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ドイッにおける保守革命論とC ・ シュ ミット

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ドイッにおける保守革命論とC ・ シュ ミット
螂
論
説
谷
■
喬
ドイツにおける保守革命論とC シユミツト
はじめに
シュミットの自由主義批判1︿政治﹀の世界と︿娯楽﹀の世界
保守革命論の精神構造−保守的知性の反乱
一
二
三 危機の処方箋−一九三ニー三三年のシュミット
四 保守的知性の敗北ーシュミットの頒歌
夫
㈲
は じ め に
現在、保守主義の意義を再検討するに際して、﹁ドイツ保守革命論とカール・シュミット﹂というテーマにどれ
ほどの意義があるのか自明ではない。戦後︵西︶ドイツの保守主義を考える場合、少なくとも次の三点が条件となっ
︵1︶
たが、それでもデモクラシーの正当性は受容されざるをえなかった。保守主義は、自由主義経済体制を擁護し共産
どることになった。権威的、保守主義的メンタリティーは社会に残存し、CDUはやがて保守政党を名乗るに至っ
東西冷戦によって、保守主義は共産主義革命への軍事的対抗と、西側自由−民主主義体制への同化という路線をた
て、伝統的なものであれ革新的なものであれ、保守主義への評価は大きな損傷を受けた。第三に、ドイツの分断と
卦 た。第一に、R・ダーレンドルフが述べたように、ナチズムのもたらした﹁社会革命﹂によって、伝統的保守主義
城 のよってたつ社会的基盤︵すなわちプロイセンの封建的−権威的な大土地所有を典型とする階級構造︶が解体され
ウ てしまった。第二に、一九四四年七月二〇日のヒトラー暗殺未遂計画はあるものの、ナチズムを許容したことによっ
㏄
保
繍
輝
捌
褐
︵2︶
行進する﹂ことだと述べている。
π 主義と戦う者となったのである。一九六八年、CSUのF・J・シュトラウスは、保守主義とは、﹁進歩の先頭で
財
だが連邦共和国が経済強国化してくるにつれて、権威的、保守主義的心情も徐々に社会の前面に出没してくるこ
とになった。一九八六年に開始されたいわゆる﹁歴史家論争﹂で、E・ノルテはナチ時代がドイツにとって﹁過ぎ
餅 去ろうとしない過去﹂であることに苛立ち、またM・ステユルマーは連邦共和国が歴史意識のない国であることを
鵬
︵3︶
嘆いた。そしてJ・ハーバーマスによれば、再統一とマルク・ナショナリズムの台頭、難民問題とネオ・ナチ活動
のなかで、保守派知識人の間に、戦後連邦共和国の四〇年こそ﹁ドイツ特有の道﹂であり、それは︿アデナウアー
︵4︶
のライン同盟﹀にすぎないのではないかという意識が生まれはじめているという。そうであるとすれば、保守派の
歴史意識は一挙に帝政ドイッとの連続性に向けられることになるのであろうか。
シュミットが連邦共和国の公法学界に大きな影響を及ぼしていることはよく知られている。といっても、現在の
保守派が﹁保守革命﹂思想を、古い衣装ケースから取り出すことになるのかどうか、そうだとしてもいかなる変奏
によってであるかは解らない。しかし、もし保守派がその歴史的アイデンティティを戦前に求めるのであれば、ナ
保守的知性の反乱
チと対抗した﹁保守革命﹂論は、﹁七月二〇日﹂とともにその拠り所の一つとなりうるものであろう。
一 保守革命論の精神構造
︵5︶
ここで保守革命論とは何をさすのか、まずこの問題に暫定的にせよ解答を与えておかねばならない。保守革命と
いう思想潮流に、戦後逸早く光を当て、政治・社会思想史上の類型概念にまとめあげたのはA・モーラーであった。
彼は保守革命思想を、概観的にはフランス革命以後にまで遡り、ナチス期や戦後にまで流れる一大精神的潮流であ
ると考えているのであるが、実際には、研究対象をヴァイマール期に、政治的にいえば一九二九年の大恐慌から三
︵6V
三年一月三〇日のヒトラ!政権樹立までに限定している。そして彼は保守革命論に含まれる多様な思想動向のなか
から、民族主義派、青年保守派、国民革命派、盟約︵ブント︶派、農民運動派、の五つのグループを区分した。と
いっても、保守革命論としてモーラーによって概括された思想潮流の担い手たちは、それぞれが保守革命派という
一体感を自覚していたわけでもなければ、その政治理念を実現すべき政治組織を確立していたわけでもなかった。
保守革命運動はその意味で、組織を欠いた政治活動家、著述家、コネクターらの﹁個々人の戦い﹂であり、﹁その
︵7︶
㈲ 中核において、たいてい個人的に見知っており、引力と反発の多様な感情によって結びついた二、三〇〇人の人々
にみられるように、進歩思想の中心にある技術的合理性と伝統的、非合理的心情との合成が、つまり﹁反動的モダ
されるような旧保守勢力と共通するが、単純に旧体制の復古など望んでいるわけではない。E・ユンガーに典型的
してもつ保守革命派は、進歩の時代を攻撃する点では、たとえばフーゲンベルグの国家人民党︵DNVP︶に代表
いだしているが、保守革命論もヴァイマール表現主義とどこかで通底しているのである。前線体験を世代的経験と
って、その点で過去の運動とは質的に継絶している。P・ゲイはヴァイマール文化の中心部に﹁息子の反逆﹂を見
担われたものであり、ヴィルヘルム帝国の崩壊を﹁まがい物の世界の終焉﹂と直感する感性に基づいていたのであ
期に続く︶。といってもヴァイマール期のドイッ運動は、第一次世界大戦の前戦体験をふまえた若い世代によって
考えている︵大革命から一入七〇年代までの、フィヒテやヤーンに代表される段階、一八七一−一九一八年の帝政
モーラーはこの保守革命論を、広い意味ではフランス革命と西欧文明に対抗するドイツ運動の第三段階であると
ければならない。
卦 によって成り立っている。﹂さらにいえば、シユミットやE・ユンガーのような傑出した思想家の場合、その思想
城 を保守革命論という枠組みのなかにだけ閉じこめることには無理があることも、モーラーとともに確認しておかな
ウ ︵8︶
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π
M
㎜
㎜
︵9︶
ニズム﹂︵J・ハーフ︶といってよい要素が保守革命派のなかにかなり見いだされるのである。グライフェンハー
