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Title 漢王朝の成立--爵を手がかりに Author(s) 松島, 隆眞 Citation 東洋

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Title 漢王朝の成立--爵を手がかりに Author(s) 松島, 隆眞 Citation 東洋
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漢王朝の成立--爵を手がかりに
松島, 隆眞
東洋史研究 (2010), 69(2): 175-204
2010-09
https://doi.org/10.14989/180041
Right
Type
Textversion
Journal Article
publisher
Kyoto University
阿川場
第六十九巻
平成二十二年九月護行
1
戸与
員
第
競
で活動していたが、陳渉の乱が掻大すると、薫何・曹参らの手引きによって浦に迎え入れられた。そして劉邦は浦公
を
稽 帯
漢王
隆
JL
││爵を手がかりに││
めに
功臣たちの授爵記事より
件い山い)
高祖五年五月詔より
貌人劉邦と功臣たち
第二章
功臣たちの席次より
信用一主早
第三章
島
成
第四章
おわ
め
り
じ
漢の高租劉邦が奉兵したのは二世皇帝元(前二 O九)年末九月のことである。劉邦はそれまで群盗としてt ・楊の
は
松
の
全乃夫局、。ル
1
7
5
1
7
6
した。浦公時代の配下であった者は、 のちに二十等爵最上位である列侯となり、﹁三公九卿﹂の大宇を占める(李開元二 O
一七五│一七九頁)。漢王朝の原知はここに根差しているとされる。
そもそも漢王朝の特質とは、創業者たちの出自の低さである。この事賓はすでに超翼によって、秦漢のあいだに起こっ
た﹁天地一大壌の局﹂として位置づけられている(越翼﹃廿二史剖記﹄虫色二漢初布衣将相之局)。また秦漢時代の圃家構造解
(1)
明のうえでの書一期となったのが、西嶋一九四九であることは論を侯たない。氏は功臣たちについて、彼らの参加時期を
﹃史記﹄高組功臣侯者年表(以下、列侯表と総稽)に記される蜂起地酷から定め、初従時の中泊・舎人等の身分呼稀から、
劉邦との闘係を豪族と家内奴隷の紐帯に基づくものとして、漢王朝成立を戟園期以降の専制園家形成のなかに位置づけた。
これに封し増淵一九五一は戟固・秦漢の丈献に散見する、血縁的関係にとらわれず、また官僚制的な上下関係とも異なる
(2)
人的結合形態を任侠的習俗と稽し、劉邦集圏と呼ばれる漠王朝の創業者たちの闘係もその延長にあるとして西嶋誼を批判
した。このような第二次大戦後初期の漢王朝の創業者たちの人的結合についての研究は、昔時の日本の歴史皐上の課題に
極めて適合的であった。というのも、漢王朝の創業者たちが匹夫の身であったことが丈献に明記されることもあり、彼ら
(3)
の初護的な結合形態を謹み解くことは、漢王朝が成立した時代の枇舎の解明に結びつくとされていたからであった。それ
は政治・丈化等の要素は生産関係に規定されるとする一吐曾経済史的護想によって支えられたものである。漢王朝の創業者
たちをめぐる研究は、その時代の社合構造の解明に大いに貢献するはずであった。しかし諸氏の批判を承けて、西嶋氏は
﹁世界史の基本法則﹂に立脚した一連の論考の撤回を表明した(西嶋一九六一 二七頁)。それ以降漠王朝の創業者たちにつ
いての議論も後景に退くことになった。
功臣たちの劉邦への隷属性を否定する増淵説のような見解は、群盗同様であった集園が如何にして漢王朝へ韓化したの
)0
一貼目は任侠的秩序の一世舎全瞳における普遍性についての疑問、 二貼目は恩恵の施輿によって追求される集圏内
かを充分に説明しえない、という問題を生じさせた。西嶋氏は増淵説に封する疑問を三貼述べる(西嶋一九六一
七頁
四
2
。
。
1
7
7
の﹁家父長的統御﹂の基盤の問題、三賭目は任侠集圏内の秩序と圃家権力を同質と見ること、特に増淵氏が国家権力を君
主の人民に封する闘係ではなく官僚に封する闘係と見ることへの疑念であった。ここで注目すべきは一一一貼日である。増淵
氏はすでに、任侠的習俗と概念的には封立すると看倣した強制的な支配要因として、首時の枇舎の規律として存在する
﹁約﹂を抽出し、それが戦闘集圏内部においても存在し、集圏構成員に上意下達の強制力を有したこと、また﹁約﹂ある
いは命令の遵守には集圏構成員と軍園長との人格的な﹁心情的結合﹂が不可映であったことを指摘していた(増淵一九五
五三。これは劉邦集圏内にも見られる任侠的習俗が、支配聞係と矛盾しないことを主張したもので、大きな意義を持つ
見解である。だが西嶋氏の三貼日の疑念は、専ら増淵氏のこの論貼に寄せられた。逆に増淵氏は国家権力を、君主の人民
への直接的支配という覗角のみから見ることを批判した(増淵一九六二)。この封立は雨氏の園家と枇舎との閲係性をめぐ
る認識の相違に由来する。しかし園家と枇舎の接合貼を見出しうるとされた劉邦集圏の前漢固家への縛化という問題につ
いて、増淵氏は蜂起後の中泊・舎人たちが、劉邦が漢王となったのち君主近侍者たる﹁郎﹂に轄じたことを指摘するほか
は(増淵一九五五b)、見解を明らかにされなかった。
A 構造の追究から、官僚制度を
そののち秦漢史研究は、畢一百夢睡虎地秦簡などの出土丈字資料の登場が主因となって、枇 胃
軸とする園制を考察する方向へと轄じた。漢王朝の形成過程もそのなかで捉えられ、李開元二000は軍功受盆階層の概
(4)
念を提唱し、劉邦集圏の規模・環境・掻大・解睦などの一連の問題を論じた。さらに江陵張家山二四七競漢墓出土竹筒
(以下、張家山漠筒)の公開もあって秦末漠初への関心は強まり、またこの時代の地域的な差異にも焦貼があてられる。他
方で近年護表された楯身二O O八は張家山漢筒︽二年律令︾所見の﹁宜皇帝者﹂について考察したものだが、その手段と
一頁)、その意義については詳論されなかった。
して秦末楚漢期に功臣たちが劉邦より輿えられた官職・爵位の嬰化を論ずる。特に封秦戦時に彼らが得た爵を坦上にあげ
て劉邦集圏の漠王朝への壁化を展望したことは、注目すべきことである。
かつて西嶋氏も功臣たちの爵を取り上げたことがあるが(西嶋一九四九
3
1
7
8
1
9 閥内侯
1
8 大庶長
1
7 細車庶長
1
6 大上造
1
5 少.
r
造
1
3 中更
1
4 右更
(7)
1
2 左更
1
1 右J
;
i
t長
1
0 左庶長
9 五大夫
8 公乗
7 公大夫
6 官大夫
5 大夫
4 不更
3 管長
2 上造
1 公士
(5)
これら功臣たちの爵は楚爵と呼ばれ、
物が劉邦であることは白明とされ、専ら二十
(6)
目されてきた。だが功臣たちに爵を輿えた人
照)と爵稽が異なることから、これまでも注
書﹄百官公卿表上所載の二十等爵(︻表1︼参
漢
現人劉邦と功臣たち
しない限り﹃史記﹂秦楚之際月表(以下、月表)に撮る。
第一章
O人は、林六時唱以外はみ
なで・楊聞にいたことが確認されず、浦において劉邦を迎える立場にあった。また郡牒の吏は六人。李氏が論じたように、
いし豊からの参加者は、劉氏を除けば一三人である。浦・豊における参加者のうち立停された者一
のは二三千人であったという。浦・豊において劉邦とともに蜂起した者のうち、その名が判明するのは計一二三人、幽一旦人な
(日)
劉邦が群盗となったとき苦・楊の一帯において行動をともにしていたのは十徐人、浦牒奪取ののちその軍勢に加わった
を構成する人員の地域的傾向を探ることで、漢王朝の形成に爵が果たした役割が見えてこよう。
ここでは議論の前提として、皇帝即位までの劉邦の履歴を辿ったうえで、 そ の 配 下 の 人 員 構 成 を 概 観 す る 。 劉 邦 の 勢 力
(9)
ある。したがって本稿では爵制嬰更の意義も、劉邦政権の成立を前提として追求するものである。なお年月は、特に注記
かを問題とするべきであろう。何故なら爵の頒布が可能になった瞬間こそが、劉邦自身を首班とする政権の成立だからで
る。しかし爵は君臣闘係の媒介である。つまり﹁公的﹂なものなのである。むしろ劉邦が何時から爵の頒布者となったの
(8)
等 霞 の 導 入 時 期 が 議 論 さ れ て き た 。 楯 身 二O O八 も ま た 、 楚 爵 の 存 在 を も っ て 劉 邦 集 園 の 私 兵 集 固 と し て の 性 質 を 指 摘 す
2
0 徹侯
油牒奪取直後には漢王朝成立後の二千石中央官を占める人物の大字が出揃っている。彼らは組織を運営する責務者であり、
4
1二十等爵
[
表
,
1
7
9
かつて吏であったことと無関係ではないだろう。
(日)
一般に劉邦は楚人と看倣される。加えて劉邦が浦公を稽したことについて、曹貌時代の孟康は﹁公﹂は楚制の牒長官を
指 す と 注 す る 。 以 来 劉 邦 は 楚 人 で あ る ば か り か 、 陳 渉 の 楚 勢 力 に 属 し た と も 看 倣 さ れ た ( 李 開 元 二 000
だが賓際には劉邦は楚人であると看倣しがたい。まずは浦の地勢である。そもそも浦一帯は宋の故地であったが、
)0
勢を率いたのである。
しかし貌人を主力構成員としていたがゆえに、劉邦の勢力は分裂する。劉邦は浦牒奪取の翌月の二年初一
一一月には豊を包園した澗水郡監を破り、また醇において澗水郡守を破り、これを迫撃して戚において殺害
一一一月には貌氏の後育貌処口を擁立し自らは
の経略にかかる周市の眼前では、幽一旦(羅歯)と克父(劉邦)が方輿(貌)を挟撃する形勢が存在していたのである。
相となった人物である。先後は不明ながら羅歯離反と同月であることは偶然ではない。少なくとも羅歯離反の直前、幽豆油
(日)
る。このような劉邦の嵯朕をもたらした周市は、本来陳渉の部将であったが、
兵六千人を併せても塑の奪回を果たせていない。周市の出現は劉邦を孤立させ、豊すら陥せないほど劣弱にさせたのであ
遺に進出し方輿を攻めたとき、戦闘白躍はなかったが、結果として方奥は貌に寝返った。羅歯の離反後劉邦は、 一一月に楊
(日)(凶)
