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在台米国大使館と台湾統治体制評価 −省籍矛盾をめぐって - R-Cube

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在台米国大使館と台湾統治体制評価 −省籍矛盾をめぐって - R-Cube
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『社会システム研究』
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7年9月
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招待論文
在台米国大使館と台湾統治体制評価
−省籍矛盾をめぐって−
前田
直樹*
要 旨
本稿は,在台米国大使館が台湾の省籍矛盾をどう捉えていたのかを検討するもの
である.在台大使館は,国民党に政治的自由化を促せば台湾の政治的安定が弱体化
すると主張した.国務省は大使館の主張を大筋で受け容れて,国民党支援の必要性
を再確認した.このことから,国民党政権に対する米国の支援継続は,省籍間対立
の緩和を先送りにするものであり,抑圧的な非民主的政権を支えることでもあった
と言える.
キーワード
米国,台湾,政治的自由化,雷震,省籍矛盾
!.はじめに
雷震 1)が責任者であった雑誌『自由中国』は反国民党の論陣を張り,1950 年代末期には野
党の結党を準備した.だが,雷震は逮捕され(雷震事件 2)),本省人政治家を内包した野党結
党の動きは,1980 年代まで国民党当局によって封じ込められたままであった.米国は,雷震
ら政治的反対派から支援要請を受けていたものの,雷震事件を契機に国民党政権支援の継続を
再確認することとなった.
在台米国大使ドラムライト(Everett F. Drumright)は,雷震事件後に米国務省にあてた電
文の中で,国民党当局がその政治体制と利益の維持のためには警察力の行使をためらうもので
はないと指摘した.さらにドラムライトは,国民党政権と李承晩政権の統治基盤を比較した上
*
連 絡 先:前田
直樹
機関/役職:広島大学大学院社会科学研究科/講師
機関住所:広島県東広島市鏡山1−2−1
E - m a i l:[email protected]
[附記]本稿は,立命館大学社会システム研究所主催「台湾社会経済の歴史的展望」(立命館大学びわこ・くさつ
キャンパス,2006年12月9日)において,自己の米台関係史研究を整理しつつ雷震事件後の在台米国大使館の見
方を新たに検討するとの趣旨で報告を行い,これを加筆修正して作成したものです.報告の機会を賜ったプロジェ
クト代表の金丸裕一先生(立命館大学教授)に謝意を表します.
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で,国民党統治の強固さを強調し,
「台湾で韓国パターン〔李承晩退陣を指す〕は起きない」
と断言した 3).これに対してワシントンでは,国民党統治下での政治的安定性に懸念が示され
た.極東担当国務次官補パーソンズ(J. Graham Parsons)は,ドラムライトによる台湾と韓
国の政治状況の差異分析に同意を表明しながらも,何らかの手段が講じられなければ,当局と
民衆との間で「もう一つの韓国タイプの激発(explosion)」を招くと考えた 4).しかも,この
ような懸念は政権外部でも共有されていた.ケネディ(John F. Kennedy)の大統領選挙キャ
ンペーン・スタッフで,後にホワイトハウスや国務省でアジア政策を担当するトムスン(James
C. Thomson)も,「雷震の逮捕は台湾に激発(explosion)をもたらすかも知れない」との見
方を雷震事件直後に示している5).
それでは,なぜ現地は「韓国パターンは起きない」と判断したのか.現時点から振り返れば,
当時の国民党による統治は確固としたものであり,また雷震らに国民党のオルタナティブにな
る目的も組織力もなかったことが知られている.しかし,当時のワシントンはそうは考えな
かった.それは,米国内でも知られていた「省籍矛盾」6)の存在と国民党の強権的性格のため
であった.在台大使館は,雷震事件の発生後に報告書をワシントンへ送って,雷震事件の背後
にある省籍矛盾と米国の対応についての詳細な見解を明らかにしている.そこで本稿は,在台
大使館の国民党統治に対する見方を検討することで,現地大使館が台湾の政治的自由化,すな
わち省籍矛盾の緩和をどう捉えていたのかを検討しようとするものである.
!.二二八事件・雷震事件と在台大使館
1947 年 2 月の二二八事件とその後の台湾内部の状況は,台北に開設されていた総領事館か
ら南京の大使館を経て米本国に報告された.事件前から「本省人(Formosans)」との接触が
7)の存在により,事件の推移は詳細に,そして逐次伝
多かった副領事カー(George H. Kerr)
えられた.台湾内部の状況をよく理解していた現地領事館は,事件の背景が台湾省行政長官陳
儀の失政にあると見なした.現地は,本省人が光復(「中華民国への復帰」)当時に「中国国民
(Chinese Nationals)」の構成員となることを歓迎したものの,その後の陳儀の失政と経済的
苦境とによって当局への失望と不満を募らせていったと理解した.そして,事件直後の総領事
館は,本省人が事態への米国の介入を強く望んでおり,それは「
〔カイロ宣言で述べられた〕
最終的な中国への引き渡しまで,国連が介入」すること,すなわち台湾社会の安定のために国
際社会が責任を持つように求めているのだと判断した.そのうえで総領事館は,1947 年 3 月
上旬,「迅速な米国の介入」を進言した8).
