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漁業交渉 (1977 年春) にみられる日・ソの交渉行動様式: 非対称性と対称性
Title Author(s) Citation Issue Date 漁業交渉(1977年春)にみられる日・ソの交渉行動様式 : 非 対称性と対称性 木村, 汎 スラヴ研究(Slavic Studies), 26: 57-106 1980-08-28 DOI Doc URL http://hdl.handle.net/2115/5104 Right Type bulletin Additional Information File Information KJ00002052866.pdf Instructions for use Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 漁業交渉 ( 1 9 7 7年春)にみられる 日・ソの交渉行動様式 一一非対称性と対称性一一発 ロ 円U -LV 十 干 木 E目 次3 はじめに I 交渉の経緯 E 非対祢性 ( 1 ) 1"お貰い外交Jv s .1"力の外交J ( 2 ) 無葉 v s . あらゆる手段の動員 ( 3 ) 先取的 v s .対 恋 的 E 対 称 性 !まじめに 1977年 2 見末から 5 見 に か け て 約 90 日間, 主としてモスクワで、行なわれた,日本とソ 連との間の漁業交渉は,戦後の荷国における諸交渉中,もっとも白熱した,困難な交渉と なった。 まず,日本とソ連は 世 界 の 1, 2泣を争う漁業の大国兼ライパノレ国である。ところが, 1976年に来国,カナダ,ノルウェー, ECな ど の 諸 国 が , 国 連 海 洋 法 会 議 を ま た ず に , 梧 つ い で , い わ 中 る f200~-(漁業専管水域」を採用した結果, 日ソ再国は,これらの水域か ら閉め出されるか,少くともこれらの水域におけるこれまで同様の操業がきわめて国難と なった。そのことにより喪われることとなった魚獲量を能の漁場における水揚げによって 補填し,自国の国民に少しでも多くの動物性蛋白を確保する必要が生じたので、ある。かく て , 日 ソ 両 国 は 自 霞 は い ろ ま で も な く , 相 手 国 の 200~-(水域内において一匹でも多くの魚 を獲る権利をえようと,やっきとなったのである O 交 渉 の 期 間 中 に 「 昔 な ら 戦 争J Oという 物騒な言葉まで関かれるほど白熱化した所以で、ある。 W 2 0 0すイサカナ戦争j], W200~-( 戦争j] 2) 勢 本 穣 は , 最 初 , ハ ワ イ の 東 西 セ ン タ ー 付 属 の 文 化 学 習 研 究 所 主 催 の 「 条 約 交 渉 に お け る 文 色 的 問 題J セミナー ( 1 9 7 9 .3 . 13-23) に お け る 筆 者 の 口 頭 報 告 に 若 干 手 を 加 え た 英 文 論 文 “Sovietand havior: TheSpring 1977 F i s h e r i e s Talks" (一これは米冨の外交政 JapaneseNegotiatingBe 策 研 究 所 の 季 刊 誌 ORBlSの 1 980年 春 季 号 に 掲 載 予 定 一 〉 を 再 び 改 訂 し , 日 本 語 に 故 め た も の で ある。ハワイの上記セミナーにおける口頭報告〈英語〉ならびに北大スラフ研究センターにおける 1980年 1月 18B) に参加され,コメ γ トおよび批轄して下きった方々に厚く 口頭報告〈日本語) ( お 礼 を 申 し 上 げ た L、 。 と 同 時 に , 主 と し て , 筆 者 の 力 量 不 足 の た め に , こ れ ら の 方 々 か ら な さ れ た 有益かっ貴重な調教示ならびにアドヴアイスを十分生かしきれ主かった嫌いがあることを,お詑び Lたい。 1 )r r毎日新聞.Jl. 1 9 7 7 .5 .1 6 . 2 ) 毎呂新開社編!F2(均カイリ サカナ戦争Jl (東京:毎日新聞社, 1977);高田 清!F2∞ カ イ リ 戦 争 一 プレス. 1 977)。 海洋分割時代で日本はどうなる一.Jl (東京: K K ワールド フォト - 57- 木村 況 といったタイトんが冠された書物が出版されて,それほどおかしくない雰囲気が醸成され たのである O 事 態 を 悪 化 さ せ た , 第 二 の 理 告 が あ っ た 。 そ れ は , 間 交 捗 が , た ん に 「 漁 業J交渉にと ど ま ら ず , 同 時 に ま た 「 領 土 j 交 渉 で も あ っ た か ら で あ る o い わ ゆ る 北 方 「 領 土J 問 題 が , 戦 後 に お け る Eソ 両 国 関 係 の 最 大 の 不 和 な し い 砂 擦 の 原 因 で あ る こ と に つ い て , い ま さ ら 改 め て 説 く ま で も な L、。日ソ再国の漁業専管水域としての 200f 1 4 • ラインは,とうぜ んそれぞれの国の領土を起点として計算される。したがって,理論的にいって,国境線を 離れて,領土とは独立無関採に,漁業専管水域を定めえないわけである O かくして,領土 問題は, 200炉 問 題 の 解 決 の た め に 避 け て 通 り え な い 関 門 と 記 っ た 。 「 漁 業 j 問 題 の た め に , r 領土」問題にかんする岳己の従来の立場を少しでも弱めて誌ならないとする考憲か ら,再患の交渉姿勢は,ますます硬重し,非妥協的なものとなったのである。 本稿の筆者は,同交渉の早期妥結を困難にした,さらにもう一つの原因があるのではな し、かと考える。それは,再交渉国が,それぞれ独特の癖のある交渉行動様式をとり,しか も相手側のそれにほとんどといってよいほど理解や同債を示さなかったことである。日ソ 両国が, このとき,いわば「ギブ・アンド・テーク J のノレーノレ等, 主としてアングロ・サ グソンを中心とする西欧世界で発展・工夫されてきた外交交渉のノレールや慣用に従わなか ったために,交渉が必要以上に長びいたりギクシャクしたりしたので辻なかろうか,との 印象ないし感想を,筆者は禁じえないのである。 そ れ ぞ れ の 国 民 の し め す 交 渉 行 動 様 式 も , 広 義 に お け る 「 文 化 J (culture) の反映と, 説かれる。たとえば, [i日本人の国擦交渉スタイノレ j ( 1 9 7 6 ) という名著をものにしたマイ ケノレ・プレーカ一博士〈米国コロンピア大〉は, ス タ イ ル を 生 むfL とよくいわれる理由を, r 異なった文化体系は,異なった交渉の r ある特定の文化を持つ倍々人がどういう枠 組で物事を受けとめ,いかなる信条体系を持つかは,歴史的,地理的,社会的経験を共有 している」からであるとし,さらに言葉をついで,つぎのように説明している。 「ある一定の文化的な状況があると,こうした共通の経験は,物事のやり方に一定の, また決められた公式を生じさせ,その文化を持つ人びとの行動は,結果が比較的予想で きる範毘に収まってくる O 政 治 的 , 社 会 的 環 境 に 絶 え ず 制 約 さ れ て , こ う し た 公 式 は 物 事を処理する方法として定着する O さらにこうした物事の頗序という考え方は,その置 4)o を代表する外交官の態度とは別に,他の冨々の行動を解釈する擦に適用されるJ 3) LouisJ .Samelson,S o v i e tandChineseNegotiatingBehavior: The W r e s t e r n View(Beverly ifornia: SAGEPublications,1976); BryantWedgeandCyrilMuromcew, “ PsychoHills,Ca1 "Journal01ConflictResolution(Vol . l o g i c a l Factorsi nSoviet rlsumamentNegotiation, 9,No. 1,March 1 9 6 5 ),p p . 18-36; Cyril Muromcew, “ Soviet Negotiating Behavior, "p . 5; l 1iam Hayter,TheDかlomacy01t h eGreatPowersCLondon: MacMillan,1961). Sir W i 4 ) マイケル・プレーカー/池井棲訳『根まわし か き ま わ し あ と ま わ し - 8本 の 国 際 交 渉 態 度 の 研 976), p .2490 1961-63年 の 核 実 験 停 止 ( ジ ュ ネ ー プ 〉 条 約 , そ 究一』く東京:サイマノレ出版会, 1 外交スタイルは, 国 民 性 を 反 映 し た の 他 の 交 渉 を 手 が け た ア ー サ ー . H'ディーンも, 同様に, r 一 種 の 異 名 で あ る j として,のべる。「外交スタイルは, た ん に 会 的 な 政 策 を 反 映 し て い る ば か り か,外交官が生まれ,育った社会とその世界観の諸特教をも反映した,国民的署名である。それは, , 特 定 の 外 交 官 の 反 応 , な ら び に 彼 が フ ォ ロ ー す る 手 続 き に 重 大 な 影 響 を 与 え る 。 JArthur H. Dean "Soviet Diplomatic Style and Tactics" i n TheS o v i e t Aρ ρroach t o Negotiation:S e l e c t e d -58- 漁 業 交 渉 ( 19 77年 春 〉 に み ら れ る お ・ ソ の 交 渉 行 動 様 式 このように交渉を理解すると,やや大上段にふりかざすようではあるが, 1977年春の日 ソ漁業交渉の紛糾の背景として, c tofculture)を 挙 げ る の 日 ソ 話 国 の 「 文 化 笛 突 J(con丑i も,あながち的はずれで、はないのではなかろうか。仮に一歩譲って,日ソ両国の「文化的 刻 印 を 捺 さ れ た J5) 外 交 交 渉 行 動 様 式 が 1977年 の 日 ソ 漁 業 交 渉 を 極 度 に む つ か し く し た 元 凶や事由であることを,証明しえないばあいでもの,なお且つ,少くとも, 日ソ再国が, 同交渉において,抱の西歌諸国ならば決してとらなかったと思われるような,独特の交渉 様式を採ったということを,依然,証明しうるのではなかろうか。 1977年の日ソ漁業交渉にかんする, 第 一 ( 漁 業 ), 第 二 ( 領 土 ) の 事 由 な い し 側 面 に つ いては,すでに論じ尽され,本積筆者としてつけ加えるべきなにものもなし訓。しかるに, 第 三 の 規 角 か ら 1977年の日ソ漁業交渉を論じた論文は, 筆者の知るところ, に 思 わ れ る O したがって,本稿は,この第三の問題意識から, 式一般, 皆無のよう 日ソ両国の外交交渉行動様 とくに 1977年 の 漁 業 交 渉 中 に 観 察 さ れ た そ れ ら の 特 設 を 考 察 す る こ と を , その 主たる課題とする。 I 交 渉 の 経 緯 以J :の よ う な 問 題 意 識 か ら 1977年 2月-5月 の 日 ソ 漁 業 交 渉 中 に 看 取 さ れ る 日 ソ 両 国 の 交渉行動様式を分析・検討するにあたり,まず同交渉の経緯の荒筋をごく箆単に復習して, 記憶を新たにしておこう。その程度の最少限の復習すら必要記いと考える読者は,本章を I章 か ら 読 み は じ め ら れ る こ と を お 勧 め す る 。 とばして,直ちに第 I 1976年 12月 10 日 , ソ 連 は , 政 府 機 関 紙 『 イ ス ベ ス チ ヤ 占 紙 kにおいて, 漁業専管水域を宣言するソ連最高会議幹部会令を布告した。。 ソ連の 200{ j 4 " ソ 連 も 遅 か れ 早 か れ 200{ j 4 " Writings,compiled bythe Subcomittee onNationalSecurityandInternationalOperations, Committee onGovernment Operations,U.S .Senate(Washington,D.C . : U.S .Government 9 ( 9 ),p . 61; WedgeandMuromcew,0ρ.c i t .,p p .1 8 3 6 . Printing0岳 民 1 5 ) ivluromcew, 。ρ.c i t .,p .5 . 6 ) --較に,ソピエトの行動様式 離 に か ん す る 「 文 化 的 影 響 J( c u l t u r a li n自uence) 主 い し 「 支 化 的 要 因 J( c u l t u r a ldeterminant) を 強 課 し た ク ョ ー ン .s・レシェター, ジ ュ ニ ア 教 授 は , こ の よ う c u l t u r a l approach) の限界および陥穿についても, 流 石 に H配 り を な 所 謂 「 文 化 的 ア ブ ロ ー チ J( t o what e x t e n t ), 政 治 に 影 響 を 定、らな L、 う え に , と く に , 支 化 的 も の が , 果 し て [ ど の て い ど j ( 与 え る か と レ う 「程度 j ( d e g r e e ) を顎,J Iる こ と が き わ め て E 困難であるという司アプローチの欠誌に つ い て も , と う ぜ ん 言 及 し て い る 。 John S . Reshetar, J r ., Problemso[AnalyzingandP r e n c .,1 9 5 5 ),p p . d i c t i n gS o v i e tBehavior(GardenCity,NewYork: Doubleday& Company,I p . 15,1 6,2 1,23,26; r l ' i J TheS o v i e tP o l i c y :Government and P o l i t i c si n 14-30;とくに, p .S .R .(NewYork: Dodd,Mead & Company,1974),p p .38-71 . t h eU .S 7 ) 1977年 春 の 日 ソ 漁 業 交 渉 に か ん し て は , 筆 者 の 知 る か ぎ り , 次 の よ う な 論 文 が あ る O 中 西 治 IB ソ 漁 業 交 渉 と 日 本 の 世 論 j n重際問題~ ( No. 211, 1977年 10月), p p . 15-29; Frank Langton, “Japan-Soviet200-Mile Zone Confrontation, "P a c t f i c Community(Vol .9,No. 1,October 1 9 7 7 ),p p .46-58; Dagmar Ahrens-Thiele, “ Japanese-SovietFishingDispute“ , RadioL i b e r t y 4 . 1 9 7 7 ),p p . 1-7; Japanese-Soviet Fishing Agreement,Radio Research B u l l e t i n (話ay き L i b e r t yPesearchB u l l e t i n( 氾 ay2 7,1 9 7 7 ),p p .1 5 ; ま た , 講 演 速 記 録 と し て , 富 永 守 雄 F日ソ 9 7 7 ), p p . 3-23; 同 rB 漁 業 交 渉 の 内 幕 一 ソ 連 の 建 て 前 と 本 音 - J l (東京:社団法人経済懇話会, 1 ソ 漁 業 交 渉 の 内 幕j . !F政策 1 ( No. 1 5 1,1977,6月号), p p . 2-16 1 ) H30eCmUJ l , 1 0江eKa6p 冗 1 9 7 6 . 4 0 - 59- 木村 汎 水域設定に踏み努るとは予測していたものの,その時機がこのように短兵急に到来すると は思っていなかった大部分の日本人にとり,このソ連の動きは,ショック以外のなにもの でもなかった。しかも, 977年 2月 24日,上記の幹部会 ソ連は,約 2カ月半後の明けて 1 令 の 実 施 期 Eお よ び 適 用 水 域 を 規 定 し た ソ 連 関 擦 会 議 決 定 を 公 布 し た 。 ま ず , 約 1週 間 後 4時 代 の 到 来 を 踏 0 0 1 1 の 3月 1Bから上記幹部会令を実施主こ移すことを定めた同決定は, 2 まえ日ソ漁業関係全般についてソ連漁業担イシコフと話し合うため特に訪ソしようとして いた矢先の日本代表団〈主席:鈴木善幸農林大臣〉の出鼻を見事にくじくものであった。 日本は,従来,ソ連の 200f j -1'内で,総漁獲高約 1 000万トン中の,約 170万 ト ン を 本 揚 げ し ていた。 と く に 北 海 道 漁 民 に 限 っ て い う と , そ の 全 漁 獲 高 約 234万 ト ン の う ち , ソ 連 200 F内で約 113万 ト ン す な わ ち 50%近 い 水 揚 成 穎 と 実 績 を も っ て い た 。 さ ら に シ ョ ッ キ ン グ 0 0 1 1 -1'漁業水域の適用区域を, Iクナシリ海峡〈ー根 であったのは,問題議決定が,ソ連の 2 室海峡),および, ソビエト海挟(=歯舞群島と根室半島問のゴヨウマイ海峡〉ではソ連国 境 J2)と規定していたことであった。つまり, 日本が返還要求しているいわゆる日ヒ方四 島j をソ連領土と前提にしていることであった。日本側がこの線引きを承認することは, とちも重さず,汀七方四島」をソ連領と認め,戦後 32年 間 続 け て き た 「 北 方 領 土J返 還 要 求の立場をいちぢるしく弱めるどころか,事実上認めることを意味さえしたO 鈴木農椙の〔第一次〕訪ソによるソ連漁業相イシコフとの会談 ( 1 9 7 7 .2 .28-3.3) は , 0 0 f j -1'内における日本の漁業の条件および方法を定める暫定取決めを 3月 3 1 たんに,ソ連 2 5までに締結すべく. 3月 15日 か ら 交 渉 を お こ な う と の 合 意 に 到 達 し た の み で あ っ た 。 と ころが, 3月 15日 に 開 始 さ れ た モ ス ク ワ 交 渉 に お い て , 呂 ソ 再 国 は つ ぎ の 二 点 を め ぐ っ て 対立し,交渉は難行した。すなわち,ソ連は, (訪日本が領海を 3~-1'から ばあい,ソ連が 4水 域 内 で 操 業 し う る 権 利, ( 1 2 1 1 i i ) ソ連の 12 ~-1' v,こ拡大する 2 0 0 1 1 -1'水域内における主体的権 利を拐確にする暫定取ち決めの作成,を要求したのである。これにたし咋、し B本側は, ( i )を国際常識に反すると拒否した。また, ( i i ) を認めて,日本漁船民にたいするソ連の裁 判管轄権を協定に蓋りこむことは,日本田民の権利義務を制捜することに通じ国会の承 認をうけることなしにはなしえないと述べ,国会承認を必要とする本協定でなく,行政協 定 の 形 式 を 採 ち た L、と主張したのである。 提出した。すなわち, さらに 3月 2 9-3B,ソ連側は, 第 3の 要 求 を 自ソ暫定取ち決めの中に, 2丹 24 Bの ソ 連 邦 閣 援 会 議 決 定 を 書 き こ む こ と を 要 求 し , よ っ て ソ 連 鎖 が , 今 回 の 「 漁 業J 交 渉 を 利 足 し て 北 方 「 領 土J 問 題 に か んする日本側の立場を一挙に弱体化せしめようとしている意函が明らかとなったのであ 1 日モスクワ交渉の打切りを指令するとともに, る。コトの重要性を知った福田首相は, 3 政治的打開をめざして,園田官房長官を首相特夜としてモスグワに派遣することに決定し た。この間,東京で同時並行的に聞かれていたサケ・マス・ニシン交渉にも進展なく,ニ コノロフ・ソ連代表も, 3 1 日帰国した。ソ連との関に協定が存在しなくなったため, 漁 船 は ソ 連 の 200f j -1'内における操業中止を余儀なくされ 日本 3月 1臼午前雰持までに漁場か ら引揚げた。 4月 7 日,園田特使が訪ソ, 7 B コスイギン言栢と会談,福田親書を手渡し, 2 )H38ecmuR,24φeBpaJIH 1977. -60- Bソ友好 漁業交渉(1977年春〉にみられる日・ソの交渉行動様式 の大局的見地から交渉の行き詰りの打開を求めたが,鈴木・イシコフ会談の再開決定以外 の効果を生まなかった。 13 日の会談中, 4月 8 日 , (第 2次〕鈴木・イシコフ会談が, 開始された。 4月 通 用 水 域 を 「 ソ 連 最 高 会 議 幹 部 会 令 第 6条 と ソ 連 政 府 の 諸 決 定 J ~;こより 定められた水域とする,いわゆる“イシコフ私案"が提示されたが, 日本側は,これもた んに表現を変えただけで,結局「北方領土」をソ連額土と認めることに変りないとして, r 領 土 J~こ触れず, 係 争 地 域 を E ソ「共同 J漁業水域とする, あるいは, B ソ両政府が, r 領 土 J 区 分 と 「 漁 業 J水 域 は 関 係 な し と 宣 言 す る 声 明 書 を 出 す,などの提案を考えた。だが,これらいずれの妥協案も, r 領 土 問 題 は 解 決 済 み J と差な 修正を求めた。 日本側は, す立場を崩そうとしないグレムリン当局によって受け入れられる筈はなかった。交渉は, デッドロックに乗りあげ, 4月 16日,鈴木農相ら B本 代 表 は 帰 国 の 途 に つ い た 。 非 妥 協 的 なソ連の出方に,日本部は,なす街もなく, 悲 観 的 な ム ー ド が 漂 い は じ め たo r 領 土Jの 留保が,漁業暫定協定中で不可能ならば,別の協定ないし口頭でおこなうも止むを得ない という弱音が洩れはじめたのも,この時期であった。 ここまでは,ソ連ベースであった。ところが,ここで足、わぬハップニングが起り, 日本 械に有利な動きが,生れはじめた。その転換点となったのは, 4月 15 日のいわゆる“単j l1 J 発言"であった。鳩山外栢は, r 領土のために魚、を喪いえなし、。建前論だけでは通じな Lゴ と,あたかも日本政府が領土問題で,ソ連に妥協するかのごとき印象を与えかねない問題 発 言 を お こ な っ た の で あ る 九 外 相 の 発 言 の 狙 い が 奈 辺 に あ っ た か と L寸 主 観 的 意 図 と は 定I JV;こ,客観的には,日本の世論を, r 領土は絶対に譲るな」という対ソ強硬論へまとめる起 爆 剤 の 役 割 を 果 し た の で あ る o 4月 1 8日 , 与党と全野党の党首会談が開催され, 日本の 200~4 漁業水域法および 12 ~4 領海法のいわゆる「海洋二法」の早期成立への協力が合意さ れ , 5月 2 日,これら二法は全会一致で国会を通過した。 F鉢制が確立され, 日本は, このことにより,日本部j の2 00 自本の 2 00{J-1内で,イワ、ン,サバ,などの魚獲を強く希望す るソ連と同寺の立場にたって交渉する基盤が,遅まきながらできあがったのである。また ソ連側も,たとえ r ,~U は犠牲にしても「島」は譲れないとする方自に固まった百本側の 結束の強さに次第に気付くようになり, r 鎮土」問題の一挙解決のために, r i 漁業」問題を 利用しようとする戦略に余り長く自執しすぎると, 司本国民の反ソ感情をいたずらに激化 せ し め , か え っ て 逆 効 果 と 自 覚 す る よ う に な っ た 。 か く て 始 ま っ た 5月 3 -24日の鈴木・イ シ コ フ 会 談 〔 第 3次〕の最終段階に,日ソ両国は,遂に合意、に達する決意を掴めた。つま り 5月 19司実質的合意に達し, において, 一応, 27日 署 名 さ れ た 『 日 ソ 漁 業 暫 定 協 定Jは , そ の 第 8条 r 領 土J問題を棚上げにして, 純 然 た る 「 漁 業J 問 題 に つ い て の 協 定 と される工夫がなされたのである。 1 1 非 対 称 性 以上のごとき日ソ漁業交渉の過程において, 呂ソ交渉行動議式には, 3 )l i 読売新聞』の外務省詰め(当時〉の平野実正は, 対 称 的 (symme- 鳩山外語の発言の意図として, 当 時 つ ぎ の 3つ の 解 釈 が あ っ た と 結 介 し た の ち , 号 と ③ が 「 当 っ て い な い 」 と 結 論 し て い る 。 す な わ ち .(主)外桔が, 政 府 譲 歩 方 針 を 早 ま っ て も ら し て し ま っ た , ~!司じく政府の譲歩案の世論説得のため,意識的に流 した,③逆に,政府妥協方針に反対する世論喚起の目的で意識的にもらした。平野 実『外交記者 日記 J第 6巻 ( 鳩 山 外 交 の 1年〉く東京:行政通信社 1 980), p .9 7 . - 61- 木村 汎 t r i c a l ), 非 対 称 的 (asymmetrical ) な , 南 側 面 が 看 取 さ れ た 。 ま ず , 前 者 か ら み て い く こ と にする O 日 ソ 交 渉 行 動 様 式 に お け る 非 対 称 性 を 問 題 に す る ば あ い , つ ぎ の 三 点 が , 筆 者 の 見解によれば,とくに極だったコントラストとして,検討に値いするように思われる。す なわち, ( 1 ) 両国の交渉にたし、する基本的態度, ( 2 ) 再国が交渉中において用いた戦続, ( 3 ) 両国の交渉過程ないし進め方における行動パターンにみられる特徴,である。 ( 1 )I お 貰 い 外 交 JVS. I カ の 外 受J 1977年 春 に お け る 日 ソ 漁 業 交 渉 中 に み ら れ る 日 ソ 両 国 の 交 渉 行 動 様 式 に お け る き わ だ った非対称点として,筆者は,まず両冨の同交渉にたし、する基本的態度というべきものを 挙 げ た い と 思 う O 日本側は,当時, 日 本 人 自 身 に よ っ て 「 陳 靖Jnな い し 「 哀 顕J 2 )ベ ー ス の「お貰し、 J 3 )1土 下 座J 4)外交と評されたごとく,いわば“弱者の立場"( p o s i t i o no fweak- n e s s ) か ら , ソ 連 に 接 し た の に た い し , ソ 連 側 は 「 力J , な い し 「 摺 喝J 5 )の 外 交 , つ ま り p o s i t i o no fs t r e n g t h ) の姿勢で,ヨ本に対したとの惑が強し、。だとすると, “強者の立場" ( きわめて対照的なとり組み方といわねばならなし、。検討しよう まず, O 吉本側は 2 00炉 問 題 に か ん し て は , 甚 大 な る 犠 牲 者 と 自 己 規 定 す る こ と か ら 出 発 したといって差支えなかろう。つまり,米国, EC, カ ナ ダ , ノ ル ウ ェ ー , ソ 連 な ど の 大 国 が , 77年 5月 に 開 催 が 予 定 さ れ て い た 国 連 海 洋 法 会 議 第 6会 期 の 結 論 を ま つ こ と な く , 1976年 か ら 春 に か け , 一 方 的 に 200{ j 4漁 業 専 管 水 域 宣 言 を お こ な っ た こ と に よ る 最 大 の 被 害 者 6)一一これが, 日本のおかれた立場に他ならないと, うけとめる声が,一一少なくと も当初は一一強かったのである。 1 200{ j 4 水域でもっとも得をするのは長い海岸線と広い 大窪だなに恵まれた米国,ソ連,カナダ, ノルウェー,英国といった先進国。…過去の海 洋法の歴史をみても,大国が力ずくで海を囲い込んだら,それが新秩序として定着してき た“力の歴史"がある O …日本がし、くら国際法上の原則を振りかざしても,一顧だにされ E新聞j], 1976. 1 2 . 18付 社 説 〉 。 一 般 に “ 国 力 " の 推 定 が 多 元 的 係 数 の ゆ え に ,I 中J ,I 小」国と規定すれば 密 難 を き わ め る の と 同 じ く , 一 概 に ど の 国 を し て 数 業 「 大J ない」 η ([ f 朝 1 ) Irサンケイ新聞j] 1 9 7 7 .5 .1 8,U 朝日新聞j] 1 9 7 7 .2 .2 6 . 2 )Ir日本経済新聞Jl 1 9 7 7 .2 .1 7,Irサンケイ新需Jl 1 9 7 7 .5 .1 8 . 3) 76 年 12 丹 10 日のソ連 200~./ 漁業専管水域の布告を報じた『朝日新聞』は. ~II 路機船協組の中井昭 夫専務理事の「われわれの先達が,北洋の漁場を開拓した事実をソ連に琵識してもらい,これまで の実績を最大痕確保してもらい……」との談話を額分したあと. r ソ連の 2∞ザ設定で, 日本は, Bソ漁業交渉に基づくこれまでの『対等の立場』から今度は『捕らせてもらう J立場になった j, と l朝 B新開Jl 1 9 7 6 .1 2 .1 1 . 書いた。く強調点のいずれも木村 )0 f 4 ) 大沼孝司「モスクワの残雪は固かった j,Ir月刊エコノミストJl ( 1 9 7 7,6月). p . 28,p .3 3 . 5) DagmarA hrens-Thiele, “J a p a n e s e S o v i e tF i s h i n gD i s p u t e, "RadioL i b e r t yResearchB u l l e t i n No. 1 0 6,May4,1 9 7 7 ),p .4 . 6 ) 漁業交渉妥結後の段階の 7 7年 6丹 , I r 報 E ジャーデ fレ』誌上のソ連通ピジネスマン 3人による漁業 交渉をふりかえっての座談会の霜上,元モスクワ支局長として対ソ賓易交渉に活躍した東洋レーヨ ンの森本忠夫氏と呂される人物は. r 日本狽n はちょっと被害者意識がすぎたと思いますね j と の 感 ソ連通ピジネスマン座談会〉ソ連はいわれているような冨じゃない j,r l轄日ジ 想をのべている。 19巻 , 2 6号 , 1 9 7 7 .6 .24),p .9 6 . ャーナノレJl( 7 )f l 朝日新開j], 1 9 7 6 .1 2 .1 8 . r c - 62- 漁業交渉(1977年春)にみられる日・ソの交渉行動様式 よ い の か , 論 議 の あ る 問 題 で あ る 。 た と え ば , 200~~漁業専管区域,漁獲量,人口 1 人あ たちの魚、蛋白摂取量,輸出量…等のいずれの指数をとるかによって, 漁業大国のランキン グは,かなり変ってくるといわねばならなし、。したがって,上に引用した f 朝日新開』社 説のような観方には, 百 本 が , 世 界 の 総 漁 獲 高 の 約 7分の了)(北洋では約 50%) を 水 揚 げ し,その超能率的な(根こそぎ〉漁法が,漁獲資源の枯渇を危棋する諸国の憂慮、を招いて い る こ と , そ し て , こ の 憂 慮 が 200~~水域の設定を導いた一因でもあるということに対す る充分な顧慮、が欠如していたといえよう。新聞論調でみるかぎり,当時,多くの日本人は, 己の欠路には隈をつぶり,むしろ責めを{告に転化する傾向をしめした,とみられるのでは なかろうか。 76-77年 に か け て の 世 界 わ 主 要 諸 国 に よ る 一 連 の 200{f~水域宣言で最大の被 害を被ったのは, 日本ではなくむしろソ連だったとさえいえるのである O 自本が,その平 均 総 漁 獲 高 約 900万トンのうち, 360万 ト ン , つ ま り 約 36.5パ ー セ ン ト を 従 来 外 国 の 漁 業 専管区域内で水揚げしていたのに対し, 1976年 を 例 に と る と , ソ 連 は , 約 900万トンのう ち 600万 ト ン , す な わ ち 60ノ之一セント以上を自己の水域外で水揚げしていたからである O しかし,このような全体的な数字は, 日本側がさして強調するところとならなかった。そ λ に専ら注目され日本人の脳中を占めたのは, の代 損 失 の 比 較 ・ 対 照 で あ っ た と い え よ う O つまり, らば, ソ連が, 日 ソ 二 国 関 係 に お け る 200~~法による 日ソ二国間関係にのみ祝野を限定するな 日本の 200{f~水域内で崩獲しているのは 50-60 万トンであるのに対 L , 日 本が,ソ連の 200{f~水域内で捕っているのはーーもし「北方領土」局辺水域を含めるならば 一 一 , そ の 約 3倍に当る 150万トンなのであるのむつぎに引用する[J!ji } j1=1新聞』社説 ( 7 7 . 3 .5 ) は. 当時のこのような ~}j 的な日本人の受けとり jj を反映しているといえまいか。 「遠洋、漁業問ソ連に Lt, ア メ リ カ に は な い 差 し 迫 っ た 漁 業 の 問 題 が あ る 。 