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追悼・松井やよりさん

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追悼・松井やよりさん
たちに伝えることに最後の最後まで力を尽くされました。
特別寄稿
10月なかばには、アジア女性資料センターをはじめ、松井さんが関
追悼・松井やよりさん
わっていたNPOの会員たち全員に「つらいお知らせ」が届き、自分の
薮 玲子(市民科学研究室運営補佐)
元朝日新聞の記者で、アジア女性資料センター代表の松井やよりさ
病状を説明し、「女たちの戦争と平和資料館」の構想について話し、こ
れを実現してほしいというメッセージが伝えられました。
んが 200 年12 月27 日1 時16 分に亡くなりました。昨夜(12 月28 日)、
10月末には、「松井やよりさんの健康回復を願う友人たちの集い」
その訃報が朝日新聞の夕刊に載っていると上田さんに教えてもらい、
が開催されました。その集いはまったく素晴らしいものでした。全国か
驚きました。つい1週間ほど前に、バウネットのメンバーに会った時、
ら集まった大勢の人たちを前にして、松井さんはいつものあの魅力的
「かなり悪いらしい」と聞いていたのですが、これほど早く逝ってしまわ
な笑顔をふりまき、淡々と自分の病状や自分の思いを伝え、夢を語り
れるとは・・・。
ました。その後は、これまで松井さんと関わりのあった大勢の人たちが、
ずいぶん前から滝光子さんから松井やよりさんのことは聞いていま
松井さんの何かちょっとした楽しいエピソードを次から次へとスピーチ
したけれど、5年ほど前にアジア女性資料センターの会員になって以
をしました。学生時代の友人や、職場の同僚、上司、NPOで一緒に活
来、通信を通して、女性問題、特にアジアの女性の問題に精力的に取
動した人たちなどが、微笑ましいエピソードをひとつずつ披露し、笑い
り組んでおられる松井さんの仕事ぶりに接してきました。
上戸の松井さんはそれらのスピーチを聞きながら笑い転げ、それを見
2000年の12月には松井さんが中心となって、東京の九段会館で
て、まわりの人たちもつられて笑い、心からリラックスしてほんとうに素
「女性国際戦犯法廷」を開催し、戦争時における性暴力の犯罪性を
晴らしいアットホームなひとときを過ごしました。
全世界に訴え、今も繰り広げられている戦時性暴力の輪を断ち切ろ
あまり人が大勢なので一会場に入りきれなくて急きょ2つの会場が用
うとされました。それは昭和天皇をはじめ、日本軍のトップの戦争犯
意され、途中で会場を入れ換わったのですが、ビデオで様子を見るほ
罪を裁く法廷でした。会場には第2次世界大戦の時の元慰安婦の
うの会場には、ブッフェ形式でお寿司やサンドイッチやケーキなどが
人たちが大勢集まったほか、元日本兵だった方も証言され、戦争の怖
用意され、それを食べながらスピーチを聞き、会場には笑いが渦巻き、
さ、残酷さに心が痛みました。私はこの時、ほんの1ヶ月間ほどボラン
それは、まるで結婚式みたいな雰囲気でした。このスピーチの人選な
ティアで関わったのですが、海外では大きく報道された「女性国際戦
どはすべて松井さんが取り仕切ったそうです。
犯法廷」が、主催国である日本でほとんど報道されていないことに対し
今思うと、スピーチする人には「松井やよりを笑わせるように」とリクエ
て、他国の人たちに「どうして日本ではこれを報道しないのか?」と聞
ストがあったのではないか、それをしたのは松井さんご自身ではない
かれ、恥ずかしく情けなく思いました。
かとさえ思うくらいです。活動家であった松井やよりさんの人間的な微
その後、松井さんは右翼の標的となり、さまざまな嫌がらせを受けま
笑ましいエピソードの数々は、聞いている人に「どんなに厳しい状況
した。「女性国際戦犯法廷」の取材をしたNHKが、その報道番組をず
でも、希望をもって乗り越えていこう」という力を与えてくれるのでした。
たずたに改ざんしたのも、右翼の脅しがあったからと言われています。
松井さんの考え方、行動、生き方の原点が、それらのエピソードを聞く
圧力をかけたのは、右翼だけではないだろうと思われます。
ことによって、垣間見れるのでした。
2001年8月15日に、平和遺族会の大会で行なわれたノーマ・フィ
死ぬ間際に、こんなに心温まる楽しいイベントを自ら演出して、魅力
ールドさんの講演を聞いた後、飯田橋から御茶ノ水まで平和行進をし
的な笑顔を振りまいて多くの人たちを魅了し励ました松井さんのすご
た時、たまたま来ていた藤田康元さんに「これから松井やよりさんの講
さには感動しました。
演を聞きに行くけれど、一緒に行かない?」と誘われ、出かけました。
松井さんは力強い口調で、しかもユーモアを交えて、いかに日本のマ
スコミがふがいないかを訴えられました。ご自分も朝日新聞社にいらし
『週刊金曜日』12 月 19 日号には松井さんのインタビュー記事ととも
に、いつもの、あの魅力的な松井さんの笑顔が載っています。
松井さんの構想された「女たちの戦争と平和資料館」は、慰安婦問
題に関する内外の文書、写真、映像などの歴史的記録を一挙に集め
て、ずいぶん干されたようでした。
松井さんの話が終った時、会場のまわりで右翼が騒ぎだし騒然とし
て保存すること、米国の反テロ戦争や各地での武力紛争などをテーマ
た雰囲気に包まれ、会場内の聴衆たちが松井さんの周りに人垣を作り、
に、いかに反戦や紛争解決に貢献できるかを話し合い行動する平和
警察官の警護の中を足早に会場を脱出したことも思い出されます。
の拠点とすること、そして次世代へと継承するとともに、教育のために
2002年の10月はじめ、松井さんはアフガニスタンを訪問中に体調
を崩し、現地の医師からすぐに帰国して検査を受けるようにと言われた
そうです。その時、死の予感がして眠れないでいた時に、「女たちの戦
争と平和資料館」の構想が湧き上がり、松井さんは帰国後すぐにその
実現に向けて働きはじめました。医師の診断によると末期の肝臓ガン
で余命はわずかということでした。それを聞いてうろたえる人たちに対
して、「私にはやることがいっぱいあります。泣いている時間などありま
せん」と叱咤激励し、精力的に人に会い、自分の思いや夢を多くの人
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役だてることを目的としたものです。
3年後のオープンをめざして、資料館建設準備委員会が活動を開
始します。
松井やよりさんのご冥福を心より祈ります。■
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