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明治七年の旅

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明治七年の旅
25 明治七年の旅
明治七年の旅
表紙
森川 昭
本文冒頭
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明治七年の旅 26
〔解説〕
前号の「明治六年の旅」に続き、明治七年の旅日記を翻刻紹介する。原本はこれも架蔵の横本一冊。九・
五×一・九○糎。本文は、旅の記九一丁、買い物の記録など四丁、それに表紙が本文と同質紙で一丁。裏
明治五年
七
表紙は破損欠失している
甲
表紙に、
道 中 日 記
戌 四月吉日
「明治五年」は明らかに誤りである。上端右左に「甲戌」と明治七年のエトがあり、
本文中にも何度か「明
治七年」とある。だから、あわてて「五」の右に「七」と小字を書き加えた。
旅人一行は六人である。六月六日条に、
此処より道行(同行者)四人泉州堺迄十一り夜船乗る。我と弥平陸にて通る。
舟行四人、陸行二人、計六人。うち一人の名は「弥平」とわかる。これは筆者ではない。もう一箇所、八
月十一日古峯ケ原条、
六人にて落し物壱両、祈祷料壱歩上る。
筆者はどこの誰か。本文冒頭に、
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三瀬え 四り八丁
とある。そこから鶴岡と見当をつけた。そこで『近世前期羽州幕領支配の研究』の大著があり、鶴岡市史
編纂委員でもあられる歴史学者、本間勝喜氏に御教示を願ったところ、再度にわたって懇切なお手紙をい
ただいた。第一信では、筆者が鶴岡の人であることに賛成された上で、東京で接触した「国の人」について、
明治三十一年の「大泉藩(庄内藩が戊辰戦争後大泉藩になる)元高調」から「元高拾石二人扶持 最上町
遠藤平次兵衛」、「元高七石二人扶持 金注連 佐藤多吉」を検出され、また「金禄短冊」に佐藤斉なる
者の父「佐藤吉兵衛」を発見された。いずれも旧藩時代の「徒」とか「足軽」とかの下級藩士であろうと
いう。苗字の記載のない者については、同行者の「弥平」は「元高七石二人扶持 高畑 佐藤弥平」また
は「元扶持五人持 六軒小路 小倉弥平」か。「熊太郎」は「庄内藩士名薄(稿)
」に見える「桑島熊太郎」
かとされた。
第二信では、旅日記の筆者の住所について、鶴岡~三瀬の距離は公式には四里三十一丁なので旅日記の
「四里八丁」と一致しない。旧幕時代以来繁栄した鶴岡の外港加茂なら、海沿いに三瀬までほぼ四里であ
る。ここではないか。旅日記の筆者については、前記下級藩士に「弥平」を除いて「様」を付しているこ
と、旅中の豪遊ぶりから、旧幕時代「御組外」とか「納方」など「実入り」の多い役目に就いていた下級
藩士か、豪農・豪商ではないかとされた。私は、本間氏の御教示に敬意を表しつつ、加茂住の富商と一応
考えておきたい。
まず、旅程一覧を示す。
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16
村上
滞留 同
中条 同
新発田 二朱三百文
新津 二朱百文 田上 一貫文
三条 二朱三百文
新潟 二朱四百文
逗留
岩室 二朱百文 出雲崎 二朱
柏崎 二朱
三瀬
宿泊日 宿泊地 宿泊料 一貫五百文
17
4・
鼠ケ関 二朱三百文
18
中村 二朱
記載なし
19
20
28 27
特記事項
戊辰戦争跡。旧家で書画類一見。
城櫓大破。芭蕉句碑。明治七。県社。
芭蕉句碑。
越後七不思議。幸清水。
芭蕉句碑。県社。
順徳院歌額。新潟県。
異人館。招魂場。西洋造り病院。郷社。芭蕉碑三つ。
戊辰戦争跡。
戊辰戦争跡。戸長の語。
県庁で博覧会。戊辰戦争跡。柏崎県。
義経伝説。三上則義歌碑。
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5・
2
1
二朱
木曽海道へ。高田大火。
関山 二朱
戸隠村 三朱酒肴代共 奥の院女人禁制解禁。
長野県。芭蕉句碑。川中島古戦場。
芝居。愛知県。
城荒廃。竹越屋敷病院に。成瀬屋敷県庁に。東本願寺で博覧会。芸子
岐阜県・名古屋県境。
西行・芭蕉歌句碑。伊勢道に入る。
芭蕉句碑二つ。
芭蕉句等碑。
名古屋県。芭蕉等句碑。
芭蕉句碑。
松本城内博覧会。城破壊。櫓で西洋織物。芝居、
軽業、ビードロ、開化。
芭蕉句碑。
招魂場。芭蕉以下句歌碑。
野尻 一貫百文 善光寺 記載なし 中津川 二朱
高山 一貫二百文
名古屋 記載なし
逗留 同
松代 二朱百文 麻績 一貫二百文
浅間 二朱
元山 記載なし 8
福島 二朱
9
柿崎 二朱
3
高田
4
5
10
6
13 12 11
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元は合の宿。女郎屋多し。伊勢道へ入る。
津嶋海道廻り。
芝居・手品見物。
15
追分 二朱
逗留 同
16
松坂の○持ち三井。新茶屋から人力車。
朝熊嶽・二見ケ浦等見物。
お玉廃絶。礒部海道。江戸某句碑。
内外宮等参詣見物。内宮で太神楽御神楽。古市町女郎屋多し。お杉・
太神楽。豪華食事。
津 記載なし 礒部
同
六軒より長谷越道に入る。
京都へ荷物送る。
上野城で博覧会。城は結構。
山田
櫛田 二朱
鍵屋の辻。今明治七年。近年大和百姓騒動。笠置山。
三朱
見物。芭蕉句碑。
垣内 二朱
見物。
竜田 二朱三百文
25 24 23
同
三輪 記載なし 食傷逗留。見物。
梅川・忠兵衛の茶屋・墓。
物。
当麻 二朱三百十二文 見
奈良 二朱二百文
上野 二朱
19
山田 一夜二歩 佐屋 二朱
17
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6・
2
1
根來寺荒廃。芭蕉句碑。
庄内藩主供養。芭蕉句碑。「わすれても」歌碑。
吉野見物。芭蕉句碑。
庄内宿坊 記載なし
3
粉川寺 二朱二百文
滝の畑 二朱二百文
4
五条
二朱三百十二文 刈
萱堂。明治四年赤穂藩親の仇討。御一新後奥の院女人禁制解禁。
芭蕉句碑。堺事件跡。天下茶屋仇討跡。
深日~堺四人舟行二人陸行。
樽井 一貫八百文
見物。
教部省。造幣寮。異人屋敷。開閉式橋。心斎橋鉄欄干。
見物。
道頓堀角芝居見物。
同
大坂 二朱三百文
同
道頓堀芝居見物。
同
同
買い物。荷造り。
西洋造り鎮台屋敷。乗船胴の間五畳借切。十八日朝出港、備前田之口
参詣。丸亀へ。
明治七戌年の語。
松島川口より蒸気船。波高く神戸寄港。明け六つ出港。夜九つ多度津着。
船中
丸亀
金刀比羅 二朱半 多度津 朝食代一朱
同
7
和歌山 三朱
宇野 二朱
5
8
10
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12 11
15 14 13
17 16
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22
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20
19
18
二朱百文
片上
赤穂 二朱
姫路 記載なし 逗留 別府
一貫八百文 兵庫 二朱半
住吉 二朱
八つ過着。
国弊社吉備津宮。曾我物語。
姫路城御殿県庁になる。
日出立。忠尹歌碑。
千尋・芭蕉句碑。舞子浜に庄内佐藤与之助造の御台場。敦盛蕎麦の口
上。源平合戦跡。
北風庄右衛門の家。魯人エンノルテンステツ作の相生橋。その下蒸気
車海道。交易場。異人館多数。官弊大社楠公社。芭蕉句碑。
芭蕉句碑。伊丹海道へ。
松屋源助泊。
買い物。道頓堀仲の芝居見物。
荷物送る。
大坂 二朱三百文
同
伏見戦争跡。頼政自害跡歌碑。
大坂出立。堂嶋相場所一見。陸路。雄山八幡宮ご一新後仏塔廃止。
同
麓八幡 二朱
24
伽山 記載なし 23
岡山 二朱
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7・
同
同
2
1
祇園祭り。丸山温泉西洋仕掛け道具でわかす。
見物。西本願寺座敷で博覧会。四条河原池吉で酒盛り。祇園祭り宵山。
見物。髙野川畔相撲やで昼食。
見物。知恩院で酒井家の御霊屋を拝す。瓢亭で昼食。
官弊大社伏見稲荷社。朱塗り鳥居三百四十七。
同
3
瀬戸物買う。俄雨に「熊野」の故事を思う。祇園クリメシヲタフク茶
同
4
伏見 二朱三百文
同
5
同
同
同
見物。本能寺近年出火御仮寺。
見物。金閣寺当年出火普請中。
芝居見物。
見物。嶋原角徳で大酒盛り。
芝居見物。
同
荷造り。宿勘定。
同
麩屋町柊屋で宿元の立振舞。八つ過京都出発。
祇園祭り。
同
同
同
屋で一盃。
休足。
見物。
同
6
7
京都
8
11 10
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豊川 二朱
門谷 一貫百文 石打 二朱 見付 十五銭 嶋田 二朱二百文
静岡 記載なし
比叡山から坂本へ。三井寺奥の院女人禁制解禁。滋賀県庁。紫金句碑。
お半・長右衛門と同じ宿に泊る。
御油から鳳来寺道へ。
稲荷堂御一新後美を尽くす。芭蕉句碑。
東照大権現大痛み。秋葉山へ難所続き。
秋葉山仏体可睡斎へ移る。同行者に体調不良者あり池田まで天竜川を
舟行十里。熊野御前旧跡。
可睡斎へ廻り道。大井川舟渡し。
江戸相撲見物のため滞留のところ雨天中止。
安倍川橋になる。
江尻 記載なし 相撲見物田舎廻りに珍しき大相撲。興津川板橋。薩埵峠海辺平地にな
る。倉沢さざえの壺焼。蒲原から原へ直通路になる。柏原鰻。
(江尻泊か) 岡崎 二朱
21
22
宿から湖水を眺望酒盛り。野路の玉川。
富田の焼蛤風味よ。し
八瀬 二朱二百文
海上七里。芭蕉・知足連句碑。
17
石山 二朱四百文
石部 二朱 17
24 23
亀山 二朱二百文
桒名 二朱二百文
宮
二朱に百文
18
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8・
5
4
3
2
1
同郷の人々と話す。
丸の内御屋敷(庄内藩のか)見物。
原 記載なし
三嶋
二朱二百文
同
6
金杉町で芝居見物。
イギリス女教師等と同宿。箱根神社別当金剛王院大破。
7
同
同
8
湯本 記載なし 宿は玉庭の旅人と同じ福住九蔵。大礒鴫立沢。
買い物。同郷の人々と面談酒宴。
見物。
義商天野屋利兵衛石塔。尾張町八丁西洋造り。
南京料理屋。イギリスの寺。芝居近年の戦争物。陸蒸気上等で品川へ。
三井の伊呂波土蔵。異人町。天主堂。日善堂。異人墓所。異人屋敷。
の切り通しから金沢へ。滝頭村馬車に異人多数。
な堂塔破壊。弁才天を江嶋明神と改名。鶴岡八幡宮仏堂廃仏。朝比奈
案内賃五銭五厘。さざいの壺焼き美味。芭蕉句碑。御一新後廃仏立派
同
同
東京 記載なし
同
横浜 記載なし 江の島 一歩二朱 箱根 二朱二百文
9
10
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12 11
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幸手 二朱二百文
16
同
15
同
14
同
13
栗橋関所跡。
東京出立。
寒暖計。多吉様と昼酒盛り。荷造り。
上野本堂焼け跡。吉原廓第一の西洋造り金瓶楼で酒盛り。
九段坂招魂社。
見物。
同
17
日光見物。御宝物博覧会。官弊中社。二荒山国幣中社。八つ時出立。
小山 二朱二百文
宇都宮 二朱二百文 壬辰戦争跡。古峯ケ原道入る。
古峯ケ原 六人で一両 祈祷料一歩。険路を日光へ。芭蕉句碑。
鉢石 記載なし 今市 記載なし
遊行の柳西行歌。芭蕉句碑。橋銭二厘五毛。
大田原 二朱二百文
芦野 記載なし 福嶋 二朱二百文
白石 二朱百文 同郷の人と思しき片倉小十郎殿神官になる。
県庁。橋賃二厘五毛。
旧盆十五日終夜大騒ぎ。舟賃二厘五毛。高倉に戊辰戦争跡。
須賀川 記載なし 27 26 25
本宮 二朱
越谷 二朱二百文
18
19
28
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21 20
24 23 22
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9・
2
1
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二朱三百文
原田甲斐館跡。実方の碑。仙台から塩釜海道へ。原の町湯豆腐。比丘
尼坂甘酒。
県社塩竃神社。松嶋まで舟一艘借り切り。瑞巌寺見料一銭。
戊辰戦争跡。
舟賃二厘。
松山手前に忠臣伊達安芸知行所。舟渡し賃一厘五毛。
古川 二朱
二朱二百文
合海
瀬見 十三銭
手向 二朱
記とほぼ同じ丁数でありながら、四百字詰め原稿用紙にすると、彼の約一二○枚に対しこれは約一九○枚
この旅日記でまず驚くのは、矢立の筆では限界と思われる細字で叮嚀に書かれていることである。私は、
一見して毎年確定申告をお願いしている税理士I氏の筆跡を連想させられた。前年の玉庭人の旅人の旅日
コースは、東海道・中山道の往復が逆になっている以外は、前年の玉庭人の旅と金毘羅を西限としてお
よそ同一である。そして、それは、東国の人たちが「伊勢参り」をする一般のコースであった。
*特記事項は当時の時代の動き、筆者の特異性を主とし、名所旧跡は本文に任せて省いた。
山形県・酒田県。戊辰戦争跡。
鳴子 二朱
高城 記載なし 槻木 二朱百文 3
塩釜
4
5
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で一・五倍以上になる。記述には数字が多く用いられる。あのびっしりと並んだ伏見稲荷の鳥居は、「奥の
院壱丁程の間に朱塗の鳥井合て三百四十七あり」。いちいち数えたのであろうか。
尾張は「六十一万九千五百
石」
、郡山は「十五万千弐百八十石」、この分だと「○升×合△勺」までゆくかも知れない。名古屋東本願
寺は「畳数八百七拾五枚敷」、同寺の芸子芝居の出演者は「三味線五人、唄五人、太鼓三人、鼓三人、踊
二十六人、〆四拾弐人」である。建物の大きさも「拝殿十間に三間半」の如く記され、善光寺にいたって
は舗石幅・長さ、二王門の高さ・桁行・梁間、山門の高さ・桁行・梁間、本堂の高さ・表と奥行・柱数こ
とごとく数字で埋め尽くされている。伊賀越仇討ちは「今明治七年迄二百四拾壱年に成る」
、弘法大師御
降誕は「明治七戌年迄一千百壱年になる」、御入定は「明治七戌年、一千四拾壱年」である。このような
数字への執着、性癖は、最初に筆者が旧藩時代の下級財務官僚乃至出入りの商人かという推定につながる
ように思われる。
玉庭の旅人と同じく、戊辰戦争の跡を多く書きとめている。江戸、宇都宮、鳥羽伏見を除けば、越後戦争、
庄内戦争に集中している。「官軍」の墓碑・招魂場を多く淡々と記し、庄内藩関係者は清川口のただ一箇所。
前記本間勝喜氏の第一信によれば、
「忠臣打死四士之墓」として名前のある加賀山林蔵、白井大三郎、中島専大夫、記太(紀太)小助は
いずれも、庄内藩の上級家臣である御家中(知行取)で、清川口での官軍との戦いで戦死した者です。
「勇者打死四人之墓」の四人も同様かと思われます。
という。
「忠臣」とか「勇者」とか冠したところに、「賊軍」の汚名を着た庄内人のプライドがかいま見え
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る。庄内・越後国境の、
鼠喰岩有。是戦争の折此石楯に取官軍を喰止候よし。
と庄内軍の善戦ぶりを讃えている。
総じて、郷土意識が強く庄内藩にかかわることは細大漏らさず書きとめている。右の鼠ケ関・清川口の
ほかに、高野山では「庄内宿坊」に泊まり旧藩主を供養し、四両余を献じている。舞子浜に「庄内川北佐
藤与之助築立たる御台場」を見、京都ではまっ先に知恩院の「先求院酒井家の菩提寺御霊や」を拝し、東
京では丸の内の庄内藩の屋敷を見物、同郷の誰彼と交流している。白石では同郷と思しき片倉小十郎が葛
田神社の神官になっていると記す。
激動期の中で、村上城、松本城、名古屋城など、各地の城が大破荒廃している。明治の文化大革命とい
うべき廃仏毀釈もすさまじい。根來寺は「甚荒果申候」、雄山八幡宮は宮・若宮は立派だが「此外阿弥陀
堂、薬師堂、二重塔杯、御一新後仏塔の分御廃し相成候よし」であり、秋葉山神社では火防除の御札は出
るようになっていたが「其外仏体色々有之御山候得共、昨年袋井近在可睡斎え御引移り」
、箱根神社の「別
当金剛王院。是は無住相成大破相成候」、江の島では「御一新後拝仏(廃仏)に相成候に付、立派なる堂
塔こはし候よし。依て弁斎天(弁財天)を江嶋明神と御改名あり」であり、鶴ケ岡八幡宮では「御宮造り
結構至極也。其外仏堂の分廃仏相成よし」といったぐあいである。
反対に、神道は明治四年に社格制が新定され、国家神道への道を歩き始める。この旅日記にも、国幣
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明治七年の旅 40
社、官弊大社、官弊中社、県社、郷社などが登場している。豊川稲荷などは「稲荷堂、御一新後叱枳尼天
( 枳尼天)堂、唐銅屋根、繰物美を尽せり」と時代の流れにのっている。
「御一新」、「開化」の語はもちろん明治の新風物も数多く登場する。
異人館、異人屋敷、異人墓所、交易場、西洋造り病院、蒸気船、西洋造り鎮台屋敷、教部省、造幣寮、
開閉式橋、鉄の欄干、西洋仕掛けの温泉、西洋織物、県・県庁・戸長などの語、博覧会、女人禁制の
解禁(三井寺、高野山、戸隠)、人力車、蒸気車、尾張町八丁西洋造り。ビードロ。
箱根ではイギリス人女教師一行と同宿して「教教」(説教か)を聞いている。宣教師らしい。今の箱根で
はない。当時の写真を見ると、道の両側に藁屋根の家の建ち並んだ一寒村に過ぎない。そんな所まで女性
の身で布教のために入りこんでいる。その宗教的情熱には驚嘆のほかない。
「博覧会」というのも文明開化の新語らしい。いま云う一種の町興し、村興しのイベントであろうか。
道中五箇所に見られる。柏崎県庁、松本、名古屋東本願寺、京徒西本願寺、日光である。中でも松本・名
古屋東本願寺のは盛大である。名古屋東本願寺のはその一端芸子芝居につき前述したが、松本のは更にす
ごい。とり壊された城内と旧御家中屋敷を会場に、男女混体像、泉岳寺の義士遺品の数々、天主櫓で西洋
織物、泉水に舟宿、茶屋、即席料理屋、ここで昼食、芝居、軽業、ビイドロ、煮売屋、「誠に開化いたし
たる事に御座候」である。
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41 明治七年の旅
通貨は明治四年に新貨条例が制定されている。昨年玉庭の旅人は旧貨で一貫した。鶴岡の旅人も旧貨を
主としているが、宿料は二回、その他「橋銭一銭五厘」などとあり、「毛」まで使われている。暦はもち
ろん新暦、
「府中」は「静岡」に、
「江戸」は「東京」になっている。時代は確実に動いている。ちなみに、
宿料はさほど上がっていない。幕末・維新の混乱期の物価の高騰が一段落したということであろうか。
当時の人のご多分にもれず、鶴岡の旅人たちも芝居好き、それも「超」のつく方らしい。鼠ヶ関・善光
寺と松本に初めて「芝居」の文字が見え、名古屋では芸子芝居の詳細を記し、大坂では二日連続、京都で
もまる二日、いずれも演目、役者、その役者の格、持ち役まで書きとめている。横浜で観た芝居は幕末の
動乱から伏見戦争までのキワもの。東京では金杉町で、九代目団十郎の芝居。
芝居の遺跡もかならず書きとめる。鍵屋の辻。梅川・忠兵衛の遊び茶屋、千本桜のすしや、脊山・妹山、
苅 道心の玉屋、白太夫の社、合邦ケ辻、お半・長右衛門が結ばれる石部の宿出刃屋には投宿している。
芝居以外の文芸への関心も高く、各地の句碑・歌碑の類も余さず書きとめ、姥捨山のごときは八人の句
歌碑を記している。島崎藤村の『夜明け前』の初めのところで、芭蕉句碑「送られつ送りつ果は木曽の穐」
について、金兵衛が「禾へんが崩して書いてあって……どうもこれでは木曽の蠅としか読めない」という
所がある。私も現物を見たことがあるが、同感であった。わが鶴岡の旅人もみごとに「蠅」と読んでくれ
ている。
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明治七年の旅 42
四月十六日条には「板居沢村逸原と云旧家に立寄、珍ら敷書画類一見、酒肴出馳走になる」とあるから、
書画に趣味のある人らしい。五月五日と五月十八日条に絵を描いているが、後者の阿漕塚の絵はなかなか
うまい。
京都清水で俄雨にあうと謡曲「熊野」の故事を思い出している。敦盛墓前のそば屋の長口上をみごとに
書きとめている。好奇心も旺盛なのだ。
さて、本書の圧巻は何といっても、豪快なお金の使いっぷりである。伊勢では太々神楽、神楽料、諸掛
かり等〆て約三十六両、六人ワリカンでも一人ほぼ六両。丸亀からの船は、乗相一人一朱のところ、一両
一歩で胴の間五畳借り切り。大坂・京都ではそれぞれ二日芝居見物。京都にはあしかけ十七日滞在。その
七月四日南禅寺門前の瓢亭で昼食「風雅なる座敷にて何れも茶室構ゑ也」。この瓢亭は江戸期の創業で頼
山陽や山県有朋も贔屓にし、今も京都の超のつく名店として名が高い。嶋原遊郭では「角徳へ行き、大
酒盛り」
。
「角徳」は「角屋徳右衛門」、嶋原随一の格式を誇り、いまは重文として一般に公開されている。