そ の こ と は 百 も 承 知である」と,一応ソ連の事情にも理解をしめしたあと,同社説は,いう 以臼こ, o Iだ が そ の ソ 連 日本の漁業は逃げ場を失っているのだ,ことは日本人一般の生活にかかわる←]10)0 たしかに,対ソ関係にかんするかぎり, 200{f~時:代の到来によって,日本が決定的に「弱 者の立場」にたたされたことは議然たる事実であり,ここから, 内で魚、をとらせてもらうためには, 百本がソ速の 200{f~水域 Iお貰い外交」しかありえなかったのだ, とr i 見く見解 が成立しうる O しかし,このような見解は,一般に,力とか交渉とは何かにかんし,また 当時の日ソ両国の交渉行動様式にかんしやや単純直裁にすぎ,多くの複雑な局面を見逃 すものといわざるをえなし、。まず,国際場裡において,つねに強者の主張が弱者の戸を圧 到 し て 貫 徹 さ れ る と は 限 ら な い 100 弱者がキャスチング・ボートを握ったり,いわゆる「弱 者の'l' ! f i J場」が効を奏するなど, i~~~ 、立場が強い立場を創ちだしム「請願者 (petitioner) と 擁 主 (donor) と の 役 割 を 逆 転 す る 」 こ と も , 決 し て 珍 ら し く な い 1230 ま た 上 の よ う な 説 明 8 )権 謀 言 ?Wi ! 2 0 0カ イ リ 漁 業 水 竣 J(東京:教育社, 1 9 7 8 ), p .1 1 0 3 . 9) 向上, p p .1 1 0 1 1 3 . 10) ! F朝日新開J], 1 9 7 7,3 5 . ,I r i J [l'時間の政治学 3く東京:中央公論社, 1 1 ) た と え ば , 永 井 競 之 湯 「 国 際 政 治 に お け る 小 国 の 役 割J 1 9 7 9 ), とくに, p p . 1 3 9 1 4 3 参 照 。 そ の 他 Annette Baker Fox,“ Small S t a t e Diplomacy, " StephenD.K e r t e s zandM.A.F i t z s i m o n s,e d s .,Dipiomacy i n a Changing World( U n i - v e r s i t yo fNotreDame Prees,1 9 5 9 ),p p .3 9 9 3 6 4 . 1 2 ) こ れ は , む Lろ , 対 米 関 係 に お い て 長 ら く 劣 位 に あ っ た ソ 連 の 「 璽 史 的 交 渉 戦 術 」 だ と Lづ - 63- C 木村 汎 1 内の主として漁獲高の多 は,国家拐の交渉ごとを,単一イシュー〈このばあいは, 20011 寡 〉 を 宣 接 め ぐ っ て の 話 し 合 い と 看 て , 実v t, 交 渉 が , 往 々 に し て , 国 家 内 の 有 形 ・ 無 形 の複雑な諸ファクターの科書得失を全て勘案しての,いわば政治的ないし総合的な決断た る側面を軽視しているともいわねばならなし、。このことの関連で,交渉の参加者が用いる 戦術やパーゲニング・チップも,後述する「国民感官」などを含む,複雑多岐にわたるこ とを看過している O さ ら に , こ の よ う な 見 解 で は , た と え ば 当 時 日 本 人 が 実 際 に と っ た 行 動様式の非合理的,複雑な側面を充分把握し切れない浪みがあるといえよう。たとえば, 少しでもソ連と「同じ土俵にたつ」ために,いわゆる「海洋二法」の国会通過をもっと早 い段階に考えなかったのか? なぜ弱し、立場にある冨が素直に告己の要求を低めないの か?…等々。 さ て "、かなる交渉者も,完全にフェヤーではありえな L、。否,自己に有利な結果を求 めて,事実を操作し,自己の立場や論点を一方的に強調したり,逆に強調しなかったりす る一一これは,交渉者から期待されるごく通常の行動様式といえよう。交渉にかんするこ の い わ ば 一 般 的 原 期 を 容 認 す る と き , わ れ わ れ の 興 味 を 惹 く の は , な ぜ , 1977年 春 の 漁 業 交渉において呂本が自らを弱者と規定したり,あるいは,弱者たることを謡そうと〈一一往 々 に し て ソ 連 に は こ の 傾 向 が あ る 13)一一一)しなかった事実で、ある c というのも, 一つに は,日ソ両国とも,必ずしも営にそのような自己規定をおこなうとは限らないからであ るO たとえば, 日本は,対東南.アジア,オーストラリア,ニュージーランド等太平洋地域 の中小諸国にたいする実易交渉においては, 非常にしばしば強者の立場をとち, 買い叩 き,買いあさるなど強引,身勝手,時としては散慢でさえある交渉態度にでることがよく 知 ら れ て い る か ら で あ る O また, ソ連も,たとえば,よち大国のアメリカにたいしては, る 1430 したがっ ご く 最 近 に い た る ま で 弱 者 の 立 場 か ら 交 渉 に 臨 ん で い た こ と が 知 ら れ て L、 て,上で、投げ、かけた間にたいするとりあえずの解答は,弱者や強者それぞれの立場にたつ ことが,より有利な結果を鷲らすとし、う計算なし、し亘観にもとづく意識的,無意識的な決 定の結果がl3本,ソ連をして,ある時には強者,また他の折には弱者の立場をとること を決定させる,とし、し、うるであろう。 B本 の ば あ い , 永 年 の 小 患 と し て の 壁 史 か ら 弱 者 の 立 場 な い し 低 姿 勢 を と る ほ う が , よ り多くの実利を収める途であるという教訓を学びとったのではないか,と思われる。日本 JosephG. Whelan,S o v i e tDiplomacyandNegotiatingBehavior:EmergingNewContext 9 7 9 ), p . 99 ,p p . For U. S .Diplomacy (Washington,D. C.: Government Printing 0伍 ce,1 1 0 9 1 1 0 . 1 3 ) Whelan,0ρ .c t i .,p .4 7 9 . ソ連外交についての最良のテキストのひとつ『膨張と共存ーソビエト 971-67J j( 1969初 寂 ; 1 974年 再 販 〉 を 書 い た A. ウ ラ ム 〈 ハ ー バ ー ド 大 〉 教 授 は , 外交政策史 1 r 同書中で, スターリ γ を は じ め ソ ビ エ ト の 政 策 立 案 者 の 信 条 が , 弱味をみせたり, 内,むの懸念や 自己の弱味に煙幕 お そ れ を あ ま り あ ら わ し て は と り か え し の か ね 危 険 を ま ね く j というもので, r w r を 張 り め ぐ ら しJ . 力 の 立 場 』 か ら 交 渉 を し て い る と い う 印 象 を つ く り だ すj こ と こ そ が 「 ソ ピ エト外交の金科玉条の語日」である,と繰りかえし繰りかえし,のべている。 Adam B . Ulam, Expansion& Coexistence: TheHistoryofS o v i e tForeignPolicy1917-1967(NewYork: 9 6 8 ), p .5 10; 鈴 木 博 信 訳 ( 東 京 : サ イ マ ル 出 版 会 , 1 9 7 9 ), 第 3巻. p . Frederick A. Praeger,1 659 ,能。 1 4 ) Whelan,0ム c i t .,p .5 2 8 . - 64- 議業交渉 ( 1 9 7 7年春〉にみられる日・ソの交渉行動様式 人の手による日本人の精神構造にかんする独創的な分析として余りにも有名となった『甘 1 9 7 1 ) のなかで著者土井健部氏は, えの構造j] ( み出すルーツであることを, 日 本 人 の 「 甘 え 」 が 「 被 害 者 意 識Jを 生 i l i掃 さ れ て い る 15)0 I甘 え j とは, 劣者ないし弱者の, 援者 ないし強者にたいする伎存の態変もしくは期待である。つまり,強者が弱者にたいし世話 をし,恩、恵を施す義務を負う一方,後者は前者にたいし,同様のことをなす義務を,自ら が弱者であるという理由により,免れるという考え方であるO そして,このような能人に 「甘え」をもっている弱者が,そのような恩恵を強者によって拒絶されるとき. I 佼害者意 識 Jが 生 れ る , と い う の で あ る O 一般に,持てる超大国アメリカにたし、する戦後日本人の「甘え」の心理構造は,顕著な ものがあり, 日 米 関 交 渉 に 決 ま っ て み ら れ る フ ァ ク タ ー で あ っ た 。 た と え ば , 1969-71年 の 沖 縄 返 還 お よ び 繊 維 交 渉 が 16乙 そ の 好 例 で あ る 。 親 米 派 で あ る と と も に 西 欧 合 理 主 義 の 持主と自される宮沢通産相は,同交渉後少したって, Iこ の 際 特 に い い た い の は , 桔 手 が l 本 国 だ か ら と い っ て 甘 え る の は も う ぞ め る べ き だ と い う こ と だJ 7),と語ったと報道され たo f こも拘わらず 5年後においても, 日本人の米国に対する f 甘 えj は , さ し て 嬬 正 さ れなかった。即ち, 1976-77年 の 日 米 漁 業 交 渉 に お い て も , 司本部j の米国への相変らずの 甘 え が 目 立 っ た の で あ る 。 た と え ば , 知 性 派 (?) 新 聞 紙 と し て 知 ら れ る 『 朝 日 新 開 』 の 0 0~-1漁業専管水域宣言によって米国の同水域内でも以前のよう 当時の一社説法,米国の 2 に自由には操業できなくなった吾本漁民の惨めきを,アメリカ国民や大統領が理解すべき と,次のように訴えた:I 世界のすべての海域で, 日本は,追われる立場にある。……囲い こみの大潮流の中で,われわれは,悲しいが,孤独なのだ。……アメリカ国民は知ってい るだろうか。アメジカが日本に与える苦痛は,たとえそれが致命的ではなくとも.致命的 な苦痛への呼び水の役割を果たすことを。……外電は報ずるO カータ一次期大統領の外交 基謁は, は , 日本・ EC な ど 向 盟 国 と の 関 誌 強 化 に あ る と O も し そ れ が 事 実 な ら ば , わ れ わ れ 0 01]-1内中心に漁業再編成のメド カータ一次期大統領に要請したし、 o U日 本 が 百 本 の 2 をつけるまで,急激な日本漁業規制をしないでほしいム とo D本 国 民 の ア メ リ カ 国 民 に l的 。 対する信頼と友情を,つなぎとめて近しいと J 序でながら,大きい方が小さい方に譲るべきだという日本式ロジッグないし甘えのもう ∞ . w r甘え」の構造Jl(東京:弘文堂, 1971),p .2 1,1 5 7,2 丸山真男氏は, ['日本の思 保守勢力も進歩主義者も, 自由主義も民主社会主義者も, コ ン 想、』のなかで,日本においては, r ミェニストも,それぞれ精神の奥底に少数者意識あるいは被害者意識をもっておりム「国中被害す; ばかり J という「被害者意識の氾藍」現象を, 指摘されている。丸山真男『日本の思想 j (東京: 9 6 1 ),p p .1 4 1 1 4 4 . グレゴリー・クラーグ著/村松;明美訳『江本人一一一ユニークさの れ波書詰, 1 諒泉一一 j (東京:サイマノレ出版会, 1 9 7 7 ) .p .8 2 も参照のこと。 1 6 )Hideo Sato e ta l,i v ' fanaging an A l l i a n c e : The P o l i t i c s 01 U. S . J a ρanese Relations (Washington,D. C.: The Brooking I n s t i t u t i o n s,1 9 7 6 ),p .1 1 0 . 1 7 ) 土井,前掲. p.196から再引用 1 8 )W 朝日新開J], 1 9 7 7,1 ,1 3 . 同様のトーンで,同年 2月 1 2自付の同紙社説は, I われわれは,アメ リカが,・・・・・・超大国として,ー・・・・・世界の秩序変更に誤重であれと頼った ・・・・ーアメリカ国民と政府に I するようなやり方は,絶対に避けてほし Lづ。『朝日新開 j l,1 9 7 7 . 望みた L、。……他国民の死命を詰J 2 .1 2 .[f読売新開』社説も, r 米昌としても,大きな B米関係の持点から,わが F 誌の立場に理解を示 すことを期待 Lたt'J. とのべたら『詰売新開,~, 1 9 7 6 .1 2 .1 2 . 1 5 ) 土井龍部 Q O 6 5 木村 一つの典型例として,福田首相(当時)が, 汎 ソ連の政治家達が訪日したとき,きまって述 べた,次のような科白を紹介したし、。すなわち,新関報道が正しいとするならば,同首相 [1'島』の問題といっても, は. 77年 2月 22日 , ポ リ ャ ン ス キ ー 駐 日 大 使 に 向 い . 1 ソ連に とってはツメのアカ程度のものだ。踏ん弱りをつけて欲しい。……ソ連にとってはわずか 4島 の ち っ ぽ け な 問 題 で は な い かJ19〉,と述べた。同年 10月 26 1 3, T. グジェンコ 海運相兼ソ日協会会長〉に向い, 1あれだけ広い領土をもっソ連が, 何 で ち っ ぽ け な 岳 に ペ 福田首相の こ だ わ る の か ねfのと述べたというのである。 胸中には,北方領土が, (ソ連 宮 本 の み な ら ず 22) このような発言をするとき2 ソ連にとっても決して小さな領土でないこと が,作為的にか意識的にか,看過されていたといわねばならないであろう O たとえば,ほ どなくそこに軍事基地が再び構築されたことを見ても容易に分るように,このオホーツク 海の出口に位置する北方四島がもっソ連にとっての安全保障および軍事戦略上の重要性 は , 決 し て 「 ツ メ の ア カ j ほどのものではないからで為る紛。 つぎに, 77年 春 の 日 ソ 漁 業 交 渉 に た い す る ソ 連 側 の 基 本 的 態 度 の 検 討 に 移 ろ う 。 まず,一言すべきは,ソ連の公式声明と実際の行動を峻別する必要があることである。 このことは,改めていわずもがなとはいえ,相手側があり機密を旨とする外交交渉におい てとくに留意すべき点といえよう。もちろん, 呂本{請の態度や戦諒?を分析するさいにも, 同様の注意が肝要であり,たとえば新聞報道からのみ,当時の状況や雰囲気を把握するこ とは適当でないといえるであろう。しかし,当時の外交文書が未公開といえ,一応関かれ た社会で、ある号本のばあい,たとえば鈴木農林・水産相や園田特使の記者会見における発 言が彼らの実際おこなっている対ソ交渉とそう大きく君主離していたとは考えにくい% ま た,あらゆる交渉,戦術の提案などが,相手側のソ連につつ抜けになるまでに,公開のコ lJ点ともな ミュニケーション・ノレートを通じてなされ,それが大変な弱味とも,また逆に f 1 9 ) U 日本経済新聞~, 1 9 7 7 .2 .2 3 . 9 7 7 .1 0 .2 7 . 2 0 ) !I朝日新聞~, 1 21) íl 朝日新聞~ ( 1 9 7 8 .1 .1 3 )の 天 声 人 語 子 も 日 く o r 、ンベリア鉄道でソ連を横断すると モスクワまで ゆくのにー還問はかかるという。ー・・・・・ちょっと見当がつかえEい ほ ど の 広 さ で あ る 。 そ う L、う広大な 国土をもちながら な ぜ 北 海 に 浮 ぶ 小 さ な 四 つ の 島 に こ だ わ る の かj。 2 2 ) 8本 に と り , 北 方 四 島 が き わ め て 大 き な 領 土 で あ る こ と は , 日 本 人 に よ っ て , 十 分 認 識 さ れ て い る。ごくー併として,撞木光教・総理前総務長官兼北方対策本部長(当時〉は,女優の真木洋子氏 島 の 広 さ か ら L火、ますと, 四 つ の 島 で 沖 縄 の 2倍, お お よ そ 東 京 都 と 神 奈 との対談中において, J I ¥果 を 合 わ せ た ぐ ら い な ん で す 。 … … 大 き レ で し ょ 。 … … 日 本 国 は 非 常 に 狭 い 昌 で し ょ G で す か r ら , 日 本 に と っ て こ の 西 つ の 島 は た い へ ん 貴 重 な 領 土 な ん で す ねJ , と 語 っ て い る 。 さらに, いて, これら島々にはいろんな地下資源がありますし, それから,この告をめぐる海域は, r r 引続 親潮 と黒潮のまじわる世界有数の漁場なんです」と述べ, ですから, 怠 ど も に と っ て は ど う し て も 必 要 な 島 で あ る わ け で すj と 結 論 し て い る が , そ こ に は 北 方 四 島 の 相 手 国 ソ 連 に と っ て の 意 義 が , 福 田首相や『朝昌』天声人語子と戸]じく, 選の日本J], まったく無邪気ないし意図的に欠落させられている。『今 1 9 7 6 .3 .8 . 2 3 ) 北 方 領 土 が , 豆 本 両 国 に と っ て も つ 錨 値 に つ い て は , 拙 稿 「 日 ソ 関 係 に お け る 非 対 称 性J ,l iス ラ プ 研究j] (No. 2 5,1 9 8 0 ),pp. 7 3 7 8参照。 1)本輔の筆者自身, 1 9 7 7年 の 漁 業 交 渉 を 担 当 し た 外 務 省 メ ン バ ー の こ , 三 の 話 を , 親 し く 開 く 機 会 を もったが,それらのオフレコを条件に得た情報も,筆者が日本の日 i 二日新損叡等ですでに得ていた情 報と大差なく,かえって失望したくらレである。 一 -6 6一 漁業交渉 (1977年春〉にみられる日・ソの交渉行動様式 っ て い る の が 日 本 む 実 情 な の で あ る 2)。 ところが,他方, ソ連のばあい法,対日交渉は, ほとんど秘密裡においてなされ,今吾においても当時のソ連の行動様式は,神秘のヴェー ノレの奥ふかく閉ざされ,謎に充ち溝ちている O 当時の f プラウダ~, Ilイズベスチヤ』紙, F ノーボエ・プレーミヤ(新時代)~誌,等に掲載された記事は,すべて一貫してクレムリ ンの対日交渉を有利に進めるとし、う至上目的遂行に奉仕するための手段の役割をはたした とみるべきである O したがって,そこに書かれたこと=ソ連の真の意図と解するのは誠に もって危険であり,時としてはその正反対のことをカムフラージュするための全くの宣伝 文とすら疑ってかかる必要があるくらいなのである。その代りに,われわれがより多くの 注意を払うべきは, ソ連が実際に行いつつあることであり,それでも不充分な時には止む なく想録力を発揮することすら慎れでは,恐らくクレムリン当局の意図や戦術を正しく揖 みえないであろう O 長らく対ソ外交に従事した米国の元国務長官ディーン・アチソンも, の べ て い る o 1ソ連人は, 討論によってではなく, 行動によって交渉する(“ The Soviets negotiate by a c t s and not by debate")Jめ,と O 1977年 の 対 E漁業交渉に臨むソ連側の基本態度は, 一言でいって. 1 力 の 立 場J か ら の 「高圧的な J 姿 勢 だ っ た , と 要 約 し て 差 支 え な い だ ろ う O その特教は, ソ連の 200r J f 水 域 内で可能なかぎち多くの魚、をとらせてもらわんとする日本側の弱味につけこんだ散慢とも 評 す べ き 優 越 の 態 度 で あ っ た 。 い わ ゆ る ほ00rJ-f時代」の到来によって最大の被害を受け ることになったのは,既述したごとく,漁業問題にかんしては,むしろソ連だったともい える。したがって, ソ 連 の 国 擦 問 題 週 刊 誌 fノ ー ボ エ ・ プ レ ー ミ ヤ J ( ' 7 6 .1 2 .23号〉が, ' 7 6 .1 2 .10) が , f 必要やむを得なしづ法令であり, ソ連邦最高会議幹部会令 ( こすぎな L川 , よ る 一 方 的 宣 言 へ の 「 対 抗 措 置 Jv 抱の諸国に と弁護したのは,そのかぎりにおいては 3の モ ス ク ワ 日 本 語 放 送 は , 強 調 す る o i(日本の〉反ソ・ 正しし、。同様に, '77年 5月 8 1 キ ャ ン ベ ー ン の 組 織 者 た ち が 忘 れ て い る こ と は , 諸 国 が 200rJ-f漁業専管水域を設定したこ とにより, ソ連が, 日本を含む他のいかなる冨よりも大きな被害を蒙らなければならない ' )。 しかし, ことである J ソ連の主張するように, ソ連を, 日本と同誌ないしそれ以上の 200rJ-f法の一方的被害者とみるのは,まさに片手落の解釈といわねばならないであろう O 2 ) 当 詩 モ ス ク ワ で 日 ソ 漁 業 交 渉 を 密 着 耳 元 材 し て い た 富 永 守 雄 氏 ( 現 北 海 道 新 聞 論 説 委 員 〉 は . 77年 5 丹1 9S . ソ 連 が 毘 ソ 漁 業 暫 定 協 定 第 8条 の 再 修 正 案 を 出 し , ま た 突 然 ひ っ こ め た 背 景 事 由 と し て , 「東京のソ連大使館の敏感なアンテナに, こ の 修 正 案 が 日 本 国 内 で 非 常 な 反 発 を か っ て い る こ と が キャッチされ,その報告が夜のうちにクレムリンに温いた」からではなレか,と推挺されているO 富永『日ソ漁業交渉の内幕ふ p p .1 3 1 5 . 3 ) DeanAcheson, “ OnDealingWithRussia: AnI n s i d eView, " TheNew YorkTimes( 5unday) Magazine(April 12,1 9 5 9 ) ,p .8 8 . したがって,ディーン・アチソンにしたがえば. r ソ連と交 b ya c t sr a t h e r than 渉するにさいして,もっとも有効な交渉とは,言葉でなくて,行動による ( resentAt TheCreation:My Years i nt h e5 t a t e words)J と い う こ と に な る 。 Acheson, P Dφartment(NewYork: W.W.Norton& Company,1 9 6 9 ) .p .3 7 8 . 4) 1 1 .rOpHH, “ Mepapa3yMl 泊 先 , Heo6xo. l . HMaH, "H080e 6peMfl (地 52,1 9 7 6 ),C T p .2 2 . 5) F oreign Broadcasting InformationS e r v i c e( S o v i e t Union)一 以 下 .F.B.よ 5 .( 5 .U . ) と自主 す (May 10, 1 9 7 7 ), p .M 1 . 同 趣 旨 を 繰 り か え し 述 べ た も の と し て . F. B. よ 丘 ( S . Uふ (March3 1,1 9 7 7 ) ,p .M 1 ;(April1,1 9 7 7 ),p .M 1 ;(Apri119,1 9 7 7 ),p .M 3;( A p r i l2 1,1 9 7 7 ), p .M 1 ;( A p r i l2 8 ;1 9 7 7 ),p . M 2;(May 1 2,1 9 7 7 ),p .M 1 ;(May 1 6,1 9 7 7 ),p .M.3,など空会 自召グ〉こと F - 67 木村 というのも, ソ連は, 況 日本とならぶ漁業大圏であると同時に,米国とならび,米国と共通 の戦略的利益を分かち合う二大海軍国でもあり,しかも,後者の利益確保のほうが,前者 の損失よりもより重要と考える点において, 日本とは全く事情を異にする側面をもってい るからである。すなわち,がんらい中南米の中小諸国によって強力に主張されていた筈の 200:{Jf漁業本域が,米・ソ・ EC ら の 大 国 に よ っ て 続 々 と , 態 度 を 転 換 , 率 先 し て 支 持 さ れ,一方的な設定にふみ切られることになった背後事岳としては,その見返りの「エサ」 〈小田滋)7)として,大菌袈.uがより大きな打撃を受けることになる, 一部急進的な海峡治岸 国の領海の拡大要誇を抑えることが,潜んでいたからであった。海峡沿岸菌の意志に左右 され無害航行権しか与えられぬこととなる領海を, た と え ば 3{ J f か ら 12{J-fに拡大されて は,米ソ軍艦は,マラッカ海峡をはじめ世界の多くの海峡からシャット・アウトされない までも,鑑船の行動の機密性と効果がいちぢるしく題害され,その海洋戦略的意義の大半 を喪うことになりの, コトは「魚」よりも深刻なのである O とはいえ,純来たる漁業的見地からみれば, 日ソは,いわば共に喪う傑にたったのであ り,ある意味においては,ソ連俣u に呉越同舟となった呂本にたいする同構ないし話し合い に よ る 最 悪 の 事 態 の 回 避 の 努 力 が み ら れ て , 不 思 議 は な い と も L巾、うる。しかし,このよ う な 期 待 こ そ が , 既 述 の 「 甘 え j なのであろう O なぜなら, 日ソは互に協力するというよ りも,競争する立場におかれたからであった。つまり,他の水域から閉めだされ喪ったも のを,少しでも多く自ソ相互の水域から水揚げして補わねばならない立場に追いやられた と感じたからであった。たとえば ' 7 7年 4月 2 48のモスクワ日本語放送は, のベた。 00万 ト ン の 誤 失 を 蒙 「他の国々による 200{J-f漁業専管水域を採用した結果,ソ連邦は,約 6 った。したがって,われわれは,自己の極東治岸水域における漁業操業を急激に拡大する ことによって,ソ連が, 世 界 の 他 の 水 域 で 喪 っ た 損 失 を 補 い う る , と 信 ず る の で あ る j的 。 d (1977.3.29) 社 説 は , の ベ る o これにたいして,たとえば, [f戟自新開l ほど高圧的に出るのか。アメザカや欧州共同体 r ソ連がなぜこれ ( E C )水 域 か ら 追 わ れ た 分 を , 北 洋 で 取 り 返そうとする焦ワがあることはわかる。しかしそれ以との大国主義を, どうにも否定でき なしづ 1 0 L と。ソ連鎖の日本側にたし、する同情がまったく欠如していたことを示すごく一 例 と し て , 裁 判 管 轄 権 問 題 を 挙 げ う る で あ ろ う 。 200{J-f漁業水域内での日本漁船の違反行 為に対する裁判管轄権が飽国主こ帰露するとなると, 日本富民の基本的権利・義務にかんす る憲法上の重大な問題であり,国会承認なしに飽国に認めるわけにはし、かな L、。このよう な特殊事情を,加害者たる米国側は理解したが,加害者であると同時に被害者でもあるソ 6 )高林秀雄去の言葉によれば, r ソピエト務軍は. 1 9 6 2年 の キ ュ ー パ 危 機 以 後 急 速 に 成 長 を 遂 げ て , 現在では米国と首泣をあらそう大海軍国と主主り J ,I それにともなって,ソビエトの海洋戦略も転換 してきて,也国の額避の拡大をおさえて海軍力の行動の自由を確保し,国際海較における軍艦と軍 用機の通過の告白を維持することに,米雷と共通の戦略的利益を分かち合うようになったのであ 9 7 7 ), p. 2 4 2 . る ム 高 林 秀 雄 『 海 洋 時 代 の 国 際 法 J l (京都:有信堂. 1 滋 F 海洋法.J] (東京:有斐閣. 1 9 7 9 ) .p .1 7 9 . 8) た と え ば , 中 村 洗 1 12海 里 領 海 と 菌 襟 海 峡 の 3謹 呈 諌 結 J ,Il'ジュリストJl (No.6 47,1 9 7 7 . 9 .1号 ) , pp. 3 1-34. 9 ) F.B.よ S .( S .U.)( A p r i l 28 ,1 号7 7 ) ,p .M 2 . 類 似 の 発 言 と し て . F.B.I .S .( S .U.) ( A p r i l 1, 1 9 7 7 ),p .M 1 ;( A p r i l2 1 ),p .M 1 . 1 0 )f I 報 j 日新聞Jl. 1 9 7 7 .3 .2 9 . 7 ) 小田 - 68- 漁業交渉(1977年春)にみられる日・ソの交渉行動様式 連 は , 決 し て 理 解 す る 態 度 を 示 そ う と し な か っ た の で あ る 1130 同 情 ど こ ろ で は な か っ た と い え よ う O 逆 に 弱 者 の 立 場 に 身 を 霊 く こ と に な っ た E本 艇 に たし、する強者としての己れの立場の徹底的利用一一一これが 12) ソ連側の基本的態度だった とさえみるべきであろう。つまり,同交渉をよち必要としているのは, は , 日本の要請に応ずる形で交渉に臨んでいるにすぎないといわんばかりの態度だった。 O .バ ン ド ゥ ー ラ 『 イ ズ ベ ス チ ヤ 』 東 京 特 派 員 は 事実, I の願いによって開始されたにもかかわらず, 進 め て い な い の だ J13〉,と非難し れらの会談は, 1カ 月 後 の 5月 4Sにも,同様に, I 罵知のごとく,こ もし東京が建設的なアプローチをし と っ く の 苦 に 成 功 裡 に 終 っ て い た も の な の だ fベ と の ベ た 。 もし交渉が長びけば,被害を受けるのは, を明確にした。 ' 7 7年 4月 2 日 , I 交 渉 は E本 舗 司本舗は,迅速かつ稔りあるやり方で交渉を 日本部の希望によって寵されており, めしていたならば, は , B本 で あ ち , ソ 連 ソ連の漁民ではなく, 日本漁民であること 5月 8 日 , I 大多数の日本漁民は, モスクワ日本語放送は ソ連側 いま大変菌っ た 立 場 に あ る O 彼 ら が , 長 び い て い る 換 業 交 渉 を 後 海 L, 不 満 を 感 じ て い て , と う ぜ ん で , ある J15)O ユ ー リ ー ・ ア フ ォ ー ニ ン 「 モ ス ク ワ ・ ラ ジ オ j 評言合員にいたっては, 5 月 11 日 このソ連の有利な立場をさらに強調するトーンで, 次のようにさえし咋、切った。「今日の . と16)。 位 界 に お い て , 日 本 に は , ソ 連 と の 善 隣 関 孫 を 謁 整 す る 以 外 の 選 択 肢 は , な い の だJ 相 手 側 の 2001]-1水域における操業にかんしては, いことを見すかしたソ連は, 日本側の必要性の方がソ連側より大き ] 1I 漁 業 水 域J内 に お け る 日 本 漁 船 の 操 業 に た い ソ連の 2001 ] 1I 領海」におけるソ連漁船の操業を要求した。つまり, す る 譲 歩 と ひ き 代 え に 日 本 の 121 f シ コ フ 漁 業 栢 は , の ベ た : Iソ連は, 相互性の基礎にもとづき, 日本沿岸沖においてソ 連 が 伝 統 的 に お こ な っ て き た 油 業 を 読 け る 権 利 を 与 え ら れ る べ き で あ る f九 日 本 側 は , こ の よ う な 取 引 き は , ま っ た く 前 例 も な け れ ば 「 爵 際 常 識 に 反 す る も の J18)と し 反 駁 し た 。 11) ソ 連 が , ー 態 t こ,地国の政治システムや法律的事慣に無理解,無知,無配慮なことにかんし,米函 I Jか ら 「 君 は , 君 の 致 府 が す で に サ イ 右数の対ソ交渉経験者である故モーズリー教授は,ソビエト{ll ン し た 条 約 を , 上 院 が 批 准 す る こ と を 拒 否 す る と 言 っ て い る ん じ ゃ な い だ ろ う ねJと い わ れ , 驚 侍 した,と記している。 P hilipE .Mosely,“Some Soviet Techniquesof Negotiation," in his TheKremlinandl V o r l dP o l i t i c s :5 t u d i e si n5 0 v i e tP o l i c yand. 4 c t i o n(NewYork: Vintage Book,1 9 6 0 ),p . 27; 山 J I I雄己/木村 汎訳『ソビエトと世界政治I J(東京:論争社, 1962),p .21 . そ れ か ら 30年 以 上 の 議 月 が 経 過 し た に も か か わ ら ず , ソ ピ エ ト 侭j の認識がまったく改善されてい ないことが. 1 978年 の 米 屋 上 錠 議 員 団 の 訪 ソ に よ っ て 明 ら か と な っ た 。 す な わ ち , SALTI I が, カータ一大統領によって調印されたにもかかわらず,米国議会の批堆を得られないことを理解しえ 驚きをこめて,なぜ,君達は,そのよう主反対論者をせっかん ( d i s c i p l i n e ) し ないソ連首揺は, I えないのか, と 尋 ね た j と L、う。 Whelan ,o p .c i t .,p .4 2 3 . 1 2 )第二次大戦中,対ソ接僚に携った J .Dて デ f ーンは, r ソ ピ エ ト 指 導 者 が , 敵 の 甲 胃 の 弱 L、点を i 故 takingf u l l advantage ofthe s o f ts p o t si ntheenemy'sarmor)J こ と に 秀 で 庭的に利用する ( ている, と結論している。 JohnR .Deane,TheStrangeAlliance: TheStory01OurE. l ( o r t s a t Wartime Coo ρe r a t i o n With Russia (Bloomington: Indiana University Press, 1973), p.304. 