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2001 年 12 月 2 日 主日説教

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2001 年 12 月 2 日 主日説教
2001 年 12 月 2 日
主日説教
題目:強盗に襲われた者の隣人
聖句:ルカの福音書
第 10 章 30 節~37 節
説教:チョ-・ヨンギ牧師
私は皆さんと一緒に「強盗に襲われた者の隣人」と言う内容で恵まれたいと思います。
一人の律法専門家がイエス様を試そうとして、“先生、何をしたら永遠のいのちを自分
のものとして受け入れる事ができるでしょうか?”と言いました。この時、イエス様は、
「律法には何と書いてありますか?あなたはどう読んでいますか?」と言われました。す
ると、この律法専門家は、“『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くし
てあなたの神である主を愛せよ。
』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。
』
とあります。
”と答えました。イエス様は「その通りです。それを実行しなさい。そうす
れば、いのちを得ます。」と言われました。するとこの律法専門家は、
“では、私の隣人
とは、誰の事ですか?”と言いました。イエス様は答えて言われました。「或る人が、
エルサレムからエリコへ下る道で強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物を剥ぎ取
り、殴りつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司が一人、その道を下って来
たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。同じ様にレビ人も、その場所に来て彼を
見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに
来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリ-ブ油とぶどう酒を注いで、
包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナ
リ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげて下さい。もっと費用
がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中で誰が、強盗に襲われた者の隣人
になったと思いますか。」彼は言った。“その人にあわれみをかけてやった人です。”す
るとイエスは、「あなたも行って同じ様にしなさい。」と言われました。この御言葉は、
今日、私たちに教えて下さる意味が深いのです。
第一、ここで私たちが考えて見たい事は祭司です。
この祭司は、今日においての聖職者即ち、牧師や伝道師、長老などを意味します。皆
さん!この祭司は律法を保存し、解釈し、教える律法主義者なのです。律法の目で見ま
すと、常に法律を犯す事だけが見えて、良くやった事は見えません。ですから、この祭
司は、強盗に襲われて半殺しになって倒れている人を見る時、この人の良い点は全然目
に見えません。律法の目で見る時、その人の誤った点だけが見えるので、彼は、その場
で叱るしかなかったのです。“何故、この様な行いをしたのか?”
“何の為にエルサレム
を離れてエリコに下りて来たのか?”“何故、信仰生活を離れて、浮き世に下りて行っ
たのか?”と叱るしか術がなかったのです。そして、“けしからん”と教訓して、二度
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としてはいけませんと叱った後、半殺しになった強盗に襲われた人をそのまま見捨てて、
同情や慈悲や愛を施さないで通り過ぎてしまいました。それは、律法は私たちを絶対的
に同情するとか、愛や憐れみを施す為に与えられたのではありません。律法は、私たち
の罪を指摘し、審判し、判断する為に与えられたものです。祭司は律法主義者ですから、
罪を指摘し、審判し、判断するだけで、愛とか、同情とか、慈悲は施す事はできません。
ローマ人への手紙第 12 章 15 節から 16 節に、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者とい
っしょに泣きなさい。互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低
い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。」と記されてありま
す。しかし祭司は、その様にする事ができませんでした。律法主義者であったからです。