しかし,南京の大使スチュアート(John L. Stuart)は,事件への態度を対外的に明らかに
することはもとより,「当事者」とならぬように台北の領事館に対して強く釘を刺した.スチュ
アートのみならず米国の公式立場は,当初の戦後構想に基づいた国民党政権支持であり,ス
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チュアートの態度は,蒋介石(当時は国民政府主席)との対立を回避しようとするものであっ
た9).
スチュアートは 1947 年 5 月 17 日,行政長官公署が廃止され台湾省政府が発足した翌日,
任期満了が近づいた台北総領事の後任人事に対して,国務省に具申を行った.スチュアートは,
新しい総領事の「主要な任務は,省主席と非公式に私的に協議することであり,
〔台湾〕島の
政治的経済的な福祉を向上するための道程と方法を適切に提案すること」と規定した.これは,
米国がこれまで以上に台湾の内部情勢に関与することを求めるものであり,また二二八事件後
の政治的弾圧状況と悪化を続ける経済的社会的な状況を受けた内容であった.同時にスチュ
アートは,新総領事は「通常ではない寛大な心(unusual breadth of mind)」をもって職務に
あたる必要を特に述べた10).これは,台湾統治にあたる国民党政権への米国の態度を明瞭に表
明したものであった.こうして米国は,台湾における政治的自由化において,二二八事件を主
契機とする政治面での「省籍矛盾」という新たな変数を抱え込むことになった11).だが,当時
は,現地スタッフの一部を除いて,将来の米国政策への影響を深刻に捉えなかった.台湾の政
治的自由化問題や政治面での「省籍矛盾」が台湾の不安定化要因として重視されたのは,雷震
事件の直前であった.
第 2 次台湾海峡危機において,米国の危機処理の一環として発表された米台共同声明(1958
年 10 月 23 日発表)は,国民党政権による大陸回復の「主要な手段は,孫文の三民主義の適
用であり,武力の使用ではない」と宣言した12).これにより米国は,台湾海峡に実態としての
休戦状態が成立していくと判断した13).この結果,米国の目は台湾の内政へと向かい,中国と
対照的な「自由な中国」を台湾に目指させることが米国の台湾政策の基本となった.
米台共同声明を受けた雷震らは,自由主義的な政府によって間接的に中国共産党政権に対抗
できうるとする「政治反攻」の主張を強めていった.このような主張は,米国政策の「自由な
中国」化に沿うものでもあった.だが,国民党にとっては,大陸武力反攻の主張に修正を迫る
ものであり,また統治の上でも強権的な措置の正当化に異を唱えるものであった.
在台大使館の政治担当参事官オズボーン(David L. Osborn)は,在外勤務の多くを台湾と
日本で過ごした職業外交官である14).米国の台湾政策についての考え方は,ドラムライトとほ
ぼ一致しており,大使館の見解を表明する公電を多く作成している.また,オズボーンは,米
中 国 交 樹 立 直 前 の 香 港 総 領 事 時 代 に,
「1 つ の 中 国,2 つ の 代 表(One China, Two
Delegations)」アプローチを展開したことでも知られている15).
オズボーンは,1959 年 2 月 12 日,第 2 次台湾海峡危機後の国民党当局の対応と,雷震ら
反国民党派が政治的自由化を求めて国民党当局との対決姿勢を強めていく動勢とについて,国
務省に報告した.オズボーンはまず,国民党当局者の「大陸帰還の期待は変わらない」ものの,
大陸帰還のためには「中華民国政府の統治を超えた発展」
,つまり中国内部での反乱,世界戦
争の勃発を待たなければならないこと,しかも「米国が[中国]大陸解放の積極的な支援を行
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う」可能性はきわめて低いと判断していると報告した.ワシントンには,台湾が機会を捉えて
米国を米中戦争に引きずり込もうとしているのではないかとの懸念が少なからずあったが,オ
ズボーンは,国民党当局者は「現実的認識をもっている」
,第 2 次台湾海峡危機でも中国攻撃
への米国の同意を得ようとして「うずうずしていたのではない」と,国民党当局の「現実的認
識」を評価した.その上で,オズボーンは,国民党に対して,
「本省人優勢の局面への移行」
が長期的趨勢であることを理解すべきと,強権的措置への歯止めに関心を寄せた.他方,本省
人政治家に対してもオズボーンは,「米国が台湾に限定した主権体制による中華民国政府の代
替物が米国の利益に役立つと考えていないことを理解しなければならない」と述べ,中国に対
抗する政権の確保が優先すべき政策目標であることを明瞭に示した.言い換えれば,オズボー
ンの関心は,台湾の政治的安定と米国による台湾確保にあった.したがって,省籍矛盾の解消
の必要性については何ら言及していなかった16).