13) J1 3 8 e c m u f l( 2a r r p 問先 1 9 7 7 ) . 1 4 ) Ta .M : J I C e(4Ma兄 1977). 15) F.B.1 .5 .( 5 .U.)(May 10 ,1977),p .M 1 . 16) I b i d .,(May 18, 1 9 7 7 ),p .M 2 . 1 7 ) F.B.1 .S .( 5 .U . )(April 13,1 9 7 7 ),p .M 1 . 1 8 ) i朝 g新聞Jl ( 1 9 7 7 .3 .2 4 ) . 同日の同紙社説も, r 日本領海内でのソ連操業要求は,高圧を通りこし . と述べる。 て , 非 常 識 だ と し か L、いようがない J ← 69 ← 汎 木村 しかし,ソ連側は,この交換条件を容易に翫念しなかった。ソピエト行動様式で驚くべき ことは,自己の要求が正当なものでないことを自認することが,必ずしもその要求をとっ 1自 , 訪 ソ 中 の 日 本 人 労 さ汗ることに連らないことであった。つまり,イシコフは, 5月 1 働者代表団に向い,いささかも憶することなく,主張した。 統的漁業を, D21 f <領 海 内 で の ソ 連 船 の 伝 日本政府が承認するつもりのないことを,われわれは,承知している。しか し,われわれが希望したいのは,ソ連交渉団が,モスクワで現在進行中の会談において示 しているのは,まさに,相互の利益を考慶するとしみ立場なのであるからして, 日本沿岸 付近の漁業問題解決まこかんしても,もう少し友好的な態震をとって欲しいということであ 19 るJ )O 日本側にたし、するソ連の「高圧的j20)な態度は,ソ連{閣の「交渉マナーが悪く J21入 一 般 に受け入れられている「外交慣例や交渉/レールを屡々無視J22)したことにも,現れていた。 たとえば, ソ連は, 鈴木善幸・ 5本 代 表 団 の 詩 ソ の 3 1 3前たる '77年 2月 24 自 , r 一方 f <水 域 宣 言 を 同 年 3月 11 3から実施するとの関伎会議決定を行ない, 的 に J23) ソ連 2001 日 こんに日本の交 本との話し合いの意義を事実上認めないという態度をしめした。これは, t 渉 代 表 の 「 出 鼻 を く じ い て j24), r 既成事実をつくっておきたしづ 2ぬという「先制パンチ」紛 戦術と済まされないソ連の態度であったといわねばならなし、。というのも,イシコフ漁業 相の方から 2月 8 1 3, 重光晶駐ソ大使にたいし, ηと , 漁業交渉を開きたし、f 日,重光大使による, r ソ連としては阜急にハイ・レベルの 鈴木農相の早期訪ソによる漁業首脳会談の開催を促し,同 1 4 日本政府の承諾の返事に対し,開漁業相は「鈴木農相の訪ソを歓迎 す る j28)と の 意 向 を 表 現 し た こ と を 受 け て の 鈴 木 農 梧 の 訪 ソ と Lう 経 緯 が 存 在 し た か ら で あった。ソ連は,首相特使たる園田直・官房長官およびその随員のピザを拒否,ょうやく 3日後に発給した。いったん双方が合意した協定や語句を,実にしばしば, 土壇場で,変更,逆転した…等々, ソ連の badmanner の例は, しかも最後の 1977年 の 漁 業 交 渉 中 に 、 お い て , 枚 挙 に 暇 が な L。 このようなソ連の態度は,相手側の意を克ちとるためにはベストを尽そうとした号本側 の そ れ と , 好 対 照 を な し た2 8 たとえば,国会がし、わゆる f 海洋二法」を通過させるや否 19) F.B.1 .5 .( 5 .U.)(May 12,1 9 7 7 ),p .M 1 . 2 0 )W 朝日新開J](社説), 1 9 7 7 .3 .2 9 . 'こかんし, Gordon A. Craig, 2 1 ) 一般に, ソ連交渉者の行儀やマナーが悪いこと (bad manners) I “TechniquesofNegotiation, "i nIvoJ .Lederer,e d .,R ussian Foreign P o l i c y :Essaysi n 9 6 2 ) ,pp. 354-356,p .3 70; H i s t o r i c a lP e r s p e c t i v e (New Haven: Yale University Press,1 Whelan,o ρ .c i t .,p .214 ,4 8 0 . 2 2 ) 1r朝日新聞J], 1 9 7 7 .5 .2 0 . グレイクは,ロシア人が,革命前の時代から,一般に f 受け容れられた p .c i t .,p .3 5 4 . 外交エチケットにほとんど敬意を払わない j ことを,指擁している。 Craig,o 2 3 )1 r朝日新顛J], 19 ヴ7 .2 .2 5 . W 日本経済新開J], 1 9 7 7 .2 . 2 6 . ただし,ソ連舗は,自国のおo t y -i経済水 4a n p e J I沼 1 9 7 7 ) . 域の導入を一方的行為とみなしていない。刀pa8oa( 2 4 )1 r朝日新開J], 1 9 7 7 .2 .2 5 . 25) 1r日本経済新聞J], 1 9 7 7 .2 .2 5 . 2 6 ) 1r朝日新開(夕刊)J], 1 9 7 7 .2 .2 5 . 2 7 )1 r朝日新開.11. 1 9 7 7 .2 .9;1r日本経書新需品 1 9 7 7 .2 .9 . 28) Ir朝日新開Jl. 1 9 7 7 .2 .1 5 . 28 ったとえば,ょうやくピザをうけ,訪ソすることになった富田特使は,ポリャンスキー駐日ソ連大使 突黙のことで L、ろいろご迷惑をかけたムとのベる低姿勢ぶりを示した。『読売新需品 にたいし, r 1 9 7 7 .4 .6 . -70- 漁業交渉(1977年春〕にみられる 5・ソの交渉行動議式 や,鈴木農相は,イシコフ漁業梧との会談で「ソ連は隣組であり,漁業実績もあるので, 日本の海洋二法について十分に説明する用意があるJといい,わざわざロシア語に翻訳し た 日 本 の 海 洋 二 法 の テ キ ス ト を ソ 連 髄 に 手 渡 し た 2930 これに対し, ソ連{閣は,最高会議幹 部会令および麗涼会議決定のいずれの内容も,ただの一度も呂本政府に通知せず, 百本側 はこのことをソ連のタス通信の報道を通じて,間接的にはじめて知るという構ない者様だ .L . スタイベノレ著[f¥,、かにすれば共産主義者と交渉しうるか?j ] ( 1972) には, った紛。 G ソ連にとり理想的な交渉モデ、ノレ,つまりソ連側の担いが完全に実現されたばあいの西額!J交 渉者の行動様式を想定した面白い部分があるが,その第一の要件としてスタイベノレがあげ I 交渉の程手が, ソ 連 が 指 定 す る 時 刻 に ソ 連 が 選 ぶ 場 所 に 来 る こ と J31)という ているのは, ものである O また,英国の前駐ソ大使百人ヘイタ一期も, I 西 1 l l U 代表団は, 、S 2 L との忠告を記している。 表 の な す が ま ま に な る べ き で な L」 (ソ連の〉時間 これら西側専門家たちに よる警告にもかかわらず自らすすんでこのような意味でのソ連側にとって「理想的な交渉 相 手 J と な り 「 ソ 連 側 の 時 間 表 の な す が ま ま に な ろ う j 土した感があるのが, 1977年 春 に おける日本漁業交差長代表団だったといえる O す な わ ち , い つ も ソ 連 側 の 「 一 方 的 な 」 連 絡 こち,時刻,場所が,決定, で 33)鈴木ーイシコフ会談の 8v のだった。 このような弓本側の態度を, 当時, 延期, 再変更させるに委された u サンケイ新聞』の伊藤博モスクワ特派員 (5月) 5 8, 7 8, 10 日 , 12日 , 13日,鈴木一イシコフ は,つぎのように報じている:I 会 談 の 5持 は す べ て ソ 連 側 の 都 合 で き ま り , などは, 日 本 は ソ 連 艇 の 言 い な り だ っ た 。 第 6回 会 談 61 3午 後 5時 ご ろ に 開 か れ る こ と に な っ て い た 。 そ れ が 向 7時になっ, 当初は 1 3午 前 10時 へ と 延 期 さ れ た 。 こ の 間 , 鈴 木 農 桔 は 在 モ ス ク ワ 吾 本 大 使 館 で ナ こ だ さ ら に 17 1 ソ連側からの連絡を待ち,待機していなければならなかった。 こうした場合で、も, 日 本 艇 は 『 気 に し な し 、 。 ソ 連 に 蔀 合 も あ る こ と だ ろ う か ら J と,こ ち ら が 気 を つ か っ て や る れ 、 た れ り つ く せ り Jぶ り を 発 揮 し ソ 連 側 の “ 無 札 " を と が め る こ と は い っ さ L、しなカミっアニ J34)。 ( 2 ) 無策 v s .あ ら ゆ る 手 段 の 動 員 1977年 春 の 日 ソ 漁 業 交 渉 に お け る 呂 ソ 両 国 の 基 本 戦 略 (strategy) は , 次 の よ う な も の で あ っ た と 考 え ら れ る O ま ず , 共 に 抱 の 200~4 水域から閉めだされ,著しく漁獲量が削減さ れることになった事態に鑑み, 4水 域 に お い て , 可 能 な か ぎ り 多 く の 漁 獲 日 ソ 相 互 の 20011 量を確{呆し,自国民および家畜のための蛋白資源の目減りを喰いとめるという点におい て,共通の, し か し 互 L、に一ーたとえ全面的とはいえないまでも一一一大いに競合する戦略 目標をもっていた。それに加えて,各自,それぞれ真向から対立する戦略百標があった。 2 9 )r i読売新開j], 1 9 7 7 .4 .1 6 ; Ir日本経済新開j], 1 9 7 7 .5 .7 ; [jサンケイ新開j], 1 9 7 7 .5 .1 8 . 3 0 )U サンケイ新聞j], 1 9 7 7 .5 .1 8 . .S t e i b e l,HowCan l 予' eNegotiate With TheCommunists?(NewYork: National 3 1 ) GeraldL StrategyInformationCenter,I n c .,1 9 7 2 ),p . 21 . 3 2 )S i r WilliamHayter, The Ditlomacy 01 t h e GreatPowersCLondon: HarmishHamilton L t d .,1 9 6 0 ),p .6 8 . 3 3 )U 朝 日 新 語U ,1 9 7 7 .5 .2 8 . 34) U -71- 木村 ソ連倒のそれは, 汎 日ソ桔互の 20011 -1水域関保においては,明らかに劣勢になった日本側を 揺さぶち,できるかぎりの代償,たとえば, 日本の領海内におけるソ連漁船の操業権にか んする譲歩をひきだし,さらには漁業問題に領土問題を絡めて, ソ連を戦後苦しめてきた 日本の執換な北方額土返還運動に,一気に終止符を打とうとすることにあった。呂本{磁の そ れ は , 当 初 , ソ 連 内 の 200= ( J 1水 域 内 に お け る 従 来 の 漁 業 実 績 を 可 能 な か ぎ り 下 回 ら ぬ 漁 獲高を獲得するとしづ純漁業的な権益の確保にあったが, I 、 魚J : f こ「島J を 絡 め よ う と す るソ連の意図が次第に明らかとなるにつれ,併せて,領土返還要求の立場を決して不利に しないという項昌が加わった。交棒後の今日の時点からみると, 日本立,領土を漁業から 切り離すという点においては辛うじてその防衛を果たしえたかにみえたものの,その代り 漁獲高では著しい削減を蒙り,決して手放しで喜べぬ結果であった。他方, 2∞すイ水域からの吾本漁船の閉め出しに成功したものの, ソ連も岳霞内 領土を漁業と絡めることに失敗 したうえに,いたずらに日本屋民の反ソ惑情を煽った点において,むしろマイナス効果が 自立った。このような結果を,勝ち負けのっけにくい交渉ごとに普通のこととみるか,ま た両国ともその戦略が確固たるものでなかったことに由来する結果とみるか,筆者は判断 を差控えたし、。 むしろ,筆者が,本館で強諒・指摘したいのは, 日ソ両国がこのような基本戦略を達成 t i c s ) についてである。筆者によれば,同交渉において日ソ両 す る た め に 用 い た 戦 街 ( 匂c 国が,意識的,無意識的,あるいは明示的,黙示的の ~IJ にかかわりなく用いた戦術のある ものは,かなち捺だって対照的な類のもので,特筆に価すると思われるからである。 9 7 7年 春 の 対 ソ 漁 業 交 渉 の さ い に B本 側 が 採 っ た 戦 術 に 戦構としづ観点からみると, 1 は , き わ め て 興 味 ぶ か い 特 徴 が 3点ばかり晃出される。 まずその第ーは, ヨ本{剥が日ソ漁業交渉をすすめるにあたり, ニング・カードがあるのに対し, ソ連傍~fこは多くのパーゲ s本 1JWには同交渉を有利に導く決め手がまったくない, と「考えたJ点 で あ る 。 こ れ は , い う ま で も な く , 前 節 で の ベ た , 日 本 の 交 渉 に た L、する 基本的な態度,すなわち,再交渉において昌本の立場は弱者のそれであると認識した点と 関連している。ここで「考えた」としづ罵語を用いたのは,主観的な認識においてそうで あり,当時の日本が客観的な見地からみて果たしてまったく決め手をもたなかったか否か は別問題であるとしづ意味をこめている。というのも,筆者には,まずおよそ交渉ごとに おいてバーゲニング・カードが皆無ということがありうるか,という素朴な疑問がある上 に,外匿の研究家が指摘するように, 日本人間に,戦術にたいする不思議な嫌悪惑がある ために,一応表面的には,無カードで交渉に臨んでいるようなポーズをとち,かつ自身も そのように信じこんでいるものの,その実,客観的に判断すると,意識的,無意識的に駆 け引きのカードを十分駆慶しているのではないかとし寸嫌疑をもつからである。 まず, 日本人の考え方の一つを反映するものとして, 7 7年 2月 5日付の社説は, てみよう。用紙の ' r r 朝日新聞』の論語を, r 出し入れするカードは, 採りあげ 日本がゼロに近 いのに対して, (ソ連には〉教え努れぬほどある。……カードを持たぬわれわれ…… J35)と 3 5 )I i 朝 B新開ふ 1 9 7 7 .2 .5 . -72ー 漁業交渉(19 77年春〉にみられる日・ソの交渉行動様式 書き,同じく 3月 1 5日付社説は, r わが国は交渉に当って,これといった取引材料を持っ ているわけではない」紛,と嘆いてみせた。「外交上顎例のなし、」園田特使のピザ発給延期 とL、う屈辱的事件に遭遇したときも, は , ソ連側の出方に応じて, r 切り札を持たない日本として 4月 3 日付 I 竜紙は, 当 面 は 『 対 症 外 交 』 を 繰 り 返 す し か な L」 、373, と き わ め て 悲 観的なトーンであった。 1977年の対ソ漁業交渉において, 日本側に,これといった有効な 切り札がなかったことは穫かであろう O しかし,上の F 朝芸新開』の説くように,まった くカードがなかったとし北、切ってしまうのも,また事実に反する日本舗の思いこみではな かろうか。もしカードが全くなかったとするならば,なぜ日本{閣の惨敗の結果を導かなか ったのかとし、う問に答えられないことになる O ここにおいて, どうしても鵠満的ともいう べき日本的な戦術観にメスを入れなければならないように思われるO アングロ・サクソンを中心として独岳の交渉観を発畏させてきた欧米流の考え方におい ては.交渉と戦術とは,ほぼ同義語といってよいほど,切っても切れない密接な関係と, 観念されている O たとえば,対ソ交渉の超ベテランの一人ジョージ・ケナンによれば, 「外交の世界において, 方法 ( methology) や 戦 街 ( t a c t i c s ) が , 概念 ( c o n c e p t ) や戦略 ( s t r a t e g y ) に決して劣らない重要性をもつことは,自明の真理であるJ 3 8 ) O他 方 , 東 洋 の 君 子 を 吉 在 す る (? )日本人は,一般に「戦荷J( t a c t i c s ),r 手 段J( means),r 挺 子J( l e v e r a g e ),そ m a n i p u l a t i n g ),r 取 り 引 き J( b a主g a i n i n g ),仁駆けひき J(maneuvering) し て そ れ ら の 「 操 作 J( いといった用語を,マキャベリステッグな匂いがするという理由で忌避する性向がみら れるようなので怠る。権謀術策を用い,相手側の虚や弱点に乗ずるのがフェヤーでないと い う 道 徳 的 な 価 値 基 準 の ほ か に , 長 L、 視 点 か ら み る と , こ れ ら の 方 策 が , そ の 実 際 的 な 効 果においても,必ずしも有効でないどころか,時として裏目に出ることがあり,危険でさ えあるとし、う信仰が,かなり一般的に行きわたっているように見受けられる。「策子, r 策 に溺れる J , 無 策 こ そ 最 善 の 策J と い っ た 古 諺 が ポ ピ ラ ー な 所 以 で あ る 。 日 本 の 戦 前 に お け る 対 外 交 渉 の 18のケースを丹念に検討・分析した結果, 自本人の交渉スタイル, プロ セス,テクニックに繰り返し現れる詞ーのノミターンを発見し,百fも そ れ ら が 戦 後 期 に お け る 日 本 人 の 対 外 交 渉 に も 驚 く べ き ほ ど 一 貫 し て い る 39) 〈コロンピア大〉の研究によると, 日本人間には, と主張する r マキャベリスティッグな戦術を用いる へ という考え方が, 一一ーとくに素人がやる場合は一一一危検で失敗のもと J 4 ている。プレーカーは, M. ブ レ ー カ 一 博 士 日本人には「さらに,そうした戦術が, 援づく存在し 日本よりも強力な匿との 交渉では,なおさら避けるべきであるJ 4 1 ¥ と考える傾向がみられるという O このような人為的な策や戦指を弄することを好まないという日本人の一般的性質のいわ 3 6 ) 河上, 1 9 7 7 .3 .1 5 . 9 7 7 .4 .3 . 37) 向上, 1 3 8 ) GeorgeF .五e nnan,Memoirs 1925-1950 ( B o s t o n :L i t t l e,Brown and Company,1 9 6 7 ), p.290. ichaelB l a k e r,J a p n e s eI n t e r n a t i o n a lNegotiatingS t y l e(NewYork:ColumbiaU n i v e r s i t y 3 9 )M P r e s s,1 9 7 7 ),P .x;油 井 襲 訳 『 根 ま わ L かきまわ L あとまわし~ (東京:サイマル出版会, 1 9 7 6 ),p p .4 5 . 4 0 )l b i d .,p .28; 詩訳, p p .30-31 . 41 )l b i d .,p .28; 詞訳, p .31 . -73- 木村 ば系として, 汎 日本人の交渉行動様式にみられるいまひとつの特設が,ブレーカによって指 摘 さ れ て い る c それは,誠心誠意紛こそ最善の交渉術と, 日本人が考えがちな点である O プレーカーが上の引用にひきつづいて書いているところによれば, r 日本のパーゲニング の規準からすると,相手側を操作する戦布は,双方が『正しい気持』をもっていれば不要 だ と し て 排 除 さ れ る J4お 。 つ ま り , 日 本 人 は , 交 渉 に お い て も , 技 術 (technique) よりも, 精神 ( s p i r i t ) がより大事だと信じている。プレーカーの強調する日本人の交渉行動様式に おける誠意の重視は,たしかに, 1 977年 の 漁 業 交 渉 に お い て も , そ の ま ま 該 当 す る 事 業 だ った。 3丹 8 日付 f 朝 日 新 開 』 の 天 声 人 語 は ' "、う。「勝海舟はかつて, u 外交の撞意、は正 心誠意にある c ごまかしなどをやりかけると,かえって向うからこちらの弱点を見抜かれ るものだよ J といっている。日ソ漁業交渉で泣, 日本政府は誠意をこめて日本人の心を説 j4Uo き 続 け る ほ か は な L、 最後に,これまで述べたことの続きとして,ブレーカ -i 専土が指摘している日本人の交 渉 行 動 様 式 の 一 般 的 特 色 で 且 つ 77 年の対ソ漁業交渉の折の日本制交渉者にも当てはまる第 三点がある。それは,相手側にたいする意志伝達法にみられる特色で怠る。プレーカーに よると, 日本人は,往々にして,昌己の主張の正当性に絶対的な自告を抱いており紛,そ のことからなんら特別の衡を弄さなくとも,誠意をこめて粘りづよく説明しさえすれば, 必 ず や 自 己 の 要 求 が 相 手 側 に 理 解 さ れ 受 け 入 れ ら れ る に 違 い な い と い う 「 散 慢j46) ともい う べ き 楽 天 的 自 信 な い し 思 い こ み が あ る こ と を 47)指摘している。外交交渉を,極度にデリ ケートな技巧を必要とする「一種のノ之ーフォミング・アート J (スタンリー・ホフマン)48) とみなす酉側の考え方とは,対照、をなす考え方といわねばならなし、。このような意志伝達 の 問 題 に か ん す る 「 楽 観 論J49)は,恐らく, 同 一 言 語 を 話 す 同 賀 民 族 が 50) 地理的 t こ極め て 狭 溢 な 地 域 に 集 中 し て 棲 怠 し , 世 界 一 龍 率 的 で ス ピ ー デ ィ な 情 報 社 会 5ベ を も っ て い る 事情に由来するものであろう o 1 意志あるところに, 自 ず か ら 道 は 通 ず (Where there's a will,there's a way)J一 一 こ の 恐 ら く 全 世 界 に 流 布 さ れ て い る 金 言 を も っ と も 素 直 に 詰 じ ている民族の一つに, した鈴木農相は, 日本人を数えて間違いなかろう。 3月 5 1 3, モ ス ク ワ か ら 一 時 帰 国 1ソ 連 も 漁 業 国 , 腹 を 割 っ て 話 せ ば わ か る j52)と 語 り , 一 カ 月 後 の 4月 5 4 2 )I b i d .,p . 218; p p . 177-178; 同訳, p.34. 4 3 )I b i d .,p . 28; 開訳, p.31 . 4 4 ) W朝百新聞J], 1 9 7 7 .3 .6 . p .c i t .,p p . 21-25; p p . 50-53;p . 213; p .218; I 司書む p .2 6 ;p .2 1 2 . 4 5 ) Blaker,o 4 6 )I b i d .,p . 213; 同訳, p.26. 4 7 )I b i d .,p p . 21-26;p p .30-53; p . 213; p . 218; 詞訳. p .26; p .2 1 6 . 4 8 ) StanleyHo 証mann , “ TheHcllof GoodIntentions, "ForeignP o l i c y(No. 29,Winter 19777 8 ),p .3 . 4 9 )B laker,o p .c i t .,p .2 1 3 . .Reischauer, The Ja ρanese(Cambridge,Mass: TheBelknapPress of Harvard 50) EdwinO UniversityPress,1 9 7 7 ) ,p .8,p .34; 昌弘正雄訳〈東京:文芸春敬社, 1 9 7 9 ),p . 22 ,p .4 4 . 5 1 ) これが,ユニークな吾本人論をものにした,オーストラリアの在日文化人類学者のグレゴリー・ク ラークえが強講する日本社会の最大特徴点である O グレゴリー・クラーク著/村松増美訳『日本人 一ユニークさの源泉一~ (東京:サイマ/レ出寂会, 1 9 7 7 ),p p .1 6 4 1 7 4 . 9 7 7 .3 .6 . 鈴木農相は,第 2次訪ソを誌に. r 先に訪ソした繋,私はイシコフ漁 52) W白本経請新聞J], 1 業椙と複を割って話し合った J . と語った。『朝日新開(夕刊)J]. 1977.4 .7 . -74- 漁業交渉(19 7 7年春〉にみられる 5 ・ソの交渉行動様式 弘首相特使としてモスクワに出発する産前,国自官房長官は, Iこ ち ら の 言 い 分 を 卒 直 に 話 せ ば , ソ 連 も わ か っ て く れ る は ずfへ と 語 っ た の で あ る 。 こ こ に は , い う ま で も な く , f 交渉技術にかんする自己の考え方を, 交 渉 相 手 も 同 撲 に も っ て い る と し づ 誤 解 J (ニコ ノレソン)54)が,潜んでいる。 ところで, 1 977年 の 対 ソ 漁 業 交 渉 に お い て , 本 当 に , くなく,またカードを全く用し、なかったのであろうか? とえば, u 朝日新開』は, 日本側には,手もちの切り札が全 筆者は,疑問なしとしなし、。た 昌本{知こカードがないと主張しつつも, 次第に日本到に利用し うるカードの存在に気付いていったようにも見受けられるのである。まず,とくにごく初 期の段搭において, の「等量主義」に対し, ソ連損j 日本舗によって主張されたのは, I 漁 獲 実 績 を 尊 重 せ よ j と い う ロ ジ ッ ク だ っ たo ' 7 7年 2月 26日 , 翌 日 の 訪 ソ ( 第 1次 ) を 前 に,鈴木農相は, I~ヒ洋における日本漁揺の実績確保のため強い決意、で交渉に取り組むJi5) 意 志 を 表 現 し た 。 翌 27日 , 福田首相も, I我が国の漁業権益を守ち, 漁 業 強 調 し た o 3月 21 3付 r 朝日新開』は, 鈴木農相に, 実誤を勝ち取れるよう指示しているJ i のことを, の ベ る o I日本{閣は, i l; : ft 洋は自本漁民が開発した漁場だ。漁獲実績を尊重せよ』と主張す る以外に, キ メ 手 を 持 た な い の だ J57)o しかし, 「漁獲実績」と L、う主張は, ソ連の新水域内における日本の伝統的な 改めていうまでもなく, ソ連{闘がそれを評語しははじめて極 植 を も ち う る カ ー ド で あ っ た 。 3見 1 4日 付 の 『 朝 日 薪 開 J が,つぎのように書いたのは, まさにこの点を認識してのことであった。「“切り札"をすべてソ連に握られ,……わが国 v こ 訴 え る し か な い , と の 考 え だ J58)0 翌 日 の 同 社 説 としては交渉では……ソ連の『良識Jl ' は , Iソ 連 は , 同 じ 遠 洋 漁 業 国 の 立 場 か ら し て , わ が 冨 へ の 理 解 が あ っ て よ し 、 」 593, と 主 張 した。第二次鈴木訪ソによっても,この点にかんするソ連の理解が得られないことが明ら か と な っ た 4足半ば過ぎ, 日 本 側 は , 漁 業 問 題 を 自 ソ 関 孫 と い う 大 き な 枠 の な か に 位i 置づ け て ソ 連 の 譲 歩 を ひ き だ す 戦 諭 に 出 たo 4月 17日 , モ ス ク ワ か ら 靖 国 後 の 記 者 会 見 で , ソ 5 3 ) Ir朝日新聞J]. 1 9 7 7 .4 .5 . このような園田特使の発言および交渉態度を. Ir朝日新開』は. r “あうんの呼吸"がお対面のコ スイギン首相にどれだけ通じたかはよくわからない J . と評 L. さらに向日の同紙上の記者産談会 は , r ソ連では,頭芸は通じにくい。泣きもだめだ。北方西島の繰引き問題にしても,園田特寵の主 向を言っているのかさつはりわからない J ,と批判した。『戟日新属品 1 9 7 7 .4 .8 . また, I l ' 日 張は. 1 本経済新開 Jの金指正雄編集員は,自民党の外交問題関係者のなかには,今回の政府首脳の対ソ外 交のやり方を「余りにも日本酌 j と批判的に受けとめる向きが少くないと Lて , r “ハラを割って話 L合えばわかってもらえる"¥.、のちをかけてやってくる"といったことは外交のハラ構えであっ 9 7 7 . 4 .1 8 . て,問題はそれを踏まえてどうするかだ j とLづ声を,紹介している。 E自本経済新関J], 1 Lかるに,富田 直氏は,日ソ漁業交渉妥結から半年後,今度は外相として訪ソするにあたり, 7 8年 1 2月 308,担も変らず薗呂流外交指の神髄は. r 魚、心あれば水心だよ j と語り, 中東特寵と 0年 2月も, r 私は. (対話でなく〉“体話"でいく J . との自己の日本式外交街を, むしろ なった 8 9 7 7 .1 2 .3 1 ;U 週刊ポスト』く 1 9 8 0 .2 .1 5号 ) , p . 2 8 . 得意げに語った。『朝日新聞J]. 1 5 4 )SirHaroldNicolson,Ditlomacy(London: OxfordUniversityPress,1 9 7 7 ),p .6 8 ;斎 藤 真 / 深谷溝雄訳(東京:東京大学出版会. 1 号6 5 ),p .1 3 . 5 5 ) [f'日本経済新陪J], 1 9 7 7 .2 .2 7 . 5 6 ) 向上. 1 9 7 7 .2 .2 8 . 5 7 )U 朝日新開J]. 1 9 7 7 .3 .2 . 5 8 ) 向上. 1 9 7 7 .3 .1 4 . 5 9 ) 向上, 1 9 7 7 .3 .1 5 . -75- 汎 木村 連の変化が期待できるかと関われた, 鈴木農相は, r ソ連の最高指導部が, 日ソ関保をい かに大事とみるか,冨際関係の中で日本の位置づけをどうするか,ソ連としても選択を追 られる問題だ j60)と,暗にソ連側を脅迫したのである。 4} j25日,領海法にかんする衆読 の審議中においても,同農相は,ほぼ同趣旨を,繰り返した。 r c自ソ漁業協定の適用水域 を定める〉第一条をどうするかは,ソ連が日ソの友好関係を世界政治の中の重要な問題と 考えるか, 日本との関長はどうでもし市、と考えるか,にかかっている j60,と。このような r ソ連政府・党首脳に 要 望 す る 」 と 題 し て , ソ 連 首 脳 が 対 E瞬人関係の重要性を考慮すべし, と説いた: r ソ連 鈴木農相ら政府首脳の対ソ戦術に向調して, Ii朝日新開』の社説も, 政府・党首脳に要望する。日ソ当面の漁業関係を, である j62)0 2カ月後の同社説 ( 1 9 7 7 .5 .2 )も , 日ソ南国全体の関係の中で考えるべき r 漁業交渉再開でソ連に望む」と題して, のベた: 「ソ連側?こはカードが多し、。いろいろに操ることも可能であろう c しかしい・今日のこ の 状 況 を , ソ 連 首 脳 が 冷 静 に 芳 析 す る よ う 求 め る O そのうえで, ソ連と百本の国交の基 本方針を再検討すべきだ。もしソ連首脳が,対日関係の冷坪も当然ないしやむなしと考 えるとすれば,それは再国民の意志にまったく反するだろう。また,逆に,永続する隣 人関係を求めるならば,会、で領土の既成事実化を強要する態度を変えなければならな 、 しj63)O 5月 3 自から開始された第 3次 鈴 木 訪 ソ に よ る 交 渉 が デ ッ ド ロ ッ ク に 乗 にもかかわらず り上げたとき, 6日 , 福田首相は, 5月 1 遂にブレジネフ, コスイギン再ソ連首脳あてに 64 「日ソ関保全般にわたる大局的立場から J ), 日 ソ 漁 業 協 定 締 結 へ の 努 力 を 要 詰 す る 親 書 を 電報で送ったのだった。この後さらに土壇場におけるソ連側による再修正案の提出という ハップニングが起りはしたものの,この親書が一つのキッカケで,翌 1 7Bの鈴木一イシコ フ会談で, 自ソ再代表団は, 大 筋 に 合 意 L, 78自問主こ及ぶ日ソ漁業交渉は急転直下, 解 決への道へと向かったので、ある。この首相親書は,←ー『サンケイ新聞』の伊藤モスクワ特 派員によれば一一ー, r どうやら交渉の初めから“切ち札"として用意されており, 主張す べきことを主張した上で、タイミングをはかっていた j65)もの,とさえ解されるのである O 日本最U v こは「切り札」がないなどとし市、ながら,以上のように s本's{U は , ソ連首脳を して漁業問題を日ソ関係全体の中に位賓づけさせることにより,辛くも,窮境を脱するこ 習Y ケージ とに成功した。必要に迫られた苦肉の援とはいえ,見事な連繋街といってよいだろう。こ のように日本側が日ソ関係の大局的判断と言うさいに,とくに意味したのは, 対ソ感情の重要性というカードであった。このことは,上に引用した や各紙の記事の中に, もう既に十分垣間みられ, 6 0 ) 向上, 1 9 7 7 .4 .1 8 . 9 7 7 .4 .2 6 . 6 1 ) 同上, 1 6 2 ) 向上, 1 9 7 7 .3 .2 . 6 3 ) 向上, 1 9 7 7 .5 .2 . 6 4 ) 向上, 1 9 7 7 .5 .1 7 . 9 7 7 .5 .1 8 . 6 5 )iIサンケイ新開Jl. 