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うちまる6号 - 日本キリスト教団 内丸教会

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うちまる6号 - 日本キリスト教団 内丸教会
内丸教会季報
復刊第 6 号
2013.2.3
内
丸
編集 : 魚住英昭
神谷一夫
目 次
・
・
・
・
日本基督教団の歴史に学ぶ(2)~教団内の対立構造:「社会派」と「福音派」について~ ---- 中原眞澄
『神の愛に促されて生きる』 -------------------------------------------------------------------- 湊 明子
『胎児期からの教会生活』 ~佐藤倫子さんに聴く~ ------------------------------------ インタビュー
抄録『責罪論』より ------------------------------------------------------------------------------- カール・ヤスパース
頁
1
7
9
12
日本基督教団の歴史に学ぶ(2)
~教団内の対立構造:「社会派」と「福音派」について~
牧師
内丸教会は 2012 年 4 月定期総会で<内丸教
会のミッション「使命」とヴィジョン「目標」>
を可決,時代とともに歩む教会として進むべき
方向を確認しました。
「使命」として掲げた文
を念のために記しておきましょう。
中原 眞澄
す。
この使命を果たす具体的活動として年度計
画の 5 番目に挙げたのが以下の項目でした。
5.内丸教会の歴史と伝統を確認しつつ,
更に,時代に応える伝道を進めるために,
礼拝その他の在り方を,教会として進め
ていく。
私たち内丸教会は,神が創られたいのちの
世界のただ中に,主イエス・キリストによっ
て立ち,導かれている群れとして,常に「世
にある証し人」の歩みを続けていきます。
このために教会協議会や夏季修養会で日本
基督教団の歴史を学び,9 月の教会協議会で行
ったのが,現在の教団でよく語られる不幸な分
類=「福音派」対「社会派」の対立構造に対す
る私からの発題でした。
もっとも私自身は,こうした2分法は(古い
言い方ですが)ナンセンスと思っています。人
として生まれ,ガリラヤの民衆の一人として育
ち生活されたイエスが,十字架の死に至るまで
歩まれた生涯を通して示されたのは,まさに時
代のただ中で,人々の声に応えながら福音を語
り,示された・・・・それ以外の何ものでもありま
せん。社会の課題から目を逸らせた「福音」
(が
可能であるとして)を語るだけであったなら,
イエスが十字架につけられることはあり得ま
せんでした。真に「人の子」であると同時に,
真に「神の子」であるイエスをキリストと告白
・主イエス・キリストが成し遂げられた赦
しと和解を,今に生きる人々に伝わる言
葉と働きによって,この世の中で証しし
伝えていきます。
・主イエスがあらゆる差別や偏見の枠組み
を毀(こぼ)たれたことを覚え,全ての
人々に向かって開かれた教会をつくり上
げていきます。
・この世にあって弱くされている人々と共
に歩まれた主イエスに倣い,弱さを大切
にしながら,一人ひとりのいのちを重ん
じる歩みを,共に歩んでいきます。
・神が創造された豊かな世界を,人の手に
よる破壊や汚染から守るため,平和を求
める声を,臆することなく揚げていきま
-1-
する私たちの信仰において,福音に生きるとい
うことは即ち,この時代と社会のただ中に生き
ること以外にその場を持つことはないのです
から。
まして「福音」を自分たちだけの専有物であ
るかのように,自らを「福音派」と称し,異な
る立場(と分類する他者)の信仰を「社会派」
と切って捨てるような態度は(逆もまた)まこ
とに「非・福音」的思考だと言わざるを得ませ
ん。しかしこうした思考法は決して最近に限ら
れたものではなく,早くからありました。古代
教会時代から始まり近世に至るまで,同じキリ
スト教内で「正統」と「異端」を切り分け,対
立する相手を徹底して排除し,虐殺・抹殺さえ
行ってきたのがキリスト教会の歴史でした。こ
うした二分法による自己絶対化こそが「神のみ
を神とする」聖書の基準から外れた思考法であ
り,異なる者への(敵さえも)寛容と愛を説い
たイエスの態度と真逆であることは言うまで
もありません。そして,こうした思考法が今も
なお現代の教会において装いを変えて続いて
いることを私たちは,この小さな日本基督教団
の中の,まさにコップの中の小さな争いに見い
だすのです。こうした問題意識からの発題であ
ることを前置きとして以下に,教団成立直前か
ら敗戦後までのラフなスケッチを試みたいと
思います。
なお,スペースと時間の関係
もあり,2回に分けて記すこ
ととしました。
教といった当時,西欧キリスト教諸国のみなら
ず広く世界的な重要問題として認識され始め
た諸課題とキリスト教はどう関係し取り組む
べきか,その研究と実践を追求するものでした。
神学的には,それまでの余りに個人化した信仰
理解に閉じこもって社会的・時代的課題に取り
組もうとしない,伝統的な既存教会の在り方を
批判したラウシェンブッシュ等の「社会的キリ
スト教」に色濃く影響された考え方であり実践
でした。
この課題を日本に持ち帰った当時の日本代
表の一人が,たまたま私の父である中原賢次で
した。彼が主事として奉仕していた学生 YMCA
は,大学や教会,YMCA の指導者・学生達と協
議・研究会を重ねながら,新しい時代の課題に
応えていくことこそイエスの「神の国」運動を
主軸とする福音の働きに他ならないことを日
本のキリスト教界に提起,実践することを試み
ました。しかし年表に見られるとおり,当時の
様々な社会運動や戦争へ向かう動きとの連関
