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第2章をまとめて読む

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第2章をまとめて読む
ち ほう
痴呆の都
痴呆の都
みやこ
はしいろ まんぢう
1
Copyright(c) Manju Hashiiro
目 次
第二章
︵一︶四年 後
︵二︶太一 の 恋
きょうだい
︵三︶かわ ら ぬ 思 い と プ ロ ポ ー ズ
おやこ
︵四︶虐待
︵五︶父娘と姉弟
ろう ば
︵六︶ビー ズ の 指 輪
︵七︶ある老婆の死
︵八︶スキ ャ ン ダ ル
︵九︶死に か け た 勇 気
︵十︶ふた り の 男
︵十一︶雪 解 け
︵十二︶危 険 因 子
8
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痴呆の都
もんもん
︵十三︶結 託
︵十四︶ 悶 々 と し た 日 々
あいだがら
︵十五︶嵐 の 前 の 恋 の 酔 い し れ
︵十六︶医 療 ミ ス
はは こ
︵十七︶罪 の 影
︵十八︶母娘になるはずの間柄
ほうむ
︵十九︶葬り去られた夢
︵二十︶光 明
︵二十一︶ 過 ぎ 去 っ た 悪 夢
︵二十二︶ 告 白
︵二十三︶ 暗 闇 の 殺 意
︵二十四︶ 脳 移 植
︵二十五︶ 伝 え 尽 く せ ぬ 言 葉
︵二十六︶ 二 人 だ け の 結 婚 式
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9
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14
痴呆の都
第二章
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痴呆の都
︵一︶四年後
ほたる が おか
い ちょうなみ き
そ
む しょう
夏が終わり、蛍ヶ丘の中央部を走る大通りの銀 杏 並木は、秋色に染まった金の葉を静か
ゆ
きたしな の
こうよう
に揺らせていた。北信濃を囲む山々のパノラマも、すっかり黄や赤や茶の紅葉に包まれ、北
東からはやや寒気を帯びた風が吹き込んでいた。
なが
昼休み、コスモス園の屋上から透き通った空を眺めていた百恵と七瀬は、無性にアイスク
リームが食べたくなり、ジャンケンで負けた百恵は、コスモス園からほど近い以前にバイト
をしていたコンビニへ買いに出たのであった。
馬場百恵、二十八歳│││。四年の歳月は、彼女の環境を様々な意味で変えていた。
ほうふつ
中でも大きな変化は、念願の介護福祉士の資格を取得したことであった。働きながらひた
ぼっとう
つら
ぶるに勉強に没頭した日々は、思い返すのも辛い。悲しいあの日の出来事を忘れるために、
ひも と
勉強をする事しか思いつかなかったのだ。仕事が終わり家に帰ると、大学受験の日々を彷彿
とさせるように、机に向かって参考書や専門書を紐解いた。しかし、少しでも集中力がなく
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第 2 章(1)四年後
なると、浩幸の事が思い浮かんで自然と涙がこぼれるのであった。その歳月はまさにその切
あま
なさとの戦いでもあった。そんな百恵を心配して、たまに俊介は外に誘った。寂しさを紛ら
わすため、また、気分を晴らすために百恵は彼の誘いに甘えた。
きょしつ
それでも早番の水曜日には浩幸と顔を合わさなければならなかった。この時ほど辛い事は
なかった。来年の医療法人化へ向けて、新しくリハビリ室の隣りに診察室が作られて最新の
機材も次々に導入され、また、それまでの居室に加え病室の設置や、医療対応型のナースス
たんたん
テーションへの設備拡張、また、売店の充実など、施設のあちこちではその工事が盛んに行
われていた。変わりゆくコスモス園の中、浩幸は別段変わった様子も見せず、ただ淡々と診
察をするだけだった。その顔を見るたびに、百恵の心ははりさけそうだった。
ともな
そんな日々の末、今年の一月、国家試験である介護福祉士筆記試験をパスし、続けて行わ
しょうかく
れた三月の実技試験に合格し、晴れてその資格を取得する事ができたのである。伴ってコス
にな
モス園での役職も交替A班の介護リーダーへと昇格された。六名いる介護スタッフの取りま
とめや介護老人の管理責任を担いながら、様々なスケジュール調整などをする役である。い
まやコスモス園の中核スタッフとして活躍するに至ったのである。
大学時代の友人では、彩香が結婚して子供を産んだ。相手は山中かと思いきや、自営の美
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痴呆の都
あき
容院で知り合った化粧品販売業者のセールスマンだと言う。百恵は呆れて﹁勝手にしなさい﹂
とぼやいたのを覚えている。また高梨も同じ役所勤めの女性と結婚し、大きなローンをかか
えて家を建てた。唯一変わらないものといえば、七瀬との関係、俊介との関係、そして浩幸
との関係だ け だ っ た か も 知 れ な い 。
百恵はコンビニのアイスクリームのケースからモナカを二つ取り出すと、レジで精算を終
えて外に出た。そこで小学校二年生くらいの男の子が三、四人つるんで店に入ろうとする光
景に出会った。思えば今日は土曜日で学校は休日。ふと、その中の一人、大樹の姿に目が止
まった。大樹とは、もう何年も会っていなかった。その小学校への入学のお祝いの言葉すら
伝えずにいたのである。話しかけてはいけない苦しみに耐えかねて、つい、
﹁ねえ、ぼくたち、何を買いに来たの?お姉ちゃん、おごってあげようか?﹂
百恵は大 樹 を 見 つ め て 言 っ た 。
﹁ダメだよ!知らない人から物をもらっちゃいけないってママが言ってたもん!﹂
他の男の 子 が 言 っ た 。
﹁あら、お姉ちゃん、大樹君の知り合いよ⋮⋮﹂
いっせい
一斉に大樹の顔を見た。
他の男の 子 た ち は
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第 2 章(1)四年後
﹁おばさ ん 、 だ あ れ ⋮ ⋮ ? ﹂
な
撫でて、
大 樹 は 首 を 傾 げ て そ う 言 っ た。 百 恵 は 悲 し み を 笑 顔 に 変 え る と 大 樹 の 頭 を ひ と つ
か
﹁そう⋮⋮、忘れちゃったの⋮⋮?﹂と、そのまま銀杏並木の歩道を歩いて戻った。コスモ
ス園への曲がり角、気になる山口医院の建物には目を向けず、その前を駆け足で通り過ぎな
がら│││ 。
一方、浩幸の方は翌年の秋に控えたコスモス園統合への大詰めを迎え、その仕事に大わら
てんじょう
わだった。従来の脳神経外科に入院する患者や診療に訪れる人達の対応も含め、過労も極度
に達していた。浩幸は目頭を押さえながら天井を仰いだとき、院長室の扉がノックされた。
﹁どうぞ ﹂
入って来 た の は 理 事 の 西 園 だ っ た 。
いないのではないですか?ご苦労をかけます﹂
﹁だいぶお疲れのようですね。二、三日休まれたらどうです?﹂
﹁この大事な時に休んでなどいられません。理事の方こそ、私の計画のせいで何日も寝て
く
﹁いえいえ、先代の時の苦労と違い、今回は発展的な苦労ですから苦にもなりません。そ
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痴呆の都
じゅんかん ご
し
れより、来年度の看護士採用者の件ですが、そろそろ各看護学校の方へ募集をかけようと思
いましたところ、すでにお一人 准 看護士で内定が決まっているようなので、お伺いしよう
と思いまして。来年四月時点でまだ十七歳です。誰ですか?この林美幸というのは⋮⋮﹂
﹁ああ、 そ の 子 で す か ﹂
つ
浩幸はコーヒーメーカーのコーヒーを注ぎに立った。
﹁院長もご存じのように脳神経科の看護は高度な知識と技術が必要です。中卒の准看護士
資格では難しいのではと。それに、准看護士の制度自体見直される方向にある今、果たして
いかがなも の で し ょ う ﹂
〝美〟
に浩幸の
〝幸〟
﹂
﹁僕の娘です。美津子との。名前を見て気づきませんでしたか?美津子の
浩幸は一 口 コ ー ヒ ー を 飲 ん だ 。
﹁なんと ⋮ ⋮ ? ﹂
﹁どういうわけか看護士になりたいと言い出したらしくて。それに今、彼女の家の家計が
だん な
いっこく
厳しいらしいのです。今の旦那は弁護士をしているらしいのですが、家を助けるために一刻
も早く社会 に 出 し た い ら し く て ﹂
﹁弁護士も倒産する時代と聞きましたが、そうでしたか。美津子さんはだいぶご苦労され
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第 2 章(1)四年後
ているので す ね ﹂
﹁でも、僕と一緒の時より幸せそうでしたよ│││。すみませんが来年の四月からうちに
来ますので、面倒を見てやって下さい。ああ、それから彼女は僕が実の父親という事を知ら
ないそうですから、それだけは言わないように﹂
﹁はい。 わ か り ま し た ﹂
西園はそう言うと院長室を出て行った。
その頃コスモス園の施設長室では、施設長の高野と副施設長の鈴木、そして施設理事の三
すで
役で統合後の役員体制の検討が行われていた。前施設理事は今年の春、既に定年で退職して
いたから現在はそれまで事務長を務めていた須崎がそれにあたっていた。統合時には高野も
定年まで数ヶ月を残すのみとなり、鈴木も定年までは一年足らずの年齢だった。
でん だ つよ し
こ もん
山口医院からの役員体制案は、施設代表役を浩幸が務め、施設長を現在山口医院で働く若
手医師伝田強志を登用する考えを伝え、高野を施設顧問とし、以下、副施設長を現状のまま
鈴木を置き、施設理事には山口医院理事兼任の西園があたる案を提出した。そして、現施設
こうかく
理事の須崎は、事務長への降格を示していた。
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痴呆の都
にわか
﹁山口医院側の要請はこのとおりです﹂
まる ひ
○秘プリントを三者に渡すとそう言った。それを目にした須
高野は手 に し た コ ピ ー 厳 禁 の
崎は俄にワナワナと震えだした。
﹁あくまでこれは山口医院側の原案です。統合までにはまだ時間があります。それまでに
最も良い体制を考えようではありませんか﹂
高野は須崎の表情を気にしながら言った。
﹁これではまるで山口医院の言いなりではありませんか!﹂
須崎は思 わ ず 叫 ん だ 。
にわか
ぼんのう
﹁だから決定ではないと言っているじゃないか。異議がある場合は申しなさい!﹂
高野の厳しい言葉に須崎は﹁別に⋮⋮﹂と言った。
俄に暗雲を立ちこめながら、心の痴呆の人々は自らの煩悩のままに
あれから 四 年 │ │ │ 、
やっ き
躍起になって動きだそうとしていた。
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第 2 章(2)太一の恋
︵二︶太一の恋
百恵が年休の七瀬の替わりに入所相談に対応したのは、遅番出勤してすぐの三時頃の事
だった。訪れたのは痴呆症の妻を抱えた七十代の小林と名乗る男性で、すっかり疲れ切った
表情を隠せ な い 様 子 で 、
﹁私の方が入所したいくらいです⋮⋮﹂
と言った 。 事 情 を 聞 く と こ う だ っ た 。
現在妻は六十八歳。三年前にアルツハイマーと診断され、以来ずっと夫の彼が介護を続け
てきたと言う。子供は娘が一人、現在はご主人の実家のある神奈川に住んでいて介護ができ
る者は彼ひとり。発病以来、病院やデイケアを転々としてきたが、ようやく受け入れてくれ
ようそう
てい
かくとう
るデイケアを見つけたものの、妻にはまだ体力があり、デイケアのある平日も、朝と夜は戦
争の様相を呈すると言う。朝は朝で肉体的な格闘をしながらおむつ交換や着替えに一時間か
ら二時間の時間を要し、夜は夜で家の中をぐるぐる歩き回って訳の分からない言葉で泣き叫
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痴呆の都
ふ
はいべん
んで毎晩のように寝かせてもくれない。トイレに入った後は自分の排便を手でつかみ、その
ふ ちゃく
いや
手をズボンやシャツで拭いたり、あるいは顔や髪の毛を触ったりで、家中のそこかしこに便
たも
し なん
が付着していると言う。手を洗ったりお風呂に入る事は非常に嫌がるので、
衛生的にも悪く、
ど
な
清潔を保つ事は至難のわざ。仕方なく可哀想だと思いながらも強制的に手を洗わせ、気づけ
ばつい怒鳴っていると言う。また、デイケアが休みの日なども、家の中にいる時は落ち着い
て座っていることもできず、また彼のそばを離れずに、どこへ行くにも怖いくらいにべった
りと付きまとう。たまに外に出てみれば、活動的な妻は誰の後にでも付いて行ってしまい、
さいわ
せっぱく
振り向くとその姿がないのはよくある事だった。
幸い彼は年金暮らしで仕事はしていないが、
ほか
介護保険認定五度を受けているものの、毎月かかる費用は思いの外で、経済的にも切迫して
いると語っ た 。
﹁病気だから仕方がないと自分に言い聞かせてはみるのですが、心身ともに疲れ切って、
い す
どうしても怒鳴ったり、押し倒したり、椅子に無理やり座らせたりしてしまうんです。気が
つけば妻に対してひどい言葉を発している私がいます。毎日が本当に辛い戦いなんです。そ
して、この病気を分かってくれる人は、私の周りにいませんのです⋮⋮﹂
男は涙な が ら に そ う 言 っ た 。
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第 2 章(2)太一の恋
き
﹁いくつもの病院で、いくつもの薬なども試してみましたが効き目はありません。しかし
私は妻を愛していましたから、告知を受けた時は死ぬまで私が面倒を見ようと決意したんで
す⋮⋮。しかし、しかし、愛なんて言葉で片付けられない、もう限界なんです⋮⋮﹂
じんりょく
く
もらい泣きの百恵は、入所希望者状況記録用紙に涙をボタボタこぼしながら、必死にその
話を記入し た 。
﹁分かりました。なんとか上に頼んで、受け入れられるよう尽力します﹂
﹁ほ、本 当 で す か ! ﹂
小林と名乗った男は百恵の手を握りしめて﹁ありがとうございます﹂と何度も何度も繰り
返すのだっ た 。
きび
果たしてその話を介護主任の丸腰に伝えれば、
厳しいわね⋮⋮﹂
﹁ちょっ と
とても集団生活ができるようには思えないわ﹂
と一言であしらわれた。﹁どうしてですか?﹂と聞けば、
﹁施設というのは集団生活をする所なの。あなたも知ってるでしょ?この記録を見る限り、
﹁でも、小林さんはとても大変な思いをして奥さんの介護をしているんです!﹂
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痴呆の都
かんじょう い にゅう
感 情 移入まる出しだし。でもデイケアの
﹁それは分かるわよ。この記録を見ればあなたの
受け入れが見つかっただけで幸いと思わなきゃ。それか、もう一つ手があるわ⋮⋮﹂
百恵は目 を 輝 か せ た 。
り こん
離婚する事ね。痴呆は〝離婚するために必要な理由〟になるという判決が、何年か前の
﹁
長野地裁で出されたわ。離婚すれば行政もその奥さんを放ってはおけないでしょう﹂
﹁もうい い で す ! ﹂
じかだんぱん
とびら
直談判する決意をして施設長室の扉をノックした。
百恵は施 設 長 に
﹁どうぞ ﹂
扉を開ければ施設長はおらず、替わりに施設理事の須崎がその業務を代行していた。
﹁高野施設長にお話があって来ました!﹂
﹁施設長は出張で山形へ行きましたから、替わりに私が聞きますよ﹂
百恵は先程取った状態記録用紙を須崎に渡した。
し
沁みだらけじゃないか﹂
﹁なんだ い 、 こ れ は ? 文 字 が
かた
方 の入所の許可を下さい!﹂
﹁この
須崎は内容を読みながら鼻で笑いだした。
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第 2 章(2)太一の恋
ちょうしょ
4
4
﹁君は介護状態の調書もろくに取れんのか。それに入所相談係は七瀬君のはずだが、ここ
に話を持ってくる前にきちんと筋を通しなさい。仕事の進め方も知らないのかね﹂
﹁でも、 こ の 方 は ⋮ ⋮ ﹂
﹁ああ、もう忙しいから下がりたまえ!﹂
ふんぜん
憤然としたが、百恵は何も言えずに突き返された。
ふ
いきどお
﹁なぜだろう⋮⋮?介護施設って、高齢者の介護をするのが目的なんじゃないの?﹂
仕事から帰ってひとり部屋のベッドで横になり、腑に落ちない思いに憤りを重ねながら、
入所相談員でもある七瀬が以前言っていた言葉を思い出していた。そんなところへ、部屋の
戸がノック さ れ 弟 の 太 一 が 姿 を 現 し た 。
﹁太一、どうしたの?こんな時間に⋮⋮﹂
すで
時計を見れば既に夜中の十二時を回っていた。百恵は身体を起こすと、机の椅子を出して
太一を座らせ、自分はそのままベッドに腰掛けた。
太一とは年が十歳も離れ、赤ちゃんの時から世話を焼いてきたたった一人の弟である。年
きょうだいげん か
が離れているため姉弟喧嘩なども一度もしたことがない。勉強もよく見てやった。何か相談
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痴呆の都
せんぱい
があるといえば、いつも他の事をさしおいてまでその相談に親身になって乗ってきた。だか
ら太一にとって百恵は姉というより良き先輩というか、どちらかというと母親に近い存在で
あった。現在は地元高校の三年生である。
﹁ちょっ と 相 談 が あ っ て ⋮ ⋮ ﹂
﹁なあに ? 進 路 相 談 ? ﹂
﹁それも そ う な ん だ け ど ⋮ ⋮ ﹂
うつむ
俯 いた。
太一は少 し 言 い に く そ う に
﹁姉ちゃん、人を好きになったことあるか?﹂
は
恥ずかしそうに下を向いたまま言った。
太一は
﹁そりゃあるわよ。あなたより十年も多く生きているんだから。なんだ、恋愛の相談?﹂
太一はも ぞ も ぞ し な が ら 話 し 出 し た 。
﹁学校の帰り、いつも看護学校に通う一人の女の子とすれ違うんだ。なんだかとっても寂
しげで、いつも悲しそうな表情をして歩いているんだ。最初は気にもしなかったんだけど、
ある時すれ違うときに目が合った瞬間から、なんか好きになっちゃったみたい│││﹂
﹁青春し て る じ ゃ な い ! 美 人 な の ? ﹂
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第 2 章(2)太一の恋
おもしろ
じょうだん
はや
百恵は面白がって囃し立てた。
﹁すっげえ美人!でも姉ちゃんの方がちょっと美人かな?そう言わないと怒るでしょ﹂
太一は 冗 談 を 交 え な が ら 続 け た 。
﹁それでこの間、もうたまらなくなって彼女の後をつけていったんだ⋮⋮﹂
﹁あなた、それストーカーじゃない!犯罪よ!﹂
﹁えっ? そ う な の ? ﹂
﹁それで そ れ で 、 ど う し た の ? ﹂
よろこ
太一は切 な い 胸 の 内 を 告 げ た 。
しな の よし だ
信濃吉田〟駅で降りた。そしてたど
後を付けて行くと、やがて彼女は長野電鉄に乗って〝
りついた所は﹃林弁護士事務所﹄という看板をかかげる家だった。太一は気づかれないよう
ばんそうこう
は
にそっと表札をのぞき込むと、彼女の名が﹃林美幸﹄である事を知った。悦び勇んで帰ったが、
はんそで
あざ
数日後いつものように彼女とすれ違う時、目の下に絆創膏が貼ってある事に気づいた。それ
ばかりではない、半袖のシャツからのぞかした細い美しい腕には大きな痣ができていたとい
う。太一は急に心配になったが、声をかける事もできなかった。その後も彼女が気掛かりで、
いつも彼女の帰る時間に合わせてその道を歩いたが、古い傷が治ったかと思えば別のところ
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痴呆の都
ぎゃくたい
なま きず
に新しい傷を作っているというように、彼女の身体には絶えずどこかしらに生傷があると言
うのだ。
﹁学校でいじめにあっているんじゃない?それとも家庭内 虐 待?﹂
だま
黙って見ているなんて耐
﹁それは分からないけど⋮⋮。俺、どうしたらいいかな?もう、
えられないんだ⋮⋮。姉ちゃんならどうする?﹂
﹁ そ う ね、 と に か く 本 人 か ら 事 情 を 聞 い て み な い と 何 と も 云 え な い わ。 も し か し た ら 柔
道か何かをやっていて、猛練習をしているなんてこともあるじゃない。お姉ちゃんならね
⋮⋮﹂
かえり
顧みず、浩幸に告白してきた自分の言動を思い返していた。
百恵は後 先 も
﹁多分、勇気を出して〝どうしたの?〟って聞いちゃうな⋮⋮﹂
〝どうしたの〟か⋮⋮。それいいね。俺、最初に切り出す言葉がどうしても思いつかなかっ
﹁
たんだ。姉ちゃん、ありがとう!それでいくよ!﹂
時計は既に一時を回っていた。
太一は急に明るくなって、﹁じゃ、おやすみ﹂と立ち上がった。
﹁ねえ、 太 一 ⋮ ⋮ ﹂
百恵の言 葉 に 太 一 は 振 り 返 っ た 。
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第 2 章(2)太一の恋
﹁どうしてその子の事、そんなに好きになったの?﹂
﹁そんなの分からないよ。でも、寂しげな彼女の姿を見ているうちに、俺が彼女に何かを
してあげようって⋮⋮。支えてあげたいというか、守ってあげたいというか、ずっとそばに
ささ
いたいというか⋮⋮。俺はそんなに力のある人間じゃないと思うけど、彼女のためにこの身
の全てを捧げてもいいって思うようになったんだ⋮⋮。もう、彼女じゃなきゃダメなんだ﹂
﹁そう⋮ ⋮ ﹂
百恵は太一の中に、自分と同じ血が流れている事を確認した。まさに浩幸に対する自分の
思いと寸分 も 違 わ な か っ た か ら だ 。
﹁馬場家の血ね⋮⋮。頑張ってね⋮⋮﹂
太一はガッツポーズを作って自分の部屋に帰って行った。
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痴呆の都
さわ
︵三︶かわらぬ思いとプロポーズ
さ ぎ
だま
しず
〝オレオレ詐欺〟の騒ぎが、様々な機関やマスコミなどの働きかけによってようやく鎮まっ
ざ た
てきたかと思えば、今度は〝悪徳リフォーム〟の話題が盛んに取り沙汰されていた。いずれ
たく
しょみん
も高齢者の弱みにつけ込んだ巧みな話術を利用したお金を騙し取る事件である。日本経済全
こ ようじょうたい
つ
さい む へんさい
体の景気は上向き傾向にあったとはいえ、庶民の実感としてはけっして生活が楽になったと
そ
どう き
ふ めいりょう
感じるレベルではない。雇用 状 態の悪さから職にも就けず、また債務返済で生活に困った
やから
あげくに犯罪に手を染めた人のなんと多いことか。若者世代の動機不明瞭な犯罪の増加と並
く
行して、社会問題はますます増加しているように見えた。
じんそく
お金を騙し取る輩には腹が立っ
特に百恵には、社会的弱者と呼ばれる高齢者を食い物にし、
た。コスモス園においても通所サービスを受ける一人暮らしの老人が、すんでのところで
〝振
まぬが
り込め詐欺〟にひっかかりそうになるケースがあった。その時は介護スタッフの迅速な行動
でなんとか免れることができたが、最近では介護スタッフといえど介護知識だけでなく、そ
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第 2 章(3)かわらぬ思いとプロポーズ
し
のような犯罪に巻き込まれないための知識も必要になってきているのだ。朝の朝礼当番だっ
た百恵は、一言その事に触れて話を締めた。
俊介から電話があったのは、昼食を済ませて七瀬とコーヒーを飲んでいる時だった。
﹁今晩、 会 え な い ? ﹂
もん く
﹁分
いつもの誘い文句の中に、少し緊張した様子が感じ取れた。百恵は少し気になったが、
けな げ
かったわ﹂と答えた。苦しいときも、いつも近くに俊介がいた。百恵の心に別の男がいるの
を承知で、彼はずっと彼女の心が自分に向くことを待っているのだ。そんな健気な俊介に対
こば
して、たまに無性に心が痛む時がある。浩幸の心が自分に向かない今となっては、俊介の思
いを拒む事がいけない事のようにも思えてくるのだ。携帯電話を切りながら、
うなず
﹁だあれ ⋮ ⋮ ? 新 津 さ ん ? ﹂
あきら
頷いた百恵は、小さなため息をついた。
七瀬の言 葉 に
﹁もういい加減山口先生の事なんか諦めて、モモも新津さんと結婚しちゃえば?﹂
4
〝モモも〟の〝も〟の字が気になった百恵は七瀬の顔を見つめた。
﹁実は私、お見合いしたの。ちょっとダサイけど優しい人⋮⋮。もたもたしてたら私たち
ねん ぐ
おさ
どき
三十でしょ。そろそろ年貢の納め時かなって思ってる⋮⋮﹂
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痴呆の都
﹁結婚す る の ? ﹂
百恵は驚いたように言った。七瀬は小さく頷いて、
きゃっかんてき
しゅかん
﹁ 入 所 の お じ い ち ゃ ん や お ば あ ち ゃ ん の 話 聞 い て る と、 昔 は ほ と ん ど が お 見 合 い 結 婚 で
しょ。それでなんだかんだとやってきてるじゃない。もしかしたら第三者の引き合わせで一
緒になった方が、客観的に二人を見ているからうまくいくのかも知れないわ。主観はどうし
ても感情が 先 に 立 っ ち ゃ う で し ょ ﹂
﹁私の思 い も 感 情 な の か な ? ﹂
ふんどう
﹁恋愛なんてみんな感情よ。何かの縁に紛動されて変わるものよ﹂
﹁教えて光ッチ、私、山口先生の事、あきらめられる?﹂
七瀬は微 笑 み な が ら 頷 い た 。
仕事を終えて家に帰ると、百恵はちょっとオシャレをして俊介の連絡を待った。腕には以
前彼からもらったホワイトパールのブレスレッドをつけた。大きなためらいがあったが、も
うこれ以上自分のわがままで俊介を待たせるわけにはいかないという理性が働いたのだ。も
し浩幸の気持ちが少しでも自分に向いていてくれるなら、それは〝わがまま〟にはならなかっ
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第 2 章(3)かわらぬ思いとプロポーズ
たが、そうでない上に俊介が嫌いでない以上、何年も自分の事を待ってくれている彼に対し
あきら
めずら
て、わがままの次元に達している事を感じていたのだ。七瀬の結婚の話も助けて、百恵はつ
いに浩幸を諦める努力をしてみようと決心していた。
び
ペ キン
マーボーどう ふ
いた
﹁中華なんて 珍しいわね﹂と百恵
俊介と入ったのは長野市街にある中華料理の店だった。
が言うと、﹁今日は給料日だったんだ。好きなものを何でも食べて。俺のおごりだからさ﹂
え
ヤムチャ
酢豚に海老チリソースにフカヒレスープ、北京ダックに麻婆豆腐、
あとは野菜炒めとチャー
す ぶた
と彼は笑っ た 。
ハンなどを俊介は適当に選んで注文すると、最初に運ばれてきた飲茶を飲んだ。
かし
﹁そんなに食べられないわ。どうするのよ﹂
﹁いいの。時間をかけてゆっくり食べれば。多分、時間をかけないと俺、話せないから﹂
くち
なか
傾げた。それにしても百恵の腕のブレスレッドを見つけてからの俊介は、始終
百恵は首 を
きんきょう よう き
ひととお
ひと
嬉しそうだった。会社での出来事や大学時代の仲間の近況を陽気に話す。一通りの料理を一
口ずつ口にすると、百恵はすぐにお腹がいっぱいになってしまった。
﹁もう食べられない。新津君、責任持って食べてよ!﹂
野菜炒めとチャー
﹁わかってるよ﹂と意気込んで食べる俊介も、さずがに全部は食べきれず、
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痴呆の都
ハンを残すとお腹をおさえて大きなため息をはいた。その様子を見て百恵は笑い出した。
﹁なんだか久しぶりに見るな、百恵のその笑顔⋮⋮﹂
俊介は精算を済ませると、﹁食べ過ぎた。少し歩こう﹂と言って、須坂に戻るとがりょう
公園に車を 止 め た 。
二人は暗がりの池のほとりをゆっくり歩き、池を渡すがりょう橋の中央で立ち止まった。
ど がわ
を聞いてから、山を見れば﹁この山は竜になったりょう姫の体なんだ⋮⋮﹂
、 百々川を見れ
ど
﹁この池は人工の池なんだよ、知っていた?﹂
みな も
つぶや
水面を見ながら言った。百恵は﹁えっ?﹂と呟いた。浩幸にがりょう山の伝説
俊介が暗 い
は
ば﹁竜の吐いた息と血のせいで石がみんな赤いんだ⋮⋮﹂と思い込むようになっていた自分
がいたので あ る 。
﹁この池は竜が暴れた時にできたんじゃないの?﹂
﹁え?何 の こ と ⋮ ⋮ ? ﹂
俊介は不思議そうに百恵の顔を見つめた。
﹁知らないの?がりょう山の伝説⋮⋮﹂
百恵は大切にしまっておいた物語を俊介に伝えようとしたが、﹁なんでもない⋮⋮﹂と池
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237
第 2 章(3)かわらぬ思いとプロポーズ
を見つめた 。 す る と 、
﹁いつま で 待 て ば い い か な ⋮ ⋮ ? ﹂
ひ そう
と、俊介も池を見つめてぽつんと呟いた。百恵は悲愴な彼の顔を見つめた。
﹁まだあの先生の事、忘れられない?﹂
俊介は内ポケットから小さな箱を取り出して百恵に渡した。
﹁実は今日、俺、百恵にプロポーズしようと思って誘ったんだ。開けてみて⋮⋮﹂
箱を開けばそこに小さな指輪が光っていた。
﹁新津君 ⋮ ⋮ こ れ ⋮ ⋮ ? ﹂
﹁婚約指輪のつもりだよ。ううん、今しろなんて言わない。百恵の気持ちが整理できてか
らでいいんだ。だけどその指輪は、それまで百恵に預かっていて欲しいんだ⋮⋮﹂
百恵は俊介に対する申し訳なさで涙がにじみ出た。そして静かに左手を俊介の前に差し出
した。
てしまうと胸が苦しくなってしまうの⋮⋮。でも新津君、私の心の事はもういいから、この
﹁新津君、ごめんね⋮⋮。私、山口先生の事諦めようと思ってる。でもね、先生の顔を見
指輪を強引にはめて⋮⋮。そうすれば私、諦めがつくかも知れない⋮⋮﹂
238
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痴呆の都
﹁百恵⋮ ⋮ ﹂
俊介は困った顔をしたが、やがて指輪を取ると、百恵の白い左手の薬指にゆっくり差し込
んでから、その細い身体を強く抱きしめた。
この世 は 痴 呆 の 都 │ │ │
やがてすべてを忘れてく
盛んに人生を生きたって
うれ
楽しい 事 も
嬉 しい事も
とし お
苦しみ も 悲 し み も
この住 み 慣 れ た 街 も
家さえも
年老いればその全てを忘れてしまうのだろうか
きょうだい
親しく遊んだ友達も姉弟も
お世話 に な っ た 人 も み な
そして│││
愛した 人 さ え も
もしかしたら私が生きていたこの事実さえ
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239
第 2 章(3)かわらぬ思いとプロポーズ
やがて人の心から消えていくのかしら
そんな人たちが住んでる
ここは都会
おお
翌日は水曜日で、百恵はその指輪をしたまま仕事に行った。仕事の浩幸はいつものように、
たんたん
む とんちゃく
淡々と診察者の身体を診察しながら、百恵にはまるで無頓着な様子でカルテに状況を書き込
いや
むのだった。百恵は左手の指輪を右手で覆い隠すようにして、じっと浩幸の顔を見つめてい
た。
この日は、もう一つ嫌な仕事が残されていた。それは先日入所相談に来た小林と名乗った
男に入所不許可の連絡をしなければならない事だった。その事については七瀬ともだいぶ議
ま ぎわ
論もしたが、結局自分達の力ではどうにもならないという結論を導き出すしかなかった。結
たた
局電話をしずらくて、受話器を取ったのは早番で帰ろうとする間際の事だった。七瀬は百恵
の肩を叩くと、そのまま帰ってしまった。
件でお電話したのですが⋮⋮、たいへんに申し訳ありません。私の力不足で許可が下りませ
﹁もしもし、小林様のお宅でしょうか?私、コスモス園の馬場ですが、先日の入所相談の
んでした⋮ ⋮ 。 本 当 に す み ま せ ん ! ﹂
240
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痴呆の都
男は電話口の向こうで、﹁そうですか⋮⋮﹂と小さく呟いて電話を切った。百恵はやるせ
ない気持ちを押し込めて、受話器を置いた。
晴れない気持ちのままで屋上へ上がった。どこまでも青い秋の空は、ほんの少しだけ彼女
なぐさ
ムクドリ
むれ
たばこ
の心を慰めた。椋鳥の群にはっと我に返ると、近くに浩幸がコーヒーを片手に煙草を吸って
いた。今日は水曜日である事をすっかり忘れていたのだ。この時間帯は必ず彼が煙草を吸い
に来るのを知っていたから、極力屋上には近づきまいとしていたのだが。百恵は慌てて、
﹁ご
めんなさい。おやすみなさい│││﹂と立ち去ろうとした。
﹁そんな慌てて逃げなくてもいいでしょ?﹂
百恵は立ち止まった。浩幸は煙草の煙を吐きながら﹁この季節の空は気持ちがいいですね﹂
と言った。
﹁それはおめでとう。診察の時もそうでしたが、貴方の左の薬指に指輪が光っていたので、
もしかした ら っ て 思 っ て ま し た ﹂
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﹁先生、あの、私⋮⋮、結婚しようかって思ってます﹂
百恵は浩幸に対する恋愛感情を自ら断ち切るために、そう言った。
浩幸は煙草の火を消すと、もう一本取り出して再び火をつけた。
241
第 2 章(3)かわらぬ思いとプロポーズ
﹁相手が 誰 か 気 に な り ま せ ん か ? ﹂
﹁どうして?貴方の相手は、僕以外であれば誰でもいいと思ってましたから﹂
﹁そんな に 私 の 事 、 嫌 い ⋮ ⋮ ? ﹂
﹁嫌い?どうして?そんな事を言った覚えは一度もありませんよ。ただ、貴方のような純
うすよご
けが
粋な心の女性を、僕のような薄汚れた男の手によって汚してはいけないと思っただけですよ。
でもよかった⋮⋮。どうか幸せになって下さい﹂
百恵は﹁さようなら﹂と言い残して浩幸の前を立ち去った。
浩幸は青い空に向かって、白い煙草の煙をゆっくり吐き出した。
242
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痴呆の都
ぎゃくたい
虐待
︵四︶
ども
﹁ど、ど 、 ど 、 ど う し た の ? ﹂
吃りながらやっとの思いで口にした。高校の帰り、何やら雪でも降りそうなどんより
太一は
おお
おと め
とした雲が空を覆っていた。その声に立ち止まった乙女は、驚いた表情を隠しきれずに
﹁えっ?﹂
と立ち止ま っ た 。
﹁そ、その顔の傷、なんだか見かけるたびに増えていない?﹂
ほお
わき
乙女は頬の下の傷を手で隠すと、何も言わずに太一の脇を通り過ぎた。
﹁放して ! 大 声 あ げ る よ ! ﹂
あわ
にら
慌てて太一は手を放した。乙女はそのまま太一を睨み付けると、
﹁ふん!﹂
と乙女は 言 っ た 。
とそっぽを向いて走り去った。残された太一は寒い風に吹かれて立ち尽くした。
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﹁まって ! ﹂ と そ の 腕 を つ か む と 、
翌日│││。再び太一は同じ場所で乙女を待った。今度はここまで来る途中の自動販売機で
243
第 2 章(4)虐待
オレンジジュースを買って、それを渡そうと差し出したままの姿勢で、目の前を通りすぎる
彼女を見送 っ た 。
三日目│││。今度は近くのコンビニでプリンを買って同じ事をした。しかし、乙女はま
るで太一を無視するように、何も言わずに通り過ぎるのだった。
ばんそうこう
品を変え、何日同じ事を繰り返しただろう│││。ついに渡そうとする品の種類に尽きて、
その日は絆創膏を買って待った。そしてその日、乙女は、太一の前に来るとピタリと立ち止
まったのだ っ た 。
は
﹁バッカ じ ゃ な い の ! ﹂
くちびる
は
唇の横の剥がれそ
その言葉に応えるように、この年の初雪が降り出していた。雪は乙女の
うな絆創膏の上に乗って静かに消えた。太一は買った絆創膏の封を切ると、中から新しいの
を一つ取り出し、彼女の唇のそれと貼り替えた。
﹁へんな ヤ ツ だ な ! ﹂
乙女はそ う 言 う と 、 は じ め て 笑 っ た 。
﹁俺、馬 場 太 一 。 よ ろ し く ﹂
太一が右手を出すと、乙女も右手を出して握手を交わした。
244
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痴呆の都
﹁私は⋮ ⋮ ﹂
﹁君の名前、知ってるよ。林美幸さんだろ?須坂の看護学校に通う三年生⋮⋮。ごめんな
ちょうえき
ばっきん
さい、君の事が気になって、以前、ストーカーやっちゃった⋮⋮﹂
懲役または五十万円以下の罰金ね﹂
﹁六カ月 以 下 の
美幸はそう言うとケラケラと笑い出した。
﹁でも、あんたの観察、ちょっと違ってる。実は看護学校一年留年の二年生。本来なら准
すで
看護士として既に働いてなきゃいけない年齢。私、バカだから﹂
﹁そんなことない!とってもきれいだ⋮⋮﹂
山口浩幸と、初婚の妻美津子との間に生まれた娘に違いなかった。
﹁はあ? ﹂
まぎ
美幸は再び声をあげて笑った。紛れもない、その美しい乙女は、山口脳神経外科医院院長
かた
しんそう
目的もなく市内を歩き回っ
それをきっかけに二人は付き合いだした。毎日学校が終わると、
たり、たまに長野電鉄に乗って長野市街に出かけてはデートを楽しむようになっていった。
最初は堅く口を閉ざしていた身体の傷の事も、美幸が太一に心を許すに従って、徐々に真相
を話すにい た っ た の で あ る 。
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245
第 2 章(4)虐待
﹁私の父さん弁護士やってんだけど、ろくに仕事もしないで毎日お酒を飲んでる。あげく
うっぷん
にその鬱憤を私にぶつけて言うの。﹃早く働け!﹄って⋮⋮。中学校に入る前からそんな状
りっ ぱ
況だったから、私は勉強もする気になれないで、こんなにぐれちゃった⋮⋮﹂
やくざい し
いのち
立派だと思う。俺なんかこの年になって、いまだに将来
﹁でも看護士さんになろうなんて
何になろう か な ん て 考 え て い な い ⋮ ⋮ ﹂
りゅうねん
﹁お母さんが昔薬剤師やってたの。なんか分からないけど、人の生命にかかわる仕事って
がら
いいなあなんて柄にもなく思った時があって、それで看護士になろうって思ったの。でも、
父さんの暴力がひどい時があって、私、死のうかって思った。それで一年 留 年になっちゃっ
た。でも、来年の四月からはもう職場が決まっているのよ。蛍ケ丘に山口脳神経外科医院て
いうお医者さんがあるんだけど、そこ。お母さんの昔の知り合いのお医者さんがいて、その
人にお願い し た ん だ っ て ﹂
﹁ちょっと用事があるから﹂と断った。百恵は不審そうな顔をしたが、太一はあまりに姉が
ふ しん
﹁ふうん ⋮ ⋮ 。 よ か っ た じ ゃ な い ﹂
ひま
そ の 年 の ク リ ス マ ス │ │ │。 そ の 日 太 一 は、 暇 そ う な 姉 の 百 恵 か ら 食 事 に 誘 わ れ た が、
可哀想だったので、﹁新津さんとは会わないの?﹂と聞いてあげた。﹁仕事で忙しいらしい﹂
246
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痴呆の都
みじ
という返答だったが、クリスマスの夜に一人で過ごさなければならない姉が、なんだか無性
に惨めに見えた。
その頃美幸は、太一とのデートに備えて、着ていく洋服に迷っていた。その仕草を先程か
ら横目でのぞきながら父の武は酒をあおっていた。
﹁美幸!さっきからそわそわしやがって!一体どこに行こうというんだ!﹂
美幸は父の言葉を無視して、そのまま仕度に専念した。
﹁お姉ち ゃ ん 、 デ ー ト ら し い わ よ ﹂
にわか
妹の香澄が武に告げ口した。すると武は俄に表情を変えて美幸の前に立ちはだかると、
頬はみるみるふくれ上がって、目は赤く充血し、そして何も言わずに武の顔を睨み付けてい
にら
﹁てめえみてえなガキにうつつを抜かす物好きな男もいたもんだ!﹂
なぐ
と次の瞬間、美幸の頬を殴りつけたのだった。美幸はそのまま壁にぶつかって倒れ込み、
た。
﹁なんだ?その目は!父親に逆らうのか?﹂
け
蹴 った。
武は倒れ た 美 幸 を 何 度 も
﹁そんなデートなんかしてる暇があったら勉強しろ!母さんのおかげで山口医院への就職
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第 2 章(4)虐待
も決まっているんだ!早く働いて家に金を入れるのがお前のせめてもの親に対する恩返しだ
とは思わね え の か ! ﹂
﹁ちょっ と や め な よ 、 あ ん た ﹂
騒ぎを聞きつけて美津子が姿を現した。
うら
﹁いくら山口医院の院長に恨みがあるからといって、この子を殴る事はないじゃない。こ
の子は私た ち の 大 事 な 長 女 よ ﹂
美津子は美幸を抱きしめた。そして言った。
にく
﹁いい?美幸。母さん、昔、あの院長先生にひどい事されたの。母さんがあなたをあの医
ふくしゅう
院に押し込んだのは、その復讐をするため。それを忘れないで。父さんだってあの先生のせ
いで裁判に負けてからこんなふうになったのはあなたも知ってるでしょ?別にあなたが憎い
は
だい な
わけじゃないのよ。ただその不満を誰にもぶつける事ができずに、あなたに当たってしまっ
ているだけ。許してあげて、本当は弱い男なの﹂
﹁母さん ⋮ ⋮ ﹂
腫れちゃって⋮⋮。美人が台無し﹂と、
美幸は美津子に抱きついた。﹁まあ、こんなに顔が
さわ
美津子は冷たい手で美幸の頬を触った。
248
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痴呆の都
部屋で鏡を見ながら美幸は泣いた。そして携帯電話を取ると太一にかけた。
﹁太一⋮⋮、ごめん⋮⋮、今日、私、行けなくなった⋮⋮﹂
﹁どうしたの?泣いているの?何があった?⋮⋮﹂
まれ
太一の言葉を最後まで聞かないうちに、美幸は電話を切った。
美幸はその後、年明けまで看護学校を休んだのだった。
稀に見る大雪で、辺りの景色は白一色に染まっていた。毎
その日は 雪 が 降 っ て い た 。 近 年
い
日のように美幸の帰り道に立つ太一の手は、凍てつく空気で氷りそうだった。電話をかけて
も美幸は出ない。家の前まで行ってはみるも、彼に呼び鈴を押すほどの勇気はなかった。結
局いつもの場所で待つしか手段を知らず、心まで凍てつかせながら美幸が通るのを待つの
だった。そして三学期が始まって数日後、ようやく遠くから歩いてくる赤いコートを着た彼
﹁美幸! ﹂
か
駆け寄った。美幸は太一の姿を見つけると、﹁ごめん﹂と言って太一の胸に
思わず太一は
顔をうずめた。日が暮れて辺りはすっかり暗かった。
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女を見たの で あ る 。
﹁いった い ど う し た ん だ よ ! ﹂
249
第 2 章(4)虐待
ひ
つめ
美幸ははぐれた小鳥が母鳥を見つけた時のように、太一の胸でいつまでも涙を流していた。
﹁分かった。もう何も言わなくていいよ⋮⋮﹂
太一は美幸を抱きしめた。美幸の身体は冷え切った太一の身体よりも冷たかった。
すがだいら
菅平。昔、家族とよく行ったんだ﹂
﹁そうだ、今度の休み、スキーにでも行かない?
