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東奥義塾陸上競技部08の思い出誌実行委員会

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東奥義塾陸上競技部08の思い出誌実行委員会
東奥義塾陸上競技部08の思い出誌実行委員会
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目
次
思い出誌発刊によせて
東奥義塾陸上競技部親睦会クラブ会長
大瀬
豊
. . . . . . . . . . . .1
今昔物語発刊によせて
東奥義塾陸上競技部親陵会クラブ特別顧問
菊池昭義
・・・・・・・・
2
思い出誌発刊実行員会代表として
東奥義塾陸上競技部親睦会クラブ副会長
陸上競技部での思い出及び監督・部長としての
良き思い出 菊池昭義 (昭和 31年就任)
芹川和栄
. . . . . . . . . .3
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
4
陸上競技部での思い出 石山金光
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 11
佐藤信一
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .13
陸上競技部での思い出 寺島柾広
. . . . . . . . . . .14
陸上競技部での思い出
陸上競技部での思い出 寺田
陸上競技部での思い出 笹
武
博隆
陸上競技部での思い出 増田友昭
陸上競技部での思い出 今井泰成
陸上競技部での思い出 村上
仁
東奥義塾陸上競技部栄光の1ページ
- ・・
-・・・・・・・
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・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・・ ・ ・
.. "16
18
. . . .. . . 20
22
23
25
第4 回全国高校駅伝大会初出場
石山金光青森県スポーツ賞受賞
東北大会で初の総合優勝成る
.. ... ...... . .. .... .. .... .. ... .. ... ... ...
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第9回青森一東京間駅伝大会に義塾から初出場
我が母校選手の成績表
.
写真でつづる思い出のーコマ
⑫思い出誌発刊協賛広告
@思い出誌発刊寄附者
29
51
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 55
東奥義塾陸上競技部親睦会クラブ名簿
59
60
東奥義塾陸上競技部思い出誌発刊によせて
昭和29年半中長距離
東奥義塾陸上競技部OB親睦会クラブ会長
大 瀬
豊
津軽野も一面雪化粧をする頃となると国際女子及び男子マラソンをはじめ、全国高校駅伝
等のテレビ観戦が楽しみであります。
何故かしら選手達の走る姿を見ると自分もまだ現役であるかの如く夢中になるのが不思議
です。
思えば束奥義塾を卒業して 50年以上になるのかと,思えば、つくづく自分の年を感ずるよう
になりました。このような時に大きな元気を与えてくれたのが束奥義塾陸上競技部で昔労を共
にしたOB会の集いでした。O.B会の集し、5年目にして今回の思い出誌を発刊できることは、
寺田君を中心とした同志の大いなる誇りと愛着によるものと深い感激と喜びを感じます。
私は昭和23年東奥義塾中学校入学、 29年同束奥義塾高等学校卒業(新制高校第6回
生)であります。
陸上競技へのきっかけは高校2年の時校内マラソン大会で2位となったことから、陸上部か
ら誘いを受けたことから始まります。
当時の義塾は、一年先輩の岸主税君が全国
高校スキー距離競技で優勝し、スキ一部の全盛
期を築こうとしていた次期で‘あった。同期には、
先輩の岸君に続けと長距離、リレ ーメンバーとし
てIU田直一、山田鉄郎、広島洋一、加)IIt佐之助
等々が競い合っていた。
高校3年生となり春の校内マラソンが始まろうと
していた時であります。陸上競技部新キャプテン
にとなった相馬猛君が来て、「スキー部の連中に
校内マラソンの優勝を渡すことは出来ない。大瀬
絶対勝ってくれ。京の陸上部入部はそのあとに
するから」と言われました。
それだけスキ一部とはライバル意識に燃えてい
たわけです。このように、良い意味でのスキ一部
との競い合いがあったからこそ全国高校駅伝に
も出場することにもなったし、スキー部もまた距離リレー等で、全国優勝するなど素晴らしい成果
を得ることが出来たと思います。
さて、せっかく県内予選で圧勝し全国高校駅伝大会の出場を果たしたものの、主力メンバ
1
ーである加川君等がスキ一部の日程で参加できず、念場しのぎに1年生の佐藤勝房、芹川|
和栄阿君をメンバーに組み出場したわけです。今思えば、それが災い転じて福となすが如く、
この両1年生がその後の義塾高校駅伝の活躍を担って行ったことに大きな誇りと喜びを感じ
ます。
勝つことの喜びも必要と思いますが、先輩から後耀へと受け継がれていく他校にはない義
塾の持つMかしらがある。自分には的確な言葉として言い表すことができないがこれを誇りに
思う。
このffpfかしらJを陸上競技部OB会に集う各自がそれぞ、れに感じ取っていることと思いま
す。
東奥義塾高校陸上競技部OB会の輸が大きく広がる中で、この「何かしらJの意味を確認し
ていきたいと思います。
最後にこの記念すべき思い出誌発刊目標に向け、実行委員会のメンバーが中心となり出来
るだけ多くのOBからの参画と、あらゆる面での貴重なる資料情報収集にご努力下さいました
ことを、心より敬意と感謝を申し上げます。
今後の東奥義塾高校陸上競技部OB親陵会がこれを機に益々楽しく続けられてし、くことと
共に母校陸上競技部の復活を節に願うものであります。
東奥義塾陸上競技部OB今昔物語発刊によせて
昭和25年半(短距離)
陸上競技部08顧問 菊 池 昭 義
この度、芹川和栄氏を実行委員長として、点奥義塾陸上競技部OB今昔物語「思い出誌」
を発刊することとなり、その昔(50年以上前)優勝を目指して、ともにグラウンドにて汗を流した
一人として大いなる期待と喜びに耐えない。
東北高校陸上競技大会の総合優勝、県下の高校総体、選手権大会の総合においては連
勝に継ぐ、連勝といった、無敵の時代も過去にあり、歴史のひとコマとしてまとめ保存するのも
有意義なことと思います。
各時代の大会参加から遠征、合宿等。 陸上競技部員として表話から裏話に至るまで忌怖な
く書いていただき、思い出として読ましていただくことを楽しみにしています。
このところ、成 績の出ない東奥義塾陸上競技部ですが、この発行を機に大いに奮起し、過
去の栄光を取り戻すよう、各自努力していただければ幸甚の至りです。
2
思い出誌発刊実行委員会代表として
昭和31年度辛中長距離
東奥義塾陸上競技部OB棋陀会クラブ(l�tJ会長芹川和栄
平成16 {I:度にこの会を発足いたしまして、 今年 (平成19年度)で第4回の会を重ねて
まいりました。 、 IL成 2 0年度には節目となる第 5 1ロl日の会となります。
このHlJ、 述い所からは札幌より石山金光OB、 神奈川以より佐IJ'i1,;-OB と参加して頂
き、 fT懐かしい活に-IEを咲かせながら楽しい親睦会を行なってきました。
戦後の附手11 30 年頃は、 スポーツも盛んであり、 詩型』といえばスキ一部、 野球部、 それ
に陀1:部と全|司的に名を轟かせてきたことは事実であります。
特に陸k部は、fJ日和30年から昭和37年頃までは、 日f森県選手4音大会総合7連覇、また、
白森県総合体育大会でも同じく7連勝と締ける成総と実制を残してきたことは各08の皆
様方もご/良知の通りであります。 この様な輝ける歴史の1ページを単なる語らいの場(親
陵会) のみならず、 昔のことであまり記憶に残っていないと思いますか、 何かしら形に残
るものを保存し、 今後のOB会の尚一層の楽しい品らいの場と、 今後の母校の後輩たちへ
継成していくべきと思い、 この度この思い出誌発刊計1白jを立てて参りました主旨でありま
す。
私たちもγ校卒業後50 年近くなり、 過去の良き思いIIiもなかなか思うように表現でき
ないl而が多々ありますが、 今回この思い出誌発刊に向け数多くのOß科位のご協力を賜り
多少なりとも記録化することができましたこと、 このj誌をおmり致しまして感謝申し上げ
る次第です。
今後この思いIB誌をもとに08会(親陸会)も尚ー府楽しい会になるよう勤めて参りた
いと与えております。
今後のOB�位の益々のご健勝を心よりお祈りいたします。
3
東奥義塾陸上競技部での思い出
及び監督・部長としての良き思い出
昭和 31年度より陸上競技部顧問
2005年4月10日(73歳)
菊池昭義
この度、母校思いの寺田武君から一言書くよう依頼され、一筆い
たしました。
不得意の文章7書きと、あの時代から50年、記憶もだいぶ薄れ思い出すままに書きましたの
で、書き忘れ、失礼も多いと思います。敬称略と併せ、お許しをお願いできれば幸甚です。
「天に変わりて不義を打つ、忠勇無双の我が兵はJ太平洋戦争の勃発が小学校4年の時、
終戦が東奥義塾中学2年、私の少年時代は戦争による軍国主義真つ只中の時代で、あった。
東奥義塾中学校の入学試験の口頭試問においても、玉砕とは?玉砕のあった島の名称
(アッツ島)、位問、指障者名( 山l崎大佐)、軍勢(2000)等の質問を受けたのを記憶する。
文、当時の東奥義塾塾長は浅田良逸塾長、陸軍中将及び男爵の肩書きを持つ軍人出身
で、キ リスト教ど、 ころか徹底した軍事教育に専念した教育者で、あった。先代塾長の笹森I1頃造
塾長の兄で、陸軍士官学校時代の優秀さを買われ、皇室系である浅間男爵家に婿入りした
と聞く。軍国主義時代だけに、 当地においては弘前第8師団長が最高の顔を持つが、同じ中
将でも男爵家であり、先輩中将の吾が塾長は二枚も三枚も上の顔を持つ。
当然、弘前市においても青森県においても第一人者であり、中央の軍事関係者や政界に
も顔がきく特別な存在で、あった。年に一度や二度はその関係の大物(今の閣僚級)を呼んだ
り、束北や北海道への出張を利用して学校に立ち帯らせて、全校生徒を前に時局講演会を
開催したものである。軍国調で「せにゃならんJf出会いの誉れを得んと、吾が心に誓うJなど当
時の塾長の訓示を思い起こすが、厳しい人柄で、はあった。しかし生徒には夢と希望を与えて
くださった尊敬して止まない塾一長で、あった。
全国挙げて軍事ー調一色の時代で、もあったので、この時代はクラブ、関係の数も少なく、剣道、
柔道、乗馬、スキー航空、射撃ぐらいで、あったと記憶する。
当時軍国少年そのもので将来軍人を夢見た私は射撃班に所属し、ひたすら軍事教練をセ
とする毎日を送っていた。行進、伺伺前進、突撃、銃の分解から組立、中学生にとって実物
三八銃は重くこたえたが、一発でも幣つこと、それが的に命中することを夢に見ての毎日であ
った。
陸上競技部の復活は昭和
21年、中学2年生の時である。そして、陸ヒ競技を始めたのは、
3年生の春からで、あった。軍事態勢が解かれ、塾長が浅間塾長の弟である笹森JI頃造塾長に
4
代わり、射撃班も廃部となり、一挙に民主主義、平和な時代となり、各種スポーツが広く行わ
れるようになった。
現代社会では陸上部と呼ぶが、私の入部した中学3年当時は「競技部Jと一般的に呼ばれ
た。入部当時の部の顧問名は定かでないが、大鰐から通勤しておられた神堪次郎先生が部
員の世話をしておられたと記憶する。