の中で早くから憲兵や特高(特務高等警察)等
の注目するところとなり,教会や YMCA の
SCM に対する見方や態度は決して好意的では
ありませんでした。そうした中で学生達の一部
が急進化して政治運動へ流れる傾向を見せた
こともあり,4 年後の 1932 年夏には実質的な
活動は停止,広い意味での権力の干渉下に,早
い終焉を迎えることとなりました。その際のキ
リスト教会は,一部に意義深い試みとして高く
評価する人もいましたが,その後の動きの中で
切り捨てていく方向にむかいました。
印象的なのは,SCM 運動が退潮すると同時
に,殊更に主張されたのが「福音」「伝道」という
言葉だった・・という事です。そして学生 YMCA
において,教会においても,「社会的キリスト
教」神学に取って替わるように紹介され論じら
れたのが「バルト神学」でした。
この日本でのバルト神学の紹介と導入は,ま
ことに不幸なものだったと言わざるを得ませ
ん。良く知られているように,スイスの小さな
教会で牧会者としてスタートを切ったバルト
は,近代神学の人間学的アプローチ即ち,批判
的聖書学・近代哲学・人類学・社会学等によっ
た神理解・福音理解の限界を指摘し,「超越」
神学,即ち,創造主でありたもう神の(被造物
である世界,その一部たる人間に対する)絶対
1.対立構造の最初の兆し=SCM(社会的キ
リスト教)運動(参照;後掲「年表1」)
今の「社会派」に繋がっていくと思われる最
初の神学的,また実践的運動が日本で具体的な
かたちで行われたのが昭和の始め,僅か数年間
ではありましたが,当時の学生 YMCA を具体
的な場として展開,教会全体へも影響を与えた
「 社 会 的 基 督 教 運 動 」 (Social Christian
Movement)です。
その最初のキッカケは,1928 年にエルサレ
ムで開催された「世界宣教会議」でした。そこ
で掲げられたテーマ「キリストの福音の再宣言」
は,イエス・キリストの福音は何であったのか,
その再確認に立って,産業,人種,農村,他宗
-2-
的主権を強調し,その恩寵による啓示に主眼を
おく神学を展開しました。日本ではこれを,超
越的な<神-人間>の垂直的関係に集中する
神学として理解,極めて思弁的かつ個人的理解
に止まる紹介だったと言えるでしょう。しかし
実際は,これまた良く知られているように,第
一次世界大戦の悲惨を阻止出来なかったヨー
ロッパの教会と神学への批判から出発し,ワイ
マール共和国が瓦解してナチス政権へと移行
していく最中,ナチス批判を繰り返したことで
ドイツから追放されたのがバルトでした。その
後も冷戦のただ中で社会的課題に発言し続け
たことから分かるように,超越的関係を軸とし
つつ,だからこそ<究極>以前の相対的でしか
ない人間的諸権威や言説が絶対化されること
への反対と危惧を語り続けることが,彼の神学
にとっては不可避な行動でもありました。この
歴史的事実が認識されるために敗戦後しばら
くの時を必要としたのは,逆の意味
で時代の<空気>に敏感な日本の
キリスト教界の限界と言えるのか
も知れません。
護持ノ一念ニ徹シ,愈々信仰ニ励ミ,総力ヲ
将来ノ国力再興ニ傾ケ,以テ聖慮ニ応ヘ奉ラ
ザルベカラズ。
我等ハ先ヅ事茲ニ到リタルハ畢竟我等ノ匪
躬ノ誠足ラズ報国ノ力乏シキニ因リシコトヲ
深刻ニ反省懺悔シ,今後辿ルベキ荊棘ノ道ヲ忍
苦精進以テ新日本ノ精神的基礎建設ニ貢献セ
ンコトヲ厳カニ誓フベシ。・・・
一.承詔必謹 コノ際一切ノ私念ヲ捨テテ
大詔ヲ奉戴シ,飽クマデモ冷静沈着,秩序ノ
維持ニ努メ,
以テ皇国再建ノ活路ヲ拓クベシ。
―――― 日本基督教団統理者 富田満
「令達第 14 号」(1945 年 8 月 28 日)より
このようにして敗戦後すぐに教団は「総懺悔
更正運動」を開始していきます。そうした動き
の中で 9 月には,教団として重要な決定を,し
かし何の論議も反省もなしに行っています。そ
れは,戦争中に国家の弾圧によって解散させら
れ,教団もそれに便乗・率先するかたちで切り
捨てた旧ホーリネス系教会に対する決定でし
た。
「時局ノ急変ニ伴ヒ・・文部省ト協議ノ結果」
として何らの謝罪もなしに,戦争中に牧師とし
ての資格を剥奪していた旧ホーリネス系の教
師に「謹慎解除」と称して復職を認めたのです。
そして 10 月には,アメリカの教会から訪れた
使節団と,戦後の教会の復興と伝道活動におけ
る協力関係について協議を行っています。
そうした中,戦争中に国家権力によって強制
的に合同教団とされた日本基督教団にそのま
ま止まることを良しとせず,組織原理の違い
(監督制-聖公会,ルーテル派等)や経緯(典
型は,無理矢理に統合された在日本朝鮮基督教
連合会),あるいは「福音」「伝道」理解の違いや
歴史的な素因(その代表が,先述した旧ホーリ
ネス系教会に属するイムマヌエル綜合伝道団
や基督兄弟団)等を理由に,教団から分離する
教会が相次ぎ,それぞれが独立した教団を組織
していきました。そうした例は,後掲の年表 2
を参照ください。
これら一連の動きの中に,「福音」「伝道」の内
実に関し,時代と歴史の試練の中で自分たちは
どう理解し実践してきたのか,深甚な反省と批
判を加えることなしに,チャンスとばかりに邁
進した教団の姿を見ます。しかし,まさに「悔
い改め」なき継続は,むしろ分断と退嬰の要因
2.戦後における諸教団の離脱・再建
(参照;「年表2」)
敗戦直後の日本基督教団は,敗戦を自分たち
の怠慢故に天皇の大御心へ応えられなかった
がための敗戦と捉え,天皇への謝罪と更なる忠
誠をもって国体護持(=天皇制国家の維持)と
皇国再建を誓う言葉から出発しました。その初
めの部分を以下に紹介しますが,天皇への謝罪
から戦後が始まったという事実は忘れてはな
らないでしょう。即ちドイツの教会が深甚な反
省から敗戦後の歩みをスタートさせたのに対
し,日本の諸教会はそうした過去への反省は一
