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回虫+汁図8望由

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回虫+汁図8望由
卦河諸相咄
回虫+汁図8望由
三−−卜 ÷
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茸、J
−
本論文の目的は、中国史研究のなかでも研究の遅れていた「五胡十六国」について、そ
の全体像を明らかにし、東アジア史理解のための基盤を得ることにある。構成は以下の通
りである。
序論 :日本における「五胡十六国」研究と本研究の目的
一 草創期の「五胡十六国」研究
二 「五胡十六国」研究の展開
三 現代の「五胡十六国」研究
四 本研究の目的
第一部:「五胡十六国」の意味と五胡十六国時代の民族
第一章 「五胡」と「十六国」
はじめに
一 「五胡」
二 「十六国」
おわりに
第二章 前奏における民族状況の一面
はじめに
一 護軍
二 満期護軍に見える前奏の民族認識
おわりに
第二部:五燕の官僚機構と民族性
第一章 前燕の官僚機構
はじめに
一 慕容魔時代の主要官職
二 慕容軌時代の主要官職
三 慕容備時代の主要官職
四 慕容瞳時代の主要官職
五 将軍号の変遷
おわりに
第二章 後燕・南燕の官僚機構
はじめに
一 後燕の官僚機構
ア 慕容垂時代の主要官職
イ 慕容宝時代の主要官職
ウ 慕容盛時代の主要官職
工 慕容幣時代の主要官職
二 南燕の官僚機構
ア 慕容徳時代の主要官職
イ 慕容超時代の主要官職
三 後燕・南燕の官僚機構の性格
一 2 −
おわりに
第三章 五胡十六国時代における遼東・遼西地方の民族構成の変化
はじめに
一 西晋支配時代
二 前燕支配時代
三 前奏支配時代
四 後燕支配時代
五 北燕支配時代
おわりに
第四葦 北燕の「鮮卑化」
はじめに
一 北燕の墳墓
二 編纂史料に見える北燕の民族的性格
三 「同夷族」の意味
おわりに
第三部:夏の年号と国家観
第一章 夏の年号
はじめに
一 「十六国」諸国の年号制定状況
二 赫連勃劫の年号意識
三 「真興」の意味
おわりに
第二章 「大夏紀年墓誌」に見える夏の建国意識
はじめに
一 「大夏紀年墓誌」
二 夏の動向
三 夏における四一九年の意味
おわりに
第四部:異民族統御官
第一章 後漢の破鮮卑中郎将
はじめに
一 破鮮卑中郎将の出現
二 鮮卑の動向と破鮮卑中郎将
おわりに
第二章 東夷校尉
はじめに
一 東夷校尉の設置時期
二 独立勢力に与えられた東夷校尉
おわりに
第五部:「十六国」諸国の国家観と民族認識
ー 3 −
第一章 「十六国」諸国の異民族統御官と東晋
一南蛮校尉・平呉校尉の設置を中心として−
はじめに
一 南蛮校尉・平呉校尉の来歴
二 「十六国」諸国の南蛮校尉・平呉校尉
ア 成漢
イ 後超
ウ 再魂
工 前燕
オ 前奏
力 後燕
三 「十六国」諸国の対東晋観
おわりに
第二章 異民族統御官にあらわれた「十六国」諸国の民族認識
■
ア イ ウ エオ カ キ ク ケ コ サ
六 漢超越魂燕燕秦秦秦涼涼
十成前後再前後前後西前後
はじめに
国」諸国における異民族統御官の実態
シ 北涼
ス 西涼
二 西方系異民族統御官の意味
ア 美をめぐる問題
イ 西東・西蛮・西戎・戎・西胡
≡ 「十六国」諸国の民族認識
おわりに
結論
序論「日本における「五胡十六国」研究と本研究の目的」では日本の「五胡十六国」研
究史を概観し、「十六国」国家研究の遅れと「五胡十六国」の全体像の提示の必要性を指
摘し、本論文の意義を述べた。
第一部「「五胡十六国」の意味と五胡十六国時代の民族」では「五胡」と「十六国」と
− 4 −
いう語の意味と少数民族の種類について検討した。まず第一章「「五胡」と「十六国」」
では、経書や正史に見られる「五戒」や「六夷」などの数字と民族名の組み合わせを分析
し、「五胡」は四世紀中期に出現した語であるが、それは句奴・渇・鮮卑・氏・美に限ら
ず、当時、華北や四川で活動していた少数民族の総称であり、「五」に数的な意味はなか
ったことを明らかにした。また『晋書』・『親書』・『十六国春秋』における四、五世紀
の華北・四川の小国の記載法を分析し、「十六国」は北魂の崖鴻の『十六国春秋』が規定
した一六の小国を意味するが、当時存在した国家の数が一六であるという認識は唐代まで
は共通認識化していたわけではなく、国家の数についてはいくつかの認識が併存したこと
