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作家・芹沢光治良 小串 信正
英文紹介原稿 エ クリ ヴァ ン せ り ざ わ こ う じ ろ う 作家・芹沢光治良 =世界文学としての芹沢文学= お ぐ し 小串 の ぶ ま さ 信正 文芸評論家 芹沢文学研究会(代表) 芹沢文学・大分友の会(代表) 2004 年(平成16年)7月14日識 作家・芹沢光治良は、1896(明治29)年5月4日に静岡県駿東郡楊原村(現沼津 市)我入道に生まれ、1993(平成5)年3月23日東京都中野区東中野で亡くなりま した 。享年96歳。明治・大正・昭和・平成と 、日本の激動の時代を生き抜いた作家です 。 本名は 、「みつじろう」でしたが、筆名では「こうじろう」と音読しています。我入道 の網元の家に生まれましたが、幼少期に父母が天理教の信仰で、財産を教団に寄進し、布 教師として家を出ましたので、貧困の生活を強いられます。祖母に懐いていた光治良は家 に残されましたが、これを父母に捨てられた思い込み、深い精神的な傷を負います。 漁師にさせられそうになりますが、向学心に燃え、親戚の援助で、沼津中学に進学しま す。一時、代用教員をして資金を蓄え、一高に合格します。苦心しながら一高から東大の 経済学部に進学します。一高二年の時、文芸部の委員に選ばれ、校友会雑誌に処女作「失 恋者の手紙」を発表しました。これが切っ掛けで、フランス語の石川剛先生からメリメの 小説の共訳を求められたり、一年後輩の川端康成との交流も生まれました。しかし、大学 では文学部に進学しませんでした。文学の習作は続けていましたが、大学在学中に高等 文官試験に合格して、卒業後は農商務省の官吏になります。エリートコースを歩いていた 芹沢光治良は、失恋したこともあり、休職して、フランス(パリ)のソルボンヌ大学に留 学します 。ペールと親しんだ石川助三郎の勧めで、名古屋の藍川清成の長女金江と結婚し、 一緒に留学したのです。この半生は、自伝小説『男の生涯』などに書かれています。 フランスの文化に憧れ、専門の社会科学(経済学)だけでなく、文学・音楽・美術など の文芸にも熱中した無理から、大学院の卒業論文を完成直後に結核に倒れます。フランス やスイスの高原療養所で闘病中に、フランス文学を精読します。文学に生きる道を求め、 作家になることを決意します。この経過は、中期三部作『孤絶 』『離愁 』『故国』に詳細 に作品化されています。 1928(昭和3)年の秋に帰国し、やむなく中央大学の講師として貨幣論を教授する ことになりますが、雑誌「改造」の懸賞小説に 、「ブルジョア」を書いて応募します。そ れが、1930(昭和5)年の4月に一等に当選しました。しかし、帰国後10年間は結 核療養に努めていましたから、文壇的な交流を避けていました。1931年の4月から6 月にかけて東京朝日新聞に連載した長編小説『明日を逐うて』が中央大学で問題となり、 大学教官を止めて、作家活動に専念することになりました。バルザックの作品を翻訳した り、新聞に連載小説(初期三部作『春箋』『秋箋』『愛情の蔭』)を書いたりします。 長編小説『命ある日』を書き下ろし出版したあと、闘病生活をゆるめ、1938年の4 月から3ヶ月間、中国の戦地を取材して、長編小説『愛と死の書』を書き上げます。この 作品で、文体を確立させ、作家として自立しました。この頃より、学生達が書斎に集うよ うになりますが、「アランの会」は敗戦まで続けられました。 1941(昭和16)年の7月に、これまでの半生を自伝小説『男の生涯』に書いて出 版しました。太平洋戦争になると、作品を発表する機会がなくなりますが、1942年の 1月から12月の一年間、雑誌「婦人公論」に連載した長編小説『巴里に死す』は、芹沢 文学の代表作の一つとなり、ロングセラーでもありますが、名作として評価されています。 