ゲンは次のようにいう。﹁保守主義はそれ特有の自己了解によれば、成長したものだけを価値あるものとし、自由
主義の︿作為﹀の精神、制作的思考と戦うものである。しかしその革命的な段階においては、保守主義は作為の精
︵10V
神を、己れ自身の下でも支配的なものであると打ち明けざるをえなくなる。﹂
保守革命論はその精神において革命という︿作為﹀であり、反動的色彩の︿モダニズム﹀なのであるが、それは
最も漠然とした形では時代の気分であり、H・ホーフマンシュタールの講演︵一九二七︶でいわれた、自由に代わ
る拘束への希求、分裂に代わる全体への希求である。その時代意識は、ユンガーのいう﹁石器時代から鉄器時代へ
の変換に見合った意義を持つ二つの時代の転難﹂意識であ陰信念としては、﹁絶対的な創造へと転換する、絶
対的な破壊への撮﹂が・なんらかの形で共有されている・重ねていうと、保守革命思想のなかに、旧ヴィルヘル
ム帝政国家の、権威的かつ俗物的尊大さを見いだすことはできない。それでは保守革命が﹁保守﹂である点からみ
て、それはいかなる政治的プログラムを持っていたのであろうか。消極的な形でいうと、保守革命は、マルクス主
義︵共産主義︶、西欧自由主義︵そのドイツ的形態であるヴァイマール体制とそれを強要したヴェルサイユ条約体制︶
︵13︶
に敵対するものであるが、同時に﹁一九一八年以後になってもホーエンツォレルン王国の再興にまだ固執する﹂旧
世代の反動とは挟を分かっている。もし保守主義を、現状維持保守主義、改良保守主義、反動とに区分したとすれ
ば、保守革命はそのいずれでもない。さらにいえば、一九三〇年以降、自由主義と社会民主主義の解体過程の中で、
保守革命派は、新たな選択肢となって浮上したボルシェヴィズムとナチズムという左右の革命運動と対抗し、︿第
三の道﹀を歩もうとした点に特徴を持つことになるといえる。
㈲
すでに述べたように、保守革命思想は主として、堅固な組織を持たない孤立した、ないしはサークル︵﹁六月ク
ラブ﹂やその後継である﹁紳士クラブ﹂など︶や機関誌︵﹁ドイツ民族性﹂や﹁タート﹂など︶を中心とした文筆
家によって担われたものであるから、その政治構想を積極的に述べようとすると、統一性より多様性がとくに前面
にでてくる。そこでS・プロイアーは、モーラーの保守革命概念が他の思想潮流と対抗する分類枠組みとして維持
しがたく、その概念が﹁一つの神話﹂にすぎないといっている。しかし、0・シュペングラーやメーラi・ヴァン
︵14︶
・デン・ブルック、E・ユンガーやシュミット、E・J.ユンク、H・ツェーラー、H・フライヤー、E・ニーキッ
シュなど保守革命論の代表的論客の間には、それぞれの多様性にもかかわらず、共通性の発生源が秘められている
卦
城
ウ
︵15︶
メーラーは﹁保持するに値するものを創造すること﹂こそ保守主義であると述べているが、実際保守革命論は保
社会主義﹂︵﹁英国国民は金持いか貧しいかの区別によって、プロイセン国民は命令と服従の区別によって組織され
︵17︶
ている。﹂﹁貨幣の独裁か組織か、掠奮の世界か国家の世界か、富か権威か、成功か天職か﹂︶の原理であり、E・J・
うちでのみ完成されるもの﹂としての︿第三帝国﹀の夢である。シュペングラーの場合それは﹁プロイセン主義11
︵16︶
的にいうと、保守革命はメーラーの場合若き民族の生存権であり、﹁決して実現されない約束﹂、﹁未完成なものの
づく統合された社会と強力で権威的な国家への志向、自由主義的的市場経済に対する︿政治﹀の復権である。個別
を帯びている。それはまずヨーロッパ近代の中軸である個人主義と自由主義社会の拒否であり、ドイツ的価値に基
英国にみられる改良保守主義のプルーデンスと具体的プラクシスを欠いた、きわめてラディカルかつ抽象的な色釈
守主義の歴史上初めて、︿未だ存在しない保持すべきもの﹀を構想せねばならなかった。その結果、保守革命論は、
ように思われる。
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掲
邦
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甥
ユンクの場合、カトリックと貴族制に基づいた国家の、ナショナリズムを超えた使命、﹁危機に瀕したヨーロッパ
文化を救出し﹂、﹁再キリスト教化と、アナーキーに代わる精神的、社会的、政治的統一を達成する担い手﹂たらん
理 ︵18︶
とする使命である。
また強い国家は強い指導者を必要とする。メーラーは指導者を待望する。﹁われわれは、国民と一体であると感じ、
国民の運命を己れ自身の使命と結びつけた指導者を必要とする。⋮⋮その指導者は、旧き指導層からでようが徐々
に新しい指導層を形成しようが、いずれにせよ国民の未来を己れの意志、己れの決断において⋮⋮断固として引き
︵19︶ ︵20︶
受けねばならない。﹂シュペングラーも﹃決断の年﹄において、あらゆる党派と大衆に対する独裁者を待望している。
シュミットの構想した大統領独裁にも、そうした精神的雰囲気が無関係であるとはいえない。
保守革命思想の磁場を構成する次の要素は、一言でいえば︿社会的なもの﹀の是認である。︿社会的なもの﹀と
いうのは、労働者階級を含む国民大衆の政治的、社会的プレゼンスであり、その承認は、もはや旧い身分制や王朝
的正統性が成立せず、国民的正統性の動員によってしか権力国家が成立しないことを意味している。この点は、モー
ラーが﹁国民革命﹂派として分類したグループの︿ナショナルボルシェヴィズム﹀、前線世代の︿兵士的ナショナ
リズム﹀の平等主義によってよく代表されている。といってもこれはマルクス主義のようなプロレタリアートの肯
定を意味しているのではない。保守革命思想の場合、プロレタリアートはすべて、国民や民族の衣装をまとって現
われる。﹁これまで通例であった思考図式においては、ナショナルなものの代表は“右派”に分類され、社会改革
的なものないし社会革命的なものは、もっぱら”左派”に委ねられていた。しかしわれわれの時代においては、今
︵21︶
やナショナルなものの担い手も社会革命的なスローガンを引き受けている。﹂後に述べるように、シュミットも、
神なき時代のなかで王朝的権威が維持されがたくなったことから、大統領制に見られるように﹁人民投票的﹂民主
主義の正統性を、今や残された唯一の正統性としているのである。国王や貴族、大ブルジョアジーではなく、ナショ
