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軍人や軍需物資の輸送のみではなかった戦時中の商
Kobe University Repository : Kernel Title 軍人や軍需物資の輸送のみではなかった戦時中の商 船(Non-soldier or Munition Supplies Transported by the Japanese Merchant Fleet during World War) Author(s) 大井田, 孝 Citation 海事博物館研究年報,43:20-23 Issue date 2015 Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 Resource Version publisher DOI URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81009489 Create Date: 2017-03-30 軍人や軍需物資の輸送のみではなかった戦時中の商船 戦没した船と海員の資料館 大井田 孝 はじめに ができる船舶を保有していなかったことから船舶 2015年10月10日、神戸大学海事博物館主催の第 会社に対して輸送船を募集した。 8回海事博物館市民セミナーにおいて戦時中の船 これらの船舶は傭船ではあったが、当時の又新 舶に関してお話をさせていただく機会がありまし 日報(ゆうしんにっぽう)には御用船募集として た。このセミナーでは船舶の用船形態、交換船や 掲載されている。御用船の呼称は日露戦争時代か 病院船といった用途、地域に限定した神戸港周辺 ら使用されており天皇陛下の船舶として総称され に於ける船舶の被害などについて約90分間にわた たと思われる。 り来場者の方々にお話をさせていただきました 時代が下がって、大東亜戦争の開戦から一部の が、終わってみればまだまだ言葉足らずで充分に 報道では御用船の呼称が見受けられたが、昭和17 お伝え出来なかったのではと反省しています。 年4月に国策団体である船舶運営会が発足して以 後はあまり使われなくなり、徴用船の呼び方が一 要旨は以下の3項目です。 般的となりました。この呼称は現代でも多くの *徴用船・徴傭船・指定船・配当船について 方々が口にされ、良きにつけ悪しきにつけ戦争イ *交換船・救恤品輸送船・病院船・引揚船に コール徴用船に結びつけられています。 描かれた十字の色 また軍部の都合により徴用船の中から比較的建 *神戸空襲および神戸港周辺における船舶被 害の状況 造年が新しい高性能の船舶、若しくは輸送能力が 高い船舶を陸軍または海軍が傭船契約して運用 し、さらに戦況が悪くなるに従い、戦地への人員 1.徴用船・徴傭船・指定船・配当船に ついて および物資輸送に従事する船舶を指定船もしくは 配当船と分類して運用しました。 大正3年6月30日にヨーロッパで始まった第一 次世界大戦で日本は連合国の一員としてドイツと 戦いました。 ア.徴用船 昭和17年4月1日に設立された船舶運営会が 当時、中国大陸遼東半島の青島に展開していた 全隻を管理することになり、100総トン以上の ドイツ軍を掃討するために日本陸軍は多くの兵士 汽船および150総トン以上の機帆船を対象とし を青島に派遣する必要が派生し、陸軍は兵員輸送 て、船舶の所有は個々の会社であったが、運航 図 船舶運営会の位置づけ ― 20 ― の責任はすべて船舶運営会が担う国家管理体制 契約した船舶は全て特設の冠を付与していまし になりました。 たが5月1日以後に使用した船舶は特設船名簿 船舶運営会が発足した当時は5班制度で構成 され、班を纏める責任会社として日本郵船、大 に記録が残されていないことから単に徴用船舶 に分類したものと考えられます。 阪商船、三井船舶、山下汽船および川崎汽船の 徴傭船の動向については海軍であれば、一例 各社が班長になりました。その後、戦況の変化 として各機関の戦時日誌等を探せば何かの情報 に伴って班構成が変化するとともに喪失船舶の を得られますが、陸軍については船舶を管理し 増大に伴って日本全体(満州籍、朝鮮籍を含 ていた船舶司令部の資料の殆どが原爆により消 む)の保有船舶の絶対数が少なくなり、この制 失したため解明は無理な状況です。 度も形骸化せざるを得なくなりました。さらに 陸海軍が使用した船舶以外で、銃後の人たち 被害が増大するにつれ、軍部は民需用の船舶を の生活のために満州や朝鮮などからの食糧や国 軍需物資輸送として使用し、さらに不足してき 内での物資を輸送した船舶を民営船と称してお たことから海軍が契約していた船舶の大半も陸 り、陸海軍徴傭船と民営船とを区分するため陸 軍に契約変更となり、軍人・軍需物資輸送のた 軍徴傭船をA船、海軍徴傭船をB船、配当船・ めの輸送船となっています。 