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フィールディングの離反と回帰 ―ウォルポールをめぐって
諦観からの軌跡―The Journal of a Voyage to Lisbon を中心に― 719 フィールディングの離反と回帰 ―ウォルポールをめぐって― 能 口 盾 彦 序 英国憲政史上にその名を残すウォルポール(Robert Walpole, 1st Earl of Orford)はノーフォークの寒村ハクトン(Houghton)の地主(squire)の三男として 1676年8月26日に生まれ、イートン校からケンブリッジ大学キングズ学寮に 学んだ。オーフォード伯爵はジョージ一世(1660-1727, 1714-27)及び二世 (1683-1760, 1727-60)の治世下で二期(1715-17,1721-42)にわたり政権を担い、 今日の議院内閣制の基礎を築いた。同伯爵が長期政権を維持し得たことから 国家の安穏を見たが、英国では17世紀の「清教徒革命」(1642-9)や「王政復 古」(1660)に「名誉革命」(1688)を始めとする社会変革が相次ぎ、18世紀に 入るとスコットランドとの合同(1707)によって「連合王国」の成立を迎えた。 さらにアン女王の崩御(1714)がスチュアート王朝からハノウヴァー王朝誕生 へとつながり、その間の目まぐるしい王権争いの最中にウォルポールは政界 の中枢にあった。1 洋の東西、政界の一寸先は闇の如く、今も昔も議会人の 処世術は難しい。フィールディング(Henry Fielding)とほぼ同時代人のウォル ポールにもこれは当てはまる。スチュアート王家存亡に纏わるローマ・カト リック教会と英国国教会の鬩ぎ合いが重層的に連動し、英国の指導者達は自 らの政治姿勢の表明には極めて敏感であった、否、慎重にならざるを得なか った。王朝の存亡と新・旧両教会の対立を前に、自らの命運を賭けて権力争 いに邁進する者には、自己保身と諜報活動を怠ることは致命的と云わざるを えなかった。 「王政復古」の立役者であったクラレンドン伯爵(Edward Hyde, 1st Earl of 『言語文化』8-4:719−737ページ 2006. 同志社大学言語文化学会 ©能口盾彦 720 能 口 盾 彦 Clarendon)でさえ、ペストの流行(1665)やロンドン大火(1666)等による社会に 充満する不平不満の槍玉から免れることは出来なかった。漸く懸案のオラン ダ戦争の講和(1667)にこぎ着けた彼だったが、次第に政府内で孤立し、大逆罪 の告発を察知し、仏国に亡命するが母国の地を再び踏むことは叶わなかった。2 踏絵の如き幾多のハードルを前に、時には味方をも欺く処世術が求められた ことだろう。無論、市民と云えども処世術とは無縁ではなく、デフォー (Daniel Defoe)は1685年のモンマス公(チャールズ二世の庶子、James Scott 3 Monmouth, Duke of Monmouth)の叛乱に参戦するが危うく難を逃れたという。 モンマス公の大儀は叔父ジェイムズ二世のカトリック教打破、英国国教会擁 護を目的とする蜂起であったが、広範な支援を得られぬまま政府軍に忽ち鎮 圧され、ジェフリーズ(George Jeffreys)による「血の裁判」(Bloody Assizes)に 道を開くこととなった。世の動向を推し測り、機を見て敏なる対応こそ為政 者の心得であり、デフォーの愛国心も血気に逸った愚行と化したことから、 この鉄則は庶民とて免れ得ないのである。御殿医も同様で、『ジョン・ブル 物語』(The History of John Bull)の著者として知られるアーバスノット(John Arbuthnot)はアン女王の侍医を勤めていたが、女王崩御の暁に直ちに渡仏し ている。トーリ党の重鎮ボリングブルック(Henry St. John, 1st Viscount of Bolingbroke)にしても、老僣王(ジェイムズ二世の子、The Old Pretender, James Francis Edward Stuart)の1715年の叛乱謀議に加担した嫌疑を受け、危機を覚 えた同卿は仏国に亡命し、スチュアート亡命王朝の重責を担うことになる。 1725年に漸く赦免されて帰国するボリングブルック卿ではあったが、政界か らの引退を強いられ、やむなく仏国にて隠遁生活を送らざるを得なかった。 時は前後するが、アン女王は異母弟でカトリック教徒の老僣王への王権委譲 を目論んだのか、1710年にホウィッグ党のゴドルフィン(Sidney Godolphin, 1st Earl of Godolphin)を罷免し、トーリ党の領袖ハーリ(Robert Harley, 1st Earl of Orford)を大蔵大臣に任命した。だがハノウヴァー王朝成立後に同伯爵は ジャコバイトと気脈を通じたとして、大逆罪の咎でロンドン塔に監禁される 憂き目を見た。ハーリの政敵で理神論者としても知られるシャフツベリ (Ashley Cooper, 1st Earl of Shaftesbury)は、1679から1681年にかけて三度実施 された総選挙で強力な反チャールズ二世派を形成し、「教皇主義者陰謀」 フィールディングの離反と回帰―ウォルポールをめぐって― 721 (Popish Plot)事件の嫌疑を受けた王弟ヨーク公、後のジェイムズ二世を王位 継承者から排除する法案を議会に提出するが、チャールズ二世は議会解散と いう妙手を採択した。チャールズ二世の次なる巧妙な自治都市政策によって、 権力がトーリ党に集約させられた結果、ロンドン市に庇護されていた排除法 推進派のシャフツベリは1682年にオランダに亡命する以外に策は残されてい なかった。4 その間にシャフツベリ等が唱えた排除法をめぐり、推進する嘆 願派と国王支持派で同法案阻止を謳う二派が生まれ、前者がホウィッグ、後 者がトーリと呼ばれるようになった経緯がある。5 18世紀英国の議会政治を如何に捉えるかに関し、20世紀半ばに従来の解釈 に対して大きな変更が加えられた。二大歴史観の相克がそれである。ホウィ ッグ史観によれば、18世紀に議院内閣制及び二大政党制が確立され、ホウィ ッグとトーリの二大政党の争いが議会政治を構築したとされる。しかしなが ら20世紀半ばに活躍した歴史家ネイミア(Sir Lewis Namier,1888-1960)によっ て、こうしたホウィッグ史観は完膚なきまでに否定された。その後、18世紀 の政党や党派の意義を積極的に評価しようとする新ホウィッグ史観の立場を とる研究者達が現れたが、ネイミアの所説は彼等にも著しい影響を及ぼして いる。近年の有力学説は、英国下院をホウィッグとトーリの二大政党に分け るのではなく、その政治行動によって「政治家」(Politicians)、「宮廷・行政 府党」(Court & Administration Party)、 「独立派」(Independent)という三つのグ ループに区分する。