律法の眼鏡をかけて見ますと、皆、誤った事だけが見えるので、審判し、判断し、罪に
定めるしかないのです。慰労し、同情し、愛し、憐れみを施す事はできないのです。夫
が律法主義者であったら、妻の誤った点だけをしきりに指摘し、叱り、判断しますので
妻は耐える事ができません。又、妻が律法主義者であったら夫を何時も非難し、攻撃し、
指摘して罪に定めます。ですから、その妻とは一緒に暮らす事ができません。律法主義
者的父母の下にいる幼子は常に父母があまりにも厳しく叱り、審判し、欠点を指摘し、
判断する為、父母の前から出て来て、心を開き対話をし、愛を分かち合う事ができませ
ん。韓国の家庭制度が、父母たちが大概、律法主義者となって子どもたちを常に審判し、
評論する為、父母の膝元では子どもたちが遊ばないで父母を離れ、外に出て遊ぶ傾向が
多いのです。皆さん!聖書に見ますと、ヨブの親友がいます。ヨブは子どもと財産を皆
失い重患者となり、凄惨に心身に傷を受けておりました。ところが、ヨブの親友たちは
ヨブに悔みを言って慰めてやろうと来ました。エリファズ、ヒルダテ、ツォファルなど
がやって来て遠くから目を上げて彼を見ましたが、彼らは七日七夜、自分の上着を引き
裂き、ちりを天に向って投げ、自分の頭に撒き散らしました。その七日間は良かったの
ですが、しかし、その次の日からは順番に彼らはヨブを叱り、凄く罪に定め審判しまし
た。彼らの教訓や叱りの内容が誤ったのではありません。聖書を読んで見ますと、ヨブ
の親友たちはヨブに教訓したり、訓戒したり、罪に定めたり、審判する言葉は皆、正し
い言葉です。しかし、病人に幾ら良い薬であっても、処方を誤りますと毒となるのです。
彼らはヨブを審判し、判断し、罪に定めてはならなかったのです。ヨブが必要としたの
は理解と同情と慈悲と愛であったのです。苦痛に勝ち抜く力と治療が必要であり、ヨブ
を審判し、罪に定め、判断したのは過ちであったのです。神様さえも後でヨブの親友た
ちをお叱りになりました。ヨブの親友たちがヨブの所に来て教訓し、罪に定めたのは過
ちであるから悔い改めなさいと仰せになりました。彼らの言葉は一々正しい言葉ではあ
りましたが、しかし、その当時のヨブに必要なのは、その様な審判や判断や叱る言葉や
罪に定める事ではなく、同情と、愛と、慰めが必要であったのです。皆さん!強盗に襲
われた人の立場をご覧なさい。この強盗に襲われた人が半殺しになって死にかけている
のに、教訓や定罪は、彼には何らの助けになりません。
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マタイの福音書第 9 章 12 節から 13 節に、「イエスはこれを聞いて言われた。
「医者
を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけに
えは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招
くためではなく、罪人を招くために来たのです。」と言われました。イエス様さえも、「罪
人を見て定罪し、審判し、叱ったら何の慰めになり激励になるのでしようか?」と言わ
れました。赦しと愛と恵みが必要であり、審判とか罪に定めるのが必要ではありません。
具体的で実際的な愛と慈悲が必要であったのです。
ヤコブの手紙第 1 章 27 節に、「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、
やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。」と
記されています。ろくでもないくせに、自分はこの世の誰よりも立派だと自惚れて自慢
するよりは、孤児ややもめたちを良く世話して助けてやる、この様な事が真実で敬虔な
信仰であるとの事なのです。皆さん!祭司、即ち、今日の聖職者たちを象徴するこの祭
司たちは、霊的優越感を持ちやすい立場に置かれています。この人たちは容易く隣りを
審判し、批判し、罪に定めます。
ガラテヤ人への手紙第 6 章 3 節に、「だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱで
もあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。」と記されてありますが、祭司
や聖職者たちは、一般の人たちよりは高い地位にいると思って自惚れて錯覚する時が多
いのです。それで自分を顧みるよりは、他人を罪に定め審判するのを好み、同情心や慈
悲は施しません。
ホセア書 第 6 章 6 節に、「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のい
けにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」と記されてあります。慈しみは喜びますが、