﹁スキー ⋮ ⋮ ? ﹂
あね き
美幸は涙 を 拭 き な が ら 顔 を あ げ た 。
﹁でも私、道具、何も持ってないよ⋮⋮﹂
﹁大丈夫。俺の姉貴のがあるから、それを貸してあげるよ﹂
おさな ご
あめ
む じゃ き
ほほ え
幼子が飴をもらった時のように無邪気に微笑んだ。そして二人は、降り止まぬ雪の
美幸は
中、須坂駅までの道のりをゆっくり歩いて行った。
250
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痴呆の都
おやこ
きょうだい
父娘と姉弟
︵五︶
せ けん
さわ
介護の仕事に正月休みはない。世間は﹁年末だ﹂﹁新年だ﹂と騒いでいるのに、百恵の日
せち
かざ
常は何ひとつ変わらなかった。ただ正月だけは施設でもお節料理が振る舞われ、玄関に飾ら
かどまつ
れた門松などで、その雰囲気を感じるだけである。
かくげつ
スケジュールを見れば、一月中旬に〝介護スタッフ研修会〟がもうけられており、コスモ
ス園の医療法人化に向けて、介護スタッフの看護への関わりなどを学習する事が義務付けら
すがだいら
れた。本年秋の統合へ向け、山口医院が主催となって隔月で一回行われる研修会は、同医院
の医師や外部の専門家の講師を招き、一泊二日で菅平のホテルで行われる事になっていた。
コスモス園の介護スタッフ達は二班に分かれ、そのカリキュラムを全てこなさなければなら
ないのであ る 。
﹁ねえねえ、モモ、今週の土日の研修、空いた時間にスキーでもやらない?﹂
い あん
慰安旅行
七瀬はまるで修学旅行気分であった。もっとも、こんな仕事をしていれば職場で
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第 2 章(5)父娘と姉弟
などの計画もなく、たまにとれた連休なども、疲れ切ってレジャーなどに使う事などめった
になかった彼女にしてみれば、ごく自然な発想だった。
﹁でも、 そ ん な 時 間 、 あ る か な あ ? ﹂
いき
百恵が言 っ た 。
﹁ナイターよ。研修は昼間だけじゃない。翌日まで何もないでしょ。これはきっと自由に
あき
遊びなさいって事よ。山口先生も粋な計画をたてたものね﹂
呆れたものだ。
七瀬の楽 し そ う な 仕 事 ぶ り に 、 百 恵 は
第一回研修会の講師には浩幸があたる予定になっていた。統合計画の発案者として、その
理念と施設の役割を明確に伝える必要があったからだ。研修日前日、大樹の寝顔を見ながら
その準備をはじめた浩幸は、必要書類を確認すると、冬の菅平に備え、コートやらセーター
かい む
を出そうとクローゼットの中をごそごそやりだした。普段は自宅に隣接する医院との間を行
き来する他は、出張等で東京などに行く事はあっても、冬の山に行く事など皆無に等しかっ
たから、それを見つけるのは非常に手間だった。こんな時に妻などいると非常に助かるのに
と思いながら、ようやく何年も開いていないような奥の引き出しの中から、父親の正夫が往
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痴呆の都
かばん
診の時に着ていたと思われる古びたジャンバーを見つけだした。ついでにその際に持ち歩い
ていた愛用の黒い小さな鞄も出てきて、浩幸はほくそ笑んだ。
ぶ あつ
結局父は、すぐれた医師だったかも知れないが、山口医院を倒産にまで追い込んだ男では
なかったか。それを自分は立て直し、いまやコスモス園との統合を機に、当時にして想像を
絶する病院と名の付く施設にまで発展させたではないか。鞄のファスナーを開ければ、分厚
いメモ帳が出てきて、父の往診のスケジュールがびっしりと書き込まれていた。
さい
采を振れば、あれほどの貧乏をせずにすんだものを⋮⋮﹂
﹁この労 力 で 経 営 の
しゃれ
浩幸はそのメモ帳をゴミ箱に捨てた。しかしその小さな黒い鞄をよく見れば、洒落たデザ
お
インの値打ち物のようであった。捨てるのが惜しくなった彼は、それをハンカチやティッシュ
おろ
かた み
などの小物入れに活用しようと、明日の荷物の仲間に入れた。
愚かな父の形見だ⋮⋮﹂
﹁
かい こ
自分の中にある懐古の情を一笑に付して、探し物を続けるのであった│││。
研修の服装を、コスモス園に面接に行った時のビジネススーツに決めた百恵は、七瀬との
たん す
約束を思い出し、一応スキーウェアも持って行こうと箪笥などをあちこち探しはじめたが、
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第 2 章(5)父娘と姉弟
母に聞いても父に聞いてもどうしても見つからなかった。
む だ
﹁ねえ太一、私のスキーウェア知らない?﹂
ついに諦めて、聞いても無駄だと思いながら太一に聞けば、
﹁ああ、 借 り た よ ﹂
﹁借りたって⋮⋮、女性用のウェアなんか何に使うのよ?﹂
﹁明日スキーに行くんだけど、友達が持ってないっていうから貸したんだ﹂
ひとこと
一言お姉ちゃんに言ってよ!明日、持って行くのに⋮⋮﹂
﹁ええっ ?
﹁ごめん。姉ちゃん毎日忙しがってるから、スキーウェアなんか使わないと思ったんだ﹂
じ だん
みね
はら
よくよく話を聞けば、以前相談を受けた女の子と菅平にスキーに行くと言う。
﹁それじゃ、明日お姉ちゃんも菅平にいるから、その子を紹介してくれたら許してあげる﹂
示談したのだった。
と
とうげみち
ある者は乗り合わせで、ある者は家の者に乗せてもらい、目的のホテルまで三十分もかから
峰の原の隣り、
研修場所へは各自で向かう事になっていた。車で菅平までだと峠道を登り、
ほこ
ない。百恵がホテルに到着すると、すでに七瀬がいて、車の上のスキーを誇らしげに、
254
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痴呆の都
﹁あれ? モ モ 、 ス キ ー は ? ﹂
と言った 。
﹁弟がデートで、私のスキー道具一式とられちゃった⋮⋮﹂
すべ
滑りに行くことになってるのに⋮⋮!﹂
﹁なーんだ、残念!他のみんなも一緒に
﹁私はいいから、楽しんできて。弟と会う約束もあるから﹂
はさ
﹁そうお ? ⋮ ⋮ ﹂
二人は少しがっかりした様子で研修会場へ向かった。
研修は午前と昼休みを挟んで午後、講義と実習を含めてみっちり組まれていた。百恵は、
かんめい
講義に立つ浩幸の姿を見ながら、その構想と思想の深さに大きな感銘を覚えながら、知れば
知るほど自分とは別次元の世界の人なんだと思わずにはいられなかった。
私ってバカみたい!
最初からそんなこと、知ろうとすれば知ることができたのに│││。
ま なつ
真 夏 に 冬 み か ん が 食 べ た く な っ て、 そ こ ら 中 の お 店 を 探 し 回 っ た け れ ど 見 つ か ら な く て、
あきら
結局諦めなければならないことを知ってるくせに⋮⋮。
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第 2 章(5)父娘と姉弟
み
し ちゃく
さい ふ
ショーウィンドウのドレスに魅せられて、お店の人に頼んで試着してはみるけれど、財布
の中身と値段がつり合わなくて、結局諦めなければならない事を知ってるくせに⋮⋮。
4 4 4
半年の休暇を取って、パリのルーブル美術館でひたすら絵の鑑賞をしたいと思って休暇届
けを出したけど、結局上司に怒られて、諦めなければならない事を知ってるくせに⋮⋮。
あつか
真夜中に突然おやきが食べたくなって、近くのコンビニを走り回って探してはみるけれど、
め
く
そんな郷土料理を扱っている所はなくて、結局あきらめて翌日になってみれば、昨晩おやき
だ
が食べたくなったことすら忘れていたりして⋮⋮。
きゅういん
駄目なものは諦めて、諦めたものは忘れ去る。そんなのとても簡単なこと。だってその繰
り返しの中で、人は人生を送ってる│││。
たん
し
こ
痰 の 吸 引 で す が、 厚 生 労 働 省 は 二 〇 〇 五 年 三 月 か ら あ な た が た 介 護 ス タ ッ フ
﹁そしてこの
にもできるよう通知を出したのです。その条件を馬場さん、言ってみて下さい﹂
て﹁すみません。聞いていませんでした│││﹂と俯いた。
うつむ
講義の途中、浩幸は突然百恵を指名した。いきなりの指名に驚いた百恵は、周りを四顧し
﹁講義の最中に何を考えているのですか﹂
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痴呆の都
百恵は再度﹁すみません﹂と言った。横で七瀬が﹁山口先生の事です﹂とちゃかした。百
恵が顔を真っ赤にして﹁もう!﹂と七瀬を叩くと、会場内に笑いが起こった。
﹁少し顔を洗って、頭を冷やしてきた方がいい﹂
再び笑いが広がった。浩幸は気分をそこねた様子で講義を続けた。
初日は研修が終了した時点でホテルへのチェックインとなり、その後は翌日の研修開始ま
では自由時間だった。同室の七瀬は喜び勇んでさっそくスキーに繰り出してしまったが、残
された百恵は太一に電話して、ホテルのロビーで二人が来るのを待つことにした。ロビーに
は滑り疲れたアベックや若者達が多くいて、ビジネススーツ姿で浮いた百恵は、コーヒーな
ど頼んで窓から見えるナイターの銀世界に心奪われていた。
その時│ │ │ 、
﹁やはり一日中しゃべり通しは疲れます。僕もコーヒーを飲んだら
少しご一緒 さ せ て 下 さ い ﹂
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一旦医院に戻ります。
いっ たん
﹁馬場さ ん は 滑 り に 行 か な い の ? ﹂
その声に振り向けば、すっかりラフな洋服に着替えた浩幸が立っていた。
百恵は突然の客に驚いて、背筋を伸ばして﹁どうぞ﹂と向かいの席を手で案内した。
257
第 2 章(5)父娘と姉弟
﹁お忙しいんですね。大樹君の面倒もありますものね⋮⋮﹂
﹁大樹は理事に任せてありますので心配はないのですが、学会へ提出する書類をまとめな
ければなり ま せ ん ﹂
浩幸のところにコーヒーが運ばれた。彼はそれを一口飲むと、
﹁ああ、そういえば結婚式はいつですか?電報くらい打たせてもらいますよ﹂
と言った。百恵は左手の薬指の指輪を隠すと、急に悲しくなって、俯きながら﹁まだ、日
取りも何も決まっていないんです﹂と答えた。
﹁そうですか。じゃ、決まったら教えて下さい﹂
きゅう
窮して、百恵
浩幸の透明な笑顔は、以前大樹に向けられていたものと同じだった。話題に
は浩幸の持っていた小さい黒い鞄を見つけて﹁ステキなバックですね﹂と言った。
たんたん
﹁これですか?これは無能な父の忘れ物です。気に入ったので僕が使う事にしたんです﹂
浩幸は淡々と答えると、再びコーヒーを口にした。
﹁姉ちゃ ん ! 来 た よ ! ﹂
ホテルのロビーに太一と美幸が姿を現した。気をきかせた浩幸は、﹁待ち合わせですか?
じゃ、僕はこれで失礼⋮⋮﹂と、立ち上がった瞬間、
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痴呆の都
﹁美津子 ⋮ ⋮ ﹂
と呟いた 声 を 百 恵 は 確 か に 聞 い た 。
太一はさっそく美幸に百恵を、百恵には美幸を紹介した。
あね き
ねえ
姉貴の百恵姉、で、こっちが林美幸さん﹂
﹁これが 俺 の
﹁よろし く お 願 い し ま す ! ﹂
美幸はペコンと頭を下げた。その仕草がとても可愛く、その美しい顔立ちと、彼女の振る
舞いからにじみ出る人柄で、太一が好きになった理由がいっぺんに理解できた。百恵も、
﹁よろしく、太一がいつもお世話になってます﹂
浩幸らしからぬ硬直した表情でじっと美幸の顔を見つめたままだった。
こうちょく
と言うと、﹁そのスキーウェア、とっても似合っているわよ﹂と付け加えた。
太一は百恵の向かいの男が気になって、﹁姉ちゃん、この人は?﹂と聞いた。気がつけば、
﹁コスモス園の施設医のお医者さん。ほら、前ちょっと話したでしょ、山口脳神経外科の
院長先生。あなたはまだ生まれてなかったけど、おばあちゃんも山口先生のお父様にお世話
になったの よ ﹂
百恵の言葉に、今度は美幸が態度を変えて、
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第 2 章(5)父娘と姉弟
?
﹁ええっ ! 山 口 医 院 ! ﹂
と叫んだ 。
せ
﹁わ、私、今年の四月からそちらでお世話になります、は、林美幸です。よろしくお願い
します!﹂
と、緊張 し た 様 子 で 頭 を 下 げ た 。
﹁へえ、驚いたなあ。姉ちゃんが美幸が働く医者の先生と知り合いだったなんて⋮⋮。世
けん
間はせまいものだね﹂
太一が言 っ た 。
﹁立ち話も何だから、座って、座って。なに食べる?ケーキ?﹂
百恵は二 人 を 座 ら せ よ う と す る と 、
﹁バスの時間がもうじきなんだ。またゆっくり会わせるから﹂
と、太一と美幸は、浩幸に頭を下げてそそくさと行ってしまった。百恵は二人を見送った
後、
﹁弟の太一です﹂と浩幸に伝えた。しかし浩幸は何も言わず、腰が砕けたようにソファー
に座ったの だ っ た 。
﹁どうな さ っ た ん で す か ? ﹂
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痴呆の都
たず
尋ねると、浩幸は急に笑い出し、
百恵が心 配 し て
﹁驚きま し た ⋮ ⋮ ﹂
と呟いた 。
﹁えっ⋮ ⋮ ? ﹂
﹁驚きましたよ、本当に⋮⋮。美津子かと思いました⋮⋮﹂
が、僕と美津子との娘なんです。今、太一君が連れてきた美幸という子がその子なんですよ。
﹁美津子 っ て ⋮ ⋮ ? ﹂
﹁ 離 婚 し た 妻 の 名 前 で す。 実 は 今 年 の 四 月 か ら う ち に 採 用 が 決 ま っ て い る 看 護 士 な ん で す
うりふた
顔を見て驚きました。僕が美津子と出会った頃の彼女と瓜二つじゃないですか⋮⋮﹂
﹁先生にはまだ子供さんがいらしたんですね⋮⋮﹂
﹁どうです?驚いたでしょう。僕の事を知れば知るほど、もっとおぞましい事実が発覚し
ていくかも知れませんよ。貴方は僕以外の男を選んで正解だったんですよ﹂
﹁平気です!ぜんぜん驚いたりなんかしてません!﹂
﹁また、 そ ん な 事 を 言 う ⋮ ⋮ ﹂
いったん
﹁では、一旦戻ります﹂と立ち上がっ
浩幸は気を取り戻した様子でコーヒーを一口飲むと、
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261
第 2 章(5)父娘と姉弟
た。
﹁車まで 見 送 り ま す ⋮ ⋮ ﹂
﹁必要あ り ま せ ん ﹂
あわ
つぶ
﹁見送らせて下さい!もう先生のこと見送るなんて、ないかも知れませんから⋮⋮﹂
浩幸は何も言わずに歩き出し、その後を追いかけて百恵はついていった。ナイターで照ら
された菅平のスキー場に、淡い小雪の粒が舞っていた。
262
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痴呆の都
ま
︵六︶ビーズの指輪
こなゆき
すいぎんとう
それは美しい粉雪の舞いだった。
か
ぜ
袖口から入り込む寒気で、ひと
そでぐち
水銀灯に照らし出された二人のゆっくり歩く姿があった。ホテル
辺り一面 の 白 の 世 界 に 、
あっせつ
すべ
の玄関から駐車場までは、それほど長い距離ではないが、圧雪と降り積もる雪で非常に滑り
やすくなっ て い た の で あ る 。
ビジネススーツのままで出てきてしまった百恵は、首筋や
む しゃぶる
つ武者震いをした。
風邪をひきますよ﹂
﹁ほら、だから見送りなどいいと言ったじゃないですか?
ま
浩幸は自分のマフラーをとると、百恵の首に捲いた。
﹁すみま せ ん ⋮ ⋮ ﹂
浩幸は微 笑 む と 、
﹁なぜだろう、貴方にはいつも僕の一番見せたくない素顔が見られてしまう⋮⋮﹂
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263
第 2 章(6)ビーズの指輪
つぶ
かたまり
と、ぽつ ん と 呟 い た 。
百恵はすっかり冷たくなった両手をビジネススーツのポケットにしまい込むと、右側のそ
こに何やら小さな硬い粒の塊の感触を覚えた。それがコスモス園への就職面接の前日、遠い
きゅうこん
かばん
たばこ
回想の中で見つけたビーズの指輪であることはすぐに知れた。ポケットの中でそれを転がし
て遊びながら、五歳の時に求婚をした大学生の事を思い出していた。
やがて愛車のニュービートルの所に来ると、浩幸はドアに寄りかかり、黒の鞄から煙草を
一本取り出して口にくわえた。次いでライターを取り出そうと再び鞄をごそごそやりだした
ふ
し
ぎ
が、﹁あれ?ライター⋮⋮﹂と言って、やがてコートのポケットなどを探し始めた。
う
百恵は浩幸の口から煙草を取り上げると、
﹁あまり吸わない方がいいですよ⋮⋮﹂
埋めた。
と言って 、 足 元 の 雪 の 中 に
﹁君はいつも僕がドキリとすることをしますね。不思議な人だ⋮⋮﹂
﹁そうで す か ? ﹂
浩幸は再び鞄から煙草を取り出して口にくわえ、再び鞄の中のあるはずのライターを探し
始めた。
264
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痴呆の都
と⋮⋮、
﹁なんだ ろ う ⋮ ⋮ ? ﹂
浩幸が鞄から取り出したのは、ビーズでできた小さなリングだった。
﹁なんだ ? こ れ は ⋮ ⋮ ? ﹂
浩幸は首を傾げて、それをしまい込もうとした。
こな
を取り出して、浩幸の指先のリングと重ね合わせた。それはまったく同じ形をした、一対の
いっつい
﹁待って ⋮ ⋮ ! ﹂
うたが
疑った。そしてビジネススーツから先ほどから触っていたビーズの指輪
百恵は自 分 の 目 を
そう い
ビーズのエンゲージリングに相違なかった。
﹁どうして君がこれと同じものを持っているの?﹂
なんおく
百恵は言葉を失い、しばらく浩幸の顔をじっと見つめた。
いくつの粉雪が舞い落ちたろう。何万、何億⋮⋮、果てしない粉の宇宙の中に、二人の姿
だけが浮かんでいた│││。時の流れを数えれば、いったいどれほどの長さになるのだろう
か?そして心の移り変わりの数を数えれば、一体いくつになるのだろうか⋮⋮?地球上の砂
の数を数えることができるだろうか?星の数を数えることができるだろうか?歴史の始まり
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265
第 2 章(6)ビーズの指輪
を数えることができるだろうか?そしてその終わりを数えることができるだろうか?ただ、
時間的に、空間的に、精神的に、無限に広がる世界の一点に厳然とある事実こそ、二人の真
実だった。
﹁あなた だ っ た の で す ね ⋮ ⋮ ﹂
やがて百 恵 が 言 っ た 。
ひとみ
﹁どうい う こ と ⋮ ⋮ ? ﹂
﹁あなたがあの時の大学生だったのですね⋮⋮﹂
いっせん
もや
百恵の瞳に氷りつきそうな涙が宝石のように光っていた。
ぐ あい
具合
﹁覚えていませんか?私は五歳で、あなたは大学生だった⋮⋮。私のおばあちゃんの
が急に悪くなって、赤ヒゲ先生に来ていただいたの。その時私は席をはずされて外に出たわ。
のう り
そしたらそ こ に あ な た が い た ⋮ ⋮ ﹂
もや
そうてんねんしょく
浩幸の脳裏に一閃のひらめきが走った。それは張り詰める靄を一瞬に吹き払う突風のよう
だった。靄の向こうに広がった世界は、総天然色の花畑のように、寸分の忘却もない現実の
世界であっ た 。
き とく
﹁思い出した⋮⋮。いや、覚えてる。僕はその日、母の危篤を知らされて、大学の授業を
266
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痴呆の都
ほう
抛り出して帰省した。そしたら死にそうな母をそのままにして、父は往診で家にはいなかっ
すず
た。あわてて僕は父を探しに行ったんだ。しかし、ようやく父を見つけた時、僕は母の死の
せみ し ぐれ
知らせを受けた。そう、確かに馬場さんというお宅の前だった⋮⋮。ようやく涼しくなりか
けた蝉時雨の鳴り止まない夕方だったね。今、思い出した。君と会ったのはその直後のこと
せんめい
だった⋮⋮。家の玄関から出てきた君は、少し驚いた顔をして僕をじっと見つめてた⋮⋮。
なぜだろう、こんな昔の話なのに、これほど鮮明に覚えているなんて⋮⋮﹂
﹁そして私たちは遊んだわ。あやとりや手遊びやケンケンパーをして⋮⋮。覚えてますか?﹂
のが
﹁僕は母の死の悲しみから逃れるため、まだ幼かった君を愛して必死に遊んだ﹂
浩幸は普段なら絶対に見せない懐かしそうな表情で、百恵をじっと見つめ返していた。
﹁君だっ た の か ⋮ ⋮ ﹂
無言のままでたどるのだっ
二人は降りしきる雪の中で、二十数年前の夏の共有の思い出を、
た│││。
﹁このビーズの指輪のこと、覚えてますか?﹂
浩幸は何 度 も う な ず い た 。
﹁覚えてる⋮⋮。君に﹃お嫁さんになってあげる﹄って言われた。僕はませている子だなっ
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267
第 2 章(6)ビーズの指輪
て思った⋮ ⋮ ﹂
﹁そして、あなたは言ったわ│││、私が﹃二十歳になって、まだ、その気持ちが変わっ
ていなかったら考えてもいい﹄って⋮⋮﹂
ふく
﹁そう、 確 か に 言 っ た ⋮ ⋮ ﹂
﹁私、二十歳になりました。もう八年も過ぎちゃいました⋮⋮﹂
百恵の瞳の涙が急に膨らんだかと思うと、次の瞬間落ちて、足元の雪の一部を溶かした。
〝いのち〟
であなたを待っていた。だから、
﹁多分私は、ずっとあなたを待っていた。心の奥の
あなたをこんなに好きになってしまったの⋮⋮﹂
﹁ちょっ と 待 っ て │ │ │ ﹂
浩幸は次 の 百 恵 の 言 葉 を さ え ぎ っ た 。
﹁今日は驚く事ばかりだ⋮⋮。混乱して言葉も見つかりません﹂
めいせき
ず のう
すじ
浩幸は明晰な頭脳で、一連の出来事の話の筋を整理しはじめた。母の最後の言葉は﹁あん
ぐうぜん
しょうどうてき
たのお嫁さんの顔を見たかったよ⋮⋮﹂だった。百恵と出会ったのはその直後の事だったで
はないか。それは偶然にせよ、百恵から結婚を申し込まれたこと。幼い子どもの衝動的な発
言だったにせよ、こうして二十年後の彼女と知り合っている事実。その上、彼女が自分を好
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痴呆の都
はたら
え たい
こい なか
きだという事実。そればかりでない、自分の実の娘である美幸と彼女の弟が恋仲になってい
ること。現実生活とは別次元で働く、何か得体の知れない力を感じずにはいられなかった。
あきら
かばん
おさ
しかし浩幸にはそれを認める勇気がなかった。結局〝偶然〟の二字に、その結論を導き出す
しかなかっ た の だ 。
浩幸は煙草を吸うのを諦めて、それを鞄の中に収めた。
﹁偶然と は 、 重 な る も の な の で す ね ﹂
浩幸が言 っ た 。
﹁偶然なんて本当にあるのかしら⋮⋮。私は全部〝必然〟に違いないって思ってます⋮⋮。
きっと世の中の人みんなが心の痴呆症にかかっているから、仕方のない事だけど⋮⋮﹂
百恵が答 え た 。
﹁心の痴 呆 ⋮ ⋮ ? ﹂
浩幸は首 を 傾 げ た 。
﹁いったい君は何を知っているというのか?﹂
﹁私にも分かりません⋮⋮。でも心の奥の、ずっとずっと奥の私が、浩幸さんのことを好
きだと言っ て い る 気 が し ま す ⋮ ⋮ ﹂
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269
第 2 章(6)ビーズの指輪
﹁いったい君は何者か⋮⋮?天使か⋮⋮、さもなくば悪魔か⋮⋮﹂
﹁悪魔なんてひどい。私はただあなたを愛しているだけ⋮⋮﹂
百恵は俊介からもらった婚約指輪をはずし、手にしたビーズの指輪とはめ替えた。
こば
﹁君はま た そ ん な 事 を す る ⋮ ⋮ ﹂
﹁私、やっぱり結婚しません。いえ、できません﹂
百恵は、自分を拒む浩幸の表情と全く正反対の表情を確認した時、思わずその身体に自分
の身体を重 ね た 。
﹁やめなさい。人に見られたらどうするのですか?﹂
百恵は何も言わず、浩幸の胸で涙を流すだけだった。
そうぼう
双眸が光っていた。男はいやら
ホテルの暗い一室から、その光景をじっと見詰める悪意の
しい笑みをひとつ浮かべると、手にしたデジカメのシャッターを何度も押した。
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痴呆の都
ろう ば
こ
老婆の死
︵七︶ある
ど
人は死んだら何処へ行くのだろうか?
夜空に輝 く 星 に な る の だ ろ う か ?
それとも大気の中に溶け込むのだろうか?
あるいは果てしない宇宙空間の中へ吸い込まれるのだろうか?
肉体が滅びたら、それに宿っていた〝いのち〟の実在まで消えるなんて、そんなのどう考
えたって理解できない。
〝ある〟ものは〝ある〟のだから、なくなるなんて道理が存在するわけがない。別の物に
ねん ど
変わるというのなら理解できるの。例えば粘土で作られたウサギがリンゴになったり、小犬
が大きくなってシベリアンハスキーになったり、電気が機械を通すことによって物を動かす
力になったり、酸素が化学反応を起こして水素になったり⋮⋮。そんなのみんな道理で説明
できるでしょ。
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271
第 2 章(7)ある老婆の死
でも、人の〝いのち〟は死ねばどうなるの?いいえ、人だけじゃない。地球上に生きる全
て の生き物 の 〝 い の ち 〟 も 同 じ こ と 。
死んだらいったい何処へ行くというのだろうか⋮⋮?
すえ
今年に入って一番寒かった二月のある日、百恵にとても優しかった末おばあちゃんが死ん
だ│││。 八 十 四 歳 の 生 涯 だ っ た 。
ぬ
百恵が新米でコスモス園に勤めるようになった時、末おばあちゃんは名前が〝百恵〟だか
せいらい
せんてんせい
ら と 言 っ て、
〝桃色〟のポーチを縫ってくれた。それだけで嬉しかったが、末おばあちゃん
さいほう
よし
は生来目が不自由であったのだ。病名は分からないが先天性のもので、彼女は生涯の全てを
て
さ
暗闇の中で生き抜いた。どこで裁縫の技術を学んだのか、今となっては知る由もないが、そ
の腕は天下一品で、あの後も、ピンクのエプロンや手提げカバンなど、百恵の誕生日を覚え
りん ご
ていてくれて、毎年五月五日になれば何日もかかって作った実用品をそっとくれるのだ。
出かけたり、花壇に咲くお花の香りを楽しんだり、唄を歌ったり耳掻きしたり⋮⋮、たいて
みみ か
夏みかんや林檎の皮をむいてあげたり、部屋にお花を飾ってあげたり、一緒に外へ散歩に
いの事は一人でできる人だったから、百恵の方が逆にお世話されていたくらいだった。
272
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痴呆の都
目が不自由だったせいだろう、お嫁にも行けずにずっと独身だった。ご両親を失ってから
の彼女は、いろいろな施設を渡り歩き、最後にこのコスモス園にたどりついたのだ。
ざい く
﹁モモちゃん、あんたの顔を触らせておくれ⋮⋮﹂
そのシワだらけの手で触っ
ある時おばあちゃんがそう言った。百恵は﹁どうぞ﹂と言って、
な
てもらった。おばあちゃんは笑顔を浮かべて、まるで壊れそうなガラス細工を扱うように、
ずっと百恵の顔を撫でていた。
﹁きれいな顔付きをしているね。まるで博多のお人形さんのようだ⋮⋮﹂
百恵は疑 問 に 思 っ て こ う 聞 い た 。
﹁私の顔 が 見 え る の ? ﹂
信じないかもしれないが、
﹁ああ、はっきり見えるよ。この手の感触、そしてあんたの声⋮⋮。
と
す
誰かがこの部屋に入ってきた瞬間、その人の声を聞く前にそれが誰だか私にはすぐ分かる﹂
よくよう
ま
末おばあちゃんは視覚を除く五感の神経を研ぎ澄ませて、身の周りの様子を全部見ていた
のである。その人が何を考えているのか、自分に好意を持っているのか、悪意を持っている
のか、微妙な言葉の抑揚や会話の間などで目が見える人以上に敏感だった。人にはほとんど
言わないが施設一の情報通でもあったのだ。視界が暗闇である分、彼女には必要以上のもの
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第 2 章(7)ある老婆の死
が見えてい た に 違 い な い 。
き せき
〝人間には不可能はない〟ということだった。三
おばあちゃんを通して感じていた事は、
重苦のヘレン・ケラーの史実も、末おばあちゃんの姿を通すとき、それは奇蹟ではなく現実
として納得できるのである。人間はかくも偉大であるかと、百恵の関心はそれだった。
その末おばあちゃんが言っていた言葉で忘れられない事がある。それは浩幸に対する評価
しょう ね
4
4
4
である。それは、医療法人化が決定して間もなくの事だった。
ね
かたまり
あかひげ
性根のまっすぐしたやり手だから風当たりも敵も多いし、先生を
﹁ あ の 先 生 は 孤 独 だ よ。
うわさ
つ
良く言う人は一人もいない。でも私には分かる。根は誠実と正義の塊だね。私は赤髭先生の
かねもう
事は知らないが、噂を聞く限り、きっとそれと同じ〝いのち〟を受け継いで生まれてきたに
違いないよ。医療法人化にしてもそうさ。みんなはお金儲けと名声のためと言うが、違うね。
だん な
あの先生は自分の理想に忠実すぎるのさ。私がもっと健全で力があったら、あの先生の手助
けをするのにね⋮⋮。そうそう、旦那にするならああいう人をお選び。でもあんたとは年の
差がありす ぎ る ね え ﹂
おばあちゃんはそう言って笑ってた。百恵にとっては浩幸を好意的に言うたった一人の味
方だった。だからというわけではないが、百恵は末おばあちゃんが大好きだった。
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痴呆の都
ろう ば
老婆が突然死んだ│││。
その
第一発見 者 は 百 恵 だ っ た 。
あいさつ
いつものように各部屋を見回った時、いつもなら同室の誰より先に挨拶をしてくれる末お
ばあちゃんだが、その日百恵を迎えたのは、同室の清水さんの﹁末さん、ずいぶんとゆっく
りしてるね﹂という言葉だった。百恵は不審に思って﹁おはよう﹂と言いながら末おばあちゃ
んの身体を揺すったが、その身体は揺するのに合わせて力なく揺れる〝いのち〟の抜け殻だっ
そうはく
た。慌てて脈を計った百恵は蒼白になった│││。
その日、百恵は涙を流しながらその対応に追われたのである。
れいきゅうしゃ
家族も親戚もない末おばあちゃん⋮⋮。
霊 柩 車で運ばれて行った。その後どこへ行ったのか?