切ないまま,国民道義の低下に対する「総懺悔
更正」(! しかも提唱したのは東久邇宮首相だ
った)運動から更に「キリスト教ブーム」に乗っ
た教勢拡大路線へと走っていくのです。教団の
指導者の誰一人として(ドイツとは異なり)責
任を自らに問うた者はいませんでした。
聖断一度下リ畏クモ詔書ノ渙発トナル而シ
テ我ガ国民ノ進ムベキ道茲ニ定マレリ。本教
団ノ教師及ビ信徒ハ此ノ際聖旨ヲ奉戴シ国体
-3-
となっていくのではないか・・・その好個の例を
私たちは見る思いがします。それ故に今も「社
会」と切り離された用法においてこれらの言葉
が濫用されるのを見ると,再び教団は分断と退
嬰の道を進みつつあるのではないかと,私は思
ってしまうのです。
しかし同時に,とにもかくにも日本基督教団
に残った多くの教会は(内丸教会もその一つで
すが),敢えて日本基督教団に残る決意をそれ
ぞれが確認し,今に至っていることは忘れては
ならないと思います。つまり,互いの間に存在
する教派的な違いを認めつつ,なおも一つの合
同教会を形成していくことに神の導きを認め,
一つとされる道を歩む決断を下したのです。こ
の歩みは今もなお継続しているのであって,い
ずれかの教派的伝統を唯一の組織原理として
<統一・統合>していくような試みは断じてあ
ってはならないことです。
因みに,内丸教会の属する教派的伝統(アメ
リカの北部バプテストの流れ)を共にする教会
が分かれてつくったのが日本バプテスト同盟
です。1958 年という比較的遅い時期に独立し
ていった同盟からの誘いに対し,内丸教会は臨
時総会を開催し,教団に残る決断を下していま
す。そして教団に残った旧バプテスト系の諸教
会は「教団新生会」を結成し,
今も同盟との友好関係を保ちつ
つ,教団に止まったバプテスト
教会としての連携と協働を行っ
ています。
は戦後に於ける我国の運命を決する重大時期
である」という書き出しに始まり「われわれ基
督者に課せられた使命は此の未曾有の混乱と
動揺とに悩む我が国民に主の福音を与え,我が
国を神の御言によって立つところの国とする
ことである。われわれは嘗てわが国を禍し,い
ままたわが国を禍しつつあるところの封建的,
物質的,無神的思想を駆逐し,わが同胞を信仰
と希望と愛とに活きる新しい国民とならしめ
なければならない」と高らかに伝道の使命を謳
いあげた『五箇年伝道計画』が可決され,「新
日本建設キリスト運動」と置き換えられました。
全階層・全職域の国民を対象に,既存教会の強
化とともに未開拓(農漁村を中心とする)地域
への伝道が推進されていきます。教会の強化・
充実と伝道の拡大に焦点を合わせて邁進する
運動だったと言えるでしょう。しかしこうした
「伝道」を押し立てた運動展開だけでは済まな
い状況が生まれてきました。それは,1950 年 6
月に始まった朝鮮戦争でした。
勿論それ以前から,日本が起こした戦争への
反省から生まれた平和運動が東西(アメリカと
西欧 vs ソ連と東欧)冷戦を背景に始まってお
り,また厳しい貧困問題の現実から,国内外の
社会問題への発言が徐々に始まってはいまし
た。社会問題に関しての注目すべき最初の動き
は,朝鮮戦争が始まったと同じ月,ユニオン神
学校のジョン・C・べネット教授を中心に御殿場
の YMCA 東山荘で開催された「教会と社会問題
研究協議会」でした。そこには教団外からも含
めて 83 名が参加,教会の社会活動が健全な神
学に立ち,教会の社会的責任を考える必要性を
訴えました。同時に,福音宣教と社会活動を分
離させることなく,双方の正しい関係を明かに
する必要性を訴えています。今に繋がる福音宣
教と社会活動との関係についての問題意識が,
既にこの時点で生まれ,論じられています。こ
の課題が以前から意識されていたものであっ
たことの証左であると同時に,今に至るまで変
わらない教会の体質だなぁ~と感じてしまう
のは,私だけでしょうか。この協議会の提言か
ら「社会問題専門委員会」が設置され,それが
「社会問題研究委員会」に改称され,1953 年に
労働問題,
1954 年には社会保障制度について,
キリスト教会の十分な認識と寄与を望む文書
を発表するに至っています。
3.1950 年代:社会問題への取り組みの始
まりと,最初の分裂(参照;「年表3」)
敗戦の翌年,教団は臨時総会で「新日本建設
キリスト運動」と称する伝道案を決議,標語は
『全日本へ基督ヲ』と定められました。1947
年 1 月には北米の主立った教会がインターボー
ド連合委員会(IBC)を組織し,日本伝道への支
援態勢が整えられていきます。それに応えるか
たちで教団を中心に組織されたのが内外協力
会であり,協力委員会でした。こうした海外の
動きとは別に,全国農村伝道協議会(1947)や漁
村伝道協議会が相次いで開催され,新しい領域
への伝道を志す動きが活発化していました。
更に 1948 年,教団総会において「来る十年
-4-
平和問題に関しては,既に 1948 年の教団総
会で平和促進に関する建議案を可決,総会宣言
で次のように述べました「我らは世界の現状と
日本の歴史的課題とに対し重き責任を感じ,聖
書の命ずる所に従ひ,先ず自ら深く悔い改むる
と共に,積極的努力を傾け,左の目標を達成せ
んことを期す」。具体的項目として,世界教会
運動への参加,「福音的信仰」に基づく世界平和
実現と国民道徳の確立の3点を掲げています。
この建議に基づいて設置された「平和委員会」
が「平和に関する宣言」を作成,1950 年の総会
に提案,「平和に関する決議」が採択されるに
至っています。ここでは「一つなる世界教会」
「内外の基督教平和諸団体」との連携等の教会
的項目と並んで,講和条約の早期締結や「凡そ
紛争動乱の誘因たるべき政治的,経済的,文化
的,社会的不安等を排除し・・云々」の次には「新
憲法に於ける戦争放棄の精神をわが国是とし
