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051000010006 - Doors
雑誌『シック』と『ノール・シュッド』に見られる
ベル・エポック期以後のアポリネールの位置
伊 勢 晃
Ⅰ
第一次世界大戦で頭部に重傷を負ったアポリネールは、1916 年の夏頃か
らパリの文壇に復帰する。後遺症による体調不良に苦しみながらも、創作と
批評活動を精力的に行い、「エスプリ・ヌーヴォー」の旗手としての復活を
当時の文学界に印象づけている。このような舞台を準備したのは、戦前から
の友人だけではなく、カフェ・ド・フロールでの詩人の話に感銘を受けた若
い詩人たちであった。オルレアン宮で開かれた有名な夜会も彼らの発案によ
るものである。戦後のアポリネールの活動については、個々の作品分析の点
から研究が進んでいるが、アポリネールの活動の主たる場は、たとえ生活の
糧を得るという目的があったにせよ、雑誌や新聞への寄稿であり、また文壇
における詩人の位置を明確に提示したのも、これらのメディアであった。ま
た、ベル・エポック期の終焉を迎え、戦時の混乱を経て、ダダイスムやシュ
ルレアリスムといった新しい芸術運動が生み出されることになるが、その過
程における文壇の対立図式や組織の変化を俯瞰図的に知るためにも、当時の
文学者や芸術家の活動の中心であった雑誌や新聞のあり方を看過しないこと
が重要である。
本稿では、アポリネールの復帰に重要な役割を果たしたピエール・アルベー
ル=ビロの雑誌『シック』
(SIC)とピエール・ルヴェルディの雑誌『ノール・
シュッド』(NORD-SUD)が、新芸術を生み出す場としてどのような役割を
果たしたのか、そこから見られるアポリネールの位置はどのようなもので
あったのかについて考察したい。
『コミュニカーレ』1(2012)125-133
©₂₀₁₂ 同志社大学グローバル・コミュニケーション学会
125
伊 勢 晃
Ⅱ
まず最初に、これら二誌が発行されたいきさつを確認することから始めた
い。アポリネールは、彼が中心的な役割を担った雑誌『レ・ソワレ・ド・パ
リ』(Les Soirées de Paris)を、新しい芸術の方法を探求し実践する場と考え、
文学の分野にとどまらない広範な芸術活動へと傾斜していった。しかし、第
一次大戦のためにこの実験場は失われてしまうことになる。詩人は『レ・ソ
ワレ・ド・パリ』の再刊を強く望んでいたが、実現はしなかった。このよう
な時期に画家、彫刻家、詩人であるアルベール=ビロが雑誌『シック』を、
そして詩人ルヴェルディが『ノール・シュッド』を創刊し、アポリネールに
執筆と協力を求めることになったのである。
『シック』は 1916 年から 1919 年までに全 54 号が発行された。 SIC とい
うタイトルは、<SONS, IDÉES, COULEURS, FORMES> の頭文字に由来し、
アポリネールの『レ・ソワレ・ド・パリ』と同様に、総合的な芸術雑誌を目
指して創刊されたものである。アポリネールをリリスムの点から研究してい
るマリー=ルイーズ・ランタングルによれば(1)、創刊当時、アルベール=
ビロには前衛的な芸術家の知人は皆無であり、創刊号から第 3 号までは、彼
の作品と記事のみで構成されている。アルベール=ビロは、イタリアの未来
派画家セヴェリーニの紹介でアポリネールを知ることになり、第 3 号の記事
のなかで、この詩人について初めて言及している。アポリネールの詩が最初
に発表されるのは第 4 号の詩「未来」<L'Avenir> である。この戦地で書か
れた詩(2)がどれほど無名の詩人にとって重要なものであったかは、アポリ
ネールの死を伝える彼の記事が物語っている。
Sic en était à sa 8me page, j'en étais le seul rédacteur, j'étais inconnu de tous,
isolé suspect : Apollinaire me donna pour Sic ce petit diamant : L'AVENIR /
Regardons nos mains / Qui sont la neige / La rose et l'abeille / Ainsi que l'avenir /
(...) Quelque jour, si je deviens vieux, je me divertirai à conter l'histoire de Sic
pendant la guerre, histoire où il sera sans doute beaucoup parlé du grand chef de
famille qui vient de mourir.
