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Title Author(s) Citation Issue Date Type フリードリッヒ バルバロッサといわゆる「ローマ法の理 論的継受」 勝田, 有恒 一橋大学研究年報. 法学研究, 6: 225-336 1966-03-30 Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://doi.org/10.15057/10109 Right Hitotsubashi University Repository フリードリッヒ バルバロッサと いわゆる﹁ローマ法の理論的継受﹂ 文献略号 勝田有 り フリードリソヒ バルバ・ッサといわゆる﹁・ーマ法の理論的継受﹂ 二二五 因o<一〇≦UH<︵一80︶ 囚08覧R目国国○ε甘9即aΦ泣畠閃鴛げ舘○ω駕き伍90の畠oo一ω○隔國〇一〇讐2臼ぎ国お房げ閏巨○該o巴 囚一焦①一口≦巴島Φ畦ω畠即津ω一α8ロβq國呼⇒ユ艮εo犀江ぎ閃8ロ一翫℃ NカOのこ頓一︵一3一︶ 黒漢↑Φ暑巴α①η型≦勧駐8暑aαgu一。のΦωΦ奮αΦω因⑦酵鋒αq①のく自国g。巴置<。B=ゑ。く昌ご。。 閃算曾旺い浮吋R﹄。お。げ自典窪国弩幕酵の己&因8巨のαQ①ω&曇①H琶蓉ω一。。ひ。。−一。。郵一壁のげ凄臭 一〇一ξ昌槻oロ軌昌,︵GひミN︶の↓騨凶 な旦下昌︾暑①一け﹄膏α旨げ田3鷲。馨茸α鼠。。3目ぎぽ寄&f家邑ω。冨震馨岳畠①匡? 恒 づ 一橋大学研究年報 法学研究 6 二二六 竃の国OO口馨.H 冒Oβ荏B①昌幹騨OR目蟄ロすO国一の8㎏O暫OO昌ω鼠けβ試○昌①ω のの11のOユ℃8HΦの の9巨鳳日囚’閏ω窪目鳳−ω↓①コ鼠けPU一Φ男990。犀魯自一Φお国Pρ因aωΦ霊詩βロ幽きαoω一〇‘一い一葺幽旨・ ︸匡ω︸︾亀oP一8鼻 問8一ωぎのoP閑餌げo乏ぼ目 ○け8ぐ,蜀冨δぎ磯ロ旨山閃卑げΦ≦ぼ一Uδ↓跨窪男詠a詠oげω︵︾βのαqo≦餌匡けΦ OロΦ一一窪N貰qo暮の昌窪080匡o算Φ山①の冒一#巴巴$諺ω阜図く目yU鷺日器鼠山け一〇象 OHOo■αq一■︵︾︶ ”O&Φき∪蒔Φω寅︵︿Φ9ρH蔑o誹壁9筥9けo︿賃旨yく〇一ロヨ窪一ΦαQ賃目℃鷺ロ信目一ピロoq山亭 昌︷ 属U︼﹃﹀︻H一 90。、αq一。︵国︶目u﹂塁ぎ庫器一巨需舅8岳o讐ω。憎暦鼠窪建旨霧℃8器9①旨旨ヨ2。8日覧Φg窪幹 ρ9ρ仁Φ︿〇一日一巳げロの象警一βoけ益B樽くΦbo菖跨Φ冒UOく一 は じ め に ・iマの皇帝達はフリードリッヒ バルバ・ッサの先 る。この理念はよく・iマ法の理論的継受と記されるが、 この理念の当時の牽引力を軽視してはならない。 、 サ 祖であり、前任者である。従ってローマ法は皇帝法であ う コシャカーー ネ ∫◎ フリードリッヒ バルバ・ッサといわゆる﹁・ーマ法の理論的継受﹂ 二二七 ても、それは西・ーマ帝国滅亡後の長大な法の歴史における、あまた個別的な、・ーマ法の何らかの痕跡を尋ねる結 の継受を、ローマ法の影響と解するなら、たとえそれがドイツで特に著しいということを付け加えて考えてみるにし 受の概念か、非常に不明確であり、何を以てその﹁理念型﹂とするのか、判断に苦しんだのであった。若し・iマ法 カつて、筆者が、ドイツにおけるローマ法継受をテーマとして、その学説史の整理を行った際にも、・iマ法の継 ︾ ︵2︶ 継受という総括的な概念のもとに、両者の整理がなされているわけでもない。 とが、並記されているが、両者の関連はもとより、前期継受の実体が提示されているわけではなく、またローマ法の 法との関連を廻る代表的かつ含蓄の多いものと考えてよかろう。ここには、理論的継受とミッタイスのいう前期継受 ここに引用した、・・ッタイス﹁ドイツ法制史概説﹂中の記述は、ドイツ皇帝フリードリッヒ バルバ・ッサとローマ 呼ばない方がよい。ーH・ミッタイスー 継受︵くo時お器讐一9︶であるが、これは帝国に明瞭な利益をもたらしたものであるから、︹単なる︺理論的継受とは ︵−︶ ぶことによって訓練を積んだボ・ーニャの註釈学者達を、自己の立法のために協力させている。これがいわゆる前期 スティニアーヌスの・iマ法大全に付加しているのである。バルバ・ッサは、十一世紀に再発見された学説彙纂を学 帝国理念は・ーマの諸皇帝をドイツ皇帝の先任者とみた。フリードリソヒ一世及ぴ二世は、自分達の法律をユ ぐ 一橋大学研究年報 法学研究 6 臼二二八 果となり、法律的用語の沿革史的叙述に陥いる危険を充分にはらむものであろう。今次大戦後、E ゲンツマー、F ヴィアッカー両教授によって提示された、ドイツ法史における司法の担い手の学間化<。聴註の.①昌。。げ9窪一&β、一吸のテ ㎏が︶は・こうした危険からドイツ近世私法史を護り、更に、ヨi・ッパ法史の構想に、P コシャカーの視角共々、 比較法史的アプローチをより有効なものとする概念装置を提供するものといえるであろう。﹁学問化﹂の問題を中心 に置くならば、それは従来の・iマ法継受史の実務的継受肩舞苗。ぎ胃98試9を主として包摂するものであるが、 これによって、従来問題とされてきた実務的継受以外のもの、例えば早期継受男旨穿98試8、前期継受あるいは理 論的継受爵88江8富因①器讐δ昌としてとらえられたものは、どのように整理さるぺきであろうか。もとより、そ れらのすべてが、この﹁司法の担い手の学間化﹂の中に、吸収され得ないことも充分に考えられる。 の一部分はドイツ法に、一部分は・ーマ法に由来するものである。﹂として、実際的な面でのローマ法の採用を明示 フリードリッヒ バルバ・ッサの立法就中レガーリエンの法律を前期継受と考える、・・ッタイスは、﹁ア︼れらの権利 ︵4︶ しており、この意味で理論的継受との区別は、明確である。すなわち、理論的継受とは、中世法における理論と実際 臼ぽ○ユ①偉β臣ギ貰δとの特異な対応関係を反映するかのように、実務的継受と対照する意味で概念が設定されたも ︵5︶ のと推測されるし・蓬→鴛以来・。マニス南桧統す旛えていると晃え歪と奮番う.すなわち、 鰯 これは、ドイツ皇帝は・ーマ皇帝の末商であるのだから、ローマの皇帝法︵ユスチニアヌスの法典︶もまたドイツ皇 ︵7︶ 帝の法すなわち、帝国法・皇帝法であるという理論の存在を指し、それはまさに理論的なるが故に、ローマ法の実際 レ 上の効力とか、適用の具体的な事例とは︵一応?︶無関係なものとして、観念されてきた、と考えてよいであろう。 う 卿 フリードリソヒ バルバ・ッサといわゆる﹁ローマ法の理論的継受﹂ 二二九 ︵5︶謹コ<・写。ごo。。・。一首げけ&。乙①塞。冨昌o。舞N凶。げ=夷る鐘護Φ三。q。。払§ ︵4︶ 頃’冒一9①量①σΦロα2ψo。U、世良訳一七九頁。 ︵3︶ ヴィアッカー・鈴木訳﹁近世私法史﹂一二五頁。 号所収。 ︵2︶ 拙稿﹁十九世紀末に至る普通法論的ヵo器営一8論﹂一橋論叢四九巻三号、同﹁殉ΦN8江8論・視角の展開﹂同五〇巻六 参 照 。 ︵1︶ 串竃曲雰。一の,国■=Φ竃目一。ダU。ロ駐。げ。因①。窪詔80匡o巨ρ轟.︾仁ヰの。まρ 世良晃志郎訳﹁ドイツ法制史概説﹂三三七頁 * り囚8昌爵oツ国ξo冒βロα鼠ω&gδ畠Φ園①o馨−冒ゆ昌畠霞一〇ミ一の●8。 リでなく、事実の面でもその前提となるべき歴史的事実であったことを指摘したい。 ヤ ヤ ヤ ヤ るものを、歴史現実の面に引き降ろして、最早理論ではなく、事実が、後年の実務的継受とどう関連するのかを考察 パのロ して後、従来理論的継受を実務的継受の思想的前提とする考え方に対して、実はこれはたんに思想的前提としてぱか ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ そこで私は、バルバ・ッサ時代の﹁ローマ法の影響﹂なるものを具体的に再検討し、更に﹁理論的継受﹂といわれ ベたが、こうした発言も、上述のことと密接な関連を有していると考えられる。 ハ ロ る。すなわち、ヘルマン クラウゼ国雪目きけ囚冨屋oは、﹁皇帝法﹂は継受史にとってト・ヤの木馬である、と述 混同、ないしは理論的継受概念の不明確化を招き、ひいては継受史研究の混乱をさえ惹き起す可能性を孕むものであ の時代の史料に基づいて発想されているため、両者が二重写しになりがちであり、実際的な継受と理論的な継受との とア一ろが、前期継受と理論的継受は、ともにシュタゥフェン後期、特にドイツ皇帝フリードリッヒ バルバロソサ ぐ’ 一橋大学研究年報 法学研究 6 、二三〇 ︵6︶爵馨頁ぎ蜜。ぼ濤量寄げ雪露昌ω。藝邑言<・厩・,一け鋒Φ口こΦ昌p蒙払$当時の歴墨義的薯 え方からすれぱ、・ーマ法U皇帝法という理論の存在の古さが・マニステンにとって極めて重要であったに違いない。 ︵7︶例え驕。甕罠霧更四鳶喜巨量婁§・る・・屠置け①塞一霧・・。ひ崔①一ω昌一昌蟄づ昌・影賊国一ロh一二a 舅旨旨。げ聲因Φ受塾β塗α。β§げ。ω舞霞・。げ江。。ご廉一きαQΦ亀葺唇僻ψ§中 ︵8︶例えばミダイスは次のよう罷している、﹁政治的にも・−マ法は利用された、ハインリッヒ五世はイルネリゥスをロ ーマに伴ない・教会に対して皇室の主張を弁護せしめた。こうした動向の頂点はシュタウフェン期に現われる。すなわち帝 国の自負はその最高潮に達し・−−コンス多ツの二五三年の協約は、董管皇霞との間の最初霜藷奮約であ り・また。ン召アの黎は帝国藩利を列挙し奄のであるが、え皇その例を見出す.・ンカリアの勅法は、器的 継受といわれるが﹄あ云い方はその夢充分長くしてい蘇、というのは、皇帝権の新らたな理論上の高揚のみならず、 同時に実際上帝国の財政収入の著しい増架あったからである.﹂︵国当琶的知。。匡ω痒。Φ一目q。同。①ω.匡。馨。ψ診 ︵10︶ 拙稿﹁因o器讐δ昌の素描﹂一橋大学法学研究4、=一一五頁以下。 ︵9︶旨国藝のρ困一ωΦ§。げξ注寄N①旨。三馨・ψ一ω・ 彼かく言う第四の獣は地上の第四の国なり是は一切の 国と異なり全世界を併呑しこれを踏みつけかつ打破らん ーダニエル書第七章1 聖 バルバ 。ッサのレガーリエン政策 ▽ ・◎﹃ * * * 皇帝よ! 貴方に法律はかく断じた 何処でも貨幣を貴方に捧げ 貴方を護り、不満をさえ服せしめると。 河も森も獣も国王の権利となり 岸も港も沼地も国庫に資する。 すべての畑が租税を支払い すべての家畜も公の権利となり すべての破臼は法によって粉を支払い 漁網、船、船具のすぺても公権に属する。 皇帝としての義務 二れを貴方以外の誰が負おう 世界の栄誉は、終始貴方のものであり ある栄誉は、貴方が与えることで ようやくその価値があらわれる。 貴方は生ける法であり フリードリッヒ バルバロッサといわゆる﹁ローマ法の理論的継受﹂ 鷺, 二三一 一橋大学研究年報 法学研究 6 法を与え、廃止しまたこれを制定出来る 諸侯の興亡、諸王の君臨は 審判者たる貴方の手中にある それに関することを意のままにされよう そして生ける法貴方が支配するのである。 皇帝は増長する無数の諸権利の弊を認められ 個々の権利は称号に土地をあてがうものであれぱ 国庫はすべからくその諸権利の回収を急ぐべし。 ︵1︶ ーフリードリソヒ頚歌よりi 二三二 さて手始めとして、さきのミッタイスの叙述の対象として選ばれた一一五八年のロンカリア立法、特にそのレガー リエンの法律Oo霧蜂葺δ留8鵯一3ロω︵U$巳ぎお鵯一旨日︶を中心に置いて、いわゆる前期継受の実体を探って みよう。なお今後の本論の記述において、たんに・ンカリア立法という揚合は、一一五八年のものを指す。 や 聖 一一五二年三月、バとハ・ソサは、ドイツ国王すなわち皇帝に選挙された。赤味がかった髪と口髭、古いゲルマン 一 いうまでもなく、このレガーリエンの法律は、フリードリッヒ バルバ・ソサのイタリア政策の中心をなすもの ︵2︶ とされているが、こうした政策がとられるようになった背景を、簡単に記しておこう。 ( ・々 ﹄口 の騎土を彷仏とさせるこの偉丈夫は、皇帝権の強化、再編成を果し得る人としての期待を寄せられて登揚した。とい うのは、当時ドイッ地域には、シュタウノェン、ヴェルフェン両家という二大勢力が並存し、どちらの側から国王が 出るにしても平和の維持については不安がつきまとったのであったが、バルバ・ッサは、前国王コンラート三世の甥 に当たり、母の血筋がヴェフェン家と関連しているところから、両家の妥協の産物として、選出さるべくして選出さ れたのであった。従って、バルバ・ッサのドイツ地域における政策は、まずこの家系の面からみても、妥協的な方向 を取るべく運命づけられていたといえる。彼の政策は、各の3目B①旨①旨oひQ言日を国王権の纂奪として実力による圧 服を試みたコンラート一世型ではなく、それらのH白ぎ菖一鼠けを認め、それらとの盟約による共存を基調とするハイ ︵3︶ ンリッヒ四世の立揚を更に推進したものということが出来よう。すでに、当時のドイツ地域において、現実に実力に よって、国王領を拡大する余地は、殆んど残されていなかったとみられる。あるものは、教会フォークタイ裁判権の ︵4︶ 確保程度のものでしかなかった。さてこのような条件のもとにおいてなお、皇帝権の強化、拡大をはかるとすれば、 当然ドイツ地域以外に求めねばならないであろう。当時のヨーロッパの諸情勢からみて、それは第一に北イタリアで あり、次いで東方がその余地を残していた。バルバ・ッサは、こうして、当初、イタリアに手をつけるのであるが、 イタリアがまず選ばれたことにも理由があろう。勿論ドイツ皇帝政策の伝統もさることながら、まず・ーマでの戴冠 が当面の仕事であり、対教皇権の問題からいっても、イタリアは、皇帝たる者の当然の関心を喚ぶところであるが、 このイタリァ制圧に関して、隣接する南ドイッの地域が、シュタウフェンのシュヴァーベン、ヴェルフェンのバイエ ルンという具合に、両家は南進を競合するような形で支配しており、バルバ・ッサは、・ーマヘの道に当る北イタリ フリードリッヒ バルバ・ッサといわゆる﹁ローマ法の理論的継受﹂ 二三三 一橋大学研究年報 法学研究 6 二三四 ア・ムバルディア地方を抑えることは、当面の急務と考えられたに違いない。もっともイタリアは元来帝国の一部で ︵5︶ あって、ドイツ国王・皇帝は当然事実上もその支配者であるべきであったが、ここ数十年来、ドイツ皇帝は、その支 配に考慮を払うことなく、なるがままに、北イタリアを放棄し来ったも同然の状態にあった。 一体何時からいわゆるレガーリエン政策と呼ばれるものが、バルバ・ッサないしその宮廷に意識されるようになっ たか正確には把めないが、少くとも第一回のイタリア遠征が、その積極的かつ具体的な方向を確定する素材を提供し ︵6︶ たと考えてよい。 すなわち、皇帝に即位後二年余の間、バルバ・ソサの関心は、ドイツ地域の勢力均衡を、例の同盟政策ω曽民艮ω− 宕犀算によってより安定化することに向けられ、次いで、イタリァ遠征の根拠地として、ブルグンドの制圧を果た し、ドイツ地域におけるその政策の一応の成功が、ゴスラールでの帝国国会で結果をみるに及んで、漸く懸案のロー マ戴冠をその日程に組入れることが出来たのであった。第一回のイタリア遠征は、一一五四年十月に開始されたが、 その目的は、ロ;マでの戴冠と教皇を・iマ市民の圧政から救うことであった。その途上、バルバ・ッサは・ムバル ド諸都市の高い文化的生活、それを支える豊かな貨幣経済を驚きの目で眺めたのであった。更にバルバロソサは、こ れらの都市は全く帝国権力の枠外におかれているという事実を目の当りにしたのであり、彼等が必ずしも皇帝に対し て忠実とは限らないということも認識せざるを得なかったのである。すなわちパヴィア、クレモナ等の都市から平和 の破壊者としてミラノが訴えられたのであったが、ミラノは、国王裁判を忌避し、アハト刑に触れるようなことが惹 剛 起したのであった。このことは、・ーマにおける教皇との会見に際して、目胃ω9呂一島窪警の拒否や、ブレスキヤを レ ・4 ◎、 中心とするローマ市民の叛乱から教皇を保護するなどして、文字通り教皇の保護者たる皇帝の威信を高めはしたもの の、北イタリア諸都市の制圧、実際の支配は、バルバ・ッサの宿願として、強く心に刻み込まれたに違いない。 一一五六年、ヴェルフェン、バーベンベルク両家の間に和解がなされたことは、ドイッ地域での平和がより確固た るものになることを意味し、更に、この和解に尽力したダッセル因a冨崔く曾U器器一をカンツラーに登用するが、 このダッセル、加えて、側近にあった伯父フライジング98︿8即①巨夷の両者が、その後のバルバ・ッサの政 ︵7︶ 策遂行にあたって、最も有力な助言者として影響を与えたと考えられている。 フリードリッヒ バルバロッサといわゆる﹁・ーマ法の理論的継受﹂ 二三五 えるのが、最も合理的とされ、当時の歴史家達の共通の理念ともなったからであった。 形作られたことを正当化するために、支配権の移転が主張されねばならなかった。というのは聖書に記された第四の ︵9︶ 帝国、この世で最後の帝国たる・ーマ帝国の支配権は、八OO年、神の手によってフランク王力ールに移転したと考 主張する根拠は、カール大王以来の世襲による所有権であり、従って、新しい姿の帝国がフランクとそしてドイツに という思想が説得力をもたなくなった。こうした状況にあって、ドイツ国王が皇帝の称号及ぴ支配権の所有者として ︵8︶ 飾り物でしかなく、更にオット⊥二世の因窪○︿暮δが計画倒れになったことから、ローマ帝国を元の形で復活する こうした新らたな理論化を促したのは、十世紀後半以降の皇帝権の在り方である。・ーマ皇帝の冠は、ドイツ国王の るが、十二世紀に入ると、それは、支配権の移転け壁塗置銘o一ヨ需葺の理論によって新らたな根拠が与えられた。 閃o日㎎aき犀ρ切oB崔8に触れておこう。ドイツ国王が・ーマ皇帝であるという思想は、カール大王の故事に由来す ニ イデオ・ギーの面で、この時代の問題を論ずるにあたってどうしても無視することが出来ない・iマ帝国理念 一橋大学研究年報 法学研究 6 二三六 オットー フライジング自身、中世の歴史家として、かの﹁年代記﹂を記しているが、その聖書に基づくキリスト 教世界史において、この支配権移転の理論を展開している。フライジングの移転理論は、世界史上帝国は、四つのみ ︵10︶ しか存在し得ないこと、人間の文化と支配は東から西へ移行すること、この二点を前提としている。そして・iマ帝 国が第四の帝国とされ、この・ーマ帝国がまずギリシャヘ、次いで女帝イレーネの時にフランクヘと移転した、その 理由として神聖な帝国の支配権が女帝の手にゆだねられているのは、その尊厳にかかわるからであるという主旨の記 ︵11︶ 述を行っているが、こうした説は、他の歴史家、特に他の年代記類、特にヒエ・ニムスやエックハルドスのものに多 くを負っているといわれている。そして、智力・権力・信仰が東から西へと移転するという神の計画、この点でフラ ︵E︶ をバルバ・ッサに献呈するにあたって、ドイッ国王はこの世の法に拘束されぬ、とさえ述べている。そしてまた皇帝 イジングは支配権移転の理論をより強固なものとしたと考えられる。これを基礎として、フライジングは﹁年代記﹂ ︵13︶ は世界の支配者であり、平和の護持者、キリスト教徒の保謹者として、皇帝の至上権は、その側近者、皇帝の支持者 によっていやが上にも謳い上げられた。本章冒頭にも記したとおり、バルバロッサ頚歌には、﹁世界の支配者﹂﹁現世 ︵h︶ の諸王の第一人者﹂等々の言葉が見出される。 しかし、支配権移転の理論によって基礎づけれた皇帝の至上権が、こうした形で唱導されたからといって、直ちに バルバ・ッサの政策の基本が文字通りの世界支配を企図していたと速断してはならないであろう。しぱしぼいわれる ︵拓︶ ように、ドイツ皇帝の地位は世界の支配者としての権利を有せず、それは称号・栄誉でしかなかったのである。すな .璽 わち、基本的に不安定なレーン制的権力秩序を出来るだけ安定するために、つまりシュタウフェン家の支配の正統性 ▼ ◎− フリードリッヒ バルバロッサといわゆる﹁ローマ法の理論的継受﹂ 二三七 都市の名望家層に公権を再授封したこと、などから自治都市による共和政的支配のための基礎が形成され、叙任権闘 から複雑な支配機構のもとにあったが、司教の支配地域と市民の定住地区とが一致していたこと、司教が中小貴族、 元来・ムバルド地方つまり帝国イタリアは、国王の日奮一は任命された司教、及び在地のグラーフ等による、当初 ドイッ地域には求められぬ金銭収入を約束するものであった。 ︵19︶ らぬ自治都市の群が存在していた。都市による支配は、・ムバルドを覆うかにみえ、加えて、その豊かな貨幣経済は、 チルダ亡きあとは、弱小の数多くの貴族達のほかに、強大なカを誇るミラノをはじめ、必ずしも皇帝に忠実とはかぎ ブルグンドの王女ベアトリクスとの婚姻によって、専らその対象は・ムバルドに絞られるのであるが、そこには・マ は前にも触れたとおりである。そこで、バルバロッサの目は、ブルグンド及ぴ帝国イタリアに向けられることになる。 た。いうまでもなく、それはシュタウフニン家領の増大を意味するが、それが諸侯の勢力均衡の上に進められたこと バルバ・ッサは皇帝としてまずなによりも、実力の面でドイツ諸侯の中の第一者となるべく努力をする必要があっ えてくる。 口iマ法上の鷲ぼ8暢の権能から説き起すまでもなく、むしろドイツ皇帝の実力の面から規定されて来るように思 ︵18︶ 皇帝という形で区別なくその支配の正統性を示し得たという点である。ところが対諸王・諸侯の面で、バルバ・ッサ ︵17︶ が同盟政策をとったことが、事実上、当時の皇帝理念に﹄つの枠をはめているのである。従ってこの問題については、 国王の二重の資格に注目すべきであろう。すなわち、ドイツの各諸侯、及びフランス王、イギリス王等に対して、 の保証として、国王”皇帝の超越的性格が強調されたと、まず考えねばならない。この場合国王”皇帝というドイツ ︵16︶ b 一橋大学研究年報 法学研究 6 二三八 争期の司教の分裂は、自治都市支配を決定づける結果となった。従って、十二世期前半においては、事実上力ある豪 族または、自治都市のコンスルが、支配権を把握していたのであり、これは国王による授封、特許状の賦与等の根拠 を持たず、いわば慣習的に、諸都市の自治が事実上黙認される結果となった。しかもドイツの諸皇帝、・タール三世、 コンラートニ世などは、イタリア統治の能力に欠け、こうした事態は放置され、自治都市の事実上山。塩”。け。の支配 のまま、十二世紀中葉を迎えたのであった。 ハぬロ こうした・ムバルドの諸事情は、シュタウフェン家領の増大、帝国財政収入の確保.増収などによる皇帝権の強化 に恰好の舞台を提供したといえる。まず、バルバ・ッサは、国王に選出されたと同時に皇帝とも称したのであるが、 ロムバルド支配についても、特にローマ皇帝であることを強調することはなかった。すなわちフライジングは、その 支配権の根拠をカール大王︵お図浮琶8盆目9■跨鴨訂&o旨日︶のイタリア征服に求めていて、﹁ローマ帝国がフ ハれロ ランクに移転して以来のこと﹂と記し、また諸ドイツ国王の支配を想起している。従ってフライジングは、ロムバル ドにおける皇帝支配を、原状の回復、纂奪された皇帝︵国王︶権の奪回と看倣したのであり、従前の国王権に別の根 拠を特に付加する必要を感じなかったと考えられる。 しかも前に記した皇帝頚歌は、特にイタリアでの事績に因んで作られた点に注目する必要がある。世界の支配者と 謳ったのは、ソリズベリーのジョンでもなけれぱ、フランス国王、ハインリッヒ獅子王でもなかった。、、、ラノを攻略 し・・ムバルド地方を手中に収め、そこに一応平和をもたらしたバルバロッサに対し、なんらかの形でその恩恵に浴 、 璽 した或は浴さんとするイタリア人達が、この﹁世界の支配者﹂を口を極めて讃めたたえたのであった。それは恐らく、 ▼ t フリードリッヒ バルバロソサといわゆる﹁ローマ法の理論的継受﹂ 二三九 れるかを示すものとして取上げることが出来るのは∼一二一年二月の皇帝ハインリッ℃五世と教皇パスカリスニ世 ︸つの遺産であると考えてよい。最初の総括的なレガーリエンの定義として、また具体的にレガーリエンに何が含ま その意味で特に注目する必要のあるのは、ハインリソヒ五世時代の文書であり、ここで明確化されたレガーリエン概 ︵雛︶ 念は、シュタウフェン時代にもなお有効性を保ρたと考えられている。従ってレガーリエンの概念は、叙任権闘争の 聖 界 と を 区 別 す る た め の 指 標 で あ ︵っ 盟た ︶。 で は な く 、 従 来 も 国 王 に 帰 属 し て い た 諸 権 利 を 確 認 す る こ と に よ っ て 、 俗 界 と 味を持つに至るのは、ドイツにおける叙任権闘争期であり、しかもこの揚合にも新しい諸権利の創造を意味するもの 皇のもの良≦冨と対立する漢然たる意味しかもっていなかったといわれる。それが、国王の諸権利として特殊な意 催 ア︼.一でレガーリエン器鵯富について一言しておこう。元来このレガーリエンは、十一世紀の初頭においては教 ︵23︶ ︶ ︵羽︶ 要素が、第二回イタツア遠征以後、登揚して来るのである。 は絶対的皇帝権吉して結実しなかったと見るべきであろう。その媒介項としては、後で論ずるように様々な法律的な しなかったし、またその必要もなかったのである。フライジングの提示したものは素朴な理念であって、無媒介的に したに留ったのであった。その意味で、イタリア政策に契機を与えたものの、皇帝権を法的な意味で武装することは バルバ・ッサがイタリァ政策を開始するにあたっては、皇帝の称号にふさわしい実力的基礎を確保する必要性を強調 バルバロッサのイタリア政策において、フライジングの皇帝理念の問題を無視することは出来ない。だが、それ.は 慣習による事実上の支配権を奪われた人々に対しては、説得的な効果を持つぺきものであったろう。 盆▼ じ 一橋大学研究年報 法学研究 6 二四〇 との協約である。ここで皇帝に帰属するレガーリエンとして列挙されたのは次の十のものである。。三什緯2含臼, 塞琶弩匡費ρ8巨藝β馨疑即ρ琶g。ロβ馨㎏8gβ器く。。彗器﹃①讐二畦gΦ糞邑自目g。貰奮2器凝巳 Φ寅筥 一見して、極めて人的支配の要素が強いことが判るが、これらは当時の皇帝の支配の基礎を物語っていよう ︵%︶ o そしてこのような形でレガーリエンを列挙し、皇帝権の内容を示したことは、叙任権闘争期にあって、世俗権力と教 会権力との関係を再編成するための手段の提示を意味し、その一つの結果を、ウォルムスの協約︵二二二年︶に見 出すことが出来る。それを要約すると、聖職叙任に際して、教会所有の賦与と教会のアムトヘの任命とが分離される こと、教会の世俗的所有は次の三種に分かたれること、一つは国王の贈与、二つは私人の贈与、三つは教会の宗教的 なカによるものである、そして国王に由来する授与、レガーリエンは、公の官職、財政的利用権及ぴ土地所有の三つ に区分されるが、国王勤務の義務はこのレガーリエンに基づく、ということになる。ここに、レガーリエン概念の果 ︵27︶ した重要な役割として、公権と土地所有との分離に関して媒介項として、働いたことが指摘される。そして、.一の分 離は、シュタウフェン時代ドイッ皇帝権が上昇の気運を見せ始め、レガーリエンが権力拡充の有効な手段として脚光 を浴ぴるに至ったとき、再び強調ざれることになる。・タールニ世時代から、更にバルバロッサの治世の初期に至る まで宮廷の要職にあったゲルホーQo島oく,図Φざぽ誘富茜は、その著UΦ器自590∪国において、教会財産の組成 やその個々の部分の法的な位置について詳論し、教会財産に十分の一税、土地所有、国王的ないし公的行政権能の三 つがあると断じた。ここで特に問題になるのは、第三のものであろう。それは一部は国王の、また他の一部は私人の ︵28︶ 寄進に基づいているが、この議論は、国王の寄進自体を廻って、国王のアムトと個人、制度とその担い手の分離の問 や− 1 4マ フリードリッヒ バルバロッサといわゆる﹁ローマ法の理論的継受﹂ 二四一 れる可能性が生れたのである。 ︵36︶ な財政権利用型へと拡張ないしは変化し、更に教会の世俗権の問題ぱかりでなく、世俗権一般を指すものへと拡大さ ︵誌︶ とが出来るが、この対照によって、レガーリエン概念の内容が、ドイツ的な人的支配型からブルグンド・イタリア的 ド︵更にイタリア︶のレガーリエンを廻る著しい対照は、経済構造及ぴそれにみあった支配のし組みの反映とみるこ 要としなかったといえる。