の劉邦の軍事行動は周遺地域からの一定の支持を受けていたと推察される。しかし同じ一 一月、前掲の貌人周市が豊浦近
した。劉邦はそののち蹄還して克父に駐屯し、そこから南に再ぴ方輿へ至った。克父駐屯の事賓が示すように、このころ
方輿を攻め、
O月に胡陵・
劉邦は、貌人と看倣すべきである。蜂起嘗初の劉邦の配下に豊出身者の割合は高い。要するに劉邦は貌人を中心とした軍
(川崎)
且に豊を屠らんとす﹂と告げているが、その謹言が異ならば、豊は貌人によって構成された邑となる。豊の中陽里出身の
細川剖刻剖刷。今貌地の己に定まる者は数十城。歯今貌に下れば、貌歯を以て侯と震し豊の守とせん。下らずんば、
八)年二一月、貌人周市は使者を遣わして、幽一一旦の守備を任されていた羅歯に接摘したが、使者はそのとき﹁幽﹃闘州到州
斉・楚の争奪を経て貌地となった場所である(吉本二 O O四 四 頁 )oまた劉邦が浦北方に進出していた二世皇帝二(前二 O
頁
四
月
劉
5
四
。
∞
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Cフ
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車坑駿一九八二をもとに作成
1
8
1
邦は南方に新たな支援先を求める。その封象が留に滞在していた楚王景駒(楚将秦嘉によって擁立)である。劉邦が楚に属
したことが確認できるのはこれ以降である。
羅歯離反後の二年一月時貼での従軍者はどうなっているのであろうか。醇における参加者は陳武(柴武)を含めれば六
(国)(汀)
(路)
人、胡陵からは一人確認される。留における参加者は三人、加えて張良が下部において従軍している。充父からは一人見
(川口)
えるが、二年一月時貼での参加者かどうかは判然としない。また方輿における参加者一人は、入漢まで一時離脱し貌に属
している。全般的に醇を除く浦周遺地域からの参加者は比較的少ない傾向がある。これは羅歯離反の後遺症である。例え
ば醇出身の陳武の活躍は、浦周遣の地域から野戦軍指揮官などの軍吏になりうる人物が供給されたことを示唆する。とく
に克父は、劉邦軍駐屯に窺えるように、状勢の問問先化さえなければ、その後も軍吏の最大の供給源であっただろう。周市の
出現はその将来を霧消させたのである。
一一月になると景駒政権のもとで劉邦は秦軍を砺で撃退し、その地の兵六千人を牧めた。三月には下邑を攻め、また幽豆の
奪回を試みている。四月項梁が景駒・秦嘉を破ると、劉邦は醇において項梁と舎見し、項梁は劉邦に卒五千人・五大夫将
一O人を輿えた。幽一旦の奪回はこの月である。六月の懐王心即位の翌月、劉邦は束郡・陳留方面の経略に従事する。だが九
月項梁が定陶において章郎軍に敗死すると、懐王は准水上の昨台より彰城に移り態勢の建て直しをはかった。劉邦もこの
とき陳留攻撃を止めて楊に駐屯するが、後九月劉邦は楊郡長となり、武安侯に封ぜられた。楊郡に浦は含まれない。そし
(初)
(む)
て彰城も浦も掴水上にある。叛服常ならぬ濁白勢力であった劉邦が同一流域上にあることを、懐王政権が嫌った措置でも
あろう。
楊郡で参加したことが確認されるのは二O人、うち楊豚では二一人である。ただし二月の楊東における命日戦ののちに確
保された六千人か、郡長就任後の参加者かは、濯嬰(惟陽出身、項梁敗死後に参加)以外は不明である。楊牒から参加者し
て列侯となった者の数は、浦・豊における参加者に次ぐが、彼らの多くは二千石中央官になっていない。唯一立停された
7
1
8
2
(幻)
(お)
濯嬰をはじめとして、項初との最終決戦で活躍した孔将軍(琴侯孔薬)・費将軍(費侯陳賀)など、彼らは専ら野戦軍の指
揮などの役割で活躍した。また束郡宛胸からの参加者二人も劉邦の楊郡長就任以前の参加と推測される。
翌三(前二O七)年一 O月、劉邦は束郡を攻撃する。これは上将軍宋義を中心とする郎部救援作戦の一環である。劉邦
はこの前後陳渉・項梁の﹁散卒﹂を白軍に組み込み、紅里において秦軍を攻撃し、成武において王離軍を大破した。宋義
が項羽仰の手で殺害された一一月の劉邦の所在は、本紀・月表等には記載されない。その後栗において剛武侯の軍四千人飴
を奪った。そして三月間封において秦将楊熊を破り、救超戟への援助として黄河畔の白馬において秦軍と戦うが、 四月に
一方で六月以降劉邦は南陽
は韓地を略定し、趨将司馬印の開中入りを阻むべく河津を絶つなど西征への意思を見せ始める。入闘までの参加者は束郡
においてさらに一人、陳郡において二人、三川郡・頴川郡からはそれぞれ一人が確認される。
郡に二箇月ほど滞在するが、この地で参加した功臣の存在は不明である。
高組元(前二 O六)年四月に劉邦は漢中に就園するが、その年のうちに劉邦は闘中へ再突入する。そして劉邦は反項初
勢力を糾合し、 二(前二 O五)年四月には彰城における項羽との決戦に向かう。それに先立つ一一月に韓王信を王として
擁立しているように、劉邦は反項羽勢力の主宰者としての外貌を現しつつあった。そして彰城の敗績後も、劉邦は結果的
(江)
に反項羽勢力主宰者としての立場を維持し績けることができた。
漢王時代の参加者は計四一人。そのうち内史から参加者のうち列侯となった者は八人、漢中からは一人である。高租二
年五月に﹁甫何開中の老弱未だ惇さざる者をして悉く楽陽に詣らしむ﹂(﹃漢書﹄高帝紀上)とあるように開中の老人・未
成年者の動員が行なわれているが、これはすでに壮丁の動員が完了していたことを示す。しかし相昔の人数であろう奮秦
出身者の兵卒と比較すれば、列侯九人はいかにも少ない。李氏が論じたように、漢王時代からの従軍者は概ね最前線で活
(お)
躍したのであり、列侯となるには偶然的な好機に恵まれる必要があった。劉邦の出身園である貌からは二人である。超-
斉からの参加者はそれぞれ九人・四人おり、多くは韓信に従った者であろう。また項羽敗死に前後して劉邦に蹄順した者
8
1
8
3
(お)
には楚人が多い。
一方高組元年末に闘
以上のように功臣たちの人員構成は概ね劉邦(あるいは韓信)の行軍路に従ったものである。出身地である浦・豊以外
には、楊牒からの参加者の多さが目立つ。しかし以上の二例を除けば特に地域的傾向は見られない。
中に再突入して以降、漢の基盤が開中にあったことは疑いない。しかし漢の中植の人員構成は戦園以来の園家の枠組みに
は捉われていない。すでに遮べたように、爵は君臣関係の媒介である。多様な園・地域に出白する者を自己の下に繋ぐ鴇
粋として、劉邦自身の手による爵が大いに機能したのであろう。しかし劉邦は何時から配下の者を臣下として抱えること
功臣たちの授爵記事より
ができたのか。その問題を解明するため、釘秦戦時の爵の検討に移ろう。
第二章
﹁はじめに﹂で述べたように封秦戟時に功臣たちが得た爵は、劉邦そのひとが輿えたものと看倣されている。たしかに
最初の事例である夏侯嬰の場合は、﹁十日同組油公と矯り、嬰に爵七大夫を賜い、以て太僕と矯す﹂(﹃史記﹄奨郡勝濯列惇夏
侯嬰)とあるように、劉邦自身が行っている。だが以降の授爵すべてを同様に解轄するのは飛躍にすぎよう。ここではそ
の検詮のため、彼らの授爵を︻表2︼として時系列順に一志す。授爵記事は首該人物の世家・列偉から引用したものである。
(釘)
ただし年月は月表所見の戦闘の時期であって、行賞の時期ではない。また①・②のように数字を附したものは、[戦場、
(お)
或いは敵将] 十数値化された功績十授爵が揃ったものである。表の作成において数値化された功績の記載を重頑した理由
は、のちに明らかになろう。
それに先立ってはじめに、個々の爵稽の由来を考誼する。ただし爵稽の由来となる園を特定することは、爵の頒布者を
特定することとイコールではないことは留意しておきたい。まず園大夫は ﹃韓非子﹄内儲説上に﹁呉起貌武侯の西河の
守と馬る:::明日且に亭を攻めんとするに、能く先登する者有らば、之を園大夫に仕えしめ、之に上田宅を賜わん﹂と
9
1
8
4
[
表2
1到秦戦の戟歴と授爵
年
1
2
月
敵将
戦場
斬
首級
l
年者
虜
爵
七大夫
1
0 夏侯嬰 古日陵 湖水監平
五大夫
(羅歯)
七大夫
1
2
3
功巨
市
9 夏侯嬰 j
註
巨
首
ヨ毒
を
多
事
r
豊
2 奨日舎
磁東 司馬巨
3 周勃
下
さ
き
;僕陽
8 曹参
手
雇
丘 李白
11
1
/
夏佼嬰
宅
〉
1
/
3 奨日合
2
3
章甘.~
奨日台
濯嬰
1
6
z
註
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t
ヨ忌
々
多
ち
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6
8
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戻1
2
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⑤
5
7
騎千人将 l
7
3
封臨平君
⑤
司
馬 1御史 l 執 珪
由選 楊 熊
シ
イ
偉寛
1
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1
1
8
6-7 焚口曾
2
4
武関
9 斬事k
重
1
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5
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6
8 卒8
封
⑥
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⑥
4
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封賢成君
⑦
4
0
重封
⑧
1
4
6 半2
9
0
0
列侯臨武侯 ⑨
1
2
宛陵
8 奨日曾
④
五大夫
七大夫
シ
イ
今
4 奨口合
1
1
束郡尉
夏侯嬰
③
上間前
執出
成武 束郡守尉 1
4
今
②
列大夫
執吊建成君 ③
候l
開封 i
也買
新事大
①
園大夫
