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第5回 新聞の歴史(3)(2010年10月19日)

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第5回 新聞の歴史(3)(2010年10月19日)
メディア論 第5回
新聞の歴史
2010年度
吉備国際大学国際環境経営学部
大谷卓史
2010年10月19日
目次/新聞の歴史
近代的印刷術の誕生
パンフレットから新聞へ
コーヒーハウスでの談論
新聞の大衆化
日本への新聞の導入
新聞統合から戦後の新聞へ
近代的印刷術の誕生(1)
近代的印刷術の技術的条件
紙・・・12~14世紀にヨーロッパ世界に普及。
蔡倫(紀元1~2世紀)、製紙法の改良。
12世紀、イスラム世界経由で、イタリアに紙が登場。
油性インク・・・14~15世紀、細密な版画で油性イ
ンクが使用されるようになる。
プレス(圧搾機)・・・ぶどう絞り機(古代から存在)
金属活字・・・15世紀前半、土の鋳型による鋳造技
術、打ち出し技術が登場。ただし、当時金属活字そ
のものの製造には成功せず。
近代的印刷術の誕生(2)
活版印刷術の登場
1455年までに、金細工師ヨハネス・グーテンベルク(1398
年頃~1468年)が、金属活字の鋳造法を完成。
金属活字に、鉛と錫、そこにビスマスかアンチモンを混ぜた合金
を使用。
鉛と錫の合金による活字は冷却後に縮むので、それを防ぐ物
質としてビスマスかアンチモンを一定割合混入数。
1455年頃、最初の活版印刷による書籍(いわゆる『グーテン
ベルク聖書』が完成。
1450年、実業家ヨハン・フストと契約。資金を借りて聖書の印
刷を請け負う。
1455年、おそらく聖書がほとんど完成した頃、フストがグーテン
ベルクを契約不履行で告訴。グーテンベルクは訴訟に負け、完
成間近の聖書と設備を引き渡す。
フストは、グーテンベルグの助手ペーター・シェーファーと提携し
て印刷所を運営。1457年、『聖詩篇』を出版。
Johannes Gutenberg(1389c-1468)
グーテンベルクの肖像は後世の想像による
マインツのグーテンベ
ルクの記念像
グーテンベルクの肖像
(17世紀、慶応大学所蔵)
近代的印刷術の誕生(3)
活版印刷術の拡散
15世紀後半、ヨーロッパ各地へ拡散。
1460年代、イタリア、オランダ、スイスフランスへ。
1469年、ヴェネツィア。
1470年、パリ。
1470年代前半、東欧やその他の地域へ。
1476年、ロンドン。
1482年、アントウェルペン(ドイツ、アントワープ)
15~16世紀の印刷工房では、ルネサンスの人文
学者が校正者や印刷業者として活躍。
ヨハネス・アーメルバッハの印刷工房(ニュルンベルク)。
アルド・マヌツィオの印刷工房(ヴェネツィア)
近代印刷術の誕生
まとめ
印刷術を可能にした技術
1450年頃、グーテンベルグの印刷術発明。
製紙法、油性インク、プレス、金属活字。
金属活字技術の確立。
42行聖書(1455年)
15世紀後半、ヨーロッパ各地へ拡散。
15~16世紀の印刷工房で、ルネサンスの人
文学者が校正者や印刷業者として活躍。
ヨハネス・アーメルバッハの印刷工房(ニュルンベルク)。
アルド・マヌツィオの印刷工房(ヴェネツィア)
目次/新聞の歴史
近代的印刷術の誕生
パンフレットから新聞へ
コーヒーハウスでの談論
新聞の大衆化
日本への新聞の導入
新聞統合から戦後の新聞へ
パンフレットから新聞へ(1)
不定期新聞の登場
15世紀、ニュースを伝える一枚刷りパンフ
レットが登場(不定期新聞)。
1482年、トルコのヨーロッパ侵入を伝えるパン
フレット(アウグスブルク)。
1493年、コロンブスのアメリカ発見記(スペイ
ン)。
ドイツ・・・Flugblatt(フルークブラット)
イギリス・・・News Sheet(ニュースシート)
パンフレットから新聞へ(2)
定期新聞の登場
17世紀の輸送・情報伝達システム(交易と
郵便のシステム)の発達⇒定期的ニュース
出版の条件を整備。
17世紀の国際交易・商業の進展、人口・意
識の変化⇒ニュースを需要する人々の登場。
初期の週刊新聞
1609年、AvisaとRelation(ドイツ)。