ナルな同質性が国家の基盤であることは、E・ニーキッシュのような革命派のみならず、シュミットやツェーラー
㈲
ティリッヒ、蔭山宏︶の要素を持つことを考えると、それはかつてビスマルク帝国の現実政策によって排除された
こうした保守革命論をドイッ政治思想のなかでどう位置付けるべきであろうか。それが﹁革命的ロマン主義﹂︵P・
にとっても前提となっていたのである。
卦
︿政治﹀の世界と︿娯楽﹀の世界
ないと田雀こ.︺で問題にしたいのは、シユミットの政治理論と保守藩田心想との間にある、時代の情緒的雰囲
外状態に決断を下す者であるとか、憲法と憲法律の区別などは、あまりにも有名であるからここで繰り返す必要は
シユミットの政治理論の中心、例えば敵と味方の区別が政治的なもののメルクマールであるとか、主権者とは例
ニ シュミットの自由主義批判
飛 ドイツ・ロマン主義のエネルギーが、新しい舞台の上に噴出したものといえるかもしれない。
ウ
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阿
な
共
振
性
の
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後
に
秘
め
ら
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た
感
性
と
信
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で
あ
る
。
それをみるために
的
で
あ
言 い 換 え れ ば 彼 の 鋭 利 な 形 式 概 念
気
り
、
は、シュミットの自由主義批判が格好の素材を提供してくれる。
那 G・マシュケはシュミットの自由主義批判におけるカトリシズムのモチーフについて述べている。少し長くなる
桝
が引用してみよう。﹁シュミットの反自由主義は、彼のカトリシズムのなかに根拠を持ち、それは三つの源泉から
養分をえている。まず第一は、ド・メストール、ボナルド、ドノソ・コルテスのような反革命の政治哲学である。
第二は、法王ピウス九世の反自由主義的論駁であり、一八六四年に彼によって出され、その後長い伝統となった”謬
説表”である。最後は、今世紀に入って興った、フランスやドイッのカトリック復興運動である。こうしたカトリ
シズムは、一九世紀の自由主義のなかにその最も重要な表現を見いだすモデルネへの辛辣な批判に満ちあふれてい
る。その批判の見出し語となっているのは、世俗化、人間の自己即位、原罪の否定、また、人間は生れつき”善”
である、少なくとも完壁になり得るとか、人間は、己れの障害物を取り除くにすぎない自律的理性のおかげで、自
由と幸福に到達するのだといった悪魔のテーゼである。シュミットにとって、自由主義的思考の帰結が頂点に達す
るのは、世界を、ニヒリスティックで止まることなき単なる前進運動に、また経済や技術、人道的モラルや討論へ
の信頼に解消してしまうときである。そうしたものどもによって、人は、政治的、倫理的難問に満ちた明確な決断
︵22︶
を回避しようとし、ついにはカオスと内乱へと到達してしまうのである。﹂
シュミットがその青年時代にカトリック的自覚やT°ドイブラーの時代批判から影響を受け、燗熟した︿モデル
ネ﹀に嫌悪感を感じていたことは、J・ベンダースキーやP・ノアックの研究、また最近発掘されてきた資料など
からかなり明らかになってきた。彼は、地上に商業と産業の天国を打ち建て、欲望の快適な満足だけを求めて信仰
︵23>
を放棄する現代人︵シュミットによれば現代では﹁人がサルに似ている程度はサルが人に似ているよりも大きい﹂︶、
そしてまたそのステレオタイプ化された大衆文化に嫌悪を隠さない。マシュケも引用しているが、シュミットは﹃テ
オドール・ドイブラーの”極光”﹄︵一九一六︶のなかで述べている。﹁人々は地上に天国を、商業と産業の成果と
しての天国を打ち建てることを望んでおり、それは事実ここ地上に存在しているのだとされる。彼らは愛と恩寵の
神を望んではいない。⋮⋮最も重要で究極のものはすでに世俗化されてしまった。正義は権力に、忠誠は計算可能
性に、真理は皆に認められた正しさに、美は良き嗜好に、キリスト教は平和主義の組織へと変わってしまった。価
値の混同と偽造が蔓延し、それが魂を支配することになった。善と悪の区別に代わって、繊細に区別された有用性
︵24︶
㈲ と有害性が現われる。この取り違えは身の毛もよだつものである。その破壊的な力を認めたものにとって、地上は
層の発展︵大衆民主主義︶によって、現実的、精神的基礎を喪っている。そして議会政治の合理主義が自明性を喪
議会主義の原理である﹁国民代表﹂による﹁公開の討論﹂は、統治者と被治者の﹁同一性﹂を求める民主主義の一
自由主義の政治形態である議会主義の原理に鋭利な分析を加え、アカデミックなスタイルでその死亡を宣告した。
ペングラーとも共鳴する文化ペシミズムを心中に秘め、またコルテスらのカトリック反革命哲学に魅せられつつも、
しかしもちろん、シュミットの自由主義批判は感性的嫌悪に止まってはいなかった。彼は確かにメーラーやシュ
が見いだされるのである。
卦 キリキリと音をたてる⋮機械になったようにみえる。﹂またシュミットは、思考が演説であり、著述であり、出版で
喧 あるような世界にあっては、﹁自我︵私︶は歴史というタイプライターの一つの文字である。自我は己れ自身を記
ウ 述する文字で墾﹂と皮肉を述べている・ノアックによれば、そこには後のシュミットの自由主義批判の萌芽形態
㏄
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財
うことに反比例して、民主主義の伝統を受け継ぐマルクス主義の﹁独裁﹂やサンジカリズムの﹁暴力﹂と﹁神話﹂
の理論が台頭してきている。議会主義がいま﹁すべてを堪え忍びながら討論の復活を﹂望み、他に何があるのかと
︵26︶
防 開き直っても、それはもはや﹁救いのない議論﹂であるにすぎない。これがシュミットの診断である。
つからであり、その体系は首尾一貫して、シュミットの考える﹁政治的なもの﹂の否認をめざすからである。シュ
隔 しかし、︵個人主義的︶自由主義批判は議会制批判につきるものではない。なぜなら自由主義は﹁体系性﹂を持
