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パネルディスカッション 歴史の懐あれこれ

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パネルディスカッション 歴史の懐あれこれ
パネルディスカッション 歴史の懐あれこれ
Panel discussion The depth of histories
〈パネラー〉中山正典 加藤理文 佐口節司 小杉 達 名倉愼一郎
〈司 会〉山 﨑 克 巳
【司会】
最初にこの企画を考えた時に、徳川
家康没後400年ということで、市内に残る家
康の事象であるとか、エピソードを紹介して
みようかという話も出たんですが、おそらく
そのテーマではあちらこちらで企画されるの
ではないかということで、今回の「磐田市の
歴史、その懐へ」というテーマになりました。
市制合併10周年を迎えるにあたり、もう一度
地域を見直して、より深く知ることも大事で
はないかなということで、テーマを設定しま
した。
改めて今回の講師の皆様を、私から紹介し
ます。第1回「磐田の民俗~天竜川流域の暮
らしと文化・寺谷用水の民俗~」を中山先生
に、第2回が「磐田の中世~社山城と二俣城
攻防戦~」を加藤先生に、第3回は「
『見付』
というまち~発掘調査からみた『見付』~」
を佐口先生に、第4回は「天竜川の渡船場・
池田の繁栄」を小杉先生に、
そして先週が「湊
町掛塚の繁栄と衰退」について名倉先生にお
願いをしました。ありがとうございました。
今回、寺谷用水を介して豊岡から福田まで、
回を重ねるごとに敷地、見付、池田、掛塚と、
それぞれの時代のなかで核となる地域をみて
きましたが、今回福田地区を取り上げること
ができませんでした。今年度福田町史の通史
編が刊行されます。詳しくはそちらの方に譲
りたいと思います。
本題に入ります。今私がここにいるのは、
両親がいて、そのまた両親がいてと、人類が
発生してから悠久の時の流れのなかで私がい
る訳です。そのうちのどこかを否定するとい
うことは、私自身を否定するということにな
りますが、歴史を考えていくなかでは、常に
過去を振り返るということが必要ではないか
なと思います。
「もし・・・」とか「あのときこうだったら」
と考えることは許されることではないです
が、過去を顧みずして将来は語れないのでは、
過去の反省のもとに将来があるのではないか
と考えます。長い歴史のなかで肯定されてき
て現在の磐田がある訳ですが、
「もしあのとき
こうだったら」その後の磐田がどう変わって
いたのだろうか、そんな投げ掛けをしてみた
いと思います。
今回の講話のなかでも度々触れられてきま
したが、家康が当初の計画どおり磐田にお城
を造っていたとしたら、今の磐田はどうなっ
ていたのか。もしそうなっていたら、磐田は
名実ともに静岡県西部の中核都市になってい
たと思うし、政令指定都市になっていたのか
なとも思います。
しかしその一方で、たとえばまちなかを歩
きますと、農業高校の敷地に澄水山古墳とい
う古墳時代中期の大きな古墳があります。ま
た西新町を歩きますと、土器塚古墳とか京見
塚古墳といった古墳や、かぶと塚公園に行き
ますと兜塚古墳という、それこそ東海地方で
も最大級の大型円墳があります。おそらく家
康が城を築いてそのまままちづくりを進めて
いたら、まちなかにある大きな古墳は消滅し
ていたのではないかなと思います。遠江国分
寺も特別史跡として残っておりますが、今の
ような形で残されていたかどうか疑問に感じ
ます。また桶ケ谷沼や台地の縁辺に残されて
いる照葉樹林帯も見られなかったのではない
でしょうか。戦後70年を迎えますが、浜松市
で受けた大空襲も磐田市で起こっていたかも
知れません。もろもろ考えていきますと、家
康が浜松に城を造ったことで、磐田には多く
─ 201 ─
環境と経営 第22巻 第1号(2016年)
の文化財や自然が残されたのはないかと考え
ます。
どこに価値観を求めるのかは人それぞれだ
とは思いますが、心豊かに生きていくために
は、歴史や自然が身の回りにあるということ
は、幸せなことではないかなと思います。結
論、私は家康が浜松に城を造ってくれて良
かったなと思います。
各先生方からテーマに基づいたお話をいた
だきましたが、
「もしあのときこうだったら」
と、肯定的でも否定的でも振り返っていただ
けたらと思います。中山先生の寺谷用水では
難しいかも知れませんが、何とかひねり出し
ていただいてどうでしょうか。
【中山】
寺谷用水がなかったらということで
すが、歴史に「もし」はないと言いますが、
想定はできないですよね。この地においての
寺谷用水の意義というと、考えれば考えるほ
ど大きなものがあると、景観を含めて考えて
います。天竜川を含めて、下流域において、
遠州平野において、寺谷用水の果たしてきた
