Comments
Description
Transcript
柏飛行場と豊四季(抜粋版) - 手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会
平和の礎 柏飛行場と豊四季(抜粋版) 2014.1.26 (C) 手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会 1 目次 1.プロローグ 十五年戦争当時の日本 2.「首都防衛」の柏飛行場と遺構 3.柏飛行場の戦隊と周辺部隊 4.柏飛行場の玄関だった豊四季 5.ロケット戦闘機「秋水」に関して http://hdl.handle.net/10212/1211 2 2.「首都防衛」の柏飛行場と遺構 柏陸軍飛行場を中心に 各地に戦争遺跡あり 秋水地下燃料庫 高射砲連隊 陸軍病院 日立軍需工場 藤ヶ谷陸軍飛行場 等 3 軍と地元の思惑で飛行場誘致 昭和8年(1933)年関東防空大演習、昭和12年(1937)防空法成立 防空体制づくりを急ぐ軍当局と「土地発展のため」誘致を望む地元の 村の思惑が一致 昭和12年(1937年)6月26日、近衛師団経理部が、新飛行場を東葛飾 郡田中村十余二に開設することを決定、地元でも誘致の動きがあり、 田中村の松丸厳村長が斡旋するなどして、約183町歩*(約182ha)とい う用地買収は同年中に終了*うち鍋島侯の土地70町歩、吉田甚左衛門の土地50町歩 「軍事当局では昨年完成した松戸飛行場(グライダー練習場)が出水の際は 使用出来ず、この付近に飛行場新設すべく過般来松戸、柏付近を中心に候 補地物色、東葛飾郡下全円に亘って実地調査、現地偵察をした結果、県道 柏、流山線と柏運河野田線にはさまれた山林地帯が交通、気象的に見て最 もよい候補地だと折紙づきになり(略)土地買収につき田中松丸、八木吉野 両村長に斡旋方依頼したが、両村地主連も土地発展のため大衆気とて近く 実現するものとみられている」(昭和12年(1937)6月30日 「東京日日新聞」) 4 「首都防衛」の柏陸軍飛行場 陸軍東部第105部隊 第3飛行場大隊と各飛行戦隊とで構成 柏陸軍飛行場は、調布、成増、松戸、印旛などと同様、 首都東京と京浜工業地帯を防衛するための拠点 戦後米軍に接収され、トムリンソン 通信基地 →1979年全面返還 誘導路から分岐する 小道の先に掩体壕 射朶 「首都圏における飛行場と都市計画」『土木史研究 22号』 日高直俊、手塚慶太、福井恒明、篠原修、天野光一・著 (2002) より 5 柏陸軍飛行場の概要(1/3) ・地元の誘致もあり、昭和13年(1938)に着工、開設 項目 面積 滑走路 内容 開設当初面積約145万平米、戦後米軍 返還の敷地面積は約188万平米 現状 官庁、大学敷地、住宅地等 約1,500m、コンクリート舗装のもの1本 現存せず(柏の葉公園脇の道 あり。→後に2,000 mに延長 路は滑走路ではない)。 誘導路 東、西、北に飛行場周辺に存在。 東誘導路が現存。 掩体壕 誘導路沿いに無蓋掩体壕が多数あり。 東誘導路沿いに6基確認。 建物(付属施 本部、兵舎、医務室、将校集会所、航 一部現存(営門、航空廠分廠本 設を含む) 空廠分廠本部、工場、倉庫ほか 部、工場の一部、ガス庫等) 6 柏陸軍飛行場の概要 (2/3) 内容 ・昭和13年(1938)に開設 項目 現状 壕等 文書からは間口2m×深さ2m×長さ2 0mのもの等あったことが分かっている 現在の有無、場所不明 (地下格納庫か)。