6 下院議員の分類においても、「独立派」の多くが地方的 な信条を強く抱くカントリ・ジェントルマンとし、その数およそ三百の下院 議員から成る。特定の領袖を擁せず、政府案に対して是々非々主義を標榜し たことから、「独立派」はウォルポールにとっては座視しがたい存在となっ た。こうした歴史観の変遷を直視しつつ、論者は新ホウィッグ史観に立つが、 学説論争に深入りする意図は無い。一般的にトーリ党員は心情的にジャコバ イト、即ちスチュアート王朝支持派で、ホウィッグ党員にハノウヴァー王朝 支持者の多くを数えたことは、各党の支持基盤を鑑みれば当然の結果と考え られよう。こうした時代背景のもと、ホウィッグ党のウォルポールによる政 界遊泳術を、フィールディングが如何に捉えたかを検証するのが本論の狙い である。 722 能 口 盾 彦 Ⅰ ウォルポールとホウィッグ党 西欧世界に於いて、王朝と宗教教団の存亡が国家の行く末を決定する重要 な鍵となり得たことは、17,8世紀の英国史を紐解けば明白であろう。旧教 に帰依するジェイムズ二世の仏国亡命や新教徒のオレンジ公ウィリアムとジ ェイムズ二世の皇女メアリーを擁して「名誉革命」を挙行した英国議会や国 教会の実践に象徴されるように、7 英国内での旧教の基盤は大きく揺らぎ、 アン女王を経て新教徒のジョージ一世が即位し、ハノウヴァー王朝の成立を 見た。こうした変動する情勢下、政界指導者や宗教人にとってジャコバイト を標榜することは大きな賭けと云えただろう。ジャコバイト(Jacobite)とはラ テン語でJamesを意味する‘Jacobus’に由来し、1688年の「名誉革命」により 仏国に亡命したジェイムズ二世支持派及びスチユアート王家支援・再興支持 者を指す。この伏線は1678年に吹き荒れた「教皇主義者陰謀」事件にあると 考えられる。事の真相はいまだミステリーの域を越えないが、イエズス会士 によるチャールズ二世暗殺計画に、ルイ十四世の支援を受けた王弟ヨーク公 が加担しているとの陰謀の噂が流布し、英国国内には反カトリック気運が醸 成された。加えて1715年の老僣王や1745年の若僣王(ジェイムズ二世の孫、 The Young Pretender, Charles Edward Stuart)の叛乱、特に若僣王軍による 1745年のイングランド侵攻はロンドン中央政府の心胆を寒からしめるもので あったことから、王位継承問題は新旧両派の宗教対立を喚起した。 スチュアート王朝からハノウヴァー王朝への移行過程で、ライバルとの権 力争いに勝ち上がってきたのがウォルポールその人で、当代の為政者の最た る人物の足跡と野望を辿ってみたい。ウォルポールがどの様にして頭角を表 したのか。諸説紛々だが、先ず第一の転機は1712年の初頭に彼がロンドン塔 に送られた件にかかわると論者は推断する。事件の背景は以下の通りである。 スペイン王位継承戦争(1701-14)の最中、明晰さと雄弁さがマルボロウ公爵 (John Churchill, 1st Duke of Marlborough)やゴドルフィンの目に留まり、1708 年に国防長官(secretary of war)に抜擢され、1710年には海軍大蔵卿(treasurer of the navy)に任命されたウォルポールではあったが、前述のゴドルフィンの 失脚に伴い、1711年1月に罷免される。この間、若きホウィッグ党指導者と フィールディングの離反と回帰―ウォルポールをめぐって― 723 してウォルポールは交際の輪を広げ、「キット・キャット・クラブ」(the KitCat Club)8では同党の長老サックヴィル卿(Sir Charles Sackwille)やウォートン (Thomas Wharton)にモンタギュ(Charles Montagu)、文人のアディソン(Joseph Addison)やスティール(Richard Steele)、印刷業者のトンソン(Jacob Tonson)等 の文人墨客と親交を深めていった。生来の社交好きがウォルポールに多額の 負債を負わせ、利権との癒着を生んだことは否めないが、今日の民主主義的 見地からの批判は的外れではないだろうか。フィールディングが治安判事に 任命されたのも、彼の弛まぬ猟官活動の賜物と云えなくもないからだ。9 ウ ォルポールが役得と全く無縁でなかった脇の甘さが、マルボロウ公爵共々葬 り去ろうとするトーリ党に狙い撃ちされたのがどうやら事の真相の様であ る。ところが清濁併せ飲む政界術の実態から、ロンドン塔投獄事件の受難が ホウィッグ党内でウォルポールを殉教者へと忽ち祭り上げるのであった。陰 謀に加担したトーリ党のハーリやボリングブルックへのウォルポールの敵愾 心は、このロンドン塔収監事件が育んだ事はほぼ間違いない。1714年のジョ ージ一世の即位でウォルポールの復讐劇は序文に記された如く成就を見たの である。1721年4月に44歳で第一大蔵卿に就任したウォルポールの前途は 洋々、長期政権も易々かと思われたが、与党内のライバルとしてジョージ一 世に強い影響力を持つサンダーランド伯爵(Charles Spencer Sunderland, 3rd Earl of Sunderland)がいた。彼はウォルポール打倒に砕身するが、1715年以 来7年ぶりに総選挙が行われた1732年4月に亡くなり、ライバルレースから 呆気なく離脱した。次の政敵は外交に長けたカートレット男爵(John Cartret, Baron Cartret)であった。同男爵はドイツ語が堪能で、ドイツ生まれ のジョージ一世の信任を勝ち得ていた事からウォルポールを不安に陥れる が、得意とする外交でライバルは躓き、国務大臣の職を1724年春に解かれて アイルランド総督に転身させられた。その結果、後任に腹心のニューカッス ル公爵が任命され、公爵の弟であるペラム(Henry Pelham)も陸軍事務長官に 据えられた事により、ウォルポールの長期政権の基盤固めが成った。10 外交 政策はともかく、ウォルポールが果たした社会貢献として、ホウィッグ党の 権力維持に貢献した事が挙げられよう。ハノウヴァー朝の二君の後ろ盾を支 えとし、トーリ党内に隠然たる勢力を保っていたスチュアート王朝支持派を 724 能 口 盾 彦 糾弾し、ジャコバイトの陰謀を未然に防いだ。ジャコバイトを支援する外国 勢力、とりわけ対仏国に対して平和主義に徹することで戦費を省き、税の高 騰を嫌う地方の保守的地主階層の支持を得た結果、1745年に勃発した若僣王 の叛乱事件の際、イングランド内の支援の輪、武装蜂起を抑えたと考えられ ている。 