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はじめに 大恐慌と今回の経済危機との間には、相違点が多く、筆者も

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はじめに 大恐慌と今回の経済危機との間には、相違点が多く、筆者も
Takemori Shumpei
はじめに
大恐慌と今回の経済危機との間には、相違点が多く、筆者も両者を比較した論説を何度
か依頼されて、そのたびに頭を抱えることが多かった。第一に、今回のものは、金融危機
としてみれば、大恐慌よりもはるかに深刻である。それはアメリカについてみた場合、金
融機関が負っている債務の対国内総生産(GDP)比が、大恐慌の頃は 20% 強であったのに対
して、2007 年は 120% に上っているという数字からうかがえる。恐慌が進行する過程では、
膨れ上がった債務が縮小するのが普通だ。いわゆるデレバレッジのプロセスが起こるので
ある。GDP 比で 120% にまで膨張した債務が、今後どこまで縮小するのか。考えただけで、
頭の痛い問題である。
第二に、大恐慌における金融危機は、基本的には銀行貸し出しの問題であったが、今回
は複雑に組み立てられた証券が危機の原因となっている。もっとも、今後、金融危機の主
戦場が、東欧、中欧に移行するようであれば、そこでの危機は、より古典的な「銀行危機」
の形態をとるだろう。
第三の相違は、今回の危機はウォール街が編み出した新手の金融商法が根源にあるため
に、危機によって打撃を受け、破綻もしくはその寸前にまで追い込まれたのが、ベアー・
スターンズ、リーマン・ブラザーズ、シティグループなどのアメリカの主要金融機関であ
ったわけだが、大恐慌の時には、主要金融機関の経営破綻はヨーロッパではみられたが、
アメリカではみられなかったということである。
このような大きな相違点があるために、一時は「大恐慌」と今回の危機を比較すること
さえ不適当ではないかと考えた時期もあった。しかし最近、両者をつなぐひとつのテーマ
に気がつき、その問題を熱心に考えているところである。それが本論のテーマ、
「フーヴァ
ー大統領は無能な大統領だったのか」ということなのである。考えてみれば、
「フーヴァー
は無能だった」という「定説」のもつ歴史的な重要性は大きい。彼が「無能」であったと
信じられたからこそ、それまでウォレン・ハーディング、カルヴァン・クーリッジ、ハー
バート・フーヴァーと続いてきた共和党の大統領路線が崩れ、1932 年のフランクリン・ロ
ーズヴェルト(FDR)の勝利以来、ドワイト・アイゼンハワーを除けばジョンソン政権まで
続く、民主党優位の政治体制がアメリカで確立したのである。また、フーヴァーがケイン
ズ的な景気刺激策とは対極にある「清算主義的な政策」をとったために恐慌をひどくした
国際問題 No. 584(2009 年 9 月)● 1
フーヴァーは無能な大統領だったのか―大恐慌から今回の経済危機への教訓
と一般に信じられたからこそ、戦後における「ケインズ経済学」の優位が確立したとも言
える。
しかし、筆者が考えるところ、
「フーヴァーが無能であったかどうか」というこの問題は
なかなか複雑である。それだけではない。今回のサブプライム経済危機の展開によって、
この問題の複雑性がいっそう浮き彫りにされてきた。そして、そのいっそう複雑になって
きた問題を深く検討することにより、今回の経済危機に対して、どのような政策をとった
らよいかという処方箋も浮かび上がってくるのである。まさに、
「現在」が「過去」を照ら
し、そして「過去」がまた「現在」に光を当て返すという、
「歴史」の研究の面白さがそこ
にあるわけである。
1 フーヴァーの「恐慌」認識と対応策
という以上の言葉を前置きにして、まず、大恐慌における経済変動の様子を、アメリカ
のデータをもとに確認してみることにしよう。大恐慌がスタートしたと言われるのは、1929
年であるが、今その年のアメリカの名目国民総生産(GNP)を 100 とした指数をみると、4