其の角徳での大酒盛り。いったいいくらかかったであろうか。横浜から品川の蒸気車はもちろん上等。東
京にはあしかけ十二日滞在。その間吉原遊郭に遊んだ。折から中の丁には盆灯籠が飾られ見物客で賑わっ
ていた。大門は鉄製になっていた。
土手八丁を過、衣紋坂、見かえり柳、大門かねの門なり。中の丁灯籠見今宵限りとて、群集なし、誠
に廓の賑ひ驚きたり。中むら屋と云茶やに落付、夫より金瓶楼にて酒盛す。当時廓一なり。西洋造り
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43 明治七年の旅
にて座敷数莫大なり。
何につけ一番でなくては気がすまないらしい。吉原の書き入れ時の八月十五日に、廓一番の金瓶楼で、引
き手茶屋を通しての堂々たる大尽遊びである。これまたいくらかかったことであろうか。なお、延広真治
氏のご教示によれば、江戸以来の大門は明治四年に焼失、福地桜痴が大門の聯の「春夢正濃満街覆桜雲、
秋信先通両行灯影」の揮毫料として二千円を請求したという鉄門(樋口一葉の『たけくらべ』冒頭「廻れ
ば大門の見返り柳」とある大門)の開門式は明治十四年で、その間「かねの門」の文献は見当たらないと
いう。
日永の追分、古市でも「女郎屋多し」と書いているが、こんなのは眼中になかったらしい。
巻末にびっしりと書きこまれた買い物リスト、その品名・数量・金額気が遠くなる。集計してみようと
したが、あっさりあきらめた。
こういう豪遊ぶりもまた前述の筆者の問題にかかわってくるであろう。
鶴岡の旅人たちは舌もなかなか肥えている。伊勢山田の御師の食事の豪華は云うまでもない。西之宮の
酒造についてくわしく述べ「風味いたし候処至極よし」と称賛しているが、次いで伊丹の酒造についても
くわしく述べ「茶屋にて昼飯の折風味いたし候処、西之宮酒よりおとり」と、西之宮に軍配をあげている。
筆者はあるいは酒造関係の人であろうか。各地の名物も多く試食している。富田の焼き蛤は往復ともに食
べているが、「合の宿富田にて焼蛤喰候処、登りの節より風味よし」とこまかい。紀州の八軒家では「川
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2010/04/02
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93799日本文化学最終.indb
明治七年の旅 44
安と云処、つまらなき処にて昼食」とぼやいているのもおかしい。
危うく欠損をまぬがれた、最終丁うらの「諸国風俗見聞録」ともいうべき一ページがおもしろい。斬髪・
髭・紙幣・家造り(家造りに関する観察は本文中にもしばしば見える)・女性が頭上にたらいをのせる風
俗等々をメモしている。当時欧米人から奇異の目で見られていたチョンマゲについて、斬髪脱刀令が発令
されたのは、三年前の明治四年八月九日であった。それに先立ち参議木戸孝允・盛岡県権知事渡辺昇が斬
髪し、明治六年三月には天皇みずからが率先実行された。それから一年以上経っているが、鶴岡の旅人の
目に映った各地の普及度はまちまちであったが、思いのほか高い。越後は全部斬髪、信濃は「五分通り切
る」で「犬ちん(狆)に似る。至て小さし」が警抜でおかしい。美濃は一番低くて「四分通り」
。播磨は「不
残ざんぎり」で「当時半通りたてる(髭のことか)」。ついでに味噌汁もうまい。伊勢でも「髭追々たてる」
。
わが鶴岡の旅人はどうだったろうか。越後の柏崎における地蔵の話、箱根でのイギリス人女教師との応接
を見ると、かなり開明的な人たちではなかったか。だから斬髪かと思っていたら、金刀比羅条に「髪月代
いたし、湯に入支度」とあった。チョンマゲであった。
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45 明治七年の旅
〈付記〉
本稿を草するにあたり、鶴岡関係の全般については本間勝喜氏から、文明開化の諸事象については延広真
治氏から、芝居関係については池山晃、佐藤悟氏から懇切なご教示をいただきました。また、パソコンの入力・
整理については金美真・谷正俊・日置貴之・洪晟準の諸君のご協力をいただきました。ともに記して深甚な
る謝意を表します。
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明治七年の旅 46
五
甲 明治七年
道 中 日 記
戌 四月吉日
四月十五日未明出立 晴天
四里八丁
等有之、近在より老若男女群集致すよし。此処
関、興屋、原海三ケ村に相成候へ共、惣名鼠ケ
関のよし。
原海村
庄内、越後国境
三丁位行、鼠喰岩有。是戦争の折此石楯に取官
軍を喰止 候よし。此辺一円戦争場なり。又二、
三瀬え
三丁行ば、官軍戦死の塚五つ有。
泊り、酒田屋仁兵衛
中浜
三り
碁石
大 川え二里
下
勝 木 昼飯
此処より八丁程行、板居沢村逸原と云旧家に立
手に入。
此所迄海辺、根屋の楯岩右にいたし、是より山
下
此処に小き川ゆう。舟賃十文。
旅籠、壱貫五百文
当処鎮守気比山建権現参詣。境内悉くよし。風
四り
岩崎
雨にて大難儀いたし候。
浜温海
同十六日七つ時に着。雨風。
鼠ケ関
泊り、佐藤長右衛門
旅籠、二朱と三百文
海中に築出て弁才天御堂有。三間四面に見へ、
屋根銅葺なり。累年三月十五日祭礼にて、芝居
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47 明治七年の旅
寄珍ら敷書画類一見、酒肴出馳走になる。
下大蔵村
上大蔵
て雪ふり難儀致す。
塩 之町
下
此宿にて昼飯。
猿 沢 下
二り
一り半
此合並木松能海道也。村上入口瀬浪川舟渡し。
中津原
碁石より中村迄、川をたよりに登る也。此処田
四月十八日七つ過着
し。
舟賃十文。一名三面川共云、一里川下瀬浪のよ
大川より三り半
二り
中のへツリと云て細道難処なり。
村 上 中
宿、米や庄蔵
旅籠(記載なし)
四月十九日、滞溜。
御高五万石内藤紀伊守殿。町家弐千軒(左側に
大 沢
大マエ村
旅籠弐朱
宿、小田屋五平
中 村
十七日七つ過着。天気
下
下
此合に矢吹明神の宮あり。数十丈の岩屋にて、
「三千軒」)余。外に御家中町の長さ三拾弐丁。
家作り相応 なり。宿亭主先達にて、御城拝見。
あらたなる拝所なり。風吹穴と云岩屋もあり。
二り
山城の登り六七丁有之。楯の数八つ位。絶頂に
此蒲葡峠四里の処、甚難渋なり。座頭コロバシ
天守の跡有。海中眼下に見下し、景色且要害と
下
蒲 葡
等云所有。谷合に少々雪有之。折悪く不天気に
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明治七年の旅 48
中
下
下
エ ク リ フ キ、 草 創 天 平 十 一 卯 年、 明 治 七 迄 凡
一千百三拾年余、開山行基菩薩、左右に唐銅阿
云能き山城也。乍去当節の事なればやぐらく
は誠に大破に相成、目も当られぬ次第也。夫よ
一り半よ
弥陀如来、左に六角堂、釈迦如来、左眼舎利の
社
り町見物いたし候。
郷
堂なり。右左眼舎利寺にて壱人前拾文づゝにて、
兼
岩 舟
社
親ラン上人の御名号と開帳参詣いたし候。本堂
県
羨し浮世の北の山ざくら
ばせを
差別をふ神も仏も桜哉
以坊
二王門前桂屋と云茶屋、庭の松高さ二間、長さ
右高き処に観音前に碑あり。
入口岩舟大明神華居右に、
花咲て七日鶴見る麓哉 ばせを
石坂を登り拝し、海辺見おろし、景色なり。下
れば間もなく三拾間の橋有。浜辺え不出、内通
り松原通るがよし。塩谷迄の間誠に能松原なり。
一り余
十三軒(間)位有之なり。西洗ひ浜道、南は中
塩 谷
条通り、出口川有。橋銭三文。合いに菅田十二
四月廿日。天気
中 条 上
三里
此処川三筋有之。板橋なり。橋銭三文。
入口塩竃明神社あり。出口より無間も渡し場壱
半道
点高野。
人前拾文。
桃 崎
此合松原なり。
一り
泊り、元肴や権次郎
如意山乙宝寺、本尊大日如来。入口二王門、三
旅籠(記載なし)
乙 昼飯
重塔、大日如来、本堂十三軒(間)四面、屋根
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49 明治七年の旅
七百軒。
〆切村
麓村
滝むら
合に
小境村
中々奇麗成宿屋なり。且諸道具至てよし。家数
長橋村
小才梶 壱里半
元柳沢弾正少弼殿壱万石。三日市共いふ。此処
カイヤ村
金山村
より新潟え早舟あり。
四月廿一日。天気。
新発田 壱り
横岡村
箱岩村
此処より菅谷迄路山也。
矢津屋吉右衛門にて昼飯。
間四面位、境内桜数株植置けり。即席料理や抔
大鳥居、拝殿十間に三間半、御階十間、本社三
脇 に 四 間 程 な る 一 枚 石 の 橋 あ り
入 口 諏 訪 明 神。 山 門 唐 銅 擬 宝 珠 の 輪、
入口山門下に仁王尊、少々石坂登り、御本尊不
あり。絶景の 社地也。元溝口伯耆 守殿十万石。
三里
動明王、別当菅谷寺。頼朝公御立、開山同殿叔
家数三千軒、家作りよし。
菅谷 父護念上人慈恵也。御堂後によりとも公と木像
泊り高橋や次郎助
諏訪明神前え戻り、水原海道え出。
旅籠、弐朱三百文
有。眼病の男女拝殿に籠り居、御堂七間四面な
り。左に少し高き処に細滝有。御手洗水に田螺
多し。諸人納る也。シリナシ螺と云。
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明治七年の旅 50
山谷
赤ミツ
ヘビ塚新田
荒町むら
芝尻
壱り
屋数千四五百、家作よし。入口八幡社前に湖水
水原 ノリ餅村
是迄城下外れより並木松左右に、桃花下に菜種、
何れも花盛り、松原も能し、景色よし。
梶万代
小河原
春もやゝ気色とゝのふ月と梅
遊客の水亭有。其脇に碑有。当処に五嶋和泉屋
本田
サカリ
エチカ村
滝沢
満願寺
と云○持二斬(軒)有。
村岡
吉浦
下一ブ
大安寺
四月廿二日。天気。
新津 家作り相応也。
三里
渡し場あり。十五文。
中新田
提野
高円寺と云寺有。
四里
笹岡 昼飯 宿屋可也。弐百軒位。
此処より三度栗え廻るによし。
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51 明治七年の旅
泊り、能登屋八助
き処に碑有。
また少山え登り、秋葉権現社松林にて、景地の
脇に、
幸清水 愛徳公筆
処也。麓に幸清水と云名水有。築山構にして高
旅籠、弐朱百文
此処より十丁斗り東え行、栖目木村百姓丈七炉
より自然の火竹の中よりもえ出る。不思議也。
草津油、秋葉権現迄此丈七宅より案内頼。
越後七不思議
安田村の三度栗
鳥屋野サカサ竹
田上のツナキカヤ
草津の油
小島村八つ房梅
古ル津
アサ日
東嶋
中村
田家
幸清水汲人誰もおもふらし
宿の主の深き情を
前中納言持豊詠しと。
羽生田の地蔵尊
ガワカサワ 昼飯
栖目木村の土火
〆七不思議
天ケ沢
八代田
ゑ壺とてさしわたし壱丈位、六角にして其中よ
鎌倉
草津油口、少々山手に入油出る穴数ケ所有。煮
り油の涌出る事莫大也。脇に桜清水とて冷水有。
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明治七年の旅 52
由川
此小村の間、間道なり。
四月廿三日
加茂 昼飯
弐里
町中に県社加茂明神鳥居、又石鳥居、石坂を登
り、拝殿七間四面、御階、御本社五間位、立派
矢立
なる社也。又境内もよし。
温泉場也。 居風呂にて涌かし湯 也。大山中也。
下条
四里半
雨ふり相成候に付、無余儀。
保内
泊、糀屋多惣治
芭蕉の碑有。
はつしぐれ猿も小蓑をほしげなり
田上
旅籠、壱貫文
此村に西養寺と云寺に、親鸞上人繋榧の御旧跡
大崎
サカヒ
謂れあり。
原ケ崎
但馬
三里
旅籠、弐朱三百文
家数三千 弐百 軒。家作り悪し。両御坊を拝す。
泊り、わたや多郎左衛門
三条 四月廿四日天気
吉田
羽生田
此処に地蔵尊、満米上人地獄中にて出来の
地尊と云。
川船
陣ケ嶺
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53 明治七年の旅
東御坊は大伽藍なり。三条より信濃川十一り処
舟に乗、
七つ頃新形え着。壱朱と四百文、壱人前。
四月廿五日 天気
参事長州。
同廿六日逗留 天気
宿より先達を頼、日和山運上所、異人館、真宗
打ナビクスエ羽ヲカケテハシタカノ
す。
し、順徳帝の御筆親鸞上人逆さ竹の御杖を拝見
処なれ共、当時弐万近し。鳥屋院真乗寺に参詣
の処え堀川にて船通り自由也。家数壱万軒と申
旅籠、弐朱と四百文
此処北国一の湊にて、賑々敷、町中碁盤割、右
古町五之丁、秋田屋清六
録の分(「西 国」以下「西国小藩の分」と書き
銘々え白幣建置申候。新発田其外西国大名の小
墓四つ有。此頃薩長藩参り、
供養いたし候とて、
板弐或長岡在何村にて戦死、鼠ケ関口戦死と云
建ると有之。墓何藩何の某行年何と有。脇に与
中に弐間四面の堂脇に、石の大夜灯、越前藩某
方に丸木の鳥居建、正面の額に招魂場と有之。
つり、幅拾五間、長さ五拾間位さくまわし、三
を拝す。夫 より北山え参り候処、兵隊調練場、
鳥屋院浄光寺え参詣し、親鸞上人御杖の逆さ竹
トヤノゝ朝路霜ムスブナリ
新潟
順徳院御製
直す)未だ卒都婆にて有之。忠死の為と思ひ候
当寺え御立寄ありて、遊ばされたる御筆と云。
郷社白山権現大社也。奉納絵馬莫大なり。末社
得共、急成 事に拝す。下に西洋造り病院有之。
又慶応六年官軍越後にて戦死三百有余人神にま
此額拝見相成ゑ候。此帝佐渡へ御さすらへの時、
文字六寸位。新潟県管下百十四万石、越後七郡、
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93799日本文化学最終.indb
明治七年の旅 54
取壊し、其跡に植木莫大植付致し、東京浅草奥
山にひとしき植付に有之。右入費県庁御普請の
よし。境内絶景いわん方なし。
三里八丁
四月廿七日 天気
出立。新形砂山通り、内野迄砂路也。
内野 此処水湯出る。焚風呂にて、湯治場なり。
伊夜日子(弥彦)え 壱里
越後の国一の宮、山手に伊夜日子大明神。入口
大華居、山門、太鼓橋、御神楽殿あり。宝物飛
騨の小太郎奉納太刀、身の長さ七尺五寸、コミ
三尺三寸、合せて壱丈八寸鍔華なり。銘摩利四
門 尉 定 盛 満 中 在 原 尉 大 月 作 右 衛 門 尉 国 重 と 有。
天正八幡源信田定重宝永廿二年十二月日宇右衛
草臥て宿かる頃哉藤の花
奥院に小野道風の額有。夫より猿ケ馬場と云峠
町中に橋有。渡て左り茶屋前に翁の碑二つ有。
川上とこの川下哉月の友
有。略してさ らば峠と云。三足冨 士と云名処、
寺泊り 三里
是より少し行ば、弘智法印参詣道あり。
(二行分余白。句碑でもあったか)
前に、
冨士見茶屋と云茶屋有。
弐里
赤塚え
と日はつれなくも秋の風
入口大堤あり。鯉鮒家鴨沢山なり。堤端に翁の
碑。
く
あか
四月廿七日 晴天
三里
佐渡え十八り有。長き処也。町中に石坂少々登
宿、松屋五左衛門
り、白山権現拝す。景色也。
岩室え
旅籠、弐朱百文
20:52:27
2010/04/02
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55 明治七年の旅
山田 二里
此間戦争場、官軍出雲崎え屯し、奥羽勢山田え
天気
二里
屯し、奥羽勢山田え屯し。
四月廿八日
出雲崎
兼田村 壱里
半道
入口橋三拾八間あり。橋銭三十文づゝ。
同廿九日
柏崎
泊、柏屋岩吉
有。大久保町に浄土宗極楽寺と云寺に、去年村
泊り、大崎屋権右衛門
旅籠、弐朱
此処家数弐千軒タラツ(「足らず」か)町の長
松在道普請の折、土中より石地蔵堀出し、諸人
旅籠、弐朱
此所家数五千軒。町中に根埋り地蔵尊弐ケ所に
さ壱り八丁と云。此合に官軍松代藩戦死の墓有。
信仰いたし候処、種々不思議の寄特あらわし候
に付、柏崎県御聴に達し候所、当節右様の次第
勝見村稲荷明神参詣。
二里
無之筈、何れ不審成る地蔵に付、縄打引出し候
石地 此処に昔内藤多七と云分限有。今も長屋大構に
無相違次第なり。
候。右の咄 し加茂にて承り候に付、相尋候処、
百日さらされ、今極楽寺庭前の隅に仮安置致置
頭は微塵に相成くだけ申候。其後極楽寺門前え
様御達相成候に付、差出候処、百杖うたれ、御
二里
て内小さき家也。当時戸長勤め居。
椎谷 宮川
壱り半
此処にて昼飯。此合砂路甚あしゝ。
荒浜 20:52:27
2010/04/02
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明治七年の旅 56
旧県庁におゐて、博覧会一見いたし、壱人前弐
百文づゝ。
壱り
鉢崎 三里
此間弐里の処砂路にて、甚難儀なり。ヨルカ(い
二り
るか)鯨莫大海に浮出る。
四月三十日 雨
鯨波 是より米山峠えかゝる。越後戦争初りの場処あ
柿崎 泊り、升屋弥兵衛
り。
カサシマ
弐里
二里
上ケ輪新田
入口前に翁の碑有。
潟町 旅籠、弐朱
出口、三拾七間の橋有。
上輪
此村より二、三丁行ば、亀割坂と 申て、義経公
の御台所卿の君、亀若丸を御平産の処なり。右
黒井 今町え廻れば少々近し。出口より分れ道あり。
の方田中に産水の井有。前に茶やあり。弁慶力
餅の名物や、由来書尋べし。右井のうしろに三
今町入口舟渡し有。六文。
壱里
上則義石碑あり。
今町 湊にて随分賑敷所也。家並悪し。此所にて暫海
いとほしき昔の人のおもかげを
うかめて今も三井のましみづ
尾州迄見る事ならず。
五月一日 晴天
米山峠聊の山に候え共、兎角上下七つ位有之。
為其渋儀(難儀または難渋か)也。
20:52:27
2010/04/02
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57 明治七年の旅
高田 弐里
元榊原式部大輔殿城下、御高十五万石、家数五、
六千軒の由。甚ながし。昔謙信公居城春日山は、
泊り、冨山屋彦八郎
旅籠、弐朱
二タ股(俣) 壱里半
壱里半
出口十五間欄干橋渡てのぞきにてよきはしな
関川
木曽海道分れ道あり。
り。
城下より一里斗り西に城跡有之由。北国海道、
泊り、下小町茨木や佐兵衛
越後、信州国堺
壱里
旅籠、弐朱
左手に布池と云大池、長さ壱り余。当所蕎麦の
野尻
三十八間橋あり。壱里斗り行脇野田村に、弘法
名物、坂井屋にて喰。至極宜。爰より案内者頼、
翌 朝 大 岩 寺 仏 参 い た し、 出 立。 十 五 丁 位 行
大師御与清水と云名水有。飯塚村にて、四つ半
候え共、野尻より懸越順也。
戸隠山え懸越、関川、柏原よりも抜道有之由に
弐里半
頃、高田大火事見ゆる。
新井 野尻新田、六月新田共云。
半道
当所新井御坊を拝す。大伽藍也。前茶屋にて昼
柏原より抜道と落合なり。此処迄案内賃弐朱百
広き草原也。
長原の台
赤ソブ村(赤渋村か) 壱里
新井より三り余
飯。
松ケ崎
五月二日天気 南風
関山 20:52:27
2010/04/02
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明治七年の旅 58
信濃黒姫山と云高山右手にいたし登る也。雨天
巌石にて難有霊地也。前に長床有。御札等出す。
天手力男大神
九頭竜大神
合殿
御堂三間四面唐銅屋根、廊下伝ひ本社有。南方
文。尤荷物背負せ。
又は雪沢山の節は甚難儀なり。善光寺より廻る
参詣相済、戸隠村え帰る。当山御朱印千石、神
越後妙香山
がよし。戸隠村壱り手前に念仏の池あり。野尻
八間に十弐間。
宝光社 戸隠村より八丁位
し。御一新後奥院え女人参詣相成る。
領八百石、坊宿三拾六坊、家数弐百三軒有之よ
三里半余
より五り余の処。休み処無之甚永し。
五月三日 南大風
戸隠村
泊り、元宝義院宮沢瑞穂
壱り
大久保村 昼飯
高安村 旅籠、三朱、酒肴共。
戸隠明神入口、朱塗大鳥居、前左右に杉の大樹
五月四日 五つ半時より天気
壱り
弐り
有。右神楽殿。石坂登り。
善光寺 地名長野と申也。
中社、南向八間に長さ十弐間、こけらぶき。御
堂右に滝有。 奥の院左りに、是よ り八丁程行。
戸隠村より三十丁
旅籠、(料金記載なし)
定額山善光寺
宿、ふじや平左衛門
右に六十六ケ国一の宮勧請の石の祀堂有。
奥の院
祭神
20:52:27
2010/04/02
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59 明治七年の旅
に経堂中に、八角の廻り経蔵堂。
十五間、奥行廿九間三尺、柱数百三拾六本、外
梁間四間弐尺四寸、本堂高十丈、二重屋根、表
寸、山門高六丈六尺七分、桁行拾一間壱尺三寸、
尺 弐 寸、 桁 行 六 間 四 尺 六 寸、 梁 間 四 間 壱 尺 二
入口舗石幅三間余、長さ四丁、二王門高三丈九
潟)え落る。夫迄八千八川落合と云。
嶋川共云。舟橋賃七拾五文。此川下は新形(新
翌五日昼より出立。小村有。合にサイ川、丹波
参事長州藩。町家大体瓦屋根土蔵造也。
参詣群集なす。長野県管下信濃六郡四拾五万石、
内芝居、見せ物、諸品見せ多く有之。誠に賑し。
僧え御頼申上候得ば、先達いたし呉、余り銭と
つづゝ昼夜の絶る事なし。又開檀廻りは、御役
由光、由助、やよひの前と申御三像有。常灯三
なり。本堂 向て左に御如来立し ます。正面に、
塔なり。戒名
村道端に諸隅豊後守打死の塚有。小さき五りん
めし所にて、陣場の八幡と云。夫より下ヒガノ
廻る。少し行ば八幡宮あり。茲は謙信公馬を休
合中氷鉋村茶屋重太郎案内者につれ、古戦場を
壱里
申て(約十字分余白)山門手前別当大勧進也。
ヒガノ
丹波嶋 前に橋かけ候池有。亀鯉沢山をるなり。天台宗
慈照院殿賢昌良清居士