水田への水の供給が最大のものだと思います
けど、今の景観を作り出している大きな要素
が寺谷用水だといえるかと思います。
『天竜川流域の暮らしと文化』という上下
巻の厚い本が、平成元年に刊行されています。
磐田市が行政市誌として出すには驚きの本で
あったと思いますが、その編集責任者をされ
た後藤総一郎先生が巻頭で「文化の十字路」
という言葉を使っているんですね。後藤は見
付を文化の十字路という言い方をしているの
ですが、縦のラインの天竜川と横のラインの
東海道が交差したところが、見付だという言
い方をしていて、ここに文化が複合的に表れ
ていて、後藤の言葉を借りれば「見付をみれ
ば日本がみえる」となります。ここで私が何
を言いたいかというと、寺谷用水を取り上げ
て、そこの民俗・生活・信仰、寺谷用水が介
在している秋葉信仰まで話をして、信仰など
をみていくと、南北を結ぶ文化を串刺しにす
るものであるという、寺谷用水の位置が確
認できるのではないかということです。必ず
しも寺谷用水というものだけではなくて、こ
この地というのは磐田原台地が舌状に張り出
していて、見付というまちがまるで懐にある
ような位置関係にあるのではないかと思いま
す。西に天竜川が流れ遠州平野が広がる、海
岸線に対して平行に東海道が走っている、そ
この文化の基点であるという位置づけのなか
で、必然的にあるべくして天正18年に寺谷か
ら浜部の間に寺谷用水が、そのでき方という
のは、もしかしたら前後にもっていくことが
できるかも知れないけれど、豊かな地を築く
べくして創造されているものではないかなと
思っています。
文化の十字路という要素については、お話
したいことが多々ありますが、ここで留め置
きます。
【司会】
続いて加藤先生お願いします。
加藤先生のテーマの時代は、非常に混沌と
した時代で、何かがちょっと変われば大きく
変わったという時代ではなかったのかなと思
いますが。
【加藤】
司会から「もし家康が磐田に城を築
いていたとしたら」とありましたが、残念な
がら時代が悪かった。永禄末から元亀にか
けて、
「もし家康が信長の配下であったなら」
、
城はできていたと思います。それは、信長の
技術をもらえるからです。家康は城山球場の
ところへ城を造ろうとした訳です。家康の技
術では、必然的に自然地形を利用して城を造
るしかなかったのですが、信長の技術があれ
ば地形を改変することができるんです。どう
いうことかと言うと、石垣が使えるんです。
家康は信長の同盟者ではあるのですが、技術
貸与まではされていない。従って、石垣を用
いた城を築くことができなかった。二つ目、
「もし明応の地震がなかったら」家康は城之
崎に城を造ることが可能だった。なぜなら今
之浦が使えるからです。でもこの時点では今
之浦が使えなかった。今之浦が使えないとい
うことは、例えば近江の坂本城のように水城
にすることができない訳です。三つ目、見付
宿との位置関係なんですが、藤枝市の田中城
と同じように、うまく取り込んで宿場町を形
─ 202 ─
パネルディスカッション 歴史の懐あれこれ
成することができたのですが、いかんせん面
積が狭すぎます。面積が狭すぎることで、兵
農分離をすることができない。前提として見
付宿ありきなんですが、例えば信長が小牧に
移ったときのように、まったくの原野に城を
造り、次に武家屋敷を造り、それから町屋を
造って、職人街を造ってということなら良
かったのですが、見付の場合はあまりにも進
んだそして自治を持った見付宿ありきなんで
す。そこに家康がやってきて、どこに武家地
を求めるのか、考えると非常に難しい。そん
なことから、家康は浜松に移ったのだろう、
この時代浜松はまだ商業の集中はみられない
ので、先に武家地を確保することができると
いうのが大きな点だったと思います。小天竜
が流れていたので、これを利用することもで
きる。こうしたことを一つ一つ検証していく
と、見付というのは明応地震という自然災害
の影響ですが、今之浦が使えなかったという
のは極めて大きなデメリットであったと思い
ます。
【佐口】
加藤先生のお話を伺い、見付に城が
できなかったのがなるほどなと理解できまし
た。
「見付宿ありき」という言葉があったの
ですが、見付に国府があった、それがしだい
に見付宿として町人が力をつけてきて、町人
が自ら自治をもつような町になってきて、家
康はその力を借りて見付を支配しようとし
た、家康は城を造らなかったのではなく、あ
えて造らなかったのはないかと思います。国
府が置かれたことで、その後の礎が造られて
いった。そんなことを考えると、
「もし磐田に
国府が置かれなかったら」
、見付宿もできな
かったでしょうし、その後の磐田の発展もな
かったのではないかと思います。
【小杉】
天竜川の渡船について話をしてきま
した。皆さんちょっと考えてみてください。
磐田にいくつかの川があります。西からみて
