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プファルツ選帝侯国 (ライン・ プファルツ) におけるネーデルラント系
Title Author(s) Citation Issue Date プファルツ選帝侯国(ライン・プファルツ)におけるネーデ ルラント系カルヴァン派亡命者コロニーの形成とその経 済活動(1562∼1622):ドイツにおける改革派領邦国家とネ ーデルラント系来往者(1) 石坂, 昭雄 經濟學研究 = ECONOMIC STUDIES, 39(1): 40-69 1989-06 DOI Doc URL http://hdl.handle.net/2115/31818 Right Type bulletin Additional Information File Information 39(1)_P40-69.pdf Instructions for use Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 経済学研究 北海道大学 39-1 1 9 8 9 .6 プフアルツ選帝侯国(ライン・プフアルツ)における ネーデノレラント系カルヴ、アン派亡命者コロニー の形成とその経済活動 ( 1 5 6 2 " 1 6 2 2 ) 一一ドイツにおける改革派領邦国家とネーデノレラント系来住者一一 ( 1 ) 石坂昭雄 金属工業の農村や都市の企業家,手工業者,労働 I.はじめに 者を含み,かれらの移住がヨーロッパ商業の中 心地の大転換のみならず,工業生産力の大転移 1 5 3 0年代に始まるネーデノレラントの宗教改革 運動の広がりと, これに対するハプスブ、ルグ家 を惹き起こしたことは周知のことに属する。 ところで,初期の 1 5 4 5年頃までは,ネーデル の君主,カール 5世やフェリーベ 2世による過 ラント系プロテスタント亡命者のうちルター派 酷な迫害は, 1 6 0 9年に北ネーデノレラントがオラ は貴族やアントウェルベンの一部商人など少数 ンダ独立戦争に事実上勝利を収めるまで絶え間 に止どまり,中心となったのは再洗礼派(アナ 無く続けられ, この間,総人口の 10% , 8万 5 千人にも上るネーデルラント人が迫害や戦乱を パプテイスト)であったが,かれらは,主とし て,北ドイツ各地, とりわけポーランド領のヴ 逃れて,他郷に安住の地を求めて亡命した。勿 ェストプロイセンに逃れたのに対し,その後, 論 , このような宗教亡命者は, この時代, 1 6世 南隣のフランスから,あるいは直接スイスから 紀 ~17世紀初頭をとっても,ひとりネーデルラ カノレヴィニズムが浸透し,煉原の火の ごとき勢 I ント人に限られていたわけで、はなく,政治や戦 いで広く民衆を把え始めると,これに対抗する 争の動向と密接に絡みつつ,南はイタリアやポ 国家やカトリッグ教会側の弾圧も益々激しさを ルトガルから,北はフランス,イギリス,そし 加えた。その結果, これらカノレヴィニストは, てとりわけドイツの領邦間相互に頻繁に生じて 何度かの波をなして,エドワード 6世の下で宗 いた。しかし,ネーデルラントの場合は貴族や 教改革に踏み切った海峡の彼方のイングランド 知識人・聖職者に止どまらず,広い社会層を含 や,国境を接する同じ神聖ローマ帝国のドイツ んでいたから, とくに経済的には最も大きな衝 諸邦に逃れ,そこで亡命者教会を組織しつつ祖 撃を与えることとなったといえよう。すなわ 国への働きかけを続けた。こうして,イギリス ち,アントウェルペンを始めとする世界商業の (イングランド)とドイツ, とりわけライン地 中心地の大小様々の商人ニ金融業者層のみなら 6世紀を通じてネーデノレラント系カルヴ 方は, 1 ず,同じく当時工業的にも最先進地帯のひとつ ァン派の最大の圏外拠点であり, に数えられていた, フランドル=ブラパントの アリ一女王の即位によってイングランドが 新毛織物・綿織物・絹織物,あるいはリエージュ・ 1553~1558年の間帯カトリッグ化された時,イ ナミュール・リンビュルフの製鉄・真鈴などの ギリスのプロテスタントのみならずネーデルラ とりわけ,メ 1 9 8 9 .6 Y プファノレツ選帝侯閤(ライソ・プファノレツ)におけるネーデノレラント系カノレ ヴァソ派亡命者コロニーの形成とその経済活動C1 562~ 1 6 2 2 ) ト系宗教亡命者達も大挙してドイツに渡った のである。 散らばった多数のネーテ、ルラント系カルヴィニ ストの移住地の中にあって, のは,これらネーデルラント系カルヴィニスト が逃れた先の,隣接するニーダーライン地方や 北ドイツでは,ユーリッヒ,ベルグ, グレーフ ェ,マルクをはじめ有力な領邦すべては結局の ところなおカトリッグ側に止どまり,宗教改革 を導入した諸領邦も,ノレター派の領邦教会制に たっていたから,領邦としてはーーさらに, ド 5世 か ら 陰 に 陽 に 圧 力 を 加 え ら れた結果ー一一決してこれら異端のプロテスタン トを歓迎したわけではなかった。それゆえ,アイ ieEifelの 製 鉄 業 や ュ ー リ ッ ヒ の フェノレ山地 d 真鍋工業などの鉱山ニ金属精錬など農村に立地 する分野を別とすれば,彼らの亡命先は,終始, とりわけ, アーへン Aachen, ケノレン Koln, フ ラ ン ク フ ル ト ・ ア ム ・ マ イ ン Frankfurt am Main, プ レ ー メ ン Bremen, ハンブルク Hamburg などの帝国都市, ある いはヴェーゼノレ Wesel, エ ム デ ン Emden な ど比較的独立的な領邦都市に限られていた。し かし, こ う し た な か で , 丁 度1 5 5 9年 に オ ー バ ー ラ イ たヴィッテノレスバッハ系 Haus Wittelsbach の プ フ ァ ル ツ 選 帝 侯 国 Kur-Pfalz りを分家プ プファルツ選帝侯 国は一際ユニーグな位置をしめていた。という 圧倒的に都市, 4 1( 41 ) ン地方で最有力の領邦で世俗諸侯の筆頭であっ ところで,主としてライ γ 地 方 と 北 海 沿 岸 に イツ皇帝カール ( 1 ) 石坂 この場合でも,多くの都市で, これらカ ルヴァン派は受け入れ先の都市当局やカトリッ クやノレター派の教会,あるいは様々のドイツ人 市民層と絶えざる車L 牒を惹き起していた九 1) ネーデノレラント系宗教亡命者のドイツへの散住の 1 6世紀におけ 概観と研究状況については,拙稿 r るネーデルラント・プロテスタントのドイツ散住 ー←その経済史的概観一一 J ,北海道大学『経済学 研究』第2 7 巻第 1号 , 1 9 7 7 年 3月)および「ヴェス トプロイセ γ におけるネーデルラント系メンノー 1 5 2 5 1 7 7 2 ) J, 派コロニーの形成とその経済活動 ( ( ( 1 )北海道大学『経済学研究』第3 4 巻第4 号 , 1 9 8 5 年 3月 , ( 2 )同第3 5 巻第 1号,同年 6月 , ( 3 )同第3 5 巻第 2号 , 周年 9月〕を参照。 この他, F .A . Norwood,TheR eformationRefugeesa san S t u d i e si nChurchH i s t o r y , EconomicF o r c e( 5 ;Chicago, 1 9 4 2 ) ;R .vanRoosbroeck,Emi. g r a n t e n .N e d e r l a n d s ev l u c h t l i n g e ni nD u i t s . l a n d( 1550-1600) CLeuven ,1 9 6 7 ) ;d e r s ., “ D ie B巴deutungder Emigranten aus den r 1anden f u rd i e Neugestaltung d e r Nied巴 deutschenW i r t s c h a f tim1 6 .und1 7 .J a h r h u . n:F uhrungsk1 旬 以' t ed e rW i r t s c h a f t n d e r t ",i , i nM i t t e l a l t e r und N e u z e i t 1350-1850,I h r s g .vonH .H elbig ( L imburg/Lahn,1 9 7 3 ) 〔紹介:諸田寅「信仰の亡命者J C神奈川大学『商 経論叢』第1 4 巻第 1号. 1 9 7 8 年));H .S c h i1 l ing , I n n o v a t i o nthroughMigration:TheS e t t l e . “ ment o fC a l v i n i s t i c Netherlanders i nS i x t e e n t h -and Sevent巴enth Century C e n t r a l andWesternEurope",H i s t o i r eS o c i a l e / S o c i a l 19 8 3 ),7 3 3 . さらに.初期のオ H i s t o r y, XVI ( 司 ーノミーライン地方の亡命者教会全体の展開を明ら かにした最新の優れた研究としては.ベルギーの P h . Denis,Lese g l i s e sd 'e t r a n g e r se n1 うa y s r h e n a n s( 1538-1564) C P a r i s,1 9 8 4 )がある。 2) ここで問題となる領邦国家.プファルツ選帝侯国 の領域や国制については.後に必要に応じて触れ るが,我が国では.往々にして誤って用いられて いるので,若干の基本的事実をあらかじめ述べて おきたい。プファルツとはメロヴィンガ時代の宮 f a l z g r a f ,c omesρ. 7 l a t i n u sに由来するが, 中伯 P その後この職は地方における皇帝の裁判=行政の 最高代理職となりドイツ全土に 4つ置かれた。 その 1つで、最も重要で、あったライン宮中伯職 P f a l z g r a f s c h a f tb e i Rhein,c omes t a l a t i n u s Rheniを1 2 1 4 年. パイエノレン公 (ヴ、イッテノレス バッハ家)が世襲職として皇帝より与えられ.そ れ以来同家は周辺の小領主を保護と支配の下に置 き,また司教領や修道院領を併合しつつ次第に領 邦を形成して行った。これが領邦としてのライ ン・プファルツの起源、であるが,この間, 1 2 5 7 年 から,皇帝の空位またはイタリア在住時に皇帝を 代行する. 7人の選帝侯の筆頭の地位をえ咽プフ アノレツ選帝侯国 Kurfurstentumvond erP f a l z を称し, ドイツ皇帝の候補の資格を持った有力な 3 2 9 年旧バイエルジ公園の 諸侯となった。さらに 1 相続を争って,その北部(オーバー・プファノレツ O b e r p f a l z )をその領土に加えたが, その際定め られた,選帝侯位をバイエルン系とプファノレツ系 の両ヴィッテルスバッハ家で交替する協約は 1 3 5 6 年の黄金勅書 d i eGoldeneB u l l eにより,否認 されて, ここにヴィッテノレスバッハ家の 2つの系 統は完全に分離した。さらにプファルツ選帝侯 4 1 4 年に現バーデン中部の・オルテナウ O r 国ば1 4 2 3年にエル tenauの守護職 Landvogteiを. 1 42( 4 2 ) 39ωZ 経 済 学 研 究 ブァノレツロジンメルン家 Pfalz-'Simmern か し,刊一一宗教改事, ら入って襲いだカルヴァン派のブリード手ッヒ の移行に伴って,領邦経済の大掛かりな蒋舗を 3世〈数度侯) FriedrichI I I( d e rFromme) 遺られたやで一一領邦側の謹藍興業政策に支援 が , カノレグィニズム{改有支援 d ieReformierte されつつ,新産業を移様した。しかも,この場 Konfe話s i o n ) に基づいてその鎮邦教会を再繍 とりゐげカ/レヴィニエズムへ 寝存の領邦都市ではなく,宗教改革によっ ie しようと試み,いわゆる〈第 2次 宗 教 改 革 > d て廃止された農村の修道院を提供されて全く新 zweiteReformationの先頭を坊って, たな居設地を形成した点で,ブブァルツの事例 ドイツ 爵内の「改革派」藷侯のリ…ダーとなったこと はライン地方でも は , 紀 後 の ナ ン ト 勅 令 蕗l l : J こさいしてフランスのユ ドイツのブ口テスタシティズムの欝売や間 内政治にコたきな衝撃さ守与えたのみならず, この 小邦を否応、無しにフランス,スイス,イギザス, そしてなによりも独立運動の箕ただやにあった ネーデルラントとの潔い欝際的関わりのなかに 引き摺りこんだのであった。こうした中で,ブ ファルツは,ネーヅノレラント系の宗教亡命者合 積極的に受け入れ,神学者や知識人がハイデん べんグ大学や宮廷に揺かれて, て , カノレヴィニズム この領邦省ピドイツのみな らずヨーロヅノ 4 ・カルヴィニズムの 上 げ る の を 援 け た の み で は な L、。経務的に晃て も,様々の部門の多数の生産者達がここに定住 0の帝間都市と 4 5の皐号表後務領村落の守護撃 ザスで1 機~獲得して.さらにその努力を紘張 Ltc. o t ; :: t o . ブブアノレツ選手苦侯闘においても一一- I r 黄 金勅警2は各選帝侯閣の分畿には一定の綴擦を諜 してはいたものの一一.一子(長引相統制i が 芸 家 立してはおらず,いくつかの,一定の序列で、本家 に対する相続権を残した分量誌の伯鋲が創出された 反されたち Lていた り,ぎた家系新絶によち爵 i が , とりわけ. 1 4 1 0 年に分かれたツグァイブリュ ッケン f 白 骨 1 i ' iP f a l z Z w e i b r u c k e n および怒らに 1 4 5 9年にそこから分かれたジシメノレンイ良債 Pおl z Simmerr し ま す こ , パイ品ノレンにおけるノイブノレ グ偽領 P f a l z ' N e u b u r g( 1 5 0 5年〉とそれから出 たズノレツバッハ伯綴 P f a l z S u l z b a c h( 1 5 8 2年 〉 たどは,いずれもプブァルツ選帝侯閣のみならず ドイツ全体その後の歴史に大きな役割を演じた。 これらの点、?とついては,室長しき当り.L.H誕u s s e r, G e s c h i c h t e der r h e i n i s c h e n Pfalz ,2 1 対告. ( H e i de Ib母r g,1 8 4 5 ; N母udruck , Mannheim , 1 9 7 1 );蕊 J . Cohn,TheGovernm 記録 to ft h e 初 eP a l a t i n a t ei nt h eF i f t e e n t h Century Rh 9 6 5 ) ;V .P r e s s ,Calvinismusund ( O x f o r d,1 グ#符 g u nd Z e n t r 砕 T e n i t o r i a l s f a a t . Regie l b e h a r d e 認 d e r Kurtfalz 1559-1619 ( S t u t t g a r t,1 9 7 0 )などを参照。 a ニーグであり,また 1 グメーを滋え入れたドイツの鰭領邦の政 とりわけ多数の新都市建設の先取りでもあっ たり。 3) プファルツにおけるネ…デルラント系カルヴィ ストのロ悶ニーの廃史については,幾つかの散発 9 世紀米から出始めたさととし 的地方史的研究と. 1 伽n g e r 笠宮 i n d eの 発 生 史 の て外殴人教会 Frem 研究, とくに「ドイツ・ユグノー協会」の Gゃ s c h i c h t s b l a t t e rd記事 d e u t s c h 邑n H u g e n o t t e n V邑r e i n sがや心であり,経済史的研究氏務 1次 f 役界大壊えまでは有名なゴータイン E . Gothein 札“ Mannheimime r s t叩 J a h r h u n d e r ts e i n e s 九 Z e i t s c h r i f tfur d i eG e s c h i c h t e Bestehen日 削〔以下 ZGO 総長と監督), NF. IV d e sO b e r r h e i ( 1 8 8 弘 1 2 9 2 1 1; 恥 r s ., W i r t s c h a f t s g e s c 持g ren h i c h t ed e sSchwarzwaldes undder a z e n d e nL側 d s c h a f t e n( S t r a β b u r g,1 8 9 2 ),H, 6 7 5 王などで; 1 7 世紀のマンハイムに絞れたに1I: . Buhler, ど玄り‘ モノグラブィーとしては. F DieEntwicklungderT u c h i n d u s t r i eゐ~ Lamト u ndV記r w a l t u n g s s t u d i e n b r e c h t ( W i r t s c h a f t o n d 芭r 位rB 己主u c k s i c h t i g u n gBayerns, mitb色s 5 0 ;L e i p z i g,1 9 1 4 )を毒薬げうるのみであったが その後. L .Z i e h n e r,ZurG e s c h i c h t ed e rku ゆf a l z i s c h e 犯 Wollgewerbe 持t 17. U匁d 1 8 . J a h r h u n d e r t ( B e i h e f t2 2z u r Vi 桂r t e l j a h r 住 民h i c h s c h r i f t f u rS o Z I a l -undW i r t s c h a f t s g t e,S t u t t g a r t,1931) によって事大~く諮滋したコ 最近の研究としては, G .K a l l e r , “W a l l o n i s c h e undn i 邑d ♀r l茸n d i s c h ξ E x u l a n t e n s i巴dlungeni n 6 . J ahrhundert . Entsfehung d e rP f a l zim1 n O b e r r h e i n i s c h e und Stadterhebun~ど二 i S t u d i e n ,I I I ( 1 9 7 5 ), 3 2 7 3 5 1 ;d e r s ., " B e v o l k e r u n g und Gewerbe i n Frank 巴n t h a l, NeustadtundLambr 邑c h tam窓口d巴 d e s1 6 . Jahrhund 邑r t s七 i n: AusS t a d t -undL a n d e s g e s e h i c h t eSudwestde 起f s c h l a n d s .F e s t s c h r i f t 持t 7 5 . G e b u r t s t a g fur E r i c h Maschke z u (Ver 後f f e n t l i c h u n g e n der K o m m i s s i o r if u r h i c h t l i c h eLande 汰u n伽 ぬ B乳d e n ' W 設r t . g部 c 帳 2 繍 1 9 8 9 .6 プファノレツ選帝侯国(ライン・プファノレツ〕におけるネーデルラ γ ト系カノレ ヴァン派亡命者コロエーの形成とその経済活動 (1562-1622) ( 1 ) 石坂 それゆえ, プヌァルツ選帝侯国, 43(43) とくにライ 主義的大経営の形成が,在地のツンフト的手工 ン・プファルツにおけるネーデルラント系カノレ 業者や小売商人層などの小市民層の反発を招 ヴィニストの定住は,宗教改革期の宗教亡命者 き,かれらはカトリックにせよノレター派にせよ の経済活動に関する比較史的研究において, 反カルヴィニズムの急先鋒となっで宗教的不寛 と りわけ次ぎの 3つの観点からその独特の意義を 容政策を絶えず市会に働きかけた。それでは, 明らかにする必要がある様に思われる。 ( 1 ) 領 まったく新たな農村地域に, しかも既存の村落 邦国家自体がカルヴィニズムを採用したこの地 からも独立した定住地を形成したプファノレツに に定住できたことは,確かに, あっては,これらの新工業の移植と展開がどの ドイツにおける 他の移住地で見られた,様々の宗教上の抑圧と ような経過をたどったか,また, 不寛容からの解放を意味したものの,他方で, 現地のドイツ人への生産力移転が成功したか。 上から君主の手で導入され領邦教会の原理によ ( 3 ) このようなプファノレツの諸コロニーとドイ って立つドイツの改革派(カルヴィニズム)の ツ内の他のネーデルラント系移住地とがどのよ 領邦国家のなかで,国家権力や都市共同体に支 うな関係に立ったか。