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紫式部とその周辺 家系と生い立ち 紫式部は藤原為時 の娘である。その
紫式部とその周辺 家系と生い立ち ふじわらためとき 紫式部は藤原為時の娘である。その家系は父方も母方も閑院1左 ふゆつぐ 大臣藤原冬嗣の流れであるが、名門としての家格は曾祖父のあたり までで、祖父の代からは国司を歴任して四、五位程度にとどまった ずりょう つつみちゅうなごんけんすけ 受領階級であった。ただ曾祖父の 堤 中納言兼輔2が、三十六歌仙3の 一人に数えられる有名歌人であったのをはじめ、一族に歌人として ちすじ 知られる人が多いことは、文芸的な血筋の面で留意すべきである。 1 閑院内裏(かんいんだいり)は,平安京二条にあった邸宅で,藤原 かんが 冬嗣(795~826)によって創建された。庭内に泉が湧き,その閑雅な ふぜい 風情から「閑院」と名付けたと考えられる。平安時代前半は,藤原氏 しらかわ ほりかわ の邸宅として用いられ,後半は白河上皇・堀河天皇・高倉天皇・ つちみかど さとだいり しょうげん 土御門天皇等の里内裏であった。鎌倉初期まで存続し, 正 元 2(1259)年の火災後,再建されることはなかった。京都のいしぶみデ ータベース(2003-2004) http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/ishibumi/html/na006.html 堤中納言兼輔集。平安中期 成立。三十六歌仙の一人、藤原兼輔の歌集。この本は、紀貫之の筆 といわれる平安朝古筆の名品で、春・夏・秋・冬の四季と、恋の部 に、合計 71 首を収めている。 3 和歌に優れた人。 2 もんじょうしょう かざん 父の為時は 文 章 生 4出身の文人であり、花山天皇(968-1008) み よ しきぶじょうくろうど の御代には式部丞蔵人を勤めたこともあったが、一条朝には長い散 くにもり 位5生活の後、越前・越後などの国守を歴任した。式部の母は藤原 ためのぶ 為信の娘で、式部の幼いころに亡くなった。兄弟には同腹に早世し のぶのり のぶみち じょうせん た姉と弟の惟規、それに異腹の弟の惟通・ ,定暹と他にも妹が いたらしい。 式部の生年は明らかでないが、ほぼ天禄元年(970)〜天延元年 (973)ごろと考えられる。幼くして生母に死別した式部は、少女 期を継母とともに過ごしたと思われる。この継母については語ると ころがないが、学者肌の真面目な夫に従った目立たない妻であった のぶのり ろう。文章生出身の父は、長男の惟規を後継に育てあげるべく幼時 から学問を仕込んだ。質朴な生活態度が式部の家の家風であり、地 つちか 味で内省的な式部の性格も多くはこの家風に 培 われたものと思わ れる。また惟規よりも利発な式部を父が残念がったという逸話は、 そうめい もちろん少女時代の式部の聡明さを伝えるものではあるが、それ以 かんか 上に看過できないのは、学者の父がいつも式部を男と対等もしくは それ以上に評価していたということである。それは式部の知的な面 じょうせい での自信を過剰なまでに 醸 成 したと思われるが、その性格は後年 の宮仕え生活における対男性意識や知的女房に対する批判精神にも 連なるものであろう。 ぎ 4 律令制で、大学寮で詩文・歴史を学ぶ学生。平安時代になると、擬 もんじょうのしょう りょう し 文 章 生 (大学寮で行われる 寮 試に合格した者)を経て、式部省 とくごうしょう の文章生試に合格した者。このうち二名が選ばれて文章得 業 生 (大学の学生で所定の試験に合格した者)となり、秀才・文章博士 となる。 5 律令制で、位階のみあって、それに相当する官職に就いていない もの。 越前への旅 こえじ こくふ 父の越前守赴任に伴われての越路の旅と、越前の国府での一年余 りの生活は、成人した式部にとってまたとない貴重な経験であった うちき と思われる。ことにこの北国行きは、地味な環境に育った内気な式 部にとっては、おそらく初めての大旅行であっただけに、おおいに けんぶん 見聞を広めたことであろう。その体験が直接間接に後の物語創作に 活かされたであろうことも想像にかたくない。 結婚生活 のぶたか ちょうほう 式部が藤原宣孝と結婚したのは 長 保 元年(999)、式部が 27 歳、宣孝が 47 歳のころと推定されている。この結婚を式部の初婚 とすると、当時の風としてはきわめて遅いので、これ以前に結婚の 経験があったとみるのが妥当であろう。 少女期の式部には明るく勝気な性格もうかがわれるが、それが日 記に見られるような宮仕え嫌悪感や憂鬱な気分を生ずるようになる のは、初度の出仕前後の経験のあまり好ましくない印象によるもの ではないかと思われる。 