いくと、天竜川、仿僧川、町の真ん中の今之
浦川、そして太田川、その上流の敷地川など
ありますが、みんなどこに流れていますか。
天竜川以外は、福田に流れています。太田川
の下流に流れています。しかし不思議なこと
に奈良時代の天竜川は、浜松医科大学の東、
馬込川のあたりを流れていました。古代の天
竜川は今と違って西を流れていました。それ
が磐田の方へ流れてきたということは、地形
が変化したということです。仿僧川が初めは
天竜川に流れていたというのはご存知でしょ
うか。江戸時代の終わりに、福田の方に流れ
を変えた訳ですが、それは福田の方が低いか
らです。天竜川が諏訪湖から約230㎞流れて
きて、平野への出口が西鹿島になります。西
鹿島の西の崖と鳥羽山公園の間を流れて、浜
松に流れ込んでいたときに、その時点では鳥
羽山はもう少し南へ張り出していたと思う
のですが、そのため天竜川の水は東へ行かず
にまっすぐ南へ流れたのでしょう。その後し
だいに鳥羽山が削られて、天竜川の水が天竜
荘の下あるいは西鹿島の鉄橋のあたりにぶつ
かって東へ流れ込むようになり、だんだん磐
田の方へ流れるようになったのが平安時代の
終わりごろでしょうか。天竜川流域は砂利で
す。水は砂利の下にもぐってしまいますから、
東名高速道路の北側は、ほとんどが畑でした。
それが湧き出てくるのが東名のあたりですか
ら、景観が水田に変わります。一方太田川は
というと、全部水田ですね。ということは川
の流れが小さくて弱い、弱いから泥が溜り湿
地帯になる。粘土層なので地盤が悪い。それ
が昭和19年の東南海沖地震の被害となった訳
です。
しかし古代においては磐田原台地の東の傾
斜地と西の傾斜地とどちらに古墳が多いかと
いうと、東の方が多いんです。新豊院山古墳
群や御厨古墳群に代表されるように、大型で
古い古墳がたくさんあります。台地の西にも
銚子塚古墳があり、町のなかにも古墳はあり
ますが、東の太田川流域の方が人が住み易
かった。その結果古墳が多く造られたのでは
ないかと考えています。その伝統があるから、
遠江の一の宮は森町に置かれ、磐田には二の
宮が置かれました。その理由を私は水に求め
ます。太田川の水をうまく利用して水田耕作
をする、そして豪族が住むようになり巨大な
古墳を造る、それが平安時代においても水は
─ 203 ─
環境と経営 第22巻 第1号(2016年)
大事だ、その水を供給してくれるのは本宮山
を水源とする大黒様で、その大黒様を祀って
いるのは小国神社だったということで、一の
宮になったのではないかと思っています。
話を天竜川に戻しますが、だんだん流れを
東に変えて、磐田原台地にぶつかるように
なった。台地西縁、特に東名高速道路から北
は垂直の崖になっているのはこのためです。
「もし天竜川が流れを変えずに西の方を流
れていたら」
、私は磐田原に城が造られたと
思います。それは城之崎城ではなく、天竜川
を見下ろす一言あたりだったのではないかと
思います。天竜川は西を流れて豊田地区あた
りは水はあまりありませんが、小さな流れは
あったので、上流から材木を流すことは十分
できたと思います。それによって武家屋敷も
つくれたと思います。もしもの話をしました
が、いずれにせよ、天竜川の流れが磐田の歴
史に大きな影響を与えたことは確かです。
【名倉】
掛塚湊について話をし、
「掛塚は元気
がない」と愚痴を洩らしましたが、その原因
として考えられるのが東海道線です。掛塚に
東海道線の駅をつくるという話があったらし
いのですが、廻船問屋の人たちがこぞって反
対をして、現在の路線になったといいます。
昭和6年の『郷土誌』では、非常に嘆いてい
ます。なぜ反対したのかというと、他地域の
事例でもみられるのですが、例えば煙突から
火の子が出て火災になってしまうのではない
かとか、掛塚の廻船問屋は船が200艘ほどあ
るが、すべて無駄になってしまうのではない
かなどという心配があり、結局東海道線は中
野町を通るようになります。その結果、材木
は中野町で引き上げられて製材所も浜松側に
移されていくということになります。その結
果、掛塚は人口も減り衰退していく訳です。
もし掛塚に湊がそのまま存続していれば、他
の展開が期待できたかもしれない。輸送機器
産業が発展したなかで車の海外への積み出し
港が、天竜川の河口にできたかもしれないと
思います。最近竜洋の海岸地域にも工場が造
られるようになりましたが、それも津波が心
配で内陸部へ移動するということで、どのよ
うな展開になるかは、その時代その時代の状
況によっていろいろ変化すると思われますが
でも、掛塚港にも可能性があったかもしれな
いと思います。
【司会】
東海道線を掛塚へ回すという話だっ
たのですが、実際そのような話はあったので
すか。
【名倉】
政府の計画までは調べていません
が、掛塚の町史などで触れられているのは確
かです。
【司会】