このような中,1960 年 4 月に起きた韓国政変は,反国民党派に多大な影響を与えることに
なった.雷震らは,米国が李承晩政権の退陣に介在したと考えたが,これは政治的自由化を主
張する彼らを後押しする情勢の到来だと捉えた.このため,雷震ら反国民党派は,米国が国民
党当局に対して「『純粋な』反対党の組織化を認める」ように圧力をかけることを期待するよ
うになった17).
このような反国民党派の動向に対して,オズボーンは国務省にあてて報告と具申を行った.
まずオズボーンは,国民党当局の反応について,彼らも韓国情勢と米国との関係に強い関心を
抱きつつも,正面きった反応を控えているとの観測を伝えた.それは,国民党当局が「『10 年
前の悲劇』を繰り返さないため」
,すなわち二二八事件の再現を恐れ,反対派を刺激しないよ
う に 自 制 し て い る か ら で あ っ た.
「本 省 人−外 省 人 間 の 摩 擦(Taiwanese-Mainlander
Friction)」についてオズボーンは,「経済的福祉と限定的政治発展」によって,
「1947 年に達
したどん底以来,本省人と外省人との間の敵対意識(animosity)」は減少したとの見方を示
した.オズボーンは,
「省籍間の摩擦(group friction)は未だ取り除かれておらず,
〔衝突〕
事件を生じさせる可能性」が存在するものの,本省人は「組織されておらず指導者もいない」
ために,有効な反国民党勢力を作り上げられないと判断した.実際に,韓国政変最中の 4 月 24
日に実施された地方選挙は,国民党が圧倒的な集票力を見せつけた.国民党党員は,21 の県
市長選挙で 19 人が,73 議席の台湾省議員選挙では 58 議席を占めたのである18).
以上のような見方を元に,「反対派」に対する韓国政変のインパクトは大きいものの,オズ
ボーンは「重大なトラブル」が起きる可能性はわずかであると言明した.しかし同時にオズ
ボーンは,国民党と反国民党派との「バランスはアメリカの考慮不足の行動によって容易に転
覆する」とワシントンに警告した.米国が中華民国政府に対して,
「本当の反対党の結成を許
すように圧力をかけているとの印象が生まれれば」
,反対派が大衆の支持を得ようとして「警
察や当局との衝突」を招く「流血事態」になると指摘した.すなわち,米国自身が韓国政変に
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類似の事態を招来するとワシントンに警告したのである.結論としてオズボーンは,台湾での
「韓国パターン〔の政変〕は起きそうにない」
,「米国による政治改革の支持への影響力行使は
危害になる」と書き送った.この時点でもオズボーンの関心は,いかにして省籍矛盾による政
治的対立が封じ込められ台湾の政治的安定が維持されているかにあり,そもそも韓国政変が影
響を与えざるを得ない原因であった政治的自由化問題や省籍矛盾の解消については,何ら具体
的な見通しを提示していなかった19).
雷震は,外省人を含む「反対党」の結成を考えていたが,既存野党との交渉は失敗に終わり,
無党籍の本省人地方政治家が結党運動の参加者の多くを占めることになった.雷震と本省人政
治家らは,
「反対党」中国民主党を 9 月末に結成すると発表した20).だが,治安当局は,9 月
4 日,雷震を反乱罪(共産党スパイ未通報罪21))で逮捕した.10 月 8 日,雷震は禁固 10 年の
判決を軍事法廷で受けた.雷震の逮捕は,台湾の政治的独裁状況と関連させて台湾内外で報じ
られた22).
!.省籍矛盾とオズボーン
オズボーンは,11 月 29 日,「本省人・外省人関係」23)と題する長文電報を国務省に送った.
これは,管見の限りでは,在台大使館が省籍矛盾を正面から詳細に論じた初めての報告書であ
り,またオズボーンの見解が率直に表明されている文書でもある.オズボーンは,さらに 2
週間後に「大陸への帰還」24)(12 月 12 日付)を作成してワシントンへ送っている.これらの
文書は,雷震事件に直面した在台大使館による省籍矛盾の「解決」方法やその見通しについて
具体的に言及している.
オ ズ ボ ー ン は,長 文 電 報「本 省 人・外 省 人 関 係」の 冒 頭 で,「省 籍 矛 盾(TaiwaneseMainlander antipathy)」を台湾の「潜在的な不安定要因」であると捉え,その省籍矛盾が,
二二八事件などを部分的理由としつつも,
「最も重要な原因」は「現実の利益の衝突がある」
ため,すなわち本省人・外省人の対立関係は政治面そして経済面における利益不均衡に由来す
ると断定した.
