...

地質学史懇話会会報 第 42 号 - LivingHistory.co.uk

by user

on
Category: Documents
8

views

Report

Comments

Transcript

地質学史懇話会会報 第 42 号 - LivingHistory.co.uk
ISSN 1345-7403
地質学史懇話会会報 第 42 号
2014 年 6 月 30 日
目 次
地質学史懇話会のお知らせ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・表 i
地質学史懇話会報告 (2013 年 12 月 23 日 東京・王子)・・・・・・・・・・・・・01
<論説>
長田敏明:山川戈登と大山 桂-二人の貝類学者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・02
小野田 滋:渡邊 貫とその業績-日本における地質工学の開拓者-・・・・・・・・・・・・10
原 郁夫:日本における対の変成帯の地域地質学史・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18
金 光男:1880 年創立「日本地震学会」の会員名簿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・26
矢島道子・山田直利 : 伊能中図と予察地質図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・34
有賀暢迪:数値気象学の始まり : 歴史研究の動向と課題 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・36
隈 健一:「数値気象学の始まり : 歴史研究の動向と課題」へのコメント・・・・・・・・・・・・・・・41
新田 尚:有賀氏のまとめに対する意見・コメント ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・43
新田 尚:数値気象学史についての補足 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・45
<追悼文>
猪俣道也:鈴木尉元さんと地質学史懇話会・INHIGEO との関係・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・49
大沢眞澄:鈴木尉元さんを偲んで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・52
金 光男:鈴木尉元氏の日本地質学史への貢献・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・53
諏訪兼位:鈴木尉元さんを偲ぶ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・56
矢島道子:鈴木尉元さん、思い出すことがら・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・57
山田俊弘:鈴木尉元さんを追悼して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・58
山田直利:『日本の地質学 100 年』と鈴木尉元さん・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・59
事務局より・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・60
編集後記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・60
投稿規定 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ iii
地質学史懇話会のお知らせ
2014 年 6 月 28 日(土):午後1時 30 分-5 時 00 分
場所:北とぴあ 8 階 803 号室:JR 京浜東北線王子駅下車 3 分
相原延光
お天気博士藤原咲平の生涯と地学史における再評価(仮題)
加藤碵一
「地文学」と「地人論」考
JAHIGEO Bulletin no. 42(2014)
地質学史懇話会 2013 年講演会・総会報告
日時:2013 年 12 月 23 日(月・休)午後 1 時 30 分-4 時 30 分
会場:北とぴあ 8 階 803 号室(東京都北区王子)
参加者:相原延光・猪俣道也・大沢眞澄・長田敏明・小澤健志・小野田滋・加藤碵一・
小松直幹・首藤郁夫・大藤貞夫・立澤富朗・中川智視・馬場永子・浜崎健児・
矢島道子・山田俊弘・山田直利・
(出席者 17 名)
開会に際し、加藤碵一会長の挨拶があり、次の 2 講演が行われた。
長田敏明:山川戈登(ゴルドン)と大山
桂-貝類学研究のひとつの系譜
動物学科出身の大山 桂(1917-1995)の 1 世代前の貝類学者として山川戈登
(1886-1910)がいるが 24 歳で夭逝したので記録が少ない。会津藩家老の家系の山川
家と島津藩大山家の関係は大山 桂の祖父の大山 巌が山川家と縁戚関係であった。山
川戈登の生い立ちから話を展開、山川の生い立ち、地質学雑誌に関東各地の貝化石記
載した業績は横山又次郎の武蔵野系上部の化石の研究材料の基礎になったことなどを
紹介した。続いて大山 桂の資源科学研究所・海軍マカッサル研究所・地質調査所・ス
タンフォード大学・鳥羽水族館での活動の状況と貝類学研究の業績・標本の整理保存
についてまとめた報告があった。
小野田 滋:地質工学の開拓者・渡邊 貫とその周辺
鉄道総合技術研究所の小野田 滋さんは、終戦前後の国鉄で、ホラ話で人を煙に巻く
3 人の名物男「ホラ貫(渡邊 貫)、ホラ弥寿(桑原弥寿雄:青函トンネル構想を推進)
、
ホラ次郎(立花次郎:駅ビル事業の発案者で日本鉄道技術協会の設立に貢献)
」の話か
ら開始された。その一人の渡邊 貫は 1923 年地質学科卒業、1918 年着工の丹那トン
ネル(7804m)掘削時の難工事克服のため鉄道省に地質学科卒として初めて採用され
丹那トンネルの地質調査に従事、日本の鉄道トンネル工事で初めてボーリングで地質
の確認をし、トンネル工事としては本格的な地質調査報告をだしたこと、地質学と土
木工学の境界部分の勉強会の土質調査委員会を作り、土の物理試験・物理探査法・基
礎構造物の設計施工法・地すべり調査など現在の応用地質学の基礎部分を網羅した報
告書にまとめたこと、さらに物理探査法の実用化の経緯などを紹介された。また 1935
年に「地学辞典」が古今書院から発行された経緯、更に 1942 年日本物理探鑛株式会
社を設立、地質コンサルタント業のさきがけになられ、現在の青函トンネル、各種橋
梁や新幹線工事の基礎を築かれたことを紹介された。なお、小野田さんは、2013 年に
『東京鉄道遺産「鉄道技術の歴史」をめぐる』を講談社から出版されています。
講演に際しては活発な質疑応答がおこなわれた。その後、総会が開催された。この
間逝去された物故会員に対して、出席者全員による黙祷が捧げられた。今年度の活動
報告、会計報告、監査報告がされた後、来年度の活動予定も提示され承認されました。
つづいて近くの会場「半平」に懇親会の席が設けられ、講師を交え会員間の交流が
和やかに行われた。
(猪俣道也)
― 1 ―
地質学史懇話会会報
第 42 号(2014)
山川戈登と大山 桂-二人の貝類学者
長田敏明(東京都市大学)
はじめに
いわゆる貝類学の研究方法には、大別して、生物学的研究手法を用いる研究と古生物学
的研究手法を用いる研究がある。我が国の貝類学研究の初期には、まだ、日本列島に見ら
れる大部分の地層が時代未詳であったため貝類を含めた諸化石による生層序の確立が急が
れ、特に新生代第三紀・同第四紀では貝化石による生層序学が発展した。
我が国の貝類学的研究の初期には、古生物学からアプローチした研究者と、生物学から
アプローチした研究者がいた。前者の代表が横山又次郎(1860~1940)である。横山の地
質学的(層位学的)古生物学を志向した研究者は矢部長克(1886~1969)である。後者の代
表は徳永(吉原)重康(1874~1940)である。生物学科出身の徳永重康と同様の古生物学
者には夭折した山川戈登(ごるどん 1886~1910)がいた。彼らの一世代後には山川戈登の
家系の動物学科出身の貝類学者大山 桂(1917~1995)がいる。
ここでは、貝類学の系譜として、山川戈登と大山 桂を取り上げ、日本の貝類学の研究史
の中で、山川戈登と大山 桂が果たした役割について検討することとした。そして、今後の
古生物学史研究のための基礎資料としたい。
1
華麗な家族-山川家と大山家
山川家(会津藩家老の家系)も大山家も幕末から明治維新にかけて数奇な運命をたどっ
ている。山川戈登の養父山川 浩(実伯父)(1845~1878)の父は山川重固(1812~1860)
で会津藩の家老であった。この重固は、種痘の実験などをしていたことが知られている。
山川戈登(実母は山川 浩の妹常磐(1857~?)は、生まれて 8 ヶ月目に実伯父である
山川 浩(大蔵)の養子となった。山川戈登の伯母には、遣欧使節に随行して津田梅子
(1864~1978)らと米国に渡った我が国最初の女子留学生の山川捨松(幼名を咲 1860
~1919)がいた。アメリカ東部の女子大学のバッサー女子大学に学んだ捨松は成績優
秀で留学生にして卒業生代表となった。この捨松は、特に生物学の成績が優秀であった
という。実兄の山川健次郎(1854~1931)は、物理学を修め後に東京大学の総長となる。
山川家には理科系の血が流れているというべきか。明治 31 年に山川浩が死去したため、
戈登は家督をついで爵位を継承しでいる。1906(明治 39)年には従五位に叙せられた。
戈 登も 24 才でなくなっているので、家督は、最終的には戈登の養子である山川 廉
(1892~1913)がついでいる。
大山 桂の祖父の大山 巖(1842~1916)は会津攻めの総大将であった。彼の家系には、
西郷隆盛や西郷従道らもいる。大山巌の後妻は山川捨松である。結果として、会津戦争
の折には互いに戦いあった両家が、和睦の象徴として、婚姻が行われたことは意義深い
ことであった。真相は後妻を探していた大山が求婚したのであった。大山 巖の息子で
ある大山 柏(1889~1969)が大山 桂の父である。兄弟には大山 梓(1916~1992)や
大山 壇(1919~1939)らがいる。母の武子(1897~1973)は近衛文麿の妹である。
― 2 ―
JAHIGEO Bulletin no. 42(2014)
2
山川戈登の生涯
(1)生い立ち
山川戈登は、1886(明治 19)年 8 月 22 日に山形県山形市で生まれた。父は山川(徳力)
徳治(1851~1926)である。生まれて約 8 ヶ月で山川浩の養子となっている。ゴルドンと
は、太平天国の乱を収めた将軍の名にちなんで山川 浩が命名したものである。山川戈登は、
幼少から動植物に親しんでそれを収集していた。1894 年神奈川県横須賀市立浦賀小学校に
入学した。小学校の頃からすでに学業は優秀であった。しかし体は弱かったようで、無記
名(1910)の紙碑では「薬餌に親しみ」とある。彼は、義父浩が校長をしていた 1898 年東
京高等師範付属小学校へ転校して、1899 年、同付属中学校入学した。1903(明治 37)年 7
月に旧制第一高等学校第二部(理科)へ入学している。
当時の第一高等学校の標本室には、矢部(1970)によれば、先輩方の採集した化石標本
が棚一杯にあふれんばかりの状態であったという。高等学校時代から当時知られていた関
東各地に見られる第三紀と第四紀の地層の見学や化石採集を行っていた。この成果が出る
のは、大学へ入学してからである。山川戈登は、1908 年東京帝国大学動物学科へ入学し当
時同じように南関東の新しい時代の化石を研究していた動物学科出身の徳永重康のアドバ
イスを受けている。3 年生では、成績優秀につき特待生となっている。しかし、1910 年 11
月 26 日に腸チフスにかかって死去している。
(2)業績
山川戈登の処女作は、田端産の貝化石の記載である。彼が活躍したのは、わずか3年あ
まりであった。それでも、19 編の論文が残された。ほとんど、南関東の第四系に関するも
のであった。奇しくも、彼の絶筆となったのは、ゴッチェ教授の訃報であった。
① 古生物学的研究
神奈川から東京へ、そして千葉県北部までの第四系から産出している貝化石を中心とし
て記載している。
二枚貝では、Glycymeris(タマキガイ)属は 4 種類にわけるべきであるとしている。
Diplodonta usta(ウソシジミ)について記載し、文献・記載・計測値・産地などについて報
告している。ブラウンスや徳永が記載した化石についての再検討を行い Trapezium
japonicum(ウネナシトマヤガイ)について同定し、再記載している。彼はさらに Panope
japonica(ナミガイ)・Lucina sternciana(ツキガイ)・Clementia papyracea(フスマガイ)・
Fabulina nitidula(サクラガイ)・Anadara granosa(ハイガイ)などの化石貝類の現生種の
分布についても言及している。ブラウンスの記載したキタノフネガイ( Arca bouchardi
miyatensis)について再検討している。また、かれは巻貝では微小貝の Odostomia や
Turbonila などについても記載している(山川,1909b, c, g, h, 1910a, b, c)。
彼が取り上げたタクサは、軟体動物のみではなく、第四紀層から産する海胆類について、
記載し報告して、宮田層や千畑層から産した蘚虫類の化石についても報告している。
② 生層序学研究
山川戈登の論文の大きな特徴は、周囲の地質記載が、必ずと言ってよいほど添えられて
いるということである。さらに、東京都港区泉岳寺車町の論文(1908 c)と東京都千代田区有
楽町の論文(1908b)には、簡単ではあるが柱状図が添えられ解説されている。
彼が洪積層で取り上げているのは、東京都北区「田端貝層」東京都港区の「車町貝層」
― 3 ―
地質学史懇話会会報
第 42 号(2014)
や横須賀市の「大津貝層」や「宮田累層」などの化石産地などである。車町貝層では、柱
状図を示し、その中にパイプ状の生痕についてスケッチを残している。
沖積層の研究で山川が挙げているのは、東京有楽町貝層、鎌倉市稲村ヶ崎貝層、横浜市
滝頭貝層などである。そして、それまで知られていた千葉県大東崎貝層などと比較してい
る。有楽町貝層の記載でも、柱状図を示して記述している。
また、彼は滝頭貝層の層位について、誤りだと指摘し、沖積層であるとした。稲村ヶ崎
貝層の記載では傾斜した第三紀層の上にのるソフトペブルを含む礫層の礫に穿孔貝による
ものと考えられる生痕化石の存在を報告している。
③ 記載した主な化石産地
山川戈登が化石雑記やその他で千葉県の大竹・成田・木下・酒々井・千葉市緑区瀬又(高
田の堰)などや、東京都北区王子・同区田端・港区車町(泉岳寺)・千代田区有楽町・神奈
川県三浦半島北東部・横須賀市(大津層)・三浦半島南部(宮田層)・横浜市港北区菊名~
鶴見区(下末吉層)等・横浜市西区滝頭・鎌倉市極楽寺(稲村ヶ崎)などについて記載し
た。これらの化石産地は、横山又次郎(1922~1927 など)の武蔵野系上部の化石の系統的
分類記載されていた地点とほとんど同様であった。したがって、山川戈登は、結果的には、
横山又次郎の研究材料の多くの部分を提供していたことになる。
3 山川戈登と大山 桂の生きた時代
明治時代末期には、ようやく、ナウマンやゴッチェやブラウンスらのドイツ人お雇い外
国人による研究から脱して、日本人自身による古生物学がスタートし始めたころで、矢部
(1908)や Tokunaga(1906)による東京近傍や三浦半島の諸化石産地の報告が出始めて
いたころである。
下って昭和初期は、全体としては、産出報告及び化石の記載という段階であり、体系化
して堆積環境を論じ、進化について検討する段階ではなかった。この時期の古生物学は、
古生物学全般や構造地質学の矢部長克や新生代専門の大塚弥之助(1903~1950)や中古生代
専門の小林貞一(1901~1996)と言った生層序学者が活躍していた。この頃、生物学的古生
物学を志向していたのは京都大学にあった槇山次郎(1896~1986)であった。この時代から
一世代後が大山 桂の時代である。
ドイツは、中国の青島や南洋諸島を委任統治していたが、第一次世界大戦(1914~1919)
で、敗戦したために、イギリスと同盟関係であった連合国側の日本が、これらの島々を統
治したのである。これらの島々には、統治していた日本が、南洋庁を始め、資源調査のた
めに各種研究所を置いた。戦中の古生物学者たちは、植民地各地の資源調査に駆り出され
たが、大山桂も例外ではなく、資源科学研究所から蘭印のセレベス(スラウエジ)島のマ
カッサル(ウジュンパンダン)にあった海軍マカッサル研究所に嘱託として赴き、旧蘭領
インドシナの第三系に含まれる貝化石の研究を行っていた。それは、含油第三系の時代の
決定のためであった。
戦後は、復興のために、そして工業を復興するために、各種の資源調査が行われた。日
本国内の石油石炭はもちろん、ガス田や石灰石賦存調査などが行われた。そのために、多
くの地質学者や古生物学者がこの調査に駆り出された。戦後の復興と朝鮮戦争のために、
資源需要が高まり、質の悪い亜炭なども輸出された。海外との交流と海洋調査が盛んにな
― 4 ―
JAHIGEO Bulletin no. 42(2014)
るのは 1970 年代初めからである。大山はちょうど我が国の戦前の海外資源調査の時期と、
敗戦、そして復興期~高度成長期にかけて活躍されたのである。
4 大山 桂の生涯と業績
(1)大山 桂の生い立ち
大山 桂は、父大山 柏と母武子の次男として 1917(大正 5)年 10 月 6 日に渋谷区神宮前
で生まれた。大山家には葉山や沼津など別荘があった。大山は、幼少の頃からこれらの地
に頻繁に出かけている。大山は、貝類標本の収集を初等科 3 年生(大正 15)ころから始め
ていた。この時は蝶類標本も採集を初めており、どちらかというと最初は蝶類採集の方を
熱心にやっていた。初等科 6 年生の 1928(昭和 4)年に、沼津の別荘へ行ったときに貝な
どいろいろなものを採集して東京へ戻った時に、蝶の標本を見ると、虫に食われて悲惨な
姿になっていた。それで、虫に食われない貝殻の収集に力をいれるようになった。
大山は、貝類学会に、中等科 2 年生 14 才(昭和 6)の時、入会している。当時の貝類学
会は、創立以来 25 年の間黒田徳米(1886~1987)が会長を務められていた。母の心配をよ
そに、相変わらず勉強もせずに、貝類学会の機関紙である「ビーナス」ばかり読んでいた
そうである。貝類学会には、当時大塚弥之助をはじめ地質学者が多数入会していたので、
地質学関連の記事もたくさん見ていたから、「私としては、違和感を感ぜずにごく自然に貝
類学会に入ったように思います」と述懐している(伊田ほか,1981)。
大山は、高等科1年生の時、東大助手の貝類学者の滝 庸(1898~1961)がおり、よくこ
こへ出入りしていた。このときに大山は、高等科の時に父親の主宰していた大山史前学研
究所の雑誌に「貝塚貝類種別考」というタイトルで処女論文を書いている。
大山は、中等科の時代から読んでいた「ビーナス」へ標本交換の希望をよく出していた。
この過程で貝類学会の重鎮であった波部忠重(1916~1987)らと知己を得た。さらにこの
時代に、貝類学の大炊御門経輝とも知己を得た。大炊御門は、雑誌『地球』に関東の貝化
石についての論文を数篇書いている。後年石油会社に行き有孔虫の研究者となった。大炊
御門経輝のいた徳川生物研究所へは、大山はよくでかけた。この時代に大山は古生物学会
へ入会している。
大山は、1938(昭和 13)年東京帝国大学理科大学動物学科に入学し、同大学を 1941(昭
16)年 10 月 6 日に卒業している。卒業論文は岡田
要(1891~1973)の指導で「タニシの精
子」というものであった。大山は、岡田 要の下で発生学を専攻したのである。大山は、学
生時代には「何か石油関係の仕事をしたいと思っていた」述懐している(伊田ほか,1981)。
(2)大山の経歴
1942(昭和 17)年 2 月に、文部省資源科学研究所助手となった。大学生の頃から資源科
学研究所に出入りしていた。資源科学研究所に寄贈されていた平瀬信太郎(1884~1939)の
標本を整理するためであった。当時、資源科学研究所では彙報を出していたが、大山は「駿
河湾産軟体動物目録」を発表している。彼は、 資源科学研究所では、瀬又・藪・地蔵堂な
どの貝層の調査に出かけ、貝化石の論文を書いていたが、原稿は戦災で焼けてしまって残
っていないそうである(伊田ほか,1981)。この時の調査概要は 1959 年に地質調査所月報
や資源研究所の彙報に発表された。
戦時中、南方蘭印の天然資源を調査するために、比較的交通の便の良かった、スラウエ
― 5 ―
地質学史懇話会会報
第 42 号(2014)
ジ(セレベス)島のマカッサル(ウジュンパンダン)に海軍研究所が設立されていた。 当
時この研究所に勤務していた松本隆一(後地質調査所所長)が資源科学研究所の鈴木好一
へ、東南アジアの第三系の研究には「化石のわかる人が欲しい」ということで、白羽の矢
が大山に立ったのであった。1943 年 7 月に海軍研究所の嘱託となった。大山は地質鉱物部
門の所属であった。ここで大山は貝類標本の採集や貝類文献の収集を行っていた。ここで、
大山は、デング熱にかかり、治療のために、バンドンへ行った。治療が終わり、バンドン
にあった研究所の支所に立ち寄って、池辺展生(1912~2000、後に大阪市立大学)氏とも
にスラバヤまで行って、北海岸沿いに調査をしてバンドンへ戻った。そうこうしているう
ちに終戦となった。
終戦当時(昭和 20 年 11 月頃)、蘭印を統治していたのはオーストラリア軍であった。日
本軍関係者は、バンドンの少し北のチコレの捕虜収容所に収容されていた。大山は、当時
肝臓を悪くしていて、チャーテルという場所にあった海軍病院へ収容されていた。その後、
大山は病気からはとっくに回復していたが、シンガポール南方にあるレンパン島の老弱病
者の捕虜収容所に入れられた。オーストラリア軍の管理は比較的緩くて、昼休み抜け出し
て、マングローブスワンプで貝の採集や観察を行っていた。この時の体験が、後にマング
ローブ化石群集の発見へとつながったのである。1946 年 5 月には復員船で和歌山県へ向か
った。
南方から復員して、1946 年 6 月に(財)資源科学研究所へ復帰した。そんな中で 1946
年ころ貝類学会があった時に、大山は当時地質調査所にいた金原均二に入所を誘われた。
当時燃料部石油課では、天然ガスの賦存状況を調べるために、堆積盆地の解析を通して調
べようとした。その際に貝化石を示相化石として使って調べようと考えていた。そのため
に貝の鑑定ができる人が必要であった。矢倉和三郎コレクションを地質調査所が買い取っ
たため。そのリストを大山が作るためであった。1947 年 5 月には、当時河田町にあった地
質調査所燃料部へ入所した。
大山が入所当時、富山県の中新統八尾層群の共同調査を行っていた。この貝化石のサン
プル群を大山が同定していた。かつてレンパン島でみたマングローブスワンプの構成種が
揃っていたのであった。ここから、フィールドで化石群集の概念が生まれた。
また、地質調査所では、当時南関東のガス田の調査を行っていた。このため関東ローム
層の下位にある第三系・第四系の地層の性状を知る必要があった。現地で大山が地層中の
化石を同定し、古水温や古環境を解析して、地層は整合に見えても、わずか1m の違いで
も環境が急変することをフィールドで確かめたこともあったという。
大山は 1955 年、アメリカに留学する前に博士論文を書いた。主査は東京大学の高井冬二
(1911~1999)であった。タイトルは「現生の生体群集及び遺骸群集に基づく貝化石群集
の古生態学的研究」(英文)であった。
大山は 1955 年 5 月には、米カリフォルニア州のスタンフォード大学理学部地質学教室へ
留学した。この教室には、Schenck と Keen という 2 人の古生物学者がいた。1957 年4月
まで同大学にいた。
1957 年 4 月にアメリカから帰国、地質部へ転部した。大山は、坂本 亨(1930~2004)
や水野篤行(1928~)とともに、古第三紀の貝化石の分類学的研究に着手し、1960 年には
「古第三紀化石図鑑」を公表した。これは、地質調査所にあった完模式標本を基にしてま
― 6 ―
JAHIGEO Bulletin no. 42(2014)
とめたものである。
大山は、1969 年に始まった海底調査技術開発グループの研究航海で、東海大学Ⅱ世丸に
乗り組んで、ドレッジで上がってくる貝について検討した。また、1973 年には、横山又次
郎が記載した南関東の主として第四系から産する化石を再検討して「関東地方第四紀化石
図鑑」を公表した。
鳥羽水族館への転任(1979 年 11 月をもって地質調査所退所)は、アマチュアの貝類収
集家の寺町昭文が収集した約 8000 点の貝類標本の所蔵されている場所であったからである
という(鈴木ほか,1995)。大山は、寺町から、この標本を整理して欲しい懇願されたので、
この水族館へ移ったのだという(伊田ほか,1981)。
鳥羽水族館では、大山研究室(第二研究室)において寺町標本の整理や、これまでの研
究の整理を行っていた。この水族館では、大山は、戦前インドネシアの第三系産貝化石の
文献について、まとまった文献目録を作りたいと常々語っていたが、古稀記念論文集でそ
の希望を叶えた。大山は、1995 年 12 月 30 日に三重大学医学部附属病院で肺気腫のために
死去された。享年は 78 才であった。
(3)大山の業績
大山のこの分野での業績のうちの一つは、浅海での貝類の生息深度区分を明らかにされ
たことである(大山,1952)。各深度の区分を N1~B などと区分するものであった。
地質調査所では、小野 暎(生没年不詳)らと行った富山県八尾市の黒瀬谷動物群の調査
は、マングローブ湿地の化石群集を明らかにした。この論文は、その後の南関東をはじめ
とする第三紀・第四紀の群集生態学的貝類研究の発展の基礎となった。すなわち、「化石に
よる古環境の復元には、ともに発見される種の組み合わせに着目して群集構成のタイプを
比較しながら行うことが大切である」と指摘された(鈴木ほか,1995)。大山の資源科学研
究所での業績で大きいものとしては、外洋水(黒潮や親潮)や沿岸水(内湾)といった概
念を化石群集へと適用し解析を試みたものである。
化石貝類に関する大山の業績の一つとしては、南関東の新第三系や第四系から産する化
石について横山又次郎が記載したモノグラフの分類学的な再検討がある。これは、日本古
生物学会の特別出版として公表された(大山,1973)。この図鑑は「大山図鑑」として、新
生代貝類化石の研究者の必携の書となっている(鈴木ほか,1995)。
もうひとつの大きな業績は、水野篤行と坂本
亨とともに古第三紀の貝化石の分類学的
な検討を行い、地質調査所から「古第三紀貝化石図鑑」(英文)を発行したことである。
現生の貝類では、クダマキガイ科・タマガイ科・タケノコガイ科などの巻貝とミノガイ
科などの二枚貝の分類学的な研究を中心にして進めていた。これらの成果は、貝類学雑誌
に投稿された。大山の現生貝の図鑑は、1957 年の竹村氏と共著で科学と写真の会から出し
た「貝類」
(英文)がはじめであるが、1971 年には、波部忠重と黒田徳米と共著で生物学御
研究所編として「相模湾産貝類」を丸善から出版している。
また、目録作りにも携わり、古くは 1943 年の「駿河湾産軟体動物目録」が挙げられ、1977
年の「波部忠重記載の貝類目録 1939‐1975」などをあげることができる。
資源科学研究所時代には、平瀬信太郎(1884~1939)の標本を整理し、地質調査所では
矢倉和三郎標本を整理したことである。これだけでも大変なことなのに鳥羽水族館では、
マチュアの貝類収集家であった寺町昭文(1898~1978)の標本約 8000 点の整理を行った。
― 7 ―
地質学史懇話会会報
第 42 号(2014)
あとがき
筆者は、大山さんが地質調査所の研究官であったころ地質調査所溝の口庁舎 4 階の大山
さんの研究室を訪ねたことがあった。研究室の机の上は、資料が机に乗り切れずに、脇に
崩れ落ちていた。資料を借りに行ったのであるが、崩れ落ちたその中から資料を探し出し
て貸して下さった。
大山さんのアルバイト助手として、1970 年代初めに、地質調査所の九州西方海域の研究
に筆者が参加した時に、ドレッジで上がってきた貝のサンプルを、船上で電光石火砂塵の
ごとく鑑定されていた大山さんに接して度肝を抜かれたことがあった。日本近海では、9562
種あまりの貝類種が生息していることがわかっている。大山さんは、なんとこれをほとん
ど暗記していたのである。この大山さんがドレッジのあいだの暇な時間の雑談で、貝の和
名の話などをされているときに「山川戈登という私の親戚の化石研究者がいた」と言われ
ていた。
筆者は、折に触れて断続的にはあるがゴルドンというこの名前に何度か接した。この度、
大山 桂のことを調べていたら山川戈登のことを思い出して、ここに両者について検討した
結果を報告した次第である。
参考文献
(1)大山 桂関連論文
伊田一善・水野篤行・鈴木尉元(1881):大山 桂氏を囲んで-貝の研究 50 年を振り返る.