1 -76- 日本国民の B本 国 首 脳 の 発 言 カパーされているともいえるが,くソ連 漁業交渉(19 7 7年春〕にみられる日・ソの交渉行動様式 の対外行動のー制約要国としての世論の役割〉と L、う視野からも, 興味深い問題点を含ん でし、るので,独立して採りあげてみよう O 1977年の対ソ漁業交渉において,なんらさしたる切り札をもたないと考えた吉本傑が, ある段階から,国民感情というカードをしきちに強調しはじめたことは,紛れのない事実 7 7年 2月 5 自付社説は, iカ ー ド を 持 た ぬ わ れ わ れ であった。たとえば, [J朝日新聞 J の ' が日ソ交渉に立ち向かう武器は,漁業者の毘結と,それを背後から支える全国民の気構え である O ソ連の傑からみた F日本の国民感清』だ J66)とのベ,同じく 3月 25日付社説も, F力で押しまくるソ連へ,直接有効な対応策がなし、。『魚で得て, 日本人の心を大きく失う J 危険を回避するよう, 説得する外になし、 JS73, と書いた。 2月 26日の河紙社説は, i日本 人の反ソ感情と引換えにしても. ソ連首脳は 200{J.f水域を強行するのかJ と,脅しさえし た。すなわち, F日本には呂本の国民惑需がある O 互いの国民感情を決定的に傷つけては, J . f 線 ヲi きは, 善 隣 友 好 は , 成 り た た な い 。 … … 200{ ほんとうの 日本国の心深くに,半永久的な蕩を あたえるだろう c … … ソ 連 政 府 首 脳 に た だ し た し 、 。 日 本 国 民 の こ の 心 の 屈 折 を ど う 考 え , ど え 評 価 す る の か 。 日 本 人 の 反 ソ 感 情 を 譲 成 し つ つ な お 200{J.fの結呂を一方的に強 行 す る の かJ68)。 同紙の 3月 51 369), 3月 14日70) 4丹 5 目 的 付 の 社 説 も , ま っ た く 河 趣 冨 の , セ ン チ メ ン タルともいえる日本人の心ないし国民感請の重要性を,繰り返し繰り返し,強調した。総 評は 4月 8 日 の 三 役 会 議 で も , ポ リ ャ ン ス キ ー 駐 5大使に, i わが国のソ連に対する届 民 惑 倍 辻 , 非 常 に 厳 し く , こ の ま ま い け ば 覇 権 主 義 ・ 大 国 主 義 的 で あ る と Lう 批 判 が 記 る 可能性もある j m,と申し入れる方針を決めた。 ところが,西側のソビエト行動様式の研究家たちによって一般論として述べられている のは,ソ連という国が決して堂界の輿論や当該交渉相手国の国民感清を誌とんど顧慮せず に 無 視 さ え し て 行 動 す る 性 向 で あ る O たとえば, こ れ ま で の 米 ソ 交 渉 60年 の 歴 史 お よ び ソ連の交渉行動様式を総決算した,米国富会国書館の J . ウェラン博士著『ソビエト外交 と交渉行動一一一米国外交のために出現しつつある新しい文紙一一J J ( 1 9 7 9 )は , このことを 証明する歴史的事例や西側外交官の言葉をふんだんに提供している。ウェランは,結論と 七 Z ノチメ Y タ型テイ して,のベる o i 惑傷は, 計算づくのばあいを除いて, ソビエト外交において, なんらの 役 割 も 演 じ な い J73)0 と い う の も , ソ 連 の 外 交 官 や 交 渉 者 た ち は , 形 成 さ れ た 見 解 お よ び 要 求の機域的代弁者にすぎず,外国の政府および国民の見解・利害・惑情の影響から意図的 に 隔 離 さ れ な く て は な ら な い か ら で あ る 7430 も し も , 交 渉 相 手 の 国 民 感 情 に 同 清 的 理 解 を 6 6 ) [J朝日新聞~, 1 9 7 7 .2 .5 . 9 7 7 .3 .2 5 . 6 7 ) !司上. 1 6 8 ) 向上, 1 9 7 7 .2 .2 6 . 6 9 ) 同上, 1 9 7 7 .3 .5 . 7 0 ) 河上, 1 9 7 7 .3 .1 4 . 7 1 ) 河上, 1 9 7 7 .4 .5 . 72) [ J読売新聞j!, 1 9 7 7 .4 .9 . 7 3 )Whelan,o J う.c i t .,p .5 2 2 . 7 4 )Mosely,0ρ.c i t .,p .272; 問訳, p.6. -77- 、 汎 木村 しめすばあい,それは直ちに膏国主義的影響の捕囚となったとして,非難,更迭を覚悟せ ねばならなし、。したがって,このようなソ連を相手にするには,感情や道徳、に訴えるので はなく,あくまでヲアリズムや力に依拠する外交をすすめるべきと,ウェランは,忠告す る7530 し か し , 同 書 で ウ ェ ラ ン が 強 調 し 損 っ て い る の は , こ の よ う な ソ ピ エ ト 外 交 が も っ ハンディキャップである。つまり, クレムリン内の最高決定担当者が靖報にかんし「裸の 王 様j, す な わ ち 驚 く べ き 程 度 に ハ ー ド な デ ー タ に は 通 暁 す る 一 方 , 国 民 感 構 , 交 渉 し て い る 相 手 国 の お よ び 国 民 の 「 性 格 ・ 動 機 ・ フ ィ ー リ ン グj76)を 把 握 し 損 う 欠 陥 で あ る 。 ジ ョ ージ・ケナンも,このソピエトの靖報のアンバランスを,つぎのように指描する o r 当該 国の工場,戦車,失業者,漁獲高の数字といったハードな事実にかんするその知識におい て,われわれの想像を越える完壁さを誇る一方,ソ連立,その同じ留の国民感靖,ムード, 雰 囲 気 と い っ た 不 可 測 な 事 柄 と な る と 驚 く べ き 無 知 を さ ら け だ す j77)。端的にいえば, のようなソビエト情報活動のアンバランスのために, 連は, こ 1 9 7 7年 の 対 E漁 業 交 渉 に お い て , ソ 日本国民間の反ソ感情の高まりという思わぬ伏兵によって足をすくわれたとみるこ と が で き る か も 知 れ な い 78)。 外交や交渉を通じて自己の戦略目標を達成しようとするさい, ソピエト交渉者は,恐ら く西側諸国の外交担当者とは全く異なった類の,独特の戦衡を用いるのではないか。とも すれば,我々は,こう考えがちである O しかし,西側の対ソ外交に通暁した研究者や対ソ 交渉に従事した経験者たちの見解によれば,事態は必ずしもそうでない,とし寸。つまり, ユニークで,不変の特殊ソピエト的戦術なるものは存在せず,むしろ,指導部の考えを反 映して,時代や状況に適応して組みあわされる,ほぼ蕪限といってよい様々の戦術が存在 。 す る の み で あ る 7的 ソ連外交の用いる交渉技術は, 西側のそれと大差なし ただ, 西側 が,非系統的,アット・ランダムに用いる同ーの戦俸を, より「系統的, 定 期 的 に j80)使 用する点に,むしろ主要な相違点がみられる。あるい試, 目標達成のために役立つ全ゆる 手立てにちゅうちょなく訴える点にこそ,唯一の西欧式外交との差異がある,と説かれる。 ハンガヲーの前外交官ステファン・ D . ケノレテスによれば, r 共産主義の目標を促進する全 ての手段が是とされ,正当とされる。最終ゴールを除くすべてのことが,便宜的なものと される O し た が っ て , 共 産 主 義 国 の 代 表 者 は , 戦 術 と 手 続 き に 拘 泥 し な い と な る j800 端 的 75) Whelan,0ρ. c i t p.522. ウ ェ ラ ン は , し た が っ て , ニ ク ソ ン 元 大 統 領 の も つ 冷 厳 な リ ア リ ズ ム が , 叶 対ソ交渉を推めるにあたっては,プラスのフアクターであることを,示唆する。 I b i d . 76) Hayter,o p .c i t .,p .3 2 . Russia,TheAtom,AndThe West(London: Oxford UniversityPress, 77) George F .Kennan, 1 9 5 8 ),p .2 3 . 9 7 7 .6 .の に お け る 本 稿 筆 者 の 参 考 人 発 78) 日 ソ 漁 業 暫 定 協 定 に か ん す る 衆 議 院 外 務 委 員 会 の 公 聴 会 く 1 ) , p .5 2 3 . 言 参 照 。 『 第 八 十 回 国 会 ・ 衆 議 院 ・ 外 務 委 員 会 議 録 J l (第 22号 79) Whelan ,0ρ.c i t .,p . 528; プレーカー,池井訳, p.265. 80) LouisJ .Samelson,SovietandChineseNegotiatingBehavior: TheWesternView(Beverly 9 7 6 ),p .9 . H i l l s,California: SAGEPublications,1 81 ) Stephan D.Kertesz, “ American andSoviet Negotiating Behavior, "inKerteszandM.A. Fitzsimons,e d s .,Diplomacyi nA ChangingWorld(UniversityofNotreDamePress,1959), p .1 4 5 . - 78ー 漁業交渉(1977年春)にみられる s.ソの交渉行動様式 に い っ て , 目 的 は , 手 段 を 正 当 化 す る , と L市 、 換 え て 差 支 え な い , と い う の で あ る O そ し て,反覆,非難,脅し, リンケージ,引き延ばし,タイム・リミット一一一これらは, ソ連 が愛用する戦術のほんの一例とされるO とはいいながら,西側のソビエト交渉僚の研究者たちによって同時に指摘されているの は , ソ連交渉者が殊v こ妻子んで「頻繁に用いるソピエト式戦術 J83) が 存 在 す る と い う こ と で , ある C プ ラ フ つ ま り “ 力 " を 行 使 す る と い う 脅 し は , そ の う ち の ひ と つ で あ ろ う 前節で、述べた, O これは, ソ連の好んでとる“力の立場"からの交差長と L、 う 基 本 的 態 度 に , 直 接 由 来 する戦争I¥fといってさしっかえないであろう。 ソ連が, 1 9 7 7年の対日漁業交渉の期間中, 白己の強力な地位をことさら誇示し,自己に有利な結着を導こうとした例については,前 節に既述したとおっであり, ここでは, 7 7 つ ぎ の ー 併 を あ げ る に と ど め る O すなわち, ' 年 4月 , 暗 礁 に 乗 り あ げ た 漁 業 交 渉 を 打 開 す べ く , 首 相 特 使 と し て 訪 ソ し た 墨 田 官 房 長 官 に〈当時)向い, コスイギン首相は, ン ラ ン ド 関 係 だ J84)と述べ, IBソ友好のモデノレは,願調にいっているソ連・フィ ソ連が日本をフィンランドなみに看ていることを, 日本側に 思し、知らせたのだった。 “力"の行使に次いで, ソ連が, 得意とする戦術として一般に指摘されているのは,交 捗 プ ロ セ ス に お け る “ 時 " の 効 果 的 利 用 で あ る 8530 ボ ヲ シ ェ ヴ ィ キ の 棟 梁 た る レ ー ニ ン は rI号を得るものが,全てを手に入れる (BhIHrpaThBpeM 兄-3HaqHTBb 部r paThBCe)J, と 教 え 9 5 6年以後のソ連公式的立場は, 1 世界の力の相互関誌」が, た 86)0 1 ソ連を頭とする社会 主 義 諸 国 に 有 利 に 移 行 し つ つ あ る , と い う 立 場 を と っ て い る O また, ソビエト政治システ ム下にあっては,政治家や交渉者には,定められた任期というものが存在しないから,大 統領需1や 議 院 内 閣 制 を 採 る 西 側 諸 国 に お け る 政 権 や 外 交 担 当 者 の よ う に , 一 定 期 間 中 に 一 定 の 成 果 を あ げ よ う と 焦 る 必 要 も , 圧 力 も な し 、 8730 さらに, ;。:酷な気候や全体主義の歴史 に耐えることに慣れたソ連人は,ねばり強く忍掃することを,さほど苦痛と感じていない ブシがある O その原肉は何であれ, ソビエト交捗者の時間惑覚が,西側外交官の驚異と注 目の的となっていることはたしかであるO ソ連人と西歌人とは, 念 J88)の 持 主 で は な L、かと ; ? fる 者 す ら い る O ソピエト外交官は, i 全く異なる類の時間観 交渉が長期にわたるのを 一向に気にしないように見えるO たとえなんらの結論や合意や協定にも到達しなくとも気 82) たとえば, BryantWedge andCyrilMuromcew, “ Psychological Factors i n Soviet Di泊 rmamentNegotiation, " TheIournal01C o n f l i c tR e s o l u t i o n(V01 .9,No.1,March 1 9 6 5 ),p .35; Samelson,o t .c i t .,p .8 f f ; Cyril Muromcew, “ Soviet Negotiating Behavior, "p p . 5-14; ¥ i Vhelan,0)う.c i t .,pp. 229-239; プレーカー,池井訳, p.264. 83) 註 uromcew,o t .c i t .,p . 12,p .1 5 . j ] (東京:教育社. 1 978),p .1 9 . 84) 塚 本 哲 也 Fフィンランド化一一一ソ連外交の論理と現実一一85) Whelan,0ρ.c i t .,p .364,p .365,481,483,487,488;Craig, “ Totalitarian… p .1 2 2 . .1 1 .瓦eH沼H, . l ll Weco6paHuecoぜUHeHUU(H3) l .8H 沼e 1 1兄T oe)(MOCKB8:DOJI滋TH3 ) l .aT ,1964), 86) B T .44,C T p .4 9 5 0 . 87) Fred CharlesI k lる,HowNationsN egotiate(New York: KrausReprint Co.,1976);Craig, “T otalitarian… , "p .1 3 3 . 88) Arthur H .Dean, “ Soviet Diplomatic Styleand Tactics, "i n Subcommitteεon National SecurityandI n t e r n a t i o n a l Operation,CommitteeonGovernment Operation,UnitedS t a t e s Senate The S o v i e t Attroach t o Aegotiation (Washington,D. U. S . Government 9 6 9 ),p .6 3 . Printing O f f i c e,1 n O c . : ラ -79- 武 木村 にかけず,毘ーテープ、ノレに座り,市も相手{揺がすっかり陪記した科白を飽くことなく繰り 返 す こ と に 89) な ん ら の 抵 抗 を 感 じ て い な い か の よ う で あ る 。 英 国 の 元 駐 ソ 大 使 百 人 へ イ タ一期は,自顕している。 「ロシア人たちは, 決して急がなし、。議会の時間表が彼らに至急モスクワへ戻れと要求 するわけで、もなし、。後らは,半永久的に交渉のテープルに坐る用意があるよう晃うけら れる。……ロシア人たちは,西側が受け容れることはできないと繰り返し宣言している 提案を,会談の度に何度も何度ももち出しつづける用意があるようである」曹の。 対ソ外交交渉が長期にわたるのは,一つには,出先の交渉担当者がクレムリンの最高政策 者からの「言!I令J91)なしには何一つ行動を起こせない事情 92)にも由来するが, ソ連側が, 一定期間に一定の成果を挙げないと気が済まない西側政治家や外交官の職業意識を利用し て 紛 言 、 密 的 に 引 き 廷 し な い し 焦 ら し 戦 掃 を 用 い る こ と に も よ る 900 こ の こ と か ら , 対 ソ 外交の経験者,研究家がふだんに警告しているのは,ソ達人と同様に忍酎深く交渉し,こ の ソ ピ エ ト 式 戦 備 に 決 し て 陥 っ て は な ら ぬ と い う こ と で あ る 9530 こ の よ う な ア ド バ イ ス に も か か わ ら ず . 1977年 の 対 ソ 漁 業 交 渉 中 に お い て , 地 球 上 の 国 民 の 中 で 「 最 も 気 の 短 い 国 民 」 容 の た る 日 本 人 側 が , 同 じ く 「 最 も 気 の 長 い 国 民J97)たるロシ ア人の“時間"の利用,ことに焦らし戦術にものの見事陥ったと思われるケースが,続出 r した。もっとも,日本側には,十分焦る理由があったともし叫、えよう。というのも. 時 間 に よ っ て 灘 ら れ る 議 牲 ( 代 語 〉 の 大 い さ で 決 定 さ れ る 紛 争J ( 永 井 陽 之 助 〉 に お い て , ソ 連に比べ, 日 本 { 誕 の ほ う が , よ り 不 利 な 事 情 が あ っ た か ら で あ る 9830 た と え ば 暫 定 協 定 が 締 結 さ れ な い 以 上 , 77年 3月 1 日から, 業できないのであり,文字通札 1 3ソ、漁業 日 本 漁 船 は ソ 連 200 {J-f漁業水域内で操 0万 人 の 陸上で固唾を欽んで交渉妥結を待っている約 1 日本漁民が,モスクワの交渉者に無言の圧力をかけていた。いったん漁期を逃がすと魚群 を全面的に喪うことに通ずる一発勝負的な漁業の特殊性が, 拍車を駆けた。たとえば, 日本漁民の焦操惑に,さらに 3月 に 交 渉 が 開 始 さ れ た 後 , 妥 結 の 見 通 し が た た ぬ 2 カ 月 の 間 に , ス ケ ト ウ ダ ラ , ニ シ ン な ど の 漁 期 が 次 々 と 終 わ り , サ ケ , マ ス も 4月 末 か ら 5月 に か 89) Wedgeand乱 t 1 uromcew,0ム c i t .,p .34;Dean,0ρ.c i t .,p .6 3 . 90) Hayter,0ム c i t .,pp.6 8 6 9 . 1 令 j の重要性については, Mosely ,o t .c i t .,p p .35; 同訳, 9 1 ) ソ連の外交官や交渉者にとっての「言1 p p .1 0-12 ,p .27; JohnDeane, “NegotiatingonMilitaryAssistance,1943-1945, "i n Dennett p .c i t .,p .2 7 ;Whelan,o P .c i t .,p . 264参照。 and Johnson,o 9 2 ) 工ハザード教援によれば, r 西側の交渉担当者は. (交渉の)会議は,通常,ソビエト交渉者が上司 . と理解す に報告する靖報を与える手段にすぎない。すなわち,決定は,く早くとも〉翌日になる J べきだという。 JohnN.Hazard, “ NegotiatingUnderLend-Lease,1942-1945, "i nDennettand Johnson, 。ρ.c i t .,p .3 3 . , . c i t .,p .371 . 9 3 ) Whelan,0ρ 9 4 ) AdmiralC .TurnerJoy, HowCommunistsN e g o t i a t e(NewYork: TheMacmillanCompany, 1 9 5 5 ),p p .3940;Whelan, 。ρ.c i t .,p .3 6 4 . 9 5 ) 京Thelan,0ム c i t .,p .1 2 5 . J l .p .9 7 . 9 6 ) 前掲, [f朝日ジャーナ fレ 9 7 ) 同上。 9 8 ) 永井,荷揚, p .6O正 富永氏は,当時,日本舗が「ねばることが出来なかった j 理由のひとつと .1 7 . して「日本の国会の会期との関保j を強調する。富永『日ソ漁業の内幕Jl. p - 80ー 漁業交渉(1 977年〉春にみられる日・ソの交渉行動様式 げ て 1EH こ1 8キロ・メートノレぐらいのスピードで北上を続けるため, 日本のとくに小型漁船は採算が合わなくなってしまう この時期を失うと, 99)。 こ の よ う な 事 情 を 熟 知 し て い た iも し 東 京 が 建 設 的 ア プ ロ ー チ を し め て い た ら , 交 渉 は と っ く の 昔 に 成 功 裡 に ソ連部は, 終了していたで、あろう」 180L と百本側の交渉者に揺さぶりをかけ, ソ連側の条件での交渉 妥結を, 3か ら 開 始 さ れ た 第 二 次 鈴 木 ・ イ シ コ フ 日 本 側 に 促 し た の で あ る 。 マ7年 5月 31 会談中, 3, 3つ の 選 択 肢 ソ 連 関 の 桔 も 変 ら ぬ 態 度 に 業 を 煮 や し た 鈴 木 農 相 は , 遂 に . 51 をつくって, U に提示,そのなかからソ連事、U v こ,もっとも都合のよい提案を選ぶよう ソ連1Jl 追 っ た 18130 日 本 側 の こ の よ う な や り 方 は , ギ ザ ギ リ 結 着 の 提 案 し か あ り う る 筈 の な い 外 交 においては異例のことと批判されたのである問、 ソ連が常用する交渉諾で, か つ 1977年 の 対 日 数 業 交 渉 に お い て も 遺 穏 な く 用 い ら れ た d i v i d ee t impera) の 戦 術 で あ る O 元来ロ タ ク テ ッ ク ス が , も う 一 つ あ る O “分割統治 " ( ーマ時代に起源をもっともいわれるが,恐らく人類の起源と同時に始ったと考えられる, このテグニックは,レーニンの愛吊するところとなち, ベーン・テクニックとなった, レーニン主義推進の最重要キャン といって過言ではなかろう。「共産主義者の政策の実際的 な 任 務 は , 敵 の 利 用 , す な わ ち 敵 を 互 い に 対 立 さ せ て 利 用 す る こ と に あ る jl03) と 喝 破 し た レーニンは,さらに,同戦能を,つぎのように説明した。 「力のまさっている敢に打ち勝つことは,……かならず,もっとも綿密に,在意ぶかく, 笥のあらゆる f ひび』 慎重に,たくみに,たとえどん誌に小さいものであろうと,敵のi (Tpe 回即日)を利用し,酒々の留のいろいろなグループまたは種類の聞のあらゆる利害の 対立を利用いまた大衆の同盟者を,よしんば一時的な,動揺する,ふたしかな,頼り にならない,条件付の司盟者ーでも,子に入れる可能性を,それがどんなに小さいもので あ ろ う と , す べ て 利 用 す る ば あ い に , は じ め て 可 能 と な る の で あ る j104)0 (強調点一一原 文どおり)。 このレーニンの教えは,現ソ速の外交交渉を担う人々のための教科書たる. B .A. ゾーす ン 著 『 外 交 勤 務 の 基 礎I J (1977) のなかにそっくり引用され, i 外務省,諸外国に設置した 大統領のすべての活動が,このレーニンの命題に依拠せねばならな¥., ' J105入 と 力 説 さ れ て いる O 1977年 の 対 日 漁 業 交 渉 に お い て , ソ 連 艇 は , こ の レ ー ニ ン の 教 え に 従 っ た 。 『 新 時 代J 誌の東京特派員 C . レフチェンコ(一一-1979年 10月 に 4月 4 1 3, i C号本における〉 日本経由で米国へ亡命一一)は, 一定のグノしープが,心理的な圧力を集結することによって漁 9 9 )W 朝 日 新 開l , 1 9 7 7 .5 .1 1 ; W日 本 経 済 新 聞 〈 夕 刊 ) l l, 1977. 5 .1 4 ; Ahrens-Thiele,“Japanese・ SovietFisheryAgreement 円 , RadioL i b e r t yResearchB u l l e t i n(May27,1977),p .2 . 1 0 0 )H 38ecmUfl( 4MapTa 1 9 7 7 ) . 1 0 1 )r i 読 売 新 開 ( 夕 刊) l l, 1977.5 .6 . 1 0 2 ) 法張普作元外務次官のコメント。『サンケイ新聞I1 9 7 7 .5 .2 0 . 1 0 3 ) 瓦eHHH,ma .M: J I C e .T.42,CTp.61: マ ル ク ス = レ ー ニ ン 主 義 研 究 所 訳 〈 東 京 : 大 月 書 信 , 1966), 31巻 , p.450. 1 0 4 ) 五eHHH,ma . A f: J I C e ,T.4 , 1C T p .55; 同訳, 31巻 , p.58. 1 0 5 )B . A.30PHH,OCH.0 8 b tdun . l lo .M a m u t t e c l C o i iC /l y:JIC6 b t(MocKBa: 日3, l J .a TeJIbCTBO {Me) K , l J .y HapO , l J .H b I e OTHorneHH刃, 1 9 7 7 ), C T p .7 6 . - 81- 況 木村 業 の 分 野 に お け る ソ 連 の 立 場 の 修 正 を 克 ち と ろ う と 決 意 し た j, と 書 い た 19830 イ シ コ フ 漁 業椙自身, 5月 1 2B,訪ソ中の日本の労働組合代表団に向い, r 問題は, 自本において, 漁 業 に か ん す る 会 談 に 政 治 的 な 複 雑 さ を 持 ち こ も う と す る 勢 力 が 存 在 す る こ と で あ る jl07) と述べ, タス通話評論者fO.アフォーザンも, 5月 1 8日 , テヲックな反ソ・キャンベーンを仕掻ける口実として, (強調点はともに木村〉と, る政治サークルにおける, 非難した。 r 或る日本人サークノレが, ヒス 現 在 の 諸 国 難 を 利 用 し て い る jl0め ソ連の分裂作戦によれば, r 新関紙上や東京の或 ソ日漁業交渉にかんする宣伝のセンセーションは, 日本の人民 の 真 の 科 益 も 日 本 の 世 論 の 広 範 の ほ ん と う の 気 分 も 反 映 し て い な い jl0の〈強調点一一木村) と,力説した。そして, r B本の人民が, ソ連との真の善隣友好をもつことを欲してい l lのことが,強調された o Uプ ラ ウ ダ 』 東 京 特 派 員 1 1 . ラト るj ' 7 -1シェフは, 77年 4月 1 5付の湾紙十こ,書いた。 「司本の基本的なインタレストは,ソ連邦との善隣的結びつきおよび友好のー震の拡大 を 要 請 し て い る O この智恵は,反ソ的怒号とは対照的に, 日本における,相互に受け容 られる解決法をたゆみなく探求し,実務的な協力の雰囲気を維持しようと志向する人々 や,政界,財界の代表および社会団体,によって表明されている O このような感情が会 談中の吉本人代表国の立場に参透するのが早ければ早いほど,成功裡の会談締結への途 も,短くなるで若うろう jl11)0 「分割統治 Jのお馴染みの戦術を活用するにあたって, 呂本、漁民の弱味を衝こうとした。イシコフは, ソビエト{f! U は , 既述したごとく, u 文 学 新 開 Jのインタビューに答える形で, 「日本政府交渉団の非理実主義的な立場が京霞で, 会談が延期され, 日本漁民は, ソ連の 太 平 洋 沿 岸 近 海 で 操 業 す る チ ャ ン ス を 喪 っ たf∞,と灘、した。ラトゥィシェフは,いわゆ る 係 争 中 の 「 北 方 領 土j の 一 部 が 肉 眼 で み え る わ ざ わ ざ 北 海 道 東 端 の 根 室 ま で 訪 れ , 現 地 の漁民は, 領土問題よりも漁業問題に関心をもっているとのルポノレタージュを, た。すなわち 作製し 4月 2 2日付の fプラウダ』紙上の「日本一一ー脊害な大騒ぎ一一一」 と題す るラトゥィシェフ報告は,次のように書いていた。一一一尤も,この記事にたいして,直ち に翌日,堂垣内北海道知事やラトクィシェフ特派員に直接インタピューされた根室市の櫛 田光太部市議会議長は, r 間 違 い だ ら け の j. r 事 実 を 曲 解 し j. r 包めがねで、見た」報道であ る と の 強 い 抗 議 を 表 明 し た が 113)。 1 0 6 ) CT.JIeBQeHKO, “opbI6 aKax.pb16eH6e3oTBeTcTBeHHocTH, " H080e8pe .Mf l( N 2 .1 5,7a r r p e J I丸 1 9 7 7 ),C T p .1 6 . 107) F .B.よ 5 .( 5 .U.),(May 12,1 9 7 7 ),p .M L 1 (8) I b i d .,(May,18,1 9 7 7 ),p .M L 109) npa8da( 1a r r p e J I匁 1 9 7 7 ) . 翌日の『イズベスチャ』紙上で, 東京棒読員パンドゥーラ記者も, 1 1 3本 に お け る 一 定 の サ ー ク ル が J . 事実上 漁業交渉を, 操業とはなんら関係もない目的に利用し 2a r r p e J I, 兄 1 9 7 7 ) . よ う と 企 ん で い る , と 非 難 し た 。 H38ecmUfl ( 110) F. B. 1 .5 .(May 18,1977),p .M L 111) npa8 δα(1a r r p e J 既 1 9 7 7 ) . 112) F. B. 1 .5 .( 5 . U.),(April 13,1977),p .M 1 . 1 1 3 ) Il'読売新聞I J, 1 9 7 7 .4 .2 3 . , 向 つ 。 。 操業交渉 (1977年春〉にみられる日・ソの交渉行動様式 「ハボマイ, ラオス出身の漁民グループとの長い会話のなかで, 彼らの誰一 人として,ソ連にたいする領土欲求に触れたものはなかった。その代りに, 被ら全員 は , トモシヲ, クザノレ列島?こ居住し,太平洋とオホーツク海の水域で,後らとともに漁業をおこな われわれの関 っ て い る ソ 連 人 た ち と の 交 際 と 善 隣 の 拡 大 に た L、する希望を表明した。 F 心 は , 魚 で , 領 土 で は な L、 oJl一一一これが, 自分の意見を述べた漁民たちの多くの, 標 1l4 )。 準 的 な 言 葉 だ っ たJ ( 3 ) 反応的 v s .先 取 的 パ タ ー ン 1977年 の 日 ソ 漁 業 交 渉 に お け る 再 国 の 交 渉 行 動 様 式 の 第 三 の 非 対 称 点 は , 交 渉 の プ ロ セ スに関するもので為る。筆者には, 日ソ交渉一般において,かなり頻繁に操りかえされる 一 定 の 型 の よ う な も の が 存 在 す る よ う に 思 え て な ら な い の で あ る 115)。つまり, るところによれば, ソ連は, 筆者の観 しばしば,自らの一方的な先制的行為によって交渉の国をつ くり,相手側の強い抵抗に直面して次第に退却しはじめ,最終的には予想外に大きな譲歩 によって交渉を閉めくくるパターンを辿る額向がある o S本 側 は , 往 々 に し て , こ れ と 正 反 対 と も い え る 交 渉 過 程 を 歩 む こ と が 多 L、 。 つ ま り , 概 し て , 交 渉 の 必 要 が 生 じ て か ら 立 ち上り,徐々に交渉に熱心となり,結局は比較的巧みに危機を明りぬける性向がみられる ようなのである O 以 上 は , 両 国 民 の コ ン ト ラ λ トをやや怒意的に強調しすぎた嫌いがある かも知れないが, 1 977年 の 日 ソ 漁 業 交 渉 に お い て , こ の 一 般 論 が ど の て い ど 当 て は ま る か を,以下,みてみよう 1977年 , O 日 本 辻 , 各 国 に よ る 200 f 1 4漁 業 本 域 宣 言 と し づ 事 態 が 現 実 に 発 生 す る ま で , 怠 識的・無意識的に,この問題から可能なかぎり長く逃避していたいと考えていた嫌疑が濃 1 ] 4漁 業 水 域 宣 言 に よ っ て 苦 境 厚 で あ る 。 日 本 漁 業 が ほ ど な く ソ 連 を 含 む 諸 外 国 に よ る 200' にたつことは,たんなる時間の問題と予想,警告する声はたしかに存在していた。しかし, そのような事前の警告は,ほとんど完全に無視なし、し抹殺された。まさにその放にこそ, ' 7 6年 12丹 10日,ソ連が 200f 1 4漁 業 専 管 水 域 の 設 定 を 宣 言 す る 最 高 会 議 幹 部 会 令 を 政 府 機 関紙 F イズベスチヤ』紙に掲載したとき, 日本人の大部分は,この報せを寝耳の水のショ ックと受けとめたのである。ソ連の出方,とくにタイミングにかんし甘く考えていたほと 1 1 日)の各紙〈夕刊〉は,つぎのよ んどの大部分の日本人が衝撃をうけた様子を,翌日 ( うに報じている o Ir読売新毘』によれば, 日本政府は, r 大 き な 衝 撃 を 受 けJ I 宣 言 時 期 が 早 く と も 来 年 1月以降と見てし、た」 た。