て堅持し,軍国主義の再燃を誘惑するような危
険をふせぐ・・云々」といった,明らかに朝鮮戦
争と警察予備隊創設といった動きを念頭にお
いた項目が挙げられています。なお決議の中に
は「原子力時代の科学知識を,集団殺戮の具に
供する代りに,福祉増進のために適用せしめて,
欠乏なき世界を実現させるよう・・・科学の人道
化を推奨する」という項目が掲げられていて,
原子力に関する楽観的な見方が広げられてい
た当時の空気が図らずもここにも表れていま
す。
この決議は 1952 年の教団総会においても再
確認され,12 月には常議員会が「平和に関する
声明」として発表し,
「平和問題特別委員会」が
設置されました。更に 1954 年には,3 月ビキ
ニ環礁で行われた水爆実験とその被害に関し,
5 月,米国教会に訴える書簡を教団名で公表し
ています。
「貴国の教会が,日本伝道に貢献し
得るのは,人や資金を送るだけではなく,むし
ろ毅然としたキリスト教的良心の模範を示す
ということであることをよく御理解下さい」と
して,原水爆実験の中止と製造禁止を働きかけ
るよう訴え,大きな反響を呼びました。
朝鮮戦争が始まったことで大きな路線対立
が明かになったのは,1947 年に学生たちの自
主的活動として始まっていた「キリスト者学生
会」の動きでした。ここに結集した学生たちは,
戦前から続く大学 YMCA の組織・運動と連携
しつつ自主的な伝道と聖書の学びを進めてい
たのですが,朝鮮戦争の勃発が,関わる学生や
指導者の間に分裂を生んだのです。あるグルー
プは日本の戦争加担に反対を決議・表明し,政
治的活動に連携することさえ厭わない姿勢を
取ったのに対し,あるグループは「社会」に関
与する発言や行動から距離をおき,
「福音」伝
道に邁進することを主張しました。後者のグル
ープは結局,
大学 YMCA から袂を分かち,
KGK
(キリスト者学生会)を結成し,今に至るまで,
福音伝道を旗印に掲げて全国の大学で活動を
展開しています。教団より先に,YMCA の学生
運動においてこうした分裂が起きたことは,い
わば若者たちの先駆け現象として注目できる
ことではないでしょうか。
なお 1951 年 2 月には有志団体である「キリ
スト者平和の会」が結成され,以後,平和問題
について積極的発言と行動をとり続けていま
す。
(以降,1960 年代からの動きは,次号にて記
すこととします)
-5-
年 表
年表1:SCM運動関連
西暦 (昭和)
主な動き
1928 (3) 年
1929 (4) 年
1930 (5) 年
1931 (6) 年
1932 (7) 年
社会的・国際的動き
3月 エルサレム世界宣教大会
7月
11月
11月
1月
2月
7月
1月
3月
6月
7月
7月
2月
3月
4月
7月
4月
1月
第38回大学YMCA夏季学校
全国キリスト者学生討議会
SCM研究会発足
「神の国運動」始まる
SCM研究会,大阪・名古屋で発足
第40回夏季学校宣言書
SCM研究会結成を訴える
第1回SCM聖書研究会
YM・YW学生運動に関する懇談会
憲兵隊がYMCAを初来訪
第41回学生YMCA夏季学校
およびSCM大会(第1/2回)
第42回夏季学校繰り上げ閉校
第3回SCM大会にて分裂,解消へ
11月 浜口首相,東京駅にて狙撃される
1月 日本農民組合結成
7月 無産政党合同「全国労農大衆党」結党
中国各地にて排日貨運動起こる
9月 満州柳条溝爆破,満州事変始まる
3月 満州国「建国」
5月 犬養首相射殺される-5.15事件
年表2:戦後の諸教派の設立・再建
と,社会問題に関わる主な動き
1945 (20) 年
1946 (21) 年
1947 (22) 年
1948 (23) 年
1949 (24) 年
1950 (25) 年
1951 (26) 年
1952 (27) 年
1953 (28) 年
1954 (29) 年
1958 (33) 年
普通選挙第1回総選挙
日本共産党大検挙
東大新人会等の強制解散,帝大教授のレッドパージ始まる
東大YMCAにて無産大衆党結党式
共産党大検挙
ロンドン海軍軍縮会議
社会的・国際的動き
8月 教団統理 富田満の令達第14号(28日)
「総懺悔更正運動」開始(31日)
9月 ホーリネス系教師謹慎解除を通知(22日)
10月 イムマヌエル綜合伝道団設立
11月 在日本朝鮮基督教連合会再建
12月 日本聖公会再建
2月 基督兄弟団設立
7月 日本救世軍再建
6月 「新日本建設キリスト教運動」開始
11月 新日本建設キリスト教運動伝道大会
1月 日本正教会,再設立
全国農村伝道協議会
3月 全国漁村伝道協議会
4月 日本バプテスト連盟設立
6月 東京キリスト者学生会の発足
8月 箱根内外協力会議
10月 日本日曜学校協会再組織
11月 日本ナザレン教団,基督友会
日本福音ルーテル教会再建
2月 内外協力会発足
5月 聖公会,教団加入主教の復帰式
日本基督教協議会(NCC)設立総会
9月 日本同盟教団再建
10月 総会『5カ年伝道計画』
「平和促進に関する建議」
3月 日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団再建
6月 日本ホーリネス教団創立総会
8月 福音ルーテル教会再建
2月 内外協力伝道委員会発足
6月 教会と社会問題研究協議会
社会問題専門委員会を設置
10月 総会「平和に関する決議」
2月 日本福音連盟設立
「キリスト者平和の会」結成
5月 日本基督教会設立
7月 日本イエス・キリスト教団(旧日本伝道隊)設立
12月 常議員会「平和に関する声明」
平和問題特別委員会設置
5月 日本自由メソジスト教団設立
5月 アメリカ教会に訴える書簡を公表
日本バプテスト同盟設立
8月 天皇,戦争終結の詔勅を放送。GHQ設置。
10月 国際連合成立
12月
1月
5月
10月
11月
1月
宗教団体法廃止,宗教法人令発令
