたことが読み取れる。これは、出身国
では出身国の公権力に、居留国では居留国の公権力に保護を求める発想で、どこにいても
一つの公権力のみに保護を求める発想とは異なる。脱植民地期のマラヤで華人の現地政治
への対応が遅れたという議論が正しいとするなら、シンガポールの華人が時間を要したの
は、ある一つの公権力から決別し別の一つの公権力を受け入れるためではなく、公権力と
の関係は一つに限られるべきだとする、国民国家を基礎とした新たな国際秩序を受け入れ
るためだったのかもしれない。
(付記)
本稿のもととなる研究をおこなうにあたり、国際交流基金アジアセンターより助成を
頂いた。ここに記して感謝の意を表したい。
(注)
1) 例えば Cohen(1997)。
2) 華人という語は一般に、
「中国国民ではなく中国国外の居住国の国民として生きる人」という意味が
込められることが多いが、本稿では ethnic Chinese の意味で使う。華僑との使い分けはせず、中国の華人
という表現も可能とする。先行研究の引用などで「中国国民ではなく中国国外の居住国の国民として生
きる人」という意味を持たせる必要がある場合は、「華人」と括弧付きで表記する。
3) マレーシアおよびシンガポールの華人のアイデンティティに関しては、Cushman and Wang(1988)、
Heng(1988)、崔(1990)、原(2001)、金子(2001)、李(2001)などを参照。中国の改革開放以後、東
南アジア華人の対中国投資が活発化し、華人の「中国」的性格を過度に誇張する「中国脅威論」が登場
したが、それへの批判も含むのが岩崎(1997)、陳(2001)、および田中(2002)。
4) Zheng(1997)は英領マラヤの華人を現地の文脈に位置付けて理解する試みである。貞好(1993)は、
植民地期の華人が居留国で他者との関係をいかに構築しようとしたかを論じ、そこから今日のインドネ
シアの国民統合と華人に関して理解を試みている。
5) 海峡植民地における国籍と権利の関係については、篠崎(2001)を参照。
6) 陳(2001)は、重層的なアイデンティティに基づいてネットワークを構築する華人にとって国家はア
イデンティティの一つにすぎないとし、そのような姿勢に脱国家性を見出している。
7) Thio Thiau Siat⿉張兆燮または Chang Chin Hsun⿉張振勲と表記されることもある。Godley(1981)は
チャンの思想や行動あるいはその役割を、中国の近代化やナショナリズムの中に位置付けて論じている。
なお本論では、華人の個人名を原則としてカタカナで表記するが、日本語文献で漢字表記が通用してい
る人物に関しては漢字表記のみとする。
8) マラヤでは、全ての住民に市民権を認めたマラヤ連合(Malayan Union)が 1946 年に発足したが、マ
レー人の強い反対にあって挫折した。それに代わり、マレー人の特権を認め、非マレー人の市民権を制
限したマラヤ連邦(Federation of Malaya)が 1948 年に成立した。この過程がマレー人主導で展開し、マ
レー人に有利な状況となったことを、金子(2001)、田中(2002)、原(2002)は華人の政治意識の低さ
から説明している。なお、マレー人がマラヤ連合に反対したのは、非マレー人をマラヤに新たにできる
国家から排除しようという偏狭な心情に基づくものではなく、マラヤ連合がマレー人を排除した非マ
レー人の国家として解釈されたためであった。当時、マラヤに住む非マレー人を「マレー人(Malay)」
シンガポール華人商業会議所の設立(1906 年)とその背景
51
と区別して「Malayan」と呼ぶことが一般化していた。マレー人は Malayan Union を「Malayan の連合」と
解釈し、自らを排除するものとみなした。これについては Ariffin(1993: 94–127)と山本(2003: 75–76)
を参照。
9) 富裕な海峡華人一族を出自とし、香港および上海で買弁を行っていた See Ewe Lay(薛有礼、1851–
1906)が 1881 年にシンガポールで創刊した華語新聞(Chen, 1967: 24–53)。
10) ペナンの華人社会において指導的立場にあった Lim Hua Chiam(林花㏶)が 1883 年に設立した
Criterion Press から、その息子 Lim Seng Hooi(林成輝)が 1895 年に創刊した華語新聞。同社はまた
1900 年にマレー語新聞 Chahayah Pulau Penang を、1903 年に英語新聞 Straits Echo をそれぞれ創刊。
11) 入札などによって専売権を購入、それが植民地政府の収入となるため「徴税請負」とも呼ばれる。こ
れに関しては Rush(1990)、Trocki(1990)、Butcher and Dick(1993)などを参照。
12) 1859 年(または 1861 年)広東省梅県生まれ。1880 年にデリに移って以降、そこを拠点に事業を展開。
オランダ植民地政府より 1888 年に Lieutenant に、1890 年に Kapitein に、1911 年に Majoor に任命され、華