五大夫
7 撃
を
日
舎
1
0 焚口曾
1
5
1
0
都尉 1
2
8
車司馬2騎見 5
7
建武侯
⑩
※年次はすべて二世皇帝年問。)戦場・敵将の表記は個々の世家・列{専に従う
はあ
上る
1
0
の記述があり、高敏氏はこれを貌爵
でで
とする(高敏一九八二三五頁)。たし
EZ
かに軍事的功績に封する褒賞として
:豆ぐ
身分を輿えることは軍功霞のありか
関
長
たそのものだが、このときの園大夫
00 夫
上」
が階層的に編成された爵のひとつで
き卿
る品プミ
あったことを傍誼する材料はない。
とそ
判れ
断は
で「
列大夫は ﹃管子﹂軽重諸篇に見え、
開)の由来は不明である。高敏一九
は
﹃漢書﹄林大臨膝濯惇斬周惇
如淳注所引﹃日氏春秋﹄﹁貌丈侯東
のかた斉に長城に勝ち、天子文侯
を賞するに上聞を以てす﹂の記述を
もって戦園前期の周の爵稽と看倣し、
それが貌に受け継がれたものとする
が、畢一日修一訂前の ﹁呂氏春秋﹄下賢
では﹁東のかた斉に長城に勝ち、森円
人
1
8
5
(引)
侯を虜にし、諸れを天子に献じ、天子丈侯を賞するに上卿を以てす﹂と記され、如淳注は根擦にできない。七大夫は戦
(沼)
園以前には確認されない。五大夫は唐く各国で使用され(栗原一九四 O 三二・四一員)、また張家山漢筒︽奏議書︾にも
(お)(泊)
﹁楚爵﹂として五大夫が登場する(注(必)を参照)。卿は漢爵の庶長クラスに相首する。封・重封は爵稽としては確認され
(お)
ないが、おそらく食邑賜奥に関係する。執白巾は楚爵と看倣されるが、戦園期以前には確認されない。執珪(執圭)は戟園
楚に見える。高氏は寄稿の由来を各国に求めるが、現(貫に由来となる園が特定できるのは斉・楚に限られる。もとより
﹁大夫﹂の稽謂は一般的に存在するため、列大夫が奔のみの呼稽とは断言できない。したがって功臣たちが得た爵の稽謂
は、やはり楚醤と考えてよかろう。
績いては功績の数値化の書一期性について。劉邦が楚に属する前は、数値化された具瞳的な功績は見えない。例えば二世
皇帝二(前二O八)年一 O月に夏侯嬰が五大夫を得た際、﹁従いて胡陵を攻め、嬰甫何と輿に澗水監平を降し、平胡陵を
(お)しりそ
以て降り、嬰に爵五大夫を賜う﹂(﹃史記﹄奨郡勝進列惇夏侯嬰)とある。これも劉邦自身の手によるものだが、授爵が一不さ
れるだけである。しかし①の戦いになると﹁司馬巨と楊東に戦い、敵を叩く、斬首すること十五級、爵園大夫を賜る﹂
(﹃史記﹄焚郎膝濯列惇奨噌)と、はじめて斬首という功績が具瞳的な数値をもって記される。以降は数値が見えない授爵
記事でも、 二年三月の周勃に封する ﹁先登﹂、同年八月の夏侯嬰に封する ﹁兵車もて趣きて攻戟すること疾きを以て
-::﹂のように、首人の活躍が論評されるようになる。①の戦いに先立つ二年正月に劉邦は楚王景駒に属したが、劉邦に
とってはこれこそが童期だった。
では功績の数値化は何庭でなされたのか。論功行賞の手績きについては、後世の資料であるが ﹃史記集解﹄張稗之鴇唐
列停に﹁如淳日く、漢の軍法に日く、吏卒の斬首、尺籍を以て書す、際に下し郡に移す﹂とあり、幕府から護給される兵
(幻)
士の功績﹁尺籍﹂が送附される際、郡に釘しては並行を表す﹁移﹂とされたことが見える。郡は戦時においては直ちに幕
府に移行できる貰質を持っており、論功行賞の貰務も捨いえた。他方牒は行賞の結果を反映させる作業に限られていたの
1
1
1
8
6
[
表3
1覇上への到達が確認される功臣
初封月 H
初従地
覇上
侯岡
曹参
i
市
建成侯
千陽
一二月中申
斬数
タ巳
{
建武侯
信武
一二月甲中
1
1
5300
夏侯要
i
市
昭平侯
汝陰
一二月甲中
8
6900
侯第
戸数
2I10600
周勃
浦
威武侯
経
正月丙午
4
8100
奨廊
i
市
臨武侯
舞陽
正月丙午
5
5000
陳務
ム
タ
侯
陽夏
正月丙午
周繰
i
市
1
実
繭
I
j
成
八月甲子
2
1
3300
侍寛
横陽
騎将 J
亘徳君
陽陵
一二月甲申
1
0
2600
j
華嬰
楊
執 珪 昌 文 君 穎陰
1
正月丙午
9
5000
豊逢
楊
三月庚子
1
8
4000
r
i
執珪
曲城
昭(彬町) 楊
武定君
七
4
王吸
豊
騎郎将
j
青陽
一二月甲中
1
4
3100
召欧
浦
連款
麿巌
一二月甲申
28
2200
醇欧
豊
郎中
債平
一二月甲申
1
5
4500
丁復
日
業
棲煩将
陽都
正月戊申
1
7
7800
陳武
葎
車
車
蒲
三月内申
1
3
武彊
二月庚子
33
1
士不識
(四月)
劉釧
楊
東茅
八月丙辰
48
王陵
豊
安図
八月甲子
1
2
5000
張蒼
陽武
北平
八月丁丑
6
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3
0
0
常山守
※太字は侯・君以 .
r
の人物。初封は高祖六(前二 0一)年。
周つ
昌た
のと
み確
で認
あさ
る38れ
O~ る
だろう。翻って功臣たちについてい
者上
はで
請の
何賓
務
周に
苛携
コ
オ
えば、劉邦とその配下に過去に郡以
二年正月以前の劉邦は、部下の功績
を数値化する能力を持たなかった。
﹂こまで功績の数値化・行賞の決
定は、郡以上の機構でなされたこと
つ宇品h ソ
1
2
を明らかにした。しかし④、
楊郡長就任以降はじめて劉邦が論功
行賞を執行したとするなら、 それも
O月 の 束 郡
問題がある。︻表 2 ︼ に 現 れ る よ う
に、三(前二 O七)年一
局こ
租の
本期
紀聞
にの
は戟
二闘
度白
成武の戦いより、三月の開封での戦
O~ は
いまで、論功行賞が行われた形跡が
い長ら
見えないのである。賓は功臣たちの
にわたる昌巳攻撃や臨食其との避遁
骨豊世
確家
認
さ列
れ惇
なか
1
8
7
と陳留獲得が記されることから見ても、この四箇月の空白は大きい。 一一月に項羽は宋義を殺害したが、懐王の人事を武
力で否定したという意味ではクーデタである。そして項初は鎧鹿へ急行したが、劉邦は一一一月には楊郡に引き揚げたこと
が確認される。功臣たちの経歴の空白は、劉邦が救越戟に参奥せず、闘中を目指してもいなかった時期のことである。劉
(判)
邦は楊郡長であるから論功行賞の賓務をなしえたはずだが、劉邦自身が授爵の最終的決定者であれば、この空白は存在し
えない。したがって②l⑧の授爵はすべて、懐王の裁可によって行われたものとなる。なお、①の執行者はおそらく景駒
であろう。ただし懐王政権所属以降に行賞がなされた可能性も排除できない。
劉邦が漢王となったとき、(功績の数値化を件、つ)論功行賞の執行者として、 はじめて劉邦自身の存在が言及される。⑨
奨噌﹁武闘を攻め、覇上に至る、都尉一人を斬る、首十級、捕虜百四十六人、降卒二千九百人。:::漢王︺唱に爵を賜い
列侯と矯し、臨武侯と競す。遷りて郎中と潟り、従いて漢中に入る﹂・⑩新駄﹁又た藍田の北に戦い、車司馬二人・騎長
一人を斬る、首二十八級、捕虜五十七人。覇上に至る。浦公立ちて漢王となり、数に爵建武侯を賜う﹂がそれである。こ
(叫)
のときの論功行賞につき、列惇・列侯表に﹁覇上に至る、侯たり﹂と記される者は七人、同じく﹁覇上に至﹂ って×君・
(必)
執珪を輿えられた者は四人が確認される。何れも劉邦の砺郡長就任前後までの参加者である(︻表 3︼を参照)。彼らこそ
が漢誕生の時措の政権中植に位置する人物だといえる。第一章末尾に劉邦の楊牒滞在時期の重要性を示唆したが、︻表
3︼からもそれが裏附けられる。劉邦が楚に属したとき彼は軍事組織の指揮官となり、楊郡長となったとき彼が率いる戟
闘集圏は、楚の一翼を捨う軍事組織(その延長として行政機構を内包する ) l郡となった。そして漢護足のとき劉邦とその配
高祖五年五月詔より
下は、爵を輿える者輿えられる者として君臣関係で結ぼれたのである。
信用二一立早
漢護足時においても﹁執珪﹂の呼稽が見られるように、劉邦は楚制に従っていた。しかし高后二(前一八六)年時黙の
1
3
1
8
8
律丈である張家山漢筒︽二年律令︾惇律などにはすでに百官公卿表と同様の爵稽が見え、この約二O年の聞に爵制饗更が
(必)
行われたことを窺わせる。その時期を探る手がかりとされるのが、高租五(前二 O二)年五月に愛せられた詔であり、そ
れは何より丈中に漢代二十等爵に存在しない七大夫の爵稽が見えるからである。詔は以下の ﹃漢書﹄高帝紀下に見える。
諸侯子の闘中に在る者は、之を復すること十二歳、其の踊る者は之に竿ばす。民の前に或いは相い緊り山津を保して、
名数を書せ、ざるも、今天下己に走れば、各其の将に時りて、故の爵田宅を復しめ、吏丈法を以て教訓緋告して、
答辱する勿れ。民の飢餓を以て自ら責りて人の奴碑と矯る者は、皆な克じて庶人と震せ。軍の吏卒の赦に合して、其
の罪亡くして爵亡く及、び大夫に満たざる者は、比白な爵を賜いて大夫と矯せ。故の大夫以上は爵各一級を賜い、其の
(UU)
七大夫以上は、比白な邑を食ましめ、七大夫に非ざる以下は、品目な其の身及ぴ戸を復して、事う勿れ。
ここでは主に﹁諸侯子﹂に針する負捨減克、民に封する原状恢復の宣告と吏への訓示、﹁軍吏卒﹂ への賜爵などの思恵
授奥を記す。この詔の性格について、高敏氏は秦代以来の軍功地主の地位を恢復・承認し、新たに楚漢戟争従軍者を地主
として扶植しようとしたものと解稗する(高敏会九八五三六頁)。 一方で李開元氏は従軍者への優遇措置を重覗する観貼か
(川町)
本詔に績いて記載される第二詔には﹁諸侯子及び従軍して踊る者は、甚だ高爵多し﹂とあるように、
)0
ら、咳下の戦いへの参加者を一括して軍功受益階層と捉え、そこから劉邦集圏構成員として﹁諸侯子﹂を抽出する(李開
元二 000第一章
﹁従軍して踊る者﹂と並列され、なおかつ高爵者が多い﹁諸侯子﹂を、楚漠戦争への従軍者と見ることは至首である。し
かし﹁軍吏卒﹂には賜爵について記載されるのに釘し、﹁諸侯子﹂はそうではないことの意味が追及されていなかった。
まずは﹁諸侯子﹂と﹁軍吏卒﹂の直分を再考する。
﹁諸侯子﹂とは、諸侯人ともいい、李氏が論ずるように基本的に諸侯固に属するひとをいう。そのうえで氏は﹁闘中に
