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魔王は世界を征服するようです
魔王は世界を征服するようです 不手折歌 タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト http://pdfnovels.net/ 注意事項 このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。 この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範 囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。 ︻小説タイトル︼ 魔王は世界を征服するようです ︻Nコード︼ N5677CL ︻作者名︼ 不手折歌 ︻あらすじ︼ 川に溺れて死んだ男は、気づけば異世界で生まれ変わっていた。 問題ばかりで滅びかけた国の中で、人生をエンジョイしつつ自分の 居場所を作っていく物語。 注意: 魔法などの幻想的な要素は登場しません。 主人公は特異な技能をもたず、超能力等特異な技能を持った人物も 1 登場しません。 誤字脱字報告大歓迎 2 prologue 1 朝、目が覚めると、俺はベッドから上半身を起こして、目をこす った。 頭から血がすーっと抜ける感じがして、意識が薄れ、もう一度ベ ッドで寝たくなり、二度寝した。 二度寝から起きると、あと30分もしないで午後になるという時 間だった。 顔を洗ってパソコンデスクの前に座る。 ニュースサイトで身の回りのニュースを軽くチェックして、今や っているゲームのコミュニティを見て回った。 腹が減ってきたのでカップラーメンに湯を入れ、簡単な朝食を摂 る。 その後、ゲームを立ち上げて、三時間ほどゲームで遊んだ。 その後、近所の牛丼屋まで足を運んで、大盛りの牛丼を頼んで腹 に入れた。 昼に食ったカップラーメンが最後の一つだったのでスーパーにも 寄る。 スーパーで安酒と夜食とカップラーメンを買って家に戻った。 俺の家は平屋の一軒家で、築50年ほどのくたびれ果てた3DK のボロ家だ。 俺の母親の生家でもある。 一人暮らしには広すぎるくらいだが、昔はこの家に一家五人が暮 らしていたというのだから、その時は狭くてしかたなかっただろう。 3 昼食と買い物を済ませ、家に帰ると、ゲームのコミュニティをチ ェックし、知り合いと対戦したり協力プレイをしたりして、知り合 いが落ちるとランダムマッチングで海外の強敵と戦ったりして遊ん だ。 途中で酒を飲んだりしながら午前三時ごろまで遊び、眠くなった らベッドに入った。 楽しいながらも頭の何処かがぼやけているような、果物が腐った 時に発する、甘い腐敗臭がたちこめているような生活だった。 それに息苦しくなると、旅行に出たりもするが、帰ってくればや はり同じ生活に戻ってしまう。 かれこれそれを三年も続け、俺は三十路を超えてしまっていた。 結婚も望まず、預金を切り崩して生きる生活。 きっと俺は何かの転機がない限り延々とこんな生活を続けていく のだろう。 大切なものが何もない人間は、一体なんのために人生に努力する のだろう。 きっと俺は自分の人生すら大切ではないのだ。 4 prologue 0 翌日、前の日と同じように朝起きてネットをチェックすると、今 やっているゲームがサーバーメンテナンスで夜までできないという 情報が目に飛び込んできた。 一日中寝ているのもなんなので、俺はいそいそと出かける支度を した。 久しぶりに量販店でも回って、いろいろと買いこんでこようと思 ったのだ。 一週間前に、食器が山と入った水切りカゴがバランスを崩し、床 に落ちた拍子に大半の食器が割れたため、食器も補充しなければな らなかったし、衣類も穴が空いて捨ててしまったものを補充しなけ ればならない。 今どきは食器くらいネットで買ってもよいのだが、どうせ暇なの だから歩きに出るのも悪くないだろう。 俺は少し迷って、上着を着て出て行った。 今は四月のはじめで、まだ肌寒い。 空模様は曇天だし、上着を着ていったほうがいいだろう。 今日は平日だ。 平日も昼間となると、このような田舎町でも、街なかに近づくに つれ健全に仕事をしている勤勉な人々が目につくようになる。 なんだか居た堪れない気持ちになった。 罪悪感は沸かないし、俺も昔はああだったことを考えると、昔に 5 戻りたいとも思わないが、やはりなんとなく居心地が悪い気がする。 早く帰りたかった。 *** もう少しで量販店に着く。 寂れた商店街の歩道を歩いていると、前方に母子の親子連れが歩 いているのに気づいた。 俺も人生のどこかが違っていたら、このくらいの歳の子どもが居 てもおかしくないんだよな。 そう思うと胸が苦しくなった。 こんな男が後ろから子ども連れを見ていたら、不審がられてしま うかもしれない。 昨今の事情を鑑みると、子どもはともかく親はいい顔はしないだ ろう。 そう思い、足早に追い越そうとした。 ﹁あっ、お父さんだ!﹂ 俺が横を通り抜ける瞬間、そう喋る声が聞こえた。 ぱっと横を見ると、少女が母親の手を振りきって、ガードレール の間を通って道路に入ろうとしていた。 前方を見ると、大型のトラックが迫ってきている。 やばい。 俺はそう直感して、とっさに後を追って道路へ入った。 6 既に道路に飛び出している少女に手を伸ばす。 視界に映る母親は、目を見開いて、何故か両手で口を包んでいる。 悲鳴でも押し殺しているのだろうか。 それより先に助ければ良いのに。 俺がとっさに少女の翻ったフードを掴み、思いっきりひっぱった。 俺の体はもう車線の真ん中あたりに来ている。 思いっきり腕を振るって、少女を路肩に放り投げる。 死んだか。 俺は死を覚悟して体を強ばらせた。 だが、衝撃は来ない。 代わりに、耳のすぐ横を、ギリギリで俺を避けたトラックが通り 過ぎた轟音と暴風が突き抜けた。 肝を冷やした運転手が鳴らしたであろう、クラクションの音が響 き渡る。 あっぶねー。 危機一髪、九死に一生ってやつか。 目を開けると、泣きながら幼女を抱擁している母親の姿があった。 *** なんだったんだ一体。 夫婦に相応の感謝をしてもらって、一家から離れたあとになって も、興奮が冷めやらず、冷や汗はとまらんわ手は震えるわで、とて 7 もショッピングを楽しむどころではなかった。 心ここにあらずで食器を幾つか買うと、服を買うような気分では なくなってしまった。 夜になるまでの暇つぶしに漫画本でも買って帰ろう。 そう思って、地元では大型の本屋に向かって歩き始めた。 地元民しか知らないような裏道を使う。 途中、電車の通る踏切があった。 歩行者や原付だけが通れるような狭い踏切で、棒が降りてくるわ けではない。 そこに一人の少年がいた。 足を線路に挟まれている。 なんだか靴が脱げないらしく、四苦八苦している。 この路線は第三セクターの鉄道会社が運営しており、非常に経営 が厳しく、貧乏なことで知られていて、ものすごい古い車両を使っ ている。 そんなだから、こんな小さな踏切までは整備が行き届いていない のだろうか。 少年が俺に気づき、こっちを向くと、目が合った。 面識もないのに、助けてくれという言葉がアイコンタクトで伝わ ってきた。 しょうがない。 俺は荷物を置いて少年のもとへ駆け寄ると、靴を見た。 靴はマジックテープ式ではなく、靴紐のスニーカーで、足首のと 8 ころに意味不明なダンゴみたいのがついてる。 ダンゴは、靴紐だった。 半分乾いたスパゲッティをこね回したような、わけわからん結び 目になっているのだ。 どうなってんだこりゃ。 どうやったらこんな結び目になるのだ。 こんなん、普通に解いたら十分かそこらかかりそうだ。 ﹁靴紐切るからな﹂ と言うと、少年は怖がっているのか、猛烈な勢いで首を縦に振っ た。 といっても、ナイフなどを携帯しているわけではない。 近くの民家でハサミでも借りてくるか。 だが、交渉しているうちに電車がきてしまうかもしれない。 本数の少ない路線だからそれほど心配はないだろうが、急ぐこと には急ぐべきだ。 俺は荷物のところまで戻ると、先ほど買った食器が入っているビ ニール袋から、一つ手頃なものを選んで、地面にたたきつけた。 カシャンと小気味良い音がする。 ビニール袋の中を見ると、新聞紙にくるまれた割れた茶碗が入っ ていた。 もったいないことをした。 だが、しょうがない。 一番大きな欠片を持って、少年のところへ戻る。 割れた茶碗の鋭利な側面を使い、靴紐を上から順にブツブツと切 っていった。 9 全て切り終えて、靴を緩ませる。 ﹁ほら、足抜いてみろ﹂ 少年は思いっきり足に力を入れた。 だが抜けない。 そのとき、聞こえてほしくない音が聞こえてきた。 カンッカンッカンッ⋮⋮という踏切の音だ。 遮断機はなくとも音はあるらしい。 電車がくる。 俺はその事実にかつてない焦燥感を覚えた。 少年のほうは泣きそうな顔になっている。 もう足を抜くとか抜かないとか言ってる場合じゃない。 こういう時のために、踏切には非常警報装置がある。 周りを見ると、設置が義務付けられているのか、警報装置はちゃ んとあった。 一目散に警報装置を押す。 しっかりと押下している感触が手に伝わるが、警報はならない。 二度、三度と押すが、狼煙のような煙が上がるようでもなければ、 カンカン以外の音が鳴るわけでもない。 ⋮⋮音が出ないタイプとか? 俺は少年のところへ戻った。 機械が動いてるんだかどうか分からないが、信用してどっかへ行 くわけにもいかない。 少年を線路から引き離せればそれが一番いい。 10 ﹁少し痛いかもしれんが、我慢しろよ。一緒に力を入れろ﹂ 俺は少年の両脇に腕をいれて、背筋を使って思いっきり引っ張っ た。 それでも少年の足はびくともしない。 いつ電車が現れるかと思うと、ドキドキした。 ﹁俺におぶさるようにしろ﹂ 俺は少年の前にいき、しゃがみこんで少年に背を向けた。 少年は俺におぶさってくる。 胸の前に垂れてきた少年の両手首を掴み、背筋・腹筋・大腿筋、 全ての筋肉を動員して、一本背負いのような要領で引っこ抜きにか かった。 ﹁んっ!!!﹂ っと声を出しながら全力で力を入れると、ふいに抵抗がなくなり、 前のめりに転げた。 耳にはゴトトンゴトトンという電車の車輪が線路を打つ音がして いた。 ﹁逃げろ!!!﹂ 大声で指示しながら、立ち上がる前に横に転がった。 ゴロゴロっと転がって踏切を出た瞬間に、 ズオオオオオオオッ!!!! ガタタンッガタタンッ という音が、すぐ近くで聞こえた。 あっぶねぇ⋮⋮。 やっぱり機械動いてなかったんじゃねえか。 今日はなんちゅう日だ。 少年は俺の横に転んでいた。 11 足首に激痛が走っているらしく、イタイイタイ言いながら蹲って いる。 俺は救急車を呼んだ。 *** はあ、なんて日だ。 少年を救急車に載せ、事情を説明し、気づけば昼飯を食う暇もな く、日が暮れようとしていた。 もはや、世界に殺されようとしているような気さえする。 死ぬかと思った。ということは人生で二度くらいあった気がする が、三十年あまりで二度だったものが、一日で二度起きたというの は、やはり尋常ではない。 だが、ゲームにしても、ドロップ率1%くらいのアイテムが二度 連続で落ちるなんてことは、意外と良くあるものだ。 そういうものなのかもしれないな。 割れた食器の入ったレジ袋を引っさげながら、俺は帰宅すること にした。 もう腹が減って何をする気も起きない。 もうすぐ家だ。と思いながら、家の近くの橋に通りかかると、川 面が夕日に照らされて凄く美しい光景を作り上げていた。 曇天がいつのまにか晴れて、オレンジ色に照らされた散り散りの 雲になっていた。 これは二人もの子どもの命を一日で救った俺へのご褒美なのか。 12 だとすれば慰められもする。 見返りとなったのは感謝の言葉のみで、茶碗代すら戻ってこず、 美人と知り合いになるような、エロゲみたいな展開もなかったけど。 これがご褒美なのだ。 俺はそう思い、己の心を慰めることにした。 そして、美しい風景を見ながら、気分を良くしつつ、短い橋を半 分ほど渡ったところで、欄干から身を乗り出して水面を眺めている 少女を見つけた。 んん?? 俺は目を閉じ耳をふさぎ、通り過ぎたい気分になった。 今日はツイてない。 なにか悪いことが起きるに違いない。 活発そうな格好をした少女は、欄干を鉄棒だとでも思っているの か、風景を見ながら両腕で体を持ち上げてゆらゆらしている。 よく見れば、雪解け水が流れてきたのか、はたまた一昨日降った 大雨のせいか、川は流れが早くいくらか増水しているようだ。 いやいや、そんなわけはない。 杞憂だ。 子どもが危ないことをしていたからといって、それが重大事故に 繋がる場合が、一体どれほどあるというのだ。 ハインリッヒの法則といって、別名をヒヤリ・ハットの法則とい うものがある。 1件の重大事故の背後には、29件の軽微な事故と、300件の 13 ﹁やっべ、危なかったなぁ﹂と思うようなヒヤリとした体験あると いうものだ。 逆を言えば330回も危険な行為をしても、人間はなんだかんだ で329回は軽微な怪我で済んだり危険を回避できたりするものな のだ。 その一回がまさか、こんなところでたまたま来るわけがない。 そう思って、通りすぎようとした、そのときだった。 ぐいんぐいんと体を揺らして遊んでいる少女が、たまたまバラン スを一番崩した瞬間に、大型トラックが車道を通りぬけ、トラック に押された突風が俺と少女に吹きつけた。 俺はたたらを踏むほどではないが、体を少し傾けさせられた。 悪寒を覚え横を見ると、杞憂に終わるはずだった光景が、現実の ものと化していた。 先ほどまでいた少女が居ない。 俺は、驚くという動作を忘れたかのように、呆然と突っ立ってい た。 逆に﹁どうしてこんなことが起こる?﹂と、ため息をつきたい気 分だった。 だが、ため息をついていられるほど悠長な事態ではない。 すぐに欄干にかけよって、川面を見下ろす。 すると、やはり少女は川の中に落ちており、パニックになって溺 れてしまっているようだった。 救けるか、救けまいか。 それが問題だ、と思いつつも、俺は服を脱いでいた。 14 下着姿になった俺は、すぐに川面に飛び込んだ。 元より、俺のようなクズの命など、生きようが消えようがどちら でも良いのだ。 衝撃とともに川面に落ち入ると、驚くべき冷たさが全身を襲った。 上流の雪解け水が溶けてできた川は、人間が浸かるには冷たすぎ た。 だが、兎にも角にも泳がなければならない。 水に入って泳ぐというのは、プールとも海とも縁遠くなった俺の 人生では、実に四年ぶりのことだった。 俺は泳いで泳いで、ようやく少女のところまでたどり着くと、俺 は少女の服を鷲掴み、ほとんど溺れながら岸に向かった。 体が見る見る冷えていくのが解る。 昼飯を食べてなかったからだ。 不摂生な生活をしていたから、体力不足も祟ったのだろう。 命からがら岸辺に辿り着き、少女を岸辺に上がらせると、もはや 自分自身が岸辺に上がる体力はなかった。 俺はそのまま水に呑まれて、流された。 15 第001話 誕生 なんだか夢見心地のような気分で、俺はぬるま湯のような海の中 を漂っていた。 それは異常なほど長い夢で、それなのに途中で飽きることもなく、 飽きるということを感じる機能がまだ備わっていないように、頭の 中が単調で、ぼやけていた。 心地いい温度と体温の中で幸福ばかりを感じる世界で、俺は無限 とも思える惰眠を貪った。 一週間とも一年とも思えるような平和な時間の後、唐突にプロレ スラーにヘッドロックをかまされたような強烈な圧搾感が頭を襲い、 突然に平和は破られた。 頭を割って殺す気か、というような生命の重篤な危機を感じた後、 悪夢から覚めたような開放感があり、俺は謎の圧搾感から解放され、 外気に触れた。 再びぬるま湯に浸かり、これまでと違ってさらさらとした湯で体 を洗い清められ、俺はやわらかい布にくるまれ、誰かの手に抱かれ た。 目は重度の近視老眼を患っているかのように不明瞭にしか世界を 映さない。 良い酒で深く酔った夜のように胡乱になった脳は、痛みを与える 要因から逃れつつ、食欲と睡眠欲を充足させるという目的を満たす ことで精一杯だった。 16 誰とも分からぬ人間の乳を本能的に吸いながら、視界が光に満た されるのと夜の帳が降りるのとを十回ほど見たころ、俺の頭のなか はようやく明瞭になりはじめていた。 *** ︵まだ、夢を見ているのか?︶ 柔らかな思考の中で、つらつらと考え続けているのはそのことだ った。 夢をみているとしか思われない。 だが、もうずっと長いこと夢の中にいる気がする。 謎の頭痛があったのはもう数日前のことだが、夢の中にそのよう な長期記憶があるなどというのはあり得ないことではないか。 ﹁ゆえをいっえいっうおーか﹂ 言葉にしてまとめてみようと思っても、喉が上手いこと動かずに 言葉にならなかった。 この現実感はなんなのだろう。 天国か地獄か来世にでも飛んでしまったのだろうか。 最後のハッキリとしている記憶は、冷たい水のなかで足掻き、溺 れるシーンだった。 体の芯から冷たくなっていき、そのうち体が動かせなくなり、水 を飲み、水の中に沈んだ。 だが、今は、状況はわからないが、どこも痛くはないし、冷たく もない。 17 俺は柔らかいベッドに寝かせられ、一日中ぼーっとしているのが 仕事のようだった。 夢か現か幻か、まったく分からない現状で、どうにも俺は幼児に なってしまっているらしい。 *** 胸をさらけ出して俺に乳をくれるのは、俺の母親らしかった。 日がな一日中、俺に寄り添ってあれこれと世話をしてくれている。 なんだかこうやってオムツまで変えられていると、急に老けて老 人になったような思いがする。 胸は小さいが、俺の母親はとても美人だった。 欧州系の目鼻立ちがくっきりした顔つきではなく、アジア系とも 思われないのだが、日本にいたときの感覚でいえば、町で出逢った ら思わず振り向いてしまうくらいの容姿を持っている。 だが、その容姿は、俺の見知った人間のものではない。 まるきり人間と同じように見えるのだが、耳の形だけは明らかに 違う。 耳が少し尖っていて、髪の毛の延長のような毛が耳を覆っていた。 耳朶の中はピンク色をしているが、耳周りは髪の毛に覆われてい るのがわかる。 暖かそうではあるのだが、見た目はやはり異質に感じる。 そして、話す言葉はまったくの意味不明だった。 彼女は夜になると産着に包まれた俺をぎゅっと抱きながら、子守 18 話と思われる話を小さな声で朗々と吟じてくれるのだが、まったく 意味が解らない。 *** 時々、母親が夕食の調理でもしているのか、子守をバトンタッチ されるのが、俺の父親らしき男だった。 彼も日本で町をあるいていたらいかにもモテそうな風体の男で、 抱かれているとわかるのだが、かなり細身でありながら服の下はか なり鍛えていて、引き締まった筋肉を感じる。 ボクサーか新体操の選手みたいな体つきだ。 いったい何の仕事をしているのだろうか。 彼らの生活レベルを見てみると、どうみても現代のようには思わ れない。 服が全て天然繊維製だし、一度母親に台所に連れて行かれた時は、 竈が現役で活躍していた。 すると父親は人力車の車夫でもしているのだろうか。 いや、食卓に肉が頻繁に出ているらしいところや、家の作りなど を見ても、生活ぶりはなかなか良いようだから、人力車の車夫とい うことはないだろう。 だが、体を使う仕事をしているのは間違いなさそうだ。 なんにしろ、意味不明なことばかりだった。 19 第002話 家業 惰眠をむさぼるのは昔から得意だった。 ぼけーっとしていたら一年が過ぎてしまった。 *** そのころ俺は立って歩くことを練習していた。 立って歩くくらい簡単にできそうと思えたのだが、半年くらい寝 たきりだった人みたいに足が腑抜けてしまって頼りなく、それに加 えて頭と胴体の比重が足とくらべて大きすぎるため、歩けなかった。 なんというか、歩こうと思っても歩けない生物になってしまった ようだ。 この家族にはどうやら誕生日を祝う習慣があるらしく、俺も日数 を数えてるわけじゃなかったのでわからないが、季節がちょうど一 巡したあたりで、どうやら誕生日らしい祝い事をしてもらった。 といっても、俺はごちそうを食えるわけではなく、食事はいつも どおりだったので、パーティーを開かれたという実感はあまり感じ なかった。。 しかしながら、俺が主役なのは明らかだったので、やはり誕生日 なのだろう。 日常を見ながら分析してみると、この家庭はストイックな生活を していて、家族で出かけたりといったことは殆どないようだった。 20 来客もほとんどない。 なんだか不思議な家庭だ。 父親は早朝に出ていき、夜帰ってくるが、何日も帰ってこないこ ともある。 母親は、まず常に家にいる。 俺は立ちあがることもできない赤ん坊なので、どっかにいかれて しまっても困るのだが。 母親はなにかにつけ、言葉の分からぬ俺に話しかけ、言語学習を 捗らせてくれた。 パパ、ママくらいは何度か言われてるうちになんとなく察したの で、すぐに覚えた。 覚えたはしから使ったら、なんだか驚かせてしまったみたいだが、 出し惜しみのようなことをするのもアホらしいので、しょうがない だろう。 そんな暖かで平凡な日常を送っているうち、三年が経った。 *** そんなこんなで、俺は三歳の誕生日を迎えた。 三歳の誕生日の次の日、俺は父親に連れられて森の中の仕事場へ 行った。 三年の間に仕入れた情報によると、父はルークといって、母はス 21 ズヤというらしい。 ルークの名は、この世界のボードゲームの駒の名前から取られた 名で、スズヤは地名から名を借りたらしい。 鈴なり草という草がたくさん生える鈴なり谷という風光明媚な地 があるらしく、そこの名だそうだ。 俺はユーリと名付けられているらしい。 三歳の誕生日の翌日、ルークに連れられてやってきたのは、俺の 家の裏手にある小高い丘を跨いだ場所だった。 カケドリ 行きは、駆鳥と呼ばれている大型の飛べない鳥類に、ルークの股 の間に座る形で乗って行った。 こいつは、ダチョウの首を太くして頭をでかくし、頭から首にか けて羽毛をかぶせたような不思議な鳥類だ。 どう考えても、こんな鳥は地球にはいない。 ダチョウとは言ったが、ダチョウよりかなりカッコいいシルエッ トなので、こんな動物が地球にいたら、動物園では引く手あまただ ろう。 さすがに俺が知らないのはおかしい。 それ以前に耳に毛が生えた人類がいる時点でおかしいのだが、や はり地球でない別の惑星に来てしまったらしい。 カケドリ 駆鳥は実に優秀な騎乗動物で、馬より乗り心地がいいんじゃない かと思える。 逆関節のような形になっている二つの足で走っているわけだが、 この足がサスペンションのように衝撃を吸収して、胴体が上下しな い仕組みになっているらしい。 22 連れて行かれたルークの勤め先は、なんというか牧場のようなと ころだった。 牧場といっても、ただ家畜を並べて飼っているという風情ではな い。 広い敷地に家畜舎のようなものがあり、柵でコースが作られた馬 場のような場所があり、開いた所は牧草地みたいになっていた。 ﹁ここが俺の牧場だ﹂ ルークはそう言うと、さっとカケドリから降りて、鞍に乗ってい る俺を抱きかかえておろした。 ﹁すばらしいです﹂ 俺は素直に感想を言った。 針葉常緑樹の森の中に切り開かれた牧場は、いかにも牧歌的での んびりとした雰囲気がある。 木造の畜舎は、まあ多少ボロくなっているが、良く手入れされて いるようだ。 木板が朽ちて壁に穴を作っているのを放置してある。なんてこと もなく、ところどころキッチリと補修 してあり、穴もない。 日本にいたころの感覚から照らしあわせても、十分に立派な牧場 だ。 ﹁なんでこの場所に牧場を作ったか解るか?﹂ ﹁ここは父上が一から作った牧場なのですか?﹂ 俺はてっきり家業の牧場を継いだのかと思っていた。 23 この牧場はハンパな大きさではなく何ヘクタールもありそうだ。 ﹁そうだよ。俺が作ったんだ﹂ ﹁すごい﹂ いや、凄いよそれ。 その若さで一からこれ作ったとか。 なかなかできることじゃないよ。 ﹁そんなことはいいから、父さんの質問に答えなさい﹂ そうだった。 とはいえ、ルークは子どもに褒められてまんざらでもなさそうな 顔をしている。 いや、本当にたいしたもんだと思うよ。これを一代で作り上げた とか。 俺とかね、同じような年齢だったのに、嫁もいなけりゃ持ってる のは親から継いだちっちゃな家だけだったからね。 ﹁うーん、森の中で家畜が鳴いてうるさくしても周辺住民の迷惑に ならないからでしょうか﹂ 俺は高校のときの同級生のことを思い出して、そう言った。 そいつは豚だか牛だかの牧場の近くに住んでいて、家畜の夜鳴き で夜眠れない。受験勉強が捗らない。受験に落ちたらあいつらのせ いだ。とか愚痴をいっていた。 ﹁⋮⋮面白いことを考えるな。確かに、実際近くに人が住んでいた ら煩くて迷惑かもしれん﹂ 24 どうも違うらしい。 なにやら感心したように俺の顔をしげしげと見つめておる。 そんなにおかしな返答だったろうか。 ﹁でも、このへんの住民は、たいてい自分の家でも家畜を飼ってい るから、あんまり気にしないだろうな﹂ へー。 そうなのか。 自分の家で家畜を飼っている。 そういう家庭は日本にはなかなかない。 ﹁正解はなんでしょう﹂ ﹁ほら、ここは山と山に挟まれているだろう﹂ 遠くを見ると、山というか丘に見えるが、確かに山と山に挟まれ ている。 四方に丘が迫っていて、見晴らしはとんでもなく悪い。 ああ、そういうことか。 ちょっとした盆地になっているのか。 ﹁山の上を風が通り抜けるせいで、ここは風がこないんだよ。風が 吹き付ける土地ではトリは上手く育たないんだ﹂ なるほど。 専門的で納得できる理由だ。 しかし、ルークは今でも若く見えるし、牧場を拓きはじめた時は 25 もっともっと若かったはずだが、その時からそんな目算を頭に秘め て牧場適地を探しまわり、実際に納得できる場所を見つけ、牧場を 拓いて経営を成功させたのだろうか。 口で言うだけなら簡単だが、これは本当に容易にできることでは ない。 凄い人物なのかもしれない。 成功する人物というのは案外そういうもので、そのくらいのこと は自然に考えているものなのだろうか。 ﹁父上の仕事は牧場主なのですか?﹂ と俺が聞くと、 ﹁まあ、そのようなもんだ﹂ とルークは答えた。 家庭内の会話から察していたが、やっぱり牧場を経営しているら しい。 ﹁これをすべて一人で切り盛りしているのですか?﹂ ﹁いや、人を雇ってる。もう来ているはずだ﹂ そらそうだよな。 ルークは手綱を手にとって馬止めに繋ぐと、俺の手を引いて家畜 舎のほうに歩いて行った。 *** 家畜舎の中を見ると、馬のかわりにカケドリが並んでいるような 26 作りになっていた。 一羽一羽のスペースは広々としていて、狭苦しくはない。 その中には二人、作業服を着た農夫のような人がいて、通路の真 ん中に置いてあるリアカーのような車両の両側で働いていた。 餌を満載した荷台から、カケドリの餌カゴにさかんに餌をやって いる。 どうもこの世界の技術水準を見ると、車軸にベアリングが使われ ているとも思えないのだが、足回りはどういう仕組みになっている のだろうか。 気になるところだ。 ﹁なるほど、餌は干し草なんですか﹂ 俺はカケドリの生態についてまったく知識がない。 ﹁干し草だけでは痩せてしまうから、雑穀や木の実や豆を混ぜる﹂ ﹁へえ﹂ 草食性らしい。 餌は馬とほとんど変わらないようだ。 ﹁野生のカケドリは草や落ちた木の実を食べて生きているが、食べ 物のない冬は小動物も狩って食べる。ここでも、放牧しているうち に兎を狩ってたべていることがあるよ﹂ 草食性どころではなかった。 馬は兎を取って食ったりはしない。 草食寄りの雑食動物といったところか。 27 ただ、カケドリのすばしっこさと丈夫そうな嘴を見ると、森林や 草原を駆けてネズミやウサギを狩っている姿は、いかにも似つかわ しい。 ﹁肉は食べさせないのですか?﹂ ﹁食べさせない。体が強くなるけど、肉の味を覚えると気が荒くな るんだ﹂ ﹁なるほど﹂ 血の味を覚えるみたいな話か。 生育に必須な食料ではないらしい。 ただ、それは科学進捗が未熟だからそう思うだけで、本当は必要 なのかもしれない。 日本の畜産肥育の学者に分析させたら、そんな飼料ではカルシウ ムやナトリウムが絶望的に足りないから餌に肉骨粉を混ぜて岩塩の 塊を置けとか言うかもしれない。 実際の所はどうなんだろうな。 ﹁ただ、それを好む人もいるから、特別な注文が入ればネズミ返し を付けた柵の中でネズミを狩らせながら育てることもある。調教が 大変になるが﹂ 暴れ馬を好む人間もいるらしい。 ﹁狂暴なカケドリをどうして求めるんですか?﹂ ﹁武人の中にはそういうトリを好む人がいるんだ。買っても乗りこ なせない人のほうが多いんだけどな。だが、上手く扱えば戦場に入 ったあとの暴れ方が全然違う。何人も蹴り殺して大暴れする﹂ 28 血に飢えた獣のように猛り狂うのか。 将来俺もカケドリに乗れるようになるにしても︵つーか、実際乗 ってみたくてワクワクしている︶そんな狂暴なトリは遠慮したいも のだ。 鞍に足をかけたら、振り落とされ、すかさず頭を踏み潰される。 なんてことも容易に想像できるし。 ひと オウワシ ﹁といっても、実はカケドリは殆ど他人に任せっきりなんだ。最後 の調教に付き合うくらいでな。俺は主に王鷲の世話をしてる﹂ ﹁王鷲ですか﹂ 読み聞かせてもらった本の中で幾らか登場したが、意味不明だっ た動物の一つだ。 ﹁空をとぶトリのことだよ﹂ 鷹狩りに使う鷹の繁殖でもしているのだろうか。 ﹁ついておいで﹂ そう促されて、俺は別の家畜舎に連れて行かれた。 その家畜舎はカケドリのところとはまた違い、三階建ての建物の ような形になっていた。 窓が多く、すべて開いているが、窓板の内側には鉄格子のような ものが張ってある。 ここでトリを飼っているのだろうか。 鳥を生育する設備といえば、ニワトリ以外では鳥カゴと金網ケー ジくらいしか知らないので、なんともいえない。 ただ、この三階建ての建物がぶち抜きにされているとしたら、よ ほどの広さがあるように思われるが。 建物にたどり着き、ルークがドアを開けた。 29 ﹁入りなさい﹂ そっと背中を押されながら、中に入る。 びっくりして腰が抜けそうになった。 ドアの奥にあったのは、三階建ての建物をすべてぶち抜いて作っ た巨大な空間と、そこに住むトリ達だった。 だが、そのトリは異常だ。 大きさが異常だ。 頭からしっぽまで測れば3、4メートルはあるだろうか。 縞の入った茶色の羽をみっしりと体中につけ、爪は鋭く、嘴は大 きい。 その眼光は猛禽類のように鋭い。 ていうか鷲だった。 とてつもなく巨大な鷲だった。 俺がぽかーんと口を開いていると、 ﹁びっくりしたか?﹂ と、ルークがニヤニヤしながら聞いてきた。 ﹁そりゃあ⋮⋮はい﹂ ﹁そうだろそうだろ﹂ ﹁はい、凄い⋮⋮ですね﹂ 王鷲と呼ばれていた鷹は大きく、そしてカッコ良かった。 30 ずんぐりむっくりとしているわけではなく、シルエットがスレン ダーでシュッとしている。 飼われている王鷲は現在五羽だった。 この大きな建物全体で五羽というと少ない気もするが、サイズを 考えれば妥当にも思える。 建物は壁と屋根だけの建物なのかとおもいきや、中に入ると枝打 ちした大木をそのまま据え付けたような太い柱が何本も立っていて、 それで支えられていた。 柱からはこれまた太い梁が何本も伸びていて、壁に繋がっており、 王鷲たちはその梁に留まるのが好きなようだ。 梁から梁へと頻繁に飛んで移動している。 時折ぶわっと飛び跳ねたと思うと羽をばさんばさんと羽ばたかせ、 けっこうな勢いで梁を掴んで停止しているので、よほど太い梁でな ければ折れてしまいそうだ。 王鷲の翼は、縞のはいった茶色の羽でできていた。 そして、胸から腹の部分だけが白に灰色が混ざったような斑色に なっていて、それがアクセントになっている。 地味な色合いにクチバシと足の鮮やかな黄色が映え、これまた美 しい。 ﹁素晴らしい⋮⋮こんな生き物がいるなんて﹂ ﹁そうだろ? 俺が一番好きなトリなんだ。とても頭がいいし、慣 れれば人懐っこい﹂ ﹁人に慣れるんですか?﹂ ﹁そりゃあそうだろ。でなきゃ危なくて乗れないじゃないか﹂ 31 乗る? ﹁乗るってなんですか?﹂ ﹁物語で天騎士ってのが出てきたろ? なんだと思ってたんだ?﹂ ルークは不思議そうに言った。 確かに出てきたが、役割のよくわからん偉い騎士という認識しか なかった。 ﹁お前も乗りこなせるようにならないとな﹂ なんかわけのわからないことをいっておられる。 ﹁これに乗って空を飛ぶんですか﹂ ﹁怖がらなくても、もちろん俺が一緒に飛ぶから大丈夫だ。三歳の ころに王鷲に乗らせるのは、ホウ家の伝統みたいなもんなんだよ。 俺も三歳の時にやらされた﹂ そういうことを言ってるんじゃないんだが。 なんだか今日俺を乗せて飛ぶつもりでいるらしい。 話から察すると、ビビってる子どもの俺をなだめすかして飛ばせ ようというような流れになっているようだ。 ﹁人を乗せて飛べる動物なのでしょうか﹂ ﹁もちろん。そのために飼ってるんじゃないか﹂ どうやら本気で言っているらしい。 ﹁大丈夫、父さんは世界一の王鷲乗りだ﹂ オヤジ特有の気休めを言い出した。 32 正直、怖くないといえば嘘になる。 こんな動物に乗って飛ぶとか、頭のなかの常識を司る部分が警鐘 を鳴らしている。 だが、ルークの物言いではどうやら先祖代々からの実績が十分あ るような口ぶりだし、慣れてるようなので、危険そうな匂いはしな い。 というか、ルークからは危なげなことに挑戦するという気配が微 塵も感じられない。 ﹁解りました。僕も腹を決めますよ﹂ ﹁よし、それでこそ俺の息子だ﹂ ルークが首から下げていた木製の笛を口に咥えて吹くと、一羽の 王鷲が降りてきた。 まさか笛の音で個体を選んで降ろしたのだろうか。 五羽のうち一羽しか反応しなかったので、選んで降ろしたのか。 俺があっけにとられた顔をしていると、ルークは壁にかかってい たカケドリ用とはまた別の、形のちがう鞍を持つと、まず嘴の先か ら手綱が繋がった皮の輪っかを通し、鞍を背中に据え付け、革のバ ンドを腹に回してガッチリ固定した。 鞍はのっぺりとしたものではなく、少し高くなっていて。馬の鞍 というよりラクダの鞍のような感じだった。 またがるのは同じだが、椅子のようにちょっとだけ高くなってい る。 ルークは王鷲の両側から伸びている手綱を手に取ると、それを引 っ張って誘導していった。 33 王鷲は抵抗する様子もなくするすると引かれていく。 そのまま、内側から閂のかかった大きなドアを開けて、外にでた。 そうして、建物から離れた草むらの中で、ルークはトントン、と 鷲の頭を二度叩いた。 王鷲は、すっと足をたたんでしゃがみ込む。 躾の良い犬が﹁お座り﹂と言われたように、ごく素直に座った。 ﹁ちょっと両手をあげろ﹂ そう言われたので言うとおりにすると、ルークは俺の腰に金属の 輪っかがついたベルトを回し、痛いくらいぎっちりと締めた。 そのまま腹のところを持たれ、持ち上げられる。 ﹁よいしょっと﹂ ﹁うわ﹂ 置物を置くように、鞍の上に置かれた。 ルークも同じようなベルトを巻いたあと、鞍の上に上がってくる。 俺の身長では鞍に跨ってもなんともないが、ルークは足を折って 座るように乗っていた。 少し窮屈そうだ。 あぶみ つまり、跨ってはいるものの馬と違って鐙がなく、座敷に﹁女の 子座り﹂で座っているような感じになる。 それでは腰がうわついてしまうから、鞍が若干高くしてあり、座 れるようになっているわけだ。 ルークは、腰につけたベルトと鞍とを皮のバンドで結び、体を固 定させてゆく。 これは一種の安全帯だったらしい。 34 それが終わると、股の間に座っている俺のベルトにもバンドを締 め、腰と鞍が絶対に離れないように固めた。 そして、ルークは手綱を操った。 *** 鷲が勢い良く羽をはばたかせ、飛び立つ寸前に、ルークが思い出 したように口を開いた。 ﹁いいか、飛んでいる間は絶対に口を開けるなよ﹂ ぐわっと今まで感じたことのないGのかかりかたを感じたあと、 ふわっと鷲の体が浮いた。 ジャンボジェットと違って、加速度に一定感がなく、羽をはばた かせるたびに波のような加速度が身を包む。 浮遊したあと、力強く何度か羽をはばたかせると、ぐんぐんと速 度が乗り、王鷲は本格的な飛行に移った。 めまぐるしく眼下の風景が移り変わってゆく。 あっという間に丘を超え、川を超えて、針葉樹の尖った木の先を 掠めるように飛行しながら、空気の壁の中を突き進んでゆく。 途中で羽に切り返しをいれたかと思うと、空の中で更に舞い上が るように天頂方向に向かっていった。 一気に高層ビルの高さまで登ると、背の高い木々と地球のまるさ に遮られていた視界が開け、世界が広がる。 35 雲で湿気を拭い取ったような晴れの空気は、どこまでも透明で、 遥か遠くの風景をくっきりと目に写しだした。 なんて美しいのだろう。 旅客機の小さな窓から見る世界とは違う、山の頂上の展望台から 見るものとも違う、なにも遮るもののない動的なパノラマは、どこ までも新鮮で、世界を美しく見せた。 しばらくそのまま旋回すると、また手綱が操られ、鷲は優雅なマ ニューバーを描きながらゆるやかな立体機動に移っていった。 空中で反転し、世界が逆さまになる。 体重が鞍から離れ、腰の安全帯で体が支えられているのを感じる。 すぐに安全帯からも体重が抜け、自由落下にうつる。 視界が空でもなく地平線でもなく、地表でいっぱいになる。 原始的な恐怖が頭をよぎり、パニックが思考を満たす。 だが、自由落下は数秒ほどで終わった。 鷲が羽の角度を変えて再び風を掴むと、ゆるやかに水平飛行に遷 移していった。 完全に水平飛行に転じたとき、まだ地表との間にはけっこうな高 度の余裕が残されていた。 *** 二十分ほども飛行していただろうか。 眼下に見覚えのある建物が見えてきた。 36 牧場だ。 俺はもう自分がどのへんにいるのかさっぱり解っていなかったが、 ルークはしっかりと覚えていたらしい。 鷲は墜落するかと思うような勢いで地面に降りていった。 降りる手前で幾度も羽をバタつかせると、急制動がかかり、軟着 陸でふわっと着陸した。 ﹁ふう﹂ と俺の頭の上で一息つくと、ルークは安全帯を外しにかかった。 カチャカチャと音がする。 ルークは一分もかからず自分のを外し、俺のもすぐに外してくれ た。 王鷲から降りると、俺に向かって﹁お父さんが受け止めるから飛 び降りなさい﹂と言った。 少し気後れしたが、鞍の上からぴょんと飛び降りた。 ルークは宣言通りに俺をがっしりと受け止めて、地面に降ろした。 ﹁どうだった?﹂ ルークは期待を込めた目で俺を見てきた。 ﹁素晴らしかったです。いやほんとに﹂ 俺は正直に感想を述べる。 ﹁よかったよかった。ユーリは大丈夫そうだな﹂ ルークは安心したように言った。 ﹁何がですか?﹂ ﹁いや、王鷲がだよ。王鷲乗りにはどうしてもなれないって奴がい るんだ。地に足がついてないと駄目ってやつがな﹂ 37 ああ、三歳児になると∼ってのは、それを試すための試験なのか。 高所恐怖症でなくても、怖がりな人間にはあれは無理かもしれな い。 怖がりを見下すわけではないが、怖いとどうしようもなくなると いう人は一定数いる。 足がつかない海には入りたくないだとか、車は運転できるが高速 道路は怖いので入りたくないだとか。 そういう人には無理なのだろう。 ﹁僕は大丈夫みたいです。乗れるかどうかは解りませんが﹂ ﹁大丈夫、俺が見たところユーリは才能いっぱいだぞ。俺が言うん だから間違いない﹂ ﹁そうですか﹂ こういうことを家族に言われると、年甲斐がないと自分でも思う のだが、嬉しいような気恥ずかしいような気分が沸き上がってくる。 日本にいたころの人生では、俺の親は息子をこういう風に褒める ような人間じゃなかったし、そのうち両親とも死んで天涯孤独にな ってしまった。 どうも体に引っ張られて精神年齢が退行している気がする。 心が揺さぶられて涙腺が緩みそうになったので、あわてて堪えた。 ﹁そういえば、みんなこんな小さなころから訓練を始めるんですか ?﹂ ﹁あ、嫌だったか?﹂ ﹁いえ、全然嫌じゃありませんよ。でも、みんなやってるのかなっ て﹂ 38 ﹁まあ、三歳というのはウチのしきたりみたいなもんだが、みんな 小さいころからやるぞ。体が大人になるまでに一人で乗れないと、 天騎士にはなれないからな﹂ ﹁なんでですか? 大人になってから目指せばいいじゃないですか﹂ 軽飛行機を趣味で楽しむような感じで。 ﹁ああ、王鷲は大人の男二人は乗せられないんだ。重量がな﹂ まじか。 どうやら厳しい体重制限が存在するらしい。 ﹁え、じゃあ太った人はどうするんですか?﹂ ﹁天騎士に太った人はいないよ﹂ ルークはそういって笑った。 確かに乗馬の世界とかでも、百貫デブのプロ騎手なんてのは聞い たことがないが。 王鷲乗りはルークのような細身で筋肉のついたような体が理想型 なのだろう。 ﹁ユーリのいうとおり、大人になってから王鷲に乗りたいって奴も いるんだけどな。そういうやつは、大抵うまくいかない。練習中に 墜落して死んじまう﹂ そうなのか⋮⋮。 ﹁ユーリも、絶対に許可が出るまでは一人で乗っちゃダメだぞ﹂ 39 ルークがその警句を発したときの表情は、今までの好きなことを 語る趣味人の顔から、子どもを心配する親の顔になっていた。 ﹁わかりました。肝に銘じておきます﹂ その日はこれで牧場をあとにして、カケドリに乗せられて家に帰 った。 その間、ぼーっと考えていたのは、王鷲のことだった。 40 第003話 スズヤの生活* 私は、名をスズヤと言います。 今年で三十五歳になります。 私は白狼半島の南部、シレナという地に生を受けました。 この地の地質は麦の生産には適さないのですが、湖水は多く、牧 草となる草は良く生えるので、人々は森を切り開いた地で羊や山羊、 牛などの家畜を飼いつつ、森で狩りをして、半牧半猟の暮らしをし ています。 領主となるのは武名に名高いホウ家の方々で、シレナの人々はま つりごとに関して鷹揚な彼らの下で、穏やかな生活送っています。 私は二十五歳になるまで他の田舎娘と同じように暮らしてきまし た。 農家の一日は、まず炊事から始まります。 私と母は、家族の父や兄たちより先に起き、朝食と男たちの弁当 の準備をするのが日課でした。 食事が終わったら男たちを猟に送り出し、後片付けが終わると、 男たちを追うように外に出ます。 まず家畜を追い、放牧地に家畜たちを放します。 そしてから、採草地へ行って飼葉となる草を採取します。 採草地というのは、長年にわたって少しづつ木を倒して拓いた開 墾地です。 放牧地と違って、沼に接しており、草の生えは良いのですが、こ こに家畜をいれてしまうと、家畜はたびたび水に溺れてしまいます。 41 なので、柵を作って家畜が入れないようにし、人間の草刈り場に しているわけです。 ここに生い茂る雑草を、腰をかがめてざくざくと刈っていき、持 ち運びやすいように束にしていきます。 今になって思うと、大変な重労働でした。 ここで刈った草は、すぐに家畜たちに食べさせるわけではありま せん。 雑草が生えているうちは、家畜たちを放牧地に放し、自然に生え ている雑草を食べさせます。 放牧地はそのための土地で、採草地で刈り取った草は、家畜たち の冬の食料となる干し草になります。 一夏かけて干し草を集めても、全ての家畜が長い冬を超えられる だけの量は集まりません。 なので、冬入りの前に屠殺をして、数を調整するのが常でした。 午前中は草刈りをし、昼食を済ませ、午後になると、私たちは森 の浅いところに入って果物や薬草を集めたものでした。 短い秋がすぎ、長い冬となり、山野の動植物が死んだように眠り につくと、糸を紡いだり布を作ったり、または刺繍をしたりと、そ ういった作業をして日々を過ごします。 そうしているうちに春となり、また草刈りが始まるのです。 私は、そのような、退屈ながらも満ち足りた生活をしていました。 そのころ、この家の女手は祖母と母、そして私だけでしたから、 私がいなくなってしまうと女手が足りなくなってしまい、家畜を維 持できなくなるので、私は嫁にいくこともお婿さんをとることも、 なかなかできないでいました。 42 お兄さんが結婚をすれば、お嫁さんが来るにしろ、婿へ行くにし ろ、人数が増えるか減るかするので、私の結婚はそれからというこ とになっていたのです。 お兄さんの縁談で減ったり増えたりした人数を、私の縁談で調整 することになっていたわけです。 お兄さんが三十歳になり、私が二十五になったとき、調度良い縁 談の話が来て、お兄さんはお嫁さんを貰いました。 我が家には一人可愛らしい娘さんが増え、その変わりに私は他所 の家に嫁に行く事になりました。 兄の嫁入りの宴が終わってしばらくすると、私は家長である祖母 に伴われ、嫁入り先探しにあちこちの家を歩きまわることになりま した。 もう少し南のほうの地方だと、本格的な耕作をしている関係で大 規模な農村ができているので、村の中での恋愛結婚なども多いよう ですが、シレナにはそのような集落はありません。 森の中に、一家の暮らす家がぽつぽつと点在しているだけです。 大きな集落になってしまうと、森のなかの狩り場が重さなってし まい、不都合や喧嘩が起きるからでした。 なので、お祖母さんは兄を使いにし、手紙をほうぼうに回しまし た。 私を嫁にほしいという家は、その場で兄にその意思を伝えるか、 人づてに話を聞いた場合は、私の家に手紙を出します。 そして、私は祖母にともなわれて、家々を回ったのでした。 43 シレナ地方のしきたりでは、向かった先で行われる顔見せの場で は、双方は婚儀に向けた具体的な話はしてはいけないということに なっています。 それは無粋な行為とされ、嫁や婿を欲しい家は、言葉でそれを伝 えるのではなく、歓待で態度を示すのが礼儀とされていました。 なので、﹁こんな嫁さんがうちにくるのかぁ、嬉しいなぁ。もう 決まったようなもんだ﹂というような、押しの強いことは言わず、 美味しいお酒を出したり、採取に手間のかかる香草を詰めた一番い い部位の肉でごちそうを拵えたりしたり、﹁こいつは人の三倍は働 くし、なにより誠実で優しいんだよ﹂というふうに、新郎候補の良 さをアピールしたりするわけです。 私も、兄の嫁取りの際には迎える側として歓待の用意をしたので、 受ける側になると恐縮してしまい、恥ずかしいやら申し訳ないやら で困ってしまいました。 なにしろ、こんなふうに多くの他人と、短い間に連続して出会う のは初めてのことでしたし、こんなごちそうを頻繁に食べたのも初 めてのことでしたから。 *** そんな時分、向かい先での滞在が好調に終わり、機嫌よく歩きな がら我が家に帰る途中、私は彼と出会いました。 カケドリ 街道というのもお粗末な、人ふたりがすれ違えられないほど狭隘 な道を、祖母と二人で歩いていると、道の先から一羽の駆鳥がきた のでした。 44 カケドリ 駆鳥というのは移動用・軍事用に用いられる飛べない巨大鳥で、 騎乗することができます。 それはそれは早く走る生き物なのですが、馬より疲れやすく大食 らいなので、農耕や荷運びにはあまり使いません。 余程急いでいる場合でなければ、殆どの場合、馬のほうが適して いるからです。 卵は美味しいらしいですが、肉は美味しくないので、農民はよほ ど豊かでもカケドリは持たないのです。 商人も荷運びに不向きなカケドリは持ちません。 自然と、上流階級もしくは騎士の方々専用の乗り物ということに なるわけです。 だからといって馬とくらべて特別に高貴な乗り物とされているわ けではないですし、所有を罰する法もないので、農民や商人でもカ ケドリが好きなら乗っても良いのですが、周囲の顰蹙を買うのを恐 れて、あまりそういうことはやらないようです。 そういう事情があったので、私たちはびっくりして道を譲ろうと 街道を外れ、急いで草むらの中に入りました。 カケドリはリズムのよい駆け足でこちらにきて、私たちに気づく と速度を自然に落とし、歩く速さになり、さらに速度を落としまし た。 そうして目の前でピタリと止まりました。 乗り手の男の人は丈夫そうな綿の服を着ていて、一見では身分は わかりませんでした。 ただ、服のほうは、私のような娘が農業の片手間に織ったような 粗雑な布ではなく、どうも職人が織ったらしい布で、染めも良いも 45 のに見えました。 乗り方が上手かったのか、カケドリは走りを止められて不機嫌に なる様子もなく、首をかしげたり近くの草をついばんだりしていま す。 御者である男の人は、チラと祖母を見た後、私を見ました。 じっと目と目が合います。 そのまま、一分ほど見つめ合っていたでしょうか。 私は、なんでこのひとは私をこんなに見つめてくるのだろう。 と、不思議に思いました。 ふいに、祖母が口を開きました。 ﹁もし、あなた様はもしやホウ家のご子息様ではありませぬか﹂ 私ははっとして祖母を見ました。 ﹁はい、いかにもそうです﹂ 男の人は丁寧に返事をかえし、私から目を放して、祖母を見まし た。 カケドリ ホウ家の男といえば、この地では数百年来の領主様であり、戦と なれば槍を背負って駆鳥に乗り、出陣していく方々です。 ですが、その人は優しげで丁寧な言葉遣いで、まるで武辺者には 思えませんでした。 ﹁私とここにいます娘はこの近くの農家のものでございます。嫁入 り先を探しに、となり町まで行ってまいった帰りでございます﹂ ﹁なるほど﹂ 男の人はそれだけいうと、また私を見ました。 46 祖母は、この男の人に自己紹介以上にどのような話をすればよい のか解らず、下手に声をかければ失礼にあたるかもしれないので、 困惑しているようでした。 それからまた数十秒私を見ると、 ﹁引き止めてしまってすいませんでした。夜になる前に家まで帰れ ますか﹂ と言いました。 ﹁はい、すぐそこでございますので﹂ ﹁では、お気をつけて。それでは失礼⋮⋮﹂ その男の人は、私たちが砂埃をかぶらないようにゆっくりと駆鳥 を歩かせ、少し先まで行くと速度を上げて走り去りました。 我が家に嫁迎えの申し入れがあったのは、その一週間後でした。 ホウ家では、これまで見たこともないような豪邸で歓待をしてい ただき、私は恐縮しっぱなし。 道で会ったあの男の人はホウ家の次男で、武家に生まれたものの 武の才能がなく、トリの繁殖と調教の仕事をしているということで した。 祖母は二つ返事でこの縁談を受けようと言い、私も否とは言いま せんでした。 そうして結婚して、私はホウ家に入りました。 といっても、本家の大きなお屋敷に入ったというわけではなく、 彼は本家とは離れた場所にある小さな家に一人で住んでいて、そこ に同居ということになったので、家の大きさはあまり変わりません でした。 47 そうして結婚してから十年。 私は幸せな生活を続け、私は彼との間に初めての子を授かりまし た。 その子は生まれた時からとても静かで、産婆は産声すらあげない 我が子を見て死産と思ったほどでした。 生後三日たって元気に乳を吸う我が子を見ても、あまりにも静か で暴れもしないので、産婆は障碍児と疑っていたようです。 ただ、私はあまり心配していませんでした。 この子は確かにあまり泣きませんが、お腹が減った時などやおむ つを交換してほしい時にはちゃんと大声で私を呼びます。 それに、この子は家事が終わって私がだっこしてあげると、とて も安心したような、幸せそうな顔をするのです。 家事にかまけて放っておくと、寂しがり屋の気が出てくるのか、 ベビーベッドの中で寂しそうな顔をしています。 普通の赤ちゃんなら寂しかったら遠慮なく泣いて親を呼ぶもので すが、この子はそれがない分、こちらから気づいてあげないといけ ません。 そういうときに私が抱き上げて話しかけてあげると、とっても温 かくて優しい表情になるのです。 きっと、この子は寂しがり屋さんで優しい子なんだと思います。 この子をユーリと名づけたのは、ホウ家の家長であり、ホウ家騎 士団の首領であらせられる、ゴウク・ホウ様です。 結婚式のときにも仲人になっていただき、粗末な服しか持たぬ私 の家族に衣類を貸し与えて頂いた、大恩あるお方でした。 48 *** ユーリは、体ができてくると、何かに急き立てられるかのように 立って歩くことを覚え、トイレの場所を聞き、早々にオムツから卒 業しました。 三歳になるころには、文字を教えてくれるようにせがみ、教えて あげると、今度は家にある、夫にしか読めないような難しい本を読 み漁るようになりました。 夫がいるときは読み聞かせをせがみ、夫はたまに商用でいく王都 で本を借りてきては読み聞かせをするようになりました。 夫の読み聞かせる物語は、私が聞いても新鮮なもので、面白かっ たものです。 三歳の誕生日を祝うと、予め決めていた約束通り、夫はユーリを 仕事場に連れて行きました。 帰ってくると、よく解りませんでしたが、夫はユーリに才覚があ ることを喜びながら話してきて、ユーリも常にないほど興奮した様 子で、今日の体験を面白がっていたようでした。 49 第004話 忘れぬために 四歳の誕生日が近づいたころ、俺は夕食の食卓で両親に言った。 ﹁今年の誕生日は白紙の本を頂けないでしょうか、できる限り分厚 いやつを﹂ 俺が初めてこの両親に物をねだった瞬間である。 両親ははっと驚いた顔を一瞬したあと、少し困った顔で俺を見た。 ﹁ユーリ、なんに使うんだ? そんなもの﹂ ﹁日記というか⋮⋮考えたことを書き留めたいんです﹂ ﹁そうか、読み書きはもうできるようになったのか?﹂ ﹁もちろんできますよ。もう教えることがないくらい﹂ 実際、国語教師のスズヤには、もうほとんど教わることがなかっ た。 といっても、それは俺の言語学習が完璧ということではまったく ない。 スズヤは農民出身の女性で、貴族層の端くれにあるルークとは驚 くべきことに恋愛結婚のような形で婚姻したらしい。 農民として育ったスズヤは、多少の読み書きはできるものの、日 本の事情で例えれば小学校卒業程度の能力しかない。 自分の名前を書けて、道に刺してある道案内の看板のようなもの や、たまにくる回覧板を苦なく読める程度だ。 50 ルークは一応は貴族なので、法律関係の本や、簡単な歴史につい ての本は、何冊か家に置いてあるのだが、スズヤは難しい言葉で書 いてあるそれらの本は読めなかった。 それはさておき、俺がなぜ白紙の本が欲しいのかというと、もち ろん日記を書くためではない。 前世というか、日本にいたころの知識を忘却の彼方へなげうって しまわないように、書き留めておきたかったのだ。 ﹁お願いします。来年も再来年も誕生日プレゼントはいらないので、 買ってください﹂ 俺は深々と頭を下げた。 ﹁でもなぁ、お前は知らないだろうけど、本っていうのはけっこう 高価な代物なんだ﹂ 俺はルークの口調が親父特有の説教モードに入ったのを感じた。 ﹁はい⋮⋮﹂ こういう場合は殊勝な態度をとりつつイエスマンになるに限る。 ﹁買ってやるのは構わないさ。けど、そのへんの玩具とはわけが違 うんだから、落書き帳のようにするんだったら買ってやる甲斐がな い﹂ これは確かにルークの言うとおりだった。 この国の紙というのは、日本でいう和紙とか洋紙とかではなく、 羊皮紙だ。 羊皮紙というのは、獣畜の皮から毛をこそぎとって作る。 そのままでも毛皮として売れるものを、わざわざ毛を毟り、なめ 51 し、裁断して売るわけだ。 言うまでもなく手間のかかった商品であり、当然だが、それを束 ねた本も高価にならざるをえない。 実際の値段は解らないが、日本円でいえば、40∼50万円ほど してもおかしくない。 もちろん、本として文字を書く手間が省けるのだから、白紙なら ば30万程度かもしれないが、それでも高いことに違いはない。 テレビゲームの本体を買ってくれというのとはわけが違う。 四歳児に、そのような高価かつ無用の長物としか思えないものを ねだられて、買ってやる親がどこにいるだろうか。 日記にするなどと言っても、幼稚園児の絵日記帳のようなものを 想像するのが当たり前なのだから、それなら木の板にでも書いてろ というだろう。 だが、俺はどうしてもそれが欲しかった。 ﹁あなた、買ってあげましょうよ。ユーリはいつも家の手伝いをし てくれていますし。ものを欲しがるなんて初めてなんですから﹂ スズヤお母さんのナイスフォローが入った。 もっといってやれ。 ﹁そうはいうけどな、本って四千ルガくらいするんだぞ﹂ ﹁えっ⋮⋮⋮そんなに?﹂ スズヤはびっくりしたように言った。 びっくりというのは、多少控えめすぎる表現かもしれない。 驚愕、といったほうがいいような顔だった。 52 四千ルガの金銭価値がわからん。 ﹁ああ。だからな、同じ四千ルガ払うんだったら、山ほど玩具が買 えるんだ。なにも本なんか買うことは﹂ ﹁色々考えた末のことですから、玩具はいいんです﹂ 玩具とかまじでいらんから。 どうせ積み木とかだろ。 ﹁家の手伝いでもなんでもしますから、お願いします。決して無駄 にはしません﹂ 俺は食い下がった。 ﹁本当だな?﹂ おっ? ﹁本当に本当です﹂ 俺は思い切り真剣な表情をしてみせた。 といっても、子どもの顔だから、大した迫力はないだろうが。 ﹁そうだな⋮⋮じゃあ、まずお母さんの手伝いを熱心にすること。 あと、今度からは牧場の仕事も手伝うこと。これを約束したら買っ てやる﹂ ﹁本当ですか。約束します﹂ 二つ返事でオーケーした。 おおかた言葉を覚えた今となっては、家にいても暇だしな。 ﹁よし﹂ ルークは右手を拳にして差し出した。 なんだ? 握手でもするつもりだろうか。 53 ﹁? ⋮⋮なんですか?﹂ ﹁男同士の約束の仕方を教えてやる。拳を出しなさい﹂ 俺は言われるままに拳を出した。 ルークは縦に握った俺の拳の上下を、同じようにした拳で叩き、 最後に拳をぴったりとくっつけた。 ﹁手を開け﹂ 拳を解いて手をひらいたので、俺もそれにならう。 握手するのかとおもいきや、ルークは俺の手首を掴んだ。 俺もそうしたほうがいいのかと思い、ルークの手首を握ろうとし たが、俺の手は小さすぎてルークの手首を握ることはできなかった。 ﹁ここでぐっと引っ張り合いっこするんだ﹂ ルークはそう言うと、軽く俺の手をひっぱった。 反射的に俺も引っ張り返す。 ﹁わかったか? もう一度やろう﹂ 手順がわかったので、今度はスムーズに拳を打ち付けあい、奇妙 な握手をした。 こういう風習があるのか。 なるほど、指きりげんまんより随分とフォーマルで男臭い握手で ある。 ルークとぎゅっと手首をつかみ合うと、柄にもなく胸の奥に熱い ものがこみあげてきた。 この約束は破ってはいけないと感じる。 54 ﹁これをやって誓ったことを破ったら、そいつはもう誇りを抱けな くなると言われている。お前もそうそう安易にこれをやったらだめ だぞ﹂ ﹁わかりました﹂ 肝に銘じておこう。 ﹁男同士といいましたが、女の人とはやってはいけないのですか?﹂ なにげなく俺がそう尋ねると、ルークはちょっとギョっとした目 で俺を見た。 次になぜかバツが悪そうにスズヤを見る。 スズヤのほうは平気な顔をして微笑んでいた。 ﹁もってのほかだ﹂ ﹁そうですか﹂ たぶん、浮気に該当するのだろう。 むすびて ﹁これは結手といって、男同士でするものと、女同士がするものと、 男と女がするものとがある。結婚式でやる一回以外は絶対に男と女 の結手はしては駄目だ﹂ ﹁わかりました﹂ それは婚前交渉より問題があるような類のものなのだろうか。 たぶん風俗とか行ったとき馴染みの風俗嬢とかと盛り上がってコ レをしちゃったりすると、非常に問題があるというか、社会的信頼 を失うことになるんだろうな。 もしやったら、優しいスズヤお母さんがフルスイングで引っ叩い てきたりして。 55 ﹁絶対にしないので大丈夫です﹂ ﹁約束だ﹂ ﹁はい。大丈夫です﹂ ﹁大丈夫ですよ、ユーリは中途半端なきもちでこれをしちゃいけな いって事をちゃんと解っていますから﹂ スズヤが優しげな声で言った。 その声色は俺について微塵の心配もしていないという感じで、逆 に不安になるくらいだった。 どっちかっていうと俺はクズなほうなんだけどな。 ﹁そ、そうか﹂ ﹁それより、本を買い求めるのなら都に行かなければならないでし ょう? 今度行くときに連れていってあげたらいかがです?﹂ ﹁え、都にか?﹂ ﹁ユーリがものをねだるなんて初めてですもの。とっても欲しいも のなんですよ、きっと。それなら自分で選ばせたほうがいいです。 へんなものを買ってしまってがっかりさせたら可哀想ですし﹂ ナイスフォローだ。 ﹁それもそうだな、ユーリに都を見学させるいい機会かもしれない し⋮⋮来週、王鷲の納品があるから、その時に行くか﹂ マジか。 願ってもないことである。 ﹁⋮⋮とても嬉しいです。ありがとうございます﹂ 思わず嬉しさで頬が緩んでしまう。 56 親二人はそんな我が子の顔を見て、やわらかに微笑んでいた。 57 第004話 忘れぬために︵後書き︶ 本の価格設定について 中世の羊皮紙本は、値が張るので有名ですが、その価格の過半は原 材料費ではなく、筆写・装飾・挿絵の費用でした。 ユーリくんの欲しい白紙だけの本では、一般に考えられている百万 円以上という価格は、当時としてもしなかったようです。 58 第005話 初めての遠出 その日、父親に連れられて王鷲に乗ると、遠乗りというか長距離 フライトで首都に向かった。 山を超え、川を超え、村々を幾つも超えると、他の街とは明らか に違う城が見えてくる。 この国は名をシヤルタ王国といって、首都となる王都はシビャク という。 ルークは王鷲を操りながら、シビャクの街を上空から一周してく れた。 平地や丘に建った大きな城塞都市のようなものを想像していた俺 は、想像を大きく裏切られることになった。 城塞都市どころか、都市を囲う城壁の類はまったくない。 シビャクは、幾つかの島が浮いた大河に張り付くようにして出来 た都市だった。 島と島の間はそれほど開いておらず、あまり長くない橋で繋がれ ている。 そして、大河の両岸には無造作に都市が広がっていた。 中世的な街並みに憧れのある俺は、一目見て美しさに見惚れてし まった。 それくらい美しい街並みだった。 王鷲はぐるりとシビャクを一周したあと、都市の真ん中にある島 に翼を向けた。 59 都市の外郭には城壁はないが、その島は水際全面に城壁がしっか りと巡らされている。 そして、島の真ん中には巨大な城があった。 物語に聞いたシビャクの王城である。 王国というのだから、この城の中に王がいるのだろう。 本当によく出来たお城だ。 無骨な雰囲気はなく、化粧石かなにかで飾られているのか、全体 的に白い。 威圧的どころか、むしろ優美に見える作りになっている。 島の中を見ると、木々が植えられた公園のような場所が点在し、 それ以外の場所には立派な屋敷がいくつも建っていた。 さすが王都の中心地だけあって、みっしりと建物が密集している。 ルークは、王鷲を城の南側に降ろしていった。 そこには少し開けた空き地があった。 他の場所はたいてい公園になっているのに、そこだけは、学校の グラウンドのように何もない空き地になっている。 その周りは、くろぐろとした石肌がむき出しになった建物が囲ん でいた。 この施設は島の端っこにあり、建物自体が川の下流に突き出し、 まるで角堡のようになっている。 要塞のたぐいか? 王鷲はその空き地めがけて正確かつダイナミックに降りていく。 俺も何回か手綱を握らせて貰ったことがあるが、こんな狭いとこ 60 ろにピンポイントで王鷲を下ろすというのは現状では想像したくも ない。 下ろす途中に城壁とか建物に羽の端でもぶつけたら、少しバラン スが崩れるだけで軽いキリモミ状態になってしまうので、そうした ら普通に死ぬ可能性がある。 だがルークはまったく心配していない様子で、その難事を簡単そ うにこなしてみせた。 王鷲がすとんと軟着陸し、ルークがベルトを解き、俺を降ろすと、 厩のほうから誰かが近づいてきた。 ﹁よう、ルーク﹂ ﹁おっ、ガッラか﹂ 見知らぬおっさんだった。 ガッラというらしい。 ルークよりよほどガタイがいい。見るからに戦士系といった感じ の男だった。 こいつと比べたらルークはシーフ系に見える。 ﹁納品しにきたんだが、話は聞いてるか?﹂ ﹁聞いてるぞ。姫様のために特別に取り寄せるとかなんとか﹂ ﹁まったく、正直なところ困ったよ。子どもが操るのに良い若い王 鷲なんて言われてもな﹂ ルークは少し困った顔をして頭を掻いた。 そんな注文だったのか。 ﹁ガハハハハ、そんなこと言われたのか﹂ 61 ガッラは陽気に笑い飛ばす。 強面のくせして気のいいオッサンだ。 ﹁まあ、ウチので一番素直なやつを連れてきたよ。せいぜい使って やってくれ﹂ ﹁ああ、そうするよ﹂ ﹁姫様についてる天騎士は百も承知だろうがな、練習には性格の枯 れた年寄りが一番いい﹂ そうなのか。 うちには年寄りの王鷲なんてものは居ないので、そんな王鷲には 乗ったことがない。 繁殖用の雌の王鷲が一番年長で、他は売り物なので年をとる前に 売りに出してしまう。 ﹁分かってるだろうさ。だが、その辺は女王陛下には分からんこと だよ。近衛のトリカゴで生まれた王鷲より、お前んトコの天下一品 の王鷲に乗せてやりたいんだろう﹂ ﹁おだてるなよ。誰が育てたところで、トリは独りで芸をするよう にはならん﹂ ﹁そこは親心ってもんだろうよ﹂ ふう、とルークはため息をついた。 ﹁姫様を振り落としでもしたら俺の首が飛ぶからな、せいぜい念入 りに仕上げといたよ﹂ ﹁そりゃあ安心だ。もし姫様が乗らなくても、どこぞの天騎士が乗 るだろう﹂ ﹁そうか﹂ ﹁それより、そこの子は?﹂ 62 ガッラは俺を見た。 この体格差で見下されるとさすがに気圧される思いがする。 ﹁息子だよ。名前はユーリ﹂ ガッラはしゃがみこんで目線を下げた。 それでも俺よりずいぶん目線が高い。 ﹁こんにちは、ユーリ君﹂ ﹁こんにちは﹂ 俺は頭を下げた。 ガッラは相好を崩して微笑みを作る。 ﹁きちんと挨拶できて、えらいなぁ﹂ 普通の子でも四歳にもなれば挨拶くらいできるだろうに。 いや、この男のことだから、大抵の場合、泣いて逃げられてしま うのかもしれない。 ﹁ありがとうございます。僕も、父上のご友人にお会いできて嬉し いです﹂ ﹁よく出来た子だな。将来は学者さんか?﹂ ﹁わかりませんが、今は父の跡を継ぎたいと思っています。僕に勤 まるものかは解りませんが﹂ 俺がそう言うと、ガッラはきょとんとした顔になった。 片手で俺の頭をぽんぽんと叩くと、立ち上がる。 ﹁えらく大人びた子だな。今何歳だ?﹂ ﹁もうすぐ四歳になる﹂ ﹁四歳か。こんな聡い子を見るのは姫様以来のことだ﹂ 63 やべぇ、やっちまったか。 おかしな反応だったらしい。 ﹁買いかぶるなよ、この子は普通の子だ﹂ そうだそうだ、言ってやれ。 ﹁俺の息子も四歳なんだがな﹂ ﹁あれ、そうだったか?﹂ ﹁そうなんだよ。手紙を送ったろうが﹂ ﹁ああ、なんだか読んだ覚えがあるな﹂ ちゃんとしてくれよ親父。 ﹁まったく、お前は⋮⋮。まあ、ウチのとは大違いに出来が良さそ うで、羨ましいって話だ﹂ ﹁そうか? 変わらないだろ﹂ ﹁ウチのガキなんてな、こんな品よくないぞ﹂ ああ、親父どものガキ談義が始まるのか。 そう思った時であった。 ﹁ガッラ殿﹂ 後ろから駆け寄ってきた若い女性がガッラに声をかけた。 ﹁おう﹂ ﹁軍議のお時間ですが﹂ ﹁おっ、もうそんな時間か。ルーク、悪いな。行かなきゃならん﹂ ﹁そうか﹂ ルークは少し寂しそうだった。 久しぶりに旧友に会えたっぽいのに、可哀想だな。 64 ﹁今晩はホウの別邸に泊まるのか?﹂ ﹁いや、この子に都会の見物をさせたら帰るよ。明日には家につき たい﹂ ﹁そうか⋮⋮﹂ガッラも、なんだかさみしげだ。﹁じゃあ、またな﹂ ﹁じゃあな﹂ ﹁あっ、ルーク様。どうぞ、受領書です﹂ ﹁おっと、忘れるところだった﹂ ルークは差し出された受領書を受け取った。 ガッラはそのまま王鷲の手綱を預かって、女性を右脇に伴いなが ら去っていった。 ﹁お父さん、あの方は?﹂ 王城から去りゆく道すがら、俺はルークに尋ねた。 ﹁俺が学校にいた頃の同級生だ。今は近衛のお偉いさんさ﹂ ﹁学校というと?﹂ ﹁騎士院だ。王都の中にある。ユーリもいつか入ることになる﹂ そうなのか。 初めて知った。 このまま労働に勤しんで、いずれ牧場経営者になるものかと思っ ていた。 それにしても、騎士院というのは変な名前だ。 騎士という単語は軍事用語に間違いないはずなので、どうも士官 学校のような響きがある。 俺が大間違いをしていることを祈るぞ。 65 ﹁お父さんはそこを卒業したんですね﹂ ﹁いや⋮⋮﹂ ルークは苦い過去を思い出したように、少し苦々しさの滲んだ顔 になった。 マズったか。 ﹁俺は卒業していない。途中でやめたんだ﹂ ﹁⋮⋮そうなんですか﹂ 中退だったらしい。 嫌なことを思い出させてしまったようだ。 ﹁でも、父上でも駄目だったのなら、僕にはつとまらないかも知れ ませんね、その学校というのは﹂ 俺がごまかすように言うと、 ﹁いや、ユーリならきっと大丈夫さ﹂ ルークはそう言ってぽんぽんと俺の頭を手のひらでたたいた。 大人というのは何かにつけ子どもの頭をたたいてみたくなるもの なのだろうか。 *** 石造りの城から出ると、すぐに城下町が広がっていた。 城の作りも中々のものだったが、城下町も作りが良い。 66 石やレンガで出来た建物が軒を連ねており、人通りも多く、田舎 と比べると活気にあふれている。 足下はキッチリと石が並べられた石畳になっていた。 そのうち、本屋に辿り着いた。 そのへんの建物と同じで区別がつかないが、軒先に、開いた本の 上に羽ペンがのっかっている形の看板がぶらさがっている。 看板というより彫刻作品といったほうがふさわしい品物だ。 ﹁たぶんここなら売っていると思うんだが⋮⋮まあ、入ってみよう﹂ ルークは本屋の入り口を開けて、中に入った。 俺も続く。 本屋かと思って中を見たら、ここは本屋ではなかった。 本屋というよりは、文房具屋だ。 手作りの木の棚の上に所狭しと様々な種類の羽根ペンや便箋、色 とりどりのインクや筆が置いてある。 奥のほうには画布が張られたキャンバスや、畳まれたイーゼルが 並んでいる。 確かに、日記帳の類であれば、本屋よりも文房具屋の領域だ。 本屋はノートを買うところではない。 少し探すと、木の板と大工用具の鉋が置いてあった。 場違いな気もするが、俺も家でスズヤと筆記の練習をするときは、 これを使う。 削りやすい柔らかい木材の中で、かつ木のフシのない部分を使っ て、書いては削り書いては削りしながら練習をする。 67 にじ なんという木なのかは知らないが、墨が下まで滲まないので、削 れば再びまっさらな面が出てくる。 この世界には安価なメモ用紙などはないし、羊皮紙は書き損じの リスクが大きいので、ルークも手紙を書く時など試し書きにこれを 使っていた。 だが、木の板はあっても本はなかった。 ﹁店主、何も書いてない本が欲しいのだが﹂ ルークが今にも眠りそうなお婆ちゃん店主に言った。 ﹁あらそうでしたか。ございますよ﹂ と言う返事が帰ってきた。 ﹁なにぶん高価なものですから、表には出していないんですよ﹂ なるほど。 確かに、よく見ると高級品ほど店主の前に配置されている。 まあ、強盗が入ってきたらお婆ちゃんでは太刀打ちできないだろ うが、万引きには効果的なのだろう。 ﹁そうか。見せて欲しいんだが﹂ ﹁こちらです﹂ と、お祖母ちゃんは、カウンターの足下に置いてあるらしい鍵の ついた木箱を解錠し、中から本を取り出した。 本は油が引いてある薄い布のようなものに包まれていた。 布を剥がすと、立派な本が現れた。 そうして、本が並べられてゆく。 68 時代が時代なら、ガラスケースにでも収めておくのだろうが、そ うもいかないのでこういうことになっているのだろう。 ﹁ほら、選びなさい﹂ ルークは俺を持ち上げると、近くにあった椅子の上に立たせて、 カウンターを見られるようにした。 カウンターには四つほどの本がある。 一番小さなものは本当に手帳サイズなので、これは論外だ。 それより一つ大きなやつも、B6くらいの、つまりは青年コミッ クくらいのサイズなので、これも小さすぎる。 逆に、一番立派なやつは、表面が革張りの上に鋲が打たれており、 角は真鍮か何かの金属で補強されていた。 それと大きさは同じくらいだが、装丁が立派でなかったのが、四 つ目の本だった。 同じ革張りではあるが、皮の厚みがより薄く、鋲などは打たれて いない。 表紙の皮にはストラップが付いて、中身を見られないよう小さな 鍵で封じられるようになっていた。 ﹁中身を確かめて構いませんか﹂ ﹁もちろん、構いませんよ﹂ 許可を貰ったので、装丁をめくってみた。 中を開くと、白紙なので内容は同じだが、立派なやつは皮の厚み 69 がずいぶんと分厚かった。 羊皮紙というのは老獣の皮を使うと分厚くなってしまうものらし いが、これではページ数が大分違うのではないだろうか。 これではロクに内容を書き込めないように思うが、世の中には本 棚を埋めておくための見せ本のような用途もあるので、逆にそちら のほうが都合が良いのかもしれない。 ﹁これがいいです﹂ 俺は、そんなに立派ではないほうの本を指さした。 表紙をめくってみると、裏打ちになっている木の板も、安物の板 のようには見えないし、皮の張り方も丁寧だ。 製本にはあまり詳しくはないが、悪い仕事をしているようには見 えない。 ﹁それでいいのか? せっかくだしこっちのでもいいぞ﹂ ﹁いいんです﹂ ﹁遠慮なんかしなくてもいいんだぞ。長い目で見れば高いもののほ うがいいってことも世の中あるんだよ。安物買いの銭失いといって ⋮⋮﹂ ちゃうねんて。 ﹁それは羊皮紙が分厚すぎてロクにページ数がないようです。削り 直せるので便利かもしれませんが、僕はあまり削って書きなおした りはしない予定なので、ページ数が多いほうがいいのです。製本も 悪いようには見えませんし﹂ ﹁そ、そうか。それならいいんだが⋮⋮﹂ 70 なんとか納得してくれたようだ。 ﹁店主、これは幾らだ?﹂ ﹁それは二千と八百ルガでございます﹂ 二千八百ルガというのがどの程度の価値なのか解らない。 けれどもきっと高いのだろう。 ﹁やはり値が張るものだな﹂ ルークがちょっと気後れしたように言った。 やっぱり高いらしい。 ﹁そちらのお子さんのためにお買いもとめになるのですか?﹂ ﹁ああ、まあな。なんだか、日記帳のような備忘録のようなものが 欲しいと言いだして﹂ ﹁そうですか。ならば、それは素晴らしいことですわよ。人という ものは、大切な記憶と思っていても、どうしても忘れてしまうもの ですから﹂ ﹁そうか?﹂ ルークは首を傾げた。 俺も、日本にいたころは日記など書かなかったので必要性が解ら ない。 パパと同意見だ。 ﹁そうですわ。私もね、この歳になって、子どものころの父の言葉 だとか、母が作ってくれたスープのレシピだとか、いろいろなこと を忘れてしまったことがとても悔やまれて仕方ないんですのよ。で すから、このお買い物はあなたのためにもなるはずですわ。だって、 自分が死んだあとに、お子さんが自分のことを全然覚えていなくて、 71 自分の言ったことも全部忘れてしまっていたら、悲しいでしょう?﹂ うーん。と唸らせられる。 なかなかいいことを言うお婆さんだった。 確かにそんなことになったら悲しい。 ﹁そうだな。確かにその通りだ﹂ ルークもなんだか感じ入っている様子だ。 なんだか、やたらと関心した様子で、一人頷いている。 ﹁よし、買おう。釣りはあるか?﹂ ルークは三枚の金貨を取り出し、カウンターに置いた。 混ぜ物が混ざっているのか、少し色はくすんではいるが、本来の 黄金色の輝きは隠せない。 間違いなく金貨だ。 釣りということは、これで三千ルガになるのか? それにしても、まさか本一冊で金貨が出張ってくるとは。 俺も驚いた。 ﹁ありますよ、これでよろしいですか?﹂ 銀貨が五枚置かれた。 ﹁三百ルガ多いぞ﹂ ﹁その子は目利きのようですから、特別に二千五百ルガにまけてお きましょう。八百も取るとあとが怖い﹂ 72 お婆さんはヒッヒッヒ、と人が悪そうに笑った。 ねるねるねるねの人かよ。 ﹁では、ついでにインクを買っていこう。三百ルガ分頼む﹂ ﹁はい、では、こちらになります﹂ けっこう大きなインク壺が置かれる。 やっぱり三百ルガというと結構なものなのだろう。 なにせ銀貨三枚だからな。 ルークは手慣れた様子で大きな布に二つの商品を包むと、銀貨二 枚の釣りを財布に戻した。 ﹁それではな﹂ ﹁またいらっしゃいませ﹂ そうして、店を出た。 羽根ペンになる羽根は牧場に文字通り掃いて捨てるほどあるので 困ることはないだろう。 これで文房具は全て揃ったことになる。 やったね。 73 第005話 初めての遠出︵後書き︶ 1ルガ=1ドル前後 銅銭=1ルガ 銅貨=10ルガ 銀貨=100ルガ 金貨=1000ルガ 金貨は一枚で十万円程度と考えるといいと思います。 74 第006話 帰路 それから刃物屋や洋服屋に幾つか寄ってから、ルークは都の外れ へ向かった。 帰りはどうするのだろう。 カケドリ 俺が不思議に思っていると、ルークは外れの詰め所のようなとこ ろへ行って、すぐに駆鳥を一羽連れてきた。 もしかしたら徒歩で帰るんじゃないだろうか、と割と真剣に心配 していた俺は、こんな簡単に足が確保できるのか、と驚いた。 ﹁あそこでトリを貸してくれるんですか?﹂ と俺が聞くと、 ﹁あそこは国の厩舎だ。国の用事以外では貸し出さないが、今回の 納品は国相手だったからな﹂ そういえば城から出る時になにやら誰かと話をしていた気がする。 出城許可かなにかかと思っていたが、違ったらしい。 ﹁そうなんですか。では得をしましたね﹂ ﹁ああ。普通は何日か待って乗合馬車に乗るか、商隊を探すか、高 いカネを払って馬を借りるか、歩くかだからな﹂ やはりそういう流れになるらしい。 貧乏人は歩くのだろう。 歩きにならなくてよかった。 75 ﹁なるほど。普通の人はそのように旅をするのですね﹂ ﹁まあな。さすがに、全部歩きというのは大変だから、あまりいな いけどな﹂ ルークは俺の脇の下をもって持ち上げると、しゃがんだ駆鳥の鞍 の上に置いた。 ﹁ほら、大切な本と、お母さんへの土産だ。ちゃんと抱えとくんだ ぞ?﹂ そう言って、荷物を包んだ風呂敷を、俺の体にたすき掛けにかけ る。 そうしてふわっと身を翻すように自分も駆鳥に飛び乗ると、くい っと手綱を引いた。 *** 一時間ごとに休憩しながら、三時間ほど走ると、ジャムナという 大きな街があり、そこにあった厩舎で駆鳥を替えた。 駆鳥は早いぶん疲れやすく、疲労が抜けるのも遅いため、無理を させるのは禁物らしい。 街の中には入らず、また走りだし、また三時間ほど走って、日が 暮れる前に小さな村落に入った。 ルークは宿屋の前の馬小屋に駆鳥を繋ぎ、近くの井戸から汲んだ 水を前に置くと、宿に入っていく。 ルークはするすると宿泊手続きをして、荷物を宿のあるじに預け た。 76 ﹁お預かりします。朝食は日が昇ってからでよろしいですか?﹂ ﹁ああ、それでいい。夕食はどこで食えばいい?﹂ ﹁宿を出て右へゆくと酒場があります﹂ 何分小さな村落だから、レストランの類はないのだろう。 この宿とて、少し立派な民家が客室を貸しているような民宿だっ た。 土間に藁でも盛って、そこで寝ることにならなかっただけマシか。 ﹁行ってみる﹂ ルークは俺の手を取って、宿を出た。 出入り口をくぐって右を見ると、目と鼻の先に酒場があった。 というか、村の端から端まで歩いたって10分かからないのだか ら、どこだって目と鼻の先か。 酒場に入ると、誰も客はいなかった。 空はもう夕陽が暮れ始めているが、まだ明るい。時間が早すぎる のかもしれない。 暗くなればぼちぼち酒好きが集まってくるのだろう。 酒場に入ると、すぐに酒場の店主が現れ、俺の姿をみると、すぐ に子ども用の背高椅子を持ってきた。 サービスが行き届いている。 子連れの旅人が、俺と同じように宿から来ることが多いのかもし れない。 ﹁ありがとう、気がきいているな﹂ ルークがそう言うと、ガタイの良い店主はニヤリと微笑んだ。 77 ﹁ありがとうごぜえやす﹂ 俺もぺこりと頭を下げて礼をした。 ﹁注文が決まったら呼んでくだせぇ﹂ まだ下ごしらえでも残っているのか、店主はキッチンのほうへそ そくさと戻っていった。 ﹁ユーリは何が食べたい?﹂ ﹁うーんと、シチューがいいです﹂ ﹁シチューか。わかった。俺は何にするかな﹂ シチューは偉大だ。 この世界の料理は全般的に、当然ながら日本のものより味に劣る が、例外的に煮込み料理類はあまり変わらない。 煮込めば野菜だって肉だって柔らかくなるし、出汁もでるし、香 草を入れれば癖のある肉も臭みを抑えられる。 ルークは店主を呼んで、注文を言った。 ﹁俺は麦酒と、ウサギ肉とチーズのパイ包みを頼む。この子には切 り分けたバゲットとミルクシチュー。粉チーズもあったら頼む。あ がってん と、ヤギの乳をコップで﹂ ﹁合点うけたまりやした﹂ すぐにヤギ乳とビールが持って来られ、三十分くらい経った頃に 若い娘さんの従業員が現れ、それと同時に客が増えていった。 案の定というか、格好から判断するに、狩猟者や農家の人々が多 い。 78 俺とルークはといえば、料理を待っている間、雑談をしていた。 ﹁じゃあ、今借りている駆鳥は、あまり良くないんですね﹂ ﹁良くないということじゃない。あれが普通で、俺のところだった らもうちょっと上手くやる、ということさ﹂ ﹁なるほど、うちのトリは特別いいトリなんですね﹂ ﹁まあ、な。そういうことにはなるが、あれが世の中の平均だ﹂ どうも、今日乗った駆鳥は家で乗っているものより上下運動が激 しく、尻が擦れて痛くなってしまったのだった。 ヤギ乳を飲みながら、ルークにそれを話すと、どうやらそれは調 教が悪いかららしい。 そのうち、若い娘さんの従業員が料理を持ってきて、机にそれを 並べた。 料理が来ると、それを食べながら会話を続けた。 濃厚なミルクシチューに粉チーズをかけ、それにバゲットを浸し て柔らかくして食べると、なんとも美味しい。 シチューの中にはウサギ肉も入っていて、待っただけあって煮こ まれて柔らかくなっており、これも美味しかった。 ﹁上下に動くという運動は本来邪魔なんだ。考えてもみろ、足から 上を上下に動かしてるっていうのは、走りながら階段を登り降りす る運動を余計にしてるってことだろう?﹂ ﹁なるほど、乗り心地が悪いだけじゃないのですね﹂ ﹁もちろん、乗り心地も悪くなる。だが、加えて疲れやすくもなる んだ。うちの駆鳥だったら倍は走るよ﹂ 79 調教のしかたで燃費が全然変わってくるらしい。 乗り心地が全然違うのだから当然かもしれない。 ルークが育てた駆鳥は、まるで電気自動車に乗っているような感 じでスルスルと走るのだ。 尻が擦れて痛くなるなど、考えたこともなかった。 ﹁ところで、王鷲というのはとても速いのですね。来るのはすぐだ ったのに﹂ 来るのは一時間くらいで、帰りは馬より早い乗り物で六時間走っ てまだつかない計算になる。 速度と利便性を考えれば異次元の早さだ。 ﹁まあな。速いし、直線でいけるからな。今日走ってきた街道はか なり遠回りだ﹂ ﹁そうですね。空を飛んだときはジャムナより南のほうを飛んでい た気がします﹂ ﹁⋮⋮良くわかったな﹂ ルークはちょっと驚いた顔をしていた。 ﹁ジャムナの向こうに特徴的な山があったので。来るときは遠くに 見えたのに、帰りは近いなと思ったんです﹂ ﹁よく見ていたな、偉いぞ﹂ なんだか褒められた。 ﹁一応、ジャムナは来るときも小さく見えてはいたんだけどな﹂ そうだったのか。 ﹁それは気付きませんでした﹂ 80 ﹁人を二人乗せられればもっと利用が広まるでしょうにね﹂ 俺が常々思っていたことを言うと、ルークは渋い顔を作った。 二人を運べればタクシー代わりにもなるだろうし、こんなにいい 乗り物はない。 ﹁そうなんだが、それは言っても仕方がない。お父さんも強い王鷲 を作ろうと頑張ってみたが、どうしても二人は無理だ﹂ ﹁痩せた女の人でも無理なんですか?﹂ 本の中でそういったシーンがあった気がする。 ﹁ユーリは賢いし、分別があると思うから言うけどな、良い王鷲を 使えば男二人でも飛べることには飛べるんだ﹂ は? 飛べるのかよ。 ﹁えっ、それじゃ﹂ 俺が思わずそう言うと、ルークは手で俺の発言を制した。 ﹁実際に飛んでいるところを見ればわかるが、飛べるといっても、 かろうじて浮かぶことができるって意味なんだ。コマドリみたいに 忙しなく羽を動かして、ようやくだ。操縦も非常に難しくなる。失 速寸前だから王鷲はパニック状態になるしな。飛べる距離も、俺の 家から牧場までの間がやっとだろう。その距離であっても、非常に 危険だ。俺がやっても、やったことがないから何ともいえないが、 九割がた墜落するだろうな﹂ ﹁⋮⋮なるほど﹂ 81 つまりは安全係数に余裕がないということか。 2トン用と書かれているワイヤーロープは、実際の切断荷重は1 2トンだが、実際に12トンの重量物を釣る馬鹿はいない。 それは釣ったら切れてしまう重量で、安全に使えるのは2トンま でだからだ。 別の言い方をすれば、過積載の車が、レッドゾーンまでアクセル を吹かしてようやくノロノロと走りだすといった感じなのだろう。 四トン車に八トンを積んで動かすみたいな。 車だったら過積載でも、地面の上で壊れるだけだが、王鷲の場合 は高空から墜落するのだから、命にかかわる。 ルークほどの乗り手でも九割がた墜落するのであれば、それはも う二人乗りで練習などできるわけがないし、墜落すれば最良質の王 鷲と数少ない王鷲乗りが両方死ぬのだから、リスクが大きすぎる。 ﹁でも、それなら、女の人となら二人乗りできるというのは?﹂ よくある半分ウソっぽい英雄ものの物語に、そういうシーンは良 く出てくる。 ﹁痩せている女性なら、ギリギリで考慮に値するってところだ。乗 り手のほうの体重にも左右されるから、なんとも言えないが﹂ ﹁父上はやったことがあるんですか?﹂ ﹁ない﹂ 即答だった。 ﹁どうしても進退極まった状態でやらなきゃならなくなったら、俺 82 だったら女性を脱がせて裸にして、自分も全裸になって乗るな﹂ 真面目な顔でルークはそう言った。 冗談ではないのだろう。 ﹁それなら、やらないほうがいいですね﹂ 布一枚でも軽くしたくなるほどリスキーということか。 冬だったら凍死してしまいそうだ。 ﹁まったくだ。ユーリも肝に銘じておきなさい。重さを考えるのは 基本中の基本だからな﹂ ﹁はい、肝に銘じておきます﹂ 俺がそう言うと、ルークは安心したようにほっと息をついた。 酒が回ってきたのかもしれない。 ﹁ユーリも学校に行くことになったら解るだろうが、女の子は割と 信じてるからな。たまーに、ほんのたまにだが、馬鹿をする見習い がいる。ユーリに限ってそんなことはまずないと思うが、乗せてな んて言われても絶対に頷いちゃいけない﹂ なんか話が変わった。 ﹁なんですか、それ﹂ ﹁王鷲乗りは数が少ないだけあって誤解が多いんだ。天騎士が女の 人を王鷲に乗せて助けるなんて場面は、物語の定番中の定番だ。ど ーしょーもないことだがな﹂ 騎士と姫の恋愛もののような作品では定番なんだろう。 俺も何度か見たことがある。 83 確かに劇的なシーンだったな。 ﹁馬鹿をする見習いというのは、女の子にせがまれて、二人乗りし てしまう人、ということですか?﹂ ﹁そうだよ。特に、一人で乗る許可が出たばかりの乗り手がな。単 独の飛翔許可が出て浮かれた子どもがやらかすことが多い。せっか く育てたのが水の泡になっちまう。乗り手も、王鷲も、女の子のほ うもな﹂ ﹁⋮⋮﹂ 若気の至りでバカをやってしまった若者が、空中でパニックを起 こして墜落し、グチャッと潰れる。 容易に想像できた。 俺も運動や運転を人並み以上にこなせていた人間ではなかったの で、他人ごととは思えない。 俺が暗い顔をしていると、ルークは心配そうに口を開く。 ﹁ユーリ、言っておくが、事故があるからって王鷲を怖がる必要は ないんだぞ。墜落するといっても、必ず乗り手が死ぬわけじゃない﹂ なんだか気休めのようなことを言い出した。 息子が王鷲に乗るのを怖がるようになったら、と危惧しているの かもしれない。 ﹁大丈夫ですよ。怖いとは思いますが、あんなにワクワクする乗り 物は他にありませんから﹂ ﹁そうか﹂ ルークはなんだかほっとしたような顔をしていた。 84 *** 飯をたらふく食って、ルークは酒をかなり飲んで宿に戻った。 泥酔はしていないものの、足元は少しうわついている。 その日はそのまま寝て、翌日朝早くに出発した。 一泊した町から二時間ほど走った都市でカケドリを降り、そこか らさらに二時間ほど歩いて、自宅へ戻った。 85 第007話 遠い戦争 ルークとトリに乗ったり、牧童のような仕事をしたり、スズヤに 編み物を教わったりしながら、暇な時に本を書く人生を送り、その まま三年が経った。 俺は七歳になった。 七歳の誕生日が過ぎて二ヶ月くらいのころ、家庭で暗い話題が増 えてきた。 俺は非常に情報が少ない環境に置かれているが、それでも七年も 生きていると、多少の情報は入ってくる。 俺を含む、ルークやスズヤのような種族を、この国ではシャンテ ィと呼ぶらしい。 シャンティというのは原語をそのまま発音した言葉で、意味合い 的にはシャン人という意味になる。 シャン人という種族は非常に長命で、無事に生きれば八十歳まで 生きるのは珍しくなく、百歳になってようやく長生きの域に入るら しい。 加えて、当人たちはそんなことは思っていないが、俺からしてみ るとたいがいのシャン人はツラがいい。 ついでにいうと、シャン人という種族は寒さに強く、大陸の北方 に生息している。 シャン人は、昔は大陸北部一帯にシャンティラ大皇国という統一 国家を作っていた。 86 が、これは紆余曲折あって瓦解してしまった。 滅ぼしたのは、クラ人という別の種族の連合軍だったらしい。 連合軍に首都を追われると、大皇国はバラバラになり、各々が王 を立て独立した。 シャン人という種族の政治体制は独特で、よくわからんがシャン ティラ大皇国の昔から、王は女性と決まっているらしい。 つまり、シャンティラ大皇国は代々女皇が統べていて、その後分 裂した王国も、すべて女王がとりまとめていた。 幾つか知らんがバラバラになった国々は、時代が下るごとに順々 に、クラ人の国家に滅ぼされていった。 各個撃破されていったわけだ。 そして、最後に残ったのがキルヒナ王国と、今俺がいるシヤルタ 王国ということらしい。 地理的には、大きく突き出した半島があり、半島の奥のほうにシ ヤルタ王国があって、半島を塞ぐようにキルヒナ王国がある。 なので、シヤルタ王国のほうはあんまり攻められていないらしい。 だが、シヤルタ王国からしてみれば、キルヒナ王国が滅びれば次 は自分の番だというのは、よっぽどの馬鹿でも簡単にわかることな ので、毎度毎度援軍を出してやっているのだ。 その援軍をこの度、ホウ家の総本家がやることになったらしい。 ホウ家の総本家というのは、騎士という武人階級の家柄で、武人 の中でも最高位であるため、特別に将家とも呼ばれる。 日本で言えば大名といったところか。 そして、その総本家の首領というか家長は、ルークの兄だという 87 わけだ。 チラチラと聞こえてくる情報を統合すると、そういう事情があり、 いつも明るい我が家は暗いムードに包まれているらしい。 ルークはホウ家の次男という大層な肩書だが、騎士院を卒業して いないので、騎士号も持っておらず、出征についていく必要はない。 だが、やはりホウ家ほどの将家の次男坊が、騎士号を持っておら ず騎士でもないというのは、一般的には異質なようで、肩身が狭い ようだ。 この国では、ふつうは将家の当主が出征の団長として参上すると なれば、その支配下にある騎士家は、一族郎党刀槍担いでお伴する らしい。 だが、現在のホウ家には人材が払底している模様で、その刀槍担 いでお伴する一族郎党があまりいないらしい。 ホウ家というのは幾つかある将家のなかでも言わば﹁援軍担当﹂ で、隣国でいくさがあるたびに援軍として出征してゆくのである。 将家のなかで立場が弱いのかなんなのか、何が理由で黙って貧乏 くじを引き続けているのか、それは解らないが、ともかくそういう 担当らしい。 そうして、何度も何度も隣国への援軍に駆り出されるうちに、前 の援軍で弱った兵力を補充する前に、また援軍にいく羽目になり、 それを繰り返して、ホウ家の軍は弱ってしまった。 だから、今回はルークも戦争へ行けという話になったらしい。 88 つい先日、そのような使いの者が現れ、俺が子供部屋に行かされ たとき、その話があったという。 だが、ルークはきっぱりとそれを断った。 ルークは生き物を育てるのが好きで、トリに乗るのが好きという 男で、切った張ったの世界とは無縁の人間だ。 だから騎士院を中退したのだろうし、今はこんな山奥で小さな家 に三人家族だけで暮らし、世捨て人のような暮らしをしている。 本家とはなるべく関わりたくないと思っているようで、スズヤか ら留守中に本家から来客があったなどと聞かされると、不機嫌にな ったりはしないが、露骨に気が滅入ったような顔をする。 これで穀潰しのニートだったのなら首根っこ掴まれて連れて行か れたのだろうが、ルークはルークで努力して牧場を築き、そこから 出荷されるトリは王家に求められるほどの逸品なのだから、無理を 強いるわけにもいかないのだろう。 結局、ルークは出征についていかないことになった。 だが、立場上、出陣式には顔を出さなければならない。 出陣式というのは、出征の前日に催される宴である。 *** カケドリ その日、俺は新しく仕立てられた服を着て、宴に向かった。 乗り物は駆鳥だ。 スズヤが後ろに座っているが、手綱を握って操っているのは俺だ った。 89 毎日のようにトリに乗り、ルークに散々仕込まれたので、体格は 小さいし複雑な歩法はできないが、移動くらいはなんとかこなせる ようになった。 だが、ルークが見ていないところで乗るのは今日が初めてだ。 小さいカケドリではなく成鳥のカケドリを一人で操るのも、つい 昨日予行練習しただけで今日が二回目だった。 後ろから俺を抱きかかえて、俺の背もたれのようになっているス ズヤは、引き連れている三羽のカケドリの手綱を握っている。 ルークは後からくる予定になっていた。 スズヤに方向を教えられながら、ゆっくり進んでいく。 スズヤが引っ張っているカケドリは、スズヤが手を離せば逃げて しまうので、腕の見せどころだった。 カケドリが指示を勘違いして速度を急に上げたりしたら、手綱が ピンと張って、スズヤは手を離してしまうだろう。 俺は内心でヒヤヒヤしつつ手綱を操っていった。 小一時間も走ると、城門のようなものが見えてきた。 ホウ家の屋敷のある町、カラクモだ。 カラクモは、さほど大きな都市ではなさそうだった。 申し訳程度の石造りの門があり、出陣前だからか、門は開きっぱ なしで、荷馬車などでごったがえしている。 カケドリの姿を見ると、皆一様に騎乗している母子を不審な目で 見たが、道を開けてくれた。 カケドリに騎乗しているからだろう。 90 カケドリは武人の、もっといえば騎士が乗る乗り物なので、出陣 前にそれの進行を妨げるとマズいというのは、馬鹿でもわかる。 トリ三羽を率いたまま、ゆっくりと人混みを掻き分けるように道 を進んでゆく。 街の中に入ってみると、やはりカラクモは首都とは比べるべくも なく小さい街であることが解った。 道沿いには家々が連なっているが、ほとんどが木造だ。 きっと、特定の産業があるわけではなく、ホウ家とその家臣団の 需要に答える形で、膝下に商人や使用人たちが集まり、形成された 街なのだろう。 実は、俺が小さい頃に一度だけ来たことがあるらしいのだが、あ のころはわけが分からず混乱しっぱなしだったので、よく覚えてい なかった。 だが、由緒正しい将家の次男坊が、七年もの間、出生の報告以来 一度も長男を本家に連れてきていないというのは、今考えてみれば 少し異常に思える。 ルークは、よっぽどここに来たくなかったのだろう。 本家の邸宅は、水の張った掘で囲まれていた。 城下町はあるが、中心にあるのは城ではない。 掘の内側にはもちろん壁があり、その内側に邸宅があって、掘の 一部に玄関口となる門と橋がある。 玄関口に差し掛かると、立哨している兵隊から誰何の声がかかっ た。 ﹁何者であるか﹂ 声色が心持ち刺々しいのは、明日が出陣だからだろう。 91 ﹁ルーク・ホウの子、ユーリである。母と出陣式の見舞いに参った﹂ 俺がそう言うと、誰何した兵はきょとんと目を丸くしていた。 ガキが唐突に妙なことを口走ったから、変に思ったのだろう。 まずったな、こりゃ。 駆鳥に膝を折らせると、スズヤが何も云わずに降りて、俺を下ろ してくれた。 ﹁ルークの妻の、スズヤです。連絡はしてあるはずなのですが﹂ スズヤがそう言うと、すぐに奥のほうから女性が現れ、﹁こちら です﹂と中に入れてくれた。 本家の邸宅はやたらと大きい二階建ての建物だった。 両翼が張り出してコの字になり、内側には庭がある。 邸宅の他には穀物倉と思われる蔵が四つほどあり、その他には厩 と、鷲舎ともトリカゴとも呼ばれる、王鷲を入れる比較的大きな建 物があった。 鷲舎は牧場にあるものより、数段大きさが小さい。 スズヤが先になって歩き、受け付けのところに止まった。 来客受付の女性がナントカカントカと受け付けをするまえに、先 のほうから歩いてきた男が声をかけてきた。 ﹁よく来られた、スズヤ殿﹂ スズヤがはっと振り向き、声の主の顔を見ると、慌てて頭を下げ た。 92 ﹁ゴウク様、ご無沙汰しております﹂ なんだかただ事ではない雰囲気なので、俺も頭を下げておく。 ゴウクというのはルークの兄の名だ。 つまり本家の頭領である。 ﹁頭をあげよ。そんなに畏まる必要はない。きょうだいではないか﹂ きょうだいという単語が聞こえたので一瞬頭に疑問符が浮かんで、 消えた。 義兄妹という意味だろう。 スズヤが頭をあげる気配がしたので、俺も顔をあげた。 ゴウクの姿を改めて見る。 ルークを一回り大きくしたような、数年前に見たガッラとかいう 男と同じくらい体格の良い、偉丈夫だった。 体毛が濃いのか、耳から顎にかけて赤色の毛が生えそろっている。 だが、それがなんとも似合っていて、練達の武人らしい容姿だっ た。 ﹁一人で来られたのか。ルークはどうした﹂ なにやら少し怒ったような表情をしておる。 ﹁献上品に王鷲がありますので﹂ ルークは本家に差し上げる王鷲に乗ってやってくる予定だった。 駆鳥三羽と王鷲一羽がうちの献上品である。 まだやってこないのは、できるだけ時間を遅らせたいからだろう か。 遅刻するとそれはそれで問題だぞ。 93 ﹁そうか。だが、妻に手綱を握らせて寄越すのはいただけぬな﹂ やっぱりなんか怒っているらしい。 ルークが遅刻したから怒っているのではなくて、妻をエスコート しないことに怒っている様子だ。 嫁を馬に乗せて先行させちゃいけない法でもあるのか。 ﹁いいえ、この子が送ってくれましたので﹂ と、スズヤは斜め後ろに隠れていた俺の背中に手を回した。 え、やだやだ。 勘弁してよ。 と、前に出るのを少し抵抗すると、有無をいわせぬとばかりに背 中を押す力が増した。 意外とこういうところあるんだよな⋮⋮。 ささやかな抵抗むなしく、前のほうにひきずりだされてしまった。 ﹁こんばんは﹂ 慇懃に頭を下げた。 ﹁息子でございます﹂ ﹁その子が手綱を握ったのか?﹂ 少し驚いた顔をしている。 ﹁ええ。夫に鍛えられておりますゆえ、なんとか無事に送ってもら えました﹂ ﹁そうか。ユーリ⋮⋮と言ったな﹂ やべぇ、名前覚えられてやがる。 94 まあ、覚えられてても不思議はないんだけど。 ﹁はい。ユーリです﹂ スズヤが言った。 ﹁カケドリが得意なのか﹂ ﹁得意です﹂ スズヤが勝手に答えた。 ﹁そうか。王鷲は得意か﹂ ﹁そちらも得意なようです﹂ トウギ ﹁他に得意なものはあるか﹂ ﹁読み書きも、斗棋も得意です。自慢の子でございます﹂ ﹁斗棋も得意か﹂ なんやねんなーもー。 かーちゃん余計なこというなよー。 と、子どものように思った。 シャンチー 斗棋というのは、一種のボードゲームだ。 地球で言えば、象棋に似ているといえば似ている。 将棋はやったことのある俺だったが、敵陣と自陣が真ん中で半分 こに別れて、侵入経路が限定されるという特徴的なシステムに、始 めた当初は戸惑ったものだった。 ルークはとにかく斗棋が好きで、本の読み聞かせをねだる俺に、 よく無理やり斗棋をさせたものだった。 が、好きこそものの上手なれというのは、残念ながらルークの斗 棋には当てはまらなかったようで、一ヶ月くらいで俺のほうが強く 95 なってしまった。 その後のルークは、嬉しいような寂しいような顔をしたあと、ふ てくされていた。 ルークがそうなるのは二度目で、ルークは結婚したばかりのころ スズヤにも教えて、同じようにスズヤのほうが上手になったらしい。 スズヤは特別こういうゲーム類は好きそうではなかったが、なぜ か上手で、スズヤ相手に安定して勝てるようになるには、三年くら いかかった。 ゴウクは、俺が斗棋が上手だと聞くと、明らかに表情が変わった。 なんだかウキウキした少年のような表情になった。 ﹁まだ宴が始まるには間がある。一戦やろうではないか﹂ なにを言ってやがるんだ、こいつは。 スズヤのほうを見ると、今度はこちらが困ったような顔をしてい た。 ﹁しかし、ゴウク様に失礼があってはいけませんので⋮⋮﹂ ﹁なにをいいなさる。甥となれば息子も同じ、気兼ねなど要らぬ﹂ おいおい無理押しすんなよ。 おかあちゃんもハッキリだめって言ってやれ。 ガキ相手にムキになってどうすんだ、普通逆だろって。 ﹁そうですか。わかりました。ユーリ、一局付き合ってさしあげな さい﹂ 96 あっさりだった。 マジかよ。 スズヤママは、時々唐突に慈母から子を谷底に突き落とす獅子に 豹変するから困る。 ﹁⋮⋮よろしくお願いします﹂ 俺はしかたなくぺこりと頭を下げた。 スズヤとは別れて、ゴウクという男に連れられて、二人で屋敷の 中に入った。 頭のなかではドナドナドーナと売られていく仔牛のテーマが鳴っ ていた。 気まずいったらありゃしないよ。 ゴウクが使用人に一言命じると、縁側から靴を脱いで上がってす ぐの場所に、斗棋の用意が整えられた。 柔らかい安楽椅子のようなものが二脚と、テーブルと、盤と駒一 式。 自宅にあるものと比べると、全てのアイテムが数段質がよかった。 この国では針葉樹はアホほどあるが、寒さが厳しいため常緑樹の 木材は貴重である。 そして、針葉樹の木材というのは、一般的に柔らかく、家具には 向かない。 そのため、常緑樹の硬い木を使った家具は高価なのだ。 だが、ホウ家の家具はほとんど全て、その高価な常緑樹の木材を 使っているように見えた。 特に堅い木材が好まれる盤と駒に至っては、表面が黒光りしてい 97 るような、いかにも堅く見栄えのする木材が使われている。 席について、ゴウクの顔をじっくり観察すると、確かにルークと 似ていた。 ただ、常に柔和な表情をしているルークと違って、硬い表情が癖 になっているのか、気が休まっているように見える今も、どこか緊 張感のある面持ちをしている。 無闇矢鱈に威圧的ではないが、近くにいると気圧される感じがし た。 だが、顔には出ないが、今は少し楽しそうだ。 よほど斗棋が好きなのかもしれない。 斗棋をやるときのルークが、よくこんな顔になっていた。 ﹁良い盤と駒ですね﹂ と、まずは褒めておく。 ﹁ほう、解るか﹂ ﹁そこらの木材とは違うことくらいは﹂ ﹁まあ、な。これほどの物となれば、他にはちょっとあるまい﹂ ﹁なるほど⋮⋮﹂ 本当に詳しくないので話の広げようがないな。 ﹁では、やるか。実は少し忙しい﹂ そりゃ忙しいだろう。 忙しくないはずがない。 ゴウクは駒を並べ始めた。 98 ﹁僕は長考はしないほうなので、長くはならないでしょう﹂ ﹁では、砂はなしでいくとするか。先手はそちらだ﹂ 砂というのは砂時計のことだ。 一般に先手のほうが有利とされているのだが、それはくれるよう だ。 まあ、いらないというのも小生意気なので、受け取っておくか。 ﹁では、胸を借りるつもりで打ちます﹂ 初手を指すとパチンと硬い音がした。 *** パチ、パチ、とやりあっていると、そのうち招かれた客や軍人が 観戦にきた。 ガキと棟梁が駒打ちで遊んでいるというのは、珍奇で興味をそそ る光景なのだろう。 といっても、さほど時間はたっていない。 俺も向こうも殆どノンストップで指しているからだ。 ゴウクは指すのが好きというだけあって、強かった。 序盤優勢になったが、中盤終盤で俺の知らない戦法をいくつもと ってきて、すぐに劣勢になった。 結局、三十分くらいで終わってしまった。 だが、一手にお互い二十秒くらいしか使っていないために、手数 99 は百手を越えた。 ﹁負けました。どうにも、まだ未熟なようです﹂ 負けた。 未知の戦法をかけられっぱなしだったので、奇襲され放題といっ た感じの一局であった。 俺はルークに教えてもらった戦法しか知らんので、頑張ってはみ たがどうにもならなかった。 ﹁もう一局やろうではないか。思ったより早く終わった﹂ とか言ってきたが、意外なことに、俺はその言葉を嬉しく思って いた。 喜んでいた。 ゴウクの打ち筋は淀みなく、かつ新しく、打っていて楽しい。 ﹁では、やりましょう。また僕が先手で構いませんか?﹂ ﹁もちろんだ﹂ *** ﹁まけました﹂ と盤の上に手を載せた。 いろいろやったら一時間くらい経ってしまったらしい。 全体的に実力が追いついていない。 100 前局で理解した戦法は警戒していたから対処できたものの、やは り後手後手に回ってしまった。 なんとも悔しいが、これ以上やっても意味がないし、ゴウクの予 定にも差し支えがあるだろう。 ﹁勉強になりました﹂ と、座ったまま頭を下げた。 ﹁こちらもな﹂ へ? なんだ、社交辞令かな。 ﹁そうですか? 学ぶことなどなかったのでは﹂ ﹁いいや、たいそう久しぶりに学ぶことの多き一局だった。できれ ば一晩中語り明かしたいほどに。だが、今日はそうはいかぬ。帰陣 してから、改めてまた指すとしよう﹂ ﹁こちらこそ、楽しみにしております。どうかご健勝を﹂ 俺は立ち上がって頭を下げた。 ﹁うむ﹂ ゴウクは鷹揚に頷くと、 ﹁酒も飲めぬのでは、大人ばかりのこんな祝宴はつまらなかろう。 我が娘と遊んでいるといい。ルークには伝えておく﹂ と言った。 娘と遊べとな。 ﹁わかりました﹂ 大人の遊びに付き合った後は子守りか。子どもも大変なものだ。 101 第008話 従兄妹 大人の女中さんに案内され、連れて行かれた部屋には、子どもが 一人いた。 黒い髪をした女の子だ。 武芸を習わされてはいないのか、ほそっこい体つきをしている。 女中さんは、忙しいのかなんなのか、すぐ去っていってしまった ので聞く暇もなかったが、やはりこれがゴウクの娘なのだろう。 そいつは机の前の椅子に座って、背を背もたれに預けたまま、静 かに目をつむっていた。 机の上には木の板とインク壺、油皿に灯心が入った明かりが載せ られており、少女の顔を照らしている。 見た目、俺と同い年くらいに見える。 まあイトコだから名前も年齢も知っているんだが。 こいつは俺より一歳年下で、名をシャムという。 ﹁やあ、こんばんは﹂ と話しかけると、 ﹁⋮⋮﹂ 返事はなかった。 なんだこいつ。 話しかけても眉一つ動かさず、背もたれに体を預けて、目をつむ っている。 102 入るときにノックはしたし、女中さんが軽く俺の紹介もしたから、 眠っているわけではないだろう。 もしかして死んでるのか? 俺は不安になった。 死んでいるとしたらまずい。 俺が犯人にされてしまう。 誰かの陰謀で殺人犯にされかけてるとか? 恐る恐る近づいて、顔に手を触れてみると、ぱちりと目を開いた。 ﹁無礼ですね﹂ 生きていた。 ﹁耳が悪いのか?﹂ 俺が尋ねると、少女は疑わしげな目で俺を睨んだ。 なにをいってるんだこいつは、みたいな目だ。 ﹁⋮⋮耳は悪くありません﹂ ﹁挨拶は返すもんだ。耳が悪くないのならな﹂ この国でも、挨拶はされたら返すものだ。 無礼うんぬんというなら、無礼をしたのは向こうのほうが先。と いう話だった。 俺は手近な椅子に勝手に腰掛けた。 103 ﹁なにか考え事でもしてたのか?﹂ と尋ねる。 まあ父親が明日から戦争にいくのだから、考え事のひとつもする だろうが。 ﹁はい﹂ ﹁考え事の邪魔をされて怒っているのか?﹂ ﹁いいえ、どのみち今日は心が乱れて駄目ですから、気にしなくて いいです﹂ ﹁そうか﹂ ドアの外からは小さくガヤガヤと音が聞こえてくる。 屋敷のど真ん中で宴が催されているのだから、当たり前だ。 それ以前に、父親が心配なのかもしれない。 ﹁なにについて考えてたんだ﹂ ﹁どうせ理解できませんよ﹂ そっけない言葉だった。 ﹁そうかもな。だが、言ってもらわなきゃわからない﹂ ﹁それはそうですね。でも、どうせ徒労に終わりますから﹂ くそ生意気なガキであった。 面白いじゃないか。 ﹁どうせ他に話すこともないんだし、考えもまとまらないんだから、 俺に理解できるかどうか、試してみてもいいだろ。まあ、秘め事の 類なら聞いたりしないがな﹂ 104 たわむ ﹁試みをする意味がわかりません。さっさと出て行ってください﹂ ﹁そうもいかないんだ。まあ、戯れと思って話してみろよ﹂ シャムは、はあ、と小さなため息をついた。 文明を理解しない猿が、私の部屋にズカズカと入ってきて、猿語 を喋ってらっしゃるわ。どうやって追いだそうかしら。 みたいな感じだ。 こ、こいつ⋮⋮。 ﹁話したら出て行ってくれるんですね﹂ ﹁ああ、約束するよ﹂ ﹁そうですか﹂ ふう、と再びため息をつくと、喋り始めた。 ﹁ソスウが無限にあるかを考えていたんですよ﹂ ナンバー 俺は一瞬、ソスウというのがどういう意味の単語なのか理解でき なかった。 プライム だが、シャン語で本質みたいな言葉と、数、という意味の言葉が 合体したような複合語だったので、なんとなく察することができた。 素数のことだ。 ﹁そりゃ、2とか3とか5とかの話か﹂ ﹁⋮⋮はい﹂ ﹁11とか13とか17の話だよな﹂ ﹁そうだって言ってるじゃないですか﹂ やっぱり素数のことを言っているらしい。 105 なんだこいつ、まだ六歳だろ。 確か一歳年下で、六歳だったはずだが。 やけに明瞭に言葉を喋りやがるし、よっぽど頭がいいのか。 普通六歳って﹁おかーさんう○こでるー﹂とか言いながらオモチ ャのクルマで遊んでたりするもんじゃないのか? 正真正銘のいいとこのお嬢さんともなればこんなものなのか。 私立の小学校の受験問題とか結構凄かったしな。 ﹁素数がなんだって?﹂ ﹁素数が無限にあるかどうか考えていたんです﹂ やべぇこいつ⋮⋮。 ﹁いったいなんだってそんなことを考えているんだ﹂ なんでこの年齢の子どもがそんなことを気にするのか謎だった。 もっとこう、その、なんだ、いろいろあるだろ。 よくわかんないけど。 ほら、おままごととか。 ﹁⋮⋮はあ、やっぱり解らないんですね。でてってください﹂ ﹁解るぞ﹂ 素数は無限にある。 証明はパッと浮かばないが、それは知っていた。 ﹁はあ、じゃあ、言ってみてくださいよ﹂ 蔑んだ目で見てきた。 106 虚勢を張っていると思っているのだろう。 ﹁もしかして、まだ証明されてない問題なのか﹂ ﹁証明があることは知っていますよ﹂ やっぱり証明はあるらしい。 地球では紀元前からある証明なのだから、当たり前といえば当た り前だが、やっぱりこの世界にもユークリッド並の天才が存在した ということか。 感慨深い。 でも、じゃあ、なんでこいつは証明済のものを考えなおしている んだ。 数論を考えるのが好きなのか。 ﹁やっぱり言えないんですね﹂ ﹁言えるぞ﹂ ﹁じゃあ、さっさと言ってください﹂ なんだかイライラしておる。 無用の時間稼ぎをしようとしていると思っているのだろう。 えーっと、どうだったかな。 家にある俺の本には書いてあるんだけどな。 ﹁ちょっと考える﹂ ﹁⋮⋮まあ、どうぞ。無駄でしょうけれど﹂ 軽く聞き流し、沈思黙考に入る。 本に書いたのは一年以上前だったが、やはり若い脳だけあってす 107 ぐに思い出した。 紐をたぐるように証明を思い出してゆく。 ﹁ある2以上の数をNとする。そうすると、NとN+1はお互いに 同じ1以外の公約数を持たない﹂ エヌという言葉はシャン語にはないので、都合が良かった。 ﹁⋮⋮?﹂ なんか訝しげな顔で俺を見ておる。 ﹁分かるか? NとN+1の差は1なんだから、2以上の公約数が あったらおかしい﹂ ﹁まあ、そうですね﹂ ﹁そこでNとN+1を掛けたら、その数は2つ以上の素数が因数と して入ってるわけだ。4と8みたいに素数が重複するというのは考 えられないわけだからな。それをMとすると、MとM+1を掛けれ ば、3つ以上の素数が因数になってるわけだ。そして、それは無限 に続けられるから、素数も無限に求められる。故に素数は無限に存 在する﹂ 俺がそう言い切ると、シャムはぽかーんと口を開いていた。 時々、 ﹁⋮⋮あ、えっと⋮⋮うあ、でも﹂ とか言っている。 手元の木版にさらさらと書付けをして、ちょっと確認しているよ うだ。 間違いようもない簡単な証明なので、間違っていないはずだ。 これで間違っていたら発作的に穴をほって閉じこもるか高いとこ 108 ろから落ちて自殺してしまいたくなるだろう。 ややあって、 ﹁すごいです﹂ とシャムは呟くように言った。 俺を見る目が違っておる。 どうだ、参ったか。 ﹁家の本で読んだのですか?﹂ 打って変わったように顔が明るくなった。 ニコニコしおってからに。 ﹁まあ、な﹂ ﹁よく覚えていましたね。ありがとうございます﹂ ﹁簡単な証明だし。こんくらい余裕だし﹂ ﹁よろしかったらその本を貸してもらえませんか?﹂ 目がキラッキラ輝いている。 いや、本もなにも。 というか、本は日本語で書いてるしな。 文字体系からして違うから、たぶん誰にも読めない。 ﹁悪い、うちで読んだ本じゃないんだ、王都でな﹂ とっさに嘘をついてしまった。 ﹁王都ですか、なるほどー﹂ まあ、王都に探しに行けば、さすがにあるだろう。 109 解法が同じかどうかは解らないが。 ﹁えっと、お名前はなんと⋮⋮?﹂ ﹁ユーリ﹂ ﹁私はシャムといいます。ユーリさんは王都からいらっしゃったん ですか?﹂ ﹁いや、近所だよ﹂ ﹁近所というと、ご親戚ですか﹂ ﹁君とは従兄妹に当たるかな﹂ ﹁従兄妹というと、ルークさんの﹂ ﹁そうだな﹂ ルークの名は知っていたらしい。 ﹁なるほど、やっぱり、騎士家の方じゃなかったんですね﹂ まあ騎士家といえば騎士家なんだが。 将家の親戚筋という形だから、俺が騎士号を取って当主になれば 誰もが認める騎士家ということになる。 ﹁羨ましいです﹂ 羨ましいのかよ。 俺よりよほどいい生活しているのに。 ﹁私の家族はあまり理解がないので、本などをあまり買ってもらえ ないんです﹂ 俺のことを、めちゃくちゃ本読みまくって教養を得たと思ってい 110 るのだろう。 そうとしか考えられないだろうしな。 実際は記憶があるだけで、素数なんて言葉は今日はじめて聞いた。 シャムはしょぼーんとした顔をしていた。 ﹁そっか、それは残念だな。せっかく頭がいいのに﹂ ﹁えっ、あの⋮⋮その﹂ シャムは顔を赤くしている。 ﹁本当にそう思われますか⋮⋮?﹂ ﹁まあ、でも、皆が君くらい頭がよかったら、俺はたちまち劣等生 だろうから、この先たいへんになるな﹂ ﹁そんなことはありません。あなたは優秀です﹂ 褒めてもらえるのは嬉しいが、そりゃ六歳しか生きてないお前よ り、その五倍以上生きている俺が劣ってたら、どうしようもないよ。 それはさすがに悲しくなるよ。 ﹁そりゃありがたい﹂ ﹁よろしければ、もっと色々なことを教えて下さい﹂ エブリシング ﹁色々なことと言っても、何に興味があるんだ﹂ ﹁なんにでも興味あります、全部です﹂ ﹁全てか。とんでもないな﹂ ﹁あ、全部じゃないかもしれません。お父様のお話とか、斗棋とか、 編み物や刺繍はちょっと⋮⋮﹂ 哀れゴウク、せっかく頭のいい娘を持ったのに、自分の趣味にま ったく興味を示してもらえないとは。 111 だから本を買ってもらえないのかもしれないな。 こいつも上手いこと、斗棋を覚えて、賭けで書籍購入権を取ると か、父親に甘えておねだりするとか、そういう方向性で攻めればい いのに。 ﹁といっても、俺も大して物知りというわけじゃないんだ。教えて やれるのは数学くらいか﹂ というか、明らかに正しいと断言して教えられるのは数学くらい しかない。 別の世界に来たのは明らかなのだから、物理法則も変わっている かもしれない。 ドヤ顔で化学なんか教えたら、全然法則が違って、この世界では 当てはまらないとか、普通にありそうだ。 ﹁もちろん構いません。お願いします。いろいろとお話しましょう﹂ 112 第009話 夜の来客 おぼろげな夢の中で、俺はそれが夢だと気づいた。 何度か見た覚えのある夢だったからだ。 ﹁なんで佐藤さんがクビになるんだよ!﹂ 夢の中で、俺は父親に怒鳴っていた。 その時の俺は高校三年だった。 佐藤というのは、父親が社長をやっている会社の部下だ。 なにぶん田舎の会社であったので、俺の小さいころは会社も小所 帯で、俺は佐藤さんの人となりを知っていた。 というか、佐藤さんの息子は俺の中学生以来の同級生だった。 ﹁大学いけなくなったらどうしよう﹂ 佐藤は、中学校では同じ部活に入っていたくらいの仲で、良い友 人だった。 その友人が顔を青くして学校に来たと思ったら、俺に相談を始め たのだ。 親父が会社をクビになり、二十年以上務めた会社を退職金もなし に放り出されたという。 佐藤は医学部進学を目指していた。 医学部というのはカネがかかるものと決まっていて、佐藤はよう やくどっかの国公立の医学部に潜り込めるかもという学力しかなく、 大学が﹁返さなくていい奨学金あげるのでうちに来てください﹂と 113 言ってくれるほど頭が良くはなかった。 ﹁会社からモノを盗んで窃盗罪で捕まったんだぞ? クビに決まっ てるだろうが﹂ と親父が言った。 佐藤から話は聞いていなかったので、初耳であった。 ﹁何を盗んだんだよ﹂ 俺は、なるほど佐藤さんは会計の過程で金銭を横領したのだと思 った。 それならば仕方がないと高校生ゴコロに思った。 ﹁釘と金具だ﹂ 親父は、そのとき、いっそ自分の経営者としての賢さを誇るよう な口調だった。 ﹁釘と金具? いくら分盗んだんだよ﹂ 親父の会社は今となっては大きく、古参の従業員である佐藤さん なら、例えば百万円分の釘と金具を横流しすることも、立場柄不可 能ではなかった。 ﹁さあな、犬小屋に使ってたくらいだから⋮⋮一万円くらいか﹂ 後から思えば、この一万円という数字は親父がバツが悪くて数字 を盛ったのだろうと思えた。 たかが犬小屋に使う釘と金具で、一万円もかかるはずがない。 実際は、いっても二千円かそこらだったろう。 ひょっとしたら五百円にならないくらいかもしれない。 114 ﹁会社の備品を自分ちで使ったからってクビにしたのか?﹂ ﹁当たり前だろ、窃盗は窃盗だ﹂ 確かにそうではあるが、納得はできなかった。 ﹁減俸とか他にもいろいろあるだろ。なにもクビにしなくても﹂ ﹁子供が会社のことに口を出すな!﹂ 後からわかったことだが、佐藤さんは古参なりに現場責任者にな ったものの部下使いが下手で、どうにも管理職の才能がなく、親父 に切り捨てられたのだった。 佐藤さんが会社の備品を家庭に持って帰って使ったのは、もちろ ん公私混同で悪いことだが、親父のほうは、明らかにそれを口実に して佐藤さんを切った。 切るときは、佐藤さんに雑談交じりで自白をさせ、それを録音し 警察を呼び、わざとらしく佐藤さんの名前を出し、窃盗罪で連れて 行って貰ってから懲戒解雇処分にした。 懲戒解雇であれば退職金を支払う必要がない就業規則になってい たからだ。 やはり、今から思い返しても、親父がまっとうな経営者であった とは思われない。 佐藤は結局、大学進学を諦め、受験勉強を11月でストップし、 就職活動に移ったが、時期が遅く就職に失敗した。 そうして死んだような目をして高校を卒業していった。 母親が死んでから女関係が荒くなり、このころには家に帰ること すら稀になっていた親父は、俺が大学を卒業した年、俺が事業を継 ぐつもりがさらさらないことに気づくと、事業を売っぱらって余生 を遊べる金を得て、遊び人に転職した。 115 そして、どこで出会ったか知らない東南アジアの女と一緒に、フ ィリピンかどっかへ行き、小金の入った財布を振って遊んでいたら、 物盗りに殺されて死んだ。 *** ﹁⋮⋮﹂ 目が覚めると、体中にびっしょりと汗をかいていた。 二日酔いのように頭も痛む。 ﹁⋮⋮﹂ 夢か⋮⋮。 また悪夢を見てしまった。 暖炉では、消えかかった薪が赤くなっていた。 部屋は温かいが、少し寒さを感じて目を覚ましたかった。 窓を開けると、身を切るように冷たい風が吹き込んでくる。 外は、まだ真っ暗だった。 悪夢にうなされた後は、もう八年も昔のことになった、昔の知識 をよく思い出せる。 常夜灯の明かりを頼りに、いくらか思い出した科学のしくみを本 に記した。 書いているうちに悪寒も過ぎ去り、再び寝ようと思い布団に入る と、玄関のほうからコンコンと音がした。 こんな時間に誰だ。 ドアを開けて玄関のほうに向かうと、聞き間違いではなく確かに 116 音がしていた。 ﹁誰だ﹂ 俺がそう言うと﹁ホウ家の用人、シュンでございます﹂という言 葉が帰ってきた。 なるほど。 ﹁父上に御用があるのだな﹂ 用があるといったら、親父としか思われない。 ﹁その通りでございます﹂ ﹁僕の一存では玄関の戸は開けられない。すぐに、父上を起こして くる﹂ ﹁よろしくお願い申し上げます﹂ 俺は両親の寝室へ向かった。 両親の寝室では、ルークとスズヤが二人横並びで仲良く寝ていた。 ルークの体に手をかけてゆさぶる。 ﹁起きてください、お父さん﹂ ゆさゆさと揺すっても、全然起きなかった。 ﹁起きてくださいって﹂ 段々と揺すりを強くしながら呼びかける。 いっそ、叩いたほうが早いかもしれない。 117 ﹁ん⋮⋮ユーリ? どうしたの﹂ 隣に寝ていたスズヤのほうが先に起きた。 ﹁本家の用人を名乗る人が玄関に来ています﹂ そう言うと、スズヤは暗闇の中ですぐに起き上がった。 ﹁あなた、起きてください﹂ それはさほど大きな声ではなかった。 少なくとも俺の声より明らかに小さな声であった。 なのに﹁んあ⋮⋮あさか?﹂とか言いながら、ルークはすぐに目 を覚ました。 なんやねん、この夫婦。 ﹁父上、本家の用人のシュンさんが玄関に来ています。僕一人で家 に入れるわけにはいかないので、外で待たせています。早く行って あげてください﹂ ルークは血相を変えてベッドから飛び起きた。 *** ﹁どうした、こんな時間に﹂ ルークが扉を開けると、そこには青ざめた顔の小男が立っていた。 ﹁お耳に入れなければいけない事が⋮⋮﹂ ﹁早く入れ﹂ 118 外は雪が少し積もっている。 この地方は意外と雪が積もらないのだが、空気は乾いて寒く、冬 は極寒となる。 今は冬の入り口だった。 ﹁では、失礼いたします﹂ ルークは明かりにしていた油皿の油をストーブの薪にひっかけ、 灯心から火を移した。 またたく間に火が燃え広がる。 台所では湯を供そうと、スズヤが別の火を熾していた。 ﹁まずは、手足を見せてみろ﹂ ﹁大丈夫でございます﹂ ﹁それは私が決める。自分ではわからんものなのだ﹂ ﹁⋮⋮わかりました﹂ シュンは手袋を脱いで、靴下も脱いだ。 死体のように真っ白な指が現れる。 ルークはシュンの手を握るとゆっくりと揉みほぐし、少し異臭の する足の指もためらいなく握って、揉んでいった。 ﹁足の指は⋮⋮大丈夫だな。手の方が危ないが、まあ湯のみを握っ ていれば大丈夫だろう﹂ ﹁⋮⋮かたじけなく﹂ カケドリに乗っていると、足は半分羽毛に包まれるため意外と温 かい。 むしろ、手綱を握っている手のほうが冷える。 119 なんにせよ、凍傷を負うほどの冷たさではなかったのだろう。 よかったよかった。 ﹁それで、何があった﹂ 汚れた手をぬぐいながら、ルークが尋ねた。 ﹁遠征団が帰還いたしました﹂ シュンが暗い表情でそう言うと、ルークの顔がこわばる。 ﹁兄上は大事ないか﹂ 打って変わって、問いただすように訊く。 だが、シュンは首をふった。 ﹁討ち死になさりました﹂ 一瞬、頭のなかが真っ白になった。 ﹁⋮⋮おい、冗談はやめろ﹂ ﹁冗談ではございません。遺体はありませんので、伝聞だけにござ いますが、ゴウク様は確かに亡くなられました﹂ 遺体はない? ﹁⋮⋮なんだと。遺体がないとはどういうことだ﹂ ルークのほうも、俺と同じ疑問をいだいたらしい。 ﹁ゴウク様はルーク様が贈られた鷲に乗って王鷲攻めをなされ、見 事、遂げられたそうでございます﹂ ﹁⋮⋮﹂ 120 ルークが息を呑んだ。 ﹁⋮⋮そうか。やり遂げたか﹂ ﹁はい﹂ そう肯定したシュンは、涙ぐんでいるように見えた。 王鷲攻めってなんだ? 場の雰囲気から尋常でない様子はわかるが、話についていけてい ない。 ﹁戦況は悪かったのか﹂ ﹁はい。遠征団は野戦にて総勢の半数を喪い、要塞においてキルヒ ナ王国軍の主力とともに包囲されたそうでございます。その折、ゴ ウク様は遠征団の天騎士どもと共に王鷲攻めに挑み、それにより、 軍は引いていったと⋮⋮﹂ ﹁そう、か⋮⋮﹂ 兄の死を知らされたルークは、控えめにいっても沈痛な面持ちだ った。 みょうにち ﹁⋮⋮ルーク様におきましては、明日行われる親族会議に参加して いただきたく⋮⋮﹂ ﹁わかっている。必ず参上する﹂ ルークがそう言ったとき﹁お茶のご用意ができました﹂とスズヤ が茶を持ってきた。 ﹁それと、よろしかったらこれも﹂ 茶を沸かした火で焼いたのだろう、堅焼きのパンが暖められて出 された。 ジャムとバターもある。 ﹁⋮⋮ありがたい。今日は何も口に入れていませんで﹂ 121 よほど腹が空いていたのか、シュンはすぐにパンを食べ始めた。 ﹁⋮⋮朝からか?﹂ ﹁はい。忙しかったもので﹂ 今は夜明け前なので、少し言葉がおかしいが、この国では機械式 時計などは殆ど流通していないため、日が落ちたあとの時刻のこと は、あまり気にしない。 つまり明日の親族会議というのも、今から夜が明けたら今日とい うことだ。 ﹁いくらなんでも、危険すぎる。死ななかったのが不思議なくらい だ﹂ ほんとだよ。 夜間に馬やカケドリを走らせるのは、自動車で夜に幹線道路を走 るのとはわけがちがう。 自動車にはヘッドランプがあるが、馬やカケドリにはない。また、 道も整備されているわけではない。 こんな寒い夜に走らせていたら寒さで頭が朦朧としてくるし、転 倒すればそのまま凍死の可能性が高い。 俺が溺れて死んだ時のように、腹が減って血糖値が下がった状態 で、更に寒さにさらされると、体は燃やす燃料がないのでそのまま 凍ってしまう。 ﹁ごもっともでございます。屋敷を出る前に何か口にしようとは思 っていたのですが⋮⋮、忘れてしまいまして﹂ ﹁客間をかすから、それを食べ終わったら、蒸留酒を飲んで、すぐ に寝ろ﹂ 122 ﹁いえ、私は⋮⋮﹂ ﹁寝ないのなら、明日はお前は留守番だ。鳥から落ちて死んでもら っては困る﹂ ﹁⋮⋮わかりましてございます。お言葉に甘えて、休ませて頂きま す﹂ ルークは頑として言った。 ルークは愛用のグラスを持ってきて、酒を注いだ。 なみなみとグラスに酒が注がれたそれを、シュンに差し出す。 ﹁酒は必ず飲めよ。体の芯が冷えていては寝付けないからな﹂ ﹁⋮⋮お気遣い、痛み入ります﹂ 体が寒くなくとも、こんな状況では眠ろうと思っても眠れないだ ろう。酒はそれを忘れさせてくれる。 123 第010話 お家騒動 本家にはルークと俺、シュンの三人で向かった。 通夜ではないのでスズヤは来る必要がない。 では何故俺が呼ばれたかというと、一応は分家の跡取り息子だか らであろう。 この国のしきたりでは、必ずしも長子相続は適用されないので、 これから息子か娘が生まれれば、そちらが家を継ぐ可能性はあるが、 現状では俺が次期家長ということになる。 本家の敷居を再びまたぐと、出陣式とは打って変わってのお通夜 ムードだった。 俺もだが、皆黒い喪服を着ている。 だが、今日は通夜ではない。 遺体が出てくる可能性があるので、葬式はまた後でやるそうだ。 たどり着くと、豪勢な客間の一つに通され、軽食を供された。 ルークと俺でぱくぱくと軽食を食べていると、シュンがやってき た。 ﹁ルーク様、親族会議の参加人の一覧でございます﹂ ﹁ありがとう﹂ 羊皮紙の紙が渡されると、ルークはさっと目を通した。 眉をひそめる。 124 ﹁待て、ラクーヌ殿がいないぞ﹂ ﹁ラクーヌ殿は王鷲攻めを拒否しましたので、奥方様が参加者から 外されました﹂ ﹁なんだと? あれを拒否したからといって、騎士でなくなるわけ ではなかろう。生きているのなら⋮⋮﹂ ﹁奥方様が、主君を置いて逃げるような者は騎士とは呼べぬと﹂ この奥方サマというのはゴウクの妻だろう。 シャムの母親だ。 何かしら発言権があるのだろうな。 ﹁⋮⋮だが、ラクーヌ殿しかおらぬではないか﹂ 口ぶりから察するに、ルークは最初からラクーヌとやらが次期家 長だと思っていたようだ。 少なくとも、かなりの有望株だと思っていたのだろう。 俺もラクーヌという親戚は名前だけは知っていた。 エク家という分家の出で、エク家は江戸時代で例えれば代々家老 を務めてきた家柄みたいなものと考えればわかりやすい。 つまりは、家臣団の中でも指折り数えられる立派な名家である。 祖父の代にホウ家から嫁をもらっているので、一応は遠い親戚に 当たる。 親族会議に呼ばれていないのは、確かにおかしかった。 ﹁ですが、事情が事情でございますから。奥方様は、ラクーヌ殿が 当主に収まるくらいならば、婿養子を取るとおっしゃって﹂ 125 ﹁婿を取るのか﹂ ルークはちょっと虚を突かれたように言った。 婿養子という発想はなかったのだろう。 俺も、あのシャムに婿を取るという発想はなかった。 だが、考えてみれば、日本でも家系を保つために優秀な人間を養 子に取るということは、大昔からやられているのだから、あって当 たり前だ。 むしろ基本的な戦略といえるだろう。 逆に、血統にこだわって残り物のグズに家長を任せるより、より どりみどりの男たちから選んだ優秀な男を連れてきたほうが、将来 的には良いという考え方もある。 ﹁だいたいわかった。ご苦労だったな﹂ ﹁はい。それでは失礼いたします﹂ とシュンは部屋から出て行った。 ﹁まあ、俺にはほとんど発言権なんてないからな、座っているだけ だろ﹂ シュンが出て行くと、ルークは椅子にどっかりと座ったまま、気 楽そうに言った。 俺に言っているのか、自分に言い聞かせているのか、曖昧な発言 だ。 ﹁そうですか? ゴウク叔父様の弟なのですから、筆頭格では﹂ 126 ﹁いや、ホウ家の当主は騎士号を持っていないとなれない。そうい う決まりなんだ﹂ そうだった。 考えてみりゃ当然の話だ。 ルークは、ホウ家の家臣団の一員ではあるのだが、騎士号という のを持っていない。 騎士号は騎士院という学校を卒業することで得られるが、ルーク は途中で嫌気がさし、中退してしまったのである。 騎士号というのは、日本で例えれば自衛隊幹部学校の卒業認定み たいなもんで、それがないと兵を率いる立場とは、一般に認められ ない。 つまり軍事の専門家ではないわけで、軍のイロハをなにもしらな い一般人を頭領に据えるのは、さすがに無茶であろう。 ルークが当主になるという線はないということだ。 それはいいとして、先に聞いておかなければならないことがある。 ﹁王鷲攻めってなんですか?﹂ この件だ。 ﹁⋮⋮そうだよな、ユーリには説明していなかった﹂ ﹁はい。教えてください﹂ ﹁⋮⋮そうだなぁ、そろそろ教えてもいいかもしれん﹂ なにやら感慨深そうに言っておる。 なんなんだ。 ﹁王鷲攻めっていうのは、王鷲に乗って戦うってことだ﹂ 127 ⋮⋮?? 空中戦をするってことか? ﹁空中で敵の王鷲乗りと戦うということですか?﹂ ﹁違う﹂ 違うのかよ。 まあ銃もなにもないんじゃ戦いようがないか。 物語ではそういう場面もないわけでもないが、槍で突いて回ると いうのは、かなり無理がある。 ﹁戦うのは、もちろん地面にいる敵だ﹂ ﹁地面にいる敵って﹂ 騎馬兵じゃないんだから、鷲に乗ったまま戦うなんてのは不可能 だ。 鷲が川中にいる魚をキャッチするように攻撃する、というのも、 やはり難しい。 無理ではないが、リスクが多すぎて現実の戦闘で採用されている ようには思えない。 空中から槍投げでもしてブッ殺すのか? ﹁そうだ。敵陣のまっただ中に突っ込んで、大将首を取るんだ﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 絶句。 128 なんだそりゃ。 要するに特攻ということか。 ﹁俺が、お前にこれを教えなかったのは、俺はこれが嫌いだからだ﹂ ﹁そんなの、成功する見込みがあるんですか?﹂ 思わずそう言って、ゴウクが成功したというのを思い出した。 ゴウクは成功したのだ。 そして死んだ。 ﹁まあ、低いな﹂ やっぱり低いらしい。 ﹁やっぱり、そうですか﹂ ﹁王鷲攻めをするには四つの難があると言われている﹂ ルークはそう前置きして、話し始めた。 ﹁まず、前提として大将首の居場所を見つけること。これは難に含 まれない。それを踏まえて、影の難、降の難、地の難、斗の難ての がある。影の難は影武者の難だ。せっかく大将首を取ったと思って も、そいつが影武者だったら意味はない。降の難は、降下の速度だ。 俺がいつもやるみたいに、安全重視でゆっくり降りていたら、途中 で気づかれて大将首は逃げてしまう。王鷲の足が折れるくらいの勢 いで降りる必要がある。地の難は、特定の降下地点に降りる難しさ だ。大将首から遠いところに降りても意味がないからな。斗の難は、 降り立ってから血路を開いて大将首に接近し、討ち取るまでの難だ。 これは、乗り手としての技量は関係ない﹂ なるほど。 129 いろいろあるが、どれも困難だ。 要は敵が密集している陣地のど真ん中に空挺降下して、敵将を暗 殺するみたいな話らしい。 めちゃくちゃすぎる。 特に降の難と地の難を両立させるには、風向きと風の強さにもよ るが、非常に高い技量が必要になるだろう。 その後の斗の難とやらが一番むずかしいのだろうが。 影の難は、実際はやれることはないのだろうが、あからさまな影 武者陣地を見破るというのはあるのかもしれない。 要するに、最上級の操作技量・戦闘技量を両立させた天騎士が、 一か八かで突っ込んで、敵将を討ち取って、結果そいつは影武者か もしれず、どのみち自分は討ち死に確定、という戦闘法だ。 これ考えたやつアホだろ。 ﹁難しいですね﹂ ﹁だが、兄上はやってのけたというのだから、すごい﹂ そう言いながらも、ルークは悲しそうな顔をしていた。 ﹁そうですね﹂ やってのけたということは、ゴウクは一流の戦士だったのだろう。 実際にゴウクが敵将を斬り捨てたのかどうかは解らないが、ゴウ クらがそれをやって敵軍が退いたというのは、事実なんだろうし。 ﹁といっても、実際は複数でやるんだがな。複数の天騎士が明け方 に飛び立って、敵将のいる天幕を奇襲するんだ。王鷲に踏み潰され る将兵の中に大将が混ざっていれば一番いい﹂ ﹁それはそうでしょうね﹂ 130 つーか割りと真面目に戦術が練られているのが驚きだ。 なんだ、天騎士ってのは特攻隊員が使う代名詞かなにかか。 さすがに俺は特攻隊員にはなりたくない。 ﹁天騎士になったら必ずそれに参加しなければならないのですか?﹂ ﹁違うが⋮⋮。王鷲攻めを為すというのは天騎士の誉れとされてい てな﹂ ﹁じゃあ、ラクーヌという人は﹂ ﹁王鷲攻めというのは天騎士が自由意志でやるものだから、現場の どのような将も強制することはできない。集団でやる場合も、まあ、 たまたま同時に各人の意思で行ったということになる﹂ ﹁なるほど﹂ 一般的な軍事行動ではないんだろうな。 そうじゃなかったら、誰も天騎士などにはなりたがらないだろう。 戦況が極まった状況ならともかく、なにもない平時のうちから特 攻部隊に入りたいなんていうやつが居たら、そいつは自殺志願者と 言われても仕方ない。 拒否権がなかったら、バカな指揮官が意味のないタイミングで仕 掛ける命令を下しても、従わなければならないことになる。 命を散らすにしても、それは効果的な場面で、かつ有能で尊敬し ている指揮官の司令で行いたい、というのが人情だ。 そして、この国では、貴族制が敷かれており、貴族制というのは 有能無能で指揮官が出世してゆく仕組みではない。 ただ、ゴウクの場合は、特攻の是非はともかく、場面的には恐ら く適切な場面であったはずなので、ラクーヌが拒否したのは、表向 131 きは問題ないにせよ、実際はやはり問題なのかもしれない。 *** そのうち、ドアをノックする音が聞こえ、女中が入ってきて、﹁ 参加者様方がお揃いになりましたので、ご案内いたします﹂と案内 しにきた。 ﹁いってらっしゃい﹂ と俺が笑顔で送り出そうとした。 が、ルークは、 ﹁?? なにいってるんだ、早くこい﹂ などと言ってきた。 ﹁は? 僕も出席するんですか?﹂ んな馬鹿な。 こんなガキを会議に参加させる意味がどこにある。 ﹁当たり前だろ。なんで連れてきたと思ってる﹂ ﹁てっきり、お供がいないと格好がつかないからかと﹂ ﹁⋮⋮違う。お前も呼ばれたからだ﹂ 初耳であった。 132 第011話 継嗣会議 ﹁なんで僕が参加することになってるんですかねぇ﹂ 不思議であった。 俺まだ子どもなのに。 ﹁直系はシャムちゃんしかいないんだから、しょうがないだろ﹂ ﹁シャムちゃんは呼ばれてるんですか﹂ ﹁呼ばれていないが、必要になったら呼ぶんだろう。ユーリは最初 から呼んでおかなきゃすぐ来れないから呼んでおいたんじゃないか ?﹂ ﹁へえ﹂ それもそうだ。 必要になったら来いっていっても、携帯電話があるわけじゃない んだから、使いをやる往復分で考えたら半日以上かかる。 ﹁着きました。こちらでございます﹂ 着いたらしい。 侍女が大きな扉を開ける。 扉も大きかったが、中はもっと大きかった。 大きな長方形のテーブルが五台くらい横にして並べてあり、それ でもなお広々としていた。 テーブルには、細やかな刺繍がなされた大きなテーブルクロスが 133 かかっていた。 さすがに一枚では覆いきれず、三枚ほどに分かれてかかっている が、模様は揃いのものだ。 テーブルクロス一枚をとっても、普通の家庭が十年くらい生活で きる金額になりそうだ。 当然のようにこんな布があるあたり、やっぱり物凄い名家なんだ なと思う。 こんな大きなテーブルクロスは、普通の家では必要ないし、しか もそれが揃いの模様で三枚もあるのだ。 そんじゃそこらの家じゃこうはいかないだろう。 その大テーブルを囲むようにして、椅子が並んでおり、その椅子 の大部分にはすでに来客が着席していた。 見渡してみると、お爺ちゃんお婆ちゃんばかりだった。 シャン人の寿命から考えると百歳を越える人もいるかもしれない。 さすがに、顔に皺が寄って貫禄がある。 比率的には、圧倒的にお婆ちゃんよりお爺ちゃんが多かった。 このお爺ちゃんたちは、高齢で退役した騎士ということになるの だろう。 騎士家のしきたりでは、最高齢者が家長を務めるというしきたり はなく、高齢になり戦士として役に立たなくなれば、隠居という形 で後続に家長の座を譲ってもいいらしい。 そうでないと、家長が戦場に出られなくなる場合があるからだ。 つまりは、この親族勢揃いの会議の場にジジイババアが雁首揃え ているという現状は、最近の戦争で騎士が死にすぎて、ホウ家の戦 134 士団は骨抜き状態だということを意味するのだろう。 まったく参ったね。 侍女がそのまま中に入って席に案内しはじめた。 どんどん奥のほうへ案内されてゆく。 あれ、これって結構上座じゃないん? そうして、なんだか元気のない、顔色の悪い女の人の横まできた。 ここがあんたの席だと言わんばかりに、侍女はぺこりと頭を下げ て去ってしまう。 ここは、もしかしないでも一番上座だ。 俺は、むしろ末席に座るものだと思っていた。 嫌な予感がするな。 ルークが前に出て、神妙な様子で女性にあいさつした。 ねえ ﹁ご無沙汰しております、サツキお義姉様。この度は誠に⋮⋮﹂ ﹁よしてくださいな。お義姉様だなんて﹂ 女性は困ったように軽く微笑んだ。 声に元気がない。 この女性が、つまりはゴウクの妻だったサツキ・ホウであろう。 憔悴したような顔色をしているので、一概に比べられないが、ス ズヤとさほど年齢が変わらないように見える。 だが、スズヤより十歳以上年上のはずだ。 シャン人は加齢による変化がゆるやかなため、十歳差程度では見 分けがつかないことがある。 135 サツキはいかにも良家の奥様という感じの女性であった。 スズヤは家事などをこなす手前、わりとハツラツとしたイメージ があるが、サツキはしっとりと落ち着いた感じがする。 ﹁なんだか、おもはゆいですわ。昔のようにサツキさんと呼んでく ださいな﹂ ﹁わかりました、サツキさん﹂ ﹁そちらが息子さんかしら﹂ 俺の方に目を向けてきた。 優しげな目だ。 おば ﹁ええ、そうです。ほら、ご挨拶しなさい﹂ ﹁伯母様、こんにちは。ユーリです﹂ ぺこりと頭を下げる。 伯母様でいいはずだよな。 ﹁こんにちは。大きくなったわねぇ、昔見たときはほんの赤ん坊だ ったけれど⋮⋮﹂ やはり初対面ではなかったようだ。 しかし、やはり赤ん坊のころから一度も会ってなかったのか。 普通、これだけ近い親戚だったら年に一回くらいは顔を合わせる のが普通だと思うんだけど。 さほど遠い場所に居を構えているわけでもなし。 ﹁はい、自慢の息子です﹂ 照れるぜ。 136 ﹁そうでしょうねぇ。シャムが褒めるくらいですから﹂ サツキがそう言うと、ルークは﹁???﹂と困惑したような顔を していた。 ルークはシャムと話したことがないのだろう。 まあ、ルークは、シャムとはあんまし話が合わなそうだ。 ﹁あなたはあの子と話が合うみたいねぇ﹂ ﹁あ、はい⋮⋮。彼女は僕よりずっと頭が良いですよ﹂ ﹁やだわ、もう﹂ 事実なのだが。 俺は同じ年頃のとき、すぐに無くなるゲームボーイの単三電池を 確保するのに四苦八苦していた。 俺が、高度な初等教育を与えられていてさえその有り様だったと きに、シャムは自ら学び、素数について思考を巡らせるところまで 辿り着いていた。 その差は測りがたいほどある。 ﹁謙遜なさって。シャムから聞いて私も驚いたのよ。どこで習った のかしらって﹂ ﹁なにかの本で読みました﹂ そう言うと、なんだかサツキの目が鋭くなった。 まるで何かを探るような目つきだ。 ﹁騎士院出のルークさんと農民出のスズヤさんの家にそんな学問書 があるものかしらねぇ?﹂ やば。 137 頭のなかに備わっているソナーが警鐘を鳴らした。 だが言い訳は用意してあるのだ。 ﹁父上の納品の都合で王都へ行くことが多いものですから﹂ ﹁あら、連れて行ってもらっているのね﹂ ﹁はい、社会勉強に﹂ ﹁僕が用事を済ませている間、大図書館に置いていっているんです よ﹂ とルークが助け舟を出してくれた。ナイスアシスト。 うむ。 事実だからな。数学関連の本なんて一切読んでないけど。 ﹁そうなの﹂ ﹁はい。いろいろと勉強しています﹂ ﹁偉いわね∼﹂ サツキは俺の頭に手を置くと優しくなでた。 もう探るような目つきはない。 やべー、なんだこの人。 ﹁さ、立ったままじゃなんだから、座って? あ、ルークさんはそ ちらね﹂ なにやら俺がサツキの隣の席に座るようだ。 もー、勘弁してよー。 俺はサツキとルークに挟まれる形になった。 138 ﹁おばさん、ちょっと落ち込んでたけど、若い子のおかげで元気が 出たわ。助かっちゃった﹂ ﹁お役に立てたようで幸いです﹂ ルークが言った。 勝手なもんだ。 しかし、どうしたもんか。 俺は椅子を見ていた。 うーん、どうしたもんかなぁ。 ﹁ユーリ、どうした、早く座れ﹂ 椅子に座らず、その前で立ったままじっとしていると、ルークが 急かしてきた。 俺だってできたらそうしとるわ。 ﹁思い切って飛び乗っても良いのですが、盛大に椅子ごとすっ転げ たら大恥を晒すことになるので、思案しているところです﹂ 椅子には子どもの俺用に特段分厚い座布団が敷いてあり、即席の 子供用椅子になっていたのだが、それが事態をややこしくしていた。 椅子の脚に横棒でもついていれば足掛けになるのだが、それもな い。 ﹁⋮⋮座れないなら最初からそういいなさい﹂ ルークは俺の両脇を持って持ち上げてくれた。 139 人形のように座らされる。 他所様の前でそんなこと言うの恥ずかしいっての。 *** そのまま麦茶を飲みながらぼーっとしていると、会議が始まった。 ﹁⋮⋮ここにお集まり頂いた皆さん、ご存知のことと思いますが、 わたくしの夫、ゴウク・ホウは先日、キルヒナ遠征軍団団長として 勇壮に戦い、戦死致しました﹂ サツキがそう言うと、会場はしんと静まった。 あいしゅう ﹁今頃は生死を共にした愛鷲と共に冥府の川を渡り、雲上からこの 場を見ていることでありましょう。まずは、簡易ではありますが、 遠い戦地に沈んだ戦士たちの霊に黙祷を捧げたいと思います﹂ 一拍を置いて、 ﹁それでは、黙祷﹂ と厳かな声で言った。 そして、静かな祈りが始まる。 そのまま、三十秒ほど経った時だった。 外から小さな鳥の鳴き声がわずかにするだけだった室内に、廊下 からけたたましい足音が鳴り響き、バタンとドアが開け放たれた。 皆が何事かと、黙祷をやめて一つしか無いドアを見る。 ﹁どういうことだ! この会議は!!﹂ 140 なんだこいつ? 会議なんざどうでもいいような俺だが、さすがにイラっときた。 顔を見たこともない遠戚の葬式で黙祷を捧げているわけではない のだ。 ゴウクとは一夜とはいえ盤を囲った仲だ。 俺も何も感じず目をつむっていたわけではない。 ﹁このラクーヌを抜きに何の会議をしておる!﹂ ああ、こいつがラクーヌか。 ラクーヌ・エクだ。 わからんかった。 よく見てみれば、ぎっしりと肉が詰まった体をしているし、年齢 もそれほど年かさではない。 上等のしつらえっぽい服も着ているし。 ﹁さて、招待状を送った覚えはないのですが⋮⋮﹂ ﹁招待状がどうこうという問題か! なぜ私が呼ばれていないのだ !!﹂ ﹁ご自分の胸に手を当てて考えてみては?﹂ サツキの声は、激しているわけではないのに良く通った。 隣に座っているサツキの顔を見ると、唇は薄く微笑みを作ってい るのに、目は笑っていない。 ラクーヌの怒りが赤く燃え盛る炎だとしたら、サツキの怒りは鉄 をも焼き切る青く冴えた炎のように見える。 141 ﹁やましいことなど何もない!﹂ ﹁⋮⋮まあ、どうでもよろしいことです。エク家を騎士団から一時 的に除籍したことは、女王陛下に申し伝えを済ませており、その許 可も頂いております。通達は行っているはずですが?﹂ 初耳だった。 俺が初耳なのはおかしくないが、ここにいる参加者の耳には入っ ているのだろうか。 だが、そんなのアリなのだろうか。 サツキの口ぶりでは、エク家は一時的に除籍、つまり放逐に類す る措置を取られたように思われる。 ゴウクは死んだのだから、その措置を誰が行ったのかというと、 サツキであろう。 サツキはあくまでも臨時的な家長であって、早急に正当な家長を 立てなければならない。 早急に、というより、可及的速やかに、といったほうがいいか。 というのは、将家の家長は男性、というのが、言わば女性が権力 を握っているシャン人国家において、男性側の権利になっているか らだ。 これは最優先に保護されるべき権利のはずだ。 これはバランスがどうこう以前の問題で、戦争に行くのは男性が やっているのだから、家長だけが女性では、男の方はやっていられ ない。 142 政治も女性、軍事もてっぺんは女性、一兵卒を始め実際に戦闘を して四肢を欠損したり死んだりするのは男。 それでは男は単なる奴隷になってしまう。 サツキが騎士号を取った、つまり戦士の一員であるのなら話は別 かもしれないが、そうではないのだろう。 こういう場合は、臨時的にサツキが取り仕切るのは実務上しかた がないことだが、可及的速やかに次の家長を決定して、椅子を譲ら なければならない。 そのために、この会議を開催した。 だが、王都からそういう決定が早速くだってきたということは、 サツキが臨時的な家長としての権力を、得た先からさっそく行使し たということになる。 そういう政治的工作は、サツキは頭の良い女性に見えるし、この 国では女性が政治力を握っているのだから簡単なのことかもしれな いが、果たしてやっていいことなのだろうか。 上手い言葉が見つからないが、会社で言ったらコンプライアンス 違反みたいな行為のような気がする。 理想をいえば、サツキは政治的工作に類することは一切せず、た だただ事務的に会議を開催し、次の家長を選び、実験を渡すのが、 立場から考えると推奨されるはずだ。 しかし、俺にはこの女の人がそんなことも理解できていないよう には思われなかったし、無用の混乱をまねこうとしているようにも 思われなかった。 やはり王鷲攻めに付き合わなかった件で怒っているのか。 143 一時的に ﹁もちろん、通達は見た。だが⋮⋮﹂ ﹁私は、エク家を従者団から それを永遠にしたいのかしら?﹂ ラクーヌはぐっと息を呑んだ。 一時的というのはなんだろうか。 除籍したと言ったのよ。 ほとぼりが冷めたら元通りにしてあげるという意味だろうか。 もしくはラクーヌが家長を離れたら元通りという意味か。 ルークの話によれば、王鷲攻めは表向き強制ではないものだから、 いわゆる軍規違反ではない。 だから不名誉行為に対する罰則という意味で、そういう若干嫌が らせめいた処分をするものなのかもしれない。 ﹁っ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮まあ、エク家も取り潰しになったわけではありませんから、 出て行けとは言いません。だけれど発言は許しません。それでもよ いのであれば、残りなさい﹂ サツキがそう言うと、ラクーヌは憤懣やるかたない顔で末席に座 った。 144 第012話 会議の終わり ﹁それでは、会議を始めましょう﹂ サツキが宣言した。 ﹁議長はこの私、サツキ・ホウが努めさせて頂きます。会議の目的 は、ホウ家次期当主の決定について一定の合意を得ること﹂ なんか株主総会みたいだな。 いや、どちらかというと役員会か。 一定の合意を得るったって、どうやるんだろう。 最終的にサツキが決定権を握っているのだろうか。 そのへんの細かいしきたりはよく解らない。 ﹁まず、最初に。ここに、ゴウク・ホウの遺言書があります﹂ サツキが言うと、参加者の耳目が一斉に集中した。 なんだ、遺言書があるのかよ。 サツキは服の中に手を入れ、一通の封書を取り出した。 便箋が封筒に入ってる形の封書だ。 開封した形跡はなく、真っ赤な封蝋で閉じられている。 白光りするような美しい便箋⋮⋮ではなく、全体的に汚く、薄汚 れていた。 一番至近でそれを見ることになった俺は、汚れの中に赤いものが 混じっているのを見ることが出来た。 145 血だ。 いかにも戦場から持ってきましたといった感じの封筒だった。 ﹁見ての通り、まだ開封しておりません。今、この場で開封しまし ょう﹂ サツキは、誰にでも見えるように、蜜蝋をバリッと剥がした。 中からは二枚の羊皮紙と、なんだか髪の毛みたいなものが入って いた。 髪の毛は糸でくくられてもおらず、ぞんざいに中に入っているだ けだ。 よほど焦っていたのだろうか。 手紙と一緒に何本かの髪の毛がぱらぱらと落ちて、机の上に散っ た。 サツキの表情に一瞬だけ影が差した。 サツキはハンカチを取り出すと、遺髪を一本一本丁寧に拾い集め、 ハンカチに包んだ。 ﹁手紙が二枚と、遺髪が入っておりました﹂ 部屋にいる皆が沈んだ表情をしている。 それだけ人望があったということだろうか。 ほんの短い付き合いしかなかった俺には、なんとも実感がわかな かった。 だが、ここにいる他の者にとっては、そうではないのだろう。 ﹁⋮⋮後でここにいらっしゃる皆様方に、順に回そうと思います。 まずは私から拝読させて頂きます﹂ 146 サツキが手紙を手に取り、読み始めた。 五分ほどで二枚ともを読み終える。 ﹁⋮⋮一枚はわたくし宛の私信ですので、この場での音読は控えさ せていただきます。もう一枚は、正真正銘、遺書でした﹂ あー、なんか嫌な予感がする。 いろいろとお膳立てされてる気がするんだよな。 そもそも、今初めて開封して読んだという形をとっているが、こ ういった席の前に大なり小なり策謀をする人間が、そのような運否 天賦をするだろうか? 密封された遺書といっても、遺書の内容というのは大抵、だいた いのところは遺族が知っているもんだ。 逆を言えば、先んじて内容を知っていたからこそ、遺書を開封し ないでいられた。ということも考えられる。 ﹁では読みます⋮⋮私、第二十七代目ホウ家当主ゴウク・ホウは、 弟ルーク・ホウを次代の当主に指名する。以上﹂ ああ。 やっぱりな。 腑に落ちると同時に、胸の奥に黒いものが渦巻く。 ルークを見上げると、なんだか呆けたような表情をしていた。 そうもなろう。 ルークはまったく夢にも思っていなかった様子だった。 147 ルークがそういう可能性を想定していたら、事前にもっと心配し ていたはずだ。 キョドキョドと心配したり、控室でもオドオドしながら歩きまわ ったりしていたはずだ。 それがなかったのは、きっと兄に対する人物評が、自分の中でで きていたからだろう。 兄は絶対に自分を後継者に指名したりはしない。なぜなら、向い ていないし務まりきらないのが解りきっているから。 きっとそんなところだろう。 ﹃騎士号を持っていない者が選ばれるわけがない﹄という思い込み もあったのはずだ。 そんなようなことを言っていたが、ありゃウソだった。 俺も納得してしまっていたが、あれはルークの勘違いで、絶対的 条件ではなかったのだ。 会議参加者を見る。 半数ほどは眉を寄せて考え事をしていたりするが、あとの半分は 平然とした顔をしている。 騎士号も持っておらず、実家に殆ど顔出しすらしていないルーク が、将家の当主に選ばれるというのは、イリーガルではなくても、 イレギュラーではあったはずだ。 これほど眉も動かさないというのは、やはり既知の情報であった からとしか思われない。 148 開催自体は緊急だったが、サツキが個別に策をめぐらしていたの だろう。 ﹁馬鹿げている! 騎士でもない者がホウ家の当主だなどと!!!﹂ そう怒鳴ったのはラクーヌであった。 お前発言権ないんじゃなかったのかよ。 ﹁黙りなさい﹂ サツキがそう言うと、ラクーヌは苦虫を噛み潰したような顔をし ていた。 なんだこいつ。 ﹁だがっ⋮⋮!﹂ ﹁これが異常な措置であることは承知しております。ですが、既に 女王陛下にもお伺いは立ててあります。問題はございません﹂ つい先程開封した手紙なのに、女王陛下に確認を取ってあるとは。 もしやテレパシー能力者か。 んなわけない。 やっぱり予め知っていたわけだ。 ﹁問題ないわけがあるか!﹂ ﹁もう一度言います。黙りなさい﹂ ﹁ぐっ⋮⋮ぬうっ⋮⋮﹂ サツキが冷徹に言い放つと、ラクーヌはしぶしぶ黙った。 ﹁皆様も知っての通り、ホウ家の領地は半島の奥詰まりに位置し、 149 王国で最も暖かで豊かな土地を与えられているため、他国への援軍 は代々ホウ家が担ってきました﹂ ほほう。 初耳だった。 耕作地があったことが、ではなく、それを持っているのがホウ家 だけだったことが、だ。 なるほど、そういう事情があったのか。 逆に言えば、ホウ家以外の将家はキルヒナ王国に近いところにあ るから、もしもの時のために温存しているわけだ。 いざ自分の番が来た時に、さあ身を守ろうと構えた盾が、ボロク ソと成り果てていたら、守りようもない。 実際のところ、王都より前にいる連中は盾になるが、後ろにいる 連中は盾にはならない。 だとしたら、攻めてこられる前に使ってしまおう。という腹なの だろう。 まるっきり貧乏くじのようにも思えるが、豊穣な土地を与えられ た代償ととることもできる。 だが、代償といっても、高くつき過ぎる気もする。 なにしろ、他の将家はほとんど人死にがないのだろうに、ホウ家 だけこんな有り様になっているのだから。 これではいくらなんでも不満が続出してしまうだろう。 あるいは、戦えば戦うだけ報奨金みたいのが貰えるシステムとか なのかもしれないな。 150 出征先の国から貰えるのか、シヤルタ王国から貰えるのか、それ は不明だが。 だからこそホウ家はこんなに良い持ち家を持っているのかもしれ ない。 さすがにそれは邪推か。 ﹁ですが、此度の戦でホウ家はいよいよ矢尽き弓折れ、騎士団の戦 力維持が難しくなってきました。女王陛下はそのことを理解してお られ、戦力が回復するまで軍団の再建に専念せよとのお達しがあり ました。つきましては、しばらくの間は家長は騎士でなくても良い と、特別の配慮をしていただきました﹂ ジジイババアばかりじゃ戦争にならんから、使い物になるまで休 んでいてよし。ということか。 その間はどうせ戦わないんだから騎士じゃなくていいよと。 実際は、女王とやらがそういう考えを持っていたわけじゃなく、 そういう建前を政治工作で引っ張り出してきたんだろうが。 事前にそんな大掛かりな政治工作を済ませて、遺言執行の障害を 取り除いておいたということは、お膳立てはバッチリというわけだ。 気に食わない。 既知の内容であったのに、事前に当の本人であるルークには相談 がなかったのだ。 つまり、ルークはハメられたとしか考えられない。 そのハメられた当人は少なくとも嬉しくはなさそうな顔をしてい る。 なにがなんだかわからない︱︱。 みたいな顔をして、困り果てた顔で、味方を探して周りをキョロ 151 キョロしてる。 俺はルークの脚をちょんちょんと触った。 そして小声で言う。 小声といってもサツキには聞こえてるだろうが、関係ない。 ﹁お父さん、いいんですか? 嫌なら嫌って言わないと。決められ ちゃう流れですよ﹂ ﹁はっ⋮⋮そ、そうだな﹂ ルークは我に返ったようだ。 よしよし。 ﹁私には到底務まりません。辞退します﹂ *** ﹁ハッ!﹂ こちらまで聞こえるくらい大きな声の嘲笑が上がった。 ラクーヌだ。 現状からするとむしろルークを馬鹿にしてくれたほうが有り難い くらいなのだが、でもやっぱりイラっときた。 このやろー、腰抜け野郎のくせして。 ﹁ルークさん、大丈夫ですわよ。まあ、多少変化はあるでしょうが、 お望みであれば今まで通りの生活をしてもらって結構です﹂ 152 んんん? は? どーゆーこと? ﹁実務は我々でやりますから﹂ ぱーどぅん? ルークを傀儡にしちゃうってことか? ﹁どういうことでしょうか。私より適任者はいくらでもいると思い ますが﹂ ﹁かいつまんで説明しますと、我々にはだいたい四つの選択肢があ りますの﹂ サツキはゆっくりと話し始めた。 ﹁まず、一つ目は分家の誰かを連れてきて当主に据えるパターンで すわね。これは、適任者は三人ほどいますが、とっても遠い親戚で すの。三人共、騎士号は持っていますが爵位でいえば騎爵でしかあ りませんし、内二人はホウ家の領民でもありませんわ。だから、私 としてはできれば避けたいところですわね﹂ そりゃそうだろうな。 ほかの皆だって嫌だろう。 特にホウ家の領民ではないという二人は、つまりは領外の他家に 嫁いでった女子の子ってことだろうし。 ちらっとラクーヌのほうを見たらゆでダコみたいになってキレて た。 153 ラクーヌは傍系で、とっても遠い親戚でもなく、騎士号も持って おり、実戦経験もある。 爵位はなんなんだか知らないが、きっと御大層なものを持ってい るのだろう。 だがサツキは一貫して無視している。 ﹁もう一つは、ルークさんが今から騎士号を取るという方法。調べ てみたらルークさんは騎士院の単位を三百単位のうち二百九十単位 まで取っていますから、今から騎士院に行って、最後の実技で合格 を貰ってくるだけで、すぐに騎士号は取れますわ。これが最も自然 な形にはなるのですが、お嫌でしょうから強制はいたしません﹂ なんだ、早々に中退したのかと思っていたが、卒業までギリギリ んところまで行ったのか。 ギリギリといっても、大学四年中退とかではなく、あとは卒論だ けみたいな状態らしい。 卒業しちまえばよかったのに。 騎士号を貰ってしまうと半軍属の予備役のようになるのだろうか。 ﹁三つ目は、私の娘に騎士の入り婿を取るという方法。これはたい へん現実的ですわね。ですが、娘はまだ十歳にもなっていませんの で、現在すぐに実行するわけにはいきません﹂ シャン人の世界では若年結婚はできない仕組みになっているのか? とんでもない原始的な風習が残っていると思ったら、へんなとこ ろが近代的である。 ﹁四つ目は、ここにいるルークさんの息子さんに騎士院に入学して もらって、騎士号を取ってもらい、当主になってもらうという方法 154 です﹂ ルークの息子って誰だ。 俺の他に隠し子でもいたんかな。 そんなんしたらスズヤの怒髪が天を衝くぞ。 いやいや。 はぁ、俺か。 正直その発想はなかった。 罠にハメられたのはルークだけじゃなくて俺もだったってことか。 つーか、こりゃ俺がメインの可能性まである。 やられたな。 ﹁これもたいへん現実的な手ですわね。ただ、もちろん彼は騎士院 の単位は一つも持っていませんので、最初からということになりま す。皆様御存知の通り、騎士院を卒業するには十五年ほど時間がか かります。といっても、彼は夫も認めていたほど優秀な子ですから、 十年で済むでしょう。でも、やっぱり、今すぐというわけにはいき ません﹂ いやいや。 やだやだ。 別に俺はこの国で暮らすのは嫌ではないが、刀槍担いで戦えとな ると話は別だ。 愛国心なんてまったくないし。 できれば戦争が始まったらスタコラサッサと逃げられるポジでい たい。 155 種族ごと追い詰められているのに逃げ場なんて存在するのかとい う問題もあるが。 ﹁ユーリは騎士にはしません﹂ 俺はルークの顔を見上げた。 先ほどのオドオドした表情はどこへやら。 真剣な表情でハッキリと宣言していた。 あぁ、スズヤが惚れたのはこのルークなのか。 そんな感じのする顔だった。 ﹁あら、ユーリくんが騎士になりたいと言ってもだめなのかしら﹂ ﹁もちろん、それならば別です。ですが、強制はさせません﹂ ﹁でも、子どもは騎士に憧れるものよ﹂ なにいってやがる。 ふざけるな。 人をハメておいてどの口がいいやがる。 ﹁僕の心の内を勝手に創作しないでください。不愉快です﹂ 俺がハッキリそう言うと、サツキは狐に摘まれたような顔をして いた。 言ってやった言ってやった。 生意気なガキと思われようがどうでもいいし。 ﹁⋮⋮ユーリもこう言っています﹂ 156 ルークを見ると、やはり子どもが暴言を吐いた時に親がする、困 ったような顔をしていた。 なんだよ。そんな顔しないでよ⋮⋮。 ﹁でも、将来のことは解らないでしょう。そのうち、騎士になりた いと思うようになるかも﹂ ﹁それはそうかもしれませんが、あらかじめ他の道を塞いでおくよ うなことはやめてください﹂ ﹁ルークさん、誤解しているわ。私は塞いでもいないし強制もして いないのよ﹂ ﹁ですが⋮⋮﹂ ﹁ユーリくんが嫌ならば、私が責任をもって娘に婿を取らせます﹂ へー。 勝手にそうすれば。 ﹁⋮⋮﹂ おい、黙っちゃったよ。 お、お父さん? ﹁ルークさんは少しの間だけ名義上、家長になってもらえればいい のよ。つまり、さっき言った四つの方法のうちの三番目か四番目が 取れるまでのつなぎということになります。もちろん、本格的にや りたくなったら騎士号を取ってもらって二番目の方法を取ることこ とにしても構いません﹂ ﹁それはありえませんが⋮⋮しかし⋮⋮﹂ ルークにとってのメリットがまったくない。 親戚づきあいがギスギスするというデメリットがあるくらいで、 157 あとは面倒なだけだろう。 ルークは手に職があるのだから悩む必要はない。 牧場はホウ家の領内にあるから、経営はやりにくくなるが、場合 によっちゃ、牧場ごと領外に移転するという手もあるだろう。 それでも十分にやっていける。 移転に必要な費用がない、というのなら、王都にいる上客に頼め ば、頭金の融資くらいは引き出せるだろう。 断れ断れ。 *** だが、ルークは俺のほうをチラチラと見ていた。 顔色を伺っているふうでもなく、息子のことを考えるとどういう 選択がいいのかなぁ、とか考えているようだ。 せっかく息子の栄達の道が現れたのに、ここでそれを切っちゃっ ていいのかなぁ。 まだ子どもだし、あとあとどう考えが変わるかわからないし、あ とで気が変わって当主になりたがるかもしれないぞ。 もしそれが駄目でも、責任もって入り婿を探してくるっていうし なぁ。 とか考えているような気がする。 まあ、俺ももう八年も息子やってるからね。 大抵のことは解るんだよ。 このお父さんは考えが思いっきり顔にでるタイプだしね。 158 つまり、ルークは俺にとっての千載一遇の大チャンスかもしれな い、とか考えているのだ。︵たぶん︶ やめろマジで。 そもそもシャムに婿取るという逃げ道が用意されているとはいえ、 実際にそれが機能するか極めて疑わしい。 あのシャムに婿とか、上手くいく気がぜんぜんしない。 このサツキとて、シャムの親なのだから、娘の幸福を考えるのが 普通だろう。 実際はどうだか解らないが、少なくとも、その傾向はあると考え ておくべきだ。 俺もシャムと話したのは一度きりだから、人格を理解していると は思わんが、俺に対してあれだけトゲトゲしていたシャムが、汗臭 い無骨な武人と結婚させられて、上手くいくものだろうか。 上手くいって幸福になるというヴィジョンも想像できなくはない が、その可能性はどうも低い気がする。 かといって、学者肌の男を連れてくるとなると、今度は将家の総 領としての仕事が務まらなくなるだろう。 だとすると、実際にはサツキはこのケースを採用しようとは考え ていない。 というふうに、考えることもできる。 だが、このへんはルークはシャムに会ったことないから、全然わ からないはずだ。 ﹁駄目ですよ、断ったほうがいいです﹂ 159 俺はボソっとルークに耳打ちした。 ﹁ユーリはちょっと黙っていなさい﹂ 厳しい声で言われた。 うぐぅ。 まぁそう言われるよなぁ。 ルークは何事かを決心した顔になっていた。 ﹁そういう事であれば、務めさせていただきます﹂ あーあ、言っちゃったよ⋮⋮。 これは言質になるぞ。 ﹁まあ、それは重畳﹂ ﹁重畳でもなんでもねえよクソババア⋮⋮﹂ 俺はボソッとつぶやいた。 ﹁あら、なにかいったかしら﹂ ﹁いえ⋮⋮﹂ ﹁ですが、請われればの話です。この会議で合意を得られなければ ⋮⋮﹂ ﹁あら、大丈夫ですわ﹂ サツキは机の上に肘をついて、胸の前で両手を合わせている。 なんだか可愛い女の子ポーズだった。 たぶん四十を超えているが、三十歳くらいにしか見えないので、 160 さほどおかしくも見えない。 ﹁決を取れば、きっと皆さん賛成してくれますとも﹂ 工作済みらしい。 たぶん、ジジイどもは説得してあんだろうな。 ラクーヌという異物がいるから、そこまで違和感は感じないが、 あいつがいなかったら完全に茶番劇の舞台だったわけだ。 はあ。 なんだか可愛らしく見えるはずのポーズが碇ゲン○ウの指組みポ ーズに見えてきた。 だが、この会議場には俺の最後の味方が残っていた。 先ほどから、横断歩道を渡る小学生ばりに、ピンと腕を伸ばして 挙手しっぱなしのラクーヌである。 腕疲れねえのかな。 ﹁じゃあ、さっそく決を取りましょうか?﹂ ﹁ふざっけるな!!!﹂ 思わず耳を覆いたくなるほどの怒号であった。 ﹁しきたり通りでゆけば儂が当主になるのが当たり前であろうが! !! なにを抜け抜けと掟破りの話をしておるか!!!﹂ へー。 そうなんだ。 実のところ、俺もそう思うんだよ。 161 特攻に付き合わなかったからってハブられるってのもどうかと思 うしね。 でもやっぱり、当主は特攻して立派に闘死したんだから、それに 付き合わないでのうのうと帰ってきた人間が、大手振って次期当主 に収まるっていうのは変に思えるんだよ。 降格はしないまでも、すぐに昇進、というのはおかしいでしょう。 特攻に否定的な俺でさえそうなんだぜ。 ここにいる頭の硬い連中はもっとそう思ってるんじゃないのかね。 ﹁はぁ⋮⋮﹂ サツキはこめかみのあたりを指で抑えるようにして、頭痛の元を 冷たい目で見ていた。 呆れているのか。 さてどうやって出て行って貰ったらいいのかと考えているのか。 ﹁ふぅ∼∼∼∼∼﹂ サツキをじっと観察していると、だんだんとコメカミに青筋がた って、息が荒くなっていくのが見て取れた。 そこで気づいた。 呆れているのでもなく、考えているのでもなく、怒りを抑えてい るのだ。 ﹁儂は先の遠征でも武功を立ててきた!!! 何が不満なのだ!! !﹂ え、自分でそれいう? 俺がそう思った瞬間であった。 162 ガタン、と椅子が倒れる音がした。 ﹁黙りなさい!!!﹂ 椅子を蹴って立ち上がり、豹変したような怒りの表情をしたサツ キがそこにいた。 ﹁あなたの魂胆など見え透いているのです! 戦場で誰にも言わず 出奔したのはなぜですか! 王鷲攻めが失敗すると見込んでいたの でしょう! そうすれば、包囲された城は殲滅され証人はいなくな る。そうしてあなたが当主へ⋮⋮もしそうなったらと思うと、ぞっ としますわ!﹂ サツキさんはよっぽどマジギレしているようで、凄い剣幕でラク ーヌを罵倒しはじめた。 耳がキンキンするほどの大音声だ。 ﹁そのような卑劣な野望で主君を見捨てるとは、あなたは騎士の風 上にもおけぬ屑です! そのような屑が、怖気づいて震えているな らまだしも、図々しくもこの期に及んでまで当主の座を求めるとは ! 恥を知るなら今すぐここで自害なさい!﹂ 自害とか。 切腹とかあんのかな。 つーかその前に、ラクーヌひでえ奴だな。 話を聞いてみたら、屑の代表みたいな奴だった。 特攻を拒絶するのと、その場で出奔するのはぜんぜん違う。 エク家が領地から堂々と税金をとって、領民に対して偉ぶってい 163 るのは、ホウ家にその権利を保証されているからだ。 戦争に参加し当主の命令に従うのは、その代償としての義務とい うことになる。 もちろん特攻は義務の範囲外になるが、その場合は通常の軍務を 引き続きまっとうする必要がある。 主君が特攻したからといって、すべてを放り投げて出奔していい 道理はない。 恐らく兵はまだ残っていたのだろうから、彼らをまとめ上げ、戦 闘を継続すべきだろう。 出奔というのは、義務の放棄、つまり敵前逃亡にあたる。 しかもそれは、サツキの考察によると、主君の惨死を見据えての ことであったらしい。 ゴウクが特攻に成功して、敵軍が退却していったからよかったが、 そうでなかったら自軍は撃滅され、事情を知る者は残らず、遺書は 届かなかったかもしれない。 遠征した騎士団が殲滅されてしまえば、出奔したとてその事実を 知る者は、誰もいない。 ラクーヌは大手を振って帰ってきて、筆頭の候補者として、やは り当主となっていただろう。 ラクーヌの次はルークというほどに人材が払底しているのだから、 他の選択肢はない。 諦めどころをわきまえずに、欲をかいているところはアホ臭いが、 策謀自体は成功率の悪くない策だったのではないだろうか。 しかし、いかにもたちが悪い。 164 仲間だと思ってたけど、さすがにこいつが家長になるとまずそう だ。 ここまで屑だとルークを謀殺する危険性が高い。 ﹁なにか反論があるなら言ってみなさい﹂ ラクーヌは顔を真っ赤にして鬼のような形相になっている。 親の敵を見るような目だ。 逆にお前はなんで自分が当主になれると思ってたんだよ。 サツキはサツキで、煽るのはいいがちゃんと考えてるのか。 ﹁彼は腰に剣をぶらさげていますが、止められる人ってここにいる んですかね﹂ ボソっと言っておいた。 ラクーヌは今、立ち上がっているので、腰にぶらさがっている剣 が良く見えた。 ラクーヌは衛兵を無理やりどかしながらこの会場にやってきて、 なし崩し的に同席を認められたので、帯剣を預かるタイミングがな かったのだろう。 そんな状況で、ここにはラクーヌのほかは、使えそうにない爺婆 と、牧場経営者の男と、その息子︵七歳︶と、あとは未亡人しかい ない。 現役の戦士はラクーヌ以外、誰もいない。 サツキはハッとした顔をした。 そこまで気が回っていなかったらしい。 165 それかルークを当てにして⋮⋮いや、さすがにそれはないよな。 さすがに立場ある人間がこんな場所で狂乱はしまいと思っている のか。 ﹁衛兵!!!﹂ 大声で叫んでパンパンと手を鳴らした。 そうそう。そうしてもらえると助かる。 この場はとりあえず衛兵を呼ぶべきだ。 少なくともサツキ・ルーク・俺には手出しができないようにして おいたほうがいい。 そうしないと実力行使という手が消えないからな。 サツキが呼ぶと、すぐに部屋の大扉が開け放たれた。 そうして、向こう側から二人の防具を纏った男が現れた。 ﹁そこの男を退去させなさい﹂ 命令すると、衛兵たちはすぐにラクーヌに近づいていった。 おっ、出ていかせんのか。 それでもいいけど。 ﹁う、ウガアアアアアアアアアッ!!!﹂ ラクーヌは剣を抜き払うと、一太刀で衛兵二人の首を切り払った。 あっ。 166 一瞬遅れて、俺の頭が状況を理解する。 あっ、という間の出来事だった。 一人の首は八分目まで切断され、頸骨だけで繋がったような状態 になり、もう一人の首はごろんと転がって、主を無くした体のほう は、噴水のように血をまき散らしながら倒れこんだ。 おいおいおいおい。 おいおいおいおいおいおいおいおい。 俺は人が死ぬのを見るのは初めてじゃないし、死体を見るのもも ちろん初めてではない。 だがそれは、病床で死ぬ人間と、死んだあと遺体という形でカン オケに入った人間を見たことがあるという意味だ。 自殺の現場をみたことも、殺害という形で人が死ぬところをみた ことも、一度としてない。 驚くほど気が動転した。 目の前で殺人が起こったという事実に。 血を浴びるほど近くではないが、物凄くリアルに首から血がふき でている。 その間にもラクーヌは、一足飛びでテーブルの上に登ると、こち らに向かって走りだしていた。 衛兵を殺したのは衝動だったようだが、その行為でむしろ覚悟が 定まったという感じだ。 とっさにルークを見ると、慌てて立ち上がってサツキを庇おうと 動いている。 ルークが戦ってくれるのだろうか。 167 俺は、産まれてこのかたルークが武器を握っているところを見た ことがない。 家には短剣や槍みたいのがあるが、素振りしているところなど一 度も見たことがない。 無理だ。 やばい、なんか武器になるものは。 もちろん、そんなものはなかった。 燭台すらもないので、コップか、または椅子くらいしかない。 そして、敵は屑とはいえ実戦経験のある騎士である。 実力のほどは今さっき証明している。 一太刀で二人の首を断つというのは並の技量でできるものではな いだろう。 ラクーヌは怒りに任せた猛ダッシュでこちらに近づいてきている。 もう殆ど近い。 ぱぱぱっと目線を這わせると、テーブルの上に乗ったテーブルク ロスが目に入った。 俺はテーブルクロスの端をギュッと握ると、ぐるぐると腕を回し てスソの部分を腕全体に絡みつかせた。 ラクーヌがテーブルクロスに乗ったのを確かめると、机を蹴飛ば して椅子ごと転げ落ちた。 俺の体重の重みで、テーブルクロスがズリ動く感触がある。 机が邪魔して見えないが、ラクーヌは突然動き出した足場に足を 168 取られ、仰向けにひっくりかえったらしい。 ドスン、と大きな音がした。 ﹁うおおおおっ!?﹂ ラクーヌはテーブル上で仰向けに転がると、勢いそのままにサツ キのほうへ突っ込んできたようだ。 ルークはサツキを後ろのほうに突き飛ばすと、自分はラクーヌを 素早く避けた。 俺は仰向けに引っ転がりながらそれを見ていた。 ラクーヌが体勢を崩したままテーブルから落ち、ケツをしたたか に床に打ち付けると、ルークは即座に近寄って剣の腹を踏みつけ、 残りの片足を振り上げ、剣を握っている手を勢い良く踵で踏みすえ た。 女子供の手であったら粉々に骨折しそうな勢いで、二回三回と踏 みつけ、ラクーヌが剣を離したのを認めると、踏みつけられた手を 庇おうと伸びた逆の腕を捕らえながら、覆いかぶさるように脇の下 でラクーヌの首を捕った 。 フロントチョークである。 一連の動作は実にスムーズで、滞ることなく素早く、流れるよう にこなされた。 ラクーヌがテーブルから転げ落ちたときから、五秒と時間は経っ ていない。 おとーちゃんやるやん。 169 ラクーヌはガッツリ首を締められているのか、悪態もつけないよ うだ。 身を捩って暴れているが、腕を取られて体を固められているため に、どうしようもない。 そのまま三十秒ほど締め続け、ルークが離れると、ラクーヌはそ の場で崩れ落ちた。 失神したのだ。 *** ﹁おとーさんかっこよかったです﹂ 立ち上がったルークに素直にそう言うと、 ﹁そうか? まあ、昔とった杵柄が無駄にならなくてよかったか⋮ ⋮﹂ と言って嬉しがるでもなく、複雑そうな顔をしていた。 ﹁それより、よくやったな。ユーリが転ばせなかったら危なかった﹂ ルークは俺のあたまを大きな手でなでた。 ﹁ありがとうございます﹂ 照れくさいが悪くはない。 実際いい機転だったと思うし。 それから、ラクーヌは衛兵に引っ立てられてゆき、会議も一時解 散という運びになった。 明日もう一度やるらしい。 170 つまり泊まりになってしまった。 171 第013話 夜は更けて 会議が中止され、参加者たちは各々にあてがわれた客室に戻った。 しばらくは廊下がバタバタとうるさかった。 斬り殺された衛兵の血飛沫を浴びた人たちを着替えさせ、風呂に 入れて、といろいろ忙しいのだろう。 俺は大丈夫だったが、ルークはフロントチョークをキメたときに 少し汚れてしまっていたので、本人は大丈夫だと言ったが、女中に 懇願されて服を替えた。 その後、俺とルークはテーブルを囲んでゆっくりしていた。 ルークの前には酒が入ったグラスがある。 日本で売られていたような透明なグラスではなく、濁っていると いうか、濁っているのを彩色してごまかしているような感じの青い グラスだったが、形は美しかった。 我が家にはガラス器はルークが酒を飲むときに使う、もっと濁っ て形も崩れたものしかない。 ﹁さっきのお父さんの動きは素晴らしかったですが、やっぱり騎士 院で学んだのですか?﹂ と聞くと、 ﹁ああ、そうだ﹂ という返事が返ってきた。 やっぱり騎士院で学んだ戦闘技術らしい。 騎士院とかいうから、貴族のおぼっちゃまが修練とは名ばかりの 172 竹刀打ちをしているようなイメージを勝手に持っていた。 だが、ルークの動きを見る限り、極めて実戦的な戦闘術を教えて るっぽい。 ﹁ユーリはああいうのに憧れるのか?﹂ ﹁そうですね、少しは﹂ 憧れないといったら嘘になる。 ﹁少しか。たくさんじゃなくて﹂ ﹁できるようにはなりたいですが、十年も二十年も修行しなければ ならないのであれば、ちょっと考えちゃいますね﹂ まあ俺には無理だろう。 運動神経ないし。 ﹁そんなことはないさ。もうちょっと体ができあがってから五年も 頑張ればいけるんじゃないか?﹂ 希望的観測で五年か⋮⋮。 ﹁それって朝から晩まで走りこむとかなんでしょうか﹂ ﹁いいや、半日だな。騎士院は運動するのはたいてい、日が登り切 るまでだ﹂ 半日もか。 どうなんだろう。 ニートの感覚でいけば﹁おえっ﹂ってなるが、現状でもルークの 手伝いとかで半日くらいは労働や鍛錬に費やしているわけで。 173 ただ、周りにいるのは気心のしれたルークではなくて、小生意気 な貴族のガキとか、ハー○マン軍曹みたいな鬼教官かもしれないの で、やっぱり怖いものは怖い。 トントン、とドアが叩かれた。 ﹁失礼してもよろしいでしょうか﹂ という声がドアの向こうから聞こえる。 ﹁どうぞ﹂ ルークが言うと、女中さんが入ってきた。 ﹁⋮⋮失礼します。お夕食はいかがいたしましょうか﹂ ﹁なんでもいいよ﹂ ルークはぞんざいに言った。 ルークはスズヤにも良くこういう。 そのたびに﹁何でもいいっていうのが一番困る﹂と返されるのが 日常だった。 ルークが当主になったら、あのやりとりもなくなってしまうのだ ろうか。 ﹁サツキ様がお夕食にお招きしたいと申しておりますが﹂ ﹁⋮⋮﹂ ルークは傍目に見ても明らかに解るくらい渋面を作った。 めんどっくせーなー、部屋で簡単にピザとか食べてイカの干物で もツマミに酒飲んで寝てぇ。 みたいな感じだ。 ﹁⋮⋮わかった、招かれよう。準備ができたら呼びに来てくれ﹂ 行くんだ。 174 ﹁準備は既にできております。ついていらしてください﹂ そっちも準備万端かよ。 案内された先の部屋は、なんだか家主の私的な空間っぽい部屋だ った。 調度品には豪華な作りのものはなく、窓枠などもきらびやかでは なく、壁には壁紙が張られておらず、綺麗に磨かれた木がむき出し になっていた。 だが、作りが悪いようには感じない。 こちらの部屋のほうが、なんだか落ち着くな。 そこにある六人がけくらいのさほど大きくもないテーブルに、ラ ンチョンマットが四枚敷かれていた。 サツキとシャムが座っている。 ﹁どうぞ、好きな席におかけになって﹂ とサツキが言ってきたので、好きな席に座る。 空気を読んで、シャムの対面に座った。 *** ﹁今日は危ないところを助けていただいて、ありがとうございまし た﹂ サツキはニコっと微笑んで礼をいってきた。 ﹁いえ、まあ、あれくらいは﹂ 175 ルークは誇るでもない様子だった。 誇ってもいいと思うけどな。 ヘタするとあそこにいた人間全員惨殺というのもありえたのかも しれないし。 ﹁やっぱり、争い事はおきらい? もう二十年になるのかしら﹂ 二十年? ルークは、ヒゲを剃っているせいか二十代にしか見えないが、今 年で四十になる。 逆算すれば、当然二十年前は二十歳だ。 ﹁嫌いです。だから自分で選んで、借金までして牧場を作って、新 しい生活を始めたのに﹂ ﹁解っていますわ。でもユーリくんを騎士院に入れるつもりだった のは本当なんでしょ?﹂ なぬ? ﹁それは本当ですが、途中で嫌になったら辞めさせるつもりで⋮⋮﹂ 確かに前から騎士院にいれるとは言っていた。 ﹁別に、なにごとも強制するつもりはないのよ? 一度くらいは入 って欲しいけど、辞めるなら辞めるでかまわないし⋮⋮ルークさん だって、牧場を続けてもらってもいいのよ?﹂ ﹁しかし、それでは、その間はサツキさんが本家を取り仕切るので すか? それはあまり良くないのでは﹂ 176 俺が察していた通り、かなり良くないことらしく、ルークは真剣 に心配そうだった。 ﹁だいじょうぶよ。老後に暇を持て余しているお爺ちゃんがいっぱ いいるんだから﹂ 引退爺どもにやらせるのか。 ﹁でも、任せておくとお金をふところに入れたりする人も出るでし ょうから、そのときは私がこっそりルークさんにお教えしますので、 ちょっと一筆書いてちょうだいね﹂ にっこりと笑った。 怖い。 ﹃お前の悪事はお見通しだ。潔く切腹せい﹄ みたいな手紙を書くのだろうか。 ﹁⋮⋮わかりました、それくらいは﹂ やっぱりルークは気乗りしない様子だ。 ﹁あら、お料理が来ましたわ﹂ 料理が運ばれてくる。 ⋮⋮なんかいろいろあるな。 チーズにサーモンの燻製を薄切りにしたのを巻いたやつとか、な んだかよくわからないソボロが入った玉子焼きだとか、果物を生ハ ムで包んだようなのとか、一口大にまとめられた色々な料理が一つ の皿にのっている。 前菜か。 スズヤが作る家庭料理もいいけど、こういうのもたまには悪くな いよな。 177 ぱくぱくと食べてゆくと、どれも美味しかった。 こっちの料理人もなかなかやるものである。 ルークを見ると、黙って出されてきた食前酒を飲みながら、ツマ ミを食べるように前菜を食べていた。 幸せそうだ。 料理がどうこうより、美味い酒が飲めるのが嬉しいのだろう。 色がついた蒸留酒のように見えるので、ブランデーの一種かもし れない。 おそらく家で飲んでいるのより、数段いい酒なんだろう。 どうもそんな気配がする。 ふとサツキのほうを見ると、 ﹁たくさん食べてね?﹂ と微笑みながら言ってきた。 親戚のおばちゃんか。 いや、考えてみたら、正真正銘親戚のおばちゃんだった。 ﹁はい、遠慮なくいただきます﹂ そう言いながらも、なんとなく肩肘が張ってしまう。 *** 178 前菜からデザートまで、なんだかんだ六皿も来た料理を食べ終わ ると、かなり腹がいっぱいになった。 すると、向かいに座っていたシャムが、妙に緊張した様子で、今 日はじめて口を開いた。 ﹁あ、あのっ! 一緒に星を見ませんかっ!?﹂ 星? と思って窓の外を見ると、今日は見事に晴れていて星が見えた。 絶好の天体観測日よりであろう。 ルークのほうを見ると、なんだかニヤニヤしている。 おませな少女が意中の男性をロマンチックなデートに誘っている のだと思っているようだ。 違うから。 たぶんかなり学術的な天体観測だから。 ﹁お父さん、行っていいでしょうか﹂ ﹁ああ、行って来なさい。わかってるだろうが、屋敷からは出ない ようにな﹂ 出るわけがない。 つーか、屋敷は掘で囲まれていて出入口は一つしかないのだから、 子ども二人じゃ門番に止められるだろう。 ﹁大丈夫ですよ。じゃあ、行ってきますね﹂ 俺はシャムと一緒に部屋を出て行った。 179 ﹁こっちです。いい観測場所があるんです﹂ ウキウキしたシャムに連れられて向かった先は、階段を二度上が った先、屋敷の屋上だった。 屋敷は大きな三角屋根でできているが、頂上の一部に乗っかるよ うにして、二畳ほど平らになっている部分がある。 梯子を使ってそこに登ると、四方が見渡せた。 梯子があるだけで、屋根もない。 さすがに申し訳程度の柵はついていて、出入り口の開いた床は、 閉じられる仕組みになっていた。 屋根がないのは、王鷲などがいる関係上、死角を作らないように してあるのだろう。 これでは家の中に雨がはいってしまいそうだが、どうも床にわず かに勾配がつき、流れるようになっているらしい。 床を閉じると、その部分もわずかにへの字に加工されている。 有事の際に四方を物見するための場所らしい。 屋敷の敷地の四隅には物見台があって、そこには松明が灯され歩 哨が立っているのだが、ここからは四つの物見台をいっぺんに見渡 すことができた。 物見の先には城下町が広がっているはずだが、電灯などはないの で明かりは見えない。 絶好の観測ポイントと言えるだろう。 ﹁といっても、僕は星のことは殆どわからないんだが﹂ 俺が正直にそう言うと、 180 ﹁じゃあ教えてあげますね﹂ などと嬉しそうに微笑んでいた。 *** シャムは今、何歳だっけか。 俺と同い年か、一歳下のはずだ。 こんな歳の幼女に物を教えてもらう日がくるとは思わなかった。 ﹁敷物と毛布を用意してありますので、寝転びましょう﹂ シャムはさっさっと敷物を敷いて、その上から毛布を敷いた。 見張り番用に置いてあるものなのか、備え付けの箱のなかに入っ ていた。 言われたとおり寝転んで、空を見た。 天井がないので、自分の目と天を遮るものは、何一つない。 考えてみれば、こうやって落ち着いて夜空を見るのは、こっちに 来てから始めてのことだった。 ルークもスズヤも夜空に興味があるような人間ではなかったし、 子どもらしい非常に規則正しい生活をしていたので、夜はすぐに寝 ていた。 天文学はもっとも古い学問の一つで、目さえ見えていれば学問を することができるが、体力が必要な学問でもある。 軌道衛星や自動化された天体観測所がない時代では、夜通し起き て星を見ていなければならない。 181 ﹁いい空だな。良く晴れてる﹂ ﹁そうでしょう?﹂ まだ老化していない若々しい瞳で見た天上は、とてつもなく美し かった。 空気が汚れていないせいか、新月だからか、はたまた高度が高い のか、湿度が低いのか、この世界の大気がそういうものなのか、理 由はよくわからないが、空いっぱいに無数の星が広がっている。 日本にいたころにみた星空は、いくら澄んでいても、さほどのも のではなかった。 幼いころなどは、学校でミルキーウェイなどと習ってもピンとこ なかったものだ。 空を見ていても、明々白々に星が密集しているところなど、無か ったのだから。 だが、今ならわかる。 明らかに密度の濃い星の帯が天界を横断しているのだ。 古代の人が乳の川と呼んだのも頷けるほど、星々が密集して流れ のない大河を形作っている。 なんと美しいのだろう。 この密集した星々は、この星と同じ銀河系に属している。 銀河は円盤状になっており、俺たちは円盤を横から見ているので、 線状に密集して見えるのだ。 あれ? 考えてみたらミルキーウェイがあるってことは銀河があ るってことか。 182 いろいろ考えてみるのも面白いかもな。 ﹁ねえ、ほら、聞いてますか? あの星はミルラアといって⋮⋮﹂ ﹁ミルラアって?﹂ ﹁この星の周りを回っている三番目の星のことをミルラアというん ですよ﹂ なるほど。 三番目というと、水金地、地球か。 あれが地球かー。 っておい、ややこしいな。 この世界では三番目がこの星なのか。 いや、なんか変だぞ。 シャムは、﹁この星の周りを回っている﹂三番目の星、と言った。 ってことは、月が三つもあるってことか? いや、天動説で考えてるのか。 つーか、指差されても星が多すぎて、どれがどれだか分からない。 ミルラア、という星も、ぶっちゃけどれだか分からなかった。 天動説というのは、素人考えでは﹁どうやったらそんな勘違いを していられるんだ。馬鹿か﹂と思ってしまうような考え方だが、な にかの本で読んだところによると、天体の動きというのは天動説で も説明できてしまうことがおおく、楕円軌道を知らないと、むしろ 地動説より天動説のほうが理論的に天体の動きを説明できる部分も あり、意外と厄介らしい。 183 ﹁こういう星は他にも五つあって、特別な星とされています。動き が他の星とは違うんですよ﹂ ﹁他の星はどう動くんだ?﹂ ﹁不動星という星を中心に回転しています﹂ 北極星のことか。 ﹁星座とかはわかる?﹂ ﹁⋮⋮わかりますけど﹂ 隣を見ると、つまらなそうな顔をしていた。 ﹁天文学で重要なのは五つの星なんですよ。他はあまり変化がない ので⋮⋮﹂ 星座とかにはあんまり関心がないのかもしれない。 確かに、大型の天体望遠鏡がなければ、外宇宙の星なんぞ退屈極 まりないものだろう。 時々は超新星爆発とかで起きて新しい星が増えたり消えたりする こともあるだろうが、そうでなけりゃ、ずーっと一定の速度で北極 星を中心にぐーるぐるぐーるぐる回ってるだけだ。 研究対象として、こんなに退屈なものはなかなか無いだろう。 逆に言えば、内惑星や外惑星はソイツらと比べりゃ実に自由闊達 に動くわけだ。 ﹁まあまあ、教えて下さいよ、先生﹂ ﹁しょうがないですね。じゃあ、教えてあげます﹂ 下手に出てやるとシャムは得意げになった。 ちょろい。 そして得意げなのがなんとなくかわいい。 184 ﹁まず、星座には冬の星座と夏の星座があって、今見えるのは冬の 星座です﹂ そこからか。 小学校の先生みたいだな。 ﹁それでですねー、えーと、あれがうし座﹂ ﹁⋮⋮なるほど﹂ 案の定というか、全然分かんねぇ。 満天の星空の下で指さされただけで、星座が解るわけがない。 ﹁あれがこと座で、あれがねこ座です﹂ ﹁へぇ﹂ 全然分かんないが物を教えてくれるシャムが思いの外かわいらし いので良しとしよう。 なんだかお父さんになったような気分だ。 微笑ましくなる。 俺もこんな娘が欲しかったな。 前世では一度以外は女とは縁遠い人生であり、その一度が最悪だ ったために、女性恐怖症みたいなことになってしまったが。 ﹁それで、あれがひしゃく座です﹂ へぇ。 うし座もねこ座もこと座もさっぱり解らなかったが、柄杓座はわ 185 かった。 明々白々に明るい七つの星が柄杓の形を作っているのだ。 まるで北斗七星みたいだな。 ⋮⋮ん? 俺は自分の目をゴシゴシとこすって、もう一度柄杓座を見た。 ⋮⋮んんんっ? あまりにも北斗七星に似ている。 つーか北斗七星だ。 頭の中が真っ白になる。 すぐに目線を移動させ、見覚えのある星座が他にないか探してみ る。 俺も星座には詳しくないので、はくちょう座とか言われても解ら ないが、明るい星ばかりで作られた有名な星座は覚えている。 すぐに見つかった。 オリオン座にしか見えないなにかがあった。 えっ。 あるわけがないものがあった。 異世界で星の見え方が重なるなんてことがありえるのか? 一瞬で答えが出た。 まさか。ありえない。 186 星座は外宇宙にある恒星や銀河の光や、超新星爆発の残光が、地 表に届いて見えるものだ。 その位置や距離はてんでバラバラで、星座の星は近距離に密集し ているわけではなく、宇宙を立体的に捉えれば、とんでもなく離散 している。 宇宙の指紋とかDNAとか言ったら例えとしては変だが、まった く同じような星の配置が、別の世界で現れるなんてことは、常識的 にいったら考えられない。 例えば、いまいるこの星が、地球とは別の銀河にある星だったら、 星座も別の見え方をするはずだ。 なんらかの理由が存在するはず。 こじつけのような理由はいろいろと考えられるが、剃刀を使って そぎ落とせば、この惑星は、地球と同じような位置に存在するとい うのが、もっとも合理的な解釈であろう。 187 第014話 世界の形 え、マジ? ﹁︱︱︱で、あれがさる座で、あれがいす座で﹂ ふと音が戻ってくると、まだシャムの説明が続いていた。 ﹁⋮⋮っと、これで全部ですね。覚えましたか?﹂ 覚えられるわけがない。 つーか、それどころじゃない。 ﹁ごめん、ちょっと聞いてなかった﹂ ﹁えっ、もしかして、眠ってたんですか?﹂ ちょっとショックっぽい顔をしてる。 申し訳なくなるな、なんか。 ﹁いや、ちょっとな、それどころじゃなくて⋮⋮﹂ ﹁それどころじゃないって、自分で教えてくれって言ってきたのに ⋮⋮﹂ ごもっともである。 なんかしょんぼりしてるし。 ﹁ごめんごめん、それより、今日はちょっと観測を切り上げないか ?﹂ 俺がそういうと、シャムは悲しそうな顔をした。 188 ﹁⋮⋮やっぱり天文は退屈でしたか。私はけっこう好きなんですが、 残念です⋮⋮﹂ もっとしょんぼりした。 ああもう。 なんて言ったらいいのだろうか。 ﹁いやいや、俺も好きだよ。でもちょっと別の大発見があって確か めたいことができたから﹂ ﹁⋮⋮わかりました。でも、後で教えて下さいね、その大発見とい うのを﹂ *** 俺は一目散にハシゴを降りて、侍女にサツキの居場所を聞くと、 部屋の扉をノックした。 ﹁どうぞ﹂ という返事が返ってきたので、 ﹁失礼します﹂ と部屋に入った。 ﹁あら、ユーリくん。どうしたの?﹂ ﹁少し、地図を見せてもらいたいのですが、ありませんか?﹂ ﹁地図ねぇ。あるわよー﹂ ﹁一番大きいのがいいんですけど﹂ ﹁大きいのは⋮⋮宝物庫にあったかしら?﹂ 189 ﹁大きいのといっても、大きさが大きいのじゃなくて、範囲が大き いのなんですが﹂ ﹁大丈夫よ∼。シャンティラ後期の全土地図だから﹂ シャンティラ大皇国のころの地図とは恐れ入る。 なんでそんなもんがあるんだろう。 国宝級のもんだったりして。 ﹁もちろん、本物じゃないけどね。書き写したものよ?﹂ 疑惑が顔に出ていたのか、説明してくれた。 写しか。 なんにせよ、範囲的には十分だろう。 ﹁それを見せてください。お願いします﹂ *** 鉄板で補強された剣呑な扉を開けると、そこが宝物庫だった。 サツキが持っているカンテラに、所狭しと積まれた貴重品の数々 が薄く照らされている。 といっても、金銀財宝ではなく、武具の類が多かった。 だが、よく見ると金塊らしきものなども見え、ホコリをかぶった まま置かれている。 また、鮮やかな紅色をした、宝飾サンゴのような品もある。 ﹁ホコリっぽいわねぇ﹂ ﹁そうですね﹂ サツキは服の袖を口元に当てている。 190 ﹁たしか、ここにあったような気がするんだけど﹂ サツキは桐のような白っぽい素材で作られたタンスを開けた。 中には大きな羊皮紙で作られた地図が二つ折りになって入ってい る。 羊皮紙は動物の皮を原料としているため、一枚のサイズに限りが あるが、この羊皮紙は一番大きなサイズを二枚繋げて真ん中を細い 糸で縫ったもののようだ。 取り出して開いてみると、見開きの新聞紙ほどのサイズになった。 形が非常にくずれてはいるが、明らかに見覚えのある地形が広が っていた。 ユーラシア大陸北西部だ。 ﹁私たちの国はこのへんになるわねぇ﹂ とサツキが指さしたのは、スカンディナヴィア半島に当たる場所 であった。 殆どが伝聞で描かれたものなのだろう。ユーラシア大陸といって も、形は非常に崩れており、俺の知っている精確な地図とは大分違 う。 だが、明らかに俺の知っている地形が残っている。 地図を見る限り、シャンティラ大皇国というのは東はウラル山脈、 西はスカンディナヴィア半島、南はウクライナあたりからクリミア 半島、バクーの手前くらいまで領土があったらしい。 たいしたものである。 191 首都シャンティニオンはクリミア半島にあったらしく、黒海海岸 線の地図は特によく出来ていた。 世界地図の記憶とほぼ合致する。 黒海と地中海を結ぶ、マルマラ海のような地形もあり、そこから イタリア半島くらいまで地図が伸びている。 反面、グレートブリテン島はなんだか落花生みたいな形の島にな っていて、アイルランドがない。 本当に存在しないのか、本当は存在するのか、どっちなんだろう。 ﹁この地図だと、わたしたちの国はあまり良く描けてはいないわね ぇ。なにぶん、国の中心がずっと東のほうにあった頃のものだから﹂ ﹁⋮⋮なるほど﹂ やっぱり、半島の地形はかなり不正確なようだ。 だいたい納得はいった。 はあ、マジでそのまんま地球じゃん、ここ。 俺もなんで七年も気づかねえんだよ。 ﹁ご期待に添えたかしら?﹂ ﹁ええ、十分に。あとで半島の地図も見せてもらえませんか﹂ ﹁国の地図は夫の部屋にあるわよ∼﹂ ﹁よろしければ、見せてください﹂ ﹁それじゃあ、行きましょうか﹂ 俺とサツキは宝物庫を出た。 帰りがけに扉を閉じ、大きな南京錠でガッチリと締める。 192 ﹁こっちよ∼﹂ 廊下をしばらく歩き、サツキに案内された部屋は、武人の家とは 思えないほどに、書棚が並んでいた。 書棚にはぎっしりと古い本がしまってある。 私室というより書斎だ。 ﹁本がいっぱいですね﹂ ﹁いくらでも読んでいいわよ∼﹂ ﹁まだ父上が当主になると決まったわけでもないのに、いいんです か?﹂ ﹁もう決まったようなものよ?﹂ サツキはにっこりと微笑んだ。 怖い。 ﹁あら、机に出してあるわねぇ⋮⋮﹂ 机の上には、既に地図が広げられていた。 ゴウクが出て行く前に広げたのだろうか。 この部屋のものをいじるのはゴウクとサツキくらいで、女中はい じらないだろうから、ゴウクがやったのかもしれない。 サツキの顔から微笑みが消え、哀しそうな顔になった。 ﹁拝見させていただきますね﹂ ﹁⋮⋮うん、どうぞ﹂ 193 サツキは俺の脇の下に手を入れると、体を持ち上げた。 ﹁あの﹂ ﹁椅子に座ったほうが見やすいわよ∼﹂ ひょいとゴウクが座っていたであろう椅子に座らされた。 案外力持ちだな。 サツキは俺を座らせたあと、少し遠くに離れて、俺の姿を見て再 びニコニコと微笑んでいた。 ぬう。 まあいいか。 地図を見ると、それはシヤルタ王国とキルヒナ王国、両国の地図 だった。 俺も知っていたが、半島には二つの国がある。 キルヒナ王国との国境は、半島が折れ曲がる部分にあるようだ。 そして、その更に東方には、﹃ダフィデ王国﹄﹃ティムナ王国﹄ という国名があり、領土は見きれていた。 既に滅びた王国なのかもしれない。 違いがあるとしたら、半島の一番さきっぽのところが、えぐれて いるところだろうか。 デンマークがあったところ、コペンハーゲンなどがあった島は、 存在自体が見受けられない。 ﹁夫が戦ったのはここ﹂ と、サツキは地図上を指さした。 194 サンクトペテルブルクか。 サンクトペテルブルクはバルト海に面した都市で、半島の付け根 にあたる部分にある。 つまりは、キルヒナ王国の東の国境で戦ったというわけだ。 ただ、サツキが指差したのはサンクトペテルブルクではなく、そ の内陸だった。 ここでは港湾都市にならない。 ﹁ここは都市があるんですか?﹂ ﹁要塞よ?﹂ 要塞になっているらしい。 シャン人はクラ人の国家とは殆ど断交状態にあるようなので、国 境に大都市ができることはないだろう。 ﹁最初から要塞で戦ったんですか?﹂ ﹁最初は野戦で、大敗して要塞戦になったみたい﹂ なぜ要塞に篭ったのだろうか。 特攻したということは、包囲されて解囲の望みがなくなったから やったのだろう。 野戦で大敗したとして、逃げ篭った先で包囲されていたら世話は ない。 自分から鍋に入って蓋を閉めたようなもので、あとは煮られるだ けなのではないか。 俺は詳しい事情なんかは知らないから、実際はちゃんとした理由 があったのかもしれないな。 195 ﹁ありがとうございました。よく分かりました﹂ ﹁そう? 何がわかったのかしら?﹂ ﹁いやぁ、地理の勉強になりました﹂ ほんとにな。 ﹁あら、そう? それならよかったわ﹂ ﹁それでは、今日はつかれたので、休みます。夜分遅くに申し訳あ りませんでした﹂ ﹁いいのよ。それじゃあ、お部屋まで送っていくわね﹂ ﹁いえ、わかりますので、大丈夫です﹂ ﹁夜はけっこう迷うのよ? 外が見えないから、大人でもたまに迷 子になるのよ? 大丈夫かしら?﹂ ぐ⋮⋮。 そう言われると不安になってくるじゃないか。 ﹁では、お願いしても構いませんか﹂ ﹁もちろん。それじゃあ、いきましょうか?﹂ 結局、サツキと一緒に部屋まで帰ることになった。 途中の廊下で、俺と別れたあと迷子になったらしく、三角座りし て泣きべそをかいているシャムを見つけたのは内緒である。 サツキを見てホッとした顔をしたあと、俺の顔を見て顔を真っ赤 にして恥ずかしがっていたのは、やっぱり可愛かった。 196 第015話 ルークの青春* その日、二十歳の俺は、騎士院の談話室で斗棋を指していた。 相手は親友のガッラだった。 まあ、ぶっちゃけ今は少し劣勢だが、ここから逆転することもで きるのが、斗棋の面白いところだ。 奥深いところでもある。 よし、ここだ。 ぱちりと駒を置く。 ガッラはつまらなそうに、殆ど間を置かず次の手を指してきた。 こいつちゃんと考えてるのか。 俺が考えてる間も退屈そうな顔してまともに盤面もみてねえしよ。 しかし、ここは悩ましい。 うーん。 ここがあーしてこうなって⋮⋮こうだから⋮⋮。 よし、ここだ。 俺は次の一手を差した。 ガッラは待たしても間を置かずに次の手を差した。 パチン。 あっ。 そこは想定外だ。 197 うわ。 なんだこれ。 ここにやられたら鳥も死ぬし矢道も塞がれるじゃねえか。 それでこうしてあーして、あ、二手目で鷲も取られる。 ああ、糞。 まいったなこれ。 ﹁待った﹂ 俺は間髪入れずに待ったをかけた。 これはいかん。 ﹁⋮⋮まあ、いいんだけどよ。お前ちゃんと考えて指してんのか?﹂ ガッラが呆れた顔で言う。 糞。 ﹁考えてるって⋮⋮﹂ ﹁でもこれ普通気づくぞ。定石じゃねえか﹂ ﹁たまたま気づかなかったんだよ﹂ 気づかなかったんだからしょうがないじゃないか。 五回目の待っただけど⋮⋮。 そして、その十五分後には負けていた。 ﹁くそっ!﹂ 俺は悔しさのあまり盤面を叩いた。 198 ﹁いや、本気で悔しがれるお前が凄いよ﹂ 呆れられた。 ﹁⋮⋮﹂ ガッラは俺を馬鹿にしているわけではなかった。 呆れられているのでは怒れもしない。 はあ、斗棋上手くなりたいのに。 好きこそものの上手なれというのに、なんで上手くなれないのだ ろう。 ﹁道場に行って組手しようぜ﹂ ﹁⋮⋮いやだ﹂ ﹁斗棋に付き合ってやったんだから、こっちにも付き合えよ。今度 は俺が教えてもらう番だ﹂ ﹁⋮⋮⋮﹂ そう言われれば付き合うしかなかった。 *** ﹁フッ!﹂ と短い息を出しながら、ガッラの拳が近づいてくる。 俺はその拳を掻い潜って、体ごと体当たりするように両腕でガッ ラの足を掬った。 ﹁うぶっ!﹂ 199 と間抜けな声を出しながら、ガッラは前のめりに倒れこんだ。 すぐに足を引きながら、双手刈りから寝技に持ち込もうとする俺 を、蹴っ飛ばそうとするが、もう遅かった。 ガッラの片足は既に取られて、俺に足の腱を決められている。 腱がクッ、と一瞬伸びたところで手を離した。 ﹁クソッ⋮⋮﹂ ガッラは拳で床板を叩いた。 自分より体格が小さな俺に、手玉に取られたのが悔しいのだろう。 さっきと逆だ。 しかし、嬉しくもなく、なんだか申し訳ない気持ちになる。 ガッラほど毎日汗みずくになって訓練しているわけでもないのに、 なぜ勝ててしまうのか、自分でもよく分からない。 王鷲に好かれるものは鷹の目を持っているから強い、などと良く 言われるが、そのせいなのだろうか。 好きこそものの上手なれというなら、俺に斗棋の才能をくれて、 ガッラに戦いの才能をやればいいのに。 そうすりゃみんな幸せなのに、世の中どうしてこう上手くいかな いのだろう。 ﹁気にすんなって﹂ 俺は努めて気楽に言った。 ﹁気にしねえわけがあるか﹂ ガッラは本気で悔しそうだ。 200 ﹁お前は槍を頑張ればいいんだよ。柔術なんて戦場でなんの役に立 つ﹂ 本心からそう思う。 まわりじゅうに敵がいる戦場で、敵を引っ倒して、寝転がって技 を極める暇があるだろうか。 足を取れたとして、地べたにひっくり返って腱をぶっ千切ってい る間に、別の兵隊に槍で一突きされて終わりだ。 一兵卒ならそれでいいかもしれないが、騎士の死に様ではない。 ガッラは、その恵まれた体格で身の丈を越える豪槍を扱えるのだ から、それで思う存分敵を串刺しにすればいい。 こんな小手先の技術に執着する必要はない。 ﹁俺は誰にでも勝てるようになりてぇんだよ。っと﹂ ガッラは一息で立ち上がった。 ﹁もう一本やろうぜ﹂ まじかよ。 勘弁してくれよ⋮⋮。 *** 練習が終わるころになると、教養院のほうから来ていた女学生が 物見窓に並んでいた。 こそこそとくだらない世間話をしているのだろう。 いつものことなので放っておいた。 201 道場を出て、井戸端に立って下着姿になり、頭から水をかぶる。 ガッラも一緒になってそれをしていた。 木陰からこそこそと何人もの女学生が覗いている。 逆のことをされたら男を吊るし上げにするくせに、都合の良い連 中だ。 裏では、俺とガッラが夜な夜な妙な行為に勤しんでいるという噂 も立っていて、本当に迷惑だ。 誰か俺に恨みでも持ってるやつが流してるのかしらんが、いいか げんにしてほしい。 教養院では、俺とガッラがカマ野郎がやるような交合をしている 官能小説みたいなものまで出回っていて、回し読みされているらし い。 想像するだけで鳥肌が立つ。 気持ち悪ぃ。 誰がそんなことするか。 ﹁あ、あのっ!﹂ 水浴びして上半身裸の俺のところに一人の女学生が来た。 ﹁これっ読んでくださいっ!!﹂ 手紙が差し出される。 ﹁お、おう﹂ 思わず受け取ってしまった。 ああ、受け取ってしまったからには断りの手紙も書かなければな らない。 ガッラにもからかわれるだろう。 202 クソ、本当に面倒だ。 *** 場面は移り変わる。 *** 聞くところによると、南方のクラ人の国には、何万人もの人間を 収容する大スタジアムがあり、そこは奴隷同士が殺しあうのを見世 物にするためだけに作られた施設なのだそうだ。 奴隷を嫌うシャン人にはそのような風習はない。 よって、そのような施設もなかった。 だから、今俺が戦っているのは、野外演劇用の露天の半ドームだ。 一年に一回催される騎士院演武会は、騎士院在院生の中でもっと も強い二人が模擬戦をする催しである。 一試合の模擬戦をするだけでは十分もたたず終わってしまい、そ れでは味気ないので、前座で剣や槍の演舞などもするのだが、それ はあくまでも前座である。 今年闘うのは俺とガッラだった。 俺は、ガッラと俺以外、誰もいないステージの上に立っていた。 演武者は最初に客席に向かって礼をする。 203 礼といっても頭を下げる礼ではなく、膝を折って片膝立ちになり、 胸に手を当てて礼をする、屋外において貴族がするべき最敬礼だっ た。 ここまでの礼をするのは、客席の一部に設けられた特等席に、女 王陛下が参席しているからだ。 うやうやしく礼をして、立ち上がった。 次はガッラに向かってお辞儀をする。 これは相互の礼といって、ほんの少し上体を傾けるだけでよい。 なぜなら、今から戦う相手に対して、視線が切れるほどに頭を下 げるのは油断であり、むしろ相手に対して礼を失することになるか らだ。 それが終わると、お互いに槍を構えた。 ガッラは硬い表情をしていた。 石のような顔をしている。 今まさに俺を打ち倒さんとする戦士の顔だった。 その手に持っているのは、俺が持っているものより一回り大きい 槍。 刃は潰れているが、ガッラの力で思い切り振り回した槍が頭に当 たれば、俺は頭蓋を潰されて死んでしまうだろう。 俺の持っている細身の槍とて、目を突けば目が潰れるし、胸を突 けば胸の骨が折れる。 むろん寸止めが原則ではあるものの、死合には変わりなかった。 俺の心はなんとなく浮ついている。 204 浮ついているのを自覚していた。 ガッラに打ちのめされる恐怖で浮ついているのではない。 なぜ、出たくもない俺が、このような名誉の場に立っているのだ ろうかと、不思議に思っている。 それが心を浮つかせている。 俺にはガッラほどの熱意もなければ覚悟もない。 なのに何故。 ﹁ウオオオオオオォォォオ゛オ゛!!!﹂ ガッラが吠えながら猛烈な勢いで寄せてきた。 ﹁オア゛ッ!!!﹂ 勢いそのままに凄まじい突きが放たれる。 まるで、たけり狂った大熊のような迫力だ。 しかし、俺の体は何も考えずとも動いた。 槍でガッラの槍をいなす。 ガッラの槍は丸太のように重く、ハタくようにしていなしても微 動だにしない。 だが、ガッラの槍は動かなくても、力を込めれば俺の体を動かす 助けにはなる。 槍の力を借りながら瞬時に体を低くし、一撃をかわした。 自由になった槍の柄でガッラのスネをしたたかに打ち、地を滑る ようにして反転した。 位置が逆転して、再びガッラと向かい合う。 205 一瞬だけ目があい、しかしその均衡はすぐに崩れた。 短い距離で乱戦となった。 瞬きする間もなく払っては突き、突いては払いの応酬となる。 ガッラの槍がおこした豪風が俺の頬を撫でる。 命中すれば頭蓋が割れる一撃が髪を掠める。 五合、十合と打ち合い、十一合目に槍同士が強かにぶつかり合っ た時に、嫌な音が聞こえた。 ビシッと乾いた音がして、俺の槍の柄にヒビが入ったのだ。 ガッラの顔に喜色が浮かんだのが見えた。 槍を折るのも戦術の一つなので、ヒビの入った槍を完全に折りに 来るのは、卑怯ではない。 ガッラにとって千載一遇のチャンスであることは、頭で考えるよ り先に認識として理解した。 ガッラは俺の槍を完全に折ろうと、ぶっ叩きにきた。 本能まで刷り込まれた戦技がそうさせたのか、俺は反射的に槍を 手放していた。 半分折れた槍などくれてやる。 こんな棒で戦うくらいなら素手のほうがいい。 寸前で手放した俺の槍がひっぱたかれ、柄がぶち折れて床にあた り、勢い余って跳ね返った。 そのときにはもう俺はガッラの懐に入っていた。 服の襟をぐっと握って足を絡ませる。 思いもよらぬ攻撃に慌てたガッラは、腰が浮ついていた。 206 どっしりと構えていれば、体重に劣る俺に投げられることなんて ないのに。 電光石火の勢いで足を払うと、襟に力を入れてひっ転がした。 ガッラは尻もちをついて、俺は襟と袖を掴んでいた。 体勢をたてなおされる前に、そのまま飛びついて十字腕ひしぎに 移行した。 ぐっと力を入れて、腱が伸びた感触があった。 そこから、とんでもない力で振りほどかれると、体ごと振り回さ れ、床にたたきつけられ⋮⋮。 立ち上がろうとしたらガッラの大きな拳が眼前に迫っていた。 顔面に強い衝撃がきて、俺は気を失った。 *** 気がついた時には、演武会は終わっていた。 俺は屋外ステージの外で、簡易に作られた寝台の上に横たえられ ていた。 鼻には冷たい水で濡らされた布が掛かっており、それを剥がすと、 布はヌチャっとした血でぐっしょりと濡れ、糸を引いていた。 手で顔をさすると、外傷ではないことが解った。 となると、鼻血だろう。 思えば、鼻の奥がツンとしてジクジクと疼いている。 鼻の骨でも折れたか。 207 それでも、俺はなんだかホッとした気持ちがしていた。 気鬱なイベントだったが、なんとか大渦なく終わった。 俺はもう一度寝ることにして、目をつむって再び身を横たえた。 そうしてベンチで寝ていると、ふいに影ができた。 まぶたの上から差す陽光が消え、真っ暗になった。 目を開けると、そこにはガッラがいた。 ガッラは黙って俺の襟首を掴むと、引きずり上げた。 ﹁なぜ手加減した!!!﹂ ガッラは男泣きに泣いていた。 ﹁情けでもかけたつもりか!!!﹂ こんなガッラを見るのも初めてなら、こんな怒声を浴びせられる のも初めてだった。 そうだ。俺は土壇場でガッラの腕を壊すことができなかったんだ。 と、今更ながら試合の内容を思い出した。 ガッラはそれに怒っているのだな、とすぐに理解した。 腕ひしぎという技は、腕が伸びきってしまえば、返すことは不可 能だ。 腕が曲がっていれば力の入れようもあるが、伸びきってしまった 腕には、驚くほど力が入らない。 対して、極めているほうは体全体を使って、腕の力だけでなく背 の肉まで動員して、存分に力を入れることができる。 208 大人と子供ほどの体格差があれば別だが、俺とガッラほどの体格 差であれば、必ず技をかけたほうの力が勝る。 戦技の世界では、それは自然の摂理と似たような、絶対的な法則 なのだ。 ガッラほどの戦士がそれに気づかないわけがない。 俺は、彼の誇りを傷つけたのだ。 いくら優勝という栄誉が与えられても、ガッラはその称号を誇り とは思えないだろう。 俺は間違ったことをしたのだ。 だが、ガッラの腕を壊さなかったのが間違いだったとは思わない。 それなら、そもそも演武会に出たのが間違いだったのだ。 ﹁あれはお前の勝ちだ。心構えができてなかった俺が未熟だったん だ﹂ 俺は鼻声でそう言って慰めるのが精一杯だった。 俺が自分の人生に疑問を持ち始めたのは、この時からだった。 決められた道を歩くように歩んできた騎士になるための生き方。 ほんとうにそれが俺にとって正しい道なのだろうか、と。 *** だが、俺は疑問を感じつつも、今まで歩いてきた道を外れること はできないでいた。 209 騎士になるためだけに生きてきたのに、どうして今更生き方を変 えられる? そうして、騎士院の卒業も間近になったある日、教養院である女 が死んだ。 セブンウィッチズ ファイブブレイブス そいつは七大魔女の分家の出で、長女だった。 セブンウィッチズ 政治を司る七大魔女は、家柄だけでいえば五大武家より格上とさ れる場合が多いから、分家とはいえ、次男でお家を継ぐ目もないと 思われる俺より、身分で言えば若干上と思われるような女だった。 そいつは俺にしつこくアプローチしてきていたのだが、やけに太 り気味で陰気な雰囲気をしていて、端的に言えば好みではなかった ので、告白されても振った。 というか、このころの俺は毎日のように女に告白されてはそのた びに振る生活をしていたので、単純にその中の一人だったといえる。 女に困らない生活といえば聞こえはいいが、俺は金にも困ってい なかったので、性欲を満たすだけならば娼館にいけばよく、ありて いに言えば教養院の女は眼中になかった。 教養院の女というのは、とにかく面倒くさい。 奥ゆかしいことが男ウケがいい要素とでも考えているのか、性格 は暗いし、服一つ脱がせるにも市井の女と比べると数段めんどくさ い手順を踏まねばならず、しかもヤったあとは責任を問われ、噂は 尾鰭がついて流れる。 相手にするのも馬鹿馬鹿しいので、寮で教養院の女に入れ揚げて いる男を見ると、首根っこひっつかんで酒場に連れて行き、市井の 女の良さを教えてやるのが常だった。 210 だが、その自殺した女が他の教養院の女と違ったのは、振った後、 諦めることをせずに、四六時中俺の生活に張り付くようになったと ころだった。 通常、教養院の生徒が入る用事はまったくない騎士院の施設まで ついてきて、柱の陰からこっそりとこっちを見張っていたりした。 はっきりいって、めちゃくちゃウザかった。 妙な噂は立てられるし、チョロチョロと視界に入ってくるたびに、 イライラする思いがした。 そうして、ある日いい加減にしろと大声で怒鳴ったら、その日か らまったく視界にあらわれなくなり、次に名前を聞いたのは訃報だ ったのである。 それを聞いた時は、悲しくはあったが、若干の嬉しさも感じた。 もう煩わされることはない、と感じた俺を、誰が責められるだろ う。 だが、それだけでは済まなかったのである。 女は遺書を残しており、そこには俺に嫌われたのが悲しくて自殺 しますというような内容が書いてあったらしい。 その話を聞くなり、俺は寮の自室のドアと窓を黒い布で覆い、ホ ウ家の別邸の玄関口にも黒い布をたれかけさせ、寮に閉じこもった。 これは喪に服すという世間的なポーズになる。 そうして、二日ほど閉じこもって、葬式に出席すると、遺体に花 を添えてやった。 211 これで、対外的にはなにも問題はないはずであった。 立場上の礼は尽くしたということになる。 だが、俺は、葬式のその場で、女の兄に決闘を申し込まれたのだ。 ふみ 最初、俺は恭しく差し出された封筒が決闘状だとは思わなかった。 遺品の一種とか、親としての思いが綴られた文とか、そういうも のかと思った。 だが、帰ってから読んでみると確かにそれは決闘状であった。 むろん、決闘などというものは承諾しなければ良い。 だが、死んだ女の実家が政治力を持っていたことで、容易には断 れない雰囲気になった。 きも 兄はしなくてもいいと言ってくれたが、父には決闘に勝って肝を 鍛えてこいと言われた。 俺は父に逆らうことはできず、決闘をすることになった。 *** 決闘は約束の日に秘密の場所で行われた。 ウィッチズグロウ 秘密の場所は、普段は厳重に立入禁止とされている、王都の一角 にある魔女の森の一部だった。 こちらからは、俺の父親とガッラが立会人として参加した。 向こうには名前もしらない女が二人と、近衛の騎士らしき男が立 会人として居た。 212 おおかた、立会人の親族に半ば強制されるかたちで、決闘状を書 かされたのだろう。 決闘の相手は見ていて悲しくなるほど動揺し、緊張して、震えて、 汗をかいていた。 妹に似た顔をしていて、少し小太りな体は、明らかに鍛えていな いのが解る。 不本意そうであり、何が何でも妹の仇を取ってやるという感情を 抱いているようには、到底見えなかった。 こんな男を決闘に引っ張りだすとは、魔女の家というのは本当に 嫌になる。 決闘は相手方の指定で剣ということになった。 伝統的に武人の得物といえば槍と決まっているが、中途半端な長 さの剣術を好む武人というのも、中にはいる。 どちらかというと使い慣れぬ武器だが、決闘相手とくらべれば、 俺の方は四六時中殺し合いの訓練をしていたのだから、これくらい のハンデは受け入れるべきだ。 俺の方も否やはなく、そういうことに決まった。 だが、受け取ってみれば、剣といっても武人が使うようなもので はなく、槍で叩けば折れてしまうような、片手で持てる細いサーベ ルのような片刃剣だった。 こういう剣は、槍を振るえなくなった老騎士が、それでも指揮は しなければならないときに、一応は帯剣するために腰にさすものだ。 いつも振り回している槍と比べると、羽根を持っているように感 じられた。 213 *** 双方とも剣を持ち、決闘の合図を待った。 今からこの男を殺さなければならないのか、と思うと、俺は自分 でも驚くほど慄然としていた。 ガッラと戦った時でさえ腰が引けてはいなかったのに、今は腰が 引けていた。 俺は、場に立つまで、相手を殺せばいいやと気軽に思っていた。 決闘なのだから仕方がない、と。 だが、場に立つとまるで考えが変わっていた。 恨み合っているはずの決闘人どうしが、いまさら話し合いを持つ ことはできない。 だが、予め裏で申し合わせをしておくことは、努力すればできた だろう。 なぜ、俺はそれをしなかったのだろうかと、今さらになって後悔 した。 決闘は基本、どちらかが死ぬまで続けられる。 事前に話し合いの場をもてば、例えば腕に剣を刺して、流血した 時点で終了。ということもできたかもしれない。 だが、今となっては遅かった。 合図があり、決闘が始まった。 相手はブルブルと震えて、オアーとかウワーとか勇気を奮って声 214 を出している。 よし、腕を落とそう。 腕が落ちれば、それは殆ど戦闘不能ということになるから、普通 はその時点で決闘は終わりとなる。 腕がなくなるのは可哀想だが、決闘を申し込み、殺し殺されの場 に俺を引きずりだしたのだから、それくらいは諦めて貰わなければ ならない。 相手は右手で剣を持っている。右利きだろうから、左腕を落とそ う。 俺は猫のような柔らかかつ素早い動きで近づくと、相手の目の前 で一瞬止まり、そのことで一撃を誘発して、滑るように脇に回り、 肘から下を強く撫でるように切り落とした。 切れ目から噴水のように血が噴き出、腕がぼとりと地面におちた。 アアアアアア、と叫んで、決闘者は剣を放り捨てて傷口を手で覆 った。 心にずんと重しが乗った気がした。 これが俺がやったことなのか。 こんなに血がでて、こんなに痛そうで、今まさにこの男は不具に なった。 だが、とにもかくにも、これで終わった。 これで、この男は戦えない。 そう思ったら、向こうの立会人が待ったをかけて、枝肉でも縛る 215 ように細い紐で傷口を縛り上げ始めた。 嘘だろ。 止血が終わると、無理矢理に剣をもたせ、妙な励ましをして、立 ち上がらせる。 向こう側の立会人が、なんだかひどく醜いことを叫んでいた。 まるで悪夢を見ているようだった。 相手は顔から血の気が失せて、気持ち悪そうだ。 元から体のバランスが悪かったのに、左腕を庇っているためにそ れがさらに悪化している。 まるで戦い方を知らない子どものようだ。 いや、元からこの人は戦い方など知らなかったのだ。 だが、俺には決闘を放棄するという選択肢はなかった。 一度受諾した決闘を放棄するということは、つまりは相手方が主 張する罪を認めるということになる。 この場合は、自動的に殺人罪が成立することになる。 つまり、俺が自殺した女を殺害したのと同じことになるのだ。 その場合、俺は死ななければならないだろう。 負けたり、決闘を放棄するという選択肢がない以上、相手に負け を認めさせなければならない。 だが、決闘相手のこの人は、なんらかの事情があって負けを認め られないのだろう。 腕を落とした時点で、尋常な勝負で俺に勝つ見込みがないことは、 この人も解っているはずだ。 ならば、足を落としても、残った腕を落としても、死ぬまで戦い 216 は続行されるのかもしれない。 殺さねばならないのか。 結果的に殺さねばならないのなら、これ以上腕や足を落としたり 傷を負わせるのは、無用の苦痛を相手に与えることにしかならない。 であれば、一気に、気づかないほどに鋭く、命を断ってやったほ うがいい。 これが悪夢なら、早く終われ。 そんな気分で、俺は両手を重ねるようにしてサーベルを握ると、 相手の剣を巻き上げに弾き飛ばした。 巻き上げられた剣は、手を離れて空高く飛んで行く。 そのまま、間髪入れずに膝を蹴って仰向けに倒すと、首の後ろめ がけておもいっきりサーベルを振り下ろした。 そうして、一気に首をはねた。 首が地面におち、主を失った体から力が抜ける。 首から血がびゅーびゅーと吹き出し、土を赤黒く染め、そのうち それも絶えた。 俺は返り血を浴びながら、自分のしたことの意味を思った。 俺は、この人の命を断ったのだ。 血に汚れたサーベルを相手方に返すと、俺は茫然自失の体で自分 の家に帰った。 ガッラに何度も声をかけられたが、内容がよくわからなかった。 俺は人を殺した。 217 だが、それは異常なことではなかった。 とどのつまり、騎士というのは人を殺すための職業なのだから、 これは騎士としてはむしろ日常なのだ。 俺はずっと人を殺すための技法を学んできたのだから、それを活 かすということは人を殺すということなのだ。 今しがたやったようなことを日常的にやるのが騎士としての本分 なのだ。 それを思うと、気が遠くなるような思いがした。 俺はその晩、眠れなかった。 一晩中、考えていた。 だめだ、俺は。 とてもやっていかれない。 日が昇ったときには、心底からそう思っていた。 俺はなんて馬鹿なんだろう。 ここまでやらなければそれに気づけないとは。 俺は騎士にはなれない。 最初から騎士なんて目指すべきじゃなかったんだ。 *** 俺は、酒を飲みながら、途中で脱落した騎士としての人生に思い を馳せていた。 死んだ兄貴のことを思い出していたのもある。 218 あのとき、親父には激怒されたが、兄貴は不思議となにもいわな かった。 それどころか、俺が好きな王鷲の牧場をやりたいと言うと、自分 の懐から幾らか金を貸してくれた。 元々トリが好きだったこともあり、牧場経営は上手くいった。 俺の育てた王鷲が一級品だったという自負もあるが、経営が上手 くいった理由の一番は、結局は実家だった。 ひっきりなしに遠征にいき、行く度に大量の兵を死なせ、帰って きては補充するホウ家は、カケドリが常に不足していた。 昨日今日始めたばかりの牧場では、トリを売りにだしても買い叩 かれてしまうものらしいが、俺の場合はそれはなかった。 むしろ多少色をつけて買ってくれたくらいだ。 俺は育てては納めて、納めては育て、そのたびに金を貰い、牧場 はどんどんでかくなった。 そのうちスズヤと結婚し、ユーリが産まれ、そのユーリは兄貴に 見込まれた。 サツキさんが預けてきたサツキさん宛の遺書には、そのことが書 いてあった。 国家存亡の際ゆえにユーリを当主とするように計らえ。ついては 弟を説得し、臨時に当主にするようにと。 これだけの指示で、王城への工作から、親族の説得まで短期間で すべてやってのけたサツキさんには、頭がさがる。 兄貴の考えもわからないではない。 ユーリは誰でも解るほどに優秀だ。 219 ユーリと話した者は、皆口をそろえてよく出来た息子だと言う。 しょくぼう だが、優秀なだけでは騎士はつとまらないのだ。 自分で言うのもなんだが、俺ほど将来を嘱望された騎士候補生は いなかったのだから。 ﹁ただいま戻りました﹂ ガチャリとドアが開いてユーリが帰ってきた。 ﹁⋮⋮帰ったか。何かあったか?﹂ ﹁サツキさんに地図を見せてもらったりしました﹂ ﹁そうか﹂ なんだかんだ上手くやっているらしい。 俺はユーリがやった昼間の動きを思い出す。 テーブルクロスを使って足場を崩すというのは機転が利いていた。 あの状況であんなことができるのだから、肝も座っている。 加えて王鷲を操る才能もあるのだから、騎士としての才能は全方 面で十分だろう。 騎士院を卒業できないということは、まずない。 ﹁ユーリ、王鷲は好きか?﹂ 俺がそう聞くと、 ﹁好きですよ。何度も言ってるじゃないですか﹂ ﹁じゃあ、牧場仕事は好きか?﹂ ﹁好きです。とても平和で素敵なお仕事だと思いますよ﹂ ﹁そうか。俺もそう思ってる﹂ 220 こんなことになってしまったが、俺はユーリを牧場主にするつも りだったのだ。 今でも半分はそう思っている。 ﹁昼間にも言ったが、ユーリは一度騎士院に入らなきゃならない﹂ ﹁そうですね。正直、気乗りしませんが﹂ ﹁言っておくが、今日のことがあったからじゃなく、最初からそう 決めていたことだ﹂ 俺は駄目だったが、ユーリもそうとは限らない。 ユーリはこれほどの才能を持っているのだから、最初から道を狭 めるのは勿体ない。 一度は入って、試してみて、水に合わなかったら辞めればいいの だ。 水があえばそのまま騎士になってもいい。 騎士がだめなら牧場主になればいい。 最初からそう思っていたのは本当だが、こうなってしまった以上 は、そう単純には行かないだろう。 ﹁そうですか。まあ、行くだけ行ってはみますけど、まだ先の話な んですよね?﹂ ﹁そうだな。だけど、牧場主の息子として騎士院に入るのと、ホウ 家当主の息子として騎士院に入るのとでは事情が変わってくる。わ かるか?﹂ ﹁⋮⋮少しは察しはつきますけど﹂ 少しは察しがつくというのが、なんだか空恐ろしいところだ。 これは虚勢で言っているのではなく、本当に解っているのだ。 221 ﹁騎士院に入るのは十歳からで、卒業は人によってまちまちで、頑 張れば早く卒業できる。早く卒業したいなら、あらかじめここで勉 強⋮⋮﹂ 言いかけて、その必要がないことを思い出した。 ﹁ユーリのことだから勉強は必要ないかもしれないが、多少は武芸 を習っておいたほうがいいかもしれない﹂ ﹁そうですか。それでは、牧場仕事の合間にでも教えてくれればい いですよ﹂ えっ、俺が教えるのか。 いや、それはダメだ。 ﹁親子では武芸の教えっこはしないことになってるんだ。情が入る からな﹂ 俺がそういうと、ユーリは見ていて可哀想になるくらい嫌そうな 顔をした。 ユーリは優秀だが、どうにも人見知りなところがある。 ﹁⋮⋮まあ、騎士院のことはいいです。それより、お母さんにどう 説明するのか考えておいたほうがいいんじゃないですか。サツキさ んはああ言ってましたけど、当主ともなれば妻を連れ立ってどこか の催しに行くなんてこともありそうですし﹂ 息子に言われて思い立つのは情けない限りだが、スズヤのことは、 今思い出した。 考えてみればユーリの言うとおりだ。 222 将家の当主の嫁となれば、普通は教養院で何年も礼儀作法や教養 知識を学んだ女性がなるわけだから、何も知らないスズヤは恥をか いてしまう。 一番負担がかかるのはスズヤかも。 まあ、全部断ってもいいんだろうが。 ああ、気鬱だ。 面倒くさい。 ﹁⋮⋮とにかく、今日はそろそろ寝ましょう。明日会議中に任命さ れるわけですから、居眠りしていたら締まりませんよ﹂ ﹁ああ、そうだな。そうするとするか⋮⋮﹂ 考え事が多すぎて眠れないかと思ったら、酒のせいかすぐに眠り の帳が降りてきた。 223 第016話 本家での日常 ﹁そんなことでは院に入った後、笑われますぞ﹂ 道場の板張りの床の上でぐったりしていた俺に、毛も白んだ爺さ んが言ってくる。 この爺さんともかれこれ、三年のつきあいになる。 爺さんは、名をソイム・ハオといいい、いわゆるホウ家の退役復 帰組の騎士の一人で、若いころは遠征するたびブイブイ言わせてた 騎士であったらしい。 ルークがサツキにハメられて当主になった場にも座っていた。 だが、手塩にかけた一人息子はずいぶんと昔に死んでしまい、そ のときは孫がいい年齢になっていたので、孫に家督を譲ったが、そ いつはゴウクと一緒に天に逝ってしまった。 その後、家長として復帰しつつ、まだ四歳くらいの曾孫を猫かわ いがりしながら、俺を棒でぶっ叩いたり関節を決めたりする生活を 送っている。 損をしているのは俺だけだ。 ソイムは年齢としては百才に届こうかという老人だ。 だが、そんな爺さんでも、皺のよった老いぼれた肌の奥には、衰 えたとはいえ老いてなお洗練された筋肉が秘められており、それを 老熟した技術で操るものだから、恐ろしく強い。 224 俺は立ち上がり、再び木の槍を手にした。 これは白木の棒の先っちょが赤く塗られているもので、子供が訓 練で使うものらしい。 赤い先端は刃先を意味している。 ソイムのほうは、細い木の棒に藁を巻いて、上から動物の皮をか ぶせた棒を握っている。 叩かれても痛くないように配慮しているわけだが、完全に中空に なってる竹刀みたいなもんでも叩かれりゃ痛いんだから、芯の入っ ている棒に何を貼り付けようが、やっぱり叩かれたら痛い。 俺は立ち上がった。 ﹁どうぞ、かかってきなされ﹂ ソイムは両手で棒を構えた。 俺は飛びかかるように突っ込んでいって、突いては引き、凪いで は戻し、懸命の連打を食らわせたが、全部避けられるか、いなされ るかされてしまった。 息切れしはじめたと思った矢先、軽く力を加えられて一撃がいな されると、間髪入れずに出足払いのような足技がきて、踏み込んで いた足をすっぱ抜かれ、無様にすっ転んだ。 床を叩き、受け身をとって事なきを得る。 くっそー。 もちろん体のスペックが大人と子どもで違うのもあるが、やはり 技術がかけ離れている感じがする。 俺も三年、頑張ってきたが、全然及んでいない。 225 ﹁悪くはないですな。だが、引き際が悪い。息が上がったら引かね ば今のようになりますぞ﹂ 引いたら引いたで今度は攻めてくるくせに⋮⋮。 ﹁引いたら攻められて、やっぱり負けるじゃないですか﹂ ﹁フフ⋮⋮それはそれですよ﹂ ソイムは笑みを浮かべていた。 そして諭すように言った。 わかぎみ ﹁若君と私とでは、大分力量に差があるのですから、負けるのは仕 方がない。ですが、考えてもみなさい。例えばここが戦場であった なら、引いて粘っていれば、仲間の横槍が入ってわたしを斃してく れるかもしれぬではないですか。だが、無謀に攻めて今のようにあ っけなく倒されてしまえば、その目もない﹂ 道理だった。 確かにその通りだ。 わかぎみ この老人はなぜか俺のことを若君と言ってくる。 こっぱずかしいこと極まりない。 ポッと出の俺になにか思うところはないのだろうかと、いつも心 配になる。 ﹁確かに、そうかも知れません﹂ 俺はぐっと体に力を入れて、立ち上がった。 息はもう整っていた。 226 ﹁かかってきなされ﹂ *** シャン人の騎士は、なぜだか槍に強い執着があるため、基本は槍 ︵槍衾に使うような長槍ではなく、身の丈ほどの短槍︶をメインに 修得するのだが、それだけを習得するわけではない。 なんといっても槍はかさばるので、常日頃、家の中でも持って歩 いていたら奇人変人でしかないわけで、一般的に短刀を帯びる。 江戸時代の武士が大小を帯びるのがしきたりであったように、短 刀は外出時はいつでも持っているものらしい。 槍にも種類があり﹁俺は突きより斬るほうが向いてる気がする﹂ って人間は、薙刀風になったものを愛用しているようだ。 つまりは、槍術︵短槍術︶、剣術︵短刀術︶、格闘術の三つがシ ャン人の戦いの基礎項目となる。 日本に居たころにやったゲームなどでは、槍は剣に強く、剣は素 手に強く、素手は槍に強い。などといった三つ巴が成立していたゲ ームもあったが、現実はそうはいかなかった。 ﹁そい! そいっ!﹂ わざと掛け声をかけながら、ソイムが槍を繰り出してくるのを、 俺はかわしていた。 手には木で作られた短刀を握っている。 227 足を突かれれば寸前で足を引き、顔を突かれれば上体を反らし、 なんだかんだで避けていく。 槍の間合いギリギリにいるのだから、一歩引けば避けられるわけ で、避けるのは簡単なのだ。 追い足もこちらに合わせてゆるめてくれているようで、追いつか れることもない。 俺は木の短剣を構えながら、片手を柄に添えるように構えていた。 手元に突き入ってきた槍を胸元ギリギリで避けると、空いた片手 で柄を掴んだ。 柄を掴まれるという動作は、槍を使う側にとっては、存外嫌なも のだ。 振り払うにしても、振り払う動作を強要されてしまうので、手数 でいえば、一手が空いて、攻め入る隙を与えてしまう。 俺も攻めに転じて、ふわりと間合いの中に入ると、勢いのままに 短刀を繰り出し、槍の持ち手を狙った。 が、俺が狙った時には、ソイムは既に持ち手から力を抜いていた ようで、俺の短刀を持った手が逆に拳で狙われていた。 拳が持ち手に突き刺さり、思わず手を離してしまう。 体が硬直した瞬間に、腹のところに軽いケリが入って、俺は仰向 けにすっ転んでしまった。 転ぶと同時に槍がつきこまれ、腹のところにチョンと切っ先が当 たり、やっぱり俺は負けた。 その後、整理運動とばかりにソイムと一緒に屋敷の外周を一周走 り、汗みずくになったところで、稽古は終わった。 228 ﹁それでは、次の稽古は明日ですな。体をよく休めてくだされ﹂ ﹁ありがとうございました﹂ 飯を食ったら今日はサツキから直々に勉強を教わる予定が入って いた。 *** ﹁⋮⋮こらぁ﹂ ポカリと頭を叩かれた。 ﹁うわっ﹂ おもむろに意識が覚醒する。 やべぇ半分寝てた。 ﹁寝てたでしょー﹂ ﹁あ⋮⋮ハイ﹂ ﹁そんなに退屈かしらぁ?﹂ 心配そうに言ってくる。 そりゃ退屈だよ。 ﹁いえ、頑張ります﹂ ﹁ここは行灯かきかき冬の雪って覚えるの﹂ ⋮⋮??? ﹁へ?﹂ 229 ﹁主語が女性の年配の場合の動詞の活用の変化がね、目的語が、男 性の年配と若輩、モノ、土地、王族、女性の年配と若輩、の場合で 変わるでしょー?﹂ ﹁は⋮⋮はぁ﹂ そないなこと言われましても。 俺はまた途方にくれた気分になった。 サツキがこだわる古代シャン語というのは万事が万事この調子だ。 欠陥言語なのだ。 目的語で動詞が変化するってどういうことだよ。 目的語がQUEENとDESKで動詞がLOOKがLOOKEN からLOOKODみたいに変化したら切りがねえだろうが。 しかもそれが七通りもあるとか。 どんだけ不便な言語だ。 誰が考えたのか知らないが、ふざけんなよ。 さっさと消滅してくれて良かったんだよ。 自然淘汰だよ。 皆バカバカしいから洗練されて今の形になったんだろ。 ﹁そこで語尾が行灯かきかき冬の雪ってなるのね。女性が年配の場 合と若輩の場合は同じユキでいいから、一つ覚えるのが減るわねぇ﹂ ⋮⋮⋮。 えーっと。 七つ覚えるところが一つ減った所でどうだっていうんですかね。 230 六つも七つも同じMANYだよ。 FEWにはならねーよ。 多いんだよ。 ありがたみが全く感じられねーよ。 ﹁あの、これってなんの意味が﹂ 俺は通算何度目かの質問をした。 ﹁古典を読むためにはこれくらいできなきゃねぇ﹂ 同じ答えが帰ってきた。 古典にしたって国語の古文とはレベルがちがうんだが。 別言語ではないんだけどさ。 なんというか。 よく知らないけど、イタリア語とラテン語くらい違うんじゃない の。 ﹁これできたら魔法とか使えるようになったりするんですか?﹂ ﹁なに変なことを言ってるの﹂ ﹁いや、言ってみただけです﹂ 魔法が使えるなら、ちょっとくらい必死にやるんだけどな。 はぁ。 ﹁歴史と同じ丸暗記なのに、なんでユーリ君は古典が嫌いなのかし らねぇ⋮⋮﹂ サツキは困ったように言った。 まるで同じじゃないからです。 231 考古学者目指してるんじゃないんだから、なぜ古代言語を習得し なけりゃならねーんだ。 これが、隣国で日常的に使われてる言語とかなら、まだ学ぶ意欲 も出るが、日常言語として使っている人間は、もはやこの地上に一 人として存在しないのだ。 ﹁とにかく教養人を名乗るなら古代シャン語くらいできないと駄目 ですからね。さ、書いて覚えましょう?﹂ 俺は勉強が嫌で逃げ出したくなる子どもの気分を久々に、そして さんざんに味わった。 *** 純粋なる苦行が終わると、俺は目を虚ろにしながらシャムの部屋 へ行った。 拷問を受けたわけでもないのに、何故か足がふらつく。 シャムに会って癒やされたい。 俺はガチャリとドアを開けた。 ﹁よう﹂ ﹁⋮⋮﹂ シャムは机に向かったまま、ペンを握って動かない。 ﹁よう﹂ 232 ﹁⋮⋮っ! ユーリですか﹂ 今気づいたようだ。 ドア開けたのも気付かないとか、どんだけ集中してんだよ。 ﹁どうしたんだ﹂ ﹁いえ﹂ ﹁なんだったら後にするか﹂ 別に用事があるわけではない。 ﹁このケプラーの法則って凄いですね﹂ ﹁なんだ、また難しいことを考えてたのか﹂ ﹁この地動説モデルなら全部説明できます。水星の予測も完璧です し、火星の謎の動きもなにもかも。正直言って半信半疑でしたが﹂ まだ半信半疑だったのか。 火星の謎の動きというのは、天体観測を真面目にしたことのない 俺には謎のことだったが、何やら大いなる謎が解明されたようだ。 よかったよかった。 ﹁それなら良かった﹂ ﹁今までのモデルでは、太陽の周りを火星その他の惑星が回ってい ることになっていたんです﹂ は? なんだそれ。 ﹁それはつまり地動説じゃないのか﹂ ﹁いえ、地球の周りを太陽が回っていて、その太陽の周りを惑星が 233 回っているんです。言い換えると、月より遠くに、第二の月として 太陽が回っていて、その太陽の周りを月のように惑星が回っている。 というような感じです﹂ なんだそりゃ。 そりゃまた不思議な世界だな。 太陽の質量を知っている俺からしてみると、逆にちょっとイメー ジできない。 ﹁そこに色々な係数を当てはめると、とても良く天体の動きが説明 できるんです﹂ んなアホな。 ﹁そうなの?﹂ ﹁ほら、火星は年を通して見ると、こういう動きをしますよね﹂ シャムはさらさらと木の板に線を書くと、それを俺に見せた。 Zを反対にしたような形だった。 へぇ、そうなのか。 ﹁そうだな﹂ ここは知ったかぶっておこう。 ﹁地球の周りを円軌道で回っているのであれば、こうは見えないわ けです﹂ まあそうだな。 地球が真ん中なら、すいっと夜天を横切るだけだろう。普通に考 えれば。 234 ﹁でも、火星が太陽の周りを回っていると考えれば、これは説明が つきますよね﹂ ﹁ああ、そういうことか﹂ 遊園地のコーヒーカップみたいなものだ。 メリーゴーランドなら、真ん中から見て、馬に乗っている客が回 転方向と逆側に動くなんてことはありえない。 だが、コーヒーカップであれば、客が一時的に回転方向と逆に動 いたように見える。 天動説もよく考えられているものだ。 ﹁理屈と膏薬はどこへでも付くってやつだな﹂ ﹁⋮⋮なんですか突然? それってことわざかなにかですか?﹂ ﹁そうだな﹂ ﹁初めて聞きました。でも、そういうことですね。理屈に理屈を上 塗りして、いろいろな係数を決めて、説明がつくようにしてあるん です﹂ なるほどなるほど。 でも、説明がつくようにしてあるということは、本当に無矛盾に なるように色々と数値が設定してあるんだろうな。 ものすごい計算が複雑になりそうなもんだが。 ﹁でも、このモデルなら無駄な理屈付けがなくても、きれいさっぱ り片付きます。我ながら素晴らしいです。なんて美しいんでしょう。 全てが一つに調和しています﹂ ﹁そりゃ良かった﹂ なんとまあ嬉しげである。 235 俺も大昔、研究室にいたころはこんな顔してたのかな。 ﹁あ、我ながらというのはおかしいですね。ユーリが考えたのに﹂ シャムは申し訳なさそうに言った。 ﹁いや、そこは構わないんだが﹂ 俺はただ知ってるだけで、俺が考えたわけでもない理論なので、 どうでもよかった。 金になるならともかく、大昔に別の世界のケプラー氏が考えた理 論で名誉や尊敬を得たいとも思わない。 ﹁そういうわけにもいきませんが、ともかく色々と詰めてみます﹂ 詰めるって。 ﹁仕事じゃないんだから﹂ もっと別のことしようよ。 なんだ、えーっと、おままごととか。 プリ○ュアでも見てろと言えないところがアレだが、こんな時代 でもなにかしらあるだろ。 ﹁今はこれが楽しくて仕方ないんです﹂ 無理をするふうでもなく言った。 うーん。 すげえ。 どういう脳みそをしているんだろう。 俺がこのくらいのころは、まだポ○モンが151匹だったころで、 誰かがバグ増殖したミュ○を友達から貰って大喜びしていたものだ ったが。 236 それがこのイトコは二項定理や三角関数を理解し、ケプラーの法 則で太陽系のモデルを理解し、それで大喜びしている。 頭のいいやつっていうのはこういうものなんだろうか。 ﹁ちょっと外に出てみないか? 面白いことがあるかも﹂ 少しくらい外に出たほうがいいのでは。 ﹁えぇー⋮⋮﹂ なんだかあからさまに嫌そうな反応をされた。 ﹁まあいいじゃないか、気晴らしに﹂ ﹁気なら晴れてますが⋮⋮ユーリってたまに俗っぽいこと言います よね⋮⋮﹂ 俗っぽい⋮⋮。 気晴らしに外に出よう、というのは、しかしシャムにとっては言 われ慣れていることなのかもしれん。 引きこもり気質にとっては、外にでることは気晴らしにもなんに もならないのかもしれないし。 ﹁でも、ユーリがそういうならいいですよ﹂ *** 屋敷の外に出ると、もう夕暮れ時だった。 屋敷の庭にはイチョウの木が植わっており、今の時期はもう、紅 葉して実を落としている。 237 微かに銀杏の臭いがするが、悪臭を感じるほどでもない。 誰かに踏まれない場所にあるのと、使用人が腐る前に実を拾って 回収しているためだ。 そうしているのを見たことがある。 池や庭石などは、日本にあったような手入れされた庭とさほど変 わらなかった。 ただ、このあたりは常緑樹が少ないので、冬になると全てが枯れ て、まったく緑は見えなくなる。 そこが少しさみしいところだった。 それに、いかんせん寒い。 毛皮の上着を着てでてきたが、それでも四肢に寒さがしみた。 ﹁もうすっかり冬だな﹂ しみじみと俺が言うと、 ﹁⋮⋮お父さんと同じようなことを言うんですね﹂ うっ。 間接的にジジ臭いと言われたみたいで妙に堪える。 ﹁なんでここは寒い地域なのか考えたことあるか?﹂ じゃあ好みの話をしてやろうかな。 幸いなことに、レパートリーはたくさんあるんだ。 ﹁⋮⋮? 北だからじゃないんですか﹂ ﹁北だろうが南だろうが、年間の日照時間はトータルすれば変わら ないはずだろ﹂ 238 白夜のある地域は必ず極夜もあり、それでバランスが取れるよう になっている。 一年通しての昼の長さは、赤道直下でも極地でもほとんど変わら ない。 一日の半分かというと、大気の反射光で明るい状態の夕方や明け 方があるから、夜のほうが短いはずだが。 ﹁そういえばそうですね。なんでだろう⋮⋮﹂ シャムは考え込み始めた。 この頭のいい娘は、すぐに他人に答えを聞かないという美徳があ る。 必ず自分の答えを見出そうとする。 教えがいのある娘なのだった。 ﹁気流とか、海流とかですか?﹂ 確かにそれもあるだろうが。 ﹁太陽の角度だよ﹂ ﹁角度⋮⋮? 角度が関係してるんですか?﹂ ﹁暖炉で考えてみると分かりやすい﹂ 俺は手のひらを突き出した。 ﹁こうやって手のひらを垂直に火にかざしたら熱いけど、こう⋮⋮ 斜めにしても大して熱くはならないだろ。面積あたりの熱の供給量 が減るんだよ。このへんじゃ、常に太陽に対して地面が斜めになる だろ?﹂ ﹁はぁぁぁあ⋮⋮﹂ シャムは口をぽかーんと開けて感心していた。 239 ﹁なるほど⋮⋮﹂ ﹁そうやってこの土地は寒くなってるわけだ﹂ ﹁興味深いです﹂ ﹁それを踏まえて、見てみろよ﹂ 俺は調子にのって、イチョウの落ち葉を一枚拾った。 ﹁なんですか?﹂ さっきので機嫌をなおしたのか、シャムはどこか楽しそうだ。 ﹁この葉っぱさ﹂ ﹁?﹂ ﹁ほら、葉が落ちてるだろ?﹂ ﹁そうですね﹂ ﹁なんで葉が落ちる⋮⋮というか、葉を落としたか分かるか?﹂ ﹁うーん﹂ シャムはまた考え始めた。 ﹁⋮⋮わかりません。そういうものだからとしか﹂ わからなかったらしい。 ﹁確かに、そういう種の木だから落としたというのは、その通りな んだけどな﹂ ﹁はあ﹂ ﹁この土地じゃ、冬の間はなにもかもが凍ってしまう。そんな場所 で生きるための生存戦略なのさ﹂ ﹁ああ、葉っぱが凍ってしまうから捨ててるんですか。なるほど﹂ すぐ分かってしまったようだ。 240 ﹁だが、こんな大量の葉っぱを毎年作っては捨てるのは、植物にと っては重労働だ。人間で言ってみれば、腕を毎年切り落としては生 やすようなもんだから、大きな負担になっているはずだ﹂ ﹁⋮⋮したくないといっても、仕方ないんじゃないですか? 凍っ てしまうんだから﹂ そりゃそうだけど。 ﹁そうか? 方法でいったら、葉を分厚くして、樹液を循環させて、 芯まで凍らないようにするとか、表面を凍りにくい物質で保護する とかって手があるだろ。そうすりゃ捨てる必要はない﹂ ﹁⋮⋮考えてみればそうですね。でも、そうしていない﹂ ﹁この土地くらい寒い場所じゃ、そうにもいかないから、そういう 植物は生えていないってことだろうな。植物に言わせりゃ、ここの 寒さに耐えるほどの葉っぱを維持するくらいなら、毎年作りなおし たほうがよっぽど安上がりってことなんだろう﹂ ﹁じゃあ、もっと温かい地方なら違ってくるわけですか﹂ ﹁そうなんだろうな。この国でも、一番南のほうには一年中緑をつ ける植物も生えているらしい。そのあたりに境目があって、ずっと 南にいけばそれもなくなって、もう寒さに対して対策する必要はな くなる。そこでは薄い葉っぱを一年中つける植物がたくさん生い茂 っているんだろう﹂ ﹁はぁ∼⋮⋮なるほど﹂ ﹁こういうのも面白いだろ?﹂ ﹁はい!﹂ 241 シャムははにかむように笑った。 ﹁それじゃ、そろそろ戻るか﹂ ﹁そうですね。寒くなってきました﹂ そろそろ食事もできているだろう。 遠くには、門を警備する兵が、夜勤と交代しているのが見えた。 242 第017話 ユーティリティ 十歳の誕生日が過ぎると、約束の騎士院の入学式が近づき、入学 試験があるわけでもないのに、ここが正念場とばかりに、俺はしご かれていた。 それはさておき、ルークの話をしよう。 サツキはルークの生活は変わらないと言ったが、結局、ルークの 生活は激変した。 全てをほっぽり投げてしまえば、確かに昔のままの牧場経営を続 けることも可能だったのだろうが、責任感の強いルークはそうもい かなかったようだ。 今では仕事の殆どを他の人間に任せてしまって、自分は将家の当 主としての仕事を一生懸命やっている。 配下の騎士たちと会い、話をして、適切なポストを宛てがい、騎 士団を再構築しているようだ。 それでも牧場経営はやめるつもりがないらしく、副業のような形 で続けてはいる。 だが、牧場にいくときはマイ王鷲で通勤している。 ルークは、牧場主ながら自分の鷲というのを持っていなかった。 必要なときは調教ついでに、未熟な売り物の鷲に乗っていたし、 鷲を維持するには金がかかるから、売り物でもない鷲をカゴに飼っ ておくのは無駄でしかなかったのだ。 243 だが、今となってはそうもいかないから、ついに人生で初めて自 分だけの王鷲というのを飼うことになった。 