防空壕も多数あった。 格納庫 飛行場南西にあった。付近に試射場も。 戦後1基は米軍使用→消失 待避壕、防空 航空観測所 高射砲陣地 その他関連施 設等 現・流山市駒木台にあり、常時30名の 現在、建物はなく、敷地には 観測員で観測。 公共施設がたっている。 豊住、塚崎新田、若柴などに高射砲陣 地あり。改造高射機関砲なども使用。 現存せず。 飛行場南側に第四航空教育隊(東部百 東部百二部隊の営門は残 二部隊)。秋水の地下燃料格納庫は花 存。秋水の地下燃料格納庫 野井、大室、十余二に造成。 は花野井に残存。 7 柏陸軍飛行場の概要 (3/3) 昭和13年(1938)11月、陸軍飛行第5戦隊が立川から移転 当時の戦隊長:近藤兼利大佐、保有機:当初九五式戦闘機、九七式戦闘機 →昭和17年(1942)3月より、二式複座戦闘機(二式複戦)「屠龍」 昭和18年(1943) ジャワへ移動、その後は飛行第1戦隊、第18戦隊、第70戦隊が柏へ 柏飛行場は、松戸、成増、調布等と共に、昭和19年(1944)末 以降激しくなった米軍の空襲に対する、防空戦闘の基地 → 「首都防衛」の飛行場 <終戦時の柏飛行場の組織> 陸軍航空総軍 司令官:河辺正三大将 第1航空軍 安田武雄中将 第10飛行師団(天翔師団) 近藤兼利中将 立川陸軍航空廠 飛行第70戦隊 第3飛行場大隊 柏分廠 坂戸篤行少佐 堤袈裟市少佐 田邊収四郎大佐 他に航空審査部特兵部特兵隊(荒蒔義次少佐)が秋水の実験 8 3.柏飛行場の戦隊と周辺部隊 実施部隊 支援部隊 柏 飛 飛行戦隊 飛行場大隊 行 (飛行第五戦隊、 (飛行場第三大隊等) 場 飛行第一戦隊、 飛行第十八戦隊、 ( 東 飛行第七〇戦隊等) 部 ‐戦隊は戦闘部隊であり、 ‐飛行場大隊は、飛行場 柏の場合は戦闘機部隊 百 ‐戦隊は3個中隊の編成で の設営整備、燃料・弾薬 五 空中勤務者40人強の他、 補給、警備などを担当 部 整備隊(飛行機整備を担当) 3個班等を擁する 隊 人員は戦隊400人程度、飛行場大隊400人前後と歩兵部 ) 隊等と比べ少ない、飛行場内の兵舎に住む 第四航空教育隊(東部百二部隊) 航空廠 航空廠立川支廠 柏分廠 秋水関連 航空審査部 特兵隊 昭和20年(1945) 4月より柏へ ‐飛行機の修理、部品 の補給などを行った ‐航空審査部は 工場があり、技術関連 航空兵器の審査 の軍人、軍属他(120人 を行ったが、 以上)が勤務 特兵隊はロケット ‐戦隊、飛行場大隊の 戦闘機を担当 営門とは別の営門と ‐柏では法栄寺を 施設をもった 宿舎とし格納庫 を借りて活動 (東大木村秀政教授も) 航空兵を教育、養成する部隊、基礎教育後、機関、武装、通信、写真など各科訓練もあり、現役兵以外 に補充兵の比率が高い、ピーク時は10,000人程度 (営内に入りきらず、豊四季周辺に簡易な宿舎増設) 上記以外に飛行場周辺に観測所、照空部隊、高射砲陣地などあり 9 柏飛行場駐在の戦隊 飛行第5戦隊:1938年11月29日~1943年7月、ジャワへ 飛行第87戦隊: 1943年7月~1943年12月、スマトラへ 飛行第1戦隊:1943年11月~1944年10月、フィリピンへ 飛行第18戦隊:1944年10月~1945年6月、松戸へ 保有機種:一式戦「隼」 → 四式戦「疾風」に変更 戦隊長ら主力は1944年11月、米軍レイテ上陸直後のフィリピンへ 残置隊は三式戦「飛燕」から五式戦へ機種変更、最後迄防空に従事 