年後、つまり 1932 年の指数値は 49.3 である。なんと 4 年間でアメリカの GNP が半分以下に
下がってしまったわけで、凄まじいばかりの恐慌の破壊力である。4 年間の変動も凄いが、
恐慌が深刻化したと言われる 1931 年から経済がボトムに達した 1932 年までの変動がまた凄
い。つまり 1931 年の指数値は 66.3 であったのだ。そこから翌年 50 以下に下がったわけだか
ら、GNP の変化はマイナス 22% ほどになる。1931 年から 32 年にかけてが、まさに恐慌の山
場であったわけである。
さて、ハーバート・フーヴァーの大統領就任期間は、1929 年 3 月から 1933 年 3 月までで、
恐慌の最悪期とぴたりと重なる。就任期間に GNP を半分にしたのだから、無能と言われて
当然、と言ってしまえばそれまでだが、ここでさらに彼が大恐慌に対してどのような政策
をとったのかを、具体的にみることにしよう。
最初に述べたように、フーヴァーについては「清算主義者」という評価が今日でもある。
恐慌が起こったのは、過剰な投資や経済の歪みが原因なのだから、景気対策で恐慌の進行
を止める代わりに、経済の抱える根本問題を「清算」を通じて解消しなければならないと
いうのが「清算主義」の考え方である。当時の経済学者のなかでは、オーストリア学派が
そのような考え方をしていた。また、恐慌発生時にフーヴァー政権の財務長官をしていた
アンドリュー・メロンが同様な考え方をしていたことは、彼の悪名高い発言から明瞭なの
だが、フーヴァーはメロンの提案を完全に退けている。フーヴァーが恐慌についてまった
く異なった意見をもっていたからだ。実は、フーヴァーは、恐慌とは経済における需給バ
ランスの崩壊、すなわち総需要の不足が原因で起こる現象であり、それゆえ恐慌に対して
は公共事業のような景気刺激策が必要だということを完全に理解していた、当時において
は数少ない政治家の一人だった。それゆえ、彼は 1929 年の恐慌の発生と同時に、公共事業
を中心とする景気対策を断固として発動する。
それ以外に彼が何をやったかと言うと、まず悪名高い 1930 年 6 月の「スムート = ホーリー
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フーヴァーは無能な大統領だったのか―大恐慌から今回の経済危機への教訓
法」による関税の大幅な引き上げがある。確かにこれは褒められた政策とは言えない。し
かし大恐慌が関税引き上げ競争によって深刻化したという見解は、今日支持する者が少な
く、大恐慌の深刻化はあくまでも銀行危機が主因であったという見方が標準となっている。
その銀行危機とのかかわりということでは、1931 年 5 月にオーストリアのクレディート・ア
ンシュタルト銀行の経営破綻がきっかけとなって発生した、世界的な銀行危機に対して彼
がとった政策、すなわち1931 年 6 月の「フーヴァー・モラトリアム」が重要である。この政
策は、戦時債務と賠償金支払いの 1 年間の凍結を決めたものであった。政府間債務の絡みで
は、さらに 1932 年 6 月にドイツの賠償金の支払いを大幅に軽減した「ヤング案」を彼はまと
めさせている。
次が最大の問題である。すなわち、フーヴァー大統領は1932年 6 月の「Revenue Act(歳入
法)」によって、大幅増税をこの年に導入したのだ。税率の引き上げには累進性があるが、
最高所得層については 50% という、かなりの引き上げに上っている。さらに、13.75% とい
う法人税も、この時に導入されている。1931 年から 32 年という、GNP が一気に 20% も下降
する時期に、これだけの大増税を導入したのだから、
「無能と言われて当然」
、まあそのよう
な結論を逃れられないと思うかもしれない。問題は、なぜ、彼が大増税をこの時期に導入
したかである。その理由は、上に述べた、前年、1931 年の 5 月に発生した、オーストリアの
クレディート・アンシュタルト(KA)銀行の経営危機問題と大きくかかわる。