(SIC, No.34, novembre 1918,p.261)
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雑誌『シック』と『ノール・シュッド』に見られるベル・エポック期以後のアポリネールの位置
『アルコール』の詩人は、その後も『シック』に数篇の詩や批評記事を発
表するとともに、アルベール=ビロに若い芸術家を多数紹介し、アラゴン、
コクトー、スーポー、ブルトンなどがこの雑誌に執筆するようになる。
『シッ
ク』は、アポリネールの協力によって新しい芸術を生み出す場へと雑誌の性
格が変化し、大きく発展することになった。これに対してルヴェルディの
『ノール・シュッド』は成立の過程が異なっている。
『ノール・シュッド』はルヴェルディを編集長とし、1917 年 3 月から 1918
年 10 月までの期間に全 16 号が発行された。この誌名は 1910 年に開通した
メトロの会社名から取られたものである。タイトルの文字は、モンマルトル
とモンパルナスを結ぶメトロの路線の切符に使用された字体と同じであり、
当時のパリにおける文学・芸術活動の発信地である両地区の架け橋となるメ
トロという最新のテクノロジーを多分に意識したものとなっている(3)。こ
の前衛雑誌は文学作品や文学批評を中心に構成され、主な執筆者は、アポリ
ネール、ルヴェルディの他に、ウイドブロ、マックス・ジャコブ、フィリッ
プ・スーポー、トリスタン・ツアラ、ポール・デルメ、アンドレ・ブルトン
など、若い詩人が中心であった。
『ノール・シュッド』は、『シック』とは異なり、創刊当初からアポリネー
ルを中心に集結しようという編集者の意図が感じられる。創刊号の冒頭には、
アポリネールを中心にグループを結成するという一種の宣言がイタリック体
で強調されながら掲げられている。
La guerre se prolonge. Mais on en connaît d'avance l'issue. La victoire est
désormais certaine. C'est pourquoi, il est temps, pensons-nous, de ne plus négliger les
lettres et de les réorganiser parmi nous, entre nous.
Naguère, les jeunes poètes allèrent trouver Verlaine pour le tirer de l'obscurité. Quoi
d'étonnant que nous ayons jugé le moment venu de nous grouper autour de Guillaume
Apollinaire. Plus que quiconque aujourd'hui, il a tracé des routes neuves, ouvert de
nouveaux horizons. Il a droit à toute notre ferveur, à toute notre admiration.
N.S.
(NORD-SUD No.1, 15 mars 1917,p.20)(4)
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伊 勢 晃
創刊号の目次では、本文の配列に関わりなく、アポリネールが先頭に書か
れていることからも、この詩人が特権的な位置にあったことがわかる。新精
神の詩人は、のちに詩集『カリグラム』(Calligrammes)に掲載されること
になる詩「勝利」«La Victoire» をはじめ、定期的に詩や批評を発表する。ま
た、『ノール・シュッド』は表紙に <Revue littéraire> と印刷されているこ
とからも明らかなとおり、文学専門の雑誌であり、『シック』とは異なり創
刊当時から明確な方向性をもっていたのである。
以上のように『シック』と『ノール・シュッド』における創刊当初の状況
や方針は、完全に異なっていた。しかし、その方針は少しずつ変化していく
ことになる。このことをアポリネールの活動に着目しながら、具体的に検討
したい。
Ⅲ
アポリネールが本格的に『シック』と関わることになるのは、第 8,9,10 合
併号に掲載されたアルベール=ビロによるインタビュー記事「新しい傾向」
« Les Tendances nouvelles » からである。ここでは、アポリネールが戦前に
発表した『美的省察』
(Méditations esthétiques)ですでに言及していたように、
過去の知識から理性が生まれ、現在というものは、過去の知識と未来への展
望の果実でないといけないと述べられている。彼は過去の認識の上にたった
新しいユマニスムの構築について述べたあとに、新しいメディアである映画
こそ叙情詩的な感情を生み出す芸術であると強調する。
Mais il est aujourd'hui un art d'où peut naître une sorte de sentiment épique
par l'amour du lyrisme du poète et la vérité dramatique des situations, c'est le
cinématographe. L'épopée véritable étant celle que l'on récitait au peuple
assemblé et rien n'est plus près du peuple que le cinéma. Le poète épique
s'exprimera au moyen du cinéma, et dans une belle épopée où se joindront tous
les arts, le musicien jouera aussi son rôle pour accompagner les phrases lyriques
du récitant.