ところが,オズボーンは,
「潜在的な不安定要因」であるにもかかわらず,省籍矛盾は「時
間の経過と共に減少し,最終的には重要ではなくなる」との判断を同時に示した.なぜなら,
「経済状態が満足のいくものである限り」,省籍矛盾は「政治的安定への脅威とはならない」た
め,「本 省 人 を 政 府 指 導 者 層 に 組 み 込 む 漸 進 的 な 過 程」を 通 じ て,「政 治 的 均 等 性
(homogeneity)が可能になる」と考えたからである.ここには,「時間という要因」によって
「省籍間の問題は 1966 年を超えて続かない」とのオズボーンの判断があった.当時,立法委
員の平均年齢は 60 歳,監察委員は 61 歳,国民大会代表は 64 歳であった.なかでも総統選出
機関である国民大会の次期会期は 1966 年からであり,平均年齢は 70 歳に達する見込みであっ
た.このためオズボーンは,国民党当局が「本省人代表の現在の比率を維持する余裕はなくな
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る」ため,次期代表の選出は「立法地域の再構築の機会となる」と考えた.そこでオズボーン
は,「再構築過程は外省人・本省人の政治的統合に向けた長いステップの機会を提供する」こ
とになり,この過程を通して省籍矛盾は次第に対立を薄めていくと述べたのである.
オズボーンが,省籍矛盾の緩和の前提条件として本省人の「経済状態が満足のいくもの」を
挙げたのは,「経済的要因が対立を維持し続けている」と考えていたからである.オズボーン
によれば,本省人が政府の施策は外省人の経済的利益に有利であると感じている一方で,外省
人は本省人の「脅威」にさらされているにもかかわらず政府から保護されていないと感じてい
た.しかも,本省人も外省人も,米国援助は他方の利益に有利だと感じていた.したがって,
省籍矛盾において,
「経済上の摩擦(friction)」が「より重要な構成要因」だと考えたのであ
る.これは逆に,経済状態の向上によって摩擦の緩和が可能になるとのオズボーンの観測であっ
た.
続いてオズボーンは,省籍矛盾の歴史的要因としての二二八事件に言及する.オズボーンは,
「本省人や多くの外国人観察者は,反乱(revolt)の最初の段階で相当の暴力が外省人や彼ら
の資産に向けられたことを忘れる傾向にある」が,そのことを「外省人は覚えている」と,二
二八事件が外省人に与えた影響の方に注意を促す.そのため,二二八事件の「再発への恐れが,
本省人への政治的譲歩ばかりではなく,社会的統一にも同様に障害になっている」と,このよ
うな恐れが雷震事件の背景に存在すると考えている.ただ,オズボーンは,今なお二二八事件
の影響のあることを留意しつつも,時間の経過によって本省人・外省人双方にある二二八事件
の「記憶は敵意(antagonism)の理由としての効力を失いつつある」との判断を示す.
次にオズボーンは,「『擬似植民地(Pseudo-Colonial)』的態度」を省籍矛盾の政治的要因と
して挙げる.オズボーンの観察に基づけば,本省人も外省人も,その政治的態度は「疑似植民
地」的なものであった.すなわち,本省人は,外省人を外来者(outsiders)と見なし,清朝・
日本に続いて外来者の統治を受けており,自分たちで自分たちを統治していない状態と考えて
いる.またオズボーンは,
「政府・政党[国民党]内のポジション」や「国家政策のコントロー
ルへの本省人の願望」を挙げたが,これは裏を返せば,本省人の政治的参加に多くの制限が加
えられていることを示すものであった.他方,外省人は,国民党統治によって「先住者(native
population)」に教育の機会や地方政治レベルでの民主制度をもたらしたと考えている.さら
に外省人は,本省人は自分たちを統治する準備ができておらず,また多くの腐敗が見られ,共
産主義者による体制転覆工作にも耐えられないと主張する.このようなオズボーンの外省人評
価は,大使館の従来からの見方に共通するものであった.したがってオズボーンは,ここでも
「外省人・本省人を含んだ反対党結成の試みは,相互の融通が可能であるとの前提に由来する」
との判断を繰り返すのである.
オズボーンは,省籍間の対立への国民党当局の態度は「抑止」であって「譲歩」ではないと
断言する.外省人は,本省人の影響力が増せば,台湾が「中立主義」の方向へ向かい,それは
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中国との戦い,大陸回復の主張,そして金門・馬祖島,これらの放棄につがると恐れている.
これはつまり台湾に存在する政治的実体が「反中国」の政権ではなくなることであり,これが
省籍間対立の緩和への国民党当局の態度を抑制しているのである.もっともオズボーンは,国
民党内部の「譲歩」への動きに関心を寄せる.それは,国民党内部でも「中華民国政府への本
省人からの支援を強化する,あるいは少なくともさらなる関係の悪化を避ける手段や政策が望
ましい」と考えられ始めており,実際に「本省人を取り込む」ための「譲歩」を支持する「中
華民国政府や国民党内の『リベラル派(liberal)』」の存在を指していた.オズボーンが具体的
,蒋夢麟26)(中国農村聯合復興委員会主
に挙げた外省人高官は,王世杰25)(行政院政務委員)
「おそらく〔副総統兼行
任委員)
,梅貽! 27)(行政院原子力エネルギー委員会主任)であり,
政院長〕陳誠もこのグループ」に入ると見なした.