1622年、Weekley News(イギリス)。
初期の日刊新聞。
1660年、Leipziger Zeitung(ドイツ)。
パンフレットから新聞へ(3)
イギリスにおける新聞の興隆
18世紀、検閲制度の廃止によって、イギリスで政
党機関紙の発行が盛んになる。
1649年、ピューリタン革命(出版統制緩和、ニュース出
版物が盛んに印刷される)。
1660年、王政復古(出版統制復活)。
1688年、名誉革命⇒政党政治の活発化。
1695年、出版印刷組合の特許検閲権の廃止。
18世紀、政党機関紙の登場(トーリーvsホイッグ)
1704年、The Review(イギリス)。
1710年、The Examinar(イギリス)。
パンフレットから新聞へ
まとめ
15世紀、不定期新聞の登場。
17世紀、定期的新聞の登場。
輸送・情報伝達システム(交易と郵便のシステ
ム)の発達⇒定期的ニュース出版の条件を整備。
国際交易・商業の進展、人口・意識の変化⇒
ニュースを需要する人々の登場。
18世紀、政党機関紙の隆盛(イギリス)。
ニュースを伝える一枚刷りパンフレット。
検閲制度の廃止→政党機関紙の発行。
⇒公共圏成立の条件整備へ
目次/新聞の歴史
近代的印刷術の誕生
パンフレットから新聞へ
コーヒーハウスでの談論
新聞の大衆化
日本への新聞の導入
新聞統合から戦後の新聞へ
コーヒーハウスでの談論(1)
17-19世紀の新聞消費
「コーヒーハウス(coffeehouse)」とは?
1650年、オックスフォードに初めて開店。17-18世紀イ
ギリス特有の文化。
酒を出さず、コーヒーとたばこを飲みながら、自由に談論
できる場所。
パンフレットや新聞も読み放題⇒17~19世紀イギリスに
おける代表的な新聞消費(読書クラブも重要)。
新聞・雑誌発行者は、ニュースを探しにコーヒーハウスを
訪問。
18世紀初めには、ロンドンで2000軒超の店が登場⇒店
主たちが出版業者に対抗する相互扶助組織を結成。
イギリスのロイズコーヒーハウスの様子
Lloyd's coffeehouse
1688年、開店。
貿易商や船員などが集まる。
商業情報が集中。「ロイズ・
ニュース」を発行。
後に、船舶保険業務の取り
扱いを開始。
コーヒーハウスでの談論(2)
公共圏の形成
17-19世紀、コーヒーハウス(英)と読書サロン(独、仏)に
よって、近代ジャーナリズムのための公共的基盤が提供(ユ
ルゲン・ハーバーマスの公共圏の理論)。
政治・経済権力から独立して、自立的かつ合理的な議論が可
能な場所。
新聞・雑誌を介した、地位を離れた人々との討論による民意形
成(市民的公共圏)。
18~19世紀にかけて、市民的公共圏は、国家の公共性と拮抗。
19世紀末以降、情報統制・情報操作・情報のパッケージ化にさ
らされ、情報発信を行う少数の専門家と、受身の大衆に分化。
ただし、歴史的叙述よりも理念型の提示と評価される。
コーヒーハウスでの談論
まとめ
17世紀、コーヒーハウスが登場。
コーヒーとたばこを飲みながら、自由に談論できる場所。
パンフレットや新聞も読み放題⇒17~19世紀イギリスにお
ける代表的な新聞消費(読書クラブも重要)。
17-19世紀、公共圏の成立⇒変質へ
コーヒーハウス(英)と読書サロン(独、仏)。
近代ジャーナリズムのための公共的基盤。
政治・経済権力から独立して、自立的かつ合理的な議論が
可能な場所。
新聞・雑誌を介した、地位を離れた人々との討論による民意
形成(市民的公共圏)。
目次/新聞の歴史
近代的印刷術の誕生
パンフレットから新聞へ
コーヒーハウスでの談論
新聞の大衆化
日本への新聞の導入
新聞統合から戦後の新聞へ
新聞の大衆化(1)
論壇・政談新聞から社会面中心の新聞へ
1820-1870年頃、新聞の大衆化が進行。
18世紀、論壇ジャーナリズム中心の新聞。
19世紀半ば以降、社会面(事件、事故)中心の
新聞へ。
新聞の種類が増加(数十紙⇒1000紙以上)。
廉価で大部数の新聞の登場。
部数獲得を第一義とする「イエロー・ジャーナリ
ズム」(事実を軽視した扇情的記事)批判の登場。
J・ピューリッツアー vs W.R.ハーストの部数合戦。
漫画「イエロー・キッド」を掲載する低俗新聞批判。
新聞の大衆化(2)
大衆化の背景
1.