1943年の5月から一年間、雑誌「天理時報」に連載された長編小説『懺悔記』は、 戦中に書かれ、戦後に出版された代表作の一つです。戦中から戦後に、雑誌「文学界」な どに連載されたのは、中期三部作と言われる『孤絶 』『離愁 』『故国』で、フランス留学 と結核闘病の体験が書き込まれた代表作の一つです。1945(昭和20)年の5月に東 中野の家が空襲で罹災します。それで、中軽井沢の別荘に疎開したのです。戦中は、キリ スト教や天理教の研究を続けます。 戦後は、広尾に仮寓したり、世田谷の三宿に借家して創作に専念しました。多くの短編 小説や長編小説を書きこみますが、1951(昭和26)年の4月にスイスのローザンヌ で開催される世界ペン大会に日本代表として出席するために渡欧します。この7月にパリ のロベール・ラフォン社と『巴里に死す』の仏訳出版の契約を結びます。1953年の9 月に、その仏訳が出版されると、反響があり、新聞等で絶賛され、商業的にも成功しまし た。スイスで豪華本、ベルギーで文庫本でも出版されました。ベルギーで読者賞を受けま した。ロベール・ラフォン社からは 、『サムライの末裔(一つの世界)』や『アイダ婦人』 (巴里婦人)』も続けて仏訳出版されました。 これらの作品により、フランス詩人連盟より友好国際大賞が授与され、ノーベル文学賞 の候補にもあげられました。 戦後には、この他に、『祈願 』『未完の告白』『夜毎の夢に』『結婚 』『花束』『春の谷間』 『ここに望みあり 』『清き泉を掘らん 』『麓の景色 』『愛と死の蔭に 』『女に生まれて 』『パ リ留学生 』『運命の河 』『坂の上の家 』『教祖様 』『海沿いの道 』『告別 』『きいろい地球』 などの長編小説と多数の短編小説や随筆が書かれました。 1961(昭和36)年の4月に肺ガンの入院検査をして、異常のないことが判明する と、かねてから念願であった、大河小説『人間の運命』にとりくむことになります。ジャ ーナリズムで死ぬことを覚悟して、全ての注文原稿を断り、書き下ろしで創作することを 決意したのです。まずは、中国の作家巴金との約束であった長編小説『愛と知と悲しみと 』 を書き下ろし出版して自信を付け、大河小説に取り掛かったのです。 1962年に第1部第1巻『父と子』を新潮社から出版し、1年に2巻づつ書き下ろし ていきます 。『友情 』『愛 』『出発 』『失われた人 』『結婚 』『孤独の道 』『嵐のまえ 』『愛と 死 』『夫婦の絆 』『戦野に立つ 』『暗い日々 』『夜明け』を書き、1968(昭和43)年 の11月に第3巻第2巻『再開』を書き上げました。この14巻に対して芸術院賞が与え られました。 その後、健康が回復すると、長編小説『われに背くとも』を書きますが、1970(昭 和45)年の5月に故郷の沼津市の我入道の松林の中に「芹沢文学館」が建設開館されま した。この年の末に芸術院会員となります。 1971年に大河小説の終章『遠ざかった明日』を書き、1973年に序章『海になる 碑』を書き上げ、大河小説『人間の運命』を全16巻で完成させたのです。 大河小説『人間の運命』は、芹沢文学の集大成ですが、森家と石田家の人々を中心に、 明治・大正・昭和の激動の時代を背景にした「市民小説」です。戦後の日本文学を代表す る大河小説で、世界に誇るべき作品であると私は評価しています。 この後、長編小説の『狭き門より 』『死の扉の前で 』『愛の影は長く』などを書いたあ と、金江夫人を癌で亡くし、死の準備を始めますが、最晩年(90歳代)に、神や信仰に ついて直接に書いた宗教小説の連作に取り組みます 。 「神の書 」として連作『神の微笑み』 『神の慈愛 』『神の計画 』『人間の幸福 』『人間の意志 』『人間の生命 』、『天の書』として の連作『大自然の夢 』『天の調べ』を書き上げたあと、連作の最終巻の第四章を書いてい て、老衰のために急逝します。