を明らかにした。したがって、本論文で考察の対象とする民族・国家はいわゆる「五胡」
と「十六回」に限定されないことを述べた。また第二章「前奏における民族状況の一面」
では、四、五世紀当時の民族認識を理解するため、陳西省沼南市蒲城県旧存の「修郵太尉
岡碑」に記載されいる民族名を分析し、前奏の漏瑚護軍の治下には、都城の屠各・洛川の
屠各・定陽の屠各・黒蒐・日義・西克・虞水胡・自虜・月氏胡・莱特・量水・雑胡の諸民
族が存在したことを解明し、前奏の一書軍内にさえ一二の民族の存在が認識されており、
当時の社会一般に旬奴・掲・鮮卑・氏・完の五民族併存という現在の認識が存在したわけ
でないことを強調した。
第二部「五燕の官僚機構と民族性」においては、「十六国」諸国のなかで前燕を除くと
研究の遅れている五燕諸国、すなわち前燕・後燕・西燕・南燕・北燕を対象に、その官僚
機構と民族性について考究した。第一章「前燕の官僚機構」では、前燕の主要官職を、首
長の在位年代ごとに整理してその変遷を跡づけ、さらに将軍号の変遷を検討した。その結
果、前燕の主要官職制度は三一〇年代の謀主股肱制→三二一年の晋の承制による属僚制→
三三七年の燕王国としての六卿制→三三八年の属僚制→三五二年の燕帝国としての百官制
→三五四年の三公制→三六〇年の西晋王朝風の八公制へと変化したことを明らかにした。
そして特に三五二年から三五四年にかけての改変は大規模なものであり、中国王朝風の官
僚機構がつくられ、将軍号の面でも新たな体制を作り出すことになったことを指摘し、そ
うした前燕の官僚機構の変遷過程は、他の「十六国」諸国には見られないほど見事に国家
の発展段階と即応していることを述べた。第二章「後燕・南燕の官僚機構」では、後燕・
南朝の官僚機構について、やはり首長の在位年代ごとに主要官職の構成・展開を示し、そ
の上で後燕・南燕の主要官職の全体的傾向を考察した。その結果、後燕では、その前期は
尚書令僕に時間の経過とともに三公・上公を重ねていったが、後期は尚書令僕中心の体制
となり、また南燕は後燕前期の体制を引き継いでいたことを明らかにした。つづいて第三
章「五胡十六国時代における遼東・遼西地方の民族構成の変化」では、鮮卑一→氏→鮮卑→
高句麗・漠と激しい支配民族の変遷が起こった四、五世紀の遼東・遼西地方の人口移動の
実態を、編纂史料によって考究した。すなわち、五胡十六国時代の遼東・遼西地方におい
ては鮮卑優位のうちに前燕が建国されたが、その社会の安定化により漠族の流入が起こり、
その結果、鮮卑人口比率が低下し、高句麗・扶余の流入はそれに拍車をかけた。三五〇年
代以降の前燕の中原支配と三七〇年以降の前奏の華北統一により、鮮卑の中原・関中への
移動が起こり、さらに氏族の流入が重なって、遼東・遼西における鮮卑人口比率はさらに
低下した。三八四年の後燕の建国と、その中原から遼西への撤退の結果、鮮卑人口は一時
的に回復したが、北魂との抗争による消耗のため鮮卑人口は再び減少に転じ、四〇七年に
− 5 −
建国された北燕においては高句麗・漢族が支配権を握り、その段階では遼東・遼西地方の
鮮卑の人口は著しく減少していたことを明らかにした。そしてこの鮮卑人口の減少が慕容
国家の終蔦と高句麗・漢族国家北燕建設の一因となった可能性を示唆した。第四章「北燕
の「鮮卑化」」では、一九六〇年代以降遼寧省で発掘が続いている北燕の墳墓の状況から、
北燕における漢文化と鮮卑文化の混在を述べ、また編纂史料から漢族漏氏政権の非漠族的
要素を指摘し、三世紀末以来の遼東・遼西では漠・鮮卑の融合が進展していたことを確認
し、その上で『魂書』海夷鴻披伝に記された「同夷族」の意味を「夷の俗と同じようにす
る」と解釈して、四世紀末に遼西に移住した漢人漏蚊が積極的に鮮卑の文化を取り入れて
いったことを強調した。
第三部「夏の年号と国家観」では、やはり研究の遅れている赫連勃劫の建国した夏につ
いて、年号の使用状況から論じた。第一章「夏の年号」では、まず「十六国」諸国全体の
年号制定状況を整理し、「十六国」諸国では即位同時改元が一般的であるが姶年改元も存
在し、踏襲年号と前例のない年号がほぼ半々に使用されており、「十六国」全体で一定の
年号制定形態があるわけではないことを明らかにした。しかし夏の初代君主赫連勃劫は、
踏襲年号を用いず、龍昇・鳳翔・昌武・真興というように、国家の発展段階に応じた意味
をもつ年号を制定するなど、他の「十六国」君主に比して年号に対する意識が高いこと、
