...

107:10 彼らは、闇と死の陰に座る者/貧苦と鉄の枷が締めつける捕われ

by user

on
Category: Documents
13

views

Report

Comments

Transcript

107:10 彼らは、闇と死の陰に座る者/貧苦と鉄の枷が締めつける捕われ
2012年9月8日
107:10 彼らは、闇と死の陰に座る者/貧苦と鉄の枷が締めつける捕われ人となった。
107:11 神の仰せに反抗し/いと高き神の御計らいを侮ったからだ。
107:12 主は労苦を通して彼らの心を挫かれた。彼らは倒れ、助ける者はなかった。
107:13 苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと/主は彼らの苦しみに救いを与えられ
た。
107:14 闇と死の陰から彼らを導き出し/束縛するものを断ってくださった。
107:15 主に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。
今週はイスラエル民族にとって第二の大きな出来事、捕囚と解放について見ていきます。
イスラエルの人々はエジプトを脱出した後、約40年の年月を費やして、神がアブラハ
ム、イサク、ヤコブに与えると約束されたカナンの土地に入りました。
入植して後、各
部族に土地の分配がなされ、イスラエルの人々は今のパレスチナ一帯に居住地を定めまし
た。
そのことについてヨシュア記と士師記には詳しく書かれています。
それを読めば
分かりますが、イスラエルの人々はモーセの後継者ヨシュアの指導の許、カナン人と度重
なる戦いを交えました。
因みにヨシュアとは「ヤーウェ(主)は救う」という意味があ
り、イエスはヨシュアをギリシャ語にした名です。
神は彼らと共にあり、時には奇跡を起こされたので、イスラエルは一気にカナンの町々
を征服しました。
ヨシュアの名が示すように、主はイスラエルを救われたのです。
た
だ、全ての町を短期間で占領したのではなく、イスラエルが一つの国としてカナンの土地
を治めるようになったのは、約200年後のダビデの時代からです。
ヨシュアの死後、士師が神によって選ばれ、イスラエルの部族全体或いは一部をまとめ
ました。
イスラエルの特徴は、全ての人が神を信頼し、与えられた律法に従うよう要求
されたことです。
イスラエルは神の助けによってのみ土地を獲得出来たし、神を信頼す
ることにより土地や家畜などを所有し続けることが出来ました。
個人においても国家に
おいても、神を信頼すれば神の助けを得られるのです。 ところが、どの時代にあっても、
うまく事が運べば、神を忘れるのが人の常です。
士師記を見ると分かるように、イスラ
エルの人々は神を信頼せず、律法を蔑ろにしたので、度々神の怒りを招き、敵の手に陥り
ました。
士師記によれば、イスラエルの行動パターンは同じ繰り返しでした。
諸国の神々に仕えると、神は敵がイスラエルを攻めるのを許される。
みのあまり、神に助けを求める。
執り、勝利をもたらす。
民が神に背き、
そこで、民は苦し
そうすると、神は士師を選ばれ、士師が戦いの指揮を
勝利を得て平和を得ると、そうして下さった神を忘れ、偶像礼
拝に走る。 長年に亘りこの行動が繰り返されたのです。
約束の土地に導き入れられたイスラエルの人々は、今風な言葉を使えばハードとソフト
の両面において克服しなければなりませんでした。
ハードは先住民との戦いであり、時
には残虐とも思える行為をもって、先住民を追い出さなければなりませんでした。
1
ソフ
2012年9月8日
トは信仰の戦いです。
した。
カナンの神々への信仰と文化は、かなり強い影響力を持っていま
隣の芝は青いのか、不思議なことに、人は神に背くと諸々の神々、偶像に魅了さ
れるようになります。
とも簡単に走りました。
イスラエルの人々はカナンの土地に根付いていた神々の信仰にい
しかし、神に背を向けた人々にも神はいつも御目を留め、彼ら
に立ち帰る機会を与えておられました。 人は神を捨てますが、神は見捨てません。
士師の時代が終わり、イスラエルの人々は他の国々のように自分たちの王を求めました。
彼らの王は神御自身なのですが、彼らは認識出来ず、目に見える形を求めました。
神は
彼らの欲求が間違っていることを示されながらも、彼らの求めに応じ、サウルが初代の王
として選ばれました。
なりました。
