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「インド共和国の日」とデリー・ダーバー

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「インド共和国の日」とデリー・ダーバー
「インド共和国の日」とデリー・ダーバー
はじめに
本 田 毅 彦
現在、インド共和国のカレンダーでは、一年のうち三日が国の公定休日として定められ、国をあげて祝意を表
すべき日とされている。一月二十六日の「共和国の日」、八月十五日の「独立記念日」
、そして十月二日の「ガン
ディー生誕記念日」、である。これらはいずれも、インド共和国国民にとって最も重要だとされる出来事が起こっ
た日付であり、それゆえに公定休日とされているわけだが、本稿においては、その三つのなかでもとりわけて「共
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和国の日」に注目し、その日付にまつわる経緯について考察を行ってみたい。
一九五〇年一月二十六日、インド国家は自らの憲法を施行し、それまでの、イギリス国王を元首とするイギリ
ス連邦自治領としての地位から脱して、インド国民を主権者とする共和国へと生まれ変わった。したがってそれ
は、インドという国が植民地として支配された過去から完全に訣別し、新たなありようを掴み取った日、である
- 109 -
はずだった。しかし一九五〇年以後現在に至るまで、同日においてインド共和国国民が、かつてその日に生じた
事態を想起し、自らのアイデンティティを確認してきたその仕方は、実は訣別しようとしたはずの過去との接続
を否応なく暗示するものでもある、と考えられる。
「共和国の日」
一九二九年の国民会議派大会
植民地インドがイギリス帝国から独立を達成していく過程で、主要なリーダーシップを発揮したのが、インド
国民会議派という組織だった。同派に連なる人々は一年に一回、数週間にわたって年次大会を開いた(開催場所
は、インド各地を巡る形がとられた)。各地の代表が一堂に会し、活動状況と今後の方針などに関して議論を行っ
たが、一九二九年にラホールで開かれた大会は、インド独立運動史上、際立って重要なイヴェントとなった。
第一次世界大戦を機に高揚したインドの民族解放運動は、それに対応する形で新たなインド統治法が施行され、
運動の指導層の一部が「ブリティッシュ・ラージ」(インドにおけるイギリスによる支配、の意味)によって再
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び取り込まれるなどしたせいもあり、一九二〇年代半ばにはその勢いを失っていた。しかし同統治法の施行状況
を評価するため、一九二七年にイギリス本国政府によって任命されたサイモン委員会(イギリス自由党に属する
政治家ジョン・サイモンを委員長としたため、このように呼ばれた)のメンバーの中に、当のインド人の代表が
一人も含まれていなかったことから、民族解放運動の側はこれを政治的イシューとすることに成功し、徐々に活
- 110 -
力を取り戻していった。そうした中、一九二九年十一月から十二月にかけて国民会議派の年次大会が開かれ、イ
ンドのイギリス帝国からの完全な独立を今後の運動目標とすることが決議された。さらに、翌年一月二十六日を
「独立の日」
として定め、同日には「自由なインドの旗」を掲げることがインド人一般に呼びかけられた。かくして、
この年以後、国民会議派支持者たちは毎年一月二十六日に彼らの旗を掲げ、インド独立の決意を新たにすること
になった。
一九四七年八月十五日、インド独立記念式典
日本の降伏により第二次世界大戦が終結してから二年後の一九四七年夏、インド植民地は、インドとパキスタ
ンに分離する形でイギリス帝国からの独立を達成した。パキスタンの独立記念式典は八月十四日、インドのそれ
は八月十五日に行われており、日本人にとっては思わせぶりな日付が選ばれたように見える。しかし、この日を
選んだのは、第二次世界大戦中は東南アジア戦域の連合国軍最高指揮官、そして一九四七年二月にインド副王兼
総督に任命されていたイギリス海軍軍人マウントバッテンであり、ムスリム連盟およびインド国民会議派の指導
層には、対日戦争勝利の日にこだわる意図は全くなかった 一。
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八月十四日から十五日に日付がかわる深夜、今回は一九三〇年一月二十六日とは異なり、ブリティッシュ・ラー
ジの完全な同意のもと、ニューデリーの制憲議会議事堂(現在の国会議事堂)において、ジャワハルラル・ネルー
が全世界に向けてインドの独立を宣言した。深夜の式典の模様はすべて、ラジオ放送をを通じてインド全土の多
くの人びとに伝えられた 二。十五日早朝、インド副王宮殿(現在の大統領府)の「ダーバー・ホール」において、
- 111 -
五百人に及ぶ賓客たち(各国大使、藩王、閣僚など)が見守る中、最後のインド副王兼総督マウントバッテンが
初代インド自治領総督となるべく宣誓し、さらにネルーが初代首相となるべく宣誓した。ついでネルー、マウン
トバッテンは議事堂へ移動し、居並ぶ議員たちを前にして自治領総督マウントバッテンと議会議長ラージェンド
ラ・プラサードがそれぞれ演説を行った。議場周辺にはすでに群衆が詰め掛けており、議場から副王宮殿へのマ
ウントバッテンの帰還には難渋が予想されたが、ネルーが議場の屋上から手を振って群衆に道をあけることを促
したため、事なきを得た。その際、群衆の中から「ジャイ・ヒンド(インド万歳)」
「マハトマ・ガンディー・キ・
ジャイ(マハトマ・ガンディー万歳)」「パンディット・ネルー・キ・ジャイ(パンディット・ネルー万歳)」の
叫びがあげられたほか、数多くの者たちが「マウントバッテン・キ・ジャイ」と叫ぶのが聞こえたという 三。
同日夕刻、マウントバッテン夫妻は、デリー市民たちの面前でインド自治領の誕生を告げる式典に参加するた
)
」へと赴いた(「プリンスィズ・パー
め、
儀典用の馬車に乗って副王宮殿から「プリンスィズ・パーク( Princes Park
)」と呼ばれることになる)。
ク」の中央部には巨大な「戦争記念門」があり、インド独立後は「インド門( India Gate
)」
King’s Way
副王宮殿から「プリンスィズ・パーク」に至るまでのルートは、インド軍部隊に華々しいパレードを行わせる
ことを主要な目的として、ニューデリー造営の際に設けられたものであり、「キングズ・ウェイ(
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と名づけられていた。幅員一四四メートルの直線道路が二キロメートル以上にわたって続いている。
マウントバッ
テン夫妻を乗せた馬車は、ルートの両脇に詰め掛けたデリー市民たちの熱狂的な歓呼の中、副王近衞騎兵たちに
前後を守られながら「キングズ・ウェイ」をゆっくりと進み、式典の会場である「プリンスィズ・パーク」内の「キ