夫より余 程行、 チクマ川を渡り、柴村と云に、
御本堂、山門共、南面なり。大伽藍にて鳩沢山
御朱印千石の処なり。坊宿四拾六坊、町家四千
山本勘助打死の塚あり。戒名
山本道鬼居士
天徳院殿神山道鬼居士
余のよし。釣鐘堂つみ石至て入念也。少し脇に
弘化年中大地震の節横死せし人塚有。唐銅并石
夜灯、二王門前左右より本堂脇後ロ数不知。境
20:52:27
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明治七年の旅 60
幡宮の社あり。此所本陣にて、信玄公え謙信公
筑摩川を渡り、少し行ば八幡原と云あり。尤八
る。信玄公本陣也。山の中程に、明治元年松代
城下より十丁位行、清野村。夫より西条山え廻
(一行分余白)
元吉田信濃守殿十万石城下悪し。町家八百軒。
切かけ候所也。此辺合戦のまん中なりとぞ。社
藩戦死の招魂場有。十五間四面さく廻し、三方
側に阿弥堂上人の御旧跡あり。夫より帰り、又
前の脇翁碑あり。
高照神位。
ける歌。
脇に、高照が打死せし屍の袖のしるしに印しお
(左上図)
に鳥井あり。廟五十一あり。中に佐々木作治源
十六夜もまだ更科の郡かな
夫より四、五丁行セキに石橋掛れり。是を胴合
の橋とて、 勘助の首と胴、此セキ 南北に有之。
依て胴合の橋と云。寺内に武田左馬之助信繁公
の墓あり。自然石なり。戒名
松操院殿鶴山巣月大居士
見せばやな後の鏡となるまでに
我敷島のやまとごゝろを
と有。
後に明治元年戊辰七月六日、於越後国古志郡陣
丹波嶋より弐里位
夫より、酒井公旧領の地なれば、又筑摩川を渡
り、
五月五日 晴天
宿、長崎屋新三郎
ケ嶺戦死、享年三十六才。
松代 旅籠、弐朱百文
20:52:28
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61 明治七年の旅
少し谷合に下り、信玄公鑓の石突にてつき出し
候水とて、鑓清水と云。夫より登り候えば、籏
塚の跡とて土もり立置く。数五拾余有。是屍を
埋めし跡と相見へ申候。此処より川中島戦場一
ト目に見おろす。夫より土口村え下る。雨之宮
村。
屋代
是追分より江戸海道也。筑摩川渡り、
三里
丹波嶋より真直ぐなれば
松代より三里位
稲荷山 此宿にて昼飯。出口より左り姨捨山道。無間も
(間も無く)八幡村。
八幡宮
稲荷山より廿五丁位
鳥居并石の太鼓橋、御堂大社也。
姥捨山 法光院寺号長楽寺、天台宗也。姨石とて高さ六
20:52:28
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明治七年の旅 62
丈 三 尺 の 大 岩 あ り。 爰 に 掛 造 り 妙 見 堂 有。 八 月
十五夜に、田毎四十八枚に月移る(映る)由。姨
石の上にあがり、見おろす風景甚よし。同所碑に
泊り、臼井忠兵衛
旅籠、壱貫弐百文
合に切通し二ケ所有。
石の百躰観世音安置せり。
有。合に乱橋村、爰より会田迄上下一り半の処
此宿棒杭に、京え八十四里、江戸え五拾四里と
壱里十丁
入月ををしむ心のあらはれて
タチ峠と云。弘法大師御作の地蔵尊石に彫付給
青柳 我影法師ものびあがりけり 不知
ふ。会田近く大師袈裟掛松有。側に翁の碑有。
おもかげや姨ひとりなく月の友
ばせを
越今町と有
身にしみて大根からし秋の風 ばせを
会田 青柳より三里
青空を田毎のいろや夕日影 景山三千番句
待宵や明日の夜の目ぞ貯はれず 守武
あひにあひぬ姨捨やまに秋の月 宗祇法師
苅谷原 山手十三丁位行。
五月七日 南風
浅間 此処温泉場なり。梅の湯或は松の湯、竹の湯、
壱り二十丁位
処、近頃旅籠丁出火の由に付、岡田宿入口左り、
此宿より峠にかゝる。アタ坂峠と云。松本泊の
壱り十丁
暮るとはひとの上なりけふの月 梨翁
月今宵見捨る草もなかりけり 山窓
姥捨や月をむかしの鏡なる 白雄
姨捨より三里位
姨捨山より麻績え懸越峠難渋。
晴天
小池新田、長井
五月六日
麻績 20:52:28
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63 明治七年の旅
ふきの湯抔家々看板掛て有。中々繁昌也。松本泊
りなれば廻りてよし。
泊り、梅の湯中野源七。
三拾丁
村井 壱里半
入口左りの方え信濃冨士見ゆる。此処に翁の碑
有。
霧しぐれ冨士を見ぬ日ぞ面白き
三拾丁程行、福嶋え公義御関所有之節、女人通
壱里半
行不相成に付、左り方え分れ道あり。此合桔梗
旅籠、弐朱
松本 壱里半
筑 摩 県 管 下 三 十 八 万 石 余、 信 濃 四 郡、 飛 騨 三
郷原
原甲越古戦場の由。
城内にて博覧会一見す。城内は取壊し相成候場
洗馬
郡。元松平丹波守殿六万石城下。町家よし。御
処ヘ相立申候。男女コンタヒ(混体)の像あり。
此所江戸板橋海道、善光寺道分れ道あり。
五月八日 雨昼よりはれ
品物莫大也。泉岳寺什物、義士夜打の持道具并
十三人の像、内匠之頭殿切腹の短刀、其外色々
泊り、蔦屋宗逸
三拾丁
元山
織物いたし居候。御泉水の処え舟宿并茶屋。即
有。天守櫓五重、高さ十九間也。其中にて西洋
席料理やにて、昼飯いたす。右取掛り候は、藩
旅籠(料金記載なし)
此辺東西どちらの海えも五十里余。合にノゾキ
イドロ、煮売茶や、誠に開化いたしたる事に御
云処にウハヾミの頭あり。大さ丸盆の如し。此
橋渡りて、名古屋県管下の棒杭有。又桜沢村と
中と相見へ申候。御家中屋敷え芝居、軽業、ビ
座候。
20:52:28
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明治七年の旅 64
弐里
村より櫛見世始る。十里位の処皆櫛見世也。
贄川 弐里
合に平沢村塗物名物。出口諏訪明神拜す。
奈良井
出口より鳥井峠にかゝる。絶頂に茶屋あり。少
し下り、芭蕉の碑
木曽の栃うき世の人の土産哉
嶺は今朝ことしの雪哉木曽の秋 法眼護物
入口に木曽宣公旧里碑と有る。高さ八尺位。木
曽家盛衰の碑なり。壱丁程右山手に日照山徳音
寺と云禅寺あり。木曽殿御菩提所。主従の御位
壱り半
はいあり。参候え共拝し兼候。庭に巴御前の石
塔あり。
上
竜神院殿
五月九日 天気
福嶋 入口元公義の御関所ありし所也。今御門斗残れ
泊、田中や半平、弐朱
白嶺にて遙かに見ゆる。又右方飛騨の乗鞍山、
り。家数六百八十軒。随分家並よし。
往還より右に三嶽山遙拝所有。
後ロに駒ケ嶽抔云山見ゆる。少し下り翁の碑、
壱里半位行、木曽の桟、昔七拾五間のかけはし
のよし。元禄年中尾州公御普請にて、石垣高五
丈にいたす。桟名のみなり。此処山と云、川と
雲雀よりうへにやすらふ嶺かな
薮原 壱り半
合 に 木 曽 義 仲 城 跡 あ り。 今 鳥 井 見 ゆ る 川 向 な
云景色なり。此に、
上ゲ松 り。道脇に往古木曾義仲公鎮守南宮神社御手洗
弐里
と有。外略す。
桟や命をからむ蔦かつら 芭蕉
弐里半
宮の越
20:52:28
2010/04/02
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65 明治七年の旅
野尻 弐里
泊、三文字や伝右衛門、壱貫百文
半道位行、寝覚村に、浦嶋太郎寝覚の里と云古
跡あり。臨川寺と云寺内より浦島釣いたし候場
弐里半
此所より昼飯不出。
ド
所目下に見ゆる。
ミ
三留野 に立石有。少し小山にかゝる。此処迄薮原より
十二丁程行、義仲公信仰の甲観音堂有。往還右
其外色々あり。
十五里程の処、木曽川付て下る。此川下は勢州
屏風岩 腰懸松 象岩
畳岩 烏帽子岩 獅子岩
文殊浦島堂。爰の景色至極よし。
桑名に落るよし。
筏士に何をか問ん青嵐し 也有翁
寺の池本尊弁才天竜宮より鎮守せしと申也。前
馬込峠にかゝる。小村にて三河神楽并万歳不思
壱里半
妻籠 昼飯 此処にて女人往来え出る也。入口橋有。是より
ツマゴ
ひる顔に昼寝せふとの床の山 芭蕉
に姿見の池 有。此所より十五、六 丁行と、小野
山坂也弐里
議也。
馬込(馬籠) マゴメ
の滝と云有。此へん蕎麦の名物也。
三里九丁
洗馬より此宿迄十三駅を木曽海道と云。信濃、
須原 合に長野村入口、右川向に今井四郞兼平の城跡
美濃国境の手前に茶屋あり。少し行翁の碑、
送られつ送りつ果は木曽の蠅(穐)
落合壱里五丁 あり。此処 花漬名物なり。夫より 十丁程行ば、
関山と云あり。茲は兼平関を立たる所と云。
五月十日 天気
20:52:28
2010/04/02
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明治七年の旅 66
云 石 あ り。 長 さ 一 尺 五 寸、 巾 七 寸。 黒 石 な り。
あすもやあらばきかむとす覧
待れつる入相のかねの音すなり
西行辞世
小石を以てたゝき候えばかねの音する。不思議
是より小山なり。合に茶屋あり。前に一名石と
成石也。
竹折村にて昼飯。
釜戸 土岐 壱り
宿と云共村也。呆れたる長村也。
三里
右京都道
左伊勢道 中仙道より分るゝ
是より下街道と云て道狭し。村々家作り大悪し。
西行のわらじもかゝれ松の露 ばせを
槇ヶ根村茶屋前石の夜灯え追分け有。壱里
中津川入口芭蕉の碑有。
山路来て何やらゆかしすみれ草
五月十一日 昼過より雨に成る
壱里五丁
中津川
宿、土屋長兵衛、弐朱、昼飯出。
町家五百軒斗り。家作りよし。出口弐十五間位
橋有。合に小坂五つ程有。
弐里半
合に土橋又は一本橋弐ケ所有。銅銭弐文づゝ。
是より十四丁程行、十三峠登り口左に立石。
高 山 え 壱 里 位 の 処 え 和 合 橋 と 云 能 橋 か ゝ れ り。
大井
西行硯水今も蛙の鳴処。
二、三年前迄土橋の処成よし。又壱本橋あり。
高山 弐里
五月十二日 八つ時より少々雨
道野辺に清水流るゝ柳かげ
しばしとてこそ立どまりつれ
夫より少し登り右に、西行法師五輪塔有。脇に
20:52:28
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67 明治七年の旅
此処より瀬戸焼所多く有。
天守櫓、高さ二十五丈、金のシヤチホコ長さ壱
同十四日 逗留、天気
宿より案内者つれ、御城内に参候処、荒果申候
宿、柏屋新右衛門、昼飯出、壱貫弐百文
弐里
池田 丈八尺と云。右シヤチホコ博覧会にて見る。五
重櫓にして、下は千畳敷、上エ百畳敷の由。哀
東照宮御霊屋、立派也。
(成瀬殿。尾張藩執政)屋敷は県庁に相成居申候。
張藩執政)屋敷病院屋敷に相成居申候。成セ殿
爰より山坂なり。嶺に美濃、尾張の国境、
従是東岐阜県管轄
壱里半
成哉、是も同様廃り申候。竹越殿(竹腰殿。尾
従是西名古屋県管轄
内津
壱里半
宿中に妙見堂、能宮也。
五百羅漢。
坂の下
爰より三り南に瀬戸と云処あり。是セト物出処
殿様御菩提所賢長寺(健中寺)
、以前莫大の御
普請に有之候え共、今は本堂、庫裏而已。御霊
なり。
二里
屋并御入の御座敷等取壊し相成居申候。
合土橋又船渡し、弐拾文小橋あり。土手え上り
梶川
候へば、尾張の天守櫓見ゆる。
櫓のシヤチホコ壱つあり。夫より庭前に茶店、
立派なる大伽藍也。庫裏にて博覧会品数莫大也。
昼飯、広小路鯛めし茶や
東本願寺本堂畳数八百七拾五枚敷にして、誠に
五月十三日 雨昼よりはれ
弐里
名古屋
泊、本町通六町目、香具屋吉兵衛
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明治七年の旅 68
料理屋数多 し。又芸子芝居、札銭 弐百五十文。
唐人踊りにして、三味線五人、唄五人、太鼓三
人、鼓三人、踊二十六人、〆四拾弐人、衣装不
残同じ也。誠に目をおどろかせられたり。
西本願寺、本堂前に三重塔。
大ス(大須)の観音、爰に五重塔有。
七ツ寺。
愛知県管下
七十二間の橋、又廿六間。夫より三拾弐間の橋
あり。
堀江山長谷院
十一面観音。山門下タに仁王尊。大和長谷寺観
弐里
音と同木同作の仁王尊。古びたる者也。
甚目寺 山門左り三重塔、右鐘楼堂あり。本堂去年六月
焼失せり。本尊善光寺如来御同躰観世音菩薩也。
日本一社牛頭天王。入口大鳥居、夜灯数多あり。
三里
瓦屋根、屋数十三万軒も、当時有之よし。諸事
石のそり橋、惣門、無間も(間も無く)御本社
津嶋 自由成処にて誠に日本一の城下共云べき繁花
拝殿二間に十二間、末社弐拾四社、本社、末社
元尾張大納言様御高六十一万九千五百石。町家
也。
とも不残赤ぬりなり。元御朱印千石の処也。
御師三十軒。
同十五日 天気朝七時地震
四つ時より芝居并手品一見す。芝居狂言、鏡山
五月十六日 雨
十八丁
泊り、石川屋治郎兵衛、弐朱、昼飯なし
佐屋 に大序より大切迄、安達ケ原、三つ目桂川也。
同十六日 雨
四つ時より出立。津嶋海道壱里半位家続きなり。
20:52:28
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69 明治七年の旅
壱 人 前 酒 代 無
四日市 五拾丁三里八丁
此処女郎屋多し。家数千軒位。家作りよし。万
桑名迄舟路三里の処、百八拾文にて、乗合と十
人乗。桑名近 く相成、思召次第酒 代と願われ、
古焼瀬戸出処なり。
壱里半
三拾文づゝ出す也。此渡し水不足の節、津嶋よ
り船出兼申候。佐屋より壱里斗り行。
五月十七日 天気
追分、合の宿也。 宿、浅草屋五平、弐朱
尾張、伊勢 国境
桑名入口少々海也。乍去入海にて川同様也。御
町中に伊勢二の鳥居あり。又
川舟路三里
壱里半
壱里半
本多伊予守殿壱万五千石の城下なり。
神戸 右京都道
追分有
左り伊勢道 合に弐百弐拾八あし板橋有。
城海に築出、景色悉よし。舟上り口に伊勢太神
宮の一の鳥居有。四つ前着。
桑名
元松平越中守殿十一石(十一万石)の御城下也。
町家三千軒 斗り。此処より東海 道也。町中に、
唐銅大鳥井、山門、夜灯多し。春日大明神、三
白子 町家甚永し。染屋の形名産也。出口に白子山子
崎大明神両社なり。能き宮也。
城 下 出 口 に 板 橋 五 百 三 十 四 足 あ り。 又 土 橋 弐
八間四面、二重瓦屋根。前に不断桜、四方柵に
安 観 世 音 入 口、 山 門、 鐘 楼 あ り。 本 堂 東 南 向、
はまぐり名物也。桑名より貝大し。茶屋軒をな
て、枝繁りたる名木也。年中花見絶る事なき由。
百五十足あり。百八丁行、合の宿に冨田と申処
らべ焼立る。結構也。
20:52:28
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明治七年の旅 70
壱里半
末社多し。安産の守札庫理(庫裏)にて出る。
上野 二里
合に松原より一身田御門跡え廻り道有。見落し
て不廻。
五月十八日 天気
津
泊り、弁斎町大黒屋五平
藤堂和泉守殿三十二万九百五拾石の城下。入口
薬師堂あり。左の方に阿漕ケ塚あり。町中に唐
銅擬宝珠三拾間の橋有。岩田橋と云。町の長さ
七拾丁、家数莫大なり。繁花の城下也。弁斎町
芭
蕉
閻魔堂脇より四丁程入、柳山村脇に阿漕塚あり。
阿漕塚
月の夜の何を阿古木に啼千鳥
(下図)
20:52:29
2010/04/02
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71 明治七年の旅
高さ壱丈弐尺位。
弐里
櫛田 舟渡し 壱里半
紙煙草入名産なり。入口より八丁斗り行、八幡
宮の杜あり。此隣壺や清兵衛と云は本家也。外
雲津 出口雲津川船渡し。銭三厘。
にもつぼやと云家数多し。板橋あり。壱厘五毛
半道
壱里
壱里半
無際限雨ふり、太夫様御馳走にて、人力車に乗
新茶や
太夫様の出向ひ有之。一趣(一緒)に同道す。
合に上野村明星と申処に、三田周蔵と云茶屋に
づゝ。
壱里半
月本
伊賀越なら(奈良)道追分半道
六軒
三拾間程の土橋。
大社長谷越の節は、山田より六軒迄帰るなり。
松坂
る。少々酒代出す。
壱里
家数壱万軒位。壱里斗甚永し。伊勢縞の店多し。
小幡(小俣) 半道
バタ
町中に唐銅擬宝珠三拾間斗の橋渡りて右側に、
宮川 入口宮川舟渡し。弐厘。此分太夫様より御馳走
当時外国迄聞えし○持三ツ井篤治郎、美々敷家
構也。
なり。水上紀州熊野山成由。
半道
御師小林三日市太夫治郎当時普請中に付、宮川
五月十九日 昼より大雨。七つ半時着。
山田 大蔵省御用所三ツ井組の表門に懸札有之。
古金銀、
鴈金買入所、裏門懸札、三井八郎右衛門。
此地より色々なぐさみもの店多し。山田迄大体
家続きなり。
20:52:29
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明治七年の旅 72
より八丁行、常磐町左り側、広辻光春え着く。
茶、菓子出る。
落付、冷酒
本膳[白餅雑煮、カツ、青菜]
外に弐品規式なる様な物。
片桐多平殿相招、落し物相定、壱人前壱夜弐歩。
外に三人いたし、太神楽上る代十両、外に四両
弐歩諸掛り。但壱人前壱両弐歩。給仕人、弁当
持旁へ夫々手当致し候。振合の由。右の分合に
金拾両 御神楽料
四両弐歩 同諸掛り
五百六十文 わらんじ六束(足)
壱歩
川勝
壱歩 片桐
壱歩 太夫様タンシヤク土産
弐歩 広辻タンシヤク土産有之候に
付茶代共兼
太神楽
太々神楽
吸物味噌煮[しんじよう、みようがだけ]
座付
御膳部献立の覚、
小神楽
汁
本膳
皿[かつを切、をろし大根、青のり]
て、諸懸り、壱両弐歩と相定申候。
拾両
弐拾両
五両
右当時相場の由
(右の「拾両太神楽」から三行分の上に次の付
箋がある)
香の物
壺[鮑、連根、もみ豆ふ、ふき、外に壱品]
20:52:29
2010/04/02
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93799日本文化学最終.indb
73 明治七年の旅
飯
香の物
二の汁
平[ゆば、にらふさ、鮑切身]
本膳
皿[魚身、うど、きくらげ]
夕
猪口
猪口[青菜]
二の膳
平[半弁、孟宗、うど]
焼物皿[あわびから焼]
汁
焼物皿[鯛みそ蒸]
酒肴
同廿日 朝雨 御茶菓子出
皿[魚身、うど、きくらげ]
酒肴
廿一日 四つ頃少々雨
飯献立控おとす。
汁
平[ゆば、あわび切身、にらふき]
支度いたし、太平様先達にて、両御山、
風の宮、雨の宮、外(右に「八十」と朱書)末
外宮太神宮
飯
香の物
焼物[鯛味噌煮]
外」以下 に朱線を引き、
「夫より 段々」と朱で
社御廃し、夫より妙見町其外色々あり。
名物(
「其
とろゝめし[ちんぴ、のり、みょうがだけ]
傍書)古 市町、此処女郎屋多し。(以下朱で追
昼
皿[鯛塩ふり]
20:52:29
2010/04/02
73
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明治七年の旅 74
物多し。夫より宇治橋唐銅擬宝珠、長さ三十間
当時御廃しに相成、生人形にて有之候。又見世
合の山、此処おすぎ、をたまの出し処に候得共、
古市の四楼と云」)
積み物[車海老、くわひ、ばい、毘わ、かんひ
鮑、すがひ、きうり、みようがだけ
酒肴
煮付[鯛、うど]
汁
飯
余、川御もすそ川、又五十鈴川とも云。爰にて
き豆]
記「中に備前や、柏や、油屋、外に壱軒、是を
うがいいたし、
無滞両宮参詣相済、宇治の茶屋すし久と云茶屋
末社荒祭り宮、稲蔵の大神、外末社御廃し相成、
御神楽殿にて、太神楽、御神楽御執行有之。
大き成杉 あり。又天(五、六字分余 白)夫より
伊勢、志摩 国境
夫 よ り 坂 を 下 れ ば、 猿 田 彦 大 神 の 御 神 木 と 云
坂山と云嶺に、
爰より礒部海道え入。間道なり。一里斗り行逢
にて昼飯、太夫様よりの御馳走。
折太神宮様御小休被成候節、御用ひ被成候釜并
外宮より五拾丁
本膳
皿[いか、かまぼこ、孟宗、ふき、しみこんに
いろりあり。家建直し又は天井板張事ならづ痛
やく]
み候節、其品斗り取替の外不相成よし。神代よ
内宮太神宮
平[ゆば、半弁、いか]
りの家なれば、誠に古びたり。夫より弐拾丁程
十二、三丁も 下れば、家建の茶屋 と云、神代の
香々
20:52:29
2010/04/02
74
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75 明治七年の旅
而おふむ石と云。
浄瑠理かたれば、右岩にひゞき不思議なり。依
茶屋にて休み下に小さき小やの中にて、若き女
行、左りへ三丁入、和合山をふむ石と云岩屋有。
道中一の閑道なり。
礒部よりのかゝり足、爰より山伏峠中々難渋、
て、舟中守護の観音名高し。夫より牛持村、是
えかけこし下り、坂急なり。志摩の浪除観音と
夫様被申候に付、廻る。四十丁廻り也。朝熊嶽
礒部より直なれば百丁
此処に万金丹屋あり。
朝熊嶽 うぐひすや内外にわかるおふむ石 江戸某
爰にて日暮申候。
五月廿一日
爰より弐拾丁程行、青嶺峠にかゝる。坂の中程
豊年シ太神宮 参詣
伊雑王太神宮
宿、赤坂十太夫、三朱。
の御堂成よし。
き弁斎天堂あり。是秀吉公簾中淀君より御奉納
木こけらぶきなり。普請結構。仁王門後に小さ
そり橋、無間も本堂八間四面なり。二重栗(垂)
入口仁王門、智恵文殊堂、又御池あり。爰石の
虚空蔵大菩薩
に茶屋あり。志摩の国一円目下に見落し景色よ
八丁行ば四軒茶屋あり。とうふやと云茶やにて
百五拾丁
し。
此座敷より四方を詠め、志摩、尾張、伊勢三州
礒部 波除ヶ十一面観世音 別当正膳寺
入口山門、本堂八間四面、二重瓦屋根、中々能
一ト目に見渡し、晴天の折は、冨士山見へ候よ
昼飯いたす。是太夫様御馳走にて、
茶漬等給り、
き御堂なり。此節開帳に付、相廻り候様伊勢太
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明治七年の旅 76