ミットによれば、﹁政治的なもの﹂とは︿敵﹀と︿味方﹀の区別であり、突き詰めたところ両者の︿生死を賭けた
︵27︶
闘争﹀の可能性によって規定された人間集団の活動である。ところが自由主義は、敵と味方の闘争を商人間の競争
や、倫理家の間の討議に置き換えてしまう。言い換えれば、自由主義は一貫して世界の非政治化を、政治のない世
界をめざしているのである。﹁政治的なもの﹂は無視することによって消滅することなど決してないのに。
シュミットのこうした自由主義批判や政治概念は、なんらかの価値判断に左右されない事実の論理で成り立って
いるように見える。実際ノアックが引用しているように、シュミットはH・ヘラーにあてた手紙︵一九二八︶のな
かで、ヘラーが﹁実存的に絶滅されねばならない敵﹂といった価値的表現をシュミットのものであるかのように用
いていることに対して、そうした表現は政治概念の道徳化から生じる虚偽であり、自分はそれをこそ批判したのだ
と執拗に述べている。しかしL・シュトラウスは一九二三年に、シュミットの抽象的な概念を突きぬけ、背後に隠
︵28V
蔽されている信念と嫌悪について鋭い洞察を述べている。シュトラウスによれば、シュミットが自由主義による政
治の否認に我慢ならないのは、それが政治的統一体を﹁消費−生産団体﹂へと転化させ、世界を政治も国家も存
︵29︶
在しない︿娯楽﹀の世界へと変えてしまうからである。こうした娯楽の世界への拒否は、先に述べたシュミットの
かねてからの大衆文化嫌悪と根底のところでつながっているといえよう。
シュトラウスによれば、シュミットの核心にある信念は、敵と味方の識別に基づく戦闘の世界を、人間という名
に値する︿真剣な﹀世界として歓迎することである。神学の世界で長い間異端説が危険な死を意味したように、何
が正しいかという問いを真剣に突き詰めるならば、そこには商談や取引やシンポジウムで終わらない生死を賭けた
対立が不可避的に登場してくる。逆に言えば、何が正しいかを問うことを断念し、絶対的な正しさを世界から駆逐
し、対立に対して中立的な、したがって非政治的な領域︵経済 技術 快適さ︶を求めることこそ自由主義の
モチーフであった。従って、政治のない世界とは正しさの成立しない世界であり、ニーチェの言う﹁神の死﹂の世
い。闘争の強調はアリストテレスからへーゲルにいたる政治思想の伏流であるとともに、やはり世代的な前線経験
シュミットにみられる︿戦闘﹀への志向は、カトリック反革命哲学の影響ではあるが、もちろんそれだけではな
界が現われるしかないのである。
義が世界を支配すれば、そこには人間の名に値しない、すべてが許されるけれども何事もなしえない︿娯楽﹀の世
︿闘争﹀という︿真剣な﹀世界あればこそ人間の名に値する世界が可能なのであり、原罪と闘争を否定する自由主
の生死をかけた闘争は人間社会を成り立たせる現世の本質的な契機なのである。シュミットにとって、︿原罪﹀と
う﹃政治神学﹄の有名なテーゼからいえば、原罪が神学を成り立たせる彼岸の本質的な契機であるように、敵味方
る政治的世界をアナロジカルにみている箇所がある。近代のあらゆる政治概念は世俗化された神学概念であるとい
︵30︶
らが強調する人間の罪深さ︵原罪︶というカトリックの神学的世界と、敵味方の識別に基づいて危険な敵と対峙す
マシュケも先の論文のなかで引用しているが、﹃政治的なものの概念﹄のなかには、ド・メストールやコルテス
らない。
れば、彼は何が正しいのかに決断を下さねばならず、そこに惹起する真剣な闘争を断固として引き受けなければな
㈲ 界、すべてが許される︿モデルネ﹀の世界なのである。しかし人が快適なサル︵娯楽の消費者︶で終わりたくなけ
卦
喧
ウ
㏄
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π
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柳
甥
やヴァイマール初期の内乱状況、また革命化した保守主義の影響なしに考えることはできない。戦争と戦士を讃え
る文献は、例えばM・シェーラーの﹃戦争の創造力とドイッの戦争﹄、W・ゾンバルトの﹃商人と英雄﹄、シュペン
グラーの﹃プロイセン主義と社会主義﹄など当時のドイッには数多くあった。シュペングラーによれば、﹁戦争は
︵31︶
より高い人間存在の永遠の形態であり、諸国家は戦争のためにのみ存在する。﹂しかし前線の錘壕世代を代表し、
︵32︶
戦後の市民社会に溶け込めず﹁市民の家で野営する戦士﹂たちを代表したのはE・ユンガーであった。ユンガーは
いう。﹁戦争は完全にそれ固有の法則に服する一つの状態ではなく、めったに表面に現われないが緊密な結びつき
を持つ生のもう一つの側面なのである。戦争が生の一部でなく、生をその全面的な暴力において表現しているよう
︵33︶
に、結局こうした生自体が戦士的なのである。﹂
グライフェンハーゲンは、ドイツ保守主義史上﹁保守革命のなかで、とくにE・ユンガーの著作のなかで戦争の
︵34V
美的解釈が純粋に浮かび上がる﹂と述べている。シュミットがユンガーとの友好関係を生涯維持したことはよく知
られている。とはいえ、シュミットにはユンガーのような戦争のための戦争という美学はなく、そうした美学の背
後にあるニヒリズムも存在しない。シュミットにあるのは神なき時代のなかで、あくまでも何が正しいかを問いう
るような︿真剣な﹀世界を、世俗化された地上の世界においても存続させようとする、ある意味では反時代的なカ
トリックの伝統なのである。しかし同時に、シュミットの自由主義批判と敵味方の論理の背後には、安逸で放縦な
娯楽の世界への嫌悪という点で、ユンガーを含む保守革命の担い手たちと共通する時代と世代の感性があることを
否定することはできない。
保守革命との関連でいえば、シュミットの︿政治﹀概念は、﹁市民の家で野営する戦士﹂の肖像を理論化したも
㈲
一九三ニー三三年のシュミット
のといってもさしつかえないのであり、また当時多くの人がそう読んだのである。
三 危機の処方箋
いえない状態にあるということを忘れたことはなかった。シュミットの自由主義議会制批判は一般論ではなく、マ
︵36︶
シュケのいうように、とりわけ﹁内的凝集性を欠いた敗戦国民にとって有害である﹂ことを伝えようとしたもので