第二の転機は、不仲のジョージ一世と皇太子(後のジョージ二世)11の間 にあって、キャロライン皇太子妃(Caroline of Anspach, the Princess of Wales) の信任を得たことが彼に幸いした。12 権勢にあること僅か二年、1717年には 早くも辞任を余儀なくされたウォルポールが1721年に宰相に返り咲く事が出 来たのも、ウォルポールの人徳、容貌の成せる業か。ジョージ一世の愛妾の 一人、ケンダル公爵夫人を情柔して王とのコンタクトを結ぶことに成功した と云うから恐れ入る。13 失脚の危機も1720年に勃発した南海泡沫事件からも 14 財政再建のためにスタンホープ(James 難を免れたウォルポールは、 Stanhope, 1st Earl Stanhope)内閣に代わって、1721年4月に大蔵大臣に就任し、 15 閣内で次第に権力を掌握していった。1727年の首相更迭の危機に際しても、 硬軟両用の策を弄し、王妃キャロラインの取りなしで権力を維持し得たこと は、人を魅する豪胆さを兼ね備えていた為であろう。南海泡沫事件の余波に よる経済的疲弊は社会混乱を引き起こし、スチュアート王朝復活を願うジャ コバイトに有利な展開が予想されたが、1723年にロチェスター司祭のアタバ リー(Francis Atterbury)の陰謀16が露見し、同司祭が処断された事から叛乱へ の気運が急速に消滅したのも当然だろう。前年の春、即ち1722年4月に執り 行われた総選挙で、反ウォルポール派が勢力を保持した事から、ウォルポー ルはこの陰謀事件をとらえ、トーリ党全体にジャコバイトの汚名、イメージ を着せることに奏功した。野党の政治活動を牽制し、自己の権力確立を画策 17 機を見て敏なる政治家の稀なる天性を見る思いがする。 する点、 ウォルポールの平和外交政策により戦費の抑制が図られ、低率税制等が施 行された結果、地方の地主階級に好感をもって受け入れられたが、反対勢力 にとっては英国の国益を損なう優柔不断なものとして非難された。特に仏国 に対する弱腰外交がスペインへの外交政策にも影響を及ぼしたとされる事実 は、「ジェンキンスの耳の戦争」(War of Jenkins’ Ear)の背景を鑑みれば得心 フィールディングの離反と回帰―ウォルポールをめぐって― 725 がいくのではなかろうか。18 彼を取り巻く敵対集団はジャコバイト、ハノヴ ェリアン・トーリ、反体制派ホウィッグ、都会の急進派、とりわけロンドン 商人達であった。1737年6月の劇場封鎖令の施行後、さしも権勢を誇ったウ ォルポールの威光にも陰りが窺われるようになった。1737年11月にはキャロ ライン王妃の死を迎えたことも、ウォルポールにとって大きな痛手となった が、晩年のジョージ二世の国政には王妃の影響は軽微なものと化していた。 19 皇太子の主催する ジョージ二世と皇太子(Frederick Louis)との不仲に加え、 「愛国の士(子)達」(the patriotic boys)等に代表される若き政治家達の台頭 は新旧の世代交替を促す動きであったが、同皇太子の急逝は英国政界にも衝 撃的事態であった。晩年のウォルポールは、その平和政策からしばしば軟弱 外交の咎を受けたのも無理からぬが、本質的な平和主義者とは程遠く、ハノ ウヴァー王朝との兼ね合いが彼の対大陸外交の決め手となったのではない か。1740年にはオーストリアのカール六世が亡くなり、マリア・テレジアが ハプスブルグ家を継承するが、同年12月にプロイセンのフリードリヒ二世が オーストリア領シュレージェンに侵攻した事に端を発し、「オーストリア王 位継承戦争」が勃発した。仏国は反オーストリアの立場から参戦し、やむな く英国はオーストリアと結んで仏国と対峙した。ところがジョージ二世が故 国ハノウヴァーの安泰を謀る為、仏国と条約を締結した事から英国は同盟国 の反発を呼んだ。戦況は思わしくない中、1741年の総選挙でウォルポールの 支持基盤であったスコットランドとコーンウォルで彼は敗北を喫し、同年12 月に開催された新議会で落選候補者の異議申し立てを唱える審議委員会の委 20 1742年2月2日にウォルポールは辞任を余 員長選挙にも敗れて万事休す、 儀なくされた。ところが以降もペラム内閣の誕生に関与するなど、ウォルポ ールはジョージ二世への影響力を保持し得たものと推察される。 Ⅱ 諷刺の標的ウォルポール 宰相としてのウォルポールの政界遊泳術、長期政権を担う処世術がフィー ルディングを始めとする当代の文人達に格好の題材と映ったのは当然であろ う。フィールディングは『大盗ジョナサン・ワイルド傳』(Jonathan Wild the Great)に於ける盗賊の大捕方(Thief Taker General)として故買商ワイルドを創 726 能 口 盾 彦 生した。1725年5月24日にタイバーンで刑場の露と消えた実在の盗賊名が採 択されたのだが、同一人物を主人公とした伝記はこれまでもデフォー等によ って処刑直後(同年6月8日)から刊行されている。21 ポウプ(Alexander Pope)は『愚物列傳』(The Dunciad)の中でウォルポールと目されるパリヌラ ス(Palinurus)はダルネス(Dulness)帝国の政を司るが、白川夜船の体たらく同 然と記す。22 ゲイ(John Gay)は1728年初演の『乞食オペラ』(The Beggar’s Opera)にてワイルドに符合する故買商ピーチャム(Peachum)や街道の追剥マ ックヒース(Macheath)を登場させ、彼らの錬金術と税制のからくりに通じた ウォルポールの財務操作との相関性に焦点を当てている。 ワイルドに限らず、神出鬼没の怪盗シェパード(Jack Shephard)等の処刑直 後にも、雨後の竹の子の如く、伝記と称する小冊子の類の出版が相次いだ。 そ知らぬ顔で窃盗犯から盗品を回収しては、恩着せがましく元の持ち主に買 い戻させるフィールディングのワイルドは、故買を生業とする厚顔無恥な闇 商人として描出されている。配下の盗人の上前をピンはねしては懐を潤し、 危険を察知しては司直に仲間を売り渡す。狡猾さを具現した冷徹無比の顔、 故買商としての善人顔等に見られる如く、様々な外面を使い分ける悪の権化 に“偉大さ”が相応しいと、フィールディングは元宰相の政界遊泳術を擬え る。元宰相としたのは、同作品は『雑文集』(Miscellanies)第三巻に編まれて 1743年4月に予約出版されたのだが、ウォルポールは1742年2月に既に失権 し た が 故 で あ る 。 註 13で 挙 げ て お い た リ リ パ ッ ト の 大 蔵 卿 (Lord High Treasurer)が御前で演じるロープ・ダンスの妙に、稀に失墜することはあっ てもバランス感覚に長けた腕前に、ウォルポールの政界での平衡感覚が表象 される。政敵に危うく失脚させられようとも窮地を脱する様は、ブルースキ ン(Blueskin)としてその名が知られるブレイク(Joseph Blake)によって法廷 (bail-dock)でナイフを突き立てられるが、23 辛くも死を免れるワイルドの強 運さに象徴されるだろう。