サウルが神に忠実でなかったので失脚し、ダビデが代わって王と
神がダビデに約束されたように、その後のイスラエルの王はダビデの子孫
が継ぐようになりました。 イエス様は肉によれば(イエス様を人として見た場合)
、ダビ
デの子孫であり、十字架の上に掛けられた罪状に書かれた「ユダヤ人の王」はその通り間
違いなく、イエス様は今も王として君臨されています。
ダビデの死後王となったのは、ソロモン。
ソロモンの死後、イスラエルは北(イスラ
エル王国)と南(ユダ王国)に二分されました。 ダビデの座を継いだのはユダ王国です。
両国の首都はサマリヤとエルサレムです。
余談ですが、ユダヤ人とサマリヤ人の仲の悪
さは、こういう経緯があったと考えられます。
両国とも滅亡し、捕囚に遭った後、エル
サレムを復興しましたが、再建にあたり、ユダヤ人がサマリヤ人を参加させなかったこと
で、両者の亀裂は修復しがたいものとなり、イエス様の時代にはお互いに挨拶をしないま
でになっていました。
サムエル記、列王記、歴代誌は、王国の興亡について記されています。
活躍したのは、主に両王国が滅亡に近づいている時代でした。
預言者たちが
そこには、王と民が神の
契約を破ればどのような事態に陥るかが何度も繰り返し語られています。
国の繁栄と平
和は、神に忠実に生きるという契約の上に成り立っていましたが、殆どの王とその時代の
民はその契約に違反しました。 それが捕囚となった原因です。
300年に亘るイスラエルの王国時代にあって、神は何もせず、人々の為すがままにさ
れていたのではありません。
どの時代にも、預言者を遣わし、人々が悪から離れて神に
立ち帰るように御手を差し伸べられました。
各時代、どのような悪事が神を嘆かせ怒ら
せたのか、それは私たちの教訓にもなっています。
神に背を向けることで、正義が行わ
れなくなり、弱者は顧みられず、王も人々も異教の神々に仕えるようになるのが、お決ま
りのパターンでした。
そして、サマリアが陥落し、イスラエル王国は滅亡しました。
囚となって曳いて行かれました。
人々はアッシリアに捕
ユダ王国はその後約140年続きましたが、バビロン
に屈伏し、ユダの人々はバビロンに曳かれて行きました。
エルサレムの崩壊は、人々に
とって、特に信仰篤かった人々には想定外の信じ難い出来事だったはずです。
そこに建
つ神殿は彼らの生きる礎であり、それが倒れるはずはないと信じて疑わなかったはずです。
2
2012年9月8日
おそらく今の時代にあっても、そのような思いを持つ信仰者はいると思います。
信仰し
ているから、癌にならないとか、交通事故に遭遇しないとか等々。
ところが、そういう人の意に反して、エルサレムの城壁は崩され、神殿は焼き落とされ、
人々は辱められました。
人々は散々な目にあい、彼らは神に見捨てられたと感じ、その
信仰も揺らいだことでしょう。
しかし、それは一時的でした。
固く守り通した人たちがいました。
られている少数の人たちです。
聖書では「残された者、残りの者」という言葉で語
詩篇に書かれているように、彼らの受けた苦しみは彼ら
にとって善いことだった考えるようになりました。
えを学ぶことが出来たからです。
捕囚にあっても信仰を
それは、彼らが苦難の中で神のおし
たとえ神殿が無くても、動物をいけにえとして献げる
ことが出来なくても、それまで以上に神に近づくことが出来ました。
彼らは先が見えな
い状況にあっても、預言者によって語られていた希望に目を留めていました。
その希望
とは、先ず、ダビデの王国は永久に続くということ、それから、エルサレムの再建です。
預言者たちは、人々の悪を糾弾するのみならず、人々に希望を与え、励まし続けました。
それは人々がイスラエルに帰還した後も続きました。
主が預言者の口を通して、御自分
の宝の民とされた人々を励まし続けられたのです。
前述したように、イスラエル(両国)の滅亡と人々の捕囚は、人々の神への反逆と堕落
によるものでした。 それでも、イザヤ書に、
65:1 わたしに尋ねようとしない者にも/わたしは、尋ね出される者となり/わたしを求め
ようとしない者にも/見いだされる者となった。わたしの名を呼ばない民にも/わたしはこ
こにいる、ここにいると言った。
65:2 反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に/絶えることなく手を差し伸べてき
た。