やがて
│││私 は 知 ら な い 。
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275
第 2 章(8)スキャンダル
つ
︵八︶スキャンダル
き が
みょう
けが
ふ しん
まな ざ
その日遅番で仕事に就くと、周囲の人の視線が妙に気になった。不審の眼差しというか、
気兼ねしているというか、百恵と目が合った瞬間、まるで汚らわしいものでも見てしまった
うわさばなし
こうはい
さ
かのような表情で視線をそらすのである。ある者は壁の陰に隠れるようにして百恵の姿をの
くち ぶ
ぞき込みながら噂話をする様子がうかがえたり、信頼する後輩たちまでも、何か避けている
つか
かのような口振りだった。そんな空気は職場にきて三十分もしないうちにすぐ分かる。さす
がに気になった百恵は、三年下の後輩を捕まえて、﹁何か私を避けてない?﹂と聞いてみた。
﹁い、い え ⋮ ⋮ 、 別 に ⋮ ⋮ ﹂
かと思うと、人目をはばかるように手を引いて、彼女を女子用トイレの中に連れ込んだのだっ
後輩は逃げるようにしてどこかに行ってしまったのである。
そんな時、トイレの前を通りかかると、今日は早出残業だった七瀬が小声で百恵を呼んだ
た。その表情はとても心配そうに見えた。
276
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痴呆の都
﹁光ッチまで⋮⋮、いったいどうしちゃったの?私、わけ分からない﹂
﹁どうしたの?って、あなたよくそんなに平然といられるわね⋮⋮﹂
くらやみ
けい
七瀬は介護服のポケットから二つに折りたたんだ雑誌を取り出した。それはスキャンダル
たぐい
む ぞう さ
雑誌に違いなかった。コスモス園のロビーには、いわゆる三流と呼ばれる雑誌の類も無造作
さい
に置かれているのである。開いたページには一面を使って、暗闇に抱き合う男女の写真が掲
載されていたのだ。見出しを見て言葉を失ったのは当然の事だった。
すがだいら
さそ
るではないか。写真の〝二十八歳美形〟を指す女性は紛れもない、どう見ても百恵の横顔に
まぎ
﹃介護施設統合の立て役者〝山口浩幸〟夜の顔!お相手は同施設勤務二十八歳美形﹄とあ
そう い
相違なかった。
も来なかったのは、こういう事だったのね?﹂
﹁ねえ、ねえ、この日って菅平で研修があった日でしょ?どうりで⋮⋮、スキーに誘って
けっそう
﹁ちょ、ちょっと待ってよ。違うわよ!﹂
血相を変えて記事を目で追った。
百恵は
﹃ 山 口 浩 幸︵ 四 十 二 ︶ は、 本 年 秋 に 予 定 さ れ る 老 人 介 護 施 設 コ ス モ ス 園 と 山 口 脳 神 経 外 科
も さく
医院統合の立て役者。介護の未来形を模索する理想の介護医療実現のため、様々なマスコミ
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第 2 章(8)スキャンダル
び だん
せいしょくしゃ
にも取り上げられ、美談ばかりを並べてきた聖 職 者⋮⋮?と思いきや、実は過去に二度の
結婚に失敗してる天下の女ったらしなのだ。写真のお相手は十四歳も年下の同介護施設勤務
二十八歳の美女。一月中旬の長野県は菅平。介護員研修を名目に行われたホテルの駐車場で
おとしい
そのラブラブ振りを見せてくれた。降りしきる雪の中、二人は時間を忘れていつまでも抱き
合っていた 。 ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ﹄
がく
とんでもない報道に驚きながら、浩幸を陥れようとする悪意がまざまざと見てとれた。と
まつ
ころが一方では、浩幸と自分が祭り上げられている内容にある種の喜びがあった。まるで人
ごとのように写真を見れる自分がいて、﹁額に入れて飾っておこうかしら﹂と本気で思うの
だった。
﹁これ、 本 当 に 私 ⋮ ⋮ ? ﹂
﹁なに言ってるのよ、この髪のまとめ方はモモに違いない。それにここ見て、後の方に映っ
4 4 4 4
てる車。これ私の。だって窓にプーさんがぶらさがってるでしょ。これはあの日の晩の菅平
と
に間違いない!まさか自分じゃないとでも言い張るつもり?﹂
撮 ったんだろう⋮⋮?﹂
﹁一体、 誰 が
﹁ そ う い う 問 題 じ ゃ な い と 思 う け ど! こ こ に こ う し て あ な た と 山 口 先 生 が 映 っ て る っ て 事
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痴呆の都
が問題でし ょ ? ﹂
﹁でも私たち、いけない事は何もしてないわ⋮⋮﹂
﹁だからそういう問題じゃなくて⋮⋮、なんて言うかな、この時期、ものすごい大事な時
おやぶん
なのよね。コスモス園の統合にしても。いわば山口先生は私達の親分になるわけでしょ?そ
お
の親分がスキャンダル起こしたなんて事になると、大問題なわけ。分かる?信用問題よ。こ
のままいけば、山口先生、降ろされるわよ﹂
﹁ええっ?本当に⋮⋮?私、どうすればいい?﹂
﹁それが 問 題 よ ⋮ ⋮ ﹂
しばら
暫く無言が続いたが、やがて、
七瀬と百恵は顔を見合わせながらため息をついた。
﹁私ね、 モ モ の 事 が 心 配 な の よ ⋮ ⋮ ﹂
七瀬がつ ぶ や い た 。
ひとみ
﹁モモがね、山口先生のこと好きなのは分かる。でもね、このままじゃ二人ともダメになっ
ちゃう⋮⋮ ﹂
瞳には涙がたまっていた。
七瀬の
﹁ありがとう、光ッチ⋮⋮。でも、私はぜんぜん平気よ。心配なのは山口先生⋮⋮。先生
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第 2 章(8)スキャンダル
は見送りはいいと言ったのに、私が無理に車までついて行ってしまったの。だからこんなふ
うに⋮⋮﹂
﹁もし、モモが仕事辞めるような事になったら、私も辞めるからね⋮⋮﹂
﹁光ッチ ⋮ ⋮ ﹂
百恵は七瀬の涙にもらい泣きしていた。
ひ
﹁大丈夫 よ ! 心 配 な い っ て ば ! ﹂
いんけん
陰険な重い空気の中で仕事をしなければならなかった。
とは言ったものの、その日は一日中
とが
どんな言い訳をしようと、あの日浩幸に抱きついたのは事実だった。非があるとすれば自分
や
たて
が百パーセントで、浩幸には何の咎もないではないか。万一、彼が役職を下ろされるような
事態に発展したとなれば、その責任は全て自分にあるではないか│││。そう思うと矢も楯
もたまらなくなった。仕事も手につかず、就業時間が終わって気づけば、百恵は浩幸の自宅
の前に立っ て い た 。
ま
すで
浩幸の表情は笑っていた。そして、百恵は十畳ほどの居間に通されるとソファに座った。既
い
玄関のインターホンのボタンを押すのに、どれほどの勇気が必要だったことか。出てきた
に十一時も近いというのに、そこでは大樹がお気に入りのゲームに夢中だった。
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痴呆の都
﹁こら、 大 樹 、 あ い さ つ し な さ い ! ﹂
大樹はゲームをしながら﹁こんばんは﹂と言った。
﹁まったくゲームばかりしているんですよ、こいつは⋮⋮。コーヒーでいいですか?﹂
わ
沸かしはじめた。
浩幸はメーカーに水を注ぐと、コーヒーを
﹁すみません、こんな遅くに⋮⋮。しかも突然⋮⋮﹂
終わってしまいましたよ。ここに来たのを誰かに見られませんでしたか?﹂
百恵が言 っ た 。
﹁あの雑誌の事でしょ?今日一日中、電話が鳴りっぱなしでした。その対応だけで一日が
百恵はハッとすると、﹁ごめんなさい!そんな事まで頭が回りませんでした﹂としょぼく
れた。
﹁大
浩幸は二つのマグカップにコーヒーを注ぐと、ひとつを百恵の前のテーブルに置き、
樹いいかげんにもう寝なさい!﹂と言いながら向かいに座った。
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﹁いいです、いいです。雑誌に一度出てしまったものは、二度出ようが三度出ようが同じ
事です﹂
﹁こら、大樹!言う事を聞かないとそのゲームを取り上げてしまうぞ!﹂
281
第 2 章(8)スキャンダル
ね どこ
いや
﹁あと五 分 、 あ と 五 分 ⋮ ⋮ ﹂
大樹の言葉に、百恵は﹁そのゲーム、楽しそうね﹂と言った。
﹁でも、明日学校でしょ?寝床が嫌なら、お姉ちゃんのところにおいで⋮⋮﹂
百恵は両手を広げて大樹を見つめた。大樹は暫く百恵と見つめ合った後、ゲームをやめて
百恵の胸に抱きついたかと思うと、ものの一分もしないうちに静かな寝息をたてはじめた。
その一部始終を見ていた浩幸は、驚いた表情で﹁現金なやつだ﹂と苦笑した。
﹁大きく な り ま し た ね ⋮ ⋮ ﹂
大樹を抱 き し め な が ら 百 恵 が 呟 い た 。
﹁年が増える毎に生意気になる。最近はことのほか手をやく⋮⋮﹂
たばこ
浩幸は煙草をふかしながらコーヒーを飲んだ。
﹁どうで す か ? 雑 誌 に 出 た 気 分 は ? ﹂
間はだいたい目星がついていますがね⋮⋮﹂
め ぼし
浩幸はい き な り 本 題 に 入 り 始 め た 。
﹁僕はともかく、馬場さんの事が心配でした。落ち込むのは当然です。こんな事をする人
それを受けて百恵は胸の内をいっぺんに告げた。
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痴呆の都
﹁私が全部いけないんです!先生は何も悪くない!私、雑誌の出版社にかけあって真実を
全部話そうと思います。それでダメならコスモス園を辞めて責任をとります!もし、先生が
辞めるなんて事になったら、私、もうどうしていいか分からない!﹂
おもしろ
その声に反応して、大樹が首の向きを変えた。浩幸は﹁貸して﹂と言って大樹を抱き上げ
ると、そのまま寝室に連れていって戻ってきた。
面白ければ何でも記事に
﹁出版社に行ったところで相手にはしてもらえませんよ。彼等は
するんです。商売ですから。それに馬場さんが辞める必要はない。貴方のような有能な介護
そんしつ
員を失うのは大きな損失です。いいですか、ただでさえ僕をよく思わない人が大勢いる。だ
あ
じょうとうしゅだん
おとしい
から、今回の事業で揚げ足をすくおうという人間がいたってけっしておかしくない。彼等に
とってはスキャンダルなんて常套手段なんですよ。僕を陥れるのにかっこうの材料じゃない
ですか。三流雑誌がよく使う手口だ。今でなくともいずれでっち上げのスキャンダル事件の
あらすじを考えたでしょう。たまたま今回は運悪く、その相手が君だった⋮⋮。それだけの
事です﹂
﹁それだ け の こ と っ て ⋮ ⋮ ﹂
〝愛〟とかじゃな
﹁だが、相手が君だった事で、僕にとっては苦しい立場に追い込まれた。
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第 2 章(8)スキャンダル
ざ せつ
いけど、僕は君の事が好きになってしまったようだ⋮⋮﹂
﹁せ、先 生 ⋮ ⋮ ? ﹂
﹁僕はこんなことで挫折するような人間じゃありません。かといって僕が統合後の法人の
なっとく
や
ひ さく
代表をおりなければ世間は納得しないでしょう。君も辞めない、僕も辞めない秘策⋮⋮﹂
﹁│││ そ ん な こ と 、 で き ま す か ? ﹂
浩幸はコ ー ヒ ー を 再 び 飲 ん だ 。
﹁貴方も飲んでください。せっかく入れたんですから﹂
百恵は﹁はい、いただきます﹂と言ってコーヒーカップを口にした。
﹁僕と結 婚 し ま し ょ う か ? ﹂
ふく
せき
百恵は口に含んだコーヒーを吹き出して咳こんだ。
いや
ひ
と
ちゅうちょ
﹁二十年前の僕の答えではありませんが、僕たちが結婚するとなれば万人が納得しますよ。
二人とも辞める必要はなくなる。それに馬場さんは永遠のアイドル〝山口百恵〟になれます。
きゅう
⋮⋮それとも、愛のない結婚は嫌ですか?﹂
窮した。これほど愛した男性に突然結婚を突きつけられた時、思わぬ躊躇が
百恵は返 答 に
湧いて出たのである。心の整理もできていないままの心境で、百恵に即答する勇気はなかっ
284
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痴呆の都
こう い
た。それに百恵の中では〝結婚〟というものは、お互いが愛し合っているというのが大前提
き せいがいねん
の行為であると信じていた。それを状況がそうなったからといって、浩幸の愛も確認できな
いまま結婚するとは、既成概念には全くなかった事といってよい。
じょうだん
浩幸は急 に 笑 い 出 し た 。
しかありま せ ん ﹂
﹁冗談ですよ、冗談│││﹂
あん ど
こうかい
安堵した半面、即答できなかった自分に後悔しながら肩を落とした。
百恵は
うわさ
噂も七十五日と言うじゃありませんか。ほとぼりが冷めるのを待ちましょう。それ
﹁人の
浩幸は一連の事件を人ごとのようにあしらうと、残りのコーヒーを飲み干した。
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285
第 2 章(9)死にかけた勇気
︵九︶死にかけた勇気
と たん
しょうげき
せいらい
浩幸と百恵のスキャンダル報道は、馬場家の人間にとっても大きな衝撃だった。生来気の
つぶや
ゆいいつ
小さい父などは、記事を目にした途端、頭をおさえて寝込んでしまった。母は母で、﹁明日
から世間に顔向けができない⋮⋮﹂と呟いたまま、涙をボロボロ流す。唯一弟の太一だけ、
ば せい
しば
﹁へえ、姉ちゃんはあの先生とできていたんだ﹂
おもしろ
面白がって記事を読む姿に救われたものの、とてもリビングには居づらくなって、何
と、
こ
も言わずに自分の部屋へ籠もろうとすれば、母の﹁どこ行くの!ちょっとここに座りなさ
わら
い!﹂という罵声に縛られて、長い間会話のない重い空気に耐えなければならなかった。
たび かさ
そこに鳴った携帯電話。藁をもすがる思いで出てみれば、家族よりも落ち込んだ声の俊介
せ
が、﹁今、玄関の前に来ているんだけど⋮⋮、話がある⋮⋮﹂と言って電話が切れた。度重
なる責めに合い、一刻も早く一人になりたい気持ちを抑えて玄関の扉を開ければ、父親以上
しず
に沈んだ顔付きの俊介が、百恵の手を引っ張って暗がりの家の前の路上に連れだした。日中
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痴呆の都
ひ かげ
は日陰になる所には雪が残り、冷たい風の流れる暗がりだった。
﹁どうい う 事 ! ﹂
こた
左手に雑誌を握りながら、俊介は怒りを隠せない口調で言った。百恵は何も応えなかった。
﹁どうい う 事 っ て 聞 い て い る ん だ ! ﹂
いていた。
﹁⋮⋮⋮ ⋮ ﹂
だま
黙っていたら分からない!ちゃんと答えて!﹂
﹁
なぎ
凪の海に浮かぶ小舟のように、妙に落ち着
百恵は目を細めて目線をそらした。しかし心は
﹁どういう事か聞くまで、今日は帰らない!﹂
﹁どういう事って、そういうことよ!私、やっぱりいくら考えても新津君とは結婚できない。
ごめんなさ い ⋮ ⋮ ﹂
﹁ごめんなさいって⋮⋮、それが答え?﹂
うなず
ほお
なぐ
頷いた。次の瞬間、俊介の平手は百恵の頬を殴って
百恵は視 線 を そ ら し た ま ま 涙 を た め て
いた。百恵は殴られた左頬をおさえたまま俊介をみつめた。
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あきら
諦めるって言ったじゃないか!
﹁ごめん⋮⋮。殴ることなかった⋮⋮。でも、あの先生の事は
287
第 2 章(9)死にかけた勇気
百恵、しっ か り し ろ よ ! ﹂
ひ そう
悲愴な声をあげた。ヒリヒリする頬をおさえ、百恵は
俊介は百 恵 の 両 肩 を 揺 す り な が ら 、
怒る気にもなれなかった。というより、俊介に対する自分の態度を考えるとき、やはり殴ら
れても当然のことだと納得できた。しかし、浩幸への思いはそのような理性では抑えつける
ことのできない、また、感情とも異質な特別なもので、百恵自身にもどうすることもできな
かったのだ 。
﹁ごめんなさい。本当にごめんなさい。新津君はいつも私を元気づけようと、私を守って
くれた。ずっと待っていてくれた⋮⋮。でもね、私、浩幸さんを愛しているの。諦める事な
ひ
と
んかできなかったの。できっこなかった!彼はね、私の〝いのち〟の中で二十年以上も待ち
続けた男性だったの⋮⋮﹂
﹁どうい う こ と ! ⋮ ⋮ ? ﹂
おっくう
﹁ごめんなさい⋮⋮。もう、私の事はあきらめて⋮⋮。大学生の時のように友達でいようよ﹂
﹁そんな こ と 、 絶 対 で き な い ! ﹂
億劫になって、
早く一人になりたい百恵は、やがて話をする事すら
﹁新津君に返さなければいけないものがある⋮⋮﹂
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痴呆の都
と、部屋に置いたホワイトパールのブレスレッドと指輪を取りに戻った。すぐにそれであ
ると直感した俊介は、﹁そんな必要はないから!﹂と言って、百恵が家の中へ入るのを確認
すると、急いで車に乗り込んで帰ってしまった。百恵が出てきた時は、俊介の車は一つ目の
こ
いっすい
十字路を曲がったところで、大きなため息を落として、母に見つからないようにそっと部屋
に籠もった│││。
とげ
だん
一睡もしないうちに朝がきた。
パジャマにも着替えず、あれこれ考え事をしていると、結局
か ぜ
精神的にはとても仕事に出れる状態でなく、体調もすこぶる悪かった。出勤前に風邪を理由
そこ
ふ
ろ
に休ませてもらうという電話を入れたが、丸腰の﹁お大事に﹂という言葉に刺を感じた。断
ぜん
然生命力を落とした百恵は、何もやる気が起こらず、昨晩入り損ねたお風呂に入った後は、
パジャマに着替えてベッドの上で一日を過ごした。
その翌日も仕事を休んで、同じように時間を過ごした。スキャンダル記事の写真は事実と
おか
ごと
うば
はいえ、人権を侵すが如くの心ないマスコミの報道が、これほどまでに生命力を奪うとは知
らなかった。かつてこれほど苦しんだ事があっただろうか?唯一の救いがあったとすれば、
かざ
それは愛する浩幸も、まさに自分と共通の苦悩を味わっているという事だった。ふと部屋に
飾った祖母の写真が目に入った時、なぜか涙がとめどなくこぼれてきた。
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第 2 章(9)死にかけた勇気
ま ぎわ
むこ
﹁おばあちゃん⋮⋮、私、どうすればいい⋮⋮?﹂
よみがえ
蘇らせた。
その写真を抱きしめたまま、遠い昔の記憶を
う
間際、何度も﹁百恵ちゃんのお婿さんの顔を見たかったよ﹂と言って
おばあち ゃ ん は 死 ぬ
いた。私はおばあちゃんの手を握りながら、まだ結婚なんてピンとこなかったけど、お父さ
んの請け売りで、﹁三浦友和みたいなカッコイイ人と結婚するから心配しないで﹂と答えた。
ほお
な
おばあちゃんは笑いながら、﹁百恵ちゃんが幸せになれるなら、どんな人でもいいよ。必ず
幸せになるんだよ﹂と私の頬を撫でてくれたっけ。私はその時思ったの。絶対幸せになろうっ
て ⋮⋮。
でも、幸せって何なのか分からない。分からなくなってしまったの。好きな人と結婚でき
り こん
れば幸せなのか?それは確かに幸せだろうけど、けっしてそれが全てじゃない。好き合って
一緒になった男女だって、
離婚する人も多くいる。それじゃ離婚は不幸せなのだろうか?けっ
してそうとも限らない。離婚後に思い通りの人生を悔いなく生きて、幸せだったと言いなが
ら死んでいく人だっているはずよ。幸せの基準て何だろう?
はか
確かに幸せって他人が測れるものじゃない。それじゃ自分で測るしかないじゃない。でも、
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痴呆の都
今の私は幸せ?って自分に聞けば、﹁これほど不幸な人はいないだろう﹂って答えが返って
くる。いったい私はどうしたらいいのかしら│││。
もし、このまま浩幸さんの構想が断念せざるを得ない状態になったとしたら、それは全部
私の責任。こんなところで寝ていちゃいけないの!何かをしなければ⋮⋮。何かをしなけれ
ば⋮⋮。
でも、ダメ⋮⋮。身体が動かないの│││。
百恵は写真に写った笑顔のおばあちゃんを見て笑い返してみたけれど、とても長い間は続
つら
ふ とん
かなく、やがて写真を見るのが辛くなって、ついにはそのまま布団に顔をうずめた。
﹁助けて⋮⋮、たすけて⋮⋮、ヒロユキさん⋮⋮﹂
その時、百恵の携帯電話が鳴った。とても電話に出る気にはならなかったので、しばらく
ほお
そのまま抛っておいたが、あまりしつこく鳴るので着信の相手の名前を見れば七瀬だったの
で、ようやく重い心を持ち上げて電話を取ったのだった。
﹁よかった、モモ、出てくれた⋮⋮。調子はどう?みんな心配しているよ。明日からは来
れる?モモがいないと私も調子悪くて⋮⋮﹂
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第 2 章(9)死にかけた勇気
﹁ごめん⋮⋮。なんだか身体が重くて、具合も悪いの⋮⋮﹂
﹁そう⋮⋮。今日ね、例の件で緊急会議が開かれたの。山口先生も出席されてもうたいへ
んだったみたい。みんなにボロクソ言われて、私だったらボコボコにヘコんじゃうな﹂
﹁そ、そ れ で ? ど う だ っ た の ? ﹂
﹁なんか、モモの事、かばったみたい。屋上で先生、煙草を吸っていて、偶然会って│││﹂
浩幸は疲れ切った様子で煙草の煙をはいた。布団のシーツを取り込む七瀬は、ふと彼の存
在に気がついた。しかし話かける言葉も見つからず、そのまま取り込み終えたシーツを抱え
た時、
﹁やあ、 七 瀬 さ ん 。 ご 苦 労 様 ! ﹂
会議を終えたばかりの浩幸は、いつものように気さくに声をかけて寄って来たのだった。
くず
﹁馬場さ ん は ? ﹂
最初の質 問 が こ う だ っ た 。
崩してお休みしてます﹂
﹁モモは 体 調 を
﹁そうですか⋮⋮。僕のせいで彼女を大変な目に合わせてしまった。僕がなんとかするか
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痴呆の都
や
ら心配しないで、明日から仕事に戻って来て下さいと伝えてもらえませんか?﹂
辞めさせられちゃうんですか?﹂
﹁山口先生、一体どうなっちゃうんですか?やっぱりモモ、
﹁そんな事は絶対にさせない!彼女が辞めるくらいなら僕が降ります!﹂
きび
ほ
厳しい口調でそう言い放った。七瀬は、
百恵が彼に惚れている理由がいっ
浩幸はい つ に な い
ぺんに理解 で き た 。
﹁先生、私に何かできる事はありませんか?﹂
浩幸はひ と つ 微 笑 む と 、
さわ
﹁そうだね、馬場さんを心から支えてあげて下さい。マスコミに騒がれるって、けっこう
しんどいんですよ。普通の人間ならつぶれてしまうでしょう。そうだ、馬場さんにこう伝え
てもらえますか。〝大変な障害ですが、僕と一緒に乗り越えましょう〟って⋮⋮。
僕の本心です﹂
浩幸は、そう言い残すとそのまま屋上を去って行った│││。
﹁山口先生、そんな事言ったの⋮⋮?﹂
百恵は嬉 し く な っ て 涙 が 出 た 。
﹁明日、今日の続きの会議があるんだって﹂
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293
第 2 章(9)死にかけた勇気
りょうやく
﹁光ッチ、ほんとうにありがとう⋮⋮﹂
百恵はそ う 言 っ て 電 話 を 切 っ た 。
そ せい
言葉はナイフ。言葉は良薬。傷つけることもできれば、蘇生させることもできる。浩幸が
言ったという﹃僕と一緒に乗り越えましょう﹄という言葉は、
どれだけ百恵を励ましたことか。
﹁一人じ ゃ な い 。 浩 幸 さ ん が い る ! ﹂
は らん
そう思った時、死にかけた心の勇気が決然と燃え上がった。
ぼうとう
翌日十時からの会議は冒頭から波乱を極めた。
﹁もう山口先生には降りてもらうしかないでしょう!こんなくだらない議題を何日もかけ
む だ
て話し合ったって、これこそ時間の無駄だ!﹂
ひと ばん
口火を切ったのは須崎理事長だった。それを合図にコスモス園と山口医院両施設の重役達
は、口々に 好 き 勝 手 な 事 を 言 い だ し た 。
論を先に聞 き ま し ょ う ﹂
﹁まあまあ、一度に言っても山口先生が答えられません。まず、一晩お考えいただいた結
高野施設 長 が 言 っ た 。
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痴呆の都
じ たい
もうとう
浩幸は静かに立ち上がると、特に須崎の方を見て言った。
しょ ち
処置として、
私には医療法人化後の理事長と、
﹁何度も申し上げましたが、今回の件における
しっ つい
統合後の当施設における代表役を辞退する意志は毛頭ございません﹂
失墜させたんだぞ!それを何
﹁あなたは今回のスキャンダルでコスモス園の信用を大きく
の責任もと ら な い と は ど う い う 事 だ ! ﹂
リストにまとめて提出して下さい。また、スキャンダルといいますが、僕も独身ですし、馬
須崎が叫 ん だ 。
い つ
何時、どういう事を言ったのか、
﹁信用を失 墜?で は、あのマスコ ミの記事を見て、誰が
場君も独身だ。たまたま僕がこういう立場の人間ですから大きな問題にしたがっているよう
ですが、プライベートで独身の男女が夜に会ったって良いとは思いませんか?﹂
﹁それは 重 大 な 発 言 で す ぞ ! ﹂
他の誰か が 言 っ た 。
けいそつ
軽率だ!﹂
﹁そうだ!施設の顔となる人の言葉としては、あまりに
けん か
ようそう
てい
喧嘩の様相を呈していた。
会場はもはや話し合いの場所ではなく、
その頃、コスモス園に出勤した百恵は車を降りると、まっすぐ会議室へと歩いて行った。
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第 2 章(9)死にかけた勇気
その途中、七瀬が待っていて、﹁やっぱり来ると思ってたわ。私も早出残業つきあうわ。こ
ば せい
ちょうしょう
うなったらやぶれかぶれね!﹂と、二人は足並みをそろえて目的の場所へ向かった。
会議室の中は罵声は飛び交う、嘲笑は飛び交う、浩幸をかばう声は飛び交う、議長の声が
しゅうしゅう
し し ふんじん
はんばく
飛び交うはで、ほとんど収拾がつかない状態だった。その中で一人獅子奮迅と反駁する浩幸
だったが、多勢に押されてどうにも話し合いにはならなかった。
だま
こうごう
その時│ │ │ 、
会議室のドアがバタン!と開いた。逆光の中に立つ二人の乙女の姿は、騒然とした会場内
を一瞬にして黙らせるほどの神々しさがあった。
﹁なんだ ? 君 た ち は ! ﹂
議長が言 っ た 。
﹁山口先生は悪くありません!全部、私がいけないんです!﹂
百恵は目にいっぱい涙をためて、ありったけの声量でそう叫んだ。
﹁ほう、スキャンダラスな女の登場か?﹂
﹁なによ ! そ の 言 い ぐ さ ! ﹂
七瀬が負 け じ と 言 い 放 っ た 。
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痴呆の都
﹁私の話 を 聞 い て 下 さ い ! ﹂
百恵は首 を 覚 悟 し て い た 。
﹁あの日、研修が終わって、たまたまロビーで先生と会って、先生はいいとおっしゃった
のに、私は無理に頼んで先生の見送りをしようと車までついて行ってしまったの!⋮⋮私、
わ た し ⋮⋮、 先 生 の 事 が 好 き で ⋮⋮、 好 き で 好 き で 仕 方がなくて⋮⋮、胸が苦しく なって
⋮⋮、それで私の方から先生に抱きついたんです!だから先生はぜんぜん悪くないの!悪い
のは私なんです!だからこの責任は私がとります!﹂
﹁いや!馬場君には責任はありません!仮に責任があるとしたら僕の方です!﹂
すかさず 浩 幸 が 叫 ん だ 。
﹁いいえ、私の責任ですから、処分するのでしたら私を処分して下さい!﹂
﹁いや、 責 任 な ら 僕 が と る ! ﹂
4 4
責任の取り合いに居場所を失った七瀬は、ついそののりに任せて、
﹁私の責 任 で す ! ﹂
ひょう し ぬ
拍子抜けのその言葉で、一応責任の取り合いはおさまったものの、百恵の
と叫んで い た 。
登場で会場 の 空 気 は ガ ラ リ と 変 わ っ た 。
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第 2 章(9)死にかけた勇気
喰わない話じゃないか。いったい誰
く
﹁君たちは何かね?愛しあっているのかね?﹂
こ もん
顧問がはじめて
騒然とした会議中、終始黙って様子をうかがっていた最年長のコスモス園
口を開いた 。
﹁コスモス園存続の危機かと思って来てみれば、犬も
がこんなく だ ら ん 話 を し 出 し た の か ? ﹂
な
顧問はそう言い残すと、さも疲れた様子で席を立ち上がった。浩幸は、その老人が自分の
おん
むく
前を通りすぎるとき、恩に報いる顔付きでひとつ目礼をした。それに答えて老人は浩幸の肩
かわかみ ご ろう
をポンと叩くと、次に百恵の顔と全身を舐めるように見回し微笑むと、
何も言わずに出ていっ
た。
浩幸の父正夫の友人で、
そのコスモス園の最高顧問を務める老人の名を河上吾郎と言った。
浩幸は子どもの頃からお世話になっている知人である。河上の残した言葉と退場で、その会
ふ
議は流れた の で あ る 。
須崎はじ だ ん だ 踏 ん だ 。
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痴呆の都
︵十︶ふたりの男
も
〝馬場百恵〟という人物が、自分にとっていかなる女性なのかを
浩 幸 は 残 業 の 院 長 室 で、
ち ち
考えていた。開いた書類にペンを置いたまま、そのペン先は先程から遅々と進まない。もう
こうこう
十時を回っていた。暗闇の辺りに、山口医院の院長室からは皓々とした明かりが漏れていた
│││。
で
あ
﹁介護士としては、その姿勢や情熱などは一級のものを持っている事は分かるし、今回の
事件を通して、僕に対して僕が考えていた以上の恋愛感情を抱いていることもよく分かった
⋮⋮﹂
二十年前の出来事は別にして、浩幸はコスモス園で出逢ってからの百恵の言動をじっと思
い起こして み た 。
定期診察で初めて会った二人は、コンビニでバイトをする店員と客の関係の中で、全く知
らない者同士ではなかった。自分の名前が気に入らないと言った彼女に対し、冗談で﹁僕と
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第 2 章(10)ふたりの男
めかけ
うわやく
ゆ かい
結婚しましょうか?﹂と言った浩幸に、﹁妾にはならない!﹂と食い付いてきた表情は愉快
であり、いじらしかった。大抵の人間ならば、しかも新人の立場であれば、上役の人物に対
さくら ふ ぶき
してけっして言い答えなどできるはずがなく、思えばその時から一種、特別な女性であった
ではないか。それから間もなくの桜吹雪の中のデート。彼女とは初めて二人だけの時間を過
じ
だ
ごしたが、今から思えば妙なほど自然体で付き合えたではないか。
また、彼女が言った言葉で耳朶から離れないものがいくつかある。一つは、コスモス園統
合を話し合う会議の際、大樹の面倒を見てもらって、終了後のコスモス園の屋上で彼女が言っ
た﹃介護も看護も同じ﹄という言葉である。それは技術的な事を言っているのではなく、お
せりふ
年寄りに対する心の姿勢を言っている言葉であることはすぐに分かったが、それにしても呼
あきら
ほたる
吸をするのと同じくらいに自然と出てきた科白であることに驚きを覚えるのである。
ず のうめいせき
諦めさせようと誘った蛍を見ながらの晩の事である。﹃女は感情の生
も う 一 つ は、 彼 女 を
り くつ
ど れい
き ち
と
き物だ﹄と言った浩幸の言葉に対し、すかさず﹃男は理屈の奴隷!﹄と言い返した機知に富
い かく
ささ
あ
く
んだ言葉である。頭脳明晰な浩幸にして言い返す言葉も見つからず、その後ホテルに連れ込
んで威嚇したにも関わらず、彼女は全てを自分に捧げようとしたではないか。挙げ句に大樹
きょぜつ
との接触を拒絶してしまったのだ。
300
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痴呆の都
すがだいら
﹁あの時、彼女はどんな思いだったろうか⋮⋮﹂
それを考えるとき、浩幸の胸は苦しくなった。
そしてもう一つは菅平の晩、﹃あなたを〝いのち〟で待っていた﹄という言葉。この意味
しょうごう
はまるで分からない。分からないが分かるような気もした。ビーズの指輪を照合してからは、
終始彼女のペースで会話が運んだが、あれは浩幸にはあり得ない事だった。全てを計算ずく
なつ
で物事を進める彼にして、その思考範囲をはるかに超えるところでの内容だった。
げ
るで百恵を母親のように思って、自分には見せない笑顔で遊んでいた。つい先日、百恵が自
解せないのは、一連の大樹の百恵に対する懐きようである。三歳の時の大樹は、ま
それに
はる
宅に来たときもそうである。何年間も会っていないはずで、すっかり百恵の事など忘れてい
るにも関わらず、その胸で眠る大樹は、本当に安らかな顔をしていた。
遥か高み
いったい何者か│││。自分に愛を告白したかと思えば、自分の考えの及ばない
けな げ
から物事を見通しているようで、かと思えばあまりに女性的な健気さがある。いままで出逢っ
ちょうえつ
た女性とは明らかに異質な何かを持っているように思えた。彼女との様々な出来事を回想し
ているうちに、やがて、自分の中の常識を超越している百恵の存在が浮かびあがってくるの
だった。そして先日の会議である│││。
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301
第 2 章(10)ふたりの男
おおはじ
しばら
あの後、百恵と七瀬と三人で、屋上に上がって冬の空を見あげた。暫くは無言でいた三人
だったが、
﹁なにもあんな大勢の重役の前で、貴方があんな大恥をかくことはなかったのに⋮⋮﹂
と、浩幸 が 呟 い た 。
﹁大恥⋮ ⋮ ? ﹂
百恵は首 を 傾 げ た 。
かえり
顧みず、一直線に突き進んじゃうからね。モ
﹁ モ モ は 思 い 込 ん だ ら、 後 先、 周 囲 の 迷 惑 も
モの長所で も あ り 、 短 所 で も あ る ﹂
七瀬が冷 や か し た 。
﹁でも私、大恥だなんて思っていません。だって私、本当に先生のことが⋮⋮﹂
じゃ ま
﹁分かりました。もう言わなくて結構です。僕も馬場さんの事が本当に好きになってしま
うではあり ま せ ん か ﹂
とど
﹁おやおや⋮⋮、なんだか私はお邪魔みたいだから仕事に戻るわね﹂
留まらせた。
七瀬が気をきかせて去ろうとすると、百恵は腕をつかんで
ミ
﹁全部、光ッチのおかげよ。光ッチが山口先生の言葉、伝えてくれなかったら、多分、今
302
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痴呆の都
日も私、休 ん で い た と 思 う ﹂
そして、 浩 幸 に 言 っ た 。
きゅう ち
﹁私、先生の言葉でどれほど勇気づけられたか⋮⋮。昨日まで落ち込んで、ベッドでうづ
うそ
くまっていたなんて嘘みたい。先生、ありがとうございました!﹂
﹁実は内心、僕もどうなることかと思ってましたよ。しかし馬場さんのおかげで窮地を脱
した。お礼を言わなければいけないのは僕の方です。ありがとう﹂
百恵と浩 幸 は 見 つ め 合 っ た 。
﹁しかし、最後に意見を言って出ていったおじさん、だあれ?あまり見かけないけど⋮⋮﹂
けん か
実際の実務はとうの昔に引退していますがね。うちの先代院長とは犬猿の仲でしたが、喧嘩
けんえん
七瀬が言 っ た 。
こ もん
﹁コスモス園の初代施設長ですよ。今は最高顧問を務めています。もっとも肩書きだけで、
しゅうぎょう
するほど仲がいいっていうでしょ。でも、僕とはひどく気が合いました﹂
就業のベルが鳴った。
﹁へえ⋮⋮﹂と七瀬が呟いた時、遅番の
慌てて七瀬が施設内に戻ると、百恵は浩幸に一礼して、﹁光ッチ、
待って!﹂
と、
その後を追っ
あわ
﹁いけな い ! 仕 事 よ ! ﹂
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第 2 章(10)ふたりの男
いと
て行った。浩幸はその後姿を愛おしく見守った│││。
暖房のサーモスイッチの音でふと現実に戻った浩幸は、まるで手に付かない書類を閉じる
し
と、大きく背伸びをした。そして、どうもはかどらない書類の山をみつめて、
﹁明日に す る か ⋮ ⋮ ﹂
と、院長 室 の 電 気 を 消 し た 。
じょう
錠を締め、歩き出したとこ
医院からすぐ隣の自宅まで、ものの一分もかからない。玄関の
ろで浩幸は黒い人影に気がついた。気にもかけないで通り過ぎようとしたところ、
﹁山口浩 幸 さ ん で す ね ﹂
その黒い 人 影 が そ う 言 っ た 。
﹁そうで す が ⋮ ⋮ 。 あ な た は ? ﹂
人影は浩幸の前に立ちはだかると、﹁馬場百恵さんと婚約している新津俊介といいます﹂
と答えた。 浩 幸 は 何 も 言 わ な か っ た 。
﹁いったいあなたは、百恵をどうしようというのですか?これ以上、百恵を苦しめないで
下さい!あなたのせいで、俺や百恵がどれほど苦しんでいるか分からないのか!﹂
304
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痴呆の都
せんけつ
こう
ふ
﹁失礼⋮ ⋮ ﹂
わき
なぐ
脇を通りすぎようとすると、俊介はいきなり浩幸を殴りつけた。その勢いで
浩幸が俊 介 の
浩幸は倒れ込み、口からは鮮血がにじみ出た。浩幸は右手の甲で血を拭き取ると、妙に落ち
着いた声で 、
﹁要件は 何 で し ょ う ? ﹂
みぎこぶし
ふる
や しゃ
じゅうけつ
しょう
右拳は、ワナワナと震えていた。その目は夜叉の如く充血し、正
と言った 。 俊 介 の 殴 っ た
き
気を失っていることは俊介自身知っていた。
﹁百恵を 返 せ ! ﹂
これ以上百恵を弄ばないでくれ!﹂
もてあそ
﹁それは彼女が決めることだ。馬場さんは君の所有物じゃない﹂
すじ あ
﹁あんたは百恵を愛していない!愛していない人間にそんな事を言われる筋合いはない!