在る者﹂との記述を重視して、これを本籍地が閥束にある劉邦集圏構成員を指すものとする。しかしその見解は、以下の
三貼により成立しがたい。①劉邦集圏構成員たちは漢中で著籍しなかったとして、李氏はその根擦に漢中での食巴がなか
1
4
1
8
9
(必)
ったことをあげる。たしかに﹁漢中﹂において食邑は確認されない。だが楚漢戦争期の食邑は基本的に開中地域にある。
氏の論法ではそれは闘中での著籍の傍誼となる。②また李氏は﹃史記﹂高組本紀一一(前二 O五)年六月の﹁諸侯子の開中
に在る者をして皆な機陽に集めて衡と矯さしむ﹂との記遮を奉げ、彰城敗戦の緊急時に信頼できるひとを集めたものと
するが、﹁信頼できる﹂ことをもって関東出身者と断ずるのは根擦に快ける。③さらに李氏は、﹁諸侯子﹂は第一義的には
戸籍が(闘中外の)諸侯王国に記載された者と理解する。だがこの時期にも闘中外 H諸侯の固式を遁麿するのは、超国除史
的に過ぎる。また ﹃漢書﹄高帝紀上高組元(前二 O六)年には劉邦就園の際﹁羽卒三高人をして漢王に従わしめ、楚
子・諸侯人の慕従する者数高人﹂とあり、ともに開中外にあるはずの楚子と諸侯人(子)が並列されていることから、や
はり闘中外 l諸侯は成立しえないことが確認される。この時貼で楚は封秦戦の中心勢力であり、諸侯はそれに随伴する園
である。楚子について李氏は本来項羽に従って東方に戻るべき者とするが(李開元二 000 一八三自只)、 イレギュラーな
﹁慕従者﹂数高人の劉邦への蹄参は他勢力の警戒を招くに充分すぎる。おそらく楚子こそが楚軍の一翼を構成していた劉
(幻)
邦配下の軍勢であり、それに他の諸侯陣菅出身者や項羽よりつけられた﹁卒三高人﹂が漢軍と行動をともにしたとすべき
である。二年六月の﹁諸侯子﹂はここから抽出されたのであろう。
一方﹁諸侯子﹂の語は︽奏議書︾七五九八(案件一六)に、﹁診問。蒼・信・丙・費、皆な閲内侯。信諸侯子誰陽楊
里に居す、故は右庶長 ci---皆な故の楚霞、漢に属し以て士に比うるも、諸侯子に非ず﹂と見える。これは高租六(前二
O 二年七月に准陽郡新郭際で護畳した事件の、被疑者の身分についての記述である。そこでは蒼・信・丙・賛の被疑者
四人のうち、新郭令信は諸侯子であったが、蒼・丙・責の三人は諸侯子ではないことが確認されている。 一方でこの一一一人
(必)
が﹁漢に属し﹂ てのち一時は士(第四級不更以下のことか)に位置づけられたこともある以上、彼らは以前からの劉邦の配
下であったとは考えられない。蒼たち三人は項羽側勢力の従軍者と考えるべきである。したがって詔にいう﹁諸侯子﹂と
は、漢の側で戦った諸侯国人である。
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5
1
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0
﹁軍吏卒﹂とはここでは従軍者をいう。諸侯子との匡別に闘しでは、 やはり軍吏卒に封しては賜霞への言及があること
(将)
を重覗すべきである。 つまり軍吏卒とは、漢に属する従軍者を指す。またこの詔からは、皇帝が諸侯国人の爵位を自らの
一存では動かせなかったことも窺える。劉邦の栴競が皇帝となったところで、その権力は漢王時代と壁化しなかったので
ある。また爵制の饗更も、王国としての漢の範園に限定される事柄となろう。
それでは楚爵から漢爵への移行時期について。文献上には封秦戦時のような爵の授輿記録が見えないため、それを論ず
ることはできない。ただし新たに漢の一世稜を立て民醤賜輿を行った高租二年二月を、その契機と見ることは可能である。
ド
ョ
七大夫は第七級公大夫の異稽とされるカ第二詔に﹁七大夫・公来以上、皆な高爵なり﹂とある一方で、﹁異日秦民の爵
公大夫以上﹂とあるように、公大夫の呼稽は高組五年五月時黙では現行の爵稿ではなかった。また秦時代の事例が引き合
(日)
いに出されたのは、それがかつて全国的に通用したからであって、一爵稽白瞳は各諸侯園で一致していないのであろう。逆
にいえば爵稽の差異にも闘わらず、各園の霞位の置換は可能であった。
呂町制の嬰更は高組五年の前後で二度あったと見るべきである。二度目の爵制饗更がなされたであろう翌六年の列侯封爵
開始前後が、﹁公大夫﹂復活の時期であろう。爵制費更には劉邦自身の強い政治的意思が表れる。高租二年の爵制饗更は
功臣たちの席次より
項羽からの自立の表明である。そして二度目の霞制嬰更の内容とその意義について、次章ではそれを嬰更後の列侯封爵と、
席次作成を手がかりに探る。
第四章
一方詔からは闘中重覗の姿勢も窺える。闘中重視の方針は新たな緊張をもたら
前掲の高租五(前二 O二)年五月詔は漢の闘中政権としての限界を示したものであり、諸侯子への慮遇が先に述べられ
ることも諸侯園への配慮の現れであった。
した。燕王戚奈の叛乱は二箇月後のことであり、翌六(前二 O 一)年二一月には楚漢戦争最大の貢献者たる楚王韓信が捕
1
6
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9
1
縛される。韓信捕縛は楚漢戦争で一奉に勃興した斉←楚勢力の解瞳を意味する。列侯封爵はこの月に開始された。そして
諸侯子であった韓信の部将たちも、漢の軍吏卒とともに封爵を受けることになった。
(臼)
封爵を受けた功臣たちには序列が設けられた。史表の最下段、漢表の﹁始封﹂段の下には数字が記載されているが、そ
れが功臣たちの席次日侯第である。以下は﹃索隠﹄引く桃氏の記述である。この排列と史表・漢表に相違はない。
粛何第一。曹参二。張故三。周勃回。林六時哨五。鄭商六。美泊七。夏侯嬰八。濯嬰九。停寛十。新数十一。王陵十二。
陳武十三。王吸十四。醇欧十五。周昌十六。丁復十七。畠逢十八。
ここでは個々の排列についてではなく、むしろ功臣たちの序列の設定白躍を問題としたい。何故なら侯第作成は、賓は二
度目の爵制饗更と閲連を持つ事柄だからである。
まずは侯第決定の時期について。﹃漢書﹂高恵高后丈功臣侯者表の序文には高祖期の列侯封爵について記した部分があ
るが、侯第制定の時期に闘わる記述として﹁A封爵の誓に日く:::。是に於いて申ぬるに丹書の信を以てし、 B重ぬるに
白馬の盟を以てし、 C又た十八侯の位次を作る。 D高后二年、復た詔して丞相陳平に書く列侯の功を差しめ、弟を録して
下に克り、諸れを宗廟に戚し、副は有司に在り﹂が奉げられる。ここからは A封爵の誓とその確認のための﹁丹書の信﹂、
B ﹁劉氏に非、ざれば王たるを得ず:::﹂で知られる白馬の盟、 C 一八位までの席次、 Dそして高后二(前一八六)年にお
ける再度の順位の決定、 の存在が詮言される。 Bの白馬の盟は高組二一(前一九五)年三月の制定とされるが(大庭一九八
二 二 二 九 三 二 O頁)、しかし四貼すべてを時系列順の記述と断言できない。そのため白馬の盟の時期によって C の﹁十八
侯﹂決定の時期を推し量ることはできない。
(日)
他に席次決定の時期を推定できる材料としては、﹃史記﹂帯相国世家に見える粛何を第一に置く﹁位次﹂決定と、それ
に闘わる郭君(都千秋)の封爵の逸話が琴、げられる。史表は安平侯都千秋の封爵を高祖六年八月甲子とし、その﹁侯功﹂
欄には﹁薫何の功を畢ぐ﹂とある。請何一位が決定したとき、漢表序文にいう﹁十八侯﹂の原初的形態が現れたのだろう。
1
7
1
9
2
(日)
しかし高祖六年八月時貼で、それが一八人であったか否かは不明である。
(閉山)
D の高租功臣侯者に封しての席次決定は、﹁漢書﹄高后紀にも記される。ただし高后紀には﹁十八侯﹂の存在には言及
されず、排列の再編が示唆される。しかし個々の順位はともかく、極端な印刷失更は存在しなかったであろう。数字が附され
る列侯の時系列的下限は上部侯劉郭客・朱虚侯劉章の高后二年五月丙申、数字が記されない者は基本的に高后二年時貼で
廃されている。
(一品)
一方で高后二年まで存績するにも闘わらず、侯第が見えない列侯もいる。その代表例が周呂侯旦口津・建成侯日程之の旦口
氏二人である。功なきがためでないことは、呂津が軍功を奉げていることで誼明できる。むしろ旦口氏は、他の功臣たちよ
りも皇帝に、近かったがために、請何らと同列の席次から除外されたものであろう。もっとも少帝恭の母の一族となってい
た張散が三位であることへの疑問も出てこようが、それだけ旦口氏は特別であったとも考えられる。他方で斉悼恵王肥(劉
(日)
邦の庶長子)の次子朱虚侯章のような、恵帝出自ではない劉氏の列侯には侯第が記されるが、逆に高后元(前一八七)年に
列侯に封ぜられた恵帝の子三人には侯第が附されていない。劉氏の列侯も恵帝出自の直系と、それ以外に出自する傍流と
に直分されていた。このように高后二年時賄における列侯は、劉氏直系・呂氏所謂﹁十八侯﹂その他列侯、と主に三
段階に匝分されていたと想定される(ただし所謂﹁十八侯﹂と、その他列侯との匡分の基準の内容は判然としない)。劉氏直系列
侯・日氏列侯の侯第の不在は、彼らが特異化されたことの表れである。
(認)
さて話を高租六年一一一月にはじまる列侯封爵に戻せば、その意義のひとつは、食邑(侯図)が聞外に設定されたという
酷である。ここに前年の状況とは異なる、漢の事賓上の全国的支配力の擦大を見ることができる。同時に同姓諸侯王の擁
(同)(飢)
立も開始されたが、 その前提として劉邦は父・劉太公に太上皇競を贈った。それが劉氏自瞳の異姓に封する優越誇示の濫
暢であり、同姓諸侯王擁立の基盤であった。また同姓諸侯王国の相の多くに、漢の列侯が任じられた。二度目の爵制愛更
はこの前後になされたのである。その詳細は明らかにし難いが、﹁公大夫﹂復活は間違いない。また高租六年時賄におい
1
8
1
9
3
ては、諸侯子の爵も授爵時貼のままでは通用しなくなっていることが、前掲︽奏議室百︾の高祖六年七月の案件から窺える
一方、列侯に及、はなかった功臣たちは各地の郡守に任じられた。
(注(ぎを参照 )o 二度目の爵制愛更は、開中外への食邑設定・列侯の諸侯王国相就任を賓現するための手段としての性格
を有しており、先速の劉氏特異化と一瞳の政策であった。
このようにして漢王朝の全園政権化は一麿達成されたのである。