ツがヴェルサイユ条約によって領土を奪われ、多額の賠償金や占領に悩まされ、軍備も制限された、主権国家とは
らである。しかし政治的統一体としての国家間で敵味方の識別がものをいう国際関係は、だれもが逃れることので
︵35︶
きない世界であって、政治的な決断のできない国家はいずれ没落していくしかないのである。シュミットは、ドイ
によって維持され、反体制的武装政治諸集団がうごめく状況では、ドイッは国家の体をなすことができなかったか
い自由主義の精神が政界や学界の指導部を蝕んでいたからである。政権は右から左までの多くの政党の妥協と取引
批判し続けた。なぜかといえば、共和国内には︿政治﹀が露出しているにもかかわらず、それを正視しようとしな
出によって特徴づけられる。にもかかわらずシュミットはその事態を歓迎せず、ヴァイマールの政治、社会状況を
そのわずかな相対的安定期︵一九二四−二九︶を除けば内乱と危機に満ちたものであって、︿政治的なもの﹀の噴
外 われわれはシュミットが、政治なき自由主義への嫌悪を﹁隠蔽しながらも、逆にほのめかしてもいる﹂︵シュト
城 ラウス︶ことをみてきたが、シュミットの理論活動の舞台となったヴァイマール共和国の自由11民主主義体制は、
ウ
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織
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掲
π
財
靭
㎜
ある。言い換えれば、政治的なものの歓迎は決して内乱の歓迎ではなく、敵がだれであるかを決定できる政治的統
一体︵国家︶の歓迎なのである。かつてカトリック教会が正しい信仰を決定し秩序を維持したように、国家は正し
い決断によって敵味方を決定し、やはり秩序を維持しなければならない。H・ホフマンは、﹁シュミットの︽政治
主義Vの核心は政治的統一体の自己主張である﹂と的確に述べている。教会と国家あればこそ、真の秩序が保障さ
︵37︶
れるのである。
ヴァイマール共和国の議会政治が正常に機能しなくなり、ブリューニングの大統領内閣が危機のなかで苦闘して
いた一九三一年春、シュミットは﹃憲法の番人﹄を上梓した。そこで彼は今日のドイツの政治、社会の構造的危機
を解明し、こうした危機に対して、︵当時の国法学の主流に逆らい︶国事裁判所が憲法の番人たりえないこと、ま
たこの共和国の憲法の番人であり、唯一の支柱でありうるのは制度上大統領しかいないことを主張し、大統領内閣
に強力な法学的正当性を与えた。政治、経済的危機に対してシュミットが与えた原理的解明は、﹁国家倫理と多元
的国家﹂︵一九三〇︶、﹁全体国家への転換﹂︵一九三一︶などに簡潔に述べられている。シュミットは現在のドイツ
の政治、社会情勢を﹁多元主義﹂、﹁ポリクラティ︵多頭制︶﹂、﹁連邦制﹂の混在によって特徴づけているが、それ
らは一言でいえば﹁全体国家﹂ということになる。
シュミットが全体国家という言葉で表現しようとしたことは、今日いわゆる﹁行政国家﹂、﹁社会︵福祉﹀国家﹂
などと呼ばれる現代デモクラシーの構造転換︵G・ライプホルツ︶のことであって、われわれにとってはすでに研
究の前提となっていることであるから詳論する必要はないと思う。それは、国家の社会、経済過程への介入であり、
多元的な社会諸集団の政治過程への噴出、そして議会の位置低下等々である。一九世紀までの国家と社会の対立、
㈲
二元論は消滅し、代わって国家と社会の統合、全体化が二〇世紀の動向となる。シュミットは、G・D・H・コー
ルやH・ラスキの多元的政治理論を批判し、こうした全体国家への転換が、人々の国家への忠誠心を諸集団への忠
︵38︶
誠心に細分し、もろもろの集団圧力に支えられた諸政党による国家利益の収奪戦を惹起する点に、﹁国家的統一の
形成がますます危険にさらされる﹂結果を見て取った。実際すでに、ドイツは諸政党の抗争によって議会多数派に
よる内閣の形成が不可能になっていた。こうした不安定な状態は、世界観的に対立するのみならず、憲法を最終的
そして守護者として行動する可能性を与えようとしている。その試みが成功するかどうかに、今日のドイツ国家の
全体意志と直接結びつき、そしてまさしくそのことによって、ドイツ国民の憲法に即した統一性と全体性の番人、
的全体としての国民の統一を守ることを求めている。﹂﹁憲法はとくに大統領の権威に対して、ドイツ国民の政治的
現行憲法はまさしく民主主義的原則からして、社会的、経済的権力集団の多元主義に対抗する対重を形成し、政治
﹁憲法が大統領を、人民投票的で、政党政治に対して中立な装置と権限システムの中心にしていることによって、
と述べていたが、今や大統領にそうした消極的な機能だけでなく、より恒常的な活動を要請するに至ったのである。
とを指摘した。以前よりシュミットは、大統領の地位が憲法四八条の緊急権によって非常時の受任独裁者たりうる
においては共和国大統領がその位置にあること、しかもそれは国民の直接選挙による﹁人民投票的基礎﹂を持つこ
の統一性を守る、中立かつ仲裁者的な独立機関への志向が存在していたことから説き始め、ヴァイマール憲法体制
シュミットはこうした危険に対して、そもそも一九世紀ヨーロッパの諸国家には、利害や諸党派の対立から国家
卦 に破壊してしまうことをめざす諸政党︵例えばナチ党と共産党︶が議会に大量に進出することによって、一挙に加
城 速され、内乱による政治的統一の解体を導きかねないのである。
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︵39︶
存立と永続がかかっている。﹂こうしたシュミットの政治指針は、彼がイタリア・ファシズムのなかに、多元主義
による国家の虚弱化に対抗し、﹁古典古代的誠実さを以て再び国家たろうとする﹂強い国家を見いだし、共感を隠
㎜ ︵40︶
さないことからも理解できよう。
当時実質的にシュミットの助手といってよい位置にあったE・R・フーバーは、一九二八年にシュミットがボン
大学からベルリン商科大学へ移ったのは、当時のベルリンの政治的指導部や知的教養層とのつながりを求めたのだ
と述べている。そこにはもちろん野心もあったろうが、あらゆる政治的概念は論争的でありその背後に具体的な対