ところがプルグンドの教会を対象とする特権授与の揚合には、お曽一壁の用語の代りに、 ︵謎︶ 数多くの諸特権、しかも財政的利用権の数々を列挙する文書の例を見出すのである。ここにみる、ドイツ対ブルグン 決して多くはない。だがハインリッヒ四世の時代までは、ドイツ地域においてはこれ以外のレガーリエンの概念は必 ︵33︶ ドイツ型ないし、封建制型と名付けるとしよう。具体的に特許状に示された例は、シュタウフェン期初期においても の一つの型は、司教教会の持つ世俗的権利、具体的には、人的支配権及ぴこれに付随する貢租である。これを仮りに ︵32︶ である。レガーリエンはレーン関係の物的な土台であっだ。そこでウオルムスの協約に帰結を見るレガーリエン概念 礎として、ドイツ皇帝は、専ら聖界貴族達をレガーリエンの授与によってレーン関係の中に組み込もうと努力したの いるが、その根拠は矢張り一一一一年の協約であったとみることが出来る。そして、こうしたレガーリエン概念を基 列挙せずに、国①旨罐建β9鋒8訂PN亀或はNo一一、及びその他という形で、明白に国王に帰属するものを挙げて へ肌︶ たといわれており、ゲルホーのレガーリエン概念にもそれは顕れているのである。ゲルホーは個々のレガーリエンを ︵30︶ かしながら、十二世紀全般を通じて、ドイツの国家観は伝統的ーミッタイスによれぱゲルマン的1なものであっ 題という新しい国家観にまで進展する可能性をもち、ローマ法的思考の間接的な採用を読みとることも出来よう。し ︵29︶ 》 一橋大学研究年報 法学研究 6 二四二 V u 正が保たれ、また牛や農耕に必要なもの以外、この土地が産出する生活必需品は、国王の命令一下、画王のものにな その土地の裁判官は、国王に正義のすべてが賦与されているむね判決すぺきである。そうすればこの正義によって公 すべての問題は、法規の規定と法を良く知る者の判断に基づく国王の命令に則して取扱われることになるのである。 他の権利も生ずる、すなわち、国王がイタリアに遠征すると、すぺての高官や高級な役人は活動を停止せねばならず、 どうなっているか、また住民の遠征拠出金の状態をあらかじめ調べるのが慣行となっていた。⋮⋮また古い慣習から したことは、それを如実に示している。すなわち、﹁国王がイタリアに遠征するときは、側近の者をやって、国庫が して、如何なるものをレガーリエンとして考えていたであろうか。第一回イタリア遠征に際して、フライジングが記 さて、イタリアにおける積極的なレガーリエン政策を開始するにあたって、バルバロッサの宮廷は・ムバルドに対 考慮に入れておく必要があろう。 ︵38︶ よって即位直後から始められたことであって、ロムバルド諸都市に対して展開される諸政策と対をなすものとして、 保を含む特許状が、ブルグンド及びイタリアの諸侯に与えられたことを挙げることが出来る。これはバルバ・ッサに で問題にする・ムバルド諸都市でのレガーリエンの規定は前者であるが、消極的なものとして、具体的皇帝特権の留 レガーリエン政策は、積極的なものと消極的なものがあったと見ることが出来る。前述のマイン河関税特権や、後 ン概念の支配する地域では、財政的利用権としての意味はなんといっても薄く、特権授与手続に関する不備を衝いて、 へ37︶ バルバロッサが、それを回収しようとしたものは、僅かにマイン河上での関税特権のみであった。 四 このレガーリエンの特権の確保は皇帝権の拡充の重要な手段とされるに至るのであるが、ドイツ型のレガーリエ ︵39︶ タΨ フリードリッヒ バルバ・ッサといわゆる﹁・ーマ法の理論的継受﹂ 二四三 七月に開始さ札た。直前にダソセル等を派遣して、反ミラノ諸都市の援助と協力を要請した甲斐もあって、同年の九 第二回のイダリア遠征、そればミラノの暴政、平和の破壊を周辺の弱小都市が訴えたことに端を発し、二五八年 h菊︶ 想さかたものとは考えられないのである。 力の法思想、例えば・iマ法文にある鷲冒8暢ざ讐σ島8言9ω。︵∪ン摯呂︶といったようなものから直線的に発 支配者の称号が輝いていても、あくまで失われた皇帝旺国王権の回復が意識されていたのであって、皇帝の絶対的権 れている。その根本的な考え方は、フライジングと同じく皇帝権の強化拡大であるにしても、そしてその上に世界の ︵44︶ リアにおけるレガーリエン政策が強力に推進されることになるが、それにカがあ,ったのはダッセルであったと推測さ は、敵対的であった。ましてやロムバルド諸都市の支配が、ドイツ国王権・皇帝権の纂奪によるものと考えられてお ︵弼︶ り、失われたかつての皇帝権の回復は急務であったのである。第二回のイタリ7遠征において、バルバロッサのイタ ︵姐︶ の市民的共和的な方向とが一致す胤筈はなく、皇帝は自己の領邦形成の中心点の意味をもつ都市以外のものに対して 治都市の事実上の支配を認めたことになったのである。だが基本的にいって、ドイッ皇帝のレーン政策と、自治都市 に対しても特に積極的な手を打たなかった。従ρて、この時その授封の根拠を衝こうとしなかったことによって、自 ︵虹︶ 不法を正すことは全くしなかったし、ミラノの横暴不遜の態度は、平和令違反に問われるべきものでありながらこれ ところがバルバ・ッサは、第一回のイタリア遠征に際しては、授封の基礎を持たぬ自治都市の支配に関して、その ったのである。﹂にもかかわらず、イタリアの自治都市は、適法な授与もないのに、自由に裁判権を行使している。 ︵如︶ この現実は、まさに皇帝権“レガーリエンの纂奪として、皇帝側の人々の目に映じたのであった。 》 一橋大学研究年報,法学研究 6 二四四 月には、ミラノは降伏した。この時締結されたミラノとの平和条約には、早速、レガーリエンの問題が取り上げられ、 第九条において、それらの皇帝への返還がうたわれている。しかし、この条約ではレガーリエンの内容は具体的に記 ︵弼︶ されてはいるが、金銭収入に関連する四つばかりが挙げられたに留っている。 ここで問題の一一五八年十一月の・ンカリア国会において裁決されたレガーリエンの法律が登揚するわけである。 この法律には、個汝のレガーリエンが列挙され、その数は二十以上にものぼるのである。もっとも.︸の法律について 伝える史料は二種類あるが、ここではまず、ラーエヴィンの記述を取上げてみよう。それによると、身。費葺、博旨讐目, 。鼠Φも。巨け§ωも。曇一善の暮8。舞け匿。塞凋。響琶”<①。凝巴一pb。旨のも巴騨け塁昌。一Φ巨・費も一ω。帥同一卑①・ bo旨。ωo旨ま旨2Φ5臣翼。日賃α①。葭巽団冒日ぎロ日冥o︿Φ巳Φ旨Φβ昌Φ。留富昧同騨け蟄旨偉p<Φ励ロ目&螢目自Φのロ一の 騒旨書彗ω§ω§註邑§艶である.ここ暴げられ奄のは、極めて興味深い.というのは、対 象が北イタリアの自治都市であるから、財政的利用権の多くが列挙されるのは当然のことであるが、また一方かなり 人的支配に関するものが含まれているからである。このラーエヴィンの記述には、レガーリエンの古い型と新しい型 が混合しているとみることが出来る。そして更にわれわれがMGHに見ることの出来るレガーリエンの規定U。臣良け。 ︵48︶ 慧一誕は全くドイッ響警くなっている.今、レガーリエンの法律を理想的な形で具体化したといわれる・ム や バルドの都市アスティヘの特許状︵二五九年二月︶までの諸レガーリエンを比較.対照すると、次の表になる。 けロ ▼ (◎’ 妙 1158 1111 1145 皿it dem Papste(51) fUr d臨Bistum Cam− fur die Abtei Gemb− Roncalia(Rahewin) (De6nitio)(MGH) brai(52) (54) (55) 1152 10ux(53) ducatus じ adOvocatiae regni iustitiae,districtus maτchiae comitatUS { eOmltatus tOtlus terrae Cameracensis scavinoru皿omeiahum consulatus vicaria iustitia regni regalia ium centurionum potestas constltuedQ− rum magistmtuum ad lustltianl exped1− castellania { endam potestas faclendi casaturae et homi− castella atque nia quae de feodo ロ munltlones ClrCa じ eplscoPI esseconstat, civitates f丘τAsti(56) ducatus marc血iae comitatUS curtes 1159 placita,batalia, rub1,restituしiones { in integrum moneta monete moneta thelonea,vectigalia vectigaha que vulgo { pedagiα palatia in civitatlbus ド eonsuet1S locum Gamblaus villae C&stra regni Abbatia ecclesiae moneta moneta theloneum theloneum dicuntur tholonea 卜捧P」渉h J ◎く豪辱く口銚本八』β農魯ゆ 「ロート誕e鼠1縄症1叢甑」 1日園 ’i曄訳卦慮球鮭騨 誕卦庫駕 o 日 K arimannie fodrum {蕪撫・ de terra de suis propriis ca− Pltibus census ann− ui reddtiones argentarie argentarie salinae forestum fQrestica silvae,1)aseUa 皿quae aqua「umque { decurses pedatica vie publice vie I)ublice portus portus portus { ripatica ripatic旦,aquεLtic& 且umina navigablha numlna publicea omnis 廿tilis ex decursu numinum じ P「ovenlens etc. pontes I)ontes IV prestationes mercatum nundina publica, mercatum bancatica camblum etq mQlendini mo三endini molendina molelldina fum1 .ρ一 P ρ. マ ho審吸ビ日くぎ凶 ℃﹃o跨貯 一ロO昌O梓o℃O﹃Oロ器﹃β曽 〇一8碧す σOコ曽く牌O帥ロ訂騨 甘の3江oβロ目器山鎌3の ヲ 日β一〇鼠ヨ目 ,旨oロ午 σo昌p ρ目にo ヨ亀蒔三〇母 , ロ﹃08コ℃梓O﹃仁ロけ 血pヨ唱コ暮9目日 9 巨8馨霧ロも一訂島g げO昌即8暮3げO暮言目 周ロ日8旨℃①昌臨β { 一コぐOコ菖:● 洗目昌一一幽一ρ目 けげ①ω口暫一函 Oロ目Oコ目巴霧鼠謡ω σOロPOO目一詳①口島β旨 一〇讐げロ㎝騨匡隔o﹃ロ昌け信﹃・ { {{ 日oロ㎝ロ8”器㎝狂ユo 層8暮一〇口信日8q象9ω ︿一昌一〇け隔触βロPΦロδ沖 { フリードリッヒ バルバ・ッサといわゆる﹁・ーマ法の理論的継受﹂ 二四七 意味において、バルバ・ッサは北イタリアから新しい国家概念を出発させたいと願ったと見ることも出来よう。だが、 ’ ︵58︶ するものであった。金銭収入をもたらす数々の財政的利用権、皇帝直属の官吏による・ムバルド各地域,の支配、,その この対照表によって、バルバロッサの積極的レガーリエン政策が、具体的に如何なる特権を重視したかを読みとる ︵肝︶ ことが出来よう。それは、﹁当時すでに帝国イタリアにおいては、レーン制国家は死滅していた。﹂という言葉に照応 、 一橋大学研究年報 法学研究 6 二四八 ハ釦︶ 個々の制度の面で、イタリァにおける・ーマの遺制、或は特殊ロムバルド的制度の存在という点を無視してはならな いであろう。ラーエヴィンの記述の中に、われわれは8霧巳塁ω窪聲づ8巳一という語を発見する。それはローマ的 遺制の表象的な意味を持つものであろう。しかしレガーリエンの法律において、コンスルの任命権がレガーリエンに 数えられるとき、それは・iマ的制度から離れ、ドイツ国王のバンレヒト閃導畦Φ。窪の射程距離内に入って来る。 それはさておき、表に掲げたアスティヘの特許状をはじめとして、バルバ・ッサのレガーリエン政策は、各都市と の協約08お暮δによって具体化されてゆく。そして、豊かな貨幣経済を基盤する多くの都市の揚合は、レガーリ ︵50︶ エンの授与は定期金レーン因。旨巴魯曾の性格を持ち、また一定の租税の貢納を条件とする裁治権の授与によって、 ︵61︶ ︵62︶ ︵63︶ 帝国財政の重要な収入源となったのである。これらの租税は、実質上皇帝によって任命された当該都市のコンスル或 はポデスタをパイプとして国庫に吸収されるのであるが、その額は年三万ターレルを下らなかったとラーエヴィンは ︵ ㏄ ︶ 記している。しかし、こうした莫大な量の貨幣や銀の収奪は、・ムバルド諸都市の反抗を呼ぴ起こすことになり、・ ムバルド都市同盟の結成をみるに至る。一方、増大する都市側の抵抗に対抗した皇帝側にも、大きな蹉践が待ってい た。一一七六年ハインリッヒ獅子王が助力を惜しんだことから、バルバロッサはレニャーノにおける決定的な敗戦を 喫した。レガーリエン政策は、その後も引き続き遂行されはするが、北イタリアにおいては、クレモナやラヴェンナ のような皇帝に忠実な僅かの都市を除いて、その実効性を失ってゆく。そしてバルバ・ッサのイタリア政策はむしろ ■ シシリァにその重点を移すに至るのである。しかしレガーリエン政策は、帝国の財政の重点が、自然経済的なものか 爲︾ ら貨幣経済的なものへと転換する契機としての意味を持ち、帝国財政が都市に依存する道を拓いたのであった。 ▼ ヲ のであった。 フリードリッヒ バルバ・ッサといわゆる﹁・ーマ法の理論的継受﹂ 二四九 &①鴨δ菖鴨昌Q吋ロ昌自宣の①昌αR閑虫βδ留昌oρO墨N2∪一〇治’及ぴ”国,のoゴ冨ヨヨ︸囚巴器﹂カoヨββ自因窪o<暮δN 名,OO①撃↓β昌巴簿江OHヨ℃R一ど↓βげぎαqO昌一3Qoψ一2いなおコのoげ昌o達O昌因O導仁昌伍卿OヨαqOα帥β犀⑦一ヨ竃詳8箏一8昌 ︵8︶ く磯一■界国陣目bρu霧国8げ巨琴巨8コ避︾βm.︵一8いyのる&詳Nま粋矯囚8唱一gの◆鴇刈h ︵7︶ ぺきである、本論文二八三頁註40参照。 昌5旨α雪U首一〇ヨ窪宰一Φ時8げω鷺げ跨霧馨廟竃δ9窓・ひo。︸ψo。ω︶これについては教皇の特許状の模倣が考慮さる ルバ・ッサが国王に選ばれた直後に出現している。︵oo葺ヨ宮客μまβ夷一ひ︾噂需FUR<9訂富犀囚巴器注畠段閃甲 レガーリエン政策の一部と考えられる皇帝権の具体的な形での留保条項を持つ特許状は、早くも一一五二年三月九日、バ ︵6︶ ぎ渥田辞巴8ロ山窃山窪駐昌窪冒ゆ辞9巴8誘這鴇ψ這鴇更にダイベルやオットの研究は、ハムペ、ハラー説を補強するも ハムペやハラー、などと対立するものであるがい頃aげ具U霧a巳窪諾畠Φ囚巴ω雪9ヨ堕一8ρψ8ρ国国騨目需国Φ畦ωo− 支配の伝統によって提示されたものとし、財政的な契機を軽くみようとするく,国〇一〇ヨ勲鍾○この,一宝この考え方は、 ︵5︶ 特にこの点に留意して、フォン ペローは、バルバ・ッサのイタリア政策は、それまでのドイツ諸国王のとったイタリア く’ωΦ一〇ヨ卑葬○二ψooOい ︵4︶ <αQ一ーダ田一〇きU8一$試o巳の畠o囚a器も〇一一け弊αo。。α〇三ω畠雪竃一g①一巴5β冒曽霧冨昌詳守ユぎ一〇NN︸ψo。鋒 ︵3︶ ︾びωこ囚。一9匹暫PHβ︿O曾詳雌諺ヰO詳離鵠α︷巳OげOの鼠ロ罐醤9ゴOOげ﹃蟄﹃山の目切UO−︼W貸坦㈱一一ρなどによる。 一般史的な叙述は、一罵霧畠犀ρU震囚の目鳳N名冨昌窪因a器嘆9彗β旨α℃費霧9ヨ一r︸島厨国切UOω飢減︵G鴇y“ ︵2︶ のΦ珠誌司二山Φ二〇げぎH富一一Pの一節、竃O国曾のψ図図目ψ呂9︵OO蔑お象く津①㎏げ冨”ωδ鹸9鼠司ユ自ΦユO辞2戸一Qo︶ バルパ・ッサの時代に宮廷付聖職者及ぴ宮廷書記として活躍したのoけぼ置ぎロ︿岸醇ぎによって編纂された○跨旨自号 ︵−︶ (へ 一橋大学研究年報 法学研究 6 二五〇 ↓①こ需昔Nお\切稗一ぼ這鎚などがヵ窪oく緯δについて多くを記している。特にドイツ皇帝に関してみると、オットー三 世はお9︿暮δ一ヨ需三8ヨ帥三を企てたし、ハインリッヒ四世は、一〇八一年・ーマに百人隊長、トリブスの長、元老 院議員を以て構成する昌o爵o目昼を置き、一〇八四年には、ローマの貴族と共に裁判集会を持った。十二世紀以降もこう 甲窃oす︶の支持者は、古き・ーマ帝国再建の理論を有していたとみられる。すなわち、彼はバルバ・ッサに対して、皇帝 した思想は、勿論、全く姿を消したとはいえない、例えぱ・ーマ市民の叛乱の中心人物であったアルノルド︵訪導o匡留 はすぺての命令権を、聖職者からではなく・ーマ市民によって行使すぺく任命されるのであり、その支配を武力だけでなく、 法のカによって維持すぺきであり、ローマに使者を遣わし、皇帝の地位につき・ーマの法律家と議論するよう要請したとい う、≦届訂一貸o嘗曾,8♪ぎ竃O昌信ヨO旨鼠9﹃げ巴o⇒巴幽a甲冒鴫燈国Φ二ぼ一〇〇象苫︶,鴇Oムい︵囚8b覧O戸や鴇O︾﹂︶。なお その論拠として・ぎ界前文が引用されているという︵傍線の部分︶。 ︵9︶・この理論は、まず聖書の予言に基づいて作り上げられた。すなわち、﹁第四の帝国﹂については、ダニエルの予言にある 第四の獣であり︵ダニ.エル書第七章︶、また支配権の移転については、伝道の書及ぴダニエル書にしぼしぱ記される王の改廃 についての記述︵旧約外典ペンシラーの智慧一〇1八、ダニエル書二−一二、四−一四、i二二、ー二九、五ー二一等︶によ る。すなわちペンシラーの智慧には次のように書かれている。﹁世界の統治は神の御手にあり、適当なる時期至らぱ彼そ の上に適当なる者を立て給うぺく⋮⋮。宗主権の一国より他国に移るは、これ驕傲よりする暴戻の故なり。勾縄昌qヨ騨 鴨暮o言鴨旨Φ目貫き珠o吋g同肩o讐巽ぎご牲二霧Φ仕8旨ロ日魯器ge3謎oω匹oδ堕﹂杉浦貞二郎訳旧訳外典による、 冨賦巴δ宕8ω9のーρ壁o冒ωけ08ω富暮ぎニヨロ奮一旨β目窪西霧葺目愚ロqO同器8ωぎ○○島$ロニ38一陣3壁富08ロ島3− ラテン文は08評勲卑○こ¢oo●なおこの理論は、カール大王の時代には次のように示されたに留まる。の5良3目一ヨー ’, 閃轟ぐg暮器量8ヨ号浮δ糞一げ匿冨目凶巳玄≦旨お囎房鷺霧趨一罫獄目﹃臼目品δ象90昌。﹃窃匿ヨぎ一弩零簿弩 マ 臼▼ 08N闇鋭些Oこψ一旨兼岩、前掲書、四四頁。 善ぼ。おの毒目男o旨§o置ββ&跨9霧g暮ぼo墓ρ岳践峯憲巷o旨ぎξげ①おの5の。臣8け9霧g馨ぎ80一ど ど¢刈︶なおΩ8N”鋳艶ρψ二∵一這の引用による。 即○﹃器。δ&孚き。oω﹄牢彗9の区Uo目訂a8もぎ舅げ貰象ω畦畦ωβ5&6ΦgO巳8し・問ββ8の匹oユ奉ε言⋮:︵即o一, 昌g象磐。α⑦お富寅ゴ&男β目oωけβ霧隔Φ畦。9同。︵<−Noω﹄誤︶︵閑。讐ヨ因・ヨき・旨目︶呂自訂ρ巳℃需&○↓器8μ &即彗8ω畦き幹巳一戸の5H§一ρ︵<−ω一ψNα︶⋮:匡旨窪ρ・:。巳5象oげ鵠oび院一ヨ需ユ仁β程&ぎヨ程臣︷。巨昌器 国oh目Φ蜂。鉾H<−ω一ω﹄Nい︶Oロ巴一け震囚畦一〇の陣誰ヨ目o宕耳一隔一88ε2①宕b巳o雲胆ωgω<§言巴目需ユ葺昌鈴9器。於 q芒δ$算信ヨ即暮5欝。象讐ぎ募毬口o巨巳ω日彗魯<8江αQごヨ;︵98巳の・豆ω8甘牢邑轟窪臨ωOぼo巳。8&.︾。 ︵11︶ の一。暮一寓お讐o践冒a8貫磐巴暮o。。o目08ヨぎ①巨塁ω卿ユヨ℃Φユ三コω一。①江。。8呂○β08臣窪呂牢彗8のα。ユ奉ε ︵10︶ 三九頁以下を参照せよ。 一$︶,なおこの問題につき≦・QO臼・P卑ρを、また﹁四帝国﹂については・兼岩正夫﹁西洋中世の歴史家﹂一九六四年・ 8αq①即ぎ旨o践目需寅88ω卑器8旨ヨ需目囚彗o一仁日茸きω算●︵国寄冨巳一〇ぼo巳8昌q巳く①誘巴o目Q国のρ<一噂の。 9器鼠導巨ピ歯旦国①一魯帥Φ窪芦壱鼠9霧$旨ぼ80一言言Oお。臼E昌言bo声けo該げ島日導蜂︸臼げ8すヨ& クハルドス年代記の作者といわれるフ.ルトルフは次のように記している。揖β88話勾o日騨ロβ日一ヨ需ユロ3魯8目宕詠げロω 紀の後半から活気づいたドイツにおける歴史記述の中には、この間題がより明確な形で取上げられるに至った。例えぱエッ 8臣まP獅俳悶β琴o盆貸旨”霧ド9ヨo馨αo目一巳β目,︵く一5ω■≦一一げ冨象い竃Q頃Oo¢戸ψ拐一︶だが、下って、十一世 讐呂βけ①旨宕ユげ房一甥一房需↓o一①。江器匿四〇葺騨巳旨唱昌ぎ目震ぎo①豆ω8宕旨目巴一〇窪目2ΦU包器暑o旨旨 、、 フリードリッヒ バルバロソサといわゆる﹁ローマ法の理論的継受﹂ 二五一 身苫区孚警8ω号ユ<9ロヨo塁︵く−呂ψ誤ひ︶︵引用同右︶を︵9︶のフルトルフの記述と対照。 ︵12︶ 一橋大学研究年報 三二三頁参照。 ごαQ臣一 〇 三 二 ω 法学研究6 ヨ目”畠一α○目一口O ①のけの口簿<O。 げQPδO目昌一σ仁ω O跨Ooo葬帰 昌 OのけΦ﹃ 帥<O ︸ ω巴くo ) ) 14 13 た。 マ マ, 二五二 もそれに従うについては自由意思によっている。こうした前提をおいて、両者の友好関係を結ぶことを提案したのであっ に対しての<oξ昌霧o房8審昌良がある。すなわち、皇帝は法的でなく、権威に基づいて命令することは出来るが、自分 とを述ぺている。皇帝は≦ゆaoの点で自分を凌ぐすなわち費8εユ鼠の一日需旨ロ象を有している、国王たる自分にはそれ ︵ら$yψ誠9囚壁霧ρω﹂鈎霧名二一五七年イギリス王ヘンリー二世は、バルバ・ッサ宛の書簡で次のような意味のこ ︵15︶戸国〇一9目きPUR名巴爵o旨。。。富藷鴨盆莫窪qΦω巨けδ①巨け。注畠窪因筥の9葺目のロ鼠α9のo壕Φ鼠巳鼠“国N。一$ ︵<魅9孚o圃ω置鉾戸い︶ 式にフランスのヘル達が出席していたことを特に強調し・バルバ・ッサの権威は聖界・俗界全域に及ぶと記している。 畠雪一〇一〇くHHご国一跨♀ψO鈎︾、5︶なお本章冒頭の碩歌も参照せよ。更にフライジングは、アーヘンでの皇帝即位 一一六三年北イタリア20︿鷲騨で創られたと推定されている。︵U一①Oo良oげおq窃︾3げ甘8鼠・o傘呂・ピ餌巳臨ロ即竃帥午 O暫Oの騨同男同O自OユOO:’ 勺 目 ぼ 8 宏 け ① 旨 o 鷲 ぎ o 首 β ヨ ( ( ▼ ファーはかの理念を政治面で実行しようとは一度もしなかったからである。﹂︵ψ曽い︶ 特にこの点から皇帝の地位が元来法的に権力を持たぬという論理を追求する7閏〇一訂目聾戸卑糞○こψ舘象で指摘 ( 18 原理方式面でのこれと似た調整は完成されなかった。しかしながら実際上は、これは存在していた、というのは、シュタウ 皇帝がより高い地位の要求を同一の平面に立った上での友好政策と合致させることが出来た際、αoヨぎごヨ旨§象理念の の優越的地位及ぴ︵とりわけ西ヨーロッパの︶国王主権は、シュタウフェン時代においては相互無媒介的に存在していた。 囚一諏9≦99忠誘9や津ω置8ロ昌巨国帥昌α巳ω宕一一江置閃8β這$も次のような結論を導いている、﹁世界支配の思想、皇帝 ︵17︶ これは中世最期の皇帝理念が如何に難解な問題を含んでいるかということを示している。最近のキルフェルの論文国●い ーマ的帝権の観念は、一応ボ・ーニャの法律家との超遁後、その﹁絶対的超越性﹂をとくに濃くするとみるぺきであろう。 世良晃志郎、封建制社会の法的構造、一九五四年第二章、第四節参照。フリードリッヒバルバロッサの治世において、ロ ウェーバー・世良訳﹁支配の社会学﹂1三九頁以下、H三一九頁、三四〇頁など。 ︵16︶ (い <四・国畠霞・ど幹ω8これらの諸問題については増田四郎﹁イタリア中世都市の成立について﹂西欧市民意識の形成 諾臣ま臣暮笥o山Φげぎ需2巳節<。aき戸︵くぎ。窪注即お①ロωδ2白巴β寂の国ω9図≦H讐幹ひ象︶ 器oμ跳富$α卑5㌧<08ロ暫目筥ΦωδΦ図R9江げ霧ω缶ω#帥霧一“閑o頒a一げ島一5ρρo巳け壁bo巴試の①図霞〇三σ塁︸ヨ卑pα碧<08− おbユヨ一け①け雷旨象のωぎ巳きρ<。賊鼠号塁ぎ墨矯b。2巳鈴日ρ轟彗。お巳盆暮①一ω肩o邑葺計g琶后奉ヨ。。∈醇げ8 N殉OOこ象︵這軍yψまρ一一五四年の記事とされるものに次のようなものがある、国①o詰図男試留ユ。霧窪良o拐一壁ヨ ︵19︶ 9u9竃ごu一①臣壁匿芭一。ωa聲霞轟勾。一。富−H巨一①畠建吋島。湾器獣昌臼閏。目ψ。腎富α①の睾α昂窪冒ぼ巨&Φ冨矯 に依存しているという点である。︵︿σQ一・閂のoげ巳N”℃該昌§慧窪α9&ヨ一ωo富昌国Φ9貫一8♪ψ這轟︶ されるのは、アウグストスの皇帝権も勺ユ目Φ陽”o讐一ヨ霧〇一≦ωの支配であって、窮極的にはアウグストスの程08ユ塞 ) フリードリッヒ バルバロッサといわゆる﹁ローマ法の理論的継受﹂ 二五三 ( 20 ) ・一橋大学研究年報 法学研究 6 二五四 ︵増補︶所収≦・08ドUδ国昌鍍9げロ昌頓αΦ塊一9一冨巳ω9窪囚○旨旨ロ器け一旨h箪げ窪目一90一包$ツ竃岱昌9雪お奪特に O,Uぎ冨き匪8げ9ロβ山の鼠騨<o課毯偉昌瞬ぼ○ぼユ富帯PN閑OO;o。一︵ち象︶の,認ω中が参照さるぺきである。 ︵飢︶ ,::b区ρ口O汁口℃①聴一9一巨にO一昌印ββヨ帥島 勾↓粋βOOの α①ユく卑けに一昌 Φωσ︸;:: ’:仁“ ρ口O試ΦβのO信ヨρ口O HOαq①の Hけ即=帥搬ロ 一口の↓Oα一 山。ω号薯Rぎけ品犀8ωεoω犀冨け留蜜巨一昼戦ま岳・巳の鷲o巨碁茸ρ巳ωぎ讐霧9︿壁δoのの窪8℃一鼠℃①箪αQ目きαo窪 ρμΦや創ら一のO仁一昌↓O破即一Φ目の℃①Oけ鉾昌“ :; ︵勾↓①一ω一口鹸︸目目︸一ひ︶ ︵羽︶ レガーリエンについての一般的説明は、国■Oo葭欝U窪錺昌①幻9げ緩ひq窪o注98ωPど囚跨一曽〆旨冨一3♪ψま禽囚・ 浮貫O呂喜跨旨蜜旨日魯伍93暮8げ臼O§意畠8。。・き捨臣レω・訟。など。 れらのものは元来国王に帰属していることを明示している。 .℃ マ αβS昌のり旨鷺Oげす即ヨOβΦ蜜POβは窃魯89壁即ロお頓凱ω9︿津ごヨ℃O詳貯Oロ氏騨讐お鳴げρψ器8鷺吋ロ昌け・とあり、こ ℃ユ目器8ロく①昌寓O巳即目○頃○○μ暮、H2蛙OOにも冒一巳警昌①巳旨巴9はの旨言肪貫一〇β二〇♂O江o・信ロ戸ρβす9≦蜜9即 ︵26︶ 蜜の国Oo霧“H2戸o。q︵国9昌δ巴o℃蟄℃8需励b9霊目U①o巳ω&09︶またその直後の財器畠巴δ目■bユ≦一霞一ロヨ ︵お︶ ○け5 跨,費。OD︸の,N斜一 ある。 して、請求櫓を持たないと主張した。なお彼のこの主張は、一一一一年の末︵パスカリスニ世の協約後︶に出されたもので 遠の所有物つまり話ω旨o声であり、これは旧新約聖書によって証明される。また教会の建立者は、聖別後はその教会に対 2呂雲ε宣はUoぎぎお80一の玖器なるパンフレットで、神の法によれば、一度教会に贈与されたものは、キリストの永 ︵24︶ ○罫勲騨○こψ8ひβ謡いこうした皇帝側の意図に対しては教皇側は反論するのは必定である。例えぱ躍8箆霧号 ︵%︶ H㎏Φ昌OOけゴ]ワΦ辱沁Φ吸倉一一〇昌げO凶﹃一識一目 一﹁ド一陣げ↓げ口昌qO↓“凶因Oひ9 国こ ︵一〇斜QQyの・boいひ 岱▼ ︵艀︶ ○δダ 堕,蟄。○■一の●N軌QQ ぐ磯一.○○旨oo壁 H︸Z↓■ 一〇NIOQ● ︵錦︶ ︿㎎一■○け∬ 帥 噂 帥 ■ ○ 、 矯 の 。 N 頓 o Q 内 ■ q巳<o話一鼠け粘辞這ミであるが、オットはかなり批判的である。<管き島禽oゆo琶冨畠に目の<9︾・Uo鴨おびNカ08 け。講器o馨。§Φ鼠のも鐘①一一卑巳帥β。器暮巨器9ぎ包註♪2p①自。h8仙。。冨8忌・馨8ロ舞σ&冨Φ。2。毒ヨー8 諾婁旨。一Φ巳ぎ銃2巳ω呂轟昆島諾8。霞ωぎβ。8一①の冨く==ω;浮gけ一馨⋮。。。9轟①旨一︸8巨馨βヨ§一塁 。&一。鐘。一一駕8まヨ毒三。器ω。ぎ琶。窪目oΦ目げぎω﹄毒象・錺讐匹。