律法的いけにえは喜びませんと仰せになったのです。苦痛を受ける人を理解し、同情し、
愛するよりは、罪に定め、審判するのが即ち、祭司たちの犯し易い過ちであるのです。
また、その様に犯しているのです。今日において主の僕や聖職者たちが誤謬を犯すのは
愛と同情と慈悲を施す事よりは、罪に定め、審判と判断をする傾向力が多いと言う事な
のです。鶏を育てて見ますと、鶏小屋の中で病気になった鶏がありますと、そばに来て
庇ってやり慰めてやったら良いのに、他の鶏が来て傷ついた所を嘴でほじくって結局は、
内臓が出て来て死なしてしまうのです。病気になった鶏は、他の所に移して置きません
と、病気になった鶏は健康な鶏と一緒に置きますと嘴でほじくって殺してしまうのです。
今日、私たちの教会を見ますと、鶏のような信徒が非常に多いのです。病気になった聖
徒さんがいますと、行って罪に定め、審判し、嘴でほじくってしまうのです。彼を庇っ
てやり、慰めてやり、励ましてやり、愛して助けてやろうとはしないのです。
ヤコブの手紙第 2 章 13 節に、「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、
あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」と記さ
れています。皆さん!ですから祭司たち、即ち聖職者たちが特に注意しなければならな
いのは、彼らは霊的な優越感を持って律法的に他人を審判し、判断し、罪に定める事を
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あまりにも良くします。しかし、慰めてやり、励ましてやり、愛し、治療してやる事に
は疎かになるのです。ですから祭司たちは、この強盗に襲われた人、半殺しになった人、
血みどろになった人を助けないで、審判し、教訓して離れて行ってしまったのです。
第二、私たちがここで見ますとレビ人がおります。
レビ人は、一般聖徒に比喩しております。このレビ人には非常に個人的な人がいます。
聖殿の儀式だけを執行すれば良いのであり、同情とか、愛とか言うのは自分が知った事
ではないと思います。強盗に襲われた人を見ながら無関心に通り過ぎて行きました。こ
れは私のする事ではない。私は、聖殿で儀式だけを執行すれば良いのだ!私が何で同情
とか、愛とか、このような事を施す必要があるのだろうか?と思います。今日の現代生
活の人たちは、段々と利己主義的で自己本位主義的で、個人主義が非常に発達されまし
た。しかし、珍しい事は、アメリカの9月 11 日のテロ以後に発生した現象の一つであ
りますが、結婚ブ-ムが起った事です。不安な生活に揉まれたアメリカ人の安息処はひ
とえに、家族だけであると言う事を悟る様になったのです。彼らが今までは、派手な独
身生活を主張した若者たちも、これからは一人暮らしの時、危機に出会った時には誰も
慰めを受ける者がなく、慰めてくれる人もないので、人生が非常にきつくなったと言う
事を悟り、一緒に不安を分かち合い励ましてくれる伴侶を探す様になり、今日のアメリ
カでは結婚関連企業が非常に好況していると言っています。人間は平凡な時には個人主
義で、独りで自己中心に暮らすのが良い様に思われますが、危機に出会った時には、必
ず、慰めたり、励ましてくれる隣人が必要となるのです。今日の私たちの平信徒を、こ
のレビ人に比喩して見る時、非常に個人主義的であるのです。聖日に教会に出席して礼
拝を捧げ、“私は十分の一献金を良く捧げます。教会の行事にも良く参加します。しか
し、周囲にある霊的、精神的、肉体的、強盗に襲われた人は、私の知った事ではありま
せん。そんな事は牧師さんが知った事であり、長老さんや勧事さんや執事さんたちが知
って執行する事であり、私がする勤めではありません”と言って避けて行ってしまうの
です。しかし、聖書には、マタイの福音書
第 19 章 19 節に、「 あなたの隣
人をあなた自身のように愛せよ。」と記されてあります。私たちの周囲にある小さな事
から考えるべきで、初めから社会的、国家的、世界的単位で考えてはなりません。あな
たの隣人をあなた自身の様に愛しなさいと記していますから、“私が全財産を売り払っ
て、あの貧しい人たちを顧みてやり、又は、大きな物質を持って孤児院とか、養老院な
どを顧みてやり、ホ-ムレスを顧みなければならない。”と考えるから怖じけづいてし
まうのです。あなたの隣人をあなた自身の様に愛しなさいと言うのは、私たち隣人の非
常に小さな事から関心を注いで愛と同情と助けと治療を施しなさいと言う事なのです。
皆さん!私たちの教会でする事をご覧なさい。聖徒さんたちの小さな真心が集まって大
きな仕事をしています。廃品回収を見ましょう。皆さんが教会に来る時、小さな古新聞
やボ‐ル箱などを持って来ますが、これが集まって、これを売った代金で心臓病の子ど
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もたち 3,059 名を手術してやりました。塵も積もれば山となるとの諺がありますが、至