印刷機の発展と紙の低廉化⇒部数増加の技術
的条件。
2.
18世紀、スタンホープ印刷機。
1812年、ケーニヒ、輪転機(円筒式印刷機)
南北戦争の頃には、1時間に2万部印刷可能に。
検閲からの自由と印紙税撤廃(イギリス)⇒製造
コスト削減。
1712年、印紙税導入(誹謗文書禁止のための手段とし
て)。
1836年印紙税値下げ、1853年広告税撤廃、1855年
印紙税撤廃。
新聞の大衆化
3.
広告収入の増大⇒廉価化。
4.
1836年、エミール・ド・ジラルダン、『プレス』創刊時に財政基
盤を広告料にシフト(フランス)⇒政治的主張よりも広告と社会
面の充実へ。
電信網の拡大と通信社の登場⇒情報の収集方法を革新(記
者・特派員制度、通信社からの情報購入)。
電信の発達
1844年、S.モールス(米)、電信の公開実験に成功。
1861年、大陸横断電信網が完成。
通信社の発達・・・電信網を利用してニュースを伝達・配信。
1848年、AP通信設立。
1850年、Reuters設立。
新聞の大衆化
まとめ
1820-1870年頃、新聞の大衆化が進行。
論壇新聞から社会面中心の新聞へ。
新聞の低廉化。
新聞の大部数化、新聞の乱立。
新聞の低廉化の条件
印刷機の発展と紙の低廉化。
検閲からの自由と印紙税撤廃(イギリス)
広告収入の増大
電信の発達
目次/新聞の歴史
近代的印刷術の誕生
パンフレットから新聞へ
コーヒーハウスでの談論
新聞の大衆化
日本への新聞の導入
新聞統合から戦後の新聞へ
日本への新聞の導入(1)
江戸時代の印刷メディア
草双紙・・・挿絵入り物語。時事的話題も取
り上げる(心中など)。黄表紙。
瓦版・・・時事的話題を取り上げる。ただし、
定期性はなし。
18世紀:心中、好色ものなどの事件を中心。江戸・
大阪などの大都市周辺で好まれる。
19世紀:浅間山噴火、江戸の洪水、地震などの災
害を報じる。
日本への新聞の導入(1)
明治時代の印刷メディアと新聞の導入
日本人による印刷の開始
1856年(安政3)年、本木昌造、文法書『ミニタクシス』を
活版印刷(オランダ語)。
1869(明治2)年、本木、アメリカ人宣教師の助力を得て、
活版伝習所を創設。日本語の活字を鋳造して、印刷業を
開始。
日本における新聞の登場
幕末、長崎、横浜の外人居留地で英字新聞刊行。
幕府が翻訳新聞、筆者新聞を創刊。読者は外人、幕府交
換に限定される。
日本への新聞の導入(2)
近代的新聞の登場
中央・地方政府の支援を受けて、日刊紙が創刊。
大蔵省買い上げ(1府県3枚ずつ)の新聞
横浜毎日新聞(本木昌造、弟子陽其二が協力)(1870
(明治3)年創刊)。
東京日日新聞( 1872(明治5)年創刊)。
左院御用新聞
日新真事誌・・・イギリス人ジョン・ブラック創刊。治外法
権の地位を利用して内外の情報を幅広く掲載。
駅逓寮御用新聞(駅逓頭前島密の支援)
郵便報知新聞・・・全国の郵便局から情報収集。
日本への新聞の導入(3)
大新聞と小新聞
大新聞
1874(明治7)年、『日新真事誌』、民撰議院設
立建白書を掲載、政府援助打ち切り⇒政論新
聞(大新聞)へ。
小新聞
大新聞よりサイズが小さい。平俗な文体。
市中の噂話や説話、小説欄など。
1874(明治7)年、読売新聞。
1879(明治12)年、大阪朝日新聞。
日本への新聞の導入(2)
新聞の大部数化
新聞の「不偏不党」
1876(明治9年)、東京日日新聞「不党不偏」を
うたう。
民権派新聞に対して、反藩閥の立場を否定。
社会主義言論への政府弾圧などを経て、政治
的主張を前面に出す新聞は退潮。
1924(大正14)年、『大阪毎日』『大阪朝
日』、100万部突破。
日本への新聞の導入
まとめ(1)
江戸時代:草双紙と瓦版
幕末~明治初:活版印刷と日刊新聞の導入
草草紙:挿絵入り物語。
瓦版:不定期に時事的話題を取り上げる。
1869年:日本語の活字による最初の印刷。
外国人居留地での日刊新聞創刊。