地質ニュース,317,43-50.
波部忠重・稲葉
享・大山 桂(1977):波部忠重記載の貝類目録(1939-1975).おきな
えびすの会.
黒田徳米・波部忠重・大山 桂(1971):相模湾産貝類.丸善.
大山 桂(1943):駿河湾産軟体動物目録.資源研彙報,3,43p.
Oyama,Katsura (1950):Studies of the Fossil Molluscan Biocoenosis No.1 Biocoeological
Studies on the Mangrove Swamp with Descriptions of New Species from Yatuo Group.
Rep., Surv.Japan, 132,1-15.3 Plates.
大山 桂(1952):海産貝類の垂直分布について.貝類学雑誌,17,27-35.
大山 桂(1953):本邦産クダマキガイ科既知種の再検討(1).貝類学雑誌,17,151-160.
大山 桂(1953):外洋水の化石群集(その1).資源研彙報,32,23‐30.
大山 桂(1954):沿岸水の化石群集(その 1).資源研彙報,33,92‐99.
Oyama,Katsura and Takemura, Yoshio (1957):The Molluscan Shells.I-Ⅲ.Science
& Photography Club,Tokyo.
大山 桂(1959):千葉県養老川・小櫃川地区の化石群.地質調査所月報,11,98-102.
Oyama,Katsura, Mizuno Atsuyuki and Sakamoto Toru(1960):Illustrated handbook of
Japanese
Paleogene Mollusca. Geological Survey of Japan. 1-244,71plates.
大山 桂(1961)
:タケノコガイ科の分類に関する 2・3 の新事実.貝類学雑誌,21,176-189.
大山 桂(1969):本邦産タマガイ科の分類学的検討.貝類学雑誌,28,67-69.
Oyama, Katsura(1973):Revision of Matajiro Yokoyama’s Type Mollusca from the
Tertiary and Quaternary of the Kanto Area. Paleont.Soc. Japan,Special Paper,
― 8 ―
JAHIGEO Bulletin no. 42(2014)
No.17. 148p. 57plates.
鈴木尉元・鎮西清高・徳永重元・水野篤行(1995)
:大山 桂博士を悼む.地質学雑誌,103,281.
矢部長克(1970)
:日本地質学界の思い出と我が生い立ちの記.
(付 欧州旅行記)
.日本古
生物学の回想,日本古生物学会,9-33.
Yokoyama, Matajiro (1922 ):Fossils from the Upper Musasino of Kazusa and Shimosa.
Jour.Coll.Sci. Imp.Univ.Tokyo, 44,1-200,20plates.
Yokoyama, Matajiro (1927):Mollusca from the Upper Musasino of Tokyo and its suburbs.
Jour.Fac.Sci.Imp.Univ.Tokyo,ser.2,1,391-437,46-50plates.
(2)山川戈登関連文献
無記名(1910):會員山川戈登君を悼む.地質学雑誌,17,524-526.
寺尾 新(1911):故山川戈登君略伝.動物学雑誌,23,50-50.
Tokunaga(Yoshihara)Shigeyasu(1906):Fossil from the Environs of Tokyo. Jour.
Coll.Sci、Imp.Univ.Tokyo,21,1-96.
矢部長克(1908):東京近傍第三紀介化石目録.地質学雑誌,15,387‐395.
山川戈登(1908a):田端産化石.地質学雑誌,15,84-87.
山川戈登(1908b):有楽町産沖積期介殻.地質学雑誌,15,166-168.
山川戈登(1908c):車町産化石.地質学雑誌,15,181-192.
山川戈登(1909a):化石雑記(一).東京付近の化石産地.地質学雑誌,16,218.
山川戈登(1909b):化石雑記(二).タマキガイ属の記載.地質学雑誌,16,245.
山川戈登(1909c):化石雑記(三).キタノフネガイの化石.地質学雑誌,16,292-293.
:化石雑記(四).横浜市中区滝頭から産出した第三紀層の化石の再検討.
山川戈登(1909d)
地質学雑誌,16,294.
山川戈登(1909e):ディプロドンタウスタに就て.地質学雑誌,16,413-485.
山川戈登(1909f):稲村ヶ崎介層.地質学雑誌,16,426-430.
山川戈登(1909g)
:化石雑記(五).Odostomia plata Gould と Odostomia subplata Gould.
地質学雑誌,16,493.
山川戈登(1909h)
:化石雑記(六).徳永博士の東京付近よりの化石.地質学雑誌,16,493.
山川戈登(1910a):三浦半島に現れたる化石含有層の或ものに就きて.地質学雑誌,17,
37-41.
山川戈登(1910b)
:化石雑記(七).Trapezium japonicum Pilsbry.地質学雑誌,17,41.
山川戈登(1910c):化石雑記(八).Astriclypeus cfr.manni (Verill)及び王子層、成田層
のウニ.地質学雑誌,17,41.
山川戈登(1910d):ストープス博士及び藤井学士の白亜紀植物の構造に関する研究.地質
学雑誌,17,98.
山川戈登(1910e):化石雑記(九).三浦半島の化石産地追補.地質学雑誌,17,119.
山川戈登(1910f):化石雑記(十).化石貝類に関する現生貝類 2.3 の分布.地質学雑誌,
17,165.
山川戈登(1910g):化石雑記(十一)
.蘚虫類の化石産地.地質学雑誌,17,165.
山川戈登(1910h):ゴッチェ教授逝く.地質学雑誌,17,524-526.
― 9 ―
地質学史懇話会会報
第 42 号(2014)
渡邊 貫とその業績
-日本における地質工学の開拓者-
小野田 滋(鉄道総合技術研究所)
1.はじめに
地質学は、理学の一分野として発達し
たが、土木工学との境界分野として、応
用地質学や地質工学、土木地質学と呼ば
れる分野が誕生し、トンネルなどの土木
工事や、地すべりといった防災にも地質
学の知識が反映されるようになった。地
質学が工学分野に本格的に利用されるの
は、昭和戦後の高度成長期になってから
で、地質コンサルタント業の普及ととも
に、地質学の知識は土木技術の発展に大
きく貢献することとなり、本論文の主題
である鉄道のみならず、道路、港湾とい
った交通分野、電力、河川、砂防、農業
渡 邊 貫 ( 1898~ 1974)
用水などの社会基盤施設の拡充に幅広く
役立てられた。
近代の地質学や土木工学の知識は、共に明治維新と前後して日本にもたらさ
れたが、それぞれ個別に発達し、いくつかの接点はあったものの一時的な関わ
り に と ど ま り 、体 系 化 さ れ る に は 至 ら な か っ た 。そ う し た 中 で 、1923( 大 正 12)
年 に 東 京 帝 国 大 学 地 質 学 科 を 卒 業 し て 鉄 道 省 に 入 省 し た 渡 邊 貫 (わ た な べ ・ と お
る )は 、地 質 学 と 土 木 工 学 の 境 界 分 野 と し て 地 質 工 学 を 体 系 化 し 、地 質 学 の 知 識
が 土 木 工 事 や 防 災 対 策 に 役 立 つ こ と を 示 し た 。こ こ で は 、渡 邊 貫 の 足 跡 を た ど
り つ つ 、鉄 道 分 野 で 地 質 工 学 が 体 系 化 さ れ る に 至 っ た 過 程 を 振 り 返 っ て み た い 。
2.鉄道工事と地質学
明治政府の発足とともに開始された鉄道の建設は、日本に西洋の近代土木技
術をもたらす契機となった。鉄道は、その後も全国に線路を伸ばし、鉄道建設
とともに近代の土木技術が全国へと普及した。
日本には鉄道技術が無かったため、最初はイギリス人技師の指導を受けなが
ら建設が進められたが、この時期に中山道鉄道の路線調査にあたったリチャー
ド・ヴィッカース・ボイルは、報告書の中で沿線の地質についても言及してい
たので、鉄道の建設にあたって地質調査が必用であるという認識は、お雇外国
― 10 ―
JAHIGEO Bulletin no. 42(2014)
人技師の時代から存在していた。また、鉄道頭として鉄道工事全般を指揮した
井 上 勝 は 、 ロ ン ド ン 大 学 で 鉄 道 工 学 と 地 質 学 を 学 び ( 卒 業 証 書 に は 「 Class of
Geology」 と あ る )、 一 時 は 鉱 山 頭 を 兼 任 し て い た の で 、地 質 学 に 対 す る 専 門 知
識があったと考えられる。
しかし、鉄道工事に直接携わる技術者に地質学の専門家はおらず、土木工事
にあたって地質調査を行うことが必須項目であるという認識もなく、必要に応
じて外部に委託して調査が行われる程度であった。この時代の記録によれば、
坂 市 太 郎 、神 保 小 虎 な ど が 鉄 道 の 地 質 調 査 に あ た り 、地 質 学 的 観 点 か ら 鉄 道 工
事や保線作業にあたって注意すべき点を指導していた。
3.鉄道トンネルと地質
鉄道技術者が地質学の必要性を認識する契機となったのは、トンネル工事で
あ っ た 。 鉄 道 ト ン ネ ル は 、 明 治 初 期 か ら 建 設 さ れ 、 1903( 明 治 36) 年 に は 明
治 時 代 の 鉄 道 ト ン ネ ル と し て は 最 長 と な る 延 長 4656m の 笹 子 ト ン ネ ル( 中 央 本
線)を完成させるまでになっていたが、大正時代になると明治時代に開業した
路線の勾配改良や、脊梁山脈を横断する路線の建設が進められ、より条件の厳
しい地形・地質を克服して鉄道を建設する必要に迫られた。
当時の鉄道トンネルは、工事にあたって地質調査を行うことはほとんどなさ
れ ず 、ご く ま れ に 地 質 調 査 所 や 帝 国 大 学 な ど に 調 査 が 依 頼 さ れ る 程 度 で あ っ た 。
笹子トンネルでも、地質調査所に委託されて小川琢治が調査にあたったが、坑
内の温度変化を把握し、掘削時の地質を記録したのみであった。工事に先立っ
て事前に地質の分布や性状を把握し、地質の変化に応じた施工を行うという考
えはほとんど無く、当時の地質調査は工事によって得られた結果のひとつに過
ぎなかった。
地質調査の重要性が関係者に認識される契機となった丹那トンネルは、現在
の御殿場線を経由していた当時の東海道本線の短絡と勾配改良を兼ねて、伊豆
半 島 の 付 け 根 の 熱 海 ~ 函 南 間 に 設 け ら れ た 延 長 7804m の 複 線 断 面 ト ン ネ ル で 、
工事に先立って東京帝国大学教授の横山又次郎と鈴木 敏に地質調査が委託さ
れた。横山は、丹那盆地の成因について火口説を主張し、湧水量が多くなると
予測した。これに対して、鈴木は浸食説と火山説の中間的な意見で、隧道地点
の地質は比較的良好であると予測した。このほか、辻村太郎、脇水鉄五郎によ
る 断 層 説 も 唱 え ら れ 、結 論 の ま と ま ら な い ま ま 1918( 大 正 7)年 に 工 事 が 開 始
された。
工事は、
「 温 泉 余 土 」と 呼 ば れ た 膨 張 性 の 地 質 や 大 量 の 湧 水 、断 層 破 砕 帯 な ど
に 阻 ま れ て 進 捗 せ ず 、一 時 は 工 事 の 放 棄 ま で 提 案 さ れ て い た( 開 通 は 1934( 昭
和 9)年 )。ま た 、丹 那 ト ン ネ ル の 難 工 事 は 海 外 か ら も 注 目 さ れ 、難 工 事 に 果 敢
― 11 ―
地質学史懇話会会報
第 42 号(2014)
に挑戦した日本人の
勇気を讃えつつも、
地質調査を怠った当
然の結果であるとし
て非難された。
こうした時期に、
渡邊 貫をはじめと
する3名の地質学科
出身者(他に、廣田
孝一、佐伯謙吉)が
鉄道省に採用され、
経験工学として発達
してきたトンネル工
事に、地質学的解釈
丹那ト ンネ ルの地 質予 想図(上:横山又 次郎 、中:鈴木 敏 、
下:平林 武+渡邊 貫)
や科学的根拠が与え
られることとなり、日本のトンネル技術が飛躍的に発展する下地となった。地
質学科出身者の採用は、鉄道省建設局工事課長で、のちに帝都復興院土木部長
となった太田圓三の発案であったと伝えられる。
入省後間もない渡邊が最初に取り組んだのは、ボーリングを用いた丹那トン
ネルの地質調査であった。ボーリング技術は、すでに鉱山で用いられ、鉄道で
も 1921( 大 正 10) 年 か ら 開 始 さ れ た 東 京 地 下 鉄 道 ( 現 在 の 東 京 メ ト ロ 銀 座 線
の浅草~新橋間)の地質調査で用いられたほか、復興局(帝都復興院を改組)
では関東大震災後の東京・横浜地区のボーリング調査を実施し、都市地盤図を
作成するなどその適用範囲を広げつつあった。丹那トンネルでは、スウエーデ
ンから技術者を招聘して指導を受け、その成果は平林 武や渡邊 貫によってよ
り詳細な地質図としてまとめられ、丹那断層の存在を予見するなどの成果をも
たらした。
こ れ に 対 し て 延 長 9702m の 上 越 線 清 水 ト ン ネ ル の 工 事 は 、硬 岩 と 呼 ば れ る 硬
質の岩盤で構成され、土被りも大きかったため強大な地圧が作用し、トンネル
の掘削に伴う応力解放によって、
「山ハネ」
( rockburst)と 呼 ば れ る 現 象 が 発 生
した。こうした硬岩地山に対する掘削技術に関しては、炭鉱や鉱山の技術が応
用され、発破のパターンや、機械化掘削が重視された。
膨張性地質の丹那トンネルと硬岩地山の清水トンネルは、ともにこの時代の
土木工事を象徴する構造物となったが、そのノウハウは、続く関門トンネル、
青函トンネル、新幹線建設などのプロジェクトへと継承されることとなった。
― 12 ―
JAHIGEO Bulletin no. 42(2014)
4.土と水研究会から鉄道省土質調査委員会へ
1923( 大 正 12) 年 に 鉄 道 省 に 採 用 さ れ た 3 人 の 地 質 学 科 出 身 者 の う ち 、 こ
こ で 取 り 上 げ る 渡 邊 貫 は 、単 に 鉄 道 技 術 者 と し て の 地 位 に と ど ま ら ず 、多 く の
著書を通じて土木技術者や地質学者にシンパシーを与え続け、実学としての地
質学の普及に貢献した。
渡 邊 は 、 1898( 明 治 31) 年 7 月 16 日 に 大 分 市 で 生 ま れ 、 1923( 大 正 12)
年 3 月 に 東 京 帝 国 大 学 理 学 部 地 質 学 科 を 卒 業 し て 、た だ ち に 鉄 道 省 に 入 省 し た 。
最初の配属先は丹那トンネルの工事現場を担当していた鉄道省熱海線建設事務
所で、丹那盆地の直上から垂直ボーリングを行い、丹那盆地の断層の位置や規
模 な ど が 把 握 さ れ た 。 渡 邊 は 1925( 大 正 14) 年 に 本 省 建 設 局 計 画 課 に 移 り 、
翌 年 に は 鉄 道 技 師 に 昇 進 し た 。 ほ ぼ 同 時 期 の 1925( 大 正 14) 年 に は 、 ヨ ー ロ
ッ パ で カ ー ル ・ テ ル ツ ァ ギ ー が「 Erdbaumechanik」( 土 質 工 学 )を 著 し 、新 し
い土質力学理論を体系化して世界的な注目を集めていた。また、スウェーデン
鉄 道 省 で は 1913( 大 正 2 )年 に 土 質 調 査 委 員 会 を 発 足 さ せ て 、ウ ォ ー ル マ ー ・
フ ェ レ ニ ウ ス( 斜 面 の 安 定 解 析「 フ ェ レ ニ ウ ス 法 」で 知 ら れ る )、ア ル バ ー ト ・
アッターベルク(土のコンシステンシーを表す「アッターベルク限界」で知ら
れる)などの人材を擁して、多くの成果を挙げつつあった。渡邊はこうした海
外 の 動 向 を 踏 ま え て 、1929( 昭 和 4)年 に 私 的 な 勉 強 会 と し て「 土 と 水 研 究 会 」
を立ち上げ、この分野に関心のある鉄道技術者や大学教官などを集めて情報交
換を行った。
そして、翌年に鉄道省に土質調査委員会を組織し、地質や土質に関わる研究
を 進 め る 体 制 を 整 え た 。 鉄 道 省 土 質 調 査 委 員 会 は 、 1930( 昭 和 5) 年 11 月 21
日付で発足し、委員長に大臣官房研究所長の松縄信太が就任し、鉄道省の工務
局、建設局、大臣官房研究所に加えて、東京帝国大学からも山口昇が委員とし
て 参 加 し 、 委 員 長 を 含 め 12 名 の 体 制 で ス タ ー ト し た ( 渡 邊 貫 は 幹 事 )。 設 立
の趣旨では「国有鉄道線路の建設保線改良等業務執行上、土の性質を科学的並
に工学的に調査研究し、その地域の状況に応じ適切なる工事を施行して、工費
の 節 約 と 線 路 の 安 全 と を 期 す る を 目 的 と し 、鉄 道 大 臣 の 決 裁 を 経 て 昭 和 5 年 11
月 21 日 下 記 委 員 及 幹 事 を 以 て 土 質 調 査 委 員 会 が 設 立 さ れ た 。」と そ の 設 立 目 的
を述べた。
第 1 回 の 委 員 会 は 、同 年 12 月 13 日 に 本 省 工 務 局 長 室 で 開 催 さ れ 、常 置 の 調
査機関として「第 1 部 土質科学的調査(土質力学的調査、土質分類、土質構
造 及 び 成 層 調 査 )」「 第 2 部 土 質 調 査 を 基 礎 と す る 構 造 物 の 設 計 ( 地 形 及 び 成
層 調 査 、 土 質 試 験 、 設 計 )」「 第 3 部 土 質 調 査 を 基 礎 と す る 工 事 施 行 法 ( 地 形
及 び 成 層 調 査 、土 質 試 験 、施 行 法 )」を 設 け た ほ か 、内 外 の 文 献 の 収 集 ・ 翻 訳 ・
分析を目的とした「雑誌会」を隔週で開催することとし、大臣官房研究所内に
― 13 ―
地質学史懇話会会報
第 42 号(2014)
書庫を備えた事務室を開設して、渡邊 貫を含む 4 名が事務局として勤務する
こ と と な っ た ( の ち に 東 京 建 設 事 務 所 に 移 転 )。
土質調査委員会の具体的な活動については、多岐にわたるため改めて報告し
た い が 、 そ の 成 果 は 、『 鉄 道 省 土 質 調 査 委 員 会 報 告 』 と し て ま と め ら れ 、「 第 1
輯 」( 1931( 昭 和 6) 年 6 月 発 行 )、「 第 2 輯 」( 1932( 昭 和 7) 年 10 月 発 行 )、
「 第 3 輯 」( 1934( 昭 和 9) 年 7 月 発 行 )、「 第 4 輯 」( 1936( 昭 和 11) 年 4 月
発 行 )、「 第 5 輯 」( 1938( 昭 和 13) 年 3 月 発 行 ) の 5 冊 が 大 臣 官 房 研 究 所 よ り
発行された。
土質調査委員会の活動は、単に専門家だけが集まって情報交換を行うだけで
なく、最新の成果を現場の知識としていち早く普及させ、鉄道技術の向上に反
映させることが心がけられた点に大きな意義があった。土質調査委員会は、当
時、資源探査の技術として用いられていた物理探査(弾性波探査、電気探査な
ど)を土木分野に応用し、杭の載荷試験や土の剪断試験などの物理試験による
定量的な評価法を導入したが、各地方の建設事務所にも試験室を設置して試験
機器や標本採取のための装置を揃え、講習会や現地指導などを通じて現場との
交流を深めつつ、試験機器の取扱方法や地質学の知識を全国に普及させた。
渡 邊 貫 は 、1928( 昭 和 3)年 に 工 業 雑 誌 社 か ら『 土 木 地 質 学 ・ 工 事 編 』を 出
版 し 、 続 け て 1930( 昭 和 5) 年 に は そ の 続 編 と し て 『 土 木 地 質 学 ・ 理 論 編 』 を
出 版 し て 、地 質 工 学 の 体 系 化 を 初 め て 試 み た 。
『 工 事 編 』は 、1928( 昭 和 3)年
6 月 26 日 か ら 5 日 間 に わ た っ て 、 全 国 の 12 箇 所 の 建 設 事 務 所 か ら 主 要 技 術 者
を集めて行った第1回測量会議で、渡邊が行った「線路選定に必要なる地質の
智 識 」 と い う 講 義 を ベ ー ス と し て お り 、「 谷 川 に 沿 う 線 路 」「 海 岸 に 沿 う 線 路 」
「 山 地 を 縫 う 線 路 」「 平 地 を 横 断 す る 線 路 」「 地 質 と 工 事 」 地 下 水 と 隧 道 工 事 」
「堰堤工事と地質」の
各章を設けて、それぞ
れの条件で注意すべき
地形・地質を解説し、
付録として「岩石の分
類 」「 山 崩 の 分 類 」「 地
質調査とは如何なる仕
事か」に言及した。ま
た、
『 理 論 編 』で は「 土
木地質学の将来」
「土質
科 学 」「 切 取 の 安 定 度 」
「基礎の地盤「
」堰水工
の基礎」
「泥炭地の基礎
渡 邊 は 図 を 多 用 し て 、現 場 の 技 術 者 に も ト ン ネ ル の 立 地 条 件 と
地質の関係をわかりやすく解説した(文献 1 から)
― 14 ―
JAHIGEO Bulletin no. 42(2014)
工 」「 隧 道 の 地 圧 」「 水 圧 隧 道 の 覆 工 」「 土 地 陥 没 現 象 ( 鉱 山 被 害 )」 の 各 章 を 設