この連作は、未完に終わりましたが、内容的には書き尽く しています。21世紀の人類への遺書とも評価されています。 作家生活63年間に創作された全ての作品や著作「芹沢文学」と総称していますが、膨 大なものです。その代表作品は『芹沢光治良文学館 』(全12冊)として没後に新潮社か ら出版されましたが、まだ全集は出されていません。現在、文学愛好会で『芹沢光治良書 誌』が編集されています。 芹沢光治良は、官吏・社会科学者から作家になった得意な経歴を持っていますが、結核 療養やその気質から、文壇の外にあって孤高に創作を続けました。しかし、全く孤立して いたわけではありません。文芸家協会の理事や日本ペンクラブの最初からの会員で、初代 の会長島崎藤村から会計主任を依頼され、戦後に、川端康成のあと五代の会長となり、1 972年11月に「日本文化研究国際会議」の議長として尽力しました。 1968年2月にスウェーデンアカデミーよりノーベル文学賞推薦委員に選ばれ、19 74年9月にフランスから日仏文化交流の功労者としてコマンドール章が贈られました。 芹沢光治良は戦前には「同伴者作家」や「自由主義作家」と言われたりしますが、新興 芸術派の同人誌「文学界」に参加していました。しかし、流派にとらわれずに孤高に書き 続けました。ですから、文壇的な文学史に、未だに位置づけられていません。それで、私 は日本近代文学史に 、「良識派」の流れを設定して、その代表として芹沢光治良を位置づ けています 。「良識派」は、森鴎外や夏目漱石の「余裕派」から、有島武郎や武者小路実 篤などの「白樺派」の流れで、先駆者を島崎藤村とし、野上弥生子と芹沢光治良をこの派 の双璧と考えています。この流れに大江健三郎など二三の現代作家を位置づけています。 「良識派」は、高い知性と教養を持ち、自己を書き続け、大河小説や自伝的な長編小説の 連作を書き、単なる小説家ではなく作家(エクリヴァン)の自覚で創作するという特徴を 持っています。ですから、人生探求者(モラリスト)でもあるのです。 芹沢光治良は、フランス(パリ)に留学し、デュルケム学派の社会科学を学びますが、 結核闘病中にバルザック以降のフランス文学を読破して作家になることを決意したよう に、実は世界文学としてのフランス大河小説派に繋がっているのです。バルザックの「人 間喜劇」を源流とし、ゾラの『ルーゴン・マッカール叢書 』、ロマン・ロランの『ジャン ・クリストフ 』、プルーストの『失われた時を求めて 』、マルタン・デュ・ガールの『チ ボー家の人々』、ジュール・ロマンの『善意の人々』、デュアメルの『パスキエ家年代記』 などの大河小説派と言われる流れに直結しているのです。大河小説の『人間の運命』は、 世界文学の自覚を持って創作されたのです。ですから、日本文学を越えて、世界文学とし て「芹沢文学」を評価していかねばならないと私は思っています。 最近 、『巴里に死す』や『男の生涯』などがロシア語に翻訳されて出版しましたが、す でに下訳されている『愛と死の影に』をフランス語訳で出版し、その勢いで、大河小説『人 間の運命 』(全16巻)がフランス語訳されることを念願しています。 英語訳としては、戦前に短編小説「大鷲」が翻訳されただけではないかと思います。イ ンターネットの世界共通語は、何といっても英語ですから、今後は芹沢文学の代表作を英 訳して単行本として出版しなければならないと思います。そして、いつの日か、大河小説 『人間の運命 』(全16巻)が英訳され、全世界の人々に読まれるようになることを期待 しています。 芹沢文学の愛読と交流の場は 、日本各地に持たれていますが、インターネットを通して、 地球上の様々な地で、愛読と交流の輪が広がることを夢見ています。 芹沢文学の「忍耐」と「希望」の精神 、「良識」と「誠実」の信条は、国境や民族を越 えて受け入れられると思います。 (おぐし のぶまさ・芹沢文学研究会代表)