立を持つとするシュミット︵﹃政治的なものの概念﹄︶からすれば、政治の中心に接近することは、とくに緊急権問
︵41︶
題などに習熟するために必須のことであったかもしれない。その時は想像さえしなかったのであろうが、一九三二
年六月、ブリューニングに代わって、︿保守革命﹀派の溜り場であった﹁紳士クラブ﹂のパーペンが、W・ショッ
テやE・J・ユンク等をイデオロークにしながら反時代的な︿男爵内閣﹀を組閣した頃から、シュミットの周辺は
にわかに慌ただしくなった。それから三三年一月のヒトラi政権に至る約七ケ月は、文字どおりドイツの運命を決
したスリリングな日々であるとともに、︿保守革命﹀派にとって、己れの政治構想がインテリの無力な反逆を超え
て、初めて実現へ向かうかに見えた︿白昼夢﹀の日々でもあった。
パーペン︵三二年六月1︶、シュライヒャー︵一二月ー︶両大統領内閣の最大の政治課題は、︵三〇年九月一四日︶
三二年七月三〇日、=月六日の国会選挙に示されたナチと共産党左右両過激勢力の躍進︵七月でナチ党は議席数
第一党︶、頻発する武力闘争、国家解体への恐れに、いかに対応しながら強力な国家形成を進めるかという点であっ
た。K・ゾントハイマーはこの時期の保守革命派の国家構想として、身分制国家、権威主義国家、全体国家の三つ
㈲
卦
を区別しているが、保守主義政治勢力との関係でいえば、パーペンとそのイデオロークたちに顕著であったのは、
︵42︶
モーラーの分類でいえば﹁青年保守派﹂色であり、多分に身分制的、貴族主義的なものであった。他方シュライヒャー
や﹃タート﹄誌のツェーラーの意図していたプランは、モーラーの分類でいえば﹁国民革命派﹂に近く、ナチ党と
共産党に対抗する第三の戦線によって、権威主義的全体国家の形成をめざすものであった。ツェーラーはいう。
﹁ナチとコミュニストの間の戦いは一方の他方に対する完壁な勝利に至らず、今日存在する両組織の解体へ、そし
てそれらが第三の共同体へと吸収されることへと続くだろう。その共同体のなかで、国民的、社会的、という二つ
それではシュミットは、こうした二つの政治構想に対していかなる立場をとったのであろうか。パーペン、シュ
そのエネルギーだけは利用できると考えていたのである。
断﹂する戦線を形成し、ナチと共産党に対抗しうる強い国家の形成をめざした。そのことによって、ナチを懐柔し、
ラッサーのグループ︶、労働組合、国旗団︵社会党の戦闘組織︶、鉄兜団︵国家人民党の戦闘組織︶など諸政党を﹁横
会派将軍﹂シュライヒャーはヴァイマール共和国の最終段階において、国防軍の支持を背景に、ナチ左派︵シュト
城 の極は安定と均衡へ向かい、それに対して、新しい全体的な国民共同体を代表するという正当な要請がなされるで
︵43︶ ︵44︶
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ろう。﹂﹁問いは右か左かであるが、その回答はかく見いだされるであろう。それは右も左もである。﹂また﹁社
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ライヒャー大統領内閣とシュミットの係わりについては、山下威士、H・ムート等によって一九七〇年代から研究
︵45︶
が進められてきたが、新しい資料を用いたベンダースキーやノアックによって一層具体的に明らかになってきた。
この点ではベンダースキーとノアックは一致して、シュミットを一九三二年の夏以降、シュライヒャーの支持者、
聯 助言者であるとしている。とはいえシュミットは、パーペンかシュライヒャーかにかかわらず、ブリューニング以
脳
来大統領内閣の擁護者であって、政治的に行動力ある権威的内閣によって国内の多元的混乱を克服することを一貫
︵46︶
して望んでいた。だからシュミットが、パーペンのプロイセン・クーデタに対する弁護や、また九月のクーデタi
︵47︶
的大統領緊急令への事前の助言︵フーバーの推測︶に積極的であったとしても、それはパーペン自身の時代錯誤的
な、君主制までも展望する﹁新国家﹂案への支持であることを意味しない。シュミットをパーペンや国家人民党︵フー
︵48V
ゲンベルグやガイル︶の支持者とするH・ムートの解釈は肯定しがたいものである。シュミットは、国家人民党の
かねてからの狙いであったような﹁憲法改正﹂にこの時期積極的であったことはない。シュミットは、復古的な旧
保守主義の夢が、神なき時代の大衆民主主義下では望みえないことを熟知していたからこそ、大統領が持つ﹁人民
投票的﹂デモクラシーの正統性を重視したのである。他方シュミットは確かに、シュライヒャーの国防軍筋の側近
︵E・オットやE・マルクスなど︶としばしばあって、相談にのっている。しかしその場合でも、後に述べるように、
シュライヒャーのすべてを支持したわけではない。
シュミットは七月一九日、来るべき総選挙を前にして、シュライヒャi派の機関紙に﹁合法性の濫用﹂という題
で次のように警告している。﹁ナチ党を七月三一日に多数派にしてしまう者は、たとえ彼がナチではなく、ナチの
なかに小さな悪だけを見ているとしても、愚かな行動をとっている。彼は、この世界観的、政治的にまったく成熟
していない運動に、憲法を変更し、国家教会主義を導入し、労働組合を解体する等々の可能性を与える。彼はドイ
ツをそうした集団に完全に委ねてしまうことになる。それ故、ヒトラーの抵抗運動を援助することはこれまで事情
によっては良いことであったが、七月三〇日においてはきわめて危険なことである。なぜならナチ党の五一%の得
︵49︶
票は、予測しがたい結果を持つ︿政治的プレミア﹀をその党に与えるからである。﹂付け加えておくと、この機関
㈲
︵50︶
紙はシュライヒャーからツェーラーの手に委ねられていた。ツェーラーはパーペンの貴族主義を攻撃し、シュライ
ヒャーと連携した﹁横断戦線﹂の実現をめざしていたのである。一九三二年に出された﹃合法性と正統性﹄でシュ
ミットは先の論説を学問的な形で展開し、形式的、実証主義的憲法理解の下では、政権を手にした多数派が、その
行動を正当化し、反対派を非合法化する合法的手段を手にすることを強調した。つまり、左右過激派による合法的
な革命の危険を主張したのである。なぜならヴァイマール憲法は、そうしたナチの合法革命戦術に対してまったく
卦 無力だからである。