けて、
『 工 事 編 』の 背 景 と な る 地 形 学 や 地 質 学 の 基 礎 知 識 を 、現 場 の 技 術 者 で も
理解できるよう平易に解説した。
渡 邊 は 出 版 の 意 図 に つ い て 、『 工 事 編 』 の 改 訂 ( 1930( 昭 和 5) 年 ) の 「 序 」
で、
「 工 事 編 は も っ ぱ ら 現 場 担 当 者 が 直 接 現 地 で 役 立 て る こ と を 目 的 と し 、理 論
編は現場の経験を収集して最近体系化された「土質力学」によってこれを解釈
することを企てた」
( 要 旨 )と 述 べ た が 、ま ず 現 場 に 知 識 を 普 及 さ せ て そ の 業 務
に役立てることを優先し、それによって得られたデータで理論を検証・補強す
ることにより、短期間に多くの成果を挙げた。鉄道省は、全国組織であったこ
とや、あらゆる分野の専門家を抱えていたこともあって、委員会という横断的
な組織を活用することによって、縦割となりがちであった官僚組織を特定の目
標に向けて取り組む体制を整え、短期間で成果をもたらすことを得意としたが
( 新 幹 線 の 実 現 は そ の 典 型 的 な 例 )、 渡 邊 貫 は 土 質 調 査 委 員 会 と い う 組 織 を 活
用することによって、土木技術者の期待に応えたと言える。
渡 邊 貫 は 、 1931( 昭 和 6) 年 1 月 に 大 臣 官 房 研 究 所 第 四 科 を 兼 務 し 、 1936
( 昭 和 11) 年 6 月 に は 、「 土 の 科 学 」 と 題 し た 論 文 に よ っ て 東 京 帝 国 大 学 か ら
理学博士の学位を授与された。
5.地質工学の体系化
渡 邊 貫 は 、そ の 後 も 単 行 本 を 何 冊 か 執 筆 し 、雑 誌 に も 頻 繁 に 寄 稿 し て 地 質 学
の 知 識 の 普 及 に 力 を 注 い だ が 、 そ う し た 中 で 1935( 昭 和 10) 年 に 古 今 書 院 か
ら 発 行 さ れ た 『 地 学 辞 典 』 の 編 纂 は 、 特 筆 す べ き 業 績 と な っ た 。 渡 邊 は 、 1969
( 昭 和 44) 年 に 竹 内 均 、 片 山 信 夫 、 森 本 良 平 、 木 村 敏 雄 の 編 集 に よ っ て 『 地
学辞典』が改訂された際の「序」に寄稿したが、初版の出版経緯について「そ
の当時、いわゆる地学会がいかに頑迷・固陋で偏見に満ちたものであったかと
いうことを物語るものである。自分はこれに対する義憤と闘志から、昭和 5 年
32 歳 の 時 に こ の 編 集 を 思 い 立 っ た の で 、世 界 中 の 辞 典 を 取 り 寄 せ て 、わ ず か 一
か 月 で 計 画 を こ し ら え た も の で あ る 。」( 原 文 ) と 述 べ 、 当 時 の ア カ デ ミ ズ ム と
しての地質学のあり方を痛烈に批判した。初版の「序」では、編纂した動機と
して、
「 物 理 学 や 化 学 、生 物 学 が 体 系 化 さ れ て い る に も か か わ ら ず 、地 学 の み が
様々な分野に細分化されてひとつの講座としてまとまっていない(
」 要 旨 )と し 、
用 語 も 統 一 さ れ て い な い(「 鉱 物 」と「 砿 物 」、「 珪 酸 」と「 硅 酸 」を 例 示 )こ と
や 、新 聞 な ど に よ っ て 通 俗 的 な 知 識 が 横 行 し て い る 現 状 を 憂 い 、
『 地 学 辞 典 』の
編纂を決意するに至ったとした。
渡 邊 貫 は 、同 じ 年 に 古 今 書 院 か ら『 地 質 工 学 』を 出 版 し た が 、こ れ は『 土 木
地質学』をその後の成果を含めて1冊にまとめて体系化したもので、土質調査
― 15 ―
地質学史懇話会会報
第 42 号(2014)
委員会の成果を含め、
それまでの経験を集大
成した大著となった。
なお、渡邊と同期入省
の 廣 田 孝 一 も 1941( 昭
和 16)年 に 鉄 道 工 学 会
から『鉄道地質学』を
出版した。
渡 邊 貫 は 、そ の 後 も
関門トンネルや弾丸列
関門トンネルの地質調査で試みられた海上ボーリング
車計画、朝鮮海峡トン
ネ ル 計 画 な ど の 地 質 調 査 に 携 わ り 、 傍 ら で 1939( 昭 和 14) 年 に 東 京 帝 国 大 学
地震研究所や鉄道省の同好の士を集めて自宅に地質工学研究所を設立し、依頼
に応じて資源調査を行うなどして、その利益を活動資金としていた。そして、
戦時体制の中で鉄道省の組織の再編(建設局と工務局を統合して施設局が発足
す る な ど ) と 人 員 削 減 が 行 わ れ 、 渡 邊 は こ れ を 潮 時 と し て 1942( 昭 和 17) 年
12 月 に 鉄 道 省 を 退 官 し 、物 理 探 査 を 専 門 と す る 民 間 コ ン サ ル タ ン ト で あ る 日 本
物理探鑛を設立して、自ら社長に就任した。
同 期 で 鉄 道 省 に 入 省 し た 佐 伯 謙 吉 は 、 1931( 昭 和 6) 年 7 月 に 退 官 し て ヤ マ
ト ボ ー リ ン グ に 移 り 、 廣 田 孝 一 は 1943( 昭 和 18) 年 2 月 に 退 官 し て 日 本 発 送
電 ( の ち の 電 源 開 発 ) に 移 っ て 1923( 大 正 12) 年 入 省 の 「 地 質 三 人 組 」 は す
べ て 鉄 道 か ら 去 っ て し ま い 、 鉄 道 省 に お け る 地 質 学 科 の 出 身 者 は 1937( 昭 和
12)年 に 東 京 帝 国 大 学 地 質 学 科 を 卒 業 し た 宮 崎 政 三 の み と な っ た 。 宮 崎 は 孤 塁
を 守 り つ つ 戦 後 も 鉄 道 に 奉 職 し 続 け 、 1955( 昭 和 30) 年 4 月 に は 、 日 本 国 有
鉄道鉄道技術研究所に設置された地質研究室(国鉄の組織名として「地質」と
いう名称が初めて正式に用いられた)の初代室長となった。
6.戦後の渡邊 貫
戦 前 の 華 々 し い 活 躍 に 比 べ て 、戦 後 の 渡 邊 貫 は 日 本 物 理 探 鑛 の 経 営 に 専 念 し 、
鉄道界や学協会の活動にはほとんど関わらなかった。敗戦の衝撃が渡邊を変え
てしまったのか、官職を辞した以上は民間企業の経営者に徹すると決意したの
か、地質学そのものに対する情熱を失ってしまったのか、その理由は今となっ
ては定かではない。
国有鉄道では、戦後間もなく地質学科出身者の採用を再開し、戦後復興を経
て青函トンネルや全国新幹線網など、高度成長期の建設ブームへと至り、地質
の 専 門 家 が 果 た す べ き 役 割 は さ ら に 重 要 と な っ た 。こ う し た 将 来 の 展 望 が 開 け 、
― 16 ―
JAHIGEO Bulletin no. 42(2014)
自ら蒔いた種が充分に生長したことをもって満足し、鉄道事業に対して自身の
果たすべき役割は、コンサルタント業を通じた後方支援にあると割り切ってい
た よ う に 思 わ れ る 。渡 邊 貫 の 薫 陶 を 受 け た 宮 崎 政 三 の 回 想 に よ れ ば 、渡 邊 は よ
く「おれは実業家ではなく芸術家だよ」と口にしていたとされる。
戦 後 の 渡 邊 貫 は 、青 函 ト ン ネ ル や 新 幹 線 と い っ た 大 プ ロ ジ ェ ク ト に 対 し て も 、
自らの意見を主張することは皆無で、コンサルタントの経営を通じて鉄道事業
の 発 展 を 支 え る 立 場 に 徹 し た 。鉄 道 省 OB の 集 ま り な ど に は 出 席 し て い た の で 、
鉄道と全く縁を切ってしまったわけではなかったが、国鉄や学協会が設置した
委員会にも参加していない。ちなみに、同期の廣田孝一は、戦後も電源開発技
術顧問、日本応用地質学会会長(初代)を歴任し、日本国有鉄道が設置した海
峡連絡鉄道技術調査委員会特別委員として青函トンネルの調査に参画し、中央
鉄道教習所講師も委嘱されていたので、戦後も国鉄とのパイプを保ち続けてい
た。
国鉄の土木系技術者の間では、法螺話に近い奔放な発想で周囲を煙に巻く3
人 の 人 物 を 「 ホ ラ 貫 ( か ん )、 ホ ラ 弥 寿 、 ホ ラ 次 郎 」 と 渾 名 し た が 、「 ホ ラ 貫 」
は こ こ で 紹 介 し た 渡 邊 貫 、「 ホ ラ 弥 寿 」 は 鉄 道 路 線 の 調 査 や 青 函 ト ン ネ ル の 計
画 に 功 績 を 残 し た 桑 原 弥 寿 雄 ( 昭 和 7 年 ・ 東 大 土 木 卒 )、「 ホ ラ 次 郎 」 は 駅 ビ ル
の開発などを事業展開した立花次郎(昭和2年・東大土木卒)で、それぞれの
持ち味を活かしながら窮屈な官僚組織に風穴を開け、鉄道事業の発展に貢献し
た。その筆頭格とも言うべき渡邊 貫は、理学系という少数派であったが故に、
組織や分野の枠にとらわれないユニークな活動を行い、土木工学と地質学の境
界 分 野 と し て 「 地 質 工 学 」 と い う 概 念 を も た ら し た が 、 1974( 昭 和 49) 年 12
月 17 日 に 急 性 肺 炎 に よ っ て 他 界 し た 。
渡邊は『地学辞典』の改訂版の「序」の末尾でフランス自然主義の小説家ギ
ュ ス タ ー ヴ・フ ロ ベ ー ル の「 人 間 は 無 で あ る 。作 品 こ そ が 全 て で あ る 。」を 引 用
し た が 、こ れ は ま さ に 渡 邊 貫 の 生 き 様 を 象 徴 し た 言 葉 で も あ る 。渡 邊 の 著 書 に
はしばしば哲学者や小説家の言葉がペダンチックに引用され、地質家らしいロ
マンチストとしての側面を見せていた。
参考文献
1 ) 渡 邊 貫 「 線 路 選 定 に 必 要 な る 地 質 の 智 識 」『 第 1 回 測 量 会 議 記 録 』 鉄 道 省 建 設 局 計 画
課 ( 1928)
2 ) 宮 崎 政 三 「 渡 邊 貫 先 生 を 憶 う 」『 地 質 學 雑 誌 』 Vol.81,No.5( 1975)
3 )小 野 田 滋「 国 有 鉄 道 に お け る 地 質 調 査 の 黎 明 と 発 展 - 鉄 道 省 土 質 調 査 員 会 前 史 - 」
『第
7 回 日 本 土 木 史 研 究 発 表 会 論 文 集 』 土 木 学 会 ( 1987)
4 ) 小 野 田 滋 「 境 界 分 野 の 開 拓 者 - 渡 邊 貫 - 」『 R R R 』 Vol.54,No.10( 1997)
5 )日 本 応 用 地 質 学 会 編『 原 典 か ら み る 応 用 地 質 学 - そ の 理 論 と 実 用 - 』古 今 書 院( 2011)
― 17 ―
地質学史懇話会会報
第 42 号(2014)
日本における対の変成帯の地域地質学史
原 郁夫
1.はじめに
領家帯と三波川帯と言う対の変成帯を形成する造山運動は都城(1959)によって「日本型の造
山」と呼ばれてきた.この言葉の重要性は地域的個別性が普遍に繋がるものであることへの示唆
である.このことから,青矢(2004)は,三波川帯における 21 世紀初頭の研究を総括する中で,
「ここでの研究成果は,高圧変成岩上昇機構や対の変成帯形成機構を目指した研究において,一
つの世界基準となる可能性を秘めている」と述べることになるのだが,それは現在の到達点から
の確信でもある(原,2011)
.このような発言を可能にしてきた三波川帯と領家帯の地域地質学史
は,地域地質学は,どのようにして可能となる学問であるかを,明らかにしてきたはずである.
この地質学史のいろいろな段階で,日本の地質学者は,日本の地質学史を振り返りまた欧米の地
質学史を読み取り参照しながら,地域地質学の有り様を考えながらやってきたはずである.ここ
で,地域地質学はどのようになされるべき学問であるかを,対の変成帯三波川帯と領家帯の地域
地質学史から読み解き,紙幅の都合により留意点だけになるのだが,それらを記しておきたいと
思う.
2.対の変成帯の地域地質学
2.1 構造論の展開
日本の対の変成帯の理解の深化に貢献した epoch-making な研究を選定するようにして歴史を
描き,有効であった地域地質学の方法を読み取ることにしたいと考える.紙幅の都合により,根
拠となる膨大な個々の文献は記さない.それらを含む私の総括論文を中心に記すことをお断わり
しておく.
黎明期→第一期 対の変成帯は,日本という場の地域地質学的特性を反映して出現した概念であ
る.このため,相当する地質現象は,初めて日本の地質図を纏めた Naumann(1885;山下,1996
邦訳)によって捉えられてきていた(黎明期)
(原,2013a 参照)
.Naumann の後,対の変成帯の概
念の出現に関 わる epoch-making な研究としては,Kobayashi(1941)の「佐川造山輪廻」があげら
れよう.小林に先立つ研究者である小澤儀明には,対の変成帯という認識は稀薄であった
(原,2013a 参照)
.
「小林より前には,領家,三波川,御荷鉾というような言葉は,岩型の類似し
た変成岩群を表すという意識が強くて,造山帯のなかで地質構造上どのような役割を占めるかと
いうことはほとんど考えられていなかった」
(都城,1965a)
.これは,例えば,
「九州ノ西部ニハ三
波川層及ビ御荷鉾層甚ダ広クシテ,外帯ニハ却テ之ヲ欠如セル著シキ事実アリ」
(小川,1906)と
いった整理の仕方のことである.このような記載から,小林は,本州および四国における変成岩
の分布域を飛騨帯,三郡帯,領家帯,長瀞帯(三波川帯+御荷鉾帯)という四つの地帯に分けた
(第一期)
.これが小林の研究の第一の成果である.これは,結晶片岩/片麻岩を始原界とする見
方からの完全な解放の結果であった.このことには,Koto(1888),小川(1906)
,小澤(1926)の
時代とは違って,例えば,Fujimoto(1938)の放散虫化石の発見を受けて,小林(1951)が,
「三
波川統や四国の大崩壊・別子両統は,永らく先寒武紀の古い岩層の変質したものと信じられてい
た.しかし,秩父長瀞ではその内の小石灰岩塊中に放散虫が発見された・・・・少なくとも寒武紀乃
至それ以降の水成岩の変成相がその主な部分をなしていることだけは確かである」
,
と言うことが
出来る研究の進歩が関わっていた.そして,造山帯の中での変成帯の構造上の位置について,世
界 の 造 山 帯 を 見 渡 し て 普 遍 的 共 通 性 を 読 み 取 ろ う と す る 意 識 が あ っ た 小 林 ( 1951 ;
― 18 ―
JAHIGEO Bulletin no. 42(2014)
Kobayashi,1941)であれば,これは当然の作業であった.
小林による第二の成果は,地史学的研究を整理して,飛騨帯と三郡帯は小林が秋吉造山運動と
よんだものによって中生代の初期に生成し,領家帯と三波川帯は佐川造山運動とよんだものによ
って中生代の後期に生成したと結論したことである.ここから,小林は,第三の成果として,日
本での造山運動は,過岩しょう帯(飛騨,領家)が内側に減岩しょう帯(三郡,三波川)が外側
に配置するように対の変成帯を形成しながら,太平洋側に向かって進行すると言う高次の概念を
獲得するのである.
第 二 期 Kobayashi(1941) の 対 を な す 変 成 帯 と 言 う 見 方 を 受 け て , 都 城 ( 1959 ;
Miyashiro,1961,1973)は,エスコラの変成岩研究の静観的側面(変成相の法則)を参照する研究
を進め,両帯の変成相の相違を発見し,この視点から対の変成帯を説明することが出来たという
歴史が読み取れる(第二期)
(原,2013a)
.そして,秩父地向斜を構成する「緑色変成岩類は佐川
造山帯の三波川帯・御荷鉾帯や,秋吉造山帯の三郡帯に見るように造山帯の減岩しょう帯の主要
要素である」と言う小林(1951)の指摘は,Miyashiro(1973)によって「ophiolites are
characteristics of high-pressure metamorphic terranes」と読み替えられる.対の変成帯を上
記のように捉えていた小林(1948)は,
「西南日 本と満鮮の地質を研究していた私には,一口に
造山帯といっても実は色々の型式の者のある事に気付いていたが,外遊中にアパラチアやアルプ
スを実際に見て,後者が日本と前者が南鮮と非常によく似通っている点のある事が判った」と記
すのだが,これは,都城(1959)が,対の変成帯を含む造山帯「日本型の造山帯」と一種類の変
成帯を含む造山帯に区分し,アルプスは日本型の造山帯の一種であり,アパラチアは後者に属す
ると述べたことに繋がっている.小林が研究し,アパラチアに比較されるとした,南鮮の造山帯
は沃川帯である.私も姜志勲と研究したが,沃川帯は花崗岩貫入を伴う中圧型の変成帯であった
(姜ほか,1996).「Kober(1933)が世界の造山帯の基本構造はどれも同じだと考えていた」(都
城,1959)ことからすれば,小林の上記のような見方が,いかに時代に先駆けていたかは明らかで
ある.そして,小林と都城の間には,対の変成帯が現れる地向斜についての見方においても,不
連続性はなく,ともに日本海溝を例とした場の非対称性が意識され,地球物理学の情報を考慮に
入れながらの,累進的な展開が読み取れるのである(原,2013a)
.しかし,
「Stille(1955)は,地
質時代の間に,地球上の正地向斜がしだいに狭くなったと考えた.日本型造山帯の形成は,その
種のことに成因的関係をもっているのかもしれない」
,
と言う都城
(1959)
の見方は分かりにくい.
このように,小林の成果と都城の成果の間には,多くの関連性が読み取れることから,都城は
小林から多くの示唆を受けたことは明らかである.しかし都城は小林の成果との関係を論じてい
ない.
このように,都城の研究のベースになったものは小林の画期的な成果であったと考えられるこ
とから,対の変成帯の概念の成立は小林をもって嚆矢とすると言うべきであろう.そして,小林
(1948)
が当時を振り返り,
「比較層序論と比較構造論の両研究に基く日本からの側方観に依って,
表裏一体の日本の地史は益々高揚されつつあると同時に,亜細亜や太平洋の地質学的諸問題に日
本の地史は示唆を与えている」と述べていることからしても,小林には,日本という場の地域的
個別性が普遍に繋がるものであることが理解されていたことは明らかである.小林(1935;
Kobayashi,1941)による,造山サイクル・世界造山同時性と言う Stille の見方に対する改変とな
る,秋吉造山提唱の背後には,
「日本では,古典的標準のヨーロッパに比べて東アジア,そして環
太平洋地域については同一には律しきれないものがあるという考え方が底流にあった」
,と市川
(1993)も指摘している.
以上のような考察の結果から,泊(2008)によって,小林の構造論は、
「戦前の日本の地質学を
― 19 ―
地質学史懇話会会報
第 42 号(2014)
代表する業績にあげられる.それはまた,日本の地質学の特徴とその限界をも代表していた.1
つは,外国でできあがった学説を基本にすえ,それを日本列島にあてはめて議論を展開するとい
うスタイルである.もう1つは,何よりも日本列島の成り立ちを明らかにすることに力が入れら
れた点である.・・・・きわめて地域主義的・地史中心的なものだったといえよう」と論断されたこ
と.さらに,磯崎ほか(2010)によって,小林の成果は,
「欧米でつくられた地向斜概念(とくに
ドイツのシュティレの地向斜論)を日本の具体的地質記載に単純に当てはめただけという域を越
えず」と評価されたことについて,当然反論がなされるべきであると私は考える.
「人を批判する
とき,批判の対象を矮小化したくなるものです.・・・・相手を克服するためには相手の言説をもっ
と好意的に,もっとポジティブに,もっとも可能性の高いところでとらえて,そこを乗り越える
ことが大切」
(大澤,2003)なのであ るが,しかし,地質学史において,小林の成果に対する評価
は矮小化が際立っている.カレントに流されやすい研究者の多い日本では特に批評の有り様は学
門に大きな影響をもつ.日本の地域地質学史を振り返り,これもまた地域地質学の方法論上の重
要な問題とすべきであると私は考える.
考えるべきことが多く, 話が錯綜してきている.
ここでまた,
第二期の研究の具体的な問題に,
話を戻そう.当時の学問状況からして,小林の研究が,日本の地域地質学の基本特性を捉え得た
ことには驚くばかりである.小林による纏めはあったが,
「終戦時には・・・・古生界では南部北上,
関東山地,秋吉・帝釈・阿哲及び周辺,佐川近傍など,四万十帯では四国西部を除いて,多くの
地域で何がどのように分布しているのか,その基本的資料さえ乏しく,単に古生層及び時代未詳
中生層として塗色されていた.従って戦後 10 数年間はまず地質図を作り,岩相・層序・構造を記
載する地域地質研究を先行されねばならなかった」
(勘米良,1993)
,と言うのが第二次大戦直後の
日本の地域地質学の状況 であった.この時期の地質調査によって,磯崎ほか(2010)が述べてい
るように,
「従来よりもはるかに精度の高い詳細な地質図の作成がなされるようになった.その結
果,議論が緻密化し,各地で小林モデルの批判・修正がなされた(市川ほか,1955,1972;Minato et
al.1965 など)
」のである.
このことを反映して,不連続な造山運動の南進によって,飛騨帯・三郡帯そして領家帯・三波
川帯と順次二組みの対の変成帯が形成されたと言う小林の説明は,都城(1965a;Miyashiro,1973)
によ って,
「中生代の後期に造山運動がおこって,
領家-阿武隈変成帯と三波川変成帯を生じた.