ワイルドの迫真的描写から極悪人に垣間見られる 人間性、予期せぬ脆さが描き尽くされ、作品自体の救いともなっている。幼 馴染みで善良な宝石商のハートフリー(Heartfree)から全財産を、また麗しき 同夫人の貞操をも騙し取ろうとするワイルドは一計を案じるが、散々難儀し た挙句、全ては水泡に帰す。男にはめっぽう強いが女には体たらく、ワイル フィールディングの離反と回帰―ウォルポールをめぐって― 727 ドは妻のリティシア(Laetitia)にも頭が上がらない。ウォルポールの女性関係 とワイルドとの比較は面白いテーマだが、本論を逸脱することから別紙に譲 る。上手の手から水が漏れたか、遂に密告されてニューゲイトに収容される ワイルドだが、そこでも囚人達を取り仕切っていたジョンソン(Roger 24 ウォルポールの議会内で Johnson)との権力争いに忽ち勝利を収める様は、 の権力掌握力を読者に髣髴させる。 Ⅲ フィールディングの変節 フィールディング家はダンビ伯爵(the Earl of Denbigh) や同伯爵の弟である フィールディング(Charles Feilding、綴りは異なる)とは縁続きで、代々聖職 者や軍人を輩出する家系であった。ヘンリーはサマセットシャーの片田舎、 シャーパム・パーク(Sharpham Park)にて陸軍将校のエドモンド、裁判官の娘、 セアラ(Sarah)の長男として1707年4月22日に生を受けた。父方の祖父ジョン (Reverend John Fielding)はウィリアム三世の宮廷牧師を勤め、父エドモンド は『アミーリア』(Amelia)にヒロインの駄目亭主として登場するブース大尉 (Captin Booth)のモデルとなった人物で、中将を機に退役している。十一歳 の時に母を亡くし、母方の祖母の扶養を受けてイートン校に進むが大学には 25 ロンドン演劇界に身を投じた。 進学せず、 フィールディングが親交を重ねた著名人の中には、青鞜派と目されるモン タギュ夫人(Lady Mary Montagu)がいた。フィールディングの祖父ジョンの長 兄であるダンビ伯が同夫人の祖父であったことから、フィールディングとは 又従姉に当たる。フィールディングの処女戯曲『恋の諸々相』(Love in Several Masques)は1728年2月半ばに四夜で打ち切りとなったが、ドルア リ・レイン座(Drury Lane Theatre)で上演する事が出来たのも、親戚筋である モンタギュ夫人の仲介の労に負うところ大であった。同夫人とウォルポール とが昵懇の間柄であった事から、劇作家として駆け出しのフィールディング がウォルポールへ秋波を送ったと解釈可能な働きかけを成している。つまり 本論の表題とも関連するのだが、フィールディングは必ずしもウォルポール 批判一辺倒ではなかった。当時、ウォルポールは同窓生達を“old boys”とし て好遇することで知られ、フィールディングもイートン校の先輩として、大 728 能 口 盾 彦 物政治家に何らかの庇護を期待したようだ。例えば、フィールディングが 1730年に宰相に韻文で献じたThe Epistleの中で“偉大な人”(the Great Man)と して、周知のウォルポールを自己の信条に立脚する偉大さ(greatness)と対比 させ、ユーモアたっぷりに陳述するが、息子のホレス(Horace Walpole、ロバ ートの四男、『オトラント城』〔The Castle of Otranto, a Gothic Story〕等で知 られる)とは異なり、文学に関心を抱かぬ宰相の気を引くことは叶わなかっ た。26 こうした不首尾にも拘わらず、フィールディングは1732年には本格的 な五幕喜劇『今様亭主』(The Modern Husband)をウォルポール首相に献じる 27 献呈の辞 のであった。どうやらモンタギュ夫人の入れ知恵らしいのだが、 を作品に添えたのも、読者の飛躍的増加を見ぬまま、印税の恩恵に浴するこ との無かった当時の売文家達が、名士の歓心を買おうとして常々採択するパ トロン獲得法であった。度重なるフィールディングの懇願、モンタギュ夫人 の口添えにも拘わらず、ウォルポールの我関せずとした姿勢に、宰相に傾注 する気運も萎え、持ち前の反骨精神がもたげたとしても不思議ではない。も っともその後、宰相に一抹のわだかまりをフィールディングが抱かぬ筈も無 かっただろうが、ホウィッグ党の主席宣伝者(chief propagandist)を自負し、 間断はあるにしても1739年11月から『チャンピオン』紙(The Champion)、次 いで『真の愛国者』紙(The True Patriot)を、さらに『ジャコバイト』紙(The Jacobite’s Journal)や『コヴェント・ガーデン』紙(The Covent-Garden Journal) 等を通して、1752年11月までフィールディングはジャーナリストとして論客 振りを発揮した。劇作家として、ジャーナリストとして、さらには小説家と してフィールディングの存在を次第にウォルポールに認識させた証しは、予 28 『大盗ジョナサ 約販売された『雑文集』を十部購入した事実が物語ろう。 ン・ワイルド傳』の着想は、ウォルポールの政界操作にフィールディングが 着目した所産であるのも何か因縁めいているが、だからこそ逆にウォルポー ルの気を引いたとも考えられる。結果的に、劇作家からの転身後に再び『大 盗ジョナサン・ワイルド傳』を上梓してウォルポール諷刺を目指した訳だが、 同作品が刊行された時点で既に宰相は下野し、権力の中枢にあらずでは諷刺 効果が半減させられたも同然である。但し、注目すべきは、改作が極めて稀 なフィールディングが、病を押して最晩年の1754年3月に改訂版を刊行した フィールディングの離反と回帰―ウォルポールをめぐって― 729 かいせん のも、その辺りの事情を念頭に入れての改撰作業と見なす事が出来る。 フィールディングとウォルポールの因果関係で忘れられないのは、1737年 6月にウォルポール内閣が発布した「劇場封鎖令」(The Licensing Act)によ って、フィールディングの「小劇場」(Little Theatre)は閉鎖に追い込まれ、 劇作家の道が閉ざされた事象ではなかったか。この辺りの経緯は既述済みだ 29 事の経過を略記すると以下の如くとなろう。劇作家として次第にウォ が、 ルポール批判を強めていったフィールディングが、軽妙洒脱かつ大胆な筆致 でウォルポールの収賄政治を槍玉に挙げた。ホウィッグ党の選出議員である ウォルポールを嘲弄の的と化すのは、作者の反ジャコバイトの見地からも一 見矛盾する印象を与えるが、長期政権による収賄汚職政治や対仏国への軟弱 外交への反発に加え、当代の文学思潮も反映したものと考えられる。