ングズ・ウェイ・プラザ」にたどり着いた。既にネルーは、会場の中心部、国旗掲揚ポールの立つデイアス(高座)
- 112 -
付近で待機していた。式典では、インド軍三軍のパレードが予定されており、数日にわたってリハーサルが行わ
れ、観客席も準備されていた。しかし会場に集まったデリー市民の数が膨大であったため(マウントバッテンが
見たところでは二十五万人以上、一説によれば六十万人)、警備可能な範囲を超えていると判断され、中止された。
群集がデイアスのまわりをぎっしりと取り巻く形になっていたため、マウントバッテン夫妻を運ぶ馬車はデイア
スから二十メートルほど離れたところで身動きがとれなくなった 四。かくして、無数のデリー市民と、馬車に乗っ
たままのマウントバッテン夫妻が見守る中、ネルーによってインド国旗の掲揚が行われた(それに先立ってユニ
オン・ジャックが降ろされるはずだったが、マウントバッテンによれば、ネルーからの提案をうけてそうされな
かった)
。インド国旗が翻ったまさにその時、中空に輝かしい虹が現われたことに気づいたマウントバッテンが
その方向を指差すと、集まったデリー市民たちは歓呼の声を挙げ、これを吉兆と考えた 五。マウントバッテンは「虹
の色が、サフラン、白、緑の三色から成る新しい自治領旗にどれほど似ているか、これまで気づかなかった」と
報告書に記している 六。上空では独立を祝すためにインド空軍機が「フライ・パスト」を行い、市民たちの興奮
をさらに高めた。同日夜、インド全国民に祖国の独立を報告するネルーの演説がラジオを通じて流された。
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一九五〇年一月二十六日、インド共和国誕生
しかし、独立達成に際しての歓喜は、印パ分離にともなって生じたおびただしい流血、カシミールでの第一次
印パ戦争の勃発のせいですぐにかき消された。またインド国民は、独立達成のわずか半年後に、国父ガンディー
がヒンドゥー・ナショナリストの手にかかって暗殺されるという悲劇にまで見舞われた。しかし、インド統治法
- 113 -
に替えて独自の憲法を定め、イギリスからの独立を完全なものにするための努力は着実に続けられ、一九五〇年
一月二十六日、インド共和国憲法が施行された。これによりついに、インドの主権者は明確にインド国民となり、
インドの独立は完全なものになった。イギリス国王の代理人であるインド総督の地位は廃止され、代わって大統
領職が設けられた。しかしイギリス側が強く望んだため、イギリス国王のインド国家元首としての地位が否定さ
れたのにもかかわらず、インドはイギリス連邦の構成国としてとどまることになった。
憲法施行の日が一月二十六日とされたのは、国民会議派政治家たちの意図的な選択の結果だった。一九四七年
の独立達成後も、インド人たちにとっていわば偶然の日付だった八月十五日ではなく、一九三〇年以来の歴史を
有する一月二十六日こそが、インドの独立記念日として祝われていてもおかしくはなかった。しかし、一九四七
年八月十五日の喜びの記憶があまりにも鮮烈であり、また、一九四八年以降は、八月十五日が「独立記念日」と
みなされ、祝典が行われるようになったため、一月二十六日のかげが薄くなるのは避け難かった。こうした背景
からインド政府は、「本来の独立記念日」である一月二十六日を「憲法施行の日=共和国誕生の日」に定めて、
インド国民の記憶の中での定着を図ったのだった 七。
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インド国民・国家にとっての「共和国の日」の意味
インド共和国のカレンダー上では、八月十五日=「独立記念日」と一月二十六日=「共和国の日」が、「国
かくして、
父」ガンディーの生誕記念日をはさんで、インド国民がそれぞれの日に生じた重要な政治的変化の意義を毎年回
顧し、自らのアイデンティティを確認するための日、として対峙することになった。両日には、インド国家が主
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催するイヴェントが毎年繰り返されることになる。
「共和国の日」が誕生する前の、一九四八年および一九四九年の「独立記念日」= 八月十五日に
それでは、
は、 ど の よ う な イ ヴ ェ ン ト が 行 わ れ て い た の だ ろ う か。 同 日 の 式 典 の「 主 役 」 は 明 ら か に 首 相 ネ ル ー で あ り、
一九四七年のその日に行われた(行われるはずだった)パフォーマンスが再演されていた。すなわち、ネルーが
ラール・キラ(
「赤い砦」という意味。城壁に赤砂岩を用いているのでこの名がある。ムガール皇帝たちのデリー
における居城であり、セポイの反乱以後はインド軍の司令部所在地、部隊駐屯地として用いられていた)の外壁
に登り、城門前の広場に集まったデリー市民たちが見守る中、礼砲の轟きを背景にしてインド国旗を掲揚し、演
説を行っていた(演説はラジオを通じてインド全国に伝えられた。写真1を参照)
。演説の中では、インド独立
の意義が再度確認され、この一年間のインド国民国家の歩みについての回顧が行われ、将来への展望が語られた。
また、
小規模ながら、ラール・キラ前の広場を用いて、インド軍三軍の儀杖兵によるパレードが行われた(一九四九
年には、インド空軍機の「フライ・パスト」も実施された)。
一九四八年の独立記念日に関しては、独立直後に様々な悲劇が続いた(印パ分離にともなう殺傷、第一次印パ
戦争、ガンディーの暗殺)こともあり、その喪に服する意味でパレードの規模が小さなものにとどめられた、と
も考えられる 八。しかし、ここで注目したいのは、本来、こうしたイヴェントのために用いられることを想定し
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て設計されたはずの「キングズ・ウェイ」を、インド政府ないしネルーがあえて用いなかったことである。この
時点では、旧インド副王宮殿にあってイギリス国王の代理人であるインド総督が、なお国政上の地位を維持して
おり(既にマウントバッテンに代わって国民会議派の長老政治家C・ラージャゴパラーチャーリーが、その地位
- 115 -
写真 1 ラール・キラ外壁上の国旗掲揚場
に就いてはいたが)、
「キングズ・ウェイ」はその名称
からも、また構造上も、かつてのインド副王兼総督の
権力を想起させざるをえないものだった 九。さらにイ
ンド軍は、インド自治領の国軍となったはずではある
が、インドにおけるイギリス権力のために根底的役割
を 果 た し て き た 組 織 で あ り、 そ う し た 過 去 を 持 つ 者
たちに、「独立記念日」のイヴェントの中で華々しい
役割を与えることへのためらいが存在したのではない
か、と推測される。
しかし、一九五〇年以降、こうした「独立記念日」
をめぐるある種の気まずさは、幾分か緩和されること
になった。新たに誕生した共和国大統領(ラージェン
ドラ・プラサードがその地位に就いた)が
「共和国の日」
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の「主役」となり、