しかし,三郡変成作用と三波川変成作用との間が切れているか否かは疑問である.三郡変成地域
の一部分は,ずっと後の時期まで変成し続け,再結晶が大いに進んできて,この部分のことをわ
れわれが三波川変成帯とよんでいるにすぎないかもしれない.・・・・領家変成帯の一部分は,三郡
変成岩をもう一度変成したものであるかもしれない」
と説明しなおされる.
この都城の見方には,
三郡帯と三波川帯を同時期の変成帯とする牛来(1955)
・山下(1957)の影響が読み取れる.
しかし,このような判断には,例えば黒瀬川帯の地質(e.g.市川ほか,1956; 山下,1957)
,三
郡 帯,玖珂層群,領家帯の関係(e.g.Kojima,1953)
,eugeosyncline 性堆積体の分布様式など古
生代堆積体の性状についてどのように考えるかが関わっていた.このため,牛来・山下・都城と
は異なる判断が生まれた.市川(1970)による古領家帯の提唱である.これは,日本における対
の変成帯の構造論の理解に,新たな epoch-making な展開を齎らしたものである(第三期)
.この
第三期の説明に入る前に,第二期の研究についていま少し説明しておくことが必要である.
小林が提示した対の変成帯の構造論についての第二期における深化は,先に述べたように,都
城学派がエスコラの変成岩研究の静観的側面(変成相の法則)を参照する研究を進め齎らしたも
のであった(Miyashiro,1961)
.それは過岩しょう帯の変成作用は高温低圧型であるのに対して,
減岩しょう帯のそれは低温高圧(藍閃変成)型であり,
「花崗岩をともなう変成帯と藍閃変成帯と
の並走は,セレベスやオーストラリア東部にもあるらしい.ニュージーランド南島の状況も,こ
― 20 ―
JAHIGEO Bulletin no. 42(2014)
れにかなり類似している.太平洋東岸では,カリフォルニアの海岸山脈の Franciscan series は
藍閃変成帯であって,・・・・超基性岩体に貫入されている.その東方の Sierra Nevada 山脈は,花
崗岩をともなう変成帯である」
(都城,1959)と言うように,太平洋周縁における共通した現象で
あることを明らかにし,
さら に対の変成帯をもたらす造山運動の場としての地向斜の形成場の理
解について,小林の見方をより深化させたことであった.ここには,装いが新しいものになって
いたとしても,小林(1951)が,比較構造論とよんだ地域地質学の方法が読み取れる.かくして,
第二期と言う時代は,小林の研究が,否定された時代ではなく,大きく展開を見せた時代であっ
たように私には思われる.
第三期→第四期 対の変成帯領家帯と三波川帯についての第三期の展開は,市川(1970;
Ichikawa,1981)による古領家帯の提唱に始まる.それは,間接的証拠によってなされ,ほとんど
直感に近いものであったが,ごく限られた研究者によって,さまざまな情報がその痕跡と見做さ
れ,その可能性から,決定的な痕跡を求める作業が続けられた(原,2010 参照)
.そして現在,
Sakashima et al.(2003;竜峰山帯・日立),田切ほか(2010;日立)が記載した情報によって古
領家帯(陸塊)の存在は確定している.古領家帯の提唱が画期的なのは,それが領家帯と三波川
帯の位置を規定する情報だからである.
市川の構造論は,美濃-丹波-玖珂帯と上昇基盤古領家帯と言う構造的枠組みに対して,古領
家帯の南側下位に古生代末に押し込まれ中生代末に上昇した堆積体から三波川帯が形成され,美
濃-丹波-玖珂帯と古領家帯における中生代末の花崗岩貫入を伴う変成作用によって領家帯が形
成されたと言うものであった.そして,この時期の構造論は,形状的構造の解析により,外帯に
おける三波川帯,御荷鉾帯,秩父帯北帯の並列的な構造の枠組みが,秩父帯北帯ナップ群/御荷
鉾帯ナップ/三波川帯ナップ群の集積へと認識の転換が起こることで始まる,内外帯におけるナ
ップ構造論の大展開であった(原,1993,2009,2010,2013a,b 参照)
.
この第三期における構造論の転換は,石賀(1983)以降の多くの研究により,地向斜を構成す
る地質体とされていた内外帯の地質体が,時代論を一新しながら付加体と説明されることによっ
て,決定的に革新的なものとなる.即ち石賀(1983)による丹波帯における downward younging age
polarity ナップ構造論と言う epoch-making な研究が,第四期の始まりであるが,それはプレ-
トテクトニクスによる地質構造の説明の始まりであった(原,2009)
.この段階の研究は,第三期
に確認されたパイルナップ群を,付加単元としてのパイルナップ群であることを明らかにしなが
ら,西南日本地体構造が,飛騨帯ナップ/内帯付加体ナップ群/内帯付加体群+領家帯ナップ/
古領家帯+黒瀬川帯(黒瀬川-古領家陸塊)+秩父帯中帯ナップ/秩父帯北帯+秩父帯南帯ナッ
プ群/御荷鉾帯ナップ/三波川帯ナップ群/四万十帯ナップ群の集積と言う構造的枠組みをもつ
ことの発見であった.そして,三波川帯ナップ群は,黒瀬川-古領家陸塊の下位へ沈み込み反転
上昇して形成された付加体群の一つである.領家帯は,黒瀬川-古領家陸塊が内帯付加体群に衝
突し,その下位へ沈み込みが進行する過程に形成された,深成変成帯であると言う理解が生まれ
たのである(Hara et al.,1992;原,1993,2010,2011,2013a,b 参照)
.化石を含まない変成岩の時
代論は,いつまでも流動的である.この第四期は, このことに配慮をもった動観的構造論への姿
勢を獲得したのである.
第三期-第四期の地域地質学の方法論上の問題には,議論すべきことはあまりにも多く,紙幅
の都合により割愛せざるをえない.それらの議論については,原(2008,2009,2010,2011,2013a,b)
の論考を参照されたい.ここであえて特筆すべきこととして一つあげるならば,それは,古領家
帯,黒瀬川帯ナップ問題は,日本列島構造論上の要となる問題であるにもかかわらず,これらの
問題への構造地質学者の反応の悪さである.磯崎ほか(2010)は,今世紀に入りようやく,黒瀬
― 21 ―
地質学史懇話会会報
第 42 号(2014)
川帯ナップは「地殻弾性波探査によって実証されつつある(佐藤ほか、2005;伊藤・佐藤,2010)
」
と述べるのである.1990 年代初頭には形状的構造から明らかにされてきていた地質構造を無視し,
「地殻弾性波探査によって」と関数的構造に根拠を求め解明されつつあるとする彼らの方法は,
非地質学的である.地質構造の解明は,関数的構造の限界から可能な限り形状的構造に根拠を求
めることが必要なのである.
2.2 テクトニクスと変成岩成因論
小林(1951;Kobayashi,1941)には対の変成帯のテクトニクスについての議論はある.しかし,
後の研究に影響をもつようなものではなかった.都城(1959)は,Umgrove(1947)や Kennedy(1948)
などの造山論を参照しながら,
次のような対の変成帯の起源に関わるテクトニクスを記している.
「三波変成作用は・・・・地向斜の単なる堆積によって生ずるとしては,多分深すぎるであろう.
したがって,三波川変成作用は,堆積以外に,地殻の大きな down-buckling やそれにともなう
underthrusting によって,その地帯が構造的に非常な深所にもちこまれることによって起ったと
考えられる.動力作用も,温度の一般的上昇も,超塩基性岩の貫入も,そのような down-buckling
や underthrusting の結果であろう.中央構造線や清水構造帯は,・・・・最初には,その南方の地域
の down-buckling にともなう北方への underthrust のなかの末期のものの1つとして生成したの
であろう.三波川変成帯の down-buckling にともなって,領家変成帯の地域も幾らかの
down-buckling をし,それによって変成作用と花崗岩の一部の貫入があったと考えられる.
down-buckling や underthrusting をひき起した側圧が減退すれば,それにつづいてアイソスタシ
ー的平衡の恢復へ向う地殻の上昇が起ったであろう.従来,造山運動における上昇が特に強調重
視される場合が多かったが,そのような地殻の上昇やそれにともなう花崗岩の貫入は,実は地殻
の均衡恢復運動にすぎないのではなかろうか.もしそうならば,造山運動の真に主要な時期は,
down-buckling が最も甚しくなり,そこに広域変成作用が起るに至った時である.・・・・阿武隈主
部変成帯にも領家変成帯にも,広域変成作用にともなう古期花崗岩と,それより後の新期花崗岩
がある.前者は down-buckling や underthrusting の時期に,後者はアイソスタシー恢復運動の時
期に生成したと考えることができる」
.都城(1965a)は,教科書『変成岩と変成帯』においても
同じようなテクトニクスを記している.
第二次大戦後,変成岩と変成帯の研究を始めるにあたり,都城が,エスコラの変成相の法則に
拠りながら,基礎的研究から始めなければならなかったように(都城,1998)
,変成岩と変成帯の
構造地 質学・構造岩石学的研究を志す研究者もまた,その基礎的研究から始めなければならなか
った.動観的変成帯研究の先駆けとなる研究を行なった Ramsay(1963)や Rast(1963)が,褶曲を
研究していたこと(Ramsay,1960,1961,1962a,b,c,1967;Rast & Platt,1957)を例としてあげる
ことが出来るが,私たちもまた褶曲と軸面片理の成因的関係(Hara,1966;Hara et al.,1968;
Shimamoto & Hara,1976)や広域変成帯における層面片理形成の意味(原,1976)の研究などに参
加した.こうした研究で基礎を獲得しながら,日本の変成帯のテクトニクスを,変成岩・花崗岩
のもつ岩石構造から導く研究に入った.この頃太平洋プレートが周辺の陸域に向かって沈み込む
という海洋と陸域の関係としてのプレートテクトニクスが登場(e.g.Matsuda & Uyeda,1970;問
題-A;原,2009)し,このようなテクトニクスの場で陸域に何が起こったかを陸側の情報から直
接読み解くことが,構造地質学上の問題を分担する研究者の仕事になった(原,2008,2009 参照)
.
変成岩と古期花崗岩,新期花崗岩の配置関係と岩石構造の解析から始めて,領家帯の構造特性を
捉え,そこからテクトニクスを描くことが可能になったのは,1980 年代末のことであった
(原,2009 参照)
.
このようにして求められた領家帯のテクトニクスを次に読んで頂こう.このテクトニクスと自
― 22 ―
JAHIGEO Bulletin no. 42(2014)
らスペキュレイティブと言った上記引用の都城のモデルとの間には,関連しあう言葉が皆無であ
る.
「The shear type deformation related to the formation of the bedding schistosity does
not appear to have occurred only in the metamorphic field of high P/T type along subduction
zone but also in the metamorphic field of low P/T type with acid magmatism. For example,
the metamorphic rocks of the Ryoke Belt・・・・have commonly a distinct schistosity-gneissosity
(bedding gneissosity) parallel to the lithologic layering (Hara,1962). The granitic rocks
of the Ryoke Belt, which intruded during the earlier phase of igneous activity, are developed
as sheet-like bodies of large-scale oriented subparallel to the bedding gneissosity of the
surrounding metamorphic rocks and show commonly mylonitic textures also forming a distinct
gneissosity parallel to the bedding gneissosity (Hara et al.,1980b).・・・・The gneissosity
of the metamorphic and granitic rocks and the sheet-like bodies tend to be, as a whole,
inclined at low angles toward the north and their mineral lination is commonly oriented
subparallel or normal to the general trend of the Ryoke Belt, showing that the Ryoke Belt
can be regarded as to have been a giant horizontal shear zone.・・・・After the deformation
related to the formation of the bedding gneissosity, en echelon upright folding occurred
in the Ryoke Belt.・・・・The intrusion of a large number of huge granite batholiths in the
Ryoke Belt and its northern outside occurred during and after the upright folding (Hara
et al.,1980b)」
(Hara et al.,1990).領家帯が「a giant horizontal shear zone」を形成した
と言う私たちの判断には,原(1976)の研究がベ-スになっている.この巨大剪断帯の発達は,
下位への黒瀬川-古領家陸塊の沈み込みによるものでる.その後の展開は原(2009)に記されて
いる.しかし,花崗岩マグマの発生論の現在は,Miyashiro(1967)に始まる.
問題-Aの解答としてのプレートテクトニクスが現れた時,Dewey & Bird(1970)によるスペキ
ュレイティブな造山論モデルが出現した.磯崎ほか(2010)は,プレートテクトニクスを「造山
運動論にとり入れ当時としては見事にまとめてみせたのが Dewey & Bird(1970)で,造山帯の分類
を示す彼らの多数の断面図は Deweygram と呼ばれて,
その後頻繁に引用された」
と評するのだが,
これもまた,都城のモデルと同様,私たちには参照の対象とはならなかった.問題-Aの解答と
してのプレートテクトニクスが現れた時,上田(1971)は仮説提唱を奨励したのだが,それは,
地域地質学の崩壊を齎らすものに思われた(原,2005,2008,2009)
.いま一つの方法論上の問題を
記して稿を閉じよう.
都城による対の変成帯の研究は変成岩成因論について一つの理論を齎らしたものと理解された.
それは,変成岩成因論の「三つの構成部分(変成相の法則,変成相系列の法則,変成作用のテク
トニクス)は,今も今後も本質的に地質学的仮説を核とする小範囲の理論である」,と都城
(1998,1965a;Miyashiro,1973)が考えていたことによるものである.しかし結論から記すと,
都城のこの静観的変成岩成因論は,1970 年代に動観的変成岩成因論が出現し崩壊したのである
(原,2009,2013b 参照)
.そして,この崩壊の原因となった都城の方法論を,崩壊をもたらしたそ
れと比較検討することから,地域地質学の有効な方法論の有り様が明らかにされてきている
(原,2009,2010 参照)
.
都城(1998)は,
「Eskola(1939)風の考え方を進めて新しい変成岩理論の体系をつくろうとした」
と言う.彼の変成岩成因論は,変成岩の「Hauptmineral」は,変成温度最高の時点の鉱物組合せ
を保持していることから,
「Hauptmineral」を記載することで、変成相と変成相系列が明らかとな
る,と言うものであった.しかし,変成岩は変成温度最高の時点の鉱物組合せを保持している,
と都城が言う「Eskola(1939)の変成相の法則」は,
「地質学的な仮定」であった.したがって,都
― 23 ―
地質学史懇話会会報
第 42 号(2014)
城はまずこの「地質学的な仮定」の確定から,研究を始めるのが当然な作業の流れであった.都
城の変成岩成因論の崩壊の要因は,都城学派が日本の変成帯研究で,この作業を放棄したことに
あった(原,2009)
.
私の批判に対する都城から私への手紙には,
「杉さんの staurolite は知っていましたが,それ
をさがす気はありませんでした.そのころ私の紅柱石,珪線石,藍晶石とか,ざくろ石とか,菫
青石の論文は,・・・・私がもし,阿武隈で staurolite をさがしていたら(staurolite をさがすよ
うな方針で研究していたら)・・・・書くひまはなかったであしょう.私は,私のそのころの目的に
必要な最小限度の調査[ルートサンプリング学]を阿武隈でしただけです」
(原,2008,2009,2010)
とある.
[ ]は私の注.この文章から読み取れることは,都城が,動観的地域地質学者としての
道ではなく,相平衡岩石学者としての道を選択したことであったが,この時都城はそのことを理
解していなかった.10 年ほど後に私に届けられた次のような手紙(原,2008)からは,都城がそ
のことを理解したことが読み取れ る.
「私はあなたの一生の学問的業績をはじめて理解し,たい
へん感心しました.・・・・いまあなたのお仕事の全体を理解して,今までの私の不明を恥じ,それ
があなたに対して迷惑をおかけしたことを申しわけなく思っています.私がやっていたような変
成岩の岩石学の理論は,世界的に 1950 年ごろに始まりましたが,1980 年ごろには個々の問題に
ついての理論がたくさん出そろって,ふつうの範囲の問題は一応たいてい論じられたという感じ
になりました.しかし,それらの理論の間にまだ矛盾がありました.そこで私は,それらの矛盾
を除いて,全体を統一ある美しい体系にできないかと考えていました.それを 10 年あまり考えた
結果が,1994 年の教科書です.
(この本には私が除ききれなかった矛盾がまだ残っています.こ
のとき,私が,矛盾を除くことに熱中したかというと,私の心のなかに,矛盾のない,よく調和
した美的な理論をほしいという自然観的要求があったからです」
.
圧力-温度-変形-時間経路の解明を柱とする動観的研究による,変成岩成因論を構築してき
たイギリスの変成帯研究の歴史は,1963 年に著された Dalradian 変成帯解析論文(Rast,1963)
に,変成帯全体の岩相地質図(Fig.1)と変形史が読み取れる変成帯全体の構造図(Fig.3)とブ
ロック断面図(Fig.5)と変成鉱物成長-変形対応史を記すことが出来るように,総合的に地質が
観察されてきたことよーに拠る地域地質学の発達があったことを示すものであった.日本でも,
「変成岩地域の層序・構造[テクトニクス]の研究は変成過程と変形過程とに関連する岩石学的
研究と相互制約的な関係にある」
(小島,1951)と言う動観的な変成帯地域地質学の方法への理解
はあったが,都城学派の静観的研究の成果を踏まえながら,動観的な研究が確実な成果をあげる
ようになるのは,1970 年代末対の変成帯研究の第四期が始まる直前のことであった
(原,2008,2009,2011,2013b 参照)
.
3.おわりに
変成帯地域地質学史の検討から明らかになったことは,日本は地質学の後進国であったが,日
本は日本型の造山帯と呼ばれるような特殊な地帯であったことから,研究は,先端を走ることに
なり「地域中心主義・地史中心主義」的でなければ,海外に発信可能なレヴェルでその基本特性
を捉えることは出来なかった.いくつかの epoch-making な研究に助けられながら,歴史的展開を
通してゆっくりとだが確実にその特性を解明してきたのであった.既往の研究をおり込み,より
込み入った観察と考察を行なうことの継続として可能になった,この地域地質学的研究の歴史的
展開は,私に,
「本歌より本歌どりの方がふくざつになるのはあたり前で・・・・本歌どりを試みる以
上,何倍もこみいった仕掛けをしなければ本歌に対し,つまり文学史の伝統に対して申しわけな
いという新古今の歌人たちの基本的な心得であった」
,と言う丸谷(2004)の言葉を思い出させる
ものであった.それは観察を深化させ対象を捉えなおしていくと言う希望が両者の根底にあるか
― 24 ―
JAHIGEO Bulletin no. 42(2014)
らであろう.
(2013 年 3 月 25 日)
引用文献(簡略化して示す,引用文献中の文献は記さない)
:青矢睦月(2004)地学雑,113,664-677;
Dewey,J.F. & Bird,P.(1970)J.Geophy.Res.,75,2625-2647;Fujimoto,Y.(1938)学士院紀事,14;
牛来正夫(1955)
『火成岩成因論(上)
』地団研地学双書;Hara,I. (1966) Jap. J. Geol. Geogr.
37,123-139;原 郁夫(1976)島弧基盤,3,9-12;原 郁夫(1993)
『日本の地質学 100 年』
,日本地
質学会,202-212;原 郁夫(2005)
『宇留野勝敏先生の足跡』,216-220;原 郁夫(2008)
『地域地
質学の方法論』丸源書店;原 郁夫(2009)
『本州地向斜,忘却の地質学史』ニシキプリント;原 郁
夫(2010)
『変成帯地域地質学の現在』ニシキプリント;原 郁夫(2011)
『変成帯地域地質学の現
在-II』ニシキプリント;原 郁夫(2013a)地質学史懇話会会報,40,0-00;原 郁夫(2013b)地
質学史懇話会会報,41,0-00 ;Hara,I.ei al.(1968)J.Sci.Hiroshima Univ.Ser.C,6,51-113 ;
Hara,I.et al. (1990) Ichikawa, K.et al.(eds) 『 Pre-Cretaceous Terranes of Japan 』
Pub.IGCP224,137-163;Hara,I.et al.(1992)J.Sci.Hiroshima Univ.Ser.C,9,495-595;市川浩一
郎(1970)星野通平ほか編『島弧と海洋』193-200;Ichikawa,K.(1981)In Hara,I.(ed)『Tectonics
of Paired Metamorphic Belts』,113-116;市川浩一郎(1993)
『日本の地質学 100 年』
,日本地質
学会,74-81;市川浩一郎ほか(1956)地質雑,62,82-103; 石賀裕明(1983)地質雑,89,443-454;
磯崎行雄ほか(2010)地学雑,119,378-391;姜志勲ほか(1996)嶋本利彦ほか編『テクトニクス
と変成作用』,103-112;勘米良亀齢(1993)『日本の地質学 100 年』,日本地質学会,63-74;
Kennedy,W.Q.(1948)Geo.Mag.,85,229-234;小林貞一(1935)地質雑,42,228-244;Kobayashi (1941)
J. Fac. Sci. Imp. Univ.Tokyo,Sec.II,5,219-578;小林貞一(1948)
『日本群島地質構造論』目
黒書店;小林貞一(1951)
『日本地方地質誌「総論」』朝倉書店;小島丈児(1951)地質雑,57,745-753;
Kojima,G.(1953)J.Sci.Hiroshima Univ.Ser.C,1,17-46;Koto,B. (1888) J. Coll. Sci. Imp. Univ.
(Japan), 1,85-99;丸谷才一(2004)『御鳥羽院』筑摩書房;Matsuda,T.& Uyeda,S. (1970)
Tectonophysics,11,5-27;都城秋穂(1959)地質雑,65,624-637;Miyashiro,A. (1961) J. Petrol.
2,277-311;都城秋穂(1965a)
『変成岩と変成帯』岩波書店;都城秋穂(1965b)自然,20,12,52-60;
Miyashiro,A. (1967)Midd. fra. Dansk. Geol. Gorening., Bd. 17, 390-446; Miyashiro,A. (1973)
『Metamorphism and Metamorphic Belts』Georg Allen & Unwin;都城秋穂(1998)
『科学革命の
構造』岩波書店;Naumann,H.E.(1885;山下昇,1996,邦訳)
『日本地質の探求- ナウマン論文集』
東海大学出版会,167-221;小川琢治(1906)地質要報 1,1-100;大澤真幸(2003) 小森陽一監修
『研究する意味』東京図書;小澤儀明(1926)地質雑,33,309-347;Ramsay,G.S.(1960 )
J.Geol.,68,75-93;Ramsay,G.S.(1961) J.Geol., 69,84-100;Ramsay, G.S. (1962a) J. Geol., 70,
309-327;Ramsay,G.S.(1962b)J.Geol.,70,466-481;Ramsay,G.S.(1962c)Geol.Mag.,99,516-526;
Ramsay,G.S.(1963)Johnson,M.R.W.& Stewart,F.G.(eds)『The British Caledonides』Oliver &
Boyd,123-142 ; Ramsay,G.S.(1967) 『 Folding and Fracturing of Rocks 』 McGraw-Hill ;
Rast,N.(1963)Johnson,M.R.W.& Stewart,F.G.(eds) 『 The British Caledonides 』 Oliver &
Boyd,123-142;Rast,N.& Platt,J.L.(1957)Geol.Mag.,94,159-167;Sakashima et al. (2003) J.
Asian Earth Sci.,21,1019-1039;Shimamoto,T.& Hara,I. (1976) Tectonophysics, 30, 273-286;
田切美智雄ほか(2010)地学雑,119,245-256 ;泊 次郎(2008)
『プレ-トテクトニクスの拒絶と
受容』東京大学出版会;上田誠也(1971)
『新しい地球観』岩波新書;Umgrove,J.H.F.(1947)『The
pulse of the earth』,Martinus Nijhoff:山下 昇(1957)地団研地学双書,10.