極小さな行いで隣人を助ける事ができたのです。農漁村未自立教会も、皆さんが毎月
1,000 ウォンずつ献金して下さったのが毎月 300 名以上の牧師さんの月給を助けて上げ、
農漁村で牧会をする事ができる様にして上げているのです。皆さん!流行を過ぎ去った
着物とか、余分の着物、また恵みのむパン運動などが今まで、合計2億7000万ォン
となって国内外の数多い苦難を受ける人たちに助けの手を差し伸ばす事ができたので
す。14年間、毎年私たち聖徒さんが献血をしましたが、おおよそ5万6000人が献
血をしたのです。そして誠米も今年度を見ますと、もはや 1,200 叺が支援されました。
少しずつ持って来る誠米が集まって 1,200 叺となって、これを必要とする人たちに助け
の手を差し伸ばす事ができたのです。
ガラテヤ人への手紙第 6 章 10 節に、「ですから、私たちは、機会のあるたびに、す
べての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。」と記されていま
す。ですから、私たちはレビ人の様に平信徒ではありますが、良い隣人とならなければ
なりません。良い隣人とは何でしょうか?大きな仕事をしたから良い隣人になるのでは
なく、非常に小さな事でも愛と、慈悲を施し、批評とか、定罪とか、無関心になっては
ならないと言う事なのです。
ルカの福音書第 6 章 36 節から 38 節に、「あなたがたの天の父があわれみ深いように、
あなたがたも、あわれみ深くしなさい。さばいてはいけません。そうすれば、自分もさ
ばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。
赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。与えなさい。そうすれば、自分も与えら
れます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふとこ
ろに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらう
からです。」と記されています。ご覧なさい。非常に小さな隣人との関係で、批評しな
いで賞賛してやり、定罪しないで赦してやり、憎まないで愛してやる、この様な事が私
たちの隣人を私たち自身の様に愛する事となるのです。大きな事をしてこそ、隣人を自
身の様に愛する事ではないのです。
第三、ここで考えて見たい事は、善良なサマリヤ人の行動であります。
その当時のサマリヤ人は、祭司や、レビ人が犬だと取り扱い、不潔な人たちだと思っ
て互いに付き合いもしない人たちであったのです。イエス様がこの様に衝撃的で極端的
な例を上げて、所謂、信じる人たちの偽善を容赦なくお叱りになったのです。サマリヤ
人は律法主義者でもなく、霊的優先主義者でもなく、個人主義者でもなく、無関心主義
者でもありませんでした。彼は傷ついた隣人を憐れむ心を持った平凡な人であったので
す。彼は心の中で愛を持って隣人を助けてやり、一緒に栄え様とする心の持ち主であっ
たのです。これこそ、人生においての共同体の意識を持っていたのです。人間は人間を
助け合って暮らさなければならないとの考えが、彼の心の中にぎっしりと満たされてい
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たのです。別に社会的な地位も無く、犬の様に取り扱われ、教育も無く、平凡な人では
ありましたが、人類共同体の意識を持って、人間は人間を助けながら暮らさなければな
らないと言う心の持ち主であったのです。
コリント人への手紙第一 第 12 章 25 節から 27 節に、「それは、からだの中に分裂が
なく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし、一つの部分が苦しめば、すべての
部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」と記され
ています。私たちは皆、共同体に属します。一緒に苦しみを受け、一緒に楽しみ、一緒
に栄光を体験し、一緒に重荷を担う共同体となって暮らして行かなければなりません。
“あなたはあなたで、私は私です。あなたが死んでも生きても私には、何等の関わりが
ありません。”とこの様に個人主義で暮らしますと私も死に、相手も死んでしまうので
す。このサマリヤ人は強盗に襲われて半殺しにされて血みどりになって倒れていた時、
彼を祭司の様に来て批評し、叱り、定罪する律法主義者でもなく、レビ人の様に知らん
振りをして通り過ぎる個人主義社でもありませんでした。彼は同情と、慈悲と、愛のこ
もった心の持ち主であったのです。
コリント人への手紙第一 第 13 章 13 節に、「こういうわけで、いつまでも残るもの