スズヤは案外と普通に適応しているように見える。 侍女と上手いこと関係を構築して、ガーデニングをやったり料理 をやったりしながらマイペースに生きていた。 元からマイペースな性格なのが幸いしているのかもしれない。 社交界においては、スズヤは体が弱く、なかなか催しに参加でき ないということになっている。 苦心の末産み出された病弱設定である。 もちろん、スズヤの代わりにサツキが参加するための方便だ。 これによって、どうしても参加しなければならない重要な催し以 外、無理して参加しなくてもよくなり、だいぶ負担が軽減された。 *** ﹁悪いが、明日は牧場には行かなくなった﹂ ある日、夕食の場でルークにそう言われた。 これはさほど珍しいことではない。 ルークの予定は一ヶ月ほど先まで埋まっているので、あんまり突 然の予定変更というのはないのだが、それでも親戚の爺婆が死ぬ時 期までは予想できないので、主に葬式などが突然の予定として現れ る。 244 とはいえ、残念なことだった。 俺にとって、今や牧場での単純労働やトリの練習は、最も楽しい エンターテイメントと化していたからだ。 ﹁また誰かの葬式ですか?﹂ ﹁いや、違う﹂ 違うらしい。 ﹁じゃあなんですか?﹂ ﹁疫病が流行った。南の町だ﹂ 疫病。 剣呑な響きだ。 ﹁浮痘病らしい﹂ なるほど。 聞いたことあるよ、それ。 ﹁行かないほうが良いのでは?﹂ と俺が言うと、 ﹁そんなわけにいかないだろ。領民が困っている時に﹂ と言われた。 ﹁ですが、伝染ったら困るでしょう﹂ ﹁ユーリは心配性だな。そんな簡単に伝染らないよ﹂ どうだか。 経験則に照らし合わせて言っているのならまだいいが、どのみち 245 科学的な根拠のない判断だろう。 ﹁じゃあ、僕も行きます﹂ ﹁えっ、ユーリも行くのか﹂ ﹁そんな簡単には伝染らないのでしたら、いいでしょう﹂ ﹁だが⋮⋮﹂ 渋っている。 ﹁浮痘病というのがどのようなものか、一度見てみたいですし。お 願いします﹂ ﹁わかった。だが、俺の言うとおりにしろよ﹂ それは、俺のセリフだ。 *** 翌日、朝はやくから王鷲に乗って出かけた。 最近は、巡航飛行のときは、練習がてらに手綱を握らせてもらっ ている。 ホウ家の領地は広大だ。 100kmほど移動することになるようだったが、これがなかな か難しい。 この世界にはGPSなんてもちろんあるわけがなく、それどころ かまともな地図や、空中で使えるコンパスもないのだ。 だから、地上の地形を見ながら勘で飛ぶことになる。 246 つまり、地上の地形を事細かに覚えていないと目的地に辿りつけ ない。 ボーっとしながら飛行していればたちまち迷子ということだ。 一時間くらい飛んだろうか。 なんとか、目的の都市につくことができた。 都市はいいランドマークになるため、地形は基本的に都市を起点 にして覚える。 主要都市と主要都市を繋ぐ直線の地形を覚えていれば、だいたい 問題はないらしい。 航空路みたいなもんだな。 都市からは道が解らないのでルークに手綱を渡した。 ルークは西のほうに進路をとって、しばらく飛ばしていた。 そのうち、黒々とした煙が空に上っているのが見えた。 狼煙だ。 ルークに手綱を返すと、鷲はそこ目掛けて降下していった。 *** 浮痘病というのは、ものの本によると、昔からある病気で、まだ シャンティラ大皇国があったころ、クラ人の国からもたらされた病 気であるらしい。 一度かかれば有効な治療法は存在せず、まあ半々の確率で死ぬ。 俺が持っている知識といえばその程度だった。 247 浮痘病が流行っているという村落に入る前に、俺はルークに手ぬ ぐいのような長い布を三枚ほど渡した。 ﹁どうぞ﹂ と俺が言うと、 ﹁なんだ?﹂ と不可思議そうに言われた。 ﹁口と鼻を覆ってください﹂ 俺は自分の口と鼻を手ぬぐいで隠した。 息苦しくなるが、呼吸はできる。 ﹁なんでだ?﹂ ﹁病気予防のために決まってるじゃないですか﹂ 自分で言って、しまったと思った。 この世界ではそんな常識は通用しないのだ。 病原菌やウイルスの存在なんか知らず、病気を祟りだの地面から 吹き出した毒だののせいとか考えているのだ。 一応は伝染るものとは考えているようだが、認識としてはその程 度だ。 どう説明したらいいものか。 ﹁ともかく、これで病気が移る可能性を大幅に少なくすることがで きるんです﹂ ﹁でもなぁ、これじゃかっこ悪いぞ﹂ 嫌がってる。 248 領主としての体面もあるのだろう。 おい領主様、あんなふうにマスクして病気にビビっちゃってんぞ。 やっぱ一般出は駄目だな。 こんなかんじか。 ﹁お父さんが病気を持って帰ったら、看病するお母さんにも伝染っ てしまうかもしれないし、サツキおばさんにも僕にも伝染る可能性 があるんですよ。そうしたら一家全滅でホウ家はおしまいですよ。 そういう危険を犯すほうがかっこ悪いと思いますけど﹂ 俺が真剣にそう言って諭すと、 ﹁わ、わかったよ⋮⋮つけるよ⋮⋮﹂ と、ルークは不承不承擬似マスクを装着した。 よかったよかった。 *** そうして、俺たちは徒歩で村落の中に入った。 ﹁ここには、世話をしてくれる人がいない病人が入っています﹂ 案内人が説明をした建物は、どうも町の宴会場というか、集会場 のような建物だった。 ドアを開けてくれる。 中に入ると、むわっとした異臭がたちこめていた。 249 ベッドとも言えないような、麻袋をひいただけの寝場所に横たわ った病人たちを見た瞬間、俺は目を覆いたくなった。 彼らの顔や腕には、指先ほどの液疱がみっしりと広がっていたの だ。 おそらく体のほうにも広がっているのだろう。 その程度は患者によってまちまちだが、状態が酷い患者になると、 顔から腕がびっしりと水疱に覆われていて、健常な皮膚を見つける ほうが難しい有り様だった。 彼らは一様にして高熱にうなされているようだ。 これ、ヤバいやつだ。 皮膚をかいてしまって顔中が血まみれになっている患者も散見さ れる。 ﹁お父さん、絶対に病人に触らないでくださいね﹂ さすがに病人に聞こえてはまずいので、小声で言う。 欲を言えば、ルークを今すぐこの建物から出て行かせたいくらい だった。 ﹁解ってるよ﹂ ルークは心外だというふうに言った。 さすがに、病人に触れたら病気が伝染るくらいのことは知ってい るのだろう。 250 ﹁しかし、酷いな⋮⋮﹂ ルークはしげしげと病人を観察しながら、部屋を一回り見て戻っ てきた。 見てるこっちは気が気じゃない。 研ぎから戻ってきたばかりの短刀を赤ん坊が無邪気にいじってい るのを見ているような気分だった。 ひと通り見終わり、帰ってきたのを見ると、ルークの手を持って ひっぱった。 ﹁お、おい。ちょっと待てよ﹂ 力いっぱい引っ張って、出口へ誘導した。 ﹁ドアを開けてください﹂ 俺が言うと、案内人さんは若干不信そうな顔をした。 そんなに急いでるなら自分で開ければいいのに、とでも言いたげ だ。 そんなことできるわけがなかった。 このドアノブにはべったりと液疱の中の膿が付着しているはずだ。 俺からしてみれば、猛毒が付着しているようなものだった。 ﹁早く開けてください﹂ もう一度言うと、案内人さんはドアを開けてくれた。 急いで小屋の外に出る。 ﹁一体、どうしたんだ﹂ ﹁あの部屋に居たら、お父さんは同じ病気になりますよ﹂ 251 ﹁大げさな﹂ ルークは困った息子を見るような眼差しを俺に向けた。 ﹁大げさでもなんでもありません﹂ 俺はあの病気に心当たりがあった。 あまりにも天然痘に似ている。 天然痘は天然痘ウイルスによって引き起こされる病気だ。 感染から半月ほどの潜伏期間を経て発病し、ああいう風に体中に 膿を内包した水疱が浮き上がる。 それは体表面だけのことではなく、内臓にも同様の症状が現れ、 内から外から炎症を起こしはじめる。 そうして四〇度近い高熱に見まわれ、それが数日続く。 その間に体力が持たなかったものから死んでいく。 数日で抗体ができ、体内からウイルスを駆逐できるのが幸いなと ころで、だから致死率は四割程度に収まるが、四割というのは十分 に高い致死率だ。 四割というのは平均の値だから、例えば凶作などで食うものが減 り、住民の体力が衰えているようなコミュニティで流行れば、もっ と死亡率は上がる。 これは人間の話だから、シャン人だともっと酷いかもしれない。 天然痘が厄介なのは、非常に感染力が強いことに加え、その症状 にある。 体中に膿を内包した水疱ができるので、そこから出た膿や皮膚の 一部が、周囲に付着してしまうのだ。 もちろん、それらには天然痘ウイルスがたっぷり含まれていて、 252 感染性がある。 さらに厄介なことに、天然痘ウイルスは非常に丈夫で、体外に出 た途端すぐ不活性化するHIVなどと違い、皮膚片などのなかで生 きながらえ、一年近く不活性化しない。 そうして、膿や皮膚組織の一部が人の手や靴の裏、服の繊維など に付着し、どんどん感染を拡大してゆく。 様々な特徴が合わさって、感染力と致死率の高い、非常に厄介な 病気になっているのだ。 ﹁わかった。わかったよ。何をすればいいんだ?﹂ ﹁今すぐ屋敷に帰りましょう﹂ と俺が言うと、 ﹁それはできない﹂ といわれた。 は? ﹁俺にも領主としての務めがある。ここの住民を救ってやらなきゃ ならないんだ。病気が怖いからって、逃げ出してなにもしないって わけにはいかないだろう﹂ まったく、もっともなことである。 俺はため息をつきたくなった。 ﹁じゃあ、何をするんですか﹂ ﹁そりゃ、周囲から人を集めて、蔵を開いて食料を出して⋮⋮﹂ ﹁食料を出すのはいいですが、人を集めたら病気を拡散させるだけ 253 ですよ。領主の仕事は、ここにいる百人を助けて千人を病人にする ことじゃなく、病人を百人に留めることでしょう﹂ ﹁それは確かにそうかもしれん。だが、それなら、どうするってい うんだ? ここにいる連中は死ぬまで待つっていうのか。それは、 領主として⋮⋮﹂ へんなところで真面目な男である。 ﹁話を聞いてください。ここに人を集めるにしても、感染しないよ うにすればいいんです。人を一定期間この病気に感染しない体質に する方法があります﹂ ﹁⋮⋮なに?﹂ ﹁この村で雌牛を飼っている農家にいってみましょう。たくさん牛 乳を出して、村に分けているような農家がいいです﹂ ﹁なんだ、帰りたいんじゃなかったのか﹂ ﹁帰ってから人をやって確認させるのが一番だと思いますが、すぐ 済むことですので行ってもいいでしょう﹂ 考えてみれば、もし感染してしまっているとしても、すぐにワク チンを打てばまだ間に合う。 天然痘ウイルスが体内で増殖するより先に抗体ができて、症状が 顕在化しないためだ。 ﹁わかった。じゃあ行ってみるか﹂ *** 254 案内人さんに聞いた農家に辿り着いてみると、案の定、彼らはま ったく普通に生活していた。 その家庭には、感染を怖がってはいるものの、一人も天然痘患者 は発生していなかった。 礼を言って辞去した。 ﹁やっぱり、元気ですね﹂ ﹁偶然じゃないのか?﹂ 懐疑的だ。 ﹁違いますよ。この家の人たちは皆、感染しない体質なんです。み んなで乳を絞っているんでしょうね﹂ ﹁どういうことだ?﹂ ﹁なんというか⋮⋮牛がかかる病気で浮痘病と同じようなものがあ るんですよ。牛が浮痘病と同じような症状になるんです。といって も、症状は乳の周りに水疱が幾つか出来る程度です。牛が死ぬこと はありません。それで、その病気は牛から人に伝染するのですが、 伝染しても症状が軽く、水疱が一個二個できて、もしかすると体が 少しだるくなる程度で、日常生活に差し支えはありません。この人 たちは、病気にかかった牛を乳搾りしてる間に、病気をうつされた んです﹂ ﹁⋮⋮わけがわからないんだが、それがなんで病気にならない理由 になるんだ?﹂ ﹁それは⋮⋮まあ、言ってみれば、同じような敵と戦った経験が体 にあるから、致命的な病気にかかっても負けないってことですかね。 槍の達人と戦うにしても、前もってもっと弱い同じ流派の人間と戦 った経験があれば、有利に進められますよね。それと同じです﹂ 255 本当はぜんぜん違うんだが、そういう例えをしたほうが、ルーク には分かりやすいだろう。 牛がかかるその病気を日本では牛痘という。 牛痘を使った種痘は天然痘の予防法として早期に確立された手法 だ。 牛痘というのは天然痘の近縁種のウイルスで、人間にも感染する がほとんど害がない。 天然痘に対する原始的なワクチンを種痘というが、それは簡単に いえば天然痘の弱毒種である牛痘に感染して免疫を作るもので、つ まりは予防接種である。 天然痘は凶悪な伝染病だが、HIVやインフルエンザと違い、予 防接種が非常に効果的な病気だ。 予防接種で免疫がつけば、免疫が切れるまでは天然痘にかかるこ とは絶対にないし、発生しても、周辺住民全員に予防接種をするこ とで、感染を最小限で食い止められる。 ﹁やっぱり、わけがわからん。そんな話は聞いたことがない﹂ ﹁そうなんですか。でも、そういう話があるんです﹂ ﹁つまりは、何すればいいんだ?﹂ ﹁乳に水疱がある牛をどこかから探して、その牛の水疱を針かなに かでつついて潰します。そして、人の腕かどこかに内容物を塗布し て、その上から少し血が出る程度の傷をつけます。うまく病気に伝 染されれば、何か反応がでます。それで終わりです﹂ ﹁そうか⋮⋮まあ、わかった。ユーリがそこまでいうなら、やって 256 みるか﹂ ようやく重い腰をあげてくれたようだ。 重い腰というが、十歳児に唐突にそんなことを言われて、実行し ようと思う大人がどれだけいるだろうか。 ルークも俺を常日頃から信頼していなかったら一笑に付していた に違いない。 信頼していても、物分かりのいい大人でなかったら、従ってはく れなかっただろう。 ルークには感謝だな。 ﹁じゃあ、今日のところは帰りましょう﹂ *** 王鷲に乗って屋敷に戻ると、俺は人を遠ざけて靴や服を全部脱が せて行李に入れ、蒸留酒で露出していた顔や手を洗い、水浴びをし て新しい服を着た。 ルークもかなり苦笑いしていたが付き合ってくれた。 なんだか今回のことでだいぶ株が落ちた気がするが、仕方がない。 行李は倉庫の奥深くにしまい、二年以上は隔離しておくことにな った。 その二日後には牛痘感染の牛が発見され、あの村落のまだ病気に かかっていない住民全員に種痘接種が施され、村落は感染が落ち着 257 くまで隔離されることになった。 大丈夫だとは思うが、ルークも俺も発症してからでは遅いので、 種痘接種を行った。 四日目のことだから、大丈夫なはずだ。 もし発症しても症状はかなり抑えられる。 種痘に関しては、効果については不安があったが、接種した人は 殆ど感染を免れたというから、やはり想定通りの効果があったのだ ろう。 極小数ながら感染してしまった人々は、恐らく種痘接種を失敗し たのだ。 やっぱり天然痘だったか、と、少し大掛かりになってしまった種 痘プロジェクトが成功したことに安堵しつつ、薄ら寒さを感じるの であった。 258 第018話 入学試験 十歳になった俺は、騎士院とやらに入学することになった。 今日からは王都での暮らしに移る。 鬱だ。 この世界に来てから一番楽しかったのは、なんだかんだで一歳か ら七歳までの間だった気がする。 それからは、歴史を覚えさせられ、国語を覚えさせられ、それが 終われば古代シャン語を覚えさせられ、最後の一つは結局ものにな らなかったが、ろくなことがなかった。 ソイムにはぶっ叩かれるし。 とはいえ、数日前にソイムの手から家伝の短刀を手渡された時は、 思わず感動し、三年間の修行の日々を思い、涙が出た。 *** 王都にはホウ家の別邸があり、入学式を控えて家族みんなでここ に来ると、その日はなにもせずに泊まった。 そして今日は入学試験である。 入学試験といっても結果が悪ければ入れないという質のものでは 259 なく、クラス分けテストの類であるらしい。 この国には小学校があるわけではない。 十歳までは教育は各自の家庭で任される。 なので、学力にバラつきがあるのだろう。 最下級のクラスに振られたら文字の書き方教室みたいのが始まる のかもしれない。 サツキの教育とは逆の意味で、一年間そんなところに閉じ込めら れるのは拷問でしかないので、ここは頑張らなくてはならない。 そして、朝。 ﹁いいですよぉ、こなくても。一人で行けますから﹂ 俺は懸命に両親をなだめていた。 ﹁何を言ってるんだ、親はついて行く決まりなんだよ。他の子たち も親子連れでくるんだから恥ずかしがらなくていいんだ﹂ ホウ家が持っている馬車を出すというから一人で行くのかと思っ たらこれである。 なんなんだろう。 侍女さんに騎士院の制服らしきものを着せられたかと思ったら、 両親まで正装していて、俺についてくるつもりらしい。 両親が正装してクラス分けテストについてくるって。 どういうことなの。 260 ﹁ホントですか?﹂ ﹁嘘いってどうするんだ﹂ マジなのかよこれ⋮⋮。 勘弁してよ⋮⋮。 ﹁ユーリは私が行ったら恥ずかしいかしら⋮⋮﹂ スズヤはそんなことを言ってしゅんとしている。 スズヤの悲しげな顔を見てると、俺まで悲しくなってくるから不 思議だ。 俺は慌てて、 ﹁そんなことはないですよ。僕の自慢のお母さんですから﹂ とフォローを入れた。 ﹁じゃあ、なんで一人でいくなんて言うの?﹂ ﹁こんなことでお父さんお母さんを煩わせることもないかと思って ⋮⋮ただの試験ですから﹂ ﹁息子の晴れの舞台を見るのを煩わしいなんて思うわけがないでし ょう?﹂ スズヤは俺をじっと見つめている。 こんな目で見られると、俺が間違っていたと思ってしまう。 これが母は強しってやつか⋮⋮。 ﹁ごめんなさい。僕が間違ってました。今日はよろしくお願いしま す﹂ こうなったらもう折れるしかない。 俺は折れた。 261 ﹁はい、よろしい。ちゃんと応援しますからね﹂ こんなお母さんにそんなことを言われたら、息子は頑張らない訳 にはいかない。 がんばろう。はぁ。 そうして、親子三人で馬車に乗り込み、走りだした。 思えば、王都で馬車なんぞに乗るのは初めてだ。 そのまま三十分ほど走ると、やたら大きな施設にぶち当たった。 ずーーーっと壁が続いていて、途切れるところがない。 案の定そこが騎士院だったようで、馬車は壁の途中で曲がって大 きな門のようなところに入っていった。 ルークに聞いた話によると、ここは騎士院には違いにないのだが、 全部が騎士院というわけではないらしい。 この施設の中には騎士院と教養院という二つの施設が混在してい る。 全部をひっくるめて﹃学院﹄というらしく、つまりさっき通った 大きな門は学院の正門ということになるのだろう。 騎士院には主に男が、教養院には主に女が入る。 ルークの在院中には同級生に女は一人もいなかったそうだが、教 養院には男がけっこういるそうだ。 では教養院というのはなんなのかというと、騎士ではなく魔女と いう不思議な身分の人々が入るらしい。 こいつらは、つまりは王に仕える官僚である。 幕府でいえば将軍家直轄の旗本や御家人のようなものだが、魔女 262 というのは戦う役柄ではなく、純粋に事務というか役人の仕事をし ているらしい。 教養院には主に魔女家の女、魔女家の男、騎士家の女が入る。 騎士院には主に騎士家の男、魔女家の男、極稀に魔女家の女が入 る。 こういう仕組みになっているようだ。 魔女家の女と騎士家の男は、これはもう明々白々に官僚と軍人に なるのだが、その他がちょっとややこしい。 魔女家の男というのは、腕っ節があれば王の軍である近衛や将家 の騎士団に入れる。 頭が良ければ、出世には不利で大臣級には絶対になれないが、官 僚にもなれる。 立場的には宙ぶらりんでどっちに転んでも出世には不利なのだが、 比較的自由で強制されない人生を送れる。 実家にはあまり期待されないので、場合によっちゃ家を捨てて商 人になったり、農家になったりもするようだ。 騎士家の女というのは、よほど頭脳明晰なら官僚コースにもいけ るが、普通は他の騎士家の嫁になる。 教養院に行くのはよほど良家の娘であって、ここには純粋に教養 を積む目的で行く。 サツキがこれにあたる。 稀なのは騎士院に入る魔女家の女で、これは少数だが栄達の道が 用意されているらしい。 263 彼女らがなにになるかというと、近衛軍の将校になる。 セブンウィッチズ 騎士家の軍には女性は完全に一人もいないが、近衛軍は騎士たち とは切り離された七大魔女家と王家が金払って維持している軍団な ので、最高司令官は女王で、将軍クラスは全て女性である。 とはいえ、女の子で棒きれ振り回して将来は軍に入りたいという 人材は少ないので、近衛軍の大部分は男性で構成されているのだが、 彼らは女性の尻に敷かれているわけだ。 ルークの親友に当たるというガッラがこれだ。 ガッラはめちゃくちゃ出世して、ようやく近衛軍の一軍団の副長 という役目についたが、通常はそれで出世終了らしい。 もう上には上がれない。 あとは軍団長や、総軍団長のシリに敷かれる将来が待っているだ けだ。 *** ちなみに教養院のテストは、昨日実施されたらしい。 正門から中に入っていくと、既に馬車が連なっていた。 大人がいっぱい居る。 確かに、ルークが言っていたのは真実で、これは父兄参加型のク ラス分けテストらしい。 どうなってんだよこの国は。 馬車の群れの中にホウ家の馬車が入ってゆくと、なんか大人たち 264 の目線がこっちに集中した気がした。 馬車が奥詰まりまで行って停まり、御者が降りて客車のドアを開 ける。 一家三人が地面に降り立つと、明らかに声が止んで耳目が集まっ ている気配がした。 なんなんだ、こいつら。 やっぱりホウ家の威光は絶大なのか、それとも牧場主上がりの非 騎士のルークについて変な評判でも立っているのか。 なんだか悪目立ちという感じがする。 どちらにしろ、これから先のことを考えると頭痛がしそうだ。 ルークは、なんだかんだでここ三年で慣れたのか、気圧されもせ ずに平気な顔をしてスズヤをエスコートして、建物に向かってゆく。 俺もその後ろについていった。 なにやら大学の校舎のような、立派なレンガ造りの建物の中に入 って行くと、大企業の受け付けみたいな場所があり、そこには受付 嬢みたいな人が座っていた。 ﹁ルーク・ホウだ。こっちは息子のユーリ﹂ かかり ルークが受付嬢にそう言うと、 ﹁承りました。すぐ係の者が試験会場に案内します。ルーク様、ス ズヤ様は父兄控室でお待ちください﹂ なんだ、スズヤまで名前を覚えられてんのか。 たいしたもんだなおい。 ﹁では、私がご案内させて頂きます﹂ 265 ほぼノータイムで、なんだか美人のお姉さんがやってきた。 案内人がついてくれるらしい。 ここで両親とはしばしのお別れである。 ﹁頑張るんだぞ、ユーリ﹂ ﹁応援していますよ﹂ ルークとスズヤはニコニコ笑顔でバイバイと手を振っていた。 大学受験じゃないんだからもう⋮⋮。 お姉さんについて、試験会場となる部屋に入った。 すぐに、様子が変なことに気付く。 そこにいる連中は、当たり前だが俺と同じような年齢の子が多か った。 変なのは、テストが既に始まっていることだ。 二、三十人いる子どもたちは、大学の講義室にあるみたいな長机 に座って、手元の木の板に向かってなんだか書いていたり、頭を捻 ったりしている。 揃いも揃って超真剣に落書きに興じているのでなければ、こいつ らは皆テストをしているということになる。 その横には一人づつ、男だったり女だったりする職員のような人 がついている。 もうテストが終わったのか、記入を終えた板を前の方に提出し、 部屋から退出する子どももいる。 どうなってんだ。 一斉に始めなきゃ条件的に平等にならないじゃん。 266 時間制限がないのか? それにしたって、後から来た人間に問題が漏れる危険を考えれば、 全員を閉じ込めて一斉に開始するのが普通だろう。 そんなんでいいのか。 なんだか訳が分からないまま、俺も適当なところに座らされて、 木の板を机の上に置かれて、インク壺と羽根ペンが添えられた。 木の板には名前をかくところもなく、白っぽい木肌の板に問題だ けが書いてある。 もちろん、問題は印刷ではなく肉筆で書いてある。 羊皮紙ももったいないってか。 問題は十問しかない。 和訳するとこんな感じだ。 問1:我が国の名前を答えよ。 問2:隣国の名前を答えよ。 問3:12×3はいくつか。 問4:上を北として東西南北を書き込め。 問5:女王の名前を答えよ。 以下の文章を読んで問に答えよ。 クロはおおきな槍をもっていましたが、その槍は盗まれてしまい ました。 盗まれた槍はうられてしまい、シロはたくさんのお金をもらいま した。 シロはそのお金でびょうきのアオにくすりをかってあげました。 267 クロはシロをみつけだすと、こぶしでなぐりつけました。 クロはアオのすがたをみると、シロをゆるしました。 問6:クロの槍を盗んだのは誰か。 問7:シロはなぜお金が欲しかったのか。 問8:クロはなぜシロを殴ったのか。 問9:クロはなぜシロを許したのか。 問10:クロ、シロ、アオを漢字で書きなさい。 こんな感じだった。 いくらなんでも簡単すぎだろ。 俺が三年やってきた勉強はなんだったんだ。 大学入試試験のような勉強をさせておいて、本番がこれじゃ肩透 かし通り過ぎて怒りが湧いてくるぞ。 あのババア。 なんだかひどく虚しい気分になりながら、さらさらと問題を解き ﹁終わりました﹂と言った。 時間にして五分もかからなかったろうか。 ﹁もうですか?﹂ 案内人さんは俺の木の板を覗いて、回答が揃っているのを確認し た。 ﹁あっはい。では、ついてきてください﹂ そうして、前の方に連れて行かれる。 そこには、なんだか先生っぽい年かさの女性がいた。 ﹁名前を言って提出しなさい﹂ 268 ﹁ユーリ・ホウです。回答終わりました﹂ その老先生はちらと木板を見ると、マルバツも付けずに﹁一の部 屋に連れて行きなさい﹂と言った。 隣の筆記役と思しき人がすかさず筆を動かし、ユーリ・ホウ・一、 と書いているのが見えた。 なんだこりゃ。 ﹁ついてきてください﹂ 俺はわけがわからず、案内の女性に伴われて、その部屋を出て行 った。 *** 俺は連れられるままに歩いて、とある部屋に入った。 その部屋は先の部屋よりだいぶ狭い部屋で、既に五人ほど他に子 どもが居た。 ﹁では、ここでお待ちください﹂ 案内人さんは、一仕事終わったとでもいうかのように、俺に向か って丁寧に頭を下げた。 そして踵を返して、先ほど入ってきたドアに向かって一歩二歩と 進んでいく。 俺をここに置いて帰る構えらしい。 269 わけがわからん。 ﹁ちょっとまってください。なんですか? ここは﹂ 俺が背中に問いかけると、案内人さんは振り返って首を傾げた。 ﹁試験会場ですが?﹂ ???? 試験ならさっきやったじゃん。 ﹁お言葉ですが、試験は先ほど終えたのでは﹂ 俺がそう言うと、案内人さんは意を得たりと納得した表情になっ た。 ﹁ああ、あれは、前段階試験といって、おおまかな試験です。これ からやるのが本当の試験なんですよ﹂ へ? あー⋮⋮。 そういうことか。 少し考えたら、なんだかストンと納得がいった。 学力に幅がありすぎるから、予め簡単なテストでおおまかに何個 かクラスを分けて、これからもう一度テストをするわけか。 だから木の板で、しかも一斉に開始しないでバラバラにやってた わけだ。 そんなテストに一々羊皮紙を使うのはもったいないから、済んだ 270 ら木の板を削って使いまわすんだろう。 案内人さんが、試験中隣で付きっきりで待っていたのも不思議だ ったが、それはあそこが単なる通過点だったからだ。 すぐ終わるのが当然だったってわけだ。 ﹁よく分かりました。すいません、仕組みがよく解っていなかった もので﹂ ﹁いえいえ﹂ 案内人さんはぺこりと会釈して、今度こそ部屋を出て行った。 なんだ。そういうことだったのか。 なーんだ。 でも、説明してくれなきゃ普通にあれが本試験だと思っちゃうだ ろ。 察するに、これはルークかだれかが事前に俺に説明しておくべき 事柄だったんじゃないのか。 あのやろう。 まあいい。試験が始まるのを待つか。 *** 待てど暮らせど本試験は始まらず、およそ三十分ほど待っても、 まだ始まらなかった。 考えてみれば、前段階試験が全員分終わらなければ、本試験は始 まらないのだ。 271 誰かが粘っているのか、それともルークが俺を会場に連れてくる のが早すぎたのか。 それから更に三十分ほど待たされたろうか。 部屋の子どもの数は、どんどん増えていった。 あのテストの内容であれば、満点をとれる子どもはそう珍しくな いのだろう。 だが、会場にいた人数を考えれば、ここにいる人数は少ない。 それを考えると、ここは十点中九点以上クラスとかではなく、満 点のみが選り分けられるクラスなのかもしれない。 部屋の子どもがお互いに打ち解けあってぺちゃくちゃと私語が始 まったころ、ようやく先生が現れた。 先生は一人の女の子を伴っていた。 俺と同年代くらいだ。 そいつは、目が覚めるような美しく整った顔立ちをした女の子だ った。 この国では珍しい、色の薄い金髪をしている。 考えてみれば、ここは言ってみれば北欧なので、金髪は珍しくな いイメージはある。 だが、金髪の人間というのは、実は俺はこの国で始めて見た。 もちろん、何十人かいる受験生たちにも、金髪なんてのは一人も 居ない。 俺からしてみれば、金髪碧眼の人間が﹁これでも先祖代々生粋の 日本人です﹂と言って出てきたのと同じような感覚であり、相当び 272 っくりした。 シャン人に金髪って存在したんだ。 物珍しさからジロジロと見る。 周りを見ると、周囲の子どもたちもジロジロ見ていた。 なんとなく怜悧な感じがして、親しみにくさを感じるな。 まあ、緊張で顔が強張っているせいで、そう感じさせるのかもし れない。 女の子は、すぐに俺よりずっと前の席に座って、こちらに背を向 けてしまった。 女の子だよな? ルークは女の子なんて騎士院にはいない。みたいなこと言ってな かったか。 ありゃ嘘か。 しかし、シャムと同じくらい可愛らしい顔をしていたが、なんだ かタイプが違うな。 シャムはよくみるとクリクリとした目をしていて、全体が小さく 丸くまとまっている感じで、さっきの娘とはだいぶ印象が違う。 シャムは仏頂面をやめれば誰からでも親しまれるような可愛らし い顔をしているが、そこの娘はニコニコ笑ってても気軽にお近づき になれそうな雰囲気にはならないだろう。 いや、わからんけどね。 まあ、とにもかくにも、この女の子が最後の生徒ということにな るか。 つーか、頼むからそうであってくれや。 273 ﹁では、用紙を配ります﹂ 先生が宣言し、一人ひとりに試験問題となる用紙を配り始めた。 やった。 ようやく始まる。 やがて、俺のところにも羊皮紙で出来た試験問題が配られてくる。 これを終わらせれば、とにもかくにも今日は帰れるってことだ。 さっさと終わらせよう。 試験用紙の表面に視線を滑らせる。 軽く内容を読むうち、目を丸くした。 おいおい。 最初の問題は、ホウ家の屋敷で読んだ、孫氏のまがい物みたいな 兵書に書いてあった戦略用語に関しての問いだった。 なんの説明もなく、これはどういう意味か、と書いてある。 当たり前だが兵書を読んでなければ答えようがない。 確かに有名な兵書ではあったらしいが、十歳で大人が読むような 小難しい兵書を読んでいる子どもが、いったいどれほどいるのだろ うか。 ルークもサツキもなにも言わなかったが、受験する前に読んでお くべき基礎文献とかいう扱いなのか? そうして、その次には、それを使った戦闘場面での動きに関する 記述問題もある。 本を読んでなかったらこの時点で二問不正解で、まあ百点満点で 274 二十点はマイナスだろう。 というか、十歳の子どもに記述問題はきついだろ。 その手の問題ばかりではなく、中には直角三角形が書いてあって、 隣辺二つの長さが書いてあって斜辺の長さを求める問題もあった。 これはピタゴラスの定理︵隣辺二つを二乗した和=斜辺の二乗︶ を知っていなければ解けないし、乗数に関しての初歩的な理解がな ければ解けるものではない。 まあこれは5、12、13の直角三角形だから平方根を使わなく てもいいようになってはいるようだが、やはり十歳には荷が重い問 題であろう。 地理系問題はシャンティラ大皇国が滅び、分裂したあとのすべて の国家名を書けというものだ。 これは、前段階試験でこの国と隣の国の名前を問われている。 なので、ここにいる子どもは、おそらく最低二つは覚えているは ずだが、全部で九あるので全部覚えている子どもは稀だろう。 さすがに古代シャン語の問題はないが、国語の文章問題は、かな り難しい部類の、九国家のうち真っ先に滅びたゴジョランという国 の、外交的失敗に関して分析する文章だった。 もちろん記述問題も含まれているが、こんなん書けるやつがいる のか。 ﹁この砂時計がおちるまでが時間です﹂ と、監督の先生が大きな砂時計を裏返した。 とりあえずやってみるか。 275 *** 全部で一時間くらいかかっただろうか。 なかなか手応えのある問題だった。 だが、なんだかんだで全問解けた。 というか、幾ら難しいと言っても十歳児向けの問題なのだから、 俺が解けなかったら恥ずかしい。 前を見てみると、砂時計は半分も減っていない。 すると、試験時間はトータル三時間くらいか。 試験用紙持って、迷惑にならないよう、できるだけ静かにそろー りそろりと前に進んでいった。 無言でペラリと試験用紙を差し出すと、 ﹁まだ時間は残っていますよ﹂ と、咎めるように小声で言ってきた。 ﹁あ、時間になるまで外出禁止なんでしょうか﹂ そんなことになったら涙目である。 あと二時間も、今度は音を立てないために身じろぎもしないで待 ってなきゃならないとか。 それはさすがに辛すぎる。 ﹁いいえ。退出は自由です﹂ なんだ。よかった。 ﹁なら、全部解けたと思うので、僕はもういいです﹂ 276 俺は試験用紙を提出すると、そそくさと部屋から出て行った。 *** 少し迷子になったが、来た道はおぼろげながら覚えていたので、 途中まで戻り、運良く見つけた職員に道を尋ね、なんとか父兄の控 室に到達することができた。 中に入ってみると、少し酒臭い空気が鼻についた。 なにが控室だ。大パーティーホールじゃねーか。 パーティーホールとしか思えない大広間には、料理が並べられて いて、立食会みたいなものが催されていた。 酒のたぐいも存分に振るまわれている。 そりゃ、父兄参加って言うはずだよ。 裏でこんなことやってたんかい。 子どもたちが頑張っているときに、親は酒をかっくらって大宴会 とは。 大宴会というより社交パーティーといった趣ではあるけどさ。 大人からしてみりゃ、父兄の懇談会なんだと主張するんだろうが、 子どもからしてみりゃ呆れた話だ。 しばらく歩きまわると、やっとルークを見つけることができた。 俺が見つけたとき、ルークは心底呆れたことに、親友のガッラと 小さな丸テーブルを囲み、腕相撲をしていた。 277 子どもかこいつ。 顔がちょっと赤くなっていて酔っ払っていることが解る。 酔っ払って興に乗って昔馴染みと腕相撲勝負とか。 呆れた親である。 スズヤは斜め後ろに付き添うように、平静を装ってニコニコ微笑 んでいるが、あんまり取り繕えていない。 いつもならルークの頭をひっぱたきでもしているところだが、フ ォーマルな場なのでどうしたらいいかわかんない。みたいな感じだ。 スズヤは、口元で微笑みを作ってはいるが目は笑っていないので、 ルークに怒っていることは明々白々である。 周囲にわからないように尻でもつねってやればいいのに。 ﹁父上、なにをしてるんですか⋮⋮﹂ 思いのほか呆れ返ったような声が出てきた。 ﹁んっ!? ああっ、ユーリか。これは⋮⋮﹂ 俺の顔を見た瞬間、気が抜けてしまったようで、ルークは一気に 競り負けて腕相撲に負けた。 バスンと手の甲がテーブルに打ち付けられる。 ﹁いってぇ﹂痛そうに手をパタパタと振る。﹁ったく、手加減しろ よな﹂ ﹁気を抜くほうが悪い﹂ ガッラはニヤリと笑った。 ﹁ユーリ、どうしたんだ、試験は﹂ ﹁終わりましたよ﹂ 278 見てみれば、ホールの中にいるのは大人ばかりで子どもは一人も いない。 宴会も真っ最中のようだし、早めにテストを終えて抜け出してく る子どもというのは少ないのかもしれない。 ﹁まだ二時間くらいあるだろ﹂ ﹁まだ二時間もあるから抜けてきたんじゃないですか﹂ ﹁⋮⋮ちゃんとやったんだろうな?﹂ なんだか心配そうだ。 失敬な。 ﹁確実に満点だったとは言えませんが、それなりにやりましたから、 大丈夫ですって﹂ ﹁そうか。ま、それならいいんだが⋮⋮﹂ それなら時間いっぱいまで粘ってこなきゃだめだろ、とか言われ るかと思ったが、頭脳については信頼があるのか、ルークはなにも 言ってこなかった。 ﹁久しぶりだな、ユーリ君﹂ ガッラが声をかけてきた。 俺も前にあったときと比べると背がだいぶ伸びているはずだが、 ガッラの体格はなおデカい。 ﹁お久しぶりです、ガッラさん﹂ ぺこりと頭を下げる。 ﹁もう全問解いたのかい?﹂ 気のいい口調で言ってくる。 279 ﹁ええ、まあ﹂ ﹁もしかしたら、俺の息子と同じクラスだったかもしれないな。見 なかったか?﹂ ﹁どうでしょうね。けっこう人がいたので、わかりませんでしたが﹂ ﹁そうか。まあ、会うことがあったら仲良くしてやってくれ。ユー リ君と違って、どうしようもない悪ガキだがな﹂ うっわー。 嫌すぎる。 この人、ちょっと正装じゃ包み隠せないほどガタイがいいし、悪 ガキがその体格を受け継いでたら、始末に負えないよ。 ﹁悪ガキですか。怖いですね、お友達になれるといいんですが﹂ 俺は心にもないことを言った。 ﹁あんまり悪さをするようだったらとっちめてくれていいぞ﹂ 声を大にしていいたい。 自分でやれ。 クソガキの調教を他人に任せるな。 ﹁息子さんのお名前はなんていうんですか﹂ ﹁ドッラ・ゴドウィンだ﹂ ドッラな。よし。 ガッラの息子でドッラ。 覚えやすい。 ﹁よく覚えておきます﹂ 280 絶対お近づきにならないようにしよう。 ﹁それじゃ、父上。帰りましょう﹂ ﹁えっ、帰るのか?﹂ 残念そうだ。 まだ飲んだり食ったりしてえってのか。 ﹁これから式典かなにかがあるんですか?﹂ ﹁いや、ないが﹂ ﹁じゃあ、帰りましょう。ほら、母上の具合も芳しくないご様子で すし﹂ ちらとスズヤをみると、芳しくないどころか若干ながら仁王立ち する仁王のような雰囲気を漂わせているが、まあいいだろう。 ﹁さすがに僕も少し疲れましたので﹂ ﹁そ、そうだな。じゃあ帰るか﹂ ﹁ガッラ、またな﹂ ﹁おう。お前も頑張れよ﹂ 二人は気さくに別れを言い合う。 ﹁それでは、お先に失礼させていただきますね﹂ ﹁さようなら、ガッラ様﹂ スズヤはスカートの裾を少し摘んで礼をする、一般的な女性礼を した。 やっぱり似合わない感じだな⋮⋮違和感がある⋮⋮。 281 その日はそのまま馬車に乗って帰った。 明日は入学式だ。 282 第019話 入学式 本日は入学式である。 昨日と同じ親子三人で馬車に乗る。 だが、なんだか昨日とは違う道を走っている。 ﹁なんか道が昨日と違いませんか﹂ ﹁⋮⋮言ってなかったか? 入学式は王城でやるんだぞ﹂ 聞いてなかった。 ﹁王城ということは女王陛下もいらっしゃるんですか﹂ ﹁当然だ。学院の入学生は将来のシヤルタを背負って立つんだから な﹂ ふーん。 まあ日本でも防衛大の入学式には総理大臣がきたりするしな。 そういうものなのかもしれん。 今日は入学式があるだけではなく、午後からは入寮式がある。 家が近い生徒は家から通ってもいいが、寮はちゃんと人数分ベッ ドが用意されているので、生徒は全員寮に入ることになっている。 寮を使うかどうかは自由らしい。 ﹁はぁ⋮⋮﹂ もうなんか鬱すぎて入学する前から登校拒否になりそうだった。 ﹁またため息か?﹂ 283 ルークが呆れた調子で言った。 聞かれてしまったか。 ﹁すいません﹂ ﹁いや⋮⋮しかし、意外だな。ユーリがそんなに嫌がるなんて。俺 はてっきり、王都に出られると大はしゃぎするもんだと思っていた が﹂ ﹁家族と離れるのは寂しいですよ﹂ 俺はルークやスズヤが純粋に好きなので、本当にそう思う。 日本にいた両親はアレだったので、こっちにきて初めて親の温か みというやつを知った気がするのだ。 ﹁それに、友達ができるとは限りませんし﹂ 同年代のガキとマブダチになれるとはとても思えん。 本当に同年代だったときも友達は多い方じゃなかったし、卒業し たら全員と縁が切れるような仲だった。 ﹁ユーリなら友達の一人や二人くらい簡単にできるさ。シャムちゃ んとも友達になれただろう﹂ ありゃ、シャムが天才だからだ。 あそこまで頭が良ければこちらも教える喜びもあろうってもんだ し、向こうもこちらを尊敬してくれるのだから、仲良くもできる。 だが、あんな子どもは二人といないだろう。 ﹁そうですかね⋮⋮﹂ 俺がなおも渋っていると、 ﹁ユーリ、寂しいのは解るけど、これはやらなくちゃいけないこと よ﹂ と、スズヤが声をかけてきた。 284 ﹁はい、お母さん﹂ 色よく返事をしておく。 ﹁頑張ってね。うっ、がんば、って⋮⋮﹂ スズヤは突然に涙を流し始めた。 えっ、お、お母さん? ﹁がんば、がんばるのよっ⋮⋮ひっく﹂ ﹁す、スズヤ? 別に今生の別れってわけじゃないんだから﹂ ルークが慌ててフォローをいれる。 ﹁でっでも⋮⋮すごじじか会えなくなるんでしょ⋮⋮﹂ 泣くほどショックなのか。 息子と会えなくなるのが。 ﹁まあ、たしかにそうだけど、別に監禁されるってわけじゃないん だから、会いたくなったらいつだって会えるさ⋮⋮いつだって王都 には連れてってやるし﹂ ﹁ほ、ほんと⋮⋮?﹂ ﹁本当に決まってるだろ? な、ユーリ﹂ ルークがちらちらと俺を見てくる。 お、おう。 ﹁本当ですよ、お母さん。僕だってお母さんに会えないのは寂しい です。もう少ししたら王鷲にだって乗れるようになるはずですから、 そしたらこっちから会いに行きますよ?﹂ ﹁よ、よがった⋮⋮ゆーり、辛かったらいつでも帰ってきていいん だからね。我慢なんてしないでね⋮⋮﹂ 285 くっ。 なんて優しいんだ。 こっちまで涙がでてきそうになる。 ﹁はい。辛くなったらすぐにお母さんに甘えに戻ります﹂ ﹁よかった⋮⋮ごめんね、駄目なお母さんで﹂ 駄目なお母さんなんて、そんなことがあるわけがない。 ﹁そんなことありませんよ。僕はお母さんのこと大好きですから﹂ *** 王城の島に入ると、大通りを抜け、城の前で馬車が止まった。 島自体が城塞なので、その上に城の周りに壁があるということは ない。 ふつうに、住宅街を抜けたら城があった。という感じだった。 日本の城のように、本丸に辿り着くまでの間に、曲輪のような軽 く粘れる防御地形が設置されているということも、全然ない。 城も、よく見れば、大人だったら手で割って入れるような位置に 窓があったりする。 低い位置に彫刻が据え付けてあったりして、それを手がかり足が かりにすれば簡単に外壁を登れてしまいそうだ。 今は開け放たれている正門も、見た目は綺麗だが、鉄板と鋲で補 強されているわけではなかった。 286 これでは敵軍に寄せられたらひとたまりもないだろう。 どこからでも入ってきてくださいという感じになりそうだ。 これでは、城というよりまるで宮殿だ。 宮殿ならこんなに背を高くしたら居住性が悪化して不便だ。 ふつう、宮殿というのは防衛より住みやすさを優先しているから、 四角く平べったい形をしている。 ランドマークとしての機能を求めてこんな設計にしたのだろうか。 確かに美しいし、首都の象徴にもなっている建物だから、その目 論見は成功している。 城の中に入っていく。 まるで江戸城に出勤する幕臣みたいな気分だな。 大きな門をくぐったところで、略式の礼服を着た美人のお姉さん に呼び止められた。 ﹁失礼いたします。ホウ家の皆様でいらっしゃいますか?﹂ ﹁そうだが﹂ とルークが返事した。 ﹁少しお子様をお借りしたいのですが﹂ ???? なに? 人攫い? この人。 ﹁なぜだ?﹂ ﹁お耳を貸していただいてよろしいでしょうか﹂ 287 美人のお姉さんはルークの耳元に口を寄せると、何事かを囁いた。 浮気に関しては一家言あるスズヤの目がちょっと険しくなる。 ﹁えっ、ホントか?﹂ ﹁はい。つきましては⋮⋮﹂ ﹁わかっている。ユーリ、この人について行きなさい﹂ ???? キッドナッピングされろと? ﹁なんで⋮⋮﹂ ﹁大丈夫だから、ともかく急ぎなさい。どっちみち、父兄と生徒と じゃ別の席なんだ。この人が案内してくれる﹂ ﹁ふーん、分かりましたけど﹂ そう言われちゃ、ついていく他はない。 *** 人混みから切り離されて誰もいない廊下を歩く。 何も話してくれないのでこっちは不安だ。 そして、なんだかよく分からん部屋に通された。 とんでもない名家の客間のような部屋だ。 ウチの最高の客間と同じくらい立派である。 ソファや絨毯、掛けてある絵、どれをとっても一級品という感じ 288 だった。 ﹁それでは、失礼させて頂きます﹂ 俺を案内し終わると、お姉さんは帰ってしまった。 中には女性二人と男性一人がいた。 夫婦かなにかなのか、男女の一組はお爺ちゃんお婆ちゃんだ。 もう一人の女性は⋮⋮昨日、本試験会場で見たパツキンの女の子 だった。 ﹁ユーリ・ホウですね﹂ ﹁はい﹂ ﹁座りなさい﹂ 婆さんが言った。 なんだこの人、俺を呼び捨てにするとはよっぽど偉い人なのかな。 ああ、学院の教師なのかもしれない。 ファイブブレ 俺は機嫌を損ねないように、言うとおり歩いてソファに座った。 ﹁私は教養院院長のイザボー・マルマセットです﹂ セブンウィッチズ ﹁儂は騎士院院長のラベロ・ルベじゃ﹂ なぁるほど。 イブス マルマセットは七大魔女家現在筆頭の家の名前で、ルベは五大将 家の中でも大きい家の名前だ。 ルベのほうは、いわばホウ家と同格の家柄なわけだが、領地が直 接キルヒナにくっついているので、俺の中では今話題のホットな土 地柄といった印象だった。 289 キルヒナが崩れたら次に蹂躙されるのはルベの土地であろう。 俺は受験勉強で十二の家の当主の名前を暗記したのでわかるが、 イザボーもラベロも当主ではない。 当主の弟妹か、もしくは叔父叔母などの近縁者なのだろう。 教養院の院長がマルマセットの家の者というのは、いかにもな感 じだ。 ﹁ユーリ・ホウです﹂ 一応名乗っておいた。 ﹁キャロル・フル・シャルトルだ﹂ 隣の女の子も名乗った。 ⋮⋮えっ。 シャルトルというのはシャンティラ大皇国の皇族の性だ。 もちろん、勝手に名乗ったりしたら、それは罪として罰せられる。 そして、フルというミドルネームがつけば、この国の王族の性に なる。 えっ、こいつってこの国の姫様? フルというのは古代シャン語で四という意味である。 シャンティラ大皇国の最後の女皇には十二人の女児がおり︵ほん とかよ︶、そのうち三人は戦乱で死んでしまったが、残り九人は生 き残り、それぞれ国を作って、それが崩壊後の九国になった。 その九人はミドルネームに生まれた順番を付けて、それを各々の 国の王族の姓にした。 つまり、シヤルタの王族は、四番目の王女の血族ということにな 290 る。 隣のキルヒナはトゥニ・シャルトルを名乗っており、こっちは十 二番目の末女の血族だ。 フル・シャルトルを名乗るということは、傍系は姓を変える決ま りなので、この子は女王直系の子どもだ。 マジかよ。 *** ﹁ユーリ、キャロル、あなたたちは主席入学者ということで、入学 式で特別な役目をやってもらいます﹂ ババアがわけのわからんことを言い出した。 気が遠くなった。 なぜそんな面倒なことをやらねばならんのだ。 入学式だけでも面倒くさいってのに。 こうじょう ﹁まだ式の開始まで一時間ほどあるので、その間に軽い予行練習を します。口上を覚えたり、失礼でない振る舞いを覚えたりと、いろ いろとやることがあるのでね﹂ ﹁ちょっと待ってください。殿下はともかく、なぜ僕が主席なんで すか?﹂ 血筋かなんかか? ﹁成績じゃ﹂ 291 爺さんが教えてくれた。 俺は諦めた。 成績じゃしょうがない。 そりゃあんな問題で満点近い点数をとったら主席にされてもおか しくはない。 今更後悔しても遅いが、適度に手を抜くべきだったのだ。 今更後悔しても遅いので、諦めるしかない。 ﹁でも、それなら、殿下が主席ならば僕は次席のはずでは﹂ この王女様は試験会場にきていたのだ。 騎士院の。 だとしたら、主席が二人というのはおかしい。 もしかして二人共同じ点数だったとか。 ﹁キャロル君は教養院の主席である﹂ へ? でも騎士院のテスト受けてたじゃん。 両方うけたってこと? 大学のすべり止めじゃあるまいし。 ﹁ユーリ君は騎士院の主席であり、キャロル君は教養院の主席であ る。以上じゃ。それと、君の学院生活のために言っておくが、質問 は質問してよろしいと言われたときのみしなさい。騎士院では怒ら れるぞい﹂ しかも説教された。 292 これ以上質問できる雰囲気ではない。 ぐぬぬ⋮⋮。 *** それから別の部屋に通されると、女の先生があらわれ、台本を渡 された。 ﹁覚えなさい﹂ ちょっと高圧的に言われる。 くっそー。 入りたくもない学校に入る前にこんな苦行を課せられるとは。 罰ゲームかよ。 なんも悪いことしてねーのに。 ﹁覚えました﹂ ものの五分もしないうちにキャロルは台本を返した。 すげぇ。 どんだけ記憶力いいんだよ。 そんで俺のほうをちらりとみて、 ﹁ふふん﹂ と小さな声で得意げに言った。 なんだ、可愛いなおい。 得意げになっちゃって。 293 俺はじっくり読むぞ。 物覚えの良い方ではないからな。 えーっと、 ﹁私たちは新たにこの学院に入る⋮⋮として誇りを持って⋮⋮を誓 いつつも⋮⋮騎士としての魂のありかた学び、決心を⋮⋮女王陛下 に槍を捧げる日がくることを待ち望みつつ、精進することを誓いま す﹂ 小声で音読してゆく。 長いよな、どう考えても。 俺はたっぷり十分ほどかけて覚えた。 こんな長い文章、当日本番の一時間前に覚えさせるとか馬鹿かよ。 ほんとどうなってんだこの国の教育機関はよ。常識ねえのかよ。 ﹁大丈夫だと思います﹂ 俺は台本を返した。 ﹁はい。では、はじめましょう。では手順を説明します﹂ ふーやっと始まった。 もう時間ないんじゃないのか。 ﹁代表生宣誓と言われたら、あなたがた二人は椅子を立って壇上へ 向かいます。ユーリ君は壇に向かって左、キャロルさんは壇に向か って右に座りますから、同時に出てきてください。まず立ち上がっ て女王陛下に向かって立礼し、壇上へ登る階段の前で止まります。 そこで振り返って参来者に向かって立礼します。そして壇上へ登り、 294 女王陛下の前まできましたら、ユーリ君は屋内の最敬礼です。キャ ロルさんはお分かりでしょうけれども、家族に対する最敬礼をして ください。そうして、同時に立ち上がってユーリ君から先に宣誓文 を読みます。二人共読み終わりましたら、女王陛下がユーリ君に向 かって片手を出しますので、ユーリ君は片膝で跪いて、女王陛下の 手を取り甲に軽く口づけをしてください。終わりましたら、立ち上 がって席に戻ります。壇を降りるときには来場者に一礼するように﹂ なっが。 気が遠くなりそうだ。 ﹁さあ、始めますよ。僭越ながら私が女王陛下の役をやるので、そ ことそこに座りなさい﹂ 俺は罰ゲームの想像を絶する難易度に戦慄を禁じ得なかった。 なっが⋮⋮。 *** ﹁ふんっ、大したことないな、お前﹂ リハーサルがつつがなく終わると、王女様はさっそく毒をはきは じめた。 なにこのこ⋮⋮こわい⋮⋮。 今はリハーサルが終わって会場に帰ろうというところである。 帰れといわれ客間を放り出され、廊下で二人だけになった途端に これだ。 295 わけがわからない。毒を吐かれる心当たりもない。 なんか悪いことしたっけか。 ﹁そうですね。僕はたかが知れてますから﹂ たかが知れてる知れてる。 俺なんかただの屑ですから。 まあ、こう言っときゃ満足するだろ。 キャロルは立ち止まった。 ﹁なんだ!? その言い方は。私を馬鹿にしてるのかっ!?﹂ えっ。 なぜそうなる。 ﹁??? ⋮⋮!!??﹂ 俺は反応の返しようがなかった。 ちょ、ごめ、どのへんで馬鹿にしたって??? もしかして人違い???? ﹁私よりいい成績をとったからって、図に乗るなよっ﹂ へっ? あ、そういえば騎士院の試験のところにいたんだよな。 あれか。 いったいなんなんだよ、もう。 ﹁そういえば、なんで騎士院の試験を受けてたんですか?﹂ ﹁ふんっ﹂ 296 キャロルは唐突に得意げな顔をした。 よくぞ聞いてくれましたって顔に出てるよ。 ﹁私は騎士院と教養院、両方を卒業するのだ。ほんとなら両方の主 席になってやるつもりだったのだがな﹂ えっ、そんなんできるの? 騎士院も教養院も年少組だけではなくて、だいたい二十過ぎまで 通うんだぞ。 文系大学と理系大学を同時に通うようなもんだ。 ﹁そりゃ⋮⋮すごいですね。まあ、ぜひ、頑張ってください﹂ 呆れたもんだ。 ﹁言われなくたって頑張る!!!﹂ 頑張るらしい。 まあそのくらいの勢いがなくちゃ、卒業は覚束ないだろう。 是非勝手に頑張ってくれ。 ﹁そうですか﹂ ﹁お前は志が低いな。もっと胸を張れ!﹂ 胸ぇ張れって言われても。 ﹁僕はあんまりやる気もないので﹂ ﹁はあ!?﹂ そんな絵に書いたような唖然とした顔をしなくても。 ﹁できれば入学したくなかったもので。主席などという制度があっ たと知っていれば、お譲りしたのですが。申し訳ありませんでした﹂ 297 ペコリと頭を下げ、顔を上げると、パンッと音がして、顔が衝撃 ではじかれた。 一瞬間を置いて頬が熱くなる。 えっ、ビンタされた? ﹁このっ⋮⋮不埒者がっ!!!﹂ 真っ赤な顔で俺を怒鳴りつけるキャロル殿下のお姿があった。 キャロル殿下は、一言だけでは飽きたらなかったようで、言葉を 次いだ。 ﹁このっ⋮⋮ばかっ、まぬけっ、あほっ⋮⋮えっと⋮⋮ばかやろう っ!﹂ たぶん知り得る限りの罵声を俺に浴びせると、キャロル殿下は走 っていってしまった。 *** 頬にもみじができているので冷やそうと思ったが、その時間もな いので、そのまま式場に入った。 もう知ったこっちゃあるか。 会場は、いわゆる大広間と呼ばれる大きな部屋だった。 ものの本に名が乗っているくらいだから、華美な装飾が凝らされ て非常に美しい。 天上などには幾何学模様の彫り物がしてあって、全面に金箔が張 298 られている。 化粧石の床にはずらりと椅子が並んでおり、真ん中には細長い絨 毯が敷かれていた。 その絨毯がまた特殊なもので、左側が蒼色で右側が紅色になって おり、ハーフアンドハーフで染め抜かれている。 あしゅら男爵を彷彿とさせる。 男爵と違って左側が男なので、俺は左側の席へ向かった。 ごちゃごちゃとしている会場をかき分けるように進み、指定され た席に着席する。 一番前の一番左の席だ。 座って一息つく。 いったいなんだったんだあのメスガキは。 噛み付かれるほうはたまったもんじゃないってのにさ。 ﹁はじめまして、ユーリくん﹂ いきなり右の席のやつが話しかけてきた。 そちらに目を向けると、俺より幾分小柄な美少年がいた。 ボブカットにしたふわふわの栗毛が印象的で、ハンサムというよ りコロコロとしたかわいい顔つきをしている。 なんつーかショタコンのお姉さんに好かれそうな子どもだな。 何者だろう。 ﹁はじめまして﹂ 挨拶を返した。 こいつはなんで俺の名を知っているんだろう。 299 ﹁僕はミャロ・ギュダンヴィエルと申します﹂ セブンウィッチズ ギュダンヴィエルか。 七大魔女家の家の名だ。 御曹司である。 だが、魔女家においては男児は雄のホルスタインのような扱いで、 上手くいけば多少の役に立つかも程度の扱いだと聞くから、身分的 セブンウィッチズ にはどうなんだろうな。 というか七大魔女家の男子は普通、教養院のほうに行くものだと 思っていたが。 ﹁⋮⋮ユーリ・ホウです﹂ とにもかくにも挨拶は返さんとな。 ミャロはくすりと笑って、 ﹁その頬はどうしたんですか?﹂ と可笑しそうにきいてきた。 嘲るような響きは少しもなく、不愉快にも感じなかった。 こういうものの聞き方をできるというのは才能かもな。 思わず頬を擦る。ヒリヒリと痛かった。 さて、どう話したものか。 ﹁転んだ拍子に淑女のお尻を触ってしまって、はたかれた﹂ 適当に嘘をついておいた。 さすがに、こんなガキにケツ触られたからってビンタかます女は 少ないと思うけどな。 五本指のあとがついているのに、階段から落ちたじゃおかしいし。 300 ﹁そうですか。災難でしたね﹂ ﹁よくあることだよ﹂ 言ってしまってから、何言ってんだ俺と思った。 そんなことが良くあってたまるか。 頬がいくつあっても足りない。 ﹁なるほど。興味深い人生を歩んでいるのですね﹂ ミャロはにっこりと微笑んでいる。 俺の嘘に納得しているわけではないが、それを含めて会話を楽し んでいるという感じだ。 まあ、こういうぽっかりと空いてやることがないような暇な時間 には、こういう会話は悪くない。 ﹁興味深くはないよ。俺は平凡な人間だ﹂ あまり変な興味を持たれてもつまらないので、そう答えておく。 ﹁平凡な人間は主席になどなれませんよ﹂ ミャロは少し真面目な声で言った。 そうかな。 そりゃそうだよな。 閃きに似た感覚を覚え、ああ、そうか。とやけに腑に落ちた。 だからキャロルは怒ってたのか。 自分を抜いて主席を取るような人間が、自分の誇りを傷つけるよ うな謙遜をしたから。 考えてみれば、十歳であんな問題を解くのに、キャロルはどれほ 301 どの研鑽を積んだのだろうか。 入学して恥をかかないレベルなら、前段階試験の水準で十分だと いうのに、あんな非常識に難しいレベルの試験をまともにこなせる ほどに勉強を重ね、自分が抜かれた相手を見てみれば、やる気はな いけど仕方なく受験したという。 こっちからしてみりゃお門違いな怒りとも思えるが、怒る理由と しては十分だ。 ましてや相手はまだ十歳なのだから。 ﹁頭がいいだけの人間は、非凡とはいわないさ。早熟な人間を大器 とは言わないように﹂ 俺は少し永く生きているだけで平凡な人間なのだ。 ちょっとズルして生きていたら、気づかないうちに立派に生きて いる人間の邪魔をしてしまった。というだけの話だ。 俺が非凡なわけではない。 ﹁確かにそうですね。ですが、解りませんよ。僕たちはまだ幼いの ですから﹂ 残念ながら俺は幼くはないし、底が知れてしまっているんだよ。 だがそれを言うわけにもいかない。 ﹁そうだな﹂ おざなりにそう返したとき、 ﹁静粛に!﹂ 302 という声が響き、入学式が始まった。 303 第020話 代表者宣誓 くっそ長い話が続き、ついに﹁入学生代表者宣誓﹂の段になった。 立ち上がって壇上に赴く。 途中で二回の挨拶をちゃんとして、壇上でキャロルと並びあった。 目の前には女王陛下が座っている。 女王陛下は、サツキよりも少し年上といった感じの、線の細い女 性だった。 女王の家系の遺伝的特徴なのか、キャロルと一緒で、金髪碧眼を している。 外見年齢四十歳くらいに見えるが、シャン人は若く見えるから六 十歳くらいかもしれない。 女王陛下は、子どもの成長に感じ入る親の顔で、キャロルをじっ と見ていた。 頬にモミジを作って出てきた謎の子どもを不審がる顔をしていた ら、ちょっと俺は居た堪れないので、非常に助かった。 ﹁敬礼!﹂ という号令と共に、俺はおもむろに片膝を突いて座り、膝の上に 手を置き、拳を床につけた。 これがシャン人社会での、男が屋内でやる最敬礼になる。 拳を床につけることで、剣を捧げるのとおんなじような意味を持 つらしい。 304 屋外の場合、地面が泥だった場合などは拳が汚れてしまうので、 胸に手を当てることで、その代わりとする。 隣のキャロルは、片膝で跪いて、立てた膝のほうの手を反対側の 肩に当て、開いた手を上にして、何かを差し出すように床においた。 女性がこういう場で女王に対する時は、両膝をついて神に祈るみ たいに両てのひらを組むはずだったと思うが、それは古くは皇を仰 ぐためのジェスチャーなので、王族の一員であるキャロルが母親に 対してやると変になるのだろう。 立ち上がると、再び女王に相対した。 先に読むのは騎士からである。 朗々と覚えた文章を読んだ。 ﹁⋮⋮女王陛下に槍を捧げる日がくることを待ち望みつつ、研鑽す ることを誓います﹂ いろいろあったので忘れちゃったかと思ったが、なんとか覚えて いたようで、言い終えることができた。 次はキャロルの番である。 キャロルのほうも喋り始めた。 キャロルもしっかりと覚えていたようで、つかえることなく朗読 できていた。 すごい。 ﹁側にあり、為すことを支え⋮⋮ッ ぁ⋮⋮﹂ 305 あれ? 九割方まできたかなと思ったところで、ぴたりと止まってしまっ た。 レベル5デスでも食らって突発的に絶命したのかと思い横を見る と、キャロルは顔を真っ青にして、あうあうと情けない顔をしてい た。 ⋮⋮忘れたのか。 俺と目があうと、なんだか助けを求めるような目で見てきた。 そんな目でみられてもな。 助けてやりたいのは山々だが、リハーサルのとき一度聞いたけど、 そんなん覚えているわけないし⋮⋮。 えーっと、我々は常に女王陛下の側にあり、為すことを支え、下 すことを行い、喜ぶことを共に祝う者となるべく、精進することを 誓います。だったか。 ⋮⋮なんで覚えてるんだ、俺。 ﹁下すことを行い﹂ ボソリと小さな声でつぶやいてやった。 ﹁⋮⋮っ! 下すことを行い、喜ぶことを共に祝う者となるべく、 精進することを誓いますっ!﹂ ちゃんと言えた。 やったね。すごいね。 言い終わると、女王陛下がすっとこちらに手を差し出した。 あ、俺か。 306 これがあったんだった。 俺は片膝をついて、女王の手を取ると、その甲に触れるような口 づけをした。 唇を離すと、蝶でも解き放つような仕草でそっと手をはなし、ゆ っくりと立ち上がる。 キャロルと同時にもう一度立礼をして、壇上を去った。 *** 入学式はつつがなく終わった。 ﹁⋮⋮はぁ﹂ 思わず息をついてしまう。 ここから、えーっと、なんだったか。 寮に入るんだよな。 でも王城島から寮って遠いんだが。 寮というのは、もちろん学院の敷地内にあり、広い学院はもちろ ん王城島のなかにあるわけではないので、だいぶ移動しなければな らない。 まあ、別に、歩いていけない距離ではないけどな。 ﹁堂々とした代表ぶりでしたね。素晴らしかったですよ﹂ ガヤガヤとうるさい喧騒の中で、ミャロが言ってきた。 ﹁そうでもない﹂ 307 ﹁では、寮でもよろしくお願いしますね﹂ ﹁ああ、同じ部屋になれるといいな﹂ ﹁残念ながら、席次が一位から五位までの生徒は同じ部屋にはなら ない決まりなんですよ。ルームメイトを啓発していくことも期待さ れているので﹂ こいつはなんでそんなことを知っているんだ。 ということは、ミャロは一位から五位までの間ということだ。 大勢生徒がいるなか、五位圏内が偶然に隣り合ったのではないだ ろうから、ここの席順は成績順になっているのだろう。 一番後ろの列の連中はいたたまれないだろうに。 だとすると、ミャロは俺の隣に座ってるんだから、次席か三席と いうことになるか。 キャロルがここに座っていれば自明のことだが、分身の術でもつ かえるのでなければ、両方の席に座ることはできないので、次席が 誰かは謎に包まれている。 ミャロは、話しぶりからも察することができるが、よほど頭の良 い子らしい。 あんがい、キャロルを抜いてミャロが二位だったのかもな。 ﹁そうか。それは残念だな。いや本当に﹂ 少し話してわかったが、こいつとは馬が合いそうだ。 ﹁よろしければ、昼食をご一緒しませんか﹂ さっそく食事に誘われた。 ﹁昼食?﹂ 308 ﹁入寮は午後からですよ。昼食を済ませてからいくんです﹂ なるほど、そうだったのか。 初耳だ。 ルークの連絡不足が甚だしい。 ああ、どうするかな。 ルークに相談すれば⋮⋮。 いや、やめておこう。 スズヤがあんな調子だったから、内々でやったほうがいいだろう。 ﹁お誘いは嬉しいが、しばらく家族とお別れになるからな。家族水 入らずで食事をしたいんだ﹂ 俺がそう言うと、 ﹁ああ、そうでしたね。すいません、遠地からいらっしゃっていた ことを失念していました﹂ と、逆に申し訳なさそうに言われた。 そっか。こいつは王都に住んでるんだよな。 言わば官僚の出だから、実家の勤め先は王城のはずだ。 ﹁悪いな。せっかく誘ってもらったのに﹂ ﹁はい﹂ ﹁機会はこれから星の数ほどあるだろうから。そのときにでも﹂ ﹁ええ。そうですね。楽しみにしています﹂ さて、親父でも探すか。 椅子を立って、ミャロに別れの挨拶でも軽くして、父兄の群れに 入るかと思ったところで、目の前にいる人物に気づいた。 309 キャロルだ。 こいつ、なにしに来やがった。 ﹁ちょっと来い﹂ キャロルはおもむろに俺の手首を掴んで、引っ張った。 なんやねんこいつ。 校舎裏に連れ込む不良か。 ﹁おい﹂ 俺は抵抗しつつ言った。 ﹁なんだっ、私のいうことが聞けんのか﹂ 怒るなよ。 ﹁待て待て、さっきできたばかりの学友と話してる途中だろ。何も 言わず立ち去ったら失礼だ﹂ ﹁むっ⋮⋮そうか﹂ キャロルはぱっと手を離した。 ﹁悪いな、ちょっと用事があるらしい﹂ ﹁ええ、見ていましたので。ボクのことはお構いなく﹂ ニコッと微笑んだ。 ﹁じゃあな﹂ ﹁ご健闘をお祈りしています﹂ ご健闘を祈られた。 これからバトルになるのか。 まだ頬が若干ヒリヒリしてんのに。 310 ﹁済んだか?﹂ こっちはこっちで気が短えな。 *** 勝手知ったる我が家なのだろう。 キャロルは俺の腕を掴んだまま、迷う様子もなく誰もいない部屋 に俺を連行した。 連行したはいいが、薄い陽光が差し込み少しほこりっぽい小さな 部屋で、キャロルはなぜか悔し気な表情をするだけで、﹁あの⋮⋮﹂ とか﹁お、お﹂とか言って話をしなかった。 ﹁その⋮⋮くっ﹂ やっぱり話にならないようだ。 なんの話をするつもりなのだろう。 気長に待っていると、キャロルの目に涙が浮かび始めた。 ﹁う⋮⋮ぐぅ⋮⋮﹂ えっ、ちょ。 なんでそうなるの⋮⋮。 ﹁おい、泣くなよ⋮⋮一体どうしたってんだ﹂ ﹁く、悔しい⋮⋮﹂ 悔し泣きだったのか。 何故だ。 311 俺にはコイツの頭んなかがさっぱり分からん。 俺にテストの点で負けたのが悔しいんだったら、今ごろになって 泣くのはおかしいだろ。 ﹁一体全体、なにが悔しいんだ﹂ ﹁き、きしゃまにいえるかっ⋮⋮﹂ ﹁いいから、言ってみろよ﹂ 俺が催促すると、泣きじゃくっていたが、ややあって話し始めた。 ﹁⋮⋮きしゃまと張り合って、あんな恥かいて⋮⋮そのうえきしゃ まに情けをかけられて台詞を教えてもらうなんて⋮⋮はじじゃ⋮⋮﹂ もしかして台本を五分足らずで返したのは、俺と張り合ってのこ とだったのか。 アホの子かよ。 しかしリハーサルでは、一ヶ所セリフが出てこなかったとはいえ、 一言一句間違えずに言えていたのだから、一度は覚えていたのは間 違いないのだが。 くだらん意地の張り合いをして、恥をかいて、結果俺に情けを掛 けられて窮地を脱したのが恥だと。 ﹁お前、それを言うために俺をつれてきたのか?﹂ 悔しがる理由は解ったが、なんで俺をつれてきたのかは依然とし て謎だ。 何の話をしにきたのだろう。 ﹁ち、ちがう⋮⋮その⋮⋮礼を言いに来たのだ﹂ 312 ⋮⋮は? キャロルはハンカチで涙を拭うと、思いっきり鼻を噛んだ。 ちーんっ ﹁貴様のおかげで助かった⋮⋮ありがとう﹂ ﹁⋮⋮どういたしまして﹂ なんだ、お礼をいうために呼び出したのか。 そっか。 なるほど。 *** ﹁⋮⋮じゃあ﹂ キャロルは帰ろうとした。 ﹁待てよ﹂ と引き止めた。 ﹁⋮⋮なんじゃ﹂ ﹁その⋮⋮俺の方も悪かったな、どうも無神経すぎたようだ﹂ 俺がそう謝罪すると、キャロルは俺をじっと睨んできた。 ﹁⋮⋮なんで謝るんじゃ﹂ なんで? 313 ﹁どうも、お前を傷つけてしまったようなんでな﹂ ﹁傷ついとらんわっ!﹂ じゃあなんでビンタしてきたんだよ。 ﹁まあ、それだけだ。一応な﹂ ﹁私が怒ったのはきしゃまが入学したくないとか言ったからじゃ。 騎士に誇りも持たぬ不埒者なのに⋮⋮﹂ また不埒者って言われた。 前世を含んで、初めて言われたな。 不埒者。 なかなか言われる機会のない言葉だと思うんだが。 ﹁不埒かどうかは知らんが、人間いろいろ事情があるんだよ﹂ ﹁事情がなんでも、私はお前なんかに負けるわけにはいかんのじゃ。 不埒者に負けたとあっては王として面目が立たんわ﹂ それはどうなんだよ。 ﹁別に負けたっていいだろ﹂ ﹁いいわけあるか﹂ なんだこの言い争い。 わしはなんで十歳児と低レベルな言い争いしとるんじゃ。 あ、なんか口調がうつってる。 ﹁お前は騎士じゃなくって王になりたいんだろうが。王は臣下から 忠誠を誓われるのが本分なのに、お前はなんでその臣下と強いだの 314 賢いだので張り合っとるんだ﹂ ﹁王はもっとも強くて賢くなきゃならん。決まっておるわ﹂ ﹁なにを馬鹿なこといっとるんだ﹂ そんな完璧超人がいてたまるか。 女が王を務めるような国でよくこんな考えにいたったもんだな。 普通、臣下が女王を担ぎ上げる感じの非ワンマンっぽいスタイル になるんと違うのか。 やっぱり変わりもんなのかもしれん。 ﹁一人の人間の知恵や強さなんぞたかが知れてる。俺も、お前もな﹂ 人間はいくら強くたって一軍相手に一人で勝てるようにはならな いし、物理学と生物学、歴史学と法学と数学と、全方面で世界最優 秀の学者なんていうのは存在しない。 人間一人にできることなんてたかが知れている。 到れる境地とて、せいぜいが無知の知を知る程度だろう。 ﹁知れておるとしても、不埒者に負けていい道理はない﹂ ﹁根本から勘違いしてるな﹂ いい加減面倒になってきた。 ﹁はぁ?﹂ キャロルは素っ頓狂な声をあげた。 ﹁あんな試験の結果なんぞ、どうでもいいんだよ。勝った負けたと 大騒ぎするほどのことか﹂ 入学するだけで十分に面倒だったのに、その上なんでこんな馬鹿 馬鹿しい口喧嘩をする羽目になっているのか。 ﹁な、な、な⋮⋮﹂ 315 ﹁だいたい、これから王になろうって奴が、試験なんてもんで他人 に試されて一喜一憂するなよ。どんなに頭が良かろうが、そんな奴 は臣下に振り回されるだけだろ﹂ 部下に試験させられて、点数つけられる社長がどこの世界にいる んだよ。 アホらしい。 自主管理じゃないんだから。 ﹁⋮⋮こっ、このっ﹂ なんだ、無礼者とかいわれるのか。 もう勝手にしろ。 ﹁あほーーーーーーーーーー!!! とんまっ、あほっ、かすっ! えっと、あと、あほーーーーー!!!﹂ 俺があっけに取られている間に、王女様はずだだっと走って部屋 から出て行ってしまった。 316 第021話 入寮 ﹁どこにいってたんだ、探したぞ﹂ 会場に戻ると、俺の席周辺でルークが俺を探していた。 ﹁すみません、なんだか厄介な人に捕まってしまって﹂ ﹁厄介な人? 誰だよ。騎士院の教師かなんかか?﹂ ﹁いえ、まー今日知り合った女の子です﹂ 俺がそう言うと、 ﹁なんだ⋮⋮お前も手が早いな⋮⋮﹂ とニヤニヤし始めた。 ﹁ぶっちゃけ付き合ってもいいんだが、手を出して捨てたりはする なよ﹂ 先輩のご忠告か。 それにしても、捨てるって。 ﹁なんですかそりゃ﹂ ﹁とにかく、手を出しちゃいかん。手を出さなければよっぽど不義 理をしない限りは大丈夫だが、手を出して捨てて、向こうが問題に すると退学になるからな﹂ えっ、退学なの。 う、うーん。 最悪、わざとそれをやって退学になるとか。 スズヤに泣きながらひっぱたかれそうだからやめておくか。 ﹁どうしてもやりたくなったら、騎士院には時代時代の馴染みの娼 317 館ってのがあるんだ。そこなら安心だから、上級生に教えてもらえ﹂ まじかよ。 そんなのがあるんだ。 それにしても、ルークは試験のこととかは一切合切教えてくれな い、というか軒並み連絡を怠るくせに、こういうことは聞かなくて も教えてくれるんだな。 こちらのほうが重要な連絡事項だと思っているのだろうか。 たしかに重要ではあるが。 ﹁まだ七、八年は早いですよ﹂ 性欲というのは精神よりも肉体に引っ張られるもののようで、俺 にはまったく性欲がない。 ミニスカートとかがあった日本に比べれば、どいつもこいつも禁 欲的な格好をしているので、あまり欲望を刺激されないし。 賢者モードはあと数年は続くだろう。 ﹁そうなんだが、なにかあってからでは遅いからな﹂ ﹁ともかく、この場にあまりそぐわない話題なので、続きは家でや りましょう﹂ ﹁あっ、それもそうだな。とりあえず帰るか﹂ 会場は既に人がはけてきていて、人影はまばらになっていた。 *** 318 家に帰り、家族で食卓を囲み、領の屋敷から持ってきた荷解きし ていない荷物をそのまま馬車に放り込んだら、いよいよ出発となっ た。 ﹁行っちゃうんですか﹂ ﹁うん﹂ ﹁行かないでください⋮⋮﹂ 泣き落としにかかってきたのはシャムだった。 シャムも今年で九歳。来年から教養院に入ることになっている。 俺が騎士院に入学していなくなるとなると、ものすごくゴネ、結 局は今年いっぱい首都の別宅に移り住み、頻繁に俺が行くというよ うな折衷案で落ち着いた。 サツキのほうも最近は王都にいる時間のほうが多くなったので、 そっちのほうがいいだろう。 シャムも今日から王都住まいだ。 ﹁そんなに泣くなよ。一生会えなくなるわけでもあるまいし﹂ ﹁寂しいです⋮⋮﹂ す 口を開けば理知的な言葉を吐くばかりのシャムが、こんな感傷的 な言葉をつぶやくのは珍しかった。 俺だって寂しいんだが。 ﹁俺もだよ﹂ シャムの頭の上に手をおいて、柔らかい髪をなで、手櫛で軽く梳 いた。 319 ﹁大図書館に行けば、寂しさも紛らわせるさ﹂ ﹁ムリです﹂ ムリってことないだろ⋮⋮。 ﹁できるだけ会いに来るよ。同じ王都の中にいるんだ。星と星の間 ほど離れるわけじゃない﹂ 我ながらきざな台詞だな。 ﹁でも、同じ家の中の約千倍は離れていますよ⋮⋮﹂ こ、こいつ。 ﹁じゃあ、次にあったときに宿題を出すよ。宿題を解いてる間は、 一緒に勉強してるのと同じことだ。そうしたら寂しくないだろ?﹂ めちゃくちゃな話である。 ﹁ホントですか!?﹂ しかし、めっちゃ喜んでる。 喜色満面の表情だ。 ﹁ほんとだよ﹂ 宿題を出されて喜ぶ生徒がこの世に存在するとはな。 教師冥利に尽きる。 寂しがるシャムの手を離して、俺は御者に合図をすると、馬車を 出発させた。 馬車を出発させて、シャムのことを考えていたら不安になった。 シャムは来年、教養院に入る。 卒業生であるサツキによると、教養院というのは政治や官吏、法 律について学ぶところらしい。 その他にも、古代シャン語など教養っぽいことを全般的に学ぶ。 320 サツキが古代シャン語を教養教養と言っていたのは、そのせいだ。 騎士院の試験には古代シャン語はなかったが、教養院の試験には あるのだろう。 断言するが、シャムがその類の物事に興味を示したことは一度も ない。 サツキでさえ、あまりの関心のなさに匙を投げたほどの徹底した 無関心さだった。 そして、シャムは俺以上にノーといえるシャン人である。 嫌なことは嫌という。 それはもう、顔面で拒絶の意思を純粋に表現しながら﹁嫌。﹂と 言う。 そんなシャムが教養院なんかに入ってやっていけるのだろうか。 俺は無理なような気がするんだが、どうなんだろう。 *** そんなことを考えている内、学院の正門を通過した。 馬車に乗っているのは俺一人だ。 正確には俺一人と荷物だけ。 寮に入らなくてはならない。 他の生徒の馬車も続々と到着している様子で、広間は賑わってい た。 321 俺も荷物を持って馬車を降りた。 御者には帰宅を指示する。 荷物はさほど多くなかったが、それでも大人が持つ皮のかばん三 つ分ほどあるので、持って運ぶにはたいへんな量だった。 ソイムに体を鍛えられたとはいえ、さすがに重い。 この荷物を持ったまま歩きまわらなきゃならないとなると、少し きつそうだ。 つーか、係員の人間が出迎えてくれるのかとおもったら、そうで もないので、まず誰かを探さにゃならんな。 となると、やっぱり荷物を持って歩きまわるのは、だいぶきつい ものがある。 とりあえず、どっか木の影にでも隠しとくか。 でも盗まれたりするのかな。 棒立ちでしばし考えていると、唐突に後ろから肩が叩かれた。 ﹁こんにちは。またお会いしましたね﹂ 振り返ると、ミャロだった。 いいところに来てくれた。 ﹁やあ、こんにちは。こちらこそまた会えてよかった﹂ 俺は片手の荷物を地面に置いて、ミャロと握手した。 ちょうどいいので入寮の段取りのようなものを聞こう。 ﹁少し後ろから見ていましたが、お困りのご様子ですね﹂ 見ていたらしい。 ﹁ああ。実を言うと、これから何処に向かったらいいのやら、さっ ぱりわからないんだ﹂ 322 素直に言うと、ミャロはくすりと笑った。 ﹁ボクは解りますので、ご案内しますよ﹂ さすがだ。 優等生だけのことはある。 渡りに船、地獄に蜘蛛の糸である。 ﹁そうか。ありがとう﹂ ﹁入寮案内書というのに書いてありましたので﹂ 入寮案内書? 初耳であった。 ﹁え、それってどこで貰えばいいんだ?﹂ どっかで配られてるのスルーしちまったか。 ﹁家に送られてきたはずですが、持っておられないのですか?﹂ もちろん貰っていない。 またルークか。 ﹁ああ、ちょっとな。恥ずかしながら目も通していない﹂ ほんとに恥ずかしいよ。 ﹁なるほど。まあ、些事といえば些事ですが、荷物を事前に送れな かったのは大変ですね﹂ 見ると、ミャロは両手になにも持っていなかった。 手ぶらである。 ミャロの後ろにいる名も知らぬ生徒も、よく見りゃて手ぶらだし、 323 俺のような大荷物を持っている生徒は、周りじゅう見回しても誰も いなかった。 察するに、入寮に際して、荷物の持ち込みというのは、事前に送 りつけることで済ませておくものなのではないか。 おそらく、この予感は的中しているだろう。 どうなってんだ俺の家はよ。 曲がりなりにも将家じゃねえのかよ。 ﹁よろしければ、少しお持ちしますよ﹂ ﹁いや、大丈夫だよ﹂ さすがに悪い。 ﹁その調子のユーリくんの隣を、手ぶらで歩くというのは少し変で すよ﹂ と、ミャロは少し困った顔をした。 そう言われると、その通りだった。 両手が荷物でいっぱいでひーひー言ってる男の隣をてぶらで歩い ていたら、下手すりゃ自分の荷物を下僕に持たせてるのかと思われ るだろう。 ﹁そう言ってくれると助かる。頼んでいいかな﹂ ﹁もちろんです﹂ 一番軽いかばんを一つ渡すと、ミャロは受け取った。 ミャロは片手で受け取り、ややあって両腕に持ち替えた。 そんなに重かったか。 よく見たら、ミャロの腕は小枝のように細い。 324 俺はソイムにしごかれて毎日のように棒きれを振り回していたし、 その前は牧場で干し草を運んでいたりしたので、わりと鍛えられて いるのだろう。 考えてみれば、ミャロは武家の出どころか魔女家の出なのだから、 そんな生活とは無縁だったはずだ。 ﹁すまん。大丈夫か﹂ ﹁はい。思ったより重かったですが、これくらいは﹂ 確かに、両手で持てばさほど苦もなく持てるようだった。 そこまで辛そうではない。 考えてみれば、同年齢の俺がもっと重いかばんと一緒に片手で持 っていた荷物なのだから、両手を使って持てなかったら大変だ。 ﹁じゃあ、行きましょう。寮はさほど遠くないはずですから﹂ ミャロは歩き出した。 *** 寮の前には子どもたちが勢揃いで並んでいた。 俺とミャロも最後尾に並んだ。 寮は大きな木造二階建ての建物だった。 建物を覆う一枚屋根が片流しになっているのが特徴的で、雪が入 り口の反対側にすべて落ちるようになっている。 二階には屋根に覆われたテラスがあった。 半分が食堂で、半分がリビングのような場所だ。 325 ソファのようなものも見える。 すべて新品のような真新しさだ。 なかなか素敵な寮だった。 寮といえば、俺は大学の一時期、最初のころに寮に入っていた。 寮といったら、俺が思い出すのはあそこだ。 あそこは酷かった。 目の前にあるコレと違い、なんの趣もない無骨なコンクリートの 建物だった。 その分家賃が安くはあったが。 そこはいわゆる自治寮と呼ばれている、一種の治外法権地域のよ うな場所だった。 寮生を退寮にする権利を、なぜか寮の自治会が持っており、それ はつまり、高校でいえば生徒を退学にする権利を生徒会が持ってい るようなもので、権力構造が異常そのものであった。 退寮をチラつかせられれば、逆らいようがあるわけもなく、自治 会が主催するイベントには半ば強制参加だった。 端的に言えば、俺にとっては非常に暮らしにくい場所だった。 先輩寮生たちを一人づつ訪ねて周り、一回づつの指令を受け、期 日までに先輩全員分のハンコまたは署名を集めなければならないと いう、今考えれば何の権利があってやっているのか不明な、首をひ ねりたくなるような謎の入寮オリエンテーションの洗礼を受け、俺 は自らの選択の誤りを認め、多少のコストを支払ってでも安アパー トに引っ越すことを選択し、すぐに実行に移したのだった。 今となっては懐かしい。 326 ﹁先輩みたいのがいるのかな﹂ ﹁先輩はいませんよ﹂ ミャロが言った。 ﹁ここはボクたちの代の新入生にあてがわれた寮で、卒業まで約十 五年間、ずっとこの寮を使うようです。使い終わったら取り壊し、 また新しいのを作るんだそうです﹂ マジか。 ホントに新築だった。 贅沢な話だ。 ⋮⋮いや、考えてみれば、そうでもないのか。 所詮は木造だし、荒々しいガキばかりを住民にして十年以上も使 っていれば、寮はキズだらけの軋みまみれになってしまうだろう。 曲がりなりにも貴族の子弟を押し込める寮なのだから、そんなボ ロ屋はさすがにまずい。 なんにせよ、先輩がいないことはいいことだ。 かなり体育会系の世界なんだろうし、先輩がいれば先輩風をチラ つかせて後輩をイビるといった風習は、必ず発生するだろう。 ﹁教養院のほうもそうなのか?﹂ ﹁いいえ。教養院のほうは校舎くらいある巨大な寮で全院生が一緒 に暮らしているのだそうです。あ、もちろん女性と男性は別の建物 ですよ﹂ ﹁へー、そうなのか﹂ 327 やっぱりシャムは無理かもしんないな。 まあ、寮のほうはどうしても使わなきゃならないってわけじゃな いんだし、毎日別邸から通学してもいいんだが。 話しているうちに、列がはけてきた。 列の最前線では長机に座った小太りの中年女性がなにやらペンを 走らせている。 そのうち、一番前まで辿り着いた。 ﹁そちらからどうぞ﹂ と、ミャロに言った。 ﹁いえ、ユーリ君からで﹂ 荷物を持ってもらって案内までしてもらったのだから、俺から先 に受け付けを済ますのではあんまりだと思ったのだが、俺からのほ うがいいらしい。 後ろもつかえているし、ここで順番の譲り合いをするのも迷惑だ ろう。 ﹁では、お先に﹂ 俺はそう言って、﹁ユーリ・ホウです﹂と受け付けの女性に告げ た。 ﹁はい、ユーリ君ね。あなたは一号室です﹂ 一号室か。 主席だったからかもな。 328 第022話 ルームメイトは選べない ﹁貴重品庫の鍵です。どうぞ﹂ なにやら金庫のようなものもあるらしい。 鍵を受け取った。 列から外れると﹁あなたは二号室です﹂という声が聞こえてきた。 ミャロが次席だったのか。 いや、さすがに男しかいないこんな寮にキャロルが入居するのは、 いくらなんでもまずいだろう。 もしそんなことがあったとしたら、王城にいる連中の正気を疑う。 キャロルは入寮しない可能性がある。 やっぱり判断はつかないな。 ﹁隣の部屋ですね﹂ ミャロはなんだか嬉しそうだった。 ﹁ああ、改めてよろしく頼む﹂ ﹁こちらこそ。よろしくお願いします﹂ そうして、寮の中に入り、二階へと上がった。 一番始めの部屋に﹁1﹂と書いてある。 ここだ。 ﹁では、お返しします﹂ ﹁ありがとうな。助かったよ﹂ かばんを受け取る。 329 ﹁いえ、ではまた﹂ ミャロと別れて、部屋のドアを開けた。 中に入ると、新築だけあって木の香りが香る綺麗な部屋であった。 ここが旅行先であったなら、思わずウキウキしてしまいそうだ。 だが、部屋には先客がおり、ベッドの上にどっかりと座っていた。 そいつは、同級生っぽい、スポーツ刈りみたいな短髪をした子供 だった。 同年齢とは思えないくらい良い体格をしている。 なぜか怒った表情をして、俺を一心に睨んでいた。 俺、なんか悪いことしたっけ。 心当たりはなかった。 当たり前だ。初対面なのだから。 部屋の奥を見るとベッドが三つある。 こっちに足を向けるように、テラスに向かって間隔をあけて三つ 並んでいた。 テラスに面したところにはドアもついている。 けっこう大きな部屋だ。 軽く見回すと、壁にくっついて勉強机が左側に二つあり、右側に 一つある。 勉強机1つ分開いた右のスペースに、背の高いロッカーのような ものが三つ並んでいた。 これが貴重品庫か。 意を決して右側のベッドへ歩いてゆき、かばんを床に置いた。 なんといったらいいものか。 330 睨まれているから話しづらいし、無視し続けるのもなんだし、困 ったものだ。 スポーツ刈りは、相変わらず俺の顔を、なんだか親の敵のように 睨んでいる。 俺は誰かの親を殺した覚えはないんだけどな。 ルークあたりがやっちまってたとか。 可能性はなくもないが、薄い線であろう。 はあ。 ため息をつきたくなる。 だが、こちらから歩み寄りを示さなければ、友情もなにもないだ ろう。 ここは挨拶だ。 コミュニケーションは挨拶から始まる。 あとから来たのは俺なのだから、俺から挨拶すべきだろう。 ﹁俺はユーリ・ホウだ。よろしく﹂ 爽やかに言ってみた。 ﹁聞いてねえよ﹂ 即、ずいぶんなお返事が帰ってきた。 な、なんだこいつ⋮⋮。 修羅の国から来たのか? ⋮⋮そして会話が止まった。 331 やたらと張り詰めた空気が漂っている。 はぁ、ミャロとは上手くやれそうだから、こりゃ存外幸先いいぞ と思った途端にこれかよ。 先住民族との交渉からはじめなきゃいけないのか。 でも、今日は疲れたからいいや。 荷解きでもするか。 ちなみに、運ばれてきたらしい荷物は別々に部屋の端に積まれて いた。 俺以外の二人のルームメイトの私物ということだろう。 俺のバッグ三つは少ない方らしい。 俺はロッカーのところへいくと、自分の名前の書いてあるロッカ ーに鍵を差し、開けた。 ロッカーを開けると中は棚状になっている。 半分は服を吊り下げられるようになっていた。 俺は適当に荷物を詰め込んでいった。 一番上段は成長を見越してか、とても高いところにある。 現状では手が届かないので往生するかと思ったが、そばに踏み台 にするための階段みたいな台がちゃんと用意してあったので、それ を使った。 上段には普段使わないものを置くことにしよう。 かばんからインク壺や王鷲の大羽根をまとめた物を取り出しては 突っ込んでいく。 ついでに、書き終わった日記帳も二冊入れた。 実家に保管しておこうとも考えたのだが、中を見られても困るの 332 で、持ってくることにしたのだ。 誰かに見られて謎の文字を扱う悪魔崇拝者のように思われてもつ まらない。 一応、帯に鍵をかけてあるので、簡単に見られることはないが、 ナイフを使えば帯は切れるので、開けるのは難しくない。 からっぽになったカバンをベッドに下に突っ込むと、俺は机にイ ンク壺と羽根ペン、鋏などの文房具セットを置いて、最後に今使っ ている三冊目の日記帳を置いた。 考えてみれば、王都に居れば文房具屋にはいつでも行けるように なったんだな。 多少便利になったとも考えられるか。 ﹁てめえ、誰がその机つかっていいって言ったんだ?﹂ ?????? 背後から先住民族の声が聞こえてきた。 言われてみれば誰にも言われていない。 なぜ俺はこの机を自分のだと思ったのか。 一つには、みっつある机のうち既に一つの上に荷物が置かれてい たから、早いもの勝ちなのだと思ったからだ。 もう一つは、その机がロッカーのない方だったので、この机を取 らなかったら先住民の机と隣り合うことが予想されたから、回避し ておくべきだろうと思ったからだ。 三つ目は、俺のベッドが右側だからだ。 ベッドが右側で机が左側では、ちょっと暮らしづらい。 333 ﹁使っちゃだめなんですか?﹂ ﹁駄目じゃねーよ﹂ 駄目じゃないんかい。 何がいいたいんだ、こいつは。 ﹁だが、俺の許可を取れ﹂ は?????????? ﹁失礼ですが、お名前は?﹂ ﹁あんだぁ!?﹂ 怒鳴るなよ⋮⋮。 ﹁いえ、王族の方なのかなと思いまして﹂ 王族なら特権を持っていてもおかしくはない。 この国は王国だし、ここはホウ家の自治領と違って直轄領なのだ から。 いや、ないか。 学院の理念として、立場で生徒を区別しないというものがある。 だから入学式のときも、学院側の教師たちはキャロルのことを﹁ 殿下﹂と呼ばずに、呼び捨てにしたり、キャロルさんと呼んだりし ていたのだ。 王族でも特別扱いはしない。 この学院の美点である。 334 ﹁てめぇ、調子に乗るなよ? 主席だかなんだか知らねえが、お勉 強ばっかじゃ騎士はつとまんねえんだからな﹂ どのへんが調子にのってる感じがしたんだろう。 だが、彼のいうことも一理ある。 俺も騎士院の代表をペーパーテストで決定するというのはどうな んだろうと思っていたし。 ﹁まあ、そうですね。確かに机については協議して決めるべきだっ たかもしれません﹂ ﹁きょうぎってなんだ﹂ 思わず吹き出しそうになった。 ちょっと難しい言葉だったか。 ﹁皆で物事を決めることですよ。机についてはルームメイト三人で 決めることにしましょうか﹂ 確かにそのほうが公平だし、残る一人が誰か知らんが、早い者勝 ちで残り物を渡されても不満が残るだろう。 ﹁嫌だね﹂ ⋮⋮⋮。 嫌なんだって。 駄目じゃないと言ったり、嫌だといったり、わけのわからんやつ だ。 この先住民はこの机を欲しているのだろうか⋮⋮。 そうであれば、なぜ向こうの机に荷物を置いたのだろう⋮⋮。 335 なぜなんだ⋮⋮。 謎が多すぎる⋮⋮俺には荷が重い⋮⋮。 ﹁俺はドッラだ﹂ 急に名乗りだした。 ドッラ。 ああ、なるほど。 すとんと胸に落ちるものがあった。 ﹁もしかして、ドッラ・ゴドウィン君ですか﹂ ﹁そうだ﹂ つくづく、ついてねえなぁ、俺って。 いや、ついてないんじゃなく、最初にミャロと知り合ったのが幸 運で、それと相殺してゼロって感じなのか。前向きに考えれば。 いや、さすがにこいつがルームメイトっつーのはマイナスすぎる 気がするぞ。 十五年。 早めに卒業できるとして、十年。 途中で部屋替えとかあることを願うしかない。 しかし、想像を絶するDQNだな。 親の顔をみたい。 いや、片方の親の顔は知ってるのか。 ガッラの野郎、どういう子育てをしてきたんだ。 336 ﹁僕はあなたの父上と知り合いなのですが、聞いていませんか?﹂ ﹁聞いてるが、関係ねぇ。父上と知り合いだからってなんだ? 偉 いとでも思ってんのかよ﹂ いや、思ってないが。 そうか。 ガッラがなんか妙なこと吹き込んだせいで、こんなにしょっぱな から敵対的なのかも。 元から粗暴なのもあるのだろうが、先入観ゼロでいきなりコレと いうのはいくらなんでもおかしい。 ガッラがなにか吹き込んだせいで、俺に対してバイアスがかかっ ているのかも。 もともと本格的に頭がおかしい子の可能性もあるが。 ﹁偉いとは思ってませんが。色々と腑に落ちることはあります﹂ ﹁あぁ!?﹂ 大声だすなよ⋮⋮。 ﹁ガリ勉野郎がよ。調子に乗りやがってよ。ふざけんなよ﹂ なんなのこの子⋮⋮。 ドッラはおもむろに俺に近づいてくると、暫定的な俺の机の上に あったインク瓶を払いのけた。 インク瓶が床に落ちて割れ、黒いシミを作る。 あーあ、やってくれちゃったよ。高いのに。 弁償してくれんのかよ。 337 床も汚れちゃったよ。 誰が掃除するんだ。 ﹁なんだぁ? びびってんのかぁ?﹂ ヘラヘラと笑いながら、威圧的に言ってくる。 なんだこいつ⋮⋮。 ガッラに苦情入れるぞおい。 そうして、ドッラは俺の書きかけの日記帳を掴んだ。 あ゛? ドッラは俺の日記帳を持ち上げると、見せつけるように俺の目の 前で揺すった。 ﹁こんなお勉強の本をわざわざ持ってきやがってよ。何様のつもり なんだよ、てめえ﹂ ﹁返しなさい﹂ このクソガキが。 それは命の次くらいに大事な本なんだよ。 さすがの俺も怒るぞ。 ﹁それは大切なものなんです。返しなさい﹂ 日記帳は俺が少ない小遣いをやりくりして買った本だ。 汚されたり破かれたりしたら、ちょっと冗談では済ませられない。 ﹁あ? てめえが命令できる立場かよ﹂ 338 ドッラは日記帳を床に叩きつけると、靴の裏でふんずけて、グリ グリと踏みにじった。 ⋮⋮⋮ああ、なるほど。 なんだ、こいつ喧嘩がしたいのか。 それなら、そっちのほうが手っ取り早い。 ああ、それが望みなら、こっちも楽なんだ。 ﹁ふう⋮⋮犬ですか、あなたは﹂ ﹁⋮⋮あ?﹂ ﹁犬には言葉は通じませんよね。だから、望みなら犬のやり方に付 き合いますよ﹂ 水は低きに流れるとは良くいったものだ、 低きにいる人間に対して高い次元で交渉をすることはできない。 交渉できなければ無視するのが賢いやりかただが、ルームメイト ではそうもいかない。 犬コロのやり方に付き合ってやろうじゃないか。 ﹁僕も、反抗的な犬と同じ部屋で暮らすのはごめんですから﹂ ﹁なんだと⋮⋮﹂ ドッラの目が据わってきた。 ﹁ほら、吠えるだけですか? 弱虫ですか?﹂ 339 俺がそう挑発した瞬間、ドッラが先に手を出した。 喧嘩屋がやるような力任せのフックだった。 だが、俺もここ三年で、ソイムにしごかれたおかげで、少しは慣 れている。 老練の戦士のふるう槍を目で追うことに比べれば、力任せの拳を 見切ることなど、わけはなかった。 というか、ソイムをエクストラハードモードだとすると、完全に イージーモードだった。 単に拳を作って殴るだけでも、体重の乗せ方で威力はまるで変わ るし、体の使い方で疾さがまるで違うのだ。 ドッラのは、ぜんぜんなってなかった。 俺はドッラの拳を避けつつ、袖を取ると、おもいっきり釣り上げ て、同時に襟を取った。 背を丸めて膝を折って、取った袖で腕を伸ばし、襟を取った腕で 肩を担ぐ。 縮んだバネが弾けるように体を伸ばし、一本背負いでドッラを投 げ飛ばした。 床に叩きつけるのではなく、途中で手を離して放り投げる。 ドッラはドアにぶち当たって、ものすごい音がした。 子供の体重ではドアは壊れなかったが、上の蝶番が飛んだ。 すぐに走り寄って、みぞおちのところをボールでも蹴るようにし て、思い切り蹴っ飛ばした。 ﹁おぐっ︱︱︱︱︱ッッッ﹂ 声にならない悲鳴を上げて腹を抱え込んでのたうち回るドッラを、 肩を掴んで無理やり仰向けにする。 340 そのまま、馬乗りになった。 その際、片腕は突き出されたので取れなかったが、一本は足の下 に敷いて自由を奪った。 ﹁おい﹂ ﹁︱︱︱ってめ!﹂ 殴ろうとしてきた腕を掴んで止める。 ﹁お前、俺に喧嘩を売ったよな?﹂ ﹁なんだあっ!?﹂ 俺は握りしめた拳の腹を、思い切りドッラの鼻に打ち下ろした。 ドッと鈍い音がした。 柔らかい子どもの肉の感触が拳に伝わる。 どうじ ドッラは殴られた経験が殆どないのか、殴られた瞬間、童子のよ うな表情になった。 鼻から鼻血が垂れる。 ﹁なんだじゃなくてさ。俺に喧嘩売ったよな﹂ ﹁⋮⋮っ﹂ ドッラは我に返り、俺を力強く睨んだ。 俺は、自分でも驚くほど頭に血がのぼっていた。 日本でのことを一つ一つ思い出しながら、手ずから一文字一文字 書き込んだ日記帳を、こいつはおふざけで地面に叩きつけ、汚れた 靴でふみにじった。 341 さすがにツッパるだけあって折れない心を持ってるね。 腕を懸命に動かして俺を殴ろうともしている。 だが、腕を掴まれたままで殴れるわけがない。 そういうときは、まず振り解くんだよ。 掴まれたままじゃあ、例え拳が顔に届いても、威力なんか全然出 ないじゃないか。 そんなことも知らんのか。 そんなことも知らないで、自信満々に俺に喧嘩を売ったのか。 まあ、振りほどいたとしても、体勢的に圧倒的不利だからどうし ようもないんだけど。 ﹁なあ、答えろよ﹂ もう一発鉄槌を食らわした。 ドチュっという鈍い音がして、鼻血が飛び散った。 ドッラの顔色が目に見えて変わってきた。 本能的に、現状が圧倒的に不利で逆転の目がないことを察したの だろう。 怯えの色は見えないが、明らかに気が動転している。 ﹁俺に喧嘩売ったよな?﹂ ﹁あっ、ああ﹂ ﹁なら、こうなる覚悟はあったんだよな?﹂ 鉄槌を振り下ろす。 342 ぐちゃりと拳が血でぬめる感じがした。 ドッラの鼻の周りは流血で真っ赤になっている。 ﹁俺は、大切なものだから返せと言ったよな﹂ 更に二度三度と殴る。 ここまできたら一発殴っても十発殴っても同じだ。 ドッラは血まみれになり、顔の形も変わっている。 ﹁お前は、他人の大切なものを遊び半分で奪った﹂ ﹁あ゛ッ! ぐっ!﹂ 殴る。殴る。 ﹁あまつさえ貴様は俺を舐めて喧嘩を売った﹂ これ以上やると前歯が折れてしまうかもしれない。 そろそろやめておくか。 ﹁殺されても文句は言えないな﹂ 俺はドッラの首を両手で締めた。 ﹁奪うのは自分の専売特許だと思ったか?﹂ ﹁あ゛⋮⋮⋮ガッ⋮⋮⋮﹂ ドッラの片手が俺の腕を掴む。 精一杯の力だろうが、たいした力ではなかった。 ﹁馬鹿は死ななきゃ治らないっていうよな。お前はどうだ﹂ ﹁ガギゥ⋮⋮ゴ﹂ ﹁死ねよ。俺に舐めた真似をした報いだ﹂ ﹁アギュ⋮⋮﹂ 343 本格的に窒息する前に、首の締め方を気管を潰す締め方から落と す締め方に変えた。 すると、ドッラは呆気無く白目をむいた。 白目をむいてかくんと脱力する。 落ちたのだ。 口鼻に手を当てるとちゃんと呼吸をしている。 よかったよかった。 いや、よくねえよ。 俺は我に返った。 なにやってんだ、俺は。 次の瞬間、ドアが開け放たれた。 先ほど受け付けをしていた中年女性がドアを開けて入ってくる。 ﹁なにをやっているの!﹂ ドアの向こうでは大勢の子どもたちが、中年女性の背中越しにこ ちらを見ている。 振り返ってみると、テラス側の窓からも大勢覗き見がいた。 大事になっちまっている。 ﹁喧嘩です。今しがた終わりました﹂ 俺は立ち上がり、鼻血だらけになった手をパタパタと振りながら 言った。 こりゃどうにもいかんな。 顔面血だらけになって真っ赤な顔したドッラが、苦悶の表情で失 344 神している。 一見死んでいるようにも見える。 あーあ、こりゃ退学かな。 まあ、しょうがないか。 運が悪かった。 どのみち、あんな狂犬と何年間も平和的に暮らすなんて不可能だ。 ルームメイト運がなかったんだよ。 ﹁やりすぎよ!﹂ やっぱりやり過ぎだったらしい。 ﹁ちょっと! しっかりして!!﹂ 中年女性はドッラの肩を持つと、ガタガタと揺らした。 ﹁あんまり揺らさないほうがいいですよ。気を失っているだけです から﹂ 中年女性は呼吸を確かめると、ドッラをそっと床に降ろした。 ﹁なにかあったんですか!?﹂ もう一人、大人の女性がやってくる。 ﹁医務室に行ってお医者様を呼んできてちょうだい﹂ ﹁えっ⋮⋮あ、はい!﹂ おーおー、大事になってきたなぁ。 えらいこっちゃ。 ﹁ユーリ・ホウ。なにがあったのか説明しなさい﹂ めんどくさいこと言い出した。 察するに、こいつは寮監かなにかか。 ﹁彼が僕を侮辱して、所有物を損壊したうえ、ひどく剣呑な様子で 345 喧嘩を売ってきたので、喧嘩を買いました﹂ ﹁⋮⋮もっと具体的に言いなさい、なにがあったの﹂ 具体的にって、これ以上どう具体的に言うんだよ。 ガキの言い分なんてどうせ信用しねえんだろうが。 ﹁具体的もなにも、それだけですよ﹂ ﹁反省の色が見えませんね﹂ すげー怒った顔で言ってくる。 ああ? いい加減イラついてきたぞ、なんだこの学校は。 昨日から不愉快なことばっかじゃねーか。 ふざけてんじゃねーぞ。 ﹁反省はそちらがすべきでしょう﹂ ﹁なんですって?﹂ 寮監の目がつりあがった。 ﹁理解してくれていないようですから、順を追って話しますね。僕 は、あなた方が決めた部屋に入りました。あなた方が決めた部屋に です。そうしたら、そこには狂犬のようなクソガキがいて、しょっ ぱなから喧嘩腰で僕を侮辱しはじめ、僕の所有物を取り上げ、返し て欲しいというと拒否し、損壊し、口論になると、向こうから殴り かかってきたんです。それで自衛が終わって一息ついたら、あなた がやってきて、自衛したことを責め、反省しなさいと言う。これっ て、いくらなんでも理不尽じゃないですか? 僕になんの過失があ りますか。たまたま僕が自衛の手段を持っていたからいいものを、 346 本当だったら、僕はなんの過失もなく大怪我をしていたわけです。 それを反省の色が見えない? 抗議をしたいのはこちらのほうなの ですが?﹂ 俺がそう言い終わると、中年女性は頭痛を抑えるように頭に手を 当てた。 ああ、期待の優等生から一気に問題児に評価が転落してる感じが する。 株価大暴落だ。 ﹁⋮⋮ともかく、こうなった以上、あなたには何らかの沙汰が下る 可能性があります。あなたは王都に自宅がありますね。今日はそち らに帰り、追って沙汰を待ちなさい﹂ なんだ、家に帰るのか。 まるっきり問題児扱いだな。 全く困ったもんだぜ。 俺は日記帳第三巻をロッカーにしまうと、鍵を閉めて、財布と短 刀と鍵だけ持って寮を出て行った。 347 第023話 やりすぎた 人生初の喧嘩で、慣れていなかったからか、やりすぎちまったな。 がむしゃらだったけど、考えてみりゃあ、自衛といっても過剰防 衛の謗りは免れまい。 はぁ⋮⋮やっちまった。 家に帰って親父とお袋に怒られるか。 ﹁ユーリくん、待ってください﹂ 沈んだ気分で寮から出たところで、ミャロに話かけられた。 足をとめる。 ﹁⋮⋮なんだ?﹂ 何の話だろう。 ﹁あんなことがあって気が高ぶっているのかもしれませんが、まず は手と顔を洗ったほうがいいですよ。血がついています﹂ ﹁そうか﹂ 思わず、袖で顔を拭おうとした。 ミャロが俺の腕を握って止めた。 ﹁袖が汚れますよ﹂ 確かに。 348 だが、殴った方の手じゃないほうにも血がついているので、袖く らいしか使えない。 ﹁裏口に井戸がありますから、そこで洗いましょう﹂ ミャロは俺の手を無理やり握って、歩き始める。 血が付いてるからそっちの手まで汚れるだろうに。 ﹁悪いな、何から何まで﹂ ﹁いいえ。気にしないでください﹂ 気にするよ。 ﹁見てたのか﹂ ﹁見てましたよ。素晴らしかったですね﹂ ミャロの声色は少し浮き足立っている。 興奮しているみたいだ。 ﹁素晴らしかないよ。馬鹿なことをした﹂ 今思えば、あそこまでする必要はなかった。 俺は逆上するとああなってしまうのか。 知らなかった自分の側面を、今知った思いだ。 すぐに井戸にたどり着くと、ミャロは血に汚れた手で真新しい釣 瓶をたぐり、清水の入った桶を引っ張りだした。 ﹁お手を貸してください﹂ 言うとおりに手を差し出すと、ミャロは桶を傾けて水をじゃーじ 349 ゃーと流した。 手が洗われてゆく。 綺麗になると、今度は俺がミャロの手を洗ってやって、最後に顔 を洗った。 ついでに、少し血がついた袖口なども濯いだ。 洗い終わると、なんだか少し気分が晴れた気がした。 そうして初めて、今までずっと血なまぐさい気分だったことに気 付く。 ﹁はー﹂ 思わずため息がでる。 やっちまった。 退学か。親父とお袋に申し訳がたたねー。 ﹁出会ってそうそうなんだが、これでお別れかもしれんな﹂ ﹁え、なんでですか?﹂ ﹁こんなことしでかしたら、退学になってもおかしかないだろ﹂ ﹁プッ﹂と、ミャロは軽く吹き出すようにして笑った。﹁退学にな るなんて考えてたんですか? そんな事があるわけないじゃないで すか﹂ ﹁そうか?﹂ そんなこともないと思うが。 ﹁キャロル殿下を殴ったのならともかく、こんなことでホウ家のあ なたが退学になるなんて、そんな馬鹿馬鹿しいことはありえません よ﹂ 350 やけに断言するな。 ﹁でも、だいぶひどく殴っちまった﹂ ﹁殺したわけではないでしょ?﹂ ﹁それはそうだが﹂ 死にはしないだろう。 というか、この子どもの体では、道具を使わなければ打撃で人を 殺すなんてことはできない。 ﹁学院だって大事にはしたくないんです。ご両親のもとに返した時 には、出血も止まってますし、顔も綺麗になってますよ。場合によ っては化粧をしてごまかすかも。だから、そんなに心配なさらずと も、大丈夫です﹂ 確かに。 別に顔の皮膚が破けて血が出たわけではなく、鼻血が出ただけだ から、洗い流せば打撃痕しか残らないはずだ。 まぶたぐらいは切れてるかもしれないが。 骨も折っていないし。 ﹁それに、ドッラ君の問題児ぶりは有名です。万が一にも、あなた が退学になるなんてことは、ありえませんよ。ボクが保証します﹂ そう言われると大丈夫な気がしてきた。 ﹁なるほど。少しは気が楽になったよ﹂ 351 気持ちがだいぶ楽になった。 さすがに入学即退学じゃ、ルークやスズヤに申し訳が立たないか らな。 ﹁お役に立てたようで光栄です﹂ ミャロは嬉しそうに言った。 *** ミャロと別れて、徒歩で別邸に帰ると、門番がお出迎えしてくれ た。 ﹁こんばんは、戻りました﹂ というと﹁おかえりなさいませ﹂と言って通してくれた。 顔見知りだから顔パスだ。 でも馬車に乗ってなかったから不思議そうだったな。 別宅に入ると、侍女が出てきて、めざとく俺の服の返り血を見つ けて﹁お怪我をなされたのですか﹂と聞いてきた。 ﹁いや、さっそくルームメイトと喧嘩をやらかしちゃったんだ。こ れは返り血だよ。落ちるかな?﹂ ﹁すぐにお脱ぎください。お着替えをもってきます。あ、ここでは なんなので、応接間で﹂ 言われなくても、玄関口で素っ裸になったりはしないよ。 352 俺が何か言う前に、もの凄い勢いで飛んでいってしまったので、 俺は応接間へ行ってそそくさと制服を脱いだ。 侍女さんは、服を脱ぎ終わる前に変えを持ってきた。 ﹁申し訳ありませんが、ご自分でお着替えください。血は時間がた つと染み付いてしまうので﹂ だから急いでたのか。 俺が脱ぎ終わった制服を渡すと、速攻で服を持って出て行った。 多少乾いてしまったが、井戸の水で袖口も濡らしておいたからセ ーフなのかな。 俺は服を着替えると、そのまま応接間のソファに座って休んだ。 ﹁ユーリ、どうしたんだ?﹂ すると、話を聞きつけたのかルークがやってきた。 領にとんぼ返りはせず、まだ首都にいたらしい。 ﹁⋮⋮さっそく喧嘩をしてしまい、寮から追い出されました﹂ 正直に言った。 情けない。 ﹁喧嘩? 誰とだ﹂ ルークは真剣な表情で、俺に問いただした。 少し怒ってるふうでもある。 そりゃ怒るよな。 353 ﹁ガッラさんの息子さんとです。今日いってみたら、偶然なのか解 りませんが、ルームメイトで﹂ ﹁ああ﹂ ルークは納得したようだ。 ﹁あー、喧嘩はしちゃだめだぞ。武芸の技は喧嘩に使うものじゃな い﹂ 月並みの台詞を言ってくるが、なんだか感情がこもっていない。 息子の問題児ぶりについてガッラから詳しく聞いていたのかもし れん。 ﹁反省しています﹂ ﹁軽々しく喧嘩はするなよ﹂ ﹁はい﹂ ﹁向こうから突っかかってきたのか?﹂ ﹁はい﹂ ﹁そうだと思った。多少ガッラから聞いてたからな﹂ やっぱり。 ﹁そうですか﹂ 理解ある親で助かった。 失望した目で見られ、頭ごなしに小言を言われたら、かなり辛く なってたところだった。 354 ﹁まさか刃物は使ってないよな﹂ 俺もそこまでアホじゃない。 ﹁素手です﹂ ﹁骨を折ったり、顎を割ったりしてないか?﹂ ﹁していません﹂ していないはず。 ﹁そうか⋮⋮。一応聞いておくが、殺してないよな? 気を失うま で殴ったりとかは?﹂ 聞く順番が逆だろ。 思わず吹き出しそうになった。 ﹁殺してはいませんが、絞め落としました﹂ ﹁絞めたのか﹂ ルークは一転、責めるような口ぶりになった。 責めるのもわかる。 ﹁なんでそんなことをした。あれは修練が足らない人間がやると危 険なんだぞ﹂ ﹁狂犬みたいなやつで、絞め落としでもしないと、体力尽きるまで 戦うのをやめそうにないと思ったので﹂ これは本当だ。 ﹁そういうときは腕緘で⋮⋮﹂ ﹁それだと腕を痛めるんじゃないですか﹂ 俺は関節技も学んでいる。 355 アームロックをかければ、殴られたのとはまったく質の違う激痛 が走るので、相手を簡単に制圧することができる。 これはもう、決められれば抵抗ができるような質の痛みではない。 だが、がむしゃらに解こうと暴れられると、腱を痛めさせてしま う恐れがある。 腱の損傷は総じてタチが悪い。 十年たっても二十年たっても、日常的な動作のフシブシで腱が痛 む場合がある。 痛みは軽いものだが、我慢すればいいというものではない。 しょうがい 例えば槍をふるう動作のある点で痛みが走れば、動作はぎこちな くならざるをえなくなるから、騎士としては一生ものの障碍になり 得る。 ﹁うーん。なら、攻撃を避けつつ足を蹴るんだ﹂ 足。 足かぁ。 ﹁僕より体格の大きい相手でしたが、僕の体でもやれたでしょうか﹂ 足は考えなかった。 小さい体では、元から打撃でダメージを負わせるのは難しいので、 打撃をメインに戦うという考え方はしてこなかった。 ソイムにも大人になるまでは打撃に頼るな、と言われていた。 ﹁繰り返し蹴ったらいけただろうが、どうだろうな。喧嘩慣れした ようなやつ相手に、逃げながらやるっていうのは、技術が要るから な。ガッラくらいの体格になると、鍛えていない男くらいなら、一 356 発で立てなくなるが﹂ 確かに、ローキックで立てなくさせることができれば理想的だ。 だが、ルークの言うとおり、殴りかかり掴みかかってくる相手に 一定間隔を保ちながらローを何度も当て続けるというのは技術がい る。 整備された校庭の真ん中のような場所でスタートしたのならとも かく、あんなに狭い部屋の中ではどうにもならなかっただろう。 下手すりゃ壁にたたきつけられて組み敷かれてボコボコにされて いた可能性もある。 俺には難易度が高すぎる。 ﹁じゃあ、結局、喧嘩を買わないほうがよかったんでしょうか。降 参して、寮監に訴え出るとか。どうしても駄目ならココから通って もいいんですし﹂ ﹁そうかもしれないが⋮⋮それは騎士の態度ではないかもな。けっ こう馬鹿にされるぞ﹂ 意外にもルークは苦い顔をした。 そんなことは男としてやってほしくないという感じだ。 なんだ、喧嘩を売られてケツまくって逃げたら、それはそれで問 題なのか。 結局は喧嘩売られた時点で八方ふさがりだったんじゃねえか。 喧嘩はするな。だが喧嘩を売られたら買え。だが相手を怪我させ るな。ということか。 理不尽なことだが、人間関係にまつわる問題というのは、たいが 357 い理不尽なものだ。 どうしても喧嘩を買わなければならないときは、決闘というシス テムを使うことになるんだろう。 だが、十歳で認可が降りるのかどうか。 それ以前に、俺も殺し合いをしたいわけではない。 ﹁まあ、今日はガッラと飲みに行く予定だったから、話してみるさ﹂ こ、この親父⋮⋮。 息子が四苦八苦しているときに飲み会の約束を取り付けてやがっ たのか。 まあいいけど⋮⋮。 ﹁えっ、どうしたの!?﹂ 声が響く。 ルークの後ろからスズヤが出てきて、こっちを見ていた。 居るはずのない俺を発見し、思わず声をあげてしまったのだろう。 思わず背筋が凍る。 ある意味、一番叱られたくない、気まずい相手だった。 ﹁す、すいません。帰ってきてしまいました﹂ 我ながら情けない声がでるもんだ。 ﹁ユーリはちょっと友達と喧嘩しちまったんだよ、よくあることだ﹂ ルークがすかさずフォローを入れてくれる。 358 サンキューパパ。 ﹁あなたは黙ってて﹂ スズヤはぴしゃりと言った。 パパはぴたりと口をつぐむ。 パパ⋮⋮。 ﹁ユーリ、喧嘩したの?﹂ 猫なで声ではなく、問い詰めるような響きだった。 ﹁はい⋮⋮﹂ 何度かあったが、こうなると、マジで子どもみたいな気分になっ てくる。 しょぼーんってなる。 ﹁殴ったの?﹂ ﹁殴りました﹂ 俺がそう言った瞬間、脳天にガツンと強烈な一発がかまされた。 脳天うたれたのに顎にきた。 いったぁ⋮⋮。 思わずうずくまって患部を押さえた。 頭がチカチカして視界に星が飛んでる。 ちょっとほんとに痛い、これ。 涙出てきた。 359 ﹁殴ったり蹴ったりの喧嘩をしたら、両方ゲンコツって決まりなの﹂ どこのローカルルールだよぉ。 涙が浮いて視界がプールの中みたいになってる。 いやこれ、マジで涙目になっちゃってる。 ﹁きっと、向こうの子は向こうの親御さんがゲンコツしてるはずだ からね。平等よ﹂ 自信満々の超理論だった。 そんなわけあるかい。 と思っても抗議する気にはなれなかった。 お母さんには勝てない。 *** そのうち、ルークが酒飲みに行くと、入れ違いに大図書館へ行っ ていたらしいシャムが帰ってきた。 俺の帰宅を知ると、大喜びで俺のところに来た。 俺はタンコブ作りながらスズヤとシャムと食卓を囲んで、シャム が約束通りの宿題を要求して、夜中まで宿題を作っていたら、酔っ 払ったルークが来て﹁ガッラが良い薬になったって感謝してたから な。安心して明日から学校いけよ﹂とか言ってきて、ちょっと安心 したら眠くなって、眠気を我慢して宿題作り終えて、シャムの喜ぶ 顔を想像しながら寝た。 360 第024話 単位は空から降ってくる 翌日、早朝に起きて寝不足のまま馬車に乗り、寮に行くと、玄関 に顔を腫らしたドッラが待っていた。 なんでこいつ待ってんだよ⋮⋮くんなよまじで⋮⋮。 ドッらは、顔全体がふくれあがっていて青あざだらけだ。 我ながら、よくもまあやったものである。 玄関に近づいてゆくと、向こうから声をかけてきた。 ﹁俺は負けてねえからな﹂ ぽかーん。 え、俺の耳がおかしくなったのかな? ﹁ちょっと聞きたいんですが﹂ ﹁⋮⋮なんだよ?﹂ ﹁あれが負けじゃなかったらどうなったら負けなの?﹂ ほんと聞きたい。 ﹁俺は負けを認めてねえ﹂ マジか。 負けを認めたら負け。シンプルだ。 まあ、これは彼の信念みたいなものだろうから、他人がどうこう 361 言う問題じゃない。 黒かろうが青かろうが自分が白といったら白。 それはそれでいいんじゃないかな。 しかし厄介だなぁ。 ﹁じゃあ昨日の喧嘩はどっちが勝ったことになるの?﹂ ﹁⋮⋮っ﹂ ドッラは答えなかった。 答えないというか、ちょっと答えがパッとでてこないようだ。 まさか﹁俺の勝ちだ﹂とは言えないのだろうし、﹁引き分けだ﹂ と言うのもはばかられるのであろう。 ややあって、 ﹁⋮⋮まだ喧嘩は続いてる﹂ と、そういう結論に至ったらしい。 はーもうどうでもいいよ。 ﹁じゃあ昨日の喧嘩は俺の負けでいいですよ。はいはい、負けまし た﹂ 俺は負けを認めた。 ﹁はあああああ???﹂ とんでもない顔をしおった。 ﹁よかったですね。あなたの勝ちです。おめでとうございます﹂ ﹁駄目だ。認めねえ﹂ ??????? 362 ﹁どっちかが負けを認めたら勝ちなんでしょ。自分の言ったことで しょうに﹂ だから負けを認めてやったのに。 何が嫌なのか。 ﹁駄目だ﹂ なんなんこいつ⋮⋮。 ﹁じゃあ聞きますけど、あんだけ血だるまにされて、絞め落とされ て、それでも負けを認めないんだったら、どうしたら負けを認める んですか?﹂ ﹁⋮⋮二回も三回も負ければ負けを認める﹂ まーた馬鹿なこといいだしおった。 ﹁へー。そうなんですか。一度戦ってあんなふうに負けても、今喧 嘩してもしも僕に勝ったら、あなた﹃やったぁ、これで一勝0敗な﹄ って言うんですね。あんたそれでも男ですか? 生きてて恥ずかし くない?﹂ ﹁ぐっ⋮⋮﹂ さすがに反論できない様子であった。 ﹁⋮⋮わかった。昨日のは俺の負けだ﹂ なんなんもぉこいつ⋮⋮。 ﹁だが、また再戦するからな。首を洗って待ってろ﹂ やだ⋮⋮なんでこいつこんなに面倒くさいの⋮⋮。 363 ﹁嫌ですね﹂ ﹁てめー⋮⋮勝ち逃げするつもりか﹂ 恨みがましい目で見てくる。 ﹁今の状態なら百回やったら百回僕が勝つんですよ。昨日の闘いで 解りませんでしたか?﹂ ﹁そんなもん、やってみなきゃ⋮⋮﹂ ﹁ああ、闇討ち、夜討ちなら勝てるかもしれませんね﹂ ﹁誰がやるか!﹂ 俺は内心でかなりほっとした。 闇討ちはともかく、夜討ちをされるようなら、寮は使えなくなる。 ﹁あなたね、僕、昨日いいましたよね。騎士が喧嘩を売るっていう のは、殺されても仕方がないことなんですよ? その意味を全然わ かっていませんね﹂ ﹁んぐっ⋮⋮﹂ ﹁僕が本気だったら、あなた、今そこに立っていませんよ。両目が なくなって、腕も足も折られて、二度と立てなくなっていたわけで す。想像つきますか?﹂ ドッラは一瞬、恐ろしげな表情になった。 自分が不具者になった姿をちょっと想像してしまったんだろう。 ﹁僕は昨日、あなたを傷つけないように細心の注意を払って戦った んですよ。もちろん、あなたが大切だからではなく、あなたに大怪 我をさせたら大人にメチャクチャ怒られるからです﹂ 細心の注意を払ったというのは嘘だが、手心を加えたのは本当だ。 364 ﹁骨を折るような技は使いませんでしたし、殴るにしても歯が折れ ないように気をつけましたし、鼻の骨だって折らないように気をつ けました。その結果、あなたは顔が腫れたくらいで済んでいるんで す。それなのに、もう一度喧嘩を挑む? 負けを認めない? 僕が 命を奪わないのをいいことに、どれだけ甘ったれてるんですか﹂ ﹁うっ⋮⋮ぐっ⋮⋮﹂ 悔しそうだ。 おおかた、ガッラにも昨日説教くらって同じようなこと言われた んじゃないか? ﹁あなたは、戦うにも値しない野良犬です。僕に挑むなら、せめて 野良犬と言われないくらいに自分を磨いてからにしなさい﹂ 俺がそう言うと、 ﹁⋮⋮﹂ ドッラは打ちのめされたような表情でその場に佇んでいた。 俺はその横を通りすぎて、寮の中に入った。 俺はすぐに後悔した。 ノリであんな説教しちまったが、十年後とかに﹁お前に言われた とおり、十年間山ごもりして自分を磨いてきた。さあ死合をしよう ではないか﹂とか槍もってきて言われたらマジで困るな。 なんであんなこと言っちまったんだろう。 *** 365 寮に戻ると寮監に冷ややかな眼差しを向けられたが、他には特に 問題はなかった。 部屋に入ってみると、蝶番も直されているし、インクのシミもな い。 しかし、あの腐れDQNはともかく、もう一人のルームメイトに は悪いことをしてしまった。 入ってきたらあんな有り様だったわけだから、さぞかし驚いただ ろう。 と思って部屋を眺めたのだが、ルームメイトの荷物は解かれてい なかった。 昨日は来なかったのだろうか。 または、部屋があんまりな惨状であるから、ここに寝かせるのは まずかろうという配慮があり、別の部屋に暫定的に送られたとか。 それはそうと、なんだか腹が減ってきたな。 朝飯を食べて来るべきだったか。 別宅を出たのは空が白む前だったので、なにも口に入れてこなか った。 そこで、 コォン コォン コォン と、三度大きな音が鳴った。 しばらくすると、ガヤガヤと騒々しくなり、生徒たちが廊下に出 てくる気配がした。 さっきのは目覚ましの鐘か。 これから飯か。 366 俺も下へ行こう。 下階の食堂へ行くと、パンが焼けるいい匂いがたちこめていた。 *** バイキング形式の朝食を摂ると、なんだかオリエンテーションが 始まった。 ﹁はい、これを見てください﹂ 寮監が細い木の棒で壁を指した。 そこには、布が貼られたカンバスがかけてある。 布は、帆布という、帆船の帆として使われる厚手の布だ。 書かれているのは絵の類ではなく、なにかの目録のようだった。 ﹁あなたがたが騎士院を卒業するには、これらのうち三百単位を取 らなくてはなりません﹂ なるほど、授業の一覧表だったか。 しかし三百単位とは大層なことだ。 一個で十単位くれる講義とかもあるんかな。 寮監の話を総合すると以下のようになる。 三百単位のうち半分、つまり百五十単位は騎士院固有の講義で、 うち百は実技で五十は座学である。 367 つまりは、騎士院の卒業単位のうち、3分の1は体を動かす講義 で取得することになるわけだ。 講義は必修のものと選択のものがある。 選択科目の選び方によって大分違いがでてくるようだ。 なぜそうなるのかというと、歩兵科と騎兵科と砲兵科では全然違 うから、ではない。 そんな区分は全然ない。 騎士候補生の中には王鷲に乗る天騎士になりたいという人材がお り、騎士号を持った人間が全て天騎士になるというわけではないの で、それでカリキュラムが変わってくるらしい。 天騎士になるには専門の実技をたくさんうけなければならないよ うだ。 だが、幸いなことに、その実技は全て卒業単位として認められる。 ただ、王鷲乗りのほう、つまり天騎士過程は、望んでも弾かれる 可能性があるようだ。 現行で王鷲未経験だと今からでは厳しいので、一応は乗せるが、 才能が無いようなら弾くようなことを、やんわりと言っていた。 たぶん上空で怖がって下が見れないような人間は一発でアウトだ ろうな。 そしてもう半分、150単位は完全に座学で、教養院と共通する 一般科目である。 これにも必修のものが120単位あり、自由なものが30単位あ る。 必修のものというのは、義務教育課程のようなものらしい。 368 騎士になったといっても、最低限の教養がないと恥ずかしいって ことだろう。 国語、算数、社会、歴史、を学ぶらしい。 選択自由な一般科目は、まあいろいろある。 科学めいたものを教える科目もあるようだが、まあ殆ど全部デタ ラメだろうな。 初等古代シャン語なんていうのもあるが、おれはあの言語には今 後一切関わりたくないので、一生取らないだろう。 考えてみれば、前世でも古文の類はめっぽう嫌いだったな。 その中に気になるものがあった。 ﹃クラ語講座﹄ というやつだ。 びっくり仰天というか、教わる方法があったのか、という感じだ。 この知識は、人生において珠玉の至宝になるかもしれない。 この地球に住む既知の人類、シャン人のほかもう片方、クラ人の 言語を覚えられるというのはでかい。 なにせ、国が滅びて行くところがなくなったら、クラ人の支配地 域のなかで隠れて住むか、迫害のない土地まで、迫害を逃れて移動 しなければならない。 その際、言語を知っているか知らないかでは、雲泥の差がある。 クラ人はシャン人を忌み嫌っているとはいうが、ユーラシア大陸 は広いのだから、全地域で嫌われているとも限らないし、前人未踏 の離島のようなところも探せばまだまだあるだろう。 ﹁というわけです、理解できましたか?﹂ 369 と寮監が言ったが、理解出来てるのがどんくらいいるのか分かん ない。 ここにいる連中のうち、半分も理解できてりゃいいほうだろう。 ﹁難しかった子はあとで相談室に来なさい。一緒に時間表を作りま しょう﹂ 結局は寮監がつきっきりで作ってやるらしい。 ﹁それで、今日やることを教えます。今日やるのは、必修講義の免 除に関するテストです。あなたがたの中には、既に十分に国語や算 数に習熟し、いくつかの講義を受ける必要がない者がいるでしょう。 その人たちは、講義が免除され、単位が与えられます﹂ マジか。 必修講義が免除されるだけではなく、単位が空から降ってくると は。 なんという慈悲。 この学院の上層部は神か仏のたぐいか。 ﹁ただし、この申請は任意です。自己申告で申し込みをしてもらい、 先生方に個別にテストをしてもらうことになります。なお、先日行 ったテストで基準以下であった者は申し込みはできません。免除の 申請が必要でない者、または全ての免除を受ける資格がない者は、 今日は受講計画を作ってもらうことになります﹂ なるほど。 ここで入学式前のテストの結果が現れてくるんだな。 先生方とて、前段階テストのあのレベルも解けない生徒をいちい 370 ち面談していたら、時間がいくらあっても足りなくなる。 なのでボーダーラインが設定してあるのだろう。 いろいろな面倒に巻き込まれたが、頑張っていてよかった。 単位が免除される、空から降ってくる、という言葉の響きには、 単位に追われた大学生生活がトラウマなのか、なんとも抗いがたい 魅力がある。 *** ﹁ふむ⋮⋮信じられんことだが、きみの算学の知識はわし以上かも しれん﹂ ﹁そうですか﹂ やった。 内心で大喝采をあげる。 これで算学とそろばんの分、三十単位がまるまる浮く。 ﹁教養院の特別講義ならば出る価値はあるじゃろうが、騎士院で受 講できる講義で教えられるものはないな﹂ ﹁ありがとうございます﹂ よしよし。 しめしめ。 そろばん ﹁だが、算盤のほうは、まだ未熟なところがあるな﹂ ﹁えっ﹂ 371 ソロバンだめだった? ﹁うーむ、特別におまけして中級算盤は免除してやろう。上級算盤 は出なさい﹂ 俺のそろばんはまだ未熟らしい。 いちおう、扱い方は覚えてひと通りはできるようになったのだが、 まだ十分ではないということだろう。 口ぶりからすると、中級のほうもギリギリで免除してやるって感 じだし。 上級を免除されるためには、そろばん一級みたいに素人には残像 しか見えないような速度でパチパチやらなきゃいけないのかもしれ ない。 ちなみに、そろばんといっても日本で使われていたものとは別物 である。 形はまあまあにているが、真ん中に通してある梁がなく、一列に は九個の丸い玉が入っている。 まあ、半分は免除されたのだから恩の字だろう。 算学のほうは五つの講義全部が免除されたのだから最高だ。 とにもかくにも、二十七単位は免除された。 国語、歴史、社会、算数のうち、国語は全部免除されて歴史と社 会は最後以外全部免除されたから、必修の義務教育120単位中、 104単位は免除されたことになる。 騎士院の専門課程も50単位中16単位は免除されたので、あわ せて120単位の免除だ。 三百単位のうち、実に四割が免除された計算になる。 372 すばらしい。 *** 夜半までかかった面接が終わり、寮に戻った。 寮では一日中さんざん子どもの相手をしていたのか、寮監がやつ れた顔をしている。 腹が減ったので食堂にいくと、ミャロが遅い夕食をとっていた。 優秀な生徒はやはり面接も多いし、俺と同じで長引いたのだろう。 食事が盛られたトレーを受け取って、ミャロのところへゆく。 ﹁隣いいか?﹂ ときくと、 ﹁はい、よろこんで﹂ と言ってくれた。 食事をしながら話をする。 ﹁こういう仕組みがあってよかった。ミャロも大分免除されたんだ ろ?﹂ ﹁ええ、九十三単位も免除してもらいました﹂ 93単位。 凄いな。 だが、カリキュラム自体は、本当に字も書けない足し算もできな ガ い、という子どもでも引っ張り上げられるように作られているのだ。 ヴァネス 十歳といえば小学五年くらいにもなるのだから、普通に実家で家 373 庭教師や塾に通わせてもらって勉強してきた子どもは、言うなれば 小1∼小5までの講義は免除されて当たり前ということになる。 俺はだいたい、少し頭のいい教育の行き届いた子どもなら、30 ∼40単位くらいの免除は堅いと見ていた。 それにしたって、93単位というのは凄い。 ﹁やっぱり、ミャロは頭がいいんだなぁ﹂ わかってたことだけど。 ﹁そんなことはありませんよ。ユーリくんはどうだったんですか?﹂ ﹁百二十単位だな﹂ ミャロがスプーンを落とした。 木製のトレーにカランと転がる。 なんだ、やっちまったか。 だが嘘を付くわけにもいかない。 ﹁まあ、言っちゃなんだが、俺もそれなりには勉強してきたからな﹂ 過分な謙遜は良くないことに繋がるというのは、キャロルの件で 懲りたしな。 それなりに努力もしたんだということにしておこう。 実際、サツキに相当してやられてきたわけだし。 ﹁な、なるほど。それにしても凄いですね。最高記録じゃないんで すか?﹂ ﹁どうだろう、分からんけどな﹂ 最高記録とかやめてほしい。 こっちはズルしてるようなもんなんだから、いたたまれなくなる。 374 ﹁記録はどうでもいいが、卒業が楽になるのは嬉しいな。すぐ卒業 できればいいんだけど﹂ ﹁そうですね。でも、騎士院はあまり早く卒業はできないらしいで すよ﹂ え? ﹁どういうこと?﹂ ﹁騎士院は実技がありますから﹂ ああ、そういうことか。 順番に一つ一つこなしていかないといけない講義があるんだ。 掛け算の講義は足し算の講義を修了させてから取りなさい、とい うような。 階段を登るように実技を一つ一つクリアすると何年もかかるんだ ろう。 ﹁なるほどな、実技は順調にいくと何年かかるんだろう﹂ ﹁理論上は七年ですね﹂ スラスラとでてきた。 やっぱりミャロはなんでも知ってる。 ﹁じゃあ、卒業は上手く行けば十七か﹂ といっても、普通は二十五歳くらいまでかかるとルークは言って いたし、実際は七年では無理なんだろう。 例えば、単位取得に高校三年レベルの技量を要求される上級柔術 375 実技というのがあったとして、それを中学三年のうちに受講資格を 得ても、なかなか取得はおぼつかないだろう。 経験は才能と努力で穴埋めできるとしても、体格や体力の問題は いかんともしがたい。 そういうのがいっぱいあって、最短で七年のところを、なんだか んだやっぱり十五年はかかってしまうという感じなんだと思われる。 ﹁いえ、どんなに才能があって強くても、最後の実技は二十歳にな っていないと落とされると聞きました﹂ あら。 そういうことでもないようだ。 ﹁なんでだ? 早めに卒業させてくれないのか﹂ ﹁場合によっては、騎士は号を貰ったらすぐに戦場に行くので、い くら才能があっても身体ができていないうちに号を与えるのはどう かという話のようです﹂ ﹁ああ、そういうこと﹂ シャン人は成長のスピードが遅いからな。 十歳くらいまでは俺の記憶にある地球の人類と同じくらいのスピ ードだが、二十歳になっても高校生くらいにしか見えない。 二十五歳くらいでやっと大人に見える。 見た目は全然若々しくて、まさにこれからが人生の本番って感じ だ。 十七歳はまだまだ子どもなので、戦場に行く年齢を考えると、二 十歳でも少年兵という感じがする。 才能が満ち溢れて十七歳で卒業できるような人材を、まだ成長途 376 中のうちに戦場に送り出して戦死させてしまうのは、あまりにも惜 しい。 そういう意味で、二十歳というのは学院側の妥協点なのだろう。 ﹁じゃあ、あんまり急いでも意味がないんだな﹂ ﹁そういうことになりますね﹂ といっても、二十歳で卒業するには、それなりに頑張らなければ いけないのだろうけど。 それにしたって、十分に免除を受けていれば、それほど困難とも 思えない。 ﹁教養院も同じなのか?﹂ ﹁教養院はいくらでも早く卒業できます。むしろ早く卒業したほう がハクがつくので、急ぐ人が多いですね。免除の重要性も騎士院と は段違いですし﹂ へー、そうなんだ。 ﹁ミャロは物知りだなぁ﹂ ﹁そんなことありませんよ。つまらないことをたくさん知っている だけです﹂ 別につまらないことではないと思うが⋮⋮。 ﹁そういうのってどこで覚えてくるんだ?﹂ ﹁まあ、こういうつまらない事を覚えるのが魔女家の稼業みたいな ものですから﹂ そうなのか。 ﹁なるほどな、歴史のある家は違うってことか﹂ 377 ﹁そうですね。ボクの家も一応は七大魔女家ですから。歴史だけは 大皇国まで遡れます﹂ 大皇国まで遡れるとは大したものだ。 ホウ家もその時代まで遡れることには遡れるが、その時代はスカ ンジナヴィア半島南部の農村地帯にいる、普通の農家だったらしい。 そのうち、名も残っていないご先祖様が頑張り、ただの農家から 富農になって、ホウ家を名乗り始めた。 そのうち豪農みたいになり、戦後に皇国が崩壊すると、ドサクサ に紛れて切った張ったを繰り返し、南部一帯を領地とする地方豪族 のような存在になった。 そうしてシヤルタ王国ができたときに、ほうほうの体で中央から やってきたシヤルタ・フル・シャルトルに取り入り、または懐柔さ れ、将家として南部を任されるようになった。 つまりは成り上がり百姓家だったわけだが、それももう九百年近 く昔の話だ。 成り上がりも九百年も続けば、歴史ある名家ということになるだ ろう。 だが、家系図は豪族になってからのものしかないから、胸を張っ て大皇国時代まで遡れますとは言えない。 ﹁どんなことをしているのか想像もつかないな﹂ 王城で真面目に仕事してるんだろうか。 ﹁別に何もしてませんよ﹂ ミャロは平気な顔で言った。 ニートじゃあるまいし。 そんなこたーないだろ。 378 ﹁何もしてないってことはないだろ﹂ ﹁いえ、うちは驚くほどなにもしてませんよ。脅迫屋のマルマセッ トとか、陰謀好きのシャルルヴィルなんかは忙しそうですが、うち なんかは彼女らの腰巾着をしていれば黙っていてもお金は入ってき ますから。妙な暗躍をすると逆に怒られますし﹂ 少し皮肉げな口調だった。 そうか。 下手なことをすると怒られる窓際族みたいなもんか。 社長の親戚だから首にできないけど⋮⋮みたいな。 考えてみれば、たしかにギュダンヴィエルというのは名前だけ覚 えているがなにをしているのかはサッパリ知らない。 なにもしていなかったからか。 ﹁ふーん、そうなのか﹂ ﹁ホウ家のほうがずっと凄いですよ﹂ ﹁そうか?﹂ どうなのかな。 まあ、凄いっちゃ凄いけど。 ルークもあれでちゃんと仕事してるしな。 ﹁将家の歴史は栄光と名誉で満ち溢れています。魔女家なんて偉ぶ っていますけど、誰かの為になることなんて一つもしてませんから﹂ なんだ。 魔女家をディスった。 ミャロはウチの実家のファンかなんかなのかな? 379 ﹁そういわれると悪い気はしないな。まあ、俺は将家に入るかどう かわかんないけどな﹂ ﹁えっ?﹂ ミャロは目を丸くした。 かなりびっくり仰天とした顔だ。 ちょっとおもしろいな。中々みれない顔なのかもしれん。 ﹁ユーリくんは将来はホウ家の当主になるのでは?﹂ ﹁いや、違うよ﹂ ﹁えっ﹂ ﹁俺を当主にするか、イトコに婿を取らせるかって話なんだ。俺は もともと牧場主の息子だしな﹂ ﹁???? イトコさんに婿を取るというのは次善策ですよね? ユーリくんはこんなに優秀なのですから、何事もなければ、ユーリ くんが当主になるに越したことはないでしょう?﹂ ﹁いや、あんまり騎士院が水にあわないようだったら辞めていいっ て話だしな﹂ ﹁⋮⋮え﹂ ミャロはなんだか愕然としていた。 信じられない、みたいな顔だ。 なんだ、そんなに悪いこと言ったか。 おもいっきり失望させちまったのかもしれない。 ﹁もともと俺はトリ牧場の牧場主になるつもりでいたからな。騎士 に向かなかったら牧場主の仕事も悪くないと思ってるし﹂ 380 ﹁えっ、牧場主って、もしかして冗談じゃなくて本気で言ってるん ですか?﹂ ﹁冗談じゃないけど。牧場主だって立派な仕事だろ?﹂ 牧場主は立派な仕事だ。 俺も、三年もすれば騎士になって当主になるのも悪くはないよう に思えて、むしろそれを望むようになるのかな、と思ったこともあ った。 前の人生じゃ、片田舎の小金持ちの息子ってだけで、財閥の御曹 司でもなんでもなかったんだから、そんな選択を迫られるようなこ とはなかったし。 だが、実際に時間が経ってみると、今もだが、ぜんぜん当主にな りたくない。 だって、ルークを見てるとべつに全然楽しそうでもないし、不幸 には見えないが、以前にもまして幸せそうとも思えないのだ。 もちろん、自由に使える金は前と比べたら断然増えたし、社交界 ではちやほやしてもらえるし、スズヤは手を荒らして冷たい水で洗 濯をしなくてもよくなった。 だが、それは幸せとは直結しない。 ルークもスズヤも俺も、前の生活のほうがよかった。と思ってい るはずだ。 俺もルークと同じでトリ牧場の運営のほうが性に合ってる気がす るので、あっちのほうがいい。 今となってはシャムにも情が湧いたし、シャムに不幸な結婚をさ せてまで役目を放り投げるくらいなら、俺が当主になってもいいか とは思っているが、シャムに一目惚れして両想いになる白馬の騎士 みたいのが現れたら、喜んで役目を譲るだろう。 381 ﹁うっ⋮⋮それは確かにそうですが。ユーリくんはなりたくないん ですか?﹂ ﹁どうだろうな﹂ これキャロルと同じパターンじゃん。 せっかく将家に生まれたのに、騎士に誇りを持たないとはどうい うことだ。けしからん。 っつー感じの。 騎士といっても、そのへんの野郎ならそんなことも考えないだろ う。 眉を潜めはするだろうが、怒りはしないと思う。 だが、ミャロは次席か三席だ。 相応の努力もしてきたはずだ。 下手すると俺がいなかったら主席になってたかもしれない。 慎重に答えを選ばないとな。 ﹁牧場主も性に合ってる気がするし、イトコ次第だな﹂ ﹁えっ⋮⋮いや、ボクがどうこういう事ではないですが、ユーリく んは向いていると思いますよ。勉強だけではなく度胸もありますし﹂ ﹁そうか? 俺なんて根性なしだけどな﹂ 度胸があったら前の人生であんなことにはなっていない。 権威にやり込められて、女に振られて傷ついて、閉じこもったク ズが俺だ。 俺に度胸はない。 ﹁まあ、このまま行くと、俺が当主になっちまいそうな感じではあ 382 るんだけどな﹂ ﹁そ、そうですよね⋮⋮そうですよ、ね﹂ なんだか目が虚ろになっている。 なんでこんなにショックを受けているんだ、こいつは。 あんまり関係ないことだと思うが。 ﹁それより一緒に時間割を考えようぜ。なるべく一緒の講義のほう が楽できるよ﹂ ﹁は、はい。そうしましょう﹂ 383 第025話 初めての講義 翌日の午前から講義は始まった。 俺たち一年生は、制服を脱ぎ、学院に指定された運動着を着て、 運動場に集合した。 運動場は、だだっぴろい。 長方形の土がむき出しになった庭で、日本の学校にあった校庭に 近い。 ただし、楕円形のラインが引いてあるわけではない。 ただ整地してあるだけだ。 それでも綺麗に整地してあり、丘になってしまっているところや 谷になってしまっているところは全くなく、草も引っこ抜いてあっ て、粒の小さい砂利石みたいのが撒かれている。 どんな訓練をさせられるんだろうな。 まあ、こっちも貴族なんだからあまり酷いことはしないだろう。 ﹁今日は走りこみを行う。俺がいいというまで走れ﹂ 教官が言った。 えっ⋮⋮。 わりとスパルタなのか? ま、まあこんなものか。 本格的な運動をしたことがないやつに、それを仕込むには、まず 384 走りこみをさせる。 きっとお決まりなのだろう。 ﹁返事はハイだ!﹂ ﹁⋮⋮﹂︵戸惑い︶ ﹁ふざけるな! 大声でハイと返事しろ!﹂ 教官に怒鳴られると、 ﹁ハイ﹂﹁はい﹂﹁ハイッ!﹂ と各々が返事した。 イイエはないのだろうか。 まあ﹁返事はレンジャーだ!﹂とか面白いことを言われるよりは マシか。 ﹁なにをしている!!! 走り込みをしろと言ったろ!!! さっ さと走り始めろ!!!﹂ そういわれても、子どもたちは戸惑うばかりだ。 この国の人間は小学校から団体行進の練習をしているわけではな いのだから、そりゃ戸惑うだろう。 そもそも、校庭のどこを走っていいやらわからない。 ラインが引いてあるわけではないし、こんなところを走るのも初 めてなのだから。 シャトルランみたいに同じ所を行ったり来たりする子もでてきそ うだ。 教官も大声は出しているが苛立っているわけではないようだ。 毎年のことなのだろう。 385 ﹁おいっ、じゃあお前から走れっ!﹂ そう言われたのは俺ではなかった。 ﹁わ、わかった﹂ 戸惑いがちにそう言ったのは、キャロルだった。 キャロルも参加している。 長い髪を後ろでまとめている。 同じ運動着を着ているが、女の子自体ひとりきりなので、明らか に目立っていた。 それにしても、よりにもよって自分の国の王女をのっけから怒鳴 りつけるとは。 この教官もなかなか見上げた根性をしておる。 ﹁返事はハイだ!﹂ ﹁はっ、ハイ!!!﹂ ﹁よしっ! いい返事だ。俺が走るからついてこい﹂ ﹁ハイ!!!﹂ 教官が走り始めると、キャロルはその後ろをタッタと走りながら ついていった。 結局教官から走り始めるのかよ。 まあ、これも毎年の恒例なんだろうな。 その後ろに運動大好きグループみたいのがついていって、他が追 走を始めた。 386 *** 俺もトコトコと校庭の外周を走りはじめた。 遅いも早いも同じ外周をトットコトットコ走っている。 教師はその中を練り歩くように走って、脱落しそうなヤツに檄を 飛ばす係をしているらしい。 ﹁おいっ! そこ勝手に休むなっ! 走れっ走れっ!﹂ 生徒の中には運動などまるでしてこなかったと見える小太りの子 どももおり、そういう子たちは上手く走れないようだ。 走りはじめてすぐ、一キロも走らないうちに音を上げ始めている。 つまるところ、この運動はこういう子たちを矯正するのが主目的 なんだろうな。 ﹁そんな根性なしでは騎士はつとまらんぞ! おいっ足を止めるな っ!﹂ 脱落しようとする生徒の背中を押しながら、無理やり走らせる。 こら大したもんだ。 立派なブートキャンプや。 そんな中、俺はまあまあ大丈夫だった。 屋敷に入る前から毎日のように干し草を運んだりトリフン片付け たりしていたし、後になってはソイムにしごかれ、体力はそれなり についている。 それに加えて、そもそも俺は頑張ろうとも思わず、ミャロに合わ 387 せてチンタラ走っていたので、ぜんぜん息切れしなかった。 一人二人と体力の限界を迎え脱落していくなか、俺はやっと調子 が出てきた感じだった。 一方、俺の横で走っているミャロは、残念ながら下から数えたほ うが早い模様であった。 ﹁すっすいませんっ、ボクはもう⋮⋮﹂ 根性がないわけではなく、顔が青くなって足下がガクついてくる まで健気に走り続けたのだが、ついに限界を迎えた。 ﹁よく頑張ったぞ、ナイスファイト﹂ ﹁な、ナイス?﹂ ﹁健闘したって意味だ﹂ ﹁ありがと、ございます﹂ ばいばいと手を振ると、ミャロは脱落して後ろのほうへ消えてい った。 ミャロは、教官の水準でまずまず走ったと認められたのか、怒ら れなかった。 校庭の真ん中のほうに入り、首尾よく体育座り組の仲間入りをし た。 それからも俺はマイペースに走っていた。 一人消え二人消え、十人消え、あんまり人がいなくなっても走り 続けた。 そのうち、背中がバシンと平手で叩かれた。 誰だと感じる間もなく、 ﹁おいっ、俺についてこい﹂ 388 と教官の声がかかり、俺を追い抜いていった。 キリがないので、生徒を回収してダンゴに纏めて走ることにした のか、とすぐ察しがついた。 速度がグンと上がる。 体力に自信のある俺でも、この速度ではそう長くもたないだろう。 まあ俺もダラダラ長く走っていたくはないから、これはこれでい いか。 でもやっぱりミャロみたくなるまで走らないと許してくれないの かな。 ペースを上げると、今まで頑張ってきた者たちもポロポロと脱落 していった。 教官はそいつらを追わない。 追わないというか、彼自身がペースメーカーになっているので、 追えない。 どちらにせよ、今もまだ走っている生徒は体力的に及第点なので、 構わないのだろう。 そのうち、俺と、あと二人の三人だけになった。 三人だけ。 俺とドッラとキャロルだ。 ドッラはともかく、なぜキャロルがいる。 不思議だった。 王女様なのに、なぜこんなに体力がある。 ﹁お前には負けないからな﹂ 389 ドッラである。 もう死ねよこいつ⋮⋮めんどくさい⋮⋮。 ﹁私も、お前には、絶対に、はぁ、負けん﹂ キャロルもなぜか張り合ってくる。 わけがわからん。 俺がなんか悪いことしたか。 俺はお前にビンタされた覚えはあるけど、逆に何かした覚えはま ったくないのだが。 無意識のうちにおっぱいでも触ってたのかな。 ﹁はあ、はあ、俺はもう限界だ﹂ わざとらしく演技をしてみる。 ﹁ふざ、けるな﹂ キャロルに怒られた。 軽く殺意が篭っている気がする。 こわい。 ちなみに疲労の加減からするとキャロル>ドッラ>俺の順番でキ ツそうだ。 これは体力の問題ではなく、本格的に走りだす前に俺はサボって いたのだから、俺が一番つかれていないのは当たり前なのだ。 よってこれは競争としては成り立たない。 なぜ意地の張り合いと化すのか、わけがわからない。 とにかく、このままでは俺がトップになってしまう。 そもそも傍目から見てもキャロルは明らかに限界を超えていて、 根性だけを燃料に走っている感じなのに、何故﹁お前には絶対に負 390 けん﹂などと言ってくるのだろうか。 俺は勝ちたくないのに、このままでは勝ってしまう。 新手の嫌がらせかよ。 ﹁よしわかった。競争だな。やってやるぜ﹂ 俺が元気にそう言うと、二人がこっちを睨んできた。 勝負開始って感じだ。 ﹁だが、俺の見るところによると、お前らは俺より一周多く回って いる。これじゃ公平じゃない﹂ 頑張り屋の二人は、チンタラ走っていた俺より先に行っていたは ずだ。 先に行っていたのに、教官に引き連れられて合流した時には後ろ から来たのだから、そのとき俺は一周周回遅れになった計算になる。 ﹁だから、俺は、これから、教官を追い抜いて一周回ってくる。そ れからスタートだ﹂ 二人はギョっとした目で俺を見た。 教官は既に完全に落としにかかっているスピードで走っている。 それを追い抜いてさらに一周して戻ってくるというのだから、こ れはもう相当の難事だろう。 短距離走のようなスピードで一周を激走しなければならない。 だが、それが俺の狙いである。 途中で脱落大いに結構。 391 勝負好きどもの不毛な争いには巻き込まれたくない。 多少辛くてもさっさと終わらせたい。 途中で脱落すれば俺の負けだ。 おっしゃいくぞ。 俺は短距離走のごとく走りはじめた。 あっという間に教官を追い抜いて、先をゆく。 後ろから誰かが駆けてくる気配がする。 教官が俺の頭をひっぱたくために追いかけてきたのか。まずかっ たか。と思い、振り向くと、教官は相応な後方にいた。 ドッラだった。 わけがわからん。さっきの話を聞いていなかったのか、アホめ。 ﹁アホかお前。なんでついてきた﹂ ﹁お前が一周遅れなら俺も一周遅れだ!﹂ ???? こいつ本気で知恵遅れか? ﹁俺は、お前の後ろをずっと走ってた﹂ あー。 そういうこと。 察しがついた。 てっきりドッラは俺よりずっと先を真面目に走ってると思ってい 392 たが、違ったのだ。 それは逆で、こいつは最初の最初から俺と謎のかけっこ勝負を一 人で勝手にしていたのだ。 俺がミャロとチンタラ走ってた時から、ストーカーのように後ろ を追尾していたのだろう。 つまりこいつは俺より遅く走っていた。 ﹁どんだけアホなんだよ、めんどくせぇ﹂ あ、しまった。口に出てしまった。 ﹁なんだとぉぉぉ!!!﹂ 案の定怒った。 まあいいや。 抜かれて負かされても悔しいことなんてないし。 タッタカタッタカ走って、流石に息が散々に乱れ、足がガクつい てきたとき、ようやっと一周して追いついた。 大分疲れて足が笑っている。 こりゃもう脱落しても構わないだろう。 だが、それを拒むやつが後ろにいた。 ﹁ヒッハーヒッフー、ハーフー、ヒヒャアー﹂ 顔を真っ青にして追ってきているドッラだ。 ドッラは大分後ろにいるがまだ脱落した様子はない。 追いつこうと、萎える足を叱咤しながら走っている。 つーか、叱咤どころかホントに足を殴りながら走っている。 393 こいつがこんななのに、俺が先にギブアップしたら、なんだか変 だ。 さすがに恥ずかしい。 男として恥ずかしい。 そう思わせる走りぶりであった。 男として恥ずかしいなんて感情が俺の中に発生すること自体が自 分でも不思議だったが、ドッラがこんな風になってまでまだ走って いるのに、まだけっこう走れる俺が﹁ふー、もう限界☆ 疲れちゃ って一歩も走れない☆﹂なんて言いながら額の汗を拭っている光景 を想像すると、さすがに嫌気が差す。 もうちょっと走ろうと思う。 ﹁かっこ悪いと、思うか?﹂ キャロルが聞いてきた。 なんだこいつ? ﹁後ろで走ってる馬鹿のことか?﹂ 思わずそう言ってしまうと、キャロルはギロリと睨んできた。 別に馬鹿にしているわけではないが。 いや馬鹿にしてることになんのか。 常に馬鹿だと思っているんだから常に馬鹿にしてることになるか。 ﹁そうだ﹂ やっぱりそうらしい。 394 ﹁いや、かっこいいと思うぞ﹂ すると、剣呑な表情が溶け、意外そうな目で俺を見た。 ﹁馬鹿だがガッツがある。あれはあれで大したもんだ。俺にはとて もできない﹂ 努力のしどころを全く間違えてる気がするのは置いておいて。 ﹁そっか﹂ キャロルはなぜか薄く微笑んだ。 ドッラは結局、俺の背中に追い付くことなく、徐々に置いて行か れて距離が離れ、パタリと倒れた。 一周まわって倒れ伏したまま動かないドッラを教官が世話しだす と、俺とキャロルは、どちらともなく走るのをやめた。 足を止めると、どっと汗が噴き出してきた。 息が乱れ、軽く目眩がする。 ﹁はぁ、はぁ、かけっ比べはもういいのか﹂ ﹁ハーハー⋮⋮いい﹂ なんだ、もういいのか。 はあ疲れた。 なんだったんだろう、一体。 ﹁屑に負けるのは我慢できなかったが、お前はかろうじて騎士の心 を持っていることが解った。だからもういい﹂ ???? 395 騎士? つーか、俺っていままで屑だと思われてたの? 性根が屑なことは否定しないが、屑だと思われるようなことした っけ。 どちらかというと、親切にした覚えのほうはあるのだが。 しかもなんだか解らんうちに俺という人物の再評価は進んでいた らしい。 屑から真人間にレベルアップだ。 わけがわからぬ。 こいつの頭のなかはさっぱり掴めぬ。 さっぱり解らない以上はこれ以上なにか言って刺激するのもマズ イ。 ほっとこう。 もうしらん。 *** 順番に水浴びをしたあと、昼食を食って午後になった。 基本的に午前は実技、午後は座学となっているらしい。 自然、午後は同級生たちとは離れることになる。 今日の午後は上級算盤の講義がある。 講義室へ向かおう。 残念ながら、ミャロは同じ時間に開催されている別の講義に行っ 396 ているのでいない。 ひとりぼっちだ。 思えば大学でもぼっち講義は多かったな。 講義室に入ると、三百人くらい座れる講義室に人がいっぱい居た。 そろばん教室みたいな小さなものを想像していたら、そうでもな かった。 俺もけっこう早く来たのに、こんなに混んでるのか。 まあ、一般科目は教養院のほうからも人がくるから、人が多いの かもしれない。 俺は適当な席に座った。 そして、かばんからマイそろばんを取り出して机に置いた。 やることがなくなった。 ﹁よう、あんた騎士院の子か?﹂ いきなり隣の奴に話しかけられた。 そっちをみると、なかなかのイケメンが座っていた。 歳のころは、どうだろう、二十前くらいに見える。 日に焼けてとても良い体格をしている。 俺も騎士院の男たちを見ているが、良い体格をしている連中はた くさんいるものの、焼けているやつはあんまりいない。 シャン人の肌はなかなか焼けないのだ。 普通に屋外労働をしていても、まぁちょっと黒くなったかなくら いで、小麦色にはなかなかならない。 体質もあるのだろうが、地域柄、紫外線が多くないのが要因と見 ている。 397 ﹁こんにちは。いかにもそうですが﹂ ﹁俺はハロル・ハレルだ﹂ ハロル・ハレル。 苗字は聞いたことがない。 つーか、聞いてもいないのに、名乗りおるとは。 なんつーか馴れ馴れしいな。 ﹁ユーリ・ホウです﹂ ﹁おお﹂ ハロルは大げさに驚いたふりをした。 ﹁ホウ家の跡取りか。有名人に出会っちまったな﹂ どいつもこいつも俺の名を知ってやがる。 ちょっと気味が悪いな。 自分の力でノーベル賞でも取ったのならともかく、何もしてない のに有名人というのは。 ﹁有名人かどうかは知りませんが﹂ ﹁あんた、ここにはスキップできたのか?﹂ スキップ? なぜルンルン気分でこんなところにこなければならない。 いや、免除のことか。 ﹁ええ、そうです﹂ ﹁俺は去年から学院の授業を受けてるんだ。親父の跡を継ぐことに なったんでね﹂ 398 去年から? どういう意味だろう。 こいつ二十前に見えるけど。 騎士院も教養院も、十歳から入学可ということで、別に二十歳か ら入学するのもできなくはないらしいが、やっぱり浮くし、俺の年 では年齢が違う同級生はいない。 去年からというと、どう考えても年代が合わないのだ。 よほど年かさになってから入学したことになる。 まあ事情があってそういうことになることもあるだろうけど。 ﹁失礼ですが、あなたはどちらの学生なんですか?﹂ ﹁俺は聴講生だよ﹂ ??? 聴講生とは? ﹁騎士院でも教養院でもなく、一般人ということですか?﹂ 思えば、制服のようなものを着ていない。 まるっきりカジュアルな私服だ。 ﹁知らないのか? 一般から来ている聴講生はたくさんいるんだよ。 ここの野郎どもも、半分くらいはそうなんじゃないか﹂ え、マジで? そんなの初めて聞いたけど。 しかし半分といえばかなり多い。 なるほど、半分は一般人だったわけか。 399 よく見りゃ服装も様々だ。 ﹁それってなんか得になるんですか? 資格がもらえたりとか﹂ ﹁資格は貰えないが、聴講料は安いし、教師の質もいいからな。遠 くから来て聴講生をやっているやつも多いよ﹂ ﹁純粋に学問のために来ているわけですか﹂ そりゃまた偉いもんだ。 ﹁そんな大層なもんじゃないさ。俺なんか商人の子だから算盤は覚 えなきゃなんないしさ。読み書きもできなきゃ同業に馬鹿にされち まうだろ? 多少は教養もないと貴族様と仲良くもなれないわけだ﹂ ほほー。 義務教育がないぶん、自主的にこういう所に通って学を身につけ ガヴァネス るわけだ。 ガヴァネス 家庭教師を雇うよりは安くつくんだろうな。 それに家庭教師なんか雇っても、場合によっちゃ教えられた知識 が正しいとは限らない。 だけど、ここなら大貴族様と同じ講義を受けているわけだから、 そういう心配はないわけだ。 ﹁各々必要な講義だけとっているわけですか。じゃあ必修とかもな いんですね﹂ ﹁そういうことになるな﹂ ﹁なるほど、色々教えてもらってありがとうございます﹂ ﹁いやいや、構わんよ﹂ さすがに大人だけあって、大人の対応だった。 ﹁ところで、ハロルさんのところは商人をやってるって言いました 400 よね﹂ 商人の子だと言っていた。 ﹁どんな商売をやっているんですか?﹂ ﹁うちは貿易だな。船乗りだ﹂ ﹁キルヒナのほうに?﹂ 貿易なんつったって、貿易相手国はキルヒナしかない。 ﹁そうだな﹂ やっぱりバルト海をわたって貿易をしているらしい。 あーあって感じだ。 キルヒナが滅びたら商売ができなくなる。 キルヒナは現在進行形で攻められていて、しかも劣勢なのだから、 あまり将来性がある商売とは言えないだろう。 ﹁戦争のほうは大丈夫なんですか?﹂ と俺が聞くと、ハロルはなんだか嫌なことを思い出したような顔 になった。 ﹁あがったりだな﹂ なるほど。 業界は厳しいらしい。 ﹁そんなですか﹂ 俺の認識と違って、キルヒナはかなり風前の灯なのだろうか。 ﹁うちが運んでた商品の産地がな。トガ領って場所なんだが、潰さ れちまったからな﹂ なんだ、キルヒナが滅びる一足先に商売が成り立たなくなったわ けか。 401 ﹁なるほど、そういうわけですか﹂ ﹁他の商品はまた別の商人のシマになっちまってるから、手はだせ ないしな﹂ そりゃ大変なこって。 そんなんなら継がなきゃよかったのに。 ﹁難しいですね﹂ 倒産寸前の会社を継いだようなもんだ。 この世界には有限責任なんていう良心的な制度はないだろうから、 商会が倒産したら無限責任で丸裸にされるはずだ。 丸裸になる前に自分から潰してしまえば、そうならずに済むが、 長年やってきた家業というのは、そう簡単に切り離せるようなもの ではないだろう。 新しい商品でも開発できればいいんだけどな。 成功するに決まっている商品のアイデアは幾らでもあるが、彼ら は別に作る側ではないので、言っても仕方ないだろう。 口を出してやる義理もないしな。 ﹁それでも、ハレル商会を潰すわけにはいかないからな。俺が頑張 らねえと﹂ ハロルは切羽詰まった顔をしていた。 なにやら責任感があるらしい。 ﹁頑張ってください﹂ まあ、せいぜい頑張れ。 陰ながら応援してるさ。 と思った時、ふと考えついた。 402 ﹁そしたら、クラ語を覚えてクラ人と貿易したらどうですか?﹂ シャン人がだめならクラ人と貿易したらいいんじゃないの。 ﹁クラ人と?﹂ はてなという顔になった。 ﹁クラ人のほうは我々を毛嫌いしているそうですが、別にこっちに クラ人と取引しちゃいけないって法があるわけじゃないでしょう。 間諜のような真似をすれば死刑でしょうけれども﹂ ﹁そうなのか?﹂ ﹁いや、僕は法律家じゃないんで知りませんけどね﹂ 我ながら、まったく無責任な話である。 とはいえ、思いつき話だしな。 ﹁まあ、調べてみるか。だが、商売できるのかな﹂ ﹁どうでしょうね。最初にツテを作るまでが難しそうですけど。こ っちはともかく、向こうはシャン人と貿易するのは禁止でしょうし﹂ ﹁そうなのか?﹂ ﹁いや、知りませんけどね。でも、たぶんそうなってると思います よ﹂ 知らんけど。 だけど、普通は戦争をするとなれば、前段階として国交断絶があ る。 いわゆる断交だ。 それは、こっちの世界でも元の世界でも変わらないだろう。 なぜ断交するかといえば、勝手に自国民が旅行にいったりして、 戦争相手国に捕虜や人質にされたりしたら面倒だからだ。 だから予め国境を封鎖して、人の行き来を禁ずる。 403 それは当然の措置であるはずなので、こっちの世界では事情が違 う、ということはないだろう。 だが、何事にも裏口のようなものはある。 儲けで動く半分ならず者みたいなやつと商売すりゃいい。 これは馬鹿でも考えつくことなので、ハロルも解っているはずだ。 ﹁でも、よっぽど上手くやらないと最初のツテを作る前に殺されち ゃうかもしれませんね﹂ その可能性は高そうだ。 ﹁うーん⋮⋮﹂ ハロルは考え込んでいた。 ﹁向こうで捕まったら、問答無用で奴隷らしいからな﹂ そうなのか。 ﹁軽々しく言ってしまってすいませんでした。やっぱり難しいもの ですね﹂ 俺の一言でクラ人の島にでも乗り込んで、こいつが奴隷にされた らちょっと夢見が悪いぞ。 ﹁いや、面白い﹂ ﹁うっ⋮⋮そうですか?﹂ ﹁面白いかもしれねぇ﹂ 二度いった。 二度いうということは、よほど興味をもったのだろう。 自分が言っといてなんだが、やめておいたほうがいいと思うが。 ﹁危ないですよ﹂ ﹁やってみる価値はある。こっちも海賊の相手は慣れてるしな﹂ ﹁⋮⋮そうですか﹂ 404 海賊というのはクラ人の海賊だろうな。 一人で﹁うん、うん﹂とか頷いてるハロルを尻目に、授業が始ま っていた。 405 第026話 クラ人という人種 それから数日して、待望のクラ語講座の日がやってきた。 教室に入ると、他の講義と違って、殆ど人がいなかった。 商人のハロル・ハレルとミャロ、その他は五人くらいしかいない。 一般人の参加がないからだろう。 ハロル以外は。 この期に及んで、この国の人らは、まったく必要性を感じていな いのだろうか。 そもそもシャン人に国際感覚なんてものは存在しないのかもしれ ない。 クラ人というのは、例えば黒人と白人といったレベルではなく、 性交渉しても子供ができないレベルでシャン人とは別人類らしいの で、最初から別人類と外交しようという発想は芽生えないのだろう か。 または、九百年間も内輪で、鎖国というか重商主義のような外交 をしてきたから、外国語を学ぶという発想がないのかもしれない。 ミャロの隣に座った。 ﹁こんにちは﹂ と挨拶してきた。 ミャロは俺が取るからこれを取ったのだ。 ﹁うん﹂ といっても、別に話すことはない。 406 朝方にさんざん喋ったばかりだ。 ﹁よう﹂ そこで、俺の隣にハレルがどっかりと座った。 席を移動してきたらしい。 ﹁こんにちは、どうも﹂ ﹁そっちの子は誰だい。紹介してくれよ﹂ ﹁ミャロ・ギュダンヴィエルさんですよ。あ、彼はハロル・ハレル さんです﹂ ﹁どうも、こんにちは、ハロルさん﹂ ミャロはにっこりと微笑んだ。 初対面の人用のよそ行きの笑顔という感じだ。 だが、ハロルの反応は極端だった。 途端に怖気づいたような顔をし、それを態度にも表している。 ﹁よ、よろしく。ギュダンヴィエルどの﹂ なにやら恐縮しておる。 殿って。 俺のときは﹁オッス! ああ、村長さんとこの子かぁ! 腹空い てねぇかぁ!?﹂みたいな感じだったのに。 いや、そんなでもなかったっけな。 ﹁ハレルというと、ハレル商会の方でしょうか﹂ 知ってるのかミャロ。 ﹁お、おう。いや、はい。お聞きに及ばされて光栄で⋮⋮﹂ 言葉が変だ。 ﹁普通の話し言葉でけっこうですよ。ユーリくんと同じで、ボクも 407 気にしませんから﹂ ﹁そ、そうか﹂ ハロルは明らかにほっとした顔になった。 なんだよ。 俺の時は最初からタメ口上等って感じだったのに。 ﹁いかにも。いちおう、ハレル商会の跡取りってことになってる﹂ ﹁ハレル商会って有名なのか?﹂ とミャロに小声で聞いてみる。 ミャロは俺の耳元に口を近づけて話し始めた。 ﹁大商会とはいえない中堅ですが、マルマセットに商売の邪魔をさ れて没落しつつあるという話は聞きました。あそこは賄賂を拒む商 人に嫌がらせするのが仕事みたいなものですから﹂ へー。 マルマセットってのは、タチの悪いヤクザみたいだな。 そのヤクザの一員が教養院の長ってところが、これまたタチの悪 い冗談みたいだけど。 ミャロ だとすると、ハロルがミャロに遠慮してたのは、議員の息子︵俺︶ とヤクザの息子どっちが怖いか、みたいな感じなのか。 どうなんだろう。 ﹁なにを話してるんだ﹂ ハロルは心配そうだ。 言っちゃっていいのかな、とミャロを見ると、いたずらっぽく頷 408 いていた。 ﹁たかり屋の被害にあってるお店だって聞いただけですよ﹂ ﹁ンム⋮⋮まァな⋮⋮﹂ あながち間違いではないらしく、ハロルは憤懣やるせないような 顔をしている。 ミャロの手前愚痴も言えないんだろう。 ﹁ハロルさんはなんでクラ語を?﹂ ミャロが話題を替えた。 ﹁あ、ああ。こないだこい⋮⋮この子と﹂こいつって言いかけたな。 ﹁この子と算盤の講義で一緒になったとき、仕事がないならクラ人 と取引すればいいんじゃねえかって言われたんだ。それでな﹂ ﹁クラ人と⋮⋮ですか?﹂ ミャロは少し眉根を寄せていた。 ﹁親父もいい考えだと言っていたからな、早速申し込んで、この講 義に来たわけだ﹂ ﹁ちょっと思いついただけなんだが、なんか問題あるかな?﹂ 気軽にそう訊くと、ミャロは少し考え込んだ。 ﹁問題はないと思いますが、いろいろ困難がありますよね﹂ 困難があるという言い方はミャロらしい。 ﹁殺されたりとかな。まあ、それでも構わないらしいけど﹂ ハロルはうんうんと頷いている。 ﹁それはいいんですが、困難にあたって付随する行為が問題になる 409 かもしれませんね﹂ ﹁どういうこと?﹂ 困難にあたって付随する行為? シャン語が大分得意になった俺でも。なかなか難しい言い回しだ った。 ﹁問題は取引相手を探すまでの間だと思います。これにはもちろん 危険が伴いますが、殺害や拉致を回避するために、ハロルさんは十 分な私兵を使って退路を確保することを考えるでしょう﹂ ミャロはなにもいわずとも、相手はならず者ということは考慮の うちらしかった。 ならず者相手なのだから、これは当然の措置だろうな。 私兵と言わずとも、船員に武装させて守らせるくらいのことは。 ﹁それはたぶん、クラ人国家の領土に侵入してやることになります よね。問題は、そこで私兵を使って暴れ、クラ人を大勢殺害してし まうと、自衛のためとはいえ、表向きの行為は海賊と同じになって しまうというところです。海賊罪は死刑なので、運良く逃げ延びて も、向こうが国家に訴えて、文書でも送られると、こちらで捕まっ て縛り首になるかもしれません﹂ ああ、なるほど。 そういう方面から違法になってくるのか。 考えもつかなかった。 ﹁ああ、そうか⋮⋮うーん⋮⋮﹂ ハロルはなんだか考えこんでしまった。 410 ﹁でも、危険ですが実入りは大きいかもしれませんね。さすがはユ ーリくんです﹂ なんだかしらんが褒めてもらえた。 ﹁どうだろうな、よく考えたら実際は自殺行為かもしれん﹂ ﹁野心ある商人というのはそういう危険なことに挑戦するものでし ょう﹂ ミャロは当然のことだというふうに言った。 それは確かにそうかもしれない。 ハイリスク・ハイリターンの危険な取引に体ごと突っ込んでガッ ポリ稼ぐか、もしくは権力者に上手く取り入って利権を分けてもら うか、どっちかというイメージがある。 ハロルは後者に向かないのは一目瞭然というか、既に嫌われてし まっているようなので、前者しかない。 三井ではなく鈴木だな。 *** ﹁ところで、クラ語の教師はクラ人らしいですね﹂ ハロルが黙ってしまったところで、ミャロがぽつりと言った。 ﹁え﹂ 知らなかった。 クラ人とかって普通にこの国に住んでるのか。 いや、住んでてもおかしくないけど。 411 ﹁そうなのか、初めて見るな﹂ ﹁ボクも初めてです﹂ そうなのか。 ﹁この国にもクラ人って住んでるのか。何人くらい?﹂ 百人くらいか? ﹁基本的には居住していませんよ。間諜になったら面白く無いです から﹂ まあ、そうだよな。 ﹁でもいるんだろ﹂ ﹁亡命者ですね﹂ あっ。 なるほど。 ﹁クラ人国家に住めなくなった人たちか﹂ ﹁そうです﹂ ﹁でも、普通は東に逃げないか?﹂ ユーラシア大陸は広い。 どうせ異国に逃げ延びるのであれば、東のほうに行けばいいだろ う。 南、つまりアフリカに逃げてもいいし。 どちらにせよ、言葉も通じぬ異人種の、しかも極寒のこの国にく ることはない。 ﹁追手がかかって殺される危険が高い人々が来るようですよ。ここ なら追手のかけようもないでしょう﹂ ﹁ああ、それはそうかもな﹂ 412 確かにここならその心配もない。 暗殺者を仕向けるにしても、途中にいるのは明らかに見た目の違 う異人種なのだから、隠れるにしても難しいし、外は寒いから行軍 も厳しいしで、かなり難易度が高いだろう。 暗殺者というより暗殺団のようなものが必要になってくるだろう し、そしたら人一人殺すのに金が幾ら必要なんだ。という話になる。 ﹁特にヤバい奴らがくるわけか﹂ どうしようもないので修羅の国に逃げざるをえないみたいな。 ﹁さすがに大量殺人とかで追われている人は亡命を許さないようで すよ﹂ ﹁やっぱそうか﹂ デメリットしかないもんな。 ﹁主に政治犯などだそうです。教鞭を取られる先生は異端者だそう ですけど﹂ 異端者。 剣呑な響きだ。 ﹁先生はクラ人の宗教者で、三年ほど前に亡命してきたそうです﹂ へー。 それにしても、なんでそんなことを知っているんだ? 本当にどこで調べてくるのだろう。 *** その女性は普通にドアから入ってきて、トコトコと歩くと、教壇 413 に立った。 二十歳くらいに見える女性だ。 クラ人というその人は、見た目あまりシャン人と変わらなかった。 どこが違うかというと、肌が浅黒い。 シャン人は全員が全員肌の色が薄いので、俺は新鮮な思いがした。 十年以上ぶりに見る人種だ。 あえてアピールしているのか、その女性は長い黒髪を耳にひっか けていた。 耳の形はシャン人とは違い、ちゃんと耳たぶがあり耳の形も丸っ こい。 もちろん、耳に毛などは生えていない。 シャン人の女性と比べて若干背が低く見えるが、これは個人差か もしれないから、クラ人の一般的な体質かどうかは解らない。 つまりは、まるっきり俺の知っている人間だった。 シャン人よりよほど俺の知っている人類に近い。 俺もツノが生えた鬼のような人種を想像していたわけではないが、 クラ人はシャン人と子どもが作れないほど分類学的に離れているの だから、大分容姿が違うのだろうと思っていた。 トルーキンでいえばドワーフみたいな。 これではまるで人間と同じだ。 子どもが作れないと言われるより、できると言われたほうがずっ と腑に落ちる。 なぜ子どもが作れないのだろう? 生物分類でいえば、明らかに亜種程度しか離れていなさそうだけ 414 ど。 顔作りは少しクラ人とは異質だが、この人は眼鏡をかけているの で、むしろ一般的なシャン人より知的に見えた。 この国には眼鏡といえるような眼鏡はなく、ルーペや虫眼鏡のよ うなものを使う。 耳と鼻梁で支持するツル型の眼鏡をみたのは、こちらにきて初め てだった。 ﹁イーサ・ヴィーノと申します﹂ ぺこりと頭を下げた。 ﹁見ての通り、私はクラ人です。女王陛下の情けを得て学院で職を 得ることができました。よろしくお願いします﹂ まだシャン語に慣れていないのか、発音のイントネーションに少 し違和感があった。 だが文法は完璧らしく、文法的な無理は一切ない。 イントネーションに難があるということは、クラ語というのはシ ャン語と発音が大分違うものなのだろうか。 ﹁この講義を始めるにあたって、皆さんに注意事項を説明する必要 があります﹂ なんだろう。 ﹁私が教えるクラ語というのは、まずクラ人の国家全てで通用する 言語ではなく、正確にはテロル語と呼ばれているものです。私は便 宜上テロル語をクラ語といいますが、クラ語というのは本当は何十 415 種類もあることに注意してください﹂ へえ。 まあ、これは想定していた。 こっちは世界をシャン人とクラ人で二分して考えているが、向こ うはそうではない。 世界中に無数にある地域圏の、しかも辺境の一地域で生活する異 人種にすぎないのだろう。 それはシャンティラ大皇国が健在だった時代でも変わらない。 いくら今と比べて大きかったと言っても、モンゴル帝国のように ユーラシア大陸を半分も席巻していたというわけではないのだから、 原則は変わらない。 クラ人には統一言語があります。なんて言われたら、逆にびっく りだ。 まあ、もしかしたら極東のほうには俺の知らない第三の人種があ ったりするのかもしれないけど。 ﹁つまり、テロル語を学んだからといって世界中どこに行っても言 葉が通じるわけではありません。ですが、テロル語は何十種類ある クラ語の中でも、もっとも広範に通じる言語の一つです。そして、 シャン人国家を取り巻く周辺地域で話されている言語でもあります。 また、非テロル語圏に行っても話者は多く、話者を探せば話せない ということはないでしょう。つまり、あなた方が学ぶのにもっとも ふさわしいクラ語であることは間違いありません﹂ 前世でいう英語みたいなものか。 いや、違うか。 416 この水準の人類社会では、国際的な流動性はさほどないだろうか ら、安易に国際言語のように考えるのは危険だ。 残念ながら一地方言語と考えたほうが良いだろう。 ﹁もう一つ。テロル語もといクラ語というのは、講義期間一年では とても習熟できるものではありません。本当は国語などと同じよう に、最低三つの講義に分けるべきもので、本当なら五つくらい、つ まり五年くらいは学習に時間がかかります。ですが、私に与えられ ている講義はこの一コマだけなので、四単位しか皆さんにあげられ ません。 つまり、クラ語の十分な習得を条件に単位を与えるとなると、他 の科目と比べて単位あたり五倍ほどの努力をみなさんに強いること になります。 これはとても不公平になりますので、習得は完璧でなくとも単位 は与えたいと思いますが、私としても学習がまったく進んでいない 状態で単位を差し上げるのは不公平と思いますので、やはり一般的 な科目の倍くらいは努力が必要になると思います。 なので、申し訳ないのですが、この講義はクラ語に興味が無い方 にとっては、いってみればあまり旨味のない講義ということになる でしょう。 私としてはとても残念ですが、これを聞いて嫌になった方は講義 を変更することをお薦めせざるをえません。もちろん、残った方に は誠心誠意クラ語をお教えしますし、課外でも習得のお手伝いをさ せて頂きます﹂ ふむふむ。 非常に長ったらしく説明してくれたが、つまりは学院側がクラ語 を軽視しており、単位をケチっているということらしい。 四単位といわず初級中級上級とわけて十二単位くらいはくれれば 417 いいのに。 そうしたら、腰を据えていっちょやってみるかという連中も現れ るだろう。 しかし、五年というのはどうなんだろう。 週一コマの授業を五年やるだけで、一から外国語がマスターでき るものだろうか。 それはちょっと楽観的なような気がする。 俺などは、大学四年間で英語をずっとやっていたが、無理だった。 論文程度は書けたが、向こうの研究者と専門的な会話を苦もなく できる、といったレベルに達することはできず、イントネーション にも癖が残った。 ﹁それでは、講義を始めたいと思います。まずは、基本的なクラ語 とシャン語の違いから解説します。私もシャン語が完璧ではないの で、わからないところがあったら随時質問してください﹂ 講義が始まった。 もったいないことだが羊皮紙に要点を書き込んでいく。 板書もろくにできないのだから不便なものだ。 この講義では、英語を勉強したときの知識が役に立つことがわか った。 クラ語というかテロル語はSVO型の言語だ。 そのことは、すぐに分かった。 シャン語は日本語と同じSOV型の言語なので、日本語と英語の 関係に似ている。 418 加えて、アクセントの付け方も違った。 文法は単純に勉強だが、アクセントの付け方が違うというのは非 常に厄介なことである。 音の高低で発音を補うような言語に慣れ親しんでしまうと、強く 発音する一つの音を他が補うような形の言語には容易に順応できな い。 文法かアクセントかのどちらかが同じなら、一気に親しみやすく なるはずだが、両方違うとなると壁を感じざるをえない。 イーサ先生が実際にクラ語を喋ってみせると、ミャロあたりは目 を白黒させていた。 ハロルのほうはわりと平然としている。 貿易なんて仕事をしていれば、海賊の言葉として聞く機会もあっ たのかもしれない。 コマ区切りの鐘がなると、講義は終了した。 ﹁それでは、これで講義を終わります。これから一年間よろしくお 願いしますね﹂ イーサ先生は教室から出て行った。 うーん。 とりあえず単語帳とか欲しいんだが、どうしたものだろうか。 隣を見ると、ミャロがぽけーっとした顔をしていた。 心なしか、煤けてみえる。 ﹁ミャロ、どうしたんだ﹂ 419 心配になって声をかけた。 ﹁⋮⋮ボクには無理かもしれません﹂ ぽつりと言った。 ﹁そ、そうか﹂ 語学は向き不向きがでかい。 他の勉強はできないのに語学だけは得意で、中学二年くらいで英 検一級を取るような奴も居れば、語学留学までしてもモノにならな い奴もいる。 覚えておいて損はないと思うが、必修ではないのだから無理しな くてもいいと思う。 イーサ先生の言うとおり、損だし。 ﹁⋮⋮タコかなにかの言葉のようでした﹂ 重症だ。 タコの言語とは。 いっそ聞いてみたいが。 俺も語学はどちらかというと不得手なので、先行き不安ではある。 うーん。 420 第027話 閑話1 まほろばで見る夢 ああ、あの夢だ。 そう思うと夢の中でまで沈んだ気持ちになる。 行くあてのない孤児になったような。 *** 俺はその日、WEBサイトを巡回していて、目についたあるニュ ース記事を見ていた。 それは経済新聞が投資家向けに書いたよくある記事で、とある企 業が新商品を開発したというものだった。 その新商品は新技術を使った太陽光発電パネルで、メーカーの言 い分では素子の改良で発電効率が伸び、さらにパネル表面のフィル ムにも特殊な加工が為され、耐候性も良好というものだった。 企業独自開発の特許技術がふんだんに使われた最新鋭のソーラー パネルであり、特許は申請中であると書かれていた。 ゾッとした気分を覚えた俺は、すぐに特許庁に連絡して情報を調 べた。 神に祈るような気分で連絡を聞くと、確かに特許は申請されてい た。 俺が︵自分の中では︶天才的な閃きと思い、研究していた新規技 術は、企業に先を越されていた。 421 終わった。 この技術で特許をとり、あわよくばそれを手土産に一部上場企業 に入社して⋮⋮と思っていたのに。 その時の俺は、だらだらとポスドクをやっている、一介の研究者 だった。 長い休暇から帰った俺は、特許を先取りされたショックで抜け殻 のような顔をしていた。 そうして、放心状態のまま、久しぶりに研究室に顔を出した。 すると、研究室には俺のパソコンがなかった。 ﹁ごめんねぇ、君が休んでる間に、××君が君のピーシーに水かけ ちゃってさ、修理だしといたから﹂ 教授に言われて、俺はなにがあったのか察した。 教授の言い分に、そこはかとない演技臭さを嗅ぎとったからだっ た。 教授は、研究者としては一人前でも、役者としては落第ものだっ た。 一瞬、頭のなかが真っ白になり、次の瞬間には脳細胞が一斉に酸 化反応を起こしたように熱に浮かされた。 ありていにいえば、怒りで頭が沸騰した。 ﹁あー⋮⋮そうなんですか。じゃあ今日はやれることないですね﹂ ﹁悪いねっ﹂ ﹁いえいえ、××君に気にしないでって言っといてください。落ち 込んでいるようなら﹂ 422 ××君はもう三十五にもなる先輩のポスドクで、異常なほど気弱 な男だった。 ついでにいえば、俺が特許を先取りされたと思っていた企業は、 このラボに頻繁に出入りしている企業でもある。 広いようで狭い業界なので、特にそれが必然とは思わなかったが、 パソコンがなくなっていたことで、紐が繋がった。 そもそも、ノートパソコンならともかく、デスクトップのパソコ ンが、水をこぼされたから壊れたというのは、ちょっと状況が想像 できなかった。 吸気ファンにホースで水でも流し込んだのならともかく、普通な らちょっと水がかかったからといって、壊れたとは思わないだろう。 拭いて終わりか、場合によっては俺が留守の間に乾燥することを 期待して、電源を抜いておくくらいはするかもしれない。 だが、本人に無断で修理に出したりするか? 中のデータが破損するかもわからないのに。 とはいえ、まだ俺の研究が盗まれたと決まったわけではない。 正真正銘、被害妄想かもしれない。 そんな状況で騒いだら、もし俺の杞憂が現実だったとしても、ボ ッコボコに叩かれて放り出されるだけだ。 ポスドクの立場なんてものは、吹けば飛ぶようなものなのだ。 慌てるな、慌てるな。と自分に言い聞かせつつ、机を調べた。 この大学では研究内容は各々に宛てがわれたパソコンに保存して おくのと同時に、接続してあるサーバーにバックアップをとること になっている。 423 研究が盗まれたと仮定すると、パソコンのSSDに保管されてい る研究データは完全に消去されているだろうし、サーバーのバック アップも消去されているだろう。 もちろん俺にはサーバーのバックアップまで消去するなんてこと は不可能だが、教授の管理者権限があれば、容易に可能だ。 パソコン本体も、バックアップのデータも両方消されてしまった としたら、俺がその研究をしていたという証拠自体がなくなってし まう。 だが、俺はUSBに繋いだ小型の外付けSSDにもバックアップ を取っていた。 以前、研究用のパソコンが一つ前の型で、HDDだったころ、H DDがぶっ壊れてしまったとき、サーバーに接続するパスワードを すっかり忘れてしまい、運悪くサーバー管理者が盲腸で入院してい たため、再発行に一週間ほどかかり、その間研究が進まなくなった ことがあった。 それ以来、セキュリティ上問題があるとは思いつつも、外付けの SSDにもバックアップを取るように設定をしていた。 ちょうど、壊れたノートパソコンからサルベージしたSSDが一 個余っていたのだ。 その外付けSSDはUSBハブの一つにくっついたまま机にはい ったままのはずだ。 果たして、その外付けSSDは机のなかに入ったままだった。 良かった。 パソコンに直付けではなく、USBハブに繋がっていたのが幸い したか、見逃されていた。 424 俺は外付けSSDを回収すると、 ﹁休み中に思いついたことがあって、図書館で調べたいことがある んですが、今日はなにか急ぎの仕事あったりしますか?﹂ と教授に聞いた。 いつもなら何かと用事をいいつける教授は﹁いやぁ∼、大丈夫﹂ と快く許してくれた。 負い目でもあるのか。 ﹁それじゃ、ちょっと行ってきますね﹂ と、俺は研究室を出て行った。 それから一週間ほどして、俺は学校と企業を相手取って訴訟を起 こした。 なけなしの金で探偵を雇い、レコーダーで無知を装って様々な言 質を集め、企業から教授への謎の顧問料の支払いも暴いてもらい、 弁護士に相談し、起訴した。 本来なら、このような裁判で勝ちを拾うことは難しい。 盗んだ側は﹁技術は自主開発した﹂と言い張るし、それを否定す る証拠を集めるのは決定的に難しいからだ。 だが、俺の場合は企業側がミスをしていた。 特許申請の際に提出していたデータの中に、俺が実験で算出した データと全く同じものが入っていたのだ。 似た傾向のあるデータは出るにしても、閾値の小数点以下まで全 く同じデータが、別の研究室で別の機材でやった実験から出てくる というのは、明らかにおかしなことだ 425 ビタ一文払わない構えを見せていた企業も、これには参ったとい う様子だった。 裁判の結果、俺は勝てなかったが、負けもしなかった。 示談になったのだ。 大学側と企業側、別々から示談金を貰える運びとなり、俺はそれ で妥協した。 俺は一生は遊んで暮らせないが、当分は遊んで暮らせる、サラリ ーマンの生涯賃金の半分くらいの金を手に入れた。 粘って特許を奪っても、どうせ特許は二十年しかもたないのだし、 一生遊べる金が入ってくるわけではない。 個人ではまともに特許料の徴収ができるとも限らないので、これ でいいと思った。 だが、職を失った俺に、世間は冷たかった。 ﹁研究がなかったら、貴方ってなんの取り柄もないじゃない。性格 も悪いし話もつまらないし、馬鹿みたいね﹂ 家に来た彼女が、家に置いた自分の荷物を集めながら言った。 俺もまったくその通りだと思った。 反論のしようもなかった。 俺には友達という友達もいなかったし、性格も悪いし話もつまら ない。 そして、研究室と揉め事をおこして放り出され、正真正銘無職に なった男なんていうのは、馬鹿みたいなのは確かだった。 426 同時に、やっぱりそういう風に思われていたのだと思うと、奇妙 に傷ついた。 ﹁そうか、じゃあお別れだな﹂ ﹁そうね。清々するわ﹂ いきどお 確かにお前の言うとおりだ、と納得する反面、俺は憤りを覚えて もいた。 こいつは、旅の恥をかき捨てるかのように、捨てた男は幾ら傷つ けても構わないと思っているのだろう。 人間に優しさという概念があるとすれば、この女ほど優しさから 遠い女はないと思った。 人生で初めて女にモテたと思ったら、これだ。 有名大学の研究職だというので誤解でもしていたのだろうか。 将来は教授かなにかで、有望株だと。 別にポスドクは未来ある研究職なんかではないし、教授どころか 助教授になるのも絶望的だ。 うまく自主研究で成果を残せなければ、三流大学の講師にでもな れれば恩の字というところだ。 俺はそれでもついて来てくれるいい女だと勝手に思っていた。 勝手に誤解していた。 とんでもなかった。 ﹁清々するか。実は示談金で一生遊んで暮らせる金を貰えたんだけ どな。しょうがない、一人で使うよ﹂ 427 俺がそう言うと、示談金を貰ったことを知らなかった彼女は、唖 然とした顔をしていた。 俺は彼女をアパートの外に突き飛ばすと、扉を閉めた。 少し胸がスカっとしたあと、すぐに胸糞が悪くなった。 ガキが虚勢を張るように嘘をついて、見得を張って喜ぶなんて、 なんて小さい男だ。 これじゃ、俺もあのクソみたいな女と同類だ。 自分がどうしようもない底辺に落ちてしまった気がして、イラつ いて壁を殴った。 安い壁紙が割れ、自分のしていることの馬鹿さかげんに腹が立っ た。 いっそ本当に旅行にいってやるか。 俺は愛車の250ccのバイクに服とテントと寝袋を積むと、そ の日のうちに走りだした。 行くあてもなく新潟まで走り、興に乗ってフェリーに乗船し北海 道まで行って、三週間後帰ってきた。 帰ったのは自宅が恋しくなったからではなく、国内を旅行すると いう行為に、急に興が覚めたのだった。 北海道は美しかったが、日本国内を走っているうちは、胸に滞っ たモヤモヤは消えなかった。 アパートを解約すると、母親の実家だった持ち家に引っ越し、荷 解きもしないうちに、俺はバックパッカーに転職した。 羽田から台湾桃園行きの航空便に乗って、そこから旅を始めた。 428 青春時代の焼き直しをするように、そこらじゅうをほっつき歩い た。 台湾から中国にわたりインドからイスラエルに行ってイスタンブ ルを通ってスペインまで行った。 そこからアメリカへ渡って、ロサンゼルス国際空港から日本に帰 った。 一年ぶりに自宅に帰り、旅に満足したら、俺はもうなにもやるこ とがなかった。 ネットとゲームと本読みに耽溺するような日々を送って、冷蔵庫 の中で忘れられた野菜のように、静かに干からび腐っていった。 *** 目が覚めたときには寮の天井が見えていた。 夢か。 自分の手のひらを見て確認する。 白くて小さい手だ。 黄色い肌の大人の手ではない。 ふう。 起き上がると、気持ちの悪い汗がこびりついた服が肌にぺとりと ついた。 429 ﹁大丈夫か? ずいぶんうなされていたぞ﹂ 隣のベッドから声をかかる。 そっちを見ると、そこにはキャロルがいた。 一気に目が覚める。 というか青ざめた。 ﹁⋮⋮なんでここにいる﹂ ﹁ここが私のベッドだからだ﹂ ああ、そういえば、そんな話を聞いたことがあったような。 もう一人のルームメイトはキャロル殿下であると。 その時は﹁ふーん、一応は部屋を用意しただけで、どうせ一度も 使いやしないんだろ。部屋が広くて儲けたな﹂としか思わなかった。 本当に男ばかりの部屋に泊まらせるとは、王城の連中はなにを考 えている。 馬鹿の集まりか。 しかし、昨日の夜にはこいつはいなかった。 ドッラもいなかった。 今日は休みだから、王都に実家があるやつは帰って、そちらで泊 まる場合が多いのだ。 だから、昨日は一人で寝たはず。 ということは、キャロルは夜中か朝に来たのだろう。 つーか、どうせ使うことはないんだから使わせて貰おうと思って、 430 学校の荷物を好き勝手にキャロルのベッドの上に置いていた。 どこに行ったんだろうな。 ブチ切れたキャロルに捨てられたのかな。 見回すと、俺の机の上にそれらがキチンと置いてあった。 ご丁寧にも、服は畳まれ、他のものは揃えられて積まれている。 ああよかった。 当のキャロルは、パジャマのような真っ白な上下を着て、ベッド の上で平然と胡座をかいている。 ここにいるのが当たり前という顔だ。 いや、こいつのベッドなんだから、当たり前っちゃ当たり前なん だが⋮⋮。 危険だろ。 やっぱり、何度考えても当たり前でもなんでもない。 止めようとする奴はおらんかったんかい。 それとも、俺とドッラが安牌だと思っているのか。 ⋮⋮。 考えてみれば、ドッラと喧嘩する前の俺は、スッゲーよく出来た 落ち着きのある子で通ってたし、さらに言えば主席だった。 そしてドッラはクソガキだが、なにしろ近衛軍幹部の子だ。 安牌と思って俺とドッラをルームメイトにしたのか。 五席までは別の部屋、なんてのは、キャロルの安全と比べればゴ ミのようなルールだろうしな。 なるほど。 431 ひとまず理由はついた。 外を見ると、まだ夜明け前で、薄暗かった。 胡座のままベッドの上に座ったキャロルは、ふいに、 ﹁それにしても、どんな夢を見ていたのだ﹂ と聞いてきた。 ﹁⋮⋮女にフラれて旅にでる夢だ﹂ と正直に答えてやった。 ﹁なんだ⋮⋮? 女に振られると旅に出るのか?﹂ キャロルは小首をかしげて言う。 あれ。 そういう風習はないのか。 ﹁まあ女にフラれただけじゃないんだけどな。仕事をクビになって 無職になったら、女のほうにゴミみたいに捨てられたから、なにも かも虚しくなって旅に出たんだ﹂ ﹁ふうん⋮⋮よくわからぬ﹂ よくわかんないのか。 文化が違うってやつか。 クビになって女に捨てられ涙目になって旅に出るなんていうのは 中々典型的な話だと思うけどな。 ﹁失業したのは残念だろうが、なんで女に捨てられたのがショック なのだ﹂ ﹁そりゃ⋮⋮付き合ってたんだからショックだろ﹂ 432 ﹁そうか? むしろ安堵するところじゃないのか?﹂ ﹁安堵?﹂ この国では女にフラれたらホッとしなきゃならんのか。 理解不能である。 ﹁だって、その女は屑だろ﹂ キャロルはバッサリと斬り捨てた。 屑か。 俺も昔はそう考えて憤っていたこともあった。 特に北海道にいるときに、事実婚の状態であったから、半分貰う 権利がある。などというメールが来た時には。 ﹁でも男は無職なんだから、屑というほどでもないだろ﹂ ﹁ん? ああ、そうじゃない﹂ ???? 何が違うの? ﹁結婚相手を選ぶにおいて真っ先に除くべき男のことを屑というの だ﹂ へ、へぇ⋮⋮。 なにが﹁そうじゃない﹂なのか分からんが。 ﹁この場合は女だが、女でも基本的には変わらぬだろう﹂ よく判らん。 屑というのは、コイツの中では一種の専門用語なのか。 433 ﹁お母様は、人となり以外のものを見て、私と結婚したがる男は屑 だと言っていた﹂ ﹁へー﹂ なんだか得意げだ。 毎度思うが、なんで得意げなんだこいつは。 しかし女王陛下はたいへん手厳しいことを言う方のようだな。 将来謁見したとき﹁あなたは最低の屑ですね﹂とか蔑まれるよう に言われたらどうしよう。 ﹁なぜだか解るか?﹂ ﹁解かんねえな﹂ ﹁そうか、お前にも解らんか﹂ だからなんで嬉しげなんだよお前は。 家訓の由来なんてわかるか。 ﹁そういう男は、美貌でも地位でもいいが、惹かれるモノがなくな ったら心が離れてしまうのだ。心が離れてしまったら、そいつは女 を裏切る。そういう男を夫にしてはいかん﹂ ぐっ⋮⋮。 身につまされる。 というか、なぜか自分が人格攻撃をされているような気分になる。 俺のことじゃないのに、なんだか暗に嫌味を言われているような ⋮⋮。 434 ﹁だが、人となりで結婚する場合はそれはない。王位を失うことは あっても、私が私でなくなることはないからな。私自身が屑になら ない限りは裏切られる心配はない﹂ 単純明快な理屈だ。 ﹁まー、それは確かにそうだな﹂ 一理ある。 一理どころか百理くらいあるかもしれない。 ﹁だが、それをたしかめるのは大変なのだ。男は顔や体を見ていて も、心を愛してると言うからな﹂ まったく、なんだその男ってのは⋮⋮。 酷い生物だな。 滅びるべきなんじゃないか。 ﹁それにしても妙な夢をみたものだな。まだ女と付き合ったことも ないのに、屑な女に引っかかって捨てられる夢を見るとは。小説か なにかでも読んだか﹂ ﹁よくわかったな﹂ そういうことにしておくか。 これは小説の話だ。 そうであったらどんなに良かったかと思うが。 ﹁ふふん﹂ 435 だからなぜ得意げなのだ。 どうだ、私の推測が的中したか。してやったり。みたいな感じか。 ﹁つーかお前はなんでここにいるんだよ。いくらベッドが用意され ているとはいえ、嫁入り前の娘がこんな所に来るもんじゃないぞ﹂ クソガキに犯されでもしたらどうする。 今はまだいいが、あと何年かしたら、本格的に危険になるぞ。 ﹁なんだ、お前もそんなこと言うのか﹂ きょとんとした顔をしておる。 さては他のやつにも同じようなことを言われたな。 ﹁ジジイみたいなやつだな﹂ ジジイとは。 俺の精神年齢を考えれば言い得て妙ともいえるが、失礼なことを いいよる。 ﹁将来の騎士と友誼を深めねば、騎士院にきた意味がないのだ﹂ やっぱりそういう狙いがあったのか。 子どもなりに良く考えてるな。 ﹁教養院で深めればいいだろ﹂ ﹁教養院でも深めるさ。どうも、向こうに泊まれとうるさいしな。 だが、こちらのほうが、私にとっては重要なのだ﹂ 教養院より騎士院のほうが重要らしい。 別に見得で騎士院に入ったわけではないんだな。 436 判断も間違っていないだろう。 言うまでもないが、今は教養院でやるような内政向きの勉強を優 先するような状況ではない。 ﹁そうか、まあ頑張ってくれ。俺は顔でも洗ってくる﹂ ﹁洗ってきたらイッキョクだからな﹂ ??? イッキョク? ﹁イッキョクってなんだよ﹂ ﹁斗棋に決まってるだろ﹂ ああ、一局か。 あまりに唐突だったからわからんかった。 なにが決まっているのだろうか。 いつ決まったのだろうか。 謎である。 ﹁なぜ俺が﹂ ﹁寮の評判によるとお前が一番強いらしいからな、今日はお前を倒 すために来たんだ。フフン﹂ ⋮⋮⋮。 どんな暇人だよ。 まあ、ちょっとくらい付き合ってやっても構いやしないが。 ﹁まー別にいいけどな⋮⋮。お前もしかして斗棋めっちゃ好きなタ イプか﹂ 437 ﹁ああ、好きだな、大好きだ﹂ ﹁そうか﹂ なんか、そこはかとなく、ルークと同じ匂いがするな。 それが気のせいだったらいいんだが。 438 第027話 閑話1 まほろばで見る夢︵後書き︶ 結果:十戦九勝一負︵棄権・敵前逃亡︶ 439 第028話 閑話2 シャムの入学* 十歳になった私は学校に入ることになった。 学校というのは、教養院という、何を学ぶのかわからない学校だ。 正直なところ、私はもう先生を持っているのだし、必要ないと思 う。 なんで行かなきゃならないんだろう。 不思議だった。 だけど、お母さんに言わせると、私はここで、私に足りていない ものを学ぶのだという。 それならば仕方がない。 私はなにかしらについて無知なのだろう。 無知な人間は、自分が何について無知なのか、教えられるまでは 解らないのだから。 教養院というのは、ユーリが通う騎士院と同じ敷地にある学校で、 もっといえばいつも行っている大図書館の母体になっているような 学校だ。 ユーリと同じ学校⋮⋮ではないけど、同じようなものと考えるの も、あながち間違いではない⋮⋮のかな? 入学の前に、なにやら席次を決めるという試験があるらしく、私 は入学の一足先に学校へ赴き、それをやった。 制服を身に纏い、同じ服を来た同い年の子どもたちと、同じ問題 に取り組んだ。 440 ばかにしてるのかってくらい易しい問題と、なにを聞いてるのか わからない問題が隣り合っていた。 お母さんがここ半年くらい、やたらと覚えさせようとしてきた知 識がたくさん出題されてきたので、それなりにはできたけど、やっ ぱりわからない問題は多かった。 そうして、その翌日には入学式という催しに出席した。 前のほうから優秀だという席順に座り、私は真ん中くらいだった。 近くの父兄席に、ユーリとルークさんとお母さんが、並んで座っ ている。 私はセイフクという周りの人間とお揃いの服を着せられていた。 式の間、いろいろと考えたいことがあったのに、声がうるさくて 集中できなかった。 どうも天体力学について理解が足らない気がして、昨日ユーリに いろいろと教えてもらったのだ。 そしたら、地球に大気なしの単純モデルで考えれば、石ころを適 切な速度で水平に放り投げれば、地面に落ちないまま地球を一周し て頭の後ろから帰ってきて、邪魔されない限り延々と地球を回り続 ける物体となり、それが月と同じ衛星だ。と言っていたので、少し 認識を整理したかった。 けど、こんなに知らない人がたくさんいて、壇上の人がぺちゃく ちゃ喋っている場所では、やっぱり集中できない。 私は考えるのを諦めた。 ふとユーリのほうを見ると、目があって、こっちを見ながら小さ く手を振ってきた。 441 あー⋮⋮。 嬉しい。 嬉しいなぁ。 一年前からユーリとはなかなか会えなくなったけど、これからは 少しは増えるのかな。 そう思うと、悪いばかりではないのかな、と思う。 でも、会えなくなった時期もそんなに悪くなかった。 会えない時間もユーリと離れているわけではなかったからだ。 会えない間、ずーっと考えて、凄く深いところまで考えて、突き 当りまで行き着いておく。 そうしておいて、ユーリが帰ってきた時に質問をすると、ユーリ は嬉しそうな顔をして、﹁いい質問だ﹂と言って、頭をなでてくれ るのだ。 そうすると、むず痒いような、くすぐったいような、認められて 嬉しい気持ちが、体じゅういっぱいに広がる。 そして、そのあとには決まって、停滞を打ち破る鍵を教えてくれ るのだ。 そうすると、会えなかった時間が埋まった感じがする。 寂しくなくなる。 壇上では、何が面白いのか、何を意味して、何を教えたいのかよ く解らない話が、延々と続いていた。 そうして、男子生徒と女子生徒が壇上に上がり、なにやら宣誓を して、女王陛下の手の甲に口づけをした。 442 これ、お母さんが言ってたやつだな。 お母さんは、この役をする子は光栄で、ユーリは去年あれをやっ たのだ。と言っていた。 だから頑張れって。 でも、私は先頭から遠く離れたこんなところに座っている。 お母さんの期待には答えられなかった。 でも、いいのだ。 ユーリはいつも褒めてくれるのだから。 *** ようやく式が終わった時、私はとってもウンザリした気分になっ ていた。 勝手に耳に入ってくる、退屈な話を延々と聞かされたからだ。 嫌な意味でへとへとになっていると、すぐにユーリが近づいてき て、手をとってくれた。 ﹁大丈夫か?﹂ ﹁⋮⋮はい﹂ 私はユーリの手を借りて、椅子から立った。 ﹁次は入寮でしたっけ﹂ ﹁いや、まだ間があるから、食事をしてからだな。店も予約してあ るんだ﹂ 443 ああ、そうか。 入寮まではまだ時間があるんだ。 私は寮に入るというのが、嫌で嫌で仕方がなかった。 誰とも知らない人と、同じ部屋で暮らすなんて、想像もつかない。 これについては、ユーリだって上手く行かなかったらしい。 ああ、そうだ。 去年の今日に当たる日、ユーリはうちに帰って来ちゃったんだっ た。 とてつもなく粗暴な原始人みたいな人と一緒になっちゃって、喧 嘩になって帰って来ちゃったのだ。 ﹁ユーリ、大丈夫でしょうか﹂ 私は心配になって、思わず尋ねた。 ﹁なにが?﹂ ﹁去年、ユーリが喧嘩した相手みたいな人が同じ部屋だったら、私、 どうしたらいいか解りません﹂ 私がそう言うと、ユーリはぶっと吹き出した。 ﹁ぶはっ⋮⋮ハハハッ⋮⋮くっ、クククッ⋮⋮﹂ 私はそんなに面白いことを言っただろうか。 ユーリは、なかなか笑いが収まらないようで、人目がなかったら お腹を抱えて笑い転げそうな勢いで面白がっている。 必死に口を覆って、口どころか鼻まで閉じて、呼吸を止めてまで 必死に笑いを噛み殺していた。 444 こんなにユーリが笑っているところを見るのは初めてだ。 ﹁フフ、ユーリ、笑い事じゃないです、くすっ﹂ 私も釣られてちょっと笑ってしまいながら、私はユーリに言った。 ﹁はぁはぁ⋮⋮はーっ、ふーっ﹂ なんだか息を整えている。 ﹁落ち着くんだ、素数を数えてっ、落ち着くんだ﹂ とか意味不明なことを小声でつぶやいている。 素数を数えると落ち着くのだろうか。 ﹁ちょっと酷いですよ。私は本気で心配しているのに﹂ ﹁大丈夫だよ。あんなやろ⋮⋮奴が教養院にいたら、天然記念物も のだよ﹂ ?? ﹁テンネンキネンブツってなんですか﹂ 初めて聞く単語だった。 ﹁滅多にいないってことさ。そうだな⋮⋮やつと教養院てのは、外 惑星と内惑星くらい違う。外惑星がたまたま地球の内側にきちゃっ たなんてことはありえない。やつはそういう動物だから、教養院に 生息している可能性はゼロだ。安心していい﹂ ああ、そうなんだ。 つまりは住む世界が違うから心配いらないということらしい。 それなら安心かな。 *** 445 ユーリにエスコートされながら、王城を離れ、馬車に乗ってレス トランへ行った。 レストランはとても敷居が高そうなところで、私たちが個室の席 に座ると、すぐに料理がでてきた。 私は、家にいるときにでてきたそれとは多少味付けの違う料理を、 ぱくぱくと食べてゆく。 美味しいし、お腹も減っていたので、いくらでも入りそうだった。 ﹁⋮⋮⋮﹂ と、そんな私をお母さんがじっとみていることに気づく。 ﹁なに?﹂ ﹁大丈夫かしらねぇ﹂ お母さんは手を頬に当てて、心配そうな顔をしていた。 ﹁なにが?﹂ と聞き返すと、 ﹁⋮⋮⋮はぁー﹂ ため息をつかれた。 ﹁べつに、汚らしい食べ方ってわけじゃないんですから﹂ ユーリが助け舟を出してくれた。 食べ方がまずかったようだ。 ⋮⋮といっても、いつもどおりだけど。 ﹁でもねぇ⋮⋮﹂ 446 ﹁いいんですよ。そもそも、魔女家の気取ったような連中と仲良く なる必要はありません﹂ ちょっと何を言ってるのか理解できなかった。 ﹁そうはいってもねぇ﹂ ﹁もしかして、いじめとか心配してます?﹂ ﹁まぁねぇ、ないわけではないから﹂ いじめ。 いじめってなんだろう? 昔、うちに居た猫のしっぽを引っ張ってたら、いじめちゃだめと 言われたけど、そういうことをしないか心配なのだろうか。 私だって、あのときは引っ掻かれて懲りたし、そんなことで心配 しないでほしい。 ﹁言うのを忘れてましたが、シャムのことは殿下に頼んでおきまし たから﹂ ﹁えっ、キャロル殿下に?﹂ ﹁あ、代わりに僕の方も頼みを引き受けましたから、借りを作った わけではありませんよ﹂ ﹁そんなこと、心配してないわよぉ﹂ ﹁殿下もあれで教養院では上手くやっているようですからね。頼ん でおけば何かと力になってくれるでしょう﹂ ﹁それはそうね。私もこれでやっと安心できるわ。ユーリくん、気 にかけてくれてありがとうね﹂ なんだかわからないが、ユーリが誰かに私のことを頼んでおいて くれたらしい。 447 その人がルームメイトになるのかな? *** 一旦家に帰ってから、今度はユーリと二人で馬車に乗って、学校 へ向かった。 そのときになっても、私は不安でしょうがなかった。 馬車の中で何度もユーリに話しかけたけれども、帰ってくる答え はいつも﹁大丈夫﹂﹁心配することはない﹂だった。 二人きりで石畳を走る馬車に乗って、しばらく走った。 学校にたどり着くと、馬車を降りる。 なんだか、未だに寮に入るのが嫌で、むずむずした。 馬車でおりたところには、同じような馬車がたくさんあって、同 級生っぽい子たちがたくさんいた。 ﹁遅かったな﹂ そこで、おもむろに話しかけてきたのは、女の人だった。 話しかけたのは、ユーリに対してだ。 透き通るような金色の髪の毛をしていて、それが腰まで伸びてい る。 なんだか小麦の畑のような髪だった。 瞳も、なにか深い海を覗き込んだような色をしていた。 とても凛とした雰囲気を纏っていて、堂々としている。 448 そして、私と同じ制服を着ていた。 なんて綺麗な人だろう。 誰なんだろう。先輩かな。 ﹁ちょっと母親との食事が長引いちまってな。今日で一応はお別れ ってことになるし﹂ ﹁そうか⋮⋮それなら仕方ない﹂ なんだかやけに親しげだ。 ユーリの友達のようだ。 ﹁こんにちは、ユーリくん﹂ もう一人声をかけてきたのは、ユーリと同じ制服を着た人だった。 ユーリのそれと比べると、体の線がとても細い。 それに、物腰がとても柔らかだ。 とても整った顔立ちをしているし、最初は女の人かな、と思った けど、髪の毛が短いので、そうではないと気づいた。 私は男性といえば武芸者や兵士のような人たちばかりを見てきた ので、なんだかこういう男性がいるのかと、新鮮な気分だった。 ﹁⋮⋮お前はなんでここにいるんだ﹂ ユーリはちょっと訝しげにその人を見た。 ﹁ユーリくんのイトコさんがご入学されると聞きまして。お顔を拝 見しようかと﹂ ﹁マメな野郎だな﹂ 449 ﹁そこの彼女がイトコさんですよね﹂ ﹁そうだよ﹂ ﹁シャ、シャムです。よろしくお願いします﹂ 私はぺこりと頭を下げて挨拶した。 ﹁うん、よろしくね。ボクはミャロっていうんだ﹂ ミャロと名乗ったその人は、わざわざしゃがんで挨拶を返してく れた。 ﹁よろしくお願いします﹂ 緊張して何故か﹁よろしくお願いします﹂を二度繰り返してしま った。 変に思われただろうか? 恥ずかしい。 ミャロさんはそんな私を可笑しがるふうもなく、ニコニコと私を 見ていた。 ﹁こいつはただシャムを見物しにきただけだから、どうでもいい﹂ ﹁ひどい﹂ ずいぶんな言いようなのに、ミャロさんはなんだか嬉しそうだっ た。 ユーリに気を置けない風に扱って貰えることが嬉しいという感じ。 どういう関係なんだろう。 ﹁シャムに紹介したいのはこっちだ﹂ ﹁キャロルだ。よろしくな﹂ キャロルと名乗った女の人は、片手を差し出して握手を求めてき 450 た。 私はその手を握る。 細くて綺麗な手なのに、手のひらの皮は少し固かった。 かちかちに硬くなってささくれだった皮が、私の手に刺さって、 少しチクチクした。 なんだかユーリの手と似ている。 ﹁よろしくお願いします。シャムです﹂ ﹁シャムちゃんか。イトコと違って素直で可愛い子だな。これでこ そ好感が持てるというものだ﹂ ﹁嫌味か﹂ ユーリは面白そうに笑いながら言う。 嫌味か、なんて言った割には、ぜんぜん嫌がっていない。 なんだか面白いな。 この二人に対するユーリの態度は、私に対する態度とも、家族に 対する態度とも違って、なんだかすごくあけすけだ。 余計な気遣いがない気がする。 これが友達ってやつなんだろうか? 私にも、こういう友達が作れるのかな。 ﹁それにしても、ほんとにちっちゃくて可愛いなぁ﹂ キャロルさんは握手をしたまま、私の手をぎゅっと握りつつ、開 いた手で頭をなでなでしてきた。 私はちっちゃいのだろうか。 451 確かに、午前の入学式で一緒に座っていた人たちは、考えてみれ ば私と同年齢にもかかわらず、私よりだいぶ背が高かった気がする。 それにしても、すっごい頭をなでなでしてくる。 ちょっとしつこい。 ﹁そのくらいにしとけ。猫かなにかじゃないんだから﹂ ﹁う⋮⋮そうだな﹂ キャロルさんは、やっと私の頭から手を離してくれた。 今度はユーリが私の頭に触った。 さささっと私の髪を整える。 なんだかくすぐったかった。 髪を整え終わると、 ﹁それじゃ、頼むぞ﹂ と、ユーリはキャロルさんの肩をぽんと叩いた。 ﹁分かった。それより、礼のほうはわかってるんだろうな?﹂ ﹁分かってるって。あーほんとは乗せたくないんだけどなー、しょ ーがないなー﹂ ﹁ふふふ、絶対に乗せて貰うからな﹂ ﹁殿下をまんまと⋮⋮﹂ という声がミャロさんの口から聞こえてきた。 ﹁それじゃ、よろしくな﹂ ﹁任せておけ﹂ 452 キャロルさんはそう言うと、私の手を再びとった。 ユーリは私に背を向ける。 このままどっか行っちゃいそうな感じだ。 あれ? ﹁ユーリは行かないんですか?﹂ ﹁えっ、俺がいったらぶっ殺されるだろ﹂ え。 こ、殺されるの? ﹁シャムちゃん、女子寮には男の人は入れないんだよ﹂ えええええ!!! 寮ってユーリは入れない場所だったの!? 一緒の寮とは思っていなかったけど、入れもしないなんて。 それじゃユーリとどこで会えばいいんだろう。 がーん⋮⋮。 ﹁不安に思うことはないぞ。私がついているからな﹂ なんの慰めにもならないよ⋮⋮。 *** 453 ユーリと別れ、キャロルさんに手を引かれて向かった先は、やた ら大きな建物だった。 石と煉瓦が山のように積まれた建物で、壁には大量に窓がついて る。 田舎のお屋敷より、はるかに大きい。 これが寮だとすれば、一体何人が住んでいるのだろう。 門の前には人だかりができている。 なんだか大騒ぎだ。 私のような、新しく入寮する子たちが騒がしているのだろう。 人通りの中を、手を引かれたまま、てくてくと歩く。 ﹁ごきげんよう、キャロルさま﹂ と、通りすがりの人たちは一様に型にはめたような挨拶をしてき た。 一体何なんだろう。 ﹁ごきげんよう、キャロルさま﹂ 会う人会う人がそういって、会釈をしてくる。 顔を合わせたらそういう挨拶をする仕組みなのかな? 同じような挨拶は、そこらじゅうで行われていた。 だけど、歩いてるだけで全員に挨拶されるなんて人は、どうもキ ャロルさんだけのようだ。 なんだか変な感じだ。 ずっと昔、お父さんが生きていたころは、お父さんと一緒に家に 454 帰ると、衛兵や召使いたちが同じように挨拶していた。 ゴキゲンヨウではないけれど、お疲れ様です、とか、お帰りなさ いませ、とか言われていた。 あるじ 今はお母さんやルークさんが挨拶されているけど、それと同じに 見える。 あれだ、寮の主みたいな感じなんだ。 でも、中にはキャロルさんよりだいぶ体が大きい、大人みたいな 学生もいる。 私と同じ服を、サイズはまちまちではあるものの、みんなきっち り着ている。 その人たちもキャロルさんには腰を折って﹁ごきげんよう﹂と挨 拶していた。 キャロルさんは、その挨拶に、いちいち﹁うん﹂とか﹁おはよう﹂ とか返している。 なんだか凄いな。 ﹁ここでは基本、あーいう風に、ごきげんようごきげんようと言っ ておけばいい﹂ ゴキゲンヨウって言っておけばいいんだ。 ﹁わかりました﹂ そんな言葉初めて聞いたんだけど、たぶんこの寮の人々特有の挨 拶かなにかなんだろう。 ゴキゲンヨウ、ゴキゲンヨウ。 オハヨーとかと比べるとやけに長いから、朝から何度もいうと辛 いかも。 455 ﹁ごきげんよう、キャロルさま﹂ 試しに言ってみると、キャロルさんはぶっと吹き出した。 ﹁フフ、その調子だ﹂ ﹁なにかおかしかったですか?﹂ ﹁いや、おかしくはないが、ユーリのイトコに言われたと思うと、 面白くてな﹂ なにがおもしろポイントだったのだろう⋮⋮。 そのまま寮の大きな扉をくぐって、奥のほうに行くと、なんだか ひらけた空間に出た。 吹き抜けの天井から、天然の陽光が差し込んでいる。 どうも、建物の真ん中がくり抜かれているようだ。 くり抜かれた部分は、庭園になっていて、ちょっとした森ができ ている。 背の高い木は、全部シラカバだった。 根本には、鮮やかな花が咲く低木が生えている。 植物の緑色が、石の世界に映えて見えた。 庭園前の大きなロビーのような場所には、人だかりができていた。 なんだかカンバンが貼りだされているらしい。 ﹁通してくれ﹂ そう言いながらキャロルさんが人だかりに入ると、ささっと割け るように道が開けた。 456 すごい。 やはりキャロルさんは、ここでは特別な存在なようだ。 ﹁えーっと、どこだろ⋮⋮。よし、ちゃんとなってるな﹂ と一人で言うと、私の手を引きながら、また歩き始めた。 *** 階段を幾つか登って三階まで行くと、キャロルさんは一つの部屋 のところで止まった。 ﹁ここがシャムちゃんの部屋だ﹂ キャロルさんはコンコンと部屋をノックした。 ﹁どーぞー﹂ と間延びした声が帰ってくる。 入ってみると、そこは二段ベッドが入った小さな部屋だった。 田舎のお屋敷にある私の部屋と同じくらいの広さだ。 ベッドの横には小さなクローゼットと、二台の机がある。 一つの机はまっさらでなにも乗っていない机で、もう一つのほう には人が座っていた。 その机はメチャクチャにものが積まれていて、ごちゃごちゃだっ た。 まるで、家にある私の机みたいだ。 457 お母さんにいつも﹁掃除しなさい﹂と言われる、あれだ。 ﹁リリー。話していた子だ﹂ ﹁うん﹂ リリーと呼ばれたその人は、制服の前に分厚いエプロンをかけて いた。 ﹁かわいらしい子やねぇ﹂ 椅子に座ったまま、私をみて柔らかに言った。 なんだか穏やかな人だな。 ちょっと山の背の方の方言があって、私やキャロルさんより幾ら か年上に見えた。 ﹁まー、仲良くやろー﹂ ひらひらと手を振ってきた。 ﹁よろしくお願いします﹂ 私はぺこりと頭を下げた。 この人となら、上手くやっていけるかもしれない。 そんなに怖くない。 ﹁礼儀ただしい子やねー。殿下がおーげさにいうから、心配しても ーたよぉ﹂ リリーさんはなんだかほっとしているご様子だった。 私のことを、どんな人間だと思っていたのだろう。 といっても、私のほうも会ってもいない同室の人を恐れていたの だけど。 458 ﹁私も今日初めて会ったんだ﹂ ﹁そーなんかぁ。じゃあ、ユーリくんはよっぽど心配性なんやねぇ﹂ ﹁ほんとにな。なんだかこの子は自分の数倍頭がいい大天才だから、 馬鹿どもに汚染されるのが怖いみたいなことを言っていたぞ﹂ ユーリは何を言ってるんだろう。 そんなことを言って回っているのだろうか。 そんなわけないのに。 ユーリはよく﹁俺のほうが一年長く生きてるからな﹂なんて言っ てごまかすけど、出会って三年経った今でも、初めて会ったときの ユーリのレベルにたどり着いているようには、とても思えない。 一年どころか、百年くらい差がついている気がする。 ということは、ユーリは私より百倍頭がいいとしか、説明できな いのだ。 私がユーリより頭がいいなんてことは、論理的にありえない。 ﹁ユーリくんよりずっと頭がええなんて、すごい子やなぁ﹂ ﹁そんなわけないです﹂ 私はあわてて否定した。 ﹁まー、冷静に考えたらそうかもなぁ。ユーリくんみたいな子がポ コポコ産まれたら、どんだけーって話やし﹂ 納得してくれたようだ。 よかった。 どんだけーって言葉は初めて聞いたけど。 459 今日は初めて聞く言葉がおおい。 ゴキゲンヨウ、ドンダケー。 どういう意味なんだろ。 ﹁あんなのは一人で十分だ。シャムちゃんは似なくてよかった﹂ ﹁そうかなぁ。面白そうな子ぉやとおもうけど﹂ ﹁会ってみれば解るぞ。なんとも捻くれてる。あれで有能だから始 末がわるい﹂ 酷い言われようだ。 褒めてるんだか貶してるんだか解らない。 でも、ユーリに捻くれてるところなんてないと思うけど。 ﹁講義のコマが合わないんやよなぁ﹂ リリーさんは心底残念そうだ。 ﹁すまん、話の途中で悪いが、ちょっと失礼するよ。この子に寮を 案内してあげないと﹂ ﹁え、それも殿下がやるのん? いつも忙しそーにしとるのに﹂ ﹁奴との約束だからな。ちゃんとやってやらないと﹂ ﹁そっかー。特別なんやねぇ﹂ リリーさんはニヤニヤしている。 ﹁特別ではないが、奴が頼み事をしてくるなんて初めての事だから な﹂ ユーリはキャロルさんに、無理に頼み事したのかな。 460 なんだか申し訳なくなる。 ﹁それが特別っていうんやんかぁ﹂ ﹁いわない﹂ ﹁だって、義理で仕方なくやっとるだけやったら、そこまでやんな いやないの∼?﹂ ﹁アホなことをいうな。これは単なる取引だ﹂ ﹁へぇ∼、取引なん? どんな取引なん?﹂ リリーさんは興味しんしんのようだ。 ﹁⋮⋮行ってくる﹂ キャロルさんはリリーさんの問いには答えず、私の手を引っ張っ て部屋を出た。 ﹁シャムちゃん、また∼﹂ 扉の向こうから声が聞こえた。 *** それから、階段を登ったり下りたりしながら色々な場所を案内さ れた。 洗濯室、風呂場、炊場、水場、井戸、売店、食堂、といろいろな 施設があった。 どこへいってもキャロルさんは注目の的で、通ろうとすれば向こ うから道を開けてくれた。 461 ところが、食堂から園庭に向かう道を手を握られながら歩いてい ると、突然人影が表れて、私達ふたりの行く手を塞いだ。 当たり前だけど、女の子だった。 なにか用があるのかな? 私がそう思った時だった。 ﹁お姉様、一体全体、どういうつもりなのよ!!!﹂ と、唐突に大声で怒鳴りつけてきた。 私はもちろん初対面なので、この子のお姉様ではない。 ということはキャロルさんの妹さんである、という推論が成り立 つだろう。 私が今年入学した新入生であるのだから、つまりは私と同い年と いうことになるのかな。 キャロルさんは私のいっこ上だから、そう考えるのが妥当だ。 目の前の女の子は、とても可愛らしい顔をしていて、お姉さん似 の小麦色の髪も似合っているけれど、なんだか顔を真っ赤にして涙 ぐんでいて、可愛い顔が台無しだった。 キャロルさんを見上げると、﹁あっちゃー﹂みたいな顔をしてい る。 どうも、会いたくなかったご様子だ。 ﹁どういうつもりもない﹂ ﹁そこの子は誰よ!﹂ 私を人差し指でゆびさしてくる。 462 失礼なことをされてる感じがするが、気圧されてしまってそれど ころじゃなかった。 パトロン パトロン ﹁この子は私の学友のイトコだ。後見人を頼まれてな﹂ ﹁私は実の妹よ!? お姉様が後見人になってくれなきゃ、私の立 場がないじゃないの!!﹂ 事情が全然飲み込めないけれど、女の子はすごくヒステリックに 喚いている。 こんなに他人が怒っているのを見るのは初めてで、私は怖かった。 ﹁立場もなにも、お前は王族じゃないか。誰がお前を軽んじたりす る。余計な心配をするな﹂ パトロン ﹁そういう問題じゃないでしょ!?﹂ ﹁そういう問題だ。現に私は後見人なんて最初から付けなかった。 王族は自分の道くらい自分で切りひら⋮⋮﹂ ﹁違う違う違う!!! なんでわからないのよ。私は妹なんだよ! ?﹂ なんなんだろう⋮⋮この人⋮⋮。 怖い⋮⋮。 何をそんなに怒ってるのだろう。 キャロルさんが当然に行うべき行いをしなかったから怒っている ようだけど。 それって、もしかして私のことなのかな。 だけど、キャロルさんの口ぶりから察すると、最初から、妹さん のぱとろん? になるつもりはなかったようだけど。 463 ﹁いったいぜんたい、誰かの後見を必要とする王族がどこにいる﹂ キャロルさんはなんだか呆れている様子だ。 ﹁いっぱいいるじゃない!!!﹂ ﹁いない﹂ ﹁いなくてもなんでも、わたしがみっともないでしょう!!!﹂ みっともないって。 なにがみっともないのか解らないけれど、こんなところで大声で 喋る内容じゃないような気が。 ここは廊下の真ん中で、なにやら大声に釣られて人が集まりはじ めている。 私は当事者の一員だからわからないけれど、私がとりまいている 衆人の一人だったら、どう思うだろう。 堂々としていれば、みっともないなんて思わないはずだ。 真新しい服を来て、髪の毛もこんなにきれいな小麦色で、思わず 見惚れそうなほどに可愛らしい顔立ちをしているのだから。 だけど、自分から﹁わたしはみっともない﹂と言ってしまったら、 ﹁ああこの子はみっともないのだ﹂と思ってしまうだろう。 周囲は、いよいよ人が集まってきて、私はいたたまれなくなって きた。 そんな私を見ると、 ﹁帰り道は解るか?﹂ と、キャロルさんは小声で聞いてきた。 私はコクコクと頷く。 464 ﹁まだ途中だが仕方あるまい。キミは部屋に戻れ﹂ ﹁はい﹂ 私も、こんな良く分からない状況のなかにいたくない。 私は、キャロルさんの影に隠れるようにして、増えてきた人混み の中に紛れた。 *** ﹁はぁ、はぁ⋮⋮﹂ なんとか部屋の前まで戻ってきた。 半分は自分の部屋ということになるのだろうけど、勝手に入っち ゃっていいのかな。 一応、ノックしておこう。 私は、息を整えると、ドアをこんこんと叩いた。 ﹁入ってええよー﹂ という声が聞こえてきたので、ノブを回してドアを開けた。 ﹁あ、おかえりー﹂ ﹁た、ただいま⋮⋮です﹂ なんだか﹁ただいま﹂と言うのがちょっと気恥ずかしい。 家ではあまり言う機会のない言葉だったから。 465 ﹁なんや一人で帰ってきたんかー。殿下に途中ですっぽかされてし もたん?﹂ ﹁いえ、なんだか途中で問題が起こって﹂ ﹁問題ってなに? ここで殿下にいちゃもんつけるやつなんておら んと思うけどー﹂ 私は、かい摘んでさっき起きたことを話した。 ﹁あー、なるほどなー。そりゃ殿下も困るやろなぁ。あの妹さんか ぁ⋮⋮﹂ なにやら、リリーさんには事情が分かるらしい。 パトロン ﹁後見人ってなんなんですか?﹂ それが、あの女の子の怒っていた問題の焦点のように思えたので、 私は質問した。 ﹁うーん、簡単にいうとなー、寮に入るときにその子ーを案内する パトロン 上級生やねん。寮内じゃ親みたいな姉みたいな立場⋮⋮って言った らええかな? 寮内の人気者が後見人だったりすると、周りのほう が気ぃ使ってくれたりするし、苛められたりもしないから、なにか と便利なんよ﹂ なるほど。 単純にユーリの友達だから案内してくれたんだと思っていたけど、 なんだか違ったらしい。 ユーリがそういうふうに手配しておいてくれたんだろう。 ずいぶん心配させちゃってるなぁ。 パトロン ﹁殿下は将来は王様になろうかって人やから、殿下が後見人になっ 466 てくれるいうんは、とってもとっても贅沢な話なんよ。妹さんもそ れが望みやったんやろうねぇ﹂ キャロルさんは未来の王様だったのか。 すごい人だったんだ。 ユーリはそんな人と友達なんだ。 でも、だとすると、あの女の子には悪いことをしちゃった事にな るのかな。 あとであの怒りを私に向けられるかと思うと、背筋が凍る思いが する。 ﹁シャムちゃんは気にせんでええと思うよ。家庭の問題やと思うし﹂ ﹁⋮⋮そうですか﹂ ﹁まー、ないとは思うけど、妹さんがちょっかいだしてくるような らウチに相談し。大したことはできんけど、殿下に話しといたるわ﹂ ﹁わかりました﹂ 大丈夫だろうか。 *** ﹁ところで、二段ベッド上と下どっちがええ?﹂ リリーさんが聞いてきた。 うーん。 ﹁リリーさんが元々使っていたほうは、どちらなんですか?﹂ ﹁私はねぇ、昨日までは別の部屋に住んでたんよー。そこでは上だ 467 ったかな?﹂ ﹁そうなんですか﹂ 机の散らかり具合からしてずっとここに住んでいたんだと思って いた。 ベッドを取っちゃいけないと思ったのだけど。 ﹁私はどちらでもいいです﹂ ﹁気にせんでええのよぉ。あとで替えてもええんやしー﹂ うーん。 本当にどっちでもいいんだけど。 ﹁じゃあ、上で﹂ ﹁それじゃ私がしたやねぇ﹂ リリーさんはちょっと嬉しそうだった。 内心下が良かったという感じだ。 上を選んでよかった。 なんで上だったかというと、上のほうが考え事に適してる感じが したから。 それに、はしごを登ってベッドにいくなんて、なんだか面白そう だ。 そのあと、お互い自分の机の椅子に座って向かい合った。 ゆったりとしたいい椅子だった。 私には大きすぎる気もするけど、リリーさんにはちょうど良さそ う。 468 リリーさんにちょうどいいということは、そのうち私にもちょう どよくなるということだ。 きっと。 たぶん。 ﹁一応、自己紹介しとこか。私はリリー・アミアンいうのよ。実家 は機械屋さん﹂ ﹁機械屋さん⋮⋮ですか?﹂ 一応は貴族しか入学できない学校だと思っていたけど。 職人さんでも入学できるんだ。 ﹁機械屋さんだけど村長なんよ∼。流れの落ちぶれ貴族やねん﹂ 私の疑問を察したのか、何も言わずとも説明してくれた。 ﹁そうなんですか﹂ やっぱり貴族だったようだ。 でも、流れの落ちぶれ貴族というのは、良く分からない。 落ちぶれはわかるけど、流れの貴族ってことはころころ領地が移 動するのだろうか。 ちょっと想像できなかった。 ﹁それで、私も機械が好きやねん。趣味は時計いじり。ほら見て﹂ リリーさんが手振りで指した机の上には、なんだか小さな作業台 みたいなものが置いてあって、その上には金屑がたくさん散らばっ ていた。 なんだか凄いなあ。 私は近づいて見てみた。 469 机の上には、いろいろな大きさの歯車や部品が転がっていた。 特に小さな部品は、細かな仕切りが入った化粧箱のようなものに 入れられている。 これが時計の部品なのだろう。 家にある振り子時計とは違う、小さな手のひらサイズの時計だ。 こういうのは、お母さんが持っているのを見たことがある。 興味を持って﹁分解したいから見せて﹂と言ったら、ちょっと青 い顔をして﹁ダメ、絶対ダメ﹂と言われたアレだ。 ﹁小さな機械なんですね﹂ ﹁そうなんやよー﹂ ﹁すごいなあ、どういう仕組みなんだろう﹂ 結局、仕組みは謎のままだったので、けっこう気になる。 ﹁ばらばらじゃーちょっとわからんかもしれんね﹂ ﹁ちょっと見させて貰ってもいいですか?﹂ ﹁ええよ∼﹂ リリーさんはあっさりと許可してくれた。 じっくりと観察すると、だいたいの仕組みはすぐに解った。 細かい歯車の配置なんかは解りようがないけど。 誰がこんな仕組みを考えたのだろう。 どうやってこんな小さな部品を作ったのだろう。 頭のいい人がいるんだなあ。 ﹁わかったかな?﹂ 470 と、リリーさんが聞いてきた。 ﹁細かいところは解りませんでしたが、だいたいは。こういう仕組 みだったんですね﹂ ﹁わかったのん?﹂ ﹁? 全部は解りません⋮⋮けど﹂ 全部わからないとまずかったのだろうか。 ﹁よかったら、わかったことお姉さんに教えてくれんかな?﹂ え、教えるの。 ﹁ぜんまいの動力から等時性を得るのに、振り子の代わりに小さな ぜんまいを使うのは、とても面白い発想だと思います。これが振り 子の代わりをしてるんですね﹂ 私はさっくりと気づいたことをまとめた。 ﹁えっ⋮⋮よ、よー解るなぁ。こういうの見たことあるん?﹂ リリーさんはちょっと驚いたような顔をしていた。 ﹁ありませんけど⋮⋮家の振り子時計は分解したことがあるので﹂ ユーリと一緒に分解してみたことがある。 ﹁基本的にはそうやけど⋮⋮見ただけでわかるんかいなぁ﹂ ﹁前から仕組みは気になっていましたから⋮⋮振り子時計だと、姿 勢を変えたら仕組みが破綻してしまうはずなので、こういう持ち運 びの時計はどうやって等時性を取っているのかなって。バネ定数が 一定なのを利用していたんですね﹂ ﹁ば、バネ定数?﹂ あれ、別の言い方をするのかな。 471 ﹁こちらだと別の言い方をするんでしょうか?﹂ ﹁え、えーっと、シャムちゃんは機械のこと勉強してきたん?﹂ なんだか、リリーさんに戸惑いを与えてしまっている気がする。 なにも変なことは言っていないはずなのに。 ﹁いえ、特には﹂ 振り子時計を分解したのは、振り子の等時性とベクトルの働きに ついて教えてもらっている途中のことだった。 見つかると怒られるので、夜中こっそりと二人で分解して中身を 見たのだ。 ユーリは常夜灯の薄暗い光を頼りに、コックンコックン音を出す 時計の前で、ベクトルの変化のしかたについて教えてくれた。 時計の仕組みについて知ったのは、言ってみればついでのことだ。 ﹁じゃあ何を勉強してたん?﹂ ﹁特別に何を勉強したというわけではないですけど⋮⋮数学と天体 力学と物理学ですかね﹂ ユーリが特に重点的に教えてくれたのは、そのあたりのことだ。 ﹁て、てんたいりきがく??? それって、なんの学問やの?﹂ ﹁星の動き方についての学問ですね﹂ ﹁へ、へぇ⋮⋮ほんに面白い子ぉやね⋮⋮ユーリくんが心配したの も解る気がするわぁ﹂ リリーさんは引きつったような笑いをしていた。 472 あれ⋮⋮。 473 第029話 閑話3 平和な日常 ﹁ユーリ、やってきたぞ﹂ キャロルが帰ってきた。 シャムの学校デビューの後添えのようなことを頼んだのだが、ち ゃんとやってきたらしい。 さすがに、王女殿下が連れてきた女の子を、わざわざ虐めようと 思うやつは居ないだろう。 これで、シャムのことはまず安心と見ていい。 勉強以外は、だが。 その時、俺は寮のラウンジで、ミャロとのんびり斗棋をしていた。 ﹁お約束があるんでしたね。ボクはいいので、気にしないでいって きてください﹂ 盤を囲んでいたミャロが言った。 ﹁そうか、悪いな﹂ 途中で申し訳ないが、抜けるか。 ﹁ちょっと待て、斗棋か﹂ キャロルは近くまでやってくると身を乗り出して盤を覗きこんだ。 キャロルはあまり強くない。 つーか、ぶっちゃけ下手だ。 ルークと同じでゲームは好きなのに、好きで好きでしょうがない のに、上手くはないという、可哀想なタイプだ。 474 最底辺としか言いようのないドッラと比べればさすがに強いが、 同い年でも平均以下くらいの実力しかない。 ﹁いいぞ。一局待ってやる﹂ ﹁お前が見たいだけだろうが﹂ *** ﹁⋮⋮参りました﹂ 俺は盤の上に平手を置いた。 ﹁えっ﹂ 馬鹿が約一名素っ頓狂な声をあげているが、ミャロはニコニコし ている。 ﹁諦めが早過ぎるぞ、おい。まだまだ﹂ ﹁七手詰みだ﹂ 俺が次の手をうつと、ミャロも分かっていたようで、間を置かず 打ってきた。 それを五回も繰り返すと、だれでも解るような王手になった。 しっかり詰まれている。 ﹁ほほー。よく気づいたな﹂ 感心してやがる。 だが、無理もない。 たかが七手詰みとはいえ、これはわかりにくい。 475 ﹁ミャロは気づいた時には詰みに入ってるからな﹂ 餌を置いて誘導するのが上手いというか。 バレバレの餌の置き方をする奴は数多いが、ミャロのは本当に解 りにくい。 雑魚の小駒を気前よく取らせながら、大駒を殺しにいくような手 をけっこう指す。 疑心暗鬼になって攻めあぐねていると、意を得たりとばかりに攻 めてくる。 今の一局も、詰みの五手前に詰ませに来ていることに気づいて、 はくちゅう なんとかしようと粘ったが、無駄だった。 盤面としては伯仲しているようにも見えるので、キャロルが諦め るのが早いといったのも、まあ頷ける。 ﹁悪いけど感想戦はまたな﹂ キャロルに付き合ってやらなきゃな。 ﹁はい。盤はボクが片付けておきます﹂ ﹁悪いな﹂ ﹁殿下を楽しませてあげてください﹂ いや、こいつなんか勘違いしてないか。 ﹁別に遊びに行くわけじゃないけど﹂ ﹁そうですか? てっきりデートなのかと思っていましたが﹂ なにを馬鹿な。 ﹁アホなことをいうな﹂ 476 と、キャロルも心外そうな顔をしていた。 珍しく意見が合ったな。 ﹁今日はそういうアホみたいなことを皆で言い合う日なのか? さ っきも言われたぞ﹂ そんな奇習は寡聞にして聞いたことがない。 ﹁いいえ、でもまあ、そのように見えたものですから﹂ ミャロは人が悪そうな笑みを浮かべている。 ﹁みえない﹂ キャロルが頑として言った。 ﹁ほら、いくぞ﹂ 手を握られて連行されていく。 ミャロはおもしろそーにこっちを見ながら、小さく手を振ってい た。 *** 約束というのは、俺の王鷲に乗らせるという約束だ。 俺は自分の鷲を実家から持参している。 どうも、キャロルは俺が上手いのをこの鷲のおかげと思っている らしい。 天騎士になりたい奴は大勢いるが、王鷲はニワトリを飼うように 育てられるものではないので、王鷲のほうは希望者より少ない。 王鷲は高価なので、騎士院とて何十羽も飼育しているわけではな いのだ。 477 なので、持参できるくらい裕福な家は、できるだけマイ王鷲を持 参する決まりになっている。 一人が持参すれば、天騎士コースからふるい落とされる数が一人 減るわけだから、学院側としては﹁できれば﹂ではなくて﹁特別な 事情がない限り、持参できる者は必ず﹂というくらいのニュアンス で持参させるようだ。 実際、持参できないと様々な問題がある。 騎士院所有の王鷲は毎日ハードな使用に耐えているため、いつも 体調が悪く、体調が悪い鷲に乗れば、事故の可能性も高くなる。 また、下手な乗り手ばかり乗せているのに、定期的に調教をし直 す暇もないので、乗り心地もあまりよくないようだ。 加えて、練習の順番待ちも発生する。 持参した者の半分程度しか練習時間を持てないために、技量の向 上が遅れてしまう。 体重的なタイムリミットがあるので、持参できない組の者たちは、 技量の向上に焦る傾向があるようだ。 ここに入って初めて知ったが、そうやって技術に熟達しても、天 騎士というのは資格のようなもので、半分くらいは王鷲とは離れた 人生を送ることになってしまうらしい。 定期的に乗せて貰えればいいのだが、卒業したきり十年単位で飛 行から離れてしまい、自動車免許のペーパードライバーみたいなザ マになってしまう天騎士も多いという話だ。 俺はもちろん、持参しないわけにはいかない家柄なので、王鷲を 478 持ってきている。 ルークに持たせてもらった。 ほしくず 名を﹁星屑﹂といって、名付け親はシャムである。 ルークが孵化から手がけた鷲だ。 ルーク牧場の鷲は相変わらず出荷されているが、ルークはもうト リ牧場が本業ではなくなってしまっているので、ルークが孵化から 手がけた鷲というのは、今やちょっとしたレア物となっている。 もっともこないだ会ったら、自分の鷲が歳を取ってきたから、ま た育てる。みたいなことを言っていたので、そのうち卵を貰ってき て孵化させるのだろう。 自分の鷲くらいは手ずから育てたいらしい。 せいらん キャロルはなぜか天騎士コースに入っていて、鷲もけっこう上手 い。 キャロルの鷲は﹁晴嵐﹂といって、名付け親はなんと女王陛下で ある。 こいつもルークが孵化から手がけた鷲であり、キャロルが幼少の ころに女王陛下が買い求め、キャロルにくれてやった。 俺が配達に付き合ったあのトリで、引き渡しの前には俺も跨った ことがあるわけだが、僅かな間のことだったので、よく覚えていな い。 王城で過剰に甘やかされてしまったらしく、久しぶりに会ったら 生意気なツラをしており、飼育員の頭をつつくツツキ癖がついてし まっていた。 乗り手のキャロルのことは流石につつかないが、この癖がついた 鷲がカゴのなかに一羽でもいると、飼育員は鉄のヘルメットを被る 479 必要がでてくる。 とりかご 鷲舎の中に入ると、俺に気づいた星屑が早速降りてきた。 ﹁ルルルル⋮⋮﹂ という、低く詰まったような喉鳴りで歓迎してくれる。 近づくとクチバシを差し出してきた。 ﹁星屑、いい子だ﹂ クチバシをなでてやると、 ﹁クルルルルル⋮⋮﹂ と、満足そうに黄色地に黒い瞳のついた目を細めた。 しばらく撫でたあと、さっさと手綱をつけると、星屑を外に連れ だした。 キャロルが待っている。 ﹁ほーら、餌だぞ﹂ と、キャロルが手に持って、星屑の鼻先に持っていったのは、魚 だった。 王鷲にとっては一口大の、タラみたいな魚だ。 星屑はクチバシでしっぽを掴むと、ぽいと上に放り投げて、ぱく りと平らげた。 餌付けをすれば懐くのは、犬ころも鷲も同じである。 王鷲は、もともとは山の背側のフィヨルド地帯に生息している鳥 類だ。 現在でも野生の王鷲というのが存在していて、主にシカなどの陸 生動物を食べている。 狩りの仕方はユニークで、急降下しながら爪を立ててシカをキャ 480 ッチすると、そのままの勢いで上空に掻っ攫い、リリースする。 つがい 地面にぶちあたって死んだシカを改めて食し、場合によっては巣 に持ち帰り、番や雛に与える。 人間を襲うことはめったにないが、リリースするときに本能的に 開けた場所を狙うため、当地の村落では、頻繁にシカが空から降っ てきて屋根が破れるという。 陸棲動物のほか海獣類も食し、海獣類の臓物を喰う関係で、魚も 食べることができる。 自ら魚を捕ることはないが、嫌いではなく、海の魚であれば寄生 虫にやられることもない。 ﹁よしよし﹂ キャロルが手を伸ばすと、星屑は嫌がりもせず、自ら嘴を差し出 した。 キャロルは細い指で嘴と細かな羽毛をなでてゆく。 ﹁そのまま食わせとけ。鞍つけるから﹂ 鞍をつけようとすると、星屑は自分から足を畳んで地面に腹をつ けた。 よくできておるのう。 鞍を放り投げるように背中に乗せると、安全具を結んでいく。 慣れたもんで、嫌がりもしない。 その間もキャロルはぽいぽい魚をくれてやり、星屑のほうはパク パク食べていた。 鞍を着け終わった。 481 ﹁ほら、乗れ﹂ ﹁え、今乗るのか?﹂ トリカゴ ここは鷲舎のそばで、普通はここで騎乗はしない。 離着陸場という場所が他にあるから、安全のためにそこまで歩か せてから飛ぶのだ。 ﹁飛ぶ前に少しでも慣れておいたほうがいいだろ。おまえ一人なら さほど重くもない﹂ いつもは大人プラス子ども一人で、八十キロ近い重量を載せるん だから、キャロル一人くらいはへっちゃらのはずだ。 八十キロというのは王鷲にとっては負担なので、それを乗せたま ま歩かせる、というのは普通しない。 できるなら子どもでも乗せないほうがいいが、多少の体力の消耗 よりも、いきなり乗せて空中でパニくるほうが怖い。 ﹁王女殿下を乗せるなんて雄として光栄なことなんだぜ。そそうを するなよ﹂ キャロルに聞こえないように星屑に語りかけた。 言葉が分かるわけもないが、星屑は﹁クルルル⋮⋮ルル⋮⋮﹂と 喉を鳴らして返事を返した。 ﹁安全帯装着よし﹂ キャロルが優等生みたいな確認合図を言った。 授業中でもあるまいに⋮⋮。まあいいけど。 俺が手綱を引っ張りあげると、星屑は頭を引っ張られる前にさっ と体を起こした。 482 本当にできておるのう。 ルークの調教が行き届いておる。 今だから解るが、他の天騎士たちがルークの育てた王鷲を欲しが るわけだ。 そのまま手綱を引いて、離着陸場まで歩いて行った。 *** 離着陸場というのは、校庭よりは整備が行き届いていない、木が 払われた平地みたいなところである。 雑草も、適度に刈られてはいるが、抜かれてはいない。 離着陸に滑走路がいらない王鷲に、何故こんなところが必要なの かというと、技量未熟な者が離着陸でミスったときのためである。 例えば、離陸するときなどは、離陸の指示を与える以外の手綱さ ばきはいらないのだが、離陸してる最中にテンパって手綱を引いて しまう奴がいると、前のめり・後ろのめりに墜落することがある。 その場合、樹木や建物にブチあたって墜落したり、あるいは校庭 のような踏みならされて硬くしまった地面に墜ちるよりは、草が生 えて土も柔らかい場所に墜落するほうが、被害は軽減されるという わけだ。 俺は、引っ張ってきた手綱を、キャロルのほうに放り投げた。 うまいこと空中でキャッチする。 ﹁上空では、絶対に急な手綱さばきをするなよ﹂ ﹁わかっているさ﹂ 483 ﹁行ってこい﹂ そういうと、キャロルはさっと手綱を手前に引いて星屑の首を持 ち上げた。 星屑はぶわっと巨大な羽を広げ、大きく羽ばたかせながら浮上す る。 そして、そのまま斜め上に舞っていった。 俺とキャロルはついこないだ、初等自主練習の許可が下りたばか りだ。 ミャロも地味に天騎士コースにいるのだが、こちらはまだ許可を 得ていない。 ミャロは自分の王鷲を持っていないので、進捗が遅れているのだ。 まだ中学生程度の子どもを一人で乗せるのは危険に思えるが、成 長に伴い日に日に体重が増しているので、多少の危険を犯してでも 急がなければならない。 俺やキャロルは焦るほど上達が進んでないわけではないが、上空 で曲技飛行まで教えてもらうには、十三歳までのうちに基本的な飛 行技能を習得しなくてはならないので、欲を張ると忙しい。 十四歳を超えると二人乗りの重量が限界に近くなり、教官でも曲 技飛行は危険性が高すぎて教えられなくなる。 それに間に合わないと、地上の座学で予習をして、あとは自分一 人で曲芸飛行を練習、ということになり、それは危険を伴う。 王鷲は生き物なので、空中で失速するとパニックを起こしてしま うのだ。 484 飛行機であれば、空中で失速しても、落下するうちに速度を取り 戻して立て直せるが、王鷲は生き物なのでそうはいかない。 本能として、空中で失速した場合は、足で掴んでいるもの、背中 についているものを離そうともがく。 だが、もちろん背中についている飛行士は安全タイで繋がってい るので、振り落とせない。 そうやっているうちに墜落してしまうのだ。 鷲が乗り手を完全に信頼していて、十分に習熟した乗り手が作為 的に失速をさせた場合などは、鷲も安心感を抱いているのでパニッ クには至らないが、未熟な乗り手の操作では、そういうことにはな らない。 そういう事情があるので、曲芸飛行を独修するのは、特に危険な ことらしい。 天騎士にとっては、曲芸飛行をこなせることが一人前という風潮 があるため、騎士院側は十四までに腕前をあげさせるために、けっ こう簡単に自主練習の許可を下ろす。 だが、そこで乗るのは自尊心が高く調子に乗りやすい貴族の子ど もたちだから、自主練習中の事故は多く、高位の騎士家の中には、 最初から天騎士にはするつもりがない。という家も多いようだ。 折角の跡取りがつまらない事故で死んでしまったら意味がない。 という理屈である。 また、天騎士は筋肉ムキムキのマッチョのような戦士には向かな いので、体格が大きな子どもは最初から諦めさせる場合もある。 なにがいいたいかというと、コレはドッラのことで、ドッラは鷲 485 とはまったく縁がない。 *** 上を見ると、キャロルが乗った星屑が、ゆうゆうと空を飛んでい た。 抜群の安定感である。 といっても、初等自主練習では難しいことはなにもやらないから、 失敗する要素が殆どない。 王鷲は、地上で手綱を引いて離陸すれば、鷲の好みの高度まで勝 手に上がり、あとは左回りに大旋回を続けるように調教されている。 初等自主練習でやれることは、左回りの大旋回を続けさせること、 それだけなのだ。 やることといったら、回っているうちに中心点がズレてきてしま い、離着陸場から離れるようだったら、わずかに調整して中心点を 直す作業だけだ。 直せないようだったら、即座に着陸の指示をして、どこでもいい から降りる。 やることはそれだけで、何も難しくはない。 よほど方向音痴な王鷲だったら大変になるが、星屑はほとんど完 璧な真円を描くのだから、余計なことをしなければ、何も問題は起 きない。 昼寝をしていればそのうち戻ってくるだろう。 俺は手頃な木の根本の草を倒し、木の幹を背もたれにして、休み 486 始めた。 ああ、いい天気だ。 日はさんさんと差していて、空は青い。 この国では短い、外で昼寝ができる季節を、今は楽しもう。 *** だが、それを許さない者がいた。 ﹁はぁ、はぁ⋮⋮﹂ なんの用なんだか、俺の近くに近寄ってきた、見知らぬ少女だ。 走ってきたのか、息を切らしている。 教養院の制服を着ていた。 シャン人の中では珍しい金髪だ。 珍しいというか、キャロルと女王陛下しか見たことがないんだけ ど。 騎士院の敷地の奥深くまでくる教養院の女子というのは、イケメ ンの先輩方のおっかけと相場が決まっている。 死の危険性があるというのに、離着陸場のど真ん中でシートを広 げてピクニックとか始めて、こっぴどく怒られて追い出される奴ら だ。 できれば関わりあいになりたくはない。 487 ﹁あなた、ここでお姉様をみなかっ⋮⋮た?﹂ 少女は、息を整え、初めて顔を上げて、俺を見た。 なんだ? なんだか知らんが呆けたような顔をしている。 俺は他人に顔を見られてこんな表情をされたことはないので、後 ろに突然ゴジラでも出現したのかと思い、振り向いてしまった。 そこには木立だけがあった。 俺はふたたび女の子を見た。 俺より年下に思える。 かなり気品ある顔立ちをしているが、小生意気な感じだな。 ﹁なんだ?﹂ ﹁あなた、名前はなんていうの?﹂ なんで俺の名前なんぞ聞きたがる。 ﹁ユーリだ﹂ だが、名乗って損があるわけでもないので、教えてやった。 ﹁ユーリね。家の名は?﹂ ﹁ホウ﹂ ﹁ユーリ・ホウね。ふーん、ホウ家の次男かなにかかしら?﹂ なんだこいつ? 次男がいたらツラを拝んでみたいもんだ。 あえていえばルークは次男だが、親の代のことではあるまい。 488 ﹁どうでもいいだろ、お前にゃ関係ない﹂ ﹁おまえ? ずいぶんな口を聞くのねぇ。私を誰だと思っているの ?﹂ なんか調子に乗ってる。 平民のくせに生意気よ? みたいな感じだ。 お前なんか知らねえよ。 ﹁さあな﹂ ﹁私は王族よ﹂ 王族? 王族だったのか。 どーりで偉そうなわけだ。 ﹁ふーん﹂ ﹁カーリャ・フル・シャルトルよ﹂ へー。 なるほど。 じゃあ、こいつキャロルの妹か。 こんなに歳が近い妹がいるなんて聞いてないな。 種違いならともかく、腹違いということはないだろうから、連続 して二人産むというのは少産のシャン人としては、かなり珍しい。 ルークとスズヤなんて、十年も励んでも、まだ次の子が産まれな いのに。 ﹁キャロルの妹か﹂ 489 ﹁⋮⋮私の前でお姉様を呼び捨てにするなんて、いい度胸してるわ ね﹂ いい度胸してるのか、俺って。 一応、気にしそうな大人の前では殿下って呼んでるんだけどな。 ﹁やつとはお前、こいつの仲だからな﹂ ﹁お姉様と知り合いなの?﹂ ﹁まあな﹂ 知り合いというか。 なんと形容したらいいのかわからん間柄だが。 考えてみたら、お前こいつの仲ってなんだよ。聞いたことねえよ。 ﹁なるほど、そういうことなら、あなた、特別に親しくしてあげて もいいわよ﹂ ﹁⋮⋮は?﹂ 唐突に何をいいだすんだ、こいつは。 ﹁私が親しくしてあげるって言ってるの﹂ ﹁いや、わけがわからんが﹂ ﹁嬉しいでしょ?﹂ サラッと髪をかきあげる仕草をする。 ブロンドの髪の毛が柔らかく宙を舞う。 まー、なかなか美少女ではあるよな。 ロリコンの変態おじさんが見たら、人生を捨てる覚悟をして犯罪 行為に走りそうな感じだ。 ﹁嬉しくなくもないが﹂ 490 ﹁あらそう?﹂ ﹁だが、遠慮しておこう﹂ ﹁えっ﹂ 俺はホモではないから、女と関わり合いになりたくない。という わけじゃない。 だが王族はNGだ。 というか、教養院の女とは関わりあいになってはいけない。 しんげん これは偉大なる先達、ルークの箴言でもある。 イケメンの人気者で在学中モテモテだったというルークは、それ でも一度として教養院の女と付き合ったりはしなかった。 なぜかというと、この学院では、交際は自由だが本番をしたら即 婚約という仕組みができているからなのだ。 女の貴族には、結婚までは純潔を守るのが当然という文化がある。 結婚したあとは、場合によっちゃ男の愛人を作りまくって、事実 上一妻多夫のような逆ハーレムを作る場合もあるが、それはそれと して、結婚までは純潔を守り通す。 それは大変けっこうなことなのだが、なぜかは知らんが、まっと うに交際をして純潔を散らした場合、その責任は男の側にあるとい う理屈がまかり通っているのだ。 男は責任をとって結婚すべしということになるのだ。 その際、﹁向こうから誘ってきた﹂﹁中には出してない﹂﹁遊び でもいいってゆわれたし﹂なんていう言い訳は一切通用しない。 というのは、ルークが大真面目に語った内容である。 なので、なんとなく交際を始めた女とヤッたあと、本当に好きな 491 女ができてしまい、だが過去の過ちはどうにも覆しようがなく、悲 恋に終わる。 という失恋物語は、騎士院にはたくさんある。らしい。 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。 賢いルークは歴史に学んだ。 結果、スズヤと出会うまでに愛してもいない婚約者などを作らず にすみ、本当に愛するスズヤと結婚することができた。 もし婚約者ができてしまっていたら、そもそも退学して自由の道 を歩むという選択自体、選べなかった可能性が高い。 ただ、ルークは二十幾つでスズヤと出会うまで童貞だったという わけではない。 ちゃっかり市街の酒場に繰り出して市井の女と遊びの付き合いを したり、娼館通いしたりしていたという。 賢い騎士は教養院の女なんぞとは付き合わないのだ。 そして、こいつは、教養院どころか王族である。 まかり間違って事故でも起こったら、これはもうマジにとんでも ないことになるだろう。 可愛らしいといっても、踏んだら人生が台無しになると解りきっ ている地雷と親しくしたいやつがいるだろうか。 いつ死んでもいい変態のおっさんならいいが、俺はまだ人生長い んだ。人生棒に振りたくはない。 ﹁なんとかいいなさいよ﹂ どっかいってくれって言えばいいのかな。 492 ﹁何が不満なの? 私は王族よ﹂ ﹁王族はキャロルでたりとる。二人もいらん﹂ ﹁⋮⋮もしかして、お姉様と付き合っているの?﹂ カーリャは眉根を潜めた険しい顔をして言った。 なにをいいだすんだこいつは。 ﹁あんなのと付き合ってたまるか﹂ 俺がそう言うと、カーリャの表情がほどける。 なんでだ。 ﹁そうなの。じゃあ私が付き合ってあげるわ﹂ なんかもう疲れてきた。 ﹁悪いが、俺はまだ結婚は考えてないんでな﹂ ﹁あら、付き合うのと結婚は違うのよ﹂ こいつはこいつで、どんだけマセたガキなんだよ。 つーか、この学院の鉄の掟をしらんのか。 それとも、性欲激しい思春期の男が、手を繋ぐだけの清い交際を 保てると信じているのか。 ﹁結婚を前提としない交際はしたくない。不誠実なんでな﹂ 結局、俺は心にもないことを言った。 ﹁あらそう? ならしょうがないわね﹂ おっと、引いてくれたようだ。 493 ﹁ならどっかいけ。俺は寝る﹂ ﹁ふうん。それじゃあね。お姉様に会ったらお話があるって言って おきなさい﹂ そう言い残してカーリャはどっか行った。 俺は樹の幹に寄りかかって寝た。 *** ﹁︱︱︱おいっ、おいっ﹂ 声がして、目が覚めた。 目を開けると、そこにはドでかい鷲と、手綱を握ったキャロルが いた。 ﹁ん⋮⋮もう終わったのか﹂ ﹁終わったぞ。まったく、良くこんな所で寝られるものだ﹂ 背中が痛いっちゃ痛いが。 キャロルはお嬢様だから、ベッド以外で寝る機会なんぞないのか もしれん。 ﹁そうか? 机で居眠りするのと一緒だぞ﹂ ﹁私は机で居眠りなどせん﹂ そうなのか。 ﹁真面目だな﹂ 俺はよっこらしょと立ち上がった。 494 ﹁じゃあ、戻るか。腹も減った﹂ 昼飯時はもうだいぶ過ぎている。 ﹁そうだな﹂ 星屑をトリカゴに戻して、寮に帰った。 キャロルはメシも食わずにどっか行ってしまった。 お忙しいこった。 *** 夕食時に食堂で飯を食っていると、再び寮に戻ってきたキャロル が話しかけてきた。 ﹁おい、ユーリ。お前、私の妹と会ったか?﹂ ﹁ああ、そういえば会ったぞ﹂ すっかり忘れてた。 今思い出したけど、用があると伝えてくれとか言ってたな。 今からでも伝えたほうがいいのか。 ﹁そういえば、おまえに用があるとか言ってたぞ﹂ ﹁遅いわ。もう会ってきた﹂ やっぱり遅かったようだ。 キャロルは乱暴に俺の隣の席の椅子を引くと、そこに座った。 ﹁ちょっと耳をかせ﹂ キャロルは俺の耳に口を近づけてきた。 なんだよ、こそばゆいな。 495 ﹁お前⋮⋮その⋮⋮、なんだ、好きになったのか、妹のことを﹂ ﹁はあ!?﹂ 思わず素っ頓狂な声が出てきた。 耳から口が離れる。 ﹁今日はそういうアホなことを言い合う日なのか?﹂ 馬鹿なことをぬかしやがって。 ﹁いや、違うが⋮⋮﹂ ﹁すっかり忘れていたが、お前が飛行してる間にちょっと話しただ けだ。やたら小生意気なク⋮⋮子どもだったな﹂ クソガキといいかけたが、流石に姉の前ではやめておいた。 ﹁だが妹は相思相愛とか言ってたぞ﹂ はあ??? なんだそりゃ。 馬鹿かよ。 ﹁寝言は寝てぬかせと伝えろ﹂ あいつそこまで頭がおかしい女だったのか。 マジで分別がねぇ。 恋愛といえば聞こえがいいが、ことこの学院に限っては、相思相 愛というのは一般人の若者が気軽に言い合うようなものとは、全然 意味合いが違ってくる。 直接的に﹁家同士の付き合い﹂とか﹁結婚﹂とかという単語と繋 がってくるのだ。 496 俺の家も今や家格は中々のものだから、零細貴族の女の子が一方 的に言ってくる分には、相手にもされないだろうが、王族となると 話が変わってくる。 本気にするやつも出てくるだろうし、こちとら大迷惑だ。 その辺の分別もついてないとは。 ﹁つまり、好きになってはいないんだな﹂ ﹁当たり前だろ﹂ ﹁そうか。安心したぞ﹂ ホントに安心したような顔しとる。 普通に考えりゃわかるだろ馬鹿野郎。 *** 夕飯を殆ど食べ終わっても、まだ腹立ちが収まらなかった。 ﹁もしかして、あいつドッラ級のアホなんじゃねえか﹂ ドッラ級のアホだったら、頭が悪いのも納得できる。 いや、さすがに一度会っただけでドッラ級のアホと認定するのは、 幾らなんでも酷いか。 失礼だったな。 あのレベルのアホということは、もう人類というより類人猿のほ うが、分類としては近い扱いになるからな。 497 あれだけ可愛らしい生物を類人猿扱いするのはどうなんだ。 