― 25 ―
地質学史懇話会会報
第 42 号(2014)
1880 年創立「日本地震学会」の会員名簿
金
光男(自然地質環境研究所 address:[email protected])
1.はじめに
1880(明治 13)年に創立された「日本地震学会」は,明治日本に設立された学会組織の
中で最古級のものである.これは,地震学が近代科学の仲間入りする丁度その頃において,
世界で初めて組織された地震学に関する学会であるが,ときに『単なる日本国内だけにし
か影響力を有しなかった同好の集まり』と酷評されたこともある.このたびミルン(John
Milne:1850.12.30-1913.7.13:英人)の科学史研究(金 2012a,b;2013a,b)を通じ日本
地震学会の名簿を精査した.ここにその意義について考察する.
2.日本地震学会設立
日本地震学会 The Seismological Society of Japan の創立総会は 1880(明治 13)年 4
月 26 日(月曜)に召集された(第 1 図).会場は議事録によれば「開成学校」講堂とある
が,1873 年に開校した開成学校は,1874 年東京開成学校の改称を経て 1877(明治 10)年
東京大学に改組されていた.したがって正確には「東京大学講堂」で開催されたとすべき
である.
議事録(第 1 図)によれば,事前に登録されていた会員の出席率は極めて高く,はじめ
の Business Meeting において,会長など役員の選出が行われたが,設立準備会議の段階で
初代会長の就任を受諾していた工部卿山尾庸三が職務多忙を理由として,総会直前になっ
て就位を辞退するという波乱の幕開けとなる.山尾の突然の申し出によって「日本地震学
会」創立総会は初代会長空位のまま議事が進行される.
総会は,ミルンが議長に選出され議事が進められ,人事決定のあと,副会長に推挙され
たばかりの工部大学鉱山科教授ミルンによる基調講演 Seismic Science in Japan(和訳:
地震学総論:ミルン 1884)と,東京大学理学部機械工学教授ユーイング(1855-1935 James
Alfred Ewing:英人)による水平 2 成分
の地震波を記録する新の地震計について
の講演が行われた.続いて,初代の事務
局長に選出された東京大学理学部土木工
学 教 授 チ ャ ッ プ リ ン ( 1847-1918
Winfield Scott Chaplin:米人)が,創
立総会の前に開催された準備会議の議事
録を読み上げ,幾つかの承認・採決の後,
次回総会の開催を呼び掛けた.最後に,
創立総会の成功に対して,山尾から鄭重
な祝辞が贈られ,第 1 回日本地震学会は
閉幕する.
第1図
日本地震学会創立総会
議事録.
Seismological society of Japan(1880)v.1,p.1.
創立総会で決定された「日本地震学会」規約は,以下の 16 条から構成される.
1. 本学会の名称を日本地震学会とする.
― 26 ―
JAHIGEO Bulletin no. 42(2014)
2. 本学会は,地震と火山に関連する全ての現象に関する奨励されるべき研究,ならびに情報の収集を
目的とする.
3. 総会では,学会によって承認された科学全般にわたる研究課題が発表される.
4. 学会は協賛会社,名誉会員そして普通会員から構成される.
5. 名誉会員は日本に居住せず,同時に学会の事務局委員会が決定することにより入会が認められる.
6. 略
7. 略
8. 年会報(一冊 8 円)は毎年 1 月 1 日に発刊される.
9. 学会の役員は,会長,副会長,事務局長,会計のほかに 5 名の普通会員から構成されるが,その中
の 2 名は横浜居住者でなければならない.
10.
本学会の業務は事務局委員会によって運営され,かつ事務局委員会は学会の発刊する論集に掲
載する論文を決定しなければならない.
11.
総会の開催は,事務局長により会員に告知される.予告される総会は、東京あるいは横浜にお
いて都合の良い日程により開催される.
12.
本学会の役員は,毎年の年次総会においで投票により選出される.
13.
事務局委員会は,それぞれの総会の一週間前に会議を開催しなければならない.
14.
年次総会において,事務局長と会計は年間報告を提出する.
15.
本規約の修正は,任意の総会において提案することが出来る.その際は以下の事項に考慮され
なければならない;会員の 3 分の 2 以上の出席により多数決によって承認される;もし会員の 3
分の 2 以上が出席せずとも,
出席者のちの大多数が改正に賛成した場合には,修正案は採択される.
16.
学会は規約修正のあった場合には,会員に通知しなければならない.
日本地震学会の創立は同年 3 月 11 日だったとす
る考え方が泊(2013)より提示されている.筆者
はかつて,ひとつの学会が設立される例として第
1 回 IGC(万国地質学会議)がどのような経緯によ
って創設されたかを報告した(金 2009).1878 年,
パリで第 1 回創立総会が開催される IGC の歴史は,
創立総会の 3 年前に米国に設置された IGC 創立準
備委員会(IGC founding Committee),別名“フィ
ラデルフィア組織委員会”の 1875 年開設にまで遡
る.この IGC 創設のための準備会議は何度も開催
され,事前に学会の構成・役員構成・会場・開催
期間・協賛体制などについて,十分練られてから
創立総会を迎える.
上掲したチャップリン報告にもあるように,日
本地震学会も,その旗揚げを前にして「準備会議」
が繰り返し開催された.泊(2013)の指摘する
第2図
日本地震学会(1884),v.1,n.1,
1880 年 3 月 11 日の会合は,役員などを内定する
p.1.日本地震学会創立総会
ための事前会議のひとつだった可能性はないだろ
による基調講演
うか.
1880).講演の日付に留意されたい.
― 27 ―
記事.ミルン
冒頭部(原文:Milne,
地質学史懇話会会報
第 42 号(2014)
多くの公文書記録,あるいは日本地震学会自身が作成した議事録によって示される 1880
年 4 月 26 日(第 1-2 図)をもって,日本地震学会の創設日とするのが妥当と筆者は考える.
3.明治初期の日本における学会活動
明治初期において日本を本拠地とし,盛んに活動した学会(研究組織)には,英米人を
中心に結成された日本アジア協会(Asiatic Society は俗称,正式名称は The Asiatic
Society of Japan:1872 年発足)と,ドイツ人が中心となり組織されたドイツ東洋文化研
究 協 会 ( 略 称 OAG , 正 式 名 称 Deutschen Gesellschaft für Natur- und Völkerkunde
Ostasiens:1873 年発足; Sven 2009,スヴェンおよびシュパング 2011)があった.後者
の概要については既に報告した(金 2011).ここでは前者について簡単に紹介する.
18 世紀,欧州帝国主義の東進と米国帝国主義の西進によりアジア研究の必要性が急増す
る.その先駆は 1778 年オランダがジャワ島で結成されたバタビア学術協会(原語表記略)
であった.フランスには中国研究の伝統があり,
そのための研究団体として 1822 年 Socièté
Asiatique を創立していた.アメリカは 1842 年に The American Orient Society を設立し,
ドイツは 1845 年 Des Deutsche Morgenländische Gesellshaft を創設していた.英国は 1843
年 The Royal Asiatic Society をロンドンに設ける.そうした知的背景をもとに 1857 年に
インドで最初となる大学がカルカッタ,ボンベイ,マドラスに開学する.英国はアヘン戦
争によって,1847 年に利権を獲得した香港に The Philosophical Society を組織するが,
それは間もなく The Asiatic Society of China に発展する.
当時の日本においては 1853 年ペリー艦隊の浦賀来航があり,つづいてロシアのプチャー
チンが長崎に現れると,日米和親条約と日露和親条約が締結される.そのロシアとクリミ
アで鋭く対立していた英国はロシアの東アジア進出を警戒して急ぎ日英協約を結ぶと,
1858 年日英修好通商条約を締結する.そして,上海の英国領事だったパークス(1828-1885
Sir Harry Smith Parkes)が 1865 年に日本公使として赴任すると,にわかに The Royal
Asiatic Society 日本支部の設立がとりざたされるようになる.
そうしたアジア研究の隆盛という文脈の中,1872(明治 5)年 10 月 30 日 The Asiatic
Society of Japan の第 1 回(創立)総会が開催される.当初の会員は,会長 R.G.Watson
(ワトソン:英国駐日代理公使)のほか,J.H.Brooks(Japan Herald 編集人),W.G.Howell
(Japan Mail 編集人),E.Syle(サイル:英国公使館付牧師
米人),E.M.Satow(英国公
使館員),E.M.Van Reed(もしほ草社主 米人),W.B.Watson(銀行員),A.J.Wilkin(ウィ
ルキン・ロビンソン商社マネージャー)らから構成されていた(ことわりのないものは全
て英人).のち会長をつとめる J.C.Hepburn(ヘボンあるいはヘップバーンとも:米国長老
教会宣教医
米人)や W.E.Griffis(大学南校お雇い教師
米人),さらに B.H.Chamberlain
(日本学者)
,W.G.Aston(日本学者)
,E. von Bälz(お雇い医学者 独人),T.Antisell
(開拓使~大蔵省お雇い博物学者
源地質学者
物学者
米人),B.S.Lyman(開拓使~内務省~工部省お雇い資
米人),J.Milne(工部大学お雇い地震学者),E.S.Morse(東京大学お雇い動
米人),J. Conder(工部大学お雇い建築学者)L. Hearn(文学者:小泉八雲),ら
は追って会員となる.
4.日本アジア協会設立の趣旨
創立総会の議長に選出されたワトソンは『…パリやベルリン,ウィーン,セント・ペテ
― 28 ―
JAHIGEO Bulletin no. 42(2014)
ルスブルク,そのほか欧州の主要都市において,アラブ語やペルシャ語,ヒンドゥー語,
そして中国語といった東洋の言語を若者に伝授する目的で設立されたアカデミーが存在す
るにもかかわらず,大英帝国にはそのような機関が存在していないのです…東洋に関する
ある種の問題を調べようとしている英国人が…英国以外の国々で指導を受けねばならない
…今日に至るまで,科学やあるいは他の諸問題について研究する組織は,日本には存在し
ません…この帝国について我々が知るところが全くない,あるいは確信をもって言明でき
ることがいかに少ないか…法律や習慣,そして民族学や地質学を含むあらゆる科学的分野
に関して,そしてその国民,文学,芸術の知識についてどれほど多くのことを我々は知ら
なければならないかに思いを致せば,我々がいま住んでいるこの国によってもたらされて
いるものこそ,我々がまさに設立せんとしている協会にとって,これ以上望ましいフィー
ルドはないことを認めねばなりません…いかなる団体といえども,事実を記録し,その観
察結果を比較する義務があります…旅行した人びとがその目撃した多くの記録を書き留め
ていたことは疑いありません…それらは多方面に散らばってしまっており,その結論を比
較することが困難になってしまっています…彼らは世界に対して多くのものを失わせてき
たことになります…この協会を支え,その基いとなる人びとには科学に携わる人材が必要
であるという考えに異を唱えたい…あらゆる科学は個々に分かれた数多くの事実を注意深
く,たえず比較することにその基礎があるのです…まず我々自身で事実を集めねばなりま
せん…古い文明が徐々に西洋的諸制度に溶け込みつつある今ほど,それにふさわしい時は
ない…我々が科学を押し進めるためにしかるべき役割を果たすことができると確信します
…』と,基調講演した(楠家,1985).
彼らの日本研究が,研究結果の比較とともに専門家だけによらない素朴な好奇心に基づ
く「事実の収集」にあることを強調していることは,設立の当初から図書館・博物館の設
置を計画していたことと密接に関わることだった.1872(明治 5)年はその 10 月に新橋‐
横浜間に鉄道が開通した年で,在来の文化を否定し維新の改革に汲々としていた当時の日
本人には思いもつかない,古い歴史を掘り起こして今昔の日本文化を網羅しようとする総
合的な研究組織がこうして創設されたのである.日本アジア協会の会員構成は,初年度末
において名誉会員 2 名,通信会員 3 名,一般会員 109 名の計 114 名だった.
国ごとに分類すれば英国 74 名,米国 23 名,カナダ 3 名,ドイツ・ロシア・ベルギー・
スペイン・日本などが 1 名.職業別に分類すると商社員が最も多くて 39 名,それに外交官
21 名,お雇い外国人 19 名,宣教師 12 名,マスコミ・軍人 15 名などと続く(楠家 1997).
5.日本地震学会の構成
「日本地震学会」はそうした時代背景の中,地震研究の隆盛を目的とする他に日本を中
心とする東アジアの地震学情報を広く世界に発信し,かつ世界中に散在していた地震研究
情報を集めるために創設された学会であった.
「日本地震学会」の名簿は,役員名簿が 1881
年,1882 年,1883 年の 3 度(第 3-5 図),会員名簿が 1881 年(第 6 図)と 1883 年 2 月(第
7 図),1883 年 6 月の 3 度,会報誌上に公開されている(Seismological society of Japan,
1881a,b,c;1883a,b,c).1883 年公表の 2 つの会員名簿は,改訂日以外全く同じである.
山尾庸三が初代会長の就任を辞退したために,服部一三(中川 2013)が創立総会ののち
会長となる(第 3 図).1881 年と 1882 年の間に,会長・副会長・事務局長・会計担当者に
変更はないが,事務局委員が初年度 T.C.Mendenhall,E.Knipping,C.A.C.deBoinville,
― 29 ―
地質学史懇話会会報
第 42 号(2014)
W.H.Talbot,H.Pryer だったのが,翌年,菊地大麓,E.Naumann,O.Korschelt,
Capt.F.Brinkley に交代している(副会長 J.Milne,事務局長 W.S.Chaplin,事務局委員
W.H.Talbot は留任).
第3図
1881 年役員名簿
第4図
Seismological Society of Japan(1881a)より
1882 年役員名簿
Seismological Society of Japan(1881b)
より
1883 年,第二代会長として内務大臣山田顕義,副
会長として J.A.Ewing が選出され,同時に活動の国
際化により事務局長が増員される.外国人事務局長
に J.Milne,日本人事務局長に菊地大麓,欧州事務
局長に H.M.Paul が選出される.欧州にいる地震研究
者と連絡をとりあう専任者が任命されたことが,こ
の間の会の活動の広がりを明示する.会計担当も増
員され,外国人会計委員として P.Mayet,日本人会
計委員として N.Kanda(神田?)が就任し,事務局
委員に服部一三,G.W.Wagener が新たに任命されて
いる(事務局委員の Cap.F.Brinkley,W.H.Talbot は
留任).
第5図
日本地震学会の会員数は最初の公表(1881 年
1883 年役員名簿 Seismological
Society of Japan(1883a)より
12 月)において 117 名(第 6 図),そして 2 度目の
公表(1883 年 2 月)において 113 名である.1883 年名簿には名誉会員として,日本を初め
て訪問した国家元首として知られる,ハワイ国カラカウア王の名がある(第 7 図).
日本地震学会の会員は,前述した日本アジア協会は英米人,OAG はドイツ人によって圧
倒的多数を占め構成されるのに対し,日本人,英米人,ドイツ人など多くの国籍を有する
会員が混在し構成されることを特徴とする.日本人の会員構成比率は高く,札幌から長崎
まで会員の居住地が分散することを特徴とする.会の運営は国ごとに偏りがないよう役員
が配分され,全体のバランス感覚を大切にしながら運営される(第 3-5 図).
特筆されるのは,地震学者(関谷清景,大森房吉),物理学者(メンデンホール,山川健
次郎),地質学者(ゴッチェ,巨智部忠承など),鉱物学者(和田維四郎,菊池
安)はも
ちろんのこと,建築学者(コンドル),土木工学者(ダイアー,チャップリン),機械工学
者(ユーイング,グレイ),電気工学者(藤岡市助),医学者(ベルツ),数学者(菊池大麓),
― 30 ―
JAHIGEO Bulletin no. 42(2014)
化学者(ダイバース),植物学者(矢田部良吉)あるいは気象学者(クニッピング),さら
に芸術家(キヨソネ)などという,様々な専門分野から研究者がひろく集められているこ
とである.日本アジア協会の代表的存在である日本学者のサトウ(英国公使館員)も日本
地震学会の会員となっているし,日本の政府要人(加藤弘之,森
有礼)などが会員とな
っていることも特徴のひとつである(第 6-7 図).当初の地震学研究が,理学から応用科学
(工学)さらに医学・気象学などの広範な領域に及ぶ,国家官僚(行政人)をも含む多彩
な人材の協力のもと推進されたことを物語る.
第6図
1881 年 12 月
会員名簿(Seismological Society of Japan,1881c より)
Transactions of the Seismological Society of Japan,v.Ⅱ,p100-103 を筆者が合成
第7図
1883 年 2 月
会員名簿(Seismological Society of Japan,1883b より)
Transactions of the Seismological Society of Japan,v.Ⅴ,p108-111 を筆者が合成
6.お雇い地質学者たち
クニッピング・コルシェルト・ライマン・ナウマン・ネットー・ワグネルら,お雇い自
然科学者たちも,そのほとんどが日本地震学会の会員を構成する.ミルンを含め,すべて
― 31 ―
地質学史懇話会会報
第 42 号(2014)
のお雇い地質学者たちは,日本地震学会ばかりでなく日本アジア協会と OAG の会員でもあ
った.当時,日本に設立された学会の中でこの 3 つの学会は最も活発に活動したことで知
られる.彼らお雇い地質学者たちが,明治初期において日本の学会活動の中心的存在とし
て重要な役割を果たしていたことが推定される.
日本地震学会初期史についての研究は少なく,未解決の問題が山積している.筆者の見
定めによれば,本学会は明らかに日本国内だけに開かれたものではなかった.また日本ア
ジア協会と OAG が商社員や外交官などの一般人会員が多く含まれ構成されたのに対し,日
本地震学会は工部大学,東京大学をはじめ,国内~世界各地に分散する科学者が中心とな
って会員が構成される.敢えて換言すれば,3 者の中で “最も学会らしい学会”だったと
いえるかも知れない.
日本地震学会の会報である「Transactions of the Seismological Society of Japan」
には,多方面な話題に及ぶ論文が投稿されている.以下その幾つかを抜粋し列挙する.
Wagner,G. and Knipping,E.(1881) New seismometer and observations with same.
Paul,H.M.(1881) Earth vibrations from railroad trains.
Perry,J.(1881) Theory of a rocking column.
Palmer,H.S.(1881) A
note on earth vibration.
Kuwabara,M.(1882) The hot springs of Atami.
Wada,T.(1882) Notes on Fujisan.
Abella,E. and Casariego,E. (1882) Earthquakes of Nueva Vizcaya in 1881.
Doyle,P.(1882) Note on an Indian Earthquake.
Naumann,E.(1882) Notes on secular changes of magnetic declination in Japan.
Dan,T.(1882) Note on the earthquake at Atami in the province of Idzu on September
28,1882.
Alexander,T.(1883) Note on the development and interpretation of the record which
a bracket machine gives of an earthquake.
Georges,F.(1883) Note on a casting supposed to have been disturbed by an earthquake.
West,C.D.(1883) Suggestions for a new type of seismograph.
Du Bois,F.(1883) The earthquakes of Ischia.
7.おわりに
華々しく創設された日本地震学会であるが,ミルンの帰英などにより突然その活動を停
止し解散する.ミルンの突然の行動については,その少し前にミルン宅が全焼し,それま
で彼が蒐集した調査研究データがすべて灰燼と帰し,ミルンは失意の中帰国したとされる.
この厄災については“放火説”も取沙汰されていて未解決のままある.あれほど日本を愛
したミルンの急激な心変わりを鑑みると,筆者には日清戦争の前後に日本国内に巻き起こ
った“歪んだ国粋主義”者による外国人への脅迫・放火などが実際あったのではないかと
考えてしまう.その頃より,それまで尊敬されていたお雇い外国人たちは“毛唐”などと
蔑称されるようにもなり,彼らは続々帰国の途についていた.この頃,ライマン批判・ナ
ウマン批判なども巻き起こる.
その「歴史の空白」を埋めるのは科学史のひとつの任務であろう.このたび上掲した日
― 32 ―
JAHIGEO Bulletin no. 42(2014)
本地震学会の名簿などをもととして,今後日本地震学会の活動に関する調査研究がさらに
進展することを期待する.
文
献
金
光男(2009)1876 年ハント発ライマン宛書簡.地球科学,v.63,63-75.
金
光男(2011)OAG 会報
第Ⅲ巻 29 号(Juni 1883)に掲載される会員名簿.地質学史懇話会会報(JAHIGEO
Bulletin),n.36,10-15.
金
光男(2012a,b)お雇い外国人地質学者の来日経緯(8,9)英人地震学者ミルン―前編,中編―.地学
教育と科学運動,n.67,68,51-61,45-55.
金
光男(2013a)お雇い外国人地質学者の来日経緯(10)英人地震学者ミルン―後編―.地学教育と科
学運動,n.69,78-88.
金
光男(2013b)1877(明治 10)年 ナウマン・和田維四郎・ミルンによる伊豆大島火山噴火調査.地
質学史懇話会会報(JAHIGEO Bulletin), n.40,41-45.
楠家重敏(1985)横浜生誕の日本アジア協会(二)-その成立事情と日本研究-.郷土よこはま,n.101,
11-28.
楠家重敏(1997)日本アジア協会の研究-ジャパノロジーことはじめ-.日本図書刊行会, 393 p.
ミルン(1884)地震学総論.日本地震学会報告,第一冊,1-30.原文:Milne,J. (1880) Seismic science
of Japan.Transactions of the Seismological Society of Japan, v.1,1-37.
中川智視(2013)小泉八雲と服部一三-富山大学附属図書館ヘルン文庫の調査から見えてきた意外な関係
-.地質学史懇話会会報(JAHIGEO Bulletin),n.41,4-11.
日本地震学会(1884)議事録.日本地震学会報告,第一冊,1.
Seismological society of Japan(1880)Record of proceedings.Transactions of the Seismological
Society of Japan,v.Ⅰ,1-2.
Seismological society of Japan(1881a)Officers
for the ending March 1881.Transactions of the
Seismological Society of Japan,v.Ⅱ,99.
Seismological society of Japan(1881b)Officers
for the ending March 1882.Transactions of the
Seismological Society of Japan,v.Ⅱ,99.
Seismological society of Japan(1881c)List of Members.December,1881. Transactions of the
Seismological Society of Japan,v.Ⅱ,100-103.
Seismological society of Japan(1883a)Officers of the Society.For the year ending March,1883.
Corrected to 1883 Feb. 1.Transactions of the Seismological Society of Japan,v.Ⅴ,107.
Seismological society of Japan(1883b)Members of the Society.Corrected to 1883 Feb. 1.Transactions
of the Seismological Society of Japan,v.Ⅴ,108-111.
Seismological society of Japan(1883c)Members of the Society.Corrected to June 7th 1883.
Transactions of the Seismological Society of Japan,v.Ⅵ,56-59.
Sven,Saaler(2009)OAG ドイツ東洋文化研究会の歴史と在日ドイツ人の日本観.OAG on line,32p.
スヴェンおよびシュパング(2011:ヤコビ茉利子訳)第一次大戦後の日独関係におけるドイツ東洋文化研
究協会(OAG)の役割.1920 年代の日本と国際関係-混沌を越えて「新しい秩序」へ-(春風社:323p.),
89-122.
泊
次郎(2013)日本地震学会が設立されたのは 1880 年 3 月 11 日である.日本地球惑星科学連合大会,
講演要旨集(MZZ41-02).