﹁百恵か⋮⋮。百恵、ももえ、モモエ⋮⋮。あまり考えた事はないが、悪い響きじゃない。
僕もそう呼 ぼ う か ⋮ ⋮ ﹂
﹁なんだ と ! ﹂
よ
避けてつかんだ。
今一度伸びた俊介の右手を、浩幸はひょいと
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305
第 2 章(10)ふたりの男
﹁いきりたって殴り合いをして何になります?﹂
﹁俺の気 が 少 し で も お さ ま る ﹂
﹁おさまれば満足ですか?ならば何度でも殴るがいい﹂
ひざ
ど
げ
ざ
俊介はつかまれた右手をはらった。そしてむせぶような声で言った。
﹁一体あんた、何なんだ!百恵を返してくれよ!返してくれよ⋮⋮、頼むから!﹂
と、次の瞬間、アスファルトに膝をついたかと思うと、土下座をするのだった。
つみ
ひ と
罪な女性だ。君のように真っ直ぐ愛してくれる人がいるというのに⋮⋮。で
﹁馬場さんは
も僕も、最近彼女の事ばかり考えるようになりました。この年になって恥ずかしい話ですが、
仕事も手につきません。こんな事は君に言うことじゃないかも知れませんが、僕も彼女を愛
にら
しはじめて い る ﹂
睨み付けた。
俊介は浩 幸 を
﹁教えてくれ。この前百恵はこう言ったんだ。あんたの事を二十年以上〝いのち〟で待ち
続けていたって⋮⋮。一体どういう意味なんだ?﹂
﹁さあ⋮⋮、分かりません。心の痴呆から解放されたってことかな?残念ながら、僕には
思い出せま せ ん が ⋮ ⋮ ﹂
306
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痴呆の都
ごう
﹁思い出 す っ て ? な に を ⋮ ⋮ ? ﹂
﹁僕と馬場さんの過去世ですよ。思い出して欲しいですか?人間のDNAには想像を絶す
る記録が刻まれている。仏教的に言えば〝業〟と呼ばれるものですよ。仮に彼女のその直感
が正しくて、もし僕もそれを思い出したとしたら、君の出る幕は完全になくなりますよ﹂
俊介は浩 幸 か ら 目 を そ ら し た 。
ば か
馬鹿げた話があるものか!﹂
﹁そんな
浩幸は何も言わずに、やがて自宅の玄関から家の中へ消えていった。
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307
第 2 章(11)雪解け
ど
解け
︵十一︶雪
季節はず れ の 雪 が 降 っ た 。
だいかん
さ
なが
もう四月も近いというのに、その朝といったら大寒を思わせる寒さで、目が覚めて庭を眺
めたら数センチほどの雪が積もっていた。今日は休みの百恵は、部屋からじっとその光景を
見つめていると、昔庭で、おばあちゃんと雪だるまを作ったり、雪合戦をしたりした光景が
み おさ
せい
は
お
思い出された。やがて、今年の冬は忙しさにかまけて雪を一度も触っていない事を思い出す
かんさん
と、もう今年は見納めなければならない冬の精たちが急に恋しくなって、ジャンバーを羽織
るとおもむろに外へ飛び出したのだった。
こお
出勤や登校時間にはまだだいぶ早い町中は閑散とし、白一色の寒気に張りつめた空気は、
へい
世の中の嫌な出来事全てをも氷らせているように感じた。百恵は目的もなくぶらぶらと、時
に木や塀に積もった雪を取って固めて遊びながら、気づけばがりょう公園にたどりついた。
ふ
﹁やったあ、一番乗り!﹂と思いきや、入口から池のほとりに、まだ誰も踏みつけられてい
308
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痴呆の都
あしあと
ないはずのまっさらな雪の上に、人の歩いた足跡がのびていた。
﹁なんだ、私が最初だと思ったのに⋮⋮﹂
せいふくしゃ
百恵はそう思うと、前に歩いた人の足跡に、自分の足跡を重ね合わせて歩きながら、それ
ひた
ほ はば
でも小さな満足感に浸っていた。足跡の大きさと歩幅から、すぐに男性のものであることは
知れたが、途中までくると、自分より先に訪れた征服者の歩調に合わせる自分がバカバカし
く思えて立 ち 止 ま っ た 。
﹁こんな朝早くに、物好きな人もいたものね!﹂
す
だ じょう し
しかし、足跡の延びる先を見れば、なにやらがりょう山に登っているではないか。百恵は
﹁まさか?﹂と思いながら、再びその歩幅に合わせて歩き出した。
を滑らせているようなところは自分も滑らせ、肩で息をしながら忠実にその足跡を追った。
すべ
足跡は須田 城 址へとのびていた。百恵はしっかり前の人の歩幅を身体で覚えながら、足
は
人の歩幅に合わせて歩く事がこれほど疲れるとは初めて知ったが、それでもこの足跡があの
ほど
人のものであると堅く信じて歩く心の中には大きな喜びがあった。吐く息は白く、手袋の中
なが
のぼ
の手は氷のように冷たかったが、歩き通しの身体は暑い程だった。たまに立ち止まっては、
途中のねじれ松や根上がり松を眺め、風によって舞い落ちる細かい雪の粉は、昇りはじめた
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309
第 2 章(11)雪解け
かがや
日の光に答えてキラキラと輝いていた。なぜか知らないが、自分の前には浩幸が歩いている
感覚があった。おそらく以前に彼と登った光景を、身体が覚えていたに相違ない。やがてそ
いただき
の足跡が、浩幸のものであると確信したのは、あの日と同じ風が吹いたのを感じたからだ。
たど
す
百恵は山の頂に吸い込まれるように進んで行った。
ようやく頂上に辿り着いた百恵は、据え付けのベンチに座る男の姿を発見したのだった。
﹁やっぱ り │ │ │ ! ﹂
しばら
暫くは無
煙草をふかす浩幸は、突然姿を現した百恵を驚いた表情でじっと見つめ返した。
言の時間を 過 ご し た が 、 や が て 浩 幸 は 、
﹁ば、馬場さんじゃないですか?ど、どうして⋮⋮﹂
と驚いた 口 調 で 言 っ た 。
ひ
と
﹁足跡を追っているうちに、先生じゃないかなって思ってました﹂
ほほ え
浩幸はベンチの雪をはらうとハンカチを広げ、隣りに手招きした。百恵は微笑み返すと、
そこに静か に 座 っ た 。
先生⋮⋮﹂
﹁こんなに朝早く、しかもこんな所で⋮⋮、おかしな
百恵が言 っ た 。
310
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痴呆の都
やわ
ひ
と
徐々に和らげていた。
じょじょ
女性だ⋮⋮﹂
﹁そういう馬場さんこそ、こんな時間に、こんな所へ何をしに?変な
二人は顔 を 見 合 わ せ て 微 笑 ん だ 。
﹁何を考えていらっしゃったんですか?﹂
百恵が聞いた。東から差し込む太陽が、冷たい寒気を
﹁さあ⋮ ⋮ 。 何 だ と 思 い ま す か ? ﹂
﹁きっと 、 お 仕 事 の 事 だ と 思 い ま す ﹂
﹁違いま す ね ⋮ ⋮ ﹂
﹁それじ ゃ あ 、 こ の 間 の 報 道 の 事 ? ﹂
﹁違いま す ⋮ ⋮ ﹂
く
だま
そうして二人はいくつかの問答を繰り返しているうち、やがて浩幸は黙り込んだ。
﹁先生、分かりません。教えて下さいよ⋮⋮﹂
そう い
それは、
大樹に対する顔でもない、
すると浩幸は切なそうな表情で、百恵をじっと見つめた。
ましてや仕事の時に見せる顔でもない、今までに見せた事のない百恵に対して初めて作る顔
がた
に相違なかった。百恵はその表情に吸い込まれるような感触を覚えながら、次の瞬間、信じ
難 い彼の言 葉 を 聞 い た の だ っ た 。
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第 2 章(11)雪解け
しずく
ほお
﹁貴方の 事 で す よ │ │ │ ﹂
ひとみ
うる
瞳が潤む
百恵は言葉を失って浩幸を見つめ返した。信じ難い言葉を受け入れた時、百恵の
くちびる
と、キラキラと輝く宝石のような雫が頬を伝った。二人は暫く無言のままでいたが、やがて
せいじゃく
ど
ど がわ
ゆっくり唇が近づき合うと、静かに触れ合った。
あまりに静寂な空間だった。遠くの百々川のせせらぎ、松の間を吹き抜けるそよ風、いや、
どう き
おそ
耳をすませば雪の溶ける音さえ聞こえてくるようだった。百恵は生まれて以来体験したこと
のない激しい動悸に襲われていた。それは浩幸も同じだった。二人はお互いの心臓の音を確
かめ合いながら、長い時間、離れようとはしなかった。
なぐ
突然鳥が羽ばたいた音を合図に、やがて、浩幸の方から唇を離すと静かに立ち上がった。
﹁この間の晩、馬場さんの婚約者と名乗る男性が僕のところに来ました﹂
﹁えっ?新津君が⋮⋮?そ、それで?﹂
﹁そうそう、新津俊介君と言いましたね。貴方を返せと殴られました﹂
﹁⋮⋮⋮⋮、ごめんなさい。私のせい⋮⋮﹂
﹁いや。僕はあの時、貴方を僕のものにしたいという欲望にとらわれていました。いわば
彼のおかげで、僕は貴方の事を愛していることに初めて気がついたのです﹂
312
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痴呆の都
浩幸は遠くを見つめながら、小さな声で唄を歌い始めた。それはオペラ風の曲調で、明ら
かに日本の 曲 で は な か っ た 。
﹁その曲 ⋮ ⋮ 。 私 も 知 っ て る ⋮ ⋮ ﹂
百恵の言葉に、浩幸は驚いた様子で振り向いた。
﹁フランスの歌曲ですよ。こんなマイナーな曲をどうして?﹂
﹁コスモス園にその曲を歌うおじいちゃんがいて、私、とっても気に入って、教えてもらっ
たんです﹂
たかのり
はアルツハイマーだから何も覚えていない。調べるのに随分苦労しました。大学時代フラン
ずいぶん
﹁三井隆徳さんですか?﹂
うなず
頷いた。
百恵は
﹁なーんだ、僕と同じだ。僕もとても気に入って、いろいろ聞こうとしたんですけど、彼
ス語を少しかじりましたので、フランスの唄であることまでは分かったのですが、それから
が大変でし た ⋮ ⋮ ﹂
﹁フラン ス の 曲 だ っ た の で す ね ﹂
﹁ヴィクトル=ユゴーの詩で、ラロという作曲家の唄でした﹂
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第 2 章(11)雪解け
ささ
今、貴方に捧げます
あなた
どうか受けとめてください!
愛しい人よ│││
いと
尽きない恋心と心の影とを
数え切れない愛の約束を
芳しさであったり⋮⋮
かぐわ
音楽であったり、情熱であったり
誰かに何かを与えてくれる
そこでは生命の旋律が
せんりつ
そう言うと、浩幸は再び遠くを見つめて原語で歌い出すと、何小節目ほどからは、百恵も
一緒に口ず さ み は じ め た 。
Puisqu'ici-bas toute ame
Donne a quelqu'un
Sa musique, sa flamme,
Ou son parfum;
Recois mes voeux sans nombre,
O mes amours!
Recois la flamme ou l'ombre
De tout mes jours!
Je te donne a cette heure,
314
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痴呆の都
Penche sur toi,
La chose la meilleure
Que j'ai en moi!
Mon esprit qui sans voile
Vogue au hasard,
Et qui n'a pour etoile
Que ton regard!
Recois donc ma pensee,
Triste d'ailleurs,
Qui, comme une rosee,
T'arrive en pleurs!
Mes transports pleins d'ivresses,
そ
こうして貴方に寄り添いながら
そう
僕の持っている全ての中で
最も素晴らしいものを貴方にあげよう!
うなばら
包むものもないこの心は
とても頼りなく海原を進む
みちしるべ
道標となる星は
ひとみ
貴方の瞳だけなのだから
僕の想いを受け取ってください
あさつゆ
今まで、この心はただ悲しくて
たど
朝露のように涙にむせび
やっと貴方に辿りついたのだから!
うたが
ただひとつの疑いもない
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315
第 2 章(11)雪解け
Pur de soupcons,
Et toutes les caresses
De mes chansons!
よ いん
ちゅう
あい ぶ
とうすい
宙に舞うようなこの陶酔
この歌を、この愛撫を
僕は貴方に捧げよう!
︵ユゴー詩/ラロ曲﹃
余韻を残して百恵が聞いた。
二人が歌 い 終 わ る と 、 暫 く の
﹁いい曲ですね。いったいどういう意味なんですか?﹂
ひ みつ
﹁それは ⋮ ⋮ ﹂
浩幸は言 葉 を 止 め る と 、 や が て 、
﹄より︶
Puisqu'ici bas
秘密です⋮⋮﹂
﹁
おごそ
と呟いた。そして、百恵と向き合いに立つと、厳かに左手の黒い手袋をはずした。見れば
薬指にビーズの指輪がはめてある。それに気づいた百恵は、自分も左手の白い手袋をはずし
て見せると、同じく薬指にはめてあった同じ指輪を見せた。
﹁これも 偶 然 ? ﹂
316
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痴呆の都
百恵が言 っ た 。 浩 幸 は 苦 笑 し た 。
﹁ずいぶんと待たせてしまいましたね。心変わりはありませんか?﹂
浩幸が言った。そして左手の指輪をもう一度百恵に見せると、
あわ
﹁これが二十年前の僕の答えです。こんな僕でよろしければですがね⋮⋮﹂
は
と言ったまま、恥ずかしそうに背を向けた。百恵はその背中にすり寄って顔をうずめた。
慌ただしく動きだしたところ│││。二人はいつまで
下界は出 勤 ラ ッ シ ュ の 車 や 学 生 達 が
も動かずに い た 。
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第 2 章(12)危険因子
︵十二︶危険因子
あわ
わずら
新年度が慌ただしくスタートした山口脳神経外科医院では、新たに新卒者の看護士が加わ
と まど
り、一段と若返り、活気も増した。中でも最年少として勤めはじめた林美幸は、脳神経を患
う
う患者達の前で、その戸惑いを隠せない様子だった。新卒看護士の初任教育を任された西園
は、若い女性達を前にして、何やら浮かれ気分でその業務にあたるのであった。
ういうい
﹁西園先 生 、 や け に 嬉 し そ う で す ね ﹂
看護士長 が 冷 や か す と 、
初々しいですよ、あなたと違って!﹂
﹁
い つ
おだ
その高笑いが院長室にまで流れていった。その笑い声を聞きながら、何時になく穏やかな
すき ま
浩幸も、仕事の手を休めて立ち上がると、新任教育の行われている現場に足を運んで、戸の
隙間から我が娘の様子をかいま見るのであった。産まれたばかりの美幸は、両手の中におさ
いのち
まってしまうほどの小さな生命であった。それが立派に成長して、看護の道を歩み始めたの
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痴呆の都
む じょう
ちが
ざま
え しゃく
である。親としては無上の喜びに違いなかったが、実の父を名乗れないもどかしさは大きな
苦しみとなっていた。廊下ですれ違い様に会釈をする美幸の姿を見るとき、親として、また
にわか
くも
わき
院長として、彼女に対して自分にできることなら何でもしようと思うのである。
﹁お母さ ん は 元 気 で す か ? ﹂
ある時そう聞いた美幸の表情が俄に曇ったかと思うと、何も答えず脇を通り過ぎた。首を
傾げた浩幸だったが、美津子の事を聞くことはそれ以来しなかった。
のち
入ってきた こ と が あ る 。
おうへい
後の給与支給日翌日の朝の事である。美幸が院長室の扉をノックして突然
それから少し
﹁どうし ま し た ? ﹂
浩幸が言 う と 、
﹁これっ ぱ か で す か ? ﹂
美幸は給与明細書の入った袋をかざして横柄に言った。突然の娘の訪問とその言いぐさに
驚いた浩幸 は 、
﹁不満で す か ? ﹂
あず
む ぞう さ
預かったという手紙をデスクの上に無造作に置いた。開けば家
と答える と 、 美 幸 は 母 か ら
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319
第 2 章(12)危険因子
る
る しる
なつ
は たん
せい そ
庭の事情を縷々記した、懐かしい美津子の清楚な文字が並んでいた。読み進めるうちに浩幸
は目を細めた。そのくだりは家庭破綻の原因を、実父である浩幸に責任を追及する形で、月
五十万の給与を要求する内容がしたためられていたのだ。
﹁林君はこの手紙の内容を知っているのですか?﹂
美幸は首 を 横 に 振 っ た 。
﹁それではお母さんに伝えて下さい。いずれこうなるように考えますが、今は無理ですと。
林君も一日も早く一人前の仕事ができるよう努力して下さい﹂
それだけ 言 う と 、
﹁さあ、就業時間が始まっています。仕事に戻りなさい﹂
と まど
美幸は少し戸惑った後、
﹁院長は、昔、うちの母と何があったのですか?﹂
うら
恨んでいるようなので聞いてみただけです﹂
と、真剣 な 表 情 で 聞 い た の だ っ た 。
﹁どうし て で す か ? ﹂
﹁別に⋮ ⋮ 。 た だ 、 母 は 院 長 の 事 を
﹁恨む⋮ ⋮ ? ど う し て ? ﹂
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痴呆の都
﹁私も分からないから聞いたんです。答えたくないなら別に言わなくてもいいですけど﹂
美幸はぶっきらぼうにそう言うと、院長室を出ていった。その後ろ姿を見ながら、真実を
つい
知ってしまうのも時間の問題であるように浩幸には思えた。
よ
そんな四月の佳き日、七瀬が遂に結婚した。相手は見合いで知り合った五歳年上の農業を
ひ ろうえん
たか さご
営む男性で、その披露宴に呼ばれた百恵は、友人代表でスピーチもした。高砂に座る白いウェ
せい そ
ディングドレスの花嫁は、普段の彼女とは別人の、清楚でおしとやかな美しさがまぶしかっ
た。
き れい
綺麗よ。私、感動しちゃった⋮⋮﹂
﹁光ッチ 、 お め で と う ! と っ て も
しゃく
ひとみ
お酌に立った百恵の瞳には涙がたまっていた。
はなむこ
た なかけい じ
みつ き
﹁モモ、スピーチ、とっても良かったわよ!なあに?また泣いてるの?まったくモモは泣
き虫なんだ か ら ! ﹂
花婿を紹介した。名を田中啓治といい、彼は百恵に﹁光輝がいつもお
そう言う と 、 七 瀬 は
世話になっています﹂と落ち着いた声で言うと、静かに微笑んだ。百恵も﹁こちらこそよろ
しくお願いします﹂と答えると、彼のコップにビールを注いだ。
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第 2 章(12)危険因子
﹁とっても優しそうな人⋮⋮、安心したわ⋮⋮﹂
﹁次はいよいよモモの番よ!どう?山口先生とはうまくいってる?﹂
ひた
百恵は顔を真っ赤にすると、周囲を見渡した。浩幸は出席していないものの、コスモス園
関係者が大勢来ているのである。百恵は七瀬の口をおさえた。しかし、あまりに幸せそうな
七瀬を見ていたせいか、それとも浮かれた会場の雰囲気に浸っていたせいか、祝いの席でも
く
あるし、先日のがりょう山での出来事を心にしまっておくことができなくなって、﹁絶対内
緒よ!﹂を何度も繰り返すと、七瀬の耳元で、
﹁キスし ち ゃ っ た ⋮ ⋮ ﹂
ささや
囁いた。
と
﹁ええっ!﹂と声をあげた花嫁に、会場の視線が集まった。しゅんとなった七瀬は﹁恥ず
かしい事させないでよ!﹂と小声で言った。
﹁それじゃ、なになに?もしかして、もしかするかも⋮⋮?﹂
うなず
は
百恵が頷くと、﹁結婚するかも知れない⋮⋮﹂と恥ずかしそうに言った。
﹁嬉しい事って重なるものね!また、後でゆっくり聞かせて﹂
次々に訪れるお酌の人に押されて、﹁絶対内緒よ!﹂と念を押した百恵は高砂の席からは
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痴呆の都
じかれて、席に戻るより仕方がなかった。
とな
い
す
よ
なかむつ
酔い、足下もおぼつかない様子で
そんな百恵のもとに須崎理事長がお酌に訪れた。かなり
百恵の隣りに来ると、椅子に座り込んで長々と話を始めたのであった。
仲睦
﹁おやおや、誰かと思えば、山口先生の愛人じゃないですか。どうですか?その後、
まじくやっ て ま す か ね ? ﹂
すみ
で、重箱の隅をつつくような事まで命令してくる。受け入れ側はたまったもんじゃないよ!
じゅうばこ
百恵は軽 く 笑 っ て あ し ら っ た 。
ないじょう
内情を知らないくせに、一から十ま
﹁あのワンマン先生にも困ったものだ。コスモス園の
しろうときょうげん
いや
こういうの を
〝素人狂言〟と言うんだよね。そうだ、愛人のあなたから言ってもらえないかね﹂
ながら百恵 に ビ ー ル を 勧 め た 。
すす
須崎は﹁こりゃ失礼、つい口が滑った。祝いの席だ、許してね﹂と嫌らしい笑みを浮かべ
﹁けっこうです。私、お酒、飲めませんから﹂
﹁なんだい?君は上司の酒が飲めないのかね?﹂
ふく
しゃく
含むと、須崎の酌を受けた。
百恵は自分のコップのビールを一口だけ
の
載った写真、理事長がお撮りになったんじゃないんですか?﹂
﹁この間 、 雑 誌 に
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第 2 章(12)危険因子
ま
ね
﹁なんだい?君は、私がストーカーみたいな真似をして、雑誌社に情報をたれ込んだとで
ば か ば か
も言うのかい?ふん、馬鹿馬鹿しい!﹂
﹁済んだ事ですので、もう、どうでもいいですけど⋮⋮﹂
そこ
損 ねた様子で、
須崎はだ い ぶ 気 分 を
﹁まあ、私にあまり口答えをして、統合前に首にならんようにすることだ﹂
と言った 。
にら
け しょうしつ
睨んで、化 粧 室へと席を立った。
百恵は須 崎 を
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痴呆の都
けったく
結託
︵十三︶
ぶ あいそう
須崎理事長のデスクの電話が鳴った。それを無愛想に取った須崎は、﹁はあ、はあ﹂と何
く
度も繰り返しながら、﹁どちらさん?﹂と大きな声で言った。
﹁林弁護士事務所?弁護士さんが何の用です?﹂
しばらく会話をしているうちに、須崎は小声になっていった。
﹁この間のスキャンダル記事を雑誌社に持ち込んだのはあなたですね?隠してもダメです。
ちゃんと裏は取ってある。なあに、心配はいりませんよ。私も山口医院の院長先生には大き
な借りがある者で⋮⋮。ちょっとお会いしてお話がしたいのですが、お時間をいただけませ
んか?けっして悪いようにはしませんよ﹂
﹁何の話 で す か ? ﹂
くわ
詳しくはお会いしたときに話しますよ﹂
﹁一緒に借りを返そうと言っているんです。
そうしてその日の夜に会う約束をした須崎は、考え事をしたままの姿勢で電話を切ったの
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第 2 章(13)結託
だった。
にな
その日の百恵は遅番だった。新婚旅行中の七瀬の代わりの業務も担い、合わせてトメじい
もんちゃく
さんの部屋でひと悶着あったから、一日中息もつかせないほどの忙しさだった。
おおそうどう
出勤一番、後輩の﹁モモ先輩、助けて!﹂という言葉に連れられてトメさんの部屋へ行っ
うわ き
てみれば、見舞いに来た奥さんと大騒動になっていた。
めぐみ
なぐ
浮気しやがって!いったい昨日の晩はどこへ行っていたんだ!﹂
﹁お前! 俺 の 知 ら な い 間 に
トメさんは叫ぶが早いか奥さんの恵さんに殴りかかったのである。
﹁あんた!気を確かにしてよ!あたしはどこへも行ってやしないよ!﹂
﹁じゃあ、あの男は誰なんだ?お前、手を引かれて出ていったじゃないか!﹂
近年、トメさんの痴呆は悪化していた。介護のたびに﹁どうも、うちの妻が浮気している
もうそう
らしい﹂とぼやくのを何度も口ずさむようになっていたのである。どうやら夜中に妄想にと
らわれ、現実との区別がつかなくなっているらしいのだ。
﹁トメさん!奥さんがそんな事するはずがないじゃない!昨日も夜遅くまでトメさんの世
話をしていたのよ。私、知ってるのよ!﹂
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痴呆の都
とっ さ
おそ
咄嗟にトメじいさんの身体をおさえて暴力を止めた。
百恵は
﹁やい!離せ!これは夫婦の問題だ!あんたは関係ないだろ!﹂
か
トメじいさんは力任せに百恵を押し倒すと、再び妻に襲いかかった。慌てて駆け付けた男
性介護スタッフがトメじいさんをおさえたが、
﹁貴様が 浮 気 相 手 だ な ! ﹂
ひょうてき
標的になってしまった。てんやわんやの大騒ぎの末、
と、 今 度 は そ の 男 性 介 護 ス タ ッ フ が
ふくよう
ようやく疲れておとなしくなったトメさんは、看護士の持ってきた精神安定剤を服用して、
やがて静か に 眠 り に つ い た の で あ る 。
かた
つ
げん かく
妻の恵は疲れ果てたように百恵に相談を持ちかけた。入所相談室に移動した二人は、重い
空気の中で 話 を 進 め た 。
ね
すけ べ
え
堅い職業に就いていましたから、昔から表面上は厳格な人でした。
﹁なんせ警察なんてお
でも、過去に何度か浮気をしたんですよ。本人は、私は知らないと思っていましたけど、全
部お見通し。根は助平衛なんですよ⋮⋮﹂
恵は大き な た め 息 を つ い た 。
しり
さわ
尻を触られました!﹂
﹁やっぱ り ! 私 も よ く お
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第 2 章(13)結託
しゃべ
てんかん
思いつきで喋った言葉は、重い空気をいっぺんに転換させていた。それを肌で感じると、
うった
にく
訴えられるところですけど、なんだかトメさん、憎めなくて⋮⋮﹂
﹁本来な ら セ ク ハ ラ で
かいふく
あどけない百恵の言葉に、恵は笑い出した。
らっかんてき
楽観的なんですね﹂
﹁馬場さ ん て 、
﹁よく言われます。楽観的じゃないと、こんな仕事やってられないんです。重度のアルツ
はか
ハイマー病の介護者だって、きっと良くなるって、私、信じてるんです。医学的に快復の見
込みがないといったって、それは医学上の問題であり、人間の可能性ってそんなものじゃ測
はげ
れないって思います。きっとトメさんも良くなりますよ!﹂
もうそう
励ましは、恵の心を明るくしていた。
精一杯の
﹁そうでしょうか?なんか馬場さんと話をしていると、本当にそうなるような気がします。
きっと、あれでしょうね。自分がしてきた浮気が、ボケた今になって妄想となって出てきた
んでしょう か ね ? ﹂
いい事じゃないですか!どうか、お気を落とさずに。私も介護の立場からしか関われません
﹁そうかも知れませんね。でも、もしそうだとしたら、昔の事を思い出したってことでしょ?
が、絶対良くなるって信じて接してますから!﹂
328
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痴呆の都
じ せき
ねん
か
自責の念に駆られていた。それは、トメさんの痴呆が
やがて恵 を 見 送 っ た 百 恵 は 、 小 さ な
かくしょう
良くなる確証などないくせに、まるで良くなると断言した口調で話をしてしまった事である。
つか
しかし希望のある介護と、ない介護とでは、前者の方がより価値があると信じて疑わなかっ
た。事実はどうあれ、介護に疲れ果て、暗い気持ちで生きるより、少しでも希望を見いだし
て、楽観的に生きる方が幸せであろうと思うのである。当事者の苦労も知りつつ、そう生き
る介護人生の中に、事実を超える人間の真実があると思うのだ。
つぶや
ほか
か
ほ
名刺を交わし
めい し
呟きながら、
いつまでも彼女の後ろ姿を見送った。
百恵は、﹁間違いない、間違いない﹂と心で
たんとうちょくにゅう
ちょうどその頃、長野市街のとある料亭で、二人の男が会っていた。二人は
みつだん
合うと、酒と料理を前にして、小声で密談を始めた。
うら
はやしたけし
単刀 直 入に申し上げます。お呼び立てしたのは他でもない。山口医院の院長を一緒に干
﹁
いきさつ
そうという相談です。どういう経緯があるか存じませんが、須崎さん、あなたもあの先生に
は恨みがある様子だ﹂
林武に違いない。
男は美津 子 の 現 夫 で あ る
﹁実は私も同じ口でして、以前担当した医療裁判で二度までも、あの山口による反証で敗
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第 2 章(13)結託
おとしい
訴に陥れられました。まあ、恨みの理由などどうでもいい。ここは手を組んで一緒に恨みを
晴らそうという相談ですよ。いかがでしょうかね?﹂
さかずき
須崎は林 と 名 乗 る 男 に 目 を 細 め た 。
おもしろ
みょうあん
面白そうな話だが、何か妙案でも?﹂
﹁
いっこん
﹁まあ、一献やりながら、ゆっくり話しましょう﹂
ぶ
き
み
武は須崎の盃に酒を注いだ。それを飲み干した須崎は、盃を武に返し、酒を注いだ。
﹁あなたの恨みも相当のようだ。商談成立というわけですな⋮⋮﹂
おか
さぐ
くち ぶ
しばら
腹を探り合うような口振りで、暫く話し込んでいた
はら
武はそういうと注がれた酒を飲み干した。二人は不気味な笑い声をあげた。
さく
策を﹂
﹁聞かせ て も ら い ま し ょ う 、 そ の
﹁まあまあ、そう慌てず。まずは料理でも食べましょう﹂
やつ
二人は世 間 話 な ど し な が ら 、 お 互 い の
が、やがて 武 が 本 題 に 入 り 始 め た 。
﹁ここ数ヶ月中に奴は医療ミスを犯す﹂
﹁ほう⋮⋮、どういうことですかな?﹂
ひそ
かく
何を隠そう、
﹁私の娘が看護士としてあの医院に潜んでいる。実は血のつながらない娘です。
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痴呆の都
は
そろ
ゆ かい
奴の実の娘だ。恥ずかしい話ですが、私の妻は奴の前妻でして⋮⋮﹂
揃ってお恨みとは、愉快、愉快⋮⋮﹂
﹁これは こ れ は 、 夫 婦
﹁娘は幼い頃から手なずけておりますから、私や妻の言うことなら何でも聞きます﹂
けいさい
﹁ほう⋮ ⋮ ﹂
﹁医療ミスを犯したら、直ちに私はその被害家族に取り込んで、あらゆるマスコミを使っ
さわ
て騒ぎ立てます。あなたにしてほしい事はその後です﹂
ほど
程のスキャンダル記事が掲載された雑誌を広げると、
武はさき
なか
あ
ぐ あい
﹁医療ミスで世間が騒いでいる中へ、これと同等のものを雑誌社にたれ込んで頂きたい。
さ
奴に追い討ちをかけるのです。なあに、でっちあげでもいい。
〝 医 療 ミ ス で 騒 が れ て い る最
中、反省の色ひとつ見せずに逢い引き〟という具合に、奴の信用をガタ落ちにさせるんです。
も
この間のスキャンダル騒ぎもあるし、きっと奴は、二度と立ち上がれないでしょう﹂
須崎はに ん ま り 笑 っ た 。
漏れる明かりは、夜遅くまで消えなかった。
その日、 そ の 料 亭 の 一 室 か ら
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331
第 2 章(14)悶々とした日々
もんもん
悶々とした日々
︵十四︶
美幸の心 は 晴 れ な か っ た 。
てんてき
しつよう
ふ
このところ仕事が終わって家に帰れば、医院の様子を執拗に聞き出す母美津子の態度に不
しん
審を感じていたのだ。入院患者は何人いて、そのうち植物状態の患者はいるのかとか、その
ことこま
患者達の治療法はどうなのか、あるいは点滴の薬品は何を使っているのかなど、およそ一般
きょう み
的には知り得ない情報を事細かに質問するのである。
うすうすかん
﹁お母さんも昔、薬剤師をやっていたからとても興味があるの﹂
薄々勘づき始めていた。
とは立て前で、その本心が別のところにあることは美幸も
﹁お母さん、あの院長と昔、何があったの?﹂
ひょうへん
たまりかねてそう聞いたとき、美津子は豹変した。
﹁あんなひどいこと、あなたにも言えない!今、生きているのも不思議なくらいよ!お願
いだから、あんなひどいことを思い出させてお母さんを苦しめないで!お母さんはあなただ
332
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痴呆の都
けが希望なのよ⋮⋮。だから、あなたはお母さんの言う通りにしてくれるだけでいいの﹂
あく ま
ちまた
美津子は涙を流しながら美幸を抱きしめた。
おに
﹁そうだぞ、美幸。あの院長は悪魔だ。巷の評判を聞いても分かるだろう。昔、母さんは、
ふくしゅう
あの院長に殺されかけた。おまえはその復讐のためにあの医者に行った事を忘れるな!﹂
武が話に 割 り 込 ん で き て そ う 言 っ た 。
﹁復讐って、私に何をしろと言うのよ!﹂
美幸の言葉に、はじけるようにピンタが飛んだ。
なぐ
﹁殴らないでよ!﹂
﹁いちい ち 口 答 え す る な ! ﹂
か わいそう
﹁あなた、やめてよ。美幸が可哀想よ⋮⋮﹂
美津子は 再 び 美 幸 を 抱 き し め た 。
﹁美幸、よく聞いて。あの院長は医者の仮面をかぶった鬼なの。あの人のせいで人生をめちゃ
くちゃにされた人は母さんや父さんだけじゃない。五万といるの!そして、その不幸な人達
の姿を、私や父さんはいやと言うほど見せつけられてきたの。あの人に対する復讐は正義な
のよ!それ を 忘 れ な い で ⋮ ⋮ ﹂
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333
第 2 章(14)悶々とした日々
きょくたん
うなず
﹁お母さ ん ⋮ ⋮ ﹂
﹁時間がないんだ。正義のために、父さんと母さんと一緒に戦ってくれるな?﹂
よう い
極端に優しい口調の武に、美幸は頷いた。美津子は更に強く美幸を抱きしめた。そして、
きん し かんざい
﹁美幸、よく聞いて。あの先生に医療ミスをさせるの﹂
ぼうりゃく
と、その謀略を話し始めたのだった。
とう よ
こ きゅう ふ ぜん
点滴に筋弛緩剤を混入させることが、美幸にできそうな最も容易な手段と考えた美津子と
すき
武は、点滴係が帰った隙に、植物状態の患者用の点滴に、それを混入させることを命じた。
筋弛緩剤とは筋肉の動きを弱める薬で、投与すると呼 吸 不全を引き起こし、死に至らしめ
る日本では毒薬に指定されているものである。﹁あなたのやる事はそれだけよ﹂と、美津子
はまるで呼吸をするくらい自然に言った。
くつじょく
﹁後は知らぬ顔をして、いつものように仕事をしていればいいの﹂
﹁お母さ ん 、 で も 、 そ れ っ て ⋮ ⋮ ﹂
そうはく
美幸は蒼白になった。
屈辱を理解してくれた時で⋮⋮﹂
﹁なにも明日しろなんて言わないわ。母さんの
つ
﹁でも、できるだけ早くにな﹂と武が言葉を次いだ。
334
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痴呆の都
よ めい
あんらく し
余命わずかな植物人間だ。安楽死という考
﹁なあに、心配はいらん。死ぬといったって、
そな
え方もある。それに点滴ができる看護士は知識、技術、経験等が備わっている能力ある者に
しかできないはずだから、お前みたいなヒヨコにはできない。筋弛緩剤を入れた後は、知ら
かくさく
だま
さば
ぬ存ぜぬを通すだけだ。万が一ばれたって、お前は法律上未成年者だ。母さんや父さんが今
やつ
言った画策さえ黙っていれば、情状酌量で法の裁きも軽くて済む。そんな事より、何人もの
ろ けん
人間を苦しめてきた奴が裁かれる事の方が重要なのだよ。分かってくれるね﹂
しょぎょう
ことを。だからこれほどまでに危険な計画を実の娘に託せたのである。
たく
所行が露顕したにせよ、浩幸は彼女をかばう
しかし美津子には分かっていた。仮に美幸の
く のう
苦 悩 の日々は続いた│││。
美幸の
しゅくごう
一方、太一は高校を卒業すると、受験した大学にことごとく失敗して、四月からは浪人生
おう か
むく
を謳歌していた。もっとも美幸にうつつを抜かせて、ろくに勉強もしなかったから当然の報
とら
いとは本人が一番知っていることで、百恵に言わせれば﹁浪人は馬場家の宿業﹂と、極めて
あ
楽観的な捉え方をしていた。一方、看護士として働き出した美幸は交代番などで忙しくなっ
たが、彼女の時間に合わせた生活をしていた太一に、不自由は感じなかった。美幸の空いた
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335
第 2 章(14)悶々とした日々
時間に合わせて、昼となく、夜となく、デートを重ねていたのである。
うれ
ところが四月も半ばを過ぎた頃から、太一は美幸の変化を感じていた。とあるファミリー
レストラン で 食 事 を し な が ら 、
﹁どうしたの?最近元気がないように見えるけど、何かあった?﹂
と聞いた。美幸は注文のトーストを半分だけ食べて手を置くと、
﹁ねえ、太一のお姉さん、うちの院長と恋人同士?﹂
しんみょう
神妙な顔付きで言った。
と、
﹁さあ⋮⋮?でも以前付き合っていた人とも別れたって言ってたし、それに最近妙に嬉し
そうなんだ。もしかしたら、そういうこともあるかもね。でも、どうして?﹂
太一はコーラを飲みながら不思議そうに言った。
あね き
﹁私、太一のお姉さん、あの院長とは別れた方がいいと思うのよ。とっても評判が悪い先
生だし、昔は悪い事をたくさんやっていたんだって﹂
ていう印象 し か な い け ど ⋮ ⋮ ﹂
﹁信じられないな。姉貴の話を聞いている限りでは、優しくて、かなりやり手の先生だっ
だま
﹁騙されているんだと思う。早く別れさせてあげた方が絶対いい。太一のお姉さんが不幸
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痴呆の都
になったら 、 太 一 も 悲 し い で し ょ ? ﹂
﹁そりゃ、たった一人の姉貴だからね。俺にとっては母親みたいなところもあるんだ﹂
だいじょう ぶ
ば
か
﹁それじゃ、なおさら⋮⋮。私、太一の悲しむ顔も見たくないんだよ⋮⋮﹂
うつむ
いっしょう
ふ
俯いた。太一は一笑に伏すと、
美幸は辛 そ う な 表 情 で
﹁大 丈 夫だよ!姉貴だって馬鹿じゃないし、でも、もしあの院長先生の事が好きなら、好
な ぜ
きな人と一緒になった方が姉貴にとっても幸せに違いないよ⋮⋮。でも、美幸が何故そんな
心配をする の ⋮ ⋮ ? ﹂
つぶや
美幸はどぎまぎしながら、﹁なんでもない⋮⋮﹂と呟いた│││。
その次に二人が会ったのは、五日後の同じファミレスであった。美幸の表情は一段と暗く、
うわ
太一の言葉も半分上の空で聞いている様子だった。
﹁ねえ、どうしたのさ?何か悩みがあるなら何でも話してよ﹂
美幸は何も答えず、精一杯の笑顔を作るだけだった。やがて、
﹁ねえ、 太 一 ⋮ ⋮ ﹂
思い詰め た 声 は か す れ て い た 。
はん ざい
おか
犯 罪 を 犯 し た と し て も ⋮⋮、 太 一 は、 私 の こ と、
﹁ も し ⋮⋮、 も し も よ ⋮⋮、 も し、 私 が
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第 2 章(14)悶々とした日々
好きでいて く れ る ? ⋮ ⋮ ﹂
ひ そう
美幸は、窓の外に見える変わりゆく信号機の色を見つめながらそう言った。太一はドキリ
としながら、その悲愴な表情を見つめた。
つき な
てき
﹁どうしたのさ?いったい何をしようとしているの?﹂
美幸は何も答えなかった。しかし太一はその答えを追求することはせず、やがて一笑する
と、
月並みな言葉だけど、世界中の人間が敵になろうとも、俺は美幸
﹁ 当 た り 前 じ ゃ な い か。
の味方だよ ﹂
と答えた。美幸は信号機から太一に視線を移すと、とても小さな声で﹁ありがとう⋮⋮﹂
と言った。 そ し て 、
む じゃ き
ほお
﹁なに神妙になってんのよ!私が犯罪犯すわけないじゃない!﹂
と、無邪気に目の前のポテトを頬ばり始めたのだった。
しかし二人はその後、あの悪夢の事件が起こるまで、会うことはなかった。
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痴呆の都
あらし
よ
嵐の前の恋の酔いしれ
︵十五︶
たん ご
せっ く
五月五日は百恵の誕生日である。端午の節句であるこの日、男の子として産まれるはずの
おと な たち
百恵は、オチンチンをどこかに忘れてきた。男の名前しか考えていなかった馬場家の大人達
まぎ
は、苦し紛れに浮かんだ〝モモエ〟という名をその子に付けた。以来、〝ババモモエ〟という、
に
4 4 4
女の子には似つかわしくない自分の名前にコンプレックスを持ちながら、今までずっと生き
てきた││ │ 。
高尚な歌曲が流れる店内、食べ慣れないフランス料理を前に、百恵はその話をする自分がと
こうしょう
人に話せば必ずうけるその話が、浩幸の前ではまるでちぐはぐなつまらない話に終わった。
てもバカバカしく思え、途中まで話すと、
﹁ところで先生のお誕生日はいつですか?﹂
と聞いた 。
たなばた
七夕の日⋮⋮。なんだか誕生日まで似ているので驚いているんです﹂
﹁僕は七 月 七 日 で す 。
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第 2 章(15)嵐の前の恋の酔いしれ
│││その日、百恵の誕生日と知った浩幸は、早番の百恵にそっと声をかけたのだった。
﹁馬場さん、お誕生日おめでとう。今晩、もし、よろしければ、食事にでも行きませんか?