これら国民党内部の異なる意見の存在について,オズボーンは「大陸への帰還」報告 28)の
中で敷衍している.政府指導者層にとって「大陸帰還は不変のドグマ」であって,それの疑問
視は,「例えば雷震のように」,中華民国に対して「不忠義」な態度となる.しかし同時にオズ
ボーンは,「〔中国〕大陸に対する攻撃のような,やみくもに不合理な行動に走らない」と考え
る.なぜなら,米中交戦あるいは中国での反乱の可能性を現実的に見きわめているからである.
このため,政府指導者層においても,台湾の「多くのリソースをそれ〔大陸帰還の準備〕に投
入することは誤り」と考えられ始めている.これらの例としてオズボーンは,蒋夢麟が,大陸
帰還は自分たちの自由にならないことであり,それゆえ「台湾で可能なことは,ここに『極東
のスイス』を作り上げることのみ」と語ったことを挙げる.さらに,オズボーンは,軍事的大
陸反攻政策に批判的なグループも政府の内外に存在すると指摘する.彼らは,「『政治的ショー
ケース(political showcase)』アプローチによる大陸回復を主張し,現行の軍事的強硬手段に
反対する立場である.だが,オズボーンの挙げた王世杰や蒋夢麟らは,米国との接触が比較的
多い「自由主義派」ないしは「経済発展重視派」であったものの,体制内においては非主流派
であった.雷震も,軍事的大陸反攻政策によって正当化されている政治的制限に反対して「政
治反攻」を主張したのであって,台湾の独立を訴えたのではなかった.この点において,オズ
ボーンは省籍間対立の緩和に向けた当局の採るべき具体的な手段を挙げてはいなかった.
他方,本省人側には,省籍間対立の緩和に向けた手段は存在しないのであろうか.上述の通
り,オズボーンは「外省人・本省人を含んだ反対党結成」による手段を否定している.オズ
ボーンは,外省人に対する反感が本省人の間で広く共有されていることを認めるものの,その
外省人への反感の程度や反感をもたらした背景がそれぞれ異なっているため,本省人としての
統一された試みは成功しないと判断する.オズボーンによれば,本省人は,
「客家,ホーロー,
近代資本家,旧地主,農民と都市貧困層,西欧派,日本派」に分断されているのである.それ
ゆえオズボーンは,間接的ながら,
「本省人の不統一」ゆえに受け身的な対応しか残されてい
ないと表明している.オズボーンは先の「大陸への帰還」の中で,本省人は「
〔大陸〕帰還に
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利害関係はない」が,「台湾における外省人のプレゼンスを取り除く限りにおいて,[大陸]回
復を望ましいと考えている」と指摘する.また,本省人は「中国文化,歴史,国語(national
language)」に絆を感じ,これらが彼らを「中国ネイション(Chinese Nation)」にしている
と述べる.同じ頃に作成された「台湾における汚職」では,
「非常に質素な生活様式が大部分
の中国人(Chinese)公務員によって維持されている」ものの,
「時と共に台湾での汚職は疑
いもなくひどくなっている」ことに言及する29).つまり,オズボーンは,本省人が自らを統治
できない状態にある一方で,国民党当局の大陸反攻政策に少なくとも反対ではないとの見解を
伝えようとしたのである.
このように,オズボーンの外省人あるいは本省人に対する見方は,オズボーンの考える外省
人ないしは国民党当局の本省人に対する見方にほぼ一致する.それゆえに,オズボーン自身も,
本省人の政治参加および経済活動の拡大が国民党や外省人一般の利益の減少を伴わざるを得な
いこと,すなわち省籍間対立の緩和に向けた動きへの最大の障害に気づいている.
「政府とそ
れと関連にするパワー」は「少数派の手にあり」
,彼らの「大陸への帰還,全中国の政府とし
てのアイデンティティ」という利害は「この〔省籍矛盾〕状況の維持に依存している.
」そう
である以上,「政府のコントロールあるいは釣り合いのとれた政府代表〔の獲得〕という台湾
人の希望は,これら〔国民党・外省人〕の利益を脅かすことなく満足させられることはない」
と断言するのである.言い換えれば,省籍矛盾を維持する諸装置が「台湾における政治的安定
を破壊しないようにしている」との判断であった.これは,在台大使館の立場が何よりも台湾
の政治的安定を最重視することと軌を一にするものであった.