― 33 ―
地質学史懇話会会報
第 42 号(2014)
伊能中図と予察地質図
矢島道子・山田直利
2000 年代の初めに高温超電導研究の論文の捏造事件あった。多くの論文で同じデータが
重複して使われていることが指摘され、世紀の大発見のほとんどがデータの捏造であった
ことが露見した。最初の指摘は「二つの論文の図を見比べるように」という電話であった。
本報告は、もちろん、捏造とはまったく関係ない。要点は伊能中図(図 1)と予察地質図
(図 2)を見比べてほしいということである。佐渡が異なった図幅に入っているが、他は区
図 2 予察地質図の区分と名称
図1 伊能中図の区分と名称
分がほぼ等しいのである。両図の区分が似ていることを今まで誰も指摘しなかったし、見
比べた報告を私たちは見ていない。なお細かく見れば、伊能中図での奥羽と関東の境は
37°40′の緯線,予察地質図での東北部と東部の境は 38°00′の緯線と読めるし、原図の
縮尺は,それぞれ,1:216,000 と 1:400,000 であり,投映法も異なっている。
ナウマン(Edmund Naumann 1854-1927)は日本に 1875‐1885 年に滞在し、日本の地
質学の基礎をつくり、日本全国の地質図、予察地質図等の制作を行った。予察地質図 5 枚
の完成はナウマン帰国後の 1994 年(山田,2008)である。ナウマンが日本で地質調査をど
のように行ったかは、ナウマン論文のところどころに書かれている。1884 年に出版された
『日本帝国地質調査所と現在までの業績』には「私は、最初の下図を、伊能の図を基礎と
して、その上に自分で記入した」と書いてある(山下昇訳,1996,p.158)が、ナウマンが
どの地図をもとに地質調査を行っていたか、その詳細は不明であった。
ナウマンの論文は山下(1996)が精力的に翻訳し、私たちは日本語で読めるが、いくつ
か未訳のものもあり、私たちは少しずつ補遺してきた(山田・矢島,2011 など)。現在
Naumann(1883)を訳しつつあるが、そこで、
「1870 年に大学〔東京大学〕は賢明にも伊
― 34 ―
JAHIGEO Bulletin no. 42(2014)
能図と伊能の記録帳を併せて出版することを企画した。」
「クニッピング氏は東アジア協会
報告に伊能図の精度に関する非常に好意的な意見を発表し〔Knipping,1878〕,そして私は
『実測全国中図』が地質調査所の予察図の基図として使用するのに十分正確であることを
確信する機会があった」
「1800‐1819 年に作られ,日本の伊能図として知られている『実測
全国中図』に,私たちの調査旅行で収集された資料を結合させることによって,私はこの
国の少なくとも全般的特徴を正確に示す地図を編纂することができる。」という文章をみつ
けた。
伊能図に関しての文献は膨大にあるが、おもに清水(1998)により、1866 年に幕府開成
所から官板実測日本地図が伊能小図をもとに編纂、出版され、1869 年に若干修正をされて、
大学南校から〔1870 年に〕再度出版されたことを確認した。また、Knipping(1878)を
確認する中で、Knipping(1876)も発見し、お雇いドイツ人たちが、日本地図制作を必死に
行っていることも知った。
以上から、ナウマンは伊能中図を手中にする機会があり、これをもとに予察地質図製作
の計画をたてたのは確かであると結論した。今後のナウマンの業績や日本の地質学の歴史
を考慮していくときに、ひとつの重要な鍵になると考える。
文献
Knipping, E. (1876): Ueber eine neue Karte von Japan und ihre Quellen. Mitteilungen
der Deutschen Gesellschaft für Natur-und Völkerkunde Ostasiens, 2(11), 20-24.
Knipping, E. (1878):Ueber die Genauigkeit des Jissokuu Nippon Chidzu Kampan.
Mitteilungen der Deutschen Gesellschaft für Natur-und Völkerkunde Ostasiens,
2(15), 224.「官板実測日本地図の精度について」
Naumann, E.(1883): Notes on secular changes of magnetic declination in Japan.
Transactions of the Seismological Society of Japan, 5, 1-18
清水靖夫(1998)
:伊能図‐『大日本沿海輿地全図』‐の後裔.
東京地学協会編集『伊
能図に学ぶ』
,朝倉書店,108-117.
山田直利(2008)
:ナウマンの「予察東北部地質図」-予察地質図の紹介 その1-.地
質ニュース,no. 652,31-40.
山田直利・矢島道子(2011)
:E.ナウマン著「日本山岳誌大要」全訳,地学雑誌, 120,
692-704.
山下 昇訳(1996)
:日本地質の探求―ナウマン論文集―.東海大学出版会,東京,403p.
― 35 ―
地質学史懇話会会報
第 42 号(2014)
数値気象学の始まり:歴史研究の動向と課題
有賀暢迪(国立科学博物館)*
1. はじめに
20 世紀半ばにおけるコンピュータの出現は、科学研究のあり方を大きく変えてきた。中
でもその最初期から劇的な影響を受けてきたのが気象学の分野である。本稿では、デジタ
ル計算機を活用して気象の研究や予測を行う数値気象学がどのようにして登場してきたの
かを、近年の研究書に依拠して概観する。その上で、特に日本での展開について、どのよ
うな点が今後の歴史研究の課題になるかを考えたい。
科学研究、もしくは技術開発におけるコンピュータ(本稿では専らデジタル計算機の意
味でこの言葉を使う)の利用は、第二次大戦中、アメリカのマンハッタン計画に始まると
言われている。原子爆弾の開発過程で必要とされた複雑な計算がその端緒であり、戦後に
は物理学の問題を計算機で解くことが行われるようになった。今日では、コンピュータを
利用した研究は自然科学だけでなく社会科学の分野にも広がっており、「計算科学」という
言葉で括られるようになってきている(たとえば、宇川ほか 2013 を参照)。
筆者が現代の気象学史に注目する理由は、気象学が科学諸分野のなかでも早期に計算科
学化し始めており、かつその変化が特に著しく感じられるという点にある。しかし一方で、
その過程で具体的に何が生じたのかという問題は、気象学それ自体の歴史的展開の中で検
討されなくてはならない。計算科学の歴史と気象学の歴史という二つの眼で、立体的に捉
える努力が必要であろう。本稿はそのための基礎作業として位置付けられる。
2. 現代気象学史の研究動向
気象の問題にコンピュータを活用する試みは、第二次大戦後すぐ、ENIAC 開発に大きく
関与した数学者フォン・ノイマン(John von Neumann, 1903-1957)の主導で進められた。
アメリカのプリンストン高等研究所で 1946 から 56 年にかけて行われた研究プロジェクト
からは、チャーニー(Jule Gregory Charney, 1917-1981)らによる最初の数値予報(1950
年)や、フィリップス(Norman A. Phillips, 1923-)による大気大循環の最初のシミュレ
ーション(1955 年)などが生まれた。これらが直接の契機となって、各国でコンピュータ
を使った気象研究が始まり、それと並行してコンピュータによる数値予報の業務化が進ん
できた。さらに、1960 年代以降に発展してきた大気大循環モデルは今日、地球温暖化を検
証・予測する要となっており、政治的にも重要な意味を持つようになっている。
以上のような現代気象学の展開を扱った著作には、大きく二種類のものがある。一つは
気象学の関係者が自分たちの分野の歴史を編んだもの、もう一つは科学史家による歴史研
究である。科学史家による仕事としては、近年、現代の気象学を扱った研究書がいくつか
*
理工学研究部 研究員
MAIL: [email protected]
― 36 ―
JAHIGEO Bulletin no. 42(2014)
登場してきた(Aspray 1990;Nebeker 1995;Weart 2003;Harper 2008;Edwards 2010)。
これらは総じてアメリカのもので、内容がある程度同国の話題に偏るのは止むを得ないが、
現代気象学の歴史をそれぞれの観点から切り取って論じている。これに対し、気象学者の
手になるものはおそらく各国に存在すると思われるが、日本での展開に関しては気象庁編
1975、新田ほか 2009、古川 2012 などがある。これらの著作には、当事者の体験を整理し
て後世に伝えるという意味合いがあり、文献資料として残っていない出来事の記録として
も大きな価値がある。
重要なのは、この二系統の「歴史」を結び付けていくことである。日本の現代気象学を
対象とした、専門的な科学史研究はまだ存在していない。そのような研究はおそらく、ア
メリカの科学史家による先行研究で得られた知見と日本の気象学関係者の証言とを突き合
せつつ、科学史家自身が史料の検討を行うことで進められるべきものである。以下ではそ
のための一助として、数値気象学が登場する 1950 年代までの状況を、まずは先行研究に依
拠して概観しておきたい。
3. 数値気象学が登場するまで――アメリカを中心に
Nebeker(1995)は、20 世紀の気象学の歴史を「計算」という観点から論じ、コンピュ
ータの出現によって気象学の三つの伝統が統合されたという見解を示している。三つの伝
統とは、経験的な気候学、理論的な気象力学、実践的な天気予報であって、いずれも 19 世
紀後半から 20 世紀前半にかけて確立してきた。紙幅の都合上、代表的な年号だけを挙げて
おくと、たとえばケッペン(Vladimir Peter Köppen, 1846-1940)による最初の気候区分
の提案が 1884 年、エクスナー(Felix Maria von Exner-Ewarten, 1876-1930)の『気象力
学』(Dynamische Meteorologie)出版が 1917 年である。天気予報について言うと、アメ
リカでは陸軍通信部隊が 1870 年から気象情報の提供を始め、これが新設の気象局に引き継
がれた(1891 年)。日本の場合には、東京気象台(後に中央気象台と改称)が 1884 年に気
象予報を開始している。
次いで 20 世紀前半、特に両大戦期を通じて、気象学はかなりの変化を遂げることになっ
た。気象の観測・研究の現場では、Nebeker や Edwards(2010)が強調するように、手に
入るデータが爆発的に増え、それに伴って必要な計算も増加した。特に、ラジオゾンデや
飛行機による高層観測が始まったことで、気象学の歴史上初めて、気象現象をデータに基
づき三次元的に考察することが可能になった。このことは気象の理論にも、ひいては後の
計算機上の気象モデルにも大きな影響をもたらしたと思われる。
他方で、この時期には気象学の社会的重要性が増大した。Harper(2008)によるアメリ
カ気象学史の研究が示しているのは、気象学の持つ軍事的意味である。第一次大戦で新し
く登場した戦車・毒ガス・飛行機が、軍関係者に気象の重要性を認めさせることになり、
第二次大戦では気象情報が軍事機密扱いとなった。各国で軍に気象部門が設けられるよう
になり、気象学者や観測技術者の養成が行われた。
― 37 ―
地質学史懇話会会報
第 42 号(2014)
これと並行して、アメリカでは気象学の制度化と専門化が進んだ。やはり Harper の研究
書によると、アメリカ気象学会(1920 年設立)は当初はプロ・アマ混在の団体だったが、
1944 年にロスビー(Carl-Gustaf Arvid Rossby, 1898-1957)が会長に就任する頃から、専
門的な理論志向を強めていった。ロスビーはスウェーデン出身であるが、1928 年に MIT
の気象学コースを開設するなど、第二次大戦前後のアメリカ気象学を主導した人物である。
こうした時代背景の下で、1946 年、プリンストン高等研究所での気象学研究プロジェク
トが始まる。その詳細は Aspray 1990 などに詳しいが、簡単に経緯を記しておこう。この
年の 1 月、気象局と軍の気象関係者が電子計算機に関する会合を持ち、フォン・ノイマン
もそこに招待された。ノイマンは気象現象を支配する大気の物理方程式を計算機で解くこ
とに関心を持ち、気象学者ロスビーに助言を求めた。ロスビーはこれに対して高等研究所
でのプロジェクトを提案し、実行に移されることになった。
プロジェクトの開始から二年後の 1948 年、若手気象学者のチャーニーが加入し、以降、
中心的な役割を果たすようになる。チャーニーは、複雑な大気の流れの方程式を単純化し
て、計算機で扱えるような気象力学理論を構築した。最初は順圧モデルと呼ばれるタイプ
のモデルが作られ、1950 年の春に ENIAC を使った数値予報が試みられて、一定の成功を
収めた。次いで、今度は傾圧モデルと呼ばれる別のタイプのモデルが開発され、高等研究
所に新しく設置された計算機での短期予報に成功した(1952 年)。なお後でも触れるが、こ
の頃に日本から岸保勘三郎(1924-2011)が招かれ、研究に参加している。
これ以降、一方では数値予報の実用化に向けた動きが本格化していき、アメリカでは 1955
年に業務化されるに至った(業務化はこの前年、スウェーデンが最初である)。他方、高等
研究所における研究の関心は大気大循環もしくは長期予報の問題へと移り、1955 年にはフ
ィリップスが大気大循環の「数値実験」を初めて行った(これについて論じたものとして
有賀 2008 がある)。プロジェクト自体は翌 1956 年に解散となったが、気象学が計算科学
化する礎石はこの時までにしっかり据えられていたと言えるだろう。
数値気象学が世界で最初にアメリカで登場してくるまでには、以上のような時代背景が
あった。このことを踏まえて、日本における数値気象学の始まりについて考えてみたい。
4. 今後の研究課題――日本を中心に
日本における数値予報への取り組みは、世界的に見てかなり素早く進行したと言える。
1953 年の末、東京大学の気象学教授であった正野重方(1911-1969)を中心として非公式
の研究グループが組織された(「数値予報委員会」や「NP グループ」などと呼ばれた)。こ
のグループは 55 年の 11 月に中間報告をまとめており、それと相前後して、気象庁に大型
電子計算機を導入するための予算折衝が始められた。詳細な経緯は近年出版された古川の
労作(古川 2012)に譲ることにして、結果だけ書いておけば、1959 年 3 月には気象庁の
IBM704 が稼働し、予報の現場で数値予報の利用が始められた。これはスウェーデンとアメ
リカに続いて世界で 3 番目であった。さらに 1960 年には、正野らの尽力により、第 1 回の
― 38 ―
JAHIGEO Bulletin no. 42(2014)
数値予報国際シンポジウムが東京で開催されている。
そこで第一に問われるのは、こうした迅速な追いつきはどのようにして可能になったか、
ということである。先に触れたように、プリンストン高等研究所での研究プロジェクトに
は岸保勘三郎が参加しており、彼を通じて最先端の研究状況が日本に伝えられたことが一
つの背景になっているのは間違いない。しかし岸保の渡米は 1952 年 10 月のこと(帰国は
54 年 1 月)であって、数値予報研究グループが組織されるよりも前である。日本での数値
予報の始まりを検討するには、少なくとも 1952 年以前にまで遡らなくてはならない。
筆者が特に注目したいのは、先に名前を挙げた正野重方に代表される、気象力学研究の
伝統である。本稿の第 3 節で紹介したように、20 世紀前半の気象学には三つの伝統があっ
たと主張されている。この見方自体には再考の余地があるかもしれないが、少なくとも第
二次大戦中から戦後にかけての日本の気象学には、気象力学の伝統が存在したと見られる。
実際、「気象力学」を表題に掲げた本は、日本では荒川秀俊(1907-1984)によって 1940
年に出されたのが最初であり、正野もまた『気象力学序説』
(1954 年)や『気象力学』
(1960
年)を著している。さらに正野は、1940 年から 47 年にかけて国内で著された関連論文を
「気象力学進歩の概観」にまとめてもいる(正野・渡邊 1950)。現時点ではあくまで推測に
過ぎないけれども、このような気象力学の伝統が、アメリカの研究成果を速やかに受容す
る上での素地になったというのはありうることであろう。
これと関連して、日本での数値気象学の始まりを検討する上でもう一つ考えておきたい
のは、それがどの程度アメリカの成果の直輸入であったかという問題である。アメリカで
開発された気象の数値モデルは、日本にそのまま移植できたのだろうか。岸保の後年の回
想(岸保 1982;同 1984)によれば、1960 年代前半に国内で低気圧発達のモデルを構築し
ようとした際、欧米のモデルではうまくいかなかった。気象条件が異なるため、欧米で使
われていた断熱モデルに熱の出入りの効果を加えることが必要だったという。このことは、
モデルをある場所から別の場所へと移すには何らかの変更が求められることを示唆してい
る。モデル構築の実践を詳しく検討してみることが、おそらく必要であろう。
このほかに、日本の気象学の制度的側面からの考察も重要と思われる。これもあくまで
印象論に過ぎないが、日本では、たとえば中央気象台の人間が東京帝国大学で気象学を講
じるなど、予報の現場とアカデミックな気象学との距離が相対的に近かったように感じら
れる。アメリカなどの比較を通じた、制度史的研究も今後現れてくることを期待したい。
5. おわりに
本稿では、数値気象学の歴史、特にその初期の展開について何が研究課題となりうるか、
筆者なりの考えを述べてきた。計算科学の歴史に関心を持つ筆者にとっては、気象力学の
伝統に基づくモデル構築の歴史には特に注目する価値があると感じられる。とはいえ気象
学の歴史には、科学史研究の立場から見て興味深い論点が、ほかにも多数存在している。
本稿が、気象学史それ自体への関心をいくらか喚起する内容になっていれば幸いである。
― 39 ―
地質学史懇話会会報
第 42 号(2014)
謝辞
本稿は、第 53 回地学史研究会(2014 年 1 月 25 日)での報告内容に基づくものである。
研究では、新田 尚氏や隈 健一氏など、気象予報の過去と現在を知る方々からも多くのコ
メントをいただいたが、本稿には意図的に反映させなかった。専門家の見解を織り込んだ
科学史研究を今後進めていくことを、筆者の課題としたい。最後になるが、研究会世話役
の山田俊弘氏と、当日足を運んでくださった多くの方々に、心より感謝を申し上げる。
≪参考文献≫
Aspray, William. 1995. 『ノイマンとコンピュータの起源』杉山滋郎・吉田晴代訳.東京:
産業図書.[原書:John von Neumann and the Origins of Modern Computing
(1990).]
Edwards, Paul N. 2010. A Vast Machine: Computer Models, Climate Data, and the
Politics of Global Warming. Cambridge: MIT Press.
Harper, Kristine. 2008. Weather by the Numbers: The Genesis of Modern Meteorology.
Cambridge: MIT Press.
Nebeker, Frederik. 1995. Calculating the Weather: Meteorology in the 20th Century.
San Diego: Academic Press.
Weart, Spencer R. 2005. 『温暖化の「発見」とは何か』増田耕一・熊井ひろ美訳.東京:
みすず書房.
[原書:The Discovery of Global Warming (2003). 原書は 2008 年に
第 2 版が出ている.]
有賀暢迪,2008 年.
「洗い桶からコンピュータへ:大気大循環モデルによるシミュレーショ
ンの誕生」『科学哲学科学史研究』第 2 号,61–74 頁.
宇川彰ほか,2013 年.
「科学と計算の歴史」.同『計算の科学』
(岩波講座 計算科学),第 2
章.東京:岩波書店.
岸保勘三郎,1982 年.
「温帯低気圧モデルの歴史的発展」
『天気』第 29 巻第 4 号,269-298
頁.
---------. 1984 年.「気象研究の思い出」『天気』第 31 巻第 11 号,659-672 頁.
気象庁編,1975 年.『気象百年史』(本編・資料編). 東京:日本気象学会.
正野重方,渡邊次雄,1950 年.
「気象力学進歩の概観:昭和 15 年~20 年(1940 年~1945
年)」および「[同]:昭和 21 年~22 年(1946 年~1947 年)」『気象集誌』第 28
巻第 8 号,1-39 頁および 40-54 頁.
新田 尚,二宮洸三,山岸米二郎.2009 年.『数値予報と現代気象学』東京:東京堂出版.
古川武彦,2012 年.『人と技術で語る天気予報史:数値予報を開いた「金色の鍵」
』東京:
東京大学出版会.
― 40 ―
JAHIGEO Bulletin no. 42(2014)
「数値気象学の始まり :歴史研究の動向と課題」へのコメント
隈
健一
(1)数値気象学の歴史を科学史の観点から,また我が国の歴史も記述するという試みに,
関係業務を実践する立場として敬意を表したいと思います。大方針として,世界の数値気
象学の始まりを歴史的に捉えた研究等はすでにあるので,日本の関わりを見せることがポ
イントかと思います。
(2)ビヤークネスから始まる北欧学派やリチャードソンの試み等欧州の記述がないこと
は,世界の数値気象学を記述する上ではやや片手落ちかと思います。リチャードソン後
NWP 開始までの間,ベルゲンスクールが世界の気象研究の中心で,そこにストックホルム
から Rossby も来ていました。この Rossby がその後米国に渡り,北欧伝統の気象学から米
国の近代気象学に発展させたという認識ではないでしょうか。
Kristine C. Harper, “The Scandinavian Tag-Team: Providers of atmospheric reality to numerical
weather prediction efforts in the United States (1948-1955).”
http://www.meteohistory.org/2004proceedings1.1/pdfs/09harper.pdf
この文献にもフォンノイマンプロジェクトに活躍したのは,米国ではなく,北欧のチーム
だったこと,その理由として米国では天気予報と学術的な気象学が分かれていた一方,北
欧ではこれらが一体的になっていたとの記述があります。
(3)一方で,今後の研究課題として記述されている日本の数値気象学の歴史に重点を置
くのであれば,日本の気象学者と欧米との関係をもっと記述するのがよいように思います。
なお,藤原咲平もベルゲンスクールへの留学経験がありますし,リチャードソンにも会っ
ているとの記述が根本さんの藤原咲平伝にあります。
(4)日本のキャッチアップの早さは,上記の北欧と同様,天気予報と気象学が中央気象
台と東京大学の渾然一体とした組織的な状況のもとで,比較的近い関係にあったことに加
え,戦後の日本社会を背景に説明することもできるかと思います。もう読まれたと思いま
すが,下記が参考になるのでは。
John M. Lewis, “Meteorologists from the University of Tokyo: Their Exodus to the United States
Following World War II.” Bulletin of the American Meteorological Society, vol. 74, Issue 7,
pp.1351-1351.
貧しい社会で優秀な物理専攻の若者がかろうじて飯を食える分野として気象があり,そこ
に人材が集まったこと,結果的に研究環境を求めてそのほとんどが米国に出て行ったこと
になりますが,その過程で日米の交流が盛んになったという面があろうかと思います。
下記笠原先生,荒川先生のオーラルヒストリーが参考になります。
― 41 ―
地質学史懇話会会報
第 42 号(2014)
Niels Bohr Library & Archives:
http://www.aip.org/history/ohilist/32440_1.html
http://www.aip.org/history/ohilist/35131_1.html
(5)アメリカの直輸入云々の件は,新田さんが詳しいかと思いますが,上記のようにき
わめて優秀な人材がモデル開発を進めていて,結果的に業務に採用されなかったかもしれ
ませんが,独自の取り組みも少なくなかったはずです。その後の米国のモデル研究におけ
る NP グループ出身者の活躍ぶりを見ても,自ら考えて研究を進めていたと思います。も
ちろん,業務開始のスケジュールに合わせるために結果的に米国の技術を活用した,とい
う面もあろうかと思いますが。
(6)日本特有の取り組みとして,数値予報開始当初から台風予報に重点が置かれ,その
ための技術開発を推進していました。
(7)非断熱加熱云々の議論は,今でも重要な課題です。数値予報モデルには力学過程と
物理過程(パラメタリゼーション)があり,非断熱加熱は物理過程の役割となります。メ
ッシュを細かくすることで,パラメタリゼーションの役割は小さくなると期待されていま
したが,必ずしもそうなっていません。台風や豪雨といった水蒸気の潜熱が絡む現象は,
社会的な影響が大きい一方で,モデルによる表現も難しい,という面があります。集中豪
雨について,ポテンシャル的な予測は数値予報で可能ですが,場所・時間・量を特定して
予測することはまだまだ困難で,レーダー等によるナウキャスト手法も併用し,注意報・
警報等の発表は予報官が判断しています。
(8)1950 年代の数値予報の創生期の次に,1970 年代の衛星観測開始が大きなエポックで
す。観測データは陸上に偏っており,海洋上,南半球等をカバーするなど,衛星観測は世
界全体の 3 次元大気の解析にきわめて重要で,数値予報の品質を向上させる上で衛星観測
はきわめて大きな貢献をしました。数値予報技術としては,衛星データから最適な情報を
抽出する技術である変分法解析が 1990 年代から 2000 年代に導入されて,これで著しい精
度向上が実現しています。
(9)最近の話なのでやや生々しくなりますが,一時世界一の性能となった地球シミュレ
ータ,その開発を推進した故三好さんの活動,世界に先駆ける全球非静力学モデル
NICAM について触れるかどうかも選択肢としてあろうかと思います。
― 42 ―
JAHIGEO Bulletin no. 42(2014)
有賀氏のまとめに対する意見・コメント
新田
尚
今回のまとめで,有賀氏は「数値気象学の特に日本での展開」について,「今後の歴史研
究の課題」を探りたいという問題意識を述べておられるので,その点を中心に述べたい。
(1)課題となる問題点のひとつは,第二次世界大戦から最近まで,旧ソ連圏内の状況が
よくわかっていない。後に示す参考文献①,②,③,⑥(の Chap. 4)でその一部がかいま
みれるだけだが,歴史を語るバランス上,旧ソ連圏の状況を無視できない。
(2)現代気象学史を論じる以上,やはり短くてもよいから V. ビヤークネスや L. F. リチ
ャードソンの前史に触れて,何故チャーニー等の成功があったのかの理由づけをしておく
必要があると思う。準地衡風近似による支配方程式の簡単化が,「リチャードソンの夢」の
リバイバルの鍵であり,その気象力学的な裏付け(スケールの理論)が欠かせないからで
ある(大規模の気象擾乱に予測対象をしぼって)。
(3)世界に先がけて数値予報を業務化したアメリカでは,プリンストン大学の高等研究
所の気象研究プロジェクトに続いて,気象局と軍の合同数値予報組織 (JNWPU = Joint
Numerical Weather Prediction Unit) の結成が大きい役割を果たしたことに触れる必要が
ある。
(4)日本の場合,
「数値予報グループ(NP グループ)」が数値予報の研究,技術開発,業
務化の推進母体であって,「数値予報委員会」の名称はあったかもしれないが,ふつう使わ
れていなかった。
(5)日本の迅速な追いつきが可能だった理由。
有賀氏の指摘は正しいが,新田の個人的な見解では,日本の数値予報研究の中心になっ
た人々が優秀であった上に,殆どの人が物理学(地球物理学)系統の研究者であって,ひ
とたび欧米の気象学研究の第一線の成果を自分のものにすれば,後は自らの能力を十二分
に発揮できる人々だったからである。そのことは,たとえば後に渡米した人々が,おしな
べて世界的な研究業績をあげた事実でも証明されている。
(6)「数値気象学」という枠組では,単に「数値予報」だけでなく,「数値実験」と「数
値シミュレーション」の学問的意味も大きいので,それらについての「日本での展開」に
関して探求すべき「歴史研究の課題」も多いと考える。
参考文献
① Khrgian, A. Kh., 1970: Meteorology—A Historical Survey, Vol. 1 (Second Edition,
Revised, Edited by Kh. P. Pogosyan (ロシア語からの翻訳,イスラエル). 特に,Chap.