さらにそれが夏が北涼に「真興」年号の奉用を強いることにつながったことを指摘した。
ついで第二章「「大夏紀年墓誌」に見える夏の建国意識」では、一九九二年に内蒙古自治
区鳥審旗で発見された「大夏紀年墓誌」に刻された「大夏二年」の西暦への比定を通して、
夏の建国意識を考察した。すなわち「大夏二年」は西暦四二〇年であり、夏では都城統万
城が完成し、祖先への迫尊、統万城の四方の門の命名、赫連勃劫の功績と徳を頒する石碑
の建立などによって国家体制が整った四一九年が真の建国の年と認識されたことを論証し
た。
第四部「異民族統御官」では、従来研究が少なく、未解明の部分が残されていた破鮮卑
中郎将と東夷校尉について検討した。前漢時代に周辺少数民族を統御するために設置され
た異民族統御官を、四、五世紀には少数民族政権である「十六国」自身が設置していたこ
とから、異民族統御官は「五胡十六国」を理解するための最も重要な要素の一つであると
考えられる。第一章「後漢の破鮮卑中郎将」では、後漢時代の少数民族の動向を整理し、
破鮮卑中郎将は後漢末における鮮卑の活動の活発化に対応して設置されたことを指摘した。
第二章「東夷校尉」では、晋代の多くの異民族統御官の新設時期などから、まず東夷校尉
の新設時期を二八二年から二八五年の間と比定した。そして東晋が前燕の慕容儀を東夷校
尉に任じたことは、「十六国」諸国が周辺独立勢力首長に異民族統御官を称号として与え
たことに影響されてたこと、さらに東晋のそうした周辺独立勢力首長への異民族統御官授
与は南北朝に引き継がれ、北朝においては、東夷校尉は東方の中心勢力に与えられる称号
となったことを明確にした。
最後に第五部「「十六国」諸国の国家観と民族認識」では、第四部で明らかにされた異
民族統御官を通して「十六国」諸国の国家観・民族認識を考察した。第一章「「十六国」
諸国の異民族統御官と東晋一南蛮校尉・平呉校尉の設置を中心として−」では、異民族統
御官のうち、南方の少数民族統御に関与すると想定される南蛮校尉と平呉校尉に着冒し、
「十六国」諸国の国家観、特にそれらの国々の東晋に対する意識の一面を検討した。その
− 6 −
結果、「十六国」諸国のうち、前超・後超・前燕・前奏・後秦は、東晋に対して南蛮校尉
・平呉校尉を設置したこと、これらの国々の五徳の運次に対する自覚や東晋を「患」とか
「通底之虜」などと呼ぶことから、東晋を一周辺勢力と認識したことを強調した。第二章
「異民族統御官にあらわれた「十六国」諸国の民族認識」では、「十六国」諸国が設置し
た南蛮校尉・平呉校尉以外の異民族統御官の実態を考察し、「十六国」諸国の民族認識を
論じた。すなわち前越は前涼を、後超は前趨・東晋を、前燕は東晋を、前奏は東晋・後秦
を、後秦は南涼・西秦を異民族統御官で統御すべき周辺民族と認識して、自らの中原正統
王朝としての位置づけを図った。逆に前涼・後涼・西涼は自らを異民族統御官で統御され
るべきものと認識していたと結論した。
「十六国」を総じて見ると、その君主の称号には皇帝・天王・王・公・大単千があり、
牧あるいは刺史という官号のみを称した君主もあった。また多くの国家では王から皇帝へ、
あるいは皇帝から天王へなどと称号は変化した。「十六国」は一括して扱うことはできな
い、さまざまな段階にある国家群なのであった。そこには自らを五徳の循環による中国嫡
流王朝と認識し、東晋を本来自国に属すべき土地に割拠する傍流勢力と扱った国家が存在
する一方、東晋や他の「十六国」国家の従属国の立場に留まった国家もあったのである。
またすべての「十六国」国家が年号を使用する共通性をもっていたが、その年号に対する
認識にも、夏のように高い意識をもった国家がある一方、隣接国同士で同時に同じ年号を
使用した国家も存在した。
そうしたなかで、鮮卑慕容部の建国した前燕が東晋を凌ぐほどの中国王朝風官制を整備
するなど、少数民族の漢文化受容・適合が進んだ。しかし同時に漢人が積極的に鮮卑化を
図るなど、いわば漢民族の胡化も進展したのである。そしてこうした融合が「十六国」が
興亡した世界の周辺に対しても影響した。その一つの方向が東方における朝鮮半島や日本
列島なのである。
「五胡十六国」は三世紀から五世紀に東アジア規模で展開した民族融合・国家形成の、
華北・四川における姿なのであった。
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