高組六年八月の侯第作成は、以上の政策の一環として、開中政権における﹁元動﹂を確定した作業である。漢王朝の性
格は、高組二(前二 O五)年の韓王信擁立によって劉邦が諸侯王に優越する地位を得てから饗わらない。だが漢は長期の
軍隊生活によって培われてきた人格的関係を介することで、事責上の全国支配をなしうる強さを手にしたのである。
り
君主権の属性のひとつを爵位 H身分の提供として捉えるならば、漢王朝はここをもって成立したのである。
そして漢王となったとき、劉邦自身も爵の提供者となることができた。また彼の一存での爵制の嬰更も可能になった。
頒布をはじめとする組織運管の賓務者となったのが、請何に代表されるかつての浦の牒吏たちであった。
れを賓行する一定の機構が必要である。劉邦が楊郡長となったとき、彼も恩恵の頒布者たる手段を皐びえた。そして恩恵
楚に属して以降、劉邦は呂町の頒布に闘しては仲介者にとどまった。しかし功績に封する評債を輿えるということは、そ
なかった。しかし劉邦が楚に属したとき、その軍勢は整然たる統制と規律を持った軍事組織に他律的に編制された。
司馬遷もかの地の気風に眉を墾めたほどである。浦公劉邦は牒内すべてを掌握することも難しく、潅歯の離反を阻止でき
(日)
て﹁掴上十二諸侯﹂が割撮した地であり、各地の個性の強さを諜測させる。とりわけ陳武たちが出自した醇については、
かつて劉邦は一介の澗水亭長に過、ぎず、王陵は兄事の封象であり、十推歯もまた﹁浦豪﹂であった。また澗水流域はかつ
わ
さて第二章では保留していた、楚に属する以前の爵の意義はどうであったのか。それは倦稀であるというべきである。
1
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お
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9
4
劉邦が現賓に存在する人的結合とは闘係なく中出・舎人等の職名をまね奥えただけとする見解(増淵一九九六九七頁)と、
)o つまり爵には具躍的・物質的な裏附けが必
同様のことが爵にもいえる。首初の劉邦の勢力は未熟ながらも国家を擬態した。しかし爵の機能として、その等級によっ
て思恵の多寡を定める﹁目安﹂の役割が指摘される(宮宅二 O O六一 O八頁
一方的な上意下達の強制力は、官僚制的秩序に通じる。
要である。筆者は﹁はじめに﹂において、増淵一九五五 aの秦・漢時代の﹁約﹂には軍園長から一方的に下される強制力
を有するものとしての要素があるとする見解を取り上げた。無論、
しかし増淵氏は、集圏内において強制力が行使されるには、構成員と軍園長との﹁心情的結合﹂が不可扶であることも述
べている。劉邦の勢力に閲しても、連日の行軍・野管のなかで人格的関係が掴養されたことは想像に難くない。以上の観
酷からすれば、増淵氏のいう任侠的習俗とは官僚機構のなかでは潤滑油となり、遊侠や群盗・叛乱軍のなかでは動力源と
もなる人格的結合形態の線稀である、と筆者は考える。任侠的習俗は遍在しうる。劉邦だけが高度の任侠的気節を有した
わけでもない。しかし韓信を堅倒する際には、劉邦が韓信麿下の部将たちと培った人格的関係の時間的長さが利鞘となっ
た。例えば項羽との最終決戦において韓信のもとで主力部隊を率いた濯嬰・孔将軍・費将軍はみな楊からの従軍者であり
(注(日仏)を参照)、劉邦との聞係は韓信との関係よりも長かった。軍隊内部における統属闘係だけでは限界があった。
(山山)
最後に第四章で描いた列侯封爵・侯第作成の意義とは、なにより漢王朝がより固家らしい外貌を整えるためである。そ
れが高租六(前二 O 一)年八月頃の請何の地位の上昇にも表れる。それまで軍功を得る機舎がなかった請何を侯第一位と
することで、漢王朝は戦闘を専らとする組織から脱却したことが示された。同姓諸侯王擁立を可能とした劉氏の貴種化も
ほほ同時進行であったが(注(印)を参照)、これらは漢王朝の諸侯王国に封するさらなる優越を決定附けた。景帝期まで績
く諸侯王固と漠王朝の並存瞳制は、ここに始まったのである。
一般的に漢王朝の成立過程が述べられる際、列侯表の記載内容から劉邦が功臣たちに官職を輿えたことが重視されてき
た。しかし列侯表は官府に遣された﹁分封策室田﹂を原資料としたものであり(李開元二 000 二四頁)、あくまで高租六年
20
1
9
5
以降の劉邦の主観で描かれるものである。その頑角からは、漢王朝の成立は﹁劉邦集圏﹂の自律的な成長の過程として描
かれるほかなかったのである。本稿では爵という要素と、高租六年以前の情報にもとづく論功行賞の記録を抜き出したう
えで、漢王朝の成立過程を外部から照射した。そこから見える最大の書一期は、漢王朝の創業者たちが、軍事組織に編制さ
れることで郷里祉舎から離れたことであろう。劉邦は本来貌人であったが、楚の一翼を占め、秦の故地において漢王朝は
成立した。功臣たちも各固から参加しているように、そこには地域的要素は希薄である。秦・漢の国家機構は牒以下の枇
曾秩序が直接反映されたものではなく、また戦圃楚漢の拭勢も異なる一吐合秩序から成り立った諸圃の封立ではない。むし
ろ園制面においては共通黙の方が目に附く。それが歩兵の大規模運用というドクトリンであり、また徴兵を前提とした諸
(白山)
制度である。またそのなかで軍功に封する褒賞が行われ、そして功績に封する恩賞の適切な分配を﹁徳﹂とする思想が康
(刷出)
まった。しかし大規模運用される歩兵が軍制の中核から外れたとき、専ら軍功に釘する褒賞として用いられた爵制にも壁
化が訪れる。この覗酷から漢王朝の饗化を展望することが今後の課題となろう。
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1
9
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何日志
楯
身
龍敏勝
夫一久
生
吉本
l
繋
疋
雄明
這雅
美
都
融関
子元
{呂{右
西
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究論考篇﹄朋友書庖)
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一九五五﹁父老﹂守屋美都雄ム九六八所取
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二O O二﹁前漢組宗'刷制度の研究﹂(﹃立命館文民子﹄五七七四O三 四 二 九 頁 )
22
増堀藤
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屋山
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1
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︻中文︼
察高進二
二O O九﹁秦漢の軍功爵と民爵﹂﹁中園古代の専制園家と民間世舎│家族・風俗・公私﹄立命館東洋史学舎
O O六﹃張家山渓筒︽奏議童日︾研究﹄贋西師範大学出版剥
董 一 小 均 二 O O七﹃出土秦律漠律所見封君食邑制度研究﹂里山龍江人民出版枇
高敏一九八二﹁論雨漢賜爵制度的歴史演繁﹂﹃秦漢史論集﹄中州書書一一利
顧額剛一九六三﹁司馬談作史﹂﹃史林雑識初編﹄中華宝田局
彰浩・陳偉・工藤元男二 0 0七﹃二年律令奥奏議来日張家山二四七競渓墓出土法律文献稽讃﹄上海古籍出版枇
銭穆一九九八﹁漢初侯邑分布﹂(﹁銭賓因企集﹄三六聯経出版事業公司)
語其藤一九八二﹃中園歴史地園集第二冊﹄中園地岡出版枇
O ﹃軍功爵制研究﹂上海人民間版枇
の批判がある。
(4) 概説書として刊行された堀二O O四・佐竹二O O五・藤
い手たる父老の支持が、劉邦の権力の基盤となったとした。
(3) このような秦漢史研究の風潮に到しでは、浅野一九九一
張家山二四七披漠墓竹筒整理小組二 0 0一﹃張家山漠墓竹筒︹二四七競墓︺﹂文物出版枇
二O O八﹃軍功爵制考論﹂商務印書館
朱紹侯一九九
詰
侯は漠代を通じて産み出され、﹃漢書﹄のカテゴリに従え
(1)一般に列侯に闘する表は功臣表と通稽される。しかし列
皇帝の姻族や丞相就任者などを封象とする外戚思津の三種
の地方制度に筆を割く。また李開元二 000は渓王朝にお
田二 0 0六は何れも、筒臆研究の盛行を反映してこの時期
ば宗室に釘する王子、軍功を奉げた人物を中心とする功臣、
に分けられる。本稿で登場する列侯は殆ど功臣だが、漢代
は漢王朝が秦の壮曾システムを受容したことで楚的なもの
ける楚的要素の連績性を主張するが、一方で藤H二0 0六
列侯を通観する際、功臣表とするのは適切ではない。ここ
では列侯に関する表を列侯表と線稽し、また﹃史記﹄・﹃漢
(5)沈欽韓﹁漢書疏謹﹄巻二七﹁高組初起、官霞皆従楚削﹂。
から脱却したことを説く。
書﹄の列侯表をそれぞれ史表・漢表と通稽する。
その績編である守屋一九五五は郷里枇舎の向立的秩序の捨
(2)劉邦と功臣たちの関係性については守屋一九五二もあり、
2
3
1
9
8
また朱紹侯一九九O (五一五三頁)もこれを楚爵とする。
それに封し高敏一九八三(三五頁)は功臣たちが得た停を
一概に楚爵とはせず、それぞれの爵稽は戟園期の各国に由
来するものとするが、董千均二0 0七(二二 O頁)は各凶
別の爵稽使用は混乱を引き起こすものと高氏を批判する。
(6) 栗原一九四O (三九│四一一見 )oまた高敏一九八三(三
五頁)は爵を輿えることで劉邦は配卜の者を鼓舞したとす
る
。
(7) その手がかりのひとつとして、劉邦即位後に愛された高
記載されるべき軍功爵授受規定とを混同した議論となって
いる。なお楯身二0 0八は、劉邦即位後にも楚爵と漢爵が
並存したとしている。
(8) 例えば籾山一九八五は爵位の等級を﹁王権との距離﹂と
し、また鷲尾二 O O九も爵を君臣閥係の紐帯として論ずる。
(9) ここでは李開元二000 第五章をもとに議論するが、
い。また本章・次章に頻出する地名の所在は、語其駿一九
氏の記述にかかる部分は訂正を要する場合を除き注記しな
八二に擦る。