びんご すおう やましろ ちくぜん びっちゅう 宣孝は備後・周防・山城・筑前・ 備 中 などの国司を歴任してお り、官吏として有能であったらしい。『宣孝記』という記録を記し たんのう ていたというから実務に堪能で故実にも明るく、学問教養もまずま ずであったろう。結婚当時にはすでに三、四人の妻があり、子供も 儲けていた。 けんし 宣孝との結婚の翌年、二人の間には一女賢子が生まれた。この娘 えちごのべん じょうとうもんいん ごれいぜい は後に越後弁という女房名で上 東 門 院 に出仕し、後冷泉天皇の 6 う ば だ ざ い の だ い に たかしなのなりあき だいにのさんみ 乳母になり、大宰大弐 高 階 成 章 に嫁して大弐三位と呼ばれた。 まなむすめ 愛 娘 の誕生したこのころが式部にとってもっとも幸福な時期であ つか ま ったと思われる。しかしその幸福も束の間、長保三年(1001)四月 しょうし 6 平安中期の皇后。藤原道長の長女。名は彰子。 二十五日、宣孝は病没し、結婚後わずか三年で式部は一女を抱えて か ふ 寡婦となってしまった。 宮仕え 父の為時は長保 3 年越前守の任果てて帰京し、このころは文人とし やしき ふじわら のみちなが つ ち み か ど てい て貴顕の 邸 に出入りしていた。やがて藤 原 道 長 の土御門邸にも招 ていし かれるようになり、娘の出仕を要請されたらしい。かつて定子中宮 ちゅうぐうの だ い ぶ さいえん 時代に 中 宮 大夫を勤めたことのある道長は、才媛のきしろう中宮 しょうし サロンを目の当たりに見て、わが娘彰子の後宮をそれ以上に彩るべ く、このころ積極的に優秀な女房を集めていたと思われる。式部の 文名はそうした道長の早くから知るところであったろうし、道長室 りんし の倫子が式部とはいささか血縁に当たることもあって、出仕の勧誘 しつよう は執拗であったろう。これに対して式部は生来の内気と過去の経験 から宮仕えには消極的であったと思われるが、相手が時の権勢家で しょうだく はあるし、父の官途を思い自らの境遇を顧みて出仕を 承 諾 した。 どうけい 文藻豊かな中宮サロンへのひそかな憧憬もあったかもしれない。こ うして初めて中宮彰子の許へ出たのが、寛弘 2 年(1005)12 月 29 日であった。 式部の宮仕えは、はじめの2年ばかりは里がちであまり精勤では なかったらしいが、これは主人側も許していたことであろう。そし てこの期間こそ、道長や倫子の庇護のもとに『源氏物語』を長編物 語として着々と書き進めていたと思われる。長編物語の執筆という 営みが、強い読者意識と強力な庇護を必要とするものであることを 思うと、『源氏物語』の形成に際しても必ずやそれらの条件は存在 パ ト ロ ン したはずである。それは道長を庇護者とし、彰子中宮サロンないし つ ち み か ど てい 土御門邸サロンの女房たちを初めの読者としたものであったと考え られる。 やくがら 式部の宮仕え生活における役柄ははっきりしたものではなく、中宮 付きの世話係りという程度のものであったらしい。中宮の希望で白 が ふ 楽天7の「楽府」8を進講したこともあったが、家庭教師というよう しょくしょう な特別な 職 掌 ではなさそうである。したがって公的な行事の際に も歴とした役はなく、里下りも比較的自由であった。このような待 遇は、おそらく夫の死没以前に世に出された『源氏物語』の原初の 数巻によって、ある程度の文才を認められていたからであろう。宮 仕え当初中宮や他の女房から、自信ありげでとりすましていて親し みにくい人だと見られたのも、式部の消極的内省的性格に加えて、 こうした文才についての前評判が災いしたと考えられる。しかし日 記に記された式部の宮仕えぶりを見ると、消極的ではあるが人嫌い ほうばい ではなく、気心の知れた朋輩とは結構楽しく付き合っている。また 中宮や道長や倫子からも特別に扱われていたようであり、そのお蔭 かんだちめ じょうろう もあってか、上達部 や 上 臈 10女房たちも決して疎略には扱ってい ない。これは式部の文才や人柄が周囲に認められてきたからであ り、自らもそれに自信を得た結果であろう。 9 晩年 式部の晩年については明らかでないが、一条天皇崩御後皇太后宮11 かんにん となった彰子に引き続き仕えており、寛仁三年(1019)ごろまでの 生存が確認されている。そのころ没したとすれば、享年は四十代後 半であろうか。 中国,唐の代表的文学者。家は貧しかったが勉学にはげみ, 803 年に任官した。詩人としての名声を得た。官吏の職にあったが、高 7 みとも 級官僚の権力闘争にいや気がさし、晩年は詩と酒と琴を三友とする 生活を送った。その詩は平易明快で、広く民衆に愛され、日本にも 早くから伝わって、平安朝文学などに大きな影響を与えた。社会や ふはい 政治の腐敗を批判した社会詩もある ぶ てい 漢詩の一体。