現在のトレーニング、とはいささか異なり、大会の半月前から部員が急きょ集まり練習を開始、
大会が終わるとしばらく練習を休み、部員もその数20名そこそこで、あったと思う。 練習場所は
学校から徒歩15分程の弘前公園グラウンド。公園の松と外堀に閉まれ、恵まれた環境に合っ
た。 入部して1、2年の問、大会前 1週間は、午後の授業は公欠、部員は特権として喜んで練
習に励む。勿論シ ーズンオフトレーニングなど行ったことはなかった。 地元弘前から円大で活
躍した成問清司さんが指導の手を差し伸べてはおられたが、各校とも大体こんな調子で大会
に参加しておったと思う。 当時の強豪校として、弘前工業、弘前高校、木造高校、青森高校
等あげられる。
吾がチームがシ ーズンオフトレーニング、や筋肉トレーニング‘を実施するようになったのは、
自分が高校2年、l 年先輩の相馬車治さんが日大に進学、当時日本陸上競技界の雄である
円大陸上競技部のトレーニングの一部始終を我々に指導して下さってからである。当時の日
本のトップランナーである細田選手と鬼山選手を自宅に呼び寄 せて、我々の強化に手を尽く
してくれた。 50年の様月を経た今日、改めて感謝の意を表する次第です。
ところで、私が小学校の頃、体型こそ大型で、はあったが、虚弱で気が弱く皆の後を追っか
けて行くのがやっと、運動会なんかも選手に選ばれることなく、走っても入賞さえで、きなかった。
何事も消極的で、友達づ、きあいさえろくlこできる子で、なかったと思う。 今考えてみるとそれもその
筈、温泉宿の一人兄、父母が商売に追われ忙しかったので、祖父祖母のもと思いつきり甘や
かされて幼児期を過ごしたのである
体作りは、小学校6年生から始まる。 担任の貴田健之助先生が健全な軍人になるためにと、
当時毎日のように行われた体育の授業で、徹底してランニングと跳び箱をとり入れ、体育の時
間の前半15分から20分皆が並んで駆け足をした。その後、跳び箱に挑戦、6段、7段と難易
度を加え、後は楽しいゲ←ムやらスポーツへと展開する。はじめは苦痛の時間で、あったが回
を重ねるうち、皆と共に楽しくできるようになったのを記憶する。
その他、陸と競技選手になる動機を回顧して、思い当たるものを列記すると以下のものと
言える。
1.束奥義塾には汽車通学、私の家から大鰐駅まで徒歩8分、朝寝坊のうえ大マクライの私
故、朝食が終わらなし、うちに通学列車の汽笛が長峰方向から聞こえるので、家から大鰐駅
まで毎朝ランニング、列車と競争、駆け込み乗車で今日も遅刻せず。
2. 雨降り以外は、毎朝校庭(現在、郷土館の図書館の位置)で朝礼体操を行う。結構長時
5
[111の集会なので、解散の時点で疲れるし喉の渇きがひどい 気織の高いflなんかは我慢
も限界aしかし、校庭にある水道の水飲み場は150メ ートル先で水道蛇口2本。解散と同時
に水道めぎして多くの生徒が一目散に走る。みるみる2本の長蛇のダIJができあがる。安IJの
前半の行はゅうゅう水を飲むことができるが、後ろに並んだJれま、次の授業に差し支えるの
で水を飲むことができなし、こともしばしば。
私は思いっきり怠って常時トップ到着し、蛇口に11をつけ思いっきり水を飲む。このことが
短距雌に対する白日を生み短距離選手を志す。
3. 私の親父の作用する杉林が近くにあり、その下人れのため、nll師、然n、反休みには招
集がかかる。I'lrhに休みに遊べる友人を見ては羨ましい[INりのMIIであった。汗だ 、くで山林
のII7 J伐、Jili鰍咋必死で作業するH々であった。体力とHt性が打ったのは、父が私に与えてく
れた試練に感謝する。
4.中学3iド生、昭和21年頃の各校の陸上競技部は大会1011lìíj頃から午後の授業は公
欠で純子?をする学校が多く、吾が校もそれに順ずる午後になるとグラウンドに出かける陸上
続技部nを凡て、勉強嫌いの私にとって地らない魅力であり、このことか故もJ車要な入部の動
機となった。
自分の将来を'tll人と決めていた軍国主義少年が、平和・ Iq rll J:技のスポーツの世界、陸
J:競技を,むしたのは、小学3年、終戦の翌年昭平n 2l {Iえであるt
:庁釘(111性)良太さん(死亡 束奥義塾教諭 杉沼良太先生)は吋時のキャフテン、以後何
かにつけごJ行時とお111:訴を頂き、義塾教員生前・を通して先生がお亡くなりになるまで親交は
統し、た杉?{I先生は私の 2年先輩の中学5年生で‘あったゆ100メートノレ、200メートル、リレー
で活肋!したが、特に北n本大会において100メートノレ優勝したことが思い出される 同級生に
鎌剖さんと斎牒さんの名も思い起こすが、この3人がこそeって向Ii範学校(現夜の弘前大学教
育学部)に合棉し、入学して教員になったことまで‘は知るが、その後の二人については不明で
ある 何れにしても先北部員は勤勉で学力優秀であったと思う。
1{ド先17tの4年�I:には次期キャプテンになった水lu�久・(砧『州久
)さんがし、て、5000メ
ートノレと1500メートノレ、駅伝に活躍、特に5000メートルが強く、科大会において常にトップ集
凶で疾走寸る安はスター並で、日大進学後、選ばれる人となったl、彼と11大進学を共にし陸
1:鋭J支部において頑張った相馬重治先生は800メートノレ、400メートルで活路Lた。卒業後
に弘前:k業向校の教諭となり、強い弘実陸上競技部を作りI:IY、多くの名選手を輩出した。
11大ι学時代から弘実時代に至るまで、自校のみにとどまらず広く設執の選手にも指導の手
を足しfrllベてくださり、本校陸上競技部の功労青である また、弟のノJ、猛、がの三人も義塾
に送ってくださり、ベ人それぞれが大活践をした彼の父十II.IJ,)伝太郎さんが台のスホーツ好き、
千年の自宅を介前に提供してくれ、数回にわたり合宿させて的いt-ことを思い出す 相馬一
6
家にmねて感謝の.むを去させていただきます
荘、の11寺のキャプテンは東海忠主さんで800メートノレ、 1500メートル、駅伝で活躍する。温
厚な人柄で後に小学校校長で定年退職する。
L手町のドン、梅林食堂の福 原美法さんはポ ーノレで活脱、各大会におけるタイトル数も数
多い。必阿外さん、福t克之さんは長距離、駅伝で活脱,� rli!1! 11報記苦をした杉見良作さん、
新王寺町の{百数年の住職で‘ある栗山弘長さんは私とメンバーを組む400メートノレ、800メートノレ
のリレーメンバーで各県下大会においては必ず上位人nしたものだ柏木農業高校で教鞭
をとられた小!日切民男先生は健在だろうか。 長距離、駅伝にて活附する。l年後世に工藤ね
ぶりさん(北海道ι住)、相馬重治先生の弟相馬)]さんがいて、400メートノレ、800メートノレが
強かった。八戸外さん(趨町の米穀庖)は小柄ではあったが100、200に活眼し私とりレーメン
ノくーを組んだ砲丸投げ、円盤投げで強かった金問さん 丸は催しくてノJ持ち、卒業後お会
いする機会がなかったがお元気だろうか。
2作後YItには今井藤衛門さんや鯵ヶ沢の時計盾の息子・さん等が{E絡するも、多くの後輩
のお名前については申し訳ないが今はもう記憶も詩れてしまった。
ùíll予は、tJij位される陸上競技大会の数は現花に比べて非常に少なかった。春側没の弘前
城公|姐グラウンドでの北日本陸上競技選手権、昭和122it;から始まった総合体育大会の陸上
続投、秋にfrわれる高校選手権大会、それに弘尚・弘L・尚業・品格の市内4校で戦う市内
四派1;投くらいである。国体予選や東北大会予選、大阪駅伝等各予選が実施されるようになっ
たのは昭和23年以降である。
故少ない大会ではあったが、それぞれ大会に向け凋棋や合前を行う胞設の作わない当
時のことで、合前では空いてる教室に机を並べて寝泊りし7んものだ。また校庭にテントを張り
4迎IlIJ削張ったり、校庭の隅にあった乗馬部の崎小J� (、'í 11年は2、3!.ifîのj.5を飼ってた)での
蜘・虻・蚊に悩まされながらの一週間。兵隊さんから払し、卜げの飯合で飯を炊き合宿したこと
も、今となっては少年時代の懐かしい思い出である。
イf.
砕の大会、北日本陸上競技選手権大会は桜l咲く弘前公IMIグラウンドにおいて華々し
く行われていた 弘前の学校は男女あげて全校応t変である。とにかく会場グラウンドのスタン
ド
杯に所狭しと応夜間が詰め掛け、羽織袴姿の応援問幹部が応援旅を仮りかざし、応援
歌の指仰をとる扇ー子を持-ってオールマン拍手が始まる 成紛が発表になり、自校の選手の
成絞が良かったものなら大歓声が沸き起こる� 6位以内で入れでもしたものならまるでスター
扱いである こんな経験の無い若い卒業生には一度でも良し、から経験させたいものである
おそらくそれぞれのレベルがもっともっと上がり、無敵のJ14央3良県陀上続技部がまだまだ続い
たであろう,
ところで、在、の義略H寺代の戦跡であるが、 100メートル、200メートノレ、-tooメートノレリレー、
800メートノレリレー、1600メートルリレーに出場・ゾレーは先litの1!�I�dにより;干;時上位入賞し
たが、制人柿11の100、200においては予選落ちを繰り返していた。決勝に残れるようになっ
たのは刈校2{,'以後である五所川原農林に木村長一郎、木iL-li--i佼に阿掛Jlと礎、弘前高校
7
に佐藤、弘前工業に小掘と強豪がひしめいており、勝ったと思ってゴーノレに入りきや胸一つ
足りずの繰り返し、この種目2{立に泣くこと数知れなかった。県大会において是非一つ位はタ
イトノレが欲しいと思い、 高校3年にな ってから始めたのが400メートノレで‘ある。 はたせるかな県
高校選手権の400メートノレで、夢にまで、見た優勝、後にも先にも県大会優勝はこれ一度きりで
ある。
義塾卒業以後、大学時代にはスキ ーに専念、東奥義盤に奉職したのは昭和31年で、あっ
た。陸上競技部長として久々に見る弘前公闘における松の緑はひときわ美しく感じられた。 前
任の部長である工藤保先生の時代に、佐藤勝房、芹川 和栄、菊池実、成田賢、加川準之助、
加藤隆、 白 戸徹郎、 斎藤晴夫さん等優秀な部員が活躍しており、県下無敵の部の基礎作り
がなされておったものと恩われるが、部の規律が確立し、トレーニング、メニューなど自主的に
立派なものが作成され、問題行動で、手間取らせる部員ことも全くなかった。
着任した時の3年生は、主将・として石山金光、マネージャー相馬寿、そして鈴木、藤田、佐
藤、兜森、高杉、兼問等の宥力選手を擁し、県下の高校大会では、この年から総体5連勝、
選手権大会6連勝と常勝義塾が続いた。 東北大会総合で、石山の投てきでの大量得点と80
0メートルリレーの得点、で総合優勝したのもこの年であり、福島のトラックで皆と共に最高の感
激に感涙したのも50年前の思い出である。
相馬重治先生が率いる弘前実業高校がライバ ノレ校であった。以後総合得点争いで、短距
離とフィールドに得点の多い本塾と、 中、長距離に有力選手を持つ弘前実業高校とは織烈な
章品、合いが続く。
三ヒ 和倶、成田留雄、笹博降、博光雄、工藤寅三、藤田昌、佐藤博、寺悶武、尾崎行雄、
蒔箭亮一、外l崎俊一、栗田政紀、船水賢司、増田友昭
、長尾博行、 寺島柾広、問中栄、葛
西丈{言、藤本清栄、工藤勝夫等連覇に向け活躍、貢献した中心人物を思い起こす。
私が担当してから弘前実業には勝つことがで、きなかった駅伝競走で、はあるが、私が大学時
代の昭和28年、佐藤勝房、大瀬堂、白戸徹郎、芹沢 和栄のメンバーで、全国高校大阪駅伝に
出場している。 是非この覇権もとりたいものと、大館館駅伝や青森館駅伝で自転車に乗り伴
走したのも、今では楽しい思い出である。しかし、ローカル駅伝で、はあったが陸奥新報社主催
の岩木山一周駅伝において、ただ一度弘前実業高校を下し優勝を果たした。このレースは
先行逃げ切りの選手配置をし、この作戦が功を奏した。 l 区 にエースの寺田武を配し、百沢