﹃史記﹄陳丞相世家に﹁亦自緊黛数千人、居南陽、不肯従
(日)これは二年二一月に劉邦から離反する羅歯も含む。また
浦公﹂とされる王陵も、史表の﹁侯功﹂には﹁以客従起壁、
組五(前二O二)年 九
T 月詔に言及されることが多い。例え
が存在していたことを説く。逆に朱紹侯一九九O (五四
ば栗原一九四O (四三・五O頁)は高租五年時黙でも楚国
以康将別定東部:::﹂と記されることから含めた。逆に呂
は含めない。
咽淳・呂穣之は参加時期・参加地が不明であるため、ここで
頁)はかつて法三章設布と同時に劉邦は楚制を放棄して秦
制に移行したと論じたが、のちに自説を張家山漠筒︽奏識
)o張耳は貌都大
(日)﹃史記﹂高組本紀はこの前後について﹁油公還軍尤父、
梁のひとで、かつて貌公子母忌(信陵君)の容でもあった。
ことも傍詮となる(﹃史記﹂張耳陳徐列惇
(ロ)さらに劉邦がかつて張耳(のちの越王)に兄事していた
陳渉潟楚王、市公起麿渉、故従楚制、橋日公﹂。
(日)﹃漢書﹄高帝紀上注﹁孟康日。楚奮傍稽王、其豚宰矯公。
来日︾(注(必)において詳遮)を根擦に、高組四年までの楚
爵は使用され、五年五月時貼において饗更されたものとし
(一三四良)も同様の見解である。一方で李開元二000
た(朱紹侯二 O O八九五・二一五頁)。董千均二 0 0七
(四六四九百()は、軍功爵は軍法に記載され、爵の改愛
になったと推測される漠元(前二O六)年四月から八月の
も軍法によって規定されるという考えから、韓信が大将軍
が、﹃漢書﹂高帝紀は同箇所を﹁十二月、楚王陳捗篇其御
至方奥、周耐刻刻刻幽剖制﹁岡到倒貌人周市略地﹂とする
荘貰所殺。貌人周市略地豊浦、使人謂濯歯日:::﹂とし、
のとする。しかしこの見解は楚漢戦争期の爵位を賓詩的に
傍線部の一一字を記さず、﹁由一旦浦﹂を描入する。梁玉縄
間において軍法再愛令と同時に得制も秦制に総長更されたも
八五二頁)、さらに得制そのもの(名稽を含む)と軍法に
検討したものではないとの批判があるうえに(楯身二0 0
2
4
1
9
9
また﹃漢主己の﹁陳王使﹂の削除は、一一一月の陳渉の死の
太常(清・趨佑)の説を記載する。首肯すべき見解である。
﹁陳主﹂以下九字を﹁周市来攻﹂の上に移すべきとする越
﹃史記志疑﹂を六は﹁貌人﹂の位置の不向然さなどから
:・乃進兵撃秦嘉。秦嘉軍敗走、追之至胡陵。嘉還戦一日、
﹁蛍是時、秦嘉巳立景駒篇楚王、軍彰城東、欲距項梁。
以将軍定代、侯﹂。
(初)項梁の楚王景駒・秦嘉討伐について﹃史記﹂項初本紀は
(漢表は一歳)、以執鍍(漢表は執盾)入漢、以司馬撃籍、
嘉死、軍降。景駒走死梁地﹂と描く。つまり項梁軍は彰城
0
描入に起因する観離を伸ったものであろう。
(は)﹃史記﹄曹相園世家﹁徒守方奥。方輿反翁貌、撃之﹂
る東陽商君と行動をともにしていた。
おける泰軍との戦いでは、劉邦は景駒擁立者のひとりであ
飴往見之﹂とあるのみである。翻ってその二箇月前の楊に
この聞の劉邦については高組本紀に﹁問項梁在醇、従騎百
北北西にある胡陵まで迫撃して秦嘉を殺害したのである。
東方に駐屯する景駒・秦嘉を攻撃して、泊水に沿って浦の
o粕拠地己定、欲相奥立周市矯貌玉、周市
(日)﹃史記﹄陳捗世家﹁欲立貌後故宵陵君抗告潟貌王。時答在
0
不肯。使者五反、陳王乃立宿陵君答矯貌王、遣之図。周市
陳王所、不得之貌
卒気相﹂
史表には﹁二歳十月入漠:::﹂とあるように入漠時期はや
(時)李開元氏は陳武を楚漢戦争後の参加者とする。たしかに
こでは含めない。半陵侯呂臣については注 (
η
) で述べた
(幻)口口津・円程之の呂氏二人も楊郡車父を本籍とするが、こ
ように、陳留からの参加者と看倣す。
や遅れるが、すでに﹁以将軍前元年率将二千五百人起醇、
る頃には関係が築かれていたことを重視する。
oしかし充父は劉邦が二年七月に項
o費侯陳賀﹁以
0
0
﹃史記正義﹄高
組本紀﹁孔将軍、家侯孔照。費将軍、費侯陳賀也﹂
有功、潟将軍、{疋舎稽・崩江・湖陽、侯﹂
会白人前元年従起楊、以左司馬入漠。用都尉属韓信、撃項羽
篇将軍、三以都尉撃項羽、属韓信、功侯﹂
(勾)史表琴侯孔菜﹁以執屑前元年従起陽、以左司馬入漢、
別救東阿、至覇上﹂ともある。ここでは劉邦が項梁に属す
(口)李開元二000(一七三頁)は漠表に従い留から参加し
たと看倣すが、史表は寧陵侯呂臣を陳留における従軍者と
する。漠表が﹁陳﹂字を脱したとすべきであろう。
所署局守、用燕相侯﹂
(時)史表-→糠侯執(漠表では林撃)﹁以客従起尤父、斬章郎
(お)﹃史記﹂鋒侯周勃世家﹁高租之翁浦公初起:::。攻都
開・定陶、襲宛胸、得間早父令 Oi---撃李白軍羅丘ド﹂ o宛
梁にしたがって攻撃したことから判るように、薙歯の離反
後よりこの時期まで劉邦の属した楚の勢力圏外に出ている。
ろ
、
っ
。
肋出身の新数・陳稀はこの周勃来攻時に従軍したものであ
李氏はこの時期の劉邦集園参加者のうち園籍が判明する
したがって平林侯執の参加時期は、十維歯離反以前か二年七
(
μ
)
月以降かは不明である。
(印)史表安正侯張説﹁以卒従起方輿、 属貌豹、 二歳五月
25
2
0
0
者として四七人を奉げるが、ここでは陳武(注(日)参照)、
廃する事例が見える(吉本二0 0五 四 六 三 頁
停﹄信十二によれば陪臣に封して胤王が﹁上卿の櫨﹂で饗
公認が﹁天子賞文侯以上卿﹂である。﹁上卿﹂とは、﹃左
(沼)張家山漢簡︽二年律令︾惇律三五九│六二・置後律一一一
﹁上卿﹂が遁首であろう。
王に封しては陪臣であり、これに照らせば﹃呂氏春秋﹂は
)o
三耳口も周
めない。逆に列侯に到達しなかった三人は含まれる。
項氏四人ならびに項初敗死後の参加が確言される陳嬰は含
(お)韓信は三(前二O四)年初の一 O月に陳飴を討ったが、
(お)かつて楚の上柱園であった陳嬰について史表は﹁項初死、
一括して卿と扱う。また﹃史記﹄秦始皇本紀著録の浪邪塁
六七八では、第一八級大庶長から第一 O級左庶長までを
趨からはこの年四人が従軍した。
えて項氏からも四人が漢に蹄順し列伎となっている。
)0
0
0
﹃戦闘策﹄斉策二昭防局
(お)﹃史記﹄粛柏岡世家﹁諸相園何者、消幽一一旦人也。以文無害
三川守李白等の郡守であった。
(釘)例えば秦末の叛乱討伐軍を率いていたのは、山水守荘・
きない。
(お)この時期の七大夫・五大夫を、楚霞と断言することはで
楚伐貌﹁昭陽日﹃官潟上柱園、爵篇上執珪﹄﹂
爵執土土、株高権、金千鈍:::﹄﹂
(お)﹃呂氏泰秋﹂異賓﹁丈人不肯受日﹃刑園之法、得五員者、
孤卿也﹂。
(社)﹃漢書﹂粛何曹参惇曹参注﹁鄭氏日、楚爵也。張円安日、
五二貝
る五大夫から﹁税邑﹂が賜輿される(山寸屋一九六八五一
所載の爵制では、卿クラスの最下級である客卿より一級降
身分に興えられるべきものとなる。なお﹃商君書﹄境内篇
(お)この解穣に従えば、楚の爵制のもとで食邑は卿より上の
でなじみの薄い﹁庶長﹂を避けたものであろう。
刻石の李斯・主戊の稀謂にも卿が見えるが、これは奮六園
属漠﹂とする。また口口靖(青)・霊常は令予であった。加
間軸の限定のためであり、原資料のありかたを問題とした
(幻)なお戦場ないし敵将の記述を僚件に組み込んだのは、時
ものではない。また時期が不明な戦いも記載しない。
(お)国聞の序列は董平均二0 0七(一一一一一頁)の排列をもとに
するが、封・重封については奨噌の授爵記事より補足した。
﹃管子﹂授度﹁管子針日﹃令諸侯之子将委質者、骨以隻
を﹁長大夫﹂に作る。
(鈎)同系統の逸話を記載する﹃呂氏春秋﹄慎小は﹁園大夫﹂
(
ω
)
武之皮、卿大夫豹飾、列対対豹除。大夫散其口巴来、奥其財
物、以市虎豹之皮、故山林之人刺其猛獣、若従親戚之仇。
0
また軽重乙篇にも﹁列大夫﹂の稽
此君克服於朝、而猛獣勝於外、大夫巳散其財物、高人得受
其流、此嘉舜之敷也﹄﹂
が(金谷一九八七第四章第三節)、身分呼栴については戟
謂が見える。なお軽重諸篇は漢代以降の成書が指摘される
園以前の情報を反映したものと見られる。
記年﹄によれば前四O四年に相嘗し、その翌年の三耳目諸侯
(出)貌(賓際は三育連合軍)斉聞の長城の戦いは﹁古本竹書
2
6
2
0
1
o
水不史事、第ご。張丞相列惇﹁周昌者、市人也。其従兄
第浦主吏抜。:::秦御史監郡者輿従事、常排之。何乃給油
記﹄の授爵・論功行賞に闘する情報の入手経路のすべては
個の原資料に基づいて作成されたことを示唆する。﹃史
の交友(顧韻剛一九六三二二六二二七頁)に由来する
明らかにしがたいが、一部は司馬談と林六時哨の後高岡林大他虞と
日周苛、秦時皆矯澗水卒史﹂
(ぬ)﹃史記﹂曹相園世家主(後従攻束郡守尉、破之防風南、
としその合人陳恢を千戸に封じたという。このとき劉邦も
高組本紀によれば、劉邦は三年七月に南陽郡守齢を段佼
ものであろ、っ。
(
ω
)
周勃世家﹁浦公秤勃潟虎貰令、以令従浦公貌地。攻束郡尉
於城武、破之。撃王離軍、破之。攻同時、先登。攻鵠鴎づ
武安侯だから、無理のある逸話である。劉邦はあくまで懐
復攻之厄回、大破之。迫北、西至開封、撃趨責軍﹂・粋侯
綿馬、絶河津﹂、奨部勝濯列停奨噌﹁従攻聞東郡守尉於岐
(叫)﹃史記﹄奨鄭膝濯列惇濯嬰﹁至覇上、賜爵執珪、競昌文
記載のない新欽も列停で言及される。列侯表﹁侯功﹂が官
(必)列侯表に﹁至覇上﹂と記される例は一八例、また表には
君﹂の事例は、執珪が君競と連動することを示す。
王に封しての仲介者として動いたと見るべきである。
武、畑山敵:::従撃秦軍於宅南。河関守軍於紅里、破之。撃
破超音一軍時持北﹂・夏侯嬰﹁以太僕奉車従撃章郎軍凍阿ト
撲陽下:::。復常奉車従撃越貫軍関部、楊能⋮軍酷遇﹂・濯
嬰﹁::・嬰初中泊撃破束郡尉於防風及秦軍於旺四、疾閥、
賜筒七大夫。従秦軍吉宅南・問時ぺ時選、戦疾力、賜霞執白巾、
府に遣された﹁分封策書﹂であることを考慮すれば(李開
列侯は、秦滅亡に立ち合ったと回顧された者である。他方
上﹂は秦滅亡の時期を指す。つまり﹁至霜上﹂が附される
となろう。楯身二 O O八(五三頁)が述べるように﹁至覇
以上のように紅里・成(城)武の戦いには曹参・周勃・奨
元二 000 二四頁)、これは﹁分封策室田﹂特有のフレーズ
喰・濯嬰の参加が確認されるが、彼らの動向は同年一一一月の