私がこれまで理解していたのは、家
康が浜松に築城した理由として、武田信玄の
侵攻に備えてと聞いていたのですが、加藤先
生からは明応の地震、あるいは町屋を造るに
は狭すぎるのではなかったかと、必然的に開
発の進んでいなかった浜松にというお話でし
た。それに対して、佐口先生からは、国府と
してのまた、自治都市としての見付というま
ちがあったがために止めたのではないかとお
話がありました。根拠のある説明が聞かれて
良かったなと思います。
夢のような話でしたが、天竜川がより西を
流れていたら、ひょっとして甲塚公園あたり
に城が造られていたかもというのも興味のあ
る話でした。
【司会】
もう一つ、先生がたから意見をいた
だきたいと思います。さきほど佐口先生から
は、歴史は突然つくられるものではなく、様々
な要因があり、経過を経て動き出すものであ
るとお話がありました。
少し視点を変えまして、磐田市が歴史のな
かで変換するポイントはここだった、という
内容でお話を伺いたいと思います。
私が思うのは、磐田市が天竜川の東側に位
置していたということが、大きいのではない
かと思います。弥生時代の土器を見ますと、
天竜川を境にして浜松や愛知県には同じよう
な土器が分布し、それに対して磐田から菊川
にかけては西とは様相の異なった土器が分布
している。小杉先生のお話のなかで、天竜川
─ 204 ─
パネルディスカッション 歴史の懐あれこれ
は大井川ほど川留めがなく、渡りやすかった
のではないかとありましたが、もう少し古い
時代、弥生時代には天竜川はかなりの障壁
だったのではないかと思います。次の古墳時
代、市内には多くの前期大型古墳が造られま
した。三角縁神獣鏡が出土しているのも特徴
です。大和王権といかに強い結びつきがあっ
たのかを示すものですが、磐田が天竜川の左
岸に位置するということが大きかったと思い
ます。
大和王権によって東国が支配下に納められ
ていくなかで、前線基地的な役割が天竜川の
東に求められたのではないか、大和王権とし
ては攻めの施策としての位置づけがされてい
たのではないかなと思います。一方負の施策
としては、家康が浜松に城を築いたことがあ
げられると思います。磐田が発展をしてきた
裏には、天竜川の左岸に位置していたという
ことが、それぞれの転換期で働いていたよう
に思います。先生方、発表のテーマに限らず、
磐田が発展していくなかで、ここがポイント
だったというものを紹介いただきたいと思い
ます。
【中山】
エポックとなる事件ということです
が、人物でもいいですか。
【司会】
事象でも地理的環境でも・・・。
【中山】
人物とエポックとなる時代を考え
て・・・、伝説の話をしたいのですが、家康
がどこに城を造ったらという話もありました
が、私は歴史家ではないので何年に何をして、
それがどういう意味があるのかというところ
まで理解していないのですが、家康が三方ケ
原の戦いで敗走し、家の庭に来ていて納屋に
隠してあげたら、その後天下を取ったあとご
褒美として土地をもらったと、そういう家康
伝説というものは聞かれたことがあるかと思
いますが、史実と伝説はどう違うのか、本当
のことか嘘のことかの違いだとは思うのです
が、私は伝説の方に興味を持っております。
伝説とはどういう性格のものなのかというこ
とですが、民俗学ではまず信じる人がいる、
伝説の対象物があるつまり「場所やもの」が
介在する、三つ目に形式がない、形式がない
ということはその反対側に形式のあるものが
あるということで、
『むかし、むかし、あると
ころに・・・』で始まる昔話がそれにあたり
ます。
伝説というものは、例えば家康伝説という
のは、さきほどの『天竜川の流域と文化』に
も載っていますが、伝説の領域で考えると
武田信玄は信州からまるで荒降る神のように
入ってきて、三方ケ原で多くの兵を殺して、
自分たちも多くの犠牲を出して、犀が崖では
怨霊が現れて、それを鎮めるために遠州大念
仏があって、というストーリーが語られます
が、これは伝説なんです。ここに表れている
民衆の息吹というか、北から悪神がまるで鬼
のようにやってきて、これに対して民衆が震
えるのです、そこに家康が登場し助けてあげ
る、その後家康から報恩を受けるということ
を民衆は語りついでいる、こんな伝説が大切
なんだと思っている。
磐田を大きく変革した時代は、高度経済成
長期だと思うのですが、そんな時代のなかで
印象に残る人物を紹介したいと思います。高
橋市郎さんは、海老島の方ですが、ボウ僧川
の下流域悪水地帯との戦いを行った人です。
高橋さんがよく言った言葉に、
「百姓は百品種
の作物を同時に栽培するくらいの心意気でな
いとだめだ」というのがあります。二人目は
石川博敏さんです。高度成長期の磐田の文化
や建設を支えてきた人です。見付天神裸祭り
とは切っても切れない関係があります。三人
目は兼子伊三次さんです。西平松の方ですが、