って、決して議会制の擁護者ではなかった。﹃合法性と正統性﹄のなかでシュミットが、憲法の第一部の価値中立
シュミットは、ヴァイマール体制が大統領を中軸として、権威的な強い国家に変容していく可能性に賭けたのであ
しての第二院の創設に難色を示し、憲法改正に手を付けることは今日あまりに危険が大きいとしたが、将来強力な
︵52︶
国家ができたときに﹁われわれが新しい憲法を創造することができる﹂と述べてもいるからである。言い換えれば
国家における健全な経済﹂︵一九三二︶という講演で、確かに現時点でパーペンや国家人民党的路線による上院と
者であったかといわれれば、G・シュワープのように簡単にそうだとはいえない。なぜならシュミットは﹁強力な
革命﹀派と共通し、権威的な強い国家へ向けられていた。しかしそれではシュミットはヴァイマール共和国の擁護
︵51︶
職 シュミットの努力は、確かにこの時期一貫して、ボルシェヴィズムとナチズムに対抗して第三の道を狙う︿保守
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的な政治的構成を犠牲にしてでも第二部の実質を守れといったのも、こうした視点から理解されるべきであろう。
さらにシュミットはいう。﹁立憲君主制における王朝的正統性が崩壊して以来、ドイツ国防軍と国家官僚団は、ド
︵53︶
獅 イツ国民によって選ばれた共和国大統領の人民投票的正統性のうちに、新しい基盤の可能性を見出した。﹂この文
獅
章は期せずしてシュミットの構想をよく示しているように思える。つまり、軍と官僚団に補佐され、人民投票的デ
モクラシーの正統性に包まれたヴァイマール体制、これこそシュミットの志向なのであって、これをもって共和国
の擁護者というのは無理といわねばならない。そしてシュミットにとって、パーペンもシュライヒャーも、そうし
た大統領制を強化する限りで支持しうるものだったのである。かかる構想は、われわれが先に見た︿保守革命﹀派
シユミットの頒歌
の多分に曖昧で気分的な政治的想像力を、唯一状況に即して具体的にプランしたものといえるのである。
四 保守的知性の敗北
ノアックは、﹁一九三二年一二月三日パーペンに代わってシュライヒャーが首相に任命されたとき、多くの人に
︵54︶
とってーシュミットにとってもまたーそれはヴァイマールを救出する︽最後の試みV、︽最後の可能性Vを意
味した﹂と述べている。実際フーバーの証言によれば、同日ベルリンの会合︵そこにはユンガーやツェーラーも出
席していた︶でそのニュースを聞いた人々の間では﹁最後の試み﹂という言葉が全員によって同意され、さらに翌
︵55︶
日フーバーがシュミットにそれを伝えたところ、シュミットはそれに真剣に同意したという。しかしフーバーとの
話のなかでは、シュミットはシュライヒャーの﹁横断戦線﹂構想には、それがあまりに困難な企てであることから
むしろ尻込みしがちであったらしい︵とはいえ、ノアックの引用するシュミットの一月二二日の日記には、﹁私は
議会主義、社会民主主義、ポリクラティの行き詰まりを恐れている。ブラウンとカースがヒトラーに圧力をかけて
いる。これは彼らの勝利だ。﹂とある︶。事実、事態は悪化するだけであった。政党﹁横断戦線﹂は、社会民主党の
︵56︶
反対、ナチ左派シュトラッサーの権力喪失などから成立せず、切り捨てられたことを恨むパーペンの陰謀などによっ
て、シュライヒャーの政権は追い詰められていった。保守革命派の唯一の政治構想は、半年間の︿白昼夢﹀の後に、
あっけなく最後を迎えてしまうのである。
の辞任を知った日︵一月二七日︶、シュミットは書いている。﹁なにか信じられないことが起こった。ヒンデンブル
ヴァイマール・ライヒの死にあたって、シュミットはいかなる頒歌をうたえるというのだろうか。シュライヒャー
国︶の没落とは関連のある出来事なのではあるまいか、人が死ぬと魂は鳩の姿で、ライヒの場合はヘルダーリンの
︵57︶
頒歌の形で、なお生き続けるのではないか。慰撫された気持ちで寝る︵一月二六日︶。﹂だが神聖ローマ帝国ならぬ
ルダーリンの詩を引用するのを聞いて夜ふと考える。﹁思うに、一八〇六年八月のヘルダーリンの狂気とライヒ︵帝
この日記のなかでは、﹁失望﹂と﹁疲れ﹂がすべてをおおっている。つのる失意のなかで、シュミットは知人がヘ
を紹介している。その主調となっているのは、ベルリンの政治状況と大統領ヒンデンブルグへの幻滅と諦観である。
てゆく。ノアックは、ヒトラーの権力掌握に至る直前の三三年一月二三日から三一日にかけてのシュミットの日記
じもの︶に反対したのだが、一月下旬になって軍を主体としたクーデターを計画するところに追い込まれて破産し
㈲ 大統領の信頼を失ったシュライヒャーは、かつてはパーペンの一一月のクーデタi案︵それは九月の案とほぼ同
卦
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グ神話は終わりだ。ぞっとする状態だ。シュライヒャーは退陣する、次はパーペンかヒトラーか。老いた主君は気
が狂ってしまったのだ。﹂ 一月三〇日、ヒトラーの政権誕生で沸き返る町をあとにシュミットは家に帰り、保守革
川 命派で﹃ドイツ民族性﹄のW・シュターペルと語り合う。﹁われわれはプロイセンについて語り合った。シュター
㎜
︵58︶
ペルの考えでは、ヒンデンブルグは真のプロイセン人ではないのだ。﹂
ヴァイマール共和国への頒歌をうたうことはできなかったが、カトリック中央党の領袖力ースによる思いがけな
い非難、シュミットや彼の仲間が憲法を相対化し非合法へ道を開くとの非難が一月二九日に発表されたとき、シュ
ミットは公開で直ちに反撃した。これはシュミットにとって、期せずしてライヒへの頒歌に代わるものとなったと
いってもよい。﹁私の著作のどこにも、また信頼できる口頭発言のどこにも、私の国法理論に対するそうした侮蔑
を正当化しうるような命題を見つけることはできないでしょう。私は国法を相対化したことなどありません。そう
ではなくて、私は国家と憲法を破壊する濫用に対して、合法性概念の道具化に対して、そして価値と真理に中立な
︵59︶
機能主義に対して戦ってきたのであります。﹂しかし、権威的な大統領内閣による保守革命への思いは、合法性を
濫用して憲法を破壊しかねないヒトラーを受け入れるというヒンデンブルグ自身の方針転換によって、脆くも崩れ