人社会の管理を任された(Leo, 1995: 210)。
13) 例えばペナンを中心に事業を展開する Cheah Choon Seng や Foo Choo Choon(胡子春)、Leong Fee(梁
輝)は中国の鉄道業や鉱業に参入した。Godley(1981)を参照。また Lim(1903: 98–100)や Gnoh(ST,
5 September 1908)はマラヤの華人に中国進出を強く奨励した。
14) 盛宣懐については Feuerwerker(1958)および中井(1994: 251–283)を参照。
15) 清朝の位階には一品から九品まであり、さらにそれぞれ「正」と「従」に分かれ、計 18 等級あった。
位階と官職は連動し、ある位階を持つ人はある官職に就く資格を有していた(清国行政法、1914: 187)。
「京堂」は三品および四品の位階を持つが実質的な権限を持たない名誉称号であることを示す。「候補」
は、官職に就く資格はあるが、ポストに空きが出るのを待つ人員(清国行政法、1914: 229)。
16) 「侍郎」は、中央省庁の副大臣に当たる役職。
17) 「護照」は現代中国語では「パスポート、旅券」を意味する。今日の「パスポート」は外国で自国政府
の保護を受けるための文書でもあるが、自国・外国を問わず出入国を許可する「通行手形」というイ
メージがより一般的である。これに対して本論で扱う「護照」は、「通行手形」としての役割はほとんど
なく、もっぱら「帰国時に身の安全を保障するための文書」を意味した。そのため本論では「護照」に
「保護証」という訳語を充てる。
18) 「道」は複数の府や州、県によって構成される。「汀漳龍道」は、福建省の汀州府、漳州府、龍岩州で
構成される一つの道。これを「道員」が管轄する。
19) 官吏や政務を監察する役職。
20) 陳情書は、総領事から北京の外務部に転送された。
21) 村上(2000)は、在外華人が中国に帰国した際、清朝の地方官からもイギリス領事からも保護を十分
な保護を受けられなかったことが、華人に帰国を思いとどまらせ、そのことが東南アジアにおける華人
の定住の一要因になったと論じている。
22) 12 の項目は、①農工路鉱業と資本招致、②農業・鉱業の振興、③開墾⿉農業、④開墾⿉鉱業、⑤⑥
水利振興、⑦肥料・種の貸付け会社の設立、⑧製造業の振興と労働者雇用、⑨鉄道の建設・運営、⑩海
外商人の誘致、⑪度量衡の統一、⑫商業官吏の設置。
23) 「接待所」は 1904 年春に商部が上海に設立(劉、2002: 48–49)。
24) 中国国内の商業会議所は、1904 年に 19 箇所、1905 年に 36 箇所、1906 年に 92 箇所で設立され、1911
年には約 700 箇所を数えた(倉橋、1976)。
25) 中国の商業会議所の発展を主導したのは民間か官かは議論が分かれるが、商業会議所が官に監督され
ない民間の組織であるという認識は一致している曽田(1975、1991)、倉橋(1976)、陳(1996)。
26) 例えば檳城新報(1904 年 12 月 16 日)は、福建−広東間の鉄道敷設に関する仕事が一段落したらチャ
ンは南洋各地に赴き、商業視察と資金調達を行うと報じている。
27) 1854 年生まれ。父の Goh Siew Swee(呉秀水)はシンガポールとジャワおよびマレー半島の各港との
間を運行する蒸気船会社を経営。Siew Tin は 1892 年にその経営を引き継ぎ、蘭領東インド産品の交易を
行う。1896 年以降保良局のメンバーを務める(Song, 1984: 143–144)。
28) 1851 年安徽省に生まれ、父の仕事の都合で広東に移る。香港で『中外新報』の編集を行っていたが、
See Ewe Lay に請われシンガポールに移り『৏報』の編集者となる。同紙の創刊以降 40 年間編集者を務
め、主要論説を受け持った(Chen, 1967: 31)。
29) 華人のほかにヨーロッパ人、ユーラシアン、アラブ人、インド人、マレー人などの人数も記録されて
いるが、本稿の表では華人の人数のみを取り上げる。
30) 中国国内の商業会議所の商事裁判権の強化を、曽田(1975)は秩序維持のための経済外強制力とし、
倉橋(1976)は商業活性化のための負債や倒産からの救済措置とする。
52
アジア研究 Vol. 50, No. 4, October 2004
(参考文献)
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。
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東華䣘(1905)
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。
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實䣘(1903)
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