僕からのささやかな誕生日プレゼントです﹂
誘われた百恵は一も二もなく﹁はい!﹂と返事をしたのだ│││。
こうして入った長野市内のホテル内にあるフランス料理の店であったが、いざ二人だけの
さら
たび
空間ができあがると、歌曲が流れる高尚な雰囲気も助けて、なかなか話す言葉も見つからな
かったのである。ただ、フォークとナイフが皿に当たる音だけが響いて、その度に二人は照
きんちょう
れながら食 事 を 進 め た の で あ っ た 。
緊張する店はやめればよかったですね。僕もどうも苦手だ。貴方に素敵
﹁やっぱりこんな
な夜の思い出をプレゼントをしようと思ったのですが、僕のミステイクでした⋮⋮﹂
浩幸は照 れ な が ら 言 っ た 。
うれ
﹁いいえ⋮⋮。とっても嬉しいの。私、今日こうして先生と緊張して食べたフランス料理
の事、多分、一生忘れません。ありがとう⋮⋮﹂
百恵の言 葉 に 浩 幸 は 微 笑 ん だ 。
﹁この食事が済んだら、パブにでも行きましょう。雰囲気を変えて、飲み直しです﹂
340
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痴呆の都
百恵は嬉しそうに﹁はい!﹂と答えた。
ふく
すぐ
﹁私、先生の事、知っているようで、実は何にも知らないんですね⋮⋮﹂
パブに場所を変えた二人は、カウンター席に座ってグラスを傾けた。そしてウーロン茶を
飲みながら百恵がそう言った。浩幸はウイスキーを含みながら静かに笑った。
優
﹁それは僕も同じです。貴方の名前が馬場百恵という他は、誕生日が今日五月五日で、
れた介護スタッフで⋮⋮、それ以外は何も知りません⋮⋮。それなのに僕たちは結婚をしよ
うとしているんですよ?信じられますか?﹂
きな花は何ですか?好きな歌は何ですか?﹂
浩幸はお か し そ う に 笑 っ た 。
﹁もっと先生の事を教えてください。好きな食べ物は何ですか?好きな色は何ですか?好
こんいんとど
少しずつお互いを知っ
﹁そんな一度に聞かれても答えられませんよ。いいじゃないですか、
ていけば。そんな事より、僕は貴方の事の方が心配なんです。結婚なんてものは変な話、役
そくばく
所に婚姻届けを出しさえすれば成立する。しかし、実際の生活はそういう訳にはいかないし、
法律的な束縛も発生してきます。貴方が僕と結婚することが、本当に幸せなのかどうか、僕
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341
第 2 章(15)嵐の前の恋の酔いしれ
はそれが気掛かりで仕方がないんです。大樹のこともあるし、美幸のこともある⋮⋮。本当
に僕でいい の で す か ? ﹂
﹁私、本当に全然平気なんです。浩幸さんさえいれば、他に望むものなんてありません﹂
あま ず
甘酸っぱくて、彼女の
百恵は浩幸の事をはじめて〝浩幸さん〟と呼んだ。その感覚は妙に
きょく ぶ
下半身の極部を熱くしていた。
うなず
﹁美幸の方はともかくとして、大樹とは一緒に生活することになります。もし、仮に大樹
が貴方のことを嫌いだと言っても、貴方は大樹の母親になってくれますか?﹂
百恵は浩 幸 を 見 つ め て 頷 い た 。
﹁仮に僕と貴方の間に子どもができたとして、貴方は実の子でない大樹を、自分の子ども
と全く平等 に 育 て ら れ ま す か ? ﹂
再び百恵 は 頷 い た 。
﹁すみません。いじわるな質問ばかりして⋮⋮。でも、大樹は僕の命なんです。それだけ
は分かって 下 さ い ﹂
﹁知っているつもりです。コンビニに来ていた先生の、大樹君を見つめる表情はとても温
かかった。私もその温かさに包まれたいと思ってました。でもこれからは、先生を見つめる
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痴呆の都
たばこ
のと同じ目で、大樹君を見つめようと思います。私、できるような気がするんです﹂
あいさつ
うかが
煙草を一本取り出すと、その先端に火をつけた。
浩幸は何 も 言 わ ず に
いまさら
うば
﹁近いうちに、貴方のご両親にもご挨拶に伺わなければいけませんね﹂
ひとすじ
けむり
は
は
うつむ
一筋の白い煙が吐き出されると、百恵は恥ずかしそうに俯いた。
浩幸の口 か ら
﹁なんだか夢のよう⋮⋮。私、本当に先生と結婚するのかしら⋮⋮?﹂
まか
今更心変わりは困りますよ。僕の心を奪っておいて⋮⋮。それより式はどう
﹁ お や お や、
ひか
しましょうか?僕は三度目ですから、出来ることなら控えたいと思っているのですが、貴方
は初婚です。そういうわけにもいかないでしょう?﹂
い こう
意向にお任せします﹂
﹁形式なんか、あまり重要ではないと思ってますから、全て先生の
はなよめすがた
﹁そういうわけにもいきませんよ。特に貴方のご両親は、一人娘の花嫁姿をどれほど楽し
ちか ま
みにしていることか⋮⋮。それに新婚旅行にも行きましょう。どこがいいですか?﹂
﹁あまりお金のかからない近間でいいです﹂
﹁まさか高山温泉というわけにはいかないでしょう!﹂
浩幸は煙草をもみ消しながら大笑いした。
たい ざい
がよ
滞在して、ルーブル美術館通いなん
﹁ フ ラ ン ス な ん か い か が で す か? パ リ に 一 週 間 く ら い
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343
第 2 章(15)嵐の前の恋の酔いしれ
ていいと思いませんか?それとも絵は嫌いですか?﹂
﹁こう見えて私、大学時代は絵画サークルで、絵の勉強をやったんですよ!﹂
﹁ほう⋮⋮?誰の絵が好きなんですか?ゴッホでしょ。でなければモネかセザンヌだ﹂
せんさい
いんしょう は
百恵は驚いた表情で浩幸を見つめると、﹁どうして知ってるんですか?﹂と声をあげた。
き ちが
﹁なんとも貴方らしいじゃないですか。気狂いのような色使いをしたかと思えば、とても
ほ
繊細で、感じたものを感じたままに表現する印 象 派。百恵さんにそっくりです﹂
誉められているんだか、けなされているんだか分かりませんね﹂
﹁なんだ か
くちびる
﹁誉めているんですよ!だって、僕はそんな貴方が好きなんですから﹂
よ
酔いしれて、
百恵はす っ か り 二 人 だ け の 世 界 に
﹁先生⋮⋮、私も少し、お酒をもらっていいですか?﹂
唇の当たっていたところに自分のそれを重ねて、
と言うと、浩幸のグラスを手に取り、彼の
と たん
せ
ほんの少し口に含んだ。そして、含んだ途端に咳き込んだ。
のですか? ﹂
﹁ほらほら、無理をしないで。酔っぱらって、今日の大事な話の内容を忘れたらどうする
百恵は﹁ ご め ん な さ い ﹂ と 言 っ た 。
344
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痴呆の都
﹁ところで式の話の続きですが、時期はいつ頃にしましょうか?﹂
﹁今年はコスモス園との統合で先生もお忙しいでしょ?それが終わって落ち着いてからで
もいいんじ ゃ な い で す か ? ﹂
来年の今頃、
﹁よかった。今年中なんて言われたらどうしようかと思ってました。それじゃ、
そうだ、貴方と僕の誕生日の中間をとって、六月六日というのはいかがですか?﹂
﹁なんか、UFOが飛んできそうですね⋮⋮﹂
﹁??? ⋮ ⋮ ﹂
〝ドラえもん〟の絵描き唄です。大樹君が三歳の時にビデオ借りて一緒に見ていたんじゃ
﹁
ないんですか?浩幸さんは黒澤明作品。私、大樹君から聞いて、全部知ってるんです!﹂
浩幸は笑 い 出 し た 。
図星であった。百恵は顔を真っ赤にしてウーロン茶を飲み干した。
つ ごう
都合がよかった。結婚式が終了したら、そのままそのUFOに乗って、
﹁それじ ゃ ち ょ う ど
宇宙旅行と で も し ゃ れ 込 み ま し ょ う ! ﹂
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ず ぼし
ほ
﹁それで百恵さんは、その黒澤作品を全部見ていたりして⋮⋮﹂
百恵は浩幸の素顔を始めて見ていた。それは、院長としての気取りもない、施設統合の立
345
第 2 章(15)嵐の前の恋の酔いしれ
こうまい
よめ
そ ぼく
む しょう
て役者としての高邁さもない、初めてコンビニで出逢った時の素朴で温かそうな人柄と同じ
にぎ
であった。百恵は、本当にこの人のお嫁さんになるのかと思うと、無性に嬉しくなって涙が
込み上げた 。
てのひら
握っていいですか⋮⋮?﹂
﹁先生、 手 を
百恵は精一杯の勇気をしぼってそう言った。浩幸は照れたように﹁どうぞ⋮⋮﹂と言った。
暫くは、掌を通して、無言のままお互いの体温を感じ合っていると、やがて浩幸の携帯電
しばら
そして二人は掌を重ね合わせると、互い違いに指をはさんで強く握り合った。
話が鳴った 。
﹁失礼⋮ ⋮ ﹂
浩幸はそう言うと、手を離して電話に出た。
﹁ああ、西園さん。こんな時間にどうしました?﹂
くも
そう言った浩幸の表情が、次の瞬間、みるみる曇っていくのが見てとれた。電話を切った
浩幸は、慌 て て 席 を 立 っ た 。
﹁どうし た の で す か ? ﹂
百恵が言 っ た 。
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痴呆の都
けっそう
よう だい
容態が急変
﹁すみません。こんな事をしている場合ではなくなりました。入院患者さんの
したそうで す 。 す ぐ に 戻 り ま し ょ う ! ﹂
浩幸は血相を変えて店を飛び出した。
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第 2 章(16)医療ミス
︵十六︶医療ミス
ようだい
みゃくはく
しんぱくすう
浩幸が容態が悪化したという入院患者の病室に到着したとき、西園と数人の看護スタッフ
がその男性患者の周りを取り囲んでいた。心電図を見れば、明らかに脈拍が乱れ、心拍数も
低下してい る 。
﹁院長⋮ ⋮ ﹂
そうはく
蒼白した顔で彼を見つめた。
浩幸の到 着 に 気 づ い た 西 園 は 、
きゅうせい
こ きゅう ふ ぜん
﹁急性の呼 吸 不全を起こしています。二時間ほど前には何の異常も見られなかったのです
ぶんせき
が、原因が 全 く 分 か り ま せ ん ⋮ ⋮ ﹂
れ以上対処のしようがありません!﹂
たいしょ
﹁血液ガス分析は│││?﹂
ひととお
しょ ち
﹁今、検査中です。一通りの処置はしましたが、回復しません。原因が不明なのです。こ
西園が答 え た 。
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痴呆の都
﹁ご家族 へ の 連 絡 は │ │ │ ? ﹂
す
済 んで い ま す ! ﹂
﹁
そこにい た 一 人 の 看 護 士 が 言 っ た 。
﹁二時間の間に、この患者にした処置は│││?﹂
たん きゅういん
てんてき
﹁はい、痰の吸引と、点滴の交換です﹂
別の看護 士 が 言 っ た 。
﹁第一発 見 者 は │ │ │ ? ﹂
﹁私です。脈拍の異常を見つけ、すぐに西園先生に連絡をとりました﹂
浩幸は周囲を見渡し、点滴に目をとめた。
﹁直ちに点滴を交換しなさい!そして今している点滴の成分分析を急いで!﹂
﹁はい! ﹂
﹁それから現在点滴中の患者のものと、薬剤室全ての点滴を再点検しなさい!﹂
﹁はい! ﹂
﹁今日の 点 滴 係 は │ │ │ ? ﹂
﹁武田さ ん で す ﹂
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349
第 2 章(16)医療ミス
き かんせっかい
﹁すぐに 彼 を 呼 び な さ い ! ﹂
﹁はい! ﹂
すで
つ
﹁これより気管切開オペを行う!直ちに準備して!﹂
や つ
ばや
か
矢継ぎ早に飛び交う浩幸の指示で、病室は大混乱になった。患者は直ちに手術室に運ばれ、
緊急オペが 始 ま っ た 。
りんじゅう
ち のり
はく い
しかし、時は既に遅かった│││。あらゆる手段を尽くしたが、その患者は浩幸の目の前
で死んでい っ た の だ っ た 。
そう
駆け付けた家族に浩幸は一言、﹁ご臨終です⋮⋮﹂と言った。血糊の白衣を着たまま、院
たど
しょう
長室に辿り着くと、そのままソファに倒れるように座った。間もなく西園がやってきて、焦
燥 を隠せな い 様 子 で 、
﹁院長⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ﹂
てんじょう
あお
と言った 。
で し だい
﹁ご家族の対応をお願いします。分析結果が出次第、僕もそちらに行きます⋮⋮﹂
天井を仰いだ。
浩幸は疲 れ 切 っ た よ う に
けっそう
しばらくすると、点滴の成分分析を終えた看護スタッフが、血相を変えて飛び込んできた。
350
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痴呆の都
﹁院長! た い へ ん で す ! 点 滴 の 中 に
﹁なんだ っ て ! ﹂
きん し かんざい
ふく
筋弛緩剤が大量に含まれていました!﹂
浩幸は分析結果の記された記録紙を見ると、
あくび
なが
﹁いった い ど う い う 事 だ ⋮ ⋮ ? ﹂
とつぶやいた。そこへ到着したのが、今日の点滴係の武田だった。眠そうな目をこすりな
ふ き げん
がら、﹁院長、こんな夜中に呼びつけて、何の用ですか?﹂と、不機嫌そうに言った。
﹁これを 見 た ま え ﹂
武田は分析結果を欠伸をしながら眺めると、突然目を見開いて、
?﹂
﹁な、な ん で す か ? こ れ は ⋮ ⋮ !
と叫んだ 。
﹁身に覚えがないようですね。この点滴が一〇二号室の患者さんに付けられていました﹂
﹁ええっ ! ﹂
武田はそう叫んだまま、言葉を失ってしまった。
と、突然、検査結果を持ってきた看護スタッフが大声で泣き始めた。
もり た
盛田さんの点滴の交換をしたのは私なんです!私がちゃん
﹁ 私 が い け な い ん で す! 今 日、
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第 2 章(16)医療ミス
と調べてやれば、こんな事にはならなかったんです!﹂
きん
﹁いや、あなたのせいではありませんよ。あなたは看護士として当然の役目を果たしてい
し かんざい
る⋮⋮。そんな事より、武田君が帰ってから点滴の交換が行われるまでの間に、何者かが筋
弛緩剤を注入したとしか考えられない⋮⋮。薬剤室に入れるのは山口薬局の職員と看護士、
それに医師だけです。いったい誰が⋮⋮?﹂
浩幸の頭はめまぐるしく回転していた。
﹁院長、 西 園 先 生 が お 呼 び で す ﹂
別の看護 士 が 呼 び に 来 た 。
ひ そう
うつむ
﹁今、行 き ま す ﹂
浩幸は看護記録と分析結果をひとまとめにすると、院長室を後にした。
な
亡くなった患者の妻は泣き、その娘は悲愴な顔付きで俯いていた。
さいぜん
つ
わ
﹁最善を尽くしましたが、私の力不足で⋮⋮。お詫びの言葉も見つかりません⋮⋮﹂
浩幸はしばらく頭を下げたまま動かなかった。
﹁先生、頭を上げて下さい。いずれ主人が死ぬことは、覚悟していましたから⋮⋮﹂
352
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痴呆の都
ふ
拭 きながらそう言った。
妻は涙を
﹁実を申しますと、娘とずっと話していたんです。このまま植物状態の主人を生かしてお
くことが本当に良い事なのかって⋮⋮。でも、先程の先生の〝ご臨終です〟って言葉を聞い
の
たとき、なんだか胸の奥につかえていたものが、急にふっきれたような気がしたのです。あ
の主人の寿命をここまで延ばしてくれて、逆に感謝をしなければいけません⋮⋮﹂
妻は再び 泣 き 出 し た 。
﹁先生、直接の死因は何なのですか?﹂
娘が言っ た 。 浩 幸 は 少 し 考 え た 後 、
﹁急性呼 吸 不 全 で す ⋮ ⋮ ﹂
と答えた。しかし、その原因となった点滴の事はどうしても言えなかった。娘もそれ以上
はは こ
やがてその母娘は、主人の亡骸に手を合わせてから、肩を落として帰って行った。
なきがら
二人を見送った浩幸と西園は、しばらくは院長室で無言の時間を過ごしたが、点滴の成分
分析を見た 西 園 が 声 を あ げ た 。
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の事は聞か な か っ た 。
?﹂
﹁これは い っ た い ⋮ ⋮ !
353
第 2 章(16)医療ミス
びん
ふ
﹁何者かが点滴の中に注入したとしか考えられないのです﹂
おお ごと
おん
大事です。幸い遺族の方は穏
﹁ え ら い こ と に な り ま し た な ⋮⋮。 マ ス コ ミ に で も 知 れ た ら
便におさまっているようですし、このまま伏せておくのが良いでしょう﹂
ふ
ゆ
とど
﹁先程、あの娘さんに死因を聞かれた時に、僕は事実を言えなかった。正直言って、この
医院の事や、コスモス園統合の事が頭をよぎって、どうしても言えなかったのです。でも、
すいほう
き
とど
それはいけない事だ⋮⋮。これは全て僕の管理不行き届きです。遺族の方には事実を伝え、
正式に謝罪しましょう。この責任は全て僕がとる﹂
﹁院長、でも、それでは!⋮⋮今までやってきた事が水疱に期します!お留まりください!﹂
たんたん
じんどう
淡々と仕事をやってきましたが、何も人道をはずしてまで医者を
﹁ 西 園 さ ん、 僕 は 今 ま で
やろうなんて思っていないんですよ。もし、僕が万が一の事になったら、この医院の事は、
全てあなたに任せます。そもそもこの医院は、あなたと、僕の父が作り上げてきたものじゃ
ないですか ﹂
﹁院長⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ﹂
西園は目 に 涙 を 溜 め て つ ぶ や い た 。
﹁あなたやっぱり〝赤ひげ〟だ⋮⋮⋮⋮﹂
354
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痴呆の都
西園の言葉に、浩幸は小さく微笑んだ。
ほ
およ
惚れたんです。分かりました。何も院長が責任を取るには及びません。
﹁私は院 長 の そ こ に
私が全てやりました。記者会見を開いてその全てを告白いたします﹂
﹁それは い け な い ! 父 が 悲 し む ⋮ ⋮ ﹂
﹁先代の忘れ形見をお守りするのが私の使命です﹂
したが
従いなさい!﹂
﹁僕はこの医院の院長だ!これは命令です!僕の命令に
西園は奥歯をかみしめて浩幸を見つめた。
むら
﹁そんな事よりいったい誰がこんな事をしたかだ。一刻も早く犯人を見つけ出さないと。
再発は絶対 に 許 さ れ ま せ ん │ │ │ ﹂
ところが翌日、山口脳神経外科の周囲には、既に多くの報道陣が群がりはじめていた。院
も
長室からその光景を眺めていた浩幸は目を細めた。
﹁一体、どこから漏れたのだ│││?﹂
﹁院長!マスコミの方が院長を出せってきかないんです!﹂
看護士長が息せき切って院長室に入るなりそう言った。
しゅうしゅう
収拾がつきませんね。分かりました。三時に記者会見を開きますので、時間を
﹁これでは
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355
第 2 章(16)医療ミス
伝えてそれまでお引き取り願って下さい。診療時間中は患者さんの迷惑になりますからと!﹂
か
﹁はい!﹂と、看護士長は再び出て行った。そこへ診察中のはずの西園が、大きな身体か
ら汗を流し て 駆 け 込 ん で き た 。
そう ま とう
きょらい
よそお
﹁院長!林美幸君が出勤しておりません!﹂
のう り
一瞬は﹁まさか!﹂と思ったが、次の瞬間脳裏には、今までの美幸の言動や、美津子の言
し わざ
葉が走馬灯のように去来した。
仕業では⋮⋮﹂
﹁まさか 、 彼 女 の
そうぜん
﹁分かりました。仕事に戻りなさい﹂
西園の言葉に、精一杯の平常心を装いながら浩幸は、
と言っただ け だ っ た 。
りょうわき
ざ
騒然としている山口医院の前で車を止め
早番で、三時前には仕事を終えた百恵は、何やら
て、焦燥を隠せない様子で医院内へ駆け込んだ。すると、既に記者会見が始まろうとする会
けい い
場では、会見席の中央に浩幸が座り、その両脇に西園と伝田の二人の医師が座していた。
経緯を聞かせて
﹁三時になりましたので質問をさせていただきますが、まず今回の事件の
下さい!﹂
356
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痴呆の都
報道陣らしき群衆の中の誰かが口火を切った。次の瞬間、百恵の意識が遠のくと、頭の中
が真っ白に な っ た 。
﹁私の方 か ら 申 し 上 げ ま す ﹂
うたが
西園が、 事 件 の 経 緯 説 明 を 始 め た 。
﹁昨晩十時四十三分、入院中の植物状態の患者が突然急性呼吸不全を引き起こし、応急処
ほどこ
きゅうきょ
しっとう
置を施しましたが回復が見られず、やむなく十一時三十分、急遽、気管切開の執刀を行いま
したが、執 刀 中 に 死 亡 い た し ま し た ﹂
﹁執刀は ど な た が 行 っ た ん で す か ? ﹂
﹁私です ﹂
浩幸が言 っ た 。
疑いがあるとの事ですが、そ
﹁ 情 報 に よ り ま す と、 点 滴 の 中 に 筋 弛 緩 剤 が 混 入 さ れ て い た
の事実関係 を ご 説 明 下 さ い ﹂
﹁どこか ら の 情 報 で す か ? ﹂
西園が息 を 荒 立 て て 言 っ た 。
﹁これは記者会見です。情報の出所が問題ではなく、事実かどうかが問題です!質問にお
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357
第 2 章(16)医療ミス
答え下さい ﹂
﹁事実で す │ │ │ ﹂
そうぜん
浩幸の言 葉 に 会 場 が 騒 然 と し た 。
﹁ご指摘のとおり、死亡された患者さんの点滴に筋弛緩剤が混入されていました﹂
浩幸の淡々とした言葉に、報道陣の質問の雨が激しく降り続いた。
﹁それは医療ミスであるということを認める発言ですか?﹂
﹁なぜ点滴の中に毒物が混入していたのですか?﹂
﹁患者は植物状態であったといいますが、安楽死と関係があるのですか?﹂
﹁点滴の調合の作業工程はどうなっていますか?﹂
﹁これが医療ミスであった場合、あなたはどう責任をとるおつもりですか?﹂
ひざ
﹁コスモス園との統合における影響は?﹂
さっ かく
おちい
その矢のような質問責めに、百恵はまるで自分に降りかかっているような錯覚に陥り、や
がて膝を落として倒れ込んだ。それに気づいた浩幸は、﹁人が倒れました。少しお待ち下さい﹂
と言って立ち上がると、ツカツカと百恵のところに歩み寄り、その細い身体を抱きかかえた。
﹁どうし て こ こ へ ⋮ ⋮ ? ﹂
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痴呆の都
﹁先生⋮⋮、先生⋮⋮、浩幸さん⋮⋮﹂
みじ
惨めな姿を見せたくない。なあに、心配
﹁ と り あ え ず 病 室 で 休 み ま し ょ う。 僕 も 貴 方 に は
お
はいりませんよ。僕には百恵さん、貴方がいます│││﹂
負ぶって病室へ向かった。
浩幸は、 そ の ま ま 百 恵 を
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359
第 2 章(17)罪の影
︵十七︶罪の影
ちょう ど
丁度フランス料理の店にいた頃である。
浩幸と百 恵 が
ひま
部屋で寝ころびながら、暇そうにゲームをしていた太一の携帯電話が鳴った。太一は相手
の番号を確認すると、喜び勇んで電話に出た。
﹁美幸?どうした?仕事終わったの?これから会おうか?美幸⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮⋮ ⋮ ﹂
こ
く
﹁美幸、 美 幸 じ ゃ な い の か ? ﹂
太一は美幸であるはずの相手に何度も話しかけたが、受話器の向こうの人間は、無言のま
ま、何ひと つ 話 そ う と は し な か っ た 。
だま
﹁美幸⋮⋮、どうした⋮⋮?美幸!⋮⋮、美幸じゃないのか!美幸!⋮⋮﹂
﹁太一⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ﹂
黙り込んだ。太一は﹁美幸!﹂を何度繰り返したか分
やがて相 手 は そ う 言 っ た き り 、 再 び
からない。ようやく美幸も力のない声で﹁太一⋮⋮、太一⋮⋮﹂
を数度繰り返したかと思うと、
360
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痴呆の都
ひと
人 殺した⋮⋮﹂
﹁私⋮⋮ 、
受話器の向こうですすり泣きの声が聞こえ始めた。
じんじょう
﹁美幸!そこを動くな!今すぐ行くから!﹂
きょうがく
驚愕すると電話を切って家を飛び出し、自転車を飛ばした。美幸の居場所はおおよ
太一は
で
そ見当がついた。彼女の尋常でない声、その状態で自分に電話をくれた事、きっと何かの事
あん
じょう
たど
ろ かた
件に巻き込まれ、たった一人すがる場所が自分のところであったとすれば、それは初めて出
あ
逢った場所に違いないと思ったのだ。案の定高校時代の帰り道に辿り着けば、路肩の段差に
ちから な
力 無く座っている美幸の姿を見つけたのだった。
がてゆっく り 太 一 の 存 在 を 確 認 す る と 、
﹁美幸│ │ │ ! ﹂
ほお
ほうしんじょうたい
太一は自転車を抛り捨てると、そのまま美幸の肩を抱き上げた。放心 状 態の美幸は、や
﹁太一⋮ ⋮ ! ﹂
と言ったまま、その胸に顔をうずめて泣き出した。
﹁どうしたの?美幸⋮⋮、いったい何があった?﹂
こわ
怖 い│││﹂
﹁私、
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361
第 2 章(17)罪の影
すわ
美幸はそれ以上の事は何も言わない。太一も何も聞けずに、自転車の荷台に彼女を座らせ
ると、そのまま自転車を押して歩き始めた。そして、トボトボ歩きながら
﹁家まで送ろうか?﹂
と言った。
﹁家はイ ヤ ! ﹂
﹁じゃあ ど こ へ 行 こ う ⋮ ⋮ ﹂
﹁⋮⋮⋮ ⋮ ﹂
あて
よ どお
宛もなく、彼女の家のある長野市方面とは反対方向へ向かって、そのまま夜通
二人は行 く
し歩き続け た の だ っ た 。
くつ
翌朝、早番の百恵は、太一の靴と自転車がないのを見て、
つぶや
﹁あの子ったら朝帰り?困ったものね!﹂
たた
太一は自分に寄りかかる美幸の肩を叩いて、﹁仕事は行かなくていい?﹂と聞いた。美幸は
かた
と呟きながら出勤した。
いち や
め ざ
その頃太一と美幸は、とある農家のビニールハウスの中で一夜を明かしていた。目覚めた
静かに目覚めると、﹁行かない⋮⋮﹂と呟いた。
362
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痴呆の都
あね き
ころ あ
姉貴も仕事でいないから⋮⋮﹂
﹁俺の家 に 来 る ? 昼 間 は 両 親 も
うなず
さくばん
頷くと、二人はゆっくり須坂方面に向かって歩き出した。昨晩歩き通して、
美幸は小さく
山之内町まで来てしまったらしい。二人が家に着いた頃は、家には誰もいない、丁度頃合い
む ぞう さ
ち
あわ
おしいれ
かく
の良い時間帯だった。太一は美幸を家にあげると、自分の部屋に案内した。そして目に付い
た無造作に散らかる女性グラビア雑誌やアダルトビデオを慌てて押入に隠すと、
ろ
わ
んで美幸に与えた。彼女はそれを食べ終えると、だいぶ落ち着いたようであった。
﹁何か食 べ よ う か ? ﹂
と、キッチンから、食パンやら昨日のおかずの残りやら缶ジュースやらを、部屋に持ち込
ふ
だつ い しつ
もど
風呂にも入りなよ。いま沸かすから⋮⋮﹂
﹁お
太一はお湯を沸かして美幸をお風呂に案内した。そして﹁ゆっくり入ってきてかまわない
し かた
とど
から﹂と、脱衣室を出た。しかし、部屋に戻ってはみたものの、お風呂の美幸が気になって
仕方がない。そのうちタオルがない事に気づいて、それを届けて、
﹁美幸!タオル、ここに置いておくよ!﹂
﹁ありが と う ! ﹂
からだ
わき
身体が動いていた。脇に目を移せば、美幸の
すりガラスの向こうに、シャワーの音と白い
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第 2 章(17)罪の影
せいよく
おさ
下着が目に飛び込んできた。若い太一は込み上げる性欲を抑えつけながら、ようやく脱衣室
を出たのだ っ た 。
風呂上が り の 美 幸 に 太 一 は 聞 い た 。
あね き
﹁家の人 は 心 配 し て い な い ? ﹂
﹁いいの。もう家には帰りたくない⋮⋮﹂
﹁それじゃ、しばらくここに住む?姉貴が帰ってきたら相談してみるよ。きっと分かって
くれるから ﹂
﹁でも⋮ ⋮ ﹂
だいじょう ぶ
と
ふ
大 丈 夫だよ。俺がなんとか説き伏せるから﹂
﹁心配し な く て も
﹃私、人殺した│││﹄
、それと﹃怖
太一には昨日の彼女の言葉がずっと気になっていた。
う
い│││﹄という。しかし、その事を聞き出す勇気もタイミングも見つからなかった。結局、
日常会話で時間を埋めることしか思いつかず、やがて二人はゲームをやりだした。冒険物の、
ヒーローがヒロインを救い出す内容のロールプレイングゲームで、敵を倒して二人が再会し
たシーンで、太一と美幸のコントローラを動かす手が止まった。二人は単調な繰り返しのB
さわ
GMの中で、そっと口づけをした。そして太一はそのまま美幸を押し倒すと、彼女の胸を触
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痴呆の都
な
ゆ
こば
こう い
ざいあく
かげ
り始めたのだった。美幸は拒む事もせず、太一の行為を受け入れた。それは二人にとって、
まぎ
よ
どころ
こ
ごく自然な成り行きだったに違いない。加えて言えば、美幸にとっては、罪悪の影に押しつ
どく
つつ
ぶされそうな心を、太一に抱かれる事で紛らわせることができると思った。拠り所のない孤
き たく
独な心を、支えてくれるのは彼しかいなかったのだ。そして、太一に包まれることで、その
全てを忘れ た い と 思 っ た 。
帰宅した百
やがてすべてが終わって、二人は何も話さず身体を寄せ合っているところへ、
恵の軽自動 車 の 音 が 聞 こ え て き た 。
﹁やばっ ! 姉 貴 が 帰 っ て き た ! ﹂
二人は慌 て て 衣 服 を 着 た 。
くつ
ふ
靴を見かけたものの、そ
一方百恵は、先程の記者会見の事が気になって、太一の自転車と
とな
こ
の隣りにあった女性用の靴には気づきもせず家に上がり込むと、まっすぐ部屋へと籠もって
しん
かし
しまった。いつもなら、自分がいれば﹁ただいま﹂くらいの声をかけてくれる姉の様子を不
審に思った太一は、美幸を見つめて首を傾げた。
﹁ちょっ と 行 っ て 来 る ⋮ ⋮ ﹂
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第 2 章(17)罪の影
つか
さえぎ
太一は美 幸 を 置 い て 部 屋 を 出 た 。
百恵の部屋をノックして、出てきた姉の表情は、まるで試合に敗れたスポーツ選手のよう
に、 疲 れ切 っ て い た 。
すき ま
﹁どうし た ん だ ? 姉 ち ゃ ん ⋮ ⋮ ﹂
﹁ごめん、誰とも話したくないの。一人にさせて⋮⋮﹂
ごういん
部屋の戸を閉めようとしたところを、太一は足を隙間につっこんで遮った。
﹁相談⋮ ⋮ 、 相 談 が あ る ん だ よ ! ﹂
﹁ごめん 、 後 に し て く れ る ⋮ ⋮ ? ﹂
﹁それが 今 で な き ゃ ダ メ な ん だ ! ﹂
﹁もう! な ん な の よ ! ﹂
強引に自分の部屋へ連れ込
百恵は泣きそうな顔で言った。太一は百恵の腕を引っ張ると、
はち あ
んだ。鉢合わせした百恵と美幸は、しばらく何も言わないで見つめ合った。
﹁み、美 幸 ち ゃ ん ⋮ ⋮ ? ﹂
﹁おじゃ ま し て ま す ⋮ ⋮ ﹂
さら
ふくざつ
しんきょう
百恵は更に複雑な心境にとらわれた。浩幸の医療ミスの件で頭を悩ませていたかと思えば、
366
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痴呆の都
じつ
今度は浩幸の娘が目の前にいるではないか。しかも彼女は浩幸が実の父親であることも、自
い
ま
分と浩幸が結婚することも知らないのである。太一の恋人であるとはいえ、どう接すればい
いのか考えもつかなかったのだ。百恵は太一を居間に連れ込んだ。
﹁太一! い っ た い ど う い う こ と よ ! ﹂
うち
と
﹁ちょっと事情があって、彼女、家に帰れないっていうんだ。しばらく家に泊めてほしい
んだけど⋮⋮。でも、俺の部屋に泊めるわけにいかないじゃない⋮⋮、だから⋮⋮﹂
たの
頼 み込んだ。
太一は両 手 を 合 わ せ て
﹁なあに?私の部屋に泊めろっていうの?﹂
﹁姉ちゃ ん 、 お 願 い ! ﹂
﹁もう!そりゃかまわないけど⋮⋮。仕事もここから通うつもり?﹂
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ね いき
断りきれずに、弟の切なる頼みを承
ことわ
詳しく事情を聞いていないんだけど、しばらく仕事も休むみたい⋮⋮﹂
﹁まだ俺 も
﹁もう、 ど う す ん の よ ! ﹂
くわ
太一はひたすら頭を下げて頼み込んだ。やがて百恵も
だく
諾 せざるを 得 な か っ た │ │ │ 。
しょう
寝息を立
その晩美幸は、百恵のベッドに横になると、よほど疲れていたのか早くに小さな
367
第 2 章(17)罪の影
かみ
こう い
そう い
て ぐし
て始めた。その美しい寝顔を見つめながら、百恵は無意識のうちに、彼女の頭に何度も手櫛
ねむ
を通して髪を整えていた。それは、母親が娘にしてあげる行為に相違なかった。
﹁私が十 歳 の 時 の 子 ど も か ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ﹂
つぶや
呟くと、
そう
﹁ありえ な ー い ! ﹂
百恵は美幸の顔の横に自分の顔を横たえると、そのまま眠りについた。
368
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痴呆の都
はは こ
あいだがら
母娘になるはずの間柄
︵十八︶
きそ
み
な
翌日の新聞の三面記事のトップは、各新聞社が競うように山口脳神経外科医院における医
あつか
療ミス問題を取り扱っていた。早番の百恵はその内容を、毎朝コスモス園に届けられる三社
おり
ほどの新聞で確認した。折しもテレビの朝のニュース番組では、ブラウン管に映る見馴れた
な
山口医院のある風景が、まるで危険地帯ででもあるかのような報道が成されていたのである。