武帝 の時に設置された音楽をつかさどる役所で採 集・制作された民謡・歌曲、およびそれにならって作られた古体詩 の一体。 9 三位以上の人 10 身分の高い女官 11 先代の天皇のきさき。天皇の母で、皇后であった人。 8 読者と擬作 『源氏物語』は、はじめは作者が仕えた彰子中宮に献上されたと 考えられるが、すぐに側近の女房たちを介して宮中に広まり、かな り好評であったらしい。『紫式部日記』によれば、男性の一条帝や きんとう 藤原道長や藤原公任までが読んでいたことが知られる。 当時の物語の享受の仕方には、幼少の者や高貴な姫君などは、侍 女が読み上げる物語を聞きながら物語絵を見て楽しむ方法があった。 すがわらたかすえ しかし、一般女性は、菅原孝標の娘のように一人で読みふけったこ とであろう。熱心な読者は物語を書写することもあったと思われる。 また物語に没入するあまりその内容に不満足な読者は、自分でこれ に手を加えたりする場合もあったと思われる。『源氏物語』にも、 巻名のみ伝わる「雲隠」を補作した『雲隠六帖』や「宇治十帖」の 後を書き継いだ『山路の露』などの擬作が作られており、古くは すもり さくらひと さむしろ 「 巣 守」「 桜 人 」「狭蓆」等の巻々が存在したことも知られてい る。また近世においても本居宣長が光源氏と六条御息所の出会いを たまくら 補作して「手枕」一巻を著わしている。 『源氏物語』の伝説 『源氏物語』の執筆に関する伝説は、早くも平安末期の成立とされ むみょう ぞ う し ている『古本説話集』や鎌倉初期の『無名草子』に見えている。そ だいさいいん せ ん し じょうとうもんいんしょうし れによれば、大斎院選子内親王から上 東 門 院 彰子に何か面白い物 語はないかとたずねて来られたので、彰子の命により紫式部が新し く『源氏物語』を作って進上したとしている。真偽のほどは明らか でないが、当時大斎院サロンも風雅な文学的温床であったことを考 慮に入れると、『源氏物語』との関わりはまことに興味深い。 かかいしょう また、南北朝時代成立の古注書『河海抄』には、これに続いて、 紫式部が物語執筆のために石山寺に参籠し、折から湖上に冴えわた る月を見て物語の想たちまち浮かび、須磨・明石の巻から書き始め たという、いわゆる石山伝説を伝えている。『源氏物語』の声望が あがるほど、それが仏の加護によらなければとうてい書きえないと する一般の見方から生じた伝説であろう。 きょうげん き ご さらに、紫式部は 狂 言 綺語(たわぶれの飾りたてたことば)の物 お 語を作ったために地獄へ堕ちたとする伝説も古くからあった。院政 くげん げ ん じ いっぴんきょう 期にはその紫式部を地獄の苦患から救うために『源氏一品 経 』12が げんじくよう 作られている。なおこの伝説を基として、後に能の『源氏供養』が 作られている。 本文 る ふ でんぱ 『源氏物語』の本文は、転写による流布伝播の過程において必然 的に誤写や改変などが加わって異文が発生する。そこでもとの本文 きょうごうこうてい を求めていくつかの写本を比較検討する 校 合 校訂の必要性が生じ てくる。 みなもとのみつゆき ちかゆき 鎌倉時代の初期、 源 光行・親行父子は、その当時伝存してい た二十一種の『源氏物語』の写本を校合して本文を整定した。この かわちぼん 校訂本は、この父子が河内守であったことから河内本と呼ばれてい る。 ていか また同じ頃、藤原定家も校訂本を作ったが、これは表紙の色によ あおびょうしぼん って青表紙本と呼ばれた。この青表紙本は、室町時代以後定家崇拝 の風潮から歌人・歌学者・書家などに尊重され、それまで盛行して いた河内本にかわって、以後の『源氏物語』の本文の主流を占める ようになった。現代の活字本が依拠している本文も、ほとんどがこ の青表紙本系統である。 以上の二系統の本文のほかに、そのいずれにも属さない本文の系 統があり、これらは一括して別本と呼ばれている。この別本系統の 本文は大部分がさきの二系統の本文の混態であるが、中には光行父 子や定家が校訂しない以前の古い形態をそのまま伝えていると思わ れるものもあり、今後の本文研究の上で注目されている。 現代語訳 安居院澄憲(あんごいんちょうけん)(1203 歿)という坊さんの書いた 源氏供養の願文。 12 現代における『源氏物語』は当然のことながら現代語訳によって く ぼ た うつ ぼ 読まれることが多い。とりわけ与謝野晶子・谷崎潤一郎・窪田空穂 13 の訳は、『源氏物語』を身近な国民文学として一般に広め大きな 功があった。その力は現在でもなお失われていない。また近年では えん ち ふ み こ せ と う ち じゃくちょう 円地文子・瀬戸内 寂 聴 など、とくに女性の手による『源氏物語』 訳が好評を得ている。 13 (1877-1967) 歌人・国文学者。長野県生まれ。早大教授。万葉・ 古今・新古今の評釈などにも業績を残す。