郡食其も漢中入り以前には列侯であったことが、史表高
競馬宣陵君﹂・停新制成列惇斬歓﹁攻情陽。破李由。撃秦
軍宅南・問時東北:::﹂ o傍線の地名は三年一 O月以前の
開封・曲遇の戦いまで不明である。なお宅の所在は河南値
(臨済は食其の子。野が封ぜられる際、亡父の事績に言及
梁侯郡山野﹁食其。兵起以客従撃破秦、以列侯入漢:::﹂
曾戦地であり、波線の地名は三年三月以降の曾戦地である。
荘公惇十二年社注に擦れば﹁宅宋邑。蒙豚西北有宅城﹂)
一九五)年である。このことは﹁至覇上﹂が、高組六年封
された)の記遁から確認できる。臨済の封は高租一一一(前
師牒とする﹃索隠﹄と、宋州穀熟牒西南(﹃春秋左氏惇﹄
とする﹃正義﹄の見解に分かれる。しかし宅南の戟いの柾
(幻)そのため議論の焦鈷は七大夫を楚爵と考えるか、漠爵と
の列侯に占有される象徴的な語であったことを示す。
里・開封との先後はそれぞれ組離をきたしており、舎戟
またかかる戦績の空白は、世家・列停が高組本紀とは別
地・舎戦時期は確言できない。
2
7
2
0
2
看倣すかが中心となった。詳細は注 (7)を参照。
(叫)負捨減克を示す﹁復﹂について、具健的な要件が明示さ
れていない場合は、その内容は断言できない(重近一九九
九第七章)。したがって負捨減売の詳細は不明である。
(何日)第二詔について紙屋二O O九(四六頁)は、上掲の一詔か
ら時間差を持って愛せられたとする。
(必)寧秦(京兆ヰア華陰曹参)、懐徳(左碕幼裏徳周勃)、社
之奨郷(京兆ヰア杜陵林火恰)、武成(左鴻胡武城牒部商)、
杜平郷(杜陵潅嬰)、離陰(上郡停寛)、池陽(左鳴胡
周縦 )o括弧内の郡際名は﹃漢書﹄地理志による。
(U) 李開元二000(三O 二二百円)は劉邦就園時の﹁卒一二
高人﹂を漢の軍人とし、准陰侯韓信や韓王信らを﹁慕従
者﹂とする。これに釘し佐竹二 O O五 ( 三 五 七 三 五 九
頁)は﹁半三高人﹂を項初によってつけられた者とし、同
時に従った楚と諸侯の﹁慕従者﹂のうち、楚は楚軍を構成
る。董平均二 O O七(一三四頁)・朱紹侯二 O O八(九
爵は閣内侯とされる一方、丙の爵については五大夫ともあ
五・二二五二二七頁)は﹁診間﹂(詳細は、宮宅一九九
八五二五五頁を参照)以下傍線部の内容を一訊問者が愛
した疑問文とし、関内侯かそれ以下の霞位であるかを確認
したものとする。しかし闘内侯とそれ以下の爵位に何らか
の匿分が設定されているとすれば、案件ごとに被疑者の関
内侯か否かの確認がなされることになろう。したがって廷
なり、少なくとも上級機関への報告として作成される︽奏
尉・郡豚隻方にとって闘内侯か否かの匿分は自明のものと
いて四人とも霞は第一八級大庶長とされ、内のみが匝別さ
轍書︾に記載される性質の事項ではない。また判決案にお
れているわけでもない。信の例とは異なり﹁故﹂字はない
さらに判決案が四人の爵位が闘内侯より一級下る大庶長
が、﹁五大夫﹂も過去の履照であろう。
四人を劉邦直属の配下であったとして、初審時の彼らの筒
位は大庶長で、高組五年五月一副の内容によって一級追加さ
とすることにつき朱紹侯二O O八(一二二O 一一一一一一頁)は、
れる筈であったが、最終的には陸爵手績きがされなかった
していた劉邦配下の軍勢、諸侯は三秦地域から招集された
(必)︽奏議室 ︾
H 七五九八﹁・准陽守行牒嫁新都獄、七月乙
とする。しかし新都令信の履歴につき張 家山二四七競漠墓
者とする。
酉新都信愛書:::診問。蒼-信・丙・賛、皆閣内侯。信諸
竹筒整理小組二O O一は﹁信有侯子﹂と稗譲するが、彰浩
﹁信諸侯子﹂と改める。要するに漢側で戦った﹁諸侯子﹂
等二 O O七は察高進二 O O六(二 O頁)の補訂案に従い
Y
秩六百石。蒼、社平君、肘新郭都陵里。賛、威日円君、居故
侯子居雛陽楊里、故有庶長、以堅守楽陽、賜爵翁庚武君、
・・:敢言之、新
は信だけであり、楚爵を有し﹁諸侯子﹂ではないとされた
0
市里。丙、五大夫、民徳里。皆故楚筒、間局漠以比士、非諸
他の三人と信を同列に扱うことはできない。また本文で論
侯子。布、絵及官賞坐者、勝論。官如辞
o この案件で問題となっている被疑者四人の
都信・雰長蒼謀賊殺獄史武、校長内・賛捕蒼而縦之、再皆
大庶長:::﹂
2
8
2
0
3
卒﹂のみである。少なくとも四人の被疑者が(楚爵保有者
議定奏之﹄
由明倒﹁刑制副刷、世世勿絶、嗣子各襲其功位。其山川ハ列侯
功者皆受分地位坤列侯、高民大安、莫不受休徳。股思念至於
久遠而功名不著、亡以命大誼、施後世。剤倒劃剖列倒羽山
恵、以功次定朝位、臣請戚高廟﹄。奏可﹂
陰侯臣嬰・安岡侯臣陵等議、列侯幸得賜餐銭奉 巴
U 、陛下加
じるように高組五年五月の授爵に興れたのは漢の﹁軍吏
の三人も含めて)かつて関内侯相蛍の身分にあったことは、
奮敵針勢力山川身者の侍も一括して一級降して扱うのは、案
o丞相臣卒ニ一日﹃謹輿絡侯巨勃・曲周侯匝商・頴
准陽郡常局も承認したと見てよい。判決案が諸侯子の爵も
件一六以前の時黙で、爵制に関わる何らかの繁更がなされ
ように侯第は高租廟に納められるものであった。これにつ
祭で、侯第が始租の功績とともに確認されたことを論ずる。
いて楯身二 O O九は、毎年八月に宗廟において行われる酎
o傍仙服部に見える
たことを示唆する。
とは、﹃史記﹂比八玉津列惇﹁穆西王印以責毎有姦﹂から見
(的)呉楚七園の乱以前でも諸侯王の賜爵自慢は可能であるこ
(日)︻表3︼に見えるように﹁歪覇上﹂の文が見える列侯の
(日)史表周呂侯呂津﹁以円后兄初起以客従、入漢潟侯。還
逸脱することはなかったのであろう。
前の封である。列侯の序列は基本的に高組六年から大きく
あり、また所謂﹁十八侯﹂にしても張数以外は六年八月以
封爵は、張蒼(郡千秋にめ十月遅れる)も合めて八月までで
える。問題はあくまで責筒であって、正規の賜国聞は可能で
あった。
0
(印)﹁漢書﹄高帝紀下顔師士n注﹁七大夫、公大夫也、信第七、
故謂之七大夫﹂
相似する、つまり園大夫を第六級官大夫の、列大夫を第七
祖定天下。功侯﹂
定三秦、将兵先入楊。漠王之解彰城、往従之、復愛兵佐高
(日)董平均二 O O七(一二九頁)は楚曲目の序列は二十等爵と
級公大夫の別名とする。また封秦戦時でも惇寛は貌五大夫
王義の亮去ののち四(前一八四)年五月に常山主に封ぜら
(日)一一暴成侯義は高后二年七月に常山王となる。帆侯刺は常山
0
として従軍したが、その後楚爵の卿となっている。
(臼)漠表は﹁位次﹂とするが、本稿では侯第に統一する。順
位全健は楯身二O O九を参照。
つまり彼らは高后二年五月(侯第が記載される列侯はこの
れ、査開侯武も五(前一八一一一)年に准陽王に封ぜられる。
(印)鷲尾二 O O二 二 一 O頁。また杉村二 O O九は高組期に
ることは稀である。
(四川)銭穆一九九八に見えるように、侯岡が闘中内に設けられ
時にまでに封ぜられている)の時貼では列侯であった。
(日)﹃史記﹂粛相園世家﹁上じ権功臣、多封斎何、李一位次未
J
旬以復難之、然、心欲何第一。関内侯都君進日:::。高祖日
0
μ 0於日以乃粛何賜帯剣履上殿、入朝不趨。上日﹃五日間
﹄
主
﹃
進賢受 LL
賞粛何功雄高、得那君乃盆明﹄ c於是因郡君故所
食閥内侯口巴封佐川安平侯﹂
(日)﹁漢書﹂高后紀﹁二年春、詔日﹁高皇帝匡筋天下、諸有
2
9
2
0
4
整備された入朝制度と郡園廟から宗室劉氏の紐帯を論じる。
多暴築子弟、奥郷・魯殊﹂
0
(臼)﹃史記﹂粛相園世家は﹁於是乃請何賜帯剣履
LL
殿、入朝
の臣下は劉邦の面前での帯剣・悠然とした歩行が禁じられ
不趨﹂と粛何への特権附典を記す。これはまた、すでに他
(削)高組六年設足の同姓諸佼主園のうち、相園・丞相就任時
に列侯であった者は李開元二 000(三六五頁)によれば、
また七年以降の後足の場合は、代(陽夏侯陳話術、のち越に
徳
﹂
柄者、刑・徳也。何謂刑徳。目、殺毅之謂刑、慶賞之謂
(臼)﹃韓非子﹄二柄﹁明主之所導制其臣者、二柄而己失。二
る等のかたちで君臣関係が可覗化されていたことも示す。
楚(堂邑侯陳嬰)・代(北平侯張蒼、翌年園除)・斉(陽陵
改封)・越(陳孫、由胤佼部商、沿陰佼周昌)・准南(張
)0
蒼)、代(停寛)・燕(拘佼温済)であるが、梁園・准陽園
邑、非私之也﹂(﹃漢書﹂高帝紀下)とあるように、功臣に
白漢中行威徳、訴不義、立有功、平定海内、功巨皆受地食
侯博寛、一小陽侯曹参/)である(同年設足の刑凶は不明
の相の名は不明である。この措置により諸侯王が自園の丞
食巴
U を輿えたことが重詞附されている。
oまた劉邦が皇帝に推戴される際にも、﹁又以昨阻之地、
相を(漢に先んじて)列侯に封ずる可能性が減じた。一方
(叫)すでに遊牧民勢力への封庭のため、戦園期には﹁胡服騎
異姓諸侯王園に闘しては、掠布の乱の際に﹁梁父侯﹂なる
人物が登場するように(﹃史記﹄鄭生陸買列惇朱建)、准
た。また統一秦の頃には一般の壮丁は釘外戦争の主戦力か
射﹂に象徴されるように騎馬主龍への軍制繁更が試みられ
帝即位後、長沙王子呉浅・長沙丞相利蒼が相次いで列侯と
は六図滅亡によって秦と同様の装備編制を持つ敵釘勢力が
ら除かれはじめていたが(鷲尾二O O九二三七頁)、これ
南園には濁自の﹁侯﹂がいたことは倖かである。しかし恵
なったことが史表に見える。諮侯王園の濁白の﹁侯﹂はこ
消滅したことが一因であろう。
のころ消滅したのであろう。
(日)﹃史記﹂孟嘗君列惇﹁太史公目、五口嘗過醇、其俗間里率
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ON THE FOUNDING OF THE HAN DYNASTY, EMPLOYING
~ JUE
(RANKS) AS A KEY TO AN INTERPRETATION
MATSUSHIMA
Tatsuma
The fact that the l¥W ;)'~ Liu Bang and the other founders of the Han dynasty
were not of high birth is well known. Due to this fact, there has been in the study