~獄間の2区はスキ一部から今井進選手を借りてきて、この間で弘前実業を5分引き離した。
それを受け花田満考、寺島柾広、工藤勝夫、葛西丈(言とそれぞれが快定を続け、継いでアン
カー“ ズノレスケ"回津(死亡)の待つ高杉中継所に1分の差をつけて引き継いだが、追い上げ
る弘前実業に代官町で並ばれ上手町を{井走、今回もまたまた駄円かと思いきや、一番町を
登りつめた時点、で、猛然とラストスパート。追いすがる実業に15メートノレの差をつけ優勝。 大い
なる感動を味わう。後にも先にも駅伝の優勝はこれだけで、あったが、猛練習の結果がもたらす
「成せば成るJを痛感する。
弘実の部長の相馬重治先生は、義塾陸上競技部の先輩である。私の在任中はライバノレ校
8
として総合優勝をかけてしのぎを削ったが、2、3 点の小濯で義塾が勝ち続けf二なのに、私を
始め本塾選手の・人 ・人を心から可愛がってくれ、トレ ーニング法や料利1!而のアドバイス、
或いは技術面での気の付かない所を事細かに指将してくださった。先生のおかげで強い選
手が育ち、連勝を伸ばすことができたこと、遅くなりましたが深く感謝の芯を去します。ありがと
うございました。
しかし、私は10iFIIIl務めた陸k競技部長を去ることになりました。学校'JÇWから 当時スキ
一部と野球部を率いていた山田政美先生が、生徒指導部の部長に着任することになり、スキ
一部長を退任せざるを科なく なったのです.後任は布、にとの学校方針がぷされ、スキー部は
全|司制覇を向指しており、ノJ市不足の私にはr,l,il11iの肢任は無理と判断、i唱IJJ���彦先生に降
七競技部長をタッチしました
陸上競技部顧問としての10年間、私にとっては後輩の皆様と共に歩むことができた、限り
なく楽しい日々の述絞でした4放課後のひと時、l館協械のグラウンドで凶にタHの沈むのを
眺めながらのトレーニングの日々。汗臭くも有l気綿々で規律のあった合宿。(.':ì知や仙台、福
島、東京と大会迷flEの数々 楽しかった思いIHとしていつまで‘も忘れることができません。
それと共に当時の体ft部長、今は亡き佐ù1H忠男先情。 義塾 に奉職して1111もない占二才の
私を実の子のようにl耐倒を凡てくれ、陸上競技部発肢のためご指導を賜りました。
また、富田町の眼科医で義勢時代ボールの選下をされた先輩の一戸実先生(死亡)、遠征
や合宿で資金が不足した際にはいつでも述1.�:なく来るようにとのありがたいおは集に甘え、
幾度となく多大な緩助を賜りました。部員の活�Mを必よりも期待しその成総を拝んで、くださっ
た先輩でした。
一・緒に歩みこれをええてくだ、さった皆保に深くJ・��謝のなを友します。
最後に母校ょR奥品執I�梧1:競技部の復活と発JFiのためには協力を1廿しまなb 、ことを約束し、
陀|二競技部に成果がlニがる�Iが近し、ことを念願いたします。
9
昭和32年度陸上部送別会
青森県選手権大会3連勝達成メンバー(1957年)公園グラウンドにて
青森県選手権大会5連勝達成メンバー(1959年)公園グラウンドにて
10
ヤリ投げ幻の記録
昭和32年半石山金光
昭和30年、52年前の珍記録である。
国民体育大会横浜大会でのことで、M投目か記憶にないが 当時の日本記録に迫る68メー
トノレが参考記録として計上された。 参考記録というのは実は悔しし、かな数センチのファール
があり幻の記録となってしまったので、す。
最終結果は5 3メートノレ84の2位で、あったが、 当円、日本陸連の推薦で日米対抗京都大会
に出場することができた。 これが最初で最後の国際大会であり、結果 3位入賞したのもこの幻
の記録のおかげと想いにふけっている。
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11
槍を投げたら知る人ぞ知るとあるように、石山先端はまさしく点奥義銚if:i校陸上競技部の名を
全I-!.'IIこ融かせた人物その人であると言える。
昭 和31年の第
1 1削東北陸上競技大会(福島県)で、槍投げ、砲丸投げで優勝、円盤投げ
2 (立と・・人でげ点を挙げ、初の男子総合優勝(22点)を果たしたのである
吏には尚校生では初のオリンヒック候補選手となり、第10岡山民体育大会(神奈川県)に
出場、その11与のM投wかの記録は68メートノレと堂々オリンピック出湯標準,記録突破と恩わせ
ましたが、惜しくもファールとなりました。後にわかったことで、あるが、その時のファールは本人
がコーノレを行った結果、幻の記録となり惜しくもオリンヒックIl\JÅ�を逃がしたと伝え開いてい
る。
過去51"1位行われているある親陵会があります。それは11/河1135{1�前後にみ唱、柴問、市立
k h�':í、弘I�':jの各向校を卒業したメ ンバーで、大鰐茶FI山のつつじを観ながら行われる親陸
会で、il-懐かしい思い出話の語らいの場として続けております。
この縦踏会の'11で、昭 和37年弘高卒の倫投げ選手で・あった�U:元おも参加しており、石山先
端についてこう滞っておりました。
尚校H
のH時寺ι、イ石ÎI山11先子班l配tはJ京K元z活Iに対し、槍投ifは投iずるものではなく、し、かにスムーズに姶を押し
てあげるかだとし、う指導を受けたそうです。その当時では思しもよらないぎん新な指導法であ
り、み人もその指埠のおかげで県高校ナ ンバーワンになることができたと、今でも感激しており
ました。
また、イ1111先市は卒業後、岩手県の釜,石製鉄株式会社に入社され、社会人として数々の
灯成総を伐して大活脱をされました。そしてその間には、約50人近くのIlt森県内陸上部の選
手を釜石製鉄に入社の面倒を見てくださいました。持強からも7....8
... 人の選手の面倒を見て
下さいましたe
この俳人aなる行山先輩のことを語らずして、東県議弛陣J:競技i刊の腔!どを語ることはで・き
ないとjど、い、Il券下ながら紹介させて頂きました。
後輩T氏より
12
東奥義塾陸上競技部に在籍して
昭和32年卒( 中長距離)
佐 藤信一
第2回の08会に出席して、50年ぶりに菊池先生、先輩の方々、同期の皆さんにお会い
することができ、昭和33年度卒業以前のことが昨日の事のように思え、本当に楽しく、又、懐
かしかったです。
昭 和31年6月、福島での東北大会に連れて
行ってもらい、石山先輩の活躍で義塾始まっ
て以来の総合優勝。この写真はその時の旅館
の前での記念写真です。
昭和32年5月のシーズン始めの北日本大会
で総合優勝した後、6 月の高校総体に備えて
弘前公園内にあるお茶屋さんに合宿したとき
の朝、本丸でのスナップで、す。
懐かしい相馬猛先輩が来てくれて色々とご指
導いただきました。それまでは我流みたいな練
習でしたが、先輩から色々と教わり、それぞれの
タイムアップにつながったと思います。
葛西君、寺田君、蒔苗君などの顔ぶれです。
当時、弘前地区は駅伝が盛んで、大館~弘前
閥、その他各地区対抗駅伝では大瀬先輩と一
緒に藤代地区代表で大変お世話になりました。
もちろん、秋の青森~弘前関駅伝、そして最後は
芦) 11先輩も出た高校駅伝が目標でしたが、強敵弘商に勝てませんでした。
昭 和32年の東北大会が青森で行われ、前年総合優勝のカップを前に、東北大会出場メン バ
ーと石山先輩が旅館に来てくだ 、さった時の記念写真で、す。
大会は高杉さんの入賞のみで、無念にもカップを持ち帰ることはできませんで、した。
それでも県内での各競技大会では菊池先
生から総合得点で 1 00点取れJIとよく言われ
たものです。当時は各種円ともみんなでよく
頑張ったのではなし、かと思います。
50年過ぎた今でも菊池先生、諸先輩の
方々、また同期の皆さん、よい後輩の}j々
に恵まれ、文、昔の時代にもどれることに感
••
謝しています。
昭和32年東北大会(青森)に石山先輩が応接に来たとき
13
昭和35年度辛(中長距離)
寺島柾広
私が東奥義塾高校に入学し、 どのクラブ活動に入部するか、 各クラブのポスターを見て
いた時の事です。同級生の寺田君に声をかけられて f陸上部に入ったら?Jと誘われて、 そ
の場で陸上部の部室へ行きました.扉を開けると、 体の大きな選手がゴロゴ口いたのが今で
もはっきり記憶に残っています。その体の大きな部員から具体的な説明もなくf今日より練
習に参加するように1 Jと言われました。 しかし、 私は練習着がないので後 日から参加す
る旨を伝えましたが、 再度、 その辺にあるものを着て参加するように言われたので、 その
日から参加する事になりました。中学では陸と部でもなく、競技として走るのは初めてであ
り、 学校から公園グラウンドまで、の距離をやっとの思いで、走っていました。それから毎日の
練習は大変で、 速くは走れませんでしたが、 どうにか皆の後をついて行く事ができるように
なり、 走る楽しさもわかってきたのか、 陸上部をやめようと思った事は一度もありません
でした。
2年生の頃からいろんな大会に出場する機会がありましたが、 残念ながら一度も入賞す
る事ができませんでした。どちらかと言うと、 トラックより駅伝の方が好きで自分にもあっ
ているような気がしていました。 (あまりスピードがなかったから・・・) それでも、 練習
はトラック練習が中心でした.その頃から帰る方向が一緒という事もあって、皆との合同練
習を終えた後.寺田君と毎日のように3千mを走っていました。 (と言うより、 寺田君に稽
古をつけてやっていました)
そんな 日頃の練習の成果かどうかはわかりませ
んが、 3年生の時に岩木山一周駅伝のメンバーに
選ばれ、 8区という重点区を定ることができまし
た.駅伝のスタートの時間借は生憎のコンディシ
ョンでしたが、 我が校の1区はエースの寺田君(3
年)で、青森一東京間駅伝の常連選手と一緒に走り
ながらも、 2区の今井君へは一般も含め3位でタ
スキを渡しました。高校の部2位の柏段高には2
分3 0 秒差をつけていました。今井君(スキー部2
年) は登りにめっぽう強く、 3区藤本君(3年)に
引き継ぐ時には4分30秒と、 更に差を広げる事
ができました.いよいよ本腰を入れる戦いが始ま
8区力走する寺島選手
り、 111あり谷ありの激戦となりました。3区藤本君
(3年)、 4区今井君(1年)、 5区葛西君(3年)、 6区工藤(勝)君(1年)、 7区花田君(2年)と
引継ぎ、 81玄は白分が走り区間記録2位でアンカー9区田沢君(2年)につなぐことができ
ました.私の記憶では、 8区から9区にタスキを渡す時点で約30秒前後の差でしたが、 そ
の時は意識が膝騰とするくらい頑張りぬいて走ったことが、 今でも脳裏に焼き付いていま
14
す.また、 この達成感は私にとって属高の感動でもありました.
後に、 自転車で伴走をした寺田君の話では、 アンカー田沢君は9区のタスキリレ一時に
3 0 秒前後あったタイム差を、 柏農高石田君に見る問に追いつかれ、 ついには土手町で抜
かれてしまいました回しかしこの時、 寺田君は田沢君にIスピードでは石田君より勝ってい
るから今はあせらずついて行き、 最後ゴール手前の青銀辺りでラストスパートをかけるよ
うにJと指示していたとの事です.それを田沢君は見事実践して、 ゴールテープを切った時
には7秒差での勝利でした。
この3年間の陸上部でチームプ
レーで優勝できたことは最高の喜
びでもありました。
(2区今井選手から3区藤本選手へのタスキリレー(左は菊池先生))
今でも4 6年前のこの大会は特別な思い出となり、
一献入るとこの時の話に花を咲かせ、 良き思い出とし
て一生忘れることができませんo 3年間一緒に走って
きた良き友、 良き仲間、 それと諸先班点の良き指導と
いう恵まれた環境に感謝し、 現在も健康でいられるの
もその思い出のお陰であるとともに、 大切な宝物であ
ると思っております.
最後に諸先'l(ê方、 後輩諸君の益々のご健勝を心より
祈っております.