換言するならば,最も宗 えられることなく,下から信徒の自発的組織と 教的寛容を保証されたプファルツが,他の帝国 して誕生したネーデルラント系カルヴィニズム 都市に対してどの程度有利な地位を占めること がどのような地位にあったか,あるいはどのよ ができたのか。 うな影響を及ぼしたか。 ( 2 ) ドイツ諸都市にあ っては,新工業・新技術の移植ゃあるいは資本 temberg,B 7 5,1 9 7 5 ),1 4 1 7 1 ;d e r s ., “ Die BevδlkerungvonOtterbergundK a i s e r s l a u t e r nimS p i e g e ld e s Schatzungsbuchs von 1 6 1 1ぺJ a h r b u c hz u rG e s c h i c h t ev o nS t a d tund L a n d k r e i sK a i s e r s l a u t e r n, XIV/XV ( 19 7 6 / 7 7 ),1 1 9 1 2 7 ;d巴r s .,G e s c h i c h t ev o nK l o s t e r ,2 B d e .,(Ott 巴r bach, und S t a d tO t t e r b e r g 1 9 7 6 8 1 ) ;d e r s .,“ K u r p f a l z i s c h eE i n f l u s s e n:H . a u fd i eGrundungvonNeu-Hanau",i h r s g ., ) Bannasch undH .P . Lachmann, ( A u s G e s c h i c h t eundi h r e n H i l f s w i s s e n s c h a f t e n . F e s t s c h r i f tfurWalterHeinemeyerzum6 5 . V e r o f f e n t l i c h u n g e nd e rh i s t o r i G e b u r t s t a g( schenKommissionf u rHessen,4 0 ;Marburg , 1 9 7 9 ), 8 6 6 7 0 0; E .B u t f e r i n g “ ,Niederlandische Exulanten i n Frankenthal,Neuhanauund A l t o n a . Herkunftsgebiete,Migrationswege undAnsiedlungsorteヘi n:W.Ehbrechtund H . S c h i l l i n g, ( h r s g . ), N i e d e r l a n d e und N o r d w e s t d e u t s c h l a n d . FranzP e t r izum8 0 . S t a d t巴forschungen,A15;KolnG e b u r t s t a g( Wien,1 9 8 3 ),3 4 7 4 1 7 . この他, 1 6 世紀のプファ ルツ選帝侯国も含めた近世の西南ドイツ諸領邦に よる都市建設についての研究集会 Ne u z e i t l i c h e Grundungsstadtei nSudwestdeutschlandの シャープ M.Schaab らによる総括 (ZGORh, CXXXIII ( N F .XCI,1 9 8 5 ),1 0 3 1 5 5 Jが,他の 地域との比較や研究状況を理解するうえで極めて 有益である。 どの程度まで 本稿は,このような問題関心から, 1562年の最 年 ( 3 0年 初のネーデルラント人の来住から 1622 戦争の初期,カトリック=皇帝軍によるライン・ プファルツ占領)まで、の聞に限って,移住まで の経過や領邦側の宗教・経済政策,主要コロニ ーの建設とその行政・宗教制度,そしてその経 済活動を明らかにすることを試みたものであ る。その際,時代的下限を 1622年に置いたこと について一言しておかねばならなし、。周知のよ うに,プファルツ選帝侯フリードリヒ 5世は, 1618年 , ドイツのプロテスタント派諸侯のチャ ンピオンとして,君主たるハプスブノレグ家のフ ェルディナントに叛旗を翻したボヘミア国民か らその王冠を授けられたものの,反撃に出たカ トリッグ=皇帝軍にあえなく破: h , これがかの 30年戦争の発端となった。そ Lて , 1620~22年 にその領土はすべて占領されて選帝侯はオラン ダに亡命し,その後もこの地はスウェーデン軍 との争奪の的となって荒廃を重ねた。その子カ ーノレ・ルートヴィ γ ヒ Ka r 1Ludwigがプファ ルツ選帝侯として故郷に復帰できたのは,やっ と講和が成った 1648年のことであったが,経済 復興が軌道に乗ったのもつかの間, 1685年には 彼を最後にカルヴァン派のプファノレツ・ジンメ 44( 4 4 ) 、経済学研究 39-1 レ ノ γ家は途絶え, カトザッグのブプアノレツヰノ これな解明する ζ と七宗教改革期のドイツ イブソレク家 Pfalz-Neuburg に代わり, 解するうえ この るところが大きいと態われ 間,この地域の併合を狙うブランスから 1689~ るが, この点も,本論との関わりの範簡で関読 97 年と 1 7 0 1 " " '1 7 1 3 年の 2度にわたってその伎略 をうけ,菌土は再度3 0 年戦争に劣らず荒廃し するだけにして,別穣?こ譲ろうと思う。 た。こラしで,カトヲ y 庄カの下,手写カトリ ク先とブ口テスタント y グの君主とフランスの され,ナント勅令廃止後も,もはや, II.序曲一一迫欝を逃れて。イングランド のグラストンペリーからドイツの帝盟 都市フランクフルトへ…一 後続都議長の新たな外国人ブ口テスタントの受け 入れは不可能となるなど, ドイツの諾領邦のな ところで, ホーデノレラント人のカノレヴ 4 ニ ユ ス かでも畿も不幸な歴史をたどることになる。こ ト瀧が,ぞっとブファノレツ選帝侯恩に泊り うして,ブファルツのコ 同じ宗派の領邦君主三の毘諜の下で、安住の地をJi!. R ニーからは,独立な ったオランダへの還流やブランデジブ)レタヱプ 口イセンなどへの箆出が読さ仁 コ口ニー自体も 辛うじて生数残ったに議ぎなかった。勿論,ブ いだすに先立つ十数年間は,披らの槌国は勿論, ドイツでも, また多くのョ - pッパ言華麗でも, 宗教改革と間際政治の動向は,波乱を極めてお ブァルツにおけるこうした外国人議教亡命者の り,かれらをま, こうした情勢の変転に絶えず翻 遺議は,決して拭い去られてしまった訳ではな 弄され,ぜっかく得た亡命の地合捨てでは;3 く,今なお?ンハイム Mannheimを扮め幾つ ロッパの各地を転々としなければならなかっ かの都市の基盤自の町並み Quadratstadt と たのである。彼らがこのブブアノレツに定住する カノレヴァン派教会にその癌影を認めることがで までにも,それに先立って,;;tディッヰヱーさな きるものの, 1 9世紀初頭から欝く始まった,職 がらに繰り返し設i 閣と営難に溢れる旅を歩んだ 維や機綾・化学などを中心とするオ…パーライ し,また,その舞おには幾多の宗教改落史上の ン地方の産業革命の波にも,全くといってよ 署名な指導者が登場した。そこで,最初に,そ いほど接続するところがなかった。それゆえ, の指導者や中核となるグル…プが背負うことに 3 0年戦後については,議く簡単にその後の展開 なった激動の謡史,すなわち,後らが最終的に を見通ずに I 上どめたい。なお, この持題に薦議 ブファルツに落ち着くまで、に迫った道程を簡単 して, ブブアノレツ選帝侯国の損傷j 史的諸問瀬や に拾いてみたい。 '外交政策委と l あるいは同じプブアノレ 帝侯閣の領土でありながら宗教的にも醤舗もか なり異なったオ…パー・プファノレツ地域の展 開むなども我が障では殆ど研究されておらず, 4) とちあえず V .P r e s s, “ Zwischen V告r s ai 1 l e s undW i e n .Dぬ P f a l z e rK u r f u s t r e ni nd 日r d巴u t s c h e n G e s c h i c h t 日 d 邑r B a r o c k z e i t ", ZGORh,CXXX( 19 a 2 ),2 0 7 2 6 7~ど参照。 5 ) との点については.皇室し当たり V .P r e s s ,“Die 母 R eform 証t i o n (i nd邑rKurpf 註I z ",i n: } z w e i t H .S c h i l l i n g ,(h r 話8 ・ ) , D ier e f o r m i e r t eK o n - f e s s i o n a l i s i e r u n gi nD e u t s c h l a n d …D as P r o blemd e r} z w e i t e nR e f o r m a t i o n {く S c h r i f t 悲n 群 s g e s c h i c h t e, d e sV e r e i n sf u rR e f o r m a t i o n s 1 9 5 ;Gむ e r s l o h,泌総), 1 0 4 ω加を参照。 ( 1 ) グラストンベヲーのワ戸ン人亡命者コ口 ニ… (155令~1553:t手〉 ヅリストルから南に約3 0キ p ,サマセットシ ャ -S omersetshire の託陵地殺を抜けると, やがてかつてイングランドで議古で畿大の競模 を誇ったベネディグト派のグラストンベヲー修 GlastonburyAbbeyの跡にたどり着く。 かのアーサー王とその挺ギネグィアの墓所とし て知られるこの僧院も, 1 5 3 9 年ヘンリー 8世 の修道院解散と最後の僧読長ホワイティング RichardWhitingの処刑の後,金にして 1 , 10 00 *ンスにも上る何世絡もの階大切に保存怒れて きた宝物言ピトー?ス・クロムウ ""Jv Thomas 1 意書ふ 6 プファノレツ選守管後醤〈ヲイ γ ・プブァルア〉におけるネ…デノレ 7'./!-系カノレ グァシ派亡命言語立ロニ}の形成とその経済滋童書く1 5 6 21 6 2 2 ) ( 1 ) 石君主 45く 4 5 ) 出 。 た Cromwel1によって,残らず持ち去られた。 7 う iクランマー 物は荒れるに任ざまに石材と Lて勝手に切り取 さらに,とりわけ, 154 生 ' . . . , 46 年の激しい弾茂一一 られてそ ら まt, e号、では広々とした緑の敷地に遺る崩れか 0年我からカノレヴィニズムのネ…デルラ そして 5 かった廃虚が悲壮な葉しさを i 臨えて,在り L日 ント全土への浸透に対主えして, これを議蜜的に の壮豪華な姿な鵠ばせるのみである。だが, この 禁庄すべく試みられた大競撲な迫害ーーを命か 修道院跡が,短命に終わったとはいえ16 世純に らがら逃れて, おけ Qイングラソド初のフランド ノレ新毛機物工 ント入がドーバ…海挟きと結えて対岸のイングラ w 3 , OOO~3, 5 0 0大ものネーデノレラ 業導入の試みの舞台であったことは,いまでは ンドに渡った。後らは,国王の保護の下で亡 殆どひとの知るところでない汽 命者教会を組織じて母語であるワ P ン=ブラ γ ブラ?ン=::tランダ籍 V laams-Nede わ ングランドでは, 1547 年から幼レ新主 6世を補佐した棋王文サマ-e')'ト Duke 0] Somerset (Edward Seymour) ぬおお〈低地ド千ツ議 N ederduit 器)で礼拝を カンタベヲー大主教トーマス・グラン吋- どに離を避けていた多くのネーデルラントのプ z ドワード Thom 加 C r a l l m e r ; Archbishopo fC a n t e r bury に韓けられつつイングランド国教会のプ ロテスタント化の事業を開始した。時あたか も , ドイツではシ品?ノレカルデン 戦争でプ口テ 行う ζ とを許されたが, シ旦トラースフツレグな ロテスタントの知識人も,イギリス し , この教認の指噂殺としての活動の場 をど与えられることになっ F 、官接侯主要が敗北し, その結果, アウグス スタン l こうしたエドワード 6世時代の亡命者教会の ブノしグの帝国議会は1548 年,皇子育カーノ"5世の うちで最も古いものは, 1547 年に始支払グラ n t e r i m 圧力の下で, Ir暫定協定J(仮話条協!定)I ンマ…の藤カンタペリーの教会である。すで を発布してこれを諸領邦や帝悶都市に狩し付け にイングランド東南部の海捧には単独為るいぬ た。このため, シ品トラースブ fレクや品ムデン 小人数のグループで、散発的にネーうわレラント入 などから多くのーーとりわけツヴ手ングり…派 ブ戸テスタンドが亡命してきていたが,ヘント の一一譲れた神学者や指導者が,その受け入れ からな命して当時はシ品トーラスブノレグのフラ 市や傾邦か を担否し,あるいは皇帝の、圧力で現3 ンス系亡命者教会で活動していたユ…テンホ… ら逐 bれたり身の窓畿を感じて,亡命や蒋移住 の途を選んだ。こうして, artin ブ…ツアー M Bucer ( B u t z e r ) をはじめ,ブァギウス Paul i e t r o恥 I [ a r t i r eV e r Fagius, ヴェノレミー1) P m i g l i,オキーノ, BernardinoOchino (イタ ohannesaLa 話c o, ワア人), ラス:f-(ワス正予)J Jan , ; : la s k i( ポーランド入), r1}アンデル F r a n c i s c oDryander (スペイン人〉などの …ロッパ大懇で第 1級の「改率派j 系統の人物 6 . ) グラストンベリーは1 1 2 1 年.市場町の特静香ピ与え o r o u g hに昇格し, ら れ , 14 役紀にほ特機都市 b 栄?えていたが, 1 6 世紀に は , とりわけ修遂撲の解体で, すっか今衰退し . B onham ,T h i si sG l a s t o ゅz b u r y ていたo N C G l a 話t o n b u r y C o n s e r v a t i o nS o c i e t y , ' 1 9 8 6 ), p . 2 1 . ヴ品 J~m Utenhoveが , 1548年夏にクランマ 大主教に詔かれてラ在住し,主としてワロ γ人 からなる亡命者数会一一ただし国王の正式の特 許状によらぬ…ーを組織し,フランス人ベリュ ーセル F r a n c o i sP e r r u c e lde1 aR i v i会r eに 7) B .M o e l l et', Deutsahland im ZeitaUer der . i o n( D 苦渋s c h告 G e s c h i c h t e 4),2 . R e f o . r m at Aなf l .( G o t t i n g 日n , 1 9 8 1 ), S .1 4 7 f f .;JD e c a v e l e, DeDageraadv a nd eR e f o r l 腕a t i ei nV l a a n d e r e n( 1520-1565),1( B r u s s e l,1975),p p . e t t e g r e e ,F o r e i g n Pグo t e s t a n t 8 2 3 ; A. P . 1 トC e n t u r y Londo匁 C o m m u n i t i e si nS i x t e e n t ( O x f o r d, 1986), p p . 2 3 2 4 ;P . D程お i s,Les Eg l i s e sd !e t r a n g e r saL o n d r ej u s q u 'a1 a然 o r t de C a l v i 1 ま :d el ' Eglisede ]ean L a s c o丘 l 'e t a b l i s s e m e n tduC αl v i n i s m e (M 毛m o i r ed e 1 ic e n c e,U n i v e r s i t ed 記 L i 邑g e ,1 9 7 3 / 4 ) . 崎 4 6( 4 6 ) 39 ・z 経 済 学 研 究 牧師の職が委ねられため。 しか L, こ の 教 会 は ユーテンホーヴェも 4人 の 長 老 の 1人 に 選 出 ざ 1549 年春に健康を害したユーテユィホーヴェが療 れ , 養のため大陸に戻った後すぐ消滅した。そし 系の「改草派」教会組織が誕生したのであるの。 て , 代 わ っ て 1550年 に 正 式 に 国 王 の 特 許 状 を 与 えられたロンドンのネーデノレラント人亡命者教 こう Lて 国 外 で , は じ め て ネ ー デ ル ラ ン ト こうした, ロンドンの教会とは別個に,フラ γ ド、ルの新毛織物工業の移植と旧修道院財産の 年からネ 会 が 発 足 す る 。 当 時 ロ ン ド ン で は 1547 ーデノレラント人プロテスタントの亡命者達は個 人の家や他の教会を借りるなど,不便を忍んで 礼拝を続けていたが, 1549年 末 に ワ ロ ン = フ ラ ン ス 系 が フ ラ ン ソ ワ ・ ヴ ォ ー ヴ ィ ル Francois Vauvi 1 1eを 牧 師 と す る 独 自 の 教 会 を 組 織 す る ことを非公式に認められた。この年の秋にロン ドンに戻ったユーテンホーヴェは, フラマン= 9 )F .C . Ebrard,Die franz δs i s c h r e f o r m i e r t e Gemeindei nFrankfurtamMain1554-1'904 ( F r a n k f u r t am Main, 1 9 0 6 ), S . 1 8 1 9; t .c i t .,p p .2 1 1 1 2 . イギリス側の P e t t巴gree,o ネーデルラント人亡命者教会に特許を与えた動機 としては, グマンマーの意図した宗毅改革のモデ ル教会をイギリス人に示すとともに,ネーデルラ ント人亡命者を亡命者教会に組み入れて,再洗礼 派の浸透を防止することもあった。このロンド ン・ネーデ、ルラント人亡命者教会の中心であるラ オランダ系も含めた正式の亡命者教会公認を運 スキ(ヤン・ワスキ ~aski 3日 イ ン グ ラ ン ド に 渡 っ て き た 動 し , 翌 年 5月 1 は,ポーランド王固め官房長官や大司教を歴任し た高名な同姓同名の人物を伯父に持つ名門貴族の 生まれであったが その福音主義的思想のゆえに ラスキの尽力をえて, 6月 29日 国 王 の 許 可 (7月 1499-Pii Ic zow1 5 6 0 ) 3 24日 公 開 特 許 状 ) に よ り シ テ ィ ー 内 の ア ウ グ ス 1543年から最終的にーーすでにそれ以前1539~41 チヌス派修道院(オースティン・フライヤー 年に国外に避難していたが一一国外亡命を余儀な くされ,かつて滞在したオストフリースラント伯 領の首都エムデンに摂政アンナにその領邦教会め 総監督として迎えられ,ツヴィングリー的プロテ スタンテイズムの導入とメンノー・シモンズを指 導者とする再洗礼派との理論闘争にその全エネル 5 4 8 年の『暫定協定』以後. ギーを費やした。 1 1548~ 9年にイングランドに, 5 9年にケーニヒス ベノレクのプロイセン公アルプレヒトの宮廷に一時 滞在した。彼の伝記としては,古典的な著作であ る H .D a l t o n. J o h a n n e sa L a s c o .B e i t r a gz u r AustinFriar) を 払 い 下 げ ら れ た 。 し か し 続 々 流入する難民の礼拝の場所はすぐ手狭となり, 10月 に は 同 じ く 市 内 の ス レ ッ ド ニ 一 ド ル 街 Threadneedle Street の セ ン ト ・ ア ン ト ニ ー 施療院 S t . Anthony Hospital の 礼 拝 堂 を 供 与され, ワロン=フランス系の礼拝に充てられ た 。 こ う し て ラ ス キ を 総 監 督 superintendant とし, ド ゥ ・ ク レ イ ネ 乱1aarten de Cleyne (ミクロニウス Micronius) とデーレン Wou- terDeelen (デラエヌス Delaenus) が オ ラ ン ダ=フラマン系の,ベリ,ューセノレとヴォーヴィ ルがワロン=フランス系の牧師を務めた。また 8 )F .W . Cross,Historyof t h e Walloon and HuguenotChurcha tC a n t e r b u r y( P u b l i c a t i o n 8 9 8 ),1 1 0 . o ft h eHuguenotS o c i e t y,XV,1 JanUtenhove(Gent1516-London1 5 6 6 )I 土. へントの富裕な都市貴族の家柄の出で¥早くから 5 4 4 年訴追を逃 福音主義の影響を受けていたが. 