飛行第70戦隊:1944年2月~7月松戸、8月~旧満州鞍山で 防空、1944年11月~終戦まで柏 二式単戦「鐘馗」 → 四式戦「疾風」に変更 戦隊長(坂戸篤行少佐)は18戦隊残置隊も指揮下においた 10 飛行第一戦隊の概略 第一次世界大戦後の大正4年(1915)編成の航空大隊が元、後に飛行第一連隊 昭和13年(1938)7月、飛行第一連隊は実戦部隊と支援部隊の空地分離→戦闘2個 中隊よりなる飛行第一戦隊誕生 昭和14年(1939)5月ノモンハン事件に動員下命(大きな損害を受ける) 昭和16年(1941)11月より南方進攻作戦に伴い、シンガポール、ラバウルに進出、昭 和18年(1943)9月に内地帰還、大阪大正飛行場に駐留、隼Ⅰ型→Ⅱ型機種改編 同年11月には一時旧満州ジャムスに移動後、すぐに首都防衛のため柏飛行場へ、 昭和19年(1944)10月まで柏に駐屯 昭和19年(1944)4月に保有機を一式戦闘機隼から四式戦闘機の疾風に変更、また 九州の雁の巣飛行場で一時防空待機 昭和19年(1944)10月8日、捷号作戦により、フィリピンへ移動、レイテ攻撃戦の中で 戦力を急速に失い、戦隊長松村俊輔少佐が10月28日払暁出動時の離陸事故でなく なり、各中隊長の多くも戦死、10月末には壊滅に近い状態(可動機4機) 11月以降も歴代の戦隊長ら幹部が次々と戦死、翌昭和20年(1945)3月には生き残 った空中勤務者と一部地上勤務者が内地帰還、高萩飛行場(埼玉県)で終戦 多くの地上勤務者はフィリピンに残留、大多数が戦死、21名が戦後復員。 11 飛行第一戦隊元隊員への聞取り ① 平成24年(2012)10月6日 市川真間にて座談会形式により聞取り実施 陸軍飛行第一戦隊整備隊元大尉(陸士56期)、元機関工手(幹候)各1名、東部83部隊1名、その他部隊3名 <柏飛行場へ来るまでと柏飛行場での部隊の様子> 飛行第一戦隊は、昭和18年(1943)9月にラバウルから内地帰還、大阪の大正飛行場 を経由して11月に満州ジャムスへ 昭和18年(1943)11月25日満州から柏へ移動(柏駐屯中に九州雁の巣飛行場にも) 戦隊全体の人員は500名未満、飛行機は40機ほどでパイロットもほぼ同じ人数 戦隊の構成:戦隊長―飛行隊長(中隊長)、整備隊長―整備班長(尉官3名) 大変だった一式戦隼から四式戦疾風への機種改編(星型エンジン、油漏れ・故障多く) 機関工手でありながら四式戦疾風に乗せてもらった体験(上官である杉少尉に言われて 操縦士の後ろに乗せてもらう、柏飛行場上空から見た風景) 柏飛行場での大石少尉の殉職事故* 柏飛行場では営内の兵舎で起居、外出時は豊四季駅 経由で野田へ遊びに *昭和18年(1943)12月26日、大石四郎少尉(陸士56期)は薄暮飛行の 訓練で墜落、殉職(墜落現場は現在の柏市大青田の民家) 12 飛行第一戦隊元隊員への聞取り ② <フィリピン戦線で> 昭和19年(1944)10月8日、捷号作戦により移動、百式重爆撃機「呑龍」に3名ずつ乗 せられ、フィリピンへ (途中一機は鋸山に激突、高田中尉ら5,6名なくなる) フィリピンでは、クラークフィールド(ルソン島マニラの北西約60km:1942年米空軍基 地を日本軍が占領した)からリパ、マナプラに展開 昭和19年(1944)10月24日のレイテ攻撃戦後、約半月で航空戦力ほぼ壊滅 昭和20年(1945)1月、600Km歩いてルソン島を北上、 ツゲガラオに集まった日本軍将兵約2千人のうち、67人のみ 内地帰還(飛行機で台湾経由で)、 