13 参照.
― 43 ―
地質学史懇話会会報
第 42 号(2014)
② Monin, Andrei S., 1972: Weather Forecasting as a Problem in Physics (Translated by
Paul Saperak). The Massachusetts Institute of Technology (原本は 1969 年刊).
③ Phillips, N. A., W. Blumen and O. Coté, 1960: Numerical weather prediction in the
Soviet Union. Bull. Amer. Met. Soc., 41, 599-617. (和訳: 伊藤
宏・磯野良徳, 1960: ソ
連邦における数値予報. 気象研究ノート, 11, 274-296, 日本気象学会.)
④ Phillips, N. A., 1963: Geostrophic Motion, Rev. Geophys., 1, 123-176, American
Geophysical Union.
⑤ Roache, Patrick J., 1972: Computational Fluid Dynamics, Hermosa Publishers. (和
訳: パトリック・J・ローチェ著, 高橋亮一他訳, 1978: コンピュータによる流体力学
(上・下), 構造計画研究所.)
⑥ The Secretariat of the German Meteorological Society (DMG e. V.) and the European
Meteorological Society (EMS e. V.), ed., 2000: 50th Anniversary of Numerical
Weather Prediction (Commemorative Symposium, Book of Lectures), Deutsche
Meteorologische Gesellschaft e. V.
― 44 ―
JAHIGEO Bulletin no. 42(2014)
数値気象学史についての補足
新田
尚
この文章は,第 53 回地学史研究会のおり,主催者のとったメモをもとに補足を加えてい
ただいたものです。日本のみならず世界的な数値気象学の流れを知るのに有益と考え,掲
載します。(地学史研究会事務局
山田俊弘)
自己紹介を兼ねて
(1)1959 年に気象庁で始まった数値予報の業務化の作業の一員として加わった。天気予
報を社会に向けて発表する予報課の予報官の反応はさまざまで,温度差があった。数値予
報に期待を示す好意派と逆に反発する抵抗勢力に大きくわけられたが,予報官に全面的に
受け入れられるようになるまで 10 年ぐらいかかり,数値予報の精度が向上してこんにちで
は天気予報技術の中核の技術となっている。業務化発足時のコンピューターは IBM 704 型
で,当時では今のスーパーコンピューターのような受けとめ方がされていたが,能力的に
は今のパソコンにも劣るものであった。2009 年がちょうど日本の数値予報の業務化 50 周
年に当るので,昔の仲間と一緒に数値予報の現代気象学での位置づけを本にまとめた(新
田
尚・二宮洸三・山岸米二郎『数値予報と現代気象学』
,東京堂出版,2009 年)
。
イギリスやヨーロッパの事情
(2)(1)で述べたような,天気予報の現場における数値予報の受け入れの問題は,多か
れ少なかれ世界共通の問題であった。一例をあげれば,イギリス気象局では,世界的にみ
てもかなり早い段階から先駆的に業務的数値予報技術の開発が手がけられていたが,天気
予報の現場が非常に慎重な態度をとったために,数値予報予想図の天気予報作業への導入
は他国より遅れていた。たまたまインペリアル・カレッジの気象学の教授から気象局長官
に就任したジョン・メイソン卿が,1965 年にこの情況を知り,直ちに数値予報予想図を使
うように天気予報の現場に指示したため,鶴の一声で数値予報の導入が決まったいきさつ
がある。新田はこうした数値予報技術の天気予報業務への導入のドラマを,「気象版プロジ
ェクトX」
(「プロジェクトX」はかつて NHK が技術革新のドラマティックな歴史を特集し
た番組)だと思っている。
(3)現在,数値予報の開発競争が国際的に激しくなっていて,先進各国もかなり健闘し
ているが,常にリードしているのはヨーロッパ共同体が運用するヨーロッパ中期予報セン
ター(ECMWF = European Centre for Medium Range Weather Forecasts,所在地=イギ
リス)である。(ヨーロッパの若手の俊才を集め,最新のスーパーコンピューターを駆使し
て開発を進めると共に,常時,世界中の数値予報センターとも若手研究者の交流を行って
いる。予想結果は一部無料で,他は有料で世界中の気象機関と交換している。参考文献:
― 45 ―
地質学史懇話会会報
第 42 号(2014)
Austin Woods, 2005: Medium-Range Weather Prediction–The European Approach:
The story of the European Centre for Medium-Range Weather Forecasts. Springer, New
York, 270 pp.
数値予報の発展の歴史的経過
(4)数値予報の発展の歴史的経過を簡単にたどる。それは,18 世紀に逆上る。当時,天
文学で天体力学が発展して,天体の運行の予測に成功していたので,気象予測も同じニュ
ートン力学を用いて理論的に行えるのではないかという意見があった。しかし,質点の力
学が中心の天体力学に対して,気象力学ではニュートンの力学法則を流体の運動に適用し
たナビェ・ストークスの方程式を用いねばならず,それが非線形(ノンリニアー)の方程
式であるため,容易ではなかった。
近代気象学の父といわれる V. ビヤークネスが,20 世紀初頭の 1904 年に,理論的な気象
予測の具体的な提言を行った。彼は図式解法を用いてナビェ・ストークスの方程式を解い
てそれを実行する方法を考えていたが,自身は実際に予報計算を行わなかった。当時,こ
のビヤークネスが提起した“将来の天気を理論的に予測できる”という提言に対して,“そ
れが役に立つだろうか? 計算にとんでもない時間がかかり,非現実的だ”とする批判が投
げかけられた。それに対してビヤークネスは,
“何も今すぐそうした理論的な天気予報をや
ろうというのではない。それが可能なことを実際に示すのには時間がかかるだろう。しか
し,山を通してトンネルを掘り抜くには,多くの年月が必要であろうし,それに従事した
多くの労働者たちは完成を見るまで生きていないだろう。にもかかわらず,こうした努力
があればこそ,後の時代の人々の乗る列車が特急列車のスピードでこのトンネルを通過す
ることが可能となるのである”と反論した。約 100 年後のこんにち,それが実現して現実
のものをなっており,われわれはその恩恵を受けているわけである。
1920 年代に,L. F. リチャードソンが数値解法を用いて手計算でこのビヤークネスが提
言した方式を実行したが,145 hPa/6 時間という非現実的な地上気圧変化の値を得て失敗し,
「リチャードソンの夢」とよばれてその後の約 20 年間,気象学者は手をつけなかった。
1940 年代に入って気象力学が発展し,チャーニーなどによって準地衡風近似の理論が確
立した。ナビェ・ストークスの方程式の解のうち,大規模の気象擾乱に予測対象をしぼり,
準地衡風近似を適用して支配方程式を簡単化することに成功し,多くの理論的研究がなさ
れた。この結果,「リチャードソンの夢」の失敗の原因が,用いた支配方程式が余りにも一
般的すぎたために,気象擾乱のほか,音波,慣性重力波なども解となった点にあったこと
を知った。そしてチャーニー等は,準地衡風近似を用いる方式で数値予報を実行すること
に成功した。このプロジェクトの推進者はフォン・ノイマンで,彼の発明したコンピュー
ターを利用するひとつのプロジェクトに気象予測を選び,気象界のリーダーだったロスビ
ー等の協力でプリンストン大学高等研究所にチャーニーやフィリップス等の数値予報を行
う気象グループ(プリンストン・グループ)を結成した。そして,ENIAC やプリンストン
― 46 ―
JAHIGEO Bulletin no. 42(2014)
大学の IAS 計算機を用いて 500 hPa 面の予報(順圧モデルによる順圧予報),3 層の等圧
面の予報(傾圧モデルによる傾圧予報)に成功した。特に,後者の予報は,1950 年 11 月
25 日,米国東部を襲った大嵐を見事に予測し,大成功をおさめた。リチャードソンの夢の
リバイバルである。
日本における発展
(5)気象庁の業務的数値予報モデルは,業務化当初,米気象局の「データ処理や客観解
析」プログラムと「順圧モデルによる予報」プログラムを使用し,その後自前のプログラ
ムに切り換えた。業務化の経過は米国と同じような経過をたどった。すなわち,最初は順
圧モデルによる 500 hPa 面の順圧予想,続いて 3 層の傾圧モデルも運用した。しかし,後
者は断熱モデルで凝結熱放出の効果が入っておらず,必ずしも良い予想天気図が得られた
わけではなかった。当時,気象庁の数値予報技術開発のリーダーであった岸保勘三郎博士
(後の東大名誉教授)等の努力で凝結熱放出の効果が導入された非断熱モデルに改良され,
高気圧と低気圧の非対称な発達,降水量の予想分布等が予想地上天気図に表現されて天気
予報業務の第一線にいる予報官の反応も次第に改善されていった。
(6)気象庁(当時,中央気象台)における数値予報技術の開発は,気象庁予報課や気象
研究所のスタッフによって開始された。
(それが 1959 年の IBM704 型コンピューターの導
入時に電子計算室,その後数値予報課となって,気象庁内の数値予報業務に関する組織的
な整備が行われた。)当時,日本の数値予報研究の推進母体だった数値予報グループは,気
象庁における数値予報業務の進行によって実用化に向けたメンバーと大学-研究機関の学
問研究に向かうメンバーに大きく二分されていった。しかし,全体的にわが国における数
値予報研究のレベルのさらなる飛躍をめざして,リーダーの正野重方東大教授(当時)を
中心に,日本気象学会主催の「数値予報国際シンポジウム」の開催を計画し,1960 年 11
月 7 日-13 日の間,気象庁,学術会議,国際測地学・地球物理学連合との共催でこのシン
ポジウムが開催された。
世界中から 130 名を超える著名な第一線の研究者の参加を得たが,当時名前しか知らな
かった豪華な参加者には目を見はる思いをしたし,その論文発表は特に若い日本の研究者
にとってまたとない,絶好の「世界レベルの気象学」の洗礼を受ける機会となった。この
シンポジウムは,戦後ようやく復興した日本の気象学研究のレベルを,一気に国際的なレ
ベルにまで引き上げる効果を発揮した。ただ,優秀な日本の研究者が,これを契機に多数
渡米し(一種のヘッドハント!?),やがて彼等が世界的に活躍することになる。(順不同
で名前をあげると:真鍋淑郎,荒川昭夫,大山勝通,佐々木嘉和,笠原
彰,都田菊郎,
小倉義光,村上多喜雄,柳井迪雄,栗原宜夫,金光正郎,等の各氏。
)
シームレスな地球システムモデルと気候変動予測
(7)数値予報モデルの今後の発展の流れは,気候モデルからさらにシームレスな地球シ
― 47 ―
地質学史懇話会会報
第 42 号(2014)
ステムモデル(さまざまなスケールの大気現象をまとめて対象とする)に向かっている。
また,気象予測の信頼度を予測するアンサンブル予報が発展し,天気予報の確率表現が盛
んになっている。
(8)世界的には気候モデル(大気-海洋-陸面モデル)が活発に用いられ,IPCC の第 5
次評価報告書でも中心的な役割を果たしている。なお,地球の気候が果して温暖化してい
るのかという質問があったが,気温の観測データに関してはここ 100 年間の測器時代以前
の期間は木の年輪などが用いられている。それらの検証の研究も進んでいる。また,地球
温暖化の予測に関しては,気候の自然変動も問題である点に注目せねばならない。
アメリカの 2 潮流とロスビーの役割
(9)有賀氏の報告の第 3 章にある「気象学研究プロジェクト」のうち,プリンストン大
学の高等研究所におけるチャーニー等の気象グループの他に,アメリカの業務化を担う気
象局と軍の合同数値予報組織 (JNWPU = Joint Numerical Weather Prediction Unit) が
ある点に注目したい。
(10)(5)で述べたアメリカの二つのプログラムは,当時 JNWPU に滞在していた大山
勝通氏のあっせんによる。
(11)プリンストン大学の高等研究所の多くの研究者は,この研究所では応用的な研究は
なじまないとして,気象グループの存在を否定的に受けとめていたので,チャーニー等が
去った後,このプロジェクトは消滅した。
(12)アメリカでの数値予報研究の推進にロスビーの果した役割は大きく,プリンストン
高等研究所の気象グループのリーダーにチャーニーを推薦し,また,JNWPU の結成にも
寄与した。
なお,次のアメリカ気象学会の Historical Monograph Series にチャーニーへのインタ
ビューの記録がある(Part 1, Chapter 2,Platzman による)。Richard S. Lindzen, Edward
N. Lorenz, and George W. Platzman, eds, 1990, The Atmosphere – A Challenge The
Science of Jule Gregory Charney, American Meteorological Society, xvii + 321 pp.
以上
― 48 ―
JAHIGEO Bulletin no. 42(2014)
鈴木尉元さんと地質学史懇話会・INHIGEO との関係
猪俣道也
2013 年 5 月 13 日(月)に鈴木尉元さんの訃報に接し私は大変驚きました。2011 年の国
際地質学史委員会(INHIGEO)年会日本大会は、準備委員会委員長が鈴木さんで私が事務局
長ということで、他の委員とともに無事に開催でき、プロシーディングも 2012 年 7 月の IGC
開催前に発刊でき、鈴木さんをはじめ関係者一同は肩の荷を降ろしホッとした状況でした。
2007 年に 2011 年 INHIGEO 年会日本開催決定した頃から INHIGEO 委員への推薦・地質
学史懇話会事務局幹事への就任依頼などで大森昌衛・鈴木尉元両氏から何度も連絡があり、
私は幹事を引き受けることになりました。その頃から鈴木さんより頻繁に教えを乞うよう
な関係になり、これからも当分この状況が続くものと思っていましたので大変心残りです。
鈴木さんは地質学史懇話会・INHIGEO どちらの組織にもきわめて大きな貢献をされてき
ましたので、その要点をまとめておきたいと思います。
鈴木尉元さんは日本地質学会百周年記念の時(1993 年)に編集委員長として『日本の地
質学 100 年』をまとめられ、それを機に結成した「地質学史懇話会」の創設に当初から参
画されました。設立総会は 1994 年 3 月 29 日に早稲田大学国際会議場で開催され、会員 28
名(地質学史懇話会会報 1 号および 4 号より、1994.4.5.現在の会員は有田忠雄・池辺
市川浩一郎・今井
穣・
功・大久保雅弘・大橋俊夫・大森昌衛・垣見俊弘・北川芳男・沓掛俊
夫・倉林三郎・小林英夫・小松直幹・清水大吉郎・杉山隆二・鈴木尉元・諏訪兼位・武田
裕幸・徳永重元・野沢
保・羽田
健三・山下
尚)で発足、会長:大森昌衛、事務長:山下昇、幹事:鈴木尉元・
昇・吉田
忍・羽鳥謙三・端山好和・藤田至則・松井
兪・八木
沓掛俊夫の役員体制で動き始めました。
その後 1996 年 5 月の山下昇氏逝去で、地質学史懇話会の体制は会長:大森昌衛、事務局
長:鈴木尉元、事務局:沓掛俊夫・立澤富朗・矢島道子になり、地質学史懇話会の英語表
記も Japanese Association for the History of Geological Sciences(JAHIGEO) に会報 8 号
からなりました。1999 年に会長:今井
功、事務局長:鈴木尉元、事務局:金光男・立澤
富朗・矢島道子、2001 年には事務局に会田信行が加わり、2003 年には会長は鈴木尉元に変
わりましたが、事務局長はそのままでした。2006 年には今井
功前会長が逝去(3 月 25 日)
されました。
2006 年 7 月に INHIGEO リトアニアで日本開催が提案されました。この時の INHIGEO
日本委員は平井浩、沓掛俊夫、岡田博有(副会長)、大森昌衛、諏訪兼位(前副会長)、鈴
木尉元、谷本勉、八木健三(名誉会員)、矢島道子、山田俊弘、八耳俊文(11 人)でありま
した 。 2007 年に は日本学 術会議地球 惑星科学委 員会国際対 応分科会 IUGS 分科会
INHIGEO 小員会設置を鈴木さんが提案、秋に 2011 年 INHIGEO 年会の日本開催が決定、
2008 年、会田信行・猪俣道也・加藤碵一・加藤茂生・金
― 49 ―
光男・栃内文彦が INHIGEO の
地質学史懇話会会報
第 42 号(2014)
表1
開催年 開催地(国)
INHIGEO 年会への鈴木尉元さんの参加状況
テーマ
出席した日本の主な研究者
1994
シドニー(オーストラリア) 太平洋地域の地質学の歴史
鈴木
1995
ナポリ(イタリア)
火山の研究史
八木・諏訪
1996
北京(中国・IGC)
地球科学の歴史一般
鈴木・沓掛・大森・今井・岡田・
(猪俣)
ライエル/ハットン 200 年会議
会田・宇津川・矢島・山田
19,20 世紀のカルパチア・
会田
リエージュ(ベルギー)
1997
ロンドン・エジンバラ
(イギリス)
ウィーン(オーストリア)
バルカンの地質研究史
1998
ヌーシャテル(スイス)
1999
2000
2001
フライベルク(ドイツ)
リオデジャネイロ
(ブラジル・IGC)
リスボン・アヴェイロ
(ポルトガル)
構造地質学と氷河地質学の歴史
アブラハム・ゴッドロープ・
ヴェルナー
20 世紀における地質学の歴史
沓掛
鈴木・沓掛・(猪俣)
建築石材・鉱山史と大型動物相
2002
パリ(フランス)
ドービニーと層序学
2003
ダブリン(アイルランド)
地質学的探検者
フローレンス
地球科学における研究所・博物館 会田・岡田・沓掛・鈴木・矢島・山田
(イタリア・IGC)
と学会
(猪俣)
2005
プラハ(チェコ)
地球物理学の歴史
鈴木
2006
ヴェル二ウス(リトアニア) 第四紀地質学と地形学の歴史
鈴木・矢島・山田
2007
アイヒシュテット(ドイツ) 地質学と宗教との歴史的関係
沓掛・矢島
2008
オスロ(ノルウェー・IGC) 極地探検の歴史
鈴木・山田
2009
カルガリー(カナダ)
化石と燃料
鈴木
鉱物資源の研究史
沓掛・猪俣
視覚イメージと地質概念
多数
2004
2010
2011
マドリード・アルマデン
(スペイン)
豊橋(日本)
― 50 ―
矢島
JAHIGEO Bulletin no. 42(2014)
新会員として認められ、2009 年4月日本学術会議地球惑星科学委員会国際対応分科会
IUGS 分科会 INHIGEO 小員会委員に任命されました。
2010 年に地質学史懇話会は会長:沓掛俊夫、事務局長:猪俣道也、事務局員:金 光男・
立澤富朗・矢島道子・会田信行・鈴木尉元となり、2011 年 1 月には大森昌衛初代会長が逝
去されました。
2011 年 8 月 INHIGEO 日本大会(愛知大学)は鈴木尉元準備委員長の開会の挨拶で始ま
りました。その後、加藤碵一・猪俣道也・鈴木尉元・梶
雅範・金
光男・沓掛俊夫・宮
野素美子・中陣隆夫氏らの協力によりプロシーディングを編纂して刊行、年会参加者・懇
話会会員・協力学会等に発送し、日本地質学会・東京地学協会に会計報告をして INHIGEO
関係の処理は完了しました。
2012 年には地質学史懇話会会長:沓掛俊夫、事務局長:猪俣道也、事務局:会田信行・
金
光男・鈴木尉元・立澤富朗・中陣隆夫・矢島道子で、2013 年には会長:加藤碵一、事
務局長:矢島道子、事務局:会田信行・猪俣道也・金
光男・沓掛俊夫・中陣隆夫・立澤
富朗・鈴木尉元と変遷してきました。鈴木尉元さんは発足時から地質学史懇話会のポイン
トを押さえる立場で継続して活動されてきました。
次に、INHIGEO 年会への鈴木尉元さんの参加状況を表 1 に示します。1994 年から 2009
年のカナダ大会までに 8 回出席され、国際交流に貢献されてきました。私が INHIGEO 委
員として年会に参加したのは 2010 年が初めてですがそれまでの IGC の時には、私の参加
のたびに IGC 会場で鈴木さんに出会い懇談いたしましたが、特に 2004 年のイタリアの時
は博物館見学などにも同行し、色々ご教示頂き博識ぶりに驚いたことを思い出します。
東京農業大学で開催していた地学談話会にも良く参加され、学生との議論を楽しまれて
いました(図 1)。ここに改めて鈴木尉元さんのご冥福をお祈り申し上げます。
図 1. 第 237 回地学談話会(2004 年 3 月 13 日 18 時. 東京農業大学 11 号館 2 階会議室に
て)での鈴木さん(後列左から:鈴木尉元・吉田
賀慎・榊原雄太郎・青木
尚・橘隆一・端山好和・大森昌衛・古
斌、前列左から:猪俣道也・桜井健太・小嶋理佳菜・大畑早紀)
― 51 ―
地質学史懇話会会報
第 42 号(2014)
鈴木尉元さんを偲んで
大沢眞澄
鈴木さんが急逝されたのには、本当に驚きました。直前に金さんよりご連絡をいただき、
葬儀に参列することができました。鈴木さんとは、青山での地学史勉強会(現在、研究会)
で、お会いしたのが最初かなと思いますが、その後地質学史懇話会に参加させていただく
ようになった次第です。私は化学出身であり、昔は地球化学にも首を突っ込んでいた時も
ありましたが、その後文化財などと文系方面との関係が強くなり、彼のご専門とは全く違
う立場にありましたが、住所も近く(市川市内)であることも分かり、何となく気が合う
というか、随分親しくさせていただきました。豊橋の国際会議の時も、二人ともエクスカ
ーションには出ずに、一緒に帰宅したりいたしました。何か書かれると、何時も頂戴いた
し(内容はさっぱり理解できませんでしたが)、私も駄文ができると差し上げておりました。
何時でしたか、ミルンの『Earthquake』という小さな本をお贈りした際、大変喜ばれたこ
とを記憶しております。文献の調査には何時も、地震研の図書室を利用される由で、誰で
も自由に行かれるからとお聞きし、一度は行ってみたいと思いながら、未だに実行しては
おりません。
ご存知の方も多いと存じますが、房総地学会というものがあり、年に何回か千葉市の県
立中央博物館で会合が行われております。當館のリンネやバンクスの収蔵資料は周知の通
りです。私も鈴木さんに誘われて入会し、そこでも大分お世話いただきました。博物館の
展示会見学や昼食を共にしたり、会合後の懇親会にいつもご一緒したりしたものでした。
2007 年 10 月初めの、秩父鉱山の見学会にも同行させていただき、大変有益な体験もいた
しました(私の主な関心は平賀源内の火浣布の原料でしたが)。飯山敏道会長、鈴木副会長
と続いて亡くし、房総地学会も大変な状況に立ち至ったことと思われます。
― 52 ―
JAHIGEO Bulletin no. 42(2014)
鈴木尉元氏の日本地質学史への貢献
金
光男
1994 年に遡る日本地質学史懇話会 JAHIGEO の創設メンバーのひとりである鈴木尉元
さんは、地質学者そして科学史研究家として良く知られますが、声楽家としての非凡な才
をお持ちで、その nice voice と温厚なお人柄により初期の地質学史懇話会の各種会合にお
いて司会者の重責を美事果たされました。会合に初めて出席なさる方々は、柔らかな笑顔
と優しい声、そしてユーモラスなお人柄に触れると、たちまち会員となりました。それは
地質学史懇話会草創期における鈴木さんの大きな貢献だったと思います。
筆者にとって忘れられない画像があります。2000 年に松江(島根大学)で開催された日
本地質学会第 107 年学術大会に際し、夜間小集会地質学史懇話会の懇親会において撮影さ
れた一枚の写真です(写真 1)。
写真 1
2000 年日本地質学会(松江)地質学史懇話会懇
親会にて.左より大森昌衛初代会長,今井
功第
二代会長,鈴木尉元第三代会長.