1 5 4 5年に一時,アーヘンの れてケルンに退去し 1 ワロン系を主とするネーデルラント人亡命者のた めに教会を設立するのに尽力した後, 4 5年からシ ュトラースブノレグに赴いてブーツアーら改革派の 指導者との交友を深めた。 C f r .,Decavele,a . W.,p .7 7 8 0 ;F .P i j p e r,Jan U t e n h o v e,z i j n L e i d e n,1 8 8 3 ) . l e v e ne nz i j n ewerken( R e f o r m a t i o n s g e s c h i c h t eP o l e n s , D e u t s c h l a n d s 8 8 1 ; Neudruck, und Englands (Gotha, 1 Nieuwkoop, 1 9 7 0 ) ;G .P a s c a l, Je a ndeL a s c o . Baron de Pologne , Eveque C a t h o l o q u e,R e P a r i s, formateur P r o t e s t a n t 1499-1560 ( 1 8 9 4 ) のほか,ポーランドのプロテスタント史家 .B a r t e l,Jan l : -a s k i( 19 6 4 ,a usdem による O p o l n i s c h巴n u b e r s e t z t von Arnold S t a r k e, B e r l i n1 9 8 1 ) を参照。なお, ラスキの宗教的立 場は,チューリッヒ(ツウィングリー=ブーリン ガ一派)の流れを汲むものであり,予定説の教義 は採用していなかった。それゆえ,フランス=ワ 戸ン語系教会には,不満があったが,カルヴァン はロンドンについてはラスキの指導に委ね,ロを e t t e g r e e,o t .c i t .,p p .7 1 7 2 ; 挟まなかった。 P i c e n c ec i t e .,p p .1 4 Denis,Memoiredel なお,この時点でのネーデルラント人亡命者は, やはり手工業的性格が強いが,その職種は,大消 費都市ロンドンを反映して,伝統的手工業,印刷 工やビーノレ醸造工,桶屋,それに麻織物や縁飾り, 絹織物など春{多品生産が中心であった。 プファノレツ選帝侯国(ライン・プファノレツ)におけるネーデフレラ γ ト系カノレ 1 ) 石坂 ヴァン派亡命者コロニーの形成とその経済活動 (1562-1622) ( 1 9 8 9 .6 活用という,確聞たる経済的動機をともなって 開設されたのが, このグラントンペリー・コロ 4 7( 4 7 ) Flemishweavers ないしウーステッド(セイ) orsted( s a y e ) workers と称されている 工 w ニーであり,ここに登場したのが,この後フラ ところから,恐らくは,当時サーイ織が繁栄し Li 1 1eやト ンクフルト時代までもこのコロニーの指導者と ていたワロン・フランドルのリール してその運命と切ってもきれぬ関係にあり続 ゥルネー Tournai などの都市と,その周辺の けた, 小都市や市場町あるいは農村工業村落(ルーベ リール出身のヴァレラン・プーレーン ValerandP o u l l a i n (Valerandus P o l l a n u s ) あった 10)。彼は, 1 5 4 8 年にブーツアーやファギ - Roubaix, トゥルコワン Tourcoing,アル 色r e s, ラノワ Lanマンティエール Armenti ウスとともにシュトラースプルクからイングラ a l l u i nなど)の双方の出であ noy,アルワン H ンドに渡り,ユーテンホーヴェの推薦で、オック ったろう。ただし, スフォード大学での教職を志したが成功せず, など新紡毛毛織物の生産者が混じっていたかど ダービー伯爵家 Ea r 1o fDerbyの家庭教師を うかは不明である。入植者とサマセット公との 務め,またロンドンでワロン=フランス系教会 聞で以下のような協約 c ovenant が結ぼれた。 の説教を手伝うかたわら,論争の著述に携わっ その職業遂行に必要で,各人および家族を収容 aken この中にラーケン l 5 5 0年 8月にサマセット ていた。そして,彼は1 する住居を提供すること。各人に 5エーカーあ 公と国務会議に対して,外国人亡命者に住居と るいは通年 2頭の乳牛を飼えるだけの放牧地を ともに作業場を与えて平穏短に毛織物生産に従 割り当てること。割り当てが完了するまでは, 事せしめ, 自由に礼拝を行うことを認めるなら 共同地内の狩猟地および庭園地 g arden の一 ば,この王国に多大の利益をもたらすことにな 部を利用できること。彼らは公より羊毛の買い るので,そのために解散された旧修道院施設を 入れその他事業開始に必要な費用を賄う資金の 充てるよう請願した。それを承けたサマセット 前貸を受ける。彼らは,紡績その他この製造業 公は, 自分の所領と交換に王室財産となってい に属する作業で必要が生じた場合,イギリス人 た旧グラストンペリー修道院とそれに付属した 男女を雇い入れる権限を与えられる。そして, 農牧地を入手し,ここにプーレーンを総監督 n s p e c t o r としてコー サマセット公の差配人 i Sup e r iI lt endantとするワロン系のウーステッ ornishとL、う人物が任命さ ニッシュ HenryC ド織布工の集団を入植さ せ た 。 こ れ ら 入 植 者 8 4ポジド 1 4シリングの前貸し れた。こうして, 4 I は , 1 5 5 1年 1 2月3 1日のプーレーンの他, 6 9 名に 対して終身居住権 d enizenshipf o rl i f e を認 めた国王の公開特許状によれば, フランス人 1 名を除いて悉くが『ドイツ皇帝領〔ネーデルラ ント 1 の出身者~ t he n a t i v e so f the Emp e r o r ' sDominionであったが,その詳しい出 身地は分からないし,また, どのようにして募 られたかも不明である。しかしその後このコ ロニーはいつも公文書にフランドノレの織布工 1 0 ) プーレーンの伝記としては, K .B auer ,Valerand P o u l l a i n . Eink i r c h e n g e s c h i c h t l i c h e sZ e i t b i l d a u sderM i t t ed e ss e c h z e h n t e nJa h r h u n d e r t s ( E l b e r f e l d,1927)を参照。彼の父は‘もともと 5 2 7 は , フ守ルーゴーニュの領主ないし下級貴族で, 1 年にリールの市民権を取得した。 S .1 8 21 . 3 4 家族と寡婦 6人 ( 2家族として 扱う)と,遅れて参じた 1 0 家族の計4 6 家族がこ を約束され, こに定住した 11)。 1 1 ) これら流毛毛織物工たちにとって, ロンドンは生 活費も嵩み原料や施設ないしギノレドの態度などか らして,決して最良の立地ではなかったのであろ 6世紀末に再開された《新毛織物》移 う。事実, 1 植計画も,ことごとくロンドン以外のノリッジや コルチェスターなどの諸都市を舞台にしていた。 このイングランド初の硫毛毛織物工業移植の計画 については,すでに E .L i p s o n,TheEco ηo mic H i s t o r y 01England ,1 ,1 1 th e d . ( L o n d o n , 1 9 5 6 ),p p .463-4が取り上げ,また,最近ではサ ースク C J .Thirsk, EcomicP o l i c yandP r o j e c t s ( O x f o r d,1978),p p .3 6 7 . 三好洋子訳『消費社 (東京大学出版会1 9 8 4 年 ) , 47~8ベー ジ〕もその先駆的役割を評価しているが,これに 会の誕生~ 48( 4 8 ) 経 済 学 研 究 3 9 1 . しかし移住が開始された時,すでにサマセ に命じ,入植者に 340ポンド(うち 40ポンドはプ ット公は失脚して獄中にあり,現地の公爵家の ーレーンの立て替え分)を羊毛購入資金として 家令による受け入れの準備も全くなおざりにさ 前渡しするよう指令し,同時に,パースの主教 れたままであったし,現地住民の態度も決して 1 1iamBarlow 以下 6名の委員を バーロウ Wi 好意的ではなかった。使用できる住居はわずか 任命して実状を調査させた。そして,その答申 6軒,残り 22軒は屋根も戸も窓もなく,これを に基づいて, これら委員の指揮のもとに,旧修 6軒 が 不 足 し た 。 そ し 修理したとしてもなお 1 道院の適当な空室を総て改修して彼らの住居が て,染色や艶出し calendaring の設備もまだ 確保され,また旧修道院の醸造所とパン焼き場 造成されていなかったから,紡績やその他の工 を改造して,染色場と艶出作業場がつくられ 程にイギリス人労働力を雇うことも問題外であ o r r a I I ) た。また,オーウェル狩猟場 OrweU(W った。移住者達は,羊毛購入のためやむをえず Park のみでは各家族が 2頭の牛を放牧するに 差配人コーニヅシュから金を借りたため,その は不足で,共同地での放牧権が認められた。さ 製品を担保として不当な安値で差し押さえられ らに, 1552年 3月22日には,さらに 500ポンドの た上に,約束の放牧地もコーニッシュは不法な 営業資金の追加貸付けを認められ,これらは, 手段で取り上げようとした。プーレーン等は, 先の貸付けと合わせて,監督プーレーンと 5人 51年 10月,手紙でウィリアム・セシル Wi 1 1iam の長老の連帯保証のもとに,毎年 100ポンドずつ C e c i l と枢密院に直訴し,枢密院も 10月25日 , 返済されることになり,これら保証人は完済ま サマセット公の現地の会計監査役 a u d i t o r( C o - では国王の許可なくイングランドを去ることを l h u r s t, D ier, Horner) と収入役 Receiver 許されなかった。そして,彼らは, 1552年 12月 ( B a r r i c k ), 同じく差配人コーニッシュに, 5日の特許状で,永住権のみならず,その営業 こ れら移住者にサマセット公との契約通りの給付 についてイングランド人と同等の権利を保証さ を行うことを命じた。しかし,実効は薄いとみ れ,必要な原料の無税輪入の特権も認められ たプーレーンは, 1 1月 3日 の書簡とともに, 9日 , 27日の 3度 協力者のヴォルフ P ieter Wolf と副牧師ル・プレヴォ Etienne Le た 12)。このような激動の中でもプーレー γは , 教会組織も整えるのに力を尽くし, 1552年 に 『グラストンペリー教会規則=信仰告白~ La Prevostをセシノレのものに派遣して,窮状をる Confession de f o i de l ' e g l i s e de Glaston- る説明し,コーニッシュの罷免を訴えた。枢密院 buryenSomersetを制定したが,これは,イ シュの権利を認め彼を引 ギリス国教会からは勿論, ラスキのロンドン教 き続きその地位においたとはいえ, 12月18日に, 会からも独立した,いわば独立派=会衆派的精 サマセット公収入役のクロウチ Wm. Crowch 神に立脚し,組織もロンドンと異なり,カルヴ は,今までのコーニ γ ついては,次ぎの 2つの古い論文しかない。① E . Green, “ OnSomeF l e m i s hW巴a v e r ss e t t l e d 5 5 1ぺP r o c e e d i n g s01 a tG l a s t o n b u r y,A.D. 1 theSo押w r s e t s h i r eA r c h a e l o g i c a landNatural H i s t o r yS O c i e t y,XXVI( 1 8 8 0 ),1 7 2 4② H . J .C o w e l l , “ TheF r e n c h W a l l o o nChurcha t h e G l a s t o n b u r y,1550-1553七 Proceedings01t ,X I I I( 19 2 3 2 9 ), HuguenotS o c i e t y01London 4 8 3 5 1 5 . このサマーセット公と移住者の聞では 交わされた協約書 c o v e n a n t の原本は失われ, P u b l i cR e c o r dO f f i c e,S t a t ePapers,D o m e s t i c . EdwardVI ,1 5 5 1,N o .7 6にその写しが含まれ 未見〕。 ている f アンのシュトラースフ*ルク・フランス系教会規 1 2 ) プレーンのセシル宛の 3通の手紙は‘幸いにヒッ i rH i c k e ' sMSS.に残り,後1694 年にス グ文書 S トライプによって, トーマス・クランマー伝の付 o h nS t r y p e,TheMemorials 録に収録された。 J ,e d . P h i l i pB a r n s 01 Thomas Cranmer 8 5 4 ),p p .8 8 7 8 9 2 .C f r .,Calendar ( L o n d o n,1 ,EdwardV' I ;Mary 01S t a t ePapersD o m e s t i c andE l i z a b e t h ,Vo . l1 ,p p .36-37 ( X I I I,1 5 5 1, N o s .7 0 7 6 ),3 7 8(XIV ,1 5 5 2,N o s ;2,3,3A, 1 3,1 4 ),4 7 (XV ,1 5 5 2,N o .5 5 ) ;A c t s01P r i v y C o u n c i l ,I I I,1550-1552 ( L o n d o n,1 9 1 1 ),p p . 4 0 0 ,4 1 4 6 . ブファルツ選帝侯国(ライ γ ・プファルツ)におけるネーデルラント系カノレ ゲァ γ 派亡命者コロエーの形成とその経済活動 ( 1 5 6 2 1 6 2 2 ) ( 1 ) 石坂 1 9 8 9 .6 則を忠実に承継いだものであり,後にフラング フルトのフランス系教会規則としてドイツへま た逆輸出されることになる 13)。 こうして, 1 5 5 2 年末までに,グラストンペリ 4 9( 4 9 ) 2隻は離れ離れとなり 1カ月後,小さい方の 1隻のみへノレシンゲール Helsingor に辿り着 いた。しかし,ルタ一派のデンマーク国王は, ゼグデ 結局彼らにツヴィングリ派ないし分派(とりわ ー・コロニーはやっと経済的に軌道に乗り,教 け,再洗礼派)の疑いをかけ,冬を目前に控え 会組織も整備されたが,宗教の面でも,また, て老人や子供も抱えて途方に暮れたこの一団に 新毛織物工業についても,周囲のイギリス人住 非情にも退去命令を下した。そして,その後 民との受流はまだ生じていなかったように思わ 頼ったノレター派のハンザ都市, れる。 Wismar, ロスト ( 2 ) 再び亡命の旅に一一帝国都市フラングブ ノレト戸、一一一ー γ ヴィスマーノレ グ Rostock, リュベック Lubeckからも悉く受け入れを断られ,最後犯 訪れたハンブノレクでは,ルタ一派教会の総監督 こうして発足したグラストンペリー・コロニ ーが,なお数年の平穏な歳月を与えられれば, Superintendant の地位にあったのが,聖餐論 争における反カルヴァン派の闘士ヨア ヒム・ヴ F イングランド西部における南ネーデノレラント新 ェストファール JoachimWestphal であった 毛織物工業移植の中核として,成長できたで、あ 以上,結果は明白であり,この聞にワウテル・ ろうが, 1 5 5 3年 7月 6日,国王エドワード 6世 デーレンに率いられロンドンから直接渡航して が1 6 歳で夫折し,同 1 9日熱烈なカトリッグ教徒 きた 3 2名も市外の旅寵に留め置かれていた。最 のメアリ一女王が即位したため,事態は激変し 後に,かつてのラスキの活動の舞台オスト・フ て,プロテスタントの亡命者達は再びここでも リースラント伯領の摂政であった,伯爵夫人ア 迫害か追放の危険に晒されることになった。 ン ナ ・ フ ォ ン ・ オ ル デ ン ブ ル グ Annavon ラスキらのロンドン亡命者教会の指導者たち Oldenburg が救いの手を差し延べたお陰で彼 は,イギリス人の友人のごとき投獄の運命は免 らがエムデンに出港できたのは,翌 1 5 5 4 年の 3 れたものの,オースティン・フライアーの教会 月も末の 2 6日のことであった 14)。 は取り上げられ, 2 4日以内に圏外へ立ち退くこ とを命ぜ、られた。こうして, ホーヴェ, ど , ラスキ,ユーテン ドゥ・グレイネ(ミグロニウス)な ロンドンのフラマン系亡命者たちの中心約 4 0 0人は,クランマーが逮捕された翌々日の 9月 1 7日,グレイヴゼンド Gravesend から 2隻の デ ン マ ー ク 船 CDeKleineKraai,DeMoor) に分乗して,デンマーグ国王の好意に最後の望 みを託して大陸に船出した。しかし,嵐のため 1 3 ) Ebrard,a .a .0 .,S .3 7 4 1 ;Bauer,V alerand ,S .1 5 8 1 6 8 . この間,ジュネーヴのカ P o u l l a i n ルヴァンに,これらグラストンペリー入植者につ いて,芳しからぬ噂,すなわち彼らが司サマセッ ト公の入獄と処刑に便乗して,本来の協約にない 便宜を政府に要求したという話しが伝わり,カル ヴァンは,国王に手紙を送ってこれを差し止めよ うとした。驚いたプーレーンは,書簡ではなく信 頼できる人物の派遣を求め,結局沙汰やみとなっ たようである。 14)Pettegree,o t .c i t .,p p .1 1 3 1 7 ;F .A .Norwood , “ The London Dutch Refugees i n Search 5 5 3 1 5 5 4 ヘ AmericanHistorical o fHome, 1 Review,LV I I I( 19 5 8 ), 6 4 7 2 ;R . Kayser, “ JohannesaLascoundd i eLondnerF l u c h t ヘZeitschriftdes l i n g s g e m e i n d ei nHamburg V e r e i n sfurh a m b u r g i s c h eG e s c h i c h t e ,XXX19 3 8 ),1 1 5 . この苦難の旅と各地のルタ一 VII ( 派教会や当局の非情な仕打ち一ーかえって, 日頃 イ中が悪かったメンノー派が,暖かく救援の手を差 し延べたのに対して を,後にユーテンホヴェ が Sim ρl e xe tf i d e l i sn a r r a t i o de i n s t i t u t a a c demum d i s s i ρa Belgarum aliorumque teregrinorumi nAnglicae c c l e s i a( B a s i l e a e, 1 5 6 0 )C B i b l i o t h e c aR e f o r m a t o r i c aN e e r l a n d ,IX( 19 1 2 ), 巴d .,S .CramerenF .P i j p e r, i c a 1 5 1 p .,meti n l e i d i n gp .1 3 2(未見) Jを出版し て世に公表した。なお,この時の一行の総数につ 7 5人』としか記されておらず, いては,本書にlFi 研究書でもこれが家族や召使を含むかどうかで, 1 7 5から 4 0 0人まで見解が分かれているが, ここ ではノーウッドに従って,家長のみの数としてお く 。 50( 5 0 ) 一方, 39-1 経 済 学 研 究 グラストンベリー・コロニーも, 9月 義者が力を得つつあった。このため,市当局は, 5日に枢密院から,家屋などの設備を保全した プーレーンたちの信仰箇条を調査して,それが 状態で亡命者だちを平穏裡に退去させるべくパ ノレター派のアウクスブノレク信仰告白と一致して スポートを発給するよう指示され,早くも 1 6日 いると認められた場合にのみ,後日市の条例で にはここを退去して, ロンドンに移った。そし 定めるまで独自のフランス語による説教を許す て彼らは,プーレーンの 1 0月1 8日のロンドン教 こととし,なお聖餐式は他のドイツ人市民とと 会会議 D i s p u t a t i o参加を最後に一一途中多く もに教区教会でソレター派の儀式で受けるよう命 の危険を官したであろうが一一アントウェルベ じた。