見ための可愛らしさに免じて、いきなりドッラ級の扱いはやめて やるべきだろう。 キャロルが口を開いた。 ﹁ドッラはアホじゃない。彼は彼なりに騎士として精進しようと頑 張っているじゃないか。妹もああなってくれればいいのだが﹂ ああ。 世の中って広いな。 俺はしばし途方にくれて、世界の広さに思いを馳せた。 ドッラみたいになってくれれば、なんて言葉が耳に入ることがあ ろうとは。 ﹁正気か⋮⋮?﹂ 俺は心底からの疑いをもって問うた。 すがすが ﹁やつはお前に追いつこうと、必死に頑張ってるじゃないか。見て いて清々しい﹂ 俺は唐突に寒気を覚え、肌には鳥肌が立った。 食堂の気温が急に下がったかな? ﹁まあ⋮⋮おまえがちょっと特殊な性癖を持っていたところで、そ れは人それぞれだ⋮⋮。俺は否定しないよ⋮⋮﹂ ﹁ばっ、ばかっ! そういう意味じゃない﹂ ﹁じゃあどういう意味だよ﹂ おら言ってみろよ。 498 妹にあんなDQNになってほしいなんてよ。 俺だったら、シャムがあんなのになったら、責任を感じるあまり、 首を吊って死ぬかもしれないぞ。 ﹁騎士として感心できるってことだ!﹂ ﹁そうかぁ?﹂ 騎士道の観念というのは良く分からんが、DQNであることが騎 士ということなのだろうか。 ﹁お前は一悶着あったから、見方が偏っているだけだ﹂ ﹁ふーん、そうかなぁ﹂ そうとは思えないけどなぁ。 ﹁そうだ。ドッラはドッラで偉い。妹があんなふうに向上心に溢れ ていてくれれば、私もいうことはない﹂ ﹁そうかぁ? あんな風になったら、王家だって困るんじゃないか。 こないだなんて、マラソン中に林の中入ってって野﹂ ﹁おい!﹂ と俺を止めたのは、キャロルではなかった。 男の声だった。 ﹁てめー、黙って聞いてりゃ、キャロル様に、なんてこと吹き込ん でやがる﹂ 振り返ると、やはりそこにはドッラがいた。 聞いてたのか。 ﹁あー? 事実だろうが、お前が野﹂ ﹁わああああ!!! 馬鹿野郎、やめろ﹂ ﹁ふん﹂ 499 さすがに本人の前ではやめてやるか。 こいつはアレだしな。 うふふだしな。 ﹁お前らはなんでそう⋮⋮﹂ キャロルはため息をついていた。 ﹁別にいいだろ。それより夕飯は済ませてきたのか?﹂ ﹁いや、ここで食べるつもりだが﹂ ﹁ドッラは食ってねえんだろ﹂ ﹁いま来たところだろうが、見りゃ分かるだろ﹂ なるほどね。 ﹁じゃあ、ここでキャロルと食えよ。俺はもう食い終わるからさ﹂ 俺がそう言ってやると、ドッラは面白いくらい喜色満面の笑顔に なった。 まったく、単純なやつだ。 500 王都地理概略 <i139470|13912> 首都シビャク 古に栄えたシャンティラ大皇国の西の果ての拠点として栄えた。 後にシヤルタ王国が成立すると、その首都となり、執政官府のあ った土地にきらびやかな王城が建てられる。 王城は王城島と呼ばれる小島の中央部にあり、この王城は堅固な 城塞で囲われている。 シヤルタ王国の歴史の中で、将家の反乱によって二度の大火に晒 された。 市街を焼いた将家は、しかし王城島を落とすまでには至らず、別 の将家に後背を衝かれ、2つともが滅亡している。 501 第030話 突然の手紙 俺は十五歳になった。 十五歳になった俺は、特別なことをするでもなく日常を謳歌して いた。 テロル語をやっと日常会話程度習得することができ、学問の実技 も順調であった。 というか、実技以外はほとんどの単位を取り終わってしまい、暇 を持て余していた。 考えてみれば、座学で取るべき200単位のうち120単位は免 除されているのだから、残りは80単位しかないのだ。 五年も真面目にやってりゃ、暇になるのは当然である。 変わったことといえば、半年ほど前にハロルが﹁テロル語はもう 十分だ、行ってくるぜ。あばよ﹂みたいなことをいって、出て行っ たことだ。 ハロルとは大学の講義友達みたいな間柄だったが、港の使用権の 関係でいろいろと口利きをしてやったりした。 ハレル商会は魔女家との軋轢の関係で、王都の港には入港し辛い らしいので、南のホウ家領の港を使う許可証をくれてやったのだ。 そうして、しばらく前に旅立っていった。 半年経ってもまだ帰ってこないので、生死についてはかなり際ど い。 502 *** そんな折のことだった。 寮で午後からの暇をいつものように持て余していると、キャロル がやってきた。 ﹁お前宛てだ﹂ と言って、一枚の封筒を投げて寄越した。 ﹁なんだ?﹂ と聴くと、 ﹁お母様が会いたいとさ﹂ ん??? ﹁お母さまって、もしかして女王陛下のことか?﹂ ﹁そうだ﹂ そうだ、って。 ﹁なんで俺が女王陛下に謁見するんだ? なんか悪いことしたか?﹂ 国の最高権力者に呼び出されるなんて、嫌な予感しかしない。 ﹁その中に書いてある﹂ と、キャロルは俺の手元にある封筒を指さした。 それもそうだ。 せっかく書面にして書いてもらったのだから、そっちを読んだほ うが手っ取り早い。 書状は、最高級の羊皮紙と思われる手触りのよい封筒に入ってい 503 た。 口は封蝋で留めてある。 これもまた、綺麗な朱色をした蝋だった。 高級品に違いない。と思うのは、先入観からだろうか。 俺はべりっと封蝋を剥がすと、中を見た。 *** 騎士院在学生、ユーリ・ホウ 浮痘病の特効薬開発の殊勲を讃え、陛下より恩賜を与える。 ついては、謁見を差し許す。 期日までに王城に参内すること。 玉璽 *** ⋮⋮なんだ、あれのことか。 ルークから、効果が上がってるとか隣ん家にも教えたとか聞いて いたが、女王陛下の耳にも入っていたらしい。 ふーん。 504 金でももらえんのかな。 ﹁わかんないんだが﹂ ﹁何がだ?﹂ ﹁期日までにって書いてあるが、期日が書いていない。これは、こ れから王城で謁見の予約をして、期日を決めろってことなのか?﹂ ﹁いや、違う﹂ 違うのか。 ﹁連れて来いと言われた﹂ ﹁お前といくんかい﹂ アポなしでいいのかよ。 ﹁そうだ。服も制服でいいぞ﹂ ﹁なんだよ、テキトーだな﹂ 謁見とはなんだったのか。 ﹁大臣と衛兵がずらりと並ぶ謁見室で謁見とかじゃないのか﹂ 夢を返せと文句をいってやりたくなる。 ﹁違うだろうな、奥の間に通せと言われたから、庭に面した客間だ ろう﹂ ﹁なんだ⋮⋮まあ、そんなもんか﹂ そっちのほうが気楽だし、いいけどな。 ﹁で、何時にするつもりなのだ?﹂ ﹁最近暇だからいつでもいいぞ﹂ 505 ﹁じゃあ、今日で構わないか?﹂ 今日。 今日とか。 親戚のばあちゃん家いくんじゃないんだから。 ﹁そんなんいいのか。失礼にあたるんじゃ﹂ ﹁ハッ﹂ キャロルは鼻で笑った。 ﹁お前が礼儀を気にするとはな﹂ こいつ、俺のことをなんだと思ってやがる。 おんまえ ﹁さすがに女王陛下の御前ではな﹂ ﹁なんだ、意外だな﹂ 本当に意外そうに言ってやがる。 どんなふうに思われてんだ俺は。 女王にでも平気で喧嘩を売る、天上天下唯我独尊の男とでも思わ れているのか。 *** キャロルはさすがに王城では顔が利くようで、近衛の衛兵たちは 顔パスで通してくれるので、ずんずんと進んでいった。 もしかして階段を登って王城のてっぺんまで行くのかと思ったの だが、さすがにそれはないらしい。 506 階段を登ったのは二回だけで、それで地上から少し段差のあるテ ラスについた。 暖かな日差しが射したテラスでは、草花が鉢に植えられて、そこ ら中に置いてあった。 手頃な丸い鉢もあれば、プランター状をした巨大な陶器に植えら れたものもある。 開花期を考えて鉢を入れ替えているのか、全ての鉢が葉を茂らせ、 蕾や花を咲かせていた。 水道が通じているわけではないようだが、毎日水をくんできて、 こまめに水やりをしている者がいるのだろう。 テラスの中央には、丸いテーブルが置いてあった。 木目が細やかなテーブルで、野外据え置きのテーブルによくある、 カビや不潔さはまったくない。 頻繁に屋内に仕舞われて、出す度によく拭き清められているのだ ろう。 そのテーブルを囲む椅子の一つに、入学式で手の甲に口づけをし た覚えのある女性が座っていた。 若いとも言えないが老いているとも言えない、中庸な容姿をして いるが、気品と静かな緊張感が漂っている。 そう思えてしまうのは、無意識に権威に圧倒されているからなの だろうか。 ﹁よく来ましたね﹂ キャロルによく似た声色だった。 俺はおもむろに片膝立ちになると、最敬礼の姿勢をとった。 507 ﹁拝謁の光栄に浴す機会を与えていただき、有難き幸せに存じます。 女王陛下﹂ ﹁あらあら、うふふ﹂ ﹁猫をかぶるな、馬鹿﹂ 頭上から酷い声が聞こえてくる。 俺は立ち上がって膝についた砂粒を払った。 バツが悪ぃ。 ﹁なんなんだよ⋮⋮﹂ せっかく小一時間悩んで考えた肩肘張った挨拶だったのに。 ﹁謁見室ではないのだから、そんなに畏まる必要はない﹂ ﹁畏まっちゃいけないってことはないだろ﹂ ﹁まあ⋮⋮そりゃそうだがな。おまえ、熱でもあるんじゃないのか﹂ 失礼すぎる。 お互い様だからいいけどよ。 ﹁仲がいいのねぇ﹂ 女王陛下は朗らかに微笑んでいた。 ﹁ほら、座れ﹂ キャロルはさっさと椅子にすわった。 う、うーん。 ﹁どうした。早く座れ﹂ ﹁馬鹿、こういう席で陛下に勧められないうちに座れるか﹂ 508 俺はこういうの気にするんだよ。 ﹁どうぞ、お座りになって﹂ あ、はい。 ﹁では、失礼させて頂きます﹂ 俺は椅子に座った。 ﹁お話に聞いていたより、ずいぶん礼儀正しい子ですねえ﹂ ﹁恐縮です﹂ ﹁猫かぶってるんです、こいつは﹂ この野郎、さっきから好き放題いいやがって。 ﹁被ってません、キャロル殿下﹂ ﹁やめろ、鳥肌が立つ﹂ ﹁羨ましいわぁ、私も学生のときこういう友達が欲しかったわ。騎 士院のほうに入ったらよかったのかしら﹂ ﹁こんな馬鹿はこいつだけですから﹂ こいつさっきから言いたい放題だな。 ﹁お茶が来たわ﹂ メイド服を着た女中さんが表れ、 ﹁失礼します﹂ と言って、茶道具が乗ったトレーを机の上に置いた。 ティーカップを見ると、ひと目で高いものだと解る。 509 肉厚が薄く、書き込まれた絵柄が美しい。 こういう繊細で洒落た茶器は、騎士家では好まれないので、うち では見たことがない。 女王陛下が茶器に手を伸ばす。 ﹁お母様、私がやります﹂ と、キャロルが遮った。 ﹁そう? じゃあお願いね﹂ 何も言わなきゃ女王陛下が茶を淹れてくれる感じだったのか。 それもレアな体験な気がするが。 キャロルの茶道具の扱いは、名乗り出るだけあって上手だった。 手慣れた様子で茶葉とティーポットを操り、鮮やかに三人分の茶 を淹れた。 茶菓子の小皿と一緒に、カップが俺の前に置かれる。 茶をいれるとか、小姓や侍女の仕事のように思えるが、なぜこん なに手馴れているのだろう。 少なくとも、俺の家ではサツキあたりが手ずから茶をいれるとい う文化はなかった。 女王陛下が茶を口にした。 ﹁美味しいわ。上達したわね、キャロルちゃん﹂ ﹁ありがとうございます﹂ 俺も飲むと、確かに上手い茶だった。 一般的に淹れられる麦茶ではなく、ハーブティーの類だ。 今は早春で、少し肌寒いので、ちょうどいい。 510 ﹁⋮⋮お前はなんかないのか?﹂ なんか期待の目? を俺に向けてきている。 感想を求められているのか。 茶道と同じでなんか感想を言う決まりなのだろうか。 うーん。 ﹁たいそう美味しいと思います﹂ ﹁なんだそれ﹂ キャロルはくすりと笑った。 なんだか変だったようだ。 俺も変かなと思ったけど。 *** お茶をひと通り飲み終わると、 ﹁このまま長話をしてもよいのだけど、本題を先に済ませちゃいま しょう﹂ と陛下が言った。 本題というと、あれか。 ﹁このあいだ、ルークさんに手紙を出して、彼に恩賞をあげようと したのだけど、息子の手柄だからと言って聞かないの。本当にユー リくんが考えたのかしら?﹂ うーん。 511 やっぱり、これは嘘をいってもしょうがないみたいだ。 ﹁そうですね﹂ ルークが勝手に受け取っておいてくれてもよかったのに。 ﹁どういうふうに考えついたの?﹂ ﹁考えついたというか、僕はもとは牧場主の息子ですから、牛飼い に聞いたんです。牛飼いの間では昔からある有名な話だったような ので。だから、発明というわけではありません。言うなれば、再発 見ということになりますかね﹂ ここに来る道すがら考えた言い訳であった。 ﹁なるほどね∼。今までおおやけに広まらなかったのが不思議なく らいね﹂ ﹁そうですね﹂ どうなんだろうな。 誰かが気づいたとしても、ルークのような立場ある人間が理解を 示さなければ無理だと思うが。 というか、感染の仕組みを知らなければ、牛から出てきた気持ち 悪い粘液を傷口に刷り込めば、確かに予防できる。なんてこと、誰 も信じないわけで。 やっていることだけみれば、不気味で怪しい民間療法だと思うだ ろう。 ルークであったとしても、俺が熱心に説かなければ信じはしなか っただろうし。 512 ﹁でも、その気付きで何人もの人が命を救われたわ。有難うね﹂ ﹁ええ、どういたしまして﹂ 俺としては、救われた人は運が良かったねというだけだ。 勝手に利用してくれて構わない。 こっちとしては家族に感染するのを防ぎたかっただけだし、助か ってよかったねというだけで、何を求めようとも思わない。 ﹁それで、お礼をしたいと思うのだけど、何がいい?﹂ ﹁お礼ですか﹂ 例の恩賜の品とかいうやつか。 なにがいい? と聞いてくるということは、ある程度望みのもの を与えてくれるのだろう。 ﹁モノや金銭でなくてもいいんですか?﹂ ﹁あら、いいわよ。常識的な範囲内ならば﹂ 常識的な範囲か。 その中に入るのかな。 パテント ﹁今欲しいのは、特許です﹂ ﹁特許? 専売特許のことかしら?﹂ 女王陛下の目が鋭くなった。 専売特許というのは、ある地方または国家で、ある品目について の商売を独占することを特別に許す、特別な許可のことだ。 さすがに小麦みたいなものを専売にすることはないが、塩とか銅 513 とか蝋とかを専売制にしてしまい、特定の商人や貴族に利権を与え ることは、この国でも行われている。 それをされると、新規に参入した商店などがその品物を扱うこと は、そもそもが違法。ということになるので、利益が独占されてし まう。 ﹁違います。僕がこれから何か独創的な物や方法を発明したときに、 その発明から生じる利益を保護してほしいのです﹂ ﹁⋮⋮うーんと、どういうことなのかしら?﹂ どうやって説明したらいいかな。 ﹁例えばですが、僕がこれから十年かけて試行錯誤して、物凄い発 明をするとしますよね。あたりまえですが、僕はそれを商品化して 儲けます。まあ、ここでは、それが都合よく大流行したと仮定しま しょう﹂ ﹁はいはい﹂ ﹁ですが、しばらくして、それで大儲けできるとわかれば、コレも 当たり前ですが、他の人が同じ製品を造ってしまうわけです。別の 人間が作った同じ製品が流通してしまう。そうすると、僕の十年の 努力の意味はなんだったのか、ということになります。最初に発明 した者だけが損をする状態になっているのです﹂ ﹁まあ、そうね。でも、それはあなたが商品の作り方を秘密にすれ ばいいんじゃないかしら?﹂ そうきたか。 ﹁確かに、発明したものが瓶詰めの薬かなにかであれば、液体の薬 514 から製造方法を割り出すことは難しいでしょう。でも、例えばです が、僕が発明したのが時計の正確性を画期的に向上させる仕組みだ ったらどうですか? 僕が販売したものを購入して、分解すれば、 仕組みはすぐに解ってしまうのですから、秘匿しろというのは、売 るなというのと同義です﹂ ﹁⋮⋮うーん、そうねえ。でも、その場合は発明したものをみんな が利用できなくなるのよね? 他の時計技師さんとかは使えなくな るのよね﹂ ﹁いいえ、利用したら、使用した技術が利益に寄与した分、売上か らいくらか分け前を譲ってくれればよいのです。さっきの時計の例 であれば、仕組みは全体の一部ですから、全体の五分程度貰えれば いいでしょう。もしこれが薬だった場合は、発明が全てなのですか ら、もっと貰う必要があるでしょうね。ですが、そこで払う金銭は、 自分で開発した場合にかかるであろう費用の代償ということになり ますから、むしろまったく払わないほうが不公平なのです﹂ ﹁そうねえ⋮⋮﹂ なんだか悩んでおられる。 ﹁ですが、有効期限が永遠になると、これも不公平になります﹂ と、俺は言葉をついだ。 ﹁うーんと、どういうことかしら?﹂ ﹁例えば、槍を発明した者に特許が与えられて、その一家が何千年 も槍一つにつき幾らのお金を貰ったりするのは、これもやはりおか しな話でしょう。なので、有効期限は二十年から三十年ほどがよろ しいかと思います。その後は発明は公開され、誰でも利用できるよ 515 うにすれば、国家としては得になることばかりです﹂ ﹁あら、欲がないのね﹂ ﹁ええ。元より得をしたくてやったことではありませんからね﹂ いけしゃあしゃあと嘘をついた。 ﹁そうねえ⋮⋮考えてみるわ。でも、残念だけど、この場でお返事 はできないわね。いろいろな人と相談をする必要があるし﹂ ﹁もちろんです﹂ ﹁一応聞いておきますけど、あなただけに特許を出すというわけに はいかなくなるかもしれないわよ﹂ ﹁当然でしょう。もちろん構いませんよ。僕としては、これから自 分の発明から生じる利益を保護してもらいたいだけですから。僕が 保護を受けられる人間の一人に入っていれば、なんの文句もありま せんよ﹂ 最近、とにかく暇になってきたからな。 幾らでも儲ける手口はあるが、特許制度がなかったら虚しいだけ なのだ。 セブンウィッチズ この国では、特に七大魔女家が、権力をかさにきた巨大資本にな っているから、画期的な何かを出しても即アイデアを盗まれ、パク られるだけならまだしも、圧力でこちらの販路が潰され、シェアを 塗り替えられ、開発したのはこっちなのに、甘い汁を全て持ってい かれるということが、平然と起こりうる。 起こりうるというか、現実に何件も起こっているのだ。 その結果、誰も努力しない、努力をしても無駄。というような社 516 会が出来上がってしまっている。 さすがに、俺相手にそれをしたらホウ家を敵に回すようなものな ので、あからさまにはやらないだろうが、類似製品くらいは堂々と 出してくるだろう。 特許制度があれば安心というわけだ。 まあ、やっぱり特許制度は駄目でしたってことになったら、金で も貰えばいいだろ。 *** ﹁お前はいったい、何をはじめるつもりなんだ﹂ キャロルが訝しげな目で俺を見ていた。 何をするつもりって。 ﹁カネはあるに越したことはない。いくらあっても困らない﹂ ﹁おまえ、騎士には騎士の本分ってものが﹂ 頭の硬いオッサンみたいなこと言い出した。 ﹁騎士だってカスミ食って生きてるわけじゃないんだ。金稼ぎくら いはする﹂ むしろ大半の騎士にとっては、金稼ぎ、言葉を変えれば食い扶持 を稼ぐことが一番の重要事だ。 517 ﹁うっ⋮⋮それはそうかもしれないが﹂ ﹁かけもちしてるお前と違って、俺のほうは殆ど座学が終わっちま ったせいで、午後がヒマすぎるんだよ。金儲けのほうが、昼寝して るよか、なんぼか有意義だ﹂ ﹁ヒマなら、槍でも振るっていればいいだろう﹂ 大真面目な顔で言ってきよる。 馬鹿か。 槍なら午前中に毎日振っとるわ。 なぜ午後になってまで振るわなきゃならん。 ﹁武芸者になるんじゃないんだから﹂ 武芸者というのは、ナウ○カのユ○様みたいな感じの、あんなに 格好良くはないが、戦いの技を磨いている連中だ。 戦争になると雇われ、傭兵部隊のようなものを編成するので、ホ ウ家の所領のへんには特別たくさんいる。 ﹁まあ、そうだが⋮⋮金儲けというのは⋮⋮﹂ まだ納得出来ないようだ。 ﹁キャロルちゃん、お金儲けは大事なことよ?﹂ おっとぉ。 ここで女王陛下のフォローが入ってきた。 ﹁お母様﹂ ﹁私達はお金に困ることはあんまりないから、お金に疎いところが あるけど、ほとんどの人はお金を稼ぐために働いてるのよ。あまり 518 馬鹿にするものじゃないわ﹂ ﹁ば、馬鹿にしてはいませんが⋮⋮﹂ キャロルはちょっと泣きそうな顔になっている。 女王陛下の説教モードか。 ﹁確かに、お金儲けで学院生の本分が疎かになってはいけないけれ ど、ユーリくんは授業にもちゃんと出ている優等生なのだから、あ まりガミガミ言うことはないじゃないの﹂ 普通に大人の意見だった。 ただ、親の意見となると、また違ったものがあるのだろうなぁ、 と思う。 女王陛下は人の親ではあるが、俺の親ではない。 ルークやスズヤに話を通すべきか否か、考えどころである。 ﹁お金のために悪いことをしたら、それはいけないけれど、本来は お金儲けというのはいいことなのよ? みんながお金を儲ければ、 それだけ国は豊かになるのだから。キャロルちゃんはそのあたりの ことはちゃんと解っているのかしら?﹂ やべぇ、説教がながくなってきた。 意外と説教っぽい母ちゃんだったんだな、この人。 そのあとも、いくらか説教が続き、そのたびにキャロルはしょん ぼりうなだれていた。 ﹁わ、わかりました⋮⋮﹂ 519 説教が終わった時には、涙目になっていた。 俺はなんにもしてないとはいえ、可哀想だな。 ﹁どんまい﹂ 励ましてやった。 ﹁き、きしゃまっ!!﹂ 少し噛みながら、怒り心頭の様子で椅子蹴って立ち上がった。 やべぇ、思ったより怒ってる。 ﹁なんだよ、はげましてやったのに⋮⋮﹂ ﹁絶対わざとだ! 私をおちょくって!﹂ ﹁おちょくってなんかいないよ。どんまいって言っただけじゃない か﹂ ﹁それがおちょくってるんだ! おまえのせいで怒られたのに!﹂ 俺のせいかよ。 自業自得だと思うけど。 ﹁こらっ﹂ 女王陛下が鋭く声で制した。 ﹁うっ﹂ ﹁お友達を指でさしてはだめよ。はしたないわ﹂ 指差されてたのか。 気付かなかった。 ﹁う⋮⋮申し訳ありません﹂ 520 ﹁ユーリくんにも謝りなさい﹂ ﹁う⋮⋮﹂ キャロルは嫌そーな顔した。 こく さすがにこの展開で俺に謝るというのは、キャロルにとっては酷 すぎるだろう。 どんだけ鬼畜なんだよ。 ﹁別に謝らなくていいぞ﹂ と、キャロルに言ってやった。 ﹁あらそう?﹂ ﹁こんなのは、単なるじゃれ合いみたいなものですよ、陛下。じゃ れあう度に謝ったり謝られたりしていたら、面白くなくなります﹂ ﹁⋮⋮へぇ。本当にいいお友達なのねぇ﹂ そうか? ﹁どうでしょう、わかりませんが﹂ ﹁ユーリくん、よかったらお婿さんに来てくれてもいいのよ?﹂ ⋮⋮?? なにをいいだすんだ、この女王陛下は。 ﹁ぶっ﹂ キャロルはお茶を吹き出していた。 ﹁けほっけほっ⋮⋮なにをいいだすんですか、お母様。ありえませ 521 ん﹂ ﹁珍しく意見が合ったな﹂ ありえない。 ﹁家のことを気にしてるのだったら、過去に事例がないわけじゃな いし、構わないのよ? 姓もそのまま名乗ってくれていいのだし、 女の子ができたらこっちが貰いますけれど、男の子ができたらホウ 家の跡取りにすればいいのだから、問題はないわ﹂ おい、こら。 生々しい話をするな。 ﹁まだ結婚は考えておりませんので﹂ 状況が掴めんが、とりあえずこう言っとくか。 ﹁あらそう? でも考えておいてね﹂ ﹁お母様、夫は自分で決めますので﹂ ﹁そうだったわね﹂ そこから二十分くらいお茶して、陛下の用事が入ると、その日の お茶会はお開きになった。 522 第031話 ビジネスパートナー ﹁ユーリ、言付けを預かってきたぞ﹂ キャロルがやってきて、便箋を渡してきた。 開けてみると、 ﹃特許第一号として貴君の発明を認める﹄ という内容が書いてある。 通ったらしい。 特許第一号は製紙に関する技術である。 もちろん羊皮紙を作る技術ではなく、植物の繊維で作られた紙だ。 上手く行けば莫大な儲けになるだろう。 ⋮⋮と思う。 きっと。 たぶん。 ﹁副業はいいが、本業を忘れるなよ﹂ キャロルが釘を差してきた。 こないだ説教されたのに、身に沁みてはいなかったらしい。 ﹁わかっとる。俺だってサボっていたら親に申し訳が立たん﹂ ﹁わかっていればいいんだが﹂ キャロルは腰帯にくくりつけていた革袋のようなものを取って、 唐突に俺に渡した。 ﹁褒美だ﹂ 523 褒美? 革袋を受け取って、開けると、中には金貨がぎっしりと入ってい た。 子どもの手の内に収まるほどの革袋だが、中々の大金だ。 ﹁なんだこりゃ﹂ ﹁だから褒美だ﹂ ﹁なんの褒美なんだ。こないだのとは別の用件の褒美か?﹂ ﹁そんなに頻繁に褒美を貰えるほど善行を積んでるのか?﹂ キャロルはニヤリと意地悪そうに微笑んだ。 ﹁心当たりはないけどな﹂ セブンウィッチズ ﹁七大魔女家から文句がでたんだ。褒美になるのかならないのか解 らん制度を対価にしてしまうと、ホウ家に対して借りができたよう で気分が悪いらしい﹂ ﹁それで金をよこすのか。くだらねえ﹂ こっちは借りとも思っていないというのに。 清々しい気分で別れたと思ったら、手切れ金が送られてきたよう な気分だ。 ﹁こんな少しならやらないほうがましだと言ったのだが﹂ ﹁少し?﹂ 革袋の中には軽く見ても金貨30枚前後はありそうだ。 金貨1枚が1000ルガだから3万ルガになる。 一概には換算できないが、日本円だとだいたい300万くらいに 当たるか。 524 ﹁どうみても大金だぞ﹂ ﹁私には、お前の発見がどの程度のものなのかイマイチぴんとこな いが、お母様に呼び出されるような要件で、報奨金がその程度とい うのは聞いたことがない﹂ そりゃそうか。 王家がケチと思われてもいけないし、ポンと5万ルガくらい寄越 すものなのかもしれない。 さすが王族は金銭感覚が違う。 ﹁俺はまだガキだからな。あんまり大金をポンとくれてやるのもど うかと思ったんだろ﹂ ﹁なんだそれ、大人も子供も関係あるのか?﹂ 世間知らずなお姫様だな。 ﹁子供に大金をやると、ロクでもないことに使って身を滅ぼすと相 場が決まってるんだ。高級娼館通いとかして、娼婦に入れ揚げてみ たりな﹂ ﹁な、なんだとっ! やっ、やっぱり返せ! お前にやるわけには いかん!!﹂ キャロルはなにを思ったのか、革袋を奪おうと迫りよってきた。 せっかく得た大金を奪われちゃかなわんので、俺は背中に隠す。 ⋮⋮振りをしてポンと後ろ手に放り投げ、ベッドの向こうの床に 落とした。 ﹁こら! よこせ!﹂ 525 キャロルは大声を出しているために、床に袋が落ちた音には気付 かないようだ。 なんだかもみくちゃになりながら、俺から金貨袋を奪おうと体を おしつけてくる。 ﹁馬鹿、落ち着け! 俺はそういう使い方をしたりはしねえよ﹂ 精通もまだきてないし。 ﹁はぁ、はぁ⋮⋮本当か?﹂ ﹁本当だよ。つーかお前には関係ないだろ﹂ ﹁⋮⋮まあ、そうだが。ルームメイトが良くない方向に堕落するの はだな⋮⋮﹂ ﹁堕落しねーっつーの﹂ 堕落するっつーても、大金を得たところで、せいぜいがニート止 まりだった俺だ。 堕落する性格だったら、大麻やったりギャンブルやったり、キャ バクラ通ったりしていただろう。 だから大丈夫だ。 ﹁それならなんに使うんだ? 貯金か?﹂ だから思考がババアなのかよお前は。 ﹁先行投資だな﹂ ﹁せんこうとうし?﹂ ﹁まあ⋮⋮なんだ、戦争の前にいい槍を買っとくとか、そんな感じ だ﹂ ぜんぜん違うんだけど。 なんかもう面倒くさくなってきちゃった。 526 ﹁ほう、それはお前にしてはいい心がけだな。感心な金の使い方だ ぞ﹂ キャロルはそれで機嫌をよくしたらしい。 受験のために参考書を買う受験生を褒めるような口ぶりだった。 実際はエロゲのためにパソコンを買うようなものなのだが、まあ いいだろ。 *** 主観時間ではだいぶ長いこと生きてきた俺だが、事業を起こすな んていうのは初めての経験だ。 資金は一応さっき貰った3万ルガと、年単位で貯金した小遣いを 合わせて、5万ルガある。 5万ルガという金額は、結構な価値があって、日本円にすると5 00万円くらいだが、単純に換算することはできない。 この国では特に食料の物価が安く、加工品の値段が高いからだ。 この国で、というか、この工業レベルでの加工品というのは、全 てが日本でいう﹁一個一個手作りで作りました﹂という物なので、 自然と価値が高くなる。 洗濯カゴ一つとっても、日本だったら百均で買えるんだから、こ っちでも1ルガで購入できる。というわけにはいかず、手作りで細 い木を編んでいくのだから、下手すると50ルガくらいする。 527 だが、逆を言えば、贅沢をしなければ、かなり安上がりな生活が できるのだ。 ふつうに、雑穀入りのパンのようなものと、干し肉と塩を食べる だけで、あとは寝るだけ。という生活なら、家賃にもよるが、王都 でも年間1万ルガくらいで生きていくことができる。 なので、5万ルガというのは、かなり大雑把に言うと、特別な技 能がなく幾らでも替わりのきく人間を、五年間雇っておける給料と いうことになるだろう。 五人を一年間、と言い換えてもよい。 だが、実際には人件費以外別途に家賃も必要だろうし、設備投資 費も必要なので、五人雇うというわけにはいかないだろう。 俺は製紙業の会社に勤めていたわけではないので、原始的な製紙 方法は洋紙だろうが和紙だろうが手漉きというのは知っているが、 そのやり方に熟達しているわけではないし、道具の作り方もほとん ど知らない。 なので、製品として通用するレベルの紙ができるのはいつになる ことか、そこに到達するまでに幾ら金がかかるのか、まったく不明 だ。 5万ルガあるといっても、資本金としてはまったく心もとない。 それに、俺も午後は暇になったとはいえ、午前中は相変わらず忙 しいので、まるっきり一日かけるわけにはいかない。 それに、午後もまるっきり用事がないわけではなく、週二で講義 が入っている。 こうなると、誰か運営を任せられる人材が欲しいところだ。 528 もしくは、他人に任せず自分一人でやるという方法もある。 いそ 最初から資本金に頼って人を雇わずとも、まずは自分一人で水辺 の小屋でも借りて、暇な時間を使って労働に勤しめば良いのだ。 俺は会社経営者になろうと思ったことは一度もなかったので、経 営学のたぐいは学んだことがないから分からないが、人を雇う前に まずは一人で働いてノウハウを蓄積してみる。というのは、経営学 者に怒られるような方法ではあるまい。 ここは熟考のしどころ、と考えながら食堂で飯を食っていたとこ ろ、ミャロが声をかけてきた。 ﹁なにか考え事ですか?﹂ 心配そうな様子もなく尋ねてきた。 ﹁まあな﹂ ﹁よかったら相談に乗りますが﹂ 相談に乗ってくれるらしい。 ミャロならば、相談に乗ってもらう相手として悪くはないだろう。 むしろ、これ以上の適任はいないかもしれない。 ﹁商売を始めたいんだが、商売を任せる人材をどうしようかってな﹂ ﹁商売ですか﹂ ミャロは意外そうな顔をした。 ﹁今年に入って午後の講義がぐんと減ってな。暇になったもんだか ら﹂ ﹁贅沢な悩みですね﹂ たしかにそうかもしれん。 だが。実際にほとんど終わってしまっているのだから仕方がない。 529 ﹁いつかはミャロもそうなるだろ、あと二年くらいで暇になっちま うんじゃないか﹂ ﹁どうでしょうね。ボクは実技が苦手ですから、体力作りをしない と﹂ ああ、確かに。 自評するとおり、ミャロは実技が苦手だった。 今年は、俺のほうが上のクラスに行ってしまったせいで、クラス が別れてしまった。 ミャロは運動神経が悪いわけではないが、どうにも筋肉が付かな い体質のようで、ヒョロヒョロしている。 短剣術であれば、それでもどうにかなるが、短槍術は筋肉がもの をいうので、どうにもならない。 極端な話をすれば、ミャロが力いっぱい槍を構えていても、ドッ ラが思いっきり槍を振り下ろしてミャロの槍を打ち据えたら、おそ らく槍がすっ飛んでしまうか、そこまで行かないまでも構えが解け て隙だらけになってしまうだろう。 短槍術では、槍同士がぶつかり合うのを全て避けるというのは無 理がある話なので、やはりミャロにとっては決定的に不利なのだ。 ﹁でも、それでも卒業はできるんだろ﹂ 運動音痴は卒業できないなどということになったら、一人息子が 虚弱体質に生まれた騎士家などは困ってしまう。 ﹁ええ。ですが、それだと二十過ぎになってしまうので﹂ 530 二十過ぎか。 できるだけ早く卒業したいもんな。 勉強がいくらできても卒業はできないとは、厄介なことだ。 ﹁大変だな⋮⋮﹂ ﹁ボクの話はいいですから。ユーリくんの話を先にしてください﹂ そうだった。 話が脇にそれていたようだ。 なんの話だったか。 ﹁人材だ﹂ ﹁はい。どういう人材ですか?﹂ 真面目な顔になってる。 真面目に相談事を聞いてくれるなら、心強い。 ﹁新しい商品を作って販売するんだ。名産品を仕入れてきて売るわ けじゃない。だから、思考に柔軟性がある奴じゃないとだめだ。店 番と商談だけしかできない奴だと難しいかもな﹂ ﹁なるほど。どういう商品かは秘密でしょうから聞きませんが、確 かに並の人では勤まらないかもしれませんね﹂ 別に秘密でもなんでもないし、聞いてもいいんだが。 特許が既に出ているから、真似したやつは俺に特許使用料を払う 義務があるわけだし。 むしろ、やれるもんならどんどん真似してくれという感じだ。 ﹁商人ギルドにでも行って、求人して面接すればいいのかな?﹂ 531 ﹁あー﹂ セブンウィッチズ シノギ ミャロは悩ましげに眉を寄せた。 ﹁ん?﹂ ﹁商人ギルドは七大魔女家の支配下ですから、騎士家のユーリくん が行くと問題があるかと﹂ うわ、そういうのがあるのか。 ﹁面倒臭えな﹂ ﹁求人を出すのであれば、ホウ家のご領地でやるのが賢いでしょう ね﹂ ﹁そっか、だがしばらくは王都でやらんといけないから、出張させ るのもな﹂ 王鷲が使えればひとっ飛びだが、一人でどこへでも行くことがで きる許可を取るまでには、まだ数年がかかる。 初動は王都でやる必要があるだろう。 それに、紙の一大消費地といえば、やはり王都なので、その点で も都合が良い。 ﹁王都在住の商人でしたら、ボクのほうで一人心当たりがあるので、 紹介しましょうか﹂ 心当たりがあるとか。 ミャロはなんでも知ってる上に顔まで広いのか。なんだかすげー な。 ほんとにこいつ十五歳かよ。 ﹁心当たりというと、どういうやつなんだ?﹂ ﹁うちに出入りしてる商会から追い出された人です﹂ ﹁追い出されたのか﹂ 532 職場を追い出されて再就職に困ってる系男子か。 それもどうなんだよ。 ﹁店のお金に手を出したとかではありませんよ? 少し意見が合わ なかったらしくて﹂ ﹁ふーん﹂ 俺は、この国の商人の商習慣というのを全く知らないので、ピン と来ない。 まあ、会ってみないとわからないか。 ﹁でも、魔女家に出入りしている商会というのは、媚びへつらいが 上手なだけですから、それに反発して出て行ったというのは、むし ろ安心できる要素かと思います﹂ ナチュラルに実家ディスが入ってきた。 ﹁まあ、ミャロの紹介だから悪いということはないだろ﹂ 面談の必要はあるが、ミャロがまるっきりの無能を俺に紹介する というのは、ちょっと考えづらい。 そもそも、ミャロは魔女家が嫌いなことからも分かる通り、無能 で生産性のない、家業にへばりついて生きているようなのが嫌いな のだ。 なにかしら才能がある人材ではあるのだろう。 少なくとも会ってみる価値はある。 ⋮⋮と思う。 ﹁そう言っていただけるとボクも嬉しいです﹂ 533 ミャロは少し照れくさそうに笑った。 ﹁どうやってコンタクトを取ればいいんだ?﹂ ﹁ボクも名前しかしらないので、王城で住所を調べて、手紙を送る のが手っ取り早いかもしれません﹂ 王城で住所が調べられるというのは初めて知った。 一応、王都については住民をある程度把握しているのだろうか。 ﹁わかった。名前は?﹂ ﹁カフ・オーネットです﹂ *** 三日後、俺はカフ・オーネットの部屋を訪ねた。 カフ・オーネットの部屋のあるアパートは、王都北の第四環状通 りの東側にあり、ここは大河で真っ二つになった王都の北側、王城 から放射状に伸びる大通りを横に繋ぐバイパスの四番目ということ になる。 俺の感覚からいえば、ここは二等の庶民街といったところだ。 金持ちの庶民は、北だったら第三環状通りの東あたりに居を構え る。 大市場に買い物にいくにしても、王城に用があるにしても、交通 の便がいいからだ。 534 だが、北の第四環状通りは、王都の北港に近いので、これは商人 としては便利な立地だろう。 ちょっと金のない商人の家としては、納得のいく立地だった。 あ 三階建ての石造りの建物を、二階まで上がっていってドアを叩く。 ﹁︱︱開いてるぞぉ﹂ と向こうから声がした。 不用心な。 最近は、キルヒナからの移民が食い詰め、治安がちょっと悪くな ってるというのに。 それをいったら、ガキが一人でこんなところ来んなって話だが。 ﹁失礼します﹂ ドアを開けて中に入った。 中はなんだか、久しぶりに見る﹃だらしない独身男性の一人暮ら し部屋﹄で、ゴミがごちゃごちゃしていて、床がホコリだらけだっ た。 頻繁に歩く部分だけがくっきりとホコリの魔の手から逃れ、獣道 のようになっている。 日本にいたころは毎日見ていた、というか俺の部屋がそうだった のだが、この人生を始めてからは、初めて見るたぐいの部屋だ。 最初のころはスズヤがキッチリ掃除してくれていたし、以後はメ イドや掃除婦が掃除してくれているから、俺の住空間がこんな有り 様になったことは一度もない。 535 ﹁こんにちは、ユーリ・ホウです﹂ ﹁悪いが﹂ カフ・オーネットは、固そうなソファに寝転んで、酒を飲んでい た。 来客がきているというのに、起き上がろうともしない。 ﹁貴族の子どものお遊びに付き合うほど暇じゃないんだ﹂ ﹁⋮⋮そうですか﹂ 態度悪いな。 こりゃダメか。 まあ、そう思われても仕方ない部分もある。 忙しいなら仕方ない。 どっからーどーみてもヒマを持て余してるようにしか見えないが。 しかし、想像以上に生活が荒れているな。 これで、メシを貰えない子どもが部屋の隅で死んだ目でもしてた ら、まさにパーフェクトって感じだ。 ﹁将来的には羊皮紙市場を駆逐できる製品を売ろうと思うんですが﹂ ﹁そうか、無理だろうな﹂ にべもない。 暖簾に腕押しだ。 帰るか。 いや、せっかく来たんだし、もうちょっと粘ってみるか。 536 ﹁そりゃどうでしょうかね。やってみないと解らない﹂ ﹁無理だな。たとえそれが本当でも、どうせクソどもに盗まれるの がオチだ。この国はなにをやってもそうなる仕組みになってやがる﹂ なんだかやさぐれておる。 世を拗ねているというか。 ﹁そうならない仕組みになってるので、大丈夫なんですよ﹂ ﹁フン﹂ 話にならねえ、みたいな感じだ。 ﹁発明者の僕以外がその製品を作ると、僕に特許料の支払いをする 義務が発生するようにしました。女王陛下のお墨付きです。直筆サ インと玉璽印付きの書状もありますよ﹂ 一応持ってきている。 ﹁⋮⋮そんな話、聞いたことねえな﹂ ﹁女王陛下に上奏したのが一ヶ月ほど前の話で、制定されたのが一 週間前ですからね。許可が出たのは三日前です。ちなみに、僕の発 明が第一号です﹂ ﹁ふーん。お前が陛下に仕組みを作らせたってのか﹂ ﹁はい﹂ 俺がそう言うと、カフは上体を起こして、初めて俺を見た。 真正面からみると、改めて酷いツラだな。 顔の作りが悪いというわけではなく、垢じみた上に髪も髭もまっ たく手入れしていない。 537 ﹁信じられねえな。見せてみろ﹂ ﹁どうぞ﹂ 若干、破かれたりしないか心配ではあったが、渡した。 渡した紙は真っ白な上質の羊皮紙で、偽物には見えないだろう。 カフは書面を流し読みすると、 ﹁どうもマジらしいな﹂ と言った。 ﹁はい。マジです﹂ カフは俺に紙を返した。 ﹁それで、俺に何をしろっていうんだ?﹂ おっと、若干やる気になったか。 ﹁全般的な監督と労働。製品ができたなら、販売。つまりは、僕が やるべきことを代わりにやって欲しいんです﹂ ﹁なんだそりゃ﹂ 唖然とした顔になっている。 ﹁僕は午前は学校に行かなければならないので、何かと用事がある んですよ﹂ ﹁じゃあ、俺が最初から最後まで全部やって、金はお前の総取りか よ﹂ ﹁総取りというか、僕はアイデアを出しただけで、製品の作り方も これから模索するんです。本格的な儲けが出るのは、甘く見て半年 以降でしょう。その間、儲けはないものと考えたほうが良いと思い ます﹂ 538 ﹁じゃ、その間、俺は無給か?﹂ ﹁固定給ですね。あまり多くは差し上げられませんが。本格的な報 酬については、商売が軌道に乗っ時に、また考えましょう﹂ カフは、ふう、とため息をついた。 どうも迷っている様子だ。 ﹁お前、本当に成功すると思ってんのか?﹂ と聞いてきた。 ﹁十年後には、羊皮紙というものは市場から殆ど消えているでしょ う。生産が上手く行けばの話ですが﹂ ﹁そうか⋮⋮。だが、羊皮紙ギルドはラクラマヌスの管轄だぞ。妨 害してくるかもしれん﹂ あー、まーた面倒くさい情報が。 ラクラマヌスというのは五番目の魔女家の家名である。 この王都は、どこもかしくもアホどものシマになってやがる。 自由な商売とか風通しの良いビジネスとか、そういう言葉とは無 縁のところにある、よどんだ都市だ。 ﹁まあ、それはいいでしょう。僕とてホウ家の跡取り息子ですから。 僕が代表であれば、いろいろやりようはあります﹂ ﹁⋮⋮なんだって? そうなのか。とんでもないところの坊っちゃ んなんだな﹂ 手紙に名前書いといたのに。 539 読んでいないのか。 ﹁もし妨害してくるとしても、脅したり、生産拠点を壊したりする くらいでしょう。それは製品が十分出回って、羊皮紙市場を脅かし てからの話です。今から心配しても仕方がない﹂ ﹁まあ、そうだな﹂ ﹁生産体制が整えば、材料は獣畜の皮ではなく、その辺に生えてい る木でいいんです。丈夫さは劣るはずですが、半分以下の価格で流 通できます。羊皮紙ギルドがどれだけ権力を持っているか知りませ んが、淘汰から逃れることはできませんよ﹂ 俺自身、あの羊皮紙という製品の高額さ、敷居の高さには、たい そう不便な思いをさせられてきた。 もっと安価で大量に流通できる植物紙があれば、必ず広まるはず だ。 ﹁なにやら、よほどの確信があるみたいな物言いだな。流行る確証 はあるのか﹂ 確証? こいつ、馬鹿か? ﹁確証がなければ動けないのであれば、他をあたります。そんな人 間は商売人とは言わない﹂ ﹁⋮⋮⋮﹂ ﹁農民の百姓仕事でさえ、作物の出来不出来は運に左右される。魔 女家を出し抜いて大儲けをしようという話に、確証なんてものがあ るわけがない﹂ 540 ﹁⋮⋮お前の言うとおりだ。俺のほうが馬鹿だったようだ﹂ カフは雑念を振り払い、酔いを醒ますように、首を一度振った。 ﹁やる気になりましたか﹂ ﹁ああ。どうせ面白いこともねえんだ。一、ニ年それに賭けてみる のも悪くはない﹂ ﹁そうですか﹂ やる気になったらしい。 さっきまでは酒によって胡乱げになっていた目に、今は力が漲っ ているのがわかる。 やる気だ。 *** ﹁だが、今はまだ思いつきの段階だ。まだ作ったこともないんだろ。 とりあえずは製法を確立しなければ話にならない﹂ 目が覚めたカフは、具体的な計画を考える頭になったようだ。 ﹁それはそうですね﹂ その通りだ。 ﹁ともかく、製法を確立するのが先決だ。お前のその紙はどうやっ て作るんだ?﹂ 541 ﹁原料は、植物の繊維です。雑草じゃだめですけどね﹂ ﹁ふうん、布みたいなもんか﹂ 理解が早い。 この国では、機会は少ないが、布も羊皮紙と同じように字を書く 場合がある。 羊皮紙と比べれば、布のほうが性質としては紙に近い。 べつに布を紙として使っても良いのだろうが、布というのは全て 手織りになるので、これはこれで羊皮紙を脅かすほどの価格競争力 がないのだろう。 編み目からインクが滲むから、よほど分厚い生地でなければ片面 しか使えないしな。 ﹁布はできるだけ長い繊維を糸に紡いだあと、織って布にしますよ ね﹂ ﹁まあ、そうだな﹂ ﹁紙は織る必要はないんです。紙は服にするわけではないので、布 ほどの頑丈さは必要ありません。逆に、必要なのはきめの細かさで す﹂ ﹁そうだな﹂ ﹁だから、なんらかの方法で植物を崩して繊維にし、それを水に入 れて、目の細かい網で掬って層にします。その後、上から重しを載 せて圧縮します。それを乾かせば、紙のできあがりです﹂ ﹁⋮⋮あー、そうか﹂ ﹁なにか疑問でも?﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 黙ってしまった。 542 なんだ、気が変わったか? 俺が心配していると、カフは唐突に膝を叩いた。 パンと大きな音が響く。 ﹁疑問はいろいろあるが、まあいい。とにかく一枚作ってみてから だ﹂ ﹁そうですか。気が変わってしまったのかと思いました﹂ 俺が杞憂を話すと、ハッ、とカフは笑い飛ばした。 ﹁乗りかかった船だ。半年もやって全くモノにならないようだった ら考えるが、そう簡単には降りねえよ﹂ ﹁そうですか﹂ よかった。 ﹁だが、一つだけ条件がある﹂ 条件? ﹁なんですか?﹂ ﹁俺は勤め人にはならねぇ。だから固定給はいらん。儲かるように なったら、俺が増やした利益から割合をきめて頂く﹂ ﹁なるほど、固定給でなく歩合給ということですか。もちろん、そ れでいいですよ﹂ そっちのほうがやる気になってくれるのだろう。 特にこういうタイプは。 ﹁だが、先にいっとくが、俺には金はないぞ﹂ 言われなくても金があるようにはみえねえよ。 543 ﹁当面の運転資金はホウ家から出るのか?﹂ ﹁いえ、僕が勝手にやっていることですから、僕のポケットマネー から出します。五万ルガしかないので、心もとないですが﹂ ﹁五万あれば、とりあえずは十分だろう。貿易なんかと違って船や 馬を揃える必要はないんだしな。設備はどういうものになるか見当 がつかんが、二万もあれば揃えられるだろう﹂ まあ、二万も使えば揃うだろう。 ﹁よし、じゃあ早速、動くとしよう﹂ 544 第032話 リリー・アミアン ﹁こんにちは﹂ ﹁⋮⋮こんにちはぁ。ユーリくんであっとるかな?﹂ ﹁ええ、僕がユーリです。リリーさん﹂ シャムから散々話しを聞いていたリリーさんは、なんだかおっと りとした美人さんだった。 見た目高校生くらいだというのに、なんだか服の上からでも解る ほどに豊かなお胸をしておる。 貧しいお胸がやたらと多いシャン人の中では、希少種中の希少種 だ。 少し気だるげな雰囲気を漂わせており、だが髪の毛は三つ編みに きっちりと結ってある。 私服は、ルーズな毛糸のセーターを着ていた。 だが、セーターの上からでも、胸のボリュームは隠しきれていな い。 努めて胸に視線を向けないように注意しなければならないだろう。 ﹁ごめんなぁ、へんなこと言うてもうて﹂ ﹁いいえ、構いませんよ﹂ リリーさんと会っているこの場所は、王城より庶民街に近い場所 の喫茶店だった。 私服を着ているのはリリーさんだけではなく、俺もだった。 545 私服で、変装のような格好をしてきてくれと、シャムを通して言 われたのだ。 ふつうは、学院生同士が会うときは、学院にほど近い、おしゃれ で上品な喫茶店を使う。 だが、そこは制服の男女カップルがわんさかいるような場所なの で、密会にはふさわしくない。 ﹁ユーリくんは、女子の中で人気があるし、殿下とも仲がよろしい から、二人きりで会うところを見られると、なにかと面倒なんよ﹂ 噂されたら困る∼、みたいな話か。 まあ、年頃の娘だからそういうこともあるだろう。 俺は外見的にはまだまだガキだが、かなり無理をして見れば、男 女交際があると思えなくもない。 リリーさんは今年で十八のはずだ。 ﹁それで、話っていうんは? シャムのことかな?﹂ へえ。 シャムのことを呼び捨てにしているのか。 なんだかしらんが、いい関係を築けているようだ。 だが、話というのはシャムのことではない。 ﹁いいえ、リリーさんはモノ作りが得意と聞いたので、少し相談し たいなと思ったんです﹂ ﹁ああ、そっちの方面かぁ。どういうものが欲しいん?﹂ 546 こういう相談には慣れているのか、リリーさんは戸惑うこともな く聞いてきた。 ﹁木工なんですけどね、こう、なるべく細くて長い棒を幾つも並べ て、それを糸でつなげたものが欲しいんです﹂ ホントは竹がいいんだが、竹はこんな北の地では採れない。 ﹁木工かぁ﹂ リリーさんは少し苦い顔をした。 ﹁専門は金工なんやけど、木工も道具はあるからできないことはな いよ。でも、木工屋に頼めばええんと違うの?﹂ ﹁首都の木工屋はどうにも、作りたいものを理解してくれないんで す。僕もまだ子どもなので、舐められてしまっているようで﹂ 紙を漉くための紙漉き桁が欲しかったのだが、木工屋では埒が明 かなかったのである。 リリーさんが無理なら、首都中を探し、やってくれる木工屋を探 さなくてはならない。 それが存在するとも限らないのに、だ。 ﹁ああ∼。なるほどなあ。そういうこともあるかぁ﹂ リリーさんはうんうんと一人で頷いた。 ﹁やってくれますか?﹂ ﹁うん、ほかならぬユーリくんの頼みやし、ええよ﹂ やった。 あーよかった。 547 あれがなかったら、話にならないからな。 ほっとした。 ﹁ありがとうございます﹂ ﹁ただ、上手いこと作れるかは分からんから、作れんかったら勘弁 してな﹂ ﹁もちろんです。無理を言っているのはこちらですから﹂ そうなったらそうなったで、それは仕方がないだろう。 どのみち、誰に頼んだところで、そういったリスクを避ける事は できないのだから。 ﹁じゃあ、設計とか詳しいとこを教えてもらおか﹂ *** ﹁⋮⋮それで、水に入れて使うものなので、棒を繋げる紐は、水で 崩れないようなものでお願いします﹂ ﹁ふーん。まあ、要するに、機能的には平べったいザルを作るって ことなんやろ?﹂ ﹁その通りです。さすがですね﹂ ﹁まあね﹂ 軽く褒めると、リリーさんは素直に嬉しげな顔をした。 ﹁道具はそれだけなん?﹂ ﹁それを収める箱のようなものも必要なんですけど﹂ や ﹁どうせだから、それも作ったるわ。そこだけ他人に任せるいうん も、ちょっと嫌な感じやしなぁ﹂ 548 ﹁助かります﹂ はあ、よかった。 ちゃんと機能するものができあがってくるかは不明だが、とにも かくにも一歩前進した。 設計の打ち合わせが終わると、 ﹁ところで、ユーリくんはシャムの先生なんよなぁ﹂ と、出てきたお茶を飲みながら、リリーさんはのんびりと言った。 ﹁はい、まあ﹂ 雑談か。 まあ、シャムをネタに雑談の花を咲かせるというのも、悪くはな いだろう。 ﹁シャムはほんに色んなことを知っとるけど、あれはみんなユーリ くんが考えたんか?﹂ うっ。 痛いところをついてきやがった。 でも、そりゃ変に思うよな。 周りからしてみたら解るはずのないことを自明のように説く変な 人という扱いになるわけだし。 俺もそこが心配だったから、キャロルに後見人をお願いしたのだ。 ﹁そんなことはありませんよ。僕はこうみえても勉強家なので、い ろいろな人が言っていたことを知っているだけです﹂ 549 俺は全然勉強家ではないが、そうとでも言わないと信ぴょう性が ないだろう。 ﹁そうなんかなぁ。わたしはちょっと、それじゃ納得できへんのや けど﹂ ﹁そうですか?﹂ まともな脳みそをしてたら、納得できるわけもない。 だが納得してもらうしかないし、納得するしかないだろう。 他に解釈のしようもないのだから。 ﹁まあ、ちょびっとなぁ﹂ リリーさんは、別に俺を睨んだりはしていないし、不審がってい るようには見えない。 ただ﹁隠し事しとるんやろ?﹂という空気は伝わってくる。 ﹁勉強をすれば、新しい知識なんていうものは、無限に湧き出てく るものですよ﹂ ﹁そうかなあ﹂ ﹁たとえば﹂ 別に、ここで無理に納得させる必要もないのだが、言い訳はして おこう。 ﹁リリーさんはさっきから僕の顔色を伺おうとするたびに、目を細 めてますよね。ひょっとして、目がとても悪くて、僕の顔が良く見 えないのではないですか?﹂ ﹁よく解るなあ。そうやねん、目が悪いんよ。お父ちゃんもそうや ねんけどな﹂ 550 やっぱそうか。 さっきからずっと目を細めて、しかめたような顔してたのだ。 ﹁たぶん、眼鏡というものを知りませんよね﹂ ﹁眼鏡?﹂ ﹁ガラスを使った道具で、小型化したレンズを二つ、両目の前で固 定するんですよ。上等な眼鏡を使えば、僕の顔どころか、遠くの山 までくっきり見えるようになります﹂ ﹁そんな道具があるんか?﹂ 明らかに表情が変わった。 リリーさんは眼鏡に関心があるようだ。 当然だが、目が悪いのに視力矯正器具がなければ、日常生活で非 常に不便になる。 こんな目と鼻の先、一メートルも離れていないというのに、俺の 顔を見るのに目を細めているようでは、よほど不便があるだろう。 それを解決できる道具があるとなれば、関心を寄せるのは当たり 前だ。 ﹁では、そんな道具があったとして、僕が考えたものだと思います か?﹂ ﹁⋮⋮んーと、そうなんと違うんか? だって、教養院にも目が悪 い子ぉはいっぱいおるけど、そんなんつけてる子は一人もおらんで﹂ ﹁それが、学校の中に使っている人がいるんですよ﹂ ﹁騎士院の子か?﹂ ﹁いえ、クラ語を教えている亡命者のクラ人の女性です﹂ 551 ﹁⋮⋮へえ、なるほどなぁ﹂ リリーさんはすぐにこの言葉の意味を理解したようだ。 ﹁イーサ・ヴィーノという名前の先生なんですけどね。クラ人の世 界では、既にそういうものも発明されて、広まっているんですよ﹂ ﹁そうなんか。向こうは進んどるんやなぁ。羨ましい限りやわ﹂ ﹁そうなんです。同じものを作ることができれば、みんな使うよう になるのに、誰も価値に気づかないんですよ﹂ アホみたいなことだが、そういうことはある。 日本のような国際化が進んで開かれていた国でさえ、導入すれば 仕事の効率が格段に良くなるような機械が海外で売られているのに、 情報の断絶から何年間も導入されないということは、良くあること だった。 ﹁そのイーサって先生は、なんでそれを広めようとしないん?﹂ ﹁イーサ先生はクラ人の宗教の修道士だった人ですから、そういっ た俗世の金儲けのようなものには関心がないんです﹂ ﹁ふーん、なるほどなぁ﹂ ﹁まあ、そういうことで、思いもつかない進歩的発見というのは、 見えない所で発生していて、なかなか気づかないものなのですよ﹂ ﹁ユーリくんは、勉強を良くしてるから、それに気づいたといいた いんか?﹂ ﹁そういうことですかね﹂ 実例があったのだから、部分的にしろ納得せざるをえまい。 552 ﹁なんだかはぐらかされた気がするけど﹂ ﹁それはさておいても、眼鏡は便利ですよ。きっと、見違えたよう に世界が鮮やかになります﹂ 俺は無理やりに話題を変えた。 ﹁確かに、興味深いわ﹂ はぐらかさずとも、リリーさんの興味は眼鏡のほうに集中してい るようだった。 ﹁イーサ先生はシャン語を流暢に話せますし、気難しい方ではない ので、借りてみたらいかがですか。自分だけの一点ものを作らない と、良くは見えないと思いますが﹂ ﹁あれ、そういうもんなん?﹂ ﹁ええ。目の悪さに合わせてガラスの曲度を変えないといけないん ですよ﹂ ﹁ふぅん﹂ ﹁左右の視力が違う場合もあるので⋮⋮。まあ、シャムに聞けば大 体わかると思いますよ﹂ と、話しているうちに時間が過ぎていき、そのうちに帰らなけれ ばいけない時間になった。 そして、別々に店から出た。 半分、シャムのルームメイトを見てみたいという思いもあったが、 鋭いところはあるがトゲのない穏やかな人っぽいので、良かったな。 553 第033話 試行錯誤 リリーさんは迅速に仕事をこなしてくれたらしく、一週間後には、 適切な大きさの漉桁ができあがった。 俺が持つと若干大きすぎて使いづらい感じだが、これで注文通り だ。 使うのは大人なのだから、ちょうどいい。 取っ手などは、青銅を使って本体と繋がっていた。 青銅のほうが鉄より錆びにくいので、適材であろう。 水から繊維を取り出す漉し器となる漉も、細い糸でしっかりとつ ながっているし、漉を装着して上下から挟む桁のほうも、必要以上 に頑丈で重いふうでもなく、それでいて脆弱そうでもない。 いい仕事をしてくれた。 その連絡をすると、すぐにカフと会うことになった。 大荷物を担いでカフの部屋に入ると、部屋はさらに小汚くなって いた。 雑多な荷物がたくさん増えている。 ﹁よう、来たか﹂ カフはソファに座りながら、大きな裁断バサミを持って、着古し の服をズタズタに切り裂いているところだった。 ﹁どうだ、これで行けるだろ?﹂ カフは目線で、部屋の真ん中にある大きな洗濯桶を示した。 554 洗濯桶は、主婦が3∼4人囲んで使う感じの巨大なサイズであり、 浅さに目をつむれば、湯を張って入浴することもできそうだった。 そこには、今はなみなみと水が張ってある。 あたりは、こぼれてしまった水で水浸しになっていた。 何処からか借りてきたのだろうか。 ﹁いけると思いますが、一応確かめておきましょう﹂ 俺は持ってきた漉桁を風呂敷から取り出して、取っ手を持ってオ ケの上に置いた。 円形のオケだが、すっぽりと中に収まった。 ﹁へえ、そういうもんなのか﹂ カフは俺の持ってきた漉桁をしげしげと見つめながら言った。 ﹁はい。これで作れるはずです﹂ 俺はタライの横を見た。 どこから調達してきたのか、糸くずのようなものやら、先ほど生 産していたズタズタに裁断されて糸まで戻された服やら、いろいろ なものが素材別にオケの中に入っている。 ﹁材料も十分ですね。さすがです﹂ ﹁まあな﹂ カフは誇らしげだ。 自分の仕事に誇りを持てる、というのは、人生において大きな意 味を持つ。 555 退廃の中で腐るような生活から抜けだして、今は仕事をするのが 楽しいのだろう。 部屋の中には、ゴミは散らばっているものの、以前のように酒の 匂いはしていない。 酒の瓶も片付けたようで、どこにも見えなかった。 ﹁じゃあ、早速やるか。どの素材が良さそうだ﹂ ﹁これが良さそうです﹂ 俺は一つのカゴを指さした。 その中には、白い繊維が綿のようになったものが、いっぱいにな っている。 指先で摘んでみると、ほろほろと崩れる。 繊維の細さも、長さも申し分ない。 ﹁それか。それは糸の問屋から貰ってきたもんだな。糸くずだ﹂ ﹁水に入れてみましょう﹂ ﹁さっそくか。いいぜ﹂ 俺はカゴをオケにぶちまけ、糸くずを水の中に落とした。 袖まくりをして、手を水の中に突っ込んで撹拌すると、糸くずは 水の中を泳ぎ、モヤモヤと崩れた。 グッドだな。 ﹁まずは、僕がやってみましょう﹂ 俺には若干大きすぎるが、漉桁を持てないということはない。 ﹁そうか。見せてくれ﹂ ジャブっと漉桁をタライの中に入れ、すい、すい、と泳がせると、 556 薄い膜のようなものが漉の上にできた。 一度それができてしまうと、フィルターの密度が倍々に増してい くようなものなので、すぐに分厚くなっていく。 向こう側が見えない程度に厚みができると、俺は漉桁を斜めにし て水を切り、上へあげた。 案外、あっという間の作業だった。 五分もかかっていない。 俺は、嵌め込みの桁のほうを分解して、上に紙が層になっている 漉を取り外した。 漉の上には、出来たてのふやけた紙が層になっている。 その端っこをめくり上げると、千切れそうになりながらも、持ち 上がった。 よく見れば、俺が右利きだからか、紙のほうは右のほうが分厚く、 左のほうは薄くなっている。 失敗作⋮⋮ではないが、これではプレスして乾かしても、劣等品 になるだろうな。 しかし、このへんは技術の向上でなんとでもなるだろう。 しかし、なんとまぁ、簡単なものだ。 こんなに簡単にいくとは思わなかった。 ﹁これを何かに挟みこんで脱水して、乾燥させるわけです﹂ ﹁よし、俺にもやらせてくれ﹂ やる気まんまんだ。 とてもいい。 557 ﹁じゃあ、これは一旦戻しますね﹂ ﹁えっ﹂ 俺は出来立てのふやけた紙の層を捲るように剥がして、再びオケ に入れた。 そのまま水の中で引きちぎって、かき混ぜると、漉く前のような 状態に戻った。 ﹁なんだ、戻せるのか。じゃあ、いくらでも練習できるな﹂ ﹁はい。繊維の向きが互い違いになっていたほうが丈夫になるはず なので、いろいろ研究してみましょう﹂ ﹁そうだな﹂ *** 様々な素材で作った紙を重ねあわせ、板と板の間に挟んで上に重 しを乗せ、びしょびしょになった床を拭き終えると、とりあえずの 作業は終わった。 ﹁とりあえずはこれで、三日ほどこのままにしておきましょう﹂ ﹁三日もか?﹂ カフは意外そうに言った。 つけものだって一日じゃ浅漬けにしかならないんだし、まあ三日 くらいかな、と思ったのだが。 ﹁ひょっとすると一日でいいかもしれませんが、おいおい縮めてい きましょう﹂ 558 ﹁⋮⋮そうだな。あまり焦るのもなんだ﹂ 納得してくれたようだ。 ﹁急いては事を仕損じると言いますしね﹂ ﹁ほう、上手いことをいうな。初めて聞くことわざだ﹂ そういう諺はないんだろうか。 ﹁まあ、とりあえずは今日の作業は終わり、ということで﹂ ﹁そうだな﹂ ﹁じゃあ、僕は少し休んだら寮に戻ります。もう日が暮れてしまい そうですし﹂ ここに来たのは昼ごろだったのに、もう日は暮れそうになってい た。 思えばずいぶんと長く作業していたわけだ。 ﹁ところで、聞いてなかったが、お前、俺のことをどこで聞いたん だ﹂ カフは唐突に聞いてきた。 あれ、話してなかったか。 考えてみれば、手紙にも紹介者の名前を書いてなかった気がする。 最初、態度が悪かったのもそのせいだろうか。 ふつう﹁誰々から紹介を受け、筆を取りました﹂とか書くものだ よな。 すっかり忘れていた。 ﹁ミャロという同級生からです﹂ 559 ﹁ミャロ? 俺にお前みたいな歳の知り合いはいねえぞ﹂ なんだ、知り合いじゃなかったのか。 ミャロが一方的に知っていただけなのかな。 ﹁そうですか? ミャロ・ギュダンヴィエルですよ﹂ ﹁⋮⋮なに?﹂ 家名を出したら、思い当たるフシがあったらしい。 ﹁ミャロ・ギュダンヴィエルです。背が小さくて、栗毛がふわっと した﹂ ﹁ああ⋮⋮ギュダンヴィエルの⋮⋮そうか。俺を覚えてたのか﹂ 何だか感慨深げだ。 感動しているように見える。 ﹁まあ、ミャロは大概のことを覚えていますからね。有能で小器用 な商人あがりの人材がほしいと言ったら、それならカフさんがいい でしょうと﹂ ﹁そうか⋮⋮俺のことを﹂ なんだ? なにか重い事情でもあるんだろうか。 ﹁すまんが、今日は帰ってくれ﹂ ﹁えっ? ああ。構いませんけど﹂ 元から帰るつもりだったし。 560 ﹁涙がこらえられん﹂ えっ。 泣きそうなくらい感極まっちゃってるのか。 男の涙は見られたくないよな。 さっさと帰ろう。 ﹁わかりました。それでは、失礼します﹂ 俺はさっと身を翻して、急ぎ足で出口に向かった。 ﹁おい﹂ 背中からお呼びがかかった。 ﹁次からは、敬語とかはいらんからな。雇い主が敬語というのは変 だ﹂ ﹁⋮⋮そうか、それじゃ、また後で﹂ 俺は部屋を出て、ドアを閉めた。 561 第034話 イーサ先生の個人授業 一ヶ月後、俺はクラ語の講義に向かった。 クラ語の単位はもうとっくに習得しているのだが、いかんせん、 覚えたことでも使わないと忘れてしまう。 そのため、さすがに毎週行くことはしないが、月に一度くらいは 講義に参加することにしていた。 その日、講義室に入ってみると、イーサ先生がまだ来ていない教 室には、ハロルがいた。 ようき ﹁よっ! 久しぶりだな﹂ 陽気に挨拶をしてくる。 ﹁⋮⋮久しぶりだな、じゃないですよ。心配しました﹂ こちとら言い出しっぺなもんだから、大分気に病んだというのに。 ここ一ヶ月は、さすがに半年も過ぎて帰ってこないってことは、 死んでんだろーなー。と思っていた。 二度ほど夢に出てきて、薄ら寒い思いをし、成仏してくれ、と拝 んだものだが、生きていたのか。 ﹁そうか? 悪かったな﹂ ﹁まあ、生きていて何よりです。半年も帰ってこないもんだから、 お亡くなりになったものかと思っていましたよ﹂ 562 今日は用事があってこないが、ミャロあたりは生存を完全に絶望 視していた。 ﹁行く先々で言われるぜ。耳にタコができるよ﹂ ハロルは小指で耳をほじくる仕草をした。 そらそうだろ。 ﹁後で、みやげ話でも聴かせてくださいよ﹂ ﹁いいぜ。先にイーサ先生に挨拶してからな﹂ ﹁そうですね。それがいいと思います﹂ おこな イーサ先生は取引相手先に関して、ハロルに助言を行っていたら しい。 助言が的外れだったら、場合によってはハロルはここに居なかっ たのかもしれない。 と、イーサ先生が教室に入ってきた。 イーサ先生は軽く教室を見回し、ハロルを見つけると一瞬驚いた ようだが、すぐに喜色満面の笑顔になった。 かわいいな。 ﹁それでは、講義を始めます﹂ *** 講義が終わったあと、俺たちは学院内にあるイーサ先生の私室に 向かった。 563 私室というか、正確には講義準備室のような形だが、物置ではな く研究室のようになっている。 クラ語の講義は週に一度しかないが、イーサ先生は毎日ここに通 勤しているらしく、課外で聞きたいことがあったときは、ここに来 れば講義がない日でも大抵暇そうにしているので、クラ語を教えて くれる。 イーサ先生と一緒に部屋に入り、各々椅子に座って一息つく。 ﹁よく帰りましたね。喜ばしいことです﹂ ここ数年でシャン語も達者になったイーサ先生が言った。 ﹁おかげ様で、なんとか帰ってこれました﹂ 座ったまま、ハロルは大げさに体ごと、がばっと頭を下げる。 ﹁はい、良かったです。毎日祈っていた甲斐がありました﹂ ﹁えっ、毎日祈ってくれてたんですかい?﹂ 毎日とは結構なことである。 隣で聞いていた俺も、スゲーと思った。 御百度参りかよ。 助言をしたとはいえ、どんだけ気にかけてたんだ。 ﹁あ、いえ、なにもなくても毎日祈りはするので﹂ ああ、そういうこと。 毎日の祈りの間に、脳裏に掠めるような形で無事を祈っていまし たよ、みたいなニュアンスなのだろう。 564 考えてみれば、先生は元修道女だったんだ。 今でも信仰は捨てていないらしい。 毎日神に祈りを捧げているとは思わなかったけど。 イーサ先生は修道女というより研究者然とした雰囲気があるから、 ともすると、宗教者ということを忘れてしまいそうになる。 ﹁ああ、なるほど。そういう﹂ ハロルはガッカリしたような、安心したような顔をしていた。 ﹁それで、旅はどうでしたか?﹂ ﹁危ないことはたくさんありやしたが、なんとかなりそうで﹂ どうにか商談は纏まったのだろうか。 ﹁そうですか。実は私も行ったことのない国だったので、無責任で あったのではないかと、不安に思っていた所だったのです﹂ ﹁イーサ先生も知らない国だったんですか?﹂ と、俺は聞いた。 ﹁ええ、アルビオ共和国という国なのです。粗暴な人が多いという 印象だったので、迷ったのですが﹂ ﹁なんでそんなところをわざわざ﹂ 粗暴ものが多いということは、治安が悪いということだから、司 法の隙も多かろうという読みだったんだろうか。 ﹁イイスス教にも教派があるのです。アルビオ共和国という国は、 カルルギ派という教派を信仰していて、主流のカソリカ派からは異 端視されています。カルルギ派にはシャン人を差別するという風習 565 はありませんので﹂ ﹁えっ﹂ イイスス教というのは、クラ人の社会にある大宗教である。 テロル語圏で一般に信仰されている宗教で、教義によりシャン人 を悪魔と呼んで蔑視し、シャンティラ大皇国を滅ぼす直接的な原因 になった。 一神教だったはず。 イイスス教にもシャン人を悪魔呼ばわりしない教派なんてものが あったのか。 ﹁そんなのが成り立つのですか? 別の聖典を使っているとか?﹂ 多神教ならともかく、一神教でそんなことが成り立つのだろうか。 ﹁いいえ。そもそも、イイスス様の作った聖典には、シャン人を悪 く言う文句はないのですよ﹂ えっ。 ﹁イイスス様が生きていらした時代では、そもそもシャン人とクラ 人は別の人種とは考えられていなかったのです。聖典には、シャン 人は﹃北方の耳に毛が生えた人﹄という名前で登場しますが、さし て重要な役割を演じるわけではありません。寒い土地に住んでいる 人だから、耳に毛が生えているのだろう。と思われていたのでしょ うね﹂ んな馬鹿な。 566 クラ人がシャン人を討伐するために、毎度結成している連合軍を、 連中は十字軍と自称している。 十年ほど前、十字軍が隣国キルヒナ王国に送ってきた宣戦布告状 には、 ﹁我々は、神聖なる大地を穢し続ける悪魔どもに、非情なる鉄槌を こうべ 下すべく結成された、神の子の軍団である。悪魔どもよ、もし己の 行いを恥じ、穢れた地の浄化を望み、己の頭を差し出すならば、慈 悲深き神はその寵愛の一端を分け与えて下さるであろう。悔い改め よ﹂ というような文句が書かれている。 明らかに、連中はこちらを討伐すべき人外としてみなしているこ とが分かる。 本気でそう信じているのかはともかく、そういう建前を作ること で、掠奪や奴隷狩りを正当化しているのは確かだろう。 彼らがイーサ先生の言うような解釈でいるのであれば、これは認 識が矛盾していることになる。 聖書とまるで記述が食い違うのでは、建前も作りようがないだろ う。 ﹁でも、イーサ先生。それは主流のカソリカ派の認識とは食い違う のでは?﹂ ﹁はい。悲しいことに、その通りなのです﹂ やっぱりそういうことであるらしい。 ﹁イイスス教の原典というのは、今から二千年も前に書かれたもの 567 ですから、トット語という、とても古い言語で書かれているのです。 きんていやくせいてん 今、カソリカ派で使われている聖典は、それをテロル語に翻訳した ものになります。これを欽定訳聖典というのですが、これの翻訳に は意図的な誤訳がありまして、現在の欽定訳聖典には、やはり﹃耳 に毛が生えた悪魔﹄と書かれているのですね。これは、許されざる 神への侮辱なのです﹂ 神への侮辱なのです。と言った時の、イーサ先生の顔には、した たかな怒りが浮かんでいた。 侵掠を正当化するために、翻訳を利用して教義を歪めているとい うことか。 ﹁トット語は非常に複雑な言語でして、例えば﹃人﹄というものを 表す言葉だけでも、ニャー、サチャート、クラガ、サーボ、ジンダ ット、アルフォート、ルマンド、など個別のものが十二種類ありま す﹂ ⋮⋮。 どこでもアホな言語を考えるやつはいるものだな。 ﹁原典のその箇所で使われている単語は、﹃サチャート﹄なのです が、これは﹃遠い外国人﹄といった意味合いの語句なのです。つま り、より正確に訳すと﹃耳に毛が生えた北方にある遠い外国の人﹄ というような意味の一文なのですね。実際に、現行の欽定訳聖典の 前の翻訳聖典では、ここはそのように訳されています。今の欽定訳 聖典は、トット語の話者が聖職者以外にはいないのをいいことに、 恣意的に語句の意味を歪めて伝えているのです﹂ イーサ先生としては、それについては大いに不満があるんだろう な。 568 というか、口ぶりから察すると、その調子で総本山でも同じ主張 をして、それで異端者になったのでは。と思えてくる。 ﹁それで、アルビオ共和国では、また別の解釈があるのですか?﹂ ﹁はい。アルビオ共和国で教えられているカルルギ派というのは、 シャンティラ大皇国がまだあった時代に分派した教派なのです。つ まり、教義が歪められる前に分派したので、影響を受けていないの です﹂ 大皇国がまだあった時代とは。 そりゃずいぶんと昔の話だ。 九百年も前の話である。 ﹁カルルギ派というのは、そもそもはクスルクセス神衛帝国が崩壊 した時にできた、カルルギニョン帝国という国で信仰されていたの ですが、この国はカソリカ派との戦争で破れ、滅びました。ですが、 故地の一部では未だに信仰が生き残っている。というわけです。ア ルビオ共和国は島国で、今もカソリカ派の諸国とは戦争状態にあり ます﹂ ほほう。 カルルギニョン帝国というおかしな名前の国は滅ぼされたけど、 残党が辺境に篭ってまだ戦っているという感じなのか? ﹁アルビオ共和国のある島というのは、どのあたりにあるんですか ?﹂ ﹁フリューシャ王国の大海側の海岸から、少し沖に出たところです﹂ 言葉で聞いても解らない。 569 ﹁えーっと、ちょっとインクとペンを貸してもらってもいいですか ?﹂ ﹁はい、どうぞ?﹂ 俺はかばんから紙を取り出して、机の上に置いた。 ﹁あら、それは植物紙ですね。こちらでは初めてみました﹂ あら? ﹁僕が思いついたんですが、やっぱりクラ人の国にもいるんですね。 同じようなことを考える人は﹂ 俺はしらを切った。 それにしてもクラ人の国には、既に紙があるのか。 文化的に先に行かれているっぽい。 ﹁なんだ、見せてみろ﹂ 難しい話につまらなそうにしていたハロルが食いついてきた。 ﹁はい、どうぞ。いくらでも見ててください﹂ 俺はかばんから紙をもう一枚取り出して、ハロルにやった。 最近はなかなか書けるようになってきた紙の上に、簡単な地図を 書く。 ﹁あら、とても良くできた地図ですね﹂ 褒めてもらった。 ﹁これに載ってますか?﹂ ﹁もちろんですよ。ここです﹂ イーサ先生が指で示したのは、アイルランドだった。 ﹁隣の島は?﹂ 570 俺はグレートブリテン島を指した。 俺の記憶では、イギリスが占めていた島だ。 ﹁こちらは、上半分はアルビオ共和国の領土ですが、下半分はユー フォス連邦という国が支配しています。この二つの島をアルビオ二 島と呼ぶのですが、アルビオ共和国は、二島全土を支配下に収める ために、ずっと戦争をしています。海賊で有名です﹂ この世界ではイギリスみたいな国は興らず、グレートブリテン島 は南北に分断され、戦争を続けているらしい。 この国が海側から攻められないのは、こいつらが頑張ってるおか げなのかな。 ﹁それで、カソリカ派というのは、どういう教義なのでしょうか﹂ ﹁カソリカ派は、教派を名乗ってはいますが、教派とはいえません。 教皇の意見がカソリカ派なのであって、現在のカソリカ派は初期カ ソリカ派とは別物です。日和見的に教義の解釈が変化していくので、 派閥ではあるかもしれませんが、教派とは言えません。シャン人が 悪魔という解釈も、初期カソリカ派の教義にはありません﹂ やはり、時代時代で適時教義を歪めている教派であるらしい。 利権や私利私欲の都合で泥だらけになってしまっている感じなの かな。 ﹁では、カルルギ派というのは?﹂ ﹁元は武僧が興した教派ですから、朴訥な教義ですね。当時のカソ リカ派への反動から生まれたものですから、秘儀への解釈なども、 カソリカ派からしてみると異端に見えます﹂ 571 ﹁聞いていいものか分かりませんが⋮⋮イーサ先生は何派なのです か?﹂ まあ、話の流れ的にカソリカ派なんだろうけど。 ﹁私はわたし派です﹂ ニッコリと微笑んで答えてくれた。 ﹁???﹂ ワタシ派? 新しい教派がでてきたな。 ﹁わたし派というのは、わたしが考えた教派です。初期カソリカ派 の教えを踏襲していますが、研究により更に進化しています﹂ 聞き間違いかと思ったが、﹃私派﹄だったらしい。 急に﹃最強のオレ流﹄みたいな話になってきた。 ﹁へ、へぇ。わたし派の信徒はひとりきりなのですか?﹂ ﹁はい。布教をしようと思ったら死にかけたので、たぶん信徒はわ たしきりで終わるでしょう﹂ それが原因で、こんな辺境くんだりまで逃げることになったのか。 人生賭けてんな。 ﹁⋮⋮そうですか。残念ですね﹂ ﹁残念とは思いません。信仰とは本来、一人きりの内面に生じるも のであって、それで十分なのです。大勢の他人と考えを共有しなく 572 ては居ても立ってもいられないという状態は、人間的弱さからくる 本来無用の強迫観念にほかなりません。ここに来てそれが解りまし た﹂ なにやらイーサ先生も成長しているらしい。 ワタシ派は日々改良されているということか。 未来に生きてんな。 ﹁⋮⋮小難しい話は解りませんが﹂ と、ここにきてハロルが口を挟んできた。 ﹁良かったら、そのワタシ派、オレにも教えてくれやせんか。イイ スス教には興味がありやして﹂ おっとぉ。 マジかよ。 ﹁もちろん、お望みであれば、構いませんよ﹂ ﹁そうですかい! そりゃあよかった﹂ なんだこいつ。 短い付き合いだが、宗教に関心がある男とは思わなかったが。 いや、考えてみれば、こいつは実際にアルビオ共和国の土を踏ん だのだ。 現地の宗教について考えを深めておく必要を痛感する出来事でも あったのかもしれない。 そう考えると、イイスス教を教えてくれという申し出は、ちっと も不思議ではない。 ﹁課外で学生を教えなければいけない時は、そちらを優先しなけれ 573 ばなりませんが、それ以外の時間でしたら﹂ ﹁もちろんです﹂ ハロルは嬉しそうに笑っていた。 574 第035話 武勇伝 イーサ先生に別れを告げた後、俺とハロルは酒場に繰り出した。 ﹁やっぱぶどう酒はねえのかぁ﹂ ハロルは酒場のメニューを読むと、残念そうに言った。 シヤルタ王国ではぶどうは栽培できないため、ぶどう酒というの は市場に出回っていない。 ﹁残念でしたね。ビールで我慢してください﹂ ﹁そうするか。ビールはシヤルタのもんが一番美味いしな。やっぱ り、酒は地酒に限る。お前はなんにする?﹂ ﹁僕は、あー、ミルクでいいです﹂ ﹁なんだ、酒は飲まねえのか?﹂ シャン人はやたら酒に強いので、良く酒を飲む。 食堂ではさすがに出さないが、寮生でも飲んでいる奴は多い。 二十歳未満は飲酒不可という決まり事もない。 ﹁お酒は二十歳まで飲まないことに決めてるんです﹂ そんなに影響はないと思うが、体にどんな影響があるか解らない。 一滴も飲まないと誓いを立てているわけではなかったが、常飲す るつもりにはならなかった。 ﹁なんだ、学院ではそういう決まりなのか? ここでは守らんでも﹂ ﹁いえ、自分で決めたルールみたいなものなので。それに、今日は 575 用事が残っていますし﹂ ﹁そうか?﹂ ハロルはウェイターを呼ぶと、すぐに酒を頼んだ。 ビールが瞬時といっていいほど早く運ばれてくる。 ハロルは、いかにも船乗りらしく、それを一気飲みに飲んだ。 ﹁⋮⋮ぷふぁ∼。美味いっ﹂ 豪快な飲み方だ。 あー、美味そうだな、おい。 俺も前世では酒を飲まないほうではなかったし、飲みたくなって くる。 ルークはどちらかというと蒸留酒派だし、ビールを飲むときもグ ビグビとはいかないからな。 ﹁じゃあ、土産話をお願いします﹂ はしょ ﹁ああ、いいぜ。まずな、俺は大アルビオ島に向かって帆を張って、 航海は端折るけどな、なんとか到着できたんだ﹂ ﹁いやいや、端折らないでくださいよ。どうやって航海したんです か?﹂ ﹁どうって?﹂ ﹁沿岸航行じゃないんですから、難しいでしょうに﹂ この国には、大アルビオ島までの精確な海図などない。 それは船乗りにとっては大変なことで、つまり陸の見えない大海 原に漕ぎだしたら、すぐに自分の居場所が解らなくなってしまうと いうことを意味する。 576 GPSのような便利な代物はない。 バルト海や地中海のような内海であれば、それでもそのうちには どこかの岸に着くわけだが、大西洋などの大海原の場合は違う。 言うまでもなく、アルビオ共和国の場合は、沿岸を航行して行く ことは難しい。 途中にある沿岸が全部敵国なのだから、外海を通って行くほかな い。 ﹁ああ、いつも航法を任せている爺さんがいるんだよ。そいつがや ってくれた﹂ おい。 他人に丸投げだったのかよ。 ﹁やってくれたって、ヤマカンでですか?﹂ ﹁ヤマカンっつうと言葉が悪いが、まあそういうことだな﹂ ヤマカンとか。 しょっぱなから命がけじゃないか。 ﹁それでな、なんとか到着して、誰もいなそうな谷みたいなところ に入って、錨を下ろしたんだよ﹂ ﹁はいはい﹂ ﹁そうしたらよ、岸に上がったら、森のなかからゾロゾロ人が出て きやがってよ﹂ ﹁えっ﹂ ﹁捕まっちまったんだよ。どうも、海賊の根城だったみたいでさ﹂ 577 ﹁へ、へぇ﹂ 生還ENDなのは解っているんだが。 よく生きてたな、こいつ。 ﹁そんで、クラ語で﹃どこの軍隊のもんだ﹄って言ってきたんだよ。 その時ほどイーサ先生に感謝したことはないね。﹃俺は商人だ。シ ャン人の半島からきた﹄って堂々と言ってやったよ﹂ おいおい。 ﹁そしたら、嘘言うなっつーもんだからよ、帽子取って耳を見せて やったら、仰天してやがったよ﹂ そりゃ、仰天するだろ。 海賊は、どっかの国が海軍だして討伐しに来たと思ったに違いな い。 そうしたら、馬鹿がノコノコでてきて、取り囲んでみたら、遥か 北方の異人種だっていうんだから、そりゃ驚く。 ﹁そこからは酒飲みよ﹂ 待て。 待て待て。 ﹁どうして酒飲みなんですか? 戦闘になったりとかするもんなん じゃ﹂ ﹁奴らは海の民だからよ、海難者は助けてやる決まりなんだってよ。 財産も取らねえんだって﹂ ﹁へえ﹂ 578 俺の感覚からしてみると、海賊がそういう行動を取るのはちょっ と信じられない気分だが、そういう不合理なこともあるのかもしれ ない。 この世界では海難は多いから、もし漂流してきたらお互い様、と いう文化が形成されているのかもしれない。 さすがに広汎な風習ではなく、海洋国家であるアルビオ共和国だ からこその風習なのだろうが。 面白い文化だ。 ﹁まあ、俺達は海難したわけじゃないけどな。とにかく、酒飲みに なったんだ。そこで、飲み比べよ。俺たちがザルだってことを教え てやったぜ﹂ ﹁なんとも楽しげで良かったですね﹂ なんとも幸運なファーストコンタクトだ。 一つ歯車が狂っていたら、こいつはその場で惨殺、荷は全て奪わ れ、BADENDだったろう。 ﹁まあな。それでよ、船員はその海賊の村に置いてきて、俺は首都 のほうに行ったんだよ﹂ ﹁船員さんたちを村に置かせてくれたんですか? なんとも親切な﹂ ﹁もちろん、メシと宿代のカネは置いてったさ﹂ ﹁ああ、なるほど⋮⋮﹂ しかし、とはいえ、向こうからしたらこっちは蛮族なわけで、よ く置かせてくれたな⋮⋮。 ﹁俺らが着いたのは、お前がイーサ先生と言ってたところの、大ア ルビオ島だったんだな。だから、小アルビオ島まで陸路と渡し船を 579 使って行った。首都は小アルビオ島にあるんだ﹂ ﹁ほほう﹂ まあ、適当に海を航行したらスコットランドの辺に漂着する可能 性が最も高いだろうしな。 ﹁それで、王都ってところはシビャクより大分小さかったんだけど よ。とにかく着いたんだよ﹂ ﹁頑張りましたね﹂ 言葉を勉強したとはいえ、仲間も連れず、ぶっつけ本番で外国一 人旅を成し遂げたというのはスゴイ。 ﹁そんで、まずは何日か酒場で入り浸って喧嘩とかしてたんだよ﹂ おいおい。 ﹁喧嘩ですか﹂ ﹁勘違いしてるかも知れねえが、船乗りにとってはそれが当たり前 なのよ。陸に上がったら酒場に入って、何日か乱痴気騒ぎっていう のはさ。もちろん、喧嘩したってのは、船乗り相手だぜ﹂ ﹁なるほど﹂ そういうものか。 もう良く判らんよ、俺は。 ﹁そうしたらよ、城からの使者みたいのが宿に来てよ。招待された んだよ﹂ げげ。 ﹁招待されたっつっても、共和国っつーのは、シヤルタみてえに気 取った感じじゃないんだな。会食なんつーから緊張してたら、こっ ちみてーに作法がどうこう煩えなんてこと、全然ないんだよ。多少 580 畏まってはいたけどな、酒が入り始めたらそれもなくなって、宴会 よ﹂ 宴会かー。 いやいや、どういう国なんだよ。 ﹁それでわかったんだが、共和国っつーのには、王様がいないらし くてな﹂ そりゃそうだ。 王様がいたら王国だ。 ﹁その場には、一等つええ海賊とか、金儲けしてる商人とか、いろ いろいたんだよ﹂ そういう形もあるよな。 つまりは有力者が集まっての合議制ということになるのだろう。 そういうのも共和制には含まれる。 ﹁そこで色んな奴と知り合ってな。酒の流れで商売してもいいって ことになったんだ﹂ ﹁酒の流れで、ですか﹂ ﹁まあ、運が良かった。商人なんかとはな、特に仲が良くなって、 次の日も港に連れて行ってもらって、いろんな奴を紹介してもらっ たんだ﹂ 本当に運が良かったな。 トントン拍子だ。 581 ﹁次の日に、船を預けた村への帰路について、船を返してもらって、 首都へとんぼ返りよ。一応、売れそうなもんを積荷に満載しといた からな。着いたらそれを売り払って、しばらく港に船を留めた。船 もな、あんまり古い形の船だって呆れられたりしたけどな﹂ やっぱり、技術はかなり水を開けられているらしい。 ﹁一週間ぐらい、そこで停泊して、勘定係なんかと市場を見て回っ て、どれを持って帰ったら売れるか調べたんだ。いろいろと運んで きたぜ。やっぱり、大分カネになった﹂ ハロルの航海は大成功だったってわけだ。 ﹁そりゃあ、良かったですね。いや本当によかった﹂ ハロルの苦労は報われた。 ﹁まあ、これで土産話は終わりだな﹂ ﹁なるほど。大分ためになりました﹂ *** ﹁ところで、そっちはなんか新しいことはあったのか?﹂ ﹁ええ、まあ。いろいろ思うところありまして、僕も商売をするこ とにしました﹂ ﹁おまえがか? なんでまた﹂ 582 意外そうだ。 俺のような貴族の御曹司が商売を始めるなんてことは、普通ない からな。 ﹁自慢するわけじゃないんですけど、授業が殆ど終わって、卒業ま での間は午後いっぱい暇になってしまったんですよ。だから、首都 でできる商売を始めようかと﹂ ﹁⋮⋮シビャクで商売を新しく始めるのは、難しいぞ﹂ やはり思うところがあるのだろうか、ハロルは深刻そうな顔にな った。 ﹁それは僕も心得ているので、全く新しい品を考えたんですよ。ほ ら、ハロルさんに見せたでしょう﹂ ﹁ああ、あれか﹂ ﹁あれを今作ってるんですよ。まあ、まだ試作品ですけど﹂ あれは第十号試作品だ。 ﹁だけど、どうせ頑張って開拓しても、盗まれて終わりだろ?﹂ どいつもこいつもこう言うんだなぁ。 ﹁そうしないように先手を打ちました。特許っていうんですけど﹂ ﹁特許? 専売特許のことか?﹂ ﹁いえ、違うんですよ。特許というのは⋮⋮﹂ 俺は簡単に特許のことを教えた。 ﹁それは⋮⋮上手いことやりやがったな﹂ ﹁そうでしょ。もう制度についての公示もでていますし、第五号特 583 許まで認められたみたいですよ。ちなみに第一号は、僕の植物紙で す﹂ ﹁もう作ってるのか?﹂ ﹁ええ、もちろん。王都の山側の小屋を借りて、こつこつ作ってい ますよ﹂ ﹁すげえな。今度、見ていっていいか﹂ ﹁今日はこれから向かうつもりですが﹂ ﹁それじゃ、ちょっとついて行かせてくれよ﹂ *** 連れて行くことになった。 ﹁馬車代がもったいないので、僕の家に行きましょ﹂ ﹁お、おう﹂ 別邸は、酒場から歩いて十分ほどだった。 顔パスで門をくぐると、厩舎にいき、世話係に言ってカケドリを 一羽借りた。 ﹁おい、乗ったことないんだが﹂ ﹁うちには二人用の鞍があるので大丈夫ですよ﹂ もっとも、カケドリは馬のように水平に背が長く伸びているわけ ではないので、男二人乗りは若干狭苦しいのだが。 ﹁そういう問題か﹂ なにやらカケドリに乗るのが初めてらしい。 584 ﹁いい経験ですよ。馬より乗り心地がいいくらいですから。先に乗 ってください﹂ ﹁う⋮⋮解ったよ﹂ ハロルは渋々、鐙に足をかけてよたよたと鞍に跨った。 俺はもう慣れたものなので、鐙を踏んでひょいと飛ぶように乗る。 ハロルの股の間に挟まるような格好になった。 ﹁いきますよ﹂ タッタカと走りだす。 若鳥でもない体の大きい中年の鳥なので、二人乗ってもへっちゃ らだった。 *** ﹁着きましたよ﹂ 着いたところは、シビャクの西の際にある、古い建物だった。 この建物を選んだのには、いくつか理由があった。 ひとつは、ボロボロで安かったこと。 ふたつめは、元は家畜小屋だった関係で、家畜に水を飲ませるた めに水車で水を引き入れる装置が残っていたこと。 みっつめは、シビャクの上流にあるため、汚水にまみれておらず、 水がきれいなこと。 中は汚いし、全面が土間だが、作業場としては十分だ。 585 扉を開けて中に入った。 ﹁来たか、ユーリ。今回のはなかなか良いぞ﹂ 作業をしていたカフが、喜色を浮かべて言う。 第十一号試作品はなかなかいいようだ。 今俺がメモで使っているのは第十号試作品だが、既に筆記に耐え るレベルのものができている。 書き味は、まだまだコピー紙には到底及ばない、ざらざらしたも のだが、とにもかくにも、文字を書いてそれを記録するという用に 耐えるレベルのものができている。 そろそろ売り物になるか。 ﹁⋮⋮カフじゃねえか﹂ ﹁ん?﹂ カフがハロルの顔を見て、急に無表情になった。 ﹁ハロル・ハレルか、なんでここにいる﹂ ﹁てめーこそ、こんなところでなにをしていやがる﹂ てだい ﹁質問を質問で返すなと教わらなかったのか? こっちが聞いてる んだよ﹂ ﹁アレンフェスト商会の手代が、こんなところで間諜のまね事か? こいつになにをするつもりだ?﹂ ﹁あんなところ、とっくに辞めた。いつの時代の話をしている﹂ なにやら剣呑なご様子である。 ﹁お二人は知り合いなんですか?﹂ ﹁知り合いじゃねーよ﹂ ハロルが言った。 586 ﹁昔の商売敵だな﹂ ほー、なるほど。 ﹁まあ、仲良くしてください。カフさんは大事なパートナーですか ら﹂ ﹁仲良く出来るか。こいつは昔っから薄汚え真似ばっかりしてきや がって、ウチの商売をなんども邪魔して⋮⋮﹂ ﹁それが与えられた仕事だったんだから、仕方がないだろうが。大 昔の話を、いつまでグチグチ言ってやがる。女々しい野郎だ﹂ ﹁誰が女々しいだァ? またぶっ飛ばしてやろうか?﹂ ハロルが腕まくりする。 またってことは、もう一度ぶっ飛ばし済なのか。 カフのほうは冷静なようで、やれやれと眉間に手をやって、処置 なしというような呆れた仕草をしている。 ﹁そうやって力で解決して、後で泣きを見るのが相変わらずの趣味 なのか? これだから船乗りは困る﹂ やべーこいつら。 大人のくせにめっちゃ口喧嘩しとる。 ﹁てめぇ!﹂ ハロルが発奮して、俺を押しのけてカフに掴みかかろうとしたの で、思いっきり出足を蹴って転ばした。 背中の服をぐっと掴んで転ばないようにしたが、土間に膝が着い 587 た。 ﹁ハロルさん、ここで暴れられちゃ困りますよ⋮⋮﹂ 何やら過去に色々あったみたいだから、別に喧嘩をするのはいい が、ここでされるのは困る。 なにせ、そこらに石を乗っけて脱水中の紙やら、漉桁やら、いろ いろあるのだ。 特に漉桁なんか、上に大人が倒れたらすぐ壊れてしまいそうなも のだし、壊されたら作業に差支えが出る。 ﹁止めんなよ﹂ ﹁イイスス教を学ぶって言った矢先からこれじゃ、イーサ先生が残 念がりますよ。言い負かされて喧嘩して、相手をぶん殴るなんて﹂ ﹁ぐっ﹂ イーサ先生の名前を出すと、ハロルはさすがに効いたようだった。 おとなしく立ち上がった。 ﹁ふん﹂ ﹁お前も、場所を考えて喧嘩を売ってくれよ。道具がぶっ壊れたら どうすんだ﹂ ﹁⋮⋮そうだな。確かに壊されちゃ業務に差し障りが出る﹂ ﹁なんだ、こんな子供にタメ口きかれてんのか。笑えるぜ﹂ 俺もちょっと違和感があるんだけど、そうしてくれと頼まれとる んだから、仕方がない。 588 ﹁ユーリは雇用主で、俺は雇われ店長だ。分をわきまえてんだよ、 海夫野郎﹂ ﹁ってめえ﹂ 海夫野郎っていうのは悪口なのか。 事実を並べたようにしか聞こえないのだが。 ﹁やめてくださいね、二人共﹂ やるなら外でやれ。 ﹁それで、第十一号試作品は?﹂ ﹁⋮⋮ああ、これだ﹂ カフにペラリとした紙を渡された。 ﹁ほう﹂ 薬物漂白していないので、やはり茶色っぽい。 コピー紙のようなものを知っている俺からしてみると、色は気に なる。 だが、元より白っぽい材料を使っているので、十分に白かった。 そもそも、羊皮紙からして純白ではないのだから、流通上問題は ないだろう。 むしろ、見るべきところは紙質だった。 表面がのっぺりとしていて、ケバつきが少ない。 繊維のケバつきというのは、筆が引っかかる原因となるので、こ れは重要な要素だった。 589 筆が引っかかるというのは、書き味が悪くなるというだけではな く、紙が破ける原因にもなる。 最低限の性能として、普通の人が普通の筆記具を使い、一枚にび っしり文字を書いて、破れるのは一割以下にしたい。 耐久性を上げるためには紙を分厚くするしかなく、分厚くすると、 言うまでもなく様々なデメリットが発生するので、表面の紙質は特 に重要な要素といえる。 ﹁素晴らしい出来だ。良くやったな﹂ ﹁俺も、我ながら良い出来だと思ったんだ﹂ カフは良い製品ができて嬉しそうだ。 ﹁これなら売り物になるだろう。とりあえずは製品化第一号だ﹂ ﹁これは文房具屋に売り込むことでいいんだな﹂ ﹁ああ、そうしてくれ﹂ カフとの会議で、方針はある程度決まっていた。 これは、とりあえずは羊皮紙の端切れの代替として売り込む。 羊皮紙の端切れというのは、主にメモ用紙としての用途で売られ ている、形の整わないいびつな羊皮紙のことだ。 羊皮紙は獣畜の皮から作られるが、獣畜の皮というのは、もちろ ん綺麗な長方形をしているわけではない。 なので、長方形の用紙として売るために、周りの部分は切って除 かれる。 また、羊皮紙はナメシのあと、乾燥の過程で収縮しないように引 き伸ばされるのだが、ナメシの過程で傷が入っていると、それが針 590 穴程度の穴でも、乾いた時には大きく広がってしまう。 用紙としては、やはりその部分も不良部位ということになるので、 これも除かれる。 つまり、端切れというのは、羊皮紙生産の過程で生まれる、不揃 いな余り物ということになる。 面積あたりの価格としては真四角のものよりだいぶ落ちるのだが、 それでもなお高い。 ミャロなどは、端切れを買い集め、大雑把に四角にして、端に穴 を開けて括り、上達の捗らないクラ語の単語帳にしている。 もちろん、端切れは形がいびつなので、長い文章は書けず、なに かと不便だ。 そこで、真四角の紙が出てくれば、代替品として大いに売れるだ ろうと見込んでいた。 植物紙は、品質としては羊皮紙に劣るので、最初からは羊皮紙の 代替としては売らず、他の方向から攻める。というわけだ。 ﹁生産性はどうだ﹂ いくら品質がいいといっても、仕入れに金がかかったり、量が手 に入らない材料では、話にならない。 ﹁材料としては、特別に調達が難しい物は使っていない。工夫した のは、脱水工程だ。ケバは圧縮の時、木の板の表面が荒いから生ま れるんじゃないかと思ってな。研ぎたてのカンナで削った上等の板 に、蝋を塗りつけて撥水するようにした﹂ ﹁考えたな、偉いぞ﹂ 591 ﹁そうでもない﹂ カフはその言葉に反して、やはり嬉しそうだった。 ﹁値段は、やっぱり端切れと較べて大安売りじゃなくていいだろう。 これほどのものであれば、端切れと比べりゃ段違いで使い出がある﹂ 機能的により優れているものを、特価大廉売で売ってやる必要は ない。 ﹁俺もそう思った。同じ面積の端切れの七割ってところか﹂ 七割か。 ﹁それでいい。次々に売れたら、限界生産力がピークになって品薄 状態になる前に、人を雇って限界生産力を上げよう﹂ ﹁人は簡単に雇えるが⋮⋮道具のほうは用意できるのか?﹂ ﹁もう一つ作ってもらうように頼んである。三つ目が必要なような ら、言ってくれ﹂ リリーさんには二個目の注文を出してある。 一個目の代金を多めに払ったので、快く引き受けてくれた。 漉桁一個で千五百ルガだ。 ﹁わかった﹂ だが、生産設備のボトルネックは幾らでも解消できるが、材料調 達のボトルネックは解消できない。 今は、糸屋や織り屋から材料を掻き集めているが、そこから産出 される材料などたかが知れている。 す 漉き手が一人であれば、シビャク全体からかき集めれば、操業に 十分な材料が揃うだろうが、二人、三人と増えれば、需要が供給に 追いつかなくなるだろう。 592 本格的に木を材料にする方法を考えなきゃならない日が来るか。 ﹁おまえら⋮⋮ずいぶん本格的にやってんだな﹂ ハロルが呆気に取られたように言った。 ﹁あたりまえだ。俺らはこれで天下を取るんだ﹂ 天下。 いつのまにか、カフのほうはそういう気持ちになっていたのか。 ﹁天下って⋮⋮おいおい﹂ ﹁ホラじゃねえ。羊皮紙ギルドをまるまる乗っ取るくらいまでやる ぜ﹂ まあ、確かに、そのようなことは言ったが。 ﹁まあ、紙で終わりではないですけどね﹂ ﹁へ?﹂ ﹁は?﹂ ﹁紙が軌道に乗ったら、すぐにでも次を始めますよ。紙を量産して 羊皮紙市場を乗っ取るなんていうのは、序の口も序の口ですから。 まあ、次の技術はまだ特許を申請していないので、さすがにハロル さんの前では口に出せませんけれどね﹂ ﹁おい、なにいってやがる。本気なのか?﹂ カフが言ってきた。 ﹁本気もなにも、まさかコレ作ったら終わりだと思ってたんですか ?﹂ 593 それでは困るんだけど。 ﹁いや、まあ、な﹂ なんだ、そんなつもりだったっぽい。 馬鹿な。 紙なんていうのは、手っ取り早く稼ごうと思って考えた方法にす ぎない。 さっさと終わらせて次の事業に拡大するつもりだ。 金は幾らあっても足りないのだから。 ﹁カフさんが紙屋で終わるつもりなら、それでもいいですけど。僕 は、これと同じくらい発展性のある事業を、とりあえずあと二つは 考えてますけどね。紙は一番簡単そうだから手始めに始めてみただ けで﹂ ﹁おいおい、マジかよ﹂ ﹁カフさんが製紙事業部の部長で満足するなら、それでも構いませ んが﹂ そうしたら、新しい人材を探さなきゃならないな。 カフは十分に有能だし、気心もしれてきたから、できれば今まで どおり、社を預けたいが。 ﹁いや、お前がもっと先に行くなら、どんだけでもついてってやる。 俺の才が及ぶまでな﹂ 頼もしいことだ。 ﹁場合によっては、ハロルさんもうちの製品を輸出してもらうこと 594 になるかもしれません。そのときはよろしくお願いしますね﹂ ま、向こうには既に植物紙があるようだから、輸出品として競争 力があるかどうかは疑問なところだが。 ﹁あ、ああ⋮⋮そんなもんはどんだけでも構わんが﹂ ﹁まったく、とんでもない野郎の下についちまったもんだ﹂ 595 第036話 新規開拓 ﹁リリーさん、四号器はありがとうございました﹂ ﹁うん﹂ リリーさんの漉桁四号器は三日前に作業場に届いた。 今頃は、カフが雇ってきた作業員が紙を漉いていることだろう。 俺はいつもの喫茶店でリリーさんと会っていた。 ふたりとも私服の密談だ。 ﹁漉が更に細かくなっていて驚きました﹂ ﹁まあね∼、工具を一つ増やしたんよ。小さい穴を開けられる錐を な∼﹂ へ∼。 ﹁だから、棒を細くできたんよ﹂ ﹁どうも、面倒をかけてしまっているようで﹂ ﹁いいんよ。こっちも、六千ルガも貰ってるんやから、工具の一つ くらい安い買いもんやし﹂ 確かに、六千ルガといえば、たいそうな大金である。 売上ではまだペイできていない値段だ。 経営学は学んでないが、設備投資費として許容される範囲なのか 不安になる。 ﹁それで、今日はなんの話があるのん? また追加注文?﹂ そうだった。 596 ﹁ちょっと考えている事があるのですが、教養院の人にアドバイス を貰いたくて﹂ ﹁ふぅん? シャムや殿下じゃだめなん﹂ ﹁ちょっとね、キャロルなんかは顔をしかめそうな話なので﹂ ﹁もしかして、あの本のことか?﹂ ⋮⋮え。 なんでわかった。 ﹁ユーリくんのそんな顔見るの初めてやわぁ。驚いた?﹂ 驚いたよ。 ﹁よく解りましたね。すごいです﹂ なんでわかったんだろう。 ﹁まーなぁ、うちも馬鹿じゃないからなぁ﹂ ﹁読めましたか﹂ ﹁読めた読めた﹂ 読まれてたかぁ。 あの本というのは、教養院の中で出回っている本のことだ。 教養院では、伝統的に同人誌のようなものが回し読みされている。 紙は紙として売るだけでは、さほどの金にはならない。 それでも大層な売上は上がっているのだが、製本して売れば倍の 金になる。 今のように流通させていれば、そのうち誰かが本にしようとする だろうが、その誰かに儲けを譲ってやる必要はない。 597 だが、本といっても、この国で字を読める人間は限られている。 半分以上の人間は、マトモに字を読めないので、本にしても彼ら は買わないだろう。 また、安いといっても庶民からしてみれば高価な品物には違いな いのだから、字が読める人間でも買いたいと思う本を出すのは、な かなか大変だ。 では、どんな本を出版すればよいか。 金を持っていて、文字が読めて、読書に対してそれなりの執着が ある人間をターゲットにする必要がある。 俺の身近に存在する購買層は、教養院の娘たちだった。 彼女らがご執心の本を出版できれば、こぞって買うだろう。とい う算段だ。 教養院の寮というのは、とてつもなく大きな建物に、女子生徒が 全ておしこめられている。 もちろん、リリーさんもミャロもそこで暮らしている。 由来は知らんが、これを白樺寮という。 人口密度が高ければ、それだけ流通も楽に進むだろう。 ﹁リリーさんはそういう本を読むのですか?﹂ ﹁うわ⋮⋮ユーリくん、乙女にあけすけにそういうことを聞いちゃ あかんよぉ﹂ なにやら嫌な顔をされた。 598 そうなのか。 まずったか。 白樺寮というだけあって、文芸雑誌の白樺みたいなもんを、高校 の文学部の文集みたいな形で発行しているんだと思っていた。 違うのか。 ﹁まあ、ぶっちゃけると、私も読むけど⋮⋮﹂ なんだか凄く後ろめたそうだ。 そして恥ずかしそうだ。 なぜだ。 ﹁どういう形で読まれてるんですか﹂ ﹁どういう形って?﹂ ﹁内容はどうでもいいのですが、誰が書いて、どういう形で本にし て、どういう風に寮内に流通しているのか、教えて欲しいのです。 最後にどこに行くのかも﹂ ﹁ああ、そういうこと﹂ ﹁はい﹂ ﹁秘密ではないから話すけど、わたしが話したってことは秘密にし といてな﹂ ﹁もちろんです﹂ ﹁教養院には、どの時代にも作者って人種がおるんよ﹂ 作者。 もちろん、本を書く人のことだろう。 599 ﹁作者というのは、過去の時代の本を呼んで、趣味に目覚めて筆を 取らざるを得なくなった人種のことや﹂ なんだそれ。 ﹁作者は、筆を取ると決意すると、書き始めて、書き終わったらそ れを綴じて、一冊の本にする﹂ 俺のように、白紙の本を買ってきて自由気ままに書いたりするの ではなく、羊皮紙に書いてからそれを本に綴じるらしい。 順番は逆だが、製本という意味ではこっちのほうが正統派なのだ ろう。 ﹁そんで、本ができたら、友達に読んでもらうんよ。友達に読んで もらって、あとで返してもらう。ここでは絶対に又貸ししたらいか んことになってる。行方不明になるんが目に見えとるからね﹂ 流通は貸本スタイルになってるのか? 大量発行などはしないわけだ。 ﹁でも、そのシステムだと古い本の管理はどうなってるんですか? それに、書いた人は羊皮紙代が馬鹿にならない金額になると思う んですが。出費するだけですか?﹂ ﹁まあまあ、これから話すから﹂ ﹁あ、はい﹂ 先走ってしまったようだ。 ﹁白樺寮には教養の部屋っていう部屋があってな﹂ 600 教養の部屋。 なぜか、なんだか空恐ろしい名前に聞こえる。 寮の心臓部で生暖かい心臓がドクンドクンと赤黒く脈打っている ようなイメージを、なぜか俺は抱いてしまった。 ﹁その教養の部屋は、寮生以外は入れない。掃除婦も立ち入りは禁 止されとるから、掃除は寮生がやっとる。一種の秘密の部屋なんや。 その部屋には、歴代の作者が書いた本が置いてあってな。この喫茶 店くらいの部屋が本棚でびっしりになっとる﹂ この喫茶店くらいの部屋となると、それなりに大きい。 千冊以上は入るかもしれない。 ずいぶん贅沢な図書室だ。 ﹁古い本も新しい本も、みんなそこに入れてある﹂ ﹁ちょっとした図書館ですね﹂ ﹁寮の外へ持ちだしたら、えらいことになるんやけどね﹂ 門外不出の掟でもあんのか。 ﹁それでな、教養の部屋の室長は、寮長が兼任することになってい てな﹂ ﹁へえ﹂ ﹁室長がこれと認めた本は、寮費で買い取って蔵書に入れるんよ﹂ えっ。 寮費で買い取っちゃうの? 601 ﹁製本代と紙代にイロつけたくらいの値段やけどな。やから、ヘタ なもんを書かへん限りは、赤つけることはないようになっとるのよ﹂ ﹁じゃあ、写本屋に持っていって複製を作ることもできないんです か?﹂ ﹁基本的にはな。寮外への持ち出しは、寮長に特別な許可を取れば できんことはないけど、やっぱり写本屋に持って行くことは一種の 禁忌や。写字生に読まれるということになるからな﹂ 写字生というのは、文字を書き写す人のことだ。 悪い言い方をすれば、印刷機の代わりを人力で務める職業、とい うことになる。 ﹁でも、卒業したら寮に通い詰めるわけにはいかなくなるのですか ら、思い入れのある本は私有したいと考えるのでは﹂ 俺が同じような状況に置かれたとして、学生時代に思い入れので きた本というのは特別なものだ。 金があったら私有したいと思う。 大人になってから、寮にお邪魔して読みに行くというのは、でき なくはないのかもしれないが、小学校の図書館に大人が遊びに行く のと同じで、やはり難しいだろう。 ﹁その場合は、自分で写すか、子飼いの女の子に写させるんよ﹂ うわぁ。 本を一冊写すというのは、とてつもない重労働だ。 それを、庶民でもない貴族の女性が、自分でするとは。 602 ﹁しかし、だとすると、あまり売れはしませんかね﹂ ﹁そうでもないと思うよ﹂ リリーさんはお茶を飲みながら答えた。 ﹁今代の作者は、すごい才能があるって言われとるんよ。白樺寮の 歴史上、名が残るくらい有名な作者は五人くらいおるけど、それに 名を並べることになると言われとる﹂ ほほー。 ﹁その人の作品を出せれば、売れるということですか?﹂ リリーさんの言う凄さというのが、いまいち解らない。 ﹁考えてもみ。白樺寮には五百人以上の子がおるんよ? 作者が新 刊を出します、貸してまわします。それはええよ。だけど、一年は 三百六十日ちょっとしかないんやで﹂ ああ、そういうことか。 考えてみれば、問題は明らかだった。 ﹁白樺寮の全員がそういう趣味を持ってるわけやないけど、借りた 人が全員、一日で読みきっても、一年以上順番待ちが発生するんや。 そんで、今代の作者は多作やから、一年に二冊も三冊も出しよる。 どんなに読みたくても、読まれへんやないの﹂ やりたくても量産化ができないわけだ。 大変なことだな。 ベストセラー作家が本を出したとしても、読むまでに一年以上待 たなければならない。 603 本読みにとっては血の涙が出そうなほど苦しい状況だろう。 運良く早めに読めたとしても、良い本であったら読み返したいと 思うのが心情というものだ。 だが、それも叶わない。 加えて、学校には卒業という制度がある。 卒業間近の人などは、もっと苦しいだろう。 下手をすると読む機会が永遠に失われるかもしれないのだから。 ﹁しかし、それだと、こちらで出したものを売るのは﹂ ﹁羊皮紙本の半額くらいなら、買う子はたくさんおると思うけど﹂ ﹁いえ。白樺寮の掟のようなものに反するのでは?﹂ 今、紙を流通させているように、開けた市場のようなところで売 っていくなら、掟なんぞある程度無視してもいいだろう。 掟というのは時代によって変わるものだし、掟を無視すれば新し い掟ができるだけだ。 だが、その本を売るとしたら、今度は完全に閉鎖した世界で売る ことになる。 寮内は男子禁制なのだから、俺は入ることすらできないのだ。 教養院は掟に支配された世界だから、掟を破れば誰も買わないだ ろうし、無茶を通せば悪評が立ってしまう。 魔女を排出する白樺寮で悪評が立つというのは、非常によろしく ない気がする。 ﹁どうやろな⋮⋮わたしはちょっと、そこまでは読めんけど。重要 なのは、これは趣味の活動やってことなんよ。作者はべつに、誰に 604 強制されているわけでもないし、人気が出たからって教養の部屋に 必ず入れなきゃならんってわけやないのよ。だから⋮⋮うーん、で も⋮⋮﹂ なにやら、悩ましいようだ。 ﹁なにか問題が?﹂ ﹁問題はないと思うけど、掟っていうても、きっちり文字にしてあ るわけやないからね。もちろん、門限とか男連れ込んだらあかんと かは、文字になっとるんやけど⋮⋮。だから、なんちゅーか⋮⋮﹂ 煮え切らない。 ﹁つまり、意見が一致していない要件でも、無理やりに掟の一つと 解釈したがるような人たちがいるんでしょうか﹂ ﹁それやねん﹂ リリーさんがビシッと俺を指さした。 ﹁評価の高かった本でも、教養の部屋に入れるかどうかは本来自由 なんやけど、みんな入れとるから、入れるのが掟の一つやって思っ てる奴とかな。やっぱりおんねん﹂ どこの世界にもそういう人間はいるものだなぁ。 自分のルールと普遍のルールの区別が付かない輩が。 ﹁まあ、そこは、需要がなんとかしてくれるでしょう。必要は妥協 を産むものですから﹂ ﹁そうやな、そうかもしれんな。現状の順番待ち争いときたら、ほ 605 んとに馬鹿らしいから⋮⋮﹂ なんだか苦々しい顔をしている。 よくわからんが、何やら思うところがあるんだろう。 ﹁どちらにせよ、作者の方に直接お話しする必要がありますね。そ の人気作家は、リリーさんのお知り合いなんですか?﹂ ﹁いいや。でも、大図書館に行けば大抵おるよ﹂ ああ、大図書館か。 なんだか、らしいな。 ﹁なるほど。では、訪ねてみます。お名前は分かりますか﹂ ﹁ピニャ・コラータや﹂ 606 第037話 異世界文化 大図書館というのは、表向きは学院とは別の施設であるらしい。 一般人でも出入り可能だが、一定の金額を入館の際に預ける必要 がある。 具体的に言うと、金貨五枚だ。 蔵書を破いたり汚したりした場合は、これは没収される。 羊皮紙はなかなか破けはしないが、もしクシャミでもして痰が本 にかかり、運悪く職員にそれを見られていたら、五十万円がパァに なってしまう。というわけだ。 それを考えると、金額はともかくとして、読書に興味のない一般 人からしてみると、やはりリスクが高いといえるだろう。 だが、中にあるのは、貴重品である羊皮紙の本ばかりなので、窃 盗の危険を回避するためには、そういう措置は現実として必要だ。 もちろん、立ち入りの際はカバンなどは中を開けてチェックされ る。 そういった事情があり、大図書館というのは、一般人にとっては 入る機会が殆どない建物であるらしい。 だが、そういったシステムがあるのは表門だけで、裏門は学院の 敷地に通じており、制服を着ていればほぼフリーパスという仕組み になっている。 貸し出しもできるのだが、かなり厳しく管理されている。 607 学院生は、絶対に学院の外に持ち出さない条件で、一冊借りられ るのだが、学院生でない者は貴族しか借りられず、その場合は高額 の担保金を預ける必要がある。 ルークは、この担保金を一々預けて、俺に本を借りてきてくれた わけだ。 ありがたいことこの上ない。 大図書館は、意外といってもいいくらい、大きな建物である。 蔵書も十万冊以上があり、この世界にはデータベースとかコンピ ューターとかはないので、誰も全貌を把握できていない。 だが、蔵書の多くは、学院の森を侵して作られた防火蔵の中で、 虫除け草と一緒に眠っている。 そんな管理しきれないほどの蔵書が、なぜあるのかというと、そ れにはちょっとした事情がある。 蔵書の多くは、シヤルタ王国内で作られたものではないのだ。 ここにある蔵書は、シャン人の国が滅びるとき、知的財産を運び 出そうとした人々の、努力の結晶である。ということになる。 十万冊の蔵書のうち、シヤルタ王国の国内で作られたものは、全 体の二割に満たないという。 *** 608 大図書館の中に入ると、かすかになめした皮の匂いがした。 これは、本の表紙に張られている皮の匂いだ。 大図書館は蔵を作っているくらいだから、中は本棚でいっぱいに なっていて手狭だが、椅子と机の読書スペースはちゃんと作られて いる。 実質的に貸し出しを前提としないシステムなのだから、当然とい えば当然だ。 そのへんを歩いていると、やはり教養院の学生が目につくことが 多い。 男も女も、教養院が多く、騎士院はあまりいない。 騎士院は馬鹿ばっかりというわけではないが、やはり学者的な頭 の良さはあまり重視されない風土がある。 それは教養院に通う女どもの役割で、自分たちは別の役割がある。 という感じだ。 ピニャ・コラータを探しにきたのだが、容姿も曖昧にしか聞いて いないので、誰が誰だか解らなかった。 そもそもアポも取っていない︵というか、取る方法がわからない︶ ので、ここにいるかどうかも怪しい。 今日はムリか。と思いながら諦めようとしたとき、二階の隅の席 に変な人がいた。 ぼさぼさの髪の毛を無造作に伸ばした髪型をしており、ひたすら に羊皮紙に向かってペンを走らせている。 下を向きっぱなしなので、なんだか貞子さんを彷彿とさせた。 生徒や大人は数いれど、なかなか書き物をしている人というのは 609 少ない。 そもそもが、大図書館というのは、本を読むためにくるわけで、 書き物をするために来ることはあまりない。 インク壺に羽ペンという組み合わせはインクが飛び散る危険があ り、本を汚してしまう危険があるからだ。 一般人は、そもそも所持品検査で持ちいれができないし、学院生 にとっても汚したら厳重注意で、再犯すれば出入り禁止の危険があ るので、あまりそういうことはやらない。 だが、この子は羽ペンを使っている。 もちろん、悪いというわけではない。 書いている用紙のすぐとなりに本でも置いてあったらまずいだろ うが、机の上に本はなかった。 こいつか? カギカッコ 俺はそう思って、ふらりと後ろを通りながら、一瞬だけ紙を覗き 見た。 シャン語の文法には﹁﹂的な記号があり、これで囲まれた文章は、 登場人物の台詞を表す。という決まりがあるのだが、それが並んで いるのが目についた。 ということは、小説であろう。 カギカッコ レポートや学問的な書籍を執筆しているのであれば、なかなか﹁﹂ という記号は使わないものだ。 間違っている可能性はあるが、少なくともこの子は可能性が高い。 だが、なにやら執筆に集中しているようだし、邪魔をするのもな 610 んだ。 対面の座席で待たせてもらおう。 俺は実際にそうして、できるだけ音を立てないように椅子に座り、 居眠りでもするかのように目をつむった。 考えることは幾らでもあるのだ。 今考えねばならないことは、製紙のために必要な薬剤のことだっ た。 本当なら、糸くずのような言わば産業廃棄物を使うのは、質のい いものにはならない。 カフあたりはまだ誤解しているようだが、本当は木を繊維として 使うのが一番いいのだ。 だが、木を紙にするには、一度パルプにする必要がある。 砕いて煮崩せばなんとかなるのかと思ったのだが、これがなんと もならなかった。 煮ても煮ても形は変わらず、爪楊枝を歯で念入りに噛んでペシャ ンコにしたみたいのがたくさん出来ただけだった。 そこで、アルカリ性の溶液が必要なのだと気づいた。 製紙に具体的にどんな薬剤を使えばいいのかは知らないが、でき るだけ強アルカリ性のものがいいだろう。 となると、水酸化ナトリウムが真っ先に候補に上がる。 だが、いろいろ考えても、日本では調達しようと思えばいくらで も調達できた基本的な薬品が、ここでは製造することが難しかった。 611 鉱物と天然で調達できなくもない硫酸みたいな薬液を掛けあわせ れば、生産できるのかもしれないが、これには長い時間の研究が必 要だろう。 俺にそこまでの時間はない。 それに、水酸化ナトリウムは大量に必要だから、ものすごく金を かけて少しだけしか集まらないのであれば、意味がない。 そもそも、水酸化ナトリウムなどというものは、塩水を電気分解 すれば生産出来るはずなのだから、歯がゆいことこの上ない。 食塩水をそのまま電気分解すると、塩素と水素が出て行って水酸 化ナトリウムができる。 だが、電極から発生する塩素が水酸化ナトリウムと水中で反応す るので、水中で塩素が水酸化物イオンと反応して次亜塩素酸が発生 してしまい、純度が悪くなる。 それを防止するためには、電極と電極の間に、混ざりを防止する 間仕切りを仕込むか、もっと低コストでやりたいなら、電極を工夫 する。 食塩プールの底に水銀を貯め、上に黒鉛の電極を置き、上下で電 気分解をする。 水銀のほうがナトリウムとの合金になるので、それを取り出して 水に突っ込むと、ナトリウムは水酸化ナトリウムになり水に溶けだ し、水銀は元に戻り、居場所の亡くなった水素は、空中に吐き出さ れるはずだ。 水銀は、辰砂を熱するだけで産出されるので、飲む文化はないが、 珍品として少量流通している。 毒性に目を瞑れば、これで良質の水酸化ナトリウムが手に入る。 この世界には水車があるのだから、発電機を作ればその程度のこ 612 とは可能なはずだった。 実際、やろうと考えたが、発電機がネックだった。 発電機は針金と磁石があれば原理的にはできるものだが、磁石が ないのだ。 磁石そのものは、鉄は大なり小なりの磁性を持っているし、コン パスなどは天然の磁鉄鉱で作られているので、天然にも存在する。 だが、その磁力はたかがしれているので、発電機には使えない。 強い磁力を持った金属というのは、なかなか難しかった。 磁石は物質の中の電荷が整列することでできる。 作れないことはない。 電荷を整列させるためには、キュリー温度以上に物質の温度を上 げ、原子を暴れさせて、暴れているうちに強い磁力をかけて整列さ せればいい。 キュリー温度は、鉄であれば千度にも満たなかったはずなので、 温度を確保するのはさほど難しくはない。 キュリー温度以上で強磁性の物質が磁界に曝されると、N極とS 極が整列して、一定の方向性が生まれる。 そのまま冷えて固まらせて、向きを固定したものが磁石だ。 なので、極端なことを言えば、コンパスで地磁気の向きを測って、 炉の中に鉄の棒を入れ、鉄の棒の向きを地磁気と合わせて熱し、そ のままゆっくりと冷却すれば、磁石は出来る。 だが、地磁気は弱いので、そんな磁石ではコンパスには使えても、 発電機には使えない。 強力な磁石を作るとなると、磁石を作るために磁石が必要という 613 ことになるのだ。 この世界には強い永久磁石はないだろうから、磁石を作るのは難 しいということになる。 だが、別に磁石は永久磁石だけではない。 コイルに電気を流せば電磁石になる。 だが、そのためには電気が必要で⋮⋮となると、果てしがない。 *** ふと目を開けると、ピニャ・コラータ︵たぶん︶がこっちを見て いた。 執筆に一段落ついたのだろうか。 俺と目が合うと、あせあせとバッグに文房具をしまい、席をたと うとした。 ﹁ちょ、待て待て待って﹂ 慌てて引き止めた。 身を乗り出して、手首でも掴んで引き止めてもよかったが、大声 でも出されたら問題なので、声だけにとどめた。 ﹁な、なななな、なんですか? お、怒りにきたんですか?﹂ はあ? なんで俺が初対面の女に怒らにゃならんのだ。 614 ﹁怒ってませんて。ちょっとお話があって﹂ ﹁や、やや、やーです﹂ なんだか俺に怯えている様子だ。 なんだ? この娘、男性恐怖症かなんかか? 威圧的な顔をしていると思われたことは、あんまりないんだが。 このままでは俺は怪しいお兄さんになってしまう。 変質者になってしまう。 それはまずい。 心象が致命的に悪化するのは、絶対にまずい。 そうなるくらいなら、後日出直したほうがマシだ。 よし、今日は諦めよう。 そう思った時だった。 ﹁ちょっと、あなた、この子になにをしているの﹂ ぎゅっと肩を掴まれた。 振り返ると、刺々しい顔をした女性が立っていた。 教養院の制服を着ている。 ﹁⋮⋮なにもしていませんよ。ちょっとお話がありまして﹂ なんで後ろめたい気持ちになってしまうんだよ。 俺は本当になんもしてないのに⋮⋮。 615 こちらから声をかけたわけでもなけりゃ、彼女をジロジロ観察し てたわけでもないし、机の下に潜って下着覗いてたわけでもない。 目を瞑って考え事してただけなのに。 ﹁ピニャになんの用なの?﹂ やっぱりこの子がピニャらしい。 ﹁失礼ですが、あなたは?﹂ ﹁質問に質問で返さないで。ピニャになんの用なの?﹂ ﹁申し訳ありませんが、貴方が何者かもわからないのに、話せませ んよ﹂ この国の魔女は金に貪欲だ。 金儲けの話は、そう簡単にペラペラと教養院の生徒に話してよい ものではない。と俺は思っていた。 おいそれと話せば﹃一枚噛ませろ﹄という話になりかねない。 ﹁あなたねえ﹂ なおも睨んできている。 俺の肩を掴んだところからも分かる通り、この女性は長身だ。 俺より大分年上で、リリーさんくらいの年齢がありそうだから、 俺が生意気に感じられるのかもしれない。 ﹁コミミ⋮⋮﹂ ﹁ピニャ、知り合いなの?﹂ ﹁その子、ユーリくん﹂ ﹁⋮⋮あら?﹂ 616 俺の名を聞いて、改めて俺の顔を見ると、コミミと言われた女性 の表情からトゲがなくなった。 なんなんだよこいつ。 ピニャとやらも、なんで俺の名前を知ってんだよ。 ﹁まあ、お話を聞いてくれるのでしたら、場所を移しませんか? ここではなんですから﹂ 大声は出していないが、図書館で話しをするという行為自体が落 ち着かない。 ﹁⋮⋮まあいいけれど﹂ ﹁⋮⋮はい﹂ なんだか同意してくれた。 *** 正門側から大図書館を出て、 ﹁どこか個室のある喫茶店は知りませんか?﹂ と言うと、さすがにコミミは年をとってるだけあって、知ってい た。 ﹁でも、確か、席料を取られると思うけれど﹂ ﹁構いませんよ。僕が払いますから﹂ ﹁さすが、ホウ家の次期当主ね。お金持ちだわ﹂ 617 ﹁僕が自分で商売をして稼いだお金ですよ。家の金ではありません﹂ そう言うと、なんだかコミミは睨んできた。 なんで睨んでくるんだよ⋮⋮この人怖い。 その喫茶店に入って、個室を指定すると、席料は二十ルガだった。 そんなに高くもない。 シャムの入学のときに入った最高級のレストランは、時期的なも のもあるんだろうが、席料だけで千ルガ取られた。 それと比べれば、比べるのもおかしいとは思うが、安いもんだ。 奥に案内されると、個室というのは、落ち着いた調度の揃った部 屋に、正方形のテーブルがひとつと、取り囲むように椅子があるだ けの部屋だった。 大きな窓もあって小さい庭が見えるので、開放感もある。 俺は椅子に座ると、 ﹁どうぞ、お好きなものを注文してください。奢りますから﹂ なるべく柔らかな調子で言った。 だが、コミミの刺々しい態度は変わらなかった。 ﹁一体なんのつもりなの?﹂ ⋮⋮いったい、何なんだろう。 なんのつもりも糞もあるかといいたい。 なんでこんなに、初っ端から俺を警戒しているんだ。 臆病な亀かハリネズミのような反応になっとる。 618 そして、なんでコミミとかいうのはここまでついてきてるのだろ う。 俺はピニャに話があるのに。 ﹁まあまあ、お話はあとでいいじゃないですか﹂ ﹁⋮⋮そうね。でも、自分の分は自分で払うわ﹂ いやいや、そういうわけにも。 ﹁いえ、こちらからお願いをするわけですから、遠慮しないでくだ さい﹂ ﹁⋮⋮???﹂ なんだかいぶかしげな顔になった。 なんでそういう反応になる⋮⋮? 本格的に思考が読めん。 なんだか、双方読心戦の様相を呈してきたな。 なんで戦っておるのだろう。 店員さんが来た。 ﹁私は、ハーブティーをお願いします﹂ コミミが言った。 ﹁⋮⋮ミルク茶とケーキとプリンとクッキー﹂ ﹁ピニャ﹂ 叱責のような鋭い声が飛んだ。 619 ﹁構いませんよ、ミルク茶とケーキとプリンとクッキーで﹂ かんらく 俺が復唱すると、店員さんは﹁はい﹂と言った。 ﹁では、僕は温かい麦茶と、スライスした乾酪をお願いします﹂ ﹁承りました﹂ 店員さんは扉を閉めて、去っていった。 さて、 ﹁えーっと、コミミさんでしたよね。コミミさんはピニャさんとは どういうご関係なんですか?﹂ まずはこれが聞きたい。 ﹁⋮⋮私は、ピニャのルームメイトよ﹂ あー。 はいはいはいはい、なるほどね。 シャムにとってのリリーさんポジがこいつか。 ﹁じゃあ、マネージャー業務をしているわけですか。例の本につい ての管理などを?﹂ そう考えれば、ごく当然のようにピニャに同道してきたことにも 説明がつく。 ﹁⋮⋮そうよ﹂ やっぱりか。 ピニャが人付き合いの才能がない、内向的な人間であることは一 目で解る。 620 リリーさんに聞いた事情を鑑みれば、コミミのような存在がマネ ジメントしなくては、システムが成り立たないのは当然だろう。 小説が本になった瞬間に、四百人からの人間が取り合いっこする のだから、本を誰に貸したか今どこにあるのか、次は誰に貸すのか、 そういったマネジメントは誰がするのか。 ピニャにできるわけがないのであれば、コミミがしているのだろ う。 ﹁いやぁ、よかった。例の本について、すこしお話したいことがあ りまして﹂ そうなると、コミミにも話を通す必要がある。 むしろ居てくれて手間が省けたと言える。 だが、俺が発した言葉を聞くと、ピニャは怯えたような顔をし、 コミミは表情を固くした。 態度が硬化し、なんだか振り出しにもどったような手応えを感じ る。 ﹁なんなの? 言いたいことがあるならはっきりといいなさいよ﹂ ⋮⋮え、えーっと。 どうしてこういう反応になるのかな? ピニャは怯えてるみたいだし、コミミのほうは威嚇をしてきてい るようだ。 こいつらは男全般にこういうふうな反応をしているのか? ピニャが男性恐怖症とか? 621 いや、それ以前に、なんか認識が根本から食い違ってねえか? ﹁なにか行き違いがあるようですが、僕は怒りにきたわけではあり ませんよ﹂ ﹁⋮⋮???﹂ ﹁ピニャさんのほうも、僕がいつ怒り出すのかと、なにやら恐れて いるように見受けられますが、正直いって、怒らなければならない 心当たりがまったくありません﹂ こういう時は、素直に指摘して正直な感覚を話し、食い違いを正 すのが近道だ。 ﹁ほ、ほんとに⋮⋮?﹂ ﹁はい。あまりに心当たりがないので、お二人で僕を秘密裏に抹殺 する計画でも立てていたのかな、と考えていたところです﹂ これは冗談だけど。 ﹁フヒヒッ﹂ と、甲高い奇妙な笑い声がした。 ピニャが笑ったのだ。 フヒヒッて。 俺でもちょっとゾッとする笑い声だったぞ。 ﹁じゃあ、何の用なの?﹂ 若干警戒を解いたらしいコミミが言う。 いや、さっきの笑い声は問題ないのか。 622 さっきみたいに咎めなくてもいいのか。 ま、まぁ、当人が問題にしていないのなら、俺はいいとは思うけ ど⋮⋮。 ﹁それはお茶が来てから話しましょう。それより、もしよろしけれ ば、なぜ僕が怒ると思っていたのか、お聞かせ願えませんか﹂ ﹁それは⋮⋮﹂ コミミが口を濁した。 言いたくなさそうだ。 ﹁⋮⋮ユー⋮⋮くん⋮⋮が、登場人物だから﹂ ピニャがぼそぼそと何か言った。 聞こえないんだけど。 ﹁ピニャ﹂ コミミがはっきりとわかる口調で叱責する。 ﹁⋮⋮いいの。ユーリくんが登場人物だから﹂ ﹁⋮⋮へ?﹂ 聞き間違いか? ﹁僕が登場人物ですって?﹂ ﹁⋮⋮う、ん﹂ ﹁んんん⋮⋮??? なんでそうなるんです?﹂ 本気でわけがわからん。 ﹁人気、あるから﹂ んんんんん⋮⋮。 どゆこと? 623 ﹁何が人気なんです?﹂ ﹁ふひひっ﹂ ﹁いやいや、フヒヒじゃなくて﹂ ﹁よむ?﹂ 読む? ﹁なにをです?﹂ ﹁さっき書いてたの﹂ ピニャはぺらりと十枚ほどの紙を俺の方に差し出した。 ﹁ピニャ、それは⋮⋮﹂ コミミは目を白黒させて、渋い顔をしている。 なんなんだ? この展開。 俺が登場人物? ついていけねえぞ。 ﹁コミミ、ユーリくんは、主人公だよ? よむ資格があるよ。隠し ておいていいわけないよ﹂ 目の前にあるのは、たぶん原稿だが、ほんとにこれを読んでいい のだろうか。 男子禁制の読み物なのではないのか。 ﹁⋮⋮よんで?﹂ ﹁えーっと⋮⋮﹂ しかし、これから出版しようという内容物だ。 読める機会があるのなら、読んでおいたほうが間違いなく良いだ 624 ろう。 俺は読むことにした。 625 ♂展開注意 青春の散華 第十八話︵前書き︶ ※♂ 626 青春の散華 第十八話 題名﹁青春の散華﹂ 第十八話 作:ピニャ・コラータ ﹁大変だったな、ミャロ﹂ 騎士院実習過程の激しい稽古を終え、水浴び場で水を浴びていた ミャロに、ユーリが問いかけた。 あれほどの激しい稽古のあとだというのに、ユーリは息を切らし ておらず、ろくに汗もかいていない。 したがって、彼は水を浴びる必要もなかった。 ミャロの艶かしい躰には、今まさに浴びた水が滴り、張りのある 肌に水滴が浮いている。 ﹁タオルを忘れてたぜ﹂ ユーリはミャロにタオルを手渡した。 ﹁あまり⋮⋮見ないでください﹂ ミャロは恥ずかしげに露わとなった躰を隠したが、ユーリは視線 を外そうとはしなかった。 ﹁ふん﹂ ミャロの懇願を一蹴するように、それだけ言っただけであった。 ﹁恥ずかしいのに、やめてはくれないんですね﹂ ミャロはわずかに頬を染めると、ユーリに背を向け、濡れた躰を 拭っていった。 627 *** その頃⋮⋮。 ドッラは未だに道場で居残り稽古をしていた。 他のものより固く太い稽古用の槍は、大人が使うものとすでに遜 色がない。 激しく、そして強く、同輩の若き騎士たちと槍を交えていた。 だが、ドッラに及ぶ者はいなかった。 同級生は次々とドッラに打ちのめされてゆき、場合によっては上 級生でさえドッラに打ちふせられた。 もはや立ち上がる者のいない道場で、ドッラは思う。 ︵やはり、あいつに勝るものはない⋮⋮︶ 武の極みに近づくにつれ、ドッラはその思いを強くした。 ︵あいつは、特別だ⋮⋮。おれの全てをぶつけてもなお、あいつは おれの上をゆく。そんな男は、他にはいない⋮⋮︶ ユーリは、既に稽古から引き上げてしまっている。 皆がこぞって居残り稽古をしているとき、ユーリはそれに付き合 うことはなかった。 それでも、ユーリの腕前は他に及ぶものはいないのだ。 ユーリの技量の伸びは俗人の及ぶところではなく、手に持つ槍は 628 神が宿ったように好く動いた。 鬼才を誇るドッラでさえ及ばぬほどに。 ドッラは、近頃は、同室で暮らしているユーリが横になるより先 に、床に入ることにしていた。 そうしないと、眠れないのだ。 隣で無防備にユーリが眠っているという事実に、頭が冴えてしま う。 最近では、下の用のために夜中に起き、そのとき隣のベッドでユ ーリが寝ていると、夜が明けるまでじっと顔を見ていることが日常 だった。 床に入っても寝付けないのである。 ユーリが隣で眠っているという事実を意識してしまうと、もうだ めだった。 ︵いつか、いつか勝ってやる。あいつをおれのものにしてやる︶ ドッラは、己の胸の内に巣食う鬱屈とした愛憎を自覚してはいな かった。 *** ﹁くそっ、また負けた﹂ ユーリは、余暇の時間はミャロと斗棋をしている。 ドッラも斗棋の達者であったが、この二人には及ばない。 だが、ドッラは元より斗棋の得手・不得手に意味など見出してい 629 なかったから、それでも構わなかった。 ﹁もう一局です﹂ ドッラは、酒を愉しみながらも、二人の会話を自然と意識してし まっていた。 パチ、パチ、パチ⋮⋮と、駒が盤を打つ音さえ聞こえてくるよう だった。 ﹁どうしたんすか? ドッラさん﹂ 手下の男がドッラに声をかけると、ドッラはハッとしたように我 に返った。 ﹁街に繰り出して女を引っ掛けましょうよ﹂ 軽薄な男だった。 ドッラは女など必要としていなかった。 将来に添い遂げる一人だけいればいいと思っていたし、一人のほ かに必要があるとも思っていなかった。 ﹁いや、おれはいい﹂ ﹁相変わらず硬派だなぁ∼、ドッラさんは﹂ 時計を見ると、もう夜も更けようとしていた。 そろそろ、眠らねばならない。 そうしないと、ユーリが先に床についてしまい、眠れなくなる。 その時に、ドッラは気がついた。今日は金曜日であった。 ユーリはちかごろ、金曜の夜はいつも寮を留守にする。 そのとき偶然か必然か、ドッラの耳に二人の会話が入ってきた。 630 ﹁今日は金曜日ですね﹂ ﹁⋮⋮そうだったな﹂ ﹁今日も、デデロロくんもボーンさんも、実家に帰っていて居ない んですよ﹂ ﹁そうか﹂ デデロロとボーンはミャロのルームメイトであった。 ドッラは、その会話に少し違和感を感じつつも、自室へ引き上げ た。 *** ミャロの部屋には月明かりが差していた。 ﹁これなら明かりはいらないな﹂ ユーリの微かに熱を帯びた声が部屋に響く。 ﹁⋮⋮はい﹂ ユーリは、ミャロをベッドに押し倒した。 ﹁ちょ、ちょっと待って下さい、脱ぎますから﹂ ﹁待てない﹂ ユーリは止まらなかった。 ミャロの体を服越しにまさぐりながら、股間を刺激してゆく。 ﹁あっ﹂ ミャロの嬌声が部屋に響いた。 631 ユーリはミャロの体を愛撫しながら、服を脱がせてゆく。 ミャロの股間は既に溢れたもので濡れていた。 ユーリはさらに猛りながら、乱暴にミャロの躰を蹂躙してゆく。 ミャロは喘ぎ声を押し殺すことで精一杯であった。 バタンッ、とけたたましくドアが開き、二人の愛蜜の香りで満た された空間を破った。 ﹁なにをしている﹂ ドッラであった。 ﹁出て行け、ドッラ﹂ ﹁おまえはあああ!!!﹂ ドッラは猛った牛のように二人に突っ込んでいった。 シーツで躰を隠そうとするミャロを平手で殴ると、ミャロは気絶 してしまった。 ﹁なにをする!!!﹂ ユーリはミャロを抱きとめた。 ﹁おれはっ、おれはっ!!!﹂ ドッラは自分でも、自分がなにをしようとしているか、わからな かった。 自分の鬱屈した愛欲を自覚をしていなかったために、自らの心底 から沸き起こる、くろぐろとした血の色をした愛欲を、どう処理し たらいいか、自分でも解らなかったのだ。 632 だが、混乱はしていても、ドッラは止まらなかった。 心底からは愛と憎しみの感情がドプドプと湧き上がり、ドッラの 心の器を満たしていっていた。 ﹁おいっ、なにをするっ、やめろっ﹂ ドッラは夢中になってユーリを組み伏せると、その服を、 633 第038話 印税交渉 ﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂ ナニコレ。 髪の毛が真っ白になったような思いがする。 体が燃え滓のようになっているような。 ﹁おい、てめーら﹂ 丁寧な言葉を使う気は失せていた。 ﹁ふひひっ﹂ なにを嬉しそうに笑ってやがる。 悪魔か、こいつは。 ﹁てめーら、誰に許可をとって⋮⋮﹂ ﹁だから、読ませないほうがいいって﹂ ﹁だい、じょうぶ﹂ こいつら。 ﹁大丈夫じゃねーよ、夜眠れなくなったらどうしてくれる﹂ なんという恐ろしい妄想をしやがる。 ホモドッラが俺のベッドの横で一晩中俺を見てるとか。 しかも色めいた目で。 634 考えただけで鳥肌が立つ。 ﹁十八話ってなんだよ。もう十七話分書いてんのか﹂ ﹁うん﹂ 怖気がした。 十八話は書きかけだったが、けっこうな文量があったぞ、これ。 それがもう十七話分も。 何を考えてこんな真似をしてやがる。 頭がおかしいのか。 わきま ﹁勘違いしているかもしれないけど、白樺寮は分別ある生徒たちの 集まりです。創作は創作と弁えてるから﹂ ﹁んなわけねーだろ、これで分別があるとか、寝言は寝ていえよ﹂ 俺がそういって怒ると、 ﹁俺様﹂ ﹁俺様だ⋮⋮﹂ と二人でなにやらこそこそ話してやがる。 腹立つ。 ﹁二十歳以上の寮生なら分別もつくだろうが、ガキなんて妙な目で 見てくるだろ﹂ ﹁そんなことは⋮⋮﹂ コミミは否定したが、どこか自信なさげだ。 ﹁⋮⋮なくもないけど、実際に妙な噂が立ったら上級生たちが指導 しています﹂ 635 そーいう問題かよ。 ﹁やっぱりおこった﹂ ピニャがぼそりと言った。 ﹁ぐっ⋮⋮﹂ 堪えろ。 堪えるんだ。 俺は今日ここに何をしに来たんだ。 ﹁⋮⋮フー﹂ クールだ。 クールにいこう。 考えてみれば、これは俺とは関係がないところで、馬鹿どもが勝 手にやってることだ。 俺とは関係ないんだ。 つまり、脳みそぱっぱらぱぁのこいつみたいな連中が、頭の中で 妄想してるのと同じことだ。 妄想することくらい勝手にやらせればいいではないか。 そう、そうだ。 俺は金儲けの話にきたのだ。 そうだった。 プライドが金に変えられるか? つーか、書かせるのをやめさせれば、書くのをやめてくれるのか? 636 そうは思わない。 だとすれば、どうせ精神的損害を被るのなら、金を貰える分得だ。 コンコン と、ドアが叩かれた。 ﹁どうぞ﹂ 勝手に言う。 ちょうどいい時にお茶が来た。 一服して落ち着こう。 菓子と茶が並べられると、店員はしずしずと出て行った。 俺の前には温かい麦茶と、切ったチーズが置かれていた。 どうも胃の調子がおかしく、チーズを胃に入れる気にはならなく なっていた。 ﹁いただきまーす﹂ ピニャは、ぱくぱくと菓子を食い始める。 こっ、この野郎⋮⋮。 どんだけ好き放題やりゃあ気が済むんだ。 ﹁それで、この件で怒りに来たのでないのなら、なんの用があった の?﹂ ﹁⋮⋮ふーっ。よしよし、落ち着いてきた。俺ってば超クール﹂ ﹁く⋮⋮??﹂ はー、落ち着いた。 もうあんなもんは忘れた。 637 仕事の話に移ろう。 ﹁俺は今、本を出そうとしてて、そのための中身にあんたがたの本 が最適なんじゃないかと思ってきたんだよ﹂ ﹁本⋮⋮?﹂ ピニャとコミミはきょとんと目を見合わせた。 ﹁俺は今、こういうものを作ってる﹂ 俺は用意しておいた植物紙を一枚、渡した。 ﹁ああ、ホー紙ね﹂ ﹁なにそれ﹂ コミミのほうは知っているようだった。 なかなか周知してきたようだ。 ホー紙というのは、植物紙を売り込むときにつけた名前だ。 カフがそういう名前で売り込んでいるから、小売から伝わったん だろう。 ﹁これで本を作りたい。羊皮紙の本の半分くらいの値段でできるは ずだ。買うやつはいくらでもいるだろ?﹂ ﹁だめよ﹂ そっけなかった。 だめか。 ﹁さっき、あなたは何を思った? 気持ち悪いと思ったでしょ。そ れが理由の全てよ﹂ 638 理由の全てか。 ﹁正直、気分は悪かったがな。多く作って各家庭に拡散するのが問 題なのか?﹂ ﹁違うわ。別に、お家で見られたって、それはその子の誇りが傷つ くだけだもの﹂ 違うらしい。 リリーさんも、内部で複製行為は行われてるって言ってたしな。 ﹁さっき見せたのは、あなたが題材だったからよ。ピニャが自責の 念にかられたから。特別も特別なの﹂ ピニャは自責の念に駆られているのか。 ミルクと茶を上手いこと混ぜたお茶をグビグビ飲みながら、菓子 を食ってるけど。 どうも、自責の念に駆られてくれているようには、見えないのだ が⋮⋮。 ﹁私達は、外部にこれが漏れるのが物凄く嫌うわ。白樺寮の誇りを 傷つけるから。だから、外部の写本屋に依頼することはない。写本 をするということは、誰よりもじっくりとその本を読むということ だし、人の口に戸は立てられないでしょ?﹂ ああ、それか。 リリーさんもそんなこと言ってたな。 やっぱり写本屋に出すのは大問題らしい。 写本屋に出すと思っているのか。 639 その際に写本屋に読まれるのが問題。と。 どうやら、問題の焦点はそこであるらしい。 ﹁俺は、写本屋に出すつもりはない。手書きではない新しい技術を 使う﹂ ﹁⋮⋮写本じゃなかったら、どうやって写すのよ?﹂ とうしゃばん ﹁特許は既に申請したから話すが、謄写版印刷という技術だ﹂ ﹁なにそれ?﹂ ﹁まず、インクの染みない紙を作る。その紙をヤスリの上に置いて、 鉄の筆で紙を削って文字の形に穴を開けていく。文字が全て形にな ったら、上からインクを塗る。すると、紙に出来た穴のところだけ、 インクが通る計算になるな。インクが通ったところだけ、紙にイン クが乗るわけだ。その紙を百回使えるとしたら、鉄筆で一度文章を 書けば、百回複製できるわけだから、効率は百倍だろ。白樺寮の中 で製造できないわけでもないはずだ﹂ ﹁ふーん⋮⋮本当にできるの? 穴にインクが通らなくて、読めな いくらい掠れた文字になったら意味が無いのよ﹂ ﹁そこは現状では判らんが、おいおい詰めていく﹂ ﹁なんだ、まだできていないの?﹂ はい。恥ずかしながら。 なんにもできていない。 ﹁道具を作るにしても、交渉の成立を前提に開発を進めることはで きない。俺は、もう一つプランを持っているからな。ピニャが嫌が ったら、この件はキッパリ諦めてそちらを進める﹂ ﹁別の手があるの? どんな?﹂ 640 ﹁詳しくは話せないが、他に需要の高い本がある。そちらを売る場 合は、まったく別の発明を使うから、先に謄写版を完成させてから 両方にオファーというわけにはいかないわけだ。謄写版を使うなら 使うで、先に約束を取り付ける必要があった﹂ ﹁なんでこっちに先にきたのよ? 儲かりそうだから?﹂ ﹁単に、そっちは開発費用が謄写版の倍はかかりそうなんだよ。で きればこちらから始めたい﹂ 最近は、有限責任で法人に金を貸してくれる銀行があれば、どん なにいいかと思う。 この国じゃそんなもんは存在しない。 魔女家が絡んだ悪徳金利貸しのような業者しかおらず、言うまで もなくそんなところから金を引っ張ってきたら、後の禍根にもなる し、家にも迷惑がかかる。 ﹁ふうん、いろいろ考えてるのね﹂ ﹁まあな﹂ ﹁複製作業は、そんな単純なら、私がやるわ。どうせ、ピニャの原 稿は清書しなきゃだし﹂ やっぱり、一度清書するんだったのか。 さっき読んだピニャの原稿は、所々二重線で消してあったり、行 間がばらばらだったりして、あまり見た目の良いものではなかった。 ﹁わかった。あとは製本だ。写本作業はいらないが、製本はする必 要がある﹂ 641 鉄筆で一つ用紙を作れば、そこから百倍に複製できる。 それは良いのだが、製本の労力まで百分の一になるわけではない。 本を百冊も製本するというのは、これは大変な労力になる。 コミミが学科の余暇にそれをこなすというのは、実際問題として 不可能だろう。 ﹁製本は、そちらでやっても構わないわ﹂ ﹁いいのか?﹂ 意外だった。 あんなに拘ってたのに。 ﹁写本は、文字を読める必要があるでしょ。製本は、文盲でもでき るもの﹂ これ以上なく得心が行く話だった。 ﹁じゃあ、文字が読めない人間だけ集めてやればいいんだな﹂ ﹁そうよ﹂ ﹁だが、普段はどうしてるんだ? 製本屋に出すしかないだろ﹂ まさか江戸時代の文庫本みたいな形で、紐で括るだけで流通して るのか? ﹁だから、製本屋には出さないわ。製本の道具は白樺寮の中にひと 通り揃ってるの﹂ おいおい、マジかよ。 自作か。 ﹁ピニャの本は私が綴じてるけど、製本って意外と簡単なのよ。手 642 間はかかるけどね﹂ ﹁すげえな、なんか﹂ ﹁あなた、製本の知識はないようだから、ちゃんと職人に話を聞い ておきなさいよ。一ページ分の紙をたくさん渡されて、本に出来な いじゃ困るから﹂ ﹁? どういうことだ?﹂ ﹁あのね、製本ていうのは、折り丁っていって、おっきな紙を折り たたんでから小口を切って冊子みたいにして、それを重ねて綴じる のよ。つまり、元の紙は一ページの八倍の尺になるの。だから、写 本するときは、予め大きな紙の両面に両面八ページ、十六ページ分 を写すのよ。折りたたむ途中で上下が逆になったりするから、そこ を織り込み済みで考えないと、ページが一枚だけ上下が逆になっち ゃったりするの﹂ ああ、なんか、聞いたことがある。 そういう面倒なことがあるんだよな、確か。 ﹁まあ、よくわからないけど、装置の都合とかホー紙の元の紙のサ イズとかの都合もあるでしょう。あまり大きな紙には印刷できない とか、ホー紙のサイズが足りなくて、四枚折りにしかできないとか ね。私のほうの手間は変わらないからいいけど、製本職人のほうと しっかり打ち合わせして、手順を把握しておかないと、困ったこと になるわよ﹂ ﹁解った。その辺は詰めておこう﹂ ﹁そうして﹂ ﹁それより先に、出版について話そう。本は出させてくれるってこ とでいいんだよな﹂ 俺はピニャのほうを見て、言った。 643 ﹁ピニャ﹂ コミミも声をかける。 ﹁⋮⋮よくわかんないけど、いいよ﹂ よくわかんねえのかよ。 まあいいか。 ﹁決まったな。じゃあ、印税の話をするか﹂ ﹁⋮⋮印税?﹂ ﹁本を売った時の金額に対する、ピニャの取り分のことだ﹂ ﹁⋮⋮お金くれるの?﹂ ﹁ああ。コミミのほうにもな﹂ ﹁私も?﹂ ﹁ガリ版とインク代は、俺のほうからのレンタルにする。だから、 使い放題だ。それとは別に、コミミには作業賃が必要だろう﹂ ﹁別に私はいいけど。もともとがタダでやってることだし﹂ ﹁俺のほうも金をもらわないのであれば、それでもいいけどな。俺 は金儲けのためにやるし、実際に売って金にもするつもりだ。だか ら、二人にもタダ働きはさせられない。二人が余程の金持ちの子で、 幾ら金に不自由してなくても、けじめとして受け取って欲しい﹂ ﹁⋮⋮わか、た﹂ ﹁本来なら、定価から一割とかいうのが手っ取り早いんだけどな。 今回は殆ど試作品みたいなもんだから、本そのものの値段が大分高 くなる。だから、売上から製造費を除いた純利益から割合で出した い。コミミの作業賃は製造費に含まれる﹂ 644 ﹁ふうん、何が違うのかよく解らないけど﹂ コミミのほうもピンときていないようだ。 元よりそういう観念がないからだろうか。 ﹁本を売るってことは、本質的には本の内容を売るってことだろ? 物体としての本は、言ってみりゃただのガワで、容器にすぎない わけだ。だから内容を作っているピニャは、言ってみれば特別な存 在ってわけだ。俺と対等に、割合で利益を分配しなきゃならない﹂ ﹁なるほど、わかったわ﹂ ﹁⋮⋮わかんないけど﹂ ピニャは、さっきから﹃なんの話をしているんだこの人達は﹄と いう顔をしている。 ﹁ピニャは、普通に書いていてくれればいいのよ。面倒なことは私 がやるから﹂ ﹁⋮⋮わかった﹂ それもどうかと思うが。 まあいいか。 ﹁じゃあ、純利益の一割五分でいいか?﹂ 日本の印刷業界では十パーセント前後が相場だったと思うが、そ れは製本代を含めた定価からの割合だ。 この場合は製本代が除かれるから、もう少し増やす必要があるだ ろう。 ﹁よくわからないけど、それでいいわよ﹂ 645 欲がないな。 ﹁コミミの作業賃は、現状ちょっと解らないからな。あとで決める﹂ ﹁どうでもいいわよ、そこは﹂ どうでもいいらしい。 ﹁⋮⋮最後に聞いておきたいんだが、この本が営利行為になること について、問題は出ないのか﹂ ﹁いまさらそれ聴く?﹂ ﹁まあな。魔女の巣窟だろう。一応は気にする﹂ やくざ 魔女家という人種は、金の匂いがするたびに、顔を突っ込んでき て甘い汁を啜ろうとする連中だ。 ましてや、白樺寮は魔女の根拠地といってもおかしくない場所な のだから、面倒にならないと思うほうがおかしい。 ﹁多少はね、あるかもしれないけど。本の貸し借りには、もうみん なウンザリしているから﹂ コミミはなんだか疲れた顔をして言った。 ﹁私もね、順番待ちの人たちに毎日のようにせっつかれたり、本を 返さない馬鹿の所へ行って借金取りみたいなことをするのは、ホン トに、ホントにうんざりなのよ。だからね、渡りに船というほどで はないけれど、たくさん本を複製する方法があるのなら、正直言っ て、こちらから頼みたいくらいなのよ﹂ どうやら、ピニャのマネージャーというのは、大変な心痛を伴う 仕事のようだ。 強制でもないのにボランティアでそんなことしてんのか⋮⋮。 俺だったら、ルームメイトのよしみがあるにしても、投げ出して しまいそうだ。 646 ﹁それに、あんただったら、文句もでないと思うわ。二十数年前の こととはいえ、負い目があるからね﹂ *** んっ? ﹁なんのことだ?﹂ ﹁なんのことって、親のことでしょ?﹂ ﹁親? 父上のことか?﹂ ﹁あっ、いや、知らないならいいのよ﹂ 藪蛇踏んじゃった、しまったなぁ、って顔にでてるぞ。 ﹁気になるじゃねーか﹂ ﹁あんたのお父上が秘密にしていることかも知れないじゃない。言 えないわ﹂ やっぱルークがらみかよ。 ﹁おおかた、退学に関係したことだろ。教養院の生徒に惚れられて、 クソ面倒なことになったとは聞いている﹂ ﹁言ってもいいものかしらね﹂ ああもう、面倒くせえな。 647 ﹁言えよ﹂ 俺が強くそう言うと、コミミは寒気でも感じたのかゾクゾクッと 体を震わせ、俺から目をそらした。 ﹁はぁ⋮⋮やっぱり俺様だわ﹂ ﹁受けじゃなくて攻めでも行けるね⋮⋮﹂ ﹁なんの話だ﹂ なにやら気分の悪い話をしている気がする。 ﹁ホントにいっていいものかしら﹂ ﹁さっさと言え﹂ 俺がそう言うと、コミミはなんだか、寒気がするようなニタァと した表情を浮かべた。 ﹁ホントにホントにいっていいものかしら⋮⋮﹂ 何かを期待されているような気がする⋮⋮。 ﹁⋮⋮もう言わないから﹂ 断った。 ﹁あら、そっけないのね﹂ ﹁⋮⋮﹂ 帰るか。 648 第039話 昔の出来事 ﹁まあ、私は関係ないから、話しちゃうけどね。あんたも分別があ るなら、闇雲に他人に話したりはしないでよ﹂ ﹁しねーよ﹂ ﹁あんたの父上、ルーク様は、あんたと同じような境遇にあったの よ﹂ はて? 境遇もなにも、ルークはホウ家のまっとうな次男坊として、由緒 正しく入学してきたはずだが。 俺のように元は農家ということもなく、後に農家になったわけだ から、退学するまでは騎士の経歴として一点の曇りもなかったはず だ。 ﹁⋮⋮境遇っていうのは、題材にされてるってことね﹂ ⋮⋮ああ、そういうことか。 本当にしょーもねーな。 白樺寮ってのは滅びたほうがいいんじゃねえのか。 シャムを置いとくのも心配になってきたぞ。 ﹁ふーん、父上もハンサムだからな。そういうこともあるだろう﹂ ﹁それでね、あんまり、話したくはないんだけど、事前知識として 知っておいておかないと理解できないと思うから話すけどね﹂ 649 ﹁なんだよ、まどろっこしい﹂ ﹁私たちのあの本で、一番気分が悪いのはどういうものだと思う?﹂ なんだ、質問か? なんで質問をしてくるのだろう。 ﹁ちょっと俺の想像を絶する趣味だからな、判らんけど、現実の女 と本の中で付き合うことか? 俺だったら、俺と⋮⋮その、殿下が 付き合うとか﹂ ﹁言っておくけど、王族の女性は登場させない決まりだからね。私 達にも、そのくらいの分別はあるから﹂ コミミは心外そうに言った。 俺の読んだアレでも、なぜかキャロルは登場しなかった。 さすがに、そういう決まり事はあるらしい。 いくらなんでもキャロルが乱交するような小説が出回っていたら、 これは大問題だろう。 ﹁⋮⋮まあ、それはハズレだけど、半分当たりね。べつに、本とい っても、実体験の男女恋愛を描いたものもあるのよ。男同士のアレ ばかりじゃないし﹂ ﹁だったら、そういうのを書け﹂ 断固として言いたかった。 ﹁人気が出ないのよ。よっぽど上手くかかないと﹂ こいつらどんだけ業が深いんだよ。 650 ﹁⋮⋮まあいいけどよ。それで、答えはなんなんだ﹂ ﹁一番気分が悪くなるのはね、題材になっている男性と、作者自身 が交際する妄想を書くことなのよ﹂ あー。 まあ、ちょっとは理解できるかな。 ﹁さほど人気のない男子が題材ならいいんだけどね。広く題材にな るのは、大抵がその時代で一番人気がある男子だから﹂ ﹁ちょっとまてや﹂ ﹁ん?﹂ ﹁じゃあ、なんで俺が題材になってんだよ﹂ ﹁だって、あなたってモテモテでしょ﹂ ﹁俺はぜんぜんモテてないし、殿下とイトコを除けば、教養院に知 り合いなんていないんだが﹂ 俺はさりげなくリリーさんの名を抜かした。 ﹁あら、もう一人の殿下がいるじゃない。カーリャ殿下が﹂ あっ。 素で忘れてた。 ﹁カーリャ殿下とは一度しか会ってないし、馬鹿げた噂には迷惑し とるんだ﹂ ﹁まあ、そんな気はしていたけれどね。彼女の自慢話を聞かされる たび、あなたのファンは苛立ってるのよ。キャロル殿下ほどのお人 であれば、認めたくもなるというものだけど﹂ 651 ﹁ふぅん﹂ どうでもええわ。 ﹁まあ、それだって、カーリャ殿下は美少女だし、王族だし、まだ 解らないでもないわ。でも、成績も容姿も中の下なんて子が、あな たと付き合ってラブラブになる妄想を書き散らして、友達に見せて 回っていたら、さすがに不快だわ﹂ ﹁じゃあ読まなきゃいいだろうに﹂ ﹁そうなんだけど、残念なことに、その人は中々の書き手だったの よ。だから、たくさんの人が読んでしまったのね﹂ ﹁なんの話だ﹂ ﹁ルーク様に告白した女子生徒の話よ。彼女が書いた本は教養の部 屋に所蔵されているから、今でも読むことができるわ。実際、自分 がヒロインの恋愛小説を書く以前の作品は、とっても面白かったわ よ。ちなみに、ルーク様とガッラ様が絡む話ばかり、十冊くらい書 いてるわね﹂ あのさぁ⋮⋮。 ルークとガッラとかさぁ⋮⋮。 ﹁それって、お前は十冊全部読んだのか﹂ ﹁読んだけど? ピニャも読んだわよね﹂ 当然のように言うので、俺はそら恐ろしくなった。 ﹁⋮⋮よんだよんだ。酔っ払って脱衣斗棋をしてそのまま行為にも 652 つれ込むところとか、すごく良かった﹂ ﹁ああ、あそこね。脱衣斗棋って、たしかあの人が考えついたのよ ね﹂ ﹁おい、やめろ﹂ 脱衣斗棋ってなんだよ。 見たことも聞いたこともねぇ。 ﹁それで、その子はルーク様のことをホントに好きになっちゃって、 告白したのね。それで振られて、それから自分とルーク様が主役の 恋愛小説を書きはじめたんだけど、それから、すごく疎まれだした の﹂ ﹁イジメかよ。陰湿だな﹂ ﹁イジメじゃないわよ。だって、その子の家は大分大きい魔女の家 だし﹂ ﹁じゃ、村八分か﹂ ﹁まあ、そんなところかしらね﹂ かわいそうに。 だが、自業自得といえば自業自得か。 学院では﹃みんな仲良くしよう。しなければならない﹄みたいな 決まりはないし、嫌いな奴は無視して近寄らないことになっている。 みんなに嫌われてしまったら、自然と村八分になってしまう。 ﹁それで、その子は寮に居づらくなって、四六時中ルーク様をつけ まわしはじめたの﹂ 653 ⋮⋮おい。 それっておかしくねぇ? 勝手にホモエロ小説を散々書き散らした後は、今度はストーカー かよ。 ルークも大変だったんだな。 さすがに同情するよ。 腐れ女子どもにはネタにされるわ、ストーカーされるわで。 ﹁そのころは、今よりずっと奔放でね。ファンはみんな、好きな男 子を追っかけ回して、授業をサボって稽古とかを見に行ったりして いたらしいわ。恋文の自粛もまるでなかったし。そうすると、男女 交際で家同士のトラブルも頻発するようになるでしょ﹂ ﹁まあな﹂ ルークは確固たる決意の下に相手にしてなかったようだが。 今より奔放ということは、今は自主規制みたいのが厳しいのか。 そういえば、ルークが言っていたような、ゾロゾロと男を追っか けまわすファンみたいのは、実際には見かけたことはない。 ルークも、追手を振りきって市井の女と遊んだり、遊郭にいくの は大変だったろうな。 ﹁それでね、ある日、ルーク様の堪忍袋の緒が切れて、まとわりつ いてくるなって怒鳴りつけたらしいのね。そしたら、彼女は寮にも ルーク様の傍にも居場所がなくなって、自殺してしまったの﹂ 自殺。 654 えぇ⋮⋮。 自殺したのか。 ﹁ふーん、まあ、しょうがないんじゃないか。可哀想とは思うけど﹂ ルークのせいではないし、あながち白樺寮のせいとはいえない。 自殺まで追い詰められた人を、自業自得で自分を追い詰めたなど とはいいたくはないが。 勝手に追い詰められて、勝手に自殺してしまったわけで、誰に責 任があるということでもない。 残念ながら、人間にはテレパシー能力は備わっていないわけで、 人が悩みを秘めていたとしても、他人がそれを察知するのは難しい。 ﹁白樺寮には、失恋が原因で自殺する娘は、多くはないけどそれな りにいるし、自殺したことは問題じゃないのよ。彼女は遺書を残さ なかったから、実家がルーク様のせいで自殺したと思ったらしくて、 彼女のお兄さんに決闘を申し込ませたの﹂ ﹁はあ?﹂ なんだよそれ。迷惑ってレベルじゃねーぞ。 ﹁八つ当たりにも程があんだろ、それって。そんな決闘受理されん のかよ﹂ ﹁詳しくは知らないけど、受理されたのよ。割りと大きな魔女の家 だから﹂ うっわー、マジでこの国終わってる。 655 どうなってんだよ、魔女家ってやつは。 ﹁それで、ルーク様は決闘の場でお兄さんを斬ったんだけど、その 後退学してしまったのね﹂ ﹁あー⋮⋮﹂ なるほど。 なんというか、コミミのほうは、自責の念を感じて退学した、と いうように思い込んでいる気がするが。 実際は、切った張ったが不向きだって実感したんだろう。 ルークは見るからに牧場仕事が天職って感じで、鷲の調教とかイ キイキとしてやってたし。 ﹁さすがに、本が原因の騒動で、主役の人が学院を辞めるなんてい うのは、前代未聞だったからね。しかもルーク様は、勉学のほうは あんまりだけど、武術のほうは当代一の腕をガッラ様と争ったくら いの腕前で、前途も有望だった。白樺寮でも凄く揉めて、今はいろ いろと自粛するようになってるのよ﹂ ﹁じゃあ、父上が辞めた責任の一端を負い目に感じてるってわけか﹂ ﹁まあ、そうね﹂ ﹁ふーん⋮⋮それは結構なこったが、それなら決闘を挑まれるよう な事態になる前に、自分たちが村八分にしたから自殺したんであっ て、ルークのせいじゃありませんって、王城に訴えでればよかった だろ﹂ 結局のところ、決闘が受理されたのもルークが手酷く振ったとい うか、言い方を変えればルークの暴言が主原因で自殺したことにな 656 ってしまったせいなのだから、白樺寮の連中がきちんと真実を暴露 すれば、決闘申請は受理されなかったはずだ。 ﹁つまるところ、それを負い目に感じてんじゃねーの。結局、面倒 だったのか沽券に関わるからなのかしらねーけど、誰も村八分のこ とは言わなかったんだろ﹂ ﹁熱くなられても、私は当事者じゃないんだから分かんないわ。た だ、そういう話を聞いたってだけだし﹂ 熱くなってたか。 確かにな。 もう何十年も前の話だ。今の寮生に言っても仕方がない。 ﹁まあ⋮⋮どうでもいいけどな。父上はそんなつまらんことは気に してないだろうし、それで俺に負い目を感じてくれるというのなら、 それは歓迎するが﹂ ﹁そう。それならいいけどね﹂ ﹁じゃあ、話はこんなところか。悪かったな、長く引き止めちまっ て﹂ ﹁構わないわ。段取りがついたら連絡してちょうだい﹂ ﹁連絡っつったって、どうやって連絡すれば﹂ ﹁そんなの、寮の郵便受けに手紙をいれればいいじゃない﹂ え。 ﹁そういう仕組みになってんのか﹂ ﹁なに、知らなかったの? 362号室ってオモテに書いて郵便受 けに入れとけば、私とピニャの部屋に届くから﹂ 657 そんな仕組みがあったのかよ。 てっきり白樺寮というのは男が近寄ったら殺される地域だと思っ ていた。 だから、建物に近づいたこともない。 あとでシャムの部屋の番号を聞いておこう。 ﹁あ、でも当然だけど、あなた自分で投函したりはしないで、誰か 他の人にやらせなさいよ。あなた有名人なんだから﹂ はいはい。 ﹁ああ、そうするよ。ピニャも、これからよろしくな﹂ ﹁⋮⋮よく、わからないけど。よろしく﹂ *** 喫茶店を出た後、王都別邸にお呼ばれしていたので、別邸のほう へ向かった。 のこのこと徒歩で門をくぐると、別宅を取り仕切っている執事の ような人が﹁もうルーク様は到着しております﹂と伝えて、制服の 上着を預かってくれた。 そのまま案内された応接間に、ルークはいた。 ルークは、なんだか難しい顔をして書類を読んでいる。 肉体労働の日常から遠ざかってしまったためか、こころなしか体 658 に脂肪がついてきたような気がする。 貫禄が出てきたな。 ﹁父上、戻りました﹂ 俺はぺこりと頭を下げた。 ﹁おかえり。会うのは久しぶりに感じるな﹂ ﹁かれこれ一ヶ月くらい会ってませんでしたからね。僕もちょっと 忙しくて﹂ ﹁⋮⋮そのことで話がある﹂ バレたなこりゃ。 俺は直感的にそう思った。 ﹁座りなさい﹂ ﹁はい﹂ 俺は素直に、テーブルの席に座った。 ﹁なにやら小遣い稼ぎをしているみたいじゃないか﹂ 微妙に口調が刺々しい。 やっぱりその話か。 ﹁小遣い稼ぎではないですけどね。まあ、しています﹂ ﹁なんで一言相談しないんだ﹂ ﹁いやー、まー、父上を煩わせる必要もないかと思いまして﹂ 実家とは関係なしでやりたかったからだ。 659 実家が関係すれば、俺の仕事は、とたんに貴族の坊ちゃまのお遊 びになってしまう。 それでは誰も相手にしてくれないし、自分の事業ではなくなる。 カフを始めとして、俺に雇われている者も、俺に雇われたとは感 じないだろう。 ホウ家に雇われているという意識になる。 そうなった瞬間、俺は非常に身動きがしづらくなってしまうのだ。 ﹁小遣いが足らないのか?﹂ ﹁いえ、十分すぎるくらいです。日記以外には使ってませんしね﹂ ﹁じゃあ、なんで小遣い稼ぎなんかしてるんだ﹂ ﹁小遣い稼ぎじゃありませんよ。今はまだ小さいですが、れっきと した事業です。社会勉強の一貫ですよ﹂ ﹁⋮⋮俺も、社会勉強が悪いとはいわん。でもな、学生の本分は﹂ ﹁父上、勘弁してください。学生の本分は全うしてますから﹂ もうこれ以上ないほどに全うしてる。 ﹁ユーリは五年目だろ。一番忙しい時期じゃないか﹂ ﹁もう250単位まで取りました。あとは実技の42単位と、座学 は8単位あるだけです﹂ ﹁⋮⋮おい、ほんとかよ﹂ ルークは驚愕の表情になった。 例を上げれば、同寮生は取得単位の平均は、130単位くらいだ。 優秀な奴で150単位。ミャロレベルの秀才でやっと200単位 660 くらいになる。 250単位というのは、はっきりいって頭抜けている。 ﹁ホントですよ。午後とか週二日、3コマしか講義がないんですか ら。このままじゃ、暇な上級生みたいに、午後いっぱい遊び歩く生 活になっちゃいますよ﹂ 午後に講義がなくなった連中は、一般的に遊び狂っている。 講義がなくなっていなくても、留年大学生みたいに、欲に負けて 遊び狂っている者も珍しくはない。 ルークも例に漏れず、大なり小なり遊んではいたはずだ ﹁う⋮⋮それはそうだが﹂ ﹁なにか問題が起きたんですか?﹂ ﹁いや⋮⋮問題というほどのもんじゃないんだけどな。いや、いい か﹂ ﹁いいんですか?﹂ ﹁いい。ちゃんと学院をやってるなら、いい﹂ おざなりに許可が出た。 もうめんどくせーや、勝手にやっとけってな感じだ。 ﹁全然良くありませんよ﹂ ﹁えっ、よくないのか﹂ ルークのほうがびっくりした顔してる。 全然良くない。 661 ﹁誰かから通報だとか密告があったんじゃないんですか。僕が小遣 い稼ぎをしていて評判が悪いとかなんとか﹂ そうとしか考えられない。 俺がそう言うと、ルークは少し驚いた目で俺を見た。 ﹁なんでわかった﹂ ﹁だって、父上は僕を説教しようと待ち構えていたわけですよね。 それだったら、動かぬ証拠ということで、僕が言い逃れできない よう、机の上になにかしら証拠のようなものを出してくるのが普通 でしょう。 ホウ家の人が突き止めたのであれば、そういった証拠の一つや二 つは、調査過程で出てくるはずです。 だけど、それがない。 ということは、ネタを突き止めたのはホウ家ではないということ です。 ホウ家でなければ、他の家です。 ここは王都なので、十中八九どころか、十中十魔女家でしょう。 僕も馬鹿ではないので、さすがにそれくらいは察しますよ﹂ ﹁⋮⋮ユーリにはかなわんなぁ﹂ ルークは頭をポリポリと掻いた。 なんか疲れたおっさん臭いぞ⋮⋮老けて見える⋮⋮。 ﹁でも、僕は裏方で動いてるので、副業をしているのを知っている のは、ごく一部なんですけどね。ホウ家の名前は出さないようにし ているので﹂ 662 そのへんはカフにも重々言ってある。 事業が失敗して、俺が無能とそしられるのは自業自得だから構わ ないが、ホウ家の名に傷がつくようでは困る。 だから、事業主の俺がホウ家の関係者であることは伏せさせてい るのだ。 ホー紙という商品名は、ホウ家を連想させるが、そもそも南部地 方のことをホウ地方とも言うので、言わば南部紙という意味になる。 ﹁こないだ王城の催しでな。魔女家筋からそれとなく言われたんだ﹂ ﹁あー﹂ そんなこったろうと思ったよ。 ホー紙も結構売ってるからな。調べられたか。 ﹁だが、気にするな。いつものことだからな。悪いことをやってい るのでなければ、構わない﹂ ﹁本当ですか? 家には迷惑をかけたくないんですけど﹂ ﹁魔女家が妙なことをいってくるのは、いつものことだ。いちいち 気にしていたら何もできなくなる﹂ いつもって。 気になる。 ﹁例えば、どんなことを言ってくるんですか﹂ ﹁俺はお目見えしたことはないが、ユーリはキャロル殿下と親しい んだろ。物凄く迂遠な表現でな、あまり親しくするのはどうかと思 うとか、俺に言ってくるんだよ⋮⋮﹂ ﹁うわぁ⋮⋮﹂ 663 きっつ。 将家が王家と接触するのが気に入らないんだろうが、ガキのつき あいまで文句つけてくるか、普通。 ﹁言っておくが、真面目に受け取るなよ。俺は、ユーリがキャロル 殿下と親しくすることは、良いことだと思っているからな﹂ ﹁解ってますよ。殿下とはよくつるんでますからね。お互い呼び捨 てですし﹂ ﹁呼び捨て?﹂ ルークはきょとんとした顔をした。 ﹁あいつ、普通に﹃おいこらユーリ、真面目にやれ﹄とか言って、 頭をひっぱたいてきたりしますからね﹂ ﹁⋮⋮それで、どう返すんだ﹂ ﹁てめー、いちいち頭叩くんじゃねーよ、ボケ。って言ってやりま すよ。さすがにハタき返したりはしませんけどね。一応は王族です し、女の子ですから﹂ ﹁⋮⋮ちょっとは気を使えよ。失礼のないようにな﹂ ルークはなんとも形容しがたい表情をした。 ﹁わかってますよ﹂ ﹁キャロル殿下は次の女王陛下になるお方なんだからな﹂ なんかそんな話もあったな。 ﹁それって決まってるんですか?﹂ ﹁なにがだ﹂ ﹁だって、カーリャ殿下もいるじゃないですか﹂ 664 この国には王位継承順位とかいうものはない。 基本的には、能力が横並びならば長女が優先されるのだろうが、 絶対的な順位として決まっているわけではない。 ﹁ああ、俺はよく知らないけど、カーリャ殿下は目がないみたいだ な。でも、結局は女王陛下が決めることだし、余計な詮索はしてい ない﹂ ﹁そうですね。女王陛下にはお会いしましたけど、やっぱりキャロ ル殿下を可愛く思っているようでしたしね﹂ 厳しくはあたっているが、愛を持って厳しくしている感じだった。 たぶん、カーリャにはああいう風には接していないのだろう。 ﹁ふーん、そうか﹂ ﹁まあ、カーリャ殿下が王様になったら僕も困りますからね﹂ ﹁なにが困るんだ﹂ ﹁何年か前に交際を迫られたんですよ。それから、付き合ってるだ の婚約者だのと触れ回ってるようで、大迷惑ですよ。父上も真に受 けないでくださいね﹂ あらかじめ、予防線を張っとかないとな。 ﹁⋮⋮なんだそりゃ。初めて聞いたぞ。それで、告白された時にな んてお答えしたんだ﹂ 案の定、ちょっと深刻そうに受け止めていた。 ﹁父上に言われたとおり、不誠実な付き合いはできないので、申し 訳ないがお気持ちだけいただいておく、みたいなことを言ったはず なんですけどね﹂ 665 ﹁じゃあ、婚約者だのなんだのは、向こうが勝手に触れ回ってるの か﹂ ﹁そう言ったじゃないですか。まあ、白樺寮のほうでも浮いてるみ たいなので、あまり本気にしている人はいないようですけど﹂ ﹁そうか⋮⋮。ならいいんだけどな。白樺寮のほうは気をつけろよ、 あそこは魔窟だ﹂ 僕もそう思います。 さっき、今しがた、そう思うようになりました。 ﹁ほんとにそう思いますよ。まさに今日聞いたんですけどね、父上 も大変だったそうで。ご苦労察しましたよ﹂ ﹁本当だよ。ユーリも気をつけろよ﹂ 今となっては懐かしい思い出なのか、過ぎ去ったことのように言 った。 ﹁気をつけるもなにも、もう題材にされてましたよ﹂ 俺がそう言うと、ルークは苦虫を噛み潰したような、凄く嫌そう な表情をした。 上等の酒と思って飲んでみたら、腐って酢になっていた、みたい な感じだ。 手遅れでした。 といっても、気づいていてもどうやって阻止をすればいいのか、 見当もつかないけれど。 ドッラみたいに野糞でもすればよかったのかな。 666 いや、野糞してるドッラも題材の一部だったんだった。 クソが。 ﹁アレのか﹂ ﹁たぶん、そのアレですね。今日読ませてもらいましたけど﹂ ﹁読んだのか?﹂ ﹁たまたま一章だけ読む機会があったんです。さすがに、気分のい いものではありませんでした﹂ ﹁俺は読んだことがない﹂ ﹁門外不出みたいですからね。僕が読めたのもたまたまです﹂ ﹁一体全体、どんな内容なんだ?﹂ おや、興味があるのかな? ﹁読まないほうがいいですよ。人によっちゃ、吐いたり眠れなくな ったりしそうです﹂ ﹁そうか⋮⋮だが、でもまあいいか﹂ なんだかちょっと残念そうだ。 怖いもの見たさで読んでみたい⋮⋮みたいな気配がする。 ルークの本が、未だに秘密の部屋に所蔵されていることは、言わ ないほうがいいな。 ﹁父上の代の自殺の話も聞きましたよ﹂ ﹁ああ、あれな﹂ ﹁決闘をする羽目になったとかなんとか﹂ ﹁⋮⋮まあ、な。ユーリも、告白をお断りするときは、言い方に気 をつけろよ。女の子がどう傷つくかってのは、理解の及ばんところ 667 がある﹂ 嫌なことを思い出させてしまったのだろうか。 ﹁はい。でも、聞いた話によると、父上が交際をお断りしたことは、 原因の一部にすぎなかったという話でしたけど﹂ ﹁ん⋮⋮? そうなのか?﹂ あら、やっぱりご存知ではなかった。 ﹁告白された方も本の執筆者だったとお聞きしました。白樺寮で禁 忌にあたる内容を執筆したがために、寮内で居場所がなくなって、 孤独になり、父上の傍につきまといはじめたとか﹂ ﹁そうなのか? 寮でいじめられていたのか、あいつ﹂ ﹁ありていに言えばそうみたいです﹂ ﹁そんな事情があったのか﹂ ﹁誰が悪いというわけではないのでしょうね﹂ ルークにとっては気休めにもならないのだろうが。 ﹁まあ、な。だが、可哀想なことをしたな。知っていれば⋮⋮いや、 俺も若かったから、無理か⋮⋮﹂ ルークは神妙な顔をしていた。 なんともかける言葉が見つからなかった。 ﹁墓参りでもいってやるか⋮⋮﹂ ルークはぽつりというと、執事を呼んだ。 668 そして、墓を調べさせる用向きを伝えた。 669 第040話 もう一人のイトコ ﹁ユーリ! おかえりなさい!﹂ スズヤは扉を開けるなり走ってきて、俺を抱きしめた。 ぎゅ∼∼∼っ ﹁お母さん、どうも、ご無沙汰しておりまして﹂ ﹁いいのよ、いいの。だって頑張ってるんだもんね﹂ ﹁ええ、はい、頑張ってます﹂ スズヤに抱きしめられると相変わらずいい匂いがした。 なんとも安らいだ気分になる。 それにしても今日はなんか変なテンションだな。 ﹁今日は泊まっていくのよね?﹂ ﹁もちろんです﹂ ﹁よかったぁ﹂ 嬉しそうにしてくれて何よりだ。 *** 俺も、かれこれこの別邸を使い始めて五年経つ。 別邸で働いている人たちの顔は殆ど覚えている。 670 その人達は、半分以上が譜代の者というか、代々ホウ家に努めて きた人たちだ。 五年くらいでは、あんまり顔ぶれは変わらない。 衛兵の人々は、これはまた別で、一生を衛兵で過ごすというのは キャリアにもなんにもならないので、領から派遣されてくる。 王都は、とにかく娯楽の質と領が田舎とは段違いなので、左遷と いうよりは休養のために回されるようだ。 ﹃集中を切らさないため﹄という建前で、通常より大分甘いローテ ーションが組まれており、自由になる時間が多く設定されているの で、遊びに出かける暇はたっぷりある。 そういうわけで、衛兵はコロコロと顔ぶれが変わるので事情が違 うが、別邸内部で働く人達の顔くらいは覚えているのだ。 やたらめたら多いわけではなく、せいぜいが十人くらいだからな。 ﹁お初にお目にかかります。ユーリ様﹂ だが、食堂で席についた俺に、ぺこりとお辞儀したのは、見知ら ぬ人物だった。 メイドの服を着ている。 ﹁こちらこそ、はじめまして﹂ というわけで、俺は極自然に新参の人かと思った。 俺より年齢が幾つか下のように見えたしな。 ﹁ユーリ、お前のイトコだ﹂ 671 ﹁うふふ﹂ はて、イトコといえば、シャムしかいなかったはずだが。 ゴウクの隠し子かなんかか。 ﹁ゴウク伯父さんに隠し子がいたんですか。こりゃ、生前にサツキ さんにバレなくてよかった﹂ やれやれ、間一髪ってところだったな。 ﹁馬鹿なことをいうな﹂ ルークに怒られた。 ﹁私の姪っ子ですよ﹂ ああ。 あーあ、そういうことか。 母方のイトコってことね。 俺は、スズヤの実家には行ったことがないのだが、そーとーな田 舎だと聞いている。 新しく出てきたイトコは、元の顔がいいからか、田舎から出てき たにしては泥臭さがない。 髪とかもキチンと綺麗に揃っていて、見た目は垢抜けている。 まあ、そのへんは、働くことになったから整えさせたのか。 ﹁女中として働いてるんですか﹂ ﹁先週よりお世話になっております﹂ 丁寧な言葉遣いだ。 672 出稼ぎに来てるのか? ルークが農家だったときはともかく、ルークが当主になった今は、 スズヤの実家の立場はどうなんだろう。 相変わらず農家なのだろうか。 よくわからないな。 ﹁一応、仮ということで働いてもらっている﹂ ふーん。 とはいえ、イトコなのに女中というのは、どうもしっくりこない んだが。 イトコって様付けで呼んでくるような関係じゃないだろ。 俺も、一般人のメイドさんに様付で呼ばれるのは流石に慣れたが、 親戚のイトコに格上扱いされるのは、どうも居心地が悪い感じにな る。 そのイトコが平民だったとしても。 ﹁お名前はなんというんですか﹂ ﹁ビュレ・エマーノンです﹂ エマーノン。 確かに、スズヤの旧姓であった。 ﹁ビュレさんですか﹂ ﹁どうか呼び捨てになさってください﹂ むむ⋮⋮。 ルークに助けを求める目線を送ってみた。 673 ﹁⋮⋮まあ、俺も考えているところだ﹂ ﹁そうですか﹂ ルークも、対応を保留しているらしい。 ビュレの立場は、簡単に考えても、相当に微妙だ。 平民ではあるが、ひょんなことから将家の当主の一人と近縁の親 戚となってしまった。 もちろん、ルークが最初から長男で、最初から跡継ぎで、スズヤ と大恋愛して無理を通して結婚したのであれば、エマーノン家も相 応に立てられただろう。 だが、ルークが将家の当主になったのは、結婚してからずっとあ とのことで、それが問題を複雑にしている。 ルークが結婚した当時は、ルークのほうは、それこそ将家の次男 坊として栄光のレールからロックンロールアウトしたロクデナシの ドラ息子という立場だったわけで、これではたとえ結婚したにして も、ホウ家としてはエマーノン家を立ててやる理由はない。 結婚から大分たった今となっては、家格を立ててやる理由は十分 にあるのだが、今頃になって相手方がそれを望むのか、という問題 もある。 なぜこの子を送ってよこしたのか、謎なところだ。 ルークも、近縁の親戚を端女のようにコキ使うのはどうかと思っ ているのだろう。 ビュレのほうはどう思っているか謎だが。 674 端女のようにコキつかっても問題はないはずなのだが、やはり気 分的な問題はある。 このへんはホウ家の良心的な家風によるものなのか。 場合によっちゃ、最初から﹁何が問題なの?﹂とばかりにコキ使 う家もありそうだが。 ﹁その格好を見るに、今日は給仕をしてくれるのですね﹂ ﹁はい﹂ 親戚なのだから、同じ席について食事をしてもなんらおかしくな いのだが。 スズヤとは姪と叔母の関係なんだし。 ﹁⋮⋮では、よろしくお願いします﹂ ﹁こちらこそ、精一杯努めさせていただきますので、よろしくお願 いします﹂ *** 食事が終わった後、書斎部屋に呼び出されたと思ったら、 ﹁ユーリ、さっきのあの子、どう思う?﹂ とルークに聞かれた。 ﹁いい子なんじゃないですか。立場的に特殊なのはお察ししますが﹂ 安楽椅子に座り、出されたお茶を飲みながら言う。 675 ﹁あの子は、スズヤの兄の二番目の子だ﹂ ﹁へー﹂ ﹁へー、じゃない。ユーリも親戚づきあいは将来やらなきゃならな いことだぞ﹂ ﹁それはわかりませんが。へーとしか言い様がありませんよ。お母 さんの実家はどういうつもりで送ってきたのかにもよるじゃないで すか﹂ 野心的な考えで送ってきたのであれば、それなりの対応をする必 要があるだろう。 ルークも牧場主だった頃は、野心も糞もあったもんじゃなかった が、当主になってしまったのだから、嫁の実家に多少の力添えをし てやるくらいはしてやってもバチは当たらない。 だが、力添えをするにしても、そもそもが騎士家は騎士号という 制度があるために、取り立てるのも難しい。 騎士号というのは、言わば軍隊の世界でいえば士官学校の卒業証 のようなものなので、下士官と士官が明確に区別されるのと同じよ うに、騎士号を持っていない者には、軍の中で立場を与えてやるこ とはできない。 軍の中で立場がなければ、領地をくれてやるのも難しい。 それとは別に、貴族として爵位をくれてやることは難しくない。 だが、将家のルールだと、軍への出仕しない場合は、対価として 多額の上納金が課される仕組みとなっている。 それを免除する特別扱いはできないので、領地経営の方法も知ら ない農家のエマーノン家を取り立てて、領地をくれてやっても、経 営破綻して破産に向かうのは明々白々なのだ。 676 ルークはこの措置を施されていたわけだが、領地は牧場近辺と自 分の家だけだったので上納金は少なく、牧場の利益で難なく払えて きた。 エマーノン家も、同じように家の周りだけが領地の小領主という ことにすることはできる。 だが、ルークの場合と違って、エマーノン家はただの農家なわけ で、現金収入がとても少ない。 確かに上納金は少なくて済むが、トータルで税支出が増えてしま うのは避けられないわけで、その結果、貴族にしてやったところで、 逆に貧乏になってしまう。ということになる。 ﹁⋮⋮そうなんだがなぁ﹂ ﹁ご実家には何かしてあげているんですか?﹂ ﹁ああ。ホウ家の金で家を建て替えさせて、今はそれなりに裕福な 暮らしをしている﹂ まあ、そうなるわな。 その辺りが落とし所だろう。 当主の嫁の実家が穴ぐら生活じゃ、当主はどんだけケチなんじゃ いと他から思われてしまうし。 ﹁なんか下女の仕事をしているようですが、あれはビュレさんのほ うから言ってきたんですか?﹂ ﹁そうだ﹂ ふーん。 ﹁更に結びつきを太くしたいと思っているのであれば、ああいう風 677 に働きたいとは言い出さないでしょう。純粋にお礼のつもりなので は﹂ ﹁そうかもしれん。そう思うか﹂ ﹁まあ、思います。玉の輿というか、上々の相手と結婚させること を望んでいるのであれば、下女の真似事は逆効果ですし、そのくら いは向こうも分かっているでしょう﹂ ホウ家と結びつきを強くしたいのであれば、高位の騎士家に嫁と して迎えてもらえるよう、働きかけをするのが普通だろう。 王城で女王陛下仕えをしていたとかならまだしも、ホウ家とはい え王都の別邸で小間使いをしていたというだけでは、貴族の花嫁と しては、キャリアにもなんにもならない。 ﹁俺もあれをさせるのはどうかと思っていた﹂ 思ってたんかい。 じゃあ辞めさせろよ。 しかし、本人がやりたいと申し出てきたものを、やるなというの もどうなんだろう。 ﹁遠い親戚ならいいんでしょうけどね。僕のイトコでは近すぎます﹂ ﹁そうなんだよ﹂ ﹁あの子、今いくつですか﹂ ﹁十三だ﹂ 十三かぁ。 場合によっちゃ、児童労働で騒がれるレベルだ。 この国じゃ、よほど苛烈な労働をさせているのでない限りは、騒 ぐ奴なんていないけど。 678 ﹁無難な手としては、有力な分家の男の人と結婚させてあげること でしょうけど﹂ ﹁若すぎる。それとなく聞いてみたが本人も望んでない﹂ 望んでないのか。 うーん。 ﹁難しいですね。どうしたらいいものやら﹂ ﹁俺も、正直わからん。向こうの家がなにを考えてるのか﹂ 逆に﹃いいとこのお武家さんと結婚させたいから、うまいことや っといてくれや﹄と預けられるほうがルークとしては良いのだろう。 そうしたら、ビュレには花嫁修業のようなことをさせ、のちに適 当な分家筋に娶らせればよい。 ﹁農民の方々を馬鹿にするわけではありませんが、そもそもの常識 が我々とは違うでしょう。嫁になるために下女の仕事が近道と考え て、ビュレさんに指示している可能性もあります。なにも下心はな くて、純粋に奉公にだしているつもり、というのが可能性としては 一番高いと思いますけど﹂ 俺は、自慢ではないが日本でもこっちでも様々な教育を受けてき たので、生まれてこの方学校教育を一切受けていないという人々の 常識というのは、察しかねるところがある。 ﹁そうなんだよな﹂ ルークも同じ考えであるようだった。 679 ﹁こういってはなんですが、重要事ではないと思いますし、さほど 真面目に考えなくてもいいのでは﹂ ルークの立場からしてみれば、些事にすぎないのは間違いない。 どう処理したところで、騒ぎ立てる連中など皆無だろう。 ﹁スズヤの実家だ。大切にしたい﹂ そらそうだよな。 ﹁ユーリ、さっき言ってた副業はどんくらい儲けてるんだ﹂ 話が急に変わった。 ﹁うーん、今のところ設備投資費を回収できてませんからね。全体 で言えば赤字ですが﹂ ﹁赤字か。設備投資っていうのはよくわからんが、どういう状態な んだ﹂ ﹁簡単にいえば、父上の牧場の厩舎とトリカゴの建設費をまだ回収 できてないってことです﹂ ﹁ああ、そういうことか。それはいいだろ﹂ さすがに、ルークもいわば事業主だっただけあって、解っている ようだ。 設備投資費というのは、すぐさま回収できるものではない。 車を買ったとして、乗り出して千キロで購入金額の元をとれとい っても、それは無理な話だろう。 十万キロ乗るまでに回収できればいいわけだ。 ﹁そうなんですけどね。儲けてるってことにはなりませんから﹂ ﹁それはそうだな。幾らくらい使ったんだ﹂ 680 うーん。 まあ、言っちゃっていいか。 ﹁四万ルガで、とりあえずは月に五千ルガくらい利益があります﹂ ﹁すごいなおい。じゃあ、すぐ黒字じゃないか﹂ ﹁ええ、すぐです。どんどん増産してるので、もっと増えるかもで すね﹂ これが企業だったら超優良企業だ。 一年もかからず初期投資費用が回収できるとか。 もしこの国に銀行があったら、﹁どうぞ幾らでもお金を借りてく ださい﹂と担当者が頭を下げて資金を差し出してくるだろう。 ﹁さすがだな﹂ ﹁実務が優秀な人材なので、助かっています﹂ ほとんどの実務はカフがやっているのだから、大助かりだ。 ﹁じゃあ、ビュレを預けて大丈夫か?﹂ 急に話が戻った。 は? ﹁いやいや、なにをわけのわからないことを言い出してるんですか﹂ ﹁ユーリの秘書か側近というのはどうだ﹂ ???? 理解できない。 なにいってんだよ。 681 はべ ﹁そんなのを侍らせてたら、どこの馬鹿息子かと思われますよ﹂ ﹁表向きそういうことにしておけばいいんだよ。とにかく侍女はま ずいんだ。侍女長のほうからも、扱いに困ると言われてるしな﹂ そらそうだろうけど。 ﹁僕のところでも同じでしょう﹂ ﹁ユーリのところで働くなら問題ない。屋敷でうちの近縁が下女の 仕事をしているのがまずいんだ﹂ うーん⋮⋮。 確かに、近い親戚を下女として小間使いにしているというのは、 外聞が悪いのかもしれない。 その点、俺に仕えさせている、というほうが、幾分いい。という ことになるのか? ﹁ユーリだって、信頼のできる身内がいたほうがいいんじゃないか﹂ なんか懐柔にかかってきた。 ﹁まあ、そうですけど﹂ 人手はあんまり足りてないし、働かせてもいいんだけどさ。 ﹁ですが、それだったら、ホウ家から出勤はさせませんよ﹂ ﹁え﹂ ﹁ホウ家から出勤してたら、うちの家業かと思われるじゃないです か。あれは僕個人でやってることですから﹂ それは嫌だった。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ お山の大将的な考えだが、これは大きな違いだ。 ルークが息子に事業をやらせている。というのと、ルークの息子 682 ・ ・ ・ ・ ・ が事業をやっている。というのとでは、これは意味合いが全然違っ てくる。 ルークだって、牧場を経営している時に、ゴウクが出来の悪い弟 に牧場をやらせている。と思われていたら、気分が悪かっただろう。 ﹁じゃあどうするんだ﹂ ﹁なんだったら、僕が一人暮らしの部屋を手配しますよ﹂ ﹁ユーリ、女の一人暮らしというのは﹂ 渋い顔をしている。 心配をしているようだ。 ﹁でも、ここにいても居心地が悪いでしょう。親戚とはいえ、田舎 から出てきたばかりの農民が、特別扱いされているのを快く思う方 々ばかりでしょうか﹂ ﹁そうなんだよ。当人は何も言わんが、肩身が狭いらしい﹂ やっぱりそうか。 ﹁とりあえず、実務を任せてる幹部の近くに住ませます。地元にあ る程度顔が利くようですから、さほどの危険はないかと。さすがに、 それができなかったら、ホウ家から出勤させますよ。十三の女の子 を放り出すようなことはしません﹂ ﹁そいつはどういう男なんだ﹂ もー、おとーちゃんも過保護だなー。 心配しなくてもカフは少女を強姦したりしないよ。 683 ﹁もう二十半ばを超えた男ですよ。幼女が趣味という男ではないで すし、そこは心配しなくても大丈夫です﹂ ﹁そうか。なら、頼む﹂ はー、やれやれ。 ﹁といっても、当人が嫌といったら、僕は連れて行きませんからね﹂ ﹁わかっとる﹂ 684 第041話 治安 ﹁というわけで、君の身柄は俺が預かることになったんだが、それ で構わないかな? 嫌なら⋮⋮﹂ ﹁よろしくお願いします﹂ 素直だった。 普通に了承された。 それでいいのか。 ﹁あっ⋮⋮そう。ならいいんだ﹂ 俺がリアルに同年代だったら、普通に不安に思うけどな。 ホントに大丈夫なのかよ。俺これからどうなっちゃうんだよ。 って、十三歳ころの俺だったら気が気ではなかっただろう。 ﹁知ってると思うが、俺は学生だから、身の回りの世話とかはいら ない。メイドの仕事は辞めてもらう﹂ ﹁そうですか﹂ ビュレは頷いた。 ﹁やけにあっさりだな。未練とかないのか﹂ ﹁あまり向いていないと言われていたので⋮⋮﹂ それって⋮⋮。 なんか苛められてたんじゃ。 685 ﹁参考までに聞くが、どういう風に向いていないと言われたんだ﹂ ﹁お皿を割ったりしてしまったので﹂ ふーん。 ﹁他は﹂ ﹁実を言うと、昨日も給仕の際に転んでしまって、料理をだめにし てしまいました﹂ しょんぼりしながら言った。 運動音痴なのか、ドジっ子なのか。 ﹁叩かれたりしたのか﹂ 叩いたとしたら問題である。 ﹁手は上げられませんでしたけど、怒られました﹂ やっぱり、しょんぼりしている。 ふーむ。 情報を総合すると、やっぱり落ち度があったのは確かなんだろう なぁ⋮⋮。 メイドには向いてない、というのも、あながち間違いではないの かも。 ﹁お役に立てるかどうかは解りませんが、精一杯頑張ろうと思いま す﹂ ぺこりと頭を下げた。 健気だ。 686 ﹁俺は﹂ うーん、なんと言ったらいいか。 どういう言葉を伝えたらいいのか。 ﹁お前には誠実さを求めている。だから、メイドとしての失敗など はどうでもいい。むしろ、その失敗を隠さずに話してくれたことの 方が嬉しい。有能なやつはいくらでもいるが、信頼できるやつを探 すのは難しいからな。お前は﹂ どうやって締めるかな。 ﹁隠さず、素直で、誠実でいてくれ。それは一つの才能だ﹂ ﹁⋮⋮解りました﹂ ビュレは頷いた。 ﹁よし。それじゃ、行こう﹂ *** 最近は、街を歩いていると、やたらと物乞いを見かけるようにな った。 話によるとこの物乞いは、ほとんどがキルヒナ王国からの流民ら しい。 シャン人の国家には国境はあっても文化的な違いはそうないから、 流民といっても大層な悲壮感があるわけではないが、職業と就職と 687 いう側面から見れば、悲壮そのものである。 労働力の供給過多で職がなくなっているのだ。 シヤルタ王国というのは、シャン人も馬鹿ではないので、昔から 滅びるとしたら最後に滅びる国。というふうに、いわば目星が付け られていた。 国が滅びたら隣の国ではなくシヤルタ王国まで逃げ延びる。とい うのは、いつの時代も少し頭のいい難民たちは考えていたことで、 シヤルタ王国はいつの時代も難民たちを受け入れてきた。 王都にいる連中はともかく、地方領地の経営者である五大将家の 長たちは、積極的に難民たちを開墾に回したりして、受け入れを進 めてきた。 だが、そもそもシヤルタ王国は、特別に国土が肥沃なわけではな い。 さすがに限界はあり、現在では幾らなんでも人が住める土地なの かというレベルの、北部の極寒地くらいしか、余裕のある土地はな い。 特に、ホウ家領地の南部領などは、すでに労働力集約型農法にも 限度があるだろうといった有り様になっている。 話を聞くと、国が滅びるたびに大なり小なりこういった状況には なってきたらしいが、さすがに隣国が滅びかけると難民も規模が違 うらしく、今度の人口流入は歴史的にもスゴイものであるらしい。 流入したはいいが、そこに職があるとは限らない。 688 今のところはまだ餓死者が出ない程度には抑えられているが、こ れからはどうなるのか、といったところだ。 *** カフの自宅へ向かうべく、トボトボと歩く。 ここは半住宅地ではあるが、多層住宅の一階には商店が開かれて いる場合が多い。 休日の昼間なので、人通りも多かった。 と、なんだか路地裏に入る小路の近くでキョロキョロしているお っさんが目についた。 スリかなんかだろうか。 ﹁お前、財布持ってるか﹂ ﹁あ、はい﹂ ﹁出すな。スられないように気をつけろって話だ﹂ ﹁ス⋮⋮?﹂ すごく困った顔をして、上目遣いに見てくる。 スリをしらんのか。 ﹁通りがかりに、他人のポケットから財布を抜いてく奴がいるんだ よ﹂ ﹁えっ﹂ ビュレは自分のポケットを抑えた。 689 それは上着の一番出し入れしやすい、脇腹のところについたポケ ットで、スリからしてみたら、一番狙いやすい場所だった。 そんなところに入れてるのかよ⋮⋮。 ﹁そうしとけ。田舎から出てきたばかりの奴は狙われやすいからな﹂ まあ、こうあからさまにポケットを押さえていれば、狙いもしな いだろう。 といっても、こういう風に怪しい奴を警戒するのはいいけど、大 抵は無駄に終わるんだよな。 前にばっかり注意を向けてると、後ろからぶつかられて財布をス られるとか。 そんなことを考えているうちに、小路を通り過ぎた。 ほーら、なんでもなかった。 と思った時には、足がでていた。 体重の乗った蹴りが、突っ込んできた男の下腹部を直撃していた。 蹴っておきながら、一瞬遅れて自分のした行動に気づく。 路地裏から突然ダッシュして襲いかかってきたおっさんを蹴り飛 ばしたのだ。 考えるより先に、体が動いていた。 懐にある短刀を鞘から抜いた。 学院で教わった、緩く短刀をつきだしながら片手を添えるファイ ティングポーズを取り、刹那のうちに下腹部に蹴りを加えたオッサ ンを観察する。 690 オッサンは腹を抑えてもんどりうっていた。 無力化していることを確認すると、優先順位を先送りした。 路地裏のほうを見た。 半分身を乗り出している風体の悪い男たちが数人、オッサンのア タックが失敗したのを見て、出足を止めていた。 ﹁人さらい!!!﹂ 大声を出すと、形勢が悪いと判断したのか、男たちは路地裏のほ うへ消えていく。 残ったのは捨て駒にされた馬鹿が一人だ。 歯を食いしばりながら股間を抑えていた。 サッカーボールを蹴るようにして、頭を蹴り飛ばす。 ﹁おあっぐ!!!﹂ ﹁いつまでも痛がってんじゃねえよ﹂ 俺はオッサンの胸に膝を乗せて全体重をかけておさえながら、汚 い髪の毛を鷲掴みにして頭を引っ張りあげ、首をむき出しにし、そ こに短刀を添えた。 ﹁動くと死ぬからな﹂ そう言うと、オッサンはピンと体を伸ばした。 近くで見ると、荒事を生業としているようには思えないオッサン だった。 691 ﹁ビュレ、周りを見張っとけ。変なやつが来たら知らせろ﹂ ﹁はははは、はい﹂ 俺が大声を出したせいか、人だかりが集まり始めている。 ﹁てめえ、俺が誰か知ってのことか﹂ ﹁し、しらない﹂ ﹁いいや、お前は俺を狙っていた﹂ 怒りと冷酷さがないまぜになったように、頭が熱にうかされてい た。 こいつは武器を持っていない。 そのことから、俺を殺すつもりではなかったことは解る。 だが、さらうつもりであったのは明らかだ。 こいつは、言わば一番槍の役柄だった。 俺を抱き上げて、路地裏まで連れ込んだら、さっき逃げた連中が よってたかって俺の口を押さえ、そのまま拉致する手はずだったの だろう。 攫われたらどうなっていた? どうして攫おうとしたんだ? 俺を狙うとしたら、魔女家くらいしか思いつかない。 俺はこいつを拘束しているし、人も集まっている。 そのうちには警吏が来てしょっぴいていくだろう。 だが、王都の警吏はもちろん魔女家とズブズブの汚職関係にある。 警吏の拷問でコイツが何かを喋っても、事が明るみにでることは 692 ありえないし、悪くすると、何日か拘禁されたらほっぽり出されて おしまい、ということもあり得る。 ﹁言っとくが、俺は大貴族の跡取り息子だからな。お前を殺した所 でなんの罪にもならん。言えば殺さない。言わなければ殺す。誰に 雇われた﹂ ﹁や、雇われてない﹂ ﹁死にたいらしいな﹂ 俺は刃を軽く首筋に押し当てた。 将家家伝の短刀だけあって、あまり押し当てると沈んでいきそう なほどに鋭い。 ﹁ち、違うんだ。身なりがいいから襲ったんだ﹂ ﹁嘘だな﹂ ﹁本当だ。おれはキルヒナからの流民で﹂ ⋮⋮。 食いつめ者が身代金目的かなにかで人さらいをしているというの は、十分考えられる。 確かに、俺は別邸で衣服を着せられたまま出てきたので、それな りに身なりのいい格好をしていた。 ﹁それらしい嘘がでてきたな﹂ 十分に考えられるとしても、それは可能性の一つにすぎない。 魔女家とは関わりがない、という可能性が、数パーセント増えた だけだ。 ﹁う、嘘じゃない﹂ 693 ﹁キルヒナからの流民だというなら、ジャコバの一人娘の名を言っ てみろ﹂ キルヒナ人でジャコバの名前を知らない者はいないはずだ。 ジャコバはジャコバ・トゥニ・シャルトルといって、現キルヒナ 女王である。 逆に、シヤルタ人でこいつの名を知っているやつは少ない。 その娘の名前までは、学院出のいわば知的エリートか、ハロルの ような貿易関係者でない限りは、中々知識として持っていないはず だ。 ﹁テルル様だ﹂ 俺は短刀を引いた。 俺を狙うにしても、魔女家の連中は流れ者を使わないだろう。 もっと質のいい手下がいくらでもいる。 ﹁信じてくれるのか﹂ ﹁一応は信じてやる﹂ ﹁はぁ﹂ 安心したようなため息をついている。 馬鹿め。 ﹁馬鹿野郎。貴族の俺をさらおうとしやがったんだ。これからお前 は縛り首だ﹂ ﹁っ⋮⋮!﹂ 694 今更気づいたのか、膝の下でじたばたと暴れだした。 魔女家の手先でないのであれば、警吏は普通に逮捕して、普通に 仕事をする。 貴族拉致未遂ということで、まず縛り首だろう。 にが ﹁逃すと思うのか?﹂ 俺が短刀を逆手に握って顔の前に突き立てるように置くと、収ま った。 ﹁アホめ。死ぬのが怖いなら、人さらいなんぞ始めるんじゃねえ﹂ ﹁⋮⋮家族が腹をすかせて﹂ なんだ、こいつ。 家族が腹を空かせてなんて台詞、始めて聞いたぞ。 家族が腹を空かせて仕方なく。 ったくよ。 おおかた、おめでたい野郎だから逃げてった連中にいいように使 われてたんだろう。 ﹁てめーはこれから死ぬんだ。死んだら家族を食わすも糞もねーだ ろうが。アホめ﹂ ﹁⋮⋮ぐっ、ううっ、仕方が﹂ あーあ。 大の男が泣き出しちゃったよ。 ﹁仕方がなかったんだ。仕事がなくて﹂ あーあ。 695 はあ。 ﹁仕事があったら悪事はしないのかよ﹂ ﹁するもんか﹂ ﹁キルヒナでは何をしてやがったんだ﹂ ﹁大工だ﹂ 大工か。 ちょうど欲しいと思ってたんだよな。 ﹁はぁ⋮⋮﹂ 俺はため息を一つついて、膝を男の体から離した。 ﹁川の南側を遡ったところにある水車小屋へ行け。日雇いなら働き 口をくれてやる﹂ ﹁みっ、見逃してくれるのか?﹂ ﹁働くチャンスをくれてやるってことだ。それでも悪事をするよう なら、殺したほうが世のためだからな。次に同じことをしていたら、 その場でぶっ殺してやる﹂ こいつにも同情の余地はあるだろう。 一度くらいは、家族に免じて更生の機会を与えてやってもいい。 ﹁消えろ﹂ おっさんはこちらを振り返りながら走って消えた。 これで水車小屋に顔を出していなかったら、どうしてやろうかな。 696 *** カフは外出しているのかと思ったら、意外なことに家に居た。 ﹁カフ、邪魔するぞ﹂ 俺は勝手知ったる他人の家で、勝手にドアを開けて入った。 ﹁ユーリか、どうした﹂ 相変わらずきったねぇソファに寝っ転がってやがる。 ﹁どうしたじゃないよ。なんで鍵がかかってないんだよ﹂ いやほんとに。 すんなり開いて驚いたんだが。 ﹁前からだろ﹂ ﹁さっき、誘拐犯に拉致されかけたんだが﹂ カフは、がばっとソファから飛び起きた。 ﹁無事か﹂ 無事じゃなかったら、今ここに居ないだろうに。 ﹁幸いなことに、五体満足だけどな。撃退できた﹂ ﹁魔女の糞共のしわざか﹂ ﹁いや、流民みたいだった﹂ ﹁ならいい﹂ カフは一安心とばかりに、再びソファに腰掛けた。 おい。 697 さまよ ﹁良くはねーよ。人さらいが彷徨ってるような場所で鍵をかけてね ーとか﹂ 不用心すぎるだろ。 ﹁鍵をかけたいのは山々だが、壊れてるんだよ﹂ 壊れてたのか。 道理でいつも鍵がかかっていないはずだ。 それならそれで、内側からカンヌキでも掛けとけよと思うが。 ﹁それより、そっちの娘はなんだ﹂ カフはビュレに目をつけた。 ﹁ああ、うちで雇えないかと思って。ビュレだ﹂ ﹁よろしくお願いします﹂ ビュレは丁寧におじぎをした。 ﹁おい﹂ なんか怖い顔をしとる。 ﹁はい﹂ ﹁おまえが引っ掛けた女を入れるのはやめろ。そういうことをする 奴は、大抵が身を持ち崩す﹂ 何を勘違いしてんだ、こいつは。 俺のことを、どんなマセガキだと思ってんだ。 698 ﹁ビュレは俺のイトコだよ﹂ ﹁はぁ?﹂ 素っ頓狂な声をあげよる。 ﹁イトコって、じゃあ騎士の娘っ子じゃないか。何を考えている﹂ ﹁母方のイトコなんだよ。母上の実家は森んなかの農家だ﹂ ﹁ああ⋮⋮そういうことか﹂ 特に家庭の事情を話したことはなかったので、一から説明する必 要があるかと思ったが、知っていたようだ。 ﹁ン⋮⋮、そういうことか。うちの仕事をやらせるのか﹂ ﹁とりあえずはカフの鞄持ちとでもと思ったんだが﹂ ﹁⋮⋮まあ、お前のいうことだ。嫌とは言わんが﹂ やっぱり渋っている。 ﹁精一杯頑張ります﹂ ビュレはぺこりと頭を下げた。 ﹁⋮⋮今はどこに住んでいるんだ﹂ ﹁別邸だけど、色々あって居づらくてな。ここの下の部屋はどうか と思ったが、人さらいが出るようじゃ、いくらなんでもまずい﹂ さすがに、人さらいが徘徊している土地に、十三歳の娘っ子を一 人暮らしさせるわけにはいかん。 ホウ家に戻すか。 ﹁じゃあ、居を変えるか﹂ 699 やけにあっさりと言った。 ﹁引っ越しするのか?﹂ ﹁ああ。大家にいくら言っても鍵屋が来ないんでな。俺も最近は儲 けてるって噂が立ってるから、おちおち寝ても居られんよ﹂ そりゃ、いつ強盗が入ってきてもおかしくないってことじゃねー か。 ﹁じゃあ、ついでだから倉庫にできるようなのを借りてもいいぞ。 うちの金でな﹂ ﹁助かる。俺も金はないんでな﹂ カフの給料についてはまだ決めてなかった。 カフはいわば無給だ。 もちろん事業はこいつが回転させているのだから、こいつの手に は直接的に金貨とかが回ってくるわけだが、感心なことに、それに は手を付けていないらしい。 ﹁カフの給料なんだが﹂ ﹁ああ﹂ 俺は勝手に奥に入っていき、椅子に座った。 ﹁父上に事業のことはバレたから、正式にホウ社として発足するこ とにする﹂ ﹁ホウ社か。ホウ商会とかじゃなくて﹂ カフはなんだか嬉しそうだった。 正式にそうなるのが嬉しいのだろう。 700 ﹁うちは、製作もやるから、商会だと変だ﹂ ﹁まあ、そうだな﹂ 一般的に商会というのは、誰かが作ったものを売りさばき、利益 を上げる者の集まりのことをいう。 基本的に、生産者は個人あるいは各職人ということになり、各職 人というのは、大抵がギルドで横のつながりを持っている。 俺はどことも繋がるつもりはない。 独立し、全ての業務を他に頼ることなくこなして行くのであれば、 社という名称がふさわしいだろう。 ﹁そこで、カフの給料の話になる﹂ ﹁いよいよ歩合給をくれんのか﹂ カフは歩合というところを強調して言った。 忘れていなかった。 ﹁カフ・オーネット。お前を社長に任命する﹂ ﹁俺が社長か﹂ まんざらでもない顔をしている。 ﹁務めさせてもらう﹂ なんだか恭しく拝命するように、俺に頭を下げた。 ﹁それで、お前は何をやるんだ﹂ ﹁俺は会長をやる。監督役だな。社長ってのは、つまりは実務の長 ってことだ﹂ ﹁なんだ、今までどおりじゃないか﹂ 701 ﹁いや、これからは、社の経営に責任がある幹部を役員にする場合 があるからな。役員は、役員会議のメンバーだ。役員会議の連中は 全員、原則的には歩合給というか、業績連動報酬にするつもりだ﹂ ﹁役員てのは、これから増やしていくのか?﹂ ﹁あまり増やす予定はないけどな。もう少し大きくなったら、製造 開発部みたいのを増やしたい。そこの責任者は、もちろん役員だ。 役員会議で成果や開発の方向性を発表してもらう﹂ ﹁ああ、そりゃいいな。悪くない﹂ カフは悪巧みでもするように、ニヤニヤと笑っていた。 納得してくれたようだ。 良かった良かった。 702 第042話 世界の秘密 その日、俺は水車小屋にいた。 あーでもないこーでもないとやっていると、 ﹁おいっ、ユーリ。出来たぞ!﹂ 珍しく興奮した様子で、カフがやってきた。 ガヤガヤと人々が集まってくる。 ﹁これだよ、これ。これが欲しかったんだ﹂ カフの手にはボソボソとした木の繊維が乗っかっている。 念に念を入れて煮たためか、だいぶ繊維がほぐれていた。 本当なら水酸化ナトリウムでやるべきなんだが、石灰水でやって も、時間をかけて煮れば、なかなか上手くできるものだ。 俺も頬ずりしたくなるほど嬉しかった。 これでボトルネックとなっていた原料問題から解放される。 カフが何十時間もかけて服屋だのなんだのを歩きまわる必要はな くなる。 ﹁早速、それでやってみてくれ。いろいろな木を試して、一番薄く 作れるやつを探してみてくれ﹂ ﹁ああ、お前が言ってた薄紙な。わかってる﹂ 703 カフは早速漉きに行った。 *** 俺の方は、屋外で珍妙な装置と向かい合っていた。 中古の酒用蒸留装置を買ってきて、原油を沸かしていたのだ。 いろいろ試しては見たが、ガリ版に適したガリガリする用紙やイ ンクを作るには、獣畜や植物の油では無理。ということがわかった のだった。 そこで調べてみたところ、この国にはいくつか天然の油井があり、 原油は入手可能だった。 というか、ホウ家領内にあったので、調達しようと思えばいつで も調達できた。 気付かなかっただけだった。 俺からしてみると、原油というのは産業にとり命の水であり、幾 らでも使いようがある。 だが、この国の認識では、原油を使えるものという認識ではなく、 半放置状態であるらしい。 つまるところ、精製していないので、使いようがないのである。 そのまま暖炉で燃やしてしまうと、煤や付着物がひどく、部屋の 中に異臭が立ち込める上に、煙突や暖炉にもべったりとタールのよ うなものがこびりついてしまう。 どうにも使えないので、やはりどのような地域であっても、原油 704 を積極的に利用するという土地はない。 だが、俺は原油は精製することで、いかようにも利用の方法があ ることを知っているので、今日も今日とて熱心に原油を煮ていた。 そろそろ冬が近づいてきたこともあって、蒸留日和といったら変 だが、川の水も冷たくなり、装置冷却部分の効きがよくなっている。 今やっているような、混合液体を沸点の差を利用して分離してい く方法を、分留という。 原油を分留すると、ナフサや灯油、軽油のような揮発性の高い成 分が低温度で揮発し、次に重油のようなものが出てきて、最終的に はアスファルトのようなものが残る。 軽油もガソリンもナフサも、原始的な蒸留装置でやるぶんには、 区別がつかなかった。 だが、透明な液体が着実に金属の容器の中に溜まっている。 それは温度がまだ高いこともあってか、強烈な石油臭を放ってい た。 見るからに粘度が低く、軽油質であることがわかる。 これはアルコールランプの燃料にでもして売ろうかな。 俺は内部にアスファルトを塗って乾かした樽に、分留した液体を 詰めていった。 バシャっと放り込んでは栓をするだけだが。 原始的な分留装置でも、揮発性の高い液体は透明になった。 といっても、今欲しいのは、揮発性が低く、常温でクリーム状に なっている層のものなのだが。 705 これは中々採れずに苦労していた。 採れても黒いし、どうしても蒸留管の中でベトつく。 この物質は、油性インクと削り用紙を作るのにどうしても必要な のだ。 だが、やはり難しい。 これでは採算が合わないかも知れない。 やっぱりガリ版のほうは失敗だったか。 だが、とりあえずはパルプはできたわけだし。 揮発性の高い油というのは、着火性が高いことを意味しているわ けで、いわば副産物になってしまったが、利用価値はいくらでもあ る。 問題は、今これをやっている俺がストレスの塊だということだ。 手は既に油でベトベトだし、暑いし、疲れたし、マスクをしてい ても石油臭くて頭がガンガンするし。 泣きたくなってきた。 俺は怠け者だったはずなのに、何をやっているんだろう、という 思いが間断なく頭をよぎる。 こんなの、会長がやる仕事じゃないよ。 誰かにやらせたい。 とりあえず、午後から用事があるから、そろそろここで終わっと くか。 706 *** ﹁シャム、これはホントに合ってるのか?﹂ ﹁合っているはずですが⋮⋮﹂ シャムはしれっと言うが、俺のほうは半分パニックだった。 んな馬鹿な。と思う。 ﹁18.5度。誤差は⋮⋮せいぜいプラスマイナスコンマ3度程度 かと思います﹂ ﹁そうか⋮⋮﹂ もう俺も忘れかけてはいるが、日記帳にはちゃんと赤道傾斜角は 23度と書いてある。 赤道傾斜角というのは、つまりは地球の太陽公転面に対する自転 軸の傾き具合だ。 これがあるから季節もできる。 俺の記憶でも、確かに20度以下ということはなかったはず。 なんでだ? 地球とは微妙に違うのか? そりゃ、シャン人みたいな耳に毛が生えた人種がいるんだから、 違うことは違うんだろうけど。 傾斜角まで違っていたら、微妙どころじゃない。 シャムが間違っているのだろうか。 707 いや、シャムは天体観測に関してはかなり熱心にやっているし、 手順も間違っていないはずだ。 傾斜角の求め方なんていうのは、比較的簡単な部類だし。 角が違うとなると、一日の長さとかも数十秒単位で違うのかも。 物体の固有振動とかに詳しければ、比べようもあっただろうが、 今となっては確かめようがない。 ﹁それで、私はなんで呼ばれたんかなぁ﹂ リリーさんが言った。 リリーさんの前にはお茶とお菓子が置かれている。 ここは、コミミに案内されてから良く使うようになった、大図書 館前の喫茶店の個室だった。 とりあえず、傾斜角のことは忘れよう。 ﹁ああ、ええっと、お二人に作っていただきたいものがありまして﹂ ﹁二人で?﹂ リリーさんとシャムは顔を見合わせた。 ﹁作ってもらいたいのは、天測航法の道具です﹂ ﹁てんそくこうほう?﹂ リリーさんは首を傾げた。 ﹁天測航法というのは、簡単に言えば、地形もなにもない大海原で、 自分が地球上のどこにいるか分析する方法です﹂ 708 ﹁なんやのそれ⋮⋮一体なんの役に立つん?﹂ ﹁現在では﹂ うーん、どう説明したものかな。 ﹁陸の見えない大海原に出ると、船乗りたちは、自分がどこにいる のか解らなくなってしまいます。つまりは迷子になってしまうわけ ですね﹂ ﹁コンパスがあるやんか﹂ ﹁コンパスで向きがわかっても、帆船は風向きで進む方向が変わり ますし、大海原に出たら陸地からどっちの方向にどれくらいの位置 にいるなんてのは、老練の航海士でもすぐに解らなくなってしまう ものなんですよ﹂ ﹁ふーん、そんなもんなんかぁ。よくわからんけど﹂ よく解かんないかぁ。 そもそも、この国の人は船に乗る事自体が少ないしな。 大海原で遭難したら死ということも、実感として感じることはな いだろう。 ﹁つまりは、外洋航海は命がけということなんです。でも、位置が 判れば命がけではなくなる﹂ ﹁そうやろうけど、どうやって位置を割り出すのん?﹂ ﹁この⋮⋮なんというか、地球は、今もこのときも、どこかで夜が 明けて、どこかで日が暮れています。想像できますか?﹂ ﹁それは⋮⋮まあ、考えてみればそうやな﹂ 709 この国では地動説は一般的ではないが、リリーさんはシャムと付 き合っているので、そのへんは承知しているのだろう。 今は昼間だが、現在昇っている太陽は、地球上の別の地点では日 暮れに地平線に沈む太陽であり、別の地点では、地平線から今まさ に昇る朝焼けの太陽でもある。 ﹁それはつまり、決まった高さに同じ時刻に太陽が見える土地は、 この地球に一箇所しかないということを意味します﹂ ﹁⋮⋮うーん、そうかなぁ﹂ なにやら納得行かない様子だ。 ﹁リリー先輩、ユーリの言うことは合ってますよ﹂ うわ。 シャムはリリーさんのこと先輩って呼んでるのか。 ﹁ふぅん、シャムは解るん?﹂ ﹁解りますよぉ。機器の誤差はもちろん考えなきゃですけど、キッ チリ計測できれば、決まった時間に決まった地点に天体がいる場所 は、地球上に一点しかないのは当たり前です。一番簡単な連立方程 式と同じ仕組みじゃないですか﹂ シャムのほうは直感的にわかってしまったらしい。 こいつはこいつで、どんだけ頭の回転が早いんだよ。 ﹁わりと大雑把でいいから、大体のところを表にできるか?﹂ ﹁できますけど、どの天体を使うんですか?﹂ ﹁とりあえずは太陽の南中を使うのが早いだろ。一番わかりやすい﹂ ﹁太陽だとあんまり精度は出ません。私がやれば別ですけどね﹂ 710 えらい自信である。 だが、天測航法には精度はあまり必要ではないのだ。 GPSのような正確さがなければ使えないというわけではない。 島を目指すなら、島が見える範囲まで。 都市を目指すなら、港の灯台が見える範囲まで、近づければよい。 問題は、自分の位置がわからなければ、島を見つけられずに通り 越してしまった場合、通り越したこともわからないということなの だ。 ﹁べつに、精密さは必要ない。おおよその位置が判明すればいいん だ﹂ ﹁あと、時間はどこを基準に?﹂ ﹁シビャクに時計を合わせたシビャク標準時だな﹂ 勝手に作っちゃっていいものか知らんが、こんな世界まできてイ ギリスに気を使う必要もなかろう。 どこ中心でも変わらないし。 どうせシャン人しか使わないんだろうし。 ﹁おっけー。わかりました﹂ ﹁範囲は全世界じゃなくていいからな。そうだな⋮⋮経度はシビャ ク中心で西経120度までで、北半球、緯度もシビャクの以北は1 0度までいい﹂ ﹁わかりました﹂ すげぇ物分かりがいい。 711 結構面倒なはずだけど。 ﹁それで⋮⋮リリーさんにお願いなんですが﹂ ﹁ユーリくん﹂ リリーさんはニコっと笑った。 ﹁例の印刷機も難航しとるんよ﹂ あ、はい。 ﹁なんとかなりませんか﹂ ﹁眼鏡も作らなあかんし⋮⋮﹂ ﹁はい⋮⋮﹂ ﹁漉桁のほうは追加注文がなくなったけど﹂ ﹁そっちは手先が器用な大工を雇ったので⋮⋮なんとか、ハイ﹂ ﹁ふーん、そーなん﹂ なんか無理っぽい。 まーリリーさんには大分無理を頼んだしな⋮⋮。 ﹁わかりました⋮⋮無理を言ってすいません﹂ 諦めよう。 気を入れて探せば誰か見つかるかもしれないし。 でも、どうしよう。 リリーさんに頼めないとなると、結構手間取るかも。 俺が眉根を寄せて考え込んでいると、 712 ﹁もー、しょーがないなぁ∼﹂ と言ってきた。 ﹁え﹂ ﹁そんな顔されたらお姉さん断れんやないの∼﹂ なんだこれ。 なんか急に良い感じになった。 脱出ゲーでうろうろ迷ってたら、何故か次の扉が開いたような感 じだ。 それにしても、ニヤニヤしながら片手を頬にやって空いた手をひ ょいひょいしている。 おばさんの所作はこの世界でも共通なんだろうか⋮⋮。 リリーさんはオバサンではないが⋮⋮。 ﹁まー、急ぎやないんやろ?﹂ ﹁はい。とりあえずは﹂ ﹁せやったら、やっとくわ。多少どういうものか教えてな﹂ ﹁こういう感じです﹂ 俺は用意しておいた紙を取り出した。 作ってもらいたいものというのは、六分儀である。 六分儀というのは、鏡の反射を利用して、地平線あるいは水平線 に対しての、天体の角度を測る道具だ。 応用的に星と星の角度も測ることが出来る。 713 直接覗くための筒の先に、右半分だけの鏡が取り付けられており、 鏡の向いた先にはもう一個鏡がついている。 その鏡は回転できるようになっており、そこを支点として大きな 分度器がついている。 鏡を回転させ、視界の中で対象の二つが重なりあった時、そのた めに傾斜させた鏡の分がそのまま角度になるので、分度器を見れば、 それがそのまま対象二点の角度、ということになる。 ﹁ほっほー⋮⋮これまた面倒そうやね﹂ 俺の書いた簡単な図面を見て、リリーさんは言った。 ﹁難しそうですか﹂ ﹁硝子と鏡がな⋮⋮胴体はなんとでもなりそうやけど、煤硝子かぁ ⋮⋮。しかし、珍妙なものを考えつくなぁ﹂ 夜の星ならばいいが、太陽を覗くときは、黒いガラスすなわちシ ェードを被せないと目がやられてしまう。 煤硝子というのは初めて聞いたが、シェードに類するものは必須 である。 ﹁硝子工房のようなところに注文を出す形になるのですか?﹂ ﹁そうなるなぁ﹂ ﹁どうせなら十枚くらいまとめて注文しちゃってもいいですよ﹂ ﹁そう? まあ、そっちのほうが一つあたりは安くあがるけど﹂ ﹁ま、よろしくお願いします﹂ どうせ、これから一隻に一台は装備するようになるんだし。 腐るものでもないわけで、とっておいてもいいだろう。 714 ﹁ま、わかったわ。でもけっこう高く付くよ﹂ ﹁かまいませんよ﹂ ﹁そんなに大儲けしとるんか﹂ ﹁それなりですね﹂ 業績はうなぎ登りだった。 紙だけでもそれなりなのに、これからは石油から灯油ランプやラ イターも作れるようになるだろうし、売上が伸び悩む要素もない。 ﹁でも、そんなにお金を儲けてなにをするつもりなん? もうお金 には困らんのに。あ、それは元からか﹂ それはそうなんだけど。 ﹁お金は幾らあっても困りませんから﹂ ﹁それにしても限度があるやん。こんなに頑張る必要あるん?﹂ まあ、その疑問はもっともである。 実際、俺は金が欲しいわけでも、贅沢な暮らしをしたいわけでも ない。 じゃあ一体なんのためにコイツは仕事しとるんだ、ということに なる。 金を求めているのは、目的に到達する過程に必要であるからで、 それはあくまで手段にすぎない。 ﹁ま、リリーさんが我が社に入社してくれたら教えてあげますよ﹂ と、俺ははぐらかした。 715 ﹁我が社?﹂ ﹁屋号としてホウ社を名乗ることにしたんです。父上にバレてしま ったので﹂ ﹁ああ、そうなんな﹂ ﹁そうなんです﹂ ﹁ほな入社したるわ﹂ え。 今なんて言った? ﹁今なんていいました?﹂ ﹁入社したるわ、って﹂ いやいやいや。 自分で言っといてなんだけどさ。 ﹁そんな、遊びに混ざるみたいな﹂ ﹁ホウ社なんていうても、辞めるのはいつ辞めても自由なんやろ?﹂ そりゃそうだが。 終身雇用されるつもりがないなら最初から来るな! なんていう 経営方針ではないし。 ﹁それはそうですが、仕事はこれまでのような支払いかたではなく なりますよ。リリーさんへの報酬は買い取りではなく給与というこ とになります。リリーさんにとっての儲けは今より減るかも。それ でもいいんですか?﹂ ﹁そんなん、かまわへんわ﹂ かまわへんのかい。 716 なんでやねん。 ﹁今までどおりの仕事でええんやろ? ユーリくんが用意した部屋 に朝から晩まで詰めて仕事するとかやなくて﹂ ﹁そりゃー、構いませんが﹂ ﹁⋮⋮いつ辞めてもといっても、一ヶ月で辞めたとか言われても困 りますよ?﹂ ﹁わたしのことなんやと思ってんの。そないなケチくさいこと言わ んよぉ﹂ ﹁じゃー、よろしくお願いします﹂ 参ったなこりゃ。 ﹁私も入ります﹂ なんだかちっこいのが妙なこといいだした。 腕をピンと挙手している。 ﹁シャムはだめだ﹂ ﹁なんで﹂ なんかむっとしてる。 ﹁⋮⋮俺がサツキさんに怒られるからだめ﹂ 本当を言うと、シャムは仕事に向いてない気がするし、そもそも 天測航法のあとはやってもらうことがあんまり思いつかない。 ﹁なんだ、つまんない﹂ なんか普通の女学生みたいなことを言い始めた。 ﹁じゃあ、そういうことで。今日は終わりにしましょうかね﹂ 717 さてさて、忙しいし今日はもう帰るか。 俺は椅子を立った。 ﹁はいはい、じゃあまたな⋮⋮ってなんでやねん! なにすっとぼ けて帰ろうとしとんねん﹂ 覚えていたらしい⋮⋮。 なにこのノリツッコミ⋮⋮。 ﹁はあ、これ絶対に秘密ですからね﹂ *** ﹁僕は、この国にはもう滅びる道しかないと思ってるんですよ﹂ ﹁⋮⋮は?﹂ ﹁五年後か十年後か、それは解りませんが、この国は近いうちに滅 びるでしょう。これはもう避けられません﹂ ﹁なんでやねん。なんも悪くないってことはないけど⋮⋮全然大丈 夫やんか﹂ ﹁大丈夫なわけがないですよ。シャン人の国家九国のうち、六国ま でクラ人に滅ぼされたのに、なんでシヤルタ王国だけが特別滅ぼさ れないと思うんです?﹂ ﹁それは⋮⋮﹂ ﹁シヤルタ王国は他の滅ぼされた国となにも変わりはありません。 滅びた国と同じような機能的欠陥を、同じように持ったまま、キル ヒナ王国が倒れようとしている今でも、のほほんと続いています。 718 クラ人の態度もまったく変わっていません。それなら、滅びた国と 全く同じに、ここもいずれ滅ぼされると考えるのが普通でしょう﹂ これは、誰もが見て見ぬふりをしている事実であった。 これならいっそ、現状を憂いた革命勢力と内戦状態にあったりし たほうが、まだ救いがある。 多少血を見る現実があっても、将来には希望が持てる。 だが、この国では、保守勢力が強すぎるために、そのようなこと も起きていない。 ﹁でも、これから変わるかもしれへんやないか﹂ ﹁それはそうです。例えばキャロル殿下あたりが国を強く率いて、 この国を大きく変えるという可能性は、現実として存在するでしょ う。ですが、それは希望的観測です。僕は僕で、可能性に自分の命 運を賭けるつもりはありません﹂ 言っておいてなんだが、俺はその可能性をちっとも信じていなか った。 シヤルタ王国の政体の致命的にまずいところは、王家に権力がち っとも集中していない。というところだ。 もし王家が絶対王政的な力を持っていたのであれば、これは事情 が違ってきただろう。 様々な改革をやらかし、外科手術のように国の腐った部位を除去 し、国を立てなおして強国となり、クラ人と立ち向かう、という筋 道も現れてきたはずだ。 719 独裁制というのは大いなる負の側面を持っている反面、暗雲立ち 込めた状況を快刀乱麻に解決することのできる可能性を持っている。 だがこの国では、残念なことに、王家はちっともそんな力を持っ ていないのだ。 フィフスブレイブス セブンウィッチズ 五大将家と七大魔女家に、軍権と政権が分散されてしまっている。 王家が持っているのは、手持ちの兵として近衛軍第一軍に兵が三 千弱、あとは元老院議会の議長権、外交代表権、将家への命令権︵ 実質的には提案権というのが正しい︶などがあるだけで、これはこ れで大層な力ではあるものの、絶対王権とは程遠い。 これでは、キャロルあたりが幾ら頑張ろうと、どうすることもで きない。 もともとの力が弱すぎるし、その力も雁字搦めにされてしまって いる。 王家が大暴れしようにも、周りがいつでも取り押さえることがで きる仕組みになってしまっているわけだ。 では、王家以外に、その役割を担える存在はあるか。 将家の連中はどいつもこいつも、ホウ家以外は家で槍を磨いてい るだけの腰抜けばかりで、こいつらもクーデターをするような根性 はない。 そのホウ家は遠征でさんざんこき使われた挙句、軍団が瓦解して 再建中である。 軍事力の背景のない将家などカスでしかないので、我が家のこと とはいえ、カスでは役割を演じることはできないだろう。 魔女家の連中は、言うまでもなく保守の権化とも呼ぶべき存在で 720 あって、そもそも文字通り腐った女のような性格のヤクザなので、 こいつらに任せても国はさらにドブ底に沈むだけである。 ﹁じゃあ、どうするんや﹂ どうしようか。 答えはひとつ、逃げるのだ。 ﹁その時のための、天測航法ですよ。これがあれば、大海原で迷う こともなく、どこへでも行ける。国が滅びた時、クラ人の虜囚とな り奴隷になるしか道がないのと、大海原へ逃げ延びるという選択肢 があるのとでは、だいぶ違うでしょう﹂ ﹁⋮⋮そか﹂ ﹁もちろん、それは最後の最後、という時の話です。そうならなか ったら、手元にはお金と、不要になった用意だけが残ります。それ も無駄ではないでしょう﹂ ﹁それは、そうやな﹂ ﹁この話を聞いて僕に嫌気がさしたなら、退社しても構いません。 話さえ漏らさなければ﹂ ﹁そんな心配せんとええよ。怒っとるわけでもないし。まあ⋮⋮で もちょっと考えたいことはあるかな﹂ ﹁それなら、お金はここに置いておきますから、茶のおかわりでも してゆっくり考えてみてください。僕は用事があるので、そろそろ 失礼させて頂きます﹂ 俺はいないほうがいいだろう。 忙しいのは本当だったので、俺は十分な額の銀貨を机の上に置い 721 て、個室を出て行った。 722 第043話 リリーの思い* ﹁それなら、お金はここに置いておきますから、茶のおかわりでも してゆっくり考えてみてください。僕はそろそろ行きますね﹂ そう言ってユーリが出て行ったあと、リリー・アミアンは机の上 に置かれた銀貨を数えた。 だいぶ多かった。 軽く暗算して出した料金よりも、二倍ほども多い。 釣りは取っておいてもよかったのだろうが、リリーは店員を呼ん で茶と菓子を追加で注文した。 ﹁承りました。すぐにお持ちしますね﹂ 小気味よく注文をとった店員が、個室から出てゆく。 ﹁⋮⋮ふう﹂ そして、先ほどのユーリの言葉に思いを馳せた。 ︵確かにな︶ と思っている。 *** リリー・アミアンは、山の背側の、川に抉られた小さな峡谷に生 まれた。 その峡谷は、地元の言葉でヤナ峡谷と言う。 723 その小さな峡谷が、リリーの生まれ育った土地であり、アミアン 家の領地の全てであった。 領主はリリーの父であり、領主であるからには貴族なのだが、ア ミアン家は﹁先祖代々の無役﹂という家柄だった。 五大将家を総領として担ぎ上げ、その下に群がる零細の騎士家の 中には、そのような者がたくさん居る。 彼らは騎士号を持っているわけでもなく、形の上でだけ将家の家 臣団の一員にはなっているが、出兵はしない。 より正確に言えば、出兵の義務はあるのだが、騎士団の軍機構の 中に役目がないので、自身が出陣する必要はない。 あずかり 彼らの殆どは﹁流れ者の貴族﹂であり、騎士家には違いないのだ が、特に﹁預家﹂と呼ばれ、一般的な騎士家とは区別されていた。 当主は女性がなっても良い。 有事の際は、規定人数の兵を領内から徴兵し、それを将家に預け る形をとる。 リリーが生まれたアミアン家は、大昔にはテナアという国の大魔 女家であった。 大魔女家の通例として、家系図を大皇国まで辿ることができるが、 これにはさして意味はない。 ウィッチクイーン テナアは、歴史の中で王家と魔女家が特に深く絡みついてしまっ た国で、王は末期には﹁魔女王﹂と名乗っていた。 ウィッチオブウィッチズ 王は、形だけはクワダ・シャルトルの姓を名乗っていたが、王家 と﹁魔女の中の魔女家﹂を名乗る十二の家は血筋的に絡み合ってい て、一つの血族、大家族のようであった。 アミアン家は、その中の一家族である。 724 うち、もう一つの家は未だにシヤルタ王国内に存続しているが、 十の家は既に滅びている。 だが、そのようなことは、もはや幾らかの家の家伝、あとは大図 書館にある歴史書に残るのみの知識である。 現実にはなんの影響も及ぼさない。 ともかく、リリーの先祖は、テナアが滅びに瀕した時、母国を見 限ってシヤルタ王国にやってきたのであった。 他の国が滅び、窮した元魔女家が頼ってきても、魔女家は助けて はくれない。 魔女家は、収入を経済と政府から吸い上げている。 前者は馴染みの大商人たちから、後者は与えられた役職がもつ権 能を濫用して、金銭を得る。 そのような家業を持つ魔女家は、当然ながら縄張り意識が強く、 他国が滅びて魔女の家の者が流れてきても、その扱いは冷たいので あった。 一夜の宿くらいは貸しても、自身の利権を分け与え、生活の基盤 を作らせるといったことは、絶対にしない。 そのため、アミアン家は今までの生業を捨て、騎士家であるノザ 家に頼り、命からがら持ってきた金塊を差し出し、預家にしてもら ったのである。 預家は、騎士としての働きが免除される。 であれば、預家は領地経営だけに精を出していればよく、兵役の ない平和なだけの家柄でいられるのかというと、そういうわけにも 725 いかない。 兵務の変わりとして、預家は一般の税収に上乗せして、上納金と いう形で将家に金銭を支払わなくてはならない。 その上納金は高額であり、アミアン家には今も昔も、領地からの 収入といえるものは、殆ど手元に残らない。 赤字ではないものの、収支を考えると、家の収入は雀の涙ほどの ものであった。 その僅かな収入も、毎年安定して得られるわけではない。 凶作が続き、作物の出来が悪ければ、もちろん税収に響く。 税収が少なかった場合、アミアン家が集めた税の中からノザ家に わたす税は、比例して下がることになっている。 だが、上納金の額は毎年一定で、これは変わることがないので、 場合によっては税収を上回る支出が生じる年もあった。 手元に残った雀の涙ほどの金を、赤字の年に備えて貯蓄し、場合 によっては自ら鋤鍬を持ち田畑を耕すのが、預家の、貴族というに は余りに慎ましい生活であった。 そのような事情があり、預家というのは別名を﹁将家の小銭いれ﹂ ともいわれている。 貴族位を求めて騎士家の傘下に入っても、大多数は年月が経過す るうちに上納金を払えなくなり、せっかく持ってきた財産の全てを 上納金に取られ、消滅してしまう。 貯めた金で男子を騎士院へやっても、騎士団に席を貰えなければ 預家のままなので、よほど才能のある男子が産まれない限りは、上 納金がなくなることはない。 726 なので、長く生き残っている預家は、例外なく領主業とは別に、 多額の収入を得られる家業を持っている。 それは鳥獣の骨の加工品であったり、鍛冶であったり、家具の生 産であったりした。 アミアン家の場合は、それは機械生産業であった。 機械の生産を始めたのは、リリーの曽祖父である。 手先が器用で機械時計が好きであった彼は、爵位を質にいれて道 具を手に入れると、自ら柱時計を作り始めた。 大きな柱時計に、テナア伝統の彫り物細工を入れ、乾くと黒光り のするニスを全面にたっぷりと塗りつけた製品は、すぐに評判とな った。 更に設備を整え、小型の懐中時計の生産に成功すると、更に家は 潤った。 曽祖父の死後は、父が事業を継ぎ、今では機械生産業はアミアン 家の主要な収入源とまでなっている。 リリーはその父の娘として産まれ、幼い頃から家業を教えこまれ た。 機械の仕組みや、金工。場合によっては木工にまで熟達している のは、そのためである。 そうして、十歳になると、ついにリリーは教養院に入れられたの であった。 アミアン家の中で教養院に入る子は、シヤルタ王国に来てからは、 リリーが初めてであった。 727 学院は学費が高いために、預家にとっては中々気軽に入れられる ものではない。 預家の跡取りという生徒は、リリーが入寮したときには、寮には 二人しかいなかった。 リリーが教養院に入れられたのは、領地経営に関わる初等的な政 治学や、税制あるいは法学について勉強するためである。 また、それ以前に、教養院を卒業したということは、領主として 大きなステイタスになるからでもあった。 アミアン家も娘を教養院に送れるほどにはなったが、それでも余 裕があるわけではない。 魔女家と違って、院に入った娘に小遣いをくれてやるほどの余裕 はなかった。 なので、リリーは教養院に入学すると、寮生の懐中時計のメンテ ナンスなどをして、小遣いを捻出していた。 それは、リリーにとっては遊ぶための金ではなく、生活に必要な 資金であった。 白樺寮においては、身だしなみも重要だ。 教養院の制服などというものは、何年も着ていれば寸法を直す必 要がでてくるし、どんなに扱いに注意をしていても、古びて擦り切 れ、色褪せてくるのは止められない。 同じ服を着ていても、安く腕の悪い仕立屋が作った制服を破ける まで着ていたら、白樺の寮では笑いものである。 そうならないために、リリーにはお金が必要だった。 一般に価格が金貨10枚を超える高級な懐中時計を所持する生徒 は、寮内でも羨望の眼差しを向けられる。 728 彼女らにとり、懐中時計というのは、時刻を知るための機械とい うよりは、高級なアクセサリーであった。 だが、懐中時計というのはメンテナンスが必須の機械である。 懐中時計は二年か三年に一度、分解して部品を磨き、注油する必 要があったので、仕事は尽きなかった。 だが、細々とやっていたメンテナンス業も、ユーリの依頼が殺到 するようになってからは、受けるのをやめていた。 ユーリの仕事のほうが、遥かに儲かるからであった。 *** リリーが隣を向くと、シャムは湯気を建てたミルクティーを目の 前にして、ぽけーっとしていた。 おおかた、先ほど与えられた課題について考えているのだろう。 リリーは、こうなったシャムの頭の中で、人知を超えた複雑な思 考が行われていることを知っていた。 一見して、いつもぼーっとしているようにしか見えないこの子は、 特定の分野において超人的な能力を発揮する。 ユーリが手塩にかけて育てたであろう、天才児なのだ。 だが、残念なことに、その超人的な能力は教養院のカリキュラム において、まったくといっていいほど、役に立っていない。 そのため、シャムは寮内では成績の悪い不思議ちゃんという、平 凡からやや下の定評を得ていた。 729 ︵⋮⋮この子のためなんやろうな︶ と、リリーは思った。 ユーリは自分では気づいていないようだが、有名人だ。 漆黒の髪をした美男子で、喧嘩も強ければ、頭も教養院の主席よ り良いと言われるくらいである。 母親が農民という謎めいた出自もあるし、入学早々キャロル殿下 の一番の友人ともなったとも言う。 執筆界隈でも、すぐに流行の主役に躍り出た。 有名であれば噂も入ってくる。 入学するなり、開設されてすぐのクラ語の講座に潜り込み、最も 熱心な学生の一人として習い続けているというのも、有名な話だっ た。 古代シャン語上級会話と並んで難しいとされる、クラ語の単位を 早々に取得し、何故か取得後も講義に通っているという。 普通であれば、あのような年少の子供が興味をもつような講義で はない。 ユーリはクラ人通、クラ人贔屓という、良くも悪くも取れる人物 評も出回っていた。 船はいい。 リリーは、外洋に出ればクラ人の魔の手から逃れられるという理 屈は、理解できた。 国が滅ぶかもしれない。という危機感も理解している。 730 だけれども、国が滅ぶにしても、クラ人の中に溶け入って、潜む ように暮らすなどという生活は、リリーには想像できなかった。 それは他の者もそうであり、だからクラ語など勉強はしない。 リリーも学びたいと思ったことはなかった。 だが、ユーリは勉強している。 あれだけ頭のいい子が、五年も真剣に取り組んでいるのだから、 現在ではもうマスターしているはずだ。 だが、ここで疑問が残る。 何故、今になって苦労して外洋を航行する船などを調達するのか? 死が怖くて一人逃げ出すだけなら、苦労してそんな船を調達する 必要はない。 あれだけの才能があり、言語にも不自由しなければ、クラ人の国 に入ってやっていけないということは、むしろ考えにくいことだ。 捕まりそうになったら逃げればいいのだし、逃げ場がなくなれば 槍で切り抜ければよい。 そのための技能は、十分すぎるほどに習得しているだろう。 リリーは、クラ人に会ったことがあった。 イーサ・ヴィーノと名乗ったその人は、リリーの方言の入った言 葉遣いに少し困惑していたが、快く眼鏡を見せてくれた。 シャン人とそう容姿が違うわけではなかった。 キャロル殿下のような、目が覚めるような金髪をしているわけで はないのだから、耳を隠せばそれでクラ人として通ってしまうだろ 731 う。 ユーリにとって、国をひとつふたつ抜けることは、そう難しいこ ととは思えない。 つまり、一人で逃げるだけなら、船を用意する必要などないのだ。 では、なぜ船を調達するなどと考えついたのか。 ︵この子も助けたいんや。この子だけやなくて、家族や友達も一緒 に助けたいんや︶ 意識的にしろ、無意識的にしろ、そう考えているとしか思えなか った。 資金の出処について、実家に頼らないように気をつけているのも、 そのせいだろう。 船に乗せる人員には限りがある。 まさかシヤルタ王国の全国民を脱出させるわけにはいかない。 だとすれば、ユーリが実家の金を堂々と使って事業を進めたらど うなるか? その金は、元をたどれば領民から徴税した税金なのだから、まず は領民から乗せて、ユーリとその家族は最後に乗るべきだ。という 道理になるだろう。 ユーリは、自由に、かつ誰に恥じることなく、乗せる人間を選ぶ 権利を欲しているのだ。 ︵でも、ユーリくん、君にはそれができるんか?︶ 732 ユーリの最も親しい友人には、キャロル殿下やドッラやミャロが いる。 リリーは、半分はピニャの書いた小説の受け売りではあったが、 それを知っていた。 セブンウィッチズ 七大魔女家のミャロはともかく、キャロル殿下やドッラは、自分 から国を捨てて生き延びようと思うだろうか。 家族も、シャムには国の意識なんてものはないけれど、現当主の 父親のほうには、責任がある。 彼らは、ユーリくんのこしらえた船に乗るだろうか? 船に乗ることを拒否した彼らを見捨てて、ユーリくんは海を渡っ て新天地へ行けるのだろうか? 誰かを助ける発想をして、たいへんな苦労をしてまで実行しよう とする人間が、親しい人々をあっさりと見捨て、逃げる。 それは行動として矛盾しているように、リリーには思えた。 ユーリが、そういう仕事ができる、矛盾をためらいなく受け入れ られる、いわば分裂した人格の持ち主である。という考え方もでき る。 だが、そうでなかったら、土壇場で行動に移れないだろう。 大切な者を逃した後に、自分はシヤルタの地で死ぬのではないだ ろうか。 ﹁先輩? 食べないんですか?﹂ ふと気づけば、シャムはミルクティーを飲み終えて、お菓子も食 733 べきっていた。 シャムの思考法はいつもこうで、思考に入ると一心不乱に考え続 け、ふとした瞬間に燃料切れを起こしたように我に返り、ご飯を食 べたり書き物をしたりする。 知らぬうちに燃料が切れていたのだろう。 リリーも、機械いじりに夢中になっているときは、そうなること もしばしばであったが、ただモノを考えるだけでそうなることは無 かった。 ﹁食べてえーよ?﹂ ﹁いいんですか?﹂ ﹁うん﹂ リリーは菓子が盛られた皿をシャムの前に移した。 シャムはパクパクと食べ始める。 その所作は、行儀が特別によかったり、気取っているわけでもな いが、不思議と気品のようなものを感じさせた。 やはり、高貴な生まれがそうさせているのだろうか。 見ていると幸せな気分になった。 ﹁おいしい?﹂ ﹁はい、おいしいです﹂ ︵考えてみたら、私も卒業したら、こういうふうにおしゃれなカフ ェでお茶飲んだりできなくなるんやなぁ︶ 734 ふいにリリーは寂しい気分になった。 リリーの実家の周辺には、こんな美味しいお茶や、洒落た料理を 出す店は、もちろん存在しない。 来る日も来る日も魚、獣肉、パン、漬物、チーズの繰り返しで、 蜜を上手く使った甘味などは、望むべくもない。 ﹁シャムは幸せもんやなぁ﹂ ふいにリリーはそういった。 思ったことがそのまま口からでてきていた。 シャムは幸せものだ。 ﹁⋮⋮? はい、幸せですけど?﹂ ﹁うん﹂ リリーは、ユーリに似た黒髪をやわらかく撫でた。 ﹁どうしたんですか?﹂ ﹁いや、どうもせーへんよ﹂ ﹁なんだか変ですね⋮⋮﹂ ﹁ユーリくんは私も連れてってくれるつもりなんかなぁ⋮⋮﹂ 誰に言うでもなく、リリーは一人つぶやいた。 735 第044話 ミャロの憂鬱 その日、俺は講義を受けていた。 その講義は、一般法学4と呼ばれる講義で、誰でも受講できる一 般科目の一部だ。 これを取得すると、この国でいう、司法試験のようなものにチャ レンジできる。 もちろん、シヤルタ王国には日本のように六法全書になるような 立派な法体系は存在しないので、日本の司法試験より格段にザルで アホらしいものにはなるのだが、取っておけば一応は資格が増える というわけだ。 この講義は聴講生に大人気という講義であり、学院生で受講して いる人間はあまりいない。 古典文学だの古代シャン語だのを受講するよりかは、いくぶん将 来のためになると思ったので、選択制の一般科目では、俺はクラ語 とこれを取っていた。 ﹁⋮⋮あの、ユーリくん﹂ 一緒に受講していたミャロが、話しかけてきた。 ミャロはこの講義では、俺と協調しており、なかなか覚えること の多い法学では、勉強という戦場における戦友のような関係にある。 それにしても、今日はなんだか、ちょっと見たことがないような 顔をしていた。 736 ﹁なんだ?﹂ ﹁お手紙を⋮⋮その、お手紙を預かっているのですが﹂ ﹁俺あてか?﹂ ミャロは一枚の便箋を机の上に置いた。 手紙を人づてに渡すというのは、この国ではなにもおかしなこと ではない。 だが、ミャロに手紙を渡されるというのは、もう随分と長いつき あいだが、初めてのことだった。 それは、ミャロの立場が関係していて、ありていにいえばギュダ ンヴィエルの名のせいでもある。 読まれるかもしれない手紙を預ける相手として、ミャロは遠慮さ れているわけだ。 ﹁あの⋮⋮いりませんよね?﹂ ミャロはおずおずとそう言った。 ⋮⋮⋮ん?? いらない? なんで? ﹁要らないってこたないだろ﹂ カミソリとか炭疽菌とかが入ってるのか? 737 だったら要らないけど。 ﹁いえ、やっぱりいいです﹂ ミャロは再び、机の上の封筒に手を置いて、しまおうとした。 ﹁えっ、俺あてじゃないのか﹂ ﹁ユーリくん宛てですけど⋮⋮いらないでしょうから、焼いておき ます﹂ こらこら。 なにを言っとるのかね、キミは。 ﹁俺あてだったら読まなきゃマズいだろ。くだらない手紙かもしれ んが、目を通しておかないと﹂ ましてや、必要事項がメモってあるだけの端切れとかじゃなく、 わりと立派な羊皮紙の封筒なんだから。 封筒と中身とインク代合わせりゃ、五十ルガくらいはするぞ。 俺は文房具の相場には詳しいんだ。 ﹁いえ。ごめんなさい、最初からなかったことにしてください。ボ クとしたことが⋮⋮自分の都合でユーリくんを巻き込もうとするな んて﹂ いやいや、なんか深刻そうな様子だけど、わけがわかんないから。 というか、俺を諦めようとさせてるなら、それまったく逆の心理 効果を俺に与えているのだが。 俺は今﹁これでこのままスルーしたら、なんかとんでもない、取 り返しのつかないことが起こるんじゃないのか。だって、いつも冷 738 静なミャロが突然にへんなことを口走り、こんなに深刻そうな面持 ちになっているのだから﹂と思っているぞ。 ﹁すっげぇ気になるが、ミャロがそういうなら仕方ないな。俺は読 まないほうがいいんだろう﹂ 俺は心にもないことを言った。 ﹁そうですね。すいませんでした。最初から処分しておけば、お気 を煩わすこともなかったのに﹂ 俺はひっそりとミャロの肩に腕を回すと、反対側の肩をトントン、 と指先で叩いた。 ﹁はい?﹂ 反射的にミャロが反対側を向いた隙に、机の上ですっと手を動か し、封筒を盗んだ。 ﹁えっ、さっきのユーリくんですか?﹂ ミャロが再びこっちを見た時、俺はすでに封筒を開けて、中の手 紙を取り出していた。 ﹁ああ、そうだよ﹂ 手紙を開きながら返事をする。 ﹁うふふ、ユーリくんもそういう悪戯をするんですね﹂ ﹁まあな。肩が張っていたようだから﹂ 目線を下ろして、手紙に目を通し始める。 ﹁確かにそうですね。ところで、何を読んでいるんですか? お仕 事の書類ですか?﹂ 739 ﹁さっきの手紙だよ﹂ ﹁返してください﹂ 横から声が聞こえてくるが、顔色は見えない。 俺は手紙を読むのに忙しかった。 ﹁だめだな。悪いが、奪い返そうとしたら、お前をぶん殴ってでも 取り返すぞ。これはどうも洒落にならない手紙のようだからな﹂ 手紙は、ミャロ・ギュダンヴィエルの祖母、ルイーダ・ギュダン ヴィエルからの手紙だった。 一度お会いしましょうというようなことが書いてあり、ミャロの 現状については甚だ不本意なので、学費の援助を打ち切ろうと思う。 という、わけのわからぬ脅し文句が付いていた。 ﹁こいつの言うこともワケがわからんが、お前の態度から察するに、 学費のことを持ちだされて、手紙を押し付けられたのか?﹂ ﹁⋮⋮はい。その通りです﹂ 憤りを覚えるより先に、奇妙さを感じてしまう手紙だった。 セブンスウィッチズ 七大魔女家くらいの金もちの家で、ガキに学費を出さないなんて、 そんなケチくさいことありえるのか? それって脅しになんのかよ。 正直、親がガキに言うこと聞かせるための子ども騙しとしか思え ないのだが。 740 子ども騙しなのはいいとしても、ミャロほど頭のいい人間が、そ れを実際に脅威に感じてるっぽいところが、どうにも腑に落ちん。 ミャロは実家が大嫌いだから、普通だったらこの手紙を渡されて も、その場で断固断るか、やぶくかするだろう。 そのほうが、反応としては自然な気がする。 だが、こいつは実際に持ってきて、俺にこれを渡した。 それは、現実に学費ストップを脅威と感じているからだ。 ﹁まあ、会ってくるくらいは簡単なことだ。明日にでも行ってやる さ﹂ どういう経緯でこいつが心配をしているのか知らんが、行ってや れば問題が解決するというのであれば、その程度の労はなんでもな い。 ﹁行かないでください。危険です﹂ ﹁もうこの話はいい﹂ 俺は手紙を自分の鞄にしまうと、そう言った。 ﹁よくありません﹂ しつこいな。 ﹁いいったら、いいんだ。この話は終わりだ﹂ *** 講義が終わると、俺は別邸に向かった。 741 ミャロには明日行くと言ったが、俺は今日向かうつもりだった。 明日行けば、ミャロは必ず同行しようとするだろう。 そうしたら、話がややこしくなる。 裏をかいて、今日向かうのが正解だ。 それに、今日行く理由はもうひとつあった。 ﹁おや、若君。お久しぶりですな﹂ ﹁ソイム﹂ ソイムは王都に住む親戚に会うため、たまたま別邸衛兵隊の交代 についてきていた。 それは知っていたが、特に用もなかったので、足を運ぼうとも思 っていなかった。 だが、こうなっては話は別である。 ソイムは明日帰ってしまう予定だから、明日になったらソイムは いない。 ﹁いささか夜更けですが、久しぶりに槍を交わしますかな?﹂ うおわー。相変わらず元気な爺ちゃんだな。 去年百歳になったんじゃなかったっけ? ﹁いや⋮⋮午前にさんざん振ったからいい﹂ 勘弁してくれ。 ﹁ほほう、どうやら院でしごかれておるようですな﹂ 742 面白そうに笑っている。 ﹁実は、今日はお前に付き合ってもらいたくてな﹂ ﹁おや、付き合うとは? いよいよ、若君と酒を飲み交わす時がき ましたかな﹂ セブンスウィッチズ ﹁七大魔女家のギュダンヴィエルの家に招かれたんでな。わけあっ て、どうしても行かにゃならん﹂ ﹁⋮⋮ほほう﹂ ソイムは顎鬚に手をやって、興味深そうに撫でさすった。 ソイムは、なかまになりたそうに、こちらをみている。 ﹁俺のような立場の者が、あの家に招かれる。これはもう、討ち入 りみたいなもんだろう。お前がいれば心強い﹂ ﹁この老骨で務まるものか解りませぬが、このソイム、喜んでお供 させていただきましょう﹂ ついてきてくれるようだ。 ソイムが なかまに くわわった! こんなに心強いことはない。 俺は生まれてこの方、こいつより強いと思われる人間は、騎士院 の教官でも見たことがないのだから。 ﹁そうか。じゃあ、槍を置いて執事の服を着てきてくれないか﹂ ﹁執事の服⋮⋮ですかな?﹂ まと ﹁ああ。一応は話し合いに行くわけだから、まさか鎧を纏って槍を 743 担いでいくわけにもいくまいよ﹂ ﹁よろしいでしょう。魔女どもなど、槍がなくともいかようにもで きます﹂ それでこそ、頼りがいがあるというものだ。 ﹁さすがだな。それじゃあ、さっさと用意して向かおう。日が暮れ るまでには帰りたい﹂ *** ギュダンヴィエルの本家は、王都の一角にある魔女の森に接して 建てられている。 セブンスウィッチズ セブンスウィッチズ というか、実のところ、七大魔女家の本家というのは、全て魔女 の森をとり囲むようにして建っている。 したがって、魔女の森の周囲はすべて七大魔女家の所有地だし、 魔女の森というのは、市民の憩いの森ではなく、部外者立入禁止の 私有地ということになる。 俺は私服に着替えると、ゴトゴトと馬車に揺られ、ギュダンヴィ エル家の正門に辿り着いた。 正門は、当然だが閉じられている。 その前に止まると、窓の外から、近衛第二軍の軍服を着た衛兵が 近づいてきた。 近衛第二軍というのは、ようするに魔女家が牛耳っているほうの 744 近衛軍のことを指す。 ﹁ここはギュダンヴィエルのお屋敷である! なんの用か!﹂ すいか 馬車の外から誰何の声が聞こえてきた。 わかぎみ ﹁若君﹂ ﹁ソイム、お前は俺がいいと言うまで黙っていてくれ﹂ 俺は馬車のドアを開けた。 そして、姿を見せると、言った。 ﹁俺はユーリ・ホウだ。ここにいるギュダンヴィエルの当主に呼び 出された。解ったら、今すぐ確認して、さっさと正門を開けろ。客 を待たせるな、グズども﹂ *** ﹁ようこそおいでくださいました﹂ とんでもなく古い石造りの家に入ると、メイド服とは違った、一 風変わった服をまとった女性が、案内に来た。 細身のパンツスーツのような服を纏っている。 汚れ仕事を前提にした服ではないようなので、掃除などをする役 目にはついていないのだろう。 秘書のような役柄に見える。 745 ﹁コートをお預かりします﹂ と、俺の背中に回って、襟と袖を取った。 俺が身を少しよじると、気持ち悪いくらい簡単にコートが脱げた。 応接のエキスパートなのか。 そのコートをまた他のメイドに預けると、 ﹁ルイーダ様のところへご案内します﹂ と言った。 ノコノコとついて行く。 流石魔女家というべきか、立派な家に住んでいる。 ホウ家の邸宅もよほど作りがいいが、こんなふうに廊下に隙間な く油絵が飾ってあるということはない。 悔しいが、趣味もいい。 石造りでありながら、木の板が腰丈まで張られた廊下は、石壁の 無骨な印象を上手いこと隠している。 古く、それでいて、掃除も手入れも完璧に行き届いていた。 ﹁こちらでございます﹂ と、ドアを開けた。 俺はその部屋に入る。 すると、女性はすすすっと後ろへ下がり、廊下へ戻っていった。 ﹁こんばんは。ようきたねぇ﹂ 部屋の中で椅子に座っていたのは、百歳を超えているであろう老 746 婆だった。 シャン人としても高齢極まりなく、もういつ死んでもおかしくな いように見える。 こいつがルイーダ・ギュダンヴィエルか。 話はだいたい想像がついているが、こんな歳になっても利権を追 い求める種族なのだろうか、こいつらは。 死の際くらいは心穏やかに暮らしたいとは思わないのかな。 空恐ろしい。 ﹁こんばんは﹂ ﹁そこの椅子に座りな﹂ ﹁言われなくても、勝手に座るつもりでしたけどね﹂ 俺は遠慮無く、老婆の対面にあたる椅子に座った。 体が吸い込まれるような、ふかっとした柔らかい椅子であった。 ﹁そちらは? ホウ家の執事かい?﹂ ﹁僕が連れている使用人など、どうでもいいことでしょう﹂ つまらんことを聞いてきやがる。 どうせ護衛と察しがついているだろうに。 ﹁それは、その通りだねぇ﹂ ﹁それで?﹂ ﹁それで、というと?﹂ ﹁なんの用があって呼び出したのかと聞いているのですよ﹂ さっさと話を進めて欲しい。 747 ﹁おやおや、気が早い﹂ ﹁夕食までには帰りたいもので﹂ つーか、ここにきた主目的は﹃このババアと会う﹄なのだから、 ミッションは既に達成しているのだ。 ここからは言わば余談であり、もう帰ってもなんの問題もない。 帰るのになんの躊躇も必要としないし、それを引き止めるのはバ バアの役目だ。 俺が帰っても、ミャロの学費は保証されるであろう。 ミャロがこいつから下された命令は﹃手紙を届けて、ユーリを説 得し、連れてくる﹄なのだろうし、説得のところは置いておくとし ても、俺は現実に出向いたのだから、こちらのミッションも完全に 達成されている。 文句のつけようがないはずだ。 ﹁そうかいそうかい、なんなら夕飯くらいご馳走してやるけどねぇ﹂ ﹁孫を脅しの道具に使ってくる人間の家で、夕食をご馳走になると いうのは、あまり賢い行動ではないでしょう﹂ 俺は仲良く話をしにきたわけではなかった。 友好的な態度をとる意味もない。 ﹁こちらとしても、ホウ家の跡取り息子に毒を盛るのは、賢い行動 ではないわいな﹂ そりゃそうだろうな。 748 俺を殺したとなれば、本格的にホウ家を敵に回す。 だいぶ社が大きくなった今に至っても、まだヤクザが雪崩れ込ん でいないのは、そのせいであると、俺は読んでいた。 打ち壊しや暴力行為を行うのはいいが、その中に俺が紛れ込んで いたら、場合によっては殺してしまう可能性がある。 そうしたら、下手をするとホウ家は軍をあげて首都にのぼってく るだろう。 実際そうなるかは置いておくにしても、魔女家側からしてみれば、 そこまで読むのは当然のことだ。 それは幾らなんでもマズいので、今でも嫌がらせは間接的なもの に限られているのだ。 ﹁どうでもいいことです。どのみち、こんなところで食事をしても、 味など解らない﹂ ﹁騎士院の食堂で孫と食事をすれば、そちらのほうが美味しいのか い?﹂ つまらんことを聞いてくるババアだ。 ﹁当たり前でしょう。親友とする食事であれば、塩をかけただけの パンでも美味しく感じられるものだ﹂ 少なくとも、こんなところで食うメシよりはな。 ﹁⋮⋮なるほどねぇ﹂ ババアは、俺がミャロのことを親友と呼んだことから、何かを読 749 み取っている様子であった。 まずったな、失言だったか。 ﹁さっさと話を始めてください﹂ ﹁うすうす感づいてるんだろう?﹂ ﹁さてね﹂ こういう連中の前で、わざわざ自分の思考を晒すのは得策ではな い。 十中八九はホウ社のことだろうが、他にも心当たりは幾らでもあ った。 ミャロのことかもしれないし、キャロルのことかもしれない。 