天皇「人間宣言」,軍国主義者・超国家主義者の公職追放
極東国際軍事法廷開廷
教育勅語の奉読廃止
日本国憲法公布
北米8教派がインターボード連合委員会IBCを組織
3月 教育基本法,学校教育法公布
12月 児童福祉法公布
改正民法公布により家族制度廃止
3月 米国外国伝道協議会で,日本に2700万ドル支援を決定
7月 大韓民国成立
8月 世界教会協議会(WCC)創立,第1回総会
12月 国連総会にて世界人権宣言を採択
1月
7月
9月
10月
赤岩牧師の共産党入党決意表明
下山事件,三鷹事件
ドイツ民主共和国(西ドイツ)成立,エミール・ブルンナー来日
中華人民共和国成立
6月 朝鮮戦争勃発(25日)
8月 警察予備隊令公布,即日施行
10月 祝日行事に日の丸掲揚・君が代斉唱を勧める文部省通達
4月 宗教法人法公布
9月 対日講和(サンフランシスコ)条約・日米安保条約調印
5月 血のメーデー事件
3月 ビキニ環礁において最初の水爆実験
-6-
『神の愛に促されて生きる』
湊 明子
今朝は、中原眞澄牧師が夏期休暇で不在のた
め、私が自分の歩んできた信仰者としての道に
ついて、社会経験の少ない一人の主婦で、拙い
言葉となるかもしれませんが、語らせていただ
くこととします。
はじめに、内丸教会に通い始めたきっかけか
ら語ることにします。わたしにとっては、1970
年5月 16 日に内丸教会で結婚式を挙げてから
盛岡での生活が始まりました。今から 42 年前
のことになります。私は横浜市出身でしたので、
盛岡市の教会についての知識は全くありませ
んでした。当時、岩手医大の学生だった主人の
兄にクリスチャンの同級生がいて、その方から
の紹介で内丸教会の存在を知りました。当時は、
若松守二牧師の時代でしたが、主人と二人で牧
師館をお訪ねし、私たちの結婚式について希望
をお伝えしました。もともと、主人の母は熱心
な仏教徒でしたが、明子さんの希いを叶えてあ
げましょうと、教会での結婚式を認めてくださ
いました。そのことが大変嬉しく、神さまに感
謝したことを覚えています。こうして、内丸教
会で結婚式を挙げることができました。
教会籍に関しては、もし盛岡で生活するので
あれば盛岡に移すようにと勧められ、手続きを
済ませた上で内丸教会の会員になりました。そ
の後、主人は、岩手医大を卒業し、整形外科医
局に入局し、大学病院での仕事、宿直、アルバ
イト、学位取得のための勉強など多忙を極める
毎日でした。さらには、新しい分野である形成
外科の診療に従事し、専門医の仕事に就くよう
になりました。二人の子どもたちにも恵まれて、
家庭は静かに食事をし、ゆっくりと眠ることが
できるところとなりました。子どもたちも自宅
アパート近くの下ノ橋教会泉幼稚園に通い、イ
エス様のお話を聴いたり、クリスマスの降誕劇
を演じたりすることができました。わたしも幼
稚園では、子どもたちの成長を見守りながらバ
ザーや父母の会などの奉仕をさせていただき
ました。それとともに、礼拝は、内丸教会に出
-7-
席し、午前祈祷会での聖書の学びや盛岡地区教
会婦人の委員会活動などにも参加してきまし
た。
ここで、わたしの幼少期からの歩みについて
少し語らせていただくこととします。わたしは、
昭和 22 年6月 15 日に7人きょうだいの三女と
して生まれ、何不自由なく育てられました。た
だ、終戦後の食糧難の時代でしたので、両親の
苦労は大変なことだったと思われます。私がキ
リスト教と初めて出会ったのは、幼稚園の先生
に連れられて教会の日曜学校に参加したとき
のことでした。子ども心に楽しかったこと、何
となく心が満たされて嬉しかったことを覚え
ています。
小学校に入学した頃でしたが、視力が弱かっ
たため、黒板の字がよく見えないことがたびた
びあり、メガネをかけたり、コンタクトレンズ
を使用したりしました。見えないという不安や
心細さによって段々と心の弱い子どもになり、
また、そのことでいじめられたりした記憶もあ
ります。その後、両親の勧めもあり、中学、高
校時代はミッションスクールに通いました。毎
朝の礼拝の中で語られる御言葉と祈り、讃美歌
を通じて聖書と出会い、キリストの福音に触れ
る機会を与えられました。やがて、クラスメイ
トに勧められて教会にも通うようになり、高校
2年生のクリスマスに受洗いたしました。キリ
スト教のことは何もわからなかったけれども、
ヨハネによる福音書 15 章4節に「わたしにつ
ながっていなさい。わたしもあなたがたにつな
がっている。ぶどうの枝が木につながっていな
ければ自分では実を結ぶことができないよう
に、あなたがたもわたしにつながっていなけれ
ば実を結ぶことができない。」とあり、さらに
5節に「わたしはぶどうの木、あなたがたはそ
の枝である。人がわたしにつながっており、わ
たしもその人につながっていれば、その人は豊
かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがた
は何もできないからである。」とあるように、
“神さまの愛につながっていたい”
、
“神の御子
イエス様の愛に触れ、自分の罪を悔い改めて生
まれ変わりたい”と心の中で叫びました。その
とき、わたしは、今まで自分のことしか考えな
かった自己中心性や自分の愚かさを思い知ら
されました。しかし、同時に、救われた喜びに
満たされ、これからは主が共にいてくださる恵
を忘れることなく、感謝を持って歩んでいくこ
とを誓いました。その後、同じミッションスク
ールの大学英文科に進み、大学2年生の夏に偶
然知り合った人と、卒業後、盛岡の内丸教会で
結婚式を挙げさせていただいたことは、先ほど
申し上げたとおりです。
幼少期に神さまの愛に触れ、小学生の頃、視
力の弱かった自分が、今は見えるようになり、
主の日ごとの礼拝を通して主イエスの体なる
教会に仕え、主に備えられたまことの道を多く