したがって,オズボーンは,米国の態度についても慎重を期するようにと具申する.台湾に
おける米国人(政府職員,報道機関職員等)のプレゼンス,米国は代議制を好むと考えられて
いること,「中華民国がその存在を米国に依存していること」によって,米国は省籍間対立に
おいても大きな影響を及ぼしうる立場にある.しかしながら,省籍間対立の緩和に向けた「米
国の意図的な圧力」は,国民党当局から否定的な反応を招く結果に終わる.なぜなら国民党当
局は,「米国の圧力〔を受けていること〕を一般市民が知れば,混乱が一層促進されると恐れ」
るからである.このオズボーンの意味するところは,米国は省籍間対立の緩和に向けた圧力を
国民党当局にかけるべきではないというものであり,
「本省人を政府指導者層に組み込む漸進
的な過程」こそが望ましいとの大使館の従来からの考え方を繰り返すものであった.これは,
雷震事件への内外の関心を受けて,事件に対する大使館の立場を国務省に改めて説明すること
も長文電報の目的であることを表すものであった.
!.結びに代えて
パーソンズは,雷震事件後,台湾における政治的自由化には時間を要すると判断し,政治面
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での「自由な中国」化の要求を自ら放棄するとドラムライトに表明した.だが,パーソンズは,
「相当に自由な政治的環境」と「安定し軍事的に不安のない台湾」とが政策目標として両立し
ないとは考えていなかった.なぜなら,政治面における省籍矛盾は,二二八事件当時の「1947
年に比べて改善された」と見ていたからである.これは,国民党当局と日々接する現地大使館
とワシントンとの認識の差を表すものであった 30).
これに対してドラムライトは,1961 年 1 月 6 日,パーソンズにあてて返信を送付した.ド
ラムライトは,「『相当に自由な政治的雰囲気』は『安定し軍事的に不安のない台湾』と両立し
得ることを深く疑問に思う」と率直に述べ,同時に,「漸進的で選択的な政治改革は実現可能
であり,政治的に安定した台湾と共存できる」との見方を表明した.なぜなら,ドラムライト
によれば,従来からの米国政策は「強い反共主義者,大陸志向の体制,あらゆる点で中国共産
主義者に挑戦し対抗する」存在を台湾に確保することであり,
「そのような政権の維持は本省
人多数派の現在の政治的願望に沿うものではない」からである.
ドラムライトは,米国が国民党当局を「政治的向上に導く適切で実行可能な行動」として以
下 2 点を挙げた.「政治改革をめぐる中華民国政府とのいかなる種類の衝突や対決も避けるこ
と」,そして「最大限,改革を中華民国政府のイニシアティブで行わせること」である.ドラ
ムライトは,国民党当局は「本省人の暴力行為を鎮圧できないのではなく」
,鎮圧後の米国の
反応,とりわけ米国援助の行方により大きな関心を寄せていること,他方国民党当局は本省人
の不満が限度を超えないようにする必要性を認識していると判断していた.そのためドラムラ
イトは,政治的自由化をめぐる米台対立が表面化した場合,本省人が政府に対してより強硬と
なり,これに応じて国民党当局も強い態度に出ると考えたのである.そのうえでドラムライト
は,政治面以外での方策,つまり「経済成長」によって「本省人多数派の願望を満足させられ
る」と主張した.当時,台湾では米国の要請のもとで「経済改革」が進められていた.ワシン
トンでは,経済面での「自由な中国化」
,そして全体冷戦政策の変容の面から台湾の経済改革
を促していた31)が,ドラムライトら現地大使館は,主として政治体制の安定した継続の面から
考えていたことを示した.
結論としてドラムライトは,パーソンズあての書簡を次のように締めくくった.米国が「軍
事的な反共主義,〔中国〕大陸への志向」を台湾に求める以上,国民党当局が本省人から歓迎
されるようにはならない,つまり政治的自由化は「漸進的で選択的な政治改革」を通じて行わ
れなければならなかった.なぜなら,急速な政治的自由化は,
「彼ら〔外省人〕に共産主義者
による支配か本省人による支配かを突然に選択するように迫る」ことになるからであった32).
ドラムライトとオズボーンは,現段階で政治的自由化を強く促すことは国民党政権の弱体化
を招く可能性が高く,それは台湾の不安定につながると一貫して主張した.それはワシントン
にとって,台湾確保のためには国民党政権の存続が必要であると判断する根拠の 1 つとなっ
た.米国の台湾政策の原則が反共主義かつ中国に対抗する政権による台湾の確保であった以上,
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『社会システム研究』
(第1
5号)
その観点からは国民党政権への支援は正当化されうるものであった.だが,国民党政権への支
援継続は,省籍間対立の緩和を先送りにするものであり,抑圧的な非民主的政権を支えること
でもあったのである.