『朝日新開』によれば, 1l6) r ソ連は日本と並ぶ遠洋 1 4を 設 定 す る こ と は , そ の は ね 返 り を 考 え て , あ る 程 度 慎 重 に 構 え , ま 漁 業 国 。 自 ら 200f ず 来 春 以 降 に な る だ ろ う と 予 想 し て い た ふ 水 産 庁 も , 200' 1 ] 4時 代 が 「 あ ま り に も 急 ピ ッ チ 114) f l p a 8 δa( 2 2a n p e J I完 1 9 7 7 ) . 115) 類訟の見解として, Muromcew, “ SovietNegotiatingBehavior, "p .1 2 . r ソ連がはれ、立場j にある時に, 繰りかえし」みられる交渉過程の fバターン (pattern)J にか Rolert E . Sherwood,R o o s e v e l tandHOJ 地i n s :An IntimateH i s t o r y(NewYork: ん Lて , 9 4 8 ),p .395 参摂の Harper and Brothers,1 116) !f読売新罰(タ f l J汀 , 1 9 7 6 .1 2 . 11 . - 83- 木村 汎 で 現 実 の も の と な っ て き た こ と に 大 き な 衝 撃 を 受 け j117}た。同じく f 朝日新開』は, 1 " “ 北 洋 の 味 " 衝 撃J の見出しの下に, 北海道の水産界も, 1"し、ずれソ連が設定するのは時間の 問 題 と 覚 悟 は し て い た も の の , は か り 知 れ な い 影 響 に 禽 撃 を 受 け て い る jl1B ¥ と報じた。 3 日後の F 朝司新開』は, 仁怠慢外交」の見出しの下に, これすべて政府の責任として, つぎのように非難した。「こうなることはだれもが予想していた。それなのに漁民の心配 を踏まえた政府の対応は皆無だった。すべてを後手にまわしてきた日本外交の見通しの甘 さと怠慢が,いま根室の漁民を不安のどんまに追いこんでいるJ l l的。とはいえ, この第一 波 の 衝 撃 は , 未 だ 有 本 側 の 自 を 完 全 に 醒 ま す に は い た ら な か っ た 。 『 読 売 新 需 』 社 説 拭 , 12 月 12 日 , 1"日本とともに世界の二大遠洋漁業国の一つであるソ連が,自国の 2001 1 "か ら 一 挙にわが冨を締め出すというような, いていた。また, 日本政府は, 態度であった。まず, 天 に つ ば す る 行 動 に 出 る と は 考 え ら れ な ¥"j120)と書 慎しむべしという ソ 連 の 出 方 を う か が う ま え に 軽 挙 妄 動 はz 昌本政飛が考えたのは,ソ連の漁業関採の最高責在者であるイシコ フ漁業相の訪日を要請し, 1"ソ連の出方をつかみたし、 j1lU) ということであった。しかし, ソ連む操業主見察団の ' 7 7年 1月中句の来日を, 同漁業桓が健康上の理由で訪日を断ると, 「 ソ 連 の 出 方 を う か が う 好 機j122)と期待した。 ' 7 7年 2月になっても, 日本致府は,なお依 然 と し て 慎 重 か つ 受 動 的 な 態 度 を 持 し て い た 。 農 林 水 産 省 は , ソ 連 誕 の 「 意 向 打 診J12めの ため松浦昭・海洋漁業部長を訪ソさせることにしたが,鈴木農桔のモスクワ派遣の是非に 判 断 が つ か な か っ た の で あ る 12430 ソ連の次の重さきが不確定の内に,日本{請が行動を起こす ことは必ずしも得策でないという事由にもとずくもののようであった。 ところが,このように依然として受動的かのように見えた巨本側を遂に立ちあがらせる こ と と な る シ ョ ッ グ の 第 2弾が, それである。間決定は ソ連側から放たれた。 ' 7 7年 2月 24 自 の 関 僚 会 議 決 定 が ' 7 6年 12月 10 日 最 高 会 議 幹 部 会 令 に も と づ く 2001 1 "魚 業 水 域 の 実 施 を , 約 1週 需 後 の 3月 1 自 と 定 め た の で あ る 。 こ れ を 報 じ た 翌 2丹 25 日 f 朝日新開』 は , 1"ソ連の 200: { J "来 月 実 施j,1"交渉の出ばなをくじくようなソ連の先制攻撃にショック J , 「驚き,怒り,不安j, 1"対応にとまどう業界」等の見出しを掲げ 125乙 北 海 道 海 洋 法 対 策 12の 1 1 7 ) Ii朝日新聞く夕刊)Jl, 1 9 7 6 .1 2 . 11 . 1 1 8 ) 向上。 1 1 9 ) W 朝日新揮~, 1 9 7 6 .1 2 .1 4 . i 読 売 新 開 . ! l , 1 9 7 6 .1 2 .1 2 . 1 2 0 )I 1 2 1 )r r朝 E新 開 J l , 1 9 7 7 .1 2 .1 9 . 1 2 2 ) 向上。 1 2 3 ) 再上, 1 9 7 7 .2 .5 ;i l日本経済新聞Jj, 1977.2 .5; lí 北海道新開~. 1 9 7 7 .2 .5 . 124) Ii白本経済新語』抵上の記者塵談会によると, r 鈴木訪ソは, 業界内部で・は望む声が強いが, 農林 省では否定的だね。イシコフの出方がまだわからないうちにヒョコヒョコ出かけていって大ケガを されては大変だ,と Lづ気持が強い。 J ,If'日本経済新開(夕刊)J¥, 19 ヴ7 . 2 .1 0 . If'朝日新聞』も, r 農 林省筋によると,…ソ連の莫意が晃きわめられない段階では,農程訪ソは見送った方がよい,との ソ連を訪関するかどうかは慎重に検 見方も有力だ j と報じ,さらに,鈴木農相自身, 2月 8 呂夜, r 討する」と語った,と報じた。『朝包新聞Jl 1 9 7 7 .2 .9 . 1 2 5 )I f ' 朝 B新顎Jl. 1 9 7 7 .2 .2 5 . 1 2 6 )r 能動的・主体的でなく, 受動的・依存釣であることに j 日本人の特績を求めた G ・グラーク氏 アタ ヨ 夢アタ ヨシ は,これをしめす一刻として, r 欧米なら行動委員会と呼ぶところを,日本では対克;委員会と呼ぶ J ことを指摘 Lている。クラーグ,前掲,邦訳, p.83. Y Y - 84- V 漁業交渉(19 7 7年春〉にみられる日・ソの交渉行動様式 委員会の青木専務理事の「ショックをかくさえ立しづ 127)感想、を, 「全く予想していなかった。 ・・・…まさかとしづ気持だ。 紹 介 し て い る O すなわち, ・・・…会談を前に先端攻撃をかけて きたのだと思う J128)0 200~-(時代の到来を迎え,対ソ漁業交渉をおこなうにあたり, 百本側には,以上のよう に 「 後 手 , 後 手 に ま わ っ た J12の「ドロナワ式 J の行動様式が呂だった。 時に,興味深く見逃してならぬのは, しかし,飽方,同 日本人が,一般に,いったん危機に臨み,問題に遭 遇すると,猛然と全力を尽す不思議な国民性の持主であることである O 丸山真男氏は,か つて日本人を, I 課題設定」よりも「課題解決」に秀で、た国民と述べたことがある O また, ライシャワー教授も, 日本人は「従来は J との mし書きをつけつつも, ハ、ったん問題の 所 在 が 明 ら か に な る と , 彼 ら 一 流 の 活 力 と 手 腕 と で , そ れ を 克 寂 し て き た J180と と観察し ている。ともあれ, 1977年 の 漁 業 交 渉 に お い て , こ の よ う な 性 格 は , 遺 誌 な く 発 揮 さ れ た とみることができる。この国民性に,システムの特徴が加わった。いわゆる「関かれた社 会 J と し て の 日 本 の 体 制 の , 強 さ と 弱 さ で あ る c 宮沢喜一元外相も当時指請したように, 「決してマイナスばかりではなしゴ 181入「毘かれた社会」の強味が, たのである。つまり, 一方, 次第に発揮されていっ 号本のような開放体制では,当方の情報が相手側につつ抜けになる 日本国民が問題の所在を知るのも亦速し、。種々の対立する諸見解が乱立する一方, お上が頼まなくても最良の提案が自然、陶汰的に選別されてくる利点がある O そ し て , 一 般 に,交渉が長期イとすると, I 毘かれた社会」のメリットの方が, 向 が 指 摘 さ れ て い る 182)。 このことは, デメリットを上まわる傾 自由主義体観が電撃的にしかけられた鰭戦には弱 くとも,時の経過とともに,強味を増すのに似ているともし市、うるであろう G この国民レ ぺんにおける,巧まざる学習過程で, もすすめられる O たとえば, の行き過ぎを招き, 自本側のひとりよがりの立場の反省、や,矯正の{乍業 日本漁業の極度に能率的な,いわゆる根こそぎ操業法が乱獲 世 界 の 藷 国 に 漁 業 資 源 枯 渇 の 危 慎 を 生 ん で お り 138) I日本人は一方的 な 被 害 者 意 識 を 捨 て る べ き J134),と反省された。 r 200J-r'時代には, は , 通 用 し な く な る J185)という国民的自覚や教育が徐々に浸透し, されるようになっていったo I 交渉をスムーズに運ぶには, I 過去の実誤確保主義 やがて積極的提案もな お互いに相手の立場に立って 魚をとらせてもらう代わりに日本が何を与えることがで 考 え る ゆ と り が 不 可 欠 だ J186), I きるか,そろばんづくでじっくり考え重さなければ,対等の交渉にはなるましづ 137)等々 O 1 2 7 )Ii朝日新開Jj 1 9 7 7 .2 .2 5 . 1 2 8 ) 同上。 1 2 9 ) 向上. 1 9 7 7 .4 .1 6 . 1 3 0 )Reischauer,0ム,c i t .,p. 3 7 9 ; 陪 訳 . p. 3 7 8 . 1 3 1 ) 交 接 が ほ ぼ 妥 結 を み た 5月 1 8日,宮沢元外相は, i開 か れ た 社 会 」 は . I 決して,マイナスばかり .I 毎日の問題点が国民に知らされ,超党派的な国論の一致という『交渉力』を得ること ではなく J が で き る J とL、ぅ強味があることを指摘した。 F日本経済新聞〔夕刊).!l. 1 9 7 7 .5 .1 8 . 1 3 2 ) 米語の言Ii駐ソ大使 F ・コーラーは, i 諒かれた社会 ( open s o c i e t Y ) J としての西側民主々義国の 脆 弱 性 の ソ 連 に よ る 利 用 が 「 短 期 的 摘 値J しかもたず. r 開 か れ た 社 会 Jは , I 長 期 的 に は j タフで ,o ρ.c i t .,から再引用。 長 つ づ き す る 抵 抗 力 を も っ , と 説 く 。 Whelan 1 3 3 ) Ii読売新聞Jj. 1 9 7 7 .2 .1 1 ;Ii朝日新聞Jj. 1 9 7 7 .2 .2 6 ;2 .2 8 . i日本経済新聞ム 1 9 7 7 .5 .3 0 . 1 3 4 )r 1 3 5 ) Ii呂本経済新聞Jj. 1 9 7 7 .2 .7 ;Ii毎日新需Jj, 1 9 7 7 .3 .2 5 ;Iiサンケイ新聞Jj, 1 9 7 7 .3 .2 6 . 1 3 6 )r i 北海道新需ふ 1 9 7 7 .4 .7 . 1 3 7 ) [f'朝日新聞J], 1 9 7 7 .2 .2 8 . - 85- 木村 汎 と く に 交 渉 が 長 期 イ と す る ば る い 「 聞 か れ た 社 会J の 方 が 次 第 に 褒 勢 に た つ の は , 上 の よ うな学習過程の結果, 往々にして, 世論の統ーや国民の結束が, r 上から命令されるので は な く 交 渉 を 通 じ て J13的 自 発 的 に 達 成 さ れ る こ と に も 由 来 す る 。 そ し て 改 め て い う ま で も なく,国内における結束, 団結,連帯こそ, 1977年 の 日 ソ 漁 業 交 渉 に お い て も , 小 国 の も ち う る 最 大 の 武 器 な の で あ る 1S930 8本 部 は , さ し て 意 識 す る こ と な く , こ の 自 に 晃 え な い 団 結 と L寸 武 器 に よ っ て ソ 連 側 に 対 持 す る こ と と な っ た 1紛 。 第 二 鯖 で 既 述 の ご と く , 恵比、おこすならば, ソ連側の対日戦術の最たるものが,分割作戦であることをJ 結 は 141) 自本側の盟 巧まずして最長の戦街を採用したこととなる。つまり,漁民の利害を顧慮せね ばならない農林水産省と領土を含む国益全体の利益を勘案するのが痩命の外務省との関の 見解の喰い違いも,いつの聞にか解決され,第三次鈴木訪ソ (5月 3 日 ) あ た り か ら , 「 両 者 り 足 並 み は , 完 全 に そ ろ っ たJ 141)0 日 本 漁 民 も , 自 ら の 利 益 ば か り を ふ り か ざ し て 非 国 民 な い し 昌 賊 呼 ば わ り さ れ て は か な わ な い と 罷 る よ う に な っ た 。 4月 1 8日,共産党を含 む全政党の党首会談が関寵され, r 海 洋 二 法J の 国 会 審 議 協 力 が 約 束 さ れ 143) その結果, 男 法 案 が 5月 2B, 全 会 一 致 で 可 決 さ れ る と い う 「 異 例 の ス ピ ー ド 成 立J 1U )と な っ た 。 か 国 益 最 優 先 の j, く て 「 画 期 的 な j, r 例の“国論統一" j 1 4 6 )が , r 国 難 意 識j 1 4 5 ), あるいは「戦後 3 2年 の 塵 史 で も 異 1977年 の 日 本 に 現 出 し , 初 期 の 立 ち 上 り の 遅 れ に よ る 損 失 を あ る て い ど 補 っ た の で あ る 。 交 渉 妥 結 後 I i ' サ ン ケ イ 新 語 j (5月 8 B) は , r 大畠と堂々回 つ 桔 撲 , 世 論 が ソ 連 制 すj 1 4 η と評し, Ii'宮本経済新聞 j ( 5 .9 ) は. r 交渉上最大の“力"は 五 党 首 会 談 に 象 設 さ れ る 対 ソ 国 論 の 統 ー で あ っ たJ148〉,と記した。 最後に,交渉過程における 5本 人 の 行 動 様 式 の 特 徴 と し て , も う 一 点 , 指 摘 し て よ い こ とがある。それは,いったん交渉が妥結するや, 日本人が往々にして,それまで散々苦労 し た 交 渉 の 全 過 程 の な か で , し か も 高 値 な 代 揺 を 支 払 っ て 得 ら れ た 貴 重 な 教 訓 を 4詰 し げ も な く 忘 れ 14の , 次 の 課 題 へ と 突 進 し が ち な こ と で あ る 150)0 r 台 黒 メ ン タ リ テ ィ ー j (ライシ 1 3 8 )W h e l a no p .c i t .p .3 91 . 1 3 9 )Fox,o . ρ.c i t .,p. 3 5 5 . サシケイ新額.ll, 1 9 7 7 .5 .1 8 . 1 4 0 )W 1 4 1 ) 実は,歎を分裂させる戦荷と表裏をなすものとして, 味方の団結こそ, レーニンの教えの最たる 9 7 7年,このレーニンの教えに従 L, 、 ν ーニン主義 ものだった。レーニン主義者ならね日本側が, 1 にたっく?)ソ連慨に一杯喰わせたのも,歴史のま肉であろうか? 刀eH双H,ma .M :JICe ,T .2 4,CTp・ 1 9 2 . lサンケイ新開.ll. 1 9 7 7 .5 .1 8 . 1 4 2 )f 1 4 3 )Ir日本経演新開Jl, 1 9 7 7 .4 .1 9 . 9 7 7 .5 .3 . 1 4 4 ) W朝日新開.ll, 1 1 4 5 )f l 読売新開Jl, 1 9 7 7 .4 .1 9 . 1 4 6 )Ir読売新霞j!, 1 9 7 7 .4 .2 3 . 9 7 7 .5 .1 9 . 1 4 7 )Ir日本経撰新開J], 1 1 4 8 )Irサンケイ新開J], 1 9 7 7 .5 .1 8 . 1 4 9 ) 元ソ連大震の法眼晋作氏は, 7 7年 5月 1 9日 , r 今度の交渉でわが国は貴重な体験をしたと患うが j とL、う記者の掃にたいて, つぎのようにのベた。「貴重な体験は常にしているんだが, 全部忘れて しまうのでは但もならない。あの国はこう Lづ置だという記憶力を持たなくては外交はできませ oIrサンケイ新聞j!, 1 9 7 7 .5 .2 0 . んJ 1 5 0 ) 日本側の無責任な「場あたり主義」の例として, Iシベリア開発が必要で,貴国が望むなら L、かよ うにも協力する。経済閣僚会議を開催することも考憲している」と L、ぅ福田(言椙〉親書『読売新 聞 J ]( 19 7 7 .4 .8 ) の言葉を履行しようとする努力が,その後,さしてなされなかったことが,挙げ られるであろう。 - 86- 漁業交渉 (1977年春〉にみられる日・ソの交渉行動様式 ャワー)151)のために, 向種の交渉が再びめぐりきたったとき,往々にして,再び同様の無 訪 縞 で 対 処 し が ち な 点 で あ る O それが証拠に, '77年 5月 の 日 ソ 漁 業 暫 定 協 定 の 妥 結 後 , ひ き つ づ い て お こ な わ れ た , 同 協 定 と ベ ア ー と し て 考 え ら れ る べ き ソ 日 数 業 暫 定 協 定 ぐ 77 年 8月 4 日 調 印 〉 の 交 渉 に た し 、 し , も は や 報 道 陣 も 百 本 人 の ほ と ん ど も さ し た る 関 心 を 示 1 3ソ 拐 に わ ず か 10万 さ な か っ た の で あ る O ましてや, '77年 以 後 単 年 度 毎 に 繰 り 返 さ れ トンの漁獲高の差しか存在しないまでにソ連によって圧迫されてきている今日の漁業交渉 に,関心をしめそうとする日本人は,ほぼ皆無といってよし、。 このような, 日本人の〈蕪 準 錆 一 一 団 結 一 一 忘 却 〉 の サ イ ク ノ レ を 目 の あ た ち に す る と , 末 冨 の ア ジ ア 専 門 家 B.K. ゴ ードン教授の指摘を,まことに的確な号本人観察として甘受せねばならなくなるであろ うO 同教授は, 一方, 日本人が, I 蓋前の問題にたいする部決の反応をしめす技龍に秀でているj r 長期的な戦略的デザ、インを展開すること J152)に は , 伝 統 的 に 余 ワ 成 功 し て い な い , と指摘しているのである。 1976-77年の対日漁業交渉プロセスにおけるソ連の行-動様式は, 本節冒頭に要約したよ うなノ ζ タ ー ン を 辿 っ た 。 つ ま ち , ま ず 一 方 的 な 先 鋭 攻 撃 に よ っ て 畏 或 事 実 を つ く り , そ れ が日本側の頑強な抵抗に遭遇するときにのみ,渋々号本棋の要請を入れる形で交渉に応じ て退却し,交渉決裂を目前にした最終段階においてはじめて思い切った譲歩をする, う パ タ ー ン で あ る O こり交差与の「過程」にみられるソ連の行動様式上の特色は, とい ソ連が愛 a c t I c )153) と , そ の 基 本 的 考 え 方 に 用 す る 「 戦 能 」 の 一 つ で あ る 「 バ ザ ー ノ レ 戦 術 J(bazaar t おいて,まったく軌をーにする O バザーノレ戦術とは,いうまでもなく値切られることを見 バザール 越して値段をつけている露庖市に由来する O すなわち,当初は法外で途方もない要求を捉出 し 154〉 , そ の 要 求 か ら 撤 退 す る 代 償 と し て 相 手 側 に も 譲 歩 を 強 い る 戦 法 で あ る O 欧 米 の 研 究家たちが,往々にしてソピエト外交・交渉行動様式の特色として, V;<.ポ Y ソ連はイニシァティ F ブをなかなかとろうとせず,むしろ西側の提案に反応する行動様式をしめすと述べるの は 155九 い っ た ん 大 き な 先 制 攻 撃 を か け て 既 成 事 実 を 造 っ て か ら ソ 連 が と る 行 動 様 式 , す な わち上のノミターンでいえば,第二段階に入ってからのソ連の行動様式に注呂して,その特 徴を指摘しているにすぎないのであり,ソ連が一貫してイニシァティブをとらない,と言 、 っているのではないことに注意せねばならなL ともあれ, 1976-77年 , ソ連は,一方的な先制攻撃で,一再ならず, 日本を驚かせた。 4日の 既述のごとく, 76年 の 最 高 会 議 幹 部 会 令 の 発 表 も そ の 好 例 で あ っ た が , 77年 2月 2 主 席 と す る 呂 本 代 表 団 の モ ス ク ワ 到 着 の 4 日前 閣僚会議決定もそうであった。鈴木畏相を E 151 ) Reischauer,0ρ.c i t .,p .1 5 ; 詞訳, p.28. 1 5 2 ) BernardK. Gordon, “ Japanese SecurityPolicies, "ORBIS(Winter 1 9 7 9 ),p . 971 . 1 5 3 ) ¥Vhelan,o t .c i t .,p .494;ArthurUphamPope, MaximL i t v i n o j J(NewYork: L .B .Fischer, 1 9 4 3 ),p .1 8 9 . 1 5 4 ) Pope, 。ρ.c i t .,p .1 89; 後に未草儲コントローノレ・軍縮昂長官となったフレッド・イクレは,出 :せ作『国家はいかに交渉するか三のなかで iソ連の交渉者たちは, しばしば半分しか得られない ときでも,全部を要求する」ことを,指摘している。 I k l e . 0ρ.c i t .,p .2 3 4 . i t .,pp. 140-141; JohnR .Deane, “ Negotiating on MilitaryAssistance,19431 5 5 ) Whelan,0β c "i n Dennett and Johnson( e d s ), 。ρ.c i t .,p .8 . 1 9 5 4, - 87 汎 木村 に発表された後者の決定は交渉前に既成事実を造ることを意図した,巧みに計算された先 制攻撃以外のなにものでもなかった,といえよう。 序でながら,このような先制攻撃にたいする最も有効な対抗手段は,いうまでもなく, 充分なる事前の予防的措置ないし準備ということになるが,これは,言うは易く行うに難 い 。 そ こ で , 次 善 の 策 と な る の は , 西 側 専 門 家 の 説 く と お り 15め,そのような先制攻撃によ ってつくられた状態を既成事実と認めてしまわないこと,つまり屈伏のサインを示さない こととなる c そのような反撃に遭遇してはじめて, ソ連は,自己の要求を低め,次第に真 剣な交渉態度へと移行してゆくからである。ソ連側の最初の提案は,し、かなる譲歩も許容 しない,堅牢無比の最終的なもののように見えようとも,そのように途方もない提案によ り , ソ連が実際におこなおうとしているのは,桔手鎖の決意や忍耐の度合を測定し,正確 にどの時点、で真の交渉が不可避なのかを確認すること,にあるケースが実に多し、。したが って,栢手側が強い抵抗を亘ちにしめさなければ,ソ連は,最大限巨標の達成が可能だと 解釈しがちなのである O 厳密な理論的レベノレでは, ソビエトの苦手書に,本来. r 妥 協 」 な い し 「 譲 歩j の用語を 見 出 せ な い は ず と い わ れ る 15730 というのも, “力"のない者はそれに撮従する抱ない, r 妥協」は, “力"をもっ者の声が支配し, とL、う伝統的思想、の持主たるロシア人に, 本来 恩n 染まない概念とし北、うるからである。 70年 代 初 頭 に 『 ニ ュ ー ヨ ー ク ・ タ イ ム ズ 』 の モ rロシア入n .( 1 9 7 8 ) をものにした スクワ特派員として名ノレポータジュ いている rソ連の交渉者たちは, H . スミスは,書 ほぼ同等の地位を前提とするアングロ・サクソンの概 念であると考える。妥協という考えは,ロシア的な役人根性の本能には,起ってこなし、。 というのも, ロシア人にとって,本吉量的に起こる関は,誰がより強く,誰がより弱いか, ということだからである。本来,し、かなる関採も,力のテストなのである j158)0 マルクス・ レーニン主義の階級闘争のドクトリンが,このようなロシア的伝統的思考をさらに強化す る方向に貢献したに違いないとみて, 差支えなかろう G を嫌う J159)。故モーズリー教授も指議しているように, ヴィキ患考法?こ無縁な j160) 概念であり, つねに, ソピエト式ドクトリンは, r 妥協 r 妥 協j の言葉自体が, r ポリシェ r 墜 落 し た 」 と か 「 腐 敗 し た J という修 飾 語 を 伴 っ て 夜 用 さ れ る 額 舟 に あ る 161)。同様に,ソ連の政治指導者や交渉者は,譲歩とい 弱 さ の 表 現 J162)に能ならず, う言葉を嫌う。譲歩は. r r 譲歩は,……資本主義への貢献を 意味する j163) (レーニン〉からである O あ る い は , そ も そ も 「 わ れ わ れ の 提 案 は , 取 り ひ き用に{乍られているのではないがゆえに, 譲歩してはならなしづ 164) (フルシチョフ〉から である。 もちろん,実際問題としては,なによりも壁史が証明するように,ソ連の交渉者たちも, 156) Muromcew, “SovietNegotiating Behavior, "p .1 2 . 157) Mosely ,o p .c i t .,p .3 2 . 。 ム c i t .,p .2 6 4 . 158) Smith, 1 5 9 ) Samelson,0ρ.c i t .,p .2 7 . 160) Mosely ,0ρ.c i t .,p . 32; 同訳, p.24. 161) I b i d ., ; 向上。 162) Kertesz,o p .c i t .,p .1 4 3 . 163) J 1eHHH,ma .M :JICe ,T.44,CTp. 4 9 . 164) Craig, “ TechniquesofNegotiation, "p .368 から,再引用。 槌 漁業交渉く 1 9 7 7年春〉にみられる日・ソの交差長行動様式 自己の立場を著しく変更し,妥協や譲歩を行った例に枚挙に暇がないことも亦たしかな事 実である 16吾 、 そ う で な け れ ば , 対 ソ 交 渉 と い う も の に は , 永 遠 に 妥 結 と い う も の が な い こ とになる。とはいえ,そのばあいですら, ソ連式妥協法の特徴というものが見出されるの である O すなわち,妥協なし、し譲歩をする以外,抱にまったく選択肢がないどころか,か えってソ連の立場や国益を著しく損ねるという判断に到達した最終のギリギリ結着の瞬間 に遭遇してのみ, 渋々妥協ないし譲歩に応ずる習癖である O へイター郷も, 「 ー 賓 佳 の な い こ と に た い す る こ だ わ り が 全 く な Lづ166) ために, と,自らの立場を平然と変更」して恥じないことを, ソ達人が, 急転直下「長い討論のあ ラ 戦後の米ソ軍縮 指 摘 し て い る 167。 交 渉 を 詳 細 に 研 究 ・ 検 討 し た し ジ ェ ン セ ン の 発 見 の 一 つ は , 全 交 渉 設 階 を 7区 分 す る ば 1 ,I I,I I I 区分内におこなわれているの に比し, ソ 連 の 譲 歩 の 実 に 75パ ー セ ン ト が 最 後 の 三 区 分 , す な わ ち V, V I,V I Ig分 で お こ な わ れ て い る 事 実 だ っ た1 8% 日 ソ の 漁 業 交 渉 に 永 年 従 事 し て い る 本 稿 筆 者 の 知 人 ふ あ い . 米 国 側 の 譲 歩 の 82ノミ一セントが最初の第 ソ連が, しばしば,交渉決裂の前夜にかなり思い切った譲歩をする習性があると,洩らし ている。 77年の日ソ漁業交渉において, ば,恐らく, れない, ソ連侵u は,この調子で ~l 己の立場を国執しつづけるなら 日本国民全体にとち返しのつかない反ソ感情を植えつける結果を導くかもし とクレムリン最高指尊部が判断したと思われる音寺に,妥協に応ずる気になった模 様である O たとえば, た。また, ソ連は, ソ連は, 日本の 12~'Í新領海内でのソ連漁船操業の要求を軟化させ 日ソ漁業嘗定協定がたんなる「漁業」にかんする協定であって,日ソ 間のその他のつまり日本側の解釈では「領土」問題に泣影響をおよぼさないことを明記す る 条 項 〈 第 8条〉挿入に同意さえする,意外に大きな譲歩をして日本側を喜ばせたので、あ るO ソ連式交渉行動様式パターンの最後の特色として指摘する必要の為るのは,交渉妥結後 の既述した日本野!の忘れっぽさとは違い,協定や条約の締結をもってして必ずしも闘いや 交渉の終了と看なさない点である。ましてやたとえ口頭で実質的に合意に到達しようとも 正式書類に謁却する持点迄は交渉は抜然、として継続中と考えるソ連が, 鈴木ーイシコフ会 談における最終的合意事項を強引にひっくり返す「常識ではとても考えられなしづ(園田 官 房 長 官 )169)修 正 案 を , 最 後 の 土 壇 場 の 5月 18 S, 再 提 出 す る こ と な ど 1763, 戟 食 前 の 芸 当 だったにちがし、なし、。ソビエト式患考法によれば,そもそも資本主義諸国との条約や協定 1 6 5 ) Samelson, o p .c i t ., p .2 : 7 . 戦略兵器事!誤交渉などにおいて,妥協が,ソピエト交渉者にとって 「 も は や タ ブ ー と な く な っ た j と説く見解もある。 Whelan,o p .c i t .,p .4 8 5 . 1 6 6 ) Hayter,0ρ.c i t .,pp. 29-30. 1 6 7 ) コーラ一元駐ソ大穫は, Iソ 連 と 長 く … … 希 望 の な い 交 渉 を 就 け , 何 カ 月 も 何 年 も な ん ら 進 歩 の 兆 候をみることなく話し合いを続けているうちに,ソ連が,突如として,二時間以内に合意する用意 egotiation a s an が あ る と い っ て く る こ と が あ る j ことを,田顧している。 FoyD.Kohler,“N "U .S .D e J うa rtment 01 S t a t eB u l l e t i n E f f e c t i v e InstrumentofAmericanForeignPolicy, (Vol .38,June 2,1 9 5 8 ),p .9 1 0 . 1 6 8 ) LloydJensen,“ Soviet-American Bargaining Behavior i nthe Postwar Disarmament Ne"J ournalofC o n f l i c tR e s o l u t i o n(Vol .7,No.3,September 1 9 7 3 ),p .5 2 9 . g o t i a t i o n s, 9 7 7 .2 .2 0 . 1 6 9 ) IT'日本経済新聞J], 1 p .c i t .,p .1 4 6 . 1 7 0 ) Kertesz,o 一 一 89一一 木村 段 , 汎 ソ 連 の 力 を よ り 増 大 す る 時 間 を 譲 ぐ た め の 「 一 時 的 な J171)合意以外むなにものでもな い の で あ る O 換言して, ソ連は,持として, r 退 却 し は す る が , け っ し て 屈 伏 は し な し づ 172) といってもよし、かもしれなし、。彼らは協定を変更するか, r 実 践 の 過 程 でJ178) 事 実 上 死 文 化するためのあらゆる機会を,鵜の巨驚の目で狙いつづける。 1 1 1 対 以上のべてきた非対称的側面とならんで. 有= 控 F ' 7 67 7年 の 日 ソ 漁 業 交 渉 中 に お け る 日 ソ 両 国 の交渉行動様式には,対称的側面も大いに観察された。それは,結論を先に一言でのべる , な bば 日ソ両国ともに,アングロ・サクソン流の西側の交渉行動様式に,必ずしも未だ 充分習熟していないとしづ意味において,全く軌をーにしているところが多いということ である O と い っ て も , 断 っ て お く べ き こ と が , 二 つ あ る 。 まず第ーに,筆者が,つぎのような価値判断を,前提としているわけではないことであ る。すなわち,欧米流の交渉のスタイル,戦術,バターンの方が, 日本, ソ連,その他の 諸国のそれらよりも,より秀れた形式であり,その他の諸国もフォローすべき模範と考え ているわけではなし、。改めていうまでもなく,西欧型の交渉は,飽くまで一つの交渉方法 にしかすぎなし、。よりベターな紛争や係争問題の解決方法が他にも存在するだろうし,ま た将来出現するであろう O とはいえ,現在のところ,それが, もっとも一般的な形で発達 せしめられ,他の諸国もフォローする傾向にある,普遍的な要素を相対的により多く含ん だ交渉という意味において,一誌の標準型を形成していることは,事実であろう。本稿で は,そのようなスタンダードな,いわば物差しとして,アングロ・サクソン読の交渉を一 応の標準と看なすことにしよう O 西欧型の交渉をこのようなものとして理解するばあいでも, とは, もう一つ断っておくべきこ 司本の交渉行動様式もソ連のそれも,部分的にのみ,それぞれ特殊日本的,特殊ソ 連的,すなわち非西欧的な交渉で、あるということである c 換 言 す れ ば , そ れ り は , 或 る 部 分においては紛れもなく西欧流のスタンダード型交渉以外のなにものでもなく,そこに格 別新奇なものは見当らないのである。