の兄弟姉妹と共に歩むこの頃でございます。盛
岡での 42 年の歩みを振り返りますと、様々、
困難な事柄にもぶつかり、悩みも多かったので
すが、常に神さまを見上げて、教会生活の中で
培われた御言葉を思い、大切にすることで乗り
越えることができてきたように思われます。コ
リントの信徒への手紙一 13 章4節から7節に
は、愛について次のように記されています。
「愛
は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は
自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利
益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不
義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべ
てを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
」
わたしは、このように、ひとつの教会に属し
て、神さまに仕え、盛岡地区・岩手地区の婦人
たちとの交わりにも支えられて信仰者として
の道を歩んでまいりましたが、これからも神さ
まの愛に促されて、皆様と一緒に歩んで参りた
いと願っております。
最後に、「信徒の友」の『祈り』のコーナー
を一冊にまとめた本「祈れない日のために」の
中から「歌わずにおれない」という詩を皆様と
ご一緒に読んでみたいと思います。
歌わずにおれない
神さま はじめて教会にいったとき
大きな声で讃美歌を歌っているのをふしぎに思いました
自分もいっしょに歌おうと思ったとき
音がはずれていってどうすることもできない経験をしました
教会生活をつづけてきて いくつかの讃美歌をおぼえて
信仰の友と共に歌う喜びも知りました
いつのときまでだったでしょうか
讃美歌を歌う恥ずかしさがありました
人の前で歌うことの恥ずかしさでした
神さまの前で ただあなたに向かって賛美の声をあげ
感謝の歌を歌うことを知ったときに
心から声を出して歌いました
悲しみのときに、悲しみを共にする歌を
涙して歌うあなたへの祈りの歌も
ささげること、奉仕すること、あかしすることにも
賛美をもってすることの意味を知りました
歌わずにおれない信仰をあたえてください
石井錦一著「祈れない日のために」より
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シリーズ
『胎児期からの教会生活』
(佐藤倫子さん)に聴く
(教会来会者シリーズ4)
インタビューの1箇月ほど前の礼拝後に佐藤
倫子さんに取材の申し込みをしました。
魚 住: あのー、今度、季刊紙「うちまる」に
掲載するためのインタビューをさせて
いただきたいのですが…。
佐 藤: あらいやだ。それは、もしかすると、
生きているうちに聞いておこうという
魂胆じゃないでしょうね(笑い)
。
魚 住: (少し、たじろぎつつ)いいえ、滅相
もない。わたしからインタビューを受け
た方は、皆さん、かくしゃくとしていら
っしゃいますよ。若い方にも何人かお願
いしてみているのですが、自らの歩みを
自己開示するには抵抗もあるらしく、断
られ続けているのです。そのようなわけ
ですから、是非、ご協力をお願いします。
佐 藤: まあ、そういうことであれば、ご協力
しましょう。お話しできるようなことが
あるかどうかわかりませんが。
こうして、12 月1日に佐藤倫子さん方を訪問する
こととなりました。
✿✿✿✿✿
聞き手: きょうは、どうもありがとうございま
す。まずは、佐藤さんのお生まれから伺
いたいのですが。
佐 藤: 私は、昭和5年 10 月 10 日、仙台市東
三番丁の医師の家庭に生まれました。父
は、もともと基礎医学が専門で、東大の
伝染病研究所などに勤務していたこと
もあったのですが、その後、仕事で韓国
にわたったり、国内各地を異動したりし
ておりました。
聞き手: 昭和5年生まれですと、戦争体験もお
持ちですね。
佐 藤: 戦争が始まった頃、私たちの一家は、
東京で暮らしていたのですが、私が府立
女学校に入った頃は、戦火が激しくなり、
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いつ空襲があるかわからない時代でし
た。当時、毎月8日には、八幡様に必勝
祈願をしていた記憶が残っていますが、
次第に食べ物も少なくなってきていま
した。そのような事情から昭和19年に
盛岡市の開運橋付近に疎開することに
なり、私は、盛岡高等女学校に転校しま
した。
聞き手: 当時の盛岡市内はどんな様子だったの
ですか。
佐 藤: 疎開先の盛岡市も決して安全な場所で
はありませんでした。昭和 20 年の3月
10 日には、B29 による大空襲があり、
駅前一帯が焼け野原となってしまいま
した。それに、当時は、衛生状態も良く
ない状態でした。結核感染者が少なくな
い中で共同トイレを利用せざるを得ず、
私もまもなく肺結核に感染してしまい
ました。結局、盛岡も危ないということ
で、さらに千厩町に家を建て転居するこ
ととなりました。女学校も休まざるを得
ない状態でした。
聞き手: すると、終戦というか敗戦は、千厩町
で迎えられたのですね。
佐 藤: そうですね。当時、父は、陸軍病院の
軍医として何年も家族と離れて暮らし
ていましたので、これで家族がそろって
暮らせると感じたことを覚えています。
聞き手: 結核に感染されて、闘病生活は大変だ
ったのですか。
佐 藤: 大変は大変でしたけど、父が医師で薬
は手に入ったものですから、時々父に診
てもらい、自宅療養によって治すことが
できました。
聞き手: それで、戦後はどうされたのでしょう
か。
佐 藤: 結果的には、岩手医大に入学すること
になりました。
聞き手: 結果的には、と言いますと?