は信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」と記されています。
愛を持っていてこそ、共同体の中で一緒に暮らして行く事ができるのです。家庭は小さ
な単位での共同体であるのです。父親、母親、子どもたちなど、愛で団結した共同体と
なって、悲しみも、喜びも、苦痛も、楽しみも、一緒に分かち合わなければなりません。
私たちの社会も共同体であるのです。今日において地球は一つの部落なのです。地球体、
共同体の意識を持って一緒に重荷を背負って暮らしてこそ、平和に暮らして行く事がで
きるのです。
コリント人への手紙第 13 章 13 節にある御言葉の通りに愛が第一なのです。
ヤコブの手紙 第 2 章 14 節から 17 節に、「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があ
ると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰が
その人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、
また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、そ
の人たちに、
「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。
」と言っても、も
しからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰
も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」と記されています。
私たちが実際に生きた信仰を持っていたら、隣人に対した深い関心を持って共同体意識
で、隣人と一緒に重荷を分かち合う人生を営まなければなりません。ですから、この善
良なサマリヤ人は、強盗に襲われ、半殺しにされ、血だらけになって倒れている人を見
て家畜に乗せて宿屋に連れて行き、お金を払って助けてやりました。無いのに無理をし
て助けてやりなさいと言うのではありません。大げさに他人からお金を借りて助けてや
りなさいと言うのでもありません。自分の持っているぶどう酒を注いで病菌を防ぎ、オ
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リ-ブ油で潤わせ、そしてほうたいを巻いてやり、家畜に乗せて宿屋に連れて行きまし
た。彼は自分の持っている物で、この人に愛と慈悲を施してやったのです。律法主義者
である聖職者たちの様に、非難し、攻撃し、批評し、判断し、定罪して通り過ぎて行き
ませんでした。レビ人の様に個人主義的に“これは私のする勤めではない。私が何で関
わる必要があるのでしょうか?”と無関心に通り過ぎて行きませんでした。彼は共同体
意識を持って、愛を持って、自分の持っている物で、彼はぶどう酒とオリ-ブ油と包帯
を持って、巻いてやり、家畜に乗せて宿屋に連れて行きました。
ヨハネの手紙第一 第 3 章 18 節に、「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで
愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」と記されてあり
ます。又、詩篇第 112 篇 9 節に、「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は
永遠に堅く立つ。その角は栄光のうちに高く上げられる。」と記され、伝道者の書
第 11 章 1 節に、「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそ
れを見いだそう。」と記されています。
ペテロの手紙第一 第 4 章 8 節に、「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。
愛は多くの罪をおおうからです。」と記されてあります。ですから、このサマリヤ人は
最善を尽くして、この血だらけになった強盗に襲われた人を助けてやりました。そして
宿屋に連れて行って介抱してやり、デナリ二つを宿屋の主人に渡して“介抱してあげて
下さい。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。”と言いました。私たちの教
会がしている事が、この様な事ではありませんか?私たちの教会では、絶え間なく愛の
実践で強盗に襲われた人たちを助けてあげようと最善を尽くして来ました。エリム福祉
会館を建てて療養院、敬老院、青少年専門学校を通して、社会から疎外され、苦痛を受
ける人々を助けております。実業人連合会をご覧なさい。連合会と各宣教会では社会事
業、交通福祉、医療事業、奨学事業、法律相談、障害人後援、農漁村教会への後援、少
年少女家長後援会、愛の家建立会など、至る所に手を伸ばして困難な人たちに最善を尽