政界操 作を象徴的に諷刺した作品として、1737年3月に「小劇場」で上演された 『1736年の歴史的記録』(The Historical Register for the Year 1736)が当局の目に 止まった。議院内閣制の発祥の地にもかかわらず、収賄政治がまかり通る英 国政界の実体がコルシカの政治風習に名を借りて諷刺の矢面に晒される。ウ ォルポールを想わせるウィダム(Quidam)が、収賄に成功した敵対する議員達 を提琴に合わせて躍らせては、彼等のポケットの底穴から漏れ落ちた賄賂金 を回収する。30 正にこれは当代の与野党国会議員への政界工作の実態が劇画 化された訳で、議会内での買収、腐敗政治の現況にフィールディングは鋭い メスを入れている。前後するが同年2月、ドルアリ・レイン座で演じられた 喜歌劇『ユーリディス又の名恐妻魔王』(Eurydice; or The Devil Henpeck’d)で は、フィールディングの十八番である舞台稽古方式が採択され、劇作の不評 により演劇界から姿を消す劇作家の末路に、政界から失脚の憂き目を見るウ ォルポールの来世が投影されたことが当局の逆鱗に触れた。もっともフィー ルディングの劇作が上演禁止の処置を蒙ったことはなにも今回が最初ではな かった。当初は『ウェイルズ・オペラ』(The Welsh Opera)と題されたが1731 年に政治諷刺劇『グラブ街オペラ』(The Grub Street Opera)と改題・改作され たのが問題作である。『乞食オペラ』並みの“バラッド・オペラ”に転じた 同劇で、ウォルポールと王妃キャロラインの親交振りが揶揄された為に当局 730 能 口 盾 彦 の介入を呼んだのだが、今度ばかりは単にフィールディングの劇作家の夢を 打ち砕いたばかりでなく、ロンドン演劇界の終焉と云える制裁処置となった。 それでは何故ウォルポールをフィールディングは執拗に諷刺の的と化し、 かつ元宰相に固執するのか。長期政権には堕落や腐敗が付き物だが、批判精 神旺盛な往時の英国文人達は読者や観客の笑いを取ろうと挙って時の権力者 を諷刺の対象とし、実際、ウォルポールの寡頭政治は格好の標的と映った。 王室の支援を拠り所とするウォルポールの政界操作が利権を生み、腐敗政治 を派生した事が批判精神旺盛なフィールディングの義憤を奮い立たせたもの と推断される。当代の読者層の意向を反映した所産とも解釈可能だが、フィ ールディングがハノウヴァー王朝支持者であったことから、反ジャコバイト であることは明白と云えよう。英国国教会広教会派に帰依したフィールディ ングが、反カトリックの姿勢を貫くことは容易に理解できる。反ジャコバイ トとしてホウィッグ党支援の論陣を張ったことから、たとえ収賄政治、腐敗 政治の最たる為政者とは言え、同一政党のウォルポールを何故こうまで非 難・嘲弄し続けるのか。逆にこうした筆者の執拗さこそ時の政界でのウォル ポールの隠然たる存在証明と成り得るばかりか、権力者を槍玉に挙げては大 向こうから拍手喝采、飽くまで読者の関心を違えずに執筆しようとするフィ ールディングの作家魂ともとれる。 結 18世紀中葉までの英国にあって、時の権力者ウォルポールへの陳情は凄ま じいものであったろう。いかに議員内閣制度の立役者とは云え、腐敗選挙、 汚職政治で名を馳せた宰相が清廉潔白であるなど、世情に通じた当時の英国 人達は信じなかったはずである。利権や官職を求める嘆願者は門前市を成す 如きではなかったか。懇意なモンタギュ夫人の口添えがあったにしても、フ ィールディング如き青年売文家に逐一対応し難いのが権力者の実態であり、 自薦他薦を含めてウォルポールに献呈の辞を捧げた文人は数知れず、スウィ フトやポウプにゲイもその例にもれない。31 徒労と分かっていても宰相との 絆を求めた謂れの一つに、ウォルポール等の推薦で1730年に桂冠詩人となっ た男が関っていた。当代のロンドン演劇界の大御所シバー(Colley Cibber)が フィールディングの離反と回帰―ウォルポールをめぐって― 731 拝命されたのだが、実はフィールディングの処女戯曲がドルアリ・レイン座 で興行できたのも、彼の尽力に負うところ大であった。詩とは全く無縁の劇 作家兼劇場支配人が、名の知れた文人なら誰しも念願する桂冠詩人の栄誉を 手にしたものだから、批判の嵐が巻き起こったのも当然至極である。ポウプ32 やゲイ、さらに恩義を受けたが忽ち決別したフィールディングも厚顔無恥で 無能なシバーを槍玉に挙げ、嘲弄の手を緩めることはなかった。文学を解せ ぬウォルポールに庇護を求めたのはお門違いだが、フィールディング同様、 その素気無き対応にスコットランド詩人トムソン(James Thomson)も反発・ 離反したことで知られている。文人の自活が困難を極めた当時にあって、パ トロンと文人との関係で、昔の冷遇を咎めてチェスターフィールド伯に認め たジョンソン博士の決別の辞、“Is not a Patron, my Lord, one who looks with unconcern on a man struggling for life in the water, and, when he has reached ground, encumbers him with help”(庇護者とは人の将に溺れんとする折を冷眼 に看過し、漸く岸に泳ぎ付きたる折を見計らってわざと邪魔ともなるべき援 助を与へらるゝものに候や)33は、双方の立場を見事に言い当てている。だ がフィールディングとジョンソン博士とでは明らかに立場を異にする。ウォ ルポール相手に一人相撲を取ったと定めれば、軽視された印象を与えかねな いが、ホウィッグ党に不可欠な論客として、宰相はフィールディングへの認 識を改めたと言うのが実情ではなかったか。 ではウォルポールが布告した『劇場封鎖令』の因果を如何に考察すべきか。 『雑文集』刊行に先立つこと五年十ヶ月、自前で「小劇場」を構え、劇作家 兼劇場主としてロンドン演劇界でそれ相応の地位を占めていたフィールディ ングへの、死命を制するかと思える法の施行であった。その後の展開を見る と、家族を抱えたフィールディングは法曹界の門を叩き、漸く弁護士となる も閑古鳥が鳴く始末に、ウォルポールへの恨み節が聞こえても不思議はない。 慣れぬ弁護士稼業に見切りを付け、ジャーナリストとして『チャンピオン』 紙の編集に携わる等、文筆活動に再び手を染めたフィールディングの前に出 現したのが1740年11月に刊行された『パミラ』(Pamela, or Virtue Rewarded) であった。パロディとしての『シャミラ』(Shamela)に次いで、1742年2月 に上梓された『ジョウゼフ・アンドリューズ』(Joseph Andrews)は好評を博 732 能 口 盾 彦 し、漸くフィールディングが自活の道を見出し得た事から、ウォルポールの 鉄槌も後世の読者にとっては幸運と呼べないか。