去ってゆくことになった。
挫折したのはもちろんシュミットだけではない。ツェーラーも当初はヒトラーを是認せず、なお権威的国家への
︵60︶
呼び掛けを続行しようとしたが、やがて沈黙を強いられた。E・J・ユンクはパーペンのナチ批判演説︵マールブ
ルグ演説︶の草稿を書いて、レーム事件のときシュライヒャーともども殺害された。︿個々人の戦い﹀にすぎなかっ
た保守革命派は、ナチの大衆を動員し統制する組織に対抗することはできなかったのである。かつての夢想的なロ
マン主義が帝政ドイツの鉄の権力から締め出されていったように、保守革命のロマンもナチ国家の︿画一化﹀のな
かで圧殺されてしまったのである。ロマンを喪った保守革命派の人々がヒトラー国家のなかでいかなる生き方を選
ぶことになるのか、それはまた次のドラマである。
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︵5︶ 保守革命運動については、モーラーのもののほか、以下のものを見よ。国゜の〇三冨ぎ①き︾口け置①日。尻轟鉱ω島①巴︶①昌冨昌ヨ
住Φ﹁≦①巨母①﹁寄崔げ一貯幽﹀蝿戸ζ言畠8μり①b。°河島幸夫、脇圭平訳﹃ワイマール共和国の政治思想﹄ミネルヴァ書房、一
九七六年。山下威士﹃カール・シュミット研究﹄南窓社、一九八六年。陰山宏﹃ワイマール文化とファシズム﹄みすず書
房、一九八六年。八田恭昌﹃ヴァイマールの反逆者たち﹄世界書院、一九八一年。宮田光雄編﹃ヴァイマール共和国の政
治思想﹄創文社、一九八八年。またシュミットについてのわが国の研究として、以下も参照。中道寿一﹃ワイマールの崩
壊とシュミット﹄三嶺書房、一九八九年。和仁陽﹃教会・国家・公法学﹄、東京大学出版会、一九九〇年。田中浩﹃カー
ル・シュミット﹄未来社、一九九二年。
︵6︶﹀°ζ。幕こ︶貯閑8ω①﹁苺肯冨閃Φ︿巳・二。巳目∪Φ三ω。巨⇔巳Hり目◎。﹂りω卜。°ω﹀ら゜’冨葺ωけ自二⑩゜。P°り﹄ω゜
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︵9︶一﹄Φ芦幻①舘けδ舜﹁望竃。自輿三ω目﹄①≦k。蒔ドリo。幽’中村幹雄、谷口健治、姫岡とし子訳﹃保守革命とモダニズム﹄岩波書
店、一九九一年。
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議会主義の精神史的地位﹄みすず書房、一九七二年、一〇二頁。
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︵29︶ [°Qり茸曽自ωω゜﹀口目①﹁貯ロ昌伽q①昌N⊆O°ooO7目詳ρO①﹁口口①σq二hhα①ω℃O一一鉱ooOげ①コ︵一㊤ωトの︶曽一目=Oげげ①ω.℃O=ユω07Φぐく一ωω①口ω07即h戸口σ①﹁=コ
目り①α゜添谷育志、谷喬夫、飯島昇蔵訳﹃ホッブズの政治学﹄みすず書房、一九九〇年。
︵30︶ OQ。9目一90興口dΦαq﹁葭“Φω℃呂蔚呂㊦戸○り為9邦訳、七九−八〇頁。
︵13︶ O°Gり℃①目αq竃﹁、灯﹁①βゆΦ昌什口目ロ昌αoりON一巴一ωヨ目ω噂もつ゜㎝らQ°
︵23︶ ﹀°︼≦Oゲ一①5PPOこQり゜ω㊤.
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︵14︶ 国゜閃゜︼田自σ①﹁°Oβo﹁一QりOげ目一茸一ロα①﹁カ①一〇げω犀﹁一〇〇①α①﹁ぐくΦ一ヨ凶﹁O﹁国昌αNΦ一戸一目∩Oヨや一Φ×一〇〇℃もOoo謬O﹁巨日’⊂げ①﹁O螢﹁一Qり07日詳戸7ひq・<・
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︵42︶ 閑.しり。昌夢。ぎ衆P自。b°、ψぎOh邦訳、一九七頁以下。
︵43︶即N9﹁①﹁勇①。耳ω。自①﹁い凶莫゜。﹂昌﹄冨↓界Nご①汀αqきぴq﹄①陣8一り゜。卜。、°り﹄㎝一゜
︵44︶﹀°㊤゜ρψ9弁
︵45︶ J・E・ベンダスキー、宮本盛太郎、古賀敬太、川合全弘訳﹃カール・シュミット論﹄御茶の水書房、一九八四年。
︵46︶ 山下威士﹁一九三二年国事裁判所におけるカール・シュミット﹂法政理論第二五巻第二号、一九九二年、を見よ。
︵47︶ 国勇﹄自げ①﹁b°PO‘°。°おh
︵48︶閏゜警葺9二。。9三け二昌α①﹁畠①暮゜。9。三弓Φ弓。=叶涛ユ①ω゜。。ヨヨ①冨H⑩ω卜。﹂罠国禦9ω゜9N簿ω6ヨhけ﹄①凶莚拝一㊤芦゜・°
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︵50︶界。。。三匿∋。き∪。﹁↓鋒﹁昏﹂目≦①幕9年の冨hけ①貯N①一報吻゜罫ρ刈゜冨ξσQ雪αq°ω﹄°h戸お紹、°。﹄心゜。°
︵51︶ ρQ。畠壽﹁戸↓冨畠巴一9ゆq。。h①蓉①巳o登ロロ①二三HΦ刈ρ署゜o。◎。1◎。⑩゜宮本盛太郎、初宿正典、服部平治、片山裕訳﹃例外の
挑戦﹄みすず書房、一九八〇年、一二〇1一二一頁。
︵52︶O°の9巳90①ω巷ユΦ≦﹁けの9国三ヨ゜。8昆2の§戸一罠≦ぎぎ・°q。・9ω<Φ﹁①ぎN露﹁乏”ぼ葺σqα゜歯①幕蕩彗①。ヨ話゜冨霊
一言げ雪ぎ8﹁①ωω2ヨ幻﹃①巨帥巳§ユ≦①゜。ほ巴①9=①津N一゜6ωbO糟Qり匿ωO°
︵53︶ ρの島巨9いΦ゜q凶年馨ロ昌畠ピ①σq三ヨ冨戸N>ロP噛H⑩①゜。り゜り﹂°。.田中浩、原田武雄訳﹃合法性と正当性﹄未来社、一九八三年、
二一頁。
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︿付記﹀
たときの原稿である。当日司会された奥村大作・日本大学教授、コメントをいただいた渋谷 浩・明治学院大学教授、小
一、本論文は、筆者が一九九四年度日本政治学会研究会︵一〇月一日、関西大学︶の分科会A﹁保守主義の再検討﹂で報告し
野紀明・神戸大学教授に感謝申し上げる。
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信・飯島昇蔵編﹃西洋政治思想史㈲﹄︵新評論、一九九五︶所収。
二、なお、筆者はシュミットのもう一つの側面について別に論じた。谷 喬夫﹁C・シュミットー政治と神学の間﹂藤原保
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