臨時歩兵となった残留地上要員は殆ど戦死、21人が戦後復員 リパの将校集会所で聞いた、現地人を試し斬りした話 終戦時に終戦を伝達しに行った先の他部隊での処刑 帰還した飛行第一戦隊隊員(空中勤務者の生存者と一部地上要員)は埼玉県の高萩 飛行場で終戦 13 二式戦闘機 「屠龍」と「鐘馗」 柏飛行場に駐在した飛行第5戦隊の「屠龍」、飛行第70戦隊 の「鐘馗」は防空戦で活躍した二式戦闘機 *昭和15年(1940)=皇紀2600年が零、百 陸軍の戦闘機唯一の双発、20mm/37mm機関砲 最大605km/hと高速、上昇力に優れる 全幅 15m 二式複座 戦闘機 「屠龍」 全幅 9.45m 二式単座 戦闘機 「鐘馗」 夜戦用は斜銃を装備 14 震天制空隊 太平洋戦争末期(昭和20年初頭頃)に柏や松戸などの戦隊の上位組織、 第10飛行師団隷下の各飛行場で結成 →各戦隊4名で構成した特攻隊 B29のような高高度を飛ぶ敵機を容易に迎撃できず、高射砲も届かない ⇒ B29に対して、老朽化した戦闘機で体当りして落とす戦法 軽量化のため防弾板や機銃ときには無線まで外す人命軽視の愚策 帰らじと かねて思へば 梓弓 なき数に入る 名をとどむる 楠木正行 鏑矢を描いた屠龍 15 航空教育隊 陸軍東部第102部隊 正式には陸軍第4航空教育隊 昭和20年(1945年)の戦争末期に多くの兵を擁し、多いときには一万名も の兵員が南北600m、東西400mほど敷地で軍隊生活 特幹教育も実施 *陸軍特別幹部候補生 :航空、船舶等の分野で、 下士官の早期養成を目的に制度化 現状金属工業団地 ←かつて部隊本部、兵舎、格納庫などが存在 現在は公園に移された営門 (C) 森湖城 16 4.柏飛行場の玄関だった豊四季 豊四季駅は明治44年(1911)県営軽便鉄道野田線の駅として開設、後に 北総鉄道・総武鉄道、東武鉄道へ •豊四季駅と飛行場正門を結ぶ道路(県道 279号 豊四季停車場高田原線)は昭和10 年代から舗装 → 豊四季駅まで鉄道で物資を輸送、トラッ クに乗せ換えて飛行場へ運ぶ軍用道路 1 9 4 7 年 の 米 軍 撮 影 の 航 空 写 真 現在は公園に移された営門 102部隊の営門 (元の場所) 17 豊四季駅から飛行場まで •県道279号 豊四季停車場高田原線を豊四季駅からたどる 豊四季駅 豊四季駅北北東 約80mの交差点 陸軍境界標石(上記営門跡近く の県道沿い) 豊四季駅北北西 約700mの古民家 豊四季駅北北西約1.7km (TXが交差) 第四航空教育隊の営門跡付近 豊四季駅北北西約1.5km 柏飛行場の営門跡付近 18 豊四季駅北約2.4km 柏飛行場の遺構 営門、航空廠柏分廠の一部、ガス庫等 航空廠柏分廠本部 (最近消滅) 柏 分 廠 医 務 室 跡 営 門 ガス庫 資材庫と名札 掩体壕 秋水地下燃料庫 → 新たに東誘導路沿い6基を見つける 弾薬庫 → ヒューム管を組み合わせた簡単な構造 19 掩体壕とは 飛行機などを空襲に備えて、分散秘匿するための施設 ある程度の空爆、機銃掃射などに耐える(直撃には弱い) 有蓋(屋根がある)、無蓋(屋根がない)があり、柏は無蓋 木更津(有蓋) 松戸(有蓋) 印西(無蓋) 20 柏飛行場の掩体壕 当初、旧ゴルフ場跡を探索 人工的な土手が二つ存在するも、不明 誘導路からも離れている ⇒ 後で秋水地下燃料庫と判明 掩体壕 → 東誘導路沿い6基 掩体壕Aの土手 ゴルフ場跡の謎の土手 A C 掩体壕Cの土手を のぼる 上記掩体壕調査は 手賀の湖と台地の 歴史を考える会による 角張った馬蹄形 土手の内外は低い 21 柏飛行場の掩体壕の位置 以下の 場所に現存 掩体壕 誘導路(東から) 誘導路(西から) 上記場所確認は 手賀の湖と台地の 歴史を考える会による 22 5.