劇作家稼業の煩雑さを吐露 したフィールディングにしても、34 演劇界から足を洗う良き契機、潮時とな った事は間違いないだろう。 反骨心旺盛なフィールディングがウォルポールに無視され、権力者の極み として宰相を諷刺の矢面に据えるが、決別の辞を献ずる程の厚遇を受けぬ者 が謝意を表明する謂れも無い。イートン校の同窓生であったホウィッグ党議 員達、中でもリトルトンやフォックス等によるベッドフォード公爵(4th Duke of Bedford)等への取り成しの甲斐あって、フィールディングは1748年 から翌年にかけてウェストミンスター及びミドルセックス地域の治安判事職 を得た。持病の悪化により、任務を弟ジョンに委ねた元治安判事が、死出の 旅路となったリスボンへの道程を記した旅日記、『リスボン渡航記』(The Journal of a Voyage to Lisbon)の「著者の序文」(Author’s Introduction)の中で、 前任者は年収一千ポンドの実入りがあったとか。35 職務執行を通してフィー ルディングが私腹を肥やしたとは先ず考えられないが、賄賂政治の代表とし て名を残したウォルポールとほぼ重複する時代にあって、フィールディング の治安判事就任こそ猟官活動の集大成、千載一隅のチャンスと捉えられなく もない。 人の偉大さに亡くなって初めて気付くのが世の常だが、フィールディング もこの範疇から外れることはなかったようだ。前章に指摘した様に、『大盗 ジョナサン・ワイルド傳』改作の理由は、元宰相の存在が彼の死と共に希薄 となり、諷刺作品としての命脈が尽きる、とフィールディングが認識した為 である。しかしながら数多の自作から、改編の対象として同作品をフィール ディングが採択したのも、単に諷刺の効用だけに止まらず、亡き宰相への再 評価の一端として受け止められるのではないか。 『リスボン渡航記』の中で、 筆者であるフィールディングがウォルポールを評して、“one of the best of men and of ministers”36と評価しているのも、媚や諂いとは無縁の偽らざる元 宰相評価を物語るものではなかろうか。 フィールディングの離反と回帰―ウォルポールをめぐって― 733 註 1 John Plumb, Sir Robert Walpole: The Making of a Statesman (Cambridge, Massachusetts: The Riverside Press, 1956), 333. 2 今井宏編『イギリス史』 (東京:山川出版社、1990年)、2: 244頁。 3 Paul Dottin, trans. Louise Ragan, The Life and Strange and Surprising Adventures of Daniel De Foe (New York: Octagon Books, 1971), 45; Peter Earle, The World of Defoe (Newton Abbot, Devon: Readers Union Ltd., 1977), 6 & 11. 4 今井宏編『イギリス史』、2: 247-8頁。 5 今井宏編『イギリス史』、2: 247頁。 6 今井宏編『イギリス史』、2: 295-7頁。 7 ジェイムズ二世の最初の妻はクラレンドン伯爵の長女アン・ハイドで、二人の 間で成人した子女はメアリ(Mary, 1662-94, 1689-94)とアン(Anne, 1665-1714, 170214)の二人のみで、アン・ハイド亡き後、カトリック教徒のメアリ・モデナ(Mary of Modena)を后として迎えて誕生したのが老僣王である。 8 1703年頃創設され1720年頃に消滅した社交クラブで、ホウィッグ党の大物議員 からシーモア(Charles Seymour)を始めとする中堅議員等が多数集い、ハノウヴァ ー王朝成立後、同クラブから政権中枢に登用される者を多数数えたことからクラ ブの活力が削がれた。 9 フィールディングはホウィッグ党のニューカッスル公爵(1st Duke of Newcastle)や ベッドフォード公爵(4th Duke of Bedford)にチェスターフィールド伯爵(4th Earl of Chesterfield)やピット(William Pitt, Elder Pitt)等の有力議員との関係構築に成功する が、その蔭にイートン校の学友達、即ちリトルトン(George Lyttelton)やフォック ス(Henry Fox)にウィリアムズ(Charles Williams)等の存在があった。 10 今井宏編『イギリス史』、2: 291頁。 11 Plumb, Sir Robert Walpole, 259-61. 12 Homes Dudden, Henry Fielding: His Life, Works, and Times (Oxford: Clarendon Press, 1952), 1: 76 & 91. 13『ガリバー旅行記』(Gulliver’s Travels)の第一篇第三章に、リリパット国(Lilliput) の宰相フリムナップ(Flimnap)がロープ・ダンスの最中に墜落して危うく首の骨を 折るところが、皇帝のクッションが偶然下にあったので難をまぬかれたとする箇 所がある。ウォルポールの失脚の危機をジョージ一世の愛妾が緩衝役を果たした とする着想に、スウィフトの諷刺精神の真髄があろう。ポウプはこのケンダル公 爵夫人を“a Harlot”とまで評している。 Cf., Alexander Pope, ed. Herbert Davis, The Dunciad IV “Pope: Poetical Works” (London: 734 能 口 盾 彦 Oxford University Press, 1966), 576. 14 中村英勝『イギリス議会史』 (東京:有斐閣、1977年)、91頁。 15 1727年6月にヨーロッパ大陸にあったジョージ一世は同月11日(旧暦)に急逝 した。直ちに皇太子がジョージ二世として即位し、父王とウォルポールの関係を 一掃すべく、寵臣コンプトン(Spencer Compton, Earl of Wilmington)登用の意向を固 めた。だがコンプトンの議会対策は皆無と云って良く、対するウォルポールは先 王を凌ぐ「シヴィル・リスト」増額を議会から勝ちとり、新国王の信頼を得た。 参照:今井宏編『イギリス史』、2: 293頁。 16 ロチェスター主教アタベリーは大陸の老僣王と謀って、ジャコバイトの蜂起を 企てるが発覚して国外追放の処分を受けた。ウォルポールはこの期をとらえ、ト ーリ全体にジャコバイトの汚名を着せることで自己の権力強化を果たした。 