2 流動性危機の拡大、揺らぐ「金本位制」
実のところ、今日の多くの大恐慌研究の専門家は、大恐慌の発生時点を、ウォール街の
株価大暴落の起こった1929 年 10 月ではなくて、KA の危機が表面化した1931 年 5 月と考えて
いる。KA の危機をきっかけにして、主要国全体に及ぶ、流動性危機、すなわち金の取り付
け騒ぎが発生し、その結果、全世界の生産、貿易、雇用が一気に落ち込んだからである。
その事情は、今回の経済危機において、2008 年 9 月 15 日のリーマン・ブラザーズの経営破
綻をきっかけに、世界的な流動性逼迫が生じ、経済状況が一気に悪化したのに似ている。
金融恐慌では、やはりカギとなる出来事があるものなのだ。
KA の危機に話を戻すと、KA は何しろ、当時オーストリアの預金の 7 割近くを集めていた
巨大銀行だから、オーストリア政府としても破綻を認めるわけにはいかず、中央銀行が
大々的な救済融資をする一方で、政府は KA の債務保証を迫られる展開となった。これで一
件落着と言いたいところだが、それだけでは問題が収まらなかったのである。政府、中央
銀行からの、民間銀行への貸し出しが増えるにつれて、オーストリアの外貨準備(おもに金、
ドル、ポンド)が急速に減少を始めたからだ。これは、オーストリアを含めて、当時の主要
国が「金本位制」を採用していたこととかかわっている。つまり、その当時の政府、中央
銀行は一定のレートで、自国の発行する紙幣と金の兌換を保証する義務を負っていた。す
なわち、これが「金本位制」である。
なぜ、そのような厄介な義務を政府がわざわざ求めて担ったかと言うと、このような取
り決めをしない限り、政府が国債を中央銀行にもっていって、いくらでも紙幣の発行を要
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フーヴァーは無能な大統領だったのか―大恐慌から今回の経済危機への教訓
求する怖れがあったからだ。1923 年のドイツのハイパー・インフレーションはまさにその
ような金の裏付けのない貨幣制度の下で発生したもので、その経験以来、主要国は金本位
制への復帰が経済の正常化のための必要と考え、第 1 次世界大戦後の乏しい金準備のなかで
次々と金本位制に復帰したのである。実際、第 1 次世界大戦が終了した時点で、世界の金の
4 割がアメリカに集まっており、他の国が所有する金は、戦前に比べて大幅に減少していた。
そうしたなかでは、アメリカから金と容易に兌換できる通貨、ドルを借りない限り、財政
も、経済も成り立たない。こうして、両大戦間の世界経済は、アメリカからの債務に依存
した脆弱な基盤で運営されていたわけである。
ともかく、金本位制の維持には、自国の金準備と、発行する紙幣の間の健全なバランス
を管理しなければならない。もし、紙幣の量が金準備に比べて増えすぎれば、投資家はそ
の国の金本位制の維持可能性に疑いを抱き、すぐに、金の取り付け、すなわち中央銀行に
対する兌換要求が生まれる。そうなると、どの国も発行する紙幣に対して 100% の金準備を
もっているわけではないから(通常、4 割ぐらいが目安とされた)、実際に金準備が底をつき、
その国は金本位制からの離脱を余儀なくされるのだ。これは金本位制に限らず、
「信用創造」
のプロセスが一般的に抱えている脆弱性と言える。
1931 年のオーストリアでは、この金準備と紙幣の発行量の大切なバランスが、政府の巨
大銀行救済をきっかけにして崩れた。その結果、政府が KA の救済のために貸し出しを増や
せば増やすほど、オーストリアからの金やドル、ポンドの流出が進行するという結果が生
まれたのだ。このことを別の言葉で表現するならば、はじめは KA という民間組織の信用危
機として発生した問題が、国がその民間組織を救済する過程で、その国自身の信用危機に
拡大したと言えるだろう。はじめはクレディート・アンシュタルトが火だるまになる問題
だったものが、次にはオーストリア自体が火だるまになる問題に転化したと表現してもよ
いだろう。結局、オーストリアは実質上の金本位制停止に追い込まれている。