高校の部優勝のアンカー田沢選手
ゴール直前の力走
15
昭和35年度辛
(中長距離)
寺 田
武
私は東奥義塾には中学校から入学していました。
中学では陸ヒ部に籍を置いて、 主に 8 00 m、 150 0mを中心に走っていました。 私たち
の時代は、 義塾では全校全員参加の校内マラソン大会という大イベントが毎年開催されて
いました。中学の部では1年のときは 2 位となり 2 年、3年と優勝したと記憶しています。
その他の試合では全国放送陸上競技大会 (全国一斉スタート)に参加していましたが、 中
学校での成績の方は今では思い出せません。 中学校の頃から志るほうが速かったせいもあ
り、 同じクラスであったスキ一部の大坊保雄君に中学校スキー大会のリレーメンバーが足
りないので参加してくれと口説かれ、 その熱意に負け、 とうとうスキー大会に参加する事
になりました。 しかし、 実際スキーの本格的な基礎練習に入るとなかなか思うようにスキ
ー操作ができず、 悪戦苦闘の日々でした。 それでもどうにかリレーメンバーで大会に参加
し義塾はリレーで 3 位に入ることができました。また、個人では5キロ競技にも参加し、
5 位に入賞する事ができ、 これも陸上部で鍛えた足腰の強さで、 ただがむしゃらに走って
いたような気がします。
大坊(保)との一言の会話から、 高校l年に
なって本格的に、 夏は陸上部、 冬はスキー部
と 2 足のワラジをはくことになりました。
高校時代の県内陸上界は、短距離、フィール
ドは義塾、 中長距離では弘実が黄金時代であ
り、 私も1、 2年の時には1 50 0 m、 5 0
OOmに入賞するのが精一杯の時代でありま
した。 高校3年の時は弘実の強力メンバーが
卒業となり、 各校ともにどんぐりの背比べ的
状況でありました。 高校3年の時には自分な
りに他選手より一歩抜け出るためには、 どのような練習方法が良いか常に創意工夫し、 考
える練習を実践した結果、 北 日本選手権大会から県内の大会においては、 1 50 0 m、 5
OOOmとも常にl位となりました。
これらの成績が評価の対象となり、 第 14回国民体 育大会(東京国立競技場)に青森県代表
として1 5 0 0m、 50 0 0mに出場しました。 ちなみにこの年は夏と冬の両国体に参加
することができたことも、 大変光栄なことであり嬉しく思っております。
吏には、 我々の時代の憧れ的存在であった第 9回青森一東京間駅伝のメンバーに選出さ
れたことは歓喜あふれる良き思い出となりました。 白分でいうのも大変おこがましいこと
とは思いますが、 東奥義塾高校から青森一東京間駅伝に選抜されたことは、 初めてのこと
と聞いており
大変誇りに思っております。
16
青森一東京間駅伝の思い出としては、 第4 日目の宕手県一ノ関区間を走り区間8位であ
りました。 2回目に走ったのは最終日、 浦和一志村橋区間で区間7位でありました。 特に
私の歴史の 1 ページに残るものとして、最終日本県のベテラン鹿内選手がアンカーを務め、
その鹿内選手にタスキを渡したことで一生の思い出となりました。 また、 この駅伝に参加
してみて縫いたのは、試定がないため全てぷっつけ本番であり、コースなど全くわからず、
とにかく定っていくと ゴール 3キ口前から「タスキをはずせ、 まもなくゴールだ」と伴定
車の県監督から声をか
けられたが、 ゴールは
まだ 3キ口先で非常に
長く感じられました。
ゴールはまだか、 まだ
かと走っていたことも
脳裏から離れない思い
出の一つでもあります。
私個人的には良い思
のことを語らずにペンを置くわけにはいきません。 それは高校最後の年の岩木山一周駅伝
に参加し、絶妙のチームプレーで優勝を果たしたことはなんといっても最高の喜びであり、
おそらく駅伝で優勝したこと自体何年ぶりかの快挙であると自負しております。
東奥義塾陸上部の 3年間を通じ 良き先輩と良き同僚に恵まれたことが、 私の人生に大
きな影響をもたらしてくれました。
そのーっとして、 佐藤勝房先輩には大変お世話になりました。 当時、 佐藤勝房先輩は青
森県庁に勤務されており、 何か
ー
一一一一一一
につけご指導を賜りましたこと
に心より感謝申し上げたいと思
っております。 更には、 佐藤勝
房先輩は私が大学の合宿で津軽
に来ると、 必ず慰問激励にきて
いただきましたことも忘れるこ
とができません。
もう一人大変お位話になった
先哉は佐藤信一先輩です。
私が 1 年生で佐藤信 一先輩が 3年
( 弘前早大館間駅伝抑制(左)、 成田(恥石川)、今(姉)の麓り合い
生の時でした。 後で聞いた話ですが学校の授業料を払わず、 そのお金で美津波スポーツに
特注したスパイクを、 卒業のときに私に下さったのです。 このスパイクは、 釘が短く私の
足にフィットし、 とても定りやすいものでした。 私はこのスパイクを頂いてから、 大会で
17
常に良い成績を残すことができ感謝の気持ちで一杯です。
最後に忘れることができない人物がもう一人おります。
その人物とは、 義塾時代私とクラスも一緒、 練習も一緒、 帰る方向も一緒と朝から晩ま
で一緒の男、 それは寺島君であります。
皆との合同練習は汽車通学との関係で、 あまり遅くまでできなかったものでした。 そこ
で寺島は合同練習が終わった後も、 私の良きパートナーとしていやな顔一つしないで、 毎
日のように真剣に力を貸してくれたものです。 私が良い成績を残すことができたのも、 こ
の寺島の存在が非常に大きかったと思っております。本当に心から感謝いたしております。
寺島は高校卒業後も、 私が大学の合宿でいつも獄温泉にきていた時にも4年間ずっと練
習に付き合ってくれました。 そのお除もあって大学時代のスキーでも私なりにトて分に力
を発搾することができ、 寺島あっての寺田であると思っております。
この寺島と43 年
ぶりに弘前でお会いすることができ.今でも時々一献かたむけると、昔話に花を咲かせるこ
とができるのも、 元気でいることの証であると実感しております。
厳後にこの年になって沢山の思い出を語ることができました「陸上部OB思い出誌Jに
深く感謝申し上げます。
東奥義塾陸上部OB会親睦会の今後の益々の発展と祈念するとともに、 東奥義塾陸上部
の現役選手たちに歴史の継承として伝えていただければ幸いと存じます。
諸先輩の皆様方、 後輩の皆様お体をご自愛くださいまして、 いつまでも若々しくご健勝
でお過ごしされますことを節に望んで終わりとさせていただきます。
昭和37年度辛
( 110メートノレハードノレ・ 俸高跳び)
笹
博隆
私が 東奥義塾の陸上部に入部したのは高校2年からでした。 1 年 の 時にはボクシング部に
入部していて、 新人戦をn指して練習に励んでいたものでした。
陸 上 部 に 入るきっかけとなったのは、 弘 前 公闘グ、 ラ ウンドのフィールド、に、 いつでも跳べる状
態 にパーがセッ卜された俸高跳ひ。のピットが あ り 、 私は以前から棒高跳びには興味を持ってお
り 、 部には所属していませんでしたが 、 遊 び半分でよく跳んでいたのです。 当 時義塾では全
校生徒が走るマラソン大会があ り 、 大会が終わった後、 その棒高跳びのセッ卜 されていたパー
をクリヤしてしまったので‘す。その高さは標準記録にセッ卜 されていました。傍らにはたしか菊
池先生が寝転 んでいたと思います。そこにいた先生も驚いていたようですが、 その跳んだこと
が認められて 、 菊池先生 に 口 説かれス カ ウ 卜 さ れて2年生から陸上部に入部することになりま
した
し か し 、 2年生 の最初の試合で出場 したのは、 県大会の 1 1 0メートルハ一ドルで、6位入賞と
なりました。
一 方 、 俸高眺びの万 は 、 2年生、 3年 生 共 に県下では敵 なしで、 大 会で常にトップ'でいまし
18
た。その実績が評価 され、 盛岡で行われた点北 大 会 に 出場することになりました1 私は、 出場
選 手中2番日の記録を持 っており、 前評判lでどんなに調子が悪くても人ttl胡内であるといわ
れていました。 ところが忠わぬ事態を起してしまったのです。 今はもう11寺効 になったと忠うので
ぷしますが 、 あろうことか試合 前 日 に居酒屋に/1\かけすっかり飲み過ぎてしまい 、 翌 日 は体に
全く力が入らず、 予選法ちとし、うプザマナ結果で、 倒池先生 にはrj酉央し 、jと怒鳴 られたこ とが、
今では良き思い出 として大変懐かしく思い出されます。
現住は石川てイバンプー食堂Jを営んでおり、 IR奥義塾が 石 川 に移転されてからは、 剣道部
の宿舎も経営しています
今の義塾は、 部市の '1'で食lι首 部だけは全|吋 大 会 に通用する選手を常にt11しており 、 すで
に剣道 部の卒業生も 1 00 人を超えました。
どうぞ皆さん、 近くにいらした際 には是非ともお立ち寄り下さるよう お待ちqJ し上げておりま
す。
思い出誌 に参加することができ 、 大 変喜んでおります。
都二
,電』
主主�g ,宮取
昭和37年度卒業部員
後列左から木材、工藤、菊池先生、 増田、広酒、 沢、花田、成田
前列左から山本、佐藤、 笹、佐々木
19
昭和 3 7 年 度卒
(短距離)
増 田 友 昭
昭 和 34 年 に甲子園球児を目指 しており、 その時甲子園出場が決まっていた東奥義塾に入
学し 、 野球部に入部しましたが腰を悪くしてしまい 、 野球を断念 1 年生 の 6 月 で退部してしま
い ました。
その年の秋の校内 体育大会の定り高跳びで l m70 を跳 び優勝した時に、 菊池先生から 1
m75 を跳 べばインターハイに出場可能だ、と し 、 われ 、 陸上部へ誘 われ 野球への未練はあった
が諦め陸 上部へ入部させていただきました。
後でわかったので、すが 、 同期の津光雄君も野球部に入っていたそうで、 私より一足早く退
部 し 、 私が入部 し た と き に はす で に
陸上部で槍投げの選手でした。
入 部 はし た も の の 約 半年のブラン
ク も あ り 、 不 安 な 気 持 ちで冬期室内
練習に励み、 2年生になってグラウン
ドでの練習が始まりましたが 、 跳 躍で
入部したと思っていたのに全く跳躍
の練習はさせてもらえ ず 、 毎 日 毎 日
が短距隣定の練習ばかりやらされて、
走るのが基本であ る と は 知 ら ず に 不
満が募る一万でした。
また、 練習もだんだんきつくなり 、 当 時パ
ス通学でしたが 、 ある 円 グラウンドで歩けなくなるほどしごかれ て 、 最終バスに間に 合わず家
に帰れなくなったことも何度かありました。そんな時、 どこに治めてもらったのか思い出せませ
んが、 このように鍛えられ たおかげで2年生の時には、 田 中 、 五十嵐、 船水、 藤本先輩とともに、
神戸インターハイに800mリレーで出場することが でき、 忘れ られない思い 出と して時あるごと
に思い出されます。
これも先輩たちの厳しくしごかれ たおかげだと感謝 しております。
跳躍競技には、 3年生になってから何回か出場しまし たが 、 満 足できるものではありません
でした。
その後、 私の人生において陸上競技は唯一の趣味 として続けてきて、 現在もマスターズ陸
上競技大会に参加 して楽しんでい ます。
学生時代 に短距離練習 を重点的 に練習させられたおかげで、 その効果が社会 人になって
から肉体にも数回 出場することが でき、 跳 躍競技に非常にプラスになって現れています。
20
広瀬、沢、木村
小枝、山本
船水先輩、
高坂、 花田
三浦、村上、赤石、工藤
笹、菊池先生、佐藤、今井
増田
青森県選手権大会
後列大 沢 、 ? 、 小枝、工藤 、 沢 、 笹 、 ?、山本
中列赤石、小林、今井、吉沢、古川、広瀬
前列 村上、 佐々木、佐藤 、 花 園 、 今井、 菊池先生、工藤、 増田、 木村
21
昭和 37 年度卒 ( 中 長 距隣)
今 井 泰 成
卒業して45年、 私の高校時代の思い出は陸上競技に明 け暮れ、 あっとし 、う開に過ぎた3
年間で、あったような気がする。
毎 日 のように弘前公園の追手門を通
り 、 公園のグラウンドで練習 した 日 々 が
懐 か し く 思 い 出 さ れます。 練 習 の 後
時 々 先帝が訪れ、 菓子パンの端を差し
入れしてくれ、 皆でおいしいところを選
んで食べたことが思い出されます。
1 年 生の と き は 遠 征 試 合 が あ る 度 、
駅で、先輩の俸高跳びのポー ル を 列 車
の窓から中に入れたり、 着いた時それを出すのにもいつも苦労したこと、 また、 試合や練 習 後 、
先輩の足やモモの マ ッ サ ー ジ が 苦手で時間の
経つのが遅いといつも思ったもので、した。
競技の方は、 1 年の秋の新人戦から試合に出
してもらい 、 2 年のときは先輩についていけるよう
になり、 3年には3種目 (800米、 1 500米、 5000
米 ) をエン ト リ ー したこともあった。 トラック競技で、
はいつも弘前実業の2人のライバノレに勝ったり負
けたりで、 常 に2位か3í立で悔しい思いをしたもの
だ。
岩木山一周駅伝のあとで
また、 苦 い 思 い 出 と して 総 体 の 後行われた 、 秩 回 の 八
僑競技場での東北大会では、 現地で、スパイクを買うつもり
後列 赤石、工藤、 ? 、 小枝、小林
前列 花田、 今井、佐々木
で、行ったが、 近く にスポーツj苫が見 当 たらずようやく探 し 当 てたところ、 陸上競技用のスパイク
は売ってなく、 やむなく誰かのスパイクを借りるはめになった。 ところが、 サイズが大きすぎたた
め 、 監督から脱げないよう包帯でグノレグノレ巻いて走るよう言われて出場したが見事予選敗退
となってしまった。
一方3年の春、 秋 田 県大館市で開催された 山 田 敬蔵記念、マラソン大 会 に は 、 車 (たぶんト
ラ ッ ク ? ) で、朝早く出かけやっと間に合い出場し、 試合後は閉会式にも出ないで、夜遅く帰って
来た。 3 日 後に3位の賞状とメダノレが届けられたこと、 また、 駅伝では、 3年の時の岩本山一周
駅伝大会で雨の1::1 ' 1 区を走り 、 区 間賞をとり一般を含め4f:立 になったことが思い山されます。
卒業して県外へ就職し、 なかなか帰省もままならないときもありましたが、 還暦を過ぎて最近
ではようやく 自 分の時間も 自 向 になりつつあるこの頃 、 陸 上競技部OB会が毎年聞かれている
と聞き、 近 し 、 う ち 、 元気なうちに皆に会いたいとの思いが強くな り 、 その 日 を楽しみにしながら
頑張っていこうと思っています。
22
昭和39年度辛
村 上
中等部3年の3 月 、 陸上部の金ヶ沢での合宿に誘われました。
生まれてはじめての運動部の合宿だったので、最初は不安でした。 しかし、 1 日 の練習が終わ
るとくたくたに疲れてパタンキューの連続で、 不安など感じているヒマもなく終わりましたe
そのときに印象に残ったことは、 先輩達の食欲の旺盛なことです。 自 分は疲労で食欲が無く
なっていたので、 強さの秘密を見せつけられたように思いました。
陸 上 部に入って最初の試合は、
北 日 本 陸 上 競 技 大会 で し た。 この