佐 藤: 私は、本来は、医者というものが大嫌
いだったのです。だって、病気で苦しん
でいる人からお金をとる職業じゃない
ですか。女学生のころは、そんなことを
言って父に食ってかかっていたもので
す。もしも、戦争がなくて、そのまま東
京に住んでいれば、東京女子大学が近か
ったものですから、本当は、そこで国文
学か史学を勉強したいと思っていたの
です。
聞き手: それがどうして医学部を?
佐 藤: 実は、私が岩手医大を受験した年とい
うのは、戦後、初めて岩手医大が女性に
も門戸を開いた年だったのです。私は、
あまり医師になろうとする気もないま
ま模擬試験を受けるような感覚で、その
試験に挑戦したのです。そうしたところ、
女性が2人だけ合格し、そのうちのひと
りが私だったのです。
聞き手: それで、本来、なりたくなかった医師
の職業とどう折り合いをつけたのです
か。
佐 藤: それには、母の強い後押しがあったの
です。当時、母の世代には、戦争未亡人
がたくさんいて、生活に困窮していたの
です。これからは、女性も資格や職業を
持って経済的に自立していかなければ
ならないということを強く言われ、素直
な私は、それに従ったというわけです。
聞き手: 医学生としての生活は順調だったので
すか。
佐 藤: 実は、学生時代も結核に感染するとい
う危機がありました。しかし、父が当時
の善隣館で開業しており、父から手当を
受けることができましたので、遅れるこ
となく医師の資格を取ることができた
のです。
聞き手: そこで、本格的に医師の道を歩むこと
になったのですね。
佐 藤: いいえ。実は、そうではないのです。
私の父母、特に母は保守的な人で、女が
社会に出て働くなんてとんでもないと
いう考え方の持ち主でした。それに、私
は、卒業前に医大の同級生であった佐藤
誠と婚約しており、その佐藤も同じよう
な考え方をしていたのです。
聞き手: すると、一体どのようなことになった
のですか。
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佐 藤: 医師になることはなったものの、どち
らかといえば主婦が本業で、医師が副業
のような形になったのです。父の医院が
忙しいときに少しお手伝いしたり、幼稚
園などの健康診断を応援したりという
のが医師としての役割でした。平素は、
主婦であると同時にお茶やお花、お料理
などを学び、お花は師範の資格も得てい
ます。
聞き手: なるほど。それで、内丸教会では、講
壇に毎週お花を生けるご奉仕をしてく
ださっていたのですね。
佐 藤: そうなのです。
聞き手: さて、話題が変わりますが、佐藤さん
とキリスト教もしくは聖書とのなれそ
めについてお聞かせ願えませんか。
佐 藤: その話ということになると、教育熱心
であった母方祖母にさかのぼるかもし
れませんね。母方祖母は、仙台市東三番
丁にあった宮城学院の近くにわざわざ
家を建て、そこに母を通わせました。そ
の母は、父と学生結婚し、在学中に私を
懐胎しましたので、私は胎児のときから
キリスト教文化に触れていたことにな
ります。
聞き手: そうだったのですね。それで、物心が
ついてからはいかがですか。
佐 藤: 私が通った幼稚園は、仙台市にあった
聖愛幼稚園というミッション系の幼稚
園で、ミセス・シュネイダーという方が
園長を務めておりました。スタッフも聖
書科や音楽科を卒業した人たちが多く、
ここで深くキリスト教文化に馴染むこ
とになりました。今でも、その幼稚園の
卒園証書を保存してありますが、クリス
マスの頃には、アメリカからプレゼント
が届き、それを楽しみにしていたことを
思い出します。
聞き手: やがて、小学生や女学生へと成長する
につれて、戦争の時代となるわけですが、
キリスト教文化との摩擦を感じるよう
なことはなかったのですか。
佐 藤: 私の場合は、あまり感じませんでした
ね。小中学校は、公立でしたし、戦争中
は、それどころじゃなかったのだと思い
ます。それでも、下ノ橋教会の礼拝に出
席したり、下ノ橋教会が焼けたときは、
善隣館で集会に参加したりしていまし
た。
聞き手: 戦後は、いかがでしたか。
佐 藤: 先ほど、お話ししたように、私は、医
科大生となったのですが、下ノ橋教会で、
しばらくオルガニストを務めていまし
た。…もっとも、佐藤と結婚してからは、
結構忙しかったこともあり、あまり教会
に行かなくなったように思います。ただ、
1960 年には夫について、アメリカのオ
レゴン州に渡り、1976 年まで滞在した
のですが、その間は、現地で教会生活を
送っていました。
聞き手: 帰国後は、どうされていましたか。
佐 藤: 帰国後は、主婦業やお茶、お花などで
随分忙しくなり、また、教会生活からし
ばらく遠ざかるようになりました。一時
期、知人に誘われて、天神町のバプティ
スト教会に通っていた時期もあるので
すが、その方がある事情から行かなくな
ったため、私も行かなくなってしまいま
した。
聞き手: さて、そうなると、そろそろ内丸教会
との縁が始まる頃ですね。
佐 藤: 内丸教会に出席するようになったのは、
1995 年頃のことで、たしか、母が亡く
なったことがきっかけであったと思い
ます。
聞き手: と言いますと?