拐g馨登Φ需8臣ω霞弩⋮:⋮堕ヨ臼8εβ <笹隆ω9目鳳”Zい器宅■︶とあり、また下ってバルバロッサが一一五二年十二月Oo目げδ信N修道院にも9窪98ヨら8学 器ぎヨ窪日富ま一ρ自韓ユgゆぎ9旨8Φ昼§回①呂一巳即呂三ωも羅葺h。弱g日Φ薮目⋮■︵OF”﹄●○﹄ω﹄8 ︵鱗︶ 例えばコンラート三世が一一四五年十二月、都市Oゆヨぼ巴の司教に与えた特許状にはS彗ご馨益貫象露ユo廿旨扇︸琶o− 、つo ︵33︶ く笹’○芦勲鋭○こψ80。,コンラート,三世からハインリッヒ四世までの特許状中には僅か六例を見出すにすぎないとい ︵32︶ ミッタイス・世良訳書二〇五頁。︿α費一,OF勲顕○こψω8・ ︵組︶ ○け“ 陣。四。○こ ω■bのひQい ︵30︶国■目§一ρu段聾臼け自①ω崔9窪目ぎ巨醇ωb。︾ロP妻。首舘一。参の﹄認 H︷。堕 ︵一〇〇〇︶ の,M一〇庸。 成立を高く評価しようとするのは、︾、b騎9£Uす因紹巴一窪伍9目捧9a8識8けoロ囚詮畠o疑閃8錺畠ユ津山9の冨Ng ︵29︶ ○詳野箇■○この﹄a︾旨ω公権と土地所有との分離、或は制度とその担い手との分離という点で、レガーリエン概念の ▽ フリードリッヒ バルバロッサといわゆる﹁ロ:マ法の理論的継受し 二五五 けげ①一。萎・β胤。凝一毒く一旦。弩葺毒。巷§。窪慧8。ω菩呂く臣。ヨ耳器げぎ同毒g8酔。§ロ目。穿藝毒:こ 一橋大学研究年報 法学研究 6 二五六 Nε■夷一・幹一⋮℃♪2﹃。い99︶ も一〇。畠ユ翫9≦8ユ鍵oβヨ目o一①昌&昌量8畦冨o巳け﹃oけ冒〇三ユ∫鷲暮量膨8偉旦匹一く一の:の諸特権を与えた。︵○罫ψ 例えぱ一一五八年、トリエールの司教への銀山授与に関する文書には、o目ま臼ごo。江oド目ρロ餌目ぎ”お①昌$ユρぎd一ヨo, ︵35︶ 凶Φ⋮国ぎ8邑。ぎ彗。﹃;⋮窪日。器旨詰駆一ぎ5営琶ゑ§・ま雪。gぎ巳き⋮︵9δう些Pψ器くαq一・ の9目胤ZけおOoo,︶また下つて、ハインリッヒ六世時代にも、窪ヨ○ヨ良ψ畦鵯艮露o巳昌帥銭一ロ声需詳ぎo暮一一員︶霞ゴ9 一葺窪8四a昼き諄露巴け8≡雲鼠霞⋮:︵竃O閏○自の﹁到2辱ω鴇︶とあるが、これらはレガーリエン概念の拡大がドイツ にもみられる例と考えられる。なお二四五頁の対照表を参照のこと。 <oq一・OF雰鉾○﹄ω◆Nミ︷■ボーズルは述べる、﹁レガーリエン﹂はブルグンドから普及したと。ミソタイスは、ア一の概 ︵36︶ 念の拡張は一一五七年のブザンソン国会以来、という。︵三葺o量∪段ω雨5けα$げ9窪竃葺巴巴審鋒タ︾島・¢ミ曾︶ <撃言箆け払鐸葦く6醇①ぎ。算評ω邑量区。乙。器。げ窪囚器昏婁︵一。。。。ω︶”¢云句・この望くヒ鼻夢 囚oo霞︶一〇♪ω●Uoo“くα蔓歴零○閏9鵠¢ど2吋ー一9 ︵37︶ ︵38︶ Ω雲器一は、ギーゼブレヒトによって、教皇特許状を模倣したものと考えられている。なお二六八頁参照。 問㎏㊦一ω一一茜︸目 ︸ ま ︵39︶ く匹。勾一〇犀oンどの■8命 ︵40︶ クレモナなどがミラノを平和の破壊者として、つまり平和令に違反するものとして訴え、ミラノは国王裁判を忌避し、ア ︵41︶ ハトに触れさえした。だがバルバ・ッサは、ミラノと結ぶトルトーナを躁躍したにとどまる。 コU熔薦PU窪$畠①ωo詠巴−婁一旨8び縁$Qq①B巴o匡ρド跨ロn一・一89幹一a例えぱ、一一五八年の平和令第六条では、 ︵42︶ ■ 秘密結社、都市の宣誓共同体︵8巳β奏氏言雷︶一切を禁止し、現存するものを無効としている。︵<旭・客O匡○象界どZ艮 , 一Mひ・︶ へ↑ フリードリッヒ バルバロッサといわゆる﹁・ーマ法の理論的継受﹂ 二五七 ︵σ︶ 刃帥げOミごど Hく︾団 器竪一宣3一§・冒も①β8詠お昌g①馨巴器時︾鼠。gヨ巴。陣一品。三。■︵竃O頃9一曇・H︸寄﹂翼︶ 0ごω鼠8おぎ一器蜂︸竃。α一〇一彗Φ霧g忌且一。3一昌山Φ8鷺oの壁℃oの。。一呂一け簿oωE器暮ぢ需おo壁g零ω器のω一8ρg 貯貫・巨ぎ“g臨ρ三の需腕β雲目匿。。oげけぎ。器<oξ。﹃詳①二霧§昼営一昌。。・同帥目αoヨ琴巨需露8お<①一β琶90 需号ぎ⋮一塩糞εωもo巨9ε。。9巴匿巴巨一旦臨ρ壼撃算。o目日巨。ピ①巳o重蚕邑葺昌象目葺99巨酔旨器コ9 は神妙に、支配者皇帝に返還される。08<①巨δ窪旨竃o象05一釜邑び霧伽P因藷毘轄くoぼ鼠ヨo富ぢB爵Φ〇一9窪糞︸ 使者に不正を働くっもりなら、ミラノ人はそのために身体刑もしくは財産刑に処されるであろう。かくして、レガーリエン ミラノはこれらを放棄し、その分を守るものである。もしこれらがレガーリエンを利用しようと欲し・このため皇帝やその ︵46︶ 第九条 レガーリエンは貨幣、租税、通行税、通門料、都市及ぴこれに類するものである。この限りにおいて、自治都市 ︵45︶く凶ピ囚o①庖一①ぴの﹄o。9 は法律家の出であるというが、如何なる人間なのかを具体的に史料上突き止めることは出来なかった。︶ ︵44︶ 囚8℃覧oびψ総qケプラーはこの政策がダッセルのライバルピ巴o留閃pユの政策と類似していたと説く。︵この人物 く。旨暮⋮︵国昌Φ且♪H<δ o①幕審馨い⋮:ぎヨ器毎β冥一。慧の冨αq患帥紬o&置巽。⋮﹄冨ρEの一忌ロo自①げ8首ωo一霞ρρ一注①ωω①“器一民一。騨− 特囲巳9q①お竪ま臣ρβ8一。夷oけΦ営℃9Φの窪お一き葺鋒。℃Φ旨蹄①暮言目。な窪諾σq一。。葺お凶β巨ぼ℃畳。島甲 罐一,HOドu震因①撃一δ一き。讐段言一N。冒腎巨旨。芦国因のひ9囚﹄の、ミω■寄げ署ぎ審吸πu①一且。の巷田房浮﹃ ︵43︶↓﹃冒曙。﹃も一。ぎ塗一穿・一茜匹霞○聲呂謬雪傷霧旨&のヨ①昌の痘富ぼげ。げ窪匡け邑埠①﹂国N一軌。︵一。い。︶幹亀ρ ▼ 59 58 57 56 55 54 53 52 51 50 49 48 一橋大学研究年報 法学研究 6 二五八 !N⑫一、○↑“ 費。段薗○、︸の■N圃ひ に口︾畦器︸U83ロ犀亀δ9①p切Φのo巨富曽<o目い一aoo︸U虫℃N蒔段℃巨一■Uδω﹂ooooいの、OR三。男oヨ8≦”ごぎ﹃山oβ 9薯83雲巨鼠a互撃。箒ぎ葺に鵠留讐一︵冒OH肖9霧け﹂︸寄﹂翠y8目勺望巳ρ旨9>冒ひ︵9塁こ︸2け れらの著書を見る機会を持たなかった。 8ぎR浮笠℃匡一,∪δω,国aδ一〇〇〇〇μψ跨が強調するといわれるが︵問ぎ警段≦巳35ψα融’○∼”、艶○こωる翼︶、こ 田旨農αR葺&巨のg窪<8ω芭ざ轟ε旨の5彗窪臣巳Φぎま詩囚巴のR国.一区旨訂H.ロ&象。︾霧。げ暫養お窪 ミッタイス・世良訳、ドイツ法制史概説、一八○頁。 句一〇犀O円 HH ω● N圃加剛。 一 ︸ ○け“跨’ゆ●○こ の、N圃OQ 訪,一刈さの く頓一■男一口ω梓O噌ミ魯一山O聴”の,N轟︸冒○頃OOβooげ H,の’N轟轟● 冒Q国00β四e H︸2P 一刈軌 菊跨ゴO名一昌ヤHく︾刈 ○け“ 蟄、勢’○こ ω■国O℃ ︵の什β搬口b戸 Z同ひ ωO頓ひ︶ 09勲鋭○こψ錦℃︵の9旨鳳噛客けま象︶註34参照。 冒○国○○βω¢ 目︸2擁■QQ凱 〇一甘、騨◆即’○.ω。N刈QQ 冒○国○○β胆壁 劃 乞畦■一圃軌 (((((((((((( )))))))))))) 畷 1 幻ミo箕5江げ葛し一9甘昌Nひ︵08貫ど気”曾。︶ま太一一八三年以降にも同様の協約が幾つかみられるが、・ムバルド P一一yoロヨ一曽”βo=臨げ仁ω噂一一ひN︸仁pりO︵Ooコの“どZ蛙塾o一一yo皿一昌O↓o目oロ①一一巴げβω︸ 一一ひN ︶q口・ 一〇︵9昌の“HlN一Nyoβヨ ( 60 ) へい・ ▼ いてば徐々に実際上の効果を失ってゆく。なお都市以外の揚合特にグラーフに対しては、皇帝の権利を具体的に留保す る条項︵ω巴奉ごの§壁○鼠臣9︶を持つ特許状の形で、レガーリエン政策が行われて行く。 に フリードリッヒ バルバロッサといわゆる﹁ローマ法の理論的継受﹂ 二五九 度の導入については、田oぎき目諭罵み参照。 バルバ・ッサによって立法されたと想像される勅法︵知られざりし三つの法規︶にあるもの。コンスルの任命、ポデスタ制 を具体化したものである、なお⋮90目ロ9ごe8ω臼胃ぎ虫需帥3巳巳ω貸緯δ8ヨ跨o首Φ8留訂P鉾:この規定はこの頃、 〇8鈴担Z吋、曽ρ︵N︶︶は、レガーリエンの法律の℃03馨88霧葺話昌αo旨ヨ三霞蓉βεβ巨呂ごの騨置目與需象o昌爵ヨ ω碧一く歴F一一一。葺e。峯p募<Φの↑↓Φ﹄。景§。⋮・ΦωΦ一のg陣8曇一。ω冒。ω艮聾昌p霧5塁一。憂。§一旨旨︵暴四 覧p。ロΦ時一言。庄ω魯一洋。暮の一⋮。一毒霧§p曾§・・一ぎω畳Φ昌β目。一薩置諄8曇一。巽山げ§器巳ξ①葺g 一営b。﹃即一。↓一ω。。ωΦ一一αQ一b。一ヨ一け9旨・︵田爵霞︸Fωレoo高︶とあり、クレモナの例ρ養旨自08島巳8<o諄ユ目醇磐象窪暮も一 ︵63︶ 一一五九年の、・、ラノに対する命令には、ω89<oご暮8話巳8︿98器ω3紳霧08S需ご雷88一三一三6亀ob9昌β葺一8 ︵62︶くαq一。∪巴ぎ一う﹄。○‘の﹂8い 一罷琶9鴇筐蔦”一馨詩讐竃吋口。。環琶盆︵蓉奮︶”#巴9葺一昌となる。 を支払ったという。その他の例などU①ぎ旦勲鋭○こψ一9参照。当時の貨幣換算は旧ミラノ貨幣によると・8のo犀良H 〇マルク、一一六二年ブレスキアは六〇〇〇ポンド、ビアツニンツァ六〇〇〇ジルバーマルク、ボローニャも高額の銀? ︵三Φ頃08ω鱈H.2目りN一ρ︵い︶︶そして一一五八年ピアツェンツァ六〇〇ジルバーマルクを、ミラノ九〇〇〇、クレマ一二 円。的一どω。二一唇Φ吋蟄8擁一げロωαg①昌奮ヨ 。富藷Φ注ぎ一ぎ雲。馨。怠浮旨一p旨薯ぎ冒切。一套δ蒼。Φ勢■; 寡おαq昌び臣。目鉱gのく。の8拐E8肩羅馨8①5巳。§β①詮gユΦω蔚き募。区麩。霧。目等霧ロ巳く。邑のぎの鼠ω ︵61︶ OF騨・騨・○﹄ψboお例えぱクレモナは、年間二〇〇ジルバーマルクを支払うとの約定がなされている。ω塁①暮鷺o 要募冨一器p畳巨一。一信βω。計・蜀鷲馨ヨ旨8&。居巴陣げ霧ω①ゆ葺。邑悉き“ 一橋大学研究年報 法学研究 6 ︵64︶ 暑ω巨霧く①ゑ窪客ω唇げ置ω寅の凝巳。罫昌8塾。§の①﹃。・︵園国げ。且p三。。︶ 世良晃志郎﹁封建社会の法的構造﹂、一〇一頁以下参照。 ︵65︶ ニ ロンカリア立法における﹁ローマ法の影響﹂ レガーリエンの規定が、どの程度・ーマ法によって決定 されたかという問に答える揚合、立法の目的からして、 イタリア現行法との調和ということも考慮すぺきである。 規定のなかの多くのものが、全く・ーマ法と無縁である とはいえない。この点でサヴィニーの説は行き過ぎてい るQ ︵−︶ ーユリウス・フィッカー1 二六〇 図図図ヨ一一寅 欝δ昌けOR賃一β 本章では、一一五八年の・ンカリア立法とりわけ、レガーリエンの法律について、その立法の方法、文言、法素材 − などを取扱うが、その目的は、この立法にお廿る﹁ローマ法の影響なるもの﹂が、具体的にどのようなものかを法史 傾 、⇔∼ 的に検証することである。 一 ラーエヴィンの記すところによると、バルバ・ッサは、第二回のイタリア遠征において、九月にミラノを開門さ ︶ ︵5︶ やブルグンドの貴族に与えられた皇帝権の留保条項をもつ特許状をも一応考慮に入れる必要があろう。 後章で取上げることになるが、そのほかレガーリエン政策に関連あるものとして、バルバ・ッサによって、イタリア 献に対する報酬︵または、・ンカリア立法に先立って与えられたもの︶と見ることが出来る。この特許状については するものであると推定される。﹁学者達の特許状﹂は、・ヘハルドにおけるレガーリエン政策への学者達の協力・貢 ものは、レガーリエン政策と直接関連するものであり、﹁知られざりし三つの法律﹂は、レガーリエンの法律を補強 という面でも、それ以前のレーン法、平和令をも含めて、決して無視してはならないものである。以上の二つ以外の るし、ゼッケル中留鼻巴によって発見された﹁知られざりし三つの法律﹂象①善げ評き暮Φ穿巴O霧Φ言oも、・ン ︵3︶ カリァ立法に含めるだけの充分な根拠を持っていると思われる。レーン法と平和令については、レガーリエン政策と へ4︶ 直接の関連は持たないにしても、ドイッ国制史研究上その重要性は今更いうまでもない。そしてまた・iマ法の影響 ︵2︶ ε5冒畠レガーリエンの規定Uo諏艮δ8撃一冒目のほか、学者達の特許状即ぞま笹ロヨの魯〇一器江窪営の四つがあ ず、MGHに見る・ンカリァ国会。弩す8営呂器の項にも、レーン法Oo霧馨暮δ号一畦Φ団Φ鼠o控旨平和令Oo塁亭 最初に一言しておかねばならぬことは、・ンカリア立法には様汝のものが含まれていることである。すなわち、ま ▽ フリードリッヒ バルバロッサといわゆる﹁ローマ法の理論的継受﹂ 二六一 ラノ人の復欝を警戒して、ものものしい陣立てのうちで開かれたこの国会には、ドイツ側の聖界、俗界諸侯に加え せ、平和条約を結んだが、十一月十一日の聖マルティン祭に、恒例の如くポー河畔ロンカリアに国会を招集した。ミ ( 一橋大学研究年報 法学研究 6 二六二 て、イタリア側からもミラノの大司教をはじめとして各都市の司教達、コンスル、裁判官など多数が列席したと、伝 えている。バルバ・ッサは、参集した者達のうちから司教達及び少数の俗界諸侯を、特に信頼に足るものとして選ぴ、 ︵6︶ ︵7︶ 法制定の諮問会を構成した。この準備会に三日を要して後、まず、皇帝自ら、参会者全員に、皇帝権のカと法につい て、演説を行った。これは絶大なる賛同を以て迎えられ、ミラノの大司教の演説をはじめとして皇帝の威徳と権威を ︵8︶ たたえる讃辞が終日続いたといわれる。次の日に、国王裁判が開かれるが、この際にボ・iニャの博士達も同席して いたことが記されている。次いで、レガーリエンの記述がみられる。皇帝は帝国の正義とレガーリエンの問題につい て熱心に論じた、すなわち現在それを所有する者はその根拠について口実を持たず、故にそれは皇帝の手に返還さる ︵9︶ べきことをミラノの例を挙げて説き、レガーリエンを具体的に例挙したというのである。更にラーエヴィンは、個々 の都市のポデスタ、コンスル、その他の役人が、人民によって選ばれると同時に、皇帝の栄誉と市民と都市の権利を 護持することを良く知るぺきものであると記し、更にこれらのことが忠実に守られるよう、すべての都市による宜誓 がなされ、そのための保証人く呂霧が皇帝によって選ばれたという。この次にレーン法及び平和令についての叙述 ︵10︶ がなされるが、僅かに、過去の法記述が不充分であるという前置きのみで、二つの法文を記すにとどまり、・ンカリ ア立法についての叙述を終っている。このように、ラーエヴィンの記すところによると、レガーリエンに関する取り ︵11︶ 極めは、一応イタリア諸都市を対象としていること、レガーリエンは元来国王に帰属しており、その不法な占有を返 還せしめること、そして改めて皇帝の任命する者に支配が委ねられること、立法の手続は、伝統的︵ドイツ法的︶な. ワイステユゥムによっていること、等が明らかにされている。唯、ラーエヴィンは、ボ・ーニャの博士達が、立法に ︵珍︶ .噂 1 ︵夢・ 、V 関与した事実に触れていない。この点については、オットー モレーナ○暮o目o冨9が、後日開かれたコントレビ . アでの・ムバルド諸都市の裁判官にボローニャの四博士を加えた小会議の様子を記している。この会議においてもワ ︵13︶ イステユウムの形式によって、各都市の承認がなされ、かつレガーリエンの法規が書き記されたと伝えられる。 この立法の手続は明らかにワイステゥムであるが、同時に制定されたレーン法や平和令の揚合も、皇帝による宜誓 B︶ がみられない点に注目するなら、実質的な意味での立法であると考えることも出来る。しかしながら、皇帝の絶対的 地位やその立法権が、以前から示され、この国会の場でもミラノの大司教オベルトス○び曾9ω留置一導○の特に強 ︵ め ︶ ︵16︶ 調するところであったにもかかわらず、絶対主義的な立法の方向は明示されたとはいえず、かえって成文法制定に対 しての慎重な態度さえうかがうことが出来るのであって、新旧の︵立︶法思想の混合状態として見てとることが出来 るであろう。レーン制と官僚制、ドイツとイタリア、自然経済と貨幣経済、まさに夫々二つの要素が噛み合さったも の、・ンカリアの立法全体を、こうみるとしても大過あるまい。 フリードリッヒ バルバ・ッサといわゆる﹁・iマ法の理論的継受﹂ 二六三 って不充分にしか書き記されていないため、すべてのレーン的諸権利が誤って用いられている。こうした現状から、 という文言を謳っていることである。そこで、この二つの法規は、ラーエヴィンも記すように、﹁従来ラテン人,によ ーと、ラーエヴィンが伝えるものは、全く一致しているし、更に重要なことは、二つの法規が、いずれもその冒頭で、 ︵17︶ ﹁永遠に尊厳にして、神の恩寵を受けしフレデリクス ・ーマ皇帝が、その帝権に服するすべての臣民に︵命ず︶﹂ レーン法、平和令については、全く問題がない。というのは、MGHにみる法文f封建法書に挿入されたものー 二 この・ンカリア立法にみる諸法文を形式の面から考察してみよう。 ( へ13︶ 一橋六学研究年報 法学研究 6 二六四 皇帝が告知し﹂、恐らく、諸侯の求めもあって、皇帝文書の形で残されたものであろう。 ところが、レガーリエンに関する法規は、多くの問題を含んでいる。第一に、MGRの、つまり封建法書に挿入さ れているレガーリエンの規定は、レーン法及び平和令の揚合にみられる冒頭の文言を欠き、いきなり幻①αq巴す ︵19︶ 旨暮:.で始り、レガーリエンの例挙で終る。そしてその文言は、ラーエヴィンの記すものとは、全く異っている。 従って、この﹁レガーリエンの規定﹂は、皇帝文書として残されたものではなく、レガーリエンが口頭で挙げられた 揚に居合せた者が、メモ風に書き記したものであるとの推定がなりたつであろう。しかも、レガーリエンの列挙が、 ︵20︶ ・ンカリアの国会と、その後コントレビアで開かれた諸都市の裁判官達の小会議との二回行われたと見るなら、ラー エヴィンの記すものは、前者の揚合、封建法書の﹁規定﹂は後者でのものとも考えられよう。正式な皇帝文書が作ら ︵飢︶ れなかった理由は、まず・ムバルド都市の側からの要求がなかったこと、各都市との8薯Φ旨δが予定されていたこ となどが考えられよう。 更に、裁判官の任命に関する立法があったことが、ほぼ明らかになっていることは前に述べたところであるが、こ ︵22︶ れらはその存在が封建法書の外典の手写本に付言され、更にバルドスのコンシリァにその一部の引用が発見されて、 愈︶ 部分的に再構成されているにとどまる。更にレガーリエンの法律に間接的に関連あると思われる﹁学者達の特許状﹂ ︵盟︶ も、MGHの原文についての史料批判が提起されるなど、とにかく、レガーリエンの法律に関係ある法文は、今に至 るも極めて不確実な要素を含むことを念頭に置かねばならない。 今、MGHのU。匡暮δお頓巴ξ目を取り上げてみても、これは単にレガーリエンの対象を、雑然と列挙したもので .噂 博 むて 一$と、表現の上のみに影響があると考えられる︵18︶の&塗§裟旨帥目:臼旨目首δΦ昌a三8①巨とし ︵26︶ 、 明らかに・ーマ法すなわち8G塁旨ユωo一≦房の引用と認められるものは、︵25︶の埋蔵物に関する規定にみるぎ診 的なる揚所の埋蔵物の半分、︵発見に際して労力を要した揚合にはすべて発見者に帰属。︶以上の二五の項目を通じて、 ぎ一〇88鋸旨︸⇒g住暮騨8震欝話二昌一〇8お一蒔一89巴鼠38g碧8葺旨&窪日需註諾“皇帝領及ぴ宗教 塩抗収入、︵24︶9げo蜜8B目葺。旨旨旨R首窪巨玖霧5駐大逆罪人の財産、︵25︶①け岳旨一良ロ目爵。器畦一ぎくΦロ江 ︵21︶す巴暮一巴Po一≦3寓げ霧。9鶏。駐宮廷目都市裁判権、︵22︶且8彗一8ロB8&一εω漁獲収入、︵23︶①什。。魯一ぎ卑昧偉目 ︵19︶、づ9諭ぢω8霧自9①監o賞ヨ巨茜韓箏讐偉ヨ器ご簿一けす目貫需良窪魯ヨ役人任命権、︵20︶帥↓凶。暮曽噂一Φ銀鉱、 ︵料︶、︵18︶Φ曇声9象壼ユ帥8一一鋒δ呂匿§匿一昌”日器撃冴ロロ誉一巳の①昌&三〇諾e国王遠征に際する特別拠出金、 讐鵯ユ鷺ロ馨9b貧轟畦一弩ロヨ9覧雲。。菖O寒日9昌暫く写日嘆霧3菖曾窃街道、枝道、水路の、人及ぴ貨物の運送 ぎ9<δ8嵩窪暮一〇巳げロω雷お9け新しい勅法により有罪もしくは追放刑に処せられた者の財産、︵14117︶ け声冨暮貯ヨ旨8警霧Pε一け一器近親相姦者の財産、︵12113︶Φδ壁旨層声8置旨9冥8。皆甘8旨目器。巷身ヨρロo山 冒山蒔巳の一轟ぎ基⇒鼠霞§gツ巳巴ρ琴呂妥”扉Rρ巴σ器号目。88身旨畦・相続不適法なる財産、︵n︶σo一一”08, ︵8︶B三。3窪目需壁旨巨8日唱①&貯賠償金余剰、︵9︶げo轟奉8暮す相続人不明の財産、︵10︶Φけρロ器 港湾︵5︶ユ℃讐一B灌概用水料、︵6︶︿①。寓撃一旦程器毒蒔o象窪・暮畦甚98窪貢租、︵7︶日o器富貨幣鋳造、 ℃呂一一8公道︵通行料︶、︵3︶団冨目一壁轟≦鴉玄一す魯o図ρ巳げロω隣ご旨ま三撃玄一昼航行水路︵料︶、︵4︶唇↓鐸の ︵鱒︶ しかない。記述の順に従って順次挙げてゆくと、その数は二五である。︵−︶跨言き鼠①屯田兵の諸給付、︵2︶≦。 ワ フリードリソヒ バルバ・ソサといわゆる﹁・ーマ法の理論的継受﹂ 二.六五 b。 一橋大学研究年報 法学研究 6 二六六 う文言であるとされている。この結論はサヴィニー以来のもので、フィンスターワルダーを経て今日でも一般に認 ︵留︶ められている。従って一般的に見るなら、このレガーリエンの規定はゲルマン的なものであるといわれるのである。 ︵28︶ 確かに、レガーリエンという用語は・iマ法にはないし、前に記したレガーリエン概念の発展の経過からみても、そ の内容は極めて流動的であり、国王の政策によって変化する可能性をもっている。元来、慣習的な存在であるレガー リエンを、すべて成文法の根拠で立証することは不可能である。従って、・ーマ法の影響が先に述べた程度であれば、 ︵29︶ 非・ーマ法的Hゲルマン的という結論を引き出すことは、ドイツの法史学者の常識であろう。 だが、その結論が出る前に幾つかの問題がある。フィンスターワルダーは、この規定の立法手続がワイズテユウム によることに、ゲルマン的性格を読みとろうとする。この揚合のワイステユウムが、単なる形式的なものでしかない ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ との評価を下すことも出来るわけであるから、手続がドイツ法的であるからといって直ちに、そこで発見された︵そ して記述された︶ものがすべてドイツ法的というわけには行かないであろう。次に問題になることは、・ーマ帝政期 の皇帝権を頭に浮かべると、ここに挙げられた多くのレガーリエンは、同時に・ーマ法上の皇帝権でもあり得たので はないか。とすると、これらのレガーリエンの規定には、もっと多くの・ーマ法からの引用があるのではないかとい う点である。表現上・ーマ法的表現によるものはともかく、内容的にみて・ーマ法文上も皇帝ないし公のものとされ ているものは、︵25︶以外に十六もある。ただそれらのものは、明らかに・ーマ法からの引用の根拠となるような表現 ︵30︶ 上の一致点を持っていない。従って一体これらのものが、ドイツ国王の罰令権に由来するものか、・ーマ法に基づく ’マ のか、アポリアにさえ導かれよう。しかし、この問題は、ロムバルドにおける・iマ的遺制、事物のラテン的表示が ︵31︶ 婚 ワ フリードリッヒ バルバロッサといわゆる﹁・ーマ怯の理論的継受﹂ 二六七 る誉冴象9δは、裁判高権の意味を持ち、裁判管轄権と訳される象簿ユ9岳は、かつてブルンナーが○ぼ蒔ぎ津の を受けねぱならぬと規定している。フィンスターワルダーの説くところによると、通常裁判権ないし裁治権と訳され と象露ユ9霧とが皇帝bユま8ωに帰属するとし、支配権をもつ者すべてo目βΦのご象8ωが皇帝から&旨ぼ蓉昼江o という主張がなされるのである。またこの項目を補うものと考えられる一臼○巨三ωには、まずすべての一畦誌島9δ を皇帝が持つとすれば、ドイツ国王によるω塁巳①一ぽによるほかはない。この点から、この法規がドイツ的である 制? として・ムバルドの自治都市では、この共和政の原理が支配していたのである。従って、ここで官吏の任命権 を把握したにしても、ローマ法上官吏︵特にコンスル︶の任命は、市民による選挙に基づくのであり、現にその遺 ローマ法の識者がいたとしても、法文上の引用は恐らく不可能であろう。帝政末期に実質的には皇帝が官吏の任命権 へ32︶ エンの定義の︵刃︶及び一露○巨凱ωは、数多いレガーリエンのうち最も重要なものと考えられるのである。︵19︶は、 ロ昌巨響Φ写畦を諸都市に置く、つまり官僚制的な行政組識を造り上げることが先決問題であった。そこで、レガーリ 収奪し、皇帝の国庫を豊かにすることであるが、その目的を達するためには、皇帝に忠実な役人すなわち沁Φざ房− 担い手たる役人の任命権、財政的利用権となる。バルバ・ソサのレガーリエン政策は、・ムバルド諸都市から貨幣を ものは何であろうか、︵25︶の埋蔵物の規定であろうか。これら二五を、三つのグループに分けると、裁判権、その なるほどここに列挙されたレガーリエンは二五あるが、バルバ・ッサのレガーリエン.政策からみて、法的に重要な であるといわれるのは何故であろうか。 かなりの部分を占めていると考えることも出来る。こうしたことを考慮しながらも、一般にこの立法が非・ーマ法的 拳 ︵33︶ ︵謎︶ 一橋大学研究年報 法学研究 6 ■ , 二六八 指標と述べたように、ドイツ国制史の国導暮①筥詩を指している。しかもこの両者を並列させるのは正にゲルマン的 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 ︵36︶ な法感覚であるとし、従ってここに&日一巳ω零暮δとして示されたものはげきロ基簿b9霧冨ω一ロ象oき象であり、 ︵35︶ まさにω讐三〇跨oが法文全体によって明らかにされているというのである。しかし皇帝に鷺営8窮という表現が 、 用いられている点は、・iマ法的用法と考え、更にこれに続く役人の宣誓についての規定も、この種の︾旨諾。箆は ピ魯話往しか知らぬゲルマン法にとっては異質のものであり、これについては他の要素例えぱギリシャ的な20<,o。 の引用を考慮せねばならないという。このように、レガーリエンに関する法律を、ゲルマン的及ぴローマ的な要素に ︵37︶ 分けてしまう手法がとられるのであるが、アペルトも指摘するように、そのいずれともつかぬ、ランゴバルト特有の 制度1・iマの遺制及ぴランゴバルト的な法形成物iの存在が考慮さるべきであろう。ωの畦ぎき畦。などは ︵38︶ その代表的なものであろうし、上述の︾日富Φ崔もアペルトは、当時のイタリアの法生活上生きていたと考えている。 更にこの︾目鍍Φ崔に関しては、フランク時代からの遺制をも考えねばならない。この点はシャイヒンクが指摘する ところである。またレガーリエン政策全体についてみれば、皇帝権の留保条項の巴奉誉。。鼻卑Ω雲絶を持つ特許状 ︵39︶ における教会法制の模倣の問題もある。こうした点を考慮するなら、レガーリエンに関する諸法規が実は様々の法素 ︵40︶ 材からなりたっていることが指摘されるのである。 ︵q︶ 基本的にみれば、バルバロッサの政策は、地域を問わず、レーン制による支配であったといえよう。それはまさに ドイツ地域における支配原理であった。しかし、これをすでに封建的国家構造が殆んど崩れている北イタリアに適用 する場合には、それを大幅に変更せねばならなかった。レガーリエンに関する法律に見る様々な法素材の混合は、ま ,◎ 縛 δ−・ の博士達であろうか。 それでは、これらの法律を書き残した人物は誰であったろうか、・ンカリア立法と常に結びつけられるボ・ーニャ とするなら、まさにドイツ的なるものにローマ︵法︶の衣を着せたものという表現が適合するものも多いと思われる。 記される可能性は充分にあった。あえてレガーリエンに関する法規の各項目を・iマ法かゲルマン法かに区別しよう ︵43︶ ツに居住し、封建的な感覚でいるドイツの貴族が、イタリアの書記によって・iマ法的な︾巨馨鼠㎎臼として書き ω象o江oo巳ぎ畦すと旨の江↑寅号一①讐鼠器ロ留目巷仙蟄3との・ーマ法的な区別がなされていた。従って、実際はドイ 更に注意を要することは、北イタリアにおいては封建的な園Φ一9路ヨδ醇の法感覚がなく、裁判権に関しても、ξネ ︵彪︶ 甘一の巴3ヨ一巳を出発点とするランゴバルト法の発展が生み出した官僚支配の萌芽と結ぴつかざるを得ないのである。 