大 会 は 、 昭 和 2 1 年から行われて
いる由緒ある大会で、 参加選手は
千数百人にもなります。
高 校 1 年 の 時の 県 高 校総 体 ( 弘
前市で開催) は、 とても心に残る大
会です。 自 分は走り幅跳びに出場
し 、 6 メー ト ル ち ょ っ とで3位に入札
初 め て の 入賞で喜んでいる時でした。 突然増 田 キャプテンから 「村 ヒ、 リ レ ーのアンカーに出
ろ。 j と言われました。 あの時は、 弘実の長沼さん、 青 高 の 米 川 さん、 山 岡 高の新山さん、弘高
の 山 口 さん、それに弘前工業など、 東北で一流の選手が出場していました。
「 自 分より速い先輩がたくさんいるのに、 なぜ ? J と思っていたら、 リ レ ーの先輩達がrsoメート
ル以上離してくるから、 心両日しないで気楽に走れJ と言われました。 実際、 4区で待っていたら
本 当 に離してきでくれ、 トップでバトンを受け取りトップでゴールしました。 しかし、 2位とはO. 2
秒、 そ して3位とはO. 3秒差でした。 はっきり と 自 分の力不足を思い知らされ「強くなりたし リ と
心から患いました。
練習に大事なこと
は、 「 他 人 よ り 多 く 練
習 す る こ とJ 、 r l 日 1
日 目 的をもって取り
組むこと」 だ と 思 い 、
頑 張 っ て い ま した。
そんなある 日 、 先輩
と一緒に 下 校 し て し 、
た時に、 いきなり足
を蹴られました。 自 分は外股で歩く癖があり、 以前から何度も注怠されていたのですがなかな
か直せないでいたのです。 f強くなるJためには、 練習のときだけでなく f 普段の生活から気を
つけるJとし 、うことを、 この時先輩から教わりました。
23
思えばこの頃から、 陸上競技との本格的な付き合いが始まりました。 その後、 職場となった
学校で陸上部の仕事をして 、 結局 、 約 半世紀近くの間陸上競技と関わってきたことになりま
す。
あのI降、 合宿に誘われなかったら。
あの時、 リレーのアンカーを頼まれなかったら。
あの時、 外股を注意されていなかったら。
等 々 、 いろいろ考えてみると運命の出会いとし 、うことを感じて、 不思議な思いがします。
昭和 36 年総体
(弘前市営)
4 X 200mリ レ ー
第l位
アンカ一村上のゴール
メンバー
l 走 工藤(2 年生)
2 走 増 田 (3 年生)
3 走 広瀬(3 年生)
4 走 村 上 ( 1 年生)
24
東奥義整陸上競技部の 栄光 の1ページ
。 昭和 28 年 1 2 月 27 日 第4回全 国高校 駅伝大 会 (大阪) に 初 出場
第 28 位 2 時間 27 分 1 2 秒 47 校 出 場
出場メンバ ー (大瀬監、 芹川和栄 、 IUT 回 隆 、 成 田 洋 、 佐藤勝房 、 白戸徹郎 、 相馬猛)
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会
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野
綜
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筑
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第
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第4回大会参加メンパ}を囲んで 昭和28年度東奥義塾陸上続投郁
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裏
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。 石 山金光
昭 和 3 1 年度青森県スポーツ賞受賞
昭和30年 槍投げで58m ..H の全国高校以I�.:j記録樹立
昭和30年 第 10 例l司民体育大 会 (神奈川 O,Uで愉投げ第 2 位 53m54
p.
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人Mt如
5
9
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26
h d.a 廷
。 第 1 1 回東北 陸上競技大会 (福 島 県 ) で学校対抗男子総合初優勝成る。
総合得点22点
主な活躍選手 200m 第5位
鈴木隆三
800mリレー 第4位 束奥義塾チーム
砲丸投げ 第 1 位 石 1 1 1 金 光 1 3m25
槍投げ 第 1 位 石 山 金 光 54m26 (大会新)
円盤投げ 第2位 石 山 金 光 39m63
。 県下総合体育大会で東奥義塾が8連勝達成する。
第11回東北大会で男子総合初優勝したメンパ}
後列 赤石、 船木、 鈴木、 今井、 ?
前列 藤田、菊池顧問、石山、 ? 、 棺馬
27
。 第9回 青森一東京関駅伝大 会 に 寺 田武が 東奥義塾から初の出 場となる。
第4 [:l 1: 1 と11�終 n の2阿力走する
寺回選手 (前列右から3人 目 )
てミ膏 森
贋黒人倍
ぜ束三斗
我 が母校選手の成績表
女 昭 和 2 3 年度
弘前市
昭和 23 年 5 月 2・3 日
第 3 回北 日 本陸上競技大会
北海道、 岩 手 県 、 秋 田 県、 福 島 県 、 青森県から約 1,700 名 参 加
5000 米 新制 高 校 男 子
16' 38"5(大会新)
第 2 位 葛西久一
第 1 1 回東京陸上競技選手権大会 昭和 23 年 5 月 1 5---- 1 6 日 神宮
33' 08" 4 (戦後最高記録)
小柳 治 ( 日 大)
10000 米
日 本選手権参加標準記録東京突破大会
三段跳び
昭和 23 年 6 月 6 日
山 田 逸二 ( 明 大柴交会所属)
戦後 日 本最 高
八戸高校
県下総合体育大会 昭和 23 年 7 月 28---- 29 日
昭和 23 年 9 月 5 日
1 7 ' 52"9
第 i 位 葛西久一
第 3 四国体件予選会
5000 米
弘前市
第 I 位 (菊池、 東瓶、 相馬 、 葛西)
1600 米リレー
学校対抗得点 第 3 位 東奥義塾 4 2 点
第 3 回東北陸上競技大会
第 4 位 相馬
400 米
5000 米
第2位
昭和 23 年 6 月 26 日
4 ' 01"2
岩手県花巻 市
1 6 ' 43 "。
葛西久一
カ 昭 和 24 年度
第 4 回北 日 本陸上競技大会
昭和 24 年 5 月 i 日
弘前市 (記録なし)
第 l 田 県 下新制高校総合体育大会
4 ' 24"6
第 l 位 葛西久一
1500 米
束奥義塾 34 点
学校対抗得点 第 3 位
昭和 24 年 8 月 7 日
第 2 回県下高校総合体育大会
1 10 米 H
第 l 位
成 田 孝 1打
第 4 回国体陸上競技県予選
走り高跳び
※
第I位
弘前市
昭和 21 年 9 月 25 日
成田孝市
l メートノレ 60
合浦公園競技場消滅
29
弘前市
昭和 25 年 8 月 19"'20 日
3 メートノレ00
奈良岡
1 6"3
成田孝市
八戸市
第 3 回高校総合体育大会
棒高跳び
第1位
1 10 米 1 1
第 l 位
第 5 回国民体育大会
1 10 米 1 1 予選
昭和 25 年 10 月 28 日
成田孝市
名 古屋市
16"3 (好タイム)
決勝で落選
女 昭 和 2 5 年度
昭和 25 年 5 月 3 日
第 5 回北 日 本陸上選手権兼高校対抗陸 t
16 "
成田孝市
1 10 米 H 第 1 位
第 6 回東北陸 k競技大会
1 10 米 H
第3位
昭和 25 年 6 月 24 日
1 7"
成田孝市
弘前市
福島市
公昭和 26 年度
昭和 26 年 5 月 3 日
第 6 困北 日 本陸上選手権兼高校対抗陸 と
3 メートル 1 0
俸高跳び 第 1 位 奈 良 岡
800 米
第 l 位
岸
弘前市
2' 18'9
女 昭 和 27 年度
第 7 回北 日 本陸上競技選手権
第 7 回東北陸上競技選手権
800 米
第 5 位 相馬
第 7 団関民体育大会
昭和 27 年 5 月 3 円
弘 前 市 (記録なし)
昭和 27 年 6 月 14'"" 1 5 日
昭和 27 年 9 月 1 9"""" 2 3 日
鶴岡市
仙台市
女 昭 和 28 年度
第 8 阿�t 1::1 本陸 上競技選手権
1 500 米
5000 米
第i位
第i位
相馬
相馬
第 8 凶東北陸上競技選手権
1500 米
800 米
第 4 位 相馬
第 2 位 相馬
昭和 28 年 5 月 3 日
'1 ' 29"0
弘前市
1 7 ' 36"0
昭和 28 年 6 月 20'""2 1 日
4 ' 24"2
2 ' 05 "8
30
仙台市
第 8 回 青森~弘前問駅伝競走
高校対抗
昭 和 28 年 10 月 1 0 日
東奥義塾
第2位
食昭和 29 年度
昭和 29 年 5 月 2 日
第 9 回北 日 本陸上競技大会
砲丸投げ 第 l 位 石山金光
1 1 米 84
槍投げ
第 l 位
石山金光
弘前市
48 米 07
昭和 29 年 6 月 1 2 "-' 1 3 日
第 9 聞東北陸上競技大会
槍投げ 第 3 位 石 山 金 光 15 米 50
砲丸投げ 第 4 位
石山金光
1 2 米 30
盛岡市上回 県営グラウンド
昭和 29 年 9 月 1 2 日
弘前市
第 7 回県高校陸上競技選手権大会
白戸
4 ' 2 7 ' 8 (大会新)
1 第 7 四国民体育大会 昭和 27 年 9 月 1 9....... 23 日
400 米リレー
第I位
( 山 口 、 加藤、 木村、 鈴木)
円盤投げ
第 1 位
石山金光
総合得点
第2位
束奥義塾
第 9 四国民体育大会
5000 米
第5位
48"2 (大会新)
37 米 90
昭和 29 年 8 月 22....... 2 7 日
札幌市
相馬
大 昭 和 30 年度
実 石 山金光 槍投げ 58 米 47 の全国高校最高記録樹立し 、 青森県スポーツ賞受賞
第 1 0 回国民体育大会 神奈川 県
槍投げ 第 2 位
石山金光 53 米 54
第 10 回北 日 本陸上競技大会
400 米 第 l 位 加藤
800 米 リ レ ー
第 i 位
昭和 30 年 5 月 i 日
56"6
東奥義塾
弘前市
l ' 4 1 "0
円盤投げ
第I位
石山金光
53 米 68 (大会新)
総合得点
第2位
東奥義塾
38 点
昭和 30 年 6 月 18""' 1 9 円
第 10 回東北陸上競技大会
俸高跳び 第 5 位 高杉隆男
3 米 20
槍投げ 第 l 位 石 山 金 光 53 米 64 (大会新)
砲丸投げ 第 1f 立 石 1 11金光
1 3 米 05
31
秩 悶 市八 橋陸上競技場
円盤投げ
第 3 {立
石山金光
38 米 40
第 l lill!M陀 上i握 手十世栽培 8 回 県高校陸上選手権
第 1 {立
第i位
f転向眺び
砲丸投げ
高杉隆男
石山金光
昭和 30 年 10 月 8---- 1 0 日
青森市営
3 米 20
1 5 米 85 (大会新)
1500 米
第 l 位 佐牒勝房 4 ' 28" 1
円継投げ 第 1 {立 石 山 金 光 40(?)米 50 (大会新) ※d[.鈷は 1 米になっている
愉投げ
第 l 位
53 米 50 (大会新)
石山金光
第 10 11l1 1'f議~弘前 r.11駅伝競定
I\"� 佼対抗
昭和 30 年 10 刀 2 rI
Jf[奥義主主
第3枕
会昭和 3 1 年度
第 1 1 1i:1J北 f: J 本陸 k競技大会
昭和 3 1 年 5 月 3 H
弘 前 rli
800 -*リレー 第 i 位
束奥義塾 1 ' 40"6 (記録では l ' 4"6)
体内跳び
第 l 位
尚杉隆男
3 米 00
円盤役げ 第 1 {立 石 山 金 光 44 米 52 (大会新)
伶投げ 第 1 {立
石山金光 53 米 90 (大会新)
第 11 阿京北限上競技人会
200 米
第5位
800 米リレー
体�.:j眺び
r
砲丸投げ
愉投げ
川般投げ
昭和 31 年 6 月 23---- 21 I:l
鈴木降三
東奥義塾
第4位
第 5 {立
第 1 (な
貫� 1 (立
高杉隆男
石山金光
病山金光
第2位
学校対抗総合得点
打山金光
3 米 20
1 3 米 25
51 米 26 (大会新)
39 米 63
束奥義塾
第 l 位
第 9 InI Vrl-,\':吋交総合体育大会
200 米 H 第 l 位
800 米リレー 第 2
福品保{日犬が任陸上競技場
22 点
昭和 3 1 年 7 月 1 "-3 1-:1
"l'r様ilj常続技場
鈴木隆三
{立
26"7 (大会新)
市奥義塾 1 ' 38"2 (大会新)
体向眺び
第l位
尚杉隆男
ド!般投げ
第 l 位
石山金光
3 米 00
40 米 04 (大会祈)
1 4 米 2-1 (県高校AKJJ
i)
砲丸投げ 第 1 (立 石 山 金 光
愉投げ 第 1 (立
石J11金光 51 米 80
fif:校対抗総合得点
第 l 位 東奥義塾 55 点
第 9 [111や:rqr',':Î 校時 上競技対抗選手権大会
砲丸投げ
m 6 {立
昭和 3 1 íf 8 川 1 1-1
石山金光
32
[!_!.I I:I rlîilï営
第 2 阿以降1:選手権兼第 9 回県高校陸上選手権 昭 和 3 1 年 9 月 29.-.... 30 r�
200 米 1 1 第 i 位 鈴木隆三 26" 9 (大会新)
i叩0∞0 米リレ一
第 1 位
l 凶60∞0 米リレ一
束奥義塾
第 1 (位立
』崎5"、9 (大会新)
束奥義塾
3 ' 4崎5"
怜1品尚心G匂.ii 眺び
第 1 (位立
f尚与杉隆男
3 米 2羽6 (県尚校h岐主向)
砲丸投げ
ドJ�建設げ
第 i川f位
立
石山金光
第 1 (立
石山金光
3
i口
3 米 i口
4 1 米 75 (大会新)
伶投げ 第 l 位 石 山 金 光
学校対抗総合得点 第 i 位
56 米 80 (大会新)
東奥義塾 70.8 点
第 �o rr'l l l 本|僧上競技選下権大会 昭和 3 1 年 10 月 6 1 1
伶投げ 第 5 f立 石 1 1 1 金 光 54 米 90
仙 台 dí営宵械野
カ 昭 和 32 年度
第 12 1"1北11 本陸上競技大会
昭和 32 年 5 月 3 11
弘前rIi符
1 1 川0 米 H
第 l 位 兜森春義
iげ7γ"
5
第 1 (位立
束奥義塾 iγ, 4引) "5
80∞0 米リレ一
二段跳び 第 i 位 兜森春義 ロ
l2 米 6
創l
t体容向眺ひびe 第 1 (立
学校対抗総合得点
高杉隆男 3 米 10
第 1 (立
東奥義塾 .18 点
第 12 1nJ京北陸 上競技大会
昭和 32 年 7 月 6....... 7 n
'N 森 11rjz-
怜向眺び 第 6 此 尚杉隆男
-般の部 始投げ 第 1 (立 石 山 金 光 ( 東 奥義強盗r.)