しかるに 1997 年のアジア通貨危機の経験からもわかるように、このような国際的な「流
動性危機」
、すなわち取り付けというものは、コンテージョンを起こしやすいものである。
実際、オーストリアで危機が発生すると、危機はすぐに同様な経済構造を抱えているとみ
られていたドイツに飛び火する。そこでも、大手のダナート銀行が破綻したことが、火に
油を注ぐ結果となっている。ドイツ政府も、当初は金の取り付けと戦うために、金利の引
き上げや財政緊縮などの措置を導入して抵抗していたが、ついに実質上の金本位停止に追
い込まれている。
すると、次に「流動性危機」が向かったのはイギリスである。当時のイギリス経済のフ
ァンダメンタルズは、ドイツ、オーストリアの状態ほど不安定なものではなかったが、イ
ギリスはドイツや中欧に対して大掛かりな債権をもっていたのである。これらの地域から
の金の持ち出しが実質上不可能になれば、イギリス自体も抱えている債務の金での支払い
が不可能になる。つまり、
「信用創造」そのものに国の経済が立脚しているという、当時も
今日も変わらないイギリス経済の特質によって、イギリスは債務危機の国際的な伝播の過
程で、自ら深刻な債務危機に直面することになったのである。結局、イギリスが金本位制
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フーヴァーは無能な大統領だったのか―大恐慌から今回の経済危機への教訓
を停止することになったのは、1931 年 9 月のことである。
当時の国際金融体制のかじ取りをするリーダー国のひとつであったイギリスまでが、つ
いに金本位制からの離脱を迫られたという事実の意味は大きかった。その年にヨーロッパ
の主要国はフランスのような例外を除いて、みな金本位制を離脱する。日本も井上準之助
蔵相が無理に無理を重ねながら頑張っていたが、1931 年の 12 月にはついに金本位制からの
離脱を余儀なくされる。そればかりではない。イギリスが金本位制を離脱すると、金の取
り付け攻撃のプレッシャーは、当時としては最も潤沢な金準備をもち、しかも世界に対す
る債権国であったアメリカに向かっていくことになったのである。
3 大増税策はなぜとられたか
さて、主要国の金融システムが次々と「取り付け」に遭うという 1931 年の展開は、金融
機関の貸し出し意欲に破壊的な打撃を与える。いつ取り付けに遭うかわからないような状
態では、金融機関は手持ちの現金を貸し出しに回すことができず、手元に抱え込んで手放
さないだろうからである。その結果、
「貸し渋り」が激しくなり、経済活動が急激に落ち込
む。そればかりではない。金の取り付けに見舞われた国の政府は、少なくとも当初は金本
位制の防衛に回り、金利を引き上げたり、緊縮政策を採用したりということで、マーケッ
トの信用の回復を図る。しかるに、不況が深刻化するなかでとられるこのような緊縮策が、
いっそうの景気の落ち込みにつながることは言うまでもない。1931 年から 32 年にかけて、
大恐慌の一番深刻な局面が、アメリカばかりではなく、世界の主要国で発生したのは、こ
れが原因である。
さて、フーヴァーが 1932 年に行なった大増税策に話を戻すと、それまで不況とは需要不
足の問題と考えて積極的な景気対策を行なっていたフーヴァーが、増税のような緊縮策に
政策の方向を変更したのは、イギリスが金本位制を放棄して以来、アメリカの金準備に対
する攻撃の圧力が強まってきたからにほかならない。金本位制の維持はフーヴァーにとっ
て絶対的な必要性であった。そこで彼はそのことをマーケットに示すサインが必要だと考
えた。そして 1932 年という不況の最中での大増税を実施したのである。
今日、国際金融のモデルとしてスタンダードなマンデル・フレミング・モデルなどから
考えれば、財政赤字は国内金融市場における金利の上昇につながるから、その金利の上昇
をみて、海外からの資本流入が起こる。したがって、当時、アメリカが直面していた資本
流出という問題の解決に、財政赤字はさほど悪影響がなく、むしろプラスとなるかもしれ