し、此景色絶言語。是より朝熊一図に下り坂な
同廿三日 天気
小幡(小俣) 茶やより五拾丁
明星 壱里
半道
壱り半
松坂 壱里
壱里半
壱里
壱里
弐拾弐丁
出口板橋の川あり。壱厘五毛
八太 出口板橋の川有。壱厘五毛。
小川 長谷越追分有。是より分るゝ。
六軒 宿、あづまや半七、弐朱
櫛田 二見村より八丁
あさま村より五拾丁
り。五拾丁。
朝熊むら
二見村 此合海辺貝店多し。
二見ケ浦
二見浦より八拾八丁
興玉太神宮。岩屋なり。
此景色至極よろし。
五月廿二日 天気
山田
広辻え帰る。下向の祝儀とて、其夜献立、本膳、
二の膳、三の膳、向皿、焼物、酒肴三品、明細
大のき(大仰) 出口川有。 橋銭壱厘五毛。川に添 うて登る也。
筆紙に尽し難し。依て略す。
廿三日京都え荷物送り候に付手間取、昼飯喰。
岩に彫付給ふ地蔵尊あり。川鮎の節悉沢山のよ
弐本木
此代壱両上る。仕末いたし候処、立酒出、宮川
半道
し。
迄見送り被下候。
宮川
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77 明治七年の旅
中野村
同廿四日
カイト
壱里近し
数十間の場処あり。驚入たる城内なり。博覧会
新田より三里
場は藤堂公御入の御座敷也。其結構いわんかた
なし。
五月廿五日 四つ頃雨
垣内壱里
宿、大和屋孫左衛門、弐朱
上野 宿、白根屋助左衛門、弐朱
是より青山峠登り壱里半、下り壱里半。壱里余
登れば伊勢茶屋とてあり。嶺に、
十一月早天、伊賀越敵打の場所也。今明治七年
家数三千軒斗。随分能城下なり。出口奈良海道
馬苦労町鍵屋の辻と云処にて、寛永十一年甲戌
三里
伊勢、伊賀国堺
少し下れば弘法大師一夜の作の石地蔵あり。
迄二百四拾壱年に成る。又五郎首洗ひ井戸近年
伊勢地
あを(阿保)入口左に延喜式内神社。爰に虫喰
洪水の節、うづもれ候よし。志津馬主従仇打支
無間も長 田川、橋銭三厘。合に小 山にかゝる。
いのつりがねあり。此宿より上野え廻れば、月
壱里
度いたしたる茶屋、北村与八郎と云、四つ角也。
本越より少々近きよし。
阿保
二里
嶺に三本松茶やと云あり。
入口舟渡し四厘。小山にかゝり、近年大和百姓
嶋ケ原
依て三里の処相廻る。城内大手前のやぐら中々
騒動の節、藤堂公固めし大門あり。無間も、
新でん(新田) 昼飯 壱里
元藤堂持十二万石。上野城内にて博覧会有之趣。
美々敷、丸 の内に入れば、石垣五 丈余積上げ、
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明治七年の旅 78
伊賀、大和国境
大河原 二里
いたす。
小路信房卿の陣跡あり。脇道より登り、大難儀
て其村難病有之よし。少し下に藤沢公才、万里
壱里半
山田村と云処茶園多く有之。尤壱番滴(摘)に
笠置 昼飯
後醍醐天皇様城郭笠置山え、案内者頼み登る。
二里
て茶製最中也。
五月廿六日 雨
川を渡り、 南笠置村え行。入口よ り弐丁斗行、
足助治郎堅めし一の木戸、又高橋入道堅めし二
加茂 泊、茶碗屋喜八、弐朱
の木戸、其上俗家弐軒、其外真言宗福寿院、文
殊院、右寺中につりがね、ふちに建久弐年酉解
合に小山有。茶園莫大なり。奈良十丁手前に、
五十丁一り二里
達大尚奉納 と銘有。七百年余相 成る。夫より、
同廿七日 四つ時着
山城、大和国境
貝吹岩と云あり。中央に皇居の跡有之。又六間
奈良 椿本大明神社有。嶺に、楠正成陣屋の跡、前に
に三間の掛作り十一面観音堂誠に古びたる堂な
石、金剛石、薬師石、是は天武天王様御彫刻被
景清門、巾九間に四間半、都の折一条通りの門な
昼より案内頼、
宿、大仏大門まへ豆ふや庄吉、弐朱弐百文
成候虚空蔵石、何れも丸石にて珍ら敷石の十三
り。前に弥勒石とて自然の御姿あり。其外胎蔵
塔、其外五輪塔あり。笠置山焼打の節裏手より
るよし。
二月堂、六間、拾九間、聖武皇帝御宝蔵。
案内せし飛鳥路むら喜助、喜太郎、尓今御罪に
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79 明治七年の旅
右に、鹿を牧込毛かりいたし置、扇の芝とて、
興福寺、菩提の児昔鹿を殺し石こづめに相成。十
良弁杉
ふ。
大仏堂、間口三拾二間、奥行二十八間、高さ十六
三かねあり。児観音。興福寺五重塔、東金堂前
若狭井、毎年二月法事有之、若狭より水を取とい
柱数六拾四本。釈迦如来御丈五丈三尺五寸。
丈、
に花の松と云名木あり。
衣掛桜、采女の宮、猿沢の池。
薪の能の場処あり。
南円堂、西国九番札処なり。
右に虚空蔵菩薩、御丈ケ弐丈三尺。左に如意輪
観世音。向い廻廊左右に百間づゝ也。大矢員場
廿八日
聖武天皇御陵。
法花寺、 尼ケ辻
アマ
十二丁
八丁
二丁
菅相丞(丞相)御誕生石なり。
菅原天神
本堂十二間に奥行十間、南向。
西大寺
奉行片桐東市正、慶長六年と有。
講堂きだはし高欄擬宝珠、銘豊臣秀頼公奉納、
十八丁
処。東大寺御朱印三千、寺中八丁四面なる由。
大つりがねあり。
三月堂、三目八手観世音菩薩。後に俵藤太秀郷守
本尊執金剛神。
若宮八幡宮、相殿の脇に菅公腰懸石。
手向山、三笠山、若草山合て三笠山と云。
前に三条小鍛冶刀店、茶や其外色々店多し。三
笠山に三丁登れば、大和一円目下に見渡し景色
よし。
春日四社大明神、入口鳥井より本社迄八丁の間左
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明治七年の旅 80
六丁
八丁
角堂也」)日本三作のよし。其外堂塔名処多し。
五月廿八日 天気
招提寺
本 堂 十 六 間、 行( 奥 行 ) 八 間。 経 堂、 二 重 塔、
竜田 竜田明神町中にあり。鶏多し。天武帝御建立の
宿、さるや喜六、弐朱三百文
つりがね、唐土の伽藍をうつしたる処故、唐招
提寺と云。
二丁
よし。竜田川紅葉の名所、二、
三丁西にあり。
阿弥陀堂拾間四面、本尊赤銅薬師如来、御丈壱
出口竜田川土橋なり。紅葉少々あり。川に付て
西の京
丈八尺、八畳敷めのふ石あり。五重塔、薬師堂
下る。
片岡山達磨寺
十六間に九間。
八丁
御堂三間四面、太子石、春日石、達磨石、腰懸
元松平時之助殿城下、十五万千弐百八十八石。
石、太子御杖被成候竹とてふし永き竹やぶあり。
郡山
市中に芭蕉の時雨塚と云あり。
同廿九日 雨
染井寺、前に中将姫糸懸桜并染井戸。
うしろに達磨の隠れ穴、前に雪まる塚と云犬塚
あり。
けふ斗り人もとしよれ初時雨
壱り
小泉
元片桐石見守殿壱万千百石。
十八丁
当麻、入口仁王門、御来迎の松、金堂、講堂、糸
中宮寺、いかるが御所、仏法サイセウ聖徳太子
繰堂、三重塔弐つ。本堂十二間四面、中将姫蓮
法隆寺
御建立、
七堂伽藍、五重塔、嶺の薬師堂(左に「八
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81 明治七年の旅
のまんだらに金泥の文字なり。嵯峨帝御筆と云。
弘法大師学文の間、四畳半あり。実雅法印の木
像、中将姫の師匠なり。中将姫廿九才の木像御
自作と云。本堂うしろ壱丁程行、奥の院。此外
拝所多しと云共略す。
此日中将姫ねり供養と云法用(法要)有之。参
詣群集なす。雨無際限ふり候間、泊る。
廿九日
五十丁
宿、米や栄蔵、二朱三百拾弐文
高田
板橋二つあり。一厘。
仏頭山橘寺 五拾丁
日本寺の最初なり。聖徳太子御誕生処なり。
太子殿
巾 七 間 に 六 間、 赤 銅 葺、 前 に 弐 面 石、 誕 生 石、
墨懸桜、是は太子御幼年の折学文被成、硯水を
九丁
桜え掛け候。依て尓今花黒く咲候よし。
岡寺 西国七番札所なり。入口三丁位山坂。夫より仁
八丁
王門。本堂六間に七間、瓦屋根。御本尊如意輪
観世音。
飛鳥 飛鳥大神 宮拝殿六間に三間。本社、末社八十。
壱里
安倍文珠堂。日本三文殊の内。チクアミの作也。
安倍 曾我村
高田より三拾丁
末社元伊勢と云処の由。庄内飛鳥の本山也。
小綱村
今井町
三丁
奥に安倍の清明の岩やあり。此処より天のかぐ
神武天皇様御陵
東 西 九 十 七 間 半、 南 北 百 廿 二 間。( 朱 で「 四 方
山に正面に見ゆる。
玉垣なり」と書き入れ)
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明治七年の旅 82
桜井
五月三十日
中程に紀貫之古里の桜(梅)有。
本堂九尺間九間に六間。前に掛作り舞台、九尺
間五間に三間。奉納額沢山也。
御 本 尊 十 一 面 観 世 音、 壱( 左 に「 弐 」
)丈六尺
八丁
三輪大明神少し山坂也。入口鳥井御神木の大杉
立像なり。本堂脇に小さき池に亀沢山居る。三
弐本、
壱本は枯れる。山門九尺(「九尺」の右に「拝
重塔、鐘楼、其外堂塔有。何れ普請も結構伽藍
三輪
殿」と朱で傍書)間九間行六間(「間」の上に「尺」
也。是より元の追分に帰る。
桜井町
と重ね書き)間四間、ひわだぶき。外に末社。
宿、高田屋勘兵衛
多武の嶺、一の石鳥井まで追分より三拾丁位。
商
此家、昔梅川、忠兵衛遊び茶や也。此処より三
多武の嶺村出口唐銅擬宝珠五間位屋根懸り候橋
婦
里離れニラ咲と云在に、忠兵衛の墓有よし。此
あり。夫より弐丁位山坂也。入口大鳥井石坂登
売
高田屋弐階座敷の床柱榧の木七尺廻り有之。殊
り山門構廻廊也。夜灯多し。
前に勅使の間、三間に十三間、百畳敷の御座敷
壱の鳥井より五拾丁
三拾丁
本社 に珍し敷大木也。
なり。伽羅 木のゴウ天井、壱尺に 壱尺五寸位。
五月三十一日 天気 喰傷に付逗留。
追分
四拾二丁
三拾六歌仙額花山院様筆、画は古法眼元信、結
長谷寺西国八番札所也。入口山門、是より本堂
構至極の御座敷也。十三塔孝德天皇様入唐被成
初瀬町
迄登り坂百三拾間の廻廊なり。左右牡丹莫大也。
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83 明治七年の旅
西日光共云。何れの堂社も檜皮葺、結構なる事
光御普請の節、爰の図を移され給ふと云。依て
候折、御持被成候塔なる由。其外堂社多し。日
景色也。
し、四厘づゝ。壱丁位川上妹山背山見ゆる。能
此宿山中には随分能き処なり。出口吉野川舟渡
成由。尓今弥左衛門と云」
)
方の処桜 木也。一ト目千本云。吉 野桜名処也。
驚入斗に御座候。当山紅葉沢山なり。元御朱印
八丁
吉野入口幣掛明神前に茶やあり。是より四丁四
三千石今半渡りの由。
四軒茶屋
少し登り五間位擬宝珠橋、豊冨(豊臣)秀頼公
御 建 立、 奉 行 建 部 内 匠 頭 光 重、 慶 長 九 年 甲 辰
十二月と有。吉野町辰巳や長三郎にて昼飯、荷
物預け夫より参詣。
壱り半
合左右杉莫大也。日中も日の見る事不叶。
六月一日 晴天
泊、森川屋儀兵衛、弐朱弐百文
唐銅鳥井廻り一丈弐尺、高さ弐丈五尺、欽明天
此宿、山中と云、万事不自由也。夜中寒さ凌難
皇様御建立の由。仁王門運慶、丹慶(湛慶)の
滝の畑
し。且つ取扱惣て悪し。必ず泊るべからず。合
作、高壱丈六尺。本堂拾八間四面、二重屋根こ
けらぶき也。御本尊三体。蔵王権現御身体。正
の宿なる由。
上市
右、千手観音、御丈ケ弐丈四尺。
面、釈迦如来、御丈ケ弐尺(弐丈)六尺。
入れ。川は 吉野川のこと。「少シ川 下に下市と
左、弥勒菩薩、御丈弐丈弐尺三体ながら立像な
(このページ上欄余白に次の如く横書きで書き
云すしの名物、芝居の千本桜すしやの段、此処
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明治七年の旅 84
駒つなぎ松、同矢竹の竹、弁慶力だめしの石。
門内子安地蔵堂内に陣太鼓の輪がねあり。義経
寺成る由。其後後醍醐天皇様皇居に被成候よし。
吉水院、是は義経公吉野え三ケ年御忍び被成候
丈ケ三丈壱尺。
柱数七十二本の内、壱本つゝじの柱。廻り八尺
又南朝の忠臣村上彦四郞義光の碑あり。脇に、
花ざかり山は日頃の朝ぼらけ
蕉の碑あり。
夫より麓に戻り、高野海道え出、五丁位行、芭
なるよし。
助薬本家のよし。此寺白鳳弐年に相建、千年余
千三百石、当時五分渡りのよし。吉水院陀羅尼
奥院大嶺山上迄六里登りのよし。当山御朱印弐
十一面観世音、三間四面、義光守本尊春日の作。
嶺の薬師堂、六間四面。是より右手に吉野川を
り。
行者菩薩御自作。十二畳敷義光御座の間と云。
壱里
見渡し、景色の海道也。
六田 脇に弁慶思案の間と云壱畳敷也。畳椽板戸二枚
え、盲人びわを持候画元信の筆。庫理の方え廻
土田 弐十五丁位
壱里
出口吉野川舟渡し、五厘。
弁慶の太刀并よろい。千躰地蔵小野々篁作。三
下渕 れば、
後醍醐帝御信仰被成候如意輪観音。義経、
拾六童子弘法大師の作。忠信の矢の根。外に有
六月二日 晴天
吉野より四里
之候得共筆に尽し難し。右宝物具伽銭にて開帳。
宇野 泊、笠屋源兵衛、弐朱
壱里余
是より八丁位行ば、後醍醐帝の御陵七間四方位
玉垣。其外名処古跡筆紙に及難し。
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85 明治七年の旅
同三日 晴天
(一、二字分余白)建立と有。
明治四申年(明治四年は辛未)赤穂藩親の仇打、
敵七人、打人ト七人、首尾能打場所カミヤ入口
壱里余
泊、帯屋治郎兵衛、弐朱三百拾弐文
八丁手前有。夫より弐丁位行、敵七人の死がい
五条
奈良県出張所にて、随分賑敷処なり。家数千軒
葬りし場処竹モガリいたし、屋根かけ有之。
余。当所鮎の名物。吉野川鮎に限り腹赤し。た
五十丁
花 や 市 兵 衛 に て 昼 飯。 此 家 よ り 手 引 案 内 出、
カミヤ(神谷) 由。当処よりかむろ(学文路)迄三り弐丁の処、
十 二 丁 位 登 れ ば、 四 方(
「四寸」とも見える)
べ候処風味至てよし。紀州和歌山迄十三里有之
吉の川舟に乗、壱人前壱朱半づゝ、五条より壱
の岩サイミ河原地蔵尊。是より不動坂とて八丁
前に念仏あり。
れば、清めの不動堂あり。十八丁行ば、女人堂
の間、四拾八曲り、甚険岨の山坂也。右八丁登
り半位。
大和、紀伊国境
かむろ(学 文路) 五条より 舟に乗三り弐丁
是より高野山え登る。無間も此宿玉屋与治右衛
( 上 部 余 白 に 横 書 き「 女 人 堂 よ り 廿 五 丁 の 間 坊
宿并町やなり」)
門と云有。カルカヤ御前の泊りたる宿と云。芝
居にて玉や与治、今に繁昌せり。
御一新後奥院え女人参詣相成る。是より奥院迄
六月四日 七つ頃より少々ふる
拾丁の処平地なり。
苅萱堂。
かね(河根)
出 口 十 六 間 程 擬 宝 珠 の 橋、 播 州 赤 穂 城 主 松 平
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明治七年の旅 86
庄内宿坊
家御年季御供養卒都婆。其外名将、名士并諸大
名石塔御霊屋数知不申候。此方様石塔中程手前
左側、又御廟の橋下右と弐ケ所に有。
本供月拜
半日拜
高野の奥の玉川の水
中の橋右に蛇柳、夫より姿見の井戸、御廟の橋
わすれても汲やしつらん旅人の
父母のしきりに恋しきぢの声
芭蕉
半月拜
同壱両壱歩
北之坊清浄心院、女人堂より弐十六丁
落し物壱歩上る。
本供日拜
金弐両弐歩 金弐歩弐朱
欄干擬宝珠真珠なり。
茶拜
同壱歩壱朱
同弐朱三百文
信長、秀吉、浅野内匠頭、次信、忠信の塔。明
円。多田満仲公の石塔建始なる由。敦盛、熊谷、
橋あり。夫より両側諸大名の石塔十八丁の間一
度いたし参詣。清浄心院より少し行ば擬宝珠の
朝導場にて供養有之、焼香いたし候。夫より支
真言宗、坊、千軒
是より清浄心院え帰る。
外堂塔多し。
左に骨堂、右に宝蔵は石田三成の建立なり。其
前に本堂長床、貧の一灯、長者の万灯と云あり。
弘法大師御廟所也。
十八丁
智光秀の塔主を殺せし故、五輪の塔の中三つな
御朱印弐万千石
奥の院 がら割れてあり。駿河大納言様石塔高さ弐丈八
当時は万石のよし
右の外弐朱又は一朱にても供養相成候よし。翌
尺、台座弐間四方、是高野山一の大石塔、徳川
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87 明治七年の旅
宿、金屋茂兵衛、弐朱弐百文
弐里
大広間元信の松に鶴。御座敷永徳の画、尤べた
入口仁王門、左に童男の観世音堂。御本尊池中
粉川寺 金に墨絵也。誠に結構至極也。夫より会堂、経
より御出現の観世音。
前に石ふせたる井戸あり。
是より下りかけ、御本坊金剛嶺寺御座敷拝見。
蔵、東堂。
本、ゴウ天井結構也。二重瓦屋根十二間四面な
本尊薬師如来、大師の作、道場金の丸柱弐拾六
無間も、御本堂。巾十五間、行十三間半。西国
中の門、此 門に四天王立せ給ふ也。二重屋根。
亀元戌十一月十八日童男観世音と懸札あり。
柳の井と云。此処より御出現脇池あり。年号宝
り。其外二重塔、高野明神、丹生明神、右二社
第三番札所也。御本尊千手観世音。
金堂
極さいしき 也。仁王門拾間に四 間、弐重屋根。
其外堂塔多し。普請よし。伽藍也。
入口石ばし、大門、本堂七尺間二間ためし。
弐里半遠し
七十丁
八角堂。
八丁
御本尊三国壱のキリモミの不動明王。脇天竺よ
二重塔、拾間四面。昔石川五右衛門八年住みし
本堂、巾八間、行六間、八尺間なり。
り御持参の赤銅釼あり。
百五拾丁
根來寺
元女人此所迄参詣也。夫より鏡石、ねじ石、お
しあげ石、けさかけ石。
矢立 花坂
麻生峠茶屋
是より片くだり也。合紀の川舟渡し、壱人前四
厘。
六月五日 昼頃少々雨ふる
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明治七年の旅 88
公え敵対し寺領御引上げに相成、其後紀州様よ
り十八丁船に乗、和歌の浦一見、亀岩の前に舟
見上ればさくらしまふて紀三井寺 ばせを
表口大門。此辺一円塩とる浜なり。此大門前よ
塔と云。此所往古七拾弐万石寺領のよし。信長
り聊国印被下候処に、近年御廃し、依て甚荒果
着く。舟ちん壱貫文。
印五百石の処なり。御堂小さけれ共、能き普請
家康公北の方の御神霊也。清正公御娘也。御朱
公貴社明神
申候。
川辺
又紀の川舟渡し。川上より是にて五度渡る。
二里余
なり。前の玉垣石越前みかげ石なり。切石坂自
合川安と云処、つまらなき処にて昼飯。
然石。掛作り拝殿遊客の場処に成よし。又足辺
八軒屋
紀州一の宮、(二字分余白)神社。
(一行分余白)
の茶やと云あり。右に翁の碑あり。
うら門よりかける。
鏡山、石の三つ橋、塩釜明神、不老の橋石にて
弐里半余
切石坂登り、西国弐番の札所也。本堂拾間四面。
組立たる橋類なき橋なり。
右に切石坂廻廊登り、奥の院、開山堂、二重塔
玉津嶋大明神
紀三井寺
小さし。本堂左りに掛作り。此処より和歌の浦、
前に拝殿、小野々小町袖懸堺、御宝蔵。
石のそり橋、石鳥井、是より左右石夜灯莫大也。
東照宮
日 本 一 社
淡路島、四国までも見をろし、景色いわんかた
なし。切石坂下り、坂中に芭蕉其外五つ程碑あ
り。
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89 明治七年の旅
御本社、御宮造り結構至極、日光同様の御普請
切石坂、随神御門。
処あり。嶋々見渡絶景なり。大坂屋と云家にて
馬堂、伽羅木。鳥井前に見はり堂と云景色見の
五拾丁
昼飯。是より海辺通り、大坂に出る。
大川 なり。
此和歌村民家余程有之。旅篭屋其外色々店多し。
嘉永橋と云石橋あり。
十八丁
此処より和歌山迄の間、能海道也。合松原根上
ケ
り松、根の上りたる所壱丈も有之。中々一景の
七拾丁
十八丁
三里
此処より道行四人泉州堺迄十一り夜舟乗る。我
深日 フ
紀伊、和泉国境
田川 壱里
和歌浦より五拾丁位
処なり。成程日本三景。
六月六日 晴天
和歌山
尾崎 と弥平陸にて通る。
御城天守櫓、弐里先より見ゆる。甚賑敷処にて、
六月七日 晴天
宿、藤屋源兵衛、三朱
家並宜、名古屋同様と相見へ申候。
樽井 三拾六丁
佐野 貝塚 岸和田
十八丁
二里半
壱里半
宿、佐野屋勝治、壱貫八百文
紀伊中納言様、五拾五万石。
御城下出口舟渡し。五厘。
糸切茶屋
加太浦
淡嶋大明神、拝殿七間に弐間弐尺。御本社、絵
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明治七年の旅 90
岡部内膳正殿五万三千石。楠正成縄ばりの城な
るよし。
妙国寺
日本一の蘇鉄也。本根壱本にして、大枝三拾六
相見申候。
共、当時不景気に相見、枝数も右の通り無之様
本、小枝八拾八本、合せ百廿四本の由被申候得
出口より四丁位行、信太森立石あり。是より十
本堂前に、慶応四年土州藩堺堅めいたし処、浜
壱里近し
八丁。
手にて夷人を殺害し、申訳のため土州藩十一人
大津 葛葉稲荷大明神。石鳥井、又丸木鳥井、拝殿 泉 郡( 和 泉 郡 )中 村
六間に二間、本社、翁の碑、
切 腹 い た し 候 跡 え、 仏 舎 利 と 云 石 塔 あ り。 右
十一人銘々の石碑は、妙国寺後ロ、宝珠院と真
言寺の裏に石碑あり。堺町刃物并包丁鍛冶店多
葛の葉の表見せけり今朝の雪(霜)
大鳥 壱里余
泉州一の宮 大鳥神社入口、境内 広く、奇麗也。
し。
景気なり。高さ壱丈廻り。
昔の松七年跡洪水にて枯れ、二代め松斗り些不
住吉難波屋笠松
拝殿、御本社極彩色。是迄山中に有之神社なれ
一里半
共、御一新後此地え遷座ましく たるよし。
堺 菅原天神、石鳥井、大門、随神門、拝殿八間に
入口そり橋、石の角鳥井、是外社に無之物のよ
住吉大明神
り。亀沢山をる。名木の松あり。此処境内広く、
し。御本社四社何れも白木造り、檜皮ぶき、唐
三間、御本社、絵馬堂、末社莫大也。右に池あ
至極奇麗なり。
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91 明治七年の旅