プーレーンは, この点についての都市当 ンを経由してドイツに向かった問。 局との交渉でも,また先住のワロン系亡命者と この時点 で,プーレーンが既に,新たな亡命先として, の話し合いでも合意がえられなかったのであろ 自分でもしばしば訪れたことのあるドイツ最有 5 5 4年 2月初めには,後続のベリューセ う。翌1 力のメ'ッセ都市一ーかつて 1 5 4 2年にその教会規 ルに率いられたロンドン亡命者教会のワロン人 則制定に,ブーツアーが協力じた一一フラング 集団の到着を待たずに,なお彼と行動をともに {Bursatma- フルト・アム・マインを考えていたようであ する 24人の『ウーステッド工~ , り アントウェルベンのノレター派からもフラン cher} とその家族を伴って,新しい移住地を捜 クフルトへ警告の手紙が送られていた。しか し求めて,再びライン河を上る旅にで、た 16)。し し 一 行 は1 2月1 2日にはひとまずクレーフェ公 かし,何よりも幸運だったのは,彼らがケルン 領の有力な領邦都市ヴェーゼ、ルに落ち着いてい で,フランクフルト・アム・マインの次席市長 5 4 4年に宗教改革が導入 る。ここでは,早くも 1 derjungereBurgermeisterであったグラウ され,同時にワロン系,フラマン系のフ。ロテス laus C N i k o l a u s ) ス(ニコラウス)・ブロム C タント亡命者を受け入れ,言語を異にするワロ Brommに出遭ったことである。岡市の名門の ン人にたいしては, 都市貴族の家に生まれヴィッテンベルクに学 自国語による説教も許され ていた。プーレーンもかつて 1 5 4 5年に市側とワ び , ロン系亡命者教会との紛争を調停するため, シ マニストは,恐らく自分も出資者のひとりであ ュトラースプルグからプーツアーの使者として ieSteinacher る〈シュタイナッハ金属会社}D ここに派遣されたこともあり,ここでの亡命受 Meta l 1gesel 1schaft の精錬した銅をアーへン け入れに期待を寄せていたのであろう。しか 方面やアントウェルベン経由でスペイン,ポル し,アウグスブルグ『暫定協定~ Interimに際 とりわけメランヒトンと親しかったこのフ トガノレに売り捌く商旅の途中にあったのであろ し妥協的態度をとったメランヒトン P h i l i p p うが,プーレーンらの改革派的信仰に寛容な態 Melanchton のルタ一派内部で影響力は失墜 度を示しその苦境に同情を見せただけで、なく, 5 3 0年のアウ し,ここでも例に漏れず代わって 1 後述するように, 、ンュマルカノレデン戦争以来表 クスブルグ信仰告白を絶対視する強硬な正統主 退していたフラングフルト市の経済再建の武器 として, これら亡命者による『新毛織物工業』 な お , メアリ一女王のネーデルラント人亡命者 追放令以後. ロンドン・コロエーのメシパーで実 際に退去したのは,その 4割程度で,一般の亡命 者は,イギリス人の雇い主の庇護や市当局の黙 認,あるいは,カトリックへのーーしばしば偽装 の一一一復帰などで,引き続き滞在しえた。 P e t t e g r 巴 巴 , 。ρ . c i t .,1 1 9 . 1 5 )A c t s0 1Privy Council, I I I, p .3 4 1( 1 5 5 3, S e p t .5 ),p .349 ( S e p t :16);B a u e r,1 ンa l e r a n d P o u l l a i n,S .1 7 0 . の技術移転に着目したのである。しかし, ン河を下る旅の途中にあったブロムは, ライ 自らフ 1 6 )D e n i s,Lese g l i s e sd 'e t r a n g e r s,p p .183-4;W. “D i eAufnahmed 巴r F l u c h t l i n g ea u s N e u s e r, E n g l a n di n Wes巴1 ( 15 5 3 )u nd i h r eA u s - w e i s u n gt r o t zd e rVermitt 1ungC a l v i n sund M e l a n c h t o n sぺi n Weseler Konvent . 15681968 ( D u s s e l d o r f ,1968),2 8 4 9 .パ プファノレツ選帝侯国(ライ γ ・プファルツ)におけるネーデノレラシト系カノレ ヴァ γ 派亡命者コロニーの形成とその経済活動C1 562~1622) ( 1 ) 石坂 1 9 8 9 .6 51 ( 5 1 ) ランクフルト市当局との折衝を仲介する訳に行 『しかし,これらの人々は宗教なしには生きら かず,親しい友人で思想上も共通した立場の市 れません。そして,我々は貴方がたと宗教を同じ 参事会の同僚,アド、ルフ・フォン・グラウブル iewolwir Euer Rel i g i o n くするとはいえ w s e i n d,貴方がたの言葉を知りません。そこで, グ Adolf von Glauburg にこれを託した。 こうして 3月上旬に単身フランクフルトに 受け入れが決まった場合,我々がそこで使徒バ 到着したプーレーンは,同国人のアドリアーン ウロの教えに従って自国語で礼拝や福音の説 Adriaan と言う人物の許に滞在して,ブーツ アーの弟子である 2人 の 市 教 会 牧 師 S t a d t p f a r r e r, ア ム パ γ ハ MelchiorAmbach と ohannesL u l l i u sを相談相手とし ノレーリウス J 教,聖餐の儀式を執り行えるよう,教会ないし ながら,市当局への定住受け入れの請願を練り, を冒す意図は毛頭なく,いつもそれに従レ,我々 またこの 2人を介して,ノレター派の総帥で有名 の教会の役員の名簿を市当局に呈示して,その な戦闘的正統主義神学者ハノレトマン・バイヤ- 正規の牧師としての採用を求める所存である, 云々 18)。 HartmannBeyer との会見もこの時には無事 友好裡に了えることができただけで、なく,バイ 寺院を 1つ下げ渡されんことを,貴市参事会に 衷心よりお願い申し上げます。~ (傍点は引用 者)とはいえ, このことで,当市の教会の権限 この請願は, 3月1 8日の市参事会で承認され, ヤー自身が目指すアドノレフ・フォン・グラウブ プーレーンはすぐ、さま,その仲間を手紙で呼び ルクへの紹介の労をとってくれたほどであっ 寄せた。また,専用の教会も,廃止されたマグ た 1九 こ う し て , そ の 後 2世紀近くも度々引き ダレーナ修道尼院 ( Weis f r a u e n k l o s t e r )の付 合いに出されることになる,プーレーンの有名 fauenkirche と司祭住居を旧修 属教会 Weis な請願書が 3月1 5日 に 市 参 事 会 に 上 程 さ れ た。彼はここで, これらウーステッド工たちが 『もし市民として受け入れられ,必要な作業場 道尼院長 P r i o r i n ( K a t h a r i n a von Morfe l d e n ) から譲り受けるのに成功 L, 4月1 7日 , 市参事会の承認をえて,翌々日 1 9日にプーレー や住居を賃貸料を払って借りることを許される ンとその教団の初の礼拝が執り行われた。また ならば,彼らは,決して市当局や他の市民の負 o n s i s t o i r e が発足し,学校も 同時に長老会 C 担を煩わすことなく,必ずや自らの労働と商い 開校されてモーパ G eorgesMaupasが教師に で暮らしを立てる s i c hi h r e r Arbeit und 就任した。こうして,今後, 1 8 0 6 年までこのノレ Handels neren 所存でありますし, また,当 ター派の帝国都市の政治や社会に絶えず大きな 市の市民の子弟で,ほぼ同種の仕事に適したも 緊張を生み出す源となったカルヴァン派教会, のにウーステッド織の製造 B ursat tnachen とりわけフランス語系教会の第一歩が踏み出さ を教授したいとおもっております。』また, れたのである 19)。 我 我の仲間として幾人かの他の職種の手工業者や 商人が同行してきているが,彼らも自らの労働 で自活しようと欲しており,その職業が多くの 人々の便益に資するところが大であるゆえ,彼 らの受け入れをも併せて強〈願う次第である。 1 8 )A b g e d r u c k tb e iE b r a r d,a .a .0 .,A n l a g e2, S .1 5 6 5 8 1 9 ) ネーデノレラント人亡命者教会をめぐ、るフランクフ ルト・アム・マイン市参事会の決定 R a t s p r o t o ・ k o l l e nは H .M e i n e r t,( v巴r δ f f e n t l i c h tv o n ), Die Eingliederung d e r n i e d e r l a n d i s c h e n G l a u b e n s f l u c h t l i n g ei nd i eF r a n k f u r t e rBur g e r s c h a f t1554-1596( F r a n k f u r tamM a i n, 1 9 8 1 )C 以下 M e i n e r t,Eingliederung と略〕 . 3 5( 15 5 4 ,1 5 .3 ., にほぼ収録されてしる。 S 3 .4,8 .5,5 .6 ) . この修道尼院は元来更生した売 春婦 W e i s f r a u e nのための施設で 第 2次大戦 の空襲で破壊され移転したふなお 1554年 4月4 司 1 7 )G e g e n b e r i c h t und Verantwortung der P r e d i c a n t e nv o nFranckfortamMaynu f je t l i c h e ungegrundte K l a g s c h r i f t e n der Welschen ( U r s e l l,1563),a b g 巴d r u c k tb e iFrankfurtische R e l i g i o n s HandlungenC 以下 F .R .H. と 略 ] , 1 1,B e y l a g e n,50-51 . 5 2 .( 5 2 ) 経済学研究 39-1 I II.帝国都市フランクフルト・アム・マイン ら最も重要な商品であり,フランクフルト自身 における初期のネーデルラント系宗教亡 3 7 7 年に最初のツンフ でもその生産は伸長して 1 1554-1562) 命者とその経済活動 ( ト規則が制定をみたし,麻織物やノミノレヘント工 業も成長し t c -2九 し か し, 16世 紀 に 入 っ て 商 業 ( 1 ) 16世 紀 中 葉 の 帝 国 都 市 フ ラ ン ク フ ル ト の ところで,フランクフルトのみが, 革命の波のなかで,フランクフルトの能動的商 業 Aktivhandel は,アウクスブルクやニュル 社会・経済構造と宗教的状況 このよう ンベノレクの大商業資本の後塵を拝し, この都市 にネーデルラント人プロラスタントの亡命者を 工業は, 積極的に受け入れようとはかったのに際しては らツンフトの枠に縛られて新しい市場状況に対 ーーーそのことは,やがて在来の市民との聞に深 応できず,流入するネーデノレラントやイギリス 牒を惹起すこととな 刻な社会経済的・宗教的車L 製品との競争に破れて衰退の一途をたどった ドイツ諸都市の例にもれず, 15 世紀か ったがーーーどのような政治的・宗教的状況がこ し,麻織物工業ないしパノレヘント工業もけっし の都市を取り巻き,また¥, 、かなる経済的動機 てこれを埋め合わせてはくれなかった 22)。こう がそこに(動いたのであろうか。元来,岡市は春 年 に は 市 内 で 292 軒の家屋が空き家な して, 1495 2回の大市(メッセ)に全ヨーロッバか いし廃屋と化しており 28〉,市民はわずかにメッ と秋の ら商人を集めていたほか, 14 世紀から,岡市の セのもたらす様々の利益やぶどう栽培などの農 商人はエノレザ、スなどライン地方だけでなくリュ 業 で 生 計 を 立 て て い た が , す で に 15世 紀 を 通 じ ベ v グなどのハンザ諸都市や中部ドイツのテュ て,市の財政は益々悪化し, ーリンゲン,ザ、グセン,シュレージエンあるい は通貨の切り下げのもたらす物価騰貴のなかで はネーデルラント諸都市との活発な遠隔地問貿 重い消費税や直接税にくるしめられていた。そ 易 を 営 み 20) さらには, ヴェネチアにも直接進 出をとげていた。このなかで,毛織物は最初か 0 人が プーレーンの本来の一行 自に到着した 4 ( 2 4 家族)とすれば少なすぎるが 追加の一回か どうかは不明である。 このとき,プーレーンは,そのグラストンペリ ーの教会規則や信仰箇条,さらに 1 5 5 3年のロンド ンでの『論争録I Jdisputatioを提出し,バイヤー やアドールフ・フォン・グラウブルクの承認をえ ており,その後,さらにこれを修正して『フラン クフルト・フランス教会規則I JOrdo ecc 1 l ' 1s i a e G a l l i c a n a eを整備した。 Ebrard, a .a .O ., S .5 5 . ただしプーレーンは,紛争を恐れて,簡略化し たものを提出したようであり,この点が,後々ま , で,ルタ一派からの攻撃の的になった。K.Bau巴r “ Bekenntniszustandd e rR e i c h s s t a d tFrankf u r tamMainimZ e i t a l t e rd e rReformation", Archiv fur R e f o r m a t i o n s g e s c h i c h t e , XX 2 2 ),2 4 . ( 19 .D i e t z, F r a n k f u r t e r Ha n d e l s g e s c h i t e, 1 2 0 )A ( F r a n k f u r t, a . M.,1 9 1 0, Neudruck, Auvermann,Glashutten im Taunus),4 . Abt a n d i g eHandel . 小倉欣一「中 s c h n i t t,Ders 世フランクフルトの大市J1東洋大学経済研究所・ 研究報告』第 4号 ( 1 9 7 9 年 ) , 36~53ページ。 とりわけ中小市民 21 ) Di巴t z ,a .a .0 .,S .2 5 3 5 9 .1 5世紀初頭から,ノ イハウス Neuhaus , ブルーム Blum ,ブロム= シュタールブルグ Brommund S t a l b u r gなど の大商人が,合名会社を設立してヴェネチア貿易 を営んでいた。なお,中世フランクフルトの毛織 物工業については. E . Fromm , “F rankfurts 1gewerbe im M i t t e l a l t e rヘA rchivfur Texti F r a n k f u r t sG e s c h i c h t e und Kunst C 以下 AFGK と 略 ] , I I I 6( 1 8 9 9 ),4 6 1 6 0 . 小倉欣一 「中世フランクフルトの織物業J1東洋大学経済研 究所・研究報告』第 7号 ( 1 9 8 2 年). 191~203ベ ーシ。 2 2 )1 3 7 7 年当時,毛織物工ツンフト所属の現役の親方 Meisterは2 2 3人(麻織物およびパノレヘント工が 3 7 人)であったのに対し, 1 4 3 2 年は 1 3 3人(年産 は3 , 3 6 0反 ) , 1 4 9 5年には4 1人に減少した。 e b e n d a ,S .7 4 5,1 1 0 . 2 3 )F . Bothe, Die Entwicklung d er d h ' e k t e n Besteurungi nd e rR e i c h s s t a d tFrankfurtam Mainb i sz u rR e v o l u t i o n 1612-1614 ( S c h m o l l e r s Forschungen, Heft 1 2 1 ;L e i p z i g, 1 9 0 6 ), * 1 1 0 ;d e r s .,B e i t r a g ez u rS o z i a l -und W i r t s c h a f t s g e s c h i c h t ed e rR e i c h s s t a d tF r a n k f u r tam Main (Bei 1age . z u rJ a h r e s b e r i c h t iebig-RealschulezuFrankfurtamMain, d e rL Ostern1 9 0 6 ),S .5 4 6 . 1 9 8 9 .6 プファノレツ選帝侯国(ライン・プフヲノレツ)におけるネーデノレヲント系カノレ ヴァン派亡命者コロニーの形成とその経済活動 ( 1562-1622) ( 1 ) 石坂 5 3( 5 3 ) して,都市貴族層ーーとりわけ最も有力なグラ 支援のもとに巻き返しを計り, 1 3 6 6年に旧に復 ブ,アルテン・リンプルク A lten-L i mpurgの 3 8 9年のクローンベルク K r o r i した。その後, 1 berg の敗戦を機に,再び一般市民の市政民主 0名増員され, 化の要求が噴出し,市参事会は2 市長も 3つの『議席』からそれぞれ 1名が選出 される新憲章が発布されたが,早くも 1 4 0 8年 , 会員たちーーはますます商業から手をヲ│いて, メッセの期間の宿や庖舗の賃貸などの不動産収 入に依存するようになった 24)。 ところで, フランクフルトの市政は,他の西 南ドイツの諸都市と異なって,終始都市貴族が 旧制度に戻り,以後都市貴族層が市政の実権を その権力を独占する門閥都市の性格を変えなか 独占し続けた。そして,都市貴族層も対抗して った。即ち, そのクラブ T rinkstube を足場に,排他的な は 結社, アルテン・リムプノレク A lten-L impurg 1 2 6 6年に発足した市参事会 Rat Bank より構成され, これ が首席市長 d era l t e r eBurgermeister およ e rj u g e r eBurgermeisterを選 び次席市長 d 2 つの『議席~ 出したが,前者はすべて,後者も殆どが門閥層 d i ee r s t e d i ez w e i t eBankそれぞ により占められた。『第 1 議席~ Bank と『第 2 議席~ とフラウエンシュタイン F rauenstein に結集 し , この会員, とりわけ前者が市長や市参事会 の第 1,第 2議席の殆どを独占し続けた 25JO このような帝国都市の政治・経済状況の中で は , 1 5 1 7 年にドイツの宗教改革運動が火ぶたを れ1 4 名より構成され, ~第 1 議席』は市の最高法 wigerZ i n s 切った時,当然,腐敗し永代賃租 e 廷を兼ね,首席裁判官 S chultheis と1 4名の ないし定期金 R entenkauf の形で市民から土 c h o f f e n から成り, ~第 2 議席』の議 参審員 S 地や家屋を奪い去る,カトリックの教会への攻 員の経験者が『第 1議席』に昇格した。その後 撃に止どまらず,現状への不満と市政, 1 3 1 1年に,手工業者や小売商人など中小市民の け租税制度への憤りを抱く非特権的市民層の変 とりわ ~第 3 議席』が設け 革への要求と結びつかざるをえなかった。都市 られ,毛織物織布工,靴工など 9つの参事会選 当局も,市内に莫大な財産を所有しながら免税 市政参加の要求に応えて, 出資格ツンフト r a t s f a h i g eZunfte から参事 特権を行使し,また市民と競合するような手工 会に指名された 1 4名が新たに議席を得ることに 業生産を営んだり,ぶどう酒や穀物を販売して なったが,市長選挙権は与えられなかった。こ いる修道院とは利害が対立していたものの,他 ク教会 のような都市貴族=門閥層による市政の専断に 方で多くの都市貴族の子弟が,カトリ 対する,手工業者や一般市民の不満が爆発し, の俸禄に与り,何よりも,その特別の地位から 1 3 5 5年に, ツンフトならびに市民共同体 Gem2名の候補か e i n d eより市参事会に推薦された 1 ら指名された 6名が,任期 1年で新たに『第 3 して宗教改革運動には消極的であった。まず第 あるドイツ皇帝とのつながり,第 2は,隣接し 議席』に加わり,また空席の多かった参審裁判 てマイン河とライン河の合流点を領有するマイ 官の 6名補充に際し 3名がツンフトから選ば ンツ大司教との関係への配慮である。それゆ れた。