註
1) 雷震の略歴は以下の通り.1897 年浙江省生,79 年台北市没.1917 年中華革命党(中国国民党)
入党,26 年京都帝国大学法学院中退,49 年渡台,
『自由中国』誌創刊,50 年総統府国策顧問
(53 年まで)
,国民党改造委員会設計考核委員(54 年まで)
,54 年国民党除籍処分,60 年共
産党スパイ未通報罪等により禁固 10 年の判決.
2) 雷震事件の政治史的位置づけや雷震の主張については,以下を参照.若林正丈『台湾 分裂国家
と民主化』東京大学出版会,1992 年,168-169 ページ.薛化元『
「自由中国」與民主憲政:1950
年代台湾思想史的一個考察』台北県 : 稲郷,1996 年.任育徳『雷震與台湾民主憲政的発展』台
北市 : 国立政治大学歴史学系,1999 年.
3) Drumright to Department of State [hereafter cited as DOS.], Oct. 7, 1960, Dept. of State,
Foreign Relations of the United States, 1958-1960, vol. 19 [hereafter FRUS58-60 : 19.],
Washington, D.C. : GPO, 1996, pp. 724-727.
4) Parsons to Drumright, Dec. 12, 1960, FRUS58-60 : 19, pp. 736-738.
5) Thomson to Bowles, Sep. 29, 1960, “ Taiwan - Offshore Islands, 1960 Campaign Issue” folder,
The Papers of James C. Thomson, Box 18, John F. Kennedy Library at Boston, MA.
6)「省籍矛盾(“Ethnic Differentiation” あるいは “Ethnic Division”)
」は,本稿が依拠した 1950・
60 年代米国務省文書では,“ Taiwanese-Mainlander Friction,” “group friction,” “animosity
between the Taiwanese and mainlanders,” “ Taiwanese-Mainlander antipathy”と表現されて
いる.本稿は,主に政治面における省籍間の差異と対立とを検討するものである.
7) カー個人の考え方については,George H. Kerr, Formosa Betrayed , Boston : Houghton Mifflin
Co., 1965.この他,次を参照.蘇瑤崇「葛超智(George H. Kerr)
,託管論與二二八事件之關係」
台北県:
『國史館學術集刊』第四期,2004 年 9 月.
8) Stuart to the Secretary of State [hereafter SS.], Mar. 6, 1947, Dept. of State, Foreign
Relations of the United States, 1947, vol. 7 [hereafter FRUS47 : 7.], Washington, D.C. : GPO,
1972, pp. 433-434.カーは別の報告の中で,
「本省人は台湾が中国の模範省となるように熱望し
てきた」と記している.“Memorandum by the Vice Consul at Taipei,” undated, attached to
Stuart to SS, Apr. 21, 1947, FRUS47 : 7, p. 451.
9) スチュアートは蒋介石の要請によりカー執筆の二二八事件報告書を提出している.以下参照.
Stuart to SS, Apr. 21, 1947, FRUS47 : 7, pp. 450-455.「美國駐華使館档案」
,拂塵專案第一卷附
件,0036/340.2/5502.3/1/001,档案管理局.
「司徒雷登大使呈先總統
公『台灣情勢備忘
』
」
,
在台米国大使館と台湾統治体制評価−省籍矛盾をめぐって−(前田)
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拂塵專案第一卷附件,0036/340.2/5502.3/1/003,同上蔵.Kerr, Op. cit., p. 323.
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0) Stuart to SS, Mar. 17, 1947, FRUS47 : 7, pp. 464-466.
1
1) 中央情報局(CIA)長官は,1955 年 3 月に,国民党当局は「本省人を二等市民として(the
Formosans as second-class citizens)扱っている」と報告している.A. Dulles to J. F. Dulles,
Mar. 16, 1955, Dept. of State, Foreign Relations of the United States, 1955-1957, vol. 2,
Washington, D.C. : GPO, 1986, p. 383.
1
2) Joint Communique, Oct. 23, 1958, FRUS58-60 : 19, pp. 442-444.
1
3) 例えば,Telegram from Taipei, Oct. 23, 1958, Dept. of State, Foreign Relations of the United
States, 1958-1960, vol.19, Microfiche Supplement [hereafter FRUS58-60 : 19, SUP.],
Washington, D.C. : GPO, 1996, no. 252.
1
4) 1921 年生.ハーバード大学修士.42-47 年米海軍日本語専門官,47 年国務省入省,49-50 年在
台湾米国広報文化交流局,54-55 年国務省中国課,58-61 年在台湾大使館政治担当参事官,6164 年在日本大使館一等書記官,67−70 年在日本大使館公使,70-74 年在香港総領事,74-77 年
在ビルマ大使,78 年退職.オズボーンは台湾在勤中の興味深い出来事を語っている.David L.
Osborn, Oral History Interview, Foreign Affairs Oral History Project, Georgetown Univ. Lib.,
Jan. 16, 1986.この中でオズボーンは,台湾を「米国の模範的なクライアント」と形容している.