戸は金に松に鶴の絵也。角鳥井右の方に、嶋津
被下たるよし。但し壱坪壱両。
六月八日 晴天
宿、道頓堀南詰河内屋庄右衛門、弐朱三百文
誕生石と云あり。是薩摩様御先祖此処にて御誕
生被成し時、奥方石にもたれ御産に依て誕生石。
九日昼より、
西、東本願寺参詣。本堂十五間四面。外に板椽
薩摩様御普請也。社内広し。又水茶や、即席料
理茶や、結構至極の景地なり。夜灯多し。此処
二間半。又高欄外板椽弐間半。両寺共同間とり
なり。乍去西本願寺普請結構なり。
より道頓堀迄五拾丁。
天下茶屋 昔林兄弟敵打せし処なり。此家にゼサ
天子様慶応四年御入の御座敷、又秀吉公御座敷
焔魔堂、清水観世音、清水不動、当国廿五番札
広 田 明 神、 蛭 子 太 神 宮、 安 居 天 神、 合 邦 ケ 辻、
十日、案内者頼、神社、仏閣参詣。先金比羅権現、
あり。其外秀吉公の宝物あり。蟠竜井、太閤様
処、掛作り舞台有之。景地の処なり。
イ薬あり。
御茶の水、此処より汲しとなり。
大坂御陣の節家康公御本陣被成候茶臼山跡え御
一心寺
聊残れり。高き処にあり。秀吉公臣富田左近将
建立の寺也。前に本多出雲守(朱で傍書「平八
天下茶や前、岸の姫松と云松原、今は畑に相成
監切腹いたし場処候。今研罪場(刑罪場か)と
郎忠勝嫡子」)殿墓五輪なり。
石鳥井の額小野道風筆、弘法大師念仏堂、元祖
天王寺
相成る。大坂入口近く右高き処、土葬場六万坪、
又大坂北手に六万坪有之よし。右土葬場被下た
るよし。是火葬御廃し相成候に依て、右土葬場
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明治七年の旅 92
に八間弐重屋根、御本尊如意輪観世音、御堂下
塔たるきなし。極彩色高さ弐拾五間。本堂拾間
円光大師堂、山門、大門左右廻廊、経蔵、五重
和光寺。堂前に難波池。是信州善光寺如来、
義光、
天満天神。砂持とて賑敷事いわん方なし。
御城。造幣寮と云、かね吹場也。
省屋敷。
ジヤ
義助網を打、此池より御出現なり。右池の中に
より水涌出、清水不動尊滝水と成由。又蛇の井
戸と云あり。六地蔵堂。
教光閣と云堂あり。亀沢山なり。寺中に金比羅
権現社。川口運上所、夷人屋敷、松嶋、揚屋町
廿三番札所勝尾寺
御本尊釈迦如来。薬師堂前に池有。亀沢山。上
未普請最中、甚賑かなり。
天満橋、百十五間五尺。
エ石橋。其上一段高き処、年々二月廿二日、聖
徳太子御祭りの節能舞台也。元山大師堂、薬師
天神橋、百弐拾間三尺。
磁しやく橋、ソロバン橋、四つ橋
堂。此外堂塔数有え候え共、略す。何れも堂閣
生玉明神。長床本社能宮也。後に掛作り舞台。大
高麗橋、鉄橋なり。長さ四拾六間。
浪花橋、百拾四間六尺。
坂八分通り一目に見渡し、景地なり。
心斎橋、欄干鉄なり。
立派、七堂伽藍也。
高津宮。右に仁徳天皇御製、高きやに、此をん歌
十一日道頓堀角ドの芝居マス二タ間、代弐両に。
歌の梅これなり。
キ俤。明け六つより夜五つ迄。〆十二幕。
狂言、忠臣蔵大序より九段目迄。切に隅田川続
大 舟 帆 上 ゲ 通 る 時 橋 中 よ り ひ ら く な り
の旧跡。社のわきに古木の梅、是は難波津に此
高倉大明神。六角堂其外末社并鳥井莫大也。教部
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93 明治七年の旅
判官 おかる 千両 法界坊 市
川右団治
同亡魂 本蔵
右馬之丞 千
両 実
川八百蔵
堀部弥二兵衛
番頭庄八
渡し守 おかん 八百両 千太郎 片
岡我童
手代要助 実は宿住之助 由良之助
伴内 無類
平右衛門 尾
上多見蔵
道具や甚蔵
足利公 九百両
嵐
勘平 璃寛
戸なせ
師直
九太夫 千両
九段メ 市
川蝦十郎
由良之助
主膳
十二日、道頓堀芝居、三マス代。
狂言、忠臣いろは文章付り桂川連理柵上中下
判官
十太郎 ミノヤ
清助 千両 数右衛門 嵐橘三郎
平右衛門 又之丞 デツチ
長吉
安兵衛
杢右衛門 千両 喜多八 実川延若
長右衛門
師直 喜内 七百両 定九郎 市川荒五郎
堺茂兵衛 中村千賀助
由良之助
本蔵 千両
塩山与左衛門
元助
半斎
若狭之助 九百両
源蔵 中村芝雀
カホヨ
ヲキク 六百両
ヲリン 中村紫琴
ヲカツ
同十三日、買物、荷箇り旁休息す。
同十四日、松島川口より、蒸気船飛燕丸に乗。舟
賃壱人前壱両壱歩、丸亀迄の定にて、宿え渡す。
請取手形松嶋船宿え渡し、舟宿の手形蒸気より
上陸の節、船中え渡す。塩差引のため、八つ半
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明治七年の旅 94
時より乗出し、壱里近く行ば、天保山を左りに
して通る。無間も海に出れば、浪高く大に心配
いたす。依て神戸え船を寄せ、夜を明す。あけ
六つ時より乗出し、左り淡路嶋の岸を通る。
右淡路島、六万石徳嶋の臣稲田九郎兵衛殿。
浪静に相成候得共、差汐のため果敢取不申、夜
大坂より五拾里
四つ過より昼過迄雨
九つ頃讃州多度津に着。
六月十五日
多度津
高見屋平五郎、朝一飯代壱朱。
多度津より拾丁
元京極壱岐守殿壱万石。船付にて随分よき処な
り。
弘法大師氏神
八幡宮。額多し。
屏風浦
海岸寺。
奥の院、大師堂。
入口海辺松原也。御本尊弘法大師、両脇御父母
の像。右御開帳、壱人前壱厘づゝ。御堂前に産
水の井、浴衣掛松あり。
三十丁
大師守本尊、虚空蔵堂。此堂より弥谷寺迄、甚嶮
岨の山坂也。
弥谷寺 本堂六間四面。脇岩に彫付給ふ弥陀、勢至観音
あり。二重塔あり。少し下り、弥谷寺壱人前弐
厘づゝにて、大師学文の間并岩やあり。前獅子
四拾丁
口と云。大門前に大金仏あり。
善通寺 入口廿日橋と云石橋。仁王門左に石の大塔婆。
本堂八間四面。弘法大師御誕生所。
大師降誕、従宝亀五甲寅の月十五日、明治七戌年
迄一千百壱年になる。
大師御入定、従承和二年卯三月廿一日、至明治七
戌年、一千四拾壱年。
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95 明治七年の旅
善通寺前壱丁程はなれ、大宝楼閣堂、本尊薬師如
山掛候て帰り百丁
来。釈迦堂。五重塔未だ普請中にて、下の弐重
出来。七堂伽藍也。
金刀比羅
麓より山上迄八丁
六月十六日八つ過着。天気
やね。極彩色結構至極。左に石立神社。
御轡殿、八間四面位、奉納額多し。
絵馬堂、八尺タメシ七間に巾九尺タメシ二間。額
并舟其外額いろく の奉納もの莫大也。前に唐
銅の御神馬有。
菅公社、津嶋社右谷合に御池あり。其外末社多し。
堂。爰より御札、御守り出る」)
光院神職也。御朱印元三百三十石。左に御神馬
(
「麓より」の行から左の上欄余白に横書き「剛
籠多し。丸亀迄の間、鳥井弐つ、又丸亀入口に
四方、高さ十五間も有之よし。爰にも左右石灯
にやね橋、又鳥井あり。左り高灯籠、台座八間
翌十七日早朝参詣いたし、夫より支度出立。町中
右象頭山境内と云、立派なる事筆紙に尽し難し。
家数八百。但能所なり。宿屋至極よし。髪月代
宿、備前や幸八、はたご弐朱半
いたし、湯に入支度、登参いたす。入口鳥井、
山門。此所迄色々店多し。是より坂石坂。左右
よし。櫓の数八ケ所位相見申候。舟付にて娠敷
京極佐渡守殿御高六万石の城下、山城にて見入
丸亀
一の鳥井有。
六月十七日 半日雨四つ頃着。
百五十丁
石の玉垣。内石夜灯、御本社迄之間数不知。石
アカヾネ
立派なり。唐銅鳥井。三穂津姫社。津嶋社。
処也。御城前に鎮台屋敷、
西洋造り普請最中也。
鳥井。大雷 社。旭社十間四面二重 銅 やね彫物
御本社金刀比羅大権現、六間に奥行。ひわだぶき
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明治七年の旅 96
入口石鳥井。石坂少し登り、随神門、唐銅鳥居、
当所旅籠屋至極よし。
当処え着いたし候と、船出し候様談じ候処、些
鐘楼。
宿、福嶋丁橋筋伊予屋安右衛門
風合もあしく候間、風の直り次第出舟いたし可
乗込なれば壱人前壱朱のよし。四つ時より船に
の間と申処、五畳敷借切、代壱両壱歩相定申候。
今船出可申と被申候間、支度いたし、尤舟賃胴
(草創)、別当連台院。
あり。本社左に大菩薩堂。此宮大同元年に草々
塔と云。絵馬堂の中に御神馬、脇に唐銅の神馬
右に観音堂。少し山の上に二重塔、瓦屋根多宝
瑜伽大権現御改号本社由加神社、ひわだぶき。
乗、少し乗出し候処、雨模様に付、碇をおろし、
藤戸
申と被申候に付、差扣居候処、其夜五つ頃、只
翌十八日朝よりこぎ出し、備前の国田之口え八
天城 此処にて昼飯。
ナヅ
撫川 壱里
備前、備中国境
早嶋 弐里
藤戸と川壱つにてへだつ。
三里位
藤戸寺と云あり。寺中に佐々木三郎盛綱の五輪
壱里
アマギ
つ過着。舟路七里、船は心の儘にならず、閉口
丸亀より舟路七里
塔あり。
いたしたる者也。
田之口
此所え金刀比羅一の鳥居あり。又此処宿屋甚悪
し。瑜伽山え行て泊るべし。小倉真田帯店多し。
瑜伽山
六月十八日 天気
宿、志まや為八
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97 明治七年の旅
此宿中より吉備津宮え分れ道。壱里巡り。
六月十九日
宿、京橋西中嶋よしのや助次郎、弐朱
備前一の宮より五拾丁
麓宮内村と云。入口石鳥井。少し登り、左右大
松 平 内 蔵 守 殿 御 高 三 拾 壱 万 五 千 弐 百 石 城 下 也。
岡山 高灯籠。夫より巡廊。内宮脇に吉備の中山細谷
家数弐万軒。町中に京橋と云六十三間の橋、又
備中壱の宮国弊社吉備津宮
川古跡と立石あり。内宮社より本社迄の間百八
弐里
弐里
拾間余の橋弐つあり。
藤井 拾間の廻廊あり。此間に末社多し。
本社 拝殿五間四面
出口よし魚川いた橋、壱人前六厘づゝ。此合に
一日市
誠に大社也。秀吉公時代迄六万石の社。其後百
長舟村と云あり。是備前長船と云名刀此地より
前に五間に十五間の長床あり。山門懸越なり。
六拾石に相成由。爰より三拾丁行、
出たる由。是より行ば、大内村と云処の元庄や
東西三拾間余、南北拾間余、誠に珍ら敷松なり。
一井某の庭前に、
臥竜松と云名木有。高さ弐丈、
長床に元禄年中の額多し。尤書替近年いたし候
道端に、日本一臥竜の松と看板有り。壱丁の廻
備前、備中国境、此辺入合地と相見候。
備前一の宮吉備津宮
得共、画の 図は古風にて面白し。 社人大藤内、
りなり。合に伊部村と云所、備前焼やき物出所
六月廿日 雨
也。
是曾我物語の吉備津宮神主大藤内の子孫なり。
備後にも有之。三吉備津と云。此処より聊行ば
中国海道になる。
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93799日本文化学最終.indb
明治七年の旅 98
片上
弐里余
御城下は小さけれ共、石垣等十分に有之、堅城
弐里
稲荷宮有之。大石桜と云名木有之。城下家数弐
斗り残れり。瓦屋根にして二つ巴の定紋有之。
に相見申候。丸の内に大石の屋敷跡有之、長屋
壱里近し
宿、嶋屋冨太郎、弐朱百文
福山
千軒たらず。淋しき処也。当所塩焚事沢山なり。
三つ石
此所蝋石細工の名物なり。是より赤穂城下え廻
又城下にて焼塩色々形にもり、箱詰いたし売出
より舟渡し壱人前拾文づゝ。
名物也。出口拾間斗の橋、又四拾五間の橋。夫
る。五拾丁行。
備前、播磨国境
六月廿一日
四里
合の宿、那波。
半道
百五拾丁
片嶋 壱里半
宿、糀屋弥助、弐朱
正条 赤穂
森越中守殿、御高弐万石。町中に浅野家御菩提
鵤 (斑鳩) 鵤より弐里位行、青山村より書写山え廻る。
イカルガ
所、台雲山花岳寺、本堂左りに浅野家御代々御
位牌あり。 本堂前左りに、義士四 拾七人木像。
書写山麓なり。是より山上迄十八丁山坂なり。
壱里
右土蔵造り 堂。右開帳頼、壱人前 五りんづゝ。
入口石鳥井。絵馬堂額多し。夫より堂社数多有。
西坂本 内匠頭公并義士の墓石のさく巡し置。此前に忠
石のそりはし擬宝珠、本多美濃守寛永何年奉納
正面大石の守り観世音。前に内匠頭公御位牌有。
義塚と云有。寺内に松の大樹弐本あり。名木也。
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93799日本文化学最終.indb
99 明治七年の旅
とあり。脇泉水鯉亀沢山なり。
案内頼み御城拝見いたし候処、痛み候得共、太
垣タカク、中々に相見申候。尤天守櫓高さ五拾
閤様御築被成候城なれば、櫓数十五も有之、石
本堂、南向。左り甚五郎の作。十三間四面、八
間位、往還壱里先より見へる。御殿は県庁に相
書写山、西国廿七番札所
尺間九間四面也。かけづくり。本尊十一面観世
成申候。
と云。
御宿 五拾丁
同廿四日 出立
城下出口大門有。無間も土橋三拾間位、市川橋
同廿三日 逗留。四つ時少々雨降る。
なり。さしわたし六七間位。中々能松なり。
しん高さ三間、枝は一段ひきく、先笠松と云様
本堂拾弐間四面、
立派なり。寺内に亀居松とて、
一向宗御坊
也。末社多し。
長床、拝殿、本社、大門ひわだぶき、金具滅金
射楯兵主神社
音。脇に岩屋の拜処あり。左りより弐丁斗り登
り、
奥の院
此宮も大社也。是迄参詣いたし候札所の伽藍随
壱也。是より麓迄帰る。
国印、弐百五拾石
坊、六七ケ寺
麓に帰り、麦飯空飯(空腹)凌ぎ喰候処、日暮
れ相成申候。
書写山麓より五十丁
六月廿二日 天気 六つ半時
姫路 福中町馬借前、茶屋瀬治郎
酒井雅楽守殿 御処、十五万石、家 数壱万軒位。
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明治七年の旅 100
壱里
宿中に天津橋と云欄干共石の橋あり。
豆崎 壱里
出口より播磨名処道え入る。
曽祢天神社
本社奥行九間。拝殿巾十間に三間半。御神木実
生曽祢松。昔の松寛政年中枯木に相成、今堂の
内に有。左りに絵馬堂。
二十二丁
拾弐丁
如斯崇め奉る也。誠に不双の名木なり。
高砂 拝殿八間に四間、前に能舞台あり。
本社。爰に高砂の松あり。是三代なり。中山大納
言忠尹卿の歌に
むかしより世には所の名も高砂の
松のみどりのさかへ久しき
此高砂と云所船付にて、娠敷処なり。家数も弐
千余と云。家作り相応也。船場に問屋の土蔵に
石の角三間半四方、丈ケ弐丈六尺。右石の上に
可有之、百間の土蔵あり。出口高砂川板橋。弐厘。
石の宝殿
松の木あり。稀成拜所也。
十八丁
入口随神門。右尾上鐘、竜宮伝来の鐘なり。拝
尾上松 右、小名彦名命、此山にとゞまりて、高御位大
殿五間に三間、瓦屋根。
前に社
明神と号す。
右二神御心を合せ、陰陽の御宇を現じ、五十余
瑞一の霊松なり。此松三尺位上より相生にわか
に都恋しき片枝の松とて名木あり。尾上松日本
御本社住吉大明神、弐間に三間、こけらぶき。脇
丈の岩を切抜、一夜の内に二丈六尺の宝殿を作
れ、誠の尾上の松とは此神木なり。
左、大巳貴命、生石子大明神と号す。
らせ給ふ。頃は人皇三十七代孝德天皇の御宇に、
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101 明治七年の旅
日本瑞一尉姥現じたる枯木、御供所に有之。此
八丁
処四丁四方の松林なり。
明石城下 弐り
松平兵部太輔殿八万石なれ共、拾万石の格式な
り。町家数五千軒斗りのよし。帆木綿出る所な
り。
浜の松
拝殿五間半に弐間半、瓦屋ね。
町外れより人丸の社え入る。
此脇に、
石鳥井、切石坂をあづま坂と云。又石鳥井あり。
人丸山
御本社浜之宮天満宮、弐間に三間、こけらぶき。
前に能舞台あり。右に加古の松と云名木あり。
此社地八丁四方の松林なり。
六月廿四日
八丁
かげたのめ此涼しさの柿の本 千尋
と有。随神門、右御神楽殿。左り人丸の石碑あ
宿、川西や吉平、一貫八百文
り。松平日向守源信之建之。明石城主なり。右
別府
同処に住吉大明神、手枕の松と云名木あり。出
絵馬堂、額多し。拝殿、六間に二間半、瓦やね。
壱り半
かげたのめ此涼しさの柿の本 千尋
入口切石坂をあづま坂と云。鳥井あり。脇に、
き、抹消)
(「かげたのめ」からここまで横に一本の線を引 正一位人麿太神宮、弐間四面、ひわだぶき。
口別府川船渡しあり。弐厘づゝ。夫より十丁位
行、阿閇社四社明神。左り甚五郎作。前に絵馬
壱り三十丁
堂并あへの松と云能松あり。
長池
此処西国海道往還なり。
大久保
20:52:30
2010/04/02
101
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明治七年の旅 102
成るよし。今もねばいの若桜あり。側に、月照
作りたる名木あり。此桜赤穂士間瀬久太夫鉢植
大門前に、
蛸壺やはかなき夢を夏の月 芭蕉
随神門、右御神楽殿、左り人丸の石碑あり。松
の梅なり。大石と同道して此寺に参り、大石内
寺と云禅寺あり。本堂前に八つ房の梅、船形に
平日向守源信之建之。明石城主なり。
蔵之助良雄植付被成候梅也。
蔵尊春日の作。随神門前に奇麗なる茶やあり。
直筆の鍾馗、其外有。略す。御本尊脇に千躰地
号石、忠度公肖像、同公よろひ、大石内蔵之助
同寺に宝物
人丸明神石の帯、菅相丞真筆、法然上人爪書名
拝殿六間に弐間半、瓦やね。
正一位人麿太神宮、弐間四面、ひわだぶき。本社
前に盲杖桜と云有。脇に建札有。筑紫国より盲
人詣して、神前祈誓掛、三七日籠りて、其時詠
し、
ぐ と誠明石の神ならば
ほの
目の下に淡路嶋、ホノコロ嶋、舞子の浜見ゆる。
壱里
半り
景色よし。少し下り、忠度公の墓。
一目は見せよ人丸の塚
垂水 タルミ
二十丁
り。明石出口より並木松原、絶景の海道なり。
此処に庄内川北佐藤与之助築立たる御台場あ
大久良町 昼飯
舞子浜 如斯にねんじ候へば、一ト目は拝し候得共、又
如元の盲人と成給ふにより、又一七日籠りて、
ほのぐ と誠明石の神ならば
我にも見せよ人丸の塚
如此詠じ候へば、両眼あきらかにして、右持参
の桜木枝爰にさし置、根付候。五百有余年に相
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103 明治七年の旅
丁行、
敦盛の墓あり。五輪塔なり。前に茶やあり。
仲哀天皇様五色塚。千壺の塚旧跡。是より五十
ごゑと云。義経勢揃い松。大坂合戦の節百姓こ
行平月見の松、鉄かいケ嶺。此浦惣てひよどり
平礒馴松、源平咲分けつゝじ、安徳帝御館の跡、
やかけ谷。弁慶鐘懸松。
蕎麦を売る。繁昌也。右蕎麦売番頭口上に曰く、
そばはあつ盛、塩梅はよしつね、熊谷の大茶
九郎判官、うどんは色の白ひ玉織姫、酒は一
云。
上野山福祥寺と云。本尊観音は海中より出現と
二り
の谷源平つゝじ、諸白熊谷の大盃で、一杯呑
当寺宝物
須磨寺 ば、顔は弁慶、御茶はせつたひ、薩摩守忠の
青葉の笛、弘法大師の作。
碗にていかい山盛り、夫をしりつゝいくらも
み、座敷は千畳敷、泉水には帆かけ舟、紀州
ふかねども音につたゑて笛竹の
世々の昔を思ひこそやれ
熊の浦迄やりつぱなし、
名物も喰ねばならぬ須磨の浦
谷連正(蓮生)の筆。同甲冑緋をどし金くわが
をのれ跡なき庭の白雪
音寿丸
庭雪 よしやまた問れても又なぐさまん
たなり。同手跡。
高麗笛、学祐僧正ノ作。敦盛十五歳の画像、熊
あつ盛蕎麦を喰ふて弥陀六
大喰の御客は茶屋の義経、喰いにげは跡から
武蔵坊。
ケ様のしやれ口上を高々と云。一興也。此茶屋
より古戦場の案内者つれ、壱朱三百文。三の谷、
経盛最後の松、二の谷、一の谷、源平戦浜、行
20:52:30
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103
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明治七年の旅 104
寄松祝言
みどりなる松に千歳の色みせて
ひさしかれとや軒の山風
赤籏の名号、法然上人の筆。
為敦盛空顔憐清菩提書之 源空
音寿丸世にこりすまでたへいりて
弥陀のはちすにともに生るゝ
母呂緒、蓮生法師之作。
行平月見の松。網しき天神。
壱里半
松風村雨の古跡。小社よき松あり。
六月廿五日 雨昼より
兵庫 宿、はたご丁豊島や嘉兵衛、弐朱半
日本無双の大湊にて、大坂より日々出入の舟数
多ありて、繁花の地なり。築嶋一里程海につき
出したる也。
来迎寺、本堂白木造りにて立派也。六丁西に清
重ひら生捕れの松。
須磨の関屋の古跡。
神宮皇后つりざを竹。
忠度卿行暮れての歌も是なり。
心経具足あみだ仏かき
若木の桜、弁慶の制札書たる也。
軒ならべ莫大なり。相生橋、長弐拾間位。魯人
大なる御普請なり。橋渡りて福原町、左り揚屋
出口湊川両側石垣皆出来に相成不申候へ共、莫
間位の家三つ有。土蔵数多し。
築嶋に船問屋北風庄右衛門と云分限有。間口六
寺あり。
盛の塚大いなる石十三塔也。脇に八棟寺と云庵
敦盛首塚。同木像堂内にあり。
エンノルテンステツ作。橋材桧土佐国産。橋台
法の水墨と硯でかきをくも
大門の額は敦盛の馬だらひなり。
20:52:30
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105 明治七年の旅
石備前国産。同煉火石和泉国堺。右橋の下蒸気
書候よし。石碑の裏に正成公木像あり。
相成、其節楠公を御ほめ被成候いわれを裏書に
生田
車海道に付橋になる平地の所也。誠に驚き入た
る事なり。
箙の梅あり。又鳥井の脇に梶原ぬけ井戸あり。
生田明神の社大社なり。向て左の方に梶原源太
以前は村に候え共、当時横浜同様の交易場なり。
神戸
市中娠敷、浜手に異人館数しれず、実繁花の湊
当社宝物
神宮皇后の御釼并御鏡
也。
り。
末社とも白木也。境内左右水茶や、料理や抔あ
本 社、 白 木 造 り、 ひ わ だ ぶ き、 金 メ ツ キ 金 具、