下手をするとカーリャのことかも。 ﹁あんたがやってる商売のことさね﹂ やっぱり社のことだったか。 ﹁それで?﹂ ﹁ウチの傘下に入りな。そうすりゃ、守ってやる﹂ 俺は吹き出しそうになった。 誰から? お前らのご同胞から守ってもらうのか? お前らに金を払って? ウケ狙いかよ。 馬鹿も休み休み言え。 750 ﹁守ってやる?﹂ ﹁大騎士様には気に触る言葉だったかね。だけどね、王都には王都 のしきたりってもんがあるんだよ﹂ しきたりを破っているのは重々承知している。 だが、こいつらのいうしきたりというのは、誰が決めたものでも ない。 もちろん王家が発した法令の類でもない。 長い時間をかけて、悪しき習慣が根付いていって、こいつらはそ れを自分に都合よく﹃しきたり﹄と呼んでいるだけだ。 しきたりを守れ、というのは、その悪しき習慣に染まれと言って いるのと同じで、そんなもん知ったこっちゃなかった。 ﹁それで?﹂ ﹁だから、それを乱すってことは﹂ ﹁いや、違いますよ。いくらで守ってくれるんですか?﹂ ﹁⋮⋮そうさね、儲けの二割と言いたいところだけど、特別に一割 でいい﹂ 一割。 ふざけた話である。 税金かなにかかよ。 ﹁話になりませんね。それでまけているつもりとは﹂ バカバカしい。だれが払うか。 751 ﹁じゃあ、どんな値段ならいいんだい﹂ ﹁さあ、そもそも取引するつもりはありませんでしたからね﹂ ホウ家は将家だし、その息子が魔女に膝を屈して助けを求めたな んてことになったら、大問題になる。 最初から取引する気などなかった。 1%程度なら、こちらも膝を屈したことにはならないから、構わ ないかと思って聞いてみたが、一割とは。 ﹁そうですね、月々ホー紙を三十枚、尻を拭く紙としてここに納め るくらいなら、やってあげてもいいですよ﹂ ﹁お前さん、なめてんのかい?﹂ ルイーダのか顔色が変わった。 ﹁さてね﹂ ﹁この界隈ではね、根拠のない自信に縋っていると、とんでもなく 痛い目にあうんだよ﹂ まー、そうやって何人も痛い目に遭わせてきたんだろう。 ハロルあたりはそんな感じだろうな。 ﹁老人の説教癖には困ったもんですね﹂ ﹁なんだって?﹂ ﹁僕の抱く自信が身の丈にあったものかどうかは、僕が知っていれ ばいいことだ。他人にしたりげに説教されることではない﹂ 他人の評価で自分の身の丈を決めていたら、しぼむ一方である。 人並みに身を立てることはできない。 752 ﹁若者らしい無謀だね﹂ ﹁どうでしょう。無謀かもしれないし、正確な分析かもしれない。 それは、試してみなければわからない﹂ ﹁若造には解らないのかもしれないけどね、たった二人でギュダン ヴィエルの家に来て、そういう無茶な口をきくのは、誰がどうみた って無謀なんだよ﹂ ルイーダはパンパン、と手を叩いた。 後ろの扉がガチャリと開いた音がする。 ゴロツキでも現れて、俺と従者をしばきあげるつもりだろう。 やっぱりナメてんだな、根本的に。 ﹁ソイム、やれ﹂ 俺は後ろも見ずに言った。 床板を踏み割るような踏み込みの音と、拳で何かを殴る音が聞こ えた。 ﹁ガハッ!﹂ 誰とも知らぬ男の野太い声が響き、ガシャンと家具が壊れる音が した。 そのあと数合、人を殴ったり投げたりする、けたたましい音が聞 こえたかと思うと、急に静かになった。 そして、バッタン、と扉が閉まる音が聞こえ、ソイムが勝手に扉 を締めたことを知った。 753 できておるのう。 確かに、誰かに部屋の中の惨状を見られて、大騒ぎになってはコ トだ。 なりわい ﹁失礼ですが、なめているのはどちらですか? 僕らは戦争を生業 としている一族ですよ。不良どもを従えて偉ぶっている貴方がたと は、根本的に違う。一緒にしてもらっては困ります﹂ ギャングが軍隊に喧嘩を売るようなものだ。 ある意味で、こいつらも平和ボケしているんだろう。 ﹁⋮⋮ふん、度胸はあるようだね﹂ ﹁あなたもね。感心しますよ﹂ 今やこの場における戦力は逆転している。 もちろん、俺がなにをするわけでもないことを確信しているのだ ろうが、動じる様子もないというのは、たいした肝の座りようだ。 ﹁交渉は決裂だね。勝手におし﹂ ﹁言われなくとも、勝手にしますとも。孫の学費をタテに人を脅し てくるセコい連中などと、取引をするつもりはありません﹂ ﹁やけにそれに拘るねぇ﹂ ﹁当たり前でしょう。ミャロは申し分なく良くやっている。脅すに しても幼稚にすぎる﹂ いかに魔女家で男が冷遇されているにしても、金にまったく困っ ていない家が、学費を止めて学院をやめさせる、などという行為は 許されるものではない。 754 学院を卒業するということは、この国では貴族として一人前とい う資格を与えられるのと同義である。 騎士院か教養院、いずれかの院を卒業しなければ、騎士としても、 中央の官僚としても、栄達の道はない。 預家の連中と同じ、紙の上だけの貴族になってしまう。 ルイーダがやった脅しは、脅しとしても程度が低い。 ﹁どれだけ優秀だろうが、知ったこっちゃないね﹂ ﹁あなたが入れたんでしょうに。どれだけ自分勝手なんだか﹂ 呆れた女だ。 俺のクソオヤジでさえ、思い通りの学部に入らなかったからとい って、学費を干すなんてことはしなかった。 ﹁あたしが入れたんじゃないよ。やつが勝手に入ったんだ﹂ なんだって? ミャロはこいつに無断で入ったのか。 いや、まあ、そういうこともあるか。 教養院を蹴って、当人の希望で騎士院に入るってのは。 憧れだったんだろうしな。 しかし、ミャロもとんでもないことをするものだ。 ﹁勝手だろうがなんだろうが、あれだけ優秀なら、将来は近衛にで も入って立派に出世するでしょうに﹂ 755 セブンスウィッチズ さすがに七大魔女家の子を入れる将家はないから、就職するとし たら近衛になるだろうが、それはそれで何の問題もないだろう。 魔女家としても恥じる必要など全くない、立派な就職先であるし、 出世すれば手駒にもなるのだから、文句があろうはずもない。 ﹁なにを言ってるんだい。近衛はカースフィットの管轄だろうに。 やつが入れるわけがないよ﹂ ふーん。 そういう事情があるのか。 しかし、こいつが言ってるのは第二軍の話で、正真正銘の王軍で あるところの第一軍には参加できるはずだ。 ﹁どちらにせよ、あなたにとっては要らない子でしょう。どうせ冷 たく扱うのであれば、卒業する院くらい自由に決めさせてやるのが 親心というものだ﹂ ﹁はあ? 要らない子だって?﹂ ﹁あなたは、ミャロが男だからこういうふうに、意地の悪いことま でして、冷遇しているのでしょう。それが懐が狭いっていうんです よ﹂ 女に産まれたら文句なかったってのか。 ほんとにバカバカしい家である。 ﹁あんた、ぷっ、ぶわっははははっ、あははははっ﹂ ルイーダは突然、大笑いに笑いだした。 756 ﹁アッハッハッハッハッ﹂ なんだ? なんか変なこと言ったか? 分からない。 何が笑えるポイントだったのだ? ﹁あんた、あれが男だと思ってるのかい!?﹂ ⋮⋮は? なんだって? ﹁あれは生まれた時っから女だよ! なんだ、男だと思ってたって のかい、あはははははっ! どうも話が噛み合わないと思ったら! ! こっちはもう、あんたに抱かれてると思ってたってのにさ!! こんなにおかしいこたぁない!﹂ ???????? なんだって? えっ? ミャロが女??? いや、いやいやいや。 男だろ。 男のはず。 いや。ちょっとまて、この流れはまずい。 757 とりあえず、どうでもいいんだ、そこは。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ こういう場合は、全てを棚の上にあげて、どうでもいいというこ とにするんだ。 相手のペースになってしまう。 ﹁ま、いいでしょう。話は終わった。ミャロの学費は無事。僕はこ れで帰るとしますよ﹂ こういう場合はさっさと帰るに限る。 多少バツは悪いが。 ﹁あはは⋮⋮、帰るのはいいけどね、学費をいつ出してやるといっ た?﹂ ⋮⋮⋮⋮あのさぁ。 普通に話できないのか? こいつらは。 ほんとにうざってぇやつらだな。 ﹁構いませんよ。そうしたら、僕が得をするだけですから﹂ ﹁なんだって?﹂ ﹁退学の危機になったら、ミャロにはギュダンヴィエルと縁を切っ てもらいます。そして、ミャロは僕の義理のきょうだいになる﹂ ﹁はあ?﹂ 思いがけもしない選択肢だったのか、ルイーダは笑うのも忘れて、 眉根を寄せた。 一矢報いたな。 758 ﹁父上に、ミャロを養子にしてもらうんですよ。なんなら、学費く らい僕が出してやったっていい。いっそ、ミャロの喜ぶ顔が浮かぶ ようだ﹂ ﹁そんなこと﹂ ﹁できないこともない。学費を止めて、無理に学校を辞めさせるよ うなことを、あなたがすればね﹂ これは実際にできるだろう。 学費など痛くも痒くもない金があるのに、学費不払いで学校を辞 めさせるなどという非道を行っておいて、子どもから絶縁状をたた きつけられたら、それは許さない。というのはおかしな話だ。 ﹁それでは、僕は失礼します﹂ 勝手に席を立って、ここで初めて振り返ると、そこにはソイムが 立っていて、足元には四人の筋骨隆々の男が気絶していた。 ジジイがいなかったらヤバかったかな、こりゃ。 759 第045話 キャロルの冒険︵上︶ 別邸に着いた。 ﹁いやぁ、若君の鋼の心胆、このソイム、感心しましたぞ﹂ ソイムはなにやら、先ほどのやりとりに感じ入るものがあったよ うだ。 馬車の中にいたときから、しきりに俺を褒めたたえていた。 俺としては、若干ババアにしてやられた気がして、不満なくらい なのだが。 ﹁ああそう﹂ ﹁久々に胸が踊る気がいたしました﹂ ﹁そりゃよかった。ご苦労だったな﹂ ﹁いえ。あのような用事であれば、いつでもお呼び立てください。 若返る気分がいたしますので﹂ そうさせてもらおうかな。 ソイムには長生きしてほしいし。 普通は寿命が縮むであろう修羅場が、若返りの秘訣というのもど うかと思うが。 ﹁じゃあ、俺は寮に戻る。今日は本当に助かったよ﹂ 760 *** 寮にはミャロはいなかった。 用事が済んだことを伝えて安心させてやりたかったのだが⋮⋮。 食堂で遅く冷えた夕食を、結局は一人で食って、寝ようかと思い 部屋に戻ると、キャロルがいた。 キャロルは、真ん中の自分のベッドにあぐらをかいて座りながら、 ベッドに開いた本を読んでいる。 俺に気づくと、顔をあげた。 ﹁遅かったな、なにをしていたんだ﹂ ﹁ちょっと野暮用でな﹂ お前はなにをしているんだ、と聞きたい。 ﹁ミャロの用か﹂ ﹁なんでわかった﹂ エスパーかよ。 ﹁ついさっき、見知らぬ客が玄関に来て、ミャロを呼んだと思った ら、血相変えてすっとんでいったからな﹂ あちゃー。 入れ違いか。 ﹁どんな客だった﹂ 761 ﹁さあ、テラスからちらっと見たが、縮れ毛で黒髪の女で、細身だ ったが、男物のズボンを穿いていたな﹂ ああ、俺を案内した女だ。 やっぱり、特別な役柄なんだろう。 メイド長なんだか、執事長なんだか。 ﹁ふーん、まあいいや。ミャロの件は済んだから﹂ ﹁どういう要件だったんだ?﹂ ﹁それは話せないが、とにかく済んだ﹂ ﹁それならいいんだが﹂ 深くは聞いてこないらしい。 よかったよかった。 ﹁そういえば、ミャロといえばさ、ミャロって体つきも薄いし、女 っぽいよなー。ホントはあいつ、女だったりしてー⋮⋮ハハ⋮⋮﹂ ⋮⋮駄目だ。 カマかけて探ろうとしたら、なんか変になっちまった。 ﹁なんだ、やっと気づいたのか﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮いや﹂ ﹁フフフ、気づいていないのはお前くらいのものだったが、ついに 気づいたというわけだ。お前も肝心なところで抜けているな。あは は﹂ 嬉しそうに笑ってやがる。 762 くそったれ。 ﹁⋮⋮お前は最初から気づいてたのかよ?﹂ ﹁私はここに入ってすぐにわかったぞ。なにせ、寮にふたりきりの 女だからな。なにかと協力しあっている﹂ マジかよ。 なんてこったい。 ﹁というか、気づいてない奴のほうが少ないんじゃないか? ふつ う、あの容姿を見れば、男じゃないことくらい、わかるだろう﹂ 言いたい放題だ。 ﹁はあ⋮⋮﹂ しかし言い返せない。 落ち込むぜ。 親友とかいっておきながら、そんなことにも気づかないとは。 *** ﹁ところで、おまえ明日ヒマか?﹂ キャロルが聞いてきた。 なんだ? いきなり。 763 ﹁一日中ヒマというわけじゃないが﹂ ﹁ヒマなら、私に付き合ってくれないか﹂ ? ﹁王城で用事でもあんのか?﹂ 確かに明日は休日だが。 ﹁いや、私もそろそろ大人だ。民衆の生活を見て回りたくてな﹂ ???? なにいいだしてんの、こいつ。 ﹁変装して街にでかけてみようと思うのだ﹂ ﹁いやいやいや﹂ お忍びで遊んでみたい年頃ってか。 それ、危険だから。 ﹁お前なら貧民街のあたりまで熟知しているだろうし、適任だろう﹂ ああ、ここにハリセンがあったらな。 頭ひっぱたいて﹁なんでやねん!!!﹂って言ってやるのに。 ﹁最近の貧民街は物騒だから、俺だって行くのは最低限だし、そも そもお前は変装してもそのキンキラキンの金髪が目立ちすぎて、ど うしようもねーだろうが﹂ キャロルは金髪碧眼だ。 これはもうどうしようもなく目立つ。 764 千人の中に紛れてたって一目で解る。 なにせ、俺はずいぶんと王都を歩いたが、女王一家以外に一人も 金髪を見たことがないのだ。 ﹁私も馬鹿ではない。それくらいのことはわかっている。こういう ものを用意したのだ﹂ キャロルは枕の下から茶色のなにかを取り出した。 俺は最初、毛皮か? と思ったが、どうも違う。 茶髪のカツラであった。 用意がいい。 ﹁ちょっとかぶってみろ﹂ ﹁いいぞ﹂ キャロルは薄糸で作られたネットのようなものを頭に被り、髪の 毛を全部そこにしまうと、ばさっとカツラをかぶった。 なにでできたネットなんだろう。 どうも、一般的な糸のようには見えず、ナイロンのような一本も のの繊維のように見えた。 クジラのヒゲかなんかか? それにしても、カツラをかぶってみると、前髪が妙に長く、具合 がよかった。 目のあたりまで垂れているので、碧眼のほうも上手いこと隠れる。 キャロルは元の髪の毛が多いので、頭のボリュームがやたら大き く見えるが、許容範囲内だろう。 765 ﹁なるほど、考えてるな﹂ ﹁そうだろうそうだろう。それじゃ、明日はよろしく頼むぞ﹂ いつの間に本決まりになってるんだ。 ﹁いや、なんで俺が﹂ ﹁おまえしかいないからだ。他の知り合いは、きっと駄目だと言う だろうし⋮⋮﹂ まーそりゃそうか。 ﹁頼む。いつかはこの国の王になろうというのに、自分が住む王都 をまともに見て回ったことがないなんて、私は嫌なのだ﹂ うーん⋮⋮。 それはその通りなんだよなぁ。 俺もそれはどうかと思うし。 ﹁しょうがないな﹂ どうせ一日の半分以上はヒマだしな。 *** ﹁おいっ、起きろ。朝だぞ﹂ という声で起こされた。 766 ﹁ん⋮⋮?﹂ なんだか体がだるい。 体がもっと眠りを欲している感じがする。 ﹁朝か。うーん⋮⋮﹂ 俺は、けだるい体をベッドから起こした。 ⋮⋮ん? 外を見ると、まだ少し暗いのだが⋮⋮。 ﹁起こすの早すぎだろ⋮⋮﹂ えーと⋮⋮今日の用事はなんだったっけな。 ﹁俺の用事は昼からなんだが⋮⋮﹂ そうか、昨日、キャロルを街に連れてくとかっていったんだっけ か。 ﹁もう朝だぞ。朝食も始まってる。早くいくぞっ﹂ どんだけ早起きなんだよ⋮⋮。 おばあちゃんか何かかよ⋮⋮。 だが、残念ながらキャロルの目はらんらんと輝いていて、元気い っぱいの様子だ。 意識に一点の曇りもなく、一切の眠気は夜まで襲ってこないだろ うことを伺わせる。 二度寝したいといっても許してはくれないだろう。 767 ﹁しょうがねえな⋮⋮﹂ ﹁よし﹂ 下に降りて食堂へ行くと、案の定ほとんど誰も居なかった。 確かに食事は提供されているようだが。 平日はこうでもないのだが、休日は目覚ましの鐘が鳴ることもな いので、やっぱり俺のように惰眠をむさぼるのが普通なのだ。 ﹁おはよ﹂ 食事を受け取るところへいくと、おばちゃんが挨拶してきた。 ﹁おはよう﹂ キャロルがハッキリと挨拶を返した。 ﹁⋮⋮おはようございます﹂ ﹁今日はパン二倍で頼むぞ﹂ おいおい朝っぱらから⋮⋮。 ﹁⋮⋮俺はいつもので﹂ ﹁ヨーグルト追加だね﹂ ﹁おまえ、ヨーグルト好きだな﹂ ﹁健康に良いからな﹂ それにここのヨーグルトは味が濃くておいしい。 ﹁保存にいいとは聞いたことがあるが、健康にいいというのは聞い たことがない﹂ ﹁健康にもいいんだよ﹂ 768 この国ではパンにつけるものといえば塩バターだが、どうも摂っ ている量をみると高血圧になりそうだ。 騎士院では汗をかくから問題は少ないにしても。 ﹁はい、どうぞ﹂ おばちゃんは両手に持ったトレーを俺とキャロルの前に置いた。 ﹁うむ、ありがとう﹂ ﹁どうも﹂ キャロルと俺は同じテーブルにトレーを下ろすと、ぱくぱくと食 事をはじめた。 キャロルはバターが染み込んだパンをもくもくと食べてゆく。 なんとまあ食欲旺盛なことだ。 思えば、こいつも寮に入った当初はお嬢様みたいな食い方をして たっけな。 パンをこまごまと千切って一々バターを付けて食ったりして。 そのうち、だんだん千切るパンの大きさが巨大になっていき、今 でもさすがに丸のままのパンにかぶりつくような真似はしないが、 そんな小さな口によくもまあ入るものだ。という大きさに千切って は口に放り込んでいる。 ﹁よし、食事も済んだことだし、行くとしよう﹂ 瞬く間に食い終わったキャロルが言った。 ﹁はえーよ。まだ全然食い終わってないんだが﹂ こっちは体がだるくて目をパチパチしながらメシ食ってるっちゅ ーに。 769 ﹁う⋮⋮そうだな。今日はおまえのペースに合わせるとしよう﹂ ﹁どんだけ急いでんだよ⋮⋮﹂ ﹁楽しみなことに気が急くのは当たり前だ。しようがない﹂ そんなに楽しみなのかよ。 別にどこいくってわけでもないのに。 *** ﹁それじゃ、行くとするか﹂ 顔を洗って部屋に戻ると、俺はそう言った。 ﹁そうだな。よしっ﹂ キャロルはいきなり髪を上げて昨日のネットを装着しようとしは じめている。 ﹁こら﹂ ﹁ん?﹂ ﹁なんで変装をして寮から出るつもりでいるんだ? 寮の誰かに見 られたら、俺が茶髪の女を自分の部屋に連れ込んでいたことになっ ちまうだろーが﹂ ﹁えっ⋮⋮あ、そうだな。じゃあ、どうしよう﹂ ﹁変装の用意だけ持って寮を出て、使ってない教室かどこかで着替 えて、そのまま学院を出ればいいんじゃないか?﹂ ﹁そうか⋮⋮そうだな、わかった。よし、そうしよう﹂ 770 キャロルはかばんを取り出した。 かばんは最上等の皮のもので、どうやってプレスしたのか、王室 の家紋の形に凹みができている。 なにからなにまでランクが違うなこいつは。 ﹁これを使え﹂ 俺は入寮のときに持ってきたカバンをやった。 ﹁⋮⋮? なんでだ?﹂ ﹁そんなに堂々と王室の紋が入ってたら、王城にでも入って盗んで きたものかと思われちまうだろ﹂ そもそも、それを警戒して紋章をつけてあるのかも⋮⋮。 刺繍ならともかくプレスしてあるんじゃ消しようがないし。 ﹁そういうものか。ここはお前の言うとおりにしておこう﹂ キャロルは俺のかばんに変装道具を詰めはじめた。 服も詰めた。 あーあ、そんなぐちゃぐちゃに詰めちゃって。 畳むってことを知らんのか。 お嬢様かよ。 お嬢様だったな。 ﹁よし、行くぞ﹂ 771 ﹁そうだな﹂ 先行きの不安を感じながら寮を出た。 *** ﹁⋮⋮う∼∼∼ん﹂ ﹁どうした? なにか変か?﹂ 変装から帰ってきたキャロルは、俺から見ても、どこに出しても 恥ずかしくない美人さんだった。 だけど、これは⋮⋮うーん。 仕方ないっちゃ仕方ないのかなぁ。 服が良すぎる⋮⋮。 見た目はシンプルなシャツとスカートだけの服装だが、シャツ一 つとっても、絹のような細い糸で紡がれた光沢のある布で、その上 から物凄い手間がかかっているであろう薄く細かい刺繍が全面に施 されていた。 スカートは、フレアスカートのようなものだが、これにも微妙に 裾のほうに銀糸の刺繍が施してあり、寸法の合い具合と仕上がりを 見ると、やはりこれもキャロルのために腕のいい職人が仕立てたも のなのだろう。 それはそれは趣味の良い服装なのだが、これほどになると、王城 の中枢部にしまっておかないと、危なくて仕方がない。 772 街なかなどに出したら、宝石が服を着て歩いているようなもので ある。 だが、これはキャロルの準備不足とも言えないだろう。 キャロルの立場じゃ、庶民の服を手に入れるというのは難しいだ ろうしな。 ﹁まー、とりあえずは俺がいつも服を買っている店があるからな。 そこへ行って着替えよう﹂ 学院からならすぐだし、服屋は別邸の近くで、歩いてもいける。 あのへんは治安もいいから、道中襲われる心配はないだろう。 ﹁えっ、これじゃだめなのか﹂ 素で驚いてやがる。 ﹁俺の服を見てみろ。めちゃくちゃ違うだろうが﹂ 俺の服装はといえば、職人の息子が着ているようなボロ服だった。 誘拐未遂の一件があってから気をつけていて、寮のほうにも一着 常備してあるのだ。 これも悪い服ではないが、キャロルの服と比べれば、これはもう 石ころとダイヤモンドくらい違う。 ﹁夜会に行くんじゃないんだから、庶民の街へ行くなら庶民の服を 着ないと﹂ ﹁そ、そうなのか⋮⋮じゃあ案内してくれ。その服屋というところ に﹂ 773 *** 俺はドンドンと服屋の扉を叩いた。 まだ朝が早く、服屋はまだ開いていない。 だが、俺はしつこくしつこく叩き続けた。 ドンドンドン、ドンドンドン ﹁なんだァ! うるせぇな! まだ開いてねえよ!﹂ あ あ ふう、やっと出てきた。 開かぬなら、開くまで叩け、店のドア。 やってみるものだな。 出てきたのは、まだ二十くらいの若い男だった。 息子のほうか。 ﹁なんだ、お前かよ﹂ 息子は俺を見て言った。 何回か服を購入しているので、顔見知りなのである。 ﹁わるいな、ちょっとこいつの服を見繕ってやってほしいんだ﹂ ﹁あーん?﹂ 野郎はキャロルに目を向けた。 ひとめ見ただけで、目が釘付けになったらしい。 774 ﹁おまっ、これ、どんだけ⋮⋮ちょ、これ、おいおいすげーな!﹂ なにやら興奮している。 キャロルに近寄って、まるで体臭をかごうとしているかのように、 しげしげと服を見ていた。 服の出来の良さにびっくりしているようだ。 ﹁まあま、まあまあ入れよ!﹂ 開店前だからだいぶゴネられると思ったが、向こうから入ってく れとは。 なんとまあどういうことだろう。 こいつからしてみれば、画廊に客がモナリザを持ち込んできたよ うな感じなのだろうか。 ﹁なんだこいつは?﹂ キャロルはなんだかゴミを見るような目で服屋の息子を見ていた。 こんなに不躾に体を見られる経験は、産まれてこの方なかったに 違いない。 体を見られているというか、服を見られているのだろうが、キャ ロルからしたら同じことであろう。 ﹁服が好きなだけだ。許してやれ﹂ ﹁⋮⋮そうか?﹂ ﹁いざとなればなんとでもなる。ほら入れよ﹂ 775 キャロルも俺も短刀を帯びているわけで、服屋に入ったところで 危険なことにはなりようもない。 それもそうだと思ったのか、キャロルは店の中に入っていった。 俺が後に続いて、ドアを閉めると、 ﹁こりゃ王家御用達のル・ターシャのオートクチュールだよ⋮⋮ち ょ、ちょっと触っていいか?﹂ 野郎は、ここでも舐めまわすようにキャロルの服を見ていた。 見ただけでどこの服か解るのか。 有名なブランドかなんかなのかな。 ﹁中身があるんだから触るなよ﹂ 服を触るにしても、中身があったら痴漢になってしまう。 体じゃなくて服を触るつもりだったんです。 そんな言い訳は通らない。 ﹁お前、中身って私のことか﹂ ここはスルーしたほうがいいだろうな。 ﹁先に服を見繕ってくれ﹂ ﹁見繕えってったって⋮⋮こりゃ、こんな服の変わりなんて、うち じゃとても用意できねえよ﹂ ﹁俺と同じような程度に見える服でいい﹂ ﹁そんな⋮⋮なんてもったいねぇ。着たいと思って着られる服じゃ ねえのに﹂ 776 俺の時はもったいないなんて一言も言わなかったくせに。 そりゃ着てた服の程度は違うけどよ。 ﹁今日は下町に行くんだ。その服で行って追い剥ぎにでも会ったら 大変だろ。下手をすると破かれちまうかも﹂ ﹁そんなこと、とんでもねえ﹂ ﹁だから服を変えにきたんだよ。さっさと見繕ってくれ﹂ ﹁⋮⋮わかったよ﹂ 奥のほうへ入っていった。 ﹁なんなんだ? あの男は﹂ どうやら会ったことのないタイプらしく、キャロルはずいぶんと 困惑している様子だ。 ﹁服屋だから、服が好きなんだろう。お前の着る服なんかは、中流 の連中にとっちゃ一生見る機会もないような服だからな﹂ ﹁ふうん⋮⋮そうなのか﹂ そういう意識がないらしい。 家にあった服を適当に持ってきたって感覚なのか。 ﹁まあ、おまえをどうこうしようと思ってるわけじゃない。安心し ろ﹂ ﹁それはそのようだがな﹂ ややあって、息子は帰ってきた。 777 ﹁こんなもんでいいか?﹂ と差し出してきたのは、どこぞの商人の娘が着ているような服だ った。 微妙に刺繍がはいっているが、安っぽいし、刺繍部分は擦り切れ ている。 うーん、まあ、こんなもんならいいかな。 中古服っぽいし。 ﹁それでいい。値段は、これくらいでいいか?﹂ 俺は銀貨を四枚ほど取り出して、置いた。 ﹁毎度のことながら太っ腹だなぁ﹂ ﹁開店前に無理に開けさせちまったからな。その分だ﹂ ﹁この場で着ていくんだろ?﹂ ﹁もちろん、そうだ﹂ 俺は上下を受け取ると、キャロルに押し付けた。 ﹁これを着ればいいんだな﹂ 服を受け取ったキャロルは言った。 ﹁ああ、着てくれ﹂ ﹁えっと⋮⋮それで、どこで着替えるんだ?﹂ ??? 目の前に試着室があるんだが。 778 あ、そうか。 こういう試着室がある服屋に来たことがないのか。 ル・ターシャとやらも、店には試着室があるのだろうが、多分キ おこな ャロルの場合は採寸も着付けもなにもかも、職人が王城まで出張っ てきて行っているんだろうし。 ﹁そこに入って、カーテンをしめて、着替えるんだ﹂ 俺は試着室を指さして言った。 ﹁えっ⋮⋮﹂ なにやら絶句しているようだ。 ﹁わ、わかった。そういう仕組みなのだな﹂ そういう仕組みなんだよ。 キャロルはそそくさと試着室の中に入っていった。 ﹁あと、帽子くれ﹂ よく見りゃ、あいつのカツラは髪質がよすぎる。 下町では、あんなに髪の毛が綺麗な女は、水商売以外では殆ど居 ないから、少し異常に見えてしまう。 ﹁わかった。ところで、下取りは﹂ ﹁駄目に決まってんだろ﹂ 仮にも王女の着ていた服をイメクラみたいに売るわけに行くか。 779 ﹁駄目か⋮⋮どの道、店にある金じゃぼったくりになるしな⋮⋮わ かったよ。帽子は、そこのを好きなの一つ持ってけ﹂ 服屋は帽子がたくさん引っ掛けてあるスタンドを指さして言った。 どれがいいかな。 選んでいると、カーテンがシュっと擦れる音が聞こえた。 早いな。 ﹁⋮⋮これでいいか?﹂ 再び現れたキャロルが聞いてくる。 ﹁⋮⋮いいんじゃないか?﹂ なんとゆーか、街で見かける女と比べると、背筋が伸びすぎてい て少しへんな気がするが⋮⋮。 元着ていた服は、足元に落ちている。 ﹁その洋服は持って帰るんだろ⋮⋮痛むといけねえから俺が畳んど くゼ﹂ ⋮⋮下心が見え透いている⋮⋮。 まあ、それくらいは許してやってもいいか。 服屋は試着室の床にあった服を拾って、机に持っていった。 下着は着替えていないし、服屋も変態みたいな顔をしているわけ ではなく、むしろ純粋でキラキラとした目をしている。 まだ体温が残っている脱ぎたての服を持って行かれた形になるわ けだが、キャロルのほうは気にしていない模様だ。 そもそも、そういう変態的な嗜好に関する観念を持っていないの 780 かもしれない。 まあいいや、帽子を選ぶか。 ﹁ほら、これでどうだ﹂ 俺はスタンドから適当な帽子をとって、キャロルに手渡した。 ﹁うん﹂ きゅっと帽子をかぶる。 カツラのぶん頭が大きくなっていると思って、男物を渡したのだ が、どうやらちょうどいいようだ。 服屋の息子を見ると、恋人との別れを惜しむように、ゆっくりゆ っくりと服を畳んでいた。 こいつ⋮⋮。 俺はたたみ終わった瞬間、さっと服をかばんの中に突っ込んだ。 ﹁あっ⋮⋮﹂ ﹁じゃあな﹂ そう言って、キャロルの手を引いて店を出た。 *** キャロルの私服の入ったかばんをホウ家の別邸に預けると、キャ ロルを連れて出発した。 いよいよキャロルの冒険の始まりだ。 781 ﹁着心地はどうだ?﹂ ﹁悪くはないが⋮⋮寸法があっていないようで、少し動きづらい﹂ さすが、生まれてこの方オーダーメイドしか着たことのない奴の 言うことは違う。 ﹁庶民はみんなそんなもんだぞ﹂ ﹁そうなのか?﹂ ﹁ああ。新品の服なんて着られるやつは、あんまりいない。特に俺 たちみたいな子どもは、すぐに成長して服が合わなくなるからな。 子どもの服を数年おきに新調するなんて家は、そうはないよ﹂ 現に、俺も七歳まではルークが買ってきた古着を着ていた。 農作業をさせるような子どもに新品の服を買ってやったってしょ うがない。という理由があったのだろうが。 ﹁へえ、そういうものなのか⋮⋮﹂ ﹁それで、どこに行きたいんだ?﹂ ﹁できれば貧民街のほうに行きたい﹂ ⋮⋮⋮⋮。 ﹁⋮⋮そういえば、昨日貧民街がどうとかって言ってたな﹂ 貧民街というか、スラムとまではいわないまでも貧乏な奴が暮ら すところというのは、王都にだいたい二箇所ある。 北側西区と、南側西区だ。 782 北側西区と南側西区というのは、王都の二大経済中心地区である、 大橋と王城島周辺から遠い。 そして、交通の便がすこぶる悪い。 王都において川を渡るには、王城島の入島許可を得ていない庶民 は、東の大橋を渡るしかないが、この二つの地区は、王都でも大橋 からもっとも離れたところにある。 つまり、この二つの地区というのは、いわば流通経済的に見放さ れた土地なわけだ。 なので、経済的に発展が遅れ、あぶれ者が集まっている。 だが、南側のほうは北側より若干治安はいい。 北側の都市郊外は、痩せた土地が広がるばかりで、働き口が殆ど 無いのだが、南側はそうでもないのだ。 川の流れの関係なのか、こちらは乾いた牧草地帯が広がっており、 放牧の関係で多少は働き口がある。 そのため、治安も北に比べれば若干は良い。 俺の知っているのは南側で、俺の持っている水車小屋は、その地 区を通り抜けた先にあった。 ﹁俺も貧民街を全部知っているわけじゃないけどな、俺の知ってる ところだったら、案内してやるよ﹂ 783 第046話 キャロルの冒険︵下︶ 貧民街を歩いていると、やはりホームレスがよく目につく。 ホームレスたちは、石畳にムシロや布を敷いて寝そべっている。 あるいは、捨て去った家から持ちだしてきたのであろう、毛皮を 敷いている者もいた。 ホームレスは大抵、道路側に皿を置きっぱなしにしているので、 物乞いを兼ねている。 俺は、王都では何度も死体を見てきた。 冬場、水車小屋に行く途中、道端に転がって冷えて固まっている、 物言わぬ死体。 南は北より程度がいいと言っても、そういった死体がないわけで はなかった。 この国では、生活できなければ生活保護で金が出る、などという システムはない。 キルヒナからこちらに来ても、仕事がなく、金を得られず、生活 基盤が整えられなければ、餓死あるいは凍死という未来が待ってい る。 ﹁⋮⋮なぜ、この人たちは、こんなことになっているのだ﹂ キャロルは道っぱたで毛布に包まり、ひたすら座っている垢じみ た人々を見ると、そう言った。 彼らは、一様に顔色が悪かった。 784 季節柄凍死の心配はなさそうだが、飢えたうえ、夜の間中、野ざ らしで石畳の上に座っていたのだ。 具合が悪くなるのは当然だった。 彼らは、うつろな目でこちらを見ていた。 まあ、キャロルがショック受けんのも当然かもな。 温室育ちだし。 ﹁さあなぁ﹂ ﹁さあなって、おまえ⋮⋮﹂ ﹁いちいち教えなくたって、少し考えりゃ解るだろ。働き口がない んだよ。野宿してんのはたいていキルヒナ人だ﹂ 好きこのんで他国から来た人々だ。 冷酷なことを言うようだが、食えなくなったとしても、半ば以上 は自業自得だろう。 もとよりキャパシティオーバーのところに、更に来ているのだ。 働き口は有限なのだから、あぶれるのは当たり前だ。 ﹁キルヒナ人といっても、今は我が国の国民だ﹂ ﹁まー、それはそうかもな。じゃあシヤルタ人って言えばいいのか。 その辺は単なる記号的な問題だろ﹂ ﹁そうじゃなくて⋮⋮我が国の国民なら、こんな貧窮の中で暮らさ なければならないのは、なぜなのだ﹂ ﹁さあな﹂ 俺は﹁なんで﹂という質問の答えについては、心当たりが幾つか あったが、他人の悪口を言っても仕方がないので、黙っていた。 785 ﹁おまえは貴族として責任を感じないのか?﹂ なんだか俺を責める口調になってきたぞ。 責任なんて全く感じないんだが。 ﹁ここはホウ家の領地じゃない。カラクモはこんな有り様じゃない﹂ ﹁だからって、責任がないわけじゃないだろう﹂ ﹁責任なんてねーよ﹂ 俺ははっきりと言った。 ﹁そんなわけはない﹂ 何を根拠に言っているのかしらんが、キャロルは断言した。 ﹁じゃあ、俺に責任があるとして、どうやって責任をとりゃあいい んだよ﹂ ﹁それは⋮⋮民草を救うのだ﹂ ﹁バカ﹂ もー、こいつ何もわかってない。 温室育ちで学校のおきれいな教育しか受けてないから、仕方ない っちゃ仕方ないが。 ﹁⋮⋮私を馬鹿呼ばわりとは、聞き捨てならん﹂ キャロルは立ち止まり、怖い顔をして、俺を睨んできた。 ﹁じゃあ聞くけど、俺が責任持って救います。っていったらどうす 786 んだよお前は﹂ ﹁どうする⋮⋮って、救えばいいだろう﹂ そこが勘違いなんだよ。 ﹁じゃあ、俺の好き勝手にやらせてくれんのかよ﹂ ﹁好き勝手?﹂ ﹁この王都の統治をしてんのは、王家だろうが。貴族様の俺が責任 持って救ってやるっていったら、統治権を俺にくれんのかよ﹂ ﹁そんなの、やれるわけなかろう﹂ 当たり前だ。 統治権という言葉はかなり大づかみだが、それは貴族の生命線で あり、命そのものと言ってもいい。 ﹁じゃあ、どうやって民に対して責任を取るんだよ。裁判権がなき ゃゴロツキどもを退治できねーし、徴税権がなきゃ金持ちから金を 集めて貧乏人にくれてやることもできねーだろうが﹂ そういうものがなければ、手の出しようがないのだ。 もっといえば、王都においてはそういうもんは大抵魔女家の利権 になっている。 ﹁そういう権利こそが、貴族が民衆を導くための道具だろ。こいつ らに対しての責任があるとしたら、この土地でその権利を持ってる やつだ。つまり、王家だろ。なんでホウ家の俺に責任がある﹂ ﹁⋮⋮っ﹂ ぐうの音も出なかったのか、キャロルは口を閉じた。 787 ﹁それとも、俺が今財布に持ってる金を乞食どもにくれてやったら、 こいつらを救ったことになんのか? それとも、ホウ家の騎士団を ここに入れて、力ずくで王家から統治権を奪い取って、善政を施す のが俺の貴族としての責任のとり方なのか?﹂ 横暴な理論かもしれないが、本当にそれくらいしか、してやれる ことはないのだ。 おい何やってんだよもっとマトモな政治しろよ。という意見を実 現しようとすれば、必ず統治権を持っている何者かと衝突する。 政治とはそういうもので、だから結局のところは無責任に金だけ くれてやる、ということしかできない。 そして、王都においては、それをしたところで魔女家の懐に入る だけで、民には届かない。 俺を始め、よそ者の貴族にはどうしようもないことなのだ。 ﹁⋮⋮いや﹂ キャロルはバツが悪そうに黙った。 ﹁⋮⋮すまん、私が悪かった﹂ そして、珍しく全面的に非を認めて、頭を下げて謝った。 ⋮⋮なんかそう謝られると、嫌な気分になるじゃねーか。 俺もなにを本気になっちゃってんだか。 そもそも、貧民街の連中がこうなのは、王家のせいじゃない。 王家に責任がないわけではないが、王家は炊き出しができるくら いの金を恵んでやっている。 つまり、貧民をただ自業自得と見捨てるのではなく、所得の再分 配はしてやっているわけだ。 788 それが十分に効果を及ぼさないのは、魔女家の連中が途中に入る せいで、中間搾取されてしまっているからだ。 俺はそれを知っていた。 ﹁ま、そんなに民を救いたいなら、一つやってみるか﹂ *** ﹁⋮⋮なにをだ?﹂ キャロルは俺に言い負かされたせいか、気分が落ち込んでしまっ ているらしい。 声に力がない。 といっても、別に遊園地に連れてくる約束をしたんじゃないんだ から、心が痛むわけではないのだが⋮⋮。 ﹁そろそろ店も開いたしな﹂ ﹁食べ物を恵んでやるのか?﹂ ﹁そんなもんかな。つーか、これこそ俺の責任って感じもするし﹂ 俺は、手近なところでやっている屋台のような店に入った。 焼いた腸詰めを挟んだパン、つまりホットドックみたいなもんを 売っているらしい。 まだ朝方だが、働きに出るやつが朝食として買っていくのだろう。 ﹁よう、開いてるか?﹂ 789 ﹁開いてるよ、何にする?﹂ そう言ってきた親父は、こんなところで店をやっているだけあっ て、いかにも喧嘩が強そうな大男だった。 ﹁今焼いてるそれ以外になんかあるのか?﹂ ﹁焼きたてとはいかねえけど、ミートパイがあるよ﹂ それだな。 ﹁ミートパイまるごと一つ包めるか?﹂ ﹁あいよっ、朝方からまるまる一つ売れるとは、今日は幸先いいね え﹂ 親父は機嫌よさそうに笑った。 こんなところでも、商売が上手な奴は、きちんと生計が成り立っ ているのだろう。 こんだけガタイが良ければ、強盗も入りにくいだろうしな。 出来合いの物なので、ミートパイはすぐに包まれて出てきた。 料金を払うと﹁ありがとさん﹂といって、俺は屋台を出た。 ﹁それを恵んでやるのか? 現金だとなにかまずいのか?﹂ 屋台から出ると、待っていたキャロルが言った。 別に俺は乞食に恵んでやるつもりはないのだが。 ﹁まあ、見てろって﹂ 俺は、道端で着の身着のまま寝っ転がっている男のところへ歩い 790 ていった。 ﹁こいつだよ、こいつ。この野郎にくれてやるんだ﹂ ﹁この⋮⋮人がどうしたんだ?﹂ ﹁見てろよ、こいつこのパイを貰ったら泣いて喜ぶぜ﹂ ﹁それは、そうだろうな。こんなところで寝ているくらいだから⋮ ⋮﹂ 石畳の上に敷物も敷かず横になってんだもんな。 ﹁せーのっ﹂ 俺はおもむろに足を振り上げて、その男の腹をつま先で蹴っ飛ば した。 ﹁うがっ﹂ だいぶ強く蹴っ飛ばしたので、腹を抑えてもんどり打ってのたう ち回っている。 ﹁っつあぁーーーー!!!﹂ なんだこいつ、滅茶苦茶痛がってるな。 ウケるわ。 ﹁おいっ!!! 何をしている!!!﹂ キャロルが血相を変えて俺の肩を掴んだ。 ﹁まあ見てろって﹂ 791 路上で寝っ転がってた男は、痛みが収まるとやおら立ち上がって、 大声で叫んだ。 ﹁てめえ、何しやがる!!!﹂ 男は見た目、二十代後半で、健康そうな成人男性であった。 やっぱこいつだったか。 見覚えあったんだよな。 ﹁そりゃこっちのセリフだろうが。ボケ﹂ こいつは、俺の知り合いだった。 ﹁あ、会長﹂ ようやく分かったか。 ﹁はあ?﹂ キャロルが素っ頓狂な声をあげた。 ﹁てめー、俺が貸してやってる宿舎はどうした。なんでこんなとこ ろで寝てやがるんだよ﹂ 俺は、わりとマジで怒っていた。 なんなんだよ、こいつ。 ﹁⋮⋮あー、えーっと⋮⋮あれ? すんません、なんだか酒に酔っ て寝入っちまったみたいっす﹂ そりゃ見りゃ解るけんども。 寝ぼけたこと言ってんじゃねーよ。 ﹁てめーよぉ⋮⋮一週間前俺になんつった。女房子どもと路頭に迷 って云々っつってたよなぁ。ありゃ嘘だったのか?﹂ 792 ﹁め、滅相もない! 嘘じゃねえっすよ﹂ ﹁⋮⋮じゃあなんでこんなところで寝てんだよ。寝てるうちに殺さ れてもおかしかねー場所だってわかんねえのか?﹂ 俺でもここを徒歩で夜に出歩くのは遠慮したいし、紙を出荷する ときは社員数名に槍をかつがせて護衛させるのだ。 ここはそういう治安の場所であって、酔っ払って寝転んで無事で あったのは、運が良かったからにすぎない。 財布が抜かれた程度で済めば御の字だ。 ﹁そ、そりゃあ⋮⋮でも﹂ はいはい、酔っ払って眠っちまったから、昨日のことよく覚えて ねーんだろ。 わかってるっつーの。 ﹁明日は休みだからって、昨日飲み過ぎたか? 前後不覚になるま で飲みやがってよぉ。こないだは子どもが腹減って死にそうなんで すとかいって、男泣きに泣いてやがったのに、てめーふざけてんの かよ。てめーが死んだら女房子どもはどうなるんだよ﹂ ﹁い、いや⋮⋮あのぉ、面目ないっす﹂ 面目ないじゃねーっつーんだよ。 ったく、チャラ男はこれだから困るよな。 男泣きを見せた感動の面接から一週間でこのザマだよ。 どんだけやっすい涙だったんだよと。 793 俺の感動を返せと。 ﹁はぁ⋮⋮もういい﹂ ﹁か、会長、もしかしてクビ、っすか⋮⋮。お、お願いします! それだけは、それだけは勘弁してください!!!﹂ もうなんつーか土下座でもせんばかりに頭を下げてくる。 ﹁女房子どもは宿舎で待ってんのか﹂ ﹁は、はい⋮⋮待ってるはずっすけど﹂ ﹁朝帰りじゃ女房もキレてんだろ、どうせ﹂ ﹁そうかもしれないっすね⋮⋮﹂ しょぼくれてやがる⋮⋮。 なんというダメ男⋮⋮。 ﹁朝帰りってのは、男はミヤゲを持って帰って、平謝りに謝って、 怒った女房の機嫌を取るもんだ﹂ 俺はさっき買ったミートパイをチャラ男に押し付けた。 ﹁ほら、このメシもってさっさと帰れ﹂ ﹁⋮⋮え?﹂ ﹁家に帰って家族で食え﹂ 俺がそう言うと、チャラ男は震える手でミートパイを受け取った。 ﹁あ、あ、あ⋮⋮あぁ⋮う、あ﹂ 794 なんだか目に涙を貯めてやがる。 こいつは泣き上戸に違いない。 ﹁あ、あざっす⋮⋮くっ、ありがとございあす、会長﹂ ﹁さっさと帰れ﹂ 俺がシッシッと手で追い払いながら言うと、チャラ男は走って駆 けていった。 *** ﹁ほら、一家の家庭崩壊の危機が救われただろ?﹂ 俺はドヤ顔でそう言った。 ﹁さっきのはお前が雇ってる男だったのか?﹂ ﹁そうだよ。びっくりしただろ﹂ いきなり蹴っ飛ばしたときは、血相変えてたな。 ﹁うん。驚いた⋮⋮﹂ ﹁俺が今雇ってるのは、このへんに住んでる連中ばかりだしな﹂ ﹁そうか⋮⋮口先だけの私とは違うのだな﹂ ⋮⋮なんか急に自虐的なことを言い始めた。 気が晴れるかと思ったが、逆に落ち込んでしまったらしい。 795 ﹁おいおい、なにしょぼくれてんだよ﹂ ﹁私はなにもできてないのに、お前に偉そうなことを⋮⋮人間失格 だ﹂ 人間失格ということはないと思うけど⋮⋮。 お前はどんなに努力しても、あの主人公より下にはなれないと思 うよ。 ﹁まあいいじゃねーか、卒業してから頑張りゃいいことだろ、そん なもんは﹂ ﹁そうかもしれないが、私が身の程を知らない大口を叩いてしまっ たことは事実だ。すまなかったな⋮⋮﹂ なんだ、むず痒くなるじゃねーか。 そんなに素直に謝ってんじゃねーよ。 お前そういうキャラじゃないじゃん。 ﹁ほ、ほら。そろそろ俺の水車小屋に着くぞ。きっと面白いぞ﹂ そうはいっても、まったく自信はなかった。 というか、考えてみたら、あそこに面白い要素ってあったっけ? 水が綺麗な河原で水遊びできるくらいか。 あとは、市街地を抜けて郊外にはいったところだから、見晴らし がよくて気持ちがいい日も、なくもないってくらいか。 う、うーん⋮⋮。 *** 796 水車小屋に着いた。 ﹁おい、水車じゃないか﹂ ﹁だから水車小屋って言っただろうに﹂ 水車は今日も今日とてぐるぐると回っていた。 働きものの水車である。 ﹁初めて見た﹂ 初めて見たとは。 なんとまあ。 川の多いシヤルタ王国では、街道を歩いていれば水車小屋を見か ける率は高いのだが。 水車小屋と一口にいっても、今では建物自体がいくつか増えてい る。 創業当時はこの水車小屋が一つだけだったが、すでに作業場とし ては使っていない。 近くに三棟の木造掘っ立て小屋ができていて、そこが作業場とな っていた。 水車小屋は、三棟の建物に水車で揚げた水を分ける、いわば揚水 小屋となっていて、中は枝分かれした水道管が走っており、作業場 として人が行き来するには不便になってしまったのだ。 ﹁よう、ユーリ。来たのか﹂ ﹁うん﹂ 797 カフである。 ﹁⋮⋮? そちらの女性は?﹂ カフはキャロルを見て言った。 ﹁私はキャロ﹂ ﹁オードリーだ﹂ 何を素直に本名を喋ろうとしているんだ、こいつは。 ﹁⋮⋮オードリーだ。よろしく﹂ なんとか合わせてくれた。 ﹁また連れてきた女を入社させるのか﹂ 前例が一つしかないのに人聞きの悪い⋮⋮。 つーか、こいつが入社したら、俺のほうが困っちまうよ。 ﹁いや、見学だ﹂ ﹁そうか⋮⋮まあビュレは優秀だから、悪いということはないがな﹂ ﹁ところで、ちょっと聞きたいことがあるんだけど﹂ ﹁なんだ?﹂ ﹁耳を貸せよ﹂ ﹁ああ⋮⋮﹂ 俺はカフに近づいて、耳元で言った。 ﹁おまえ、ミャロが女だって知ってたか?﹂ 798 ﹁⋮⋮あのなぁ﹂ カフは耳を離すと、やや呆れた様子で言った。 ﹁やっぱり知らなかったのか﹂ カフ:あのなぁ、そんなわけないだろうが。ミャロは男に決まっ ているだろう。 俺:ああやっぱりお前もそう思ってたんだな。実は俺も、最近ま で知らなかったんだが、女みたいなんだ。 カフ:おいおい、嘘だろ? そ、そんな馬鹿なー。 ﹁お前、ほんとに目ぇついてんのか? どうやったら、あの子を男 と見間違えるんだ。どこをどうみたって可愛らしい女の子だろう﹂ ⋮⋮⋮⋮。 はぁ⋮⋮⋮。 なんてこったい。 ﹁おまえ、まだ疑ってたのか⋮⋮﹂ キャロルが哀れみの眼差しを向けてきた。 ﹁疑ってはいなかったが、俺だけ気付かなかったってのはな⋮⋮﹂ どうなってんだよ⋮⋮。 もうこの目やだ。交換したい。 ﹁ミャロは、お前だけには気づかれまいと、細心の注意を払ってい たからな。わからなくても仕方がない。そう落ち込むな﹂ 799 ﹁ミャロが隠してようがなんだろうが、五年も一緒にいて気付かな かったなんておかしいだろうが。やっぱり俺に欠陥があるんだ﹂ 俺の方こそ人間失格なんだ。 一番の友だちの性別もわからないなんて。 ﹁⋮⋮まあ、その、なんだ、そう気を落とすな﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮そうだな﹂ ﹁なにがあったのかは知らんが⋮⋮。ユーリ、油の加工を任せた奴 が困ってたぞ。どうも上手いこといかんらしい。暇なら行ってやれ よ﹂ ああ、そういえばそれが心配で来たんだった。 単純にカフにミャロのことを聞くという用事が半分だったが⋮⋮。 ﹁油の加工? なんだそれは﹂ キャロルの目が輝いていた。 *** ﹁うー、落ちないぞ、この汚れ﹂ キャロルはしきりに手を擦っている。 ﹁触るなっつったのに触るからだ。風呂に入れば落ちるから、無駄 にこするな﹂ 800 風呂というのは偉大で、発汗なのか溶出なのかしらんが、油汚れ くらいは落ちてしまう。 逆に言えば、強力な洗剤のないここでは、風呂に入るまでは中々 原油の汚れを落とすというのは難しい。 ﹁ほんとに落ちるのか?﹂ ﹁ほら、見てみろよ﹂ 俺は手のひらを出した。 今日は指示をするばかりで油に触らなかったので、綺麗なもんだ。 ﹁⋮⋮なんだ?﹂ ﹁四日前は思いっきり手にぶちまけちまって、この手は真っ黒だっ たんだぞ﹂ ﹁へえ﹂ 現実にあった例を見れば納得するだろう。 ﹁だから、あんまりこするな。肌が荒れるぞ﹂ ﹁わかった﹂ ﹁よし﹂ ﹁そろそろ学院だな﹂ なんだか感慨深げにキャロルが言った。 もう貧民街と呼ばれる地域は抜け、職人街に入っている。 ここはここで無骨な街で、学院生などは用がないのでほとんど来 ないが、ここまでくれば治安はだいぶ良い。 ﹁なんだったら大市場のあたりも見て回るか?﹂ 801 まだ日は高い。 帰る頃には真っ暗になっているだろうが、大市場の観光くらいは できなくもないだろう。 ﹁王城通りのあたりは頻繁に見ているのだ。馬車の中からだけど﹂ ﹁王城通りとは全然違う。大市場ってのは、庶民の市場だ﹂ 王城通りというのは、王城から北と南に出る通りのことだ。 王城勤めの連中向けの店が並んでいるが、飲み屋からして上流階 級御用達という感じで、あの通りだけ物価が五割くらい違う。 ﹁じゃ、じゃあ⋮⋮頼んでいいか?﹂ なんだか心配そうだ。 ﹁ここからなら大した距離じゃないからな﹂ ﹁それじゃ、頼む﹂ その後、大市場で様々な店を見て回り、寮に帰ったときには夜中 になっていた。 802 第047話 盤遊戯 なんのかんので、俺は十六歳になった。 十六歳ともなると、学院の中でも﹁上級生﹂という扱いを受ける ようになり、いろいろとやらなければいけないことが増えるようだ。 やらなければいけないことが増える。 嫌な響きだ。 といっても、普通の学生であれば、学業のほうは単位にも終わり が見えてきたころである。 時間割にも開いたコマが増えてきて、トータルでいえば入学した 時より楽になってくる。 上級生になって新たに始まるものには、﹁全学斗棋戦﹂と﹁騎士 院演武会﹂がある。 騎士院演武会というのは、騎士院の中で最も強い者を決めるとい う、天下一武⃝会もかくやというイベントである。 二五歳以下十六歳以上の学生から選抜された二名が武を競い合う。 その他にも十名くらい優秀なやつが選ばれて、前座をする。 こいつに出場するのは騎士として何よりの名誉らしいので、二十 歳くらいの連中は、夏の時期メチャクチャ頑張って稽古に励むらし い。 だが十六歳ではさすがに選抜の芽そのものがないので、元より興 803 味のない俺は別にしても、寮内の雰囲気には、そう変わりがなかっ た。 全学斗棋戦というのは、騎士院よりもむしろ教養院向けの催しで、 騎士院も教養院もごっちゃになってトーナメント戦をする。 が、実際は二院の対抗戦という趣が強い。 騎士院のほうは、十六歳以上の学年の寮から、一人づつ代表者を 出さなければならない。 演武会と違って、一人は必ず出られるのだ。 なので、この時期は学生寮でめちゃくちゃ斗棋をやることになる。 むろん、斗棋に興味がないやつというのもいて、そいつらは元よ り関係がないわけだが、俺はそういうわけにはいかなかった。 *** なぜかというと、この寮では、完全に俺とミャロが二強になって しまっているのだ。 これでは、俺が代表者選抜戦にも参加しない、というわけにはい かない。 この選抜戦は、寮内の斗棋愛好者が協議し、トーナメント戦では なくリーグ戦でやることになったのだが、ゲームの上手下手という のは残酷なもので、俺もミャロも、なんと一敗もしなかった。 これなら最初から俺とミャロが一局指せばそれで終わりだったの に。 804 と思わないでもなかったが、やはりこれはお祭り騒ぎを楽しむ催 しであるわけで、それを言うのは無粋であろう。 というわけで、最終決戦は俺とミャロの戦いとなった。 ﹁さぁて﹂ 俺は手を組んで軽く揉んだ。 ・ ・ ・ ・ ・ ﹁ユーリくん、先に言っておきますよ﹂ ﹁ん?﹂ ﹁ボクはこの勝負、負けません﹂ ミャロは珍しくやる気まんまんらしい。 望むところじゃないか。 ﹁そうだな。是非頑張ってくれ﹂ ﹁はい。それでは、サイコロ振りますね﹂ ミャロはコロコロとサイコロを振った。 六だ。 ﹁ロクか。やられたな﹂ これは、出目の多いほうが先手ということになっている。 斗棋は一般的に先手が多少有利とされている。 次に俺がサイコロを振った。 二だった。 ﹁残念でしたね﹂ 805 ﹁そうだな﹂ 俺は内心で多少の嬉しさを感じていた。 サイコロの出目で勝負が決まるわけではないが、不利になるには 違いない。 俺は負けるつもりだった。 ただでさえ忙しいのに、なぜこんな大会に出なければならないの か。 俺の強さは寮に知れ渡っているから、棄権することも連戦連敗す ることも憚られたが、ミャロ相手であれば誰にはばかること無く負 けられる。 多少不自然な手を指して負けたとしても、そもそも俺とミャロの レベルに達している者は誰一人として居ないのだから、誰も気づく はずがない。 ﹁では﹂ オウシュウヘイ ミャロはちょこんと端の槍を前に出した。 ?? カケドリヘイ このゲームは駆鳥兵と王鷲兵というコマが、いわば飛車角のよう な役目を持っている。 そして駆鳥兵のほうは、将棋の歩兵にあたる前進しかできない槍 兵というコマに、初期状態で進路を塞がれている。 将棋と違って一刻も早く穴熊のような囲いを完成させるという戦 法はないので、初手といえば、王鷲を動かすか駆鳥の道を開けるか、 普通はどちらかなのだ。 806 つまり、端の槍を前に出すというのは、通常では考えられない悪 手である。 何を考えている? 月の下で端歩に拘る漫画を思い出してちょっと愉快な気持ちには なったが。 俺は少し考えて、駆鳥兵の道を開ける手を指した。 *** どうやって自然に負けるか。 盤の上に手をおいて﹁負けました﹂というにも、状況というもの がある。 こちらが絶対的優勢な局面で﹁負けました﹂といっても、どう詰 まれているのか説明しなければ、周りは納得しないだろう。 その状況に陥るのはまずい。 観客となっている寮の連中が、かろうじて納得する範囲で、自然 を装って負ける。 そうすれば一番良い形で大会から逃げられる。 俺はそう考えていた。 だが、ミャロは技巧の全てを振り絞って、その状況を作れないよ うにしていた。 807 傍目には、斗棋を始めたばかりの素人が、ルールを確かめながら 指しているように見えただろう。 だが、俺たちの間では、かつてないほどに高度な技の応酬がされ ていた。 でたくない、でたくない。大会になんて出たくない。 だが、ミャロはどこまでも執拗で、徹底的だった。 いつもと勝手の違う指し方を要求されるというのに、驚くべき冷 静さと正確な読みだ。 そして、通常の二倍もの時間をかけて、二百三十数手という前代 未聞の手数を指した末、ついに誰の目にも明らかな三手詰の形が現 れてしまった。 もちろん、詰ませているのは俺の方だ。 キャロルどころかドッラにさえ詰みが見えたようで、なんかいつ もは盤を見てるあいだじゅう、戦局を分析するのに無い頭を振り絞 ってしかめっつらをしてやがるのに、ドッラはスッキリした顔でう んうんと頷いている。 負けた。 ある意味で納得しながら、俺は詰ます手を指した。 すると、すぐに﹁参りました﹂とミャロが言った。 覚悟が違ったのだ⋮⋮。 ﹃負ける﹄という覚悟において、ミャロは最初から心を決めていた。 俺のほうは、最初の数手、ミャロが真面目にやっていると信じこ 808 んでしまっていた。 そこが勝負の分かれ目だった。 ﹁ゴホ、ゴホ﹂俺はわざとらしく咳をした。﹁なんか急に体調が悪 くなってきたぞ。明日は寝込むかも﹂ 本戦は明日、王城で始まる。 ﹁そんなことにはならないと信じていますよ﹂ ミャロはニッコリと微笑んだ。 ﹁そんなに出たくないのかよ⋮⋮﹂ そこである。 俺が読み違えたのはそこだ。 ミャロは斗棋が好きだし、そんなに本戦に出たくないとは思わな かった。 この局で負けるために、おそらく一週間くらいは研究したんじゃ ないのか。 やっている最中に、そうとしか思えない、才能というより努力の 足跡を感じさせるような、閃きというより重厚さを感じさせるよう な手が、何度かあった。 そんなことをするくらいなら、大会に出たほうが楽だろうに。 つーか、それ以前に途中で二戦負けていれば、俺の勝ちは確定に なって⋮⋮。 いや、そうしたら、俺の方も適当に負けて調整していたか。 イタチごっこになり、最後は結局この一戦をやることになってい たに違いない。 809 ﹁ボクは、ユーリくんの奮闘ぶりを楽しみにしているので﹂ ミャロは邪心のかけらも見えない笑顔で再び微笑んだ。 ﹁私も最近、我ながら達者になってきたと思っていたのだが﹂ 相変わらず中の下のキャロルが、一戦を論評した。 ﹁今の一局はわけがわからなかった。狐に化かされたようだ﹂ わけがわかってたら俺はぶん殴られてただろうな。 他と比べれば別格の強さを持った二人の対局だから、誰も口を出 さなかっただけだ。 *** 翌日、王城でトーナメントが始まった。 休日だというのに、俺はなぜか椅子に座り、人々の前で並ばされ ていた。 ミャロのせいだ。 あいつがズルして負けるから。 ﹁それでは、2316年度全学斗棋戦を開始します! ここに並ん だ学院の選手たちに、どうか惜しみない拍手をお贈りください!! !﹂ 女性の開会式進行役の人が言うと、観客から拍手があがった。 810 といっても、観客のほうは、思ったほどには居ない。 五百人程度だろうか。 大会は、入学式に使う王城の大ホールでやっているので、ホール の後ろの方はだいぶ寂しかった。 ほとんどが仲間を応援する学院生であり、大人は斗棋好きの暇人 がいくらか来ているくらいだ。 今日やる試合はさほど重要ではないのだろう。 見どころなのは明日の決勝戦であり、今日は前哨戦でしかない。 ﹁トーナメントはここに並んでいる順が組み合わせとなります﹂ 司会役が言った。 とくしん 何故こんな並び順なのかと思ったが、得心がいったよ。 椅子は、男と女で互い違いに座っているのだ。 俺、というか男たちは全員、両側を女の子に挟まれている。 合コンかなんかかよ、と訝しく思っていたが、そういうことか。 つまりは、初戦は必ず騎士院と教養院で当たることになっている わけだ。 そんなに喧嘩にしたいのかよと思う。 事前に聞いたところによると、出場するのは十六歳から二十三歳 まで、寮から一人づつ選ばれた八人の騎士候補生と、同数の教養院 生であるらしい。 教養院のほうの寮は、白樺寮と青猫寮とで男女に分かれているの だが、どう代表者を選んでいるのだろう。 811 並んでいる選手を見るに、教養院の代表者に男はいないようであ った。 どう選んでいるのか、詳しいところは知らんが、教養院生は全員 が俺より年上のように見えるので、おそらく完全実力制で選んでい るのだろう。 選び方の時点でこっちのほうが不利に感じるんだが。 斗棋は頭脳戦なので、もちろん体を使う武術ほど際立った傾向は ないが、学年が上のほうが腕も上、という傾向はもちろんある。 その点で、騎士院は年齢別の寮代表者という縛りがあるのだから、 傾向を言えば教養院のほうがやはり有利であろう。 トーナメント戦なので最終的には一番実力のあるものが優勝する にしても、これはどうなんだろうと思う。 *** 会場に卓は四つあり、先に第一回戦の八人が四局を指し、次に俺 を含めた残りの八人が残り四局を消化するらしい。 他の選手は、観客に混じって他の試合を見学していたりするのだ ろう。 控室に入ると、俺以外だれもいなかった。 これ幸いと上等のソファで横になり、眠っていると、小一時間し て叩き起こされた。 ﹁ユーリ選手ですね。前試合が終わりましたので、お越しください﹂ 812 係員らしき人がそう言った。 ﹁わかりました﹂ やれやれ。 しばらく係員さんについてゆき、大広間へ入る。 ﹁開けてください、選手です﹂ という声を聞きながら、人の波をかきわけて、中に入っていった。 簡単な腰丈の柵に張られた太いロープを取り外すと、 ﹁どうぞ﹂ と促され、俺は柵の中に入った。 ここまで来てしまっては、俺も真面目にやったほうがいいだろう。 別に、めんどくさかったから出たくなかっただけで、出るのがど うしても嫌だったというわけでもない。 一応は、寮を背負って立っているのだから。 卓には既に対局相手が座っていた。 ﹁よろしくお願いしますわ﹂ と、わざわざ立ち上がって挨拶してくれたのは、妙齢の女子であ った。 二十ちょっとくらいか? 教養院のスカートの両裾をちょいとつまみ上げて、女性の挨拶を された。 813 ﹁⋮⋮こちらこそ、よろしく﹂ 俺の方も、普通に頭を下げ、挨拶を返した。 席につくと、向こう側の席の後ろに女子たちが陣取り、﹁頑張っ て∼﹂だのという黄色い声援を送っている。 俺の相手は、その声援ににこやかに応じて、手をぱたぱたと振っ たりして返している。 こっちからも同じような声援が聞こえる気がするが、それは全て 男のダミ声だった。 嫌になる。 サイコロを転がして先手を取られると、勝負が始まった。 とんとんとん、と指していくと、たった四手で相手の戦法が知れ た。 イッカク槍衾という戦法だ。 将棋でいうと棒銀みたいな戦法で、先手イッカク槍衾というのは、 素人が上手くなっていく過程で誰もが一度は通る道だ。 駆鳥と王鷲という大駒の他に、槍と馬車でもう一つ攻めの要とな る柱を作る。 槍と馬車は非常に相性がよく、同時に突き出すというのは実に合 理的な戦術で、単純に強く、崩すのに厄介というところがある。 だが、それゆえに対策が練られていて、序盤の特徴的な駒運びか ら即時に戦術がバレてしまうことから考えると、玄人には逆に扱い が難しい。 814 身近なところでいうと、キャロルがイッカク槍衾教の信者で、先 手だと馬鹿の一つ覚えのようにこれを使ってくる。 キャロルはやはり中の下なので工夫も何もない。 この相手は、名前は忘れてしまったが、さすがに代表としてでて くるだけあって、中の下とは違い、なかなか工夫を凝らしていた。 だが、終わってみれば、こんなものか。という印象だった。 ミャロと比べればだいぶ格下に思える。 終わったといっても、俺が勝手に終わったと思っているだけで、 相手は劣勢を知りつつも粘る気満々のようだが、気づいていないだ けで、俺が間違っていなければ、もう詰んでいる。 王がどちらに逃げても、五手で終わるか七手で終わるかの差があ るだけだった。 この勝負にはどうも時間制限がないようで、相手は長考を繰り返 している。 十分くらい迷って、七手で詰めるほうの手を指してきたが、俺に 次の手を指されると、しばらくして詰み筋が見えたようで、﹁参り ました﹂と投了した。 悔しさで感極まってしまったようで、俯いてポロポロと涙をこぼ し、嗚咽を漏らしはじめた。 友達と思われる周りの観客がすぐに慰めに入り、柵を超えると背 中を撫でさすったりして、励ましていた。 815 第048話 強者 十六人のトーナメントということは、全部で四回戦になるわけだ。 二回戦の相手も一回戦と同じような腕前だった。 俺が最後の手を指すと、 ﹁参りました﹂ と言って、 ﹁うふふ、やっぱり情け容赦ありませんのね⋮⋮イメージ通りです わ⋮⋮﹂ などと意味不明なことを述べながら、今度はあまり残念そうでも なく、退席していった。 *** 俺は準決勝にコマを進めた。 ﹁よろしくお願いします﹂ ﹁ええ、よろしく﹂ 対戦相手はやはり女性で、なんとも落ち着きのある雰囲気の淑女 だった。 ここまで全員女なのだが、騎士院の男たちは、一体なにをしてい るのだろうか⋮⋮。 816 女性は、何を言うでもなくコロコロとサイコロを転がした。 俺も同じように転がす。 四対六。 俺のほうが先手であった。 ﹁それでは、始めさせていただきますね﹂ ﹁どうぞ﹂ 俺は第一手を指した。 *** 中盤になるにつれ、俺は無心になっていった。 無心になって考えざるをえないほど、相手は強かった。 明らかに、俺と同じくらい強い。 中盤まで意図的に甲とも乙とも取れぬ戦法を使われ、俺の戦法は かき乱され、常なら終盤になっているような手数を数えながら、未 だに盤上は混沌としていた。 いまだに優勢とも劣勢ともつかないのは、俺も混乱させられたが、 そうさせるために相手も相応の犠牲を払ったからだ。 相手は、代償として駆鳥の大駒を失い、駒数の上では俺より優位 に立っているものの、勢いを欠いている。 817 俺が、とん、と大駒を動かすと、相手が話しかけてきた。 ﹁早指しですのね﹂ と。 早指しというのは、時間制限が設けられていない場合は、相手を 舐めているとか、急かしているようにも取れる。 といっても、俺も少しは考えているので、相手に失礼にならない 程度に間は開けているはずだが。 ﹁女性を待たせるものではないと、父から教わったもので﹂ 教わってはいないが。 こう言っておくのが無難だろう。 ﹁そうなのね。よい心がけだと思いますわ﹂ ﹁ご気分を害したようであれば失礼﹂ ﹁咎めるつもりはありませんのよ。でも、早指しができるというこ とは、手が読まれているということ。いささか自信をなくしますわ﹂ 確かにそれは、この女性の言うとおりであった。 早指しということは、相手の手を見てすぐ次の手を指すわけで、 それが全く奇想天外な手であれば、こっちも考える必要がある。 時間制限が迫れば、最善の手か確信できずとも、適当な一手を指 さなければならないわけだが、これはそういうわけではないのだ。 言ってみれば、相手の手番の間に、次にどこに指してくるか分析 が済んでいて、﹁こう指してきたらこう指そう﹂という考えが終わ っているから、すぐに指せるわけだ。 818 逆を言えば、相手が長考しなければ、そのようなことはできない。 俺とてミャロとの対局のときは人並みに考えたりもする。 俺もミャロもさっさと指すので、相手の手番の間に考えをまとめ ることができないのだ。 ﹁僕も内心では舌を巻いていますよ。幸いなことに、顔には出てい ないようですね﹂ ﹁あらそう?﹂ こちらは真面目にやっているつもりだし、俺のほうは負けたら負 けたで構わないので、リラックスできているのかもな。 *** ﹁⋮⋮参りましたわ﹂ と、言われた瞬間、どっと疲れた気がした。 ﹁ありがとうございました⋮⋮﹂ これほど詰ますのに頭を使った勝負は、本当に久しぶりだった。 ﹁こちらこそ。楽しい対局でしたわ﹂ あっさりとした礼をいい、女性は席から立ち上がった。 俺の方は、まだ精神的に疲労困憊で、立とうという気が起こらな い。 ﹁それはなによりです⋮⋮﹂ 819 ﹁それでは、名残惜しくは思いますが、失礼させていただきますわ ね﹂ 名も知らぬ対局相手は、そのまま観客のなかに消えた。 もう日が暮れているだろうし、少し休んだら、俺も帰るか。 ﹁ユーリくん、お疲れ様でした﹂ 背中から聞き覚えのある声がかかった。 ミャロだ。 柵の向こうにミャロがいる。 ﹁見てたのかよ﹂ ﹁準決勝ですから、皆で応援していましたよ﹂ 気が付かなかったが、周りをよくよく見回せば、キャロルとかも いた。 見覚えのある顔がちらほらいるし、他にも騎士院の制服を着た奴 らがたくさん見守っている。 考えてみれば準決だったな。 向こうもやたらと応援が多いと思ったが、こちらにも多かったよ うだ。 準決にも上がれば、騎士院生にとっちゃ期待の星ってところか。 ﹁暇人め﹂ ﹁ユーリくんの晴れの姿を見たくて、あれしたわけですから﹂ あれ、というのは、わざと負けたことだろう。 面倒臭かったとか他に用事があったからとかじゃないのか。 820 ﹁おめでとう﹂ 次はキャロルだ。 キャロルは柵の最前線にいて、こちらを見ていた。 大げさなもんだなほんとに。 さて、こんなに大勢が見守っているのであれば、相応の礼を尽く さねばなるまい。 俺は将家の長男だし、キャロルは女王陛下の長女だ。 知人より他人が多く見ているような場であれば、相応の態度とい うものがある。 俺はすっと席を立った。 キャロルのそばまで行くと、キャロルも慣れたもので、すっと手 を差し出してきた。 ﹁ありがとうございます、殿下﹂ 俺はしゃがみながらキャロルの手をとって、柵越しに跪くと、手 の甲にくちづけをした。 そっと手を放して立ち上がると、キャロルは怒ってんだか愕然と してんだか、よくわからんような顔をしていた。 なんだ、そのつもりで手を差し出してきたんだろうに。 ﹁く、苦しゅうない﹂ 妙な言葉を吐いて、キャロルは踵を返して背中を向けてどっか行 った。 考えてみりゃ、ここはキャロルん家だったな。 821 ﹁ぷっ⋮⋮くくっ⋮⋮﹂ ﹁なにを笑っとるんだ﹂ ミャロに言う。 ﹁い⋮⋮いえ⋮⋮プッ。今のは⋮⋮クッ⋮⋮手を差し出したんじゃ なくて肩を叩こうとしたんですよ﹂ ﹁そうだったのか﹂ やっちまった。 肩を叩こうとしたら手の甲にキスされたもんだから面食らってた のか。 とはいえ、さっきのも、世間的に特段おかしな対応というわけで はないはずだが。 *** 王城の外に出ると、すっかり夜が更けていた。 なんだか高級な乗合馬車のようなものが、沢山城の前につけてあ る。 続々と学院生が乗りこんでいるところをみると、学院からのバス みたいなもんらしい。 俺はそれには乗らずに、ミャロが乗ってきたという、黒塗りの馬 車に乗せてもらった。 822 これはギュダンヴィエルの家から出ている馬車なのだろうか。 ﹁先ほどの方は、当代随一と呼ばれる指し手だったんですよ。さす がですね﹂ 馬車の中でミャロが言う。 石畳のせいで馬車の縦揺れはひどかったが、椅子がとんでもなく 柔らかかったので、普通に話すことが出来た。 ﹁当代随一といっても、素人学生の中での話だろ﹂ 学生大会で優勝したからといって、大人の中にはもっと上手いの がゴロゴロしているはずだ。 将棋と同じで、学生大会で優勝したからといって、名人戦で優勝 した名人からしてみれば、有象無象のアマチュアの一人でしかない のだろう。 俺は趣味でやっているだけなので、そいつらと張り合いたいとは 思わない。 それをやろうとすれば、それこそ人生を犠牲にするほどの努力が 必要なはずだ。 ﹁それはそうですけれど﹂ ﹁でも、さすがに強かったな。あのレベルになると、何度かやった ら負けが込みそうだ﹂ ﹁でしょうね。さすがに、百戦百勝とはいかないでしょう﹂ ﹁ミャロより上手くは感じなかったがな﹂ 強いといっても、ミャロと比べれば格段に扱いやすい相手だった 気がする。 823 序盤から中盤にかけて踊らされている間も、荒らされてる、撹乱 されている、という思いはあったが、主導権を奪われたようには感 じなかった。 ミャロの場合は、こっちが主導権を握っていると思っていても、 そう思わされているだけ。ということがある。 ﹁ユーリくんにそう言われると、もっと頑張ろうという気になるか ら不思議です﹂ 夕闇であまり見えなかったが、ミャロは嬉しそうに微笑んでいる ように見えた。 ひとたら ﹁これ以上強くなったら、俺も相手をするのが辛くなるからな。か んべんしてくれ﹂ ﹁斗棋の話じゃないんですけどね。ホントにユーリくんは人誑しが 上手くて、まいってしまいます﹂ なにをいっているんだこいつは。 ﹁どうだかな⋮⋮あ、ちょっとこの辺で降ろして貰えるか﹂ ﹁え? 今日はご実家でお休みになるんですか?﹂ 馬車は別邸の近くの道に差し掛かっていた。 別邸にはルークもスズヤもいないので、特に用事はない。 ﹁いや、社のほうに野暮用があってな﹂ ﹁ああ﹂ 社といっても、水車小屋のことではない。 824 別邸から、通りを挟んで向かいの建物を借りていた。 ミャロが御者席への窓を開け、御者に止まるように指示を出すと、 御者はすぐに馬を止めた。 俺は馬車のドアを開けて、石畳の上へ下りる。 ﹁お泊りは寮なのですよね﹂ ﹁そのつもりだ﹂ ﹁では、少し待っていますね﹂ ﹁そうか?﹂ 先に行っていてもいいのに。 ﹁夜中までかかるようなら考えますが﹂ ﹁いや、一言ことづてを残すだけだ。すぐ戻るよ﹂ さっさと用事を済まそう。 俺は急ぎ足で社の中に入ると、たまたまいたビュレに伝言を託し、 再び馬車に戻った。 *** そのまま学院まで行って、寮の食堂に着くと、なにやら食堂の隅 で見慣れない学生がたむろしていた。 見慣れない学生というのは、体格が大きく、上級生の連中に見え る。 825 まあ、下級生の寮に入ってきちゃならんというわけではないが。 物珍しい。 ﹁おっ、来たようだな﹂ だいぶガタイのいいお兄さんが俺を見つけて、そう言ったのが聞 こえてきた。 今まで背中を向けていた連中も、一斉に振り向いて俺のツラを見 る。 ひーふーみーよー⋮⋮七人か。 あーね。 よくみりゃ、開会式で見かけた野郎どもだ。 七人のうち三人は、講義や修練で一緒になったことがあるので、 名前は覚えていないが、顔見知りだった。 ﹁ほら、こっちこっち。座れよ﹂ オタクっぽい兄さんが俺を手招きする。 あのー、拒否権はないんですかね。 つーか、微妙に酒の匂いがするんだけど。 こいつら、下級生の寮くんだりまできて酒盛りかよ。 別に負けたっていいけど、なんで俺の寮まで来て酒盛りしてんだ。 ﹁えーっと、はい﹂ 俺は近くにまで進んでいって、やる気なさげに挨拶した。 826 ﹁どうも。ユーリです﹂ ﹁えらい疲れているな。迷惑だったか?﹂ ガタイのいいあんちゃんが言ってくる。 そりゃ迷惑だろ⋮⋮。 俺も疲れてないわけではないし、なんでこんなところで気の向か ない職場の飲み会みたいのに付き合わなきゃならんのだと思う。 ﹁夕食を食べていないもので、お腹がすいているんです﹂ ﹁そうか、じゃあ店にでも繰り出すか?﹂ おい、かんべんしてくれよ。 ﹁いえ。そもそも、なんの催しなんですか? これは﹂ ﹁きみの祝勝会だよ﹂ 祝勝会だと? ﹁気が早すぎるのでは?﹂ 俺が決勝まで進んだ祝勝会だとしたら、志が低すぎる。 優勝してからやるならまだしも。 ﹁君は知らないかもしれないが、今日君が勝利した相手はここ三年 間優勝を守り続けてきた女だ。優勝は決まったようなものさ﹂ なんだ、あの対戦相手はそんなに凄い人だったのか。 どうりで強かったわけだ。 827 だが、彼女がバケモノクラスだとしたら、この寮にはたまたまバ ケモノクラスが二人いることになってしまう。 勝敗比率でいったら、ミャロのほうが俺より若干強いことになる のだから、これはもう異常事態といえるだろう。 どういうこっちゃねん。 ﹁だとしても、気を緩めたくはありませんので、祝勝会は遠慮させ ていただきますよ﹂ 酒は飲まないことにしてるし。 ﹁殊勝な心がけだな。そうでなくては困る﹂ しかし、なんだろうこの人は。 なんだか自然に偉そうだ。 偉そうというか、生まれつき偉い人特有の話し方に思える。 よっぽど身分が高いのか。 実は、この人とも、槍だの剣だのの実技で何回かやりあったこと はあるんだが。 誰だったっけ。 ﹁じゃあ、明日の対戦相手の話だけ聞いてくれ﹂ オタク風の男が言った。 まあ、一応聞いておくか。 ﹁明日の対戦相手は、ジューラ・ラクラマヌスという女だ﹂ ﹁そうらしいですね﹂ それはもう知っていた。 828 俺の三戦目の少し後に試合が終わり、進出が決まったらしく、そ れはミャロから聴いていた。 決勝の相手は、ホウ社にさんざん有形無形の嫌がらせをしかけて きている、ラクラマヌスの女だ。 他の試合を見ていなかった俺も悪いのだが、なんでよりにもよっ て。と思ったものだ。 ﹁そうだ。ラクラマヌス現当主の長女筋の孫に当たる。つまりは当 主の長女の長女だな﹂ ガタイのいい男が言う。 長女スジの孫ということは、順当に行けば次の次の当主というこ とになる。 だが、当主が短い間にコロコロ変わると混乱のもとになるので、 一代スキップして孫に継がせるという選択肢も、魔女家ではわりと 頻繁に取られることを、俺は知っている。 これはミャロから聞いた。 つまり、その選択肢を取られると、母をスキップしてジューラ・ ラクラマヌスが直接次の当主になってしまうわけだ。 そうはいっても、それは順当に行けば、の話だ。 魔女家は長子存続が絶対というわけではないので、いろいろと選 択肢がある。 謀略の家系らしく、基本的には能力重視である。 長女が無能なので、次女にする。 でも、待っているうちに、長女が子供を産んで、その子供が優秀 829 そうなので、やっぱりその子供を当主にすることにしよう。 そういった決定の変更は魔女家当主の心のうちで行われ、当主が 不意の事故に備えて用意している遺書に書き残される。 だが、周囲がどう見るかという観点から言えば、明らかに出来が 悪くない限りは、やはり次の次の当主として見られるわけだ。 俺は、ジューラ・ラクラマヌスのことは良く知っていた。 年齢は二十二歳、容姿端麗で、白樺寮内での派閥は上から二番目 シノギ の大きさのものを持っている。 母親はラクラマヌス家の家業の中で、羊皮紙ギルドのほか、いく つかのギルドの管理を任されているが、どうにもしまらない。 母親の年齢と立場から考えれば、もっともっと大きなギルドをい くつも支配しているのが普通である。 そもそも、教養院の卒業と同時に任ぜられた官職も、数年で辞め ている。 実際には、務まらなかったので辞めさせられたという形らしい。 つまりは無能で、これはジューラの母親の二人の妹も同様である。 教養院の卒業年齢は、三人姉妹全員が二十五歳。 満期卒業であり、努力を惜しまず勉学に取り組んだ才女であれば、 十七歳ごろには卒業してしまう教養院では、あまりよろしい成績と は思えない。 そのせいで、ラクラマヌス家で大きな官職についているのは、現 シマ 当主ひとりだけという有り様らしい。 縄張りに対する管理も行き届いていないところをみると、ラクラ 830 マヌス家は人材不足という評価をするのが妥当だろう。 ﹁よく使う戦術は、先手番でイッカク風車、ジャミコ包囲戦、王鷲 交換槍備えだ。特にイッカク風車からの槍衾押しをよく使う。後手 番でヒッグス突撃槍、マルコ迂回戦、場合によってはサルーアン自 陣包囲を使う﹂ ⋮⋮なにをいっているのだ、こいつは。 半分も分からない。 こういう連中ってけっこういるんだよな。 主要な戦型でも、実戦での扱いは人によって変わってくる。 その変わってくる、言わば変形用法に、さらに固有名詞を付けた がる人々だ。 分類学でいえば、亜種で済ます部分まで固有名をつけるようなも のだ。 全部覚えていたら切りがない。 よっぽど斗棋が好きなんだろう。 そんなに斗棋が好きなら、ジューラを途中で蹴落としてくれれば よかったのに。 そういう問題ではないか。 ﹁なるほど。勉強になりました。ありがとうございます﹂ 俺はぺこりと頭を下げた。 ﹁よし。あまり長居するのもなんだ。帰るか﹂ ガタイのいい兄さんがそう言って、立ち上がる。 831 ﹁そうだな﹂﹁そうですね﹂などといって、他の連中も席をたった。 よかったよかった。 これで寮も平和になる。 OBじゃないが、先輩が寮に居座っているという状態は、誰だっ て気分がいいものではない。 ﹁自己紹介がまだだったな。もう知っているかもしれないが、俺は リャオ・ルベという。明日は応援しているぞ﹂ ガタイのいい兄さんは、去り際にそう言って握手を求めてきた。 ﹁もちろん存じ上げていますよ。応援よろしくお願いします﹂ 俺は息をするように嘘をつくと、グッと力強く握手を握り返した。 フィフスブレイブス こいつ、ルベの人間か。 名前に記憶はないが、五大将家の一つだ。 言わば俺の同類ということになるか。 *** 他の連中とも握手をしたあと、飯食って寝た。 832 第049話 決勝戦 翌日、日が暮れそうな時刻になってから、王城に着いた。 その時間に来てくださいと言われていたからだ。 決勝戦は、今までのように一本勝負ではなく、三番勝負というこ とになっているらしい。 どっちかが二タテを喰らえばその時点で終わりだが、これでは終 わる頃には日付が変わってしまうのではないだろうか? 昨日一日がかりで三戦したものを、日が暮れてから行うのだから。 俺はそんな心配をしつつ、開かれた王城の門に近づいた。 ﹁決勝に出場されるユーリ様ですね。お待ちしておりました﹂ すると、入り口で待っていた、謎の女性に唐突に声をかけられた。 ﹁本日はご案内させていただきます。よろしくお願いします﹂ ﹁ああ、はい﹂ なんだ、わけがわからんが、そういうことになっているのか。 *** ﹁こちらでお色直しをさせていただきます﹂ 833 なにやら鏡のある個室に通されたと思ったら。 お色直しということは、この人はメイドとか役人ではなく、美容 師ということか。 それにしても、お色直しとは。 結婚式の花嫁じゃないんですから。 ﹁いいですよ。俺はこのままで﹂ 俺は昨日と同じ服装で、つまり騎士院の制服を着ていた。 ﹁ですが﹂ ﹁なれない化粧をされて集中できなくなったらコトですから﹂ 俺がそう言うと、 ﹁では、せめてお顔を洗わせてください。それと寝癖も整えさせて ください﹂ と言われた。 寝癖なんかついてたか。 ﹁まあ、それくらいは﹂ 寝癖くらいは整えてもいいかな。 アマチュアの大会くらいに大げさな。とは思うが、なんだかやた らと格調高いみたいだし。 湯で蒸した布を押し付けられ、寝癖を整えられ顔を洗われると、 さっぱりした気分になった。 ﹁え、何を塗ろうとしているんですか﹂ 834 美容師さんは、なにやら瓶のようなものからグリースのような油 を指で取って、俺の髪に塗りつけようとしていた。 ﹁少しだけですから﹂ ﹁ちょ、要らないって言ったじゃないですか﹂ ﹁ちょっとだけだから。毛先だけだから﹂ なんか変に興奮しているようだ。 わけがわからない。 ﹁⋮⋮べつに、減るもんじゃないしいいですけど、なんの油なんで すか、それ﹂ ﹁熊です﹂ ちょ。 熊の油とか。 なんてもんを塗りたくろうとしとんねん。 ﹁ご安心ください。これは冬眠前の大穴熊の脂肪を精製した油で、 牛の油なんかと違って臭くありませんし、きちんと湯で落ちますか ら﹂ う、うーん。 安心できる要素が一つもないのだが。 だけど、塗らないことには美容師さんの気がすまないようだ。 ﹁⋮⋮わかりました。いいですよ﹂ もう断るほうがめんどくさい。 835 油を撫で付けられて、櫛をいれられると、みるみるうちに髪にツ ヤが生まれていった。 最終的に、七三分けを少し崩したような髪型に収まる。 ﹁では、お召し物を﹂ なぬ? ﹁着替えるんですか?﹂ ﹁さすがに、そのお召し物では⋮⋮﹂ 苦言を呈された。 なにが悪いっちゅーんじゃい。 騎士院の制服は、着ているうちにボロボロになったり、体が大き くなって仕立直しが限界にきたりして、何度か交換している。 今着ているのは四着目だが、これはつい半年くらい前におろした ばかりの、一番いい制服だ。 俺も多少気を使って、一番いい服に軽くブラシをかけてきたのだ。 埃やトリの羽がついているということもない。 ﹁これじゃいけませんか?﹂ どこがおかしい? という風に聴くと、美容師さんは困り果てた 顔をした。 ﹁失礼ながら申し上げますと、上着の所々に食べ物かなにかのシミ ができていますし、下衣の裾などは色落ちしていて、ほつれだらけ でございます﹂ ﹁⋮⋮﹂ 836 俺は無言でズボンの裾を見た。 きちんと洗濯はしているので、泥汚れがついているわけではない が、確かに染めが多少落ちてはいる。 何度も強くゴシゴシ洗ったからか、裾もほつれてしまっていた。 汚れたのは、この服を着たまま、石畳舗装のしていない上流の水 車小屋に何度も何度も足を運んでいたからだ。 雨の日など靴ごとグチャグチャになったりしていたものだが、そ の度に寮の洗濯婦に押し付けて、嫌な顔をされていた。 そうはいっても、一般庶民の世界でいったら、よほど裕福な商人 であっても、平気でもっと悪い服を着ているんだが。 決勝戦ともなると、これじゃだめか。 美容師がでてくるほどだもんな。 ﹁お召し物はお着替え願います。そうでないと、わたしが怒られて しまいます﹂ 哀れを誘う口調で言われた。 しょうがねえな。 別にこだわりがあるわけじゃないし。 ﹁じゃあ、お願いします﹂ 俺は折れた。 押しに弱いな。 ﹁かしこまりました。それでは⋮⋮これを﹂ 837 お色直し要員が持ってきた服は、俺の目からみてもだいぶ古式ゆ かしい服だった。 あの⋮⋮。 かみしも これは、大皇国時代の伝統衣装的なもので、晴れ着中の晴れ着と いうふうなものだ。 日本で言えば、江戸時代の大名が着ていた裃に相当するような、 そんな服だ。 今じゃ誰も着ていない。 田舎の屋敷にはあるが、ルークあたりがよっぽど堅苦しい席に出 るときでも、着ているのを見たことがない。 おいおい、勘弁してくれよ。 ﹁ふざけてるんですか?﹂ ﹁え? あの、いいえ﹂ ふざけているわけではないらしい。 ﹁俺も服にこだわりがあるわけじゃありませんが、流石に大げさに 思えます。この制服くらいの程々なものはないんですか﹂ ﹁あ、それでしたら⋮⋮﹂ と、持ってきたのは、黒光りするように美しく染め上げられた燕 尾服のような服だった。 これは、ルークが着ているのを見たことがある。 背中側の上着の裾が伸びているわけではないので、燕尾服という のもおかしいが、まあ、夜間用の礼服である。 当然ながら、ほつれや歪み、傷などは一切ない。 838 ﹁これでどうですか?﹂ ﹁これなら、まあ﹂ これならいいか。 これと比べると、確かに制服もみすぼらしく見える。 ﹁よかった﹂ ほっと一安心というふうに、美容師さんは息をついた。 ﹁なんで最初からこれを出さなかったんですか?﹂ ほんと聞きたい。 あんなもの着て出て行ったら、晒し者だよ。 ﹁ユーリ様はとても格式高いお家の生まれと聞きましたので⋮⋮﹂ なにが格式高いだ。 こちとら農夫の生まれだっつーの。 美容師さんの助けを借りて服を着替えると、会場へ向かった。 *** ホールには、昨日とは比較にならないほど沢山の人々が集まって いた。 839 なんだか知らんがポールと縄で封鎖され、じゅうたんが敷かれた 花道みたいのが用意してあって、そこを歩いて盤へ行くようだ。 ドン引きである。 なんじゃこりゃ。 たかが学生の大会だろ。 どうなってんだ。 俺は、学院に入ってから六年、まったくこの大会に興味を示して こなかった。 同級生たちは、食堂でワァワァ言って話題にしていた気がするが、 王城まで行って見たいとも思わなかった。 こんな大騒ぎだったのか。 内心でびっくりしつつも、俺はなるべく堂々と歩くようにして、 盤まで向かった。 途中、昨日会った七人の先輩や、同寮の連中、いろんな人が脇道 に立っていて、俺に声をかけてきた。 ﹁がんばれよ!﹂ ﹁がんばってくださいね!﹂ ﹁応援してるからな!﹂ 中には、ロープから身を乗り出して握手を求めてくる少年もいた。 みんな笑顔であった。 背中がむず痒くなると共に、壮絶な居心地の悪さを感じる。 俺の居場所って、こういう場所じゃなくて、もっと暗くてジメジ メしたところな気がする。 間違えて太陽の下に出てしまったモグラみたいな気分だ。 840 盤にたどり着くと、なんと盤から少し離れたところに、女王陛下 が座っていた。 ⋮⋮アマチュアの学生大会にどんだけ大げさなんだよ。 天皇杯かなんかじゃないんだから、わざわざ見に来なくてもいい よ。 女王陛下も暇なのか。 その隣にはキャロルがおめかしして座っていて、その隣には、カ ーリャもいた。 少し離れたところに、何故かシャムも座っている。 家族枠で誰かが連れてきたのか。 そして、客席にも立ち見席と貴賓席の別があり、分かれているよ うだ。 貴賓席のほうには柵はないが、立ち見席のほうには昨日と同じ、 腰丈の柵が置かれている。 俺から見て右側が貴賓席で、立ち見席の方にはもう一つ小さな机 と椅子があって、そこには既に人が座っていた。 時間計測係、なのか? そこに座っていたのは、中年の痩せた女性で、その前には砂時計 が幾つか並んでいる。 昨日のように時間無制限だと、どうしてもダラダラした戦いにな りがちなので、女王陛下が見ている御前では流石にまずかろうとい う判断なのだろう。 841 特に誰に言われたわけでもなかったが、俺は盤に座る前に女王陛 下に膝をついて礼をした。 立ち上がってみると、女王陛下はニッコニコ微笑んでいて、キャ ロルのほうは面白いものでも見つけたみたいに意地悪そうな笑みを 浮かべていた。 シャムはなんだかぼーっとしている。 誰が連れてきたのかしらんが、そもそもがシャムは斗棋に一切の 関心がない。 見ていてもつまらないだけだし、この場がどういう意味を持つの かも知らないだろう。 ミャロはここにいてもおかしくないと思うが、いなかった。 と思ったら、いた。 立ち見席のほうで見物している。 俺と目が合うと、小さく手を振ってきた。 俺は椅子に座った。 普段はどこで使われているものなのか、ふっかふかの椅子だった。 肘掛けにまでクッションがついている。 大人用のイスで、まだ若干身長が伸びるであろう俺には、少し大 きかった。 椅子に座り、背もたれに背中を預け、ホウ家の本宅にあるものよ り更に上質と思われる盤駒を見ていると、向こうから対戦相手の女 性がやってきた。 じゅうにひとえ おいおい、と笑ってしまいそうになった。 俺が最初提案されたような、十二単もかくやというような、たい へんご立派な服を着ている。 842 さらに、銀でできてるっぽい、ちょっとした冠までつけていた。 すげーな、おい。 そのまま王様にでもなるつもりかよ。 女王陛下より派手なんじゃねーの。 彼女は、椅子の手前で女王陛下に座礼をして、着席した。 着席も若干大変そうだった。 近くで見るジューラ・ラクラマヌスは、キツい顔をした美人であ った。 なんかナチュラルにサドっ気がありそうな顔というか。 俺は今十六歳だが、ジューラは二十二歳のはずなので、歳下と思 って舐められているのかもしれない。 ﹁⋮⋮始めよ﹂ 女王陛下が言った。 さ、なんだかしらんが女王陛下の命令があったことだし、始める か。 でも、今思ったが、卓上にサイコロがねえな。 普通、サイコロはプレイヤー同士が転がすもんだ。 今までの対局では、全てそれをやってきた。 サイコロがなきゃ、先手が決められない。 おい、サイコロが用意されてねえぞ。係員なにやってんだ。 と思ったら、横でコロコロという音がかすかに聞こえた。 843 ﹁⋮⋮ジューラ選手が先手です﹂ あれ。 なんか妙な声が聞こえたぞ。 中年女の声だ。 間髪入れず、コトリ、と駒を動かしたのは、ジューラである。 先ほど、勝手に先手を決めた時間計測係が、砂時計をひっくり返 したりしている。 俺の持ち時間が減っていっている。 俺は一瞬、めまいに似た症状を起こした。 発作的に全てが馬鹿馬鹿しくなった。 あのさぁ。 これが公平じゃないって、普通は馬鹿でもわからない? なんで時間計測係がサイコロ転がすのよ。 誰かサイコロ見てたの? 見てたのは当の計測係だけで、立ち見からは係の背中が邪魔でサ イコロなんざ見えないし、一番近い俺からでも、奴の手元にあるち っさなサイコロの出目なんて見えねえよ。 計測係の一存で全て決めるってか? 公平かどうかは、見ず知らずの係員を信用しろと? 844 それで納得しろと? 不正したらハラワタが爆発して死ぬ病気の人間だったら納得もで きるが、こいつはそうじゃねえだろ。 まあいいけどよ。 先手取られたからって、すげー不利になるわけでもねえし。 でも、誰かおかしいと思わないのかよ。 俺は駒を動かした。 845 第050話 一勝一敗 ﹁参りました﹂ 二戦目、俺は自ら盤の上に手をおいて、投了した。 ジューラの顔に喜色が浮かぶ。 一戦目は俺の勝ちだったから、これで一勝一敗だ。 三戦目が決戦ということになる。 ﹁それでは、休憩に入ります﹂ 時間計測係が宣言をした。 *** ﹁ユーリくん、どういうつもりですか﹂ 休憩室に、なんでかしらんが入ってきたミャロは、珍しく怒って いた。 いつも浮かべている笑みが消えている。 ミャロにこんな表情を向けられるのは、考えてみれば初めてのこ とだな。 ﹁なんのことだ?﹂ 846 ﹁シラをきらないでください。ボクには⋮⋮いえ、ボクでなくとも、 腕に覚えのある人なら誰にだってわかります﹂ ﹁そうか﹂ まあ、そうでなければ困るんだけどな。 ﹁わざと負けるつもりですか?﹂ やっぱりバレてた。 ﹁今のところはな﹂ 俺はあっさりと肯定した。 ﹁何故ですか。脅されているとか?﹂ ﹁いいや、そんなことはない﹂ ﹁じゃあなんで!﹂ セブンウィッチズ ﹁七大魔女家を敵にまわしたくないんだ﹂ それが答えの全てだった。 敵に回す、というのはおかしな表現かもしれないが、無用な不興 を買いたくない。 俺と商売上バッティングしないギュダンヴィエルあたりと違って、 よりにもよって相手はラクラマヌスなのだ。 敵対をより深めて得るものなど一つもない。 ﹁理由が解りません⋮⋮まさか、ユーリくんほどの人間が、怖気づ いているのですか? 魔女家ごときに?﹂ 847 魔女家は﹃ごとき﹄で済まされる勢力ではない。 俺は甘く見てはいない。 ﹁怖気づいてはいないが、連中の機嫌を悪くする理由がない。逆に、 俺にとっては恩を売る理由がいくらある﹂ というか、勝って得るものがないのだ。 これほど大げさなイベントだ。勝てば騎士としての栄誉がもたら されるであろう。 それは分かる。 ミャロは、たぶん、俺をその栄誉に浴させたいのだろう。 だが、俺はそんなものはどうでも良い。 勝てば名誉だが、負けても不名誉にはならない。 残念がる奴はいるだろうが、この年齢で決勝まで進んできたのは 立派と、褒められるのが普通だろう。 ホウ家の威信に関わる、というのであれば話は別だが、そういう わけではないのだ。 勝てばプラスになるものが、勝てなかったのでゼロのまま、とい うだけの話だ。 逆に、ジューラが優勝を重要視しているのは、気負い方から見て も、見え見えだ。 譲ってやれば大きな貸しになるだろう。 俺にとってはどうでもよく、相手にとっては重要なら、貸しにし てやらぬ手はない。 申し訳ないとすれば、俺を代表にした寮の連中に対してだが、そ 848 の辺は諦めてもらうしかないだろう。 どの道、俺かミャロ以外では準決の相手には勝てなかったのだし。 ﹁シャムさんのことなら、心配ありませんよ。寮内では⋮⋮﹂ ﹁ミャロ﹂ 俺は言葉を遮った。 ﹁俺にとっては大事の前の小事だ。俺はこの場の優勝で得られる栄 誉なんぞ、求めてはいない。ラクラマヌスはいけ好かないが、譲っ てやるさ﹂ ﹁ボクは、ユーリくんに⋮⋮﹂ ミャロの気持ちは分からないでもない。 こいつは、俺に将家の当主となるべき人間として、英雄的な役割 を演じてもらいたいのだろう。 なぜ、こいつは、自分にとって何の得にもならないのに、そんな ことをしているのか。 それは、こいつの趣味だ。 生まれ育ちに反して騎士院に入ったのも趣味なら、俺を立てよう とするのも趣味なのだ。 こいつは、利害が絡んでいるわけでもなく、誰に言われているわ けでもないのに、ただ自分の願望を充足するためだけに、労を厭わ ず動いている。 英雄をプロデュースする、といったらアレだが、趣味に殉じた愉 快犯なのだ。 849 ﹁俺は、お前の道楽のために生きているわけじゃない。お前の思っ た通りに動くつもりもない﹂ ぴしゃりと言うと、俺の言葉に胸を砕かれたように、ミャロは辛 そうな表情でうつむいた。 ﹁そんなつもりでは⋮⋮﹂ ﹁そんなつもりだろ、どう考えても﹂ 俺がそう言うと、ミャロは口をつぐんだ。 そして、ただただ立ち尽くした。 五分、いや、十分ほどもそうしていただろうか。 ﹁⋮⋮すいませんでした。ユーリくんにとっては、ボクの行動は迷 惑だったんですね﹂ 悲しそうに、ミャロはぽつりと呟くように言った。 それは、吹けば消えてしまう儚げな灯火のような響きだった。 ﹁迷惑に思うわけないだろ﹂ ﹁⋮⋮え? ⋮⋮でも﹂ ﹁なんで俺が、お前のやることを迷惑になんて思う。今回のことだ って、俺は感謝しているくらいだ。俺のためにやってくれたんだろ﹂ ﹁はい⋮⋮それはそうですが﹂ ﹁だけど、俺は、お前がなってほしい俺にはなれない。何かを期待 されても困る﹂ ﹁⋮⋮そうですか﹂ 850 ミャロは現実的でありながら、根っこのところで奇妙なほどに夢 見がちでもある。 ミャロに釣られて俺の方まで夢見がちになってしまえば、待って いるのは破滅だ。 いくら俺に好意的で、有能に見えようとも、ミャロの行動が全て 最善という保証はないし、そもそも目指しているものが違う。 ミャロはシヤルタ王国を改革前進させていこうと思っているのだ ろうし、俺にそのための立場を作らせようと思っている。 この小さな大会で栄光を掴ませようというのは、その一要素なの だろう。 それは、俺の思惑とはベクトルが違う。 どちらが正しいかは解らない。 だが、俺は、自分よりミャロのほうが正しいと考えて行動するこ とはできない。 それは精神的に従属するという事であり、悪い言い方をすれば奴 隷の考えなのだ。 ﹁わかってくれたか﹂ ﹁はい。ユーリくんの言うことも、もっともです。⋮⋮ボクも、全 部が自分の思い通りになる人なら、ついていく意味がないんです。 考えてみれば、当たり前のことでした﹂ ﹁そうか﹂ 本当に解ってくれたのかは分からないし、未だに不満があるのか も、表情から読み取ることはできない。 851 だが、ひとまずは納得してくれたらしい。 今はそれでいい。 *** ミャロは、おずおずと口を開くと、 ﹁あの⋮⋮最後に、一つだけ聞いていいですか﹂ と言った。 ﹁一つでも十個でも﹂ ﹁ユーリくんは、魔女家に怖気づいているわけではないんですよね﹂ ﹁ははっ﹂ 思わず笑いが漏れた。 ﹁なんであんな連中を怖がる必要がある﹂ ﹁それなら、いつかは、倒すつもりでいるんですね﹂ 倒す? やはり、ミャロは根本的に俺とは考えが違っている。 ﹁連中は寄生虫だよ。寄生虫は、宿主には強気でも、宿主が死のう という時には何も出来ない。なにもやらなくても、勝手に自滅する 運命だ﹂ 寄生虫は、宿主に対しては強くても、宿主が殺されれば、ほうほ うの体で逃げ出すか、一緒に死ぬしかない。 魔女家の反応がそれに酷似することは、六つの先例がものの見事 852 なまでに証明している。 ﹁そうですか⋮⋮ボクには、よくわかりません﹂ よくわからないらしい。 まあ、そのうちには嫌でも解るだろう。 トントン、とドアが叩かれた。 ﹁入れ﹂ ﹁失礼いたします﹂ 王城のメイドさんだった。 第三戦の呼び出しだろう。 休憩も終わりか。 ﹁ユーリ様、お客様がお出でになっていますが﹂ 違った。 ﹁⋮⋮じゃあ、ボクはこれで﹂ ﹁あ、ああ⋮⋮。それじゃあな﹂ ミャロはメイドさんと入れ違いに、部屋を出て行った。 ﹁緊急の要件だそうです。お会いになられますか?﹂ 853 第051話 舌戦 休憩時間が終わり、俺は席に戻った。 目の前には、既に座っているジューラがいる。 ﹁左が先手です﹂ よろしくの一言も言わぬうちに、一方的に時間計測係に宣告され る。 これで三回連続先手取られちゃったなー。参ったなー。 とん、と駒を動かしてきたので、こちらもそれに応じて手を指し た。 十五手ほど進むと、戦型が明らかになってくる。 向こう側は、王鷲交換槍備えのようだ。 王鷲兵は、将棋でいうと角と同じ斜めの動きをするが、特殊な性 質を持っている。 敵味方の駒と、中央を走って侵攻路を制限している川とよばれる 地形を、ガン無視して飛び越えることができるのだ。 俺は内心では狙撃兵と呼んでいる。 だが、これがあると王様が容易に狙撃されてしまい、王鷲から王 様が逃げまわるだけのゲームになってしまい、言うまでもなく面白 いわけがない。 なので、初期配置で王の右前と左前に配置されている、近衛兵と 854 親衛兵という駒だけは、飛び越せない仕組みになっている。 だが、それでも駒を飛び越せるという特殊能力は絶大で、これの ために斗棋では囲いの類の戦法が著しく制限されている。 逆に言えば、初期状態で王鷲兵に対する囲いができているので、 これを崩すと狙い撃ちの危険が高まってしまう。という言い方もで きる。 王鷲交換槍備えというのは、最初に数手を使って、相手の王鷲兵 をこちらの王鷲兵で仕留めてしまう戦法である。 数手を浪費するぶん、若干の不利はあるが、相手の戦法を限定で きる。 俺はだいぶ王鷲兵を使うのが上手いというか、得意だから、こう いう戦法を取ってきたのだろう。 ﹁ねえ、あなた﹂ と、そこでジューラが話しかけてきた。 なんだ? 決勝戦では挨拶もしない約束でもあったんじゃなかったのか。 思えば、こいつの声は初めて聞いた気がする。 ﹁大丈夫?﹂ なにがだ。 ﹁さて、体調は悪くありませんが﹂ 855 俺がそう答えると、ジューラはわざとらしく口に手をあてて、ク スクスと笑った。 ﹁いいえ、心当たりはないのかしらってね。心配事はない?﹂ ﹁特にありませんね﹂ ﹁そうかしら? あなたがやっている⋮⋮その、なんでしたっけね ? 小さなお店﹂ ﹁ホウ社ですか﹂ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ﹁流れ者の平民を沢山雇っているんですってね。今頃大変かもしれ ないわよ? 火事になったりとか﹂ あーあ⋮⋮。 なんつーか⋮⋮ほんとにクズだな。 俺はクズが嫌いというわけじゃない。 俺自身、クズみたいなものだし、美学のある悪党というのは、逆 に好きなほうかもしれない。 だが、こいつらはダメだ。 美学がない。 ﹁ふーん⋮⋮まあ、驚きました﹂ ジューラはニヤニヤと微笑んでいる。 ﹁あら、なにが?﹂ ﹁はあ、まさかここまで頭の回転が悪いとはね﹂ 俺が馬鹿だったわけだ。 856 勝ちを譲る? 恩を売る? なんだそりゃ。 まるで話になっていないじゃないか。 ここまでハッキリと勝ちを譲ってやれば、相手は当たり前に気づ くだろう。 そう思っていたが、そもそも気づいてもいなかったわけだ。 それほどに鈍感であれば、せっかくの恩も売り込みようがない。 相手は、実力で勝ったとしか思っていないのだから。 ﹁先ほど報告を受けましたよ。家屋四軒全焼、怪我人なし。被害は まあ⋮⋮軽微で済みました﹂ ﹁⋮⋮あらそう?﹂ ジューラは余裕を装ってはいるが、驚きを隠しきれていない。 作り笑顔が強張っている。 俺が知らないとでも思っていたのか? 馬鹿め。 ﹁しかし、まさか、僕の動揺を誘うために放火をしかけ、こういう 場でそれを口に出してくるとはね⋮⋮やれやれ﹂ ﹁⋮⋮私がやったと、いつ言ったのかしら?﹂ ジューラは声を抑えているわけではなかった。 なにを考えているのか知らないが、こういう勝ち方こそが魔女家 の誉れと思っているのだろうか。 この会話は、前のほうの観客には筒抜けだ。 857 ﹁どのみち、被害の届け出を出すつもりもない﹂ どうせ握りつぶされ、犯人は特定されない。 ﹁どうでもいいことです。放火だろうが失火だろうが﹂ ﹁そう? じゃあなにが言いたいのかしら?﹂ ﹁あなたは、品性下劣にも程がある﹂ ﹁なっ⋮⋮!﹂ ジューラは恥辱で顔を赤くしながら、俺を睨んだ。 ﹁こんなことをせずとも、僕は負けて差し上げるつもりだった。先 ほどの勝負は、どうもお気づきでないようだから申し上げるが、わ ざと負けてさし上げたのだ。違和感も感じていないとは、魔女とも 思えぬ図抜けたお気楽ぶりだ﹂ ﹁なにを減らず口をっ⋮⋮!﹂ ジューラは顔を真赤にして怒っていた。 だが、俺の口は止まらない。 ﹁わざわざ負けて差し上げても、恩を恩とも解さずに、人の家を燃 やし、こういった手口で舌戦を仕掛けてくる。これでは、負けて差 し上げる甲斐もありませんな﹂ 俺は、ああいう衝突を避けたくて、二戦目でわかりやすく負けて やったのだ。 恩を売ってやれば、将来的に衝突は避けがたくとも、引き伸ばし 858 はできると。 だが、実際に放火で全焼してしまった今となっては、もう負けて やる義理はない。 百歩譲って、放火で工場を全焼させたのは構わない。 奴らの身になって考えてみれば、これは仕事なのだから。 間接的な嫌がらせが効果を発揮しないとなれば、直接的な行動に 出ざるを得ないのは、仕方がない。 こちらが、わかりやすい警告を頭から無視しているのだから、そ れはそうなるだろう。 ラクラマヌスは羊皮紙ギルドからリベートを受け取っているのだ から、羊皮紙ギルドの権益を保護するのは、ラクラマヌスの義務だ。 ギュダンヴィエルも﹃守ってやる﹄と言っていたが、金を貰う以 上は、その相手を庇護する責任も負わなくてはならない。 子の権益が脅かされたときは、たとえ恨んでいない相手でも、攻 撃する。 それは当たり前のことで、こいつらはそれを仕事にしているのだ。 だから、大切に育ててきた工場に火をかけられようと、俺は恨み つらみを言うつもりはなかった。 俺にとっては卑劣に思えるが、ラクラマヌスにとっては家業なの だ。 いまさら辞めるわけにはいかないことだ。 だから、火をかけるのはいい。 俺が今、ここに座っていなければならないことを利用して、留守 を狙うのもいい。 859 だが、なぜそれを口に出して動揺を誘う? ホウ社を潰す﹃ついで﹄で、優勝の栄誉まで得ようとする? それは、強欲だ。 俺からホウ社を奪い、優勝の栄誉も奪い、泥に塗れさせて高笑っ てやろう。 そういった意図が透けて見える。 いいだろう。 ﹁審判ッ、こんな侮辱には耐えられませんわ﹂ ジューラがそう言うと、時間計測係︵なんと審判だった︶は、 ﹁ユーリ殿は口を閉じるように。そして、罰則として持ち時間をゼ ロとする﹂ などと、ふざけたことを抜かしてきた。 もうなんでもありだな。 よほど強力に買収されているのだろう。 女王を見ると、かなり眉をひそめた顔をしている。 きっと、これで職を失うことになっても、生活に困らない程度の 金は、懐に入るのだろうな。 持ち時間がゼロの場合、約30秒以内に打たなければ、失格とな る。 これは大変な不利だ。 860 あまりに面白かったため、思わず笑みが浮かんでしまった。 ﹁フフッ⋮⋮構いませんよ。だが、いいのですか?﹂ ﹁なにがッ﹂ 俺は人差し指でトントン、と盤の隅を叩いた。 ﹁同じ負けるにしても、このような低俗な小細工を弄し、不利まで 課して、その上で負けたのでは⋮⋮立場というものはあるのでしょ うか?﹂ 負ける気がしなかった。 *** 俺はもう、盤面も見ずに、ひじ掛けに頬杖をついて、ジューラの 顔を無表情に眺めていた。 こうしてみれば、ジューラは歳相応の顔をして、泣きそうになり ながら盤とにらめっこしている。 だが、もう道はない。 そもそもの腕前が二枚も三枚も劣るのだ。 皆が口をそろえて言っていたとおり、これなら準決勝の相手のほ うが余程強かった。 彼女と十番勝負をすれば、こいつは運が良くて一本取れればいい ほうだろう。 861 同じ寮に住んでいる相手だ。寮内では何度も対局をしているはず だ。 その相手に勝って、さらに一局目で腕の差を見せつけた俺に対し て、何故あの二局目を自力で勝てたと思ったのだろう。 そして、俺の動揺を誘えば、三局目は余裕を持って勝てる、とな ぜ思えたのだろう。 物事を好都合なほうに考えてしまう性格なのか、予めの計画を修 正することを考えつかなかったのか⋮⋮。 寮内ではろくに対局をしていないとか、血筋を考えて手加減をさ れていたということも、考えられる。 わからないな。 それにしても、本当に詰めろがかかり、必死になるまで続けるつ もりだろうか。 盤をひっくり返して俺にぶつけ、一矢報いるとか。 それも、ありえなくはない。 ガキみたいな行動だが、俺がモロに盤と駒を浴びせられ、椅子か ら転がり落ちでもすれば、相当みっともないことになる。 この最悪の状態からの巻き返しとしては、悪くはない。 俺の無礼への報復ということで、多少の言い訳もつく。 一応、警戒しておくか。 862 ﹁参り⋮⋮ました⋮⋮﹂ ジューラは、下唇をかみながら、目に涙をため、悔しそうに盤の 上に手をおいた。 終わった。 *** 終わった瞬間に、立ち見席のほうから爆発が起こったように歓声 が上がった。 騎士院の連中が、文字通り飛び跳ねながら嬉しがっている。 歓声のなか、それからの手続きが解らず座っていると、キャロル が貴賓席から立ち上がり、こっちへ向かってきた。 キャロルは黒に近い藍色のドレスを着ていた。 頭には琥珀と銀で出来た繊細な髪留めをつけている。 ドレスの暗い色合いが、髪飾りで装った金髪に、よく映えていた。 靴もヒールのついた靴を履いていたので、立ち上がると、なにや ら普段とは別人のように見えた。 ﹁まったく、お前はふつうにやれんのか﹂ 中身は変わらんらしい。 ﹁厄介が向こうから押し寄せてくるんだ。しようがない﹂ ﹁それは、お前がひねくれものだからだ﹂ 863 ﹁⋮⋮そうかな﹂ 急に自信がなくなった。 そうかもしれん。 キャロルの言うとおりなのかも。 良く解らんが、これから酷く厄介なことになりそうだし。 ﹁⋮⋮だが、よくやった。見事である﹂ キャロルは、不敵にニコっと笑って、軽く手を差し出してきた。 今度は、肩を叩くつもりではないだろう。 ﹁そうかい﹂ すっと立ち上がると、手をとりながら跪き、俺はそっと口づけを した。 *** すぐに会場を抜け、服を制服に着替えさせてもらうと、俺はその まま走り去るように王城から出た。 そう急いでいるわけではないが、できるだけ早く水車小屋のほう に行きたかった。 ﹁ユーリくん﹂ 王城の門の外に、ミャロがいた。 864 手綱を握っているのは、どこから調達してきたのか、ホウ家の鞍 のかかったカケドリであった。 ﹁申し訳ございませんでした﹂ ミャロは頭を深く下げた。 ﹁なにを謝る﹂ ﹁ボクの考えが足りませんでした。ボクがユーリくんを大会にひっ ぱり出したせいで、大切な建物が放火されてしまい⋮⋮﹂ ﹁ミャロ﹂ 俺は強い口調で言った。 ﹁あれをお前のせいと思うほど、俺は落ちぶれちゃいないぞ﹂ あれはどのみち、いつかやられていたことだ。 強いて言えば俺のせいであり、社が荒稼ぎをした代償でもある。 ミャロのせいではない。 ﹁⋮⋮それだけじゃありません。控室に乗り込んで見当違いの文句 をいうなんて。言い訳のしようもありません﹂ ミャロは、ずっと頭を下げたままだ。 ﹁顔を上げろよ﹂ ﹁⋮⋮はい﹂ 頭を上げて、顔が見えた。 865 親の説教を待つ子供のように、情けなさそうに歪んだ顔は、いつ もの人を見透かした笑顔ではない。 そこには歳相応の幼さがあった。 主人に見捨てられるのを恐れる、子犬のようだ。 カケドリを用意しているということは、これもつぐないのつもり なのだろう。 まだ決勝が終わって二十分、経つか経たないかという時間だ。 決勝が終わってからカケドリを調達したのでは、幾らなんでも早 すぎる。 ということは、ミャロは序盤にやりとりを聞き、火災を知るとす ぐ会場を離れ、別邸まで行き、どうにかして事情を話し、トリを調 達してきた。という事になる。 いわば気を利かせたわけだが、その気遣いが俺には哀れにすら感 じられた。 十六歳のすることか。 ﹁馬鹿だな﹂ 俺は、ミャロに近づくと、その体をぎゅっと抱きしめた。 ミャロのか細い体は、同じ年齢でも細く、すっぽりと俺の胸のう ちに収まった。 ﹁あ、あの⋮⋮﹂ ﹁そんなに気負うな。俺はお前がどんな失敗をしても、嫌いになっ たりしない﹂ 866 ﹁⋮⋮はい﹂ 腕の中で、安心したようにミャロの体が弛緩した。 ﹁あの、こ、この際だから言ってしまいますけど⋮⋮ボ、ボク、実 は女なんです﹂ なんか言ってきた。 ﹁男と思っていてこんなことをするか。気持ち悪いだろ﹂ ﹁そ、そうですよね⋮⋮で、でも、離してください⋮⋮﹂ 俺はミャロを離した。 ﹁こ、こんなことをされると⋮⋮勘違いしてしまいます﹂ ミャロは頬を赤らめていた。 慰めたつもりだったのに、なんか変な方向に⋮⋮。 ﹁ゆ、ユーリくん、お急ぎなんでしょう? ほら、早く行ってくだ さい。ボクのことはいいですから﹂ ﹁そうか﹂ 俺は鐙を踏みつけると、ひらりと鞍に跨った。 やはり騎士院の制服は動きやすい。 ﹁どうぞ﹂ ミャロから手綱を受け渡されると、俺は走らせた。 867 第052話 ルジェの落胆* パンッ 小さく音が響き、ジューラの頬が弾かれた。 その衝撃で、ジューラの銀冠がはずれ、床にコロコロと転がる。 カツン、という音がして、石灰岩の壁に当たって止まった。 貴賓席で勝負の行方を見守っていた、ラクラマヌス家の現当主、 ルジェ・ラクラマヌスは、今は控え室にいた。 控え室には、ルジェとジューラの二人だけしかいない。 ジューラは、まだ華麗な衣装を纏っている。 この衣装は、ラクラマヌス家からの持ち出しであった。 汚れようと破れようと、文句をいう人間はいない。 ﹁とんだ醜態を晒してくれましたね﹂ その声には、祖母が傷心の孫にかけるべき暖かみはなかった。 ﹁ですが、お祖母様⋮⋮あれはお母様がそうしろと﹂ ﹁おだまりなさい!!!﹂ ﹁くっ⋮⋮﹂ ラクラマヌス家現当主のルジェは、王都の裏側に横たわる汚物を、 ことごとく見知った女であった。 齢は九十に届こうとしている。 868 ﹁白樺の寮で派閥を率いながら、こんな簡単なことも解らないとは ⋮⋮﹂ ルジェは怒りに震えながら言った。 見所があると思っていた孫娘が、こんな馬鹿な計画に乗ってしま ったことが腹立たしくてしかたがなかった。 少しくらい頭を使えと言いたくなる。 そもそも、この年齢になってまで教養院を卒業できない女の頭脳 になど、期待しても仕方がないのかもしれない。 だが、それにしても、と思わざるをえない。 全学斗棋戦は伝統ある一戦だ。 故に、優勝をすれば周囲の見る目も変わってくる。 名も覚えられるし、出世にも有利になる。 特に、決勝の相手が将家の跡継ぎともなれば、それはもう一目置 かれるようになる。 そのために、卑怯な手を使うことは構わない。と、ルジェは考え ていた。 ルジェは、十九歳で教養院を卒業するまでに斗棋戦に三回出場し、 二度優勝していた。 その際、ルジェも多少の策を弄した。 その経験から言えば、放火によって心理的に混乱を生じさせるの は、悪くない手だ。 だが、やり方は最悪だ。 869 どうせ馬鹿娘の考えた下衆の策に違いないが、衆人環視の中で、 対局中の口上として伝えるという方法は、下の下だ。 まるでチンピラが考えるような策であった。 斗棋であのような舌戦で相手を混乱させるような真似をして、観 客はどう思うか。 あの時点で気分を害すであろう。 権謀家というのは、良識にとらわれていてはいけないが、良識と いう建前を忘れてしまってもいけない。 建前を忘れてしまえば、街にいるチンピラと何が違うというのだ。 建前が、高貴さや家柄という鎧を形作り、それこそが繁栄をもた らすのだ。 だから、馬鹿だというのだ。 馬鹿娘も、目の前の馬鹿孫も、それがわかっていない。 権謀家としてのセンスがない。 一番重要なはずの建前を、日常の行為と乖離した不必要なものと 考え、行為と建前を混同させてしまう。 だから、やることなすことがチンピラ染み、他人から軽んじられ る。 そもそも、あれをやって、勝てなかったらどうするのか、考えも しなかったのか。 下劣な策を講じて負けたとして、同じ負けるにしても何倍もみっ ともないことになる。 今のように。 870 そもそも、斗棋戦で優勝できるほどの腕前かと言いたくなる。 実力もないくせに欲をかいた挙句、あんなふうに家名にまで泥を つける負け方をした。 同じ負けるなら、見かけ上だけでもフェアプレイに徹していれば、 負けても握手をしてそれで終わりなのだ。 女王からねぎらいの言葉すら与えられるかもしれない。 家名にまで響くなどということは、ありえない。 つまり、ジューラは無用のリスクをわざわざ背負い込んだという ことになる。 ルジェは、自分だったらどうしていただろう、と考える。 家屋に放火するにしても、それを伝える手段は、控室に怪文書を 送るなどの手段にしたはずだ。 女王まで見ている衆人環視の場で、自慢げに悪行を告白する必要 など、まったくない。 それ以前に、二番目の勝負が終わった時点で、早馬を走らせて伝 えれば、放火の中止指令が間に合ったかもしれない。 それとなくそのことを伝えれば、あのユーリとかいう若造は、言 葉通り負けてくれていたはずだ。 ルジェは、自分が勝った大会でも、多少の策は弄したとはいえ、 大まかな部分では実力を伴って優勝した。 それゆえに、決勝の一戦目、二戦目を見ただけで、あの若造が勝 ちを譲ろうとしているのは解った。 一戦目の芸術的なまでの勝利と比べ、二戦目は明らかに不自然な 871 指し筋をしてきていたからだ。 最初は、集中力の持続が極端に悪いタイプかとも思ったが、不自 然な指し筋とキレのある指し筋が交互にきていたので、これは明ら かに不自然と気づいた。 内心で、これはジューラが策謀を巡らしたからに違いなく、だか ら若造は勝ちを譲ることになったのだ。と、孫の才覚を褒め称えた くなったほどだった。 一戦目に勝ち、二戦目でこうした指し筋をしているのは、負ける にしても自分の力量を誇示したいがゆえのことであろう。と。 しかし、そこで行われた取引は、恐らくはあの若造のやっている 商売への譲歩が対価となっているはずなので、その譲歩の内容につ いて、自分が知らされていないことは不思議に思っていた。 だが、それは大きな問題ではない。 負けさせておいて約束は反故にする。 そういうつもりであるかも知れないからだ。 だが、現実は違った。 ジューラは事前にユーリに働きかけたりはしておらず、むしろ向 こうのほうが気を利かせて、勝ちを譲ろうとしていたのだ。 こちら側にそれを気づかせようとして、わざと一戦目で圧倒的に 勝ち、二戦目で拙く負けた。 それは、魔女家の得意とするはずの、政治的な駆け引きだった。 そういった駆け引きでは、わざわざ一から十まで伝えるようなこ とはしないのだ。 むろん、仲間内では、いくらでも対話をすればいい。 872 一から十まで伝えあって、なんの不都合もない。 だが、表向き敵対している二者の間では、そうはいかない。 敵対している間柄にあっては、面会自体が危険であるし、会合し ようという動きを見せるだけで、身内から叩かれる危険性がある。 だが、敵対しているからこそ、落とし所について二者の間に対話 が必要なのだ。 こういった、運の要素が強く絡む勝負事では、更にその必要性は 強くなる。 そういった場合の駆け引きでは、小さな不自然から鋭敏に意図を 察しなければならない。 騎士側がわざわざそれをやったのに、こちら側がそれを読み取れ ず、こちらに有利な取引をメチャクチャにしてしまった。 こちらは魔女家なのだから、向こうの独り合点では済まない。 駆け引きには気づいて当たり前である。 百歩譲って、気付かなかったのはまだいい。 あろうことか、こちら側から向こうのメンツを潰すようなことを 口走り、勝てた勝負を最悪の形で負けにするとは。 ﹁なんという莫迦⋮⋮っ﹂ 何度罵っても足りないくらいであった。 ﹁すみません、お祖母様、すみませんでした⋮⋮っ﹂ 地べたに跪き、孫は必死に頭を下げている。 873 ルジェが悲しいのは、一番見込みがある後継者が、これだという ところだった。 そいつがこのような醜態を晒してしまった以上は、ジューラが当 主になったところで、他の魔女家からは侮られっぱなしになる。 ただ負けるだけだったならば良かったものを、それを取り返しの つかない醜態にしてしまった。 もはや、ルジェにはジューラに見切りをつけ、新しい子に期待す るという選択肢はない。 子が産まれたとして、才覚を判断できるまでには、少なくとも十 余年の歳月が必要になる。 残念ながら、ルジェはその頃には天寿を全うしているだろう。 ﹁ぐっ⋮⋮﹂ ルジェは皺のよった頬を歪ませ、歯ぎしりした。 涙がでるほど悔しかった。 怒りに任せて、持っていた杖を、ジューラの頭に打ち下ろした。 ﹁あうっ!﹂ ジューラは杖の石づきを頭に受け、小さな悲鳴を漏らした。 ﹁ハァ、ハァ﹂ ジューラは息を切らす。 一度ならず、二度でも三度でも叩いてやりたかったが、老骨の身 には、二度それをする元気は湧いてこなかった。 ︵どうしてくれたものか︶ 874 ルジェは、孫を打ち負かした若造について考える。 ジューラの情けなさのほうを恨んでいるからか、不思議と憎しみ は湧いてこなかった。 若い武家の騎士にありがちなことに、魔女家を舐めているのであ れば、報復の必要がある。 だが、あの若造はそうではなかった。 勝ちを譲ろうという態度を示した。 三戦目、一瞬、目が合った時のあの眼差し。 若者にありがちな浮ついた部分はまるでなく、当主としての監督 不行き届きを責めるように、飽きた目でこちらを見ていた。 勝ちがほぼ確定し、栄光が目前に迫っているというのに、得意げ になるふうでもなく、喜びがあるふうでもなく、むしろ勝ちを譲れ ず、こちらと敵対することになってしまったことに、がっかりして いるようでもあった。 馬鹿ではない。 羊皮紙ギルドの要請も、放火によって一応は義理を果たした形に なる。 だが、このまま羊皮紙ギルドの利益を損ない続けるようであれば、 この先も争わざるをえない。 ラクラマヌス家のメンツを潰された報復も、なにがしかの方法で するべきだろう。 頭の痛い問題であった。 875 *** ルジェは、出来の悪い娘を見下ろしながら、考える。 ルジェには、ジューラのために何かをしてやらなければ、という 考えはまるで浮かんでこなかった。 どうにかして汚名を返上するのは、ジューラが己の才覚でやるべ きことであって、自分が手を貸してやる事柄ではなかった。 ︵こんなでも、ギュダンヴィエルよりマシか⋮⋮魔女として残って はいるのだから⋮⋮︶ そう考えると、ルジェは少しは心が慰められた。 ギュダンヴィエル家の才児、ミャロ・ギュダンヴィエルと比べれ ば、まだ救いようがある。 ギュダンヴィエルもラクラマヌスと同じく、近年才ある子には恵 まれていない。 当主の長女にいたっては、いくらうちの馬鹿娘でも、これよりは マシ。というほどの面汚しだ。 なにせ、あそこの娘は、名も知らぬような家の騎士と、あろうこ とか在学中に密会を繰り返し、子を孕んでしまったのだから。 たか その子は流産してしまったが、結局は一年間を休学し、その男と 結婚することになった。 とんび そんなどうしようもない女だったが、鳶が鷹を生むというのか、 876 そこから産まれた子供は、とてつもない才の持ち主であった。 セブンウィッチズ 七大魔女家の家の後継者は古代シャン語の習得が必須条件になる が、嘘か真か、十歳にして古代シャン語を話せたという。 古代シャン語は生半な勉強では習得できず、ルジェでさえ苦労し た。 魔女としての勘所の冴えも申し分なかったという。 これでは、期待するなというほうが無理だ。 それが、教養院に入学する年齢になると、親だの当主だのを全て 騙し、書類をすべて完璧に偽造して、唐突に騎士院に滑り込んだ。 当主は入学式直前になり、学院から連絡がきて、ようやく取り返 しの付かない事態に気づいたという。 ルイーダ・ギュダンヴィエルの落ち込み振りは、普段は他人に同 情などしないルジェであっても、思わず気の毒になってしまうほど であった。 それと比べれば、まだこちらのほうがマシだ。 少なくとも、使いではあるし、魔女として生きる意思は持ってい るのだから。 ﹁いつまで寝っ転がっているんです。早く帰る支度をなさい﹂ ルジェは土下座しているジューラに言い放つと、部屋を後にしよ うとした。 そのとき、扉が開いた。 ﹁お、お母様﹂ 877 馬鹿娘であった。 走ってきたのか、汗をかいている。 ﹁なんですか、騒々しい﹂ ほとほとうんざりしている馬鹿娘の顔をみて、ルジェは疲れが倍 増するようだった。 馬鹿にもほどがある。 ﹁それが⋮⋮一人帰ってこないのです。実行班が﹂ ルジェは馬鹿娘を殺したくなった。 878 第053話 止まった水車 水車小屋周辺の社屋は、見事なまでにコンガリいっていた。 家の中や屋根が燃えている間も、濡れていたせいで燃えなかった のだろう。 川に浸っている水車だけがすがすがしいくらいに原型をとどめて いるが、それ以外は屋根もドアも、木造の部分は全て燃え落ちてい た。 むろん、放火されたといっても、川のほとりで人も張り込んでい たのだから、すぐに消火にあたれば、こんなに燃えるわけがない。 消火はしないよう言い含めておいたのだ。 ラクラマヌスも、羊皮紙ギルドも、対外にアピールできる成果が 必要なのだ。 それを与えてやれば、与えてやらぬよりも、溜飲の下がり方が違 ってくる。 燃えたのは、俺とホウ社にとっては、もう必要のない建物であっ た。 ﹁かかったか﹂ ﹁ああ﹂ 到着するなり尋ねると、カフが短く答えた。 もう夜半だというのに、カフをはじめ、二十名以上の人間が、燃 え落ちた社屋の跡地にいる。 879 深い思い入れがあるのか、灰となった家屋を見て、泣いている者 もいる。 廃墟の真ん中で盛大に焚き火が燃えているため、あたりは明るく 照らし出されていた。 焚き火のそばには、一人だけ様子がおかしい者がいる。 猿轡をかまされ、後ろ手に縄で縛られている。 そいつが、俺の前まで引きずられてきた。 半死半生になるまでボッコボコにされたらしく、顔が腫れていた。 こいつが放火犯の一人らしい。 とはいえ、様子がおかしいというのは、外傷のせいだけではない。 黒装束に黒頭巾で、まるで忍者みたいな服を着ていた。 顔がアレになっているせいで良く解らないが、おっさんの年齢に 見える。 ﹁ふーん、かかるもんだな⋮⋮猿轡を外してやれ﹂ ﹁自害するぞ﹂ 死ぬのか。 ﹁そっか。じゃあやめとこう﹂ 舌を噛み切られちゃかなわん。 ﹁死のうとしたのか﹂ ﹁短刀を腹に突き立てようとしたからな、その前に木の棒でボコボ コにして猿轡を噛ませた﹂ 880 カフの声には、隠し切れない怒りが滲んでいた。 やはり、放火について思う所があるのだろう。 ﹁気合入ってるな﹂ 敵も味方も。 ﹁寝たままじゃなんだろ、座らせてやれ﹂ 男は、社員の一人に無理やりに上体を起こして、座らせられた。 足には縄を打たれていないので、座ることも歩くこともできる。 が、この状況では逃げようもないだろう。 男は、おとなしく胡座をかいて座った。 ﹁ま、とりあえず尋問を始めるか﹂ 俺は男の前でしゃがみこんだ。 ﹁お前、第二師軍の人間か? 頷くか首を横に振れ﹂ ﹁⋮⋮﹂ 男はこちらを睨んだままだ。 ﹁じゃあ、ラクラマヌスの私兵か?﹂ そう問いかけても、やっぱりなにも反応を示さない。 あれか。黙秘権を行使ってやつか。 ﹁まあいいさ。いやな、こんな罠に引っかかるやつは、どちらの者 なのか、気になってな﹂ 881 トラップというのは、単純な人捕りトラップだ。 工場の近くにある木の、太い枝を十分にしならせ、ロープで地面 に繋いでおく。 繋いだ先の部分を輪っかにし、遊んでいる輪っかを留め具にかぶ せる。 曲者が留め具を蹴っ飛ばすと、しなった枝が戻る力で、輪っかに なったロープが浮き上がり、首吊りの要領で足を縛り上げられ、人 間を一本釣りにする。 どうせ攻めてくるのは夜だからと思い、面白半分に作らせておい たのだ。 こいつは、それにかかった。 自害しようとしたというのは、逆さ吊りになりながらのことだろ う。 そこを、よってたかって長い棒で打ち据えた。 反撃に刃物を使われれば、怪我人が出てもおかしくないので、長 い棒でタコ殴りにしたというのは、方法としては正しかった。 ﹁んー⋮⋮﹂ しかし、どうするかな。 別に、吐かせることもない。 殺すか。 殺して埋めれば、向こうを混乱させられるかもしれない。 捕虜になったはずの人間が行方不明になるというのは、処置に困 882 るものだ。 裏切ったのか、吐いたのか、殺されたのか、向こうからしたら解 らないわけで、どうなったんだか不安になる。 それとも、解放すれば、魔女家に対して貸しの一つになるか。 どうだろう。 うーん。 ﹁猿轡を外せ﹂ 迷った末、俺は言った。 ﹁いいのか﹂ カフは訝しげだった。 自殺をしてしまうからだろう。 ﹁拷問をするのも面白いが、聞き出すネタがない。第二師軍の軍人 か、私兵かなんてのは、どうでもいいことだ。肝心の雇い主は割れ ちまってるんだしな﹂ ﹁それもそうか﹂ 納得してくれたようだ。 ﹁猿轡を外す前に言っておくが、俺は死体を晒してやったりしない からな。舌を噛んで死ぬのはいいが、そのあとは裸にして森の中に 埋める。そうしたら、お前は行方不明の裏切り者として処理される。 俺にとっちゃ、それが一番得をするんだ。悪く思うなよ﹂ つまりは、どうせ吐かせることはないんだから、自殺しようが構 わないってことだ。 わざわざ手を下さなくとも、自分から死んでくれるのだから、そ 883 ちらのほうが労が減っていいくらいだ。 ﹁よし、猿轡を﹂ 外せ、と言おうとしたところで、俺は言うのをやめた。 宙吊りにされたとき、こいつはなんで自殺しようとした? こいつからしてみれば、仲間から見て行方不明という形で殺され るより、死を認識してもらったほうが、色々と都合がよいのは明ら かだ。 実は生きていて、逃げた。とか、裏切った。とかいう可能性を考 えなくてよくなる。 それだったら、仲間のほうも、どちらの方に転んだか、確かめた くなるのが心情じゃないのか? ﹁ちょっとまて、やっぱり、焼けた水車小屋の中でやろう﹂ ﹁なんでだ?﹂ ﹁遠くに誰か潜んで、こちらを見ているかも知れない﹂ 今夜は月光が明るく、わりと遠くまで見渡せるが、草むらに伏せ られれば、こちらからは見えない。 焼けた水車小屋は、中は煤だらけで天井も落ちているが、四方に 焼けた壁があるので、間諜の目からは隔てることができる。 ﹁運べ﹂ 社員に引きずられて、工場の中に入れられた。 重油の樽に松明の先を突っ込んだもので、明かりも運ばれてくる。 ﹁入り口に人垣を作れ﹂ 884 入り口のドアは焼け落ちているので、ここが開いていたら丸見え である。 ﹁よし、猿轡をはずせ﹂ 合図すると、猿轡が外された。 ﹁⋮⋮﹂ こちらを睨んではいるが、舌を噛む様子はない。 なぜか? こいつの中では、死体を仲間に対して明かす必要があり、それが 為されない可能性のある状況では、自害を選択できないのだろう。 ﹁ふうん、死なないか⋮⋮。なるほどな﹂ 自害には、二種類の動機が考えられる。 一つは、自害をしなければ、自害するより酷い余生となるので、 自ら生を断ち切るというケース。 これは、一般的な自殺、つまり人生を悲観しての自殺が含まれる。 たとえばクラ人に捕まったので死ぬ。 一生を奴隷、女の場合は性奴隷として生活しなければいけない。 それを苦にして自ら死ぬ。 または、人の形をとどめないような拷問をする連中、たとえば魔 女家などに捕まった場合、どっちみち苦痛しか待っていないので、 自ら命を断つ。 こいつがよほどの馬鹿だとしても、俺達がそういう類の鬼畜だと 885 は思わないだろうから、これらは当てはまらない。 もう一つは、生きることで大切なものが損じられるのを恐れるケ ースだ。 保険金のために自殺するなどというケースも、これに当てはまる だろう。 あるいは、拷問にかけられることで、情報を吐き、そのせいで仲 間や仕える者を裏切るのを恐れて死ぬ。 だが、それであれば、こいつは猿轡を解いた瞬間に舌を噛んでい たはずだ。 ということは、別の理由が考えられる。 裏切りが味方に知れたら、味方に守りたいものが損じられるとい う場合だ。 だから、俺に﹁死んだら裏切ったと思われるように工作する﹂と 予防線を張られ、死をためらっている。 ﹁さあて、どうするかな。お前が裏切ったことになると、かーちゃ んが死ぬのか、その齢だとガキでも殺されんのか?﹂ 俺がそう言うと、こいつはちょっと驚いたような顔をした。 案外、顔に出るタイプだな。 ﹁連中の好みそうなやり口だな﹂ さて⋮⋮どうしたもんか。 このまま逃してもいいが、それだと示しがつかないな。 886 カフなんかだいぶ怒ってるし。 ﹁よし、お前を逃してやろう。その変わり、お前には魔女家が握っ ている人質を連れて戻ってきてもらう﹂ ﹁⋮⋮なんだと?﹂ 喋った。 殴られて口の中が腫れているせいか、聞き取りにくい声だが、確 かに喋った。 ﹁生きるも地獄、死ぬも地獄。お前は裏切り者として、家族を守り ながらの逃亡生活だ﹂ ﹁⋮⋮⋮﹂ ﹁おい、ユーリ﹂ カフは納得行かないようだった。 ﹁こいつを戻したら、そのまんま元の鞘に収まるだけだろうが﹂ ﹁解っているさ。だから、こいつが戻らなかったら、向こうに噂を 流す。ホウ社は裏切り者を手に入れた。情報は筒抜けだ、ってな﹂ ﹁⋮⋮⋮﹂ おっさんの顔色がこわばっていた。 ﹁ボッコボコにされたツラで戻って、何もありません逃されました。 で向こうも信じると思うか? それに加えて、こんな噂まで流れれ ば、こいつは買収された密偵で確定だよ。とてもじゃないが生きち ゃいられない﹂ そう言っても、カフは難しい顔をしていた。 887 ﹁だが、なんでそんな周りくどいことを﹂ ﹁別に、コイツを殺したところで、うさが晴れるだけだろ﹂ ﹁⋮⋮まあ、そうだが﹂ ﹁コイツが過去にどんだけ悪事を働いてきたかしらんけどな、悪事 を働いたら働いただけ、知らない方がいい事を知ってしまっている。 それだけ追手も多くなるんだ。こいつにとっちゃ、この場で殺され て、そこらの木にでも晒されたほうが、よっぽど楽なはずさ。少な くとも、裏切り者扱いはされなくて済むわけだからな﹂ ﹁⋮⋮お前がそういうなら、俺も嫌とは言わんがな﹂ よし。 ﹁おい、お前。行っていいぞ。早く立て﹂ 俺は蹴っ飛ばして立たせると、おっさんは後ろ手に縄で縛られな がら、逃げていった。 *** ﹁それで、地下倉庫は無事なんだろうな?﹂ ﹁たぶんな﹂ ﹁たぶん? 確かめていないのか?﹂ カフにしちゃ珍しい手抜かりだ。 地下倉庫には、漉桁を始め、分留装置、おおまかに分留された石 油の樽、いろいろなものが収められている。 扉は土をかぶせた上に水を撒いた防火仕様で、穴も深く作られて 888 いるから、よほど地上が勢い良く燃えても、中は大丈夫なはずだっ た。 地下倉庫に退避させた設備さえあれば、こんな水車小屋や掘っ立 て小屋などなくとも、別の場所で素早く運営を再開できる。 ﹁燃えた家が落ちて自然な感じになっているからな。瓦礫をどかし て開くと、扉があるのが一目瞭然になっちまう﹂ ああ、そういうことか。 ﹁できれば今日中に、馬車で本社まで運びたいんだが﹂ 俺がそう言うと、カフは首を傾げた。 ﹁地下倉庫はバレないだろう。放っておいてもいいんじゃないか﹂ ﹁流れでな、必要以上に連中を挑発してしまった。念入りに報復を してくるかも知れん﹂ 十分にありえる。 地下倉庫はバレないといっても、じっくりと探せば扉を見つける のは難しくない。 防火扉には鍵もついているが、斧で叩き壊せば普通に入れる。 そこまでしない、とは言い切れなかった。 ﹁ああ、勝ったのか?﹂ ﹁勝ったよ。ついでに、向こうさんが席上でアホな挑発をしてきた もんだから、向こうさんのメンツを丸っきり潰すことになっちまっ た﹂ 889 ほんとに、なんでこんなことになったんだろう。 負けてやれば向こうの溜飲も下がり、あと二ヶ月くらいは大丈夫 かなと思っていたのに。 ﹁そうか⋮⋮それなら、念を入れたほうがいいかもな﹂ ﹁一応な。万一にもあれがなくなったら、再稼働がだいぶ遅れる﹂ ﹁じゃあ、一度市街に戻って馬車を調達するか﹂ やはり頼むツテはあるらしい。 ﹁カケドリの二人乗りならすぐだ。俺の後ろに乗れよ﹂ まだ夜もふけきっていない。 ついでに酒でも買って、持ってくればいいだろう。 ﹁その前に、一つだけ言っておかなきゃならん﹂ ﹁なんだ?﹂ ﹁お前、甘いぞ。つけ込まれないように気をつけろ﹂ 厳しい叱責だった。 ああ、やっぱりコロッと騙されはしなかったか。 俺とて解っている。 あの男は、殺して埋めるのが正解だ。 生きるも地獄、死ぬも地獄、とかなんとか言ったが、奴には、こ のままラクラマヌスの屋敷の玄関先へいって、切腹でもなんでもし て命を断つという選択肢がある。 そうすれば、潔白は証明できるだろう。 890 その場合、殺して埋めることで相手に与える心理的効果は、望め なくなる。 たとえ、あいつが首尾よく人質を連れてきて、その後流浪の旅に でたとしても、俺に得るものはなにもない。 だが、殺しておけば、確実に一つ、俺に有利となる効果が期待で きる。 俺は、人質が取られていると考え、情が出たのだ。 ﹁わかっているさ﹂ そう口にしても、実感は伴わなかった。 本当に解る時が、はたして来るのだろうか。 891 第054話 新天地 星屑に乗って上空まで来ると、既に工事が始まっているのが見え た。 ここは、貿易屋のハロルが出港した大西洋の街スオミから、川沿 いに山にさかのぼっていったところにある、大きな池のほとりであ る。 ここに新たな拠点を構えたのには、様々な理由がある。 製紙に必要な木材が取れるから。 少し遠いところに石灰が取れる山があるから。 大きな湖があるおかげで、川の水が途絶える心配がなく、水車を 常に使えるから。 いろいろと要素はあるが、最も大きな理由は、ここがホウ家本家 の飛び領地だからである。 ホウ家の領地は南部一帯に広がっていて、それを全てホウ家の領 地といえば領地に違いないのだが、その中の大部分は、傘下の騎士 家に封土として与えている。 一から十までホウ家が仕切っている土地は、全体の一部、カラク モ周辺の一帯でしかない。 が、ここは例外的に、飛び領地としてホウ家の管理ということに なっている。 その他の土地は、傘下の騎士家に統治を委任しているような形に 892 なるので、本家からは口を出しづらい。 もちろん、明らかにヘマをしたとか、領民を虐げたとか、そうい う正当な理由があれば口を挟めるのだが、それがないのに口を出す と、要するに煙たがられるのだ。 星屑が近くの空き地に降り立つ。 工場建設予定地では、王都で買ってきた大工道具を使って、社員 一同が汗をかいて働いていた。 その近くには、田舎の屋敷から借りてきた軍用天幕が張ってある。 安全タイを外し、星屑から飛び降りると、カフがのんびりと歩い てきていた。 ﹁よう、ついたか﹂ ﹁どうだ、進み具合は﹂ 星屑の手綱を引きながら言う。 ﹁予定よりはかどっている。やはり木材に困らないのはいい﹂ ここらの漁村では、湖で漁をするかたわら、林業もしている。 この国では森はどこにでもあるが、かつ水運の便が良いというと ころは、なかなか少ない。 木は伐採してすぐ建材に使うことはできず、干して水分を抜かな ければならないので、建築木材のストックが十分にあったのは助か る。 なんといっても、木造建築は作るのが楽でいい。 893 ﹁まえにお前が連れてきた、元大工の男。あれが音頭を取ってるよ﹂ ﹁あれか﹂ 俺を路上で誘拐しようとしたやつだ。 あれは、結局家族連れで社に来て、紙漉き係にはならず、中古の 大工道具を使って三軒の掘っ立て小屋を作った。 今となっては全て灰になってしまったが⋮⋮。 ﹁いい拾い物だったな﹂ ﹁あいつが連れてきた大工仲間も幾らかいる。仕事には当分困らん だろう﹂ ﹁そいつらは、暇になったら荷馬車でも作ってもらうか﹂ そろそろ紙に限らず、多方面に展開を広げる時期だろう。 結局のところ、紙の一大消費地は王都だから、輸送する必要があ る。 ﹁荷馬車を?﹂ ﹁そろそろ、紙以外にも商売を拡張したくてな。馬車は一部鉄で作 って、板バネで懸架する。乗り心地も数段良くなるはずだ﹂ 今の馬車は荷台に車輪を直付けしているため、振動が直にくる。 サスペンションを介してやれば、振動はかなり軽減されるはずだ。 サスペンションは油圧シリンダや鉄の板バネを使ったものじゃな くても、丈夫な木材を重ねて板バネを作り、その上に乗せたもので もよい。 何トンもの荷物を運ぶわけではないのだから、それで十分だ。 894 社内の需要をまかないつつ研究して、いいものができれば、単体 で商人連中に売ってもいいだろう。 ﹁よくわからんが、また新しいことを考えついたのか﹂ ﹁会長は考えるのが仕事だからな﹂ ﹁それもどうなのかと思うが⋮⋮﹂カフは呆れたような顔をしてい た。﹁とりあえず、大工方に説明しないといけないぞ。といっても、 建物を建て終わってからだから、着手じたい大分遅くなると思うが な﹂ ﹁どうせ、特許用に説明の紙は作るしな。暇を見てやっておくよ﹂ ﹁わかった、じゃあ、連中には紙漉きの練習はやらせないでおく﹂ 均一な紙を作るためには、最低限二週間かそこらの練習期間が必 要だ。 カフは、大工の仕事が一段落したら、そちらのほうの練習にも入 ってもらうつもりだったのだろう。 ﹁それでいい。人も、金が許す限りどんどん雇えよ。ここには魔女 どもはいないんだ。思う存分やって誰に咎められるわけでもない﹂ *** その後、汗をかきながら槌やカンナをふるう従業員を見回ってい ると、川下のほうから、なかなかの勢いで迫ってくる影があった。 カケドリだ。 俺は年がら年中乗っているが、カケドリに乗る人間というのは、 895 実はそう多くない。 カケドリに乗るのは騎士家の人間と、あとは王城に仕えている、 王命を届ける急使の役人くらいだ。 あとはカケドリを生産している牧場の人間だが、こっちは更に人 目につくことが少ない。 カケドリは、俺の目の前で止まった。 止まるとき、カケドリがタタラを踏んで爪が土を削る。 思わず眉をひそめた。 轢かれるコースではないので、失礼というわけでもないが、トリ を粗雑に扱っている。 こういった急停止をすると、カケドリは足を壊してしまう。 カケドリの足はヒズメになっているわけではないから、急停止の 場合、ツメを地面に突き立てて止まることになる。 ただでさえ足を酷使する動物なのに、そういった負担を指にかけ たら、悪い影響が出るに決まっている。 まあ、自分のトリをどうしようが、それはその人の勝手だから、 どうでもいいが。 騎上の人物は、カケドリを落ち着かせると、鞍から飛び降りた。 そして、突然に土の上にひざまずいた。 俺に向かってだ。 ﹁ハァ、ハァ⋮⋮た、ただいま参上しました。遅れまして申し訳ご ざいません﹂ 896 ??? なんだこいつ。 俺はこいつの上司になった覚えはないのに、なぜ俺に最敬礼をし てくるのだ。 ﹁もしかして、ジャノ・エクさんですか﹂ 俺は恐る恐る訪ねた。 ﹁ハッ、その通りです。ユーリ様﹂ ユーリ様??? 俺はお前にユーリ様と呼ばれる筋合いはないのだが⋮⋮。 ﹁頭を上げてください。僕はここに父上の息子としているわけでは ありませんから⋮⋮﹂ ﹁そ、それでは失礼して⋮⋮﹂ ジャノ・エクは恐縮した様子で頭を上げた。 なんか思っていたのとタイプが違うな。 ジャノ・エクは、俺の義伯母のサツキ・ホウに叱責され、逆ギレ して会議の場で刃傷沙汰に及ぼうとした、ラクーヌ・エクの甥だ。 エク家は、結局あの後、当たり前だがお取り潰しになった。 ここはエク家の封土であった土地なのである。 エク家は、藩爵という立派な爵位を与えられており、その封土は 広大であった。 897 具体的に言うと、この大きな湖の周辺一帯から、川を下って大西 洋に続く河口の街まで、流域の全てが領地だった。 だが、取り潰しに際して、当然だがその封土は全て没収された。 没収というと聞こえが悪いが、言ってみれば契約違反によって臣 従契約が切れたので、元からホウ家の土地であったものを返しても らった。ということだ。 だが、元より借りたものであっても、百年も二百年も借りたまま であれば、返却を強制されれば奪われたと感じるのは当然の心理な ので、感覚的に言えば﹁没収﹂というのが正しいかもしれない。 その辺の処置は、当時はルークが当主に任命された直後であった ため、ほとんど全てサツキがやったらしい。 ラクーヌは、あのあと地下牢にいれられると、しかる後に一本の 短刀を与えられた。 そして、それを腹に突き立てて自害した。 エク家は家臣団から追放された。 そこからがエク家の凄いところで、ラクーヌの父親にあたる男は、 領地でその報を聞くと、ラクーヌの嫁と息子と一緒に、揃って自刎 してしまった。 自刎というのは、自ら刃物で首を切って死ぬことだ。 ただ、その一家心中は、エク家の受けた屈辱に耐え切れず⋮⋮と かではなく、ホウ家へ許しを請うためにやったことであったらしい。 その意図は、残った遺書というか、直訴状のようなものに、ハッ キリと書いてあった。 それを聞いたサツキは、筋金入りのキ⃝ガイ一家や⋮⋮と思った 898 のかは知らんが、エク家に対し寛大な措置を取った。 屈辱に耐え切れず⋮⋮ということであれば﹁あっそ﹂で済むが、 許しを請うためにやられたわけだから、多少の手心を加えてやらな いわけにはいかなかったのだ。 というわけで、サツキは、ラクーヌの妹夫婦の息子を、暫定的に 領の代官に据えてやった。 それがこいつ、ジャノ・エクである。 つまりは、何代か真面目に頑張れば、エク家を復興できるかもし れない可能性を残したわけだ。 とはいえ、代官は代官なので、アパートの管理人みたいなもんで、 土地を持ってるわけでもなければ騎士団に籍があるわけでもない。 初めて見るジャノ・エクは、騎士にしてはヒョロっとした男だっ た。 四十に届こうかという年齢のはずだが、シャン人特有の天然若作 り体質により三十くらいにしか見えない。 ﹁こちらからお伺いしなければいけない立場でしたのに、申し訳あ りません﹂ ﹁そんな! ユーリ様をお迎えするのは当然でございますから﹂ うーん。 まあ、立場上のことを考えれば、この反応は人によっては当然と 感じられるものなのかも知れないが、難しいな。 公人としての立場と、私人としての立場というか。 向こうからしてみれば、俺の人となりを知らないわけだし、俺が 899 ﹁分けて考えないタイプ﹂だったら大変なことになるわけで、この 反応は正しい。 それに、こいつは首都とは離れた土地に暮らしているわけだから、 社のことなどは、まったく知らないだろう。 もちろん、ホー紙なんて存在すら知らないはずだ。 ﹁これからご面倒をお掛けすることになるとは思いますが⋮⋮﹂ ﹁滅相もございません。ユーリ様のお世話をさせていただくのは、 むしろ幸いでございますから。何かご用命がありましたら遠慮なく、 お申し付けください﹂ お前はどこぞのホテルのホテルマンかと言いたくなる。 ﹁はい。それでは、なにかあったら、遠慮なくご相談に伺わせてい ただきます﹂ ﹁もちろんでございます﹂ まあ、こういうタイプが代官であれば、むしろやりやすいか。 少なくとも、社の行動を阻害するような真似はしそうにない。 欲を言えば、もう少し、ざっくばらんな性格のほうがよかったけ ど⋮⋮。 *** それから、ジャノ・エクのたっての願いで、川を下って海辺の街、 スオミにまで赴くことになった。 現在代官所とされているのは、エク家の邸宅である。 900 エク家は私有財産を没収されたわけではないので、この邸宅はエ ク家の財産の一つだ。 言わば、領主でもない私人の邸宅を代官所として使っていること になり、俺の感覚では公私混同というか、少し気持ちが悪い感じが するが、この国ではそのへんはあまり厳しくないのだろう。 なんせ貴族制の社会だからな。 ﹁まあ、そういうわけで、王都の生産拠点が放火に遭いましてね﹂ などと、営業が雑談をするように、俺はエク家の応接間で適当な 話をしていた。 ﹁ほう、災難でございましたねえ﹂ 相槌を打ってくる。 ﹁いえいえ、どちらにしても、いつかはこちらに移転するつもりで したから。なにせ、王都は商売がし辛いところで﹂ 王都で商売を続けるのは変わらないが、生産拠点を移せば、魔女 家に見せる﹁弱み﹂が圧倒的に少なくなる。 王都での生産はいつかは頭打ちになるのは明らかだったので、こ の話は本当だった。 ﹁なるほど。そういう部分があるのですか。ユーリ様はお若いのに 本当に優秀でおられる。これでホウ家も安泰ですな﹂ こんな国際情勢で安泰もクソもあるかと言いたくなるが、俺は言 わなかった。 こういうトークではお互いにトゲが刺さらない話をするのが肝心 だ。 901 それにしても、やたらとヨイショしてくるな。 いえ ﹁いえいえ、僕などはまだまだ未熟者で。社を通じてお家に貢献で きれば良いのですが﹂ ﹁いやいや、立派なものです。このジャノ・エク、感じ入りました﹂ そつのねえ野郎だな。 ﹁⋮⋮それにしても、エク家のお屋敷は立派なものですねえ﹂ 俺は話すことがなくなったので、家を褒めはじめた。 実際、立派な家なんだが。 ﹁いえいえ、ホウのお屋敷などと比べれば、まこと粗末なもので⋮ ⋮﹂ というような中身のない会話をしていると、応接間のドアがノッ クされた。 ﹁入れ﹂ ジャノが言うと、メイドさんがドアを開けて入ってくる。 ﹁失礼いたします。お茶の準備が整いました﹂ しずしずと入ってきたメイドさんが、カチャカチャと茶具を整え てゆく。 騎士家風の作法であった。 騎士家風では、カップに茶が入れられて出てくるのではなく、給 仕が目の前でポットからお茶を注ぐ。 その上で、客のほうから先にカップを選んで良いことになってい る。 902 これは毒殺を予防するための礼法である。 王都の喫茶店などではまず見られない。 ﹁ユーリ様は、酒のほうがよろしかったでしょうか﹂ ジャノが言った。 シャン人は酒飲みなので、たしなむ程度の酒は昼間から飲む慣習 がある。 ﹁いえ、これからやることがあるので﹂ ﹁少しくらいなら構わないのでは?﹂ ﹁いえ、まだ未熟者なので、酒を飲めば破廉恥な真似をしでかさぬ とも限りません﹂ という言い訳である。 未成年飲酒は脳の発達の妨げになる︵かもしれない︶からだ。 シャン人の人生は長いのに、二十代でぱっぱらぱぁになるのは、 できるなら避けたいところだ。 ﹁さすがでございますなあ。素晴らしい心がけです﹂ はいはい。 その間にも、メイドさんはカチャカチャと茶の準備をしていた。 見ていると﹁本家の給仕はやっぱり凄いんだなあ﹂というような 手際だった。 つまり、あんまりよろしくない。 緊張しているのか、ポットを持つ手が震えていた。 903 ﹁あっ﹂ 案の定、盆を引き上げようとしたときに、カップの端にあたって 倒した。 俺の方にドバっと流れてきた湯を、とっさに避ける。 足にはかからなかったが、上着が少し濡れた。 ﹁わっ、すいません! 申し訳ありません!﹂ メイドさんは、何故か俺ではなくジャノに向かってペコペコと頭 を下げだした。 ﹁なにをやっておる!﹂ ゴッ、という音がした。 わお。 こいつ、グーでメイドさんを殴りおった。 頭っからグツグツ煮えた熱湯をぶっかけられて大火傷ってなら別 だけど、避けたんだから殴るこたぁないだろ。 ﹁貴様ぁ⋮⋮何をしでかしたか分かっておるのか!﹂ ジャノはメイドさんの細腕をぐっと掴んだ。 ﹁痛っ、痛いですっ﹂ メイドさんは激しく取り乱している。 ちょっと。 ちょいちょいちょい、ストップ。 904 折る気やないの、これ。 メイドさん十五歳かそこらで、中学生くらいなんだから、鍛えた 騎士がそんなガッて握ったら折れちゃうよ。 ﹁やめなさい﹂ 俺は命令口調で言った。 ﹁あっ⋮⋮見苦しいところをお見せしまして⋮⋮﹂ ジャノは、怒りに我を忘れたような顔から、一瞬で気を取り直し たのか、すっかり応接用の顔に戻った。 メイドさんの腕も離した。 なんやこいつ。 温和な顔しといて、唐突に豹変しおった。 キレやすいのは家系か⋮⋮? ﹁もういい、下がりなさい﹂ 俺はこの家の主人でもないのに、メイドさんに命令した。 ﹁はっ、はい⋮⋮失礼いたしました﹂ メイドさんは逃げるように部屋を立ち去り、俺に向かってぺこり と一礼すると、ドアを閉めた。 ﹁大変失礼を⋮⋮あの娘にはよく言っておきますので﹂ そういう問題じゃねーだろ。 ﹁そういう問題ではない。この地の領民は、我がホウ家の持ち物で す。みだりに殴ったり腕を折ったりして傷つけるのは、いかがなも のかと思いますよ﹂ 905 そもそも女性をためらいなく殴りつけた時点でかなりアレと思う が、それは躾や教育の一環として、残念ながらこの国ではどこでも やられていることだ。 カフあたりはやらないが、そこらの商店では、小間使いのガキの 頭を事あるごとにポンポン殴っている親方なども見かける。 だから、一方的に悪いとは言わない。 だが、折るのはやり過ぎだ。 他人の領地の人間であれば、俺も口を出す筋合いのことではない が、ここは現状はホウ家の領地だ。 領民も、こいつの持ち物ではない。 こいつ何か考え違いでもしてんじゃねーかと思う。 ﹁はっ⋮⋮その通りでございます。このジャノ・エク、以後肝に銘 じておきます﹂ どうせ、まったくわかってねーんだろうな、こいつ。 こいつの代では領主に戻るということはありえないからいいが。 要注意だな。 906 第055話 蓬髪の浮浪者 俺は宿泊を勧めるエク家の屋敷から、早々に退散した。 少しスオミの街を見物してから、宿で一泊して帰るか。 などと考えながら、港へ向かった。 港では、人が盛んに動いていた。 この港は、ハロルがアイルランドとの交易の拠点に使っているが、 元より山の背側の諸都市との交易で栄えている。 造船なども盛んであった。 初期型の天測航法が完成したのは、ついこの間のことだ。 中型の精密時計がつい先ごろ完成し、費用はかかったが、とりあ えずは仕組みを整えることができた。 天測航法があれば、広い大海原を自由に航行することができるよ うになる。 少なくとも、行った場所にもう一度行くことは、そう難しいこと ではなくなる。 散歩がてらに海を眺めながら、岸べりの石積みの堤防を歩いてい ると、一人の浮浪者が堤防に座って、夕日の差し込む海を見ていた。 顔中がひげぼーぼーで、整えられていない蓬髪は、海風にやられ てボサボサになっている。 泥だらけの上着が、髪と一緒にたなびいていた。 漫画とかだと、こういうのが意外と天才軍師だったり、有名な哲 907 学者だったりするんだよな。 主人公の師匠になる武芸者だったり⋮⋮。 懐かしいな。 そう思いながら、通り過ぎようとしたところ、浮浪者が歌うよう に何かのフレーズを口ずさんでいるのが聞こえた。 よみ ﹃⋮⋮主はおっしゃった。海にあるものは海に、山にあるものは山 に還せ。陰府への道をまよひたくなくば、そのものが産まれたとこ ろより去れ。さもなくば、道を迷うことになろう。と⋮⋮﹄ イイスス教の聖典の一節をブツブツと暗唱していた。 もちろん、テロル語であった。 俺はギョっとして、クラ人か? と疑い、まず耳を見た。 ぼっさぼさに伸びた蓬髪で、耳が見えなかった。 俺は後ろ腰に差していた短刀を握った。 いくらなんでも怪しすぎる。 ﹃おい、お前、何者だ﹄ テロル語で声をかけた。 のっそりと振り返った男の顔は、日に焼けて赤くなっていた。 日焼けで崩れた皮膚がそのまま垢になったように、全体が垢じみ ている。 ﹁あんだ?﹂ 908 虚ろな目で答えた男は、なんとなく見覚えのある顔をしていた。 ﹁⋮⋮おまえ、まさか、ハロル・ハレルか?﹂ ﹁⋮⋮お前かぁ﹂ 久しぶりに会ったハロルが発したのは、魂の抜けたような、腑抜 けたような声であった。 *** 俺は、ハロルを引っ張って、なかば無理やりに近くの酒場に引っ 張りこんだ。 ﹁一体全体、なにがあったんだよ﹂ 卓の上には、運ばれてきたビールが既に乗っている。 ﹁⋮⋮⋮﹂ ﹁答えろよ。ほら、ビールでも飲め﹂ ビールのジョッキをハロルのほうへ押しやった。 ハロルはよっぽど酒に飢えていたのか、ジョッキを持つと、がっ と煽るように傾けた。 ﹁ゲッ、ガハッ、ゴホッ﹂ 激しく咳き込み、せっかく飲んだビールをこぼし、汚れた上着に しみを作った。 909 潮気に喉でもやられていたか。 だが、気を取り直して再度挑むと、今度は咳き込まずに飲み干し た。 ﹁すみません﹂ 俺はウェイトレスの人を呼び止め、 ﹁ビールおかわりお願いします﹂ と言った。 ﹁蒸留酒だ﹂ おっとぉ、タダ酒を飲んでる男から注文が入ったぞ。 ﹁⋮⋮すいません、やっぱビールじゃなくて蒸留酒をジョッキで﹂ もう好きなだけ飲ませてやろう。 ﹁えっ、ジョッキでですか﹂ 流石にジョッキで蒸留酒を頼む奴は少ないのか、ウェイトレスさ んは驚いた様子で聞き返してきた。 まあ、飲む量を間違えて死んだら、そんときゃそん時だ。 ﹁ジョッキで。あと、ツマミに肉をいっぱいください。あまり辛く ないやつを。お代はこれで﹂ 銀貨三枚を握らせた。 さすがに蒸留酒ジョッキともなると、だいぶ値が張るはずなので、 先払いのほうがいいだろう。 ﹁かしこまりました﹂ 少し待ってジョッキ蒸留酒が来た。 910 ハロルがソレをゴクリゴクリと飲み下したのを見て、俺は口を開 いた。 ﹁それで、何があったんだよ﹂ ﹁⋮⋮俺のふれが、ふれがぁ⋮⋮なくなっちまっらんらぁ﹂ ハロルは、舌足らずな酔っぱらい声で言った。 ふれ。 フレンドがいなくなっちまったのか。 悲しいよな。 いや、違うか。 フネのことかな? 船がなくなっちまったか。 こんなに凹んでるということは、つまりは沈没かなんかして損失 したのかもしれない。 ﹁海賊にでもやられたのか?﹂ ﹁いや⋮⋮そうらんして、俺とほうはいひろじっちゃんひらいがら んらんおこして、船からほーろで放りらされひまっら﹂ そうなんして、自分とほうはいひの爺ちゃん、ひらいがらんらん をおこして⋮⋮。 えーっと、らんらんってのは反乱のことか? 遭難して、反乱が起きて、航海士のおっちゃんとコンビでボート で放り出された⋮⋮かな? 船で反乱があって、船長が殺されたりボートで放り出されるとい うのは、漫画とかではよく見た話だったが、知り合いがそういう目 911 にあったのは初めてだ。 本当にあるもんなんだな。 といっても、乗組員を非難するのは酷だろう。 そもそもが、勘で外海に出て行くこと自体が無謀なのだ。 外海に出て行くというのは、四方陸地の内海や、常に岸が見えて いる沿岸を航海するのとはワケが違う。 迷子になったら死ぬのだ。 海水は飲めないから、食料と水が尽きれば、問答無用で飢えて死 ぬ。 そんな状況で、陸地は見えてこず、食料と水は日に日に目減りす る。 船員は不安になる。 事前に十日の航海と言われていたところを、二十日経っても陸地 にたどり着かなければ、当たり前だが、どないなっとんじゃいとい うことになるだろう。 現実に遭難しているのだから、船員が納得できる説明をすること も困難を極める。 その結果、食料と水が尽きれば、ふざけんなやこらぁ、責任とっ て海の藻屑になりやがれ。ということになるのは、当たり前の話だ。 生きたまま海の中に投げられず、ボートを与えられただけ良心的 ともいえる。 ﹁それで、船のほうは﹂ ﹁かえっれこねえ﹂ 912 船のほうは帰ってこないらしい。 死んだな。 今頃は餓死した船員を乗せ、幽霊船となって海原を海流にまかせ て漂っているのかな。 それとも、岩壁や暗礁に乗り上げたり、船底に穴があいたり嵐で 横転したりして、沈没しているか⋮⋮。 南無三。 しかし、ボートに乗せられて大海原に放り出され、実質的に処刑 されたほうが生きて帰るというのも、皮肉な話だな。 食料を与えられたわけはないだろうし、放り出された地点からす ぐ近くに陸地はあったのだろう。 航海士のほうは陸地の方角の見当がついていたのだろうか⋮⋮。 ﹁まあ、なんだ。大変だったな﹂ といいつつ、自業自得のような気がしていた。 ハロルがしていたのは、自覚をしていたのかは知らんが、遠当て の的を鉄砲で撃って、的を外したら全財産を失う。というようなゲ ームだ。 言語の関係で、自分自身が船に乗らなければお話にならないのだ から、他人にやらせて自分は利益だけもらう。という仕事はできな い。 自然、船には自分の命を乗せることになる。 ということは、将来的には破滅からは逃れられないのだ。 913 いくら鉄砲の上手で、遠当ての的に何度も命中させても、いつか は失敗する。 その時は命まで持っていかれる。 リスキー以前に、ビジネスモデルとして破綻していたのだ。 鉄砲を外した時、全財産は失ったが、命まで持って行かれなかっ たのは幸運だった。 アイスランドもといアイサ孤島の往還船も、似たようなことをし ているが、こっちは往復で五割∼七割ほどの生還率であり、死出の 航海とも言われている。 半々から三割ほどの確率で死ぬのだから、十回も往還を成功させ たら奇跡だ。 ﹁おれぁもう終わりら⋮⋮イーサせんせいに海で死んだって言って おいてくんねえか⋮⋮﹂ なんだこいつ⋮⋮。 やだよ⋮⋮。 ﹁もっかいやり直せよ﹂ ﹁いや⋮⋮仕入れに全額つかっちまっれ⋮⋮もう金がねえんら この野郎⋮⋮。 どーしょーもねえな。 ﹁まー、とりあえず、落ち込んだときは女でも抱いてサッパリする のがいいだろ。娼館でもいくか?﹂ まるで﹁ソープ奢ってやるよ﹂みたいな台詞だ。 914 いや、実際そのまんまなんだけど。 しかし、世の中には娼婦に慰めてもらって死ぬ気がなくなったと いう男もいるだろう。 たぶん⋮⋮。 ﹁いや、おんなはいい﹂ おや。 ﹁いいって、オッケーって意味か﹂ ﹁ころわる﹂ 嫌か。 ﹁なんでだ。なんか理由でもあんのか﹂ 不思議だ。 こいつも溜まってるだろうから、一も二もなく飛びつくと思った が。 ﹁かいらく目的の淫行はらめっれイーサ先生が⋮⋮﹂ イーサ先生かよ。 イーサ先生に﹁えっちなことはいけないと思います﹂って言われ たのか。 イイスス教徒とかいったって、昨日今日なったばっかりのニワカ のくせに。 そんな教義があるにしても、職業聖職者じゃないんだから、無視 無∼視お疲れ様でした∼だろ。 915 ﹁じゃあ自殺もダメじゃねえか﹂ ﹁自殺なんかひねえよ⋮⋮﹂ さっき死んだらどうとかって言ってたのに。 自殺する気はねえのかよ。 難儀なこっちゃで。 そこで、良く焼けた炙り肉が運ばれてきた。 ウェイトレスの娘は、酔ってくだをまいているハロルを見ると、 口元に人差し指をちょんとつけて、ウインクをすると、黙って肉を 置いていった。 いい店だな。 ﹁ほら、さっさと酒飲んじまえよ﹂ ﹁うるっへぇ!﹂ ﹁ツマミも食っちまうからな﹂ ホカホカと湯気が立っている、油でテカテカとひかった炙り肉を 一つとる。 かぶりつくと、口の中に肉汁が広がった。 香草の類を中に入れて焼いたらしく、香りづけが効いていて、な かなか美味い。 ﹁とるなっ、おれのらっ﹂ ハロルも負けじと、炙り肉を皿から取ってかぶりついた。 あっという間に骨だけにすると、次を手に取る。 次から次へと胃袋にしまいこんで、一皿平らげてしまった。 さすが、酒豪を自称するだけあって、そのころには酒も飲み干し 916 ていた。 ﹁ういっく、ふーう。くったくった﹂ そんな発言をして、十分後には、ハロルはテーブルに突っ伏して 眠っていた。 人間、腹が満腹になり泥酔すれば眠くなるものだ。 まあ、体力だけが取り柄の男だから、転がしといても風邪もひか ないだろう。 *** ﹁すいません﹂ 俺はウェイトレスさんを呼んだ。 ﹁はいは∼い、なにか?﹂ ﹁こいつ明朝までどっかに転がしといて貰えませんかね﹂ ﹁ああ、いいですよ﹂ いいのか。 ちょっとは渋られるかと思ったが、わりとあっさりだった。 ﹁危ない人間じゃないので、ゴミでもしまう倉庫に入れといてくれ れば﹂ ﹁いえいえ、ハロルさんには、大分ご贔屓にしてもらいましたから。 最近は⋮⋮ちょっとご無沙汰気味でしたけれど﹂ ウェイトレスさんは少し寂しげな顔をした。 917 ハロルはここの常連だったのか。 羽振りがよかったころは、よくここで大酒でも振舞っていたのか な。 今は亡き船員たちに。 ﹁明朝引き取りにくるので、よろしくお願いします﹂ ﹁あっ⋮⋮はい﹂ ﹁あーあと、箒とちりとりとかありますかね﹂ ﹁えーと⋮⋮? 床の掃除ならこちらでやりますけれど?﹂ ﹁いえ、そうじゃないんですよ。あんまりにみっともないもんでね。 寝てる間に身だしなみを整えてやろうと思って﹂ 俺はハロルを後ろから引っ張りあげて、床に寝かせた。 懐から短刀を抜く。 ﹁ヒッ﹂ ウェイトレスさんは、短く悲鳴を上げた。 ﹁暴れたりしませんよ。毛をそるだけです﹂ 俺はハロルの顎ヒゲを、飲んでいた水で濡らすと、髪を掴んで固 定し、短刀を滑らせた。 流石によく切れる短刀だけあって、カミソリだったら刃が駄目に なってしまいそうな剛毛を、サクサクと剃ってゆく。 ﹁あっあっ⋮⋮プッ⋮⋮うふふ、いいんですか?﹂ ﹁いいんですいいんです﹂ 918 俺はハロルの顎から、更に短刀を滑らせて、ゾリゾリと頭の毛を 剃っていった。 さすがに眉毛は残してやるか。 耳の毛まですっかり剃り、頭をつるつるてんにして、頭を持ち上 げて、首の後ろの毛まで全部きれいに剃り上げると、ハロルの毛は こんもりとした山になっていた。 ﹁あっ、わたしが掃除しておきますから﹂ 毛を箒で片付けようとすると、ウェイトレスさんに止められた。 ﹁そうですか。なら、先に移動させてしまいましょう﹂ ハロルを引きずって、納屋みたいなところに放り込むと、俺は代 官屋敷に戻りたくなかったので、適当な宿屋に潜り込んで、一夜を 明かした。 919 第056話 イイススの儀式 翌朝。 ﹁面白い頭してるな﹂ 宿から出て酒場へついた俺は、開口一番に言った。 見事につるつるだ。 ここまで剃り残しがないと、自分の仕事を褒めてやりたくなるな。 ﹁朝起きたらなってやがった。どこのどいつが⋮⋮﹂ ハロルは憤懣やるせない様子だ。 口止めをしておいたので、ウェイトレスさんは話さなかったらし い。 ﹁似合ってるぞ﹂ 実際にはまったく変だった。 酒場にいる他の客もクスクスと笑っている。 ﹁似合ってるわけあるか﹂ ハロルはぺたぺたと頭に手をあてて、しきりに撫でさすっていた。 気になるのかな。 ﹁まあ、いいじゃねえか。いい気分転換になるだろう﹂ ﹁なにが気分転換だ。野郎、見つけたらぶっ飛ばしてやる﹂ 恐ろしい。 920 誰だ、寝てる間にハゲにするなんて酷いことをやったのは。 許されざるよ。 ﹁朝食をおめしあがりになりますか﹂ 昨日のウェイトレスさんが笑いをこらえながらやってきた。 ﹁もちろん。二人前お願いします﹂ ﹁かしこまりました﹂ ペコリとお辞儀をして去ってゆく。 朝食がやってくると、俺は銀貨一枚をウェイトレスさんに握らせ た。 ﹁宿代込みということで﹂ ﹁はい。ありがたく頂いておきます﹂ ﹁金持ちだな、おい﹂ ハロルは俺が払った銀貨を見て、苦い顔をしていた。 もったいないと感じたのだろうか。 ﹁いろいろ儲かってるんだ﹂ 実際、かなりの金はあった。 つい先ごろ、謄写版印刷で印刷・製本された本が白樺寮内で売れ、 ざっくざっくと金が入ってきたのだ。 一冊につき金貨2枚というボッタクリの値段設定で、最終的に四 百部ハケたから、八十万ルガ儲けた。 原価や印税を抜くと、純利益は六十万ルガほどだが、それだけあ れば船の一隻くらいは楽に買える。 ﹁貸してくれ﹂ 921 真面目な顔でいいよる。 ﹁アホかよ﹂ ﹁頼むっ。この通りだ﹂ 深く頭を下げてきた。 まんまるのツルッパゲを見せんなよ。 吹き出しそうになるだろうが。 ﹁悪いな。俺は自分の船が欲しいんだ﹂ ﹁お前が船乗りになるのか?﹂ ﹁いや、他人に任せるけど﹂ ﹁じゃあ、俺に任せてくれ。頼む﹂ ﹁駄目だな﹂ 俺はそっけなく言った。 ﹁⋮⋮言っとくが、俺以上の船長はいねえぜ﹂ ハロルはなぜか自信ありげだ。 つい先日自分の船を沈めた男が、よくもまあそのセリフを口にで きたものだ。 会社を潰した男が﹁俺以上の経営者はいねえぜ﹂と言うようなも んだ。 ﹁それで、共和国のほうとは何往復したんだ﹂ ﹁都合、六往復した﹂ 六往復。 922 なかなかのもんだ。 蛮勇ここに極まれりといったところか。 ﹁まあ、それでも駄目だな﹂ ﹁なんでだよ。損はさせねえって﹂ ﹁俺の新しい船には秘密の装備を積むんだ﹂ ﹁⋮⋮どういう装備なんだ?﹂ ﹁大海原で遭難しても、常に自分の位置が解る装備だ﹂ 俺がそう言うと、ハロルの顔色が変わった。 ﹁なんだって? お前、それ秘密にしてやがったのか。なんで教え てくれなかった﹂ なんか怒りだした。 まあ、それを積んでたら、こいつの船は無事だったわけだからな。 ﹁考えついたのは半年前で、ようやく形になったのが一週間くらい 前の話だ。といっても、発明が早くてもお前には教えなかったがな﹂ ﹁なんでだよ。教えてくれたっていいじゃねえか。ケチくせえ﹂ 不満気であった。 ﹁これは、もしものときに女王陛下をアイサ孤島にお連れするとき のための技術なんだよ。俺がバカ面こいて、ホイホイお前に教えて みろ。脳タリンのお前のことだから、アルビオ共和国へ行ったら、 考えなしに酒の席で酔っ払って、クラ人に口を滑らしちまうだろう。 そうしたら、クラ人の世界にその技術が広まる。そうしたら、アイ サ孤島が攻め放題になる。どうなるか想像できるか。想像してみろ﹂ 俺がそう言うと、ハロルはしかめっ面をして目をつむった。 923 俺の言ったとおり想像しているらしい。 ﹁できたか?﹂ ﹁⋮⋮まあ、ヤバいことになるってことくらいはな﹂ どうも想像力が足りていない気がするが。 まあ、いいか。 ﹁そうなったら、女王陛下も、キャロル殿下も、イーサ先生まで殺 されることになる。お前が口を滑らしただけで、そういうことにな るんだ。最悪、お前のせいでシャン人って種が滅びるかもしれねえ。 けいけい そうなったら、お前をブチ殺したくらいじゃなんの慰めにもならな い。軽々と教えられるもんじゃないんだよ﹂ 天測航法は、恐らくクラ人も発明していない技術なので、どうし ても秘匿しなければならない。 そのため、俺は特許も申請していなかった。 申請すれば、誰ともわからぬ他人に広まってしまうからだ。 六分儀などは天体観測装置として申請したが、天測航法の仕組み そのものは届け出ていない。 ﹁⋮⋮わかったけどよ。でも、じゃあどういうやつに船を任せるつ もりなんだよ?﹂ ﹁まだ全然決めてないけどな。教えたら、船から降ろすわけにはい かなくなるだろ? 陸で暮らしたいとか、他の船に移りたいとか、 独立したいとか言われたら、そいつは殺さなきゃならない。だから、 そのくらいの責任感がある奴じゃないとな﹂ ﹁⋮⋮そうか﹂ 924 ﹁まあ、お前が船長で悪いってわけじゃない。相応の覚悟ができて いればな﹂ ﹁相応の覚悟ってのは、なんだ﹂ ﹁命に変えても秘密は守るって覚悟さ。知ったら殺されるような情 報を知るには、死ぬ覚悟もいるだろ﹂ ﹁そりゃそうだな﹂ ﹁ところで、俺はこれから王都に戻るけど、お前も来るか?﹂ ﹁⋮⋮行く。死なねぇなら親父に事情を話さなきゃならねえしな﹂ ハロルはなんだか覚悟を決めたような顔で言った。 沈没したこと伝えてなかったんかい⋮⋮。 ﹁じゃあ、路銀を貸してやる。銀貨二枚くらいでいいか?﹂ ﹁一緒に行かねえのかよ?﹂ ﹁俺は空から来たんだよ。鷲は二人乗りはできない﹂ ﹁はー。そういえば騎士様だったっけな⋮⋮。解ったよ﹂ 俺はそのあと朝食を食って、﹁じゃあな﹂とハロルに別れを告げ ると、代官所へ行った。 代官所で星屑を返してもらうと、王都に帰った。 *** それから、四日後の昼のことだった。 スズヤが来ていたので別邸で食事をしていると、執事の人が来て、 ハロルが玄関にきていることを教えてくれた。 925 ﹁お母さん、すいません。仕事が入ってしまいました﹂ 俺がそう言うと、 ﹁もう、親子揃って仕事仕事なんですから。もうちょっとお母さん を構ってくれてもいいじゃない﹂ と、お母さんはなんだかブーたれていた。 ﹁ごめんなさい。そのうち埋め合わせしますから﹂ ﹁きっとよ? 約束ですからね﹂ ﹁もちろんです。僕が約束を破ったことがありましたか?﹂ ﹁えーっと、ここ一年で埋め合わせの約束が三回あったかしら﹂ あら⋮⋮。 そういえば、なんだか記憶にある気がする⋮⋮。 ﹁ごめんなさい﹂ 子どものようにペコリと頭を下げて謝った。 ﹁いいのよ。でも、大切な女の子との約束は破ってはいけませんか らね﹂ ﹁は、はい⋮⋮﹂ ﹁わかったら行ってよし﹂ 許可が出た。 ﹁そ、それでは、失礼します﹂ 俺は部屋を辞した。 玄関先へ行くと、守衛に中に入るのを止められたハロルが、不満 気に突っ立っていた。 まあ⋮⋮止めるのも無理はないか。 実家にいったん帰って着替えてきたのか、さすがに浮浪者という 926 ほど殺伐とした服装ではないが、あんまり格好いいとはいえない。 ハゲを隠すためか、頭には毛糸の帽子を目深にかぶっていた。 ﹁なんの用だよ﹂ ママと引き離されたぼくは不機嫌だった。 ﹁用って⋮⋮お前が王都に来いって言ったんだろうが﹂ ﹁ふうん。それで、そっちの子は誰だ?﹂ 俺は、ハロルの横にいる子どもを見た。 俺と同じくらいの子どもに見える。 ﹁初めまして、僕はゴラ・ハニャムと申します﹂ ぺこりとお辞儀をした。 ﹁俺はユーリ・ホウだ。聞いていると思うが﹂ ゴラは大人しそうな少年だった。 だが、細身ながら体はギッチリと締まっていて、顔も日に焼け、 海の男と言われれば、納得できなくもない。 ﹁こいつは、航海士だ﹂ え⋮⋮。 ﹁航海士って、もっと年寄りなんじゃないのかよ﹂ ﹁ジジイは、アレだ。死んじまったからな。陸まで持たなかったん だよ。陸が見えたところで安心したのか⋮⋮﹂ ハロルは沈痛な面持ちになった。 927 ああ⋮⋮。 なるほどね。 ハロル一人で帰ってきたのか。 ﹁悪いことを聞いたな⋮⋮﹂ その事実を聞いたのは昨日今日の話なのだろう。 ゴラの表情は暗かった。 ﹁まあ、いいさ。だけどコイツはこれで一人前だからな。ジジイの お墨付きだ﹂ おおかた、その爺さんに鍛えられてきたとかなんだろう。 ﹁だが、その爺さんの弟子なら、なんで船に乗っていなかったんだ ?﹂ 大事な航海であったはずなのに、お留守番だったというのは、腑 に落ちないところだ。 ﹁ガキが産まれそうなんで、陸に残ったんだよ﹂ ガキ? あかんぼってこと? ﹁??? え、だってそいつ何歳? 俺と同い年くらいじゃないの か?﹂ ﹁えーっと、十六歳だったか?﹂ ハロルがゴラに聞いた。 ﹁はい。今年で十六歳になります﹂ 十六歳??? ﹁もう子どもできたの?﹂ 928 ﹁はい。結婚してまだ一年なのですが﹂ ちょっとまてい。 俺とかまだ童貞なんだけど。 この野郎、童貞どころかもう結婚して子どもできとるとか。 十六歳で子持ちとか。 精通して速攻でアレしてコレしての大忙しかよ。 こんな大人しそうな顔しやがって。 まだ成人まで四年あんだろが。 ドッラみたいなDQNなら﹁あぁ、さもあらん﹂って感じだけど よ。 世の中どうなってんだよ。 くそが。 ﹁ふーん。ま、まあそれはいいんだけどな﹂ 俺は冷静を装った。 ﹁一体、ここに何しに来たんだ? 二人で飯屋でも開くことにした のか?﹂ ﹁ちげえよ。俺も覚悟を決めたってことだ﹂ ほ∼ん。 ﹁覚悟って言われてもなあ。言いたくはないが、口だけではなんと でも言えるからな﹂ ﹁口だけじゃあねえ。イイスス様に誓う﹂ 929 神に誓うんですって。 でもこいつ、ニワカ教徒だしなぁ⋮⋮。 ああ、そうだ。 ﹁よし、そこまでいうなら解った﹂ ﹁ヨッシ!﹂ ハロルは勢い良くガッツポーズをした。 喜んどる喜んどる。 つーか、俺も最初から任せるならハロルかなぁと思ってたしな。 ﹁イーサ先生のとこ行こう﹂ *** ﹁おや、ユーリさん、ハロルさん。ハロルさんはずいぶんとお久し ぶりですね﹂ クラ語講座の準備室に入ると、今日も今日とて、イーサ先生は暖 かく迎えてくれた。 ここにはいつも同じ空気が流れている。 ﹁ご無沙汰しておりやす﹂ 相変わらず、こいつはイーサ先生の前では妙な口調になるな。 930 ﹁あら、そちらの方は?﹂ ﹁ゴラと言いやして、今ではあっしのたった一人の部下でありやす﹂ あっしって。 一人称としてどうなんだよ。 ﹁初めまして、ゴラさん。私はイーサ・ヴィーノともうします﹂ イーサ先生は丁寧に挨拶をした。 ﹁こちらこそ、はじめまして。ゴラ・ハニャムです。お噂はかねが ね聞いております﹂ ハロルがいろいろ喋ってんのを聞いたんだろう。 ﹁それで、今日はなにかご用件でも?﹂ ﹁イーサ先生、前にイイスス教の秘儀の話をしていましたよね﹂ 以前に色々と話を聞いていた。 イイスス教には様々な秘儀があり、入信の際に行われる洗礼の秘 儀だのなんだのと、いろいろなものがある。 しゅ ﹁はい。たくさんありますが、どれのことでしょうか﹂ ﹁誓いの秘儀です﹂ のっと ﹁誓いの秘儀ですか⋮⋮。聖職者が主に変わって誓いの証人となる 秘儀ですね﹂ ﹁イーサ先生はできますか?﹂ ﹁もちろん、できますよ。ワタシ派では古式に則ってやることにな っています﹂ ナチュラルにワタシ派とかでてくるからビビるわぁ。 古式というのは、どのようなものなのだろう。 ﹁じゃあ、お願いしていいですか?﹂ と頼むと、 931 ﹁ユーリさんがですか?﹂ と、イーサ先生はちょっと困惑した様子であった。 さもあらん。 イイスス教徒以外の者がイイスス教の秘儀をやったところで、何 の意味もないのは当たり前の話だ。 モスクを建てるのに地鎮祭をやって欲しいという奴は、なかなか おるまい。 神主とて﹁え、土地神様キレちゃうんじゃないの?﹂と心配にな るであろう。 ﹁ちょっとね、ハロルさんと約束したいことができてしまって﹂ ﹁ああ、ハロルさんとですか。それなら解ります﹂ 得心がいったというふうに、イーサ先生は頷いた。 かわいい。 ハロルはイーサ先生の中では立派な信徒なので、ハロルがやる分 にはなんの問題もないはずだ。 イーサ先生は、腰掛けていた粗末な椅子をまわして、ハロルに向 き直った。 ﹁でも、ハロルさん、解っていますか? 誓いの秘儀で誓われた誓 いを破るということは、すなわち神を侮辱するということになるの ですよ。もちろん、死後は地獄を彷徨うことになります。あなたも 洗礼を受けたからには、軽はずみにやっていい儀式ではありません よ﹂ ホーリーネーム いつの間に洗礼を受けた。 洗礼名とか持ってんのかな。 932 ﹁重々、わかっておりやす﹂ ﹁なら、わかりました。それでは、契約内容を教えて下さい﹂ えっ。 教えなきゃ駄目なのか。 ﹁全部教えないとダメですか?﹂ ﹁はい。そうでないと、私のほうも無責任になってしまうので﹂ そういうことらしい。 ﹁そうですか⋮⋮﹂ うーん。 ﹁もちろん、懺悔と同様、秘密は厳守します。それが私の信仰に反 するものであっても﹂ なるほど。 それなら話そう。 天地がひっくり返ったとしても、イーサ先生は信仰を手放さない。 ここにいるニワカ信者と違って、イーサ先生ならいくらでも信用 できる。 例え拷問にかけられても、一度守ると決めた秘密は漏らさないだ ろう。 ﹁わかりました。お話します﹂ 俺は話し始めた。 933 *** ﹁私は裁判官ではないので解らないのですが、その話を聞きますと、 ハロルさんが終身雇用され続けなければならない。というのはすこ し理不尽に思えますね。誓いで代替することにはならないのですか ?﹂ イーサ先生は、ハロルの退社不可の条項に苦言を呈してきた。 俺も、そのへんは脅しで言っただけなので、どうかと思っていた。 この世界には憲法なんぞはないが、職業選択の自由を終生奪うよ うな話だし。 別に、絶対に技術を漏らさないと信頼できているのであれば、や めてもらっても何の問題もない。 問題は、信頼できないということだ。 人間というのは利己的なものだし、過去のことは忘れるものだ。 百年たっても恩を忘れず、人に尽くし続ける。などという人間の 存在を、俺は信じられない。 だが、人を使うにあたっては、そんなことを徹底していては、事 業は広がらない。 それは、ある意味でトレードオフの関係にある。 こちらを立ててはあちらが立たず。 人材を選びすぎ、戸口を狭めすぎてしまえば、事業は広がらない。 選り好みしすぎれば、大事な機会を逃してしまう。 イーサ先生のところに来て、誓いの秘儀をやってもらうというの 934 は、言わばその信頼を補強するための措置なのだ。 ﹁考えてみれば、そうですね。ハロルさんは敬虔なイイスス教徒な ので大丈夫でしょう﹂ と、俺はその条項を削ることに同意した。 ﹁ええ、もちろんです。ハロルさんは私の三番弟子ですからね﹂ あれ。 ﹁一番弟子ではないのですか?﹂ ハロル以外に弟子がいるというのは、俺もここに通って長いが、 見たことも聞いたこともない。 よみ ﹁一番弟子と二番弟子はホースとワサップというのですが、彼らは 殉教いたしましたので、陰府にて審判を待っている身なのです。も ちろん、シャン人ではハロルさんが初めての弟子ですよ﹂ 以前にクラ人の弟子がいたらしい。 ﹁そうなのですか⋮⋮それは悪いことを﹂ たぶん、教皇領から出るときに死んじゃったんだろうな⋮⋮。 ﹁いえ、いいのですよ﹂ ﹁そうですか﹂ ﹁弟子に庇われて師匠が生き延びるというのは、みっともないこと ですが⋮⋮﹂ やはり、大なり小なり心に病んでいるようだ。 よみ ﹁お二人もイーサ先生をお救いできたことを誇りに、陰府で健やか に暮らしていることでしょう﹂ よみ イイスス教では、死後の魂は﹁陰府﹂というところに行き、そこ 935 で暮らすということになっている。 陰府というのは、一種の異世界であって、山もあれば川もあり、 都市もある。 人間は死後そこに行き、日常生活を送るのだが、陰府にはスピリ チュアルな法則が存在するので、生前に悪いことをした連中は、よ い生活ができない。 現実の世界では、人間は足を使えば豊穣の地だろうとエベレスト の頂上だろうと、物理的に行こうと思えば行けるわけだが、陰府で はそれができないのだ。 生前に罪を犯し、霊魂が汚れた不浄の者は、豊穣の地に近づくと パラダ 体が焼けるように痛むので近づけないし、豊穣の地で採れた作物も つみとが 泥の味がして食えないことになっている。 生前に悪行ばかり行い、罪咎にまみれた者が、最上層の天府とい う神のお膝元に行くことは、人間が生身で太陽の表面を歩くような もので、不可能であることらしい。 結果、生前に罪を犯したものは、痩せた冷たい土地でクズ同士の ダイス 骨肉の争いを続け、餓鬼どもに苛められながら暮らすことになる。 イイスス教では、この土地のことを地獄という。 だが、ここにも一種の救済措置があり、陰府に下った後であって も、自らの罪咎を悔い改めることで、少しづつより豊かな世界へ近 づけることになっている。 聖典によると、地獄の中でも最底辺の土地に生きている人間は、 日光の差さぬ塩害の酷い土地で、これは恐らくはイイススという人 物が実際に嫌いだった食べ物なんだろうが、腐った泥地に生きるイ 936 カと、泥地の水辺に生えるドクダミの葉を食って生きている。 もちろん、ホースとワサップという人は、殉教したのであるから、 高位の地域で最も良識ある賢人の方々と語り合ったりしつつ、神の 恩寵を存分に浴びて、何不自由なく暮らしている︵ことになってい る︶はずだ。 ﹁そう言っていただけると、なんだか救われる思いがいたしますね﹂ イーサ先生は柔らかく微笑んだ。 ﹁まあ、三番目の弟子は誓いを裏切らないでしょう﹂ ﹁おう、裏切らん﹂ ハロルは自信たっぷりに言った。 ﹁では、始めましょうか﹂ 儀式というのは、具体的にはどういう物なのだろう。 俺は知らなかった。 イーサ先生は、まず机の上にあった小さな瓶を手に取ると、その 蓋を開け、硝子のコップに水っぽい液体を注ぎ、それを口に含んだ。 そして、口に含んだ水をとろとろとコップに戻すと、それをハロ ルに渡した。 ﹁飲んでください﹂ ⋮⋮。 え、えーと? ハロルは無言でコップを受け取ると、それに口をつけ、液体を飲 み干した。 937 えーっと? あの、イーサ先生? 口を使っての誓約ということだから、先ほどの行為にどういう意 味合いが含まれているのか、だいたい察することはできるけどよ。 おそらく、一度口にしたものを戻した液体に、なにか呪術的な意 味が含まれてるんだろう。 だけどこれって、眼鏡美人のイーサ先生だから絵になるけど、こ れが油ぎったおっさんだったら、どうすんだよ⋮⋮。 そいつがにんにくとか食べた後だったら、俺だったら吐いちゃう と思うけど⋮⋮。 ﹃これで我々の口は聖別されました。虚偽の言葉を口にすることは まかりなりません﹄ おっと、クラ語だ。 ﹃はい﹄ ハロルが言った。 ﹃それでは、ハロル・パテラ・ハレルよ。これより誓いの秘儀を始 めます。ハロル・パテラ・ハロルは、主イイススに対し、これから 以下のことを特に誓う﹄ 始まった始まった。 たじん ﹃一つ、ユーリ・ホウ氏を裏切らぬこと。一つ、ユーリ・ホウ氏の 持つ海を渡る術法を伝授される見返りとして、それを他人に漏らさ ぬこと。一つ、与えられた術法を利用するにあたり、生を賭して守 秘管理の責務を担うこと。一つ、術法を利用する間はユーリ・ホウ 氏に雇われ、その元を去った後は術法の一切を忘れ、利用をせぬこ 938 と⋮⋮﹄ さすがはイーサ先生だけあって、俺の言った内容を、完璧にクラ 語へと翻訳していた。 即興で訳したにもかかわらず、その言句には詩的な響きすらある。 ﹃以上のことを誓うことを、総主教イーサ・カソリカ・ウィチタを 証人として、宣言するか? この誓いを違えるは、己を欺くにとど しんぴん よみ まらず、主を欺き、主の愛に背を向けたことを意味する。さすれば、 己の神品は著しく損われるであろう﹄ しんぴん 神品というのは、イイスス教の用語で、陰府での格のようなもの を指す。 ゲームで言えば善人度みたいなことになるか。 神品を著しく損なえば、つまりは陰府では地獄層を彷徨うハメに なる。ということだ。 ﹃ハロル・パテラ・ハレルは、十分に理解し、主に誓います﹄ ﹃よろしい。汝の宣言は主に誓われた。アリルイヤ﹄ 厳かな宣誓が終わると、イーサ先生はパンッと手を叩いた。 ﹁これで終了です。お疲れ様でした﹂ ﹁どうも有り難うございます﹂ 俺は礼を言った。 なんとまあ面白い儀式であった。 ﹁ハロルさん。誓いを忘れてはなりませんよ。破ったら、大変なこ とになりますからね﹂ 939 ﹁もちろんでございやす﹂ だからその口調やめろって。 ﹁僕にはよく解らなかったんですが、どう大変なことになるんです か?﹂ 一人クラ語がわからなかったために、ずっと蚊帳の外にいたゴラ が言った。 そりゃ大変なことになるんだよ。 知らないけど、大変なことになるったら、そりゃもう大変なこと になるんだろう。 ハロルは死後地獄を彷徨うことになるだろうし、これはまあニワ カ信者だからどうでもいいにしても、ハロルはイーサ先生から絶縁 されて二度と口を聞いてもらえなくなるだろう。 それはハロルにとっては大変なことだ。 ﹁この誓いには世俗的な拘束力はありませんから、どうにもなりま せんよ。あるとしたら、私が死ぬくらいです﹂ ﹁そうだな。気休めみたいな⋮⋮えっ?﹂ ??? 今死ぬって言った? え? 思わずハロルのほうを見ると、口をあんぐりと開けていた。 知らなかったのか。 どうも、俺の聞き間違いではないらしい。 940 ﹁さっきイーサ先生が死ぬって聞こえましたけど、もしかして聞き 間違いですか?﹂ 一応聞きなおしておこう。 ﹁はい? あっ、申し訳ありません。誤解を招く表現をしてしまい ましたね。死ぬかも知れないというだけですよ﹂ あら。 そらそうだよな。自殺とか駄目らしいし。 でも、死ぬかもしれないというのは、剣呑な話である。 ﹁どうして死ぬかもしれないんですか?﹂ 意味不明なんだが。 ﹁えっと、先ほどの儀式は、教会法的には師の責任を担保に、誓約 者に誓いの内容を守らせる儀式なのです。誓いの秘儀のそもそもの 由来は、カッソによる外典福音書第三節にある説話にありまして、 これはー⋮⋮かいつまんで説明をしますと、使徒サハラの弟子が棄 教の末に凶行に及んだお話なのですが、そのことに責任を感じた使 ひとつき 徒サハラは、眠りについたイイスス様の墓所の前で、なにも口に入 れず一月のあいだ瞑想し、主にお伺いを立てたのですね。ですから、 ハロルさんが誓いを破った場合には、私も同じようなことをする必 要があります﹂ なんてこったい。 ⋮⋮やっちまったなぁ。 事前に説明を求めるわけだ。 要するに連帯保証人のような制度であるらしい。 口約束の証人になってください。程度の儀式だと思っていた。 941 ﹁ですから、もしものときは、私も一月の間瞑想します。本当は聖 寝神殿の聖寝室の近くにある専用の間に篭もるのですが、それは無 理なので、森に入ってやることになりますね。神のお許しがあれば、 使徒サハラのように生き延びられるでしょう﹂ えっと。 森にでも入ってやるっていうのは、もしかして大樹の根っこにで も座ってやるつもりなのでしょうか。 このへんの森には野生のオオカミとかもけっこういるし、先生の ような食の細そうな女性が座っていたら、一ヶ月といわず一週間と もたないように思えるのですが。 ﹁もしかしてその間は絶食ですか?﹂ ﹁いいえ、水は飲めますよ﹂ ⋮⋮⋮⋮。 ﹁でも、それはカソリカ派の話ですよね。ワタシ派ではやらなくて もいいのでは﹂ ﹁今のカソリカ派では、罰金というか上納金をおさめるだけですね。 この方法は、約五百年ほど前までカソリカ派で行われていた古い方 法になります。私の研究ではカッソによる外典福音書は偽書とはみ なさないので、誓いの秘儀は有効です﹂ やべぇ、取り付く島もない。 ワタシ派って意外と原理主義的なのかな⋮⋮。 ワタシ派では死ぬまで断食するのに、金だけ払えば済んじゃうカ ソリカ派のほうもどうかとは思うが⋮⋮。 942 ﹁⋮⋮さっきのは取り消してくだせぇ﹂ ハロルが唐突に言った。 ﹁おや、何故ですか?﹂ イーサ先生は素直に不思議そうであった。 やべーこの人通じてねえ。 ﹁先生を巻き込むわけにはいきやせん﹂ そうだそうだ言ってやれ。 主に俺のせいだけど。 ﹁ハロルさん、どういうことですか? 今しがた主の名に誓ったと いうのに、それを早々に裏切るというのですか﹂ 声のトーンが変わった。 硬い、乾いた声色だった。 普段の柔らかさがなく、静かな怒気がにじみでているような。 イーサ先生が怒るのは初めて見る。 こわい。 ﹁しかし⋮⋮先生にご迷惑がかかるのは﹂ ﹁迷惑とは思いませんよ。そう思っていたら、秘儀を引き受けたり しません﹂ ガンとした態度だ。 ﹁ですが﹂ 943 ﹁ですがじゃありません。あなたは神に誓いを立てたのですから、 誓いを破った後のことなどは考える必要はないでしょう。あなたが しっかりと決意し、心を曲げずに、誓いを履行し続ければ良い話で のぞ す。なにも起こりません。それとも、ハロルさんは最初から誓いを 破るつもりで、秘儀に臨んだというのですか?﹂ こっわ。 返答次第では師匠と弟子の縁を切るぞ。という意思が伝わってく る。 ﹁そうではありやせんが⋮⋮﹂ かわいそうに、ハロルはみるみると萎縮してしまっていた。 ﹁では、構わないでしょう。ハロルさん、いみじくも主の眼前に跪 き、洗礼を受けた以上は、いたずらに秘儀を撤回するなどという発 言をしてはなりませんよ﹂ 944 第057話 天測航法 イーサ先生の部屋を辞した俺たち三人は、別邸の真ん前の本社に 向かった。 ﹁お前、儀式の内容が分かっててやったんじゃねえだろうな﹂ 本社に入ったところで、思い出したようにハロルが言った。 ﹁そんなバカなことがあるか。誰がお前に先生の命を預けるような ことをする﹂ いやほんとに。 ﹁⋮⋮﹂ ﹁せいぜい、裏切るときは事前に言うんだな。先生を助けられる可 能性がある﹂ まあハロルが裏切ったとして、それを俺より先にイーサ先生が知 るというのは、おそらく考えにくいので、大丈夫だとは思うが。 ﹁どうやって助けるんだ﹂ ﹁人を雇って四六時中監視させて、森に入るようだったら拘束する。 でも⋮⋮その場合、無理矢理に物を食わせるしかないだろうな﹂ 俺は、イーサ先生の場合に限っては、本当に絶食して死ぬ可能性 があると考えていた。 その場合、寝ている間にでも粥のようなものを飲ませれば、イー サ先生からしてみれば不本意だろうが、助けることはできるだろう。 ﹁⋮⋮うう﹂ 945 ﹁たとえ生き延びたにしたって、恐らくイーサ先生は神品が救いよ うがないほど汚れてしまうわけだから、これからの人生お先真っ暗 だ。信仰を捨てればいいが、そうはいかないだろうしな﹂ イーサ先生ほどの宗教家であれば、心まで救うということはでき そうもない。 ﹁くそっ、なんで先生を巻き込んじまったんだ﹂ なんか後悔しておるようだ。 ﹁まあ、お前が契約をつつがなく履行すればいいことだ。不安なら、 今からケツまくってもいいぞ﹂ ﹁そんなことできるかよ。イーサ先生が﹂ ﹁あそこで交わした誓いは、そもそもが航法に関してのもんだろう。 誓いを契約と見立てれば、航法を教えた時点から発効すると考える のが自然だ。お前に航法を教えなければ、誓いはなかったことには ならないにしても、文脈自体が無意味化する。お前がケツまくるな ら、これからイーサ先生のところへ行って、やっぱ不安なのでハロ ルには教えないことにしました。って言ってきてやるよ。そうすり ゃ、なんの問題もねえだろう﹂ そうすればイーサ先生は確実に納得するはずだ。 なんの問題もない。 イーサ先生の俺の評価が落ちるかもしれないが、そんなことはど うでもいい。 ﹁ああ、そうか⋮⋮﹂ ﹁やめるか?﹂ 俺も、ここでケツをまくるような奴には教えたくない。 946 ﹁いいや⋮⋮俺はやるったらやる男だ﹂ やるらしい。 ﹁それを聞いて安心した。じゃあ行くぞ﹂ 俺は本社の階段を登り、二階に上がった。 ドアを開けると、中には丸テーブルが置いてあった。 ここは会議室として使っている部屋だ。 質は悪いが、黒板も据え付けてある。 丸テーブルには我がイトコが、椅子に座ったまま寝ていた。 シャムだ。 となりには、相変わらず巨乳の眼鏡女子が座っている。 ようやく納得のいく眼鏡が完成したリリーさんだ。 リリーさんのほうは。イトコと違ってバッチリ起きていた。 ﹁お邪魔しとるよ∼﹂ と気楽そうに言った。 ﹁どーも、お忙しい中すいません﹂ 俺はぺこりと頭を下げる。 二人を呼びつけたのは俺だった。 ﹁ええってええって﹂ ﹁こいつらが船乗りの連中です。こっちがハロルでこっちはゴラ﹂ 俺は簡単に二人を紹介した。 ﹁ああそう⋮⋮教えたこと理解できるとええんやけどなぁ﹂ ﹁ハロルのほうは無理かもしれませんが、どっちかが理解できれば 947 いいことですから﹂ ﹁理解できなかったら死ぬ思いするんやから、嫌でも理解してもら わんとなぁ﹂ 本当にそうである。 ﹁えっと、そちらのお嬢さんがたは﹂ ハロルが聞いてきた。 ﹁天測航法について道具を作ってくれた方々だ。そこで寝てるのは 俺のイトコのシャム、もう一人は社の技術主任をやっている、リリ ーさんだ﹂ ﹁よろしくお願いします﹂ ゴラが頭を下げた。 ﹁見ると、そっちのハロルっていうんが船長で、ゴラっていうんが 航海士か﹂ ﹁⋮⋮﹂ 俺が黙っていると、 ﹁はい。僕が航海士です﹂ と、ゴラは自ら名乗りを上げた。 ﹁ふむ﹂ リリーさんはゴラをじっと見ている。 ﹁あ、あの⋮⋮?﹂ ﹁いやぁ、我が子のように手塩にかけてきた最高傑作を託すのが、 こんな若い子ぉとはなぁ⋮⋮と思うて﹂ 心配げに言った。 リリーさんの目の前には一抱えほどもある箱が二つ置いてある。 948 これはクロノメーターと呼ばれる大型の時計だ。 クロノメーターというのは、精密な時計としての機能と同時に、 耐衝撃性、波による姿勢変化による影響をなくす工夫などが凝らさ れた時計だ。 つまりは、常にめちゃくちゃに揺れ動く船内でも、きわめて正確 に動作する時計ということになる。 言うのは簡単だが、そういった時計を作るには、様々な工夫と新 しい発明が必要であったようで、開発に当たって、リリーさんはい くつか特許を取得した。 元々、この国の機械時計というのは、振り子時計や日時計と頻繁 に時計合わせをすることを前提に作られており、精度はもちろん高 精度であればあるほど良いが、それより携帯性のほうが重視されて いた。 もちろん、クロノメーターの場合は、そういうわけにはいかない。 むしろ真逆で、携帯性能よりも精度のほうが重視される。 シビャク標準時と合わせたまま、どことも時計合わせなどするこ となく一ヶ月以上の航海をし、シビャクまで戻ってきたらピタリと 時計があわなくてはならない。 そういった性能を要求される機械なので、一年で一分以内の誤差、 などということは言わないが、一月時計合わせしないでいれば半日 時計が狂ってしまう。というようなものでは、全然用をなさない。 リリーさんは、これを開発するには、寮にある設備では全く足り ないので、実家まで馬を飛ばして相談したりもしていた。 リリーさんの最高傑作というのは、過言でもなんでもない。 949 ﹁ご心配でしょうか﹂ ゴラは言った。 ﹁逆に聞くが、君はこれを取り扱うのが心配じゃないんか? 時計 が壊れやすい機械だってことくらいは知ってるやろ。ユーリくんは、 これを一台作るのに、金貨を百枚も使ったんよ﹂ ﹁百枚⋮⋮﹂ ゴラは呆然としたように言った。 金貨百枚というのは、そのへんの船乗りがおいそれと手に入れら れる金額ではない。 これでも、リリーさんの社員価格でのご提供だ。 アミアン印で売りに出されたとしたら、二百枚は取られていたか もしれない。 ここにそれが二台あるのは、万一壊れた場合のことを想定し、二 台セットで使う前提にしてあるからだ。 機械時計は油さしを一箇所怠っただけで酷い誤差を生んだり、壊 れたりする。 それが海上で発生したら、いっぱつで遭難、船は乗員をのせたま ま海の藻屑、ということになる。 それでは問題なので、ヒューマンエラーを考えると、事故率を下 げるために二台セットにする必要があったのだ。 量産効果があるから、単純に値段を倍にはできないが、それにし たって高い買い物だ。 それに加えて、日常使う用の懐中時計が必要なので、これもそれ なりに精度の高い懐中時計を一機用意してある。 950 クロノメーターは持ち運びするものではないので、できれば船の 重心部分に設置しておく。 観測のときに実際に使うのは、懐中時計のほうだ。 懐中時計は、毎日クロノメーターと時計合わせをする。 六分儀と、シャムの作った航海年鑑を含めて、金貨三百枚くらい か。 ホウ社にしたって、簡単に処理できる金額ではない。 カフには渋い顔をさせっぱなしだし、会計役のビュレなんかは目 を白黒させている。 これで船を買う資金を出せば、創業以来の努力で得た儲けはすべ て吹き飛ぶ。 それを、このハロルに預けるというのだから、心配にもなる。 ﹁もちろん、中の構造まで理解しろとは言わんけど、真剣に覚えて 貰わな困るよ﹂ ﹁はい。真面目にやります﹂ ﹁よし、じゃあ、概念から説明するで﹂ 説明が始まった。 シャムは寝ていた。 *** ﹁⋮⋮というわけや。原理を言えば簡単な話やろ?﹂ 951 リリー女史の講義が終わった。 リリー女史は立ち上がって、木で出来たタマを持っている。 これは地球を表している。 ﹁⋮⋮あー、しつも⋮⋮いや、いいや﹂ ハロルが言いかけてやめた。 ﹁なんや。質問ならハッキリいいや﹂ ﹁いや、考えてるうちにわけがわかんなくなった﹂ こいつはダメそうだ。 ﹁ゴラのほうはどうなんだ?﹂ とゴラに話を振った。 ﹁⋮⋮少し頭を整理する必要はあるかもしれませんが、大まかなと ころは﹂ なるほど。 端緒は掴めたというところだろうが、それだけでも十分すぎるく らいだ。 そもそも、こいつらは地動説をここで初めて聞くはずだ。 すぐにストンと頭に入ったら、それこそ不気味である。 ﹁つまりは、同じ時間に太陽が南中し、かつ同じ角度にあがる地点 というのは、地球上に常に一箇所しかないってことだ﹂ 俺は簡潔に要約した。 これが太陰暦でも使っていると、また面倒なことになるが、シャ ン人は太陽暦を使っているので助かる。 ﹁学者じゃないんだから、それだけ理解できていればいい。道具と 952 して使えれば、それで十分だ。だが、知識がなければ、使うにして も頭がこんがらがっちまうからな﹂ ﹁はい﹂ 素直だ。 コンパス ﹁あと、リリーさんの説明に付け加えるがな。方位磁針は多少疑っ てかかれよ﹂ ﹁コンパスを、ですか?﹂ ﹁コンパスというのは、厳密にいえば北を指しているわけじゃない。 どうしてコンパスが北を向くか考えたことがあるか﹂ ﹁さあ?﹂ まあ、そうだろうな。 考えてもわかりっこないことだし。 ﹁あれは、地球全体に巡っている、目に見えない⋮⋮力の流れのよ うなものに流されて、北を向いてるんだ。その流れは、ウネウネ蛇 行していると考えるといい。もちろん、蛇行してても場所によって はタマタマ北を指すこともあるし、たとえば王都の端と端で流れが よほど違うということもない。だが、シビャクとカラクモくらい離 れていれば、少しくらい変わってくる﹂ ﹁⋮⋮よくわかりません。それがどういう意味になるんですか﹂ ﹁確かに、今までのように勘で航海するなら、関係ない話なんだけ どな。例えば、ココからココに移動したいとするだろ﹂ 俺は机の上の離れた二点を両手の指で別々に指した。 ﹁ここからここまでは、お前らがいつも使っているスオミ海港から、 アイサ孤島までの二倍くらいの距離があるとしよう。二つの港は、 953 両方とも一度行って観測が済んでいるから、緯度も経度も解ってい る。道中は全部が海原だと仮定すると、もちろん一直線に行きたい よな﹂ 俺は一直線に一つの指を動かして、もう片方にくっつけた。 最短距離だ。 ﹁だけど、方位磁針だけ頼りにすると、針の向きは微妙にズレて、 しかも変化しているわけだから、こう動くことになるわけだ﹂ 俺は片方の指を微妙に角度を変えながら直進させ、もう片方の指 に近づけてゆく。 二つの指は重なり合わず、遠くですれ違う。 ﹁こうやって、お前らは目的地にたどりつけない。だから、実際の 航海では太陽が出ているうちは毎日、観測をして、位置を修正して いく必要がある。まあ、太陽だけを観測する方法だと、一日に一回 しか観測するチャンスはないから、こうなるのが理想だ﹂ 俺は今度は、細かくジグザグに動きながらも、二つの指を合わせ た。 ﹁まあ、実際の航海では、こんな心配しなくても、向かい風に当た ればタッキングを繰り返したりするわけだから、毎日観測する必要 があるだろうけどな﹂ 向かい風に対して帆船で前進するには、斜めに風を受けながらジ グザグに遡上するように動かなくてはならない。 これをタッキングという。 こいつらにとっては基礎中の基礎の用語だから、もちろん承知だ 954 ろう。 タッキングをしてしまうと、どの方向にどれくらい動いたかとい うのは、わからなくなってしまう。 ﹁ともかく、方位磁針は目安程度に考えろってことだ。観測結果の ほうを当てにしろ﹂ ﹁はい。解りました﹂ ﹁方位磁針を動かす力の流れというのは、時を経てもそう変わるも んじゃない。地図に方位磁針の誤差がどれだけあるか書き込んでい けば、そのうちには地域特有の誤差がどれだけあるか、わかるはず だ。そうしたら、方位磁針の方向から誤差を差し引けば、正確な方 向がわかる﹂ ﹁しかし、方位磁針が頼りにならないのであれば、方角はなにを基 準に考えれば良いのですか?﹂ なにを基準て。 船乗りなら常識じゃないのか。 ポーラスター ﹁それは、今も昔も変わらない。北極星だ﹂ ﹁ああ、なるほど﹂ 北極星のことは、さすがに知っていたらしい。 ﹁北極星は常に北にある。今リリーさんが話した内容で、北極星が 真北にある理由は分かるはずだ。真北にあるから動かないのであっ て、これ以上間違いない基準はない﹂ ﹁わかりました﹂ ﹁ユーリ先生の講釈が終わったところで、実際に練習をやってみよ か﹂ 955 リリー女史が言った。 *** 部屋の中で固定した椅子に座り、部屋の壁に横に張られたロープ を水平線に見立て、天井に貼った紙の丸を太陽に見立てた練習は、 日が落ちるまで続けられた。 956 第058話 寝室にて 野郎どもが帰ると、今日はやることがなくなった。 ﹁シャムはまだ寝てるのか⋮⋮﹂ 途中に一度起きたが、シャムはやってることが退屈だったのか、 二度寝に入り、今に至るまで寝ている。 ﹁最近見直し作業に根を詰めててな﹂ あー、なるほど。 ﹁そうだったんですか。どーりで﹂ 夜更かししてまでやってたのか。 ﹁間違いがあったら大変やからな⋮⋮わたしも付き合っとるけど、 すっかり夜型生活やわ﹂ ﹁⋮⋮お疲れ様です。ご苦労をかけてしまっているようで⋮⋮﹂ 本当に面倒をかける⋮⋮。 俺とか毎晩熟睡してるのに⋮⋮。 ﹁シャムもこんな感じやし、今日はユーリくんの家で泊まってもえ え⋮⋮かな?﹂ ん? なんでちょびっと遠慮がちに言ってくるんだろう。 ﹁もちろんですよ﹂ シャムにとっては自分ちなんだから、泊まってもいいに決まって 957 いる。 ﹁そう? じゃあお邪魔させてもらうわぁ∼﹂ ﹁あ、はい﹂ シャムは身内なのだから、お邪魔もパジャマもないと思うが。 勝手に好きなときに帰ってくればいい。 ﹁じゃ、シャムは僕が抱えていきますかね﹂ ﹁そかそか。じゃあお願いするわぁ﹂ ﹁まあね、シャムはいつまでたっても体重が増えないから﹂ 140cmないんじゃないのか。 やせっぽちだし。 ひょいと抱え上げると、本当に軽かった。 羽のようとは言わないが、軽すぎて人間を持っている感じがしな い。 ちゃんと食事をしてるのか⋮⋮? そのままお姫様だっこでシャムを抱えると、下の階へ降りた。 今日も今日とてソロバンとにらめっこしているビュレを横目に、 本社を出た。 本社を出ると、道を挟んで目の前がホウ家の別邸だ。 俺は門の前で立哨している警備に﹁お疲れ様です﹂と言うと、勝 手口から中に入った。 あ、リリーさんに挨拶するの忘れてた。 ﹁あ、リリーさん。今日はありがとうございました﹂ 958 あ∼、いや。 さすがにここでお別れは失礼かな。 ﹁シャムを置いたら白樺寮まで送っていきますよ﹂ ﹁え、泊めてくれるんやないん?﹂ ??? ⋮⋮え? ﹁ユーリくん酷いわぁ⋮⋮泊まってもええ? って聞いたら、もち ろん! って元気に返事しとったのに、今になってやっぱ帰れ言う んかいな⋮⋮﹂ なんだかわざとらしいが、ずーんとうなだれている。 ﹁す、すいませんでした。少し勘違いをしてしまっていて。そうい うことであれば、どうぞお泊りになってください﹂ 別に俺の方はぜんぜん構わない。 こちとら将家だ。 シャムの友人を泊めるくらい、なんの問題もあろうはずもない。 ﹁じゃあお邪魔させてもらうわぁ∼﹂ *** 俺は、食事を済ませて風呂に入ると、寝室でテロル語の聖典を読 959 んだ。 寝室といっても、自分の部屋というわけではない。 俺は別邸を住まいとしたことはないので、別邸に俺の部屋はなく、 ここは客室の一つだった。 そこで、暇つぶしにイーサ先生から借りた聖典を読んでいた。 イイススという男は、俺が産まれる丁度二千年前に誕生した。 その全てを自分で考えたのだとしたら、大した作家だと思うが、 こいつは世界創世の物語を説き、死後の世界の理を教え、神の趣味 嗜好を人々に伝え、その通りに生きよと人々に説いて回った。 その途中でありとあらゆる善行をおこない、奇跡を施したという。 イイススは、なんの因果があるのかしらんが、地図でいうとイス ラエル近辺の地中海沿いの都市に生まれ、地元密着型で活動した。 イイススが活躍した時代、そのあたりは古代ニグロスという都市 国家の連合体が存在していた。 原典の記述に使われているトット語というのは、古代ニグロスで 使われていた言語である。 古代ニグロスでは多神教が広く信仰されており、古代ニグロス人 の殆どは、イイススの広める眉唾ものの説法については、ほとんど 関心を抱かなかった。 イイススのほうも、あんま無茶やって殺されちゃかなわんと思っ たのか、ほどほどにやっていたらしい。 聖典には、弟子が無茶やりだしたのをイイススが諌める物語も集 録されている。 960 なので、イイススは誰かに殺されたわけではなく、45歳ごろ、 俺からしてみりゃ死期を悟ったのだとしか思えんが﹁そろそろ弟子 も一人前になってきたし、俺は洞穴に入って眠るわ﹂などと言い出 した。 こしら まるで空海みたいな話だが、こいつは実際にそうしたらしく、洞 窟に入って弟子が拵えた寝台に身を横たえると﹁絶対に安眠を妨げ るな。絶対だぞ﹂という言葉を残し、入り口を埋めさせた。 その作業は、全てがたった十人の高弟によって、手ずから行われ た。 生きたまま閉じ込めろ、という命令に素直に従ったあたり、高弟 たちはイイススに死が迫っていることを察していたのだろう。 見上げたことに、十人の高弟たちは、埋葬地の所在を秘密にした。 誰かが知れば聖地のようになってしまい、その結果訪れるのは喧 騒であり、それは安眠を求めるイイススの意に沿わないと考えたら しい。 単純に、師の墓前を静かなままにしておきたい、と思ったのかも しれない。 自分たちの弟子にも一切教えなかったので、高弟たちが死に絶え ると、墓所の場所を知るものは誰もいなくなった。 だが、高弟たちは別のところで無茶をやらかしていた。 イイススが死ぬと、ある一人の高弟が﹁イイススの教えを守る者 たちだけの街をつくろう!﹂と言い出し、適当な土地を買い上げ、 そこに街を作りはじめたのだ。 961 土地を買い、家を作り、塀を仕立てると、あっという間に原始的 なイイスス教徒のコミュニティを作ってしまった。 そして古参の都市国家たちを相手取り﹁おいらっち都市国家作っ たから認めてくれよな∼w﹂とのたまいはじめた。 ところで、古代ニグロスの都市国家には、ニグロス神話の神たち の名前が一つづつついており、それを都市の守護神としていた。 ﹁で? おまえらの守護神はなんなの?﹂ ﹁え、イイスス様www﹂ などというややり取りがあったのかは定かではないが、ともかく トット語でヨハプルトキ︵迷い子たちの休み家︶と名付けられた小 都市が、こうして誕生した。 テロル語ではヨーツトフと言う。 古代ニグロスの連中はというと、よっぽど辛抱強かったのか、度 を超えて温和な人々だったのか、こいつらの存在を許してやったら しい。 これは多神教信者独特のミスだったと思うが、イイススを神の一 員として認めることまでしてやったという。 そうして、宗教に鷹揚な古代ニグロスの人々の間で、初期イイス ス教の人々は平和を謳歌した。 が、30年ほどたつと、事情が違ってくる。 ヨハプルトキの人々は調子に乗り始め、イイスス教をところかま わず宣教するわ、隣の都市国家に属する村落を勝手に実効支配して 税をとりたてはじめるわ、ちょっとありえないような無茶をしはじ めた。 962 そして、近隣都市国家との関係が最悪になると、一番近い都市国 家に戦争をふっかけた。 よっぽどお目出度い連中だったのか、戦争をまったく知らなかっ たのか、1対1の戦争になると見込んでいて、それなら勝てると踏 んだらしい。 つまりは、あくまで攻めたのは一つの都市なのだから、他の都市 は傍観するのがスジ、というような、どこまでも自分本位な考え方 をしていた。 現実には、そんなことが上手くいくはずがなく、これは温厚な古 代ニグロス人のぶっとい堪忍袋の緒をわざわざ引き千切るような行 為だった。 全都市国家から360度全方向から侵攻され、ヨハプルトキの都 市はボッコボコにされ、街は﹃瓦礫の日干しレンガが砂に戻るほど﹄ 破壊しつくされ、跡地には塩がまかれたという。 イーサ先生の話では、ヨハプルトキの都市跡というのは、あまり に完全に破壊され尽くしたため、現在でも所在がつかめないらしい。 だが、それでもこいつらはめげなかった。 戦乱を生き延びた幾人かのイイススの直弟子たちは、残った信者 を連れて、船に乗ってこぎだした。 地中海で運悪くシケにあい、漂着したのは、なんの因果かローマ あたりの地だったらしい。 彼らはここでも同じようなことをし始めた。 だが、古代ニグロスとは違って、当時のそこらでは地域の統一宗 963 教は存在しなかった。 ついでに、連帯感のある大国家のようなものが半島を支配してい たわけでもなかった。 そこにいた連中は、てんでバラバラに部族ごとに国を作り、土着 宗教を信仰していたので、彼らにとっては都合が良かったらしい。 そこにいたクセス族という原始部族のような連中にとりいると、 彼らは宣教を始め、あっという間にこいつらを信者の集まりにした。 後に起こるクスルクセス神衛帝国の始まりである。 クスルクセス族は、百年ほどかけてイタリア半島を席巻すると、 信仰の力を借りて侵略を続け、千年後には巨大帝国を作るまでにな った。 *** こんこん、と扉がノックされた。 ﹁どうぞ?﹂ 本から目を離さずに言う。 ﹁は、入るよぉ∼﹂ 聞こえてきたのは、リリーさんの声であった。 顔を上げてドアのほうを見る。 風呂にはいってきたのか、いつもより気が抜けているようだ。 964 髪が湿り気をおびていて、色っぽい。 服は、メイドに借りたのか、薄手のワンピースみたいな形のパジ ャマを着ていた。 お胸がやばいことになってる。 目の毒だ。 ﹁なにか御用ですか?﹂ ﹁いや⋮⋮特に用ってわけでもないんやけど⋮⋮忙しいかな?﹂ ﹁いえ、つまらない本を読んでいただけですから﹂ 俺はサイドテーブルの上に聖典を置いた。 ﹁それで、どうしたんですか?﹂ ﹁いや、な⋮⋮座ってもええかな?﹂ ﹁もちろんですよ。どうぞ﹂ いくらでも座ってくれていいのだが。 俺が勧めると、リリーさんは俺の近くの椅子に腰掛けた。 しかし、なんの用できたのだろう?。 俺も、最近は性欲に目覚めてきて、そろそろ本格的に娼館に金の 使い道を見出すべきかと、悩むような日々を送っている。 そして、リリーさんは、薄着を見ると胸も尻も出るところはちゃ んと出ていて、見ていると下半身が熱くなってくるようなお体の持 ち主だ。 だらしなく太っているわけでもなく、余計な肉もついていない。 正直いって、かなり好みの体つきだった。 965 もちろん、自制心で抑えてはいるが、ここは俺の家なわけで、い くら顔なじみといっても、もうちょっとは警戒すべきなんじゃない だろうか? というか、頼むから警戒してくれ。 こっちのほうが辛い。 ﹁もしかして、お酒飲んでます?﹂ ﹁うん、ちょびっとな﹂ 酒臭いとまではいかないが、リリーさんからは仄かに甘い酒の匂 いが漂っていた。 そうか。 酒を飲んでるなら仕方がない。 酒を飲むと脱ぎたくなるタチなのかも。 ﹁あ、お酒臭いのは嫌いやった?﹂ ﹁いえ、そうでもないですよ﹂ あんまりに酒臭かったら、それはどうかと思うが。 まあ知らぬ家で緊張することもあるだろうし、酒で気をほぐして いたのかもしれない。 ﹁なあ、ユーリくん、わたし今いくつか知っとる?﹂ 唐突な質問だった。 いくつ? 年齢のことか? 966 ﹁えーっと、十九歳でしたっけ﹂ ﹁そうそう﹂ 十九歳というと、日本で言えば大学生になる歳だが、リリーさん はそんな年齢には見えなかった。 大人びているし、胸も大きいから、特別に若くみえるわけではな いが、それでも高校生くらいに見える。 ﹁もう何年かすれば卒業やわ﹂ ﹁⋮⋮そうですね。僕にとっては残念ですが﹂ 教養院は二十五歳までいられるが、それより前に卒業する生徒が 多い。 それは中央での出世競争に有利だからであり、過半数が辺境の将 家領の出身である騎士院生と比べれば、その重要度は比較にならな いほど高い。 騎士などというものは、戦乱がなければ出世をする機会もないわ けで、唯一頻繁に出征しているホウ家を別にすれば、出世などとい う概念と無縁に生涯を過ごす連中が多いのだ。 騎士院の居心地がいいから二十五まで居座る。という奴はいくら でもいるし、早く卒業したからといって、人生に大きな影響を及ぼ すこともない。 リリーさんは預家の出身だから、二十五歳まで居ても問題はない と思うが、早く卒業するに越したことはないだろう。 ﹁それがなぁ⋮⋮離れたくないんよなぁ⋮⋮﹂ 967 なんか困った顔をしているが、どうも雰囲気のせいか、色っぽい 仕草に見えて仕方がなかった。 ﹁王都からですか?﹂ ﹁うん⋮⋮﹂ まあ、その気持ちは判らないではない。 リリーさんは王都での生活をエンジョイしてるように見えるし、 田舎に帰ったら退屈だと思っているのだろう。 俺は田舎暮らしも苦にならないタイプだが、誰も彼もが自然と草 葉を愛でる生活を楽しめるわけではない。 ﹁なら預家の経営は誰かに任せて、王都で暮らしてもいいのでは? ホウ社がいつまで続くか解りませんが、役員報酬はどんどん上が るわけですし﹂ この国では、田舎の物価はかなり低い。 山の背側などという地域は、言ってみれば田舎の中の田舎だから、 余計にそうだ。 対して、ホウ社の役員報酬は、もちろん現金ニコニコ一括払いな わけだから、預家の小領地の税収くらいなら、委任した誰かが領地 経営をしくって少しくらい穴が開いたところで、それを埋めるくら いの額は簡単に出る。 ﹁⋮⋮そうはいかんのよ。そんなことしたらお上の将家からなに言 われるか﹂ そうなのか。 ホウ家だったら、上納金さえ納めてれば、あとはなにも言わない 968 んだけどな⋮⋮。 たなこ 将家からしてみたら、預家というのは金払いのいい店子みたいな もんで、得するばかりの存在だし。 山の背側はノザ家が取り仕切ってるんだったよな。 ノザ家ってどういう連中なのか、俺もよく知らない。 ルークに圧力かけて貰えば簡単に解決するのだろうが、そうもい かないし。 預家というのは、普通の騎士家からは蔑まれるものなので、あま り儲けていると妬みなどもあるのかもしれない。 ﹁困りましたねぇ⋮⋮﹂ リリーさんは文句の付け所のない優秀な技術者だし、なによりシ ャムの友人だ。 困ってるならなんとかしてやりたい。 ﹁⋮⋮なあ、ユーリくんは結婚とか考えとらんの?﹂ ﹁結婚?﹂ いきなり話が変わったな。 ﹁いえ、考えてませんが﹂ ﹁あ、相手がおらへんなら、わ、わたしとかどうかな∼∼⋮⋮って﹂ えっ⋮⋮。 え、ちょっとまって、なに? 突然何を言い出すの? 969 ﹁リリーさんと、ですか?﹂ ﹁う、うん⋮⋮﹂ なんか縮こまってしきりに首とか触って、テレテレしてるけど⋮ ⋮。 その仕草はすごく可愛いけど、リリーさんちょっと今日おかしい んじゃない⋮⋮。 俺と結婚って。 ﹁え、えーっと⋮⋮﹂ な、なんて言ったらいいんだろう⋮⋮。 ﹁か、考えといてってだけやけん。もし相手がいなかったらってこ とで﹂ そうなのか。 考えとけばいいわけね。 将来結婚する相手がいなかったら、みたいな。 まー俺と結婚すれば預家の将来のことなんてどーでもよくなるわ な。 俺がホウ家を継げばの話だけど。 ﹁じゃあ。覚えておきます﹂ 光栄なことと思っておこう。 独り身が寂しくなったら、みたいなことで。 ﹁で⋮⋮でもな﹂ 970 ﹁はい?﹂ ﹁もしユーリくんが望むんやったら⋮⋮今日、味見してってもええ よ?﹂ ⋮⋮えーっと。 それは⋮⋮なに? 味見? つまり、今この場でリリーさんの体を好き放題できちゃうわけ? 俺がずっと本能に逆らって、撫で回すように見ることを耐えてい るこの体を? ﹁えっと、リリーさんは初めてじゃないんですか?﹂ ﹁は、初めてに決まっとるやんか!﹂ 声でかい。 そっか、初めてなのか。 ﹁初めてなら知らないと思いますけど、男という生き物は、リリー さんみたいな美しい女性にそのようなことを言われたら、まず味見 程度じゃ済ませませんよ﹂ ﹁えっ⋮⋮そうなん⋮⋮﹂ ﹁それはもう狼が子羊に襲いかかるように飛びかかって、もう滅茶 苦茶にしちゃいますよ。おっぱい揉まれるだけで済むと思ったら大 間違いですよ。それはもう一度やったら止まらないんですから、朝 まで体中犯しまくりですよ﹂ こっちだって禁欲生活をしているんだから。 ﹁う⋮⋮﹂ 971 リリーさんは顔を真っ赤にしてうつむいた。 ﹁だから、だめですよ。軽率にそんなこと言っちゃ﹂ 俺はリリーさんを諌めた。 今思ったけど、リリーさんが味見とか変なこと口走ってるのって、 もしかしてあの有害図書の影響なんじゃねえか? どうもそんな気がする。 自分で出版に携わっておいてなんだが、色々なところで悪影響を 及ぼしているのかも。 ﹁軽率やないもん⋮⋮﹂ あのー。 軽率やないもん、はいいんだけど、両腕でおっぱい挟み込みなが ら言うのやめてもらえませんかね。 ブラとかも付けてないみたいだし、微妙に浮き出てるんだけど。 ﹁べつにユーリくんだったらそうしてくれてもええんよ?﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂ ギリリ、と奥歯を噛み締めた。 理性を司る頭と、本能を司る下半身が戦争をしていて、腹のあた りでしのぎを削っている感じがする。 葛藤が腕のところまで来たら、意識が乗っ取られてしまいそうだ。 ﹁ゆ、ユーリくん?﹂ みさお ﹁⋮⋮だめです。すごく魅力的な提案ですが⋮⋮。リリーさんもそ んな簡単に操を捨てようとしてはいけません。将来の大事な人のた めに取っておかないと﹂ ﹁⋮⋮将来いうても、どうせ領に戻ったら顔も知らん相手と見合い させられるんや。とっといても仕方ないわ⋮⋮﹂ 972 リリーさんはちょっと淋しげに言った。 ﹁そんなに捨て鉢にならなくても、きっと僕がどうにかします。だ から、好きでもない相手に抱かれる必要なんてありません﹂ ﹁そうやなくて⋮⋮﹂ ﹁大丈夫ですから、安心して寝室に戻ってください。その格好は僕 の目には毒すぎます﹂ 俺は少し強く言った。 やらないと決めた以上、この問答は不毛だ。 俺のダメージがつのるばかりで、なんの益もない。 ﹁⋮⋮っ、わかった。すまんな、ユーリくん。変なこといってもう て﹂ ﹁そんなことはありません。男として嬉しいお誘いでした﹂ 一転回って苦しくなっちゃってるから辛いだけで。 リリーさんは席を立って、ドアに向かった。 後ろを向くと、たわめいた薄い服が体に触れ、くびれたウエスト と形の良いヒップが浮き上がった。 ぐぬぬ⋮⋮。 なぜこんな試練を課せられているのだ俺は⋮⋮。 リリーさんは、扉を開けると、去り際にちらりと俺に振り向いて、 そして消えた。 973 *** その後、俺は下半身に収まりがつきそうにないので、熱に浮かさ れた頭で、今晩、初めて娼館というものを体験することを真剣に考 えた。 だが、三十分ほどじっくり考えて、今の時間から服を着て、既に 閉じている玄関から外へ出てゆくというのは、明らかに格好がつか ないという結論に達し、俺は諦めた。 よくよく考えれば、娼館はもちろん魔女家のテリトリーなので、 よくよく選別もせずに焦って突貫をくれるというのは、いかにもま ずい。 そして、今からでは情報収集もできず、選別のしようがない。 というわけで、俺はベッドに入った。 自己処理しようかどうか悩んだが、それはなんだか虚しい気分に なりそうで、難しい問題だった。 俺はベッドの中で悶々としていた。 バン、とドアが乱暴に開いた。 ﹁⋮⋮なんだよ﹂ 上体をベッドから起こして、ドアを見ると、常夜灯の薄暗い光に 照らされていたのは、シャムであった。 なんだかしらんが、怒った顔をしている。 うわー、下半身脱いでなくてよかった。 つーかノックくらいしろよ。 974 ﹁こんな夜中に、なんか用か?﹂ ﹁なんか用かじゃないですよ、ユーリ﹂ 声色にトゲがある。 一体なんだ。 なんか悪いことしたか? ﹁なんだよ、なんで怒ってるんだ?﹂ ﹁リリー先輩になにをしたんですか﹂ ??? ﹁なんもしてないけど⋮⋮?﹂ どうにかなってたら、今頃俺は、このベッドの中で、リリーさん のおっぱいを心ゆくまで堪能しているんだが。 ふしど それはもう揉みくちゃにしているんだが。 現在それをしておらず、寂しい臥所を一人温めているということ は、俺はなにもしていないということだ。 これほど完璧な論法は、古今東西見回してもなかなか見ないだろ う。 ﹁⋮⋮なんか変な声が聞こえてきて、起きたら﹂ 変な声? ﹁ユーリくんにふしだらな女って思われたぁ∼もう死にたい⋮⋮っ て、リリー先輩が一人で泣いてたんですけど⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮⋮﹂ 975 あの。 えろい人だとは思ったけど、ふしだらとは思ってないけど。 だって処女じゃん。 ﹁あんな先輩は初めて見たので⋮⋮なにかあったのかと﹂ ﹁大丈夫、三日もすれば治るから﹂ たぶん。 ﹁⋮⋮そうですか。ユーリがなにかしたわけではないんですね﹂ ﹁してねーっつーの﹂ ﹁えっちな事とか、してませんよね﹂ ⋮⋮。 まさかシャムの口からえっちとか言う単語が出てくる日が来るな んて。 世界は終わるのか。 自分の娘に彼氏が出来た時ってこんな感じなのかな⋮⋮。 ﹁してません﹂ ﹁⋮⋮そうですか。ならいいんです。おやすみなさい、ユーリ﹂ シャムはぱたんとドアを閉じて、出て行った。 976 第059話 平凡でもない日常 早朝、俺は港に赴いていた。 ﹁じゃあ、気をつけろよな﹂ 俺はハロルに言った。 ﹁ああ。それじゃあな﹂ 桟橋に付いている渡し板から、ハロルは船に乗る。 ボロボロの、使いふるしの船だった。 これはレンタルの船で、返さないと違約金が発生する。 ハロルは、どうせ新造の船を買うなら、クラ人が作った最新鋭の 船を買いたいと言った。 俺もそれには賛同したが、その結果、この航海にはざっとみて金 貨八百枚分、八十万ルガほどの資金がかかっている。 もちろん一般の船員たちは知らないが、創業以来せっせと貯めて きた予備資金のほとんどすべてが、黄金の形でこのボロ船の船倉に 入っている。 円に直せば、八千万∼一億円以上の金額になる。 リスクマネジメントの専門家が聞いたら、真っ青になるような話 だ。 ハロルの見立てによれば、ボロ船の船体に問題はないという話だ が、実は欠陥があって船が沈没ということになったら、どうなるの か。 977 船員はアイサ孤島の往還船経験者で占め、つまりは肝のある連中 を選んだわけだが、反乱を起こさない保証もない。 それに、俺はグレートブリテン島の緯度経度なんて知らないから、 初回はやはり運否天賦になる。 座標は解るのだから﹁迷子になって同じ所をぐるぐる﹂とか﹁行 ったり来たり﹂がなくなり、更には﹁食料が半分尽きたら帰ってく る﹂という技が使えるようになるわけだから、安全性は向上するは ずだ。 だが、不安なことは不安だった。 そもそも、ゴラが確かな観測をしてくれなければ、それも意味を 成さない。 座礁の危険もある。 ﹁じゃあ、いってくるぜ!!!﹂ 船上の人となったハロルが、大声で言って、桟橋へ係船してある ロープを解くように言った。 手こぎのタグボートが離岸を手伝い、桟橋から離れると、マスト に帆が張られた。 そして、ハロルの乗った船は、ゆっくりと離れていった。 *** 最近は、ハロル関係で忙しく、右往左往していた俺であったが、 978 ハロルが出港すると、やることがふっつりと無くなってしまった。 ハロルがちゃんと真新しい船に荷を積んで帰ってくるのか。 考えると、非常に不安だった。 だが、もう船は出てしまったのだから、考えても仕方がない。 俺はとぼとぼと街を歩き、自然と学院の敷地に入った。 今日は休日なので、学校の用事はなかった。 だが、やはり学院くらいしか来る所はなかった。 ﹁⋮⋮寝直すか﹂ 俺はひとりごちた。 寝よう。 幸い、季節は春で、温かい日差しは、絶好の昼寝日よりに思えた。 昨日一昨日と雨も振っておらず、土は濡れていない。 そのへんの樹の下で寝るか⋮⋮。 俺は学園の半分を占める森に入って行き、適当に日当たりの良い 木を選ぶと、根本に尻もちをついて、幹に背を預けた。 こんな堅いベッドで寝られるものかな。 そう思っていたが、よほど疲れが溜まっていたのか、すぐに眠気 がやってきた。 *** 979 夢の中で、俺はお爺の家で、お爺の講義を聞いていた。 俺はうすらぼんやりとした意識の中で、自分がまだお爺のことを 覚えていたことに、少し驚いていた。 ﹁不確定性原理というのがあるらしくてな。わしもよくは知らんの だが、なにやら物理畑の連中によると、物体の大本の状態を完全に 正しく知るのは不可能なんだそうだ﹂ 俺は、そのときお爺の実家におり、その講義を聞いていた。 高校生のころの話だ。 大学を引退したお爺は、孫に講釈をするのが大好きだった。 俺が聞き上手だったのもあるだろうし、単純に孫が可愛かったの かもしれない。 俺はもう高校三年生だったから、不確定性原理のことも概念と結 論くらいは知っていて、おそらくお爺よりもよく知っていた。 なにしろ、お爺は経済学が専門で、解析方面で数学を使うことは あっても、物理学については完全に畑違いだった。 俺はこの学者肌の祖父のことが大好きだった。 父親に反感を持ち、学者肌のお爺を慕うあまり、俺は何故か学者 に憧れた。 そして、理系大学に進んだあとも、一心に学者になりたいと願い、 大学院の門を叩いた。 高校生などという人種は、成長したようでまだまだ未熟で、だか 980 らしょうがないとは思うが、あの頃の俺は、自分というものが見え ていなかった。 その結果がアレだった。 俺はまったく学者に向いていなかったのに、憧れだけで道を選び、 重要な選択を誤りに誤った。 向いていない大学で、向いていない研究をし、なにも成し遂げる ことができなかった。 だから、大学を追い出され、学者としての道を絶たれた時も、俺 は大して残念とも思わなかったし、戻りたいとも思わなかった。 むしろ、ソリの合わない妻とようやく離婚できた男のように、ど こか開放された気分すらあった。 ﹁最小単位の状態を正確に理解できなければ、最小単位の繋がりで できた大きな単位を、完全に理解することはできない。物理学でも、 世界の正確な形を完璧に捉えることは原理的にできんらしい。わし は、自然科学も社会科学もおおもとのところは一緒なんだなぁ、と 思ったものだ﹂ 祖父がこのとき言っていた内容は、つまりは観察者効果のことだ。 素粒子、例えば電子のような存在を観測しようとすると、観測行 為そのものが電子を変位させてしまうために、正確な観測結果は得 られない。 銅像を観察するために光を当てても、銅像はビクともしないが、 これが超高出力の熱光線だったら、銅像はぐにゃぐにゃに溶けてし まい、どういう形だったか解らなくなる。 形を観測するための行為で、形そのものが崩れてしまうために、 観測する前の形が解らなくなる。 981 おおまかにいえば、そのようなことが起こってしまい、素粒子の 観測には必ず誤差が生まれる。 ﹁経済学というのはな、人間一人ひとりの日常の生活を学問する学 問なんだ。最終的には、人間社会の動きを極めて正しくトレースす るモデルを作ることを目標としとる﹂ 経済学者にもいろいろあるのだろうが、お爺の最終的な研究目標 はそれだったのだろう。 ﹁だが、人間には個性がある。一人ひとりが違う生き方をしとる。 そういう人間が、一億も二億も集まった社会を、正確にトレースす るモデルを人間が作れると思うか﹂ お爺の専門は行動経済学だった。 行動経済学というのは、単純化された経済モデルで使われる、い わゆる合理的経済人から離れ、主に心理学などを使い、現実のリア リスティックな人間の行動を分析し、経済学に落とし込もうという、 学際的な経済学の分野だ。 ﹁わしは、もう何十年も一緒に暮らしているのに、婆さんのことが 未だにわからんことがある。他人のことを本当に理解するというの は、心底ままならんものなんだ。それなのに、社会というやつは、 人間が一億も二億もおる。国際社会でいえば五十億も六十億もおる。 長年連れ添った、自分の嫁さんのこともよくわからんのに、社会の 形をまっとうに知るなんて、人間の短い人生でできることではなか ったのだ﹂ そう言ったお爺の顔は、なんとなく淋しげだった。 982 お爺は、俺から見れば目が眩むほどまばゆいと思えるような、学 者として立派な成功を収めていた。 だが、お爺のいう学者としての偉業というのは、そういうものと は質が違ったらしい。 例えて言うなら、未解の真理という茫漠の闇のなかに潜り、どれ だけの価値あるものを拾ってきて、白日のもとに晒すことができた か。それが学者の値打ちなのだ。というようなことを、考えていた ように思う。 だから、お爺は社会的に立派と思われている自分の業績には、価 値を見いだせなかったのであろう。 ﹁わしは学者としての道を間違えた﹂ と、お爺は良く言っていた。 経済学というのは、どうしても通貨が表面に出てきてしまうため、 金の動きを探るだけの学問というイメージが強いが、本来は人間と いう動物の経済活動すべてを取り扱う。 経済活動というのは、つまりは人間の飲み食い住み動く、全ての 行動を総括的に表現した言葉だ。 俺はお爺を見て、学者になりたいと思い、だが生き様をみて社会 科学者を志すことをやめた。 お爺は、大学を定年で退いたあと、経済学から離れ、人からも離 れ、政治経済のニュースを見ることもやめ、田舎で夫婦で土いじり をしながら暮らした。 そして、お婆ちゃんが死ぬと、後を追うようにして死んだ。 983 *** ふいに、現実に押し戻されるように目が覚めた。 よくもまあ、お爺の顔なんてものを覚えていたもんだ。 似顔絵でも書いておきたいな、と思ったとき、目の前に人がいる のが解った。 金髪の女の子だ。 金髪の女というのは、俺の知り合いには三人しかいない。 女王陛下、その娘1、その娘2だ。 それ以外には、街を歩いていても見かけたこともない。 ﹁カーリャか﹂ 娘その2だった。 俺の目の前でかがみこんで、スカートを抑えながら俺のツラをじ ーっと見ている。 ﹁やっと起きたわね﹂ ﹁お前、ずっと見てたのか﹂ ﹁そうね、三十分くらいは﹂ 三十分も寝てる男を眺め続けていたわけか。 ドッラとかも、部屋に入ると寝台で寝ているキャロルをじっと見 つめていて、ゾッとすることがあるから、シャン人のアホ特有の習 984 性なのかもしれないが、こいつの場合は真っ昼間からだ。 暇人すぎると言いたくなる。 ﹁暇人だな﹂ ﹁相変わらず失礼ね﹂ ﹁暇なのか﹂ ﹁私が暇だと思って?﹂ 暇じゃなかったらどうしてぼーっと眠ってる男のツラを見続ける なんて真似をしているんだ。 ﹁忙しいなら、用事を済ませたらどうだ﹂ ﹁あなた、デートしてあげてもいいわよ﹂ やべぇ、こいつ話通じねえ。 暇だから誰かに遊んで欲しいのか。 なら忙しいなんて言わなきゃいいのに。 ﹁遠慮しておく﹂ 俺は立ち上がって、尻についた汚れを払った。 こいつと遊ぶつもりはない。 ありもない噂を補強する要因がひとつ増えるだけだ。 ﹁なんでよ。付き合いなさいよ﹂ ﹁そんな本をもってどこへいくつもりだ﹂ カーリャは脇にあの本をもっていた。 ピニャが書き、コミミが印刷し、俺が製本販売したやつだ。 985 つまり、俺とドッラの情事が内容の本だ。 んなもんを白昼堂々持ち歩くなボケと言いたい。 ﹁⋮⋮なによ、気にしてるわけ﹂ カーリャは、さすがにしまったと思ったらしい。 顔にでている。 ﹁別に気にしちゃいないが、エロ本は堂々と持ち歩くな﹂ ﹁エロ本じゃないわよ。あんたちゃんとこれ読んだわけ﹂ 誰が読むか。 俺は発作的に頭をひっぱたきたくなったが、こらえた。 ﹁気がおかしくなりそうだから読んでない﹂ ﹁じゃあ読みなさいよ。これって文学なんだから。なんなら貸して あげるわ﹂ やべぇこいつキマっちゃってる。 完全に頭イッちゃってる。 ﹁⋮⋮じゃあな﹂ 俺は逃げた。 あっという間にカーリャをまくと、寮のほうにかけこんだ。 *** 寮の食堂へ行くと、ドッラが一人で飯を食っていた。 986 休日は他所で飯を食う連中が多いのに加え、今は昼飯時を少し過 ぎている。 人が居ないのは道理というものだ。 それにしても、よりにもよってこいつがいるとは。 ドッラは、常人の三倍も四倍もあろうかという量の飯を一人で平 らげていた。 モクモクと腹の中に入れている。 見ると、Tシャツみたいな袖付きのシャツは、汗で濡れているよ うだ。 先ほどまで訓練をしていたらしい。 休日なので、自主訓練ということになる。 ご苦労なことである。 俺は食堂のおばちゃんにセットの食事を注文すると、席についた。 昼食時を少し逃してしまったので、焼きたてのパンや焼いたばか りの肉はでてこないが、そのへんは我慢するしかない。 俺は冷えた昼食の乗ったトレーをもらうと、ドッラとはだいぶ離 れた席に座った。 しばらく飯を食っていると、飯を食い終えたのか、ドッラが席を 立った。 こちらに向かってくる。 くるな。 くるな。 987 あーあ、きちゃった。 ドッラは俺の目の前の席に座った。 ﹁⋮⋮おい﹂ 話しかけてくる。 なんか暗いんだよなこいつ。 俺もネクラだから暗いのはいいけど。 なんというか粘りのある暗さというか。 どうせキャロルのこと好きなんだったら、夜中にじっと顔見てた りしないで、いっそ下着盗んだりすればいいのに。 プライドが邪魔するのかそういうことは一切しないんだよな。 そういうところが粘り気があるというか。 夜中キャロルの顔を見てるのは、おそらく俺しか知らないし、誰 にも言ってない。 それでも、同じような行為をしている場面をピニャに描写された というのは、偶然とは思えない。 やはりそういう湿り気をもった暗黒のオーラが漂っていて、他人 からもそれがわかるんだと思う。 ドッラがわかりやすいのか、ピニャの洞察力が人並み外れている のか。 ﹁なんか用か?﹂ つい2∼3年前くらいまでは、アホのように勝負というか武術の 練習に付き合えとか試合をしろとか言ってきたもんだったが、それ 988 も最近では鳴りを潜めている。 久しぶりに勝負を挑んでくるんだろうか。 ﹁殿下のことで話がある﹂ 違った。 ﹁ああ、そう﹂ ついに告白でもすんのかな。 夜中にツラを熱心に見ているより健全だと思うけど。 キャロルも、寝相が悪くて寝ている姿は目を半開きにして二目と 見られない顔をしている。とかならいいのに。 寝相は良くてたまに寝返りうつくらいだもんな。 ﹁お前、殿下のことをどう思ってる﹂ ﹁はあ? 別に﹂ ﹁ただの友達か﹂ ﹁まあ、そんなところかな﹂ 友だちとは思ってるけど。 しかし、なんなんだこいつは。 そういえば、普段より思いつめたような顔をしてる気がする。 ﹁殿下はお前のことを思慕しておられる﹂ なんか変なこと言い出した。 はあ? シボ? 989 ﹁何をわけのわからんことを﹂ こいつ意味わかって言ってんのか。 馬鹿のくせに小難しい言葉を使いやがって。 ﹁事実なんだ﹂ ﹁根拠はあるのか﹂ ﹁根拠だ!? そんなもんがあるわけないだろ!!﹂ ドッラはやおら立ち上がって大きな声をあげた。 おいおいおい。 突然キレんなよ。 ﹁まあまあまあ落ち着けって﹂ ﹁俺は落ち着いてる!﹂ 落ち着いてねえやつほどそういうんだよ。 ﹁とりあえず、座れ。なにがあったか話してみろよ﹂ 俺がいうと、ドッラはおとなしく椅子に座った。 熱が冷めたわけではなく、ぐらぐらと沸騰している湯に少し水を かけたら、ひとまず沸騰がおさまった。という感じだ。 ﹁俺にはわかるんだ。殿下がお前を好いているのが﹂ ああ。 これ、特になにがあったわけでもないパターンだな。 990 思いつめちゃって勝手に妄想が暴走してる感じだ。 アホ特有のアレだな。 ﹁まあ気が合うし、そう見えるかもな﹂ ﹁そうじゃないっつーのが⋮⋮﹂ また気が昂ってきたようだ。 ﹁待て待て待て﹂ ﹁もういい。お前に相談したのが馬鹿だった﹂ これは相談だったのか。 初めて知った。 ﹁相談だったのかよ。キャロルと付き合うための恋愛相談か﹂ ﹁この大馬鹿野郎﹂ まさかこいつに大馬鹿野郎と言われる日が来るとは。 世の中わからんもんだな。 俺が呆然としていると、 ﹁俺は部屋を移る﹂ と宣言した。 部屋をうつる? 部屋に戻る、じゃなくて移る? あ? それって辻褄があわねえぞ。 991 ﹁なにいってんだ。別の部屋いったらもうキャロルの寝顔は見られ ねえんだぞ﹂ ドッラは、俺への対抗心を燃料にしつつ、キャロルの寝顔を夜中 眺めることで癒され、日々の厳しい訓練に耐えている。 それがなくなったらコイツはどうなってしまうのか。 ほぼ確実に、一生キャロルとはお別れだ。 会ったり話をしたりすることはできるだろうが、こいつの性格上、 親密な関係になることはまずムリだろう。 生活が荒れたり、変な女にでも騙されて人生棒に振ることになる かも。 寝顔をみるとかは同室だから許されていることで、部屋を出たあ とに、キャロルが寝ているところに忍び込んだりしたら、夜這いと 疑われてもしかたがないので、大問題だ。 ﹁結ばれないなら結ばれないなりに、キャロルがいなくなるまで幸 福を噛み締めろよ﹂ ﹁だが、このままだと俺は間違いを起こしてしまうかもしれない﹂ ﹁あぁ﹂ それが心配だったのか。 自制心が保たれなくなるとか。 それはあるかも。 俺も社を作る前は、ほぼ毎日寮に泊まっていたが、ここ一年は外 泊が多いので、それで辛くなってきたのだろう。 俺が自制心の防波堤になっていたというのに、俺がホイホイ外泊 するせいで、歯止めがきかなくなりかけている、と。 992 ﹁それだけじゃない。俺は殿下への想いを断ち切らなければ﹂ ﹁別に断ち切る必要は﹂ ドッラは、実のところ、わりとキャロルの花婿としてふさわしい 立場にいる。 ドッラがキャロルと結婚するというのは、夢物語ではない。 王族の婿というのは、通常は近衛第一軍あるいは巫女筋から取ら れる。 魔女と接近しすぎないよう、シヤルタでは魔女家から男をもらっ てくる、ということは普通しない。 外国の王族から取られるという場合もあるが、これは今ではキル ヒナしか相手国がいなく、キルヒナには女王陛下に男の子どもは居 ないので、今のところ可能性はない。 巫女筋というのは、他国から流れてきた王族の血筋だ。 王族が亡命というか難民としてやってきた場合は、普通の貴族と 同じで、一般市民として受け入れられる場合もあれば、どこかの将 家が引き取る場合もある。 だが、そこらへんの貴族と違い、やはり王族は王族なので、さす がに貧乏して野垂れ死にされると夢見が悪い。 なので、聖山の祭祀場に祭祀者として入る道が特別に用意されて いる。 シャン人の宗教は一種の多神教で、原始的な自然を擬神化する信 仰を持っている。 そして、なにがどうなってそうなったのか知らんが、黒海を全て 993 の海の源と考えており、母の海と呼んでいる。 聖山では毎夜、黒海のほうに向かって、メッカに祈るムスリム宜 しく、祈りを捧げているらしい。 さすがにその仕事は退屈すぎるので、王族がやってきた場合も、 聖山に入るというのはあまり好まれない。 だが、それを選んだ連中も少なからずおり、聖山の祭祀者︵巫女 筋︶の連中には金髪が多いらしい。 これは他国の王族の血筋なので、婿としては相応しいが、こいつ らは宗教家なので学院にはこない。 つまりは、礼儀作法と宗教知識以外は特別な教育を受けていない 種馬で、キャロルや女王陛下がそういう奴を婿にするとは考えにく い。 例外として、将家から取られることもあるが、これは恋愛が伴っ てのことで、あくまでイレギュラーといえる。 なので、親が近衛の第一軍で、まあ順調にいけば第一軍に入るで あろうドッラは、そこまで悲観する必要はない。 ﹁キャロルと結婚できるという可能性もなくはないだろ。部屋を変 えるのは、その可能性を遠ざけることにしかならない﹂ ﹁⋮⋮だが﹂ うーん。 ていうかさ、俺、思うんだけど。 ﹁おまえ、なんつーかさ⋮⋮性欲が溜まりすぎなんじゃないか?﹂ ﹁なっ⋮⋮!﹂ ドッラはうろたえた。 994 うろたえることはないだろ。 俺はこの前、俺らと同じ年齢で、すでに子持ちという鼻持ちなら んやつと出会ったぞ。 ﹁その様子だと、娼館にあそびに行ったりもしてないんだろ。性欲 を発散しないからそういうふうに思いつめるんだ﹂ ドッラは歳を重ねて精悍な顔つきになってきている。 筋肉質でマッチョな体つきなので、嫌いな女性は嫌うだろうが、 まあ娼館にいけばそれなりにモテるだろう。 まあ、要するに、さっさといって抜いてこい。ってことだ。 ﹁関係ねえ﹂ そんなわけがあるか。 ﹁関係なかったら、どうしてキャロルを襲っちまうかもなんて思う んだ。性欲が根本からなかったら、そもそもそういう発想がでてこ ねえだろ﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ドッラはさすがに心当たりがあったのか、黙った。 ﹁なあ、ドッラ。人間の三大欲求ってものを知ってるか﹂ ﹁知らん﹂ 俺が知っているだけで、ものの本に載っている話ではないので、 これは知っているわけがなかった。 ﹁人間には三つ大きな欲求がある。食欲と睡眠欲と性欲だ。性欲を 我慢するってのは、腹が減っても食わない、眠くなっても寝ない、 995 そういうのと同じくらい不自然なんだよ。腹が減っても食わなかっ たら、力がでなくなって、しまいには動けなくなる。寝ずに三日も 過ごしてたら、これもまともな仕事はできなくなる。それと同じで、 性欲も我慢してたら頭がおかしくなっちまうのは、当たり前なんだ﹂ 俺はとってつけたような持論を展開した。 ﹁⋮⋮⋮﹂ ﹁今晩にでも行って来いよ。そうすりゃ多少楽になる﹂ ﹁いや⋮⋮﹂ ドッラは口を濁した。 ﹁なんでだよ。娼館行く小遣いくらいもらってるだろ﹂ ﹁いや、殿下はそういうのはお嫌いみたいだし﹂ ⋮⋮馬鹿かこいつは。 お嫌いみたいだしって。 んなもん知ったこっちゃあるかよ。 すでに付き合ってるってんなら気にする必要があるかもしれない が。 いや、すでに付き合っていようが、言わなきゃわかんねーんだか ら、やっちまえっつーの。 ﹁ばーか、男の性欲が女にわかるもんか。こっちはこっちで勝手に やっときゃいいんだよ﹂ ﹁いやな﹂ 何を怯えたような表情をしてやがる。 996 デカい図体しやがって。 ﹁じゃあキャロルの下着でもぬす⋮⋮じゃなかった、借りて自分で 処理しろよ﹂ そうだそれがいい。 好きな子のリコーダーぺろぺろする感じで。 ﹁おまっ!﹂ ﹁どうせ気付かねーよ﹂ ﹁そんなことできるわけが﹂ ﹁すぐ返しとけばわからねーって﹂ ﹁馬鹿、不敬にもほどが﹂ ﹁誰が損するわけでもねーし、いいだろうがよ﹂ ﹁口を慎め﹂ ﹁カタいなあ。そのくらい若気の至りで済むんだって。大人になり ゃ笑い話なんだから﹂ 軽口を叩きながらドッラを見ると、俺を見ていないことに気づい た。 チラチラと俺の後ろを目でみながら、俺に目線でサインを送って いる。 それも見たこともねーような情けねー顔で。 なんだか今日は気が緩んでいる俺も、さすがに気づいた。 あーあ。 参ったなこりゃ。 997 はぁ∼∼⋮⋮どうやって誤魔化すかな。 ﹁というのは冗談で∼、やっぱりアレだよな。女性の気持ちを考え るとそんなことできっこないよなぁ。我ながら悪い冗談だった。は はは⋮⋮﹂ ﹁あ、ああ⋮⋮﹂ 注意して耳を傾けると、後ろから足音が微かにだが聞こえた。 ﹁いやぁ、冗談でも口にしていいことと悪いことがあるよな。これ から気をつけるよ﹂ はぁ。 ドッラも気が利かねえよな。 見えた瞬間に﹁あ、ドーモ﹂とか﹁これから飯ッスか﹂とか大声 で言ってくれれば、俺もすぐに気づいたのに。 俺は背中に目がついてるわけじゃないんだからさ。 それにしても、いつから聞いてたんだ? ﹁ところで、ちょっと真面目な話があるんだよ﹂ 俺は声のトーンを変えてドッラに言った。 ﹁な、なんだ?﹂ ﹁お前を男と見込んで頼みがあるんだ﹂ ﹁ああ﹂ ﹁この飯を片付けといてくれ﹂ 言うやいなや、俺は椅子に座った体勢から、横に転がり落ちるよ うにして体を崩すと、地面を蹴った。 このまま全力疾走で逃げる!!! 998 蹴り足の力が体を運びはじめると、ガクンと首に衝撃が走った。 後ろの襟首を捕まえられ、引きずり倒される。 とっさに起きようとすると、胸板を蹴って倒された。 ﹁逃げるな﹂ 蔑みの目で俺を見下ろしながらそう言ったのは、案の定キャロル であった。 胸のあたりを足蹴にされ、押さえつけられている。 そそのか さすがに毎日のように訓練してるだけあって、踏み方ひとつとっ ても堂に入っていた。 ﹁やあ、キャロルじゃん。いたのか?﹂ 俺はすっとぼけた。 ﹁しらじらしい。気づいていたくせに﹂ ﹁なんの話だ?﹂ しらは切り続けるものだ。 ﹁この変態が﹂ 冷たい言葉が降ってきた。 ﹁ゴミ、クズ、アホ、とんちんかん、まぬけ、変質者﹂ ﹁よくも並べられるもんだな﹂ ﹁お前が変態なのはいいとして、真面目にやっている騎士の卵を唆 すとは。なんて情けない﹂ 俺が変態なのはいいのかよ。 ﹁相談にのってやってただけなのに、ひどい言われようだ﹂ 999 ﹁なにが相談だ。あんなものは相談とはいわん! 苦しんでいる学 友に、しょ、しょ、娼館へいけなどと!﹂ 顔赤くするくらいなら言わなきゃいいのに。 それにしても、さすがに全部は聞いていなかったのかな。 俺はどっちでもいいが、前半聞かれてなかったとすると、ドッラ は救われたな。 ﹁男にとっては性欲の処理は死活問題なんだよ。間違いを起こさな いように娼館へ行く。これは貴族として過ちを犯さないようにする ための立派な行為で﹂ ﹁それを断ったドッラに、お前はなんといった!﹂ あちゃー。 そこ突かれると痛いねー。 ﹁あー、なんだったかな?﹂ ﹁この野郎﹂ 胸に体重がかけられた。 ﹁イタタ⋮⋮あれは冗談だって﹂ ﹁私に気づいたから言い繕っただけだろ﹂ バレてる。 ﹁ユーリくん、観念したほうがいいですよ﹂ おや。 ﹁ミャロは腹がたたんのか﹂ 同意を求めるように、キャロルが言った。 ﹁男性の社会には男性の慣習がありますので、頭から否定するのは どうかと。遅かれ早かれ済ますものらしいですし﹂ 1000 さすがミャロだ。 わかってらっしゃる。 騎士院の学生は、ネットでオカズも漁り放題、寝るところは一人 用の私室、というような夢の様な環境が与えられているわけではな い。 教養院みたいに気の利いたエロ本部屋があるわけでもない。 発散する場所がないのだ。 金を持っていることもあって、娼館というのは非常に現実的な選 択肢なのだ。 ﹁ですが、下着うんぬんというのは、ボクとしても些か下劣な発想 のように思えますね﹂ ミャロのほうを向くと、笑みはなく、地面に落ちているゴミを見 るような目で俺を見ていた。 ﹁お前は説教だ。根性を叩き直してやる﹂ ﹁ドッラ﹂ 俺はドッラに声をかけた。 くそ、こいつのせいで。 ﹁あ、ああ﹂ ﹁メシを片付けといてくれ。心苦しいからな⋮⋮なんなら食っても いいぞ﹂ ﹁お前にしては感心な心がけだな。ほら、部屋に行くぞ﹂ 俺は襟首をつかまれたまま連行されていった。 1001 第060話 会計士 ﹁よう⋮⋮どうした? その顔は﹂ 社長室にいたカフは、俺の顔をみるなり訝しげな表情をした。 ﹁頬をおもいっきりつねられた﹂ ﹁例の悪ガキにか﹂ 例の悪ガキというのは、前に雑談で話したドッラのことだろう。 ﹁いや、殿下に下ネタを言ったら滅茶苦茶怒りだしてな﹂ ﹁殿下って、キャロル殿下のことか﹂ カフは驚いた顔をしている。 やつも平民にとっては天上人に近いからな。 ﹁そうだな。今夜は寮にいないほうがいいと思ってこっちに来た﹂ キャロルがトイレ行って席を外した隙に逃げてきた格好だし。 ﹁キャロル殿下か。一度拝見してみたいものだ﹂ いや、お前会ったことあるじゃん。 と口にしかけて、危うくやめた。 あの時は身分を隠してカツラを被って、偽名も使ったんだった。 ﹁そうか、あの金色の髪は見ものなんだがな﹂ あの金髪を見られないのは可哀想だ。 1002 ﹁金色の髪は見たことがあるぞ﹂ なぬ? ﹁祭祀場のほうにでも行ったのか?﹂ 金色の髪というのは、この国には祭祀場と王城以外では、ツチノ コなみのレアだ。 ﹁いや、キャロル殿下の妹君だ。王城通りの商店に売り込みにいっ たとき、遠目から拝見した﹂ 王城通りの商店というのは、王城島に続く二つの橋の直近にある 商店群のことだ。 付近の高級住宅街の人々御用達の商店が並んでおり、服屋などは 王室御用達の看板を掲げていたりする。 だが、野菜屋などでは、大市場で買うのと同じものが、綺麗に洗 っただけで五倍とか十倍とかの値札がついているので、ぼったくり というイメージがある。 キャロルは、そういうところを買い食い感覚でブラついたりとい うことは、決してしない。 その辺は、キャロルがわきまえているのか、カーリャがだらしな いのか、よくわからなかった。 ﹁あれと似たようなもんだな。姉のほうはしっかり者だから、もう ちょっと締まりのある顔をしているが﹂ ﹁そうなのか﹂ カフは興味津々なようだ。 会ったことあるのに。 ﹁あの姉妹の話をすると頬が痛む。