明治初期:日刊紙創刊
政府支援:大蔵省、日新真事誌(左院御用新聞)、
駅逓寮御用新聞など。
日本への新聞の導入
まとめ(2)
明治初期:大新聞と小新聞
大新聞:政論中心の新聞。
小新聞:市中の噂話や説話、小説欄を設ける新聞。
日新真事誌の民撰議院設立建白書を掲載、政府援助打
ち切りがきっかけ(1874年)。
読売新聞(1874)、大阪朝日新聞(1879)。
明治初期:新聞の「不偏不党」→大部数化へ
1876(明治9年)、東京日日新聞。
民権派新聞に対して、反藩閥の立場を否定。
目次/新聞の歴史
近代的印刷術の誕生
パンフレットから新聞へ
コーヒーハウスでの談論
新聞の大衆化
日本への新聞の導入
日本における新聞の大衆化
新聞統合から戦後の新聞へ
日本における新聞の大衆化
規模・質ともに弱小だった読売新聞の成長プロセス
から、日本の小新聞の大衆化を見る。
読売新聞の昭和初期までの歴史
1874(明治7)年創刊。
1924(大正13)年、正力松太郎、同社社主に。
1925(大正14)年、「ラジオ版」を導入。
1933(昭和8)年、実践女学校生徒自殺事件、「三原山
火口探検」。
1934(昭和9)年、読売巨人軍創設。
正力松太郎の社主就任
正力松太郎
1885(明治18)年~
1969(昭和44)年。
警視庁を経て、読売新
聞社社主。
1944(昭和19)年、衆
議院議員当選。
戦前はプロ野球、戦後
はテレビ、原子力発電
所などを導入したことで
知られる。
昭和35年11月29日撮影。産経新聞
(http://sankei.jp.msn.com/photos/sports/
baseball/090509/bbl0905091800008p18.htm)より。
正力松太郎の社主就任
1924(大正13)年、正力松太郎、読売新聞社主に
就任。
1923(大正12年)9月1日、関東大震災。読売新聞社の
新社屋被災。これをきっかけに、同社経営難に。
1923(大正12)年10月、虎の門事件(摂政宮暗殺未遂
事件)(摂政宮のパレードの警備責任者は正力)。
1924年(大正13)年1月、正力、懲戒免官。
1924(大正13)年2月25日、政治家後藤新平の提供し
た資金で、読売新聞社主に就任。当時、後藤新平は読売
のライバルである大阪日日新聞に攻撃されていた。
読売新聞の
大衆ジャーナリズムの導入
正力松太郎の就任後、同紙は米国の大衆
新聞の方法を導入⇒「ジャズ・ジャーナリズ
ム」
1925(大正14)年:「よみうりラヂオ版」。
1933(昭和8)年:三原山火口探検。
1934(昭和9)年:読売巨人軍創設。
「よみうりラヂオ版」
1925(大正14)年11月、「よみうりラヂオ
版」発行。
ラジオの番組表、解説、歌詞、講談や落語・浪
花節の梗概などを掲載。
朝刊8ページ中2ページをラジオ版(ピンク色の
紙)に当てる。
ラジオ版の成功により、他社も「ラジオ欄」を導
入。
三原山火口探検
1933(昭和8)年2月12日、実践女学校生徒、三
原山火口に飛び込み、自殺。
連日の新聞報道により、三原山は自殺の名所とな
る。
1933(昭和8)年5月9日、読売新聞、三原山火口
降下イベント。
岩田得三社会部次長らが降下。自殺死体を発見。
降下イベントそのものは自殺騒動以前から計画。
1933(昭和8)年5月30日、「三原山火口探検」記
事。
三原山火口探検
三原山火口
Sankei Express(http://sankeiexpress.iza.ne.jp/blog/entry/90442
2/)より。
復元されたゴンドラの
模型。
http://picasaweb.google.com/lh/photo/XhRH
01OJA7eHOow5ojd7ugより。
三原山火口探検
昭和初期の伊豆諸島の観光ブーム。
1928(昭和3)年、「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲、