大門。七五三柱、角石、相撲取陣幕久五郎奉納。
知盛の書翰、弁慶書翰
後西院御歌
後陽城(成)帝の震筆
平家城門の瓦如図(図は無い)
竹内宿祢寄付の鉄鈴
越前三位通盛卿の甲冑紺糸をどし
楠正成公墓、御影石にて台座亀也。四方石のさ
高野権中納言御箙梅御墨付
官幣大社楠公社
くまわし、中に、
景季の歌
小野道風の額
布引滝 十三丁
万代にあふぐや楠の霜ばしら ばせを
石碑の面、水戸黄門公の御筆也。裏は唐人の筆
なり。此唐人元禄年中の頃、水戸様え御召抱に
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明治七年の旅 106
来、宜敷成由。乍去参り不申候。往還筋求塚あ
大名よりも奉納もの数多有。芭蕉の碑、
町中にエビス宮社あり。立派なる大社なり。諸
り。又側に小田太郎高家、新田義貞の身がわり
春もやゝ気色とゝのふ月と梅
此処酒造家、当時伊丹、内灘抔よりも、東京出
キレヒ
とて打死したる塚あり。灯明村と云。少し前方
し繁昌のよし。風味いたし候処至極よし。当地
女滝と云たきも有之。当時立派なる旅茶や等出
にあり。
上水にて、灘ミカゲ造り水、此処より樽にて買
舟渡なり。
求候也。町中 より伊丹海道え入 る。合川あり。
六月廿六日 朝あめ
イバラ
住吉
宿、
(数字分余白)弐朱
中拾間に三拾間、此家身上宜候得共、酒造不足
の名産に付、吉田喜平治と云酒造家土蔵一見。
街道浜手にて、道よし。浜手海道灘と云処、酒
七蔵有之よし。から臼四拾二、室三間四面、蒸
三郎と云土蔵も一見。
小西の土蔵拾間に三拾間、
れず、中に小西新右衛門と云酒土蔵、又坂上勘
当処酒の名産、酒造家八拾三軒、酒土蔵の数知
弐里八丁
のよし。此位の土蔵仕込ミ候酒造家、何程も有
米日に十三石九斗づゝとぎ候よし。茶屋にて昼
伊丹 之趣被申候。神戸より西之宮迄五里位の処、酒
飯の折風味いたし候処、西之宮酒よりおとり、
此処に住吉明神の社あり。此処元海道、当時下
土蔵軒ならべと申候。乍去左様には参り不申候。
御一新後潰れ候酒造家余程、当時大体半通り造
りのよし。当処弐千軒たらず、元近衛様御知行
此間雀松原、芦屋の里旧跡あり。
西之宮
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107 明治七年の旅
地なるよし。
神崎 弐里
守口 三里
弐里
河内、摂津の国境、軒ならべにて。
平形(枚方) 合に弐里余行、楠葉村中より八幡参詣の近道あ
出口神崎川舟渡し、弐厘。此河かみ弐里余、酒
の名物池田なり。酒造水川水にて造るよし。又
やはた八幡宮
河内、摂津国境
り。是より弐十三丁、
弐里半
十三川舟渡し、弐厘。又壱つ川有、弐りん。
六月廿七日 天気
大坂 弐度目
同廿八日、逗留、買物。七つ過より、道頓堀仲の
登れば大 門。拝殿、爰に廿四間四 面の廻廊有。
神社、六間に五間、ひわだぶき。夫より四丁程
入口石大鳥井、夫より切石坂、左右夜灯多。尼
芝居、肥前佐賀鍋嶋家猫争動の狂言なり。三幕
此廻廊に金滅金の灯籠五十斗り懸りある。
宿、堺筋松屋源助、弐朱三百文
見る。
御一新後、 黄金のとよ拝見相成不申候(
「淀屋
雄山八満宮
辰五郎納るよし」と傍記)
。裏に神武天皇様御
同廿九日、荷物出し旁船問屋弐本松町日高や半兵
衛え荷物送る。中々叮嚀成問屋なり。
閤秀吉公御建立也。此外阿弥陀堂、薬師堂、二
同三十日、出立。堺筋通り北え行、淀橋(淀屋橋)
重塔抔、御一新後仏塔の分御廃し相成候よし。
みや、若宮、何れも滅金金具にて立派なり。太
東京橋え出、是より西京海道一筋道なり。大坂
を渉、堂嶋と云相場所一見。娠敷事夥し。御城
出口の町に、掘抜井戸弐つあり。半道程先に、
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2010/04/02
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明治七年の旅 108
石清水八幡共云。
同三十日
麓八幡
頼政の肖像 頼政公鎧兜
伏見戦争の折、不残兵火焼失。其節陣取八幡山
ぬゑを射たる弓 籏竿
頼政公軍頭巾 宇治合戦の掛物二幅
同籏 忠勝蜻蛉切鑓
鎧掛松古木
日の丸名号国光大師筆
脇に佐々木三郎に授文治巳年
徳川家酒井若狭守、摂州高槻城主永井遠江守堅、
頼政公画像
宿、かめや吉次郎、弐朱
八幡山南麓坂本藤堂和泉守堅め、伏見歩兵組辰
此外霊宝、霊仏難書尽。略す。
頼政公御生害被成候古跡也。石に、埋れ木之歌
扇の芝
正月二日戦争始り、同七日迄。
八幡より宇治迄田元道百丁也。合木津川舟渡し、
壱人前四りん。奈良より落る川下なり。
有。又、
ものゝふの名もいかでのこらん
花咲てみとなるならば後の世に
治橋、日本橋の初なる由。乍去近年より舟渡し
江戸佐藤氏定張
宇治 百丁
宇治茶と云名産也。かち道筋茶園莫大なり。宇
なる。川端に菊やと云奇麗成茶やあり。昼飯。
宇治川を渉、右に通円と云茶店あり。右通円と
と有。
入口廓門構、脇に阿弥陀堂、宝物見料壱人前百
云人は、今より十八代前の先祖なるよし。同人
平等院
文。
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109 明治七年の旅
茶を立候木像あり。又、
開山隠元禅師大和尚六角堂開山堂
藤森、此処ニ泊り処無之、六地蔵え参り、宿せん
黄檗山万福寺、四百石、黄檗宗本山なり。
釣瓶由緒
太閤秀吉公、伏見御在城の砌、為茶湯御用水宇
さくいたし候え共ふさがり、
伏見え夜五つ頃着。
壱里余
派なり。絵馬堂并末社。石夜灯多し。
鳥井。大門。石の大鳥井、丈ケ四間位。本社立
御香宮
泊、和泉や伊助、弐朱三百文
伏見 七月一日 雨
治橋於三の間被為汲候釣瓶、当家什宝也。模其
形水注茶瓶造之。
通円十八代の孫政喜
右釣瓶、一見古びたる物也。此家にて釣瓶形の
土瓶并茶碗、茶器等品々売。
興聖寺
奇麗なる寺也。門は上ゲ土門。
藤森社、弐百石
舎人親王御霊を祭る。当社は神護慶雲年中の垂
三室戸寺
西国拾番札所なり。巾七間に六間。本尊千手観
跡にして、天応元年モウコより軍賊来りしとき、
馬あり。又大将人形をもかざる。
此例によりて、例年五月五日、甲冑を帯して走
祈誓して、五月五日出陣し、モウコを追退玉ふ。
早良親王に勅して退治せしめ玉ふ。親王当社に
音。寺内奇麗なり。
黄檗山
大門
山門弐重瓦やね
天王堂
大雄宝殿
獅子吼
威光殿
禅悦堂 祖師堂 伽藍堂
20:52:30
2010/04/02
109
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明治七年の旅 110
官幣大社伏見稲荷社、百六石
り。
四大神。
所五社、大山祇命、土祖神、倉稲魂命、田中祠、
殿には本尊あみだ仏。
諸嗣(緒嗣)公再興ありて天台となし玉ふ。仏
始は弘法大師の開基。其後文徳帝御宇、左大臣
泉涌寺
例年二月初午の日、京近在の男女群参す。例祭
四条帝以来代々の帝、当山え葬奉る。陵は神主
人皇四十二代元明帝和銅四年出現し玉ふ。祭る
四月初卯の日、京松原通より下を氏子とす。京
殿の前にあり。
に大矢員の場所あり。
棟木六十六間通しの柳木也。千躰仏有之。後ロ
三十三間堂
西国十五番札所。
今熊野
三祭の一つなり。
日本惣社稲荷大明神。何れも朱塗金滅金の金具
なり。末社多し。奥の院壱丁程の間に朱塗の鳥
井合て三百四十七あり。日本稲荷の官位此社に
出る。
下京になる。
前の石垣と釣鐘、豊臣家奉納の品残れり。右つ
大仏殿
後嵯峨帝寛元元年、九条関白道家公建立、開山
りがね、ふち八寸五分、渡し九寸(九尺)三寸
東福寺、千七百十四石
聖一国師。七堂伽藍本尊の後壁の画兆殿子(司)
なり。大仏は奈良より大きく候得共木仏也。
同二日 八つ頃雨
と云。此寺に同筆の涅槃像の大幅あると云。通
天橋谷の上にかゝる廊なり。廊下紅葉の名所な
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2010/04/02
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111 明治七年の旅
京都
曇る
休足
宿、六角通り堺町西に入、小刀屋伊太郎
同三日
上段の間
天子様御入の御座敷なり。縁側より権現様御霊
屋見ゆる。何れの間も狩野家名人の筆なり。御
庭泉水誠に奇麗なり。此外御屏風何も惣金結構
凡日本一の大釣がね。
南禅寺門前ヒヨウテヒ(瓢
同四日
寺中の内先求院酒井家の菩提寺御霊や拝す。忠
亭)と云茶やにて昼飯。風雅なる座敷にて何れ
至極、筆紙 に尽し難し。本堂右に 釣鐘堂あり。
次公御束帯の御画像なり。其外御代々御位牌あ
も茶室構ゑ也。
花頂山知恩院 浄土宗惣本山也。
り。
南禅寺
大門山門前に佐久間玄番頭寄付の石の大夜灯弐
山門、二重瓦屋根。上ゑ釈迦如来。左右十六羅
漢。天井廻り極彩色。本堂南向、二十七間四面
つ、内壱つは尾州熱田の宮に、何頃事か飛と云。
法師自作の像。敦盛画像。三重塔。日本三文殊
勢至堂法然上人の廟塔なり。熊谷堂連生
(蓮生)
浄土宗四ケの一本寺也。元祖円光大師の旧蹟也。
黒谷光明寺
南に滝三つあり。那智山の滝をうつすと云。
若王子
なり。垂木の間にからかさあり。御座敷拝見の
間に鶯張の廊下あり。
鶴の間 竹の間 桜の間
鴈の間 菊の間 桐の間
爰に雀飛抜の跡あり。
鷺の間
唐模様の間
爰に居直り鷺の跡あり。
20:52:30
2010/04/02
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93799日本文化学最終.indb
明治七年の旅 112
の其一なり。鎧懸松。
極楽寺真如堂
天台宗。本尊阿弥陀の立像、慈覚大師の作。
永観堂
往古、清和天皇勅願処なり。
獅子ケ谷(鹿ケ谷)安楽寺
本尊勢至観音運慶の作なり。後鳥羽の院愛妃、
松虫、鈴虫姫の五りん塔あり。
銀閣寺
禅宗、足利八代義政公の別荘也。御座敷墨絵名
筆の画也。四畳半茶室は、是日本の始なり。爰
に二重の高閣あり。上を心空殿、下を潮音閣と
吉田社
本社八角ひわだぶき。南脇に六十余州の神祇勧
云。庭は相阿 弥の作山水にて、名高き庭なり。
比良木大明神
なす。清水涌出る上にて酒盛す。
其清水なる事云んかたなし。甚暑の砌遊客群集
結構の宮也。但加茂川の水此処より涌出る也。
下加茂大明神
やあり。
社前五六丁の間をたゞすのもりと云。能料理茶
下加茂
当山開基足利八代慈照院義政公御木像。
請あり。内外太神宮あり。日本最初神祇。
竹田稲荷
陽成院陵あり。
東北寺
和泉式部軒端の梅あり。
熊野権現
講堂(革堂)
十八番(十九番)札処。
七月五日
知恩寺百万遍
20:52:30
2010/04/02
112
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113 明治七年の旅
撲屋と云茶屋にて昼飯。前に高の川あり。夫よ
し。縁結の木と云、四間程上、枝くつ付居。相
右に阿弥 陀堂、本堂より廊下続、十五間四面。
のまま)
西六条、本堂巾廿三間、奥十八間、畳数(余白
西本願寺
り今出川通り、西陣と云処、錦織物、其外絹布
御座敷にて博覧会。見料弐百文づゝ。器物名筆
此社内え何木納候ても段々比良木に帰り候よ
類家毎に織なり。
座敷御庭弐割かたよろし。北の御門くり物極念
数多し。中に四足の鶏あり。博覧会品物より御
八棟造りひわだぶき、結構至極の宮なり。左右
入秀吉公建立と云。
北野天満宮、五百八十石
廊下滅金の大釣灯籠、同小灯籠、廻廊に数多し。
何れも宜しき宮なり。鳥井前に影向の松、蝋石
名水あり。又傘の亭と云あづまやあり。夫より
御庭山水にして、泉水涌出る。脇に醒眠泉と云
飛雲閣
の夜灯、其外石夜灯莫大也。後に川あり。紙や
御座敷床は、雲隠レの月唐紙山水狩野山楽筆。
白太夫の宮、松王、梅王、桜丸の宮、其外末社
川と云。納涼客多し。
是を詔賢殿と云。中閣の画古法眼元信雷をされ、
柳莫鶴台は秀吉公俗室(浴室)なり。上の床の
平野神社
祭神源、平、高階、大江四姓の氏神也。夫より
間、行茂。冨士三保の松原は秀吉公の筆。床柱
清正公朝鮮より持来りしと云。
は朝鮮つゝじ。右柱はビンロウジ、何れも唐木、
九条様御庭、今は泉水の廻り不残料理茶やなり。
宿え帰る。暮頃なり。
同六日 天気昼より
20:52:30
2010/04/02
113
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明治七年の旅 114
宵山とて、山の中にて囃子有之、通行難成程娠
十一年前焼失、未だ御仮屋なり。祇園祭り山鉾
年出来の品とて立派なり。惣行例(行列)人数、
出立、御神馬三匹、御輿三つ、烏帽子直垂も当
誠に立派なり。夫より上下立烏帽子直垂太夫の
先き棒突、甲 冑の武者三十八人、 籏差物を持、
し。四条川原夕涼み池吉と云料理やの持場川の
供廻りとも、 千三百人余の行例(行 列)なり。
東本願寺
中か、連台の上にて酒盛す。
七つ、人形乗せ候小さき山拾位有之。見物の諸
祇園祭り、四条通り丸三と云家にて見る。山鉾
り。
日に引ぞめ、六日山鉾かざり、七日に引始るな
御祭礼は六月朔日より初る。同日山鉾立る。五
成程祇園の祭りともいふべし。
人莫大也。
是七日迄は四条通りの祭りなり。八日より十五
同七日
昼より、
日迄三条通り祭り也。
瀬戸物買。夫より知積院。
八日
祇園牛頭天王三所大権現
夫より
丸山と云処、料理茶や、何れも掛作り、洛中一
西大谷
入口十五間斗の橋。是目鏡橋と云。親鸞上人の
ト目に見落し美景也。近頃丸山脇に温泉涌出。
水湯なり。夫を西洋ジカケの道具にてわかす也。
御廟所并学問所岩や有。中々能堂也。
次信、忠信五輪塔
湯壺五ケ所有之。中に滝の湯と云は格別よし。
同日七つ頃より行例(行列)の次第
20:52:30
2010/04/02
114
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115 明治七年の旅
大仏後ロ、馬町北側民家の脇にあり。
にて、右の山伏と諸国の咄しいたし、一盃かた
の見にて見物す。
ぶけ宿え帰る。其夜二条新地出火有之、宿の火
西国十六番札処也。大門、山門、田村堂、景清
清水寺
爪切不堂( 爪形観音)、釈迦堂、本 堂前掛作舞
同九日 大雨
芝居見物。狂言。
嶋巡り月弓張 源平布引滝
台也。地主権現、山城札処観音堂、音羽の滝。
大門前車宿り、駒止メ、子安の塔、経書堂、轟
恋女房染分手綱 雪景色廓賑
喜平次 福
しま
新院 市川九蔵
実盛
為朝 重の井 嵐
璃寬
清正 三枡源之助
八蔵
弥惣
左衛門中村歌津右衛門
かな棒引
およね
喜太郎
実川八百蔵
秀吉
真弓の方
沢村曙山
仲居
同十日 大雨
菅公御誕生地脇に産水と云あり。
の橋抔云色々古跡あり。此辺一円清水坂と云。
八坂五重塔
高台寺
秀吉公北の政所御建立の菩提所なり。
東大谷
東本願寺の御代々廟所也。元禄年中再建にて大
地なり。
此日俄雨に合、清水仁王門前に雨やどりいたし
居る所江、四通りの山伏是も雨宿り、熊野の謡
古事抔咄し、漸小雨になり、下川原え参り候節、
大雨ふり出し、依て祇園くりめしをたふく茶や
20:52:30
2010/04/02
115
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明治七年の旅 116
東寺
同十二日
拝殿長床何れも白木造り、ひわだぶき、金具滅
梅の宮神社
祖也。七堂伽藍、五重塔は日本一の大伽藍。寺
金、境内奇麗な り。門前にまたぎ 石と云あり。
真言宗本山にして、伝法院と云。弘法大師の開
内広し。杜若、蓮沢山有。東寺の羅生門と云共、
子なき女此石をまたぎ信仰いたすと云。
造酒家祭る神社也。
松尾社
昔の場処当時畑の中に石居斗り残り居候由。(上
方余白に「五重の塔高弐拾九間、横五間四方な
り」と横書き)
嵐山
前に三軒茶屋と云あり。前に大井川、嵐山渡月
本圀寺
仁王門、五重塔、清正公同一類の墓あり。日蓮
の橋見渡し、景色よし。此大井川の下はかつら
弓之助
ガマ仙人
中村七賀助
市
川荒五郎
小き社四社、竹やぶの中にて、古びたる社也。
野々宮
定家卿山荘并木像あり。
小倉山二尊院
山門、弐重塔、何れも瓦屋根、
大地(大寺)なり。
嵯峨清涼寺
川と云。
宗本山也。
大通寺
六孫王経基社
実川延若
嵐
橘三郎
是より嶋原角徳(角屋徳右衛門)行、大酒盛。
同十一日 晴れ
芝居見物。狂言、児雷也譚
児雷や
フキ太郎
20:52:30
2010/04/02
116
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117 明治七年の旅
小室御所
五重の塔あり。寺内桜多し。
金閣寺
山城の国一の宮の由。年中御祭式多し。中にも
五月五日競馬、朔日に足揃あり。六月朔日能あ
り。本社前に清き流れあり。橋楠弐枚石になる。
毘沙門堂え麓より八丁登り、坂入口仁王門掛作
鞍馬寺
宇応永四年、将軍足利義満公造立、三重の楼閣
り惣門其外堂あり。
禅宗鹿苑院と云。衣笠山の麓なり。後小松帝御
なり。第一を法水院、三尊仏を安置す。二重の
目を究竟頂と云。此床板三間四方一枚板也。四
大僧正杉と云三つまたの大木あり。牛若背くら
新らしき堂にて立派なり。夫より三丁位登り、
毘沙門堂
壁こどゝゝく(ことごとく)金箔を押す。故に
べ石、又僧正ケ谷、牛若稽古場あり。魔王僧正
閣を潮音閣と云。自然木の観音を安置す。三重
金閣と云。閣の三方大池にして、其風景目を驚
を祭る堂あり。是より貴布祢えかけごし。
寺町通り本能寺
小社なれ共神鎮びたる社也。
貴布祢明神
かす。昔は寺中広くして、惣門は紙屋川にあり
しとなり。龍門の滝、寒の水キンカン泉、足利
公の御茶の水也。夫より少し地高き所に茶室あ
り。天天(天井カ)床柱楠、天井一枚板、当年
戒名、惣見院殿贈大相国一品泰巌尊儀
近年出火にて御仮寺也。信長公石碑あり。
十三日
天正十年午六月二日
出火にて、未だ普請中也。日暮相成宿え帰る。
上加茂明神
20:52:30
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明治七年の旅 118
禁裏御所
十四日 天気
祇園祭り。
双輪塔、金なりと云共、左にあらず。高弐丈六
尺、廻り八尺、石柵外堺也。是王城の鬼門を守
るものなるよし。
重唐銅屋根。是より左は京都道、右やせ鞍馬道。
伝(転)法輪堂、是にて登り詰、跡下りなり。弐
同十五日 天気
荷物取調。宿元勘定。
夫より少 し下れば、開山伝教大師堂、釈迦堂、
開檀堂但五間四面。
比叡山 廊ひわだぶき、御本尊観世音菩薩。
十五間朱塗、繰物極彩色唐銅屋根なり。三方廻
も の 極 彩 色、 御 本 尊 薬 師 如 来。 中 堂 廿 七 間 に
講堂、十八間に十二間半、二重唐銅屋根、くり
五十丁
同十六日
麩屋丁柊屋と云料理やにて、宿元の立酒御馳走
相成。依て八つ過京都出立。比叡山海道御幸橋
壱里
壱里近し
先き迄小刀や見送り預り、夫より、
山花(山端) 同十七日 天気
当山開基伝教大師、唐土天台山を写し給ふ霊山
宿、長谷川屋半兵衛、弐朱弐百文
也。夫より坂本迄かた下りなり。
八瀬
是より比叡山。甚嶮岨成山坂道狭し。難渋。爰
営 結 構、 其 外 末 社 多 し。 山 門、 石 の そ り は し。
坂本、山王廿一社と申せ共、七社なり。何れも造
龍寺と云あり。夫より登れば、
右に、
は裏道、坂本表口なり。廿壱丁登り、元黒谷青
山城、近江国境
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119 明治七年の旅
東照大権現
昼飯
弐拾五丁
叡山より五拾丁
御本社、拝殿共、極さひしき(極彩色)瓦屋根、
坂本
結構至極の造営なり。
唐崎
厚三寸五分。従前女人禁制の所なれ共、今は参
詣成る。三丁斗り行、
西国十四番
如意輪観世音
本堂七間四面、二重瓦屋根、爰に月見御殿あり。
脇に茶屋 有。此処より八景見渡し、絶景なり。
唐崎明神、大伴黒主を祭る共云。湖水へ築出し
石坂下り、坊社多し。寺領四千八百石。
新宮神社
たる地にて、絶景也。爰に名木の松、高さ十五
間、東西四拾間余、南北四十八間、廻り三丈七
大津
粟津
松と云笠松あり。
滋賀県庁管下。当所つゞきの松本村に、呼次の
尺、成程日本無双の松なり。
五拾丁
からさきの松は花より朧にて 芭蕉
大津入口なり。
爰に義仲寺と云庵あり。
三井寺
奥院よりかける。入口仁王門、右に堂あり。縁
義仲公石塔法名
鎌音院殿義山宣公大居士
朝日将軍木曽源公遺跡の碑と云あり。并芭蕉翁
に由緒ありそふ成大釜あり。
伝来の鐘あり。是弁慶叡山に引上し鐘。依て弁
の墓トウ(墓塔)あり。爰に、
奥の院、十間四面こけらぶき。少し高き所に竜宮
慶引摺鐘と 云。高さ五尺五寸、渡 り四尺壱寸、
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明治七年の旅 120
しぐれても道はくもらず月の影 紫金
と有。
壱里
脇に二重塔、其外堂社多し。義朝(頼朝か)公
墓あり。山の端に、二間半に二間月見庵と云あ
り。此所より瀬田の橋、入江島、山田、矢馳の
渡し場目下に見落し、誠に景色よし。真言宗坊
膳所 本多下総守殿、御高六万石の城下也。町家八百
是より八丁余、せたの橋迄返る。合に夢の浮橋、
舎十七ケ寺、寺領五百七十九石。
蛍谷の古跡あり。瀬田の橋、長さ九十六間、巾
軒斗り。家作り悪し。大津より家続きなり。
七月十七日 天気
橋の景色甚よし。
瀬田 弐里
七月十八日 八つ前夕立
三里
石部 松本村にて昼飯。