父から受け継いだ農業日誌をずっと書き続け
た人です。気候や栽培植物、周辺の出来事な
どが一日も欠かさず詳細に書かれています。
四人目は塩新田の大橋敏夫さんです。悪水と
戦いながら農業をしつつ、秋葉講を守り続け
水田の神への信仰を続けてきた人です。最後
は夏目英志さんです。寺谷にお住まいですが、
水田耕作に携わりながら「原」の開墾も行っ
た人です。
こういった庶民の一人一人が、磐田の生活
文化をつくり上げ、磐田の景観をつくり上げ
─ 205 ─
環境と経営 第22巻 第1号(2016年)
てきた、こういうことを私たちは大切にして
いかなければいけないと思います。
【加藤】
私からは、
「もの」からみてどう変
わったのかを紹介したいと思います。皆さん
の家にはお茶碗があるかと思いますが、瀬戸
物という言い方をしますよね、瀬戸市で作ら
れているので瀬戸物というのですが、実際は
瀬戸市で焼かれている訳ではないのです。中
世以降瀬戸市で焼かれるものが多かったの
で、そういう言い方をするのですが、家康が
登場してくる少し前くらい、今川政権の最末
期くらいですが、その頃からお茶碗の産地が
変わってきます。今川政権の時は瀬戸・美濃
から製品を仕入れているのですが、家康政権
となり家康が力をもってくると、志戸呂焼き
であるとか初産焼きなど地元の製品にとって
変わります。これは家康の登場によって、地
場産業がかなり高揚してきたことを示す例で
す。
家康政権が安定してくることで、遠江や駿
河がある程度の独自路線をとるようになって
きます。このことは大きな転換点だったと思
います。つまり、家康が大きな力をつけてき
たということが、磐田にとって大きな転換点
だったと思います。
【佐口】
中山先生から家康伝説の話がありま
したが、私もなぜ多くの家康伝説が残されて
いるのか不思議でした。しかもどの伝説も、
非常に親密感のあるものが多い訳です。例え
ば家康が出陣すれば進んで人馬を出したよう
に、見付と家康との関係には非常に深いもの
がありました。そういう意味では、家康の出
現というのは磐田にとって大きなものがあっ
たと思います。
磐田の生い立ちには天竜川が大きく関係し
ています。現在の地形が形成されたのが約
250万年前、そうするとそこが一番のエポッ
クだったのかなと思います。
【小杉】
私は、教育を取り上げたいと思いま
す。江戸時代の後期に賀茂真淵が浜松で国学
を盛んにしました。その弟子たちがすごいん
です。内山真達、夏目甕麿、小国重友、お天
神さまの斉藤信幸など国学が盛んになりまし
た。田舎の神童や農家の人たちが、あれだけ
勉強したということは例がありません。これ
だけ勉強している庶民がいるということは驚
きです。賀茂真淵、内山真達、本居宣長、そ
して平田篤胤が出てきますが、本来の日本の
姿はなんだろう、仏教や儒教が入ってくる前
の日本ではどういう生活をしていたんだろ
う、どんなものの考え方をしていたんだろう、
神様はどこへいってしまったんだということ
で古典の勉強を始め、和歌会を開いたりしま
した。
そして幕末には、学問ばかりをやっていた
人たちが明治元年に遠州報国隊を組織し、新
しい国をつくるんだと見付の大久保春野を中
心に行動に移します。浜松城から鉄砲を借り
て撃ち方などを学んだんですね。世の中が落
ち着き、動の学問から静の学問に変わってき
たところで生まれたのが近代学校でした。明
治政府が音頭をとって学校が造られるように
なり、最初に造られた学校の一つが見付学校
であり、旧豊田町にあった西之島学校、鎌田
にあった坊中学校、これらは遠州の三大学校
といわれましたが、一里四方の中に3つも
あったんですね。この近代教育が盛んになっ
たことで、市内には農学校を中心にして、東
西南北に一つずつ学校が造られました。磐田
の教育は、国学が近代教育に影響を与えた訳
です。
【名倉】
磐田市の歴史文書館で、報国隊に関
する展示の準備を進めていくなかで、磐田、
広くは遠州において大きな変革があったんだ
なと感じています。明治維新というのは、各
地で大きな変化があった訳ですが、静岡県で
も浜松藩とか横須賀藩、掛川藩は千葉県へ
移って、そこに静岡藩が置かれて徳川氏が
入ってきます。大名の総入れ替えをするとい
う大きな変化だった訳ですが、徳川家は70万
石に縮小されながらも、家臣団が15,000人程
が駿河・遠州に来たと言われます。その家族
や家来を含めると膨大な数になる訳ですが、
70万石で養える人数はせいぜい5,000人くら
─ 206 ─
パネルディスカッション 歴史の懐あれこれ
いだったと思います。そのため磐田原や牧之
原の開墾、塩田づくりなどに関わっていきま
すが、赤松則良なども茶業に関わっていく訳
です。
静岡藩の奉行として赴任した前島密は、中
泉学校の前身中泉仮学校をつくり、その教授
方には士族の人たちが関わるなど、学問の面
でも幕臣の人たちが関わっていきました。産