しかし,と同時に, 日本流の交渉やソ連式の交渉の その他の或る部分において,西歌型の交渉には通常見出せない独特の性格が発見されるこ とも確かといえる。要するに, 日ソの交渉行動様式にみられる特色といっても,所詮,相 対的なものにすぎないことを,まず念頭においておくことが肝要であるO さて,上記の二点を断ったうえで,最初に検討すべきは,では,西欧流の交渉の特徴と は , 一 体 な に か , と い う こ と で あ ろ う 。 物 差 し が は っ き ち し な い こ と に は , そ こ か I ?B, 1 7 1 ) こ の い わ ゆ る ? 幻 の 惨 正 案 Jの 提 出 お よ び 撤 回 の 背 後 に は , イ シ コ フ を は じ め と す る 実 務 派 と タ カ 探 と の 間 の 見 解 の 対 立 が あ る と 説 く 興 味 あ る 見 解 と し て , 富 永 守 雄 『 日 ソ 漁 業 交 渉 の 内 幕L p p .8-9参照。 1 7 2 )S t e i b e , l ot. c i t .,p .1 3 . 1 7 3 ) モーズリーは. r 原 則j に お い て よ う や く 合 意 に 到 達 し た と 喜 ん だ の ち に な っ て , 往 々 に し て , f 実 際 に は J( in p r a c t i c e ) ソ連側が,自己の当初の目的を追求しつづけていることを発見するよう ,0ρ.c i t .,p . 25; 同訳, p.20. に な ら な い 様 , 警 告 し て い る 。 Mosely - 90- 議業交渉(1977年春〕にみられる B .ソの交渉行動様式 ずアヲ 7 : . . '1 - ソそれぞれの交渉行動様式がどのていど,逸脱した変形であるかということが,明らかと なってこないであろう。 ま ず , 西 側 で 用 い ら れ て い る 「 交 渉 J(negotiation) の 定 義 を 紹 介 せ ね ば な bなし、。交渉 概念は,西側の学者によって様々に定義されているが1) その最大公約数的なものにした がえば,交渉とは,要するに, I 外交の主要な手段」であワ, I 対立する利害を, !駆けひき を 駆 使 し つ つ も , 相 互 譲 整 し よ う と す る 過 程J 2 ¥ といえよう。ここで重要なの時,相互性 (mutuality)3) とし、う考え方である O 相 互 に 譲 歩 し , 妥 協 す る こ と を 通 じ て , 対 立 す る 利 害 の 調 整 を 図 る と い う 点 で あ る O むろん,これは,言うは易しくて,行うに難し、。自己の利 益を可能なかぎり保持して,なおかつ相手{言、むこも満足を与える一一一この二つのことは,決 っして容易に両立しうるものではなし、。交渉者は,相互に,自己の譲歩部分を少くし,逆 に相手側のそれを多くしようと努めるから,両者の利益諒整は,至難の技となる。自己の 立場や主張を,いかにして,相手部に理解,納得,受け入れさせるか一一このことが,ま ず む つ か し L、 。 異 な っ た 値 値 , 文 化 体 系 の 束 で あ る 相 手 側 の 交 渉 者 に た い し て は , た ん な るコミュニケーションでさえもー苦労であるのに,さらに説得するとなると,もう絶望的 とさえいってよ L、。逆に, I 梧 手 方 の 見 解 J4)を虚心担壊に認識することも,簡単なようで, 仲々むつかしし、。他人の主張に耳を傾け,地者の立場にたって理解し,他から啓蒙される こ と は , 自 己 の 要 求 を 主 張 し , 抱 を 啓 蒙 す る こ と 以 上 に む つ か し L。 、 とうぜ、ん, 相手{躍 も,宣伝や駆けひきを用い,いやがうえにも,当方の猪疑心は倍加する。交渉者は,往々 にして,自己の鏡に索、らして,他を判ずる弊から抜け出しえず汽 極端なばあい,一人相 撲 を と る (self-negotiating) こ と が ま ま あ る の 。 理 想 的 に い え ば , 当 初 交 渉 者 が も っ て い た 締龍やイメージが,交渉の過程を通じて次第に変形を遂げてゆき,最終的には,担手側の 反数しないまでも,少くとも両立しうる 7)までに変革される必要がある。 それらと,完全にl しかし,このような自己変革や学習は,厳しい自己抑制を要求する苦しい作業であり,交 。 S t e i b e l,O p .c i t .,p .1 ;Nicolson,o p .c l t .,p p .4-5;1 . WilliamZartman, “ TheP o l i t i c a lAnalysis " WorldP o l i t i c s( 2 6,No.3. April 1 9 7 4 ) , o fNegotiation: HowWhoGetsWhatand When, p p .386-389;I k l e,o p .c i t .,p p .3-4;Daniel Druckman,Human F actors i nI n t e r n a t i o n a l (BεverlyH i l l s, Cal . : Negotiations:S o c i a l P s y c h o l o g i c a lAspects01I n t e r n a t i o n a lC o n f l i c t, SAGEPU 日i c a t i o n s,1 9 7 3 ),p .6 : EdwinM. Fedder, “ Communicationand American-Soviet Negotiating Behavior, "Background ,(V01 . 8,No. 2,August 1 9 6 4 ),p .1 0 6 . 2 ) Whelan,o p .c i t p.5. i t .,p .1 0 6 . 3 ) Fedder,0ρ.c 4 ) “ObservationonNegotiating: InformalViewso fW.AverellHarriman, "JournalolIntern a t i o n a lAffairs(Vol .29,No. 1,Spring 1 9 7 5 ),p .1 . 叶 5) ニコルソンは, r およそ外交官はく素人にもほとんど劣ず玄人も入交渉技衡に関する絞ら自身の考 え方を,交渉相手たる外菌入もまた多かれ少なかれ同議にもっていると考える額きがあるj との r こ の 誤 っ た 考 え は 誤 解 を 導 く も の で あ る j と結論する。 N icolson, o p .c i t ., p . 68,同訳, p .1 2 3 . 一般に,国際政治のアクターが昌己のバシープしたく思っているところのものをパシープ し が ち な こ と J I'こかんし, P obert J e r v i s, TheLogic01Imagesi nI n t e r n a t i o n a lR e l a t i o n s, (Princeton,New]ersey: Princeton UniversityPress,1 9 7 0 ),p .1 3 2 . 6 ) Craig, ウ ェ ラ ン 惇 土 が o n e s i d e dbargaining な い し s e l f b a r g a i n i n g という表現を用いている と こ ろ か ら 示 唆 を う け た . Whelan ,o p .c i t ., p .1 0 8 . Frederick Osborn,“ Negotiation on "i n Dennettand Johnson,( e d s )o p .c i t .,p p .2 3 5 2 3 6 . Atomic Energy, nalysis01I n t e r n a t i o n a lR e l a t i o n s(Second Edi t i o n ) (Englewood 7 ) Karl W. Deutsch,TheA C l i在s ,New Jersey: Prentice-Hall,I n c .,1 9 7 8 ),p . 163,p .1 6 6 . ベ , - 91- 木村 況 渉者の誰しもが,自己犠髄や責任転援などの方法により,できうるかぎり毘避しようとす :7..キル るものである。要するに,交渉とは,厳しい自己抑舗と高度の技巧により,究め難い他者 を測り, 自己をも他者をも満足させる,いわば不可能を可能とするアート ( a r t ) 8 ) とさえ 看なしうるであろう o つぎに,いよいよソ連人による交渉の特徴とはなにか,を問題にしよう。西側の対ソ外 交経験者の多くは, ソ 連 式 交 渉 が 上 に の ベ た 「 通 常 の 意 味 に お け る J9) 交渉でない, と看 る。米国のそれぞれ菌連原子力エネルギー委員,国務長官として,対ソ外交の穆羅場をく ぐり設けてきた経験の持主たる F . オズボーン. D. ア チ ソ ン の 結 論 が , そ う で あ る 1030 ベルリン問題をめぐる対ソ交渉に従事した P . モーズワーも,同様に, ソピエトタト交官を 「通常の意味における Jll) (強調点一一木村)交渉者とは,みなしえないと述べ, も , グレイク r ソビエト外交官が. 西側世界における外交交渉を伝統的に響導してきた/レール」 ωか ら逸脱しがちであることを指摘する。 では, ? ソ連の交渉観や実際の交渉行動様式は,いかに西側の長統的なそれと異なるのか 本稿筆者には,つぎの相互に関連する密点が指摘されうるように思われる。第ーは, ソ連が,交渉を闘争のー形態とみている点である。 A.A. グロムイコ現外相ら編の『外交辞典jJ (全三巻. 1971) は. r 交 渉J (neperOBO 討 を. r 外 交J の最も重要な方法のひとつで. r 係争問題を平和的に調整するために用いられ るfのもの,と定義している。ところが,その「外交」の基礎となるのは. If'外交勤務の基 J (1977) の 著 者 B .A. ゾーリンによれば 礎I 「国際需勢のマルグス・ L ノーニン主義的理 解 , 社 会 の 発 展 法 則 , 階 級 闘 争 の 法 貝 主 力 の 相 関 関 係J 1 4 列強調点一一木村〉に他ならない のである。 したがって, r 平和的調整」とはいっても, きわめて爵争的な性格を帯びるの である c 否,ソビエト的思考は,外交ないし交渉を平時における一種の戦争として説念してし、る と 説 く 者 す ら い る 。 実 際 , 約 10年 間 に わ た ワ ソ 連 外 相 の 地 位 に あ っ た M. 1)トピノフは, 自己の伝記執筆者コーネフに向い. r ソピエト外交官は, 平時において, 赤軍が戦時にお いて果す仕事を試みる。一一すなわち,“戦争とは,他の手段による政治の継続である"と . と語ったと伝えられる 1530 冷 戦 期 に 大 いうグラウゼヴッツの有名な言葉の逆転であるJ 8 ) フランソワ・ド・カリエールは. r 交渉技術 ( a r t ) は非常に重要なもので,超大国の運命ですら, ransoisdeC a l l i釘 e s ' ,Ont h e しばしば交渉者たちの上手下手によって左右される」とのベる。 F . Whyte (UniversityofNotre Manner01NegotiationgWithPrinces, translated byA. F ,1963),p .7 . Dame Press 9 ) F ・オズボーンは「これがく=対ソ外交〉が,はたして交渉であろうか」と自問し. r たしかに,言 葉のふつうの意味での交渉ではない。三年後に私が到達した結論は,われわれは交渉していたので は な い と い う こ と だ っ たJ . と答えた。 Osborn,o . ρ.c i t .,p p .2 3 5 2 3 6 . o c .c i t . ;Acheson,o . j う.c i t .,p p .3 7 8 3 7 9 . 1 0 )l 11) Mosely ,o t .c i t .,p .5 . 1 2 ) Craig, “ TotalitarianApproachest o DiplomaticNegotiation , "p .1 2 0 . 1 3 ) A. A. rpOMbIKOe ta l(pe え よ Jl un . l lO.M amu' te C K u i tC 必0 8apb (MocKBa: nOJIsTs3 ぇaT ,1971), T.2,C T p .4 8 5 . .A.3opsH, OC 1 l0 8 b lδun . l l O.M amu'te C K o i tC . I l y:JIC6 b l (MocKBa: 1 1 3 n .aTeJIbCTBO (Mel K . n yHa1 4 )B po ぇHbIeoTHomeHsH) ,1 977, 白p.74. 1 5 ) Pope,o t .c i t .,p .1 9 0 . - 92ー 漁業交渉(19 77年春〉にみられる日・ソの交渉行動様式 著 fボザシエヴイズムの研究j] (1953) を も の に し た 西 側 の 研 究 者 N . ライツは, I 交渉に e g o t i a t i o n ) l η よ る 闘 争J(struggle bynegotiation)lめ な い し 「 交 渉 に よ る 戦 争J(war byn という, ソ連の基本的理解を,西側が決して忘れぬよう忠告した。 上の第一点と密接に関連する, ソ 連 の 交 渉 観 の 第 二 の 特 色 と し て , 交 渉 を 政 治 的 武 器 18) とみなす点が,あげられるであろう。 もちろん,西倒的考え方においても,交渉とは,自国のナショナル・インタレストや外 交 呂 標 を 達 或 す る た め の 主 要 手 段 と み な さ れ て い る こ と に 変 り な L、。とはいえ, ソピエト 交 渉 概 念 の 拾 う が , つ ぎ の よ う な 意 味 で , 手 段 的 性 格 が よ り 強 い と L泊、うるであろう。つ まり,既述したように,西側の交渉概念においては,当時者相互に受け入れられる協定に 到達するために,両者は,初期の自的の部分的修正をとうぜん許容するO 交 渉 の 前 後 に は百標が変ってくるとさえし叫、うる。これに比し, 事者龍の「目的は, ソピエト式思考においては,交渉者当 1のな性質のものであるから, 互 い に 排 他 的J 一時的後退は許されるも のの,交渉中に目標の{修正ないし変化などが記るべきでもないし,また起りうるものでも ない。換言すれば,交渉としう手段的性格なものによって,本来のゴーんが影響を蒙るべ カット き筋合のものではなし、。このように, 自的と手設は明瞭に分離され,交渉前後に, ソビエ トのポジションは,なんらの変更も蒙らないとさえいって差支えない。 第三は, ソ連の本来の交渉概念のなかに,所謂“ギプ・アンド・テイク"の考え方が欠 落している点である O むろん, ときとして, とくに最近は, ソ連交渉者たちとて,ギブ・アンド・テークのノレ ールに従いはするようになってきた。とはいえ,彼らは,万止むをえない事態に遭遇して 00パ ー セ ン ト 貫 徹 す る こ と は じ め て 渋 々 そ う す る の で あ っ て 20) 飽 く ま で 自 己 の 立 場 を 1 が,後らの本来的な目標および任務なのである O プレーカーは,このことを,つぎのよう に説明している。 「ソ連外交官は,…一-放棄してよいような利益というものをほとんど認めないので,譲歩 する場合には,いやいやながらまたじっくりと行う O そして,それは,すべてほかの手 段 が 失 敗 し た 時 に お い て で あ る Jt)o 2 西側の対ソ交渉の実務経験者達の発言も,このことを裏づける。たとえば,へイタ一英国 元駐ソ大使は, 書きのこしている。「ロシア人たちは, つねに勝利を目ざして交捗するO 交渉の正しい目的が,相手{揺を打ち負かすことではなくて,互恵的な協定に到達すること に あ る , と い う 考 え は , 彼 ら に 決 し て 忌 い っ か な い よ う に 見 え る J22)。また,二次大戦終結 1 6 ) NathanL e i t e s,A Study01Bolshevism(Glencoe,I ll i n o i s : TheFree Press,1 9 5 3 ),p .6 0 . 1 7 )I b i d . 1 8 ) Whelan,o t .c i t .,p .XXXV; p .524;Ulam,o p .c i t p.510. .c i t .,p .3 7 8 . 1 9 ) Acheson,0ρ 2 0 ) G ・クレイクは,ソ連は,酉偶の外交コミュニティの事柄の参加者となったが,それは,そうする 叶 の外交コミュニテ こ と が , 披 ら の 剥 益 だ っ た た め 渋 々 そ う し た の で あ れ 言 葉 の 真 の 意 味 で , 西 部l ィ の メ シ パ ー と な っ た こ と は 決 し て な か っ たj と 記 し て い る 。 a t i o n, "p .3 6 5 . 2 1 ) 抱井訳, p.265. i t .,p .2 8 . 2 2 ) Hayter,0ρ.c - 93- Craig, “Techniques o fN e g o t i - 木村 時 ) レ ー ズ ベ ノ レ ト 大 統 領 を 劫 け 対 ソ 交 渉 の 衝 に あ た っ た W.ハリマンは, 汎 ソ連人の「交渉 基準がなんのお返しの期待も与えず,なんらかの代償物の考えを伴わないギプ・アンド・ ギ プ ・ ア ン ド ・ ギ ブ( G i v eandg i v eandg i v e ) 2のであった, などで対ソ交渉?こ従事したモーズヲーも, とのベた。戦後ベノレワン問題 r ソビエト代表たちは, 非常にしばしば, 協定 への到達が,交渉当事者のいずれの側も,自己の立場全部を貫徹せず,各々が自己の立場 の一部を獲得するという見解のギプ・アンド・テイクによって可能となると説明されて も , 詰 じ よ う と し な い の だ 」 243, と書き残している。 モスクワ大使館勤務を含む長い外交 官 生 活 を 送 っ た L へンダーソンも,共産主義指導者たちは, r 西側の交渉にとって当りま え の パ ー ゲ ニ ン グ 過 程 に お け る ギ ブ ・ ア ン ド ・ テ イ ク に 関 心 を し め さ な か っ たfーとと述 懐しているO また,故ケネデイ大統領も, r 交渉は, 勝利ないし敗北に導く闘いではな いJ283, と 語 っ た が , 同 大 統 領 の 下 で { 動 き , 対 ソ 交 渉 の 現 場 に も 岩 あ わ せ た , A .シ ュ レ シ ンジャー教授は,フルシチョフが「君たちがあれを呉れれば,我々はこれをやろうという 27),と回想録中に記した。 商 業 的 な バ ー ゲ ニ ン グ の 用 語 を 拒 否 し たJ 第四は, ソ連交渉者が,交渉を有利に推進する手段として,雄弁や理屈などよりも,そ の青後に怠る“力"関孫を重視する点であるO ヘイタ一難は, r ロ シ ア 人 は , 雄 弁 や 理 性 的 な 議 論 に よ っ て 説 得 さ れ な L、 J2B 九とのべて いる。また,米国の元政策形成スタッフ C.B.マ ー シ ャ ノ レ が , つ ぎ に 引 用 す る よ う に , 対 ソ交渉において,ディベート〈討論〉の演ずる役割を西{揺が過大評価しないよう戒めてい るのも,その根底には,ソビエト交渉者が,論争の勝ち負けにはさしで重きをおかないと の観察が,前提とされている。 「最近, 交主主についていわれていることは, インター・カレヅジ関の討論のようなもの だとし寸見方である。すなわち,歴史的,論理的に議論を展開し, うまく発言したほう に良い点をつけるという決定がなされる。これは,テーブルをはさんで討議を行い,あ る点で, フノレシチョフが, ダレスに向い, IT'もうたくさんだ, まいった。それには答え られなし、。で,君の要求は何だね。』ときくようなものである J29)O ソ連人が,雄弁やロジックよりも重視するのは,その言葉の普後にあるもの,とくに“力" J( 1 9 7 8 ) の 著 者 H.スミスは, IT'ニューヨーク・ 関 誌 で あ る O 名/レポノレタージュ『ロシア人I タイムズ』のモスクワ特派員時代 ( 1 9 7 1 7 4 ) に,或るスウェーデンの外交官が洩らした, 2 3 ) Whelan,o t .c i t .,p .1 0 8 . 2 4 ) Mosely,o t .c i t .,p .1 1 . 2 5 ) FoyO.KohlerandMoseL .Harvey,e d s .,TheS o v i e t Union: Yおt e r a a y,Today,Tomorrow: A Colloquyo[AmericamLongTimersi nMoscow(Washington,D.C.: CenterforAdvanced 9 7 5 ),p .1 9 6 . I n t e r n a t i o n a l Studies,UniversityofMiami,1 i t .,p .3 2 7 . 2 6 ) Whelam,0β c r,A Thousand Days: Tohn F .Kennedy i nt h e White House 2 7 ) Arthur M. Schlesinger,J (Boston: HoughtonMi伍 n Company,1 9 6 5 ),p .3 6 2 . 2 8 ) DeanAcheson,P resenta tt h eCreation:My Yearsi nt h eS t a t eDe ρartment(NewYork: W.W. Norton& Company,I n c .,1 9 6 9 ),p . 275 から再引用。 2 9 ) Char 1esBurtonMarshall, “ The ProblemofIncompatible Purposes, "i nIvoDuchacek,e d ., C o n f l i c tandCooperationAmongNations(NewYork: Holt,Reinhart,andWinstonI n c ., 1 9 6 0 ),p .5 . - 94- 漁業交渉(19 77年春〉にみられる日・ソの交渉行動様式 つぎのような言葉を紹介している: 「ロシア人は,アメリカ人とは尊敬して交渉しますが,それは,アメリカ人が権力をもっ ておち,言葉の背後になにかをもっているからです。ところが, ロシア入は,われわれ と そ の よ う に は 交 渉 し は し ま せ ん O わ れ わ れ に は 力 が な く , 小 さ い 国 だ か ら で 、 すj30)0 “力"関保にかんする冷厳なる認識が, ソ速の外交交渉の基礎とならねばならぬことは, 先 に 引 用 し た ソ ピ エ ト の 外 交 教 科 書 に も , 明 言 さ れ て い る O すなわち, ゾーリン著『外交 勤務の基礎』は, 各々の国,そのグ 要求している。「ソピエト外交活動の理論的基礎は, ノレープ,各大陸の発展の民族的事堅史的特殊性を考慮に入れた,国内的および国際的な社 眼視 C HJI) で あ る j30, と 。 会 的 力 の 相 関 関 係 (COOTHO出 e 以上を,西側のそれからことさら際だたせられたソ連の一般的な交渉観ならびに交渉行 動様式土の特色とみることがまずまず正しいとするならば, 日本人による交渉観や交渉行 動 様 式 の 中 に は , 荷 額i のそれよりもむしろソ連のそれに近似するものが見出される点も存 在するのである。つまり, 日本人も本,主として西側の外交コミュニティーのなかで発展 せしめられた,交渉をゲームと看る見方に,すっかり習熟しているとはし叫、切れないので ある o '77年 の 自 ソ 漁 業 交 渉 中 に お け る 日 本 側 の ピ へ イ ピ ヤ ー を 例 に と り , このことを説 明してみよう。 まず,気づかざるをえないのは, 日本人の少なかざる部分が, 77年の日ソ漁業交渉を, ま る で 一 種 の 戦 争 で あ る か の ご と く 受 け と め た 点 で ‘ あ る 3330 たとえば, 76年 12月 10 日の ソ連による 200~-1水域宣言を, 翌々日の『朝日新語』社説は, 1太 平 洋 戦 争 最 終 期 の ソ 連 参 戦 に 酷 似 す る j3u, と 書 い た 。 『 読 売 新 聞 』 モ ス グ ワ 特 派 員 は , 交 渉 の 最 中 , モ ス ク ワ か ら,つぎのように報じさえした。 の前に, 1200{1-1時代は武力を使わない海洋戦争である O “戦争" “伝統的な漁業権益の確保"と L、う筋論は無力である j35)0 現 職 の 衆 読 議 員 か ら 「 昔 な ら 戦 争j36)としづ発言すらも, 自民党雨続総会では, 飛 び だ し た 8730 間 交 渉 を 論 じ た 数少い書物のうち二冊までもが,高業主義にはっきもののセンセーショナリズムとはい え , 1戦 争j なるタイトノレを冠しているのも(毎司新開社編[f200~-(サカナ戦争J], 1977, 高田清 ~200 1 ]-1戦争Jl. 1977), 当 時 の わ が 国 の 雰 囲 気 を 代 弁 し て い る と い え る O 日本の交渉者は, 1出撃を言IH こ し た 神 武 特 別 攻 撃 隊 の 飛 行 士 に も 似 て い る j紛一一一日本交 渉行動スタイルを研究したブレーカ一博士のこの言葉比,上.にのベた交渉をゲームとして よりも戦争を捉える国民性を表していると同時に, 号本国民世論の期待がほんの少しの譲 3 0 ) Smith,0ρ.c i t p.264. 3 1 ) 30PHH,ma .M : J I C e ,CTp. 7 4 . 33) こ の 馬 面 を 詣 擁 し た も の に , 中 西 治 t3ソ持、業交渉と日本の世論 J , [f冨際問題 1 (No. 4 1, 1 9 7 7, 10見 ) , p p . 15-29 がある。 34) [f朝日新聞j] 1 9 7 6 .1 2 .1 2 . 35) lJ読売薪間Jl 1 9 7 7 .4 .1 6 . 9 7 7 .5 .1 6 . 36)I毎日新聞Jl 1 3 7 ) 前掲,中西, p.16; 高田 溝 口 ∞ カ イ リ 戦 争 J l (東京: KKワ ー ル ド フ ォ ト プ レ ス : 1 9 7 7 ),p .272, 叶 r 参照。 38) I b i d .,p . 32; ,[r ]訳 , p.34 か ら 再 引 用 c 95- 汎 木村 歩や妥協さえも許さない重圧となって, 日本の交渉者にのしかかっていることを表してい r われわれが帰 9 2 1 2年 開 催 の ワ シ ン ト ン 軍 縮 会 議 の 最 中 の 日 本 全 権 加 藤 友 三 郎 は . るo 1 国するときは, られ. 譲歩しすぎたといって皆から非難されるだろうなあ」紛と洩らしたと伝え 7 7年 の 日 ソ 漁 業 交 渉 に お い て も 全 権 鈴 木 善 幸 農 相 は , 向 撲 に 最 後 は オ レ が 責 め を 負 わ な き ゃ な ら ん だ ろ う な J403, と 語 っ た と い わ れ る O 要するに, ても, 半世紀におよぶ待問を経 日本人は,交渉に“ギブ・アンド・テイク"はっきものという考えに未だ習熟して いないように見受けられるのである。否,自らは,容易に譲歩しないにもかかわらず,他 者は譲歩して当然、という考えすら B本 人 に は 晃 う け ら れ る の で あ る 。 つ ま り , 初 代 註 日 米 国領事タウンゼント・ハリスが一世紀誌に日記に記したという, 認したりすればするほど, r こちらが譲歩したり黙 呂本人はのしかかってくる j4t}とし寸評言が, 未だ B本 人 に 該 当するようなのである O 第三に,突渉において必ずしも雄弁を重己な¥, ¥ )去においても, っている。 吉本人は, 呂本人が岳らの言語的才能に自信がない紛のみならず, ソ連と似かよ r 言語的才能にたいす n o n v e r b a l ) コミュニ る ハ ッ キ リ と し た 不 信 感 を も ち j43), 誠 意 , 接 芸 と い っ た 非 言 語 的 ( ケーションを重視する一般的額向がある紛ことを,ライシャワー教授は,つぎのように説 明している。 r s本 人 は “ 腹 芸 η とし、う表現を用意、している。つまち, はっきりとした形での口頭に よる相互関保にかわって,“震と腹"がぶつかちあうというのである。彼らは, 口舌の 才を明白に卑しめる。人間の内なる,いわくし叫、がたい患いは,非言語的手段ないしは お互いにうなずきあう関係の中ではじめて交しあえるので,言語による意志疎通など, し ょ せ ん は 薄 ぺ ら な も の に す ぎ な い , と い う の が 後 ら の 考 え 方 な の で あ る j4:))O 7 7年の対ソ換業交渉において,鈴木全権や園田特使が,誠心誠意あるいは仁争、心あれば, 水心」の意心伝心スタイルの腹芸外交を展開したことは,既述した ( 7 4 " ' 7 5ページ〉。 最後に,交渉妥結方式にみられる日ソの対称性を考察したし、。上にのべたとおり, 自ソ 両雪民が,交渉を“ギプ・アンド・テイク"の精神にもとづく相互利益の調整と捉える習 環に未だ十分噴れ親しまず,自己の正当なる利益の貫徹を目ざす闘争ないし戦争と考えが ちであるとすると, 日ソ交渉は,最後まで,妥結しないこととなる。事実,両国の非妥協 的な態度のために. sソ関には, 結されていず, 漁業交渉は, 戦争状態が終結して 3 0年を経ても, 未だ平和条約が締 しばしば「吉日交渉J46)となる。にもかかわらず, 日ソ両国 とて,終局的には,なんらかの妥協によち交渉を終結する必要がある。妥協をしたことを 3 9 )I b i d .,p . 33; 同訳, p.35. 4 0 ) !f夕刊フジj] 1 9 7 7 .3 .1 . 41) Blaker,p .x i i ; 同訳, p.3 か ら 再 引 用 。 4 2 ) Reichauer,o p .c i t .,p .386; 同訳, p.385. 43) I b i d .,p . 226; 同訳, p . 231 . 44) I b i d .,p . 136,p .2 2 6 .p .386; 悶訳, p . 139,231,3 8 5 . b i d .,p . 136; 同訳, p p .1 3 9 1 4 0 . 45) I , 1958年 一99日間. 1959年 -122B間 , 1960年 一 113日間続いた日ソ 46) たとえば. 1957年 一56B間 漁業は,ふつう「百日交渉 j といわれ,長期 f とする。 F 世界選報j] (V 01 .42,No.3,1961 .1 .1 7号 〉 p.43参照。 - 96- 漁業交渉 (1977年春〉にみられる 5 ・ソの交渉行動議式 見せることなく妥協するために日ソがしばしば訴える解決法のひとつが,いわゆる“玉虫 色"的解決法であるO つまり,意図的に模然とした蜜数の解釈を許す協定条文をつくり, 双方が主観的満足をうる方法であるO もちろん,これに全く同様ないし類似したテクニッ クは, 日ソ両国以外の聞にも用いられる紛。グレイ・ゾーンの許容は,その好例であるO しかし, 上にのべてきたことから, 日ソ間には,“玉虫色"式解決がもっとも愛用される 特別の事由があるといわおばならなし、。 “玉虫邑"的解決法のもっとも古典的な例は, 1 9 7 3年 1 0月 の 田 中 角 栄 首 相 ( 当 時 ) の 訪 ソのさいに締結された日ソ共同コミュニケ中の次の一節とされている。「双方は, 第二次 大戦の時からの未解決の諸問題を解決して平和条約を締結することが,両国間の真の善隣 友好関認の確立に寄与するということを認識し,平和条約の内容に関する諸問題について 交 渉 し た J48)。 こ の く だ り に お け る 「 未 解 決 の 諸 問 題 」 の な か に , 日本側は, I 領土」問題 がとうぜ、ん含まれると解する 49) の に 対 L. ソ 連 側 は 含 ま れ た L、と解釈している ;'0) の で あ 1 9 7 7年 の 漁 業 交 渉 に お い て も 結 局 , 自ソ両国は, 一 種 “ 玉 虫 色 " 的 解 決 に 訴 え る 方 法を選んだと考えてよいだろう;'1)0 1 9 7 7年 5月 2 4自 に 締 結 さ れ た 日 ソ 漁 業 暫 定 協 定 の 第 る。 八条がそうである。 「この協定のいかなる規定らー…・梧互の関係における諸問題にかんする,いずれの立場 叉 は 見 解 を 害 す る も の と み な し て は な ら な いo J "め つ ま り , 同 条 文 中 の 「 相 互 関 係 に お け る 種 々 の 諸 問 題j としづ漠然たる表現は, 日本側に は , 1 預土」問題を含包すると解釈され, そもそも ヨソ間には「領土問題」なるものが, 存在しないとしサ立場のソ連側には,含まないと理解されたのである。