of Chinese history in Japan active pursuit of the initial character of the human relations of the founders of Han dynasty in hopes of making a large contribution to
clarifying the social structure of the Qin-Han period. However, the core of human
relations of the Han dynasty was not in fact a matter of transferring the human relations formed in their homeland, nor was the expansion of Liu Bang's power simply an extension of the human relations formed in the homeland. In explaining Liu
Bang's acquisition of power, another principle must be considered. The key to this
explanation is jue (ranks).
In the biographical sources of the warriors who participated in the rebel army
led by Liu Bang against the Qin empire (those who were later honored retainers
of the Han dynasty) it is recorded that they obtained ranks on the basis of their
military exploits. And the scholarly consensus has been that throughout the period
of rebellion against the Qin, Liu Bang himself followed the 3l! Chu system and
bestowed ranks on his followers based on the Chu system. However, in this
study, I offer a different view, arguing that after Liu Bang submitted to Chu, the
ranks bestowed on Liu Bang and the warriors who followed him were confirmed
by the King of Chu. In other words, during the period of the revolt against the
Qin, the links between Liu Bang and the warriors who followed him was not a relationship based on the conferral of benefits represented by ranks, but should be
considered instead to have been based on relationships of internal military allegiances.
Then the question becomes when was Liu Bang capable of bestowing rewards
on the warriors who were his retainers? At least in the case of bestowing ranks,
this occurred only after the fall of the Qin and Liu Bang's elevation to the status of
King of Han. However this was ultimately still under a Chu-centered system.
When Liu Bang escaped from the hegemony of the Chu, he struggled to establish
an order centered around himself. As a result the Chu system of ranks was revised into one modeled on that of the Qin. And it has been thought that the revi-35-
sion of the system took place only once. However, using the imperial edict issued
immediately after Liu Bang's accession to the throne as key evidence, one should
conclude that revisions of the ranks must have occurred twice, once prior to and
once again after his accession. The first reform occurred when Liu Bang declared
the establishment of a state independent of Chu. However, it was also possible for
the other kings who allied themselves with Liu Bang King of Han to bestow ranks
on warriors subordinate to them. Due to the second revision of the rank system,
the systematic superiority of the Han dynasty over that of other states was secured.
As can be seen in the above, the principal factor that made the establishment
of the Han dynasty possible was the changes that were made over time to the initial form of human relations when Liu Bang first rose in revolt. Moreover those
changes mimicked existing political structures and conceptions of order. In addition, the existence of ranks awarded in return for military achievements were
symbolic of the political order of the time.
THE INCIDENT OF THE OFFICIAL HISTORIAN CUI HAO OF
THE NORTHERN WEI, RE-EXAMINED FROM THE
STANDPOINT OF THE LEGAL SYSTEM
MATSUSHITA
Ken'ichi
In the ll th year of the Taibing-zhenjun era (450) during the reign of Emperor
Taiwu of the Northern Wei, the minister of civil administration Cui Hao was executed. This incident has previously been understood as a result of Cui Hao himself having written an official history about the ancestors of the Tuoba and having
it engraved on a stone column that was subsequently erected, thereby incurring
the wrath of the northern nomads who appealed to Taiwu who then had the Cui
clan of Qinghe and the clans with which they intermarried, i.e., the Lu of
Fanyang, the Guo of Taiyuan, and the Liu of Hedong, extirpated. This action has
been seen as the suppression of influential Han clans by the rulers of the Northern
Wei. However, this interpretation is based on the Zizhi dongjian and is not an interpretation that can be drawn from the Weishu. According to the biography of
Cao Hao in the Weishu, he accepted bribes, and there is scholarship indicating that
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