共和国首相ネルーが「独立記念日」
の「主役」としての地位を維持する、という形で、イ
ンド国民国家のアイデンティティを定期的に確認する
ための二つの重要なイヴェントを、分担して主宰する
- 116 -
一〇
。し
ことになったから、である。大統領の地位・職責はおおまかにはインド副王兼総督のそれを引き継いでおり、そ
の役割の一つは、たとえ形式的にではあっても、インド軍全軍の指揮権を保持する、というものだった
たがって「共和国の日」のイヴェントに際しては、インド軍の最高司令官である大統領は、インド軍部隊の将校・
兵士たちから忠誠の誓いを捧げられる地位に立つことになった。他方、インド軍にとっては、
ブリティッシュ・ラー
ジのもとでそれに与えられていた政治的役割の一つ、すなわち、大規模で勇壮なパレードを行い、デリー市民を
威圧し、魅惑するというパフォーマンスを、一九四七年以降二年間の逼塞の後、再び遠慮なしに行う機会が回復
一一
。パレードに際しては、最高司令官と軍部隊をつなぐもっとも
されることになった(初年度のパレードは「アーウィン・スタジアム」で行われたが、一九五一年以後は「キン
グズ・ウェイ」を用いることが通例化した)
重要な絆である栄誉(勲章)の授与も行われることになった。
他方、一九五〇年以降、「独立記念日」のイヴェントでは、ラール・キラの外壁におけるインド国旗の掲揚と、
首相ネルーのスピーチに焦点が絞られるようになり、軍部隊の役割は控えめなままにとどめられた(礼砲の発射、
インド軍三軍の儀杖兵たちによる小規模なパレードだけが行われた)。
興味深いことに、こうした日付をめぐるポリティクスは、インドの双生児国家パキスタンでも、あたかもイン
ドでの経緯をなぞるかのような形で再演されていた。一九四七年八月十四日、マウントバッテンは最後のインド
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副王兼総督としてカラチで行われたパキスタンの独立記念式典に参加し、彼に代わってムハンマド・アリ・ジン
ナーがパキスタン自治領の初代総督の地位に就任した(式典が終るとマウントバッテンは、インドでのもう一つ
の独立記念式典に参加するため、ニューデリーへ急いで戻った)。かくしてパキスタンは八月十四日を独立記念
- 117 -
日として祝い続けることになった
。しかし一九五六年以降、パキスタンは三月二十三日を国民の祝日に定め、
一二
「パキスタン・デイ」と称して祝い始めた。同日、パキスタン国家の最初の憲法が施行され、パキスタンはイギ
リス連邦内自治領の地位を脱して「パキスタン・イスラム共和国」となったから、である。三月二十三日という
日付の選択は、インドの「共和国の日」のいわれを意識して行われたものだった。インド国民会議派のカウンター
パートであるムスリム連盟は、一九四〇年三月二十六日、やはりラホールでの大会において、インド亜大陸に新
たなイスラム国家を建設することを誓う決議を採択していた。三月二十三日の「パキスタン・デイ」には首都イ
一三
。
スラマバードで大規模な軍事パレードが行われ、その式典の主宰者はパキスタン大統領である。また、同日には
勲章の授与も行われている
二〇〇九年一月二十六日前後の状況
それでは、現在、インドにおいて「共和国の日」と「独立記念日」のイヴェントはどのような形で行われ、イ
ンド国民はどのような思いでそれにかかわっているのだろうか。おおまかには、「共和国の日」が制定され、二
つの祝日の間で役割分担が行われるようになって固まったパターンが、そのままの形で継続している、と言って
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よい。ただし「共和国の日」に関して、歴史的な経緯から考えれば実はそちらこそが本来の意味での「独立記念日」
)
」(「王の道」の意味。
だった、という事情は忘れられがちであり、共和国インドの統合を、
「ラージパト( Rajpath
ニューデリーの他の主要道路と同様、イギリスによる植民地支配を受けたことを想起させる「キングズ・ウェイ」
という英語名は廃止され、「独立国家にふさわしい」それに改められた)におけるインド軍による華々しいパレー
- 118 -
ドを通じて確認し、強化するための日、として認識されるようになっている。
二〇〇九年の「共和国の日」は、緊張した雰囲気の中で迎えられた。前年十一月二十六日、パキスタン出身の
イスラム教徒過激派集団がムンバイの有名ホテルを襲撃し、人質を取ってたてこもるなどして数百人の犠牲者
を出した後、インド政府の治安機関によって鎮圧される、という事件が起こっていたからである。
「共和国の日」
のイヴェントは、実際にはインド国家の三軍が主体となって運営されており、インド軍の実力を国外に向けて誇
示する目的でも行われるため、過激派集団による襲撃・妨害の標的にされるのではないか、との懸念が強くもた
れていた。しかし、インド国家にとっては、国内的にはその統合を確認し、国外に向けては「国威を発揚する」
ための最も重要なイヴェントであり、襲撃を恐れてそれを中止するという選択はありえなかった。そのため、細
心の注意を払ってテロの芽を摘み取る努力が行われた。
妨害を狙った企ては効果的に抑止され、イヴェントの準備は順調に進んでいるように見えた。毎年、イヴェン
ト当日にラージパトに集まる観衆の数は数万人に達するが、そのすべてが、あらかじめ、政府機関の窓口から座
席指定のチケットを購入することを求められている(ラージパトを過ぎてラール・キラに至るまでの区間は、自
由に見物ができる)。チケット購入者には注意書きが渡され、午前七時から午前九時半(イヴェント開始予定の
半時間前)までには指定された座席に着いていること、衣服以外に身に帯びてよいのは基本的にチケットと財布
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だけであること、などが記されている。カメラを含めて機械類の持ち込みは一切許されない。
二十五日、
恐れられていた事態が「生じつつあった」ことを、インドのメディアは伝えた。
すなわち、「共和国の日」
のイヴェントに対しテロを行うことを目的としてインド国内に潜伏していたパキスタン人過激派二名が、二十五
- 119 -
日午前二時十五分、車で移動中にインド政府治安機関によって発見され、逃亡を図った。しかし、ニューデリー
から南東二十キロメートルほどに位置する町ノイダで追い詰められ、銃撃戦の末に射殺された、と。しかしこの
)
」であった可能性が
「事件」は、インド政府治安機関の一部による、いわゆる「捏造の遭遇( a fake encounter
高い。既に二十六日朝の段階で『タイムズ・オヴ・インディア』紙(インドの代表的な英字新聞の一つ)は、銃
一四
。「捏造の遭遇」とは、インド政府の治安機関に属する者たちが実行
撃戦の舞台になったと治安機関が説明する、「テロリストたち」が乗っていた自動車に、弾痕が全く見られない
のは不自然だ、との疑念を表明していた