くして助けてやりました。私たちの善良な人たちであるNGOでは、北朝鮮救護事業を
継続しており、国内、海外教育事業などで愛と慈悲を施しております。教会では水害を
受けた人たちを支援し、愛の米を分かち合う運動をする、この様な事業が即ち、愛の実
践運動であり、これが即ち、イエス様を信じる人たちの眞なる隣人としてしなければな
らない仕事であるのです。歩き回りながら人たちを定罪し、審判し、判断し、苦痛を与
えるのがイエス様を信じる人たちのする仕事ではありません。自分だけが恵まれ、自分
だけが祝福され、自分だけが栄えればそれで良く、他の苦痛を受けている人々に関心を
持つ必要は無いと言う態度はイエス様を信じる人の態度では無いのです。私たちの教会
の優秀区域長表彰を受けたキム・ヨンチュン執事さんの証しを私が読んで見ました。彼
は店を経営してから負債が1億3千万ウォンにもなったので目の前が真っ暗闇になっ
てしまいました。到底負債を弁償する事ができないと思って自殺衝動までも起りました。
しかし、店を経営すると言いながら神様を疎かにした罪を悔い改めて、教会に来て毎日
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徹夜の祈祷をしながら悔い改め、罪を告白して今まで、自己中心に暮らして来たのが悪
かったから、これからは隣人を愛してやらなければならないと決心して、それからは店
を経営すると同時に、時間を出して熱心に隣人を訪問して顧みてやり、病を患い貧しく
飢えている人々を慰労し、励ましてやり、教会の援助を受けて愛の米を分け与え慰めて
やりました。その様に熱心に奉仕する間、多くの隣人が慰労を受け、激励を受けて再起
し、信じない人たちがイエス様を信じるようになり、この様な過程を通してか、神様が
祝福して下さって、店も段々と繁盛して負債も殆ど皆、弁償する事ができました。そし
て体の病気も直り、魂に幸いを得ている様にすべての点でも幸いを得、また健康な喜び
と楽しみを味わう事ができました。
ルカの福音書 第 6 章 38 節に、「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々
は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれ
るでしょう。」との主の教訓を体験したのです。この様に皆さん!私たちが善良な隣人
となる時、主は私たちに又、善良な隣人となられて私たちを顧みて下さるのです。
マタイの福音書 第 25 章 34 節から 40 節に、「そうして、王は、その右にいる者たち
に言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのた
めに備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたし
に食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であった
とき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気を
したとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。
』
すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空
腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差
し上げました。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見
て、おたずねしましたか。
』すると、王は彼らに答えて言います。
『まことに、あなたが
たに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちの
ひとりにしたのは、わたしにしたのです。
』」と言われながら、隣の最も小さい者たち一
人に関心を注ぎ、食べさせ、着物を着させ、慰めてやり、治療してやるのが即ち、主に
施すのであると聖書に記されてあります。大げさに事業を広めてやるのではありません。
非常に小さな事を持っても隣人に関心を注いでやり、愛を施してやるのを、主は絶対に
審判の日には忘れませんと言われたのです。
皆さん!私たちが常に、私たちの生活の中で隣人に対して関心を注ぐ時、それが自分
自身に関心を注ぐ事となるのです。それでは、私たちは、どのように暮らすべきでしょ
うか?今日において最も一緒に暮らすのが難しい人たちがキリスト教人であると言わ
れています。教会の地位が高ければ高い程目を光らせて隣人を定罪し、審判し、傷つい
た人たちには塩を振り掛けてごしごしと擦り、足で踏み躙ってしまうのです。これがイ
エス様を信じない人たちや、教会に出席してまだ信仰が弱い人たちが教会を見て批評す
8