業面でも教育面でも幕臣の人たちと地元の人
たちが協力をして、近代化を推し進めていく
という協力体制をとりながら遠州の文化をつ
くっていった訳です。そういうことを考える
と、明治維新という時期が、この地域にとっ
て非常に大きな変わり目だったんではないか
と思います。
・・・一部終了、休憩
【司会】
皆さんから歴史の画期を伺っている
と、それだけで一つの講座が組めるのではな
いかというほど豊富な視点でお話をいただき
ました。
掛塚の廻船に関係して、伊豆石がこちらに運
ばれてきました。一体いつから始まったの
か、本を読んでおりましたら、小杉先生が明
治16年の大火を契機に、あるいは明治26年の
銅版画を見ると、ほとんどのところで伊豆石
を使った蔵が建てられていると。明治16年前
後に求められるのではないかとのお話でした
が、加藤先生からはもっと早いのではという
お話がありました。ここで伊豆石にテーマを
絞って進めてみたいと思います。
まず名倉先生、廻船と伊豆石との関係につい
て、どういう関係で磐田に持ち込まれたのか
お話ください。
【名倉】
掛塚の廻船は幕府の御用船として使
われていまして、材木にしても米にしても、
幕府の御用で江戸まで運んで行くという役割
であって、商売をするという船ではなかった
訳です。材木を江戸に運び、江戸で商品を仕
入れて、例えば北前船のように商売をすると
いうことは許されていなかった、帰りは空船
で戻って来なければいけなかった。空船だと
安定が悪いので喫水を下げるために、伊豆で
石を積んで帰ってきたと言われています。明
治以降経済が活発になって、商業が盛んにな
るなかで、何も積まずに帰ってくるというこ
とがあり得るのか、明治以降伊豆石が商品と
なったということも考えられますが、詳しい
ことはよくわかりません。
浜松市の中野町に本部があって伊豆石につ
いて調べている、静岡県建築士会西部ブロッ
クまちづくり委員会がありますが、ここで
調査している伊豆石が用いられた建物の年代
や、いつ頃から伊豆石が使われているのかな
どがわかってくれば、その辺が解明されるの
ではないかと思います。この会の調べによる
と、天竜川流域に伊豆石を利用した石蔵がた
くさん見られ、阿多古川の上流まで分布して
いるようです。
【司会】
市内の蔵を見ていると、見付には漆
喰を用いた土蔵が多く、中泉から南にかけて
は伊豆石を用いた石蔵が多いといった印象を
抱いていましたが、小杉先生が掛塚の大火と
伊豆石の関係について書かれていますので、
ご紹介いただきたいと思います。
【小杉】
掛塚を歩きますと、石蔵がいっぱい
あります。話を聞くと、ほとんどのものが明
治のものです、江戸時代までさかのぼるもの
はありません。元竜洋町長の池田さんのお宅
にも、火止め石というか、火が延焼してこな
いように伊豆から石を持ってきて積んだよう
です。名倉先生がおっしゃるとおり、船の安
定を図るために積んできた訳ですが、それな
らもっとたくさんの石蔵があっても良いよう
ですが、それほど多くはないです。商売が許
されるようになった明治以降運ばれてきたの
ではないでしょうか。特に掛塚は火事が多
かったものですから、防火として用いられた
のではないでしょうか。明治以前の伊豆石は
墓石として用いられました。遠州には墓石と
なる石が少ないからです。江戸時代には、硬
い伊豆石を使ってお墓を造りました。墓石は
四角が普通ですが、江戸初期のものは上が三
─ 207 ─
環境と経営 第22巻 第1号(2016年)
角で薄いものが多いです。仏さんが浮き彫り
されています。硬い石なので崩れません。造
られたときの年号が読めるものがたくさんあ
ります。旧細江町の近藤氏のお墓は伊豆石が
用いられています。法多山の墓地にもあり
ます。明治以降は比較的柔らかい石が防火用
として壁やお蔵に、住む家にも用いられたと
思っています。実は、柔らかい石は磐田市に
もあります。獅子ケ鼻公園の石です。石垣と
して用いられました。コンクリート・ブロッ
クができる昭和30年代までは、学校や社寺の
まわりや川の護岸などに使われ、森、豊岡、
豊田、福田、袋井、掛川で今も見ることがで
きます。
見付には確かに石蔵はほとんどありませ
ん。見付は防火のためにレンガが用いられま
した。レンガは、東海道線ができたときにプ
ラットホームを作るために、磐田西高校の西
にレンガ工場ができて、市街地でたくさん使
われました。
【司会】
商品価値としての伊豆石の流通は、
明治以降ではないかというお話でした。一部
硬い伊豆石が墓石として使われているという
お話もありました。明治以降に普及していく
ということですが、加藤先生いかがでしょう
か。
【加藤】
墓石についてお話します。中世の墓
石は、五輪塔であったり宝篋印塔ですが、遠
州灘に面した五輪塔や宝篋印塔は、中世段階
では森町産の砂岩を使っています。それが江
戸幕府の成立とともに、伊豆石に変わりま