ない性質をもっている。
しかるに、その当時は、財政赤字が増えた場合、政府がそれをマネタイズするというこ
と、すなわち国債を中央銀行に直接引き受けさせるといった政策が、頻繁にとられていた。
そのため、アメリカの財政赤字の膨張は、ドルの不安を増長するとフーヴァーが判断した
のは、当時の経験からして誤ってはいない。問題は、その時点でアメリカがあくまで金本
位制に固執することが賢明であったかどうかである。
そもそも、今日の大恐慌についての研究の標準的な見解は、バーナンキ連邦準備制度理
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フーヴァーは無能な大統領だったのか―大恐慌から今回の経済危機への教訓
事会(FRB)議長、ジェフリー・サックス、バリー・アイケングリーンなどによるもので、
大恐慌からの脱出は各国が金本位制を離脱して初めて可能になったというものである。先
ほどみたように、各国は恐慌への積極的な対応としてではなく、金準備がほとんど底を突
く、刀折れ、矢尽きた状態で金本位制の放棄を余儀なくされた経過をたどったのだが、そ
れでも金と自国通貨との兌換という重たい義務を放棄したことによって、通貨量の調整が
自由になり、それによってデフレという債務の累積した状態での一番の難関を逃れること
ができた。これが現在では定説となっているのである。
実際、1933 年 3 月の大統領就任とほぼ同時に、FDR は金本位制を停止する。それがおそら
く、FDR が第 1 期目に行なった一番重要で、一番有効な政策だっただろう。FDR の政策につ
いて、
「ファースト・ハンドレッド・デイズ」が今日でも高く評価されているのはそのため
である。
4 今回の金融・経済危機―危機の連鎖と深化にみる大恐慌との同質性
しかし、筆者は金本位制を離脱しただけで、金融・財政政策の自由度が増えて、大恐慌
からの脱出が可能になったというこの定説は、現在進行しているサブプライム危機の経験
から類推して、一面的に過ぎるのではないかと近頃考えている。つまり、こういうことで
ある。
今回の金融・経済危機の震源地はアメリカであるが、欧州の金融機関も、アメリカのそ
れと競い合い、同様な投資戦略をとっていたために、損害の規模は大きい。それだけでは
ない。金融危機が発生して以来、貸し渋りが全世界レベルで進行すると、欧州内のバブル
が所々で破裂し、ヨーロッパ内の不良債権問題が深刻化している。まずこの問題が顕在化
したのは、2007 年後半以降のアイスランドの経済危機であった。アイスランド政府は主要
三大銀行の救済に乗り出して、その結果、民間の金融危機がアイスランドという国家の金
融危機、経営破綻に転化したという点では、国のサイズの違いはあるものの、オーストリ
アのクレディート・アンシュタルトの危機とそのままの結果である。筆者はこのアイスラ
ンドのケースが他の欧州の国の危機の雛型になるという予測を、著書のなかで書いたが、
実際にその後の経過はそのとおりになっている。
その後、中・東欧に危機が進行し、ハンガリー、ウクライナは国際通貨基金(IMF)の救
済を受けたが、同様な運命が他の中・東欧の諸国にも襲いかかる可能性が大である。現在
はバルト海の小国、ラトヴィアをめぐっての攻防戦が展開中のところである。人口 400 万人
ばかりの国の運命が、世界経済にとってこれほどまでに重要になるのは、ラトヴィアの危
機が深刻化すれば、コンテージョンが他の中・東欧や、とくにバルト海沿岸諸国を襲うこ
とになるだろうし、そればかりではなく、バルト諸国に対する貸し出しのエクスポージャ
ーの高いスウェーデンに危機が連鎖することが考えられるからである。
中・東欧、バルト海は、欧州の周辺国と表現してかまわないだろうが、現在は欧州のよ
り中核の部分にも危機が浸透している。すなわち、ユーロを採択している国のなかで、す
でにアイルランドと、ギリシャは危機と表現してもよいような状態を経験しているし、住