指定船をBC船、民営船をC船と分類し管理し 当初、船舶運営会が民需用として計画した船 ました。戦没船員名簿もこれらに合わせ都道府 舶は全体の30%でしたが、この割合も最終的に 県ごとにA、B、BC及びCに区分して保存し はなし崩しとなり、昭和20年になると船舶の極 ています。 端な不足による影響は食料を始め生活物資の輸 指定船もしくは配当船はその性格上、往航の 送に事欠き、全国民が飢餓寸前にまで追い込ま 費用と損害時のみ補償は約束されましたが、戦 れました。この影響は戦後まで続きました。 時中には殆ど補償はなされず、戦争が終わり次 第支払うとのことでしたが結果的に支払える状 イ.徴傭船、指定船、配当船 徴傭船:陸海軍は船舶運営会が管理していた船 況にはなく、全てが空手形で戦後は多くの船会 社の経営が難しくなったようです。 舶の中から比較的建造年数の新しい船舶を傭 船 契 約 し て 使 用 し ま し た。 陸 軍 は 全 体 の 40%、海軍では30%の船舶を陸海軍徴傭船と じゅつ 2.交換船、救恤品運搬船、引揚船 船体に十字を描いた船舶には戦地で負傷した して傭船契約しています。 人々や病人を運ぶ病院船、戦争が始まり日本在住 徴傭船は徴傭から解傭までの期間に応じた で帰国不能になった外交官とその家族や欧米に在 傭船料を船舶運営会を通じて各船会社に支払 住していて日本への帰国を希望した邦人を輸送す う形態を採用しており、傭船契約では徴傭期 る交換船、日本軍の収容所に収容していた連合国 間中に生じた損害補償について明確にしてい 軍の捕虜に対する物資の輸送に従事した救恤品運 ます。 搬船などが就航していました。 配当船:陸海軍が徴傭した船舶のうち、片道に これらの船舶では航行の安全を確保するために 限って軍に関係する輸送に従事した船舶で、 船体には十字が描かれており、十字の色は白、赤 往復とも輸送した場合は配当船ではなく徴傭 または緑のいずれかでした。 船になります。 指定船:船長自身を含み全乗組員名簿を海軍省 ア.白十字(日英交換船、日米交換船、救恤品運 に提出し、海軍省が全員を軍属と認めた船員 搬船、引揚船) が乗船して運航された船舶を指定船と呼称し *交換船(白十字) ていますが記録は定かではありません。 日米及び日英交換船に関する詳細な記録は 昭和20年5月1日を期して徴傭制度は廃止さ 外務省記録「大東亜戦争関係一件 交戦国外 れましたが徴用制度は戦争が終結するまで続け 交官其他ノ交換関係」にありますので詳しく られました。このため、4月までに海軍が傭船 はそちらをご覧ください。 ― 21 ― 太平洋戦争の開戦直後から外務省は敵国及 十字が描かれました。また、残存した旧海軍 び断交国にある官吏及び在留民の交換計画を の艦艇には武装を完全に撤去し応急の居住区 研究し、中立国を通じてアメリカやイギリス を設け特別輸送艦として船体にはローマ字で と交渉した結果、昭和17年(1942)5月、両 船名を記し引揚輸送に従事しました。 国との間に外交官等の交換に関する協定が結 また、米国政府から貸与された米国戦時型 ばれました。これに基づき、日米交換船は第 標準船のリバティ型貨物船106隻、戦車揚陸 1次(1942年6月から8月)と第2次(1943 艦(LST)100隻及び C1型貨物船9隻が就 年9月から11月)の二度にわたり実施され、 航しましたが、ここに十字は描かれておら 第₁次帰還者1,421名と第2次帰還者1,517名 ず、QまたはVに続き数字3桁を表示しまし が日本に戻りました。 た。これらの船舶の船員は当初、米兵(リバ また、日英交換船は1942年7月から10月に ティ型貨物船は米陸軍、LSTは米海軍管 かけて運航され、1,742名が帰国しています。 轄)でしたが、言葉や生活習慣の違いなどの 問題が多発したことから数ヶ月を経ずして日 *救恤品運搬船(白十字と十字を囲む四角の 緑) 本人船員と入れ替わりました。 引揚輸送に要した船舶は述べ1,300隻を数 日本軍はシンガポール、サイゴン(現ホー え、乗組員はいずれも戦争を体験した日本人 チミン)等の捕虜収容所に連合国軍の捕虜を 船員でした。このときの船員が「外地に残さ 収容していました。連合国側は捕虜に対する れた同胞を一刻も早く日本に連れ戻したい一 救恤品を届けようとしましたが、収容所が日 心で休む暇も惜しみ往復した」と述べていた 本の占領地であったため簡単に実現できませ ことが非常に印象的です。 んでした。しかし米国政府からの度重なる要 イ.緑十字 求を日本政府が受け入れ、昭和19年11月、米 主に中国とソ連から引き揚げの日本人の 国からソ連船が運んできた救恤品をナホトカ みを輸送する船舶に描かれ、内地から外地 で白山丸が受け取り神戸港に陸揚げしまし へは船員、医師、日赤の看護婦および引揚 た。