第 1 0 IrrJ以山i校総介体育大会
200 米
第l 位
工藤貞三
100 米
第 l 位
1:藤武三
昭和 32 年 7 月 20....... 2 2 11
24" 1
1 1"7
33
5,1 米 1 2
八) I dï
青森市営
400 米
54"0
兼国
第 l 位
{立
800 米リレー
第 1
走り高跳び
第1位
l ' 37"7 (大会新)
東奥義塾
i 米 70
佐藤博
高杉隆男 3 米 20 (大会新)
第 l 位 東奥義塾 82 点
棒高跳び 第 1 位
学校対抗総合得点
昭和 32 年度インターハイ県予選
100 米
第2位
工藤貢三
200 米
第2位
藤田隆
800 米
第3位
佐藤信一
1 10 米障害
200 米障害
800 米 R
走り高跳び
第 l 位 兜森春義
第 6 位 尾崎行雄
第 1 位 束奥義塾
第1位
佐藤博
第I位
高杉隆男
JI
第4位
成田留雄
IJ
第5位
藤田隆
棒高跳び
第 6 {立 尾崎行雄
ハンマー投げ 第 l 位 尾崎行雄
槍投げ
第4位
J/
高杉隆男
第 12 回県民体育大会 昭和 32 年 8 月 3 1 日 ---- 9 月 2 日
第 l 位 兼 田 54."8
400 米
青森市
第 3 岡県陸上競技選手権大会兼第 1 4 田県高校陸上競技選手権大会
弘前市営
昭和 32 年 9 月 2 1 ""'22 日
100 米
第1位
工藤寅三
1 1 "7
三上和倶 53"7
第 l 位
400 米
400 米リレー 第 1 {ft 東奥義塾 46"4
東奥義塾 3 ' 40"8 (県高校最高)
第 l 位
1 600 米リレー
円盤投げ
第1位
三上和倶
37 米 09
3 米 30 (県高校最高)
棒高跳び 第 l {立 高杉隆男
槍投げ 第 l 位 外崎俊- 44 米 98
学校対抗総合得点 第 l 位
束奥義塾 94. 5 点
全国高校駅伝県予選
第 3 {立
昭和 32 年 9 月 20 日
東奥義塾
34
青森市
菊池顧問、 石山先輩を中心!こ前列 、 佐藤、 田中、 兜森、 外崎など
大 昭 和 33 年度
昭和 33 年 5 月 3 日
第 13 回北 日 本陸上競技選手権大会
400 米 第 1 位 兼 国
走り高跳び
第 i 位
佐藤博
i 米 70
東奥義塾
1 ' 38"5
800 米 リ レ ー 第 1 位
学校対抗総合得点
第3位
束奥義塾
38.5 点
第 13 回東北陸上競技大会
昭和 33 年 6 月 2 1 "-22 日
400 米 第 l 位 三上和倶 53"7
800 米 リ レ ー
第 6 位 束奥義塾
棒高跳び
第5位
成 田 留雄
第 l 位
走り高跳び
俸高跳び
槍投げ
東奥義塾
第 1 (:立
第 l 位
第 l 位
ハンマー投げ
佐藤博
成 問 留雄
学校対抗総合得点
1 ' 37"5 (大会新)
i 米 70
3 米 20
成田留雄
第 l 位
49 米 21
尾崎行雌 40 米 63 (大会新)
第 l 位
山形市
3 米 30
第 1 1 回県高校総合体育大会 昭和 33 年 6 月 28'"" 30 日
400 米
第 l 位 三上和倶 53"8 (大会新)
800 米 リ レ ー
弘前市営
点奥義塾
35
79.5 点
青森市営
会昭和 34 年度
弘rÎHrlî針
昭和 3-1 年 5 月 3 n
第 1,1 問 北 u 本陸上競技選手権大会
400 米 第 1 (立 時苗亮一 55"0
1500 米
第 l 位
寺田武
4 ' 28" 1
5000 米
第 i 位
寺田武
1 6 ' 27"1
愉投げ
第 i 位
成田留雄
体117i眺び
48 米 8 1
3 米 37
JJ.lZ 問 留雄
第 1 (立
東奥義塾
第2位
1..'(:校 対抗総合得点
* "l�i宇 部 ( ql学児 子)
1500 米
ーヨhJ.'i) ミ 4 ' 51 " 9
r p lR
A.=り(.百跳び
46 点
5 米 15 ( 又 は 35) (大会新)
昭和 34 年 5 JJ 30-31 I:l
第 14 [nJ*�七時 1-,競技大会県予選
100 米
第 3 位 l侍苗亮 ー
寺 田 武 4 ' 21"7
第l位
1500 米
第2位
5000 米
800 米リレー
体向眺ひ'
槍投げ
寺田武
工雄貢三
第3位
200 米 1. 1
í'f森市
(
市3立
東奥義塾
成田留雄 3 米 10 (大会新)
第 i 位
第 1 (立 成 田 留雄 47 米 75
昭和 34 年 6 J=J 20...... 2 1 H
第 1 4 I'�l点北陀 1:競技大会
仙台市山城野競技場
1 ' 37"5
800 米リレー 第 5 位 点奥義塾
体刈眺び 第 1 f立 成 田 留雄 3 米 10
第 1 Illl Jf,�隙 J:競技i握 手権大会兼国体県予選
昭和 33 年 9 JJ ト1 11
í'f券市
※ liG II&なし
第 1 2 10Wr�品百校総合体育大会
第 l 位 寺田武
5000 米
800 米リレー
第 l 位
昭和 34 年 6 月 27-29 n
1 6 ' 18"6
-1- 有 l m "rtî
東奥義塾(工藤、 蒔街、 成 II! 、 rU 'It )
1 ' 37"4 (大会新)
愉投げ 第 l 位 成 田留雄 50 米 03 (大会新)
体117i眺び 第 1 (立 成田留雄 3 米 1O (入会新. V,ht,':ì佼故防)
学校対抗総合得点
第 3 (Îl.