していると疑われる戦術であり、裁判によっては処罰されえないと彼らがみなす容疑者たちを、何らかの名目の
一五
。
もとに「処分する」というものである。国際的な人権擁護団体であるヒューマン・ライツ・ウオッチは、インド
政府治安機関によるこうした「司法手続き外の殺人」を告発するレポートを最近発表した
ラージパトの全区間が、「共和国の日」の前日から車両通行止めになっていたのはもちろん、当日には、その
周辺数キロにわたって自動車での乗り入れが禁じられた(写真2、写真3を参照)
。したがって観衆の多くが、
指定された自分の席にたどり着くまでに四十~五十分以上歩いていたはずである。そしてラージパトに至るまで、
交差点・ラウンドアバウト(ロータリー)などの要所要所に砂袋を積み上げた監視哨が設けられ、武装警官たち
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が銃口を水平に構えて警戒していた。さらに、観衆のボディチェックを行うためのポイントが数多く設けられて
おり、おそらくすべての人が、自分の席にたどり着くまでに数回の検査を受けたはずである。前日に起こったパ
キスタン人過激派射殺事件のせいで、警戒は一層厳重になっていたのかもしれない。
式典の主役であるインド共和国大統領プラティバ・パティルは、多くの招待客とともにラージパトの中間付近
- 120 -
写真 2 ラージパト中間地点から大統領府を臨む(2009 年 1 月 25 日)
写真 3 ラージパト中間地点からインド門を臨む(2009 年 1 月 25 日)
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(ラージパトの西端には大統領府が、東端にはインド門が位置している)に設けられた貴賓席に導かれた。「共和
国の日」の式典には、「インドにとり重要な友好国」の元首が来賓として招かれるのが通例であり、二〇〇九年
の場合は、カザフスタン共和国大統領ナザルバイエフだった。二人の大統領は最前列に並んで着席した。式典の
開始が告げられ、インド国歌の演奏、二十一回の礼砲発射、国旗の掲揚と続いた。ついで行われたのは、軍や警
察などインド国家の武力機関に所属し、平時において際立った勇敢さを示す殊勲を立てた者たちに与えられる最
高位の勲章、アショーカ・チャクラの授与式だった。二〇〇九年の受勲者十一人はいずれも殉職者であったため、
未亡人たちがひとりずつ、大統領から感状と勲章を受け取った。ラージパトに沿って一定間隔で配置されたスピー
カーから、それぞれの殉職の経緯が観衆に伝えられた。会場は静まり返り、厳粛な雰囲気が漂う。殉職者のうち
六人は昨年十一月のムンバイ事件で落命した者たちだった。
いよいよ、メイン・イヴェントである三軍のパレードが始まる。軍事パレードの基本的なコンセプトは、兵士
たちの練成度・士気の高さ、彼らが保持する武器の威力を示し、観衆に感銘を与えることであろうが、インドで
もそれはそのとおりである。しかしインドの場合、それ以上に、とりわけ「共和国の日」のパレードに関しては、
多層的な政治的意味合いがこめられている、と思われる。幾十もの連隊が軍楽隊の演奏に合わせ、華麗なパフォー
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マンスを行いながら観衆の前を通過し、貴賓席の前で大統領に栄誉礼を捧げるのだが、それらの連隊はいずれも
非常に個性的である。というよりは、個性的な連隊を意識的に召集している、と考えるべきだろう。連隊ごとに
ユニフォームが異なるのはもちろんのこと、ヘッドギア(帽子などの被り物)の違いが印象的である。こうした
連隊はエスニック・コミュニティごとに編成されており(インド軍のすべてがそうした原理に基づいて編成され
- 122 -
ているわけではないのだが)、彼らのユニフォーム、ヘッドギアは出身エスニック・コミュニティの風俗・伝統
に依拠したものになっている。兵士たちの身体的特徴(身長、体格、風貌、肌の色、ひげの生やし方など)まで
もが、
連隊ごとに異なっていることが見てとれる。つまりこのパレードは、「多様さの中の統一」という、ガンディー
が唱えたインド国民国家の編成原理を体現するものであろうとしているわけである。
また、軍と(観衆によって代表される)国民の一体感を高めるための演出も、意識的に行われている。軍事パ
レードと言いながら、共産主義国家・全体主義国家で見られた(見られる)それのような、威嚇的な雰囲気は明
らかに抑えられている。式典の開始にあたり、大統領府の方向からヘリコプターが現われ、ラージパトの両脇に
延々と着座して待つ数万の観衆の上に、ごく軽い、オレンジ色の無数の微細なものを撒くように投下しながらゆっ
くりと飛び去っていくのだが、投下されるのは何と、マリーゴールドの花びらなのである。ジープに乗った三軍
の司令官たちが起立して大統領に対し栄誉礼を捧げて通過した後、最初に登場するのが騎駱駝部隊である。美麗
な軍装に身を包み、長槍を携えた兵士たちが一糸乱れずに駱駝を操る。観衆は騎乗する兵士たちを見上げる形に
なり、歩む駱駝の蹄の発する音が規則的に一帯に響き渡る。視覚的にも聴覚的にも、軍部隊の華麗さと力強さを
印象づける効果は抜群である。しかし、その直後に、作業員風の明るい制服を着た男たちの一団が、バケツと箒
を左右の手に持ち、駆け足で駱駝部隊を追いかけていく。ひどく真剣なだけにその仕草はかえってユーモラスで
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あり、説明されずとも観衆は、彼らが駱駝の排泄物の処理係であることに気付くから、会場は笑い声に包まれる。
緊張感とユーモアの絶妙な配合と言うべきだろう。また、ラージパトの舗装道路に最も近い芝生帯の上には野外
用カーペットが敷かれ、子供たちが自由に座ることが許されている(親たちは、後方の指定された座席に座る)。
- 123 -
インドの子供たちの脳裡には、この日の光景は、あたかもディズニーランドで演じられるパレードのように、楽
しく親しみ深い想い出として焼き付けられることになるのだろうか。
デリー・ダーバー
「共和国の日」のイヴェントの先駆・モデルとしてのデリー・ダーバー
こうした「共和国の日」のイヴェントには、実は、その先駆が存在していた。インド・パキスタンの独立以前、
インド亜大陸におけるイギリスの支配システムは、その根底では一貫して軍事的なものだった。しかしイギリス
人たちは、ブリティッシュ・ラージの運営にともないイギリス本国側に生じる「コスト」をできる限り抑えよう
とし、インドに駐屯するイギリス人部隊の規模も最小限にとどめていた。したがって、ラージの軍事的支配を裏
書するための主力は、少数のイギリス人たちを将校とし、膨大な数のセポイ兵たちによって構成されるインド軍
だった。インド軍は、ブリティッシュ・ラージにとって最終的な暴力装置であり、インド外の地域においてイギ
リスの帝国政策を実行する傭兵部隊だったが、平時にあっては、その存在自体が、ブリティッシュ・ラージの強