ロケット戦闘機「秋水」に関して B29などの迎撃のため、局地戦闘に活躍できるロケット戦闘機を太平洋 戦争末期に、陸海軍共同で開発(ドイツのメッサーシュミットMe163がモデル) → エンジンは陸軍(松本)、機体は海軍(横須賀・追浜) 実務:三菱重工 陸軍は柏に秋水を配備することを想定、陸軍航空審査部特兵隊(秋水の 実験部隊) を柏飛行場に配置 特兵隊隊長:荒蒔義次少佐(法栄寺が隊の宿舎) 「特呂」エンジン 離陸後車輪を落とし、ソリで着陸 戦後接収を恐れ追浜に埋められた秋水を復元 (三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所) 23 柏にある秋水関連遺構 液体燃料の甲液は過酸化水素が金属をも溶かす強酸性のため、取り扱 いが難しい → 専用の置場所、容器(陶器、ガラス瓶)が必要 リスク分散のため、柏飛行場から離れた花野井等に地下燃料貯蔵庫造成 運搬はタンク車 燃料貯蔵庫の出入口 地表面に出たヒューム管 むき出しになった燃料貯蔵庫 (C) 森湖城 24 最近見つかった柏の秋水関連遺構 十余二の柏飛行場跡に隣接する場所(旧柏ゴルフ場跡)に小規模な秋水 の地下燃料貯蔵庫5基が発見される 台地の上にヒューム管(内径2m×厚0.15m×長さ2.5m)を8つ連結、 作業用スペースをL字形に接続し、覆土した簡単なもの 棚に薬液瓶を置いて格納 約20m 内径2m 約8m(作業用スペース) 上記調査は 手賀の湖と台地の 歴史を考える会による 燃料貯蔵庫の内部 燃料貯蔵庫の上(マウンド) 25 秋水燃料貯蔵庫(花野井)の分布 花野井、大室の台地端に分布 (地上露出のものは花野井交番裏) 26 秋水に国家予算の7%を傾注? 秋水の燃料開発費だけで70億円 ←戦争末期、国家予算の7%の計算 過酸化水素液体燃料の容器(呂号甕)に社業を集中した陶磁器メーカー 伊奈製陶(現:INAX)は昭和19年(1944)後半以降、社業の90%を呂号甕へ 常滑市民俗資料館に展示の呂号甕 呂号甕のある常滑市内の喫茶店 呂号甕はINAXからの払下げ品 27 参考文献など 『軍事史』 藤原彰 東洋経済新報社 (1961) 『昭和史』 遠山茂樹・今井清一・藤原彰 岩波新書 (1959) 『アジア・太平洋戦争』 吉田裕 岩波新書 (2007) 『戦時下のひとびと 東葛・戦争の記録』 東葛市民生協(1995) 『平和へのねがい(増補版)』 柏市教育委員会 (1988) 「『帝都』防衛からシロイ・エアーベース、そして自衛隊基地へ」 (『鎌ヶ谷市史研究』第19号) 栗田尚弥 鎌ヶ谷市教育委員会 (2005) 「東葛飾地方の航空隊と『帝都』防衛」 (『鎌ヶ谷市史研究』第23,24号) 栗田尚弥 鎌ヶ谷市教育委員会 (2010,2011) 「柏に残された地下壕の謎」小野英夫 川畑光明 /『柏市史』 『最終決戦兵器「秋水」設計者の回想』 牧野育雄 光人社 (2006) 『千葉県の戦争遺跡をあるく』 千葉歴史教育者協議会 (2004) 参考サイト 「海上自衛隊下総教育航空群」HP http://www.mod.go.jp/msdf/simohusa/ 「千葉県の戦争遺跡」HP http://www.shimousa.net/ 28