うばが餅名物。合に左りに百足山近く見へる。
草津 有。草津の入口、野路の玉川古跡あり。
江州一の宮建部大明神社有。俵藤太秀郷の社も
八丁余
四間、小橋は三十六間、遙か向ふに鏡山見ゆる。
石山
宿、柳屋市郎兵衛、弐朱四百文
(上方余白に「石山宿柳やより湖水落口川を詠
めにいたし、酒盛す。川下宇治川也」と横書き
あり)
石山寺
入口仁王門、石坂登れば大石多し。誠に石山な
り。紫式部の石碑、八重桜あり。
如意輪観音
本 堂 十 六 間 四 面、 ひ わ だ ぶ き、 紫 式 部 源 氏
五十四帖を作らせ給ふ所、源氏の間といふ有。
20:52:31
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121 明治七年の旅
宿、てばや金左衛門、弐朱
お半、長右衛門芝居に有之候ではやなり。家は
三里半
古く悪し。取扱ひよし。合に田川村と云所、瓢
の名物也。店多し。
水口 加藤越中守殿、御高弐万五千石の城下なり。町
家千百斗り。家作りあしき処也。
合松尾川土橋賃四厘。
鈴鹿権現、下に両皇太神宮、何れもひわだぶき。
弐里半
又清滝観音岩屋に安置也。向て右に滝あり。
坂本(坂下) 合に四軒茶屋と云あり。前に筆捨山、古法眼筆
壱里半
を投たる所より名とす。山水の景色よし。
関
壱里半
町中に地蔵堂あり。出口伊勢分れ道鳥井有。
七月十九日
亀山 宿、伊セヤ嘉市、弐朱弐百文
此家庭ソテツ精よし。
弐厘(里)
土山 昼飯 此辺茶園多し。段々鈴鹿山にかゝる。あめ(飴)
の名物の村あり。夫より田村明神社あり。入口
廿七丁
弐里
石川日向守殿、六万石の城下也。家作りあしゝ。
庄野 石薬師
唐銅鳥井、一丁程奥也。
正一位田村大明神、五間に七間、ひわだぶき。外
末社あり。夫より鈴鹿山嶺堺。
入口薬師堂有。
二里廿七丁
四日市
近江、伊勢国堺
此処え四五軒茶やあり。夫より下り坂、少し急
合の宿富田にて、焼蛤喰候処、登りの節より風
なり。麓に、
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明治七年の旅 122
味よし。
同廿日
此所絞り見 せ沢山に有。夫より行ば、信長公、
今川義元桶狭間合戦の場、右に小山也。壱丁程
入也。義元 并家臣の石塔あり。又 砂川(境川)
と云所に、
五十丁三里八丁
泊、京屋小兵衛、弐朱弐百文
尾張、三河国境
池鯉鮒
廿一日、舟に乗賃八百文、外に大舟に乗替候に
桑名 付、
弐百文、〆壱貫文。順風にて昼時宮え着致す。
合に八橋山無量寺、杜若の名所。庵寺に業平朝
臣御木像、同御自作観世音、御父阿保親王御木
像有。名物扇筆売。
七里
泊、桔梗屋喜七、弐朱弐百文
かきつばた我に発句の思ひあり 芭蕉
同廿一日
宮
熱田宮、
御本地草なぎ釼と云。入口石のそり橋、
麦穂なみよる潤ひの里 知足
七月廿二日
惣門并拝殿廓廻。
御本社熱田太神宮
岡崎
泊、志貴野や、弐朱
脇宮七社其外末社多し。社地甚奇麗にして広し。
御師八百八軒、神領壱万石。伊勢同様の格なる
軒斗。家作りよし。女郎の名物なり。入口、矢
本多美濃守殿、御高五万石の城下也。家数七千
鳴海
ハギ焔魔堂に、牛若丸の木像、浄瑠理(浄瑠璃)
由。当所女郎屋多し。家作能処也。
なるみ絞りと申せ共、店売一切なし。合有松村、
20:52:31
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123 明治七年の旅
壱里半
新城 長山 弐里
五拾丁
泊、江戸屋長蔵、弐朱
二里九丁
御前の古跡有。又、矢ハギ橋長さ弐百八間あり。
十六丁
藤川 赤坂
入口庚申堂前に、
御油
京に飽て此こがらしや冬住居
芭蕉
菅原新八郎殿四千石、御籏本地也。合に滝川と
出口より豊川稲荷、鳳来寺え別れ道有。夫より
壱里斗行と、石大鳥井、正一位砥鹿大明神と有。
百五拾丁
云渡し場弐厘五毛。新城よりつま上りなり。
二里
泊、布袋屋与市、一貫百文
廿四日 天気
門谷 広き芝草原なり。昔足利合戦有し処なり。
同廿三日 風八つごろ雨
豊川
禅宗円福山 妙厳寺、二重瓦やね、 大伽藍なり。
登り九丁
煙巌山鳳来寺、坊舎弐拾壱坊、御朱印一千五百
繰物美を尽せり。夫より奥院唐銅屋根、造営結
石。嶺薬師八間に九間、赤塗、ひわだぶき。
鳳来寺
構なり。寺内夜灯多し。又万灯堂と云、唐銅の
東照大権現御霊屋、朱塗極彩色結構至極なり。
左方に、
稲荷堂、御一新後叱枳尼天堂、唐銅やね、
灯籠莫大也。其外堂社数多あり。寺の本堂左り
是よりかけ越し、行者返し立岩一丁の間大難所
乍去近年御修覆無之、屋根抔大痛み。
庭甚よき庭なり。寺内に色々店出し有之、誠に
なり。是より四十丁斗下れば大野川、水不足に
に、さし渡し八尺斗りの大太鼓有之。扨又寺の
繁昌の地なり。元御朱印五十石。
20:52:31
2010/04/02
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明治七年の旅 124
て五寸斗り。水増の節は相対賃銭歩越の処成由。
下り五拾丁
此処天竜川舟渡し、壱銭。川上は信州上諏訪よ
廿五丁
り落、東海道迄十里余。峠。
戸倉 大野 此処弐百斗りの家数。是より秋葉山迄峠多く、
嶮岨なる五十丁
処より、天竜川舟に乗、舟壱艘買切賃壱(「人」
道行の内、時候障りの人有之に付、麓雲名と云
え共、昨年袋井近在可睡斎え御引移り。
除けの御守札出る。其外仏躰色々有之御山に候
又夫に同 様成チヨノウ(十能)、火打有。火防
去年焼失御仮殿也。前に三拾貫め位の鉄火ばし、
御本社秋葉山神社
丁登り。
三拾丁登れば、丸木の大鳥井あり。夫より弐拾
秋葉山 峠。
壱里半
道 狭 く、 大 難 処。 合 次 山 峠 四 十 七 ま が り 有、
十八丁登り難所なり。
巣山
壱里半
合峠あり。難処三十丁行。
三河、遠江国境
大平 弐里
壱里半
合四十丁登り峠甚難所也。
熊村
合峠同断。
七月廿五日
石打
書き落としか)前弐歩壱貫八百文。但里数十り、
つ半頃池田え着。
泊、森下屋、弐朱
壱里半
八つ頃より乗出し、矢をつく如き早瀬十六、七
合少々登りもあり。下り坂也。
西川
20:52:31
2010/04/02
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125 明治七年の旅
池田
舟路十里
入口にハラビ餅(蕨餅)名物の茶やあり。宿外
れより小夜の中山。敵打の由来書有。又夜泣石
名物。此峠弐つ難所なり。此所より金屋
(金谷)
のかね、刃の雉子古事有。并アメテ餅(飴の餅)
此処に長者屋敷と云あり。平宗盛公の侍女熊野
天気
三尺に丸さ九尺位の石、往還の中に有。むげん
五十丁
の旧跡なり。
七月廿六日
見付
駅目の下 に見へる。左に富士山見へる。
(上方
泊、かはひや与市、拾五銭
余白に「子そだて観音」と横書き)
壱里廿四丁
下り道中始て冨士見へるに付、見付と云よし。
金谷 宿外れ大井川橋に成し処、洪水にて落、渡し舟
壱里三十一丁
宿中より可睡斎三尺坊え廿五丁入。御本尊正観
になり、一人前百弐拾文、荷物半人分札場に渡
世音。脇に 可睡斎寺号也。後ロ築 山庭にして、
す。紙よりの切手受取、船頭え渡。川巾弐筋に
袋井
能き庭也。 穴あり。五間位奥八畳 位広きよし。
なり、弐十間位の巾。是より八丁程川原也。大
壱里
宿、甲屋七之右衛門、弐朱弐百文
嶋田 七月廿七日 天気
遠州、駿州 国境
夫より懸越し東海道え出る。以上壱里余廻りな
三里
井川中央を以て、
り。
掛川
壱り廿丁
太田備中守殿、御高五万三十七石城下也。家数
三千軒余。家作り中。
日坂
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2010/04/02
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明治七年の旅 126
藤枝
弐里五丁
本多豊前守殿、御高四万石の城下。町家甚永し
壱里三十丁
(長し)
。入くちセト川。橋せん弐十文。
岡部
弐里九丁
合ウツノ峠(宇津谷峠)有。
鞠子
とろゝ飯名物也。
弐里弐拾七丁
社多し。旅籠丁より十丁余。
同廿九日 昼夕立
江尻 泊、大ひさしや彦右衛門
当処江戸相撲有之に付、滞留いたし、見物いた
し候処、夕立にて止み相成申候。
十三人。
三十日 天気
相撲見物。田舎廻りに珍ら敷大相撲、両関上段
橋台両袖弐拾間、橋中に料理や弐軒有之。渡り
出口松原を過、海辺に出る。一里斗り行、清見
安部川(安倍川)当年橋に成。長さ弐百八拾間、
て橋銭四リン。名物あべ川餅風味よし。是より
寺と云寺、内より三保の松原、浮嶋ケ原見おろ
一里三丁
す風景甚よし。村名も清見寺と云。
静岡え家続きなり。
同廿八日 天気
出口左の方身延山え別れ道有。
次に興津川板橋、
興津 泊、東万屋清三郎
賃四厘づ ゝ。是よりサツタ峠、半 道近の山道、
壱里半
浅 間 神 社、 入 口 石 鳥 井、 大 門、 随 神 門、 拝 殿、
十五年以前より海辺下道出来、平地なり。此辺
本社後ロの山え浅間総社、奥の院何れの社も造
田子の浦と申惣名なり。又倉沢申、
合の宿、さゞ
静岡
営結構至極、上の方神社も不及御普請也。其外
20:52:31
2010/04/02
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127 明治七年の旅
二里十二丁
ひのつぼ焼名物、風味至極よし。茶屋より海辺
詠、風景能。
由井 壱里
合今宿村と云処、鰹節出処にて、家々蒸拵る。
蒲原
三嶋 壱里半
歩行相成兼候。大雨に付。
泊、相模屋利兵衛、弐朱弐百文
二日も大雨に付、逗留可致処、四つ過晴間有之に
付、昼飯後出立。
宿中にあり。入口石鳥井、山門、大門、神楽殿、
三嶋神社
道出来、壱里半余近し。吉原の宿ぬける。合冨
南殿と本社は唐銅屋根、末社有。広き境内奇麗
出口より二里十五丁、鈴川迄の間、去秋より新
士川渡り一 銭壱里(厘)。又沼川 渡り弐厘。合
登り弐里
添来りし男二人あり。右男の教教(説教か)聞。
このやにイギリス女教師并書生弐人同宿す。付
八月二日 風雨
泊、遠州屋利兵衛、弐朱弐百文
伊豆、相模国境
是より毛なし山、雨ふり出し、大難儀。
山中 り坂、所々に小村并出茶屋あり。
なり。神領五百三拾石。是より箱根山次第に登
壱里半
四里位
の宿柏原、鰻名物宜。
七月三十一日
原
泊、若狭や久兵衛
沼津
水野出羽守殿、御高五万石の城下。町家永し(長
し)
。三嶋宿入口軒ならべにて。
駿河、伊豆国境
八月一日 大雨
20:52:31
2010/04/02
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明治七年の旅 128
細工もの店多し。湯本村より左りに壱丁程。
八月三日 風
出口に公義御関所建し跡あり。夫より左りに、
湖水永さ(長さ)三里、巾壱里、風波逆立、海
泊、福住九蔵
壱里位
是より箱根権現え廻り、五六丁間も無元箱根と
合岩に彫給ふ地蔵尊あり。湯本より八丁程行ば
温泉 云村あり。此所より案内つれる。鳥井前に、頼
往還に出る。
上同様也。才(賽)の河原、地蔵堂、并石鳥井、
朝公冨士の牧狩の折御用いの大釜弐つ有。湖水
箱根より四里八丁
大 久 保 加 賀 守 殿 十 一 万 三 千 百 六 十 石 の 城 下 也。
小田原 ば、曾我の社四尺四面の石の宮也。夫より御本
入 口 少 し 行、 虎 や ウ イ ロ ウ 店、 間 口( 二、三 字
の端に曾我兄弟舟つなぎ石。是より石坂を登れ
社、拝殿共赤塗唐銅ぶき、石の玉垣。
分余白)、土蔵作り八方八つ棟造りの店也。町
家永し(長 し)。出口に酒匂川、船 役場にて六
箱根神社
外に末社有。別当金剛王院。是は無住相成大破
厘船賃渡す。
四里
鴫立沢の秋の夕暮
宝物、西行の歌、飛鳥井雅章卿の歌、西行の竹
こゝろなきみにもあわれはしられけり
入口右の方、鴫立沢、西行法師古跡有。
大礒 相成申候。末社同様。
壱里半位
是より小田原迄下り坂四里八丁、石高くして甚
難儀なり。
畑 此処より木地挽細工、よせぎ細工并竹細工名物
な り。 ス ク モ 川( 須 雲 川 )、 湯 本 む ら、 此 村 も
20:52:31
2010/04/02
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129 明治七年の旅
余、曾我身替りの太刀跡、矢の跡、はらみ石抔
り大礒の町右に、とらが石長さ三尺位、巾壱尺
の御堂あり。其外、歌、誹諧の石碑多し。夫よ
杖、ふしのあひだ(節の間)五尺弐寸有。西行
五リン。夫より石坂少し登れば、かひる石、又
三四十軒位。鳥井前より案内つれる。夫賃五銭
町 家、 旅 籠 屋、 料 理 や、 貝 細 工 店 多 し。 家 数
入 口 巾 弐 拾 間 七 丁 位 砂 路 に て、 出 崎 の 山 也。
末社色々あり。石鳥井、唐銅鳥井三つ。
辺津の宮
福石と云大石あり。夫より、
廿六丁
あり。
平塚 此所より行ば、馬入川舟渡し、四厘づゝ。
是より四丁斗り下り、磯部に下る。此合に鳥井
奥津の宮
入口右側に茶屋二軒有。此合より江の島道有。
并 貝 ざ い く 見 せ 并 さ ゞ ひ つ ぼ や き 出 茶 や あ り。
三里
是を行ば半道近かきよし。町中に時宗の本山藤
風味よし。 又冨士山正面、下タは 江の島海辺、
沢寺、入口大門、山門、本堂、極ざひしき(極
殊に快晴にて美景なり。爰に、
藤沢
彩色)立派也。唐銅ぶき。日供堂、観音堂、経
間斗り岩やの穴に入。
し塩又波荒き時は、舟にて渡るよし。是より十
是より奥の院岩屋道、浪打際岩のへつり也。さ
蔵、鐘楼。清浄光寺と云。門前少し戻り、江の
五十丁
うたがふな潮の花も浦の春 ばせを
麦潮の碑もあり。
島明神と鳥井あり。
八月四日
江の嶋
宿、蛭子や吉右衛門、壱歩弐朱
20:52:31
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明治七年の旅 130
新田義貞竜宮へ太刀を納し処。大楯二郎宗氏主
稲村ケ崎
爰にてアカシ料二厘づゝ出し、夫よりアカシを
従十一人打死の塚、日蓮上人ケサカケ松、弁慶
岩屋御社
つけ、夫より奥深く入候えば、大師加持の水。
胎内くゞりあり。岩屋長さ百間余、誠に類ひな
大明神。社の前に景政手玉石十六貫め、タモト
中程より左りに権五郎景政を祭る、正一位五霊
腰掛松、坂の 下村入口に月星の井戸、名水也。
き拝所なり。昔仁田四郞忠常、冨士の人穴より
石廿八貫め、右石奥州より持来ると云。盛久敷
奥の院
くゞり候処、此岩屋の穴に出候よし。是より江
坂東四番札処、切石坂を登れば、本堂十間に十
皮の跡。
御開山弘法大師
御一新後拝仏(廃仏)に相成候に付、立派なる
弐間、十一面観世音、丈ケ三丈三寸。和州長谷
の嶋町宿え裏道より帰る。
堂塔こはし候よし。依て弁斎天(弁才天)を江
の観音のうら木にて作りたると云。開帳料三リ
初瀬
嶋明神と御改名あり。
大仏頼朝公建立と云、唐銅仏。丈ケ五丈、雨ざ
ン。
万福寺(満 福寺)と云寺に、弁慶 筆の腰越状、
らしなり。胎内に諸仏を安置す。西上総住人大
腰越村
弁慶軍中の碗、其外あり。略す。合七里ケ浜と
野五郎右衛門作。
鎌倉
申て、六丁一里にして四十弐丁、依て七りが浜
と云。
20:52:31
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131 明治七年の旅
鶴ケ岡八幡宮
入口石鳥居、雪の下町を過、だんかづら、銅の
鳥井、切石坂登れば、御神楽、いちよふの木の
大木あり。并龍神影向石、鶴石、亀石有。随神
門。是より廻廊、壱丈間、十四間の方、惣巡廊
なり。是に御神画末社七社あり。御宝物廻廊四
ケ処にて拝見。拝殿巾八間に四間、内外赤塗。
す絶景也。
州崎青嵐
乙艫帰帆
平潟落雁
野嶋の夕照
小夜(小泉)の夜の雨 称名の晩鐘
瀬戸の秋の月 内川暮雪
〆
茶菓子抔寺より持参す。山役として弐百文置。
合少々山坂もあり。道あしゝ。
此処より根岸むら迄壱里の処、弐銭づゝにて舟
弐り位
道え出候えば、頼朝公城跡八丁四方、并諸大名
に乗、根岸村に付。滝頭ラ村中より横浜え出る
杉田村 屋跡(屋敷跡)皆畑に相成る。又少し山手に頼
道あり。此の処より大道にて、馬車夷人乗、莫
鶴ケ岡八幡宮(本殿のことか) 御宮造結構至極
也。其外仏堂の分廃仏相成よし。夫より金沢海
朝公代々石塔、北条家の石塔。合に朝比奈の切
八月五日 天気
弐り半
大出る。
此辺□(相の書き損じか)州、武州の(以
横浜 六日 逗留
泊り、家嶋や亀吉
下余白。国境の書き落としか)
通しと云、岩山を切抜し所有。
金沢
金竜院と云寺の境内より、金沢八景一目に見渡
20:52:31
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明治七年の旅 132
案内つれ、三つ井の伊呂波土蔵、英国ロンドン
の都を移したる夷人町、テンシユ堂、是はヤソ
拝見。尾張丁町巾十五間、
中車道左右に桜植付、
芝増上寺本堂焼失。東照宮、二代将軍様御霊や
と有。
宗の寺なり。日善堂、是は関羽の霊を祭る堂な
八月七日 天気
町家八丁の間、西洋造りなり。
ギリスの寺、元倉町薬師堂、聖徳大師の御作海
東京
り。夷人墓所、夷人屋敷、ナンキン料理や、イ
中より出現のよし。
宿、木屋伝治郎
八日 神田橋より丸の内御屋敷見物。
芝居狂言、近世港魁、近年の世の中争動発端より
伏見合戦迄。
九日 佐藤多吉様より紙面有之、房州やえ参り候
え共、御出無之に付、遠藤平次兵衛次男、佐藤
云。男坂石数八十一枚。品川より江戸町中見渡
関 三十郎 河原崎国太郎
愛宕山未だ御仮殿なり。坂を男坂、右を女坂と
九百両 六百両
市川團十郎 沢村訥升
千両 九百六十両
十日 芝居。芝のかなすぎ丁にて、
吉兵衛嫡子と、終日咄し致し帰る。
中村翫雀 中村鶴助
蒸気乗場立派也。此車火輪車共云。陸蒸気に乗
品川え着。賃壱歩。品川にて昼飯。夫より、品
川東海寺、泉岳寺、義士の石塔、近年天のや利
兵衛の石塔出来。表、
義天野屋利兵衛浮図
商
裏に、
義にもよく智仁勇士や国の花
明治二年建る
20:52:31
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132
93799日本文化学最終.indb
133 明治七年の旅
し、絶景也。
十三日
両国橋を渡り、
角力場有。焼死、溺死無縁の塔多し。寺内色々
回向院
本 社、 拝 殿 銅 葺 朱 塗、 極 彩 色 結 構、 末 社 多 し。
見せ物并茶や多し。
十一日 天気
神田明神
社地高みにして風流、休茶や沢山、町中見落し、
銅葺。社地小さけれ共、
奇麗なり。脇に茶や有。
州崎弁天
湯嶋天神
品川左は房州所々を遠目がねにて一見す。汐干
風景吉。
妻恋稲荷
の時、一里余もひる。
社地奇麗なり。
深川八幡宮
飛鳥山
王子海道右手の小山なり。茶屋多し。
王子権現
太鼓橋弐つ有。堀に鯉多し。右堀の上エ一円藤
亀井戸天満宮
両社共小山なり。麓に海老や、扇屋と云二軒の
棚なり。境内に歌、誹諧碑多し。
王子稲荷
茶や、誠に繁昌なり。
のせの妙見と云。後ロにきれいなる茶やあり。
柳嶋妙見堂
買物。昼より房州屋え参り、多吉様其外国の人
東マ橋(吾妻橋)を渡り、
十二日
に面談酒宴の上、珍ら敷咄す。
20:52:31
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93799日本文化学最終.indb
明治七年の旅 134
浅草観世音
茶や多し。池に蓮。爰にて暫休み、夫より浅草
御めぐり稲荷(三囲稲荷)
を通り、東橋(吾妻橋)渡り、向嶋料理やあり。
理茶や、見せもの、其外奥山と云に植木珍ら敷
牛の御前
境内の広き事莫大也。色々の見世并水茶や、料
草多し。宿え帰る。
梅屋敷、木母寺、梅若塚。
隅田川渡りを越、真乳山御聖天、夫より猿若丁
十四日
くだん坂(九段坂)招魂社
を 通 り、 土 手 八 丁 を 過、 衣 紋 坂、 見 か ゑ り 柳、
大門かねの門なり。中の丁灯籠見今宵限りとて、
辰年戦死の霊を祭る。
亀ケ岡八幡宮
群集なし、誠に廓の賑ひ驚きたり。
中むら屋と云茶やに落付、夫より金瓶楼にて酒
房州やえ参り、明日見物案内を頼む。
十五日
盛す。当時廓一なり。西洋造りにて座敷数莫大
なり。
上野東叡山
本堂辰年兵火にて焼る。
十六日 天気。寒暖計九十四導。
宿え多吉様御出相成、昼酒盛す。夫より荷物の
東照宮
諸大名より奉納の夜灯多し。本社造営惣金極彩
調いたす。
十七日 天気。出立。
東本願寺。伽藍造り。
色并クリモノ結構至極也。前に朝鮮より献上相
成候、唐木の槇、又大木のヂン香あり。
不忍弁斎天(弁財天)
20:52:31
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93799日本文化学最終.indb
135 明治七年の旅
千住
弐里
町中に大橋有。町甚永し。
草加
十七日
越谷
大沢町橋一つにて越谷とへだつ。
粕壁
中田 川壱つにてへだつ。
弐里
出口より松並木、甚よき海道なり。
古河 壱里
弐里
廿六丁
土井大炊頭殿八万石の城下なり。家作り悪し。
野木 合下総、下野国境
間々田
弐里弐拾八丁
八月十九日 天気
弐里
石橋 壱里
壱里
壱里半
此辺かんぴやうの名物なり。
小金井
元芋柄新田。
羽川 え廻れば宜敷、宇都宮廻り六里位廻りなり。
出口左りに、元日光海道あり。是より古嶺ケ原
宿、加登屋庄次郎、弐朱弐百文
小山 壱里半
壱里弐拾九丁
宿、寅屋伊左衛門、弐朱三百文。
杉戸
十八日 天気
幸手
宿、木村屋市太郎、弐朱五百文