佐藤千夜子歌)のヒット。
1932(昭和7)年、読売新聞、東京湾汽船とタイアップして読者
3000人伊豆大島に無料招待。
1932(昭和7)年大晦日、「島の歌」(永田幹彦作詞、佐々木俊
一作曲、小唄勝太郎歌)を発表。3ヶ月で35万枚販売。
1933年、実践女子学校生徒自殺、三原山火口探検。
1933年、自殺事件後、大島・三原山を舞台とする映画や歌
謡曲が登場。
松竹映画「処女よさらば」。
「燃ゆる御神火」、「大島おけさ」(西条八十作詞、中山晋平作
曲)、「恋の大島」(島田芳文作詞、佐々紅作曲)、「しぐれ大島」
(佐藤惣之助作詞、斉藤佳三作曲)。
読売巨人軍創設
1931(昭和6)年10月、読売新聞の招待で
全米選抜野球チーム来日。
1934(昭和9)年11月、読売新聞の招待で
全米選抜野球チーム来日。
ベーブ・ルースら、スター選手が来日。東京駅か
ら銀座・新橋・帝国ホテルをパレード。
記録は、16戦すべて米国選抜チームが全勝。
11月20日、静岡草薙球場戦では、沢村栄治が
力投。最終回、ルー・ゲーリックの本塁打で1対
0と惜敗。
読売巨人軍創設
1934(昭和9)年12月26日、大日本東京野
球倶楽部創立総会。後に、読売巨人軍に発
展。
1936(昭和11年)2月、日本職業野球連盟
設立。
東京巨人軍、大阪タイガース(阪神)、東京セネ
ターズ(西武ライオンズ)、阪急軍(オリックス・ブ
ルーウェイブ)、大東京軍(横浜ベイスターズ)、
名古屋金鯱軍(中日ドラゴンズ)の7チームが参
加。
読売巨人軍創設
1931(昭和6)年(第1回日米野球開催)の
読売新聞発行部数:27万部
1934(昭和9)年、第2回日米野球開催、大
日本東京野球倶楽部創立。
1936(昭和11)年、日本職業野球連盟設
立。
1939(昭和14)年の読売新聞発行部数:
120万部。
日本における新聞の大衆化
まとめ
小新聞の大衆化
大正~明治期、新聞が大衆化。
大衆化の例:読売新聞の拡大
1874(明治7)年創刊。
1924(大正13)年、正力松太郎、同社社主に。
1925(大正14)年、「ラジオ版」を導入⇒他社も模倣。
1933(昭和8)年、実践女学校生徒自殺事件、「三原山火口
探検」(「疑似イベント」の一種)。
1934(昭和9)年、読売巨人軍創設。
目次/新聞の歴史
近代的印刷術の誕生
パンフレットから新聞へ
コーヒーハウスでの談論
新聞の大衆化
日本への新聞の導入
新聞統合から戦後の新聞へ
新聞統合
1936(昭和6)年満州事変⇒15年戦争へ
突入。
1940(昭和15)年、新聞統合令⇒「1県1紙
体制」の成立。
1937年末、1422紙の日刊紙。
1942年、1県1紙体制成立。55紙へ
戦後の新聞へ
1945(昭和20)年、8月15日敗戦。
GHQ-SCAP(連合軍総司令部)の言論政策
言論規制関連法規全廃、2年後の新憲法発布。
占領軍批判を禁じるプレスコード指定と検閲。
新興紙奨励(1946年1月、CIE(民間情報局)新聞課長、
1県1紙体制を批判)⇒新聞復刊、新規発行へ。
1946(昭和21)年末、GHQ、方針を転換。1県1
紙体制を維持⇒1県1紙体制の固定へ。
新聞統合から戦後の新聞へ
まとめ
1939(昭和14)年、日中戦争勃発。
1940(昭和15)年、新聞統合令⇒「1県1紙
体制」の成立。
1941(昭和16)年、太平洋戦争勃発。
1945(昭和20)年、第二次世界大戦終結。
1946(昭和21)年、GHQ民間情報局新聞課
長、「1県1紙体制」批判。
1946(昭和21)年末、GHQ、方針を転換。1
県1紙体制を維持⇒1県1紙体制の固定へ。
本日の課題
出席票に学年・学籍番号・氏名・授業名・日
付を書いた上で、下記の問題に回答し、提
出しなさい。
19世紀、新聞の大衆化について、その背景
も含めてまとめなさい。
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