俺は、メシを誘いにきたんだ﹂ 1003 ﹁ああ、そうだったのか。いいぞ﹂ ﹁ビュレはいるのか﹂ ﹁別の部屋にな﹂ ﹁じゃあ、連れて行こう﹂ ﹁そうか。それなら少しいい店に行こう。彼女は良くやっているし な。たまにはいいだろう﹂ カフにしては珍しい褒め方だった。 そうか、良くやってくれているのか。 ﹁そうしてやってくれ。店は任せるよ﹂ ﹁よし、じゃあ予約をいれておこう﹂ 予約が必要な店なのか。 社長室から出たカフは、いつもコキ使っているらしい丁稚格の若 者を呼びつけ、使いにやった。 *** 飯屋の椅子に座ると、 ﹁いい店だな﹂ と、俺は素直に言った。 ﹁はい! こんないいお店にきたのは初めてです。ありがとうござ います、ユーリ様﹂ 1004 ビュレはわざわざ席を立ってから、俺に頭を下げる。 ﹁そうかしこまるな。ここの用意をしたのはカフだ﹂ ﹁じゃあ、カフさんもありがとうございます!﹂ カフは返事もせず、手をひらひらと振って返事をした。 店は、小料理屋のような風体で、高級居酒屋店と料亭を足して二 で割ったような雰囲気だった。 貴族の作法が必要なほど堅苦しくはない、富裕層が利用する店と いった趣だ。 ﹁ビュレは会計を頑張ってるんだってな﹂ ﹁はい!﹂ ﹁カフ、どうなんだ?﹂ ﹁才能がある﹂ カフは真面目な顔で言った。 会計の才能ってあんまり分かんないけど。 ビュレの性格から考えて、脱税について誰も思いもつかなかった エグいやり方を何通りも思いつく。というような方向の才能ではな いだろう。 ﹁会計は性格だ。つまらんソロバン仕事をひたすら根気よく続けて、 苦にならないという人間にしか務まらん﹂ 俺は会計というのは、信頼できる人間という条件が第一だと思っ ていたが、カフによると違うらしい。 考えてみれば、知的労働かつ単純作業という仕事なのだから、そ 1005 れが苦になる人間は途中で疲れてしまうのかもしれない。 ﹁その点、ビュレは向いてる。一時間でも二時間でも数字と睨めっ こしてるからな﹂ それは褒めてるのか。 いや、褒めてるんだろうな。 ﹁なるほど⋮⋮﹂ ﹁あっ、ありがとうございます!﹂ ビュレはまた立ち上がって、今度はカフにお辞儀をした。 ﹁じゃあ、ビュレにはこれをやろう﹂ 俺は持ってきた包みを机の上に置いた。 ﹁えっ、そんな⋮⋮私、受け取れません﹂ きんす 中身も見ずに受け取れないとは。 金子かなにかかと思ったんだろうか。 もしくはブランド品とか。 ﹁中身は別に高いものじゃないぞ。とにかく開けてみろ﹂ ﹁は、はい⋮⋮﹂ ビュレは丁寧に包装を解くと、中を開けた。 ﹁こ、これは⋮⋮﹂ 中からでてきたのは、ソロバンだった。 綺麗にニスが塗られ、珠はキッチリとした菱型をしている。 一列には5つの珠があって、1つと4つで分断されている。 日本式のソロバンだった。 1006 ﹁試してみて、具合がいいようだったら使ってくれ﹂ ﹁いいんですか?﹂ ﹁いいに決まっている﹂ 現在のソロバンは、上下が分かれていない十珠のもので、珠もま んじゅうみたいな潰れた球形をしている。 四ツ珠と五つ珠の違いみたいなもので、亜種に九珠というものも あるのだが、やっぱり使いにくいことに代わりはない。 どうせ本格的に覚えさせるなら、道具も効率的なものを使わせた ほうがいい。 ﹁あ﹂ りがとう。という前に、俺は体を乗り出して、立ち上がろうとす るビュレの肩をガッと抑えた。 ﹁礼はいい。働いて返してくれ﹂ ﹁あ⋮⋮、は、はい! がんばります!﹂ いちいち立ち上がって礼をするんじゃ大変だからな。 ﹁それで、収益のほうはどうなってる﹂ 俺はふたたび椅子に腰掛けた。 ﹁借り入れはないから火の車とはいえんがな、当分は身動きできん ぞ﹂ 身動きできないのはしょうがない。 ハロルに船を買ってやるのが、いわば物凄い大運動だったわけだ から、その後に息切れするのは当然だ。 だが、例えばそのせいで給料も払えなくなったりすると、これは 問題になる。 1007 ﹁大工が使う建材費くらいは出てるのか?﹂ 建材がなければ大工は仕事ができないわけで、そうなると、向こ うの進展はストップすることになる。 ﹁それは船代とは別にとっておいた。全部をあの野郎に預けるわけ にはいかないからな﹂ ﹁さすがだな﹂ ちゃんと考えている。 ﹁ビュレ、数字は覚えてるか﹂ ﹁は、はい。最低限の貯蓄として三万五千ルガほど残しています。 今月の給金の支払いで、約一万ルガほど支払い、建材費や材料費な ど、経費で一月二万五千ルガほど請求されますから、来月末までは 大丈夫です﹂ けっこうギリギリだな。 この金額は、現段階では俺のポケットマネーから出入りしてる金 額ということになるので、深く考えると気が遠くなりそうだ。 といっても、一年で八十万ルガを捻り出せた事業だ。 すでに向こうでは、完全ではないものの生産体制はできているし、 流通にも乗っているのだから、一ヶ月利益がでないということはな い。 そのへんはピニャの新作にもかかっているが、第一作の評判は上 々だったようだし、次が駄作だったとしても、売れることには売れ るだろう。 運転すれば黒字になる事業なのは間違いないのだから、予備資金 が少ないことは、そこまで悲観する要因ではない。 昔と違って、浮いた金が出来ても魔女家に気兼ねして設備投資に 1008 回せない。なんてこともないし。 だが、心配事はある。 ﹁警護のほうは上手く行ったのか?﹂ 上手いこと運搬できなければ、幾ら金になるものを作ったって一 銭にもならない。 ホウ家の領地内は治安が保たれているから、殆ど野盗に襲われる ということはないが、領境から王都までの間には距離があり、ここ では安全は保証さていない。 ラクラマヌスも、攻撃してくるとしたらこの間を狙うだろう。 なので、俺は別邸と屋敷の間の兵交換に馬車を随行させることに した。 そのために、恥を忍んでルークに頼みもした。 ﹁問題ない。カラクモの屋敷のほうは良くしてくれるしな。サツキ 様にもお会いした﹂ サツキか。 そういえば、移転のことを話しに行って以来、会っていない。 それにしても、サツキがカフに会ったとは。 ﹁話をしたのか?﹂ ﹁ああ。少しな。お前のことを聞いてきた﹂ ﹁俺のことを? 何を聞きたがったんだ?﹂ ﹁俺がスカウトされた話とか、どういうふうに経営に関わってるの かとか、そんな話だな﹂ 1009 まあ、共通の知人といったら俺しかいないわけで、普通に雑談し てりゃ、俺がネタになるわな。 ﹁まあ、それで仲良くなったんなら、それに越したことはない。交 代の兵隊が泊まる宿では、せいぜい機嫌をとってやってくれ﹂ ﹁分かってる。ちゃんと一番いい酒を奢ってやってるさ。それで済 むなら安上がりな話だ﹂ 幸い、交換兵たちは、王都での軍団の顔になる関係上、それなり に練度が高い兵だが、社に関してどういう理解でいるかまでは解ら ない。 カフとかは全員、身分は平民なので、平民の護衛なんぞ重要なも のとは考えられないと勝手に解釈し、任務を軽視してしまうかもし れない。 最悪、機嫌を損ねて先に行ってしまう、というのも考えられる。 そうならない保証はどこにもない。 が、こちらが下手に出て、軽くでも接待をしていれば、そういっ たリスクは極限まで抑えられるだろう。 ﹁とりあえず、問題はないようだな﹂ よしよし。 順風満帆、ってやつだ。 ﹁問題はある﹂ えっ。 ﹁なにが問題なんだ??﹂ ﹁陸路じゃあ、費用がかかりすぎるんだよ﹂ ﹁ああ⋮⋮﹂ なるほど。 1010 ﹁紙なんてものは、かさばらない上に安いからいいが、それでも売 値を上げざるをえんほど金がかかってしまっている﹂ 輸送コストというものは陸路より海路のほうが格段に安い。 ましてや、この国ではトラックを整備された道に走らせるのでな く、馬を使うのだから余計だろう。 海賊の危険はあるにしろ、海路を使うに越したことはない。 だが、その場合は問題があった。 王都の港というのは、当然魔女家の管轄であり、今朝ハロルが出 港したような場合は、空荷でなにを儲けるわけでもないから問題は おきなかし ないが、儲けになる積み荷を積んでいると問題が噴出してくる。 紙なんぞを積んでいたら大問題だ。 どっかの大魔女家に上納金を治めなければ、沖仲士が紙束に塩水 をぶっかけたり、泥棒してケツを拭く紙として配って回ったりする だろう。 ﹁そのへんは、ハロルが着いてからだな﹂ 今すぐに解決しなければならない問題ではない。 当分の間は陸路でも大丈夫だろう。 ﹁むしろ、やつが一番の問題だろ﹂ ﹁ああ、信用出来ないのか﹂ ﹁お前は楽観してるのか? やつは、いってみりゃ一国一城の主だ った男だ。おとなしく部下になるとは思えんぞ﹂ そりゃそうだわな。 1011 俺もそう思っていたし。 カフはイーサ先生のことを知らないから、不安なのだろう。 ﹁ハロルは大丈夫だ。ハロルが裏切ったら、やつは心底惚れてる女 と二度と逢えなくなる。そういう仕組みになってんだ﹂ ﹁なんだ、人質でも取ってるのか?﹂ 俺がそういう対策を打っていたとは思わなかったのか、カフは意 外そうだった。 ﹁人質ではないけどな。その女の前で約束させた。あの人はそうい う約束を破った男を絶対に許さない女だ。俺は、ハロルが俺を裏切 るところは想像できても、あの人との約束を破るところは想像でき ない﹂ イーサ先生が死ぬとか言い出したのは誤算だったが、それがなく ても、イーサ先生の前で誓わせれば、ハロルは裏切らないだろうと 踏んでいた。 誓いが破られれば、いってみればワタシ派を破門になり、イーサ 先生はハロルとは二度と口を聞かなくなる。 ハロルとてそのことは解っているから、おいそれと裏切ることは できない。 ﹁惚れた女を使ったか。悪くない手だ﹂ ﹁できるなら、したくなかったがな﹂ 無条件で信頼できるのなら、それが一番良いに決まっている。 だが、それをすると往々にして馬鹿をみるのが世の中というもの だ。 このような大金を扱う商売では、特にその傾向は甚だしい。 1012 ﹁人は、時間で恩を忘れる動物だ。長い付き合いをするつもりなら、 そうしておいたほうがお互い幸せだよ﹂ さすがカフは深いことを言う。 ﹁お待たせしました﹂ おっと、料理が運ばれてきた。 ﹁うわぁ⋮⋮美味しそうです﹂ ビュレは目を輝かせて言った。 確かに、大皿に盛られた料理はホカホカと湯気が立って美味そう だ。 魚介とグラタンを合わせたような料理だが、変に気取った一皿料 理より、よほど食欲をそそる。 ﹁じゃあ、乾杯するか﹂ カフが言った。 といっても、杯に酒が満たされているのは、カフの持っているも のだけだが。 ﹁ハロルの出港祝いに﹂ ﹁ああ、乾杯﹂ 三つの木製のコップがカツンと合わさった。 1013 第061話 揉め事 ﹁見てみろ、こいつをどう思う?﹂ カフが言った。 ﹁すごく⋮⋮長いな﹂ 王都の南。 十七歳になった俺は、街道を見ていた。 街道には、二十台以上もの馬車が長々と帯を作っていた。 むろん、王都に荷物を運んできているのだ。 ついでにいえば、馬車に載っている荷物は、権利上は全て俺の所 有物だった。 ﹁一隻だけでこれだ。二隻あったらどうなる﹂ ﹁うーん⋮⋮﹂ ﹁ホウ家の衛兵隊は、いっぺんに十人かそこらしか交代しないんだ ぞ﹂ ハロルの交易が成功した結果、出現したのがこの有り様であった。 ハロルの通商隊が、今交易に使っているのは、ハロルがアルビオ 共和国に着いたあとに、向こうの進んだ技術で造船した船だ。 それは、今はなきハロル商会が乗り回していた船より、よほど大 きい。 というか、この国にあるどの船舶より大きい。 1014 おきなかし それでも、王都の港は使えない。 使うとしたら、一回ごとに沖仲仕を束ねる大魔女家に頭を下げに いき、へへーと金の延べ棒の一本でも差し出す必要があるだろう。 荷の積み下ろしをする港湾というところは、ギャングやヤクザが 成長するのにうってつけの条件というか、雰囲気をもっているらし く、王都の場合も御多分にもれず、えらく面倒なことになっている。 王都の港というのは、北港と南港で、三つの大魔女家がしのぎを 削ってシマ争いをしている、そりゃもうえらく面倒くさい地域なの だ。 少しの荷なら問題はないが、これほどの荷となると、一つの魔女 家に頭を下げれば済むことなのかも怪しい。 そんな有り様なので、しかたなく荷をスオミ海港で下ろし、陸路 で王都まで運搬しているのだ。 だが、大きな船一隻分の荷物は、俺の想像を超えて多かった。 ﹁この陸路の運搬費は、売値のうちどれくらいの割合になるんだ﹂ ﹁ビュレ﹂ カフは、傍らにいたビュレに声をかけた。 ﹁えっと、前回の場合ですが、荷の売値の総額が二五万六千ルガ、 運搬にかかった費用は⋮⋮総額で三万ルガ程度です﹂ もう慣れたものだから驚かないが、ビュレの記憶力は凄い。 やっぱり自分で計算して出した数字だから覚えているのだろうか。 それにしても、三万ルガとは。 売る値の一割を超えている。 1015 三万ルガといえば、俺が社を作ったときに持っていた資金の半分 にもなる。 それが一回の運搬費で消えるとは。 ﹁そんなにするか⋮⋮﹂ ﹁馬は人間より食うんだ。当たり前だろう﹂ うーん。 確かに、カフの言うとおり、ハロルが二番船を就役させようとし ている今、この現状はまずい。 これが二倍になったら、さすがに衛兵隊も警護しきれなくなるだ ろう。 現状でも相当負担を強いているはずだ。 ﹁わかった。それじゃあ、王都の港を使えるようにしよう﹂ ﹁それができないから苦労してるんだろうが﹂ そりゃそうなんだけどな。 ﹁なんにでも抜け道というものはある﹂ ﹁スオミで荷を小さな船に移して運ぶのか? それも重労働だぞ﹂ カフが言っているのは、荷を小さな船に移し、王都ではない近隣 の港で降ろすという策だ。 なにも王都の港を使わずとも、港はどこにでもある。 では、荷を満載した船をスオミで荷降ろしせず、どこかの港で降 ろせばよいのではないか。 そういった案があり、前回実行した。 1016 だが、桟橋が小さすぎ、桟橋に辿り着く前に竜骨が浜にあがって しまうという問題があり、使用できないことがわかったのだ。 結局、ボートで往復させて荷揚げするのでは、何日もかかってし まうということで、スオミまで取って返すことになった。 だが、それは船が大きすぎるための問題であり、荷を小さな船に 移せば問題なく使える。 小さな船を沢山雇い、スオミで分散させればよい。 しかし、船に満載された荷物を一度積み替えるというのは、これ はクレーンなどがあるわけではないから、凄く手間のかかる仕事で あった。 ﹁いや、それはしない﹂ ﹁じゃあ、どうすんだ﹂ ﹁この馬鹿みたいな状況のために、不利益をこうむっている連中が いるだろう﹂ そいつらには心当たりがあった。 ﹁俺たちのことだな﹂ ﹁俺たちの他にも、いるんだ。幸いな事に、そいつらは魔女の連中 と仲がいい﹂ ﹁ああ⋮⋮なるほどな﹂ カフはピンときたようだ。 ﹁お互い同じ不利益をこうむっているんだ。話し合いができないわ けがない﹂ ﹁そりゃあそうだな﹂ 1017 カフも納得したらしい。 ﹁じゃあ、集めてくれ﹂ *** その日、俺は壇上にあった。 シビャク商工会議所の一室には、ホウ社と取引のある小売業者や、 仲買業者が集まっていた。 カフの営業の成果なのか、その数は五十人にものぼる。 ﹁我々の商品を購入いただいている皆様方。まずは日頃のご愛顧を 感謝したいと思います﹂ 壇上の俺が大きな声で喋ると、パチパチとまばらに拍手があった。 ﹁今日、皆様方に集まっていただいたのは、当社から皆様に通達し ておきたい事項ができたからであります。その事項というのは、た った一つのことです﹂ 俺は落ち着いて、ここにいる連中の顔を見回した。 何を言われるのかと、戦々恐々としている。 ﹁我々は、王都において、ホー紙を含む全ての商品の販売を停止す ることにしました﹂ ざわ、とにわかに騒がしくなった。 それはそうだろう。 1018 こいつらは、異国からもたらされる珍品を販売することで、巨利 を得ているのだ。 ﹁静粛に! 王都において販売を停止するといっても、皆様が購入 できないというわけではありません!﹂ 俺が大声でそう言うと、会議室は再び静かになる。 ﹁今後は、我が社が根拠地としている、南部スオミの街で商品を販 売させて頂きます。もちろん、シビャク営業所においても、商品の 注文は今までどおりお引き受けします。ですが、販売地はあくまで スオミ。支払いは王都でも、所有権の移転は当地で行われることと なります。つまり、皆様方には、スオミにおいて買い付けた商品を、 なんらかの方法でシビャクに運ぶ必要が生じることになります﹂ 壇上から見ていると、業者どもが一様に渋い顔をするのが見えた。 なんというか、良く判らんが凄く面倒くさいことになったなぁ。 という顔をしている。 そりゃそうだよな。スオミって馬で何日もかかるし。 わかってんだよ、面倒くさがるってことはな。 ﹁同時に、我々は船舶によるスオミ・シビャク間の輸送サービスを 皆様に提供します。これは、非常に良心的な価格で、ご購入いただ いた商品をシビャクまで運ぶサービスです。ただし、輸送中の船舶 の沈没、あるいは港湾においての紛失などで、商品が失われた場合、 我々は責任を負いません。もちろん、これを利用するか否かは、皆 様にお任せします。利用しない場合には、スオミにおいて引き渡し をするか、あるいは当社所有の倉庫に一時的に保管し、引き取りに 現れるまで待つことになります。そして最後に﹂ 1019 俺はゆっくりと顧客を見渡した。 ﹁皆様方に輸送の費用をご負担いただく代わりに、我々はホー紙を 含む当社の取扱全商品について、現在の卸し価格から、一律に一割 の値下げを行います⋮⋮それでは、詳しいサービスの内容や、運送 費用などを、当社社長を務めるカフ・オーネットが説明いたします﹂ *** 俺は一足先に会議室を出た。 背後では、カフが客に細かな価格などを説明をしている声が聞こ える。 輸送サービスといっても、それは商品の値段から考えれば無料の ようなものだから、皆がそれを使うだろう。 要するに、港湾の使用で生じるリスクを、魔女と仲の良い小売の 連中に押し付けたわけだ。 そのかわり、現在価格から一割の値引きはすることになったが、 これは本来の輸送業務でかかっている金額上乗せ分より低いのだか ら、こちらは得をすることになる。 ﹁ふう⋮⋮﹂ 俺は一仕事が終わってため息をついた。 人前に出るとやたら疲れる。 1020 さっさと帰って休もう。 そのまま、商工会議所の廊下を、出口に向かって歩いていると、 前から人が歩いてくるのが見えた。 俺はいっちゃなんだがとっても目がいいので、もう遠くの遠くか ら彼女の顔が見え、誰だか解った。 彼女はジューラ・ラクラマヌスという。 俺に面目を丸つぶれにされた女だ。 去年卒業したと聞いたが、仕事で来たのだろうか。 挨拶をするような間柄ではないが、俺だけ背中を向けて走って逃 げるのもなんなので、そのまま廊下を歩いていった。 というか、この廊下は袋小路になっており、奥まで引き返しても、 出口へ通じるような道はない。 二人の距離が近づくと、ジューラにもさすがに俺が誰かわかった ようだ。 顔がこわばった。 ジューラは廊下の右を歩いていた。 俺は真ん中を歩いていたが、接触したくないので、左に寄った。 だが、ジューラはわざわざ真ん中に移動し、俺を通せんぼする構 えをみせた。 なんでそういう意地悪するの? ﹁なんなの? あなた﹂ 1021 ﹁⋮⋮?﹂ どちらかといえば俺のほうが言いたいセリフなんだが。 どけよ。 ﹁なんでこう私の邪魔をするのかしら。死んだらいいのに﹂ ジューラは顔をヒクつかせて言った。 死ねばいいのにとか。 俺もよく思うけど。素直に口に出しちゃいかんでしょ。 ﹁ハハッ﹂ジューラはなんだか乾いた笑い声を発した。﹁なんであ なた死なないの? 死ぬべきでしょ﹂ いや、ワケがわからん。 元からヒステリーの気がある女がキレると、こういう風になるん だよな。 ストレスが溜まった原因も、元をたどれば俺という理屈になって いるんだろうが。 ﹁ねえ、馬鹿なの?﹂ なんともまあ語彙が貧弱である。 キャロルのほうが、間抜けとか変態とかトンチンカンとか言って くる分、まだ語彙が豊富なように思える。 ﹁えー⋮⋮っと、よく解らないけど通りますよ﹂ こういうのには関わりあいになるのを避けるに限る。 1022 ﹁待ちなさいよ﹂ ﹁え﹂ ﹁一人じゃなにも出来ないお坊ちゃまがいきがるんじゃないわよ﹂ やべえなこいつ。 ﹁はい。すいません﹂ ﹁⋮⋮謝るなら最初からやるなってのよ﹂ ジューラは、腰に下げていた細身の剣を抜いた。 うーわー、抜いちゃったよ、このひと。 どういうつもりだと顔を見ると、表情筋がヒクヒクと震えている。 変な薬でもやってるのか? ジューラの剣は、護身用なのか、それはもう小指の先ほどの太さ の鉄を叩いて伸ばしたような、俺からみれば針金のような剣だった。 長さも短い。 俺の短刀よりは若干長いが、せいぜい二の腕くらいの長さの、中 途半端な剣であった。 両側に刃がついている。 ﹁やめたほうがいいですよ﹂ ﹁ほら、あんたも抜きなさいよ。怖いんでちゅか∼?﹂ あーもうホント性格悪いなこいつ。 つーか馬鹿なのかよ。 剣に自信があるのか知らないが、剣の達者ならそんな剣は使わな 1023 いから。 どこの馬鹿が作ったのかしらないが、綺麗なだけで、持ち手の作 りも刀身の造りも、なにからなにまで機能美からかけ離れている。 ﹁貴方じゃどんなに頑張っても僕に傷ひとつ負わせることはできま せんよ。人が集まってきてオオゴトになる前にやめといたほうがい いです﹂ ﹁⋮⋮ほんっと、人をいらだたせる男ね﹂ ﹁いやいや、やめましょう。お互いなんの得にもなりませんから﹂ いやほんとに。 ぴゅん、と刃が伸びてきた。 俺は反射的にそれをかわす。 ﹁いやいや、なんで切りかかってくるんですか﹂ もう本当どうしよ。 ﹁あんたのっ、せいでっ、私の人生はめちゃくちゃっ、よっ﹂ といいながら、連続的に剣をふるってくる。 そんなこと言われましても。 ﹁いやいや、自業自得でしょうが﹂ 俺は斬りかかられながら返答した。 ﹁死ねっ! 死になさいっ!﹂ 1024 むちゃくちゃな剣さばきでピュンピュン振ってくる。 もーどないやねん。 というか、先入観からなのか、ピュンピュン振り回すだけで一向 に突いてこないのだが⋮⋮。 ああいう剣は、もともとフェンシングのように突いて攻撃する武 器だから、これではほとんど脅威にならない。 食らっても、布の服と体の表面くらいは切れるだろうが、骨まで は達しないだろう。 反りが入っていないので、刃が肉を断ちながら滑っていかないか らだ。 しかも、よりにもよって両刃の剣だ。 片刃と比べれば、自分が傷つく可能性がひどく高い。 とはいえ﹁あの、突いて攻撃したほうがいいですよ﹂と助言する わけにもいかない。 もう大声で人を呼ぶか。 その時だった。 ﹁イタッ﹂ 小さい悲鳴があがった。 ﹁あっ⋮⋮あーあ﹂ ジューラは顔をおさえていた。 ピュンピュン振っていた剣が、勢い余って顔にぶち当たって、頬 1025 のところが切れてしまったのだ。 よりにもよって顔を⋮⋮足とかならまだ良かったのに。 ﹁大丈夫ですか?﹂ ﹁あ、あぁ⋮⋮私の顔が﹂ ジューラは抑えた手が自らの血で染まっているのを見て、呆然と 言った。 なんてこったい⋮⋮。 顔の傷というのは残りやすいから、どうやっても全く傷痕が残ら ないようにはならないだろうな⋮⋮。 ﹁⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮元気だしてください﹂ 元気を出されちゃ困るのだが、俺はあまりにも哀れだったので、 そう言ってしまった。 自業自得とはいえ、女の顔というのは、女が幸せを得るのに重要 な要素の一つだ。 それが傷物になってしまったのだから、なかなかかける言葉がみ つからなかった。 こんなんだったら一か八か真剣白刃取りでもやってみせればよか った。 そうすれば、この女は傷つかずに済んだのに。 可哀想に。 ﹁あなたのせいよ。訴えてやる﹂ 1026 ⋮⋮⋮⋮。 はあ、心配するんじゃなかった。 ﹁え、えーっと、どういうふうに僕に非があるんですかね﹂ 首を傾げるしかない。 どういう理屈なんだ。 ﹁貴方の剣で傷つけられたことにするわ﹂ あー⋮⋮。 うわー。 転んでもただじゃ起きないってやつかこりゃ。 つーても、意外に面倒だなこの流れ。 下手すりゃ法廷に召喚されることになるか。 ﹁裁判にするつもりですか?﹂ ﹁そうよ﹂ やはり、そういうつもりであるらしい。 ﹁といっても、あなたの背中の向こうから、騒ぎをききつけてきた 人々が来て、さっきから何人も見ていきましたよ。あなたが剣を持 って大暴れしていたので、驚いて去って行ったようですけど﹂ ﹁え﹂ ジューラはぽかんとした顔をしていた。 1027 ﹁僕は顔を覚えているから証人にできますけれど、あなたは見てい なかったので無理ですね。確か、十人くらいいたかな⋮⋮。はやい とこ彼らを探しだして、賄賂を渡して口封じをしなきゃいけません ね。さーて、一体幾らかかることになるのかな﹂ 俺は嘘を言った。 本当は一人も来ていなかった。 つまり、証人などいない。 だが、もちろんジューラは乱行の最中に後ろを振り返ったりはし ていないし、目撃者が背中を見ていたかどうかなど、分かるわけも ない。 ﹁⋮⋮くっ﹂ ﹁まあ、お祖母様と相談して決めてください﹂ 無理だろうけどな。 こう言った以上は、証人の存在を無視して裁判に持ち込むことは 出来ないだろう。 顔も知らぬ、居もしない証人を探しまわれば、捜査する過程でた くさんの弱みを見せることになる。 十人を探しだすのに、百人か二百人には聞き込みをする必要があ るだろう。 彼ら全員に弱みを見せ、賄賂を与えるというのは、これはもう現 実的ではない。 ﹁なんでよ⋮⋮なんで私をこんなに苦しめるの?﹂ 1028 ジューラは悲痛に顔を歪ませながら言った。 なんでって。 苦しめられてるのは、主に俺のほうな気がするが。 お前が苦しんでる理由? そりゃ、自分で勝手に苦しんでるんだろう。 もっと言えば⋮⋮、 ﹁それは、あなたが他人を苦しめることで幸せを得ようとする人間 だからですよ﹂ そういうことだろう。 ﹁それが悪いとはいいません。そういう生き方もあるでしょう。で すが、力も才もない人間がそれをやっても、うまくいくわけがない んですよ。不幸を得てまであなたの幸福の糧になりたい、などとい う人はいないのですから﹂ 俺だって、別にジューラを苦しめてやりたかったわけではない。 だが、こいつは俺が屈辱に塗れるとか、大損をするとか、そうい う不幸を得なければ、勝ったとは思えず、勝ったと思えなければ、 幸せを感じられないのだろう。 そうしなければ胸の内のわだかまりが抜けない。そういう人種な のだろう。 そして俺には、そういう形でジューラの幸せの糧になるという選 択肢はない。 それだけの話だ。 1029 ﹁ましてや、家で飼っている貧民出のメイドか何かならともかく、 僕のような人間が、あなたのような人に黙って幸せを奪われると、 なぜ思うのですか?﹂ ジューラは意外にも、喚くこともなく黙って言葉を聞いていた。 ﹁要するに、あなたはラクラマヌスという名前に頼れば、何でも思 い通りになると思っている甘ったれで、喧嘩を売る相手を間違えた。 それだけの話なんですよ。最初から、葛藤するほど難しい話ではな いんです﹂ ﹁⋮⋮殺してやる﹂ 話が通じないようだ。 ま、いいか。 俺は彼女の脇を通って、その場を去った。 1030 第062話 キャロルとミャロ 前編* 騎士院の道場は、今日も騒がしかった。 だが、ひとけは少なく、道場の周りにも人はいない。 外にはこがらしの風が吹いている。 ひとけが少ないのは、今日が休日だからであった。 他の新しい道場であれば、休日でも自主練習の学生が多いが、二 人のいる道場は、どちらかというと古い道場で、使うメリットがな い。 元々、休日にも訓練をするという学生は少ないのもあって、道場 はふたりきりの貸し切りであった。 二人は、道場の真ん中で組手をしていた。 汗みずくになりながら、お互いに激しく組み合い、時には離れ、 いっときも休むことなく動き続けている。 ﹁ハッ!﹂ 鋭く掛け声をあげながら、キャロルは相手を投げた。 投げられた相手は、体を崩されながらも体を持ち上げられたが、 不完全な投げであったために地面にたたきつけれることはなかった。 いっとき両足が浮き、持ち上げられて別の位置に着地する。 ﹁やあっ!﹂ 投げられたミャロのほうは、投げられつつもキャロルの袖を取っ ていた。 1031 バランスをすぐにたて直すと、袖を取って逆にキャロルを引き倒 すように動く。 脇に腕をはさみながら、立ったまま関節を決める。 不覚にも投げで体の軸を崩してしまっていたキャロルは、それを 防げなかった。 ﹁参った﹂ キャロルはすぐに降参した。 ミャロがかけた技は、脇固めといって、立ち関節の一種であった。 立ちながらであればさほど危険性はないが、決めた体勢から体重 をかけて倒れこむ連携が可能であり、そうすると全体重が関節にか かり、簡単に腕が折れる。 キャロルは、技の危険を知っていたので、早めに降参をした。 体重をのせられて、腕を壊されることを恐れていたわけではない。 ミャロは絶対にそれをしないだろうし、この学院で自分にそんな ことをする人間は誰一人としていないことを、キャロルは知ってい た。 だが、それをいいことに、技を立位のまま振り解こうとするのは、 それは戦場を意識しての立会いである以上は、勝ちに拘泥する卑怯 な立ち居振る舞いだと心得ていた。 ﹁はぁ、はぁ⋮⋮ありがとうございました﹂ ミャロはぺこりと頭を下げた。 ミャロにとっては久々の勝ちであった。 ﹁ありがとうございました﹂ 1032 キャロルのほうも礼を返す。 ﹁ふう⋮⋮﹂キャロルは袖で汗をぬぐう。﹁少し休むか﹂ ﹁はぁ、はぁ⋮⋮そうですね﹂ ミャロは肩で息をしながら答える。 キャロルは、てっとりばやくその場で腰を下ろし、あぐらをかい た。 床は板の間になっているので、冬場は足の裏が凍るほど冷える。 だが、今の季節は、まだそれほどでもなかった。 ミャロも腰を下ろした。 こちらは正座であった。 ﹁そんなにかしこまらなくてもいいのに﹂ キャロルは苦笑いしながら言った。 ﹁いえ、なんとなくこれでないと落ち着かなくて⋮⋮﹂ ﹁そうなのか⋮⋮それならいいが﹂ キャロルはどちらかというと正座が苦手なので、正座のほうが落 ち着くという感覚は、ちょっと理解できなかった。 楽にしてもらおうと思ったのだが、こっちのほうが楽らしい。 ﹁それにしても、やっぱりミャロは器用だな。とっさに関節技にい くなんて﹂ ﹁ボクはどうしても肉がつかないので⋮⋮。ああいう技でしかやっ ていけないだけですよ﹂ 確かに、ミャロは小柄だった。 1033 筋肉がつかないというより、骨格が小さすぎるために、肉のつき ようがないという感じだ。 そのため、武技の方面ではあらゆる面で不利になっている。 体格が小さければ、男がやるような、力を競うような戦い方では 必ず敗けてしまう。 だから、良く研いだ短刀で鋭く刺すような戦法しかなく、そのた めの方法として、体重を乗せての関節技を磨いているのだろう。 キャロルも男に比べれば体格は小さく、どうしても力で劣るが、 ミャロよりは大柄だった。 ミャロは、教養院の学生と比較してさえ小さい。 日夜体を鍛えていてこれなのだから、血筋なのだろう。 今までの組み合いでも、ミャロはキャロルに力負けしてしまい、 振り回されっぱなしであった。 ﹁ちょっと休んだら、今度は寝技をやらないか?﹂ ミャロはとても器用なので、寝技のほうは得意だ。 よく勉強させてもらおう。とキャロルは思った。 ﹁そうですね。ボクも少し試したいことがあるので﹂ ﹁そうなのか﹂ ﹁はい。殿方相手だと少し抵抗のある恰好になってしまうので、試 せなくて﹂ なるほど、とキャロルは思った。 練習で同級生の男にやるのは、どうしても抵抗がある。という寝 技はたくさんある。 1034 人気のない時間帯に、こうしてミャロと特訓しているのも、おお もとをたどればそのためだった。 武器を使った訓練ではなく、取っ組み合いの稽古というのは、男 性とやるとどうしても問題がある場合が多い。 なので、キャロルとミャロは、暇を見つけてはこうして特訓をし ているのだった。 *** ﹁ふー⋮⋮そろそろやめにするか﹂ キャロルは汗をぬぐいながら言った。 ﹁はぁはぁ⋮⋮そ、そうしましょう﹂ ミャロは若干顔色が青くなっている。 運動をし過ぎると、ミャロはいつもこうなってしまう。 キャロルのほうは、そういうことはなかった。 風邪を引いて悪寒でもするときに無茶をすれば、こうもなるのだ ろうが、いつもの体調ならば幾ら動いたところで、ふつうに疲れる だけで、青ざめるほど具合が悪くなってしまうということはない。 ユーリに言わせれば、ミャロは体を巡っている血の量が足らない のだ、ということらしいが、キャロルにはよく解らなかった。 ﹁大丈夫か?﹂ ﹁大丈夫です。少ししゃがんでいれば⋮⋮ちょっと失礼しますね﹂ 1035 そう言うと、ミャロは足を揃え、ちょこんとしゃがみこんだ。 ﹁すまないな、付きあわせてしまって⋮⋮﹂ ﹁いえ、そんな。こちらのほうがお礼を言いたいくらいですから⋮ ⋮﹂ ﹁そうか﹂ そうは言っても、青ざめてしゃがみこんでいるミャロを見ると、 どうしても罪悪感が沸いてきた。 ﹁本当に助かっているんです。それに、これはボクのほうの問題で すから﹂ ﹁ミャロは休んでいてくれ。床を拭いておくよ﹂ ﹁えっ、そんな﹂ ミャロは慌てて立ち上がろうとした。 ﹁大丈夫だ、座っていてくれ﹂ キャロルは、ミャロの肩をぐっとおさえて、立たせなかった。 そのまま道場の外へゆくと、キャロルは井戸から水をくみ、バケ ツにどばっと移した。 そのバケツを持って戻ると、雑巾を浸して絞り、汗が落ちた床を 拭いてゆく。 これは、自主訓練で道場を使った者は必ずやることになっている ことだ。 授業での訓練のあとは、雇われた人間が道場を清掃するが、それ 以外の場合は清掃の手は入らない。 そのままにしておけば、もし後に人が来れば、滴り落ちた汗を不 1036 快に思うし、一昼夜も放置してしまうと、床がいたんでしまう。 ﹁よし、こんなものだろう﹂ キャロルはバケツで雑巾をゆすいで絞ると、元の場所へ戻した。 ﹁すいません﹂ ミャロが申し訳なさそうにいった。 ﹁このくらい、どうってことない。それより、早く風呂に行こう。 風邪をひいてしまう﹂ ﹁はい﹂ ミャロはすっくと立った。 もう体調は大丈夫そうだ。 二人は道場を出ると、林の中へ入った。 すぐ近くに、木々が開けた場所がある。 そこには天井以外が全て石で作られた、小さな建物が建っていた。 そこは一般生徒には、林管理の職員の住む小屋だとか、休憩室だ とか思われ、気に留められていないが、実際は違う。 そこは騎士院の女子生徒用の水浴び場であり、小さめの浴場であ った。 騎士院の女子生徒は、男子生徒用の浴場は使えないので、夕に身 を清める時もこちらを使う。 湯沸かしを担当しているいつもの女性はいなかったが、まだ火が くすぶっているのだろう。煙突からうすく煙が出ているのが見えた。 ということは、事前に頼んであったとおり、湯は沸いているはず だ。 鍵を差し入れ、回すと、ガチャリと錠が開いた。 1037 錠を取り外して外に置くと、中に入って内鍵となる棒をかけた。 錠を外に置いたのは、錠は鉄製のため、中に入れると水気で錆び てしまうからだ。 中は一室の構造で、湯けむりが充満していた。 浴槽も、人が三人も入ればいっぱいいっぱいになってしまうだろ う。というサイズで、二人が足を伸ばして入れるような大きさでは ない。 それでも、キャロルとミャロにとっては、今や思い入れのある大 事な憩いの場であった。 ﹁脱ぐか﹂ キャロルはすぱっと服を脱ぐと、汗で濡れたそれを、自分の名前 の書かれたカゴに入れた。 これは洗濯物入れも兼ねていて、ここにいれた服は後に回収され 洗濯に回され、寮に届けられ、寮母の手を渡って部屋に届く。 少人数しかいない騎士院の女性だからこそ成り立つ贅沢な仕組み であった。 ミャロも服を脱ぎ、裸身を晒した。 キャロルはまじまじとミャロの体を見る。 ﹁ミャロも成長してきたな﹂ キャロルはうんうんと頷きながら言った。 ﹁もう⋮⋮やめてください﹂ 嫌がる素振りをしながら、ミャロは先に行ってしまった。 キャロルとミャロの付き合いはもう七年にもなるが、ミャロの痩 せぎすの体は長いこと成長しなかった。 食が細いなりに、多少無理をしてでも食べているから、痩せてい 1038 くということはないが、一向に骨が細いままで、華奢な印象は変わ らない。 いつか枯れ木のように折れてしまうのではないか、と心配するこ とさえあった。 だが、ここにきてミャロの体は少しづつ変化してきて、腰つきや 胸のあたりに女性らしいふくよかさを蓄えはじめている。 いつまでも、痩せぎすな少年のような体ではないのだ。 ﹁いい傾向だ﹂ キャロルはひとりごちながら、自分も湯船のほうに向かった。 湯の熱さを確かめてから、オケを使って頭から湯をかぶる。 その後、湯船に入った。 ﹁ふう⋮⋮﹂ ﹁温まりますねぇ﹂ ミャロが肩まで湯につかりながら言った。 ﹁うん﹂ キャロルにとっても至極同意であった。 運動で火照った体が冷めてくると、とたんに汗に熱を奪われて凍 えるのが、この季節だ。 ﹁こうしていると、男子の方々には申し訳なくなりますね﹂ ﹁そうだな﹂ 男子の場合は湯が沸いているのは夜だけで、四六時中望んだ時に 沸かしてもらえるわけではない。 男子の浴場は十人以上が入れるようなものなので、湯沸かしに手 間がかかるのだ。 ひやみず ﹁だが、連中のように頭から冷水をかぶったら、体が凍えてしまう 1039 からな﹂ 男子たちがよくやるように、真夏のころと同じように頭から井戸 水を被り、軽く髪を拭いただけで平気にしているというのは、キャ ロルには真似出来そうになかった。 そうしている連中は、強がっているのか、感覚が麻痺しているの か判らないが、氷が張る寸前のような水を頭からあびても、むしろ 汗が引いて具合がいいといった様子で、平気で道具を担いで帰って いく。 キャロルであったらしばらく歯の根が鳴って動けなくなるだろう。 翌日体調を崩さない自信もない。 それ以前に、野外で堂々と裸になることがありえない。 ﹁ふふ、そうですね。ボクにもちょっと真似できそうもありません﹂ 真似というか、ミャロがそんなことをしたら、その場で心臓まで 凍って、バッタリ逝ってそのまま帰ってこなさそうだ。 ちょっと想像したくなかった。 ﹁でも、最近は冷水をかぶっているわけではないらしいですよ﹂ ﹁? どういうことだ?﹂ ﹁代わりばんこで休憩時間に抜け出して、寮の裏手で湯を作ってい るらしいですよ﹂ キャロルは顔をしかめた。 休憩時間というのは、休むための時間なので、その間に顔を洗っ てきたりする人間は多い。 なので、抜けだそうと思えば、いくらでも抜け出せるわけだが、 寮の裏手まで戻って、終わった時のために湯を沸かすとは。 1040 湯といっても、風呂に入るための湯ではなく、水に足して浴びる ための湯だろう。 ただの井戸水と比べれば、湯を多少なりとも足せば、浴びた時の 冷たさはかなり軽減されるはずだ。 しかし、そんなことがバレれば、教官から大目玉を食らうのは間 違いない。 顔を洗うくらいならまだしも、本来は寮に戻るための時間ではな い。 とはいえ、自分がこうして特別扱いを受けている以上、彼らを悪 く言うことはできなかった。 ﹁だが、全員分の湯を沸かすとなったら、水汲みも大変だろう。一 人では休憩中に帰ってこれないのではないか?﹂ ﹁そこはユーリ君が井戸に機械を設置したおかげで、楽ちんらしい ですよ。井戸桶をたぐらないでも、こう、棒をぐいぐいと上下に動 かすだけでバシャバシャ井戸水が出てくるんです﹂ ミャロはすでにその装置を使ってみたあとらしい。 操作方法まで知っていた。 ﹁なんだ、またやつの発明か⋮⋮﹂ キャロルは、関心するような呆れるような、複雑な思いを抱いた。 ﹁今は試用らしいですけど、壊れた様子はないですから、そのうち 販売するでしょうね。そうしたら、また大きくなりますねえ﹂ 1041 ミャロが嬉しそうに言った。 また大きくなるというのは、言うまでもなくユーリのやっている 副業のことであろう。 ﹁まあよいのではないか。あそこまでやれば実益を兼ねた趣味とい うか⋮⋮﹂ ﹁おや、殿下はユーリくんの副業には反対だったのでは﹂ ミャロが人の悪そうな笑みを浮かべた。 ﹁私もいつまでも子どもじゃない。やつの仕事が民草の雇用の受け 皿になっているなら、よろこばしいことだ﹂ ﹁うふふ﹂ ミャロは密やかに笑った。 ﹁低賃金でこきつかっているわけでもないらしいしな﹂ ﹁どちらかというと、やや高給といってもいいくらいですね。酷い ところは本当に酷いですから﹂ キルヒナ難民が大量に流入してきているせいで、一時期と比べれ ば落ち着いてきたものの、やはり労働者の賃金は混乱し、平均とし て下がってしまっている。 ところによっては超低賃金で、半奴隷労働とも言える扱いを受け ていることを、キャロルは知っていた。 ﹁あっ⋮⋮青あざができてしまいましたね﹂ ふいにミャロが言った。 ﹁えっ、どこだ?﹂ ﹁ふとももの外側です﹂ キャロルは身をよじって自分の腿を見た。 1042 確かに、大きめの青あざができていた。 といっても、心当たりが多すぎるので、なにが原因なのか思い出 せそうにない。 ﹁ここならいい﹂ 慣れたものなので、気にすることもなかった。 青あざなどは放っておけば跡形もなく消えるものだ。 ただ、額などに大きな青あざをつくると、当分社交の場に出られ なくなるので、それが心配だった。 ﹁うふふ、とても色っぽい仕草でしたよ﹂ ﹁な、なにを言ってる﹂ キャロルは片膝を立ててお尻を上げた恰好になっていたので、み ようによっては色っぽいポーズではあった。 ﹁これはそのうちには殿方が放っておかなくなりますねえ﹂ ミャロはじろじろと胸のあたりを見ながら、他人事のように言っ た。 ﹁そ、そんなことは⋮⋮﹂ とっさに胸を隠す。 ﹁ちょっと触ってもいいですか?﹂ と、胸に手を伸ばす。 ﹁だ、だめだ!﹂ ﹁ふふ、冗談ですよ﹂ ﹁も、もう出るぞ﹂ キャロルは立ち上がり、湯船から出た。 温まって紅潮した肌に、ざばりと湯がすべりおちた。 ﹁それじゃあボクも﹂ 1043 ミャロも追って湯から出たようだ。 キャロルは備え付けの布でゴシゴシと体を拭いてゆく。 今はもう手慣れたものだが、この学院に入るまで、キャロルは自 分で体を拭いたことがなかった。 全て召使いがやってくれていたのだ。 ﹁ミャロ、今日はこれから予定とか入っているか?﹂ ﹁これからですか? 夕方まで勉強をするつもりでしたが⋮⋮﹂ ﹁今日は外に出かけようと思うのだ。よかったら付き合わないか﹂ ﹁外へ?﹂ 持ってきた服を着ようとしていたミャロは、訝しげに言った。 ﹁もちろん、私は変装をしていく﹂ ﹁変装? お忍びで外を歩くということですか?﹂ ﹁初めてではないぞ。ユーリと一度歩いた﹂ ﹁ああ、なるほど﹂ミャロは合点がいったように頷いた。﹁ユーリ くんの見立てであれば問題はないでしょうね﹂ ﹁あいつの見立てではないけど﹂ 洋服についてはユーリの見立てであったが、今日はあの服を着る 予定はなかった。 ﹁そうなんですか。ボクでよろしければ喜んでお付き合いさせてい ただきます﹂ ﹁よかった。一人では心細いところだった﹂ 1044 第063話 キャロルとミャロ 中編* 身支度から帰ってきたキャロルは、 ﹁どうだ?﹂ と、かるく頭を振り、さらりとカツラの茶髪を風になびかせた。 ﹁凄いですね。思った以上の変装ぶりです﹂ ミャロはパチパチと手を叩いた。 ﹁それじゃあ、さっそく行こう﹂ キャロルは教養院の制服を着ていた。 ミャロのほうは騎士院の制服を着ている。 ミャロの制服は男装で、キャロルのほうが背が高い。 なので、遠目から見れば、歳の差のちぐはぐカップルに見えるだ ろう。 ﹁今日はどちらへ向かうおつもりなんですか?﹂ ﹁教養院で流行りの喫茶店に行ってみたいのだ。ヴォーグとかいう﹂ ﹁ああ﹂ミャロは頷いた。﹁なるほど。ボクも小耳に挟んだことが あります﹂ ﹁ふふ、なかなか縁がないものでな﹂ キャロルは、付き合いは幅広いものの、対等の立場の友人と言っ ていいのは、ユーリとミャロくらいしかいない。 なので、世間話を横聞きして興味が湧いても、いっしょに行く相 手がいなかった。 1045 ユーリとは、これもまた休日に一緒にお茶に出かける仲ではない。 ﹁ボクもです。というか、喫茶店というところには入ったことがな いです﹂ ﹁ああ、私もだ﹂ ﹁そうなんですか﹂ ミャロは特に驚いた様子もなく言った。 ﹁なら、初めて同士というわけですね﹂ ﹁そうだな﹂ ﹁ふふ、おかしなものですね、こんな普通のことを、二人ともした ことがないなんて﹂ まったくだ。とキャロルは思った。 だからこそ、なんとなく経験しておきたいのだ。 他の子たちが普通にやっている﹁お遊び﹂を、自分もしてみたい。 ぎんなんよう ﹁ユーリは、喫茶店を頻繁に利用しているらしいが﹂ ﹁そうらしいですね。大図書館前の銀杏葉というお店を主に使って いるようです﹂ ミャロは当たり前の情報のように言った。 毎度のことながら、なんで知っているんだろう。 相変わらずの物知りだ。 ﹁それでは、出かけるとするか﹂ ﹁はい﹂ 二人は正門に向かって歩き出した。 1046 *** かんらく ﹁オリジナルブレンドティーと芹皮茶、揚げ団子と、炙り乾酪です。 おまたせいたしました﹂ 机の上に茶と茶菓子を並べると、給仕の女性はぺこりと頭を下げ た。 ﹁ご注文は以上でよろしかったでしょうか?﹂ 小さなテーブルの上には、二つの空のカップと、たっぷりと茶が 入ったポットが二つ。それに二皿の茶請けが置いてある。 ここのサービスでは、自分で茶をそそぐらしい。 二人以上の人数で、別々の種類の茶をわけあって楽しむための仕 組みなのだろう。 ﹁ああ、どうもありがとう﹂ キャロルがそう言うと、給仕の女性は一瞬きょとんとした顔にな り、そのあとにこりと微笑んだ。 ﹁ごゆっくり﹂ 給仕の女性は去っていった。 ﹁それにしても、あまり人がいないのだな。流行りというくらいだ から、教養院生がたくさんいるのかと思っていた﹂ キャロルは、周囲をきょろきょろと見回しながら言った。 閑散としているわけではないが、中流階級のカップルが何組か、 遠くの席でおしゃべりしているくらいで、もちろん寂れているわけ ではないが、大流行しているようにも見えない。 ﹁まあ、実を言うと、ここは一つ前の流行りですからね。今はファ 1047 ー・イースト・喫茶房というところが流行りなので、皆そこにいっ ているはずです﹂ ﹁えっ、そうなのか?﹂ そんなはずは。と思いながら、キャロルは言う。 ﹁はい。教養院の流行の移り変わりはとても激しいので﹂ この店が流行っているという話は、つい二週間ほど前に聞いたも のだった。 それがもう時代遅れとは。 なんだか呆然とする思いがした。 ﹁知っていたなら、どうして言ってくれなかったんだ﹂ ﹁とくに最新の流行に乗る必要もないかと思いまして﹂ ﹁む⋮⋮﹂ ﹁それに、きっととても騒がしくて、落ちついてお茶を楽しむこと もできませんよ﹂ ﹁⋮⋮うーん、それもそうか﹂ 納得させられてしまった。 ミャロの言うように、くるくると流行りの店が頻繁に変わるので あれば、どこが優れているというわけでもないのだろう。 この﹁ヴォーグ﹂が﹁ファー・イースト・喫茶房﹂に劣るわけで はなく、飽きと流行で移り変わっているだけなのだ。 それなら、初めて喫茶店を利用するのであれば、どちらに来よう が感動に差が生じるわけではない理屈になる。 だが、どうも未練が残るような気もする。 流行に乗って普通の学生のようにはしゃいでみたかったような。 1048 しかし、考えてみれば、そんな学生が密集したところに行けば、 変装がバレてしまうかもしれない。 今は教養院の制服を着ているわけで、 ﹃あら、あなた初めて見る顔ねえ、誰?﹄ などと気さくに話しかけられることもないとはいえず、そうした ら答えようがない。 ﹁では、さっそくいただきましょうか﹂ ミャロが、ぱたんと胸の前で両手を合わせながら言った。 なんとなく、歳相応の少女らしい仕草だった。 ﹁そうだな、いただこう﹂ ﹁はい﹂ ミャロはポットを取って、すっと持ち上げ、無造作にカップに茶 を注ごうとした。 ﹁あっ﹂ キャロルは、思わず小さな声をだしてしまった。 ぴたっとミャロの手が止まる。 ﹁? どうかしましたか?﹂ ﹁いや、なんでもない﹂ ﹁⋮⋮ああ﹂ ミャロは何かに納得したように、一人頷いた。 ﹁そうですね、ボクは茶法には疎いので﹂ ﹁では、今日は私が注ごう。ミャロは客ということで﹂ ﹁恐縮ですが、お願いします﹂ 1049 キャロルは、ミャロが置いたポットと、ミャロのカップをとって、 茶を注ぎはじめた。 カップのふちを滑らせるように、波立たせないように。 芹皮茶は、空気を含ませると味に渋みが出てしまうので、高い位 置から泡立つように湯を注ぐのは厳禁だ。 ミャロは無造作に茶を注ごうとしていたが、実のところ、あまり 良くない注ぎ方だった。 とはいえ、もちろん渋みといっても、僅かなもので、茶を飲めな くなるわけではない。 また、逆に渋みを好みに感じ、わざと渋みを出す人も居ないでは ない。 些細といえば些細な問題だ。 ﹁なるほど、見事なお点前ですね。さすがは王室のお生まれです﹂ やっぱり知っていたのか。とキャロルは少し驚いた。 シヤルタの王室が茶の作法などをやっているなどという話は、有 名でもなんでもない。 誰かを茶に招くということも、今ではほとんどない。 むしろ、どこから聞いたのだと不思議に思えた。 ﹁こんなのは、茶の作法というほどでもない﹂ 芹皮茶が入ったカップを、ミャロのソーサーの上に置いた。 そして、キャロルは自分のカップにブレンドティーを少しいれて、 香りを確かめ、それを口にふくんだ。 芹皮茶というのは単一の味の茶だが、いろいろな味の混ざる混合 1050 茶というのは、香りを聞き、実際に飲んでみるまでは、なにが入っ ているかわからない。 飲んでみると、苦味が少なく、甘みを重視したブレンドだった。 空気を入れてまろやかにしたほうが美味しそうだったので、キャ ロルは今度は空気を入れて泡立つように、少し高いところから茶を 注いだ。 ミャロはカップに口をつけると、 ﹁さすがに美味しいですね﹂ と言った。 キャロルも、内心で期待をしながら、お茶を口に含む。 ﹁そうだな、たしかに美味しい﹂ と言ったが、内心では、それほどでもないな、と思っていた。 そこんたけ お母様が混ぜた茶のほうが断然美味しい。 蘇根茸が香りづけに入っているようだが、それの味が強すぎて、 各種の茶香が混じりあって醸し出すハーモニーを壊してしまってい る。 キャロルは、本格的な茶というのは母親が淹れたものしか飲んだ ことがなかったので、お母様はやっぱり上手なのだな。と改めて思 った。 ﹁そういえば、殿下は教養院の卒業はいつごろになりそうなのです か?﹂ と、ミャロが唐突に雑談を振ってきた。 そうだ。喫茶店では雑談を楽しむものなのだ。 1051 女性同士の益体もない雑談であればなおいい。 ﹁再来年あたりになるかな﹂ ﹁へえ、案外、早く卒業できるものなのですね﹂ 再来年といったら、キャロルは十九才になる。 両院をハシゴしていることを考えれば、十分に早い卒業だ。 ﹁私は入学する前から古代シャン語は半分話せたし、ミャロのよう にクラ語も取ってないからな﹂ 古代シャン語の習得は、七大魔女家筆頭クラスの知識者層と話す ときには必須とされているので、キャロルは幼い頃から基礎教養と して学ばされていた。 十六才とか十七才とかで卒業してしまう優等生は、大抵がそのた ぐいの人間で、他の者と比べれば最初から一歩も十歩も進んでいる。 ﹁でも、古代シャン語よりは簡単といっても、法論などもあるでし ょう﹂ ﹁法論は騎士院の単位にもなるんだ。だから、実際は単純に二倍と いうわけじゃないんだよ。必修のほうも、基礎部分はほとんど両方 の単位になるし﹂ ﹁ははあ、なるほど﹂ ﹁だから、私にとっては、騎士院のほうがよっぽど大変なんだ﹂ ﹁それはそうでしょうねぇ。なにしろ、私たちは体格からしてだい ぶ不利ですし。ドッラくんのように体力に自信があったら逆なんで しょうけれど﹂ ﹁それはそうだろうなぁ﹂ ドッラなどは、むしろ座学を実技で埋め合わせている部分がある。 1052 ドッラの座学は、努力と根性で平均の少し下あたりを推移してい るのだが、連日の涙ぐましい机との死闘を見ていると、誰かどうに かしてやれないものか。と思ってしまう。 たち わかりやすく勉強を教えてあげようにも、キャロルが近づくと極 端に緊張してしまう性質のようで、集中を乱して勉強にならないの で、教えてあげられないのだ。 ﹁ミャロだって、掛け持ちをしようと思えばできると思うぞ。下手 をしたら今からでも﹂ これは真剣に、できないようには思えなかった。 今からでも教養院は入学できなくはないのだし、ミャロであれば 二股をかけてもサクサクと単位を習得して、二十までに卒業できて しまう気がする。 なにしろ、ミャロは騎士院にいながら、キャロルのほうが教えを 乞うほどに古代シャン語が達者という異才なのだ。 ﹁いやいやいや、ボクなどは騎士院だけで精一杯ですから﹂ これは本当に冗談ではないと思っているのか、ミャロは両手を振 って慌てて否定した。 ﹁そうかなぁ。ミャロならさほど苦もなくできると思うがな。座学 は完璧なのだし﹂ 教養院は座学が全てなので、座学ができれば卒業はできたも同然 だ。 一応、実技ともいえるものに、マナーの訓練というものがあるが、 これもミャロは完璧なので、十分であろう。 1053 ﹁そうですかね。座学は確かに自信がありますが、そうすると、ク ラ語の勉強に差し支えがでますから﹂ ﹁あれはそんなに難しいのか?﹂ ミャロはいつもクラ語を勉強している。 暇な時もぶつぶつとクラ語を唱えている。 ミャロほどの才能の持ち主がそこまで努力をして、まだ足りない というのは、古代シャン語より難しい言語なのだろうか、と思って しまう。 だが、古代シャン語より難しいということは、日常に使われる言 語として難易度が高すぎるということも意味する。 現代シャン語は、日常言語としてあまりに煩雑すぎる古代シャン 語が、大混乱の中で廃れ、庶民の話し言葉だった俗シャン語が進化 する形で成立した。 ﹁難しいというより、ボクには向いていないみたいなのです。向い ている人にはどんどん抜かされていっていますよ﹂ ﹁えっ﹂ ということは、その分野ではミャロは劣等生というわけか。 そんなことがありえるのか。 ﹁音楽などと同じで、向き不向きがあるんです。不器用なひとが十 年楽器を練習しても、下手な人は下手なままですし、才能ある人は、 楽器をはじめて一年程度でも上手に演奏できてしまったりしますよ ね﹂ ﹁それはそうだが⋮⋮﹂ ﹁それと同じで⋮⋮そうですねえ、講義に来始めてやっと一年とい 1054 う教養院の子が、ぺらぺらと流暢にクラ語を喋りだしたのを見たと きは、ボクも少し唖然としました。ああ、ボクは才能がないんだな ぁ。と、しみじみと痛感せざるをえない出来事でしたね﹂ 少しどんよりとした雰囲気をまとい始めたので、これは本当のこ とらしかった。 が、どうも得心ができない。 話し言葉として通用する言語であれば、語句を覚える量自体は、 古代シャン語のほうが多いはずだ。 ということは、口にすることでなにか別の障壁が生まれてくるの だろう。 ﹁興味があるな。少し喋ってみてくれないか﹂ 〃∼、∇еゞ。§✂◉ −−−−×﹂ ﹁いいですよ。といっても、ボクのクラ語はあまり上手ではありま ※ せんけど﹂ § ﹁頼む﹂ ﹁∇ その言葉は、キャロルが今まで聞いたことのない響きを伴ってい た。 簡単なようなら一つ勉強してみよう。という気持ちがサラサラと 砂になり、風に吹かれて飛んでゆくような奇妙な感覚を覚える。 ﹁ど、どういう意味の言葉を喋ったんだ?﹂ ﹁妻と喧嘩することがあっても、憤ったまま日が暮れるようであっ てはならない。ですね。向こう側の神さまの教えらしいです﹂ ですね﹂ ﹁最初の⋮⋮なんといったか。それが妻を意味するのか?﹂ ﹁はい。∇ 1055 聞いても、キャロルには上手に口を動かして、同じように喋れる 気がしなかった。 口の動かし方からして全然違う。 ﹁なんとも苦労しそうだな﹂ ﹁そうですね。でも、資質のある方はあっという間に体得しますよ﹂ ﹁でも、ミャロはどうして無理に頑張っているんだ? 面白いから ではないんだろう?﹂ キャロルからしてみれば、そこが不思議だった。 べつに、あれはどうしても取らなければならない講義ではまった くない。 近年では、クラ語を習得しておくと、王城の渉外部に就職の口が できるというので、王城に役目を持ちたい零細魔女家の娘などが勉 強していると聞く。 だが、騎士院に籍を置くミャロには、王城に勤務するという未来 はない。 当人が面白がっているなら別だが、そうでないのなら、無理をし てやる必要があるとは思えない。 ﹁ユーリくんが一番興味を持っていた講義でしたからね。ボクも興 味が沸いたんです﹂ ﹁ははあ、なるほど﹂ キャロルはなにかを察したようにニヤリと笑った。 ﹁なるほど、じゃありません。教養院の本に書いてあるようなこと はありえませんから﹂ 怒ったそぶりをしながらミャロが言った。 1056 前にミャロに話した、ユーリが主人公のいかがわしい本のことを 言っているのだろう。 キャロルは、教養院に籍を起きながら教養本とは縁がない暮らし をしてきたが、ついにさきごろ、妹のしつこいくらい強い勧めで、 一冊読むことになった。 妹の話では、ユーリが主人公の場合は、大抵ミャロも登場するの がお約束らしい。 その役どころというのは、だいたいがユーリの︵主に性的に歪ん だ︶恋路を邪魔したり、横恋慕で茶々を入れたりする、悪女のよう な役回りだという。 教養院の学生からしてみれば、教養院に所属しないがゆえにしき たりに縛られず、思う様ユーリに接近して仲睦まじくしているミャ ロが、なんというか抜け駆けしているように思われてしかたがない らしい。 だが、ミャロのような独特な立場の人間が、主人公格の男と仲が いいという状況は、今までなかったことなので、界隈では新鮮な要 素として受け入れられているという。 ﹁ところでさ⋮⋮﹂ ﹁なんですか?﹂ ミャロは揚げ団子を口にいれながら聞き返した。 ﹁ミャロはどうして騎士院に入ろうと思ったのだ?﹂ ﹁え﹂ ミャロは短い嘆詞で答えた。 ﹁いや、話したくないのなら良いのだが﹂ 1057 キャロルは慌ててそう言った。 ﹁あ、いえ、別にいいですよ。気になるのであれば﹂ ミャロは意外にも、渋ることなく平然としていた。 ﹁正直、気になってしかたがなくてな。どうも、ミャロは体が動か すのが好きというわけでもないようだし⋮⋮﹂ ミャロは今日のように特訓をするほど熱心ではあるが、決して運 動が好きなわけではない。 その頑張りは、義務を果たすための努力という意味での頑張りで あるように、キャロルには思えた。 それに⋮⋮。 ミャロは、入学した時には、まだあいつと面識がなかったはずな のだ。 ﹁あまり親しくない人に話したくない内容であるのは確かですが、 殿下であれば構いませんよ﹂ ﹁もちろん、誰かに話したりはしない﹂ ﹁ですが、条件があります﹂ ﹁条件?﹂ ﹁お話する前に、お茶のおかわりを一杯お願いします。長い話にな りますから﹂ 1058 第064話 キャロルとミャロ 後編* では、お話ししましょうか。 そのまえに、お聞きしますが、殿下はボクの生まれをご存知です か? いえ、そうではなく、ギュダンヴィエルの家庭の事情についての 多少は知っておられるのかな、と。 ああ、祖母の名前を知っているくらいですか。 なるほど。 それなら、最初から説明したほうがよさそうですね。 ボクの母親は、お祖母様が始めに産んだ子ですが、ボクの父親は 騎士の生まれです。 といっても、現実に騎士であったわけではありません。 卒業はしましたから、騎士号は持っていたわけですが、それだけ では騎士とは呼びませんよね。 はい、ご想像通りです。 それどころか、爵位を持っていたわけでもないので、つまりは⋮ ⋮まあ、一般人とほとんど同じ立場ですね。 もう父は亡くなっています。 いいんですよ。殿下も同じ境遇じゃないですか。 そうですね⋮⋮ついでですから、父と母が学院生だった時から話 1059 しはじめましょうか。 父は、母と同世代の騎士院生でした。 言うまでもありませんが、母は教養院生です。 父の実家は、ガイ家といって、ボフ将家に連なり、代々陣爵を賜 っている家系です。 後に縁を切られたので、ガイ家の方々とは、ボクは会ったことも ありません。 いえいえ、いいんですよ。 今となっては、ボクも会わせる顔がありませんから。 父は、学院にいるときに母と交際していました。 元をたどれば、母の一目惚れが原因だったようです。 母は、ギュダンヴィエルのような大きな家の子どもだと、引かれ てしまうと思ったのでしょうね。 交際するときは偽名を使っていたようです。 もちろん、ギュダンヴィエルのご令嬢といえば有名人だったでし ょうから、父のほうも、友人にそれを相談すれば、途中で気づくこ とができたでしょう。 ですが、父は仲間に交際を隠していました。 魔女と交際しているというのは、仲間内には風聞が悪いと思った のでしょうね。 二人の交際は足掛け三年に及びました。 この間には色々な出来事があったわけですが、それは省くとしま しょう。 1060 卒業を間近に控えたある日のことです。 母の妊娠が発覚しました。 父の人生が狂い始めた日といってもいいでしょうね。 父は、そのとき初めて相手が大魔女家のご令嬢だったと知りまし た。 そのときまで、魔爵の零細魔女家の三女などと嘘をつかれていた わけですから、父はたいそう驚いたことでしょう。 そういった、よほど格下の身分のお相手であれば、結婚したとし ても嫁に迎えれば済む話ですから。 でも、相手が仁爵もちの大魔女家の長女とあっては、もちろん話 が全然違ってきます。 孕ませたとあっては、責任をとって婿に行く以外にありません。 このとき、父と母の間でどのような言い争いがあったかは知りま せんが、最終的に父は諦めて婿にいくことを了承しました。 父は、おおよそこれまでの人生をすべて捨てることになりました。 この出来事は、父の実家にとっては、もちろん醜聞でしたが、ギ ュダンヴィエルにとってもそうでした。 母は長女ですから、跡取り娘と目された女性が在学中に妊娠して しまう、などというのは言語道断の話です。 祖母は激怒したらしいですが、母のお腹が大きくなってくると、 隠してもおけないので、二人は婚約ということになりました。 しかし、その子どもは流れてしまいます。 1061 子どもは流れてしまったといっても、婚約を解消するわけにはい きません。 母の妊娠が周知されていなかったら、まだ全てをなかったことに することも可能でしたが、母自身が吹聴して回ってしまいましたか ら、それも不可能でした。 父は、凍てついたような学校生活を過ごし、卒業後に結婚しまし た。 そのころにはもう、実家からは勘当されていたようですね。 父は全ての友人に見放され、実家からも縁を切られ、ギュダンヴ ィエルの屋敷で暮らし始めました。 教養院を出ていないものですから、なんの仕事ができるわけでも なく、ただフラフラしているだけだったようです。 たまに社交界などに顔をだしながら、日々を無為に過ごしていた わけですね。 そして、結婚から十五年たって、ようやくボクが産まれました。 はい、十五年間子どもができなかったんですよ。 父は、初めて産まれた自分の子どもを、たいそう可愛がりました。 家族の方々は、悪影響を恐れてか、みんな父がボクに構うのを嫌 がっていました。 でも、口では苦言を呈しても、実際に止めたりはしなかったので、 ボクはずっと父に構ってもらっていました。 いえ、そんな人間的な優しさで見逃されていたわけではありませ んよ。 単純に、母親の出来が悪かったせいで、ボクはあまり期待されて 1062 いなかったんです。 ふふ、おかしなものでしょう。 ボクは、乳母から乳を貰って、父に育てられました。 父は、ボクに寝物語を聞かせてくれたり、玩具で遊んでくれたり、 騎士院での笑い話を聞かせてくれたりしました。 基礎的な読み書きを教えてくれたのも父です。 ですが、どうやらこの子は優秀だぞ、と解ってくるにつれ、だん だんと父とは引き離されてしまいました。 それでも、父はなにかにつけボクの部屋に会いに来て、構ってく れたんです。 ええ、ボクは父のことがとても好きでした。 父は、十五年たっても、騎士の心を忘れていませんでした。 そうして、幼い頃から、騎士の心構えのようなものをボクに教え てくれました。 え、そのせいで騎士院に入ったって? いえいえ、まさか。 そのころはまだ、ボクは教養院に入るつもりでしたよ。 騎士の方々だって、森のなかで狩りをするのはたまらなく面白い ぞ。と言われても、騎士の道を捨てて狩人になろうとは思わないで しょう。 最終的に、ボクは反対を押し切って騎士院に入ったわけですから、 もちろん影響は受けましたが、幼い頃から騎士院に入ろうと思って 1063 いたわけではありません。 直接的に騎士院に入ろうと決意した原因となる出来事は、ボクが 八歳の時に起きました。 父が母を守って亡くなったんです。 その夜、ボクは家族と一緒に夜会へ行くところでした。 その道中、ギュダンヴィエルに恨みを持つ集団が、馬車を襲いま した。 ええ、実はそういうことは良くあるんですよ。 魔女家同士では、殺し合いはご法度ということになっていますが、 政争や商売争いで何もかもを奪われ、屈辱だけが残ったような人に とっては、ご法度もなにもありません。 言うまでもなく、大魔女家は恨みをたくさん買っています。 このときは、祖母に王城でしてやられた魔女家と、商売で叩き潰 されて無一文になった商人が手を組み、人を雇って、私たちを襲い ました。 そのとき、ボクと祖母が乗った馬車は、両親が乗った馬車のずっ と後ろを走っていました。 ボクたちの家族は、二つの馬車に分乗して、夜会に向かっていた わけです。 襲われたのは、先頭を走っていた、両親の馬車のほうでした。 賊は、まず不意打ちで護衛の二騎を仕留めると、御者を殺し、ワ ゴンを襲いました。 1064 父は剣を持ち、ひとり外にでて、馬車のドアを守り、戦いました。 今思えば、相手もゴロツキだったからでしょうが、父はかなり奮 闘をして、五人ほど賊を斃しました。 しかし、ゴロツキとはいえ相手は十人からいたので、どうしよう もなかったようです。 私の乗った馬車が駆けつけ、騎馬の護衛が加勢して、賊どもを一 掃したときには、もう手遅れでした。 服がずたずたに切り裂かれ、体はなます切りにされていて、もう 立ってもいられない様子でした。 父はすぐに医者のところへ運ばれ、傷を縫われましたが、どうや ら血が流れすぎてしまったようで、顔は血の気を失い、呼吸をする のでやっとの有り様でした。 母は馬車のなかで気を失って屋敷へ運ばれ、祖母は事態を収拾す るのに忙しく、臨終の際にそばにいたのは私だけでした。 父は、死の淵にあって、ボクにこう言いました。 ﹁騎士のように死にたかったなぁ⋮⋮﹂ と。 ボクは、お母さんを守ったじゃない。と言いました。 そうしたら、 ﹁おれはあいつを守ったわけじゃない﹂ って言うんです。 ﹁おれは、どうせ死ぬなら、形だけでも誰かを守って死にたいと思 1065 った。少しでも騎士らしく⋮⋮だけど、あいつを守って死んだとこ ろで、誰が騎士の死に様だと思ってくれるだろう﹂ 今思えば、そのころには、とっくに父は母を愛していなかったの でしょうね。 父は、 ﹁無念だ⋮⋮でも、悪くない﹂ と言って、ボクの頭をなでて、それで亡くなりました。 ⋮⋮そんなに感動しました? え? いやいや、違いますよ。 もちろん、父の言葉はボクの心に残りましたが、それで﹁よし騎 士になろう!﹂と思ったわけではありません。 なりわい そのころは、ボクはまだ魔女になる気まんまんでしたし。 まだまだ、魔女の生業は悪くないと思っていましたから。 父の言葉を聞いても、ああそういう生き方もあるんだな。そうい う生き方も悪くない。と思っただけでした。 父は魔女を否定したわけではありませんでしたから。 ええ、人間は、自分の生業を子どもに悪くは伝えないものです。 ボクは、ごく普通に、魔女というのは人に尊敬される立派な仕事 なのだなぁ。と思っていました。 そう伝えられていたからです。 父も、間接的に自分を生かしている生業なのですから、悪く言っ 1066 たりはしませんでした。 というより、あまり悪く言うと、ボクの魔女としての人生が狂っ てしまうと考えていたのかもしれませんね。 ボクは、魔女家を悪く言う人の存在を、まったく知らずに育った わけです。 当然といえば当然ですが。 どんな悪人でも、自分の子どもに﹁オレはろくでもない事をして 生きてるんだ﹂とは言いませんよね。 なので、ボクはごく純粋に、このままギュダンヴィエルの魔女に なろう、当主になれたらいいな、と思っていたわけです。 まあ、ここまで言えば解るでしょうけれど、そのあとにボクの目 を覚ます出来事があったんですよ。 ボクは、父が死んでしまったことが悲しくてしかたなく、勉強も 手につきませんでした。 死に方が死に方だったものですから、どう受け入れてよいか解ら なかったんですね。 毎日泣きはらして、ついには体調を崩し、なんだかんだで三ヶ月 くらいは床に伏せっていたと思います。 祖母も母も、繰り返しボクの自室へきて、はげましたり、二ヶ月 もするといい加減にしろと言ってきたり、いろいろしました。 ボク以外の家族はといえば、父の死にはかなり冷淡でしたからね。 父の死が切っ掛けで、ボクが使い物にならなくなることを恐れた のでしょう。 1067 その気持ちは解ります。 母は、婚約した当初は熱烈な愛情を持っていたようですが、ボク が産まれたころには夫婦関係は冷えきっていたようですし。 祖母に至っては、最初から邪魔者としか考えていなかったことで しょう。 父は、ボク以外、誰からも必要とされていませんでした。 無駄に悲しんでないでさっさと立ち直れ、と言いたい所だったの でしょう。 それで⋮⋮いや、その前に。 誰も聞き耳は立てていないようですね。 いいえ、ここまでは魔女家界隈の人間なら誰でも知っている話で すから、誰に聞かれても構わないのですよ。 まあ、続きをお話します。 ある日、母がボクの寝室を訪ねてきて、今日も今日とて泣きはら しているボクを見て、言ったんです。 ﹁あんたはあの男の子どもじゃないのよ﹂ って。 ふふっ、驚きましたか? ボクも、それを聞いた時には、とても驚きました。 心臓が十秒くらい止まっていたかもしれません。 え? もちろん、じゃあ私は誰の子どもなの。って聞きましたよ。 1068 混乱していてよく覚えていませんが、つまりは﹁いろいろな男と 寝て、孕んだ﹂という答えを返されました。 まあ、悪びれはなかったですね。 そのあとは、茫然自失で、なにも言い返すこともできませんでし た。 今となっては確かめるすべはありませんが、おそらく父には、女 性を孕ませる機能が欠けていたのでしょう。 ええ、そういう人もいるんですよ。 いえ、急所を打たれて潰れてしまったとかではなく、生まれつき にそうなんです。 さりげなくユーリくんに聞いてみたら、ユーリくんも心当たりが あると言っていました。 そうですそうです。 男性が吐き出す精が女性を妊娠させられない体質、ということが あるんですよ。 そうですね。 ごもっともです。 おそらく、教養院生だったときも、妊娠して父と結婚したくとも、 なかなかできないので、誰か他の男と寝たのでしょう。 または、単純に浮気をして孕んだのかもしれませんね。 あとあと調べてみましたが、父も母が初めての相手というわけで はなく、いろいろな性遍歴があったようです。 1069 十五年の間には、父の浮気が原因で、二人が喧嘩をしたこともあ りました。 でも、屋敷の女中や酒場女と何度も関係をもっても、父には一人 の庶子もできませんでした。 そういった噂すらありませんでした。 不特定多数の女性と十年以上も関係を持っていれば、どなたでも 一人や二人の庶子はできるものです。 ですから、やっぱりそういうことなのでしょう。 母のほうも、十五年も性生活を送っていて、一度も妊娠しなかっ たのですから、焦れていたのでしょうね。 わからなくはありません。 その結果が自分自身だと思うと、さすがに気分は悪いですが。 そうですね。 ボクも、今となっては達観できていますが、もちろん当時は違い ました。 それはもう、気分が悪いなんてものではありませんでしたよ。 ええ、食べたものを全部吐いて、お腹が四六時中気持ち悪くて、 なにも口に入れられなくなったりしました。 それでいて、四六時ちゅう心のなかが荒れ狂っている感じで、感 情のままにお皿を割ったりしました。 ふふ、今思えば面白いですね。 そうなんですよ。お皿を割るくらいだったんです。ボクにできる ことは。 そのころのボクは、スプーンより重いものは持ったことがない。 1070 という、蝶よ花よと育てられた八歳の女児でしたから。 家具なんかは殴っても壊れなかったんです。 四六時中ベッドに寝ていたので、怒りに駆られると、幼いボクは シーツや毛布を破こうと暴れました。 でも、毛布は毛が多少むしれるくらいでしたし、薄手のシーツで さえ、ボクの力では破けませんでした。 家具のほうは、屋敷の家具はどれも高級品で、頑丈な作りだった ものですから。 怒りにまかせて思いきり殴ったら、それはもうとっても痛くて、 床を転げまわるはめになったものです。 ふふっ⋮⋮その時ばかりは怒るどころではありませんでしたね。 そんなわけで、幼いボクにできる破壊は、せいぜいが皿をがむし ゃらに投げて割る程度だったわけです。 あとは、一度、燃えているロウソクが刺さった燭台を、おもむろ に床に投げつけて、ぼや騒ぎになったくらいですね。 それで、いろいろ一人で悩んだり暴れたりした挙句、ボクは祖母 のところへ行ったんですよ。 はい。 祖母は家長で、当主ですから。 そのときまでそれをしなかったのは、ボクは母の悪行を密告する ことで、母が厳しく罰せられたら、どうしようと悩んでいたからで す。 でも、結局言うことにしました。 1071 当時のボクの中では、祖母は公正な支配者でした。 思い悩んだ結果、やはり母を裁いてもらおう。と思ったわけです ね。 はい。 祖母は、ボクの話を真剣に聞いた後、﹁だからどうだっていうん だい?﹂と言いました。 それから、 ﹁あまり気にしないことだね。誰のタネからできたかなんて、小さ いことだ﹂と言ったんです。 いやいや、それは酷いとは思いませんでしたよ。 慰めようとしてくれてる感じはありましたし。 そのときには、ボクも、本当の父が誰だって、そんなのは関係な い。という考えに至っていましたから。 でも、ボクがどうしても納得できなかったのは、父は裏切られて いた。ということだったんです。 そうですね。 父も浮気していたわけですから、お互い様という部分もあるでし ょう。 当時ボクは浮気のことは知らなかったわけですけど。 でも、浮気があったにせよ、他人の子を我が子と偽って育てさせ たことは、これは別の問題です。 父は、ボクに愛情を注いで育ててくれました。 ですが、その愛情はボクを実の子と誤解しながら注がれたものだ ったんです。 1072 母は、一度裏切るだけではなく、嘘をつくことによって、ボクへ の純粋な愛情と献身を穢しました。 そのことが、ボクには吐き気のする卑劣な悪行のように思われた んです。 ボクは祖母に誠心誠意、そのことを伝えました。 でも、祖母はどうしても理解できないようでした。 父はなにも知らずに逝ったのだから、表面的には問題は現れなか ったわけで、なにが問題がある。というような意見でしたね。 それはそれで、その通りではあるのですが、当時の世間ずれもし ていない純粋だったボクからしてみれば、そういう問題ではありま せんでした。 そもそも、祖母を良識人と思っていたわけですから。 そうですね。 ボクは世間知らずでした。 とはいっても、今となって思えば、このとき違和感を覚えさせた のは、父が教えてくれた、騎士由来の考え方があったからこそです。 父がいなかったら、ボクはそのまま祖母の言葉を受け入れていた ことでしょう。 ⋮⋮長くなりましたね。 これで、話しはだいたい終わりです。 その後、ボクは初めて本格的に我が家の家業を見つめなおす機会 を得ました。 いろいろな調べ物をした結果、二年後、十歳になるころには、家 業を継ぐつもりはすっかりなくなっていました。 1073 ええ、どうせなら騎士院のほうに入って、父があれほど望んだ生 きかたを生きてみたいと思ったんです。 そうして、入学の準備の時期になると、ボクは様々な工作をしま した。 祖母や母の書斎に潜り込んで、巧妙に書類を書き換えて⋮⋮。 え? あ、はい。 人聞きの悪い言い方をしますね。 でも、まあ、その通りです。 家族が認めるわけがない、なんてことは、火を見るより明らかな ことですから。 ボクは、家族を騙して入学したんですよ。 実家は、未だに騎士院のことは納得していません。 ボクは、自分で騎士院の書類を取り寄せて、教養院のものと巧妙 にすり替え、屋敷に届く手紙も毎日確認し、本当にこれでいいのか、 教養院でなくていいのか、というような問いただしの手紙は、すべ て暖炉にくべて燃やしました。 教養院の試験のときは学院に来て、一度建物に入ってから隠れ、 終わった時刻に帰りました。 それで、翌日にはこっそりと騎士院の試験に潜り込みました。 祖母は、入学式当日まで気づかなかったようです。 うふふ、殿下はあの日、入学式が終わると、なぜだかユーリくん 1074 に怒っていらして、ボクと話していたユーリくんを連行していきま したよね。 じつは、あの時のボクは、屋敷の者に捕まって、屋敷に軟禁され ることを恐れていたんです。 ええ。 身柄を拘束しておけば、権力を使って急遽教養院に入学させるこ とも、不可能ではありません。 もちろん、学期が始まってしまえば難しいですが、まだ入寮すら 済んでいない状態なら、無理押しをすれば難しくはないことです。 フフフッ⋮⋮なんだか懐かしいですね。 ボクはあの日、今の殿下のように変装をして、歩いて騎士院まで 行ったんです。 道具は、まえに用事で王城に来た時に、予め隠しておきました。 ええ。今でも覚えていますよ。 一階の第五用務室です。 滅多に使わない掃除道具が置いてあるところですね。 ふふふ、子どもながらによく調べたものでしょう。 そこで着替えて、こっそりと王城を出ると、ボクは騎士院に向か いました。 もっとも、あのときユーリくんが昼食の誘いを受けてくれれば、 そのような危険は犯さなくても良かったのですが。 ええ、お誘いしたんです。 でも断られてしまいました。 1075 そうです。 もちろん、昼食となればルーク様とご一緒することになりますよ ね。 さすがに、天爵閣下を相手に、大勢で取り囲んでボクを略取する というのは、これは不可能ですから、ユーリくんと騎士院まで行動 を共にできれば、それが最も安全でした。 でも、まあ、変装も上手くいって、なんとか無事に騎士院まで着 いたわけです。 そうしたら、ユーリくんが、その日のうちにドッラくんを殴り倒 して、大騒ぎになりました。 あはは、思えば、あんなにしょげ返ったユーリくんを見たのは、 あの時だけですね。 え? そうですよ。 ああ、殿下はその日はおられなかったのでしたね。 入寮当日に流血沙汰の事件を起こしてしまったというわけで、ユ ーリくんは、それはもう見る影もなく落ち込んでいました。 ボクが話しかけてみたら、入寮当日に退学だ。もう終わった。み たいなことを言っていました。 もちろん、ホウ家のご子息がそんなつまらないことで未来を絶た れるなんてことは、ありえません。 そう助言してさしあげたら、なんだか気が休まったようでした。 そんな感じで、無事入寮できたボクは、それから半年くらい実家 1076 に帰りませんでした。 うふふ、ボクだって、気が進まないことくらいありますよ。 帰ったらそれはもうネチネチと説教を食らうのはわかっていまし たから。 世の中、ほとぼりが冷めればどうでもよくなる。ということはた くさんありますしね。 でも、まあ⋮⋮ボクの場合はさすがに、ほとぼりが冷めても、家 に帰れば大歓迎というわけにはいきません。 なので、ボクは今でも、なるべく実家には帰らないようにしてい るわけです。 *** ミャロの長い話が終わると、キャロルはなんともいえない表情を していた。 ﹁うん⋮⋮とても良くわかった﹂ ﹁そうですか﹂ ﹁よく話してくれたな﹂ キャロルはミャロの手をとった。 お互い、手のひらは少女の柔肌というには少し硬かった。 ﹁別に構いません。今となっては、過ぎたことです。ボクは今幸せ ですし﹂ ﹁そうだろうな﹂ 1077 ﹁目下、悩み事は就職先のことですね。場合によっては、こちらの ほうが悲劇かもしれませんよ﹂ と、ミャロは軽口をいった。 ﹁ふふっ、困ったら、私でもユーリでも、どちらでもいい。相談し ろ。そうしてくれれば、大概のことはなんとかなるよ﹂ ﹁そうですね⋮⋮ああ、もうお茶も終わりですね。出ましょうか﹂ ﹁そうだな。だいぶ話した﹂ ﹁はい。長居してしまいました﹂ ﹁代金は私がもとう。話を聞かせてくれた礼だ﹂ キャロルが代金を払い、二人は店を出た。 その後、学院に戻り、変装をとくと、二人は日常へと戻った。 1078 第065話 おもてなし 十八歳、春先の、この国ではまだ厳寒というほかない、ある日の ことだった。 その日の俺は、王都の港に停泊している他のどの船よりも大きく 立派な帆船から、木箱が続々と降ろされて行くのを見物していた。 三本マストで、前の一本には横帆が四枚ついており、後ろの二本 には縦帆がついている。 木箱の中身は、綿花だった。 紡いでいない綿は、綿入れ半纏のような衣類や、布団になる。 これは、王都では近年の大ヒット商品らしく、完全な売り手市場 だ。 はっきりいって、まじめに働くのが馬鹿らしくなるような金額が 儲けとして入ってきている。 濡れ手に粟どころの話ではない。 貿易を独占するというのはこういうことなのか。という感じだ。 おそらく、この儲けは綿が供給過多になって値崩れするまで続く のだろう。 これは二隻目で、一隻目は二隻目の後ろにいて、荷降ろしを待っ ている。 随伴艦だ。 三隻目は、アルビオ共和国で建造中である。 ハロルによる交易が開始されて一年と少し。 1079 あっという間にここまで伸びてしまった。 最初はスオミの港を使っていた交易も、希少な輸入品の優先納入 権を武器に交渉をすることで、王都の港も使えるようになった。 波止場に座って、実感のわかぬまま、すべて自分の私有財産とな っている船二隻と、積み下ろされる貨物を見ながら、俺は思いにふ けっていた。 日本にいたころは、持っていたのはあぶく銭だけで、まともな稼 ぎなどしたことのなかった俺が、事業を起こして十年も立たぬうち に、一端の事業者だ。 右から左へ、人生が何回も買えるような金を動かしている。 人生とはなんなのか。と考えたくもなる。 波止場は誰もいない、波の音以外の音はすべて遠くの喧騒でしか ない、静かな場所だった。 普段はそうでもないのかもしれないが、俺の船が入ってきている ため、港湾労働者は荷降ろしに忙しく、遊んでいる暇はないのだろ う。 ﹁ユーリ・ホウだな﹂ と、背中から声がかかった。 俺はとっさに横に転がると、短刀を抜いて構えた。 ススッと素早く周囲を見る。 囲まれていない、相手は一人。 その一人は、長い髪をポニーテールに結んだ、平民然とした女の 子だった。 俺が過剰とも思える反応をしたのは、本能が警鐘を鳴らしていた 1080 からだ。 ﹁誰だ﹂ 鋭い声で詰問する。 全く足音がしなかった。 いくら波の音があるとはいえ、背中に立たれるまで気付かないと は。 暗殺者だとしたら、よほどの手だれだ。 そのくせ、身構えてもいない。 武器を握っているわけでもなく、見た目はまったく普通の庶民と 変わらなかった。 それがいっそ不気味だ。 なりふり構わず川に飛び込んだほうがいいのかもしれない。 いや、俺より泳ぎが達者なら追いつかれるか。 そうしたら本当に詰みになってしまう。 ﹁なぜ警戒する﹂ 女は不思議そうに言った。 ﹁足音がしなかったからだ﹂ ﹁ああ﹂ 何か合点がいったようだ。 ﹁何者だ。俺を殺しに来たのか﹂ ﹁違う﹂ 心外そうな顔をしている。 1081 ﹁貴様を王城に呼びに来た﹂ ⋮⋮? ﹁お前、王家の連絡員か?﹂ ﹁そのようなものだ﹂ ﹁連絡なら、キャロル殿下に頼めばいいだろう。前はそうしていた。 なぜお前をこさせる﹂ ノコノコついていって拉致されたら間抜けだ。 それに、キャロルを使わない理由が解らない。 今までは特許関係の呼び出し一つとってもキャロルをパシらせて いたのに。 なにより、足音が聞こえないのが気に入らない。 ﹁女王陛下直々の用命だ。一緒にこい﹂ ﹁質問に答えろ﹂ ﹁察しが悪いな。私は王の剣だ﹂ 王の剣。 近衛第一軍の中にある、女王が抱えている内調・暗殺集団のこと だ。 やっぱり暗殺者だったか。 ウェッ 主に将家が叛意を抱いた時に暗躍し、その将家の当主を殺しに行 ったりする。 トワーク 言ってみれば武力をもたない王家が内乱に対応するための、濡れ 仕事専門部隊だ。 将家の俺からしてみれば、たいそう気分の悪い相手である。 1082 ﹁王の剣か。なるほどな。キャロルは同席させたくないってことか﹂ ﹁殿下を呼び捨てにするな﹂ 知るかよ。 ﹁王の剣を見せてみろ﹂ 女は懐から黒鞘の短刀を出し、音もなく鞘を半ばまで抜いた。 中の片刃の刃は、研がれた部分だけが怪しく光り、腹の部分は煤 が張り付いたように黒い。 噂に聞く王の剣と特徴が一致している。 ﹁確かに王の剣のようだ。そういうことならば、同行するとしよう﹂ 俺は今まで構えていた短刀を鞘に戻した。 女は無言で背を向けて歩き出す。 俺はそれを追ってゆく。 追いついたところで、俺は後ろから素早く膝裏を蹴った。 格闘術や短刀術の訓練においては、後ろから膝裏を蹴って、襟ま たは鎧を掴んで後ろに引きずり倒し、首を刺したり拳で鉄槌を食ら わしたりするのは、基本的なコンビネーションだ。 何度も練習させられたわけで、そこらの人間には躱されない自信 があった。 だが、女は膝めがけての蹴りをさっと避け、身を翻すことで体を 掴む手を弾き、こちらに向き直った。 ﹁なんのつもりだ﹂ と、厳しい声が、冷たい目と一緒に帰ってきた。 1083 ﹁試した﹂ ﹁王の剣を試すだと。死にたいのか﹂ ﹁ヤクザ者なら今のは避けられない。王剣なら避けるだろう。陛下 は俺を連れてくるように言ったのだから、お前が俺を傷つけるはず はない﹂ 俺は事もなげに言った。 ﹁⋮⋮﹂ 冷たい目は変わらない。 ﹁単なる確認だ。そう怒るな﹂ ﹁五体満足ならば良いと命じられている、とは考えないのか﹂ ﹁友好を考えないなら、寝ている間にでも攫うだろう﹂ 女王がなりふりかまわず俺を拉致しにかかっているのだとしたら、 もっと乱暴な手を使うはずだ。 こいつとて、今のように話を続けてはおらず、説得は無理と断じ、 俺を捕縛すべく激しい戦いをしかけてきているだろう。 女王がなぜ、王の剣なんぞという連中を使いに寄越したのかは謎 だが、この任務はこいつにとってもイレギュラーのはずだ。 ﹁⋮⋮ふん﹂ 女は反論が思いつかなかったのか、考えるのが面倒になったのか、 再び背を向けて歩き出した。 本当のところは、王の刃とやらの実力を見ておきたかったのだ。 さすがはエリート部隊⋮⋮というか暗殺部隊だけあって、実力は 折り紙つきらしい。 1084 年齢は、二十から二十五といったところだろうか。 キャロルあたりでは、どう頑張ったところでコイツには追いつけ ないだろう。 そもそもの才能から違う感じがする。 女でも強いやつっているんだな。 *** 裏口のようなところから王城に入ると、誰もいない廊下を歩き、 女はとある部屋の前で止まり、ドアを開けた。 部屋は、どうも小さな応接間のような風情で、窓には薄いカーテ ンがかかっていた。 立派な内装の部屋だが、中には誰もおらず、がらんとしている。 ﹁かけろ﹂ そう言われたので、俺は指示された椅子に座った。 椅子は一人がけのソファのような趣になっており、とてもやわら かい。 二脚が隣り合った真ん中には、四角い膝丈のテーブルが置いてお り、その上には茶の道具が置いてあった。 そして、俺が座っても、女はドアのそばの壁に背を持たれかけて、 立ったままだ。 座らないようだ。 1085 そのまま、あくびをしながらしばらく座っていると、ドアが開い た。 女王陛下が一人で入ってくる。 手には、なぜか湯気が立ったヤカンみたいのを持っている。 ﹁ご機嫌麗しく、女王陛下﹂ 俺は、立ち上がって頭を下げた。 ﹁わざわざごめんなさいね﹂ ニッコリと微笑みを返してくる。 やはり敵対的な雰囲気ではない。 ﹁いいえ、暇を持て余していたところだったので﹂ ﹁そういってもらえると助かるわ。かけて﹂ 女王陛下は目の前の椅子に座った。 俺も、再び椅子に腰掛けた。 ﹁要件を聞かされていないのですが、今日はお茶のお誘いかなにか なのでしょうか?﹂ 軽く探りを入れておこう。 王の剣を差し向けてきたというのは、どうも穏やかではない。 ﹁いいえ、違うわ﹂ やはり違うようだ。 ﹁では、なんの話でしょう﹂ ﹁その前に、お茶を淹れましょう﹂ お茶か。 1086 だからヤカンを持ってたのか。 *** 女王陛下は、言葉通りお茶を淹れる準備をし始めた。 ﹁ユーリくんは古典には興味はある?﹂ なんの話だ。 ﹁あまり興味はありません。古代シャン語は苦手なもので﹂ 出版が発達していない関係上、古典の翻訳本というのは、超有名 所以外はでていない。 古典を勉強するには、古代シャン語の習得が必須となる。 だから、俺も古典には詳しくはない。 ﹁昔はね、私たち女性の間には、お茶を淹れる作法についての術が あったのよ﹂ ふうん。 ﹁知りませんでした﹂ 茶道みたいなもんか? ﹁もちろん、教養としてね。高貴な女性はみんなやっていたそうよ﹂ ﹁そうなんですか。今ではちょっと考えられませんね﹂ 今では、極普通にメイドとかに淹れさせる。 寮のような、専属の小間使いがいない場所では、自分で湯を沸か して淹れたりもするんだろうが、高貴な女性が自分で茶をいれると いう文化はない。 1087 といっても、俺が知ってる女性というのは、サツキくらいのもの だが。 ﹁誰かをおもてなししたり、騎士の労をねぎらったりするために、 お茶を淹れたの。お茶を淹れるための作法もきちんとしていてね。 でも、そういう文化は、大皇国の終わりと一緒になくなってしまっ たわ。代わりに、真似たのかはわからないけれど、庶民の間で流行 り始めたみたい﹂ 考えてみれば、スズヤなどはルークが仕事から帰ってくると、必 ずお茶を淹れていた。 スズヤの趣味なのかと思っていたが、そういう文化的な背景があ ったのかもな。 ﹁私は、私の母に教わったけれど、これはうちの王家だけの話ね。 よその王家では聞かないわ﹂ なるほど。 昔の話になるが、特許のときにお呼ばれしたときに、キャロルが 茶を淹れたのは、いわば古法に則っていたわけだ。 王族が自らお茶を淹れるというのは、なんだか変だなとは思って いたが。 陛下は、音もなく茶具を操りながら、言葉を続けてゆく。 ﹁大皇国の時代には、男と女、魔女家と騎士家の間には、そういっ た関係があったのね。信頼、みたいなものかしら。私は、だから強 かったのだと思うわ。なぜ今のような状況になってしまったのかし らね?﹂ 1088 歴史の談話をしに呼んだのではあるまいに。 なんでこんな話をするのだろう。 まあ付き合ってやるか。 ﹁負けたからでしょう。カンジャル大汗国に負け、国を滅ぼしたか ら、騎士は面目がなくなって、魔女も王も、騎士を尊敬しなくなっ た﹂ 大皇国軍は、当時の水準では恐ろしく強い軍だった。 当時の世界にはクスルクセス神衛帝国という、イイスス教世界を 統一する大帝国があったが、これの大遠征軍と何度も会戦をして、 難なく退けている。 これは北方の寒冷地域に引き込んでの会戦なので、地の利があっ たことは否めないが、やはり強かったのは確かだろう。 だが、最後の最後に、騎馬民族の英雄が興した大軍にやられた。 戦争の申し子という他ないカンジャルという男が、皇国総軍の五 倍から十倍に及ぶ軍勢を従えてやってきたので、さすがにこれには 抗し切れず、全軍が崩れた。 カンジャルは安心したのかなんなのか、会戦に勝つなりすぐに死 んだので、軍は引いていったが、それと交代するように十字軍が来 て、漁夫の利を掴んでいった。 カンジャルの軍によっぽど手酷くやられたのか、大皇国軍はまと もな抵抗もできず、首都シャンティニオンを含めた南部一帯の豊か な地域を奪われてしまった。 その後の騎士の扱いたるや、散々だったらしい。 王も魔女も、国が滅びたのは騎士のせいだということにした。 1089 つまり、騎士以外の人間にはなんの落ち度もなかったのに、騎士 が軟弱なせいで国が滅びた。ということになった。 実際、今でも教養院の歴史の講義ではそう教えられるらしい。 敗残の騎士は石を投げられ、その誇りは屈折した。 騎士が武に訴え、独自に領を持って将家を名乗り、王と魔女も軍 を持つようになったのは、この時からだ。 ﹁さすがに、よく勉強をしているわね﹂ ﹁ええ、まあ﹂ 騎士院に八年もいてこの程度のことも知らなかったら、よほどの アホだ。 理解の仕方はともかく、知識としては持っているのが普通だろう。 陛下は古い急須に、高いところから湯を落とした。 コポポ⋮⋮と空気が混ざりながら、急須のなかに湯が満ちてゆく 音が聞こえる。 ﹁それで、お話というのは、それに関係した話ですか?﹂ もしかして、キャロルと結婚がどうとかって話か? ﹁せっかちよ。茶が出るのを待つ時間は、雑談を楽しむものなの﹂ 雑談。 ずいぶん意味深げな雑談もあったもんだ。 これも茶の作法の一つなのか。 ﹁すいません。田舎者なもので、作法には疎くて﹂ 1090 ﹁いいのよ。あなたにはこういう歴史のお話のほうが好きかと思っ たのだけど、退屈だったかしら﹂ もてなしの一つだったのか。 全然気づかなかった。 ﹁いいえ、そのようなことは﹂ ﹁そう?﹂ ﹁ただ、これからどのようなお話をされるのかと、恐々としている ので、どうも素直には行かぬようです﹂ 俺がそういうと、陛下はクス、と笑った。 笑う仕草はキャロルそっくりだ。 ﹁自らお茶を淹れるというのは、歓迎のしるしよ。ねぎらい、ある いは頼み事⋮⋮。いずれにしても、叱りつけるために呼んだ時には、 お茶を淹れたりはしないわ﹂ ﹁それを聞いて少し安心しました。僕もお茶を楽しむことにしまし ょう﹂ 歓迎するなら王の剣なぞ寄越すなと言いたいが。 心胆冷えきって怯えているというわけではないが、王の剣は普通 は将家に向けられる。 警戒もしようというものだ。 陛下は急須を操って、取っ手のついた茶碗に茶を注いだ。 ﹁はい、どうぞ﹂ ﹁いただきます﹂ 1091 皿に乗ったティーカップが差し出されてくる。 取っ手をつまんで持ち上げ、口をつける。 軽い苦味と一緒に、複雑で華やかな香りがした。 そして、喉を通ると、舌に仄かにハチミツのような味が残る。 一種のブレンドティーなのだろうか。 今まで味わったことのない味だった。 茶がいいのか、淹れ方がいいのか、なんだか分からないがとても 美味い。 ﹁とても美味しいです。落ち着きますね﹂ ﹁あら、ありがとう。お世辞でも嬉しいわ﹂ ﹁お世辞ではないですよ﹂ これは本当に美味い。 ﹁おかわりをどうぞ﹂ と、陛下は急須に手をやりながら言った。 ﹁あ、ああ⋮⋮どうも﹂ 酌を受ける感覚でティーカップをやると、急須を傾けておかわり を淹れてくれた。 ﹁お茶請けも用意してあるのよ。食べて﹂ 差し出された小皿には、焼き菓子が幾つか乗っていた。 ﹁頂きます﹂ と、俺はその焼き菓子にも手を付ける。 特別腹が減っていたわけでもなかったが、焼き菓子もこれまた美 味しかったので、ぱくぱくと平らげてしまった。 1092 第066話 ティレルメ 焼き菓子を平らげて腹が膨れると、女王陛下は、 ﹁それでは、本題に入りましょうか﹂ とようやく言った。 ﹁はい﹂ さてさて、なんの話なのやら。 と思いつつも、俺は温かいお茶と菓子の効果でだいぶ気持ちが和 らいでいた。 ﹁実はね、隣の国で戦争が始まりそうなのよ﹂ ⋮⋮えっ。 ﹁⋮⋮なるほど﹂ ﹁あら⋮⋮驚かないの?﹂ いや、俺は驚いていた。 ﹁⋮⋮もしかして、最新の情報かなにかなのですか?﹂ ﹁はい。四日前にきた、キルヒナからの急使で伝えられたお話です﹂ などと、女王陛下は畏まって言ってきた。 はぁ、と、呆れのため息を口に出しそうになった。 茶を供されていなかったら、本当にため息をついていたかもしれ 1093 ない。 ﹁僕がそれを知ったのは、去年の七月なのですが﹂ 今は皇暦2318年の五月だ。 俺が報告を受けたのは、2317年の七月だった。確か。 ﹁はい?﹂ ﹁サツキ叔母様には報告しておいたので、一応は報告は上がってい るはずなのですが﹂ 俺が十ヶ月も前に知って、報告したことを、最新の驚きのニュー スとか言われてもな。 ﹁聞いていません。どういうこと?﹂ 陛下は眉をひそめた。 なんも知らないらしい。 どこかで魔女家が入ってきて握りつぶしたか。 魔女家っつーもんは、本当に我が身の保身しか考えてないのは分 かってるが、国の将来に関わることも、ここまで無碍にできるのか。 ﹁ここ十年ほど、彼らの侵攻が沙汰やみだったのは、僕の叔父が前 の戦争で、ティレルメ神帝国の王様を殺したからです。そのために、 ティレルメ神帝国は後継者争いで内乱が起き、連中はキルヒナを攻 めるどころではなかった。それは知っていますよね﹂ ﹁知ってるわ。亡命者から聞きました﹂ これは知ってなかったらおかしい情報である。 陛下の話とも合致するが、俺がこの話を初めて聞いたのは、更に ずっと昔のことだ。 1094 イーサ先生から聞いた。 イーサ先生は、この出来事で混乱している最中のティレルメ神帝 国を通って、亡命してきたのだ。 向こうの世界では誰でも知っている情報なので、亡命の際の事情 聴取に応じて喋っているはずだ。 ティレルメ神帝国の前王は、当時五十歳になったばかりの男で、 部下からの信も篤く、民からも慕われた有能な人物であったらしい。 十字軍というのは、建前は悪魔掃討という立派な看板を掲げてい るが、実際の目的は、略奪と寸土の獲得であり、要するに大掛かり な小遣い稼ぎのようなものである。 元より命がけの荒稼ぎのために参加した兵はともかく、将校にと っては、そんな戦で死ぬのは馬鹿らしい。 この前王も十字軍などで死ぬつもりは毛頭なかったし、老いが見 えてきたとはいえ、心身たくましく病気がちでもなかったので、ま さか自分が死ぬとはまったく思っていなかった。 だが、ゴウクの特攻作戦で、突然の事故のように死んでしまった。 そのため遺書や遺言の類を何一つ残す暇がなく、残った人々が骨 肉の争いを繰り広げることとなった。 ティレルメ神帝国というのは最前線の国なので、ここが内乱をし ていたら、この半島に兵を送り込むことはできない。 結果、十字軍は十年間ストップしてしまった。 ﹁ですが、去年の六月に、後継者争いには一応の決着が見られまし 1095 た。勝ったのは、前王の三男であるアルフレッドという人です。し かも厄介なことに、このアルフレッドは、後継者争いの過程で、後 払いの借金で選帝侯を釣りました﹂ ﹁借金⋮⋮? ちょっとよく解らないのだけど﹂ どうもピンとこないようだ。 わからないか。 ﹁簡単に言えば、日和見の大貴族をですね、出世払いというか、王 になったら払うという借金をして味方に引き入れたわけです﹂ ﹁王家が借金をしたの?﹂ ﹁陛下に当てはめれば、陛下が死んだあと、カーリャ殿下がお金で 魔女家と騎士家を釣って、キャロルを追い落としたような形でしょ うか。カーリャ殿下は王になったら、お金を返す必要があります﹂ ﹁ああ、なるほど﹂ 少し不謹慎な例えだったが、それで合点がいったようだ。 ﹁でも、そんなことをして、大丈夫なの?﹂ 俺も最初はそう思った。 噂では、その金額は途方も無い額であり、抵当は王家の領地だと いう。 ティレルメ神帝国は王家より諸侯のほうが力が強いという、シヤ ルタ王国に似たような国だが、王家は力を伸ばそうとし、諸侯は王 家の力を削ごうとしている。 つまりは、アルフレッドは、王になるために諸侯に大幅に譲歩し、 先祖代々の王が着々と築いてきた基盤を、自ら切り崩して諸侯に渡 したということになる。 1096 がた ﹁大丈夫ではないですが、王になるためには手段を選ばないという ことでしょう。あちら方の権力争いは熾烈ですから、王になれなか ったら殺される運命ということも考えられます。そうしたら、手段 など選んでいられません﹂ 誇りが命より大事なのは物語の中だけで、実際は大抵の場合にお いて、自分の命のほうが大事に扱われる。 自分の命がかかった権力闘争であれば、なりふりかまってはいら れない。 ﹁そう? そういうものかしらねぇ﹂ ﹁まあ、それで、アルフレッドは即位後、すぐにカソリカ教皇領に 十字軍結成の打診をしたわけです。キルヒナ侵略で、上手くすれば 大金が手に入りますから﹂ ﹁それは解るわ。すぐにお金が欲しいものね﹂ ﹁それが去年の七月のこと。通達が済んで、軍の招集は冬を挟んで 今年の六月ごろ。今は五月ですから、キルヒナ王国は早めに来た軍 の動きを察知したのでしょう﹂ ﹁⋮⋮それで、ユーリくんはそれをどこで知ったの?﹂ ﹁僕の社は海の向こうの国と貿易をしています。海をわたって、向 こうの国についたら、船乗りはまず酒場へ行って酒を飲みます。あ るいは、地元の商人と夕食をとります。そしたら、時勢の会話くら いするでしょう。別にお金を使わなくても、この程度の情報は、そ ういう会話で知れるものなんですよ﹂ 諜報活動というと大げさに聞こえるが、実態はその程度のものだ。 専門のスパイなど養成しなくても、おおまかな情勢などは、向こ 1097 うにいれば自然と耳に入ってくる。 隠そうと思っても隠し切れない情報というのはあるわけで、そう いう情報は、一歩あるいて手を伸ばす程度の労で手に入る。 十字軍の出征などというのは、その最たるものだ。 一国だけで戦争を仕掛けるのであれば、多少の秘匿はできるだろ うが、十字軍というのは教皇領をはじめ、たくさんの国に参加受付 の打診をしなければならない。 秘匿などできようもなく、海を駆ける商売をする商人などにとっ ては、知っていてあたりまえの情報である。 ﹁なるほどねえ﹂ ﹁この話も、僕が父上に提出した書類が上がっているはずなんです が﹂ 俺は、ホウ家には義理があるが王家には義理はない。 俺が報告した情報の取り扱いは、ホウ家が決めることなので、ホ ウ家以外には一切伝えていなかった。 ホウ家の中では、もちろん周知の事実だが、混乱を避けるために 公言はされていない。 だが、ルークからはサツキが王家に上げたと聞いていた。 隠す必要のない事柄だし、王家に対して点数にもなるので、これ は間違いなく上げているだろう。 ﹁なにか手違いがあったのでしょう。こちらで調べておきます﹂ ﹁情報の確度が低いと評価されたのかもしれませんね。残念ながら﹂ 実務に関わっているのは、汚職に大忙しの馬鹿ばかりなので、そ うなってもおかしくはない。 1098 キルヒナが実際に敵軍の動きを観察した今となっては、この情報 が正しいことは明らかだが、読んだところで﹁外国の酒場で聞いた 話なのですが、来年攻めてくるらしいですよ﹂というだけなので、 過去の時点では無視されても仕方がないのかもしれない。 いや、仕方がなくはないか。 ﹁お話はわかりました﹂ ﹁はい﹂ ﹁ですが、今日ユーリくんを呼んだのは、別のお話です﹂ まあそうだよな。 さっきのは、突発的に始まった話だし、戦争の開始を俺に伝える ために、わざわざ呼んだわけではあるまい。 そんなのは、あと数週間もすれば自然に伝わるもので、俺だけに 特別早く伝える必要などはまったくない。 ﹁戦争に際して、援軍をだすのですが、これは他の三つの将家から 共同で出させます﹂ 他の三将家というのは、ホウ家とエット家を除いた三家というこ とだろう。 フィフスブレイブス ホウ家が出ないのは約束どおりだが、エット家にもまた事情があ る。 エット家は五大将家の中でも異色の存在であり、アイサ孤島を守 っている。 アイサ孤島から大陸まで往復するのは、天測航法を使わなければ 命がけだし、使ったとしても、兵の輸送費だけでもえらい値段がか かるので、遠征に兵を出せというのは酷な話だ。 1099 ﹁そうですか﹂ まあ納得というところだった。 指揮権が混乱する関係で、ある意味では非常な悪手とも思えるが、 各々にも事情がある。 ここにきて、兵力を突出して損耗したいという将家は少ないだろ うから、共同で出すことになるのは、仕方がない。 だが、援軍云々の話というのは、俺とは関係のない話だ。 俺は卒業していないのだから騎士でもなんでもない。 さらにいえば、俺はホウ家の人間で、援軍とも関係がない。 つまり、まだ無関係でいられる立場なのだ。 もしかして、社の船を補給に使わせてくれとか? ﹁ですが、今回はそれとは別に、あなたたち学院生たちで、遠征団 を作ろうと思っています﹂ へ? 俺は頭のなかが一瞬真っ白になった。 意味わかんないんだけど。 少年兵? ﹁はあ⋮⋮? それはその、なんで⋮⋮?﹂ ﹁娘の提案です﹂ 娘っていうと、キャロルか? あいつ馬鹿なのかよ。 1100 ﹁意味がわからないんですが﹂ と、俺は憤りの篭った声をあげた。 ﹁話は最後まで聞きなさい﹂ 怒られた。 ﹁はい﹂ ⋮⋮まあ、なんか事情があるんだろう。 とりあえずハイハイ言っとくか。 ﹁今、騎士院には、私の娘と、ルベ、ホウの二家の跡取りがいるわ けです﹂ ﹁はあ﹂ 俺は気のない返事をした。 ﹁うち一人は貴方ですよ、もちろん﹂ ﹁わかってますよ﹂ 言われなくても重々承知だっての。 ﹁この三人⋮⋮というか貴方達は、もしキルヒナが敗れた場合は、 この国を守るために戦うことになる三人です﹂ あー。 そういうことね。 そういうふうに考えているわけね。 だいたい察しがついたわ。 1101 ﹁幸いなことに三人とも成績優秀ですし、単位が足りないというこ とはないでしょう。これから戦う相手について見に行くことは、損 ではないはず﹂ ﹁観戦武官の真似事ですか﹂ 俺はとっさにシャン語を組み合わせて造語を作った。 ﹁観戦武官。まさにそうですね﹂ はあ、アホかよ。 めんどくせー。 俺は内心でため息をついていた。 観戦武官といっても、クラ人との間でそういった国際協定がある わけでは、もちろんない。 向こうからしてみりゃ同じシャン人なわけで、捕まっても協定に 基づいて即解放・祖国に送還、みたいなことには、もちろんならな い。 キャロルあたりをみたら、クラ人の世界では金髪のシャン人は超 高値で売買されるらしいから、目の色変えて襲ってくるだろう。 リスク満点だ。 ただ、キャロルも俺も、多分あのルベ家の先輩も王鷲に乗れるか ら、徒歩や騎馬で出征する兵とは、事情がまったく違う。 見て帰るだけなら、確かにリスクは殆どない。 だから﹁生きて帰れたら奇跡﹂とまでは言わない。 しかし、十分にリスクが高いし、危ない橋だ。 1102 ﹁騎士院の中で成績優秀なものを選抜して引き連れて行ってもらい ます﹂ ﹁それで?﹂ ﹁それで、とは?﹂ ﹁僕をここに呼んだ理由ですよ。それを伝えるだけなら、陛下直々 に僕に会う必要はないはずです﹂ ﹁参加をお願いしたいのよ﹂ うーわー。 やっぱりー。 勘弁して、いや、マジで。 1103 第067話 厄介な頼まれ事 ﹁そういうのは自由参加でしょう。そもそも、家の都合があります﹂ 貴族の子弟は自分のためだけに生きているわけではない。 生き死にがかかるならば、お家にお伺いを立てる必要があるのだ。 ﹁そんなのは、なんとかなります。なんなら、私からルークさんに お願いしてもいいわ﹂ そらそうだが。 ルークも、俺が行きたいといえば止めはしないだろう。 元より好き勝手してきたのだから、今更だ。 ﹁それで、僕に何をして欲しいんですか?﹂ ただ打診をしたいなら、俺をここに呼ぶ意味がない。 普通に、夏休みの旅行のお誘いのように﹁行く?﹂と一言キャロ ルに聞かせれば良い話だ。 そうしたら、俺も﹁行かない﹂と言って、それで済む。 それが、このような場を設け、わざわざ俺と謁見までして、優先 して俺に伝えたということは、俺に何かしらの役割を演じさせたい のだろう。 ﹁察しは付いているんでしょ?﹂ 1104 ニコニコと微笑みながら言ってくる。 確かに察しはついているが。 も ﹁キャロルのお守りですか﹂ ﹁そうです﹂ やっぱり。 なんだかんだで人の親。娘のことが心配なのか。 キャロルの立場は難しいのは分かる。 身分が高過ぎるため、抑止できる人間がいない。 あのガタイのいいルベ家の嫡男も参加するようだが、彼とてキャ ロルが暴走したときに止められるかといえば、できないだろう。 面識もほとんどないだろうし。 キャロルが死へ向かう誤判断を下したとき、誰が止められるのか。 女王陛下は、俺ならなんとか、と思ったのだろう。 ﹁失礼ながら、陛下は戦場というものを想像できていないのではな いですか?﹂ ﹁あら、あなただって、戦場へいったことはないでしょう﹂ そらそうだが。 ﹁そうですが、僕は想像はできています。その点は大きな違いです﹂ ﹁私にどういう想像が足りていないというの?﹂ ﹁夏の森のなかで絶望的な状況で追われる同胞たち、涙を流しなが ら今まさに拐われてゆく女子供、木に括りつけられて、面白半分に 性器をズタズタに切り刻まれて拷問される男や、強姦される女、そ 1105 ういう光景ですよ﹂ ﹁それが戦争というものでしょう﹂ 平気な顔でいいよる。 まあ、そうだ。 国主であれば、そのくらいのことは、想像できていて然るべきで あろう。 俺も、知ったかぶって、戦争とは酷いものなんですよ。なんてい う説教を、女王陛下にするつもりはない。 ﹁そうです。ですが、キャロルがそれを見た時、なにをするかまで は想像できていない。我が身の生還を第一とする以上、キャロルは 彼らを見捨てなければならない。悲劇を看過しなければならない。 ですが、キャロルはそういった割り切った考え方はできない人間で す。誰が静止したところで、必ず振り切って助けにいく。そして、 手勢を大勢引き連れて死ぬでしょう﹂ ﹁⋮⋮⋮﹂ ﹁そして、僕たちも死ぬ。もしキャロルを見殺しにして生き残った ところで、王女を見捨てて帰ってきた騎士たちに待っているのは、 誹謗と中傷だけだ。それはあまりに残酷だとは思いませんか﹂ 問題なのはそこなのだ。 王鷲を使って空から見物する。 確かに、見て帰るだけならリスクはほとんどない。 だが、キャロルが義憤にかられて自殺行為を働こうとしたら、周 りはどうすりゃいいんだ? 1106 キャロルが死ぬのはいい。良くはないが、いいとしよう。 若い騎士たちも血気盛んだから、同じような自殺行為をして死ぬ 奴も多いだろうしな。 だが、キャロルの場合は、死んだら自業自得では終わらないのだ。 キャロルを見殺しにしたということで、同行した連中は一生誹り を受け続けるだろう。 そうなることを考えれば、この遠征はあまりにも残酷だ。 それに、最悪の場合は、キャロルとルベ家の嫡男と、俺が全員死 ぬことになる。 そうしたらこの国は本当に終わりだろう。 ﹁⋮⋮そうね﹂ アイドル アイ ﹁では、キャロルに諦めさせてください。諦めれば全ては済むこと です﹂ ﹁そういうわけには行きません﹂ うっわー。 なんでー。 ドル ﹁いったい、何が狙いなんですか。キャロルは言わば偶像です。偶 像に無残な戦争経験などいらないし、戦地での冷徹な判断能力もい りません。戦争は騎士がやります。それでいいじゃないですか﹂ この国は、というかシャン人の国家は、二千年も前からそういう 仕組みでやってきたのだ。 キャロルが騎士院を卒業するのは、騎士側と結束を強めるという か、密接な関係を作るためであって、間違っても前線指揮官になる 1107 ためではない。 ﹁今、我々には英雄が必要なのですよ﹂ 英雄? また突飛な話がでてきたな。 ﹁戻ってきた貴方達は、次世代の英雄として祭り上げられます。特 別な勲章も授与しましょう﹂ ﹁はあ⋮⋮?﹂ 俺は呆気にとられて何も言えなかった。 ﹁そういうことです。娘が参加するのとしないのでは、意味合いは まるで違ってきます﹂ ﹁まあ、そうでしょうね﹂ だが、ただ見てくるだけでは、英雄にもなんにもならない。 行ったからには何かしら起こるだろうと見越しているのか。 いや、特別の成果がなにもない視察なら、それはそれでいいはず だ。 なにかトラブルがおきて、それを解決したなら、それを大げさに 仕立て上げればよい。 どっちに転んでもいいわけか。 英雄というのは、正直なところ、ピンとこない。 だが、実際に戦場へいって戦闘を見てきた、場合によっては参加 したという証明の勲章を貰えれば、実際に騎士になったときに部下 からの扱いも変わってくるだろう。 1108 意義はあるようにも感じる。 だが、英雄というのは、誰かが望んで作るようなものではないだ ろう。 人造のものではなく、天然に生まれるものだ。 そこに作為がないからこそ、人々は誰かに英雄を見るのだろうし、 それを考えると、試み自体がピントが外れたものに感じる。 まあ、英雄とかそのへんは言葉のアヤなのかもしれん。 それは置いておくにしても、戦争を単なるマイナスに捉えず、劣 勢であろうとプラスに持って行こうとするのは、それは良い試みで あるようにも思えた。 王家にとっては、この状況では将家と結びつきを強めたいのは当 たり前だし、そのためにキャロルを使いたいのだろう。 性急すぎる気もしないではないが、その効果は理解できる。 そう考えてみれば、この遠征を行うメリットは、王家には無数に あるわけだ。 この女王陛下が、そのメリットの中のどれに重点を置いているの かは不明だが、メリットがないということはない。 だが、それでも、キャロルが死んでしまえばそれまでなのだ。 そのリスクがあることを考えれば、戦場に出すなんてことはせず、 後生大事に守っておくべきだろう。 ﹁僕はこの戦争は非常に悲惨な⋮⋮もちろん、こちら側に悪い結果 になると見ています。キャロルは生きて帰れないかもしれませんし、 生きて帰れても戦場を見て心を病むかもしれませんよ。そこらへん 1109 を勘定に入れた上で言っているのですか﹂ ﹁危険を恐れていては成果は得られません。それは、ユーリくんも よく解っていると思うけれど。私は、危険をまったく冒さないで、 この国がこの先いきながらえて行けるとは思っていないの﹂ まあ解らないでもないが⋮⋮。 ﹁ねえ、心配はわかるけれど、そこまで心配することがあるかしら。 さっきも言ったけれど、鷲を使うのだし、その子も張り付かせる予 定なのよ﹂ と、陛下は俺の背中の向こうを目で見た。 忘れてしまいそうなほど音一つないが、王の剣の女だ。 なるほど、こいつが一緒に行く予定だったわけか。 ああ、そういうわけか。 だからこいつに迎えにやらせた。 顔合わせで。 合点の行く話だ。 ﹁もちろんキャロルを団長にして行くのでしょう﹂ ﹁そうね﹂ 言うまでもないが、王族が誰かの部下になるというのは、君主制 の国家では考えづらい。 王とは頂点だから王なのであって、王族が王族の下につくという ことはあっても、騎士の下につくということはない。 それは王が誰かの命令を聞くことはないからである。 1110 ﹁問題は、キャロルが率いているということなんですよ。例えば、 王の剣が全員ついていったところで、キャロルが敵陣に突撃をかま すといったら、守りきれるものではありません﹂ 戦争においてリーダーが持つ指揮権というのは、そういう性格を 持っている。 市井の仕事であれば、嫌だったら役目を放棄してやめてもいいが、 戦争においてはそういうわけにはいかない。 ﹁その時は、あなたが反対すれば、娘も考えなおすでしょう﹂ ﹁キャロルは僕に心服しているわけではありません。自分だけの正 義感も持っています。僕が戦場で軟弱なことをいえば、軽蔑するだ けです。そして、判断を実行に移す。それが自殺行為だったとして も﹂ ﹁けれど、ユーリくんが言えば、一定の効果はあります﹂ ﹁それは認めますよ。気がしれている分だけ、ルベの若殿様がいう よりは話を聞いてくれるでしょう。ですが、それだけです﹂ ﹁ユーリくんだって、娘ががむしゃらに仲間を殺すような判断をす ると思っているわけではないのでしょう?﹂ それは確かに。 だが、戦場では判断能力が失われるような状況がいくつも現れる ものだ。 たとえば、こちらの十人足らずが犠牲になれば高確率で千人の市 民が助けられる。というような状況になったとき、キャロルは見捨 てるという判断ができるのか。 1111 あいつにそんな器用な真似ができるわけがないし、俺の説得で心 が変わるものでもないだろう。 ﹁それはそうです。ですが、戦場では何があるか解りません﹂ ﹁危険があることは承知しています。もし娘が死んでも、怒るつも りはありませんよ﹂ そういう問題じゃねーんだって。 ﹁キャロルはあれで人望があるから、キャロルが死んだら死ぬのは キャロルだけじゃ済まないって話なんですよ。僕だって、失礼を承 知でいいますが、うまいことあいつを見捨てられるかはわからない。 キャロルほどの貴人ともなれば、子守りだって命がけだ﹂ ﹁そういう貴方だからこそ、こうして直接に面会して頼んでいるの よ。私は、なにがなんでも貴方を同行させたいの﹂ ﹁そんなこと言われましても﹂ いや、ほんとに。 そんなこと言われましても。 なにがなんでもって。 ﹁条件があるなら何か言ってちょうだい﹂ まてや。 俺には他の道はすでにないということか。 条件を出せとか。 この件については一歩も引かないといった強情さが感じられる。 1112 どう足掻いても貴方には行く以外の選択肢はないのよ。みたいな。 とはいえ、絶対に行かない。と強情を張れば、さすがに下がると は思うが。 ﹁じゃあ⋮⋮﹂ ﹁はい﹂ ﹁まず、僕を遠征隊の隊長にしてください。もちろん、キャロルは 部下になりますから、絶対服従です﹂ ﹁それと?﹂ それと、か。 この時点で不可能に近い要求だと思うが⋮⋮。 一応は言ってみろってところか。 ﹁費用は派手に使いますが、全額王室から出してください。隊員が 死んだ時に賠償金などを求められたら、それも払って貰います﹂ ﹁もちろん。お金は当然こちらから払います﹂ まあこれは当然として。 ﹁これが最後ですが、僕個人に対する報酬として、特許監査室の室 長を、フィッチ・エンフィレから、僕の希望する者に変えてもらい ます﹂ ﹁⋮⋮あー、はい、そうきましたか﹂ 女王陛下は頭の痛そうな顔をした。 1113 ﹁これは僕だけの問題ではありませんよ。このままでは特許制度そ のものが滅茶苦茶になります。せっかく活気づいてきたというのに ⋮⋮﹂ 特許監査室というのは、言うなれば特許侵害の申し立てを受け付 ける窓口だ。 この国にできた特許制度というのは、最初から問題だらけだった のだが、特に問題だったのがここだった。 特許侵害の申し立てを、何者かが握りつぶせるというのは、誰が どう考えたってドでかい制度の穴である。 お金でやってあげる。などという者がトップに座れば、途端に滅 茶苦茶になってしまう。 それは解りきっていたのだが、では法廷にやらせれば中立なのか というと、こっちも特許制度以前に基礎的な法体系すらできていな いので、どっちもどっちであった。 だが、制度を作った時点では、俺はひたすらお願いする立場なの で、文句などはつけられなかった。 それでも、制度ができてからこっち、王家が目を光らせてくれて セブンウィッチズ いたおかげで、特許監査室というのはなんとか求められる機能を果 たしてくれていたのだ。 だが、一年前ついに堂々と七大魔女家のエンフィレ家の女が室長 になり、その日々も終わった。 今までは、特許侵害もコソコソとやっている程度だったのが、今 はもう賄賂さえ渡せばなんでもアリの状態になってしまった。 堂々と紙を漉いて市場に流通させようと、賄賂さえ払っていれば、 特許侵害の申し立ては全て握りつぶしてくれるのだから、問題があ 1114 ろうはずがない。 この国は万事がその調子で、せっかく制度を作って清廉に運営し ようとしても、魔女家がこぞってやってきて陵辱してゆく。 ﹁そんなに酷い状況なのですか?﹂ 女王陛下は把握しておられないらしい。 ﹁低所得者向けの店舗では、既にホー紙と銘打って、格段に低品質 で低価格な紙が流通しています。そのせいで、こちらの評判まで悪 くなっているというのに、監査室は見て見ぬふりです。ホー紙だけ ではなく、僕以外の発明家も大迷惑をしています﹂ これでは特許を申請するどころではない。 認められたら公開されるのだから、本来とは逆に、特許出願とい うのは﹁こういう発明をしたのでどうぞ真似してください﹂という 意味になってしまう。 それでは、特許を得るメリットなど一つもない。 特許などという阿呆な制度を使わず、今までどおり秘匿していた ほうが、遥かにマシだ。 ﹁⋮⋮解りました。なんとかしましょう﹂ ﹁なんとかするというのは、全てですか?﹂ ﹁はい﹂ ﹁安請け合いでは困るのですが﹂ 一度手に入れた利権というのは、蜜のように甘いものだ。 それを奪われれば、腕を引きちぎられるように痛む。 それが魔女家という存在なのだと、俺は理解していた。 1115 セブンウィッチズ 俺が言ったのは、つまりは、七大魔女家の一つから、腕をもぎ取 ってくれ。という依頼なのであり、これは容易なことではない。 ﹁必ずやるわ。今はもう彼女たちを宥めている季節ではありません し⋮⋮ただ、キャロルは副隊長にしてもらいますよ﹂ それは当然だろう。 むしろ一兵卒であるほうが扱いづらい。 ﹁それは構いませんが、俺が隊長じゃ誰も納得しないでしょう﹂ 引き受けてくれたのは助かるが、特許云々以前に、俺が隊長とい うのは大分難しい注文である。 それで大丈夫なわけがない。 ルベ家なんかどうすんだ。 立場的には対等、どころか年上なのだから目上なのに、俺は隊長 で、あっちは部下。 それでは、ルベ家はホウ家より格下ということになる。 納得できるわけがない。 いや、それ以前に、キャロルを差し置いて俺が隊長というのは、 根本的におかしな話だ。 キャロルが騎士院生でない、騎士の卵ですらない存在であるのな らまだしも。 ﹁あなたはゴウク殿の甥です。ゴウク殿の息子ではありませんが、 後を継ぐ者であるのは間違いありません。そして、ゴウク殿はキル 1116 ヒナでは英雄です。十分に理由付けはできます﹂ ⋮⋮そうなのか。 そういう通し方は念頭に置いてなかった。 確かに、そういった言い分があるのなら、問題は大部分なくなる のかもしれない。 ﹁解りました。ですが、僕は無理をするつもりはありません。英雄 譚に歌われるような活躍は期待しないでください﹂ ﹁解っています⋮⋮。これは、そうですね。俗な言い方をするとす れば、分の良い賭けなのです。賭け事に期待はしません﹂ 賭け事とは。 のんきなものである。 1117 第068話 白樺寮の窓辺に 考えてみれば、キャロルを一人行かせたところで、なんだかんだ 気が気でなかったかもしれないわけで、有利な条件で出陣できるこ とになったというのは、僥倖かもしれん。 そう考えよう。 ポジティブに考えよう。 とはいえ、急ぎ知らせておかなければならない人に、何人か心当 たりがあった。 俺は王城を出てまっすぐに本社へ向かうと、カフを呼ばせた。 ﹁どうした﹂ 寝不足なのか、だるそうな顔で階段を降りてきた。 ﹁ハロルを呼んでくれ﹂ ﹁やつは荷降ろしで忙しいが、緊急事態なのか﹂ ああ、そうだった。 ハロルは荷の搬入で忙しいのだった。 船の積み荷を全てを把握しているのはハロルだけだから、ハロル がいなくなったら作業が止まってしまう。 考えてみたら、明日明後日に出発というわけではない。 それほど焦る必要はない。 1118 ﹁いや、やっぱりいい。終業時間になったらすぐ呼びつけてくれ﹂ ﹁わかった。ここで待たせておこう﹂ *** というわけで、社のほうはひとまず置いて、学院にやってきた。 ﹁さて、と﹂ 俺は白樺寮の近くまでくると、森のなかに入り、顔に布を巻きつ けた。 森のなかで適当に枯れ枝を拾いながら目的の場所までゆく。 目的の場所とは、シャムとリリー先輩の部屋の下である。 彼女らの部屋は二階なので、一階の窓から悟られないように、森 の中から枯れ枝を投げる。 慣れたもので、パコンパコンと窓にぶち当たった。 百発百中とはいかないものの、建物は石なので、窓を多少それて も、それほど大きな音は出ない。 そのうち、窓が開いて、リリー先輩が顔を出した。 森の際から顔を出している俺を見ると、踵を返して窓辺から消え た。 そのうち、玄関のほうからリリー先輩が走ってきた。 ﹁えっと、急がせてしまったみたいで⋮⋮﹂ なんだか悪いことをした気分になった。 1119 ﹁はぁはぁ⋮⋮いや、なんの用﹂ やべぇすごい息切らしてる。 運動が得意な方ではないしな。 なんで走ってきたんだろう。 ﹁えっと⋮⋮あれ、シャムは?﹂ ﹁はぁはぁ⋮⋮今日は補習や﹂ 補習か。 じゃあ諦めたほうがいいか。 ﹁リリーさん、今お忙しいですか?﹂ ﹁ふぅ⋮⋮﹂ リリーさんはハンカチで汗を拭った。 ﹁大丈夫やよ﹂ ﹁じゃあ⋮⋮ちょっと喫茶店でもいきませんか?﹂ ﹁いいね∼﹂ 部屋に篭っていたせいで外出に飢えていたのか、もしくは単に疲 れを癒やしたかったのか、リリーさんは晴れ晴れとした表情で快諾 した。 ﹁それじゃ、どうします。リリーさんが先に行ってますか?﹂ 最近は本社で会うことが多いが、学院近くの喫茶店などを使う場 合、リリーさんは時間差をつけて待ち合わせするのを好んでいた。 1120 ﹁いや、あれはもうええよ﹂ ﹁えっ﹂ ﹁ええんや、もう﹂ もう卒業も近いから、寮内政治についてはどうでもよくなってき たのかもしれないな。 別に、多少立場が悪くなったところで、卒業できるわけでもなけ れば、殺されるわけでもない。 ﹁じゃあ、いつものところで﹂ ﹁うん﹂ いつもの喫茶店というのは、大図書館近くの個室のある喫茶店の ぎんなんよう ことだ。 銀杏葉という。 店の名前など普段は覚えない俺でも、出版関係でピニャだのコミ ミだのと会うたびに使っているので、店名も覚えてしまった。 それどころか、ツケまで効くようになっている。 二人でトコトコと歩いて、銀杏葉に向かう。 途中ですれちがった教養院の生徒が、こちらをジロジロ見てきた。 俺がリリーさんと歩いているのが、よほど気になるようだ。 騎士院の生徒は、俺の顔見知りとすれ違っても、冷やかしてくる ように笑うだけだが、教養院の連中は好奇心剥き出しといった感じ で見てくる。 1121 なんとなく、リリーさんが噂が立つのを嫌がっていたのが解る気 がした。 上級生である今ならともかく、出会った当時のリリーさんでは、 噂が立てられたら寮内で立場がなくなっていたのかもしれない。 周りをはばかって、俺たちは特に会話をすることもなく、銀杏 葉に入った。 ドアを開けると、ドアについているベルが聞き慣れた音でカラン コロンと鳴った。 ﹁あ、どうも∼。個室ですか? 空いてますよー﹂ もう慣れたもので、最初から個室に案内された。 ﹁よろしく﹂ と、入ってゆく。 席に座ると同時に入ってきた従業員に、注文を出した。 ふたりとも、いつも注文するメニューだった。 ﹁相変わらず酒は飲まんの?﹂ ﹁二十になるまでは酒は毒という説の信奉者なんですよ﹂ さすがに、この年齢にまでなれば、少しくらい飲んでも悪影響な どないような気もするけど。 ﹁お固いなぁ﹂ リリーさんは茶化すように言った。 ﹁そういえば、例の発明品はできましたか﹂ ﹁ついさっきできたんや﹂ と、リリー先輩はポケットから布にくるまれた金属の塊を出した。 1122 ﹁お借りしますね﹂ 断ってから、それに手を伸ばす。 金属の塊のようなものは、持ってみると軽く、中が空洞であるこ とが解る。 上下を分けるスジが入っていて、それを開くとぱっくりと2つに 割れた。 中には器具が備わっていて、細い荒縄のようなものが穴の開いた 薄板でシールドされていて、その横に点火器がついている。 ライターだ。 今までは、こういった着火具を作ることはできなかった。 なぜかというと、揮発性の高い液体燃料が存在しなかったからで ある。 植物や動物の油にいくら火花を散らしたところで、火はつかない。 しかし、石油の分留がまがりなりにもできるようになると、こう いう活用の道ができた。 ただ、これは俺の知っているライターの二倍くらいの大きさがあ る。 手にようやく収まりきるかどうか。という感じだ。 これには火打ち石の性能がからんでいて、このライターはヤスリ 歯車で火打ち石をガリガリ削って火花をだすわけだが、大きくしな いと火花の量が足りないのだ。 そのせいで、着火器が巨大化してしまい、こういうことになった。 つまりは素材的な問題によるもので、現行の技術では解決は難し 1123 い。 その問題は承知済みだったので、大きさについては不満はなかっ た。 力をいれてガリッと火打ち石を削ると、芯が着火して適切な大き さの炎が現れた。 立派なライターであり、火打ち石で火付けをする大変さを知って いる俺からすると、ちょっとした感動すら覚えた。 ﹁さすがやなぁ。鍛えとるだけあるわ。私がやってもなかなか火が つかなかったんに﹂ 力が弱いと着火が悪いのか。 それは問題がある。 ﹁火花の出がいい火打ち石を考えないと、難しいかも知れませんね。 歯車のヤスリ目の入れ方とかに若干の工夫の余地があるかもしれま せんが﹂ ﹁そうやなぁ﹂ ﹁それで、一個いくらくらいになります﹂ ﹁金貨一枚⋮⋮売るとしたら二枚か﹂ 金貨一枚⋮⋮。 なんとも高いな。 ﹁そんなにしますか﹂ ﹁ケースは銀なんや﹂ 1124 銀。 いま見て気づいたが、鉄とは輝きが違う。 ああ、銀なのか。 ﹁鉄じゃどうにも、そういうポケットみたいな加工をすると裂けて もうてな。かといって、銅だの鉛だの使うわけにはいかんやろ﹂ 金属というものは、もちろん柔らかいほど加工がしやすい。 しかしあまりに柔らかい素材を使うと、肩の高さから落としただ けで破断したり、オイルの補充を何回かしているうちに口が広がっ てしまったり、という欠陥が現れてくる。 それどころか、鉛ほどに柔らかいと、ライターの火程度の温度で も溶けてしまう。 プレス加工などができればよいのだろうが、そういう設備もない。 その点で、銀というのは強度的な妥協点なのだろう。 ﹁まあ、金貨一枚なら買う人もいるでしょう。ギリギリ﹂ 富裕層であれば。 タバコはこの国にはないから、持ち歩きはしないだろうが、枕元 のランプに火をつけるなどの用途に便利ではある。 必須のものではなくても、箔をつける意味で欲しがる人々はいそ うだ。 銀製と銘打てば高級感も出るだろうし。 ﹁ま、そうやな﹂ ﹁なんだったら、リリー先輩のご実家で作ってもらってもいいです よ﹂ 1125 ﹁あー、そりゃええかも知れへんなぁ﹂ ﹁銀は銀貨を使ってもいいですし﹂ ﹁実はそれも銀貨を使っとるんや。純銀はやわらかすぎてな﹂ ああ、そうなんだ。 コインを材料に使うことは、別に犯罪ではない。 銀貨は、財布に入れているうちに削れて摩耗してしまうようだと 機能的に問題があるので、ある程度の硬さを持つように合金になっ ている。 その関係もあって、素材として丁度良かったのだろう。 こんこん、とドアがノックされ、店員が入ってきた。 トレーに乗ったティーカップや急須をテーブルの上に置いてゆき、 菓子類も同じように置かれた。 ﹁ご注文は以上でよろしかったでしょうか﹂ ﹁はい。ありがとうございます﹂ と俺がいうと、店員さんは戻っていった。 熱いお茶を口に含んで喉を潤す。 陛下の淹れたお茶を飲んだあとだと、さすがに一段劣るような気 がした。 ﹁これの特許は、リリー先輩にさしあげますよ。申請しておいてく ださい﹂ 陛下はおそらく約束を守るだろうから、特許の価値は復活するだ ろう。 1126 ﹁ん?﹂ ﹁この着火器の特許です﹂ リリー先輩は訝しげな顔をした。 ﹁⋮⋮なんで私が貰うんや? ユーリくんが考えたもんやろ?﹂ ﹁僕は申請する時間がないと思うので﹂ ﹁いらんわ。施しを受けるほど貧乏なわけやない﹂ 施し。 そういうふうに聞こえちゃったか。 なんだか怒らせてしまったようだ。 ﹁実は、どうも近いうちに戦争へ行くことになってしまったので﹂ ﹁へ?﹂ ﹁場合によっては死ぬかもしれないので、リリー先輩にお譲りしま す。死んだら特許はなくなってしまいますから。無駄はないほうが いいでしょう﹂ 現行の法律ともよべない法律においては、一応は特許権は相続さ れることになっているが、出願中に出願者が死ぬと、特許はフリー になってしまう。 死者に特許を与えるわけにはいかず、また、一度出願してしまえ ば、後から別の人物が出願したとしても、それは認められない。 特許とは最初の発明者に与えられる権利なので、二番目に出した 者にはその資格がないからだ。 その技術については、公開され、誰も特許を取ることはできなく なる。 1127 俺が出願中に死んだとすると、リリー先輩が﹁やっぱ私が発明し たんや﹂と出願しても、それは受け入れられないのだ。 特許が一つ無駄になってしまうことになり、それはもったいない。 ﹁せ、せせせ、戦争って。ユーリくんはまだ卒業もしてないやんか﹂ リリー先輩は慌てふためいていた。 ﹁ちょっと次世代の若者ということで、戦場見物に出かけることに なったんです。まあ、上空からちょろっと見てくるだけなんですけ ど﹂ ﹁そうはいうても。行かんほうがええよ﹂ それは俺も思ってるんですよ。 ﹁女王陛下直々のお願いで、どうも行かざるをえない感じになって しまいまして⋮⋮﹂ ﹁でも⋮⋮﹂ リリー先輩は、本気で心配そうな顔をしている。 嬉しいような、申し訳ないような。 ﹁ま、見てくるだけで、戦ってこいというわけではないので、大丈 夫とは思いますが。もし帰らなかったら﹂ ﹁そないな不吉なこと言うたらあかんよ﹂ リリー先輩は顔をしかめた。 ﹁シャムのことを宜しくお願いします。社の連中にはよく言ってお きますから﹂ ﹁⋮⋮家族に言えばええやないの﹂ そらそうだよな。 1128 そんなん押し付けられても困るだろう。 ﹁立場上、ホウ家はおおっぴらに逃げろとは言えません。もしもの ときには、連れだして船に乗せてあげてください﹂ リリー先輩は社の連中とも面識があるし、大丈夫なはずだ。 というか、社の役員だし。 ﹁駄目や。絶対帰ってき﹂ ﹁もしものときの話ですよ﹂ ﹁駄目や。いいよ∼なんて言うたら、安心してもうて、帰ってこな くなるやろ﹂ そんなことはないけど。 ﹁引き受けてくれて良かった﹂ ﹁引き受けてない⋮⋮﹂ リリー先輩は、いつもなんだかんだ言いながらも仕事を受けてく れるんだよな。 口では断っているが、こういっておけば、俺にもし何かあっても、 シャムのことは気にかけてくれるだろう。 いや、なにもなくても気にはかけてくれるか。 ﹁僕も、自分の命は大事なので、ちゃんと帰ってきますよ。その前 に、やっぱり行かなくていいと言われるかもしれませんし﹂ ﹁私は知らんからな﹂ ﹁じゃあ独り合点しておきます﹂ ﹁まったくもう﹂ 1129 ふしょうぶしょう 不承不承に頷いた感じだが、本当はそれほど嫌がっていないのだ。 人付き合いの苦手な俺でも、これほど長い付き合いになれば、そ れくらいは解る。 ﹁それじゃ、このライターは持っていきます。あれば何かと便利で すからね﹂ ﹁いつ出るん?﹂ ﹁一ヶ月後くらいです﹂ ﹁⋮⋮なら、それは返し﹂ ﹁えっ﹂ 返さなきゃならんのか。 どうしてもというなら仕方ないが。 ﹁鈍いな。一ヶ月あればもっといいのを作ったるわ﹂ ああ、そういうことか。 ﹁お言葉に甘えます﹂ ﹁うん﹂ 俺がライターを返すと、リリー先輩は俺の手を包み込むようにし て、それを受け取った。 その後、会話を楽しみつつ本日二回目のお茶会を済ませ、リリー 先輩とは別れた。 1130 第069話 近しい人々 ﹁⋮⋮というわけだ﹂ と、俺があらかた事情を話し終わると、カフとハロルは黙りこく った。 ﹁お前には出自というものがあるから、しょうがないか﹂ と、難しい顔でカフが言った。 ﹁お前に限っては、心配してもしょうがない。せいぜい気楽に構え ておくさ﹂ ﹁死んじまう可能性も考えなきゃなんねえだろ﹂ ハロルがそう発言すると、 ﹁チッ﹂とカフが舌打ちをした。 ﹁どアホうめ﹂ と、更に追い打ちをかける。 ﹁あァ?﹂ ﹁手足は、頭が死んだときのことなんて考えなくていいんだ﹂ ﹁俺は一緒にくたばるわけにゃいかねえんだよ。黙ってろ﹂ 早速喧嘩ムードだ。 こいつらが仲が悪いのは治らない。 ﹁どっちにも一理ある問題だ。まあ聞いてろ﹂ と俺が言うと、二人は黙った。 ﹁カフがいうのも一理あるが、ハロルが不安に思うのも無理はない 1131 だろう。だから、遺書を書いて父上に預けて行く。死ぬ前にアレを くれてやるとか、コレはやらないとか伝えるのは、争いのもとだか らな﹂ なぜこんな歳で遺産相続のことを真剣に考えなきゃならんのか謎 だが、やっておいたほうがいいのは間違いない。 ﹁だから、要らん心配はするな﹂ そういうと、声にはださなかったが、ふたりとも頷いた。 特にハロルについては、イーサ先生のことがかかっているので、 安心させておいたほうがいい。 場合によっては、俺が死んだ後も一生縛られることになりかねな いわけで、ハロルが危惧を抱くのは当然のことだ。 ﹁問題は、俺がいない間の運営だ。カフは問題ないな。ハロルの領 分以外のところは、お前の裁量で全てやってくれ﹂ ﹁分かった﹂ カフは二つ返事で頷いた。 頼りがいのある男である。 ﹁ハロル。三番艦はいつ出来る﹂ ﹁あー⋮⋮っと﹂ 頭のなかでカレンダーでもめくっているのか、ハロルは上体を反 らして天井を見ながら、しばらく考えていた。 ﹁一週間後だな﹂ ﹁そうか。じゃあ次の往復で持ってきて、一番、二番艦はスオミに 置いて、アイサ孤島へ行け﹂ 1132 ﹁アイサ孤島に?﹂ ﹁ああ、そのまま、また探検へ行け﹂ ハロルは少し嫌そうな顔をした。 気乗りしないようだ。 今、アルビオ共和国で作らせている三番艦は、探検用の船である。 三本マストが全て縦帆になっているコンパクトな船で、高速がで ない代わりに少人数で操船できる。 高速がでないということは、遠くまで行くのに時間がかかるとい うことだが、操船に必要な人員が減れば、むしろ航続距離は伸びる。 積み荷の一部となる食料・水の消費が少なくて済むからだ。 つまりは、燃費の良く長距離を走れる小型自動車か、燃費は悪い が高速が出る大型自動車かの違いで、この場合は前者が良い。 ﹁本当にあるのかよ、新大陸ってのは﹂ ハロルは俺の決定に不満なようだった。 カフのほうを見ても、やはりこれについては同意見なようで、ハ ロルを睨んだりはしていない。 ﹁ある⋮⋮はずだ﹂ と、俺は自信なく言った。 ここまで大陸の形が地球と似通っているのに、アメリカ大陸がな かったら、むしろ異常だ。 だが、それは俺が知っているだけのことで、確証としてはまるで ない。 1133 確かめる方法もないので、ハロルとカフが懐疑的なのは仕方のな いことだった。 ﹁⋮⋮今やらなきゃならないことなのか﹂ とカフが聞いてくる。 ハロルは、俺の命令で、二番艦の建造がまだだった時期に、アイ サ孤島から探検に出発している。 しかし、結局これは空振りに終わった。 大陸をうまいこと見つけられなかったのだ。 俺が詳細に指示をしていなかったのが悪かったのだが、航海図に よると、ハロルは順風に乗るままカリブ海のほうに行ってしまい、 食料と水が心細くなった時点で折り返して戻ってきた。 島の一つも見つけられなかったので、存在の証拠となるようなも のは一切なく、完全なる空振りに終わった。 そのときは、共和国を通じて諜報をしつつ、クラ人側に戦争の動 きがないことが解っていたので、まだ時間はあると高をくくり、俺 は二番艦を作らせた。 そのころの懐事情では、ただちに探検専用の船を新規建造させる ほどの余裕はなかったのだ。 ﹁前も言ったが、新大陸の発見は、社の設立目的といっても過言じ ゃない大事業だ。お前らが俺の判断について不審に思うのも無理は ないと思うが、ここはひとつ頼む﹂ コロンブスが最初白眼視されたのと同じで、俺以外の人間にとっ ちゃ、雲をも掴むような話である。 1134 こんな非常時にやってる時かと思われるのは当たり前だ。 だが、無理を通してでもやってもらわなければならない。 多少のゴリ押しをしてでも。 ﹁それに、共和国から運んでくる贅沢品は、戦争のことが知れれば 真っ先に値が下がるはずだ。これからしばらくは、これまでほど旨 味のある商売ではなくなるだろ?﹂ 戦争が始まることを知れば、人間は将来を見つめて金を蓄えはじ める。 贅沢品に金を出す人間はいなくなる。 向こうでは贅沢品でもなんでもない綿を買ってきて、高額で売り さばいて儲ける。 などという笑いが止まらない商売は、この先できなくなるはずだ。 ﹁まあ、な﹂ ﹁そりゃそうだが﹂ 二人もその点については同意見のようであった。 ﹁もし新大陸が見つからなかったら、アルビオ共和国との外交が重 要になってくるからな。ハロルあたりは、俺が帰ってこなかったら 女王陛下と謁見する羽目になるかもしれんぞ﹂ ﹁ん⋮⋮うーん﹂ ハロルはなんだか面倒くさそうな顔をしている。 嫌なのか。 1135 ﹁しかし、自分が死んだ後のことまでその歳で心配するとは、お前 も物好きだな﹂ と、カフが言った。 ﹁そこまで心配してるわけじゃない。十中八九は何事もないよ﹂ なにしろ、上空から見て帰ってくるだけだ。 しかも、危なくなったらすぐ帰って来ても良い。 何十人も連れて行けば、一人二人は無茶をやらかして死ぬかもし れないが、それだけだ。 死んだところで俺が監督責任に問われるわけではないだろうし、 極論をいえばキャロルさえ帰ってこれれば、何人死のうがかまわな い。 ただひとつ怖いのは、そのキャロル当人が暴走することだが、そ れも根拠のない心配事であり、そうならない可能性のほうが高い。 ﹁とにかく、無事に帰って来い。お前がいなきゃ、なにも始まらね え﹂ ﹁俺だって死にたかない。ちゃんと帰るさ﹂ とりあえず、これで話は終わりかな。 ﹁それじゃ、俺は用事が残ってるから、行かなきゃならん﹂ そう言って、俺は席を立った。 立った途端、血の巡りでもよくなったのか、肝心なことを言い忘 れてたのを思い出した。 ﹁ああ、言うのを忘れてた。ハロル、共和国で調達してきてほしい 1136 ものがあるんだが⋮⋮﹂ *** ﹁ユーリくん﹂ 本社を出ると、黒塗りの馬車がとめてあって、その前にミャロが 立っていた。 後ろは俺んちの正門なわけだが、これはあれか。ウチで衛兵のバ イトでもしてるのかな? そんなわけはないよな。 ﹁ボクを幕下に加えてください﹂ ミャロはおもむろにその場に片膝をつき、制服の膝を汚した。 最敬礼だ。 こいつ時代劇の見過ぎかよ。 いや時代劇とかないけど。 ﹁立て﹂ 俺がそう言うと、ミャロは素直に立ちあがった。 わりと往来があり、一般市民が訝しげな眼差しを向けてきていた ので、流石にちょっと恥ずかしかったのかもしれない。 ﹁ここで話すのもなんだ。馬車に乗ろう﹂ 1137 ﹁どうぞお乗りください﹂ ミャロは従者のように馬車の扉を開いて、俺に乗るように促した。 あー、えーと、なんだ。 なんつーか⋮⋮同世代の女子にこんなことをやられると、凄くい たたまれない気分になるんだが⋮⋮。 まー、ここは素直に乗っておくか。いろんな意味で。 ﹁学院に頼む﹂ そう言いながら馬車に乗った。 本来はミャロが行き先を告げるべきなのだろうが、御者は黙って 馬を走らせはじめた。 当のミャロが行くなと否定をしなかったからだろう。 馬車の中では、ミャロの扱いについて考えているうちに、寮に着 いてしまった。 一言の会話もなかった。 ミャロも話しかけては来なかった。 学院に着くと、馬車から降りた。 ミャロは御者に戻るように伝え、馬車は走り去ってゆく。 ﹁ミャロ、どこから話を聞いてきたんだ?﹂ 俺は歩き慣れた寮への道を進みながら言った。 ﹁えっ? えーっと⋮⋮﹂ 1138 言葉を濁した。 情報源を話すべきか迷っているのだろうか。 ﹁誰から聞いたのか知りたいわけじゃないが、もうお触れが出てい て、寮に向かったらムサい男どもがワンサカってんじゃ困る﹂ ﹁いえ、そんなことはありませんよ﹂ そういうわけではないらしい。。 ﹁殿下から聞いたんです。昨日相談を受けたので、行くことは知っ ていました﹂ なんだ。 キャロルが情報源か。 それにしても、昨日か。 陛下はキャロルが言い出しっぺと言っていたが、昨日許可を出し たのだろうか。 どういう会話があったのか、察しようもないが、もしかしたら陛 下のほうがキャロルをたきつけたのかも知れん。 今からキャロルと話して、話術でそのあたりをハッキリさせると いう手もあるが、真相を知ってたところで、たいした意味はないか ⋮⋮。 ﹁じゃあ、あいつはもう知ってんのか。俺が隊長ってことは﹂ ﹁知っていますね。ほんの少し前に、王城から不機嫌そうな様子で 戻ってきました﹂ すると、ミャロはそのときに事情を聞いて、即座に別邸まですっ 1139 飛んできたってわけか。 ﹁ふーん、そうか﹂ 若干寮に戻るのが億劫になったが、いつかは知られることだし、 しょうがないか。 ﹁ユーリくんは向こうでなにをやるつもりなのですか?﹂ ミャロは興味津々に聞いてきた。 ﹁なにって?﹂ ﹁キルヒナの人々を救うとか﹂ ???? なにを言っているんだ、こいつは。 時代劇のみすぎっていうか、小説の読み過ぎかなんかかよ。 ﹁なんで俺が救わなきゃならないんだ?﹂ ﹁そうなんですか﹂ そうなんですか。じゃねーよ。 お前はおれを全知全能の神だとでも思っているのか。 ﹁そんなつもりでいるんなら、絶対にお前は連れて行かない﹂ ﹁あっ、はい。ボクもそういうつもりではないですよ﹂ そういうつもりではないらしい。 怪しいものだが、俺はミャロが博愛主義者ではないことは知って いる。 俺がそういうつもりであるなら、そのつもりで気合入れていきま 1140 すよ。というつもりで聞いてきたのだろう。 ﹁あのな、女王陛下は英雄だのなんだの言っていたが、今回のこと では、その英雄志願者がもっとも迷惑なんだよ。そもそもの作戦目 標を勘違いしやがるだろうからな﹂ ﹁それは⋮⋮はい﹂ なんだか煮え切らねえな。 ﹁じゃあ、軽く試験をするか﹂ 俺がそう言うと、ミャロは顔をピッとひきしめた。 ﹁はい﹂ ﹁今回の作戦で、最も優先的に達成すべき目標はなんだ?﹂ ﹁殿下を無事に連れ帰る⋮⋮だと思います﹂ ミャロは即座に返した。 その通りだ。 ﹁よし。その目標達成のために一番懸念されるのはなんだ?﹂ ﹁えっと、クラ人の飛び道具でしょうか﹂ ⋮⋮まあ、確かにそれはそうなんだが。 流れ弾は怖いもんな。 ﹁それも恐ろしくはあるが、一番の懸念材料は、その当人のキャロ ルが英雄志願者だってことなんだよ﹂ ﹁それは⋮⋮、そうかもしれないですね﹂ ﹁他のやつなら、夢見がちな奴が暴走しても、あーそう勝手に死ん 1141 どけってなもんだ。そのまま隊から放逐すればいい。だが、キャロ ルの場合は、やつの帰還自体が最優先になっているわけだからな﹂ ﹁そうですね。考えてみれば、その通りです﹂ ﹁それだけ解ってるなら、お前を連れて行こう﹂ 俺はあっさりと許可した。 一応は試したが、ミャロを連れて行かないという選択肢はない。 ﹁ありがとうございます。精一杯頑張ります﹂ ミャロは心の底から嬉しそうな顔をして、強くそう言った。 ミャロのことだから、精一杯頑張るというのは嘘ではなく、身を 粉にして頑張ってくれることだろう。 ﹁ただ、足手まといにならないでくれ﹂ ﹁はい。もちろんそのつもりです﹂ ﹁意味がわかるか?﹂ 俺が聞くと、 ﹁はい?﹂ と、ミャロはきょとんとしていた。 ﹁足手まといになるな、って意味がわかるか?﹂ ﹁⋮⋮どういう意味でしょう。文字通りの意味では?﹂ ﹁俺はできればお前を連れて行きたくない。誰だって、火事場に入 る時は大事なものを抱えて入りたくはないだろう﹂ 俺がそう言うと、ミャロはなんともいえない複雑な表情をした。 1142 強いて言えば、悲しげな表情だろうか。 ミャロからしてみれば、俺の心配は、ありがた迷惑なのだろう。 ﹁⋮⋮はい。ですが、火事場の中で、その大事なものが役に立つ場 合もあるでしょう﹂ ﹁そうだ。お前は役に立つ。一番信頼できるし、有能でもある﹂ ミャロが有能であることは、これは間違いない。 有能というより、俺にはない物を持っているのだ。 それは几帳面さであったり、俺とは視点の違う思考であったり、 人脈であったり知識であったりするのだろうが、とにかくミャロが 有用であることは間違いない。 ﹁光栄です﹂ ミャロは、今度は純粋に嬉しそうに言い、律儀に頭を下げた。 ﹁だが、同時に俺の弱点にもなる。俺はキャロルを連れて帰るため なら、何人だって見捨てられるが、お前だけは見捨てられないだろ うからな。俺にとっては、信頼できる有能な部下を得る代わりに、 どうしても連れ帰らなきゃならない対象が、単純に倍になるわけだ﹂ ﹁⋮⋮そう考えるのは、ボクが女だからですか?﹂ ミャロは不本意そうであった。 だが、そう考えるのは、俺にも理解できる。 ﹁違うな﹂ ﹁そうでしょうか﹂ 1143 ミャロは懐疑的なようだ。 ﹁お前が逆の立場だったらどう思う? 俺は男だが、俺が足かせに なったら、汚れた手袋を路端に放り捨てるみたいに、簡単に切り捨 てられるのか?﹂ 俺がそう言うと、ミャロは押し黙った。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ そのまま、十秒ほども沈黙が流れ、靴が土を踏む音だけがしてい た。 そして、ミャロは口を開いた。 ﹁ボクはできそうにありませんが、ユーリくんはそうする必要があ ると思います﹂ まあ、確かにな。 不思議と納得のいく答えだった。 ﹁立場の違いってやつだな﹂ ﹁そうですね﹂ ﹁必要があっても、できるとは限らない。俺も石でできているわけ ではないからな﹂ ﹁はい﹂ ﹁俺は、簡単にそれができるようになりたいとは思わない。だが、 ミャロの言うとおり、確かにそうする必要はあるんだろう﹂ 難しいところだ。 その判断に迷うようなものは、家に置いていけ。ということにな 1144 るのかもしれないが。 ﹁ボクも、石の下に加わりたいわけではありません。それは、味気 がなさすぎます﹂ と言って、ミャロは小さく笑った。 その笑顔を見ると、俺もなんだか気がほぐれた。 ミャロが俺の言いたいことを理解している。 ﹁そうだろうな。石に使われて一生懸命働くなんていうのは、くだ らん人生だ﹂ ﹁⋮⋮えっと、ユーリくんの仰りたいことは、十分伝わりました。 気をつけることにします。足かせにならないように﹂ ミャロは、そう言って話を足早に締めくくった。 寮の入り口がもうすぐそこまで来ていたからだろう。 ﹁そうしてくれると助かる﹂ *** 寮に入ると、いつも通りの気の抜けた空気が漂っていた。 やはり、まだ情報は広まっていないのだろう。 俺はミャロと別れると、自分の部屋に一人で入った。 そこには、一人の人間がいた。 そいつは、一連の面倒事の元兇であるくせに、眉間に皺を寄せて いる。 1145 このやろー。 ﹁なにむくれてんだよ﹂ キャロルは自分のベッドの上であぐらをかいて、頬をふくらませ ていた。 ﹁ふんっ﹂ そっぽを向いてやがる。 ﹁女王陛下の決定が気に入らないのか﹂ 俺はよっこいせと自分の机の椅子に座った。 こらいっちょ話とかないとあかんな。 ﹁⋮⋮そんなわけはない﹂ ﹁誤解のないように言っておくが、俺から頼んだわけじゃないから な。俺はこんな面倒臭いことはやりたくない﹂ ﹁そんなこと、解ってる。おまえは自分から責任を負いたがる人間 じゃない﹂ なんだ、よく解ってんじゃねーか。 ﹁気に入らないなら行くのやめるか? 俺としては全然構わないけ どな﹂ いやほんと、そうしてくれたら万々歳なんだけど。 ﹁お前が隊長というのは不本意だが﹂ ﹁不本意なのはいいが、実行に移ってから俺の言うことを聞かなか 1146 ったら、縄で縛ってでも連れて帰るからな﹂ これだけは言っとかないと。 ﹁私とて、軽率な行動で身を危うくしていい身の上ではないことは、 解っている﹂ 解ってるんかい。 じゃあ無茶ぬかすなよと言いたいが。 カシラ ﹁じゃあ、お前としては了承するんだな。俺が頭になるってことは﹂ ﹁私だって、元よりお山の大将を気取りたいわけじゃない。大将が 誰だって、行動の意義が変わるものではない﹂ ふーん。 自分が頭じゃなくても構わない、というのは殊勝な心意気だ。 ﹁言っておくが、キルヒナ人を助けに行くわけではないんだからな。 そのあたりは勘違いするなよ﹂ ﹁わかってるさ。私の身はこの国のためにある﹂ そのへんは解っているらしい。 女王が口を酸っぱくして言い続けてきたことなのかもしれない。 ﹁それならいい。じゃあ、追って知らせを待て﹂ ﹁お前の采配ぶりを楽しみにしているぞ﹂ 楽しみにされても。 ﹁騎士院生向けに公示があるのは、二日後だそうだ。そこから忙し くなる。頑張れよ﹂ 1147 そこまで決まってんのかよ。 1148 第070話 幹部会議 *** 公示 皇暦2318年5月4日 この度キルヒナ王国で行われる防衛戦争において、戦地を見聞し 敵対国の戦法について理解を深める目的で、今年次八年生ユーリ・ ホウを隊長とし、同学年キャロル・フル・シャルトルを副長とした、 従軍観戦隊を結成し、これを派遣する。 ついては、騎士院上級生の参加者を募る。 申し込みに際しては別紙に掲げる条件を設けるものとする。 別紙を参照し、資格保持者であることをまずは確認すること。 希望者は五月十四日の起床の鐘までに、親権保持者の同意署名及 び印の押された参加申込書を提出すること。 参加申込書の署名は、王都身元保証人のものでは不可とする。 所領が遠隔地にある志望者は、急ぎ帰省するなどして、時間に余 裕を持って申込書を提出すること。 提出先は今年次八年生第一寮前の特設郵便受けとする。 提出期限である五月十四日の翌、五月十五日に騎士院棟305号 室にて個別に面談を行い、追って参加の可否を通知する。 1149 特記注意事項: 参加申込書の署名には法的効力が発生するため、熟読の後に署名 すること。 従軍観戦隊においては、参加者は作戦行動中、臨時的に発効され た独自の軍法の下に縛られる。 軍法の内容については、参加申込書に記載済みである。 この軍法の効力は女王陛下の御名のもと認められており、軍法に 基いて行われた処断については、責任者は法的に全ての責任を免れ る。 免責事項には、作戦行動中の死亡事故、甚だしい軍法違反に対し ての処刑なども含まれるため、参加希望者は各々参加を熟慮の上参 加を決めるように。 *** 別紙 以下に参加資格者の条件を記載する。 一、所得単位数が下記の水準を満たし、学力及び体力の充実に不 足のない者。 六年生:200単位 七年生:220単位 八年生:250単位 九年生:270単位 十年生:290単位 十年生より上:310単位以上 1150 二、身体健康であり、健康に不安のない者。 三、騎乗用の駆鳥一羽、槍一本、短刀一振、防具一着︵皮革など を主に使った軽装の鎧とする︶を持参できる者。 以上三つの条件を絶対のものとする。 加えて、以下の二つの条件を満たすことが望ましいものとする。 四、従軍観戦は原則として上空から眺めるに限るため、天騎士養 成過程を受講している者が望ましい。 習熟の水準として、飛行免許または第三種独立飛行許可が望まれ る。 五、王鷲一羽を自前にて用意できる者。 ︵五が満たせる場合、三にあげた駆鳥の調達は不要である︶ *** ﹁よし。これでいいか﹂ ﹁はい、よろしいかと﹂ ミャロが同意した。 ﹁いいんじゃないか﹂ そう言ったのは、ルベ家の長男であるところの、リャオ・ルベだ った。 今年で二十二になるというこの男は、もちろんこの隊には参加す る。 1151 俺を含めたこの三人は、キャロルをハブった上で空き教室で密会 していた。 キャロルが聞いたら、なぜ除け者にするのだ、この野郎、と激怒 するであろう。 ﹁悪いが、呼び捨てにするぞ。リャオ﹂ ﹁ああ、構わんよ﹂ 普段なら敬語を使うところだったが、これからは俺の言わば部下 格に落ち着くわけだから、そういうわけにはいかない。 ﹁率直に聞くが、お前は俺の部下に収まることについては不満はな いのか?﹂ ﹁なんだ、面接か?﹂ ﹁お前を入れない訳にはいかない。だが、意思統一はしておく必要 がある﹂ こいつはキャロルの次くらいに不安要素なのだ。 騎士院の学生というのは、将家の家臣のガキの寄せ集めと言い換 えてもいいほどだから、大雑把に言って騎士院の四分の一くらいは ルベ家の影響下にある。 こいつが土壇場になって、 ﹁やっぱりあいつは信用ならん。キャロル殿下を誑かしておる。俺 に同意するものは俺の下につけ﹂ などと言い出し、部下を扇動すれば、非常に厄介な事態となる。 ﹁俺はこの歳になって卒業してない男だぜ。お山の大将を気取るつ もりはねえよ﹂ 1152 ﹁それは聞いている。今年は卒業するつもりだということも﹂ ミャロからの情報で、それは伝え聞いていた。 リャオ・ルベという男は、騎士院演武会の常連で、遊び人で通っ た男であるらしい。 驚くべきことに、演武会では優勝経験もある。 十九の時には280単位を取得し、二十で310単位まで取り、 単位上は卒業可能な水準まで達したが、卒業はしていない。 卒業を嫌って、最後の必修単位を履修しなかったのだ。 騎士院は300単位とれば卒業だが、それは騎士院専門科目の必 修単位を取得した上での話で、必修単位が揃わなければ、400単 位取ろうが500単位取ろうが卒業にはならない。 そうでなければ、武芸も戦術も一切修得していないのに、古典文 学や法学だけを修得したような男でも、騎士院の卒業生になってし まうからだ。 リャオは、単位を落としたのではなく、最初から履修しなかった のであるから、これは完全にわざとダブったと考えるのが妥当であ ろう。 リャオは、生まれからすれば、卒業したらすぐに実家の家臣団に 加わり、世継ぎとして腕を振るう必要がある。 だから、リャオの現状は、言ってみれば実家に就職決定済みの大 学生が、わざと卒論を提出しないで留年しているようなものである。 騎士院生のなかには、寮の居心地が良すぎて卒業を先延ばしにす るという連中が、実はたくさんいるらしいので、その一員なのだろ 1153 う。 ﹁もし去年の初めに十字軍結成の報を聞いていたら、今頃は卒業し ていたか?﹂ ﹁ここにはいなかっただろうな﹂ やはり、知っていたら卒業はしていたらしい。 そうしていたら、正規の援軍の一員としてルベ家騎士団の一部を 率い、遠征にでていたことだろう。 ﹁だが、別にそれを重く感じちゃいない。キルヒナのアホ連中のた めに命を張るなんて、くだらねえ﹂ ﹁ふーん、そうか﹂ ﹁あっ、すまんな﹂ ??? なんで謝られたんだ? ﹁なにがだ?﹂ ﹁ゴウク殿のことを馬鹿にしたわけじゃない﹂ ああ、そういうことか。 ﹁別に、そんなことは構わない﹂ 今にして思えば、ゴウクがキルヒナのために王鷲攻めなんてこと をしたのは、将家の当主の行動としては、かなり異常である。 将家は女王陛下に槍を捧げた存在なわけで、シヤルタ王国のため に死ぬのならまだしも、キルヒナ王国のために死んでやる必要は全 くなかった。 1154 もちろん、戦場に赴いた以上は死と隣り合わせであるのだから、 通常の軍務中に事故的に死亡したのであれば、これは仕方がない。 だが、自ら決死隊の一員となり、積極的に死んでやる必要はなか った。 キルヒナの王家とて、さすがにそこまでは望まなかっただろう。 ゴウクは、戦死した第十四次十字軍だけでなく、その前にもキル ヒナへ援軍に出ていたから、ともに戦った戦友へ友情のようなもの を感じていたのかもしれない。 ﹁ルベ家はキルヒナ王国については詳しく知っているのか﹂ ﹁俺たちも馬鹿じゃあない。この王国の誰よりも良く知っているさ﹂ ほほーう。 さすが領地が隣接しているだけあって、戦力分析はやっているら しい。 ﹁どうなんだ。この戦争負けるのか﹂ と、俺は興味本位で聞いた。 ﹁当たり前だ。連中はなにも学習していない。ただただ、戦力を補 充しただけだ﹂ ﹁ふーん⋮⋮﹂ ﹁今も身内で足の引っ張り合いをしている。このままでは勝ち目は ない﹂ ルベ家は戦局に関して悲観的らしい。 ﹁ま、それはいいだろ。折り込み済みだ﹂ 勝率が高いなどとは、俺も思っていない。 1155 ﹁折り込み済みか、大したもんだな﹂ ﹁キルヒナは北部をやられている。一度領土を侵されると、政治が 荒れて身動きとれなくなるのは、シャン人国家共通の習性だ﹂ シャン人国家というのは、分離してしまってからは、殆どの国が シヤルタ王国とだいたい同じ政体を取ってきた。 この政体の重大な問題点は、軍を構成する最大の単位が地方諸侯 ︵将家︶に分散されてしまっているということだ。 地方諸侯は中央政権によってゆるく繋がっているが、この形だと 攻められると弱い。 どこかが攻められても、地方諸侯はもちろん損をしたくないので、 攻められた当事者以外は本気を出して軍を出したりしない。 なので、結果的に自ら各個撃破されるような無様を演じることに なってしまう。 さすがに、それが極端に出たのはだいぶ昔のことで、最近は学ん でいるが、それでも本質的な脆弱性は解決されずに、そのまま存在 する。 ﹁ルベ家にとっては残念だろうがな。連中には、謹んでお悔やみ申 し上げるさ﹂ ﹁そうだな。なにもかもは守れない﹂ ﹁悲しいことにな﹂ ﹁王家もいい気なもんだ。将家にだけ援軍を出させて、近衛の第一 軍からは一人の兵も出しやしない。俺の家はいい面の皮だ﹂ キャロルが聞いていたら怒り出しそうな台詞だが、ルベ家がそう 1156 思うのは当然のことだろう。 王家は音頭を取るだけで、何をしてくれるわけでもない。 将家からは税金をとり、叛意を起こせば暗殺者を送られ、暗殺が 成功しなければ他の将家に指示を出して袋叩きにする。 一般の騎士のあたりはその辺りの意識はなく、王家を仰ぎ将家に 忠誠を誓っているだけだが、当主をはじめ、将家の上層部からして みれば、損ばかりさせられているという意識しかない。 援軍に出征すれば報奨金を少し寄越すだけだし。 ルベ家とて、キルヒナが滅びたら次は我が身なのだ。 キルヒナに一番頑張って欲しいと思っているのは、間違いなくル ベ家だろう。 今だって、一兵でも多く戦力を温存しておきたいと思っているに 決まっている。 ﹁じゃあ、お前はなんのために参加をするんだ﹂ ﹁箔がつくだろ﹂ リャオは一言で端的に表現した。 それはその通りだ。 ﹁だが、箔どころか恥になる可能性もある﹂ 俺は暗にキャロルの死の可能性について言った。 ﹁あんたの評判は聞いているよ。戦場から女ひとり連れ帰れないほ ど無能ではあるまい﹂ リャオは、すぐに解ったらしく、気の利いた答えをよこす。 1157 ﹁戦場ではなにが起こるかわからないぞ。王鷲に乗っていても、流 れ矢が目にでも入れば、人間は簡単に死ぬ﹂ ﹁そうしたら、運が悪いと諦めるさ。戦場では確実なんてものはな いしな﹂ ﹁そりゃそうだ﹂ そこまで解っているなら、あとで恨み事をいわれることもなかろ う。 といっても、たぶんキャロルが死ぬことになったら、俺も戻って はこれない気がするけど。 ﹁さて。じゃあ人事だ﹂ ﹁ああ﹂ ﹁こいつはミャロ・ギュダンヴィエルだ。知っているな﹂ ミャロは座ったまま軽く頭を下げた。 ﹁ご紹介にあずかりました。ミャロです﹂ ﹁ああ、知っている﹂ おそらく悪い噂だろうが、こいつの耳にもミャロの名は届いてい たらしい。 ﹁こいつは、総参謀長だ﹂ ﹁参謀?﹂ 参謀という言葉は、シャン語では俺が考えた言葉だった。 この国には参謀という役職を意味する言葉はない。 ﹁事務全般や助言を司る役職だ。命令権は俺にだけある代わりに、 1158 誰にも命令権を持っていない﹂ ﹁そうなのか﹂ ﹁ああ。できれば副隊長にしてやりたかったが、結局は混乱のもと になるだけだからな﹂ ミャロは生まれからして騎士からの信頼を得にくい。 平民生まれの一兵卒を率いるのであれば問題はないだろうが、今 回部隊に加わるのは、全員が騎士のヒヨコどもだ。 そいつらの良識は疑ってかかるべきだし、ギュダンヴィエルが指 揮するといったら従いたくないという者も多く出るだろう。 ミャロが副隊長になった場合、当然、そいつらを軍法に従って処 断してもいいわけだが、ミャロは体力的に強いわけではない。 魔女家に反感を持っている者が半数以上であれば、処断しようと しても、逆にミャロのほうが殺されてしまうだろう。 ﹁お前は副隊長だ。キャロルと同格だな﹂ これは当然だ。 ﹁謹んで拝命しよう﹂ ﹁そうか。じゃあ、明日からここのミャロと頑張ってくれ﹂ と、俺は軽く雑務を丸投げした。 ﹁? なにをだ?﹂ ﹁参加用紙を投函した連中が、本当に資格者なのか調べる必要があ る。それに、できれば補給は自前でもっていってやりたい。キャロ ルも含めて、三人で存分に協議してくれ﹂ ﹁三人で、って⋮⋮。あんたはどうするんだ﹂ 1159 リャオは訝しげな顔で言った。 部屋で寝ているつもりなのか、とでも言いたいところだろう。 ﹁俺は、明日からキルヒナに入る﹂ ﹁キルヒナに? もしかして、出発までずっと向こうに出ずっぱり か?﹂ ﹁いや、面接までには帰ってくる。だが、実際に現地を見ておく必 要もあるからな。下見しておかないと、危なくて仕方がない﹂ これには時間がかかるので、戦争が始まりそうになってから、バ タバタとできる仕事ではない。 他人任せにもできない。 ﹁なるほどな。じゃあ、その間、こちらはできることをやっておけ ばいいのか﹂ ﹁そうだ。そのへんは、ミャロが万事気がつく性格だ。俺よりも上 手くやるだろう﹂ ミャロはなにも言わず、リャオに向かってペコリと頭を下げた。 よろしくお願いします。といったところだろう。 ﹁ミャロには、俺は全幅の信頼を置いているし、キャロルも信頼し ている。無理にとはいわんが、お前も信頼してくれると助かる﹂ ﹁それは俺のほうで決めるさ﹂ まあ、そりゃそうか。 他人が信頼についてどういう言うのもおかしいもんな。 とはいえ、先入観があってはどうにもならない。ということもあ 1160 る。 ﹁最初から疑ってかかったりはしねえよ。その辺は安心してくれ﹂ ﹁そうしてくれ。じゃあ、とりあえず今日はこのへんか。何か話し たいことはあるか﹂ ﹁いや、ない。まだ募集もしてない段階じゃ、やることも少ないし な﹂ そりゃそうだわな。 ﹁それじゃ、今日は終わりだ。解散にするとしよう﹂ 1161 第071話 親心子知らず 俺は二人と別れると、別邸に向かった。 呼び出されていたからだ。 別邸の門をくぐると、なんとルークとスズヤは玄関で立って待っ ていた。 まったく笑っておらず、なごやかな雰囲気ではない。 うあー。 回れ右して引き返したい気分に駆られたが、ここはぐっと我慢し て玄関に向かう。 ﹁ユーリ、来なさい﹂ ルークが言った。 ﹁はい﹂ ルークは、玄関のドアを開け、家の中に入った。 俺もついていく。 スズヤのほうを見ると、なんだか魂の抜けたような顔をしていた。 *** 書斎に通された。 1162 ルークは無言のまま椅子に座る。 ﹁座れ﹂ 俺はおとなしくフカフカの椅子に座った。 ルークはムスッとしてる。 ﹁なんで一言相談しなかった?﹂ やっぱりー。 おおごと 王城にお呼ばれしたあと、こっちにくるので会いましょう。とい う話しではあったけれども。 おおごと ﹁いえ⋮⋮父上を煩わせるような大事ではないと思いまして﹂ ﹁戦争に行くのが大事じゃないなんて考えてるなら、今からでも行 くのをやめさせるぞ﹂ ぐうの音も出ない正論であった。 ﹁いや⋮⋮そんなことは﹂ ﹁出陣するまで、俺たちには隠しておくつもりだったのか?﹂ ﹁いいえ﹂ そんなことはない。 ただ、女王陛下が話を通したあとで話せば楽だとは思った。 なにがルークさんには私から話を∼だ。 あのやろう。 ﹁女王陛下にはよくよくお願いされた﹂ 1163 と思ったら、話は通してあったようだ。 ルークには、俺の考えはお見通しだったらしい。 ﹁俺は反対はしない。だが、なんで相談しなかった?﹂ ﹁それは⋮⋮﹂ ﹁必要がないと思ったのか?﹂ まあ、そうです。 ﹁選択の余地はないと思ったので﹂ ﹁⋮⋮なんでも自分だけで決めようとするな﹂ ルークの言うとおりだ。 俺はホウ家の跡取り息子なわけで、なんでも自分で勝手をしてい いわけではない。 俺の立場からしてみれば、そんなもん知ったこっちゃねえよ。と も思うが、ルークからしてみたら違うのだろう。 それを考えれば、俺は一度返事を保留して、ルークと相談するべ きだったのかもしれない。 ﹁これは家長としての言葉じゃないぞ。親としての言葉だ﹂ ⋮⋮それを言われると辛い。 ﹁⋮⋮お母さんが、どれだけ心配したと思ってる﹂ ルークは、沈痛な面持ちだった。 そうだ、この家族は息子のことを心配しているのだ。 1164 ああ。 そうだ。まっとうな親というのは、子どもを心配するものなのだ。 日本に居た時の、俺の親父は、息子のことなんてどうでもいいと いう人間だった。 俺より先に死んだので機会はなかったが、俺の訃報を聞いたとし ても、涙は流さなかっただろう。 一ヶ月もすれば俺のことなど忘れたはずだ。 そういう人間だった。 ﹁⋮⋮すいませんでした﹂ ルークもスズヤも、俺が死んだら泣くだろう。 一ヶ月どころか、死ぬまで俺のことを忘れないだろう。 息子のことを真っ当に愛しているからだ。 そう考えると、俺の行為は、親不孝にもほどがあった。 ﹁わかったら、お母さんのところに行ってやりなさい﹂ ﹁はい⋮⋮﹂ 俺は書斎を出た。 *** スズヤがいる部屋にいくと、スズヤは椅子に座って小さい円卓に 顔を伏していたようだった。 俺が入ると、顔を上げた。 1165 ﹁ユーリ﹂ ﹁母上﹂ スズヤは泣いていたようだ。 ﹁こっちにいらっしゃい﹂ 言われるまま、俺は近づいていった。 スズヤの前までいくと、スズヤは椅子から立って、感極まったよ うに俺を抱きしめた。 もう、俺の背丈はスズヤを追い越している。 それでも、スズヤは背伸びして、俺の首に腕を回して、ぎゅーっ と抱きしめた。 ﹁絶対帰ってきてね﹂ ﹁約束します﹂ 俺はできもしないことを約束した。 ﹁大丈夫ですよ。父上から聞いたでしょう。そんなに心配するよう な仕事じゃありません﹂ ﹁⋮⋮そうなの? じゃあ安心ね﹂ スズヤは気丈に微笑みを作っている。 安心などしていないことがまるわかりだった。 ﹁はい。絶対無事に帰ってきますから﹂ ﹁⋮⋮お母さんは女の子に優しくしなさいって言ったけど、それで 死んじゃったら元も子もないんだからね。ユーリには、待っている 1166 人が沢山いるんだから﹂ ﹁わかっています。そんなに危険ではないですから﹂ 俺は、少しでもスズヤを安心させようと、矢継ぎ早に気休めを口 にする。 ﹁ほんとに?﹂ ﹁ほんとにほんとです。絶対に危険な場所には近寄りません﹂ ﹁そう⋮⋮それなら少しは安心かしらね﹂ ﹁はい。安心してください﹂ 心が痛む。 ああ、帰ってこなければならないんだ。と、俺は改めて思った。 *** 実家を出て寮に戻り、用意しておいた荷物を持つと、俺は鷲舎へ 向かった。 日はもう傾き始めている。 だが、今日のうちに出発しておきたかった。 騎士院の事務室には既に届け出をしてあった。 準備期間中、講義や訓練については出席扱いになるらしい。 鷲舎に入ると、俺は星屑を引き出して、買ってきた獣肉を与えた。 星屑は、肉屋が切った獣肉を、ガツガツと腹に入れてゆく。 1167 ﹁くるるるる⋮⋮﹂ 九割がた食ったところで、星屑は食うのをやめた。 腹がいっぱいなのだろう。 星屑はかしこいので、これから飛ぶことを知っていて、自分から 食べる量を調節したのかもしれない。 余った獣肉を鷲舎の中へ投げこんで処分すると、俺は星屑の背中 に鞍をまわした。 家から持ってきた、ホウ家の家紋が入った鞍だ。 ベルトを一つ一つ締めてゆく。 ﹁よし﹂ 最後にぐっぐっと鞍を揺らし、装着具合を確かめた。 良く締まっている。 俺はふわりと星屑に跨った。 すっと手綱を引くと、力をさほどかけずとも、意を得たりとばか りに星屑は離陸体勢に入った。 バッバッと、二、三回力強く羽をはばたかせると、俺を乗せて空 へ舞った。 1168 第072話 森の中の出会い 途中の宿で一泊し、翌日の日暮れ時には、俺はシヤルタとキルヒ ナの国境線までやってきていた。 二国の国境は、オルト川という自然の河川で分断されている。 俺は星屑を地上に下ろし、休憩させつつ、そのオルト川を見てい た。 オルト川は、自身が大地を削って作ったオルト渓谷という谷とセ ットで語られる。 オルト渓谷というのは、今見ると、なかなか渡りづらそうな渓谷 だった。 渓谷の深みが10メートル以上もあり、岩肌もゴツゴツとしてい るので、いくら急いでいても、手と足で岩を登り降りして渡ろうと は思わないだろう。 なるほど国境にもしたくなる。という地形だ。 いま見てみると、急峻な渓谷の下に、川が流れているのが見えた。 今は川幅が狭く細々としているが、本格的な夏がくれば、雪解け の水で増水し、それはもう恐ろしいほどの勢いになるという。 その勢いはといえば、橋流しの川として有名なくらいで、今も昔 もこの川には二つしか橋がない。 一つは、川の下流、流れもいいかげん穏やかになってきたところ に立てられた、ホット橋という橋である。 そしてもう一つは、上流にあるズック橋であった。 1169 俺が今見ているズック橋は、今は人で混み合っていた。 この人々は、耳ざとく戦争の知らせを聞きつけ、キルヒナを後に しようとする人々であろう。 全員が、シヤルタに向かって歩を進めていた。 ズック橋という橋は、俺は今まで実際に見たことはなかったが、 絵では見たことがある。 俺が今いるところは、ちょっとした景勝地で、山脈と渓谷を背中 にしたズック橋というのは、風景画では定番となっているらしい。 確かに、平時に見ればなかなか風光明媚な建築物なのだろう。 だが、今は難民がいるせいで、風景画というより戦争画の題材と して相応しい光景になってしまっている。 橋脚は大皇国時代の建築物であると聞いていた。 だが、今見ると、これは建築物といっていいのか疑問であった。 ただ、建築の技量としては、その程度の高さは十分に伺える。 ズック橋の中央橋脚は、川の真ん中に孤立した岩に、寄生するよ うに作られていた。 橋脚の土台となっている天然の岩は、川の流れにこれ以上削られ ることのないよう、大きな石垣で補強 されていて、石垣は上流に向けて鋭角を突き出していた。 太古の建築士が川に濡れながら作ったのは、この防護の部分であ ろう。 自然の岩石が石の靴を履かされ、そそり立ったつま先が川を割っ ている恰好になっている。 1170 その上に飛び出た岩に、改めて橋脚が建てられていた。 残念ながら、岩から上の橋脚及び橋は、大皇国時代のものではな い。 そこにあった橋は、約百年前の地震で壊れてしまっており、今あ る橋はその頃架けなおされたものだ。 だが、ズック橋は、現在になり、更に改造が加えられつつあるよ うであった。 今も、ズック橋の下流側で作業が行われている。 俺も、今ここに来て初めて知ったのだが、これから渋滞が酷くな ることを予想して、ズック橋を拡張しようという話になっているよ うだ。 おそらくはルベ家の独断であろう。 といっても、正規の拡張というわけではないらしく、岩場の余っ たところに太い木の柱を立て、簡単な木造橋を仕立てあげよう。と いうことであるようだ。 つまりは、石造りの橋の横に、もう一つ木造の橋をつくり、複線 化させようという計画だ。 石積みの職人はそこにはおらず、作業員は皆のこぎりなどを持っ た大工だった。 *** この視察に来た目的は、下見の必要と、もう一つ理由があった。 主要都市の座標を下調べしておきたかったのだ。 1171 王鷲での移動というのは、意外と不便なもので、勘で飛んでいて もなかなか目的地につけるものではない。 なので、町と町の位置関係を記憶したり、地上を移動するルート をなぞるようにして、眼下に街道を収めながら移動したりする。 だが、都市の座標を知っていればそんなことはしなくてもよい。 座標さえ知っていれば、地図がかける。 海岸線や国境の正しい形が描かれた地図というのは、作るには時 間が掛かるし難しいが、地図上に都市の場所を記しておくだけなら、 さほど難しいことはない。 座標さえわかっていれば、知らない場所でも移動に戸惑わなくて 済む。 飛ぶ前に地図にコンパスを合わせて、どっちの方向に目的の場所 があるのかチェックして、一直線に飛べばいいだけだからだ。 というわけで、俺は重要そうな町を一つ一つ回って、座標を確か める作業をしていた。 そうしているうち、三日がたった。 *** キルヒナ王国の首都から西、街道沿いの町々は、避難する人々が 次々と噂を広めており、不穏な空気にあった。 よそ者が多く、治安も一時的に悪化しており、王鷲などという高 1172 級品を預けて宿屋に泊まれる雰囲気ではない。 なので、俺は王鷲を連れながら生肉を買い込むと、すぐに街から 離れるようにしていた。 そして、昼間になると、正午ごろに六分儀を持って観測をする。 夜、晴れていれば北極星の位置を確かめて、磁気偏差を確認する。 ただ、どこで測っても、この半島は殆ど磁気偏差がない地域らし く、コンパスの針はいつも北極星を指していて、あんまり意味はな かった。 夜は日が暮れる前に寝る所を確保して、森を歩いて枝を探した。 この時期、夜はまだ寒い。 夜になる前に焚き火を作る必要があった。 俺はその日、いつものように軽く枝を探しながら、森の奥に入っ ていった。 そこら中に落ちている枝を拾い集めているうちに、日が暮れた。 地元の住民が薪を取るために、何本か木を切った場所をみつけ、 そこで焚き火を作ることにする。 枝を十本かそこら組むと、俺は紙を手で破いて、瓶に入れていた 揮発油を染み込ませた。 その上に火打ち石で火花をやると、すぐに火はついた。 細く燃えやすそうな枝に火を移すと、次第に火は広がっていった。 勢いがつけば、もう消えることはない。 俺はなるべく平らになった切り株に腰掛けると、言った。 1173 ﹁いつまで見ているんだ?﹂ ガサガサ、と下草を踏む音がして、人がでてくる。 ﹁いやぁ、ばれていましたか﹂ 仲間を呼ぶ様子もなかったから、一匹狼の野党かなにかと思った が、違うようだ。 改めて見ると、山賊にしては、ずいぶんと身なりの良い格好をし ている。 なんだかバツが悪そうに、頭を掻きながら出てきた。 敵意は今のところ感じない。 ﹁なんか用か?﹂ ﹁僕も野営をしようと思っていたので、よろしければご一緒しませ んかと﹂ 確かに男は、ついさっき言い訳ついでに集めたとは思えないくら いの量の枝を、脇に抱えていた。 野営をするつもりというのは、本当らしい。 ﹁まあ、構わないがな﹂ 薪が増えれば暖かくなる。 それはいいことだ。 といっても、俺のような比較的金持ちの若者が、野宿をしたとき に見知らぬ人間と出会った。などというときは、相手は野盗か物盗 りというのが定番だ。 1174 警戒しておくに越したことはない。 ﹁一応武器は持っていますが、お預けしますか﹂ 俺の危惧を読んだのか、男はそう言った。 男は小型の弓を持っていた。 見えないが、懐に短刀も抱いているのだろう。 しかし、なおも敵意は感じられない。 ﹁いや、いい⋮⋮夜の間、賊に襲われないとも限らない。そちらも 丸腰では心細かろう﹂ ﹁それはそうですね。とはいえ、腕っ節のほうはまるで自信がない のですが﹂ 男は照れくさそうに言う。 確かにヒョロっこいし、自信がないというのは本当に見えた。 やはりどう見ても、荒事を商売にしているようには見えない。 ﹁では、失礼して﹂ 男は、焚き火を挟んで反対側に、厚手の布を敷き、その上に腰を 下ろした。 ﹁食べるものはあるのか?﹂ ﹁はい﹂ 男はリュックの脇にくくりつけてある革袋から、肉を取り出した。 1175 その肉は、肉といっても、精肉屋で売られているようなものでは なかった。 どうやら足の部分なので、それだけでは何の動物の肉なのか分か らないが、おそらく、かかえている弓を使って、自分で獲ったもの だろう。 腐ってはいないようだが、血抜きも満足にされていない様子で、 革袋からは濁ったような血が滴っていた。 処理が下手だったらしい。 狩猟自体が初めての経験だったのか、それとも、狩猟はしていた が解体は他人に任せていたか、どちらかだろう。 それか、処理をする暇もないほど急いでいるかだ。 どちらにせよ、こんなにおざなりな処理では、食べられたもので はない。 焼いたところで、肉の中が腐った血の煮こごりのようになってし まう。 ﹁火を使って焼いて構いませんか。少しお腹がすいていて﹂ ﹁もちろん、構わんよ﹂ こいつ、身なりはいいのに、なんでこんな食事をしているのだろ う。 というか、身なりがいい以前に、実は胸に騎士のバッジがついて いるのだ。 これは一般に騎士章と呼ばれるバッジで、騎士院の卒業生に与え られるものだ。 騎士は必ずつけていなければならない、というものではないが、 1176 騎士号を持っていない者は装着してはいけない。 装着どころか、所持もしてはならず、拾った場合は速やかに届け 出て、返上しなければならない。 それは建前で、実際に返上されることは少ないのだろうが、かと いって資格もないのに胸に付けて、堂々と表を歩くというバカはな かなかいない。 身分詐称に当たるので、捕まれば重罪になる。 それはキルヒナでも同じはずだ。 つまり、おそらくは騎士ではあるという推論が成り立つ。 そうであるとすると、こいつはなにか犯罪でも犯し、逃げている のだろうか。 騎士院を卒業したということは、騎士になれなかったとしても、 インテリ層の一員ということになるので、食うには困らない程度に 稼げる職に就ける。 詳しくは知らんが、キルヒナでもだいたい同じはずだ。 誇りが邪魔して庶民の職に就けないという者もいるが、そういう 人間は金がないにしても、狩りをしながらの旅などという土臭いこ とはしないだろう。 ﹁いや、やっぱり焼くのはやめてくれ﹂ と、俺は言った。 ﹁⋮⋮そうですか﹂ そうすると、男は少し残念そうな顔をして、肉をひっこめた。 1177 ﹁その肉は俺の鷲に食わせよう。その代わりに、そちらは俺の肉を 食え。ちゃんと肉屋が捌いて味をつけた肉だ﹂ ﹁ああ、なるほど。それは助かります﹂ 男は顔を明るくした。 まあ、そんな肉は食いたくないわな。 栄養価はむしろ高いのかもしれないが、吐き気をこらえながらす る食事などは、誰だって御免だろう。 ﹁では、さっそく食べさせてあげて良いでしょうか﹂ ﹁構わんよ。ちょうど腹が空いている頃合いだ﹂ 男は、星屑に近づくと鼻先に肉をやった。 星屑は大きなクチバシで肉を摘んで、餌を受け取った。 若干の心配はあるが、ウジが湧いていたわけではないし、腹をこ わすこともないだろう。 というか、塩漬け肉しか売ってなかったので、生肉が推奨されて いる王鷲にとっては、むしろ健康的な食事かもしれない。 野生動物は血抜きなんぞしないわけだしな。 ﹁よく出来た鷲ですね。所作が優雅です﹂ 男は星屑を見ながら言った。 下手な王鷲だと、思い切り肉を奪い取ってガッツガッツと貪るよ うに食ったりするので、そっと受け取るように肉を取ったのは、言 ってみれば躾けの行き届いた王鷲である証拠だった。 1178 そういった台詞がスルリと出てくるということは、やはりこの男 は騎士なのだろう。 詐欺でも働くために騎士章を身につけるような男は、王鷲など触 ったことはないはずだ。 ﹁そうだろう。自慢の鷲だ﹂ ﹁失礼ながら、あなたはホウ家の関係者とお見受けしましたが﹂ ああ、早速ばれた。 まあ、そこに置いてある鞍に、家紋が思いっきり刻んであるしな。 身分を隠す旅ではないから、バレても問題はないと思ったのだが。 ﹁そうだな。とはいえ、俺からすると、そちらの出自のほうが気に なるところだが﹂ と、俺はさりげなく探りをいれた。 ﹁それはそうでしょうね。いえ、隠す必要があるわけではないので す。僕は、ジーノ・トガといいます﹂ トガ⋮⋮。 トガ家といえば、キルヒナ王国の将家の一つなんだが。 ルークみたいに、騎士というレールから脱線して、汽車がそのま まバスになってしまったような人間が親であった場合は、ただの牧 場主がホウの苗字を名乗っている。ということも考えられる。 だが、そうでなければ、普通は苗字として名乗るのは近縁のもの に限られる。 1179 トガ家を名乗るということは、少なくともいいとこの坊っちゃん ということになる。 そんな野郎がここでなにをしているんだ? ﹁ジーノか。俺はユーリという﹂ ﹁なるほど。ユーリさんですか。よろしくお願いします﹂ ジーノはぺこりと頭を下げてきた。 ﹁挨拶も済んだことだし、ともかく焼こう﹂ 俺は荷物から肉を取り出した。 塩漬けのヤギ肉だ。 枝肉のような塊ではなく、厚めにスライスされている。 俺は分厚いステーキのような肉にブスブスと鉄串を刺し、ナイフ を操って二枚に分離させると、片方をジーノのほうに差し出した。 ﹁頂きます﹂ ジーノは受け取ると、早速火にかざし始めた。 ﹁皿はないがパンはある。挟んで食うといい﹂ ﹁それはいいですね。パンは久々に食べます﹂ 今までずっと獣を狩って獣肉を食べていたのだろうか? まるで、原始人のような暮らしだ。 服を見ると、やはりだいぶ汚れているが、獣血でグシャグシャに なってしまっているわけではない。 服が汚れないように気をつけていたのかもしれない。 汚れてはいるものの、仕立ての良い服であることは、まだ見て取 1180 れる。 なんだかチグハグだ。 服も、身なりも、態度も上流階級のものなのに、暮らしぶりだけ が原始人とは。 1181 第073話 流浪者 ﹁訊ねて良いものかわからないが、なぜこんな旅をしているのだ? 旅費が心もとないのか?﹂ と、俺はついに訊いた。 俺もトガ家というのは名前だけしか知らないが、いくらなんでも 将家の身内がそこまでしなければならないというのは、ちょっと想 像ができない。 何かあったとしても、家から金目の調度を幾つか持ちだして売る とか、それもできないのであれば親戚を頼るなりすれば、旅費くら いは工面できるはずである。 ﹁お察しのこととは思いますが、僕はこの国の騎士なのです﹂ ジーノはボロ布で焼けた鉄串を持ちつつ、頻繁に肉をひっくり返 しながら言った。 ﹁その中でも、落伍者と言っていいでしょう。そして、今、この近 くの宿は避難民でいっぱいです。食も足りていません﹂ キルヒナの国内では攻勢の話が広がり始めているのか、このあた りは避難民が多くなっている。 しかし、落伍者であることと避難民がごったがえしていることと が、なにか関係があるのだろうか。 確かに、ここらの宿はいっぱいだし、小さな村に大勢がおしかけ 1182 たもんだから、冬明けで備蓄も心細いこのあたりじゃ、なかなか食 料の確保は難しいだろう。 俺が買った食料も、かなり割高だったし。 ﹁僕が宿に入るということは、避難する人々の寝床を一つ奪い、食 を一つ奪うということ。落伍したとはいえ、僕も騎士の端くれです。 我々騎士の至らなさのために避難を強いている人々に、せめて迷惑 をかけないようにしようと思い、このような旅をしています﹂ なんとまあ。 あきれ⋮⋮いや立派な心がけである。 ﹁素晴らしいな﹂ ﹁そうでしょうか﹂ 素直に喜べないのだろう。 ジーノは困ったような笑顔を浮かべた。 ﹁いや、素晴らしいよ。なかなかできることじゃない﹂ ﹁いえ⋮⋮﹂ ﹁しかし、どうしてそういう考えに至ったんだ? 戦いの口がない わけではないだろうに。戦場が嫌になった口か?﹂ 国、というか民のことを思うなら、騎士であれば、やはり戦場に 出るのが一番の貢献だろうと思う。 俺は脱走兵はクズだとか考えているクチではないが、これだけ立 派な志を持っているのに、戦場に背を向け、シヤルタ王国に逃げ落 ちるというのは、やはり少ししっくりこない部分があった。 1183 ﹁どうにも騎士の方々に疎まれてしまい、外されてしまったのです。 それに、僕は騎士号は持っていても、領地はありませんので﹂ えっ。 ﹁トガ家といえば、将家の一つと思ったが﹂ ﹁ああ、ご存知でおられたのですね﹂ ﹁そりゃまあな﹂ ﹁ええ、確かにトガ家は将家の一つです。いや、今となっては、そ うだったというべきでしょうが﹂ ﹁どういうことだ?﹂ ﹁先だっての戦争で領地を殆ど奪われてしまったのです。それに、 領の人々も流出してしまいました。なので、治めるべき領民もいま せん。名目上、トガ家の領地はありますが、まあ、ないようなもの です﹂ なるほど。 いや、それってどうなの? 失地したとはいえ、名目上はトガ家の領地なのだから、取り返せ ばまた所有権を主張できるのでは⋮⋮。 いや、無理か。 取り返すのにも軍を動かす必要があるし、それには莫大な費用が 必要だ。 トガ家の軍がそのまま残っているのならともかく、そうではない のだろうから、無料で返してくれるはずがない。 トガ家の領地は他の将家で分割されるか、王家に接収されること 1184 になるだろう。 領地を守りきれなかった連中には任せておけない、などの理由付 けすれば、王家が領地を没収するのはさほど難しくない。 それでも、頑張り次第では⋮⋮と思うが、大局を見ればシャン人 は劣勢であることは明らかなので、頑張っても実を結ぶ可能性は少 なく、限りなく無駄⋮⋮と言って差し支えないだろう。 ﹁浅学で申し訳ないが、トガ家というのは北東部を領地にしている のだったか﹂ ﹁そうですね⋮⋮そのあたりを治めておりました﹂ やはりそうであるらしい。 キルヒナ王国の北東部というのは、ほとんど既に占領されてしま っている。 占領といっても、既にクラ人の定住が済んでいるというわけでは ない。 しかし、完全に焦土化されてしまっているので、戻った所で民が 元の生活を営めるわけではない。 クラ人の攻勢の弱点というのは、各国の連合軍であるために攻勢 が持続的でなく、一過性であるというところにある。 一回の十字軍が終わったら、反攻に出られて領地が取り返される かもしれない。 なので、彼らは取り返されるかもしれない土地を徹底的に焼いて おく。 焼く前には略奪を無制限に許すので、あとの土地には踏み荒らさ れた畑くらいしか残らない。 1185 土地を一時的に無価値化することで、再占領による旨みを無くし ておくわけだ。 元より、彼らにはシャン人の住居道具をそのまま使うという気は ないのだから、損ではない。 彼らにとっては、焦土化は﹃穢れた土地の浄化﹄にも繋がる。 つまりは、それをやられた上、領地をあらかた実効支配されてし まったので、将家としては存在しないも同じこと。ということにな ってしまったのだろう。 ﹁では、君はトガ家の中では⋮⋮﹂ ﹁一応、当主ということになりますか。もうなんの意味もございま せんが﹂ 当主だったのか。 じゃあ、一応はルークと同じ天爵様ということになるのか。 ﹁これは失礼した。ジーノ殿とお呼びしたほうがよろしいか﹂ ﹁いえいえ、爵位は返上いたしましたので。私はもう騎爵ですらあ りません﹂ なるほど。 騎爵というのは、騎士でいう最低限度の騎士身分ということにな る。 騎士号とは違うのだが、騎士としてどこか将家の騎士団に入って いれば、必ず最低限度与えられるのが騎爵という爵位だ。 吹けば飛ぶような、殆ど名誉称号といってもいいような爵位であ り、それすらもないということは、騎士としては無職ということに 1186 なる。 ﹁ふむ⋮⋮では、気にせず話させてもらおうかな﹂ ﹁はい、ぜひ﹂ そっちのほうが俺も気が楽だしな。 ﹁しかし、貴殿は野に下ったとしても、トガ家の騎士団はどうした のだ?﹂ 文字通り全滅したのかな? ﹁解散いたしました。結局、南方の会戦で大勢を失い、旧土も取り 返せぬ有り様で⋮⋮。戦力として不安のある状態でしたので﹂ 南方の会戦というのは、つまりはヴェルダン大要塞近辺で行われ た野戦のことだろう。 野戦の後、敗走した軍は、比較的健全な戦闘単位から優先的にヴ ェルダン大要塞に篭った。 俺は知らないが、その中にトガ家の騎士団もいたのかもしれない。 だとすると、北部を侵略した軍はヴェルダン大要塞を迂回したは ずなので、トガ家は対応できなかった。ということも考えられる。 他の将家も、うわトガ家の領地が侵略されている、助けてやらね ば。という風に、一目散に駆けつけて防衛してやる。といったこと はしてやらなかったのだろう。 将家同士の仲間意識というのは、魔女家の悪口を言い合うときく らいにしか発揮されないもので、存外低い。 領地の過半を奪われてしまえば、騎士はいても兵を集めることが 出来ない。 一般兵はほとんどが非貴族の平民層の男なので、そもそも領民の 1187 殆どが逃げてしまったら、軍を再構築しようにも人が集まらない。 騎士だけの軍隊を作るということもできるが、それでは数が足り ないので恐ろしくもなんともない。 突っ込んでくる敵が全員高価値目標なのだから、敵が嬉しがるだ けだ。 解散したというのは、残念ながら仕方がないことだろう。 ﹁では、トガ家のほかの騎士たちは、別の騎士団に仕官を求めたわ けか﹂ ﹁そうなります。僕には最早、彼らの面倒を見れるほどの収入はな いので⋮⋮給金などは要らないと言ってくれる者もいましたが、遠 ざけました﹂ ジーノは悲哀を感じさせる声で言った。 そういう、自分を慕ってくれる騎士たちがいるというのは、将家 の者にとってはまさに本懐というか、この上なく嬉しいことだろう。 それを自ら遠ざけたというのは、胸が痛む話だった。 ﹁なるほどなあ。まとめて近衛とかで雇ってくれればよかったのに な﹂ さすがに他の将家の主を雇用する将家というのはないだろうが、 近衛あたりでは騎士団ごと組み入れても問題はないはずだ。 まあ、いろいろと面倒で軍組織に混乱をもたらすのは確かだから、 それはしなかったのだろう。 騎士団を解散して各々で再就職先を見つけてもらうというのは、 仕方のない選択肢に思える。 1188 ﹁まあ⋮⋮私などは自らの領地も守れなかった無能な男です。雇い たくないのも当然でしょう﹂ ﹁そうとも限らないと思うが﹂ ﹁そうでしょうか﹂ 実際のところはわからないけど。 こんな世間話で軍才の有無なんてわかりっこないし。 もしかしたら、優しいだけが取り柄の無能な男なのかも。 ﹁今回の戦争について、貴殿はどういう意見をもっているんだ?﹂ 俺は聞いてみることにした。 ﹁どういう意見というのは?﹂ ﹁勝つか負けるかとか、そんな感じの﹂ ああ、我ながら大雑把だな。 ﹁私は悲観的です﹂ 悲観的かぁ。 リャオ・ルベと同じような意見だな。 ﹁なぜだ?﹂ ﹁敵は、おそらく前回に倍する数の鉄砲を用意してくるでしょう﹂ 鉄砲というのは、シャン語では火矢というような字を書く。 火矢というのは⋮⋮鉄砲としかいいようがないのだが、クラ人が 使う原始的なマスケット銃のことを指す。 ﹁鉄砲というのは、ご存知のことかわかりませんが、機械弓と比べ て格段に厄介です﹂ 1189 機械弓というのは、クロスボウのことだ。 こちらも、鉄砲よりずっと昔から使われてきた。 ﹁そんなにか﹂ ﹁はい。実際に死傷する数はそれほどでもないのですが、遠距離か ら一方的にうちかけられると、どうしても軍の腰が引けてしまうの です。特にあの大きな音が厄介で⋮⋮﹂ ﹁それはそうだろうな﹂ 鉄砲が野戦で強力な理由は、その音にあるというのは、俺も知っ ていた。 前装式の滑腔銃というのは、装填に時間がかかるために、火力と しての脅威はそれほどでもない。 弾丸の威力はもちろん高いし、優秀な武器であることに違いはな いのだが、連射の点で難があり、射程や連射性の関係で弓のほうが 強い場合もある。 それでも、火薬が爆ぜる大きな音と、立ち上る煙を目の当たりに すると、人は実際以上の脅威を感じてしまう。 それは猛獣の咆哮と同じで、﹁人垣を作って槍衾を拵えれば、獣 ごときに負けるわけがないんだから、怖気づくな﹂と幾ら言っても、 狂った猛り声をあげて威嚇する猛獣を目の前にすれば、大多数の人 間は﹁そうはいわれても、怖いもんは怖い﹂と腰が引けてしまう。 獣と違い、実際に幾らかの人間は死ぬんだから、もっとたちが悪 い。 大声で﹁射撃で何人か死ぬだろうが怖気づくな。物凄い轟音がし て味方がバタバタと倒れるが、実際はそれほどでもない。見掛け倒 しだ﹂と兵を指導しても、説得力はないであろう。 1190 突っ込めば容易に押しつぶせる鉄砲隊でも、現実にはそれができ ないといった状況が現れる。 ﹁しかし、貴殿はまだ若く見えるが、戦場を経験したことがあるの か?﹂ ジーノは若々しいが、シャン人の若作りチートを足したものなの で、今はおそらく25歳前後だろう。 ゴウク伯父が死んだ戦争は十年も前なので、理屈が合わない。 キルヒナでは二十歳以下でも戦場に出ることがあるのだろうか? ﹁ええ。父は十年前の戦争で負傷して、寝たきりとなり、五年前に なくなりました。僕はそれ以来、北部で失った旧土を取り戻そうと、 自分のものとなった兵を動かし、何度か戦いました。ですが、恥ず かしながら、戦果は芳しくありませんでした﹂ ﹁なるほど、そういうことか﹂ この十年間、まったく戦がなかったわけではなかったらしい。 ジーノは局地戦で頑張っていたわけだ。 察するに、そうやってもがいている間に金もなくしたんだろうな。 動かす兵を雇う金も、家の財産を処分して得たんだろうし。 ﹁実際戦った経験から言うと、鉄砲に対し、どのような戦術が有効 だと思うのだ?﹂ ﹁堀と奇襲ですね﹂ と、すぐに答えが帰ってきた。 ﹁堀というのは?﹂ ﹁こちらの陣営に、即席の堀を作るのです。土を掘って﹂ 1191 やはり、塹壕のようなもののことを言っているらしい。 ﹁鉄砲の厄介なところは、盾が通じないところです。矢と違って、 持ち運びのし易い木の大盾などでは、貫かれてしまいます。分厚い 鉄板を張れば弾けますが、全軍の正面に張るのは現実的ではありま せん﹂ そりゃそうだろうな。 重いせいで、ただでさえ遅い歩兵の歩みがカタツムリの早さにな るだろうし、鉄は高価なので、費用がかさみすぎる。 木の盾をさらに分厚くして、丸太を並べた壁のようなものを作り、 それを押し出すように戦うという手もあるが、それも現実的ではな かろう。 全員がゴリラみたいなパワーを持った怪力無双の寄せ集めのよう な軍であれば可能だろうが、そうではない。 ﹁なので、土を掘って穴に入ります。鉄砲の弱みというのは、玉が 直線にしか飛ばないところです﹂ ﹁しかし、穴に入ったのでは攻められまい。それに⋮⋮﹂ ﹁包囲ですか﹂ 先回りして言われた。 ﹁そうだ﹂ 機動力が低ければ、包囲されてしまう。 野戦での包囲という状況は、戦術上最悪の状態といえる。 孤軍になるし、兵は恐怖を覚えて錯乱するし、将は混乱する。 1192 それに加えて、単純に、包囲されれば、外側を包んでいるほうが 内側に対して面積が広く、内側のほうは取れる面積が低い。 つまり、戦闘正面が広く取れない。 戦場において、それはかなり大きな違いで、もし、こちらがより多 く、より練度の高い兵を抱えていても、向こうは正面で五千人で戦 えているのに、こちらは三千人しか戦えない。ということが起こっ てしまう。 言ってみれば、一点に纏められながら、状況的には各個撃破され ているような、わけのわからないことになるわけだ。 そして、その包囲を作る要因のもっとも大なところは、機動力の 差にある。 彼我の動くスピードに五倍も十倍も差があれば、包囲されるに決 まっている。 ﹁そこはカケドリで補います。鉄砲に唯一有効なのは、カケドリの 突撃です﹂ ﹁ふむ﹂ 包囲するのに、あるいは包囲を阻止するのに騎兵を使うという用 兵は、これも古今の戦術の基本である。 ﹁しかし、この戦法はこちらから攻める場合には使えません。相手 に引かれてしまえば堀は使えませんから。先に実際に使った例があ ればよかったのですが﹂ ジーノが戦った戦場では、旧領を取り返す戦闘だったので、例外 的に攻める一方だったのだろう。 1193 ﹁提案したのか﹂ ﹁はい。ですが、煙たがられるだけで終わりました。致し方のない ことですが﹂ そりゃそうだろう。 同僚といってはおかしいが、トガ家は同業者の中では、当人に責 任はないといっても、負け組といってもいい存在だ。 そこの当主をしている若造が、会議の場で奇抜な申し出をすれば、 頭の硬い連中のことだから、一笑に付されて終わるのは、残念なが ら仕方がない。 ﹁しかし、合理的には思えるな﹂ ﹁そうですか?﹂ 俺の賛同が得られて、ジーノは若干嬉しそうな顔をした。 ﹁だが、騎士団が寄せ集まった軍では、提案しても可能性はなかっ たな。凡庸な策しか取られんだろう﹂ トップが一人だけならやりようもある。 そいつを説得できさえすれば、なんとでもなるだろう。 説得の成功自体が奇跡的な可能性かもしれないが、兎にも角にも 可能性は残る。 だが、キルヒナの軍というのは、シヤルタもそうだが、将家が寄 せ集まって作った連合軍だ。 誰かが頭を張るといっても、そいつは議長職みたいなもので、独 裁的指揮権を持つわけではない。 トップが五人も六人もいれば、そいつらを全員奇抜な案に賛成さ 1194 せるなどということは、夢物語にすぎない。 誰かが賛成すれば、そいつと反目している誰かが﹁いやいや、そ れには反対だ﹂などといって、議論は平行線をたどるだけだ。 誰か一人を誠心誠意説得して、賛同を得れば良いというわけでは ないので、これはもう現実には実現不可能ということになる。 有能も無能も、平凡も入り混じった連中が、皆納得するのは、凡 庸な策しかありえない。 ﹁それは僕にも解っていました。しかし、僕には⋮⋮﹂ 無理とわかっていても提案しないわけにはいかなかったのだろう。 その結果が、この旅というわけか。 ﹁そうだな。愚かな真似とわかっていても、しないではいられない という事も、世の中にはある﹂ ﹁はい﹂ ﹁その結果、こういう出会いもあった﹂ 俺は袋からパンを取り出して、ナイフで二つに割った。 それを手渡す。 ジーノの手元の肉は、もう十分過ぎるほどに焼けていた。 ﹁いただきます﹂ ジーノは早速肉をパンに挟むと、鉄串を抜き、おもいっきり頬張 った。 そしてモグモグと咀嚼する。 美味そうに食うもんだ。 1195 ﹁もし必要なら、ホウ家へ仕官が叶うよう、紹介状を書いてさしあ げるが﹂ ﹁ふえっ!? うっ⋮⋮ゲホッゲホッ﹂ ジーノはむせた。 ﹁貴殿の仕官が叶うかどうかは当主殿が決めることだが、最低限会 うくらいはしてくれるだろう﹂ 俺が当主の息子だということは黙っておこう。 ﹁それは⋮⋮願ってもない。なんともありがたい﹂ ﹁そうか。なら、食事が終わったら書くとしよう﹂ 食事が終わると、俺は簡単な紹介状を書いてやった。 翌日、森のなかで彼の見送りを受けながら、俺は再び空に舞った。 1196 第074話 王都リフォルム 五月九日、俺はようやっとキルヒナ王国の王都リフォルムの上空 に到達した。 キルヒナ王国の王都リフォルムは、上空からみると、シビャクと だいぶ形が違う。 シビャクのように城の周りだけ城壁があり、城下町は開放されて いる形ではなく、城市すべてが城壁に囲まれている。 つまりは、海以外は全周が壁に覆われた、立派な城郭都市であっ た。 城壁の中にはぎっしりと建物が詰まっているが、城壁がないぶん 奔放に広がっているシビャクと比べると、都市圏はやや狭い。 シビャクを見慣れている俺からすると、ちょっと窮屈な感じにも 見える。 俺は、重要と思われる箇所を軽く見まわったあと、王城に近づき、 近くの空き地に星屑を降ろした。 ﹁ふう﹂ パパパッと手早くベルトを外し、星屑から降りた。 とりあえずは星屑を鷲舎に預ける必要があるが、初めての場所な ので、その場所もわからん。 と、その前に人が駆け寄ってきた。 1197 ﹁おい! なにをしとるか!!﹂ おっさんであった。 どうも騎士のようだ。 やあやあ旅の者です。一晩の宿を貸してもらえませんでしょうか。 と言えるような状況でもないので、少し面倒だが事情を説明せね ばなるまい。 ﹁ここは鷲を下ろすところではないぞ!﹂ あ、そうだったのか。 とはいえ、上空から見ると離着陸場のようにしか見えなかったが。 ﹁すまぬ。私はシヤルタ王国の騎士院生である。リフォルムは初め てで、不案内なのだ﹂ ﹁騎士院生だと?﹂ おっさんは眉をひそめた。 ﹁この鷲をトリカゴに置かせてくれ﹂ ﹁今は戦時中である。物見遊山に来た学生にトリカゴを貸す余裕は ない﹂ にべもなかった。 うーん、言い方が悪かったかな。 ﹁わたしは、特別の依頼を受け、公務できているのだ。物見遊山で はない﹂ 1198 ﹁ダメだダメだ。城壁の外に繋げ﹂ なんだこいつ。 面倒臭えな。 俺が鬼武蔵だったら人間無骨で突き殺してるところだぞ。 ﹁読みたまえ﹂ 俺は懐から一枚の紙を取り出した。 ﹁ん?﹂ ﹁いいから読みたまえ。紹介状だ﹂ おっさんは用紙を受け取って、目を通しはじめた。 そして読み終わると、 ﹁⋮⋮事情はわからぬが、シヤルタの女王陛下の使者ともなれば、 無碍にするわけにもいくまい﹂ と言った。 俺が渡したのは、シヤルタの大使や公式の使者が持たされるもの と同じ身分証明書だ。 パスポートといったら変だが、女王の名前で﹃この人を丁重に扱 ってください﹄というような内容が書いてある。 とはいえ、普通は俺のような年齢の者が持っているものではない し、気安く与えられるものでもないので、おっさんが戸惑ったよう な顔をしているのも当然といえば当然だろう。 ﹁しかし、女王陛下に用向きがあるのであれば、鷲は親衛師軍の鷲 舎に置くのが良かろう﹂ 1199 察するに、親衛師軍というのは、シヤルタでいう第一師軍のこと だろう。 女王の客を名乗るなら第一師軍に世話になれ、ということか。 そう言われれば否応もない。 どうやらお門違いの場所に降りてしまったようだ。 ﹁なるほど、それでは案内してもらえますか﹂ ﹁まあ、よかろう﹂ おっさんは面倒くさそうに歩き出した。 俺は手綱を握って星屑を引っ張っていく。 随分長いこと歩いただろうか。 鷲舎にたどりついた。 ﹁なんのご用向きでしょうか﹂ つなぎ服のようなものを着た人の良さそうな飼育員さんが言って きた。 普通に着るものより更にダボダボのタイプで、特に汚れる仕事を する場合、普段着の上に重ね着をして、服が汚れないようにする汚 れ着だ。 ﹁僕はシヤルタから公用で赴いた者です。一晩鷲を預かっていただ きたい﹂ ﹁了解しました。癖などはありますか?﹂ 癖というのは、鷲の癖のことだろう。 1200 ツツキ癖などの悪癖がある場合、世話役はヘルメットをかぶって 中に入る必要がある。 ﹁悪い癖は一切ありません。よく出来た鷲です﹂ ﹁ふむ。では預からせていただきましょう﹂ ﹁お願いします﹂ 俺は飼育員さんに手綱を手渡した。 飼育員さんはすぐに鞍を外しにかかる。 ﹁おい、そこの餓鬼﹂ 背後から声がかかった。 俺は振り向いた。 俺を案内したおっさんの隣に、歳は30くらいだろうか。 また別の男がいた。 肩あたりまである長髪をなびかせた美男子で、なんだか金糸の入 った軍服風のおしゃれな服を着ている。 軍服をアレンジしているのだろうか。 誰もが好む趣味とは思えないので、これは正規のものではなく、 趣味の混じったものであろう。 ﹁僕のことですか?﹂ 俺は自分を指さしながら言った。 ﹁そうだ﹂ 俺は生まれてこの方、餓鬼などと言われた覚えがないので、なか 1201 なか新鮮な体験であった。 ﹁なにか御用ですか?﹂ なんか咎められるようなことをしたのだろうか。 ﹁うむ、実はつい先日、鷲を駄目にしてしまってな。鷲を所望して おるのだ﹂ ﹁そうですか﹂ ああそう。 と思いながら、俺はなんだか嫌な予感がしていた。 ﹁ついては、その鷲を譲ってくれ﹂ まあ言葉のキャッチボールでそうなるよな。 ﹃さっきから腹が痛くてよ﹄﹃へー﹄﹃トイレ行ってくるわ﹄ みたいな感じで、なんとなく読めてた。 ふざけんな。 ﹁断ります﹂ 初対面の人間に鷲よこせとか、どういうたぐいのアホだ。 タダ ﹁ふむ⋮⋮﹂男はまったく髭が伸びていない綺麗でつるつるの顎を 撫でた。﹁なにも無料でと言っているわけではないのだぞ? 十分 な金は払おう﹂ だから、どういうたぐいのアホなんだよと。 ドッラとはまた方向性の違うアホというか、勘違い野郎だな。 ﹁いくら金を積まれようが無理なものは無理です。この鷲は僕にと 1202 っては共に産まれ育ってきた兄妹のようなもの。金で売り渡せるも のではありません﹂ ﹁わからん餓鬼だな。我が国はこれから戦争なのだ。お前は、年齢 から見るに、出陣するわけではないのだろう? 今から戦争をする 友邦の騎士が、鷲を所望しておるのだ。これから使おうというのだ。 優先順位というものを考えたまえよ。快く譲るのが当然というもの だろう﹂ うわーこいつ本格的に頭おかしい人や。 自分の都合でしか物事を考えられない系男子や。 ﹁そんなことは僕の知ったことではありません。僕はシヤルタ女王 の王命を受けて来たのです。これ以上勝手な話をするなら、二国の 友好に亀裂が入ることになりかねませんよ﹂ ﹁亀裂をいれたくないなら、黙ってその鷲を寄こせばよいのだ!﹂ いや、どう考えても、亀裂が入っても構わないのはシヤルタのほ うで、入ったら困るのがアンタらだと思うけど⋮⋮。 もう面倒だから、無視して鷲を預けるか。 いや、この有り様だと、預けたあと勝手に所有権を主張され、盗 まれるかもしれん。 やはり母国ではないのは面倒だな。 ﹁嫌ですね﹂ ﹁なんなんだお前は。だから金は渡すといっているだろう﹂ やべー話題ループしてる。 なんなんだはこっちの台詞だよ。 1203 ﹁はあ⋮⋮金があるならヨソで買えばいいでしょうに﹂ ﹁戦時中だ。鷲の余りがどこにある﹂ なんだ、在庫がないのか。 まあ鷲を駄目にしたとかいってたし、恐らくよっぽど扱いが下手 で潰しちまうから、騎士団から回して貰えないんだろう。 どこの騎士団の人間かは知らんが。 もう星屑に乗って逃げるかと思い、星屑を見たら、既に鞍が半分 くらい外れている。 これでは飛べない。 逃げの手は諦めるしかないか。 ﹁ともかく、嫌といったら嫌です。いい加減聞き分けてください﹂ ﹁貴様こそいい加減にしろ。少しくらい立場をわきまえたらどうだ﹂ あーもう面倒くさい。 押し問答かよ。 ﹁しつこいんですよ。嫌と言っているんだから諦めなさい﹂ ﹁いいから寄こせばいいんだっ!﹂ なんだか詰め寄ってきた。 手綱は、今キョドってるつなぎ飼育員のおっさんが握っている。 奪い取るつもりだろう。 俺は体重を乗せた前蹴りを放って、男のヘソのあたりを蹴り飛ば した。 1204 ﹁グッ!﹂ 男は蹴り飛ばされ、背中を打って倒れこんだ。 ﹁子どもですか。程度が低い﹂ 騒ぎを遠巻きに見ていた連中が気色ばみ、帯びている武器に手を 伸ばした。 俺が蹴った男もまた、怒気を発散しながら立ち上がる。 ﹁貴様ァ⋮⋮﹂ いやいや、お前がいちゃもんつけてきたんだろ。 こっちは被害者だよ。 ﹁おいっ! こいつを捕らえろ!﹂ 男は周囲を見回しつつ、そう叫びながら、短刀を抜いた。 周りの連中も集まってくる。 俺を捕縛するつもりか。 幾らなんでも我慢にも限界っつーもんがあんぞ。 なんなんだこの国は。 ﹁きさまら!!! 俺を誰だか知ってのことか!!!﹂ 俺は思い切り怒号を発した。 突然の大声に、連中は反射的にビクッとすくんだ。 ﹁俺の名はユーリ・ホウ! シヤルタ王国の将家の一つ、ホウ家の 嫡男である!! キルヒナの騎士は大恩あるホウ家の名を忘れたと 1205 いうのか!!﹂ 俺が睨め回しながら叫ぶように言うと、皆一様にして唖然とした 顔をした。 ﹁この俺を餓鬼と侮るだけならまだしも、くだらぬ因縁を付け、騎 士の魂である鷲を奪おうとするなど、恥を知るがいい!!!﹂ 俺は短刀を抜いた。 そして、男に歩み寄って短刀を突きつけた。 ﹁俺の鷲をどうしても欲しいというのなら、正々堂々、決闘にて白 黒つけようではないか! 先に剣を抜いたのであれば、当然そのつ もりなのであろう!﹂ 先に剣を抜いたといっても、こいつは自分の顔なじみの騎士ども が、よってたかって俺を捕縛してくれることを頼りに抜いたのだ。 俺と殺し合いの決闘をするつもりではなかろう。 ﹁ぐっ⋮⋮﹂ ﹁さあ、早く短刀を構えよ!﹂ 男はゆるゆると短刀を下げた。 ﹁どうした!! 臆したか!!!﹂ ﹁チッ⋮⋮﹂ バツがわるそうな顔してやがる。 ﹁やる気がないのであれば、さっさと俺の目の前から消え失せろ。 下衆が﹂ 1206 俺は、邪魔だから消えろとばかりに腕を振った。 ﹁⋮⋮チッ﹂ 男はもう一度舌打ちをした。 なんだよ、癖か。 ﹁糞ガキが⋮⋮覚えてろよ﹂ そして、そう言いながら、俺に背を向けて去っていった。 ﹁おい、そこの﹂ 俺は、男の横に立っていた、俺をここまで案内してきたオッサン に声をかけた。 ﹁さっきの者の名を教えろ﹂ ﹁は、はぁ⋮⋮いえ﹂ 言いたくなさそうだ。 あーもう面倒くせえなあ。 ﹁いかな者であろうと、貴い身分の者であれば名を教えられぬとい うことはあるまい。それとも、先ほどの者はこの国では名も名乗れ ぬような身分の人物なのか?﹂ ﹁そ⋮⋮そんなことはない﹂ ﹁では、教えても問題はあるまい。さあ、言いたまえ﹂ ﹁⋮⋮彼の人は、近衛のジャコ・ヨダ、と申す者である﹂ ジャコ・ヨダね。 覚えとこ。 1207 第075話 王配 そのあと、鷲を預けついでに飼育員の人と話しながら情報を得て いると、王城の方から人が走ってきた。 ﹁はぁはぁ⋮⋮お話中失礼致します。ユーリ・ホウ様でございます か﹂ ﹁そうですが﹂ どうも、この人は文官のように見えるな。 体を鍛えておらず、教養院を出て王城で務め仕事をしているとい う感じだ。 ﹁王城に案内をさせていただきます﹂ 案内してくれるらしい。 ﹁わざわざご苦労様です﹂ 俺は慇懃に頭を下げた。 さっきの大騒ぎで、誰かが言いに行ったのだろう。 悪いことをしてしまった。 こんな血相を変えて走ってくる必要はなかったのに。 ﹁それじゃ、失礼します﹂ と、俺は先ほどまで話をしていた飼育員さんに言った。 1208 ﹁はい。鷲はきちんとお預かりします﹂ 軽く手を振って別れると、俺は案内人の後ろに付き、荷物を持っ てとことこと歩き始めた。 星屑に無理のないぶんだけの荷物なので、さほど多くはない。 そのまま王城の中に入る。 リフォルムの王城は、誰も彼も忙しそうにしていた城の外と比べ れば、随分と落ち着いていた。 忙しげにしている人々も居るには居るが、殺気立っているわけで はない。 どうやら、籠城用の資材を外から運び込んでいるらしい。 ﹁こちらのお部屋にどうぞ﹂ と通されたのは、かなり上等の客室だった。 うーん。 俺がリフォルムに寄ったのは、王都の地理を、軽く下見をしてお く必要を感じたからだ。 久しぶりにちゃんとした食事をしておきたかったのもある。 つまりは、星屑を安心して預けておき、休める場所が欲しかった のだ。 こんな豪勢な部屋で贅沢をしたいと思ったわけではない。 確かに鷲舎とベッドくらいは、とは思ったが、戦争前で忙しい国 にあまり迷惑をかけるのもどうかと思うし。 1209 とはいえ、供されたものを﹁必要ない、絶対に歓待は断る。部屋 もここには泊まらん﹂などと言って強情を張るのはおかしな話だし、 それは失礼にあたるだろう。 ﹁あの、夕食などは﹂ ﹁はい、もちろんこちらでご用意させていただきます﹂ うっ⋮⋮。 城下町で食ってくるからいいです。と言おうとしたのに。 そりゃ、こんないい部屋に通されたんだから飯の用意くらいされ るよな。 酒場で情報収集でもするつもりだったのだが。 ﹁お食事のまえに湯浴みとお着替えのお世話をさせて頂きます﹂ まー、俺のナリを見たらそうくるよな。 俺はもう五日も風呂に入っていないので、全体的に酷い有様だ。 川で水浴びをしていたから、浮浪者のようではないだろうが、み っともなくはある。 下着はともかく上着やズボンは洗濯をしていないし、給仕からし てみれば、風呂に入る前はベッドやソファに座らないでくれ、と言 いたいくらいだろう。 ﹁ありがたくお受けします。よろしくお願いします﹂ 俺は軽く頭を下げた。 俺も、さすがにこの服でこの部屋を使うのは、気が咎める。 1210 ﹁それでは、浴室にご案内いたします﹂ *** 案内されたのは、恐らく将官用と思われる浴場だった。 浴場と分けられた脱衣所だけ見ても、下級兵のような連中が使っ ている浴場とは思われないような清潔さを保っている。 脱ぎ場で俺が脱いだ服を回収してゆくと、案内人のひとはするす ると去っていった。 俺は素っ裸になって浴場の中に入った。 ゴエモン 湯気の立ち込めた浴場の中に、寮にあるのと同じくらいの大きさ の湯船があった。 寮の大風呂もそうだが、構造的には五右衛門風呂と同じで、石造 りの風呂の片隅に鋳物のブロックがあり、その下は火を焚く竈にな っている。 鋳物の素材は鉄であったり銅であったりするが、銅のほうが熱伝 導性が高いので、上等とされている。 寮の風呂にあるものは鉄であり、銅ほど熱くはならないので、湯 中のブロックに背中合わせで二人が座り、尻を熱し、先に熱さに屈 して尻をどかしたほうが負けという、これほど頭の悪いチキンレー スは見たことがないという儀式が毎夜行われている。 俺は近場のオケを使って頭から湯をかぶると、風呂に入った。 1211 ﹁⋮⋮ふう﹂ 俺は温かくしめった空気を肺いっぱいに吸い込んで、一息ついた。 あーあったけー。 身にしみるよなー。 風呂にも入れない貧乏臭い野宿旅も、実のところ性に合っていて、 悪くはないのだが、やはりこういった贅沢な風呂につかるのは気持 ちがいい。 *** 風呂に浸かって五分ほどたち、いよいよ骨身に熱が染みてきたこ ろ、 ﹁やあ﹂ と、湯けむりの向こうから声をかけてくる者があった。 先客がいたのには気づいていたが、話しかけてくるとは思わなか った。 ﹁⋮⋮どうも﹂ ここは多少ぶっきらぼうに答えても構わなかろう。 特段に仲良くなる必要もなさそうだし、失礼と思われても支障は ない。 ﹁きみがユーリ・ホウくんかね﹂ 1212 なんで名前知ってるの⋮⋮。 こわい⋮⋮。 ﹁はあ、まあそうですが⋮⋮﹂ ﹁先ほどはうちの者が失礼したようだ﹂ なんだ、情報はええな。 まだ騒動から一時間経たないくらいかと思うが⋮⋮。 ﹁いえ、別に気にしてはおりませんので﹂ 星屑盗まれなきゃなんでもいい。 ﹁たいそうご立腹と報告を受けたが、怒ってはおらんのかね﹂ 報告ってことは、こいつはあの馬鹿の上司ってとこか? 予めメイドか誰かに事情を聞いて、風呂場に先回りして待ってい たというのか。 どういうこっちゃ。 まあ俺を誘導してきたのは例の文官さんだから、あらかじめ話が ついていてもおかしくはないが。 ﹁怒ってみせねば諦めぬ、と見ただけのことです。穏やかにしてい ればつけあがる輩というのは、どこにでもいるので﹂ ﹁フフフッ⋮⋮手厳しいな﹂ 苦笑いはしているが、どうやら気に触った様子はない。 やはり、もともと素行に問題のある男だったのか。 ﹁不快であったのは確かですから。激怒まではいかぬまでも、怒り 1213 はあります。ただ、そんなものは、一晩寝れば収まるもの。わざわ ざ機嫌をとらずとも、明日には忘れていますよ﹂ 怒ってみせたのは半分以上演技なので、どうでもいいが、上官が 最速で風呂場に出向いてきて機嫌取りをしなくちゃならないほど、 俺は大物ではない。 国主でも王族でもないんだから。 ﹁そうは行かぬな。国というものにも体面というものがある。詫び など要らぬといわれても、詫びの品を持って頭を下げにゆく。それ が外交というものだ﹂ うーん、めんどくさい。 社交辞令を重要視しているのは解るが、そんなのはいらないんだ が。 ﹁あの男が言っていたことも一理あります﹂ ﹁ほう?﹂ 謎のおっさんは興味深げに反応した。 ﹁この忙しい時に戦場見物に参ったような若造など、邪魔者扱いさ れて当たり前の立場です。その上に気遣いまでされては、本当にた だ邪魔しにきたようなもの。それこそ、騎士の恥でしょう﹂ こう言っておけば正解か。 ﹁ふむ⋮⋮なるほどな﹂ ﹁戦勝の祝いの席でなら、幾らでもお受けいたしますよ﹂ というか、なんか貰っても星屑に積んでいかなきゃならないんだ 1214 から、荷物になってしまう。 こうそく そくせん 送るにしても、陸路は難民で梗塞を起こしている最中なので、金 を払えば送れはするのだろうが、俺の荷物なんぞが塞栓の一部にな るかと思うと、さすがに気後れする。 ﹁では、せめて夕食に招待させてもらおう﹂ へ? なぜそうなる⋮⋮。 部下がやらかした詫びに、上官が夕食に誘う。 まあ、ありえなくはないか。 ﹁お気遣い頂かなくても本当に結構ですが﹂ 食事は城が出してくれるって言ってたし。 ﹁これは君が得をして我々が損をするという話ではないのだよ。ユ ーリくん﹂ はて? どういうこっちゃ。 ﹁君は、少しでもいい状態で我々に戦争をして欲しい。余計な邪魔 はしたくない。と思っているのだろうが、それは間違いだ。このま ま君を飛んでいかせては、我々は大恩あるゴウク殿の甥御にとんだ 無礼をしたまま行かせてしまったことになる。これから続々と来る シヤルタの援軍がその話を聞けば、そんな無礼者たちを守るために 命をかけるのは馬鹿らしい。と思うだろう。個人が思う思わないで はなく、大勢の中には、必ずそう思う人間が現れるのだ﹂ 1215 あー、まあそりゃそうか。 ﹁それは、我々にとって、とても大きな損失なのだ。しかし、我々 が礼を尽くして君をもてなした。ということになれば、そういうこ とにはならない。つまりは、我々にとっても得をすることになるの だよ﹂ どうも、俺の思慮のほうが足りてなかったらしい。 ﹁わかりました。そういうことであれば﹂ と、俺は了承した。 気乗りはしないが仕方がない。 言われてみれば、こいつの言うことは一々正しい。 歓待とかは苦手だが、問題を起こしてしまった者としては、責任 のとり方があるということだろう。 一応は俺が隊長ということになっているのだから、ここはそつな くこなしておくのが正解だ。 ﹁王城で用意されるという食事には断りをいれなければいけません ね。リフォルムの地理には不案内なのですが、どちらに伺えばよろ しいのでしょうか?﹂ ﹁なに⋮⋮? ハハハッ!﹂ なんだ、突然笑い出したぞ。 ﹁なにかおかしなことを言いましたか?﹂ ﹁ふふ⋮⋮いや、おかしなことはない。そういえば、名乗りもして いなかった﹂ 1216 ﹁はあ﹂ 誰だよ。 いや、高位の貴族だってことは察するけれども。 ﹁俺はこの国の女王の夫だ﹂ ﹁へ?﹂ 女王の夫ってことは、つまり女王の夫ってことか? ﹁だから、きみは部屋でまっていれば良い。あとで使いの者を呼び にやる。なにせ、ここは俺の家だからな﹂ ああ⋮⋮。 そりゃそうだろうよ。 なんだ、このおっさん、王配だったのか。 そういえばキルヒナの王配は存命だったんだよな。 キャロルのとーちゃんは若くして病死したから、王配というのは 初めて会う。 それにしても、王配に食事に招かれるとは。 俺もよくよく、王族と飯を食うことかけては縁のある男らしい。 1217 第076話 お食事会 部屋に戻って服を着替えさせられ、連れて行かれた先は、城の奥 詰まった一角であった。 やはり、シビャクの王城と同じような設計というか、考え方にな っているのか、このあたりは王家の私的な一角ということになって いるらしい。 途中の廊下に不自然に簡易な門が取り付けられており、その前で 門番が張っているところなどはシビャクの王城とは違うが、おそら くここから先は立入禁止、ということなのだろう。 もちろん、俺は招かれた客であるわけだから、その門はスルーし て、内部へと入った。 部屋に通されると、そこには三人の人間がいた。 まず一人、こいつは先程のおっさんだ。 もう一人は、おっさんと同年齢のおばさん。俺の見る金髪碧眼の 女性その4であり、おばさんというには若干心理的抵抗が生まれる 感じの、若作りの女性であった。 最後の一人は、金髪碧眼の女性その5であり、こちらは少女であ った。 その5は、その4と王配殿下の間に出来た娘であろう。とすぐに 察せられた。 1218 なんとも顔のパーツが似ている。 俺より若干年下のように見受けられるな。 しかし、こちらはキャロルと違って伏し目がちで、俺の目を見よ うともしない。 キャロルであったなら眼光鋭く、俺をじっと見つめてくるであろ うことを考えると、やはり印象が相当違うな。 どうにも人見知りらしく、オドオドしてるようにも見える。 というか、その4だのその5だの心のなかで呼んでいたが、考え てみれば、俺は女王陛下とその娘の名前は知っているのであった。 前には、娘の名前を大工に質問したこともある。 ジャコバ陛下と、テルル殿下だ。 そうか、この二人がそうなんだよな。 ﹁お初にお目にかかります﹂ 俺は室内に入ると、略式の礼をした。 これは膝をつけないでもいいやつで、よくよく女王と接すること の多い立場の人間がやる。 初対面ではあるが、俺は招かれた立場だし、ここが玉座であるな らともかく、気安い食事の席で最敬礼というのはTPO的に少しお かしい。 これで失礼にはあたらないはずだ。 今にして思えば、女王陛下に最初に招かれた時のあれは、ちょっ と大仰すぎた。 1219 ﹁ホウ家のユーリと申します。本日はお食事の席にお招きいただき、 恐悦至極に存じます﹂ と、挨拶だけは丁寧にしておいた。 ﹁よい、楽にせよ﹂ ジャコバ女王が言ったので、俺は略式礼を解いた。 それから、女王は手振りで自分の対面の席を指し示した。 ﹁失礼いたします﹂ 俺は席を引くと、そこに座った。 挨拶が終わったので、改めて軽く室内を見回してみると、意外と 小さな部屋に思える。 食堂という感じはしないし、テーブルも四人がけ程度の円卓だ。 質のよい壁紙には、油絵が掛けられていて、天井には蝋燭立ての シャンデリアが吊るされている。 私的領域では大人数を招いての夕食会などはしないから、これで 十分なのだろう。 次に、王配が口を開いた。 ﹁私の紹介はいいな。妻の紹介も、きみには必要ないだろう。きみ の左手に座っているのが、私たちの娘だ。さ、自己紹介しなさい﹂ と、テルル殿下に促す。 ﹁ぁ⋮⋮あの⋮⋮﹂ 1220 なんだか消え入りそうな声で喋りだした。 う、うーん。 引っ込み思案なのかな⋮⋮。 やはり、うちの王室には居ないタイプだ。 ﹁存じ上げておりますよ。テルル殿下ですね﹂ と、ニッコリ笑いながら助け舟を出してあげた。 俺も、どちらかというと初対面の人間とフレンドリィに話すのは 苦手なタイプだったから、気持ちはよく分かる。 ﹁⋮⋮は、い﹂ ﹁さすが、勉強熱心であるな﹂ と言ったのはジャコバ女王であった。 ﹁そのくらいは存じ上げておりますよ。殿下は将来、女王になられ るお方です﹂ ﹁まあ、な⋮⋮ところで、話の前に言っておかねばなるまい。我々 の親衛がとんだご無礼を働いたようだ﹂ ああ、そうだったな。 それが本題だった。 そもそもから招いた動機から考えてみれば、飯を食い終わったあ とで、ついでのように詫びの言葉を言うのでは、これは恰好がつか ないということなのだろう。 それにしても、こっちの女王陛下は、なんだかキリっとしてるな。 どちらかというとおっとりとしている、うちの女王陛下とはタイ 1221 プが違う。 キャロルが大きくなったらこんな感じになるのかも。 おおごと ﹁王配殿下にも申し上げましたが、気にしてはおりません。なにや ら大事になってしまったようですが、具体的になにを損じられたわ けでもありませんので﹂ ﹁そうであるか。そう言ってもらえると、我が国としても助かる﹂ 元より外交問題になるかどうかは微妙な線だと思うが⋮⋮。 まあ俺も家格からしたら結構な血筋なので、一応は大事を取った というところか。 外交的にミスが許される時勢ではないので、これは正解だろう。 ﹁いえ、礼を言わなければならぬのは、本来こちらの方です。槍も 貸さず戦場を見物しにくるなどというのは、貴国にとっては迷惑に しかならぬこと。女王陛下におきましては、それを寛大なお心でお 許しいただいたのですから、感謝こそすれ、怒る資格などはありま せん﹂ と、ついでにおきまりの挨拶もしておいた。 観戦隊を率いてくる挨拶はこれでいいだろう。 といっても、俺は本番ではリフォルムに立ち寄るつもりはない。 本番では迂回する気でいる。 観光にくるのではないのだし、そもそも軍団の邪魔になるからだ。 作戦の性格上、実際に戦闘を行う軍団とはなるべく接触しないル ートで、行った、見た、帰った。というのが理想だろう。 1222 ウチの女王陛下としたら、大金を払って他に援軍を出してやるの だから、そんな無駄な気兼ねはする必要はない。という意見なんだ ろうが、俺の意見はまた違う。 こんな従軍武官のような真似は、誰からも迷惑がられこそすれ、 歓迎などされるわけはない。 それを、空気を読まず英雄ぶって大都市をハシゴなどすれば、ひ んしゅくを買ってトラブルを起こすだけだ。 ﹁こちらとしても、貴殿の率いる隊が大いに学ぶことは、将来的に は利のあることだ。遠慮などしなくてもよい﹂ ﹁はい。では、なにかありましたらお願いに伺わせていただきます﹂ ﹁うむ⋮⋮それより、今日は食事を楽しんでいってくれ。料理人に は腕によりをかけて作らせるように言ってある﹂ そいつは楽しみだ。 こんな状況では、味などわからない⋮⋮と言いたいところだった が、近頃はめっきり人らしい食事もしていなかったので、純粋に楽 しみであった。 *** ぱくぱくと前菜をたいらげると、次にメインの肉料理がきた。 ﹁トナカイの肉煮込みです﹂ と給仕に差し出されたのは、煮こまれた肉の上に何やらソースが かかった料理であった。 これがトナカイの肉らしい。 1223 トナカイは、シヤルタ王国では殆ど見られない動物であるので、 肉を食ったことはなかった。 見た目は⋮⋮のっぺりとした赤身で、鹿肉そっくりだ。 いや、トナカイもシカの一種だから、これも鹿肉ではあるのか。 まあ、少なくとも、アカジカだとヘラジカだのの肉とは区別がつ きそうにない。 ﹁おいしそうですね。頂きます﹂ ナイフで切って口に入れてみると、普通の鹿肉とは若干異なる、 独特の癖のある油が口の中に広がった。 よく煮込まれており、ソースには酒の香りがわずかに残っている。 癖はあるが、臭みはない。 調味料や煮込みでうまいこと臭みを消しているのだろう。 ﹁どうかな?﹂ と女王陛下が聞いてきた。 ﹁ええ、素晴らしい味ですね﹂ と答えた後、もうちょっと褒めるべきかと考えた。 ﹁トナカイ肉というのは初めて食べましたが、北方ならではの野趣 あふれる風味がします﹂ うん、こんなところでいいだろう。 実際、癖のある肉というのも、臭みが消えていれば悪くない。 長い文化的生活の中で欠乏してしまった滋養を満たすような、独 特の悦びを堪能できる。 ﹁ふむ、そうか。気に入っていただけたようでなによりだ⋮⋮とこ 1224 ろで、さきほどの話の続きだが﹂ ﹁はい﹂ 俺は小さく切った肉を少しづつ口に入れながら答えた。 肉を小さく切って食うというのは、マナーというよりも必要性か らくるもので、こうすると口の中でモグモグする時間が減り、スム ーズに会話しつつ、会話の合間に食事をすることができる。 ﹁先ほどの話の内容からすると、森のなかで野宿をしながらやって きた、というように思われるが﹂ ﹁そうなりますね。季節柄、とても寒かったですが﹂ ﹁なるほど。ホウ家の者だけあって、豪胆なのだな﹂ とおっさんが言った。 豪胆とは。 俺という意識が発生してから、初めて言われた言葉だ。 ﹁そんなことはございませんよ。野宿くらい、商人の方々などは誰 でもしていることです﹂ というか、行軍に野営準備は付き物で、野営の際は下っ端の騎士 が監督することになるので、騎士院で実習するのだ。 さすがに、その時はテントを始めとする野営道具は完備してある し、行き当たりばったりの野宿ほどキツくはないが。 どちらにせよ、十八歳にもなったのだから、それくらい一人でで きなければ恥ずかしい。 ﹁しかし、将家の御曹司が野宿の一人旅というのは、なかなか聞か ぬな﹂ 1225 そういえば俺も聞いたことがないが。 いや、聞いたことどころか、見たこともあるんだった。 ついでにいえば、最近会った。 ﹁道中で会ったジーノ・トガという方は、僕よりもっと厳しい旅を していましたよ﹂ と、俺が言うと、夫婦は軽く目を見開いて、まったくそっくりに 口を一の字につぐんだ。 似たもの同士だな。 ﹁彼に会ったのか?﹂ ﹁ええ、森のなかで焚き火をたいておりましたら、木々の間から現 れ、一晩火をかしていただけないだろうか、と言われました﹂ ﹁それは⋮⋮﹂ なんだか渋い顔をしている。 ああ、この言い方だとジーノが俺に迷惑をかけた、というように 聞こえるか。 ﹁いえ、彼に焚き火の用意がなかったわけではないのです。ただ、 二人で一つの焚き火を囲めば、薪が倍使えるので、そうすればお互 い得なのです。お互いに良い出会いであった。ということですね。 まあ、そのあと、一夜語り明かしました﹂ 簡単に弁護しておいた。 詳しいところは話す必要もないだろう。 ﹁ふむ⋮⋮そうか。達者であったのならよい﹂ 1226 ﹁達者といっても、道中まったく宿も取らず、食事は弓で狩りをし て得た獣肉で済ましている様子でしたが﹂ ﹁そうであるか﹂ 簡単に流された。 なんだかあまり関心がなさそうだ。 俺がジーノと会っていたことには驚いたが、ジーノがどんな旅を しているかについては、これはどうでもいいらしい。 彼ら的には終わったことなのかもしれない。 ﹁といっても、特に具合が悪いようにも見えませんでした。ご安心 ください﹂ ﹁⋮⋮﹂ なんだか黙ってしまった。 やはり、他国の人間とは話したくない話題なのだろう。 ﹁シヤルタに向かっていたようなので、就職先ということで、父へ の紹介状を持たせました。彼はホウ家で引き取ることになるかもし れません﹂ このことは、通達しておかなくても良いのかもしれないが、一応 言っておいた。 後々トラブルがあってもいけない。 ﹁ふむ、それは良い。彼には苦労をかけた。できれば楽をさせてや ってほしい﹂ 特に問題はないようである。 1227 まあ、ルークが彼を気に入るかどうかは定かではないが。 そういうわけにはいかん、やつは知ってはいけない情報を知って しまっている。可及的速やかに引き渡してもらいたい。どうせなら、 死体でもいいぞ。ガハハ。 みたいなこと言われなくてよかった。 ﹁はい。心がけます﹂ *** ﹁失礼致します﹂ 肉料理の皿が下げられ、新しい料理がやってきた。 次は魚料理であるらしい。 ﹁オオマスの香草塩包みでございます﹂ と、誰に言うでもなく、カートを持ってきたメイドが言った。 蓋が開くと、そこには大皿に塩のドームのような物体が乗ってい る。 その場でメイドさんが塩を崩すと、ドームの中には丸々一匹のオ オマスが入っていた。 そのままナイフと平べったい匙を使って切り分け、各々の皿に盛 りつけてゆく。 塩包み焼きか。 1228 ごくん 毎度毎度思うことだが、料理に関しちゃ、シャン人の国は中々工 夫してるよな。 スパイス類も、赤道近辺の果実類も、五葷に数えられる香りの強 いネギ類も、自由に手に入らないというのに、よくもまあ美味い飯 を作れるものだ。 女王陛下が最初で、次に王配、その次が俺⋮⋮と、つまりは時計 回りに順番に用意されていった。 すっと、目の前に皿が置かれた。 ﹁以前ゴウク殿と同じように食事をしたときのことを思い出すな﹂ と、おっさんが言う。 見れば、しみじみとした表情をしている。 もてな ゴウクが同じように饗されていてもおかしくはないよな。 というか、ゴウクは俺と違って命を張って援軍にきていたわけだ から、そんくらいはして当然であろう。 ﹁あの時、ゴウク殿は、テルルを見て娘そっくりだ。などと言って いたのだ。そういえば、貴殿はその娘殿と従兄妹の関係にあたるの であったか﹂ 俺は思わず首を傾げそうになった。 テルルを見る。 うー⋮⋮ん、シャムと似てる⋮⋮かなあ? どうなんだ⋮⋮? 1229 テルルは、俺に変な目線を向けられて驚いたのか、なんだか恐々 と下を向いていた。 シャムは、たしかに初対面の人間でも超フレンドリィってタイプ ではないが、ここまで人見知りをする性格でもないんだが⋮⋮。 ゴウクから見ると、同じ超インドアタイプということで、似てい るということになったのか⋮⋮? ﹁どうしたのだ?﹂ ﹁あっ⋮⋮ああ、すいません。イトコですね。はい、シャムといい まして、とても仲良くさせていただいています﹂ ﹁そうであるか。貴殿はもちろん知っているだろうが、私とゴウク 殿は二度前の十字軍のときからの知り合いなのだ。といっても、初 めてお会いした時は、彼はまだ軍を率いてはいなかったが⋮⋮﹂ 二度前の十字軍というのは、向こうの言葉でいうところの第十三 次十字軍のことであろう。 もう四十年も昔の話だ。 そのときは、キルヒナのさらに東にあったダフィデ王国という国 が、トドメが刺されたというか、終止符が打たれ、滅びた。 今回と同じように、大量の流民が出たと聞く。 ゴウクはそのころ、青年の年齢であったはずだが、参加していた らしい。 ﹁なるほど、興味深いです﹂ 1230 ﹁次に会った時、彼は人の親になっていた。子どもたちが安寧を得 られる時を稼がねばならぬ、などと言っていた。まさか、あのよう なことになるとは、その時は思わなかったが⋮⋮﹂ ⋮⋮そういう動機があったのか。 確かに、そこはゴウクの言った通りで、ゴウクが第十四次十字軍 を失敗させてくれたおかげで、俺は平和な十年を過ごすことができ た。 感謝しなきゃいけないな。 失敗したらどうなっていたんだ。という点に目をつむれば、ゴウ クが死んでもルークが後を継いで、騎士団は順調に建てなおされて いるわけで、ゴウクの目論見は完全に達成されている。 とはいえ、それは終わりよければ全てよしという話で、王鷲攻め がリスキーであったことを考えると、それってどうなの、と思わざ るをえないところもあるが。 ﹁実際に、僕もいとこも、ゴウク伯父のおかげで安楽な学院生活を 楽しませてもらいました。ゴウク伯父も本望でしょう﹂ ﹁そう言っていただけると、こちらも気が楽になる﹂ ﹁僕も、手が余るようであれば、貴国の戦に助力したいと考えては おりますが、未熟者の身の上なれば、なかなかそれも難しそうです﹂ 一応、そつのない感じで意思表明しておくか。 変な方に会話がいっても困る。 ﹁うむ、無理をする必要はあるまい。貴殿らの隊には、貴い身の上 の方も参加するのだから、万一のことがあっては、我らも申し訳が 立たぬ﹂ 1231 貴い身の上というのは、言うまでもなくキャロルのことだ。 言ったら、参加者は全員貴い身の上といっても良いのだが、やは りキャロルは別格だろう。 申し訳が立たぬというか、万一キャロルが誘拐、というか捕虜に なるようなことになれば、状況的に奪還の可能性があった場合、軍 のほうも兵を出す必要に迫られるかもしれない。 そうしたら、彼らからしてみれば、とんだ大迷惑だ。 そんなことになったら困るから、余計なことはするなよ。っての は、正直な実情であろう。 ﹁それにしても、この魚料理は絶品ですね⋮⋮﹂ と、俺はどうでもいい話に話題を移した。 *** ﹁それでは、今日はお招き本当にありがとうございました﹂ ﹁うむ、気をつけて帰られよ﹂ ﹁ゆっくりと休むといい﹂ ﹁⋮⋮﹂ と、三者三様の見送りを受けて、俺はその場を辞そうとした。 ﹁もし必要なら、寝室に酒を届けさせるが⋮⋮﹂ ﹁いえ、せっかくですが、飲まないのは本当ですから⋮⋮﹂ 1232 俺の禁酒を人前だけのことかと思ったのか、そのようなことを言 ってきたので、丁重に断っておいた。 もうここまできたら二十歳までは絶対に禁酒してやるのだ。 ここで飲んだら寮の連中などに﹁それみたことか﹂と言われかね ないし。 ﹁それでは﹂ と、俺は改めてぺこりと頭を下げ、客間へ戻った。 1233 半島概略図 <i165089|13912> 史書 ユーフテルミナ・ロナ著 第三版 98−99p キルヒナ王国について 最も幼き末子キルヒナが設立した国である。 女王の九人の娘は、それぞれ思うように国の形を作った。 だが、末子キルヒナは幼すぎるが故に、国の仕組みに関しての持 論などは持ちあわせておらず、姉であるシヤルタの意見を多く受け 入れたという。 そのような経緯があり、国家運営の根幹は、シヤルタ王国と非常 に似通っていた。 国政を司る大魔女家が七家というところは共通していたが、歴史 的経緯から将家の数は移り変わり、2008年の十字軍により領を 削られたトガ家が封土と爵位を返上したことによって、最終的に四 家になった。 将家の叛乱は歴史上三度あり、1248年のノバ家の叛乱ではリ フォルムの王城が陥ち、叛乱は成功し一時的に将軍政権になったが、 ノバ家当主が暗殺されると崩壊し、安定はしなかった。 それ以降、キルヒナ王家にはノバ家の血が交じった。 1234 [至白王立大図書館からの持ち出しを禁ず] 1235 第077話 帰宅 四月十四日、俺は予定通りシビャクに帰着した。 降りたのは、離着陸場であった。 バサリバサリと柔らかく着陸すると、星屑はさすがに疲れた様子 で、へたりこんだ。 行きと違い、帰路は立ち寄るところがないぶん一直線に戻ったの で、その分一日あたりの飛行距離は長くなってしまった。 そのせいで、疲労が溜まっているようだ。 一週間はゆっくり休ませてやらないと。 ﹁ユーリ!﹂ 俺を呼ぶ声がして、そちらを見ると、シャムが駆け寄ってきてい た。 どすん、と胸に鈍い衝撃が走り、むぎゅー、と抱きしめられる。 ﹁シャムよ⋮⋮俺はもう三日も風呂に入っていないんだが﹂ できれば鼻を押し付けないでほしい。 ﹁むごむごむご﹂ なんか服に顔を押し付けながらなんか言ってる。 ぜんぜん聞き取れない。 1236 ﹁ユーリくんが死んでまうと思ってたんやから、許したって﹂ どこかのんびりした声がやってきた。 リリー先輩だ。 なんだか制服の上に大きめの羊毛セーターみたいのを羽織ってい る。 胸がふくよかな人のセーター姿っていいよね。 ﹁お久しぶりです。リリー先輩﹂ 俺がぺこりと頭を下げると、 ﹁おかえり﹂ リリー先輩はそういってにっこりと微笑んだ。 おかえりか。 ﹁えっと⋮⋮ただいまです﹂ そうか、二人ともずっとここで待っていたのか。 ピクニックついでといったところなのか、少し遠くの木陰にシー トが敷いてあり、その上には小さな弁当箱のようなものも置いてあ る。 ﹁私には?﹂ シャムがちょっと睨み上げてきた。 私には、と言われても、おかえりと言われた覚えがないのだが。 それとも、さっきからモゴモゴ言ってたやつの中にそれが入って たのか。 ﹁ただいま、シャム﹂ 1237 俺は頭をなでてやりながら言った。 *** ﹁それでは、リリー先輩。お願いします﹂ 道すがら、簡単に旅中であった出来事を説明しながら、鷲舎にた どり着き、星屑を預けてしまうと、俺はそう言った。 そして、少し手垢で汚れてしまった紙を取り出す。 旅中、十日間で十箇所メモった観測データである。 運の良いことに、十日の間には、多少曇ることはあっても、太陽 の場所がまるきりわからない。ということはなかった。 ﹁解った。なんとかそれらしく地図に仕上げてみるわ﹂ リリー先輩は、俺の手から紙を受け取った。 ﹁お願いします。僕は少し用事があるので、お任せしてしまいます が﹂ ﹁あったりまえやろ。ユーリくんに、こんな雑用手伝っとる暇があ るわけないやん﹂ うっ⋮⋮。 実際、あまり時間がないのは事実なのだが。 ﹁どうも、仕事を押し付けてしまうようで、すいません﹂ 1238 恐縮しきりである。 ﹁いやいやいや、嫌味で言ったつもりやないんよ。気にせんといて﹂ ﹁そうですか﹂ 嫌味と受け取ったわけではないけれども。 ﹁ユーリくんには、やらなあかんことがいっぱいあるんやから、任 せといてくれてええんよ、ってこと﹂ なんともまぁ頼りがいのあるお言葉だ。 そう言ってもらえると、こちらも気が楽になる。 ﹁お言葉に甘えてしまいますが﹂ ﹁わたしとしては、他の事で甘えてほしいもんやけどなぁ⋮⋮﹂ え、えーと⋮⋮。 なんか、照れるでもなく、しみじみと言うてらっしゃるが⋮⋮。 他のことで甘えるって、どう甘えればいいのだろう。 お姉ちゃん、大好き♪ みたいな台詞を言えばいいのか? なにか違う気がする⋮⋮。 ﹁それでは、頼りにしています﹂ 聞かなかったことにした。 ﹁⋮⋮うん。頼りにしとって﹂ リリー先輩は少し物憂げな顔をしながら頷いた。 ﹁あのー﹂ シャムがジト目でこっちを見ていた。 1239 ﹁なんなんですかぁ∼﹂ どこで覚えたのか、なんだか子どもみたいな抑揚で言ってくる。 え、えーっと。 ﹁えっと、シャムな、ちゃうねんこれは﹂ リリー先輩は慌てている。 ﹁私も頑張るんですけど∼﹂ なんか言い出した。 まあ、実際のところはシャムが数字出すんだろうし。 シャムも頑張るんでしょうけど。 しゃ、シャムさん? ﹁うん、シャムもえらいな。えらいえらい﹂ ﹁私は頼りにはしてないの?﹂ えっと。 ﹁メチャ頼りにしてる﹂ ﹁ほんと∼?﹂ ほんと∼? って。 なんか今日のシャムは変なテンションだな。 ﹁そりゃ座標を頼りに飛ぶんだから、頼りにしてない奴に任せたり しないさ。下手すりゃ海の藻屑なんだから﹂ ﹁じゃあ頼りにしてるって言って﹂ 1240 さっき言ったんだけど。 ﹁頼りにしてる﹂ 俺はそう言いながら、しゃがみこんでシャムの頭を撫でた。 なでなで、なでなで。 ﹁むふふ、頑張ります﹂ 頑張るらしい。 やっぱり今日はなんかちょっとテンションおかしいな。 ﹁え、えーっと⋮⋮あっ、ああ、そうやった﹂ リリー先輩はおもむろにポケットを探ると、なにやら包みを取り 出した。 ﹁はい﹂ 包みを受け取り、開いてみると、中には銀色のライターが入って いた。 ﹁できましたか﹂ ﹁今日からまた忙しくなるからな。今日までに仕上げようと思って たんよ﹂ ライターは、やはり大ぶりのものだったが、前よりは確実に小型 化されている。 パチッと開き、火打ち石を削るホイールをぐっと回すと、ジャリ ジャリとした感触が指に伝わり、前から比べるとあっけないほど簡 単に着火した。 1241 ﹁良くなっています﹂ ﹁そう、よかったわ﹂ こういうものを着実に改良していけるというのは、凄い才能だよ な。 ﹁重ね重ね、ありがとうございます。これで安心して行けます﹂ ﹁気ぃ早いなぁ﹂ リリー先輩は照れ隠しをするように笑った。 *** ﹁おかえりなさい﹂ 二人と分かれ、寮にゆくと、そこで待っていたのはミャロであっ た。 ﹁お迎えにもあがらず、すいません﹂ ﹁いや、いいよ﹂ お迎えにあがってこられても困る。 二人と違って、ミャロは今多忙を極めているはずなので、ピクニ ックしている暇はないだろう。 ﹁今朝が締め切りだったものですから﹂ ﹁ああ、そういえばそうだったな﹂ 1242 今は昼の一時ごろになる。 観戦隊の申し込みは今朝が締め切りだったはずだ。 その処理で忙しかったのだろう。 寮の玄関前で辺りを見回すと、出て行く前にはあった特設ポスト がなくなっていた。 締め切りが過ぎたので撤去したのであろう。 ﹁ポストは捨てたのか?﹂ と聞いてみた。 ﹁あれはやめました。二日前に火種が投函される事件があったので﹂ えっ⋮⋮。 なんとまあ。 誰がそんな嫌がらせをしやがった。 ﹁それ以降は、寮生の方々で参加しない人に、直接受け取ってもら う仕組みにしました。そのことを書いた看板は、今朝撤去しました﹂ うん。 それはいいのだが。 ﹁犯人は見つかったのか?﹂ ﹁見つかりません。しっかり探したほうがよかったですか?﹂ ミャロは確かめるように聞いてきた。 時間があったら探したのだろうが、それより前にすることが山積 1243 していたのだろう。 放火の事後処理とか。 犯人を探すと言っても、誰も見ていない夜に火種を放り込むくら いのことは、労の少ない妨害行為だし、誰にでもできる。 少し身軽な人間であれば、鉤縄のようなものを使って塀を超える ことは難しくないので、外部犯の可能性もある。 まあ、動機的には俺に憎悪があるラクラマヌスあたりが筆頭格と も思えるが、キャロルが参加する関係上、将家の可能性もある。 ルベ家とホウ家はありえないが、他の三家はハブられた形になる わけで、気分が悪いだろう。 そのへんは考えてもキリがないし、調べたところで﹁あぁこいつ がそうだったのね﹂と腑に落ちることが一つ増えるだけで、特別に 得られるものはない。 ミャロのほうもそう思って、犯人の捜索に労力を割くことはしな かったのだろう。 ﹁いや、別にいい。郵便受けを使ったのはアホだったな﹂ 郵便受けに悪戯されるなんてことは、貴族学校ではないだろう。 と無意識に思っていたのか、隙を作ってしまった。 ﹁そうですね﹂ ﹁中の紙は焼けてしまったのか?﹂ ある意味でそれが一番の問題だ。 1244 申込用紙には、実の親の署名が必要なので、教養院と違い大半の 生徒が遠隔地に本居を持っている騎士院では、その作成に手間と時 間が掛かる。 十日間をフルに利用しても、移動だけでギリギリという土地に親 がいる場合も多いわけで、そんな奴が投函した書類を、こちらの不 手際で焼失してしまったなんてことになれば、さすがに申し訳ない。 こく その場合、もう一度作らなきゃ面接も許さん、というのは余りに 酷すぎる。 ﹁いえ、前夜に一度回収していたので、焼かれたのは一枚だけでし た。それも、投函者が誰かは突き止めました﹂ そうだったのか。 ホントに運が良かったな。 ﹁ちなみに、王都に比較的近い土地の方でしたので、既に再提出も 済んでいます﹂ ﹁それならいい﹂ いやホントに良かった。 被害はポスト一本と費やされた労力程度で済んだわけだ。 ﹁今日の早朝あたりにやられていたらと思うと、ぞっとしますね﹂ たぶん、提出のピークは今日か昨日あたりだったはずだ。 