る話しなのです。しかし、不信仰の人たちは大喧嘩をしても一緒に立ち飲み屋に行って
焼酎を飲みながらしこりを酒で流しますと、ハハハ!と笑いながら肩を組み合って皆、
忘れて暮らして行きますが、イエス様を信じる人たちは絶対に忘れません。赦してもや
りません。心の中でしっかりと敵愾心を抱いて何時までも抵抗をするのです。私たちが
本当にイエス様を良く信じますと言いながら、私たちが本当に良く信じているのかどう
かを深く顧みる時期が到来したのです。私たちの生活が祭司的なのか、レビ人なのかと
考えて見なければなりません。私たちが律法主義者となって、私だけが正しく、他人は
皆、誤っていると勘違いをして他人を定罪し、評論し、批評し、傷ついた人のところに
行って塩を振り掛け、足で踏み躙るこのような祭司的な役割をした事はないのか、そう
でなかったらレビ人の様に無関心になったり、個人主義的に自分だけ良く食べ、自分だ
け暖かく着て、栄えればそれで良いのだ、隣人は死んでも生きても私の知った事ではな
いと顔を背けて通り過ぎる人ではないかと言う事なのです。皆さん!イエス様が賞賛し
て下さった人は、ユダヤ人たちが蔑むサマリヤ人であったのです。彼は祭司でもなく、
レビ人でもなく、犬の様に取り扱われる卑賎なサマリヤ人を主は賞賛されました。慈悲
を施した人だけが善良なサマリヤ人であり、真なる隣人となるのです。皆さん!私たち
は果たして、私たちの生活の中で強盗に襲われた数多い人たちが心に血を流し、生活の
中で血を流し、困り果てている時、彼らに慈悲を施してやりましたか?私たちは彼らを
容易く評論し、審判し、定罪します。そうでなかったら顔を背けて無関心に暮らしては
居ませんか?彼らに何も言わずに慈悲を施した事がありますか?ヨブの友達のように
傷だらけになっているヨブを教訓し、批評し、定罪するだけで、ヨブを引き寄せ抱いて
やり、傷を介抱してやり、慰め、励ましてやりましたか?私の話しが誤った話しではあ
りません。幾ら正しい話しをしても、その時期に適った話しをしないと毒となってしま
います。良い話しが何故、毒になるのでしょか?処方箋を誤れば毒になるのです。傷つ
いた人には定罪とか、審判とか無関心ではなく、赦しと、愛と、慰めと、激励が必要で
あるのです。イエス様こそ、私たちの真なる隣人であり、善良なサマリヤ人ではありま
せんか?私たちが罪の虜となって世俗と悪魔に捕われ心が病に患い、、体が病に患い、
生活が呪われ、踏み躙られて地獄に落ち込まれる時、主がこの世に来られて私たちを定
罪し、審判し、踏み躙ったでしょうか?私たちに無関心であったでしょうか?そうでは
ありません。イエス様は私たちの為に、十字架に上られ、身を裂き、血を流されて、「わ
たしの与える肉を食べ、わたしの血を飲んで罪の赦しを受けなさい。聖霊を受けなさい。
慰労を受け、治療を受けなさい。祝福を受け、永遠の命の祝福を受けなさい。」と言わ
れたのです。主は、私たちに愛と恵みと祝福を与える為に、主の体と肉を裂いて私たち
に与えて下さった真に善良なサマリヤ人であったのです。イエス様は祭司長として来ら
れて私たちを定罪し、審判しませんでした。レビ人の様に私たちに無関心で、ご自分だ
けが神様を良く信じて暮らせば良いと言われながら天国に行かれたのではありません。
私たちの為に、犠牲の供え物となられたのです。皆さん!皆さんは、このイエス様に見
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習って善良なサマリヤ人の様に慈悲を施す善良な隣人となって暮らす事ができます様、
主の御名で祝福します。
“祈り”
愛に満たされ、聖であられる天の父なる神様!私たちはイエス様を信じる生活の中で
段々と誤った信仰を持つようになり、祭司的になって律法の眼鏡をつけて目を光られて
隣人を審判し、批評し、定罪し、踏み躙りました。どうぞお赦し下さい。或はレビ人の
様に、宗教的な儀式や形式だけを重要視して、自分だけが良く信じればそれで良く、隣
人が傷ついて倒れても、血を流しても、全然関心がないと言う個人主義的な生活をした
のをお赦し下さい。天の父なる神様!祭司でもなく、レビ人でもなく、犬の様に取り扱
われた卑賎なサマリヤ人は、共同体意識を持って心の中で愛と慈悲で、自分の持ってい
る物を持って最善を尽くして隣人を助けてやりました。天の父なる神様!私たちが大き
な金持ちでもなく、権力家でもなく、何かを多く持っていなくても、私たちがする事が
できる、私たちの力が及ぼす事ができる物を持って、非常に小さな事であっても愛と慈
悲を施して、キリストの愛を現わす聖なる信徒となり、善良なサマリヤ人、眞なる隣人
となれますよう助けて下さい。審判の日に王様から「非常に小さな者に施した事が、わ
たしに施した事なのです。」と賞賛され報償を受ける私たちとなりますよう助けて下さ
い。イエス・キリストの御名でお祈り申し上げます。ア-メン・・・
(KS.Kim 訳)
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