と、記されているように、神は忍耐を尽くし、御手を差し伸べられました。
誠実です。
神の誠実と憐れみ深さは、人々の帰還となりました。
これが神の
神の御計画は人の不
誠実によって左右されることなく、誰一人誇ることの出来ない状態で成就しました。
イスラエルの民がどのようにして捕囚から帰還し、エルサレムを再建したのかが、エズ
ラ記とネヘミヤ記に詳しく記されています。
主はエレミヤを通して捕囚はいつまでも続
くのではなく70年と人々に伝えておられました。
ただ70年という年数は文字通りで
はなく、実際にはそれよりも早くその時が訪れました。
い形でやってきました。
ました。
しかも誰も予期しない、思わな
神は当時勢力を誇っていたペルシャ王キュロスの心を動かされ
それでキュロス王は、主の民なら誰でも神殿を建てるためにエルサレムに上っ
てよいとの勅令を発したのです。
サレムに向かいました。
それを受け、心動かされた者たちが立ち上がり、エル
バビロンに留まった者たちも、必要な援助を惜しみなく行い、
エルサレム再建が始まりました。
とは言え、全てがスムーズに事が運んだのではありま
3
2012年9月8日
せん。
工事途中で妨害され、一時中断を余儀なくされた時もありましたが、城壁は修復
され、神殿も完成しましたが、ソロモンが建てたものとは比較にならず、期待外れの人も
いました。 しかし、神は預言者ハガイを通し、
「この新しい神殿の栄光は、昔の神殿に勝
る」と言われました。
さらに、人々は神が与えられた律法を読み聞かせられ、説明を受
けたので、理解し、大いに喜ぶこととなりました。
さて、ここまでイスラエルの人々がカナンの土地に入って以降のイスラエルの姿を大雑
把に書きました。
その姿を冒頭に引用した詩編の作者は適確に表現しています。
それ
はまた今の私たちのイエス様との関係でもあります。
私たちは主の言葉すべてを受け入れられず、無意識の中に反抗している場合があります。
それが原因で試練を受けなければならない場合や、日々の生活にストレスを抱え、心が折
れてしまう場合があります。
それを見て誰かが手を貸してくれるかと言うと、そうでは
なく、たいていの場合、知らん顔されます。 それは心が冷たいのではなく、どう対処し、
どのような言葉をかけ、どう手を差し出せば良いのかわからないからです。
りを持ちたくなくて無視するのです。
めた時もありました。
イスラエル王国やユダ王国が近隣の国に助けを求
しかし、それは悉く失敗に終わりました。
にすれば、往々にしてがっかりする結果となります。
イエス様にあります。
それで関わ
私たちも他人をあて
失望に終わらない助けは、唯一、
イエス様に助けを求めるなら、必ず答えてその問題を解決して下
さいます。 しかも、誰も誇ることがないよう、予想しない形で解決を見ます。
イスラエルの歴史を見て感じるのは、神の思いと人のそれはあまりにも違うと言うこと
です。 私たち人間は、日々の生活が平和(スムーズ)であることを願います。 そして、
平和が続けば、間違いなく今後もその状態が続くだろうと考えます。
平和だ無事だと言って安心している時に、突然破滅が襲います。
を引き起こし、その後、神に対する不信が芽生えます。
ます。
人の思いと願いは、主の即答です。
そうなると、パニック
それでも、神に助けを求め訴え
ところが、一瞬のうちに解決を見るのは稀
で、私たちは根気よく祈り待たなければなりません。
ちにも忍耐が必要です。
ところが、人々が
神が忍耐されているように、私た
待ちきれない人は、神から捨てられたのではないかと思い、神
を呪ったり自分を責めたりという悪循環に陥って行きます。 しかし、神は誠実です。 聖
書に書かれているように、神の選びと賜物は決して変わりません。
イスラエルがそうで
あったように、神は人が不信を抱いていても、御目を留めておられ、時に応じて豊かな慈
しみを注いで下さいます。
そして、失ったもの以上のものを与え、喜びに満たして下さ
います。
イスラエルの歴史は、神が選ばれた者、神を信じる者には破滅が襲うことはないと教え
ています。
たとえ一時的に倒れても、また、その人に立ち上がる力がなくても、主は必
ず起き上がらせて下さいます。
ても悲観することはありません。
今、花咲かず実が結ばず、期待に裏切られた状態であっ
必ず主の働きを見る時が来ます。
う今、主イエス様に感謝し、喜んで主を賛美しましょう。
4
だから、今日とい
Fly UP