し
じ
内容はどれも同様だった。入院患者の点滴に毒物が混入されて死亡したというもので、点
きん し かんざい あやま
しゅ じ い
滴に筋弛緩剤が誤って混入されたのは、入院患者の主治医であった院長浩幸の、点滴に使用
き さい
する薬品の指示ミスというものだった。説明では要するに、山口医院では点滴の薬品の指示
げんかく
は、チェック式の指示書によって行われていたが、そのチェック項目を誤って記載してしまっ
たというの で あ る 。
厳格な浩幸が、そのようなつまらないとこ
その時点で百恵は首を傾げた。あれほど仕事に
おか
ろでミスを犯すとは思えなかったからだ。しかも点滴に使われる薬品と、毒物に指定されて
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第 2 章(18)母娘になるはずの間柄
の
そうめい
いる薬品を一緒のチェック表に載せる事自体、
聡明な浩幸にしてありえない事だと直感した。
﹁なにか あ る │ │ │ ﹂
百恵は遠 く を 見 つ め た 。
﹁いやあ、えらい事になってしまったねえ!﹂
うつむ
うれ
日勤で出勤してきた須崎理事長が、ロビーのソファで俯く百恵の姿を見て、やけに嬉しそ
たず
うに言った。百恵は﹁おはようございます﹂とだけ言うと、仕事に戻った。
たず
訪ねた。受付で浩幸の所在を
その日、定時で仕事を終えると、百恵は一直線に山口医院を
なが
尋ねると、事件性の疑いをかけられて警察に行っているということで、そのまま院長室で待
せい そ
たせてもら う こ と に し た の だ っ た 。
たな
かべ
かざ
ひとがら
清楚で整理整頓がいきとどいている部屋の窓辺から外を眺めれば、コスモス園が一望でき
た。棚の中の書籍や壁に飾る絵画やカレンダーのセンスから、彼の人柄を感じながら、百恵
はソファに腰掛けて、机に置いてあった読みかけの医学書を開いた。しばらくすると、西園
が﹁院長!﹂と言いながら入って来たかと思うと、百恵に気づいて﹁こりゃ、失礼⋮⋮﹂と
頭を下げた 。
﹁コスモス園の馬場百恵です。山口先生は警察に行かれているそうで、しばらくここで待
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痴呆の都
たせていた だ い て い ま す ﹂
たびたび
うかが
こんやく
﹁ああ、あなたでしたか⋮⋮?直接お話をするのは今日が初めてですね。理事の西園です。
とは言っても、お話は院長から度々お伺いしておりますよ。ご婚約おめでとうございます。
は
うなず
今度こそ、院長を幸せにしてあげて下さい﹂
百恵は恥ずかしそうに頷いた。
うそ
嘘なんでしょう?﹂
﹁山口先生のご様子はいかがですか?﹂
つ
次いで百恵が言うと、西園は少し困ったふうに、
そうとう
﹁ああいう性格ですから表面には出しませんが、相当まいっていると思います。支えになっ
てあげて下さい。私ではもう、どうにもならんのです﹂
と答えた 。
﹁山口先生の医療ミスだって報道されてますけど、
西園は口 を つ ぐ ん だ 。
﹁西園さん、お願いです!教えて下さい!﹂
﹁外部には言えない事情もありますよ⋮⋮﹂
﹁私、外 部 じ ゃ あ り ま せ ん ! ﹂
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第 2 章(18)母娘になるはずの間柄
れいたん
そこへ、院長室の扉が開いたかと思うと、普段と変わらぬ様子の浩幸が戻ってきた。
﹁やあ、馬場さん。何をしに来たのですか?﹂
その言葉は、心配する百恵にとって、あまりに冷淡に聞こえた。西園は気をきかせて静か
に席をはず し た 。
﹁何をしに⋮⋮って⋮⋮、先生があんな単純な医療ミスをするはずがないと思って⋮⋮﹂
﹁報道の通りですよ。僕の指示ミスによって、とんでもない問題になってしまった﹂
たんたん
たんぱく
淡々と答えた。その淡泊な言葉が急に憎くなって、
百恵は大声で﹁うそ!﹂
と叫んだ。
浩幸は
﹁馬場さん、いったい何が言いたいのですか?﹂
﹁先生⋮⋮、ひょっとしたら、誰かをかばっているんじゃないかって⋮⋮﹂
浩幸は目 を 細 め た 。
へいこう
はくだつ
﹁かばうも、かばわないも、僕が自分の犯したミスを認めているんです。それに、医院で
起きた事故は、院長の僕が責任をとるのは当然の話でしょう!﹂
百恵は閉口した。
剥奪されてしま
﹁これで多分僕は、全ての役職を降ろされる。下手をしたら医師免許さえ
はな
うでしょう。悪い事は言いません。馬場さんも一刻も早く、こんな僕から離れて行った方が
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痴呆の都
いい⋮⋮﹂
こんげん
く
根源を知った百恵は食い付いた。
浩幸の冷 淡 さ の
﹁何を言うの⋮⋮?私、浩幸さんが医者だから好きになったんじゃありません!院長だか
ら、医療法人の理事になる人だから愛したわけじゃありません!本当の事を話してよ!﹂
今度は浩 幸 の 方 が 閉 口 し た 。
﹁私、美幸ちゃんと何か関係があるんじゃないかって思ってます。だって、彼女、昨日も
今日も仕事 を 休 ん で い る は ず よ ⋮ ⋮ ﹂
めんよう
言葉を詰まらせた浩幸は、やがて﹁なぜ、その事を⋮⋮?﹂と、面妖そうに言った。
﹁美幸ちゃん、今、私の家にいるんです﹂
浩幸は驚 き の 表 情 を 隠 せ な か っ た 。
﹁で⋮⋮ 、 何 か 話 し ま し た か ? ﹂
百恵は首 を 横 に 振 っ た 。
﹁とっても落ち込んだ様子で、何を聞いても答えてくれないんです﹂
﹁そうで す か ⋮ ⋮ ﹂
かんねん
む だ
つぶや
観念したように、﹁貴方には何を隠しても無駄のようですね⋮⋮﹂と呟いた後、
浩幸はや が て
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第 2 章(18)母娘になるはずの間柄
ぜんよう
しんじょう
事件の 全 容 を 話 し た の だ っ た │ │ │ 。
し
ょ
こ
かり
こ
い
か しつ
おか
あやま
心情が痛いほど分かった。故意か過失か知らないが、娘の犯した過ちを、全
百恵には 彼 の
いちもくさん
部自分が背負い込もうというのである。仮に弟の太一が犯罪を犯したとしても、きっと自分
も同じ事をしただろうと思うのだ。真実を知った百恵は、一目散に家へ戻るのだった。
﹁美幸ちゃん、ちょっと話があるんだけど⋮⋮﹂
きょう
興じていた。百恵はかまわず美幸の腕を引っ張る
太一の部屋を開けると、二人はゲームに
と、そのま ま 自 分 の 部 屋 に 連 れ 込 ん だ 。
﹁ちょっ と 、 姉 ち ゃ ん 、 俺 は ⋮ ⋮ ? ﹂
置いてき ぼ り を く っ た 太 一 に 、
﹁あなたは関係ないの!女同士の話!﹂
およ
クで書かれた〝山口脳神経外科医院医療ミス〟の文字を見たとき、美幸が動揺して目を泳が
どうよう
と、部屋 の ド ア を 勢 い よ く 閉 め た 。
ぬ
百恵は手にした新聞を広げると、﹁これを見て!﹂と美幸の前に置いた。三段抜きの太ゴシッ
み のが
せたのを見逃さなかった。
374
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痴呆の都
ひとみ
た
﹁美幸ちゃん、お願い!本当の事を話して!このままじゃ浩幸さん、医者をやめなきゃい
けなくなる か も 知 れ な い の ! ﹂
百恵の瞳に涙が溜まっていた。その涙を見つけると、美幸は鼻で笑って、
﹁あんた 、 あ の 院 長 の 何 な の よ ⋮ ⋮ ﹂
あざけ
と嘲たのだった。
だま
﹁私、浩幸さんの婚約者よ!来年、結婚するの!﹂
そう知った時、美幸はとても悲しそうな目をして百恵を見つめた。
﹁あんた、騙されてんだよ!早いとこ別れた方がいいよ﹂
ひだりほお
たた
左頬を叩いていた。
次の瞬間 、 百 恵 の 平 手 が 美 幸 の
﹁ああ! ご め ん な さ い っ ! ﹂
きょうがく
かん き
こんざい
か
ぎゃくたい
美幸は叩かれた頬をおさえて百恵を見つめた。しかしその瞳には、叩かれた事に対する反
いんけん
がた
発の陰険さはなく、出合い難きものにでも出くわしたような、何年もかけて探し求めていた
なぐ
な
たけし
ひら て
うら
にく
ものを見つけた時のような、驚愕と歓喜が混在していた。兼ねてから家庭内 虐 待に苦しん
し はい
けん お かん
でいた美幸は、いわば殴られることには慣れていた。彼女を殴る父武の平手は、恨みと憎し
みに支配されているような、殴られた後の痛みにヒリヒリとした嫌悪感が残り、いつまでも
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375
第 2 章(18)母娘になるはずの間柄
い
い しつ
そく
痛みが癒えないのである。だから美幸は、それが〝殴られる〟という事だと信じていた。と
ざ
ころが百恵の平手打ちは、それに対して全く異質のものであったことは、殴られた左頬が即
たいきょく
座に知らせてくれた。信じられなかったが、痛みがモアモアと温かい。美幸は〝殴られる〟
にも、対極の二種類があることを初めて知った。
﹁ほんとにごめんなさい!殴るつもりなかった│││﹂
百恵は美幸の左頬に右手を当てた。次の瞬間、美幸は思わず百恵に抱きついた。
﹁お姉さ ん ⋮ ⋮ 、 私 、 怖 い │ │ │ ﹂
﹁美幸ち ゃ ん ⋮ ⋮ ﹂
そのまま百恵は、美幸のか弱い小さな身体を包み込んだまま、何も言わずに時を数えた。
﹁私ね、お父さんに何度も殴られた│││﹂
美幸は涙をボロボロ流しながら、今の心情をいっぺんに語り始めた。
なか
﹁頭⋮⋮、顔⋮⋮、お腹⋮⋮、足⋮⋮。お父さんはいつも私を力いっぱい殴るの。私が抵
おび
抗すると、いつもその何倍にもなって返ってきた。私、怖くて、怖くて、いつもお父さんの
やさ
姿に怯えてた⋮⋮。でもね、殴られた後、いつもお母さんが私をこうして抱きしめてくれる
だいじょう ぶ
の│││。
〝美幸、大 丈 夫よ〟って⋮⋮。お母さんの胸はとても温かくて、そして優しくて
376
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痴呆の都
あえ
⋮⋮、私は時間を忘れて、ずっとこうしてた│││﹂
こば
喘ぐ彼女の心を拒むことなく受け入れた。
〝あ
百恵は﹁そう⋮⋮、そう⋮⋮﹂と言いながら、
なたは浩幸さんの子ども⋮⋮〟何度も出かかったが、美幸や現在の両親の事を考えると、ど
うしても言えなかった。ただ、浩幸に成り代わって、彼女を抱きしめてあげる事が、今の百
恵にできる 全 て で あ っ た 。
やがて美 幸 が 小 さ な 声 で 言 っ た 。
﹁お母さ ん み た い ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ﹂
か わい
百恵は美幸が可愛くなって、ぎゅっとその身体を抱きしめた。
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377
第 2 章(19)葬り去られた夢
ほうむ
葬り去られた夢
︵十九︶
い ぜん
しんそう
依然美幸は、事件についての真相を語ろうとはせず、そのまま数日が過ぎ去った。
こ
そうろう
こともあろうにそんな状況下の中、医療ミス問題に追い討ちをかけるように、今度は浩幸
みっかい
ごと
と百恵の夜の密会の如き報道が、いくつものスキャンダル雑誌によって成されたのである。
その内容は﹃医療ミス、懲りずに 候 !反省よりも彼女に夢中﹄
と、
事件直前のパブでの二人が、
ひ じょうしき
あたかも事件後の出来事のように報道されたのだった。誰が撮影したのか、楽しそうに会話
べんめい
ねん ぶつ
をしている二人の姿は、誰が見ても非 常 識きわまりないものであり、百恵はその内容を読
そう い
ついにんしょぶん
む気にもなれなかった。もはや浩幸がいくら弁明をしたところで、馬の耳に念仏だった。
やぶ
コスモス園単独の最高会議では、総意による山口浩幸の追任処分が決定し、その内容書類
が医院側へ届けられた。浩幸はそれに目を通すと、破ってゴミ箱へ投げ捨てた。
﹁院長、どうなさるおつもりですか?﹂
西園が暗 い 声 で 言 っ た 。
378
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痴呆の都
くつがえ
﹁仕方がないじゃありませんか⋮⋮。残念ですが、どうする事もできませんよ。しかし統
しゅっ し
合計画自体、九〇パーセント以上がうちの出資で進めてきたものです。いくらなんでも、そ
まか
せん や
かじ と
れを覆すことはできません。僕が降りさえすれば、全てが今まで通りです。後は西園さん、
あなたに任せる以外にありません﹂
﹁そ、そんな⋮⋮。院長のいない戦野で、私はどう舵取りをすればよいのですか!﹂
やまい
せんこく
﹁西園さん、今はじめて話しますが、介護医療の充実は、僕の最大の夢でした。人は老い
み と
つねづね
てやがて死んでいく。僕は何人もの患者さんを看取る中で、人の人生の偉大さを常々感じて
しょみん
きたのです。名もない庶民が必死に生きて、ある日突然病を知らされる。しかし死の宣告を
さい ご
受けてまでも、人はその最期の瞬間まで、生きて、生きて、生き抜こうとしている⋮⋮。僕
な ぜ
の母もそうでした。父もそうでした│││、重度のアルツハイマーの患者でさえ、生きよう
とするのですよ!いったい何故だと思いますか?﹂
かたがた
さいしゅうしょう
しゅくふく
さ
西園は目に涙を溜めて、何も答えなかった。
し めい
〝使命〟だって⋮⋮。人は皆、この世に生を受けて、誰もがこ
﹁あなた が よ く 言 う で し ょ 、
こんげんてき
の世で果たさなければならない使命を根元的に持っているような、僕にはそう思えて仕方が
ないんです。せめてその方々の最 終 章を、僕はこの手で祝福して差し上げたかった│││﹂
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379
第 2 章(19)葬り去られた夢
ほお
かたつむり
き ふく
はげ
に
浩幸の頬に、蝸牛の通り道に似た光ができた。それは西園が見る、浩幸が初めて流す涙で
お えつ
あった。西園は﹁院長!﹂と叫んだまま嗚咽した。
き
ば
ふ つう
﹁あなたの感情の起伏の激しさにも困ったものです⋮⋮。まるで百恵さんと同じだ⋮⋮﹂
きゅう ち
か れん
窮地の中で、可憐な百恵の笑顔を思い出していた。
浩幸は
まい
﹁分かりました!この西園!命に変えて、院長の理想を実現して参ります!﹂
ほほ え
﹁そう気張らなくてもいいですよ、普通にやれば│││。どうもあなたと話をしていると
つか
疲 れる⋮⋮ ﹂
浩幸は涙をぬぐおうともせず、静かに微笑んだ。
その後、浩幸は百恵の携帯電話を鳴らした。その日公休だった百恵は、すかさず受話器を
取ると、﹁浩幸さん!﹂と言った。
﹁これから会えませんか?貴方の顔が見たい⋮⋮﹂
くり会える⋮⋮。もし神がいたとするならば、これはその配慮に違いありません﹂
はいりょ
﹁お仕事 の 方 は 大 丈 夫 で す か ? ﹂
しょく む
じ しゅく
つうたつ
しばら
貴方とゆっ
﹁医師会から、三ヶ月間 職 務を自粛するよう通達が来ました。これから暫くは、
らっかん
百恵はその楽観ぶりに微笑んだ。
380
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痴呆の都
﹁私の家に来ませんか?美幸ちゃんがいるんです﹂
浩幸はし ば ら く 考 え た 後 、
﹁それは で き ま せ ん ﹂
つぶや
呟いた。そして、
と
﹁大樹も一緒に連れて行こうと思うのですが、いいですか?﹂
﹁もちろ ん ! ﹂
そして、がりょう公園で会う約束をした二人は、静かに電話を切ったのだった。
ほほ え
ふく
さんさく
散策し、
百恵と浩幸と大樹の三人は、まるで本当の家族のように公園内を歩いた。動物園を
すいぞくかん
きょう
小さな水族館に入った後は、その前の遊園地で全てを忘れて遊びに興じた。百恵と遊ぶ大樹
は、絶えず大声で笑いながら、その微笑ましい光景を、浩幸は含み笑顔でじっと見守っていた。
やがて三人は、ボート乗り場の前に来ると、
﹁乗って い き ま す か ? ﹂
りゅう が いけ
竜ヶ池の中をこぎ出した。
浩幸は、百恵と大樹とをボートに乗せて、やがてゆっくり
へん
変でしょ?﹂
﹁私、この池のボートに乗るの初めてなんです!家がすぐ近くなのに
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381
第 2 章(19)葬り去られた夢
﹁そういうものですよ。近くにありすぎると、その良さが見えないものです。僕だって百
恵さんの素晴らしさに気づいたのは、ごく最近の事なんですから⋮⋮﹂
﹁まあ、 先 生 っ た ら ! ﹂
ほど
﹁ああ! 白 鳥 ! ﹂
大樹が遠くの白鳥を見つけてはしゃぎ出した。
﹁ねえ、パパ、あそこに行ける⋮⋮?﹂
まか
任 せておけ!﹂
﹁ようし !
せんねん
浩幸はその白鳥に向かってこぎ出した。程なく白鳥のいるところにボートが近づくと、白
ゆうゆう
鳥は逃げる様子もなく悠々と泳ぎだした。大樹は手を差し伸べたが届く距離ではなく、やが
て﹁やい!白鳥!﹂と声をかけることに専念し始めた。
﹁白鳥を見ると〝みにくいアヒルの子〟を思い出します﹂
最後は白鳥になってみんなを見返してやりました。でも彼は、生まれながらに白鳥になる資
し
浩幸が言 っ た 。
いじ
ば か
た
﹁みにくいアヒルの子は、どんなに苛められたって、また馬鹿にされたって、じっと耐えて、
しつ
質を持っていたんです。仮にあのアヒルの子がカラスだったら、
物語はどうなっていたでしょ
382
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痴呆の都
だいたち
ふくしゅう
くつじょく
はいじん
きょう
う?きっと死ぬまで屈辱を味わいながら、すさんだ気持ちのまま廃人になるか、アヒルの兄
弟達に復讐したに違いありません⋮⋮。そうは思いませんか?﹂
浩幸はボートをこぐ腕をとめると、胸のポケットから煙草を取り出して吸い始めた。そし
てゆっくり 煙 を 吐 き 出 す と 、
﹁僕は白鳥なのだろうか?それともカラスなのだろうか?﹂
ぽつんと 呟 い た 。
﹁浩幸さ ん は 、 浩 幸 さ ん で し ょ ⋮ ⋮ ﹂
百恵は彼 を 見 つ め て 微 笑 ん だ 。
ぼうれい
﹁白鳥になるか、カラスになるか、浩幸さんが決めればいいじゃない?私、平気よ!たと
じ ごく
え浩幸さんが悪魔になっても、地獄の底までついていきますから⋮⋮﹂
こうしょう
亡霊に付きまとわれ
﹁それはやめてもらえませんか?死んでまでついて来られたのでは、
ているようで、怖くて夜も眠れませんよ﹂
哄笑した。その様子を大樹はぽかんとした顔で見つめた。
百恵がク ス リ と 笑 う と 、 浩 幸 は
こわ
壊されてしまう事を知りました。
﹁ し か し 今 回 の 事 件 で、 夢 な ん て も の は い と も た や す く
とても残念ですが、コスモス園の総意として、僕を追任する通達が来ましたよ⋮⋮﹂
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383
第 2 章(19)葬り去られた夢
﹁総意っ て ⋮ ⋮ 、 私 は 反 対 よ ! ﹂
﹁もう決 定 し た の で す よ ⋮ ⋮ ﹂
百恵は悲しそうな顔をした。しかし気を取り直した様子で、
﹁浩幸さん?私、最近ずっと考えているんですけど、もし、浩幸さんの行き場所がなくなっ
ろうじんよう ご し せつ
たら、二人で老人養護施設を始めませんか?小さくたっていいじゃない!そんな大勢のお年
寄りを看る必要もない。本当に介護を必要とする人達のための、真の意味の介護施設⋮⋮﹂
浩幸は百恵のあどけない発想に一笑すると、﹁いいかも知れませんね﹂と答えた。
﹁しかし そ れ は で き ま せ ん ⋮ ⋮ ﹂
な
百恵は浩幸を見つめて﹁どうして?﹂と言った。
あかひげ
けっしょう
うら
﹁山口医院は、僕の父、先代赤髭の命の結晶なのです。僕は長い間、ずっと父を恨んでき
ました。医院を経営しているくせに、その経営力の無さにずっと泣かされてきたからです。
しかし年をとるに従って、だんだん父に近づいている自分を見つける時があります。やはり
親子の血は争えないのですね⋮⋮。この年になってようやく父がやってきた事の意味が分か
るような気がするのです。僕は、その父が残した施設を、どうあっても守らなければいけな
やまい
い。病で苦しむ人達のために⋮⋮﹂
384
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痴呆の都
﹁やっぱり先生は〝赤髭先生〟の子どもってことですね﹂
﹁僕をそう呼んだのは、西園さんと、貴方で二人目です⋮⋮。でも僕は、赤髭よりブラック・
ジャックの 方 が 好 き だ ﹂
﹁どちらでもいいわ⋮⋮﹂と百恵は笑った。
そうどう
﹁明日、河上吾郎氏を訪ねようと思います。ほら以前、一回目のスキャンダル騒動の時に
さいこう こ もん
僕らを助けてくれた、コスモス園の最高顧問⋮⋮﹂
うなず
頷いた。
﹁私もお 会 い し て み た い ⋮ ⋮ ﹂
じい
ぎゅう じ
くろ
﹁ただの爺さんですよ。しかし、影の力は絶大です。悪く言えば、医療介護界を牛耳る黒
まく
幕とでも言いましょうか。彼なら何かヒントをくれるかも知れません。本当に会いたいです
か?﹂
百恵は﹁ 少 し 怖 い け ど ﹂ と 言 い な が ら
﹁明日の 仕 事 は ? ﹂
﹁二連休ですから、緊急の仕事ができない限り大丈夫です﹂
﹁そうですか。いずれ百恵さんの事も紹介しなければいけない人物です。ついでですから
一緒に行き ま し ょ う か ? ﹂
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385
第 2 章(19)葬り去られた夢
﹁はい! ﹂
﹁ねえ、パパ。そろそろ帰ろうよ⋮⋮﹂
ゆう ひ
すっかり忘れていた大樹の声に、二人は﹁ごめん、ごめん﹂と言いながら、百恵は大樹を
抱き上げた 。
三人を乗せたボートは、竜ヶ池を照らす夕陽の中を進み出した。
386
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痴呆の都
︵二十︶光明
はやしたけし
しょうそう
林武と美津子は、少なからず焦燥していた。事件以来、美幸が家に戻らないからである。
そうさくねがい
警察に捜索願を出そうともしたが、事件との関連性に気づかれてしまう事を恐れ、それすら
出来なかっ た の だ 。
ど こ
さいわ
﹁いったい何処へ行ってしまったの⋮⋮?﹂
つの
募った。
美津子の 心 配 は 、 日 に 日 に
やつ
な ぜ
﹁バカな奴だ!これでは自分がやりましたと言っているようなものじゃないか!何故親の
しょうてん
言う事を聞けなかったのか!まあ幸い、山口が医療ミスを認めてくれたから良かったが、犯
罪性の方向に焦点が当たったとしたら、こちらまでとばっちりをくらうところだった!﹂
武の言葉 に 、
﹁そうはならないわ!私は最初からこうなる事を知っていた。山口は、あなたと違って、
ぎ ぜい
自分の子どもを犠牲にする事なんかできない人なのよ﹂
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387
第 2 章(20)光明
えり
美津子が 言 っ た 。
﹁きさま!まだあいつの事を言うのか!﹂
武は美津子の洋服の襟をつかんで右手を振り上げた。
なぐ
しょせん
殴ればいい!美幸を殴っているように、私も殴るがいいさ!所詮、思い通りにならないと、
﹁
うった
む のう
暴力で訴えるしか知らない無能な男のくせに!﹂
き
な
さ
かん そ
ぞう き ばやし
さすがに武も、美津子だけは殴れなかった。曲がりなりにも心から愛した女性なのである。
武は美津子を押し倒すと、荒立たしく玄関へ歩き出した。
ていたく
﹁どこ、 行 く の よ ! ﹂
さが
じ しゅ
捜してくるんだ!警察に自首でもされたら大変だ!﹂
﹁美幸を
武は力任せに玄関の扉を閉めると、そのまま行ってしまった。
た。
河上吾郎の邸宅は、長野市街から鬼無里へ向かう途中の、簡素な雑木林の中にある。
しき ち ない
静かに車を降り立っ
百恵を乗せたニュービートルは、やがてその広い敷地内に停車すると、
うち
﹁大きな お 家 ⋮ ⋮ ﹂
388
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痴呆の都
かんたん
くだ
はち あ
感嘆の声をあげた百恵に、﹁さあ、行きましょう﹂と、浩幸は先に歩き出した。手入れの
さんすいていえん
なが
ほど
きたな
いきとどいた山水庭園を眺めながら、玄関に程なく近づくと、手ぬぐいを頭にまいた汚らし
めずら
い身なりの老人が、山から下ってきたのと鉢合わせをした。
珍しいお客さんだ⋮⋮﹂
﹁ほお⋮ ⋮ 、 こ り ゃ
ふくろ
たが、彼こそ河上吾郎に相違なかった。会議で見かけた彼は、スーツ姿の上品な印象で、目
老人がそ う 言 う と 、
せつ
節はありがとうございました﹂
﹁その
したが
あいさつ
従って挨拶をした。
身なりからは想像もできなかっ
と浩幸が頭を下げたので、百恵もそれに
ぞう き
じ まん
の前の人物と同一であるとは思えない。老人は手にした袋を広げると、セリやナズナやウド
と
や雑木の葉など自慢げに見せ、
採 って来たんだよ﹂
﹁今、山 か ら
﹁ちょいとこれで天ぷらを
と言った かと思うと、﹁ばあさん!﹂と叫 んで妻を呼びつけ、
あ
ち そう
うれ
揚げてくれんか。お客さんにご馳走するのだ﹂と嬉しそうに言った。そして二人を広い客間
しも ざ
い なら
に通すと、﹁ちょっと着替えてくるから待っていてくれ﹂と、そのまま姿を消したのだった。
下座に二人居並んだところへ、しばらくすると、先程の﹃ばあさん﹄と呼ばれた妻がお茶を
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389
第 2 章(20)光明
し ぞく
なつ
運んで来て、浩幸の顔を見ながら懐かしそうに微笑んだ。
ぶ さ
た
ふ わく
子息の浩幸ちゃん⋮⋮?まあ、こんなに大きくなって⋮⋮﹂
﹁山口正 夫 先 生 の ご
すず
浩幸は﹁ご無沙汰しています。もう不惑の年を越えました﹂とはにかんだ。そして彼女は
いちれい
百恵の顔をのぞき込むと、一礼した後、笑顔を残して下がっていった。
﹁幼い頃、父に連れられてよく来たものです。お金を借りに⋮⋮﹂
せ けん
さわ
浩幸はそう言うと苦笑した。山水庭園が一望できる開けはらわれた引き戸から、涼しげな
き なが
おごそ
風が吹き込んでいた。やがて着流しの和服に着替えた河上が、厳かに入ってきた。
なぐ
こ
むすめ
ゆ かい
﹁だいぶ世間を騒がせているようだな。毎日、新聞を楽しく読まさせていただいているよ﹂
めんぼく
面 目も あ り ま せ ん ⋮ ⋮ ﹂
﹁
こうしょう
河上は哄笑すると、次に百恵に目を向けて、
み
もの
ふともも
殴り込みをかけてきた娘さんですね。愉快だったぞ。特に責任の
﹁貴方はこの間の会議に
おもしろ
取り合いが面白かった。もう一度やってくれないかね?﹂
あわ
﹁見せ物じゃありません!﹂
慌てて彼女の太股をつついて言葉をとめた。
と百恵が 言 う と 、 浩 幸 は
しりぬぐ
﹁で、今日は何の用事かな?医療ミスの尻拭いの相談か、それとも結婚の挨拶かな?﹂
390
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痴呆の都
浩幸は﹁両方です﹂と答えた。河上は二人の
﹁ばあさ ん ! 天 ぷ ら は ま だ で す か ? ﹂
しんこく
深刻な顔には無関心な様子で、
と叫ぶと、遠くで﹁はい、ただいま!﹂という声が聞こえた。
じ き
は
く
め
時季の葉っぱは何でも食える。うまいぞ!ちょうどよい時季に来た。たんと召し上
﹁この
がって帰れ ﹂
浩幸は﹁ありがとうございます﹂と頭を下げた。
おもかげ
面影があるの⋮⋮﹂
﹁こうして君の顔を久しぶりにじっくり見ると、やはり正夫君の
河上はそう言うと懐かしそうに昔話を始めたのだった。
ほおがえ
がん こ もの
頬返しがつかない頑固者だった。当時はまだ痴呆とかアルツハイマーなんて言
﹁まったく
ねこ しゃく し
葉は一般的でなかったから、年をとってボケれば、猫も杓子もボケ老人、ボケ老人と言って
しょうばい
おおげん か
おったもんだ。ところが正夫君はボケは病気だなんて言い出したんだ。わしの方は、介護施
設の老人を、医者になんか取られたら商売あがったりだ。そこで二人は大喧嘩さ﹂
河上は再 び 哄 笑 し た 。
てん か ご めん
びんぼうにん
天下御免の貧乏人だ。金に困ると決まってわしのところに来て、バツ
﹁ところが正夫君は
つうかい
が悪そうに頭を下げる。その時ばかりは痛快だったねえ!しかし、今となっては彼の説が主
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391
第 2 章(20)光明
とな
流になってしまったよ。あの頃から優秀な医師であった事はわしも認めざるを得ない。正直
そうせつ
はい か
言って、今回の統合計画も、わしにとっては大きな驚きだったのだよ。正夫君の隣りにちょ
こんと座っていたあの小さな君が、わしの創設したコスモス園を配下に置こうというのだか
らね⋮⋮﹂
﹁そういうつもりで進めて来た事業ではありません﹂
遠
えん
﹁分かっておる│││。しかし、わしはそう思ってしまったのだよ。でも今では、わしは
すで
引退して既に老いた。そして時代の成り行きはわしにも分からない。若い世代の人達に、全
てを任せようと思って何も言わないで見ているのだよ﹂
じょう
そこへ揚げたての天ぷらが届いた。河上は嬉しそうに﹁おお、きたか、きたか。さあ、
りょ
慮 せずに召 し 上 が れ ﹂ と 言 う と 、
おも も
嬢さん、お名前は?﹂
﹁ところ で お
かべ
は
つ
わしはうちのばあさんが嫉妬するくらいの百恵ちゃんの大ファンでな、昔は彼女のポスター
しっ と
百恵は少し緊張した面持ちで﹁馬場百恵です﹂と答えた。
ゆ かい
﹁なんじゃ?とすると、浩幸君と結婚すれば〝山口百恵〟になるじゃないか!愉快、愉快、
しょさい
を書斎の壁いっぱいに貼り詰めて、鼻の下を伸ばしていたものだよ!﹂
392
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痴呆の都
み たび
はし
三度哄笑したかと思うと、目の前の天ぷらをうまそうに食べ始めた。
河上は
﹁さあ、あなた達も食べて食べて⋮⋮﹂
ぶ
き よう
浩幸と百恵は﹁いただきます﹂というと、遠慮しがちに箸を取った。
﹁お嬢さ ん │ │ │ ﹂
ま じ め
河上は、真面目な顔に戻ってそう言った。
不器用だ。そのせいで苦労してきた事は貴方も
﹁見かけによらず浩幸君は女性にはとんと
じゅうじゅう
めんどう
重 々 知っておるだろう。どうか今度こそ幸せになれるよう、貴方がしっかり面倒を見てあ
げて下さい ﹂
て
照 れながら﹁はい﹂と答えた。
百恵は
﹁そういえば、昔、こんな事があったなあ⋮⋮⋮⋮﹂
てっきょもんだい
河上は久しぶりの来客に、さぞ嬉しそうな笑顔を浮かべながら、いつまでも話しを続ける
のであった │ │ │ 。
くわばたけ
よう せい
ま
撤去問題だった。当時盛んに行われた道路
それは何十年も前に持ち上がったコスモス園の
ともな
ほたる が おか
しんこうじゅうたくがい
く かくせい り
整備に伴い、蛍ヶ丘周辺に振興 住 宅街を指向した行政が、その区画整理の計画を打ち出し
た時である。当時、周囲一面に桑畑が広がるコスモス園に、ある日突然撤去要請が舞い込ん
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第 2 章(20)光明
に しゃたくいつ
せんたく
せま
だ。内容を見れば、行政側が一方的に、区画整理のため現在の場所からの移転を強要してき
4
て、施設を行政に売り渡すか、豊丘の山奥へ移転するかの二者択一の選択を迫った問題であっ
し
ふく し
た。時代はまだ高齢社会はおろか、高齢化社会すら叫ばれる以前の話で、老人介護といって
も社会的にそれほど重要視される位置を占めてはいなかった。行政における福祉さえ、その
意味さえ理解されていなかったのである。そういう時代に河上は老人介護を目的とした施設
けん か
きた
を作ったわけだが、その役割を本当の意味で理解してくれる者は、当時にして老人を入所さ
よ けん
せる家族と、山口正夫だけだったという。正夫は河上と喧嘩をしながらも、来るべき高齢社
なや
あ
く
会を予見していた。その上で介護施設の必要性をけっしておろそかには考えていなかったの
だ。河上は悩んだ挙げ句に正夫の前でこう言った。
れっ か
﹁正夫君、僕はコスモス園を手放そうと思う⋮⋮﹂
烈火のごとく叫んだのだった。
その時正 夫 は
み そこ
とつにゅう
しょう ち
﹁吾郎君、見損ないましたね!いずれ日本は高齢化社会に突入する。それを承知で君は介
護施設を作ったんじゃないのかね!今、やめるならば、最初からやらなければよかったです
ね。ああ、コスモス園に期待した私の見当違いだった﹂
にら
﹁正夫君、そうは言うがね、行政から睨まれてみろ。どうすることもできないよ﹂
394
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痴呆の都
にち や
﹁吾郎君、本当に君は、老人介護の仕事をやる気があるのかい?﹂
﹁もちろ ん ! ﹂
じんぼう
けたはず
ほんそう
きょう み
その言葉を聞いた正夫は、コスモス園存続のために日夜をわかたず奔走したのだった││
│。
﹁なんせ人望だけは桁外れに厚い人だったからね⋮⋮。彼はまるっきり政治には興味を示
さなかったが、県会議員、いや、国会議員にもなれたんじゃないか?﹂
しゅ み
河上はここまで話すと再び天ぷらを口にした。
思表示をしたのだよ。いくら行政でも市民を敵に回すわけにはいかなかった。その態度がコ
﹁仕事が趣味の人生でしたから⋮⋮﹂
そ
添 えた。
浩幸が言 葉 を
またた
ま
﹁彼は瞬く間に地域住民を味方に付けた。そして行政に対して、コスモス園撤去反対の意
ロリと変わってね、そうしてコスモス園は現在に至っているんだよ﹂
百恵は初 め て 聞 く 話 に 感 動 し て い た 。
あの時、
彼が味方してくれなかっ
﹁わしは正夫君にいくら金を貸したか覚えてないが、もし、
たら、今頃どこかの老人ホームで、しがない余生を送っていたに違いない。わしは、彼に貸
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395
第 2 章(20)光明
か
つ
おん
やく
恩を返す時がきたよう
した金など問題でないくらい大きな借りが、正夫君にはあるのだよ﹂
河上はそ の 話 を 終 え る と 、
﹁少しいい気分になってきました。お酒でも飲みましょうか?﹂
しょもう
所望した。
と言うと 、 妻 に 酒 を