二日前の放火がなく、ポストが残り、今日の丑三つ時に火種を入 れられていたら、沢山の用紙が焼かれ、今日はその用紙の持ち主の 特定にてんやわんやということになっていたことだろう。 ﹁参加希望者は、総数で179名です﹂ 1245 ふむ。 ﹁かなり集まったな﹂ ﹁単位をクリアしている有資格者が258名しかいないことを考え ると、なかなかの希望率かと思います﹂ そんなことまで調べたのか。 俺は、有資格者は生徒数の二割程度が良い。と考えて足切りライ ンを引いた。 258名ということは、ほぼ目論見通りと言って良い。 生徒数の二割が有資格者となると、全員連れていけば六年以上の 寮から五人に一人が消えることになってしまう。 そんなに広く取ったのは、王鷲のことは置いておいても、生き死 にの仕事に応募するのは、そのまた半分くらいだろう。と思ってい たからだ。 258名の中の179名ということは、えーっと⋮⋮おおよそ七 割程度か。 それが騎士院生の覚悟によるものなのか、キャロルやリャオの人 気によるものなのか、そのへんは判らないが、誤算には違いない。 ﹁実際には201枚出ましたが、22名は単位数を偽ったり、病や 怪我を得て行軍に耐えられそうにない者でした。あとは⋮⋮﹂ ﹁いや﹂ 俺は続けようとするミャロの言葉を遮った。 ﹁詳しい報告は後で聞こう﹂ 1246 立ち話でする話でもないし。 ﹁あ、そうですね。お湯を特別に用意してもらっています。寮のお 風呂がわいていますよ﹂ すごい。 なんとも手配が行き届いておる。 ﹁ありがとう。助かる﹂ ﹁いえ。ユーリくんの参謀を務めるのであれば、これくらいは当然 のことです﹂ ミャロは若干得意げであった。 どうやら参謀という響きも気に入ったらしい。 *** 風呂を出て、久しぶりに制服に着替えた。 ﹁よし、飯でも食うか﹂ 俺は食堂に向かった。 ﹁おばちゃん、一食ください﹂ すっかり顔なじみのおばちゃんに言うと、 ﹁はいよ。久しぶりだねえ、旅行にでも行ってたのかい?﹂ 事情を全然しらないのか、そんなことを言ってきた。 1247 まあこの国の庶民はニュースだのをチェックしてるわけではない から、そんなものなのかもしれない。 さすがに、また戦争が起こりそうだ、というのは知っているだろ うけど。 ﹁ええまあ、そんなもんです﹂ 気もそぞろに答えておくと、食事がまたたく間に用意されて、ト レーに乗っかってでてきた。 ﹁はいよ﹂ ﹁ありがとうございます﹂ 礼を言って、俺はトレーを取って、適当にあいている席に座る。 ﹁ユーリくん﹂ 当たり前のように前の席に座ったミャロが言った。 ﹁明日の面接に来る方の一覧です﹂ ミャロは書類の束を机の上に置いた。 羊皮紙でなく、社から買った紙でできている。 このくらいは役得がないとな。 ﹁上から順番に、優秀そうな順番にまとめておきました。なので一 番最後まで読む必要はないかもしれません﹂ ﹁そうだな。できるだけ目を通しておく﹂ 俺は飯を食いながら答えた。 全員を連れて行くことはできないのは残念ながら事実なので、ミ ャロの言うとおり、最後のあたりの人間はよくよく考査する必要は 1248 ないかもしれない。 こんなことを考えていると知れたら、怒られるかもしれないが。 この用紙の下のほうでも、採る者は採るとは思うが、その辺はた ぶん実際に面接して初めて良さがわかるタイプの人物だろう。 ﹁あと、補給の用意はあまりはかどっていません﹂ 急ぎとはいえ、人数も決まっていないのに補給の算段はできない もんな。 そのあたりは、保留段階なのだろう。 ﹁それに関しては、出発の前にホウ家で兵站を担当していた人物を 呼んでおいた。同行はさせられないが、助言は貰えるだろう﹂ ﹁ああ、そうだったんですか﹂ ミャロは、その件についてはよほど悩んでいたのか、見るからに ホッとした表情をした。 出る前に言っておくべきだったな。 ﹁補給は実際に担当した人間でないと、気づかない部分が出てくる だろうからな。頭でいくら考えても限界がある﹂ 補給に関しては、騎士院の座学でも学ばされたことだが、座学は あくまで座学だ。 いくら頭で考えても、実際にやったことがなければ、出発してか ら﹁あれを買っておけばよかった﹂﹁こういう工夫をしておけばよ かった﹂などという問題が噴出してくるだろう。 ﹁ボクもそう思っていて、不安だったんです。さすがはユーリくん 1249 ですね﹂ なんか褒められた。 ﹁今頃は、うちの別邸に着いているころだ。あとで相談しにいこう﹂ ﹁はい。それで、聞いておきたいのですが、団員は何人くらいに絞 るつもりなのですか?﹂ ﹁まあ⋮⋮六十人少しだな﹂ ﹁六十人⋮⋮ですか﹂ キャロルもリャオも三十人程度づつは面倒見れるだろ。 おそらくは。 それ以上に膨れ上がると、管理しきれない可能性がありそうだ。 ﹁人が増えるごとに、補給規模も大きくなることを考えるとな。本 隊の邪魔をせずに行動できる部隊規模というと、それくらいだろう。 たった六十人たって、兵站段列を含めれば、けっこうな規模になる だろうし﹂ それ以上になると、管理しきれる自信がない。 千人の管理された軍より、二千人の烏合の衆、という考え方もあ るだろうが、できるなら全員帰したいので、その案は取れない。 ﹁そうですね﹂ ﹁それに、実際のところ、百何十人の内、王鷲を持ってこれる連中 がどれだけ居るんだって話だしな﹂ 王鷲を子どもに貸せるほど裕福な家というのは、そうそうないは ずだ。 平時であれば、親戚の家から借りられることもあるだろうが、戦 時ではそうもいかない。 1250 どこもそう簡単には貸してくれない、というのが実情だろう。 ﹁そうですね。実家が天騎士の家系かどうかは調べてありますが、 実際に調達できるかどうかの判断にはならないでしょう。実家が貸 してくれない場合もあるでしょうし、逆に天騎士でもない低位騎士 家の生まれでも、調達してくる方法はありそうです。王鷲は同寮の 友人からの借り物でもいいのか、という問い合わせは何回か来てい ます﹂ ああ、なるほど。 友だちから借りるという手があったか。 成績が悪くて参加できない王鷲持ちに、後生だから貸してくれと 頼むのは、悪くない方法だ。 俺だったら星屑は絶対に貸さんが、道具と割りきっている奴もい るから、貸す奴は貸すだろう。 ﹁だが、そうなると、合格ということになっても出発日までに入手 が間に合わないという者も多そうだな﹂ 入手見込み、ということで、王鷲を持って行きます。など答える 奴は多そうだ。 ﹁面接で王鷲を持って参加する、と言っておいて、当日には駆鳥で 現れる。ということですね。確かに、その場合の対処も考えておく べきでしょう﹂ 駆鳥で参加しても、実際の王鷲での視察飛行には参加できないわ けだから、殆ど意義がないと言ってもいいのだが、こういうのは参 加したという実績が大事という部分もある。 1251 ﹁対処といっても、参加を許さないという方法しかないだろう。一 人を許したら、何人現れるか知らんが全員許さなきゃならない。士 気にも関わる﹂ ﹁ええ、そうですね⋮⋮それはボクもそう思います﹂ ﹁そのへんは、面接の際に伝えておくべきだろうな﹂ ﹁では、質問リストに付け加えておきますね﹂ 質問リストて。 そんなもんまで作ってあるのか。 最終的には俺が調整するにしても、予めそういうものが作ってあ れば、俺も楽ができる。 ミャロがいてくれて良かった。 ﹁ところで、リャオはどうしてる﹂ ﹁馬車や荷車の調達とか、参加希望者の相談を受けたりしているよ うです﹂ なるほど。 俺一人なら、町で食料を買いつつの行軍というのは造作もないこ とだが、数十人規模ともなれば、そうもいかない。 まさか、町で食料を無理に接収しつつ行軍する、なんてことはで きないのだから、自分で持っていく他ない。 その食料は馬車で持っていくことになる。 王鷲は長距離を歩かせられる動物ではないので、その護衛・監督 は駆鳥隊にやらせることになるだろう。 その意味で、カケドリで随行する人員も一定数いなければならな い。 1252 ﹁今晩は会議だな。奴にもいろいろ考えがあるだろう﹂ ﹁そうですね。今度はキャロル殿下も呼ぶべきでしょう﹂ ああ、そうだった。 いつまでもあいつをハブるわけにはいかない。 ﹁そうだな⋮⋮場所は、あー﹂ セッティングが難しいな。 喫茶店もなんだか変だし、キャロルがいるから飲み屋もまずい。 寮も、あまり使いたくない。 変な話だが、今回のこととは関係のない奴らのほうが多いのだか ら、迷惑をかけたくない。 ﹁校舎でよいでしょう。学院は今回のことについては、意外と協力 的です。学長がリャオ殿の伯父様ですから﹂ ﹁ああ、そうなのか﹂ そういえばそうだった。 学長がルベ家の者というのは知っていたが、リャオの伯父なのか。 ﹁鍵を借りておきましょう。ついでに、飲み物と食べ物も少しばか り調達しておきます。出前で﹂ 出前か。 何から何まで。 1253 ﹁それじゃ、よろしく頼む。俺はこれに目を通しておくからな。時 間になったら呼んでくれ﹂ ﹁わかりました﹂ そう言うと、ミャロは素早く席を立ち、どこかへ行った。 1254 第078話 四者会議 ﹁よう、久しぶりだな﹂ リャオはやってくると、気楽そうに言った。 ﹁おう﹂ ﹁なんだ、飯の最中か?﹂ 俺は、ミャロが用意した部屋の中で、夕飯代わりに出前でとった 食事を食べていた。 ﹁おまえは済ませてきたのか﹂ ﹁済ませてきた﹂ 食ってきたらしい。 リャオは堂々と歩いてくると、少し迷った素振りをして、俺の対 面に座った。 椅子が四つあったので、どれをキャロルに残すべきなのか悩んだ のだろう。 ﹁どうぞ﹂ ミャロは茶を注ぐと、すっとさし出した。 ﹁おう、ありがとう﹂ ﹁冷めていますが、給仕もいないのでご勘弁くださいね﹂ 茶は、飯と一緒に来たティーポットを綿入れで包んでおいたもの なので、まだ暖かいだろう。 1255 ﹁それで、今日は明日からの面接の話か﹂ リャオは茶に口をつけながら言った。 ﹁まあ、だいたいはな﹂ ﹁ところでな、ちょっと相談があるんだが﹂ ﹁入れてもらわなきゃ困る奴らがいるってことか?﹂ 俺がそう言うと、リャオは目をぱちくりさせた。 ﹁ああ。そうだ⋮⋮よく解ったな﹂ リャオの立場を考えれば、そういう人間が若干数いることは当然 だろう。 俺にも、そういう人間は幾らかいる。 将家の跡取り息子ともなれば、家の下に連なる名家にも配慮する 必要があるのだ。 また、他三将家もむやみにハブるというわけにはいかない。 隊員の決定権は俺にあるわけだから、俺は気に入らない奴らを全 員入団お断りということにすることにもできる。 だが、それをされたら、リャオは俺とルベ家との間で板挟みにな るし、参加する旨味がなくなってしまうだろう。 ﹁俺は四将家の騎士を平等に取る必要はないと思ってる。ボフ家と ノザ家は明らかに保身ばかり考えているしな。かといって、観戦隊 をホウ家とルベ家で固めて、私物化していいわけじゃない。それは 主旨に反する﹂ と、俺は一応言っておいた。 1256 ﹁それは解る。だが、こちらにも多少は事情がな。最終的な決定権 はおまえにあるわけだろう﹂ やっぱりそこが不安だったようだ。 ﹁心配するな。お前の口利きは、最大限尊重するよ﹂ ﹁ああ、そうか﹂ リャオはあからさまにホッとした顔をした。 ﹁だが、俺としても不安なところだ。お前が望む者の入団を認めた として、例えば藩爵の跡取りだからといって、よほど人望薄く、体 力も劣るような者を入れたら、家柄で選ぶのかと不平がでるだろう﹂ 藩爵というのは、将家の将たる天爵の一つ下にあたる爵位で、家 柄的にはもちろん譜代の重臣のような連中となる。 だが、家柄が良くても、当然ながら有能とは限らない。 ﹁足手まといにならないとも限らんし、なにより死ぬ危険がある。 本人のためにならない場合もあるぞ﹂ ﹁解っているさ。もちろん、元から明らかに劣った馬鹿野郎を入れ させたりはしない。入れたいのは俺の腹心みたいな連中さ﹂ ほうほう。 ﹁それならいい⋮⋮まあ、続きはキャロルが来てからだ﹂ ﹁わかった﹂ それから、茶菓子を二、三食べながら待っていると、キャロルが 1257 やってきた。 ﹁すまん、遅れた﹂ ﹁座れ﹂ 俺が指図すると、キャロルはかすかにムッとした表情をしたが、 俺が大将ということを思い出したのか、素直に椅子に座った。 *** ﹁さて、人選だがな。調整しつつ六十人程度に絞ろうと思う﹂ ﹁えっ⋮⋮そうなのか?﹂ キャロルが意外そうな声を出した。 ﹁まさか⋮⋮お前、四方八方に安請け合いして回ったりしてねえだ ろうな﹂ 条件に当てはまるならまず大丈夫だよ。面接はほとんどスルーだ から。 みたいなことを、他ならぬキャロルが言って回ってたりしてたら、 かなり面倒なんだが。 ﹁馬鹿にするな。そんなことするはずないじゃないか。ただ、半分 以上落とすのかと思っただけだ﹂ やってなかったらしい。良かったよかった。 ﹁リャオは承知のことだが、向こうの情勢はあまり良くない。やは 1258 りどう考えても、王鷲で空中から見る以外のことは認められそうに ない。例えば、駆鳥で丘の上から見聞、などというのは、やはり認 められん。斥候と鉢合わせして戦闘になって、死者が出るのがオチ だ。だとすれば、王鷲持ち以外は向こうに行ってもやることがない﹂ ﹁それはそうだが⋮⋮﹂ ﹁経験にもならんのに、物見遊山に危険な場所へ行っても、しよう がないってことだ﹂ ﹁⋮⋮わかった。その件についてはいい﹂ なんだか納得したようだ。 ﹁さて、団員選びの話の前に、話しておかなければならんことがあ る。よく聞いておけ﹂ 俺はそう前置きをしておいて、話しはじめた。 ﹁それは、大まかな行程の話だ。座学でさんざん習ったと思うが、 軍は常に補給に制限される﹂ リャオが頷いていた。 ﹁人間は、一日食事を抜けば満足に動けなくなるし、王鷲は二日食 事を抜けば人間を乗せては飛べなくなる。六十人分の食料というの は、シヤルタではどこへいっても調達するのは難しくない。だが、 混乱したキルヒナの地では、毎日安定して調達するというのは、こ れは至難の業だ。これが何を意味するかは、座学でも散々教えられ たよな﹂ 幸いなことに、キャロルも真剣な目つきで俺を見ていた。 1259 これを理解できていない人間がこの場に一人でもいたら、とても 面倒なことになる。 ﹁無計画に王鷲百騎で飛び立って、向こうへ着いたとして、二日間 調達が上手く行かなければ、俺たちは帰ることもできない、という ことだ。そうなれば、戦争中で忙しい軍本体に助けを乞う羽目にな るだろう。言うまでもなく、それほどの無様は世の中見回してもな かなかない。キルヒナの騎士界隈では、長らく物笑いの種になるだ ろうな﹂ キャロルは、その状況が想像できたのか、嫌そーな顔をしていた。 リャオのほうは目をつむって耳を傾けている。 ミャロは⋮⋮言われるまでもないことなのか、いつもの顔でいた。 ﹁そうならないために、補給はきちんとやる。もちろん、俺たちで 調達して、俺たちで持っていく。本来の主旨からいえば、これも含 めて経験になることだからな﹂ そこで、リャオが手を上げた。 ﹁話せ﹂ と、発言を許す。 ﹁うちのオヤジは、もし補給が行き届かないようなら頼れと言って いたぞ﹂ ルベ家の当主か。 そら頼もしい。 ﹁ありがたい話だ。もしもの時は頼りにさせて貰いたいと伝えてお 1260 いてくれ﹂ ﹁いいのか?﹂ 借りを作りたくないんじゃないのか? と目で尋ねてくる。 ﹁世の中何があるかわからん。新品の馬車を用意しても、途中で軸 が壊れて走れなくなるかもしれないし、馬が足を折って歩けなくな るかもしれない。量に多少は余裕をもたせるにしても、事故で補給 が届かない場合のことは想定しておくべきだ。というか、現実にも 友軍に補給を多少融通してもらうなんてことは、よくあることだし な﹂ そのあたりは程度問題だろう。 事故があって飯を多少分けてもらうくらいならいいが、自分の足 で歩けなくなっておぶって貰うのでは、なにしに来たんだという話 になる。 ﹁ン⋮⋮そういうもんなのかもしれんな﹂ ﹁それで、だ。王鷲を持たない連中⋮⋮駆鳥で参加する者には輸送 を担当して貰いたい。これはリャオ、お前に監督を頼みたいんだが﹂ ﹁あー⋮⋮まあ、そういう役回りになるとは思っていたが﹂ リャオは頭をボリボリと掻いた。 ﹁当たり前だが、駆鳥で参加したからといって、お前に王鷲に乗る なと言っているわけじゃあない。行きは誰かを王鷲に乗せて、運搬 して貰えばいい。鷲の隊になりそうな気の知れた仲間も随行させた い。というのであれば、それも構わん。そのへんは、組織力に直結 する問題だからな﹂ 1261 ﹁俺が言おうと思っていたことを⋮⋮まあいいか。それなら、請け 負おう﹂ ﹁そうか。助かる﹂ あーよかった。 一番面倒な役回りだからな。 俺は王鷲で行かなきゃならないから無理だし。 ﹁当たり前だが、この仕事は、キルヒナの地理に多少なりと詳しく なけりゃ難しい。お前に頼むしかなかった﹂ ﹁分かってるよ、そのへんは﹂ ﹁ちなみに、目的地はニッカという町だ﹂ ﹁ニッカ?﹂ リャオには覚えがないらしい。 当たり前か。 ﹁知らなくて当たり前だ。ニッカというのは、有名な都市ではなく、 ただの村だからな﹂ 有名な名産や観光地であるわけでもないから、専門家でもない限 りは知らないだろう。 ﹁観戦隊はそこを拠点にする。リフォルムからの地図は、後で渡す﹂ そこで、キャロルが小さく手を上げているのが見えた。 ﹁⋮⋮話せ﹂ ﹁そのニッカという街を選んだ理由は?﹂ 1262 質問か。 まあ、これは話しておくべきだろう。 ﹁一、避難地域に属していて住民の退避が済んでいる。二、主戦場 予定地まで王鷲で接近容易なこと。三、王都リフォルムからヴェル ダン大要塞へ繋がる大街道から若干外れており、大軍団の移動を邪 魔したり、或いは敵方の攻勢に巻き込まれる危険が少ないこと。以 上三つの理由からだ﹂ ﹁なるほど⋮⋮だが、もう一つ疑問がある﹂ まだあんのかよ。 ﹁住民がいないのであれば、王鷲組の補給はどうするのだ? 当地 で合流する日付けは予め決めておくにしても、リャオの方は補給段 列を連れての長旅になる。一週間ほど遅れることもあるのではない か?﹂ 細かいことに気づく奴だな。 ﹁それは、既に手配してある。俺が行った時、ニッカの村にはまだ 人がいたからな。保存食を買い取って、家を借りてその中に入れて おいた。一週間くらいなら余裕だろう﹂ ﹁⋮⋮そうか、手抜かりはなしというわけか。流石だな﹂ なんだか感心されている。 ﹁だが、そのへんは、住民が約束を反故にして食料を持って行って しまうかもしれないし、住民不在の間に何者かに村が荒らされる可 能性もある。まぁ十中八九は残っているだろうが⋮⋮運否天賦では あるな﹂ ﹁わかった。疑問は以上だ﹂ 1263 これで終わりらしい。 思いの外素直だ。 ﹁持っていく物資は誰が調達するんだ?﹂ と、リャオが言った。 ﹁その辺は、ミャロがやる。そういった細かい手配はミャロの大得 意だ﹂ ﹁はい。務めさせていただきます﹂ ミャロはここにきて初めて口を開いた。 ﹁じゃあ、えーっと、ミャロでいいか?﹂ ﹁はい、もちろん構いませんよ﹂ ﹁ミャロは駆鳥組のほうに入って、俺のほうについてくるのか?﹂ ﹁⋮⋮あー﹂ そこまでは考えてなかったな。 ﹁ボクは、ユーリくんの指示に従いますよ。ただ、その場合は、ボ クの鷲も、誰かに持って行ってもらわないといけません。残念なが ら、ボクには請け負ってもらえるような友人に心当たりがありませ ん﹂ ミャロは王鷲を持っていないが、これは秘密にホウ家から一羽貸 すつもりだった。 しかし友人がいないというのは、ぼっちを宣言しているようで物 哀しいな⋮⋮。 1264 ﹁それは、なんだったら俺のほうでなんとかしておこう﹂ とリャオが言った。 ﹁俺は俺で手下を握るつもりだが、あまり目端の効くようなやつは いない。それに、ミャロはユーリ殿の相棒みたいなもんなんだろう。 何かあった時の決定には、助言を貰いたいところだ﹂ なるほど。 一人では心細い、というよりは、なにかトラブルがあったときの 処理を多少なりと合議したい。というところか。 加えて言えば、連帯責任ということにもなるだろう。 俺とて、リャオがトチって物資を駄目にした、ということなら怒 るかもしれないが、ミャロと適時相談したんですが力及ばず駄目で した。となれば、それならしようがない。ということにもなるだろ うし。 ﹁それなら、そうしよう。王鷲での移動は三日、多く見積もっても 四日で済む。考えてみれば、行程が長くて困難な方を一人きりで監 督させておいて、優しい方は三人でやるというのは、おかしな話だ﹂ 対して、陸上での移動だと、おおよそ半月ほどはかかってしまう。 どちらが大変かは、瞭然と言って良い。 ﹁では、そういうことで頼む﹂ リャオが言った。 ﹁わかりました﹂ ミャロも頷く。 1265 ﹁さて⋮⋮では、補給の話はそれでいいだろう。あとは、選考の話 だが﹂ と、俺は話を切り出した。 ﹁リャオさんの推薦枠は、この十五名です﹂ ミャロがそう言って紙を出した。 そこには通し番号のようなものが書いてある。 そういえば、前に渡された評価付きの紙の束に、1ページづつ番 号が振ってあったな。 ﹁それは後で確認しよう。問題なのはこいつだ﹂ 俺はペラリと一枚の紙を机の上に出した。 その紙には、ドッラ・ゴドウィンという名前が書いてある。 ページ番号は、ミャロは運動能力を重視しているのか、107番 ということになっていた。 あいつの取得単位が250単位を超えていたことが、まずは驚き なのだが、やつは実技のほうは他の同寮生と比べれば全般的に二年 ほど先にいっている⋮⋮というか、もう最後の段階に足をかけてい るので、それでなんとかカバーできたのだろう。 ﹁そいつがどうかしたのか?﹂ 事情を知らないリャオが言った。 ﹁こいつはな、俺とキャロルの同室の男だ﹂ ﹁ああ⋮⋮﹂ 1266 リャオは納得したというふうに頷く。 ﹁まー、ダチといえばダチだな。真面目な男で、朝から晩まで棒を 振っている。ちなみに天騎士は最初から目指していない﹂ ﹁ほー⋮⋮しかし、なるほど。腕っ節は十分のようだな﹂ 単位の進み具合を見ると、リャオは関心したように言った。 ﹁こいつについては、キャロルに任せる﹂ ﹁え、私にか?﹂ キャロルは驚いたような様子であった。 ﹁入れるも入れないも自由だ。お前が要らないと言うなら弾くし、 入れてやってくれというのなら、無条件に入れてやる﹂ ﹁⋮⋮しかし﹂ ﹁あいつは、お前のためなら躊躇なく死ぬ奴だ。だから、加入も扱 いもお前に任せる﹂ 俺は、ドッラについては名前を見た時からそう決めていた。 やつは、キャロルのためなら死ぬだろうし、そのことは本望であ ろう。 キャロルも、それはなんとはなしに感じている事のはずだ。 だからこそ、ドッラを殺さないために、無茶な行動は自重するだ ろう。 ドッラはキャロルに自重を思い出させる枷になるのではないか、 と俺は見ていた。 1267 ﹁それなら、入れてやってくれ﹂ ほほう、あっさりだな。 だが、キャロルはそのまま口を閉じた。 まだなんか言うのかと待っていると、 ﹁いや⋮⋮ドッラは入れる、ことにする﹂ と、何故か二度言った。 自分的に言い方に不満があって、訂正したのだろうか。 ﹁よし。じゃあそれで決まりだ。あと、何か話がある奴はいるか?﹂ 俺がそう言うと、誰も手を挙げなかった。 急ぎの話はないようだ。 ﹁では、これで終わりとする。明日は面接だ。俺は寮内にしっかり ものが二人いるからいいが、リャオは寝坊に気をつけろよ﹂ ﹁まったく、羨ましいこった﹂ *** 寮に入る前に、俺は早速キャロルに最初の命令を与えた。 ﹁キャロル、お前はしばらく食堂かどっかで待ってろ﹂ 1268 ﹁⋮⋮?? なにかあるのか?﹂ ﹁野郎が部屋にいるからな。ちょっと話してくる﹂ さっきトコトコと寮に向かう最中、ドッラはベランダに出て俺た ちを見ていた。 だが、かなり遠目から俺たちを見つけると、すぐにひっこんだ。 キャロルあたりは気づかなかったようだが、俺は目が良いので気 がついたのだ。 ﹁ああ⋮⋮そうか﹂ ﹁特別扱いは事実とはいえ、口止めはしておかないまずいからな。 俺から言っておく﹂ ﹁頼む﹂ じゃあ行くか。 寮に入ると、俺は一人だけ別れて階段を登り、二階へ行った。 自分の部屋に入ると、ドッラはまだ居た。 逃げてなかったか。 ﹁よう﹂ ﹁お、おう⋮⋮﹂ ﹁ちょいと話しておかなきゃならない事がある﹂ ﹁ああ⋮⋮﹂ なんでこいつはこう、カゲが入ってるのかな。 アウトドアかつ脳筋タイプなのに、なんで陰気なんだ。 1269 ﹁観戦隊のことだけどな、お前も入れることにした﹂ ﹁そ、そうか。良かった﹂ 嬉しさを隠せないらしい。 表情がやわらいだ。 ﹁もちろん、これは内々の決定だから、お前は明日面接に来なくち ゃならない。面接では半分ほど落とすからな。表面上のこととはい え、特別扱いすれば周りが黙っちゃいないだろう﹂ ﹁わかった。そうする﹂ ﹁ちなみに、入れてくれといったのはキャロルだ﹂ ﹁エッ﹂ ガッラはよほど意外だったのか、びっくり仰天した顔をした。 ﹁まあ、お前は鷲には乗れないから、キャロルとは別の班になるけ どな。キャロルにもしもの事があったら、真っ先に駆けつけろ﹂ ﹁言われるまでもない。殿下のためなら、真っ先に死んでやる﹂ 死ぬことはないと思うが。 誰が死ねって言った、と言いたいところだったが、まあいいだろ。 武士道は死ぬことと見つけたり、みたいな考えがあるのかもしれ ん。 そのくらいの意気込みがあったほうがいいのかもしれないし。 しかし思い込みの激しいやつだ。 ﹁じゃあ、せいぜい槍でも研いでおけ。あと、馬に乗る練習をして おくといいかもな﹂ 1270 実際に乗るのは馬車の御者席だろうが、カケドリに慣れると、案 外馬の気性に疎くなる事が多い。 ﹁わかった。そうしておく﹂ なんだか武人みたいだな。 1271 第079話 聖典 4月17日 179名の最後の一人が帰り、面接が終わった時には、もう日が 暮れていた。 最後の一人が終わると、誰からとも無く、皆ため息をついた。 ﹁⋮⋮はぁ、やっと終わったな﹂ ドッと疲れが出てきた。 折角、若いなりに生き死にの覚悟を決めて書類を作ってきたのだ から、面接はキチンとしてやらなくてはならない。 しかし、疲れすぎて脳が麻痺している感じがする。 ﹁予定では、今日は午前で終わって、午後はのんびりと選考のつも りだったのですが⋮⋮それどころではありませんでしたね﹂ ミャロの言うとおり、そのような予定を立てていたのだが、今と なっては夢の彼方だ。 今日中に終わっただけ御の字で、これから全員の選考資料を見な がらの会議などできそうにない。 俺も、ホウ社の面接は何度かしたことがあったが、百名以上もの 面接をいっぺんにしたことなどなかった。 二十人以上になったあたりから、カフあたりがあらかじめ絞って くれていたのだ。 こんなに辛いもんだとは思わなかった。 1272 というか、一日で五十人とかが無理だったのか。 ﹁⋮⋮出発の予定を一日ずらそう﹂ そう言いだしたのは、リャオだった。 ﹁途中考えていたんだが、やはり調練が一週間を切るのはまずい気 がする。隊がオタつくかもしれんし、補給の用意も心配だ﹂ 予定では、リャオの指揮する補給隊は今日から一週間後の24日 に出発することになっていた。 発表が一日遅れるのでスケジュールを一日スライドさせようとい うことだろう。 祝日の都合もあるが、そう難しいことではない。 ﹁そうだな⋮⋮それでいい。元々急ぎ足すぎた気もするしな﹂ 偵察によってある程度の予測が立っているとはいえ、最前線では 突発的な激突で戦端が開かれることもあるし、援軍の本隊が出発す るときになれば、渋滞で橋は塞がってしまう。 だから見物をするなら早めに到着しておきたいところではあった が、少しくらいは仕方がない。 遅らせたい事情もあるしな。 ﹁キャロル? お前なにしてんだ?﹂ キャロルを見ると、会話に参加せず、熱心に机の上の書類を見て、 何かを書き込んでいた。 1273 ﹁おかしな評価がなかったか考えなおしている﹂ 自分の考査を考えなおしているらしい。 が、どこか浮ついていて集中できていない気がする。 それは当たり前の話で、朝から晩まで五十人も続けて面接をした あとに、たっぷり寝て起きた直後のような集中力を発揮できるわけ がない。 まったく、相変わらず真面目なやつだ。 そういえば、滅茶苦茶真剣なツラをして面接していたな。 ﹁やめとけよ。顔も見ずに書き直したって、逆効果になるだけだ。 文面だけ見て考えなおされても、連中も嫌だろう﹂ 写真があれば大分違うのだが、手元にあるこれには写真も似顔絵 もない。 文字の羅列だけでは人柄まで思い出すことはできない。 自分が採用する側になると思うが、やっぱり証明写真というのは 欲しい。 ﹁⋮⋮そうかもな。やめておこう﹂ 思い当たるフシがあったのか、キャロルは筆を置いた。 ﹁それじゃ、今日はこれで終わりにするとするか。みんな良く休ん でおいてくれ﹂ 俺はそう言うと、席を立った。 1274 *** やることがなくなった俺は、少し迷った末に、イーサ先生の講義 準備室に足を向けた。 実は、まだイーサ先生には挨拶をしていなかった。 なにを話していいか解らなかったからだ。 コンコン、とドアをノックすると﹁どうぞ﹂と涼やかな声が返っ てきた。 ﹁失礼します﹂ ドアを開けると、驚いたことに、イーサ先生以外に先客がいた。 教養院の女の子だ。 彼女は、振り返って俺を見ると、顔を知っていたのか、驚いた顔 をしていた。 ﹁あ⋮⋮お忙しいようでしたら、またにしますが﹂ ﹁いえ、そうでもありませんが⋮⋮火急の用でなければ、この娘の 質問が終わってからでもよいでしょうか?﹂ ﹁もちろんです。待たせてもらいます﹂ 俺は近くの椅子に座って待たせてもらうことにした。 ﹁ここの動詞はここに掛かっているわけですね。主語が三人称女性 なので動詞はこう変化します。それで関係副詞が指しているのがこ 1275 こからここの文章ですから⋮⋮わかりますか?﹂ ﹁え、えええええーっと﹂ 女の子は先生に質問をしに来たとは思えぬほど慌てている。 というか、驚いた顔をしていたから、多分俺が誰だか知ってんだ ろうな⋮⋮。 例のエロ本関係で、とんでもない印象を持ってたりしないといい が⋮⋮。 ﹁ネーコはロウに会った時、遊んでいたと言ったが、それは嘘だっ た⋮⋮ですか?﹂ ﹁はい、その通りです。良く出来ましたね﹂ ﹁あっはい! ありがとうございました!﹂ 女の子はそう言うと、ぺこりと頭をさげて﹁しっ、失礼しました !﹂と言って、脱兎のごとく部屋を出て行った。 イーサ先生に言ったのか、俺に言ったのか⋮⋮。 ﹁よく来ましたね。ユーリさん﹂ イーサ先生は、微笑みながら改めて歓迎してくれた。 ﹁ご無沙汰しています。イーサ先生﹂ イーサ先生は、さすがに出会ってからの八年間の間に印象が変わ った。 しかし、加齢による見た目の変化はあるものの、人柄は相変わら ず変わらない。 思慮深く、物事に敏感でありながら、浮ついたり神経質になる様 1276 子もなく、外界と緻密に接している。 今やシャン語のイントネーションには違和感の欠片さえなく、シ ャン人以上の語彙を使いこなしていた。 先生は、席を立って俺の横を通り過ぎ、扉のほうに向かった。 扉を半分開くと、入り口にあった出入り自由の掛札を裏返し、扉 を締めた。 ﹁珍しいですね、こんな時間まで質問者がいるなんて﹂ ﹁いえ、最近は﹂ イーサ先生は再び椅子に座った。 ﹁わりとひっきりなしにおいでになりますね。教室も今年から一つ 大きくなりましたし、講義も上下に別れたおかげで受講しやすくな りましたので﹂ なんと、クラ語講座は流行の兆しを見せているらしい。 あれほど閑古鳥が鳴いていた教室が、生徒だらけになるとは、ち ょっと想像できないものがあるが。 ﹁そうだったのですか﹂ ﹁はい。ユーリさんやハロルさんのご活躍のおかげですね﹂ ああ、そうか。 そういうこともあるよな。 ホウ社が貿易で大儲けしているというのは周知の事実なので、目 端の効く就職希望の聴講生あたりは、受講を希望してもおかしくな い。 1277 ﹁お部屋を騒がせてしまっているようで、申し訳ありません﹂ 俺はぺこりと頭を下げた。 イーサ先生は、滅多に人の来ないこの私室で、神や歴史に思いを 馳せているのが似合っていた。 ひっきりなしに学生が訪れる状況になって、あの静かな部屋は壊 れてしまったのか、と思うと、なんだか寂しい気がする。 ﹁えっ⋮⋮いえいえっ! そういう意味で言ったのではないですよ。 教えるのは楽しいので、なんの不満もありません﹂ イーサ先生は珍しく焦った様子で、俺の杞憂を否定した。 ﹁そう言って貰えると助かります﹂ ﹁いえ⋮⋮本当に﹂ イーサ先生は少し乱れた髪を、手でそっと直した。 ﹁それに、こうして昔の教え子も訪ねてきてくれるのですから、私 は幸せ者です﹂ そうなのかな。 でも、イーサ先生が幸せというのだから、嘘ではないのだろう。 少なくとも、今は不幸なようにも、仕事にうんざりしているよう にも見えない。 ﹁ところで、一つお知らせしたいことがありまして﹂ ﹁はい⋮⋮だいたい察しはつきますが、なんでしょうか﹂ 察しはついているということは、耳には入っているのか。 1278 ﹁えっと、戦場を少し見物しにいくことになりまして、しばらく留 守にします﹂ ﹁そのようですね。世事に疎い私にも聞こえてきていましたよ。く れぐれもお気をつけください﹂ 現役の王太子が出征するというのは前代未聞のことなので、やは り情報としてかなり広まっているのだろう。 悪い噂でなければよいが⋮⋮。 ﹁俺はなんとでもしますが、イーサ先生こそ身辺に気をつけてくだ さい。戦争が始まれば、何物かの敵意がイーサ先生に向かぬとも限 りません。どうか戸締まりなど厳重に⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮そうですね。気をつけておきます﹂ ﹁はい﹂ ﹁あの、ユーリさんには言おうかどうか迷ったのですが﹂ ﹁なんでしょうか?﹂ 俺が問いなおすと、イーサ先生は少し緊張した面持ちで、話し始 めた。 ﹁もし、あちら側に捕まった時は、カソリカ教皇領の者に会って、 イーサ・ウィチタの居場所を知っている、自分を逃せば連れてくる。 と言えば、なんらかの取引ができるかもしれません。私は構いませ んので、もしものときは⋮⋮﹂ ⋮⋮⋮⋮えーっと。 なんとまぁ、面白いことを考えつく人だ。 しかし、イーサ先生はそこまで大物の手配人なのだろうか。 1279 ﹁残念ですが、そこらの騎士ならばともかく、将家の嫡男ともなる と、それでは見逃しては貰えないと思います﹂ もし、相手が間抜けで俺の身分に気づかなくとも、そういった取 引は人質などの担保なしでは成立しない。 担保もなしに俺を解き放つほど、向こうも間抜けではあるまい。 いや、例えばキャロル辺りが一緒に捕まるといったことも考えら れるか⋮⋮。 考えたくもないが、そうなったら⋮⋮。 ﹁いいえ、私の名が出れば、聖職者たちは必ずうろたえます。ユー リさんをただちに害することはできなくなるのです﹂ ﹁そうなのですか?﹂ はて? どういうことだろう。 ザ・ビースト ﹁私は、向こうではとても重要な異端者なのです。教皇領で言うと ころの、獣級の異端者ですね。これは、教会の信仰を大いに脅かす 者にかけられるもので、それを捕らえた者は、死後に必ず列聖され る習慣になっています﹂ ⋮⋮どんだけドでかいことをやらかしたんだこの人は。 列聖が確約されるって、どんなサービスなんだよ。 ﹁はあ、なるほど⋮⋮﹂ ﹁あちらは、交渉を断るにしても、ルカオン大聖堂まで連絡して管 区大司教の指示を仰がなければならないでしょう。少なくともその 間は、ユーリさんは無事でいられます﹂ 1280 ルカオン大聖堂というのは、名前から察するにティレルメ神帝国 の帝都ルカオンにある大聖堂だろう。 だいぶ遠いので、キルヒナから駆けるとなると馬で一月ほどもか かる。 決死の状態から一月も生きられるというのは上等だ。 無事でいられるかというと、そこは拷問などを免れないと思うが。 殺されはしないだろうけど。 ﹁しかし、たしか十字軍には従軍司教がいるはずでは⋮⋮? それ アーチビショップ なのにルカオン大聖堂まで行かねばならないのですか?﹂ ビショップ ﹁はい。従軍司教というのは、ただの司教であって、大司教ではあ りません。司教は司教でも、出世頭のたいへん優秀な方が選ばれる のですが⋮⋮﹂ ﹁でも、なぜそのような事になっているのですか? 責任者不在で は何かと問題なのでは﹂ 責任者が馬で一ヶ月の場所にいるのでは、どうしようもなく不便 だろう。 そういったイレギュラーが生じる可能性は少ないので問題が表面 化するのは稀有ということなのかもしれないが。 ﹁大司教以上の御役目の方々は、軒並みお年寄りなので、寒い北方 への長旅などしたくないのですよ。大昔の十字軍では、それこそ教 皇自身が出征したりしたものですが⋮⋮。現在ではちょっと考えづ らいことですね。枢機卿などもヴァチカヌスでの政治に忙しく、丘 の上を留守にしたくないようです﹂ 1281 なるほど。 確かに、日頃から鍛えている戦争屋の騎士や王ならともかく、修 道院暮らしがそのまま年寄りになった連中では、北方まで馬に乗っ て来るというのも難しいか。 ﹁解りました。もしもの時のために覚えておきます﹂ 使う気は毛頭ないけれども。 ﹁はい。そうしてください﹂ と、先生は安心したように微笑んだ。 ﹁それと⋮⋮聞いていいものか解りませんが、先ほどイーサ先生は イーサ・ウィチタと言いましたよね。イーサ先生の姓はヴィーノだ ったと記憶していますが⋮⋮﹂ ﹁はい。あれは偽名です﹂ イーサ先生はなんともあっさりと言った。 まあ、それほどの大物ともなれば、偽名を使う必要もあるか。 というか、ヴィーノというのはテロル語ではぶどう酒を指す名詞 である。 ハロルが船を使ってせっせと運んできているのがそれで、ここ九 百年ほどの間、シャン人の酒飲み界隈では、文献にのみ登場する幻 の酒であったらしい。 綿と並んで、我が社の売れ筋商品の一つだ。 それはどうでもいいのだが、﹁ぶどう酒﹂という姓は、農家の出 であれば不思議でもないが、イーサ先生のようなインテリ層にあっ 1282 ては、やはり変であろう。 俺も、ハロルに秘儀を施したのを見たあたりから偽名については 疑いを覚え、入国の際にとっさに名乗って引っ込みがつかなくなっ たんだろうなぁ、とか思っていた。 ﹁政治犯として利用される可能性を考えて、入国するときは偽名を 使わせていただきました。できれば、私の本名は、秘密にして頂け ると助かります﹂ そうか⋮⋮。 イーサ先生も、ちょっとやそっとの覚悟で、俺にこんな提案をし たわけではないのだ。 本名を明かした時点で、かなりのリスクを負っている。 そんなことは覚悟の上で、俺に生き延びる手段の一つを与えよう としてくれたのだ。 きっと、俺が戻ってきて、申し訳ありません、キャロルが捕まっ ているので、人質交換されてくれませんか、と言えば、自分が明ら かに死ぬと解っていても、﹁はいわかりました﹂と快く応じてくれ るのだろう。 俺は、なんという善意を受けているのだろう。 ﹁もちろん、口が裂けても言いません﹂ ﹁いえ、口が裂けそうになったら言っても構いませんよ?﹂ イーサ先生はいたずらっぽく微笑んだ。 拷問されたら言っちゃってもいいよみたいな感じか。 いや言わないけど。 1283 ﹁⋮⋮先生のご厚意は忘れません。ありがとうございます﹂ ﹁いえ、厚意などとは⋮⋮。私は、丘の上を去る時に一度は死んだ つもりでいますし、この命をユーリさんのために使えるのであれば﹂ いや、死んだつもりでいられると、こっちも気が気ではないのだ が。 ﹁ヴァチカヌスで何があったかは知りませんが、イーサ先生はこう して生きていますし、僕の大切な恩師ですよ。できれば、命を粗末 にしないでいただけると助かります﹂ 俺がそう言うと、イーサ先生は少し困ったような顔をした。 ﹁確かに、そうですね。自分の命を蔑ろにしながら、ユーリさんに それを望むのは、いささか説得力に欠けるかもしれません﹂ そういうことではないのだが⋮⋮。 まあいいか。 ﹁どうかご自愛ください﹂ *** ﹁それと、話は変わるのですが﹂ ﹁なんでしょうか?﹂ ﹁先生はお嫌かもしれませんが、少し商売を考えているのです。そ 1284 れで⋮⋮イーサ先生がその気であれば、聖典を翻訳してみませんか。 軽く注釈をつけて﹂ ﹁えっ? それは⋮⋮現代シャン語にですか?﹂ イーサ先生は、シャン語訳の聖典というようなものを想像したら しい。 ﹁いえ、テロル語です。実は、ハロルがやっているアルビオ共和国 との取引が上手くいっているので、印刷した聖典を輸出したら面白 いかと思っているんです。正しい教えを啓蒙していけば、少しづつ でも意識が変わっていくのではないかと⋮⋮﹂ ﹁しかし⋮⋮どこで売るのですか? 買ってくれる者などいないの では⋮⋮﹂ イーサ先生はいかにも商売とかしたことなさそうだしな。 ﹁イイスス教圏全体に売ってゆくのです。アルビオ共和国は闇取引 の人脈をどこの国にも持っていますから⋮⋮ホウ紙と印刷技術を使 えば、羊皮紙の写本聖典よりもずっと安価に作れます。安ければ売 れるというのは、市場原理ですから、嫌でも売れるでしょう﹂ 恐らく、聖書の所有は一種のステータスになっているはずだから、 飛ぶように売れるだろう。 これは調査済みだが、向こうでは植物紙はあっても、印刷の技術 は未だにない。 もちろん、シヤルタ王国で製本したなどという情報は、買う人の 気分を害するだけなので、伏せる。 買う人は、もちろんイーサ訳でなく、現行の欽定訳聖典を欲しが 1285 るだろうが、安いのはイーサ訳しかないのだから、選択の余地はな い。 ﹁ですが⋮⋮こう言ってはなんですが、私が素直に書いた翻訳を流 通させれば、すぐに異端となるでしょう。禁書に指定され焚書され てしまえば、どうすることもできません﹂ そりゃそうだ。 信条 と呼ばれており、 イーサ先生が翻訳した本なら、教会の逆鱗に触れるに決まってい る。 教会が定めた聖典の解釈は、専門用語で これはイイスス教の高位聖職者が招集された公会議で採択される。 例を挙げると、聖典には、イイススは神の子なのか、神の意思そ のものが人間に憑依し、奇跡を起こせる超人のような存在になった のか、または神自身が地上に降りてきた存在なのか、実のところは っきりと説明した文言がない。 当然、そこが曖昧なままだと教会ごとに教えの内容が変わってし まい、聖職者の説教も統一性がなくなってくる。 Aという信者が普段行っているBという教会ではなく、Cという 教会に行き説法を聞いていたら、話している内容がBとCでは違う。 どういうことだろう? と質問をし、C教会の聖職者は青ざめて Aを異端者呼ばわりしてしまう。 実際、イイスス教が拡大し大宗教になるにつれ、そういうケース は多発するようになってしまった。 そこで、大昔の教皇は公会議を開き、イイススは神とは別個の意 1286 思を持った 神の子 ではなく 統一見解ということにした。 神そのもの という解釈を採択し、 そして、その解釈を拒絶した連中は、異端者ということになった。 それ以降、何かにつけ問題が起こるたびに公会議は招集されたが、 これは定例会議のようなものではなく、問題がおこらなければ数百 年も開催されないこともある。 現在のカソリカ派の教義というのは、そうやって公会議の決定を パイ生地のように積み重ね、過去の決定が不都合となれば引き剥が すことによって形成されてきた。 イーサ先生からの授業で、俺は表層的ながらも、カソリカ派の解 釈とワタシ派の見解の違いを知っている。 ワタシ派では、幾つかの重要な信条を誤りとしているし、聖典解 釈もだいぶ違うので、聖典が教皇領の逆鱗に触れるのは間違いない。 だが、そうなるまでには時間がかかる。 社会システムが高レベルに構築されていない国家では、辺境で起 こった問題が中央に届くまでには、長いタイムロスが生じる。 この問題において、異端の判断をするのは教皇領だから、教皇領 をドーナツ型に外す形で、短期間のうちに一斉に販売すれば、問題 になるまでの時間はかなり伸びるだろう。 アルビオ共和国に金を払えば教皇領の内偵もできるのだから、禁 書指定の発議が行われるということになったら、そのとき初めて教 皇領に流し込めば良い。 ﹁まあ、その時はその時です。売れなくなったら刷るのをやめます から。そうですね⋮⋮布教ではなく、啓蒙と思えばいいんですよ。 1287 千冊も刷れば、幾ら焚書されようが、一冊くらいは残るでしょう。 百年後にそれを見つけた人がいれば、現代では否定されたイーサ先 生の考えも、後世に評価されるかもしれない⋮⋮。そういうのも面 白いじゃないですか﹂ 俺がそう言うと、イーサ先生はまんざらでもなさそうだった。 胸がときめいてる感じだ。 それはそうだろう。 イーサ先生は科学者ではないが、思索を趣味とする者であれば、 成果として生った果実を世に問いたいと考えるのは、自然なことだ。 人間は、誰でも自分の足跡を世に残したがる。 誰にも知られずに消えるのは、あまりに寂しい。 イーサ先生は、嬉しがってくれるのかと思ったが、笑みをすぐに 消した。 そして、十分ほども長い間、うつむいて黙ったままでいた。 何を考えているのか、察しもつかない。 そして、ぽつりと、 ﹁それは、私にとって大きな選択ですね﹂ と言った。 ﹁そうでしょうか? 確かに、翻訳作業に時間はかかるかもしれま せんが﹂ ﹁そういうことではありませんよ﹂ 1288 そういうことじゃないのか。 というか、なんだか先ほどとは変わって厳しい顔をしていらっし ゃる。 ﹁禁書に指定されれば、所有者は異端者ということになります。た だちに教会に提出すれば難を逃れますが、それでも疑いをかけられ るでしょう。獄に繋がれ、あるいは処刑される者も出るかもしれま せん﹂ ああ、そういうことか。 俺にとっては、そんなことは心底どうでもいいし、むしろあちら の混乱は歓迎したいところですらあるのだが、イーサ先生にとって は違うのか。 そりゃそうだよな。 ﹁それは、そうかも知れませんね⋮⋮。イーサ先生の御立場を失念 していました。お嫌でしたら潔く諦めます﹂ ﹁いいえ、今のカソリカ派に一石を投じることは、ユーリさんの言 うとおり、様々な意味でよい働きがあります。そういった負の側面 と比較しても、行う価値はあるでしょう﹂ だが、イーサ先生はやる気のようだ。 どういう心境なのだろう。 イーサ先生の過去にどのようなことがあったのか、俺は知らない ので、どうにも察しがつかない。 ﹁その意味で、私は決断に迫られているのです。私は既に一度失敗 し、大勢の人間の人生を台無しにしました。しかし、そのことを理 1289 由に行動しないのは、私の甘えかもしれません﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 重く考えすぎなのではないでしょうか、というようなことを言お うとも思ったが、やめておいた。 それは先生が考えて結論を出すことだし、イーサ先生ほどの人物 であれば、軽易な結論には達しまい。 というか、イーサ先生が嫌なら別に強く迫ろうとも思っていない し。 金稼ぎ自体を嫌がるかもと思っていたので、嫌なら諦めようと思 っていた。 ﹁結論は後日でも良いですよ。僕が帰ってきた時にでも﹂ ﹁いえ⋮⋮結論は今出ました﹂ へ? そ、そうなのか。 ﹁しかし、ワタシ派の訳聖典をお預けするにあたって、ユーリさん に答えていただきたい問いがあります﹂ え、なんか変な流れになってきたぞ。 問いってなんだ、試験問題みたいなもんか。 図らずも、さっきの今で面接される側に回ったのか。 ﹁はい⋮⋮なんでしょうか?﹂ ﹁戦争というのは、なぜ起こるのでしょうか?﹂ 1290 ??? 俺は思わず眉をひそめた。 なんとも茫漠とした質問だな。 しかし、他ならぬイーサ先生の質問だ。 子どもの質問ではない。 先生には持論の一つや二つあるのだろうから、ここは議論に挑む つもりでしっかりと答えるべきだろう。 ﹁なぜ⋮⋮といっても、理由は様々あると思います﹂ ﹁例えばどんなものですか?﹂ 例えば、と言われても。 ﹁心理的要因、経済的要因、地政的要因、歴史的要因、軍事的要因 ⋮⋮どのような学問分野からも理由付けができますし、どれが正解 というわけでもないでしょう﹂ ﹁続けてください﹂ 続けてください、って。 さっきので終わりじゃダメなんか⋮⋮。 ﹁例えば、隣国同士に経済的格差があった場合、これは戦争の火種 になりえます。隣国が富み栄えているのを近くから見ていて、気持 ちがいい国民や国主はいないでしょう。その国が脆弱な軍備しかし ていなければ、当然に攻めたいという欲求が産まれます。これは明 白な戦争開始要因の一つです。しかし、それは複数ある要素の一つ であって、全てではありません。経済的格差がなく、隣国同士で嫉 1291 妬や羨望といった感情が発生しなければ、絶対に戦争が起こらない のかといえば、そうではない。例えばクルクス戦役などは、まった く別の要因から戦争が起こりました﹂ うん。 これで完璧だろう。 答えになっているはずだ。 ﹁そうですね⋮⋮ユーリさんの洞察は、とても優れていると言える でしょう。ですが、それは私が望んだ答えではないのです。いえ、 私の質問が悪かったのですね﹂ えっ⋮⋮。 なんなんだ一体。 ﹁では、別の質問をします。戦争をなくすにはどうしたら良いと思 いますか?﹂ ﹁⋮⋮それはまた﹂ 絶句するような質問に変わった。 どういう意図があって、このような質問をしてくるのだろう? それにしても、この手の質問は久しぶりに聞いた気がする。 この世界では、戦乱がありふれ過ぎていて、誰もそのようなこと は考えないし、日本ではありふれていたこの手の質問も、耳にした ことはなかった。 ここは深読みせずに、素直に答えておこう。 その結果、ワタシ派訳聖典を得られなくなったところで、それは それで仕方がない。 1292 ﹁どこぞの一国が世界中を支配すれば、あるいは一時的に戦争はな くなるかもしれません。ですが、イーサ先生が仰りたいのは、その ような意味ではなく、恒久的に戦争をなくす方法ということですよ ね?﹂ ﹁はい、その通りです﹂ なんとも難題であることよ。 難題でなく易い問題であるなら、戦争など最初から起きないわけ だが。 人類が一人を除いて絶滅すれば戦争はなくなる、というナゾナゾ 的な解答もあるが、それもだめだよな。 ふう⋮⋮良く考えて答えんとな。 ﹁昔、世界から武器と軍隊を無くせば、戦争はなくなると言った人 がいました。戦争を軍隊同士の戦闘と定義すれば、軍隊をなくせば 戦争はなくなるでしょうが、そういう意味でもないんですよね﹂ ﹁はい。その通りです﹂ まあ、そうだよな。 ﹁それでは、争いごとそのものを無くそうという意味になりますね。 その方法は、単純に考えて二つあります﹂ ﹁二つも⋮⋮ですか。私に教えてもらえますか﹂ ﹁一つは、﹃世界から武器と軍隊を無くす﹄の延長線の方法です。 イーサ先生には言うまでもないと思いますが、世界中から武器と軍 1293 隊をなくしたところで、戦争はなくなりません。徒手空拳で組織化 されないまま侵掠と戦闘をするだけです。人間は素手でも人を殴れ ますし、殺すこともできる。戦闘も掠奪も通常通り行えます。武器 と軍隊というのは、殺人を効率化して戦争に勝つために発明した道 具ですから、それがなくなったところで、戦争を消滅させる本質的 な効果はありません。戦争のありさまは様変わりするでしょうが、 それ以上の効果はないでしょう﹂ ﹁でも、先ほどユーリさんは、戦争をなくせると言いました﹂ ﹁はい。厳密には、これは不十分なのです。それだけではなく、人 間から腕や足や歯⋮⋮そういったものを奪えば良いのです﹂ そういうと、イーサ先生は少し訝しげな表情をした。 ﹁つまり、人間という生物から、あらゆる暴力的な機能を取りはら う、ということですね。もちろん、他人を害することはできない。 戦争はなくなります﹂ ﹁はあ⋮⋮全人類がそれをやれば、確かにそうですね﹂ ﹁もちろん、そうしたら人類は生きていけません。自然界の競争に 呑まれて絶滅するでしょう。ですが、武力を無くすという手法で戦 争を無くすには、そこまでやらなければ意味がないのです﹂ ﹁それは、確かに納得できる結論ですね。現実的ではありませんが、 想像の実験としては⋮⋮﹂ ﹁もう一つは、﹃世界から武器と軍隊をなくす﹄ではなく、﹃人間 から武器と軍隊の必要をなくす﹄ことです。つまり、人間から暴力 的解決をする必要を無くす、ということですね﹂ ﹁はい。それは素晴らしいことですね﹂ 1294 イーサ先生はこっちの主旨の答えを望んでいたんだろうな。 ﹁しかし、実際には、この世界ではありとあらゆる問題の解決手段 に、暴力が使われています。男性は女性にいうことをきかせるため に暴力を振るいますし、女性は子どもに同じことをします。乱暴者 は物欲を満たすために強盗を行い、それを逮捕するときには、やは り暴力によって自由を奪います﹂ ﹁はい。その通りですね﹂ ﹁ですから、この解決が想定しているのは、殺人罪や窃盗罪、強姦 罪や暴行罪、それらが社会から存在しなくなり、刑罰の執行の機会 が消滅することで警吏の必要もなくなった世界。ということになり ます。そのような世界では、当然に軍も武器も必要なくなり、戦争 もなくなるでしょう﹂ ﹁はい。では、ユーリさんはそれが実現可能だと思いますか?﹂ どうやらこれが聞きたかったことらしい。 SFの小説や映画では、遺伝子操作や人造ウイルス、マイクロマ シンなんかを使い、人間を根源的に変化させて、そういった事を行 おうとする脳みそを変える、などという事をやっていた。 俺には、人間の科学がそこまで達することが可能かどうかは、判 断できないが、科学が無限に進歩すると仮定すれば、実際に人類種 から戦争の可能性を奪うといったことは可能だろう。 が、現状では不可能だし、そもそも人類種を変質させてまで戦争 をなくすべきかというと、それにも違和感がある。 違和感、というか反感、というか。 1295 ﹁その答えは、はい、いいえ、ではしたくありません。はい、と言 えば嘘をついたことになるし、いいえ、と言えば可能性をなくして しまうことになる。安易にどちらかの答えを出すのではなく、諦め ずに努力をしていく姿勢が、前進をみちびくのです。その努力が成 就すると信じるのかは別として﹂ こう言っておこう。 ﹁⋮⋮ユーリさんのお考えは、良く解りました﹂ ﹁⋮⋮そうですか﹂ うーん、ダメかな。 どういう意図の質問だったのかわからんが。 ﹁聖典については、精一杯翻訳させていただきます﹂ なんだか知らんが、あれで良かったらしい。 ﹁さっきのでよかったんですか?﹂ ﹁はい。ただ、私は確かめておきたかっただけなのです。聖典は、 そうしようと思えば、社会を混乱させる道具として使うこともでき ますから。そうならなければ良いのです﹂ いや⋮⋮社会を混乱させるというか。 ﹁いえ、僕は⋮⋮俗なことを言いますが、お金を儲けたいだけです。 陰謀めいたことは考えていませんが、正しい信仰を願って慈善の行 いをする、などという高尚な考えを持っているわけではありません よ﹂ 1296 お金はちゃんと取ります。 ・・ ﹁分かっていますよ。お金を稼ぐことは悪いことではありません。 ただ、聖なる道具も悪意⋮⋮この場合は害意と呼ぶべきですね。害 意によって扱われれば、悪い結果をもたらしてしまいます﹂ つまりイーサ先生は、ワタシ派訳聖典の配布によって発生した信 者を、俺がいいように、私利やシャン人のために利用することを恐 れていたわけか。 ﹁ユーリくんは、私が戦争を嫌っているとお思いでしょう﹂ ﹁そりゃ⋮⋮そうでしょう﹂ 当たり前だ。 聖典は戦争を否定しているわけではないが、認めているわけでも ない。 認めるとしても、それは権威に圧されての消極的な肯定であるべ きで、自分から私利を追い求めて積極的に肯定するなどということ は、聖職者のすることではない。 イーサ先生は、立派な聖職者なので、そのようなことはある筈も ない。 ﹁私を利用したいのであれば、聞こえの良いように戦争を否定する 答えを話したはずです。だから、安心して預けられるのです﹂ その理論はよくわからないが⋮⋮。 ﹁⋮⋮単に考えていなかっただけかも知れませんよ? あちら側の 混乱は僕に益するところですから、利用価値を認めるようになれば、 1297 利用するかもわかりません﹂ ﹁そうかも知れませんね。だから、お願いします。お預けする聖典 はイイスス教徒の幸福のために使ってください﹂ お願いされちゃったよ。 ﹁分かりました。そのようにします﹂ 元より、イーサ先生の意に反して利用するつもりなどない。 制限がつくなら、余計な欲を張らずに、利用の範囲内で使うだけ だ。 ﹁はい。ですが、それもユーリさんが無事に戻ってきてこその事で すからね。繰り返しますが、くれぐれもお気をつけ下さい﹂ ﹁わかりました。気をつけます﹂ 折角イーサ先生が書いたもんが無駄になったら悪いからな。 ﹁では⋮⋮少しお手を貸していただけますか﹂ ? 俺はイーサ先生に右手を差し出した。 イーサ先生は、少しかさついた手でそれを取り、両手で包み込む ようにして俺の手を握った。 肌が乾燥しているようなのに、手のひらは温かい。 今度、手に塗る油でも差し上げようか⋮⋮。 ふとそう思った時、イーサ先生は、少しかがんで俺の手の甲に軽 く唇をつけた。 1298 唇と同時に、手を解き放つ。 急なことに俺がびっくりしていると、 ﹁おまじないです。ご無事に帰ってきてくださいね﹂ と、イーサ先生は微笑みながら言った。 ﹁⋮⋮わかりました﹂ なんだか照れくさくなりながら、俺はイーサ先生の部屋を辞した。 1299 第080話 海の向こうからの荷物 ﹁おい! 待て!﹂ 大慌てで到着した俺が叫ぶのを聞き、リャオは騎上から振り向き、 怪訝そうな顔をした。 ﹁全体、止まれ!﹂ そう言って駆鳥隊の移動を止めると、リャオは上官に対する礼と して、カケドリから降りた。 俺も、同じようにカケドリを降りて、地上で対面した。 そして、リャオは団員に聞こえないように小声で言う。 ﹁お前が来ないんで、痺れを切らして出発するところだったんだ。 今から偉そうに長話をしても、顰蹙を買うだけだぞ﹂ リャオの後ろには、団員たちがめいめいの皮鎧を着て駆鳥に跨っ ている。 俺は送り出しに訓辞をする役だったのだが、遅れてしまっていた のだ。 随分と待った挙句、何だあいつ、もう行こうぜ。ということにな ったのだろう。 リャオの言うとおり、大遅刻して駆けつけてきた俺が、そこで偉 そうに演説でもしようものなら、大顰蹙ものだ。 1300 ﹁悪かった。今から馬車が一台来る。その用意で遅れたんだ﹂ ﹁馬車? 聞いてないぞ﹂ ﹁俺も間に合わないと思っていたからな﹂ 段列の後ろを見ると、馬車数台の後ろから、もう一台の馬車がや ってくるのが見える。 ﹁あれだ。ついでに運べるか?﹂ ﹁まあ、一台くらい増えたところで、どうということはないが⋮⋮﹂ ﹁ユーリくん、どうしたんですか?﹂ ミャロもやってきた。 ミャロは、若い雌の駆鳥に乗って、華奢な体に薄手の皮鎧を纏っ ていた。 心臓を守るように、三角の鎖帷子を右の肩口から左の脇の下にか けて装着している。 鎧が特に薄手なので、補強する意味があるのだろう。 軽そうだし、作りも悪くない鎧だ。 実家からパク⋮⋮いや、借りてきたんだろうか。 ﹁持って行って欲しい荷物が一つ増えた。今朝届いたんだ﹂ といっても、時刻的には今は朝なので、今朝といえば今も今朝な のだが。 ﹁中身は食いもんじゃないからな、幌は外さないでいてくれ﹂ ﹁わかりました﹂ 1301 ミャロは頷いた。 ﹁あと、水気と火の気は厳禁だ。だから、野営の間にも幌はとらな いでくれ。まかり間違って火の粉でも入ると困るからな﹂ ﹁はい、気をつけます﹂ 物品の管理はミャロの領分のはずだから、ミャロが管理するだろ う。 ミャロに任せておけば安心だ。 *** 補給隊にそれなりの激励をしたあと、寮に戻ると、俺はベッドに 寝転がった。 昨日から気をもんでいたので、やけに疲れた。 あとは、13日後に王鷲で発つだけだ。 その間も、いくらかやることはあるが、寝る時間くらいはある。 今日は早朝から港へ行き、その後も動き回っていたので、かなり 眠い。 シヤルタとキルヒナの間に横たわっている湾のことを、シャミル 湾と呼ぶ。 その湾は、ちょうどシビャクのあたりでくびれていて、内海とは 呼ばないまでも、かなり狭くなっている。 王鷲は、馬や駆鳥と違って、よほど高い山以外は地形に制限を受 1302 けないので、この海峡を渡ることが出来る。 海峡の幅は、おおよそ王鷲の限界飛行距離の3/4程度の距離な ので、わりと余裕もある。 とはいえ、地形が関係ないとは言っても、それは順調に飛行でき ればの話だ。 トラブルで着地することになれば、当然ながら下は海なので、溺 れてしまうことになる。 着地が許されない状況が限界飛行距離の3/4続くというのは、 危険といえば危険に違いない。 それでも、海峡を迂回して湾を大回りすると、五倍以上の大回り になってしまう。 それはバカバカしいほどの時間の浪費だ。 なので、俺も、こないだ帰ってくるときはこのルートを使った。 シビャクとリフォルムを往復する使節は日常的に利用しているル ートなので、それほど危険とされているわけではない。 使節の間では、伝統的にコンパスを利用した手法が確立されてい て、事故率は1%以下になっている。 危険要素になるのは、航法や運転技量よりも、むしろ王鷲の体調 管理で、飛行の前に十分に休ませ、栄養のある食事をとらせ、飛行 してから暫くは様子を見て、飛行に不良が見られるようなら、取り 返しのつかない地点まで達する前に引き返す。というのがもっとも 重要になってくる。 責任重大なのは道案内の先頭騎⋮⋮つまり俺だけなので、あとの 人間はついてくるだけだ。 少しうたた寝していると、ガチャリとドアが開いた。 1303 誰だ? 薄目を開けて見ると、キャロルだった。 まあ、そりゃそうだわな。 ドッラとミャロは今日出発したんだから、この部屋に来るのはキ ャロルと俺くらいだ。 あと来るとしたら、殺し屋くらいのもんだろう。 わりと冗談でなく殺し屋かもしれないので、薄目で伺っていたわ けだが。 とはいえ、キャロルは今日、俺と一緒に出陣前に激励をする予定 だった。 俺は出遅れたわけだが、キャロルはきちんと役目を果たしたはず だ。 起きたら小言を言われるかもしれない。 このまま寝た振りをしておくとするか。 ﹁寝ているのか?﹂ おこ 寝ているので、俺は答えなかった。 怒りにきたのでないのなら、そのうち用事を済ませて帰るだろう。 若干音の大きい足音で近づいてきて、俺のベッドの横で立ち止ま ったようだった。 なんだ? もしかしてブチ切れてて、そのまま踵落としでもして俺を無理や り起こすつもりだろうか。 ありえなくはないので、若干心配になった。 1304 ﹁⋮⋮朝だぞ∼﹂ と小声で言ってきた。 朝といっても、もう昼のほうが近いような時間なのだが。 リリー先輩からもらった時計を見れば、今は十時ごろを指してい るだろう。 目をつむっているので、どういうツラをして言ってきたのかわか らない。 表情がわからないと、声だけでは、どういう状況なのか察しにく いものだ。 まあ、このまま寝とけば、そのうちどっかいくだろう。 用事という用事もないようだし。 たぶん服とか本とか取りに来ただけだろ。 *** そのまま、十分ほどが経過した。 といっても、時計を見たわけではないし、俺は目をつむっている だけだから、時間間隔は麻痺しているかもしれない。 面白い本を読んでいるときの十分と、トイレを我慢しているとき の十分はぜんぜん違うしな。 実際は五分くらいかも⋮⋮。 しかし、こいつはなにをしているのだ。 1305 俺は目を開けられないので音で判断するしかないが、紙が擦れる 音はしないので、本を読んでいるわけでもないようだし。 なにか急ぎでない報告があって、俺が起きるのを待っているのか? 暇なの? だが、じっと俺を見ているのだとも限らない。 寝ているのかもしれないし、音の出ない遊び⋮⋮例えばアヤトリ とかしてるのかも。 いや、ないか。 ⋮⋮ああもう、かったるいな。 狸寝入りなんかするんじゃなかった。 なんで我慢比べみたいな形になってるんだ。 今起きたフリをして目を開けよう。 と思った瞬間、ふいに俺の額に何かが触れる感触があった。 キャロルが俺の額に、指先で軽く触れたのだ。 そして、左右にスッスッと動かして、顔にかかった髪の毛を払っ た。 うっ⋮⋮。 突然触れられたので、思わず眉根がビクっとしてしまった。 そのタイミングでキャロルの指がパッと離れた。 やっちまった。 1306 このまま寝てるとおかしなことになる。 そう気づいた俺は、ぱっと目を開けてむっくりと起き上がった。 ﹁ん⋮⋮? キャロルか?﹂ 目をぱちくりさせながら、キャロルを見る。 今まで寝ていました演技である。 キャロルは、固まっていた。 まるで親に見られたくないアレをしているところを見つかった中 学生のように硬直していた。 ﹁なんか用か﹂ ﹁あ、あああああ、そそそうだ! 用事だ!﹂ 面白いほどうろたえている。 ﹁いま来たのか?﹂ ﹁そ、そうだ! ちょ、ちょうど今さっき来たところだ!﹂ 嘘つけ。 ﹁用事はなんだ﹂ ﹁ああ、えーっと、あああああ、そうだな。わ、忘れてしまった﹂ 忘れたて。 どうやら本当に用事はなかったらしいな。 ﹁じゃ、じゃあ、思い出したらまた来るから!﹂ 1307 キャロルはパッと手をあげると、そのまま慌ててドタバタと部屋 を出て行った。 なんなんだあいつ。 1308 第081話 出発 5月8日 出発を控えた俺の前には、二十六羽の王鷲と、めいめいバラバラ の革鎧を纏った若者が揃っていた。 俺の横には、華美にならない程度に上品に仕立てあげられた、白 い革の鎧を纏ったキャロルもいる。 だれがデザインしたものなのか、心臓部などを鋼のプレートで補 強しながらも、デザイン的には、俺から見ても非常に美しい。 革は、白馬の革を利用したものであるらしい。 傍らにいるのは、晴嵐であった。 ここは、シビャクから七十キロほど離れたところにある、コレプ タという漁村である。 コレプタはシャミル湾を王鷲で渡る場合の出発地とされていると ころで、さしたる産業もない寒村であるのに、王鷲乗りが宿泊する 需要から、宿はしっかりとしたものがある。 昨日、俺と俺が率いる観戦団はシビャクから発ち、コレプタにつ いてからは、鷲をできるだけ休ませるため、休養をとっていた。 そして今日、俺たちはコレプタの海に面した平地に、集まってい る。 ﹁さて、今日は事前に通達しておいたとおり、シャミル湾を渡る。 しかし、注意しておくべき点がいくつかある。諸君の生死に関わる 問題なので、良く聞いてほしい﹂ 1309 と、前置きをして、俺は話しはじめた。 ﹁まず、俺は一度、これを経験しているので、安心して追従してき てほしい。海上で迷ったりということは、まずありえない。だが、 俺が万全に諸君を誘導したとしても、問題はまだある﹂ 俺は続けた。 ﹁王鷲の体調不良を空中で治療することはできないし、墜ちる王鷲 を皆で抱えて飛ぶということもできない。だから、君たちは海上で 飛行不能な状態に陥ったときは、鷲と共に海に沈むことになる。そ のことが、いつでも陸に降りられる地上と大いに違う点だ﹂ そう言うと、やはり皆々は不安げな顔をした。 未来ある若者であれば、誰だって一人寂しく海に沈みたくはない だろう。 ﹁だが、知っての通り、王鷲は何らかの故障を起こしたとしても、 空中で唐突に絶命して墜落、なんてことは滅多にない﹂ 実を言えば、心筋梗塞かなにかで王鷲が空中で突然死するという ことは、極稀にある。 学院でも二十年に一度くらい、王鷲が空中でパタっと動きをとめ、 そのまま騎者ごと地面に激突するという事故で、死者が出るらしい。 だが、それは本当に滅多にない種類の事故で、俺の在学中におい ては、一度として起こったことがない。 ﹁たいていの場合は、飛行中、鷲の故障に見舞われても、かなり長 1310 い間飛行することが可能だ。そのことは、天騎士たる技量を既に認 められている諸君らにとっては、重々承知のことだろう。そして、 もし鷲が故障を起こしたとしても、全行程のおよそ四分の一を消化 するまでに気がつけば、まず戻ってくることができる。鷲を損じる ことも、命を損じることもなく、帰ってくることができる﹂ このくらい言っておけば大丈夫かな。 ﹁なので、王鷲の体調不良を感じた者は、即刻隊列から離脱し、シ ヤルタ側に引き返せ。これは命令だし、我々幹部に空中にて確認を 取る必要はない。また、引き返したからといって、諸君らの栄誉が いささかも損なわれるわけではないことを、明言しておく。以上だ﹂ 俺はそう言って、訓辞を終えて一歩下がった。 交代にキャロルが一歩前へ出る。 ﹁副長を務めるキャロル・フル・シャルトルである。私は最後尾か らの監督を務めさせてもらうこととなった。行動中、王鷲の故障が 明らかに見て取れる者には、私が手信号で伝える。その者は、どう かすみやかに引き返して欲しい。外からみても明らかに崩れている ような鷲は、まず行程に耐えられないだろうし、つまり墜落する可 能性が高い。私は、諸君全員に生きて帰って欲しい。重ねて言うが、 この命令には逆らわないよう、お願いする﹂ よく通る声でそう言い終えると、キャロルは一歩下がった。 ﹁といっても﹂ と、俺は付け加えるように言う。 ﹁知っている者もいるだろうが、昨日の移動日に、俺は一度王鷲を 1311 見て回って、故障を確認した。そこで、明らかに鷲が悪い何人かに は、参加をとりやめてもらった。俺の見立てでは、君らの王鷲は健 康だし、恐らくは脱落者は一人も出ないだろう。そこまで心配する 必要はないと思うが⋮⋮いや、脅かすのもこれくらいにしておくか。 それじゃ、行くとしよう﹂ *** 湾を超えた先の陸地に、バサリバサリと大きく羽をうちながら、 星屑が降り立った。 ここはもうキルヒナの地だ。 安全具をてっとり早く外すと、俺は地面に降りた。 後ろには、続々と鷲が降りてきている。 案外あっけなく終わったな⋮⋮。 大きなトラブルもなく、たぶん全員が辿り着いた。 全員の王鷲が降り、安全具を外し地面に立つと、誰からともなく 整列を始めた。 選りすぐりだけあって、素早い動作だ。 騎士院で教えられたことを着実にこなしている。 ﹁整列後、点呼!﹂ と言うと、イチ、ニ、と素早く点呼を始めた。 二十六まで数え終わる。 間違いなく全員いるな。 1312 考えてみれば、こいつらも成績優秀者を更に選抜した者達なのだ から、只者の集まりではないということか。 まあ、腕というより鷲の体調が万全なら普通に越えられるもので はあるんだけど。 ﹁それでは、小休止の後、予定通りメシャルの村へ入る。休んでよ し﹂ 俺がそう言うと、恐らくは肉体的な疲れというより、精神的な疲 れなのだろうが、皆その場に座り込んで休みはじめた。 俺は二回目だからそんなに疲れていないが、一応は死の危険があ ったわけだから、緊張していたんだろうな。 ﹁さすがだな﹂ 晴嵐の手綱を持ちながら、俺の横に立っていたキャロルが言った。 ﹁鷲の調子が良かっただけだ。お前の仕事がなくて良かった﹂ キャロルは脱落を通告する役目だったが、幸いにして仕事をせず に済んだわけだ。 ﹁そうじゃない。メシャルにぴったりだったじゃないか﹂ ﹁ああ、そっちか﹂ コレプタとメシャルを行き来する間、コンパスの針の向きは何度、 というのは、これは長年の経験の蓄積で、かなり正確な数字が出て いる。 1313 実際、一月ほど前に俺がここから出発し、それに従って飛行し、 コレプタに到着したときは、こりゃすげえ、と思ったものだ。 ﹁驚くほどのもんでもないだろ。誰にだってできる﹂ ﹁なかなかの玄人でも、到着してから町を探すものと聞いたぞ﹂ そうなのか。 まあ、こんだけ離れてると、角度が数度違っただけで到着地が十 キロくらいズレたりするから、そういうこともあるかもな。 地上を歩いている場合と違って、上空から文字通り鳥観できる王 鷲だと、十キロくらいズレたってすぐに町くらい見つけられるし、 あんまり問題視していないのかもしれない。 ﹁たまたまだろ。それより、さすがに体が冷えたな。大丈夫か?﹂ この季節の空中飛行は、厳寒期に比べればずっとマシだが、それ でも身体に堪えるものがある。 身に沁みるような寒さであることに変わりはなく、その中に三時 間ほどもいたので、俺の体は冷えきっていた。 ﹁大丈夫だよ﹂ ﹁大丈夫には見えないがな。唇が青いぞ﹂ ﹁⋮⋮倒れるほどじゃない﹂ 具合は悪そうだが、部下の前で過剰に気遣えばキャロルの立場が なくなる。 手助けはしないほうがいいだろう。 ﹁そうか。幸い、すぐそこがメシャルだからな。宿に戻ったら休も 1314 う﹂ *** メシャルの町は、よくある半農半漁の寒村のように見えるが、コ レプタと同じように宿場町的な仕事で金が落ちていくので、幾らか 贅沢な暮らしをしているように見えた。 そういうのは、農家の軒下にある鉄製の農具の質だったり、村民 の服が若干でも見栄えがするものだったりと、そういった部分に現 れてくるものだ。 山奥にある本当の田舎町などと比べれば、よほどの華やかさを感 じる。 ﹁⋮⋮あれ?﹂ 宿の前に着くと、町に一軒しかない大きめの宿は閉じられていた。 窓はカーテンがひかれたまま閉じているし、湯気や煙突の煙も立 っていない。 人の住んでいない建物というのは、どこか呼吸をやめているよう な雰囲気がするものだが、ここはまさにそうだった。 どういうこっちゃ? 三週間ほど前に泊まった時は、普通に営業していたのに。 その時、今日あたりの日付で大体何人で来るということは、予め 伝えてあった。 選考の関係で一日ズレたのも、昨日から三日を伝えてあったので、 1315 許容範囲内のはずだ。 宿泊料の半金も払っている。 念のため、ドアを開けようとしてみるが、ガチャガチャと建具が 音を鳴らすだけだった。 やはり鍵がかかっている。 ﹁どういうことだ?﹂ キャロルが言った。 ﹁わからん。宿の主人が倒れでもして閉めてる⋮⋮のかも﹂ しかし、そう大きくない宿とはいえ、十室ちょっとはあるし、も ちろん一人で切り盛りしていた様子ではなかった。 だったら、主人が倒れたからといって、従業員に任せてでも宿は 開くだろう。 なんで閉まっているんだ? ﹁すいません、すいません﹂ と、声がしたのが聞こえてくる。 なにやら、王鷲の群れをかき分けて、誰かがこちらに向かって来 ているようだ。 人垣をかき分けて出てきた人間は、俺の知っている顔だった。 ﹁おっ、あんたは馬世話役だったな﹂ ﹁へい﹂ 1316 この男は、宿に常勤して馬の世話︵この村においては実質鷲の世 話︶をする仕事をしている男で、俺も前に一泊したときに星屑を預 けた。 ﹁悪いが、説明してくれるか? 主人が急死でもしたのか﹂ ﹁へい⋮⋮恐れながら、似たようなもんでございまして﹂ ﹁というと?﹂ ﹁旦那が支払った半金を持って家族ともどもシヤルタに⋮⋮﹂ ⋮⋮。 えーっと。 いくさ ﹁もともと気が弱え男でして。最近、戦の報が聞こえて、村を出る 者どもが増えますと、どうも気分が落ち着かねえようで⋮⋮一週間 前に、おれに宿の鍵を預けると、引き止めはしたんですが、消えて しまいやした﹂ うーわー。 なんてこったい。 まあ、泊まるったって、予定では今日明日きりのつもりだったか らいいけどよ。 宿の鍵を預けたってことは、前金は払ってあるのだから、俺らは 勝手に泊まっていいってことだ。 ここに宿の主人がいたらブン殴ってやりたいところだが。 前金は、一切のサービス抜きの宿の使用代と考えるか。 全額前払いではなく、半金にしておいたのは正解だったな。 ﹁だが、中の寝具などが残っていないのでは困る﹂ 1317 床に寝るんじゃ野宿と一緒だ。 ﹁それは大丈夫でございます﹂ 寝具などは売られもせず残っているらしい。 まさか、戦争でこの土地が無事だったら、戻ってきて営業を再開 するつもりなのだろうか。 そん時は苦情じゃ済まされんぞ。 いとま ﹁従業員は離散してしまったのか?﹂ ﹁はい? もちろん、暇を申し付けられましたが﹂ ﹁ああ、そういうことじゃない。もうこの町にいないのか、という ことだ﹂ ﹁そういうことなら、殆どがおります﹂ それならなんとかなりそうだ。 みんな付近の村落に離散してしまっている、というのでは、どう しようもない。 ﹁なら、これで今日明日働いてくれる者を集められるか?﹂ 俺は男の手に銀貨の入った袋を渡した。 ﹁二千ルガ、シヤルタ銀貨で入っている。これが半金で、残りの半 金は宿を出る時に払う﹂ ﹁ああ、十分でございます﹂ ﹁鷲の餌代と、俺たちの食事代も入っている。王鷲の世話もしても らわないと困るからな。だが、これだけ鷲がいては、お前一人では とても無理だろう。手子の衆に、そこらの暇そうな子どもを雇って もいい﹂ ﹁へい。集めさせていただきます﹂ ﹁今日明日は鷲を休ませるから、そのつもりで。それと⋮⋮﹂ 1318 俺は金貨を一枚、別に取り出して男に渡した。 千ルガ金貨だ。 ﹁これはお前の給料だ﹂ ﹁え、こんなに﹂ 男は、眩いものでも見るかのように金貨を見た。 ﹁その代わり、他の金はお前の懐には入れるな。余ったとしても、 雇った者に平等に分けろ﹂ ﹁はい、当然そうさせてもらいます﹂ ﹁じゃあ、取り掛かってくれ。鍵は勝手に開けて入るからな﹂ ﹁へえ﹂ 男は俺に鍵を渡した。 *** 適当に部屋割りをきめ、全員をひとまず部屋に入れると、俺もキ ャロルと自分たちの部屋に入った。 ﹁あれでよかったのか?﹂ 荷も解かぬうちにキャロルが言った。 ﹁なにがだ?﹂ 1319 ﹁ケチなことを言うわけではないけど、あの男に特別に金貨をくれ てやるというのは﹂ ああ、あれのことか。 なんだ、妙なところが引っかかるんだな。 ﹁金をやりすぎってことか﹂ ﹁非難しているわけではないのだが⋮⋮なんというか、他の者はそ れほど貰わないわけだろう。どれだけ集まってきてくれるのかは知 れないが﹂ ﹁他のやつと同じような金額にしろってことか? 例えば銅貨五枚 とか﹂ 銅貨五枚は五十ルガだから、さっき馬世話の男に渡した金額は、 その二十倍になる。 とりあえず二日間は世話してもらうつもりだから、実際はその半 分になるが、田舎の農民からしてみればけっこうな大金だ。 円でいえば日給五万円くらいになるか。 ﹁銅貨五枚かどうかはともかく、少し差が激しすぎるように思える﹂ ﹁あいつには人並み以上に働いてもらわなきゃならない。ちょっと 盛ったくらいの給料じゃ、皆以上には働かないだろ﹂ ﹁う⋮⋮む﹂ どうも納得いかないのだろう。 ﹁まあ、それは理由の半分だけどな﹂ ﹁? ⋮⋮どういうことだ?﹂ ﹁俺は今さっき、あいつにどれだけ金を渡した? 二千ルガだぞ。 1320 そういう金額を預かった人間が、自分の報酬は五十ルガぽっちだっ たらどうする。俺はあの男の人柄は知らないから偉そうなことは言 えんが、できるだけ金をケチって差分を懐に収めようとするだろう な﹂ それで、人間の世話はともかく、疲れを癒やすべき鷲の世話まで 手を抜かれたら、目も当てられない。 ﹁そういうものなのか﹂ ﹁もちろん、そういうことにならない可能性もあるけどな﹂ 幾ら低賃金でコキ使われようと、一生懸命に働くって奴もいるし。 ﹁だが、そうじゃない者も多いと﹂ ﹁まあな。責任に対して十分と思える報酬が得られなければ、人間 は預けられた金をチョロまかしてでも私利を得ようとするもんだ﹂ 腐れ切った魔女なんかは、十分に金を貰っても、職を汚してさら に金を得ようとするしな。 ﹁は∼⋮⋮なるほど∼﹂ なんだか感心しているようだ。 なるほど∼て。 ﹁なんだ。今日はやけに素直じゃないか﹂ もっと面倒くさい議論になるのかと思った。 ﹁いや、母上のいうことも一理あると思ったのだ﹂ ﹁なんだ? なんか言われてきたのか﹂ なんぞ余計なことを吹き込まれてきたんじゃなかろうな。 1321 ﹁いや、お前のやることなすことを良く観察して学べと言われた﹂ ﹁なんだそりゃ。俺のやることなんて学んでどうすんだ﹂ 俺みたいな奴から学んだら、むしろ王族としては良くない影響が 出てきそうだ。 1322 第082話 夜警 キャロルが忙しそうに出て行ったあとも、俺は部屋で休んでいた。 意外と、頭目というのはそういう役どころが多く、ホウ社のとき もそうだったが、やることをやっとけば後は寝ていても部下が進め てくれる。 社の場合はカフで、今度の場合はキャロルなんだろうが、つまり は部下に恵まれているということだろう。 ベッドで寝ていると、ドアが開いた。 ﹁おい﹂ キャロルの声がしたので、俺は起き上がる。 ﹁なんだ?﹂ ﹁調達してもらった物の中に、酒があるんだが、飲ませてもいいの か?﹂ ああ、酒か。 考えてなかった。 まあ、連中も一応は命がけの飛行を経験したあとなのだから、少 しくらい羽目を外させても構わないだろう。 緊張を解してやりたくもある。 ﹁構わないぞ。だが⋮⋮そうだな、醜態を晒すほど飲んだらどうな 1323 るか、とか脅しておくといいかも知れん。勝手に調節するだろう﹂ ﹁わかった。それと⋮⋮﹂ と、俺はそこで、キャロルの後ろに例の馬世話の男がいるのに気 がついた。 ﹁話があるそうだ﹂ そうだろうな。 話がなけりゃ部屋までは来ないだろう。 キャロルが一歩身を引くと、男が前に出てきた。 ﹁実は、折り入ってご相談がありまして⋮⋮﹂ ﹁なんだ?﹂ 鷲の餌を買ったら、金が足りなかったとかか? ﹁厩舎には、ユーリ様とキャロル様の鷲が入っておりますが、残り は入りきらぬので外に繋いでおるのです﹂ ﹁もちろん、知っている﹂ 少し前に軽く見回り、ああこの季節の冷たい雨で鷲が濡れたら困 るな。今日は星がよく見えるほど晴れているから、降りそうになく てよかったな。 と思っていたところだ。 ﹁それで、実は、ここのところ町に熊が来るのです﹂ 熊? 1324 熊というのは、この地域ではおおよそヒグマのことで、連中はベ ルクマンの法則の忠実な信奉者なのか、やたらと体が大きい。 だが、もちろん冬眠はするので、春先の熊だとすると、かなり体 重が落ちているはずだ。 そのぶん飢えてもいる。 人間を襲いに来ているのか、それともたまたま人間が出した生ご みとか、ボロ屋に吊っておいた肉でも食ったのに味をしめて、人里 に降りてくるようになったのか。 どちらにしても、厄介だな。 ﹁それで?﹂ ﹁はい。常であれば、もちろん鷲の入っている馬房はお守りできる のですが、この度は外に繋いでおりますゆえ、つまり⋮⋮﹂ 男は言いにくそうに言葉を濁した。 ﹁つまり、鷲の無事は確約できかねると﹂ ﹁そういうことでございます。もちろん、鷲も黙って喰われるわけ はございませんから、爪を立てて熊を驚かすでしょうし、町には狩 人もおります。彼には寝ずの番を頼んだので、矢で撃退できるとは 思うのですが﹂ ﹁なるほどな﹂ まあ、確かに体力の落ちた熊相手なら、矢で撃退できそうではあ るが。 寝ずの番をするとはいっても、二十六羽の鷲が外繋ぎになってい るわけで、それらを全て完璧に警護するというのは、難しそうだ。 1325 放し飼いにすれば勝手に空に飛んで逃げるだろうが、そういうわ けにもいかない。 二度と戻ってこなければ、殺されたのと同じだ。 ﹁それで、実は折りいって提案がございます﹂ ﹁なんだ?﹂ ﹁皆様の槍を数本、お貸しいただければ、それをもたせた町の衆で 鷲を守ります。お恥ずかしながら、武器といえば斧や鉈などしかな いのです﹂ ああ、なるほど、それが本題か。 確かに、大柄の熊を相手にするとなれば、薪割り斧だの藪こぎ鉈 では心もとなかろう。 なんといっても、リーチのある槍がいちばん頼りになる。 訓練のない農民でも、遠間から槍を突き立てるのは簡単だ。 だが、斧や鉈を持って熊の懐まで入り込むというのは、よほどの 勇気が要る。 しかし、槍というのは、騎士にとってはかなり大事なもので、武 士の魂ならぬ騎士の魂といってよいような存在である。 差別するわけではないが、農民に貸し与えるようなものではない。 ﹁それは無理だ。それだったら、こちらで交代で番をする﹂ というか、無知から来た発言だったのかもしれんが、さっきのは お堅い奴だったら無礼討ちにされていてもおかしくないくらいの発 言だったぞ。 鷲のためとはいえ、槍貸してくれとか。 1326 ﹁お願いしてもよろしゅうございましょうか﹂ ﹁ああ、構わない。俺も出るしな﹂ ﹁え?﹂ ﹁俺も、熊狩りを試してみたくなった﹂ 男もキャロルもぽかんとしていた。 *** 夜。 俺は、篝火で煌々と照らされた陣地の真ん中で、椅子に座ってい た。 目の前の焚き火は、薪が水を含んでいるせいで、パチパチと音を 鳴らしている。 そして、まわりじゅうにいる鷲には、目に覆いがかぶせてあった。 これは鷲頭巾といって、主に鷲舎がない状態で、昼間鷲を留め置 くときに使う。 目隠しをされると、どのような習性なのか、鷲は鎮静剤をうたれ たように大人しくなる。 星屑ほど上手く調教された鷲には必要ないものだが、今は星屑と 晴嵐もつけていた。 例外的に、篝火の明かりが多い夜だからだ。 明かりがついた状態では、鷲は深く眠ることができない。 1327 歩哨をしている団員たちの真ん中で、俺は座っていた。 寒くない服を着て、半分寝て半分起きているような状態で、ずっ と過ごしている。 隣には、キャロルがいる。 俺が寝ずの番をするというと、何故か張り合ってついてきたのだ。 部屋で眠っていればよかろうに。 こいつは、上手いこと眠ることができないのか、目を瞑りながら も軽く眉根を寄せていた。 事情を知らないやつがみたら、目を瞑りながら不機嫌さに耐えて いるように見えるだろう。 ﹁辛いなら部屋に戻れよ﹂ もう何度言ったか知れない助言をする。 ﹁いや⋮⋮それでは示しがつかない﹂ 目を閉じたまま、すぐに言い返してくる。 やはり起きていたらしい。 それにしても、声にいよいよ元気がない。 なんでこんな強情を張るのか。 不眠症のように覚醒状態にあって眠れないのと、体は眠ろうと思 っても、環境になれないために緊張を強いられて眠れないのとでは、 雲泥の差がある。 キャロルの場合は後者のはずで、おそらく体は疲れきっているの に、育ちが良いせいでこういった環境では眠れないのだ。 1328 ベッドに入れば直ぐに寝息を立てはじめることだろう。 といっても、ベッドに入った時のように、ぐでーっと身体を弛緩 させて熟睡されても、見栄えが悪いので困る。 それならベッドで寝ろよという話になってしまうので、授業で居 眠りする生徒のように上手いこと眠る必要がある。 キャロルが講義で居眠りをしているのは、見たことがない。 ﹁まあ、いいけどな﹂ 体調を崩さなければ、いくら強情を張ろうが構わない。 キャロルの存在のおかげで、歩哨の連中も気が引き締まっている ようだし。 俺は、持ってきていた丸いパンを取り出すと、ナイフで深く切れ 込みを入れて、バターとチーズを隙間に入れた。 そのまま鉄串に刺して、くるくると全体を回しながら、焦げない ように遠間から火にあてていく。 大して腹が減っているわけでもなかったが、こういった余計な業 務で体力を消耗するときは、少し余分に食っておいたほうがいい。 栄養さえ足りていれば、体調はなかなか崩れないものだ。 太るかもしんないけど。 軽く焦げたのを見ると。パンを引き上げた。 そのままナイフを入れて、今度は真っ二つにする。 パンでナイフを拭うように引き抜いて、そのまま鞘に入れた。 ﹁ほら、食え﹂ と片半分を差し出す。 1329 ﹁えっ﹂ 自分の分だとは思ってなかったのか、キャロルは驚いた顔をした。 ﹁腹が減ってなくても食え。なにも食わないと体調を崩すぞ﹂ ﹁ああ⋮⋮そうだな、いただこう﹂ キャロルは素手でパンを掴み、口にくわえた。 俺も同じように食べると、バターに塩が入っていたようで、バタ ーの染みたパンがちょうどいい塩加減になっていた。 溶けたチーズがその上にかかって、なかなか美味い。 ﹁美味しい⋮⋮﹂ とキャロルが言った。 口に合ったらしい。 ﹁そうか﹂ なんだかんだで腹が減っていたのか、キャロルはすぐに平らげて しまった。 最後の一欠片を口に放り込むと、時間をしばらく確認していなか ったことを思い出す。 リリー先輩謹製の、銀製懐中時計をポケットから出して確認する。 もうそろそろ交代の時間だった。 ﹁そろそろ交代だな。次は六号室と七号室の担当だ。お前が起こし に行って来い。俺は今でてる奴らに声をかけて回って、部屋に戻る ように言う﹂ ﹁わかった﹂ 1330 俺は椅子から立ち上がった。 まるで授業中居眠りでもした後のように、意識が一時的な明朗さ を取り戻しているのを感じる。 キャロルのほうは、自律神経でも狂ってしまっているのか、若干 フラついていた。 ﹁そのまま部屋に戻って寝てもいいぞ﹂ と言うと、 ﹁バカ﹂ とだけ言って、俺を軽く睨んできた。 1331 第083話 新しい武器 ﹁⋮⋮夜が明けたか﹂ なにをするでもなく夜通し起きていたというのは、実は初めての 経験だった。 もちろん徹夜などは何度も経験したことがあるが、その度なにか と向き合ってのことであったり、談笑しながらのものであったり、 ゲームで遊んだりしながらのことだ。 哨兵の真似事も楽ではない。 真っ暗闇だった空が徐々に徐々にと白んでいく様子は、中々に感 動的でもあり、同時に退屈と眠気、そして僅かながらの不毛感を感 じさせた。 ﹁リーダー格が二人同時にいなくなるのはまずい。先に寝ていいぞ﹂ ﹁⋮⋮﹂ キャロルは聞こえているのか聞こえていないのか、解らないよう な顔をしていた。 憔悴しきっているというか。 少しのあいだ考えたあとに、 ﹁わかった。そうさせてもらおう⋮⋮﹂ と言う。 一瞬、張り合って何か言おうと考えたが、自分の体調に意識を向 けると、即﹁あ、これ無理だ﹂と諦め、素直に従うことにしたらし 1332 い。 手に取るように解った。 ﹁うん、そうしろ﹂ と、目も向けずに言ったとき、視界の片隅にいる隊員の一人が、 不自然な動きをしたのが見えた。 立ったまま一瞬意識が途切れたのが、ビクっと体を震わせて目を 覚ます、というような、この夜に何度も見てきた動きではなく、ま るでビックリ仰天して腰を抜かしたのを、どうにか尻餅をつくこと だけは堪えた。というような動きだった。 ﹁きっ、きたぞーーー!!!﹂ という大声が響き渡った。 *** ﹁やっとこさお出ましか﹂ 俺はよっこらせと立ち上がった。 ﹁キャロル、連中の指揮をとれ。まあ、概ね予定通りやっているみ たいだがな﹂ キャロルは、眠気の吹き飛んだ緊張した面持ちで、こくりと頷い て走って行った。 予定通りというのは、つまりは槍を構えて熊を半分囲い、鷲を守 るということだ。 これはそう難解な指示ではなく、鷲を守るという使命を念頭に置 1333 いて行動すれば、自然とそうなる形だろう。 これが、無理やり農村から引っ張ってきた農民であれば、使命は ﹁自分の身を守る﹂ということになり、トンズラこいて陣形も糞も なくなるだろうが、流石にこいつらにその心配はない。 俺も荷物を持って小走りに走って、辿り着いてみると、ヒグマは 体長三メートルもあろうかという、巨大な個体だった。 それを、概ね小型の槍を持った隊員が遠巻きに囲んでおり、槍衾 を作っている。 その巨大さに、本能的に圧倒的戦闘力を感じ取り、俺は思わず総 毛立つ思いがした。 だが、ヒグマのほうは、さほど攻撃的な気分ではないように見え る。 槍を持ってこちらを見ている人間たちに、ほとんど興味を持って いない。 鷲世話の男の話によると、このヒグマは最初、とある家を襲った という。 その家は、漁業を営んでおり、軒下に紐で魚を吊るして、つまり は干し魚を作っていた。 ヒグマはそれを美味しく戴き、その後味をしめて人里に降りてく るようになった。 そのころ、この宿はまだ営業していた。 営業していた頃の宿は、客が残した食べ物の余りなどを、建物の 裏手に掘った穴に捨てていたらしい。 ヒグマは、その匂いを感じ取り、穴を掘り返して生ごみを漁った 1334 りするようになった。 その他にも何件か、味をしめられた民家があり、ヒグマはそれら の家を日に一度巡回しては、森に帰るらしい。 もちろん、この宿は今はもう営業はやめているが、諦め悪く巡回 ルートの一部として回っていくようだ。 そういうわけで、このヒグマは好んでヒトを襲いに来ているわけ ではない。 といっても、ヒトを恐れているわけではないし、よほど空腹であ ればヒトを襲うのにもためらいはないだろう。 ヒグマは、しきりに立ち上がったりしゃがんだりしているが、そ の目は、なんというか、人間を相手にしてはいなかった。 やたらと攻撃的な野良猫が威嚇してくるのを、やんわりと見てい る人間のような感じだろうか。 このまま放っておけば、黙っていても森へ帰るだろう。 今日はそんな気分であるらしい。 だが、明日はそうとは限らない。 今日なにも獲物がとれなければ、明日はヒトを食おうと考えるか もしれない。 俺は、大事にかかえていた荷物の包みを取った。 その包みには、鉄の筒に様々な加工が施され、木や金属の部品が 装着された道具が入っている。 その道具は、鉄の筒から金属の玉を発射するための道具だ。 1335 つまり、鉄砲だ。 触ると、ベタつかない程度に粘度の低い油が全体に塗られ、濡れ たような感触があった。 これは、キルヒナ王国への資料、そしてこころばかりの贈り物と して、アルビオ共和国から輸入した、向こう側で最新式の鉄砲であ る。 滑腔銃で、ライフリングは切っておらず、点火方式は火縄式であ る。 研ぎに出したばかりの刀剣などとは違い、鉄砲は一発や二発発砲 しても、悪くなるわけではない。 というか、贈ってみて暴発でもしたらコトなので、五発ほど試射 してきた。 俺は、革袋から火がついた火縄を取り出し、挟み口につけた。 火縄というのは、燻った火が何時間も燃え続けていられるように 工夫がなされているので、着火したまま革袋に入れておくことがで きる。 既に銃弾と発砲薬、点火薬は装填してある。 この銃は、引き金を引くことで火縄が火皿に勢い良く押し付けら れ、火皿に盛られた点火薬に火がつき、その火がバレルに開けられ た小さな穴を伝わって銃腔内部に入り、点火薬を撃発させる。とい うプロセスで、銃弾を発射することになっている。 つまり、火皿は空気中に露出しているわけだが、これは火皿に雨 などが入らないよう、火蓋という装置で蓋をすることができる。 火皿に盛られた点火薬は、小指の先ほどの量で、火皿はこれを覆 うように蓋をするので、ちょっとやそっと動かしただけでは、点火 1336 薬が外に溢れるということはない。 火蓋を開けて、発射体制を整えることを、火蓋を切るという。 火蓋を切らないうちは、引き金を引いても、火縄は火蓋に押し付 けられるだけで、火皿には刺さらず、点火はしない。 ﹁ちょっとどいてくれ。前に行く﹂ 俺は隊員たちをかきわけ、最前列へ行く。 ﹁えっ?﹂ ﹁隊長?﹂ などという声が聞こえた。 最前列へ行くと、熊がよく見えた。 距離は六メートルくらいだろうか。 俺も、別の銃で二十発くらいは射った経験があるので、コツはな んとなく解っている。 十メートル以上となると、なかなか難しいが、このくらいの距離 で、あのドでかい的となれば、一応は当たるだろう。 その場で膝立ちになり、銃床を肩に押し付け、狙いを定めると、 火蓋を切った。 ヒグマは、珍妙な行動をしている俺に興味をそそられたのか、俺 をじっと見ている。 息を止めて、狙いを定めた。 引き金を引くと、パチンとバネが弾ける音がして、火縄が火皿に 1337 打ちおろされ、バジュウウという黒色火薬が大気中で燃える、花火 のような音がした。 ズドン!! 途轍もない轟音とともに、肩に強い反動を感じる。 銃腔から噴出される硝煙の向こうで、鉛球がヒグマの腹部に吸い 込まれたのが見えた。 当たった瞬間、ヒグマは明らかに強烈な攻撃を受けたことを感じ たようで、ビクッと体を震わせた。 そして、数秒間俺を憎らしげに見つめたあと、一目散に森めがけ て逃げていった。 周りの隊員たちは、見たことのない異国の武器と、聞いたことの ない大音声の砲声を聞いて、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてい た。 ﹁狩人! 狩人はいるか!﹂ 大声で、狩人を呼ぶ。 ﹁へい! へい!﹂ なぜか二回返事をしながら、獣の毛皮をまとった男が現れる。 夜の番をはじめる前に顔合わせした狩人だった。 ﹁致命傷かどうかは判らんが、重い傷を負わせた。犬で追えるか?﹂ 俺は目線で熊の去った先を見た。 1338 点々と落ちた赤い雫が、森に続いている。 ﹁なんとかできると﹂ なんとかか。 こんだけ濃い血の跡があるのに追えなければ、それは猟犬とはい えない気がするが。 まあ、見えるところにいる長毛のわんわんは元気に尻尾振ってい るし、年寄りにもみえず、やる気満々のようだから、問題ないだろ う。 狩猟犬というのは、獲物となる鳥獣を見つけ、狩人がそれを傷つ けた場合は、追跡する役目を持っている。 熊のような大きな相手は、鉄砲をもってしても殺しきれない場合 が多いが、犬はそれを追跡して、遠間から吠え立てることで休息を させず、流血を増やすことができる。 結果、安静にしていれば致命傷とはならない傷でも、命を奪うこ とができる。 ﹁じゃあ、追ってくれ。毛皮はお前にやるからな﹂ *** 二時間ほどかかって、狩人が帰ってきたときには、森の中に無理 やり入れた大八車のような荷車に、肉と毛皮が満載されていた。 現場で解体してきたらしい。 1339 キャロルや隊の連中が、群がるようにそれを見ている。 貴族の狩猟では普通、シカあたりは狩るが熊は狩らないので、初 めて見るのだろう。 ﹁ふむ⋮⋮立派な毛皮だな﹂ と俺が言うと、 ﹁は、はい⋮⋮﹂ と、狩人は心なし何かを恐れているような顔で返事をした。 大方、俺が﹁やっぱ欲しい﹂などと言い出さないか、恐れている のだろう。 ﹁心配するな。約束通り、これはやる。だが、他の部位はこちらで 貰うぞ﹂ ﹁へえ、もちろんです﹂ ﹁それで、胆はどこだ﹂ 俺が言うと、狩人はビクっとした顔をした。 やっべ。みたいな表情が出てるぞ。 ﹁へ、へえ、ここに﹂ 狩人は、自分の持ち物らしき袋から、細い紐でぶら下げた、ぼっ てりとした何かを取り出した。 お前、俺が言わなかったら、絶対自分の懐に入れるつもりだった ろ。 生の熊の胆臓というものは、初めて見るが、非常にグロテスクだ った。 1340 白くて薄い半透明の膜に、たぷたぷとした液体が包まれており、 出入り口を縛ってある。 胆臓の出入り口は一箇所に固まっているので、そこを縛れば中の 液は出てこない。 ゆうたん これを乾燥させると、ガチガチの固体状になり、熊胆という薬と なる。 胆臓というのは、胆汁を貯蔵しておく臓器なので、熊胆は乾燥熊 胆汁薬と言い換えても良い。 俺も幼いころ口に入れられたことがあるが、妙にクセのある強い 苦味がする。 良薬口に苦しを体現したような薬だ。 これは、少なくともシャン人の間では古今珍重されているもので、 非常に高く売れる。 狩人は、結索に用いた糸をそのまま持ち手にしてプラプラさせて いた。 家に帰れば、このまま家の中にぶらさげて、乾燥させるつもりだ ったのだろう。 ﹁貰うぞ﹂ と、胆を受け取った。 ﹁どのように乾燥させればよいのか、聞いてもいいか﹂ ﹁⋮⋮オオカタ乾いたら穴の空いた板で挟んで、平らにするだけで すけんども⋮⋮破けて台無しになるかもしれませんで、そのまま乾 かしても十分かもしれんですな。売り物にはせんのでしょうから⋮ ⋮﹂ 1341 なるほど。 今は水筒のようになっているが、これが半乾きになって中身が液 体状を失ったら、徐々にプレスしつつ乾かすわけか。 ﹁解った。礼を言うぞ。いい土産ができた﹂ ﹁へい⋮⋮﹂ まだ未練があるのか﹁何が土産だ、こっちは生活がかかってんだ﹂ とでも言いたげな目をしながら、狩人は毛皮のほうへ行ってしまっ た。 まあいいだろう。 かわいそうな気もするが、致命傷となった傷を負わせたのは俺だ し、毛皮も相当な高値で売れるはずだから、それで満足してほしい。 ﹁おい﹂ 振り向くと、キャロルがこっちを睨んでいた。 ﹁そんなもの貰ってどうする気だ﹂ キャロルは俺がぶら下げた熊の胆を指さした。 見るからに毒々しい。 ﹁戦利品だ。これくらいいいだろ?﹂ ﹁⋮⋮? それが戦利品になるのか? どうせなら、爪とか手とか を貰ったほうがよいのではないか?﹂ ﹁ああ、そりゃ見たことないよな。これが熊の胆だよ﹂ ﹁内臓なのは解るが⋮⋮なんの役に立つんだ?﹂ なんだ、こいつ、もしかして飲んだことないのか? 1342 俺はルークから﹁これは凄い高いんだぞ、有難がって飲め﹂みた いに言われた覚えがあるんだが、実は民間療法で王族はこんなもん 飲まないのか。 いや、前に薬屋でぺしゃんこの熊胆一枚が金貨何枚で売っていた のを見たことがあるから、そんなことはないはずだが。 ゆうたん ﹁熊胆だろ? 食ったことないのか?﹂ ﹁聞いたこともない。そのまま茹でるのか﹂ 茹でるとか。 そんなもったいない話こそ聞いたことがない。 ﹁乾かしたら凄く甘いお菓子みたいな味になるんだ。熊の胆は特別 でな。癖もなくあっさりとした甘みがある。有名な高級甘味なんだ が、まさかお前が知らないとはな。あとで食べさせてやるよ﹂ 面白いから騙してやろう。 ﹁甘い⋮⋮? そんな肉があるのか?﹂ ﹁体の中にはそういう内臓があるんだ。面白いだろ﹂ ﹁ふーん⋮⋮﹂ 純粋に興味深げな顔をしている。 ﹁じゃあ、俺はこれを干してくるから、お前は熊の肉や内臓を鷲に 与えさせろ。胃の腑や腸は別にしてな﹂ 消化器系は酸アルカリ、それと細菌と糞便が詰まっているから、 取り除いたほうがいい。 1343 食わせるとしたら、せめて洗ってからが良いだろう。 ﹁えっ、私がか?﹂ キャロルは恐る恐る、かなりスプラッタな光景となっている、荷 車の上の肉塊を見た。 命令すればやるだろうが、あの血の滴る肉塊を両手ですくって鷲 にやってまわれというのは、お嬢様育ちのキャロルには厳しい注文 だろう。 徹夜明けのキャロルには、さすがにやらせたくはない。 ﹁いや、鷲世話に言えばやってくれるだろう。胃腸なんかは言わず とも与えないだろうが、一応言っておいてくれ﹂ ﹁ああ⋮⋮わかった﹂ ﹁それが終わったら、休んでいいぞ﹂ キャロルと交代で俺も寝よう。 *** ﹁お前ら、なにしてるんだ﹂ 俺の行く手を通せんぼするように、隊員の連中がいた。 なんだか、興奮した様子でくっちゃべってる。 中には、さっき槍衾のいち員として実際に熊と対峙した奴らと、 1344 さきほど起きてきた奴らとが混ざっている。 まあ、面白い見世物だったろうから、空振りに終わった連中は残 念だったな。 といっても、立哨の役目の兵というのはそういうもんだけど。 ﹁隊長の勇姿を語って聞かせていたんです﹂ などと、意味不明なことを言ってきたのは、俺より年下の一人だ った。 隊の中で俺より年下というのは、実はけっこう居て、多数派では ないものの極小数というわけではない。 ﹁ただ鉄砲うっただけだぞ﹂ それを当てたのは鼻高々ではあるものの、火縄銃ということもあ って、俺にはなんとなく足軽仕事というイメージがある。 勇姿というのは、勇敢に戦ったということだろう。 鉄砲を使ったからといって、臆病の謗りを受ける筋合いはないと 思うが、勇敢とも思えないような。 しかし、一般からいえば、熊と立ち向かったというのは、十分に 勇敢の範疇に入るか。 鉄砲が無事発射されさえすれば、熊は当たらなくても攻撃された ことは解るから、まず逃げるであろう。とは思っていたけど。 ﹁それです。その武器は話に聞くクラ人の武器ですか? よろしけ ればご教授を⋮⋮﹂ なんだ、勉強熱心なやつだな。 1345 ﹁ご教授は、向こうで合流してから合わせてするつもりだ。今はし ない﹂ ﹁ああ﹂少年は、見るからにがっかりしたような、残念そうな顔に なって言った。﹁わかりました﹂ ・ ・ ・ ﹁そうだな⋮⋮しかし、お前ら、暇なら頭の中で状況を思い描いて おけ。これは﹂ と、俺は手に持っていた鉄砲を少し持ち上げて、皆々に見せた。 ﹁誰にでも簡単に扱える武器だ。言っておくが、俺は一週間くらい 前に、たった一日練習しただけだからな。俺が特別に天才だったと かではなく、誰でも一日であのくらいは扱えるようになるんだ。そ ういう武器を装備した輩が、例えば千人並んで、さっき熊を一撃で 仕留めた弾丸を、お前らが指揮する部隊に、一斉に発射する。それ をされたらどうなるか、良く考えておくといい。ちなみに、こいつ の弱点は連射が効かないことだ。改めて発砲の準備を整えるには、 けっこう時間がかかる。暇な奴は、どうやったら対抗できるか頭の なかで練ってみろ﹂ そう言っておいて、俺は台所に直行し、熊の胆をじゃぶじゃぶと 水洗いした。 ぶよぶよとした熊の胆は、洗うと血液とはまた違う青色の液体を 中にたたえていた。 丈夫な内臓膜は、ちょっとやそっとでは破けそうにない。 旅の最初でかさばる土産物を買ってしまったような気分だが、完 成が密かに楽しみだな。 1346 第084話 宿営地 ﹁誰もいないのだな﹂ 隊の宿営地となるニッカ村に降り立つと、キャロルはそう言った。 確かに、町には人気がなかった。 外から見る限りはそこらの農村と変わらないのに、どの家にも生 活の気配がなく、ゴーストタウンのようだ。 というか、実際にゴーストタウンだ。 ﹁避難推奨地域だしな﹂ 避難推奨地域というのは、少し前から制度だけは設定されていた 仕組みで、要するに戦争被害を受けると予想された︵つまりは敗け た時に真っ先に侵略を受け失陥すると考えられる︶地域から、予め 住民を避難させておく。という制度だ。 シヤルタにはそのような制度はまだなく、キルヒナだけにあるが、 今年になって初めて宣言がなされ、避難推奨が行われた。 推奨、というのは、当地を支配している将家に遠慮したもので、 現実には住民に向けての勧告ということになる。 ここは、その避難推奨地域の中であり、住民の避難が済んでいた。 それでも、ここはまだマシなはずだった。 ヴェルダン大要塞からも近いが、主要都市への進撃路からは外れ ている。 1347 だからここを選んだわけだが、それでも危険なことにはかわりは ない。 ﹁それに、リャオとミャロの隊も着いていないようだ﹂ 予定では、向こうの隊は一日前に到着しているはずであった。 だが、それはあくまで予定の話だ。 一週間前には到着しているはずが、まだ到着していない。という ことなら問題だが、一日や二日程度は遅れても誤差の範囲内だ。 ﹁向こうはこっちと違って、とんでもない長旅だからな。そうだな、 あと三日遅れたら、今どのへんにいるか探ってみるか﹂ ﹁わかった﹂ ﹁それより、今晩の宿と飯だ。今度は、世話をしてくれる町民はい ないんだからな﹂ もちろん、住民はいないのだから、金で雇って飯を作ってもらう、 なんてことはできない。 炊事洗濯は、全部自分たちでしなければならない。 ﹁うん。じゃあ⋮⋮まずは食料か。確か、食料はある程度確保して あると言っていたな﹂ ﹁早速、確かめてみるか﹂ 食料については、ここに寄った時にあらかじめ買い取っておき、 たった今から避難する、という住民の家を一つ借りきって、それな りの量を運び込み、鍵をしておいた。 1348 といっても、鍵などは斧を使えば壊すのは簡単だし、今見たらも う奪われているという可能性もある。 問題の家に行き、木製の玄関ドアにかかっていた南京錠に鍵をさ して回すと、当たり前だがすんなりと開いた。 中を見ると、俺が出かけたときのままになっている。 町の住民から買い入れた、干し肉や穀物など、冬の備えの余りも ののようなものがどっさりと積まれていた。 とりあえず食料はオッケーだ。 一週間は余裕で持つだろう。 町の住民は、皆避難しているが、それぞれに小金を持たせて家を 借りる許可もとってある。 寝具の程度はまちまちだろうが、取り敢えず宿に不足はない。 村長の家で、交代で風呂にはいることもできる。 条件としては、整いすぎているくらいだ。 ﹁俺ら幹部は村長の家に泊まるからな﹂ ﹁そうなのか?﹂ と、キャロルが首を傾げた。 ﹁町人の集会ができるちょっとした広間がある。会議なんかに便利 だ﹂ ﹁ああ、なるほど﹂ ﹁さて、それじゃ、泊まる家の割り振りでもするか﹂ *** 1349 その晩になって、ミャロとリャオの隊が到着した。 ﹁よう﹂ 先頭でカケドリにまたがっていたリャオに挨拶をすると、リャオ はひらりとトリから降りた。 そして、 ﹁いま着いた﹂ と、若干疲れた様子で言った。 ﹁ご苦労だったな﹂ ﹁そっちの鷲が頭の上を飛び越えていったのが、たまたま見えたん でな。急いできた﹂ ﹁ああ﹂ なるほど。 本当にたまたまだな。 経路からすると、重なる所があるので、見えても不思議ではない が。 ﹁疲れているだろうが、簡単に報告を聞かせてくれないか﹂ ﹁ああ。ミャロがやる。すぐ来るだろう﹂ 言うが早いか、ミャロは後部のほうから列の脇を通って出てきた。 こっちのほうは、あまり疲れた顔をしていなかったので、少し安 心する。 ホウ家のトリを貸したからだろう。 1350 これもルークの弟子にあたる調教師が丁寧に育てたトリなので、 一般の駆鳥と比べれば数段乗り心地がよい。 ﹁ミャロ、ご苦労だったな﹂ ﹁はい﹂ ミャロは俺の顔を見ると、顔を朗らかに緩ませた。 ﹁報告を聞かせてやってくれ﹂ ﹁えっと、特に問題という問題はありませんでした。荷の損失も、 行軍中の自己消費分を除けば、ありません。旅程が遅れたのは、途 中で三つほど通れない道があり、予定の経路より遠回りすることに なったからです﹂ なるほど。 若干のトラブルはあって当たり前だから、向こうはほとんど順調 な行軍だったと言ってよいだろう。 ﹁そうか。良かった。こちらも、海峡渡りを含めて損失はなかった。 ただ、鷲の故障で四人置いてきたが﹂ ﹁そうですか。仕方ありませんね﹂ ﹁よし⋮⋮じゃあ、とりあえず、解散の命令を発して、総員休ませ てやってくれ﹂ ﹁ああ、解った﹂ リャオはそう言うと、振り返って大声で命令を発した。 ﹁全員、長旅ご苦労だった! これにて輸送任務を完了とする! 荷を広場の中央まで進め、馬当番を除き、一時解散せよ! 各々、 村内にて休んでよし!﹂ 1351 馬当番なんてものがあるのか、と驚いたが、必要に応じて作った のだろう。 考えてみれば、馬は馬車の数だけいるし、その馬をほっとくわけ にはいかないもんな。 給餌と、ヘラで汗を拭ってやるのは最低限の仕事だ。 また、蹄鉄は出発する前に全頭変えてあるはずだが、足回りの病 気を発症していないかは、常に注意を払っておく必要がある。 リャオの号令を聞くと、段列の連中はめいめいに敬礼をして、整 然、とは言わないものの、広間の真ん中へ行進していった。 *** その後、俺たち幹部は町長の家に入り、部屋の一つで話し合いを 始めた。 ﹁じゃあ、家割りはこれでいいな。なにか不安はあるか?﹂ 紙には町内の簡単な地図が書いてある。 家々には、今は団員の名前が書かれていた。 ﹁やっぱり、炊事が不安といえば不安だな。多少はやってきたとは いえ、パンなんぞは途中で買いためたもんを食ってたからな。ここ じゃ、自分で練って焼かなきゃならん﹂ とリャオが言う。 ﹁小麦粉を練ればいいんだっけか?﹂ 1352 小麦粉はどっさりとある。 小麦粉はあるが、粉のまま食うわけにもいかないので、これはパ ンか何かにする必要がある。 だが、作り方を調べてくるのを忘れてしまった。 どこかにドライイーストがあって、それを混ぜればいい、という のなら簡単だが、そういうわけにもいくまい。 幼少のころはスズヤが自宅で焼いたパンを食っていたので、作っ ていたのを見た覚えもあるのだが、スズヤは長男に料理を覚えさせ る気はなかったらしく、俺は料理の手伝いなんかはさせられなかっ た。 ﹁寮母さんに聞いたところによると、ただ練って焼くと、あのお皿 のパンになるらしいです﹂ ミャロが言った。 ﹁ああ⋮⋮あれか﹂ お皿のパンというのは、ナンみたいなやつだ。 焼いたものを皿変わりに使う場合もあり、チーズや魚肉を乗っけ てオーブンで焼く料理もある。 ピザなのか、皿にパン生地を使った一種のグラタンなのか、図り かねるような料理だ。 ミャロは事態を想定していたのか、予め聞いておいてくれたらし い。 ﹁柔らかい、膨らむパンを作るには、お酒を作るときの残りかすに 手を加えたものを混ぜ合わせるそうです。でも、簡単にやるには、 そうやって作った生地を、焼く前に少しちぎっておいて、それを次 のものに足しても良いらしいです﹂ 1353 ああ、そういう仕組みなのか。 発酵が済んだパンを一部とりおいていて、どっか冷暗所にでも置 いておいて、それを次に混ぜて、菌をうつすわけだ。 そっちのほうが簡単そうだな。 といっても、一次発酵とか二次発酵とか聞いたことがあるし、料 理についてずぶの素人である俺たちにできることなのだろうか。と いう疑念もある。 まあ、その場合は、無発酵パンでもいいだろう。 あれも、バターや塩をふんだんに使えば、不味いということはな い。 ﹁じゃあ、焼く前のパンをどこかから調達してくる必要があるな﹂ ﹁それは、どうとでもなるだろう。やるなら早いうちがいいだろう が﹂ とリャオが言う。 ここは避難地域のまっただ中なので、子どものお使い感覚で買い に行くことはできないが、鷲を使えば難しいことではない。 もちろん、枝肉を山程買ってくるというのは重量的に無理がある が、焼く前のパンをいくらか持ってくるくらいのことは、朝飯前だ。 ﹁というか、明後日リフォルムに一度行くからな。その時でいいだ ろう﹂ リャオの駆鳥隊の到着を待つつもりだったが、こうして到着した のだから早いに越したことはない。 ﹁え、そうなのか?﹂ 1354 と、キャロルがちょっと驚いた顔をしていた。 ﹁挨拶は俺が前に一人できた時にやったからいいんだが、それより いつ頃戦端が開かれるかを大体のところ知っておかないとな﹂ そういう情報は水物なので、いつ始まるか一ヶ月前から決まって いる。というような類のものではない。 ﹁ここでパン焼いてる間に肝心の戦争は終わっていて、見逃した。 っていうんじゃ洒落にならない﹂ ﹁私もついていく﹂ とキャロルが言う。 ﹁いや、お前は留守番だ﹂ と、俺はキャロルを制した。 ﹁お前が行くと、ちょっとした歓迎式典、みたいな話になる恐れが ある。相手に気を遣わせすぎる。だから駄目だ﹂ そう言うと、キャロルはむっと拗ねたような表情をした。 だが、他の二人は、まあそうだよな、さもありなん。という顔を している。 ﹁リャオ、問題がなければお前はついて来い﹂ と、リャオに目を向けた。 残念ながら、ミャロも出自からトラブルになる恐れがある。 俺の秘書みたいに隣にくっついてるのは誰だ。ホウ領の名家の御 曹司か。みたいな話になりかねず﹁実は魔女家の出です﹂などと本 1355 当のことを言えば、要らぬ誤解を招きかねない。 嘘をついてもよいが、それも面倒だ。 ﹁解った﹂ と、リャオは短く返事をした。 *** ﹁リフォルムへ往くのか﹂ 幹部会議が解散し、村長の家を出ると、どこからともなく声がし た。 聞き覚えがある。 ﹁ああ。キャロルは連れて行かないから安心しろ﹂ そちらに振り向くと、家の物陰に王剣の女が、壁に背を預けて立 っていた。 闇と同化している。 ﹁聞いていた﹂ さすが王剣、盗み聞きはお手の物といったところか。 ﹁お前は留守番だな﹂ ﹁そうなる﹂ こいつはキャロルの護衛にきているわけだから、キャロルが留守 番なら留守番ということになる。 1356 ﹁そういえば、お前鷲には乗れるのか?﹂ 俺はこいつがどうやってついてきたのか知らない。 特に連絡もしなかったが、いつのまにか到着していた。 こいつの存在が公になれば、観戦隊が混乱するから、隊の連中に はこいつの同行を伝えてはいない。 住むところや食料については、自分でなんとかするのだろう。 ﹁乗れるが、鷲では来ていない﹂ ﹁なぜだ?﹂ 鷲で来たほうが便利だろうに。 ﹁⋮⋮我々は特別な鷲以外は使わない。その鷲は、女王陛下のため にある﹂ 王剣は心底ウザそうな顔をしつつ言った。 あまり話したくはない情報なのだろう。 というか、俺と必要最低限度以上の会話をしたくないのかもしれ ん。 しかし、どういうことだ。 キャロルの護衛というのはかなりの優先順位のはずだが。 特別な鷲というのは、想像がつかないでもないが、それの羽数が 足らない⋮⋮または、一羽か二羽しかいない。ということだろうか。 そんな感じにも思える。 それ以前に、鷲は奇襲や偵察、移動には向いているが、隠密には 1357 向かないので、あまり使いたくはないのかも。 乗れはするけど下手なので自信がないとか、使わないでもなんと かなる自信があるとか。 色々考えられはするが、わからないな。 ﹁そうか。まあ、お前は俺の指揮下にあるわけではないから、勝手 に自分の仕事をしていてくれ﹂ ﹁私の仕事には、お前の監視も含まれている﹂ ﹁⋮⋮は?﹂ なに言ってんだこいつは。 俺の監視も含まれていたら、幾らコイツでも体が足らんだろう。 俺とキャロルは別々の生命体なのだから、一人をボディガードし つつ一人を監視するなんてことは、単純に手が回らない。 そもそも、陛下が俺を監視しろなどという命令を下すわけがない。 監視させるくらい俺を信じてないなら、そもそもキャロルを預け るわけはないので、これは矛盾している。 ﹁殿下は聡明な方だから、ある程度は信頼できる。だが、お前が殿 下を蔑ろにする命令を放つ可能性もある﹂ ああ、そういうことね。 こいつが個人的に俺を不穏分子と思っているわけだ。 ま、こいつにとっちゃそうとも考えられるか。 俺はキャロルが滅茶苦茶をしでかすとばかり警戒していたが、こ いつにとっちゃ逆なわけだ。 1358 キャロルのほうを信頼していて、俺が滅茶苦茶やらかすことを警 戒している。 まあ、そのくらい王家の信奉者じゃなきゃ、王家のほうも仕事任 せられんわな。 そういう連中なわけだ。 ﹁陛下は俺を信じてキャロルを預けたのに、お前は俺を信じないわ けだ。つまりは陛下の判断能力を疑っていることになるな﹂ ﹁⋮⋮誰でも間違いは犯す。陛下とて例外ではない﹂ まあ、本当に俺のことを疑っているのであれば﹁お前を疑ってい るぞ﹂なんて言ってきたりはしないだろう。 釘をさしておくため、と考えておくのがいい。 ﹁そうだろうな。だが、陛下を間違いだらけの阿呆と思っているの でないなら、その判断は信頼しておけ。少なくとも、自分の判断よ りはな﹂ 俺が言わずとも、王剣のほうは解っていることだろう。 そうでなきゃ、秘密部隊員として日々訓練しながら、王に仕える なんてことはできない。 ﹁⋮⋮ふん﹂ 王剣は話に飽きたのか、俺に背を向けた。 話は終わりか。 そのまま見送ると、森のほうに消えていった。 1359 第085話 お勉強会 俺が隊の全員に集合をかけたのは、翌日の夕方のことだった。 ﹁さて、昨日の今日で、今日くらいはゆっくりと休みたいところだ が、講義を始めよう﹂ 広間の真ん中で、早めに焚きはじめた篝火の前で、俺はそう言っ た。 ﹁講義というか、勉強会のようなものと考えて貰っていい。俺たち は戦いに来ているわけではないが、遊びにきているわけでもない。 あえていうなら学びに来ているわけだからな。修学旅行というわけ だ﹂ 改めて団の連中を見回すと、やはりやる気に満ちている。 聞く気もあるようだ。 やっぱり、自ら参加の意思を表明して、その上で選抜された連中 というのは、なにか違うらしい。 ﹁これは敵方が使っている最新式の鉄砲だ﹂ と、俺は銃床をトンと地面に落とし、鉄砲を立てて見せた。 ﹁この武器を始めとする、新しい兵器類の発生により、連中の戦法 は、騎士院の講義で習ったものとは、今では全く異なるものとなっ ている。残念ながら、我々の学んだ兵法は、時代遅れと言わざるを えないだろう。しかし、今まで受けてきた座学が、全て無駄だった、 1360 というわけでもない﹂ そこで、俺は言葉を待つ団員たちを見回し、 ﹁戦場を支配する戦理というものは、武器が少々変わったところで、 その基本原理が変化するものではないからだ﹂ と言った。 ﹁どのように戦場が変わったとしても、古の兵法書が教える理論が まるで通用しなくなるということはない。敵の隙を突け、戦意を挫 け、包囲せよ、後方を分断せよ、高地を占めよ。そういった基本的 な理屈は、兵器が変わったとしても通用しなくなるわけではない。 だが、武器の変化が戦場に変革を迫るというのも、これもまた事実 だ。野戦で刀槍を圧倒する兵器が現れたとしたら、その兵器にあく まで刀槍で戦いを挑むことは、戦理に反している。とうぜん、戦理 に背を向けた軍は、手痛い敗北を喫するだろう。そこで必要なのは、 創意工夫だ。野戦でかなわないのであれば、例えば敵を森林の中に 引き込んで、相手の長所を潰せる場所で戦う、などといった工夫は すぐに考えつくだろう。もちろん、それが有効とは限らないが、進 歩はかならずある。その進歩が積み重なれば、より優れた武器を持 つ敵を圧する方法も見つけられるかもしれない﹂ 一気に言い終えると、俺は﹁さて﹂と言って、一旦区切った。 ﹁この鉄砲という武器は、現在からおおよそ三十年ほど前に、クラ 人の世界で流行りだした。諸君らのなかでも、勉強熱心な者は知っ ているかもしれないが、現在我々と敵対し、キルヒナに攻めてきて いるのは、イイスス教国⋮⋮厳密にいえば、カソリカ派イイスス教 国、と分類される連中だ。この鉄砲という武器は、ココルル教とい う宗教を崇めるクルルアーン竜帝国という、クラ人の国で発明され 1361 た。イイスス教国はそれを知り、彼の国に遅れて自軍に導入したが、 2278年の十三回目の侵攻では配備が間に合わず、ほとんど使わ れなかった。十四回目の侵攻では、その有用性から、数が激増して いて、あの大敗の原因になった。今回の戦争では、更に数を増して いるはずだ﹂ 俺は鉄砲を持ち上げて、皆々に見せると、一旦地面に置いた。 ﹁これから、諸君らには鉄砲を一発づつ試射してもらう。そのこと で、鉄砲の長所も短所も見えてくるだろう。だが、その前に、仕組 みを説明しておこう﹂ と、俺は入れ物から黒色火薬を少量、とりだした。 ﹁この物質は、火薬という。まあ、遠くて見えないだろうが、あと で試射をするときにどうせ扱うことになる。性質を一言で言い表わ せば、燃える砂といったところだ。乾いた木や炭より凄い勢いで燃 焼する﹂ 俺は火薬を木の板の上に線のようにふりかけると、火ばさみで焚 き火から燃えた木をすくいあげ、それを木の板に押し付けた。 ジュウウ⋮⋮と音がしながら、十分に乾いた火薬は、発光しなが ら盛大に煙をあげ、火を伝えてゆく。 ﹁まあ、こんな感じで燃焼するんだが、今、諸君らは大したことな いな、と思ったことだろう。実際、よく燃えるだけで、これだけな ら大したことはない。だが、この物体は密閉させた状態で火をつけ ると、また性質が変わる﹂ そこで、俺は小さなコップを取り出した。 1362 これは、木製のショットグラスのようなもんで、特にアルコール 度数の高い蒸留酒を飲むときに使う。 本来はガラス製のものが良く、村長の家にもガラス製のものがあ ったが、もったいないし割れて破片が飛んだら怪我をするので、そ のへんにあった木製のものにした。 現在、コップの中には黒色火薬が八割程度詰まっている。 その上に、木くずと布でフタをした。 ﹁この中には、先ほどの火薬が詰まっている﹂ 俺は、地面においた鉄砲を拾い上げると、焚き火から十分に距離 を取る。 ﹁そこ、もっと下がれ。火傷するぞ﹂ と、焚き火に近づいていた輩を下がらせる。 ﹁総員、耳をふさぎ、しゃがめ!﹂ 俺が大声をあげると、皆々は珍妙な命令にいぶかしがりながらも、 少し遅れて命令通りにした。 俺は、グラスを、ポイと焚き火の中に投げ入れた。 だが、完全に蓋がしてあったので、すぐにはなにも起こらない。 爆発は、唐突だった。 バァン! という凄まじい音が鳴り、焚き木が四散して吹き飛んだ。 ついでに、近くの森からは驚いた鳥がけたたましい鳴き声をあげ 1363 ながら、はばたいて逃げてゆく。 ﹁立ってよし!﹂ と言いつつ、俺は火ばさみで焚き木を拾い集めてゆく。 最後に、衝撃で火が消えてしまった焚き木に、精製した揮発油を 少しひっかけると、まだ熱の冷めていない薪は勢い良く燃え上がり、 元の勢いを取り戻した。 四散したといっても、爆発はたいしたことはない。 硬いとはいえ、所詮は木材だからで、これが薄い鉄かなにかであ ったら、もっと酷いことになったろう。 俺はあらためて、団員たちを見た。 ﹁さて、この鉄砲は、先ほどの爆発を利用する道具だ。簡単にいえ ば、銃口から鉛球を入れ、筒の中で先ほどの爆発を起こし、その衝 撃で鉛球を勢い良く銃口から発射する。そうすると、鉛球は高速を 得て人を殺す凶器となる。俺が、鉄砲で熊を一匹仕留めたというの は、皆々聞いたとおりだ﹂ 正確には、弾を押すのは主に噴射ガスなのだが、こちらのほうが 理解が早いだろう。 ﹁さて、それでは試射に入ろう。まずは、俺が一発やってみる。そ うだな⋮⋮そこの木を的にしよう。ちょっとそこどいてくれ﹂ 適当な木を指さし、言うと、人垣が割れた。 ﹁言うまでもなく、誰かが試射しているときに、前を横切ったりす 1364 るのは超危険だからな。人が試射をしている間は、木の前に近寄ら ないように。まあ、そこんとこは弓矢と同じだから解るよな﹂ 当たり前の注意をしたあと、俺は手早く装填をすると、鉄砲を構 え、引き金を引いた。 ズドン! と音がし、耳がキーンとなる。 硝煙の独特の匂いが鼻を刺した。 改めて周りを見回すと、面食らっているのが半分、そうでもない のが半分だった。 半分は、鷲に乗ってきた連中だろう。 ﹁さて、ここからが問題で、実は諸君らにとって一番重要なところ だ。なにせ、この武器はシャン人の世界には、ほとんどない。作り ・ ・ ・ 始めるのは難しくないが、数はなかなか揃っていかないだろう。だ ・ とすると、諸君は鉄砲に鉄砲で対抗するのではなく、弱点に付け込 むための方法を考えださなければならない。それが、これだ﹂ と、俺は銃床を地面につけると、銃口に火薬と弾を順番に入れた。 これはホー紙で二つを包んで一緒にしてある。 これによって利便性があがる。 間違えて火薬を過剰に入れてしまうと、発射の際に銃身が耐え切 れず、破裂して怪我を負う可能性があるが、それも防ぐことができ る。 ここで、このまま火薬に火をつけ、発砲すれば、発砲はできるの だが、これだと問題がある。 火薬と弾が銃身内で遊んでいるので、銃口を水平以下にすると、 1365 カルカ 弾丸が転がり落ちてしまう。 なので、専用の槊杖で、突き入れなければならない。 その際、包み紙を弾丸に巻いておくことで、抜け落ち防止にする。 その上で、水平にしておき、火皿に火薬を盛る。 途中ですこし手間取って、今回は四十秒ほどかかっただろうか。 ﹁これで、引き金を引けばいつでも発射できる状態になった。結構 モタモタしてたろう。さて﹂ 俺は改めて、団員たちを見回した。 ﹁こんなかにも弓の上手が何人かいるだろう。そいつらにとっちゃ、 さっき俺がモタモタしてる間に、矢を六、七本放って命中させるの は、この近距離ならさほど難しくなかったはずだ。その意味では、 こいつの攻撃力は、いいようによっては熟練の射手の半分以下と言 うこともできる。そう考えると、この鉄砲という武器は、さほど強 力ではない。だが、実際に、この武器に我々はしてやられている。 前の会戦では、この鉄砲の集中砲火で、一部が崩れたせいで、総崩 れの原因となった。なぜ、そうなったのか。まあ順番を待っている 間に考えてみるといい。夜が更けたら、気づいたことを話してもら う﹂ 俺は火蓋を閉め、鉄砲をリャオに渡した。 ﹁指導は、幹部の三人がする﹂ *** 1366 試射が終わると、もう日はすっかり落ちてしまっていた。 大きく組まれた焚き火が、煌々と光を放っている。 ﹁さて、夜の部だ。諸君、昼間の試射で考えたことはあるか? 手 を挙げてくれ﹂ 俺がそう言うと、ぱらぱらと手があがった。 ﹁まずは君だ。オート・テムだったな。話してみろ﹂ 俺がそう言うと、王鷲隊で年少の彼は、おずおずと喋り始めた。 ﹁考えついたこと、というより疑問なのですが、あの火薬というも のは幾らくらいするものなのでしょうか?﹂ ﹁ああ、それは当然の疑問だよな。あれは、一発四十ルガといった ところだ。ただ、この火薬は、俺がクラ人との取引で輸入したもの だから、向こうの商人の利ざやも入っているし、船代も入って、割 高になっている。だから、クラ人は銅貨二、三枚の費用で発射でき ると思っていっていいだろう﹂ ﹁なるほど⋮⋮では、意見ですが、雨の日を決戦の日にするという のはどうでしょう﹂ おっと。 いい意見が出たな。 ﹁うん。一応、反対意見を述べるとするなら、火縄には特殊な加工 がしてあって、ちょっとした雨程度では消えないようになっている。 1367 それに、機関部分に覆いをかぶせるなどの方法で雨を防ぐこともで きる。なので、小雨程度であれば発砲することはできる。だが、と てもいい意見だ。覆いがあることによって、動作がより煩雑になり、 再装填に時間を要すようになるし、不発率も上がるだろう﹂ よし。 ﹁他にはいるか?﹂ と、再び言うと、また改めて手があがった。 さすが勉強熱心だな。 俺なんか、絶対手を挙げないタイプの人間だったけど。 ﹁よし、じゃあそこの、えーっと、ジュド・ノームだったか。話し てみろ﹂ ﹁はい。光栄に存じます。私は、先ほどの鉄砲はなくとも、ああい った物体であるなら、例えば管に詰めて上空から王鷲で投下すると いった方法でもよいのではないかと考えました。地上で爆発すれば、 敵軍に被害を与えることができるのではないでしょうか?﹂ おお。 すげぇ意見がでてきた。 ああいった物体、というのは、鉄砲でなくその前に焚き火に放り 込んだ火薬のことだろう。 ﹁うん。これも、とてもいい意見だ。だが、惜しむらくは、それに は致命的な問題がある。爆発は、その物体が地面に接触した瞬間、 または敵の頭もしくは肩などに接触した瞬間に起きるのが理想だが、 1368 その激発を操作する方法が今のところない、という点だ。さきほど 爆発したのは、焚き火に放り込んだからで、ただの地面に叩きつけ ても、砕け散るだけということになる。そして、上空から落とす場 合は、もちろん地上に発火物があることを期待することはできない。 対策としては、例えば周りに油の滲んだ布を撒いて、着火してから 落とす。といった手も考えられるが、やはり地上でちょうど爆発さ せるのは難しそうだな﹂ 俺がそう言うと、そのことは既に考えていたのか、彼は顔色を濁 らせた。 ﹁だが、とてもいい意見だ。そのことは、将来的に技術発展によっ てどうとでもなる。現状では不可能だが、例えば容器の重さを考え て、装置がある部分を下にし、中に火打ち石のようなものを仕込ん でおいて、地面にあたった瞬間に着火する。といった装置は簡単に 考えられる。うん、いい意見だ﹂ と褒めておいた。 さて、次は。 ⋮⋮んー、こいつか。 ドッラか。 ﹁じゃあ次、ドッラ・ゴドウィン﹂ と、ドッラに目を向けながら言った。 ﹁重装した騎兵で突っ込めばいいんじゃ⋮⋮ナイカト思うのデスガ﹂ さすがドッラ。 拍手したくなるくらいの脳筋発言である。 1369 ・ ・ あまりにらしすぎて、思わず吹き出してしまいそうになった。 ﹁うん、現状では打撃力として最も現実的といえる案だな。否定材 料を述べるとするなら⋮⋮実際に突っ込む、その騎兵は、よほどの 覚悟をして突っ込まなければならない、ということだ。最前列を担 当する騎兵は、さっきの鉄砲が何十と並んで一斉に発砲してきてい る敵兵の列に、頭から突っ込むことになるわけだからな。そして、 ニードル その最前列が、少しでも怯んで手綱を緩めれば、騎兵突撃の命であ る衝突力が減衰してしまう。本物の勇気が必要な仕事だ﹂ バヨネット そこで問題なのが、銃剣の問題だ。 銃の先端に短い剣、あるいは斬る機能を廃す場合は、丈夫な槍を 装着することによって、銃は近接武器として十分に信頼できる機能 を持つことができる。 だが、聞いたところによると、銃剣という発明は、クラ人の間で はまだ成されていないようで、そういった戦争文化はまだ存在して いない。 現在では、銃兵と槍兵が混在することによって、遠近両方を相互 補佐する形で成り立っている。 といっても、恐らくはそのあたりはいい加減なものなので、実際 の戦場では弓も使われるし、槍の長さもまちまちだろうし、適当な 寄せ集め部隊のはずだが。 ﹁それじゃ、次⋮⋮﹂ そのまま、会議は夜遅くまで続き、眠気によって会場がけだるく なってきたのを機に、お開きとなった。 1370 第086話 リフォルム再訪 約一月ぶりに辿り着いたリフォルムは、以前にも増して騒然とし ていた。 さすがに鷲の降り場は開いているが、他の所は補給物資の類でご ちゃごちゃになっている。 王城というのは、やはりこの時代いかめしい場所と決まっていて、 俺が前来たときも、民間人がおいそれと入れる地区ではなかった。 しかし、今は城内が開放されているらしく、商人たちが我が物顔 で歩いている。 ﹁これどうすりゃいいんだ?﹂ この有り様ではトリカゴは一杯だろうし、かといってそこいらに 繋いでおいたら誰かに持って行かれそうな雰囲気もある。 前のようなこともあるし、王城とはいえとてもそんな気分にはな らない。 だが、リャオのほうは、さすが御曹司が板についているのか、堂 々としたもんだった。 ﹁城の外で、俺の家の天幕があった。親父が王城に来てるかもしれ ん﹂ と言った。 ﹁そうなのか。じゃあ探してみよう﹂ 1371 確かに、城壁の外には、たくさんの天幕が張ってあった。 王鷲を運営する民族らしく、そういった天幕には天井を覆う布に デカデカと将家の家紋が描いてある。 空から観て、簡単に陣営が解るようになっているわけだ。 といっても、全部の天幕に複雑な家紋が描いてあるわけではなく、 そうしてあるのは王鷲の預かり所だけである。 今となっては、ほぼ考えられないことだが、シャン人同士の争い の中では特攻の標的になりえるので、本営には空からパッと見て解 るような特別な装飾はされていない。 リャオは、幾つもあったそうしたテントの中から、自分の家のも のを探したのだろう。 ﹁じゃあ、聞いて回るか﹂ *** ルベ家のご当主どのは何処か。と聞いて回ると、わりとすぐに見 つけることができた。 言われた場所へ行くと、リャオの顔見知りらしい大人たちがおり、 そこに二羽の鷲を預けると、城の中に入った。 リャオの親父は城の中にいるらしい。 案内された部屋に入ると、どうやらドでかい客間を丸々貸されて いるらしく、中はかなり広かった。 1372 ﹁オッ?﹂ リャオを見つけると、上座の一番いい椅子でしかめっ面をしてい たおっさんが﹁なんでこいつここにいんの?﹂みたいな顔で驚いて いた。 ﹁よう、親父殿﹂ ﹁そういえば、姫君となにやら遊びに来ると言っておったな﹂ まだ痴呆は始まっていないのか、おっさんはすぐに思い出したよ うだった。 普通自分のガキがこんな遠足にきてるとなれば、親は覚えてるも んだろう。 生粋の武門の当主はルークとは感性が違うのか、単に我が家以上 の放任主義なのか。 このおっさんは、リャオの親父で、キエン・ルベという。 白髪が混じり始めているが、まだまだ働き盛りの壮年といった容 姿を持っている。 ﹁どうも、初めまして﹂ と、俺は慇懃に頭を下げると、 ﹁俺たちのカシラをやっている、ユーリ殿だ﹂ リャオが紹介してくれた。 ﹁噂は聞いている。まあ、座りなさい﹂ 促されたので、俺は﹁失礼します﹂と言いながら、適当な席に座 った。 同時に、同席していた大人たちが、口々に﹁それでは﹂などと言 1373 いながら、席を立ってしまう。 ﹁邪魔をしてしまったようで﹂ と、俺は一言詫びのような言葉を放っておいた。 ﹁構わん。大したことは話していなかった﹂ そう言うと、キエンは改めて俺の方を見て、 ﹁それで、なんの用事で来た?﹂ と言った。 本来であれば、息子であるリャオに尋ねたほうが、気が通じてい る分、話が通りやすいところだ。 だが、俺は一時的にリャオの上官ということになっている。 そのへんを配慮して俺に尋ねたのだろう。 ここで、もしキエンが、俺を無視してリャオと話を始めれば、俺 は上官としての立場がなくなってしまう。 騎士団などという名を名乗っていても、一種の軍隊である以上は、 当然といえば当然の配慮だが、子ども相手にこれをできる人間は少 ないだろう。 ﹁お察しのことと思いますが、開戦は何時頃になるのかと探りに参 りました。見逃してしまっては間抜けですので﹂ と、俺は素直に言った。 ﹁そうであろうな。だが、儂のほうも解らん﹂ ﹁そうですか﹂ 解らんというのは、どういうことだろう。 1374 もちろん、いつ攻めてくるというのは向こうが決めることだ。 明らかに攻勢の準備を進めていて、軍団に隊列を組ませて、あと 一キロメートル。というところまで迫ったとしても、戦闘になるか というのは断言できない。 相手が引いてしまえば、戦闘は始まらないかもしれない。 だが、普通はそういう場合、状況の要素から分析して、向こうは 時速これくらいで進軍するから何分後に戦闘が始まるだろう。とい う風に言うものだ。 ﹁妙な動きをしておる﹂ ああ、そういうことか。 向こうの挙動がおかしいので読めない。ということか。 ﹁なにか、おかしなことをしているのでしょうか﹂ ﹁敵が何故か遅い。何かに手間取っているようだ。だが、それが何 かは解らん﹂ ﹁なるほど、そういうことですか﹂ ふーん。 ﹁きみはなんだと思う﹂ と話を振ってきた。 ﹁おおかた、ヴェルダン用に、なにか新しい試みをするつもりなの でしょう。大きな用意の要る攻城兵器とか﹂ 相手方が馬鹿でない限りは、前回攻略に失敗した要塞に対して、 そういった工夫を凝らしてくるのは当然だろう。 1375 力攻めでどうにかならなかったものは、工夫で解決する。 実に理性的な判断であり、そういった工夫をしないのは、むしろ 不自然と言える。 ﹁儂らもそう考えていたところだ﹂ ﹁はい﹂ 彼らもそういう推察をしていたらしい。 ルベ家も、伊達に将家やってるわけじゃないな。 まあ、そういうことなら仕方がない。 なんだったら、距離も近いんだし、リャオに数日おきにここに来 てもらえば、だいたい最新の状況は知れるだろう。 長居するのもなんだし、席を辞す挨拶でもするか。と思った時に、 キエンは再び口を開いた。 ﹁ところで、そこに持っているものは鉄砲か?﹂ 目ざとく見つけた土産物の鉄砲を指さして言った。 ﹁ええ、まあ﹂ 鉄砲というのは、ありふれたものではないが、シャン人の世界に もある。 なかにはシャン人が複製した出来の悪い鉄砲もあるが、殆どは戦 争の際の拾得品だ。 つまりは戦利品なわけだが、シャン人には木炭と硫黄はともかく、 硝石を安定供給する技術はまだなく、つまりは火薬が作れない。 もちろん、戦利品の火薬を使って見よう見まねで発砲することは 1376 できるが、二発か三発撃ったらそれで終わりで、あとは置き物にな ってしまう。 俺も、実はシビャクの古道具屋で、一丁みたことがあった。 ﹁いつのものだ?﹂ ﹁これは、去年製造された鉄砲ですよ。フリューシャ王国という国 のものです﹂ ﹁ああ、確か、なにやらクラ人どもと取引をしていると聞いたこと がある﹂ なんだ、俺の商売も有名になったもんだな。 まあ、売れるのをいいことに、あんだけ輸入しまくってればそう なるか。 ﹁見せてくれ﹂ ﹁はい。こちらの王室に献上するために持ってきたものですが﹂ これいいな、くれ。と言われた時のために、釘をさしておきなが ら、俺は布を解いて鉄砲を渡した。 この鉄砲は、元より向こうの貴族が使うものなのか、木製の銃床 のところに彫り細工などがしてあって、その上に弦楽器に使うよう な上等のニスが塗ってあるので、見た目も綺麗なものになっている。 ここ数日で使いまくったせいで、若干ニスの光沢が煤けていたが、 全体を油布で拭き、銃腔内部もキッチリと煤を拭って綺麗にしたの で、姑息的にではあるが輝きを取り戻していた。 ﹁ふむ⋮⋮﹂ 1377 キエンは、興味深そうにじっくりと鉄砲を睨めまわしていた。 ﹁よし﹂ と言うと、俺に鉄砲を返した。 さっそく、包んでいた布に包みなおそうとすると、 ﹁包まんでいい﹂ と言ってきた。 ﹁⋮⋮?﹂ なんで包まんでいいんだよ。 と内心で思いつつ、懐疑の眼差しを送る。 ﹁これから軍議だ﹂ ﹁軍議?﹂ ﹁女王陛下は出席せんが、王配閣下は出席する。その場で渡せばよ かろう﹂ ﹁え﹂ 軍議っつーからルベ家の身内軍議かと思ったら、ちげーのかよ。 なんか首脳会談っぽい匂いする。 だが、なんで包まんでいいんだ。 裸のままで渡すのはなんだから、さすがに多少包みたいのだが⋮ ⋮。 ﹁リャオ、お前も出席せよ。勉強になる﹂ いやいやいやいや、勉強になるったって、気がしれたユルい職場 1378 に子ども連れてくんじゃないんだから。 まずいでしょいろいろと。 ﹁はい。お伴させて貰いましょう﹂ リャオもやる気まんまんで言った。 えー⋮⋮。 1379 第087話 将家会議 ﹁すまんな﹂ 道すがら、リャオが独り言をつぶやくように言った。 先ほど、自分で勝手に返事をしたのがバツに悪かったのだろう。 ﹁お前は団の一員である以前に、ルベ家の跡取りだ。多少私事を交 えたとしても、気にするようなことじゃないよ﹂ ﹁助かる﹂ ﹁本当に嫌だったら、お前に土産を預けて、帰ればよかった話だ﹂ 確かに、予定外の仕事が入ってかったるくはあったが、会議その ものは気になるところであった。 問題があるとすれば、若造が約二名入ることによって、迷惑に思 われて肩身が狭いくらいか。 まあ、それくらいは構わない。 開かれたドアに入ると、なにやら立派で大きい重そうな楕円形の 卓に、地図が置かれ、既にやってきていた数人は席についていた。 初対面なので名前は判らんが、こいつらも将家の当主とか、その クラスの連中なんだろうな。 偉い人だ。 ﹁椅子を二つ用意せよ。儂の付き人として見聞させる﹂ キエンが偉そうにそんなことを言うと、世話役の係の者は、疑問 を呈すこともなく、すぐさま椅子を用意した。 1380 さすがに、大卓には座らせられないらしい。 まあ、俺は壁際で黙っているとしよう。 俺は、キエンの背中側の壁に置かれた椅子に腰掛けた。 ﹁聞いていいか﹂ 隣に座ったリャオが、独り言のようにつぶやいた。 ﹁なんだ?﹂ 付き人扱いの人間が私語をしていて怒られてはつまらんので、俺 も小声で返す。 ﹁今、どんな気分だ﹂ なんだその質問は。 気分はまあ、ムサいおっさんばかり集まっているのだから、普通 に良くはないが。 ごきげんなシャムを見ている時のような、幸せな気分とは程遠い。 ﹁どういう意味だ? 体調なら悪くないが﹂ ﹁この軍議で一国の運命が決まるかもしれん。大勢の民草の運命が 左右される﹂ ああ、そういう意味か。 これから為政者たちの重大な決定が始まるからということで、こ いつも気分が高揚しているんだろう。 だが、この会議では、期待に反して劇的なことは起こらないだろ う。 会議が荒れるということは、それはあるかもしれない。 1381 だが、将家というシステム上、誰かが天才的な思いつきを行い、 感動的な説得のあと、皆が同意する。 というような、映画みたいな展開にはなりようもない。 だから、天才的な策が提案され、それが実行に移され、敵の大軍 団を撃破し、この会議と今日の日付けが歴史に永遠に刻印される。 そういったことはない。 どう考えても、凡庸な結論に至ることは、決定づけられている。 日本の話でいえば、一の谷の逆落しが、何人もの合議でできるの か。という話なのだ。 義経がいくら天才的な戦争才能を発揮し、弁舌を振るったとして も、凡夫はそれを理解できない。 必ず﹁あの絶壁は降りられない。兵をいたずらに損なうつもりか﹂ などの説が現れ、全員の合意なんてものは、取り付けることはでき ない。 リーダーがいない会議では、大勢を覆すリスキーな方法は、たと えそれが必要とされる状況であろうとも、採択されることはない。 民主政治議会でも、与党が過半数をとらなければ、冒険的な立法 は行えない。 採択されるのは、誰もが考えつくような、全員を納得させられる 法律であり、この場合は作戦だ。 ﹁お前は、ロマンチストだな﹂ と、俺は正確に意味を選びながら言った。 ﹁なに?﹂ ﹁そう考えると、面白い演劇の幕が開けるのを待っているような気 1382 はする﹂ 悲劇か喜劇かはわからないが、スケールの大きい話には違いない。 ﹁演劇か? 俺たちは当事者じゃないのか﹂ 当事者か。 確かに、間違いなく当事者ではあるわな。 ﹁キャロルが言いそうな話だな。民が辛がるのを親身に感じて感傷 的になってるのか﹂ ﹁ン⋮⋮まあ、そうかもな﹂ そうらしい。 リャオは、二十歳を超えているとはいえ、まだ青年だ。 感傷的にもなるのだろう。 前にはキルヒナの民に対しては冷めた感想を述べていた覚えがあ るが、実際に十日かそこら旅をして、彼らに接してみたら感覚が変 わったのかもしれない。 ﹁人一人ができることなど高が知れているさ。俺が全知全能なら、 シャン人だけでなくクラ人だって全部を幸福にしてやる。世から戦 争をなくし、不具に生まれた者でさえ一生食うに困らない生活をさ せてやる。だが、そんなのは不可能なんだ。残念ながらな﹂ ﹁⋮⋮なんとも規模のでかい話だな﹂ リャオは呆れたように言った。 ﹁そうさ。考える気になれば、空ほどもでかい理想を描くこともで きる。だが、実際になんとかできるのは、手の届く範囲だけだ。お 1383 前は、なまじどうにかなりそうな悲劇だから、感傷的になっている だけだろう﹂ ﹁⋮⋮それはそうかも知れんが﹂ ﹁実際にはどうにもならん﹂ ﹁本当にどうにもならないのか?﹂ と、リャオは言い返してきた。 ﹁どうにもできないだろ?﹂ そもそも、俺たちがキルヒナのために何かをする、ということ自 体が横紙破りになるのだ。 どうにかしようがない。 ﹁例えば、お前がやるとしたらどうするんだ﹂ ﹁やらない﹂ ﹁やるとしたらだよ﹂ なんだこいつ。 今日はよく喋るな。 ﹁尋常の手段を使おうが、尋常じゃない手段を使おうが、俺が戦い までに将家を飼いならして軍権を得るなんてことはできない。そう である以上、俺の影響力は極微に留まる。俺がどう行動しようと、 戦局を左右するなんてことは、不可能だ﹂ 例えば、俺がこの場でここに集まった、キルヒナの将家の当主を 1384 全員殺すとする。 ありえないことだが、参加するであろう王配のおっさんに取り行 って、女王から勅諭を貰い、全将家の後継者ということにしてもら い、総大将にして貰ったとしよう。 そんなことができたとしても、実際に全軍を掌握するまでには時 間がかかる。 血と歴史で繋がった総大将の急死は、必ず大混乱を呼ぶし、それ を収束し、軍が実際に機能するまでに回復させるには、最善でも一 年はかかるだろう。 もちろん、一週間かそこらで戦えるようにはならない。 どれだけ物事を都合よく考えても、俺が戦局を決定できるほどの 影響力を持つというのは、できることではない。 ﹁もし俺が全軍を率いていたら、なんていう仮定を考えることもで きる。だが、実際にそうなる未来は存在しない。前提が無意味であ る以上、建設的でも前進的でもない妄想だよ﹂ 俺が断言すると、リャオは黙ってしまった。 俺は、わざわざ顔色を伺うようなことはしなかった。 しばらくして、 ﹁そうだな、確かに﹂ と言った。 *** 1385 それから少しして参加者が全員集まると、最後に王配が現れた。 なんだか疲れた顔をしている。 まあ、彼が疲れた顔をしている心当たりについては、枚挙にいと まがないので、全然不思議ではなかった。 ﹁さて、では、始めようか﹂ 力なくそう言って、彼は参加者を見回した。 そして、目が流れるうち、俺と目があった。 俺が軽く会釈をすると、彼は目をそらす。 知り合いの子どもと気軽に挨拶する場ではないので、知らぬ振り をするのは当然だろう。 ﹁では、コークス殿、議事進行を頼む﹂ 王配がそういうと、コークスと呼ばれたおっさんが﹁ハッ﹂と応 じた。 コークス・レキ。 このおっさんは、今回の総大将という立ち位置に、一応は決まっ ている。 名だけ知っていて顔は知らなかったが、二番目の上座に座ってい たので、まあこいつがレキ家の頭領だろうなと見当をつけていた。 最初からこいつが議事進行をしても別にいいのだろうが、貴族制 度上は王族の一員である王配のほうが上位なので、立てなければな らないのだろう。 ﹁さて、軍議を始めるとしましょう⋮⋮﹂ 1386 *** 会議は荒れた。 ﹁だから、騎兵を預けるなどという話が、なぜでてくるのだ! 騎 兵は我が軍の要である! なぜ手放さねばならん!﹂ オター・ガジという男がそう言うと、会場に憤懣と諦めの篭った 空気が流れた。 ガジ家はレキ家と同じ将家仲間だと思うのだが、単にオターがそ ういう性格なのか、両家に確執でもあるのか、言葉には遠慮がない。 ﹁であるから、それでは前回の二の舞になってしまうのだ⋮⋮。連 中の鉄砲に対しては、大勢の駆鳥兵を集中して突っ込ませるのが良 い。各々の将家の騎兵を各々の考えたときに突っ込ませても、向こ うは簡単に対処できてしまうのだ﹂ 総大将役のコークスは、比較的まともな知性を持っているらしく、 何度目か知らないが、そう言ってオターを説得にかかった。 カケドリを集中運用して、大騎兵団をここぞというところで突っ 込ませ、趨勢を得る。 発想そのものは、ドッラでも考えついたもので、単純極まりない。 だからといって悪いわけではなく、単純だからこそ強力であろう 作戦だった。 だが、やはりというか、騎兵を手放したくない。という家が現れ 1387 た。 オターだけがそうではなく、外野から冷静に観察していると、他 の連中も言葉にこそしないが、同じ感覚を抱いているようだ。 特に、シヤルタから出ている将家などはそうだった。 オローン・ボフとボラフラ・ノザは、むっつりと押し黙ってはい るが、兵を出したくないのは見え見えだ。 キルヒナの将家連中とくらべれば、比較的危機を差し迫ったもの と考えてはいない彼らにとっては、勝つにしても負けるにしても、 自軍の損耗は最小限に抑えたい。 実際のところ、キルヒナ側は逆の考えを持っているだろう。 我々は最前線にいるのだから、負担の多い部分はシヤルタに担当 させ、勝つにせよ負けるにせよ、自分たちの軍は温存しておきたい。 押し返しても、連中はまた来ないとも限らず、その時はシヤルタ が援軍を出してくれるとは限らない。 それはどちらが間違っているとかではなく、個々人が背負った立 場の違いが根本にあるので、そういった意見の分離が出てくるのは 至極当然のことなのだ。 だから、シヤルタからしてみれば、キルヒナの人間に騎兵を貸し たくない。 さすがに、シヤルタの中で最も状況を憂慮しているキエンは別の ようだが、ボフ家とノザ家はそういう思惑が透けて見えた。 ﹁軍を貸せと仰られるが、私の軍は私が練兵したものだ。もちろん、 私が一番うまく使える。貴殿に貸したところで、十分の一の力も発 揮できぬだろう﹂ 1388 オターが愚にもつかぬ意見を再び言った。 言い分に理がないわけではないが、十分の一の力というのは言い 過ぎだし、ぶっちゃけコイツが扱ったところで神の如き用兵ができ るのかといえば、若干どころでなく疑問だ。 俺は、小一時間もこの無意味な会話を聞かされていたので、もう ホントに帰りたい気分になっていた。 ﹁そもそも、前回大敗を喫したのは、軍の士気に問題があったから である。意気軒昂の軍をもってすれば、クラ人の軍ごとき蹴散らせ るに決まっておるのだ。小手先の兵法など巡らせずとも、軍の強さ とはまず士気によって成り立つもの。兵を励ますことこそが重要な のだ!﹂ はたから聞いてて絶望したくなるような演説であった。 あまりに不快なので耳を塞ぎたくなったほどだ。 士気が上がっていれば勝てる、勝てた。 それは、戦艦大和が二十隻あれば戦争に勝てた。というのと同じ くらい中身のない話だ。 同じ内容にしても、例えば士気を高めるために略奪を無制限に許 そう。だとか、クラ人の右耳一つにつき幾ら出すことにしよう。だ とか、そういった制度の制定についての提案ならまだいい。 だが、そういうわけでもないのだ。 こいつは、士気を上げようと言えば、士気はあがるものだと思っ ている。 これが別の局面であれば、大砲がないなら大砲を百門持ってくれ ばいい、それが調達できないのはやる気がないせいだ。と言うのだ 1389 ろう。 ﹁それに、我々にはヴェルダン大要塞があるのだ。あれは、今まで 墜ちたことがない。今回は兵糧も矢も十分に備えておる。無用の心 配をする必要はないのだ!﹂ と、いよいよ息巻いてきたところで、キエンがぱっと手を挙げた。 コークスの目がキエンの右手にとまると、コークスはなんだか表 情を少し柔らかくして言った。 ﹁オター殿、キエン殿が話があるようだ。まずは着席してくだされ。 キエン殿、どうぞ﹂ そう言われると、キエンは席から立ち上がった。 そして、更に振り返り、俺の方に寄ってきた。 な、なんだよ。 ﹁ユーリ殿、少しそれを貸してくださらぬか﹂ へ? 俺? ﹁や、まあ構いませんよ﹂ と、俺は素直に銃を手渡す。 キエンは、俺の鉄砲を持って、テーブルに戻っていった。 ﹁この鉄砲は、ここにおるユーリ・ホウ殿がクラ人の国から仕入れ てきてくださった、敵方が使っている最新のものである。そして、 1390 ここに、もう一丁の銃がある。これは、前の戦の際に敵側が置いて 行ったものだ﹂ キエンは、もう一丁の鉄砲を連れの従者から受け取ると、机の上 に二丁を置いて並べた。 ﹁二つを持って比べてみると、口径は同じでも、新しいものはずい ぶんと軽いことがわかる⋮⋮。材料の違いか、製法の違いか、軽く して持ち運びをしやすくすることに成功しておるわけだ﹂ キエンは、感じ入った様子で言った。 俺は比べてみた事がなかったので知らんが、ずいぶんと軽くなっ ているらしい。 やきんがく 銃身の肉厚が薄くなっているのかも。 冶金学の進歩によって材料の性能が上昇したのなら、銃身の耐久 度をそのままに肉を薄くすることは可能だ。 鉄砲は持ち運ぶものだから、軽くなることは純粋に性能の向上に 繋がる。 まあ、鉄砲自体が歴史からいえば最近作られたものだから、冶金 学の進展とか難しい話ではなく、単純に手探りで適切な厚さを調べ ていた段階が進んで、無駄な厚みを省けただけのことかもしれない が。 ﹁そういう連中に対し、なぜヴェルダンが未来永劫に無敵と考えら れるか。段々と強力になっていく敵に対し、そういう工夫をできな い我々を見て、兵は意気軒昂でおれるか。オター殿、どう考えられ る﹂ 1391 だが、オターのほうは渋い顔ながらもほくそ笑んでいた。 ﹁だがキエン殿、どうやってヴェルダンを落とすのだ。私には、あ の難攻不落の要塞を落とす方法があるとは思えんのだよ﹂ ﹁ふむ⋮⋮では、ここにいるユーリ殿にお伺いしよう﹂ は? ﹁彼は、この歳で誰よりもクラ人について研究しておる。クラ語も 達者で、自ら彼の地と交渉を行い取引をしているほどだ﹂ は??? いやいや、意味わからんこと言うなよ。 なにそのキラーパス。 ﹁では、ユーリ殿、一つ意見を聞かせてくれ﹂ 王配がここぞとばかりに言ってくる。 くっそ。 ﹁⋮⋮ご紹介にあずかりましたユーリです。といっても、今日はた またま通りかかっただけのようなものなので、急に意見を求められ ましても、実はヴェルダンを実際にこの目で見たことがございませ ん。話には聞いておりますし、絵などでは見たことがありますが﹂ ﹁構わぬ。ただ意見を聞きたいだけだ﹂ キエンが言ってくる。 といっても、俺は見てもいない要塞のことについて、知ったかぶ 1392 ったようなことは言いたくないのだが。 ﹁僕がヴェルダンを破るとしたら、という話ですが。僕だったら登 山口⋮⋮つまりは大門を破りますかね﹂ ﹁どのようにして破るのだ?﹂ と、今度は王配が聞いてくる。 オターのような馬鹿に高圧的に問い詰められると、こちらもスト レスが激しいので、王配が先回りして聞いてくるのはありがたかっ た。 ﹁そうですね⋮⋮大門は、登り口の坂が強く、なかなか攻城塔や破 城槌では接近できぬと聞きます。やはり火薬を使うのが楽でしょう。 お金はかかりますが、門を破壊できるくらい大きな砲を作ってもい いかもしれません。犠牲を覚悟するのであれば、専門の爆破具を兵 に持たせて、爆破するのもいいでしょう。上手く行くかはわかりま せんが﹂ まあ後者のほうがまず楽だろう。 指向性爆弾のような感じで、大量の火薬を鉄板で包んで、特に薄 い部分を門に押し付け、起爆させるような爆弾を作ればよい。 兵は⋮⋮控え目に言っても、かなり危険だが。 ﹁火薬というのは門を破れるほどのものなのか?﹂ ﹁門にもよります。全て鉄で作られた、厚みが腕の長さほどもある 門であれば、もちろん破壊は不可能です。が、木を鉄で補強して作 った程度の門であれば、破壊するのはさほど難しくはないでしょう﹂ ﹁ふむ⋮⋮敵は門を壊せる装置を持ってきている。と考えるのが良 いようだな﹂ 1393 えー。 そんなこと一言も言ってないんですけど。 なんか話が変な方向に行っている気がするんだが。 ﹁なにを勝手に話を進めておるのだ。そんな武器があるとも限らな い﹂ オターが気炎をまいて言う。 ﹁その通りですね。ないとも限りませんが﹂ 俺がさらりというと、オターはギロリと睨んできた。 ﹁ついでに聞いておこう。ユーリ殿は、このいくさ、どのように戦 うのが良いと考える?﹂ キエンが椅子ごと横を向き、俺の方を見ながら、更に妙な方向に 話を向かわせた。 なんでだよ。 こんな空気で意見しろとか、荷が重すぎるだろ。 ﹁さあ⋮⋮若輩の身なれば、歴戦のお歴々の前で、これ以上の意見 を申すことは恐れ多く存じますので﹂ ﹁構わぬ。申せ﹂ 言いたくないってのに。 絶対わかって言ってんだろ。 ﹁僕は平原での決戦など、そもそもやらぬほうがよいと思いますが﹂ ﹁ほう?﹂ 1394 ﹁敵の強みは鉄砲と数です。鉄砲は、言うまでもなく、晴れの日に 見通しのよい平原で扱うのがもっとも強い。逆に、森のなかではた だの重い棒にすぎません。森に引き込めば、鉄砲に苦しめられると いうことはありません。これで、五分と五分の戦いになります。加 えて、敵は我々以上に軍制が整っていない烏合の衆です。略奪の許 可が与えられているから、士気は上がっていますが、森のなかで指 揮が効くほど統制された軍ではない。二、三度奇襲をかけてやれば、 簡単に士気崩壊するでしょう﹂ つまりはゲリラ戦をすればいい。 相手はこちらのゲリラ戦に付き合えるような軍をしていない。 ﹁ハッ! 逃げの一手というわけか!﹂ オターが座ったまま、妙なことを言ってくる。 ﹁オター殿!﹂ 司会役のコークスが、たしなめるように強く言った。 ﹁まあ、若輩者の妄言と思って聞き流してください﹂ これ以上進展はないようだし、空気も悪くなってきた。 俺が珍妙な案を出したせいで、これ以上この場にいると、会議の 進行にも差し障りが出そうだ。 これ以上意見を求められて利用されたくもないし、下手をすると ホウ家の恥にもなりかねない。 帰ろう。 ﹁それでは、僕はそろそろ失礼させてもらいます。王配陛下、この 1395 鉄砲は献上品に持ってきたもの。どうかお受取りください﹂ 俺はさっと最敬礼をすると、席を辞した。 1396 第088話 凪ぐ日々 一週間後。 俺は、村長の家の二階にある自分の部屋で、窓際に吊るした熊の 胆を見ていた。 乾燥した空気のせいか、なるべく温かいところに吊るしていたせ いか、良い具合に乾燥してきており、もはや水筒のようにタプンと していた昔日の面影はない。 色は黒ずみ、シワが寄ってきている。 リフォルムでもらってきたパン種を混ぜ、自分で焼いた硬いパン を噛みながら、俺は物思いにふけっていた。 結局、決戦主義的な方針は変わらず、ルベ家の騎士団が移動を始 めたのは二日前のことだ。 なぜルベ家が今頃出発したのかというと、そこには流通の未発達 を背景とした、兵站の問題がある。 軍というものは、一地点に集中させるとコストがかかる。 兵には食を与えなければならず、数万人もの軍が消費する食とい うのは、莫大な量になるからだ。 一箇所に一万人が集まったところで、その周辺数キロ程度の地域 には、一万人もの非生産者を養う能力はない。 一日二日程度なら、備蓄や地域の食料庫によって支えられるが、 1397 数週間となると、コストをかけて遠方から調達してこなければなら ない。 それは、舗装道路や鉄道、機関車や自動車などがあれば、簡単に 解消する話だ。 遠隔地から大量に物資を輸送する方法があれば、十万人を一ヶ月、 同じ場所に留め置こうが、金さえあれば幾らでも食料を運んでくる ことができるのだから、なんの問題もないだろう。 だが、この世界では、石畳程度の舗装の上を、馬車で資材を運搬 しなければならない。 もちろん、軍団はそのための馬や馬車、購入費用を持っているの で、調達は不可能なことではないが、時間の経過につれて更に遠方、 更に遠方、と食いつぶしていくわけで、切りがないし、遠くなれば なるほどコストが上がっていくことを考えれば、やはり限界はある。 そういう事情があり、兵というものは、決戦までは分散させて置 くのが良いとされている。 ルベ家の軍が、すぐに決戦場に向かわず、リフォルム周辺で陣を 張っていたのは、そのような事情によるものだった。 逆を言えば、決戦場へ移動を始めたということは、決戦が近いと いうことになる。 ぼーっと物思いにふけっていると、カチャ、とドアの開く音が聞 こえた。 ドアを見ると、ミャロがいた。 ﹁⋮⋮? ユーリくん、何を見ているんですか?﹂ ﹁ああ、熊の胆だよ﹂ 1398 俺は、窓際にブラさげてある奇妙な物体を指差しながら言った。 ゆうたん ﹁へえ、それが熊胆ですか﹂ 当然といえば当然だが、ミャロは知っていたらしい。 ﹁熊を獲った時に貰ってきたんですね﹂ ﹁俺も干したのは初めてなんだがな。完成が楽しみだ﹂ 昔から、こういうせせこましい事をやるのは好きだったんだよな。 大人になってからはやってなかったが、結晶を育てたりとか。 こういうのは、下手に弄ると失敗するから、へんに手をかけない ほうがよかったりするんだ。 ﹁実は食べたことないんです﹂ なんとまあ、ミャロもか。 俺が子どもの頃食わせられたのは、田舎だったからなのかな。 ミャロあたりは、体が弱いから、子どもの頃から強壮剤がわりに 与えられていてもおかしくなさそうなものだが。 ﹁ああ、そうなのか。こんなナリはしているが、凄く甘くて美味い んだぞ﹂ 俺がしらじらしい嘘をつくと、ミャロは口元に手を添えて、くす りと笑った。 ﹁うふふ、残念ですけど、とっても苦いことは知ってるんです﹂ 1399 ﹁ああ、そうなのか⋮⋮﹂ なんだ。 がっかりだ。 まあ、そらそうだよな。世間知らずのキャロルじゃあるまいし。 ﹁でも、知らなかったほうが面白かったかも知れませんね。知らな かったらよかった﹂ と、ミャロはなんだか不思議なことを言い出した。 ﹁そういうことはあるかもな。その時のミャロの顔は見ものだろう し﹂ どんな顔をするのか見てみたい。 ﹁そう考えると、ユーリくんにあられもない顔を晒してしまってい たかもしれませんね。やっぱり知っててよかったです﹂ ﹁なんだそりゃ﹂ 思わず笑ってしまった。 ﹁うふふ⋮⋮あれ?﹂ ミャロの笑みが少し強ばる。 ﹁なんだ?﹂ ﹁えーっと⋮⋮あれ⋮⋮なんだったかな﹂ 段々真面目な表情になってゆく。 ﹁どうした?﹂ ﹁え、えーっと⋮⋮すいません、なにかを報告しに来たのですが、 忘れてしまいました﹂ 1400 なんだか本気で申し訳無さそうに、慌てた様子で言った。 なんとまあ、ミャロが用事を忘れるとは、珍しい事もあるもんだ。 ﹁いいよ。どうせ大した報告ではなかったんだろう﹂ ミャロが忘れるということは、どうでも良い報告だったのだ。 ミャロは、外出するときにハンカチを置いてくることはあっても、 油鍋を火にかけっぱなしで出かけてくることはない。 有能であることに誇りを持っているミャロにとって、それは自分 を裏切る行為だからだ。 きっきん それに、本当に重要な、例えば俺が急行して指揮をとらねばなら ないような喫緊の要件であったのなら、つまらない雑談になどは応 じなかったはずだ。 ﹁すいません、確かめてきます﹂ ﹁いいって。それより茶でも飲んでいけよ﹂ と、俺は机の上にあった茶のポットに手をやった。 そうして、我が家のように茶器棚からティーカップをとると、そ れに注いだ。 ﹁ほら、座れ﹂ 椅子まで用意してやる。 ﹁う⋮⋮。えーっと、よろしいのでしょうか﹂ ﹁いいに決まってる﹂ 団の他の人間は、馬やカケドリや王鷲の世話をしたりで仕事は作 1401 っているようだが、一週間も動かずにいれば、もう馬も鳥もほとん ど綺麗なので、今はほとんど暇をしている。 棒きれを振り回したり、若者らしい真剣しゃべり場を繰り広げて みたり、いろいろやっているが、要するに遊んでいるわけで、仕事 をしているわけではない。 例外的に、鷲の上手い連中の一部にはやらせてみたいことがある ので、日に一時間ほど、鷲が疲れない程度に訓練させているが、こ れも仕事というほどの仕事ではなかった。 その間を駆けまわって仕事をしているのがミャロなわけで、言う なれば一番まともに働いているわけだ。 少しくらい休んだところで、責められるいわれはない。 ﹁じゃあ⋮⋮失礼します﹂ と、ミャロは椅子に座った。 机を挟んで反対の席だ。 ﹁食うか?﹂ 俺はずいっとパンの入った籠を送った。 ﹁えっと、食べていいんですか?﹂ 食べていいかもなにも。 ﹁なんだよ、ミャロ、ちょっと緊張しすぎだろ﹂ ﹁緊張ですか?﹂ ミャロは小さく首を傾げた。 どうも自覚してないらしい。 1402 ﹁寮の食堂じゃ、食べていいんですか? なんて俺に許可を求めた りなんかしてなかっただろ﹂ いつものように、じゃーいただきます。と言ってパクパク食べれ ばいい。 ていうか、見るからに堅くなってるしな。 ﹁⋮⋮それはそうですけれど、軍務中なので﹂ まあ、そりゃ確かにそうだが。 ﹁いいんだよ、俺と二人の時くらいは。軍務中とはいえ、息抜きは 必要だ﹂ だから夜間に当直を作って当直外は飲酒可、とかしてるんだし。 そうだよ、他のやつは飲酒までしてるんだから、気兼ねなんかす る必要はない。 ﹁それはそうかも知れないですが﹂ ﹁それとも、俺と一緒じゃ息抜きにならないか?﹂ ﹁まさか! そんなことはありません。とても楽しいですけど⋮⋮﹂ ﹁じゃあ、ほら、食ってみろよ。まだ暖かい﹂ パンというのはなんといっても焼きたてに限る。 ﹁はい⋮⋮じゃあ頂きます﹂ ミャロは、大きなパンを手にとって、半分に割いて、片方を口に 入れた。 もぐもぐと食べると、 ﹁とても⋮⋮美味しいですね。パン職人のパンより美味しいかも﹂ などと言い出した。 1403 まあ、普通のパン屋は、こんな贅沢にバターを使ったりしないか らな。 バターをねりこんだ生地に、中にゴロゴロとチーズをいれて、焼 きあがった後さらに塩を強めに効かせたバターを塗った。 おそらくカロリー的には凄いことになっているが、贅沢なチーズ 入り塩バターパンだ。 ﹁口にあったか﹂ ﹁はい。ユーリくんはなんでもお上手に出来るんですね﹂ なんか褒められた。 ﹁ミャロはなんでも褒めてくれるな﹂ 褒められるのはいつになっても慣れない。 どうやって喜んでいいものかわからないのだ。 褒められるというのは怖い。 それで驕ってしまえば己の毒になるし、人によっては猿を木に登 らせる要領で、自分のいいように他人を使うために褒める人間もい る。 そんな俺の気分を察したのか、 ﹁なんでもではありませんよ﹂ とミャロは言った。 ﹁そうか?﹂ そうでもないと思うが。 1404 ﹁じゃあけなしてみましょうか﹂ けなすとか。 ﹁え⋮⋮なんだ、面白そうだな。やってみてくれ﹂ 考えてみれば、ミャロにバカとか間抜けとか言われた経験はない な。 ﹁えっと⋮⋮ユーリくんはものぐさですねー。髪に寝ぐせがついて ますよー、人はそういう所から駄目になるのにー﹂ ﹁ああ、寝癖がついてたか﹂ 思えば、今日は鏡を覗いていなかった。 手で髪をいじってみると、なるほど寝癖っぽいのが手にひっかか る。 どうでもいいっちゃどうでもいいが、団員の前で間抜けヅラを晒 す事を考えると、取っておいたほうがいいわな。 あとで水でも被って取っておこう。 ﹁うふふ、ほら、なんでもではないでしょう?﹂ いや⋮⋮。 けなしたつもりだったのか、さっきのは。 ﹁うーん⋮⋮まあそうか﹂ ﹁寝ぐせがついてますよ、かっこいいですねー、とは言いませんよ。 ふふ﹂ 寝ぐせが格好いいとか、そんな褒め方は聞いたことないんだが⋮ ⋮。 1405 逆に馬鹿にされたように感じるだろ⋮⋮。 ﹁じゃあ、こっちは逆に褒めてやろうかな﹂ そして困らせてやろう。 ﹁はい?﹂ た ﹁いやーミャロは好く気がつくし頭もいいし、なにより博識だし、 世知にも長けてるし、有能を絵に書いて額に嵌めたような奴だなー﹂ ﹁え⋮⋮﹂ ﹁それに努力家だし、裏切る心配もないし、顔もいいから見てて気 分が和むし。本当に褒めるところがありすぎて筆舌に尽くしがたい﹂ ﹁えっ⋮⋮あ、あの⋮⋮えっ⋮⋮﹂ それだけ言うと、ミャロは、両手でぴったりと顔をおさえ、顔を そむけた。 なんだそれ。 いないいないばぁでもはじめる気か。 ﹁どうした? 褒められたりないか?﹂ ﹁や、やめて⋮⋮だめ⋮⋮だめです﹂ 震えた声を返してくる。 ﹁うれしすぎて顔が⋮⋮うぅ、にやけてしまいます﹂ ﹁にやけてんのかそれ﹂ 1406 顔を隠すほどか。 見たい。 でも、無理やりそれをすると、ミャロの両手を押さえつけて、俺 が襲っているような格好になってしまいそうだ。 やめておくか。 そのまま、たっぷり二、三分はたっただろうか、 ﹁ふーー。落ち着きました﹂ と、ようやくミャロはこっちに向き直った。 なんだったんだ一体。 ﹁ユーリくん駄目ですよ、あんな風に人をおだてたら﹂ ﹁別に普通に思ってることを言っただけだけどな。無理におだてた わけじゃないぞ﹂ ﹁もうっ⋮⋮あっ﹂ ミャロが何かを思い出したように固まった。 ﹁元々の用事を思い出しました。馬が桶を噛ったり岩や樹を舐めた りするので、塩が足りないのではないかという話になって、リフォ ルムまで買ってくるそうです。お金を渡しておきました﹂ なんだ、やはり大したことのない報告だった。 ﹁ふーん、まあそれはいいが⋮⋮悪いな、面倒をかけっぱなしで﹂ ﹁いえ、今のボクはユーリくんが面倒に煩わされないために居るよ うなものですから﹂ 1407 そりゃまた便利な話だ。 俺じゃなかったらヒモでも養うことになってたんじゃないかこい つは。 いや、元からヒモになるような男は一顧だにしないか⋮⋮。 ﹁働きたがりは感心だが、ちゃんと休んでおけよ。今は、休みすぎ なくらいで丁度いいんだから﹂ ﹁そうでしょうか?﹂ ミャロは懐疑的なのか、腑に落ちない顔をした。 ﹁もう少ししたら、休むどころじゃなくなる。帰路が順調にいくと も限らない。肝心要のときに余力が目一杯なかったら、話にならな いからな﹂ ﹁ああ、それはそうですね﹂ ﹁仕事は助かっているが、ほどほどにな﹂ 我ながら思うが、昼間っからボーっと椅子に座って熊の胆が乾く のを見ていた男の台詞じゃないな。 どんだけ偉そうなんだ。 ﹁はい。わかりました﹂ ミャロは嫌そうな顔もせず、頷いた。 ﹁では、休憩もしたことですし、そろそろ行きますね﹂ ﹁ああ﹂ また仕事だろう。 1408 頭が下がる思いだ。 ﹁それでは﹂ ミャロは、扉を締めながら軽くそう言うと、部屋を出て行った。 俺は外を見ながら考え事に没頭する作業に戻り、気がついたらパ ンは冷めてしまっていた。 1409 第089話 決戦前夜 俺は空からクラ人の陣営を見ていた。 星屑が羽ばたき、絶好の観測日よりとなった晴天を舞う。 星屑を斜めにし、開いた羽越しに地表を眺める。 空から見ていると、クラ人の陣営は、なんとなく雑然としていた。 数万人に及ぶ大軍団の陣営は、日本を知っている俺からすると、 わりと小さなものにも思えたが、シャン人のそれと比べると、やは り規模が大きい。 だが、上空からでもなんとなく見て取れるのは、連合軍だけあっ て陣営がバラバラになっているということだ。 大きな陣営の中に、各国軍のテリトリがあり、各軍が採用してい る天幕の色の違いが、モザイク模様のようになっていた。 実際には、各国軍だけではなく、臨時雇用された傭兵団なども入 っているはずだから、中に入ってみればもっとゴチャゴチャしてい るはずだ。 だが、そのへんは上空からは確かめようがない。 地上からは、パンパンと甲高い音が聞こえてくる。 ここまで上空だと、風の音にかきけされ、音はわずかにしか聞こ えないが、確かに鉄砲の音であった。 地上を見ると、数カ所から真っ白い煙がスジのように立ち上がっ て、風にまかせて流れている。 上空に射った場合の鉄砲の射程距離については検証済みであり、 1410 この高度は安全圏内なので、問題はない。 向こうの方も、そのくらいは解っていて発砲しているのだろう。 おそらくは、特攻を若干ながら危惧していて、お前らの存在には 気づいているんだぞ。というアピールをしているのだ。 その証拠に、音の出ない矢などは一切飛んできていない。 まあ、矢は落ちる時矢尻が下になるから危ない。というのもある だろうが。 そろそろ帰るか。 俺は笛をふきながら旗のついた棒を握り、後続に指示を出した。 少し遅れて、編隊の真ん中あたりにいるキャロルが、笛を吹いた のが聞こえた。 星屑を繰り、バサリと羽の向きを変えると、向かう方角が変わる。 一応、念のため、本拠地にしているニッカ村とはズレた方向に一 度向かったあと、俺は村に帰投した。 *** 俺が安全帯を取ると、 ﹁総員、安全帯を解け!﹂ と、副官格であるところのキャロルが、追って号令を出した。 面倒で堅苦しいことだが、こういう仕組みになってるんだよな。 俺がキャロルにこういう役回りをやらせることについて、憤りを 感じている連中がいなければいいが。 1411 鷲から降りた連中が、手綱を取って俺の近くにキッチリと整列を する。 これも、こういう仕組みになっているのだから、仕方がない。 個人的には、もっとラフでいいのではないかとも思うのだが、軍 隊という性質を考えれば、結果的にはキチっとしていたほうが良い のだろう。 なんだかんだ、カケドリで来た連中も、鷲の貸し借りで半分以上 は本陣を見てくることが出来た。 もちろん、本番の戦争を見るのは最初から王鷲を持ってきた三十 名の特権だが、これも成果といえば成果だよな。 ﹁諸君、お疲れだったな。鷲を繋いで休みたいのは山々だろうが、 まずは鷲を点検してみてほしい。弾が当たっていないとも限らない。 勢いはなくとも、当たったら骨折くらいはしているかもしれないか らな。軽く調べて、鷲を繋いだら、ひとまず解散してよろしい﹂ 編隊が居た高度は、殺傷距離どころか到達距離にも至らない距離 なので、まずありえないとは思うが、その辺はあてにならない。 暴発の危険を犯して、火薬を倍も込めれば、届く可能性もないと はいえない。 それでも、羽と皮を突き破って鷲を撃墜する、ということはあり えないが、王鷲の骨というのは、空をとぶ鳥に共通した性質をもち ろん持っていて、軽量なぶん強度に難があるので、骨折くらいはす るかもしれなかった。 俺はポケットから時計を取り出すと、現在の時刻を見た。 1412 カンファレンス ﹁そうだな、約三時間後、食事が終わってしばらくしたら、会議を しよう。気づいたことを頭のなかで纏めておいてくれ。以上だ﹂ 言った手前、その場で自分も簡単に星屑を点検する。 当たり前だが、傷はなかった。 手綱を取ってその場を離れると、俺はテクテクと歩いて、家のそ ばの馬小屋に星屑を繋いだ。 保存庫に行って、餌を手にぶらさげて戻る。 枝肉から切り取ってきたような、シカの腿肉だ。 星屑のくちばしの下に置いた。 ﹁食べていいよ、星屑﹂ 俺がそう言って許可をすると、星屑は早速、肉を食べ始め⋮⋮な かった。 あれ? 星屑はじっと俺を見ている。 まるで、肉に興味がないようだ。 ﹁どうした? 腹が減ってないのか?﹂ 腹が減っていないわけはないのだが。 もしかして体調でも悪いのか。 ﹁クルルッ⋮⋮クルルル⋮⋮﹂ 星屑はなんだかしらんが、クチバシを俺の頬に擦りつけてきた。 スリスリ、スリスリ 1413 痛くはないが、肌触りがいいものではないので、なんだか微妙だ。 ﹁どうしたんだ?﹂ もしかしてアレか。 馴れない場所を飛んできたから、緊張しているのかも知れない。 それか、星屑なりに戦場の雰囲気を感じているのかも。 軽く毛づくろいでもして、リラックスさせてやるか。 俺は星屑の頭周りの毛をニジニジしてやった。 しばらくそうしていると、星屑も気が和らいだのか、幾分機嫌が 良くなったようだ。 ﹁ほら、そろそろ食いな﹂ そう言って、肉を指さすと、今度は食べ始めた。 なんだったんだろう。 ﹁よう、大将﹂ 背中から声が聞こえた。 リャオの声だ。 ﹁戻ったか。どうだった﹂ と、近くにあった桶で、生肉を触ったせいで汚れた手を洗いなが ら聞く。 リャオには、定期的に実家に顔出しして状況を探ってもらってい 1414 た。 ﹁決戦は、明日になりそうだ﹂ ﹁そうか。そうだろうな﹂ ここ数日の進軍速度を考えれば、順当にいけばそうなりそうだっ た。 というか、向こうは二日前から進軍速度を抑えていて、かつ、各 地に分散した軍勢も結集している。 そのことは、俺のほうも毎日見物に出ているので、よく解ってい た。 一日に一度の偵察しかしていない俺にさえわかることなのだから、 数倍以上の密度で偵察を行っている軍団本隊のほうは、先刻承知の ことだろう。 ブチ当たるのは明日だ。 ﹁帰るときのために、馬と鳥をよく手入れしておいてくれ。余りそ うな穀類や豆は、全部飼葉に入れて、食わせちまってくれ﹂ ﹁ああ、そうしておくよ﹂ 馬は反芻動物ではないので、所謂葉っぱ、牧草だけでは体が作れ ない。 穀類や豆類を混ぜてやると、体力がつくようになる。 ﹁かといって今日明日食わせるもんがなくなっても困るからな。ミ ャロと相談してくれ﹂ ﹁そうするつもりだ﹂ 丸投げになってしまうが、下手に手出ししないほうが上手くいく 1415 だろう。 最後だから顔を突っ込んでみるか、なんてことをすると、逆に混 乱させてしまいそうだ。 ﹁向こうの本陣のほうも荒れていただろう。悪かったな﹂ 毎日こんなことをさせてしまっているが、本来リャオの領分なの かというと、微妙なところだ。 リャオの立場を考えれば、俺の方についてきて、敵の本陣のほう を見てみたいと思っているのではないだろうか。 実家に顔出しさせてしまっているせいで、今日はこっちのほうに 参加できなかった。 加えて、今日は決戦前夜となるわけだから、ルベ家の陣営のほう も滅茶苦茶に殺気立っていたはずだ。 ﹁荒れてはいたが、キルヒナ側に行ったわけじゃない。歓迎しても らっているさ﹂ まあ、そりゃそうか。 御曹司を無碍に扱う馬鹿もいないか。 ﹁そうか。それならよかったが⋮⋮。あとはそうだな。明日は、言 っておいたとおり、俺は何羽か連れて、ちょっとのあいだ別行動を 取る。ほんの少しのこととはいえ、キャロルが指揮を任せられるこ とになるが、お前の方も気を配ってやってくれ﹂ ﹁気を配るか。具体的に、どんな事をだ﹂ ﹁まあ、まず心配なのは、高度かな。下に下がり過ぎたら地面はよ 1416 く見えるが、そしたら鉄砲に撃たれちまう﹂ ﹁おまえ⋮⋮姫様をバカだと思ってないか?﹂ なんか呆れたような目で見られた。 あれ⋮⋮。 ﹁もしもの話だ。ただでさえ忙しい空中で、馴れない指揮なんか任 せられたら、冷静な思考なんぞできないだろ﹂ もっともらしい言い訳をしておくか。 ﹁だが、ほんの少しの間のことなんだろう。その間、特別なことは せずに、空中待機する約束だったと思うが﹂ ﹁気をつけるに越したことはないしな。敵の本陣に墜ちたら目も当 てられない﹂ 文字通り血祭りにあげられるだろう。 ﹁そりゃそうか﹂ とはいえ、考えてみれば、ただ留守番をするだけのことだ。 なにが起こるわけもない。 子どもじゃないんだから、注意が惹かれたものに一目散に駆けて いく、なんてことはしないだろう。 ﹁まあ、俺の杞憂だとは思うがな⋮⋮。問題なのは、戦が終わって からの帰り道のほうだ。くれぐれも頼むぞ﹂ 盆正月の帰省ラッシュではないが、帰り道は混むことが予想され る。 1417 できるなら、撤退は誰よりも早く迅速にして、混みあう前の道を 使いたい。 もちろん、決戦に勝利できれば、そんな心配はなくなるのだが。 ﹁分かった。そのへんは念を入れておくよ﹂ ﹁頼りにしてるぞ﹂ 俺はリャオの肩を叩いた。 明日からは予測不能のトラブルが十も二十も襲ってくるだろう。 その全てが大きなものではないだろうが、準備を入念に整えてお くに越したことはない。 1418 第090話 決戦の空 決戦の日。 後ろを向くと、二十八羽の王鷲が、編隊を組んで空を飛んでいた。 編隊は﹁へ﹂の字を書いて、星屑を頂点にして両側に斜めになっ ている。 これは渡り鳥などがやるのを模倣して作られた陣形で、学術的に 言えば前方騎が生み出す翼端渦を利用して負荷を軽減している。と いうことになるだろう。 実際、効果は目に見えてあって、後続の鷲の疲労がずいぶんと軽 減される。 だが、その半面、密集隊形に比べると陣形が広がりがちで、連絡 が行き届かないという欠点もある。 なので、これは言ってみれば巡航隊形で、戦場にたどり着けば、 への字を解除して、編隊を密集したものに変える予定だった。 下界を見ると、どうやら戦地にさしかかっている。 両軍の歩兵が衝突している前線からは、まるで野焼きでもしてい るかのように、白い発砲煙がもうもうと立ち上っていた。 同時に、爆竹を鳴らすような音も小さく聞こえる。 列になった歩兵が鉄砲を撃ち放っているのであろう。 少し出遅れたか。 とはいえ、空中で省エネ旋回するにしても、十時間も長居できる 1419 わけではない。 あまり早く来すぎても、始まった時には帰る時間ということにも なりかねん。 丁度良かったくらいだろう。 しかし、なんだな。 思った以上に心惹かれるな。 おー、戦ってる。って感じ。 もしこの世に神がいるとしたら、こういう風に人間の争いを見る のが楽しみなのかもしれない。 ずっと見ていたい、と思ったが、俺には先にやることがあった。 ピーッ! と笛を鳴らすと、旗を掲げて合図にする。 旗竿は槍で、旗を穂鞘のついた槍にくくりつけたものだ。 本当は、槍なんぞという無用の長物は持ってきたくなかったのだ が、戦場に向かうのだから最低限の用意として槍は持っていくべき、 という意見が多数を占めたので、俺のほうが折れた。 羽向きを変えると、事前に打ち合わせていたとおり、五羽の鷲が ついてきた。 後ろを見ると、抜けた穴を補うように、キャロルが集団の先頭に 立ち、スムーズに編隊を再編したのが見えた。 そのまま、敵方の後背に向かう。 戦列の更に後ろ、を通り過ぎ、数キロ後方に、引き払った本陣が あった。 1420 狙うのはここだ。 誰だって背中をいじめられるのは嫌なものだし、今は兵が出払っ ているから、地上からの攻撃は殆どないはず。 更に、焼かれて困るものといったら、物資だろう。 俺は、何日も前から目星をつけていた、物資が山と詰まれた地点 に首先を向けた。 速度を失速寸前まで落とし、風の抵抗を減らして、ポケットから ライターを取り出す。 鞍に押し付けるようにしながら、革手袋をはめた両手でライター を包みつつ火をつけると、指の間を少し開いて火を見つつ、三本の 導火線に火を移す。 さすがに大きいライターだけあって、風の中でも消えない炎を作 り、導火線を焼き焦がす。 導火線の先は、鷲の脇に付けたお手製の火炎瓶に繋がっている。 瓶といっても、容器は口がすぼまっただけの陶器なので、違和感 があるが、とにもかくにも瓶にはなっている。 中には、石油を分留する過程でまっさきに分離される、軽油質の 液体がたっぷり入っている。 そして瓶の口には、油の染みた布と導火線が差しこんであった。 導火線は、糊を付けた紙に火薬をまぶして、油の染みこんだ綿の 糸に巻いたものである。 普通に布に火をつけただけでは、投下中に風圧で火が掻き消えて しまうので、試行錯誤の後にこういう形にした。 布についた火は消えても、その内側にある導火線の火は消えない 1421 ので、引火に支障はない。 俺は、三本纏めてある導火線が着火したのを見ると、すぐに羽を 返し、まっさかさまの降下を始めた。 ほとんど自由落下に近い機動をとり、みるみるうちに速度が上が っていく。 飛び降り自殺のような勢いで地表が迫り、本能的な恐ろしさが心 を支配する。 そして、地上に近づいたところで、火炎瓶を結んである紐を解い た。 次の瞬間、手綱を勢い良く引く。 ぐぐいっと体全体にGがかかり、鷲は羽に空気をはらみながら、 急降下から水平へと向きを変えてゆく。 紐による支えを失った火炎瓶は、その変化についていけず、スル リとほどけ落ちて地上に落ちていった。 後続の、特に鷲の扱いが上手な者たちも、次々に火炎瓶を投下し てゆく。 だが、こちらは火はついていない。 ライターは一つしか用意できなかったからだ。 水平からさらに上昇へと転じ、十分な高度を取ってから下界を眺 めると、火はわんかさと燃えていた。 火種は俺が最初に投下した三瓶だけで十分だったようだ。 近い場所に命中した瓶がまき散らした燃料にも、次々と炎が燃え 移っている。 小山のように集積された補給物資の上に、火の海が現れ、一帯を 1422 焼き焦がしていた。 *** 俺は再び高度を取り、もう一箇所目星をつけていた目標に進路を 定めた。 火炎瓶は。もう三個ある。 再び導火線に火をつけ、羽を返した。 先ほどより幾分かスムーズに、ストンと降下に入る。 ぶわわっ、と迫ってくる地面は、なまじ目がいいだけにやけに鮮 明で、恐怖感をかきたてる。 残った三つの瓶を投下し、星屑を引き起こし、水平飛行に戻る。 更に手綱を引き、上昇に移った。 そのとき、熱と爆音と圧力が、同時にやってきた。 ドガッ! という音と同時に、首筋が暖炉の火のような熱さに晒 され、ぶわっと膨らんだ空気が背中を押した。 俺の背中が押されたということは、上昇に移っている星屑の大き な羽も全面が押されているということで、手綱から星屑がわずかに 戸惑ったような気配を感じた。 だが、失速するということもなく、俺が反射的に手綱を片方引い て反転の指示を出すと、素直にそれに従った。 ふわっ、と羽が固体状の何かを掴んだように力を得、熱源が作っ たらしい強力な上昇気流を掴むと、あとはほとんど羽を動かすこと 1423 もなく天に登ってゆく。 背中を見ると、流石は精鋭中の精鋭をよりすぐっただけあって、 五羽の僚騎は全員ついてきていた。 だが、さすがに羽は慌ただしく、鷲が混乱しているのは見て取れ る。 危なかった。 なにがあったんだ、と地表を見ると、酷いことになっていた。 物資の中に入っていた爆燃性の荷でも爆発したのか、燃えた物資 が四散して、そこら中のテントを焼いている。 危なかったな。 上昇に移ってしばらくしてからの爆発だったから、被害はなかっ たが、投下後すぐの爆発であったら、爆圧をモロに食らって墜落し ていたかもしれない。 俺は無事でも、後続は頭から爆発に突っ込むわけだから、死人が 出ていたかも。 さすがに冷や汗が出た。 エクストラミッション とはいえ、これで本当に余分な仕事は終わりだ。 編隊に戻ろう、と思い、俺は少し得意気に旗を振り、槍をキャロ ルのいる本隊の方向に向けた。 そこに、異様な光景が広がっていた。 *** 1424 一瞬、目の前に移ったものが信じられず、理性的な思考が﹁夢か ?﹂と疑問を投げかける。 それほどありえない光景であった。 やや離れた上空で、巨大な竜が本隊を襲っていた。 ドラゴン 鷲の三倍ほどの体格のある、羽の生えたトカゲのような竜が、本 隊の真ん中で暴れまわっていて、整然とした編隊の姿は最早消え失 せている。 皆が皆、蜘蛛の子を散らしたように、散り散りに舞い踊っていた。 俺は理性が命ずるより先に、星屑に全速力を指示していた。 スタミナを気にせぬ力強い羽ばたきが、ぐん、ぐん、と二つの生 命体を加速させてゆく。 なぜ竜がここにいる? 有史以来なかったことが、なぜ今の今、この時に起きている? 鞍越しに火照りすら感じる全速力が功を奏し、俺はようやく本隊 に辿り着いた。 目も当てられない光景が広がっていた。 鷲たちは、今にもお互いがぶつかりそうな勢いで、てんでばらば らに舞い、なにもできないでいる。 ドラゴンライダー そして、竜と、竜の首元に跨った竜騎士は、確実に一羽の鷲を狙 っていた。 1425 彼女は、被った皮の兜から金色の髪をなびかせ、白い鎧を着てい る。 キャロルだった。 金髪を目をつけたのか。 そりゃあそうだ。 セイラン にぶ 次の瞬間には、思考が移る。 ああ、晴嵐の羽の動きが鈍い。 動きが鈍いのは、竜に散々追い立てられて、スタミナを根こそぎ 失ってしまっているせいだろう。 攻撃を回避するために無茶な機動をして、失速寸前になっては遮 二無二羽ばたき、速度を稼ぐような操り方をしていれば、鷲がヘバ るのは当然だ。 晴嵐が集中的に狙われ、こうなってしまっては、これから逃げに 転じても、竜から逃げ切ることは不可能だろう。 幾ら逃げても、ヘバりきった鷲では、追いつかれてしまう。 つまり、詰んでいる。 その結論に至ると、俺の体は勝手に動いていた。 竜よりさらに高度をとり、位置エネルギー上優位な位置取りをす る。 そうして、旗のついた槍から、脱落防止のために付けてあった帯 を外した。 1426 槍をくるりと半回転させ、逆手に持った。 俺は、竜めがけて勢い良く突っ込んでいった。 集中のなかで、ほんの少しづつ手綱を張り、向きを調整してゆく。 竜の姿がみるみる大きくなり、衝突するコースになると、俺は手 綱を二回引いて星屑に着陸の指示を出した。 星屑は、その指示の意味を理解しているのか、混乱することもな く、素直に足を前に出す。 そのまま、星屑は竜に勢い良く空中衝突した。 竜の翼の付け根に星屑の爪が立ち、肉を破り、すれ違うと同時に、 俺は槍を胴体に突き刺した。 槍は竜の鱗を貫通し、奥に入ってゆく。 一瞬の間に、固い表皮をパキリと破り、柔らかい肉を裂き貫く感 触が、腕を打った。 星屑が交叉し、竜から離れると、腕ごと引っこ抜かれるような衝 撃が伝わり、槍を手放した。 手応えを感じる。 致命的な一撃を食らわしてやった。 飛竜種という動物が、どれだけ強靭な生きものなのか知らないが、 翼にあれだけの傷を負わされて、飛んでいられるわけがない。 一方、星屑は傷を受けてないし、今は失速して落下している最中 だが、地上が遠いので失速から回復するのは難しくない。 勝った、という達成感の中。目に写ったのは、ささくれた鱗だら 1427 けの、竜の巨大な尻尾であった。 ドラゴンライダー 竜騎士が指示したものではないのだろう。 竜が怒りに我を忘れてやったものなのか、元より空に生きる生物 が繰り出した攻撃は、やけに正確だった。 空中での相対速度の偏差もピッタリと修正されており、俺は﹁当 たる﹂と直感的に察した。 空中での機動は慣性の法則に大きく支配され、とっさの努力でど うにかなることは少ない。 竜の尾は、あらかじめ決められていたように、星屑の羽を捉えた。 バシッと羽が打ち据えられ、枯れ枝が折れたように羽が不自然な 方向に曲がったのが見えた。 苦くて黒い汁が脳髄の血管に流し込まれたような気がした。 ああ、駄目だ。 片羽ではどうにもならない。 俺と星屑は、空中でもんどりをうちながら失速した。 折れた方の羽は、全く頼りなく、風を掴もうとするとふにゃりと 曲がってしまう。 空気を掴む羽がこうでは、落下で速度ばかり上がっても、回復の しようがない。 頭上を見ると、竜もまた落ちてきていた。 やはり致命的な一撃だったのか、鷲と違って膜のようになってい る竜の羽は、一番面積のおおきな膜が、滅茶苦茶に破けていた。 それでも目的を遂げようと、竜は落下ざまに、速度の遅い晴嵐の 1428 羽に噛み付いた⋮⋮ように見えた。 俺に見えたのはそこまでで、バギャギャ、と枝葉を折る音が聞こ え、次の瞬間には衝撃が体を打っていた。 1429 第091話 土の味 目を開けると、目の前には枝があった。 雪が溶け、去年落ちた枝葉が顔を出している。 一冬の間に腐った皮が、黒く濡れていた。 あぶくが水の中を登るように、意識が浮揚してゆく。 脳が回復し、意識がはっきりとしてくると、体中にズキズキとし た痛みを感じた。 どうなっているのだ、と、体を確かめると、俺は腰の上だけ少し 宙に浮いた状態で、上半身だけ地面にぶら下がっているようだった。 かなり無理な体勢だ。 どうやら、意識を失っていたらしい。 しだいに、先ほどまでのことを思い出す。 竜と、竜の尾に叩かれて撃墜されたことを。 ほど 腰の安全帯はまだ解かれておらず、星屑につながっていた。 腰が浮いていたのはそのせいだ。 そうだ、星屑⋮⋮。 ほど 手早く安全帯を解くと、腰に重い痛みが走った。 地面に激突したときに、股関節に負担がかかったのだろう。 骨盤でも骨折していたら、と思うと、恐怖がこみあげてきた。 1430 冷静に考えて、そうしたらこの場から身動きが取れない。 いや⋮⋮ネガティブな考えはよそう。 こういう時こそ、冷静にならなければ⋮⋮。 安全帯が外れ、体重を支えるものがなくなると、ぐしゃ、と下半 身が地面に落ちた。 痛む腰に力を入れ、なんとか立ち上がると、痛いことは痛いが、 骨が割れているような痛みはなかった。 足を半分引きずりながら、星屑のほうを見た。 見る前から、どす暗い悲観的な予感しかなかった。 少し離れて星屑を見る。 星屑は、まだ息をしていて、目をぱちくりとさせていた。 だが、両方の羽は折れ、滅茶苦茶になっていた。 体は横向きに倒れていて、下敷きになっているほうの羽は、根本 から異常な向きに曲がっている。 体の上にある羽も、骨が折れてしまっているせいで畳めないよう で、だらしなく開いたままだった。 あしゆび 地面に衝突するときに木を引っ掻いたのだろう。 趾は反り返るように折れ、爪は剥がれかけていて、使いものにな りそうになかった。 星屑は、クチバシを開けて細い息をしていた。 この様子だと、内臓も破裂しているのかも⋮⋮。 1431 俺は、星屑が下敷きになってくれたおかげで、助かった、らしい。 そのことは、すぐにわかった。 だが⋮⋮俺には星屑をどうしてやることもできない。 あしゆび 鷲は、片方の羽が折れてしまっただけで衰弱してしまう。 それが、両方の羽が折れた上、趾も壊れているのでは、座ること もできないし、寝ることもできない。 経験が、この怪我ではもうどうやっても助けてやることはできな い。と言ってくる。 もしここがホウ家領の鷲牧場で、最良の治療の道具と、経験に長 けたルークが付きっきりで看病する体制が整っていても、どうにも ならないだろう。 だから、通常、こういう怪我をしてしまった鷲は、安楽死をさせ るのだ。 だが、目の前にいるのは、星屑だった。 騎士院に入ったときから、八年も一緒に空を共にしてきた。 そして、俺の代わりに重症を負った⋮⋮。 俺の命を助けてくれた星屑に、俺はなにもしてやれないのか。 大きな借りを作ったまま、そのまま逝かせてしまうのか⋮⋮。 ﹁クルルッ⋮⋮⋮﹂ 星屑が力のない声を出した。 1432 星屑は、俺を見ていた。 鳥には表情がなく、どういう望みでいるのか、なにが言いたいの か、わからない。 俺を責めているのか。 それとも、俺の無事を喜んでいるのか。 苦痛からの開放を望んでいるのか。 わからなかった。 解ったとしても、それは俺が自分の都合のいいように解釈した結 果なのだろう。 一言でも言葉を喋ってくれたら、最後に望むことをしてやれるの に。 恨んでいるのであれば、己の無能を謝ることもできた。 だが、現実には、星屑は喋らない。 言葉もわからない。 俺が、星屑のためにしてやれることは、一つだけしかない。 星屑がそれを望んでいるかは解らない。 望んでいないのかも知れず、これは俺のエゴなのかもしれない。 俺は、命を助けてくれた相棒に対して、酷い仕打ちをしようとし ている恩知らずなのかも。 だが、決断をする必要はある。 やるのなら、いたずらに苦痛を長引かせるのは、酷な仕打ちでし かない。 1433 腰の後ろに刺していた短刀を抜き、確かめる。 引き抜くと、鞘の中で曲がっていた。ということもなく、収めた ときと同じ輝きを放っていた。 星屑は、短刀を見ても、なんの反応も示さない。 俺が今からやることを察しているのだろうか⋮⋮。 ﹁星屑⋮⋮﹂ 俺は星屑の顔を抱いた。 星屑は、何か安心したように、首の筋肉を弛緩させる。 ﹁ありがとう。お前のおかげで、命が助かった﹂ すまない。 と心の中でいい、俺は短刀を星屑の首裏に深く突き立てた。 ぐいっと横に引くと、鋭利な短刀は、首の骨ごと延髄をブツリと 切断した。 星屑は、身じろぎさえせずに、それを受け入れた。 息絶えると、力が抜け、ズシっと重くなった。 ああ、死んだ。 共に空を駆けた友人が死んだ。 俺のせいで。 俺は、星屑の首を慎重に横たえると、短刀をおさめた。 そうして、最も大きな風切羽を三枚取ると、鞍に載せてあった鞄 にしまった。 1434 できるなら埋めてやりたいところだったが、それはできそうにな い。 やるべきことがたくさんある。 *** これからどうしよう。 そう考えた時、まず頭に浮かんだのは、観戦隊のことだった。 どれくらい経ったのか判らないが、おそらくはキャロルまたはリ ャオが指揮を引き継いでいるはずだ。 キャロルはどうなったか判らないが、とにかく事故ったのは間違 いないから、現在はリャオが指揮をとっている可能性が高い。 もしかしたら、まだ空中にいるかもしれない。 俺は、一縷の望みをかけて、空を見上げた。 当たり前だが、日差しさえ遮る枝葉に邪魔をされ、天空の様子な ど解らなかった。 目につく範囲で一番高い木を探すと、それに登ることにした。 筋肉が麻痺しているような感じがして、どうにも登りづらく、途 中何度も激痛が襲ってきたが、とにかく登った。 そうやって木の頂上に至ると、俺はできるだけ枝を切り払った。 そうして、上空を見た。 1435 いた。 王鷲たちは、俺のいる真上をくるくると回っていた。 そして、遠く⋮⋮ここから三百メートルほどのところにも、同じ ようにして同数程度の鷲が回っている。 俺は笛を吹いた。 とにかく大きく音を出すと、ずっとこちらを気にかけていたのだ ろう。 鷲が一羽降りてきた。 すぐにわかった。 リャオの鷲だ。 だが、鷲はハチドリのような滞空を長時間続けることはできない。 リャオは、少しそれに挑戦はしてみたものの、すぐに諦め、バン ク角を大きくとって地上を見られるようにしたまま、器用に小回り を始めた。 俺は、まず、あらかじめ決めておいた符丁で笛を吹いた。 姫はどこだ、つまりはキャロルはどうした。という符丁だ。 リャオは、死んだとも編隊にいるとも言わずに、ついて来い。と いう意味の笛を鳴らした。 旋回を一時やめ、旗のついた槍をビッと一方向に向ける。 もう半分の鷲が周回している地点だ。 やはり、キャロルも墜ちていたか。 半分は俺、半分はキャロルの落下地点に別れ、地上を監視してい 1436 たわけだ。 俺は素早くポーチを探ると、コンパスを取り出して方角を確認し た。 ガラス面の外側に取り付けてある、矢印のついた金属蓋を回し、 キャロルの方向をマークする。 地上に降りたら、鷲が回っている方向はわからなくなってしまう。 しかし、難しいところだ。 王鷲は、森林には着陸できない。 それが、たぶん生息分布が限られている理由なのだろうが、王鷲 は岩場で狩りをする生物なのだ。 森林の林冠部に突っ込んでいって、無事でいられるようにはでき ていない。 単純に、森で生活するには図体が大きすぎるし、羽の構造が更に 問題だからだ。 鷲の羽でもっとも重要なのは、羽の先端部にある初列風切羽で、 これが破けると飛行が難しくなってしまう。 一番引っかかりやすい羽の先端が重要なのだから、それを傷つけ ずに樹冠部を突破して鷲を森に降ろすというのは、絶望的な作業に なるだろう。 安全に鷲を離着陸させるには、具体的に言えば、安全をとって直 径七メートルほどの幅が必要と言われている。 五メートルあれば可能性は見えてくるにしても、鬱蒼とした森で、 上にも下にも直径五メートルのスペースが空いている。というとこ ろは、存在しない。 1437 そんな場所があったら、リャオが既に鷲を降ろしているだろう。 もう一つ、懸念があった。 上空を見ると、リャオの鷲も疲れているのが見て取れるのだ。 バランスがあまりとれていない。 リャオの鷲は、ルークが育てたものではないが、それでも十分以 上に良く鍛えられた鷲だ。 それが疲れているということは、他の鷲も、もう限界なのだろう。 少なくとも、三百メートルほど離れたキャロルのところに、俺が 辿り着くまで待っていられるとは思えない。 万全の体調であるなら、すぐにでも到着する距離だが、さすがに この痛みでは全速力で走れるか怪しい。 ピーッピピッピー、と、鷲の体調を尋ねる符丁を吹くと、ピッピ ッピッピ、と四回吹いてきた。 これは、鷲の体調を五段階評価で答えることになっていて、五は ﹁もう限界、墜落します。お元気で﹂といったような意味だから、 リャオの返答は、帰りの道程があることを考えると、限界に近いこ とを意味していると考えていい。 キャロルを鷲に乗せて帰らせる、という手は潰れた。 キャロルと合流、開けたところに移動、そこから鷲に乗せて離陸、 俺は誰か知らんが団員と二人で自力で帰還、そういう手は時間的余 裕が許さない。 また、笛のみのコミュニケーションでは、後日このポイントで待 ち合わせ、といった複雑な作戦立案を、その場で行うこともできな い。 1438 俺は決心して、ピーッ、ピーッ、ピーッと、三回長く笛を吹いた。 帰投せよ。という意味の笛だ。 そうすると、リャオは、笛を返してきた。 負けた。という意味の符丁だ。 負けた? なにに負けたんだ。と思っていると、リャオはまた別の方向を槍 で指した。 コンパスを確認すると、意味がわかった。 自分が落下したはずの森から考えて、その方向は、主戦場となる 地帯であるはずだ。 ああ、シャン人のほうの連合軍は、やはり負けたのか。 しかし、今の状況では、本当に勝っていてほしかった。 リャオは、続けて了解。という笛を返すと、その場で槍を掲げた。 そして、何やらゴソゴソとやっているかと思ったら、俺のいると ころの近くに槍を落とした。 鷲にくくりつけてある荷物も、続いて落ちてくる。 これを使え、という意味だろう。 ありがたい。 もう本当に限界に近かったのか、リャオはすぐに羽を翻し、編隊 を一つにまとめると、飛び去っていった。 1439 地図概略 <i175953|13912> 補遺として、ヘルベラの会戦について解説を述べる。 この会戦は、前近代的武器と近代的兵器のぶつかり合いであった RMA といってよい。 軍事的には軍事における革命の過渡期においての大規模な戦いと して、研究対象になっている。 が、ここでは簡単に戦局の推移を説明するに留まりたい。 この会戦が、状況が似ているにも関わらず、第十四回十字軍のと きに起こったマルセナスの会戦と異なる地域で発生したのは、ティ レルメ神帝国のインフラ整備の進歩により、街道網に若干の変化が 見られたからであった。 この戦闘の戦端は、まずクラ人の鉄砲の砲声から始まった。 シャン人の軍団は、コークス・レキという大貴族が指揮していた が、主な武器は刀槍や弓、投石器といった原始的なものであり、鉄 砲に対しては一方的に攻撃される状況にあった。 しかし、シャン人の軍団は、前戦争での戦訓を生かし、丸太で作 った簡易な陣地設営をしており、鉄砲の攻撃をほぼ弾いた。 戦端が開かれてから一時間が経過したころ、クラ人側の総大将で あるティレルメ神帝国帝王、アルフレッド・サクラメンタは、一向 に崩れぬ陣地にしびれを切らし、兵を寄せさせた上で騎兵突撃を命 じた。 1440 この時のシャン人の軍団は、若干ながら斜線陣気味の歪んだ陣形 をしており、右翼の兵が厚く、左翼の兵が薄い形をしていた。 それに気づいたアルフレッドは、騎馬軍団を兵の薄い側から迂回 させての包囲攻撃を立案し、配下の騎兵軍に命じた。 が、騎兵軍がシャン人軍左翼の端に至った頃、右翼の方向からシ ャン人の騎兵軍が現れた。 姿を消していたカケドリの騎兵軍は、会戦の直前に到着すること で偵察の目をくらまし、丘陵地を利用して姿を隠していたのである。 機動防御のために残された少量の騎兵を除いて、ほぼ全軍をかき 集めた騎兵軍は、横合いから銃歩兵列をえぐった。 この時の騎兵隊の突撃力は凄まじく、最左翼を担当していたフリ ューシャ王国の兵たちは、溶けるように崩れていった。 ユーフォス連邦の軍団も貫かれ、次にあった共同傭兵軍の隊列も 崩れると、次はにあったのはガリラヤ連合軍であった。 その更に左にはティレルメ神帝国の本陣があり、最右翼はカソリ カ教皇領が守っていた。 ガリラヤ連合軍と、ティレルメ神帝国の立ち位置が逆であったら、 どうなっていたことか。というのは、良く話に登る歴史の﹁もし﹂ である。 だが、現実には違い、騎兵隊はガリラヤ連合軍のところで止まっ た。 ガリラヤ連合軍は、全体から見れば少数であったものの、騎兵を 主に相手にしてきた歴史を持ち、対騎兵用とも言える特異な軍制を 採用していた。 1441 それは銃兵と長槍兵を交互に配置につかせ、更に三〇〇名を基本 単位とした四角い方陣を作らせ、それを並ばせるというもので、基 本的に一方向への攻撃力しか持たず、後ろを取られると弱い通常の 戦列を工夫したもので、全方位に防御力と攻撃力を持っていた。 テルシオ ガリラヤ方陣と呼ばれるこの戦術は、各国の軍団からしてみれば 奇異極まりないものであり、非効率的にしか見えなかったが、結果 的にこれが功を奏した。 鳥を長槍でえぐられながらも、方陣を一つ崩壊させた駆鳥兵たち は、そこで足が止まった。 足が止まってしまえば、あとは銃砲の餌食となるばかりである。 射程内で足が止まり、鉛球を射掛けられた駆鳥兵たちは、たまら ず後退せざるをえなかった。 そして、騎兵の突撃が刺さったシャン人歩兵戦列の左翼が崩れか かると、もはや機を失ったと見たコークス・レキは、全軍撤退を指 示した。 1442 第092話 森 リャオの荷物から槍と、使えそうなものを取り上げると、俺は歩 き出した。 このあたりの森は歩きにくい。 キルヒナとイイスス教地域との境目で、定住者がいないのだろう。 ・ これがシヤルタの森なら、周辺住民が薪取りに木を切ったりする ため、まだ歩きやすいのだが、ここは里山ならぬ里野だったところ が荒れ果てている、といった感じがする。 ﹁あー、くっそー⋮⋮いってぇ⋮⋮﹂ 言っても仕方がないのだが、思わず口に出してしまう。 歩きやすい道を気をつけて歩いていても、何かの拍子に腰に激痛 が走る。 ヒビ程度の骨折でも、無理をすれば内出血で腫れてくるはずだか ら、骨折はしていないと思うのだが。 これが休日に気軽にやっている山歩きなら、遠慮せず休憩すると ころだが、そうもいかない。 キャロルがどうなっているか、一刻も早く確認しなければならな い。 星屑のように、晴嵐が下敷きになって助かっていてくれればいい が⋮⋮。 そこで、悪い考えが、ふいに頭をよぎった。 1443 俺の場合と逆だったら⋮⋮。 星屑と同じように、キャロルが人の形を留めないような怪我をし ていたら、どうなるんだ。 それで、まだ生きていたら。 思わず、足が止まり、頭から血の気が引いた。 そうしたら、俺は星屑と同じように、キャロルの命をも絶ってや らなければならないのか⋮⋮。 その発想は、あまりに現実味を帯びていて、ゾッとした。 十分に有りえる⋮⋮。 背スジが凍りつくような感覚がして、腹が気持ち悪くなって、唐 突に吐き気を催した。 愕然として、何も考えられなくなった。 数秒後、自分が立ち止まっていることに気づき、俺は再び歩き出 す。 そんなことを考えていても仕方がない。 まだ何も確定的ではない⋮⋮。 俺はコンパスにマークした方向に、ずっと歩き続けた。 もうそろそろか⋮⋮。そう思った時だ。 グゥゥウッ⋮⋮。 まるで猛獣⋮⋮ヒグマのような猛獣の威嚇音のような音が聞こえ 1444 てきた。 こんなときに⋮⋮。 行くべきか、行かざるべきか。 行ったとしても、下半身に力が入らない俺の状態では、猛獣どこ ろか野犬にも勝てるかどうか怪しい。 だが、キャロルが襲われている可能性がある。 リャオの槍が手元にあるのが唯一の慰めか⋮⋮。 そう思いながら、俺は腰を低くして、こそりこそりと近づいてい った。 ああ⋮⋮。 近づくにつれ、俺は納得していった。 木立の間から、竜の翼が動いているのが見えたのだ。 灰色がかった緑色の肌は、南洋のトカゲのように、細かい鱗で覆 われていた。 かすかに濡れたような質感は、なめらかな織物のようにも、板を 連ねた鎧のようにも見える。 猛獣の声に聞こえたものは、竜の呻き声だったらしい。 だが、限られた情報から分析するに、竜のほうも横たわっていて、 健常な状態とは思えない。 とりあえず、今すぐ暴れ始める様子ではない。 1445 ふう⋮⋮と息を吐いて、緊張しつつ、竜を回りこんでゆく。 もう、のんびりと痛みに声を漏らしていられる場合ではない。 アドレナリンかなにかが回ってきたのか、痛みはあまり気になら なくなってきた。 ドラゴンライダー 竜がここにいるのなら、星屑の近くに俺が倒れていたように、生 きているにしろ死んでいるにしろ、竜騎士が居るはずだ。 竜を遠巻きに回りこんでゆくと、果たしてそこには見知らぬ人物 がいた。 こちらに背を向けており、まるで見慣れぬ意匠の服を着ている。 そういう文化なのか、頭には灰色のターバンのようなものを巻い ていた。 後ろ姿だけだが、頭のてっぺんに載せているだけではなくて、顎 も額も巻布で覆っている。 おそらくは、竜騎士の伝統的な意匠なのだろう。 こいつが竜騎士で間違いない。 そしてその先には、なんと一羽の王鷲がいた。 ピクリとも動かないので、おそらくは亡骸となっているのだが、 羽色から見るに、あれは晴嵐だ。 竜に噛まれたまま落下したのか、一緒の地点に墜ちたらしい。 そして、俺は、その隣にキャロルがいることにも気づいた。 キャロルは、腰が痛いのかなんなのか、その場にへたり込み⋮⋮ 1446 そして、自分の短刀を、自分の首にかざしていた。 つまり、自決しようとしていた。 脊髄に氷水でも流し込まれたような、凍りつく感覚を覚える。 キャロルは竜騎士と対峙している。 竜騎士は、キャロルに自害して欲しくはないらしく、なにやら短 いナイフのようなものを突きつけながら、しきりに怒鳴っている。 テロル語を話せないのかなんなのか、話しているのは俺にも意味 不明な言語だった。 たぶん、これがココルル教圏で話されるハスン語なのだろう。 イントネーションはテロル語よりシャン語に近い感じがするが、 鼻にかかった発音がやけに多く、なんとも耳慣れない。 とりこ キャロルを虜にしようとしているが、キャロルのほうはそれを拒 み自決しようとしているので、恐らくは﹁やめろ、諦めて縄に付け﹂ というような内容を怒鳴っているのだろう。 可及的速やかに、この状況をどうにかしなければならない。 早く処理しなければ、キャロルが死ぬ。 作戦など考えている暇はない。 気持ちを定めると、スッ⋮⋮と頭のなかが冴え渡り、痛みもなに もなくなり、自分が一個の機械になったような気がした。 俺は、木立から歩いて出て行った。 数歩近づき、キャロルが俺に気づいて、こちらを見る。 1447 竜騎士が、視線の変化に気づいた。 振り返ろうとする。 ﹃よう、トカゲ乗り﹄ 俺はテロル語で、話に聞く竜騎士の蔑称を言いながら、右手に持 った槍を肩に担ぎ、左足で地面を勢い良く蹴った。 右足を強く踏み込むと同時に、至近距離から槍を投擲する。 槍は、初速の勢いのまま、振り返ろうと半身になった男の右腕に、 ドガッと突き刺さった。 しまった。 投げるのが早すぎた。 胴体に刺さるのが理想だったのに。という思考に包まれながら、 やった、とも思う。 槍は腕を横に裂くように突き刺さっており、その下には大ぶりの ナイフがぶら下がっている。 武器を持ったほうの、つまりは利き手に致命的なダメージを負わ せたのだ。 これは大きい。 俺は槍を投擲したままの勢いで突っ込むと、すぐさま男の腕にぶ ら下がった槍の柄を握り、体ごと槍をより深くさしこむようにぶつ かった。 ﹁グッ⋮⋮﹂ うめき声を上げながらも、男は足を踏ん張り、倒れなかった。 1448 ぶつかった反動で、五体が持っていた勢いが消える。 ﹁フッ!﹂ 勢いが削がれたと同時に、一歩踏み込み、男の膝を踏むように蹴 った。 膝の骨がゴクリと砕ける感触がし、蹴った反動を利用して引っこ 抜くように槍を抜いた。 男はバランスを崩し、武器を持った片手を地面につける。 俺は間髪入れずに抜いた槍を突き出し、地につけた手のひらを地 面に縫い付けた。 その場で腰を回し、たたんだ膝を振る。 殆ど密着した距離で、座り込んだ男の顎に、吸い込まれるように 膝が入った。 アゴを撃ちぬいた感触が膝に響くと、男は脱力したようにその場 に崩れ落ちた。 勝った。 数秒じっと男を見るが、ピクリとも動く様子はない。 ﹁はぁ、はぁ⋮⋮。キャロル、大丈夫か﹂ 男から目を離さず、言う。 ひとまずの勝利を手にすると、人の心が戻ってきたかのように、 安らいだ気分になった。 心が高揚し、体に運動後の温かさを感じる。 1449 ﹁は、はい﹂ なんだ﹁はい﹂って。 座学の先生かなんかに返事するんじゃないんだから。 本当に大丈夫なのか。 視線を外し、キャロルを見ると、命に別状がありそうにはみえな かった。 流血もしていないし、内臓にダメージがいっているようにも見え ない。 よかった。 心の底から安堵した。 ﹁まずは、刀をしまえ﹂ ﹁あ、ああ⋮⋮うん、そうだな﹂ ドラゴンライダー ブラフではなく、本当に自決まで覚悟していたのか、キャロルの 短刀を持つ手は震えていた。 震える手で、首から恐る恐る短刀を離し、鞘に納める。 これでもう安心だ。 俺は、振り返って竜を見た。 竜は、真正面から見るとぐったりと倒れていて、乗り手の竜騎士 が攻撃され昏倒しているというのに、興味を示すふうでもない。 元より、鷲と違って乗り手との信頼関係などない動物なのかもし れん。 獰猛な動物が本能的に人を襲おうとするのを、どうにかこうにか 1450 制御して、自分にとっての敵側に牙を向けさせる。といったやり方 なのかも。 思えば、俺をたたき落とした時も、そんな感じだった。 乗り手が攻撃を指示してから攻撃に移るのでは、どうしてもワン テンポ遅れるものだが、あのときはまったくそれがなかった。 あれは、本能に従った竜が勝手に攻撃したのだろう。 竜についての興味は尽きないが、いまのところは放っておいても いい。 落下の衝撃で内臓破裂でもしているのか、羽を貫いて胴体に侵入 している俺の槍がよっぽどの急所に刺さっているのか、動くのも億 劫という感じだ。 そのうちに死ぬだろうし、刺激をしなければ襲ってはこないだろ う。 ﹁キャロル﹂ ﹁う⋮⋮うん﹂ うんって。 まあいいか。 ﹁ついさっきまで、リャオとミャロが上空を飛んでいた。リャオに よると、決戦はこちらの負けらしい﹂ と、俺はかいつまんで今の状況を説明した。 ﹁つまり、ここで待っていても、状況は悪くなるばかりだ。先にこ こに来るのは、心配してやってくる味方の軍じゃなく、敵のほうだ ろう﹂ 1451 ﹁わ、わかった。そうか⋮⋮﹂ キャロルは、なんだか落ち込んでいる様子だ。 無理もない。 キャロルの件を処理してから、再び冷静に考えてみると、これほ ど面倒くさい状況はなかなかない。 どれだけの面倒事を処理しなければならないのかと思うと、気が 遠くなる。 ﹁分かってるのか?﹂ ﹁なにがだ﹂ ﹁ここにいたら、追手がかかるってことだよ。さっさと行くぞ﹂ ドラゴンライダー 上空で近距離から視認していた竜騎士はともかく、地上のクラ人 がキャロルの金髪を認識できていたかは怪しいところだ。 だが、ここに金髪のシャン人がいる。ということが判れば、まず 間違いなく追ってくる。 なにしろ、向こう側では金髪のシャン人で、かつ美人とくれば、 王国間の政治取引に使われるくらいの代物で、対価として国策レベ ルの譲歩が引き出せると聞く。 イーサ先生の話によると、実際に三十年くらい前にそういうこと があったらしい。 つまりは、値段がつかないほどの価値を持っているわけだ。 あちらさんがキャロルの素性について情報を得ているかはともか く、世にも珍しい竜の空中戦を、地上にいた誰かが観察していたの は、まず間違いない。 1452 それを考えれば、鷲が二羽と竜が一匹落ちた。というところまで は、確実に把握されているだろうし、目がいい奴や望遠鏡で見てい た人間がいたら、二羽のうち一羽に乗っていたのは金髪だった。と いうことが把握されていても、おかしくはない。 ﹁すまない⋮⋮﹂ 何故かキャロルは、謝ってきた。 謝るどころか、なぜか悔しげに目に涙をためている。 ﹁なんだ?﹂ ﹁足が⋮⋮どこか悪いようだ。痛くて立てないんだ⋮⋮﹂ ⋮⋮⋮。 ⋮⋮⋮⋮。 あー⋮⋮⋮⋮。 なんてこった。 あっけにとられ、しばらく呆然とするしかなく、俺はその場に突 っ立っていることしかできなかった。 ﹁私のことは、置いていってくれ⋮⋮﹂ キャロルは、寂しさを噛み殺すような声で言った。 置いていけ、というのは本心から言っているのだろう。 そしたら、まあここで万に一つの救助を待って、クラ人のほうが 先に来たら自害⋮⋮みたいな感じか。 1453 セリフ ﹁今のは、今までのお前の発言のなかでも、とびきりアホな台詞だ な﹂ ﹁⋮⋮ぇ?﹂ キャロルは、囁くように小さく声を発した。 ﹁お前を置いていくわけがないだろ﹂ ﹁だが、ここにいたらお前まで危険になる⋮⋮﹂ ﹁諦めるのが早すぎる。お前の命はそんなに軽くはない﹂ だが、事態は深刻だ。 ため息の一つもつきたくなる。 ﹁はぁー⋮⋮⋮﹂ 本当についてしまった。 これからどうしよう⋮⋮。 ドラゴンライダー 考えてみれば、立って歩ける状態であれば、竜騎士が現れた時に、 立って戦っていなければおかしい。 それさえできずに、へたり込んで首に短刀を突きつけて、自らの 命を盾にしていたのだから、骨折なのか肉離れなのかわからんが、 本当に歩けないのだろう。 ⋮⋮俺が背負って歩くしかないか。 その結論は、案外と簡単に出た。 しかし、どこまで歩くのか⋮⋮。 リフォルムまでは無理としても、キャロルを背負っての歩きでは、 1454 拠点にしていたニッカまでも⋮⋮おそらく、一週間以上は軽くかか る。 しかも、決戦で負けた以上、主要な街道は敵方の騎馬が走り回っ ていると見ていい。 身一つなら、見つかっても森の中に逃げ、追手が諦めるまで逃げ に逃げるという手が使えるが、キャロルを背負っていたら無理だ。 追手に見つかった時点でアウト。 森に隠れるにしても、見つかるか見つからないかは運否天賦。 命が幾つあっても足らない。 森のなか、道無き道を歩くしかない。 ﹁背負って歩くか⋮⋮﹂ 自分の決意を確かめるため、試しに口に出してみると、背筋を絶 望感が這い上がってきた。 キャロルは痩せているほうだが、筋肉はついているし、小学生程 度の体重ということはない。 加えて、ギリギリまで切り詰めるにしても、携行する荷物はゼロ というわけにはいかない。 どんなマラソンランナーであっても、五十キロからの重量を担い で競争したら、アマチュア相手に勝てるものではないだろう。 追手がかかるとしたら、キャロルを背負った俺は、どうしても速 度に劣り、いつかは追いつかれる計算になる。 1455 神様に土下座したら、ケアルガだのベホイミだのの魔法を使って、 キャロルの怪我を治癒してくれるのであれば、今すぐ土下座したい 気分だった。 神頼みしたいほどに状況が悪い。 いっそ犠牲を覚悟して、王鷲隊を全員森に突っ込ませるべきだっ たか⋮⋮。 そうすれば、二十六羽の鷲と何人かの事故死者を犠牲にして、二 十人かそこらは手勢が手に入る。 それだけ手勢がいれば、追手がかかっても突破できたかもしれな い⋮⋮。 いや、補給が駄目か⋮⋮。 一人二人の食料なら、歩きながら確保できないこともないが、二 十人以上の食料は絶対に無理だ。 三日か四日で飢えてしまう⋮⋮。 いや、今はそんな非建設的なことを考えている場合じゃない。 これからどうするかだ。 逃げずにここで穴でも掘って隠れる⋮⋮という手も、ないことは ないか。 俺には、一人だけ必ず救助にくる人材の心当たりがある。 王剣だ。 彼女は、自分が死のうがなんだろうが、いつかは必ずここに来る だろう。 だが、一日か二日後、ここに辿り着いたとして、やはり逃げる時 1456 はキャロルを背負うことになる。 あの女は、敏捷性や技量は高く、体力の鍛え方も常人に及びもつ かない域に達しているだろうが、あの体格でキャロルを背負って俺 以上に歩けるとは思えない。 順番に歩けば一人ひとりの負担は軽減されるが、速度が二倍にな るわけではない。 やはり駄目だ。 彼女の到着は、ここで待機することで生じる状況の悪化を看過で きるほどの、絶対的効力は持っていない。 やはり、俺が背負って逃げる他ない。 しかし、追手に必ず追いつかれるのであれば、早晩詰むのは目に 見えている。 だとしたら、追いつかれないために工夫をする必要がある。 ドラゴンライダー 俺は失神している竜騎士を見た。 腕からダラダラと血が流れている⋮⋮。 こいつを使って、まずは工作をしてみるか⋮⋮。 時間のロスにはなるが、どのみち相手のほうが早いのであれば、 破局が伸びるか伸びないかの違いでしかない。 一か八かで色々とやってみたほうがいい。 俺は、失神した男の上半身を引き起こすと、まずは鎧を脱がせた。 やはり、体格のいい竜といえども積載重量に余裕があるわけでは ないのか、意匠はずいぶんと違うが、俺のと同じような軽い皮鎧だ。 1457 加えて言えば、体格も筋骨隆々というわけではなく、俺とほとん ど変わらない。 鎧に続けて、兜と、脛当ても取って、服も脱がせ、肌着だけにす る。 ﹁ユーリ、なにをしているんだ?﹂ 俺の不審な行動に不安になったのか、キャロルが尋ねてきた。 説明している時間が惜しいので、答えない。 俺は自分の装いを脱ぐと、失神具合を確かめながら、男に着せて いった。 ルークが用意してくれた上等の鎧だったが、どの道、この後の活 動のためには捨てなければならない。 俺は、男に少しサイズの合わない鎧を無理やりに着せ、脛当てや ヘルメットなども付けると、仰向けにした。 そうして、周りを探して、なるべく大きな石を持ってきた。 運ぶ最中も、不思議と腰の痛みは感じなかった。 俺はその石を、なるべく高く持ち上げ、失神した男の顔に落とし た。 ゴチャッと鈍い音がして、男の体がビクッと痙攣したかと思うと、 石は顔を伝って横に滑り落ちた。 男の顔は血にまみれ、陥没している。 まだ呼吸をしているのか、骨折した鼻から出てきた赤い血が、小 さな赤い鼻提灯を作っていた。 1458 俺は、再び石を持ち上げると、同じように叩きつけた。 二、三回叩きつけると、男はピクリとも動かなくなった。 顔は、もう原型を留めないほどに潰れていて、ピンク色の筋が全 体に見えている⋮⋮。 俺がさっきまで着ていた鎧にも、血が飛び散っていた。 俺は血のこびりついた男の兜を乱暴に外し、なるべく無造作に軽 い力で放り投げた。 そして、男が持っていた大ぶりのナイフを、近くの石に叩きつけ て刃を軽く潰した。 その刃で耳朶の先を切り取り、もう片方の耳は自分の短刀で切り 取った。 これで、俺の死体ができた。 晴嵐に乗っていた俺は、落下の最中に振り落とされ、不運なこと ドラゴンライダー に地面の岩に顔面を激突させ、即死した。 竜騎士のほうは、無事であったが、敵の鷲乗り騎士を仕留めた証 明として、片耳をそぎ落とし、どこかへ消えた。 耳を覆うヘルメットは、そぎ取るのに邪魔なので、乱暴に剥ぎと ってその場に捨てた。 耳は片方が潰れていて、片方はない。 だが、鎧は確かにシャン人の鎧を着ている。 あまりにも杜撰で稚拙な工作だが、やらないよりはマシだろう。 おそらく、最初に発見するのは、末端の一兵卒だろうし、敵もこ ちらよりマシとはいえ、緻密な軍制を整えているわけではない。 1459 追手側に疑心を抱かせ、意見を分裂させ、混乱させることができ る⋮⋮かもしれない。 一人分の死体を得たことに満足して、もう一人は見逃す、という 選択をしてくれるかも⋮⋮。 都合が良すぎる考えか⋮⋮。 ﹁⋮⋮⋮﹂ 手を見ると、両手が血と土でグチャグチャになっていた。 ボロ布で拭って済まそうか。 いや⋮⋮やはり洗おう。 気持ちが悪い⋮⋮。 俺は貴重な水で手をすすいだ。 1460 第093話 遭難初日︵前︶ ドラゴンライダー 竜騎士の持ち物から必要なものを拝借すると、俺はキャロルのと ころへ戻った。 竜騎士が自分で竜から降ろしたらしい荷物に、短弓と矢があるの が意外だった。 あちらには上空で弓を射るなどという文化があるのだろうか。 短弓と矢は特に代わり映えしないものだが、矢入れのほうは少し 特殊だ。 ほぼ筒状になっているが、乱高下や空中反転を考慮してか、矢が 滑り落ちないように、入り口にバネ仕掛けの抑えがついて、片側に 押すようになっている。 矢入れには、矢が五本ほど入っていた。 内二本の長さが突出して長く、引き抜いて調べてみると、先端に 矢尻がついていなかった。 かぶらや かぶら 矢尻の代わりに、木でできた紡錘型の物体がついている。 鏑矢だ。 これを射放つと先端についた木の鏑に空気が通り、甲高い音がす る。 用途は、俺たちが使っているホイッスルとあまり変わらないだろ う。 空中での連絡用だ。 1461 シヤルタで通常使われる鏑矢には、鏑の先端に更に簡易な矢尻が ついていることが多いが、友軍の頭上で使う場合を想定しているの か、矢尻はついておらず丸いままだった。 鏑矢の他にも、三本は普通の矢があるので、地上に矢を放って攻 撃することもあるのかもしれない。 ﹁だ、大丈夫か?﹂ と、キャロルはなんだかオドオドしながら聞いてきた。 まっさお ﹁なにがだ?﹂ ﹁顔色が⋮⋮真っ青だ﹂ ⋮⋮ああ、そうなのか。 顔色が悪いのか。 ﹁⋮⋮大丈夫だ。人を殺したのは初めてだったから、多少気が滅入 ってるんだろ。それより、お前の体調はどうなんだ﹂ ﹁う、うん⋮⋮具合が悪いのは足だけだ。他は⋮⋮問題ない﹂ それならよかった。 いや良くはないが、﹁頭が酷く痛くてめまいがする⋮⋮﹂などと 言われたら、脳挫傷かなんかを疑わなきゃならんからな。 できれば足ではなく腕の故障にしてほしかったが、贅沢もいえな い。 ﹁そうか。一応言っておくが、鎧のたぐいは脱がなくていい。暫く はそのまま背負っていく﹂ 1462 ﹁そうなのか?﹂ キャロルは不思議そうだった。 ﹁追手にお前が王族だということは知られたくない。その鎧には、 王族の紋がガッツリ描かれてるだろ。捨てるにしても、ここから大 分離れたところに捨てる。今、晴嵐の鞍にある紋も削っておく﹂ 少しくらいなら鞍を持って歩いてもいいが、鞍がついていなかっ たら、さすがに不審だろう。 それは避けたかった。 追手側がシヤルタ王家の紋を知っているとは限らないが、なんと いっても王家の紋章なので、知っていてもまったくおかしくない。 俺の鞍のほうは、前の経験からホウ家の紋のついていないものに したので、星屑が調査されたとしても問題はない。 俺は、晴嵐の死体に近づき、てっとり早く鞍から紋章を削った。 ついでに、風切羽を引き抜く。 星屑のものも取ったが、愛鷲の風切羽を保存しておくのは、王鷲 乗りの伝統的な風習だ。 遺骨というか、写真のようなものだ。 飾っておき、後々見て思い出にひたる。 ルークもよくそうしていた。 俺は安全帯を一部取り外し、積載バッグを肩から下げられるショ ルダーバッグにすると、キャロルのものと俺のものを、交差するよ うに二つ両肩にかけた。 もともとそういう変換ができるように金具が付けられているので、 1463 何の問題もない。 携行品は量が少なく、それほど重くないが、少し重量を感じる。 ﹁弓と矢を肩にかけておいてくれ。槍も持てるか?﹂ ドラゴンライダー 竜騎士から奪った弓と矢筒を、キャロルに渡した。 ついでに槍も持たせる。 キャロルは、何も言わずに弓を腕に通し、矢筒を背負った。 槍を手に握る。 ﹁行くぞ﹂ 俺はキャロルの目の前で、しゃがみこんだ。 ﹁⋮⋮本当にいいのか?﹂ キャロルが遠慮がちに言う。 ﹁さっさとしろ﹂ 俺がそう言うと、キャロルは俺の首に腕を回し、一本の槍を肩越 しに両手で持って、背中に体を預けてきた。 片足が使えるのだから、これくらいは難しくないのだろう。 キャロルの膝の裏に腕を回し、引きつけるようにグッと立ち上が る。 ズシッ⋮⋮という重みを感じた。 軽いといっても、大型のザックくらいの重さはある。 腰と骨盤の痛みは、やはり一過性の神経痛だったのか、痛みは僅 1464 かなのが救いだった。 重いことには重いが、すぐにも膝を屈しそうな感じはしない。 行けそうだ。 ﹁行けそうだ﹂ 口に出してみると、わりと大丈夫だった。 当然のことを口にした、という感じがする。 駄目なときに虚勢を張ってこういうことを言うと、心が折れる感 じがするから、本当に大丈夫なのだろう。 大丈夫のはずだ。 俺はまだ生きている竜に一瞥をくれると、その場を立ち去った。 *** 歩き始めたのが午後の四時頃で、二時間ほど歩いただろうか。 六時になった時、さすがに限界を感じて、俺は野営することにし た。 ﹁ここに泊まろう﹂ 適当に開けた場所を選ぶと、俺はキャロルを下ろし、野宿の用意 を整えはじめる。 ﹁ちょっと待ってろ。枝を拾ってくる﹂ 1465 ﹁⋮⋮わかった﹂ 若干不安そうなキャロルを残し、俺は枝拾いに向かった。 身軽になった体で、枯れ枝を拾い集めてゆく。 それから、木に登って、なるべく真っ直ぐなものを選び、生枝を 幾つか採った。 キャロルのところに戻ると、なんだか俺を見て安心したような顔 をしていた。 ﹁なんだ、帰ってこないとでも思ったのか?﹂ ﹁いや⋮⋮そうじゃない﹂ 違うらしい。 猛獣に襲われるとでも思ったのだろうか。 木を簡単に組んで、火を付けて焚き火をおこした。 ライターが無事で助かった。 火付けの手順が丸きり省略できてしまうのは、サバイバルでは本 当に助かる。 ﹁足を出せ。楽なようにしてやる﹂ ﹁⋮⋮うん﹂ キャロルは素直に足を出した。 俺はキャロルが履いていた靴を脱がせる。 右足の足首が赤くなっており、かなり腫れていた。 だが、足首の位置がわからないといったような派手な腫れ方では ない。 1466 ﹁ウッ﹂ 痛みを感じたのか、キャロルは悲鳴を漏らした。 歩いている最中も、右足が木にぶつかるたびに痛そうにしていた からな。 余程痛いのだろう。 しかし、足首か⋮⋮。 乗馬靴のような靴と違って、乗る体勢の都合上、鷲乗りの靴は足 首に自由が効くようになっている。 足首が完全に固定された長靴であれば、こんな風にはならなかっ たのだろうが⋮⋮。 俺は、しなりのある生木の表皮を削り、何本か横に並べ、丈夫な 糸で結んで板状にすると、それを靴のかかとに合わせた。 キャロルの靴は、靴底からアキレス腱あたりまでが、直角に曲げ た薄い木でできていて、しなるようになっている。 そのまま当て木の一部にできるだろう。 靴紐を解いて、再びキャロルの足を靴に入れると、靴ひもを固く ドラゴンライダー 結んだ。 竜騎士の荷物からいただいてきた服を破り、短い包帯を作って、 足首のL字の部分をしっかりと結んだ。 続けて、腿も固定する。 ﹁こんなもんか⋮⋮どうだ、痛いか﹂ 俺はキャロルのつま先を持って、ぐりぐりと円を書くように力を 入れてみる。 当て木が効いているらしく、足首は動かなかった。 1467 ﹁いや、痛くない⋮⋮すごいな﹂ キャロルは、なんだかきょとんとしていた。 あまりに治療が簡単に終わったので、拍子抜けしたらしい。 ﹁メシにしよう﹂ ﹁うん、そうだな﹂ ﹁あいつら、パンを持ってた。とりあえず今日はこれが晩メシだ﹂ 俺は、竜騎士の荷物から拝借したパンをキャロルに渡した。 空をとぶのにパンを持っていくとは恐れ入る思いがしたが、助か ることには助かった。 一応、鷲乗りも干し肉やカロリーの高い炒った豆くらいは持って いく時はあるが、嵩張るパンを持っていく奴はいない。 パンを渡したものの、キャロルは食べ始める様子がなかった。 ﹁どうしたんだ、食わないのか﹂ ﹁う、うん⋮⋮えっと﹂ キャロルは少し困ったような顔をしていた。 ああ⋮⋮なんとなく解った。 俺に遠慮しているのか。 ﹁俺のことは気にするな。食欲がちょっとないんだ﹂ ﹁⋮⋮どうしたんだ? これからのことが心配なのか?﹂ ⋮⋮?? 1468 ああ、そうか。 心配で食事も喉に通らないってこともあるか⋮⋮。 ﹁いや、情けない話だが、人を殺したせいで腹がどうにかなってる らしい﹂ 自分でも驚くことだが、どうも俺は人殺しにショックを受けてい るらしかった。 歩いているあいだじゅう、これから先の計画を練るでもなく、団 の行動に思いを馳せるでもなく、名も知らぬあの男を殺した時の岩 の重さ、男の顔、叩き潰されたあとの顔、耳を切り取った時の感触 を、繰り返し思い返していた。 そのせいでハラワタが重く、沈黙しているように動きがない。 ﹁そうか⋮⋮すまないな、私のせいで﹂ ⋮⋮? 私のせい? ﹁なんでだ?﹂ ﹁えっ﹂ ﹁いや、なんでお前のせいなんだ?﹂ そう考えたくなる気持ちは、こいつの性格を鑑みれば、判らんで もないが。 だが、それは全くの間違いだ。 1469 ﹁だって、私が落とされたから⋮⋮それに、足を折って⋮⋮﹂ ﹁落とされたのは俺も同じだろ﹂ ﹁でも、足を折って、足手まといになっている﹂ ﹁足を折ったのは、事故みたいなもんだ。俺だって、落下の時に何 かをやれたわけじゃない。ただ落ちるまま落ちて、そのあとはしば らく気を失ってたって体たらくだ。お前みたいな怪我をしなかった のは、運が良かっただけだよ﹂ 一瞬、星屑のことを思い出して、胸にズキ⋮⋮と痛みが走った。 俺を守ろうとして下敷きになるよう調整した、と考えるのは、感 傷的すぎるだろうか。 時間が経てば経つほど、想像を働かせてしまう。 だが、今となっては確かめようがない。 ﹁俺は、安全高度を保てば、敵に鷲を攻撃する手段などない。と高 を括っていた。隊から分かれて陣地攻撃をしようなんて考えたのは、 敵にこちらを攻撃する方法がないから、絶対に大丈夫と思っていた からだ。絶対に大丈夫なら、ついでに新商品の試用もやってみて、 上手く戦果が出たら売って回るのも悪くない。などと思っていた﹂ 王鷲と駆鳥は、なぜだかクラ人には懐かないし調教もできない。 そして、両種とも、シャン人奴隷に扱わせることはできない。 馬より早いので、そのまま逃亡できてしまうからだ。 人質などを使って逃亡を防止することはできるのかもしれないが、 重要な伝令や軍の命運を握る偵察などには、奴隷は危なかしくて使 えない。 虚偽の報告をされる可能性があり、まともな仕事を期待できず、 1470 情報を信頼できないからだ。 だから、これだけ有用な戦場兵器なのに、有史以来クラ人が王鷲 や駆鳥を戦場に投入してきたという記録はない。 記録に残らないほど極少数の前例はあったのかもしれないが、費 用対効果の面であまりに馬鹿馬鹿しすぎるのだろう。 つまり俺は、敵は王鷲を使ってこないのだから大丈夫なのだと、 高を括っていた。 ﹁この現状は、俺の無能が招いた結果だ。最近、色々と上手く行っ ていたから、調子に乗ってた。なんのことはない。俺が一番戦場を 舐めてたんだ﹂ 火炎瓶爆撃については、俺としてはとてつもなく将来性のある戦 術だと思っているので、実戦運用の試用を焦っていた部分もある。 戦功があり、有用性が認められ、大々的に各将家に採用されるこ とがあれば、次の戦争では戦況をだいぶ優位に進めることができる と見ていた。 だが、少なくともキャロルという重要人物を連れての作戦中に行 うべき冒険ではなかった。 ﹁それは違う。竜はお前の別動がなくても私達を襲っていただろう。 それに、数分の間お前が離れた間に、あんなことが起こるとは誰も 思わない﹂ あっちからしてみりゃ、ちょうどよく半分に別れたから片方を襲 ったんだろうけどな。 1471 別れなくても遅かれ早かれ襲われていただろうし、そうなってい たらキャロルは追われて俺が刺していただろう。 そのことに違いはない。 ﹁私はお前に指揮を委ねられたんだ⋮⋮。だけど、私は襲われると、 晴嵐の操作に精一杯で、冷静な指揮ができなかった﹂ キャロルは、なにやら責任を感じているらしい。 ﹁いや、あんな竜に狙われてたら、誰だって指揮なんかできないさ﹂ マニューバ 俺だって無理だ。 複雑な空中機動をこなしていたら、手一杯で指揮なんてできない し、僚騎のほうも何を指示してんのかわかんないだろう。 ・ ・ ﹁まあ独断で一目散に逃げるべきだったかもとは思うが、そうした ら俺たちの方が襲われていてもおかしくなかったしな﹂ ﹁だが⋮⋮お前だったら襲われてもなんとかできていたんじゃない か﹂ なんでだよ。 ﹁俺が竜を仕留められたのは、竜に対して高所を取れたからだ。火 炎瓶を投下してから上昇する最中、速度を失ってる時に襲われてい たら、幾らなんでもひとたまりもなかった。お前の判断も悪くはな い。お前がマトになったお陰で、結果的に現在のところ死者もない わけだしな﹂ 状況は最悪とはいえ、結果的に死者はでていないのだ。 今のところは。 1472 責任があるとすれば、まず責任者であるところの俺で、次点で晴 嵐が疲れきる前に俺の役目を代わりにやるべきであったであろうリ ャオで、その次は、この計画をやらせた女王陛下だろう。 キャロルが悪かったとすれば、一目散に逃げなかったところと、 特徴的な髪を露わにしていたところだ。 おそらく竜騎士のほうは、それを見てキャロルを執拗に狙うこと に決めたんだろうし。 だが、髪については、そちらのほうが士気があがると思い、咎め なかった俺も悪い。 ﹁私を庇っているなら、そんなのは⋮⋮﹂ 庇うとか。 ﹁お前は足を怪我したから、それを気に病んでるだけだろ。偶然起 きたことの理由探しなんかしても、こじつけしか出てこないぞ﹂ ﹁うん⋮⋮﹂ ﹁それより、さっさと食えよ。怪我が治らない﹂ キャロルは、さっきからパンを口に運んでいなかった。 ﹁⋮⋮ユーリは食べないのか? 吐いてしまいそうなら、仕方がな いが⋮⋮﹂ ﹁いや、食ったら吐くってほどではないんだが﹂ ﹁だったら、少しでも食べたほうがいい⋮⋮と思う﹂ 心配そうに言ってくる。 まあ、確かにな。 1473 ﹁じゃあ、ちょっと口に入れておくか﹂ ﹁うん﹂ キャロルは、自分のパンを半分にちぎって、片方を差し出してき た。 別にそれをくれなくても良かったのだが。 俺は食欲がないからいいが、キャロルのほうはパン半分では腹が へるだろうに。 ﹁それはお前の分なんだが﹂ ﹁いいんだ。私も腹はあまり減っていないから﹂ そんなわけはないだろう。 俺のほうがたくさん動いたから、俺より多いメシを食うというこ とに、気後れしているのか。 ﹁じゃあ、貰うよ﹂ 俺はパンを受け取ると、端を少し噛った。 1474 第094話 遭難初日︵後︶ ﹁しかし、あの竜はなんだったんだろうな⋮⋮﹂ パンを少しづつ噛みながら、キャロルが言う。 ﹁わからん。おまえ、竜がシャン人との戦争に使われた、なんて聞 いたことあるか?﹂ 俺が知らないだけなのかもしれないので、一応聞いてみた。 国内史については、古代シャン語が達者なキャロルのほうが詳し い。 ﹁いや、聞いたことはない﹂ やっぱり、前例はないらしい。 ﹁そうか⋮⋮﹂ ﹁あれは一体どういう生き物なんだ? 聞いたことはあるが、実際 にこの目で見ることがあるとは思わなかった﹂ キャロルが知らないのも無理はない。 竜というのは、この世界でいうと、北アフリカから中東にかけて 生息する爬虫類だ。 温暖な乾燥地帯を好み、卵から人の手で育てることで、調教する ことができる。 1475 クルルアーン竜帝国という国と、エンターク竜王国という国で主 に飼育され、王鷲と同じように、動物兵器として用いられる。 歴史言語学に詳しいイーサ先生によると、シャン語における﹁竜﹂ という単語は、古代ニグロスで使われていたトット語からの借用語 であるらしい。 そのことからも解るとおり、竜はシャン人にとって常に遠い存在 だった。 生息域が全く重ならず、クルルアーン竜帝国とエンターク竜王国 という国は、ココルル教という宗教を信仰しているので、十字軍に 参加することもなく、というかむしろ十字軍と喧嘩をする側だった ので、お互いまみえる機会がなかった。 わりと有名な本として﹁龍王記﹂という本があり、これは千年ほ ど前に描かれた、クルルアーン竜帝国の初代竜王アナンタ一世の伝 記だが、創作混じりの英雄冒険譚の色彩があって、エンターテイメ ント染みていて面白い。 これにはシャン語の翻訳もあるので、それを読んでいる人は、竜 の存在をお伽話的に知っている。 逆に言えば、その程度の存在だ。 俺は物知りのイーサ先生から色々聞いたから、竜の生態について は詳しいが、キャロルは知るまい。 ﹁動物には自分から熱を出して、体温がほとんど一定のものと、外 気温に体温が左右されるものがいる﹂ パンを噛みながら、俺は焚き火に小枝を投げいれた。 どうせ眠れそうにないから、雑談に興じるのもいいだろう。 1476 ﹁自ら熱を出さないぶん、メシが少なくて済むわけだ。だが、代わ りに体の活性が外気温に大きく左右されるという弱みがある。夏は 元気でも、冬には元気がない。昼間は動けるが、夜にはまともに動 けない。そういった弱みがあるんだが、メシが少なくて済むのは、 それを補って余りある強みになる。夜動けなくても、十分の一しか 狩りをしなくても生きられるのであれば、十分したたかな生き物だ ろう﹂ ﹁そうだな、確かに⋮⋮﹂とつぶやいた後﹁あっ、それが竜なんだ な﹂ とキャロルは言った。 ﹁そうだ。例えば馬なんかは、温かい南から寒い北に移動したとこ ろで、たいした問題はない。だが竜は違う。こんな北に連れてきて、 大丈夫なはずがない﹂ 変温動物といっても、全く体温を出さないわけではない。 筋肉を動かせば、どうやったって発熱はする。 人間が運動をして体温が上がる、それと同じ意味での発熱は変わ らずある。 なので、北まで飛んで移動する。ということは、不可能ではない だろう。 飛んでいる間に筋肉が躍動していれば、体はポカポカと温かいは ずだ。 だが、北の環境に適応できるわけではない。 本来生息する環境と極端に気候が違うのだから、こんな北の地で 長期間元気で居られるようには、できていないはずだ。 1477 例えば朝、日も差さぬ曇天の日に、体が冷めてしまった状態から、 どうやって活性を取り戻すのだろうか。 南の地であれば、ここより余程温かいし、しばらく朝日を浴びて 日光浴をすれば、体温を取り戻すことは容易だろう。 だが、この地ではそうはいかない。 俺も、爬虫類の生態について詳しいわけではないが、かなりの無 茶であったことは間違いないはずだ。 ﹁だから前例がなかったわけか。だけど⋮⋮今回は連れてきた﹂ ﹁まあ、かなり無理をしたんだろうな。例えば、夜は竜を陣幕の中 にいれて、その中で常に火を焚いて温度を上げておくとか⋮⋮﹂ 超VIP待遇で、物凄いコストがかかるだろうが、それくらいし か考えられん。 そうでなければ、一つ二つどころではない前例が既に存在してい なければおかしい。 ﹁来たのは一匹だけだったのかな?﹂ ﹁そうだろうな。二匹竜がいるのなら、二匹同時に使うはずだろう し⋮⋮。それに、俺が墜ちたあとの観戦団は、のんびりと空を飛ん でいた。予備がいれば、連中を襲うだろう﹂ 他は途中で死んだとか、病気で動けなかったとか、いろいろ考え られるが⋮⋮そのへんは、考えてもしょうがない 俺は枯れ枝をまた一本、焚き火に投げいれた。 よくよく考えれば、あんとき戦った竜も、本調子ではなかったの 1478 かもな⋮⋮。 それでも、こちらは為す術もなく蹴散らされていたわけだが⋮⋮。 居ると知っていたら幾らでも対策は練れたが、あんなものがいる とは想像だにしていなかった。 ﹁そうか⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮前回、連中は王鷲にしてやられたからな。鷲を打ち落とすた めに持ってきたのか、あちらには鷲がいるが、こちらには竜がいる ってことで兵を鼓舞する狙いがあったのか⋮⋮。どちらにせよ、俺 たちは貧乏クジを引いちまったな﹂ 竜がいる、なんていう報告があったのであれば、リャオ経由で届 いているはずだから、隠し球ということで、向こうも決戦まで厳重 に秘匿しておいたんだろう。 それでもあんな大きいもん、偵察で見つけろよとは思うが。 ﹁だけど、おまえが仕留めたのだから、無駄ではなかった⋮⋮軍本 体が混乱させられることは避けられた﹂ ポジティブシンキングだな。 ⋮⋮まあ、そういう考え方もあるか。 ﹁決戦では負けたらしいから、なんとも言えないがな。それでも、 俺たちが引きつけていなかったら、軍本体を援護して、どうせ敗け たにしろ出血をより強いたということにはなるかもしれない﹂ 俺は気休めを言った。 こうやって、キャロルが命の危険に晒されているわけなのだから、 成果があった所でリスクに見合わないとは思うが⋮⋮。 1479 気休めとはいえ、こんな状況ではあればあるほどいい。 心が折れてしまえば、そこで終わりなのだから。 ﹁でも、墜とされたあと、おまえが来てくれてよかった﹂ キャロルは、俺が来たときのことを思い出しでもしたのか、なん だかホッとした表情をしていた。 あんときは絶体絶命のピンチって感じだったから、そりゃホッと しただろう。 ﹁あんまり遅くなったら、寂しがると思ったからな﹂ もうちょっと遅かったら、キャロルは首を突いて死んでいたかも しれなかった。 実際、割りとマジで危ないところだったんだよな。 ﹁うん⋮⋮私も、おまえが助けに来てくれないかな、と思っていた。 私が生きているのに、おまえが同じような状況で死ぬとは思えなか ったし⋮⋮﹂ ﹁俺は、どうか無事でいてくれよと祈っていた﹂ ﹁そうか⋮⋮私を心配してくれていたのか?﹂ ﹁いや、自分のことだよ。俺は、お前が殺してやったほうが楽な状 態になっていたらどうしようかと思った。頭が半分潰れて、虫の息 だったりとか、そういう状態だ。それが俺の考える最悪の事態だっ た。それに比べりゃ、今の状況は天国だ﹂ 本当にな。 1480 そんなことになっていたら、俺は精神的に参ってしまって逃げる どころではなくなったかもしれない。 それを考えれば、今こうして話をしているのも、奇跡的な幸運の 賜物のように思えてくる。 ﹁そうだな⋮⋮そんなことにならなくてよかった。お前は気に病む だろうから﹂ ﹁気に病むどころじゃねえよ。立ちつくして一日くらい泣いてたか もしれん﹂ ﹁えっ﹂ キャロルはビックリした様子でポカンと口を開いた。 ﹁なんだ?﹂ ﹁い、いや⋮⋮お前がそんな風になる姿を想像できなくて⋮⋮﹂ こいつ、俺をなんだと思ってやがる。 ﹁死のうが怪我しようがどうでもいいような奴だったら、そもそも 助けにこないだろ﹂ ﹁そうか⋮⋮そうだよな﹂ キャロルはなぜか幸せそうだ。 これがドッラあたりだったらどうだったろうな。 怪我しただぁ? それは災難だったな。 まあ頑張れ、お前なら怪我くらい一日で治るだろ。じゃあ俺は行 くから。 そんな感じかな。 1481 いやそれは酷すぎるか。 でも、あいつだったら一人で残しておいても、来年あたり帰って きそうだ。 ﹁もう寝ろ、明日は朝が早い﹂ ﹁⋮⋮うん﹂ ﹁下に敷けるようなものはないが⋮⋮これを羽織って寝れば、多少 違うだろ﹂ と、俺は自分のバッグから油紙を取り出した。 厚めの丈夫な紙に、蜜蝋と揮発油を混ぜたものを滲ませたもので、 開くとポンチョのようになっている。 合羽として売り物にしているものだが、非常に軽量で邪魔になら ず、何かと便利なので、隊費で全員分買って、全員に持たせた。 リャオの荷物から失敬したものと、俺とキャロルの分で、今のと ころ三枚ある。 背中に荷を背負った上から羽織ることを前提にしているので、か なり大きく作られている。 首のところは、普通の服のようにスリットがついて、ボタンで止 められるようになっていた。 本来眠る時に着るものではないが、破れてしまっても予備がある のは心強い。 俺もこれを被って寝たことがあるが、やはり空気を通しにくい素 材なので、多少の断熱性がある。 もちろん、綿いりの布団などとは違い、季節相応の着衣をしてい ることが前提ではあるが。 1482 キャロルは油紙の合羽を受け取った。 ﹁⋮⋮お前は寝ないのか?﹂ と訊いてきた。 ﹁俺はちょっとやることがある。それから寝るよ﹂ やることがあるのは本当だが、実際の所、どうにも眠れそうにな かった。 星屑と竜乗りを殺した件で興奮でもしているのか、疲れているは ずなのに、眠気がまったくやってこない。 頭が冴えているわけでもなく、グルグルと益体もない考えが頭を とばり 巡ってしまうというわけでもない。 頭のなかに重苦しさが帳のようにかかり、まるで喪に服している ように魯鈍だった。 ﹁そうか⋮⋮じゃあ、先に眠らせてもらうよ﹂ ﹁ああ﹂ そうしてくれると助かる。 キャロルは背負われているだけだが、眠っているのと起きている のとでは、俺が感じる重さが違う。 昼は起きていて貰わないとならないし、そもそも良く眠ったほう が足の治りが早いだろう。 捻挫だか肉離れだか骨折だかは判らんが⋮⋮。 ﹁ユーリ﹂ 合羽をさっと羽織って寝転んだかと思ったら、キャロルは声をか けてきた。 1483 ﹁ん?﹂ ﹁今日はありがとうな。本当に助かった⋮⋮﹂ なんだ今更。 ﹁礼なんぞいい。俺が勝手に助けただけだ﹂ ﹁フフッ﹂ キャロルはたまりかねたように笑った。 ﹁なにを笑っていやがる﹂ ﹁いや、お前のやさしさが心にしみるよ⋮⋮ちょっと分かりにくい けど﹂ ⋮⋮⋮。 