参照:今井宏編『イギリス史』、2: 290-1頁。 17 今井宏編『イギリス史』、2: 290-1頁。 18 スペイン領アメリカと英国間の貿易に対するスペイン当局の予てからの干渉は、 英国商人の不満の種であったが、スペイン沿岸警備隊に耳を削がれたジェンキン ス船長(Robert Jenkins)の下院証言に拠り、ウォルポールは野党のスペイン強攻策 に抗し得ず、1739年10月にスペインと開戦した。 19 1737年9月に野党に組した皇太子フレデリックが生活費の増額を国王に請求し た事から、両者の対立は決定的となった。 参照:今井宏編『イギリス史』、2: 300頁。 20 今井宏編『イギリス史』、2: 318頁、注2。 21 拙論、「ウォルポールとワイルドーフィールディングの『大盗ジョナサン・ワ イルド傳』を中心にー」 『十八世紀イギリス文学研究』 (東京:開拓社、2002年) 、 180-1頁。 22 Alexander Pope, The Dunciad IV, 581. 23 Henry Fielding, ed. Hugh Amory, Miscellanies “The Wesleyan Edition of the Works of Henry Fielding” (Middletown, Connecticut: Wesleyan University Press, 1997), 3: 138. 24 Henry Fielding, Miscellanies, 3: 143-5. 25 フィールディングが一年余の期間(1728年3月∼1729年8月)、オランダに遊学し たことは周知の事実だが、ライデン大学に在籍した形跡は見付かっていない。 Cf., Martin Battestin with Ruthe Battestin, Henry Fielding: A Life (London: Routledge, 1989), 72-3 & 634. 26 Homes Dudden, Henry Fielding, 1: 29-31. 27 Homes Dudden, Henry Fielding, 1: 106. 28 Homes Dudden, Henry Fielding, 1: 413; Wilbur Cross, The History of Henry Fielding (New York: Russell & Russell, 1963), 1: 382. 29 拙論、「火宅の人フィールディング」『言語文化』第8巻第1号(同志社大学言 フィールディングの離反と回帰―ウォルポールをめぐって― 735 語文化学会、2005年)、142-3頁。 30 Henry Fielding, ed. Leslie Stephen, The Historical Register for the Year 1736 (London: Smith, Elder, & Co., 1882), 10: 231-2. 31 J. A. Downie, ed. Jeremy Black, “Walpole, ‘the Poet’s Foe’,” Britain in the Age of Walpole (London: Macmillan Education Ltd., 1990), 180. 32 Alexander Pope, The Dunciad IV, 578. 33 James Boswell, ed. R.W. Chapman, Life of Johnson (Oxford: Oxford University Press, 1970), 185; 夏目漱石『文学評論』 (東京:岩波書店、1995年)、第15巻160頁。 34 拙論、「火宅の人フィールディング」『言語文化』、143-4頁。 35 Henry Fielding, ed. Leslie Stephen, The Journal of a Voyage to Lisbon (London: Smith, Elder, & Co., 1882), 7: 16. 36 Henry Fielding, The Journal of a Voyage to Lisbon, 7: 76. Of the Process of Fielding’s Approach to and Parting from Robert Walpole Tatehiko NOGUCHI Key words: Fielding, Walpole, Wild, Whig By more than thirty years Robert Walpole is Henry Fielding’s senior, and he had taken the lead as a prime minister in the British Parliament for more than twenty years. To entreat support of the Great man, Fielding, a young dramatist, dedicated to him The Modern Husband, a play in five acts in 1732, in addition to writing praise in the Epistle presented in 1730. It may be conjectured that Fielding’s patron-hunting was suggested by Lady Mary Montagu, his second cousin, who was on intimate terms with the prime minister. As the result of a curt refusal from Walpole, however, Fielding came to stand against the prime minister by bitterly satirizing him along with other literary men, who criticized Walpole not only for political 736 能 口 盾 彦 corruption but for his lack of literary ability, illustrated in his choice of Colley Cibber, an incapable but influential dramatist and theatre-manager, as poet laureate. As a cunning device for bringing political satire to the stage, Fielding