(SIC, No.8,9,10, août-septembre-octobre 1916, p.59)
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雑誌『シック』と『ノール・シュッド』に見られるベル・エポック期以後のアポリネールの位置
アポリネールの映画に対する関心は、かなり早い時期から見られるが、負
傷後に芸術としての映画という考えが強まっている(5)。講演「新精神と詩
人たち」« L'Esprit nouveau et les poètes » のなかでは、映画は言語を用いた
単純な芸術よりも壮大な新しい芸術になり、詩人の想像力の活動の場が無限
に広がると語っている。この講演での呼びかけに答えたのが、スーポーであ
り、彼は『シック』第 25 号に「映画に関する覚え書き 1」« Note I sur le
cinéma » を発表している。
インタビュー「新しい傾向」はアポリネールの芸術観を知るうえでの貴重
な証言であるが、この記事以降、『シック』の編集方針が大きく変更されて
いる。アルベール = ビロは当初、批評的研究は掲載せず、作品と芸術関係
の情報のみで雑誌を構成することを考えていたが、このインタビュー記事以
降は、上述したスーポーの映画批評のように、批評、論文が多数掲載される
ようになり、彼自身も独自の文学理論である < Nunisme > を論文として発
表している。
『シック』をさらに発展させるきっかけになったのは、アルベール=ビロ
がアポリネールの戯曲『ティレジアスの乳房』(Les Mamelles de Tirésias)の
上演を援助したことであった。この「シュルレアリスム演劇」は『シック』
のマニフェスタシオンとして上演され、第 18 号から第 22 号までは大部分の
記事がこの演劇に関連する内容である。演劇史上に残るイベントをアポリ
ネールとともに成し遂げたことによって、『シック』は国内外の詩人たちに
認められる総合芸術雑誌となり、若い芸術家たちが作品を次々に発表する場
となった。この大きな変化は、アポリネールの雑誌『レ・ソワレ・ド・パリ』
に直接つながる流れであると言えるのではなかろうか。
Ⅳ
アポリネールは『ノール・シュッド』の第 10 号まで毎号、詩作品を発表
している。この雑誌ではアポリネールは詩作を中心に活動し、またそのこと
を期待されていた(6)。草稿原稿が示すとおり、アポリネールが『ノール・
シュッド』に発表した詩は、第 1 号の「勝利」から第 6,7 号の「ルイジ・ア
マロに」«A Luigi Amaro» までで、すべて発行直前に書かれており、この
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伊 勢 晃
雑誌が初出である。これら以外の詩、つまり第 6,7 号の「ワロンの湿原」
« Fagnes de Wallonie » から第 10 号の「恋の歌」« Chant d'amour » は、いず
れも 1915 年から 1916 年の初めに戦地で書かれ、婚約者マドレーヌに送られ
ていたものである。さらに、第 12 号に発表された二つの詩には、それぞれ
1915 年 4 月 3 日、1915 年 12 月という日付が記されていたことから、アポリ
ネールが『ノール・シュッド』に積極的に詩を発表したのは第 6,7 号までで
はないかと考えられる。
注目しなければならないことは、1917 年 12 月の第 10 号に掲載されてい
るルヴェルディの執筆した「エクスポジション」« Exposition » の項目である。
ここでは、サルモンが行った講演について触れられ、さらに翌月号でその詳
細な報告がされている。しかしこの講演と同時期にあたる 11 月 26 日にアポ
リネールが行った講演「新精神と詩人たち」についてはまったく言及されて
いない。このことは、「新精神と詩人たち」に対するルヴェルディの失望を
十分に明示していると言えよう。アポリネールは 1918 年 4 月にルヴェルディ
に詩を選びに来るようにという内容の手紙を送るが、ルヴェルディが詩人の
元を訪れた形跡はない。
1918 年 1 月の第 11 号の第 1 ページ目には『ノール・シュッド』の広告が
掲載され、大きな文字で「編集長ルヴェルディ」と書かれている。そして、
この同じ広告が第 13 号まで続けて掲載される。また、第 12 号以降、最終号
となる第 16 号までの目次では、ルヴェルディの名前が先頭に来るようにな
る。上述したとおり、創刊号では、作品の配列に関係なくアポリネールの「勝
利」が目次の先頭であったことを考えると、講演「新精神と詩人たち」に対
するルヴェルディの反応や第 12 号のアポリネールの二篇の詩をめぐる問題、
そして、第 12 号以降アポリネールが『ノール・シュッド』に詩作品を発表
していないことなど、この雑誌が創刊当初持っていた、アポリネールを中心
に集結するという目的は完全に消滅し、ルヴェルディを中心とした雑誌へと
変化しているのである。
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雑誌『シック』と『ノール・シュッド』に見られるベル・エポック期以後のアポリネールの位置
Ⅴ
アポリネールの詩作数は 1917 年の半ば以降減少し、1918 年にはほとんど
詩を発表しなくなる。この傾向は、『シック』や『ノール・シュッド』への
詩の寄稿がなくなる時期とも符合する。病状の悪化や多忙なジャーナリスト
としての仕事などの理由が考えられるが、われわれは、彼の詩の性格の変化
にその答えを求めたい。
ミシェル・デコーダンやジャン・ビュルゴスなど多くの研究者が指摘する
とおり(7)、1918 年に発表されたアポリネールの詩は伝統的なものに回帰す
る傾向がみられる。アポリネールがピカソに宛てた手紙によれば(8)、詩人
がオード詩篇を執筆し、ピカソの絵入りで出版したいと考えていたことや古
典的な形式のなかで自分の詩のトーンを一新しようとしていたことがわか
る。ただし、これは秩序へのあこがれというものではなく、新たな詩形式の
発見のために彼が試みようとしていたことの表れであろう。しかし、自伝的