そして,市長は全市参事会より選挙され え,名門都市貴族の子弟のなかにも,フュルス ることになり,毛織物織布工グールマン・ツァン i 1 ipp Furstenberger, グラ テンベノレガー Ph CulmannZanが市長に選出されたが, 1 3 5 9年 ohann G l a u ウ ブ ル グ 兄 弟 Arnold und J に皇帝カール 4世から首席裁判官に任ぜられた burg,フォン・ホノレツハウゼン Hammanvon ジーグフリート・フォン・マーノレブルク(ツム・ レ グ C l a u sS t a l Holzhausen, シュタールブPノ パラディース) S i e g f r i e dvonMarburg(zum P a r a d i e s ) を筆頭とする都市貴族層が,皇帝の 2 4 ) Die t z ,a .a .0 .,S .2 5 1 f f . γ 1は,この帝国都市とメッセの守護者で君主で 2 5 )F .B o t h e,Geschichte der Stadt Frankfurt F r a n k f u r t am M a i n,1913),S . am Main ( 1 1 5 1 7 5 . 5 4( 5 4 ) 経済'学、研究 39~1 b i l r g など大学に学んで、人文主義運動に触れた 族層のなかには,なおブーツアー派あるいはル 人々を中心に宗教改革支持派が形成されて,福 タ一派でもメランヒトンの影響が強く残ってお 音主義の説教が行われ,新ギムナジウムも設立 , り 1542年12月 9日 の ブ ー ツ ア ー の 手 に な る をみたものの,皇帝やマインツ大司教(選情侯) 『フラングフルト・アム・マイン市教会一致信 からも激しい圧力が加えられ,都市当局はなお 条~ Concordia concionatorum f rancofordi- 宗教改革に消極的態度に終始した。しかし福 ensium も,なおルターの『ヴィ 音主義はすでに一般市民の心を把えており,こ 一致信条』とは距離を保って改革派をも包摂し れまでに積もり積もった市政で、の無権利状態や ようとするものであった。後1554 年にプーレー カトリック教会への憤怒が,宗教改革運動とし ンが先に引用した請願書で自分たちが当市の宗 て爆発した。 1524 年にドイツ農民戦争が勃発す 教と一致しているとのべたことも,それなりの ると多くの都市をも捲き込み, 根拠はあったのである 26)。こうした中でシュト フランクフルト γ テンベノレグ でもこの地に乗り込んで、きた急進主義的宗教改 ラースブルクに亡命していたユーテンホーヴェ 革の理論家のひとりヴェスターフゃルク Geb- が , シュトラースブルクやアウクスブノレクの先 hardVVesterburgに指導されてツンフト手工 例に倣って, 業者を中心に広範な市民層が蜂起して教会や修 の亡命者を受け入れ,市民権を付与するのみな 道院の施設を占拠・略奪し,市参事会にたいし らず,独自のフランス語による教会を認めるよ て宗教改革の導入と税制改革,永代賃租の償却 う請願したのは, を要求して,勝利を収めたかに見えたが,諸侯の の1546年 5月 4日のことであった。しかし,市 軍隊が農民軍を撃破すると,ヴェスターブルグ 参事会は皇帝カール 5世 の 怒 り と 報 復 を 恐 れ は市から追放され,そして最後に周辺諸侯の圧 ' ) 。 て,同25日これを却下している 21 力で一連の改革は破棄されて,再び門閥支配に 復した。ブランクフルト市はなおも皇帝側に忠 誠を誓ってプロテスタント諸侯や帝国都市のシ ュマルカルデン同盟加入の誘いも拒絶してきた が,もはや宗教改革運動を押し止どめることは 不可能となり, とりわけ同じ西南ドイツ諸都市 の影響下にツウィングリー=ブーツアー派が次 第に勢力を得ていった。このため1525年の民衆 蜂起を恐れる市参事会も迂余曲折の末1531年公 式の宗教改革導入に踏み切ったが,その諸教会 規則もブーツアーが指毒したシュトラースブル グを模範にしてノレター派とツウィングリ一派の 中間を行くものであった。しかし,フランクフ ルトはたちまちマ山インツ大司教や皇帝の圧迫を 受け,ついに,これまで頑強に加入を拒んでき たシュマノレカノレデン同盟に援けを求めざるをえ なくなったが,その条件と Lて正統ノレター派の 信条を受け入れることを余儀なくされ, ツウィ ングリー=ブーツアー派の有力な牧師の多くが この市を去らざるをえなかった。勿論,都市貴 フランクフルトでもフランス語系 シュマノレカルデン戦争の最中 2 6 )宗教改草初期の西南ドイツ諸都市におけるツヴィ ングリ一派的改革運動の動向については,中村賢 二郎・倉塚平編『宗教改革と都市Jl (万水書房, 1 9 8 3年 ) , とりわけ序章を参照。 フランクフルト における宗教改革の動向については,小倉欣一 「フランクフルトの宗教改革一一市民蜂起からシ ,同書.第 4章 。 ュマルカルデン同盟への道一一J i r c h e n g e s c h i c h t ev o nFrankfurt H .Dechent,K amMains e i td e rReformation ,B d .1( L e i p z i g F r a n k f u r ta . M.,1 9 1 3 ) ;Bauer, “ Beken, 9 9,2 3 3 4 ,1 4 5 ;S .Jahn, n t n i s z u s t a n dヘXX,1 F r a n k f u r t,Reformation und S c h m a l k a l d i s F r a n k f u r ta . M.,1 9 7 6 ) . c h e rBund( 2 7 ) この請願の原文は1 9 4 4 年に戦災で失われ, Ebrard , 0 .,S .1 6,Anm. 3にその要旨が掲載されて いるのみである。 C f r ., Denis, Les e g l i s e s d 'e t r a n g e r s ,p . 310n . 1.市参事会は, この件 について 5月 4日,委員会に付託したが.同委員 会は. 2 5日これらネーデルラント人がすでにシュ トラースブルクやアウクスブルグで市民権を与え られているのであるから.年 2回のメッセでの滞 在以上の便宜は必要ない旨の意見書を出し,市参 事会もそれに従った。なお. 1 5 2 7 年のウィッテイ ンク JohannW i t t i n c k(アントウェルベンより) や1 5 3 7 年のブラウン JohannBraun(ホーラント のデルフト市より。市長の息)など,移住受け入 れの先例が見られるが,宗教的動機によるかどう 。 . 1 9 8 9 .6 プファノレツ選帝侯国(ヲイ y ・プファノレツ)におけるネーデノレラント系カノレ ヴ ァ γ 派亡命者コロニーの形成とその経済活動(1 5 6 2 1 6 2 2 )( 1 ) 石坂 5 5 . ( 5 5 ) しかるに, 1 5 4 7 年ミューノレベルクの戦いでプ 費により,約4 4 万グルデン,歳入め約 4倍 の 債 ロテスタント側が皇帝に全面的に敗北し,まだ 務が累積 L,市民の税負担もますます加重され 抵抗力を残した北ドイツの有力諸侯と異なっ た。グラウス・ブロムらの市参事会の首脳が, て,フランクフルトも西南ドイツ諸都市の例に ネーデルラント人亡命者を迎え入れて,硫毛毛 漏れず,かの『暫定協定』受け入れを強いられ, 織物工業の移植をはかり,あるいは同じ年の ドームに加えて,幾つかの教会や修道院がカト 8月にマンスフェルト伯領の銅山に出資して取 リッグに返還され,改革派は市教会から逐われ 引独占を試みたのも, た。しかも,改革派との統ーの希望を捨てなか 経済の再生を期したためであった 2930 ったメランヒトンが, どん底のフランクフルト ( 2 ) ネーデ、ルラント系プロテスタントの出身 この時皇帝側に妥協的態 度を採ったことで,彼のルタ一派内での影響力 地と職業 は失墜し,代わって,硬直的なルタ一派が台頭 こうして帝国都市フランクフルト・アム・マ してきた。こうして,西南ドイツのいずれの都 インが,公式にネーデルラント系プロテスタン 市教会でも正統主義的ルタ一派の力が強まり, トの定住と市民権賦与を認めた後, その牧師職の多くも彼ら一一ーとりわけ中小市民 フラマン系の亡命プロテスタントがネーデノレラ 層出身者一ーの占めるところとなった問。 ワロン系や ントから直接に,あるいは宗教的処遇が不安定 その後間もなく,宗教改革をめぐるドイツの だったウェーゼルなどのドイツ諸都市からここ 政治情勢はまた逆転し, 1 5 5 2年勝利をおさめた に流入した。そして, 1 5 5 4年 7月,イングラン プロテスタント諸侯軍は,パッサウの和約で事 ド人も同じくここに亡命の地を求めた。こうし 実上のプロテスタンテイズムの公認を勝ち取っ て たが, この時も,フランクフルトは先の敗北に ランス語系,フラマン=低地ドイツ語系,イギ こりて,中立の態度を採ったため諸侯軍の怒り リス(イングランド)系の 3つの亡命者コロニ を買い,ヘッセン=ザクセン連合軍の包囲・猛 ー=教会が並立してこれら亡命者を組織した。 攻を受け,防備を強化して辛うじて市を守り抜 5 5 4年当時, まだアウクスブ いた。こうして, 1 ルグの宗教和平は結ぼれてはいなかったもの の , フランクフルトも漸くノレター派の帝国都市 としては一応安定した政治的地位を認められ, ネーデルラント人亡命者の受け入れによる経済 再建も可能となったので、ある。とはいえ,平和 が回復したものの,フランクフルトの経済的状 況は惨譜たるものであった。その遠隔地間商業 や輸出工業の衰退で人口は減少し空き家も増 え,加えて,再三の戦争でメッセ自身も停滞し た。そのうえ, シュマルカルデン戦争の分担金 5 5 2年の包囲戦 や敗戦による賠償金,さらには 1 での市壁などの要害補強のためなどの臨時の出 かは不明である。(多分かれらは, ルタ一派で, フラングフルト側の問題はなかったのであろう。〉 D i e t z ,a .a .0 .,I I,S .4 2 ,4 4 . “ Bekent n i s z u s t a n dヘXX,S .1 6 3 f f . 2 8 )Bauer, 1時期, フラングフルトには, ワロン=フ 5 6 1年の「改革派礼拝禁止JDieEinさて, 1 s t el 1ung der reformieten Gottesdienst と ネーデ、ルラント人亡命者の大量流出までの聞 に , どの程度のネーデルラント人が流入したの だろうか。この間 4固にわたる調査がその状 況を伝えてくれているが,第皿・ 1表が示す通 5 5 7年以降であり, り,急激に増加し始めたのが 1 家族を含めて1, 1 4 6人に達し, 1 5 6 1年には, 2 , 0 3 6人と,フラングフルトの総人口 1 4,0 0 0人の 約1/7 を占めるにいたっている 30)。ただし,市参 事会が貧しい移住者に市民権取得料 Bürger~ geldの軽減などの便宜を計ったにもかかわら 2 9 )Bothe,Geschichte,S .3 3 0 4 0 ;d e r s ., B e i t r a g e , S .1 1 2 1 8 3 0 ) フランクフルトの総人口については, H.M 加e r s b e r g, W i r t s c h a f t s - und S o z i a l g e s c h i c h t e z e n t r a l e u r o ρa i s c h e rS t a d t ei nn e u e r e rZ e i t ( G δ t t i n g e n,1 9 6 0 ),S .5 1 . 56( 5 6 ) 39-1 経 済 学 研 究 ず 31〉,一一それでもこれを負担できなかったり, B. 教会別・人員数 両 司 15571156011561 故意に市民権取得を忌避して一一市民権取得者 の数は,この間の 7年聞を通して 4 2 1人 に 過 ぎ ず (第 E・1表),このような大量の非市民の滞在と 営業が後述するように一般市民, 市民(ワロン) とりわけツン 蝶を生んだ。初期, 1557 フト手工業者層との車L ワ ロ ン教会 年までは,その大多数がワロン系であり,ほぼ 成 人 80%を占めていたが,後にはフラマン人も増え (失 婦) 1561年 に は 約45%とほぼワロン系に肩をならべ るにいたっている。 ところで, これら亡命者の出身地は比較的富 浴な階層である市民権取得者についてしか判明 しておらず,貧しい手工業者層の出身地の比重 が必ずしも正確に反映しない恐れがあるが,大 勢は判断しうるであろう。(第 E ・2表)まず, 数的に最も多いのがフランドルで、あるが,ここ でもある特徴が浮かび上がってくる。即ち, ワ ロン系の中心都市で早くから宗教改革運動の一 つ の 拠 点 で あ っ た ト ゥ ル ネ ー Tournai, そ 1 ; jj ; 1 │ │ ! ? ? l d l f 子 女 A. 亡命者総数 [市民権│亡命者 取得者│総数 1 5 5 4 6 3 5 5 5 4 5 1 5 5 6 4 3 1 5 5 7 4 0 1 5 5 8 7 9 1 5 5 9 1 3 1 5 6 0 1 3 2 1 5 6 1 6 小 計 │必 11 l l 年[市民権 亡 命 者 取得者総数 ( 4 0 0 ) 1 5 6 2 ( 7 0 0 ) 1 5 6 3 0 0 0 ) 1 ( 1, 5 6 4 1 5 6 6 1 , 1 4 6 1 5 6 7 1 1 1 7 5 7 7 γ 成 教会 人 ( 夫 7 5I *2 8 4 2 婦) や も ( 寡 め) 婦) 9 0 5 1 6 4 3 9 2 ( 3 7 6 ) ( 2 ) 1 4 ) ( 3 ) ( 守 守4 岨圃ー..ー.~- '--- - - - - - - - - _.:.- - ---ー・守守』品.・・・・・・ a・F一 一 品 a・ ー 噌 噌 _ . . 子 雇 *炉税 税者 3 3 供 L、 人 中 3 8 0 9 1 5 1 H e e r d s c hi 1 1i n g財産税 V e r m o g e n s t e u e r納 D i e t z ,a .a .o .I I,2 7 9 . して,ワロン・フランドルの 中 心 都 市 リ ー ル l L i l l e とそれを取り巻く, アルマンティエール Armentieres, トゥルコワン Tourcoing, コ ーメン Komen(コミーヌ Comine),ムースグ ( 9 0 0 ) ノレーン Moeskroen ( ム ー ス グ ロ ン Mous- c r o n ), ワーステン Waasten (ワノレネトン Warneton), ベレ B e l l e (ベイユール Bai 1 l e u l ) などの新毛織物農村工業の中心地に集中 ( 1 ,7 0 0 ) 2, 0 3 6 * │ 小 計 ト 人 中 フラマ ( 男 4 4 1 1 1 1 8 9 供 L、 雇 女 第I I I・1表フランクフルトにおけるネーデノレラント 人亡命者数 ( 1 5 5 4 1 5 6 7 年 〉 11 1 01 1 8 81 1 6 2 (フラマン) 8 3 1 しており,西地区 West-Kwartierの新毛織物 * A l t s t a d t1 1 3 1,N e u s t a d t5 3 9,S a c h s e n h a u s e n366 W i t z e l,a .a .0 .,1 3 7 ;Di e t z,a .a .0 .,I I,2 7 2 9 . の最大の中心ホントスホーテ,あるいはへント, 31)富裕な申請者,たとえば後述するオーギュスタ ン・ル・グラン A u g u s t i nLeGrandは正規の 4ターラー(約4.8グノレデン)の市民権取得料を 権都市を含むフラマン語地域からの出身者は, 支払ったのを例外として,殆どが 1~2 グルデン まで軽減された。 M e i n e r t,Eingliederung ,S . x i i . i この的土, 市参事会が彼らの市民権取得を 5 8 0 年代以降 できるだけ制限しようとした,後の 1 とは対照的である。 ブリュッへ,イーベノレ, コルトレイクなどの特 数のうえでは少ない。次ぎに比重の高いのがエ ノーであるが,そのなかで,同じく宗教改革運 動の盛んなヴァランシアンヌからの亡命者の比 重が極めて高い。また,首都のモンスも 10人を 送り出している。それに反して,アントウェル 1 9 8 9 .6 プファノレツ選帝侯国(ライン・プファノレツ)におけるネーデルラ ヴァ γ 派亡命者コロニーの形成とその経済活動 (1562~ 1 6 2 2 ) 第I I I・2表ネーデルラント人市民権取得者出身地 ( 1 5 5 4 1 5 61 ) 邦 (州) 名 人 数 フ ラ γ ドノレ伯領 Tournai L i l l e Armenti色r e s Tourcoing その他1) 1 4 5 エ / 伯 領 1 0 4 5 7( 5 7 ) ていた。 これら,ネーデノレラ γ ト人の職業分布は, 1 5 5 6年 , 5 7 年の全員についてのものと, 1554~ ネーデ、ノレラント人市民全員についてのものがあ る。前者は,まだ移住者数が少ない段階であり, 後者は比較的富裕な層に限定されてしまうが, それでも,結果には大きな差異は見られない。 まず,移住者の圧倒的多くも様々の手工業に従 81 04 6 4 事しており,それに対して,商人の数は,全体 0%程度に止まったり,プリュッへ,へント, の1 アントヴェルベン,あるいはヴァランシアンヌ, プラバ γ ト公領 Antwerpen 1 9 アルトワ伯領 9 モンスなどから富裕な大商人の移住も, 1 5 6 8年 9 ニーは手工業的性格が顕著で, 1 4 V e r v i e r s 8 1 3 そ の 他 [ 知織人,研究者 Student からなって消費者的 性格が強く,現地の市民と経済的に競合すると 8 ナミュール伯領 D inant この点は,ジェ ントルマン(地主),富裕な商人や金利生活者, 1 8 リエ}ジュ司教領 の独立戦争勃発後にくらべればまだ少数であ る。このようにこの期のネーデルラント人コロ 一一一仁三一三一三ど竺竺. . J 一 一 一 竺 ネーデノレラント合計 ト系カル 6 1年の市民権取得者について,また, 1 5 6 1年の 4 8 1 8 1 1 1 1 5 7 V a l e n c i e n n e s Mons そ の 他2) γ ( 1 ) 石坂 ω 1 ) Brugge5 , B e l l e( B a i l l e u l )4 , Gent, Waasten, Moeskroen,Nieuwkerke各 3 . 2)LeQuesnoy ,Maubeuge各 4 . この他,フランス人(ロレーヌを含む) 3 3名,スベ , イγ人 2名,久イス人 2名,スコットラ γ ド人 1名 不 明4 1 . Witzel,仏 a .Q.,131-141 . 5 8 5年以降の ベンからの移住者はまだ少数で, 1 大量流出の前兆はまだ窺えなし、。なお,注目す べきは,鉄や銅など金属加工で名高いリエージ ュ市あるいは農村紡毛毛織物工業の新興の中心 ヴェノレヴィエなどを含むリエージ且司教領 Principaute de L i 色ge, リンピュノレフ公領 Duche de Limbourg (Hertogendom Lim- 0 名 burg) の出身の者が毛織物生産者を含め 4 ほどにおよんでいたことである。さらにワロン 系教会には,フランス王国(ロレーヌ,フラン 0名ほど含まれ シュ・コンテも含む)出身者も 3 ころが殆どないイギリス人亡命者コロニーと対 照的である S九 こ れ ら 手 工 業 者 の 約 半 数 が 繊 維 工業関係に携わっていた。まず第 1はウーステ saieteur, ッド(セイ)織工 Bursatweber ( t e x t o rρ annio s t a d i n i ) のほか,同系統のホン トスホーテ織工 Hondscotweber(saieteurde hondscot,t e x t o rpanniH o n d i s c o t a n i ),アラ ス織工 Arrasmacher C textorρanniaureli- a n e n s e s ) などの〈新毛織物> (硫毛毛織物)33) 3 2 )1 5 5 5 年のリストの 4 5名のうち, ジエントリー g e n e r o s i3 . 商人 9,学者・知識人 Student3 3 を数えた。R.Jung ,D i ee n g l i s c h eF l u c h t i l n g s g e m e i n d ei nF r a n k f u r ta . M 1554-1559 ( F r a n k f u r ta .M.,1 9 1 0 ),S .2 6,2 9 . 3 3 ) 1554~1561年のフラ γ クフルトにおけるネーデル ラント人亡命者の経済活動についての研究として は , 古い文献であるが, G . W i t z e l, “ Gewerb e g e s c h i c h t l i c h e. S t u d i e nz u rn i e d e r l a n d i s・ chenEinwanderungi nD e u t s c h l a n d im 1 6 . J a h r h u n d e r t ヘWestdeufscheZ e i t s c h r i f tfur ,XXIX( 19 1 0 ),1 1 7 1 8 3 G e s c h i c h t eundK u n s t が最も詳しい。