このように同協定 の適用範囲を漁業開逼に限定することによって, 日ソ両国は, 90B間 も 両 国 を 振 り ま わ し 4 7 ) たとえば, 1955年のジュネーブ声暁, 1973年の SALT1 ,1977年の日米漁業交渉, 1978年の米中 正常化, 1978年の日中平和友好条約締結, 1978年の呂米通詞交渉におレて,異なる解釈を可能とす る模然たる規定が含まれていた。 Khrushchev Remembers (Boston: Little,Brown and Com9 7 0 ),p .4 Whelan,0ρ. c i t .,p .4 89;r i朝日新国Jl 1977.3.3; The Viashington Post pany,1 ( January 1 4,1 9 7 8 ) ; IAPN ニュース J( 19 7 7 .9 .2 8 ) ; Time(December 2 5 ) . 封内広報課, 4 8 ) flpaBda (11 OKT兄6p兄 1973); ¥rわれらの北方領土Jl(東京:外務省,情報交化局. l 1 9 7 8 ) .p .4 4 . 4 9 ) (日本〉外務省の同会見にたち会った者の証言によれば, ブレジネフ書記長は, 田中苔桓(当時〕 との会談中,領土問題が{未解決の問題」に含まれることについての,二度にわたる宮本倶!の確認 にたい L .1 t定的に答えたことは,間違いないと Lヴ。 50) ブレジネフは, 1977年 6月 7f:l,秦正流朝日新開専務のインタピュー中で, I 両国間の関係、に, な にか『未解決の領土問題』があるというのは一方的で正しくない解釈である j,と述べた。刀' p a8da ( 7Hぬ日仏 1 9 7 7 ) . 51) 鈴木農相は, r く 4月 )11 f : l の 第 2次会談に諒むにあたって,わざわざ“玉虫色"のネクタイに替え j . 「ネクタイを鞠のところでとラヒラさせながら『なんとか〈水域の鰻引き問題を〉領土のにおいを かくしながら,玉虫色の決着をつける願いをこめた J と語った j . 大沼, 言 I i 掲 F エコノミスト』誌 上,論文, pp. 2 9 3 0 . 『読売新聞』袴田モスクワ特派員によれば, I同農相は,交渉大詰めの 4月 1 3 . 14日の会談 t こ , 縁起をかついで,玉虫色のネクタイを結んで,外捗に臨んだ j とLづ o !r読売新聞j¥. 1 9 7 7 .4 .1 6 . 5 2 ) Ir毎日新開Jl 1 9 7 7 .5 . 20; Ir朝臼新開Jl 1 9 7 7 .5 .2 6 . 5 3 )r !R ソ漁業暫定協定Jl(東京:外務省,情報文化局,詞際広報課. 1977),p .33 ∞ - 97- 木村 汎 た 領 土 問 題 を な ん と か 「 す り 抜 けJ54入 交 渉 の 妥 結 に 到 達 し た の で あ っ た 。 Sovlet and Japanese Negotiating Behavior: The SprIng 1 977 Fisheries Talks発 Hiroshi Kimura h e r i e sn e g o t i a t i o n s, conductedmainlyi nMoscow Thespring1977Soviet-Japanese五s fromFebruaryt oMay,turnedout t o be one o f the most p r o t r a c t e d( n i n e t yd a y s ), heated,andd i 伍c u l tb i l a t e r a lt a l k si n the postwar h i s t o r yo f the two p a r t i c i p a t i n g h e r i e sr i g h t s between the world's s t a t e s . 1 t wasabove a l l an economic b a t t l ef o r 五s two top-ranking f i s h i n gn a t i o n s . The two r i v a l sfoundi tnecessary t omake up f o r t h a teachhadsuddenlyl o s ti n other 五shingareas when s e v e r a l maritime the五shcatch, a u t i c a l m i l eexclusive 五shingz o n e . To make matters worse, c o u n t r i e sadopteda 200n ・ therewasa l s othed i s p u t e - underthes u r f a c e, yeteverpresent一一 overthe “ Northern o make both s i d e si n 丑e x i b l eand uncompromising. T e r r i t o r i e s "question,helping t I t seemedimpossible t odraw a demarcation l i n ef o r 五shing without c r e a t i n g problems r e l a t e dt ot e r r i t o r i a l boundaries. 1n f a c t,the Soviet and the Japanese 200-mile zones both i n c l u d e waters surrounding the four i s l a n d s north o f Hokkaido,whose ownership i sh o t l yc o n t e s t e d . i証erences and s i m i l a r i t i e si n“ n a t i o n a l Moreover,d c h a r a c t e r "- c u l t u r a l l yconditioned p a t t e r n so fbehaviorand thought- playedal a r g e r o l ei n making then e g o t i a t i o n san unnecessarily prolonged and exasperating a旺aIr . The五r s tand secondf a c t o r sare ratherwell knownand e a s i l l y understood,but t h i s l a s t element has receivedmuch l e s sp u b l i c i t yand emphasis. Consequently,i ti s the c u l t u r a la s p e c tt h a ts h a l l deanalyzed h e r e . 1 Asymmetries s o l a t e three sharply c o n Throughout the Soviet-Japanese n e g o t i a t i o n s,one can i t r a s t i n ga s p e c t so f the two p a r t i e s ' behavior: ( 1 )t h e i rb a s i ca t t i t u d e toward the t a l k s, ( 2 )t h et a c t i c sandinstruments employed,and ( 3 ) the behavioraltatternduring the e n t i r en e g o t i a t i o np r o c e s s . 5 4 ) 米爵, 茜 独 の Bソ 専 門 家 は , と も に 日 ソ 再 冨 が , 吾 ソ 漁 業 暫 定 協 定 で 領 土 問 題 を , 1"妥協 j により (compromise)1"すり抜けた J( s i d e s t e p ) としている。 PeggyL. Falkenheim,“ SomeDeterming F a c t o r si nS o v i e t J a p a n e s e1 ミ e l a t i o n s, "P a c i f i cA / : a i r s(Vol .5 0 ,N o.4,Winter 1 9 7 7 7 8 ),p . 6 1 4 ;A h r e n s T h i e l e, “J a p a n e s e S o v i e tF i s h e r yAgreement, "R adioL i b e r t yResearchB u l l e t i n ( N o .1 2 7 / 1 7 7 .問 a y2 7,1 9 7 7 ) ,p .4 . 卦 Theo r i g i n a lv e r s i o ni nE n g l i s hl a n g u a g eo ft h i sp a p e rw i l la p p e a ri nt h ef o r t h c o m i n g .2 4,No.1 ,S p r i n g,1 9 8 0 )o fORBIS:. ; o u r n a lofs γo r l dA / f a i r s . i s s u e( v ol - 98- 滋業交渉(1977年春〉にみられる日・ソの交渉行動様式 ( 1 ) “ Nego 主i ationfrom Weakness" v s .“ Negotiation from Streng 品" ln 1977,the Japanese s i d en e g o t i a t e d from a p e c u l i a rp o s i t i o no f weakness, whereas theS o v i e t sc o n s t a n t l ypursuedt h e i ro b j e c t i v e s from a p o s i t i o no fs t r e n g t h . Tokyo's methodo fn e g o t i a t i n g,i nf a c t,was l a b e l e d by the Japanese p r e s sa tt h a t time“ ap e t i t i o no r beggar diplomacy, " while the Soviets pursued “ diplomacy by i nt i m i d at i o n . " l t should be notedhere t h a t Japan perceived i t s e l fa sav i c t i mo fs e l五shness on thep a r to fmaritime superpowers ( t h e United S t a t e s,the USSI , ミ andCanada) that wanted t ogain e x c l u s i v ec o n t r o lo f waters i nt h e i r proximity by u n i l a t e r a l l ye s t a b l i s h i n g 200-mile f i s h i n g zones- withoutwaitngf o r the conclusion o ft h e Third United NationsConference on the Law o fthe S e a . The Japanese p e r c e p t i o no f the S o v i e tp o s i t i o n on 五shingwas notcompletely f a i ro rw e l l b a l a n c e d . l twasnotJapan, butr a t h e r theUSSR,t h a t was most severely h i tbyt h ewaveo f2 0 0 m i l ezoneclaimed by variousc o u n t r i e si nl a t e 1976and e a r l y1 9 7 7 . While i n 1976 the Japanesec a t c h within those 200 ・m ilezonesc o n s t i t u t e dsome 3 6 . 5 per cent o fi t st o t a l( 9 . 6m i l l i o n fthe S o v i e tt o t a l( 9 millon t o n s ) was a妊e c t e d . t o n s ),more than 60 percent o This o t a l l yd i s r e g a r d e d . f a c t received l i t t l ea t t e n t i o ni n Japan and,indeed,was almost t Wh a twas s t r e s s e d was t h a t on t h eb i l a t e r a l( S o v i e t J a p a n e s e )l e v e l,i t was not the S o v i e t Union,but Japan,t h a t would su百e rthemost s e r i o u s damage from the impos it i o no f200・milez o n e s . I twaspointed out t h a t,whilethe USSRhadbeen t a k i n g 500-600 thousandt o n so ff i s hwithin J a p a n ' s 200-milezone,J a p a n ' sc a t c h within the S o v i e tzone was twice t h a tamount ( i .e .,1 .22 m i l l i o nt o n s )- o r nearly t h r e e times a s muchi ft he waters around the disputed i s l a n d s were i n c l u d e d . ti sn a t u r a lf o ra n e g o t i a t o rt omanipulate Non e g o t i a t o r can be p e r f e c t l yf a i r . I the f a c t st oh i sownadvantage, s t r e s s i n gc e r t a i na s p e c t sandneglectingo t h e r s . Granted ti ss t i l lo fI n t e r e s tt o know why the Japanese t h i s general p r i n c i p l eo fn e g o t i a t i o n s,i s i d e tended t o,or pretendedt o,perceive o fi t s e l fa s the weaker partner,while the S o v i e t si n s i s t e d on regarding themselves a s the stronger o n e . One reason the o n s c i o u s l y or otherwise,seems t o be a Japanese c o n v i c t i o n Japanese s obehaved,c low pro五l e "( p o s i n ga sv i c t i m ) might workt ot h e i radvantage. t h a t the“ theconcepto fh i g a i s h a i s h i k i As Professor T. Doi has pointedoutmoste l e g a n t l y, “ {sense o fbeing v i c t i m i z e d " )c l e a r l yd e r i v e s from the unique psychology o f amae “ 〈dependenceupon the leniencyo fo t h e r s " )i n the Japanese m e n t a l i t y . More s p e - c i f i c a l l y,those whoare t o t a l l y engrossed i n amae develop an a t t i t u d eo fh i g a i s h a - i s h i k iwhen theyf e e lr e j e c t e d . lnessence,amaer e f e r st othea t t i t u d eande x p e c t a t i o n o fthe i n f e r i o ro r weaker p a r t yi na r e l a t i o n s h i p with,or a de 99 木村 汎 theweakerp a r t y, andf a v o rh i r nwithoutdernandinga r e c i p r o c a lo b l i g a t i o n, s i n c et h e s t r o n gcana旺ordt obegenerous,whilet h eweakcannot . Whata t t i t u d e sd i dtheS o v i e t sd i s p l a yi nt h e 1977n e g o t i a t i o n s?τhef o r e r n o s t f e a t u r eo fSo v i e tn e g o t i a t i n g behaviori n 1977wasana r r o g a n ta t t i t u d eo fs u p e r i o r i t y towardJapan.τhough t h eS o v i e t Union,second only t o Japan i nd i s t a n t w a t e r n u s thavebeenawaret h a tt h enewr e s t r i c t i o n sonf i s h i n ghurtJapanesej u s t f i s h i n g,r h eS o v i e tn e g o t i a t o r sn o n e t h e l e s s showed a b s o l u t e l y no a stheyhurt t h e USSR,t syrnphathytowardt h eJ a p a n e s e . Theyshowednos i g no funderstanding, f o re x a r n p l e, theJapanesep o s i t i o nt h a ts i n c et h eq u e s t i o n so fl i c e n s e s,f e e s,and l e g a lj u r i s d i c t i o n e s t i o no fJ a p a n ' ss o v e r e i g n t y, Japanesen e g o t i a t o r s couldnot bed i s s o c i a t e df r o r nt h e弓u wouldr e q u i r et h eapprovalo ft h eD i e t . (TheArnerican n e g o t i a t o r s had understood theS o v i e t sc o n s t a n t l y t h i sp o i n tf u l l yanddecidedn o tt op r e s stheJ a p a n e s e . ) lndeed, r e r n i n d e dt h eJapanese s i d eo fS o v i e ts t r e n g t hv i s . ι v i s Japanandsought t ot a k ef u l l advantageo ft h i spurporteds u p e r i o r i t y . h eS o v i e t stookt h ep o s i t i o nt h a tt h e五shingn e g o t i a t i o n s were r n o r e B a s i c a l l y,t h a tt h et a l k sc a r n e about a tt h e necessaryt otheJapanese thant ot h e r n- indeed,t h eS o v i e t st h r e a t e n e dt h eJapanesen e g o t i r e q u e s to fJ a p a n . Usingthes a r n el o g i c,t a t o r s :i ft h et a l k sweret ob e c o r n ep r o t r a c t e d, i twouldbet h eJapanesef i s h e r r n e n, not h a twouldsu 宜e rr n o st . S o v i e t s,t Takingf u l ladvantageo ft h ef a c tt h a tJ a p a n ' s need t oo p e r a t e a 五shing f l e e t withintheS o v i e t2 0 0 r n i l ezonewasg r e a t e rthant h eS o v i e tneedt of i s h within the o v i e tr e p r e s e n t a t i v e s dernanded t h a tf i s h i n gv e s s e l so ft h eS o v i e t Japanesezone,S Union beallowedt o五shevenc l o s e r- withinJ a p a n ' s12・r n i l et e r r i t o r i a lzone. Tokyo a l l i n gi tt o t a l l yunreasonableandwithoutp r e c e d e n t . r e j e c t e dt h edernand,c S o v i e thigh-handedness toward t h e Japanese i si l l u s t r a t e d,a l s o,by t h e i r bad r n a n n e r s,which ignored g e n e r a l l ya c c e p t e dd i p l o r n a t i cr u l e s and c u s t o r n e s . The a u t i c a l r n i l ef i s h i n g S o v i e t su n i l a t e r a l l yp r o r n u l g a t e dt h e i r two d e c r e e s on the 200・n zones: theya tf i r s tr e f u s e d and then delayed i s s u i n gv i s a st o Sunao Sonoda,t h e oo t h e rr n e r n b e r so ft h e s p e c i a lenvoyd e s i g n a t e dbyP r i r n eM i n i s t e rFukuda,and t ヨuently,veryoftena tt h el a s tr n i n u t e,went back on Japanesed e l e g a t i o n ;Theyf r e mutuallya c c e p t e dagreementsandwordings. ( 2 ) Otherexamplesaboun “ Non-tactics"v s .“ EveryAv a i l a h l e翠 eans" Alsos i g n i f i c a n tduringthe 1977n e g o t i a t i o n swas t h ed i 査e rence i nt a c t i c s used byeachs i d e . WhereastheJapaneser e j e c t e dr n a n i p u l a t i v et a c t i c sa sunnecessaryo r evenc o u n t e r p r o d u c t i v e,t h eSo v i e t sr n a d ef u l l useo feveryp o s s i b l ed e v i c et h a tr n i g h t helpt oachievet h e i rgoal . Generallyspeaking,t h e Japaneseares e n s i t i v et oa c e r t a i nMachiavellianc o n n o - ∞- -1 漁業交捗 ( 1 9 7 7年春〉にみられる日・ソの交渉行動様式 t a t i o na t t a c h e dt ot h eterm“ t a c t i c s "andt oo t h e rterminology,f a m i l i a ri nthe West, such 部 as “ m n 宝a neuveri 泊 E n 1 g & , J ラ , “ 勺le 河 verag , 鳥 eJ , f " , “ma剖 n 1 札 i 恒 pul 託 at i ぬ On , , f " , mean,o fcourse,t h a tt h e Japanesecompletelyr e j e c tt h e concept o ft a c t i c si ni t s e l f ordenyt h e i ru s e f u l n e s sa s a means t o achieve o b j e c t i v e s,a s we s h a l ls e e . 1 t h a tJapaneseare弓u it es k e p t i c a lo ft h ee 笠e c t iveness o ft a c t i c s doesimply,though,t employedi nn e g o t i a t i o n,e s p e c i a l l yt h o s eo fa manipulativekind,whicha r eperceived ,dangerous,oreven self-defeating. DuringtheSoviet-Japanese五sheriestalks a sr i s k y o f 1977,t h ev o i c ewasf r e q u e n t l yheardont h eJapanese s i d et h a tJapand i dnothave anycardt op l a ya g a i n s tt h eS o v i e tUnion. TheJapanesep r e j u d i c ea g a i n s tt h e use o ft a c t i c si sa tl e a s tp a r t i a l l y derived froma c o n v i c t i o nt h a twhent h e i rdemands are proper and r e a s o n a b l e,they should beacceptedbyt h eo t h e rs i d ewithoutanyneedt or e s o r tt ot a c t i c s . 1no t h e rwords, few Japanese understandverywell t h a t diplomacy and n e g o t i a t i o na r e not matter o fgoodw i l lo rgoodi n t e n t I o n s . TheJapanese n e g o t i a t o r ' sconcern,then,i st ol e t t h eo t h e rp a r t yi nthen e g o t i a t i o n sknowe x a c t l ywhere t h e Japanese s t a n d ;i tb o i l s down simplyt oa t e c h n i c a lmattero fa c c u r a t et r a n s l a t i o nandt r a n s m i s s i o n . Japanesearea l s oq u i t eo p t i m i s t i c( o rn a i v e ) on t h e matter o f communication, holding t h eviewt h a to n e ' st r u ei n t e n t i o n scan e v e n t u a l l y be c o r r e c t l y conveyed i f onei sreadyt omake everyp o s s i b l ee妊o r tt oe x p l a i no n e ' sp o s i t i o ns i n c e r e l y, p a t i e n t l y, andp e r s i s t e n t l y . The Japanesedonot p e r c e i v e language and o t h e rc r o s s c u l t u r a l 宜e rencesa sverys e r i o u so b s t a c l e s . ManyJapanese b e l i e v et h a tsuchb a r r i e r smust d i bes c a l e d,andw i l l be s c a l e d,i ft h en e g o t i a t o r st r y hard ehough and t a l kf r a n k l y with t h e i rc o u n t e r p a r t s . 