栗橋
川端に元公義の関所跡有。房川渡し場百三拾文。
利根川共云。坂東一の大川なり。此川中央を以
て、
武蔵、下総国境
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93799日本文化学最終.indb
明治七年の旅 136
雀宮
壱里半
前鬼隼人、六人にて落し物、壱両。祈祷料壱歩
上る。中禅寺かけごし道に入。御作道難渋なる
俄に夕立雷鳴強く、氷砂糖如くなるひやうふる。
一軒茶や 三里
り下り。脇に黒髪山。晴天故冨士山能見へる。
こと道中一なり。壱里半登り、壱里半山の横上
弐里
日光雷とて名物なり。
同廿日
此処より中禅寺え弐拾丁も、嶮岨の登り坂道難
宇都宮
宿、手塚や五郎兵衛、弐朱弐百文
渋の趣に付まわらず。日光え出る。
坂東十八番の
壱里半
戸田綏之助殿七万七千八百石の城下。家数七千
軒斗りのよし。奥道中一の城下なれ共、戦争年
立木観世音
地蔵堂、大日堂、向山を築山して泉水入水景地
日光十八景の内
少し行ば中禅寺追分ケ有。是より往還也。
兵火にて、家作り元の様には無之、旅籠丁入口
に日光別れ道の追分けあり。旅籠丁より四、五
三里
丁戻り、古嶺ケ原道に入。道あしゝ。
なり。前に家一軒茶屋構、爰に、
鹿沼
賑敷処なり。家作りも相応。
八月廿二日
鉢石 壱り半
西鹿沼、日向、下沢、引田、大わし、つま上り
六里
あらたふと青葉若葉の日の光り 芭蕉
日光町入口蓮華石町と云。夫より麓。
にて、甚遠し。
同廿一日
古嶺ケ原
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93799日本文化学最終.indb
137 明治七年の旅
の橋あり。往昔は山菅の蛇橋と云、此橋に七社
御山入口に神橋とて、長十三間、擬宝珠、赤塗
三百文 御宝物博覧会
〆壱歩二朱八百文。
壱歩一朱
東照宮
壱朱
三代将軍様
五百文 山役
案内頼み、
宿、小西屋喜市郎
一切経堂 中に八角の廻り塔。前に笑仏三像。
二の御鳥井 唐銅なり。
南ばん鉄の灯籠 仙台陸奥守殿奉納。
御厩 白木造り。猿の彫物。
御水屋 御手水鉢、石四尺に九尺。石の柱十二本、
金のかな物、鍋嶋信濃守殿奉納なり。
御神木槇
御宝蔵 三つ棟作り。二匹象あり。
陽明門、日 ぐらし御門 左右随神。裏は風雨神。
御巡廊裏の彫物多し。左右弐百間。
間四面、惣朱塗御彫もの多し。
旧御本地堂 三河国鳳来寺、嶺の薬師。御堂十二
釣灯籠 阿蘭陀より奉納。
旧鐘楼、鼓楼
虫食釣鐘、廻し灯籠 朝鮮国より奉納。
御中段玉垣石 左右飛越しの獅子彫物。
三土口燭台 蓮灯台と云。琉球国より上る。
の神を勧請しけるとなり。参詣の人々は東の方
の橋を渡る。
両大師
石の大鳥井 黒田筑前守殿奉納。高さ三丈弐尺、
御影石。
五重塔 酒井若狭守殿奉納。高三十三間。
仁王門 仁王尊三代様に移され、今獅子の御門と
云。此門前に履物ぬぎ、別履物をはき、
20:52:31
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93799日本文化学最終.indb
明治七年の旅 138
タンニヱウ(探幽)の四方白眼。
勅額掛れり。天井には古法眼元信の竜八方白眼、
二荒山 国幣中社。
是は東照宮より移したる也。
三代将軍様御霊屋入口 仁王門、
裏にも仁王尊有。
常行堂、法花堂、慈眼大師堂
三仏堂 間口十八 間、奥行十四間、高さ廿三間、
二重やね。
御輿庫(ここから、上部余白に「官幣中社」と横
書き。東照宮のことか。)
唐木の御門 惣唐木、彫物多し。屋根上にツヅガ
ノ虫つなぎをけり。
石二重一枚 石、御亀腹石と云。此 間を拝見し、
御水屋 石の柱十二本、天井の絵の竜狩野安信。
御宝蔵 唐銅、石灯籠は、諸大名より奉納。
夫より拝殿の間を拝見。此内恐多して舌端に述
二天御門 持国天、広目天。 御裏は雷風二神也。
夫より石坂を登り、左右に、
東照宮御拝殿、御本社の間を、御石の間と云。敷
がたし。百色の竜、鳥、獣、金銀の花、堆朱の
鐘楼、鼓楼
右結構成事舌端に延(述)難し。筆紙にも云尽
竜光院。
外結構筆に尽し難し。夫より篁嘉御門、
御供所、
夫より拝殿脇の御座敷、唐木にて寄木の鳥。此
大猶院様 拝殿と御本社の間を、御合の間と云。
夜叉御門
御柱、其外恐多ければ略す。
奥院入口 猫の御門なり。切石坂弐百枚余登り、
赤銅造りの宮也。
東照宮 権現御骨堂、唐銅也。二重石の玉垣御門
は、唐銅鋳抜し御門なり。
相輪塔 唐銅、高さ三丈余、上エ金也。
神武天王様御宮
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93799日本文化学最終.indb
139 明治七年の旅
し難し。
爰に殺生石有由。
原なり。草ぼう
く と生繁り、左に高き見ゆる。
弐里
壱里
宿、丁子屋吉平
芦野 同廿五日 大雨に付
三里
六丁
三里
合壱里半行、橋銭十五文づゝ。
越堀 出口中川と云橋、銭弐拾文づゝ。
鍋掛ケ
り。出口橋あり。拾五文づゝ。
万千四百石。家造あしゝ。今市より爰迄間道な
此 所 よ り 奥 州 海 道 な り。 太 田 原 飛 騨 守 殿 壱
宿、川嶋屋安右衛門、弐朱弐百文
弐里
参詣相済、夫より宿え帰り、昼飯いたし、八つ
時より出立。当所鉢石町名物、日光ナンバンよ
同廿四日 曇る
船生
弐里
十八丁
太田原
弐里
弐里
ふかん、塗物店多し。出口に雪駄其外皮細工。
八月廿三日 朝雨
今市 宿、住吉屋利兵衛
大渡り
玉生
合、鬼怒川舟渡し。壱人前百文づゝ。
高内
合、川三つあり。何れもあさせなり。
矢板
壱里十三丁
芦野采女之助殿御籏本三千石地行所也。家作り
沢村
出口川あり。 是より八丁行、薄場 村( 薄葉村)
悪し。出口に遊行柳古跡あり。
と云あり。出口より大田原迄弐里の処那須のケ
20:52:31
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93799日本文化学最終.indb
明治七年の旅 140
道の辺に清水流るゝ柳蔭ゲ
しばしとてこそ立どまりつれ
合に寄居村に能茶屋や。壱里半位行、小坂あり。
爰に、
下野、磐城国境
堺明神 下野、磐城の二社有。社地に、
風流のはじめや奥の田うへ唄 ばせを
白坂 三里八丁
山中に候得共、峠なし。
中畑新田
矢吹 久来石
磐城、岩代国堺
笠石
弐里
八月廿六日 天気
須加川(須賀川)
弐里弐拾八丁
宿、和泉屋鉄五郎
旧暦盆の十五日にて、貸座敷、旅籠や弐階と下、
灯籠つけ、終夜三味大小太鼓笛にて唄ひ舞、寐
るに寐られず、道行一統其席に出、供に大騒ぎ
弐里
阿部播磨守殿拾万石の城下。家作相応。出口に
いたす。
阿武隈川。橋銭弐厘五毛。夫より少し行、左り
当処家数弐千軒位、出口入口に大木戸あり。町
白河
に会津海道の追分あり。
並もよし。繁昌なり。出口に釈迦堂川船橋、賃
弐厘五毛。
根田。
壱里弐十三丁
日出山
踏瀬
小原田
小田川
大和久
20:52:31
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93799日本文化学最終.indb
141 明治七年の旅
郡山
三里
(上部余白に「二本松領」と横書き)当所も奥
海道には能処に候え共、須加川より悪し。浅香
壱里半
三万石と申て、御代官三人の支配処なり。
日和田
弐里
に小山有。爰に火打店多し。壱里位有之。長き
城下なり。
二本柳
八丁の目 若宮
此処羽織紐、真田并あみの店多し。名物なり。
出口に松浦佐世姫の堂有。
一里
清水町、根子町共云。
家作りよし。産物種紙、煙草入、信夫摺。
板倉内膳正殿三万石の城下也。
町家千五百軒余。
泊、岸波喜十郎、弐朱弐百文
福嶋 八月廿八日 八つ過俄雨
三里
合に浅香山茶屋三軒有。
高倉
壱里八丁
壱丁斗り行、橋有。戦争年仙台家老戦死いたし
たるよし。
八月廿七日 曇る
入口に洲川と云橋百弐拾間余、巾三間半。是迄
本宮
宿、鶴屋新八、弐朱
板橋なる処、此度県庁にて橋御普請相成、今日
也。
より屋台踊等出、依て近在より見物の諸人莫大
杉田
壱里半
渡り初に付、摂待酒、甘酒、赤飯、其外芝居町々
入口に杉田薬師堂あり。
二本松
丹羽左京太夫殿、拾万七百石の城下なり。町中
20:52:31
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93799日本文化学最終.indb
明治七年の旅 142
合松川橋賃弐厘五毛。
壱里弐拾弐丁
白石 壱里半
泊、菅野屋冨治、弐朱百文
片倉小十郎殿、当時葛田神社の神官になる。
瀬の上
入口次信、忠信の石碑有。出口に摺上川板橋賃
金ケ瀬 弐拾九丁
壱里弐拾丁
壱里廿二丁
大河原 壱里拾壱丁
はゞかりのせき。
八月三十日
槻木 壱里弐拾七丁
古内左近之助殿壱万石の地形持。
岩沼 り右に、花岡村と云に、原田甲斐館跡あり。
此処、仙台の城下白石と間ダなるよし。出口よ
泊、平野屋新助、弐朱百文
壱里半
船巡り 合板橋あり。
出口白石川板橋。
十五丁
壱里半
宮
二厘五毛。此川堺にて、昔貞任、宗任合戦場な
弐拾六丁
壱里七丁
壱里拾丁
るよし。楯跡もあるよし也。
桑折
右 仙台南部海道
左 山形庄内海道
出口より四、五丁行、
藤田
だての大木戸あり。
貝田
合坂二つあり。石高くして道あしゝ。
越川
岩代、磐城国境
斎川
八月二十九日
20:52:31
2010/04/02
142
93799日本文化学最終.indb
143 明治七年の旅
県社竹駒神社
大社なり。
増田
壱里三拾五丁
案内、湯豆腐名物也。能き茶やあり。
半り
塩釜
八月三十一日 曇る
壱里余右脇なり
同断(合の宿の意)
比丘尼坂、あま酒名物。善納寺(善応寺)と云寺
弐拾五丁
同断
今市
にモウコの塚あり。
壱里
壱里斗り左に中将実方の碑有由。
中田
名取川板橋なり。
長町
壱里余り
多賀の城跡 広瀬川橋七拾間位。当所より仙台城下迄家続き
壱里
壺の碑。
也。
五軒茶や
県社塩竃神社
宿、太田屋与八郎、弐朱三百文
仙台城下
伊達陸奥守殿六拾壱万(三、四字分空白)芭蕉
の辻、国分町と云処中々能家造り、別而芭蕉の
切石坂登り、山門并大門より、鞋物(草鞋)ぬ
三郎奉納の夜灯、其外奉納の夜灯多し。
本社、右宮・左宮両社有。別宮是も赤塗也。和泉
辻四つ角にて、家作り三都にもこれなし。右の
弐拾五丁
ぎ、拝殿朱塗、巾拾間、行(奥行)五間位。
辻より塩釜海道へ、
原の町
合の宿
20:52:32
2010/04/02
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93799日本文化学最終.indb
明治七年の旅 144
陸奥古跡
末の松山 陸奥の玉川 千引の石
沖の石
十府の里
をだえの橋
是等廻るには二日も掛るよし。
往古塩釜四つ町中にあり。さしわたし四尺五寸
位、
庭(底)九寸位。松嶋迄船壱艘仕立代壱歩。
外に舟頭嶋々講釈料壱朱。松嶋迄八拾八嶋、金
花山迄八百八嶋有と云。先覚ゑ居嶋々、
右の方に政宗公、忠宗公の御家臣三拾六人の御
壱り半
八丁
位牌あり。当寺は御代々御位牌斗り。御霊屋城
下に有之よし。
九月一日 朝雨
高城 宿、泉半之丞
冨の山 麓手樽村。
観音堂
松嶋の景を眺望す。松嶋の景冨に有と云。成程
仁王門有。大仰寺と云禅寺あり。此寺の庭より、
松嶋より金花山迄十八里あると云。陸も同様。
日本の三景なり。是より高城に帰る。
ノ嶋 まがきケ嶋 弁天嶋
甲嶋 烏帽子嶋 よろひ嶋
渡り口弐十四丁海也。
甚損なり。
翌朝又冨の海道壱里斗り行、左に入。松山え行
仙台様御菩提所入口、岩屋観音。
竹谷村
船路弐里半
瑞巌寺座敷、見料壱銭。本堂正面、仙台御先祖
今渡し場あり。三ケ村程有。松山え半道斗り手
正宗(政宗)公甲冑の御像なるよし。御座敷金
前に、仙台の忠臣伊達安芸三万石の知行所涌谷
松嶋
の唐紙也。御入の玄関クリモノ左り甚五郎の作。
20:52:32
2010/04/02
144
93799日本文化学最終.indb
145 明治七年の旅
の町右に見へる。
松山 高城より五里余
壱里拾弐丁
藩(藻)庭周防壱万三千石の知行所。
下伊場野村
天気、七つ過少々雨
出口、成瀬川船渡し。壱厘五毛。
九月二日
弐里
九月三日 天気
鳴子 啼子共云。
壱里半
当所塗物細工、木地細工名物。
半道
宿、ゆさや勘左衛門、弐朱
シトマヒ
尿米(尿前) 合、峠五丁程登り、平地相成処、薩藩を仙藩や
りにてだまし打せし石塔有。左に、
南部海道。
鹿児島藩
古川
宿、新田屋東十郎、弐朱
西田十太郎
内田伊右衛門綱次墓
三里半
当所家数千軒。町並もよし。新田村。
僕太郎
磐出山
伊達弾正一万三千石の知行所。町屋造りなり。
弐里
壱里廿六丁
坂栄田(堺田) 合 陸前、羽前 境
壱里半
明治元年戊辰閏四月廿二日
壱里半
仲山 脇に、
合に、荒尾川(荒雄川)船渡し。弐厘。
下宮
鍛冶谷沢
合、荒雄川船渡し。弐厘。
鳴子五丁程手前、赤湯、又車湯と云温泉場あり。
20:52:32
2010/04/02
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明治七年の旅 146
壱里
直に清川迄仕立船掛合候え共、手間取、夜船相
弐里八丁
成候様に付、
合海 笹森
壱里
壱里
冨沢
弐里
壱里
朱出す。
古口 壱里半位下れば、
外川山
従是東山形県管轄
右腹巻岩北に、柏谷沢村と云に、境杭有。
所也。
此所明治元辰閏四月廿四日、庄内戦争初りの場
御殿林
合立谷沢川落口。
腹巻岩
仙人権現。入口石坂登り、鳥井、長床。
三里八丁
明け六つ過乗出し、船代八貫百文、外に酒代壱
泊、松沢幸作、弐朱弐百文
向町
出口間もなく、歩越の川壱つあり。
薄衣
九月四日 天気
瀬見
宿、森屋勘兵衛、拾三銭
温泉場ヤゲン湯、蒸湯、其外三つ湯壺あり。
新城(新庄)の城下一見いたし度に付、当所よ
り山越し、左程難儀にも無之、壱り半少々づゝ
三里余
登り、跡下り、合弐ケ村あり。舟形廻れば、弐
里余廻りなり。
新庄
戸沢山城守殿六万(二字分ほど余白)城下なり。
家作り甚悪しき城下なり。
九月五日
20:52:32
2010/04/02
146
93799日本文化学最終.indb
147 明治七年の旅
従是西酒田県管轄
東風にて四つ頃着。
安野五郎助政直
斎藤順太長直
勇者打死四人之墓
鈴木梯助重行
清川
斎藤仙助え落付、昼飯いたし出立。立谷沢越海
平山多弥太博正
合、芝橋弐つあり。
年号前同断
道出口に、戦争の節、敵味方打死の墓三体有。
松本茂太郎重行
内田百合熊公徳
長州藩打死二人の墓
ゑぐり沢(生繰沢)
加賀山林蔵安之
中村
中嶋
脇に慶応四戊辰四月廿四日
白井大三郎重之
桧沢山
興や(興屋)
中嶋専太夫政行
熊谷大明神
少し左り方に熊谷の墓と云あり。立谷沢川芝橋
なり。
記(紀)太小助惟孝
忠臣打死四士之墓
年号月日前同断
木之沢
20:52:32
2010/04/02
147
93799日本文化学最終.indb
明治七年の旅 148
八子(鉢子)
一、拾 銭
〆、七 円拾弐銭九リン
一、四 銭五リン
三里余
是より羽黒山裏手に登る。
一、弐 拾銭
羽黒山
九月六日 曇る
一、六 銭
半衿壱つ
右肌子仕立代
黄毛筆弐拾本
朱幡拾本
同弐丁
ねつけ
たばこ入
一、弐拾銭
こうもり
一、壱歩
茶代
一、三 歩弐朱
きせる
縮壱反
一、弐 両壱歩
(空白)
定九郎場、勘平切腹 七段目九太夫を加茂川
大坂角の芝居
かぶと改
本蔵松切の段
若狭之助師直え
恨、御殿場判官切かけ 勘平をかる道行所作 浅黄淺裏衿一つ
一、六 銭弐厘五毛
一、六 銭弐リン五毛 墨壱丁
手向
宿、茶屋町多聞坊、弐朱
(半丁(一ページ)余白)
一、九
両三朱
一、四
円弐拾銭
一、十
弐銭五リン
一、十
五銭
紺絞り壱反
右仕立代
水浅ギ片(肩)当弐つ
一、壱
円拾九銭
一、拾
弐銭五リン
一、八
銭四リン
奈良晒らし
ゆかた仕裁代
一、八
銭五リン
一、八
拾弐銭五リン
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149 明治七年の旅
へ流す となせ小浪道行 九段目 法界坊
三幕
西芝居
かぶと改、供侍やつ子、若狭之助菩提寺にて松切
師直夢の段 若狭之助師直に恨、顔世より
一、 茶碗五つ
上盃壱つ
次盃九つ
一、 四条盃十
清水こっぷ壱つ
一、壱朱百文 一、弐貫文
一、二 貫四百七拾五文 沢
吉同九つ
一、九 百五十文
東京にて貸
高田茨木屋左兵衛殿
仙台にて帯
四条盃代の返り
上の盃壱つ
茶碗五つ
一、百 五十文
熊太郎様
師直え文送り、諸大名献上、判官切かけ 山伏
蜂の講釈、平右衛門飛脚 争動早打、安兵衛力
弥城内評定、大井川重太郎場 杢右衛門植木や
一、三 両
友三郎様
一、拾 円
注文品覚
一、壱両 一、弐 歩三朱
一、四 貫文
の段 定九郎盗賊猪の獅子地蔵堂御祭り 伊
せ屋の段数右衛門与茂七抜合せ、定九郎切腹 一、弐 円
大坂雪駄直払ひ
伊勢御神
元助の段 塩山与左衛門宅、源蔵暇乞の段 敵打返りの段 おはん長右衛門
弥平
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明治七年の旅 150
〆代八両拾八匁七分五リン払
一、十 一円三拾七銭五厘 羽織帯仕立賃共
白緒雪駄五束(足)
一、壱歩
同 御寺様
高野掛物壱幅
一、 一、十 五銭づゝ
女雪駄五束
黒雪駄五束
一、十 九銭づゝ
五束
御堂前帯宇より
〆四拾束
子供雪駄拾束
一、八 銭づゝ
万金丹
一、十 五銭づゝ
一、十 九銭づゝ
但ニタイツキ上肴町の分
一、 ヲシヤリ様堂
喜右衛門殿より
但五寸位よりヲヅシ入
一、日ヨウ月パヒ
高野より内の分
一、壱歩
〆六両と拾五銭
伊勢みやげのヒョウダン壱つ、□三つ、綿入弐つ、
弥平の分七束目杉三貫三百
右の品と絵□拾枚、墨付五枚、万金丹、ダラスケ、
盃五拾
新潟本町通五番丁田辺にて買物
錫三拾本
一、弐歩壱朱づゝ
一、弐貫六百文づゝ
高野掛物、羽織壱つ、〆
一、三 朱づゝ
三つ組盃
藍模様
十組箱入
一、四 両壱歩
椽金三つ組
三つ組盃廿組
樽袋紙共
金米糖弐拾斤
姫路煙草入四つ
一、壱貫四百文づゝ
一、壱
貫九百文づゝ
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151 明治七年の旅
小盃弐百八拾文 大
仏後ロ清水坂近友
赤緒子供雪駄五束
一、五
百五拾文づゝ
女扇四本京の図
壱本〆五本
一、壱歩弐朱 墨絵廿七本
一、三 貫五百文 墨絵団扇拾本
〆、弐拾三貫五百文
一、八 貫文
役者絵弐十本、巾弐朱引
一、九 貫文
同弐十本、蔦模様弐拾五本
一、三 貫文 同薄模様拾本
〆弐両弐朱壱銭八リン
極上女扇拾本
一、壱
貫四百五拾文づゝ 女
雪駄五束
一、壱
貫五百五拾文づゝ 七
寸嶋の緒雪駄
同壱反
右二枚仕立賃
一、弐 歩 松葉扇弐拾本
一、三 朱 宝来扇拾本
一、壱 歩十六銭八リン 上能絵扇拾本
〆、金に詰壱両三歩弐銭五リン
衿真弐つ
一、弐 歩弐朱十銭
一、壱
両三歩壱朱
浅黄肩当弐つ
此雪駄中丁の分と箇りこも、中丁分カタカナ印。
一、三
朱壱匁三分
八丈袖口弐つ
一、壱 歩壱朱
一、壱
歩壱匁五分
一、弐
両壱歩壱朱壱匁三分 千歳嶋壱反
一、壱
歩三朱六分
一、三
朱百文
三つ組盃弐組
古手ヨカタ壱枚
大坂大丸買用
〆、五両三朱五匁九分
一、三
歩壱朱
一、壱
両
大の分壱歩三銭 小盃弐十
三つ組 小の分三朱半 こつぷ壱つ
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明治七年の旅 152
一、壱歩一朱 上同 十三本
一、四
貫文 四条通りより 下盃弐十箱とも
一、弐円弐拾五銭 三浦弐反
一、八 拾七銭五リン
□□□壱反
一、弐両弐歩 小鍛冶壱組
一、壱円六拾弐銭五リン 白三浦壱反
一、壱円拾弐銭五リン 養老模様壱反
一、十 九両 楽人弐組
一、壱歩三朱 上アンベラ壱枚
一、三
歩弐朱 次アンベラ五枚
一、壱歩 紅藍十
〆三歩三朱、□弐拾五文藤田より。
一、太壱両弐歩づゝ、天壱両壱歩、
相撲絵 女郎絵
源氏絵 西洋絵
役者絵 武者絵 新板絵
一、六 拾弐銭五厘 東京盃十
一、弐拾五銭 梅形盃十
一、六 拾弐銭五リン 白かけ壱反
一、六 拾八銭七厘五毛 杢目壱反
〆七円拾八銭三厘五毛
□五十弐匁五分
一、九
匁五分 土瓶壱つ
一、五
匁五分 同
一、四
拾九匁五分 金入盃拾壱
一、五
拾匁 同山水茶碗二十
一、七
匁五分 茶碗五つ
一、拾九匁八分 山水盃九つ
〆百五拾壱匁弐分、壱両三歩壱匁八分
八金此定壱両三歩壱匁八分
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153 明治七年の旅
越後 一円斬髪
播磨 不残ざん ぎり。当時半通りたてる。
(髭の
ことか)味噌しるよし。
備中
河内
近江
信濃 五分通り切る。犬ちんに似る。至て小さし。
美濃 四分通り。
尾張
伊勢
三河
遠州
厘札通用。女髪結てうしろに髪きりさげる。
志摩
駿河
男牛装束立派なり。髭追々たてる。一銭五
伊賀
伊豆
武州
相模
山城
山和(大和) 国札通用。
記伊(紀伊) 札通用。
磐城
下総
和泉 畑壱枚に井戸壱つあり。
摂津 大坂八百也。家々通りしつくい板石。朝に
あらひ。
陸前
用。銭札通用。
城 下 よ り 下 両 替 十 六 貫 当 百 百 廿 八 文 に 通
岩代 磐城の中に入込。
下野
讃岐 海辺通り、女たらひ様の物え品入、頭えの
せあるく。
備前 ざんぎり八分通り。
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