なお, 1 5 5 6年当時,フラマン教会 員の硫毛毛織物工にはセー織工が見当たらず,す べてホントスホーテ織工であるが, ワロン教会員 に 1名だけホントスホーテ織工ないしアラス織工 5 8( 5 8 ) 経済学:,.,..::研究 の 織 布 工 や そ の 準 備 工 程 で あ る 硫 毛 工 Ka I n - ¥、 r 39-1 左ころで, これあの繊維工業のなかで市当局 mer が挙げられる。他方で紡毛毛織物の織布 が最も期待を寄せていたのが,新毛織物工業の 工や織元 Wollweber-Tuchmacher(drapier) 導入と移植であろう。すでに述べたように,フ の数もこれにほぼ匹敵していた。この他, 1580 ランクフルトに最初に迎え入れられた 24 家族は 年代以降フラングフルトの代表的産業となる絹 グラストンペリーを去った硫毛毛織物工であ 糸による巌飾り工 Posamentiererやリボン織 り,安住の地を与えられた後,すぐさまその生 工の数も,新毛織物に匹敵していた。さらに, 産を始めたと思われるが, ネーデルラントで繁栄していた新繊維産業であ 場合とほ異なり市当局から施設や資本の前貸し グラストンペリーの る亜麻や絹・綿との混ぜ、織りの,パルヘント をうけてはいない。これは,おそらくフランク Barchent, ボンノミジン Bombasin, カップア フルトのなかで同じネーデルラント人からの融 Ca 妊a, トリップ Tripp , ピロード,それにタ 資や援助が得られたためであろう。ただし, ベストリー織工などもそれぞれ少数含まれてい 1554年11 月 1 日に『イングランド人~ た。(第皿・ 3表) ランドから再亡命したネーデ、ルラント人のこ (イング これらネーデルラント人亡命者は身一つで辛 と)がザクセンハウゼンの公衆浴場を購入して うじて迫害を逃れ,赤貧の姿でこの都市にたど 染色作業場に改装するため 300グルデンを 2回 り着いたものが大部分であった。このことは, にわけて 3ヶ年賦で貸付けるよう請願したのを 1556 年の全市民への財産課税からも明らかであ 認め, さらに翌日年 3月 7日,この染色作業場 1 8人中,財産税の免 る。すなわち,納税該当者2 に桟橋を設けて染色済みの毛織物をマイン河で 1 2日硫毛毛織物工 Ar- i l 1ing,弘 税点 20グルデン以下で炉税 Herdsch 洗う許可を求めたが, グルデンのみを納める最貧困層が全体の%の 60 rass und Burschid についてのみ水を汚染さ 人に達し,貧困層に属する 100クツレデン以下は 76 せぬ限り許可された叩。ついで 4月23日硫毛毛 Mに及んでいる一方,1, 000グルデン以上の資産 織物工は引伸台 Mange の設置と賃貸を願い 所有者はわずか 2名に止どまった。この点は, 出て許可されている。その後, 1557 年 5月1 1日 , ドイツ人市民のみならず,同じ亡命者集団のイ 市当局はネーデルラント人 Welsche に 対 L ギリス人,あるいは異教徒少数派のユダヤ人と て,新水車場に隣接して新しい『引き仲ばし= の対比からも明らかである 84〉。(第 m・4表) 染色作業場~ Mang-undFerbhausを建築 L が見出される。従って,この両者が同じセー(サ ーイ)織りかどうかは断定できないが,殆ど差は , . 1 R . M: van den なかったであろう。 Vg 1a n d s ev l u c h t l i n g e nt eF r a n k A b e e l e “ ,Neder f o r ti nd e XVlde 巴巴uwヘ Onze Stam ( F a I I I, mi 1i e k u n d i g eB i j l a g evanOnsHeem,V 1 9 5 0 ),1 9 な お , アラス織は セーと似ている が脂肪の多い羊毛を用いる点と 撚りを 2回行 うところが異なった。 3 4 ) Bothe,Entwicklung ,S .1 5 9, 水1 1 2 3 .当時都 市貴族の資産の目安は 1万グルデンの線であっ た。ネーデルラント人亡命者の場合には 高額納 税者として 資産額1, 0 0 0グルデン台 1台 3 , 0 0 0 グルデン級 1名(間違いなく LeGrand)を数え るのみであるのに対して イギリス人の方は,ウ ィルキンスン未亡人 J a n e Wi 1k i n s o nの 6, 0 1 0 を筆頭に, EdwardI s a a c,5 , 0 5 0,JohnHales , 0 0 0C 彼については, 後述 6 5ベージ,注目 J , 5 JohnSamford,4 , 9 4 0の 他 , 3 , 0 0 0台1 名 , 2 , 0 0 0 台 3名を数えた。 Jung,a .a .O .,S .2 9 3 0 . て , 4年間 30ターラーで賃貸することを決めて いる問。これら統毛毛織物工は毛織物工ツンフ トではなく,ノミノレヘント織工などとともに麻織 工業ツンフトに所属したのであろうが, この新 産業の場合には,既存のツンフト規制を全く受 けなかったし, ツンフト加入をめぐる,あるい は市民権をとらぬ,あるいはツンフトに加入し ないネーデルラント人の営業をめぐる紛争も全 く見られなかった。それゆえ,彼らは出身地同 様に自由に硫毛毛織物の生産に従事できたが, その品質を保証して市場での信用を維持して L十、 3 5 ) Mein巴r t,Eingliederung ,S .6 ,7 3 6 )e b e n d a,S .4 2 . プファノレツ選帝侯国(ライン・プファノレツ)におけるネーデルラント系カノレ ヴァン派亡命者コロエーの形成とその経済活動,C1562~ 1 6 2 2 ) ( 1 ) 石坂 1 9 8 9 .6 第I I I・3表 ネ ー デ ル ラ ン ト 人 の 職 業 構 成 種|日565J412 日 F5575J428 日 I(~昔話島) 職 1 繊維工業 1 0 3 一一?問主主 l 1 . 1 .一 1 . 1 . 1 . サーイ工 1 . 1 . 2 . ホ γ トスホーテ織工 1 .1 .3 . ボ パ γ ジン織工 1 .1 . 4 . トロップ織工 1 . 1 . 5 . カップァ織工 竺 3 3 2 0 L_____~竺 9 OJ 1 .1 . 7 . 統毛エ 5 2 5 2 v~ 1 8 2 7 3 2 2 2 1 1 2 )lg毛工 1 . 1 .9 . 縮械工 1 .1 .1 0 L タベストリー織工 1 .2 . 麻・綿織物工業 1 1 i 瓦 L i ι i 了 1 .3 . 縞工業 ? F; J よ fd 仔 : 三 7 万 13 . 1 . ぞ 軒 付幅; 品 鉛 I_________~~_________l J 3 6 1 l ' 3 I 4 1 L J : . . L I 2 2 1 9 2 l '6 6 竺一一一一L______~_~________L______~~ 3 14.1. 染 色 工 2 商人 T 3 i 12 J _ J 1 9 I 6 5 I 5 1 8 3 I 4 1 3 3 0 ? 一 ? 一 中 竺 一 一 雪 一 手 芋 一 一 一 一 一 一 一 一 一一一 . J 3 . 1 . 1 . 3 . 1 . 2 . .3 . 3 .1 3 .1 .4 . 31 .5 . 仕立屋 口 1 1 7 9 2 靴屋 指物師 草草案工 2 ピール醸造業 4 木樵 自由・専門職2 ) 7 不明 合 I 2 日雇い 6 44 4 一工王乎正お訂亨正 L 4 その他 空 2 1 7 l 竺一一一一一 一一一一一戸一ー 4 8 4 I I (諸民) 2 0 0 2 紡 織物工または 織毛 元毛 1 ) 1 .1 .8 . 2 8 0 5 9( 5 9 ) 計 I . . . 臼 1 . 3 臼 1 3 1 1 7 2 1 5 1 4 7 I 4 4 叩 1 O I 3 3 3 1 1 3 2 7 1 5 1 6 1 1 1 4 2 2 6 1 2 5 必1 2 7 9 195ω) I 1 ) Tuchmacher ( d r a p i e r ),Wollenweber,t e x t o rpannorum 2 ) 牧師,教師,画家,医師,薬剤師,金利生活者。 3) 5 1名の雇い職人, 7名の少年, 4 0名 の 少 女 を 含 む 。 た だ し , 家 族 7 2 9名を含まず。 W i t z e l,a .a .0 .,1 4 1 5 . 8月2 7日検印制度の実施をもとめて 検印用の見本を提出した。これにたいして,市 宣誓検査官 Siegelmeister の任命と 1反あた 参事会は宣誓した公認の検査官任命は予め条例 り 6へラーの検査料徴収を市参事会に請願し, の制定が必要であるむね回答したが,これ以後, くために 6 0( 6 0 ) 6へラーでの検印の方は実施されていた 3九 し かし,条例の制定は手間取り,実施されたのは 4年後の 1559年のことである。この『統毛毛織 物工条例~ 39-1 経 済 学 研 究 Ordnung der Burschidwober3め はネーデルラント人の側から提出されたラテン 語の草案を市参事会の側で編集しなおしてドイ 2グ条とこれまで ツ語正文としたものであり ,4 第1 1 1・4表 1 5 5 6 年フランクフルト市域内居住者資産 分布 九九男 401~600 ドイツ諸都市の場合に比べて著しく簡単なもの 601~800 明~ ehelicher Geburtす ら 要 求 さ れ て い な い。製造も〔第 1条]長さを 25フランクフルト・ C エレ ( 1 7 .4 8m), 第 2条1緯糸の本数は広幅物 れた他は,他の親方への下請けも含め全く各人 の自由にゆだねられ,織機!台数など経営規模へ の制限も設けられておらず,工賃賃率も自由で あった。ただし,この時点で硫毛毛織物工の聞 ですでに貧富の分化が生じ, とりわけ貧しい硫 毛毛織物工が慌毛糸の不足に苦しめられていた 3 3 6 7 3 5 1 O 1 O O O 1 0 1 4 2 O 5 2 1 3 1 O O l2 ,1 1 1 2 1 8 6 1 801~999 3, 000~3, 999 4, 000~5, 9 9 9 , 000~7, 9 9 9 6 , 000~27, 5 0 0 8 , 0 0 0以 上 3 0 れ,また〔第 7条1黒く染めるに当たっては, 一旦青色 tourquinに染、めることが義務付けら 4 0 0 1 0 6 1 1 9 8 5 7 6 1 1 7 54 2 9 4 1 3 5 4 0 5 1 , OOO~, 19 9 9 , 000~2, 9 9 9 2 計 での1, 550~, 1 600本,小幅物で1, 200本と定めら 7 5I 3 1I 101~300 代のバーゼノレやシュトラースプルクなどの西南 1クソレデン 4シリング ( 1f l . 4β), 4シリングを支払うのみで, w 嫡出証 硫毛工は 1 5 1 6I 2 8 0I 2 1~50 0 0 5 1~ 1 301~400 年の修業と │ 3 z f丈 ; 1ギ │ iユダヤ人 ~_~_~~___J 一一竺L_____~_~_L_____2~_1______ 6 のフランクフルトの毛織物条例,あるいは同時 である。まず,親方の資格取得については 1カ │ドイツ人 1 。 1 3I 6I 3 1 9 5 4 5 6 1 9 1 4 5 7 6 5 5 1 F . Bothe, Die Entwicklung d e rd i r e k t e nB e s t e u e r u n gi nd e rR e i c h s t a d tF r a n k f u r ta1仰 Main S c h m o l l e r s b i sz u r R e v o l u t i o n 1612-1614 ( e f t1 2 1,L e i p z i g, 1 9 0 6 ), 71~2, Forschungen,H *112~3 イギリス人は, Jung ,a .a .0 .,29~30 より計算して ネーデノレラントから分離した。なお,帝国都市フラン { 77 } レト・アム・マイ γ 支配下の 8カ村の財産税負担 者4 8 6人を含まず。 のを反映して,公設の硫毛糸市場が設けられ(第 35条),また杭毛工 Kamnerは自宅で紡いだ硫 毛糸 Arrasgarn を除き先買いや買い占めを ( 第27条),また織布工も家族と住み込みの雇い 職人以外に紡績を外注することを禁ぜられた ( 第 36条)。そして,製品は織布工から 5名,染 3 7 )e b e n d a,S .1 6 1 7 . 3 8 )M einert,Eingliederung ,S .6 6 7 ;W i t z e l,a . a .0 .,S .1 6 8 7 7 . この条例jは , K .Bucherund r a n k f u r t e rAmts-und B .Schmidt,CHg.),F Zunfturkunden b i s zum Jahre 1612, 1 ・ 1 C F r a n k f u r ta . M.,1 9 1 4 ),S .3 2 7 3 3 5に収録さ れている。ただし この統毛毛織物工業の管轄ツ ンフトである麻織物ツンフトの箇所に組み入れら れ,折角のヴィッツェルの研究にもかかわらず, これを 1 6世紀末としているため, これまで多くの 研究者が看過してきた。なお,この条例がホント スホーテやニューケルケなど, 同時代のフランド ルの硫毛毛織物生産の中心地の製造規則に比べて も非常に簡単であるが,これが全く独自のものか, 模範が存在したのかは, 目下のところ,筆者には 不明である。 色工と硫毛工各 1名の計 7名の検査官により, 織 布 , 染 色 引 き 仲 ば し Mangen の各段隔で 検査をうけることになっていた。この条例は急 1日に実施され を要する糸の公設市場のみ 5月1 たが,検査料は一挙に 4シリングと 6倍に引き 上げられることになり,これは,少なからぬ負 担であった。そこで,硫毛毛織物工は 9月 5日 に市参事会に従来どうり 6へラーに据え置くよ う請願したが受け入れられず,結局 2シリング に引き下げられて実施された向。 3 9 )M einert,Eingliederung ,S .7 3 4 . プ フ ァ ル ツ 選 帝 侯 国 ( ラ イ ン ・ プ フ ァ ル ツ ) に お け る ネ ー デ ル ラ γ ト系カノレ ヴァシ派亡命者コロニーの形成とその経済活動 ( 1 5 6 2 1 6 2 2 )( 1 ) 石坂 1 9 8 9 .6 6 1( 6 1 ) それでは,この期間 (1554~1561 年)を通し ツンフト規則を制定す】るか,当市の既存のツン て,硫毛毛織物生産はどの程度の規模まで成長 フトへの加入を認め,その際貧窮者には加入金 したであろうか。この新工業も原料であるヘヅ を免除するよう求めている判。市参事会は毛織 セン産羊毛の域外流出による不足と高騰,他方 物織布工ツンフトの意見を求め,その結果,ネ で相変わらずメッセを通じて流入してくるフラ ーデルラント人は,当該ツンフトの規則に定め ンドル産の硫毛毛織物の競争でイ申び悩んでい られた織物の幅と品質を下回らないことを条件 た。すなわち,第 E ・5表が示すとうり,検査 に,長さも幅も自由に製造することが認められ 年には,ボンパジン 料収入から逆算すると, 1560 た。なお, ツンフト加入に当たって加入金と並 織も含めて1, 240反 , んで『嫡出証明~ G eburtsbrief が必要であっ ピークの 1 5 6 1年でも 2,300 反に止どまり,もし,織布工の月産 2反の数字 たが,亡命者が即座に提出するのは,不可能で を用いれば 40〉,総数は9 5人であった。それゆえ あり フラングフルトは一応中規模の生産地としての い場合には加入金を返済することが定められ 2メ γ セの期間猶予され,書類が整わな スタートを切ったものの, この数字は紡績や硫 た叫。しかし,実際に毛織物工ツンフトに新規 毛,染色などの関連職種を含めてもネーデルラ 加入したのは,全部で 25人にとどまり} うちネ ント人の有業人口1, 224人の 1割程度に止どま ーデルラント人は 17 人(うち 8人がリンピュル り,また広くドイツ人市民子弟への伝習も行わ フ公領, 7人がヴェルヴィエ 2人がフランド ルのベレ ζベイユール〕出身)であった。それ れた形跡が見られない。 一方,南ネーテソレラントの東部, ヴェノレヴィ エなどリエージュやリンピュルフ出身者を中心 ゆえ, 41名を数える,市民権を取得した紡毛毛 織物工 Wolltucher すら極く 1部しか加入し とする『フランス語系外国人紡毛毛織物工』 なかったが,これは恐らく,摘出証明の入手が D ie Frembden Frantzosischer sprach des 1enweberhanwercks も 1555年 6月 13日 Wol に,市参事会に 4種類の毛織物の生産を許可し 不可能であったことによるのであろう。従っ それぞれに特別の検印を押すこと,彼ら独自の 従事していたと思われる 43)。このため,市参事 て,多くのツンフト未加入のネーテソレラント系 市民や居留民の織布工が,その生産に引き続き 会は, 1557 年12月24日に新しい『紡毛毛織物織 布工条例~ Wullenweberordnungを制定し, 第I I I・5表統毛毛織物生産高 検 印 料 収 入 自 4 一d .I 生産高(反)I 織布工数 年度*I 1 5 5 5 * * 1 5 6 0 1 5 6 1 1 5 6 2 1 5 6 3 1 5 6 4 *5 月 2 0 1 0 3 1 9 1 3 2 1 6 1 1 1 5 0 8 1 6 1 0 1 0 1 4 3 7 4 3 ( 9 21 ) 1 , 2 4 0 2 , 3 0 0 3 8 9 1 9 7 1 3 9 3 0 5 0 9 5 1 6 8 5 1 日 ~4 月 30 日 )内は年間生産高の推計 o W i t z e l,a .a .0 .,1 7 6,Anm. 2 6 4 . 判 8 月 27 日 ~4 月 30 日。( 4 0 ) この硫毛毛織物生産における織布工ひとり当たり .Maugis , " L aS a i e t e r i e 月産 2反という数字は, E aAmien ,1 4 8 0 1 5 8 7 ",V i e r t e l j a h r s c h r i f tfur , V( 1 9 0 7 , ) S o z i a l -undW i r t s c h a f t s g e s c h i c h t e 9 7によったが, その史料上の根拠は不明で若干 変わる可能性がある。 3種の紡毛毛織物の製造規則を定めて,これを 紡毛毛織物製造従事者すべてに適用した。ま ず,当市で製造される紡毛毛織物は,第 2条で ①長さ緯糸1, 700本,幅4 .5ブ ラ パ ン ト ・ エ レ Brabantscheehle (縮織後 3エレ)②同1, 500 本,縮蹴後 2.5エレ③1, 200本 , 3 %フラング フ/レト・エレ(縮誠後2.25エレ)の 3種とし, 2名の検査官 Schaumeister により検印され ることになった。また雇い職人数もまったく自 由とされている(第四条)。ただし,他の織布工 の製造した毛織物を総て買い占めて転売するこ 4 1 )M e i n e r t,Eingliederung ,S .1 0 . 4 2 ) ebenda ,S .1 1 . 4 3 )W i t z e l,a .a .O .,S .1 5 3 4 . 6 2( 6 2 ) 39Z 経 ぺ 済 学τ 研 究 とは禁止されていた〈第 9条)。なお斡毛毛織 物製造 Tuchmacher handwerck をこの市で 削 った。 これら,技術移事誌や輸出産議育成と斡び付く 学ぼうとするすべての外酪入手勢は『嫡出誌明 i 分野と異なって,数のうえで f 巨額簡に多いそれ e h e l i c h e rGeburtが 要 求 さ れ ま た 議 議 2年 以外の通常の手工業の場合は直ちにツンブトと 間の修業会要求された。 ζ のように,この条艇 の探刻な語争を慈、記し,それがまた,ネーデノレ は1377 年に制定され強えず増補されてきた 1 85 ラント入の大量流入やその独自の改革派=カル 条にも上る既存の議布工条例j とは一一規格の点 ヴィニズムの信停に対する市民の識しい融意さと で 1501 年 3 月 2 日の追加,総 147~176 など, 喚び起こした。 若干類凱点がみられるが一一全くといってよい 1条の欝絡なものであり, 位無関係で,わずか 2 もともと r 行き当渇も,各ツンブト私立tーデ ルラント人亡命者逮が市民権を敢得して,所定 織議台数の制限も市外への問屋制前紫し禁止な の手続きでツンツトに加入して,当該鞍識に加 どの条項も晃さきたらない。