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大さや豪華さを体現し、ラージへの服従ないし忠誠をインド人一般から調達するためのメディアとして活用すべ
きものでもあった。十九世紀後半以降、第一次世界大戦前に都合三度(一八七七年、一九〇三年、一九一一年)
一六
。
行われた、いわゆる「デリー・ダーバー」は、そのような目的でインド軍が活用された、最も重要なイヴェント
だった
- 124 -
一八
。強大であるはずのインド軍が、デリー・
「ダーバー」とはペルシア語起源のウルドゥー語で、本来は「家」や「宮廷」に発する言葉だが、イギリス人
たちは「謁見式」の意味で用いた 一七。ムガール帝国時代に「ダーバー」の名で行われていた政治的儀礼をイギ
リス人たちがアレンジし、自らの目的のために活用したわけである
ダーバーの最大の見せ場として、豪華で壮麗なパレードを行い、それを会場の中心部分で目にした藩王たち、会
一九
二〇
。そしてデリー・
。こうしたイヴェントのコンセプトが、イ
場の周辺から参観することを許されたデリー市民たち、写真や映画などの視覚メディアを通じて間接的にそれ
に接した者たちなど、当時のインド人一般を、威圧し、魅惑した
ンド共和国の成立後、「共和国の日」のパレードのモデルとして活用された、と考えられる
ダーバーと「共和国の日」のパレードを繋ぐ役割を果たしたのは、最後のデリー・ダーバー(一九一一年)の直
後から開始され、第一次世界大戦を跨ぐ形で実行された、新帝都ニューデリーの造営であり、そして既に見た、
一九四七年八月十五日、すなわちインド独立の日にネルー、マウントバッテンによって行われたパフォーマンス
だった。
一九一一年のデリー・ダーバー
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一九一一年のデリー・ダーバーは、デリー市郊外の広大な錬兵場(デリー市中心部から見て北北西にあり、現
在はデリー大学のキャンパスに近い)を主要な舞台として行われた。錬兵場は全くの平地であり、巨大なイヴェ
ントを開催するのにふさわしい場所とみなされて選ばれたはずである。新たにイギリス国王位に就いたジョージ
五世とその妻メアリーをインド皇帝および皇妃としてインド臣民に披露し、忠誠を誓わせることがその目的だっ
- 125 -
た。インド全土からほぼすべての藩王、貴族、有力者たちが召集された。
三度目のデリー・ダーバーを行うことを発意したのはジョージ五世自身であり、その意を受けて巨大なイヴェ
ントを組織したのが、時のインド副王兼総督チャールズ・ハーディングだった。当時、インド統治に関して最も
論議をよんでいたのは、一九〇五年に行われたベンガル分割の是非であり、この措置のせいでベンガルのヒン
ドゥー教徒たちが過激化し、イギリス人を標的とする爆弾の投擲・暗殺が頻発している、と多くのイギリス人た
ちは考えていた。新国王は、自らがインドを訪れ、デリー・ダーバーにおいてインド臣民に対して何らかの「恩
恵」を発表することで、ベンガルとの「和解」を実現したい、と考えた。ハーディングは当初、ベンガル分割撤
回に反対の立場だったが、部下の一人からの提案を受け、デリー・ダーバーでベンガル分割撤回と帝都のデリー
への移転を同時に発表することを思いついた。カルカッタから帝都の地位をとりあげることで、ベンガルのヒン
ドゥー教徒たちがテロリズムを行ってきたことの成果だ、との印象を与えることなくベンガルの再統合を実施す
ることが可能になり、また、ベンガル分割後に東ベンガル州で多数派の地位を得ていたイスラム教徒たちは再統
合によってそれを失うことになり、不満を抱くだろうけれども、ムガール帝国の旧都であるデリーが英領インド
。
二一
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帝国の新都とされることにより、幾分か彼らの不満を宥められるはずだ、と考えたわけである
ダーバーの実施にあたっては、イギリス国王=インド皇帝および諸藩王たちが滞在する美麗で巨大なキャンプ
が二十五平方マイルの敷地に整然と設けられ、その数は二百三十三に達した。敷地の中央部には二つの巨大なア
ンフィシアター(半円形の雛壇式観客席)が築かれ、外側のそれは十万人の観衆を収容し、内側のそれは藩王た
ちをはじめとする貴顕のために座席を提供した。アンフィシアターの焦点にあたる部分にはデイアス(高座)が
- 126 -
あり、その中央に国王=皇帝と王妃=皇妃のための玉座がしつらえられた
。インド軍によるパレードは、ラー
二二
二三
。ダーバーの主
ル・キラを出発し、ジャマー・マスジッド(デリーを代表する巨大なモスク)の前を経て北上し、インド副王兼
総督滞在所の前を通過し、ダーバー会場中心部のデイアスに至る、というルートがとられた
要な政治目的、すなわち、イギリス国王=インド皇帝自らがベンガル分割撤回と帝都のデリーへの移転を発表す
二四
。
るという計画も、滞りなく実行された。一九一一年十二月十二日にラール・キラで催された宴会の場でそれが発
表されると、イギリス人たちの目論見どおり、インド社会には劇的な空気の変化が生じた、とされる
もちろんそれだけに注目するのは当をえないであろうが、一九一四年に第一次世界大戦が始まった時、インド
統治がそれなりに安定していたことに関して、一九一一年のデリー・ダーバーの効用は小さなものではなかった、
と考えられる。すなわち、開戦後、イギリス政府はインドに駐屯していたほぼすべてのイギリス人部隊をインド
から呼び戻して戦場に展開させることができただけでなく、多くのインド人兵士たちをインド以外の戦域で戦わ
せることもできた。ヨーロッパおよび中東において戦闘に従事させられたインド人兵士たちが故郷へ送った大量
二五
。
の書簡を調査したデイヴィッド・オミッシの研究によれば、兵士たちは、イギリス国王=インド皇帝ジョージ五
世その人に対する深い愛着と忠誠心を語ることが多かった
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コロネイション・パーク
一九一一年のデリー・ダーバーが行われた会場は、現在は「コロネイション・パーク」と名付けられ、それな
りに緑豊かな(乾燥した北インドの平原にあることを考えれば)公園となっている。週末には多くのデリー市民
- 127 -
が集まり、それぞれの仕方でリラックスしているが、彼らにとっては、この場所がかつてどのような用いられ方
をしたのかは、ほとんど関心の対象ではないように見える。
公園の中心部には、三十メートル四方の基底部を持つ、それほど丈の高くない階段状のピラミッドが築かれて
いる。ピラミッドの頂上部分は切り取られ、十メートル四方の平面になっており、十数メートルほどの高さのオ
ベリスクが屹立している(写真4を参照)。オベリスクの下部には、このモニュメントのいわれを記した碑文が
刻まれており、その内容を和訳すると次のようになる。「この地において、一九一一年十二月十二日、インド皇
帝ジョージ五世国王陛下は、王妃すなわち皇妃と共に、荘厳なるダーバーの中で、御自ら、インドの総督たち、
藩王たち、民衆に対して、一九一一年六月二十二日にイングランドで祝われた御身の御戴冠をお告げになり、ま