ずドイツとイタリアとの構造上の著しい差異によって説明されよう。国王罰令権に基づくbき三①臣Φは、すでに γ フリードリッヒ バルバ・ッサといわゆる﹁・ーマ法の理論的継受﹂ 二六九 十二世紀のドイツ皇帝法には幾つかの例を見ることが出来る。それは、美辞麗句めいた極り文句、権威高揚を狙った の問題を取り上げてみる。こうした表現上の・iマ法文の影響は、何もこの・ンカリア立法に始ったわけではなく、 先に挙げたレガーリエンの︵18︶は、内容は無関係ながら、O鼠與からその表現を借用していると述べた。まずこ をおぼろげながら知る こ と に も な ろ う 。 の引用を行ったものが誰かということを明らかにすることによって、当時の法学者の機能、当時の法律の知識の用途 用が意外に少いことを確認した。しかしたとえそれが僅かであっても、それをもう少し追求してみる必要がある。こ 三 われわれは、以上の叙述によって、・ンカリア立法のレガーリエンに関する諸法規について、・iマ法の直接引 ( 一橋大学研究年報 法学研究 6 二七〇 荘重な表現の類である。・タール三世が一一三六年同じく・ンカリアの地で制定したといわれるOo霧暮暮δ留富o, ︵磁︶ αo置日良警βo江80には、ピo跨跨ξの象く冒騨碑く魯一〇9①日①葺すけR95勾o旨国昌9偉日一目℃曾鼠曾も誉漁瀞N母這謹§毯 ミ§蓉喜ミミ︸題蓑噂零象ε鋸婁勉ロ巨語諺o写℃巳ρという書き出し、更に噛醤憾ミ言騨趣睾ざ。ざ蕊ざ曝§置§馨ミ襲暴§督︸ 8薄馨。爵旨窯。b象ミ虞§き器経睾鳶98旨目良凱閃窪謡盆露§&ミ嬉o巴魯日客暮ま臣⋮:とある。前者にはU’∪8 ︵菊︶ ︵46V き。ε器の表題、後者にはρ辞♪鐸冥ーの模倣を読みとることが出来るし、またこの皇帝法には他に二つのいずれ ︵響︶ もOoαo図からの引用が認められる。十一世紀までのドイツ皇帝勅法上、こうした文体上の・ーマ法文の模倣の例は殆 ︵娼︶ んど無きに等しい。バルバロッサの時代に入って、一一五四年十二月第一回イタリア遠征に際して制定されたレーン 法にも、同様の例を見出す。すなわち、悶お留ユo霧∪巴ひq壁δ笹園o旨壁o註菖お図9ω昌も曾き閃霧9の﹂旨b霞貯δB 留098ざ腎貯目一9⋮■αq醇Ro9誓三98置旨oo旨ヨo鼠冒奉a撃β⋮,:更に目簿3諭ぎ誌o昌&客一8訪とい う表現もみられる。これらはいずれも一一三六年の・タールのレーン法にも使われた表現であり、特に後者は、二 五八年のレガーリエンの規定にも用いられている。そして一一五八年のレーン法及び平和令にも幾つかのこうした表 ︵49︶ ︵50︶ 現上の・ーマ法文模倣が見出されるのである。こうした用例の最も古い例として、オットー三世の9讐爲すお留 注隆菖oを取上げるとすると、これらすぺてのものが、イタリアで書き記されたものであることに気付くのである。 ︵51︶ すなわち、オッート三世のこのカピトラリアはパヴィア法書=げ電男避一窪器に挿入されている点から考えて、イタ リァで成立したものとの推定が成り立つし、他の皇帝法はすべて・ンカリアで作成されたものである。 樽, 模倣された・ーマ法文を見てみると、大部分がO&賃であることは、これらが皇帝の勅法であることから、当然 ’“ 、γ を躊躇せしめるのである。しかしだからといって、この規定が書記によって記されたという結論を下すのにも慎 ものがこの規定に存在しない.一とは、少なくとも、この規定が四博士達の手によって書かれたものであると断定する U蒔窃3はまさにその難解さの故に註釈学派による媒介を必要としたのであるが、∪蒔霧冨の法文のみを根拠とする ︵55︶ 或る程度普及していたと考えられており、深い法学識のないものによる引用も決して不可能ではなかった筈である。 U蒔Φの5以外の・ーマ法、つまりOo留〆冒ω蜂§一8霧・20お一一器は、その抜葦書国且ε目oの形またはその原典が まず︵25︶は冒鈴ρど$からの引用であることに留意する必要がある。すでに十二世紀の中葉においては、 どまらず、否むしろ内容をとった︵25︶がある。この点をどう考えるべきであろうか。 一一五四年の皇帝立法にすでにみられるρ一讐bD﹂一の表現があるが、更に︵14︶にはのΦ窪け身旨程&ぎ琴≦ω へ騒︶ 8諾窪暮δ巨げ臣という20ダ一い♪ρ墨伽b。︸。による表現をみる。ところが、この規定中には、単に表現上にと 問題のレガーリエンの規定について更に検討してみると、すでに指摘したように、まず︵18︶には、一一三六年及 たものであるが、これには、明らかに・ーマ法文を模した表現は見出されないのである。 あろうとの推定は一応成り立つであろう。これに反してバルバ・ッサの二五二年の平和令は、ドイツで書き記され ︵52︶ ︵53︶ 者である必要は認められないのである。そこでこれらの勅法を書き記した者、それは北イタリアの書記唇鼠ユ霧で 法文についての或る程度のー例えば修辞学的な1知識の持ち主であれぱよいのであって、特にボ・ーニャの法学 比較的平易な部分からとられていることに注目せねばなるまい。こうした点から、これらの勅法の書き手は、・ーマ と思われるが、U蒔霧鼠を用いた揚合も、序文の表題とか、U①良話お誌冨ひq巳房ご↓一の暫暮β巳︵PUρぐ︶とかの φ フリードリッヒ バルバロッサといわゆる﹁ローマ法の理論的継受﹂ 二七一 .} 聖 一橋大学研究年報 法学研究 6■ . 二七二 重でなければならないであろう。アペルトは、この推論を強調するが、その理由は、表現上の問題、ρまヶ一二二六 年、二五四年の皇帝立法そしてこの規定に共通にみられるρ一る﹂一の表現模倣のみである。私は、それに、引 用法文の種類.の中に∪蒔窃鼠のない点を付け加えてみたが、それはあくまでかの推論を幾分か補強するに留ると考 えている。 ﹃体このレガーリエンの規定が何時、何処で記されたかも問題である。ラーエヴィンの記述によると、それは・弘 カリァ︵十一月十四日頃︶であるが、モレーナの記すところによると、コントレビア︵同月廿三日︶であるゆぞれに よると、小会議が終って後、会合した者達は諸侯達や・ムバルドのコンスル達の目の前で、皇帝に帰属するレガーリ エンのすべてを書き記した。・とあるに過ぎず、特に四博士を挙げてはいない。そこで、一応、書記によるメモとして ︵56︶ ︵肝︶ この規定を考えるのが最も適当としておこう。しかし、こうした推論はこの規定の立法における四博士の活動を全く 無視することを意味するわけではない。唯彼等は、この規定を直接書き記した者でないらしいこと、、またこの規定の 文言について、・ーマ法文を引用するという、細部の助言を行わなかった、少くとも現在残されている史料上、その 誌︶ 積極的な立証は不可能であることを示すに過ぎない。従って、この規定の文言によって、ローマ法の決定的影響がボ ローニャの四博士の手によってもたらされたと断言することは出来ないのである。四博士達の影響力、それはより高 度の次元で考えねばならないが、それは次章で展開される。 ♂ や 噌 演説の中に、・iマ法が引用されていることも取上げねばならないであろう。皮肉なことに、この揚合が最も完全な 訳59︶ 四 より一般的な面で、・ンカリア立法全体に関連する問題として、この国会におけるミラノの大司教オベルトスの 夢・ フリードリッヒ バルバロッサといわゆる﹁ローマ法の理論的継受﹂ 二七三 旨は︵法︶諺集として用いられていたともみられよう。 は、前項で問題にした・iマ法文からの表現借用と軌を一にしているものと考えられる。こうしてみると当時U﹄ρ 比較的単純な皇帝観によって支えられ、いきなり支配者の地位を創世記から引き出している。 ︵御︶ 第二に、﹁善きこともあり、悪きこともあるは自然の理﹂という表現を、U﹄ρ§さから引いている点で、これ 第一に、同時代の多くの皇帝頚歌と同じく、皇帝については、平和の担い手、人民の保護者、世界の支配者という を見出すことが出来る。 終っている。こうした主旨で、皇帝礼讃の言葉を随所に差し挾みながら長々と述べているが、この中には多くの問題 ともあり、悪きこともあるのが当然なのだから、皇帝は人民保護の義務を負い、これを支配する権利を持つといって ︵63︶ 渡したが故なり:⋮こという冒界一る”ひまたはP一闇♪ど℃惨の文言を引用している。そして最後に、﹁善きこ 意思が法である論拠として、﹁君主の好むところは法規のカを有す。けだし、人民は君主に自己のすべての権力を譲 ︵62︶ 栄誉一切が皇帝一身に帰属すると説くのであるが、特に立法の権利が、人民によって皇帝に委譲されており、皇帝の しいことかと述べて、皇帝の支配権は、空の鳥、海の魚にまで及ぶことを再ぴ強調する。そこで、法・正義・帝国の 支配者の地位を、まず創世記一−二八を引用しつつ、一人の人間による他の人間の支配を説いている。そして、以前 ︵肛︶ の支配が残忍、不正を極めたことを詳しく述べながら、平和が蘇り、正義による支配の再建、二のことが如何に素晴 ︵60︶ 形で、ローマ法文が引用されているのである。すなわち、まず彼はこの演説で、皇帝バルバロッサの戦勝、それによ ヤ ヤ る平和の到来を祝し、皇帝の権威と威徳を讃え、人間に与えられた自由が再ぴ蘇ったとし、その自由の享受について、 》 一橋大学研究年報 法学研究 6 二七四 第三は、問題の中心ともいえる、ぎ雰どρひ∼の引用である。絶対主義的皇帝立法権の思想は、実にここに始ま るとさえいわれる。この引用について、その影響・効果といった面は後にして、引用自体の問題を考えてみよう。 ︵65︶ ラーエヴィンの遺した記録によると、引用はO巨&鷲ぎ9営覧8巳けしΦ旭ω匡げ9く蒔oおβoロ目℃名艮臣巴9 ︵66︶ 冒窪日o目諾旨β目一日℃R旨目9b9Φω鼠8目8昌8。。の①ユけ■08α8ヨ200a巨一巳需辱暮自b霞Φ甘ωε一卑B。8ωけ陣, 9臼#話一8讐88霧山ΦR①おユけく〇一①良90肩9β忠芦一〇αqΦ巨窃器8扇鼠け・とあり、多少の字句の変更はあるが、 ぎ鈴どρひ前半の引用であることは疑ない。しかし、この法文の源である∪﹂矯♪一もけでもあり得る。この二つ の法文は当然のことながら実によ︽似ている。今日われわれが手にするモムゼンの校訂本によれば、両者は似ている ︵67︶ とはいえ、⋮⋮o旨冨窪βB陣B蹄二虞日9b9窃3$旨6§q舘裟,︵H霧ごと18爵究§■︵U■︶の部分が違ってい る。そこで、当該の引用文は、目警によると考えることが出来る。ところが、アクルシウスのグロソサを付した、 通常グロッサ付コルプス ユリス キヴィリスとわれわれが呼び、近世近代に広く利用されていたものによると、両 ︵68︶ ︵ 6 9 ︶ 者とも、この問題の語に8葺巳o馨をあてているもの、或はぎ聲では8暮巳雪一£∪■では8蔑。βけとするなど、 時称の違いこそあれ同じ8氏霧Φを用いており、更にこの語のグ・ッサによりそれがぼき獣Roの意であると説明さ れている。十二世紀に用いられたユスチニアヌス法典の法文がどのように記されていたかは知る由もないが、ぎ雰 ︵70︶ も∪,も全く同じ表現をとっていた可能性はあろう。 しかしこれがぎ鰺 どρひによるのではないかという推定は、前項で記したように、当時の法学の知識は専門の .畷 学者以外、専ら∪,以外の諸法文を主体としていたことからもなされるが、もう一つそれを或る程度補強するものと 話 、P フリードリッヒ バルバ・ッサといわゆる﹁ローマ法の理論的継受﹂ 二七五 なくH昌鈴からの引用であると断定することは出来ない。しかもミラノの大司教オベルトスが、どのような学歴の持 た・ーマ法を検討した結果として、マソクス コンラートは次のようにいう。﹁彼はその著作で、冒鈴O&賃及び ︵78︶ 国b一8目Φ旨巳昼巳を用いているが、∪・については名前のみを知っていたのである﹂と。ヨルダンはこの同じ法文が、 へ79︶ 後年今度は皇帝立法権の根拠として・ンカリアで引合に出されることを付言しているが、、勿論これのみで∪●からで していた。彼はローマ親族法を用いて国王の王位継承を説明しようとしたといわれる。しかし、その著書に引用され ︵77︶ .︾の偽書の作者はほぽクラソススと推定されている。彼は最初の皇帝法曹であり、少からざる・ーマ法の知識を有 ︵拓︶ ︵76︶ ︵怨︶ のであった。 対性を高めようとはしていない。彼によれば、冒界前文にある如く、皇帝もまた法規には拘束されると考えていた ︵ハインリッヒ四世︶の罷免不能の根拠付けを行っている。しかしこの偽書の書き手は、これ以上法的に皇帝権の絶 同巴一9鴨旨ごヨ99≦一〇︶の諸法文を用いて、人民による皇帝への権力の譲渡、その奪還不能を論証し、よって皇帝 ℃巳島 一冨ρ自O国O目帥”岳8昌8誘詳巴9嘗①ロヨ○ヨ昌Φ警ロ目言ω9℃O富斡暮Oヨ、などぎω¢どN︵U①ご冨旨暮苧 ︵ 7 3 ︶ に対するU8暮δ評冨。ともいうべき一連の偽書の一つ即貯蔚笹偉旨営鉱臣い8巳ωく自であって、例えば、りo− ル ヨルダンの記すところによると、これは、例のUo翠寓oOo富鼠旨一巳に対抗する意味を持つもので、カール大王 ︵72︶ スス諄霞島9器釜の︶が、教皇によって皇帝が罷免され得ぬことを、この法文を引いて論証しているのである。カー 主権論の問題として取上げられているが、一〇八○年代、皇帝側のラヴンナの一法律家︵恐らくはペトルス クラッ ︵π︶ として、この同じ法文が、過ぐる聖職叙任権闘争期に引用の前例を有レていたという事実がある。これは中世の人民 看 一橋大学研究年報 法学研究 6 二七六 主かは今までのところ詳にし得ない以上、推論の域を越えることは出来ないのである。 第四の点は、この皇帝立法権の論証がいかなる効果を与えたかという点である。これは今までも触れる機会があっ たので簡略にとどめるが、皇帝が法に拘束されないという見解はすでにフライジングも述べており、更に具体的な立 法を前にして、こうした法的論証もなされたにも拘らず、・ンカリア立法は伝統的なワイステユウムの形式で行われ ており、バルバロソサ及ぴその側近達の立法思想は、伝統的なものを一挙に否定するようなものではなかった。しか も、対・ムバルド諸都市の場合にも、わざわざコントレビアで小会議を持ち、各都市の代表者達の賛同を求めている のであるから尚更のことである。 しかし・ンカリア立法を契機として、バルバ・ッサの法意識は変化し始めるとみなければならない。それはむしろ ボ・ーニャの博士達の影響により漸次変化したとみるべきであり、オベルトスの発言にみる絶対的な皇帝の立法権の 思想は、フリードリッヒニ世の時代に宮廷の中に完全に浸透したと考えられる。この時代になると、皇帝は生ける法 へ80︶ 一舞層菖日暫置3旨δであり、法から自由である属旨8協8αq旨霧8ぽけ諾,と皇帝文書にうたわれるのである。 少くともロンカリア立法の揚合にはオベルトスの﹁皇帝立法権﹂は、他の皇帝理念とともに、バルバ・ッサの政策 を推進するためのカとはなったかもしれないが、それはあくまで国会における雰囲気を醸し出す程度のものでしかな かったと考えられるのである。 支配権移転の理論を基礎とする歴史作家達の皇帝理念、頚歌に歌われた皇帝礼讃の文句、これらを背景としてバル バ・ソサの政策は進められて来た。この意味において広い意味での・ーマ的思想の影響を認めることが出来よう。し 筋, 噌 へ◆ , フリードリッヒ バルバ・ソサといわゆる﹁・ーマ法の理論的継受﹂ 二七七 もドイツ人の手になるものであり、イタ咳ア側の立揚からのもの、例えぱ、ミラノ人の手になるといわれるOoω9男80ユ9 器旨旨一蜜浮鷺仁ヨ8ユ讐9霧訴○ヨ9の・一〇監ごはラーエヴィンの記さぬ詳しい事情を語っている。なおこれらはいずれ ︵冒の閏ωρ図く目一ψひ。N協・︶・9匹の8冨お旨日罫鼠雪塁βΦ図。&8>ヨ酵。鋒一・。g巽。鼻一。○ω一。︵§β。旨 ︾昌昌巴①ω田9げ608霧厨︵竃O国ωρ図くどψO︶等があり、更に○暮O尾O審P斜︾昌O昌﹃目島島Φ89筋山﹄賃留拐ぴ島 ︵5︶ 評げ①≦ぎ一H<リドーさこのほか、この事情を伝えるものにくぎ8暮詠℃田凶05ω訪︾β昌跨す霧︵竃O国のρ図くHH・ψα訓y ・体の形成意図が読みとられることで、これは例の皇帝理念と平和運動との合流とみることも出来よう。 り ︵4︶ 堀米庸三﹁中世後期における国家権力の形成﹂史学雑誌六二−二、参照。特に問題となるのは平和令による地域的平和団 ている︵霊oざび貝ω■8一︶。註⑳参照。 φ一象なおこの法規の存在はバルドスのコンシリアでの引用によってほぼ証明される。フィッカーもこの法規の存在に触れ 助教授の御高配による。︶URにげ巽︾こ冒9諺︵OOヨ旨一葺す獄ロ山O窪冒。。①窪βαに目︾a冒O器ヨ︶ぐαQ一・閃営馨R≦巴号び のop瓢Φ審偉&旨o犀ゆ島α角悶霧粛帥竃α段切〇二首醇一β﹃一警δoげ①ロ閃ρ犀三け鋒ま嘆ρタ○一①詩ρ一2ρψoooo陣︵東北大小山 ︵3︶輿の。畠。どO邑一①尾巷留N毒一。一誉鶏旨昌雲竃冨§け二諾舅。註。冨N・α9穿蟹く轟農①昌密巨巨毒鴨ヨ ︵2︶ピO国9霧け﹂ ︾ 乞 ﹃ ■ 一 訓 山 刈 o o ︵1︶ 距oぎ♪日讐の,8一h 次章に残された問題、それは本論文の核心となるべきものであり、ボ・ーニャの四博士を廻って繰り展げられる。 ・ンカリァ立法に関して残された史料からは、一応このような結論を導かざるを得ないのである。 かし、こと・ンカリア立法上の﹁ローマ法文の継受﹂という問題になると、その決定的な痕跡を見出すことは難しい。 } 一橋大学研究年報 法学研究 6 二七八 一﹂ヨ需寅8ユ。。嘗uoヨ富a壁窪。“9︿Φ客Φ&o一目巴︵︾彗巴o。。竃。象o一き窪のΦの目巴oおの︶︵竃Q国ωω噌界O■ぎ霧にヨ ω99こ一〇〇8︶は、ロンカリア立法について全く触れていない。<笹,勺ぎ警碧≦巴自ΦおψN卑 ︵6︶ この年の秋九月下旬、オソトー フライジングはモリムント修道院領へ向う途中死去している。ラーエヴィンは彼の従者 oげ浮βけ霧巴留旨。畦一①一馨①蔑巳器。2一〇三ω≦巴器暮︸⋮⋮︵国昌毒旦H<噂ω︶ ︵丙巷〆昌︶であったが、師の死をパルバ・ッサに報じ・この国会の有様を実際に見たと推定される。層○畦oρ民肩言9鳴の ︵7︶ :⋮‘ωoロのo甘ω8豆のoq彗℃費暮誌a目&ロヨ胃ぎo一口げ臣8霧ま一の巳O跨鼠9怠σ島一一旨茜一け”ρ偉緯窪臣島≦巳江彗○艮の 8器置Φ賞江8Φ号紹一旨ユ8霧臣o\5H審ぎおげ50泣ぎき島の富の。2ヨ3犀幕§登:⋮︵因昌。且PH<”ω︶ボ・ー ニャの博士達がこの席にはいなかったことは確実視されている。︵囚oε覧R︸¢紹刈︶ ︵8︶ 演説の要旨を拾うと﹁皇帝のローマ帝国支配は、天地のすべての権力の根源である神の秩序に基づくのであり、皇帝はそ の義務として演神を防ぎ、平和を確保するものである。そのために皇帝が持つ権利、神法、人法上の地位については良く知 るところであるが、なお、国王の名をもつ者として法に適った支配を心掛けるつもりである。だが、帝国の尊厳を傷つける 者に対しては容赦はしない。平和になった今、武器によるのではなく、法によって︵一紹ま臣︶治めることになった。われら の配慮によって、市民の諸法が完備しているに反し、帝国諸法の多くは、かつての効力を持たず、忘れ去られた。そこで皇 帝のカと汝等の配慮によって・再ぴ陽の目をみるようにしたい。だが法の制定については、それが適当なものか慎重な考慮 が払わるべきである。﹂︵卑騨冨譲一PH∼轟︶なおこの演説の記述は、多分にフィクション的な面があり、表現の点でラーエ ヴィンが・ーマ時代の歴史家の亀冨曾の筆を模した部分が認められるという。︵囚oε覧Φ﹂ψ総轟︶ ︵9︶寄げ詣o昼 H < ㌔ ︵10︶ 力騨匡o名一PH<一〇 ◆・ ・〈 サ ○け8プ︷g窪器毎8昌旨岳山。8げ島蜜&Φ量げ臣”冒o目のρ図≦員ψひ。ド”○§巳ωぎ話碁①匹の8ユ魯お窪ヨ 会学1﹂、三九 i 四 〇 頁 参 照 。 ︵12︶ 男ぎ鶉R≦巴8♪ψy︾℃需F幹呂一鶉げ聴&碧−囚吟ロ腕ぎ茜”冨ぼげ蓉げひ、︾βPω■撃ひウエーバー・世良訳﹁支配の社 因費げΦ≦一P目く︸一〇占い ︵11︶ ◎ 局&Φ旨霧ug鵯”鼠幻§きgβヨぎ需β§gのΦ旨需噂雲αq蚤霧・・巳<①邑ω雲。誰幕。蔚ゆ旨需は9︵寓Q国9舅・ H”客帰、ドN9︿笹。乞蹄■旨ざ一轟oo詳おO,︶ フリードリッヒ バルバロッサといわゆる﹁ローマ法の理論的継受﹂ 二七九 単に表現のみならず、内容の点でも前者にあるものが、後者で落ちているものがある。しかも、このアスティの場合や更に、 ︵四︶ 前章二四五頁の対照表参照。この対象表にみるとおり、レガーリエンの規定は︾ωσとの協約とも明らかに異っている。 ﹁ ︸ ︵18 ︶ 因帥げO≦一一一 圏< 一〇 ( 17 &eなお、この演説の要旨及び・ーマ法の引用の問題については、二七三頁以下参照。 の出現としてしぱしば引用されるものである。︵例えば、≦■国訂ごOo8三〇げ器伍R留β駐畠①昌○窃09αq①げ信昌堕ρ>ロPψ ︵16︶ ・ーマ法︵冒舞一︸N”α︶を引用して、皇帝の立法権を証明したもので、︵囚田房ρ艶鋭○こψ認︶絶対主義的立法思想 ○こψ総騨旨ω︶と記している。 の。琶=Φ讐ゴ。q昌88匡げ曾ε戸︵○け8巳の。冨8ロ閃ユ旨鴨駿○日。巳β。pダ国。ぎ。一ω耳︸§N噂ω■ご零窪¢p簿・勲 り、神の審判を受ける世俗の法諸に拘束されない。﹂8凱お鴨即5速宕8霧菖葺臨撃℃騨一罐8色くぎ○①惹ヨ一巳目窃零暮一 ︵15︶ すでに一一五七年、フライジングは、バルバ・ッサに﹁年代記﹂を献ずるに際して﹁国王達だけは、法を超えた在存であ ︵14︶ ミッタイス・世良訳﹁ドイツ法制史概説﹂二五〇頁参照。 U窪自窪の一ρヨ”目葺暮oユロの・ωR首8聴霧8目かψε一舞詳細については二九六頁以下参照。 ( 13 ) ) 一橋大学研究年報 法学研究 6 二八○ 89雷ρ琴お閃毘寅昌o匪のぎo畦壁菊自8凱器区ご費89跨旨り︵富O缶○○βωβどψN奪︶と記しているのを見ると、正 翌年の二月に作成された或るイタリアのグラーフに対する特許状でも、︸山8詳呂53撃一す霧8α8葺旨芦とか・ 式な皇帝文書として残されたとはまず考えられないのである。 ︵20︶<尊>毛巴fの■N一n ︵21︶ ︾℃℃①Fψ卜o一アペルトがその反対の例として挙げるものは、ツェーリンゲンのベルトールトとの協定及ぴコンスタンツ の和約で、皇帝文書とする要求に基づいて成文化されたという。 や 畷 σ霧8塁焉匡ω’を補う規定であろうし、避︵δx︶↓該げ揖βヨについてはヵ践げo乏一PHヌ圃の号8コφ欝昌ε彗お葺ヨ留 その他のものは、成文が発見されるに至っていない。唯9︵一賃︶b毘器昼は︵∪鑑巳鼠o︶因β巴鼠の℃巴暮冨嘗9丘鼠“ 9U■図図鉾09匿ごβOOP・一・東大法学部所蔵︶くαQ一・唄、貯馨實ミ巴α霧一ψ8これが前註の鈴︵一窪︶○ヨ巳。。であるが、 3房﹄巳昌巨鼠け韓一目窪の募。菅毒壁︵o。一邑一一。控琶讐2,霧唇諾。歪日ゆ巴会く区象℃g邑葺<。一薗<,<。注房 号霧鼻卿一琶弩蟄&信巨層.毯醇。﹄琶①之①鴨。8も・鼻暮偉目婁も三8ま言彗貫・葺募罵程身B2。α冥器鋒8 ○ヨ巳ω貯↓巨算す欝。目巳。・α一。・鼠§ω琶鼠霊。一℃弩。ω戸鱒9毒霧一巨一8。・国型ユづ9Φ器巨巳。・け韓一gΦ旨器。営器 ︵23︶国o臣。。菖8巨諾注。三創Φ注§鷺器ヨ葺ρ2。自富鉾ぎ需垂冴o・藝一梓葺。畠男&。ユ。ニョ需噂ぎユのω一&§け 頓ひ︶・b。・○ヨ・誘︵国蓉H﹃”N。。yいら器。昼︵穿壁目”N。y避⇒量・gヨ︵穿¢HHも。︶b■ωΦ。ぎ一︾p,勲○﹄ω■ω。。や9。y 昏β目ω。窪且盲≧象N。コ昏︶扇,曾。ω一馨凝餌一一ρ○畳け巳蟄。二。αq霧紅曇,げ①9一・寄ひq毘Φ︵穿二同るN㍉H﹄コ Φ什ρ︵N。︶包弩・評一p。す①叶鷲。8壁。什ρ︵8︶国昏■、窪ビg旨診び暮畦①8己。二蓄﹃︾↓爵8駐︵○。ヨ℃凶一蝕o協①信− ぼ需旨一。ω。呂。。曇巴Φ即︵N。。︶寄ヨ︵H旨需韓・帰剛&窪。琶’○目旨酵巨一&。。け。⋮・冨q蜂鼠。gの8鼠鷲一ロ9弩 ︵22︶臣①穿欝奉αqき5ローω弩三琶磯幽窃O&賃く置。げ88。。一。。︸︵HH︶∪。頃。且一ω9竃⇒。浮房8基貯誉。一8①ω8吸巴①ω 、◆、 1レ の語は非常に多義的であって8α歪旨と同義と解される揚合も多い。︿笹・↓劉冒亀9・Uぼト塁げ一置三茜α震O誉づユ, 語雪翁ヨ§旨魯号塞g窪。。苺駐首ぎげ①目憲ぎ藝舞目一鉛の’ミ一・ρu一喜9≧ぎ暴巳暫”評巳, 訳註、Ωρρかq一,︵︾yε日ヨ窪一超ββ■蜀■H雛箪畦一日き巳⑦参照。︶ の総体である。︵カール・ボーズル 木村豊訳﹁ヨーロソバ中世における社会的上昇運動﹂史学雑誌七五−一、二一頁及同 ︵25︶ 訪昌鵯臨器とも呼ばれる。ランゴバルト人のうち国王に対して軍役義務ある非貴族的自由人㊤吋一目堕昌巳の負担する諸給付 ︵24︶ 囚08覧 9 ψ 8 象 第 三 章 参 照 。 る。夷一ー臣塁§名巴αgψ鴇中 賃昏8益ぼ畦置蹄8試oδ巴旨帥目富撃一硫き仁ヨ一巳の臼瀦象試o諾匿との関連で一種の貢祖に関する規定と看倣されてい 窪ε善旨8魯げ臣§霧節言菖色鼻δ及ぴ出昏毒更に︵U$巳ぎ︶勾韓萄の畳ヨ馨幕と。&&。 フリードリソヒ バルバ・ッサといわゆる﹁・ーマ法の理論的継受﹂ 二八一 ︵28︶留く曹ざヨの﹂圃畠﹂︿8旦9ω﹄。。ρ宰警①著巴量ψひ。。”言琶“の■NN︿薗一・o・ゆ一。&。一扇g自①警内一。区惹誘 ︵27︶○﹂N辱⋮⋮も奏簿匹琶巨塗ヨ弩Φ嵩Φ舞言弩慧巨爵8誓擁ざ目巳信旨鳴・≦旨急暮需二§・・− 惚o﹂一●詳O ﹂ ρ 一 ρ 一 。 臨畳ωぼ窟げ一一8一8。ぐ。一ゆω邑=衰窪旨五ぎ崖琶一豊塁窮ρaヨ一象毒訪のgく。一。三聾一幹くの一・u・お弘♪ρ 巴βδ冒9馨蔚一。8一薯。暮。貸穿三象琶言話菖量象巨巳ロ目9馨誘霧①。。藝鼻・。三8逗①巳Φ霧。ω’鼻 営隻窪。一。8βgα壁鋒ゴ・。8。3ωa臨。噌g一εぎ<gΦ貸象巨αご巨α。ヨ﹃。の。一一。88ω旨”g8毫。巳g紳Φ﹂ §。。蜂豊野魯Φ二け■一自。昌まの鼻具臨曾ωぎω弩g再首邑藍§一§団。随鼠け。霧三暑窪。ユ¢緯巴ρ巳の ︵26︶H鼻Nレい。”臣馨§。−︸§ω曾のぎ馨一。8ぼく§ユ区言ω浮段き島曇畦巴Φヨ碧葺器旨ωΦ。葺の①一 ≦σ↓§ゴ3N貰山。葺ω島窪國Φ。窪諮窃。匡。耳ρ一﹂いωる藻ーω零一磯昌レあ、8異H<”曽罫 一橋大学研究年報 法学研究 6 二八二 泳鵯一一〇漢oけ言8臣窪μ江目αの因g。夷凱蹄竃摩即p鴨のり,慰麟げおb跨一9一8斜の譲Oロ9<, フランク時代においても、明らかに国王に帰属することが法文上明らかであるものをリブアリア法典に求めるなら、働相 こぎ≦一〇≦o詫巳Φ因oαq巴匿凶g目暫筥のo冨&R&ヨ一〇。oげoカ①o耳器口呂葺oげ①山Φの囚巴ωoお雲島巴$Pの〇一一巳o窪偉暮Φ? れる︵弓削達﹁・ーマ帝国の国家と社会﹂二九三頁参照︶。 られないもの︶といわれるω㈲㈲⑬四⑳のうち、側の役人の任命権はローマの専制君主政末期に、皇帝の手に帰したといわ ︼&﹄噂幹おOF℃o。αによると、・ーマの制度上認められるし、通常ゲルマン的なもの︵・ーマ法及ぴ・ーマの制度上認め ︵撃y:ρPお9沖oo矯軌︵勾嘗の什9毛巴留﹂¢ま騨■ω︶更にσり⑥については、冒o目ヨ器PU拐3旨誌oぽ聾9鍍80げ“ くΦ。凝箪勢窪の8嘗”2巴①①ωけく。&αq筥2旨臣く巴<①暴自βヨお三β羅目。。巴ぼ遭q巨。け目。芭一。旨ヨg旨豊鷺ロ目,︶ まy:○■どρ二︵旨︶;■ρ一﹄︸一。︵卜。ρ鐸8︶⋮∪﹄。弘ひLy響︵評窪β︿Φg蒔坦凱巴暮。一一①αq臼①自。ぽヨβ突ρ巳げ臣 ρ獄︵一一︶⋮20<。旨︸ρN”目︵一N︶⋮ρ01お︵ご︶■■■q斜o。るρ一gρPo。︸ω︵峯︶⋮ρどN︸に9P頓ρ9一〇︵猛一 ︵30︶ ︵O︶⋮∪・&一〇。︸ρ㈱い■①け伽器︵い︶⋮U﹂PQ︸一ρ㈱N︵恥︶⋮U。頓ρ一9旨伽一︵O︶⋮O﹂ρ一〇苓︵一〇︶:U、い♪℃9ρ 二以下参照︶の諸関連を指摘することも可能であろう。 一九章、働、第二二三章、㎝第一五八−六〇章、四第一二一一ー四章など︵塙浩訳﹁・タリ王法典﹂、神戸法学雑誌、七九− 逆罪人の財産、第六九章一、など︵久保正幡訳﹁リプアリア法典﹂参照︶、また・タリ王法典によれば、㈹賠償金余剰、第 続人不明の財産、第五七章四・第六一章一、㎝相続不適法なる財産、付加勅令九、曲近親相姦者の財産 第六九章二、㈱大 ( 29 ) 事 噌 ーマ的原理が大きな役割を果したことは確実であろう。く旭あ專蒔昌ざ押ω■おO自﹄フライジングはいう、ぎ9≦♂窪目β虞? ︵32︶ ・ーマ的都市制度ヨロ註。