縦って,その原案も わることには異存はなかった。しかし,貧しい ネ…デノレラント人のイ ι シアティーヴにより, Urgergeld を負挫で 亡命者は市長権取得料 B フランドルやヴ::t:l~ r ' ; lィz などの農村ないし新 きず,あるいは支払い能力がめってもその意志 興の生産地の規則令受け継いだものであろう。 がなく,市民権取得者は亡命者の約誌に11::どま 561年ま勺にど し か し , こ の 結 織 物 生 躍 が1 り,しかも市民となってもツンブトに加入しな の程度の規模まで成長したかは全く不明であ る44)。 いものが多く,その結果多くネーデルラント人 このほかの畿綾工繁としては, トゥルネーや ヴァランシアシヌ,アントウェルベンなどの欝 由来する絹工業, が , ツンブト外で,単身,あるいは臆い人とも ども手工業者と営んだ [ n i tz u n f t i gs i n d,doch mitiremge 器i n da r b e i t e n ア九これが,加入 とりわけリボンや縁飾り 金の負担や証明察などの手続きの煩しさによる の生産があり,後にはこの地の代表的産業とな ものなのか,それとも彼らがもともと,特権、都 るが,この時期ではいずれかのツンブトに加入 市にぜよ農村や市場町にせよ,これまでその故 Lたか否かも含めてその実態が不拐であり, 郷で, 当局や特定ツンブトとの鋳争も生じてはいなか 営み,いまさら拘束されるのを採ったのかは不 4 4 )e b e n d a,S .1 5 5 . ヴィッツェルは, との条例の原 文きと見付けることができなかったが, B u c h e r u n d S c h m i d t ,( H g ., )a .a .0 .,S ;2 1 9 …2 4 4が一一編 6後紀初草案の務案と注認しているが一一一f!Jlら 者が 1 かにこれに該当する。なお,ブラシグフノレトでは, おそらくネ…デノレラ γ ト産毛織物のメッ々におけ る大震取引の結果としてフランダブルト・ぷ乙レと 並んで、ブラーバント・品レも湾いられていたが, 毛織物条例にヅヲーバンド・エレが受場ずるのは これが初めてで,やはり‘ ネーデノレラント人亡命 者の要務会2 働いたのであろう。なお,これ以前の 紛毛毛織物条例はすべて, Fromm ,a .a .0 .,S . 拐1 6 0の U ikuhd 記録に刊行されている。なお, 1 3 7 7 年以来効力を持っている毛織物条例札織機 0 ),また市外への下 台数会最高 2合に制限し〔号 4 じている (~12)。向じく,パルヘソト織 工条例 B a r c h 叩 t w e b e r O r d n u n g( 1 4 3 0 )も. 稼働綴楼台数を 3台まで〈所有は 4 t ままで可)と 6 0 ) . また‘徒弟も同時?と 2名までに鰯践し しくs ている。 ( s 6 2 ) ツンフトに拘策きれず、に岳 555年か 明である。しかし,このため,阜くも 1 ツンブトとの紛争が始まった。 1 555 年 1) j2 4臼に靴工ツンフト d e r Schuhmacherhandwerck からこの種のツンフト外・ネーデ ルラント人の営業への苦情が市参事会に義出さ れたのに続いて 5月 7目指物部 S c h r e i n e r より, 10月29日仕立墨 S c h n e i d e r から抗議の ゆし立てが仔われた。これに対して市当高は, 7月にこれきと紡毛毛織物工ツンフトと問じく, これら手工業者に議関誌明書は 2メ γ 々の猶予 期間を与えて後日提出'dぜることとして, とも かく加入金のみ会支払ってツンツトに加入させ 4 5 )M e i n 君r t,Eingliederung ,S ;7( 1 5 5 5 . 2 4 . 1 ),9 ( 7 . 5 ),1 0 ( 11 .6 込1 7 ( 2 9 . 1 0 ). 1 9 8 9 . .6 プファノレツ選帝侯国(ライ γ ・プファノレツ)におけるネーデノレヲ γ ト系カノレ ( 1 ) 石坂 ヴァ γ 派亡命者コロエーの形成とその経済活動μ(1562~1622) 6 3( 6 3 ) 8月 6日の市 なら,加入金の点で、配慮を願いたい。また,ネ 参事会への書簡でも,このような紛争を遺憾と ーテ、ノレラント人で,市参事会やツンフトに虚偽 して, ツンフト加入を当然のこととして認め, の申告をしながら,教会にこれを告白していな 決して営業の自由を主張したわけではなかっ た。市参事会は 1 1月1 4日,これら 3ツンフトか い者にかん Lては,教会としては責任を負いか ねる,と 48)。 らの苦情と外国人の手工業者数の実態をネーデ このように,ネーデノレラント人非ツンフト手 ルラント人亡命者教会の指導者であるプーレー 工業者の違反行為については,市参事会もネー ンに示して,当地市民と,有害な混乱を招くこ デ、ルラント人側もその事実については認識は一 となく協調する道をさぐるよう求め, 致していたものの,依然その取り締まりは困難 る方針を採り 46) プーレーンも, このよう 1 5 5 7 年に入るとネーデルラ な対立が自然に鎮静することを期待した的。し であった。しかし, かし,その後も相変わらずネーデルラント人亡 ント人の亡命数は激増しヴェーゼルなどからの 命者の流入と無許可の非ツンフト手工業者の増 再移住が進み, 大が続き,今やツンフト側のネーデルラント人 の大部分が市民権すら取得しないで、もぐりの手 亡命者手工業者への攻撃がネーデノレラント人亡 工業を営むようになると,市参事会もさまざま しかもネーデルラント人亡命者 命者(改革派)教会の市会教会規則違反を弾劾 の分派(ゼグテ)や急進派の流入,そして貧し するルタ一派牧師と結び付いた。市参事会も最 い居留民 Beisasse,Nichtburgerの増大を懸 2月,ネーデルラント人亡命者教会の牧師に対 5 7 年1 2月 7日 , 6 0年 7月2 5日 , 6 1年 3月2 0日にツンフト外手工業の し , 8年にネ 全面的禁止に踏み切った叫。(ただし, 5 早,これまでの寛大な方針を捨てて, 1 5 5 6 年 ツンフトの満足の行くような弁明書を提出 念して,態度を硬化させ, 1年以 するよう命じている。これに対して,牧師たち ーデノレラント人の市民権取得に当たり は,このような違反者の存在は認めつつ,彼ら 内に嫡出証明書を呈示しえぬ場合,証人をもっ が貧しさのゆえに, てこれに代える mitlebendiger khuntschaf ツンフトの加入金が支払え ないので減額ないし分割払いを認めてくれるよ 1en ことを認めた。)そして,現に darthunsol うに請願した。また,嫡出証明や徒弟修業終了 草袋工 Sackler CSeckler) など他の職種にも 証明 Geburts-undAbschiedbrief も本国か ら取り寄せるのは不可能であり,ネーデノレラン ト人亡命者教会の尊敬すべき人物あるいはメッ セの常客のネーデルラント人商人の保証でこれ に替えさせて欲しい。なお,問題の非ツンフト 手工業についていえば,ネーテ事ルラント人靴工, 仕立屋,指物師はそれぞれわずか 5名にすぎず, 仕立屋のうち 3名は「ズボン作り JHosenmacherei にのみ従事し, 本業の仕立屋は 2名に 過ぎなし、。しかも,これら手工業者はみな極貧 でやっと生計を立てているに過ぎなし、。それゆ え , もしかれらがツンフトに加入を命ぜ、られる ,S .1 2( 1 5 5 5 .1 8 .6 ) . 4 6 )e b e n d a 4 7 )e b e n d a ,S .2 0 2 1( 1 5 5 5 .1 4 .1 1 ) . プーレーンの 8 月 5日の市参事会への書簡は W i t z e l,a .a . Q., S .1 4 8,Anm.1 0 1 紛争が広がり,ツンフトは自衛のため独自にツ ンフト外手工業者の摘発を始めた 50.,。こうし .2 4 5( 1 5 5 5 . 4 .2 ) ;Witzel,a .a .Q., 4 8 )e b e n d a ,S S .1 4 9 5 0 . 年 5月2 0日の市参事会で. ネーデルラント人 4 9 )1 5 5 7 Welsche が大量に当市に入り込み. そのなかに は.分派(ゼクテ〕が多数含まれているので.調査 する事が決定された。 Meinert, Eingliederung , S . 4 2 . 続いて 6月 5日の市参事会で,ネーデノレラ ント人亡命者の宗教とツンフト規制違反の双方に ついて多くの苦情がょせられたが, この日の会議 で , かねてシュトラースブルクとヴェーゼルに, 私的にその地のネーデルラント人亡命者について 問い合わせた結果が報告された。そこで, ヴェー ゼノレ市が彼らを全部追放しその多くがここに移っ てくるという情報が披露され,早速その真否をヴ ェーゼルに問い合わせることになった。 ebenda, S . 4 4 . 5 0 ) Meinert,E ingliederung ,S .3 1( S e c k e r, 1 5 5 6 . 6( 1 5 5 8 .2 8 .4 ),7 8( 1 5 6 0 .2 3 .5 ) . 9 .6 ),5 64( 6 4 ) 39-: 1 . 経済学級究 て,ネーデルラント人亡命者教会の自立と改革 ( 3 ) ワロン,フラ?ン,イギザス 3"e:命者数 深(ツヴィング予=ブ…ツアー出カノレヴァン派) 会の形成と Jレター派市教会との対立。一一 「改革派の礼拝禁止J(1561年)の経渦一一 的教裁に拒態皮応を示す一般中小市民出身のノレ ター派牧部たちは,ネーデ/レラント人の非合法 先に議べたように, ここうしてブ…レーンの懇 I 湾じ社会層であ 命の働きかけとメランヒトンの影響のもとにあ る手工業務欝のネ…デノレラント人亡命者への援 った有力な蔀市貴族の庇護のもとに,グラント 護のうちに,強力な支持層を 3 もいだしたのであ る51)。 ンベりー亡命者教会会継承 Lた フ ラ ン ク フ ル 的手工業の龍題に触発された, なお, この時期のネーデノレラント入荷人麗の 亡命は,これまでのフラングフルトのメ γ 々と ト・ワロン人〈フランス語系〉立命者教会 W a l ,e c c l e s i αt e r e g r i n o r u m l o n i s c h eGemeinde l i n g u a eg a l l i c a e が発足したのち, プ…レー の長い取引関係にもかかわらず,決して多くは ンのさ報をうけて ないし, 支 ず こ , 1556年の財・産税課税に当たっ の資産令欝えて~たにすぎない。このように, W i l l i a mWhittingham を とする,サットン EdmundS u t t o n,ウ l 1 iamWo o d, ウィ手アムズ ッド ThomasWi Wi 1 1 iamWi 1 l i ams ら 4人のジ品ントノレ吋ンが とこの惑にはブリ払ずへ出身のオーギ旦スタン・ 家族やお住ともども,早速フラングフルトに亡 て1.0 0 0グルデン以上の資産所有者がわずかに 2 入マ,その多くが高々 100~200 グルデン程度 randなど ノレ・グラ γAugestinLeG 6月2 7 1 3イングランドから γ ティンガム ウィ し , 7} j213に市参事会に,ネーデルラント りの錦外であり,霞絡な議人爵一一円とりわけア 人と同ーの条件での市長としての受け入れと独 ントウェルベン出身の 患の教会による札詳と議式を認めるよう I 湾1 4日に,貴族や高い身分の者を除く市民 かった。この時期の商人壌で最も多かったの し , は事絹工業が栄えていたグァランシアンヌ,タ 権草案与とマグ〆レーナ〈ヴアイスフラウニ乙ン〉 ベスト担…工業の中心ルゥルネー,それにリ} 教会のネーテソレラント人との共鰐使湾が認めら ノレやアルマンティエ弘一/しなどの出身で,かれら れた。こうして 7月2 9尽にイギリス人亡命者数 のうち幾人かを ドゥ・ラ・グリ品}ティー Del a J akobC r u c i u s ),クーヴジューノレ C o u Cruty( v r e u r,デュ・ブ器一 DuFay,ブロム Johann ,マユ- M ahieu,ジューヴノ- J o u・ l eB l om veneau,フィーヴ広 F i e v e t,ドゥ・パヲ- De o r e a u,アベーレ Abeele,ヤシ Bary,ソロ… S ソン J a n s o nなどのー擦は, 1562年後もこの市 e n g l i s c h eGemeinde,e c c l e s i at e r e g r i noruma n g l o r u mが正式に発足し, ウィッテ 網 ィンガムのもとで,かのスコットランド宗教改 卒者でカノレヴプンの高弟ノ γ クス J ohnKnox がジュネーヴから牧宮市として迎えられ, I 司じく ハッドン ThomasH addon, !Jーヴァー Tho 姐 に路、みどまりJ互いに姻戚関係を結びながら masLeγerがこれ'&譲けたのそして,その後 もヘイルズ J ohn廷a l e sを始め,イギ予ス宗教 りなど絹製品取引で産省fなし,その 改草史上名を主義した多くの欝々たる知職人を教 後2 0 年余りでこの市で最も筒裕なワ開ン系カノレ として迎え入れ"子宮シャ諾やへブライ語, F 大学.ll U n i v e r s i t yずら設立し ヴァン探衡人!警の中核を形成することになろ 神学を講ずる う島空〉。 た。そして,マグダレーナ教会にネ…デノレラン 5 1 )W i t z e J,a .a .O .,S .1 5 1 . 5 2 )D i e t z,a .a .0 , ‘1 1 ,S .1 0 4 0 .A u g u s t i nL e , 1 5 5 8 年豪邸 H a u szum B r a u n f e l s G r a n dは を購入して 1 5 7 8 年設でこれを所有し当時ネ…デ ノレラント人亡命畿では最も笈絡な商人であった。 彼は. 1 5 7 5 年ダンヅィッヒに移って 8 6 年まではそ 日聖カ ト人と同居するのが手狭となったため, I タリーナ修道説付属の教会 S t . Katherinen 帯 こにいたが, その原簡やその後の務動は不明。な お,後のワ口ン教会との鍔わちについては,後述 6 7 ベージ参照。 1 9 8 9 .6 プファルツ選帝侯国(ライ γ ・プファルツ)におけるネーデノレラント系カル ( 1 ) 石坂 ヴァ γ 派亡命者コロニーの形成とその経済活動 (1562~1622) 6 5( 6 5 ) 市教会のノレ に,家族と片腕と頼むユーテンホーヴェを同伴 ター派牧師たちの反対により,代わりに使われ して帰国の途についた。そ Lて途中フラングフ kirche の使用の許可を求めたが, ていない『万聖節礼拝堂~ Al 1erhei 1 igen-Ka・ pel 1e を下げ渡された 53)。 ルトに立ち寄った国際的に高名な宗教改革家 は,ネーデルラント人亡命者たちのみならず, 一方,先に見たように,フラマン人も少数な 人文主義的都市貴族たちの歓迎を受け,市民権 がらフランクフルトに亡命してきたが,彼らを を与えられたが,永く留どまるつもりはなかっ 独自の教会に組織する指導者を失き,さりとて た彼は,居留民 Beisasse としての宣誓のみ果 フランス語を解さぬ彼らをワロン人と同じ教会 たした問。 に組み入れるのはどうしても無理であった。ち 彼は早速フラマン人亡命者教会の牧師として 年 6月初め,かのラスキが ょうどこの時, 1555 アントウェノレベンのプロテスタント学校の校長 ユーテンホーヴェを伴ってフランクフルトに到 であったノ、スパーノレ・ファン・デア・へイデン 着したことは,フラマン人亡命者教会の設立に GasparvanderHeydenに白羽の矢を立てた 一方ならぬ助けとなった。かれは,先に述べた が断られ,結局, ように, 僧でロンドン時代からの弟子である西フランド ロンドンのフラマン系ネーデルラント もとイーベルのカルメル修道 人亡命者教会の脱出者とともに,エムデンに落 ル・カッセル Cassel (現在フランス領)出身 ち着いたが,その後オストフリースラント伯領 の ダ テ ヌ ス ( ダ テ ー ン ) Petrus Dathenus この先いつまで ( P i e t e rDatheen) 一一これより後この宗教改 も摂政アンナ・フォン・オルデンフツレクの庇護 革者はプファルツでも,またネーデルラント独 を当てにすることもできなくなった。かねてか 立戦争でも再三登場し波欄に満ちた生涯を送る ら,母国ポーランドで宗教改革の実現のため働 ことになるが一一ーがエムデンから招ばれ, 55年 くことが, 9月1 9日 , マ グ ダ レ ー ナ 教 会 Weisfrauen- でもノレター派の勢力が強まり, ラスキの片時も忘れえぬ夢であった が,ポーランドでの政治情勢も好転したのを機 5 3 ) イングランド教会については Jung ,a .a .0 ., S .1 0 f f .;Denis,Lese g l i s e sd ' e t r a n g e r s ,p . 3 1 7 . その判明した限りの教会員の人名録はs Jung,a .a .0 .,S .3 8 6 6 . さらにメアリー女王 時代の大陸への亡命者全体についての. その後の .H .G a r r e t t,TheMarian 優れた研究として. C Exi !e s:A Study i nt h eO r i g i n s 01 E l i .P . ; z a b e t h a nP u r i t a n i s m (Cambridge U 1 9 3 8 .;r e p r .,1 9 6 6 )があり.同書によりもっと 詳細な記録が判明する。この教会自体が,イング ランドの宗教改革との関連で独自の研究に値する が , 別の機会に譲りたい。この教会員のなかで最 も高名な人物は,かのノックスを別にすれば.後 エリザベス女王のもとで¥1576年カンタベリ一大 主教に叙せられた EdmundG r i n d a !であろう。 o h nH a ! e s もかの有名な匿名の著作 A なお. J D i s c o u r s e01t h eCommonWeal01t h i sRealm 01 England ( 15 8 1 ) の著者と目されている.高 名な人物であった。なお.イングランド人は,そ の信仰箇条として,エドワード 6世のもとで, ク e c o n d Book ランマーにより制定された The S o fCommonP r a y e r を市参事会に提出し承認を えた。 Vg , . 1 M einert,Eingliederung ,S .5 , 1 3,1 7 . t , kirche で この若き牧師が第 2のネーデルラ ント人亡命者教会の開式の説教を行った問。と はいえ,この教会の司牧活動を担うのは経験の 浅いダテヌスひとりの補佐では無理であったの で,かつてロンドン時代の長老の一人で当時オ ストフリースラントのノルデン Norden の牧 師の地位にあったドヮ・グレイネ(ミクロニウ ス)が暫らくその任を引き受けた。こうしてワ ロンとフラマンの両教会が整ったが, ラスキの 名声は依然高かったとはいえ,もはやロンドン 時代のような権威はなく,また健康も損ねてい たから,彼はロンドンのように両者を統括する 監督 superintendantの地位には就かず,専ら フラマン教会の指導者として著作活動, とりわ 5 4 )B a r t e !,a .a .O .,S .1 7 1 ;Meinert,E i n g l i e d e - rung ,S .1 2( 1 5 5 5 .1 8 .6 ) . 5 5 )D enis,0ρ. c i t .,p p .3 3 2 3 . ダテヌスの伝記とし .Ruys,P e t r u sDathenus( Academisch て は , T P r o e f s c h r i f tV r i j eU n i v e r s i t e i tt e Amster9 1 9 )を参照。 dam;Utrecht1 、 経済学、研究 66(66) けルタ一派の市教会からの攻撃への弁護に終始 したが,その後 1 5 5 6年 1 0月2 1日に,いよいよフ 、 宇一 39-1 クスを市参事会も政治的に放置できず 3月 2 6日に彼をジュネーヴに退去させ,以後,穏健 1 5 5 7 年,義 ラングフルトを去って母国に帰還し,その後 倫派がこの教会を主導した。しかし, 1 5 6 0 年 1月 8日の死まで,母国の宗教改革運動 担金の管理をめぐる紛争で教会総会と牧師・長 のために最後の力を尽くした 56)。 老会のいずれが裁定権を有するかで,再度の紛 しかしこれらの亡命者教会は,誕生の直後 争がおこり,市参事会の裁定も,プーレーンら から,何度か激しい内部対立に悩まされ,市参 の両ネーデルラント人亡命者教会牧師の調停も 事会や市民への評判を落としただけでなく,聖 失 敗 に 終 わ り , 結 局 6月に牧師のホーン Ro- 餐の儀式をめぐる硬直したルタ一派市教会牧師 bertHorneがシュトラースブノレグに去って, の改革派(ツヴィングリ一派=カルヴァン派〉 決着がついた。