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フーヴァーは無能な大統領だったのか―大恐慌から今回の経済危機への教訓
宅バブルの崩壊が顕著なスペインも、危機モードに入りつつあるのが現実である。
おそらく現在の世界的な金融・経済危機は、アメリカの住宅抵当証券の信用喪失に基づ
いた危機の第 1 幕と、欧州での国際的な銀行危機が主翼となる危機の第 2 幕とに分けること
ができるだろう。危機の第 1 幕では、銀行貸し出しではなく、証券投資の失敗が問題の原因
となっているから、危機の様相は大恐慌の頃とはかなり異なったものとなっている。それ
に対して、危機の第 2 幕は、銀行貸し出しの失敗、不良債権化が問題の原因となっているか
ら、その性格は大恐慌と似通ったものと言うことができる。
さて、アイスランド、中・東欧、バルト海、さらにはアイルランドなどのこれまで海外
からの資本流入に依存した経済成長を遂げてきて、現在、国際的な貸し渋りによって経済
に大打撃を受けている国々は、景気の急激な落ち込みに対して、景気刺激策で応じるどこ
ろか、増税や歳出削減などの緊縮策の採用を迫られているというのが現実である。外貨建
ての対外債務が巨額である国の場合、もし自国の為替レートがユーロなど基軸通貨に対し
て切り下げになれば、債務の実質価値が膨張するという問題を抱えている。それゆえ、自
国通貨の価値を防衛しようと躍起になるのだが、マーケットを宥めるためには、1931 年の
多くの欧州の国々の経験と同じように、緊縮的な政策を打ち出すことによって、通貨防衛
の意思を明確化しなければならない。しかし、経済危機が進行するなかで、こうした国々
が景気刺激策の代わりに、緊縮的な政策をとるならば、世界景気の縮小がいっそう進行す
ることになるのである。
おわりに
フーヴァーは墓のなかで大笑いをしているのではないか。そら見たことかと。現在は、
世界の主要国は別に金本位制を採用しているわけではない。それにもかかわらず、危機の
最中で、ラトヴィアのように通貨防衛のために緊縮策を実施しなければならない国もある
のだし、アイルランドのようにユーロに加盟していて、通貨防衛という問題を一切抱えて
いないのに、緊縮策を実施しなければならない国もある。そうでなければ、その国からの
資本逃避が進行する可能性があるからだ。
今後はイギリスに同様な問題が襲いかかり、イギリスも増税か、景気刺激策かという厳
しい選択を迫られる可能性がある、大恐慌の時の経験からすれば、イギリスで危機が発生
したのち、危機が波及する可能性が高いのはアメリカである。しかも、アメリカは 1930 年
代とは違い、現在は債権国ではなく、債務国、しかも世界最大の債務国である。もし、ア
メリカが景気刺激策の代わりに、通貨防衛のための緊縮策を実行しなければならないよう
になったら、この危機は未曽有の水準を迎えると筆者は考える。
そうしてみると、単純に金本位制を脱却するだけで、財政・金融政策の運営が自由にな
ったという大恐慌の研究の定説は、見直しをせざるをえない。重要なのは、金本位制の束
縛だけではなく、対外債務の束縛である。通貨を金から切り離して為替レートが暴落した
場合、対外債務の実質価値が膨張するという問題にどう対処するかが、その時点で金融政
策の自由を獲得するうえでの重大な難関になったのである。
国際問題 No. 584(2009 年 9 月)● 7
フーヴァーは無能な大統領だったのか―大恐慌から今回の経済危機への教訓
その点では、1931 年のフーヴァー・モラトリアムを実施したり、1932 年のヤング案を取
り決めさせたりして、借り入れ国の債務問題の軽減に努めたフーヴァーの業績はより大き
く評価してよいと思うのである。それと同時に、現下の経済危機が欧州に及んでからの第 2
幕では、
「モラトリアム」や、
「債務リスケジューリング」が対応策のカギとなると予想でき
るわけである。
たけもり・しゅんぺい 慶應義塾大学教授
国際問題 No. 584(2009 年 9 月)● 8
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