1
5) 一例として,Osborn’s Telegram, May 3, 1971, Dept. of State, Foreign Relations of the United
States, 1969-1976, Vol. 17, Washington, D.C. : GPO, 2006, footnote2, p. 300.
1
6) Osborn, “Future of Taiwan,” Feb. 12, 1959, FRUS58-60 : 19, SUP. no. 318.
オズボーンは高玉樹(元台北市長,本省人)との会談報告において,高は「台湾の政治的不安
定化は中華民国政府のみならず本省人をも傷つけること」に気づいていると述べたが,これは
オズボーンの考えの裏返しであった.Taipei to DOS, Nov. 23, 1959, 793.00/11-2359, Central
Files [hereafter CF.], General Records of the Department of State, Record Group 59
[hereafter RG59.], National Archives at College Park, MD [hereafter NA.].
1
7) Drumright to DOS, Apr. 21, 1960, 793.00/4-2160, CF, RG59, NA.
1
8) 選挙結果についてオズボーンは,非国民党の「組織が実際に存在しても,国民党の最終的勝利
にほとんど影響を与えない」ことを示すものになったと報告した.Osborn to DOS, Apr. 28,
1960, 793.00/4-2860, CF, RG59, NA.
1
9) Osborn to DOS, Jun. 8, 1960, 793.00/6-860, CF, RG59, NA.
2
0) 中国民主党参加予定者は,高玉樹,李萬居(台湾省議会議員,新聞『公論報』社長,
「半山」
)
,
「五龍一鳳」と形容された著名台湾省議会議員(郭雨新,呉三連,郭國基,李源桟,許世賢,
いずれも本省人)らであった.
2
1) 共産党スパイ・容共主義者のレッテルを貼って反対派を抑圧するのが治安当局の常であった.
蒋介石は胡適に対して,雷震の背後には共産党スパイがいると語った(1960 年 11 月 18 日)
.
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『社会システム研究』
(第1
5号)
曹伯言整理『胡適日記全集 第九冊』台北市 : 聯経,2004 年,665-669 ページ.胡頌平編著『胡
適之先生年譜長編初稿(九)
』台北市 : 聯経,1984 年,3364-3365 ページ.
2
2) 台湾内外での雷震逮捕関連の報道については,以下を参照.傳正編『雷案始末(一)
』台北市 :
桂冠図書,1989 年.同上編『雷案始末(二)
』台北市 : 桂冠図書,1989 年.同上編『雷案始末
(三)
』台北市 : 桂冠図書,1989 年.同上編『雷案震驚海内外(雷案風波)
』台北市 : 桂冠図書,
1990 年.
2
3) Osborn, “Taiwanese−Mainlanders Relations,” Nov. 29, 1960, 793.00/11-2960, CF, RG59, NA.
2
4) Osborn, “Return to the Mainland,” Dec. 12, 1960, 793.00/12-1260, CF, RG59, NA.
2
5) 1891 年湖北省生.仏パリ大学博士.教育部長,中国国民党中央宣伝部部長,外交部長,総統
府秘書長,中央研究院院長を歴任.
2
6) 1886 年浙江省生.米コロンビア大学博士.北京大学学長,教育部長,行政院秘書長,石門ダ
ム建設委員会主任を歴任.
2
7) 1889 年河北省生.米ワーチェスター工芸研究所卒.清華大学学長,行政院政務委員,教育部
長を歴任.
2
8) 注 24 参照.
2
9) Osborn, “Corruption on Taiwan,” Dec. 6, 1960, 793.00/12-660, CF, RG59, NA.
3
0) 注 4 参照.
3
1) 拙稿「
『反共』から『自由中国』へ−末期アイゼンハワー政権の台湾政策の変化」
『日本台湾学
会報』第 6 号,2004 年 5 月,を参照.
3
2) Drumright to Parsons, Jan. 6, 1961, 793.5/1-661, CF, RG59, NA.
在台米国大使館と台湾統治体制評価−省籍矛盾をめぐって−(前田)
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The US Embassy and Its Views on Taiwan’s Ethnic Differentiation
Naoki Maeda
Abstract
The purpose of this article is to review how the US embassy in Taiwan held views on
Taiwan’s ethnic differentiation (Sheng−Ji Mao−Dun). They insisted that if US urged the
KMT to promote political liberalization, it caused the political stabilization of Taiwan
weakening. The State Department accepted their arguments in principle and reaffirmed
the need to support the KMT. It follows from this that the continuing US support to the
KMT regime means not only to put off modifications of ethnic differentiation, but also to
support the repressive and undemocratic regime.
Key words
US, Taiwan, Political Liberalization, Lei Chen, Ethnic Differentiation
* Correspondence to : Naoki Maeda
Assistant Professor, Faculty of Law and Graduate School of Social Sciences, Hiroshima University
1-2-1 Kagamiyama, Higashihiroshima
E-mail : [email protected]
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