一日の間に二つの命を奪った人間が、優しいと言われるとは。 わからんものだな。 ﹁⋮⋮さっさと寝ろ﹂ 俺がそう言うと、キャロルは素直に目を閉じた。 わずかに、身をすぼめるようによじると、よほど疲れていたのか、 十分後には寝息を立てていた。 *** パチリと目を開けると、自分が寝ていたことに気づいた。 地面に置いた荷物に座ったまま、授業中に居眠りするような恰好 1484 で寝ていたらしい。 見ると、薪は消えてしまっていた。 ﹁ユーリ⋮⋮もしかして寝なかったのか?﹂ と、身を起こしていたキャロルが言った。 キャロルが起きて、ゴソゴソしていた音で目が覚めたのだ。と、 そこで気がついた。 なんだか順番がチグハグだ。 もちろん俺は眠っていたが、キャロルは起きていると思っていた らしい。 よほど石像のような眠り方だったのだろうか。 ﹁いや⋮⋮お前の音で起きた。いつのまにやら寝ていたらしい﹂ 何時間くらい寝ていたのだろうか。 自分でも良く覚えていない。 ふところから懐中時計を取り出して、蓋を開けて時刻を見る。 朝の七時頃だった。 昨夜巻いたので必要はなかったが、一応念の為に竜頭を回し、ぜ んまいをいっぱいまで巻き上げた。 一度止まってしまえば、時刻を合わせる手段がない。 ﹁⋮⋮大丈夫か?﹂ と、キャロルが心配そうに俺の顔をうかがう。 1485 座ったまま寝ていた俺が、自分が起きたと同時に目を開けたもの だから、やはり本当に寝ていたのか気がかりなのだろう。 俺は懐中時計を懐にしまった。 ﹁大丈夫だ。それより、これを試してみろ﹂ と、俺はキャロルに一本の棒を渡した。 丈夫な木の棒の端に、短い横棒を二つゆい付けてある。 脇の下の位置と、手のひらの位置だ。 ﹁歩行杖か⋮⋮こんなものまで作れるのか﹂ ﹁一本しか作れなかったがな。あったほうがいいだろ。多少移動し たい時にな﹂ 人間には他人に見られたくない⋮⋮特に異性には見られたくない 用事というものがある。 松葉杖と呼ぶには余りに稚拙な工作だが、これがあれば多少歩け るし、ストレスも軽減されるだろう。 というか、俺が同じ立場だったら絶対欲しい。 ﹁ありがとう、助かるよ⋮⋮でも、この棒は⋮⋮﹂ ﹁森の中じゃ、文字通り無用の長物だ。そうしたほうがまだいい﹂ 杖に使った棒は、丁度いい長さで、完全な丸棒の形をしていた。 この場で急場凌ぎに作れる代物ではない。 使ったのは、リャオが投げ落とした槍だった。 1486 それを切って使った。 人の身長以上もある棒など、横にしても縦にしても、森の中では 邪魔でしかない。 有効利用だろう。 ﹁うん⋮⋮そうかもな﹂ キャロルは、意外にもすんなりと頷いた。 もうちょっと、騎士の魂をなんだかんだとか言うと思ったが。 ﹁あと、おまえの鎧も、昨晩のうちに埋めさせてもらった﹂ ﹁そうなのか。手伝えなくてすまなかったな﹂ ﹁べつにいい﹂ どうせ手慰みにやっただけだしな。 ﹁それより、さっさと朝飯を食おう。それとも先に用をたすか?﹂ ﹁用︱︱って!﹂ まるで卑語を言われたように、キャロルは顔を赤くした。 そういう反応をされると俺のほうも恥ずかしくなるんだが⋮⋮。 ﹁用をたすって表現があれなら、もっと直接的に言ってもいいが﹂ ﹁ちょっ︱︱やめろっ﹂ やめろと言われても。 恥ずかしがる気持ちは解るんだが。 ﹁そんな恥ずかしがってたら、俺に背負われてる最中にしたくなっ た時どうするんだよ。いくらなんでも、背中でされたら怒るぞ﹂ 1487 ﹁うっ⋮⋮﹂ キャロルは顔を真っ赤にしたまま下を向いた。 ﹁まあ、杖もあるんだし、してきたいならしてこいよ。あ、そこへ んにはくれぐれも近寄らないようにな﹂ 俺は昨晩仕掛けを作った場所を指差した。 ﹁うぅ⋮⋮わかっ、た⋮⋮﹂キャロルは消え入りそうな声で言った。 ﹁してくる﹂ キャロルは杖を頼りにヒョイと立ち上がると、松葉杖を使ってケ ンケンしながら歩いて行った。 1488 第095話 アンジェの憂鬱︵前︶* 戦場に一人の少女が歩いていた。 ゆるく波がかった髪をなびかせながら歩く彼女は、丸い耳をして いる。 ティレルメ神帝国の王位継承権保持者である、アンジェリカ・サ クラメンタは、戦場にいた。 戦場といっても、ここは後方に位置する後詰めの陣地である。 数百名の手勢を率いながら、アンジェリカは陣地の警護を担当し ている。 後詰めの守りといえば響きはいいが、実際はなんの活躍もさせて もらえない閑職であった。 ﹁ふう⋮⋮﹂ 自ら精鋭と称し、常から訓練させている手勢を、退屈といわざる をえない警備の任務に着かせている。 まだ朝だというのに、もうやることがなくなってしまった。 それもそのはず、本陣と言っても、ここは既に撤収が始まってい る、名ばかりの本陣なのだ。 三日前の会戦において、アンジェリカの属す十字連合軍は、長耳 の連合軍を打ち破った。 そのもう片方の人類は、イイスス教の世界では悪魔と呼ばれてい る。 1489 だが、アンジェリカは亡き父の言い伝えを守り、頑なに長耳と呼 んでいた。 その長耳の連合軍は、すでに敗退し、こちら側の軍団は前進して いる。 その前進は追討戦も兼ねているので、軍団は全速をあげて追って いると言ってよく、また生き残った傭兵の連中も周辺村落の略奪に 忙しいので、とても陣営の移動を待ってはいられない。 なので、各国は将官用の簡易天幕と、当日必要な食料のみを、馬 を総動員して運んでいる最中であった。 つまり、もう終わった決戦に挑むための野営陣地は、今まさに解 体されつつあり、有力な軍団は前進してしまって居ない。というこ とになる。 決戦にも参加させてもらえず、警護を押し付けられたアンジェリ カは、いい面の皮であった。 せっかく戦争に来たというのに、戦働きもできなければ、略奪の 恩恵にも預かれない。 ﹁それでは、供回りの当番はついてこい。今日も教皇領のところに 視察にいくぞ﹂ ﹁ハッ! アンジェ様﹂ と、騎士の一人が跪く。 ここには有力な軍団もおらず、女を見れば厄介事ばかり起こす傭 兵たちも、負傷にあえいでいる者ども以外は一人も居ない。 ならば一人で出歩いてもよさそうなものだが、そういうわけにも いかなかった。 1490 アンジェリカは、兄であるアルフレッド・サクラメンタから暗殺 されようとしていた。 毒を盛られたことも、一度や二度ではない。 なので、護衛は常につけておかなければならないのである。 *** アンジェリカは、父であり前王でもあるレーニツヒト・サクラメ ンタに溺愛され、王が執務に忙殺されていた時期に育った兄たちと 違い、前王直々の教育を授けられた。 その父の死後起こった熾烈な後継者争いの結果、アンジェリカの 四人いた兄たちは、アルフレッドを残して全員死んでしまった。 そして、三男であるアルフレッドが王座に座った。 四人の兄弟のうち、当初、実はアルフレッドには王位継承の芽は ないと思われていた。 レーニツヒトの死んだ当時、アルフレッドは未だ一八歳の若者で あったからである。 王という重責を担うには、その年齢は幼児とも言ってよく、対し て兄二人は31歳と28歳という年齢であり、大方の予想では、そ ちらが有望とされた。 兄二人は既に封土を与えられており、自ら率いる騎士団と、徴税 から得た資金も十分に持っていた。 その点でアルフレッドは、王の遺領の管理者ということで、暫定 1491 的に小さな領主にはなっていたが、なにも解らぬ状態から領地経営 の勉強を始めなければならず、あらゆる意味で二人の兄に水を開け られていた。 だが、前王の死から七年後、長男と次男の熾烈な権力争いの結果、 長男が暗殺されるという事件が起こる。 表向き、極めて賢明な大諸侯が次の王の資質を判断するための期 間、とされている王の不在期間において、跡目候補同士の暗殺は、 ご法度とされていた。 そうでなければ、まっさかさまに暴力的な内乱になってしまうし、 そもそも選帝侯が得る旨味というのは、王座を狙うものたちが右往 左往しながら選帝侯のご機嫌取りをする間に得られるものであるか ら、殺し合いになれば選帝侯にとっても損になる。 暗殺事件の結果、次男は兄殺しの評判が立ち、権威が失墜する。 暗殺の証拠はなかったが、長男の親衛隊が次男の領を報復的に攻 め、玉砕したことで、世間的には次男の仕業だったという説が一般 的になっていた。 アルフレッドは、そこでようやく立ち上がると、選帝侯に接触し た。 七年の間に、政争に加わるに不足ない経験を得たと感じたのか、 それとも暫定領地からの税収が安定し、最低限必要な財力が得られ たからか⋮⋮。 結果、アルフレッドは、次兄からの暗殺を避けつつ、王家領を担 保にして借金をし、それを選帝侯への賄賂として大盤振る舞いに使 う。という方法で、選挙での票を取り付けた。 1492 それは実質的に王家の財産を切り崩す行為なので、王家を一つの 家とみなせば、家に対しての背信行為と言ってよかった。 アンジェリカは当然それに憤慨したが、アルフレッドからしてみ れば、負けて次男が王になれば、暗殺されることは避けられぬので、 死にものぐるいであった。 アルフレッドは、戴冠式が終わると、次兄を暗殺し、つぎに弟で ある四男を暗殺した。 アンジェリカも一度となく暗殺されかけたが、難を逃れている。 十年に及んだ後継者争いのさなか、アンジェリカは幼いながらに 自ら高名な学者を家庭教師として招き、知識をつけていた。 そうしながらも、他人任せにせず、自分の担当となった暫定領地 を掌握するのに力を傾け続けた。 その結果、アンジェリカは十八歳という若さにありながら、アル フレッドが王になってからも、強権で奪うことが難しいほどに強固 な地盤を、己の領地に持つことに成功した。 己の城の隅々まで注意を張り巡らせているため、城にいる限りは 毒を盛られる心配はなく、また暗殺団が領内に侵入すれば、たちま ちに知れる。 そういった体制を作ることで、アンジェリカは身を守っていた。 *** ﹁⋮⋮ウーン﹂ 1493 アンジェリカは、粗末な椅子に座って、首をひねっている。 目の前には、広い範囲に灰と炭ばかりがある。 三日前、ここで盛大な火事が起こり、一帯の陣幕が全て焼失して しまったのであった。 ここは城や町の中ではなく、一週間後には野原が残るだけなので、 誰も焼け跡を片付けようとはしていない。 すべてが終わった後は、草原の中にぽっかりと黒い焼け跡が残る だけとなるのだろう。 ここは、カソリカ教皇領の陣地であって、ティレルメ神帝国とは ほとんど関係がない場所だった。 もちろん、戦場では肩を並べて戦ったのだから、一蓮托生という 意味では関係がある。 しかし、もう決定的な戦闘には勝利してしまったのだから、この 被害が自国に及ぼす影響は、ないといってもよかった。 だが、その方法については興味がつきない。 ︵なにかの獣の油でも使ったのか⋮⋮? それとも、オリーブ油な どに何かを足せば発火するようになるのか?︶ 火攻めというのは、戦争において非常に重要な意味を持つ。 だが、油というのはそう簡単に発火するものではなく、城での防 御戦などで、煮えた油などを敵兵にかぶせたり火矢を射かけたりす る方法で使うことはあるが、野戦では油の使い道はない。 火攻めは乾いた時期の草原などの土地環境を利用するものであっ 1494 て、積極的に地面に油を撒いて焼いたりするものではない。 同じような兵器に、火薬玉、あるいは擲弾というものがある。 これは火薬と鉄片の入った陶の容器に導火線がついているもので、 実際に使用されてもいるが、かなり不便があり、案外使いにくいも のであった。 ただの火薬玉であるから、導火線に火をつけたあと、とうぜん敵 陣に投げ込みにいく必要がある。 まずそこで、敵の弓や弩、そして鉄砲に打たれ倒れる危険がある。 また、導火線が短すぎ、空中で爆発したりすることもあるし、手 に持ったまま爆発することもある。 そして、敵陣の中に肝の座った者がいれば、導火線がまだ長い場 合、拾って投げ返される場合もある。 威力は強力なのだが、欠点を上げればきりがない。 長耳が使ったのも、実際はそのような兵器だったのかもしれない。 しかし、騒動を見たものは、空からなにかが連続的に落ちてきた と思ったら、炎が燃え広がった。と口をそろえていっている。 投擲火薬玉であれば、そのような表現になるのはおかしい。 爆発した、という表現が抜けている。 ここ教皇領の荷物積載地では、長耳の鷲が何かを投下したあと、 それが火薬に燃え移って爆発し、それが原因でこのような有様にな った。 だが、その前に標的にされたペニンスラとフリューシャの合同積 載地では、火薬は別途に保管していたので、被害は最小限で済んだ。 1495 いくら水気に強い樽に入れてあるとはいえ、湿気やすい火薬を雨 で濡れかねない外に積んでおいたというのは、いかにも教皇領らし いが⋮⋮。 それはともかく、大きな火薬玉を使ったのであれば、燃えるだけ というのはおかしい。 爆発してから、燃える。という順序になるはずだ。 やはり、容易に火のつく可燃性のなにかを降らせたのだろう。 これも、若干証言とは食い違うが、空中で分裂する火のついた松 明のようなものでも投げたのかも⋮⋮。 ﹁おまえら、何か思いついたことはあるか﹂ と、アンジェリカは顔を向けずに、つぶやくように周囲の者に聞 いた。 きちんとした答えを聞きたがったわけではない。 なんとなく、他人の意見を聞きたかっただけである。 ﹁アンジェリカ様﹂ しかし、手をあげる騎士があった。 ﹁おい﹂ ﹁あっ﹂ アンジェリカはその騎士を睨んだ。 ﹁私の事はアンジェと呼べと、何度も何度も言っているだろう。お 前らはなんべん言ったら解る﹂ 1496 ﹁す、すみません⋮⋮アンジェ様﹂ 騎士は、慌てて言い直した。 アンジェリカは、いつになったらこの呼び方は浸透するのか⋮⋮ と、頭を抱えたくなった。 もう八年も言い続けているのに、自分の兵にすら浸透しない。 アンジェリカが部下などにアンジェと呼ばせているのは、別に気 安く愛称で呼んで欲しいわけではない。 単純に、アンジェリカなどという可愛らしい響きの自分の名前が 嫌いだからだ。 父であるレーニツヒトは自分をアンジェと呼んでいたし、自分も その呼び名が好きなのだ。 アンジェのほうが短くて言いやすいし、キリッと引き締まった感 じがしてよい。 アンジェリカは女々しくて惰弱な感じがする。 つまりは改名をした時のように呼び方を変えてくれ、という意味 で言っているわけであって、領主であり主人である自分を愛称で呼 んでくれ、などという無茶な要望をしているわけではないし、よっ てアンジェと呼ぶのに何を気兼ねする必要はないのだ。 もちろん、愛称と違って気安く呼んでいいわけではないから、実 際には様とか殿下とか敬称をつける必要がある。 だが、兵や下仕えの者共は、どうしても愛称のように感じてしま うらしく、アンジェ様、或いはアンジェ殿下、とはよびたがらない。 当人がいない所では﹁アンジェリカ様がなんたら﹂と言っている ために、当人を前にしても口を滑らすわけだ。 1497 ﹁ふーっ、まあよい。発言してみろ﹂ アンジェリカは発言を許した。 ﹁はい。昨日、酒を飲んでいる時に思ったのですが、酒精を使った のではと⋮⋮﹂ ﹁あっ﹂ アンジェリカは思わず声を漏らしてしまった。 その手があった。 アンジェリカは、未だ酒は嗜まないが、きつい匂いのする蒸留酒 の中には、火をつければ容易に燃えるものがあるのを知っている。 それを使ったのかもしれない。 ありそうな感じだ。 ﹁よくやった。確かにそれはありそうだ﹂ ﹁ハッ﹂ ﹁よし。帰ってみたら、早速検討してみよう﹂ とは言ったものの、よくよく考えてみると、どうも疑問であった。 油ならばともかく、酒に酒精が含まれているといっても、半分以 上は水なのではないか? 料理などで、良く焼けた鍋の上に酒などをふりかけて、燃やすの は見たことがあるが、火をつけた酒瓶ごと投げつけて燃えるような ものなのだろうか⋮⋮。 1498 ﹁⋮⋮ところで、逃げた長耳が捕まったという話はないのか?﹂ そう言うと、 ﹁ありませぬ。トカゲ乗りのほうも未だ帰っておらぬとか﹂ という答えが、別の騎士から帰ってきた。 ドラゴンライダー これをやった鷲乗りの長耳は、今回特別に着いてきていた竜騎士 に墜とされた。 ドラゴン 竜騎士というのは、本来はイイスス教にとって敵性の宗教である ココルル教が持つ兵種であり、イイスス教圏においては、竜という 存在自体が忌み嫌われている。 だが、時折イイスス教国家においても、彼らが現れることがある。 それは何らかの事情で祖国を追われた者が、傭兵として雇われる。 という形であり、今回ついてきた竜騎士は、エンターク竜王国の王 権争いで負けた側についていた者であり、亡命してきた者であった らしい。 自分の竜を見世物のようにして、ペニンスラ王国で生計を立てて いたと聞くが、教皇領に大金を積まれると、北方まで出稼ぎにきた。 それはいいのだが、彼が打ち墜とした鷲は二匹で、その片方に騎 乗していた一人の長耳は、死体で見つかっている。 もう一人は逃亡し、追手がかかっているらしい。 不可解なのは、同時に逃げた竜騎士が、未だに出頭してこないこ とだ。 話では、賞金目当てにもう一人の長耳を追っているのだ。という 理屈になっているらしいが、アンジェリカの感覚では、それは理屈 になっていない。 1499 確かに片耳を持ち帰れば小遣い程度の金を支給されるが、竜騎士 は既に多額の前金を得ている。 また、立派に仕事をこなしたのだから、残りの金も教皇領から貰 えるだろう。 その金と比べれば、耳を持ち帰って得られる金などは、小銭のよ うな金にしかならない。 大金を目の前にして、はした金を求めて森に入り、武器を持った 長耳を追う⋮⋮などということが、果たしてあるのだろうか? 落下の衝撃で長耳が半死半生の体になっていて、少し追えば殺せ る、という状況だったと想定すれば、ありえなくはないが、そうで あれば三日も帰ってこないのはおかしい。 ともかく、もう一人の長耳は、作戦に従事していたはずであるの で、そいつを捕らえられれば、この新兵器がなんなのかを聞き出せ るはずであった。 ﹁ふむ⋮⋮それでは、関係者に捜査の進展を聞くとしよう。捜索を やっている担当者はどこにいるのだ?﹂ すると、各陣営間の連絡員をしている騎士の一人が手を上げた。 ﹁私が知っております。ついてきてください﹂ 1500 第096話 アンジェの憂鬱︵後︶* 兵に案内され、アンジェリカがその場所に到着すると、そこはな んとも騒然としていた。 なにやら、何者かが帰着したらしい。 十人ほどの人間が、なにやら妙なことをしている。 ﹁ティレルメ神帝国王族のアンジェリカ・サクラメンタである。な んの騒ぎだ﹂ 先頭に立ってアンジェリカがそう言うと、どうやら農民兵だらけ であるらしく、右往左往するばかりで、まともな返事をできる者は いなかった。 ﹁もういい、通せ!﹂ 大声で言うと、農民兵たちは散り散りになってゆく。 そして現れた場所にいたのは、地面に敷かれた布の上に横たえら れた、一人の騎士であった。 一見して、右足を負傷しているのがわかる。 よっぽど大きな刃物を踏み抜いたのか、大きな傷跡が足の甲を貫 通していた。 靴は脱がされていなかったが、靴から溢れるようにして、溢れか えった血がズボンを濡らしている。 傷は致命傷には見えなかったが、どうにも処置がまともにされて 1501 いないらしい。 こういう場合は膝を縛るべきで、実際に縛っているのだが、何を 勘違いしているのか、圧迫しているわけではない。 靴紐であっても、もう少し強く縛り付けるだろう。と言いたくな るほど、緩く垂れ下がっている。 そんな騎士を見ても、アンジェリカは戸惑わなかった。 措置は間抜けだが、こうやって負傷している兵はそこら中にいる し、今も陣営のどこかで、体力の尽きた者から死体になっている。 しかし、会戦から三日も経ってから、これほど生々しい病人が現 れるのは、奇妙であった。 ﹁おい、どうした﹂ と呼びかける。 ﹁う、うゥウ⋮⋮﹂ 目が虚ろであった。 血が出すぎている、と一目でわかる。 ﹁おい、処置をしてやれ﹂ ・ ・ そう配下の者に指示を出すと、すぐさま三人ほどの人間が出て、 手早く男のズボンを切り裂いた。 取った布を膝の裏に当てると、重ねあわせた布をアテにして、丈 夫なロープできつく縛る。 そして靴を脱がす作業に移った。 1502 ﹁おい、何があったのか簡潔に話せ﹂ アンジェリカは、目についた一人の農民兵に命令した。 ﹁え、えっと××な、落とし穴に落ち×××⋮⋮刃物があって⋮⋮﹂ 農民がはなしはじめたのは、あまりに聞き苦しい南部の田舎方言 で、アンジェリカには半分も聞き取れなかった。 農民は農民でも、自作農であれば喋りも達者なものだが、農奴の ような者のなかには、まともに言葉をしゃべる生活をしていない者 がいる。 そういった者たちは、何でも自分でやる自作農と違って、生まれ てこの方極端に単純な作業しかやらされた経験がないので、柔軟な 作業は﹁やれ﹂と言われてもできない。 つまりは筆舌に尽くしがたいほどの無能であり、アンジェリカの ような王侯貴族の教育を受けてきた者にとっては、別の生物のよう に感じられるほどであった。 もちろん、全員が全員そうというわけではなく、中には有能な人 物もいることも、アンジェリカは知っている。 だが、戦場に送るにあたっては、できるだけ死んでも損のない人 材を選ぶのが合理的判断というものだ。 血の気の多い若者が志願したりしない場合、送られるのは大抵、 一番使いようのない無能だった。 おそらく、この出血多量の騎士も、止血を指示することはしたの だろうが、﹁強く縛って止血する﹂というだけの内容を理解しても 1503 らえず、まともに止血して貰えなかったのだろう。 生きるか死ぬかはわからぬが、不運なことであるな、とアンジェ リカは思った。 ﹁そんデ⋮⋮﹂ ﹁もういい﹂ アンジェリカがそう言うと、農民兵は喋るのをやめ、シュンとし てうなだれた。 悪いことをしたな、と罪悪感が湧く。 ﹁将官格の人間を呼んできてくれ。他国の王族が来たと言えば来る だろう﹂ *** ﹁どうも我々の兵が失礼をしたようで申し訳ない﹂ しばらくして、いかにもな出で立ちの貴族の男がやってきた。 だらしなくぶっくりと下腹が膨れている。 ・ ・ ・ ・ ・ 戦場にいる女が珍しいのか、もしくは戦場で無事でいる女が珍し いのか、好色そうな眼差しでアンジェリカを見ていた。 ﹁失礼ながら、貴殿はどちらの陣営の方ですかな?﹂ と訊いてくる。 1504 どちらの陣営もなにも、普通は外套に縫い付けてある家紋でわか らぬかと思ったが、口には出さなかった。 もちろん、アンジェリカの外套に縫い付けてある家紋は、イイス ス教の世界では最も有名な紋章の一つだ。 貴族であれば、知らぬのは無教養とさえ言える。 ﹁わたしはティレルメ神帝国は王族の一員、アンジェリカ・サクラ メンタである﹂ ﹁ほうほう﹂ 壮年の男はヒゲをなでまわした。 そして、自分からは何も言わない。 王族に身分を聞いておいて、自分から喋らぬとは。 普通は、他人に身分を聞く時には、自分からまずは名乗るか、先 に尋ねるにしても、相手が名乗ったあとは、自分も自己紹介をする ものだ。 ﹁⋮⋮それで、貴殿のほうは、どのような御立場であらせられる﹂ 一向に喋らぬので、アンジェリカはわざわざ自分から聞いた。 これだから教皇領の人間は嫌いなのだ。 神聖な母国に伝えているという誇りがそうさせるのか、異常なま でに他国人を見下したり、下位貴族であっても、他国王族に優越し た地位を持っていると勘違いしていたりする。 ティレルメ王家は、元をたどれば神衛帝国の神聖皇帝が祖なのだ から、彼らにとっても尊崇すべき対象であるはずなのだが、途中に 貴賤結婚が二度あったことを持ちだしたりして、敬意を払おうとし ない。 1505 ﹁わたくしは、この件の処理を指揮しておるフェルムト・カージル 伯爵である。マルト市の執政官及び挺身騎士団大隊長をやっておる﹂ ご大層な肩書であった。 教皇領では、国の全権を教皇を頂点とする聖職者たちが握ってい る。 だが、徴税や治安維持などの業務は、その管轄外だ。 神に仕えるはずの聖職が、祭服を着たまま税金を取り立てて回る わけにはいかないし、武器を握るわけにもいかないので、執政官と 呼ばれる人々が任命され、彼らが執務を代行することになっている。 その辺りの知識は、アンジェリカも物の本で読んで知っていた。 執政官には、高位の聖職者の身内か、または高位の聖職者に取り 入って多額の賄賂を渡した者などが任につく。 また、挺身騎士団というのは、いにしえの神衛帝国時代の騎士団 名を借りてはいるものの、実態は領主が編成する私軍にすぎない。 つまり、大仰なことを言っているが、どこぞのマルトという市を 任されている貴族で、その市は伯爵領である。という以上の意味は ない。 ﹁少し聞きたいのだが、この騎士殿は逃亡した長耳を追っていたの か?﹂ ﹁うむ。その通りであるが、情けなくも負傷して逃げ帰ってきたよ うであるな﹂ やはり、長耳を追っていた騎士であるらしい。 1506 長耳が仕掛けた罠に嵌ったのか、それとも地元の猟師が作った獣 用の罠にでもかかってしまったのか、どちらなのだろう。 ﹁それで、竜騎士の方はどうなったのだ﹂ ﹁帰っておらぬ﹂ つまりは、なんの進展もないということか。 ご立派なことだ。 ﹁では、長耳の死体はどうなっている﹂ ついでのように、アンジェリカは聞いた。 ﹁天幕の中で寝かせてあるが?﹂ ﹁ん? どういうことだ?﹂ アンジェリカは訝しんだ。 どういうことだろう。 あれほどの損害を与えた長耳であれば、教皇領の文化では、死体 を磔にして晒しものにするはずだ。 アンジェリカは、てっきり既に磔になっているものと思っていた。 そういった処刑を見物に行く趣味はないので、見に行かなかった だけだ。 ﹁言葉通りの意味だが?﹂ と、男は薄笑いを浮かべながら返してきた。 察しが悪い。 1507 ﹁なぜ磔にしないのだ。貴殿の国はいつもそうしているであろう﹂ アンジェリカの父であるレーニツヒトを殺した長耳どもも、同じ ように磔にされ、腐るまで放っておかれた。 レーニツヒトは、常から﹁戦場にて自分を殺した者には敬意を払 うように﹂というようなことを言っていたから、側仕えの者共は死 体に辱めを与えないつもりであったが、教皇領の横槍が入り、結局 は晒し者にされた。 だが、アンジェリカは、父親を殺した者どもに対して恨みを抱い ていないわけではないので、その横槍に不満があるわけではなかっ た。 しかし、腑には落ちない。 ﹁ああ、そういうことか。顔が解らぬのだ。墜ちた拍子に顔面を⋮ ⋮こう﹂ 男は手を握って、拳を顔面に当てるジェスチャーをした。 ﹁勢い良く岩にぶつけたようでな。顔が解らぬのでは、晒し者にし たところで意味はあるまい﹂ アンジェリカには、顔が解らぬから晒し者にしても意味がない。 という理屈はよくわからなかった。 単にそういうものなのか、と納得する。 そもそも、自分には磔にされ辱められた死体を見て喜ぶ趣味など ないのだから、彼らの心理など理解できようはずがない。 まあ、顔がわからないということは、誰だかわからないというこ とだから、本物が捕まらないために偽物を立てて処刑したのだ。な 1508 どというあらぬ疑いをかけられる可能性もあるか⋮⋮。 ﹁む?﹂ まてよ? ﹁その死体というのは、もちろん耳は長かったのだろうな?﹂ ﹁切り取られておったが、悪魔なのだから長いに決まっておるだろ う﹂ 馬鹿者。と言いそうになって、どうにかこらえた。 ﹁切り取るのは右耳であろうが。左耳は残っているはずではないか﹂ 首印の代わりとして尖った右耳を切り取り代わりにする、という のは、取った首の数に応じて金を支払うといった契約の傭兵や、同 様の方法で特別報酬を出している幾つかの陣営で採用されている方 法だ。 だが、換金できるのは右耳だけで、左耳は換金の対象にはならな い。 それが通るなら、両耳を千切って回る者が続出するだろう。 ﹁さあ⋮⋮どうであったか⋮⋮﹂ ちゃんと調べていないのか。 右耳も左耳もなく、顔も潰れているのであれば、人間の死体と見 分けがつかないではないか。 1509 ﹁死体を確認させてくれ﹂ と言うと、 ﹁ぬ⋮⋮﹂ と、フェルムトは渋い顔をした。 商人に帳簿を見せろと言った時の顔とそっくりだ。 敵に寝返っているというのは考えられないので、やましいことは ないのだろうが、自分の仕事に口を挟まれるのを嫌がっている。 ﹁損傷が酷く貴婦人に見せられるようなものではないのだ﹂ わけのわからぬ言い訳をしはじめた。 ﹁今は、どの陣営も重症人と死体であふれかえっているではないか。 私は目を塞いでここまで歩いてきたわけではない。理由になってお らぬぞ﹂ ﹁⋮⋮見てもどうなるものでもあるまい。特別に酷い死体なのだ﹂ ゴネはじめた。 苛立たしい。 ﹁どうしても見せぬというなら、正式に⋮⋮﹂ アンジェリカがそう言った時であった。 横合いから、ガシャ、という板金鎧の擦れる特徴的な音が聞こえ た。 興奮していたためか、アンジェリカはすぐ近くに来るまで、それ に気づかなかった。 1510 音の鳴る方向に振り向くと、 ﹁ご機嫌麗しゅう、アンジェリカ殿下﹂ 華奢な体つきをした、若々しい男性がいた。 深紫のマントを羽織り、下には金糸の入った華麗な布服を着てい る。 板金鎧の音は、側仕えの挺身騎士団員が着ている、重厚な金属鎧 が鳴らす音であった。 男自身は鎧の類は纏っていないが、腰には一本、サーベルのよう な剣を佩いている。 きん これもまた、ちらりと見えただけであるが、柄と鞘に豪華な意匠 が施してあった。 金に困らない出自だけあって、さすがの服装だ。 父であるレーニツヒトの教えから言えば、重く柔らかい金を戦装 束に使うのはあらゆる意味で無駄であり、害でしかないので、羨ま しくは思わなかったが、美しくは見えた。 ﹁パラッツォ卿。お久しぶりでございます﹂ この男はエピタフ・パラッツォという騎士で、教皇の甥である。 何の理由でか聖職者にはならなかったが、騎士の道を歩み、今回 の十字軍では挺身騎士団大司馬に抜擢された。 大司馬というのは、十字軍やイイスス教の連合軍が出動するとき に、カソリカ教皇領の全軍責任者として、教皇から直々に任命され る役職である。 1511 つまり、この男は教皇領軍の総指揮官ということになる。 おもんばか 今回の十字軍では、玉座についたばかりの新王であるという事情 を慮り、愚兄アルフレッドに全軍総監の栄誉を譲ったものの、教皇 領軍の頂点という肩書はやはり重く、どこの国の責任者よりも強い 発言力を持っている。 アンジェリカは、先の軍議でこの男と会ったことがあった。 その軍議で、アンジェリカは要塞攻略についての新兵器案を出し、 エピタフの賛成により採用された。 総指揮官であるエピタフがここにいるのも、その関係であろう。 新兵器は現地で組み立てるものなので、完成まで一週間前後かか る。 要塞の包囲が終わり、それの待ち時間に入ったので、ようやく火 災現場を見に来た。といったところか。 ﹁それで、今日はどうしました?﹂ エピタフは嫌味なく微笑みながら聴いてきた。 微笑みかけられるとドキッとするほど顔が整っている。 くだん ﹁え、ええ⋮⋮件の放火について調べているのですが、ここにおら れるフェルムト殿の話を聞いていますと、見つかった長耳の遺体と いうのが、怪しい物に思えまして⋮⋮﹂ ﹁ほほう、なるほど。それで検分してみたいと言うわけでしょうか﹂ ﹁聞いておられましたか﹂ 1512 ﹁はい。失礼をいたしました﹂ 失礼というのは、盗み聞きに対してのことだろう。 ﹁いえ、大声で話していたのはこちらですから⋮⋮﹂ ﹁それで⋮⋮賊の死体を見てみたいということですね﹂ ﹁その通りです﹂ ﹁それでは、フェルムト殿、案内をしなさい﹂ ﹁はっ⋮⋮?﹂ ﹁ですから、案内をしなさい。私も見ておきたい﹂ ﹁で、ですが⋮⋮まことにお見苦しいものかと﹂ またはじまった。 アンジェリカは、ため息をつきたくなった。 ﹁構いませんよ﹂ ﹁あっ⋮⋮必要ならわたくしが見てまいりますが﹂ ﹁二度言わせる気ですか?﹂ エピタフが薄く微笑みながら言うと、フェルムトは凍りついたよ うに固まった。 ﹁は、はい⋮⋮案内いたします。こちらです⋮⋮﹂ やった。 さすがに上司からの天の声とあっては、ゴネるわけにもいくまい。 *** 1513 アンジェリカが向かったのは、歩いて一分もかからぬところにあ ったテントであった。 幕をあけると、血臭が鼻につく。 アンジェリカはハンカチで鼻を覆うと、テントの中に入った。 仰向けに横たえられたその遺体は、布もかけられていなかった。 顔面は潰れており、なるほど識別はできそうにない。 フェルムトの言うとおり、見ていて気分の良いものではない。 ﹁ふむ⋮⋮﹂ エピタフは興味深げに遺体を見ていた。 アンジェリカも、台の上にあげられた遺体をひとしきり見る。 確かに両耳とも潰されていた。 鋭利な岩にでもあたったのか、左耳のほうは耳の先端がなくなっ ている。 だが、着ている服はたしかに長耳の国のものだ。 だが、装備はかなり上等なものに見える。 長耳の鷲乗りというのは、ほとんどが余程の上流階級であるので、 鎧が良いのは当然ではあるが、それにしても質が良い。 ﹁しかし、これでは解りませんね﹂ と、アンジェリカは言った。 実はこの遺体は鷲乗りではなく竜乗りではないかと思ったのだが、 これでは確認のしようがない。 1514 両耳が潰されてしまっており、顔貌も確認できないとなれば、疑 うことはできるが、確証は取れない。 竜騎士が帰ってこない関係上、限りなく疑わしいとは言えるが⋮ ⋮。 服は明らかに長耳のものなので、死体を偽装するために着替えさ せたのかもしれない。 だとすると、全身の服を脱がせて裸にすれば、またなにか新しい 傷などが発見できる可能性はある。 だが、それとて確証にはならない。 ﹁⋮⋮? ご存知ないのですか?﹂ ﹁何がです﹂ ﹁悪魔と人とを見分ける方法は、耳以外にもあるのですよ﹂ えっ、と思わず声を出してしまいそうになった。 そうなのか。知らなかった。 かぶん ﹁そうなのですか。寡聞にして存じ上げませんでした﹂ ・ ・ ﹁アンジェリカ殿ほどの博識が知らないとは意外ですね。まあ、私 も趣味が高じて知ったようなものなのですが﹂ 趣味とやらは判らないが、見分ける方法については興味がある。 秘伝の類であれば、外に出ていろと言われても仕方がないが、で きれば知りたかった。 ﹁できるのであれば、お教え願いたいのですが﹂ ﹁もちろん、構いませんよ﹂ ﹁では、よろしくお願いします﹂ 1515 ﹁はい。それでは早速はじめましょう﹂ よかった。 エピタフは、まず長耳の鎧を脱がし、肌をさらけ出した。 胸毛が生えており、血にまみれていない肌は、なんだか褐色じみ ている。 やはり長耳の身体ではない気がするが、アンジェリカは実際に男 の裸などをまじまじと見た経験はないので、これを証拠と断言はで きない。 そして、エピタフは、サーベルを取り出すと、ゆっくりと長耳の 腹に切っ先を近づけ、腹の皮を破るように二つに割り、布で拭うと 鞘に収めた。 なんだ⋮⋮? あまりに異常な行動だったので、アンジェリカは眉をひそめた。 エピタフは、続いて皮の手袋を脱ぎ、袖をまくった。 まさか⋮⋮。 ﹁⋮⋮⋮ッ!﹂ エピタフは、長耳の腹に素手の腕を突っ込んだ。 手慣れた様子で、グチュグチュと腹の中を探ったと思うと、臓器 の一つを引きちぎって、腕を抜いた。 鮮血に染めあげられた真っ赤な腕がでてきた。 1516 エピタフは、何事もなかったかのように、水筒の水をあけて臓器 についた血を流す。 生々しい臓器のすがたかたちを確かめると、 ﹁やはりヒトですね。悪魔とヒトとでは、脾の形が違うのですよ﹂ 何事もないように言った。 ﹁お教えするには、悪魔の脾臓と並べて比較するのが手っ取り早い のですが⋮⋮口頭で説明しますと、悪魔の脾臓はこれより少し大き く、形は若干丸みを帯びています﹂ ﹁うっ⋮⋮﹂ アンジェリカは、生理的な吐き気を催した。 ヒトの腹を割って臓物を取り出すなど⋮⋮。 ・・・・・・ 趣味が高じてというのは、この事か。 理解できん。 ﹁ふむ⋮⋮やはり、貴婦人には少し刺激が強すぎたようですね。配 慮がたらず申し訳ない⋮⋮﹂ エピタフは、もはや用はないとばかりに、臓器を捨てるように腹 の上に置き、布で手をぬぐった。 ﹁い、いえ。大変勉強になりました⋮⋮﹂ ﹁どういたしまして﹂ 1517 エピタフはにっこりと微笑むと、フェルムトに向き直った。 ﹁それで、フェルムト殿? あなたにはこの件の責任者を命じたは ずですが⋮⋮﹂ エピタフは仮面のような微笑みを顔面に貼り付けていた。 ﹁す、すすすすすいません。ししししかし﹂ フェルムトは顔面蒼白になり、汗を垂らしながら頭を下げている。 今となっては、エピタフに対するフェルムトの怯えようも理解で きた。 血なまぐさい評判を事前に聞いていたのだろう。 ﹁申し開きがあるのですか?﹂ ﹁ぞ、臓物が悪魔とヒトとでは違うなどという知識はっ!﹂ ﹁苦しい言い訳ですね。ここにおられるアンジェリカ殿は、まず状 況から疑い、私が服を剥いだ時には褐色の肌を見て疑いを強めた様 子でした。あなたは疑いもせず、このヒトを悪魔と断定し、そのせ いで悪魔二匹は、今も我々を嘲りながらのうのうと逃げている﹂ ﹁はっ⋮⋮それは、誠に申し訳なく⋮⋮。ただいまより全力を上げ て追う所存で⋮⋮﹂ 頭を下げたまま謝った。 ﹁よろしい。あとは神の御前で申し開きしなさい﹂ 1518 ﹁えっ﹂ フェルムトが、エピタフの真意を確かめようと頭を上げた時であ った。 エピタフは右手でサーベルが収められた鞘を持ち、左手で抜き付 けにフェルムトの首を打った。 ﹁ングッ﹂ 生唾を飲み込むような声を出しながら、フェルムトは自分の首を 手で抑える。 だが、鋭利なサーベルで切り裂かれた首からは、手では抑えよう がないほどの鮮血が、おびただしく溢れていた。 ﹁⋮⋮⋮ガアッガボブッ!﹂ フェルムトは何かを訴えようと話すが、刃は気道を傷つけていた らしく、血が混じって言葉にはならない。 ﹁ンッグウウッ!﹂ 逆に、話すために肺の空気を使ってしまい、息が吸えない。 吸おうとしても、血が混じるために上手く吸えないのだ。 フェルムトは、膝から崩れ落ち、床の上でのたうち回りながら、 しばらくして静かになった。 ﹁⋮⋮殺すことは、なかったのでは﹂ 1519 血飛沫を浴びたアンジェリカは、抗議するように言った。 吐き気は収まっている。 ﹁アンジェリカ殿は解っておられない﹂ ﹁何をです﹂ ﹁あの襲撃で、我々は補給資材の半分を失ったのですよ⋮⋮。軍理 に聡いアンジェリカ殿であれば、それがどれほどの損失か、解らぬ こけ はずはないでしょう。それほどのことをやった大悪魔が、我々をま んまと騙し、ひいては神を虚仮にしたまま、二匹とも無事に逃げて いる﹂ 教皇領は半分もの資材を一箇所においておいたらしい。 アンジェリカからしてみれば、そちらのほうが管理はしやすく盗 難が防げるのは確かだとはいえ、不精をしているようにしか思われ ない。 ﹁その上、彼の無能のせいで、本格的な追跡が三日も遅れてしまっ たのです。それはもう、イイスス様への背信と違いはありません。 少なくとも我ら教皇領の騎士たちは、全身全霊をかけて悪魔を根絶 やしにする必要があるのですから﹂ ﹁つまり、彼は死罪が妥当な背信者だということですか?﹂ ﹁そういうことになります﹂ そんな馬鹿なことがあるものか。 背任罪というならまだしも、背信者ということにはならないだろ う。 無能であることは、信仰に唾することだとでも言うつもりか。 1520 ﹁なるほど。ご慧眼に感服いたしました﹂ アンジェリカは内心に蓋をし、思ってもいないことを言った。 ﹁解っていただけたようで何よりです﹂ ﹁追跡はどうするのですか? よろしければ私の隊が承りますが﹂ それが本題であった。 アンジェリカは、ここのあたりの地理を事細かに調べている。 三日の先行を許したといっても、長耳は森の中を徒歩で逃げてい るのであろう。 街道を馬で行けば段違いの速さが出るし、追いつける可能性は十 分にある。 相手はまだ墜ちていない王都に向かっているのだろうから、適当 な場所まで先回りすればよい。 そうすれば、教皇領への貸しにもなる。 ﹁いえ、今回のことはペニンスラに頼みます﹂ ﹁ん⋮⋮そうですか﹂ ペニンスラ王国も、襲撃で一部の物資が焼けている。 アンジェリカは、この件についてはいわば部外者なので、当事者 にやらせると言うのであれば、引き下がるほかない。 ﹁今回は、戦果を求めぬ彼らが適任でしょう﹂ 1521 そんなに恨みがあるのなら、教皇領の実戦部隊を一部派遣すれば よいのに、とも思うが⋮⋮。 その場合、その部隊は活躍の機会を奪われるわけで、貧乏くじで あろう。 ペニンスラ王国であれば、戦果に頓着しないという事情がある。 適任といえば適任かもしれない。 ﹁そうかもしれませんね。それでは、私は自陣に戻ります﹂ 仕事を任せてもらえないのであれば、もうこんな所にいる必要は なかった。 ﹁はい。それでは、ご健勝をお祈りしております﹂ エピタフは、変わらぬ仮面じみた笑みを浮かべた。 ﹁ありがとう﹂ その笑顔に薄ら寒いものを覚えながら、アンジェリカは血臭の充 満したテントから離れた。 1522 第097話 横断路 墜落した日から四日が経った。 俺の目の前では、森が切れて、まっすぐに目の前を横切るように 道が走っている。 この道は、古くからある産業道路で、今は要塞となっている岩山 から切り出した石材は、この道を通って輸出された。 ヴェルダン石をシヤルタなどに輸出する際に、石を海まで運ぶ馬 車が往来していたわけだ。 といっても、ヴェルダン石の採石は現在でもチビチビと行われて いるから、現役といえば現役なのか。 路面は、当然だがヴェルダン石で舗装されていた。 道に顔を出して、往来がないことを確かめる。 路面には木の葉くらいしか落ちているものはなかった。 ああ、よかった。 俺が歩いてきた森は、この石畳の道によって、用途上大要塞から 海まで一直線に断たれていることになる。 ということは、ここに兵を配置されたら、もう逃げ出しようがな い。 網を閉じられれば、もはや海以外の三方は敵なのだから、虫取り 網で捕まえられた虫のように絶体絶命となってしまう。 1523 もしそうなったら、夜の間にイチかバチか突破するつもりではい たが、身の毛がよだつほどの冒険となるだろう。 そして、ここを無事に抜ければ、こういう道はリフォルムまで存 在しない。 森の中で暮らす集落の者たちの生活道が、縦横無尽に走っている だけで、そういった道は兵を使って検問を張るのに向かないから、 脅威ではない。 そして、もう一つ。 やはりキャロルの素性は向こうにはバレていないようだ。 向こうが認知しているこちらへの理解は、素性不明のシャン人の 鷲乗り︵これは貴族とイコールだろう︶が一人、あるいは偽装がバ レていれば二人逃げている。というものであって、金髪の女のシャ ン人が逃げている。ではない。 金髪の女のシャン人が逃げているとなれば、よっぽどの脳なしで なければ、兵を惜しまず道に歩哨を張り、森を封鎖するだろう。 それだけの価値があるからだ。 千人からの兵を常時道路に並べ、森を封鎖するという行為は、数 万人規模の軍団においても大きな負担となる。 どこにでもいる木っ端の貴族一匹であれば、そこまでして捕える 価値はない。 だが、キャロルほどの高価値目標であったら話はまったく別だ。 俺は、道に背を向けて引き返した。 1524 *** ﹁どうだった⋮⋮?﹂ 少し奥に入ったところで、木に背を預けていたキャロルが不安そ うに言った。 ﹁大丈夫だ。張ってはいないらしい﹂ ﹁じゃあ⋮⋮行くのか?﹂ ﹁ああ。本当なら夜まで待ちたいところだけどな﹂ 常時の監視はしていないといっても、人通りはあるだろう。 曲がりくねった道ではなく、整備された一直線なので、遠目にも 俺たちが通ったのは見えてしまう。 ﹁だが、それだと今日が丸一日潰れるからな﹂ 今は、まだ日がやっと登り切ったかという時間帯だった。 追手が掛かっている可能性はゼロではないので、午後を丸々休み に当てるのは、それはそれでもったいない。 追手以前に、あんまりのんびりしていると、リフォルムに辿り着 いた時には、既に要塞が陥落し、リフォルムも包囲されていて、入 り込めない。といったことにもなりかねん。 ﹁わかった。では、行こうか﹂ キャロルは松葉杖を器用に使って立ち上がった。 1525 逆に俺はしゃがみこんで背中を向ける。 キャロルの胸が倒れこむように俺の背中に当たり、すぐに首に手 を回してきた。 両足をとって、ぐっと立ち上がる。 ここ数日で何度も何度もやってきたので、だいぶスムーズにいっ た。 キャロルが松葉杖を俺の胸の前で持つと、俺は歩き始めた。 五分も歩くと、先ほどの道が見えてきた。 ﹁ユーリ﹂ 耳元でキャロルが呟いた。 ﹁何か音がする﹂ 俺はぞっとして立ち止まった。 息を乱しながら歩いていたせいか、まったく聞こえなかった。 ぐっと呼吸を止めて耳に意識を集中すると、疲労で高鳴る心臓の 他に、遠くから確かに無機質的な音がする。 引き返すか。 いや、引き返すにしても、徒歩の斥候でもいたら背中を見られる かもしれない。 そっちのほうが怖い。 俺はしゃがんで、隠れられる木の後ろに、ゆっくりとキャロルを 1526 下ろした。 その頃には、既に十分音は大きくなっていた。 馬の蹄が石畳をうつ音だ。 パッカパッカという特徴的な音が聞こえてくる。 馬の蹄は石畳の上を長く歩けるようにはできていないから、必ず 蹄鉄がうってある。 鉄と石畳がぶつかりあい、分厚い繊維質の蹄が音を響かせると、 こういう音になる。 こういう音を響かせるものは他にはない。 ﹁喋るなよ﹂ ﹁ばかにするな﹂ 言うまでもなかったか。 しかし、キャロルが音に気づいてくれて本当に良かった。 道に出たところで見られでもしたら、大変なことになるところだ った。。 いや。 そもそも敵軍と決めつけるのが早計か。 何らかの事情があって、敵方が決戦場からの進軍に手間取ってい るとも考えられるし、通るのは友軍かも知れない。 そうしたら、もう状況は一気に好転する。 おぉい! と出て行って、助けてくれぇ! と叫ぶだけで、現在 俺を悩ませている問題は、全て快刀乱麻に解決するだろう。 1527 ﹁⋮⋮⋮﹂ 待つか⋮⋮。 蹄の音が近づく。 断続的にかき鳴らされる音から、馬が一匹どころではない数いる ことが分かる。 馬の音と一緒に、ガタガタと車輪が荒い石畳を打つ音も聞こえて くる。 どんどんと音は大きくなり、余程数が多いのか、次第に煩いほど になった。 ﹁お前は顔を出すなよ。万一髪が見られたら厄介だ﹂ と小さな声で言う。 黄金色の色彩は森の中であまりにも目立つ。 木陰からひょいと覗いただけで注意を引いてしまいかねない。 ﹁わかってる﹂ ﹁俺が見るからな﹂ しばらくして、完全に音がすぐ隣の道に差し掛かったところで、 俺は幹から顔を半分出し、一瞬道を見た。 視界に入ったのは、馬車と人との行列。 すぐに頭を引っ込める。 違った。 1528 敵のほうだった。 服の意匠からしてシャン人とは明らかに違う。 クラ人だ。 ああ、敵か⋮⋮。 やっぱり、物事はそう都合よくはいかんよな。 こうなったら、通り過ぎるのを待つしかないか。 しかし、あの様子だと、こいつらは補給段列か。 方向的には、港のほうから大要塞の方へ向かっているわけだ。 となると、港はもう落ちたと考えるのが妥当だろう⋮⋮。 ⋮⋮はあ。 帰れんのかなこれ⋮⋮。 こういう状況の場合、悲観的な思考は活動力を奪う。 悲観は前進に向こうとする力を挫くし、不安と戦っているだけで 脳はカロリーを消費する。 そういった意味のない消費が、状況を更に悪化させてしまう。 だから意識的に悲観的な思考は遠ざけるようにしていたが⋮⋮。 でも、ここって、つい一週間前までは完全にこっちの土地だった 場所だろ。 そこを堂々と敵の補給段列が通っているわけで⋮⋮。 泣きてぇ。 いや⋮⋮。 1529 要塞ってのはこのためにある設備だし、悲観することもないか⋮ ⋮。 要塞は、それをスルーして先に進むこともできる。 だが、そうしてしまえば、要塞から出てきた集団に後背を突かれ、 前方にいる集団との間で挟み撃ちという格好になる。 もちろん、補給線も絶たれるので、そんな馬鹿をする人間はいな い。 絶対に要塞から出て来られないように大軍団を貼り付けて包囲を 続ければ、あるいはスルーして先に軍を進めることもできるが、今 度は次の目標、例えばリフォルムを叩く分の軍団が足りなくなる。 要塞というのはそうした厄介さを秘めた施設だ。 だから、敵は要塞を攻略するまでは、ここより先には来ない⋮⋮ かも知れない。 だが、実際の所、それは期待してもよいのだろうか⋮⋮。 と、思い悩んでいたところで、唐突に道のほうから、 ガゴッ! という硬い音が聞こえた。 びっくりしたのだろう。一緒に隠れているキャロルの身体が、足 元でビクッと大きく震えた。 俺も、かなりびっくりした。 なんだ⋮⋮? 1530 そう思いつつも、顔を出すのは怖い。 ただ道をのんびりと進んでいたときより、トラブルのあった今は、 確実に警戒心が強まっているだろう。 なんでもない森の風景も意味を変じ、見る目も変わり、その数も 増す。 どうしようか。 そう考えていると、ギィギィと車体をきしませながら、馬車が止 まったような気配がした。 ﹁ったあー、落ちちまった﹂ という声を理解できたのは、俺だけだ。 クラ語⋮⋮テロル語なので、キャロルには理解できないはずだ。 そのうち、パカッパカッという小気味よい音が南側から聞こえて きた。 何も引いていない、つまりは人が乗っている騎馬だろう。 すると、 ﹁落としたのか! なにをやっている!﹂ 司令官格なのか、偉そうな口調の男ががなりたてる声がした。 ﹁すいません!﹂ 俺は、ハロルと違って、ネイティブなテロル語はイーサ先生の口 から発せられたものしか聞いたことがない。 イーサ先生のそれと比べれば、だいぶ方言めいていて、違和感の あるイントネーションをしていたが、聞き取れないことはない。 1531 イーサ先生のテロル語は、ヴァチカヌスで話されている最も正当 な発音だが、テロル語圏もよっぽど広いので、教皇領から離れれば 方言めいてもくるのだろう。 ﹁チッ⋮⋮さっさと積み直せ!﹂ ﹁へい!﹂ 何を落としたのだろう⋮⋮。 音の大きさから考えて、かなりの重量物のように聞こえたが⋮⋮。 リンゴのような果物を多数落としたような音でもなく、重い物が 詰まった木箱が落ちたような音でもなかった。 ﹁ッンーーーーーーーーッ!!!!﹂ 何者かが踏ん張る声がここまで聞こえてきた。 なんだなんだ、随分頑張ってるみたいだな。 そんな場合じゃないんだが、笑いそうになる。 ﹁ハァハァ⋮⋮おいっ、突っ立ってないで手ぇ貸せよ!﹂ と言ったのは、先ほど偉そうに指図していた馬上の男に向けてで はないだろう。 ﹁あぁ﹂ という返事は、初めて聞く声だった。 なんだかボケっとしているような印象で、ダルそうだ。 ﹁ほら、そっち持てよ﹂ 1532 ﹁ッン゛ンーーーーーーーーッ!!!!﹂ ﹁︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱ッウ!! っくう⋮⋮﹂ ﹁はぁ、はぁ⋮⋮こりゃなかなか⋮⋮﹂ 二人がかりでもダメだったらしい。 よっぽど力を入れてたのに持ち上がらんのか。 大の大人︵かどうかは知らないが︶二人がかりでも持ち上がらな い荷物というのは、なんだろう。 満タンの酒樽かなにかか⋮⋮? そんな音にも聞こえなかったし、重いものが入った樽だったら、 落としたら割れちまうか⋮⋮。 ﹁なんだ!! 持ち上がらんのか!!!﹂ ﹁ハァ⋮⋮しかしこりゃあ、やってみりゃあ解ると思いますが、ピ クリとも動きませんや﹂ なんとまあご苦労なことだ。 どうすんだよ。 俺はおまえらが通り過ぎるのを待っているわけだが、いつまで待 ってりゃいい。 ﹁人間の腕で持ち上がらんのなら、どうやって港で積んだというの だ!﹂ ﹁そりゃあ⋮⋮あんな化物みたいな大男がテコ使って載せてたもん を、この細腕で持ち上げんのは無理ですって﹂ ﹁チッ⋮⋮使えんッ!﹂ ﹁はぁ⋮⋮⋮﹂ 1533 そんならお前も馬から降りて、三人がかりでやりゃいいだろう。 と、他人ながらに思ってしまったが、それは言わないお約束なの だろう。 貴族の体面とかもあるんだろうし。 ﹁もういいッ! それは置いていけ!﹂ ﹁えっ、いいんですかい?﹂ ﹁一つくらい構わん。しかし、次落としたらお前の腕を切り落とす からなッ! しっかりと幌を縛っておけ!﹂ ﹁はぁ⋮⋮﹂ それから、時間にして一分ほどだろうか。 何やら紐を縛る音やらがして、ペシッと手綱を振るう音がすると、 再び蹄鉄が石畳をうちはじめ、馬車は進んでいった。 停滞していた補給段列も再び動き、ゴトゴトと音を鳴らし始めた。 *** なんだったのだろう⋮⋮。 完全に音がなくなってから、俺ははじめて動き、道を確認した。 先ほどの緊張に満ちた喧騒がウソのように、静まり返っている。 人っ子の一人もいない。 ﹁見てくる⋮⋮﹂ 1534 小声で言うと、キャロルはこくりと頷いた。 慎重に道に向かい、まずは本当に何者もいないか確かめる。 見える範囲には、動物も人も、何もいない。 俺は改めて、何を落としたのか、路面を見て探した。 すると、探すまでもなく、一目瞭然にそれと分かるものがあった。 石だ。 俺の肩幅ほどもある大きな石だ。 といっても、そこらの森のなかにあるような石ではない。 ノミかなにかで削られ、大方まんまるの球状になっている。 材質は⋮⋮こりゃ花崗岩かなにかか。 砂岩だの石灰岩だの、ああいったハンマーで軽く叩けば割れるよ うな石とはまるで違う質感だ。 どうやら、話の終わりに邪魔にならないよう蹴り転がしたらしく、 石は道を外れて土の上に転がっていた。 石が落下した部分の石畳は割れてしまっていて、風化した表面と は質が違う、荒々しい断面を覗かせていた。 そりゃ、こんなもんを人力で持ち上げるのは容易なこっちゃない だろう。 俺だって、やれと言われたら﹁無茶いうな﹂といいたくなる。 たぶん百五十キロ以上ある。 二人三人がかりで思いっきし持ち上げれば、持ち上がらないこと もないが、問題なのはその形状だ。 1535 球状なので、持ちにくい事この上ない。 途中一人が手を滑らせでもしたら、誰かのツマサキがグチャる事 故が高確率で起こるだろう。 途中で諦めて道の横に避けておいたのは、あの馬上の貴族にとっ ては不本意だったのだろうが、正解だった。 俺は、この巨大な奇石を何に用いるのか、殆ど察しがついた。 大要塞に篭っている連中にはお悔やみを申し上げるしかないな。 いや、なにかしら事故が起こって計画が実行不可能になることを 祈るほうが先か。 恐らくは実験的な計画だから、暴発が起こって大惨事ということ も、馬鹿にならない確率で起こり得るだろう。 しかし、会戦での勝利から一週間も経たずこれほどの用意をする のは、よほどの手際だ。 綿密かつ周到な計画なのだろう。 敵ながら天晴と言いたくなる。 それほど気の利いた連中の計画と考えると、事故を祈るというの は、なかなか望みが薄いようにも思えた。 ⋮⋮戻ろう。 今の俺には手の届かないことだ。 俺は巨石から目をそらすと、キャロルの待つ森の中に入っていっ た。 1536 第098話 追手のワリス* ペニンスラ王国臨時遠征旅団の一員であるところの、ワリスとい う男が、今はるか北の地の森を歩いていた。 ワリスは今年で二十八歳になる男で、苗字はない。 ペニンスラ王国は、175年前に終結した畏仔戦争の爪あと深い 地である。 およそ五十年続いたこの戦争では、一時期は国土の半分を異教国 であるエンターク竜王国に占領され、南部地方に至っては、四十年 もの間、異教徒の支配を受けた。 戦争が終わっても、彼ら異教徒の血脈は残り、むろん改宗は強い られたものの、文化的混交の痕跡は未だに濃い。 ワリスという名も、その一つであり、ココルル教圏で用いられる アーン語の発音を使えば、ワーリス、あるいはワァリスという呼び 方になる。 だが、ワリス自身にはそのような知識はないので、自らの名の由 来など知らなかった。 ワリスは生まれてこの方、学問という学問を授けられたことはな く、字は仕事に関わる最低限の単語しか読めない。 苗字もない。 農園の小作農をしていた両親は、三人目として生まれた子に、遠 い親戚に当たる出世者の名を借りてワリスと名付け、ある程度育ち 食が太くなり、家庭の食費を圧迫するようになると﹁仲介人﹂に渡 した。 1537 仲介人というのは、一種の奴隷商人のような存在で、労働の需要 があるところに子どもを紹介し、代わりに手数料を受け取る。 国法によって国内での合法的奴隷狩りが禁じられてから、奴隷商 人が名を変えただけの人々であった。 実際には、子の代金として両親に金を渡し、﹁紹介先﹂からより 多くの金を受け取るという仕組みに変わりはなく、子どもは強制的 な労働を強いられることになる。 本物の奴隷と違うのは、この労働には期限が設定されていること であった。 ワリスの場合、山村部の雑役労働者として領主に雇われ、十年間 の年季労働をさせられた。 十一歳で親に売られ、二十一歳で年季労働を終えた時には、手元 にはボロボロの普段着一着と、数枚の銅貨しか残らなかった。 その後、彼はたまたま兵の募集をしていた兵団に志願し、その一 員となる。 当時若者を募集していた兵団は、身体が資本の軍だけあり、食だ けは不自由をせずに済み、粗末ながらも寝場所は確保されているこ ともあって、まさにうってつけであった。 そこでほぼ七年間過ごし、ワリスは剣盾槍の扱い方と、弓と鉄砲 を習った。 だが、鉄砲は訓練に火薬代がかかるため、実際には二∼三回しか 発射したことはない。 そのため、訓練はもっぱら旧時代的な戦い方に終始していた。 そこで訪れたのが、北方十字軍への希望者の募集であった。 1538 今も昔も、ペニンスラ王国は北方十字軍への参加に熱心ではない。 イイスス教圏においてもっとも南を占めるペニンスラ王国は、北 方で領地経営をすることにさほどの興味を持たず、一時は十字軍の 招集に応じないような状態になったが、その不熱心さを教皇領に咎 められ、揉めに揉めた末に戦争が起こり、王の首が落ち、王座が変 わった。 その後は、一時期は一万人規模の兵団を送った時期もあったが、 今回の十字軍においては千とんで三名の参加しかない。 一応は千人の軍団を送り出した。という名目を作りたいわけであ った。 そのような状態であるから、ペニンスラ王国軍においては、北方 に軍を出しても、他の軍団のように活動的な侵攻には参加せず、も っぱら後方の警護や補給線の防備に当たるのが常であった。 よって、兵にとっては稼ぎどころである掠奪の機会はほとんどな く、掠奪による収穫は望めない。 だが、その代わり参加者には通常の給料に加えて五割増しの特別 俸給が出るという、いわば出張料がついていた。 ワリスはそれを目的に参加していた。 *** だが、今はとても面倒くさい仕事に狩りだされている。 つい先日逃げた長耳を捕らえるための山狩りだった。 ワリスは枯れ枝の混じった腐葉土の地面を踏みながら、黙々と歩 1539 を進めてゆく。 落葉樹の葉が厚く降り積もり、凍ったり溶けたりを繰り返した土 は、じっとりと濡れ、踏むと僅かに沈み込み、含んだ水を吐き出し た。 からりと乾いた、海風が良く通る故郷では、まるで見ない質の土 壌で、陰気な天候と寒々しい空気も相まって、暗い気分になってく る。 前を歩いている、狩人出身のアーリーという男もそうらしかった。 ワリスは、ただ重い装備を担いで歩いているだけだが、前を進ん でいる男は軽い装備で、その代わり地面をジロジロと見ながらゆっ くりと歩いている。 ワリスには判らないが、人が歩いた痕跡があるらしい。 しばらくすると、アーリーは立ち止まってこちらを振り向いた。 追いつくと、﹁休憩にしよう﹂と言い出した。 ﹁まだ早いだろう﹂ ﹁早いも遅いもない。疲れたんじゃ﹂ 妙な年寄り言葉を使うが、アーリーはそう歳をとっているわけで はない。 確か齢四十に差し掛かったところだ。 だがワリスからしてみれば目上の年長であることは確かなので、 口答えはしなかった。 ﹁ふう、ダメじゃな。土が判らん﹂ ﹁どういうことだ?﹂ ﹁故郷の土であれば、シシの足あと一つとっても、何時間前にここ を通った足あとだと解る。だけんどここの土は、慣れとらんからダ 1540 メじゃ﹂ アーリーが言い訳くさいことを言い出した。 ﹁せめて犬がおればな﹂ ﹁気ぃ張ってくれよ。逃げてる奴を殺したら特別に金貨が貰えるん だから﹂ 殺したら金貨二枚という報酬をやる、と、出発前に貴族が言って いた。 金貨二枚という額は、ワリスにとっては握ったこともない大金で ある。 ﹁金なんぞ貰えんよ。国ちゅうのはそういうもんじゃ﹂ ここ数日いわばチームを組んでいる間、ちょこちょこと話を聞い ているうちに分かったことだが、このアーリーという男は過去に冤 罪で獄に繋がれた経験があるようで、そのことで世を拗ねていると ころがあった。 狩人を辞めて軍に入ったのも、冤罪が原因で村に居られなくなっ たかららしい。 実際に冤罪かどうかは知らないし、興味があるわけでもないが、 そのせいで無闇に国を信じないのは困る。 アーリーは、勝手にその場に腰掛けてしまった。 かおは ﹁そもそも、追いかけとるのは恐ろしい顔剥ぎ男だと言うじゃろう が。金貨が貰えるのはいいが、殺されては元も子もないわ﹂ 1541 ワリスも、その話は聞いていた。 なんのためかは判らないが、逃げるときに見せしめかなにかで、 顔の皮を剥いでいったらしい。 まるで話に聞く東方の蛮族のような真似をする。 文化を知らぬ蛮人だ。 ﹁それに、この足あとの深さ。獣でもなければ、よほどの大男じゃ ぞ﹂ ﹁⋮⋮勝てそうになかったら、逃げろって教わっただろ﹂ ﹁それじゃ金はもらえんのだろうが﹂ ワリスは、殺さずに逃げた場合の報酬については聞いた覚えがな かった。 たぶん見ただけでは一銭の金も貰えないのだろう。 殺すか捕まえるかしなければ。 ﹁むっ⋮⋮⋮﹂ ﹁馬鹿らしいわ﹂ そう吐き捨てられると、ワリスの心中に黒いものが渦巻いた。 ﹁だからといって、給料分の仕事はしろよ。集合場所に間に合わな かったら、遭難なんだからな﹂ ﹁ふんっ⋮⋮﹂ そのまま十分ほど待っただろうか。 ﹁そろそろいいか?﹂ ﹁あぁ﹂ 1542 アーリーは立ち上がって、また地面を見ながら歩き出した。 会話はないまま歩く。 なんらかの足あとは辿っているらしいが、ワリスはただついてい っているだけだった。 そのうち、少し木立が密集するようになり、なんとなく幅が開き 始め、十歩ほども離れた。 しばらく歩いていると、木の影から突然棒が伸び、アーリーを打 った。 *** 薄い金属板のカブトを避け、首をしたたかに打ち据えられたアー リーは、そのまま崩れ落ちるように倒れた。 何が起きたのか理解が追いつかないうちに、顔を黒く塗った男が ヌッと木陰から現れ、アーリーの倒れた体に手を伸ばす。 ﹁ヒッ⋮⋮﹂ その姿は、まるで森に住むと言われる古代の悪魔が姿を表したか のように、ワリスには思えた。 だが、その悪魔はこちらには気づいていないようで、アーリーの 倒れた体を漁っている。 持ち物を奪おうとしているのか。 ワリスは、戦おう、と思った。 1543 敵がこちらに気づいていない様子だったからだ。 静かに背中に手を伸ばし、短弓を取る。 訓練で藁束に向かってさんざん矢を射た経験は、このような状況 下にあっても、震えることなく滑らかに体を動かした。 弓を取り、矢筒から矢を取り、つがえ、構え、引き絞った。 ギュウ⋮⋮と狙いを付ける。 そこで、不意に何かに気づいたように、悪魔はワリスのほうを見 た。 目が会った瞬間、ワリスの右手は弦を手放していた。 解き放たれた矢は、胴体を狙ったが、若干それて悪魔の顔面に向 かって飛んでいった。 それでも威力は十分で、ワリスはまず命中する手応えを感じた。 ・ ・ ・ ・ だが、矢は何者をも貫くことはなかった。 矢は掴まれた。 悪魔は、首を激しく横に動かしたと同時に、目にも留まらぬ速さ で腕を振ったかと思うと、矢は真ん中あたりで悪魔の手に掴まれて いた。 肉を突き刺し骨を貫くはずの鏃は、どこにも触れず浮いたままと なっている。 そして、こともなげにそれをした悪魔は、自分でも少し驚いたよ うに矢を見ると、回避で乱れた体勢をあらためて、矢を無造作に放 り捨てた。 1544 鞘から剣を抜いてきらめかせ、猛獣のような疾さでワリスのほう に駆け出した。 ﹁︱︱︱ッッ!﹂ 二の矢をつがえて放つ余裕がないことは明らかだったので、ワリ スはとっさに短弓を捨てた。 その手で腰に下げた剣の柄を掴んで引き抜く。 が、その動きは洗練されたものではなかった。 とっさに弓を捨てて剣を抜く、などという非常時の動作を反復的 に練習したことはなく、恐怖と焦りは、更に動きをぎこちないもの にした。 剣を抜いた時、悪魔は十歩の距離をあと一歩にまで詰めていた。 構えをとる暇もなく、ワリスは剣を繰り出す。 だが、その剣は、肉を捕らえることはなく、代わりに重い衝撃が 腕にひびいた。 剣を掴んでいた腕を、つま先で下から蹴りあげられたのだ。 前腕に加えられた重い衝撃によって、剣を握った手はしびれる。 辛うじて握っていた剣も、続いて腕を取られ、手首をギュウと捻 じ曲げられると、拳が開き地面に落ちてしまった。 そのまま胸を蹴り倒され地面に転がされると、ワリスは心のなか で観念した。 こいつには敵わない。そもそもの戦闘力が絶望的なまでに違う。 そもそも、飛んできた矢をとっさに掴んで止めるような存在と、 戦って勝てるわけもない。 1545 バケモノだ。 ここで俺の人生は終わりだ。 が、悪魔は更にワリスを蹴転がし、うつ伏せにすると、ロープか 何かで、背中に回した両腕をギュッと縛った。 縛った腕を力任せに引っ張り起き上がらせると、そのまま座らせ た。 そして、ワリスの目の前に出てきて顔を突き合わせた。 ワリスが森の悪魔かと思っていた何かは、明らかにヒトで、顔に は黒い泥を塗っていた。 ﹁さて⋮⋮貴殿⋮⋮じゃなかった、お前﹂ その男は、唐突に口からワリスの母語を話し始めた。 ﹁ハハッ⋮⋮﹂ ワリスは状況のわけのわからなさに、思わず笑ってしまった。 夢でもみているのか? なんで俺たちの言葉を喋るんだ? こいつが俺たちの追っていた奴だとしたら、長耳語を喋るはずだ ろ? ﹁この状況で笑えるってのは、肝が座ったことだな。良い知らせを 一つ教えてやろう。俺はお前を今すぐ殺すつもりはない。悪い知ら せは、俺が今からする質問に答えなかったり、嘘をついたりした場 合、死んだほうがマシなほど痛い目にあうってことだ。実際、最後 まで喋らなかったら、近いうちに苦しみ抜いて死ぬ怪我を負わせる﹂ 1546 悪魔は、矢継ぎ早に話し始めた。 要約すると、つまりこれから拷問するということらしい。 ﹁俺はもうお前みたいな奴を三人、拷問している。そこで得た情報 と照らし合わせるから、嘘をつけば解るからな。あと、素直に喋れ ばお前が怪我を負うことはない。例えば、腕が不自由になったり目 が片方なくなったり、鼻がなくなって一生を人から隠れて過ごさな きゃならない生活を送ったりすることはない。この先も人並みに生 きていきたいなら、ペラペラと喋ることだ。俺は半日もかけてじっ くり拷問するつもりはないから、サクサク目とか抉っていくぞ﹂ ワリスは、すっと男の背後を見た。 つまり、アーリーのほうを向いたが、アーリーは倒れ伏したまま 起き上がる気配がない。 アーリーが生きていれば、いままさに起き上がって背中から挟み 撃ち、ということもあり得るだろうが、それは期待できそうになか った。 ﹁じゃあ、第一問、お前の名前はなんだ?﹂ そう言われると、ワリスの頭のなかに、男に名を明かしたくない という考えが走った。 同時に、自分の名など知るはずがないという考えと、これからの 話を通じやすくするために名を聞いているので、この場合名の真偽 は重要ではない。という推論がよぎった。 ﹁カリミスル・ホッパーだ﹂ 1547 ワリスは偽名を口にした。 すると、男はすっと立ち上がった。 そして、おもむろに足を振り上げると、ワリスのスネめがけて踏 み下ろした。 重いハンマーにでも叩かれたような衝撃と同時に、ボギッという 鈍い音が、骨を伝って聞こえてきた。 足に激痛が走る。 ﹁ウッ﹂ 絶叫を上げようとした瞬間、男の拳が勢い良くワリスの頬を撃ち ぬいた。 つまりブン殴られた。 ワリスの体は転がり倒される。 ﹁大声を出すな﹂ ﹁グッ⋮⋮ウウウウウ∼∼∼∼ッ﹂ 未だに折れた足に激痛は走っているが、ワリスは口を無理矢理に 閉じた。 更に頭を踏みつけられ、荒々しく兜を脱がされると、髪の毛を乱 暴に掴まれ、無理やり座り直させられた。 そして、目を合わされ、 ﹁嘘をついたら分かるっていったよな。お前は三歳の子ども並みの 1548 知能か? それとも俺が、自分の命を狙ってきたゴキブリ以下の糞 に対して慈しみを抱く、心優しい人間だとでも思ったか?﹂ そう言った男の目には、一切の優しさは見えなかった。 飢え、追い詰められ、切羽詰まった肉食獣のような、余裕の見ら れない凶獣の目であった。 ﹁もう一度聞く。お前の名前はなんだ?﹂ ﹁わっ、ワリスだ! 指長のワリス!﹂ ワリスは姓がないと不自然かと思い、とっさにあだ名を付け加え た。 指長の、というのは、薬指が中指と同じくらい長いので、という 理由で、年季労働時代につけられたあだ名だった。 特別にあだ名が付けられたのは、同じ現場に同じワリスという名 の男がもう一人いた時期があったからだ。 それは嘘ではない。 ﹁なるほど、お前がワリスか﹂ ワリスはそれを聞いて、前に口を割った連中が、俺の名を喋った のだと思った。 カリミスル・ホッパーという名は、とっさに思いついただけの名 で、遠征軍の一員の名というわけではない。 例えばアーリーと名乗れば、この悪魔は自分とアーリーと勘違い したのかもしれない。 だが、カリミスルという名はまずかった。 ﹁じゃあ、次の質問だ。俺を追ってるのはどれくらいの人数だ?﹂ ﹁せ、千人だ﹂ 1549 とワリスは正直に答えた。 ・ ﹁⋮⋮そうか。だが、千人にしちゃお前らは単独だな。千人も俺の 足取りを追ってるなら、横一列になって、板で小麦粉を攫うように して迫ってくるはずだろう﹂ ﹁知らないのか? 六百人はこっちじゃないほうを探している。俺 たちは二百人のほうだ﹂ ﹁数が合わねぇな。それじゃ全部足しても八百だ。残り二百はどこ に行った﹂ ﹁あのでかい道の反対側を探してるはずだ。知ってるはずだろそれ くらいは!﹂ こちらの人数が何人かなどという話は、先に吐いた仲間がいるの であれば、そいつらから既に得ている話だろう。 特に込み入った内容でもなく、いうなれば常識、基本的な情報だ。 ということは、目の前の男は、名の照会に続いて、更に答え合わ せをし、話の齟齬を確かめるためにこのようなことを口にしている ことになる。 ワリスからしてみれば、疑心暗鬼にもほどがあった。 そんな確認作業をするよりも、さっさと解放して安堵させてほし い。 ﹁じゃあ、六百人の組はリフォルムへ一直線に向かう、海沿いの地 域を荒らしながら探しているわけだな。お前ら二百人の組は、その 脇を一応見張っているわけだ﹂ ﹁そういうこった。これで満足か﹂ 1550 ﹁ああ。まあ話は合っているな。それで、こちら側に来てる、その 大小の二隊は密な連携をとっているのか﹂ ﹁知らねえよそんなこと﹂ これは本当に知らなかった。 連携を取る取らないなどという話は、ワリスのような末端の兵士 が知っていても意味のない事だ。 ﹁そうか。まぁ見るからに一兵卒のお前じゃ知らん事だろうな﹂ ﹁うるせえよ。大きなお世話だ﹂ ﹁じゃあ、次の質問だ。お前らの組織編成はどうなってる?﹂ ﹁組織編成?﹂ 耳慣れない言葉であった。 ﹁難しい言葉だったか。お前らの千人は、誰が率いていて、お前の 属している二百人隊のリーダーは誰で、お前の直属の上司は誰で、 何人率いているかとかの話だ﹂ ﹁はぁ? 前の奴に聞いてないのかよ﹂ ﹁当然聞いたが、それも嘘かもしれない。だからお前の口から聞い て真偽を確かめたい﹂ ワリスからしてみれば、そんな木っ端のような情報を三度も聞い て確かめる神経は理解できなかった。 そんな重要な事か? ﹁総隊長はザイード王子だ。ザイード・カムリサムリ﹂ ﹁ソイツは今どこにいる﹂ ﹁⋮⋮六百人隊を率いてるよ。でも、実際に現場で率いているかは 知らねえ。こういう⋮⋮森の中に入ったりする御身分でもねぇだろ 1551 うしな﹂ ﹁じゃ、次だ。二百人隊を率いているのは誰だ?﹂ ﹁二百人隊というか⋮⋮、俺を雇ってるドレイン伯の軍がこっちを 担当しているだけだ。頭はピーノック様だよ﹂ ﹁じゃあ、お前の直属の上官は誰になる﹂ ﹁強腕のジェンっておっさんだよ。十人組の長だ﹂ ワリスはぺらぺらと喋っていった。 どうせ他の者の口から既に出た話なら、誰の口から出たかなど解 らない。 後で誰に咎められるわけでもない。 ﹁口が滑らかになってきたな。じゃあ、お前らの任務はなんだ?﹂ ﹁ハァ? お前らを追ってるんだろうが﹂ ﹁俺を? 敗残兵狩りか?﹂ ﹁お前らがウチの荷物に火ぃつけたから追ってるんだろうが﹂ ﹁⋮⋮なんのことだ。詳しく聞かせろ﹂ ﹁お前らが一番良く解ってんだろ﹂ と、ワリスが言った時、男の手が伸びた。 バンッと、平手で強かに頬を張られる。 鼻の中が切れ、鼻血が垂れてくるのを感じた。 ﹁⋮⋮ッつ﹂ ﹁調子に乗るな。お前が追っている者のことを喋れ﹂ ﹁⋮⋮鷲に乗って落ちた二人組の鷲乗りだよ。空から火を落として、 教皇領のメンツを潰した。連中は大層おかんむりって話だ。二人で 1552 一緒に行動してるんじゃないのか?﹂ ﹁なに言ってんだ。俺は鷲になんぞ乗ってない。飛べない方の鳥に は跨っていたが、単に戦場から逃げ遅れただけの将校だぞ﹂ ワリスの頭のなかに疑問符が渦巻いた。 こいつらは、自分たちが追っている連中ではないのか? 単なる敗残兵ということか。 ﹁⋮⋮チッ。とんだとばっちりだ﹂ と、悪魔はひとりごちた。 どうやらワリスの推論は当たっていたらしい。 ワリス自身は後方警備に当たっていて参加はしていないが、あん だけ大きな戦いがあったのなら、そりゃ一人くらい街道でなく森に 逃げた敗残兵がいてもおかしくはない。 一人どころでなく百人千人といてもおかしくはない。 ただ、偶然、ワリスが追っていたのは、触れてはいけない手練れ だったということだ。 これについては、運が悪かったとしか言いようが無い。 ﹁フフフッ、ハハハハハッ! そりゃあ残念だったな!!﹂ ワリスは目の前にいる男の滑稽で悲惨な状況を思うと、笑わずに はいられなかった。 ﹁黙れ!﹂ 1553 男はワリスの顔面を再度殴ったが、ワリスからしてみれば面白さ のほうが勝る。 ﹁ハハハッ⋮⋮あっ﹂ と、再び地面にひれ伏した時、十歩先にある未だ倒れ伏したまま のアーリーの体が目に入った。 ﹁おい、そこにいるおっさんは生きてんのかよ﹂ ワリスは、素直に喋ったのだから助けてやってくれ。と言おうと した。 まだ生きているのであれば。 ﹁⋮⋮ああ、あれか。止めを刺していくぞ﹂ ﹁はぁ? なんでだよ⋮⋮﹂ ﹁別にお前が殺すなというなら、止めは刺さんで行ってもいいが、 あれは首の骨が折れた。もうじき苦しんで死ぬから、楽にしてやっ たほうが良い﹂ ﹁じゃあ、そうしてやってくれ﹂ あっさりと答える。 なぜか本当のことだという気がしたし、アーリーの生き死になど、 そりゃ生きていたほうがいいが、死んでいてもどうでも良いことだ った。 ﹁ああ。俺も聞きたいことはこれまでだ。ご苦労だったな﹂ 1554 そう言うと、男はワリスの口を布で覆い、頭の後ろできつく縛っ た。 大声を出させないつもりだろう。 後ろ手の縄も解けそうになく、叫んで仲間を呼ぶことも出来ない。 足の骨は折れている。 ワリスは、このまま放置されては、助かるすべがなくなることに 気づいた。 ﹁ンンーーーム゛!!﹂ ワリスは力いっぱい声を上げて抗議する。 だが、もはや男は興味をなくしたように一顧だにせず、ワリスの 荷物を漁り、背嚢ごと奪っていった。 そして、あとは振り返りもしなかった。 アーリーの所へゆくと、首の後ろに刃を入れて息絶えさせ、死体 を仰向けにすると、なにやら十字を切り、まるで聖職のように呪文 を唱え、それから荷物を漁った。 そしてそれも終わると、森の中に消えた。 1555 第099話 火のない森 ﹁戻ったぞ﹂ そう声をかけた。 キャロルは、前にいた木の影に、今も無事に座っていた。 ﹁⋮⋮うん﹂ 余程心配していたのか、キャロルはほっとしたような、気疲れし たような顔で俺を見上げた。 ﹁話はあとにしよう。今日はもう少し歩く﹂ そう言って、俺は置いていった荷物のところで、さくさくと荷物 を整理した。 先ほど奪った連中のバッグは、いわゆる背嚢型で、作りはともか く、歩くにはこちらを使ったほうが便利そうだ。 余分な荷物を切り詰めるために、幾らか不必要なものを捨てた。 幸いなことに、連中は剣先型の手スコップを持っていたので、要 らないものは軽く掘った穴に埋めて、土をかぶせた。 ﹁さて、行くか﹂ 背嚢を前かけに下げて、腰帯をギュっと絞ると、キャロルのほう に背中を向けてしゃがんだ。 1556 *** 日が暮れ始めると、俺は適当なところでキャロルを降ろした。 ﹁晩飯は多めに食おう﹂ 二人は長期行軍を予定していたのか、背嚢はけっこう重かった。 中には当然、保存食がたくさん入っており、今朝までは軽く飢え に苦しむありさまだったのに、今は食料の重さが辛いほどだ。 ﹁あれ、火はおこさないのか?﹂ ﹁もう追いつかれたからな。火を焚くのは怖い﹂ 焚き火の光は遠くからでも見える。 俺と敵が逆の立場だったら、焚き火をしているのを発見したら、 仲間を呼んで囲み、夜を待って包み込むように奇襲するだろう。 その時俺は、焚き火をしていたその場で眠りこくっている。 キャロルは起きているかも知れないが、どのみちその状態からキ ャロルを連れて囲いを突破するのは不可能だ。 ﹁そうか。仕方がないな﹂ キャロルは抗弁することもなく納得した。 火の温かみが味わえないというのは辛いことだ。 パン一つとっても、火で軽く焼いて温めなおすだけで、香ばしく 美味しく食べられる。 1557 ﹁すまんな﹂ ﹁謝らないでくれ。謝る必要がない﹂ ﹁⋮⋮ああ。そうだな﹂ そうだった。 すまない、というのも変な話だ。 ﹁まあ、飯を食べたら、さっさと寝よう﹂ ﹁それより、今日の話がまだだ。なんの話も聞いてないぞ﹂ そうだった。 とにかく距離を稼ぐのが先決と思っていたので、まだ喋っていな かった。 気になっていただろうに、途中で聞いたりしてこなかったのは、 キャロルなりに状況を理解していたからだろう。 ﹁食いながら話すか⋮⋮﹂ と、俺は濡れてない地面に腰を下ろした。 キャロルのすぐ隣で、一応は声を潜め気味に話す。 ﹁そうだな、時間はあるし最初から話そう。まず、俺は不意打ちで 一人殺して、もう一人いたから、そっちは取り押さえた。居たのは 二人だ﹂ 使ったのは、今はキャロルが持っている松葉杖だ。 いくら細い槍とはいっても、その柄は人を殴ったくらいで折れる ほど弱くなく、普通に武器になる。 1558 ﹁そう、か⋮⋮﹂ ﹁そんで、そっちのほうはまだ生きていたようだから、話を聞いた んだ﹂ ﹁うん、それで、そいつは話したのか?﹂ ﹁ああ。連中は千人体制で俺たちを追ってるらしい﹂ ﹁えっ﹂ と、キャロルは一瞬持っていたパンを落としそうになった。 ショックな情報だったのだろう。 俺も、これ聞いた時は絶句しかけたからな。 ﹁だけど、六百人は別のところを探している。リフォルムに直行し たと思ったんだな。海岸線沿いを探索しているらしい﹂ ﹁あっ、そうか⋮⋮﹂ ﹁そうだ。俺たちはとりあえずニッカ村を目指しているが、連中は そんな村に向かう理由があることを知らない。海沿いを選ばなくて 正解だったな﹂ この国の海沿いは入り組んでいるが、シヤルタ山の背側のフィヨ ルド地帯のように切りたっているわけではない。 海岸沿いは木が低く、普通に歩けるし、道路も良く整備されてい て、木々の重なった森のなかを踏破するより歩くのは何倍も楽だ。 実際、海岸沿いを歩いてリフォルムまで行くことも考えたが、危 険なのでやめた。 俺一人であったら、急げば敵よりも早く歩ける自信があるので、 確実にそちらを選んだだろう。 だが、キャロルを背負っていくのであれば、追いつかれることを 1559 前提に行動を考えなければならない。 結果的にではあるが、判断は正解だったわけだ。 あちらを選んでいたら、今頃は六百人のローラー作戦で轢き殺さ れていただろう。 ﹁それで⋮⋮その、こちらのことはバレているのか?﹂ ﹁足あとは追っていたらしいな。一応、都合のいい嘘は吹き込んで おいたが﹂ あいつが生き残るかどうかも判らんしな。 司令官クラスに拾われて嘘を信じこませてくれるのが一番いいが。 それで、二人がかりの介助を受けて、後方に引っ込んでくれれば 最高だ。 それでもニ百人から三人減るだけだが。 ﹁先入観からか、連中は二人で一緒に行動していると思っているら しいな﹂ ﹁? 実際に二人だろう﹂ そりゃそうなんだが。 ﹁お前が怪我をしてるってのは、夢にも思ってないってことさ。俺 たちは特殊な事情を抱えて行動してる。その事情が解らないってこ とは、俺たちの行動を予想できないってことだ。向こうが合理的に 推測しても、俺たちの実際の行動とは咬み合わない。こいつはでか い﹂ こちらは何も努力せず、向こうの洞察は的外れになるわけだ。 1560 まさか人間一人背負いながら歩いている、なんて想像はできない だろうしな。 ﹁そうなのか?﹂ キャロルはなんだか腑に落ちないらしい。 ﹁ま、いいさ。今日は良いことばかり起きた。少なくとも、明日食 う飯の心配はしなくてよくなったわけだからな﹂ 悪い情報は入ってきたが、悪い事が起きたわけではない。 元々の周辺状況が知れただけだ。 無理にでも気分を明るくしていかないとな。 ﹁早く食って寝よう。焚き火がないなら、どちらか起きている必要 もない﹂ 夜の森で自由自在に行動できるような、王剣のような連中が追っ ているなら、どうせ駄目だろうしな。 それに、キャロルには昼間も気を張っていていてほしい。 *** 食事を終えると、俺とキャロルは同じ木のねもとで別々に油紙を 羽織った。 今夜は、やけに闇が深い。 一昨日が新月だったから、今日は三日月か⋮⋮。 そりゃ暗いか⋮⋮。 1561 焚き火がないと、本当に夜に包まれている気がする。 特に、森の中では⋮⋮。 それに、寒い。 あんな焚き火でも、有ると無いとでは全然違うんだな⋮⋮。 寒さが骨身に染みる。 今年の冬は特に寒かったとはいえ⋮⋮今日は特に冷える⋮⋮。 痛みを覚えた足が、疲労をそのまま凍りつかせたように、温かみ を失っている。 今日は眠れないかもしれないな。 しかし、今日くらいは眠らなくてもいけそうだが、明日以降も続 けていけるのだろうか⋮⋮。 村に着くまでに限ってさえも、まだ三日か四日はかかるのに⋮⋮。 ウオォォォオォォン︱︱︱︱⋮⋮。 ああ、狼の遠吠えだ。 ゴソッ、と隣で紙の擦れる音がした。 まだ起きていたようだ。 いや、起きてるよな。 疲れきっている俺でさえ、眠れないのだから⋮⋮。 ﹁⋮⋮狼を心配しているなら、大丈夫だぞ﹂ ﹁⋮⋮ん﹂ ﹁一人殺したときに血を流したから、狼は向こうに行くよ﹂ 1562 首の骨を折ったほうは、首のうしろに刃を入れてから頸動脈を切 った。 心臓が動いていたから、どくどくと血が流れていた。 匂いをたどる狼は、あちらに向かうだろう。 ﹁いや⋮⋮寒くて﹂ ﹁あぁ、そうか⋮⋮そうだよな﹂ やっぱり明日からは火を焚いたほうがいいか⋮⋮。 いくら危険でも⋮⋮。 ﹁あの⋮⋮くっついて寝ない、か? そうすれば暖かい⋮⋮かもし れない﹂ ⋮⋮⋮は? ボーっとした頭で、何を馬鹿なことを言ってるんだこいつは。と 考える。 だが、否定する要素が浮かばなかった。 冬山でも遭難した時はくっつき合うものだ。 むしろ、なんで今までその発想がなかったんだろう。 無意識が堰き止めていたのだろうか。 ﹁いいぞ⋮⋮その、お前さえよければ、だが﹂ ﹁私は構わない﹂ ﹁そうか⋮⋮﹂ ﹁じゃ、じゃあ⋮⋮そっちにいくぞ⋮⋮﹂ キャロルはそう言うと、隣でゴソゴソと動き始めた。 1563 何をするつもりだろう。 暗闇でなにも見えない。 俺は自分が羽織っていたポンチョ型の油紙を脱いだ。 荷物を背負ったままでも被って歩けるように、だいぶ大きく作っ てはあるが、二人は入れるだろうか⋮⋮ キャロルは手探りで俺の肩に触れた。 横に並んでくっつくのかと思ったら、膝に手を置き、俺の正面に 回った。 ﹁膝を開いてくれ﹂ ﹁あ、ああ﹂ ボーっとした頭で、体育座りをしていた膝を開くと、両膝に手を 置いて、キャロルの身体が入ってきた。 背中がとすんと俺の胸板にぶつかる。 俺は油紙をかぶった。 大きめの油紙は、どうにか二人分の身体を覆う。 キャロルは、自分の油紙は脱いできたらしい。 キャロルの身体は、まるで体温を感じられないほど冷たかった。 体の芯まで冷えきっているのか、胸に抱いても温かみが感じられ ない。 手探りでキャロルの手を握ると、冷えた鉄でも握っているかのよ うに冷たかった。 冷えきっていると思っていた俺の手のほうが、まだあたたかい。 1564 空気が乾燥しているせいか、キャロルの手には水気もなく、カサ ついていた。 しかし、こうして手を繋いでいれば、そのうち温かくなるだろう。 ﹁ふう⋮⋮﹂ キャロルは人心地ついたように息を漏らした。 ﹁温かい。最初からこうしていればよかったかもな﹂ ぎゅっと手を握り返してくる。 ﹁こういうのは良くない﹂ よくない。 ﹁なんでだ? 嫌か?﹂ ﹁お前の将来の夫に悪い﹂ ﹁プッ⋮⋮クククッ、フフフフフッ﹂ キャロルは笑いを噛み殺すように笑った。 ﹁こ、こんな状況で、将来の夫か。フフフッ⋮⋮﹂ ﹁おかしいか﹂ ﹁ああ、そんなの気にするな。生き残っての物種だろう﹂ それはそうなんだけどな。 しかし、俺も煩悩を断ったブッダのような人間ではないわけで、 この状況には何かしら感じるものがあるわけで。 キャロルが豚みたいな女だったりとか、臭いがひどかったりする なら別だが、自分の体臭も酷い今では芳しい臭いのように感じるし。 まあ、今日は疲れきってるから、性欲以前に休みたい、眠りたい、 のほうが大きいから良いが。 1565 ﹁そうだが、こんなことは男にしないほうがいい。こんな状況だか ら仕方がないが﹂ ﹁お前じゃなかったらしないよ。気持ち悪い﹂ ⋮⋮⋮えーーっと。 ﹁⋮⋮寝るか﹂ 俺は苦し紛れにそう言った。 ﹁そうだな⋮⋮﹂ 1566 第100話 現地会議* 現ドレイン伯である、ピーノック・ドレインは、森の中で部下と 会っていた。 ドレイン伯家は、伯爵家としては比較的豊かで大きな領地を持っ ており、兵力として常に約四百名の兵を抱えている。 その兵は、稀には隣接貴族との戦争で使われることもあるが、大 抵の場合はより大きな公爵などの大貴族の要望で出陣し、普段は領 内の治安維持に勤めている。 より大きな兵力を必要とする際は、領内の自作農や農奴に兵役を 課すことで、さらに兵力を増強して一千名ほどの軍になることもあ るが、今回はそのようなことは行わず、四百名の兵から更に半分の 二百名の兵を募って率いていた。 彼らは、封建的な契約関係にある騎士が少しと、常に一定数雇っ ている、ゴロツキを寄せ集めたような兵隊で構成されている。 領内のゴロツキを雇っておくことで常設兵力の誇示にもなるし、 放っておけば犯罪者になりそうな貧困層の男どもを集めることで、 いざ山賊などの組織が現れたときには、彼らをぶつけて消耗させる ことができる。 ・ ・ そういうやり方は、鉄砲の出現による戦争背景の変化に伴い、貴 族らしい賢い統治法ということで、多くの貴族の間で採用されてい た。 ・ ・ その中でも、ドレイン伯の軍は育成に成功した方であろう。 1567 ゴロツキのまま山賊の軍と変わらぬような有様にある貴族も多い なかで、ドレイン伯の軍は、先代の頃からの努力によって、ゴロツ キを訓練によって鍛え上げる仕組みを少しづつ作った。 毎朝定時に起床させ、訓練させ、夜は適度な気晴らしをさせつつ も、夜中までには就寝させる。 そういった規則的な生活に加えて、時には褒め、適度な誇りを持 たせれば、多少なりと節度を守った行動もするようになる。 そうやって、地道に練度を上げてきた。 北方十字軍への遠征隊に、ザイード王子自らの要望で抜擢された のも、そのお陰だった。 根が山賊と変わらない連中であれば、そんな者達に荷の警備は任 せてはおけない。 荷をまとめて奪えば金貨の一袋にもなるとわかれば、平気で騎士 を殺して荷を奪い、行方をくらましてしまう。 兵たちの出自が出自だけに、そういった例は完全に無くなりこそ しないものの、ドレイン伯の軍にあっては、許せる範囲に収まって いた。 ドレイン伯の軍勢は、二つの隊に分かれている。 サンジャ・マカトニーとカンカー・ウィレンスという騎士が、百 人づつ兵を率いていた。 更にその下に五十人長、二十人長、十人長と続く。 ﹁ふむ、それで?﹂ ピーノックは先を促した。 1568 ﹁ここの他に二つの集落を見つけましたが、どれも焼かれていまし た﹂ とサンジャは言った。 ﹁ふむ﹂ ピーノックが頷いて返す。 三人がいる場所は、既に焼かれた集落であった。 といっても、クラ人が焼いたわけではない。 どうやら、シャン人が自ら焼いていったものであるらしい。 こういったことをされると、侵略する側は非常に困る。 兵馬の食は、侵略する当地で得るのが最も効率的だからだ。 ﹁それ以外は? 悪魔は見つけたのか?﹂ ﹁いえ、一人も﹂ サンジャが応える。 ﹁ふーむ⋮⋮そちらはどうだ?﹂ ピーノックはカンカーに促す。 カンカーとサンジャは、ともに百人隊を率い、半分づつの捜索範 囲を担当していた。 ﹁はい。こちらには、少なくとも一人逃げておるようです﹂ ﹁ほう﹂ ピーノックは独特な仕草をした。 今年三十五歳になるにしては似つかわしくない仕草で、興味のそ そられる報告を聞くと、唇を尖らせる。 癖であった。 1569 ﹁ですが、その一人が、どうも手練れのようでして﹂ ﹁その男が例の悪魔なのだろう?﹂ ﹁いえ、話によると違うようです﹂ ﹁話、とは?﹂ ﹁攻撃された者が生かされました﹂ ﹁ほう?﹂ ピーノックの感覚としては、それは少し変だった。 追われている人間が、追ってくる人間を生かしておくというのは、 一体どういうことであろうか? 実際には、足を折っておき、自分で歩けないようにすれば、その 介護のために数人の人数を必要とする。 そのため、カンカーの隊では既に二名がその任に当たり、通常の 戦務からは離れていた。 が、ピーノックにはそのような理解はない。 ﹁拷問にかけるぞと脅されて、挨拶代わりに足を折られたら、どう やらペラペラと喋ってしまったようです﹂ ﹁ふむ。悪魔ながらに信義に篤いわけか﹂ 拷問に際しては、喋れば殺さぬという約束をするのは自然であろ う。 だが、本当に殺すか否かというのは別の話だ。 そういう口約束なのであって、必ずしも守る必要はない。 それを守るということは、破ったところで誰から謗りも受けるわ けでもない約束でも、律儀に守る性格なのであろう。 1570 そうピーノックは考えた。 ﹁さあ、それは解りませぬが。その時の話によると、その悪魔は竜 のことも、火災のことも知らなかったようで﹂ ﹁ふむ?﹂ ﹁どうやら、前の決戦で負け、散々に逃げた連中の一人らしいので す﹂ ﹁なるほど? そういう者もおるだろうな﹂ ﹁ですが、その者は、どうやらとんでもない手練でして﹂ ﹁ほう?﹂ ﹁すでに十人長が一人、兵が三名殺されています﹂ ﹁なんだと?﹂ ﹁足あとを追うと、罠が仕掛けてあるようなのです。十人長が殺さ れた時は、こう﹂ カンカーは前腕で腹を叩いた。 ﹁地面に張ってあった縄かなにかを踏んだら、しなった枝が斜め下 から飛んできたと⋮⋮﹂ ﹁枝に当たっただけか﹂ ﹁矢が括りつけてありました。殺した兵から奪ったものです﹂ ピーノックは、情景を想像して顔を歪めた。 ﹁ぬぅ⋮⋮。死んだか﹂ ﹁死にました。腹に返し付きの矢が刺さっては﹂ ﹁死んだのはいい﹂ 1571 十人長の位は、騎士に与えられる者ではなく、ゴロツキの叩き上 げが任ぜられることになっていた。 騎士でないなら惜しくもないし、北の地まで来る道中でも、資材 を狙った賊との戦いで一人失っている。 ﹁だが、その悪魔はなぜそのようなことをするのだ?﹂ ﹁解りません。それほどの手練れであれば、とっくに逃げ去ってい るはず。ノコノコと歩いている理由は解りません﹂ そこが疑問な点であった。 彼らドレイン伯の軍は、指令が下されてすぐに馬を飛ばし、ある いは駆け足で、先回りして調査に乗り出し、森を捜索することにな った。 だが、指令が下されるまでの三日のロスのおかげで、致命的な初 動の遅れを招いていた。 三日あれば、日頃鍛えた人間であれば、かなりの距離が稼げる。 決戦から五日も経とうとしているのに、今頃こんなところをほっ つき歩いている者は、余程のノロマか、けが人か、間抜けだろう。 こと軍においては、手練であれば例外なく健脚であるのが普通だ から、有能な手練がまだこんな所にいるのは変であった。 ﹁足を怪我しているのではないか?﹂ ﹁それはないと思います。話では、十歩の距離をまたたく間に詰め たとか﹂ ﹁ふむ⋮⋮。だが、足が遅いのは確かなのだろう﹂ ﹁病気なのかもしれません。腹をこわすとか、そういったたぐいの﹂ ﹁はっ! 悪魔が下痢か﹂ 1572 ピーノックは大して面白くもなさそうに吐き捨てた。 ﹁ですが、その悪魔が手練れというのは確かです。どう致しますか ?﹂ ﹁どういう意味だ?﹂ ﹁しつこくも追った方が良いでしょうか﹂ カンカーにしてみれば、この悪魔は見逃したかった。 実は、生き残った馬鹿な兵士がさんざんと法螺をふき、さらに十 人長が一人死んだことで、兵の中に怯えが出てしまっている。 トレース さらに言えば、足あとを追跡することに慣れた猟師出の兵隊は限 られており、殺された三名︵うち二名は罠で死んだ︶は全員がその 手の者だった。 足あとを探るには先頭に立たなければいけないのだから、真っ先 に罠の餌食になるのは当然である。 経験がなくとも、追跡仕事はできなくもなかったが、ただでさえ 暗い森で、黒い腐葉土の土に刻まれた僅かばかりの窪みを探して歩 くのは、どうしても遅々とした作業になる。 つまり、隊が持つ捜索能力は、減退しはじめていた。 それでも、ゴロツキどもの尻を叩いて仕事をさせる事は、もちろ ん可能だ。 だが、それで更に何名かの犠牲を出したあと、得られるのは何の 変哲もない男の悪魔一匹では、とてもではないが割にあわない。 喉を潰して犯人に仕立てあげるにしても、それなら怪我をして置 いて行かれた雑魚のような悪魔でも十分なわけで、そういった連中 は海側ではたくさん捕まっていると聞く。 1573 わざわざ森の中を逃げ回る手練を選び、多大な手間と犠牲をかけ て捕まえる必要はない。 ﹁もちろん、追え﹂ が、ピーノックの返答は無情だった。 ﹁教皇領のパラッツォ卿から直々に申し付けられた仕事だ。ザイー ド王子の期待は大きい。兵の十人や二十人、構うものか﹂ ﹁ですが、先ほど申し上げましたとおり、その悪魔はただの脱走兵 である可能性が高く⋮⋮﹂ ﹁ただの兵の話など、どれだけ信じられるか解ったものではない。 それに、本物でなくとも、一匹くらい捕らえなければ、こちらも面 目が立たぬのだ。サンジャの隊は人っ子一人見つけておらんのだか ら⋮⋮。そうだったな﹂ ﹁⋮⋮はい﹂ しんがり 普通の人間であれば、歩きにくいに決まっている森を、わざわざ 歩いたりはしない。 先の戦場では、シヤルタの援軍がしっかりと殿を担当したことも あり、退却はおおむね整然としており、蜘蛛の子を散らしたような 騒ぎにはならなかった。 捜索範囲の半分を担当してるサンジャの隊は、見事に一人も捕ま えていなかったし、逃亡する者を発見してもいなかった。 見つけたのは、家で自害している老人くらいのものだ。 ﹁そういうことであれば、了解しました﹂ 1574 だが、ピーノックの理屈にも、理がないわけではない。 カンカーは頷いた。 ﹁それでは、頑張ってくれたまえ。解散﹂ *** カンカーは、その日のうちに馬を飛ばして部隊に戻った。 天幕が一つ張ってあるだけの小さい野営地に、数人の痩せた伝令 と、二人の五十人隊長がいた。 痩せた、というのは、長距離を走るに適した、という意味で、や せ衰えているという意味ではない。 通常、伝令というのは、無事に任務を果たすために、馬術の腕を 求められるものだが、森のなかでは役に立たない。 代わりに必要とされるのは、森の中を走り抜ける体力だった。 なので、カンカーは長距離走が得意な人間を選抜し、伝令に仕立 てあげていた。 カンカーが到着すると、全員が椅子から立ち上がり立礼をした。 ﹁休め﹂ と短く言うと、全員が楽な体勢をとった。 椅子に座る者もいる。 ﹁ピーノック様は例の長耳を捕らえて欲しいそうだ﹂ 1575 ﹁うへぇ⋮⋮﹂ 聞こえないくらいの小声でそう言ったのは、五十人隊長の一人だ った。 ここ数日で何度か合議をしていたが、彼の意見からすると、目標 の長耳二人はもう既に、海沿いに出て敵王都に隠れてしまっている。 なので、こんな森を捜索する担当になったのは、つまりは最初か ら貧乏くじであり、労のみ多く益の少ない仕事なのであった。 カンカーからしてみれば、そうとは限らないではないか。という 考えがあったが、そういう結論に至ってしまうのは、浅慮とは思う が理解できないこともなかった。 そして、そういう考えでいるのであれば、あくまで捕まえろとい う命令について、うんざりする気持ちになるのも当然であろう。 ﹁安心しろ。私が直接指揮をとる﹂ ﹁え?﹂ ﹁意気消沈の軍では、どうせ捕まえきれない。お前たちの中から使 える連中を集めて私が貰う。お前たちは⋮⋮あとは適当にやってく れればいい﹂ ﹁何人ほどですか?﹂ ・ ﹁それぞれ五人程度でいい。もちろん、足跡を追える者は優先的に 差し出せ。お前たちは、引き続き面で追っていけばよい。私は例の 一人だけを追う﹂ 1576 第101話 夜の森 ﹁⋮⋮起きろっ。起きろっ﹂ 耳元で小声で言われながら、俺は目を覚ました。 身を寄せあっているキャロルが、ポンチョの中で顔を近づけて俺 を起こそうとしていた。 月明かりにキャロルの顔が照らされていた。 まだ夜であるらしく、朝日が差している様子はない。 ﹁⋮⋮どうした?﹂ 目をこすりたいところだったが、身動ぎをするのもはばかられた。 ﹁なにか臭いがするんだ﹂ ﹁臭い?﹂ 臭いでいえば、体には相当汚れがたまっているので、臭いは酷い はずだが。 ﹁焚き火の臭いというか、焦げ臭かったり⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮っ!﹂ それはコトだ。 一気に眠気が冷めた。 鼻を使ってスンスンと臭いをかぐ。 1577 だが、かぐわしい女の体臭がするだけで、臭いはわからなかった。 ﹁わからん。一度脱ぐぞ﹂ ﹁うん﹂ ぱぱっとポンチョを脱ぐと、俺は立ち上がってキャロルから離れ、 再び鼻を使った。 やはり臭いは感じられない。 だが、ここ数日のキャロルの感覚は冴えている。 勘違いとも言い切れない。 ﹁今は匂いがするか?﹂ ﹁いや、しない。けどさっきは確かにしたんだ﹂ なら、風向きが少し変わったのかもしれない。 山火事ならともかく、焚き火程度の匂いなら、風向きが少し変わ っただけでそれてしまう可能性もある。 ﹁感じたのはいつ頃のことだ? ついさっきか﹂ ﹁うん。そうだ﹂ 俺はすぐに自分の親指を舌で舐めた。 風向きを確かめる。 少し逸れたとはいっても、向こうが火を焚いているとすれば、風 上に遡れば発見できるかもしれない。 ﹁それじゃ﹂ 少し見てくる。 1578 と言おうとして、心のなかの何かがうずき、言うのをやめた。 風は、俺が今日キャロルを背負って歩いてきた方向から吹いて来 ていた。 敵が足あとを追ってきているのだとしたら、そちらに無遠慮に行 くということは、順と逆に二重の足あとを付けることになってしま う。 直感的に、それはまずいと思った。 もし敵が明日の朝追跡を再開したとして、二重になっている足跡 が自分の宿営所まで続いているところを見れば、当然﹁昨日の晩、 標的は俺たちを見ていた﹂と考えるだろう。 そうすれば、俺が近い場所にいることがバレてしまう。 また、警戒も強まる。 むろん、二人組程度だったら、夜のうちに俺のほうから奇襲をか けて始末してしまうことを選ぶだろう。 寝ていれば何の抵抗もなく殺してしまうことができる。 そうしたら、足跡もくそもない。 だが、場合によっては五十人ほどが集まって寝ている可能性もな くはない。 その場合は、俺一人で撃滅することなど不可能だ。 そうしたら、敵にヒントを与えてしまうことになる。 この状況では一つのミスが命取りになる。 1579 だが、見に行かないという選択肢はない。 ﹁見てくる。少し待っていてくれ﹂ 目を凝らすと、新月から戻りつつある月のお陰か、夜目がそれな りに効くようになっていた。 足元くらいは見える。 俺は、軽くジャンプして出張った木の根に足を置いた。 それを5∼6回繰り返し、まずは十メートルほど足跡なく離れた。 そうしてから風上に登り始めた。 *** 二百メートルほど歩くと、焚き火の匂いが俺の鼻でも明らかに解 るほど強くなってきた。 キャロルの勘違いではなかったようだ。 更に百メートル弱歩くと、明かりが見えた。 光を見ると暗闇が見えなくなるので、注意して進む。 ほんの近くまで接近すると、木の影に隠れて、慎重に様子を伺っ た。 たくさんの男たちが、少し開けたところで横になっていた。 素早く数えると、十二人いる。 やはりというか、クラ人の兵たちだ。 1580 歩哨が一人立っており、もう一人は焚き火にあたり、他は火を囲 むように横になっていた。 それぞれは封筒のような形をした寝袋に入っている。 持ってきた弓を握り直す。 歩哨は鎧をつけているが、胸と腹を板金で覆ったような半鎧だっ た。 加えて背中を見せているので、弓で射れば倒せるだろう。 だが、もう一人、起きて焚き火にあたっている人間は、全身甲冑 の、所謂プレートアーマーを着ていた。 王侯貴族が着るような素晴らしい装飾と技術によって作られたも のではなく、割りと作りが雑で、金切りバサミで薄い金板を切った 貼ったして作った。みたいな感じだ。 しかも所々錆びているようにも見える。 だが、それでも全身を覆っているのは間違いなかった。 まあ、普通に考えて、こいつが部隊長格なんだろな。 きちんとした強弓と鋼の矢尻を使うなら別だろうが、俺が持って いる短弓と半分ナマクラのような矢尻では、どうにも鎧を貫ける可 能性は薄そうだ。 もちろん兜は脱いでいるが、頭をピンポイントで狙えるような技 術は、俺にはない。 部隊長を殺せば混乱させることは可能だろうが、十中八九外れて 終わりだろう。 実際、頭を狙ったとして、この距離では一割当たればいいほうだ。 1581 もちろん、一割の確率でも何のリスクもなければ挑戦するのが正 解だ。 だが、実際にはリスク満点だった。 俺は逃げきれる自信があるが、外した場合、敵に情報を与えてし まう。 俺がすぐ近くにおり、既に自分たちは追いすがっているという情 報を。 今は、こいつらには手を出さないのが賢明だ。 どうせ藪蛇になるなら、最初からなんもやらないほうがいい。 俺は顔をひっこめた。 そして、薄明かりの中で、僅かに届く焚き火の明かりを使って、 時計を取り出して時間を見た。 午後の九時だ。 食事も終わって、眠るにはいい時間ではある。 だが、この様子では、歩哨も含めて全員が眠る、というのはあり えないだろう。 去るか。 来る時と同じように、俺は音もなくその場を後にした。 *** 1582 ﹁はぁ∼∼⋮⋮﹂ しばらく歩いたところで、盛大にため息をついた。 貧血でもないのに眩暈がした。 胃が締め付けられるような気もする。 あいつらがいたのは、まさに俺が昼間に通ったところだ。 俺が、ちょっと開けてるしここで夜を明かすか、と一瞬思って、 いやまだ歩ける。とスルーした場所だ。 つまり、連中は明らかに俺の足を追っている。 そして、絶好のタイミングで夜襲をかけても、俺には連中を殲滅 することはできない。 もう一つ条件が加わる。 キャロルを背負ったままでは、俺は連中より足が遅く、明日か、 運が良くても明後日の午前中には、絶対に追いつかれる。 そうしたら終わりである。ということ。 苦しい。 だが、死ねない。 いつもは、どうしようもなくなったら無念の中で死ぬのも一興、 などと考えていた俺だが、今はそれじゃ済まない。 俺の生死は、キャロルのそれと重ね合わせになっている。 死ねないし、負けられない。 だが、負ける。 1583 もう俺たちは詰んでいるのだ。 土を踏まずにキャロルを背負って歩く方法はない。 背負ったままでは歩くのがやっとで、さっきのやったように木の 根を飛びながら移動することはできないのだから、二人の状態では 足跡を消せない。 終わりを意識すると、死の足音が聞こえたような気がした。 心臓の脈が早くなり、呼吸が荒くなり、神経が乱れ、手が小刻み に震え始める。 いや。 この考えはいけない。 恐れるな。 諦めて、投げるな。 どんな時でも可能性はある。 穴のまったくない包囲などない。 人間がやることなのだから。 俺と同じで、相手も間違いを犯す人間なのだ。 絶対に間違いを起こさない神のような存在と戦っているわけでは ない。 状況を覆す選択肢は必ずある。 問題は、俺にそれを発見できる能力があるのかということ。 そして、実行できる能力があるのかということだ。 1584 なにより、小さな可能性だからと、諦めてしまうことは、俺には できない。 一人だったころの俺なら、いつでも諦められた。 俺の命は、必死に頑張るほどの価値はない。 簡単に見捨てて、いつでも諦めてしまえる程度のものだった。 だが、今はキャロルの運命と紐付けされてしまっている。 たとえ可能性がなかったとしても、やるしかないのだ。 心臓が張り裂けるまで。 *** ﹁⋮⋮っ!﹂ キャロルのところまで戻ると、少し身じろぎしたのが見えた。 ﹁俺だ﹂ そう言うと、緊張が緩んだ気配がした。 敵かと思ったのだろう。 ﹁どうだった?﹂ ﹁ああ、居たぞ。十二人、今日俺が通ったまさにその道に野営して いた﹂ ﹁⋮⋮そうか﹂ 1585 淡々とした返答だった。 ﹁じゃあ、もう終わりだな。明日には⋮⋮﹂ ﹁まだ何も終わっちゃいない。何もな﹂ ﹁⋮⋮そうか? 何か策があるのか?﹂ ﹁ああ。帰ってくる間に考えた﹂ ﹁聞かせてくれないか?﹂ 教えるのか。 ⋮⋮まあ、それもいいかもしれん。 軽くでも教えないと不安だろうしな。 不安というのは、留守番する子どもを安心させるレベルの話じゃ なく、この場合は悲観して首を掻き切るレベルまで発展しかねない から、切実な問題だ。 ﹁そうだな⋮⋮簡単に言えば、俺たちが追いつめられてるのは、弱 点を抱えてるからだということに気づいた。足が遅いというな﹂ ﹁⋮⋮うん、そうだな﹂ 自分のせいだと思っているのだろう。 キャロルの声色はどこか儚げだった。 ﹁敵と戦う前に、その点を一度整理する必要がある。こちらの弱点 を晒して、相手にそこを攻められる戦いをしたら、負けるのは当た り前だからな﹂ ﹁うん﹂ ﹁そして、よく考えたら、敵のほうにも同じように弱点があること に気づいた。当たり前だがな﹂ 1586 ﹁そうなのか?﹂ ﹁ああ。だから、こちらの弱点を無くして、相手の弱点を突く。相 手の嫌がることをするわけだ﹂ ﹁⋮⋮わかった﹂ ? わかったってのは、何をわかったんだろう。 ﹁私を置いて戦ってくるということだな﹂ ああ。 こいつ本当に冴えてるな。 墜落してからこっち、こいつも背負われてるだけじゃなく、必死 に戦っている。 ﹁言っておくが、それもこれも、お前の鼻のおかげだ。敵をこちら から発見したのは、めちゃくちゃ大きい。お前のおかげで救われた ようなもんだ。これは気休めじゃなくな﹂ 今日の発見がなかったら、明日は追いつかれるまでのほほんと歩 くことになっていたろう。 そうなったらホントのホントに終わりだった。 ﹁いいんだ﹂ ﹁何がいいんだ?﹂ ﹁⋮⋮私は足手まといだから﹂ 足手まといとか。 1587 ﹁俺は好きでやってるだけだ。お前が気にすることじゃない﹂ ﹁違う。私のせいだ﹂ ﹁そうじゃないって何度も言ったろ﹂ ﹁ちがう⋮⋮⋮ふっ、うっ⋮⋮﹂ なにか様子がおかしい。 ﹁ふがい⋮⋮ないっ⋮⋮ぐ⋮⋮くぅ⋮⋮うぅう⋮⋮﹂ 涙声だ。 泣いてるのか。 そして、なんだかパシパシとなにかをしている音が聞こえはじめ た。 薄ぼんやりとしか見えないが、自分の足を殴っているらしい。 ﹁おい、やめろ。一体どうした﹂ 俺はわけがわからずそう言った。 ﹁この足が⋮⋮動けばっ⋮⋮﹂ ﹁怪我してるんだからしょうがないだろ。おいっ﹂ 俺はしゃがむと、キャロルの腕を暗闇で掴んだ。 暴れられたら困ると思ったが、キャロルは暴れること無く力を抜 く。 ﹁この足が動けば⋮⋮一緒に戦えたのに⋮⋮っ﹂ キャロルは絞りだすように言った。 1588 その気持ちは分かる。 俺だって、立場が逆だったら辛いだろう。 今まで学んだ戦いの術を発揮することもできず、キャロルに守ら れるだけだったら。 だが、俺はキャロルを重荷に感じているわけではないのだ。 これが守る価値を感じない屑だったら、重荷に感じて仕方がなか っただろう。 しかし、現実に、今の俺はそんなふうに感じていない。 ﹁そうだな⋮⋮だが、俺は悪くないと思ってるぞ﹂ ﹁⋮⋮なにがだ?﹂ ﹁俺だって命がけなわけだけどな、お前を守るために命をかけるの は、まったく悪くない気分なんだ。自分でも意外なほどにな﹂ ﹁⋮⋮⋮えっ⋮⋮﹂ これで気が楽になってくれればいいんだが。 まあ、気休めにでもなればいいだろう。 ﹁ともかく、話は後だ。今晩はやることが山程あるからな。さっさ とここを移動するぞ﹂ 1589 第102話 追跡 仕事を終えて、キャロルのところに戻った時には、夜はもうすっ かり明けてしまっていた。 ﹁ユーリ﹂ 顔を上げたキャロルは、寒さで震えているようだった。 俺は歩き続けていたから体が温まっているが、キャロルは火も焚 かず風に晒されたまま夜を過ごしていたのだ。 一睡もしていないのだろう。 俺は、持っていた荷をドサドサと落としていった。 べつに必要な荷物ではなく、単なるウェイトとして背負っていっ た荷物だ。 キャロルと荷物の両方を置いていってしまうと、体重が半分以下 になることから、足あとが不自然になるかと思い、背負って行った。 ﹁なにかあったか﹂ ﹁あった。三十分ほど前、叫び声が⋮⋮﹂ ﹁そうか﹂ 自分でも驚くほど心が動かなかった。 事実を受け止めている。 もう、手は震えていない。 震える気配もなく、眠気もなく、体の力は適度に抜けている。 1590 過度の緊張は神経を過敏にさせ、筋肉の制御を失わせる。 手が震えるのは、神経が興奮物質に侵され、筋肉が勝手に動くか らだ。 そんな状態では、火事場の馬鹿力は出るのかもしれないが、精妙 な動きは失われてしまう。 今は、そんなことはない。 体は自分の思った通り、自由自在に動く。 覚悟を決めたからなのか知らないが、よかった。 ﹁悪いが、短刀はお前の分も借りて行くぞ﹂ ﹁⋮⋮うん﹂ ﹁代わりにナイフを置いていくからな﹂ 俺は料理に使っているナイフをキャロルに渡した。 刃渡りは短く、さほど鍛えられたナイフではないが、もしものと きに自害する程度の用には足りるだろう。 ﹁⋮⋮⋮﹂ ﹁?﹂ 無言で顔を見つめる俺を、キャロルは疑問げに見つめ返した。 何か言葉をかけようと思ったが、見つからない。 ﹁⋮⋮じゃあな﹂ 結局、特に言うことを思いつかず、短い言葉だけ残し、軽く手を 振った。 1591 ﹁⋮⋮うん、頑張って﹂ 俺は、返事をせずに歩き去った。 *** キャロルのところから、足あとを隠しながら少し歩くと、昨日寝 ていた場所にたどり着いた。 昨日、俺はここからキャロルを背負い、あらぬ方向に向かって移 動し、キャロルを置いていった。 そして、手作りのたいまつを片手に、足あとを丁寧に手で消しな がら、元の場所まで戻った。 そうして、改めて森の奥へ歩いた。 連中は、俺たちが昨夜寝ていた場所を見つけるだろう。 そこで荷をおろし、眠ったことも解るはずだ。 そこから足あとが残っていないのであれば、消した痕跡も見つか るだろう。 だが、それとは別に、くっきりと残った足あとが野宿の痕跡から さらに先へと伸びている。 そうであれば疑いはしない。 現実に、大量の足あとが、昨夜俺の歩いた先へ向かって進んでい るようだった。 そうでなかったら、先ほどキャロルが無事ではいなかっただろう。 1592 そして、俺は昨夜、アラーム代わりになるかと思い、そこに罠を 一つ仕掛けておいた。 こっそりと近づくと、その罠には引っかかった痕跡があった。 より まず、細い撚紐が、木と木の間にスネの高さで張ってある。 その紐は跨いでいったようだった。 急いでいたのか、足を引っ掛けて罠を作動させることを恐れたの か、切断もされずにそのまま残っている。 だが、この紐は本当に横に張ってあるだけで、足を引っ掛けても 転ぶだけなのである。 本命となるのは、これを跨いだ向こうにある穴だった。 シャベルで軽く掘ったあとに矢尻を立て、その上から枯れ葉を乗 せただけの穴は、踏めば矢尻がザックリと足裏に食い込む。 ロープを跨いだ大股の一歩目は、体重が乗っているはずなので、 余計にぐっさりいくはずだった。 二個作った穴は、片方に明らかに踏んだ痕跡があり、鮮血が土に 滲んでいた。 踏んだ後、その場にぶっ倒れ、もんどり打ったらしく、ごちゃご ちゃと地面を荒らした形跡が見受けられる。 もう片方は、踏む前に察知されたのか、軽く掘り返されて矢尻を 撤去してあった。 まあ、二個とも踏んだら馬鹿すぎるわな。 二つ穴を作ったのは、穴が一つでは右足で跨いだ場合と左足で跨 いだ場合とで、両方をカバーすることができないからだった。 1593 なので、一つが不発なのは想定内だ。 刺さらなかった方の矢尻は、そこらに放り投げでもして処分した のか、見当たらなかった。 だが、もう一方の矢尻は、鮮血にまみれたまま、近くの地面に落 ちていた。 ボロ布で軽く拭いて、物入れに回収しておく。 ついでに、より紐も回収した。 改めて足あとを見ると、その場で軽く止血をして、怪我をした人 間も帯同して歩いていったようだ。 止血といっても、きつく縛っただけなのだろう。 完全ではないらしく、血の痕跡がスタンプのように足跡をつくっ ていた。 それを辿って、俺は更に進んでいった。 *** 数百メートルほど歩くと、そこに人がいた。 負傷をかかえた足をおして、しばらくの間はついて行ったが、結 局置いて行かれたのだろう。 一人の男が、木に背をもたれかけて座っていた。 右足からは血が出て、地面に血溜まりを作っている。 1594 キッチリと縫合していても、足の裏に矢傷を追った状態で道を歩 くなんてのは、かなり無理がある。 ただ縛っただけでは、なおのこと無茶だ。 人間は一リットルも血液が流出すれば、血圧が相当下がる。 二リットルも出血すれば、死んでしまう。 傷口が開いた状態の足で、とめどなく血を流しながら歩いていれ ば、そのくらいの血液が流出するのはすぐだろう。 死んでこそいないものの、すでに意識はかなり朦朧としているは ずだ。 顔色もずいぶんと悪い。 ﹁よう、置いて行かれたのか﹂ 俺はそうクラ語で話しかけながら近づいた。 男は顔をあげると、俺を見る。 俺は耳を隠し、服は竜騎士から奪ったものを着ている。 意匠は違うが、同じクラ人の服なので、シヤルタのものほど異質 には見えないだろう。 元より多種多様の軍隊の寄せ集めなのだから、さほど違和感は感 じないはずだ。 感じるとしたら、むしろ若すぎるという年齢の点だろう。 男は窮地にあって疑いもせず、パッと顔を輝かせて俺を見た。 おそらくは三十代にさしかかったようなおっさんだ。 だいぶ髭が伸びていた。 1595 ﹁おう⋮⋮悪いが助けてくれ﹂ ﹁そうだな。その役目だ﹂ 俺がそう答えると、男は再びうつむいた。 男に近づく。 俺は短刀を鞘から抜くと、 ﹁おい、大丈夫か。俺の目を見ろ﹂ と言った。 男が顔を上げた瞬間、刃を喉に差し入れる。 鋭く研がれた名刀の刃は、殆ど何の抵抗も感じさせずに、つぷっ と男の喉を貫いた。 ﹁オッ⋮⋮カッ﹂ 横にして差し込まれた刃は、気道を閉塞する。 叫ばれては困る事情があった。 大声が届く範囲に、まだ連中がいる可能性は、十分残っている。 ﹁⋮⋮ッ⋮﹂ 男は剣の柄に手をかけた。 だが、男の剣は抜けない。 俺が空いた左手で柄頭を押さえ、剣を抜けないようにしていたか らだ。 1596 剣が抜けないことがわかると、男は俺の腕を掴み、精一杯抵抗を したが、元より血を失った状態で、窒息までしていては、ろくに力 はでないようだった。 そうしているうち、ジタバタもなくなり、完全に息の根が止まっ た。 それからさらに十秒待ち、短刀を引き抜いた。 心臓が止まったあととはいえ、喉に溜まっていたのか、短刀を抜 いた穴から、血がどろりと溢れてきた。 だが、噴水のように吹き上がったりはしない。 血糊がべったりついて、分厚いなめし革のようになった服では、 戦うにも問題がある。 苦しい思いをさせてしまったが、敵の死に方にまで思いを馳せて いる余裕はない。 これで正解だった。 *** 死体漁りのようで若干気分が悪いが、俺は早速といわんばかりに、 男の持ち物を漁った。 まずは剣だ。 短刀のほうが使い慣れているが、剣を使っても良いかもしれない。 そう思って、剣を鞘から抜いてみると、やはりというか、両刃の 直剣だった。 1597 長さが短めである以外は、厚みも広さもこれといって特徴のない、 普通の剣だった。 あえて分類するとすれば、ショートソードということになるのだ ろうか。 俺が訓練を受けてきたのは、反りの入った短剣なので、諸刃の直 剣などというものは、尚更慣れていない。 殆ど興味を失いながら、どれほどのものかと、地面を使って剣を 反らせてみた。 ⋮⋮全く反らない。 まるでカッターナイフの刃を重ねたような、ギシギシとした感触 が腕を撫でた。 赤熱するまで焼いた剣を、冬場の水にボチャンと落として、その まま引き上げて軽く研いだ。といった感じだ。 こんなものでは、剛槍の一撃でも受ければ、枯れ枝が折れるよう にポキッと折れてしまうだろう。 あまり期待もしていなかったが、幾らなんでもこの剣を使おうと は思えなかった。 他の荷物を漁る。 食料の他に、腹に巻いたポーチのような袋からは、何故か鉄砲道 具がでてきた。 男は、鉄砲を持っていないし、見た限りでは近くに置いてある様 子もない。 1598 ポーチには、鉛の粒が詰まった袋と、それとは別に火薬がはいっ ており、火縄袋には火が燻ったままの火縄まであった。 鉛の粒は、熱して溶かして弾丸にするものだ。 鉛の粒を弾丸にするための器具というのは、簡単に言えばたい焼 き器のような形をしていて、たい焼きの代わりに丸い弾丸を作る空 洞が開いている。 大きさはさほど大きくはなく、手のひらサイズのものが一般的だ。 鉄砲の口径は共通規格で何ミリなどと決まっているわけではない ので、作りおきのものを一万個持って行って各兵に配っても、その 弾丸は鉄砲の口に入らないかもしれないし、小さすぎて使えないか もしれない。 なので、鉄砲には予め口径を合わせてある器具がセットになって いて、兵には鉛粒を配り、弾は各々が鉛を溶かして製作する。 鉛は三百度少しの温度で溶けるので、熱源は焚き火で十分だ。 小さいオタマのような器具を火にかざし、鉛粒を溶かして、たい 焼き器の中に注ぎ込めば、弾丸は完成する。 男は、鉛の粒はもっていても、肝心のたい焼き器のほうは持って いなかった。 そっちのほうは火縄銃と常にセットで扱われるものなので、回収 していったのだろう。 火縄と鉛粒、そして火薬を置いていっているのは、それらは足り ているのでいらない。という判断からだろうか。 敵方は、少なくとも二丁以上の鉄砲を持っているわけだ。 1599 一瞬、ズンと心が重くなった気がした。 すぐに気を取り直す。 暗くなっている場合ではない。 考えてみれば、こいつがここまで道具を持っているということは、 こいつは射手と考えていい。 誰かが継ぐ形で鉄砲を持っているとしても、そいつは元々鉄砲手 ではないだろう。 ともかく、火薬が手に入った。 なんとか利用できないだろうか。 火薬は、別に鉄砲にしか使えないわけではない。 一握りほどの火薬を、ただ燃やしただけでも、至近距離で肌を晒 していれば、熱に晒され火傷を負うほどの熱量を発する。 単に燃やしただけでも、目眩ましくらいにはなるだろう。 少しの間、考えこむ。 五分ほど考えていただろうか。 思うところあって、男の荷物を再び漁ると、調度良いものがあっ た。 銅の皿だ。 普段乱暴に磨いているのか、傷だらけの上、緑青まで浮いていた。 行軍にあたっては、陶器の皿では割れてしまうし、木の皿では厚 みがあってかさばるので、薄く作れる銅の皿は、なにかと便利なの だろう。 1600 これがあれば、多少使い道のあるものが作れそうだ。 俺は、周辺の林を少し歩いて、大きめの石を探した。 少し歩くと、人間の頭ほどの大きさの岩が、地面に顔を出してい た。 使うのを諦めた、男が持っていた剣を岩に乗せる。 俺はもう一つ片手に収まる石を探すと、それで剣を叩いた。 石に挟まれた剣は、パキンッ、と簡単に二つに折れた。 破片が数個、勢い良く飛ぶ。 今更ながら、たいへん危険なことに気づいた。 破片が目にでも入ったら大変だ。 服の中に入っても痛い目を見る。 男の死体があるところに一度戻り、服を脱がすのは抵抗があった ので、背負っていたバッグを回収し、中身を全部捨て、代わりに剣 を突き刺した。 丈夫な布なので、突き抜けて飛散するといったことはないだろう。 石のところに戻り、ボロ布で手を包んで、作業を続行する。 ぱきん、ぱきん、と剣を砕いていった。 だいたいのところが終わると、穴だらけになったバッグに包み、 持ち帰った。 死体のところに戻ると、折れた剣の柄の部分を使って、銅板に一 直線に切れ目を入れた。 1601 何度か繰り返して、切れ目を深くする。 そして、剣の破片を並べた。 火薬袋から少し火薬を出し、ボロ布に火薬をふりかけると、それ を導火線として、火薬袋に差し入れる。 それを皿の真ん中に置いた。 そこでふと気づいた。 鉛粒もいれとこうか。 散弾のようになるかもしれない。 一掴みほど鉛粒を入れようとして、少し考えてやめた。 ほんの少しにしておこう。 あまりに質量が大きくなりすぎると、力が分散されすぎ、肉どこ ろか皮で止まってしまうかもしれない。 それでは流石に意味がない。 最後に、銅板を切れ目にそって力任せに曲げ、導火線を除いて折 りたたみ、火薬と鉄片と鉛粒の銅板サンドイッチを作った。 こういった爆発物は、入れ物がある程度強固なほうが威力を増す。 大分時間がかかってしまった。 時間をかけた甲斐があればいいが。 急がなければ。 1602 第103話 接触 夜の間に、俺は一度、この道を先まで進んでいた。 そして、軽く罠を張ると、大廻りのルートを通って、円を描くよ うにキャロルのところまで戻った。 もちろん、本当に一繋がりのまま戻ったら、そのまま追手はキャ ロルのところまで行き着いてしまう。 なので、適当なところまで歩くと、松明で足下を照らしながら、 つけた足あとを慎重に踏み、後ろ歩きに引き返した。 野生動物が巣の位置を捕食者から隠すためにやる技術で、バック トラックという。 百メートル弱程度の距離をやったところで、さすがに疲れて脇道 に逸れた。 つまりOの形で戻るのではなく、Pの形で戻ったわけだ。 俺は既に、その逸れた地点を通過していた。 つまり、足あとはもう百メートル弱しか残っていない。 連中の足あとは、バックトラックに気づかず、更に先へと進んで いた。 まさに終点のところで、木々の隙間に人間の背中が見えた。 敵は、すでに終点まで到着していた。 俺の足あとが途絶えてしまったので、付近を捜索しているらしい。 俺はその場でさっと身を隠し、連中を良く観察した。 1603 さて⋮⋮。 敵は一人減って十一人だ。 木に隠れていて全員は見えないが、見える範囲で五人ほどもいる ので、全体で十人くらいはいそうな大所帯に見える。 別働隊を分けて行動しているわけではなさそうだ。 今は、ちょうど終点のあたりに武装以外の背負い荷物をすべて置 き、捜索に移っているらしい。 うち一人は、荷物を部下に持たせる代わりに、自分はプレートア ーマーで重武装していた。 目立つのでよく見える。 十一人いても手製爆弾とか使えばいけるだろう。 そう考えていた時期が俺にもありました。 ・ ・ ・ ・ ・ 十一人は、移動中ではなく探索中という感じで、やや散開してい る。 密集ではなく、直径七メートル位の広さで、やや散開し、足あと を探っている。 面倒な状況だった。 散開されていては、爆弾をポーンと投げたところで、最大限効果 を期待しても、一人二人殺せればいいところだろう。 平原ならどうかわからないが、ここでは木や下生えが障害物とな る。 逆にめいめいが十メートル以上も離れていれば、各個撃破もでき 1604 そうなものだが、この程度のバラけ具合ならば、仲間に矢が突き刺 されば、悲鳴なりなんなりですぐに気づいてしまう。 そうしたら、全員が襲いかかってくるだろう。 絶妙に厄介なバラけかただった。 どうするか⋮⋮。 二、三分も考えていただろうか。 相手がどれほどの能力のある集団かは判らないが、まずは俺を包 囲するのが基本戦術となるだろう。 一丸となって追ってきてくれれば、爆弾の餌食になってくれるか もしれないが、それも難しい。 着火してから爆発するまでの時間が読めない。 手榴弾のように五秒なら五秒と決まっているものなら良いが、そ うではない。 導火線を使っているから、即発して俺が死ぬということはないと 思うが、秒数はわからない。 まあ、当たって砕けろで行ってみるか。 ダメなら逃げればいいし。 俺はなるべく自然な調子で歩き出した。 *** トコトコと歩くと、敵の背中が見えてくる。 気づかれそうな間合いに入っても、ビビってはいけない。 1605 堂々としているのが肝要なのだ。 背中に下げてきた弓と矢が惜しくなる。 爆弾を諦めて遠距離から狙えば、一人二人には致命傷を与えられ るかもしれない。 だが、敵は十一人いるのだ。 一番後ろで地面を見ていた壮年の男が、こちらに気づいて顔をあ げた。 ﹁ンッ!?﹂ なにか変なものを見た。という顔をしている。 もちろん、俺は頭に布を巻いているので、シャン人だとはわから ないはずだ。 ﹁おう、やっと追いついた。お前らは悪魔を追っている連中だよな ?﹂ ﹁??? そうだが⋮⋮?﹂ ﹁指導者はどこだ?﹂ ﹁指導者???﹂ やべぇなんか変な反応だ。 なんかニュアンスが違ったようだ。 ﹁ンンッ。指揮官だ﹂ ﹁指揮官か。それであんたは何者だ﹂ 1606 指揮官でよかったらしい。 指導者という単語はちょっと相応しくなかったのか。 危ないところだった。 今更引けないが、ボロがボロボロでてくるのは避けられんな。 ﹁教皇領のエピタフ・パラッツォの命令で来た。挺身騎士団の者だ﹂ ﹁そ、そうですか。失礼を﹂ ﹁いい﹂ なんかやべぇな。 ちょっとフランクに接しすぎている気がする。 最初のキャラが間違ったか。 とはいえ、俺の外見はまだ少年にしか見えないはずだ。 良く考えてみりゃそっからして不自然なんだよな。 まあいいか。 いざとなったら逃げよう。 当初の作戦からすれば、どうしても爆弾が必要なわけではない。 あくまであれはオマケだ。 見極めを誤らないようにしないとな。 囲まれたら終わりだ。 ﹁隊長!﹂ 男が大声を出すより先に、プレートアーマーの男は、こっちを振 り返っていた。 1607 顔を覆う面頬というか、マスクのような部分は上にあげられてい る。 年中下げてたら、視界が悪くなってしょうがないのだろう。 だが、こりゃマスクを下げられたら手出ししにくいな。 キリ 槍⋮⋮それも先端が錐のようになった手槍があったら、鎧も刺し 貫けるだろうが。 普通の槍を持つくらいなら、むしろピッケルとかツルハシみたい な、力が乗る武器があったらやりやすそうだ。 もちろん、どちらもない。 ﹁どうした﹂ ﹁教皇領からの⋮⋮たぶん連絡員かなにかだと思うのですが⋮⋮﹂ ﹁なるほど﹂ ﹁ごきげんよう﹂ 俺はイーサ先生に教わったクラ人式の礼をした。 左手を右の胸のあたりに添えながら、右手を大きく振る特有のジ ェスチャーをしつつ、すっと頭を下げる。 隊長と呼ばれた男は、俺の仕草を見て一瞬訝しげな目をした。 やばいな。 ニワカ知識を武器にそのスジの専門家と論戦してる気分だ。 どこをどう突かれて論破されるか解ったもんじゃないのに、ニワ カ知識を自信満々に並べ立てる羽目になってる感じ。 1608 イーサ先生から教わった知識で、教皇領についてはかなり詳しい ︵と自負している︶ので、大丈夫かと思ったんだが。 訛りも教皇領設定なら問題ないはずだし。 隊長は、若干迷いつつも俺と同じようにジェスチャーを返してき た。 だが、その仕草はややぎこちない。 こういった挨拶は、こういった鎧を着るような社会階層であれば、 日常的にやっている動作であろうと思われるので、ぎこちないとい うことはないだろう。 おそらく、俺が間違っていたのだ。 俺がやったのは社交用の礼とか、宮廷挨拶用の礼とかで、武官が 戦場でやるものではなく、田舎侍には馴染みが薄いとか、そんな感 じに思える。 ﹁ごきげんよう。カンカー・ウィレンスと申します﹂ 名乗られた。 名乗り返さなければ。 忙しいな。 ﹁これは失礼。俺はユグノー・フランシスである﹂ とっさに偽名を作った。 こうなったら最後まで高飛車な若造キャラで通したほうがいいだ ろう。 どうせ貴族社会だし、こんなもんでも通るだろ。 1609 ﹁それで、どのようなご用件ですかな﹂ ﹁その前に、悪魔の捜索を聞きたい。どのような進捗状況にあるの か﹂ ﹁順調にいっております。もう二、三日のうちには、必ずや首印を あげられるものかと﹂ どうやら、不審人物とは思いながらも、俺を疑っては居ないらし い。 そらそうだ。 俺はクラ語ができる。 追っているシャン人が、たまたまクラ語の話者だったなんてこと は、思いもよらないことだろう。 向こうからしてみりゃ、シビャクで石を投げたら金髪女に命中し たってくらい、考えられない話だ。 ﹁そうか。ああ、いい忘れたが、俺はパラッツォ卿の命令で来た﹂ ﹁なるほど﹂ ﹁具体的に、今はなにをしている。どうやら立ち止まっていたよう だが﹂ 俺はわかりきったことを聞いた。 ﹁足あとを追っているのですが、どうやらここで途絶えているよう なので、続きを探し始めたところです﹂ 意外にも正直に喋った。 見栄を張って嘘をつくつもりはないらしい。 1610 しかし、﹁続きを探していた﹂ではなく﹁探し始めたところ﹂な のか。 すると、こいつらはさっき到着したばかりか。 ﹁ふむ、ということは、悪魔のほうは我ら追手に感づいているらし いな﹂ ﹁それは⋮⋮どうでしょう﹂ ﹁俺も貴君らの足あとを追ってきたが、今のように散じて足あとを 探していた形跡はなかった。察するに、今はじめてそうなっている のだろう﹂ 俺がそう言うと、カンカーと言うらしい隊長は、若干図星を突か れたような顔をした。 ﹁ということは、きゃつらは貴君らに追いつかれたのを察して隠れ ているか、もしくは⋮⋮我々を逆に奇襲しようと近くに潜んでいる のだ﹂ ﹁そうでしょうか? たまたま見失っただけで、先に進んでいる可 能性も﹂ まあ、そうなるわな。 正論だ。 あー⋮⋮⋮。 ちょっとまずいな。 当たって砕けろという気分ではあったものの、こういう話の展開 になるのであれば、もう少し観察しているべきだったかもしれん。 1611 もう少し捜索させてから、満を持して俺が新兵器を携えて登場。 ならばまだ解るが、どうも見たところ、こいつらは正味三十分も探 索してないようだ。 そんな状態では、まだ﹁もう少し探せば先に行った足あとが見つ かるかも﹂という意見が優勢を占めるだろう。 俺の﹁隠れて逆襲を狙っているよ﹂説は、十分探索して﹁これは どうもおかしい﹂と疑念が渦巻くようになって、そこで初めて考慮 に入れるべき話だ。 あと三十分ほど探した後でなければ、説得力が出てこないだろう。 まだ空気ができていない。 だが、もう後にも引けん。 ﹁そうか? 例えば、木の上などは調べたのか? もしここから木 に登り始めたら、足あとなど掴みようがあるまい﹂ 実際、樹上を見上げると、まだ葉も揃わないものの、上の方に登 られてしまえば、隠れた人を発見するのは困難だろう程度には、密 集した樹冠が広がっていた。 木登りして通り過ぎるのを待つというのも、それはそれで一つの 手だろう。 矢を射掛けられたら詰みなので、俺だったらやらないが、追い詰 められた人間であれば、そういう選択肢をとってもおかしくはない。 ﹁どうでしょう﹂ カンカーは、肯定も否定もしない答えを返してきた。 1612 あえていえば疑問だろうか。 それは表現として俺と衝突しないために疑問という形をとってい るだけで、心中では否定しているのだろう。 全員で木の上を探せ、といっても従わないに違いない。 全員が木の上に昇ったら、カンカーに戦いを仕掛けて、慌てた連 中は樹上から転げ落ちて怪我をする。という流れを思いついていた のだが、無理そうだ。 こいつは、自分の意見を強く持っているタイプなのか、なかなか 揺るがない。 主導権を取りづらい。 ﹁しからば、パラッツォ卿からとある兵器を預かってきている﹂ ﹁ふむ?﹂ ﹁これだ﹂ と、俺は手製爆弾を取り出した。 カンカーはそれを見て、訝しげな目をする。 ﹁これは秘薬を練り込んだ炭を中で焼き蒸し、悪魔にとっての毒を 吐き出すものだ。付近に悪魔がいたら苦しみだすので、居場所がわ かる﹂ ﹁⋮⋮⋮なるほど﹂ 若干、沈黙が長かった。 ﹁では、全員を集めてくれ﹂ 1613 ﹁なぜでしょう﹂ ﹁悪魔が出てきでもしたら、全員で倒しに行かねばならんだろうが。 バラバラになっていたら、逃げられるかもしれん﹂ ﹁ふうむ⋮⋮﹂ なにか引っかかる所があるらしい。 そらそうか。 この三文芝居だもんな。 だが、﹁いっぺんやるだけやらせてみろ﹂というのは、常に意見 として一定の説得力を秘めている。 教皇領の人間︵という設定︶ならなおさらだ。 ﹁⋮⋮しかし、その毒というのはヒトも害するものではないのです か﹂ なるほど。 そこを心配してくるか。 たしかに、シャン人だけを選択的に攻撃できるなどと言われても、 それは劇毒か微毒かの違いがあるだけで、自分にとっても多かれ少 なかれ毒なのではなかろうか。と考えるのは、まともな思考だ。 農薬だって、虫だけ殺すといっても、量が過ぎれば人間にも害が ある。 わざわざ部下を一箇所に集めて全員暴露させるというのは、御免 被りたいってところか。 これもまた正論だ。 嘘をつくにしても、少しまずったな。 1614 ﹁正確に言えば、毒というのは間違いだな。長耳にとっては息がで きないほどの悪臭を発するのだ。我らにとっては⋮⋮そうだな、香 りの強い木を燃やした程度にしか感じない﹂ 俺は白々しい嘘をついた。 臭いだけ。 ちょっと臭いだけだから。 ﹁ふむ⋮⋮﹂ ﹁わかったら、早く集めたまえ。パラッツォ卿は気の長いお方では ないのだ﹂ 知らないけど。 こうなりゃゴリ押しだ。 しばらく考えこんだあと、ややあって、 ﹁わかりました﹂ と了承すると、 ﹁集合!﹂ と、カンカーは号令をかけた。 *** カンカーが号令をかけると、それを聞きつけた連中が集まってき 1615 た。 ひーふーみー⋮⋮確かに十一人いる。 改めてよく見ると、全員が別々の服を着ていた。 頭に鉄鉢のような錆かけのヘルメットを付けているのは一緒だが、 服はそれぞれ仕立てが違う。 だが、敵味方区別のためか、胸や腕には簡単なマークが描かれた 白布を縫い付けていた。 おそらく、服が違うのはそれぞれ別の軍団だからではなく、揃い の服を着せるような正式な軍隊ではないからだろう。 それを確認してから、俺は爆弾に火をつけようとした。 ライターを取り出す。 ﹁んっ⋮⋮? それは?﹂ カンカーが指摘をした。 ﹁パラッツォ卿から賜った、昨今流行りの品だ﹂ もう全部適当言っときゃええわ。 ﹁パラッツォ卿から直に? それは羨ましい﹂ ﹁ええ、大事にしております﹂ ﹁ところで﹂ ん? ﹁その服装はどこで手に入れられたのですか?﹂ 1616 あー。 ドラゴンライダー ﹁⋮⋮偽装用として支給されたものだが?﹂ ここは演技力が問われるな。 服装に関しては、つまり俺は竜騎士が着ていた服を着ている。 仕立ても無骨で、いくら戦場衣装にしても、貴族が着るようなも のではない。 ﹁先ほど気づいたのですが、それは竜王国のものに見えますな。肩 に彼らの紋章がついている﹂ ああ。 こりゃあかんな。 どうやら、エンターク竜王国のものだったらしい。 つまり、教皇領のものではない。 殺した何名かの追手とさほど変わりがない服だったから、民族衣 装だったのはターバンだけで、服はテロル語圏で標準的な意匠だと 思っていた。 が、見る者が見れば違いが解るものだったようだ。 やっちまった。 エンターク竜王国といえば、その名の通り竜を扱う国家の片割れ だ。 偽装死体の身元がバレていると仮定すると、その服を着ていると 1617 いうことは、こいつは今追っているシャン人その人である。という 結論に至るだろう。 エンターク竜王国はココルル教の国だから、そこの服を着て参加 している人間なんてのは、たぶん竜騎士一人だけだろうし。 だが、確証は得られていないはずだ。 かなり、相当に、有力な状況証拠ではあるものの、これは絶対的 な証拠ではない。 不確定さが残る状況証拠で、教皇領からの使者︵自称︶をいきな り切り捨てることができるだろうか。 それはリスキーだ。 ﹁ふむ。貴殿は私を疑っているらしい﹂ ﹁失礼ながら、そうですな﹂ 俺が限りなく怪しいと踏んでいるのであれば、なぜ手下を集めた のか。 それは、俺の手製爆弾の正体がなんであるにせよ、直接的な脅威 ではないと判断しているからだろう。 常識的に考えれば、導火線に火をつけるには、火をおこすことが 必要だ。 そうでなければ、火縄など着火済みのものを使う必要があるが、 こちらは確実に着火できるとは限らない。 こいつは、俺が今持っているライターが即席に着火できる道具だ とは認識していない。 1618 ﹁恐れながら、疑いを晴らすためにその頭巾を取って頂きたい﹂ そうくるか。 まあ、それが一番手っ取り早いわな。 できない理由もないはずだし。 ﹁ふむ⋮⋮よかろう。つまらんことに時間を費やしたくない﹂ 俺は、耳を隠すために巻いていた布に手をかけた。 1619 第104話 鉄火 ふぁさっ、と布を取ると、髪の毛が宙に泳いだ。 ﹁これでいいな﹂ 俺はそう言って、改めてライターのフタを開けた。 ﹁⋮⋮ちょっと待ってほしい、良く見えない﹂ それはそうだろう。 よく見えたら大変だ。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 俺は、松明の焼けた煤を、耳の上半分に塗っていた。 俺の髪の毛は黒髪で、耳にかかる程度には長い。 たとえ耳が出ていても、黒さに紛れて一瞬で確信できるものでは ないだろう。 ﹁もういいだろう。後にしろ﹂ 俺はライターの火打ち石を削り、着火させ、それを導火線にかざ した。 ﹁待ちたまえ﹂ 今度はそちらの判断力が試される番だな。 呑気で優柔不断な馬鹿であることを祈る。 1620 ﹁俺は貴君の言うとおり、頭巾を外した。今度は貴君が我慢をする べきだろう。耳の次は尻の穴まで見せろという気か?﹂ 内心で付け、早く付け、と念じながら、表面を取り繕った会話を する。 ﹁それをやめたまえっ!﹂ ライターに気づいたカンカーは、俺の手を握ろうとしてきた。 導火線に火がつき、ジジッという特徴的な燃焼音が聞こえ始めた のは、その時だった。 俺は手から逃れるように、一歩退きながらクルッとターンをする と、そのままの勢いで手製爆弾を下手投げに投げ込んだ。 爆弾は、カンカーの股をくぐり、ちょうど後ろくらい、手下の連 中のいる真ん中あたりに落ちる。 手下どもは、身内の内輪もめと考えているのか、まだ状況を飲み 込めず狼狽しているらしい。 ﹁くっ⋮⋮!﹂ カンカーは振り向き、俺の手製爆弾を見た。 拾おうとしたら阻止するべきだろうか? ﹁なにを殺気立っているのだ貴君は。少し頭がおかしくなっている のか?﹂ 俺はついでのように煽った。 勘違いは長くさせておけばさせておくほどいい。 1621 爆風と破片はカンカーに防がれて俺には届かないだろう。 あとは、爆破までいつまでかかるか、だ。 とりあえず、即爆発はしないようだが。 ﹁誰でもいいっ! その上に覆いかぶされ!!!﹂ カンカーは唐突にとんでもない命令を下した。 それは、非常に合理的で、この状況では最適といってよい指示だ った。 そんなことをされたら非常に困る。 しかも、兵は、俺がした嘘の説明から、あれを危険物とは認識し ていないに違いない。 だとすれば、覆いかぶさるに躊躇はないだろう。 死を賭した自己犠牲心が必要とされるわけではない。 実際、ひどく従順な性格なのか、一人が早速覆いかぶさろうとし ている。 まずい。 ﹁やめろっ! 死ぬぞ!﹂ 俺がそう言うと、その兵は覆いかぶさろうとするのを躊躇した。 やった。 と、思った刹那であった。 1622 一陣の風が吹くような一太刀が、俺の顔面めがけて襲ってきた。 すんでのところで上体をずらして避ける。 ﹁ふむ﹂ 思わず、鼻筋を撫でる。 斬られていなかった。 ﹁一応聞いておこう。死ぬとはどういうことだ?﹂ ﹁比喩の一つだ。火傷をしてしまいかねない﹂ もう三文芝居をやめて、ネタバレをしたいところだったが、爆弾 はまだ爆発していない。 それが問題だった。 ・ ・ ・ ・ 不発の可能性も当然あるものの、もう少し待ってみたい。 この場から逃げたら、爆弾を置いてけぼりに連中を引っ張ること になる。 そうしたら、爆弾を置いてけぼりに、言うなれば戦線が移動して しまう。 せっかく爆発しても、遥か後方ということになるだろう。 ということは、俺が壁となって、ここで食い止める必要がある。 が、自衛のために短刀は抜いておいたほうがいいだろう。 俺は、愛刀のほうを抜いた。 ﹁先に抜いたのは貴殿のほうだぞ。エピタフ殿にどう申し開きをす 1623 るつもりだ﹂ ひどい言い草だ。 どうでもいいが、なんだか虎の威を借りているようで気分がわり ぃな。 ﹁もはや問答は無用﹂ もうすっかり殺る気らしい。 まあ、戦争中だし、場合によっちゃ殺して埋めて最初から来なか ったことにすりゃいいもんな。 来てません、途中で殺されたのでしょう。で済む話だ。 万全を期すのであれば、一兵卒十人くらいなら口封じに殺してし まってもいいんだろうし。 ﹁では一騎打ちというわけだな﹂ ﹁ム?﹂ こひょう ﹁ん? まさか貴殿、このような小刀しか持たぬ小兵相手に、一人 では不足というわけか?﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 俺は舌戦をやめなかった。 一番嫌なのは、囲め、という命令が出て、部下が一斉に動くこと だ。 そうしたら、兵は移動し、爆弾の意味はなくなる。 二人が手に持っている鉄砲に火縄が装着されれば、ひとたまりも ない。 1624 いや、この期に及んでも爆発しないということは、もはや爆弾は 不発と見るべきか。 あれにあまり拘泥するのも良くない。 が、カンカーは部下に指示をしなかった。 代わりに、長い柄のついた刃渡りが1メートル以上もあるような 長剣を、ギュッと握りなおした。 面頬を降ろさなかったのは、隙ができるのを避けるためだろう。 ﹁ヌウッ!﹂ カンカーは長剣を小枝のように繰り出し、斬撃を繰り出してきた。 見た目の鈍重さに不釣合いな鋭敏さで、ピッピッと剣先が跳ねま わる。 袈裟に薙いだと思えば、まばたきするほどの暇もなく、瞬時に逆 に切り返してくる。 そこで止まることなく、次々と連続した斬撃が襲い掛かってきた。 思わず冷や汗がでてくるような、キレのある剣術だ。 俺は繰り出される剣を避けつつ、堪らず二、三歩退いた。 やばい。 こいつはヤバい。 俺は舐めてかかっていた。 技巧に傾いたソイムの爺さんとはまた違った強さだが、騎士院で 槍を教えてるオッサンよりは確実に強い。 1625 俺が今まで出会った中では、間違いなく最強の一角だ。 気を抜けば瞬きする間に斬られる。 しかも、俺にはどうすることもできない。 さんざん鍛えてきた経験が、それを物語っていた。 単純に、武器の相性が悪いのだ。 敵の武器が、もう少し重い、例えば竿状武器であったら、機敏な 動きで懐に入り込むことは容易だったろう。 が、こいつの攻撃は手が早い。 ・ ・ ・ ・ それでいて、短刀が届くに難しいリーチは十分にある。 ・ ・ カンカーは、引くのではなく、俺を圧し、引かせる選択肢を取っ たのだ。 俺は、右手に持った愛刀を手の内で半回転させ、逆手に握り直し た。 ここで引くのはまずい。 逆手に握り直したのは、そちらのほうが受けやすいからだ。 こんな斬撃を刃で受けたら、短刀の刃など一発で潰れてしまう。 だが、この絶え間なく鋭い攻撃は、受けずに入り込むには難しい。 そして、斬撃は人を殺すには十分な重さを持っているが、全てが 同じ重さとは限らない。 そのことを、俺は知識としてではなく、身についた経験として知 っていた。 1626 カンカーは、右手を上にし、左手を下にして剣を握っている。 その場合、人間は、大上段や蜻蛉のような構えからの打ち下ろし が一番力が乗る。 右からの袈裟斬りも十分に力が乗る。 だが、左からの返しは、それらと比べると力が乗らない。 それは、言わばフォアハンドとバックハンドの関係で、人間の身 体はそういうふうにできているのだ。 俺の顔面を狙って、左から右に繰り出された斬撃を、上半身を軽 く引いて避けると、俺は一歩ステップして踏み込んだ。 右手に逆手で握った愛刀を、両手で突き刺すように剣に当てた。 鍔と長剣の刃がぶつかり合い、火花が散る。 ギンッという硬い音とともに、鋭い衝撃が走った。 止まった。 が、次の瞬間にはフッと力が消えていた。 反射的に腕が動き、剣先を目で追うこともなく短刀を引き寄せた。 ガードされてから一転して小手先を刈りにいく動作は、あらゆる 戦技の常道だ。 素早い代わりに軽い攻撃を短刀の腹で受ける。 その間に、俺はもう一歩踏み込んでいた。 小手狙いを防がれてからの剣を寝かせての首払いを、身を低くし て避けた。 二歩。 1627 もう攻撃が届く距離だ。 が、逆手に握ったのと引き換えに、リーチは拳とさほど変わらな いものになっている。 俺は、短刀を投げた。 逆手握りからの短刀投げは、速度も勢いもまったくなかった。 だが、刃のついた凶器を顔面に投げられ、とっさに脅威と感じな い人間はいない。 一瞬怯んでくれればいい。 顔面に回転のぶれた短刀がべちんと当たり、一瞬視界を塞がれて いる間に、俺はもう一本腰に指していた、キャロルの短刀を抜いて いた。 飛び込み、顔面を抉るように腕を伸ばした。 が、その時にはカンカーはいなかった。 カンカーは大きく後ろに後退し、視界を失った状態から俺の攻撃 を避けた。 こうなったらしょうがない。 せっかく追いついても、後ろに下がられてはどうしようもない。 ﹁ふう⋮⋮﹂ 仕切りなおしか。 俺も同じことをやったが、野良勝負ではフィールドが限定されて いないせいで、逃げ放題になるな。 1628 白兵戦なんてのは、所詮後ろに引けば大抵の攻撃は避けられてし まう。 まあ、カンカーが後ろに下がったのは良いことだ。 目的は達成したと言える。 俺はキャロルの短刀を逆手に構え直した。 ﹁やるな﹂ とカンカーは言った。 ﹁もはや問答は無用ではなかったのか?﹂ 俺は古いことを持ちだした。 構えは崩さない。 ﹁先ほど投げつけてきた剣は拾わないのか?﹂ ﹁貴殿こそ、その面は下げないのか?﹂ カンカーは、ヘルメットの下げ降ろし式のフェイスガードを下げ ないままでいた。 そうしていたのは、その機を逸したからだ。 フェイスガードを降ろすということは、明らかに戦いの合図であ り、戦いの合図をしたあとでは、最初の一太刀は奇襲にならない。 カンカーは、いきなり斬りかかってきたので、フェイスガードを 降ろす機会がなかった。 今となっては、もちろん明白な戦闘状態にあるので、堂々とフェ イスガードを降ろすことができる。 1629 が、その時には、長剣から片手を離し、隙を作る必要がある。 俺が落とした愛刀を拾いにいけば、のんびりとフェイスガードを 降ろすだろう。 そうしたら、唯一の付け入る隙がなくなる。 ﹁ふむ⋮⋮﹂ ﹁なあ、取り引きをしないか? 俺を見逃してくれたら、右耳をく れてやるよ﹂ 俺は唐突に、時間稼ぎの提案をした。 これは嘘だった。 本当に見逃してくれるなら右耳をくれてやっても良いくらいだが、 その上で追ってこない保証はない。 この状況から逃れられるのであれば、耳くらいは惜しくもなかっ たが、耳の切断は単純に負傷として多量の出血を伴う。 約束を破って追ってきた時、出血で体力を失っていては、抵抗が 難しくなるだろう。 この提案は、既に一度考えたことで、頭の中で廃案にしていた。 ﹁駄目だな﹂ どの道、カンカーを後退させることには成功した。 そして、また攻めに転じるのを躊躇っている。 だが、後退させたのはいいものの、その目的であった爆弾につい ては、一向に爆発しない。 これは、もう諦めたほうがいい。 1630 残念ながら不発だろう。 世の中、全てのことが自分の都合のいいようにはいかない。 仕方のないことだ。 不発であるのなら、リスクを負ってこれ以上後退させる意味もな い。 ﹁なんでだ?﹂ そうなれば、愛刀を拾うという選択肢も出てくる。 その後逃げに転じれば、カンカーは追ってこれないだろう。 あんな大具足を着用したままマラソンで俺に追いつくというのは、 これは無理な話だ。 ﹁貴様は首を届けることになっている。教皇領を怒らせすぎたな﹂ ﹁ちっ⋮⋮﹂ 思わず舌打ちが出た。 怒ってるってのは、俺がさっき使ったエピタフってやつか。 根に持つ野郎だ本当に。 ﹁若いくせに腕が立つようだな。悪いが一騎打ちでは手こずりそう だ﹂ ﹁まったく﹂ 逃げよう。 俺の作戦は、最初からそうだった。 連中は、キャロルを抱えた俺よりは早いが、単体の俺よりは遅い。 1631 それを考えれば、キャロルを一時置いておくことで、立場を逆に することが出来る。 狩られる側から狩る側へと回るのだ。 森の中では、逃げつつ脇や背後を取って一人づつ狩っていく戦法 には対処のしようがないだろう。 この隊長男がこんなにも腕が立つとは思わなかったが、一人一人 殺してゆき、最後の一人になったところで寝入りを襲えば、倒せな いこともない。 ﹁情けないな。それでも騎士か﹂ この無意味な会話もそろそろ終わりか。 ﹁貴様には敬意を表したいが、こちらも仕事だ﹂ カンカーがそう言った時だった。 カンカーの真後ろで閃光がひらめき、パンッという爆竹を鳴らし たような大きな音が起きた。 爆風はまったく感じなかったが、フラッシュを焚いたような光と 同時に、何かが勢い良く飛散したのは視界に映る。 甲冑に鎧われたカンカーの身体が、爆風にあおられたのか、一瞬 前によろめく。 反射的に俺の身体が動いていた。 一歩、二歩と踏み込み、飛び込むように軽くジャンプする。 空中で、カンカーの顔面を殴るように、鋭いフックを繰り出した。 その右手には、逆手に短刀が握られており、煌めくような刀身が カンカーの顔面を撫でた。 1632 が、カンカーのほうも反応していた。 ギリギリで、胸を張って顔をのけぞるようにして、わずかに顔面 を後退させていた。 入ったか。 ﹁ヌンッ!﹂ という裂帛の声と共に、腹を強い衝撃が貫いた。 剣を両手で握ったままのカンカーが、双拳で俺の腹を強く叩いた のだ。 その力は、体ごと大きく吹き飛ばされるほどではなかったが、空 中にいた俺を僅かながら引き離すには、十分な威力だった。 そして、俺がふわりと下がって着地した場所は、カンカーにとっ ては絶好の位置だった。 体勢を崩したまま着地した時には、カンカーは既に次の一撃を繰 り出していた。 左から右に、長剣をぶん回すような横薙ぎの一閃。 足を並べて着地し、体勢を作れていない俺は、それを受ける手段 を持たない。 低く、腰のあたりを狙ってきた攻撃には、しゃがんで避けるスペ ースもない。 下がれ。 叩きこまれてきた教えがそう言った。 俺の身体には、双拳で押された勢いが残っていた。 1633 足は着地の衝撃を逃がすために屈折している。 その場で思い切り地面を蹴り、足をピンと伸ばしながら、上半身 を後ろに逸らした。 地面を蹴った勢いは腰から上を支えず、ぐんと下半身だけが持ち 上がり、空中でコマのように回転する。 重心を中心にくるんと空中で一回りした。 バク宙だ。 ドンと運良く平らだった地面に両足をつくと、勢いが後ろに残り、 たたらを踏むようにして後退した。 スルリとこの動きがでてきたことに、自分でも驚く。 パッと顔を上げてカンカーのほうを見る。 が、追いすがっての追撃はない。 カンカーにとっても苦し紛れの一撃だったのか、カンカーは剣を 振るったその場に、まだ突っ立っていた。 それを一瞥すると、たまたま前方に落ちていた自分の愛刀を、ひ っつかむように回収する。 踏んで折れなかったのは幸いだった。 おびただ 剣を回収し、改めてカンカーを見ると、こちらを見ながら片手を 剣から離し、鼻先をおさえていた。 鼻柱のあたりから、ここからでも見えるほど夥しい血が流れ出て いる。 1634 キャロルの短刀はまったく使われておらず、研ぎから帰ってきた か 時のままなので、よほど切れ味がよかったのだろう。 鼻先を薙いだ時は、空を掻いたような感触しかしなかった。 が、実際は鼻っ柱を深く切断していたらしい。 傷口から溢れた血が、抑える手の甲まで真っ赤に染め上げていた。 そして、爪先にひんやりとした感覚があることにも気づく。 ぶん回した剣が靴底を引っ掛けていたようで、左足の爪先あたり の靴底が消え去っていた。 利き足でないせいで、右足より後になったのだろう。 思わず冷や汗をかいた。 あと数瞬遅かったら、足首から下が無くなっていた。 俺は即座に短刀を両方、鞘に収めた。 代わりに、背中にぶらさげておいた短弓を手に取る。 矢入れに手を伸ばし、矢を抜いた。 携行性を重視してコンパクトに纏められた短弓は、大人の男性用 だけあって多少は力の要る作りになっていたが、肝心の引き尺が歯 噛みをしたくなるほどに短い。 長弓と比べれば弱いが、皮鎧に突き刺さる程度の力はあるだろう。 引き絞って射放った矢は、狙い通り、まっすぐカンカーの顔面に 飛んでいった。 そして、カンッとあっけなく弾かれた。 鼻を抑えている手の鉄板にカツンと当たっただけで、ぽろんと落 ちた。 1635 まあそうだよね。 いや、期待してなかったし。 俺は二の矢をつがえ、今度はカンカーの後ろにいる的に狙いをつ ける。 カンカーの背後には、飛散物が身体のあちこちに食い込んだのか、 苦しんでいる連中がいた。 俺は、目についた男に狙いを定め、弓を引いた。 そいつは、胸のあたりに破片が刺さったのか、なにやら抜こうと している。 ヒュンと飛んだ矢は、その男の首にストンと刺さった。 肩口を狙ったつもりだったが。 ぐえっ、という濁った声が遠く聞こえ、そいつは倒れこんだ。 カンカーは、後ろを振り向き、俺のやったことを確認すると、憎 々しげな目で改めて俺を見た。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 俺だって、こんなことはしたくない。 だが、したい事と、やらなければいけない事は別だ。 俺は、もう一度矢をつがえ、弓を射た。 狙うのは、逆側にいる男だ。 今度は、カンカーが片手に持った長剣で矢を叩き落とそうとして きた。 1636 が、鼻を抑えたままの片手振りの一閃では間に合わず、無情にも 矢はもう一人の肩口に刺さる。 ただ、体ごと動いて甲冑で矢を受けられれば、落とされてしまう だろう。 それはそれで、俺としては全く構わないんだが。 カンカーの傷は、放っておいて自然に止血する範囲を超えている。 このまま運動を続けてくれれば、間違いなく一番厄介な、唯一敵 方に存在する俺と同等以上に戦える戦闘のプロが、勝手に出血死し てくれるわけだ。 負傷している残り九人は、その後でゆっくり仕留めていけばよい。 1637 第105話 痛打 第三矢を左にフェイントをかけて右の男に射ると、今度は妨害が 間に合わず、矢は男の太ももに刺さった。 これを続けていけば、間違いなく勝てる。 斗棋で詰み筋を見つけた時のような確信があった。 靴底がないので四分の一素足みたいな感じだが、もう激しい戦い をする必要はない。 かかってきたら逃げれば良い。 素足でも森の中を走るくらいのことはできるだろう。 第四矢を、今度は弾き返されると、カンカーはいよいよ険しい顔 つきになった。 状況を冷静に判断しはじめたのだろう。 第五矢が部下に突き刺さると、いよいよカンカーは思いを決めた ようだった。 ﹁逃げろ!﹂ 大声で叫ぶと、こちらに背中を向けた。 ﹁逃げろ、逃げろ!﹂ 味方を叱咤しながら森の奥に走る。 逃げるか。 1638 正直、意外な思いがした。 俺は一人なのに。 追われて逃げるのは俺の役目だと思っていた。 が、上策だろう。 どのみち詰んでいるのだし、あそこでカンカーが倒れたら烏合の 衆になる。 俺に背を向けることで、たいへんな不利を得ているが、それでも 現状維持よりもましだ。 俺は、カンカーがいなくなったことで見えた的に矢を射た。 背中にブスリと刺さる。 十一本矢が入っている内、一本は鏑矢のままになっている。 残りは五本しかない。 焦りからか、この近距離においても一本外した。 十メートルも離れていないのに。 それから四本立て続けに当てていくが、その頃には敵は元気なも のから一目散の逃走に移っていた。 追うしかない。 途中で矢を回収する必要がある。 素早く追跡に入り、さきほど首を射て即死した男が背負っていた 矢筒に手を伸ばし、ひったくるように矢を奪う。 そこから一歩を踏み出した時、足裏に痛みが走った。 その鋭利な痛みは、尖った岩を踏んだ時のような痛みではない。 1639 ざっくりと皮膚を貫く、ガラス片を踏んだような痛みだった。 忘れていた。 この場には俺が使った爆弾の破片が飛散していたのだ。 ﹁⋮⋮チッ﹂ 思わず舌打ちをし、その場に立ったまま矢をつがえる。 一人の背に、吸い込まれるように矢が突き立ち、倒れこんだ。 爆弾と矢を受けた連中も、次々に森のなかに入っていった。 俺は文字通り矢継ぎ早に矢を放ってゆく。 大抵が爆弾によって負傷していたこともあって、殆どの人間には 矢を与えたが、最後の一人は、狙いを定める前に森のなかに消えて しまった。 カンカーを含めて、少なくとも二人は、矢を与えず、致命傷も負 わずに逃げた。 ﹁クソッ﹂ 俺はすぐに足裏を確認した。 渡り3センチほどの鉄片が突き刺さっている。 剣を砕いたやつだろう。 けっこう深い。 これを治療しないうちは追えない。 ああ、糞。 全てが裏目に出てきやがった。 1640 *** 左足をかかとで地面につけながら、ケンケンしつつ近くの岩場に たどり着き、頭にかぶっていた頭巾を切り裂いた。 まずは鉄片を引きぬかねばならない。 腕に矢でも刺さったなら別だが、まさか這って行くわけにもいか ないので、抜かなければ何かの拍子に、更に深く刺さってしまうか もしれない。 ﹁ッ⋮⋮!﹂ 指で鉄片をつまみ、引き抜いた。 鉄片を捨てると、すぐに爪先を強く縛る。 行くか。 立ち上がると、足先がぎゅっと疼き、血がどくっと流れる感じが した。 やはり傷は深い。 無理はできない。 だが、矢だけは山程ある。 ついでにいえば、鉄砲も二丁あった。 俺は余っていた矢を、近場で呻いている連中に打ち込んでゆく。 足が無事な者もおり、中には俺を倒そうと向かってくるものもい たが、矢を射放つと避けるでもなく刺さり、その場に倒れた。 全員の胴体に矢を一本づついれると、追跡を開始した。 1641 百メートルほど歩いたところで、胴体に酷い傷を負った男が死亡 しているのを見つけた。 先ほどの場所で殺したのが、計五人なので、これで十二人のうち 七人を殺したことになる。 残りは五人か。 そこからの四百メートルほどで、更に二人の男を見つけ、矢を射 かけて致命傷を追わせた。 この足では、近づいて短刀で間違いなく殺すというのは、危険を 伴う。 この森から脱することは不可能、という程度の傷を負わせておけ ばよい。 そこから更に先に進むと、鎧が落ちていた。 カンカーは、ここで鎧を脱いだらしい。 脱ぐのに手間がかかりそうな下半身の装甲はなく、胴鎧とメット、 そして腕の鎧だけ落ちていた。 俺が足を負傷したことを知らないので、鎧を着ていたら追いつか れると思ったのだろう。 全力で逃げる相手を追うには、今の俺の足では頼りない。 逃がす他ない。 参った。 取り逃がした。 三人も。 1642 *** プレートアーマーを破壊しておこうと、銅鎧を足でスタンプして みたが、怪我のせいで力が入らず、形状が変わるほどにはならなか った。 できるだけ壊しておこうと、面頬の取り付けを足で踏んで壊し、 腕鎧は指のところを持って木にたたきつけてみた。 五∼六回やっても、少し歪んだくらいで、目に見える形での破壊 はできなかった。 しかたがないので、俺は引き返すことにした。 出血が酷い。 連中の荷物が纏めてあるところまで戻り、死んでいた五人を横目 に、荷を漁った。 傷を縫合する針と糸は、必携品というわけではないが、一部隊に 一人くらい持っていてもおかしくないものだ。 実際、かさばるものでもないので、俺の荷物には入っている。 が、やはり縫合針はなかった。 まっすぐな裁縫針はあるが、これでは皮膚下を深く縫うことがで きないだろう。 やはり鎌状の針でないと。 途中の罠で負傷した男を縫合しなかったということは、持ってい ないのだろう。とは思っていたが、やはりなかった。 できれば、この場で傷を縫合してしまいたかったが、それはでき なそうだ。 1643 俺の針はキャロルのところに置いてあるので、戻るまで我慢しな くてはならない。 しかし、代わりに蒸留酒があった。 これはありがたい。 傷の消毒に使えるだろう。 あとは銃か。 敵方の鉄砲を拾い上げてみると、俺が購入したものより、大分重 かった。 ずっしりという重さが、持っていこうという気を失わせる。 これでは相当な負担になるだろう。 欲しかったが、ここは諦めたほうがいい。 矢をいっぱいまで持ち、食料を漁ると、余った弓矢と剣類を荷物 のところにかきあつめ、枯れ枝を拾ってきて軽く積んだ。 そして、ライターで火をつけた。 敵方の虎の子とも言える資源が、火を纏ってゆく。 これで、彼らは生き残っても森を脱することは難しいだろう。 たまたま街道に出て、たまたま友軍に発見されればよいが、その 可能性はそう高くはない。 敵の嫌がることをする。というのは、やはり良い気分にはならな い。 敵がどういう気分になるか、どういう感情を自分に向けるか、想 像がつくからだ。 俺がカンカーの立場だったら、食料を含めた荷物が全て燃やされ たら、マジで殺したくなるだろう。 1644 いや、そうでなくても殺された部下の数を考えれば、殺したいほ ど憎いか。 荷物がぼうぼうと燃え盛ったのを確認すると、俺はキャロルのと ころへ足を進めた。 *** ヒョコヒョコと左足をかばいながら、どうにか迷わず戻ると、キ ャロルはどうやら元の場所で無事にいるようだった。 茶色の油布が木々の間でもっこりと盛り上がっており、俺が木々 の間から姿を表した時には、フードの隙間からじっと睨んでいた。 俺を認識すると、緊張を解いた。 ﹁ユーリ⋮⋮!﹂ ﹁ああ、戻った﹂ キャロルは、心底嬉しそうな顔で出迎えてくれた。 ﹁足はどうした? 傷を負ったのか?﹂ まあ、爪先を使わないようにしているからな。 そりゃ解るか。 ﹁ああ。情けないことにな﹂ 1645 本当に情けない。 道中で思ったが、俺が少し気を使って爆弾の飛散したところを迂 回していれば、今頃はなんの杞憂もなく、全てが終わっていたかも しれないのだ。 ﹁見せてみろ﹂ 俺はその場に座り込んで、左足を出した。 キャロルは合羽を脱ぎ、少し身をよじって、太ももの上に俺の足 を載せた。 自分で治療するつもりだったが、疲れきっている俺より、キャロ ルのほうが上手に縫えるだろう。 ﹁ほどいていいか﹂ ﹁針を用意してからのほうがいい。それと、酒を奪ってきた。消毒 してくれ﹂ 俺は酒瓶を渡した。 ﹁わかった﹂ 俺は地べたに身体を横たえ、太ももに乗った足が心臓より上にく るようにする。 道具を用意し終わったのか、キャロルがキツく縛った布を解いた。 ﹁深いじゃないか。こんな傷で無茶を⋮⋮﹂ ﹁早く傷を洗ってくれ﹂ 俺がそう言うと、キャロルは傷口を酒で洗った。 ﹁⋮⋮くッ﹂ 1646 流石に傷に染みる。 ﹁大丈夫か⋮⋮?﹂ ﹁いいから、傷の奥までよく洗ってくれ﹂ そう言うと、キャロルは自分の指を洗い、さらに傷を揉むように して軽く開き、中にまで酒を入れた。 ﹁いっ⋮⋮﹂ 刺すような痛みが足を襲う。 ﹁あのな﹂ ﹁なんだ。声が漏れるのは勘弁してくれよ。構わずやってくれ﹂ ﹁いや、違うんだ﹂ じゃあ、なんだ。 ﹁傷の中に⋮⋮鉄のトゲみたいなものが埋まっているようなんだが﹂ ああ⋮⋮。 思い当たるフシがある。 鉄片が中で欠けるなりしたのだろう。 そりゃ刺すような痛みがあるはずだ。 実際刺してんだから。 ﹁取ってくれ﹂ ﹁だけど⋮⋮上手く取れるかわからない﹂ 1647 まあ、縫うにしても異物を取るにしても、できればピンセットみ たいなもんが欲しいわな。 だけど、ないもんは仕方がない。 ﹁指じゃどうしても無理そうか?﹂ ﹁いや⋮⋮試してみないとわからない﹂ ﹁じゃあ、やってくれ。どの道、そんなものが入ってるうちは縫え んだろう﹂ ﹁わかった﹂ キャロルは、指をもう一度念入りに消毒すると、思い切り良く傷 口に指を突っ込んだ。 ﹁ンッ⋮⋮! ぐぅ⋮⋮っ!﹂ 激痛に歯を食いしばって耐える。 傷の中から激痛の元が抜ける感じがして、キャロルの指が傷の中 から離れた。 ﹁⋮⋮と、取れたか?﹂ 痛すぎて頭から血の気が引いてる感じがする。 ﹁取れた。もうないはずだ﹂ ﹁そうか。そりゃよかった。一応もう一度酒で洗って、早く縫っち まってくれ﹂ 出血は二リットルが致死量だとして、まだ一リットルも出血して いないはずなので、かなり余裕はあるはずだが、なるべく血を失い たくはない。 1648 ﹁⋮⋮糸が物凄く太いやつしかないんだが﹂ ﹁あー、そうだったな﹂ 思いっきり斬られてザッパリいったような傷を縫い合わせること を考えていたから、そんなのを持ってきたんだった。 ﹁仕方ない。それでいい﹂ ﹁もしよければ、私の髪でやるけど﹂ ﹁それでもいい。いや、それにしてくれ﹂ ヒトの髪の毛を縫合糸に使うというのは、それなりに一般的に行 われている。 やってみたことはないが、キャロルの髪なら長さ的にも十分だろ う。 縮れてもいないし、俺の髪のように短くもない。 ﹁髪なら、二重にして細かく縫ってくれ。切れると困る。あと、針 も髪も、酒できちんと洗ってくれよ﹂ ﹁わかってる﹂ しばらくして、針に糸を通し終わると、 ﹁行くぞ﹂ と言ってきた。 ﹁やってくれ﹂ プスッと皮下に針が通るが、先ほどの抉るほどの痛みと比べれば さほどのものでもなかった。 1649 ﹁ッく⋮⋮﹂ 痛みに声が漏れるが、足が暴れるほどの痛みではない。 サクサクと縫合が進んでいき、縫合自体はすぐに終わった。 ﹁よし。終わったぞ﹂ ﹁そうか﹂ 上体を起こして傷面を見ると、見事にかがり縫合されていた。 真ん中あたりは広く深く針が入っているので、奥まで縫い合わさ れているらしい。 袋になった傷に血が貯まることもなさそうだ。 騎士院で習ったので、陰で練習していたのかもしれない。 ﹁ありがとう。助かった﹂ ﹁⋮⋮礼を言わなければならないのは、私のほうだ﹂ ﹁それは言いっこなしだろ﹂ 清潔なあて布が欲しいところだが、そんなものは持っていない。 悲しいところだ。 大なり小なり膿むのは避けられんだろうな。 ﹁どの道、俺もこの足じゃな。これまでのようには﹂ ﹁うん⋮⋮﹂ キャロルは沈んだ声を出した。 この傷では、キャロルをおぶるにしても、今までのような働きは できないだろう。 1650 ﹁だが、村はもうすぐだ。着いたら、少し休んで療養するさ﹂ リスクは高いが、そうするしかない。 そのうちにはキャロルの怪我も良くなるかもしれないしな。 ﹁その傷で、すぐに歩くのか?﹂ ﹁村が無事だとすりゃ、清潔な布も家の設備も使える。多少無理し てでも歩いたほうが、治りも早いだろう﹂ ﹁わかった。じゃあ、私も歩くぞ﹂ えっ。 ﹁そろそろ少し治ってきた気がする。杖をついて歩けば、歩けない こともない﹂ ﹁いや、無理すんなよ。悪化したらその方がキツい﹂ ﹁手ぶらなら、怪我したほうの足をつかずに歩くのは、さほど難し くない。それに、おぶってもらうにしても、速度が大分落ちるんじ ゃないか?﹂ う⋮⋮。 それはそうかもしれない。 庇いながらの歩行になるだろうし。 ﹁荷物も、村で補給できそうなものは、捨ててしまおう﹂ ﹁⋮⋮ああ、そうだな﹂ 正直なところ、俺もこんなに時間がかかるとは思っていなかった。 今は、数えて墜落から十一日にもなる。 鷲で半日の道程を歩くのに十一日かかるとは。 1651 人間一人を背負って森の中を歩くというのは、予想以上に時間が かかる。 だが、リフォルムまでたどり着くには、更に今までと同じくらい の距離を歩かなければならない。 足の怪我のこともあるし、移動だけで十五日くらいは見ておく必 要があるだろう。 全体で二十六日。 休養を五日もとれば、三十一日だ。 まるまる一ヶ月にもなる。 クラ人の連中は、一ヶ月もヴェルダン要塞にかかりきりになって くれるだろうか? その可能性は薄い、というわけではない。 要塞攻略に一ヶ月以上かかるのは、普通だったら当たり前のこと だ。 だが、楽観視はできない。 リフォルムに到着したとしても、その時には既に包囲は終わって いる。という可能性は、現実味を帯びている。 のんびり歩きの俺たちを前線が追い越せば、敵の補給線も追いつ くことになり、追討も激しくなるだろう。 しかし、急いでいるんだと言っても、傷は早く治ってくれるわけ ではない。 追手の連中どもとて、完全に殲滅できたわけではない。 常識的に考えれば、荷を失った時点で部隊壊滅・遭難ということ になるから、もう追うだのなんだのという話ではなくなるが⋮⋮。 1652 ああ、やってしまったなぁ。 怪我さえなければ。 時計を開いて、見る。 あれだけのことがあったのに、まだ午後の二時だった。 ﹁じゃあ、食事をして、荷を整理して、日が暮れるまで距離を稼ぐ とするか﹂ ﹁うん﹂ キャロルは頷いた。 1653 第106話 交わす心 三キロくらいは歩けたろうか。 日が暮れ始めると、俺は力尽きたように座った。 ﹁⋮⋮今日はここで休もう﹂ 頭からは血の気が引いている。 なぜか、首の根がズキズキと疼くように痛かった。 拾っておいた木枝をおざなりに組むと、ライターで火をつける。 そろそろライターの燃料も尽きる頃かな⋮⋮。 ﹁ふう⋮⋮﹂ キャロルが杖に体重を預けながら、俺の横に座った。 焚き火が燃え盛るのを待ちながら、俺は荷物から地図を取り出し た。 現在の位置を確かめ、指二本分動いたところに鉛筆で印をつけた。 大体は合っていると思うが、こんな大雑把なマーキングでは、ず れているのは否めないだろう。 若干北よりに進路を取り、ニッカ村そのものではなく、村に通じ る道に出るのを目指すのが賢そうだ。 地図をしまった。 1654 ﹁今夜は豪勢だぞ。久々の肉だ﹂ ﹁一週間ほど前に食べたような﹂ 墜落から大きな石球を見た道までの間で、兎を一匹仕留めて食べ た。 それのことだろう。 ﹁あんな血抜きも碌にしてない肉じゃない﹂ 前に森のなかで会ったジーノ・トガは、あれも血抜きをしてない 腐りかけの肉を食べていたが、結局は俺も急いでいたら同じだった。 のんびりと下処理をしている余裕はなく、腹に入っちまえば同じ としか考えられなかった。 ﹁上等のハムだぞ。塩まである﹂ 恐らくは、部隊におけるご褒美的な要素として、リーダーのカン カーが管理していたものなのだろう。 燻製にした上焼き締められた豚かなにかのハムは、すでに半分に なっている。 半分であっても、だいぶ食いでがありそうだ。 ﹁ごちそうだな﹂ ﹁ああ。さっそく焼こう﹂ 俺は布でくるまれたハムを開き、ナイフでざっくりと縦に割った。 串に挿すと、一本をキャロルに渡す。 ﹁ほら、パンもあるぞ﹂ 1655 ﹁うん﹂ 食に関しては、追手がかかってからのほうが楽というのは皮肉な ところだ。 ざっくりと肉厚に切られた燻製ハムは、火にかざすと脂肪層がじ ゅくじゅくと泡立ち、焼け始めた。 更に回しながら、炭になる手前まで焼く。 よだれが垂れそうなほど良い臭いだ。 ﹁パンに挟まりきるかな﹂ とキャロルが言った。 皿は持っていないので、パンが皿代わりになる。 串ごとかぶりついてもいいが。 ﹁ちょっと持っていてくれ﹂ キャロルに串を渡して、自分はパンを用意する。 食パンのようなものではなく、保存を考えてか、ガッチガチに焼 き締めた丸っこいフランスパンのようなものが、袋にゴロゴロと入 っていた。 表面には、小麦粉の粉がこびりついている。 汚れても粉ごとはたき落として食べられるように、という工夫な のだろうか。 どちらにせよ、肉は入りきらなそうだが、挟めば関係ないだろう。 俺はナイフで八分目までパンを割って、二つに開いた。 それを二つ作る。 1656 ﹁できた﹂ ﹁うん﹂ 肉と交換して、パンで挟みながら串を抜く。 はみ出た肉にかぶりつくと、肉についた焦げ目と燻製の香りが、 口の中に充満する。 体が欲しているのか、肉はあまりにも美味かった。 燻製の香りが移った油と肉汁が、甘露のように甘く感じる。 砕きの荒い岩塩のような塩をひとつまみし、ふりかけて食べると、 体に足りていなかった養分が満たされたような、なんとも満足げな 気分になった。 キャロルはどうだろう。 そう思ってキャロルの方を向くと、大口を開けてパンを頬張って いた。 こちらも、なんとも幸せそうに食っている。 顔がほころんでおる。 ただ、パンが硬いため、噛むのに苦労しているらしい。 もぐもぐと急いだ様子で口を動かし、ごくんと飲み込んだ。 俺がつぶさに見ているのに気づくと、 ﹁ちょっと﹂ なぜか若干ドスの効いた声で言ってくる。 1657 ﹁ん?﹂ ﹁そう見られると、は、恥ずかしいじゃないか﹂ ﹁なにが?﹂ ﹁ナイフとフォークがあるならともかく、お、大口をあけてかぶり ついているところなど、見られたくない﹂ あー。 今更な気がするんだが。 ﹁じゃあ、見ないでおく﹂ 俺もじっと見られてたら嫌な気分⋮⋮というほどではないが、所 作には気をつけたくなるもんな。 ﹁た、たのむぞ﹂ キャロルがそう返すと、俺は焚き火を見ながら、残りのパンを口 に含んだ。 *** ﹁美味しかったな﹂ キャロルは満足気に言った。 ﹁満腹か?﹂ ﹁うん﹂ 1658 パンが結構残ったな。 俺も胃が小さくなっているのか、満腹でこれ以上は入りそうにな い。 ﹁それじゃ、そろそろ寝るか﹂ ﹁そうだな⋮⋮その前に﹂ ﹁ん?﹂ なんだ? ﹁ユーリ、ありがとうな﹂ なんか言ってきた。 ﹁どうしたんだ急に?﹂ ﹁いやさ、明日はニッカ村に着くんだろう?﹂ ﹁まあ、予定ではな﹂ なんのかんので200km前後歩いてきた計算になるから、よっ ぽどずれている可能性もあるので、それほどの自信はないが。 ﹁村では隊の連中や、助けの者が待っているかもしれないわけだろ う?﹂ ﹁そうだな。そういう可能性は十分ありそうだ﹂ 俺はその可能性は低いと見ているが、低いといっても一割から三 割くらいはあり得るかなと思っているので、期待は十分持てる。 俺が期待していないのは、端的に言えば、探索する側はキャロル の怪我という事情を知らないからだ。 1659 その情報が未知であれば、連中はキャロルは無事である。と考え るだろう。 二人が徒歩で歩け、二人共が武術の訓練を積んでいるため、ある 程度の困難は突破できる。という前提であれば、海沿いの道を踏破 する。というのが一般的なルート選択になる。 なぜそう思うかといえば、同じように落下した俺が無事であるこ とは、リャオが確認しているからだ。 ユーリ・ホウが無事だったのだから、キャロル・フル・シャルト ルも無事であろう。 そう頭から決めつけるのは馬鹿のすることだが、判断の材料には なるので、行動を予想するなら上位にくるだろう。 ﹁そうなったらさ、すぐに助けられて、お前に礼をいう機会がなく なるかもしれないじゃないか﹂ ﹁なくなるってこたぁないだろ﹂ 別に永遠に離れ離れにされることもないだろうし。 そらぞら ﹁そうだけど、あとで改めてお礼を⋮⋮なんてことになると、ちょ っと空々しくなるかもしれない。だから、今言っておきたかったの だ﹂ ﹁そうか﹂ 礼なんて言われる筋合いはない。などといって突っぱねるのも、 この場合は失礼だろう。 素直に受け取ったほうがいい、ように感じる。 ﹁そうだな。だけど、俺のほうも礼を言いたいくらいなんだけどな﹂ 1660 ﹁なにをだ?﹂ ﹁お前が生きていてくれていることをさ。前も言ったが、お前に死 なれたら落ち込むどころじゃないからな﹂ ﹁あのさ⋮⋮これを聞いていいのか判らないが、途中で、その⋮⋮ 私が死んでいたらよかったのに。とは思わなかったのか?﹂ なんだその質問は。 可笑しみが湧いてきて、思わず口がにやけた。 ﹁そういう質問は、正直な答えは帰ってこないもんだぞ﹂ ﹁⋮⋮うん、そうだと思うけど。でも⋮⋮そう思って当然だと思う﹂ やけに素直だな。 味方が待っていてくれている、と決めてかかっているわけではな いだろうが、村が近づいて気がほぐれているのかもしれない。 ﹁考えなかったな﹂ ﹁そうなのか⋮⋮なんでなのか、聞いていいか﹂ ﹁なんでもなにも、そうだからとしか言いようがない﹂ ﹁でも、普通はそう考えるものだと思う﹂ どうも納得出来ないらしい。 ﹁なあ、お前にとって一番大切なものってなんだ﹂ ﹁どうした、藪から棒に﹂ ﹁まあ、答えてみろよ。話の流れだ﹂ ﹁うーん⋮⋮シヤルタ、になると思うけど﹂ 1661 国か。 サイズが大きいが、そういう場合もあるだろうな。 特にこいつの場合は、生まれが生まれだし。 ﹁俺は、自分が一番大切だったんだ﹂ ﹁普通は、そうだと思うけど﹂ ﹁そうだな。人間は、誰でも自分が大事だ。まあ、もっといえば、 自分の生命が⋮⋮ってことになるんだろうが﹂ ﹁うん。それは解る。私もできれば死にたくない﹂ ﹁だが、自分が一番に大事という人生は、虚しい﹂ 俺は、ここにくる前の人生がそうだったから、余計にそう思う。 ﹁そうだろうか⋮⋮?﹂ ﹁自分がいちばん大事なら、一生自分を気にして終わりだ。だが、 一番大事な自分より、さらに大事な何かが見つかれば⋮⋮価値の無 い人生も、少しは値打ちのあるものになる﹂ ﹁うぅん⋮⋮それがつまりは私を助けた理由なのか?﹂ ﹁まあ、そうなるな﹂ ﹁⋮⋮難しいな﹂ ﹁解らないなら、それで何の問題もない。他人の人生哲学なんても のは、頑張って理解するもんじゃないしな﹂ ﹁その⋮⋮じゃあ、おまえにとっては、私は、自分の命より大事っ てことなのか?﹂ ﹁そうじゃなかったら、死ぬほど苦労して助けたりはしない﹂ 1662 実際のところ、どうでもいい奴だったら、その場に放っておくと いうことはないだろうが、穴を掘って食料をくれてやって、助けを 待て。と言ったかもしれない。 ﹁それは、私が王女だからじゃなくてか?﹂ ﹁はあ?﹂ あまりにもな質問に、思わず素っ頓狂な声がでてしまった。 何を馬鹿みてぇなこと考えてやがる。 ﹁あのなぁ⋮⋮俺が王家に感謝されるために死ぬほど頑張るような 人間だと思うか?﹂ ﹁いや、思わない﹂ すぐに答えられるようなら聞くなよ。 折角いいシーンだったのに。 ﹁そうかぁ。なるほどなぁ﹂ キャロルは、分かったのか分かっていないのか、どこかしみじみ と言った。 ﹁そろそろ寝るか。話すのは明日、村についてからでいいだろう﹂ ﹁火は消すのか?﹂ ﹁消したほうがいいな。一応撃退はしたから追ってこないとは思う が、寝首をかかれたら馬鹿らしい﹂ こういう時こそ、詰めが肝心なのだ。 1663 ﹁そうか。じゃ、崩すぞ﹂ キャロルは松葉杖の先で焚き火を叩いた。 そのまま突き崩すと、集まっていた焚き火が崩れる。 おき 木枝に取り付いた炎はあかく燃えているが、そのうちに燠となっ て、消えるだろう。 俺は立ち上がると、樹の幹に背を降ろした。 これで少なくとも背をとられる心配はないし、硬くはあるものの 背を預けて眠れる。 いつものように油紙のポンチョを取り出すと、キャロルが近寄っ てきた。 *** ﹁なあ⋮⋮﹂ キャロルが言う。 同じポンチョの中でくるまっていると、布越しに温かい体温を感 じ、近くにある顔からはキャロルの息遣いが聞こえてくるようだっ た。 囁くような小さな声なのに、近いせいでよく聞こえる。 なにせ、キャロルの頭は、頬がくっつくほど近くにあるのだ。 ﹁どうした?﹂ ﹁聞いていいか?﹂ 1664 ﹁なにをだよ﹂ まだ話をしたりないのか。 眠くはないからいいけど。 ﹁あのさ⋮⋮婚約者とかいるのか?﹂ ﹁⋮⋮はぁ?﹂ 今日のこいつは本当に思いもかけないことを言ってくるな。 いつもはカチカチなくせに。 ﹁いないけど⋮⋮なんで?﹂ なんのつもりだ。 ﹁じゃあ、交際している女の人は?﹂ ﹁いない﹂ 俺がそう答えると、キャロルはいきなり身をよじった。 足の上で身体を半分廻して、顔を俺に向けて横にする。 生温かい感触が、頬に触れた。 ﹁ッ!?﹂ ﹁んっ⋮⋮﹂ そのまま二度三度と、頬にくちづけを繰り返す。 ﹁おい⋮⋮っ﹂ 突き放すわけにもいかず、俺の声は、なんとなく戸惑っていた。 ﹁⋮⋮嫌か?﹂ 1665 キャロルは、耳元で囁くように言う。 ﹁どうしたんだよ。お前らしくもない﹂ ﹁先に答えてくれ。嫌だったか?﹂ キャロルの声は、浮ついた熱を持っていた。 艶めかしい。 ﹁嫌⋮⋮ではないけど﹂ ﹁そうか﹂ そう言うと、キャロルはもう一度、俺の頬に口づけをした。 今度は、口の端にかかるほどの近さで、離すときに軽く舌で唇の 端を舐めた。 ﹁これが、私の気持ちだ﹂ ﹁⋮⋮俺も、そこまで鈍いわけではないけどな﹂ さすがに、俺もキャロルからの好意には気づいていた。 だが、それは、恋というよりは、入学したての頃の幼い敵意が、 だんだんと変化し、興味を経て、好意的な関心に変わってきた⋮⋮ といったものだったように思う。 ﹁助けてもらった感謝のつもりなら⋮⋮﹂ ﹁違うぞ。私は⋮⋮私の生きたいように生きている。他人に迷惑を かけない範囲で⋮⋮だから、確認をした﹂ さっきのが確認だったのか。 そら恋人や婚約者がいたら、こんなことをしたら気を悪くするわ な。 1666 ﹁あとは、お前が嫌でないなら、ただ受け入れればいい﹂ ﹁嫌じゃない﹂ ﹁じゃあ⋮⋮﹂ ﹁だけど、俺は、責任を取れないことはしたくない﹂ ﹁責任なんて、どうでもいい﹂ どうでもいいってこたーねえだろ。 ﹁お前に口づけをし返したら、俺も男だ。その先も欲しくなる﹂ 俺も一ヶ月近く抜いてないし、その上血なまぐさいことが続いて、 気がたぎっている。 殺人には、暴力的な衝動が必要で、その衝動は一皮むけば、性衝 動に繋がる。 俺もキャロルの前ではストイックの皮をかぶっているが、皮を剥 がされれば、どうなってしまうかわからない。 ﹁かまわない﹂ えっと。 ﹁あのな、問題は、俺はお前の夫になる気は、今の所ないってこと なんだ﹂ 当たり前の話だけど。 ﹁そんなこと、どうでもいいじゃないか﹂ 前もって答えを用意していたのか、キャロルの返答は素早かった。 どうでもいい? ﹁どうでもよくはないだろ﹂ 1667 ﹁私は、責任をとって結婚してくれなんていわない。一夜の気の迷 いと思って関係を絶ってくれても構わない。別の女と寝ても何も言 わない﹂ 身持ちの硬い、性に潔癖だったキャロルが、こんな台詞を言うと は。 キャロルの口から放たれるとは思えないようなセリフが、矢継ぎ 早に放たれてくる。 ﹁そういう問題じゃ⋮⋮﹂ ﹁そういう問題だよ。後々、お前に面倒をかけることなんてない。 あとは、お前の心だけなんだ﹂ キャロルの意志は硬いようだった。 今のような状況でそんな心配をするのも滑稽だが、子どもとかで きたらどうするつもりだ。 ﹁俺は、お前を都合のいい女のように、ぞんざいに扱ったりはでき ん。さっきも言ったが、お前のことは大切に思ってるんだ﹂ 俺がそう言うと、キャロルは少し思いあぐねたようだった。 だが、しばらくして、 ﹁なあ⋮⋮﹂ と、キャロルは続きを話した。 ﹁お前は、私を助けたのは自分の都合だと言ったよな。なら、私が 今これをするのも、私の都合なんだ。私は、今この時、お前と心を 交わしたい。それだけのことなんだ。私とするのが嫌でないなら、 1668 どうかしてほしい。それが私の望みで、そうだな、つまり⋮⋮﹂ キャロルは慎重に言葉を選んでいるようだった。 自分の想いを誤解なく伝えたいのだろう。 ﹁このまま、お前がすり抜けていってしまうよりは、ぞんざいに扱 ってくれたほうが、私はずっと嬉しいのだ﹂ 想いのこもった言葉だった。 このような非常事態にあって、おかしくなっている部分もあるの だろうが、俺への想いは本物なのだろう。 それが伝わってくる。 酒に酔ったときの告白にも似て、元からの本心がなければ、こん なことをするはずはない。 俺はキャロルの体を両手で支え、唇を奪った。 唇を押し付けて、離すと、今度は両手が空いたキャロルが俺の首 に腕を回し、唇を奪い返してきた。 ﹁んっ⋮⋮!﹂ 興奮が高まり、体に熱が入り、脳髄が滾ってくる。 理性が薄まり、片手を離し、キャロルの胸に手を伸ばした。 手のひらを押し付け、揉むと、服の上からでも解る柔らかみが、 更に興奮を加速させた。 ﹁んっ⋮⋮ふうっ、はぁ⋮⋮はぁ⋮⋮﹂ 至近距離で乱れるキャロルの吐息も、桃色に変わっている。 お互いに求めている。 1669 だが、俺は頭のなかの理性を総動員して、獣の欲求をおしとどめ た。 ﹁⋮⋮今日は、この辺でやめとこう﹂ ﹁っ⋮⋮どうして?﹂ ﹁お前、初めてだろ﹂ ﹁もちろん。おまえは違うのか?﹂ ﹁俺もそうだ﹂ こっちに来てから十八年もやってないんだから、初めてといって もまったく嘘ということにはならないだろう。 ﹁お互い初めてというのは色々面倒がある。わざわざこんな、寒く て真っ暗な森のなかですることはない﹂ ﹁温かいぞ﹂ 確かに、お互い興奮で体に熱が入っているため、野外とは思えぬ ほどポカポカとしていた。 ﹁温かくても、暗くちゃお前の体を気遣うどころじゃない。お互い に体も汚いし⋮⋮悪いことずくめだ﹂ ﹁うっ⋮⋮臭ったか?﹂ まあ、多少は臭いはあるわな。 川に入っての水浴びも、そもそもキャロルは怪我をしてるし、俺 の方も雪解けの氷のような水を体にうちつけるのは弊害の方が大き いと見て、やっていなかったし。 ﹁それはお互い様だしいいけどな。とにかく、焦るこたぁない﹂ 1670 ﹁んっ⋮⋮むう∼∼っ﹂ キャロルはなんとも言えない唸り声を出した。 ﹁わかった。今日は諦める﹂ キャロルは、俺の首から腕を離した。 体の向きを直し、俺の胸に再び背中を預けた。 一連の情事で、ポンチョは首の部分から少し破れてしまっていた。 これは予備があるからいいが⋮⋮。 着ながらこんなことするもんじゃないな。 1671 第107話 人質 夢を見ていた。 その夢は、明らかに夢とわかる夢で、登場人物たちは和服を着て 木でできた町並みを歩いている。 彼らは日本語を話していて⋮⋮つまりは、時代劇のような世界だ った。 俺は自然に、こんな場所が、この地球の、はるか東の果てにある のかもしれない。 そう思った。 つまりは、自分自身の願望の投影なのだろう。 和装をした人々は道を練り歩き、自分もその中を歩いている。 季節は春で、遠くには城が見えた。 石造りの城ではなく、瓦は黒で、壁は漆喰が塗られて純白だ。 繁華街の大通りらしく、両脇には数々の店が軒を連ね、表には懐 かしい文字で屋号が記されたのれんが下がっていた。 ああ、懐かしい。 極東にこんな場所があるのか。 行ってみたい。 渡りをする鳥が回帰本能を刺激されたように、自然とそう思った。 が、俺の心は否定していた。 1672 この世界は元の世界とは違う。 日本らしきものはあっても、そこに俺が思う日本はないだろう。 この世界にはローマ帝国もなければモンゴル帝国もない。 日本らしき島はあるかもしれないが、そこにあるのは日本ではな いだろう。 それもまた、繰り返し考えてきたことだった。 *** 意識が覚め、ぱちり、と目を開けると、日は既に登っているよう で、視界は明るかった。 目をぱちくりさせながら、硬い木に背を預けたせいで、だるくな っている首をまわす。 ポンチョのフードは脱げていた。 誰が脱がしたのだろう。 キャロルか? と思ったが、キャロルは胸の中にいた。 不審に思い、目をはっきりあけて周囲を見ると、視界の端になに か勢いのあるものが引っかかった。 ぶつかるっ! 頭めがけて飛んできたボールを反射的に避けるように、思考より 先に首が動いた。 1673 頭が横にずれる。 スコンッ! と小気味の良い音が、耳の横で聞こえた。 飛んできたのはボールではなかった。 鳥かなにかでもなかった。 目の前には、磨き上げられ、鋼の輝きを映した剣が見えていた。 そして、とっさに避けなければ俺の頭を耳から横に割っていたで あろう剣は、今は背にしていた木の幹に刃を埋めている。 ンン??? 睡眠の中で平和を貪っていた脳が、ある日突然修羅の世界に投げ 込まれたかのように、現実を受け入れ、頭のなかの背景を、温和で 豊かな夢の世界から、現実の世界へと切り替えた。 俺は思いっきり体を横に倒し、刃から逃れるように転がる。 ポンチョは、昨日のゴタゴタで破れたところから縦に裂け、一回 転したころには体は自由になっていた。 ﹁んわっ、なんだっ!?﹂ 荒っぽく叩き起こされたキャロルが、寝起きで目をパチクリさせ ながら言った。 状況を把握しようと首を回して視界を振ると、すぐにカンカーを 発見した。 ﹁なっ!﹂ 1674 曲者に気づいたキャロルが、訓練された手つきで懐から短剣を取 り出す。 が、カンカーは短剣を引き抜いたその手を、自らの手で掴んで止 めた。 ﹁うっ⋮⋮﹂ ぎゅうっと手を拗じられると、キャロルは短剣を取り落としてし まった。 あれだけの剣技を扱う者ともなれば、握力も物凄いのだろう。こ れは仕方ない。 というか、むしろ安心した。 妙な抵抗をして斬られるほうが怖い。 ﹁よう、久しぶりだなぁ﹂ 俺は周囲を警戒しながら言った。 カンカーの他には、一応、今のところ、至近距離に敵の気配はな い。 が、遠くにはいるかもしれない。 俺とて、状況判断はまったく不十分だ。 俺の頭には、奔流のように興奮物質が周り、夢見心地はあっとい う間に彼方へと去っていた。 すると、心配になってくるのは左足だった。 アドレナリンが効いているのか、指先に力を入れ、軽く踏ん張っ ても、痛みで力が抜ける感じはない。 1675 普通に立っていられる。 二∼三回の踏み込みなら耐えるか⋮⋮。 それより、矢が怖い。 俺は矢を恐れて、木の幹が背になるように、さり気なく移動した。 横は目配せで警戒できても、まるきりの後ろを見るには、大きな 隙を見せる必要がある。 ちゃんと頭が回っている。気も配れている。 そのことを意識すると、地に足がついた気がした。 ﹁武器を置け﹂ カンカーは、上半身だけ起こしたキャロルの頭を掴み、肩に剣の 腹を置いた。 やはり鎧を回収したのか、腕足銅頭⋮⋮と全身に金属鎧をまとっ ている。 が、完全に金具を破壊した面頬だけは、取り外されていた。 露わになっている顔には、横に布が巻かれている。 ズボンか何かの生地で、かなりキツく縛ってあるようだが、その 布は真っ赤に染まっていた。 鼻は皮下が筋肉ではなく、軟骨なので縫合がしにくいし、布を巻 いて止めるにしても、あの部位では鼻梁が邪魔になって止血しにく い。 難儀したことだろう。 ﹁もう一度言うぞ。武器を置くんだ﹂ 1676 二度言わなくても。 ﹁確か、カンカーと言ったよな。流石だよ、お前は﹂ ﹁⋮⋮?﹂ 本当に流石だ。 イラつきはするがな。 あしあと ﹁夜を徹して俺を追ってきたんだろ? 松明かなんかで足跡を調べ ながら⋮⋮。俺への恨みがあるにしろ、なかなか出来ることじゃな い。その上腕も立つし、頭も切れる﹂ やろうと思っても、普通は実行できない。 部隊をほぼ全滅させられ、荷も焼かれ、その上大怪我もしていれ ば、心が折れる。 常人の根性論ではどうにもならない。 真に磨き上げられた心身が必要だったことだろう。 ﹁勘違いするな。俺はお前と話をしたいわけではない。武器を置か なければ、この女を殺す﹂ カンカーは繰り返した。 が、演技は下手なのか、そこに鬼気迫るような気迫はない。 ﹁夜を徹して俺を追い、寝ている俺を見つけたはいいが、何故か二 人いる。不審に思ってフードを開けてみたら、内一人は金髪の美女 ときたもんだ。そりゃ、俺だけ殺したくなるよな﹂ 最初の斬撃は、あくまで俺を狙ったもので、キャロルを狙ったも 1677 のではなかった。 カンカーがフードを開けたとき、俺とキャロルの頭は、折り重な るように連なっていたに違いない。 キャロルの髪が真っ黒であったなら、賭けてもいいが、俺はとっ くにあの世に行っていただろう。 キャロルの腹に剣を突き刺し、二人を団子のように串刺しにすれ ば、それで終わりだ。 なにも難しいことはない。 が、こいつには、それはできなかった。 キャロルの金髪が目に入ったからだ。 俺が斬撃に気づけたのは、正確に俺の頭だけをぶった斬り、キャ ロルに傷一つ負わせないために、どう剣を振ったものか一瞬迷った からだろう。 幹に剣が当たったのも、それを歯止めにしてキャロルのほうに剣 が流れないように、という配慮だったはずだ。 恐らくは、流血のせいで体調が悪く、剣筋にそこまでの信頼を置 けなかったのだ。 ﹁いいから武器をっ﹂ カンカーは四度言った。 ﹁お前には出来ねえよ﹂ 俺は、かぶせるように断言した。 できるはずがないのだ。 ﹁キャロル。そこにある杖を俺に投げろ﹂ 1678 シャン語で言った。 キャロルには、俺とカンカーの会話はまったく理解できていない。 いつかミャロが言ったように、タコかなにかの会話に聞こえてい ることだろう。 ﹁い⋮⋮いいのか?﹂ ﹁ああ、信じろ﹂ キャロルは、足元にあった松葉杖を、俺に投げた。 俺は少ししゃがんでそれを拾い、抜いていた短刀を鞘にしまった。 松葉杖の足のほうを持って、T字になった部分をカンカーに向け、 構える。 その間、カンカーはなにもしなかった。 ただ、キャロルの肩に剣の腹を置いていただけだ。 ﹁お前は頭が切れる。だからこそ、変な話だが、信頼することがで きる。これが物を知らない馬鹿農民兵だったら、大変なことになっ ていたがな﹂ ﹁⋮⋮⋮﹂ ﹁そいつは、同じ重量の金塊より価値がある。だが、殺してしまっ たら肉の塊にすぎん。莫迦ではないお前は、俺への脅しだの、報復 のためだの、そんなつまらない事のために殺していい人質ではない ことを、考えるより先に分かっちまっているはずだ。お前には殺せ ねえよ。脅しになってないんだ﹂ 俺がそう言うと、カンカーは剣を動かし、キャロルの頬に刃を当 てた。 1679 ﹁⋮⋮殺すことは出来なくとも、傷つけることは出来る﹂ はあ。 ﹁あのな⋮⋮。抱くための女は、顔に傷が入っていないほうがいい に決まってる。値打ちが下がったら、お前が損をするだけだろ﹂ 少しくらい傷が入ったほうが興奮する。という人間も中にはいる だろうが、需要が高ければ高いほど値段が上がることを考えれば、 下手をすると価値は半分以下になってしまうだろう。 大粒の宝石をわざわざ割って小粒にするような、馬鹿げた行為だ。 ﹁お前はいいのか? 消せない傷を作れば、この女の人生は台無し になるだろう﹂ ﹁どうでもいい﹂ どっちにしろ、俺が死に、キャロルがさらわれれば、クラ人の世 界でモノとして生きる人生が待っているのだ。 比較にならない。 顔に傷ができたらもう人前には出られない、人生終わりだから自 殺する、なんていう思考回路の女だったら話は変わってくるかもし れないが、キャロルはそうじゃない。 はそく ﹁そんなわけはない。お前はこの跛足の女を背負ってきたんだろう。 それほどの苦労をしてまで助けた女が、どうでもいいわけがない﹂ そりゃそう考えるわな。 1680 昨日の俺の戦いぶりたるや、自分で言うのもなんだが良く動けて たし、足が遅い理由が不思議だったはずだ。 少し思考を巡らせれば、そういう結論にたどり着くだろう。 ﹁どうでもいいな。殺すってなら別だが、お前にはできねえって解 ってるし﹂ ﹁いいのか? この女の人生が台なしになっても﹂ ああ、こいつアレか。 自分の国では女性に人権なんてほとんど無いから勘違いしてるの か。 噛みあってない感じがする。 ﹁だからならないんだって。そいつは俺の妻になる女だから﹂ 俺は嘘をついた。 ﹁⋮⋮なんだと?﹂ ﹁これが終わって戻ったら、すぐに結婚すんだよ。顔に傷くらいつ いたって、こういう事情なら仕方ない。まあ悲しいなってくらいの もんだ。夫婦で乗り越えていくさ﹂ ﹁⋮⋮クッ﹂ カンカーは短く歯ぎしりをした。 悔しがっているのかわからないが、顔を横に縛っている血塗れの 布が凄惨すぎて、顔色を読みにくい。 ﹁その女が、お前にとってまったく無価値のゴミだったら、どうせ ゴミだから殺しとけとなるだろう。俺の心理的動揺も狙えるしな。 だけど俺は、お前がその髪に大変な価値を見出してるってことを、 1681 ようっく知っている。殺すだの、顔を切るだの、だからお前は黙っ て殺されろだの、本末転倒な馬鹿げた脅しには乗らねえよ﹂ ﹁⋮⋮⋮﹂ ﹁まあ、刃が滑ったら困るから、そうしていれば俺は攻撃しないで やるがな。あとはあんた次第だが、いつまでやってるつもりだ? これは助言だが、馬鹿げた人質作戦なんぞやめて、さっさと剣を構 えたほうがいいぜ﹂ 俺の傷は縫ってあるから出血は少ないし、創傷面も露出していな い。 傷を負っているのは同じでも、処置のレベルに雲泥の差がある。 待っていて、体力を消耗してゆくのは向こうのほうだ。 ﹁それは聞けんな。この戦い、お前の有利だ﹂ 有利? ﹁俺が十分メシを食って寝たのに対し、お前は徹夜で、その上血も 失っているってことか?﹂ ﹁⋮⋮そうだ﹂ どうも無理な言い逃れをしているなと思ったら、戦ったら負ける と確信していたわけだ。 ﹁お前、気づいてないのかよ。俺は足を盛大に怪我してるんだ﹂ 俺は軽く左足を上げ、足裏を見せた。 靴は、爪先を飛ばされたままだ。 1682 左足はつま先の靴底がなく、そこには包帯が巻かれているだけで ある。 少しづつ出た出血で赤黒くなっているはずだ。 ﹁お前に靴を剥がされたせいで、鉄片を踏んでこうなった。これが なかったら、昨日のうちにお前を追いに追って仕留めてるよ。そう ならなかったのは不思議に思わなかったのか?﹂ おそらく、カンカーからしてみれば、俺があっけなく追跡を諦め た。と感じたはずだろう。 ﹁この足は、ほとんど踏ん張りが効かねえ。昨日のような動きはで きない。出血も、見ての通り酷いもんだ。客観的に見て、まあ五分 と五分といったところだろうよ﹂ 布の下に、キャロルにきっちりと縫って貰った創面があることは 言わない。 怖いのは、カンカーが自分に絶対的に不利と思うことだ。 そう考えていれば、俺との戦いは絶対に避けるべきと考えて、ま ず戦うこと自体が選択肢に入らない。 ﹁それに、お前のほうがよっぽど良い武器を持ってる。その鼻の傷 を負わせたのは、俺の爆弾が不意打ちをしたからだが、今回はそう いうものもない。まあ、これは使うがな﹂ と、俺は松葉杖を構え直した。 短刀を使うくらいなら、こっちの方が良いという判断だ。 1683 こいつとの戦いにおいて、リーチの差というのはそれほど大きい。 できれば、松葉杖の先に短刀を括り付けたいくらいだが、そこま では待ってくれまい。 ﹁黙ってないで、さっさとやろうぜ﹂ ﹁⋮⋮そうだな﹂ カンカーはキャロルの襟を掴むと、放り投げるように右のほうに 投げた。 ﹁っ!﹂ キャロルが悲鳴をこらえるのが分かる。 まーあ乱暴な投げ方だった。 ﹁女に邪魔をしないように言ったほうがいい﹂ ﹁そうか?﹂ ﹁富と栄誉は魅力だが、命には代えられん。足に組み付いてきたり するようなら、剣を向けることに躊躇いはない。そうなれば、お互 いにとって不幸だろう﹂ そうする可能性は、実際のところ結構あるな。 ﹁キャロル、手出しをしてきたら殺すといってるぞ。木の影にでも 隠れておけ﹂ ﹁⋮⋮わかった﹂ と、短くシャン語の会話をした。 1684 *** ﹁言っておいたぞ。これで安心したか﹂ ﹁ああ﹂ そう短くいうと、カンカーは剣を両手で持った。 無造作に間合いを詰め、お互いに間合いが重なるところまで来る と、ギュッと剣を構える。 ﹁フッ!﹂ 小さく息を吐くと、すぐに切りかかってきた。 と言っても、明らかに遠く、俺の体に届く剣ではない。 俺が前に出していた松葉杖を切り落としにかかったのだ。 なかご 通常の槍は、柄の中に深く茎が入っているため、よく打ち合いを する先端から若干の部分には、中に鉄が入っている。 が、もちろん松葉杖にそれはない。 これは元は槍だったわけだが、その部分は切り落としてしまって いる。 とっさに剣を受けずに避け、杖を守るが、剣は杖を追うように伸 びてくる。 二、三振りの交差があった。 傍目から見れば、斬り合いとも思えぬ、間合いの外から棒同士の 叩き合いをしているような格好に見えただろう。 1685 間合いが開く。 ﹁ふむ﹂ やはり中段に構えるのは不利と思い、俺は杖を右肩に担ぐように 持った。 そうすると、切っ先が向けられた剣に対して、まるで裸で立って いるような無防備さを感じた。 何が変わったわけでもないのだが、相手の剣と、斬られれば血の 噴き出る自分の体との間に、なに一つ頼るものが挟まっていないと いうのは、かなりのプレッシャーだ。 棒きれ一つといっても、違うらしい。 ﹁落ち着いているな⋮⋮﹂ なぜか向こうのほうから声をかけてきた。 1686 第108話 死の刃 ﹁なんだ?﹂ 舌戦は避ける方向ではなかったのか。 ﹁お前のことが少し知りたくなった﹂ ﹁⋮⋮?﹂ なんの話をするつもりだ。 ﹁なにかしら手を隠しているにしろ⋮⋮それでも戦いは五分といっ たところだろう。勝利を確信しているわけではないはずだ﹂ 五分。 まあ、そんなところだろうな。 どちらかといえば、こちらに不利だろう。 別に奥の手があるわけでもないし。 ﹁そうだな﹂ ﹁貴様の態度からは恐れが感じられない。捨て鉢になっているなら わかるが、そうではないだろう﹂ すく ふる どうも、俺が怖がっていないのが不思議らしい。 怖がるというか、無意味に竦んだり奮ったりせず、リラックスで きているのが奇異に思えるのだろう。 そういうタイプなんだ、としか言いようが無い。 1687 死や、死んだあとのキャロルの行く末がどうこう、などという心 配事は、今考えても意味がない。 身が竦むどころか、むしろ全力を尽くせるこの状況を、楽しんで すらいる。 今こそが、これまで励んできた修行、鍛錬の成果を発揮するとき なのだ。 死ぬとか生きるとか、戦いで手足を失って不具になるとかは、そ の結果にすぎない。 ﹁俺の頭がおかしいんじゃないか﹂ ﹁狂人ということか?﹂ ﹁そうだな。それで納得しておいてくれ。まあ⋮⋮﹂ お前が仕事を諦めて帰ってくれるなら別だがな。 と言おうとして、口から出なかった。 考えてみれば、こいつは殺すしかないのだ。 やっぱ帰る、と言ってくれれば、昨日の状況であれば泣いて土下 座して感謝するところだったが、今では追いかけてでも殺す必要が ある。 キャロルの存在を知ってしまったからだ。 もし逃がし、キャロルの存在を報告されてしまえば、次にくるの は十人かそこらではなく、その百倍、下手をすれば千倍の人数だろ う。 敵の優勢圏や補給網がどれほど伸びているかは不明なので、それ ほどの人数をここまで奥まった場所に展開できるのか。という部分 1688 はあるが、今回の戦争でのこちらの不甲斐なさを思えば、そこまで 優勢を取られていても不思議はない。 実際、こいつらは俺たち二人を追うのに千人まで投入してきてい る。 金髪の王族というオプションがつけば、次にやってくるのは一万 人、というのは、現実にありえる話だ。 ﹁まあ⋮⋮そろそろ話はいいだろう。戦争で美談を作る必要もない﹂ ﹁それもそうだな﹂ カンカーが握りを直す。 俺は自分から再開を申し出はしたものの、こちらから手出しはで きなかった。 松葉杖はだいぶ強く作ってあるが、有効な打撃を加えられるのは 頭、もっといえば顎くらいだろう。 先端が重いとはいえ、ただの棒だ。 鎧われている肩や足をいくら打ち据えたところで、ダメージは知 れている。 文字通り、痛くも痒くもないだろう。 となると、顎を打ちに行くとしても、かなり深く踏み込まねばな らない。 カンカーは剣をまっすぐに、平青眼気味に構えている。 平青眼とは、鍔元を握っている腕を隠すように若干剣を傾ける構 え方だ。 そうすることで、体の中で最も前に出ている握り手への攻撃を、 1689 防ぎやすくしている。 ここから無理をしてアゴを打ちに行っても、カンカーは肩か頭を 少し動かして、打撃を受けるだけだろう。 そのあと一歩踏み出し、まあ必要なら腕も伸ばして、俺の腹にぶ っすりと剣を突き刺す。 なんの困難もない。 俺の体は勢いで前に伸びているから、避けようもない。 それで終わりだ。 やはり、カンカーの動きを待って、こちらは合わせていくしかな い。 ﹁行くぞ﹂ 俺に対してというより、自分に対して言った言葉なのだろう。 一言前置きをすると、カンカーは動き始めた。 体全体が伸びてくるような突きが鳩尾を狙う。 間合いを見定めて半歩退き、突きを外しながら、半ば反射的に打 撃を合わせた。 が、突きの勢いは途中で止まり、俺もピタっとスイングを止める。 剣は翻り、俺の腕を狙って切り上がってきた。 左腕を上にあげ、すんでのところで斬撃を避けるが、カンカーの 動きは止まらなかった。 1690 切り上げの勢いをそのままに、体を半回転させ剣を後ろに回した。 ﹁フンッ!﹂ カンカーは、大きく踏み込みながら、くるりと回って地滑りする ような軌道から剣を繰り出してきた。 とっさに大きく後ろに飛ぶ。 踏み込みながらの体を伸ばした斬撃は、予想外に伸びてきた。 目の前を、下から上へと、ピッと空気を斬り裂くような斬撃が走 っていった。 あっぶねえ。 思いつきでは出せない大技だ。 流派の技なのか知らないが、さんざん練習してきた動きの一つな のだろう。 冷や汗が出る。 ﹁足が悪いのは本当のようだな。庇っている﹂ 改めて剣を構え直し、乱れた気息を改めると、カンカーはわかり きったことを言い始めた。 今日はやけに喋りやがる。 ﹁お前も、鎧が壊れているらしいな﹂ 乗ってやるか。 ﹁やはり気づくか﹂ 1691 ﹁実を言うと、曲げておいたのは俺だしな﹂ 俺は、カンカーが置いていった鎧を破壊しようとした。 胴まわりを変形させるのは無理だったが、腕の部分だけは、指の 先のところを持って、木に何度か叩きつけてみた。 一見して分かるような歪みは見えなかったが、あれが良かったら しい。 カンカーはそのまま装着したようだが、肘部あたりが変形してい たのか、明らかに曲げ伸ばしに問題を生じているようだった。 にぶ ギィギィと音が聞こえるほどではないが、腕を曲げ伸ばしすると きだけ動作に鈍りがある。 こうして、真剣に対峙していると分かる。 それがなかったら、先ほどの一撃で斬られていたかもしれない。 あるいは、剣にキレや伸びが足りていないと思ったがゆえの大技 だったのだろうか。 ﹁捨てなかったのは、あとで買い直す金が惜しかったからか?﹂ と、俺は挑発じみたことを言った。 実際には、鎧を付けていたほうが良いか、脱いだほうが良いかと いうのは、相手の獲物にもよる。 が、俺だったら、俺を相手にするとして、これほど鎧が悪くなっ ているのであれば、捨てていっただろう。 ﹁家伝の鎧だ。貧乏なのでな﹂ 1692 ﹁そうか﹂ まあ貧乏なのは鎧の出来を見りゃ分かる。 粗末な甲冑だ。 博物館に保管されて後世まで伝えられる類の甲冑ではなく、歴史 のどこかで不要になった時、捨てられ、溶かされ、ナイフやフォー クになってしまうような鎧だ。 当然、貧民と比べれば金持ちなのだろうが、ようやく甲冑を一領 維持していける程度の家なのだろう。 だからこそ、剣の修練に励んだのかもしれない。 想像がはかどるな。 ﹁お互い、相手が万全でないのは解ったな。まあ、こういうのも趣 があって悪くない﹂ と俺は言った。 戦力や状況を勘案すると、やはり俺が圧倒的不利なわけだが。 腕前や傷のハンデが同じくらいと仮定しても、片方は裸同然、杖 一本。 有効なのは顎くらい、まあ頭を思いっきり殴れば多少効くかな。 ってどうなんだよ。 前の時は俺が勝ったといっていいような内容だったから、なんと なく楽観視していたが、やっぱり爆弾でもなけりゃ絶望的だ。 ﹁そうだな、始めるとするか。そちらからは動かないようだ﹂ 1693 動けるかよ。 と思った瞬間、ピュン、と刃が伸びてきた。 スッ、と摺り足でわずかに後ずさり、寸前で避け、閃光となった 鋼が目の前を通り過ぎる。 最初の斬撃は十分に見切れる。 カンカーは更に大きく一歩を踏み出し、戻りの一閃は剣の向きが 違った。 一転、長剣は足を薙ぎ払うかのような軌道を見せる。 動きがにぶい足を狙ってきた。 俺は即座に前に出ていた右足を下げ、剣をかわした。 だが、カンカーはもう一歩踏み込み、更に剣を繰り出してくる。 左足を下げ、それをかわすと、つま先で地面を踏み、足裏の皮が 伸びた時、走るような痛みが走った。 縫い糸がぴっと張り詰め、皮がパリっと裂けるような感覚。 思わず、顔をしかめる。 あっ、駄目だ。 という思いが脳裏をよぎる。 このまま後退しても、続かない。 怪我のせいで、退がる速度より、カンカーの追いすがる速度のほ うが早い。 そうなれば、幾ら退がっても、カンカーの剣は近いうちに俺の体 1694 に届くだろう。 そして、カンカーは更に足を狙った剣を繰り出してきた。 俺は手を出していた。 後ろに下がるのではなく、前に一歩踏み出す。 剣が届くより先に杖を突き出し、脇当ての横木でカンカーの胸を 突いた。 恐らくは鎧を含めて100kg近い重量は、岩を押したように重 かった。 丈夫な槍の柄でできた杖がしなるほどの勢いで突くと、ようやく 勢いが反対側へ向いた。 お互いが離れる。 カンカーは、ただ構え直した。 俺にとっては結構な冒険だったわけだが、カンカーにとっては元 気が削がれたわけでもなく、当然ダメージもない。 構え直しただけだ。 対して俺のほうは、足裏に鈍痛がある。 糸が引き攣れ、僅かに出血している気配すらある。 削られているのは俺だ。 最初から解っていたことだが、足裏がこの有様では、短刀で接近 するのは無理だ。 無茶をしたせいで、ズクンズクンと疼くような痛みがあり、足首 1695 あたりから下が、赤黒い血袋になったように不自由だ。 昨日のように、素早い身のこなしで剣を掻い潜るのは、夢のまた 夢だろう。 ﹁ふーっ﹂ 駄目だな。 詰んでる。 普通のやり方じゃ駄目だ。 ﹁⋮⋮身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、か﹂ 思わず日本語が口をついて出ていた。 ﹁⋮⋮? 今なんと言った?﹂ 訝しげ思ったカンカーが、尋ねた。 ﹁次で終わりにする、と言ったのさ﹂ 必要なのは覚悟だ。 俺は杖を両手で担ぐと、軽く下がりながら、間合いを確かめるよ うに何回か振った。 最後に、片手で柄の根本を持って肩から腕を伸ばして振る。 ぶおん、と杖が風を斬る。 もう何回か同じことをやったら、カンカーは動き、杖はスパっと 二つに斬れるだろう。 1696 今のは、見逃されていただけだ。 だが、片手で振りに行けば、思ったよりのリーチは稼げることは 解った。 ﹁次で、お前の頭を打って終わりにする﹂ ﹁⋮⋮そうか﹂ さっきの俺の発言と行動で、カンカーはどう思ったろうか。 俺が後の先を狙っていると思うか。 それとも、先の先を狙っていると思うか。 きざ どちらにせよ、俺は武術の奥義を極めた達人ではないので、動き おこ の兆しとやらを知覚して先を制するとかなんとか、そんな高等技術 など使えない。 カンカーの動きの起りを見て、動く前に顎を貫く。なんてことは 無理だ。 一つ分かるのは、俺が動くとすれば、カンカーはまず杖を切って 落としたいと思うだろう。ということだ。 きわ 足が悪い人間が短刀など持っていたところで、カンカー相手には どうにもならない。 まずは俺の松葉杖を短くする。 そうすれば、さっきのように刃圏の際のところから胸を突かれて 追いやられるなんてこともない。 この長い杖は余りに頼りないが、この杖がなければ、足のない俺 に太刀打ちする術はないのだ。 さっきの展開は、杖がなかったら終わっていた。 1697 まずは杖を短くし、そして追いに追い、ついには斬る。 それが、カンカーにとっては最も安全な戦法だ。 何の難しさもない。 すでに詰み筋が見えているのに、妙な冒険などする必要はない。 ﹁ふう⋮⋮﹂ 俺は杖を両手で持ち、天を衝くような大上段に構えた。 カンカーの目が一瞬、訝しげな目に変わる。 それはそうだろう。 大上段という構えは、もちろん振り下ろす動作に派生する。 大上段からの頭への一撃は、あらゆる構えの中でも最も素早く、 強力な打撃となりうるが、カンカーの頭蓋の上部は兜に守られてい る。 大上段からの脳天への直撃という、最もしたたかな一撃を受けた ところで、大きな衝撃を感じて視界に火花が散る程度で済むはずだ。 肩も同様に守られているので、鎖骨を折られる程度のことも起こ らないだろう。 弧を描くようにして斜め上から顎を打つ、というのもできなくも ないが、力の向きを変えれば威力が落ちるので、一撃で昏倒、とい うのは難しい。 一撃で昏倒させるなら、さっきのように肩に担ぎ、野球のバッテ ィングのように顎を打ちぬくのが正解だ。 俺がなにをするにしろ、一撃で昏倒させなければ、交差したあと 1698 命が残るのは、カンカーのほうだ。 ﹁行くぞ﹂ フッ、と短く息を吐いて、俺は一歩踏み込んだ。 同時に、カンカーの頭蓋をヘルメットごと叩き潰す勢いで、杖を 振り下ろす。 踏み込んだ足が地についた瞬間、俺はビタッと体を止めた。 全身の肉が石になったかのような、短い硬直。 カンカーは、俺の渾身のフェイントに反応していた。 思い切り剣を振り上げ、杖を切ろうとしている。 が、そこに杖はない。 刹那の判断が頭を過ぎる。 恐れが過ぎ去る。 恐ろしかったのは、カンカーが打撃を無視して体ごと突きに来る ことだった。 頭を打たれるのも、顎を打たれるのも無視して、俺の命を一直線 に取りに来ることだった。 が、それはなく、カンカーはあくまでも杖を切断することに執心 した。 カンカーの長剣は、俺の目の前を下から上へと過ぎ去り、ピッと 空中で止まった。 そして、一転して剣を翻し、もう一歩を踏み込み、俺を捉えよう と伸びながら振り下ろした。 1699 そう動くのは解っていた。 カンカーの剣術は、静かな剣ではない。 剣から剣を、次から次に繰り出し、ついには敵を切り伏せるとい う、猪のような剣だ。 そういった剣には、常に攻めっ気がある。 今まで何度か攻められ、目で観察し、俺は覚えている。 道場稽古のように摺り足で追いすがるのではなく、足を交互に踏 み込んでゆくことも。 俺は、両足で地を蹴り、ぽんと後ろに飛んだ。 ・ ・ ・ ・ 飛びながら、どこにも力を入れず、ひょいと焚き火に小枝を放る ようにして、杖を手放した。 突き放すような手つきで放たれた杖は、ふわっと空中でほんの短 い放物線をえがく。 カンカーの峻烈な踏み込みが、柄の部分を鋭く蹴りこむ。 踏み込みと同時に繰り出された剣が、後ろに飛んでいなければ未 だ体があったであろう空間を斬り裂く。 もう杖はない。 このまま先程と同じように、斬撃に次ぐ斬撃を繰り出し続ければ、 俺は終わる。 が、杖がカンカ︱の足下にある。 これ、ただの長いだけの棒であったなら、カンカーに蹴り飛ばさ れて終わりだっただろう。 1700 だが、松葉杖として加工された杖は、重心が真ん中にない。 余分なものが付いているぶん、そっちのほうに質量が偏っている。 コンッと猛烈な勢いで蹴り飛ばされた柄は、ぐるんと大きく弧を えがく。 対して脇当ての方は、鋭く短い弧を描き、カンカーの両足の隙間 に、スルリと入り込んだ。 カンカーの目が勝利を確信する。 明らかに間合いの範囲内にいる、手ぶらの俺を切り裂こうと、必 殺の剣を繰り出した。 それと同時に踏み込んだ右足が、半回転した杖の柄を、再び蹴る。 前に蹴った時と違うのは、柄の反対側の横木は、ぴったりと左足 のかかとにくっついていることだった。 ・ ・ ・ ・ 足がもつれた。 両足を繋がれたカンカーは、一瞬でバランスを崩した。 それは、たたらを踏む程度では修正できず、膝をつくほどの勢い だ。 まさに垂涎。 涎を垂らしたくなるような隙に、体が反応していた。 怪我をしていない右足で軽く踏み込むと、前進の勢いを殺さぬま ま、左膝を立てる。 たったそれだけの動作。 極限の集中のなかで、ゆっくりと景色が流れる。 1701 絶望的なまでに遠かったカンカーの顔面が、手頃な位置に、無防 備に迫ってくる。 健常な右足はしなやかに地面を蹴り、一気に伸びた体の勢いが、 大腿筋によって加速された膝に、更に乗る。 膝は、カンカーの顔面に吸い込まれるようにして入った。 肉をひしゃぎ、肉を鎧った骨を一気にうち砕く感覚。 交錯が終った時、カンカーはその場に崩れ落ちた。 *** ﹁はぁ⋮⋮はぁ﹂ 終わると、緊張の糸が切れたかのように、虚脱感が押し寄せてき た。 息が切れるほどの運動はしていないのに、何故か息が切れ、むや みに口で呼吸をする。 ﹁勝った﹂ その事実が信じがたかった。 ﹁勝ったぞ﹂ 口にすると、なんとも言えない空々しさが背筋に残った。 1702 勝ったというのは誤りだった。 まだ、カンカーは死んでいない。 カンカーを見る。 仰向けになって昏倒しており、ピクリとも動かず、長剣も手放し ていた。 が、まだ死んではいない。 はずだ。 脳震とうかなにかで昏倒しているだけで、まだ息はあるのだろう。 俺は、とっさに長剣を蹴り飛ばし、手の届かない遠くへやった。 カンカーはまったく抵抗をしない。 今のうちに殺しておかなければならない。 ここでカンカーを生かしておくことが、後に俺とキャロルを殺す かもしれない。 俺はカンカーの兜を脱がした。 やはり抵抗はない。 心の縁に、殺害への抵抗が、さざなみのように打ち寄せた。 俺はもう何人もの人間を手にかけている。 だが、一時でも言葉をかわした人間を、斬り結んだ終着としてで はなく、こうして改めて殺害しようとするのは、初めての経験だ。 だが、例えば縛っておいて俺が安全圏内まで脱出するまで無害化 しておく、という選択肢は、俺にはない。 何者かがカンカーを開放すれば、今のような生死をかけた死闘が、 今度はもっと悪い条件で始まるかもしれないし、どの道キャロルの 1703 存在を敵方に知られることになる。 もしこの世に森羅万象を司る神様がいて、口頭での約束を絶対的 に履行させてくれるのであれば、キャロルの存在を秘匿することを 条件に解放するというのも、アリかもしれない。 が、現実にはそんな神様はいないのだ。 人と人とが信頼関係を結び、命の取り合いをしなくて済むように する、というのは、簡単なようでいて、残酷なまでに難しい。 いや、そういう問題でもないか。 俺が、こういった殺人に対して、さほどのハードルを感じること もなく一線を超えられる人間である。 ただそれだけの話だ。 俺は、裸になっているカンカーの首に腕を回し、ぎゅっと頸動脈 を締めた。 *** 五分ほどの行為が終わり、呼吸と心臓の停止を確認すると、俺は カンカーを仰向けに寝かせた。 今はじめてカンカ︱の顔面を見ると、短刀での傷に打撃が加わり、 目を覆いたくなるような惨状だった。 顔に布をかける。 あとは⋮⋮せめて葬式でもしておいてやろう。 えーっと、一応イーサ先生に習ったはずだが、なんだったかな。 1704 最初に胸の上に十字を置くんだったよな。 戦場ではツバの付いた剣でいいはずだ。 俺は、カンカーの長剣を胸の上に置いた。 うつしよ しるべ よみ ﹃全能なる主よ、今まさに現し世で命尽き果てしこの者、陰府への 旅の一歩を踏み出ししこの者へ、冥道へ導く聖なる標を与えたまえ。 せいひょう この者、聖なる御役目を果たし、今この地に果てり。故に、迷うこ となく聖なる地への道程を歩むべき者である。この者へ聖標を。ア リルイヤ﹄ 別に聖職者でもなく、というか洗礼も受けていない俺がこんなこ せいひょう グランド・ミスティリオン とをやっても、意味はないのだが、気休めにはなるだろう。 聖標というのは秘跡四行のうちの一つなので、連中にとっては重 大な意味を持つ。 その四つは、洗礼、告解、結婚、聖標のことで、誓いの秘跡だの 叙階の秘跡だのという、雑多な秘跡は含まれない。 原点が、イイスス自身の書いた聖典に存在する秘跡だ。 これをしないと、イイスス教的にはあの世への道を永遠に迷う⋮ ⋮わけではないが、ニュアンス的には、きちんとした道標がないの で迷う可能性が高くなる。 つまりは葬式であり、死後速やかに行う必要がある、とされてい る。 これをしていない死人は、社会的な立場があまり良くなくなるの だ。 俺はナイフの切っ先を使って、カンカーの鎧に一文を書いた。 1705 この者、聖標の導きにより陰府への道を滞り無く歩みし者也。 名を、カンカー・ウィレンスと言う。 これで、遺体が回収された後も、ああ誰かが秘跡を行ってくれた のだな。迷っていないのだな。とされ、遺族も安心できる。 遺体が回収されれば、の話だが。 しかし、誰がやったか書いてなければ説得力がないか。 ユグノー と、末尾に小さく名を書いておいた。 1706 第109話 二人四脚 一通りのことが終わり、立ち上がると、左足の膝がズキと傷んだ。 嫌な予感がして見てみると、ヘルメットにこそぎ取られたのか、 ざめつ 厚手のズボンは引き裂け、皮膚が抉られていた。 挫滅しているので、縫えるような傷ではない。 抉られている以上に、膝が芯まで痺れるような鈍痛があった。 膝蹴りで痛めたのだろう。 膝の皿でも割れてなきゃいいが⋮⋮。 気にしてても始まらないな。 キャロルのところに行くか。 左足を庇いながら、とぼとぼと歩いて、じっと見ていたキャロル の近くまで行った。 ﹁済んだぞ﹂ ﹁⋮⋮うん、見ていた﹂ そういったキャロルの表情は、なんとも形容しがたかった。 気丈を振舞っているのか、微笑んではいるが、どこか茫然として いる。 ﹁怖い思いをさせたか﹂ キャロルの首に剣がかかり、人質にされた時は、内心では冷や汗 1707 をかいたものだ。 というより、目の前で殺人が行われたのだから、キャロルもそこ らのお嬢様ではないにしろ、大なり小なりのショックはあるだろう。 ﹁いや⋮⋮そうでもなかった。助けてくれると分かっていた﹂ ﹁そうか?﹂ 助けてやれるかは五分五分以下だったので、事前に解っていたと いうのはおかしな話だが、いい意味で信じていたということだろう。 ﹁この期に及んでも攻撃してこないということは、配下の連中は周 囲にいなさそうだな﹂ ﹁状況はよくわからないが、見放して逃げたというのもあり得るの ではないか﹂ 昨日からのゴタゴタで、キャロルには十分に出来事の説明ができ ていなかった。 キャロルから説明を求めてこなかったからだが、こいつなりに極 限状態にあることを察し、口をつぐんでいたのだろう。 昨日の時点では、カンカーはまだ二人の部下を伴い、矢は刺さっ たが死亡が確認できない人間がもう二人いた。 矢を刺した二人は死んだと楽観視しても、少なくとも二人はほぼ 無傷だったはずだ。 だが、その二人もカンカーの強行軍についていけず、燃えた荷物 を見た時点で反抗・離別した、というのは、十分すぎるほどに考え られる可能性だ。 なにしろ、カンカーは荷物を持っていない。 鎧や、どこかポケットの中にでも入る物以外は、完全に手ぶらだ。 1708 ﹁それもあり得るだろうな﹂ ﹁うん﹂ ﹁だが、どの道そいつらの事は心配していても仕方がない。こうな ったら、できることをしていくだけだ﹂ この足じゃ運動不足のデブ相手でも追っかけて殺すのは難しい。 この周りにいるかもしれないから、周囲を探索して見つけて殺し ておく、というのは、実行不可能なのだ。 それで状況が悪化しようと、その場その場でどうにか対処してい くしかない。 ﹁⋮⋮そうだな﹂ と、キャロルは一瞬目線をそらし、あらぬ方向の地面を見た。 追って視線をたどると、そこには松葉杖があった。 松葉杖は、わずかに﹁へ﹂の字をかいていた。 つまり、柄が折れている。 どんな勢いで蹴ったんだ。 ﹁あーあ﹂ 杖のところまでひょこひょこと歩き、拾い上げ、横木のところを 持って先で地面を軽く叩くと、ベキッと音が鳴って、ますます曲が ってしまった。 これでは、どの道使えない。 体重を預けられるほどの耐久度がない。 1709 ﹁まあ、村までもう少し⋮⋮のはずだしな。なんとかなるだろう﹂ たぶん。 ﹁そうだな。私も、木に手をつきながらなら、いくらか歩けると思 う﹂ それしかないわな。 どうしても無理だったら、肩を貸しあいながら歩くとか。 それくらいしかない。 しかし、着々と状況が悪化しているのに、キャロルは堪える様子 もない。 ヒステリーを起こすでもなく、ガタガタ震えて前後不覚になるで もなく、落ち着いている。 偉いな。 ﹁朝メシを食ったら行こう﹂ ﹁わかった﹂ でも、これで食料が終わったら、本当に終わりだな。 この足では、狩りもできそうにない。 *** 朝食を食って、ほんの少しづつ歩き始めると、すぐに木に手をつ いて歩くという案が馬鹿馬鹿しいほどに非効率である、ということ がわかった。 1710 ﹁こりゃ、きついな﹂ 俺は少し休憩、とばかりに背を幹にもたれかけ、振り向いて言っ た。 連々と木が密に生えているわけではないので、木々の間は何も頼 ることなく歩行しなければならない。 それに、そもそも大木の幹は垂直なので体重が預けられない。 家の中のように、階段に手摺がついていたり、とっかかりがあっ て力がかけられるわけではない。 加えて、歩けば歩くほど、膝と足裏の鈍痛は増していた。 ﹁⋮⋮あぁ﹂ 若干遅れてついてきているキャロルは、元気がない。 落ち込んでいるというより、ノミで気力を削るように、一歩一歩 やってくる痛みが頭を侵しているのだろう。 だが、俺のほうも、膝がかなり頼りない。 力をかければ、泣くようにガクガクと震えだす有様だ。 背負うことなど出来そうにない。 ﹁肩を貸し合っていくか﹂ ﹁そう、だな﹂ 俺は、若干戻り、遅れていたキャロルのところまで辿り着いた。 ﹁はぁ、はぁ⋮⋮待ってればよかったのに﹂ 1711 まあ、先の方で待っててもよかったか。 ﹁寂しがると思ってな﹂ ﹁⋮⋮あぁ、そう、かも﹂ 心ここにあらずなのか、なんとも素直な返事が帰ってきた。 ﹁じゃあ⋮⋮肩組むぞ﹂ ﹁うん﹂ 俺はキャロルの肩に手を回した。 キャロルも、同じように組み回してくる。 若干身長に差がある。 ﹁大丈夫か? 俺は左足、お前は右足を怪我してるから、行進の要 領で普通に歩く。怪我してない方の足は踏ん張れよ﹂ ﹁わかった﹂ ﹁いいな。いくぞ﹂ 右足を踏み出すと、キャロルの肩がピクンとはねた。 痛みが走ったのだろう。 だが、腕越しに俺に体重を預けているので、これまでよりかなり 軽減されているはずだ。 左足を出し、同じようにキャロルの肩に軽く力をかける。 キャロルも、左足のほうは全く無事なので、きっちりと耐えた。 思いの外楽だ。 ﹁いけそうだな﹂ 1712 ﹁うん﹂と、キャロルは頷く。﹁でも、もっと体重をかけていいか らな。手加減しているだろう﹂ ﹁そうか?﹂ そう言われても、自覚がなかった。 ﹁こういう場面で男が女に遠慮がちになるのは分かるが、その足が 腐りでもしたら、私は本当につらい。こっちは、左足は全然大丈夫 だから﹂ キャロルも並の鍛え方をしているわけではないから、左足が大丈 夫というのは本当だろう。 怪我のない状態であれば、流石に俺は無理としても、ミャロくら いは担いで走れるくらいの体力は余裕であるはずだし。 ﹁わかった。そうするよ﹂ ﹁こういう時くらい、頼ってくれ﹂ ﹁そうだな﹂ 他人を頼り過ぎないというのも欠点か。 いや、結構頼ってきてる気がするけどな。 *** そのまま六時間以上を歩くと、小さな道に出た。 作りが雑な石畳が、手入れもそこそこに森を二つに割っている。 1713 キャンプ中に何度か通った、見覚えのある道だった。 幅の広さや石畳の具合、どこを見ても、大街道から枝分かれして ニッカ村に通じる道にそっくりだ。 ﹁あぁあ⋮⋮﹂ 疲れ果ててボロボロになっていたキャロルが、崩れ落ちるように 脱力した。 肩を組んでいた俺に、ズシッと体重がかかった。 ﹁おい﹂ ﹁あっ⋮⋮あぁ、すまない⋮⋮﹂ そう言うと、キャロルはぐっと五体に力を入れて立ち直った。 顔を覗き見ると、今までの険しい顔がほどけ、押し寄せてくる安 心感で弛緩したような顔をしていた。 無理もない。 本当なら、その場に座り込んで泣き崩れたいほどだろう。 キャロルは、村では助けが待っていると期待しているフシがある。 最初から望み薄かなと思っている俺と比べれば、安心するのは当 たり前のことだ。 それに、この状況では、期待するなとも言えない。 希望はあればあるほど良いのだから。 ﹁どうする? 休憩するか?﹂ ﹁いや、まだ大丈夫だ﹂ 1714 ﹁じゃあ、歩くか﹂ 道を、向かって左に歩きはじめた。 この道がどのあたりか、目印もないので覚えてはいないし、あと どれくらい歩けばニッカ村なのかも解らない。 下手をすると、今日中には着かないかもしれないな。 ﹁ちょっと、止まってくれ﹂ 俺は時計を見た。 午後二時半を指している。 かなり厳しそうだ。 ﹁どうしたんだ?﹂ ﹁いや、今日中には着けるかな、と思ってな。無理そうだ﹂ ﹁どうしてだ?﹂ ﹁今の場所がわからんからだ。たまたま近い所に出た可能性もある が、そうそう上手くはいかないしな﹂ ﹁いや、かなり近いぞ﹂ ? なんでそんなことが分かるんだ。 ﹁この道は、村に近づくにつれて敷石が良く手入れされているんだ﹂ 1715 ﹁そうなのか﹂ ﹁うん。見た感じ、ここは大街道よりかなり村に近い﹂ ほほう。 俺は気に留めなかったが、そういうことらしい。 こういった整備された道は、村の者も森にアクセスするのに使っ ていただろうから、使用頻度の高い部分だけ石畳が良く管理されて いるというのは、ありえる話だ。 ﹁良く覚えてたな﹂ ﹁私は、こういう田舎の村に来たのは初めてだったから⋮⋮物珍し くて、いろいろと見ていたんだ。村人の生活を想像しながら。もう 少し歩いたら、木こり小屋が見えるはずだ。きっと﹂ きこり 木こり小屋については、俺も存在を覚えていた。 こういった所では、樵は森の中に幾つか簡単な拠点を作って木を 切る。 建材の場合は人足を雇って丸のまま運び、薪にする場合はその場 で適切な長さにカットし、大八車のようなもので村まで運んで割る。 道沿いの木こり小屋では、倒したままの丸太が小屋の脇に何本か 転がされ、乾燥中だったはずだ。 ﹁だとすると、相当近いな﹂ 正直なところ、現在地すらおぼろげにしか解らず、この道と交差 することだけを目的に歩いていたので、村に近い所に出たのは完全 に偶然だった。 1716 これは、奇跡的と形容してもおかしくないくらい運がいい。 ﹁うん、たぶん、間違いないと思う﹂ ﹁助かった。そういうことなら、気の持ちようが違う﹂ 味方の待機の有無は置いておくとしても、村にたどり着くことが 重要であることに変わりはない。 近いとわかっているのなら、重い足も軽くなるというものだ。 ﹁じゃあ、はやく行こう﹂ ﹁急ぐなよ。そんなに近いなら、焦る必要もない﹂ ﹁うっ⋮⋮それは、そうだが﹂ ﹁夜までにゃ着けばいい﹂ 俺は時計をポケットにしまった。 ﹁さ、行くぞ。右足からな﹂ 1717 第110話 書き残された手紙 日が暮れ始めた時分、俺達はようやくニッカ村に辿り着いた。 ほうほうの体でニッカ村の入り口に立つと、十二日ぶりに来た村 は、まるで時が止まったように、そのままの姿でそこにあった。 家々のまんなかにある広場には、観戦隊が作った焚き火場があり、 燃え残った黒い炭木まで、出て行った時そのままに残されている。 俺たちが出撃した時と違うのは、人や馬、鳥がおらず、荷馬車の 類が持ち去られていることくらいだ。 ﹁誰も⋮⋮いない﹂ キャロルが、気が抜けたように言った。 ﹁⋮⋮だな﹂ ﹁そうか⋮⋮誰もいない、か﹂ キャロルは同じ言葉を繰り返した。 なんとも掛ける言葉がみつからない。 俺の方も、程度の差こそあれ、落胆を味わっていることには変わ りなかった。 希望的観測とはいえ、ここに味方の騎兵隊の一群でもいれば、明 日にはリフォルムの清潔なベッドで、もはや生死の危険に晒される ことなく、帰国を待つだけの身分になることもできたのだ。 1718 すが キャロルも、そういった妄想に心から縋っていたわけではないだ ろう。 たんに程度の問題で、俺のほうが立場上突き放した考え方をして いて、そのせいで動揺が少ないというだけの話だ。 ﹁⋮⋮どうした、もう歩けそうにないか﹂ ﹁いや⋮⋮﹂ ﹁ほら、家はまだ残ってる﹂ 俺が考えていた最悪の状況は、村が既に敵の集団の拠点になって おり、全ての資源が利用不可で、近づくことも危険というケースだ った。 その次は、敵はいないが村が焼けている。つまり、敵はいないが 略奪後焦土化されているというケース。 それらに比べれば、家が残っているというのは、かなりマシな部 類だ。 ﹁暖炉も、ベッドも、布団もある。少し頑張れば、風呂にだって入 れる。温かい飯を食って、風呂に入って、柔らかいベッドでぐっす りと眠れるんだ。悪くない話だよ﹂ 本当に悪くない話だ。 骨の芯まで凍るような寒さの中で、火にも当たらず夜を過ごすと いうのは、本当に辛いものだ。 ﹁あぁ、いいな﹂ キャロルは、かつて当然のように享受していた人間らしい生活を 思い出したのか、ほっとしたような声で言った。 1719 気休めにはなったようだ。 ﹁歩けるか﹂ ﹁うん、元気がでた﹂ *** ﹁一応、待ち伏せを警戒して、外縁部を回って村長の家まで行くぞ﹂ ﹁わかった﹂ この状況では、石橋を叩いても意味がない、という考えもよぎる が、やはり心理的抵抗があった。 他人の目がない一人暮らしでも、最低限の行儀を守るのと同じで、 こういった事は戦場での作法として、やっておかないときまりが悪 い。 こそこそと村と森との境界線を通って、各家の様子を見ながら村 長の家まで辿り着いた。 村長の家にも、別段変わりは見受けられない。 物音もなく、人の気配もない。 大人数の追っ手が家の中で罠を張っている。というのであれば、 余程の手練揃いでなければ、なかなかこうは行かないだろう。 大丈夫そうだ。 表に回ると、正面玄関があり、その前には馬留め兼鳥留めがあっ た。 1720 腕の高さに太い横棒が渡され、その両端は掘っ建てに杭を打ちこ んである。 出て行った時のままだ。 閉じられた玄関のドアノブに手をかけた。 鍵がかかっておらず、あっさりと開く。 見覚えのある大きな玄関があり、その右には集会場がある。 出て行った時より雑然とはしているが、大方戻ってきたとき作戦 会議でもしたのだろう。 俺は、組んでいた肩をほどいた。 家の中であれば、手をかける場所が幾らでもあるし、動くのにそ れほど難儀はしない。 ﹁⋮⋮まずは、書き置きを探そう。物を動かしたりする前にな﹂ ﹁書き置き、か。あってもおかしくはないな﹂ 今はリフォルムに撤退しているにせよ、一度はここに帰ってきた のは明らかなのだ。 何かしらメッセージを置いていく時間はあったはずだ。 ﹁いや、絶対にある。なんせ、ミャロがいるんだからな﹂ ﹁あぁ⋮⋮﹂ そこらの気の利かない阿呆ならともかく、ミャロは絶対にこうい うことは怠らない。 どれほど混乱した状況にあっても、寸暇を作って手紙を残す。 それに関しては、余程の確信があった。 1721 ﹁それは、そうだな。探してみよう﹂ ﹁まぁ、軽く探して見つからなかったら、また⋮⋮﹂ と言いながら、周囲を見回した時だった。 ふと横を見ると、靴箱の上に違和感のあるものが置いてある。 角笛だった。 立派な牡羊の角笛だ。 牡羊の角笛は、もはや考古学的な価値のある象牙の角笛と比べれ ば、安物なのは否めないが、丁寧にくり抜いて作られたものは、全 体が飴色に光ってとても美しい。 と呼んだほうが近いような匂い にこご 実用品としても使われるが、基本的には地方の土産物的な性格が 強い。 味 欠点は匂いで、酷いものは吸口を咥えると、獣臭の煮凝りを口に 突っ込まれたような、もはや がする。 非常に嫌な思い出だが、これは丁寧に中と外が削られているし、 なにより古いもののようなので、匂いはほとんどしない。 あの時は、一日くらい頭痛が後を引いた。 外観している状態で既に匂いが漂っていた物体を、口に咥えよう と思った俺のほうが馬鹿という説もあるが。 角笛は、長さが八十センチほどもあり、十分に目立つ。 二つの腕で掲げあげるような飾り台に置いてあり、台ごと靴箱の 上にあった。 これ自体は問題ない。 1722 宝飾品というわけではないので、玄関に置いてあってもおかしく はないものだ。 だが、問題は、これが俺が普段使っていた二階の書斎に置いてあ ったものである。ということだ。 それを知っている俺からすると、ここにあるのはまったく異常だ った。 幾ら慌てて撤退するにしても、持ってくる意味がない。 号令に使おうと玄関まで持ってきて、その後置き捨てたにしても、 台は持ってこないだろう。 良く見ると、角笛の台の下に、手紙の端が覗いている。 角笛をどかすと、それは手紙というより、メモのようだった。 ﹃︱・ ︱・ ︱・﹄ と書いてある。 なるほど。 俺はすぐにピンときて、靴箱を開けて天板の裏を見た。 四枚の手紙が、画鋲で貼り付けてあった。 ﹃︱・﹄は鷲に乗った時のホイッスルの符丁で、下、という意味だ。 角笛の下に置いてあれば、鷲乗りなら普通気づくだろう。 ﹁あったぞ﹂ 1723 ﹁もう見つけたのか? 早いな﹂ ﹁探すのに苦労しないところに隠してあった﹂ 俺が前に羊角の角笛を口に咥えた時には、ミャロもいた。 他の誰かだったら見逃したかもしれないが、羊角の角笛に印象深 い思い出のある俺なら、見逃す可能性は極微といってよい。 実際、ミャロの目論見通り、すぐに気づいたわけだ。 ﹁じゃあ、先に読んでいてくれ。私は食事の用意をしてこよう﹂ ﹁一人で大丈夫か?﹂ ﹁大丈夫だ。家の中なら、手をつく場所が幾らでもあるし⋮⋮﹂ ﹁明日にでも、新しい杖を作るからな。飯は頼んだぞ﹂ と、俺はポケットからライターを取り出して、キャロルに渡した。 ﹁使い方は分かるな。ヤケドすんなよ﹂ ﹁わかってる﹂ 右と左に分かれて、俺は集会場の椅子に座った。 背もたれの深い、座り心地の良い椅子で、これはリャオが別の家 屋から持ってきて、気に入った様子で使っていたものだ。 座ってみると、やはり木板の尻置きに直角の背もたれがついただ けの椅子よりは、だいぶくつろいだ気分になった。 封字のされた封筒を手で破き、読み始める。 1724 *** あなたへ 万一の時のため、あなたの素性が露見することを避ける必要があ 彼 が伝えたようですが、実は現時点で我々も ると考え、このような書き方にします。 >状況 会戦での敗報は 詳細な被害状況は解っていません。 今、筆を執っている現在は、あなたが消えてから二日目です。 会戦では、機動戦を取った我が軍が敵陣を破りきれず撤退、とい う展開になったようです。 全体の損害はそこまで多くないようですが、衝突の後撤退まで支 援した機動軍は、かなりの消耗を強いられたようです。 歩兵軍の一部は大要塞に篭もりましたが、士気は劣悪と聞きます。 また、シヤルタ王国の将家は大要塞に入ることを拒否し、リフォ ルム方面へ撤退しました。 かいつまんだ報告になりますが、これが現在我々が把握している 状況になります。 >隊の現状 1: 我々は、昨晩から幹部協議をして、リフォルム方面への撤退を決 1725 めました。 協議の結果、隊員たちを救助に使っても、まず確実になんの実り もなく全滅するであろう、という結論に至ったからです。 また、隊内には陸上しか移動できない兵が相当数いることから、 この撤退が遅れれば、彼らを致命的な窮地に立たせてしまう可能性 彼 が持っています。 が高く、待機による状況の悪化は看過できないと判断しました。 2: 現在、最終的な指揮権は あなたと同室の彼 が説得に当たるようです。 がわたしに接触してきました。 彼 への敬意甚だしい三名が、撤退について強硬 などは、離反して現地に赴く 現状、隊上層部での意見の衝突はありませんが、むしろ部下との 衝突が激しく、 もう一人 可能性すらありそうです。 また、 に反対しています。 剣 彼らについては、 3: つい先程、 を説得してみたい は独自の救助活動に入 事情を全て説明したところ、遭難地点へ急行してみる、というこ とでした。 剣 あなたと同室の彼 再度の接触があるかは不明ですが、 る模様です。 そのことを交渉材料に、 と思います。 1726 4: あなたの遭難は、 貴婦人 と報告することにしました。 、 その夫 、そして 彼の父 へ わた 現状で、手を貸してくれそうなのは彼らくらいである、という判 断からです。 >最後に は三日後、またここに来ます。 本隊はリフォルムを去りますが、特別な障害がない場合、 し 現状で大要塞は陥落していないので、鷲を使っての飛来であれば、 さほどの危険はない、という判断からです。 その時、あなたがいれば、手助けができると思いますので、この 手紙を読んだ後は、可能であれば、この場に待機してください。 なんらかの事情があり、早急にここを離れなければいけない場合 には は、台をそのままに角笛を壊すか、外に投げておいてください。 地底 は重く、撤退の邪魔になるので、使いかけのほうは置い を隠しておきます。 火種 火種 てゆきます。 了 *** 1727 やはり、本隊はリフォルム方面へ撤退したらしい。 リャオも、ミャロも、そつなく事を運んでくれたようだ。 隠された手紙ですら名前を秘しているのは、手紙を敵方に奪われ、 シャン人の奴隷に翻訳されてしまった時のためだろう。 手間から考えて、こういった手紙を一々翻訳するなどというのは 少し考えにくいことだが、万が一にもキャロルや俺の素性が推察さ れた場合、非常に面倒なことになるのは確かだ。 キャロルは言うまでもないが、俺も肩書はなかなかのものなので、 俺単体でも連中が目の色変えて捕らえに来るのに十分な価値がある。 これが書かれたのは⋮⋮五月二十九日か。 遭難が二十七日で、今日は、俺が余程ボケてなけりゃ六月八日だ。 まあ、二枚目を読むか。 手紙は全部で四枚ある。 *** あなたへ。 協議の結果、捜索隊は海岸沿いの道を主に探索することになりま した。 私も、あなたがここにもう一度来る可能性は低い気がします。 1728 とはいえ、あなたが立ち寄りそうな拠点はここしかないので、手 紙を書き残すことは、無意味ではないでしょう。 わたしは、また三日後に来ます。 余白を埋めるため、意味のない文章を書きます。 忙しかったら、読む必要はありません。 あなただったら、遭難から五日もあれば、馬を奪うなりしてリフ ォルムまで来てしまうだろう、と、わたしは思っていました。 もしかしたら、わたしが帰る頃には、あなたはもう捜索隊に発見 されているかもしれませんね。 そうだったらいいな、と思います。 彼 の話によると、あなたは木登りが出来るほど元気だったそ そうだったら、この手紙が誰にも読まれないことを願います。 もう一人 の不調によって仕事が著しく困 うなので、無事を疑ってはいません。 ただ、もしかしたら 難になっている、という場合もあります。 余白がもうないので、これで終わります。 あなたは今どこで何をしているのですか? *** これは、本当に3日後に来たのであれば、6月1日の手紙になる だろう。 1729 手紙は一枚に収められていた。 次の手紙は、6月4日ということになる。 ほんの四日前の手紙だ。 *** あなたへ 未だにあなたが見つからないということは、何らかの困難に直面 しているのでしょうね。 大要塞について、怪しくなってきました。 実のところ、敵方は包囲するばかりで弓の射程内にも入ってこず、 戦闘は一度も行われていないようです。 敵が現地で大量の金属を溶かし、盛大な煙が上がったのは一昨日 のことです。 昨日の偵察で、それが大型の攻城砲であることが判明しました。 今のところ、鋳込んだ砂型を崩し、冷えるのを待ったり台に載せ たりする作業をしているようですが、周りは馬防柵で囲まれ、たく さんの兵が配備されているので、破壊は難しいようです。 について、わたしと 彼 に情報の提供が求められました。 それでもどうにか破壊しようということで、あなたが持ち込んだ びん 拒否すると救助支援が滞る可能性があるので、協力することにし ました。 1730 材料については幾つか残りがあったので、実演してみました。 興味を持たれ、中身について質問を受けましたが、製造方法につ 臭い水 を七割ほどを供出しました。 いては知らないと言っておきました。 提供を求められたので、 ここからでは砲声は聞こえないようですが、今頃は激戦が始まっ ていてもおかしくありませんね。 陥落しないことを祈ります。 大要塞が陥落するということは、この村が危険になるということ です。 正直なところ、あなたがこの村に立ち寄るかどうか不鮮明な現状 では、このように手紙をしたためるのも心もとないというか、宙に 浮いたような気分ですが⋮⋮。 大要塞が陥落したら、この村にこうしてやってくるのも危険にな るかもしれません。 状況に応じてですが、次の三日後にも、ここに来たいと思います。 了 *** なるほど。 やっぱりそんなこったろうと思ったんだよな。 1731 あの石弾を飛ばす装置となると、よほど大きなカタパルトか射石 砲ということになる。 カタパルトであれば、わざわざ丸く削った石を持ってくる必要は ないわけで、やはり射石砲だろうな、とは思っていた。 おそらく真鍮か青銅を鋳込んだものだろう。 何トンもあるような巨大な大砲を現地まで運んでくるのは現実的 ではないが、分割された金属のインゴットを馬車に乗せて持ってく るのは、それほど難しいことではない。 鉄を溶かしこんで鋳鉄砲をつくることもできるのだが、鉄は青銅 と違い、溶かしたものを冷やすと、金属というより結晶質に変化し、 衝撃に弱くなる。 ぐにゃりと曲がる展延性を持った物質にするには、熱した状態で 叩いて鍛える必要があり、これは大砲のサイズではできない。 まあ、どうやって作ったかなどは、どうでもいい話だ。 問題は、その大砲が要塞を崩せたかどうかだ。 それについては、考えても意味がない。 なにしろ、手紙はあと一枚残っているのだから、おそらくそこに 書いてある。 それにしても、三日後に来たとすると、ちょっと考えたくないが、 これは昨日書かれた手紙⋮⋮ということになるんだが。 *** 1732 あなたへ 昨日、要塞が陥ちたという報が入りました。 詳細や経緯は分かりませんが、岩山の上に十字の旗が翻っている のは、確かなことのようです。 彼 に止められました。 もう、この場所は安全な地域ではありません。 今日、この手紙を届けに行くのも、 冷静に考えて、読まれない可能性の高い手紙を置きにゆくことは、 危険を犯すほど価値のある行為ではないそうです。 確かにその通りかもしれず、わたしは最早冷静ではないのかもし れません。 あなたがこれを読んでいるのか、わたしにはわからないのです。 だから、このような紙上に本来書くべきでない感情を綴ることを、 どうかお許しください。 お願いです。 帰ってきてください。 あなたの居ない日々は、毎日が不安です。 目を瞑ると、心の中が荒れ狂う夜の海のように波うって、眠るこ ともできません。 あなたは、今どこでなにをしているのですか? 状況は刻々と悪くなり、生存を信じる声は、日に日に弱くなって います。 ですが、わたしは、たとえ一ヶ月たっても二ヶ月たっても、あな 1733 たが死んでしまったとは考えられないでしょう。 敵がリフォルムに迫ったら、わたしは頭巾を被って、あちら側に 潜入し、あなたを探すつもりです。 隊を捨ててこのような行動に出ることは、あなたは望まないかも しれませんね。 でも、わたしは勝手にそうするつもりです。 苦労してテロル語を学んでいてよかった、と、今は心から思いま す。 了 *** 1734 第111話 人としての暮らし 読み終わった。 読み終わった感想は、当たり前だが﹁もう一日はやくここに来れ ていれば﹂だった。 参ったな、こりゃ。 ミャロが妙に心理的に追い詰められているふうなのも気がかりだ し。 まあ、それは当たり前か⋮⋮。 向こうからしたら、何か手がかりがあるでもないんだし、十二日 間も情報なしだったら死んでんのかと心配にもなるだろう。 しかし、もう既に要塞は陥落してるのか。 参ったなぁ。 また十日かそこらかけて、歩いてリフォルムまで行っても、攻城 戦してる裏手に出るだけの可能性が高いわけか。 はあ。 つくづく参った。 頭を抱えたい気分ってこんなんかなぁ⋮⋮。 はぁ∼∼∼あ⋮⋮。 1735 *** ﹁︱︱×××!﹂ ⋮⋮⋮ん⋮? なんだ⋮⋮? ﹁︱︱おいっ﹂ 肩を揺られると、ぱっと意識が覚醒した。 慌てて声のしたほうを見ると、キャロルがいた。 ﹁わっ⋮⋮えっ、眠ってたのか、もしかして﹂ ﹁そのようだな﹂ おいおい。 