首ξ目の連続性については議論のあるところであるが、北イタリア諸都市の興隆に際して、・ 誰o耳≦Φ巳①ロ、.、︵閃ぎ韓R婁巴αoJψa︶ 本章冒頭のフィッカーの言葉をみよ。 ( 31 ) ﹄◎、 旨聾①旨9ロ8需お島①。鼠鼻9℃9窃け卑蔚一拐。一Φ一一鼠ヨぼ嘘。呂08霧巳仁日噂。け置ωρ轟ヨぎ℃Φβ簿旨ヨ器讐暮弩 2。α肪8ω三8。毬邑oβげ一一88葛巽奉氏8。彗9仁o旨ヨ匙巨。カ。ヨき○控目ご巨$馨葺の。一醇鼠芦u①巳ρ垢 レ 昌卑巷器マω昌語該pu窪蓉げ。因①&錺鴨ω。匡。犀ρ臣﹄”N。︾岳・ψ轟M■零9旨き亭国。一一壽堕U曾Ω<一一肩oN& 8b巳一需帰一霧ρ目R$鼠留幕お層︶︵H<一〇〇︶ことに注目すぺきであろう。 市自身による選出が前提とされている︵冒巴昌のE一ω9ξ鼠島げ臣も9895ω”8扇巳Φの8880。<①巨霞δ9p9の錺器塁信 跨玄けユρ︵戸峯︶と。なお政務官の選挙については、留く蒔3、層H.㈱陳を参照のこと。ラーエヴィンの記述でも一応、都 一一 Oけ一〇〇αO円α一〇〇け﹃一〇け口の 落NΦ一〇げ昌Φけ 島O口 OO戦一〇げけωN類のβoq■.. 0く■。。﹂器ごβ区∈昌︵9F月いy旨。。一畦き自葺昌馨&冒器。。5g擁&獣。。ρ巳&巨巳弩蝕8雷8。豆信暮, <の一●沁■ ωoげΦ矯匡けαq闇国達ρ︾旨岳oq①名亀けβロ自ω帥昌巳9げρ囚9β一8ρ8卑それがリウトプランド王の時代に始ること バルバロ ッサによって、主としてブルグンド、イタリアの諸侯に対して与えられた鍬ぞ帥貯ω葺壁条項を持つ特許状の間 フリードリッヒ ルバロッサといわゆる﹁ローマ法の理論的継受﹂ 二八三 帝 則 と 保 す で な 権としての皇 権 を 原 し て 留 る の く 、帝国の具体的権利の留保を示している。この条項はかつては・ーマ法の 0 これはの9奉ぎo葺巳げ岳旨ω鼻旦げoまお曾ρ岳98一旨需自巴陣■︵の9旨鳳●2辱8嵩︶にみるように、至上 題で ある ︵40︶ につ き 劉 ω超ΦユρU80霧9諺qRいp昌αQ3騨巳①Pψ認o。参照。 ︵39︶ ︾ ℃ 掃 一 “ ψωO ︵38︶ ︵37︶ 司一βωけ①↓≦即一αO♪ の●UNい ︵36︶ ︵35︶ 閃一昌のけ①↓詔くや一臣①吋一の’いOh、 この用語法は、同時に立法された平和令第九条にも見られる。 ︵34︶ 山①のひqoヨのぎ窪園①畠諾ぎαq・の。匡。匡一一畠曾国算&。巴琶堕団o目一。。Nいu臣、<︸ωるoい︾■≒”︸b一弩ぎαqΦ3ロ&急怨や ( 33 ) 一橋大学研究年報 法学研究 6 二八四 影響と解されたが、アペルトは、ギーゼブレヒトの説を敷術して一一四〇年代の教皇ケレスティヌスの特許状の表現型式 ︵鋒一奉器島ω竜88一8器騨ロ90ユ冨箪︶を直接模倣したものと考えている。<触■m︾虞︶oFU醇<9訂9界犀巴ωoユ一畠9 閑。。算Φぎα窪良覧o旨窪牢一①時一9田旨胃。ω霧レ自Oρひ。。あ◆。。昂 <・国oδヨU段oo舞け山霧冒津5鼠一8諺・ド︾ロ自・ψ一おそしてべ・1は、イタリアにおけるレガーリエン政策は、ドイ ︵41︶ ツの悶9昌置昌ヨ葬9げ弩の拡大と軌を一にするものと考えている。 ︵42︶ ︾b℃①一“ 麟。釦。○こ のひ ωN。 一二五年マチルダの死によって、トスカナダが皇帝領となり、その管理者として派遣された者について、イタリアの文 ︵43︶ 書は、竃跨磯8匡霧山巴oの魯にo。p噂巳昌o首oぼ8目ゆ鼠葺空巽Po讐o一三σ島創一B旨①P象幹と記した︵閃一〇写5目一8い︶。 くσq一隆田。ぎ♪口︸¢ミ段、 ︵覗︶ 竃Q閏OQ島“ど客”旨O ︵45︶ ︼︾OOQPOO℃試O昌ΦU一αqΦのδO賊口b日”Hご一℃Φ﹃暫けO擁 O卑Oの陣弓 ゆ帥く一βω H償ω葺ロ一騨P仁ω ℃一βω hO嵩区 一β〇一βδ蔭ω <一〇σO吋 卑Q 一↓一虞ヨ出PけOけ 器目づR騨罐島葺の区げo巳導oρ奉①ω8ユのロoω巴暮①蓉 目需冨房幕影<〇一窪鼠o讐obユロ旨げ。。。馨一且ぎ暮。の”暮o旨昌#g巷。8誓匪。。耳β日8睡唐。蜜鼠ヨぎ<①の凝鐘o ︵46︶ ρ壼ヨo冒β&o鼠鷺oo弩o旨霧︸■ :銭剛呂8一β8ω鼠昌o菖巳ωΦ巷8憲o目。目:■;︵ρ一る一一︶ ︵47︶ ⋮:冨。8一。巨=謂①一昌o彗器o毒ヨα8鷺o覧ぎく巴︸霞旨α①。霞巳旨ロの一:⋮︵○■鈎oふ︶ ρ巳卑2&呂一巳5留一霞①旨g<巴巳;声。昌響ε。旨8薯鈴一88お昌8号ぎけ⋮:︵P鋒描$︶ 9一まδぎ。。ε段2。毎一昌鼠目ヨ8三壁けδ一旨霧,:⋮︵o﹂温ど一♪紹︶ −や 〈 ◆. レ フリトドリッヒ バルバ・ッサといわゆる﹁・ーマ法の理論的継受﹂ 二八五 ︵59︶ 閃㊤げo毛一PH︿IU の特許状﹂は全く別の次元で考えねばならない。 ︵58︶ その一部のみしか知り得ない﹁知らぜざりし三つの法﹂についても、同様の推定が成り立つであろう。但し、﹁学者達へ ︵57︶ 本章口参照。 ︵56︶ 目O国のρ図く目H︸φひOoo ︵55︶ 囚oωoぽ倉犀Φひ鋭鋭○こω■笥 ︵54︶ 内容的な問題をも含めてフィソカーは、この規定上のZo<o一一器の影響を強調しようとする︵くαQ一・田o堅﹂目¢8一︶。 ︵53︶ 窯○頃○Opω¢ごZ酷.三〇 て証書を書くことを禁止していた。︵塙訳﹁ランゴバルト部族法典附加勅令﹂、神戸法学、九−四参照。︶ ︵52︶ ︿勉■︾b需Fの■ま,すでにリウトプランド王法第九一条︵七一二年︶は、書記がランゴパルト人・・ーマ人の法に反し ︵51︶ 鼠Q閏○○ロω巨押の,轟oo えられる。. 8︶︵08ピ鉱田ム08宣嵩●8︶で、確かにこの用語は、ここで挙げた諸例と同じく、ρ怠担ひの表現をとったものと考 ︵50︶ 問題の箇所は鼠8富08鴨o旨器唱霞器≦一β巳≦巳鼠5胃○甘o旦奉=葺蜜①良9目諾︸;:︵冒O国9匿壁ど客け 乞け一Nρ三。。,︶ 協①鼠。三日︵ま。。︶篇彗需臨巴§α①8慕。一一Φ葺弩膏邑℃5一一。器。葺弩鴨§①gω5一Φ。8博岳昌■:⋮︵く磯一.9霧ρど ︵碑︶9冨簿耳︷○冨o一。。︵一ao。︶︸国8Φ島o鼠一一・⋮:︿巴詳畦帥︵<σq一、竃O閏Oo塁“H”2p一Nρ区ooy9霧蜂昇ご号一βお ︵侶︶ 鼠○国9霧“ど客け峯oo 一橋大学研究年報 法学研究 6 二八六 したがわ ︵60︶ ﹁神彼等を祝し神彼等に言たまいけるは生めよ繁殖よ地に満盈よ之を服従せよ又海の魚と天の鳥と地に動く所の諸の生物 を治めよ﹂︵傍線の部分が引用されている。︶ ︵α︶ このような大司教の都市ミラノの現状に対する不満は、形の上では大司教が皇帝からレガーリエンを授与されているにも かかわらず、事実上それは彼の手から離れてしまっていることを示していると考えられる。まさにイタリアにおける忠実な る因08げ除寓9としての発言である。︵︿笹’い固o犀R︸<oヨ閃Φざ富睡お8畠鼠づα臣■ど︵一〇〇臼y吻Nら︶ ︵62︶のg霧ぎρ5警器蕊宕℃巳=ロ8呂Φ&一ω一。嘘び島ま一8昌8の誓旨↓轟<。一琶霧ごの。ωダの一。暮良。詳ロ吋”曾& のΦ繁◎§§曇。。一旨一日遷即§貰。量。一壁8目ω鉱幕旨<。一8讐の8昌のα・。H。く①吋濤<。一。象。け。℃同。。。需H一計 ℃旨。首一冨。巳江。笹ω冨算藷。おβ。琶署巳島。一①二=琶。暮①ω窪目菅践一毒g旦窃鼻①目§。。の, 一茜oヨoω器8臣鼠け︵寄げo≦一PHく”U︶ ︵63︶即§。8器。琶段目壁葺旨目。夢8目5a孚a貯沼諾琶窪旨の。ρ一一一−ρ葛旨8。毒け一一↓ぼ。。旨9&簿・⋮⋮ ︵64︶費uρ一y一9留2巳ロ旨旨9旨目婁。oヨ琶a即。巳ロ呂器↓巴窪目器ρ旦ρロ。日ω。ρロ。ロ9Hぼ。。ヨヨ&勲 ︵65︶ く覧≦●国ぎ一”Uδ○霧o匡98自忠留βけ零冨昌O霧9お3ε嶺”ド>βP¢aい世良晃志郎﹁封建社会の法思想﹂法哲 学講座第二巻、一五一頁参照。 ︵66︶ 最も重点な変更ないし脱落は、◎仁a⋮こ⋮⋮︿蒔9Φβの次に自冥0309昌一〇αqΦ吋Φ嘘簿︸ρ仁簿①αΦ一一β需特一。Φごの一帥鼠 o貫という、かの有名な一霞冨讐蟄についての文書を欠いている点である。勿論Ω○ρ旭●︵匪y︵国︶いずれもこの文言 を含んでいる。 ︵67︶ これらの諸法文の成立過程は、Q巴ロω︸ぎのけ﹂・どρq←︵q一豆彗臣︶U・ど♪一←ぎのργドひであると通常考えられて いる︵ピoヨヨ8P因α昌一零げ窃ω蜜班80げけ︸ω貸目︸ど曾︾ロゆ■ψooま剛・9000露︶︿旭・○・昌・客。口≦帥陣一一・↓げ。O同。毛けげ も、 専 〆レ く’践器象gp旨ヨげ讐茸旭畠墨ω①器ヨ忌磯蜜鼠一〇8ε一。葺﹂α①盤g琶。。琶Φ葺も8≦昔器℃8ロ一審pヨ5&o ρβQ餌づユづo一豆、 ︵69︶ ΩOo,笹,︵>yO黄oω鼠<09ω−財ど自自戸一ーγ伽◎ぎ自営ぎo首一︾<〇一⋮一窪一潟ββぎo。ダい一”↓F一,の&勲 ρ一δαヌぎo首一, ︵68︶ ΩOρ笹・︵国yU茜霧蜜く9ロρ︵6■一︶炉どθ目HHし、γ㈱Pδ創℃ユぎ菅ど目算︵日くyいγ↓ 戸一■器飢露 o閏boに江8一↓げ〇一茜寡ぎ爵o≦oωダ客Φ乏鴫o蹄ぎ一8N︸℃■誌oo、 ◎ 衆知のように、Oδ詩ρUすの窪8器塁oげ暮曽8馨・ω9目い︵一〇〇Go一︶㈱Hく宮幹ψ諌oohの叙述が有名であるが、最近 ものである。 それが委譲88窃巴○なのか、譲渡け雪一邑暮δなのかなのであり、その論争の帰結としてこのグロッサは非常に興味深い 問題とは一応無関係である。しかし中世の人民主権論における重要な対立点は、人民による支配者への権能の委託につき、 コo昌げ曽げo暮ぽ8貯幹︵Ωρoーの一。︵ω︶H昌の“や8︸αRピ一︶この註はアクルシウスによるものと考えられるから、ここでの ( 70 ) フリードリッヒ バルバ・ッサといわゆる﹁ローマ法の理論的継受﹂ 二八七 ︵75︶ 一9自鉾P讐讐○‘ψ一〇怠勺す犀oびH目︸幹一旨勢なお不明の著者によるとするのは、ヘルピソク前掲論文三八頁。 ︵74︶ <屯,ぢ己帥P魯讐○こψ二9ラーエヴィンの記したバルバロッサ自身の演説といわれるものにも同じ主旨の部分がある。 ︵73︶ ぎ降。どboや軌9ひなどが引用されているという。︵︿笹・甘&騨P卑勢○‘の甲に9︶ 累葺巴巴$β団塾戸︵一80。︶ψ宝卑ぎ9呂舞︵東京大学法学部佐々木氏の御高配による。︶ ︵72︶ 一く﹂9鼠pU霞囚巴ω①薦Φ鼠爵。言閃署讐猛国q円N①律頃oぎユ9H≦uo馨の昌Φの︾旨匡く協騨象。08。庄。耳o血霧 におけるその理論 ﹂史学雑誌七五編四号、三五頁以下、が出ている。 ではほぽギールケの線に添ったヘルベルト ヘルビック・樺山紘一訳﹁ヨー・ッバ中世の人民主権理念 十一−十四世紀 ( 71 ) 一橋大学研究年報 法学研究 6 二八八 この意味で、・ーマ法学の存続をも加味して、クラッススはボ・ーニャ学派の先行者とも考えられている。<笹> ︵76︶ ∪①一唇やω8窪目目需旨巨も,琶<①鼠呂,︾島、︵G8y¢お避 冒o・竃暮︵9冒︶る舅野ぎαRO・色窪⋮益簿①§・・乙窃登巳ω昌窪審。巨の弘。。Pのぴ8 一〇apコpゆ鋭 ○ こ ψ 一 〇 鼻 ︵77︶ ︵78︶ ︵79 ︶ 一〇﹃α曽ごp帥■○こωー旨oo 囚壁農P穿騨○﹄ω・呂鮮い星例えば一二三〇年の宮廷裁判所判決には、○ロヨ冒蓉簿β9巴す,⋮一R︶ヨ重陰ヨマ,①、 ︵80︶ 注pユ9・巨・色一昌寅p毎﹄巳①撃琶馨鼠穿ぎ8↓誌︵宕。く。一。鈎ρNレ轟︶博一一も一窪・8琶の8旨る。①藷p量一毎 αOO蜀旨く客9ρロ霧一℃きδ凶のも8ヨ三凶pく臼賞⋮;︵竃○国09あ“戸Z同、ぴρ>,一︶とある。 三 バルバ・ッサと法学者達 初期のグ・サトーレスのなかで、最も著名な人々が、皇 帝の味方であったことは事実である。彼等の揚合、その 専門的な研究から得た先入主と、そのポリシーとを結び つけたが、これは恐らく単なる気まぐれではないだろう。 ︵14 う ーラシュドールi 専 。。 ◎・ 》 フリ!ドリッヒ バルバ・ッサといわゆる﹁・ーマ法の理論的継受﹂ 二八九 用いられていたと考えられる。法の判告は冒山巽または∪舞貯霧によって行われており、法律的知識は、実務と三 ︵6︶ ︵7︶ iマ法は常に有効であったのであり、ユスチニアヌスの法書のうち、冒界とO&賃のみ、或はそれらの抜葦書などが 薄なものとなり、とりわけU蒔霧5は忘れ去られるに至ったことは、一般にいわれているが、それにも拘わらず、・ マ総督領︵八世紀中葉以降ピピンにより教皇の支配に置かれる︶においても、ユスチニアヌスの法典の知識が漸次稀 されたということ、これもまたラヴェンナの特殊な位置と重大な関係を有している。総じて、七世紀以降この東ロー であるが、これは当時のラヴェンナ大司教の立場を物語るものである。そして、クラッススによってローマ法が引用 ︵4︶ ︵5︶ である。しかもこの特許状は偽書であったのだから、当時の文書保管の不備をつく中世特有のやり方でもあったわけ その一つの例である。すなわち、古き法、ユスチニァヌス皇帝の法書による引用、更に教皇レオ八世の特許状の提示 然のことであるが、更に世俗的法観念の面での神聖なる伝統尊重の具体的な姿は、より古い慣習ないしより古い文 ︵3︶ 書の提示であった。クラッスス或はこれとおぼしき者が、皇帝ハインリッヒ四世擁護に際して、行ったこともまさに 神聖性を示している。その意味で、中世において或る主張をなす揚合、まずその根拠として聖書が引用されるのは当 ︵2︶ についていえば、法が神によって作られ、そして神聖なる伝統によってすでに与えられているという二重の意味での 能も判然として来るであろう。中世全般が権威主義に支配されていたことは、今更いうまでもないが、これを法の面 る。彼が登揚した時代、それが聖職叙任権闘争期であったことを考えれば、おのずといわゆる皇帝法曹なるものの機 の皇帝法曹つまり皇帝の側に立ち、皇帝の代弁者の役割を果した法学者は、前章に触れたペトルス クラッススであ 輯 ドイツ皇帝と法学者との関係は、なにもバルバ・グサの時代に始まったわけではない、ヨルダンによれば、最初 ( ラ 一橋大学研究年報 法学研究 6 二九〇 学芸︵文法・論理・修辞︶に関係をもっていたといわれる。一体ラヴェンナに西・ーマ帝国崩壊後も、ずっと・ーマ ︵8︶ 法学の連続があったかどうかはともかくとして、他のイタリア都市に先がけて、法律的な知識の持主が、活躍してい ︵9︶ た事実には注目せねばならない。それは十一世紀中葉以降特に顕著となるのであって、一〇四五年の評窪参Uロ日一, ︵10︶ 簿註の親等に関する著作がその代表的なものであり、それと並行して、実務の面でも・ーマ法の知識あるものの活動 ︵n︶ がみられる。ただし、未だ法学専門の教育の揚は存在していなかったと考えられている。ペトルス クラッススも、 こうした実務法律家の一人であり、すでに一〇四七年のハインリッヒ三世の聖職者の宣誓に関する立法において、 ︵E︶ 劇︶葺o菖①一巳誉鼠とOa賃とを用いてこれを起草したとヨルダンは考えている。更に下って、一〇八四年三月ハイ ンリッヒ四世が、・ーマのカピトルの丘で裁判集会を開いた際、皇帝の側近にあった甘留区譜霞島なる人物も恐ら くクラッススであったとの推定もなされている。こうした諸点から、ヨルダンはここに皇帝と法律家との関係が明瞭 ︵ 1 3 ︶ なものとなったとするのであるが、ラヴェンナの法律家の問題は決して無視することは出来ないであろう。彼等の法 律の知識は、彼のボ・ーニャの学者達に較べれば、極めて劣ったものであったろう、そして彼等は果して法学者の名 に価するかも問題であろうが、漸く体系化されつつあった教会法に基づく教会側の合理的法思考に対抗する意味で、 典拠をユスチニアヌスの法典に求め、皇帝に法の武器を提供した点において、皇帝法曹の名を冠しても差支えないで あろう。 ・専 次に問題になるのがボ・iニャの註釈学派である。その前史は香として判らず、その初頭の人としてペポ℃80の ︵n︶ 名前は挙げられるものの、その活躍の状況も判然としない。次のイルネリゥス○伊旨R疑碧岬葛ユ霧、彼ア一そ、全ヨ , ◎, フリードリソヒ バルバロッサといわゆる﹁ローマ法の理論的継受﹂ 二九一 るが、この揚合には特に重大な使命を負わせていた。それは法学者イルネリウスをして、・ーマの市民に対立教皇グレ をイルネリウスは用いている。二一八年一月、皇帝が・iマにおもむくにあたって、イルネリウスを伴ったのであ ︵20︶ で第一席を占めていたといわれる。更に下って十一月、皇帝がボローニャに滞在した際には、勿論この冒α賃の称号 として登揚するが、引続きレッギオやゴヴニルノー・︵マントア近傍︶における皇帝裁判集会においても、宮廷裁判所 ルネリウスが、.︼こにはじめて、皇帝の宮廷に出仕することになるのである。イルネリウスはパドアで最初に冒α臼 ︵珀︶ 確保の点から、マチルダ領の裁判官をも登用したのであって、すでに一一一三年筆頭の8琶8霧の地位にあったイ ︵18︶ にあった者として匹奉匡塁留<Φ8壼の名を挙げることが出来るが、更に教皇側にあるトスカナのマチルダ領の 更にツ蜀葺轟近傍に滞在している。この際の皇帝裁判に際しても、この地方の人物を登用している。常に皇帝の側近 ︵17︶ ︵16︶ ぴトスカナ地方に集中されており、二一六年のイタリァ遠征に際しても、↓お≦ωρ<窪①けすに始り、℃&岳ヤ幻轟αqδ までと考えられており、特に関係のあった皇帝はハインリソヒ五世である。皇帝のイタリアヘの関心は専らべ・ナ及 イルネリウスの生年等、伝記的な面で不明なことが多いが、彼の活動した時代は大体十一世紀末期から二三〇年頃 帝との関係のみに注目しよう。 ︵15︶ 台﹂一ま臼壁一霞一ωとあがめられたことなど、詳細はサヴィニーの記述に譲るとして、ここでは、イルネリゥスと皇 れていたユスチニァヌスの法典の主要部であるUお9鼠を、法律学の対象となし、その卓越した学識の故に﹁法の燈 新しい法学の方法が、如何に画期的なものであったか、またその時まで忘れ去られ、あるいはその難解の故に放置さ ーロソパの法律学に新しい形を与え、その影響を今日にまでみる、ボ・ーニャ学派の創始者である、彼の遺した著作、 》 一橋大学研究年報 法学研究 6 二九ニ ハれロ ゴリウス八世の地位が法的に許容し得ることを説明させることであった。この遠征はこの年の六月に終了するが、そ ︵22︶ の帰途においても、イルネリウスは皇帝の近くにいたことが明らかな史料があるという。更に、皇帝ハインリッヒ五 世が、二一六年にポリ・iネとゴンツァーガの聖ベネデット修道院に寄進文書を、また一一一八年レーノの聖、、、ハ おロ エル救貧院にイムニテート授与の文書を与えたが、これらの皇帝文書には、イルネリウスが署名しているといわれて 言し魚奮2タリアにおいて・イルネリゥスがすでに顧問的穫割藁していたとゑ歪とが出番 ◎ 刈 の法書であり、現皇帝の祖先の法を意味していたのである。しかしながら皇帝と法学者との関係に、こうした中世的 われわれは完全に乗りきることは出来ない。彼等が当時犯すべからざるものと信じて疑わなかった原典、それは皇帝 混えながらも、皇帝と法学者との関係が並々ならぬことを物語っているといえよう。中世の人々の非歴史的な思考に、 た説話を作り上げた可能性は充分に考えられよう。後で取り上げる﹁馬贈与﹂の説話なども、多分にフィクシ日ンを マ法研究のパト・ンとして後世に語りつがれていたことは、恐らく後世の法学者達が自らを権威づけるためにこうし この点について暗示的であるといえるだろう。この説話は、皇帝ロタール三世がイルネリウスの請願を容れて、ロー ガロ マ法を学校や裁判所で用いるべく勅法を以って命じたという主旨のものであるが、ア︶れが全くのフィクションである ガリ ことはすでに、コーンリング国段旨琶ロ霧Oo葭ぎ笹審によって証明済みである。しかし、皇帝・タール三世が、・ー う。特にトスカナ地方への関心、更に対立教皇の擁立において具体化される皇帝ハインリッヒ五世の教皇権対策にお あロ いて、イルネリウスの法学識が、有用なものと想定されていたと考えることが出来よう。そして、その後のボ。ー二 めロ ヤ学派の隆盛も、こうしたイルネリウスと皇帝との関係と何等かの関連を持つと思えてくる。例のロタール伝説は、 い( 》 られるのである。 として、法学者は名誉に加えて特権を得たという見方である。この関係は、バルバ・ソサの時代に明示されると考え い。皇帝は、自己の立揚を法的に基礎づけるために、世俗的最高の法書の識者として法学者を利用し、一方その対価 合理主義に基づく、権威崇拝的な思考のほかに、相互的な利害の関係を見出すことも決して不可能なことではあるま 々 フリードリッヒ バルバロソサといわゆる﹁・ーマ法の理論的継受﹂ 二九三 この年の四月、皇帝は、、、ラノの同盟者であるトルトナを躁踊して後、ポi河を渡り、パルマ、モデナを通過してボ 一六二年以降に作られたと考えられており、ボ・ーニャの法学者と皇帝との最初の交歓の模様を物語っている。これ ︵33︶ を発見し、直ちに紹介したのはギーゼブレヒト≦●︿。O一Φの。ぼ8辟である。 様を語ってはくれない。だが唯一のそして非常に重要な手掛りが、頒歌の形で残されている。この頒歌はやや後の一 ︵32︶ ニャ付近に皇帝は滞在している。これまでしばしぱ用いた年代記類は、バルバ・ッサのこの時のボ・iニャ滞在の模 ︵31︶ σ霧留b8鼠因零窪冨三Φ及ぴウゴOαqoである。第一回の遠征が歳を越し、翌年・ーマに向う途中、五月ボ。1 後継者と目される四人のボ・iニャの博士達、ブルガルス蝉一薗畦諾 マルチヌス冒跨けぎ臣08昼 ヤコブス冒8− されたともいわれる。しかし、バルバ・ッサと密接な関係を持った法学者は、すでに触れたように、イルネリウスの ︵30︶ 確認する意味でのレーン立法を行っているが、この際に、封建法学者オベルトス○び震9ω呂98による説明がな ︵器︶ 征は、一﹃五四年十月に開始される。その途上十二月に・ンカリアにおいて国会を開き、・タール三世のレーン法を で制定されたと思われるが、その文言上にもイタリアの書記の筆致すら見出すことは出来ない。第一回のイタリア遠 に バルバ・ッサと法学者との接触は、第一回イタリア遠征以前には見出されない。二五二年の平和令は、ウルム 一橋大学研究年報 法学研究 6 二九四 ︵34︶ ・iニャ地域に入った。そして五月十五日の聖霊降臨祭をボローニャの近くで祝った。これから後の.一とが、問題の 頒歌の記すところによって説明されるのであるが、それによると、バルバ・ッサが初めて、ボローニャの学者達に接 したことが明示されているのである。すなわち、ボローニャの全市民が皇帝を讃、えるべく戸外に出て迎え、皇帝に贈 り物を捧げ、兵士達にもてなしがなされた。学者達も学生達も、一目・ーマ皇帝を見んものと先を争った。皇帝は親 しく市民達に呼ぴかけ、この都市の状況を質し、何か不満がないかと問うた。一人の博士が答えていうには、このボ ・ーニャの地は生活するに便であり、学問するのに好適の揚所であるため、人々は皆ここにあこがれるのであり、各 地から非常に多くの有能なそして熱心な学生が訪れる。彼等は金銀、貨幣、織物をもたらし、市内で家を借り、水以 外のすべての物を購入する。一般の市民も彼等を尊敬するが、唯一の難点は、市民が学生達に借財の支払を強制する ことである。しかもこの借財は当人のではなく、隣人の学生が残したものであり、最後には差押えを受け、非常な不 ︵36︶ 都合が生じている。この不都合をなくするため、皇帝の法規による保護を請願したい、と。そこで皇帝は諸侯達を集 めて意見を求めたうえ、学徒保護の法規を発布した。皇帝が滞在している間、この法規に対して異議を唱える者はな く、学生達は最早隣人学生の債務の支払を強制されることはなくなり、皇帝は市民達に学者達、学生達を尊重するよ うに命じたのであつ.網以上姦歌の要旨である.この後バルバ・ずはアペニン山脈を越え、フィレンツ碁経て ・ーマに向ったのであった。 さて、この頚歌にいう法規とは何であろうか、ギーゼブレヒトが、これが﹁学者達の特許状﹂を指すと単純に考え .糊, ていたかどうかは、問題で臥肥。この頚歌紹介に伴うギーゼブレヒトの付言を見る機会がなかったが、例の﹁ドイツ ◎ ◎・ フリードリッヒ バルバロッサといわゆる﹁ローマ法の理論的継受﹂ 二九五 皇帝との交渉の事実とともに、皇帝の権能については、その絶対性について法学者が必ずしも無条件にこれを認める いようである。仮りにこの問答自体も後代のフィクションであるとするなら、そこには、一一九〇年代の法学者達の ッサと二人の法学者との間に交わされた、世界の支配者論そのものについては、その事実を否定する材料は見当らな ヘ彊︶ ゾ毎NO及ぴロタリウス いo跨鴛ξωの揚合︵一一九一年︶を模したフィクシ日ンであると考えられている。バルバ・ 領したということが記されている。だが馬が贈与された点については、疑問があり、後の皇帝ハインリソヒ七世とア ︵羽︶ ︵弼︶ 3睡ぎ岳旨琶&を廻って質疑応答がなされ、皇帝が無条件に3日ぎ霧日ロ旨&であると答えたマルチヌスが馬を拝 でのレガーリエン立法の記事の前に、・ンカリァにおいて、皇帝とプルガルス及ぴマルチヌスニ人の法学者との間に、 録がある。しかしミラノとの平和条約においては、特に博士達の関与を物語るような材料はない。次いで・ンカリア ︵狙︶ の国会へと移るのであるが、オソトー モレナの匡蜂臼置お旨目■程8塁艮目のオシウス本には、コントレビア ︵40︶ イタリア遠征において、八月ミラノを皇帝軍が包囲攻撃していた際、陣中に、ボローニャの博士達があったという記 由の恩恵に浴したか、或はその充分な期待を得たということになる。 へ39︶ その後、第二回のイタリァ遠征まで、博士達と皇帝との直接の関係は、少くとも史料上は認められない。第二回の いて何等かの形での約束をしたことのみが認められよう。すなわち、この時からボ・ーニャの学者達は皇帝による自 判権に関する規定を付加したものであると、記している。この線に従えば、この時皇帝は博士達に、彼等の保護につ ︵38︶ 関連について、この﹁特許状﹂は一一五五年に与えられた特典<Φお§鋒αQロ轟窪を部分的に更新し、損害賠償と裁 皇帝時代史﹂︵一八八○年︶を見る限りでは、そうは考えていない。すなわち、一一五八年の﹁学者達の特許状﹂との り 一橋大学研究年報 法学研究 6 二九六 霜︶ ものでないことが殊更表現されていると見なくてはなるまい。 さて、こうした一つの説話めいた前置きがあって、・ンカリアの立法に到達することになる。前にも記したように、 国会を開催するに先立って、バルバ・ッサは、主だった諸侯を集めて立法の準備の集りを持ったが、これには、博士 ︵菊︶ 達は参加しなかった模様である。この点については、恐らく、身分上の問題から参加は許されなかったと推定される。 その後に開かれた裁判集会においては、ブルガルス、マルチヌス、ヤコブス、ウゴの四人の博士が列席していたこと は、殆んどすべての史料が伝えている。ところが、レガーリエンの法規の立法に関連しての四博士の活動については、 僅かにモレーナの記述に頼るしかない。それによると、・ンカリアの国会が開かれたのが十一月十一日であるが、十 二日後の二十三日︵昌900巴Φ一己器U9雪きユ。。︶ポi河右岸ピァツェンツァ近傍コントレビア9暮8げすの聖ペト・ 教会に、皇帝は全ての諸侯、都市のコンスル達と共に行き、博士達及ぴ全員に呼ぴかけて、すべてのレガーリエンが 皇帝に帰属すること、すなわち、・ムバルディアにおいては、帝国法によって、すべてのものがレーガーリエンであ り、従って皇帝に帰属するむね宣言したが、これに対して、参集者は・ムバルディアのすべての都市の裁判官への諮 へ47︶ 問なくしては賛同し難いと答えた。そこで皇帝は・ムバルディアの各都市から二名ずつの裁判官を選ぴ、四博士と共 にこれを協議するように命じ、二八名の裁判官と四博士が鳩首協議を重ね、その結果を皇帝のもとに持ち帰り、すべ ての権利がレガーリエンとして皇帝に帰属することを、すでにこのことを了解しているすべての諸侯や都市のコンス ル達の前で、文書に書き記した、と伝えている。残念なことに、この際に書き記された法規の文言をモレーナは記入 ︵48︶ 噌 していないし、書き手が誰であったかも述べていない。モレーナの記述は、書き手が博士達であり得ることを否定し , σ・ フリードリソヒ バルバ・ソサといわゆる﹁ローマ法の理論的継受﹂ 二九七 四博士の役割は、・ンカリアの立法に際しては、極めて限定的であったと考えられる。すなわち、・ヘハルディァ のである。 ールスとの間の意見の相違にみられるように、博士達がすべて、絶対的な皇帝権の支持者とみることもまた出来ない というものも、決してボ・ーニャの博士達の助言を得て後に作り上げられたものではあるまい。