す。福田から浅羽にかけての地域で一番古い
伊豆石は、元和年間(1610年代)のものです。
江戸時代になると、小杉先生がおっしゃった
ように、墓石の形状が変わります。薄い形の
ものになると、ほとんどが伊豆石で森町産の
石はほとんど使われなくなります。中世段階
では90%以上森町産の石だったものが、江戸
時代に入るとほとんどなくなります。例外的
に三河産の石が入ってきますが。変化する背
景には支配者層の交代によるものだと思いま
す。織田や今川から徳川に代わり、幕府と親
密な関係になった人が伊豆石を手に入れるこ
とができるようになったということです。
【司会】
まだまだ研究の余地が残されている
ということですが、江戸時代に伊豆石を用い
たのはほんの一部富裕層に限られ、一般的に
伊豆石が用いられるのは明治期以降、明治に
入っても墓石に伊豆石が使われるのですか。
【加藤】
明治の墓石には興味がないので、調
べていません。
【司会】
ここで会場からご質問を受けたいと
思いますが。
【会場】
天竜川の変遷という話がよく出てき
ていますが、佐口先生の資料のなかに古地図
がありまして、奈良・平安時代の古天竜川が
三方ケ原台地に寄ったところに書かれていま
す。小杉先生の資料25頁の地図(本紙175頁)
や加藤先生の資料13頁の地図(本紙116頁)
を見ていると、荘園の位置が書かれています
が、平安時代には大きな流れが磐田原台地の
近くを流れています。戦国時代には、加藤先
生の資料では大天竜川と小天竜川という記載
がされています。天竜川の流れが磐田の発展
や形成に寄与してきたことは、これまでのお
話でよくわかりました。
天竜川の流れの変遷についてまとめていた
だきたいことと、天竜川の流れの変化ととも
に生活も変わり、新たな信仰心も生まれてき
たと思うのですが。
【佐口】
ご指摘のように天竜川の流れは大き
く蛇行し、時代によって流れが変わっていま
す。池田荘は天竜川の西側にあった訳ですが、
家康の時代になると池田荘の西側を流れてい
ます。現在の流路になったのは戦後のことで
す。下流域も東派川、西派川と二つの流れが
あったのですが、東を閉じて現在の流路に
なっています。古代奈良時代では麁玉川とい
う記述があり、磐田でも被害を受けた記録が
ありますが、そんな関係で流路が西側に書か
れたものと思います。
─ 208 ─
パネルディスカッション 歴史の懐あれこれ
【加藤】
天竜川ではないのですが、今之浦の
話をしますと、戦国期横須賀城は海岸線に
あったので、年貢の積み出しは横須賀で行わ
れていました。袋井市の馬伏塚城のところま
では湖でした。ここから今之浦にかけて大き
なラグーンが広がっていました。それが1498
年の明応の地震によって閉じられ、今之浦と
馬伏塚城の間にあったラグーンは遮断されて
しまいます。馬伏塚城がなぜ造られたのか、
それは船が付けられたからです。徳川家康も
高天神城を攻めるときにここを本陣として使
う訳ですが、水が引いていくに従い城を移さ
ざるを得なくなります。最終的に横須賀に移
される訳です。
徳川家康が浜松のあの地に城を造ったの
は、天竜川の河川交通が利用できたからです。
浜松城が造られた頃は、今のような天竜川で
はないですが、小天竜として十分河川交通が
利用できる価値があった訳です。
【中山】
寺谷用水の取水口の変遷についてで
すが、資料の10・11頁(本紙101・102頁)を
ご覧ください。現在寺谷に取水口の跡が残さ
れておりますが、これは天正18年のものであ
りますが、それ以降年表で示されているとお
りですが、豊岡村史に詳しく書かれておりま
す。取水口は変遷しますが、それは明応の地
震や、洪水によって埋まってしまったことに
よるものです。
聞き取り調査でも、明治44年の天竜川が決
年 号
内 容
715
遠江国に地震が起こり、山が崩れて麁玉河の流れを堰き止め、数十
日後決壊して敷智・長下・石田三郡に被害が出る
続日本紀
853
遠江国の申請により、広瀬河に渡船二艘を増置し、四艘とする(広
瀬河は、現在の馬込川の流路に一致)
日本文徳天皇実録
平安時代中頃
文 献
天ちうという河のつらに仮屋を設け休養する
更級日記
1171
池田の荘の範囲として、
「東は天龍河を限り」とある
遠江国池田荘立券状
1184
駿河国では、富士川、天中、大井川という大河を渡る
源平盛衰記
1223
(東に向かって)暗いうちに池田を発ち、水面三町程の天中川を渡
るが、流れが早く波が激しい
1238
東から西へ向かい、天龍河を渡り池田宿に着く天龍河には浮橋が架
けられていた
吾妻鏡第三二
1242
天流という渡し場に着いたが、川は深く、恐ろしいような流れであ
る秋の増水で、往還する旅人は容易に向こう岸に着けない。この川
で溺れ死んだ人も多いと聞く。
東関紀行
1277
天りうの渡り、舟にのる
十六夜日記
1574