﹁すみま せ ん 、 僕 は 車 で す の で ⋮ ⋮ ﹂
浩幸に続 い て 百 恵 も す か さ ず 、
﹁私もお 酒 飲 め ま せ ん か ら ⋮ ⋮ ﹂
と言った 。
ふ さい
夫妻ですね│││﹂
﹁なんで す か ? つ ま ら な い
河上はそう言うと、運ばれた酒を一人で飲み始めた。そして、
ついにんしょぶん
﹁今日、浩幸君がわしのところに来たのを見ると、どうやら、その
ですな⋮⋮ ﹂
もの わ
と言った 。
物分かりの早い河上は、浩幸の追任処分を取り消す手を尽くす事を約した。彼が動けば全
じゅうちん
た やす
国の医療介護施設の重鎮達を動かすことは、いとも容易い事なのだ。
396
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痴呆の都
﹁あの統合計画は決して悪くない。介護と医療の両立を考える上で、今後の時代をリード
しゆくモデルとなろう。君は、わしと正夫君の理想だった夢を、まさに実現してくれようと
している。老いぼれながら、全面的に協力させてもらうよ﹂
浩幸は深 々 と 頭 を 下 げ た 。
だ め
ぶ
﹁しかし医療ミスは駄目だ。わしの専門外だし、分も悪すぎる│││﹂
河上はそう言うと、笑顔を浮かべながら酒を飲み続けた。
それから間もなく、西園の驚く表情をよそ目に、浩幸の追任処分は取り消された。
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397
第 2 章(21)過ぎ去った悪夢
い ぞく
︵二十一︶過ぎ去った悪夢
な
こく そ
むね
る
る しる
亡くなった患者の遺族から、浩幸のところに一通の手紙が届いた。そこには今回の医療ミ
スに対して、告訴をする意志がない旨の内容が縷々記されていた。
はげ
おうじょう
あきら
めんどう
﹃│││主人は幸せだったと思います。数年前に植物状態になってから、先生には絶大な
励ましをいただき続けながら、つい先日の往生まで、最後まで諦めずに面倒を見ていただい
あんらく し
たこと、感謝の言葉もございません。実を申し上げますと、看病に疲れた私たち家族は、何
しっ た げきれい
度先生に安楽死のご相談を申し上げようとしたか分かりません。ある時は、そんな弱気の私
達を叱咤激励して下さった先生が、まるで昨日の事のように思い出されるのです。
せ
今回の事件に際し、その先生の姿を思い返すにつき、私達は先生の医療ミスであるとは、
もうとう
すで
どうしても考えられませんでした。仮に医療ミスであったとしても、先生を責めるつもりは
毛頭ございません。なぜなら、主人が死ぬ前から、既に私達は、主人の命を半分諦めていた
わけですから⋮⋮。主人の死は、きっと天命だったに違いありません。その事をお伝えした
398
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痴呆の都
く、このお手紙をしたためた次第でございます。
ところが、あの日の翌日、弁護士の林武様がお見えになり、告訴をすべき事件だと強く言
うら
い寄って参りました。私はそのような意志がないことをお伝えしたのですが、どうもしつこ
く、毎日のように来るのでございます。話を聞いておりますと、何か先生に恨みでも持って
いるかのようなのですが、何かお心当たりはございますでしょうか?いずれにせよ、私には
告訴をする意志はございませんので、どうかご安心下さい。│││﹄
かじ と
にな
だい
しようという気持ちはまったくなかった。新生コスモス園の舵取りを担える事になった今、
しんせい
〝林武〟の文字を見たとき、﹁やはり﹂と思った。しかし、それに対してどうこう
浩幸は、
しょう
り れき
過ぎ去った出来事はあまり重要ではなかったのだ。それに、美幸や美津子が苦しむ事の代
ふうとう
償が、自分の履歴に傷を付ける程度で済むならば、それは不幸中の幸いに違いなかった。彼
じんじょう
は無表情のまま手紙を封筒に収めると、デスクの引出の奥の方にしまい込んだ。
いきどお
憤りも尋常でなかった。
一方、武にとっては全てが裏目に出る結果となり、合わせて須崎の
﹁いったい林さん、どう責任を取ってくれるんだ?俺はあんたを信じて、あんたの言われ
ふた
もと
もく あ み
やつ
る通りにした。ところがどうだ?蓋を開けたら元の木阿弥、
奴が医療ミスを犯したところで、
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第 2 章(21)過ぎ去った悪夢
はら
何も変わっ て い な い じ ゃ な い か ! ﹂
ののし
腹の虫がおさまらない須崎は、武の家を尋ねて罵った。
どうにも
うば
﹁そんなに目くじらを立てて怒らないで下さいよ。私の方も、遺族が告訴しないと言い張
るので困っているところです。まあ、奴に医療ミスのレッテルを貼っただけでも、ある意味
成功ですよ ﹂
はくだつ
おだ
﹁バカを言っちゃいけない!奴の社会的立場を奪うのが目的だったはずだろう!﹂
ち めいてき
致命的だ。もっと時間をかければ、奴の医師免許を
﹁ な あ に、 医 療 ミ ス は 医 者 に と っ て は
降格なんだぞ!この責任は何らかの
こう かく
剥奪する事だって可能だ。もう少し穏やかにお願いしますよ﹂
﹁ こ れ が 穏 や か に い ら れ る か! 次 期 施 設 長 が 事 務 長 に
形でとって も ら う か ら な ! ﹂
しょう し みん
須崎はそう言い捨てると、息を荒げて帰って行った。
﹁ 小 市民 め ⋮ ⋮ ﹂
ちょうしょう
その後ろ姿を見ながら、武は嘲笑した。
いちおう
さわ
一応の騒ぎは収まったものの、医療ミスに関しては尾を引いたままだった。一連の事件で
400
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痴呆の都
そうめい
じ じょうちょうしゅ
犯罪性を感じた警察は、浩幸の提示する参考書類に疑問を持ち始めていた。娘をかばおうと
たび
ひ ろう
する聡明な浩幸にして、真実は隠し通せるものではなくなってきていた。事 情 聴 取のため、
き づか
何度警察に出向いたことか。その度、大きな疲労を覚えるのであった。
かみなりだき
は ふうこうげん
ほくさいかん
気遣って、百恵は時間が空くと、彼を自分の軽自動車に乗せて、様々な場所
そんな浩 幸 を
へ連れ回した。 雷 滝や破風高原、北斎館や人形博物館│││、浩幸にとってそれは、つか
の間の気休 め だ っ た 。
﹁百恵さん、僕はどうも警察というところが嫌いだ⋮⋮﹂
ある時浩 幸 は 呟 い た 。
﹁警察が好きな人なんているのかしら?何も悪い事などしていないのに、警察の人を見か
けるとドキリとして、なんだか逃げたくなるのは私だけ⋮⋮?﹂
浩幸は﹁僕もです⋮⋮﹂と、ニヤリと笑った。
ど れい
﹁同じ人間のはずなのに、彼等はいつも高みからものを言う。法という権力を持つと、あ
こうまい
あも人間は高邁になれるものでしょうか?﹂
〝警察は法の奴隷〟だってあったわよ﹂
﹁浩幸さんの好きなユゴー。レ・ミゼラブルの中に、
﹁つくづ く 同 感 し ま す よ ﹂
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第 2 章(21)過ぎ去った悪夢
ね
ほ
は
ほ
百恵には、警察で根掘り葉掘り聞かれて、精神的に参っている彼が心配でならなかった。
やす
できることならば、一刻も早く真実が分かって、浩幸に安らぎを与えてやりたかった。しか
しそれは同時に、娘を警察に売るのと同じ事なのだ。
い そうろう
﹁これ以上、本当の事を隠す自信がなくなりました⋮⋮﹂
百恵は何 も 答 え ら れ な か っ た │ │ │ 。
めいわく
その夜、百恵は毎日部屋に居 候 する美幸と話をした。
﹁ねえ、美幸ちゃん⋮⋮、いつまでこのままでいるつもり?﹂
﹁やっぱり迷惑ですか⋮⋮?迷惑ですよね⋮⋮﹂
美幸は悲 し そ う な 顔 を し た 。
﹁そういう意味じゃないのよ、私はぜんぜんかまわないの。だって美幸ちゃんは妹みたい
なものだも の ⋮ ⋮ ﹂
美幸は安 心 し た よ う に 微 笑 ん だ 。
﹁でもね、ご両親が心配していると思う⋮⋮﹂
﹁あんなの親じゃない!私が帰ったって殴られるだけ⋮⋮﹂
﹁それに仕事だっていつまでも休んでいたらいけないと思う⋮⋮。私、浩幸さんに話しと
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痴呆の都
いてあげる か ら ⋮ ⋮ ﹂
﹁戻れるわけないじゃない、あんな事したんだから│││﹂
美幸は慌 て て 口 を つ ぐ ん だ 。
﹁あんな 事 っ て ? ﹂
﹁なんで も な い ⋮ ⋮ ﹂
百恵は悲 し そ う な 目 を し た 。
﹁美幸ち ゃ ん 、 あ の ね ⋮ ⋮ ﹂
百恵は言おうか言うまいか迷ったが、浩幸の事を思うと言わないわけにはいかなかった。
﹁浩幸さん、あなたのしたこと全部知ってるのよ⋮⋮﹂
美幸は驚 い た 表 情 で 百 恵 を 見 つ め た 。
め せん
﹁それなのに、あなたの事をかばって、全部自分のミスだと言い張っているの⋮⋮﹂
﹁バッカ じ ゃ な い の ? ﹂
目線をそらした。
百恵の真剣な目つきに耐えきれず、美幸は
﹁なぜそこまでして、あなたをかばうか分かる?﹂
つぐな
償おうとしているんじゃないの?﹂
﹁きっと昔、私のお母さんにひどい事したから、その罪を
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第 2 章(21)過ぎ去った悪夢
﹁ひどい 事 ⋮ ⋮ ? ﹂
﹁そうよ!だってお母さんが言ってたもん!あの院長に殺されかけたって!﹂
ゆ
﹁何を言ってるの?あなたのお母さんと浩幸さんは昔⋮⋮﹂
百恵は慌 て て 言 葉 を 止 め た 。
?
﹁なあに?お姉さん、何か知ってるの⋮⋮!﹂
﹁なんで も な い ⋮ ⋮ ﹂
﹁何か知ってるのね?教えて!お願い!﹂
百恵は言葉を詰まらせた。美幸は百恵の身体を何度も揺さぶった。
﹁お姉さんが言わないなら私も言わない!﹂
﹁美幸ち ゃ ん ⋮ ⋮ ﹂
うそ
百恵は、本当の事を隠しておくことがいけない事のように思えた。浩幸が警察に隠してい
ることも、親子の関係の視点から考えればけっして理解できないことではないが、果たして
それが美幸にとって本当に良いことなのか?嘘を平気で飲むような人間になることが、美幸
にとって本当に幸せになることなのか?そして、真実の親子の関係を隠しておく事も、果た
げんぜん
して本当に良い事なのか?百恵には分からなかった。ただ、厳然とある真実に対して、それ
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痴呆の都
そ せい
を知らない事は不幸ではないかと思った。真実を知って、初めて人は蘇生できると信じた。
﹁美幸ちゃん⋮⋮、あなたの名前、どうして〝美幸〟ってついたか、考えた事ある?﹂
じ せき
﹁名前⋮⋮?それがどうしたのよ!そんな話をしてるんじゃない!教えて!﹂
しかし、やはりそれ以上は言えなかった。心の中で、浩幸の笑顔が浮かんでいた。﹃浩幸さん、
ごめん⋮⋮、私、言っちゃった⋮⋮﹄│││、自責の念は百恵を苦しめた。
そして、百恵の視線を背中で感じながら、美幸は自分の名前についてずっと考えていた││
﹁もういい!お姉さんなんか、嫌い!﹂
美幸はそう言い捨てると、毛布にくるまったかと思うと、百恵に背を向けて寝てしまった。
│。
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405
第 2 章(22)告白
︵二十二︶告白
ぜん ら
﹁ねえ、 太 一 ⋮ ⋮ ﹂
さそ
ひる ま
全裸で毛布にくるまりながら、美幸が言った。このところ、仕事で誰もいない昼間の太一
きょうらく
ひた
の部屋では、毎日のように二人はセックスの享楽に浸っていた。その日も朝から両親は仕事
に出かけ、遅番で出かけた百恵を確認すると、太一は姉の部屋にいる美幸を誘ったのだ。
戸籍謄本をもらえば家族の事が全部分かるって教わったけど、どうし
こ せきとうほん
﹁自分の親の事ってどうすれば調べられる⋮⋮?﹂
毛布に顔 を う ず め て 美 幸 が 言 っ た 。
﹁ 市 役 所 に 行 っ て、
て⋮⋮?﹂
﹁ふうん⋮⋮、そんな簡単に調べられちゃうんだ⋮⋮﹂
美幸は少 し 考 え 込 ん だ 様 子 で 言 っ た 。
﹁太一はどうして〝太一〟って名前が付いたの?﹂
406
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痴呆の都
ゆ らい
﹁俺の名 前 ⋮ ⋮ ? ﹂
いきさつ
経緯を話し始めた。
太一は笑いながら﹁姉ちゃんから聞いたんだけど﹂と言って、その
〝美幸〟
美幸は笑ってその話を聞きながら、一方では自分の名の由来について考えていた。
とはごくありふれた普通の名だが、仮に美幸の〝美〟が母の美津子からとったものであると
す れ ば、
〝幸〟はどこからきたのだろうと考え始めたのである。父からのものでないことは
明らかであったし、自分に対する暴力の事を考えると、果たしてあれが本当の父親であるの
かと疑問を持ち始めたのだ。加えて百恵が盛んに﹁浩幸さん、浩幸さん﹂と言うのに加えて、
先日の話である。浩幸の〝幸〟│││。美幸は﹁まさか﹂と気づきはじめていた。しかし、
いまさら
真実を知る勇気がどうしても出なかった。今更本当の父親が別人だったとして、果たしてど
うなるもの で も な い 。
﹁太一⋮⋮、もう一度エッチしよう│││﹂
美幸は太一の腕の中で全てを忘れようとしていた。
やがて夕方になり、太一の母親が帰って来ると、美幸は百恵の部屋に戻った。
と
泊めとくつもり!まさか、私達がいない間、二人で変な
﹁ 太 一! い っ た い い つ ま で 彼 女 を
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第 2 章(22)告白
事してない で し ょ う ね ! ﹂
ふ
き げん
不機嫌だった。
母はしびれを切らせて、このところ毎日
﹁何言ってんだよ。ただの友達なんだから!それに行く場所がないんだから仕方がないよ﹂
ないしょ
﹁まったく、家出なら家出でいいけど、向こうのご両親には、ここにいる事を本当に教え
てあるんで し ょ う ね ! ﹂
ろうにんせい
﹁だから!彼女に内緒で連絡してあるって!﹂
うそ
嘘を重ねながら、毎日必死で言い訳をするのであった。
太一は
﹁あなた、浪人生なのよ!まったく勉強もしないで!﹂
ふく
含めて夕食の準備をするのである。一方父の方は比
母はブツ ブ ツ 言 い な が ら 、 美 幸 の 分 も
む とんちゃく
ほうにんてき
較的無頓着で、﹁若いのだからいろいろあるさ﹂と、放任的な態度を示していた│││。
すみ
百恵のいない、整理整頓がされている六畳ほどの部屋で、美幸は隅に置いてあった箱が気
になり開けてみた。そこには雑誌や新聞の切り抜きがまとめてあり、美幸はそれにはじから
目を通した。コスモス園との統合計画を報じた新聞や雑誌の切り抜きにはじまり、各種雑誌
に登場した浩幸のインタビュー記事や関連記事、最近のものではスキー場の二人の写真やパ
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痴呆の都
すき ま
ひっせき
ブでの写真、そして医療ミスが起こってからの各社の新聞報道の切り抜き│││。それらを
まんねんひつ
にじ
なん
手にして見ていると、隙間から彼女の筆跡と思われる数枚のメモ書きが落ちてきた。美幸は
つぶ
ふとそれを拾って見ると、万年筆の文字が滲んでいた。おそらくこのメモを書きながら、何
粒 もの涙を 落 と し た の で あ ろ う 。
浩幸さん 、 浩 幸 さ ん 、 浩 幸 さ ん │ │ │
貴方にも名前があるのに、私は貴方を名前で呼べないの。
いつも〝先生〟って呼ばなきゃいけないの。
ホントは〝浩幸さん!〟って大声で叫びたいのに、
名前で呼んじゃいけないの?
すず
私の名前 は 百 恵 │ │ │
でも貴方は私を名前で呼んでくれない。
涼やかな顔で、私を〝馬場さん〟て呼ぶ。
そして貴方は、いつもとても
ホントは〝百恵〟って言ってほしいのに⋮⋮。
まじ
交わる事はないのかしら。
そうして私たちは線路のように、どこまで行っても
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409
第 2 章(22)告白
☆
今日、浩幸さんが私を見て笑った。
ホントに笑ったの⋮⋮。確かに笑ったの⋮⋮。絶対笑ったの⋮⋮。
診察のおじいちゃんも一緒だったけど、
浩幸さんは私を見てた。ホントに見てたのよ!
そして笑ってた⋮⋮
そう思わないと私、胸がとっても苦しくて、なんだかとっても切なくて、
たま て ばこ
そして涙がこぼれてきて⋮⋮
うらしま た ろう
☆
あの人を 思 う と 、
浦島太郎が玉手箱を開けた時みたいに、
まるで
私の心が真っ白になって、胸が苦しくなるの⋮⋮
浩幸さん ⋮ ⋮
その名前 を 思 い 出 す と 、
貴方の声が聞こえるの。貴方の歩く姿が目に浮かぶの│││
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痴呆の都
ちょうしん き
たばこ
聴診器、煙草の煙、貴方の笑顔⋮⋮
白衣の
私の空想が現実であったなら、今すぐ貴方の胸に飛び込んで、
ずっと抱きしめていてもらうのに
☆
浩幸さん に 振 ら れ た の │ │ │
大樹君にも会っちゃダメだって│││
いっそ笑っちゃおうって思うけど、
あふ
笑った顔から涙が溢れて、とめどなくこぼれて、ぐちゃぐちゃになって│││
それでも笑おうと思ったら、
も
泣き虫の私の声が漏れてきて│││、
それがとっても変な、みょうちきりんな泣き声なのよ
た
何ヶ月も経って、
その声を思い出すとき、私はやっと笑えるようになった
☆
の
載 った、浩幸さんと。
初めて雑誌に
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第 2 章(22)告白
コスモス園のみんなはびっくりしてたけど、
うれ
嬉 しかった。
私はなん だ か ち ょ っ ぴ り
でも、よく考えたら、たいへんな事になりそう
そう思ったら、私の元気が全部吸い取られちゃった⋮⋮
浩幸さんのために私ができること│││
何もないことにはじめて気づく
愛は地球を救うなんて、そんなのウソ!
だって浩幸さんを愛していたって、たった一人の愛した人さえ救えない私⋮⋮
どうすれ ば い い の ? ⋮ ⋮
☆
浩幸さん と キ ス を し た
心臓が飛 び 出 す か と 思 っ た の
たった数秒だったかも知れないけれど、
私は永遠 の 時 間 の 中 に い た 気 が す る の
こうふく
私にとっての幸福、私にとっての喜び、
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痴呆の都
そして私にとってのすべて│││
浩幸さんは、私の全部を包んでくれた
☆
愛するってなあに?
ほうよう
いつく
与えること?包容すること?慈しむってこと?
浩幸さん 、 浩 幸 さ ん 、 浩 幸 さ ん │ │ │
私は貴方のすべてを受けとめて、
く おん
で
あ
貴方の望むことなら何でもしてあげたい
つみ
ばつ
罪になろうとも、どんな罰を受けようとも
それが
だって貴方と私は、この世に生まれて初めて出会ったのではなく、
久遠の昔に出逢ってた│││
きっと
し かた
貴方と一緒にいると、私にはそう思えて仕方がないの
大丈夫、 大 丈 夫 │ │ │
きっと全 部 う ま く い く │ │ │
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第 2 章(22)告白
ひとみ
い だい
百恵の浩幸に対する思いを知った時、美幸の瞳からは涙がこぼれていた。人を愛する事の
れんあいかんじょう わく
意味がなんだか少し分かったような気がした。確かに恋愛感情の枠の中の思いに違いなかっ
たが、その思いを何年にも渡って思い続けている百恵が偉大に見えた。それに比べて自分は
けん お かん
さいな
どうか?親の言われるままに罪を犯して院長を追い込み、百恵を悲しませ、その弟の太一ま
で思い出したくない事を忘れるための道具にしている。美幸は自分に対する嫌悪感に苛まれ
た。やがていたたまれなくなって手紙を書いた。
てんてき
﹃お姉さ ん 、 ご め ん な さ い 。
点滴に毒薬を入れたのは私です。私、山口医院の院長が悪い人だと思ってました。でも、
お姉さんがこんなに好きになる人が、悪い人なわけがない。私、勇気を出して前へ進みます。
怖いけど、自分でやったことは、やっぱり自分で責任をとらなきゃね⋮⋮。
いじ
私の名前の事、考えてみたよ。そして、もしかして、私のお父さんは違う人かも知れないっ
て思いました。でも、私にはそれを調べる勇気はありません。やっぱり私のお母さんは今の
お母さんであり、私のお父さんは、暴力を振って私を苛めるけど、やっぱり今のお父さんな
のです。
今までありがとう⋮⋮。太一によろしく⋮⋮﹄
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痴呆の都
あいさつ
挨拶をすることもなく、そのまま姿を消した。
美幸はそ れ だ け し た た め る と 、 太 一 に
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第 2 章(23)暗闇の殺意
︵二十三︶暗闇の殺意
じ しゅ
ただ
しつよう
そうさく
警察に自首した美幸の告白で、事件は直ちに解決に向かった。両親には絶対迷惑をかけま
しんそう
う
ぼ
ひと つき ご
しゅぼうしゃ
いと、必死に自分一人の犯行だと言い張った美幸だったが、やがて警察の執拗な捜索によっ
たい ほ
ぎゃくたい
きょうはく
て、その真相が浮き彫りとなった。そして事件発生からおよそ一月後、殺人容疑の首謀者と
しょるいそうけん
して林武が、共犯者としてその妻美津子は逮捕されたのだった。美幸は虐待による脅迫にお
おさ
ける犯行の上、未成年ということもあり、書類送検されたのみで済んだが、逮捕される両親
にく
震え出し、浩幸に対する憎しみは、もはや抑える
ふる
を見たとき、殺人以上の罪悪感を覚えずにはいられなかった。
その新聞記事を読んだ須崎はわなわなと
ことはでき な く な っ て い た 。
こんやくゆび わ
│││ここで、新津俊介について述べておかねばなるまい。
婚約指輪やホワイトパールのブレスレッド、それに事
彼のアパ ー ト に 、 彼 が 百 恵 に 送 っ た
おく
しな
ぼうこう
あるごとに贈った数々の品が郵送で送られてきたのは、彼が浩幸に暴行を加えた夜から数日
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痴呆の都
ひっせき
むね
なが なが
しる
かんしゃ
後のことだった。同封の百恵の筆跡の手紙には、浩幸と結婚する旨、俊介に対する感謝の気
な
すべ
持ち、それに長年待ち続けてくれた彼に対する罪悪の気持ちが長々と記されていた。それを
えん こん
無言のまま読み終えた彼は、成す術もなく、頭をうなだれて涙を流した。どのくらい放心状
態のままでいただろう、彼の心に残ったものは、浩幸に対する怨恨だった。しかし彼は、そ
こ きょう
れに対してどうすることもできなかった。やがて、
しなじな
ち くまがわ
か せんじき
い出が染みつく身の周りの品々をひとまとめにすると、
車に乗って、
千曲川の河川敷に向かっ
し
故 郷 に帰ろう⋮⋮﹂
﹁生まれ
と思った。百恵のいない長野に、彼が住む理由などひとつもなかった。やがて百恵との思
たいしょくねがい
な
た。そして、思い出を断ち切るように、その品の一つひとつをたおやかな川の流れの中に投
ふる
げ捨てたのだった。それから彼は会社に退 職 願を提出し、その数ヶ月後、大学以来住み慣
れた長野を 後 に す る の で あ る 。
きゅうけい
最後に、どうしても百恵の顔が見たかった。そして震える指先で、おそらく最後になるで
そら
あろう百恵の携帯番号を、短縮ダイヤルでなく、空で覚えた数字をひとつ一つ確かめながら
ゆっくり押 し た 。
休憩時間、七時を少し回った頃だった。百恵は携帯
百恵の携 帯 電 話 が 鳴 っ た の は 、 遅 番 の
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第 2 章(23)暗闇の殺意
たんまつ
しばら
のディスプレイに表示された相手先を確認すると、大きなためらいを覚えながら電話を取っ
た。
電波の端末に立つ二人は、お互い言葉も見つからず、暫くは無言のままでいたが、やがて、
いなか
﹁百恵⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ﹂
俊介が言 っ た 。
﹁俺、田舎に帰るよ⋮⋮﹂
た
溜めながら、
百恵は申し訳なさで胸がいっぱいになり、目に涙を
﹁いつ⋮ ⋮ ? ﹂
と聞いた 。
た
﹁今晩、 発 と う と 思 う ⋮ ⋮ ﹂
百恵は﹁そう⋮⋮﹂と、一言いった。そして、それ以上の言葉が出ない自分を冷たい女だ
と感じた。
くから、俺の最後の願い、聞いてくれる?﹂
﹁最後に、百恵の顔が見たいんだ⋮⋮。今日、遅番だろ?八時にコスモス園の駐車場に行
百恵は小さなためらいを感じながら、﹁うん⋮⋮﹂と返事をして電話を切った│││。
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痴呆の都
かげ
の
影に呑み込まれたような、げっ
そして、八時の駐車場で、まるで何かとてつもない大きな
や
そりと痩せこけた俊介の姿を見つけた時、介護服姿の百恵は、彼を抱きしめてあげたい気持
ちでいっぱいになった。しかし、それはけっしてしてはいけない事だということは知ってい
ご かい
た。百恵は俊介の前に立つと、﹁新津君⋮⋮﹂とだけ言った。
﹁元気そうで安心した。山口先生の医療ミスも誤解が晴れて、よかったね⋮⋮﹂
わ
や
こ ごと
﹁新津君⋮⋮⋮⋮、バカ⋮⋮。毎日、ろくにご飯も食べてないんでしょ!毎日インスタン
なか
ト食品やカップラーメンばかりじゃダメって言ったじゃない!お腹がすくとどうせスナック
せ
ばっかり食べてんでしょ!それに、夜はしっかり寝ないと⋮⋮!﹂
あやま
つ
世話焼きに戻って、涙を流しそうになりながら昔の小言を並び立てた。
百恵はす っ か り 昔 の
﹁俺はもう、百恵の子供じゃないよ。そんな事言わないで。帰れなくなるじゃないか⋮⋮﹂
謝らなければいけない事がある⋮⋮﹂と話を次いだ。
そして、﹁最後に
ちか
﹁実は俺、あの山口先生の医療ミスの報道を聞いたとき、正直〝ざまあみろ〟って思って
しまった。そして医療ミスでなく、赤の他人の犯罪だと知ったときも〝ちくしょう〟って思っ
た。俺って最低だろ?百恵が愛したものは全部愛そうと誓ったはずなのに、今の俺は、百恵
が最も愛した人を、最も憎んだまま帰ろうとしているなんて⋮⋮。結局俺は、百恵を愛し切
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第 2 章(23)暗闇の殺意
れなかった の か も 知 れ な い │ │ │ ﹂
百恵は俊介を見つめて何も言わなかった。
﹁ごめん な ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ﹂
うそ
俊介は百恵に手を差し伸べた。その顔に、精一杯の笑顔を作りながら│││。
百恵は謝らなければならないのは自分である事は分かっていた。しかし彼の新たな旅立ち
の最後の言葉が、﹁ごめんなさい﹂で終わってしまったら、それまでの良い思い出が全て嘘
になってし ま う よ う な 気 が し て 、
﹁私、新津君と結婚するより、ずうっと幸せになるんだから!﹂
うる
にぎ
潤ませながら俊介の手を握り返した。
そう言っ て 、 目 を
﹁さよう な ら ⋮ ⋮ ﹂
やがて俊介はそう言い残すと、車に乗って去って行った。
あな
さび
すことの出来ない、大学時代からの大切な男友達との別れだった。一抹の寂しさを抱えたま
いちまつ
百恵の心に、何かひとつ、大きな穴がポッカリ空いた感覚があった。それは、再び取り戻
ま
ま、十時に仕事を終えた百恵は、ため息混じりに車に乗ったのだった。
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痴呆の都
てんめつ
ぎょうぎょう
﹁浩幸さ ん は 何 を し て る だ ろ う ⋮ ⋮ ﹂
ほたる が おか
ものもの
蛍ヶ丘大通りへの突き当たりに、何やら物々しい赤い
そう思っ た と き 、 コ ス モ ス 園 か ら の
や
じ うま
パトロールランプの点滅が見えた。近づけば、その仰々しい赤い光は、山口医院の駐車場に
さえぎ
ふん い
き
きょうがく
ほう
止められた数台のパトカーのものであることが知れた。数人の警察官が、野次馬の人だかり
か
あしもと
を遮りながら、何やらただごとでない雰囲気に驚愕した百恵は、車をそのまま道路に抛り出
すと、その人だかりに駆け寄った。看護士数人と警察官数人が話をしている足下を見れば、
大量の黒い液体が、地面の低い方を探して流れているではないか。
?
﹁血⋮⋮!﹂
隣にいた野次馬のおじさんを捕まえて聞けば、
ぶっそう
﹁ここの院長が殺されたらしい⋮⋮。まったく物騒な世の中だよ﹂
つか
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となり
おじさんの言葉の意味を理解した瞬間、百恵の頭の中が真っ白になったかと思うと、キー
みみ な
しばら
や
もど
ンという激しい耳鳴りが暫く鳴り止まなかった。ようやく意識を取り戻した時、
百恵はす ぐ に そ れ と 知 れ た 。
﹁いった い 、 何 が あ っ た ん で す か ! ﹂
!﹂
﹁いやー ー ー っ !
421
第 2 章(23)暗闇の殺意
ひ めい
はっきょう
ひび
われ
と、辺りに言葉だか悲鳴だか分からない発狂の声が響いた。百恵は我を失ったまま、
?
浩幸さんはどこっ!﹂
﹁どこっ !
たた
おさ
ひざ
と叫んで、黒い液体に向かって飛び出した。すかさず警察官の一人が百恵の身体を取り押
げん ば けんしょうちゅう
さえ、﹁現場検 証 中ですので近づかないで下さい﹂と言った。
き ぐる
﹁放して!放してよ!どこっ!浩幸さんはどこなのよ!放して!﹂
ひ がいしゃ
かた
百恵は警官の顔や身体を気狂いしたように叩いたが、やがて警官に抑えつけられたまま膝
くず
ごうきゅう
を崩して号泣し始めたのだった。
﹁被害者のご家族の方ですか?﹂
百恵は警 官 の 腕 に し が み つ き な が ら 、
﹁妻です!お願い!だから浩幸さんのところへ連れてってえ!⋮⋮﹂
﹁被害者 は 今 、 こ の 医 院 の 中 で す ﹂
目の前を通りすぎるナースを捕まえては、
つか
警官はそう言うと、百恵の身体を支えながら、医院の中へ案内して行った│││。
てんとう
ろう か
す
なが い す
手術室の〝手術中〟の赤いランプが点灯していた。百恵は廊下に据えられた長椅子に座り、
﹁どうなんですか?浩幸さんはどうなんですか?﹂
422
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痴呆の都
く
もくれい
せんねん
つか
繰り返した。ナース達は何も言わずに目礼して、自分の仕事に専念している様子で、誰
を
一人として百恵の質問には答えてくれなかった。
ぶ
じ
どれほどの時間を数えたろう。やがて手術中のランプが消えると、中から疲れ切った西園
が姿を現し た 。
﹁西園さん!浩幸さんは?浩幸さんは、無事なのですか?﹂
なぐ
﹁ああ、 馬 場 さ ん で す か ⋮ ⋮ ﹂
ちから つ
力尽きたように座った。
西園は近 く の 長 椅 子 に
いちめい
と
﹁なんとか一命は取り留めましたが、打ち所が悪い⋮⋮。意識さえとりもどしてくれれば
いいのです が ⋮ ⋮ ﹂
どん き
﹁生きて い る ん で す ね ! ﹂
のう り
鈍器のようなもので、頭を数カ所殴られています。いったい誰が⋮⋮﹂
﹁
ひ てい
西園は顔に両手を覆って、愕然としたままだった。百恵の脳裏に一瞬俊介が思い浮かんだ。
とっ さ
しかし、﹁まさか⋮⋮﹂と思った。彼はこんなことをできる人間ではないと咄嗟にその考え
を否定した。
﹁とにかく、意識が戻るのを待つしかありません。すみませんが院長に付いてあげて下さい﹂
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423
第 2 章(23)暗闇の殺意
いっぱんびょうとう
こ しつ
つ
ひか
西園はそう言い残すと、そのまま力を落とした様子で医師の控え室へ姿を消した。
よ
そ
寄り添いながら、
間もなく、手術室を出てきた看護士が押す、浩幸を乗せた救急ベッドに
いたいた
やがて一般 病 棟の個室に着くと、﹁院長をよろしくお願いします﹂と言って看護士達は出て
いっすい
ほうたい
ま
いった。百恵は痛々しい浩幸の身体をそっと抱きしめながら、﹁死なないで⋮⋮﹂を繰り返
し続け、その日は一睡もしなかった。頭を包帯でぐるぐる巻きにされ、人工呼吸機を口にし
う
せい
はたら
た浩幸は、本当に死んでいるかのようだった。百恵はその手を握りしめたまま、胸がえぐら
れる思いで 無 心 で 祈 り 続 け た 。
ばんぶつ
さいぼう
万物を生み出した〝生〟への働きがあるのなら、どうか浩
│││も し 、 こ の 宇 宙 の 中 に 、
い
ちり
せいせい
せいぶつ
う
幸さんを生かしてください!何もない宇宙の塵が集まって、星を生成して生物を産み出す力
たね
う
め
ふ
さ
み
が本当にあるのなら、どうか浩幸さんの死んだ細胞を生き返らせて下さい!
しん ぴ
お
種を植え、芽が吹き、花を咲かせ、実を付け、種を産み、その種が再び同じ事を繰り返す
よみがえ
自然の神秘よ!そして、生物が生まれ、成長し、老いては死んで、また生まれ、生き物の命
ゆ りょく
を 永 遠 な ら し め る 生 命 の 神 秘 よ! ど う か 浩 幸 さ ん の 細 胞 の 中 に 入 っ て 、 浩 幸 さ ん を 蘇 ら せ
し ぜん ち
て!人体には自然治癒力があるのだから、それらの力よ、浩幸さんの身体に集まって、その
424
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痴呆の都
か せい
治癒力に加勢して!
すく
みちび しゅうきょう
あ なたさま
き
え
きょうしゅ
ささ
救い、人を幸せに導く宗教があるのなら、その教主様、
そ し て ⋮⋮、 そ し て 本 当 に 人 々 を
どうか浩幸さんをお救い下さい!私は全てを捨てて、貴方様に帰依しますから!この命を捧
げますから!だから、だから浩幸さんを助けて下さい!
お願い│││、お願い│││、お願い│││
か
浩幸さん、浩幸さん!気がついて!私の声が聞こえる?聞こえたら返事をして!お願いだ
から!