マルチヌスとブルガ ーリエン政策の一端は一一五七年マイン河の関税特権についてすでに着手されていたことからみても、そして、恐ら へ乱︶ く、四博士が関与しなかったとみられる一一五八年のレーン法において、﹁忠誠の誓についての皇帝の除外﹂、更に平 へ犯︶ 和令の﹁フニーデの全面的禁止﹂﹁アロッディウムに付随する皇帝裁判権の譲渡不能﹂等、中央集権的国家への自信 企画者はなんといっても、ダソセルであり、ローマ皇帝理念は、フライジングによってすでに与えられていた。レガ る。しかし、だからといって、彼等がこの政策で、ブレーントラスト的な位置にあったとは思われない。この政策の ︵50︶ 少くとも、バルバ・ッサの北イタリアのレガーリエン政策について、四博士がその協力者であったことは確実であ あるに留ることになる。彼等の活動はむしろ別の面から評価されねばならないであろう。 の法書からの引用が極めて僅かであることから考えるなら、四博士のこの立法に際して果した役割はたんなる書記で モレーナの記事を前にしても、この推定を覆えすだけの積極的なものを見出せないと思われるのである。或は、この ︵弱︶ レガーリエンの規定は、四博士の手になったものかもしれないが、若しそうだとしても、この規定にユスチニァヌス されているU島巳5器吸巴ご日は、恐らく北イタリアの書記の手になるものであろうという推定をしておいたが、 ないであろう。しかしまた、博士達によって記録されたことを確認するものでもない。すでに前章において、今日残 》 一橋大学研究年報 法学研究 6 二九八 におけるレガーリエンの回復を企てるに際して、まず、・ヘハルディアの諸事情を良く知る知識人として、そして、 ここ数十年来の事実上の支配を主張する自治都市に対して、皇帝の法律上の支配権を、説得することの出来る単なる ︵53︶ 法律家として登用し、これらの博士達の法律的知識と名声に頼ろうとしたと考えられる。コントレビアでの協議に際 ︵説︶ しては、四博士の十四の都市の裁判官に対する説得が、彼等の最も大きな貢献であったと思われる。仮に、レガーリ エンの法規を彼等が記載したとしても、その法律的知識の適用の点では、余りにも貧しく、唯の書記と変りないし、 ましてや皇帝の絶対性を法的に基礎づけた形跡は皆無である。このように、彼等の活動を史料上、明確な形で指摘す ることは出来ない。それにも拘わらずこうした博士達の重大な寄与を推量するのにはそれ相当の根拠がある。それは、 この・ンカリアの立法に際して同時に賦与されたといわれている﹁学者達の特許状﹂である。これは皇帝の博士達へ 誌︶ の恩恵あるいは、報酬と考えなくてはならないからである。 つ 剣 一五五年の皇帝のボ・ーニヤ滞在との関連が考慮されてくる。しかし、後述するように、例の頒歌の内容は、.一の特 月これを与う﹂とあって、異論の余地はないように見えるが、さきのギーゼブレヒトの見解にも伺われるように、一 ︵留︶ 最初に、この特許状の授与の時期の問題がある。MGHのテキストには、﹁・ンカリアにおいて、一一五八年十一 容について、詳しく論ずる余裕を持たないが、われわれの問題に関連して、幾つかの点に触れておこう。 しく史料批判の対象となっており、レガーリエンの諸法規と共に文言の面で様々な問題を含んでいる。テキストの内 へ茄︶ の諸立法、レガーリエンの規定、平和令、レーン法と共にまとめられている。しかしながら、このテキスト自体が久 三 ﹁学者達の特許状﹂勺ユ≦一罐貯目8ぎ一器試oロ筥は、竃O=○○霧け﹄の・ンカリアの国会の項に、他の・ンカリア .σ・ 〆P 許状の記すところを全面的にカヴァーするものではないし、頒歌自体も、二六二年以降に作られたものである点を 考えれば、あの一一五五年の皇帝の法規とこの特許状とを同視するわけにはゆかないであろう。もっともテキストに は日付が記されていないけれども、・ンカリア或はコントレビァでのレガーリエンの法規の制定に際しての博士達の 協力に報ゆる意味で、事後に﹁学者達の特許状﹂が与えられたと見るべきであり、それは一一五五年の﹁法規?﹂の へ犯︶ 確認、更新、拡充の意味をこめて、正式に文書の形で与えられたものと看徴すべきであろう。従って、この特許状は、 ・ンカリアでの国会後、比較的早い時期に与えられたが、日付は決定不能とみるべきであり、ケプラーが改訂したこ ︵59︶ の特許状のテキストには授与の年月日の部分は抹消されている。 ︵60︶ 次に内容について要約しておこう。まずこの特許状が、帝国国会に参加する資格ある諸侯達の判断に基づくという 前置きがあり、大別して三つのことが記されている。⑥ 教会法と皇帝法の︵良≦9控目暮ρ琴鶏oβHロ巨冨讐e︶ 修学者及び教授・研究者達は、皇帝及ぴその諸侯達の使者として、︵ボ・iニヤにおいて︶学習しかつ生活するもの であること。次いで彼等の学識が、世の中でどれ程尊いものであるかを説いて後、㈲ この学生、学者達を侮辱した ︵61︶ り、彼等に危害を加えることを全面的に禁止し、特に彼等が他の同郷人の債務の故に、被害を受けることがあっては ならないことを明示し、この命令に違反したものは、奪ったものの四倍額を賠償すべきであり、法律上破廉恥の罪が 科され、違反者はその官職を剥奪さるべきむね規定する。最後に、⑥ 学生、学者を訴えることに関して、彼等が選 ぴ、皇帝が裁判権を与えた博士もしくは都市の司教の許に訴え出ずべきことを規定している。 この特許状は、こうした概括を許さない程微妙な原典批判の問題を含んでいるので、厳密な検討は別の機会に譲り、 フリードリッヒ バルバロッサといわゆる﹁ローマ転の理論的継受し 二九九 一橋大学研究年報 法学研究 6 三〇〇 二、三の点を指摘するにとどめておこう。@については、決して世俗法の研究者のみが対照となっていない点に留意 しておく必要があろう。そして、法文上、法学者が、皇帝の保護の下に置かれることを明確な形で示したことはヨー ・ッパ法史上非常に重要である。㈲の部分は、一一五五年の頚歌が記した点と全体的に非常によく似ており、しかも、 ヶプラーはこの特許状全体の目的は、この点に集約されると考えられる。特に、重要な点は、二五五年の揚合もそ うなのだが、ζ国8蒔諌ロ↓ひqo昌o醤匡一ΦαqΦ9旨9R旨信日く玖一9旨留oお鼠ヨロ伊ロ鉾⋮ξ昌80げ巴$臣塁oご践o巨 冥o<ぎg。留庄葺βρ一一a龍ρ轟且o賃需箸Φ謎鈴8霧一おg&諾h8露巨窪象二旨霧℃巴β自&鼠ぎ℃昌瞠日oδ言協震p“.. という文言で、他の同郷人に達する強制処分︵n同害報復︶の悪習、その果しない連鎖を断つことを規定しており、取 ︵62︶ 引面での自力救済の禁止、いわば経済的な側面でのフェーデ禁止、法による解決の提示を意味していると考えられる。 ︵63︶ ここには異邦人として他国に学び、各地を巡歴する法学徒にも、商人と同じ特権が要請されており、これにょって、 ボ・ーニャばかりでなく、法学徒と各市民との間の争の合理的解決のための前提が置かれることになり、学生側の連 ︵“︶ 帯感は、やがて各出身地別の2暮δ結成に具体化されることになる。また、この命令に関連する二種類の罰則の組 へ筋︶ 合せについては、第一の四倍額の賠償おの江9試oお旨目ぎ2註葺℃ξヨは、明らかにユスチニアヌスの法典20く’ 旨も﹂との関連を持っており、破廉恥の罪酵壁Bδに関しても、・iマ法の多くの法文、特に、H霧“♪一9ρ U﹂る一蝉鴇﹂頓る”冥・が考慮されていることを指摘することが出来る。この・ーマ法引用ないしその考慮は、・ン ︵66︶ カリアでの皇帝立法である平和令の罰則との対照により、一層際立ったものとなろう。しかもこの種の罰則は、これ ︵67︶ q までの皇帝法の中に見出すことは出来ないものである。かくしてこの特許状は、四博士の手になったものと考える一 ︵63︶ ■ − b一 フリードリッヒ バルバ・ッサといわゆる﹁・ーマ法の理論的継受﹂ 三〇一 この法が勅法の﹁家子は家父のために⋮⋮せぬ﹂という章に付加さるべく命ず。 目βqo’ 瞑き。ゆ暮Φヨ落弩算震一一昌Φユ巴霧8診鼻暮一g窃ω暮蜂巳。.一・①ゆ一富鷲。冨幕gρ.蕊鼠旨のω一− 実に想定されるのであるが、それを決定的ならしめる文言が、この特許状の末尾に記されている。 は法文を直接引用する形はとっていない︶の点から、この特許状が、ボ・ーニヤの博士達の手になったことはほぼ確 こうした内容は、勿論ボ・ーニヤの博士達の希望を強く反映していると予想されるし、・ーマ法の採用︵この揚合 も関連している。 されているのであり、この特許状の重点は㈲に置かれているとみなくてはならない。この評価は、次の最後の論点に ︵73︶ 法文から発想されたと考えられる。しかしいづれにしても、この規定は㈲に対しては副次的な意味しか持たないと解 へ71︶ ︵た︶ 判権についての規定は、臣σQ。の5前文にある、ユスチニァヌスがベリトス田q9ωの法律教師に裁判権を委託した 帝が与えた特典のみでは、収拾のつかないような状態がボ・ーニヤに現れており、さきの特典を補強するために、保 ︵70︶ 護規定に加えて、罰則と共に裁判権の規定を付加したという、かなり有力な想定がなされている。次に、こうした裁 の指摘を行っておき度ゼ。一一五五年の頚歌には、この点が全く触れられていない。これは恐らく、一一五五年に皇 議があるが、当時の教授達のギルドの団体性については疑問視されていることを述べるにとどめ、特にこの際二、三 ︵69︶ @の点についても様々な問題がある。例えばこれがボ・iニヤ大学に対する裁判権の賦与を意味するかどうかの論 つの根拠が提示されたことになる。 .、 一橋大学研究年報 法学研究 6 三〇二 この文章は極めて重大な意味を持つと私は考えている。極言すれば、この文言の意味することは本論文の核心に触 れるものである。まず、この文言と﹁特許状﹂の内容との関連を取り上げてみると、ここに示されている﹁勅法云云 の章﹂は、○■♪一ωであり、そのタイトルは、﹁家子は家父の代りに、或は家父は家父権免除を受けた家子の代りに、 ︵篠︶ 或は被解放者が保護者の代りに、或は奴隷が主人の代りに、いずれも訴追されることはない。﹂とある。挿入すべき 章としてこのρ♪一。が選ばれた理由は、前に記したこの特許状の内容㈲から判断出来よう。すなわち、ρ♪一Q は、二人の人間の間に何等かの身分的な関係が認められる揚合でも、唯それだけの理由で、その一人に代、えて、他を 訴権の対象とすることは出来ないことを定めた勅法を四つ集めており、それらを類推した揚合として、例の他の同郷 人に対する支払強制を禁止したこの特許状が、新しい勅法として付加されることになるのである。かくして、この特 許状は、最早単なる皇帝の特許状ではなくなり、ρ♪β頓すなわちρ2。塗置ω鷲o冨零Φ﹂Φ図缶筈一寅という・ iマ皇帝法となった。このように、内容の点でアナ・ジカルに、適当な章を選ぶことが出来るものは、法の博士達を ︵鴇︶ おいていなかったであろう。この点によって、この特許状を起草したものは、ほかならぬ博士達であったことを断定 することが出来る。 さて、このようなユスチニアヌスの法書原典への挿入は、如何なる根拠によって行われたのであろうか、四博士達 の全くの独創であったのだろうか。この﹁学者達への特許状﹂は別名︾暮ぽ旨一3国卑玄壁と呼ばれる。頃勢げ一蜜の語 は、この特許状の冒頭にあるものだが、一体︾β爵窪江露は何を意味するであろう。この語はユスチニアヌスの新勅 望 法20<o一一器の別名︾葺ぎ旨一9日を想起させる。十二世紀初頭に至るまで、客o<①一一器に関しては、そのラテン語 ■ 》 フリードリッヒ パルバ・ッサといわゆる﹁ローマ法の理論的継受﹂ 三〇三 ドイツ皇帝の法律政策に重大な変化をもたらすことになる。勿論それには、引続いてのボ・ーニヤ博士達の助言も当 実質的に新しい皇帝法、すなわちドイツ皇帝法が、・ーマ皇帝の勅法として実際上原典に付加されたということは、 がまず初めてのことであり、いわぱ・ーマ法原典の絶対的意味での増加は、ここに開始されたことになった。しかも、 ハれロ ることとして、新しい勅法すなわち新勅法集20<豊器に集録されていないものが、旧勅法集に挿入されたのはこれ 法的根拠とな・ていたのである.言した﹁薯達の特許状﹂の後世空ρける影饗鼠響ついては後日稿を改め たため、後世極めて長い時代にわたって、ユスチニアヌスの法典の効力が認められる限り、法学者達の様々の特権の ハゆロ を獲得したのであり、更に、この特許権は、特にボ・iニヤの法学者に対して与えるむねの限定がなされていなかっ 特許状﹂は、ρ♪一い温として、後年の封建法書の付加という媒介項なくして、早くも・ーマ法の一部としての位置 法としてその権威を一層高めるための配慮がなされたと思われる。こうした配慮があったからこそ、この﹁学者達の て、自らの特許状を、勅法に挿入して、当時の文書保管の不備に対処すべくその保全に万全を期すると同時に、皇帝 った。ア︸の挿入に際して、当時の非歴史的かつ権威主義的な彼等の法感覚が前提にあったと思われるが、何にも増し ﹁学者達の特許状﹂を、内容の点から最も適切と彼等が考えたρ♪一Qに挿入することを、法文上明示したのであ 的に行われたのであった。ブルガールス等の四博士は、こうしたイルネリウスの方法に倣って、新しき勅法たるこの ︵78︶ 試。卑と呼んだ。しかもこれが彼の手によって、旧勅法集O&臼の関連ある章に付加され、整理される作業が部分 へ77︶ 頭以来出現したといわれている。イルネリゥスはこれにζげ雪き匪9江8旨臣の名を冠し、個々の法文を毎葺富亭 ︵76︶. 抄訳本である国甘け。葺。旨一一壁目一のみが知られていたに過ぎず、原典の正確かつ脱漏のないラテン訳は・十二世紀初 Ψ 一橋大学研究年報 法学研究 6 三〇四 ハ ロ 然想定されるし、その可能性は、翌一一五九年の復活祭時の皇帝のボ・iニヤ滞在にも想定されよう、そして更に第 三回イタリア遠征における都市ボ・ーニヤの降伏によって、法学者の都市ボローニヤにおける位置は、更にクローズ アソプされている。 ︵83︶ それにしても法史学上、かの特許状は重要な意味を有している。すなわち、・ンカリア立法における様々な問題を、 ・ーマ法継受史の面から眺める際、特筆すべきものは、例の﹁レガーリエンの規定﹂ではなくて、ア︸の﹁特許状﹂で あり・しかもこれはそこに盛られた特権の内容ではなく、末尾に付言された一つの法律政策的﹁挿入﹂の一節を有し ているためである。この点に留意しながら、いわゆる・ーマ法の理論的継受論を再検討してみよう。 ︵2︶ 世良晃志郎﹁封建社会の法思想﹂︵法哲学講座第二巻︶一四一頁。この問題については、男囚。目昌”<①門出器、ロ嵩のにロ“閑。。巨 ︵、︶国・寄区巴ど屋。q巳く塁蓼ぼ藷匡象一。>αQ。の﹄零①穿︵一℃ま︶・<。=払Nω。 一目呂一90一巴器♪国N旨ρψ一自このo&R讐鑑旨爵お旨などのケルンの著作が参照さるぺきである。 ︵3︶ ペトルス クラッススはまず、ハインリッヒ四世擁護論U臥Φ臣δ閏窪ユo富‘8的一。。︵おo。O︶︵距。犀Φ同︼宅︸客いo。O︶において、 国王支配権の適法性を主張したのであるが、それは、教皇側の主張﹁ハインリッヒは法に基づいて皇帝権を得たのではなく、 武力によって得た﹂を、反駁する形で行われた。引用は、ペテ・前の書二ー十三、・マ書十三−一以下、にとどまらず、ア ムブロシウスの﹁神の代理人﹂<曄鴛Φo簿9、所謂﹁神の模写﹂理論の導入を行い、更に、ハインリッヒ四世の王位継承を 廻る問題に関して、その合法的相続をぎ辞b。にある遺言なき相続を引合いに出して論証するとともに、古き良き慣習にょ る補充にまで言及している乏いう︵囚・甘巳帥PP勲○‘翠中︶、なお、恐らくクラッススの手になるであろうといわれて q いるレオ八世の偽特許状に関しては前章︵五︶を参照。︿箪り中ω9ヌ目一P囚巴ω①﹃”勾○旨β目α閃。8く倉江Pど幹Nooy , 9、 b、 ﹁古き良き法﹂がヨーロッパ封建社会における法観念の根源であり、法は神聖な伝統によって与えられているものと考え ︵4︶ られたから、新しい法の創造はあり得なかった。従って新しい法の根拠は、古い慣習・文書の形で提示されてはじめて当時 ッパ史上の特筆すぺき現象である。例の∪9暮δOo塁鼠馨一巳をも加えた偽イシドール教令集など多くの例がある。世良 の法観念上認められた。文書作成技術を持つ聖者達が、文書保管の不備に乗じてこれをしぱしば行ったことは、中世ヨーロ 前掲論文、一二九頁参照。 ラヴェンナの大司教区の総括的支配権の贈与がオットー三世によってその友人ゲルベルトに与えられて以来、ラヴェンナ ︵5︶ ンナ大司教はドイツ系であり、皇帝権の確固たる支柱として十一世紀を迎えた。聖職叙任権闘争期においては、こうしたラ の大司教は、ラヴェンナ総督領における完全な裁判権、すぺての公権を把握していた。その後僅かの変動を見たが、ラヴニ ヴェンナの地位は動揺せざるを得ない。一〇四七年教皇クレメンスニ世は、高級大司教は教皇の叙任によるものとの決定を 下したが、続いて一〇五〇年レオ九世は、ラヴェンナ大司教からそのアムトを取り上げ、その後継者も理由なく破門された。 一〇七二年大司教に就任した≦一ぎ誹は、対立教皇選挙に関与するなど、皇帝の反教皇政策の精神的支柱となり、教皇との 決定的な衝突は、グレゴリウス第一期の時代に発生するのである。すなわち、このヴィベルトが対立教皇として、一〇八○ ○甲 ψOQ斜識, 年ハインリッヒ四世によって任命され、名実ともにラヴェンナは反・ーマ教皇運動の中心となっていた。<σq一﹂oa§﹄・勲 くoQ一国,o。冒幕ツuδ甘隆巳弩一ω。富因&評&。昌旨自畠9。馨8冨豆2二創。一8夷↓①馨一馨①ヨ践。墨一①象 ︸ α三908B磐p国〇一〇αq旨鈴”︿○一﹄H︵一〇軍yψ象畠● ︵6︶ ︵7︶ <笹’ω騨く蒔昌ざど㈱一旨R フィッティング毘菖ぎ吸とコンラートとの間で十九世紀末論争された問題であるが、結局法律学︵閃①&錺&ω器塁o匿津︶ ︵8︶ フリードリッヒ バルバロッサといわゆる﹁・ーマ法の理論的継受﹂ 三〇五 一橋大学研究年報 法学研究 6 三〇六 の概念規定の違いが対立をもたらしたと考えられる。ゲンツマーは、ここで問題にされるものは文法を意味すると思われる から、コンラートのいうように、初期中世︵七−十世紀︶においては、ローマ法の学問は存在しなかったというのが正しい としている︵Oo旨§5①♪糞身○こψω象,︶。︿αq一,囚80げ暫犀①♪¢鴇い 客09審“算蟄○こψOO一団こbO廊3旨o一器讐&一げ臣融嘱︵U器O馨器馨O旨冒ω跨げ窪α臼凶↓&臣8冨塁の忌巨鼠ぼω︶ ○Φ醤目oび国●騨○こψま団い ︵9︶ であって、親等の計算法を・ーマ法によるか、教会法によるかの議論が中心となっているが、この著作には彼の教師、裁判 ︵10︶ 官、代弁人としての活動が付言されているという。<鷺留く蒔口ざ一ダ堕一卑 留く蒔βざ一ざ幹鴇・もっともすでに十一世紀にU縄ロ旨山0999﹂紹粧需ユFo暫ロ巴良旦讐蟄ヨヨ暮陣9といった表現を ︵11︶ イタリアの文書上に発見することは出来る︵三鼻忠一目ψにo。︶。 冒旨ゆP鋭勲ρ堕ψε9フィッカーは、この立法︵竃Q缶∪、国 Hロー客噂■一ε︶におけるラヴェンナの法律家の影響と ︵12︶ 説くのみ︵<αR一・国oぎ﹂目いψ一旨︶。むしろb9旨ωU陣ヨ置巳の可能性があるのではないか。 ︸o&即P角■ 簿 ■ ○ ‘ ψ 一 鴇 い 一〇七〇年代にトスカナ地方の陪審員であった記録が残っているのみで︵︿旭・留く蒔昌ざHダψ象・国鼻R・目Hあレ雛︶、 れたであろうという推定がなされている︵国,国霧げ伍pF↓げΦO旨く實ω一江霧9国に8℃魯置爵o旨一山巳Φ︾凶窃︸2①名o阜 ましてや皇帝との関係については知る由もない。ただこのペポの時代に、∪蒔霧鼠がラヴェンナからボローニャにもたらさ 一〇い9︿■どの , 一 嵩 ︶ 。 留く蒔旨ど一< ︾ 囚 ’ O o o ︵15︶ 一一一〇年八月ー一一一一年五月のイタリァ遠征のコースは、20ぐ畦P︾お目Pω碁菖層因o目p︸<Ro壼の順であった ︵16︶ 、 (( 1413 )) , d 9、 フリードリッヒ バルバロッサといわゆる﹁・ーマ法の理論的継受﹂ 三〇七 よっている︶。なお一一一六年ボローニャの市民に対して与えられた特許状︵ω9巨鳳・2サ呂8︶にもイルネリウスの署名 ︵餌︶円擁μの。ロ・潜・帥・9の・ご︾ミ︵鋭H肖。豊b。一け屠9邑。ξ毒お①の&99里9幕甕≧。昼零ω一に ︵23︶・ωけロ旨℃斜乞戸Q一いQo芦Q一ωoo ︵22︶ 男一〇犀Oコ一目一の。一Uひ 算Oこ¢一一9 勺鉾唱騨。昌賦。帥く芦.、︵い即&巳ゆα。の磐go評三p圧ω8弓すピΦ良o巨お田訪ρ&︸冒o閏のρ図〆ψきy夷一寄区p一ど糞 。ε一・目。の一。管需↓葺§巳§国。ヨ琶琶&。凝。区毒評冨ヨ8墓鼻①3匿跨ヨ。昌。鼻島α。§ω暮塁。 ︵別︶H申畢轟g。︾口鵠づ凶。自①﹃閃8募の。巨。国葛。一馨p量豊⑫一・・。・G・あ。。♪浮賢。る・簿コ歪色①切8。長 ︵20︶ 男一〇犀①3目H讐ψ一頓ひ ︵19︶ <頒一、閃一〇犀o斜目押の■一いいい 伍①ωのΦ一〇ぼ9p閃o畠匿首Uoq駐o巨聖一9≦一霧訂伍魯一〇8いω﹂a︶。 世紀末期には完全に支配的になるといわれ、帝国の裁判所もこの影響を受けるに至ると考えられる︵譲・↓崖器P≧罵ぎ鵯 異る裁判制度があったと考えられている︵<αq一、康鼻R闇H芦ψ呂塁︶。イタリアでは、判決する裁判官が、遅くとも十二 ︵18︶ 当時のイタリア特にヵ。臼⇔鐙昌鈴地方には、古・ーマの遺制ないし教会裁判制度の影響と考えられる明らかにドイツとは ¢NQoP<の一’民OωOげ国犀①﹂ψ刈卜 ︵∬︶型ψ憲。げ琵零①昌づ費。ω。一。αQβ暫蕃g山。一。藷霧。算・暴N一8巴&崖馨葺。一§。葛。一。窒︸く。耳︵一§︶ 一統︶。 ︵ω9.昌鷲・2や8茸−摯︶。この際の皇帝裁判の裁判官等に関する記録は残念ながら残されていないという︵距碍霞・員¢ 》 一橋大学研究年報 法学研究 6 三〇八 があり、これらはノタリアのイタリウスによって書かれたという。 <のピ沁器げα粋F騨鋭○この・“oqP 、 男器﹃山筥ど鐙艶○‘の.一這剛. ︵25︶ ︵26︶ ヴィアッカー・鈴木訳﹁近世私法史﹂ 一四二頁参照。<箪留く蒔ロど目目略ψ8・ ︵27︶ じO仁呂毒一αqo器の。葺葺一βのけ三磐①器一Φ頓窃ぎの島〇一霧冒浮琶陣一霧弩g跨撃。挫。円津ゆけ。。。。ω。﹃。旨。gのし自ロ8 ︵28︶ 5昌ε旨ぎoRεβ醗巴隔巴誰目oのωρ、.︵国’9昌ユ夷一Uooユひq言o一ξ肪の段一碁邑旦○℃Φ廿§戸≦呂︶○図口鍔o・ 図凶︶そして、コーンリングは、次のようにいう、当時は各民族が、自由にローマ法、ランゴバルド法、ザリー︵フランク︶ 法を選択していた。恐らく当時イタリアの最大のマルクグラーフィン マチルダに、ローマ法講義の請願がなされ、.一.︶に 法の博士達を養成するための新しい形の学校が、一二一八年頃創設されたと思われる。ロタリウスはゲルマニアに。ーマ法 を導入しなかったのであり、法全体が変えられることもなかったのである、と︵Oo昌↓蒔旨μ。訂β山帥︸ρ諸図出︶。くαq一・閃貰, のげ山毘ど騨勲○こψ一嵩F︾,一。 ω葺目℃戸2吋■鴇09三の自○○鵠け9H曽客p一轟oo鴎・ ︵29︶ 囚8唱一〇﹂ψ鵠o。この人物はミラノのコンスルであると同時に、バヴィアの封建法学者としても著名であった。︿撃 ︵30︶ ωoぼ盆R−国ゆ巳αR竃夷”鈴勲Oこ¢&N︾.OFω。誤Oい写o一ωぎ堕一ン旨 ︵31 ︶ くの一。の一巨旨℃ 戸 2 け 鴇 O o o ● その一部はN閃ρ卑−一︵一〇〇〇〇〇y幹ooo。いにある。この作者はベルガモ人で皇帝の被保護者であると推定されている。作 ︵32︶ られた時期は一一六七年より前︵この年にペルガモは皇帝に反抗︶で、ミラノが破壊されたことを述ぺているため、一一六 、q 二年より後と考えられている。なおMGHのシリーズの一つとしてO鷺巨ΦβαΦαQ3二㎝男門症。特一。一が一九六五年に公刊され、 》 9 D] フリードリッヒ バルバ・ッサといわゆる﹁ローマ法の理論的継受﹂ 三〇九 H巳08撃け9<β一一二ρ088暮弩訂のoo一貰oω㌦. ω〇一く。お8鵯け畦讐程&昌g山oe器。賞o訂9け 2。。鷺o<一。﹃oρ鼠b三一〇貯8一〇器葺艮 H昌P唱①山一跨θ の豆Pβ酢①ω 旨OO O一降HrけO切 HFOO 吋Oα〇一DH旨Oの鴇 曽ま8け嘗諾Boω9q旨旨臼Φ88く〇一Φ旨Φの層 い①αqoヨ唱o目ロ蒔舞℃2Φ匹旨け暮Φ一p一〇鴨βgβ こ6琶。器♂鷲﹃。且び島08ω巳蔚o巳ぎo。巨。け捗 U£①ε臼一一8暮言8の匡。①ωωo一①鳴馨Φの... q鼠ρ冨一9℃9言霧需﹃ぐR跨自8旨蒔・旨o昂p ︾琴三ω冨隔9艮ρ巳β三一〇旨お8器ヨ畦, 乞p日ρロΦ鼠葺ヨ8の巳の≦9巳ω四①ω鉱一窪障旨 ω〇一<Φβ鼠一。馨。ω鷺o讐R昌oづαo臣鼠且讐葛’ 9目8讐きけ巴δ岳β29ぎβ88需葺首β 曽b巳鼠ヨoロ匡。ロ壁雲旨お2き自oβ①目〇一霧∫ 寄①巨謁℃員 N ℃ ︵これも部分的なものらしい︶。この頚歌は、彼の手によって、ヴァチカンの手写本から発見されたものであるという。 の一婁一護の密嘗拝αg9器ユ。。。げ雪︵匿酵魯窪R雪︶訪冨q①巨o山R≦誘窪8富hβ勺げ一一、田ω亘匹◎一〇。刈。︾月ω。 NQQ9 その中に全文が収録されていると伝えられるが・手にする機会がなかった。 ︵36︶ ︵35︶ ︵34︶ ( 33 ) 一橋大学研究年報 法学研究 6 三一〇 ︵N卿Q一国‘どω・QoO︶<の一●≦。<●の﹁一ΦのΦげ腕OOげ“¢oのoゴ一〇ぽけOqO厩山Φ犀けωoぽOb国帥一ω①吋NΦ暮讐く︸ど ︵一〇〇QoOyの・軌N・ この頚歌を部分的に紹介したA・Pなる不詳の人物は、﹁この、学徒保護を目的として与えられた、フリードリッヒの法 ︵37︶ 規は、ギーゼブレヒトによれぱ、卜9冨旨一臼国帥三$︵津貯一一調ご旨8げo一霧二8目︶である﹂と述ぺている。そして、そ O一〇33&計卑騨P幹一〇〇一。︾テサヴィニー雑誌のA・Pなる人物の批判と、ギーゼブレヒトのこの著書は共に、一八 れに関連したギーゼブレヒトのテキスト変更に強く反対している︵N沁ρ肉‘ポψ8︶。 八○年に公刊されている。 ︵38︶ 毎昌号の容蔚宕話霧霧︵ピo餌郵図く員ωひ。。刈︶に一毫“即馨旨霧巨需曇。;g琶盆巨舞需§一8昏ぎH寧 一す目診。ぎ9国2さ巳粋巨費巳罫:とあるが、これは一一五八年の誤記であろう。 零p鼠邑①。鼠医げ巳。o窪一&o巳ぼ一銭岳旨暮鷲旨g需誓qのo日母。臣oαo詫o馨。胤①畦暮p;,⋮︸g曳霞冒一p一出 ︵39︶ ︵40︶ い○βげ角﹃ユ一①℃円一昌O①b①ω“::;廟費目騨ρβOρ口O︼﹃○口げ角目α一〇〇一<一貯一〇のO口口日ω口卑︷O擁試目一=二騨げβ一〇 讐論にO㎏βpけ Ob①﹃一い <一山①㍑00け く震8雪虜︸⋮⋮葛霞。巳①霧窃2β5窪巨の旨一。管蕊gω畳①馨一げ郵■:⋮費夢窪旨2。ρ話冒ロ訂善Φ。三舜弩 噌一ヨ即一昌二一菖P ︵<一〇〇昌ヰ一b↓簿のΦ5ω駐︾口”騨一〇ω一冒の︼円︸のω”図ぐ日どの。ひ刈ω︶ ラ げ比較対照の上、定本を作成している。く唯・ピO芦ωρ図く目どψ頓o。O・ 響 けられる模様で、竃の餌のρ図<一目では、更に前者の系列をBとして二つ、後者をAとして三つ、計五つの写本を取り上 げ一男︸2目8江ω9Φ跨R一α暮δ巳σ覇霊一ざ冨○ω臨“国象鉱o簿げ○巴o︶の二つを並載している。写本の系統はこの二つに分 と田惹。旦鷺。累︵田旨ユ国§一旨冒且魯旨日お匿居8司a窪9︾①8募旨8馨鎧9θ8一。。ぎ8壼。9︾8﹃, している。冒¢声εユ一ωoユ冥988擁¢営H冨一8β巨︸↓。ひは、︾ヨげ8ω5づゆ切びは9げ8帥によるo図o&ざo︾巨び吋8寅旨o 98ピo話壁は、都市ロディぎ象の皇帝の宮廷裁判官であった。この年代記は一一五三i一一六八年の間の史実を記 ︵41︶ ℃一 々 レー 丙冒8どψ一2●︿笹●望く一㎎昌どH<の曾一〇〇〇いアクルシウスは、プルガルス、マルチヌスの見解の部分のみを記し、馬の贈 は三〇二頁参照 。 3鵯一旨島:、、と記してのはレガーリエンの法規とこの︾暮冨旨一8を指すと見ることも出来る。こ︾暮冨馨一塗、、にっいて ︵留く蒔Pど宅・鉾一〇〇〇︾貸︶、或は閃蟄ぽ≦一P∼・刈がロンカリア国会︵一一五八年︶の記事で、︸ひロ℃Rご誓惹p9号 一〇。累■︶。この︾暮冨暮一9が何時出来たものかについては、様々な説があり、一一五五年の皇帝のボ・ーニャ滞在中とする 消を認めなかった。