その後, のますます激しい攻撃と市参事会突き上げに悩 1 5 5 8 年1 1月1 7日メアリ 5 5 9 一女王が死んでエリザ、ベスが即位すると, 1 まされ続け,ついには 1 5 6 1年に,その圧力や周 年 3月2 3日j イギリス教会は市参事会にこれま 辺の Jレター派諸侯への配慮から,その亡命者教 での好意に感謝する決議と黄金の記念トロフィ 会の認可を取り消されてしまった。 ーを贈って帰国し,かれらの多くは,本国でピュ まず,イギリス教会では,ノッグスらの急進 ーリタン運動のリーダーとして名をなした向。 派がイニシアチーヴを握ってジュネーヴ教会の 一方,プーレーンによって最初にその礎がお 規則に則ろうとしたのに対して,ホワイトヘッ かれ,その後も人数でぽ他の 2教会を大きく引 ド DavidWhitehead ,コックス Richard.Cox などシュトラースブノレクやチューリッヒの亡命 離していたワロン教会も,プーレーンの独裁的 地位に対して,教会員の一部の批判が噴出し, 者教会の伝統をヲ│く穏健派がこれに対立し,抗 1 5 5 5年夏から重大な危機が顕在化してくる。最 5 5 4 年秋から始まり, 争は 1 初のワロン教会員は殆どが, 1 5 5 5 年 3月,教会の グラストンベリー 多数派はノックスを罷免した。両派はカルヴァ 以来, プーレーンと苦楽をともにしてきた手工 ンの諌止やプーレーンと市参事会のヨーハン・ 業者たちであり,プーレーンと彼を支持する牧 フォン・グラウブ、ルグの調停にもかかわらず決 師モリーリョ J uan Mori l 1o,ついで、ヴォーヴ して譲らなかったが,皇帝カール 5世の息子で l 1e (その死後, 5 5年から ィル RichardVauvi あるスペイン皇太子フェリーベとメアリ一女王 ウーブラック GeorgesHoubraque) と長老会 との結婚を説教の壇上から公然と弾劾するノッ が こ れ を 支 え て き た 58)。しかし, 1 5 5 4 年1 0月 2 5日 , ヴェーゼノレを経由して, ブリュ γ への富 5 6 ) ドイツの有力者の聞に知人の多かったラスキは, その幹旋でフランクフルトのネーデルラント人亡 命者教会の信仰が「アウグスフやルタ信仰告白」と 背馳していない旨の口添えを取りつけようと尽力 しプファルツ選帝侯オットー・ハインリッヒ O t t o H e i n r i c hやヴュルテンベルク公クリストフ C h r i s t o p h . ヘッセン方伯,プファルツ・エアパ ッハ伯 P f a l z g r a fG巴orgvonErbachなどに精 方的な働き掛けをおこなった他司有名な『ネーデ ルラント人亡命者教会役員の弁明1 P u r g a t i o r e g r i n i, Basi 1 ia e, M i n i s t r o r u me c c l e s i i s ρe 1 5 5 6(これは,ドイツ語訳が F .R .H.,I I,B e y l a g e n,1 6 7 f f.に収録〉を執筆して, ヴェストフ ァールを反駁した。 B a r t e l,a .a .O .,S .1 8 3 ;G . A .B esser,G e s c h i c h t ed e rF r a n k f u r t e rF l u H a l l ea . S, c h t l i n g s g e m e i n d e 1554-1558 ( 1906) , S~ 6 3 .6 6 ;Denis, ρ ρ. . c i t . ;p p .. 3 5 3 4 . 裕な商人ル・グランや年金生活者のル・グレー ル Francois Le Clerc,セシェル領主のポワ J eandePoix,SeigneurdeSechelles,ワレ Nicolas Walet など社会的地位のある人々か .a .0 .,S .1 3 2 2 ;Garr 巴t t,0ρ . c i t .,p p . 5 7 ) Jung,a . 2 1 9 21 5 8 ) モリーリョは, 1 5 5 4 年6月初頭, ヴェーゼルから 同じヌベイン出斗身のデル・カステーィリョ Luis HernandezDelC a s t i l l oとともにフランクフル トに移ってきた。彼は, 1 5 5 4 年秋.刺客の手に倒 れ. あとをヴォーヴィルが‘ついでその死後,ウ ーブラックが継いだが, ル・グラン派はすで、にペ リューセルを推薦して争っていた。 Denis,o p . c i t .,p p .3 1 6,3 2 8 ;Besser,a .a .0 .,S .2 4 . 1 9 8 9 .6 プファルツ選帝侯国(ライ γ ・プファルツ)におけるネ『デ t レ ヲ γ ト系カノレ ( 1 ) 石坂 ヴァ γ 派亡命者コロエーの形成とその経済活動 (1562~1622) ' 6 7( 6 の ミクロンが 57年 1 0月,エム らなる 2 5家族が到着したが,彼らは,役員選出 れていたとはし、え, で旧グラストンベリ一系の教会員のみが優遇さ デンに戻ったのち,もう一人の牧師の欠員に悩 れているとしてプーレーンの運営に激しい不満 み,エムデン応援を依頼したが,結局ダテヌス を抱くようになり, 55年夏から,両派の対立が に希望に添った適任者がえられず, 61年にアン 激しくなって教養と財産のある教会員もこれに トウェルベンからファン・デア・へイデンが移 同調し, って, ラスキら他の教会からの仲介も役にた たなかった。そして,ル・グランは市参事会に ょうやく陣容が整った 61)。 このようにワロン系亡命者教会が内紛をくり 訴えたため,事態を憂慮した市参事会での庇護 かえしている聞にも, 1555年 秋 か ら , 亡 命 者 教 者ヨーハン・フォン・グラウフ守ルグの依頼を深 会の規則, とりわけ聖餐の儀式がアウグスブル 刻に受け止めたカルゲァン自らが, 1556年ジ i グ信仰告白とゴ]E離するものとしてこれを攻撃 ネーヴからフランクフルトに赴いて, ラスキや し,その独立を奪おうとする,ハルトマン・ イギリス教会牧師ホーンを含む 8人の調停委員 バイヤ一一一一ハンブノレグのヴェストファール 会でこの問題を処理することになった。この委 Joachim Westphal, シュトラースブノレクのマ 員会はル・グランの主張は認めなかったが,プ ーノレノミツハ JohannesMarbach ともどもこの ーレーンは教会運営の不手際の責めを負って牧 運動のリーダーの三羽烏であった 62)ー ー を 筆 頭 師の職を免ぜられ,代わって選ばれたフランソ とする市教会ノレター派牧師の攻勢はますます執 ワ・ベリューセルがウーブラックと並んで教会 鋤となり,ツンフト手工業者のネーテ。ルラント を担った。その後, 人排撃運動と共鳴しながら,市参事会に圧力を フランクフルト・ネーデノレ ラント人亡命者教会の生みの親であるこの悲劇 の人物はフランクフノレトになお止どまって,ル タ一派の攻撃から改草派の信仰の自由を護りぬ く論争に最後の全精力を費やして, 1558年春, 年,イギ ついに世を去った 59)。しかるに, 1557 リス教会の内部対立に刺激され,教会員総会が 教会の最高の意志決定機関たりうるか否かをめ ぐって, ウーブラックとベリューセル=ノレ・グ ラン派が対立し, 1559年には対立が抜き差しな らなくなった両派は市参事会に訴え, グラウブ ノレグはメランヒトンの鑑定を仰いで,ペリュー セノレら多数派を支持し, ウーブラックはシュト ラースブノレクのフランス教会牧師として転出し た 60)。これに対し, フラマン人教会は内紛を免 5 9 ) Bauer,V alerand P o u l l a i n ,S .2 3 4 f f . ;Denis, ρ .c i t .,p p .3 2 7 3 4 9 . プーレーンはその後. ヴ ェストファールを論駁した A n t i d o t u sa d v e r s u s , I o a c h i m iWest ρh a l i( i nF .R .H., I I,B巴y l a g e n XVIII ,S .2 1 7 2 7 2 )を執筆して, 1 5 5 7 年シュト ラースプールク市参事会に献皇している。彼は, 1 5 5 8 年には, イギリス行きを希望して旅券を申請 していた。 6 0 ) ウーブラック派とともにベリューセル派の対立 l i . Denis,o J う .c i t .,p p .3 6 0 3 7 0 . 。 6 1 ) ファン・デア・へイデンは 1 5 6 2 年に市民権を放棄 して. ダ、テヌスとともにプファルツのフランケン 5 7 0 年 タール・コロニー創設に尽力したが, のち 1 フラ γ グアルトに戻って, プラマン教会を再建し その牧師となった。 Vgl . , M.F . vanLennep, Gas ρar van derHeyden,1530-1586 CAmsterdam,1 8 8 4 ) . 6 2 )G .E .S t e i t z, “ HartmannB e y e r . EinZ e i t bi 1d ausF r a n f k f u r t s Kirchengeschichte im J a hrhundert d e r Reformation", AFGK , IV ( 1 8 4 7 ),1 0 0 1 1 6,V ( 1 8 5 3 ), 4 9 1 1 0 . パイヤー と並んでネーデルラ γ ト人亡命者教会排撃のリー ダーとなったのは. その同僚リッタ-Matthias R i t t e r,エーゲノルフ C h r i s t i a nEgenol 妊で¥ いずれもフラングフルトの中小市民や牧師の家に 生まれている。 Vg . lK .Bauer,DieE i n s t e l l u n g d e sr e f o r m i e r t e nG o t t e s d i e n s t e si nd e rR e i c h s s t a d tF r a n k f u r tamMainimJahre1561 (Munster,1 9 2 5 ),S .3 3 3 6 . なお. この純粋に 神学的論争であった聖餐論争とこれを武器とした 正統ノレター派のメランヒトン=ブツアーヱカルヴ ァン派排撃運動が, 当時のドイツ帝国都市にとっ て , どのような政治的・社会的・経済的利害関係 を有していたかは. まだ必ずしも明らかにされて いないように思われる。フランクフルトの場合‘ カルヴァン派のネーデノレラント人亡命者の富裕な 商人層が. 都市貴族の地位を脅かすようになるの は.後の 8 0 年以降のことであり,この時点では都 市貴族層との直接の経済的利害対立はなかった。 6 8( 6 8 ) 経 済 学 研 究 39-1 加えた。彼ら亡命者教会に好意的な有力市参事 信仰箇条に反することを訴えた的。市参事会 会員としてヨーハン・フォン・グラウブルクと は,この時点でほ,双方の教会に 1 5 4 2 年のブー コ ン ラ ッ ト ・ フ ン プ ラ ハ ト Conrad Humb- ツアーによる市教会粂例を守るよう命ずるにと rachtのみはまだ健在であったが,こうしたな どまったが,翌日年 2月から,再び牧師たちの か,不幸なことに市参事会のなかでネーデルラ 要求は繰り返され,市参事会は市教会の牧師に ント人亡命者教会の保護者であり,みずからも 対して,壇上から反対を扇ることを禁じ一方で メランヒトンの親しい友人であったアドルフ・ ネーデノレラント人亡命者教会からの弁明書(ラ 5 5 5年 9月 , 3 2 才の若 フォン・グラウブノレグが 1 スキの筆になる〉を提出せしめ 65) 牧師たちを さで天折し,またクラウス・ブロムは, 自ら市 宥めるため,当時レーゲンスブノレグで聞かれて ハ金属会 いた帝国議会の決定まちとした問。このよう 参事会を引き込んだ, <シュナイナ γ 社〉によるマンスフェルト伯領の銅山請負事業 に,市参事会はまだ,できるかぎり両教会の対 への投機的出資,いわゆる“Saigerhandlung" 立を穏便に収めるつもりであり, 5 6 年1 0月2 2日 5 5 7 年大損失に終わって,市の財政に大きな が1 メランヒトンの裁定を仰いだ。その返答は,そ 7月22日に届き,ネーデルラント 損害を与えたことにより,その勢力は失墜し, の死の直前 ついには 1 5 6 1年 責 任 を 取 ら さ れ て 市 参 事 会 と 人亡命者教会の信仰箇条が,異端ではなく禁止 L impurg の席を剥奪 都市貴族クラブ Alten- する必要がないむね,有利な裁定を下した町。 5 5 7 年以降都市貴族の市 された問。こうして, 1 こうして,ネーテ。ルラント人亡命者教会の差し 参事会有力者のなかにも,シュタールブルク 迫った危機は去り,この年から市民権取得者が Stalburgやホルツハウゼ、ン Holzhausenなど 急増した 68)。 圏内の政治的動向や一般市民層の政治的尖鋭化 しかし, 5 7 年に, フェノレディナント 1世の戴 への危倶,そしてとりわけネーデルラント人亡 冠式のためフランクフルトに集まった諸侯によ 命者の大量流入ーーまだ, 1 5 3 5年のミュンスタ るヴォノレムスの宗教和平会議は,何等成果をえ ー事件は記憶に新たで、あったからーーへの不安 ず,プロテスタント諸侯も, 5 8 年エルフルトと などから,次第に市教会に同調する勢力が増え プランクフルトの会議で教義の統一強化を決議 5 5 5年 1 0月2 9日,アウクスブ てきた。すでに, 1 してカトリック側に対抗した向。このような情 ルグ帝国議会の宗教和議の議決が市参事会で公 表されるのと同日,市教会の牧師全員(ルーリ 1 iusとアムパッハ Melchior ウス JohannLul Ambachを除く)が,これに勢いづいて,ネー デ、ルラント人亡命者教会の教義が,ルタ一派の 6 3 )1 5 5 4 年 8月3日 . 市参事会はグラウス・ブロムの 提案で, <シュタイナッハ金属会社》のマンスフ ェルト伯領の銅山賃貸経営のための増資に一一1 2 %の高率配当に目がくらんで一一ブロムら 4人の 1 万グ 市参事会員名義で秘密裡に市の公金を合計1 ルデンを出資したが. 実は出資金がマンスフェノレ ト伯の巨額の借金の返済や手形の乱発に費消さ れ. しかも銅山経営も 1 5 5 7 年にマンリッヒ商会 に移されてしまった。結局‘選帝侯たちの仲介で マンスフ z ルト伯の債務は確定され,年賦で償還 .a .0 .,1 , することが取り決められた。 D i e t z,a s .297~305. 勢のなかで,市教会の牧師は勢いづき,市参事 会も続々流入するネーデノレラント人亡命者の数 6 4 ) Meinert,E i n g l i e d e r u n g ,S .1 7 1 8 . すでに. 1 5 5 4 年 5月9日.パイヤーに代わってプーレーン から聖餐規則についての説明を受けたリッター は. これがアウグスプルグ信仰告白 7条に違反し ている疑いを抱いたが, プーレーンは市参事会の 保護者たちの介入でなんとか聖霊降誕節の儀式を i t .,p p . とりおこなうことができた。 Denis,0)う.c 3 1 5 6 . 6 5 ) Meinert,E ingliederung ,S .2 1 . 6 6 ) Bauer,E i n s t e l l u n g ,S .6 5 . 6 7 ) Meinert,E i n g l i e d e r u n g ,S .3 6( 1 5 5 6 . 2 2 .1 0 ), 15 5 7 .2 2 .7 ) ;K .Bauer, “ Di巴 l e t z t e nB e 5 0( ziehungen Melanchtons z u Frankfurt am e i t s c h r i f t fur K i r c h e n g e s c h i c h t e, Main", Z XL,NF.3( 1 9 2 2 ) ;F .R .H . , 1 ,Anhang,XXI. 6 8 )5 6ベージ第 I D .1表A参照。 6 9 ) Meinert,E i n g l i e d e r u n g ,S .x i x x x . 1 9 8 9 .6 プファノレツ選帝侯国(ライ y ・プファノレツ)におけるネーデルラント系カル ( 1 ) 石坂 ヴァ γ 派亡命者コロニーの形成とその経済活動 (1562~1622) 6 9( 6 9 ) に恐れをなして,その公け礼拝を禁止する方向 者たちの再三の請願やプファノレツ選帝侯の執り に傾いたが,それでも慎重を期していたのは, 成しにもかかわらず, 1560年 8月 か ら 首 席 市 長 が 重 い 病 の 床 に あ っ た った 九 こ う し た な か で , フ ラ ン ク フ ル ト に 絶 この禁止は解除されなか h のと, 1559 年に即位した改革派の新プファルツ 望した多くのネーデルラント人亡命者たちは, 選帝侯フリードリッヒ 3世やヴュルテンベノレグ この都市を去り, 公などの有力諸侯の聞に,プロテスタント陣営 年の 95 人 か ら , 翌 62年 に わ ず か 16 人 , 63 年に の再統ーをなんとか実現しようとする熱心な動 は 9人 と 激 減 し た 。 そ し て 総 数 も 1567 年には きが見られたからである。そして, 1560年プフ 900人まで減少した。(第 E ・1表,第 E ・5表) アノレツ選帝侯がザクセン選帝侯, とりわけ硫毛毛織物工は 1562 プファルツ= しかし,エムデンもヴェーゼノレも情勢は不安定 エアバッハ伯 PfalzgrafW olfgang von Er- で,多数の再亡命を受け入れる余地はなく,その bachがヒルスバッハ Hilsbachで会合を聞き, 一部はフランドルやブラパントを経由して,エ 1530年のアウクスフ事ルク信仰告白に新しい序文 リザベス女王のイギリスに向かったが,途中官 と結びを付け, 憲に捕まって投獄される犠牲者も数多かった。 プロテスタントの全諸侯や都市 がこれに署名するかねてからの提案を了承し, こうしたなかで,フラマン人教会の牧師ダテヌ 561年 1月 21日からナウムブ》ルク それに従って 1 スの努力で,プファルツ選帝侯フリードリッヒ で諸侯会議が聞かれた。だが,ここでは,プフ 3世 が , こ れ ら 難 民 の 受 け 入 れ に 踏 み 切 り , ネ アノレツの主張したメランヒトンによる『異文』 ーデノレラント人亡命者教会の新しい歴史が聞か Variataは 採 択 さ れ ず れたのである 73)。 ちに, 2月 7日その孤立のう 新 し い ア ウ ク ス ブ ル ク 信 仰 箇 条 Augu- stana が制定されると町, 市参事会もついに 1561年 4月 22日,マグダレーナ教会の使用と公 のネーデ、ルラント人亡命者教会の礼拝の禁止に 踏 み 切 っ た 7% そ し て , ネ ー デ ル ラ ン ト 人 亡 命 7 0 ) Bauer ,Einstellung ,S .7 4 5 . 7 1 )Meinert,Eingliederung ,S .8 8( 1 5 5 5 .1 4 .4 , ) 9 0( 1 5 5 5 .2 2 .4 ) . 市参事会のネーデルラント人 亡命者教会閉鎖の理由として挙げているのは, J u s t u sV e l i u sの再洗礼派的=シュヴェンクフノレ ト的著作にからんだ問題で, これをカルヴァン派 に持ち出すのはいかにも牽強付会の感がある。そ 5 5 6年にラスキの市当局への もそも彼は,すでに 1 要求により退去させられたが, 1 5 6 0年 8月2 1日市 教会牧師たちは, その著書の取り締まりを市参事 会に要請し,それに,かこつけて,最近多数の誤っ た教えを信ずる輩が多数市内に流入しており, そ の危険を防ぐためルター派の信仰で統ーを計り. その儀式に従わぬ場合は, ネーデルラント人亡命 者教会を閉鎖すべし と主張した。市参事会は半 年もたってこれについての肯定的報告を採用し た 。 S . xxv-xxvi.これに対しては市参事会のな かでも.少数の受対意見があったが、そのひとり 法律家で' 1 5 4 7 年に次席市長で、あったフンブラハト ConradHumbrachtは,市当局を誹議したかど で 5月1 5日市参事会を逐われた。 7 2 ) Meinert,E i n g l i e d e r u n g ,S .x x v i i x x v i i . i 7 3 )P . Dathenus, Kurtze und w a r h a f f t i g eE r s w .,H e i d e l b e r g1 5 6 3i nF .R.H., z e h l u n gu 1 1,Beylagen,XVI,S .1 61 . (本書はダテヌスが フランクフルトを返去した後, このネーデルラン ト人亡命者教会閉鎖のいきさつを世に公表して, ルタ一派の仕打ちを非難したものである。〕その 後,残留したネーデルラント人亡命者は‘個人の 家で私的に礼拝を行っていたが.洗礼や葬儀.結 婚の儀式はルタ一派の市教会で受けねばならずそ のことがひどい苦痛となったが, カノレヴァンは. それを辛抱するように説得した。