東奥義塾
第 1 2 1"IM ド ・般 ・ 117i 校陸上競技選手権大会
市 l 此 成 rn 留雄
100 米
200 米
II,\� ÖJ'亮 ー
第 1 1立
5000 米
年 111武
第 1 (li:
1 1 "8
23"8
1 6 ' 2 1 "8
36
36. 5 点
昭和 3,1 {I::' 9 JJ 26 1J ...... 1 O J] 3 円 弘 前 市
100 米 リ レ ー
第 l 位
収奥義塾 -16' 5
俸高跳ひ' 第 l 位 /J,比 111 留雄 3 米 55 (県高校新)
愉投げ 第 1 fù: )皮川f'{f 雄 44 米 36 (大会新)
学校対抗総合得点 第 I f立
東奥義塾 92 点
第 14 回青森~弘lUjillHAl 駅伝続走
向校の部
第 5 f\Î:
-*奥義塾
第 10 回全国高校駅伝県予選
第5位
昭 和 34 年 10 月 l l U
昭 和 34 年 1 1 J:l 3 1:1
,号森市持知1烏や1] �l:...... 鵡 ヶ坂問
-*奥J海地
前列35年卒業
2列目 36年卒業 3・4列目 37年卒業
第 4 同岩本山 414!駅 伝競定 昭 和 34 年 10 ]J 'l ll
市校の部 第 1 (立
点奥義塾 5 時間 17 分 30 秒
メンバー i 区 寺 田 、 2 p<�今井進、 3 区藤本、 1 Iメ今井、 5 区葛西
6 区_c,r語、 7 [t-: IË 問 、 8 区寺島、 9 区 川 沢
37
岩木 山 一周 駅伝競走
秋 雨 の 中 に熱 戦 東義僅差 17秒 J
で逃げき る
剥尺伝
【ー鍛】
1 区一般・高校のスタート風景
1 区岩木構での接戦、 トップ成田(石川)続いて寺田(東義)三浦(柏農)
昭和34年lOjJ 4 日 高校の部優勝 東奥義塾
38
女 昭 和 35 年度
昭 和 35 年 5 月 1 日
第 l 5 回北 日 本陸 上競技選手権大会
lOO 米
第 l 位
田 中寿昭
1 1 "5
弘前市営
走り幅跳び 第 l 位
問 中寿昭 6 米 23
棒高跳び 第 l 位
山 田保弘 3 米 10
学校対抗総合得点 第 3 位 束奥義塾 42 点
昭 和 35 年 6 月 4---- 5 日
第 15 回東北陸 上競技大会県予選
100 米
第 l 位
問 中寿昭
200 米
第 l 位
田 中寿昭
1 10 米 H
第 3 位 船水賢司
200 米 H
第 l 位
200 米 H
第2位
800 米 リ レ ー
青森市
1 1 "5
23"8
五十嵐美津男
27"2 (大会新)
船水賢司 27"4 (大会新)
第 2 位 束奥義塾
走り高跳び 第 3 位 増 田 友昭
槍投げ 第 l 位
山 田保弘 49 米 04
ハンマー投げ
第 1 位
37 米 24
五十嵐美津男
第 15 回東北陸上競技大会
昭 和 35 年 6 月 18---- L9 日
800 米 リ レ ー
第 6 (立 東奥義塾
1 ' 38"4
第 13 回県高校総合体育大会
200 米
5000 米
1 10 米 H
200 米 H
200 米 H
第3位
第3位
昭 和 35 年 6 月 25---- 27 日
盛岡市
青森市
問 中寿昭
今井泰成
第 2 位 船水賢司
第 2 位 五十嵐美津男
第3位
船水賢司
山 田 保弘
伶投げ 第 2 位
学校対抗総合得点
第3位
束奥義塾
46 点
第 13 副 県高校陸上競技選手権大会 昭 和 35 年 9 月 1 7---- 1 8 日
100 米
第 l 位
問 中寿昭
1 1 "3
200 米
第 l 位
田 中寿昭
23" 1
槍投げ
第 l 位
山 田保 弘
49 米 45
第3位
東奥義塾
学校対抗総合得点
十和田市
会 昭 和 36 年度
第 16 回北 円 本陸上競技選手権大会
昭 和 36 年 5 月 3---- 4 日
39
弘前市営
100 米
第 l 位
学校対抗総合得点
1 2"0
唱 団 友昭
第5位
東奥義塾
第 16 回東北陸上競技大会県予選大会
100 米 第 2 位 噌 旧 友昭
1 1"9
800 米
1500 米
棒高跳び
42 点
昭和 36 年 6 月 3""'4 日
青森市
第 3 位 今井泰成
第 3 位 今井泰成
第2位
笹博|塗
3 米 10
第 16 回東北陸上競技選手権大会
第 14 回県高校総合体育大会
昭和 36 年 6 月 1 7"- 1 8 日
昭和 36 年 6 月 24"-'26 日
秋田市
弘前市
800 米 第 3 位 今井泰成
200 米 トl
第 3 位 広瀬
800 米リレー 第 l 位 束奥義塾 (工藤清光、 噌 問 友昭、 広瀬、 村上仁)
定り|幅跳び 第 3 位 村上仁
棒高跳び 第 2 位
学校対抗総合得点
笹博隆
第3佐
第 14 回県高校陸上競技大会
槍投げ
第 l 位
学校対抗総合得点
沢光雄
第2位
東奥義塾
1 ' 39"2
40 点
昭和 36 年 9 月 l6"' 1 7 日
十和 田 市
4 1 米 92
束奥義塾
44.5 点
後列 左から今井、 木村、 成田、 村上、 小枝、 笹、 花田、 工藤、 佐藤、 ? 、 沢、 高坂、山本、 増田、 広灘
前列36年卒業生 左から船水、 田中、成田、 菊池先生、 山本、 五十嵐、 平111
40
女 昭 和 37 年度
第 1 7 聞東北陸上競技大会県予選大会
昭和 37 年 5 月 26"-'27 日
第 17 回北 日 本陸上競技選手権兼津軽地区学校対抗選手権大会
昭和 37 年 5 月 4 日
走り幅跳び 第 i 位 村上仁 6 米 29
第 17 回東北陸上競技大会
昭和 37 年 6 月 15-- 1 7 日
第 l 回大鰐~浅虫問駅伝競走
高校の部
第7位
昭和 36 年 1 1 月 3 n
束奥義塾
第 15 回県下高校総合体育大会
走り幅跳び
第3位
弘前市
5 n寺間 1 7 分 30 秒
昭和 37 年 6 月 23"-25 日
青森市
昭和 37 年 1 0 月 14 日
+
七
年
卒
業
部
員
送
別
会
(喫
茶
庖
タ
ワ
ー
に
於
い
て
)
第5位
青森市
村上仁
第 2 回大鰐~浅虫間駅伝競走
高校の部
福島市
束奥義塾
第 6 回岩 木 山 一周駅伝競走
第3位
弘前市営
昭 和 36 年 10 月 22 1:1
第 12 回全国高校駅伝県予選 昭和 36 年 10 月 30 日
高校の部 第 4 1立 東奥義塾
高校の部
十和田市
東奥義塾
4列目村上、 木村、吉沢、 三浦、 小林、 赤石、 ? 、 工藤、 広灘、 小枝、 今井、 佐々木
3列 目 ? 、 工藤 、 ? 、 山本
2列目 増田、 船水先輩、 菊池先生、 今井
前列 成田、 花田、 佐藤、 笹
41
会昭和 38 年
第 18 回 北 日 本陸 上競技選手権兼第 2 回搾峰地区春季高校対抗選手権大会
昭和 38 年 5 月 3 日
弘前市営
800 米リレー
第 l 位 束奥義塾
ド 4 1 "9
棒高跳び
第4位
一戸春之
学校対抗総合得点
第4位
東奥義塾
第 16 田県下高校総合体育大会
三段跳び
第 l 位
走りi幅跳び
槍投げ
第3位
昭和 38 年 6 月 2 1 ...... 2 4 日
村上仁
第l位
2 米 90 (大会新)
八戸市
13 米 09
村上に
6 米 52 (大会新)
村上俊造
昭和 38 年度県陸上競技選手権大会兼第 16 田県高校陸上競技選手権大会
昭和 38 年 9 月 22"'23・29 日
青森市
学校対抗総合得点
第6位
東奥義塾
女 昭 和 39 年度
第 19 回北 日 本陸上競技選手権兼第 3 同津怪地区春季高校対抗選手権大会
昭和 39 年 4 月 26 日
弘前市営
800 米
第 l 位 柴 田 由 明 2 ' 16"7
砲丸投げ
円盤投げ
第2位
第 l 位
猪股
村上俊造
第 3 回大鰐~浅虫問駅伝競走
高校の部
第6位
昭和 38 年 10 月 20 日
束奥義塾
第 1 7 回県下高校総合体育大会
800 米
第 3 位 柴 EFI F8明
三段跳び
槍投げ
砲丸投げ
第 2 {立
第3位
第 2 {立
35 米 5 1
昭和 39 年 6 月 20...... 22 日
問村清光
山科大治
村上俊造
42
背森市
女 昭 和 40 年
第 20 回北 日 本陸上競技選手権兼第 4 四津峰地区春季高校対抗選手権
昭和 40 年 5 月 2---- 3 日
兼第 l 回律怪地区中学校対抗選手権大会
400 米
第 l 位
柴聞由明
53"3 (大会新)
800 米
第2位
柴田由明
2 ' 03"0 (大会新)
倫投げ
第 l 位
山谷大治
52 米 83
第2佐
東央義塾
学校対抗総合得点
弘前市営
48.5 点
第 20 聞東北陸上競技大会 県予選兼全国 高校対抗陸上県予選
昭和1 40 年 5 月 22"'23 日
400 米
第 1 位
柴田由明
53"2
800 米
第 l 位
柴田由明
2 ' 07 " 1
1600 米リレー
槍投げ
東奥義塾
第 11 立
十和田市
3 ' 44"4
山谷大治
槍投げ 第 2 位 葛原
学校対抗総合得点 第 4 位
50 米 23
東奥義塾
35 点
第 18 田県 下高校総合体育大会 昭和 40 年 6 月 19�21 日
1 10 米 H 第 l 位 藤 田 静明
16"6
青森市
第 20 回 東北陸上競技大会兼第 49 回 全 日 本陸上競技・ 第 18 回全国高校陸 上東北予選会
昭和 40 年 6 月 1 9"'2 1 日
仙台市
800 米
第 6 位 柴田由明
2 ' 05" 2
走り高跳び 第 2 (立 須藤広光
l 米 70
槍投げ
第4位
学校対抗総合得点
山谷大治
第3位
54 米 70 (大会新)
東奥義塾
8点
昭和 40 年度県陸上競技選手権大会兼第 18 回県高校陸上競技選手権大会
100 米
800 米
第 l 位
第 i 位
柴田由明
柴田由明
昭和 40 年 10 月 2�3 日
5 1 "4 (大会新)
2 ' 03"5
間村清光
1 3 米 43
三段跳び 第 l 位
槍投げ 第 i 位 山 谷 大 治 48 米 46
五種競技 第 1 位
田村清光 2927 点
学校対抗総合得点 第 5 位
東奥義塾 39.5 点
第 20 回国体陸上競技県 予選
400 米
昭和 40 年 9 月 1 2 日
柴田由明
5 1 " 4 (大会新・ 県タイ)
第 16 回全国高校駅伝県予選会
昭和 40 年 10 月 3 1 日
第2位
43
弘前市
十和 田 市
第5位
東奥義塾
2 時間 22 分 28 秒
女 昭 和 4 1 年度
第 2 1 回東北陸ヒ競技大会兼第 19 回全国高校対抗陸上競技県予選会
昭和 4 1 年 5 月 27--- 29 A
第 19 四県高校総合体育大会
昭和 4 1 年 6 月 17""'20 日
卜和田市
青森市
第 2 1 聞東北陸上競技大会 兼第 19 回全国高校対抗陸上競技東北予選会
昭和 4 1 年 6 月 25""'27 円
青森市
女 昭 和 42 年度
第 20 回県高校総合体育大会 昭和 42 年 6 月 23--- 26 日
姶投げ 第 L (立 今 公歩 47 米 70
弘前市
第 22 回東北陸 t競技大会兼第 20 回全国高校陸ヒ競技県予選会
昭和 42 年 5 月 20"'21 日
走り高跳び
給投げ
第3位
第3位
金沢賞久
今 公歩
県営競技場
l 米 60
45 米 08
第 22 回東北陸上競技大会兼第 5 1 回 日 本陸上競技選手権大会東北予選会
昭和 42 年 6 月 1 7--- 19 日
秋凶市八橋
昭 和 4 1 年度県陸上競技選手権大会兼第 L9 回県高校陸上競技選手権大会
昭 和 4 1 fj=- 10 月 1 ""'2 日
青森市
第 22 回北 日 本陸 上競技選手権兼第 6 回津軽地区春季高校対抗選手権
昭和 4 1 年 4 月 29""'30 日
兼第 3 四津i陸地区中学校対抗選手権大会
弘前市
女 昭 和 43 年度
第 2 1 岡 県高校総合体育大会 昭和 113 年 6 月 22--- 2 4 日
1 600 米リレー 第 3 位 点奥義塾
第 22 回国体陸上競技県予選会
昭和 42 年 9 月 3 n
44
青森市
県営
第 42 回県陸上競技選手権兼第 20 田県高校陸上競技選手権大会
昭和 42 年 9 月 3 口
県営
第 23 回北 円 本陸上競技選手権兼第 7 回津軽地区春季高校対抗選手権
兼第 4 四津軽地区中学校選手権大会
昭和 43 年 4 月 27"-'28 日
弘前市
第 23 回 東北陸上競技大会兼 第 2 1 回全国高校陸上競技県予選会兼第 52 回 全 日 本陸 上 競
弘前市営
技選手権県予選会 昭和 43 年 5 月 25"-'26 日
走り高跳び
第 i 位
金沢貴久
1 米 70
第 23 回東北陸上競技大会兼第 52 回 全 日 本陸上競技選手権兼全国高校総体プ、ロック予選
大会 昭和 43 年 6 月 15"" 1 7 円
福島県営
第 8 聞大鰐~浅虫問駅伝競走
第4位
束奥義塾
昭和 43 年 10 月 1 0 日
4 時間 3 1 分 24 秒
※この大会は交通事情などから今大会限りで終わる。
大 昭 和 44 年度
第 22 岡県高校総合体育大会
昭和 44 年 6 月 20"""' 23 日
100 米
第 2 {立 須郷秀規
200 米
第 l 位
老り高跳び
須郷秀規
第 l 位
学校対抗総合得点
第 23 同国体県予選会
23"9
i 米 78 (大会新)
金沢貴久
第6位
八戸市
東奥義塾
22 点
昭和 43 年 8 月 1 1 日
青森市
昭 和 43 年度県選手権 兼 第 2 1 田県高校選手権大会 昭 和 43 年 9 月 2 1 """' 2 2 日