上記の︾暮げoロ菖8ω8旨白①け鼠℃β冨門三目では、このマルチヌス説が採られている︵の卑く蒔昌ざマ”ψ いて規定している。当時ブルガルスとマルチヌスとでは説が分かれ、前者はその取消を有効とするに対し、後者はかかる取 について、事情を良く知らずに、宜誓を強制された未成年者が、その売買契約を取り消すことが出来るか、という問題につ ℃信訂旨目︵O﹄・聾&<段窪ω話鼠三〇潟ヨ・いo図・留R野︶にみるマルチヌス説の採用である。この法文は・売買契約をする このようなマルチヌスの皇帝への阿りについて・それを証明する一つの事実がある。それは︾葺げo暮一Bの839窪鼠 いない。 器ρロ信葺ρ償a8ロ旨津器ρβ葺戸.、なおこの部分は、冒O餌ωρ図<H目”ω・ひOVでは特に小活字で組み、本文に入れて 鷲器の窪3ユ象。8竃巴ヰ昌o”ω巳ひq胃臣曽馨①日げ8雲象Φ諾象図詳一一器。。一①σ⇔目鼠<①吾2≧巳巴呂窪ββ笹伽区 良改“2&①βけUo且呂即食gロ。H目需壁けoおoロB山①の8匿一器①け山ob巴畦お昌9警需聴ρ8ωaΦ訂首︸匿。嘗窪旨 良9嘉Uo旨言葛劇三αQ遭塁おω宕昌象紳層ρロo自ロoロ段暮Uo目ぎ霧ρ仁緯一ξB帥島冥o℃ユo鼠一Φ目︸Uo日旨信のくgo冒霧σ冒霧 津。8︵闘田β︿g&o︶冒日①象oUP切巳駆ユ︸野累彗氏旦o眉巳。。三け筈①貫暮旨目号﹂畦ΦΦωωoけUo旨ぎ島竃§貸 一9。。”く管冒O餌認−図≦員¢8N.㌔oの江ω鼠2昌Uo巨p臣H日需旨8擁詔目巴。ρ鼠蜜8け讐需﹃駐&餌目窪o評﹃ ○雰oロ院冒08旨器国於8ユ騨園gβ蛙H鄭偉αo昌巴μ目︸o図o象ε︾σOo。δ”鼠薮緯oユ一ωRσ88ω冨二目一蜜犀oβ旨”βρ¢ ( 42 ) フリードリッヒ バルバロッサといわゆる﹁ローマ法の理論的継受﹂ 三一一 ( 43 ) 一橋大学研究年報 法学研究 6 ー 三=一 与については触れていない︵︾8ロ諺ごω﹂昌r甜ρ○日巳曽冒ぎ9鳳聾弾冨ヨ曵δ蟄含鷲o℃誌①β吊匿暮良臥け竃騨旨言5 ℃詠昌9筥曽bロ畠力OβO巴壁旨ぼ菖○冨<9蟄目O円Φ:・:・器島切一一一αQ亀偉ωOOロ9騨一ω聾く蒔昌﹃︸宅︸ψ一〇Qけ︾仁︶。オドフレドス もこれを受けて同様な記述を行っている。︵○山呼a臣”ぎρ<員鴇一曾国8ぢ一巳け8差鳴お山o目冒臣竃象・ρ眞& 言需β8構路3B言臣oBロご日お躍筥巴轟巳畦ご旨⋮、b江鼠おω宕&一江目ゆ写。α。ユβα∈一一$のg8&因自畠㌣ 一壁目江筥oおく。一魯巨gρの・αω巳叩&首け8暮轟oao旨一〇。9”困感①どω﹂8︾一一︶ ︸・男︶。アゾと・タリウスは、ハインリッヒ七世から、旨o誉目一目需詠ロ目は誰に帰属するかとの質問を受け、・タリウス オドフレドスによって記されている。︵OqぼΦ創βωぎ岳酋<o日ω廿いω山o冒ユ毘ざ菖oロo︵N・一∀の簿く黄Pざ一ざω・一〇〇boβ過 ︵44︶ は﹁皇帝一人に﹂と答えたに反し、アゾは﹁法書から読みとるところによると匹匿蹄宕8暮霧は皇帝に優先的 ︵需擁 実8自①馨旨日︶に帰属するが、他の裁判官にも帰属し得る﹂と答えた。その帰途皇帝は・タリウスに馬を与えた。この結果 について、アゾ自身Ooロ目旨跨9象o熔潮嵩に、次のように記している。鷲o営R粧9お3”国B粧日βω呂βロβ目⇒鼠ヨ雪 幡巳け8ρ偉β芦︵くα⇔一,囚旨隔oどψ一〇一h●︶ 皇帝の権限に関する法学者達の見解が不統一であった点については困鷹卑ψ呂Oいを参照。マルチヌスの見解が、畏敬 ︵45︶ と好意によるというアクルシウスの叙述は特に興味深い。 ︵妬︶ 囚08覧段・ψ誘団寄冨三PHく︾ωは博士達の参加を記していない8房8﹃8且ω8ヨ冨仁o冨&旨&βヨ鷺冒oま臣 8島一岳ω巳冨註9営ビの一巳ロ轟鮮:⋮。だがOoロ浮零の臣鑛ユ一一塁なる一一八六i七年に作られた叙事詩中に、この ことが物語られており︵<目ど童ひむ、それによるとo茜o塁R8鼠旨ロ旨冒90ωごユ超ロo需ユけ8曾号鳴ぎo首ぎ島 冨琴8・:・という表現を見るという。この点に基づいて、ホルツマンは、二の諮問会にも博士達が参加してしたと結論し ,章 ている︵卿缶Q一9ヨp昌PU拐O彗ヨ①”山o男話山Φユ8HHヨ℃o壁8コ20自窃>8匡く伍Φ㎏09巴訂o討P津ま吋窟8擁Φ ラ P っていたということは、議決権を行使したのではなく、二八名に法規の内容を説明、説得したという意味である。 フリードリソヒ バルバロッサといわゆる﹁ローマ法の理論的継受﹂ 三一三 の教師でもあったことについては、閑器げα巴ど勲勲P幹一〇〇h 跨ω象09昌9を単なる書記として使ったに過ぎないと評価されねばならない。ボ・ーニャ学派の前身が、文書術象05言窪 囚08営震噂の﹄o。ひは、この法規を書き記した者を、博士達であると解しているようであるが、その揚合には彼等は、その ︵49︶ あり、従来すぺての解釈も、四博士が会議に加わっていたと考えている。︵<管国08覧R︸ψ鴇ひ以ω郵︶ もっとも加わ ご象8の。巨図図く昌H賃8℃駐切80巨o旨轟蜂旨出器益昌o巨器。。区8塁臨一ロ目臼窪算①ω80ヨ巳騨3撃一寅⋮:、、と 史料につき、この協議に四博士が入っていたかどうかやや不明な表現があるが、アムブロシアヌス版では、−㍉甥一葬9Φ目 おり、フィンスターバルダーのアムブ・シアヌス版による引用︵固馨R≦巴自9”ψ鴇︶とはやや異っている。また、上掲の ご舅︸ρまαごお8撃=①ぎ奉冨葺需旨冒9ρ、.︵≧O餌のρ図く目どψ8N∼o。︶なおこの文章はオシウス版によって 旨oρ8タ目oヨ急げ霧鷺冒oな旨霧oヨ巳げロ呂ま9≦鼠言醤Uoヨ鼠&δ8霧巳び富轟旨專段ロ旨旨零ユ讐置o巨巳鋒 ①毒g。。”α①oβ巳ゴωお凶巴一げ霧ごユゴωぼ3噌。。o象一蒔・馨一葛8耳巳g琶け、O巳b8琶&β日&冒需箏8おヨ8山窪− ︵48︶ 私扇一窪$目ご禽8ω8目No。℃①肖ε試。。ぎ宕三。目お一ω鼠ω㍉器﹃目“ω翼言,暮言℃①βεユ瑳。。㊤壁ゴ盆8冨自一ロ目 有していることが示されている。<的ピO、bo貫の葺象窃筥8一零亀δの巴島窪凶げf℃ユβ8εけ一8♪ψooωい び彗象09≦蜜ε旨し寓窪蓉o邑斡①旨εヨ,..︵冒の餌のρ図く一詳ωぴS︶この文言に、この小会議もまた剛Φ&箪な性格を ︵47︶ :9一=霧宕邑。算雷ぎ需審一〇ユ象器崖暮も。ぎ一一。げ8融88ω置①。gωまo&o嘆一臣一且岡窪ヨ自貯Φ謎p旨目いo旨− 詩によって、当時その揚に在った寄冨毛ぎの記事を訂正ないし、解釈するのは危険であろう。 かったという見解もある︵中98ヨ8U器ω①一ぎ︸2窪Φω︾8匡く⋮⋮︸臣,&︸ω。≒O︶。しかしこうして後年に作られた U窪房900①8匡9錺ぎヨαρ団P轟♪ooる睾︶。また、これを引継いで博士達の出席は当然だったから、園費冨要ぎは記さな φ ︵50︶ <αq一■騨げ山ゆF勲鈴Pψ誠9リウトプラント王法第七八条は、六〇年間の平穏なる占有による冥き一答葛の保有権 一橋大学研究年報 法学研究 6 三一四 その使用取得の不能を説いたことが想像される。 を認めている︵塙訳、神法、九i四参照︶。これに対して、彼等が冒終♪ρ旨旧♪一ρ甜U・騨♪♪一などによって、 ︵51︶冒の餌ρ勇異い2p一§ρ一。”H=巨ρ仁。β。のき8言5暮ぎ。目昆巽§巨。簿。まΦ一一藝δ目・巨一套首善需β− ε﹃o匿06寅言p ︵52︶冒O缶8屋“ン2け一まρ一許ρ一一”︾山ゴ89ρ巳巴一a置首。。臣旨くo且答o簿︸α一弩一。9目9一畦一鋒§一〇困旨 一目鷲声8風ω<o昌Φお昌8冥器ωβ巨暮”〇一巴翫Φ8ユ∬gp︿ao界 ︵53︶・・⋮⋮暮藷∪一g。隔国。暴m一す臣。§ε参監け冨曳含量き。・壽目器男。9昌いp毒①量8壁一昌誤奉且 ︵54︶ ・ンカリァにおけるレガーリエンの法規立法に四博士が協力したことに関し、後年プラケンティーヌス竃8Φ三冒臣が 島び壁∼、︸、oH9、、︵因器げ山巴一︸費■勲○‘ω■N$︶ 非難している。それはくΦ9蒔巴貫鈴ユヨき良P8一一暮δ震昏8a首騨ユ曽匿8浮誘一目帥目器騎巴院巽需島菖09日﹂a控目 めたのは不当であると主張している︵のqヨ彗帥けユβ旨=幕8窪目噂ζに畠Uo費け8巳の9貫ま馨冴︶しかしサヴィニーは、 あるいは #まロ9巨に関するもので、プラケンティヌスは、元来イタリアは租税免除地域であるのに、四博士がこれを認 イタリアにおける租税免除はディオクレティアヌス帝期までであるという史実から、プラケンティヌスの説の誤謬を指摘し ている︵ののく蒔昌ど一ダ¢一謡い︶。 ︵55︶ <笹。囚oΦ℃覧oおψ頓oooo’ ︵56︶ の一〇の。げ﹃①o騨が例の頒歌紹介に付随して行ったと伝えられるもの、更に、凶閑ρ因‘一・ψ8い、最近では内8旨一Rの 校訂︹註︵59︶︺︵一九三九年︶がある。 し[ − ・ぐ 上記二九四頁参照。 とU暮署旨国自8凱器﹄自oUo三巳ピ○■≦員目窪器20く。ヨげユ.、、 ︵冒O閏9房け﹂一の●Nお︶ ︵58︶ ︵切︶属O国9霧“H噂客け旨o。 参考のためにMGH及ぴケプラーが校訂したものを対照しておく。 頃呂一鼠ωεRげoo象一蒔o旨一①bδ08Q旨旨−筈鼠葺β 象窪β8巨9β一&一。信ヨOけ巴δ旨目窟8Φ毎目ω8ユ ︵>︶因oΦ窓一9の■ひON 〇営ω8宕窪貸暮訂昌β段。仁日90ヨ昆一善ご象9暮 。塁旨需器四ユ冨昌﹃の8昼二げ葺gヨ貴首o象≦壁旨ヨ ぎω9一℃一8は。塁目ぎ註9ρoヨ昆げ臣ρ鼠誓且一曾Eβ 再ρ器墨o塗讐旨一①讐彗℃8協o器o詠げ岳レOo蓉ωδ吋o官o鼠蕊 訂冨ぼご臼ゆ&巳αq①目5暮&一8塑ぎρ巳げ臣一鋒o− くo巳きけg9瓢富旨冒①δのΦ。霞9U蒔目ヨ壁ヨβΦ 旨窪筥賃R8暮農ω葺象跨︾琶ロ首。。ゆρ壁目oo窪目昌自。ロ 呂oげΦ象8αqヨ∪89gげ一ω讐巴ロω目一巳ω鼠ρξ9る・亭 江80葺雷馨畦”20旨目の。一〇鼠目農身ω一一一ロ巨髭ε円 OM︻一のけ一一︺口卑目口け︻の︸ 一﹄け げO口帥 隔粋O一〇Hrσ①ω 興巨Oのθ堕暫 一簿口へ[① Oけ℃吋OけOO[ h8一Φ馨窃ぎ。なけ旨旨ポ&。B彗信。胃oけ。&8①旨目Φ− 玄88糞旨ぎ8毒諄畦一ρ壁3ヨ8の巷8巨一象一Φgδ器 どの饗ξ臼窃ω①筥8試陽。ω.。惹轟巳琶“<一5葺の舞巳o舅三− ヨ一器﹃臼葺ツ窪旨象ぎ8。摩90暮一①断8江賃巳Φ。。五〇巳く三− 呂○欝巳言疑ユ跨α08&蟄目瑳,O巳ωo巳ヨ8旨B8ロ 旨幕3騨昌”帥ヨo器のo一〇暮δ壁o試・図巳o碧自o紆く憲げ霧 フリードリッヒ バルバロッサといわゆる﹁ロー マ法の理論 的 継 受 ﹂ 三一五 &oきぎoヨ巳一巳ξ”山9窪鼠目轟O巳の8貰ヨぎ昌 く試雲匪①90窪臼ぼ♂賊巨のε﹂ρ壁鼠目ε。9巴一象一。− 壁葺お器oげ。象窪3彗山oogpoげ貫邑a馨籔o貯ω︸ 吋gβ9きoヨβ霧oβρ琶窪旨ωo一Φ葺す目β&瑳三βヨ憎 ωΦ窪ユ,∪蒔ロロg塁目ρ垢Φ風の部目四日羨矯暮讐窪旨げo轟 一甥一ρ壁目Φo毎目β琶艮くo巳き砕g鼠葺富耳ーぎ。匿 暮呂一〇8冒ρ三げロω一箒舅窪ヨ賃R8旨ξωけ鼠旦5目 ︷o器o該げ霧げoo8卑8℃一〇鼠けδ密器浮ξヨ冒自蒔o目霧︾ 9目艮一ヨo良鼠壁旨目芦β毒舞o寅旨旨HΦ鳴菖冥o− ぎωρ鼠8島”ω葺象o霊彗需お讐ぼき葺腕。。8ポユび臣1 oけ冥08旨目ω8践宕ポ9一ロoω鼠o蓉旨ぎ暮一gρoB巳− H旨b臼.暮g男ユ号ユ。ロ幹 国3ぎの唇震げo。良一一㎎o葺一 ︵59︶ ︵57︶ ル 1輕垂く紳霞賦廿騨挺卦応蟹o 11114く paupcres semetipsos exinaniunt,vi撫m sualn olnllibus bus periculis exponun七et a vilissimis sepe homini. periculis exponunt,et.a vilissimis sepe hominibus− bus,quQd gT&viter ferendum est,cQrporales iniurias quQd graviter ferelldum est−corporales iniurias sine sine causa perferunt!Hac igit“rgenerali et in eterum c&Usaperferunt。 va1圭tura edicimus lege慶ut decetero nullus ita audax Hac igitur genemli legc et in etemum v乱1it覗ra de− invelli&tur,qui aliquam scoralibus inuiuram inferre crevimus,ut nullus(1e cetro tam au(1ax inveniatur, presumat,nec ob alterius provincie(1elictum,quod qui⑤1iquam scolaribus illiuriam inferre presumat, aliquando ex perversa consuetu(1ine fieri audivhnus, nec ob alterius eiusdem provincie debitum,quod aliquod dampnum eis inferat;sciturus,huius constit− aliquando ex perversa consuctudine factumaudlvimus, ucionis temeratoribus et illius もemporis2 si ipsi h㏄ aliquod dalnpnum eis inferat. vindicare neglexerint,10corum rectoribus restitutiQn− Scituris huius sacre legis temporatoribus et illi亘s em rerum ab omnibus in quadruplum exigendamンnota一 ㌧ temporis si hoc vindicare neglexerint locorum rectori− que infamie ipso iure eis irrogaねdignitate sua inper− bus,rcstitutlonem rerum ablatarum ab omnibus exig− petuum careant,Verumtamell si eis litem super aliquo en(1am in quadruplum,notaque illfamie ipso iure irr− negotio quispiam movere presumpscrit,huius reiopti− ogaセL, di glli㎏te sua careant in perpetuuln, one scolaribus data夕eos coram domino aut magistro Verum tamen,sieis litem super aliquo llegotio quis− suo vel ipsius civiねtis episcQpo, quibus hanc iu’ris− piam movere vQluerit,huius rci optiolle da懐 scolar− dictionem dedimus,convelliant,Ωuod si vero ad alium ibus,eos coram(iomino鼠ut magistro suo vel ipsius iudiceln trahere temptaverillt euln,et si lustlssima cau− civiねtis episcopo,quibus ill hoc iurisdlctionem dedi− sa fuerit,pro tα11conamine a debito cadat,H乱nc au− mUS、COnvelliat,ΩUi verO ad alium iUdiCem eOS tr曲ere tem lcgem inter imperiales constituciones sub titulo 導、 ▲ ,ぐ け①巨℃け帥<O目一“ O斜口の帥uO江帥日o陰一一βの江ωω一ヨ餌隔にΦ賊一ゴb一〇蜜一一 〇〇昌帥一一一一一一〇 〇陣匹卑けひ =蟄昌O帥信けOヨ 一〇σqΦB 一目一〇吋 帥ヨ℃Φ一一帥一Φω OOβω鼠廿βげ一〇コ①の の口げ↑一けβ一〇.目Φ胤一一一偉の℃円O窓θ↓O①貯○り、一βooO目一一仁ωω一目仁幹 ケプラーが用いた原典は 勺帥一魯け一昌βの一騨鼠昌βω 刈ひど く讐σ一〇費P信oo ]﹁ゆけ一口ほの一轟Nyb魯H一の一〇− βooおび暮ぎロのまερ竃¢国[噂○○昌曾︸ど2﹂旨Qoである。 前註㈹によるo .旨Φ⇔犀βωb一.O唱P一賊①Oけρ、一昌ωΦ㎏一一βげOB口幹 ∪暫け魯bにα閑OβO獅自帥ω﹃鎖ロロOUO一昌一昌ゆ 冒○い<一一ご ヨ①Pω① ZO<①旨P一︾巳一● 判 ト で あ る 。 すでにギーゼブレヒトが、この語について、山〇一8葺目を留謡9目に この特許状の史料批 の 重 要 な ポ イ ン ︵60︶ b 65 64 63 62 ケプラーは、法学者達の考え方を次のように推測している。㍉εお紹ご器。な信暮8旨旨胤8巳麟目 く①一8霧扁葺象器鷺8a9βけ、なお一一五五年の碩歌︹註︵36︶︺を参照せよ。 勲P幹一$い制度的に完全な団体を見出し得るのは一二九二年であるという。 頓3い <磯一﹄寄ぽα跨一一い騨﹃ 20<,超ρ廿即8§g聾一。巨霧謹萄目覧弩。b一西話目呂8。目冒8の貸国器旨窪8奉一R。 フリードリソヒ バルバ・ッサといわゆる﹁ローマ法の理論的継受﹂ 三一七 囚o①慮一〇きの 、 ひ O ど <㎎一囚OO℃づ一〇斜 ω, 一仁↓一のいOけ 即 ω5け口ひ一の q 一 Φ b の■軌O鴇, <α ● ︸ ︿O ℃ 一 〇♪ ) ) ) ) 自①げ一菖ヨは債務、支 払 を 意 味 し て い る 。 註 ︵ 5 9 ︶ の下線をほどこした部分をみよ。 〇 一 一 〇 葺 ヨ は 、 く R ぼ 9 崔 o ロ と q竃誹お蕃=との中間の<R鴨げ窪の意味での違反を指し、一方 9目、、と修正している。 α ユ 唱さくぎ90伍①匡9誓目、、をこ包8ユβωO旨oo山O目唱賊O︿言Oδ山Oげ一− ギーゼブレヒトの説を 確 認 し 、 更 に 冒 の 国 の こ 巴 富 岳 ρ ψ 8 ︶ ラ ー は 勺巴暮ぎ匿一・と聴ユ巴o塁δ一●︹前註末尾参照︺によって、結果的に 改めていたとい う ︵ N 閑 ヵ ■ ︸ ど 。 ケ プ ︵61︶ ( ( ( ( 一橋大学研究年報 法学研究 6 三一八 器2。⋮冒算鴨一ω⋮ふ①q窪ヨρ鼠呂巴梓臼○官oゆ一$8の。。琶含日ロσQ昌R&。巳ω穿旨艶ヨ需。琶置ヨくΦ一ρ鼠α巴一且 Φ邑αQR。き畠8け箆嘗ρ猛旨菖覧に巨器のけ一βg。。一ρ三く首鵠器霧ω一σ︸⋮⋮。 ︵66︶ 例えばP鴇︸駐”ρ冥乙⋮⋮ρ舞ヨ<δ需樽R8ξ緯oおヨ帥二象o冒巨80甘置旨一器。8ユo号3ざ窪けぼごユ帥霊巨 ぼ8ω号εコ浮90巳目お吾診9ざ江8β匡宮費旨畦冒碑日8一け碧8一ムoヨ暴葺⋮ー,なおこれらに関しての暴力強奪 物請求訴訟については、原田慶吉﹁・ーマ法︵改訂︶﹂二二五頁参照。 ︵67︶冒の国9鵠け■押2”く9。・頓”H鼠一8の:﹄鼠一巷塁臣o旨器Φ江良瑛ドヨ冒経ωおω貧。ぎ8日需萄馨一三。江塁苧 随口一い一け①け鱒一擁, Φ叶O● ℃8臨目巴g貯α臼o欝器RoR鴛δ需β騨目図一ぎ旨讐臼讐ユ屈o誓2旨旨8磐汁。目需鍔§償目一旨冨昌昌程二 ︵68︶ くα貸一・囚08覧R・のぴOO・こうした罰則の組合わせは・これ以前の皇帝の特許状には見出されない︵囚8弓覧Rあぴ8︶、そ して後年一二二〇年フリードリッヒニ世が、・ーマでの戴冠に際して制定した勅法09隆9試自8悶詠留詠。匡目H目需− 冨8旨︵一〇■8一一&o.け一gご。。㍉”uの㎝舞暮冨g8諾器言島巳げ臣①8.㈱Hけoヨω富鼠ヨ露ω”ω窪ρU、質冒葺9<ど ご︾<9Φ暮ゆ㈱器昌9ヨ¢ω甲OHρρ笹,︵ω︶y︵寓O国︵︶○昌の鉾目︸¢一8い︶にはある。 ︵69︶<のピカ器匡巴一■P鋭ρω﹂出津甲UΦ三PU一①国昌馨oげ琶磯創段daお邑鼠一雪αΦω屋け邑巴5諺σ一。。一8ρωΦユ冒 一〇。o。怠ψ命いなおこの箇所■にみられる自。日ぎ皿のと臣暫嘘誓窪の語は、共に博士を意味すると解されている︵閑霧けα巴一る・ ノ 蝋 く碧.。2帥目く言巳。象.ρ冥o暮自。一一。試gg一箏。霊目ρ轟ヨω。ユ営o毎日2巴一霧①器の。ユ計。自器富冨玄豆置望q− ︵71︶こ鼎鼠o。o目巳費旨9。ρ巳留ヨ剛一8①暮一ω旨β。三舞①<冒臼8一警ω鷺器ho。9ωビ一一筋巴日器弩げ匿鼠ヨo房Φ学 ︵70︶囚8唱一。ツω。ひo角、 鋭Pψ三♪︾。い︶。 .ぐ、 ︵77︶くαq一ら・囚旨の90Φω。圧。洋。α震曹。一一。ロロ匿犀け。艮自山①箕σ目一の。冨昌力Φ。騨の一富一冨の。一。。。。どψ駿剛■ ︵%︶・ <磯一●︽■○○昌目騨ρ 陣■口齢○こ の唖 一いN償, QひO 国P怠ρ邑①きどψ器ド ︵乃︶ くの一・ OHO ρ ひq一・︵︼W︶℃O■ ]ド♪↓・﹀︻一一H■一Φ図 <■︸0901の○げ二一一β磯堕 OQ﹃℃仁ω 一口↓一〇〇 〇一く一謡の ゆPoo UOβ叶ωOぽO 岱げ①励のOけ国甘 凱暮ロ昌 ︵74︶ 乞Φ問出一信oo℃帰○℃帥け﹃O<O一冨一①↓℃棟O降嵩OOヨ加昌9ゆPけO<〇一=σΦ擁けβの℃りO冨け↓050︵︸︿Φ一ωo弓く二のも﹃Oαoヨ一昌o︶OOβ︿Φ− ︵乃︶ <領一●︸︿OO℃℃一〇場︸ω, ωO刈庸, ︵η︶ ︸︿OO℃〇一〇﹂ の ■ ひ O 頓 ︸ 因 魯 ω げ α の 一 一 ︸ 陣 6 即 , ︵ ︾ 4 の , 一 轟 鼻 ・ 。冨。。旨ω①二濃Φヨ質。験器o話ω.、︵u。08ω“.○自・。5邑、も■一。︶ ユ①邑雌躍程$目gく壁83ヨくマg豊のの冒島ヌ器。。霧℃。。巳。器ヨ畳鉱ヨ器ρ奉目訂呂ωのぎ霧①一βa①巨。一く一§院 b フリードリッヒ パルバロッサといわゆる﹁ローマ法の理論的継受﹂ 三一九 ↓け①旨①象Φ︿aぎ9吋℃お一即島O昌9切3貸①臣O犀りの、帥ロ90ロ菖O頃P9鼠、がある。 ︵80︶ この問題に関しては、コシャカー記念論文集U.①霞o廊①=象ユ菖08ヨ即昌P︿oピ一に≦・q一一旨器βのすぐれた論文 られなかったためとされている。 ︵79︶ この点について、特にボ・ーニャの学者・学生という指示がなかったのは、当時は法学者としては彼等以外のものは考え くの>葺げ9萬8が挿入されている。註︵68︶も参照せよ。 そのほかこのP一−ひすなわちUΦ8誌8口ω99段互ωoけ99目098匡ω9ρ︵現在の定本ではρ一・ω︶には殊に多 ㈱器飢ロ2︸窪ユa①琶’8=鋭P8拐¢ω一︵”20く’一8臼ρδ︶から移したものとの指示がある︵OHOρ屯。︵切yρ一も︶。 ︵78︶ <笹・ω暫く蒔けざH∼ψ台中実例として、O・一一ρ轟と軌との間にH2︾<↓国国26とあるものは、UΦ紹po・o且o。ρ 一橋大学研究年報 法学研究 6 三二〇 このほかに註︵42︶に記した︾ロ跨臼菖8ω8βヨo暮跨℃‘竃笙巨があるが、これもこの特許状と成立時を同じくしてい ︵81︶ る。 この時の模様については、オソトーモレーナの息︾8み臣目○お冨が記している。それによると、、・・ラノを攻略して後、 扇3げ①≦一旨[︸ H ! N ︸ い 一 ︵82︶ バルバロッサは大軍を率いて、まだ完全に皇帝の支配に服していないポローニャ ︵ωoロ8置目・ρ毒目§αに召一ヨ究ユ巴一 ︵83︶ ご碧覧窪鴛一①穿段暮。。仁区一鼠︶に進軍し、近くの因雲○に陣を張った。ミラノ人と異り弱気なボ・ー二・ヤ人は戦わずして 降伏した、という。更に、モレナは次のように記して、法学者に触れている、﹁事実ボローニャは、学問研究の分野で、イタ リアの他の全ての都市に比してすぐれていた。すなわち、他の学者の中で法の四つの光がひときわ輝いていたからである。 かくして都市ボローニャは皇帝に服従した。当時この四人の博士達は卓越した地位にあった。すなわちマルチヌス、ブルガ ールス、ヤコブス、ウゴである。﹂勺O目①げP8ρβ箆o目廿ββoωoロO巳四ぎ躍洋曾巴ぎ仁⑭曾O&広℃30信β9肪畷3ロ①9≦冨詠σβの’ ρ壼ε9一。讐目8ξ目冒誌冒8H85特oω旨即曽58毎象騨暮び轟ω昌冒撃ぢoの二閃一g↓覧o塁ユo首鋸。三蕩切oぎ獣Φ 山oヨ8一ヨ需β8量匡冨ρ壁go励α8εユご匿g目臼。亀o旨び島﹄9一一〇gαo巨巳ω竃設け言oのo図壁g国巳磯跨p富8げo 緯ρロoqひQo503勺99因p<①αq昌鈴昌艶︵ピ○国︸ωμ図く目層ψ訟O︶なお、モレナは、 一一六七年春、再ぴバルバロッサが ボローニャを恭順させていることも記している︵30&P¢ひ嵩︶。 嶺 四 バルバ・ッサの法思想と﹁理論的継受﹂ サ いないことになる。 ーH・クラウゼー て妥当性を有しているのであるから、結局何も説明して ︵1︶ 妥当性をもつという示唆は、・iマ法はまた皇帝法とし を繋ぐものが欠けている。皇帝法は・iマ法に基づいて 間題には﹁皇帝法思想﹂が作用している。しかしこの間 元来皇帝には立法権は帰属していない。園o器讐一9の φ レ フリードリッヒ バルバロッサといわゆる﹁ローマ法の理論的継受﹂ 三二一 しかしながら、十世紀から十一世紀にかけて、一寅が・ーマ法を指す揚合は稀なのであって、漸く、この時代に、 ︵7︶ 主観的・客観的法の総体、すなわち法一般を意味する段階に至ρたとクラウゼは考えている。すなわち、未だ法は創 ︵6︶ いられたと考えることが出来る。 表現を読みとることが出来るが、これは、教会法或はパヴィア法書というまとまった法体系を考慮した揚合に多く用 ︵5︶ イタリアの書記による・iマ法文的表現の結果である。次のハインリッヒニ世の時代以降、はっきり両者を区別した ︵4︶ れて、一臼が客観的な法を意味する例は、オットー三世の時代に初めて現われる。これはすでに前忙も触れたように、 皇帝文書に記された一賃砂8冨という表現は、﹁権利︵法︶を護る﹂ことを意味していると考えられ、一貨が客観的 ︵3︶ な意味での法を衷わす揚合は極めて稀であったといわれている。αqΦω9韻霧。匡&島&に見ると、主観的な法と区別さ 一 シ.︷タウフェン時代の皇帝法を廻る問題は、まず伝統拘束的な法意識が、如何なるプ・セスを通って、皇帝の諮 ︵2︶ 意的な立法を認める絶対的立法権の理論と交代してゆくかという点に絞られよう。事実、ザクセン・ザリエル朝時代、 ( 一橋大学研究年報 法学研究 6 三二二 造されるものであるという意識はなく、所与の法、発見される法であり、莫然とした古き良き法秩序の総体が、当時 の法観念を支配していたと思われる。現状維持が伝統的支配の至上目的であってみれば、法意識の変化は基本的には あり得ず、折りにふれて吹き込むイタリアからの新風も、これを覆えすことはなかったのである。かのクリュー二ー ︵8︶ の平和運動によるラント平和令の立法も、当初諸侯と皇帝との宜誓による取り極めの形としてのみ、法の舞台に現わ れたに過ぎない。しかし、ここに大きなカが隠されていたのである。 一つの突破口が、十二世紀初頭に開かれたといえる。それは平和運動の推進によるものであって、・ーマ法によっ たものではなかった。二二一年のハインリッヒ五世のラント平和令は、協約に基づく以前ラント平和令の遵守を確 、、、、、 ︵9︶ 認すると同時に、平和の破壊者を帝国の告示に従わせることを目的とするものであった。ここに勅法という形で、皇 帝の制定法がク・ーブアップされたのであった。 平和の保護者としての皇帝の使命感は、容易に、キリスト教徒の保護者、世界の支配者たる・iマ皇帝の理念と結 ぴつき得た。かくしてバルバ・ッサの登揚した時代には、土台として封建的な支配、それに伴う伝統的な法意識に根 ざしながら、理念的には、・ーマ皇帝の称号に飾られた強力な支配者が平和の守り手として期待されていたと考える ことが出来よう。すでに第一章で記したように、バルバ・ッサが現実に行った政策は、或はこうした期待とは程遠く、 僅かにイタリア政策にその片鱗を見せたかとも思えるが、これとても、帝国の失地回復以上の何物でもない。こうし た限定は、当時のドイツ更にはヨーロッパの政情から必然的に規制されたものであろう。バルバロッサの同盟政策は 何よりもこれを物語っているが、こうした政治的な現実、志向の澗題よりも、バルバロッサによって、ドイッ皇帝の ﹄▼ − か れる必要があろう。 