天龍川は本流としての大天龍と、分流としての馬込・小天竜からな
る
浜松御在城記
1616
池田は天竜河の東にある。大天竜と小天竜の二つの河があるが、
丙辰紀行
浜松の傍を流れる細流を小天竜という。
1624
天竜川の流れは四つに分かれていて、船橋が架かっている。
東槎録
1627
大天竜川と小天竜川があり、二つの渡しがある。
(
「中洲に立って西
を見えると茅屋敷があり、池田の宿である」と書いているが、古書
から得た知識であるとの説あり)
丁卯紀行
1648
鹿島橋下で小天龍の締切工事始まる
1674
彦助堤の工事着手
1875
金原明善は、天竜川の築堤を目的とする治河協力社を設立する
1951
天竜川が1本の河道に固定される
【引用文献】
1988年 「浜北市史 浜北と天龍川」浜北市
1999年 「東海道と天竜川池田渡船」豊田町誌別編Ⅰ 豊田町
─ 209 ─
海道記
環境と経営 第22巻 第1号(2016年)
壊した大洪水では、寺谷用水は完全に埋まっ
てしまったようです。その後神田口が設けら
れ、現在は船明ダムから取水しています。
【司会】
市制合併10周年ということで企画し
ました。歴史を題材にした講座は5年前にも
公開講座を開いておりますが、是非5年後に
三たび開いていただけるとありがたいです。
今後磐田が歩みを進めていくうえで、何が
必要なのか、こんなことに留意したらと言っ
た意見がありましたら、お願いしたいと思い
ます。
【中山】
一点は、民具ですが、このままいく
と土中から出てこない「考古遺物」になって
しまうという危惧を感じています。
用途に関する聞き取り調査が必要であると
いうこと。それに民俗をやっていてつくづく
思うことは、まちづくり、地域との一体感を
もって、地域の人たちが住みやすいまちにす
るために、民俗・歴史の記録化ということは
大切なんだということをご理解いただきたい
と思います。
【加藤】
沼津市の高尾山古墳の話をしました
が、遺跡は一度潰してしまうと元に戻すこと
ができませんので、慎重な対応をしていただ
きたいと思います。城を例にあげれば、社山
城が残っておりますので、現状のまま残して
いく、そのためには間伐や伐採をやっていた
だきたい。見付宿ですが、以前は江戸時代の
遺産は遺跡認定がされていなかったこともあ
り、これまで調査が行われずにきました。見
付宿を復元したいとか、その実態を調べよう
としても、すでに壊されていてできません。
そうなる前に慎重な対応をしていかないと、
歴史は残っていかないということを頭に留め
置いていただけるとありがたいです。
【佐口】
駅前にあります善導寺の大クスに象
徴されますように、地域の人たちの思いが
あって残されてきました。事を起こすときに
は、そんな思いも理解しながら進めていきた
いと考えています。また調査で得られた資料
を、今ある生活の中に活かしていくことも、
私たちに課された責務と考えています。
【小杉】
桶ケ谷沼を歩いていてびっくりしま
した。
「猪に注意」との看板が立てられてい
ました。猪は、国道1号線まで降りてきてい
ます。なぜだと思いますか。耕作放棄地が増
えてきているからです。
「野生動物との共生」
とも言われますが、農作物が食べられてしま
うのです。それで海外から食料品を輸入する
というのはおかしいと思いませんか。皆さん
で百姓をしましょう。
【名倉】掛塚の話をしますと、平成26年に廻
船問屋だった津倉家が磐田市の所有になり
まして、公開までは至っておりませんが、そ
の活用方策について模索しているところで
す。大きな立派な家ということではないので
すが、家の中には市の指定文化財になってい
る福田半香や平井顕斎の描いた襖絵があっ
たり、材木問屋だったので材木も贅沢に使わ
れたりしています。かつて小江戸といわれた
ほど栄えた様子をもう誰も知らない状況です
が、建物が残り廻船業を営んでいたというシ
ンボルが残されたことが貴重で、磐田市には
敬意を表したいと思います。
人口減少や経済状態を考えると、なにもか
も残していくことには課題が多く、難しい状
況になっています。自分たちが住んでいる場
所の歴史や、自分の生い立ちなど、アイデン
ティティーの基礎を固めるには、地域の歩ん
できた歴史を学ばなければいけないと感じて
います。古いものを残していかなければいけ
ないという意味は、そんなところにあるので
はと感じています。経済を考えると非常に難
しい訳ですが、行政に頼らないで、こうした
市民講座を介して学んでいくことが大事だと
思っています。声を出さなければ潰されてい
くという時代になっているので、このような
機会を今後もつくっていただき、皆さんと一
緒に学び考えていければと思っています。
【司会】
ありがとうございました。最後に講
師の皆様に拍手をお願いいたします。
─ 210 ─
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