すで
既に枯れ、かすれた声もついには出なくなっていた│││。
涙は
い ぜん
依然動かなかった。
やがて、いつの間にか朝が訪れた。しかし、浩幸は
し ょ
だい き
そこへ、ランドセルを背負った大樹を連れた西園が入ってきた。
﹁何か変 化 は ⋮ ⋮ ? ﹂
百恵は首 を 横 に 振 っ た 。
浩 幸 の 姿 を 見 つ け た 大 樹 は、﹁ パ パ ⋮⋮﹂ と 言 い 寄 っ て、 頭 の 包 帯 を 見 て﹁ ね え、 パ パ、
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425
第 2 章(23)暗闇の殺意
ゆ
頭ケガしたの?﹂と、彼の身体を何度も揺すった。
﹁パパ?ねえ、パパ⋮⋮?パパったら!﹂
ふ
ろ
百恵は思わず大樹を強く抱きしめ、かすれ声で言った。
ねむ
眠 っ て い る の よ。 大 丈 夫、 も う じ き 目 を 覚 ま す か ら ⋮⋮。 お 姉 ち ゃ ん、
﹁ パ パ、 今 ね 、
きょう
今日一日中、パパのところにいてあげるから、心配しないで学校へ行ってらっしゃい﹂
こら
﹁それじゃあ、パパが起きたら伝えておいて!きのう、一人でお風呂に入って、ちゃんと
頭を洗った か ら っ て ! ﹂
百恵は込み上げる悲しみを堪えながら、﹁わかった⋮⋮﹂と、大樹の小さな姿を見送った。
ふる
﹁西園さん!本当に浩幸さんの意識は戻るのですか?﹂
たた
西園は何も言わなかった。そしてひとつ百恵の肩をポンと叩くと、
震えていますよ。でも、大丈夫。あの院長
﹁そう、信じるしかないでしょう。私も正直、
の事ですから、そのうち﹃そうだ、仕事をしなきゃ﹄なんて言いながら目を覚ましますよ
⋮⋮﹂
百恵は小 さ く 微 笑 ん だ 。
﹁私は患者さんの診察がありますのでこれで行きますが、もし、院長の意識が戻ったら、
426
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痴呆の都
すぐにナースコールをして私を呼んで下さい﹂
病室を出て行く西園の大きな身体が小さく見えた。百恵は再び浩幸の手を握りしめ、ひた
すい ま
すら祈り続 け た の だ っ た 。
睡魔で遠のく意識の中で、百恵は彼との出来事を回想していた│││。
お昼を回り、やがて
すがだいら
す
だ じょう し
かみなり
コンビニでの出合い、コスモス園での再会、桜吹雪のがりょう公園、コスモス園の屋上で話
は ふうこうげん
せんめい
よみがえ
した事、蛍を見た事、ホテルでの出来事、雪の菅平、須田 城 址、そして最近連れ回した 雷
だき
で どころ
出所を見つめた。
滝や破風高原│││。その時々に微笑む浩幸の顔が鮮明に蘇るのであった。
い
﹃私を置 い て 、 逝 か な い で ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ﹄
そう、思 っ た 時 │ │ │ 、
﹁百恵さ ん ⋮ ⋮ ﹂
百恵はハッと目ざめると、確かに聞こえた浩幸の声の
﹁そこにいるのは、百恵さんですか⋮⋮?﹂
﹁浩幸さん⋮⋮?そうよ!わたしよ!﹂
百恵は浩 幸 の 身 体 に 抱 き つ い た 。
﹁よかった⋮⋮⋮⋮、気がついたのね⋮⋮。今、西園先生を呼ぶから!﹂
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第 2 章(23)暗闇の殺意
よ
そ
百恵は慌ててナースコールのボタンを押した。
﹁西園先生!浩幸さんの意識が戻ったの!すぐに来て!﹂
百恵の慌てようを余所に、浩幸は続けて、
﹁身体が 動 か な い ん だ ⋮ ⋮ ﹂
と言った 。
﹁きっと目覚めたばかりで身体がなまっているのよ﹂
﹁首も動 か な い ⋮ ⋮ ﹂
﹁いますぐ西園先生が来るからね⋮⋮﹂
﹁百恵さん、どうして僕はここにいるの?そうだ、仕事をしなきゃ⋮⋮﹂
び どう
そう言うものの浩幸の身体は微動だにしなかった。
﹁百恵さん⋮⋮、どうしちゃったのかな?僕⋮⋮、身体が動かないんだ⋮⋮﹂
そこへ、西園が勢いよく飛び込んできた。
﹁院長!気がつかれましたか│││!﹂
﹁その声は西園さんですね⋮⋮。西園さん、僕の身体が動かない⋮⋮﹂
﹁えっ? 指 先 を 動 か し て み て 下 さ い ﹂
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痴呆の都
﹁ダメです。手も足の指も動きません﹂
せいみつけん さ
精密検査を行いましょう!﹂
﹁何です っ て ? 直 ち に
西園は数人の看護士を呼び寄せると、浩幸をCT室へ運んで行った。ともあれ、意識を取
ゆか
ひざ
り戻した事に安心した百恵は、疲れ切ってそのまま床に膝を落としたのだった。
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429
第 2 章(24)脳移植
のういしょく
あいだじゅう
脳移植
︵二十四︶
せいみつけん さ
ぎわ
のう り
にく
浩幸の精密検査の間中、百恵はずっと彼を殺そうとした犯人の事を考えていた。その脳裏
には、俊介の別れ際の言葉が気になって仕方がなかった。﹁百恵が最も愛した人を、最も憎
んで帰る﹂ と い う 。
﹁まさか ⋮ ⋮ そ ん な 事 は な い ⋮ ⋮ ﹂
うたが
ふっしょく
疑いはどうしても払拭できなかった。何度も電話をしようと思ったが、
と 思 い な が ら も、
ほったん
まぎ
怖くてできない。もし、そうだとしたら、その発端の原因は紛れもない、自分ではないか│
││。百恵 は 恐 怖 に お の の い た 。
みだ
友人を、信用できずに疑っている事自体、いけない事だと思った。電話ができない理由はそ
﹁新津君のはずがない、新津君のはずがない│││﹂
いや
一方では彼を疑っている自分がとても嫌な人間に思えた。大学時代からの古い付き合いの
しんはんにん
こにもあった。いずれ見つかる真犯人をめぐって、彼女の心はかき乱されていた。
430
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痴呆の都
百恵の携帯電話が鳴っ
警察からの情報は何もなく、CT検査もそろそろ終わろうとする頃、
あわ
た。相手が俊介だと分かった百恵は慌てて電話を取った。
﹁新津君 │ │ │ ! ﹂
ずいぶん
きのう
随分時間がかかったよ。昨日、
言い忘れた事があっ
﹁今、実家に着いた。休みながら来たから
てさあ、それで電話をしたんだ│││。これで本当に最後だから│││﹂
俊介は少 し 間 を 置 い た 後 、
﹁百恵│ │ │ 、 愛 し て る ⋮ ⋮ ﹂
│││彼 じ ゃ な い ⋮ ⋮
とっ さ
咄嗟にそう思うと、俊介を疑っていた自分に大きな罪悪感を覚えた。そして次の瞬
百恵は
わ
間、彼にすがろうとする気持ちが湧いていた。以前浩幸に振られた時も、どうしようもない
孤独な心を支えてくれたのも俊介だった。そして今も、浩幸が死にそうになっている事を話
いや
せば、彼はその不安を包み込んでくれるであろう事を知っていた。
否、言わなかった。
しかし、 言 え な か っ た 。
百恵は、
﹁ありが と う │ │ │ ﹂
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431
第 2 章(24)脳移植
きょう き
け
と言って電話を切った。これより数日後、凶器に使われた野球バットが発見され、真犯人
さつじん み すいよう ぎ
は特定されていった。そして、コスモス園施設理事の須崎慎二は、間もなく殺人未遂容疑で
逮捕された の で あ る │ │ │ 。
CT検査を終えた浩幸が、救急ベッドに乗せられたまま病室に戻ってきた。
﹁西園先 生 、 ど う な ん で す か ? ﹂
ぶ
じ
心配した百恵の言葉に、西園は何も言わず、検査結果を見せようともしなかった。その気
はい
さっ
配を察した浩幸は、
﹁百恵さん、仕事は行かなくていいのですか?検査は無事に終わった⋮⋮。どうやら異常
はなさそうですので、心配せずに仕事に戻って下さい⋮⋮﹂
と、ベッドで上を向いたまま、口だけ動かして言った。西園は目を細めて百恵から視線を
そらした。
しているおじいちゃんやおばあちゃんが沢山いるはずです﹂
たくさん
﹁今日はお休みします。浩幸さんがこんな状態なのに、私、仕事なんか行けません﹂
﹁百恵さん、僕は大丈夫ですよ。だから、仕事に行って下さい。貴方が来るのを楽しみに
﹁でも! ﹂
432
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痴呆の都
し ふく
私服の百恵さんも好きだが、定期診察の時に見る介護服姿の貴方が一番好き
﹁僕は普段の
なのですよ。お願い⋮⋮。僕を悲しませないで│││﹂
百恵は涙を浮かべて、﹁わかった⋮⋮﹂と言って、西園に頭を下げて仕事に向かった。
みょう
はら
妙に落ち着き払った声で、
百恵を見送った西園は、﹁院長!﹂と言うと、浩幸は
つつ
かく
しょうさい
﹁僕も脳外科医です。包み隠さず、検査結果の詳細を見せて下さい﹂
たち
西園は涙を流しながら、検査結果を浩幸の顔の正面にかざし、頭を大きくうなだれるので
あった。﹁次、次⋮⋮﹂と、浩幸は結果の紙を西園にめくらせながら、やがて、
せきずいそんしょう
﹁脊髄損傷ですね⋮⋮。これは質が悪い﹂
脳も死んで い く っ て わ け で す ね ⋮ ⋮ ⋮ ﹂
と、静か に 笑 い だ し た 。
ほう
くさ
﹁このまま抛っておいたら、三ヶ月もしないうちに、僕の首から下は腐っていき、やがて
まるで人 ご と の よ う な 言 葉 に 、
﹁院長! ﹂
と西園は 泣 き 出 し た 。
ひま
暇などありませんよ﹂
﹁何を泣いているんですか?泣いている
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433
第 2 章(24)脳移植
りゅうがく
ぞん
﹁しかし!現在の医療技術ではどうすることもできません!﹂
その言葉を聞いた浩幸は静かに笑った。
﹁僕が大学時代、アメリカに留学していたのをご存じでしょう。カリフォルニア州オレン
のう げ か
けん い
ジ郡にある医学専門大学です。そこで僕は世界的な脳外科の権威ノーマン=トゥェーン教授
の元で、その研究チームに加わり、一年ほど様々な実験を試みていました。何の実験だと思
います?﹂
﹁⋮⋮⋮ ⋮ ﹂
西園は何 も 答 え な か っ た 。
のう い しょく
脳移植ですよ│││﹂
﹁
浩幸は話 を 続 け た 。
こう ひょう
﹁当時にしてマウスを使った脳移植実験は、ノーマン教授の指導の下、その実験を見事成
功させてい た ﹂
りん り がっ かい
西園は驚 き の 表 情 を 隠 せ な か っ た 。
倫理学会の反発を受けて、公表されることはありませんでしたが、
﹁ も っ と も、 世 界 中 の
その時すでに脳移植が可能な事を証明していたんです。そして、将来的に人間にも応用でき
434
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痴呆の都
めいそう
ふけ
う
しょかつこうめい
ざ
ることを確信していました│││。このままにしていたら僕はただ死を待つだけです。
〝座
して瞑想に耽るよりむしろ討つべし〟│││これは諸葛孔明の言葉でしたかね?そして、世
界中に脳移植手術ができる医師がいるとすれば、ノーマン教授ただ一人です⋮⋮﹂
け
そ しきさいぼう
きわ
﹁まさか ⋮ ⋮ 院 長 ⋮ ⋮ ﹂
な
﹁僕はまだ死ねません!成さねばならない使命がまだまだ山ほどある!世界に例を見ない
か
手術ですが、例え一パーセントの可能性でも残されているのだとしたら、僕はそれに懸けて
みます!﹂
ち
西園の落ち込んだ表情に血の気が戻った。
ほほ え
めんえき
﹁西園さん、僕のお願いを聞いていただけますか?﹂
もちろん
﹁勿論です!何でもおっしゃって下さい!﹂
しらみつぶ
微 笑 むと、
浩幸は上 を 向 い た ま ま
だんどり
﹁世界中の病院を虱潰しに探して、僕の血液、免疫、組織細胞に極めて近い、と言うより
てきごうせい
のう し かんじゃ
だい し きゅう
同じ適合性を持った脳死患者を大至 急 見つけ出して下さい!そしてノーマン教授に連絡を
取り、脳移植手術の段取りの手配を大至急お願いします!時間がありません!一ヶ月以内で
す!できま す か ? ﹂
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第 2 章(24)脳移植
﹁院長⋮⋮。分かりましたこの西園、命に変えて見つけだして見せます!﹂
西園は大急ぎで自分の研究室に飛び込んだ。浩幸は静かに目をつむり眠りについた。
西園はその日以来、山口医院やコスモス園での診察を、院内のもう一人の医師である伝田
じょうほうもう
く し
強志に全て任せると、自分は研究室に閉じこもり、インターネットなどの情報網を駆使し、
ぼっとう
い
じ
浩幸の身体と同じ体質の脳死状態患者を見つけるために、まるで何かに取り付かれたように
こ
ぞう き
き のう
没頭したのだった。一ヶ月というのは、浩幸の脳細胞の現状を維持しうる限界の期限である
いっこく
ゆう よ
かいふく
ことは西園も知っていた。それを越えれば浩幸の各臓器機能の低下が始まり、脳に影響を与
えはじめてしまうのだ。もはや一刻の猶予も許されなかった。
しょうじょう
あい ま
そ
けんしんてき
浩幸のそんな状態も知らず、ただのショック症状と知らされた百恵は、きっとすぐに快復
方向に向かう事を信じて、それから毎日仕事の合間をぬっては浩幸に付き添い、献身的な看
病を続けて い た 。
﹁百恵さん、毎日本当にすみません│││。何て感謝を言えば⋮⋮﹂
﹁何を言ってるんですか?こう見えて私、介護士なんですよ。浩幸さん一人の介護をする
うれ
くらい、ぜんぜんへっちゃら!それより、毎日浩幸さんに会える事の方が嬉しいの﹂
436
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痴呆の都
﹁百恵さ ん ⋮ ⋮ ﹂
てんじょう
つ
つぶや
天井を見つめたまま、思い詰めたように呟いた。
浩幸は
﹁なんで す か ? ﹂
だい き
大樹の事なんですが⋮⋮、もし、僕に万一の事があったら、大樹の事、よろしくお願い
﹁
します││ │ ﹂
なんだから、きっとすぐに良くなる!だから、そんな心配をするのはやめましょ﹂
百恵は悲 し そ う な 顔 を し た 。
﹁大樹君は浩幸さんと私の子供でしょ?当たり前じゃない!大丈夫、ただのショック症状
つま
﹁もし、君と結婚をしないで僕が死んだとしても、大樹の事だけは一生見守っていてあげ
て下さい。もしかしたら、僕は手術をするかも知れない。しかし、その手術は日本ではでき
ない手術で す ﹂
﹁そうなったら、私も付き添いで行きます。だって、妻ですから、当然でしょ﹂
﹁それはダメです。貴方にはコスモス園がありますし、大樹にも学校がある⋮⋮﹂
むずか
難しい手術なの?﹂
﹁そんな に
くも
曇った。
百恵の表 情 が
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第 2 章(24)脳移植
﹁なあに、簡単な移植手術ですよ。三ヶ月もすればすぐに日本に帰って来れる﹂
﹁本当に 三 ヶ 月 ⋮ ⋮ ? ﹂
浩幸は笑 っ て 答 え た 。
にゅう せき
入籍だけしちゃいましょ?浩幸さんは来年なんて言ったけど、
﹁ そ れ じ ゃ あ、 そ の 前 に、
めんどう
あなたがいない間、大樹君の面倒を見るにもその方がいいでしょ?私、別に入籍の時期には
こだわって い な い ん で す ﹂
﹁それは い け な い ! だ っ て ⋮ ⋮ ﹂
浩幸は言 葉 を 詰 ま ら せ た 。
こうちょう
﹁君のご両親に申し訳ない。やはり結婚はきちんとした形で行いましょう│││﹂
﹁でも⋮ ⋮ ﹂
﹁お願い⋮⋮。僕の言う事を聞いて│││﹂
だま
うなず
百恵は黙って頷いた。
にっちゅう
日中、ものすごい勢いで、紅潮させた顔の西園が、浩幸の病室
事件から 二 週 間 が 経 過 し た
に飛び込ん で き た 。
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痴呆の都
にわか
かんせい
﹁院長!院長!│││見つかりましたよ!﹂
﹁本当で す か ! ﹂
はか
のう ざ しょう
浩幸は俄に歓声をあげた。
﹁二十八歳、フランス人男性です!血液型も同じ、細胞組織、免疫の適合性もほぼ院長の
こうしょう
ものと同じです!六ヶ月前に飛び降り自殺を図り、脳挫傷で脳死状態になっています!﹂
交渉は?﹂
﹁ご家族 と の
﹁これか ら で す ! ﹂
そっちょく
い し
﹁僕の率直な意志を伝えますので、そのままご家族とドナー側の医師へ伝えて下さい﹂
と まど
しょうだく
の家族は﹁息子が蘇るのなら⋮⋮﹂と、戸惑いながらも承諾してくれたのだった。そうして
よみがえ
﹁はい! ﹂
そして、家族との交渉に手間取ったものの、浩幸の熱い情熱と誠意が伝わると、ドナー側
浩幸は脳移植手術のため、アメリカへ向かう事になるのである。
およ
ひとみ
た
少し後の話になるが、その機内で浩幸は、付き添いで同行する西園に、自分の気持ちを全
て伝えていた。山口医院の事、コスモス園の事、大樹の事、美幸の事│││、そして、話が
百恵の事に及んだ時、浩幸の瞳には涙が溜まっていた。
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439
第 2 章(24)脳移植
﹁僕の脳移植手術が成功したにしろ、失敗したにしろ、彼女には、僕は死んだと伝えて下
さい│││。別人の姿をした僕が〝山口浩幸〟だと知ったら、彼女はどれほど驚くでしょう
⋮⋮?せめて、この姿のままの山口浩幸を、彼女の思い出の中に永遠に残しておいてあげた
いのです│ │ │ ﹂
﹁院長⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ﹂
西園は涙 を ぬ ぐ っ た 。
ゆいごん
遺言として、こう伝えて下さい﹂
﹁そして 、 僕 の
浩幸は瞳を閉じて、その言葉を伝えた。
﹁僕が貴方を愛した事は真実です。しかし、貴方はまだ若い。もう死ぬ僕の事は早く忘れて、
別の愛するべき男の人を見つけて幸せになって下さい。大樹の事も、美幸の事も、すべて西
と
園さんにお願いしましたので、貴方が心配する必要はもうありません。僕の最後の願いです。
おおつぶ
どうか誰よりも幸せになって下さい⋮⋮﹂
西園は大粒の涙をボロボロこぼしながら、浩幸のその言葉を書き留めた。
﹁手術が成功すれば、僕は名前を変えて山口医院に戻ります。統合時には間に合わないか
すがたかたち
も知れませんが、戻れば僕の姿形と名前が変わっているだけで、後は今まで通りですよ。何
440
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痴呆の都
もあなたが 泣 く 事 は な い で し ょ う ﹂
﹁これでは馬場さんがあまりにも⋮⋮﹂
ごうおん
﹁仕方がありません⋮⋮。僕と百恵さんの運命なのですから⋮⋮﹂
しず
げ かい
うん かい
沈まない夕陽の中を、下界に広がる雲海を見下ろし
アメリカ 行 き の 飛 行 機 は 、 い つ ま で も
ながら轟音をあげて飛び続けるのであった。
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第 2 章(25)伝え尽くせぬ言葉
きゅうきょ
︵二十五︶伝え尽くせぬ言葉
かぎ
浩幸のアメリカ行きが急遽三日後に決まり、百恵は仕事を休んで、その準備に大わらわだっ
や ない
あき
こう い
た。浩幸の自宅の鍵を借り、必要な物をあちこち探し回りながら、ようでもない所を開けた
と べい
おそ
こ せきとうほん
り閉めたり、男やもめの家内に半分呆れながら、それでも浩幸のためにしている行為が嬉し
かった。
こうじつ
渡米を太一から聞いた美幸は、長野市役所に行き、恐る恐る戸籍謄本を取
その頃、 浩 幸 の
か すみ
り寄せていた。両親が逮捕されて以来、妹の香澄と二人で家を守り、そこに毎日のように太
一が差し入れを持ってくるのを口実に、部屋で二人で遊ぶのである。山口医院に戻れるはず
もなく、他に仕事を始めることもできず、不安な毎日を過ごす中で、太一から浩幸の話を聞
あね き
いたのだっ た 。
姉貴の彼氏、アメリカで手術するんだって﹂
﹁
﹁えっ⋮ ⋮ ? ﹂
442
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痴呆の都
その瞬間 、 美 幸 の
なったのだ 。
おだ
さ
どう き
さび
い
動悸が高鳴り、親のいない寂しさも助けて、居ても立ってもいられなく
たず
│││謄本の実父の表記を見て、美幸は観念したように﹁やっぱり⋮⋮﹂と思った。次の
瞬間、涙が止めどなくあふれてきて、その足で山口医院へ向かったのである。
穏やかな日の射し込む病室では、百恵が足りない日常品を浩幸に尋ねながら、
いんかん
印 鑑は ど こ に し ま っ て あ る の ? ﹂
﹁
と聞いて い た 。
しょさい
かぎ
か びん
﹁書斎のデスクの一番上の引き出し。鍵は花瓶の中に置いてあるよ﹂
﹁持ち出す薬品の届けが必要なんですって。なんか海外に行くって大変ね﹂
百恵は嬉しそうに再び病室を出ようとした。と│││、
とびら
た
扉が開いたかと思うと、目に涙を溜めた美幸が立っていた。
向こうか ら
﹁み、美幸ちゃん│││、どうしたの?﹂
か
美幸は何も答えず、そのまま動かぬ浩幸のところにツツツ⋮⋮と小走りに
がて声もな く 泣 き 出 し た 。
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駆け寄ると、や
﹁お父さん、お父さん、お父さん⋮⋮⋮⋮﹂
443
第 2 章(25)伝え尽くせぬ言葉
け はい
﹁美幸か い ? ﹂
てんじょう
天井を見つめたまま驚いた声をあげると、﹁そうか、気づいてしまったんだね⋮⋮﹂
浩幸は
と言った。泣き続ける美幸の気配に、浩幸は言葉を続けた。
﹁たいへんな思いをさせてしまったね。でも、もう心配はいらない。困った事があったら、
何でも僕の所へ相談においで。そうか⋮⋮、もし僕が居ないときは、西園先生に相談してご
らん。きっと何でも助けてあげるから⋮⋮。そうだ、この医院に戻っておいで。みんなには
だま
僕からちゃんと話しておくから、心配はいらないよ﹂
﹁どうして│││?どうして黙っていたの?﹂
美幸の涙は止まらなかった。百恵は﹁美幸ちゃん⋮⋮﹂と言いながら、彼女の肩を優しく
たた
叩 いた。美 幸 は 百 恵 に 抱 き つ い た 。
﹁お姉さん!ごめんなさい!私があんな事したばっかりに、私、お姉さんを苦しめた!本
当のお父さ ん を 苦 し め た ! ﹂
何年も経てば、きっと全部いい思い出に変わるわ﹂
﹁大丈夫よ。浩幸さんはアメリカで手術をすれば、今まで通りここに戻ってくるんだから!
﹁ほんと う ⋮ ⋮ ? ﹂
444
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痴呆の都
うなず
くず
な
頷いた。
百恵は笑 っ て
﹁だから、浩幸さんが言うとおり、この医院に戻ってらっしゃい﹂
美幸は再び百恵の胸で泣き崩れるのだった。
ほお
しず
美幸の帰った病室で、百恵は両手で浩幸の頬を優しく撫でていた。日は沈み、辺りはすっ
かり暗かっ た 。
﹁あさっ て か ⋮ ⋮ ﹂
百恵は立ち上がると窓のブラインドを閉じた。
﹁そうだ!もう準備は整ったし、明日一日あるでしょ?どこか行きたい所ない?﹂
﹁仕事は ど う す る の で す か ? ﹂
くぐつ
す
車 椅子で、しっかり頭を固定しておけば外出も大丈夫
くるま い
﹁がりょ う 公 園 に 行 き ま し ょ う か ?
だって、西 園 先 生 が 言 っ て た わ ! ﹂
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﹁明日も 休 み 、 取 っ ち ゃ っ た ! ﹂
﹁困った も の だ ⋮ ⋮ ﹂
傀儡だ。好きなようにして下さい﹂
﹁僕は
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第 2 章(25)伝え尽くせぬ言葉
浩幸はそ う 言 う と 微 笑 ん だ 。
﹁あっ、もうこんな時間。いっけない!帰って大樹君のご飯作らなきゃ!﹂
け はい
百恵は嬉しそうに﹁ご飯が済んだら大樹君と一緒にまた来るから!﹂と言い残すと、まる
にいづま
で新妻のような喜びで病室を出て行った。
ぎゃく
百恵の気配が消えて行くのを感じながら、浩幸は深い苦悩に沈むのであった。それは大樹
と百恵の事である。手術が失敗に終わり自分が死んだら│││?逆に、仮に成功したとして
も、それは今と全く別の姿をした自分になることを意味する。大樹に﹁パパだよ﹂と名乗っ
たとしても、それを受け入れてもらえない事は明らかだった。ならば、自分は死んだ事にし
しょぐう
て、パパの親友とかを名乗って近くにいてあげる事が一番良いような気がした。真実はいず
れ分かれば良い事である。それにしても百恵に対する処遇が分からなかった。
しば
もし、自 分 が 死 ん だ 場 合 │ │ │
しょせん
つい先日は、大樹を一生見守るようにお願いしたが、所詮赤の他人である百恵に、そこま
で面倒を見てもらうわけにはいかなかった。彼女にも人生がある。死んだ男にいつまでも縛
そ
じ
られて余生を送るとしたら、それこそ悲劇のヒロインになってしまうではないか。浩幸はけっ
み
してそれは望まなかった。彼女も来年はもう三十路である。早いところ別の男と結婚して新
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痴呆の都
たな人生を送ることが、彼女にとって一番良いことであろう。何度考えても、浩幸の結論は
変わらなか っ た 。
逆にもし 、 手 術 が 成 功 し た ら │ │ │
自分は全く別人の姿で、彼女と対面する事になる。それは浩幸にとって、何よりも恐ろし
よ そく
い事だった 。 仮 に 自 分 が
〝山口浩幸〟だと名乗ったとして、その後の彼女の反応を考えるとき、
おそらく自分の前から立ち去ってしまうであろう事が予測できた。なぜなら、百恵と出会う
前の、あれほど愛した美津子が別人の姿で自分の前に現れたとしたら、おそらく自分は逃げ
ほ しょう
るであろうと思ったからだ。それに、百恵が愛しているのは、今の自分の身体を持った山口
いのち
浩幸であり、それが別の姿になってしまえば、彼女に愛される保障など全くない。二十年待
じ ろん
ち続けたとか、DNAがどうとか、宿命だとか、まるで〝生命〟の次元で話をする百恵の言
つね
けんじつ
葉は、正直浩幸には信じられなかった。やはり自分の持論であった〝女は感情の生き物〟と
いち
ぱち
かけ
さか だ
いう方が絶対的に正しいと思っていたし、常に堅実の道を選びながら生きてきた浩幸にとっ
かく
て、一か八かの賭をすることは逆立ちしてもできることではなかったのだ。ならば自分が浩
幸であることを隠し、これまであった彼女との出来事は、全て美しい思い出のショーケース
の中に閉じこめて、遠くで彼女の幸せを見守る事の方が、自分にとっても、百恵にとっても
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第 2 章(25)伝え尽くせぬ言葉
か ち
価値があることだと考えたのだ。それは、浩幸にとっての、百恵に対する最大の愛情表現で
あったに違 い な い 。
てんじょう
なが
﹃│││いずれにせよ、僕は彼女とは結婚できない⋮⋮、しない方がいい⋮⋮﹄
天井を眺めながらため息を落とすと、静かに目を閉じた。
浩幸は白 い
翌日は医院のワゴン車を貸してもらい、浩幸をがりょう公園へ連れて行った。車椅子に力
無く座り、自らの力で首を動かすこともできない浩幸の姿を見ながら、百恵はずっと心で泣
いていた。
ちゅうじつ
たど
﹃きっと 手 術 は う ま く い く │ │ │ ﹄
百恵に笑顔を作らせている力があるとすれば、それはその希望だけであった。百恵はゆっ
き れい
くり車椅子を押しながら、昔、彼と一緒に歩いた所を、忠実に辿るのであった。
かじりかけのタマゴを浩幸さんに返したの。そしたらあなたは、その食べかけのタマゴを全
﹁桜の頃、百恵さんとここを歩きましたね。本当に綺麗な桜だった⋮⋮﹂
ちゃ みせ
﹁その時、浩幸さんはあそこの茶店でおでんを買ってくれました。私は全部食べきれず、
部食べちゃった。私、びっくりしたんですよ!﹂
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痴呆の都
びんぼうしょう
貧乏性なのは今もかわりませんね ﹂ と笑った。
浩幸は、﹁
二人はしばらく何も語らず、夏の風に吹かれながら池のほとりをゆっくり歩いた。話した
い事は山ほどあった。しかし、何を話せばいいのか、明日アメリカへ旅立つ浩幸への励まし
り
無理だ﹂
む
の言葉は何も見つからなかった。やがて二人は須田城址への入口に辿り着いた。
﹁のぼり ま し ょ う か ? ﹂
百恵が言 っ た 。
﹁登りた い け ど 、 車 椅 子 じ ゃ
浩幸が答 え た 。
は不可能だった。やがて百恵は諦めて、
あきら
﹁大丈夫 ! ﹂
百恵は車椅子を押しながら山を登ろうとしたが、段差の著しい石の階段を上がっていくの
﹁浩幸さんが手術を終えて帰って来たら、また来ればいいわ!﹂
と微笑んだ。その言葉に、浩幸は悲しい顔を作った。
﹃もし、僕が手術に成功して再び帰ったとしても、貴方は、僕が僕であることに気づかな
いでしょう⋮⋮。今日は、僕と貴方にとっての、最後のがりょう公園なのだから⋮⋮﹄
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第 2 章(25)伝え尽くせぬ言葉
くや
とうめい
浩幸は、悔しがる百恵の横顔を感じながら心で思った。
﹁百恵さ ん ⋮ ⋮ ﹂
やさ
浩幸が言った。振り向いた百恵の表情は、どこまでも透明な優しさに満ちていた。
﹁もし、僕が死んだら、僕の事は一日も早く忘れて、誰か貴方にふさわしい別の男の人を
探して、結婚して下さい。そしてどうか幸せになって下さい⋮⋮﹂
むずか
百恵の心で、今までこらえていた涙の糸が、プツンと音をたてて切れた。
だって浩幸さん言ったじゃ
﹁どうしてそんな事を言うの?浩幸さんが死ぬはずない│││。
しずく
ない!そんな難しい手術じゃないって⋮⋮﹂
じょうだん
ため
雫を、もうおさえる事ができなかった。その涙の矢が浩幸の
百恵は、 次 々 に こ ぼ れ 落 ち る
つ
さ
胸に突き刺さって、もうそれ以上の事は何も言えなかった。
こう
冗談ですよ。僕が死ぬと言ったら百恵さんはどういう反応を示すか、試してみたかった
﹁
だけです⋮⋮、ごめん│││。僕はすぐに戻ります。だから心配しないで⋮⋮﹂
百恵はほっとしたように、手の甲で涙をぬぐうと、
﹁いじわ る ⋮ ⋮ ﹂
と言って笑った│││。それから二人は、何も語らず、池のほとりをそのまま歩き続けた。
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痴呆の都
︵二十六︶二人だけの結婚式
さん ぽ
じ げん
えんしゅつ
お
がりょう公園の散歩を終えて病室に戻った二人は、最後の別れを 惜しむようにじっと見
しず
いいづなやま
にゅう どう ぐも
はんしゃ
むらさき
つめ合っていた。沈む夕陽が病室の窓から見えた。飯綱山の上、入道雲に反射する赤や 紫
い
や黄色の光が、そこだけ異次元の世界を演出していた。そこへ、飛行機雲を引くジェット機
すみ か
し せん
が、通りすぎて行く。住処に帰る鳥たちは、どことなく悲しげで、ゆっくりと動く自然の中
こうこつ
ほほ え
う
で、二人の表情は恍惚として、いつまでも視線をそらすことはなかった。
﹁浩幸さ ん ? キ ス し て い い ⋮ ⋮ ? ﹂
はな
微笑みを浮かべ、静かに目を閉じた。
百 恵 は 顔 を 赤 ら め な が ら 言 っ た。 浩 幸 は 何 も 答 え ず
くちびる
百恵は動くことのない浩幸の唇に、自分の唇をそっと重ね合わせた。どれくらいそうしてい
たな
ただろうか、やがて、唇を離した二人は微笑み合った。
棚に置いたハンドバックを持ってくると、
すると百恵は何かを思い出したように、病室の
中から二つに折りたたんだ白い書類を取り出した。
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第 2 章(26)二人だけの結婚式
ふん い
き
いっぺん
こう か おん
こんいんとどけ
そう い
とどけ で にん
すで
らん
甘い雰囲気を一変させる効果音を入れながら、百恵は明るい顔で、その紙を浩幸の顔の前
あま
﹁ジャ、 ジ ャ ー ン ! ﹂
おういん
おどろ
にかざした。見れば婚姻届けに相違ない。届出人のところには、既に夫の欄に山口浩幸の名
が、そして妻の欄には馬場百恵の文字と押印が押してある。浩幸は驚いた。
﹁い、いったい、何をしようというのですか?﹂
﹁何をするって、決まっているじゃないですか。結婚式ですよ!﹂
よそお
装ってそう言った。
百恵は精 一 杯 の 明 る さ を
﹁ば、ば か な ⋮ ⋮ ﹂
﹁私、いろいろ考えたんですけど、やっぱり、浩幸さんが行く前に結婚しておいた方がい
うち
いと思って。だって、大樹君の事にしても、浩幸さんのお家の事にしても、奥さんがいた方
がいいわ。浩幸さんもその方が安心でしょ?﹂
な
ぜ
﹁それは い け な い ! ﹂
﹁なぜ? ﹂
何 故 って⋮⋮﹂
﹁
﹁私、もう決めたの!いずれ結婚するんだから、いつでもいいじゃない!それなら早い方
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痴呆の都
がいいでし ょ │ │ │ ﹂
﹁ダメで す ! ﹂
﹁どうし て な の ? ﹂
ひとみ
た
瞳に、水色の涙が溜まった。
百恵の
﹁私⋮⋮、私⋮⋮、本当はとっても不安なんです。浩幸さんがアメリカへ行ってしまったら、
もしかしたら、もう戻って来ないんじゃないかって⋮⋮。
不安で、
不安で仕方がないの│││﹂
﹁百恵さ ん ⋮ ⋮ ﹂
らん
せんたん
はな
あで
しゅいろ
﹁お願い、私を一人にさせないで⋮⋮﹂
あきら
諦めたようにため息を落とした。
やがて浩 幸 は
いんかん
にぎ
しゅにく
百恵は動かぬ浩幸の右手に彼の印鑑を握らせると、その手を支えながら朱肉を付けて、夫
よ はく
の欄の〝印〟の字の上に、ゆっくり印鑑の先端を押しつけた。離せば艶やかな朱色の、丸で
く
囲んだ〝山口〟の文字が、白い紙の上にくっきりと残っていた。そして余白にもう一回、同
こま
ひ
と
じ事を繰り返した。百恵は、完成した婚姻届を浩幸に見せて微笑んだ。
困った女性だ⋮⋮﹂
﹁まった く ⋮ ⋮
ももいろ
よし
桃色の涙が流れ落ちた。浩幸はその涙を見ながら、二人目の妻であった好
百恵の瞳 か ら 、
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第 2 章(26)二人だけの結婚式
み
美 の最後の 涙 を 思 い 出 し て い た 。
﹁これで 私 達 は 結 婚 し た の ね ⋮ ⋮ ﹂
浩幸は何も言わずに目を閉じた│││。
むずか
こうして、お父さんも、お母さんも、ましてや弟の太一も知らないところで、私は結婚し
た│││。でも、思っていたより結婚なんて、そんなに難しいものでないことを知った。婚
つ
れんあい
わり
にゅうせき
かんたん
ひょう し
ぬ
姻届に必要事項を書き込んで、彼の印鑑と私の印鑑を押すだけ。あとは役所に持って行けば、
はな
それで終わり。なんだか思い詰めた恋愛の割に、入籍する事がこんなに簡単な事に拍子抜け
した感じ│ │ │ 。
浩幸さんは反対したけれど、私はどうしても浩幸さんと離れたくなかったの。それが例え
とど
三ヶ月という短い間であったとしても、今の浩幸さんの状態を考えた時、とてもそんな長い
時間を待つことなんて、私にはできなかった。
の方へ行ってしまうような気がして│││。
ふ
し
ぎ
そして、今結婚しておかなければ、なんだか浩幸さんは私の手の届かない、ずうっと遠く
にぎ
印鑑を握らせた彼の手は温かかった。どうしてこんなに温かいのに動かないのかと不思議
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めぐ
む しょう
うれ
かたおも
おういん
に思った。確かに彼の手には血液が巡っていたの。私はその手を握って押印をついた。彼の
せつ
いっしゅん よろこ
名前と私の名前が並んだとき、私はなんだか無性に嬉しかった。片思いだった時のこと、あ
からだ
の切ない思い出は、きっとこの一瞬の喜びのためにあったのだと思う。
なっとく
身体は動かない。もしかしたら、一生、彼の介護をすることになるかも知
で も浩幸 さ ん の
れないとも考えた。でも、私が介護士になったのは、そのためかも知れないと納得できる。
すれば、彼が手術をする間、彼は一人でなくなるし、私も一人ではなくなるでしょう。絶対
あいだ
私には彼 が 必 要 な の │ │ │ 。
た
発ったら、私はこの婚姻届を役所に届け出ようと思う。そう
明日、浩 幸 さ ん が ア メ リ カ へ
ね がお
手術は成功するって思えるの!
彼の寝顔に、私は再びキスをした│││。
やまぐちもも え
こうして私は│││、〝山口百恵〟になった。
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