successfully used the ‘rehearsal’ form, which might be convenient for the dramatist to show all manner of explanation, general comments and criticisms on the stage proceedings in his later mock comedies or burlesques. It was The Little Theatre Fielding owned in Haymarket that acquired a reputation as a home of political satire; one or two of his best dramas among twenty five dramas, Pasquin made a great stir there in March 1736, and The Historical Register for the Year 1736 was also performed in March 1737. As a political satire, The Historical Register is so daring as to bring Walpole with almost no disguise upon the stage to expose his ministry to ridicule. By the audacity of his political satire the Licensing Act was passed in June 1737, and Fielding’s career as a playwright was suddenly brought to an end, and his income withdrawn as the result of the closing of his theatre. This caused Fielding to take leave of the London theatrical world and become a lawyer in May 1740, by entering into Middle Temple where he would work hard enough to complete the course in less than three years. The reason why Fielding could draw few clients after beginning practice may be due to the fact that Fielding was known for his satirical dramas. To support his big family, Fielding started as chief editor and columnist of a new journal, The Champion and was changed into a novelist by the publication of Richardson’s Pamela. It is the Licensing Act issued by the Walpole’s government for which Fielding’s readers may be grateful as a turning point of making the novelist change his way of life. Unlike Richardson, Fielding has scarcely rewritten or changed the original during the time of his being novelist except few works; several chapters of Tom Jones were rewritten due to his misunderstanding of the historical events and Jonathan Wild the Great due to make suitable for フィールディングの離反と回帰―ウォルポールをめぐって― 737 satirical adaptations. The reason why the author set to adapt the satirical work may be conjectured that his original was in need of improvement so that Fielding might explain how importantly Walpole played his role as the prime minister. Just after the retirement of Walpole, it is beyond doubt that the former prime minister was exempted from being made a satirical object. Thus, the revised edition of Jonathan Wild which was included in the third volume of The Miscellanies published on 12 April 1743, was published on 19 March 1754. It may be impossible for Fielding who has suffered from not only gout but dropsy gasping for breath to alter the first original, however, it was just before his death that the author undertook one of his last works. There may be a sufficient reason for believing that Fielding, having bitterly satirized Walpole, came to reevaluate him as one of the truly great men among the British politicians, just shown as “one of the best of men and of ministers” in his last work, The Journal of a Voyage to Lisbon.