佐 藤: 母の遺品を整理しているうちに、母が
日本で一人暮らししていて、寂しさを感
じ、教会生活を頼りにしていた様子を示
すメモが見つかり、私も教会に行ってみ
ようかと考えるようになったのです。…
それで、たまたま、内丸教会に出席して
みたところ、医大の教授夫人会などでお
世話になっていた中屋陽子さんやもう
ひとりの中屋洋子さんがいらして、とて
も心強く感じたのです。それを契機に、
木曜日のマルタ会などにも出席するよ
うになり、中条牧師夫妻とも親しく交わ
ることができたのです。中条先生からい
ろいろなお話しを伺っているうちに、そ
れまでは、人から受洗を勧められること
を煩わしく感じていた私でしたが、そろ
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そろ受洗しようかという気持ちになっ
たのです。
聞き手: なるほど。長い道のりを経て受洗を決
意されたわけですね。ところで、現在、
内丸教会で教会生活を送っていらして、
何か感じていらっしゃることはありま
すか。
佐 藤: そうですね。ひとつは、私の体が弱い
ことで、あまり教会のお役に立てていな
いということを痛切に感じています。
聞き手: そんなことはありませんよ。ずっと、
講壇にきれいな花を生けてくださって
いましたし、多くの方と親しくお話しい
ただいてきましたから。
佐 藤: あとは、親しくお話しできる同世代の
方が徐々に少なくなったのは淋しいこ
とですね。
聞き手: そうですね。親しくされていた方の何
人かが天に召されましたからね。…それ
では、予定していたよりもお時間をとら
せてしまいましたが、最後に、お好きな
聖句を教えていただけますか。
佐 藤: それなら、隣の部屋に掛け軸がかけて
あるのですが、私にとっては、テサロニ
ケの人への手紙第五章 16 節から 18 節が
最も心に響く言葉です。
「いつも喜んで
いなさい。
」から始まる聖句ですね。
聞き手: その言葉をいつも部屋にかかげて生活
されているのですね。きょうは、お忙し
いところ、本当に素敵なお話しをしてく
ださってありがとうございました。これ
からもよろしくお願いします。
佐 藤: いいえ。こちらこそよろしくお願いし
ます。
(聞き手 魚住英昭)
「事実,われわれドイツ人には,われわれの罪という問題をはっきりと洞察し,
そ こ か ら 当 然 の 帰 結 を 引 き 出 す と い う 義 務 が 一 人 一 人 に 課 せ ら れ て い る 。そ れ は わ
れ わ れ の 人 間 と し て の 尊 厳 に よ っ て 生 じ る 義 務 で あ る 。… 世 界 が わ れ わ れ に つ い て
ど う 考 え て い る か と い う こ と に も 無 関 心 で は あ り 得 な い が ,そ れ に も ま し て 重 要 な
こ と は ,困 苦 と 従 属 の う ち に あ る わ れ わ れ 自 身 の 生 活 が ,今 は た だ み ず か ら を 欺 か
な い 真 実 に よ っ て の み そ の 尊 厳 を 維 持 し 得 る と い う こ と で あ る 。… 勝 利 者 の 側 か ら
する有罪宣告は確かにわれわれの現実生活にとってきわめて重大な結果を及ぼ し,
政 治 的 な 性 格 を 帯 び は す る け れ ど も ,内 面 的 な 転 換 と い う 決 定 的 な 点 で は ,わ れ わ
れ の 助 け と な ら な い 。こ の 点 で は 自 分 を 相 手 と す る ほ か に 道 が な い 。哲 学 と 神 学 と
が 罪 の 問 題 の 深 み を 照 ら し 出 す 使 命 を 持 つ の で あ る 。」
(カール・ヤスパース『責罪論』より)
※ カ ー ル・ヤ ス パ ー ス は 、ド イ ツ の 精 神 科 医 、哲 学 者 。ハ イ デ ル ベ ル グ 大 学 教 授 。戦 前 、
妻がユダヤ人であったため、大学追放。妻とともに収容所に送致される寸前に米軍に
よ り 解 放 さ れ た 経 験 を 有 す る 。『 責 罪 論 』 は 、 敗 戦 後 、 復 帰 し た 大 学 で の 講 義 録 。
あとがき
第 5 号の発行から少々間が空いてしまいましたが、ようやく第 6 号を皆様のもとに
お届けできることとなりました。前回、宣言していたとおり、今回は、前号で敗戦ま
でを綴った日本基督教団史に続き、 教団戦後史の前段部分を中原牧師の執筆によって
お届けさせていただきます。理解を一層深めるために秋の教会協議会での発題にさら
に加筆したものです。そのほか、役員のひとりである湊さんの礼拝での証し、佐藤倫
子さんへのインタビューを含めました。お二人の個性、 お人柄を感じとっていただけ
( 2013.2.3
れば幸いです。
魚住)
「季報うちまる」編集委員:魚住英昭,神谷一夫
〒020-0021 盛岡市中央通一丁目 6-44
TEL(622)6688 FAX(622)2565
日本基督教団 内丸教会 牧師 中原真澄
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