小説『坐る女』(La Femme assisse)の第 2 章で語られているとおり、この試
みは決して容易なものではなく、アポリネールは詩を生み出すことに困難を
覚えていた。詩人は、伝統的な形式の中に新しい詩を見いだそうと模索して
いたが、戦争という状況や生活のための執筆という現実的問題があったうえ
に、自分の死が近いことも意識していたため、書きかけの作品を完成させる
必要もあったのであろう。また何よりも、諸芸術の総合という彼の芸術観を
実践するために、映画のシナリオも含めた自分にとって新しい分野の散文作
品を執筆するほうに力を注いだのだと考えられる。
しかしながら、『ノール・シュッド』創刊号の最初に掲げられた文章のよ
うに、若い詩人がアポリネールに期待していたのは彼の詩人としての活動で
あり、そのことはアポリネール自身がもっともよく理解していたことである。
だから、彼は講演「新精神と詩人たち」を行ったのであろう。しかし、ブル
トンをはじめ多くの若い詩人は、この講演に失望を覚える。ダダやシュルレ
アリスムへと向かう新しい詩人たちにとっては、アポリネールの詩における
革新性、新しさは、過去のものとうつったのである。『シック』や『ノール・
シュッド』におけるアポリネールの活動時期とそれ以降の変化のすべてが、
このようなことを明確に示しているのではなかろうか。
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伊 勢 晃
今後はそれぞれの芸術家の活動の中で、これらの雑誌がどのような意味を
持っていたかを考察することによって、この大きな転換期が訪れる過程をさ
らに詳細に検討することが必要であろう。この点については稿を改めて論じ
たい。
使用テクスト:
SIC, Jean-Michel Place, 1993.(本文中のページ数はこの版による)
NORD-SUD, Jean-Michel Place, 1980.(本文中のページ数はこの版による)
Œuvres complètes de Guillaume Apollinaire IV, André Balland et Jacques Lecat, 1966.
(ŒC IV)
Picasso-Apollinaire Correspondance, Gallimard, 1992. (PA)
注
1.
Marie-Louise Lentengre Pierre Albert-Birot L'invention de soi, Jean-Michel Place,
1993.
2.
このことは 1916 年 8 月 27 日付アンドレ・ブルトン宛ての手紙で触れられて
いる。ŒC IV, p.877.
3.
鼓宗は、チリの詩人ウイドブロがフランス語で初めて詩を発表した雑誌であ
ることを考慮し、この誌名が「北と南、すなわちヨーロッパと南アメリカと
いう二つの大陸の移民と文化交流を象徴するものであった」と指摘している。
鼓宗「サンティアゴからパリへ─ 1917 年の詩作におけるビセンテ・ウイド
ブロのフランス語使用」『外国語教育研究』第 3 号(関西大学外国語教育研
究機構),2010, pp.68-69.
4.
エティエンヌ=アラン・ユベールによると、校正刷り段階では、ルヴェルディ
の文学批評 «Sur le cubisme» が最初の記事になっていたが、決定稿ではアポ
リネールに対する信頼を述べたこの宣言に変更された。それと同時に、デル
メの文学批評 «Quand le Symbolisme fut mort...» がこの宣言のあとに配置され
たということである。Etienne-Alain Hubert «Note» in Pierre Reverdy Nord-Sud
Self defence et autres écrits sur l'art et la poésie 1917-1926, Flammarion, 1975,
p.239. また、草稿の発見によって、この記事はアポリネール自身が執筆した
ものであることがわかっている。
5.
アポリネールと映画については、拙論『アポリネールにおける「エスプリ・
ヌーヴォー」の総合的研究 ―― 散文作品の新しい位置 ――』、博士論文(関
西学院大学),1998, pp.95-141 を参照。
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雑誌『シック』と『ノール・シュッド』に見られるベル・エポック期以後のアポリネールの位置
6.
このことは 1918 年 1 月あるいは 2 月初旬に、病院からアポリネールがルヴェ
ルディに宛てた手紙からわかる。ŒC IV, p.892.
7.
J.Burgos et al, Apollinaire en 1918, Méridiens Klincksieck, 1988.
M.Décaudin et al, 1918 et Apollinaire, L'Harmattan, 1999.
8.
[Damgan 13 août 1918] Je fais une série d'Odes que tu illusteras si tu veux bien
et que nous vendrons nous-mêmes. (PA, p.174)
J'essaye de renouveler le ton poétique mais dans le rythme classique. (…)
D'autre part, je ne veux pas non plus revenir en arrière et faire du pastiche. (PA,
p.181)
The Position of Guillaume Apollinaire after the
Belle Epoque : From the Viewpoint of SIC and
Nord-SUD
Akira Ise
Key words: avant-garde, Apollinaire, Belle Epoque
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