鈴木氏は大森・今井両会長のもと,地質学史懇
話会事務局長として,その間,八面六臂の活躍を
された(筆者撮影).
筆者はここに映るご三方より並々ならぬご指導をいただきました。とくに鈴木さんには、
生前、何度励ましの言葉をいただいたか分かりません。鈴木さんは若手研究者を、さりげ
なく、あるときは力強くバックアップし、いつの間にか育てる才能をもお持ちでした。
筆者と鈴木さんとの最初の接点はライマン研究でした。筆者のライマン研究は副見恭子
さんによる『ライマン雑記』に触発され開始したものですが、実は『ライマン雑記』は、
1989 年ワシントンで開催された第 28 回 IGC に出席された鈴木尉元氏が、地質調査所の同
僚小玉喜三郎氏とともに現地まで足を延ばされ、マサチューセッツ大学に保管されるライ
マン・コレクションを実見してその価値を瞬時に読み取り、研究成果の執筆と連載を副見
さんに奨め、開始されたものだったのです。文系出身者である副見さんが米国で執筆し日
本に送って来る原稿を、地質ニュース誌にふさわしい内容となるよう懇切丁寧に推敲され、
終始、副見さんを鼓舞し続けたのが鈴木さんでありました。このお話を鈴木さんから直接
伺ったとき、私は訪米調査(ライマン野帳解読)の志を心に抱きます。
つづいて、鈴木さんは彼の眼力の確かさによって日本地質学史に貢献します。鈴木・小
玉(1990:地質ニュース n.427,p.49-53)は、以下論述します。
― 53 ―
地質学史懇話会会報
第 42 号(2014)
…ライマン(Benjamin Smith Lyman)といえば、ナウマンとならぶわが国の地質学の草創期
に活躍したお雇い外国人で、日本の地質学に大きな貢献をした大恩人の一人である…彼の足跡は、
北は北海道から南は九州にまで及び、その間に多くの弟子を育て、晩年にいたるまで彼らに慕わ
れたことでも知られている。その後弟子達は鉱業界などで活躍し、ライマンともどもその業績は
高く評価されている。なお、弟子のうち西山正吾と坂市太郎は、ともに 1882(明治 15)年から
1887(明治 20)年まで地質調査所に在職し、優れた業績を残している…ライマン自身の業績は、
北海道の地質調査をおこない、その成果をまとめ、日本,最初の広域地質図 200 万分の 1 蝦夷地
質図を出版し、新潟県など産油地の調査を行ない「日本油田之地質及地形図」を出版したことな
どが知られているが、わが国には、わずかな資料しか残されていないといれている。彼の残した
蔵書や調査資料などは、彼の生まれ故郷であるマサチューセッツ州ノーサンプトン市のフォーブ
ス図書館とマサチューセッツ大学アマースト校の図書館、フィラデルフィア市にあるアメリカ哲
学協会などに保管されている…このうちマ大学にあるものは、フォーブス図書館にあった日本関
係のもので、同大学の司書をしておられた副見恭子さんによって発見され、同大学が買い上げた
ものである…昨年 7 月にアメリカのワシントンにおいて第 28 回万国地質学会議(International
Geological Congress)がおこなわれたが、筆者らはそれへの参加の機会に、マ大学のライマン・
コレクションを見る…ライマンの所有していた本は、たいへんに良く保存されているように思わ
れた。元もと、彼自身愛書家でもあったのであろう。それらの本一冊一冊に、フォーブス図書館
の蔵書票がはられている。この蔵書票は和紙に刷られていて、中央に來曼の字を配した、なかな
かしゃれたデザインのものである…ライマンの業績については、かつて神保(1890)と坂(1890)
との間に論争があり、それらは小林(1958)や柴崎(1984)によって紹介されたことがある。
彼の地質学が実践的で優れたものであったことは、彼の育てた弟子の島田純一と山際永吾が幾春
別と奔別炭田を、坂市太郎が夕張炭田を発見したことからも推し量ることができる。しかし、ラ
イマン関係の史料が日本に少ないこともあって、ライマンの業績の正しい評価は未だ十分になさ
れていない…マ大学のライマン・コレクション中に、北海道の 6000 分の 1 の地質図を見る機会
をえたが、彼と弟子達によってつくられた地形図上に描かれた地層境界線や地質断面図は、現在
でも十分に通用する精度を感じさせるものであった…当時のわが国の地質家のレベルをはるか
に超えるものであり、大学を出て数年の神保の及ぶところのものではなかったであろうと思われ
た…当時の発展途上国日本へ来て、このような高精度の地質図をつくり、立派な弟子を育てえた
のは、ライマンの高度な地質学の知識と技術、誠実な人柄、弟子への信頼があったことは想像に
かたくない。さらに彼のコレクションに見られる彼の幅広い知識もあずかって力があったのであ
ろう…現在日本は各国に技術援助をおこなっている。我われもライマンに学んで、それらを成功
させる根本的な問題について考えなければならないと考える…
第 28 回 IGC(ワシントン)大会に日本地質調査所の代表として派遣され、その過密ス
ケジュールの隙をみての鈴木さんのマサチューセッツ訪問でしたが、膨大な量からなるラ
イマン・コレクションについて、ジャンル毎に資料数の一覧を示し、かつ上掲したように、
的確に真の価値(問題核心)を見抜く眼力こそまさに鈴木さん(と小玉さん)の真骨頂だ
ったと思います。
筆者がこれまで熟読した科学史論説の中から、鈴木さん自身が執筆され、あるいは鈴木
― 54 ―
JAHIGEO Bulletin no. 42(2014)
さんの企画によって学会誌に掲載されるに至った科学史報告を三編紹介いたします。
渡辺萬次郎(1979)東北の一角から.地質雑(特別寄稿),v.85,p.699-707.
松本唯一(1980)思い出の数々.地質雑(特別寄稿),v.86,p.421-430.
鈴木尉元(1988)大橋良一の層序論と造構論.地質ニュース,n.409,p.25-35.
前二者は、日本地質学会創立 90 周年を迎えるに当たり、鈴木さんが中心となって明治
生まれの古参地質学先達に“個人的な思い出を忌憚なく書いていただいた”
「特別寄稿」シ
リーズよりの抜粋です。いずれも鈴木さんの実力と、その温厚なお人柄があってこそ、初
めて執筆依頼がなされた貴重報告で、日本地質学史上の名著と筆者が信じるものです。
最後に“鈴木さんらしいお姿”を私のコレクションの中から紹介させていただきます。
地質学史話題には、どんなに多忙でも鈴木さんはいつでも現場に馳せ参じていただきまし
た。その燃えるパッションに深心より敬意を表します。本当にありがとうございました。
写真 2
2006 年 ジ オ プ ラ
ンニング社企画・矢
島道子氏案内:南英
地学史ツアー:ワイ
ト島 Milne Way にて.
左より二人目:鈴
木さん(梶
雅範氏
撮影).
写真 3
2009 年 10 月:
『宮澤賢治の知的背景を示す地質学史
資料』発見に際し,岩手大学を急ぎ訪問.
調査隊が今井
功第二代会長のご自宅を表敬訪問.
前列中央:今井先生奥様.後列中央:鈴木さん(吉田
裕生氏撮影).
参照 http://www.geosociety.jp/faq/content0207.html
― 55 ―
地質学史懇話会会報
第 42 号(2014)
鈴木尉元さんを偲ぶ
諏訪兼位
2013 年 5 月 13 日(月)の朝、一向に2階から下りて来ない鈴木さんを訝り、美恵子夫
人が 2 階に行かれたところ、すでに鈴木さんは事切れておられた。心不全による御逝去で
あった。78 歳の御生涯であった。
このことが 5 月 15 日(水)猪俣さんと金さんのメールによって知らされ、ただただびっ
くりしてしまった。5 月 16 日(木)夕方お通夜、5 月 17 日(金)午前中御葬儀とメールに
記してあった。私は 5 月 17 日に前約があったので 5 月 16 日の御通夜に列席することにし
た。通夜の読経をご親族の方々はずーっと聴いておられたが、私共一般のものは御焼香が
終ると順々に別室の大広間に移動し、そこでお寿司を頂き、参列者のなかの知己同士で、
鈴木さんを偲んで歓談した。
山田直利さん、小玉喜三郎さん、小林忠夫さん、楡井久さん、加藤碩一さん、大沢濃さ
ん、金光男さん、中陣隆夫さんなど沢山の人々が、鈴木さんの急死を悼んで集われた。ま
た、東大地学科同級の床次正安さん、林璋さん、木戸宏さんなども参列された。
鈴木尉元さんは 1935 年 1 月 1 日東京に生まれ、1958 年に東大地質学科を卒業され、直
ちに地質調査所に入所され、構造地質学徒として、誠実な仕事を続けられた。また、地質
学史にも深い造詣を示された。日本列島の深発地震の存在を実証した和達清夫博士につい
ては 2001 年に Episodes で英文の評伝を書き、さらに 2004 年に「地球科学」誌の地学者
列伝で和文の評伝を書かれた。鈴木さんは深発地震の発生する直上では、浅い地震がよく
発生することに着目して、構造地質研究会の仲間の人々と研鑚に励まれた。
鈴木さんとの初対面は 1980 年パリで開かれた IGC の懇親会場だったように思う。鈴木
さんは美恵子夫人とご一緒であった。その後、地質学史懇話会の活動を通じて交流が深ま
り、別刷をしばしばお送りいただいた。誠実な紳士であった。
2011 年 8 月はじめの豊橋市の愛知大学における INHIGEO の大会では、大会委員長とし
て、よく采配をふるわれ、大会は大成功のうちに幕を閉じることができた。
8 月 5 日(金)夜のパーティーが終り、8 月 6 日(土)早朝から沓掛俊夫さんをリーダー
とする紀伊半島巡検がはじまった。鈴木さんは健康上の理由で巡検には参加されなかった。
鈴木さんご夫妻は 8 月 6 日早朝にも拘らず私共巡検組の出発バスを見送って下さった。思
えば、これが、鈴木さんとのお別れになってしまった。
今は静かに御冥福をお祈りするばかりである。
― 56 ―
JAHIGEO Bulletin no. 42(2014)
鈴木尉元さん、思い出すことがら
矢島道子
鈴木さんが亡くなられたのは昨年のことなのだ。会報の編集をしていて、ふっと、ご相
談したくなる。会報の原稿の問題にはいつも誠実にあたってくださっていたからだ。鈴木
さんが会報を編集されたのは第 5 号(1995 年)だけだったけれど。
INHIGEO の日本の報告は少なくとも 1994 年から 2011 年まで、ずっと鈴木さんが書か
れていた。鈴木さんが亡くなられて、今は山田俊弘さんと私とで書いている。
鈴木さんは INHIGEO のシンポジウムに、少なくとも 1994 年のシドニー(第 19 回)、
1996 年の北京(第 21 回)、2000 年のブラジル(第 25 回)には出席されていた。鈴木さん
とご一緒したのは、2004 年のイタリアの時からであった。そのときは、発表があまりうま
くいかなかったので、少ししょげていたところ、鈴木さんに「そういう時はすぐ忘れるの」
と励まされた。
次にご一緒したのは、2006 年のリトアニアの時である。この時は行きの飛行機もご一緒
だった。ヴィルニウスに着いて、会場のまわりをぶらぶらしていたら、ドイツから来た
Martina Kölbl-Ebert にばったり会って、3 人で夕食をとった。実は、2004 年のイタリア
の会合の時に、日本で INHIGEO の会合をしたらいいのではないかと声をかけられていた。
日本に話を持って帰ったら、日本の委員に大反対された。それなりに理由はあった。3 人の
夕食の間にその話が出て、Kölbl-Ebert にずいぶん肩を押された。ビジネス・ミーティング
で、また、日本でシンポジウムはいかがとオーストラリアの Branagan さんから声がかか
り、鈴木さんが断った。そのあと、ビジネス・ミーティングの最後に鈴木さんが挙手して、
「先ほどお断りしましたが、日本に持ち帰って考えてみます」と発言された。これが 2011
年の日本でのシンポジウムの始まりであった。そのあとの粉骨砕身のご努力はみなさんの
知るところである。
1994 年 5 月 1 日発行の会報第 1 号には 28 名の会員の名前が並んでいる。現在も会員で
あり続けているのは 7 名となってしまった。1993 年に日本地質学会が 100 周年を迎え、そ
れが縁でできた地質学史懇話会である。2018 年には日本地質学会は 125 周年を迎える。ま
さに光陰矢のごとしである。
― 57 ―
地質学史懇話会会報
第 42 号(2014)
鈴木尉元さんを追悼して
山田俊弘
私の地質学史懇話会への入会の申込みに対し、鈴木さんからいただいたお手紙は、1995
年 7 月 11 日付で、事務局を山下昇氏から代わったことや発表や投稿をお願いしたいという
ことが書かれていた。それ以前には地震地質の本を通じてお名前を知っているにすぎなか
ったが、鈴木さんの地質調査地域に私の故郷が含まれていたこともあって、懇話会の会合
などで次第に親しくおつきあいさせていただくこととなった。
1997 年にライエル=ハットン 200 年会議で知り合ったオーストラリアの David
Oldroyd 氏の勧めで、INHIGEO の委員に応募した際には、鈴木さんにお世話いただき、
履歴などをメールで書き送った記憶がある。幸い翌年、矢島道子さんとともに Neuchatel
の集会で承認された。(今回、1999 年 3 月 31 日付会報 12 号を見直していて、小林英夫氏
や杉村新氏と入れ代りであったことを知った。
)
その後は、2002 年頃に八耳俊文さんより事務局を引き継いだ地学史勉強会(現在の地学
史研究会)でお話していただいたり、教会でのコーラスに招待されて美声を聞かせていた
だいたりした。INHIGEO の集会でごいっしょする機会もたびたびあった。特に、2006 年
のバルト三国をめぐる旅や、2008 年のオスロが思い出される。2011 年の日本での開催が無
事終わったのを見届けるようにして逝かれたのは、たいへん残念なことである。
プレートテクトニクス万能という風潮に対して批判的姿勢を堅持され、20 世紀のテクト
ニクスの学説史のなかでとらえようという努力をされていたことは、そのすべてについて
認識を共有できるわけではないにしても、今後も思い出されてよいのではないかと思う。
関わってこられた反プレートテクトニクスの国際会議の歴史についてうかがう機会がなく
なったことも残念に思われる。
こう書いてきて、ちょっとした街角や野外で野帳にスケッチをする姿がよみがえってき
た。あるいは千葉駅の居酒屋で、故飯山敏道氏をはじめ房総地学会の方々と談笑している
場面も。フレンドリーに分けへだてなくつきあってくださったことに感謝し、ご冥福をお
祈りします。
― 58 ―
JAHIGEO Bulletin no. 42(2014)
『日本の地質学 100 年』と鈴木尉元さん
山田 直利
鈴木さんは,亡くなる 20 年前,『日本の地質学 100 年』(日本地質学会,1993)の
編集委員長を務め,立派にその仕事を成し遂げられた。第二次大戦後の地質学会の学
史的出版物としては,
『日本地質学会史』
(1953),
『日本の地質学―現状と将来への展
望―』(1968),『日本の地質学―1970 年代から 1980 年代へ―』(1985),『日本の地
質学 100 年』(1993)があり,それぞれ,創立 60 周年,75 周年,90 周年,100 周年
の記念出版物であるが,それらのなかでも『日本の地質学 100 年』は出色の出来栄え
である。その背景には,日本の地質学界が長らく支配的であった地向斜造山論から脱
して,80 年代後半にプレートテクトニクス説に大きく舵を切りかえたという事情があ
るにちがいない。しかし,日本列島の地質研究の歴史を,
「古典的日本列島像」
(戦前),
「日本列島形成論の展開」(50-60 年代),「新しい島弧論の展開」(70-80 年代)の 3
段階に分け,各段階,各分野の研究を中心的に担ってきた人を執筆者として自由に書
かせるという方式こそが,同書を成功に導いたと思われる。同書の企画,執筆依頼,
内容調整,出版のすべての段階で,編集委員長であった鈴木さんの執念と努力がこの
ことを実現させたのであろう。私も自分の専門以外の領域について,同書からどれほ
ど多くのことを学んだであろうか。
鈴木さんは 1978-1980 年および 1988-1989 年の期間に地質学雑誌の編集委員(後
期は委員長)として活躍された。私も同じ頃編集委員会のメンバーで,鈴木さんの仕
事振りはいまでも印象に残っている。とにかく,彼は人の原稿を丹念に読み,他のメ
ンバーによる紹介をよく聞き,それらをメモし,広い分野の研究内容を理解しようと
努力していた。その態度は私など及びもつかないものだった。それらの経験が『日本
の地質学 100 年』の出版にあたって十分に生かされたと思う。
私事にわたって恐縮であるが,私を地質学史懇話会に誘ってくれたのも鈴木さんで
あったし,その後何篇か地学史に関する小論を書いて送ったとき,そのたびに適切な
コメントとはげましの言葉を頂いたのも鈴木さんであった。それがどれほど地学史の
初心者であった私を勇気付けたかわからない。
鈴木尉元さんの生前の功績に心からの賛辞を送り,はげましの言葉に改めてお礼申
し上げたい。
― 59 ―
地質学史懇話会会報
第 42 号(2014)
事務局より
★ 地学史研究会は以下のように順調に行われています。
・第 53 回地学史研究会は 2014 年 1 月 25 日(土)午後 2 時~5 時に早稲田奉仕園にて、
有賀暢迪氏(国立科学博物館)の「数値気象学の始まり」の講演がありました。A4 判の資
料、8 頁をもとに、「計算科学の科学史」と「現代気象学史」の両面からていねいな発表が
なされました。日本の数値予報研究の「生き証人」ともいえる、新田
官)や 隈
尚氏(元気象庁長
健一氏(気象庁参事官)より貴重な証言やコメントをいただくことができ、ま
た若手の研究者の参加もあって、意義深い会合となりました。内容の概略は本誌に掲載さ
れています。
・第 54 回地学史研究会は、3 月 29 日(土)午後 2 時~5 時に早稲田奉仕園にて長田敏明氏
の「明治初期の東北地方太平洋岸の現状――ブレーキストンが見たもの」の講演が行われ
ました。
★訂正
会報 41 号 p.17 下から 11 行目の1字抜けていました。𨫤の字を入れてください。
本* と称されていた→本𨫤と称されていた
★ 2013 年 11 月以降の懇話会会員の異動は以下のようです。
・日本地質学会名誉会員
北川芳男氏(元北海道開拓記念館)が、平成 25 年 12 月 9 日に
(享年 85 歳)、赤木三郎氏が平成 26 年 2 月 5 日に(享年 82 歳)、ご逝去されました。これ
までの故人の功績を讃えるとともに,謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
・退会
松本幸一(3 月 31 日付)
編集後記
地質学史懇話会会報 42 号をお届けします。
総会の報告が 2 篇、総説 3 篇、地学史研究会の報告 4 篇となりました。また鈴木さんの
追悼小特集には 7 篇が寄せられました。どうもありがとうございました。
― 60 ―
(矢島道子)
地質学史懇話会会報について
この会報は,広義の「地質学史」に関する論考,資料など多くの情報を会員に提供し,研究の発
展に資することを目的とし,年 2 回(5 月末,11 月末)発行される.投稿原稿はそのつど編集委員
会で審議される.
投 稿 規 程
1.会員は地質学史懇話会会報に投稿することができる.共著の場合には,著者の少なくとも一人
は会員であることが望ましい.
2.投稿原稿は地質学史およびそれに関連する論説,総説,解説,研究動向,書評(紹介)
,随想
などとする.投稿の際,そのいずれかの明示をする.
3.原稿の題名には必ず英文を,著者名にはローマ字名を付ける.
4.投稿原稿は,原則としてワープロの場合,図表を含めて A4 判(38 字×38 行)8 枚までとする.
5.図・表・写真のある場合は,そのまま印刷できる完成原稿のハードコピーが望ましい.文字原
稿のみの場合は電子メールでの投稿が望ましい.
6.投稿原稿の送付先は
矢島道子 〒113-0033 東京都文京区本郷 6-2-10-901 [email protected]
会田信行 〒287-0225 千葉県成田市吉岡 1085-5 [email protected]
7.編集委員会の責任において,原稿の再考をお願いすることもある.
会費納入方法
2001 年から,年会費が 2,000 円となりました.
年会費(会合案内,会報誌代等)未納の方は下記の口座にお振り込みください.
郵便振替口座 00170-1-670873
口座名称 地質学史懇話会
地質学史懇話会会報 第 42 号
発行日 2014 年 5 月 31 日
発行者:加藤碵一
編集者:矢島道子・会田信行・中陣隆夫
発行所:地質学史懇話会
〒113-0033 東京都文京区本郷 6-2-10-901
矢島道子気付 tel & fax 03-3812-7039
印刷所:よしみ工産株式会社
ⅲ
ISSN 1345-7403
Japanese Association for the
History of Geosciences
JAHIGEO Bulletin,No. 42
June, 2014
Contents
Announcements of the summer Tokyo meeting, 2014-----------i
Reports of the annual Tokyo meeting, 2013---------------------01
ARTICLES
OSADA Toshaiaki: Gordon YAMAKAWA and Katura OYAMA, two excellent
Japanese Conchologist ------------------------------------------------------------02
ONODA Shigeru: The Life and Work of Toru WATANABE(1898~1974)
-Pioneer of engineering geology in Japan --------------------------------------10
HARA Ikuo: A History of Regional Geology of Paired Metamorphic Belts in Japan--18
Kim Kwang-Nam: The membership lists of the Seismological Society of Japan
founded in 1880----------------------------------------------------------------------26
YAJIMA Michiko and YAMADA Naotoshi: Ino-Chuzu and Reconnaissance
Geological Map----------------------------------------------------------------------34
ARIGA Nobumichi: The beginnings of numerical meteorology: Trends in historical
studies and themes for further research-------------------------------------------36
KUMA Ken-ichi: Commentary to Ariga's article--------------------------------------------41
NITTA Takashi: Commentary to Ariga's article---------------------------------------------43
NITTA Takashi: Supplementary notes on the history of numerical meteorology-------45
OBITUARY
INOMATA Mitiya; Kim Kwang-Nam; OSAWA Masumi ; SUWA Kanenori;
YAJIMA Michiko; YAMADA Toshihiro; Naotoshi YAMADA ----------------49
Membership-------------------------------------------------------------60
Editorial postscripts ---------------------------------------------------60
Instructions for authors ------------------------------------------------iii
Fly UP