た彼らからの忠良なる臣従と忠誠の誓いを御嘉納あらせられた」(写真5を参照)
。
ピラミッドの南側には、数メートルの高さの鉄柵によって囲われた、百メートル四方の奇妙な一角がある。柵
の外からはまるで墓地のように見えるのだが、それはまさしく、「ブリティッシュ・ラージの墓地」とも称すべ
き場所である(写真6を参照)。この「墓地」は、公園の特別な部分としてデリー市によって管理されているよ
うであり、ピラミッドに面する位置にゲートが設けられ、かぎをかけることもできるようになっている。しか
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し、常駐の管理人はいない。ゲートを開けて敷地に入ると、まず目に入るのは、純白の大理石でできたジョー
ジ五世の巨大な立像であり、赤砂岩でできた台座の上に置かれている(写真7を参照)。このジョージ五世像は、
かつてはインド門の真東に、その視線が門をくぐってインド副王宮殿を見つめるような形で設置されていたが、
一九七三年にこの地に移された。そしてそのジョージ五世像を囲むように、同じく赤砂岩でできた台座が二十個
- 128 -
近く配置され、その上にはイギリス人とおぼしき人物たちの白大理石の像が置かれている(写真8を参照)。し
かし奇妙なことに、あるはずの像が見当らない、つまり台座だけのものが全体の半数を超えている。また、残っ
ている全身像・胸像の状態も、ジョージ五世のそれに比べるといかにも劣悪である。それぞれの像についてのい
われ書きは一切無いため、残っている像が誰をかたどったものなのか、かつて誰をかたどった像がそこにあった
のかは、確認することが困難である。それなりに整備されていた時期もあったのかもしれないが、現在は、敷地
の多くが雑草に覆われ、野犬たちのねぐらになっている。訪れる人はほとんどいないようである。
おそらく、インド独立以後、デリー市各地の要所に据え付けられていた、ブリティッシュ・ラージ時代の支配
者たち(副王、総督、行政官、司令官、軍将校などの地位にあったイギリス人たち)をかたどった像が、独立イ
ンド政府ないしはデリー市当局によって撤去され、この地に集められたのであろう。かつての異邦人支配者たち
の像は、デリー市民たちにとって愛着の対象ではありえず、朽ち果てるままにされている、と想像される。多数
の像が消えてしまったのは、それらが高価な白大理石でできていることから、いずこかへ運ばれてリサイクルさ
れたのではないか。ソヴィエト共産主義政権崩壊後のレーニンやスターリンの像、イラク戦争後のサダム・フセ
イン像のように、引き倒され、踏みつけられ、唾を吐きかけられて破壊される運命を辿らなかった(と思われる
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のだが)のは、独立後のインドの人びとの、かつての支配者への感情の幾分かを示しているのかもしれない。
いずれにしても、デリー・ダーバーは、興隆する現代インド社会にあって、その政治的統合を担う重要なイヴェ
ント(
「共和国の日」のパレード)のためにコンセプトを提供しただけでなく、歴史的観点から考えれば、独立
- 129 -
写真 4 コロネイション・パークのピラミッドとオベリスク
写真 5 オベリスク下部に刻まれた碑文
- 130 -
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写真 6 ピラミッドから「墓地」
を臨む
写真 7 ジョージ五世像
写真 8 「墓地」の全景
- 131 -
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後の国民国家としてのインド共和国と、植民地国家としての英領インド帝国を繋ぐ最も重大な絆が、政治史の観
二六
二七
。
。ただし、今日、そうしたイヴェントが実施された場所に足を運ぶ人びとは、その場
点からは捨象されがちな(とりわけインド近現代史に関しては)、平時の軍隊の社会的機能であることを示唆し
ているように思われる
所の名称(
「コロネイション・パーク」)のいわれを、ほとんど気にもとめてはいないようなのだが
、川島真・貴志俊彦編『資料で読む世界の8月15日』山川出版社、二〇〇八年、
本田毅彦「インドの独立記念日」
註記
一
二二一―二二三頁。
五
四
三
Rear-Admiral Viscount Mountbatten of Burma’s personal report No. 17, 16 August 1947, op. cit.
‘ The critical masses
’ , Hindustan Times, 14 August 2007.
Philip Talbot,
Alan Campbell-Johnson, Mission with Mountbatten (London: Robert Hale, 1951), pp. 160-161.
Rear-Admiral Viscount Mountbatten of Burma’s personal report No. 17, 16 August 1947, IOR: L/PO/6/123.
二 H. V. Iengar,
‘ Recalling the historic midnight scene
’ , The Hindu, 15 August 1972.
六
結果的に「共和国の日」は、独立以前の苦難と独立の喜びを振り返るための日、と言うよりは、共和国憲法にこめら
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七
れている理念がどれほど実現しているかを反省し、その実現に向けて再度、決意を固めるための記念日、として位置
付けられていくことになった。
八 『
マンチェスター・ガーディアン』紙は、当日の雰囲気は「いきいきとした祝祭というよりは、抑えられた内省」の
- 132 -
九
それだった、と伝えている。
The Manchester Guardian, 16 August 1948.
イ
ンド共和国大統領の国政上の地位・役割は、イギリスにおける国王のそれに近い。たとえばインド共和国大統領
p. 554.
(eds.), Oxford Dictionary of National Biography, Vol 39 (Oxford: Oxford University Press, 2004),・
’ , in H. C. G. Matthew and Brian Harrison
Albert Victor Nicholas, first Earl of Mountbatten of Burma
‘ Mountbatten, Louis Francis・
マ ウ ン ト バ ッ テ ン は 一 九 四 八 年 六 月 二 十 一 日 に イ ン ド を 離 れ て い た。 Philip Ziegler,
一〇
The Times of India, 28 January 1950 ; 26 January 1951.