陸揚げされた救恤品の一部は昭和20年1 関係者のみが乗船しました。 月末に阿波丸に積み込まれ、シンガポールや サイゴン等の捕虜収容所に輸送されていま す。 なお、阿波丸はシンガポールからの帰途に ウ.白十字 日本から朝鮮や中国、台湾の人々が乗船 し、外地からは日本人が乗船した船舶に描 かれました。 就いた昭和20年4月1日、福建省平譚島近く で米潜水艦の魚雷攻撃を受けました。乗船者 2,270名のうち、1名のみを撃沈した船名を 確認するためとして攻撃した潜水艦が収容し ています。 *病院船(赤十字) 赤十字を描くことができるのは国際赤十字 社が認めた船舶です。 戦時中、陸海軍とも日本赤十字社を経由し てスイス連邦にある国際赤十字社に必要書類 *引揚船(白十字および緑十字) を提出しています。 戦争が終わり、日本の領土は北海道、本 病院船としての条件は、ジュネーブ条約に 州、四国、九州と周辺の島々だけになりまし 基づき船体を純白、舷側に幅1.5m 以上の緑 た。これらの地域を内地、それ以外を外地と の帯と前方・上空・左右及び後部からでも昼 称して区分し、内地に在住していた朝鮮や中 間、夜間に関わらず認識できる赤十字を描く 国、台湾の人達を速やかに本国に送還するこ ことが必須であるとともに、国際赤十字社に と及び外地に在住している日本人を帰国させ 届け出る際、船体外観上の構造などの要目を るための命令が連合国総司令部(GHQ)か 記述した書類が必要でした。また、病院船は ら出され、引揚輸送に従事する民間船舶には 単独行動をしなければならないとされてお ― 22 ― り、病院船2隻が同行している場合は病院船 向かう華城丸の2隻で、530人が亡くなりました。 とは認められず、一般船舶の扱いになりまし このような中、機雷を掃海するために元海軍の た。しかし、たとえ病院船といえども臨検の 掃海部隊が任務を遂行しました。昭和22年発行の 対象となり、最悪の場合は拿捕若しくは撃沈 水路告示によると神戸港周辺における主要航路の されることもあり得ました。 掃海は昭和21年5月1日に終了しています。 病院船の標識を描いたまま戦渦にあったの なお、日本周辺の海域で掃海中に犠牲となられ は「ぶえのすあいれす丸」と「牟婁丸」の2 た79人は香川県の金比羅神宮に祀られています。 隻で、いずれも戦没しています。また、「橘 丸」が米軍に拿捕されました。 戦時中は陸海軍とも国際赤十字社に届けて いましたが、陸軍は途中で自己都合により船 (参考) 米軍が敷設した機雷は磁気、音響、圧力に反 応する機雷で感応機雷と称されます。 体の塗色を戦時色(黒、灰色、薄い緑色な 音響、圧力に反応する機雷は内蔵している電 ど)に塗り替え輸送船として就航させていた 池の寿命により動作を開始してからおおよそ1 ために陸軍病院船のほとんどを喪失していま 週間から10日で反応しなくなりますが、磁気機 す。上記「ぶえのすあいれす丸」と「橘丸」 雷は電力をほとんど消費しないように設計され は偽装病院船と指摘されても弁解ができない ていたことから数年経過しても爆発事故が絶え ような病院船だったようです。 ませんでした。さらに埋め立てや船舶を安全に 航行させるための浚渫工事中に発見される機雷 3.神戸空襲および神戸港周辺における 船舶の被害 空襲といえばほとんどの方は陸上施設の破壊と もありましたが、殆どは感応する機能は消滅し ています。しかし、強い衝撃で爆発する危険性 は今も残っています。 人の殺戮を目的とした爆撃と思っているようです が、船舶への爆撃もあり、最終的には無差別爆撃 により多くの人たちが亡くなっています。 神戸空襲は昭和17年4月18日ドーリットルが指 揮した16機の1機がわずか数分間で東川崎町から 吉田町方面にかけて多数の焼夷弾を投下しまし た。その後、昭和20年3月までは大規模な空襲は ありませんでしたが、3月17日と6月5日の空襲 で神戸市内の中央部は壊滅的な打撃をうけ、空襲 犠牲者の正確な死者数は現在も不明のままです。 昭和20年3月27日からは米軍の作戦名 「Operation Starvation」 、日本では飢餓作戦と訳 している機雷封鎖作戦が始まり、東は大阪湾、西 は関門海峡西口を含めた瀬戸内海全域と北海道を 除く日本周辺海域に約12,000個の機雷が敷設され 海上交通は完全に麻痺状態になりました。 神戸周辺の海域では8月15日までの間、空襲お よび機雷の爆発による船舶の被害は29隻を数え、 8月16日以降も機雷の爆発による船舶の被害は6 隻を数えます。 戦後の機雷爆発で多くの犠牲者を出したのが淡 路島や四国に戻る人達が乗船した室戸丸、別府に ― 23 ―