1 米 78 (大会新)
走り高跳び 第 l 位 金沢貴久
青森市
第 24 回北 日 本陸上競技選手権兼第 8 回津軽地区春季高校対抗選手権
昭和 44 年 5 月 3"""' 4 日
兼 第 5 回津軽地区中学校選下権大会
200 米 第 l 位 須郷秀規 23"5 (大会新)
弘前市
第 24 回東北陸上競技大会兼 第 22 回全同高佼陸上競技県予選会兼第 53 回 全 口 本陸 上 競
技選手権県予選会
昭和 ti4 年 5 月 げ"-' 18 日
200 米 第 3 位 須郷秀規 25" 1
1600 米リレー
第 2 (立 東奥義盤
三段跳び
第3位
金沢貴久
3 ' 40"9
12 米 67
45
青森市
第 24 回東北陸上競技大会兼第 53 回 全 日 本陸上競技選手権兼全国高校総体プ、ロック予選
大 会 昭和 44 年 6 月 14""'-' 1 6 日
盛岡 市
200 米
第 l 位
須郷秀規
23"3
昭和 44 年度全国高校総合体育大会
200 米予選
第7位
須郷秀規
昭和 44 年 8 月 1 - 19 日
23"6(失格)
第 23 回県高校総合体育大会 昭和 45 年 6 月 20-22 日
1500 米障害
第 l 位 荒関正紀 4 ' 38 " 1
第 24 回国体県予選会
走り高跳び
第 l 位
昭和 44 年 9 月 6 日
金沢貴久
群馬県
県内 8 市町村
青森市
1 米 70
昭 和 例 年度県選手権兼第22 岡県高校選手権大会
昭 和 44 年 9 月 20-21 日
青森市
女昭和 45 年度
第 25 回北 日 本陸上競技選手権兼第 9 回津怪地区春季高校対抗選手権
昭和 45 年 5 月 2-3 口
弘前市
兼第 6 回津怪地区中学校選手権大会
第 25 回東北陸 ヒ競技大会兼第 23 回全国高校!嘩 t競技県予選会兼第 54 回 全 日 本陸上競
技選手権県予選会 昭和 15 年 6 月 6""'-' 7 日
青森市
1 500 米障害
第 i 位
荒関正紀
4 ' 39"6
第 25 回東北陸上競技大会兼第 54 回 全 円 本陸上競技選手権兼全国高校総体東北ブ、ロック
仙台市
予選大会
昭和 45 年 6 月 27-29 日
カ昭和 46 年度""'47 年度
第 24 回 県高校総合体育大会
昭和 46 年 6 月 [ 9 - 2 1 日
昭和 何 年度県選手権兼第23 回県高校選手権大会
1500 米障害
第 l 位 荒関正紀 4 ' 39"。
第 25 同 県高校総合体育大会
昭 和 46 年 9 月 1 2 - 1 3 日
昭和 47 年 6 月 l 6 - 1 9 日
46
青森市
青森市
青森市
昭和 46 年度県選手権兼第 24 田県高校選手権大会
第 27 岡北 日 本陸上競技選手権
昭和 47 年 4 月 29,..,_ 30 日
第 27 回 東 北 大 会 兼全国高校県予選
第 27 悶東北陸上選手権大会
第 25 回県高校選手権
昭和 46 年 9 月 18'" 19 日
弘前市
昭和 47 年 5 月 19"'21 日
昭和 47 年 6 月 24 日
昭和 47 年 9 月 16'" 1 7 日
青森市
青森市
青森市
昭和 48 年度
第 26 田県高校総合体育大会
4 X 100 米 リ レ ー
第3位
昭和 48 年 6 月 1 5--- 18 日
束奥義塾
第 28 回東北大会兼全国高校県予選
第 27 回県高校総合体育大会
青森市
昭和 48 年 5 月 1 8--- 20 日
昭和 48 年 6 月 14"-' 1 7 日
青森市
青森市
第 28 回東北陸上選手権大会兼第 26 回 全国高校東北予選
昭和 48 年 6 月 23"-'25 日
第 28 回国 体県予選兼ジュニア選手権大会
第 26 阿県高校選手権大会
第 4 回東北選手権
昭 和 48 年 8 月 1 9 日
昭和 48 年 9 月 1 5--- 1 6 日
昭和 48 年 9 月 29----- 30 日
第 13 回搾I隆高校新人
昭和 4.8 年 10 月 5"-'6 日
八戸市
五所川原市
仙台市
弘前市
昭和 49 年
第 29 回北 円 本選手権大会
第 1 由春季県選手権大会
昭和 49 年 5 月 3 日 ""4 日
昭和 49 年 5 月 1 2 円
第 28 田県高校総合体育大会
第 29 回国体県予選大会
弘前市
青森市
昭和 49 年 6 月 1 3--- 16 日
昭和 49 年 9 月 3 1 日 "' 10 月 1 R
47
秋田市
弘前市
八戸市
青森市
県選手権大会
昭和 119 年 9 月 1 4 '"'- 1 5 円
県 20 キロ、 高校 1 0 キロ秋季選手権大会
10 キロ
第2位
小山内忠好
第 111 回津軽高校新人
五所川原市
昭和 49 年 9 月 29 日
青森市
1 時間 15 分 59 秒
昭和 49 年 1 0 月 5'"'-6 FI
弘前市
昭和 50 年度
第 3 1 図北 日 本選手権兼第 1 4 回津怪地区中学校選抜選手権大会
昭和 50 年 5 月 3 日 ...... 1 日
槍投げ
第2位
成田
槍投げ
第2位
4 7 米 78
昭和 50 年 1 0 月 4----5 日
津怪地区高校新人大会
弘前市
弘前市
成田
昭和 5 1 年度
第 32 回北 日 本選手権兼第 1 5 回津軽地区高校対抗兼第 1 2 回津怪地区rド学校選抜選手権
大会 昭和 5 1 年 5 月 2'"'-3 日
弘前市
槍投げ
第3位
成田
第 3 回春季県選手権大会
48 米 58
昭和 5 1 年 5 月 1 1"" 1 2 日
弘前市
槍投げ 第 2 位 成 田
5 1 米 90
第 29 回県高校総合体育大会 昭和 5 1 年 6 月 18...... 2 ] 日
県下全域
昭和 52 年度
第 33 回北 日 本選手権兼第 1 5 回津軽地区高校対抗兼第 1 2 図体i陸地区中学校選抜選手権
弘前市
大会
第 5 1司春季選手権大会
昭和 52 年 5 月 13'" 1 5 日
第 30 回全国高校選手権兼東北大会県予選
第 30 四県高校総合体育大会
青森市
昭和 52 年 6 月 3---- 5 日
昭和 52 年 6 月 17'"'-20 日
48
県下全域
青森市
昭和 52 年度県選手権大会
青森市
昭和 52 年 9 月 1 0,....._ 1 1 円
昭和 52 年度県高校新人選手権大会
昭和 52 年 10 月 23"-'24 日
青森市
昭和 56 年度
昭和 56 年 10 月 3 1 日
昭 和 56 年度県高校駅伝競走
5 区 (3 キロ)
太 田 勉 9 分 43 秒 (区間最高記録)
木造ー卓力関
昭 和 57 年 度
第 37 回北 日 本選手権大会
槍投げ
第3位
第 35 田県高校総体
第2位
倫投!f
昭和 57 年 4 月 28"-'29 日
佐々 木克尚
47 米 78
昭和 57 年 6 月 1 1 "-' 1 5 日
第2位
佐 々 木克尚
昭 和 57 年度全国高校総体
槍投げ
青森市
佐 々 木克尚
昭和 57 年度東北高校陸上競技大会
槍投げ
弘前市
昭和 57 年 6 月 18"'20 Fl
111形 市
56 米 68
昭和 57 年 8 月 1 ----- 1 1 日
鹿児島県
佐 々 木克尚 記録なし
第 37 回国体陸上県予選
槍投げ
第l位
昭 和 57 年 9 月 4"'5 口
佐 々 木克尚
青森市
57 米 16
第 7 回県高校新人陸上対抗選手権大会兼第 2 @北東北三県高校新人陸上大会県予選会
昭 和 57 年 9 月 23"-'24 日
青森市
槍投げ
第 l 位
佐々木克尚
第 37 四国民体育大会秋季大会
少 年男 子 A
l昭和 57 年 10 月 3"'8 円
槍投げ 佐 々 木 克 尚
昭和 57 年度県陸上選手権大会
槍投げ
56 米 02
第2位
島恨県
55 米 96 (予選敗退)
昭和1 57 年 10 月 1 6 "-' 1 7 円
佐々 木克尚
49
青森市
昭和 58 年度
第 38 回北 日 本陸上競技選手権大会
三段跳び
槍投げ
第3位
第3位
第 36 回県高校総体
槍投げ
第2位
増 田 友昭
佐々木克尚
第4位
昭和 58 年 6 月 10'"'-' 13 日
予選
青森市
佐々木克尚
佐 々 木克尚
佐 々 木克尚
昭和 58 年 6 月 1 7....... 1 9 日
仙台市
56 米 68
昭和 58 年度全国高校総合体育大会
槍投げ
弘前市
4 7 米 78
昭和 58 年度東北高校陸上競技大会
槍投げ
昭和 58 年 4 月 29"'30 日
1 2 米 83
昭和 58 年 8 月 1 '" 1 1 日
愛知県
52 米 64 失格
第 38 回国体陸上県予選 昭和 58 年 9 月 10"-' 1 1 日
少年男 子 ß 100 米
第3位
三橋
11"
青森市
昭 和 59 年度
第 1 1 回東北総体陸ヒ大会 兼第 1 5 回東北陸上選手権大会県予選選考会
昭和 59 年 7 月 14"'- 1 5 日
八戸市
走り高跳び
第3位
一戸孝一
第 39 回国体陸t県予選 昭和 59 年 9 月 8""9 日
弘前市
少年男子共通 走り高跳び 第 l 位 一戸孝一
l 米 91
一 一
昭和 59 年度県陸上選手権
昭和 59 年 9 月 22"'23 日
戸孝
走り高跳び 第 2 (立
一 一
一 一
青蘇市
第 9 回県高校新人陸上選手権大会兼第 1 IPI北東北三県高校新人陸上大会県予選会
昭和 59 年 9 月 29"'30 口
青森市
走り高跳び 第 l 位
戸孝
l 米 85
昭和 59 年 10 月 24 日
第 4 同北東北二三 県高校新 人陸 上大会
走り高跳び 第 3 位
戸孝
l 米 85
50
大館市
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え
大仰 泉 ヤ マ J二 分 官官
代表 菊 池 昭 義
(昭和24年度卒)
青森県南津軽郡大鰐町大字大鰐字湯野川原8
曾 01 72-48-2970
⑨ 思い出誌新IJ
聖 業 鉄 筋工 事 一式
室岡
代表取締役 工 藤 勝 夫
北津軽郡板柳町大字三千石字木賊1 08-2
TEL 01 72-73-3506
Fax 01 72-73-2624
携帯電話 090-1 499-4981
55
(昭和37年度卒)
思 い 出 誌発刊
免殺エ事へ 、 臭心 を こ め て 奉仕 す さ
(有) テ ィ ー エ ム 建商
代表側役
増 田 友 昭
(昭和37年度卒)
弘前市大字義今子字宮本278-2
Th. 0172-26-2223
Fax 0172四26-2223
⑩ 思い出誌発刊
土木工事一 式 ・ 建設機械 リース
産業廃棄物収集運搬業 ・ 処理業
有限会社 弘 前 重 機
代表取締役 須 藤 康 光 (昭和41 年度卒)
弘前市大字品川町1 70番地4
' 0172・27-4001
私たちの貴重な資源
再び社会に役立てるために
リ サイ クルは大切です
資源リ サイクル処理施設所在地
弘前市大字小比内字福田葱145
56
⑨ 意表君臨
義 洋 館
白神大権現
和風ペンション
合施設:木造2階建て
合客室:和室5室 洋室2室(金室冷暖房完備・テレピ有)
*収容可能人数: 26名
会その他設備:食堂、浴室、カラオケ、来夢工房
七 戸 英 城 (昭和46年度卒)
〒 038-2202
青森県西津軽郡深浦町大字岩崎字浜野315
�017与刀・2758 (FAX兼)
女駐車場完備
会庭園(費支歩道〉
吹奏洋館農園
合昼のお食事 12時-2時(4月中旬-10�)
会宿泊 : 1 治8500円~
会宴会:御一人機25∞円から
*昼の御食事:美洋館定食 1800円
各種定食 18∞内
さざえつぼ焼き5∞円
⑩ 思い出誌発刊
ばん よ う
東奥義塾剣道部宿舎
笹
憎 隆 〈昭和37:年度率〉
弘前市石川字書仕内5-3
lB.0172-m.恒例56
57
堂
思 い 出 誌発刊
安心 ・ 快適 な サ ー ビ ス
高 齢者専用 住宅
(昭和35年度卒)
施設長 持 苗 亮一
弘前市大字宮川1 3丁 目 15-2
To. 0172-35-6631
F鉱 0172-33-8179
@ 思い出誌街IJ
有限会社 ウ エ ル パ ー ク
有限会社 億
商
代表取締役 蒔 苗 亮一
弘前市大字宮}11 3丁 目 15-2
To. 0172-35-6631
Fax 0172-33-8179
58
〈昭和35年皮卒〉
求奥義塾陸上競技部 O B 思 い 出誌の発刊 お め で と う ご 5 い ま す
O B の 皆様 の ご健勝 を 祈念 い た し ま す と と も に
来 奥 義 塾 の 益 々 の 発展 を お 祈 り 中 し よ げ ま す
大 瀬
総
豊
(昭和29年度卒)
東奥義塾陸上競技部
守空ノ 思 い 出 誌発 刊
芹 川 和 栄
(昭和3 1 年 度卒)
⑧ ぷてま三3ぬ
村 上
⑨
イニ
(昭和39年度卒)
東奥義塾陸上競技部
思 い 出 誌発刊
寺 田
武 (昭和35年度卒)
⑧ 求問問技部
思 い 出 誌発刊
藤 本 清 栄 (昭和36年度卒)
⑨
東奥義塾陸上競技部
思 い 出 誌発刊
工 藤 貢 三 (昭和35年度卒)
⑧ 求問問技部
思 い 出 誌発刊
持 苗 亮 一 (昭和35年度卒)
59
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]11 奥義敏陸上続J支部(Oß)の思い出誌
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情 成・印 刷
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