1n i n t e r v i e w s given b e f o r et h e i r departure from Tokyo, MessersSuzukiandSonoda: “ Ishkovand1a r eo l df r i e n d s . Hew i l ls u r e l yunderstand J a p a n ' sp o s i t i o ni fwe t a l kt oeacho t h e rs t r a i g h tfromt h es h o u l d e r . " In p r a c t i c e,though,whetherc o n s c i o u s l yo ru n w i t t i n g l y, t h eJapaneseundoubtedly doemployt a c t i c s . Otherwisetheycouldnoteverw i n . T a c t i c s are necessary i n n e g o t i a t i o n s ;andi fonei sattempting t oc a r r youta s p e c i f i cp o l i c y or s t r a t e g i co b j e c t i v e,t h ec h o i c eo ft a t i c smaybe t h ec r i t i c a lv a r i a b l e . Yet,evenhereoned i s c e r n s a uniquenessi nt h e kindo ft a c t i c s favored by t -101- 木村 汎 AsahiShimbun:“ Theree x i s t sa Japanesen a t i o n a lf e e l i n gi nJapan,a st h e r ee x i s t s aS o v i e tn a t i o n a lf e e l i n gi nt h e USSR. I fwebadlyhurteachother'snationalfeeling, wecannotp o s s i b l ye s t a b l i s h genuine good-neighborly and f r i e n d l yr e l a t i o n s . The S o v i e td e c i s i o nona2 0 0 m i l ee x c l u s i v ef i s h i n gzonewouldi n f l i c tal o n g l a s t i n gi n j u r y h eS o v i e t st h i n ko f ,and t ot h eh e a r to ft h e Japanesepeople… W e wonder what t h i ss p i r i t u a ldamagebroughtt obearont h eJapanese?" how theye v a l u a t e,t v i e tn e g o t i a t o r st o applyt h e i rownp e c u l i a rkindo ft a c t i c s, OnemightexpectSo q u i t ed i f f e r e n tfromt h o s eemployedbyt h e i rWesternc o u n t e r p a r t s . This i snott h e t h o d sa st h o s ep r a c t i c e dbyWestern c a s e . TheS o v i e t susemoreo rl e s st h e same訟 e d i p l o m a t s, t h er e a ld i f f e r e n c ebeingt h a tt h ef o 主m eremployt h e s et e c h n i q u e sm e t h o d i c a l l y andr e g u l a r l y,whilet h el a t t e rusethemu n s y s t e m a t i c a l l yandi n f r e q u e n t l y . To put h e So v i e t sa r e ready t ou t i l i z e every p o s s i b l e means a v a i l a b l eo f i tantherway,t h e i rc o u n t e r p a r t si nt h e Westa r eno t . a c h i e v i n gt h e i rg o a l,whereas t S t i l l,t h e r ea r ec e r t a i nt a c t i c sandgambitsf o rwhicht h eS o v i e t s seem t o have as p e c i a lfondnessandwhichtheyuse withg r e a t e rfrequencythan they use o t h e r s . B l u f f i n g- t h a ti s,t h et h r e a to rd i s p l a yo ff o r c e- i sone o ft h e s e . The S o v i e t s seemt obef a s c i n a t e dbyt h i st a c t i c,eveni ni t sb r u t a lfrom,untouched by shame o r t appears t o them t o be t h e most s u c c e s s f u l means o f remorse,simply because i a c h i e v i n gt h e i re n d s . v i e t s,i nf a c t,madef u l l useo ft h a tt a c t i c throughout TheSo h e r i e sn e g o t i a t i o n swithJ a p a n . 1 twas s l s oduring t h o s en e g o t i a t i o n st h a t t h e 1977五s Kosyginsuggestedt oSonoda t h a tS o v i e tr e l a t i o n s with Finland were a q u i t ea p p r o p r i a t e example f o rJ a p a n . The i m p l i c a t i o n was blunt and c l e a r :t h eS o v i e t s expectedJapant of o l l o wan e u t r a lp o l i c yandt od e f e rt ot h e USSR,bothi nf o r e i g n 旺a i r s,i nt h e samewayt h eFinlandhas been doing s i n c et h e end o f anddomestica WorldWar I I . Anotherf a v o r i t eS o v i e tt a c t i c a lweaponhas beent h ee琵c i e n tuseo ft imeduring t h en e g o t i a t i o np r o c e s s . Observerssometimes wonder whether t h e Russians have ad i f f e r e n tconcepto ftimefrom t h a tp r e v a i l i n gi n Japan and t h e West. During t h e 1977五s h e r i e st a l k s,t h eS o v i e t st r i e dhardt oe x p l o i tt h ec h a r a c t e r i s t i ci m p a t i e n c e o ft h eJapanesepeoplewithcompletinga t a s konce i t has been i d e n t i f i e d . t h i r droundo ft h eSuzuki-Ishkovt a l k s,i nA p r i l 1977,t h e Japanese -102- 1nt h e 漁業交渉(19 77年春〉にみられる日・ソの交渉行動様式 z o n e . Another t a c t i c a linstrumentt h a tt h eS o v i e t shavealmost never f a i l e dt o apply i v i d eandc o n q u e r . i nt h e i rn e g o t i a t i o n si st h a to fd This S o v i e tt a c t i co fd i v i d e 司u er may be p r o f i t a b l yc o n t r a s t e d with t h e Japanese n o t i o n o f n a t i o n a l and con s o l i d a r i t y . t h ep r o p a g a n d i s tb a l l y h o oi nt h ep r e s s The S o v i e t shaves t r e s s e dt h a t“ e r t a i nT o k y o戸o l i t i c a lc i r c l e sovertheSoviet-Japanese五sheriest a l k sn a t u r a l l y andi nc c t sn e i t h e rt h et r u ei n t e r e s t so ft h e]a ρa n e s ep e o p l enorther e a lf e e l i n go fb r o a d r e註e s t r a t aoft h eJa 戸a n e s e戸u b l i c . " ( 3 ) Reactivev s .I n i t i a t o r yBehavior There i sa g r e a td i f f e r e n c ebetween t h eS o v i e t s and t h e Japanese i nt h e way t h e yproceedwithn e g o t i a t i o n sonce underway. TheS o v i e t so f t e ns t a r tbylaunching n s i v ea c t i o n ; then theytend t or e t r e a tg r a d u a l l yi nt h ef a c eo fs t r o n g as t r o n g0宜e r e q u e n t l yending up with what amounts t o being a r e s i s t e n c e byt h eo t h e rs i d e,f h eo t h e rhand,f o l l o walmostt h eo p p o s i t e s u b s t a n t i a lcompromise. The Japanese,on t n i t e themselves slowly,andthenmanage b e h a v i o r a lp a t t e r n . Theys t a r tr e a c t i v e l y,u . t h ec r i s i sf a i r l ywell When t h e USSRd e c l a r e di t szonei n December1976,t h eJapanesewereshocked byt h enews. r ea n a t i o nt h a tdoes i t s utmostt os o l v ea TheJapanese,however,a h a tproblemi sf a c e d . problem,once t Masao Ma ruyama was q u i t er i g h t when he g o a l a c h i e v i n gn a t i o n "r a t h e rthana“ g o a l s e t t i n gn a t i o n . " d e s c r i b e dt h eJapanesea sa“ open s o c i e t y, " Japanenjoys an advantage that the Soviet Union does not Asan“ h a v e . o ri n s t a n c e,can apprehend 弓u i c k l y and c o r r e c t l yt h e The Japanesep u b l i c,f s i t u a t i o nf a c i n g them. Thiskindo fgradual and f r e el e a r n i n gp r o c e s s among t h e Japanesec u l m i n a t e sn o ti n f r e q u e n t l yi nn a t i o n a l unanimityandu n i t y . I t would be f1d i dnotaddone 五n a lJapanesec h a r a c t e r i s t i c : Once n e g o t i a t i o n s r e m i s s,however,i h eJapanesetendt of o r g e tq u i c k l yt h o s ev a l u a b l el e s s o n st h a tt h e y were a r eover,t h e ytendt obecomepreoccupiedwitht h enewest p a i df o ra tsuchhighc o s t . I n s t e a d,t e a v i n g themselves unprepared f o rt h e next t a s k s immediatelya thand,onceagain l r o u n d . h eS o v i e t s Inc o n t r a s tt ot h e Japanese tendencyt os e e harmonya st h e norm,t 缶c u l tt oc a r r y seemt op e r c e i v ec o n s t a n ts t r u g g l ea sab a s i cf a c to fl i f e . I ti snotd i t h i sl o g i ca l i t t l ef u r t h e rt o suggest t h a tt h e Russian st h eb e s td e f e n s e . S o v i e t st h ata good0宜ensei 時r e l t a n s c h a u u n g teaches t h e lndeed,t h eS o v i e t s tendt oi n i t i a t e 1 a t e r a ls u r p r i s ea t t a c k sa g a i n s t competing s t a t e s,e s p e c i a l l y weaker o n e s . uni The n s i v ei st od i s o r i e n tt h eopponent,t oi n t i m i d a t ehim, and, through purposeo fsuchan0宜e f a i ta c c o m p l i,t oe x t r a c tt h e maximumadvantagea tt h el o w e s tp o s s i b l ep r i c e . In n s i v ea c t i o n s . 1977t h e USSRs u r p r i s e d Japan s e v e r a lt i m e s with i t su n i l a t e r a l 0百e -103- 木村 汎 Whatb e t t e rexample thant h eabruptannouncement on February 24,1977,o f the Councilo fM i n i s t e r sr e s o l u t i o n ? Announcedonly f o u r days b e f o r et h e scheduled a r r i v a li nMoscowo ft h eSuzukid e l e g a t i o n,the r e s o l u t i o n was a c a l c u l a t e dS o v i e t ostrengthentheS o v i e tp o s i t i o nv i s ・ 主v i sJapan and t of o r c e Tokyo move,intendedt t on e g o t i a t ewithMoscowont h eb a s i so ft h i sf a i ta c c o m P l i . Withouta doubt,theb e s tp o s s i b l ep r o t e c t i o ni n such i n s t a n c e si s sound p r e p a r e d n e s s . y i e l d i n g . E a s i e rs a i dthand o n e . Thenextb e s tdefensei st o show no s i g no f n i t i a ls t a n c eappearsveryf I rm- evenf I n a l- buti t must be True,thei rea 1 i zedt h a tt h eS o v i e t s are t r y i n gt o measure t h e opponen t 's d etermination and p a t i e n c eandt oa s c e r t a i nthee x a c tp o i n ta t which a r e a l 五ght becomes i n e v i t a b l e . P r a c t i c a l 1 y speaking,thec o n c e p t so f“ compromise"or “ c o n c e s s i o n s " do not e x i s ti n t h eS o v i e tv o c a b u l a r y . Yet,S o v i e th i s t o r yandw r i t i n g sa 1 s or e v e a 1 many c a s e si n whichS o v i e tn e g o t i a t o r shaves u b s t a n t i a l l ya l t e r e dt h e i ro r i g i n a lp o s i t i o n s and have enteredi n t ot h ea d j u s t i v eandaccommodatoryp r o c e s so fcompromise. Theimportant nlyat t h i n gt orememberherei st h a tt h eS o v i e t smakecompromisesorc o n c e s s i o n s,o oconcludet h a tt h e r eI snoa l t e r n a t i v et ocompromise. t h el a s tmoment,whenforcedt 1n 1977,the S o v i e t s decided t oa c c e p t a compromise only when t h et o p po1 it i c a l r e a t e such a d i 伍c u l t l e a d e ri nt h e Kremlin r e a l i z e dt h a t,otherwise,they might c s i t u a t i o nt h a tthee n t i r e Japanesen a t i o nwouldadoptani r r e v e r s i b l ea n t i S o v i e ts t a n c e . h e i re a r l i e r demand t h a tS o v i e tf Is hing Consequently,theUSSRgave ground on t f l e e t sbeallowedt oo p e r a t e within J a p a n ' s 12・mile t e r r i t o r i a 1w a t e r s . They a 1 s o y i e 1 d e d,somewhatt othes u r p r i s eo ftheJapanese r e p r e s e n t a t i v e s,t oJ a p a n ' sr e q u e s t 笠e c tt h a tt h et r e a t yi s only a f i s h i n g agreement and f o ras p e c i a lp r o v i s i o nt ot h ee wouldhavenobearingono t h e ri s s u e sbetween t h eS o v i e t Union and J a p a n . t h eJapanese,t h eamendmentwasa s i g n i f i c a n tc o n c e s s i o n . To F i n a l l y,i nc o n t r a s tt o f o r g e t f u l n e s s "a f t e rt h e event,t h eS o v i e t sd i d not by any means t h i n k Japanese“ t h a t the agreementwith whichthe 1977n e g o t i a t i o n s culminated meant an end t o the s t r u g g l ef o rt h e i rb e s tI n t e r e s t s . Theywil 1c ontInue t of i g h t by searching f o r o p p o r t u n i t i e st oa l t e rt h eagreementor t omakei ta deadl e t t e r . 1 1 Symmetries: Non-Western “ Rule of the Game" Japan and t h eS o v i e t Union a l s o share s i m i l a ra t t i t u d e s and behavior with r e s p e c tt on e g o t i a t i o n s . 1w i l ll i m i tmyselft oj u s tafewo fthem. e i t h e rS o v i e tnorJapanesen e g o t i a t o r sa r en e c e s s a r i l yi n c l i n e dt o F i r s to fa 1 1,n p e r c e i v et h eo t h e rp a r t ya sanequa l . Yet,t on e g o t i a t ea se q u a l si s a fundamental s t a r t i n gp o i n ti nt h e Western concept o fn e g o t i a t i o n . As has been most c l e a r l y shownbyJapaneseP r o f e s s o rChieNakanei n her book ]a j う a n e s eS o c i e t y,Japanese aremostaccustomedt orankotherpeoplea se i t h e rs e n i o r sorj u n i o r s,andonlyvery -104- 漁業交渉(1977年春)にみられる司・ソの交渉行動様式 r a r e l ya se q u a l s . Wheni t comes t odealingwithothern a t i o n si n the i n t e r n a t i o n a l h e Japanese seem t of i n di td i 伍c u l tt of r e e themselves o ft h i s“ ranking arena,t "t o use Nakane's p h r a s e . P r o j e c t i n gt h e i rn a t i o n a ls t r u c t u r eo fhuman consciousness, ロl a t i o n a ls t a g e,the Japanese tend t o regard themselves e i t h e r r e l a t i o n s onto the i n t e e .g .,v i s a v i st h e Westernn a t i o n s and t h e USSR),or a si n f e r i o r,and thus weaker ( a ss u p e r i o r andstronger ( e .g .,v i s ・ 主v i st h e small Asian c o u n t r i e s ) . The Russians o regard o t h e r s,i n d i are a l s oextremelyc o n s c i o u so frank and hierarchy,tending t se i t h e ri n f e r i o r or s u p e r i o rt o them. v i d u a l sandn a t i o n s,a e i t h e rt h eS o v i e t s nor t h e Japaneseshow muchi n t e r e s ti n the g i v e Secondly,n r i m a r i l yEuropean-American,n e g o t i a t i n g and-take bargaining socommoni nWestern,p p r a c t i c e . The S o v i e t sand Japanese tend t ol e tt h e i rdemands or c o n c e s s i o n se s c a l a t e almostwithout l i m i t,depending upon the l e n i e n c y or toughness o ft h eo p p o s i t i o n . s e l y,r e l y i n gonh i s personal experience with S o v i e tn e g o t i a t o r s,t e l l s us P h i l i p対 o t h a tS o v i e tr e p r e s e n t a t i v e s areincredulouswhen t o l dt h a t“ anagreement i s reached i d eg e t si t sf u l lp o s i t i o nand each g e t s throughg i v e a n d t a k eo fviews,bywhich nos ap a r to fi t . " r 1y,Sir WilliamHayter,observing that “ t h e Russians always Simila " adds t h a ti tnever seems t ooccur t o them t h a t“ t h e proper n e g o t i a t ef o rv i c t o r y, o b j e c t i v eo fa n e g o t i a t i o ni s not t od e f e a t your o p p o s i t es i d e but t oa r r i v ea t an . " Nor dothe Japanese seemt o agreementwith i twhich w i l l be mutually b e n e f i c i al have become accustomedt ot h er u l e so fa game t h a twere developed mainly i n the which Westernd i p l o m a t i c world. They tend t operceive n e g o t i a t i o n sa sas o r to fwar, they muste i t h e rwin or l o s e . t does not seemwithout s i g n i f i c a n c et h a t Therefore,i twoo ft h efewJapanesebooks publishedi n1977ont h es u b j e c to fthe S o v i e t J a p a n e s e n e g o t i a t i o n s are e n t i t l e d“ The 200ふ1 i l eFishing 持Tar , "and“The 200-Mile 耳Ta r . " Thirdly,t h eS o v i e t and Japanese approaches toward compromise a r es i m i l a r . Since eachi s 台工nlyconvincedo ft h e righteousness o fh i s own p o s i t i o n,n e i t h e rparty . i s disposed t ocompromise a ta ll In p r a c t i c e,however,theyhave no c h o i c e but t o make a compromise; and a f a v o r i t e technique employed by both i n order t o save f a c ei s what the Japanese c a l lf amamushi-iro,which l i t e r al 1y means an insect, c h r y s o c h r o ae l e g a n c,whose color changes depending on the angle o ft h e obs No p r o v i s i o n s o ft h i s agreement can be construed so a st op r e j u d i c e the fe i t h e r Government… i n regard t ov a r i o u s problems i n mutual p o s i t i o n s …o -105- 木村 汎 r e l a t i o n s . Thusby l i m i t i n ga p p l i c a t i o no ft h eagreement t of i s h e r y problems,both s i d e ss i d e steppedd i 妊e rencesovert h edisputedi s l a n d s . Tosumup,n e i t h e rt h e Japanesenor the Russianpeoplehave y e t adopted t h e Westernn o t i o no fn e g o t i a t i o n,t h er a t i o n a l eo fwhichi s“ accommodation o fcon 丑i c t i n g i n t e r e s t s throughr e a l i z a t i o no facommoni n t e r e s t " basedonthep r i n c i p l eo f“ mutuality a tany l e v el . " This,ofcourse,doesnotmeant h a ttheJapaneseo rt h eRussianway o fn e g o t i a t i n gi sn e c e s s a r i l yi n f e r i o rt ot h e Western approach. would bepremature. Such a c o n c l u s i o n Instead, i tmust bes t r e s s e dt h a tnota few c o u n t r i e si n the wo r 1 d havebeenn e g o t i a t i n g,andw i l lcontinue t odo8 0f o rq u i t e some time,i na d i f f e r e n tway from Western n a t i o n s . I ti simportantt h a tt h e s enon-Westerns o c i o - c u l t u a lp a t t e r n 8 be f u r t h e rs t u d i e dandb e t t e r understood. -106ー