は、インド国会下院の選挙で第一党となった政党の指導者を大統領府に招き、組閣を要請する。
一一
‘ 1947, first-hand
’ , The Hindu,
Shashi Tharoor,
二
〇〇三年三月二十三日の「パキスタン・デイ」のパレードに際して、イスラマバードのマルガラの丘から四発の
15 August 2004.
のカラチではヒンドゥー教徒住民が多数を占めていたから、だった。
に比べ、デリー市民たちは爆発的な喜びを示した、との証言を残している。その理由は、インド・パキスタン分離前
夫とともにカラチ、ニューデリー双方で独立記念式典を目撃したが、カラチ市民の雰囲気が抑制されたものだったの
一二 『
シカゴ・デイリー・ニューズ』の特派員だったフィリップス・トールバットの妻、ミルドレッド・トールバットは、
一三
真実の顔――パキスタン発=国際テロネッ
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ミサイルをムシャラフ大統領兼陸軍参謀総長めがけて発射する計画があったが、事前に情報が漏れたため、パレード
は中止された。アミール・ミール(津守滋、津守京子訳)
『ジハード戦士
トワークの内側』作品社、二〇〇八年、六〇―六一頁。
- 133 -
事件の
「詳細」
が明らかになってくると、
不自然な点はさらに増した。「容疑者」
The Times of India, 26 January 2009.
‘ Indian police killing recorded
’ , Guardian Weekly, 14 August 2009.
Gethin Chamberlain,
一四
二名は、ある喫茶店に立ち寄り、ある人物にデリーへの道順と距離を尋ねたが、その尋ねられた人物は偶然にも、あ
る巡査と親戚関係の「情報協力者」だった、と警察は説明した。しかもその「情報協力者」は、
「容疑者」たちのカ
バンからAKライフルの束が突き出しているのを「目敏く」見つけ、警察に通報した、と。 The Times of India, 27
一五
キ
ルナニは、ブリティッシュ・ラージの統治手法の本質について、次のように述べている。「ラージは、社会の平
January 2009.
一六
穏の維持に関して強制力にのみ頼ることはできなかったし、諸利害の巧妙な操作にだけ頼ることもできなかった。そ
Sunil Khilnani, The Idea of India (London: Hamish Hamilton,
れは世論を支配しなければならなかった。ラージは、これ見よがしの見世物、帝国の諸ダーバー、そして儀式的な
諸行進を行うことにより、世論を支配したのだった。
」
一八七七年のデリー・ダーバーについては、バーナード・S・コーン「ヴィクトリア朝インドにおける
1997), p. 22.
権威の表象」
、 E・ ホ ブ ズ ボ ウ ム / T・ レ ン ジ ャ ー 編( 前 川 啓 治、 梶 原 景 昭 他 訳 )『 創 ら れ た 伝 統 』 紀 伊 国 屋 書 店、
一九九二年が卓越した分析を行っている。一九〇三年のデリー・ダーバーには九万人、一九一一年のそれには五万人
荒
、一九九三年、二一四頁。
松雄『多重都市デリー』中央公論社(中公新書)
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の将兵が参加した。飯塚キヨ『植民都市の空間形成』大明堂、一九八五年、一三九頁。
一七
一八 十
七 世 紀 半 ば に ム ガ ー ル 帝 国 を 訪 れ た フ ラ ン ス 人 旅 行 家 フ ラ ン ソ ワ・ ベ ル ニ エ は、 ダ ー バ ー に「 ア ッ サ ン ブ レ
( assemblée
)
」の訳語をあて、次のような記述を残している。
「宮廷に居るウマラー[ムガール帝国の高官たち]は全
- 134 -
アッサンブレ
アッサンブレ
員、一日に二回、御前集会に出席して、王に挨拶することを義務づけられ、これを怠れば、罰として俸禄の一部を削
られることになっています。御前集会は朝十時から十一時頃と、夕方六時に行なわれ、朝の部では王が裁判をします。」
ベルニエ(関美奈子訳)
『ムガル帝国誌(一)
』岩波書店(岩波文庫)
、
二〇〇一年、
二八一頁。イギリス人たちによる「ダー
バー」転用の最初の例は、セポイの反乱が終息したのちにインド総督キャニングが行なった「一連のツアー」だった。
Barbara D. Metcalf and Thomas R. Metcalf, A Concise History of Modern India,
それは「ムガールの慣行の表面的な模倣」であり、イギリスの支配体制において「藩王たちだけでなく、地主たちを
も承認しようとするものだった」
。
セポイの反乱後、ムガール皇帝の権力とその
Second Edition (Cambridge: Cambridge University Press, 2006), p. 105.
正統性を表現する諸シンボルが廃止され、非聖化されたことによって生じた真空を埋めるため、イギリス人たちはム
Khilnani, op. cit., p. 120.
デ
リーという町の軍事的性格も、ムガール帝国時代以来のものだった。ベルニエの証言に従えば、ムガール帝国の
ガール帝国時代のダーバーの海賊版を作製したのだ、とキルナニは指摘する。
一九
「統治にかかわる特別な事情、すなわち王が王国全土の唯一の所有者であるという事情があり、そこから必然的に出
てくる一つの結果として、デリーやアーグラのような町は、町全体がほとんど軍隊の需要だけで暮らしを立てて」い
る。デリーは「本来、軍隊の基地であり、何もない野原よりはましで、便利に出来ているだけです。」ベルニエ『ム
ガル帝国誌(一)
』二八八―二八九頁。皇帝による閲兵自体も、
ムガール帝国時代のデリーで頻繁に行われていた。「
[ヤ
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ムナー]川と[ラール・キラの]城壁の間にはかなり広く長い砂地があり、普段は象を戦わせたり、しばしばウマラー
つまり貴族や、ラージャーつまり異教徒諸侯の軍隊の閲兵が、宮殿の窓からご覧になっている王の御前で行なわれま
す。」ベルニエ(倉田信子訳)
『ムガル帝国誌(二)
』岩波書店(岩波文庫)
、二〇〇一年、一五頁。
- 135 -
二〇 一九〇二年から一九〇三年にかけての冬、オックスフォード大学出身のイギリス人たちで構成された「オックス
フ ォ ー ド・ オー センテ ィク ス( Oxford Authentics
)
」と 称す るク リケッ ト・チ ーム が、 イ ン ド で ツ ア ー を行 って い
た。彼らはその途中でデリー・ダーバーを目撃し、次のような記述を残した。ダーバーに参加するマハラジャたち、
インド人の平民たちは、
「完全に西洋的な祝祭の形式である、軍隊の規律、イギリス的手法、イギリス的警備を内容
とする秩序」によって「尊敬と畏怖の静寂」の中で押し黙らせられていた。
「このようにして学ばれ、このようにし
て印象づけられた秩序に関する教訓こそが、インドにおける我われの支配を正当化する」、と。 Ramachandra Guha,
キルナニは、
A Corner of a Foreign Field: The Indian History of a British Sport (London: Picador, 2002), pp. 101-103.