識をかなりの速度で変えていったと見ることが出来るのであり、その過程でボ・ーニャの法学者の影響も相当考慮さ シュタウフェン前期に準備されたことを前提とし、それに照応した・iマ皇帝理念の高まりは、バルバロッサの法意 ︵10︶ に注目しなければならない。勿論バルバロッサが形式的な面でも、皇帝の立法権を完全に樹立したとはいえないが、 法意識が、かつての封建君主の枠を脱して、絶対的支配者のそれへと大きく一歩を踏み出すための姿勢を整えたこと や フリードリッヒ バルバ・ッサといわゆる﹁・ーマ法の理論的継受﹂ 三二三 ぬ。﹂と断言しており、更に一一五八年の・ンカリアの国会において、ミラノの大司教によって、ローマ法に根拠を ︵雌︶ 持つ皇帝立法権についての進言がなされていた。 ︵13︶ ライジンクは、﹁年代記﹂の献呈の辞で、﹁ドイツ諸国王のみが、法の上にあり、神判を受くぺき世俗の法に拘束され 意的な立法に対して消極的とも受け取れる発言をしている。こうした伝統拘束的なバルバ・ッサに対して、すでにフ ンカリアの立法に際してさえ、その演説で、﹁法を制定083おする揚合には、特に慎重でなくてはならない、蓋し ︵12︶ 一たぴ法規が制定されると、それによって裁判の自由が失われ、法規に従って裁判せねばならない。﹂と述べて、諮 と記して、既存の法秩序の護持を目途としており、とくに自らの法制定への意欲を示していない。更に一一五八年ロ 早珍しいことではなくなっていた。何よりも教会法体系の存在は、別の客観的法秩序たる世俗法を意識しないわけに へn︶ はゆかなくなっていた。即位した一一五二年七月の平和令には、﹁教会法と世俗法が、有効ならんことを願う朕は﹂ があるということである。すでに、彼が皇帝に即位した時代には、一臼は客観的な意味での法を表現することは、最 二 最初に注意を喚起しておき度いことは、バルバロッサの法に対する考え方が、治世の初期と後期では相当の違い ( 一橋大学研究年報 法学研究 6 三二四 このように、バルバ・ッサの時代に、その後のドイツ皇帝の法律観、法律政策のための諸要素がすべて整えられた とみることが出来る。すなわち、㈲従来の皇帝文書において漸く確認されつつあった法規の制定一臼8注R① の観 ︵15︶ 念は、皇帝による絶対主義的立法へと飛躍する可能性を持つに至ったこと、㈲皇帝文書には表現の点で・ーマ法文か らの引用が漸増すること、⑥伝統的な法律観はローマの皇帝法目古き良き法によってより一層権威づけられ、それが ︵ 1 6 ︶ 支配的な位置を占めるに至ること、以上の三点を指摘することが出来る。そしてこれらは、いずれも・ーマ的なるも のとの関連なくしては考えられないのであり、ノタリウス、聖職者、博士達の影響を考えるべきであろう。 ︵17︶ しかし、バルバ・ソサ及ぴその書記局の法意識は結局は形の上では保守的な段階にとどまったといえる。すなわち、 すでに一賃8&。おという表現は常識化したものの、それはあくまでヴァイステゥムの形式を前提とした伝統的支 配の法発見を出でなかった。僅かに、特許状の授与の面で、皇帝による法の制定の志向を示すか、レーン法、平和令 ︵18︶ において中央集権的国家への態勢を示すと同時に、皇帝の宜誓を留保することにより、それに実質的に立法の意味を 持たせたに留ったのである。確かにバルバ・ッサの新しい国家理念には注目する必要があるし、その意義づけを怠っ てはならないであろう。唯ここで強調したいのは、形に現われた限りにおいて、バルバ・ッサの法律政策は、革命的 な新しさを備えてはいない。このことは、バルバロッサの政策の基本路線はレーン政策であったという評価に照応し ている。バルバロッサは、ミラノの大司教の進言をそのま﹂の形で取り上げなかったし、皇帝の絶対的権力の法的な 基礎づけを、具体的なケースで利用した事例もない。また皇帝文書上の・ーマ法文の引用は、確かに増加するが、特 ︵19︶ に重大な意味を含むものに乏しいことも考慮に入れておこう。 り・ つ、 ル フリードリソヒ バルバ・ッサといわゆる﹁・ーマ法の理論的継受﹂ 三二五 きをみせつつあった教皇、及ぴ彼の持つ教会法の体系に対する意識を、読みとることも出来る。 という側面を持っているとも考えられよう。すなわち、・ムバルド諸都市と結ぴ、フランス国王と通じて、不穏な動 った。こうしたローマ理念の法的な面での強調、すなわち・ーマ法の理論的継受は、それなりの政治的局面への対処 、 カ ー ル 大 帝 、 ル ー ド ヴ る 法 規 及 ぴ 告 示 を 遵 守 ︵す 20 ヴ ァ レ ン テ ィ ニ ア ヌ ス 帝 ィ ヒ 皇 帝 の 遺 し た 神 聖 な る︶ 朕﹂と記すに至 遺言に関する宮廷裁判所の判決﹂において、﹁神聖なるわれらの先祖達、コンタンティヌス帝、ユスチニアヌス帝、 な法意識に照らして、これこそ俗界における﹁古き良き法﹂と考えたに違いない。一一六五年九月の﹁或る聖職者の ボローニャの博士達との接触により、祖先諸皇帝による皇帝法の存在を如実に知ったバルバ・ッサは、その伝統的 法書は、世俗法として℃醇o蓉亀Φ暮置ヨなものであり、すなわち皇帝法書であることが前提として置かれていた。 けを必要としなかったと考えられる。一方のボ・iニャの博士達にとって、彼等の研究対象であるユスチニァヌスの の確保、イタリア政策の一応の成功は、バルバロッサの自信を深め、・ーマ法文の片言隻句による皇帝権力の基礎づ 感、当時の思想状況においては、まずこれが先行することを考える必要があろう。そして、ドイツ地域における平和 ンティアヌス等連綿たるローマ諸皇帝の系譜があった。それらは支配の正当性の保証でもあった。彼等祖先との一体 の皇帝の自覚をうながすことになった。バルバ・ソサの前には、ルードウィッヒ、カール、ユスチニアヌス、ヴァレ フライジングによって歴史的に証明されかつ高揚された・ーマ皇帝理念は、まずバルバ・ソサに伝統的支配者として 的にも考えられるし、更に決定的だったことは、ボ・iニャの四博士達の法律観と共通の揚を持っていたことである。 ここで問題としたいのは⑥の点のみである。伝統的な法律観は、極く自然に﹁・ーマ法﹂と結合する可能性が論理 や 一橋大学研究年報 法学研究 6 三二六 更に、バルバ・ッサは、単に理論的に、・ーマ皇帝法の尊重、その神聖化された皇帝法観を具体的な形に表わすこ とになる。一一八六年末の一種の平和令﹁放火犯に関する勅法﹂Oo霧蜂暮δ8旨壁冒8注冨ユ8の末尾において、 ︵21︶ ﹁この勅法を、わが祖先たる皇帝の諸法に挿入し、永遠に保存すぺきことを命じ﹂ている。この挿入が、ボローニャ の博士達の﹁特許状﹂の例に倣ったものであることは当然考えられる。この勅法は、一連のラント平和令の一つの帰 ︵盟︶ 結として、すなわち中世末期における平和団体構成のための皇帝の努力の結果として大きな意義をもつものであるが、 それ故に、この﹁挿入﹂の指示は、皇帝法の徹底、保存に加えて、権威化のための重要な手段とみることが出来る。 この勅法はニュルンベルクで起草されたものであるが、法学者達との直接の連携がなかったためであろう、﹁挿入﹂ は実現されるに至らなかった。従って、バルバ・ッサに由来する︾ロ跨曾ぎ器の挿入は、いずれも法学者達が積極 ︵23︶ 的に行ったと考えられる二つの例、すなわち︾暮富艮一8国騨萬鼠︵ρいし♪軌︶と︾暮富旨一Sω8養首9鼠bロげ甲 霊目︵ρNるo。し︸㈱N︶とに留ったのであった。一一八六年の勅法の挿入は実現こそされなかったが、これによって、 バルバ・ッサの皇帝法に関する法律政策は、法学者のそれと同一の平面に並ぶこととなった。かくしてユスチニアヌ スの法書への新らたな勅法の挿入と付加が、これを契機として後年行われてゆく。 ︵盟︶ 皇帝が命じた例としては、フリードリッヒニ世の・ーマ勅法Oo器諏990ぎ国霧臣β国舞怠零け艮︵一二二〇年︶を まず挙げることが出来る。オドフレドスの記すところによると、皇帝は・ーマの聖ペト・寺院で、この勅法を適当な ︵%︶ 章に挿入するように、博士達に命じたという。博士達はこの勅法の一部をQ一﹂︵ひ︶に︾暮冨暮一窪目として挿入し たのである。十四世紀においては、ハインリッヒ七世の異端者に関する勅法Oo島葺暮δ8旨審霊お葺08Φ訂騨9箒, ︵26︶ ↑、 づ 丑マ フリードリソヒ バルバロッサといわゆる﹁・ーマ法の理論的継受﹂ 三二七 上のもの℃R賃8田暮貯日と考えていた。当然のことながら、彼等の法律観は、ユスチニアヌスの法典とイタリア 伝統的な法律感にも合致するものであった。一方、グ・サトーレスは自己の研究対象たるユスチニアヌスの法典を至 理念という共通の基盤に立っている。ドイツの諸皇帝は、・iマ諸皇帝を先祖と仰ぎ、その法書は古き良き法という 皇帝による勅法挿入の命令、法学者によるユスチニアヌス法書への挿入及び追加、この両者は、共に・ーマ皇帝法 ーレスにとっても、これらすぺてが権威ある原典の意義をもっていたのである。 書を構成することになるのである。十四世紀、この法書を実務面に適用し、実用法学の方向を打ち出したコメンタト る多くのドイツ皇帝の勅法も、他の・ーマ及びビザンツに由来する諸法文と全く同様に、註釈を付されて権威ある法 ・ッサ付・ーマ法典が集大成されることになった。○&與に挿入された︾暮ぽ一旨8も、そして封建法書に含まれ 皇帝の法書についてのグロサトーレスの研究業績は、やがてアクルシウス>8畦匹臣によって整理され、ここにグ う。この封建法書の追加は後世に大きな影響を与えたと思われる。特に、ユスチニアヌスの法典を母体とするローマ ︵31︶ して付け加えられることになった。付加を行ったのは、オドフレドスによると、フゴリーヌス国qαq一ぎ墓であるとい 団8a旨巨がその中にドイツ皇帝の勅法を含むという理由によって、新勅法第十巻号9ヨ節8匡暮δ乞oぐ巴ポ置目と ︵30︶ 一方法学者の側でもやがて非常に意味深い処置がとられることになる。すなわち十三世紀前半、封建法書匡ぼ一 ︵29︶ の理論的継受という言葉が通常用いられているようである。 皇帝は、自らの勅法をユスチニアヌスの法書に付加する試みを行ったわけであるが、この現象を中心として・ーマ法 艘8には、・iマ法典の最も適当な章への挿入が命ぜられたが、これは実行されるに至っていない。このように、諸 ︵27︶ ︵路︶ セ 一橋大学研究年報 法学研究 6 三二八 の諸事情に基づいている。現皇帝の勅法についても、皇帝がイタリアの地で制定したものか、ランゴパルドに関係あ るものとしてパヴィアの法学者が収録した封建法書の形でのみ、︵ドイツ︶皇帝法を取り上げたに留っている。ドイ ツで制定された二つの勅法は、廃暮ぽ旨一9としての挿入をうたいながら、皇帝法書の[部を構成するに至らなかっ た。これは偶然なのだろうか。グ・サトーレスの対ドイツ意識ということも、将来研究されて然るべき問題であろう。 理論的継受という用語は、本論文の冒頭で指摘したように、一見明瞭なようで誤解を招く要素を多分にもっている。 例えばプラーニツの説明などはその代表的なものである。すなわち、﹁すでにオットー三世の時代に、ユスチニァヌ ︵32︶ スの法典がドイツ皇帝法と看倣されていた。ドイツの諸王は自らをローマ皇帝の承継者を以て任じ、係争条件におい てはローマ法を引合に出していた。フリードリッヒ一世、二世及びハインリッヒ七世は、皇帝法を︾暮冨旨δ器と してO&臼の中へ入れた。カール四世の立法には、多くの・ーマ法的表現や語法が用いられた。総じてこれらは、 極く僅かの実務上の結果しか伴わぬ理論的継受に留ったのである﹂と。この考え方の特色は、実務的継受なるものを 一応想定して、それ以外の問題、実際上は時代的に前にある・ーマ法の影響すべてを﹁理論的継受﹂として一括して いることであろう。それは実務上の効果という尺度しか持たないから、二つの概念は程度の差でしかないことになる。 ︵33︶ 理論的継受という用語には常にこうした危険が伴っているように思える。ミッタイスもまたその例外ではない。正し い発想を行うためには、まず理論と実際︵実務︶を明確に区別してかからねばならない。そして理論的継受というか らには、実務上は殆んど影響を与えなかったにも拘らず、理論上はローマ法を採用したという、法観念の存在のみが 4 第一に問題となるべき筈である。その前提はバルバ・ッサの揚合、フライジングの著作、皇帝頒歌として与えられて ◆ δ﹄ フリードリッヒ バルバ・ッサといわゆる﹁ローマ法の理論的継受﹂ 三二九 者によって始められ、法学者によって完結されている。こうした観点からも、グ・サトーレスの評価がなされねばな ある。この章の表題は、あたかもバルバ・ッサが主役であるかの印象を与えるが、実はこうした一連の動きは、法学 ︵35︶ の知識を与えることになり、結果として頻発する土地所有、相続の問題解決に、共通法を提示する役割も果したので も伴ったと推定されよう。更に指摘しなければならないことは、封建法書の封建法の存在は、・ーマ法学者に封建法 の自覚を形成するのに役立ち、特にドイツ人法学生にとって、ユスチニアヌスの法書を一層身近かなものにする効果 なく、ドイツ皇帝の法規をも含んだ形で提示することになるのである。この事実は、実務法曹達が、皇帝法曹として 五世紀以降の実務的継受に対して、単なる思想的前提ばかりではなく、皇帝法の総体を純・iマ法的なものとしてで のとして評価し得るのである。こうした積極的な処置は、かの理論の存在を具体的な形で証明するものであるが、十 ︵34︶ そして、法学者によって後年行われた封建法書の追加もまた、ドイツ皇帝の立場に立てば、全く同一の性質を持つも な表現にはや㌧不適当な現象であろう。いいかえれば、ドイツ皇帝法の・iマ皇帝の権威ある法書への付加でめる。 する。例の皇帝法をユスチニアヌスの法書に挿入せよとの命令がそれである。これは最早理論的継受というパッシヴ こうした消極的な面を前提としながら、バルバ・ッサの皇帝法に対する考え方は、一転して積極的なものへと転換 ったであろうがー。 極く自然に・ーマ皇帝法を受容することが出来たのである1当時にあっては勿論、継受とか受容とかの感覚はなか れたことになる。問題はまずここで一区切りされねばならない。伝統的支配を基礎としたバルバ・ソサの法律観は、 おり、一一六五年の﹁祖先たるローマ諸皇帝の法の尊重﹂という言葉によって、その・ーマ法の理論的継受が明言さ で 一橋大学研究年報 法学研究 6 三三〇 らないであろう。そしてその後の実際面での発展もまたコメンタトーレス、継受期ドイツの法学識者によって担われ てゆく。このような諸点を考慮に入れた上で、ドイッにおける・ーマ法の継受、すなわち、その司法の学問化の過程 における・iマ法の圧倒的な受容に対して、・ーマ理念の法的な側面での思想的形成物1・ーマ法の理論的継受ー ︵36︶ 1を評価せねばならない。十二世紀の・ーマ法に関する諸問題はクンケル≦■囚偉づ犀〇一がいうように、イタリアの問 題に留るかもしれない。しかし、それの副産物ともいうべき﹁学者達の特許状﹂に始る、新しい皇帝法の付加が、理 論的継受に重要な関連を有していたのである。かかる意味合いにおいて、コシャカーの﹁政治的・ーマ理念﹂に基づ く見解を再確認すぺきであると考えるものである。 へ37︶ 皇帝文書にみる・ーマ法文の引用は、皇帝の権威化の手段に尽きよう。特に十三世紀以降これはしきりに行われる が、これがその後の﹁実務上の採用﹂へ漸次移行することなく、約三世紀の後に﹁包括的継受﹂囲。N。讐一8首8目, 覧。釜なる現象がドイツに起ったのは、この間の政治情勢すなわち帝国権力の弱さのしからしむるところであろう。 皇帝法の付加は、・iマ法と固有法とが融合する契機にはならなかったのである。 ︵38︶ 上述のすべての点を考慮に入れて書くとすれば、最初に引用したミッタイスの記すところは次のようになるであろ う。﹁バルバロッサは、十一世紀に新らたに学問の対象となった学説類集を学ぶことによって法の権威とされた注釈 学者達を、自己の立法に協力させた。これは帝国に明瞭な利益をもたらしたが、今日残された法文の上では、・ーマ 法の影響はとるに足らないものである。彼等に報酬として与えられた﹁特許状﹂は、ローマ法大全旧勅法への挿入さ ・→. れた。これに徴ってフリードリソヒ一世および二世、ハインリッヒ七世は、自分達の法律を同じく挿入しようと試み ウ 畢 フリードリッセ バルバ・ッサといわゆる﹁・ーマ怯の理論的継受﹂ 三一一二 ヨ一訪一はロo曾該国■国βのβω昌oαざ江一〇般o訪コ目蟄二”oo旨oげ○咳卑ユoけげ信一Bp昌δ一口ωoユoけ一昌8鼠び一δひqびロoo<〇一β目二即⋮、、が との命令規定こ国8帥暮o目Φ8一Φ臨器∪Φ一8。。鼠ヨ窪9β8β畦帥ヨ巴蒔塁馨窃U8p琴8おゆ98β目窪εβα巴一9肪甲 に記されたげμ臣目器一謂霧はバヴィア法書を指すものとされているが、この議定書には、これをバヴィア法書に挿入せよ 国。諾3&<目。の旨&霧g一謂窃冨営窪器ω30一。ユo冨①8一。。。冨旨ヨωg≦聾鼠O頃Og聲劇Z殿﹂♪の■翠∼ω︶.ここ ︸︸⋮■:9けロ旨蟄巨ω一Φ嘘び畠8一Φ目巳8﹃旨のo昌訂昌鼠げ毬昌o馨時p節蓉8ユけ讐o⋮⋮8旨oげo声a仁の.、︵匿窪は9目,9 ︵6︶ 閣︸■⋮:旨冨目岳魯冥〇一①騎①ωgεぎロの㌧、︵冒○国U■国目2賊。轟ホ”囚雷匿ρ讐緯ひρω﹄o。ー︾,8︶ ︵5︶ HHH乙冒O国Oo器¢Hい2悌B︶ ︸︸崔8げ陣o一〇鴨o目一δ需目器く信β良く一巳蜜8冥8一〇旦く毘#畦魯o象9目塁︸⋮,:..︵08睡9ド8qo旨ω鼻一〇〇#o巳ω ︵4︶ ︸︻﹃帥βω①︸ 卑,鱒,○こ の。 ON, ︾︸ Q◎N︶ で、ごHP言&oδお巴山o旨9の闇偉け℃80ポヨ帥﹂江σロρ℃円O信け℃8器磐一臼8お∬8頒のヨ夢8おヨロ9、、︵冒Q国U。OH︸乞戸いひ刈” 誉8冨づではなく、 ゆoo窪ヨ鴛げΦ昌の意味と解すぺきであるという。例えばオットー一世は或る修道院設立に関する文書 ︵3︶ <騨m囚醤悶郵鋭勲ρ”¢ま中すなわち、この時代の文書には、一臼鼠88との表示があるが、こ江はOo器9 ︵2︶ 世良晃志郎﹁封建社会の法思想﹂法哲学講座第二巻所収を参照せよ。 田’囚β仁ωρ算。聾○この■一〇〇 ︵−︶ かくして筆者にとって、ドイツを揚とする法学識者の動きと﹁皇帝法﹂の機能とが次稿の課題となろう。 理念のしからしむるところであり、口iマ皇帝法思想の形骸として残されている﹂。 ている。これらの挿入は、皇帝と註釈学者に共通の思想、すなわち・ーマの諸皇帝をドイツ皇帝の先任者とみる帝国 で 一橋大学研究年報 法学研究 6 ある。︵く閃一。ωOげ巳蟄β召噂騨の■○■︸¢Nooρ︾●9︶ こ信け一くO噌ω即一一 〇〇β<①一一げ仁 口Oooけ↓O↓口一づ 隣αO出μ目 Hけ餌にOO﹃==一 の①師①﹃Oヨロμ;: ω。一ぎ9ρ舞。の弩。ぼ8昌9霧くo一器R器一囲①ω昌o鋒o旨ヨ胃器8器o旨ヨ 一二﹁二﹁一 ω 、げ信一口の巨○山一 のO口けO昌け一暫一昌 α一醗β凶 ぐ 一 ヨβ 、 ○目巳麟 弓 一 ﹃ 四 区一① ω9け賃①吋G’づ[戸 切ロヨコP”や信OけO δ ① oo昌隣o 頃o昌ユo一H目乙 の霞9塁¢督2惨一8これがヴュルツブルグで制定された事情を、エックハルドス年代記は次のように記しているい。 一一〇三年、一一〇四年、一一〇八年の各ラント平和令を指すと考えられている。 ロタール三世の一二二六年のレーン法は、この点で大きな意味を持つと考えられよう。 −︾H民①婁β&ぎω鼠葺象くぎ器2聾ビ暴冨ω一罐窃冒ω8︿一αq。㎏①目き§9も諄寡甲:へ.︵竃○国9轟◆押 乞け峯O︶ 寧 ︵U︶ ◆ ︵10︶ 三β巳巨一8巳畦暮δ冨8昌ぼヨ辞β目塁虻..︵国犀犀9跨&○ぼ〇三8野ピQ國の¢<どω■謡馨︶。ここにいう古き勅法とは、 ︵9︶ §︶。、・・ッタイス・世良訳﹁ドイツ法制史概説﹂二四八頁以下参照。 。け℃ユヨ暮①ω8ぼ島8讐一五蓉①即巨胃。匡o露。。も。同三塞g呂一ρ舞ヨ旨巳けい.、︵b貰竃oαR巷江髭ヤ鼠Φ属ρ︶拐け薗H︸寄■ ︵8︶ 一一〇三年のマインツのラント平和令が最初のものであるが、そこには次のような文言を見出す。︸㍉ま臣諾讐巴β壁≦け ︵7︶ M︿H卑μωOい年﹃国■○己 ω、NO ど潮oo軌を指 し て い る と い う 。 鉾P︸¢遷︶。更にハインリッヒ三世の聖職者の宜誓に関する法規︵属○目∪・国・目訓2い一旨︶での一巽 は明らかに ○。 7nO国○○屋叶どZい緯︶下線の部分については、Zoく・誌斜ρ峯が考慮されているとクラウぜは考えている ︵囚↓暫口のO一曽。 善零置霧①江&o。鼠ヨづo弩o一ヨ需旨一二畦。鋒象ヨ5昇⋮:、.︵9塁蜂暮δ38巳夷計ま。一駐 一 こ敦げ器。冥a9窃団畦Φ呂器。象・蔚言℃窪巴一げ霧b①§2。&。。。ω一<Φ一。讐げ臣彗9旨5。8ωqg膏8Φ馨&。p ’ 尊一 フリードリッヒ バルバ・ッサといわゆる﹁ローマ法の理論的継受﹂ 三三三 いう。これはイタリアの影響と考えられる。一一七七年には、常任の宮廷書記の官職が成立している。︵<箪↓崖。。o詳勲勢 ︵17︶ バルバロッサの時代から、公証人文書の数が増加し、ハインリソヒ六世、フリードリ乳ヒニ世は盛んにこれを活用したと 切αH”切旨偉房一〇〇ひρω■9Nい︶ ︵16︶ この点はオットーシュトソベ以来特に強調されて来た。︵<αq一・ρ幹oげげρ○冨o匡。耳o山R号葺零ぽβ閑9犀呂β包一①P ○‘ψ呂地ぐ嘘、ピO国08無戸Zけ頴O︾じ、中世後半を貫く皇帝観となるという︵α器ωΦ一ぎ堕¢賂︶。 m巳9の.、︵U﹂讐ρ3︶といったローマ法に由来する絶対的皇帝権力を表示する用語がしばしぱ用いられ︵囚β臣ρ勲鋭 ︵15︶ 後年フリードリッヒニ世の時代、皇帝文書には、ご一露節aヨ緯餌嘗8旨δ..︵20く﹂80るト︶或はい勺詠β8宕8笹げ匿 ︵14︶ 二ー四参照。 ︵ ①℃一零o甘牢黄①霧旨Oぼ〇三8p鼠三〇巴δヌダ頃○出ヨo一ω叶8一。声¢一”囚冨霧ρ勲簿’ρω■総︾﹂8︶ ︵13︶も。㍑8㎎①ω法§け。8昌ω試昌江ω唇旨一①鴨の五三ロ。①図弩巨弱g話菖ωg良一。聡σ匿ぎ昌8げ蓄暮舞.、︵○け8三ω とを付け加えておく。︵<㎎一・国雷臣ρ算卑○‘ψ出・︾・一8・︶ ていたのである。唯、このバルバロッサの・ンカリア国会での演説は、ラーエヴィンによるフィクションと恥う説があるこ て矛盾するものとは思われない。失われた帝国法も事実であるし、またレガーリェン政策による別箇の法規の制定も予定し 質o<置Φ暮置潟8鴎oぽp訂馨三∈昌ぎ跨一■︶とも述べている。この二つの文言は、イタリア政策という次元において、決し らない。﹂︵おαq8旨讐一霞2冒2一評の倉&程器3言3暮宕ω§号窪簿鼠富婁.筈首需旨一ζΦヨ&。<昏呂ロ・ 法の多くが、その後尊重されずに忘れ去られている。そこで皇帝の力と臣民の配慮によって、これらが再ぴ復活されねぱな Φ貫器αoも○誹oげ詳のぼ象o鷺Φ曽窪昌α仁目首器幹.、︵ヵゆぽ≦一PH<。轟︶更にこの文言の前に、﹁かつては有効であった帝国 ︵12︶こ含目一霧8且ぼβ臼暮一ω鷲。く箒&β日。ω“2旦9目一①αQ窃訂け一ε薯ぼ①貸⇔9窪二一げΦ凄ヨ一&巨ユ自。 マ 一橋大学研究年報 法学研究 6 三三四 〇‘ω●ご︶ こU8ω毒“ρ巳げ島8。。貸o葺目8の巨o]B詐〇二昌届ユロβ一①頒9舞目一器一ヨ罵βε毎目9島臣ぎ昌農胃器αΦ8器o益旨 ( 18 ご28蒔一εH冒8goωωo吋β琶ロoωヰgロ日象くo甘ヨ 一ヨ需冨ε﹃仁ヨ”ヨ獅碗巳○○ロo。$旨け一巳く答oロ8け9旨5氏a跨巳〇一 一盆胤■︶ 到るまでは極めて僅かであることを証明したクラウゼ前掲書の果した役割を認めねばならない。︵<笹,国轟霧ρ鋭鋳○‘¢ ︵19︶ この意味で、当時の皇帝法の内容についてそれが・ーマ法をどの程度含むかについて実証的に研究し、それは十五世紀に 深い。 る書面にあるバルバ・ッサの言葉であるが・皇帝法と古来の慣習の共存を示しており・彼の法律観を物語るものとして興味 9廊貸ロ日ぎ緯8暑旨、.︵竃O国○○霧ρ劇2けまざ国題げ〇三PHHHるO︶これは一︸五八年初頭に、ドイッの司教達に対す ) ︵25︶ ︵ピの国○○冨けH闇2やω一〇〇伽8︶闇く鴨’ω葺導鳳・2け“ミω■ 亨 ヤ .◆ 一旨終げ霧8暴葺葺一80。。&9く一蜜δ言算”誉q88詠げ鶴一①磐β暮83↓Φ馨o鶴。。ぎ磯巳一ω一Φ嘘げ富。。仁げ8昌鴨ロo早 ○αぼ巴扇ぎ○&一。oβ&︾ロけダO島鶏8留Roω,Φ8一〇ω’ご㌔o誓$ρ奉昌山o<oaけ一旨需冨8同男ユ自〇二〇霧冒巳oJ 冒Q属︵︶Q昌ω斤■H劇2いoo即冒Φ頃冨αqoo。目博ψN& ︵餌︶ ︵22 ︶ 前掲、堀込論 文 参 照 。 三註42後半巻照。 ︵ ︵23︶ ご臼目一〇αQぎ臣質器38ωωo登目昌oの貫oH仁日言も①擁暮o益日9ρ以Φ8σq瞠ヨごo。の凶ヨ器一馨Φ誘①践oけ需もΦ昌o一ρ冨ωR<跨一、、. ︵21︶ く彗Φ3馨①の■..︵冒○国09蜂,ど2けBN︶︸︿αq一ーのg目葺寄。8U曾 く毘o旨言宣旦昂8g囚帥厩o凱gいμαo≦o一く霧江讐一ω冒冨話暮窃g旨o冨ω一①鴨ω8控導け帥ヨρ轟琶&5臣o冨o巳や ( 20 ) 華 フリードリッヒ バルバ・ッサといわゆる﹁ロ!マ法の理論的継受﹂ 三三五 ︵乱︶ こUO日ぎ臣寓ロの〇一ぎ塁宕曾8壁目8一一費菖09ヨ宕ω巳酔一陣げ葺目隔窪鼠一①β90彗諾。。08ω菖9菖8窃男8Φユo一”暮一ー ている、︵法学論叢六二ー三巻︶。 な形では伝わっていない︹外典の一つの例は二註︵3︶参照︺。封建法書は、すでに京大法史研究会によって邦訳がなされ に外典ともいうぺき国図零薯”撃算窃が付属するが、その収録範囲は写本によって非常な差異を示すといわれており、完全 HH・ミ、ロンカリアの三つ法規は口ふい∼訟、フリードリッヒニ世の一二二〇年の勅法は、独立した形でその後にある。更 ーン法は月旨、ハインリッヒ三世のレーン法︵ピO頃08異2け鴇︶はHH・鴇、パルバ・ッサの一一五二年の平和令は をはじめとして、特に第二部︵十三世紀初頭成立︶には多くの皇帝立法が収録されている。ロタール三世の一一三六年のレ 9屋江昌瓜oロ霧3ρα巴ΦUo旨ぼ一ぎ跨鷺出H目需蜜8ユの︵“目○国9霧ρH”客”ホ轟︶︵野旨鴇︶ が収録されているの 源を収録するに至ったものである。二部に分かれ、第一部は大体十二世紀中頃に作られたと考えられているが、H”一〇∼繋 訂器浮一置器αq巳津亀一9”竃O閏○○塁け・劇2㎏・畠︶を採用したことから、レーン法の研究に転じ、イタリアのレーン法の法 ︵30︶ この法書は、パヴィアの法学者が、パヴィア法書及ぴ・ムバルダ︵9目募a魯︶に、一〇三七年のレーン法︵国象oεヨ留 ︵29︶ 望ぼ鑑①学犀言駒ぎ歯蟄﹄,9ω■。。ひu■昌閲一き一貫u①一詩。冨閑。島δ薦①の。匡。耳ρoβ国一。凱ρの﹂鍔 ︵28︶ のo﹃&α醇−囚ゆ旨頃訂霞”鉾鋭Oこ¢ooひ9︾。ω 目ゆ昌瓢毅bロ幹..”呂○国9のΦωHH”ψ軌脇胤この帥く蒔旨どH目︸の■訟ρ︾’い ︵27︶ ご国け冨”o一鼠ρにo昌8畦oωo吋o巨5江のoo器ユ9江o昌o目冒8特宕おごユの誰び自oげ一5壁βぼ一β︿oぎ目oβの注ωo艮9 ︵26︶ 三註︵68︶参 照 。 ω●旨一”︾●び︶ き島葺呂ω画二$8。。↓盲孟88虜ム毒8衰。ロ忠ロ暮ぎψり妥92。三彗&一轟聾一舞ヨ,.、︵留≦。q昌一日︸ 》 一橋大学研究年報.法学研究 69 、 三三六 ご旦g甘巳。塁g巴蒼器9漢聾H筥需韓。旨”g<。8g賊自①。目蟄。。一一鋒9.、︵2出邑島ぎ○&8β践き民 Ω奮艶、曾器R拐①3一Φω二留く蒔PざH月¢器ど︾げ︶二の記事は、一二二〇年のフリードリッヒニ世の勅法挿入と関連 して書かれている︹註︵25︶︺。このことからも判るポうに、フゴリーヌスは十三世紀前半に活躍した、したがってアゾ︾8 の直後の学者ということが出来る。 ︵32︶h密窪一貫Φげ①巳鋭見﹄ , ・ ﹃ ﹄二二い, ・ − ︵33︶:上記二二七頁以下参照ρ, 噂 ︵34︶ こうした考え方に近いのは、シュレーダーの叙述である。誓ぼ疲雪−囚萄一おぎ茜噂o瓢昌自やり・,・,\ 響 ﹁ く ︵35︶ コメンタトーレスはそのコンシリアで相当多くの一900一一鉾δの引用を行っている揚合がある。例えば切貧8一拐費留, 首団⑦韓p。蹄声8琶賦ロヨ9図図図ヌ︵H畦δ8昌菩毘8①昼ω馨ど目Uu図図図く日ー目uu捌図蟹︼ε ︵36︶≦国ロ爵9U鴉≦窃窪αR国①器旨8山。ω閑α巨ω9魯肉。畠舅国。置。一富茜R冒ぼ9昌8ど︵一8Ny.9 ︵37︶ 囚89躊9艶、鉛ρ博ω乙ooi呂︸本論文二二六頁参照。 ー 一 ︽ ◆ ︵38︶ 本論文二二七頁。 亨