デリー・ダーバーと「共和国の日」のパレードの間の直接的な継承関係を次のように表現している。デリー・ダーバー
で行われた「諸パフォーマンスは、その後、インド亜大陸において権威が表現される仕方を変化させた。そうしたア
Khilnani, op. cit., p. 121.
イディアは毎年一月二十六日にインド国家によって催される共和国の日のパレードの中で生き続けており、それは最
も鮮明な――そしてもっとも皮肉な――ラージの儀礼的痕跡である。
」
二一 Katherine Prior,
‘ Hardinge, Charles, first Baron Hardinge of Penshurst
’ , in H. C. G. Matthew and Brian Harrison
(eds.), Oxford Dictionary of National Biography, Vol. 25 (Oxford: Oxford University Press, 2004), pp. 179-180.
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二二 Francis Robinson,
‘ The Raj and the Nationalist Movment 1911-1947
’ , in C. A. Bayly (general editor), The Raj:
デリー・ダーバーでは、定められ
India and the British 1600-1947 (London: National Portrait Gallery, 1990), p. 350.
ていた詳細なプロトコールを厳密に守ることが藩王たちにも求められた。バローダ藩王国のマハラジャは、ジョージ
五世に謁見した際、他の藩王たちのようにイギリス国王=インド皇帝に敬意を表して後退りに退場することを拒否し
- 136 -
たため、深刻なスキャンダルを生じさせることになった。ヴェド・メータ(植村昌夫訳)『ガンディーと使徒たち――「偉
大なる魂」の神話と真実』新評論、二七五頁。
二三 飯塚キヨ、前掲書、一三四頁。
二四 ただしハーディング自身は、この後、悲惨な運命に見舞われた。一九一二年十二月までにインド政庁は首都移転の
準備を終え、ハーディングは同月二十三日にデリーの鉄道駅に到着した。演出効果を期待してハーディングは妻とと
もに象に乗り、ラール・キラへ赴こうとした。その日のデリーは街全体が祝祭気分に満ちており、ハーディングの指
示に基づいて警護のレヴェルも下げられていた。ラール・キラ前の大通りにさしかかった時、ベンガル人テロリスト
一名が、針を仕込んだ爆弾をハーディングに投げつけた。従者一名が即死し、ハーディングは背中から首にかけて深
Katherine Prior, op. cit., p. 180.
い裂傷を負った。早期に回復したものの、ハーディングの統治官としての自信は、インド人たちの彼に対する「忘恩」
によって蝕まれることになった、という。
二五 David Omissi, The Sepoy and the Raj: The Indian Army, 1860-1940 (Basingstoke, Hampshire, and London:
は、二〇〇九年一月二十六日付け『タイムズ・オヴ・インディア』紙に掲載された「祝
Rashi Joshi
Macmillan, 1994), pp. 103-111.
二六 ジャーナリスト
おう」と題する記事の中で、職場からの帰路、共和国の日のパレードのリハーサルに遭遇した際に彼の心に生じた思
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いについて、語っている。
「行進は、すべての、そしておのおののインド人が、我われのために生き、死んでくれる
兵士たちに対して感謝の念を捧げるための機会を意味している。様々な兵士たちが人びとのために数キロメートルを
行進しているというのに、彼らに対する我われからのお礼といえば、この様なのだ! 立ち止まって兵士たちの列を
- 137 -
二七
流し目で見ようとすらしない。私の傍らで拍手を送っていたのは、ゲットーからやってきた人びとであり、不十分な
教育、仕事、財産しか持たない者たちだった。彼らはその場に家族といっしょにいた。子供たちは目の前を通り過ぎ
て行く騒音、動物たち、兵士たちを楽しんでいた。彼らはこの日を心から大切に思っており、自宅で寛いでいる方が
いいと考える、教育を受けた彼らの同国人たちとは異なり、手にした旗を振り、スローガンを叫んでいた。彼らの多
くがこの日の意味や重要さすら知らないのは確かだ。人びとよ、起き上がれ。これはほかの祝日とはちがうのだ。我
われはクリスマスやヴァレンタインの日をあれほど熱心に祝う。共和国の日にも同じ熱心さを持とう。家にいてはい
けない。人ごみなど気にせず、子供たちを連れ出し、インド門へ行け。そのためにこそ、行進は行われるのだ。あな
たもまた、体内をアドレナリンが流れるのを感じることになると賭けてもいい。あれほどの愛国心と同胞愛を感じる
のは素晴らしいことだ。あなたの子供たちが、その上をたどることになるような足跡を残せ。」 The Times of India,
26 January 2009.
実
『エコノミスト』誌によれ
は「ダーバー」は、インド以外の場所で、ほぼそのままの形で現在も行われている。
ば、二〇〇八年、ナイジェリア北部のカノウ地方でダーバーが催され、その主役は同地の「エミール( emir
)」だった。
カノウに住む人びとは、同地のダーバーがその規模と華やかさの点で西アフリカ随一だ、と誇っている。ナイジェリ
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ア北部にイギリス人たちが姿を現わした時、同地方では複数のエミールが戦士国家をコントロールしていた。彼らは
政治的、宗教的権力の双方を有する支配者だった。イギリス植民地時代を経て、現在、カノウ州の政治権力は選挙を
通じて選ばれた知事が保持しているが、カノウのエミールは今なお大きな道徳的権威を行使している。エミールの従
者の一人によれば、ダーバーはカノウの宗教と伝統を明らかにするものであり、
「ダーバーの意義は我が民族を一体
- 138 -
化させ、共に喜び、神に感謝を捧げることである」
。また、かつて同州政府の要職に就いていた作家は、「ダーバーは
我々の人生経験の総合、我々の文化の総合だ」
、と記者に語っている。しかし、カノウのダーバーの来歴を振り返れば、
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そ れ が、 イ ギ リ ス 人 た ち が 同 地 を 統 治 す る た め に イ ン ド で の 経 験 を 踏 ま え て 案 出 し、 活 用 し た「 創 ら れ た 伝 統 」 で あ
ることは明らかである。‘ History on horseback
’ , The Economist, 18 October 2008.
- 139 -
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