自分が信じられねえ。 目を開けると、目の前には机の上に散らかされた手紙がある。 夢ではなかったらしい。 手紙を読みおわって、参ったなぁ、と思って、少し考えようと背 もたれに背を預け、目を瞑った覚えがある。 はあ、と一つため息をついたのが、疲れが逃げていくようで少し 気持ちよかった。 その後はもう覚えていない。 ストンと意識を失っていたらしい。 1736 ﹁すまん﹂ 謝った。 自分が怪我を押して働いてたと思ったら、相方は椅子で寝てたと なったら、さぞかし気分が悪かろう。 ﹁いや、べつに構わんが⋮⋮食事も冷めてしまうし、寝るならベッ ドでと思って﹂ ﹁ああ⋮⋮そうか。どれくらい寝てた?﹂ ﹁そんなでもないと思うぞ﹂ そんなでもないか。 外を見ると、日はまだ落ちきっていない。 小一時間といったところか。 ﹁悪かったな⋮⋮﹂ ﹁いや、疲れていて当たり前だ。それより、料理ができたんだ。そ の⋮⋮運んでは来なかったんだが﹂ キャロルはバツが悪そうに言った。 運んでこなかったのは、皿を落とす可能性があるからだろう。 たった五メートルかそこらの距離でも、複数の皿を落とさないよ うに往復して運ぶというのは、この足ではなかなか難しい。 ﹁ありがたい。いただこう﹂ 俺は椅子を立った。 1737 *** 足を庇いながら歩いてゆくと、炊事場の机の上には、思いの外き ちんとした料理が並んでいた。 なんの種類かはわからないが、なにやら鳥肉を皮の油で揚げ焼き にしたものに、果実のジャムと油を混ぜたようなソースがかかって いる。 それがメインディッシュで、他に野菜のスープもあった。 この時期の野菜類はあまり程度がよくないが、スープにすればま た別だ。 その他に、小さな網カゴにはパンがたくさん入っていた。 ﹁凄いな﹂ なんだかんだ、キャロルの料理を見たのは初めてだった。 ぶっちゃけあまり期待はしていなかったのだが、見た感じでは大 した腕前だ。 ﹁手習いだよ﹂ ﹁茶と一緒にこんなのも勉強するのか?﹂ ﹁まあ、少しな。いざという時、炭のようなものしか出せなかった ら恥ずかしいだろう。それより、早く食べよう﹂ それもそうだな。 冷めてしまっては料理が台なしになってしまう。 1738 席に座って、フォークを手に取った。 ﹁いただきます﹂ ﹁めしあがれ﹂ なんの鳥だか不明な鳥肉を頬張ると、ソースの甘酸っぱ風味の他 に、独特の香ばしい香りがした。 燻製にしてあったらしい。 そりゃ生肉だったら腐っちまってるもんな。 それにしても、水気が飛んで締まった肉が、甘酸っぱいソースに 良く合う。 スープをさぐると、葉物の野菜の他に、同じ鳥肉がゴロゴロと入 っていた。 透明な鳥の油がスープの表面にうすく浮いて、なんとも美味しそ うだ。 野菜をフォークで口に運ぶと、鳥油らしい甘みを感じる油の風味 が移っており、体の奥から温まる思いがした。 ﹁美味い﹂ ﹁そうか⋮⋮よかった﹂ なにやらほっとしたような顔をしながら、キャロルは自分の料理 に手を付けず、俺が食べるのを見ていた。 ﹁どうした? 食欲がないのか?﹂ と言うと、 1739 ﹁え? ⋮⋮あっ、ああ。いや、食べるぞ﹂ 気づいたように言って、食べ始めた。 *** あっという間に料理をたいらげると、お茶が出てきた。 濃い緑色をしている。 キャロルの茶も、久々に飲むな。 どんな味のするお茶なのか、楽しみだ。 俺はお茶に口をつけた。 ﹁⋮⋮うえっ﹂ 強烈な苦味が舌の根をしびれさせる。 エグみのようなものも感じ、お世辞にもいい味とはいえない。 ﹁フフッ、不味いだろう﹂ キャロルにとっては想定内だったらしい。 ﹁ああ⋮⋮ちょっとな、これは⋮⋮﹂ ﹁これが体にいいらしいんだ﹂ 体にいいのか⋮⋮。 薬湯みたいなもんなのかな。 キャロルのほうは、同じものを平気な顔で飲んでいる。 1740 ﹁じゃあ、いただくか﹂ ﹁それがいい﹂ ごくごくと一気に飲みほす。 口の中に味が残るかと思ったが、飲み終わった後は意外とさっぱ りとしていた。 ﹁ユーリ、あとはもう寝るだけなのか?﹂ ﹁そうだな⋮⋮できれば風呂でも作りたい所だが、もう暗くなって きたしな﹂ 湯を作るのは重労働だし、今これからというのは無理だろう。 ﹁じゃあ、傷を見せてくれ﹂ ﹁そういうことか。わかった﹂ そうだった。傷の治療をしなければいけないんだった。 カンカーとの戦いで悪化した傷は、布も取らずにそのままだ。 キャロルは片足を庇いながら食器を片付けると、食卓に蒸留酒と 布を置いた。 本格的に日が暮れて真っ暗になってきたので、竈にひざまずいて、 ランプに火を移した。 火のついた竈にかけられていた鍋の蓋を取ると、盛大に湯気が立 ち上った。 湧いた湯が入っているようだ。 小さな取手鍋を使って、洗面器のような容器に湯を汲む。 1741 いろいろと準備がいい。 俺が寝ている間に用意しておいてくれたのだろう。 ガラガラと椅子を移動させると、キャロルは俺の左斜め前に座っ て、膝の上に大きな布をかけた。 俺の方も、座ったまま若干左に椅子をずらす。 ﹁そのまま、ここに足を置いてくれ﹂ ﹁わかった﹂ ぐっ、と左足を上げ、キャロルの腿の上に、汚れた靴を履いたま まの足を乗っける。 途中、左膝に重い痛みが走るが、今日だけで数えきれないほど経 験した痛みなので、もう慣れてしまっている。 キャロルは、靴を脱がせると、汚れた包帯⋮⋮というか布切れを はがした。 布切れは、乾いては濡れを繰り返した血でぐじゅぐじゅに染めら れ、その上に土がこびりついている。 ランプの火の下では、赤というより黒く見えるほどだ。 キャロルは、布を丁寧に剥ぐと、炊事場の土間に置かれたバケツ に捨てた。 ベシャ、と濡れた音が聞こえた。 ﹁うっ⋮⋮﹂ キャロルが、傷口を見て顔をしかめる。 そんなに酷い状態なのだろうか。 1742 ﹁血を拭うぞ﹂ キャロルは、洗面器の湯に洗いざらしのタオルをくぐらせ、手で 軽く絞った。 ぱたぱたと振って粗熱を取ると、汚れた足を傷を避けて全体的に 拭いてゆく。 少し染みるが、足湯に入っているようで、なんとも気持ちよかっ た。 汚れを拭き終わると、そのタオルをバケツに捨てる。 新しいタオルを、また湯に通した。 今度は強く絞らず、濡れたまま傷口に当てた。 ﹁⋮⋮くッ﹂ ギュっと奥歯を噛んで、刺激に耐える。 さほど熱くはないが、水分が傷にしみた。 ﹁大丈夫か?﹂ ﹁続けてくれ﹂ ぐっぐっ、と軽く押し当てられながら、傷口が清められてゆく。 ﹁どんな具合だ?﹂ ﹁⋮⋮私より、自分で判断したほうがいいかもしれない﹂ ﹁それもそうだ﹂ 俺はキャロルの膝に足を乗せたまま、足首を捩った。 こちらから覗きこむように足裏を見ると、遠いながら見ることが 出来る。 1743 キャロルが、気を利かせてランプを傷口の近くに寄せた。 塞がっていない傷口からは血が漏れ、突っ張られたせいで糸の通 っている穴が引き攣れ、こちらからも血が出ているが、そう悪くな い。 一応は縫えていて、傷口はズレてないし、開いてしまってもいな い。 縫い糸の引き攣れのせいで傷は酷く見えるが、どのみち化学繊維 でないなら炎症は起きるし、こんなのは抜糸した後いくらでも治る。 問題は、創傷が閉じているかどうかだ。 それより、患部が腫れているのが気になった。 まあ、あんだけ無理をおして歩けば腫れもするか。 ﹁糸が切れていないなら、そのままでいい﹂ ﹁切れてはいない⋮⋮みたいだ﹂ ﹁それなら、酒で消毒だけしておいてくれ﹂ ﹁わかった﹂ キャロルは、蒸留酒の蓋を開け、新しい布にたっぷりと染み込ま せると、トントンと叩くように傷口を洗っていった。 やっぱり染みる。 ﹁あと⋮⋮よくわからない軟膏があったのだが、塗ったほうがいい か﹂ キャロルは、机の上に載っている木の容器を見た。 平べったく、丁度ハンコの朱肉入れのような形をしている 1744 ﹁見せてくれ﹂ 渡してもらい、容器を見てみると、 でほってある。 ユルミ養命軟膏 と手彫り わりと達筆で、子どもに小銭を渡して掘らせたようには見えない。 こういう薬って、場合によっては魔女家が製造してる場合もある んだよな。 というか大本をたどれば、連中にとってはむしろこっちが本業な んだけど。 蓋を開けてみると、ふわりと青臭い匂いがした。 精油かなにかと蜜蝋を混ぜているのだろう。 メントールのようなハッカ臭はせず、色は白濁とした黄色をして いる。 手にとって見ると、とても柔らかく、クリーム状になっていた。 よく出来た軟膏だ。 とはいえ、創傷面につけてもいいものだろうか。 良いとも悪いともわからない。 痛むようだったら洗い流せばいいか。 ﹁つけてみてくれ﹂ ﹁わかった﹂ キャロルはネットリと軟膏を指にとると、創傷面に塗りつけた。 痛くはない。 痛いことには痛いが、それはキャロルが傷を押すからで、軟膏が 1745 染みている痛みではない。 塗り終わり、新しい当て布をして、長めの布でギュっと強めに閉 められると、圧迫止血されているような格好になった。 これは具合がいい。 ﹁あっ﹂ キャロルが短く言う。 しまった、という感じだ。 ﹁下を先に脱いでおいたほうが良かったかもしれない﹂ あぁ。 そうだな。 布で縛り上げたせいで膨れた足が、ズボンを通らないかもしれな い。 さすがに、このズボンで綺麗なシーツを張ったベッドに寝るとい うのは、気が引ける。 ずっと履きっぱなしだったズボンは、そのくらい汚かった。 というか、服とか全部変えたい。 ﹁まぁズボンは脱げるだろ﹂ かなり広めだし、無理だったら切っちまってもいい。 ﹁じゃあ、脱いでくれ﹂ ﹁えっ?﹂ 脱いでくれ、とは? 1746 ﹁着替えは用意してある。湯はまだ結構あるから、拭くだけでも体 を拭いたらどうかと思って﹂ なんとまあ。 まあ体は拭きたいけど。 土間だから水が滴り落ちても問題はないし。 ﹁なんだ、全裸になるのか﹂ ﹁ちっ、ちがうっ! わたしは後ろを向いているからっ⋮⋮﹂ ﹁じゃあ、脱ぐかな﹂ ﹁ちょ、ちょっと待て﹂ キャロルは、これも用意してあった大きめのサンダルを、布を巻 いた左足にかぶせるように履かせた。 今日はなんとも気が利いてるな。 俺の左足を太ももの上から下ろすと、キャロルはさっと反対側を 向いた。 俺はその場で服を全部脱ぎ、裸になった。 服は、もう着る機会もなさそうなので、そのまま土間に捨てた。 綺麗な布を湯で濡らし、軽く絞って蒸しタオルにすると、まずは 顔を拭いた。 汚れの少ないところから、体中を清めてゆく。 気持ち悪いくらいに汚れてしまったので、一度布を変えた。 左膝の傷は、もう血が止まっていた。 1747 挫滅した傷はそのままに、酷い青あざができている。 湯で濡らした布で血を拭い、酒で消毒してから、あて布をしてギ ュっと縛った。 そのうちに肉が盛り上がって、潰れた部分を埋めるだろう。 骨や健が見えているわけでもない。 傷痕は多少残るだろうが。 ﹁キャロル、嫌じゃなかったら、背中を拭いてくれないか﹂ ﹁えっ⋮⋮ああ、いいぞ﹂ キャロルに背中を向けながら、椅子に座る。 ﹁ンッ⋮⋮!﹂ 顔は見えないが、何か悲鳴をこらえたような、切迫した気配がす る。 ﹁下くらい穿かないかっ﹂ ﹁濡れちまうだろう﹂ 雫が垂れたら、腰の後ろのところが水浸しになってしまう。 ﹁まったく⋮⋮﹂ キャロルは布を絞って背中に当てた。 拭いてくれるようだ。 ギュ、ギュっと、強めに擦ってゆく。 ﹁⋮⋮引き締まっているな﹂ ﹁まあ、ドッラほどじゃあないが、俺も棒振りをしてるからな﹂ 1748 ﹁そういう話じゃなくて⋮⋮筋肉のつきかたが、女とは全然違うん だな﹂ ﹁そりゃそうだ﹂ 流石にあんだけ鍛えてて女みたいな体つきだったらキツいわ。 ﹁⋮⋮よし、これでいい﹂ ギュッと下まで拭き終わると、キャロルはそう言った。 ﹁ありがとな。じゃあ、むこう向いててくれ﹂ ﹁わかった﹂ キャロルの用意した服を着る。 この家の住民が使っていたものなのか、程度の良い平民服だった。 つぎはぎもない。 ﹁済んだぞ﹂ と言うと、キャロルはこっちを向いた。 ﹁よかった。サイズは良かったようだな﹂ 満足なようだ。 ﹁ああ。お前も体を拭くんだろ?﹂ ﹁もちろん。服も着替えたことだし、そろそろ寝たらどうだ?﹂ 寝て欲しいのか。 そらすぐ眠れそうではあるけど、急だな。 1749 ﹁背中は拭かなくていいのか?﹂ ﹁あのな⋮⋮おまえに女心への理解は期待してないが、女というの は汚れた体を見せたくないものなんだ。特に⋮⋮﹂ ⋮⋮特に? ﹁⋮⋮なんでもない。早く寝ろ﹂ ﹁そうだな。そういうことなら、眠るとしよう。リャオの部屋を使 うからな﹂ リャオは一階の客間を使って寝起きしていた。 二階に上がるのは億劫なので、それでいいだろう。 1750 第112話 残された物 翌朝⋮⋮まだ外が薄暗いほどの朝方に目を覚ますと、辛うじて陽 の光が入ってきていた。 久しぶりに感じる、全身が休まった感覚。 木に背をもたれかけて、凝り固まった痛みで浅い眠りが覚めるよ うな朝とは、まるで違う。 ゆっくりと全身をぬるく包み込む温かい布団は、忘れかけていた 文明からの抱擁だった。 人が暮らす世界に戻ってきたのだ、と感じる。 そして、横を見ると、そこにはキャロルがいた。 同じベッドで、横に丸まって寝ている。 美しい寝顔だった。 何かを感じずにはいられない。 出たくない。 ぬくもりに包まれていたい。 そう思いつつも、眠気はまったくない。 日が落ちてすぐに眠り、今はもう日が昇っている。 たぶん9時間か10時間くらいは眠ったのだろう。 眠気がないはずだ。 俺は、ゆっくりとベッドから抜け出した。 1751 置かれた状況を思い出させるように、膝と足の裏がズキと傷む。 幸いなことに、ベッドの下半分が血でべっとりということはなく、 シーツや布団はまったく濡れていなかった。 出血はほんの少しで済んでいるらしい。 スリッパをはいて、音を立てないように部屋を出た。 *** 上着を着て、外履きのサンダルに履き直し、炊事場でパンを一切 れ口に入れた。 外に出ると、早朝の寒気が頬を撫でる。 歩きやすいように、壁伝いに家を左回りにまわると、俺は家の裏 手にある小さな納屋に入った。 その中には、前に見た時のまま、様々な道具が雑然と放り込んで あった。 のこぎり 薪割り斧や、枝落としのための鋸、杭打ちや釘打ちに使う大小の ハンマー⋮⋮。 簡単な棚なども作っていたのか、それなりに製材された板や木の 棒も転がっており、木っ端などもたくさん山になっていた。 まあ、松葉杖を作るくらいは簡単だろう。 しかし、前のやつはTに横棒が一本足されたような形だったが、 握り手の真ん中に棒が貫いているというのは握りにくそうだったな。 1752 石づきが真ん中に来たほうが、重心的にはいいのかもしれんが、 いっそFのような形にしたほうが使いやすいかもしれん。 前に作った時は釘が使えなかったが、今回は幾らでもあるし、で きないこともないだろう。 カーブしていた方がいいかと思い、ぐにゃりと曲がった枝材を骨 にして、自分で試しながら二本の腕をつけた。 持ち手に斜めに支えを付けたら、一応は完成だ。 試してみる。 体重を預けて、ギュ、ギュッと体重をかけてやっても、バキッと いきそうな感じはなかった。 外を見ると、もうすっかり日が明けていた。 簡単な作業とはいえ、錐を使ったり丸い枝材に角棒を取り付ける のにノミで成形したりと、やることが多かったからな。 ** 杖を使って家まで戻ると、キャロルは既に起きていた。 というか、玄関先でむっつりとしている。 片手には、ステッキのような歩行杖を持っていた。 昨日は気付かなかったが、押入れかどこかに入っていたのだろう。 俺の作ったゴミのような日曜大工と比べれば、造りに雲泥の差の ある杖で、当たり前だがプロの仕事だった。 あくまで両足を使って歩くのが前提の杖なので、松葉杖のほうが 1753 具合はよいだろうが、屋内を歩くには重宝するだろう。 握りやすいように握り手も波になっている。 ﹁よう、おはよう﹂ ﹁⋮⋮どこか行くならひとこと言ってからにしてくれ。心配した﹂ 心配したようだ。 大声を出して呼んで回るのもはばかられる状況だしな。 ﹁悪かったな。起こすのも悪いかと思って﹂ ﹁起こしてくれたほうが気が楽なんだ﹂ あー。 俺も、逆の立場だったらそう思うかもな。 ﹁それはそうだな。悪かった﹂ ﹁うん﹂ ﹁それはそうと、いい杖だな。見つけたのか﹂ ﹁二階の部屋に置いてあった﹂ 二階まで探したらしい。 参ったなこりゃ。 ﹁湯は作っておいたから、食事にしよう﹂ ﹁すまなかったな﹂ ﹁⋮⋮いい。もう大丈夫だ﹂ *** 1754 パンとスープ、そしてチーズやハムなどのつけあわせで、簡単な 食事を済ませると、キャロルが茶をいれてくれた。 恐る恐る口をつけると、あまり苦く感じなかった。 それどころか、かなり芳醇な香りがして、なんとも美味しい。 ﹁美味い茶だな。昨日のはやめたのか﹂ ﹁ああ、あれは、一日に一回飲めばいいんだ﹂ そうなのか。 傷が治るまで延々と毎食後飲まされるものかと思っていた。 ﹁飲み過ぎると毒なのか?﹂ ﹁あー⋮⋮えーっと⋮⋮常飲すると石ができるんだ。とても痛いと 話に聞くアレが﹂ ⋮⋮結石か。 御免被りたい。 経験したことはないが、想像を絶する痛みと聞くし。 基本的に開腹手術の習慣のないシヤルタでも、盲腸と尿路結石だ けは開腹手術が行われている。 当然感染症による死のリスクが高い、生死をかけた大冒険になる わけだが、この両病は死んだほうがマシというレベルの痛みを伴う ので、選択の余地なく皆大冒険に出ることになる。 ﹁それは勘弁願いたいな﹂ 1755 尿路結石は男のほうが圧倒的になりやすい。 ﹁そうだろう。控えておいたほうがいい﹂ ﹁ところで、ミャロの手紙はもう読んだのか?﹂ ﹁⋮⋮うん。読んだぞ﹂ と、キャロルは妙に真剣な顔をして言った。 だから寝るのが遅くなったのかもしれない。 ﹁そうか⋮⋮じゃあ、俺たちが大分ヤバい状況にある事は分かるな﹂ ﹁ああ﹂ ﹁一日早けりゃあ万事解決したんだろうがな。これは言ってもしょ うがない﹂ ﹁私は、一瞬気が遠くなりかけたけど﹂ それは⋮⋮。 まあ、しょうがないか⋮⋮。 ﹁そんでな、問題は、歩けるようになったらリフォルムまで歩くっ て作戦じゃあ、どうも上手くいかなそうだってことだ﹂ ﹁いっそ、クォナムを目指すか?﹂ クォナムというのは、リフォルムの北にあるそれなりに大きな都 市だ。 キルヒナの内地交易の拠点として栄えている。 ﹁いや、一番肝心な問題は、歩けど歩けど敵の前線を追い越すこと はできないってことなんだ。街道はもはや使えないはずだからな﹂ 俺とキャロルの足が今この場で完治したとしても、街道を使わず 1756 今までのような森歩きでは、速度が出ない。 がく 行軍速度が遅いといっても、リフォルムに先にたどり着くのは、 敵の包囲軍の方だろう。 かく ﹁流石に、シヤルタまで隠れ隠れ歩くのは難しい。今までの道中、 食ってたのは追手から奪った食料が多いしな﹂ 皮肉な話だが、追手がかからないと食事に困ってしまう。 ここには大量の食料があるが、数十日分を携行していくわけには いかない。 持てるのはせいぜいが五日分くらいで、基本的には現地で調達し ていく必要に駆られるだろう。 ﹁うぅん⋮⋮難しいな﹂ ﹁それでな、俺は一か八かここで待ってみるのがいいと思う﹂ ﹁待つ⋮⋮とは? ミャロをか?﹂ ﹁いや、敵をだ﹂ ﹁敵を⋮⋮? 敵を倒すのが目的ではないだろう﹂ ﹁必要なのは、やはり馬だ。ここに始めに来る連中は、偵察だろ? もちろん、連中は馬を持っている﹂ 偵察といっても、たぶん来るのは威力偵察まがいの連中だろう。 主目的としては偵察だが、きちんとした武装もしており、発見し た目標が脆弱な場合は、攻撃して踏み潰す。 言い方を変えれば、先遣隊と言ってもいい。 逆に勝てる見込みもないほど強大か、もしくは彼我の戦力が同等 レベルと考えられる場合には、一目散に逃げて情報を持ち帰る。 1757 こういった無防備な村であれば、ついでに略奪をしていくことも あるだろう。 その点で、避けようがない戦闘以外は基本的に回避する、純粋な 意味での偵察任務や、潜入偵察のような作戦とは性格を異にする。 それらと比べれば、多分に攻撃的だ。 軍本体に先行する偵察というのは、大軍団が敵地を進む場合は必 ず行われることで、これをしなければ伏撃や奇襲をやられ放題にな ってしまう。 そういった地道な作業は騎兵という兵種の言わば日常業務であり、 大軍団が移動するのに絶対に必要なサービスでもある。 地理的に考えて、この村は必ず偵察の対象になるだろう。 もちろん、そういった連中はカンカーのようにプレートアーマー などは着ていない。 重すぎて馬が疲れてしまうからだ。 素の格好に多少胴鎧と兜をつけた程度の、軽快な格好をしている はずだ。 ﹁そいつらを迎撃、撃滅して、馬だけを奪うというわけか?﹂ ﹁まあ⋮⋮そうなるな。馬が手に入れば、なんとか敵を追い越して、 リフォルムまで行けるだろう﹂ キャロルには言うまでもないことだが、こういった偵察は本隊に 先んじて行うものだから、偵察隊を倒してからすぐ大街道へ出れば、 敵の大集団と遭遇する危険はない。 それが成功するようなら、強力な部隊が偵察を殲滅した場合、即 街道を駆け上がれば、本隊はまったく気づかぬまま側面を衝かれて 1758 しまうことになり、偵察の意味がない。 ﹁良い作戦に思えるな。敵の偵察隊を確実に倒せるのか、という点 を除けば﹂ それはそうだわな。 ﹁もちろん、確実に成功する見込みはない。まかり間違って敵が百 騎もやってきたらどうしようもないしな﹂ ﹁そうか⋮⋮﹂ キャロルは気鬱そうな顔をした。 そりゃそうだろう。 選択の余地がないとはいえ、成功の可能性のほうが低そうな作戦 だ。 頭の一つも痛くなる。 偵察から逃げ、敵が迫る中をシヤルタまで駆けるという、成功率 が極微の作戦と比べれば、二割でも三割でもマシなほう⋮⋮という ような話でしかない。 もっとも、残された希望の話をするなら、ミャロがここにもう一 度来るという可能性もなきにしもあらずなんだが⋮⋮。 ﹁他にも問題はある。もちろん俺たちは罠を張って待ち構えるわけ だが、ミャロの手紙から考えたら、敵さんは今日来ないとも限らな い﹂ 当然ながら、今この時来られたら太刀打ちのしようがない。 今この時、街道のほうから馬の蹄の音が聞こえてくるというのは、 十分にあり得る話だ。 1759 ﹁そうだな﹂ ﹁まぁ急いでも傷が悪くなるからな。ゆっくりやろう﹂ 茶を一すすりしながら言う。 急いだところでどうにかなる問題でもないしな。 それにしても、このお茶は本当に美味い。 ﹁ゆっくり⋮⋮って⋮⋮そんな悠長なことを言っていてどうする? 時間がないんだぞ﹂ なんだか切羽詰まってる感じだな。 まあ命がかかってるわけだから、仕方ないか。 ﹁相手は騎馬なんだ。ちょっとした罠を山程作っても意味がない。 馬を殺してしまったら元も子もないしな﹂ ﹁じゃあ、どうするんだ? 策はあるのか?﹂ ﹁ミャロの手紙を読んでないのか﹂ ﹁馬鹿にしているのか?﹂ 機嫌を損ねたのか、なんだか怒っているようだ。 ﹁なら、書いてあったろ? 置き土産のことがさ﹂ *** この家は、代々村長を務めてきた家の所有物だが、地下にはわり 1760 と大きな地下室が広がっている。 間取り的には、全体の6割ほどが地下室の上にある。 ホウ家領にある俺の生家がそうだったので解るのだが、地下室が あるのは土間と風呂場以外の地下だ。 竈の関係で土間となっている炊事場と、土足で入れるよう配慮さ れた集会場︵ここは宴会場も兼ねる︶、そして風呂場の下には地下 室がない。 完全な防水施工が技術的に不可能なため、水をこぼすと地下に滴 ってしまうからだ。 同様の理由で、周りに堀が巡らせてあるホウ家の本宅と、川の近 くにあるシビャクの別邸にも地下室はなく、代わりに地上に蔵が建 ててある。 本来であれば、隊の食料をまとめて買い取る時も、この地下室を 食料庫にしたかったのだが、そうするとゴチャゴチャと積まれてき た村長家の物品と混ざってしまうこともあり、他の家を一軒借りる ことにしたのだった。 が、要塞まで陥落した今となっては、遠慮をする必要もあるまい。 地下室の入り口は、風呂場近くの廊下にあるのだが、ミャロが入 り口を隠していた。 扉は床にあり、ハシゴのかかった穴を、ドアで蓋をしたような形 になっている。 が、今は一見無造作に置かれた木箱が、すっぽりと穴を隠してい た。 1761 木箱をどけると、正方形に金具がついたドアは、以前のままの姿 でそこにあった。 ドアを開けると、中は当然ながら真っ暗だ。 ハシゴ降りられるかな。 杖を廊下に置き、恐る恐るハシゴに右足をかけながら降りると、 腕で体を支えることで、わりかし簡単に降りることができた。 腕の力を使う作業だったが、そもそも懸垂とかめちゃくちゃでき るしな。 ﹁キャロル、杖を落としてくれ﹂ ﹁落とすぞー﹂ すとん、と俺の杖が落ちてきたのを、キャッチする。 用心しながらライターに火をつけ、ランタンを探した。 ランタンは、覚えにあった場所に、そのまま置いてあった。 油の染みた芯に火を移し、灯火を作る。 同じ所に、ロープが結ばれた取っ手付きのタライのようなものも ある。 これは、地下室から食料を引き上げるために使われていたものだ ろう。 俺は、ロープの束をキャロルに向かって投げた。 キャロルが危なげなくキャッチする。 ﹁どっかに結んだら、降りてきていいぞ﹂ 1762 そう言い残して、俺はランタンで地下室を照らした。 地下室の真ん中あたりに、不自然な樽が倒れ転がっている。 樽は倒された状態で転がされ、口の空いた端からは、黒い火薬が うず高く溢れ積もっていた。 この火薬樽は、酒を作ったあとの樽を再利用したもので、腹のと ころに開けられた小さな栓以外、再密封できる開封手段はない。 蓋は片方、半分割って開けてしまったので、転がして運べば中身 が漏れる。 しかし、隊の連中は捨てていくつもりだったため、外からの大き な入口から転がして入れたようだ。 照らして見ると、こぼれ落ちた火薬が、樽の転がったラインに太 い線を作っていた。 それでも、樽の中には蓋が残った半分までの火薬は残っている。 ﹁火薬は踏むなよ。埃を巻き上げないように、静かに歩いてくれ﹂ と、ハシゴを降りてきたキャロルに言う。 ﹁分かっているが⋮⋮でも、それを使うのが一番危ないのではない か? 光なら、外からのドアを開ければいいのに﹂ それはその通りで、この地下室のもう一方の入り口、外からのド アはかなり大きく、階段状にもなっている。 だから、隊の連中はそこから転がして入れたのだ。 家の中から入る道は、言わば裏口になる。 外からのドアを開ければ、十分に日が昇った今であれば、地下室 の中にも光が入る。 1763 ﹁そっちは、土をかぶせて偽装してあった。さっき家を回った時に 見たが、十日ちょっとで上手い具合に風化しているんだ。崩したら 台なしになる﹂ ﹁ああ、なるほど⋮⋮﹂ ﹁ここはもういいだろう。食料を幾つか回収して戻ろう﹂ ランタンをなにかの拍子に落としたら危ないし、踏み込んだこと で粉塵化した火薬が、ランタンに入る可能性もある。 まあ、いくらか巻き上げられた程度の火薬が燃えたところで、火 の勢いが若干強まる程度だろうが。 1764 第113話 罠作り 俺は、細い麻の紐を、ギュッと樹の幹に結びつけた。 ﹁これでどうかな﹂ 手を離すと、遊んでいた紐がスルスルと滑り、ピンと張る。 ここは、村の入り口から、昨日来た道を五メートルほど遡った地 点だ。 紐は、道を横断して反対側まで伸びている。 そして、生木にねじこんだフックに引っかかり、上に曲がり、さ らに太い樹の枝に引っ掛けられ、下に向かっている。 そして、終点には大きめの石が括りつけられていた。 最後の仕上げに、張力で千切れない程度にナイフで紐を削る。 誰かがこの紐を勢い良く蹴飛ばせば、ギリギリで石を支えている 細い紐は千切れ、石は落下するだろう。 石の下には、洗い物用の大きな桶がある。 桶の中には、各家から集めてきたヤカンや、小さめの鍋がたくさ ん入っていた。 この高さから岩を落とせば、けたたましい音が出て、その音は村 長の家まで届く、というのは検証済みだ。 つまりは、一種の警報装置であった。 1765 ﹁よさそうだ!﹂ キャロルの大きな声が聞こえる。 向こうも、きちんと石が吊れているらしい。 再び杖を持ち、少し移動して、更に道を遡る。 道路の石畳と迷彩色になるような木綿を選んだだけあって、風景 に溶け込み、遠目には分からない。 馬上からではなおさらだろう。 ﹁いいんじゃないか?﹂ と、同じくやってきたキャロルが言う。 ﹁じゃあ、これで完成だ﹂ まあ、野生動物にやられちまったら張り直しになるんだけどな。 ウサギがかかるほど低くはないが、シカみたいのが通り過ぎたら 引っかかる。 それはしょうがない。 ﹁ふう、とりあえずは一段落ということか⋮⋮﹂ 作業服姿のキャロルは、汗をかいたのか、袖で額を拭った。 日が昇ってくると、この時期にしては珍しいほどの陽気で、気温 が上がってきていた。 それにしても、農民が農作業に着ていくようなヨレヨレの服を、 キャロルが着ているというのは、なんとも不思議な感じだ。 ﹁これだけでいいのか?﹂ ﹁ああ。もうロープも張ったし⋮⋮とりあえず、これでいいだろう﹂ 1766 今度は手の込んだ罠を幾つも作るつもりはない。 キャロルの松葉杖も、さっき作った。 あとは、ロープを降りたところにクッションとして藁束でも敷い ておくかとは思っているが、べつになかったらなかったで何も問題 はないし、後回しで構わないだろう。 ﹁じゃあ、風呂でもいれるか﹂ ﹁⋮⋮っ! そうだなっ!﹂ と言ったキャロルの声には、なんとも喜色が浮いて出たような響 きがあった。 喜びが抑えきれないらしい。 ﹁⋮⋮ンッ、そうしよう﹂ 軽くはしゃいでしまったのが恥ずかしかったのか、なぜか小さく 咳払いしてから、キャロルはもう一度同じようなセリフを口にした。 *** ﹁はぁ、はぁ⋮⋮こりゃ参ったな﹂ なんでこの井戸はこんなに深いのだろう。 よほど水気の遠い土地なのだろうか。 紐を離すと、空っぽの釣瓶桶は縄に上に引っ張られ、ガチャッと 1767 音を立てて金具にぶつかった。 井戸についている釣瓶桶は、同じ重さの桶を適当な長さの縄で結 び、それをてっぺんについている滑車に引っ掛けた形になっている。 縄の真ん中らへんで手を離せば重さが釣り合うが、今のような状 態だと縄の分重さが偏るので、手を離せばこのように上がっていっ てしまう。 言うまでもなく、汲み上げにたいへんな労力が必要な設備だ。 これが阿呆らしいから手動の水汲みポンプを作ったのだ、と記憶 が蘇る。 料理に使う水程度なら大した手間でもないが、風呂桶一杯分とな ると、とんだ重労働だ。 ﹁大丈夫か?﹂ バケツを取りに来たキャロルが言う。 先ほど水を入れたバケツと交換に、空っぽになったバケツを置い た。 ﹁大丈夫ではあるけどな、あとどんくらいだ?﹂ ﹁今⋮⋮多分半分くらいだと思う﹂ ﹁半分か⋮⋮﹂ うわー、って感じだ。 うわー。 でも風呂には入りたいしなぁ。 ﹁⋮⋮半分でもいいんじゃないか?﹂ 1768 ﹁いや⋮⋮休み休みいけば大丈夫﹂ どうせなら肩まで浸かりたい。 ﹁変わろうか?﹂ ﹁俺は歩くほうが辛い。こっちでいい﹂ ﹁そうか。でも、無理はするなよ。キツくなったら私が両方やるか ら﹂ ﹁いや⋮⋮﹂ 流石に、それはありえんだろう。 ﹁休み休みやるとしよう。夜までに焚ければいいんだからな﹂ *** 火吹き筒を使って、ふーーーっと息を吹きかけると、枯れ葉を焦 がしていた小さな熾り火が勢いを増し、炎が生まれ、枯れた小枝に 燃え移った。 火の勢いが強くなったのを見計らって、割られた薪を投入する。 しばらく見守ると、薪に火が燃え移り、鋳鉄で出来た竈の中で、 火の勢いが強まっていった。 これでよし、と。 杖をたよりによっこら立ち上がり、万が一火が燃え移ったら大変 なので、余った薪を杖の先で遠くへ転がし、火元から離しておいた。 1769 この薪の量というのは調整が難しく、多くすると湯が煮えくり返 ってしまう。 九十度を超えてしまったお湯というのは、冷水をお手軽に足すこ とのできない場所では、かなり手に負えない。 窓を開けっ放しで冷やすにしても大分時間がかかる。 なので、熱いお湯を冷ますより、薪を少なめにし、ヌルかったら 薪を足して熱くするほうが簡単なのだ。 湯沸かしが一段落したので、俺は家を回って炊事場のほうへ向か った。 キャロルが、そちらで食事を作っているはずだ。 時計を見ると、もう午後五時近い。 少し早いが、夕食時といえば夕食時であった。 玄関にたどり着くと、キャロルはまだ料理をしているようだった。 ﹁よう、進んでるか?﹂ 声をかけると、 ﹁うん、進んでるけど⋮⋮あ∼⋮⋮かなり腹が減ってるのか?﹂ と、若干困った顔をしながら言った。 ﹁いや⋮⋮まだ大丈夫だけど﹂ 竈のほうを見ると、なにやら鍋がグツグツと煮えていた。 灰汁と泡で何を煮ているのかわからないが、ほのかに残った匂い からすると、酒類で肉を煮ているらしい。 1770 ﹁まだ、もうちょっとかかりそうなんだ﹂ ﹁そうか。手伝うことあるか?﹂ ﹁いや、大丈夫だ。あとは軽く煮こむだけだから、休んでいてくれ﹂ ﹁それじゃ、甘えさせてもらうか﹂ 俺も、さんざん釣瓶を引っ張ったせいで疲れた。 とはいえ、どうせなら二階の持ち場付近で休んでいたほうがいい だろう。 どうせ、敵のほうも今からは来ないだろうけど。 偵察行動は、もちろん良く周囲を見回すことが肝心なので、夜に やっても仕方がない。 日が落ちるまで一時間を切った、今のような夕暮れ時にやってく るのは、かなり間抜けだ。 しかし、まだ完全に日が落ちたわけではないので、百パーセント こないとも言い切れなかった。 俺は靴を脱いで玄関を上がり、二階への階段を登った。 よっこらよっこら登り終えると、自分の部屋として使っていた書 斎へ向かった。 ミャロの寝室と、キャロルの寝室には用があって入ったが、そう いえば戻ってから書斎には足を踏み入れていない。 ドアを開けて中に入ると、やはりここも、出て行った時のままだ った。 角笛が置いてあった棚を見ると、土産物らしい小さな置物を重石 に、紙が置いてある。 1771 手にとって見てみると、そこにはギュダンヴィエルの紋章が書い てあった。 もし一階でわからなかった場合、ここに来れば流石に解るって仕 組みなわけか。 ミャロらしく、手が込んでいる。 一先ず紙を置いて、部屋を見渡し、いつも座っていた椅子に座っ てみた。 そのまま眠ってしまえるような、座り心地のよい椅子だ。 ひどく安らいだ気分になる。 ふいに、いつもしていたように、窓に目をやった。 なにか妙なものがあった。 真っ黒な何かが窓辺にぶら下がっている。 ゆうたん あっ。 熊胆だ。 すっかり存在を忘れていた。 干しっぱなしにして出てきたんだった。 乾いた空気に晒された熊の胆は、出て行った時とはだいぶ様変わ りしており、すっかり水気が抜けていた。 全面がしわくちゃになって、みずみずしい革水筒のようだった頃 の面影はない。 見違えるほど萎んで、黒に近い色になっている。 吊り下げていた窓の金具から下ろし、触ってみると、まだ完全に 硬質ではなく、ぐにっとした柔らかさがあった。 1772 流動性は失っていて、柔らかいながらも切っても崩れないカラス ミのような感触だ。 これ以上硬くなるのかな? しかし、この様子だと、もう外膜を破っても、中身は溢れでては こないだろう。 たぶん、食べても問題ない⋮⋮はず。 熊胆というのは、薬の効能としては、胃腸の調子を良くし、消化 を助けるものだ。 なので、一般的には食前に湯に溶かして飲んだり、カケラを飲み 込んだりする。 粗食の長旅をこなして戻った今、これほど飲むに相応しい時はな かなか無いだろう。 俺は階段を降りていった。 *** ﹁キャロル﹂ ﹁ん?﹂ 灰汁を掬っていたキャロルが振り向き、俺がブラ下げていた熊胆 に目を留めた。 ﹁あっ⋮⋮それは﹂ ﹁熊胆だ﹂ ﹁すっかり忘れていた﹂ 1773 キャロルも忘れていたらしい。 色々あったからな。 ﹁俺もだ。食前に飲むと消化に良いと言われるものだからな。持っ てきた﹂ 胃腸の負担をやわらげるものだから、本当なら昨日の食事の前に 飲んだらよかったのだろうが、遅ればせながら今飲んでも悪いこと はないだろう。 ﹁そうなのか。それはいい﹂ そのセリフを聞くと、ふと何か大切なことを忘れているような気 がした。 何かすごく楽しみにしていたことがあったはずなのに、何だった っけ、思い出せない、といった、なんとも煮え切らない気分だ。 うー⋮⋮ん。 ﹁⋮⋮ん? どうした?﹂ ﹁いや⋮⋮何か忘れている気がしたが、思い出せないからいい﹂ ﹁そうか? じゃあ、早速食べてみようか﹂ ﹁料理のほうはいいのか?﹂ ﹁もうできた。あとは皿によそるだけだから﹂ ﹁そうか。そんじゃ早速飲んでみるとするか。ちょっと包丁とまな 板貸してくれ﹂ と、俺は包丁を預かり、まな板に黒い塊をのせて、一部を切りと 1774 って切れ端を二つ作った。 やはり、切り口からドロドロと中身が流れてくる様子はない。 残りの熊胆を乾いた布巾で包み、切れ端を小皿に乗せた。 忘れずに、飲み込むための水も用意する。 ﹁こんなものなのか? それをそのままかじるのかと思っていた﹂ ﹁いやいや、なんでだよ﹂ どういう発想だ。 なんてことを言いやがる。 にがみ そんなことをしたら、口の中がえらいことになってしまう。 苦味の塊のようなものなのだから、かじるどころか噛むような物 ですらない。 なんの罰ゲームだ。 ﹁その食べ方は、むしろ体に悪いと思うぞ﹂ ﹁そうなのか? まあ、言うとおりにしよう﹂ ﹁じゃあ、飲むか﹂ と、俺は手っ取り早くまな板の前で、長さ1センチほどの熊胆の 切れ端を口に入れた。 すぐにコップの水を口にいれ、ごくんと飲み下す。 それでも、後を引きそうな苦味が舌を刺した。 相変わらず苦いな。 ﹁︱︱ヒッ﹂ 1775 と、隣から何とも形容しがたい音が聞こえた。 例えるなら、鳴き声麗しい小鳥の断末魔のような。 そちらを見ると、キャロルがちょっと見たことのない表情をして いた。 髪の毛が逆立つような表情、というか。 それを見た瞬間、俺はなんとも言えない満たされた感覚を覚え、 一瞬にして思い出した。 そうだった。だまくらかしてたんだった。 確か、お菓子みたいに甘い味がするとかなんとか教えた気がする。 しまった。 すっかり忘れていた。 ﹁∼∼∼∼∼∼っ!!!﹂ 必死な顔で口を抑えはじめたキャロルを見て、俺は発作的におこ った笑いの衝動を、かみ殺した。 ﹁ぐっ⋮⋮大丈夫、か? 無理だったら吐き出したほうが⋮⋮いい、 ぞ﹂ ﹁んんん∼∼∼∼っ﹂ キャロルは、涙目になり、口を抑えて首を振っている。 見る人が見たらひどく興奮しそうな絵面だ。 俺は即飲み下したからいいが、味わって舌で転がしてしまったん だろうな。 奥歯で噛んでたりしたら最悪だ。 1776 ﹁ほ、ほら﹂ と、俺はさっき使った、まだ半分水が入っているコップを、キャ ロルに手渡した。 キャロルは無我夢中でコップを手に取り、水を口にふくむと、ベ っと吐き出した。 もう一度残りの水を大量に口に入れると、ぐじゅぐじゅと口の中 をゆすいで、やはりべっと吐き出した。 ﹁なんだこれは!!!﹂ 口元を拭いながら吐き捨てるように叫んだ。 はあはあと肩で息をしながら、憎しみの形相で、先ほど布巾に包 んだ熊胆を見つめた。 どうやら事態を整理できていないらしく、今のところ憎しみは俺 でなく、苦い味のする食べ物にぶつけられているようだ。 ﹁飲んでしまった⋮⋮毒だったのか?﹂ と、心配げな様子で、なにかを相談するように言った。 ﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮いや、飲んでも大丈夫なんだぞ﹂ ふーっ。 落ち着け落ち着け。 言うほど面白くねえよ。笑うほどのことじゃねえって。 ﹁しかしこれは⋮⋮腐っていたんじゃないのか? 今からでも吐い 1777 たほうがいいんじゃ⋮⋮﹂ ﹁あー⋮⋮⋮くっ⋮⋮すーっ、はーっ⋮⋮⋮教え忘れてたが、元々 苦いんだ﹂ ﹁⋮⋮は?﹂ 呆けたような顔で首をかしげる。 ﹁前に甘いと言ったが、ありゃ嘘だった﹂ 俺がそう言うと、キャロルの顔はとたんに険しくなった。 ﹁なんだって? もう一度頼む﹂ ﹁苦いものを甘いと嘘をついてた。すまんな﹂ ﹁心臓が止まるかと思ったのだが?﹂ ﹁今の今まで忘れてたんだ。今思い出した﹂ ﹁どういうことだ? 騙すなんて﹂ ﹁騙してたわけじゃ⋮⋮薬なのは嘘じゃないし⋮⋮ちょっと騙して たのを忘れてただけでさ﹂ ﹁騙してるじゃないか﹂ やべぇかなり怒ってる。 騙したのは事実なので言い逃れのしようがないし⋮⋮。 ﹁すまん﹂ と素直に謝った。 ﹁謝れ﹂ えっと。 さっきのはカウントに入らないのか⋮⋮。 1778 ま、まあ減るもんじゃないし二度三度やっても悪くはないよな。 ﹁すみませんでした﹂ 重ねて謝った。 都合三度謝ると、すっとキャロルの表情から怒気が消えた。 よかった。百度とかだったらちょっとキツいところだった。 ﹁まったく、なんでこういう時にふざけるんだお前は⋮⋮﹂ 怒りは引き潮のようにひいたようだが、今度はなんだか呆れてい るご様子だ。 ﹁いや⋮⋮騙した時はまだ気楽な感じだったし⋮⋮﹂ ﹁言い訳するな﹂ 睨まれた。 ﹁はい⋮⋮﹂ ﹁ん⋮⋮いや、反省しているならいい。それより、食事にしよう﹂ ﹁そうだな﹂ 俺がいうと、 ﹁あっ﹂ と、唐突にキャロルが何かに気づいたような声を上げた。 ﹁ん?﹂ 鍋でも吹きこぼしたのか? ﹁あ、あ∼∼∼∼⋮⋮っと﹂ ﹁なんだ?﹂ ﹁そ、そうだった。お前は悪いことをしたんだから、そ、その⋮⋮ 1779 つ⋮⋮つぐないをしてもらうからな﹂ ﹁償い?﹂ なんだか妙な話になってきたぞ。 償いってなんだ。 ﹁お、お風呂で⋮⋮、せ、せせせせなかを流してもらうからな﹂ 1780 第114話 初体験 ビールで煮こまれた肉厚の牛肉は、本当に美味かった。 ぎゅっと噛むと肉汁が溢れ、ソースと混じって口の中で広がる。 煮こまれた肉は口の中でほぐれ、なんとも柔らかい。 こういうものを食べていると、傷も早く治りそうな気がする。 最後の一口を口に入れると、口の中から消えてしまうのが惜しま れるようだった。 ﹁ごちそうさま﹂ 食べ終わってしまうと、若干の虚しさを感じる。 ﹁⋮⋮どうだった?﹂ ﹁凄く美味かった﹂ 素直に感想を言った。 ﹁そうか、よかった。じゃあ⋮⋮﹂ ﹁な、なんだ?﹂ ﹁はい﹂ 差し出されて来たのは、昨日も飲んだ酷く不味いお茶だった。 あ⋮⋮こっちか⋮⋮。 1781 ﹁これか⋮⋮﹂ 味を知っていると若干きついな⋮⋮。 不味いもんは不味いし⋮⋮。 ﹁からだに良いんだぞ﹂ ﹁そ、そうだな。飲むよ﹂ 熊胆舐めさせてしまった件もあるし⋮⋮。 俺はコップを手に取ると、一気に飲み干した。 なんだか頭がくらくらする。 舌に残っていた料理の余韻も吹き飛んでしまった。 ﹁うぅ﹂ ﹁よし、じゃ、じゃあ先にお風呂に入っていてくれ﹂ なにが﹁よし﹂なのか。 確かにキャロルの皿にはまだ料理が残ってるけど。 ﹁わ、私は後でいくから﹂ *** 手を湯にいれると、軽く追い焚きしたのが良かったらしく、具合 のいい温度になっていた。 1782 手桶で湯を浴び、汚れを流す。 濡らした布で全身をくまなく清め、傷口を改めて強く縛り、湯船 に入る。 左のつま先を縛った布に、じわっと湯が染みてくるが、油軟膏を 塗ってあるせいか、刺激は少なかった。 それより、全身を包む湯の温かみがひたすらに気持ちいい。 体に染みこんだ疲れが溶け出てゆくような感覚。 極上の愉悦だ。 ﹁ふわぁ∼∼⋮⋮⋮﹂ 思わず声が出てしまった。 ﹁は、入るぞ﹂ 戸の奥から声が聞こえ、返事をする前にドアが開いた。 今回は償いとかなんとかで、俺に拒否権はないようなので仕方な いのだろう。 キャロルが入ってくるのが音でわかる。 ﹁先にいただいてる﹂ ﹁う、うん。私も体を洗ったら入るっ、からな﹂ いや、そりゃそうだろう。 なんか緊張しているようだ。 当たり前か。 俺だって緊張してるもん。 1783 ﹁目は閉じていたほうがいいか?﹂ ﹁う⋮⋮できれば⋮⋮。い、いやっ、見てもいいぞ﹂ ﹁やめとこう。足でも滑らせたら大変だ﹂ と、俺は濡れたタオルを顔の上半分に置いて、大きな湯船に寝そ べった。 横で、腰かけ台がギッと床とこすれる音がした。 キャロルが座ったのだろう。 それにしても、湯が気持ちいい。 足をゆったり伸ばせるサイズの湯船とか、村長も無理したんだろ うな。 水を入れるのは大変だったけれども。 体を洗う音が聞こえる。 そのままゆっくり湯に浸かり、しばらく待った。 ﹁お、終わったぞ。背中を流してくれ﹂ ﹁わかった﹂ 俺は風呂からあがり、湯気の合間からキャロルを見た。 椅子に座って、若干前かがみになりながら、タオルで前を隠して いる。 背中に近づいて、湯で濡らしたタオルを軽く絞った。 背中に触れる。 ﹁ひゃ﹂ なんか面白い声が出た。 1784 ﹁熱かったか?﹂ ﹁い、いや、大丈夫⋮⋮続けてくれ﹂ ﹁わかった﹂ ギュッ、ギュッと背中を洗ってゆく。 しなやかに筋肉がついた、綺麗な背中だ。 こすっても、垢のようなものも殆どでない。 たぶん、昨夜念入りに洗っておいたのだろう。 最後に、湯で背中を洗い流した。 ﹁よし、これでいいだろう﹂ ﹁うん⋮⋮じゃ、じゃあ、はいろうか﹂ ﹁そうだな。俺から先に入っていいか?﹂ ﹁わ、わかった。私は後からだな﹂ まったく、不器用な会話だな、お互い。 とはいえ、キャロルは足を固定するギプスの類はつけておらず、 両足とも素足のままだ。 なにかの拍子にうろたえて、足をグネったら大変なことになって しまう。 俺が湯に再び入って目を閉じると、後からキャロルが入ってきた 気配を感じた。 風呂は、二人で入っても余裕という大きさではなく、二人が入る すす と、向い合っても足が絡んだ。 体を濯ぐのに使った分で、水かさが減っていたのだが、キャロル が入ると少しあふれた。 1785 ざばぁ、とあふれた湯が水音を立てる。 目を開けると、キャロルは秘部と胸を手や足で隠していた。 顔が赤いのは、湯の火照りだけが原因ではないだろう。 ﹁ど、堂々としているな﹂ ﹁これからするんだろ? 隠してもな﹂ ﹁そういうものなのか。わ、私も見せたほうが⋮⋮﹂ ﹁いや、女の場合は隠しておいたほうがいい﹂ ﹁えっ﹂ エロいことをする予定のない女だったら、もちろん見えたほうが いいんだが、そうでない場合は恥じらいがあったほうが後々エロい。 ここは譲れない。 ﹁あ、あのさ⋮⋮ずいぶんと冷静でいるけど、私の体に興味がない のか⋮⋮? どこか変か?﹂ どんなことを心配してやがる。 とんだ勘違いだ。 ﹁いや、そんなことはないぞ。めちゃくちゃ魅力的だし興奮してる﹂ キャロルの体は、俺の中では百点に近い。 痩せぎすでもなく、均整のとれた、美しい体だ。 多少だらしないほうが⋮⋮とかいう奴もいるが、俺とはちょっと 相容れないな。 胸のほうも、俺は大きさより形派なので、あまり問題はない。 冷静でいられるのは年の功で、冷静でいるよう努めているのは、 1786 アレがアレしたらみっともないから、かなり無理をしているのだ。 ﹁そうなのか?﹂ ﹁今更ダメと言われたら、猛った気のやりどころにずいぶん苦労す るだろうな﹂ ﹁えっ、いやいや、そんなことは言わないけど﹂ ﹁いや、言ってもいいんだぞ。引っ込みがつかなくなった、とかで あれば﹂ 俺は苦労するけどな。 ﹁えっ⋮⋮﹂ ﹁お前には立場があるし⋮⋮考えが変わったのなら、遠慮はいらな い﹂ ﹁ユーリ、気を使いすぎだ。私は⋮⋮後にも先にも、このことを後 悔したりしない﹂ そう言うなら、そうなんだろうな。 俺のほうも、もう思い悩む必要はないだろう。 そもそも、誘ってきてるものを一生懸命に拒むというのも変な話 だ。 俺だってめちゃくちゃやりたいのに、なんで躍起になって断る必 要があるんだか。 考えてみれば、それほどご大層な敷居があるわけでもない。 お互いに明日をも知れない身で、後々の責任はあるにしても、や ったら世界が崩れて人類が滅亡するというわけではないのだから。 ﹁そうか。じゃあ、俺も抑える必要はないわけだ﹂ 1787 ﹁抑える?﹂ キャロルはきょとんとした顔で言った。 ﹁俺も男だからな。やっていいのか悪いのか、なんてグチグチ言う のはもう終わりだ。そもそも抑えてただけで、ずっとやりたかった んだしな﹂ ﹁えっ⋮⋮そ、そうなのか?﹂ ﹁当たり前だろ。俺を性欲の枯れたジジイだとでも思ってたのか? この歳の男子の性欲といったら、そりゃもう凄いもんだからな﹂ ﹁うっ⋮⋮﹂ なにやらキャロルは怯んだようだった。 ﹁で、できれば⋮⋮優しくして、くれないか⋮⋮﹂ と、身を守るように胸を抑えてギュッと縮こまって言った。 その仕草は、なんともグッと来るものがあった。 心のなかの下半身に繋がってる部分が鷲掴みにされた気がした。 興奮するなって方が無理だ。 そして、もはや抑える理由はない。 ﹁この場で始めちまってもいいか?﹂ ﹁えっ、い、今かっ? ちょ、心の準備が﹂ ﹁大丈夫だって、本番まではしないし﹂ ﹁え、え、ほんばんって⋮⋮つまり⋮⋮つまりどういう事?﹂ 1788 あーそこからか。 ﹁つまり⋮⋮本番の前の準備運動みたいなもんだよ。ほら、背中向 けてこっちにこい﹂ わずかに気が急いて、言葉遣いが乱暴になってしまう。 ﹁えっ⋮⋮う⋮⋮うん、わかった﹂ キャロルは素直に言うことを聞き、戸惑いながらも腰を持ち上げ、 向きを変えて背中を見せた。 その所作も、妙に艶めかしく、気品がある。 根ががさつな女だったらこうはいかないだろう。 ちゃぽんと腰を下ろし、湯船の中で座った。 ﹁触るぞ﹂ 俺はキャロルの腰に手を伸ばした。 *** ﹁ンッ⋮⋮くっ⋮⋮っ、はぁ、はぁ⋮⋮﹂ キャロルは、小刻みに体を震わせながら、俺に体を預けている。 腕は、体を好き放題に弄ぶ両腕にしがみつき、せがむように絡ん でいた。 息は淫らに乱れ、肌を重ねあった部分からは熱を感じる。 1789 俺の体も湯で温まっているのに、それよりなお熱い。 ﹁ふわぁ⋮⋮﹂ 熱に浮かされたように吐息が漏れた。 ﹁これくらいでいいだろう﹂ ﹁ぇ⋮⋮やめちゃうのか⋮⋮?﹂ キャロルは真っ赤に上気した顔で、真横にある俺の顔を見た。 ﹁これ以上やったらのぼせてぶっ倒れちまう﹂ ﹁いい。もっと﹂ なんだか意識が少しぼやーっとしているようだ。 ﹁そしたら、本番がお預けになっちまうだろ。ほら、寝室に行くぞ﹂ ﹁うぅ⋮⋮わかった﹂ *** 先に寝室で待っていると、頭が冷えて冷静になったのか、バスタ オルをきっちりと体に巻いた姿で、キャロルが手杖をついて現れた。 だが、まだ心に余熱を帯びているのか、表情は険しいものではな い。 窓の外は暗く、日はすっかり落ちている。 二人を照らすのは、二台のランタンの頼りない明かりだけだった。 1790 ﹁⋮⋮⋮ッ﹂ どうしていいかわからないのだろう。 うぶ キャロルは、一昨日の夜の積極さが嘘のように、初心な反応をし ている。 実際に初心なのだから仕方がない。 風呂場で遊んだお陰で柔らかくなっているから、堅さを無理にこ じ開けるような無粋は、しなくて済むだろう。 ベッドのふちに座っていた俺は、立ち上がって手を差し伸べた。 キャロルは近寄り、その手をとる。 握った手をすっと引っ張り、体を入れ替えながら、ベッドに倒れ こむように崩す。 ﹁きゃ︱︱﹂ 腰掛けるような形になり、短い悲鳴が漏れ、俺はそのままキャロ ルをベッドに押し倒した。 唇を奪う。 あとは言葉はいらなかった。 1791 第115話 襲来 がしゃん、と音が鳴ったのは、二日後の昼間のことだった。 その時、ちょうど二階の書斎で待機していた俺は、治りかけた足 で急いで窓際に向かった。 開け放った窓から見ると、村の入り口で騎馬が五騎、つったって なにやら足踏みのようなことをしている。 石と金物が起こした突然の大音量が、馬を驚かせたのだろう。 馬を落ち着かせているようだ。 俺は、高鳴る心臓を抑えながら、用意してあった笛を思い切り吹 いた。 ピーッ、という高い音は、敵方にも聞こえただろう。 が、作戦がキャロルと協同して行うものである以上、キャロルと 間違いなく連絡することのほうが重要だ。 もちろん、五騎は笛の音を察知し、こちらを見た。 俺は用意してあった弓を取る。 なりわい 狩猟を生業にしていたらしき家に置いてあったもので、今まで使 っていた短弓ではなく、猪にも使えるような長弓だ。 これなら、射程が全く違う。 ぎゅっうう、と引き絞って、標的より若干上を狙って射放った。 曲射された矢は、ゆるいカーブを描き、騎馬とはかけ離れた地面 に突き刺さる。 1792 俺は文字通り矢継ぎ早に矢をつがえ、射放っていった。 ストンストンと矢が地面に突き刺さると、遠すぎて解らないが指 揮官が指示をしたようで、五騎のうち四騎が、こちらに向かって走 って来た。 攻撃の規模から、敵が少数であり撃滅可能であると考え、叩き潰 すことに決めた。 が、万が一目算が外れた場合、情報を持ち帰らせるために一騎残 す。 そんなところだろう。 向かってきた四騎は、流石に馬の扱いに慣れているようで、弓を 警戒して小刻みに蛇行しながら近づいてきた。 あっという間に距離を稼ぎ、村を端から端まで横断して、俺のい る村長の家に辿り着く。 が、いくら馬が達者でも、馬に乗ったまま家の中を捜索すること はできない。 馬を降り、可能であれば馬がどこかへ行ってしまわぬよう、馬留 めになる何かに手綱を巻きつけておきたいところだ。 もちろん、村長の家の玄関には、来客のための馬留めがある。 騎兵たちは馬を降り、馬留めに一瞬で手綱をひっかけると、ドア を蹴破った。 鍵かけていないので、蹴破る必要はないのだが、当然鍵はかかっ ているものと考えたのだろう。 ドカドカという音が一階に響き渡ると、俺は弓と矢を放り捨てて 振り返った。 1793 連中は、弓の射手が二階に居ると知っている。 最低限の警戒をしながら、一直線にここに来るだろう。 俺は家を横断し、家を挟んで玄関と反対側の窓に辿り着いた。 窓の上辺にはロープが括りつけられており、そのロープは低く地 上の木の幹まで伸びている。 もう一度笛を吹き、キャロルに知らせると、用意しておいた丈夫 なズボンを手に取り、それをロープに引っ掛けた。 俺は窓の桟を蹴り、空中に身を躍らせた。 ザーッという音がして、勢い良く地面に降りてゆく。 終点に用意された藁にズボっと膝から突っ込んだ。 左足の膝が地面にぶつかり、ズキンと盛大な痛みを伝えてくる。 立てるか? その前に、振り返って窓を見た。 そこに兵が顔を出しているようなら、即ロープを切らなければ、 向こうもここに来るだろう。 が、それをする前に、ボッ! と、くぐもった音が聞こえた。 音の殆どが地面に吸収されたのか、音は小さかった。 代わりに、地面が一瞬、痙攣したように揺れた。 ベキッベキッ、と、木材を力任せに折ったような音が、建物全体 から響き始めた。 地下室に生じた急激なガス膨張によって、全体を支える梁がいっ ぺんに破壊された家は、穴に落ちながら傾げるように崩壊を始めて 1794 いる。 崩れ落ちてくる。 狙い通り、俺がいるほうに倒れてきたので、地面を這うようにし て木の影に隠れた。 轟音と同時に、風圧と粉塵が頬を撫でる。 しばらくして木陰から姿を表すと、そこは瓦礫の山と化していた。 *** 家に入ってきた四人は、この有様では重症は免れないだろう。 だが、一応念のため、松葉杖の代わりに置いてあった槍を手にと った。 瓦礫から這い出てきたら刺してやろう。 この槍は、人用のものではなく、狩人が熊を相手にするのに使う、 鎧通しのように頑丈な穂先のついた槍だ。 あのカンカーのような達人が相手でなければ、これで戦えるだろ う。 杖を頼りに歩き、地下室の外出入り口のところへ向かった。 そこには、粉塵をもろに被ったキャロルがうつ伏せに倒れていた。 ﹁おいっ、大丈夫か?﹂ 俺はしゃがみこみ、仰向けにすると、キャロルの肩を掴み、揺す った。 ﹁んっ⋮⋮﹂ 1795 キャロルは、一度目の笛で一階から地下室に入り、地下室経由で 外へ退避しつつ、二度目の笛で火薬に着火する係だった。 地下室の入り口を見ると、頑丈に作られた扉ははじけ飛んでしま っている。 予想以上に火の伝わりが早く、扉の金具に棒をかけたあと、一緒 に吹き飛ばされたのかもしれない。 ﹁うー、んん⋮⋮﹂ ﹁おい、しっかりしろ﹂ 頭を強く打ったりしていたとしても、申し訳ないが体を気遣って やっている暇はない。 ﹁うっ⋮⋮あっ、ああ⋮⋮っ! どうなった!?﹂ 意識がはっきりし始めると、一気に状況を思い出したようだ。 この様子なら大丈夫か。 ﹁わからん。歩けるか?﹂ キャロルは辛うじてその手に手杖を握っていた。 ﹁もちろんだ。馬は?﹂ ﹁まだ確認してない﹂ いなな といいつつ、玄関の方向を見ると、少し吹いている風に清められ た粉塵の向こうで、馬が繋がれたまま嘶いているのが僅かに見えた。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 馬が無事なのは計算づくだ。 地下室は土間の下にはない。 1796 地下室で爆発が起こり天井が崩れれば、家は玄関の反対側に倒れ るように崩れてゆく。 結果、馬は無事なはずだ。 事実、無事だった。 だが、馬はいやに興奮していた。 まあ、目の前の建物が轟音を立てて崩れれば、身の危険の一つや 二つ感じるだろう。 ﹁大丈夫そうだ。行くぞ﹂ ﹁うん﹂ キャロルの手をとって、引っ張り起こす。 瓦礫の横を通って、急いで馬のところへ行く。 馬は、やはり大騒ぎに騒いでいた。 足を怪我しているとはいえ、乗馬にそこまで支障が出るとは思わ ないが、暴れ馬と手綱の引っ張り合いっこをするのは、さすがに遠 慮したい。 ﹁どう、どう﹂ と、結んだままの手綱を握って引っ張った。 落ち着け、落ち着け。 馬は、ブルルルと鳴くばかりで落ち着かない。 鳥だったら、目を見るとなんとなく意が通じる感じがして、すぐ 落ち着かせることができるのだが、馬はそうはいかないらしい。 根気よく続けていく他ないか。 1797 ﹁ど、どーどー﹂ キャロルが隣で、見よう見まねで手綱を引いている。 俺より馴染みやすさを感じるのか、刺々しい雰囲気がないからな のか、キャロルが挑戦している馬のほうが、興奮から冷めてきてい るように感じる。 そちらの雰囲気に引きずられてか、こっちの馬も落ち着いてきた ようだ。 ﹁先に乗ってみろ﹂ と、キャロルを促す。 キャロルのほうの馬は、既に﹁人が乗ったらすぐにでも振り落と してやるぞ﹂という気分は失っているように見えた。 御するには苦労しそうだが、乗ったらなんとかなるだろう。 ﹁わかった﹂ キャロルは馬の左側に回って、鐙に足を通すと、杖を持ったまま ぐっと馬に乗り上がった。 馬の様子を見ながら、馬留めから手綱を外す。 暴れる様子がないので、そのまま手綱をキャロルのほうに放り投 げた。 俺の馬のほうもおとなしくなったので、長柄の槍を一度地面に刺 し、手綱をほどいて馬にまたがった。 多少慌てている雰囲気はあるが、元が軍馬だけあって落ち着きが 1798 いい。 ﹁行こう﹂ 手綱をさばいて馬を転回させ、村の入り口に向ける。 俺は、自分の目を疑った。 一人残された偵察が、まだそこにいた。 1799 第116話 帰路 伝令が、村の入り口で馬にまたがったままポツンと居る。 何故だ? 頭のなかが疑問符で一杯になる。 なんで逃げていない? よっぽどの阿呆か? それとも、こいつらはそもそも偵察ではなく、別の部隊だったの か? わからない。 確かに、敵の立場に立って想像してみれば、常軌を逸した事態で はある。 味方が殺されるにしろ、それは一斉に矢の雨を浴びせられて死ぬ とか、一斉に敵の集団が家々から現れ、網を投げられ、めった打ち に殺されるとか、そういう場合を想定しているはずだ。 それが、敵の数はたった二人で、味方は家屋が崩壊して行方不明 である。 俺だったら、事態の異常さなど関係なく、即断即決で遁走に移り、 本来の任務を完遂すべしと考えるが、彼の考えは違うのかもしれな い。 1800 つまり、あれは俺たち二人が去った後、味方を捜索するべきと迷 っている。 そういう可能性もあるよな。 それとも、罠か? 俺たちを引っ張って、釣り野伏式に包囲するつもりなのか? いや、そんな手間をかける理由がわからないし、それだとあっけ なく四人を突っ込ませたのはおかしい。 案外、頼りにならない、決断力のない若手や無能を控えさせたの かも⋮⋮。 色々考えても、逃げなかった理由はわからないな。 いや、関係ないか。 どの道、この機を逃したらもう俺たちに打つ手はない。 虎の子の火薬も全て使ってしまったのだから、次にくる連中を打 ち破ることはできない。 つまり、強行突破しか選択肢はない。 むしろ問題は、やつを殺して偵察隊を全滅させるか、というとこ ろだろう。 報告がいくよりは、行かないほうが良いに決まっている。 俺は地面に刺した槍を引っこ抜き、向き直った。 ﹁罠かもしれんが、行くしかないな﹂ ﹁うん﹂ 1801 キャロルも、偵察が残っていることには気づいていたようだ。 ﹁俺の馬が倒れたら、お前は無視して突っ切れ﹂ ﹁嫌だ﹂ とキャロルは即座に言い返した。 ﹁命令だから、問答無用だ。ついてこい﹂ 俺は、返事を待たずに馬に合図を送った。 そくほ 手綱を緩め、足の腹で馬の横っ腹を叩く。 馬はごく自然に速歩を始めた。 そこで、靴に拍車がついてないことに、今更気づいた。 拍車は靴の踵についていて、馬の腹に押し付けることで、言わば 合図を強化する機能を持っている。 鳥の場合は敏感なので拍車の類は必要ないが、乗馬には必須でも ないが必要ではある道具だ。 忘れていたが、ないものは仕方がない。 槍を片手に走らせ、いよいよまで近づくと、最後に残った偵察は、 ついに遅い決断をした。 ようやく、馬を翻し、来た道を遡って走らせはじめた。 追う。 俺は馬の腹を一段と強く蹴った。 馬は更に早くなる。 1802 リズミカルな走りが腰を上下に振り、頬が風を切って疾走する感 すがすが 覚を味わう。 久々の清々しい感覚だった。 が、村を抜けかけたところで、馬は勝手に足を緩めて速歩に戻っ てしまった。 くそ、上手くいかねえな。 本当の馬術は、駆鳥もそうだが以心伝心が重要だ。 機械のように、手綱や鞭でコマンドを入力してやれば、思い通り 動くというものではない。 恐らく、調教の方法がシヤルタの馬とは微妙に違うのだろう。 どうしてもチグハグになってしまい、人馬一体とはならない。 が、こうなったら不器用にでも無理やり走らせるしかない。 俺は思い切り、右足の腹で馬の横っ腹を叩いた。 とにかく叩いて走らせる。 馬は速度を一段階上げ、再び疾走を始めた。 ロスは少しの間だったが、あれで大分離されてしまった。 というか、単純に向こうのほうが乗馬が上手いっぽい。 そりゃ本職だもんな。 走っているうちに、さらに引き離されていく。 というか、根本的に腕前に差があって、向こうのほうが数段速く 馬を走らせられるようだ。 ヨーイドンで勝てないものを、追いかけっこで捕まえられるはず 1803 がない。 数分間競争した後には、一直線に伸びた林道の向こうに、ようや く背中が見えるほどの距離があけられてしまっていた。 だめだこりゃ。 仕留めるどころではない。 だが、その時、異変があった。 追っている偵察の更に先に、指先ほどの大きさの騎馬が現れたの だ。 のんびりと先を走っていた馬に追いついてしまったわけではなく、 こちらに向かって全速力で走ってきているようで、距離がぐんぐん 縮まっている。 やはり罠だったか。 とっさに後ろを見ると、キャロルは若干遅れてついてきていた。 ここは、そのまま突っ込むべきだろう。 罠が張ってあったとしても、強行突破するしかない。 俺は馬の速度をそのままに、槍を持つ手に力を込めた。 前方で、偵察と騎馬がすれ違った。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ その瞬間、偵察がなにかに衝突したかのように落馬した。 乗り手を置いて、馬だけが前方にかけてゆき、偵察は背中から地 面に激突する。 1804 胸からは、槍のような棒が伸びていた。 こいつ⋮⋮? 考える間もなく、謎の騎兵は手綱を引き、かなり乱暴に馬を急停 止させた。 俺とそいつの距離は、指先の大きさから、手のひらの大きさにな る程度に縮まっていた。 クラ人の服を着ていることを見て取ると、俺は速度を殺さず突進 した。 騎馬戦は、より多く運動エネルギーを持っているほうが有利だ。 何があったか解らないが、敵か味方か分からないなら、殺してし まったほうがいい。 この状況で立ち止まるリスクは負えない。 槍で刺し貫くつもりで穂先を合わせると、謎の騎兵は素早く何か を取り出した。 ﹁やめろ! 味方だ!﹂ そうシャン語で叫びながら掲げられた物体は、見た目には黒い棒 であり、若干反り返っていた。 俺はそれを見たことがあった。 とっさに槍をずらし、同時に手綱を引いて馬に制動をかける。 丁度、落馬した偵察の横で止まった。 王剣だった。 1805 *** 俺とキャロルが止まると、王剣はすぐに馬を降りた。 こうして顔を見ると、確かに王剣だった。 近くまで来ていたのを、家を発破した音を聞き、急いで駆けつけ たのかもしれない。 服は⋮⋮クラ人から奪いとった鎧を着ている。 よほど仕立ての良さそうなサーコートまで着ているあたり、かな り身分の高い貴族から奪ったのだろう。 王剣はキャロルに向かって跪き、頭を垂れた。 ﹁殿下っ⋮⋮よくぞご無事でっ⋮⋮!﹂ 俺をガン無視でキャロルに頭を下げている。 それは全く構わないのだが、キャロルがこちらを見て、なにやら 意見を求めるような目をしていた。 軍というのはこういった決まり事に五月蝿いので、上の人間の頭 越しに処理することは嫌われる。 俺はキャロルに頷いて返した。 ﹁よくやってくれた。ティレト﹂ ティレトっつーのかこの王剣は。 1806 初めて聞いた。 ﹁そのようなことは⋮⋮いち早く御身をお救いに参れず、申し訳ご ざいませんでした﹂ 当然だが、俺のことはどうでもいいようだ。 たぶん、俺がこの場で胸を抑えて突然死しても、﹁ふーん早く帰 りましょう﹂といったところだろう。 ﹁ああ、ユーリのお陰だ﹂ と、キャロルが持ち上げると、王剣ははじめて俺を見た。 見た、というか、睨んだ。 何か言いたいことがあるらしい。 が、キャロルの前では言い難いのか、口をつぐんだ。 まー、十中八九⋮⋮というか十中十、恨み言だろうな。 俺としても言い訳の一つや二つしたいところではあるが、キャロ ルをこんな目に合わせた元兇であることは間違いないわけだし。 別に恨み言をいわれたところで痛いわけでもないし、大丈夫だけ ど。 肝心のキャロルの親には恨み言をいわれる筋合いはない。 ﹁おい、いいか?﹂ と、俺はここで始めて口を開いた。 ﹁なんだ﹂ ﹁俺とこいつが健常と思っているかもしれないから言っておくが、 1807 二人とも足を負傷して、杖なしでは歩くのもままならない状態なん だ。感動の再会はいいんだが⋮⋮﹂ 俺とキャロルは、馬の乗り降りが負担になるので、馬にまたがっ たままだ。 王剣が来たことで、状況は非常に好転したが、気を抜いても構わ ないほどに楽観視できるほどのものではない。 ﹁⋮⋮殿下、お怪我を?﹂ 王剣は、気遣わしげな目でキャロルを見上げた。 ﹁ああ。墜ちた時に怪我をして⋮⋮ここまで、ユーリが背負って歩 いてくれた。だがここに着く直前、ユーリのほうも負傷してしまっ てな。苦労をかけるが、道中の警護を頼みたい﹂ ﹁あそこからここまで⋮⋮?﹂ 王剣は、なにやら感じるところがあったようだ。 ただ右往左往迷ったりしてて遅れたと思われていたのかな。 さすがにそれは心外だ。 ﹁ミャロが残した手紙で大体のところは知っているが、ここはさほ ど安全な地域ではないんじゃないか。特に、逃げようにも足を怪我 して歩くのもままならない人間にとっては﹂ カート 馬はいるが、馬などというのは矢が刺さったり、荷車を据えられ るなどして道を塞がれてしまえば、容易に止められてしまう。 ﹁⋮⋮そうだな。殿下がお戻りになった今となっては⋮⋮早急にリ フォルムに戻るとしよう﹂ 1808 ﹁うむ、頼んだぞ﹂ ﹁お任せを。殿下﹂ そう言うと、王剣は立ち上がって馬にひらりとまたがった。 1809 第116話 帰路︵後書き︶ 長くなりましたが、これで八章は終わりです。 続きを楽しみにお待ちいただければ幸いでございます。 1810 第117話 リフォルム帰還 二日後。 俺はリフォルムの城壁を見ていた。 あっけないほどに難なく辿り着いた城壁は、未だ城攻めに晒され ておらず、無事なままだ。 それは、何度か夢に見た光景とそっくりだった。 頬をつねってみる。 痛い。 ﹁⋮⋮なにをやっている﹂ 王剣が訝しげな眼差しで俺を見ていた。 ﹁いや、なんでもない﹂ ﹁私は、ここで別れる﹂ ﹁えっ、何故だ?﹂ キャロルが驚いた様子で聞いた。 ﹁ここは、二人で帰参したほうが宜しいかと。私は陰ながら殿下を お護りします﹂ ﹁いいのか?﹂ と、俺は王剣に一応尋ねた。 キャロルを救出した手柄は貰わなくていいのか? という意味だ。 1811 例えばこれが何処ぞの騎士であったのなら、誰であれ名誉に浴す 必要を感じるだろうが、王剣は違う。 一種の秘密警察のような性格を持っているこいつらは、そういっ た陽に当たる名誉とは無縁の職務に殉じている。 ﹁私が関わったことは、陛下がご存知であればよい﹂ やっぱり、そういう事だろう。 ﹁そういうことなら、分かった﹂ ﹁ではな、ティレト。感謝する﹂ 王剣はさっと会釈をすると、馬を走らせてリフォルムのほうへ行 ってしまった。 恐らく、先に入って衣類を整えたりするのだろう。 近いうちに戦場になるであろう、リフォルムの平野を眺める。 元は森林だったであろう原が、薪を取られ材木を取られをしてい るうちに、広い草原のようになっている。 春めいた陽気に照らされ、茂り始めた草がじゅうたんを作ってい た。 ああ、それにしても。 解放されたな。 知らぬ間にかけられていた鎖が壊れたような開放感を感じる。 もはや命の危険はない。 心が軽い。 1812 ﹁行くか﹂ そう俺が声をかけると、 ﹁うん﹂ と、キャロルは朗らかな笑顔で頷いた。 *** 市門の前は、意外と閑散としていた。 既にいつでも城門を閉められる体勢になっているようで、中はゴ タゴタと兵士がいるが、避難民が幅いっぱいに密になって長蛇の列 を作っているということはない。 大要塞が落ちてからの夜逃げさながらの脱出では、こうはいかな いはずだが、落ちる前からあらかじめ避難させていたのだろうか? いさぎよ 戦争に挑む者の態度としては、潔すぎるほど後ろ向きな行為に思 えるが、大要塞が落ち、進撃を阻む組織化された大集団も存在しな い現在では、結果的には良い選択だったのだろう。 市門をくぐって普通に入ろうとすると、呼び止められた。 ﹁誰か!﹂ ﹁シヤルタ特設観戦隊隊長のユーリ・ホウ及び副長キャロル・フル・ シャルトルである﹂ ﹁シヤルタとくせ⋮⋮? どこの配下だ?﹂ 1813 ﹁どこの配下でもない﹂ 実際、誰の下についているわけでも、どこの命令系統に属してい るわけでもないので、こう答えるほかなかった。 ﹁⋮⋮少し待て﹂ うーん。 スパイの類が入らないように厳重になってるのかな。 俺もキャロルも、ニッカ村で拝借した衣服を着ているので、軍属 には見えないし。 というか、名前言っても通じてないっぽい。 こっちのほうが早えか。 ﹁待て。キャロル、フードを脱げ﹂ ﹁解った﹂ キャロルがフードを脱ぐと、金髪が露わになった。 ﹁⋮⋮っ!﹂ 周囲の視線がキャロルの頭に集中し、衛兵が息を呑んだ。 ﹁見ての通り、彼女はシヤルタの王族である。これで、身元を証明 するに不足か?﹂ ﹁いっ、いえっ!﹂ 効果はてきめんのようだ。 1814 ﹁我々は恐らく遭難ということになっているが、今自力で帰った。 できれば早急に王城に連絡して貰いたいのだが、鳥は飛ばせるだろ うか﹂ ﹁ハッ、至急鳩を飛ばして伝えます﹂ 俺は一般の命令系統に属していないので、彼の上官でも上司でも ないのだが、この場は適当に流しておくのがいいだろう。 ﹁では、よろしく頼む。通るぞ﹂ ﹁ハッ!﹂ 俺は偉そうに門をくぐった。 *** 城下町を見て回りながら、大通りを遠回りしながら進む。 城塞都市の入り口となっている市門から、まっすぐに王城の入り 口まで伸びた道は、現在は障害物がそこかしこに置かれ、建造され、 閉鎖されていた。 いざとなったら城下町で抵抗しながら引く構えなのだろう。 トコトコと馬を歩ませながら、案内板通りに歩いていると、そこ かしこに市民と思われる人々が働いていた。 逃げぬことを心に決めているのだろうか? 数は少なく、市街全体を見ればかなり閑散とした雰囲気となって いるが、人がいることにはいるようだ。 1815 かなり遠回りして王城までたどり着くと、城門の前には人だかり ができていた。 城門の奥には、なにやら物々しい人々が控えている。 プリンス うち一人には見覚えがあった。 王配、つまりキルヒナの女王陛下の婿さんだ。 飛んだ鳩についた手紙を見て、慌てて出てきたのかもしれない。 王族が出てくると大騒ぎになるので、正直、出てこない方が助か ったのだが、しょうがない。 俺は程々に馬を進めると、王配の前で馬から降りた。 流石に、この状況で﹁怪我のため馬上から失礼﹂と言って話を始 めるわけにはいかない。 百万歩譲って平時だったら許されることだったとしても、決死の 防衛戦を控えてピリピリした兵士たちの前で、指揮官たる王配に対 して取って良い態度ではない。 俺は、キャロルに手で合図をすると、痛みを押して馬から降りた。 都合、左足に一瞬体重を預けることになり、痛みが走る。 キャロルのほうも、降りた。 本来なら、キャロルは王配と同等あるいは格上の身分にあるので、 王配は迎える立場になる。 つまり馬上にあっても良かったのだが、この状況では王配を立て るに越したことはないだろう。 俺はわざとらしく杖を突いて歩み寄ると、王配の前で頭を下げた。 臣下でもなければ部下でもなく、キルヒナの国民でさえないのだ 1816 から、この場合は跪いての最敬礼はせずとも許されるだろう。 ﹁王配殿下直々のお出迎え、痛み入ります﹂ ﹁よい。よくぞ戻られた﹂ ﹁ご心配をおかけしました。道中怪我をしてしまいまして⋮⋮﹂ ﹁いや、あの状況からよくぞ戻った。その年にして、貴君の武勇は 並々ならぬものがあるな﹂ 褒めて貰えるのは嬉しいが、実際に王配は俺が陥っていた状況を 知らないだろう。 行方不明になって、帰ってきた。知っているのはそれだけのはず だ。 陥った状況を知っていることにして、こうやって褒めるのは、兵 たちの前でポーズをとっているだけだ。 実際、俺とキャロルが帰ったのは良いニュースだし、それを大げ さに褒め称えることは、兵の士気高揚にも繋がる。 つまりは、劣勢の軍にあっては明るいニュースが必要、というこ とで、これも政治なのだろう。 実情など知らなくとも、俺が報告をすれば後追いで知れることだ し、後々広めることもできる。 俺も報告を嫌がることで生じるデメリットはない。 ﹁必要であれば、医者を呼んで怪我の治療をさせたいが﹂ ﹁よろしければ、甘えさせていただきたく存じます﹂ ﹁よし、車いすを持て!﹂ そう王配が大声で話すと、すぐに車いすが運ばれてきた。 1817 持っている人は、落としきれない血で染みのついた白衣を装って いる。 シヤルタにもキルヒナにも、軍医という種別はないが、医者の仕 事をしている人なのだろう。 医者といっても、創傷の処理に長じているというだけで、様々な 病理の知識があったりするわけではない。 外科医は男の仕事で、内科医は薬草師といって、女の仕事になる。 しかし、こんなに汚れていると感染症が怖いな。 ﹁⋮⋮っ、どうぞお座りください﹂ 恐縮した様子で車いすを差し出される。 ﹁いえ、彼女を先にお願いします。手を貸してやってください﹂ ﹁承知いたしました﹂ 医者は、ぺこりと一礼をすると、俺の脇を通ってキャロルのほう へ行き、手を差し出した。 衆目がそちらに集まった瞬間、王配が一歩進んで俺に近づいた。 ﹁一息ついたら話がある。六時間後に呼びに行かせるので、そのつ もりでいてくれ﹂ 俺にだけ聞こえる小さな声で、そう言った。 1818 第117話 リフォルム帰還︵後書き︶ お盆休みということで、またしばらく投稿を続けたいと思います。 よろしくお願いします。 1819 第118話 再会 俺は、たいそう具合のいいソファに座って、外科医に足を見せて いた。 ﹁傷が若干腫れてはいますが⋮⋮これは無理をして動かしたせいで しょうな。化膿で腫れているわけではなさそうです﹂ ﹁そうか。これを塗ったのが良かったのかな﹂ と、俺は持ってきていた軟膏を医者に見せた。 ﹁おお、これは⋮⋮ユルミ家の軟膏ですな。本来は擦り傷などに塗 る薬ですが、縫った傷に塗るのも悪くはない。良い措置をしました な﹂ ﹁たまたま見つけたのは、運が良かったらしい﹂ ﹁そのようですな。ただ、糸は⋮⋮少し引き攣れているようだ。縫 い直したほうがよいかもしれませんな﹂ ﹁そうか?﹂ なんだかんだいって痛いので抵抗があるんだが。 麻酔とかないし。 ﹁縫いがきつすぎるので、これでは治りが遅くなりますな﹂ ﹁そうなのか﹂ 縫いがきつかったからこそ、今まで無茶を繰り返しても傷が開か なかったのかもしれないが。 今となってはきつすぎる、という感じなのかもしれない。 1820 ﹁傷はくっついておりますから、もう抜糸してしまっても構わない のですが⋮⋮それは、数日ベッドの上で安静にしていられるのであ れば、の話です。そうも行かぬのでしょうから﹂ それは無理だろうな。 傷はおおかたくっついているが、縫っておかないと無茶をしたと き開く可能性があるので、負担にならない程度に縫っておく、みた いな話のようだ。 ﹁では、頼む﹂ ﹁承知しました﹂ *** ﹁終わりました﹂ 鋏でちょきんと余分な糸を切ると、医者はそう言って仕事を終え た。 ﹁糸は、動物の腸でできたものを使いました。塗り薬は、その軟膏 が肌に合うようですから、それを使い続けるのが一番かと﹂ ﹁そうか。助かった﹂ ﹁それでは、失礼したします﹂ ﹁ああ﹂ 医者は椅子を立った。 1821 ﹁どうかご無事にお帰りください。ご健勝をお祈りしております﹂ ﹁⋮⋮うん、そうだな。精一杯⋮⋮頑張るとしよう﹂ そちらもご無事で、とは言えなかった。 老年に差し掛かったこの医者は、恐らくは生きてリフォルムから 出ることはない。 城を枕にして、死ぬ。 そんな人間に、無事を祈られ、どのような言葉を返せばいいのだ ろう。 ﹁ふふ、シヤルタの方々が羨ましいですな﹂ 医者は、ぺこりとこちらに一礼をし、客間を出て行った。 ﹁いいお爺さんだ﹂ 先に治療が終わり、椅子に座っていたキャロルが、ぽつりと言っ た。 他人の目を気にしてピンと張っていた背中をほぐし、今は脱力し て背もたれに体重を預けている。 なんだか落ち込んでいるらしい。 城に来てダウナーな気分になったか。 わからんでもない。 城は全体的に空気が暗く、殺伐としている。 俺も、早く出て行きたいところだった。 1822 ﹁なぜ、戦争になるんだろうなぁ⋮⋮﹂ なんか変なことを言い出した。 ﹁また、子どもみたいなことを言い出したな﹂ ﹁考えていたんだよ⋮⋮シヤルタだって、ホウ家領の南あたりが一 番豊かだ。リャオのところの山の背側など、峡谷が風光明媚という だけで、人など殆ど住んでいないじゃないか﹂ ルベ家領地の山の背側は、針葉樹林と凍った大地の土地で、人は 本当にまばらにしか住んでいない。 殆どが、フィヨルドの最奥に構えた漁村で、夏に保存食を作り、 冬にそれを消費する、細々とした生活を送っている。 ﹁クラ人の国というのは、みんなそれより更に南にあるんだろう⋮ ⋮。全部がそうとは思わないが、殆どの国はシヤルタやキルヒナよ り豊かな国土を持っているのじゃないのか? 国土の全てが、ホウ 領のように豊かで⋮⋮十分すぎるほど、恵まれているじゃないか﹂ 実際のところ、殆ど、ではなくて全ての国がそうだろうな。 悲しいことに。 アルビオ共和国あたりは⋮⋮いや、やっぱり無理だろうな。 悲しいことに。 ﹁持たざる者が持てる者から奪うのは理解できるが、逆は理解でき ない、ってな話か?﹂ ﹁そういうことになるかな⋮⋮﹂ ﹁自分で作るより奪ったほうが楽に得られる、というのは一般的な 事実だしな。それを国の中でやったら警吏に罰せられるが、国を罰 1823 する警吏はいない﹂ アナーキー 国を罰する警吏という存在は、何度も制度として考えられ、また 自称されたりもしたが、成功した試しがない。 国際社会は、いつの時代も、どこの世界でも、無秩序なままだ。 まあ、キルヒナが本当に、完全なる不毛な大地で、シャン人にも 奴隷としての価値がない、というのなら別なのだろうが、現実には 十分に旨味があるから侵略してきているんだろう。 ﹁それで、おまえは納得できるのか?﹂ ﹁納得できるけどな。弱いから奪われているだけだ。鷲が鼠を食う のと同じで﹂ ﹁私たちは、弱い鼠だから、食べられても仕方がない?﹂ ﹁そうだな。できるのは、死ぬ間際に文句を言うことくらいだろう﹂ ﹁それは、なんの意味もない﹂ ﹁残念ながらな﹂ ﹁そうなのか⋮⋮そういうものかも知れない﹂ ﹁その代わり⋮⋮奪われる側になっても、文句は言わせないがな﹂ ﹁⋮⋮⋮﹂ 返事がなかった。 ﹁⋮⋮ん? どうした?﹂ 違和感に気づいてキャロルのほうを見てみると、こちらを見て、 強張った顔をしていた。 1824 ﹁いや⋮⋮今の⋮⋮少し背筋が凍る思いがした﹂ ﹁なにがだよ﹂ ﹁いいんだ。私たちに向けられることはないんだし﹂ よく判らんが、会話に区切りがついてしまったな。 何気なしに時計を見ると、今は午後八時だった。 食事は済ませてしまったし、あと四時間⋮⋮なにをしようか。 いっそ、寝ちまうという手もある。 その時、急に廊下でドタドタと走る音がし、ドアの前で止まった かと思うと、ガチャ、とノックもなしにドアが開いた。 勢い良く開けられたドアのノブは、小柄な女の子が握っていた。 ミャロに似ている。 つーか、ミャロだ。 懐かしい。 懐かしさで胸がいっぱいになる。 俺を見つけると、強張った顔がほどけるように崩れた。 ﹁ユーリくん⋮⋮っ﹂ ﹁ミャロ⋮⋮戻ったぞ﹂ 俺は、椅子から立ち上がってミャロを迎えた。 一目散に駆け寄ってきたミャロが、俺に抱きつく。 勢いがあったので、そのまま後ろに倒れ、フカフカのソファに座 1825 る格好になってしまった。 ミャロはなおも離さず、俺の胸に顔を押し付けている。 ﹁⋮⋮私は、少し出ている﹂ キャロルは、席を立ち、新しく貰ったばかりの松葉杖をついて、 開けっ放しのドアから部屋を出た。 パタン、とドアが閉まった。 ﹁ユーリくんユーリくんユーリくん⋮⋮﹂ ミャロは、くぐもった声で俺の名前を呼びつづけた。。 俺は、そっとミャロの頭をなでた。 ﹁よくやってくれたな。ミャロ﹂ ﹁うあぁ⋮⋮ボク、不安で⋮⋮死んでしまったかと思って⋮⋮ぐす っ﹂ ﹁ああ。だが、こうして無事に戻った﹂ 足以外はな。 ﹁良かったぁ⋮⋮本当に⋮⋮﹂ ﹁うんうん﹂ 良かった良かった。 頑張って生きて戻ってきた甲斐があった。 俺は、そのまましばらく、抱きつかれたままミャロの頭をなでて いた。 服の腹に涙が染みてきて、肌に触れ、濡れた感触があった。 1826 心配させてしまったな。 ﹁そろそろ落ち着いたか?﹂ ﹁あ、はい⋮⋮﹂ ﹁そうか﹂ ﹁あの⋮⋮﹂ ミャロは、腹に抱きついたまま、上目遣いに俺を見た。 ﹁夢では⋮⋮ありませんよね?﹂ 俺は、ミャロの頬をつねった。 ﹁なにふるんふぇふふぁ﹂ ﹁痛いか?﹂ ﹁いらいれす﹂ ﹁頬をつねって痛いようなら、夢じゃないらしいぞ﹂ ミャロの頬を離した。 ﹁そうですか⋮⋮あっ、し、失礼しました﹂ なにやら正気に戻った様子で、ミャロは俺の胴から離れた。 ﹁四回ほど⋮⋮ユーリくんが戻ってくる夢を見てしまって、起きた 後、とてもがっかりしたものですから⋮⋮﹂ 四回か。 多いな。 俺でも三回だったのに。 1827 ﹁そうか⋮⋮そういえば、ニッカで手紙を読んだ﹂ ﹁あっ⋮⋮えっ、読んだんですか?﹂ ﹁ああ。随分と助かったぞ。あれのお陰で作戦を立てて、馬を奪え た﹂ ﹁そうですか⋮⋮それはよかったです。それで、あの⋮⋮二階の手 紙のほうは⋮⋮?﹂ 二階の手紙? なんのこっちゃ。 そんなのもあったのか? ﹁角笛んとこに置いてあったギュダンヴィエルの家紋のやつか?﹂ ﹁あぁ∼、えっと、違います⋮⋮﹂ 違うらしい。 あれは、後で調べたが家紋の文様以外は何も書いていなかったか ら、手紙とは言わないよな。 ﹁すまん、気付かなかった﹂ ﹁いいんですいいんです! ぜんぜん大したことは書いていません でしたから⋮⋮﹂ ﹁地下に置いてあった火薬で敵ごと家を吹き飛ばしたから、今頃は 瓦礫の下だな﹂ ﹁あっ⋮⋮そうなんですか。安心しました﹂ そうはいいつつ、ミャロはなんだか残念そうなように見えた。 どういった手紙だったのだろう。 1828 ﹁心配をかけて、すまなかったな﹂ ﹁いえ、こうして帰ってきていただけただけで、十分です﹂ ﹁そうか。ニッカ村を引き払ったのはいい判断だった。よく留守を 守ってくれた﹂ ﹁いえ⋮⋮、リャオさんが居なかったら、ボクだけでは、まとめる ことは出来なかったと思います﹂ ﹁お前が居たから、やつも冷静な判断をできたんだろうさ﹂ ミャロには隊員に対する求心力はない。 ミャロ単体であったら、隊員に侮られ、まともな指揮はできなか ったであろう。というのは、残念ながら事実であろう。 その点、リャオは生まれも身分も、性格も騎士たちに慕われるに 相応しい。 かといって、ミャロが無能で、リャオが有能、ということにはな らない。 ﹁じゃあ、そろそろ隊の話を聞かせてもらっていいか﹂ ﹁あっ、はい⋮⋮取り乱してしまって、失礼しました﹂ ﹁大丈夫だ。俺も、最初から機械みたいな反応だったら寂しかった よ﹂ ミャロに抱きつかれた時、なんとも言えない暖かな気持ちになっ た。 自分の居た場所に戻ってきたのだ、と。 1829 第119話 作戦会議 ﹁キャロル、入って来い﹂ 少し大きな声で呼ぶと、廊下で待っていたらしいキャロルがドア を開けて入ってきた。 なんだか浮かない顔をしている。 ﹁殿下、よくご無事で⋮⋮安心いたしました﹂ ミャロが向き直って挨拶をする。 ﹁あ、ああ⋮⋮ミャロも、元気そうでよかった﹂ ﹁??﹂ ミャロは、不思議そうな顔でキャロルを見ていた。 いつもと、なにか様子が違うと思ったのだろう。 ﹁キャロル、ミャロ、座れ﹂ ﹁はい﹂ 俺が言うと、一人がけの椅子とソファに別れ、全員が座った。 ﹁一人欠けてるが、幹部会議だ﹂ ﹁リャオさんは現在、隊を把握しています。一人はいないと混乱し てしまいますから﹂ ふむ。 まあ、隊の現状の話はおいおいでいいか。 1830 それより、報告を聞く前に、幾らか伝えておく必要があるだろう。 ﹁先ほど、帰ってきた時に王配から話したいと言われた。あと⋮⋮﹂ 俺は時計を見た。 ﹁おおよそ三時間後だな。それまではここから動けん。さすがに断 るわけにもいかないしな。身分上、キャロルも参加させる﹂ おそらくキルヒナの王族と最後に会う機会になるのだろうし。 キャロルの立場から言って、このタイミングで城にいるのに、王 配にちらと会っただけで、女王とは顔も合わせず完全スルーして帰 る、というのは、あまりにも無礼な話だ。 幾らなんでもそれはない。 ﹁そうなんですか。どのみち、隊の撤退準備は明日の朝までかかり ます。出発は明日の早朝がいいでしょう﹂ ﹁そうだな。お前はこの会議が終わったらすぐに戻り、準備にかか ってくれ﹂ ﹁了解です﹂ ミャロにとっては言われるまでもないことだろうけどな。 ﹁それと、俺とキャロルは、二人とも片足を負傷している。走れな い状態だ﹂ ﹁怪我、ですか⋮⋮。鳥や馬に乗れないといった事ではないんです よね﹂ ﹁それは大丈夫だ。杖をつく必要があるのと⋮⋮あとは乗り降りに 介助があると有り難いがな﹂ 1831 ﹁安心しました。障害が残るということもないんですよね?﹂ ﹁たぶんない﹂ ﹁じゃあ、ええと⋮⋮軽く、遭難してからの経緯を聞いてもいいで すか?﹂ ﹁気になるのか?﹂ 積もる話は今する必要はないような気がするが。 ﹁それほど重要ではありませんが⋮⋮隊員の方々にとっては最も興 味ある話題ですから。提供しておくことに意味はあると思います﹂ そりゃそうか。 俺たち幹部のほうは、先のことばかり考えているが、兵のほうは 違う。 ミャロが戻ったら、最も聞きたがる話だろう。 つまらない妄想や作り話が広がっても良くない。 ﹁じゃあ、簡単に説明する﹂ ﹁はい﹂ なんだかんだ、やっぱりミャロも興味津々らしく、目が輝いてい る。 ﹁墜ちた時、キャロルが酷く足を捻って歩けなくなったから、キャ ロルを背負いながらニッカ村まで歩いてきたんだ。そこで手紙を見 つけたのが⋮⋮五日前くらいか。それから数日待って、偵察に来た 騎馬を家の中に誘い込んで、家ごと潰して馬を盗んで、そしたら音 を聞いて駆けつけた王剣が来て⋮⋮そんな感じだ﹂ 1832 本当にかいつまんだ説明だな。 ﹁ユーリくんの足の怪我は?﹂ ﹁あいつら、鷲で放火されたのがよっぽどトサカに来たらしくてな。 追ってきたのと戦ってるうちに負傷した﹂ ﹁お話によると、ユーリくんを追っていたのはドレイン伯の隊にな りますね。二百人からの部隊と聞きましたが﹂ 耳を疑った。 最初に俺がひっつかまえ、拷問まがいの真似をして聞き出した情 報に、そんな名があった。 ドレイン伯。 カンカーの上司、というより社長⋮⋮というのもやっぱり変だが、 そのような存在だ。 聞き覚えがある。 ﹁なんでそんな事を知ってるんだ﹂ ﹁そのくらいは⋮⋮。あとで報告しようと思っていたんですが、こ ちらも海際を捜索したりしていたんです。そのとき捕らえたペニン スラ王国の斥候が、やはりユーリくんたちを探している部隊で、彼 らから聞き出しました﹂ どうも、俺と同じように、戦闘をして得た捕虜から⋮⋮どの程度 傷めつけたのかは知らんが、聞き出したらしい。 ﹁戦闘があったのか﹂ ﹁はい﹂ ﹁死者は出たのか﹂ 1833 ﹁いいえ。しかし、駆鳥が二羽損失、負傷が三名出ました﹂ ﹁重症は?﹂ ﹁いいえ。いずれも矢傷や打撲、骨折程度です。重症はいますが、 足や腕などを失った者はありません﹂ ﹁そうか⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮怒りますか?﹂ 怒りますか? と、奇妙な問いを発したミャロには、自責や悔恨 の色は見えなかった。 失敗に対する許しを乞うているわけではないのだろう。 ミャロにとって、その判断には負い目を感じない、ということか。 俺を納得させる理由があるに違いない。 がす ﹁いや、死体や障害者が出なかったならいい。事情は聞きたいがな﹂ ﹁瓦斯抜きです。成果を期待したものではありませんでした﹂ やっぱりそうか。 大方、ただ待っているだけなのが耐えられなかった連中が暴走し かけていたのだろう。 暴走とまでは行かないまでも、突き上げが激しくなっていた⋮⋮ とか。 そういった気配は、特に鷲に乗れないカケドリ連中の中で、決戦 の前から微妙に漂っていた。 きょうだ 本来であれば、決戦を前に怯懦のほうに振れる者と相殺するもの なのかもしれないが、今回の隊は全員が志願であり、加えて優秀を 自負している者ばかりだ。 そいつらが、純粋に出世欲や野心で動いているならいいが、この 1834 状況ではやはり正義感のほうが刺激されるものなのだろう。 ﹁リャオもその意識か?﹂ ﹁はい﹂ ﹁それならいい⋮⋮。にわか軍隊にはそういうのも必要だったんだ ろ﹂ 本物の軍隊でそれだったら噴飯物だけどな。 ﹁はい。ありがとうございます﹂ ﹁後で詳しく話を聞くからな。話を続けよう﹂ ﹁わかりました。じゃあ⋮⋮どの程度の追手が来たのですか?﹂ ﹁実際に俺の足を追ってきてたのは⋮⋮えーっと、全部で十一人⋮ ⋮その前に来た奴も含めると、十三人か﹂ ﹁よく逃げ切れましたね﹂ ﹁人一人背負ってちゃ逃げ切れないだろ⋮⋮﹂ そもそも、逃げ切れないって分かってたから森を歩いたんだし。 逃げ切れるなら街道を使えてた。 ﹁えっ⋮⋮何人か倒したんですか﹂ ﹁えーっと⋮⋮﹂ 俺は指折り数えていった。 ﹁九人、十人⋮⋮その前後で殺した奴も含めると⋮⋮﹂ 偵察四人に、竜騎士を数え、指を更に五つ折った。 ﹁十五人か﹂ 1835 殺しに殺したもんだ。 ﹁じゅ、十五人ですか⋮⋮流石です﹂ ﹁さすがでもなんでもない﹂ ミャロは、驚きと喜びが入り混じった顔をしている。 温度差を感じるな。 ﹁いえ、でも⋮⋮﹂ ﹁殺した数なんて自慢にすんのは、そこらのチンピラだけだろ﹂ あれは、気持ちのいいもんじゃない。 キルヒナに愛着とか愛国心があれば憎みもするし、憎んでいれば 気がスッキリもするのかもしれないが、そうでもない以上、殺して も面白みはなかった。 ﹁でも、それが栄誉になるのが戦争です﹂ ﹁誇りには思わん﹂ ﹁それは関係ないですよ。他人が褒めてくれ、ホウ家は鼻が高い。 それが、街の不良が喧嘩で人を殺めた場合との違いです﹂ ﹁⋮⋮まあ、そりゃな﹂ ミャロの言っていることはわかるが、どうも実感はわかない。 戦争で人を殺すことが武人の栄誉ではない世界に身を置いていた からだろうか。 しかし、ミャロの言うことは、間違いなく正論だった。 十五人殺してのけたというのは、ホウ家からしてみれば誉れに違 いない。 1836 ﹁でも、自慢にしないというのは素敵ですよ。他人から見ても﹂ 暴力をしたことを偉ぶるというのは、程度が低く見える、みたい なことだろうか。 どうでもいい。 ﹁適当に説明しておいてくれ。俺への反感が強まって、背反が起こ ったりしなければいい﹂ 言うまでもなく、ミャロだったら上手いことやるだろうけどな。 なんだかんだ、俺が余計なことをしたせいでこういう事態を招い たことについては、キレてる奴も多そうだ。 黙らせる効果はあるだろう。 ﹁わかっています。これほどの材料があれば容易だと思います﹂ ﹁このへんで、俺たちのことはいいか。それより、現状の話を聞き たいんだが﹂ ﹁はい。お話を逸らせてしまって申し訳ありませんでした﹂ *** ﹁まず、敵の話から始めたいと思いますが⋮⋮﹂ ﹁頼む﹂ ﹁敵の進軍速度から考えて、敵本隊がリフォルムに辿り着くには、 あと四日はかかるようです。包囲を完成させて陣を敷くのに一日か かるとして、本格的な攻撃は六日後あたりになるでしょう﹂ 四日後、か⋮⋮。 1837 ﹁それは、どこが出した数字なんだ?﹂ ﹁もっとも濃密に鷲を飛ばしている、キルヒナ軍です。現在、キル ヒナの四将家のうち三家までがリフォルムに篭り、これは実質的に 王配の指揮下になっています。最後の一つは独自に行動しており、 クォナムに入りました﹂ ﹁クォナムに入ったのか。じゃあ、敵さんはあっちを先に叩く必要 があるんじゃないのか?﹂ クォナムはリフォルムの北側に位置している街で、ここに大軍が 置かれていると、場合によっては攻囲中に背中から襲われる危険が ある。 リフォルム近辺は海沿いであり、街道も混み合っているので、退 路や補給線を絶たれるわけではないが、背中に敵がいるというのは 嫌なものだろう。 ﹁そちらには、別に一軍を差し向けたようです。ユーフォス連邦の 軍が向かっています。ただ、クォナムを攻略できるほどの大軍では ないので、積極的に戦うつもりはない、と考えられているようです﹂ ふーん。 攻城戦はせず、出てきたら倒す、というスタンスか。 よく城攻めは守る方の三倍兵が必要、だとか言うが、城は攻めず、 出てこないようにする。というだけなら、その理屈は成り立たない。 クォナムは北方の内陸都市で、ヴェルダン大要塞と違い、補給線 を絶つ位置には存在していない。 数を割いたことでリフォルム攻略には不利になるだろうが、敵軍 にとって致命的な負担とはならないだろう。 篭っているといっても、せいぜいが千人かそこらだろうし、そも 1838 そもが野戦で撃破した残党だ。 同じ千人でも、完全編成された千人と、欠員が大量にある隊がゴ チャゴチャいるのが千人、というのでは、意味が違ってくる。。 ﹁そうか。どのみち、明日出発できるのであれば、巻き込まれずに 帰れそうだな。海沿いにメシャルからホノンをつたって、ホット橋 を渡ればルベ領だ﹂ ホット橋は、陸路でシヤルタ︱キルヒナを移動する際に、一般的 に使われる橋だ。 上流のズック橋より道幅があり、川幅が広くなった下流を渡して いる。 リフォルムを出、海を見ながら道なりに街道を進むと、シヤルタ とキルヒナの国境となる川の河口があり、そこの少し上流にかかっ ている。 ﹁ホット橋は大渋滞のようで、三日ほど順番待ちという話です。上 流の、ズック橋を考えていました﹂ ﹁三日だと? なんでそんなことになってるんだ﹂ ホット橋は、馬車一台がようやく通れる程度のズック橋と違い、 幅が三メートル少しあり、馬車は簡単にすれ違える。 現在は一方通行で使えるわけだから、何日も待つというのは、大 変な混みようだ。 ﹁撤退しているシヤルタの元援軍部隊が、避難民とゴタゴタを起こ していたりして、流れが滞っているというような話を聞きました﹂ ﹁あぁ⋮⋮﹂ 1839 情けないこっちゃ。 軍が避難民を押しのけようとしたりして、どっちが先かとかで揉 めたりしてんだろうな。 めんどくさ。 ﹁まあ、それは後から考えよう。分かれ道に差し掛かったところで、 鷲を差し向けて確認してもいいんだしな﹂ 海沿いの道からホット橋に行く少し手前に、上流方向へ向かう分 かれ道があり、そこを進むとズック橋がある。 けっこう勾配のある登り道なので、丸一日程度かかるが、馬鹿騒 ぎの一員に加わるよりはマシだろう。 避難民を押しのけて渡るというのは抵抗があるしな。 ﹁そうですね。じゃあ、次に部隊の現状について話しても構いませ んか﹂ ﹁ああ﹂ ﹁部隊は、予定では明日か明後日、撤退に移る予定でした。なので、 荷造りなどは終えています﹂ そりゃそうだろな。 今聞いた話だと、あと三日もタイミングが遅れれば完全に巻き込 まれるようだし。 ﹁先ほど話した戦闘での負傷者は、馬車を渡して先に戻しました。 一緒に、特に士気低下が激しい者を三名付けています。今はズック 橋のところで渋滞に巻き込まれているかもしれませんが、まず帰れ るでしょう﹂ ﹁六人減ったか。じゃあ、カケドリは24羽だな﹂ ﹁いえ、一羽余っています。負傷者の一人は、乗り手だけ負傷した 1840 ので﹂ ﹁ああ、そうか﹂ じゃあ、俺はそれを借りるかな。 本当なら、キャロルだけでも鷲に乗せてさっさと帰らせたいんだ けど。 ﹁じゃあ、鷲のほうは26羽26名、カケドリのほうは25羽24 名ってことか﹂ ﹁そうです。ただし、鷲は捜索のために飛ばしていたので、何羽か 悪くなっているのが居ます﹂ ﹁そうか⋮⋮あー、面倒だな﹂ 鷲は、来た時と同じように海峡渡りで戻すのが手っ取り早い。 だが、悪くなってしまっているのであれば、戻りの海峡渡りでは 使用するのにリスクが伴う。 来た時にも何人か置いていったが、途中で飛べなくなった場合は 乗り手共々溺れ死にという未来が待っているからだ。 ﹁まぁ、いいか。その辺はどうとでもなるだろう﹂ 鷲から降りても、陸路で帰れば良い話だし。 ﹁これで一通り、報告は終わりです。なにか質問などはありますか ?﹂ ﹁いや、今のところないな﹂ すると、これで終わりか。 1841 ﹁それでは、あとは王配に呼ばれている件ですね﹂ ﹁ああ、それがあったか﹂ 忘れてた。 当たって砕けろというか、会って話をするだけと思っていたが、 考えてみれば何か言われるかもしれん。 ミャロの意見は貴重だろう。 政治や政争に関してはプロフェッショナルだしな。 ﹁このタイミングでの会見となると、なにか厄介な注文を付けられ るかもしれませんが、それがなにかというのは、正直なところ分か りません。なにしろ、情勢がこの有様なので、最悪を考えるときり がありませんから⋮⋮﹂ ﹁どのあたりが最悪と考えてるんだ?﹂ 一応、聞いておきたかった。 ﹁えっ? えーっと⋮⋮キルヒナの将家からの突き上げが激しく、 観戦隊の兵 ですかね。あぁ、殿下を人質にして、シヤルタの大 実は王配が言いなりになっていて、将家からの要求で を置いていけ 援軍を要求する、というのもあるかも﹂ 若干、非現実的だが、ありえないことではない。 崖っぷちに立った人間というのは、常識で考えたらありえないよ うな事を平気でしでかすからな。 窮した鼠は猫を噛む。 鼠は猫を噛んだりしない、という定規を構えているのは危険だ。 1842 ﹁⋮⋮そのへんが最悪っちゃ最悪だろうな。ただ、連中は窮しては いても白痴になったわけじゃない。そこまでするつもりなら、逃げ ないように、今のうちからふん縛っておくだろう。それをやったら、 俺たちが逃げ出すことくらいは想像できるだろうし﹂ ﹁それはそうですね。ただ、ユーリくんの帰還は突然でしたし、現 在では少しばかり状況が進行している可能性も⋮⋮﹂ ﹁あー、それはあるかもな﹂ とりあえず呼びつけておいて、現在いろんな種類のバカがアホな 話をしまくっており、俺がのんびりしている間に、裏では着々と事 態が悪化している。 今すぐ、または一時間後、俺とキャロルを捕縛しに兵がやってく る。 ありえる。 ﹁でも、可能性としては、大したことは要求してこない、あるいは、 なにも要求してこない。というのが一番高いと思います﹂ 脅されるのが怖いので会わないで帰ります ってのは、 ﹁そうだろうな。だから、誘いを蹴って帰るという選択肢はない。 この状況で さすがにビビり野郎すぎるからな﹂ ﹁フフッ、それは、ボクもどうかと思います﹂ ミャロが笑った。 なんかちょっとウケたらしい。 ﹁でも、何かを要求をしてくるとしたら、たぶん捜索について手を 1843 貸したことを、恩に着せてくると思うんです﹂ ﹁そりゃそうだろうな。あまり助けられた実感はないが﹂ 森のなかを通ってきたわけだから、向こうからしても手助けのし ようがない。 医者を呼んでもらって、部屋を用意してもらったのは、現在進行 形で助かっているわけだが。 ﹁直接的にも、間接的にも、ユーリくんの脱出行に益する何かをし た、ということはないと思います﹂ ﹁そうだろうな﹂ 実際、王剣以外は誰にも会わなかったし。 追撃を部分的にでも阻止できていた、というなら別だが、それも ないだろう。 ﹁でも、相手が恩を着せたと言い張れば、恩を返せという話になり ますから﹂ ﹁そうだな。ヤクザがよくやるやつだ﹂ ﹁はい。ボクの実家がよくやっている手口です﹂ オハコ 魔女の十八番だ。 ﹁ふぅ⋮⋮それで、部隊の食い物はどうなってる。リフォルムから 出ているのか﹂ ﹁それは、ルベ家が撤退する際、置いていったものを使わせてもら っています﹂ ﹁そうか﹂ さすがに、食い物を供給してもらってたら、恩に着ないわけにも 1844 いかないからな。 だが、そのへんは自力でやっているらしい。 ﹁それで、実は、ユーリくんの⋮⋮ボクらの攻撃で、向こうの進軍 が遅れたようなんです﹂ ﹁⋮⋮は? そうなのか?﹂ 初耳だ。 といっても、教皇領がブチ切れる程度には戦果を出したらしいか ら、まあ多少遅れたことには遅れたんだろうな。 ﹁ええ。教皇領の持ってきた物資が全部焼けたそうなので、工面に 大変苦慮したとか。それで足並みが崩れ、遅延が起きたそうです。 物資がなかったら補給ができませんから、置いてけぼりになります よね。他の国ならまだしも、教皇領を置いて先に行くというのは、 難しいでしょうから﹂ ﹁そりゃそうだな﹂ べつに、教皇領のが焼けたところで、十字軍全体から見れば、物 資の損失は一割かそこらだろう。 他の国から融通してもらいつつ、船で多めに運んで補充してゆけ ばいい話だが、連合軍というのはそれほど柔軟ではない。 最大単位となる国々は、それぞれ別の目的意識を持っている。 脳に支配され、同じ心臓で生きている手足のような存在ではない。 国のメンツの問題もある。 国を背負っては、頭を下げて周るというのも簡単にはできない。 ﹁もちろん、こういった状況での時間稼ぎというのは、ものすごく 1845 価値があります。それに、決戦からの撤退に際しても、混乱を生じ させたことで追撃が緩やかなものになった、という見方もあります﹂ ひっぷ ﹁物は言いようだな。事実かどうかも分からない話を、自分の手柄 と言ってまわるのは、匹夫の自慢のようで好きじゃない﹂ なんというか気持ち悪い。 敵からしても、大要塞の攻城戦は一週間以上かかったわけで、大 要塞に篭もるまでの追撃戦の間に多少の混乱が生じた、という見方 はできるだろうが、物資の焼損は要塞を包囲している間の待ち時間 で補填できているだろう。 全体として大混乱が起こったはずで、俺はその功績の立役者だ。 などと声をあげるのは、なんだか小物になったようでいただけない。 ﹁相手が押してきた場合の話です。恩を売りつけてくるようなら、 支払いは済んでいる、と答えるための方便です。どんなにおかしな 話でも、こちらが黙っていたら、向こうに理がある、ということに なってしまいますから﹂ それは確かにそうだ。 要するに、押し問答になったとき圧されないよう、反論材料を用 意してくれている、ということか。 ﹁そうだな。参考にさせてもらう﹂ ﹁はい。それでは、頑張ってください﹂ ミャロは、話は終わったとばかりに、さっと席を立った。 ﹁もう行くのか﹂ 1846 急いでるな。 ﹁はい。ボクは代表者として来たので、隊の皆はお二人が本当に戻 ってきたのかと、知らせを首を長くして待っていますから﹂ ﹁そうだったな⋮⋮じゃあ、あちらのほうは、よろしく頼む﹂ ﹁はい﹂ ミャロは頷いた。 ﹁それでは、失礼します﹂ 1847 第120話 女王謁見 夜半、日付けが変わる十分ほど前、コンコン、とドアがノックさ れた。 ﹁どうぞ﹂ ﹁失礼いたします﹂ そう言って入ってきたのは、熟女といっていい年の女性だった。 女中が着るような服は着ておらず、平服を着ている。 熟女という表現に反して色気のようなものは全くなく、肉付きの 薄い体にキツ目の顔が乗っている。 体つきは薄いが、どうも鍛えられているように見える。 なんというか、そこらの女秘書や女中と違って、立ち居振る舞い に高いポテンシャルを感じる。 ﹁女王陛下、王配殿下の命により、お迎えに上がりました﹂ スッ、と丁寧に頭を下げた。 ﹁そろそろと思っていました﹂ こいつは、キルヒナの王剣にあたる存在なのかもしれないな。 ここ数時間の間に、さすがにこの状況下では風呂は作っていない ようで、風呂には入れなかったが、湯で体を清めて食事をすること 1848 ができた。 もうちょっと遅れてたら、眠気が襲ってきていたかもしれない。 ﹁車いすをご用意しました。お乗りください﹂ 後ろからもう一人、同じような女性が現れ、そちらは車いすを携 えていた。 油を差してきたらしく、なめらかに車輪が回り、スルスルと部屋 の中に入ってくる。 まー、こいつらが歩く横を、松葉杖ついた俺たちがえっちらおっ ちらついていく、というのは、ちょっと様にならないからな。 熟女も一度廊下へさがり、廊下に置いてあったらしい車いすを運 んできた。 車いすは、ここに来るときに使ったものより随分と格調高いもの だったが、やはり形状は洗練されていない。 本当に、椅子に車輪がついただけ、という感じだ。。 あくまで﹁他人が押せる椅子﹂であって、後輪を大きく作ってあ るわけではないので、座った人間が自力で移動できるようにはでき ていない。 まあ、仕方ない。 俺は椅子を立った。 ﹁よろしくお願いします﹂ *** 1849 車椅子に座ったまま連れられたところは、数ヶ月前に初めてリフ ォルムに招かれた際、夕食を食べた部屋だった。 女がノックをすると、﹁入れ﹂という声がした。 熟女がドアを開ける。 おふたがた ﹁失礼します。御二方をお連れしました﹂ そう言うと、椅子の後ろに回って、部屋に押し入れた。 部屋のテーブルには、今は二人が座っている。 女王陛下と、王配殿下だ。 あの時と違って、テルル殿下はいない。 まか ﹁罷り越しました。座ったままで失礼﹂ 俺は上半身だけ最敬礼の形をし、頭を下げた。 ﹁お久しぶりでございます。陛下﹂ キャロルのほうは、ぺこっと略式の礼をするに留めた。 皇族同士であるので、これは失礼には当たらない。 それより、お三方は会ったことがあるのか。 不思議ではないが、初めて知った。 ﹁どうぞ﹂ 1850 女王陛下が手で椅子のない対面を指し示すと、熟女が椅子を押し て俺たち二人を卓につかせた。 それにしても、女王陛下はなんだかやつれている様子だな。 なんというか、覇気といったら変だが、迫力を感じられない。 国主としてかぶっている冠が外れかけているから、そうなってい るのだろうか。 それとも、俺が滅び行く国の権威を敬わなくなっていて、それで 後光が消えたように、以前は感じた迫力を感じなくなっているのだ ろうか。 どちらが原因なんだろう。 両方かな。 ﹁まずは、君たちの無事を喜びたい。よくぞ生きて戻ってきてくれ た﹂ 女王が言った。 ﹁ご厚情痛み入ります﹂ 俺が答える。 ﹁ありがとうございます﹂ キャロルも追従した。 貴国のご助力のお陰様で∼みたいなことは言わんといたほうがい いだろうな。 ﹁我らにとっても久々の吉報であった。最近は、凶報ばかり聞こえ てくるものでな﹂ そりゃそうだろう。 1851 いくさごと ﹁シヤルタの将家たちが、さっさと引き上げてしまったことなどは、 私としても残念であった。やはり、常より戦事に親しんできたホウ の家とは、性質が違うらしい﹂ シヤルタの援軍を下げつつも、俺の実家を持ち上げる感じか。 追従してシヤルタを下げる発言をすれば、シヤルタに落ち度⋮⋮ というより、負い目があるような流れになってしまう。 キャロルがいる現状では、その流れには矛先の向かい先がある。 ﹁そうですね。我がホウの家が軍を出していれば、このような不甲 斐ないことにはなっていなかったでしょう。残念ながら、そうは行 きませんでしたが﹂ もちろん、ホウ家が軍を出せなかったのは、キルヒナに対して有 り得ないほどの献身をした結果のことだ。 出陣しなかったことを責める展開にはできまい。 俺が増上慢の糞ガキと思われる恐れはあるが、これから死ぬ人間 にそう思われたところで、痛くも痒くもない。 それにしても、つまらんやり取りだな。 なんでこんなことを考えながら会話せにゃならんのか。 ﹁ふむ⋮⋮残念なことであるな﹂ 女王の目が、それが癖なのか、一瞬見定めるように細くなった。 生まれてこの方、ずっと人の上に立ってきた人間特有のしぐさだ。 1852 ﹁そうですね。僕もせめてもと思い力を尽くしましたが、勝利には 結びつかなかったようです﹂ ﹁そのようであるな。我々も貴殿らを随分と探したのだが﹂ うーん。 それにしても、茶が飲みたいな。 キャロルの母、シモネイ陛下であったら、まずは茶を勧めておい て、﹁大変だったわねぇ﹂などと言うところから、会話をはじめる だろう。 最初はよく判らん風習と思ったものだが、あれはぐっと気がほぐ れる。 今思えば、良い風習なんだな。 ﹁我々に特殊な事情があり、森のなかを歩んでいたなどということ は、想像のしようもできぬことでしょう﹂ ﹁ふむ⋮⋮感謝の一つもして欲しいところなのだがな﹂ 直接来たか。 望むところではないが、こう来るなら、喧嘩別れのような形にな っても仕方ないな。 ﹁そこは、持ちつ持たれつでしょう。僕が竜を落としていなかった ら、今頃は竜がこの城を脅かしていたかもしれない。また、火をつ けて後背を脅かさなければ、今頃は攻城が始まっていたかもしれな い﹂ ﹁自らの手柄を誇張するのは⋮⋮﹂ ﹁女王陛下﹂ 1853 キャロルが言葉を遮った。 横を向いて、目を見ると、眉根を若干寄せて、少し不快そうな目 をしている。 ﹁失礼ながら、ご夫婦はリフォルムが墜ちた後も逃げ延びるおつも りなのですか?﹂ なにを言い出すんだ、こいつは。 どんな質問なんだ。 リフォルムが略された時には、二人とも逃げずに死ぬべきだ、と か言うつもりか? ﹁⋮⋮いや、生きるにせよ死ぬにせよ、我らがリフォルムの民に先 んじて逃げるということはない﹂ 女王陛下が言った。 横の王配は、じっと黙っているが、異論を述べないところを見る と、同じ意見なのだろう。 女王陛下はどうなるか知らないが、王配は⋮⋮まあ、死ぬだろう な。 ﹁私には、わかりません﹂ ﹁ふむ、なにがだ?﹂ ﹁死の間際の時間を、このような政治遊びに浪費する感覚が、です。 それが本意であるというのなら、何も言うことはありませんが⋮⋮﹂ 1854 キツいこといいよる。 ﹁彼は誰に恥さらしと罵られようと、やらぬと決めたことは、絶対 にやらない男です。この口喧嘩で勝ったところで、意味があるとは 思えません﹂ そう言い放つと、言いたいことはそれまで。とばかりに、キャロ ルは口をつぐんだ。 大演説を始めるつもりはないようだ。 まあ、言いたいことは分かる。 無意味だ、ということだろう。 事実無意味なわけで、俺は場の空気をいくら傾けられようと、己 を曲げて要求を飲むことはしない。 街頭演説で討論を始めた政治家ではないのだから、それで困るこ ともない。 それだったら、最初から誰も気を悪くせず、煩わされないように、 真正面から当たれ、というのは正論だろう。 が、そうもいかないのが、政治の難しいところだ。 ﹁⋮⋮ふむ。すまぬな、歳を取ると、どうもこういった手管に頼り たくなる﹂ そうなのか。 というか、さっきのキャロルの発言で丸め込まれたのか。 となると、今までの無意味な会話は終わりか。 ﹁単刀直入に言おう。貴殿らに頼みたいことがある﹂ 1855 ほれきた。 やっぱそういう事だったわけだ。 まあ、そうでなかったら、ああいう話にする必要はないわな。 ﹁いいですか﹂ 俺は陛下の発言を遮った。 ﹁なんだ?﹂ ﹁頼みごとは構いませんが、僕の目的は、隊の青年たちを無事故郷 へ返してやることです。引き受けられるのは、この大目的に支障を きたさない範囲に限られますし、その範囲はとても狭い。というこ とを了承いただきたい﹂ ﹁わかっている﹂ 本当に解ってるのかよ。 ﹁ここからは私が話そう﹂ と、ここではじめて王配が口を開いた。 なんだ。説明はこいつがするのか。 *** ﹁君たちには、我が娘を逃がしてもらいたい﹂ 1856 ⋮⋮え、あの娘か。 逃してなかったのか? まー、そんくらいは構わんか。 ﹁幾つか質問があります﹂ ﹁どうぞ﹂ ﹁今まで逃さなかったのは、士気低下を防ぐ目的があるからですか ? つまり、キルヒナ⋮⋮というより、リフォルムの防衛にあたる 兵士及び市民には、秘密にする必要がある。ということですか?﹂ ﹁さすがに、察しが良いな。そういうことだ﹂ ほーん。 つまらないことを気にするなぁ、というのはあるが、そういうこ ともあるか。 情報というのは広がるものだから、キルヒナの軍に護衛を任せて しまえば、漏洩は免れまい。 王剣にでも守らせる形で落ち延びさせろよ、とは思うが。 いや、王剣もついてくるのか? それとも、王剣は他に任せたい仕事が死ぬほどあるから使えない のか? 後者の可能性は高そうだ。 情勢を考えたら、すでに危険任務を命じすぎ、消耗し尽くして人 数が払底している、ということも考えられる。 1857 ﹁そういうことであれば、そのくらいは引き受けます。といっても、 安全度は部隊員と同程度になりますが。部隊の過半数を捨て駒にし てでも守る、といった待遇は確約できかねます﹂ ﹁同程度ということにならんだろう。万が一追手が迫れば、戦うの は君の部隊だ。矢面に立つぶん、危険性は隊員のほうが高いはずだ。 私の娘を、戦わせたり、囮にしたりするつもりでなければ﹂ そりゃそうか。 俺も、さすがにそんな非道をするつもりはないし。 ﹁それは、そうですね。僕も、そういうつもりはありません﹂ ﹁食事を取る荷物以上の扱いは望まない。そちらのほうが、都合が よいということもあろうしな﹂ 悪目立ちしなくて都合がいい、ということだろう。 ﹁あとは、出発するときの荷物をカバン一つほどに留めるのと、見 た目に王女殿下と分からないようにして頂きたい。端的に言えば、 ・ ・ ・ 物乞いのような格好⋮⋮とは言いませんが、中の下程度の服装を着、 金髪を隠すことを納得して⋮⋮いや、納得させていただきたい﹂ 見た目についてはどうでもいいんだけどな。 王族が逃げたことが知れて困るのは、向こうの方であって、俺ら ではない。 向こうが気にするべきことだ。 ﹁それも、大丈夫だ。動きやすい平民服を着させるし、髪も黒く染 めさせるつもりだ﹂ なんだ、そうなのか。 1858 ﹁それならば、引き受けましょう﹂ ﹁そうか。助かる﹂ ﹁⋮⋮頼みたい事というのは、それだけですか? そのくらいの事 ならば、なにもあんな面倒なことをしなくても、引き受けましたが﹂ ﹁実を言うと、違う﹂ 違うのか。 なんだ、嫌な予感がするな。 ﹁明日、リフォルムから最後の民間人が千人、兵が三百名、出てゆ く。貴殿らには、それらの面倒も見て貰いたい﹂ 1859 第121話 落涙 ﹁⋮⋮えっと﹂ 開いた口が塞がらない。 こちらは六十人程度の小所帯なんだぞ。 千人に三百人? ないない。 ﹁こちらについては、我々もそこまで強く頼まないつもりだ﹂ ﹁よく理解できませんが﹂ ﹁これらは、君らが来ようと来まいと、明日出発させるつもりであ ったのだ﹂ へー。 ﹁三百人の兵たちは、一般兵や騎士たちの中でも特に年若の者達だ。 そうした理由は、わかるな﹂ 前途がある若者を、攻められる前に逃がす。ということだろう。 偽善という向きもあるだろうが、悪くはない。 実際のところ、そいつらは兵士の中では最も経験がなく、使えな い連中でもあるわけだしな。 三百人ということは、殆どが二十歳以下の、俺たちのようなヒヨ ッコだろう。 恐らく、二十歳以下を調べたら三百人、ではなく、一番の若造か 1860 ら三百人選んだ、ということになる。 キルヒナの騎士院でも、二十歳卒業の縛りは健在なはずだが、リ フォルムが取り囲まれた今となっては、卒業も糞もない。 騎士院状態から即戦争、というわけにはいかないから、暫定卒業 とかそのへんの措置は判らんが、多少は訓練はされたはずだ。 数ヶ月前までは騎士院生だった連中、ということになるだろうな。 ﹁そして、彼ら三百人の兵には、将家の次期棟梁といった者もいな い﹂ そんくらい立場が上なら、将家が自分で逃がすなり、戦わせるな りさせているのだろう。 ﹁千人の人々も、立場はまあ似たようなものだ。年齢層は多少上が るが、こちらも⋮⋮自力で歩けない老人には残ってもらうことにな っている﹂ 幼年∼三十、四十代といったところになるか。 年齢層が上がって大人が含まれるなら、そいつらガキの寄せ集め 軍隊の言うこと聞いてくれるのかよ。 たぶん、この情勢下じゃ信頼とかしてないぞ。 人数の比は、3:10か。 いや、平民層は女が半分、ということを加味すれば、ざっくり3: 5としても構わないだろう。 騎士たちが訓練をしていることと、武器の扱いに慣れていること 1861 を考えれば、3:5というのは圧倒的有利だ。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 暴動とかの危険は、なさそうだな。 いや、暴動で負ける、か。 ﹁物資⋮⋮というより、馬、人の食料は?﹂ ﹁そちらは十分に用意できる。城には、備蓄が一年の籠城に耐える ほどある。いくらか吐き出しても問題はあるまい﹂ まあ、人数が減る分、城の食い扶持も減るわけだしな。 ﹁いくらあっても、運ぶ手段がなければ意味がありません。背負わ せたら、ただでさえカメのように遅い歩みが、ナメクジの速度にな ります﹂ ﹁馬も車も、最大限用意するつもりだ﹂ ﹁なるほど⋮⋮では、その兵三百で不足と思う理由はなんですか?﹂ 今聞いたところでは、問題はいくらかあるにせよ、その中に致命 的な問題はない。 ほっといても、つまり俺らが関わらなくても、普通に成功するん じゃないのか? ﹁一つは、指揮官がいないことだ。なにせ、てんでバラバラの部隊 から若者だけ引きぬいた、共同訓練もしていない部隊だからな。君 たちがこなかったら、適当な部隊から経験豊富な指揮官を引き抜く 必要があったが、もちろんその部隊は指揮官不在で再編が必要にな る。それか、分解して隊員は分散することになるな。それはあまり やりたくない﹂ まあ、確かにやりたかぁなかろうな。 だが、その辺りは部隊を一つ諦めればどうとでもなることだ。 1862 俺がやらない、といったら、実際そうするのだろう。 大した負担とも思えない。 ﹁問題なのは、彼らはこういった警護任務をこなした経験はまった くない、昨日寄せ集められたばかりの連中、というところだ。君な ら、その意味は分かるだろう﹂ 観戦隊は、成績優秀者の志望者から、更に選りすぐった人員で構 成されているが、それだって、出発前の一週間かそこらは共同して 訓練をした。 それがなかったら、最低限足並みを揃えた行動もできなかっただ ろう。 兵たちが指揮官の顔も覚えていない状態では、命を掛けて戦えと いう命令が上手く機能するわけがないし、指揮官も兵がどこまでの 運用に耐えるかを把握できない。 その300人は、そういった訓練を通して繋がっていない烏合の 衆、ということだ。 ﹁貴殿らは一度、ここに来るときに任務をこなしている。つまり、 年齢層は同じでも経験者が三十人からいることになる。私は、老練 の兵を一人出すより、指導が行き届くと考えている。もちろん、経 験者を三十人からつける余裕は、我々にはないからな﹂ なるほど。 まあ、言わんということは分からないでもない。 いや、わかんねえよ。 1863 よく考えたら、こっちもガキの集まりだし、恐らく体育会系部活 の先輩後輩みたいな関係を構築することを期待しているんだろうが、 それが成り立つかどうかもわからん。 ⋮⋮といっても、俺がヤキモキする必要もないんだよな。。 こいつらにとっては、どうでもいい事だろうし。 民1000人に兵300人とか言っても、こいつらからしたら出 て行くだけの存在だ。 再びまみえる可能性も少ないし、その安全度が多少上がり下がり することが、そう重大な関心事であるとは思えない。 統治者として、そういう努力をする必要を感じてはいるから、こ ういった提案をしているのだろうが、極端な話、千と三百人が城を 出た途端に全滅しても、それがリフォルムの城兵に露見しなければ、 それは起きなかったのと同じことだ。 たぶん、それより娘の安全のほうが百倍大事なはずで、だから娘 の話題を先に出したのだろう。 正直なところ、俺としては城自体を捨てて全兵力を伴ってシヤル タまで撤退するのも、そう悪くはない手ではないのかと思うのだが。 リフォルムは城塞都市だし、割と立派な城壁があるので、ここで 冬まで耐えて一発逆転、という未来を見ているんだろうな。 俺も、着いたばかりだから事情がわからん。 ﹁⋮⋮対価はありますか?﹂ 俺がそう言うと、キャロルが少し驚いた目でこっちを見てきた。 1864 当然のように無償の労働と考えていて、対価などという概念が出 てくるとは思っていなかったのだろう。 だが、俺としては聞いておきたいところだった。 王女を一人預かるくらいならロハでやっても構わないが、これほ どの重労働となれば、気の迷いも出る。 カケドリに乗るといっても、隊全体の速度は馬が引く荷駄の速度 に拘束されるから、さほど早くはならないが、それだって徒歩の人 間を千人も連れていれば、よほどの足手まといになってしまう。 それでも追いつかれることはなかろうが、タダで引き受ければ、 隊内から反発があるだろう。 端的にいって、俺はキルヒナの無辜の市民にさほどの思い入れは ないし、観戦隊の奴らも、恐らくは同じ思いだ。 ﹁必要かね﹂ ﹁隊の者たちは、おそらく望郷の念を強く感じているでしょう。そ の上、面倒ごとを引き受けるというのは、好ましい反応は期待でき ません。対価があれば分かりやすい動機付けになります﹂ 隊の連中と接したわけではないから、実際どうだかは解らんが、 恐らくそういう思いは持っているだろう。 まず始めからして、俺が帰りたいからな。 まつご しかし、これは王族からの末期の頼み、ということになる。 俺たちは実質的にリフォルム最後の居残り組なわけで、そのせい でこういう役割が回ってきてしまった。 むげ 末期の頼みを無碍にする、というのは、対外的にかなりイメージ 1865 が悪い。 イメージはある程度操作できるものだが、シヤルタにおいては俺 も敵が多い。 この隊の目論見に反発する者たちは、この隊の功績に泥を塗るた めに利用したがるだろう。 王配は女王を見た。 予め決めてあるのであれば別だが、相談する必要があると思った のだろう。 ﹁元よりテルルに持たせるつもりであったが、そういうことであれ ば、貴殿らに預けよう﹂ 女王は、部屋に控えていた王の剣っぽい女に目配せした。 ﹁ここに玉璽を﹂ ﹁ハッ﹂ 短く返事をして、王の剣っぽい女はそそくさと部屋を出て行った。 俺の後ろの扉ではなく、女王の後ろの扉だ。 玉璽? キルヒナの玉璽、つまり王の印章のことだろうか。 そんなの預けられても、困るんだが。 というか、まだ使うだろ。 それを預けたら、高級な辞令などの書類が作れなくなってしまう。 1866 ﹁しばし待て﹂ 女は、すぐに戻ってきた。 手には、大きめの木箱を抱えている。 その箱が、黙ってキャロルの前に置かれた。 なんだ、俺の前じゃないのか。 王族のみが持つことを許されている、みたいな物体か。 その辺は王剣のこだわりなのかもしれないし、強くは言わんとこ う。 やつらはキレると怖いからな。 横目で見るが、箱からしてかなり立派だ。 全体にアラベスクのような彫り物が施された木箱で、全体が金箔 で覆われている。 金箔といっても、昨日今日に貼り付けたものではないようで、眩 いばかりの金色はすすけ、彫り物の尖った部分の金箔は剥がれてし まっている。 それでもなお、全体の貫禄は失われていない。 ﹁開けていいぞ﹂ と、所在なさ気に待っていたキャロルに、許可を出した。 ﹁失礼して、開けさせてもらいます﹂ キャロルはフタに手をかけて、箱を開けた。 中には、緑色の塊がクッションの上で鎮座しており、その横に、 金で作られた平べったい形の金印があった。 1867 緑色のほうは、ヒスイか。 みどり 透き通るような、深い翠色をしている。 春先に息吹いた新緑の芽をかきあつめ、ギュッと圧縮して石にし たような、生命力を感じる色だ。 隣りにある、恐らく純金でできた金璽が霞んで見えるほど、圧倒 される迫力がある。 ヒスイというのは出物がないわけではないが、透き通ったものは 極めて少ない。 シヤルタにあるものは、どれもこれも、ミルクを垂らして混ぜた ような、濁った色をしている。 実家の倉庫には、これくらい綺麗なヒスイもあるが、丸く研磨さ れた石がカンザシの柄についたもので、石の大きさが全く異なる。 ここまで大きくて美しい石は、この世に二つとないだろう。 いや、二つとあるんだよな。 元は一つだったと聞く。 ﹁女皇の玉璽⋮⋮﹂ キャロルがつぶやきながら、玉璽を手にとった。 元は10センチ四方はあったであろう玉璽は、クッションに伏せ られた面を暴かれると、その部分は荒々しく割れてしまっていた。 もともとは正方形だったのだろうが、真っ二つに割れ、長方形の ような形になってしまっている。 持ち手まで真っ二つになっているので、これでは印章として使い 1868 づらいことこの上ない。 恐らくは、そのための普段使い用に、横にある金璽が作られたの だろう。 こちらには、持ちやすい取っ手が、長方形の真ん中にしっかりと 作ってある。 俺の理解が正しければ、この玉璽は、シャンティラ大皇国の女皇 が使っていたものだ。 戦争による大分裂の時に事故で割れ、一説には人為的に割られ、 姉妹の中で最も力の強かった、ユルンとノアという女が作った国に 別れた。 以降、二つの玉璽が合わさったことはない。 ユルン王国とノア王国では、半分に割れた不完全な印を、国が終 わるまで国璽として使い続けていた。 二つとも、国が滅びたあとは行方不明になっており、所在を聞い たことはない。 歴史トリビアとしては有名な、ちょっと浪漫のあるお話だ。 さすがに感慨深いものがあるな。 シャン人、というよりシャンティラ大皇国を祖に持つ人々、全員 の宝といえる。 ﹁これの片割れは、シヤルタが持っていると聞く。この都が落ちた なら、好きにするがよい﹂ 落ちなかった場合は、返還を要求するということだろうか。 そうはならないだろうけどな。 1869 というか、キャロルん家がもう片っぽ持ってんのか。 知らなかった。 俺が浅学なだけという可能性もあるが、そもそも所有を公にして いないんだろうな。 ﹁良いのですか? テルル様は⋮⋮﹂ キャロルが心配そうに言う。 本来の所有者、後継者は、テルルになるのではないか、という心 配があるのだろう。 ﹁あれには、自ら兵を挙げて国を取り戻すような勇の気質はない。 このようなものを持っていても、不幸になるだけであろう﹂ そらそうだわな。 兵を挙げて自ら国を取り戻す、というのでなければ、玉璽を掲げ て王威を振りかざすのは、身が危険になるだけだ。 国にするから一州をよこせ、などとウチの女王に言おうものなら、 場合によっては王剣を差し向けられて暗殺されてしまうだろう。 玉璽など手放し、その代わりにある程度の待遇を貰って、野心な ど抱かず、幸せに暮らすのが一番だ。 ﹁そうですか。それでは、預からせていただきます﹂ キャロルはパタン、とフタを閉じた。 ﹁うむ﹂ 女王が頷く。 1870 ﹁これだけですか?﹂ と、俺が言う。 ﹁これだけ⋮⋮というと?﹂ 女王が、軽くにらみながら俺を見てきた。 これでは不足なのか、と言いたいのだろう。 玉璽の貴重さを考えれば、そう思うのも当たり前だろうな。 ﹁確かに素晴らしい宝ですが⋮⋮今回のことに対しては、役不足で しょう﹂ というより、もとからテルルを通してシヤルタ王室にくれてやる つもりだったみたいだし。 ﹁それを貰ったところで、持って帰ったあとは、シビャクの城の宝 物庫に保管されるだけです。兵からしてみれば雲の上の出来事で、 ありがたみを感じるのは難しい﹂ ﹁ふむ⋮⋮では、どういうものならいいのだ?﹂ 若干、不愉快に感じているらしいな。 顔と声に出ている。 いや、俺も、この玉璽の貴重さとか文化的価値を認めてないわけ ではないんだけどな。 ﹁玉璽も貰い受けたいところですが⋮⋮加えて、報奨金付きの勲章 1871 を頂きたい﹂ ﹁勲章だと⋮⋮? そのようなものは、用意がない﹂ 勲章というのは、いろんな形があるが、書類だけの存在ではなく、 物理的に存在するものだ。 バッジやメダルのようなものが、首から下げたり胸に留めたりで きるようになっている。 もちろん、形あるものなので、デザインを決めて製造しなくては ならない。 明日までに用意できるようなもんじゃないだろ、とツッコミを入 れたいのだろう。 ﹁勲章の発効を示す書類を一枚書いて頂いて、あとはお金を、捨て るに惜しい程度の額、頂ければよいです。あとは、我々が帰参した あと、適当に意匠を決めて製造し、テルル殿下に授与して頂きます﹂ ﹁⋮⋮その程度のことであれば、構わぬが﹂ 女王からしてみれば、そのくらいのことは、玉璽と比べればカス みたいなものだろう。 豪邸をくれてやるぞ、と言ってみたら、それは役不足なので棚を 一つ作ってください。と言われたような感じか。 だが、本来はその程度で十分なのだ。 女王ほどの権力と資産があるのなら、たかが六十人程度の小所帯 に言うことを聞かせる対価を払うのが、困難であるはずはない。 ﹁勲章の内容は、最後の市民を無事に送り届ける作戦に従事したも のに、と限定してください。隊を離れれば勲章も貰えぬ、となれば、 1872 気も変わってくるでしょう﹂ ﹁それも、構わぬ﹂ よし。 承諾を貰った。 ﹁あとは、言うまでもないことでしょうが、三百人の兵の指揮権を 移譲してもらう旨、書類の手配をお願いします。以上の条件で、テ ルル殿下と千人の住民の警護、勤めさせていただきます﹂ ﹁そうか﹂ 女王が言ったのはそれだけだった。 すべ ﹁金は、こちらにはない。全て、運びだしてシヤルタに置いてある﹂ へえ。 一瞬、胸中に複雑な感情が渦巻き、墨のような黒さに心が覆われ た。 そうか、資産は移してあるのか。 まあいい。 そっちのほうが好都合だ。 ﹁それを、キャロル殿に預けよう。我ら亡き後は、その賞与に使い、 避難民らの救貧に使い、残りは娘に残してやってほしい﹂ なんとも、気持ち悪いくらいの大盤振る舞いだな。 1873 どれくらいの額なのか分からんが。 だが、キルヒナの難民が貧しているのに、テルルがキルヒナの遺 産でのうのうと贅沢をしていたら、立場が危うくなるのも事実だ。 まあ、確実に、金に汚い強欲女みたいに言われるだろうな。 テルルからしたらいい迷惑かもしれないが、処分をシヤルタ王家 に委ねる、という選択は、悪くないのかも知れん。 この親たちは、テルルの能力を、そう信じてはいないのだろうな。 丸投げしてしまうのは、テルルにはテクニカルな政治判断は難し いと思っているから、という気がする。 たぶん、義伯母のサツキが同じような状況になったとしたら、シ ャムにはこういった措置をとっても、俺には取らないだろう。 きみ ﹁⋮⋮君も、それで良いな?﹂ と、女王が俺に言った。 ﹁もちろん。好都合です﹂ ﹁そうか﹂ そう言うと、女王はふう、と溜息をついた。 脱力したように肩を落とし、ピンと張っていた背筋を背もたれに 預けた。 憂いが一つなくなり、肩の荷が降りたのだろう。 ﹁もう、行ってよいぞ。休むがよい﹂ 1874 そう言った言葉も、心なしか気だるげだ。 ﹁はい。それでは、失礼させていただきます﹂ そう言ったものの、俺としては座っている事しかできない。 座っているのは、自分では操作できない車いすだからだ。 女王は、一瞬俺を見て、んっ? と訝しげな目をして、すぐに事 情に気づいたようだった。 ﹁ああ、そうであったな。客室にお送りせよ﹂ 少し大きな声でいうと、やはり王剣らしき二人がやってきて、背 中に回った。 *** 二人が車いすの取っ手を掴んだところで、 ﹁待て﹂ と、女王は、何故か命令を中止した。 ﹁最後に、聞きたいことがあった﹂ なんだ? 1875 ﹁君はこのさき、何をするつもりだ?﹂ なにをするつもりだ、って、お前が仕事しろって言ったんじゃね えか。 そういうことじゃないか。 ﹁ずいぶんと茫洋とした質問ですね。任務が終わったあと、という ことでしょうか?﹂ ﹁そうだ。院を卒業したあと、成し遂げるべきことだ﹂ 何をライフワークにするつもりだ、みたいな話なのかな。 どう答えればよいのか、見当がつかん。 クラ人を可能な限り殺して死体の山を作りたいです、とか言うの が正解なのかな。 いや、就職の面接でもあるまいし、相手の欲しがる答えを探る必 要もあるまい。 ﹁山の見える湖の近くに家を建てて、好きな人と一緒に、のんびり と暮らしたいです。家事はお手伝いを雇って。花などを育てたり、 釣りをしたり本を読んだりしながら、ゆっくりと⋮⋮何不自由なく、 平和な時間を過ごしたい、と思っています﹂ 正直に願望を述べた。 あまりにも色んな事があったからか、名誉や戦争よりも、休みた い、という思いばかりが出てしまった。 現実に、そんなんになったら、どうだろうな。 案外、退屈してすぐに出て行ってしまうかも知れない。 1876 となると、この答えは違うのか。 いや、老後にそういう生活をしたい、とは思っているから、嘘に はならないだろう。 ﹁⋮⋮⋮﹂ 女王は、一瞬、気難しそうな顔をした。 口を開きかけ、それをやめ、言葉を選んでいるように黙した。 そういうことを聞きたいのではない、といったところか。 そのあと、溶けるように表情を崩した。 ﹁ふぅ⋮⋮﹂ 溜息でもなく、ただ肺の中の空気を除くように吐き出すと、女王 の目から、なんの脈絡もなく、一筋の涙が流れた。 ﹁そうか。もう行ってよい﹂ 涙が流れたにも関わらず、その言葉は涙声でもなく、奇妙なほど 揺れていなかった。 ﹁陛下、後のことはお任せください。及ばずながらも、精一杯、お 志を継がせていただきます﹂ キャロルが通り一遍の礼を述べると、女王は言葉を返さず、コク リとだけ頷いた。 車いすが操作され、反対側を向くと、もう表情は見えなかった。 1877 第122話 会見後 俺たちは部屋を出ると、車椅子に運ばれながら、客室まで戻った。 部屋を眺めると、ロウソクが変えられて新しくなっているようだ。 気が利いているな。 ﹁お手伝いの手は必要でしょうか﹂ と、俺をここまで運んできた王剣っぽい女が言った。 ﹁いや、いい。さほど歩くに苦労するというわけでもない﹂ ﹁当座の間、これをお使いください﹂ 差し出されたのは、老人が使うようなステッキだった。 キャロルが持っているのと似ている。 ﹁ありがとう﹂ 受け取って、地面を突きながら車いすから立ち上がる。 上手く体重が支えられているようだ。 長さもちょうどいい。 脇でなく手首で支えるので、あまり使うと手首を痛めそうだ。 まあ、鍛えているし、気をつけていれば大丈夫だろう。 ﹁それは、そのままお持ち戴いて構いませんので﹂ 城を出るときそのまま持って行っても構わない、ということだろ う。 1878 ﹁そうか。助かる﹂ ﹁それでは、失礼致します﹂ 王剣っぽい人は、ぺこりと頭を下げて、部屋から出て行った。 ドアが締められる。 俺は、そのまま移動して、ソファに座った。 ﹁ふう⋮⋮﹂ 思わず、ため息が出る。 キャロルも同じように椅子に座った。 ﹁ユーリ、聞いていいか?﹂ ﹁なんだ﹂ ﹁さっきの話⋮⋮市民を送り届けるという提案、どうして受けたの だ?﹂ ﹁嫌だったのか?﹂ どちらかというと、断ったら怒り出すかと思っていたんだが。 ﹁いや、そういうわけではないが⋮⋮なにかお前らしくない気がし た﹂ そうかな。 ﹁俺も受けたくはなかったが、悪くはない提案だろ。隊員にも手柄 がつく﹂ 1879 特にカケドリ隊には良い話だ。 やることが無かった、といったら変だが、連中は留守中に勝手に 動いただけで、他には補給物資を運んできただけだ。 勝手に動いたのも、功績があったわけではないので、手柄ではな いだろう。 そし こういう作戦に従事すれば、ただ従軍しただけ、と謗りを受ける こともない。 ハクもつく。 ﹁それは、確かにそうだが⋮⋮自分から厄介事を引き受けるのは、 珍しくないか?﹂ ﹁俺にだって、末期の頼みくらい聞いてやる情はある。知らん仲で はないしな﹂ 限りなく他人に近くはあるが。 ⋮⋮まあ、王配はゴウクの友人だった、みたいなことも言ってい たし、他人ではないか。 ﹁そうか。騎士として立派な行いだと思うぞ﹂ ﹁俺としては、初志貫徹するのに余計な行動なんだがな﹂ ﹁どういうことだ?﹂ わからねえのかよ。 こいつは、あれを引き受けたことが軍事行動上なにも問題ない行 動だと思うのだろうか。 玉璽だの勲章だの、そういったオプションがいくらつこうが、問 題であることに変わりはない。 ﹁お前⋮⋮先に帰るか?﹂ 1880 ﹁は!?﹂ キャロルが、素っ頓狂な声をあげた。 想像だにしていなかったらしい。 ﹁どうせ王鷲隊は大部分帰らせなきゃならん。道を歩く軍に鷲が二 十数羽ってのは必要ないし、食わせる飯を考えるとな﹂ まあ、連れて歩くのは精鋭四羽ってところか。 他は、餌、それも肉を馬鹿食いするだけの余分な荷物になってし まう。 ﹁私は帰らん﹂ やっぱり、こうなるよな。 とはいえ、こいつが帰ると士気に打撃があるのも事実なんだが。 これは配慮のし過ぎかも知れないが、やっぱりキャロルは同道し ていたほうがイメージが良い。 俺の命令とはいえ、民を置いて先に帰った、というのはな。 今ここにシモネイ女王に直通する電話があって、意見を聞いたら、 まず連れて行けと言うだろう。 どれだけ手際がよくても、事後処理も含めたリフォルムの攻城が 一週間以下で終わるとは思えないし、十日も猶予があれば、余裕で シヤルタまで逃げ切れる。 敵が次の手を早めに打つとしても、六日も先行すれば騎馬でも追 いつくのは難しい。 騎馬は全速力の走行を何日も続けられるわけではないし、トラッ 1881 ク化歩兵みたいな形で馬車に飼料その他を運んで最大限急いだとし ても、速度は知れている。 敵が一般的な侵攻過程で繰り出した追手と戦闘になる可能性は、 ゼロに近い。 が、何事にも特異事例というのはある。 こないだの竜のように。 ﹁お前の存在は避難民を危険に晒すんだよ。そのへんのとこ、解っ てるか﹂ ﹁私が⋮⋮? 意味がわからないぞ﹂ ﹁お前がいたら、隊⋮⋮もう観戦隊と呼んでいいのか解らんが、あ れはお前の保護を最優先にしなきゃならん。お前が居なかったら、 民を助けにいけるものを、お前がいるから、お前を危機から遠ざけ るのに使わなきゃならなくなる﹂ でも、海峡渡りも危なっかしいんだよなぁ⋮⋮。 王鷲も足怪我してる状態で乗っていいってわけではないし⋮⋮。 どの道、俺は陸路で帰らなきゃならないから、監督はできないわ けで。 まぁ⋮⋮別にそれほど難しいことではないし、全く初めての鷲を 使うことと、足の怪我を含めても、95%くらいは大丈夫なはずな んだが。 陸路のほうが危険に晒される可能性は、5%以上もあるのだろう か⋮⋮。 どちらが賢い選択なんだろう。 1882 ﹁それなら、私は⋮⋮どうしたらいい?﹂ 俺が悩み込んでいると、キャロルが言った。 顔を上げて見てみると、何やら悲しそうな顔をしていた。 ﹁私は⋮⋮ユーリの選択に従おう﹂ ﹁いや、最初からそういう約束だったんだが﹂ 今初めて約束が発生したみたいに言うなよ⋮⋮。 ビビるわ⋮⋮。 ﹁今、考えている﹂ 危険度がトントンだったら、陸路のほうに事後のメリットがある 分、そちらに同行させたほうがマシか? いや、危険度はトントンではなく、両方共未知数と考えるのが妥 当か。 最初から確率が計算できるゲームとは違う。 わからんな。 だが、今回はカケドリが使えるのだから、陸路で騎馬に追いつか れても、逃げれば良い。 ﹁お前、敵が来たら、きちんと逃げられるか?﹂ ﹁⋮⋮逃げられる﹂ ﹁もし、敵に追いつかれた時、お前が約束を破って立ち向かおうな んてしたら、もう全てがメチャクチャになる。何人も無駄に人が死 ぬ。その時、お前は足手まといにしかならない﹂ 1883 なんだか、子どもに言い聞かせてるみたいだな。 もう、何回も言った話だ。 別に、キャロルはそのような行動をした前科があるわけではない のに。 ﹁⋮⋮分かってる﹂ まあ、信頼するしかないか。 ﹁じゃあ、お前は陸路でついて来い﹂ 言ってしまった。 一生後悔する誤断にならなければいいが。 ﹁いいのか⋮⋮?﹂ ﹁いい﹂ まあ⋮⋮なんとかなるだろ。 ﹁じゃあ、そろそろ寝るか﹂ そろそろ、本当に眠い。 ﹁うん﹂ 俺はベッドに潜った。 体中を柔らかい布が包み込む。 ﹁一緒に寝ていいか?﹂ キャロルが言った。 1884 この部屋には、当然ベッドが二台ある。 ﹁⋮⋮いいぞ﹂ 少し考えて、俺は言った。 すると、キャロルはそそくさとベッドに入ってきた。 *** ﹁なあ﹂ しばらくして、話しかけてきた。 キャロルは、エロいことをしかけてくるわけでもなく、俺に触れ るか触れないかのところで、どうもそのまま寝る構えを見せていた。 俺は、エロいことするにしても今日は疲れすぎていて、眠すぎる から無理だな、と思い、そろそろ抵抗をやめて眠ろう、と意思を固 めたところだった。 ﹁⋮⋮どうした﹂ ﹁私のために、死なないで欲しい。頼めるか﹂ なんだ、その質問は。 どうも、エロいことを考えていたのは俺だけだったらしい。 ﹁そういう時は、助けに行って、どうにもならなくて死ぬもんだか らな⋮⋮最初から助けに行くな、ってのは無理な相談だ﹂ ﹁まぁ、そうか⋮⋮。さっき、ユーリが私のために死ぬところを想 1885 像したら、怖くなってしまってな⋮⋮﹂ 寝る前になにを考えているんだろう。 考えていてくれたほうが、行動を自重してくれそうではあるけど。 ﹁⋮⋮俺も怖いぞ﹂ ﹁そうなのか⋮⋮?﹂ 俺は、あの時のことを思い出していた。 あし ﹁⋮⋮星屑のことは言ってなかったな。星屑は、墜ちた時、まだ生 きてたんだ。羽も趾もめちゃくちゃで、多分内蔵もやられていて⋮ ⋮俺が楽にした﹂ ﹁あぁ⋮⋮。そうだったのか⋮⋮﹂ キャロルは、思いを馳せるように言った。 星屑を悼んでいるのか、晴嵐を思い出しているのか。 ﹁だから、お前が⋮⋮瀕死になっていて、同じ事をしなくちゃなら なかったら、どうしようかと思った﹂ 言葉にすると、あの時の恐怖が蘇って、一瞬背筋が凍る思いがし た。 ﹁⋮⋮そうか。私も⋮⋮そんなことになったら、辛くて狂ってしま うかもしれない﹂ そうだろうなぁ。 ﹁お互い、そうならないようにしないとな﹂ 1886 ﹁うん﹂ 本格的に眠くなってきた⋮⋮。 ﹁もう寝よう﹂ ﹁わかった﹂ そう言ったキャロルの声は、どこか嬉しそうだった。 1887 第123話 起床 ﹁⋮⋮⋮くん、⋮⋮でんか﹂ 声が聞こえると、ぱちりと目が開いた。 ﹁ユーリくん、起きてください﹂ ミャロの声だ。 ﹁ああ⋮⋮起きてる﹂ 上半身を起こすと、激しく体がだるい。 寝不足だ。 外を見ると、外は薄明るく白んでいる。 早朝か。 ﹁ミャロ。迎えに来てくれたのか?﹂ ﹁はい﹂ 目の前には、ミャロがしゃんとした顔で立っている。 が、顔には覇気がない。 俺以上に寝ていないのだろう。 よごろも ﹁すまんが、少し面倒なことになった⋮⋮話は聞いてるか?﹂ ﹁聞いています。今朝、夜衣の人が来ました﹂ 1888 夜衣? ﹁それって⋮⋮あの王の剣っぽい奴らか?﹂ ﹁たぶんそうだと思います﹂ ﹁夜衣ってのがキルヒナの王剣なのか?﹂ ﹁部隊の性格的には少し違う部分もあるようですが、ほぼ同類とい っても差し支え無いと思います﹂ やっぱりそうだったのか。 ﹁そうか、わかった。じゃあ⋮⋮行くとするか。色々と面倒だが、 正午までには状況を収拾して出発したい﹂ ﹁その前に、朝食を用意しましたので、食べてください﹂ と、ミャロは編み籠を机の上に置いた。 ﹁用意がいいな﹂ ﹁ありがとうございます﹂ なに気なく、枕の横に置いた時計を開くと、午前の六時だった。 寝坊してしまった。 ﹁城下では、王配が近衛を率いて、荷を積ませていました。まだ、 随分かかりそうでしたから、それほど急ぐ必要はないでしょう﹂ ﹁リャオはどういう意見だった﹂ ベッドから降りながら言う。 ﹁なにも言っていませんでした。ただ、内心で反対でも、口には出 1889 さないと思います﹂ おおやけ ﹁なんでだ?﹂ ﹁反対を公にして、ルベ家の隊員を率いて分離してしまえば、作戦 が成功した場合、反感を抱く者が多く出るでしょう。この作戦は、 どう考えても成功する可能性のほうが高いです﹂ そりゃそうか。 きっきん ルベ家だけが勲章を貰えない、ということになったら、いい面の 皮だしな。 ﹁土壇場でやられたら困るんだがな﹂ ﹁それはないでしょう﹂ ﹁どうしてだ﹂ ﹁キャロル殿下がいるからです。現時点ならまだしも、生死に喫緊 の危険があるときに逃げ出したら、たいへんな不名誉ですよ﹂ そりゃそうだ。 当たり前だ。 あかんな。寝起きで頭が回ってないらしい。 ﹁キャロル、まだ寝てんのか﹂ ﹁⋮⋮起きてる﹂ キャロルはむっくりとベッドから起き上がった。 寝ぼけてもおらず、意識はハッキリしているようだ。 ﹁ミャロが持ってきてくれた。食おう﹂ そう言いながら、俺は席について、ジョッキに入った水をコップ に注ぎ、ソーセージが挟まれたパンを口に頬張った。 1890 まあ⋮⋮そんなに美味くはないな。 兵士用のものだろうし。 遅れて、キャロルが席に座って、食事を摂り始めた。 二人して、黙々と平らげる。 ﹁ごちそうさま﹂ ﹁⋮⋮ごちそうさま﹂ うつむ キャロルが俯きながら言った。 元気がなさそうだ。 ミャロが、一瞬キャロルを見た。 そして、次に俺の方をまっすぐに見ると、 ﹁ユーリくん、キャロルさんと寝ました?﹂ と言った。 ﹁⋮⋮⋮っ﹂ キャロルが、厳しい親に悪さを見破られた子供のように、ビクっ と震えた。 ﹁寝た﹂ 俺とキャロルがこの部屋で一緒に寝ていたか、というのは、一目 瞭然のことなので、それを聞いているわけではないだろう。 1891 昨晩はやってないが、二つベッドがあるのに一つのベッドに二人 で寝てる、というのは、どう考えたっておかしな話だ。 まずいなぁ、とは思ってたんだけどな。 ﹁⋮⋮そうですか﹂ ミャロは、静かに俯いた。 一瞬だけそうしたあと、キャロルのほうを向いた。 ﹁キャロルさん。おめでとうございます﹂ ぺこりとお辞儀をする。 ﹁えっ⋮⋮﹂ 頭を下げたままのミャロを見ながら、キャロルは呆然とした顔を していた。 ﹁誰にとっても、良い選択だと思います。女王陛下もお喜びになる ことでしょう﹂ そこまで言うと、ミャロは頭を上げた。 ﹁いや、ちが⋮⋮﹂ ﹁︱︱すいません、少し失礼します。ふ、服を整えておいてくだ、 さい﹂ ミャロは、言い繕いながら顔をそむけ、振り向くと、スタスタと 歩いて部屋のドアを開けた。 そのまま、ドアを締めて、出て行ってしまった。 1892 *** ﹁ユーリ、追ってくれっ﹂ ﹁いいのか?﹂ 俺が即座に返すと、キャロルは﹁何を言ってるんだ﹂という目で 俺を見た。 当たり前だろう、と。 ﹁お前は、俺が追っても構わないのか?﹂ 俺がそう言うと、キャロルは虚を突かれたような顔をした。 ぎゅっと顔を歪ませる。 ﹁⋮⋮っ、頼む⋮⋮﹂ ﹁じゃあ、行ってくる﹂ 俺は、席を立った。 キャロルの横を通りすぎて、ドアへ行こうとする。 すれ違ったところで、手を掴まれた。 見下ろすようにキャロルを見ると、泣きそうな顔で、こちらを見 上げている。 ﹁いか⋮⋮、⋮⋮ッ﹂ 一瞬、ぎゅっと俺の腕を強く掴むと、その手を離した。 ﹁⋮⋮行ってくれ﹂ 1893 何かを盛大に勘違いされている気がする。 ﹁言い方が悪かったな。俺は昨日今日で浮気ができるほど、器用な 人間じゃないぞ﹂ ﹁えっ⋮⋮そうな、のか?﹂ ﹁そうだ﹂ 俺は、今度こそドアに向かった。 *** ミャロは、部屋を出た廊下の、右の突き当りにいた。 窓の桟に手をかけ、外を見ているふりをしながら、下を向いてい た。 両肩に力が入っていて、どうにも窓の外を見て黄昏れているよう には見えない。 ﹁ミャロ﹂ ﹁あっ⋮⋮﹂ 近寄って声をかけると、こちらを見た。 泣いてはいない。 だが、どこか戸惑っているような顔をしていた。 ﹁ユーリくん、すいません⋮⋮私としたことが、動揺してしまって 1894 ⋮⋮すぐに戻りますから﹂ ﹁まだ時間はあるんだろ? 少し話すくらい、構わないさ﹂ 俺はすっと手を伸ばし、ミャロの頭を撫でようとした。 ミャロは、その手を見ると、怯えるように顔を歪める。 俺の手が、ぱしっ、と払いのけられた。 軽い衝撃が手に響く。 ﹁あっ⋮⋮ごめんなさい﹂ ﹁⋮⋮いや﹂ ミャロに手を払いのけられる日が来るとは⋮⋮。 ﹁でも⋮⋮すみません。今は⋮⋮ちょっと﹂ ミャロは、払った手を抱くようにして言った。 ﹁いや⋮⋮すまんな。無神経だった﹂ ﹁いえ⋮⋮、ボクが悪いんです。昨日から薄々察していたのに⋮⋮ いざユーリくんの口から答えを聞いたら、気持ちが昂ぶってしまっ て﹂ ﹁そうか﹂ ﹁でも、勘違いしないでください⋮⋮ボクはユーリくんの⋮⋮その、 妻になりたかったわけではありませんから﹂ そりゃそうだ。 俺は、ミャロが軍師みたいなのや権謀家になりたがっている、と 1895 感じたことは幾らでもあるが、恋人や妻になりたがっている、と感 じたことは一度もない。 自分で言う通り、事実それは違うのだろう。 だが、何かしら割り切れない思いがある、ように感じる。 ﹁わかってる﹂ ﹁自分でも⋮⋮なんでなのか、よくわかりません﹂ どうも、戸惑っているらしい。 気持ちを持て余している、と言ったほうが正確なのか。 ﹁それでいいじゃないか。前にも言わなかったか。なんの味気もな い、石のような奴じゃあつまらない﹂ 俺も大昔に彼女にフられた時は、自分でも驚くほど打ちのめされ たしな。 あの頃は俺もアホだったけど。 ﹁⋮⋮⋮今は、石になりたいです﹂ まぁ、そういうこともあるか。 ﹁確か、もっと前に、お前のことを嫌いにはならない、とも言った﹂ ﹁⋮⋮はい﹂ ﹁それじゃ駄目か。お前が嫌になって、俺から離れることにならな い限り、お前はずっと⋮⋮俺のものだ。それでも不安か﹂ 俺がそう言うと、俯いていたミャロが、はっとした表情で、俺を 1896 見た。 先程までと、なにかが違う。 心にかかっていたモヤは、晴れたのだろうか。 ﹁⋮⋮そんなこと言って、いいんですか? ボクは、自分でも思い ますが、面倒くさい女ですし⋮⋮抱いて、自分の女にしてしまった ほうが、楽かもしれませんよ?﹂ かお それは、悪戯っぽいような、それでいて健気なような、ないまぜ になった表情だった。 一瞬、抱きしめたいという思いが、去来するように胸を撫でた。 ひとたら ﹁楽もなにもない。面倒に思わないからな﹂ ﹁まったく、ユーリくんは人誑しが上手くて、困ってしまいます﹂ もう、大丈夫そうだな。 ﹁落ち着いたなら、行くぞ。さっさと顔洗って出かけなきゃな﹂ ﹁⋮⋮はい﹂ 1897 第124話 三百人 身なりをある程度整えて、城門の方へ杖を突いて行くと、途中で 昨日の女が待っていた。 廊下に唐突に置かれたイスに座って、膝の上には綺麗に形の揃っ た書類があった。 ﹁ユーリ様﹂ 膝の上の荷物を、一度椅子の上に置くと、書類を持って立った。 椅子の上には、昨日見た玉璽が入った箱が置いてある。 一緒に持ってきたらしい ﹁必要な書類です。ご確認ください﹂ ﹁ありがとう﹂ 束を受け取り、ささっと目を通した。 全部で七枚か。 軽く読んだところ、悪いところはない。 ﹁ミャロ、不備がないか確認してくれ﹂ と、ミャロに紙の束をやった。 ﹁はい﹂ ミャロは早速、書類に目を通し始めた。 1898 ﹁キャロルは、箱の中身を確認してくれ﹂ ﹁わかった﹂ 状況的にほぼありえないが、中身が鉛の塊にでもすり替わってい たら大変だ。 後世に、シャン人の至宝はユーリとかいう間抜けのせいで失われ ました、と語られるのは、嫌な気分だからな。 ﹁大丈夫だ﹂ 大丈夫だったらしい。 少し遅れて、ミャロが読み終わった。 ﹁問題ないかと思います﹂ ﹁そうか﹂ 紙の束を受け取った。 ﹁これをどうぞ﹂ すかさず差し出されて来たのは、筒だった。 書類を折らずに、丸めて収納できるもので、木の薄板を蒸したも のを、筒状に曲げて作るやつだ。 卒業証書を入れるあれで、蓋になる部分がついている。 これは上等なもので、木の筒の上から更に蝋引きした羊皮紙が貼 ってあり、ちょっとした雨をはじくような加工がしてある。 ﹁助かる﹂ 七枚をくるくると丸めて、筒にいれて蓋をした。 1899 ﹁女王陛下ご夫婦は、お見送りには参りません﹂ そうか。 恐らく、娘の同行が露見する確率を少しでも減らしたいのだろう。 普段は、避難民の出発程度では、王自ら顔を見せて激励というこ とはしないのかも知れない。 ﹁子煩悩なのだな﹂ ﹁はい﹂ 女は、困ったようにかすかに微笑んだ。 女王と王配⋮⋮というより、王室を慕う気持ちが伝わってくるよ うだ。 夜衣といったか。 こっちの懐刀は、シヤルタの王剣とは大分趣が違うな。 といっても、俺が知ってる王剣というのは、ティレト、とか言っ たか。あいつだけだ。 荷 はいつ届く﹂ あいつが無愛想なだけかな。 ﹁で、その ﹁少し遅れることにはなりますが、出発までには責任をもってお渡 しします﹂ ﹁分かった﹂ 別れを惜しんで泣いてでもいるのかな。 まあ、遅刻しないのであれば、構わないが。 ﹁箱は、これにどうぞ﹂ 1900 女が厚ぼったい生地のショルダーバッグを差し出してきた。 恐らく、すっぽりと入るようになっているのだろう。 至れり尽くせりだな。 向こうからしても、途中で壊れたなどということには、あって欲 しくないのだろう。 ﹁ミャロ、持てるか?﹂ ﹁はい﹂ ミャロが両手で木箱を掴んだ。 ﹁⋮⋮あっ﹂ 予想外の重さだったのか、ミャロの手が滑った。 まあ、中に金印が入ってるからな。 金は、持ってみると異様な重みがある。 ﹁どうぞ、入れてください﹂ 女がショルダーバッグを開いて、中を開けた。 ﹁あ、どうも⋮⋮んっ﹂ ミャロが本腰を入れると、さほど苦もなく木箱は持ち上がった。 ﹁よいしょ⋮⋮っと﹂ ミャロが滑り入れたショルダーバックを、女は肩掛けを片手で持 って支えていた。 そこまで重くもないのか。 1901 ミャロが非力なのか、この女の鍛え方が異常なのか⋮⋮。 女がミャロの肩に帯をかけると、若干痛がる素振りはしたが、十 荷 を受け取るときに、また﹂ 分支えられるようだった。 ﹁それでは、 ﹁はい。お気をつけて﹂ ぺこりと礼をしてもらった。 *** 城門の横の勝手口から、城外へ出ると、そこは閑散としていた。 もう、兵は起きている時間なんだけどな。 ﹁さきほど、朝食の鐘が鳴ったのを聞きました。食堂に集まってい るのでしょう﹂ 俺の疑問を見透かしたように、ミャロが言った。 ﹁そうか﹂ ﹁馬はそこに繋いであります﹂ ﹁あぁ、懐かしいな﹂ 勝手口のすぐそばの馬留めに、ここまで乗ってきた馬が二頭と、 カケドリが二羽、繋がれていた。 一羽は、ミャロのカケドリだ。 1902 ホウ家の別邸にいた鳥なので、見覚えがある。 ﹁ボクは馬に乗りましょうか﹂ ミャロはカケドリを見て、言った。 ﹁あー⋮⋮そうだな﹂ 一瞬、キャロルを見る。 ミャロとは、未だになんだか気まずそうにしている。 負傷した一人がカケドリを置いて帰ってくれたお陰で、二羽余っ ている。 ここは、俺とキャロルが乗るべきだろう。 カケドリは、跨るときにしゃがませることができるし、それ以前 えづら に、ミャロが俺たち二人を差し置いてカケドリに跨っているという 絵面は、問題を生じかねない。 ﹁そうしてもらってもいいか? 馬は乗れるよな﹂ ﹁あまり上手ではありませんが﹂ ﹁向こう側の調教だから、少し勝手が違うが、すぐ慣れるだろう﹂ ﹁分かりました﹂ 俺がミャロのカケドリに近づくと、俺の顔を覚えていてくれたよ うで、膝をすっと折り、乗りやすい形になってくれた。 手杖を脇に抱えて、カケドリに跨る。 ﹁よし、行こう﹂ そこで気づいた。 馬を一頭置いていくことになってしまう。 1903 俺が手綱を持って引けばいいか。 *** 市街へ出ると、通達があって準備しているらしく、大通りは避難 民でいっぱいであった。 おんなこ 男と、あとはやっぱり女子どもが多い。 自力で歩けないのは、体重の軽い幼児くらいしかいないように見 える。 老人は付いて行かせないと言ってたよな。 いつ頃、どういう通達があったのかは知らないが、さぞモメたこ とだろう。 ﹁収拾がついてねえな﹂ ﹁そのようですね﹂ 一応、馬が進める隙間は一直線に空けてあるのだが、やっぱり怖 い。 突然、子どもが飛び出してきたら踏んでしまうかもしれない。 そのうちに、戸口の開いた屯所のようなところに、兵が固まって 所在なさ気にしているのが見えた。 あれが、預けられる三百人の兵とやらか。 近づいて、何をしているのか見てみると、こちらもまるで統率が 1904 効いていなかった。 横になっているのはいないが、座ってるのと立っているのでバラ けている。 一応は全員騎士院に居たはずなので、これは最初から指揮がされ ていない証拠だ。 ﹁一応の指揮官に収まっている奴とかはいるのか﹂ ﹁いないようです﹂ やはり居ないらしい。 そのへんは、俺に無断で指名すると、混乱のもとになると考えた のかも知れない。 そこら辺は、割りと重要な問題なので、向こうの不手際とは言え ない。 それでも、こういう場合は仕切りたがりが現れて仕切ったりする もんだと思うが、王配が言っていた通り、しきれるポジションにい た高位の連中は軒並み加わっていない現状なのだろう。 ﹁ふぅ∼⋮⋮面倒だな﹂ これを収拾するというのは、中々骨が折れそうだ。 ﹁隊の奴らは、こっちに来てるか﹂ ﹁カケドリの隊は、今頃は市門のあたりに到着しているはずです。 こちらの荷物の警備もあるので、鷲のほうの兵は陣払いした拠点に 残していますが﹂ ﹁そうか⋮⋮わかった。兎にも角にも、避難民共を歩き始めさせよ う﹂ 1905 俺は周辺を見渡した。 ﹁そのためには、これじゃあどうにもならん﹂ 避難民の連中は、皆が揃って大荷物を抱えている。 小さな引き車くらいならまだしも、中には路上に持ちだしたタン スを運ぼうとしている奴までいる。 シヤルタまでタンスを引きずっていくとか、もう戦時とか平時と か関係なく無理だと思うんだが⋮⋮。 まずは、なんとかして、大荷物を手放させるのが先決だ。 それをしないと、移動を始めることすらできない。 ﹁とりあえず、三百人を隊と合流させよう﹂ *** ﹁おい﹂ 俺は、屯所に入ると、誰ともなく声をかけた。 ﹁ハッ!﹂ 真面目に立ったままでいた奴が、敬礼をしながら返事をする。 ずっと立っていただけあって、真面目なのだろう。 この状況だったら、俺は座っている方の人間だろうな。 1906 ﹁話をどれくらい聞いているか分からないが、俺がお前の上官にな るユーリ・ホウだ。さっそく、命令を出したいんだが﹂ ﹁ハッ! どうぞ!﹂ ﹁こいつらの中で、お前が一番優秀と思うやつを連れて来い﹂ 俺がそう言うと、男はぽかんと口を開けた。 だが、すぐにその異常な命令を受け入れ、考える素振りを始めた。 それはこの俺です。と言い出したらどうしよう。 それはそれで面白いか。 ﹁失礼ながら、頭のいいやつと、腕が立つやつと、二人心当たりが あります!!﹂ そうなのか。 まあ⋮⋮ぶっちゃけどっちでもいいんだけどな。 本当は、人望があるやつ、と言いたいんだが、それだと将家のし がらみがあるからマトモな返事はこないかな、と思ってのことだし。 ﹁腕が立つほうは、それなりの頭か?﹂ ﹁いいえ、馬鹿です!﹂ 馬鹿なのか⋮⋮。 馬鹿にも色々種類があるから、人に好かれる類の馬鹿なら使いで があるんだけどな。 ﹁頭のいいやつを呼んできてくれ﹂ 1907 これがベターだろう。 *** 連れられてきたのは、なんともむっつりとした男だった。 ボサボサの黒髪は寝起きのまま酷い寝癖がついていて、ジトッと した目でこちらを見ている。 体は中肉中背だが、あんまり鍛えているほうではないな。 少し太り気味に見える。 ﹁連れて参りました!﹂ ﹁⋮⋮⋮﹂ 普通は、こういう場合自分から姓名を名乗るものなんだがな。 これは常識なので、キルヒナの騎士院だから違う、ということは ない。 ﹁どうした。なぜ名を名乗らん﹂ ﹁こいつの名は、ギョーム・ズズであります!﹂ 横から口がでてきた。 ﹁お前には聞いていない。自分で名乗れ﹂ うーん。 なんだか、俺のほうを値踏みするように見ているのが、気になる な。 1908 三百人の連中も、だいたい何が起こっているのか察しているらし く、こちらに耳目が集まり始めている。 ﹁名乗るほどの者かどうか見極めておるのだ﹂ ほほーう。 ﹁なっ⋮⋮! 無礼なッ﹂ そう言ったのは後ろで馬にまたがっているキャロルだった。 まあ、こいつはこういうのに慣れてないからな。 俺は会社関係でこういうのに慣れてるから、なんとも思わんが。 カフもそうだったが、こういうのの中にも面白いのはいるんだよ な。 これで無能だったら、単なるゴミだが。 ﹁おい、槍を貸せ﹂ と、俺はさっきの男に言った。 ﹁あっ、あのっ⋮⋮こいつは無礼な男ですが⋮⋮﹂ ﹁黙れ。貸せ﹂ 俺が高圧的にそう言うと、槍の柄が差し出されてきた。 ギョームというらしい男は、微動だにせず立っている。 ぐっ、ぐっと左足で鐙を踏んでみる。 傷の具合は、大丈夫そうだ。 1909 あんまりミスると、殺しちまうからな。 死んじまっても、無礼討ちってことで収まるから、構わないっち ゃ構わないんだけど。 目を細めて、距離を測った。 柄を、ちょうどいい長さに握りこんで、槍を肩に担いだ。 ﹁フッ︱︱!﹂ 大きく弧を描いた穂先が、ピュンッ、とギョームの額をなでた。 額にかかっていたボサボサの髪が、ふわっと踊る。 髪に触れたのに、切れなかった。 スパっと髪が切れる感じだったのにな。 なんとなく気になって、穂先を手繰り寄せて見てみると、刃には 荒い研ぎ目が出ていた。 良い砥石で丁寧に研がれた刃は、研ぎ目が消え、濡れているよう に見える。 戦争中じゃ、万全の状態にはならないのも、仕方ないか。 まあいい。 ﹁貴様、自らを才有りと称するなら、隊を取りまとめて市門まで連 れて来い。命令を聞くのが嫌なら、消えるがいい﹂ 目の前を刃が通りすぎても目も瞑らなかったところを見ると、度 胸はあるのだろう。 驕りがすぎるのか、世に拗ねているのか知らんが、そのあたりは 1910 大した問題でもない。 まあ、出来なかったら出来なかったで⋮⋮。 というか、みんな見てるし、よっぽどの間抜けでもなければ自分 から来るだろ。 ﹁槍を返すぞ。礼を言う﹂ 1911 第125話 合流 城壁の境目、市門の外には、見覚えのある連中がカケドリを並べ ていた。 俺が来るのを見ると、一斉にカカトを揃えて敬礼をする。 近づいていく。 すうけい 王族崇敬の念が強いのか、中には涙さえ浮かべて嗚咽しかけてい る者までいた。 考えてみれば、感動するのも無理はないな。 ﹁キャロル、声をかけてやってくれ﹂ 俺がそう言うと、キャロルは頷いた。 いよいよ近づくと、目の前でカケドリの足を止めた。 ﹁皆の者! 心配をかけてしまってすまない! 我らの留守の守り、 ご苦労であった!﹂ キャロルらしい歯切れのよい声で言うと、兵たちは誰しもが感動 に打ち震える顔をした。 やっぱり、この役はキャロルにしかできない。 生まれながらに華とともに生きてきた人間でなければ、こういっ た感動を与えることはできないだろう。 ﹁というわけでな、お前ら、本当によくやってくれた。リャオ、休 1912 ませてやってくれ﹂ 俺が言うと、リャオは頷いた。 ﹁総員、休め!﹂ *** カケドリから降りると、リャオが歩いて来た。 ﹁まずは、礼を言わせてくれ。よく戻ってきてくれた﹂ 握手を求められたので、ギュっと握り返す。 男同士の、力強い握手だ。 ﹁ああ。まったく、とんだ災難だった﹂ ﹁生きてたならいい。死んじまってたらと思ったら、メシの味がし なかったよ﹂ 本当にホッとしたような顔をしている。 ミャロから報告を聞いても、実際にその目で見るまでは、完全に は信じられなかったのだろう。 その心配は分かる。 逆の立場だったら、俺も同じように、気が気でなかったはずだ。 ﹁そうか⋮⋮。すまんが、話はあとにしよう。厄介事を引き受けち まったからな﹂ 1913 ﹁ああ。ミャロから聞いている﹂ ﹁ちょっと、向こうで話そう﹂ 兵の耳があるところでは、ぶっちゃけトークができないからな。 四人で、少し離れたところにまで歩いた。 ﹁王剣みたいな奴が、夜衣といったか、説明はしたらしいが。どの 程度聞いている﹂ 俺はリャオを見ながら言った。 ミャロは色々と情報を知っているので、聞いても意味がない。 ﹁なんだか、ここのお若い姫様と、騎士の若い衆を三百人と、千人 の民衆を連れて行くことになったんだってな。それと、戻ったら勲 章をもらえるとか。そのくらいの情報だ﹂ ﹁そうか。勲章には金貨が五十枚程度つく。名誉だけじゃない﹂ 五十枚と言ったのは適当だが、まあその辺に落ち着くだろう。 五百万円くらいか。 ちなみに、俺が種痘を開発したときに女王陛下から賜った金貨は、 三十枚だった。 ﹁それだけありゃ、かなり豪遊できるな﹂ 豪遊かよ。 ﹁貰えないとなったら、惜しい金額だろう﹂ 1914 現金は貴重だから、たいていの騎士家は金貨が五十枚も貰えると なれば大喜びする。 ﹁⋮⋮ン、なんだ、意思でも聞くつもりか﹂ ﹁そういう約束で連中を連れてきたからな。成り行きで生き死にの 現場にはやりたくない﹂ 火炎瓶を投げた時の連中にも、俺は﹁死ぬかもしれないけどやる か?﹂と聞いた。 そういう選択肢は与えてやりたい。 ﹁ユーリ殿がそう言うなら構わないがな。気を遣いすぎに思える﹂ ﹁そうか?﹂ ﹁騎士は、戦が始まれば否も応もなく出陣、だろう。ユーリ殿はや けに気にするが、元からそういう仕事だ﹂ うーん⋮⋮。 確かに、それはそうなんだけどな。 騎士たちは、その代わりに特権階級としての立場や利権を得てい るわけで。 ふ ﹁ただ、この隊は、将に触れを出されての出陣ではないからな。俺 に申し出を断る選択肢があった以上は、連中にも断る選択肢を与え るのがスジに思える﹂ 実際のところは、完全な自由意志というわけではなく、同調圧力 とかで思うようにはならない形になるんだろうけど。 そういう形があるのとないのとでは、違う気がする。 1915 ﹁それはわかるがな﹂ ﹁まあ、駆鳥隊のほうには言っておいてくれ。結論有りきの言い方 ではなく﹂ ﹁分かった﹂ ﹁さて⋮⋮それじゃ、仕事の話に移ろう﹂ *** ﹁とりあえず、俺が考えてる作戦をサクサクと言うぞ﹂ と、俺は前口上を述べた。 ﹁城から食料を運び出す荷駄の準備は終わると見込んで、正午まで には避難民の連中を市外に整列させるのを、一応の目標にする。リ ャオは城壁の中を見ていないな。どいつもこいつも、荷物のたくさ ん入った袋やらタンスやらを抱えちまってる。それらは、貴重品以 外は全部置いて行かせなきゃならん。大荷物を抱えた鈍足に合わせ ていたら、話にならんからな﹂ リャオが、口をへの字に曲げた。 こりゃ難儀な仕事だ。と思っているのだろう。 ﹁まず、今から城外に来る三百人の兵を指揮下に組み込む。三百人 を⋮⋮今駆鳥隊は24人だったか?﹂ ﹁そうです﹂ ミャロが答えた。 1916 1人あたり⋮⋮12人ちょっとか。 12人はキツイな。 ﹁鷲の隊のほうからも、何人か引っ張ってこよう。鷲が悪くなって いるのが居るとか言っていたな。城の者に言って、馬か駆鳥と交換 してもらう﹂ 鷲については後に弁償しなくてはならないが、これは予算から出 せば良いだろう。 城からしてみれば、もはや機動戦をするわけではないのだから、 その交換はありがたいはずだ。 連絡、偵察、特攻、そして脱出⋮⋮なんにでも使い道は多い。 ﹁それで、一人ひとりが十人くらいを担当して、指揮できるように する。便宜上、これを小隊と呼ぼう﹂ 向こうの三百人というのは、こちらと違い、特に選抜されたわけ ではない。 特に選抜されたこちらの人材であれば、十人くらいはまとめられ るだろう。 ﹁特に有能な奴なら、もう少し多く担当させてもいい。できるだけ、 年齢層が合うように組み合わせろ。見たところ、連中は19歳くら いの奴もいるからな。それをこっちの16歳の下に組み込んでも、 トラブルの元になる﹂ リャオが頷いた。 1917 ﹁それが終わったら、そいつらを使って、市門に検問を敷く。連中 に荷物を捨てさせて、今日中に歩き始めさせる﹂ リャオが手を上げた。 ﹁いいぞ。話せ﹂ ﹁荷物を捨てさせると言うが、恐らくかなり難儀だぞ。抵抗すると 思うが、抜き身で脅しながら捨てさせるのか﹂ ﹁それは考えていた。だから、まず城外で炊き出しをする﹂ 俺がそう言うと、リャオは驚いた顔をした。 ﹁奴らが荷物を捨てる目の前で、メシを作ってやるんだ。炊き出し をキチンとして、飢えることがないと分かれば、荷物を捨てるのも 抵抗がなくなるだろ? 歩かせるにも飯を食わせてからのほうがい いし、一石二鳥だ﹂ ﹁⋮⋮まあ、そうだな﹂ 関心したような顔をしている。 ﹁よし。それじゃあ質問や提案はあるか?﹂ 三人を見渡すが、質問はないようだ。 ﹁じゃあ、ミャロはリャオに付いて、組み合わせを手伝え。俺とキ ャロルは本陣のほうに戻って、鷲から降りられる奴がいるか聞いて みる﹂ 1918 第126話 異物 ﹁では、鷲を供出する五名は決まったな。残りは、ギィ、ディラン、 ハック、ミーラを除き、シヤルタに帰参することにする。臨時の部 隊長はエフィー、お前だ﹂ そう下令すると、王鷲隊の面々は、一斉に敬礼した。 エフィーというのは、俺が火炎瓶を落とした時に率いていた五騎 の中で、最も腕前が良いと思われる奴だ。 こいつを頭にすれば、海峡を渡るのもそう難しくはないだろう。 同道させる四人も、その時の連中だ。 食料の問題から、鷲を二十数羽も余分に連れて行くのは難しい。 偵察に使うなら四羽程度で十分だし、残りは余分だ。 ﹁これを貸してやる﹂ と、俺は愛用のコンパスをエフィーに渡した。 ﹁後で、必ず返せ﹂ ﹁了解しました。必ず返します﹂ 一度は海を超えるのに成功したコンパスだ。 ぶっちゃけ、精度が違うというほどのものではないが、気分的に 隊員を安心させる足しにはなるだろう。 ﹁では、五名はただちに鷲に乗り、市門へ向かえ﹂ 1919 この五名の鷲は、悪くなっていて、海峡渡りには使えない鷲だ。 どこが故障しているというわけではないが、軽い痛みを感じてい るのか、動きがぎこちなかったり、バテていてスタミナが無かった りと、調子が悪い。 城で防戦をしながら一週間も休めば、飛べるようになるだろう。 もちろん、それを待つことはできない。 ﹁ギィ、お前は城へ飛び、市門にある五羽を交換して欲しい旨、連 絡しろ。残り三名はここで待ち、他の者の支度を手伝え。質問はあ るか?﹂ 俺は、一同を見回した。 質問はないようだ。 ﹁よし。それでは行動を開始しろ﹂ *** カケドリに乗って市門に戻るころには、市門の近くに王鷲が繋が れ、組み分けは終わっているようだった。 陽はもうすっかり登っている。 かなり近くに寄ると、めいめいが小集団を従え、指図しているの が見て取れた。 俺が駆けてくるのを見つけると、ミャロが馬にのってやってきた。 1920 ミャロが馬を止めようと手綱をたぐると、馬は軽く前足を振り上 げ、ブルルルと嘶いて大げさに止まった。 ﹁おっとっと﹂ どうにも、まだ慣れないらしい。 ﹁失礼しました﹂ ﹁組み分けは終わったのか﹂ ﹁はい。とりあえず、ギョームさんを合わせて、二十九名に十人づ つ、彼には九名任せました﹂ 三百人は、ぴったり市門に来れたらしい。 一人くらい、行方知れずになったりはぐれる奴が出てもおかしく ないと思ったがな。 それより、 ﹁あいつを隊長にしたのか﹂ ﹁いけませんでしたか﹂ うーん。 まあ、構わんか。 ﹁いや、それでいい。それより、炊き出しの方は進んでいない様子 だな﹂ ﹁はい。千人規模の炊き出しとなると⋮⋮色々と戸惑っているよう です。やはり、十人といえども、すぐに手足のようにはならないよ うで﹂ そりゃそうだろう。 1921 ﹁市門の中に入って、避難民の中から料理に得手な奴を探してやら せる。天幕を立てて、道具をかき集めておけ﹂ ﹁あっ、はい。分かりました﹂ カケドリの頭を返し、キャロルのほうを向いた。 ﹁キャロル、お前は馬に乗ったまま、王鷲隊から来た五名五小隊を 指揮しろ。やつら、リャオに指図されるのは慣れていないはずだ。 お前がやったほうが馴染むだろう﹂ ﹁了解した﹂ ﹁俺は、さっき言ったギョームのところへ行って、あいつに指示し て料理人を探す。どこにいる﹂ ﹁リャオさんのところに居ます。あそこです﹂ ミャロは、馬に跨ったまま指でさした。 市門の左のほうか。 ﹁わかった。じゃあ、始めといてくれ﹂ *** ギョームの小隊は、リャオに荷物を運ぶ仕事をさせられていたよ うで、のそのそと木箱を運んでいた。 ﹁リャオ、ちょっとこいつらを借りるぞ!﹂ 1922 騎上から大声でそう言うと、10メートルほど先にいたリャオは、 手を振って答えた。 ﹁なんだ?﹂ ギョームが言う。 ﹁炊き出しが滞っているから、市門に入って避難民の中から料理の できるはしこいのを連れてくる。手伝え﹂ ﹁⋮⋮はぁ。難しいぞ﹂ 後ろに控えている、九人の面々を見ると、なんともダルそうな顔 をしていた。 元気がなく、ハキハキとした感じがない。 それでも、なんとか従い、背筋を伸ばして気をつけをしているの は、教育の賜物だろうか。 それとも、理屈をこねて脅しすかして従わせているのだろうか。 ﹁お前、頭はいいのかも知れんが、人望はないな﹂ ﹁⋮⋮⋮﹂ ギョームは無言でこちらを睨んでくる。 だって、見るからにそうなんだもん。 顔つきはそう悪くもないが、どうも学者タイプで、なんとも身な りが悪い。 目つきも悪い。 人がついて行きたくなる雰囲気がない。 1923 ﹁ま、それでもいい。とにかく俺を手伝え。指揮官がこの市に詳し い方が上手くいく﹂ ﹁なぜ、俺をそうまでして使いたがるのだ﹂ 別に、こいつを見込んでるわけじゃないんだけどな。 なんとなくキャラが立ってるから、ちょっと弄ってみたいという か。 有能だったらもったいない、というか。 ﹁勘違いをするな。お前を使いたいわけじゃない。お前が無能なら 他の者を使うだけのことだ﹂ ⋮⋮とはいえ、こいつも余計な苦労を背負ってるわけだからな。 給料が同じなのに管理職の仕事を回される、というのも可哀想な 話だ。 ﹁終わるまで働いたら、どこへなりと紹介状を書いてやる﹂ ﹁紹介状など、いらぬ﹂ 要らないらしい。 ﹁勝手にしろ。去るなら、他のものを充てがう。それだけのことだ﹂ *** 市門をくぐり、避難民がうじゃうじゃしているところに入ると、 俺は財布から金貨を何枚かポケットに移した。 1924 ﹁おい、これを貸してやる。雇う料理人、一人に一枚づつくれてや れ﹂ 俺は、自分の財布を投げた。 ボスッ、とギョームの手に収まる。 ﹁いいのか。逃げるかも知れぬのに﹂ ギョームは、財布と俺を交互に見ながら言った。 ﹁一々理屈っぽい野郎だな。そんなもんは度量の問題だ﹂ 持ち逃げや使い込みのリスクを怖がって、誰にも金を預けないの では、組織は窮屈な仕事を強いられ、上手く回らなくなる。 このくらいなら、こいつを試す意味でも使ってしまって惜しくは ない。 というか、金貨がン十枚入ってる財布って、かなり重いから持ち たくないんだよな。 カフなんか年中腰にぶら下げてたせいで腰痛になってたし。 ﹁フゥム⋮⋮﹂ ﹁さっさと心当たりを探せ。わりと本気で急いでるんだ。俺は、そ の辺見まわって、出来そうな奴を探してみる﹂ ﹁了解した﹂ ギョームは頷いた。 ﹁おい、貴様ら。これより俺たちは料理人を探す⋮⋮﹂ 訓示を垂れ始めたのを後ろに聞きながら、俺は鳥の向きを返して 歩を進め始めた。 1925 チラチラと避難民の持ち物を見ながら、歩いてゆく。 食は足りていないわけではないようで、飢餓で頬がこけている、 シビャクのスラムにいるようなのは少ない。 大鍋でも抱えていてくれりゃあ、わかりやすいんだけどな。 うー⋮⋮ん。 よく見ると、子連れも結構いるな。 あかんぼ背負ってるのもいる。 こればっかりは、荷物だから置いていけ、とは言えない。 幼児用に一つ馬車を割く必要があるかな。 飯が消費されて減るごとに馬車は空いていくわけだから、だんだ んと徒歩がきつくなった人々を乗せるゆとりが出てくるかもしれな い。 ﹁⋮⋮ん?﹂ 俺の目に、一人の人間が目に止まった。 そいつは、頭から肩にかけて黒に近い灰色の布を被っており、そ れは大して珍しくはないのだが、その布がやけに質がよかった。 縁にレースがついていて、織りも良い。 細い糸を手間暇かけて織らなければ、こうはならない。 逃げ遅れた魔女家の者か? と思いつつも、近寄って顔を見ようとする。 まさか、暗殺者ではないよな。 1926 近くに行き、つぶさに観察すると、姿形は女のようには見えなか った。 服も男物だし、かなりガタイのいい。 ﹁おい。そこの者、布を取れ﹂ 俺は、片手杖を柄に持ち変えながら言った。 ﹁ッ⋮⋮⋮﹂ ﹁そこの、上等の布を頭からかぶったお前だ。貴様しかおらんぞ﹂ みじろ すると、布の中で身動ぎした。 右腕が抜けて、左の腰に行ったのが、シルエットから分かる。 武器を抜くつもりだ。 次に右腕が動いた時、俺はわかっていた腕の動きに杖を合わせた。 鞘から白刃が抜き放たれた次の瞬間には、腕が伸びる前に、ステ ッキの持ち手がしたたかに手首を打ち据えていた。 衝撃で手放された短刀が、宙に踊った。 めきっ、という手応えは、やはり女の細腕を撃ったような感触で はない。 返す刀で、頭を強く叩くと、布がはがれた。 やはりというか、鍛えた体をした男だ。 というか、見覚えがある。 1927 ﹁刃物を手放したぞ! 取り押さえろ!﹂ 俺がそう叫ぶと、周りにいた男の衆が、少し遅れて覆いかぶさっ た。 たちまちのうちに捕縛され、組み伏せられる。 ﹁貴様⋮⋮ジャコ・ヨダだな﹂ もうずっと昔のように思えるが、俺が最初にリフォルムへ来た時、 星屑を寄越せだのとわけのわからんことを言ってきた阿呆だ。 こいつは近衛のはずなので、決戦を前にして離任を許される役柄 ではない。 つまりは、脱走兵の可能性が極めて高い。 ひと この野郎。 あんだけ他人に偉そうなことをほざいておきながら、いざ戦争っ て時には逃げんのか。 ブチ殺してやろうか。 いや⋮⋮わざわざこの場所を血で汚して、民を怯えさせることも ない⋮⋮。 ﹁何か申し開きはあるのか﹂ もし、王家から特別の許しが出ていたらコトなので、一応聞いて みた。 ﹁貴様に俺を捕縛する権利はないッ! 直ちに縄を解けッ!﹂ 1928 申し開きはないようだ。 ﹁口を塞いで、黙らせろ﹂ 俺がそう言うと、周りの男たちがジャコの口に布を詰め込んだ。 ﹁こいつは、近衛軍の脱走兵だ。城兵に引き渡さなければならん。 誰でもいい、呼んできてくれ﹂ ジャコは強く首を振り、口から布を吐き出した。 ﹁劣勢となれば友邦を見捨てる臆病者共に、俺を裁く権利があるも のかッ!﹂ こいつ、なんらかの精神病なんだろうか。 裁くのは俺じゃないんだけど。 すぐに、再び口の中に布が押し入れられた。 ﹁気が向くなら、死なない程度に殴ってもいいぞ﹂ 俺がそう言うと、やはり脱走兵には憎しみ倍増なのか、男たちは ジャコをボコリ始めた。 脱走兵は死刑と決っているので、こいつの命もここまでだろう。 待っているうちに、近場にいた城兵が連れられてきた。 ﹁見ての通り、ドサクサ紛れに脱走を企てた痴れ者だ。役職は知ら んが、近衛の騎士で、ジャコ・ヨダという﹂ ﹁あぁ⋮⋮分かりました。連行いたします﹂ ﹁頼むぞ﹂ 1929 ジャコは、憎々しげにこちらを見ながら、城兵に引っ立てられて 行った。 1930 第127話 出発 市門の入り口には、荷物が山になって積まれていた。 そこから先には、もう人は殆ど残っていない。 次々と荷物を手放し、最小限の仕事道具や貴重品だけ持ってリフ ォルムを離れた人々は、もう既に何割かは出発している。 炊き出しの食事を食べ終え、歩けるものからグループを作り、小 隊に護衛されながら歩みを初めた最初の人々は、既に視界から消え てしまっていた。 臨時に造設した天幕からは、今も煙が立っている。 *** ﹁お連れしました﹂ 午後も三時頃になり、いよいよ千人の殆どが出発したという頃に なって、ようやく王剣⋮⋮じゃなかった、夜衣の人が、王女テルル を連れてきた。 まあ⋮⋮しかし、ここで叱責の類をするのも無粋だろう。 夜衣の人は、平服を着ており、テルルのほうは、厚ぼったいフー ドつきのローブを着ていた。 1931 まあ、確かに地味な服装ではあるが⋮⋮。 一応、周囲を確認する。 会話を聞かれるような範囲には、誰も居なかった。 ﹁それでは、お預かりする﹂ ﹁よろしくお願い致します﹂ 夜衣の女が深々と頭を下げた。 テルルのほうは、なにもしないで突っ立っている。 ﹁えっ⋮⋮あぁ、よろしく⋮⋮﹂ 少し遅れて、ぺこりと頭を下げた。 憔悴している様子だ。 頭を戻す瞬間、金色の髪が、ちらとフードからのぞいた。 ﹁黒く染める、という話では﹂ 思わずそう言うと、テルルは怯えるように一歩引いて、髪を隠す ように手でかばった。 なんだなんだ。 ﹁⋮⋮⋮﹂ 夜衣の女のほうは、難しげな顔をしているだけだった。 まあ、構わないんだけどな。 テルルが脱出したことが知れて、困るのはリフォルムの連中なわ 1932 けだし。 というか、もう城も出ちゃってるしな。 ﹁こちらとしては、構いませんが⋮⋮。ただ、避難民の中には、快 く思われない方もいるでしょう。できれば、フードに隠れるよう、 短く切ることをお勧めします﹂ 一応、そう言うと、テルルのほうは﹁信じられない﹂とでも言い たげな顔で、俺を睨んできた。 あ、敵認定されたな。 なんというか、猫の尻尾を踏んづけた感じだ。 しばらく懐いては来なさそうだ。 それにしても、なんというか、幼稚な感じだな。 騎士院の初年度の頃に戻ったような、懐かしい感覚さえ覚える。 ﹁まあ、そのままでも構いませんよ﹂ 俺は考えるのをやめた。 無理やり髪切っても問題が起こりそうだしな⋮⋮。 それで、旅程中に嫌な思いをしたとしても、知ったことではない し。 ﹁避難民の中に、ヒナミ・ウェールツという者がいるはずです。そ の者は世話係の経験があるので、できれば身の回りの世話をさせて 頂ければと存じます﹂ なぬ。 1933 じゃあ、なんでそのヒナミとかいうのを、最初から同道させなか ったのだ。 ⋮⋮情報を秘匿するのに都合が良かったからか? 最初から付き従わせると、あらかじめその娘に事情を説明する形 になってしまうので、単なる世話係のそいつは、口を滑らせて情報 を漏洩してしまうかもしれない。 なので、一度は暇を出して避難民に紛れ込ませ、リフォルムを出 た後に、まあ再雇用みたいな形にした、って感じか。 面倒だな。 気苦労の多い仕事だ。 その割に、髪を染めるという最もクリティカルなところは、本人 が拒絶して実行相成らなかったわけだ。 ﹁お気苦労、お察しします﹂ 思わず、ぺこりと頭を下げた。 ﹁いえ⋮⋮﹂ ﹁もし、生き残ることがあれば、ホウ家をお訪ね頂ければ、いつで も重用いたしますよ﹂ ﹁⋮⋮もし、そのような事があったとしたら、やはりテルル様のと ころで、お雇いいただくと思います﹂ ああ、やっぱり骨の髄までアレなんだな。 それがこの人らの生き方なのだろう。 ﹁無粋でしたね。それでは、テルル様はお預かりします﹂ ﹁はい、改めて、よろしくお願い致します﹂ 1934 夜衣の女は、テルルのほうに向き直った。 しゃがみ、テルルの両手を包むように握った。 ﹁テルル様。どうか危難を避け、つつがなくお暮らしください。ご 多幸をお祈りしております﹂ ﹁うん⋮⋮ヤーニャも、元気で。死なないで⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮はい﹂ ヤーニャと呼ばれた女は、すっと立ち上がった。 ﹁それでは﹂ ぺこりと改めて頭を下げると、踵を返して歩いて行った。 テルルは、しばらくそれを見送っていた。 ﹁テルル様。お別れはよろしいですか﹂ 数分して、声をかけてみると、 ﹁⋮⋮はい﹂ という声が帰ってきた。 ﹁それでは、どうぞこちらへお越しください﹂ 手を差し伸べてみたが、テルルは何かに怯えたように、俺の手を 取らなかった。 ま、いいか。 所在なく手を戻す。 ﹁では、ついて来てください﹂ 1935 *** ﹁ドッラ﹂ はぁ、憂鬱だな。 ﹁ユーリ⋮⋮じゃなかった。隊長﹂ ドッラは、充てがわれた十人の手下を従え、荷物の整理をしてい た。 今は、干し草をギュウギュウに縛った馬の飼料を大きな馬車に放 り込んでいる。 ﹁ちょっと、こっちにこい﹂ ﹁分かった﹂ ポイ、と干し草を投げ入れると、 ﹁隊長と少し話をしてくる! お前たちは作業を続けるように!﹂ 大声で指示を飛ばし、こちらに向き直った。 ﹁立派な指揮官ぶりじゃないか﹂ ﹁まあな⋮⋮。って、そちらの方は?﹂ ﹁後で話す⋮⋮少し、ここでお待ちください﹂ テルルに言うと、テルルは少し頷いて、馬車の横あたりで立ち尽 くす構えを見せた。 1936 まあ、いいか。 そのまま、少し離れたところに移動した。 ﹁あのな、ちょっと言いにくいんだが﹂ と、俺が言おうとすると、ドッラは手で俺の口を制した。 ﹁先に一言言わせてくれ﹂ なんだ? ﹁ユーリ。殿下を連れて戻ってきてくれて、ありがとう﹂ うわ。 ﹁俺はもう、居てもたっても居られなくてな。あんな思いをしたの は、生まれて初めてだった﹂ うーわー。 ﹁待て待て。あのな⋮⋮、お前には、言おうか言うまいか迷ったん だがな﹂ この流れで、﹁俺は本当の気持ちに気づいた。殿下に愛を告白し ようと思う﹂などと言い出されたら、気まずいどころではない。 ﹁なんだ?﹂ ﹁キャロルとのことだが⋮⋮男と女の関係になってしまった﹂ ﹁は⋮⋮⋮﹂ 1937 ドッラの笑顔が凍った。 それはもう、ピタリと凍った。 ﹁すまん﹂ 俺は深々と頭を下げた。 そうする必要があると思った。 ﹁なんで謝る。貴様、まさか無理やり⋮⋮ッ﹂ ﹁それは違う﹂ ﹁⋮⋮クッ。そう、か﹂ ﹁殴ってくれていいぞ﹂ ﹁⋮⋮いや﹂ ドッラは魂が抜けたような顔をしていた。 可哀想だ。 ﹁殿下を、幸せにしてやってくれ﹂ なんか、父親みたいなことを言い始めた。 だが、それも約束できないんだよな。 キャロルの幸福について責任を持つというのは、つまりはシヤル タ王国の安堵について責任を持つことに直結するし、二、三百年前 ならともかく、現在においては、それはとてつもない重責になる。 俺は神ではないので、それを﹁責任をもってやる﹂などとは言え ない。 1938 国が滅びそうになったら、キャロルを気絶させてでも運び出し、 船に乗せてどっかへ逃げる、程度のことしかできない。 が、それをここでドッラに言っても、意味のないことだろう。 ﹁⋮⋮あぁ﹂ と、曖昧に返事を濁すにとどめた。 ﹁それで、話はそれで終わりか﹂ ﹁いや、お前に頼みたい仕事がある。だが、辛いようなら他を当た る﹂ ﹁舐めるな⋮⋮仕事だろ﹂ どうも、癇に障ったようだ。 私事を仕事に交えない、というのは立派な社会人の心得だが、人 を機械にする理屈でもある。 俺としては、ドッラがどれほどキャロルを想っていたのか知って いる分、傷つき、それが後を引いても、まったく責める気にはなら ないのだが。 ﹁重要な任務だ。気が抜けた状態が長く続くなら、困る﹂ ﹁大丈夫だ﹂ ﹁なら、言うぞ。俺が連れてきたあれは、キルヒナの王女だ。シヤ ルタまでお連れする必要がある。お前に任せたいのは、姫と宝の入 った馬車を守る仕事だ﹂ と言うと、 1939 ﹁なんだと⋮⋮?﹂ ドッラはつぶやき、眉間にしわを寄せ、怒りの形相を作った。 ﹁お前ッ!﹂ そう言うなり、いきなり俺の胸ぐらを掴む。 ぐいっと、体が浮き上がるほど力をかけられた。 鬼の形相でキレてる。 なんだなんだ。 なんでキレてんだ。 ﹁どういうつもりだ⋮⋮ッ! 罪滅ぼしのつもりかッ!﹂ ⋮⋮は? なに言ってんだこいつ。 ⋮⋮あ∼。 考えてみりゃ、あれも金髪だな。 しかし、フードで念入りに隠しているというのに、よく金髪と分 かったものだ。 性癖の為せる技なのだろうか。 青い目で分かったのかな。 たわ ﹁なにを戯けたことを言ってやがる。手を離せ。あまり寝言を抜か しやがると、殺すぞ﹂ 1940 俺は腰に差してあった短刀の柄を掴んでいた。 襟を掴まれているので、投げや崩しに繋げられたら困るが、こう しておけば抜刀で対応できる。 動いた瞬間、襟を掴んでいる脇の下に短刀を滑らせ、急所をえぐ ればよい。 ﹁⋮⋮ッ﹂ が、ドッラは俺の襟首から手を離した。 浮きかけた足が地面につく。 ﹁この、糞ボケ野郎。俺が、同情か何かで重要な任務をまかす相手 を決めると思うか﹂ 短刀から手を離し、俺は乱れた服をはたいた。 こいつも、相変わらず頭に血が上りやすいな。 これで人望はあるらしいんだよな。 勇猛、勇敢こそが騎士の美徳、みたいな連中に。 ﹁じゃあ、どうして俺を選んだ﹂ ﹁腕っ節がいいからに決まってるだろうが。死んででも、姫が入っ た馬車を守り通せ﹂ こいつは馬鹿だから、そういった愚直な任務はキッチリこなすは ずだ。 あんなにキレたところを見ると、元気がなくなってるようでもな いしな。 ﹁お前に自信がないなら、他を当たる﹂ 1941 ﹁やる﹂ やるのか。 ﹁そうか。じゃあ、リャオに話を通しておくから、とりあえずオヒ メサマに挨拶でもしておけ﹂ *** ﹁リャオ﹂ 騎上から声をかけると、リャオはこちらを向いた。 ﹁おう。ユーリ殿。もうそろそろ最後の連中が出発するぞ﹂ 上から話すのもなんなので、俺はカケドリから降りた。 ﹁そうか。それでな、ドッラの隊を例の専任にして警護させたい﹂ ﹁ン⋮⋮そうか﹂ ﹁一番いい馬車を見繕って、先頭に立てよう﹂ ﹁⋮⋮そうだな。それがいい﹂ リャオは頷いた。 先頭に立てよう、というのは、つまりは真っ先に逃げられるよう にしよう、ということだ。 後ろと前に馬車があったら、逃げることはできない。 ﹁俺が持ってきた火薬用の馬車があっただろ。あれがいいな﹂ 1942 ﹁ああ、あの珍妙な装置がついたやつか﹂ 珍妙な装置、というのは、サスペンションのことだ。 あれは、丈夫な木の板バネで懸架してある。 乗り心地はいいだろう。 一応はお姫様だしな。 ﹁だが、あれは他の物を載せてもう出てしまったぞ﹂ ﹁そうか。そんじゃ、ドッラは馬車一台と先に行かせて構わないか ?﹂ ﹁ああ。そうしてくれていい。俺たちもすぐに出るしな﹂ ドッラはちょうど、干し草を馬車に積んでいた。 あの上に乗っけておけば、座り心地もよいだろう。 1943 第127話 出発︵後書き︶ これにて九章は終わりです。 たぶん、十章はそのうちにはお届けできると思います。 1944 第128話 とある脱走兵の吐露* アンジェリカがその報を聞いたのは、六月二十日の朝方のことだ った。 その時、アンジェはキルヒナ王国の首都リフォルムの攻囲戦に参 加し、相も変わらず憲兵の真似事をさせられていた。 リフォルムに斥候がたどり着いてより五日。 城壁を遠巻きに囲んだ軍は、鼠一匹逃さぬ攻囲を完成させていた が、まだ攻城を始めてはいなかった。 かなめ アンジェは、岩山要塞を攻略の際、その要となった攻城砲を献策 した功績によって、十字軍内で評価が高まっていたが、ティレルメ 内部での待遇は未だに変わらない。 待遇に納得いかぬものを覚えつつも、アンジェは己の陣幕で考え を巡らせていた。 伝令の役目を帯びた配下の兵が来たのは、そんな時だった。 ﹁脱走兵だと?﹂ ﹁はい﹂ 先程まで警邏の任に就いていた兵は、慎ましやかに答えた。 ﹁それがどうした。余程の高官なのか﹂ ﹁いえ、そうではありませんが⋮⋮情報を売りたいと、妙なことを 申しているようで﹂ 1945 情報を売りたい? ﹁また、とんちんかんな奴だな﹂ 情報など、売られずとも聞き出す方法は幾らでもある。 人の形でなくなるまで拷問しても、こちらは痛くも痒くもないし、 誰に罰せられるわけでもない。 そもそもが、売るだの買うだのという関係が成り立つ状態ではな い、とも言える。 ﹁まあ、会ってみるか﹂ *** その男は、アンジェが出向くまでもなく、天幕の前まで引っ立て られて来ていた。 アンジェは、その男の目を見る。 恐怖、だろうか。 いや、その中に、媚びへつらおうとする色も見える。 しかし、居座り様は堂々としている。 それを支えているのは、根拠の無い自信だろう。 シャン人特有の端正な顔立ちはしているが、まったく魅力を感じ られない。 1946 アンジェは、ひと目でこの男を嫌いになった。 ﹁言葉が間違っていたら、訂正をしてくれ﹂ 連れて来られていた翻訳官に言う。 茶色のローブを着た長耳で、顔には刺青が彫ってあった。 これによって、奴隷などと間違えられ、連れて行かれることがな くなる。 もっと言えば、この者はアンジェにシャン語を教えた教師でもあ った。 ﹁はい。そのようにします﹂ そう言った声に、アンジェは頷いて返す。 そして、男に向き直った。 ﹁情報を売りたいというのは、お前のことか?﹂ アンジェはシャン語で尋ねた。 ﹁これは話が早い。その通りだ﹂ 偉そうな物言いだった。 やはり、取引が成立すると思っているようだ。 ﹁ふむ。対価はなにを要求する?﹂ ﹁貴様⋮⋮いや、貴君らの圏域での自由な生活と、十分な年金の給 付を約束してもらいたい﹂ 1947 馬鹿か。 とアンジェは思い、鼻で笑うのをかろうじて堪えた。 有史以来、奴隷として買われ、有能を武器に国王の右腕まで上り 詰めたシャン人もいるが、彼でさえで自由な生活などありえなかっ たのだ。 それに加えて、年金の給付とは、恐れ入る。 子どものような世界観だ。 けいちょう ﹁情報の内容によるな。内容の軽重もわからぬうちに、そのような 待遇を確約できるわけはあるまい﹂ どの道、この男の待遇を保障することは無理なので、アンジェは 嘘をつくことになる。 アンジェにとっては、たとえ相手がいけ好かない長耳であっても、 嘘をつくのは気が進まないことだった。 だが、喋らなければ拷問を受け、凄惨な死が待っている。 それと比べれば、嘘に騙されて陣地の外に解放されるほうが、よ ほど穏当だろう。 ﹁それもそうかも知れぬ。情報とは、金髪のシャン人と、貴君らが 取り逃がした竜殺しの男のことだ﹂ 男は、駆け引きをする様子もなく、あっさりと吐いた。 ﹁ふむ⋮⋮﹂ その話は、アンジェの興味を一気に引いた。 1948 ただし、その話をここで聞くわけにはいかない、とも思った。 たまたま担当区域の警邏中に引っかかったものの、アンジェ自身 は十字軍の中では重鎮でもなんでもない。 嘘の口約束をし、話を聞き出したところで、それを聞いたのが自 分だけであれば、信じてもらえるかどうか疑わしい。 また、嘘で聞き出してしまえば、一度喋った後は、口をつぐむ可 能性がある。 書面で待遇を確約してからだ、などとなってしまえば、面倒だ。 できれば、もう少し立場が上の、十字軍の中でも重鎮とされる人 物と共に話を聞くのが好ましかった。 *** というわけで、ジャコ・ヨダと名乗るその男は、ただちに教皇領 の天幕へ護送された。 アンジェが、自国の兄帝のところに連れて行かなかったのは、自 分を最も評価してくれている男が、薄気味の悪い教皇領の長である。 という悲しい事情があった。 兄帝アルフレッドのところへ連れて行っても、相手にされず、握 り潰される可能性が高かったのだ。 ﹁失礼致します﹂ アンジェが辿り着いた時、挺身騎士団大司馬、エピタフ・パラッ 1949 ツォは、簡易聖堂として作られた天幕で祈りを捧げていた。 ﹁おや、アンジェリカ殿。いかがされましたか?﹂ エピタフは、跪いた祈りの姿勢から、立ち上がってこちらを向い た。 ﹁興味深いシャン人の投降者が現れたので、お連れしたのですが⋮ ⋮祈りを邪魔してしまいましたか﹂ ﹁いえ、構いませんよ﹂ ﹁そうですか、安心いたしました。それで⋮⋮どうも、その投降者 が金髪のシャン人の行方を知っている、というようなことを言って おりましたので﹂ ﹁ほう⋮⋮それは興味深いですな﹂ ﹁はい。なので、お連れしました﹂ ﹁それでは、さっそく尋問をしましょう﹂ 尋問、というのは、この場合は拷問を意味するのだろう。 ﹁いえ、それをしなくとも、待遇と引き換えに話すと言ってきてい ます﹂ ﹁待遇⋮⋮?﹂ ﹁我が種の版図での自由と、年金が欲しいと﹂ ﹁プッ﹂ エピタフは、吹き出すように笑った。 ﹁ふふっフフ⋮⋮それは面白い冗談ですね。悪魔ごときが、自由な どと。何を勘違いしているのか⋮⋮﹂ 1950 心底おかしい冗談を聞いたように、エピタフは楽しげだった。 はたえ ﹁ですが、拷問より簡単で、正確でありましょう。嘘一つで済むの であれば﹂ とえ 拷問というのは、人に苦痛を与えながら、十重にも二十重にも、 知っていることを話せ、と言う。 拷問を受ける側は、痛みと苦しみから逃れようと、有る事無い事 を話す。 そういって出てきた情報は、間違っていることが多い。 拷問者は、その者が情報を持っていながら話さないのか、持って いないので話せないのか、判断できかねるからだ。 最初から何も知らない者を拷問し、その結果、痛み逃れで喋られ た虚偽の情報を得てしまい、それに踊らされてしまう。ということ は、良くある。 暗号の解読法など、それが真であるのかすぐに分かる性質のもの であればよいが、軍の行動方針などの場合は、すぐに分かるもので はない。 ﹁確かに、その通りです﹂ ﹁では、外に待たせてありますので﹂ ﹁行きましょう﹂ アンジェとエピタフは、揃って天幕を出た。 陣幕を出ると、後ろ手に縄をうたれた男と、アンジェの兵が二名、 そして、翻訳官がいた。 1951 翻訳官は、所在なさ気に天幕の骨に左手を置いて体重を半分預け ていたが、こちらに気づくと、すぐに背を伸ばして姿勢を良くした。 ﹁そこの者は、翻訳官ですか?﹂ ﹁そうです。私が連れてきました﹂ 翻訳官の刺青は、この世界では共通のものだ。 誰にとっても違和感を感じぬほど、完璧に両言語に習熟した証で あって、奴隷の証であると同時に、一種の資格証明でもある。 奴隷狩りのような連中が、この刺青をした者を襲って市で売ろう ものなら、知らなかったでは済まされず、厳重な処罰を受けること になる。 こういった翻訳官の所有者とは、基本的には軍関係者や奴隷商人 と決まっているからだ。 ﹁あなた、腕を出しなさい﹂ ﹁⋮⋮? はい、かしこまりました﹂ 翻訳官は、右腕を出した。 ﹁そちらではない。左腕です﹂ ﹁はい﹂ 翻訳官は右腕をひっこめ、すぐに左腕を出した。 ﹁神のおわす聖なる神殿に手をかけるとは、悪魔の分際で許しがた い蛮行です。大司馬の名において、聖断を下します﹂ エピタフは、腰に佩いたサーベルに手をかけた。 1952 アンジェは、何をするつもりか、すぐに察した。 腕を斬り落とすつもりだ。 怒っているとすら思わなかったので、アンジェは驚いて声をあげ た。 ﹁エピタフ殿ッ! そちらの者は私が連れてきた翻訳官です。どう かご容赦を﹂ ﹁アンジェリカ殿⋮⋮あなたはお優しい方だ。ですが、本来であれ ば神殿を穢した悪魔には、死を与えるのが妥当なのですよ﹂ エピタフは眉間に皺を寄せている。 やはり、神殿⋮⋮といっても、普通の天幕に形ながらの祭壇が設 けられているだけだが⋮⋮に手を置いていたのが気に障ったらしい。 この男は、どうにも読めない。 のっと ﹁無知に罪なしの教えに則れば、この私にも、天幕を神殿と予め教 えておかなかった過失があります。私に免じて、どうか、この場は お納めくださいませんか﹂ 無知に罪なし、というのは、知らぬがゆえに果実を盗み食ってし まった子どもの罪を、イイススが赦したという、ノク書のエピソー ドに由来する。 この天幕の外観には神殿を示す表示があったわけではなく、アン ジェも中に入って初めて神殿と知った。 なので、翻訳官にとっては果実を盗み食いしたどころか、石を触 っていたら果実と言われた、というレベルの話だ。 1953 さすがにこれで腕を失くすのは気の毒すぎる。 ﹁ふむ⋮⋮﹂ ﹁それに、この者を斬ったら、新しい翻訳官を連れてこなければな らなくなります﹂ 翻訳官を見る。 事情を察し、地べたに這いつくばって許しを乞うていた。 それでいい。 ﹁⋮⋮アンジェリカ殿に免じて、この場は許しましょう﹂ 翻訳官の姿を見て、少しは溜飲が下がったのか、エピタフは言っ た。 くだん ﹁ありがとうございます﹂ ﹁それで、件の悪魔というのは、これですか﹂ エピタフは、男を見下して言った。 ジャコ・ヨダは、事情がさっぱりと分からぬようで、混乱した様 子で、腕を縛られたまま立っている。 ﹁はい﹂ ﹁翻訳しなさい﹂ エピタフの教皇領軍にも翻訳官は居るのだろうが、この場ではア ンジェの翻訳官を使うようだ。 ﹁もう、立ってよい﹂ アンジェが命令すると、翻訳官は恐る恐る、ゆっくりと立ち上が 1954 った。 ﹁要求を述べよ﹂ そうエピタフが言うと、すぐに翻訳官がシャン語に直し、ジャコ・ ヨダに伝えた。 ﹁さっき述べたとおり、貴君らの圏域での自由な生活と、十分な年 金の給付が条件だ﹂ その言葉を、翻訳官は今度はクラ語に直し、エピタフに伝えた。 ﹁全て叶え、貴殿に貴族としての待遇を与えよう。知り得る限りの 情報を話すのだ﹂ ﹁なるほど。約束するのだな。では話そう﹂ *** ﹁⋮⋮そして、連中は六日前にここを出発した。北方に陣取る貴殿 らの軍を迂回して帰るには、海際の街道を登るのが正解だろう﹂ 男が喋り始めた情報には、予想以上に重大な内容がひしめいてい た。 まさか、竜を墜としたのが名に聞こえるホウ家の嫡男で、そこに 居たのが金髪の姫であったとは、誰が想像するだろう。 逃がした魚は、唖然とするほど大きかった。 1955 ﹁これは噂だが、この国の姫も同時に脱出したらしい﹂ ﹁ほう⋮⋮テルル姫のことか﹂ エピタフが訊ねた。 アンジェは、エピタフがこの国の王族の子弟の名を暗記していた ことに、軽い驚きを覚えた。 ﹁その通り。貴殿らが大好きな、金髪の姫君だ﹂ジャコ・ヨダは厭 らしく口端を歪ませた。﹁実のところ、私が脱出したのも、それが 原因でな。いちはやく城から逃げ出す王族などには、従っていられ んと言うわけだ﹂ 聞いてもいないことまで、よくペラペラと喋る口だった。 ﹁では、次に市内の様子と、貴殿がどうやって逃げてきたのかを聞 かせてもらおう﹂ アンジェが言う。 形式上、シャン語を喋らないほうが良いと思ったので、クラ語の まま話した。 ある意味、そちらのほうが重要な情報とも言える。 これからの攻城戦に役立つ情報が得られるだろうからだ。 翻訳官が翻訳をする。 ﹁それは⋮⋮分からぬ﹂ ﹁なぜだ?﹂ 1956 ﹁闇夜にまぎれて、人に会わぬよう逃げてきたからだ。城壁に、逃 げた時のロープは垂れ下がっているだろうが⋮⋮今頃は回収されて いるかもしれん﹂ なるほど。 ここまで口が滑らかなことを考えると、内部の者達を裏切るまい と、情報を出し渋っているわけではないだろう。 つまり、城内の防衛に従事していた人間が、自由意志で逃げてき たわけではない。 恐らくは、牢に繋がれていたのだ。とアンジェは考えた。 戦のどさくさに紛れて脱獄し、あとは逃げるのに精一杯だったの だろう。 人目をはばかって逃げ続けていた者であれば、他人と会話する機 会もあるまいし、大通りや城門の様子をつぶさに観察する機会もな かったはずだ。 つまりは城下の情況などジャコ・ヨダには分からないし、従って どこが弱点かも知り得ない。 ・ ・ ﹁アンジェリカ殿、まだこれに質問はございますか?﹂ ﹁いいえ﹂ 聞きたいことは、大体聞いた。 ﹁では﹂ エピタフは、剣の柄に手をかけると、おもむろに男の首を撫で切 1957 った。 ﹁ングッ⋮⋮﹂ 男は、信じられない、と言った目でエピタフを見る。 次に、アンジェを同じ目で見た。 言葉にしようにも、気管は鮮血で満たされ、言葉にはならないの だろう。 六割方切断された首が、両手のひらで抑えられる。 が、力が入らないようで、あまり意味はなかった。 対して、顔の表情は豊かだった。 憎しみの限りを尽くした目でアンジェを見ていた。 エピタフは、血飛沫がかからぬよう、ジャコ・ヨダの胸のあたり を軽く蹴り、蹴倒した。 アンジェを見る目は天を見る目に変わり、いくらもしないうちに 彼は動かなくなった。 ﹁⋮⋮⋮﹂ 貴族にしてやるという約束は? などとエピタフに尋ねるつもり はなかった。 あまりに馬鹿げた質問だからだ。 こんな男が殺されたところで、アンジェはなんとも思わないが、 考えてみればエピタフの元に連れてきた時点で、開放するという選 択肢は取れなかったのかもしれない。 1958 アンジェは、少し責任を感じ、病んだような気分になった。 1959 第129話 十字軍の大軍議* 十字軍軍議の場には、各国の代表者が集まってきていた。 十字軍に派遣されてくるのは、王はさすがに少ないが、王弟、太 子のような人材は当たりまえに居る。 これほどの貴人が一堂に会するイベントは、他にはほとんどない。 それこそ、教皇葬儀の場くらいだろうか。 ただ、ユーフォス連邦軍だけは、ここには居なかった。 彼らは、北方の都市の抑えに出ており、都市から出た兵が包囲陣 の背中を突かぬよう見張っている。 その軍議の場で、一通りの定例報告が済むと、エピタフ・パラッ ツォは一人手を挙げた。 ﹁エピタフ殿、どうぞ話されよ﹂ 最も上座にいる兄帝アルフレッドが言った。 エピタフは、アルフレッドが座っている長机の端から見て、すぐ 右にいる。 これは次席であった。 ﹁先ほど、アンジェリカ殿が一匹の悪魔を捕らえ、私と共に尋問し ましたところ、重大な情報を聞き出すことができました。つきまし ては、アンジェリカ殿から説明していただきます﹂ 名指しされたので、アンジェは起立した。 1960 ドラゴンスレイヤー ﹁それでは、説明させていただきます。まず、最初に⋮⋮、前々か ら話にのぼり、ついに捉えること叶わなかった竜殺しの男ですが、 彼の素性は⋮⋮アルフレッド王の父、そしてもちろん、私の父であ る、レーニツヒト・サクラメンタ先王を殺害した人物の、甥に当た る人物と判明しました﹂ それを言うと、会議の雰囲気が引き締まったのを感じた。 ﹁彼は、シヤルタ王国南部にある、ホウ家領と呼ばれる地域を継承 する立場にある者です。この地域は、シヤルタ王国においては最も 肥沃であり、そこを統治するホウ家は王国内でもかなり⋮⋮いえ、 最も強力な大貴族である、と言っても差し支えないでしょう。また、 彼と同道していたのは、シヤルタ王家のキャロル姫であることも判 明しました﹂ 諸侯にざわめきが走った。 にわかには信じられない、というより、場違いな妄言に戸惑って いる、という雰囲気だ。 ﹁質問を?﹂ ユニオン 手を挙げたのは、ガリラヤ連合の代表者、フレッツ・ロニーとい う者だった。 ナイト ガリラヤ出だけあって、彼は平民の出身で、勲章は数あれど、爵 位は騎士という名誉称号があるだけだ。 なので、末席に近い場所にいる。 しかし、目には理知的な光があった。 1961 真に優秀な商人が、王族に媚びる合間合間に見せる、物事を見通 す目だ。 ﹁どうぞ﹂ ﹁アンジェリカ殿は、この場にいる誰よりもシヤルタ王国の国情に 詳しいと存じます。なぜ、一国の姫君が最前線にあったのですか?﹂ 当然の疑問であった。 一国の姫君といえば、普通は深窓の令嬢のように育つものだ。 いくら国情に通じているといっても、アンジェとてシヤルタ王室 やキルヒナ王室の、一介の姫一人ひとりの性格まで事細かに調べこ んでいるわけではない。 わざわざ前線に出てきた理屈は、正直なところアンジェにも説明 できかねた。 ﹁わかりません、が⋮⋮私と同じような性分なのかもしれませんね﹂ 事情は違えど、同じ姫君であるアンジェリカも、現実に戦場にで ている。 冗談交じりに言うと、会議の場に伝播するように、さざめきのよ うな小さな笑いが広がった。 ﹁なるほど、分かりました﹂ フレッツ・ロニーはそう言って、机の上に乗せていた手をひっこ め、椅子の背もたれに深く体を預けた。 その仕草は一歩引くような印象を見せ、質問はもうない、という 言葉を、無言のうちに伝えてきた。 1962 続く質問がないか、確かめるように一拍置くと、 ﹁続けましょう。その者が言うには、彼らは⋮⋮六日ほど前、我ら が到着する直前にリフォルムに到着し、翌日、キルヒナ王国の姫君 と市民ら千人、そして兵が三百名という陣容で、シヤルタに向けて 出発したそうです﹂ そう言うと、会議の雰囲気はスッと静まった。 悪い話だったからだ。 誰であれ、そのような存在があれば追撃をしたい。 が、六日も前に逃げた、というのは、かなり厳しい条件であった。 一日二日であれば、馬が疲れる前に一息で追いつけるが、六日も 空けられてしまうと、こちらも本格的な補給を組む必要がある。 追いついても勝てないのでは仕方がないので、三百を追うとすれ ば、こちらは六百は欲しい。 六百の数の騎馬隊を、本格的な補給込みで用意するとなれば、こ れは結構な手間である。 また、それを実施したとしても、捕捉できる保障があるわけでは ない。 せっかくの機会ではあったが、今回は残念だった。ということだ。 そういった雰囲気が広がっていた。 ﹁アンジェリカ殿、ありがとう。座ってください﹂ エピタフが口を挟んだので、アンジェはその場に着席した。 1963 ﹁我ら教皇領は、彼らを追滅したく思います﹂ エピタフがそう言うと、会議の場がざわめいた。 あからさまに眉をしかめた者もいる。 アンジェにとっても、エピタフの発言は初耳であった。 ﹁ただし、連れて行くのは精鋭千名。彼らの兵である三百名という のは、城兵の中から最も若い者を選んだそうです。我ら挺身騎士団 精鋭千名であれば、容易に蹴散らせましょう﹂ エピタフは威勢のいいことを言った。 だが、そこは確かにエピタフの言うとおりであった。 若い者はやはり練度に劣っている場合が多いし、兵というのは数 を集めれば、その日から戦えるようになるわけではない。 集めて次の日に連れて行ったのであれば、農民一揆の民兵より脆 弱かもしれない。 エピタフ麾下の挺身騎士団というのは、教皇領の一般兵とは違い、 教皇直下の精鋭部隊である。 在りし日の神衛帝国の伝統を受け継ぎ、練度、士気ともに申し分 のない兵が揃っている。 ジャコ・ヨダの話が本当であれば、万全の状態での激突であれば、 千どころか百ほどでも戦えるかもしれなかった。 が、問題はそれほど単純ではない。 1964 問題なのは、どこまで追うのか、という話だ。 相手の速度は未知数ではあるが、追うということはこの場合、相 手の支配下に食い込むということを意味する。 敗勢の相手とはいえ、それは一般常識として危険なことだ。 たとえ会戦で蹴散らした敗残の軍といっても、敵の軍勢はどこで 再結成をしているか知れたものではない。 どれだけの精鋭であろうが、突出して侵攻した場所で敵の大集団 と激突すれば、敗滅の危険はある。 ﹁その際、奥部まで道を知っているアンジェリカ殿をお連れしたい のです。構いませんか﹂ エピタフは、顔を少し動かし、アルフレッドを見、口元で微笑ん だ。 質問がおかしい。とアンジェは思った。 この質問では、アルフレッド麾下の手勢の一人としてのアンジェ リカを借りていくことの認可を求めている。 だが、本来この出陣を裁可するかどうかの権限は、アルフレッド にある。 十字軍という集団の伝統的ルールを考えれば、アルフレッドが否 といえば、この出陣は中止する必要があるだろう。 順番から言えば、借りるだの借りないだの、という話は出陣を認 められてからの話だ。 言わば、今エピタフはアルフレッドの頭越しに軍の行動を決めた と言ってよい。 1965 だが、アルフレッドとしては、ここでエピタフと対立するのは好 ましくない。 この出陣によって、教皇領の担当部分に穴が空くことになるが、 何かと物言いを付けたがる教皇領がいなくなるということは、むし ろ好ましいとすら思っているかもしれない。 断れ、と願うと同時に、アンジェの頭脳は、首を縦に振る、と予 想してしまっていた。 アルフレッドは、少し沈思する様子を見せ、しばらくの後、 ﹁承認する﹂ と言った。 *** 会議が終わった後、アンジェはエピタフを追い、教皇領の陣営ま でついていくと、 ﹁エピタフ殿、どうかお考えなおしを﹂ 天幕に入るなり、即座にそう言った。 ﹁なぜです?﹂ 明らかに運搬に不便そうな、どっしりとした木製の椅子に座りな 1966 がら、エピタフは答える。 その目は、欠片の戸惑いも映していなかった。 ﹁標的はあまりに先行しており、追えば御身が危険です﹂ アンジェはエピタフの無事など少しも心配していなかったが、自 分の心配はしていた。 エピタフはアンジェにとって上司というわけではないが、いわば 格上ではある。 命令を受ける筋合いはないが、兄王アルフレッドにとっては、ア ンジェは消えてくれたほうが望ましい。 アンジェが断ったところで、兄の方から従うようにと命令が下る だろう。 アンジェにとっては、同行しないという選択肢はなかった。 となれば、エピタフに意見を変えさせるしかない。 ﹁私とて、わざわざ悪魔の手にかかり、死ぬつもりはありません。 我に策あり、です﹂ 策? ﹁船を使うのです。我々は、あれほど船を有しているのです。使わ ない手はないでしょう﹂ つまりは、上陸作戦ということか。 船を使えば、確かに有利を得ることはできる。 リフォルムの近くには、臨時の船着場として空き樽を重ねた浮桟 1967 橋が設置してあり、その近くには多くの船が錨を下ろしている。 暇をしている船は、幾らでもあった。 くびれ に先回りすることもでき アンジェには無理だが、エピタフの発言力があれば、それらを使 うのは難しいことではない。 ﹁風の具合によっては、半島の るでしょう﹂ ﹁艦隊は自由に使えるのですか?﹂ アンジェは聞いた。 ﹁千名程度を運ぶのに、不都合はありません﹂ ﹁とはいえ、リフォルムから国境までは、健脚なら十日少しで踏破 できると言います﹂ 既に六日、先行されている。 まさか、避難民を連れて歩いている連中が、健脚の成人男性と同 程度に歩けるとは思えないが、ひどく先行されていることに変わり はない。 国境にたどり着かれてしまえば、その向こうにはシヤルタ王国の 本国軍がいるので、そちらに手出しすることはできない。 船を使うといっても、船というのは帆が破けるほどの順風が吹い かい ていれば馬でも追いつけぬほど速いものだが、ひとたび凪いでしま えば、櫂で動かす仕組みの船でなければ動きようがない。 ﹁やってみなければ、分からないことです﹂ 1968 エピタフは、超越した意思に従う僧侶のように言った。 逡巡すら見られない。 決意は硬いようであり、やってみなければ分からない、というの は事実でもあった。 ﹁わかりました。それでは、お伴しましょう﹂ アンジェからしてみれば、どのみち選択肢はないし、ここにいて も警邏を続けるだけなのであった。 見込みは薄いとは言え、エピタフに帯同し、ホウ家の嫡男、そし て王女を二人も手に入れたとなれば、これは大きな功績となる。 ﹁早速、一つ意見を具申します﹂ ﹁なんです﹂ ﹁どれだけ急いでも、搭乗や物資の積み込みには一両日かかるはず。 それならば、先に砲艦を差し向け、橋を砲撃して頂きたい﹂ 砲艦というのは、大砲を船に積み込んだ船で、最近現れた艦種で ある。 これは、海賊行為で知られたアルビオ共和国が発明したもので、 当初商船護衛戦において散々にやられた経験から、商人が船に砲を 装備するようになり、追って軍船にも採用されるようになった。 現状では、命中率も悪く、砲数もないため、そう洗練されたもの ではないが、アンジェはこの艦種を有望視していた。 ﹁なるほど。橋というのは、河口付近にあるものなのですか?﹂ ﹁大きい方の橋は、その通りです。上流のほうに小さな橋もあるの で、橋を壊してもそちらに廻られるでしょうが、もし間に合えば猶 1969 予を稼ぐことはできるでしょう﹂ ﹁素晴らしい。早速、実行に移させましょう﹂ 話が分かり、他人を認めるのは、この男の数少ない美点だ。 そう、アンジェは思った。 1970 第130話 大休止の合間に︵前書き︶ 周辺地図 <i223298|13912> ズック橋周辺は景勝地として知られた名所であり、大皇国時代の 名建築の名残を残すズック橋を下流から望む景観は、特に風光明媚 として知られている。 せいしょう そこから川を更に遡り、山岳地に入ると、冬は氷に閉ざされる湖 沼があり、湖沼のほとりには聖沼信仰の神殿が建っていた。 この神殿は1900年までになんらかの理由で無人となっており、 2000年頃には遺構として石壁が残るだけとなっていたようだ。 ズック橋周辺の景勝地を訪れた後、健脚で元気のよい若者は更に 道を登り、湖沼の風景も楽しむ、というのが一つの観光ルートとし て定着していた。 1971 第130話 大休止の合間に その時、全体は定時の大休止を取っており、俺は少し開いたとこ ろで椅子に座っていた。 大休止というのは、一時間ほど取る大きな休憩時間といったとこ ろで、主に昼食の時などに使われる。 今は、昼食が済んで食休み、というような時間だ。 小さな木立を挟んだ向こうには国境の川が流れていて、ザボザボ と音がする。 川の勢いがよく、荒い岩肌を洗っているような音だった。 シビャクを流れている大河のささめきとは質が違う音で、どうに も落ち着かない。 だが、もうこれで、長かった旅も終わりだ。 思えば、長かった。 そう思っていた時だった。 来たのは、鷲を引き連れて、深刻な顔をした部下の男だった。 その男は、やはり深刻そうな声で、深刻な報告をした。 ﹁なに? もう一度言ってくれ﹂ 俺は、思わず問い返していた。 ﹁はい。ルベ家の偵察によりますと、教皇領の旗を掲げた、千人規 模の兵力が上陸、この道を登ってきている、ということです﹂ 1972 ゆる 弛んでいた心臓が、凍りついた手でギュ、と鷲掴みにされた気が した。 血圧が上がり、心臓がドッドッと鳴るのを感じる。 きみ ﹁そうか。あとはなにを言っていた﹂ ﹁橋は打ち壊してもよい。まずは君の安全を優先されよ、と﹂ そりゃなんとも。 橋というのは、かけ直すのに金も時間もかかる。 間違いかも知れない情報であれば、軽々と﹁打ち壊してもよい﹂ とは言わない。 壊してしまってから﹁やっぱ間違いだったみたい﹂ということに なれば、損害が大きいからだ。 ということは、一度きりでなく、複数回確かめられた確定的な情 報なのだろう。 そして、君、というのは、貴人を複合的に表した言葉だ。 キャロル、テルル、ひいては俺やリャオのことを、その序列も含 めて暗に示している。 ﹁キエン殿が言っておられたのか﹂ ﹁その通りです﹂ こいつはミーラといって、連れてきた鷲乗りの中で、唯一ルベ家 の系統に属する騎士家の生まれだ。 その関係で、旅が終わりに差し掛かったあたりで、ルベ家との連 絡係にしていた。 1973 キエンに直接会えたのも不思議ではない。 ﹁ホット橋は、どのような具合だ﹂ ホット橋というのは、この川のずっと下流、河口付近に渡してあ る橋だ。 この橋は、三日ほど前、俺が優先枠で通ろうと思った矢先に、砲 船に砲撃され、一部崩されてしまった。 どうも狙いが荒く、殆どの砲弾は橋に当たらなかったのだが、た またま命中した一つが、連続アーチの一つを破壊し、橋は十メート ル弱ほどが崩落した。 そのせいで、修復を待たず見切りをつけることにした連中は、俺 たちと同じく、上流の橋に向かうことになった。 その砲船は、水際から見えない程度の沿岸に停泊して、錨を下ろ していると聞いている。 単なる嫌がらせかと思っていたのだが、この上陸作戦とセットに なっていたのか? だが、どうして今頃になってそんなことをする? 俺を狙っているのか⋮⋮? 分からない。 船で上陸作戦をしてくるというのは、盲点だった。 だが、最初からコトが露見していて、俺たちを狙っていると仮定 したところで、どうも説明がつかない。 それだったら、もっと手前のところで襲っても良かったはずだ。 1974 砲船と上陸に時間差がついたのはなんでだ? 砲船の砲撃と同時に上陸すれば、俺たちはまだ国境にたどり着い てもいなかった。 そうすれば、ルベ領から遠く、安全が確保され、かつ水際から離 れず、つまり撤退も容易な状態で襲撃できたはずだ。 今のタイミングで上陸したほうが得だったのか? それとも、ギリギリのギリで追うことに決めたのか? ﹁あの、ユーリ殿?﹂ ﹁あ、ああ⋮⋮続けてくれ﹂ ﹁ホット橋は、大きな木を何本か持ってきて、渡しを作ったようで す。現在は、大型馬車以外は渡れています﹂ 壊れた橋は、一部分に過ぎない。 差し渡しが十メートルもある丸太を何本も持ってくれば、そうい う修復も可能だろう。 それほどの丸太となれば、かなり重量があるので運搬が難しいが、 小さな木材で作れば、橋桁を作って支える必要がある。 応急修理としては正解だ。 ﹁⋮⋮ルベの兵は登ってきていないのか﹂ ﹁⋮⋮いないようです。橋が崩れてしまったせいで﹂ 既にシヤルタ側に渡ってしまったので、こちら側に戻ってこれな い、という理屈か。 難民を押しのけて優先で渡ってしまったせいで、簡単には戻れな 1975 くなっている、と。 ご大層なことだ。 ﹁お前は、戻ってどうにかしろと伝えろ。下流なら、泳いででもこ ちら側に来れないことはあるまい﹂ ﹁ですが⋮⋮﹂ ﹁敵が俺らに接触するまでに来れないのは分かっている。だが、敵 は民衆が残っていたら、おそらく虐殺して行くぞ。そういうことを した連中を、目と鼻の先で手も出さずに取り逃すのか? ルベ家の 面目はどうなる﹂ ﹁うっ⋮⋮﹂ ミーラは渋い顔を作った。 ﹁キエンにだけ、そう伝えろ。いいな、キエンにだけだ﹂ ﹁分かりました﹂ ﹁行け﹂ そう言うと、ミーラは鷲のところへ駆けていった。 今日は、6月29日だ。 明日には、俺たちは上流のズック橋に着く。 が、ズック橋は、そっちはそっちで、待ちが一万人を大きく越え る難民が大渋滞になっている。 この状態で、そこに敵の兵がなだれ込んだら、どうなる? 1976 だが、俺たちがたどり着いたら、そこは最後尾になってしまう。 民の盾になる、といえば聞こえはいいが、それが安々と許される 現状ではない。 十秒ほど考え、考え事をしている時ではない、と我に返る。 杖をその場に放り捨てて、カケドリに向かって歩き出した。 未だに大事を取って使っていたが、それどころではない。 *** ﹁リャオ﹂ 騎上から声をかけると、俺と同じく大休止中のリャオは、こちら を振り向いた。 ﹁おう、ユーリ殿﹂ 朗らかに答えてくる。 疲れる遠征が終わりに近づき、気が休まるものがあるのだろう。 リャオの傍らには、ギョームもいた。 なにやら残物資の計算をしていたらしい。 ﹁ちょっと来い﹂ 俺は停まった馬車の突起にカケドリの手綱を引っ掛けると、木立 1977 の中を指差しながら、リャオを呼びつけた。 ついでなので、ギョームにも話すか。 ﹁ギョーム、お前、口は堅いか﹂ ﹁それは、貴殿が判断することであろう﹂ イラっときた。 ﹁問答やってる場合じゃねえんだよ﹂ 殺気を帯びた俺の言葉に、ギョームが気圧されたような顔をした。 ﹁もういいから、さっさとついて来い。これからする話は他言無用 だ﹂ 喋られたら喋られたで、そん時に考えよう。 それにしても、俺も余裕がなくなってるな。 そのまま、森の少し奥まで歩を進めた。 人に話を聞かれる心配のないところまで来て、三人で顔を突き合 わせる。 ちょうどいい湿っていない樹の幹があったので、背を預けた。 ﹁要点を話すぞ。教皇領の軍勢千名が河口付近に上陸して、ホット 橋を無視してこちらに登ってきている﹂ それを言うと、リャオの目が見開き、ギョームが息を呑んだ。 ﹁キャロルと姫様を逃がす算段を立てなければならん。が、キャロ 1978 ルの件に関しては、今のところ問題はない。誰にでも鷲を借りて反 対側に渡らせればいいだけの話だ﹂ 川は、既に幅が狭まっており、とてもではないが徒歩で渡れる流 れではなくなっている。 キャロルの足もだいぶ良くなっている。 鷲に乗れないということはないだろう。 この距離であれば、不安も殆どない。 ﹁問題は、ドッラが警護している姫様の馬車だ。あれは、今すぐ先 行させてくれ﹂ テルルのほうは鷲には乗れないので、これはそうする必要がある。 ﹁同時に何小隊か先行させて、避難民どもを管理して徹夜で効率的 に渡らせるようにしろ。そうだな、そいつらは一番有能な奴らを使 え。頭がおかしな奴が、意固地になって指示に従わず反抗してくる ようだったら、その場で殺していい﹂ 言ったあと、少し違和感があった。 殺すのも問題があるか。 血飛沫が飛んで狂乱状態に陥るのも怖い。 ﹁槍で刺し殺したりはしないで、川に放り込むようにしろ。責任は 俺が取る﹂ そうすれば、血も屍体も残らないだろう。 1979 ﹁そいつらは、俺たちを狙ってきているのか?﹂ リャオが疑問を述べた。 そいつら、というのは、敵の軍勢のことだろう。 ﹁わからん。だが、まあ⋮⋮姫様二人を狙っている、という可能性 が一番高いだろう。奴隷狩りが目的ならホット橋でやりゃあいい話 だしな﹂ ﹁それはそうだな﹂ リャオが同意した。 ほくじょう もしかしたら、もっと複雑で大掛かりな作戦の初動としてホット 橋を破壊しておき、北上しておくことが必要とか、そういう可能性 もあるが、普通に考えればキャロルとテルルが目的だろう。 ・ ・ ・ ﹁それができないとなったら、ついでで民を殺戮していくはずだ。 こんな奥地では、奴隷で連れて戻るのは難しいだろうからな﹂ ﹁同感だ。特に教皇領であれば、そうなるであろう﹂ 聞いてもいないことをギョームが言った。 千人もの兵であれば、百万人は無理でも数千人程度であれば、殺 していくことは容易だ。 一人頭三人も殺害すれば、三千人になる。 実際に、奴隷としてヒトを持って帰れない状況になったとき、向 こう側がそういうことをした事例は、枚挙に暇がない。 この川の上流、橋付近には、数万人の民衆が詰めかけて通行待ち をしている。 1980 俺たちが連れてきた千人は最後尾になるが、殺す人数に不足はな いだろう。 ﹁並行して、斧を持った木こりがいたら、できるだけ徴発しろ。嫌 がるようなら金で釣れ。何人でも構わない﹂ リフォルムを出るときに、荷を捨てさせる方針として、生業に関 わる道具だけは一つに限って認めることになった。 さすがに大きな織り機などは駄目だが、包丁や裁縫道具、彫刻職 人であればノミ、そういった物は、持っている奴が結構いる。 都市部に木こりは少ないが、中には斧を持った奴もいるだろう。 ケツ ﹁やることは、分かるな﹂ ﹁尻に置いて、木を切らせて道に倒すんだろう﹂ そのくらいは察するよな。 わからなかったら馬鹿だ。 ﹁そうだ。容易に飛び越えられないように、樹冠のあたりが道にか ぶるように倒せ﹂ ﹁分かった。そのようにする﹂ ﹁それと、避難民に情報を秘匿しろ。徹夜で渡らせる分以外は、夜 間は熟睡させて、明日早朝に起床させたい﹂ ﹁そうだな。そうさせよう﹂ リャオが頷いた。 ﹁話はこれで終わりだ。取り掛かってくれ﹂ ﹁ユーリ殿は、ミャロを探すのか﹂ 1981 ﹁いや、ミャロへの説明は、お前からしておいてくれ﹂ 俺は他にやることがある。 ﹁俺は、鷲を借りて敵を見てくる。行動を始めろ。時間との勝負だ ぞ﹂ リャオとギョームは、俺にスッと頭を下げると、走り出した。 1982 第131話 迫りくる敵 鷲に乗ったのは、墜落以来のことだった。 頬で風を切り、空中を自由に泳ぐ感覚が、なんとも言えず懐かし い。 みち 上流から海を目指す魚のように、川沿いの路を下ると、川の幅が 徐々に広く、川べりの崖が浅くなっていくのがわかる。 植生が急激に変化するほどの高度差ではないので、木々の様相は そう変わらない。 注意深く下を見ながら低空を飛行すると、遠目に街道を黒っぽい 何かが覆っているように見えた。 一旦街道からずれ、高度を上げる。 地上から米粒ほどにしか見えない高度に上がってしまえば、人間 の遠近感の限度を超えるので、よほど見慣れた人間でなければ、そ れが王鷲なのか普通の鳥なのかは判断できない。 その高さに上がってから、太陽の方向から地上を観察できる位置 を取った。 徐々に低空にうつると、姿がはっきりしはじめた。 確かに、俺たちが通ってきた道を、登ってくる一団がある。 馬車を交えた、割りと本格的な軍団だ。 1983 大型船舶が接舷できるような港はここらにはないが、馬や馬車も ボートで上陸させたのだろうか? 並々ならぬ執念だ。 だが、馬に乗っているのは⋮⋮さすがに一割ほどだな。 他の兵たちは、なんと、小走りに走っている。 そのお陰で、全体でいっても、徒歩を交えているにも関わらず馬 車が少し急ぐほどの速度が出ているようだ。 言うまでもなく、長続きしない強行軍だ。 遠目には武装までは分からないが、鎧も武装も装備したままで走 っているのだろう。 これは兵の練度が高い低いというより、ただの行軍で走らせると いうのは、訓練以外では普通やらない。 やはり、どう考えたって軍事行動的におかしい。 後背を脅かす、だとか、恐らく次戦となるであろうシヤルタを荒 らす、だとか、そういった目的があるのかとも思ったが、そうであ れば継続不可能な強行軍をする意味がない。 それに、敗れたとは言ってもルベ家の領内には数千から万くらい の兵はあるわけで。 連中が最高にアホと仮定しても、ルベ家の領内に二百や三百しか 兵がいないと見込んでいるわけではないはずだ。 幾ら勝勢といえども、背中に数に勝る軍勢が出現する恐れがある 地域に、指揮官が誰だかは知らんが、突っ込んでくるというのは、 意味が分からん。 無謀すぎる。 1984 よっぽど尖った作戦意図があるのか。 どっかから漏れたな。 やはり、どう考えてもキャロルとテルルくらいしか要素がない。 時間差があるのが気になるが、ひょっとしたら、リフォルムが速 攻で陥落したのかもしれない。 しかし、幾らあの二人が高価値目標といっても、ここまでするも んなのか。 恐ろしく偏執的な何かを感じる。 妄執、いや、渇望⋮⋮。 分からないな。 どのみち、俺はやれることをやるだけだ。 俺は鷲を返して、再び上昇した。 初めて乗る名前も知らない鷲に反応の悪さを感じながらも、千人 の軍団の最後尾につく。 馬車は真ん中あたりにあった。 まあ、走ってる最中だから当たるかどうか解らないんだけどな。 俺は、上半身を鷲に押し付けるようにしながら、ライターを取り 出し、火炎瓶の導火線を手に挟んだ。 ライターを覆う革手袋を焼くようにして、導火線に火をつける。 素焼きの瓶から飛び出た油布に燃え移らせると、俺は鷲を真っ逆 さまに落とした。 道に沿う軌道をとりながら、ぐんぐんと降下していく。 1985 星屑でやったときより、かなり控えめなところで上昇に転じつつ、 俺は火炎瓶を結えつけている縄をほどいた。 手綱を引き、上昇しながら、身をよじって下を見る。 瓶が四つついた塊が、赤い火を尻尾のように流し、放物線を描い て、ほぼ馬車があったところに落下した。 ぼわっと炎が広がるのが見えた。 命中していればいいが。 水や食料を奪えれば、あの行軍だ。 気軽に崖を降りて水を飲みにいける川ではないし、腹が減っては 戦は出来ぬと言うが、飲まず食わずで一日走った後に戦うなどでき るものではない。 とはいえ、馬車が全て壊れたと考えるのも、希望的観測が過ぎる な。 *** 戻ってきた時には、既に陽は陰り始めていた。 俺が上空で滞空を始めると、気の利いた者がいたのだろう。開け た土地から物がどかされ、応急に小さなスペースが作られた。 バサリバサリと風圧を作りながら降りると、ミャロが駆け寄って きた。 1986 着陸場所を作ったのは、ミャロの指図か。 降下場所として俺が目をつけると思って、待ってたんだろうな。 俺はベルトを外して鷲から降りた。 先に周囲を探すと、鷲乗りのギィもそこにいた。 ﹁悪いな。助かった﹂ 借りていた鷲の手綱を渡す。 俺はギィの鷲を貸してもらっていたのだ。 ﹁いえ、むしろ光栄で⋮⋮﹂ 謙遜が過ぎる男だな。 ﹁良い鷲を持っているな。乗りやすかった﹂ ﹁ありがとうございます﹂ 頭を下げたギィから目を外して、ミャロの方を向く。 ﹁ミャロ﹂ ﹁ご指示通り、本日の移動は終了して、皆は炊事の準備に入ってい ます﹂ 滞りはないようだ。 ﹁幹部で話したいことがある。集められるか﹂ ﹁既に﹂ 既に集めてあるらしい。 流石というかなんというか。 1987 ﹁じゃ、行くか﹂ *** ﹁集まっているな﹂ 森の中の木々に、布を渡しただけの簡易なしつらえだったが、一 応は陣幕といっていいだろう。 そこに、キャロルとリャオが居た。 小さい焚き火が立ち、簡素な折りたたみの椅子が四つ、焚き火を 囲っている。 ﹁⋮⋮⋮﹂ リャオはむっつりと黙っている。 キャロルのほうも、見るからに機嫌が悪く、眉間に皺を寄せてい る。 何か変な雰囲気だ。 喧嘩でもしたのか。 ﹁どうだった﹂ キャロルが言った。 既に事情は承知しているのだろう。 ﹁逃げ切るのは無理そうだ﹂ 1988 ﹁⋮⋮っ﹂ キャロルが痛ましげに顔を歪めた。 俺は、折りたたみの椅子に座った。 ミャロもすぐ横の椅子に座る。 ﹁連中、どうも精鋭部隊らしい。部隊全員で走りながらこの道を駆 け上がっていた。接触は⋮⋮明日の朝か昼ごろ⋮⋮、希望込みで、 午後の二時か三時ってところか﹂ 正確な時間は分かりようがない。 途中、リャオの指図で木が倒され、何箇所か道が塞がれていたの を見た。 だが、あれも脇を抜ければ時間稼ぎにしかならない。 馬車については通れなくなるが、街道沿いという土地は伐採する にも向いているので、樹齢百年以上の大木みたいなものはない。 高値で売れるほど育った木は、切り倒されて売られてしまうから だ。 木を倒して道を塞いだ。といっても、力自慢が数十人もいれば、 どかせてしまうだろう。 ﹁先に言っておきたい。俺は、この仕事で死ぬつもりはない﹂ リャオが言った。 前も言っていたな、そんなこと。 ﹁じゃあ、貴様は民を押しのけて橋を渡って、橋の向こうで虐殺が 1989 起こっているのを指を咥えて見ているのか。それで将家を名乗ると は、大した騎士ぶりだ﹂ キャロルが何か言い出した。 表情を見るに、これはかなり苛立っている。 ﹁だから⋮⋮っ、何度も言っただろう。俺には俺の立場があるんだ。 俺の命はルベ領のためのものであって、ここで使っていい命ではな い。それはあんたも同じだろう﹂ さっき険悪だったのは、こんな口喧嘩をしていたからなのか。 どうでもいい。 ﹁だからといって⋮⋮﹂ ﹁やめろ﹂ 俺はキャロルの言を遮った。 ﹁リャオ、言い分はもっともだが、お前、キャロルがさっき言った ような状況になっても構わんのか﹂ ﹁構わなくはないが、仕方がない﹂ リャオは、不機嫌を顔に滲ませて、むっすりとしている。 ﹁兵どもの心には傷がつくぞ。俺たちの評判も地に落ちる﹂ 軍事的合理性はどうあれ、民たちは自分たちを守らない軍を嫌う ものだ。 戦っても勝てないし、そもそも戦うために来たわけじゃないから、 と言ったところで、腰抜け扱いは免れまい。 ﹁それに、俺が護衛を引き受けてしまった以上は、お前の生来の役 1990 目がどうあれ、この隊としては民衆を守るのが仕事だ﹂ 千人以外は引き受けていないが、その千人が最後尾になってしま うのだから、現実には同じような意味になる。 ﹁じゃあ、ユーリ殿は戦うつもりなのか。精兵千名を前に、俺たち に何ができる。槍の前の紙っぺらみたいなもんだ﹂ 上手い例えだった。 つまりは、民を置いて逃げろ、ということだろう。 どうせ紙っぺらなら、置かないほうがマシ。 将来に成長の余地がある紙っぺらを、紙っぺらのまま消耗してし まうのは愚策でしかない。 正論だ。 かるがる だが、軽々しい。 リャオは馬鹿ではないから、虐殺を看過することによって起きる、 将来的な不利益は分かっているはずだ。 戦っても勝てないから、引く。 その犠牲になるのがゴミみたいな何かならいいが、今回は人間な のだ。 目の前で大勢の民を見捨てて、虐殺を目の前にしながら、橋を爆 破する。 それをした後に、兵たちは日常に戻れるだろうか。 酒でも飲んで憂さを晴らして気が済めばいいだろうが、それで済 むとは思えない。 1991 それに、民衆にそっぽを向かれた軍隊というのは、弱い。 リャオが頭領になった時、過去の行いにより人気がなくなれば、 ルベ家は脆弱になってしまう。 リャオが、安易な判断をするのは、最高責任者ではないからだろ う。 避難民の連中を見捨てるか否かの選択肢はリャオにはないし、従 って責任もない。 立場の違いだ。 ﹁槍が刺されば破れる紙っぺらなら、刺さらないようにすりゃいい﹂ と、俺は端的に考えを述べた。 ﹁なに﹂ 俺はリャオの発言を手で制止し、 ﹁ミャロ﹂ と呼んだ。 ﹁はい﹂ ﹁順調に難民どもが橋を渡ったとして、俺たち全員が渡り切るのは、 いつごろになりそうだ﹂ ﹁かなり大雑把ですが⋮⋮、明日の夕方頃、でしょうか。昼まで⋮ ⋮となると、かなり無理があるかと﹂ そんなもんか。 夜中までかかるようだったら、どうにもならないが、それくらい 1992 なら何とかなりそうだ。 ﹁このままで行けば、まあ、半日かそこら時間を稼げば無事渡れる って寸法か﹂ ﹁そうですね。半日、彼らが遅れてくれれば、まず安全と思います。 橋を壊す手段にもよりますが﹂ ﹁そんくらいなら、なんとかなるかな﹂ どうするにせよ、リスキーなことに変わりはないが。 ﹁どういうつもりだ﹂ リャオが半ば詰問するように言い迫ってきた。 ﹁まさか、本気で戦うつもりなのか﹂ ﹁戦うとは限らん﹂ むしろ、戦わなくて済むならそれが最上だ。 それは間違いない。 ﹁だが、敵はやってくる。どうやって戦わずにいられる。それに、 戦わないのなら、先に向こうに行ったとしても同じだろう﹂ 敵が来た時にこちら側に居残っていたとして、戦わず民を押しの けて逃げる方針なのであれば、最初から向こう側に渡ったほうが利 口だろう、と言いたいのだろう。 俺たちは武器を持っているわけで、難民に横入りし、橋を渡って しまうのは難しいことではない。 ﹁いいや、兵は必要だ。兵がなければ敵の脅威にならない﹂ 1993 ﹁脅威⋮⋮だと?﹂ リャオは訝しげだ。 ﹁紙っぺらを鉄板にはできないが、槍を刺さらないようにはできる。 槍を操っているのは、人間なんだからな。今から、それを説明する﹂ 1994 第132話 テルル・トゥニ・シャルトル* その夜、テルル・トゥニ・シャルトルは、キルヒナに居た。 すぐ近くの橋は大渋滞で、夜中だというのに、人が通っているよ うだ。 遠く怒号が飛び交い、人々は事情を知らされないまま、見ず知ら ずの兵に急き立てられ、夜通し橋を渡っているらしい。 ひんしゅく テルルもまた、一度はその橋を渡った。 その時は、恐らくは顰蹙を買いながら、一時的に橋を占領し、馬 車に乗ったままシヤルタに渡った。 その橋はおかしな橋で、立派な石造の橋の横に、粗末な木造の橋 が寄り添うように造ってあった。 テルルは馬車に乗って、石造の橋を渡ってシヤルタ側に来た。 が、そのあと日が暮れそうになってから、鷲に乗った使者が来る と、急遽馬に乗せられ、今度は細い木造部分をせき止め、石造の橋 いっぱいに大量の人々が渡っているのを横目に見ながら、こちら側 に引き返してきた。 その際、世話人であるヒナミ・ウェールツとも引き離されてしま っている。 テルルは、わけがわからなかった。 改めて、晩の寝床として幌付きの馬車を用意されても、とても眠 れる気分にはなれなかった。 1995 今は、毛布にくるまったまま、カンテラの灯火をただ見ている。 緊急にしつらえたものなのか、毛布はボロボロの使い古しで、ベ ッドは藁に布をかぶせただけのものだ。 これほど質の悪い寝床は、さすがに初めてだった。 それでも眠ろうと思い、一度は横になったものの、どうしても眠 れない。 結局、起きだして何をするでもなく、火を見ながら想いを巡らせ ている。 この夜は⋮⋮というより、この夜も、悪い考えばかりが頭を巡っ た。 馬車後部の幌布がゆっくりと開けられたのは、そんなふうに無為 に時間を過ごしていた時だった。 開けたのは、ここ十日ほどですっかり見慣れた顔となっている、 ドッラ・ゴドウィンだ。 彼らはテルルの専属でついている護衛のようなもので、馬車の周 囲を寝ずに警護している。 こちらに戻るとき、テルルの乗った馬の手綱を引いてきたのも、 ドッラだった。 ﹁⋮⋮何か用ですか﹂ テルルは、消えるような声で言った。 ﹁いや⋮⋮寝ているのかな、と﹂ 1996 ドッラというこの男は、言葉が不自由というわけではないが、宮 廷の人々のように流暢に色々な形の言葉を操るのは苦手らしかった。 ﹁眠れるわけが⋮⋮﹂ ﹁そうですか⋮⋮お邪魔してもいいですか﹂ ﹁どうぞ﹂ テルルは、聞きたいことがあったので、幌の中に入るのを許可し た。 彼は、編み上げの靴をほどき、外に置くと、馬車の中にゆっくり と入ってきた。 腰をかがめてもなお、頭が幌のてっぺんに迫るような大男だ。 体重はテルルの倍以上あるだろう。 だが、意外にもこの男は、騎士院の腕自慢にありがちな、粗暴な ところがない。 むしろ、この十日余りの間は、静かに座って、どこか哀しげに物 思いに耽っていることが多かった。 そのまま、入り口においてあった木箱にゆっくりと腰を掛けた。 ﹁あの⋮⋮あなた方は、私をどうするつもりなのですか﹂ テルルはか細い声で言った。 旅に出てからこの方、何も事情を知らされてはいないが、昨日か ら何か異常な騒ぎが起こっていることは察している。 そうでなければ、このように怒号をあげながら民を追い立てる必 1997 要はないし、そもそも自分をこちら側に戻したのは、何かしら意図 があってのことだろう。 つまりは、テルルを利用するために呼び戻したのだ。 ﹁さぁ⋮⋮俺は、何も聞かされていないので﹂ 彼は、演技ができるほど器用な男性ではないように見える。 だからこそ、聞いたのだ。 やはり、嘘を言っているようには思えなかった。 だが、なにも情報は得られなかった。 ﹁そう、ですか⋮⋮﹂ ﹁あの⋮⋮悪いようにはならないので、それほど心配しなくても、 大丈夫かと﹂ この言葉は、根拠あってのことではないだろう。 それくらいのことは解った。 ﹁ユーリ⋮⋮様は、私をあちら側に渡すつもりなのでしょうか﹂ テルルが心配しているのは、そのことだった。 難しいことは分からない。 だが、そういう取り引きをする、というのが、連れて戻った理由 としては、もっとも腑に落ちるのだった。 つまりは、自分の身柄をクラ人のほうに売る、ということだ。 その代わりに、敵が迫っているなら見逃してもらい、あるいはお 金を得る。 1998 ﹁は⋮⋮? ええと、ユーリがあなたを売ると?﹂ ﹁はい﹂ ﹁ふっ、ハハッ﹂ ドッラは軽く吹き出した。 顔を見ると、おかしそうな顔をしている。 テルルは、ドッラが笑ったのを初めて見た。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ﹁それは、ありえない。あいつは、そういうことをする奴じゃない﹂ 質の悪い冗談を否定するように、ドッラは断言した。 ﹁なぜ、そんなことが分かるんです﹂ ﹁なぜ⋮⋮? さあ、俺が勝手に思っているだけなので﹂ 勝手に思っているだけ。 これこれこうだから、ありえない、という理屈があるわけではな いらしかった。 笑みは、もう消えてしまっている。 ﹁あなたは、あの人を良く知っているのですか?﹂ ﹁ユーリのこと⋮⋮でしょうか?﹂ ﹁はい﹂ ﹁騎士院では八年来同室ですが⋮⋮知っているわけではないです﹂ 同室というのは、テルルにとって初耳であった。 1999 ﹁八年も一緒なのに、知らないのですか?﹂ ﹁まあ、他の奴よりは知っているでしょうが⋮⋮俺は馬鹿なので理 解できない、という感じです。あいつを理解できている、とは言え ません﹂ なんとも、よく分からない話だった。 理解の範疇を超えた人間、ということなのだろうか? ﹁それなのに、なんであの人が私を売らないと分かるのです?﹂ ﹁⋮⋮うーん、あいつは強いから、かな。なんでも自分でどうにか しちまうし⋮⋮。まぁ、売られるだーなんだのってのは、心配のし 過ぎですよ﹂ 答えになっていないが、どうやら彼には何かしらの確信があるよ うだ。 理解はできていなくても、人となりから考えて、というような話 なのかもしれない。 馬鹿にしてはいないが、馬鹿げた話だ。とは思っている感じだ。 ﹁私は、あの人が信用できません﹂ テルルは、思い切って突っ込んだことを言ってみた。 ﹁そうですか﹂ ﹁なにを考えているか分からないし⋮⋮なにか空恐ろしいものを感 じます﹂ それは、彼に初めて出会ったときから抱いていた印象だった。 2000 顔立ちは端正で、あの年で王と対等に話せるほどに優れているの に⋮⋮いや、だからかもしれない。 どこか底知れないものを感じるのだ。 深い谷の底を覗いた時と同じような恐怖⋮⋮。 話せば、どこか遠い所に連れ去られてしまうような⋮⋮。 ﹁まあ、二日三日で他人を信用するってのも馬鹿げた話だし、いい んじゃないですか﹂ ドッラはどうでも良さそうだった。 ﹁でも、信用できなければ、不安で眠れません⋮⋮﹂ テルルは、いつも侍女に慰めを求めるときの口調で言った。 ﹁眠れなくても大丈夫です。担いで行きますから﹂ ﹁そういう問題では⋮⋮﹂ 理解しては貰えないのだろうか。 いや、この先シヤルタに身を置くのだから、キルヒナの生まれの 自分は誰からも理解されないのかもしれない。 滅びる国の王族などというのは、そういうものなのだろう。 ﹁それなら、あなたが売られるようなことになれば、俺が助け出し ますよ﹂ ﹁⋮⋮えっ﹂ 2001 なんて言った? ﹁俺が納得できる理由がなかったら、敵の手に渡る前に連れて逃げ るし、納得できる理由があった時は⋮⋮まあ、取引は見ているだけ かもしれませんが、あとで追っていって助け出します﹂ 言葉の内容とは反対に、ドッラはどこか気だるげだった。 気分が高揚しているふうでもなければ、情欲めいた響きもない。 ただ、薄暗がりの中で、木箱に座りながら言った。 そんなに心配ならこうしますよ、と。 ﹁その途中で⋮⋮死ぬかも知れなくても?﹂ ﹁はい。安心できましたか﹂ ﹁いえ⋮⋮なんであなたがそんなことを?﹂ テルルからしてみれば、困惑を覚える提案だ。 テルルは死にたくないし、ドッラというこの男も死にたくはない だろう。 どうしてテルルのために死をいとわないなどと言うのだろう。 ﹁言っても仕方ないが⋮⋮つい最近、命の使い道が無くなったんで ね﹂ ﹁はあ⋮⋮﹂ よく分からない。 2002 ﹁まぁ、もしユーリがあん⋮⋮あなたを売ったら、の話です。あり えねえと言った手前、もしそうじゃなかったら、責任は取りますよ。 そんなことをするようなら、ついていく値打ちもありませんし⋮⋮ まあ、ありえねえ話ですが﹂ ﹁そうですか⋮⋮﹂ なんとも、変人の理屈のように思える。 だが、なんとも、やたらと、頼もしくも感じる。 ﹁あー、迷惑でしたか。そんなら⋮⋮﹂ ﹁いえ、よろしくお願いします﹂ テルルは、座ったまま小さく頭を下げた。 ﹁代わりに⋮⋮じゃあないんですが、ちぃとここで寝ていいですか。 見張りが⋮⋮三時間ほどで交代するまで。警備にも都合がいいので﹂ ﹁どうぞ、構いません﹂ ﹁それじゃ、姫様も眠ってください﹂ ドッラは、そう言うと、余程疲れていたのか、その場で膝に肘を かけ、うなだれるように頭を垂れた。 少しづつ力が抜け、一分も経ったころには、どうも眠っているら しい格好になった。 ﹁⋮⋮﹂ テルルは、それを見てから、音を立てぬよう粗末な寝床に身を横 たえ、少し臭いのする毛布を体にかけた。 2003 かげ 意外にも、意識は簡単に陰り、眠りはすぐに訪れた。 2004 第133話 斥候がみたもの* くみ デラロ・フィーザーは、挺身騎士団第三軍団、第一騎兵大隊にお いて、四十騎長を任されている壮年の男性であった。 だいくみ 挺身騎士団の古式ゆかしい軍制では、騎兵は8騎を組とし、それ を5つ揃えた40騎を大組とするという法がある。 テトラ 対して歩兵は10名を組とし、10組を大組という具合に編成さ れてゆく。 グラマトン 騎兵がすなわち貴族と呼ばれていた時代の名残りで、元々は神聖 四文字に由来があるのだ、と言う者もいる。 デラロは、その四十騎の大組の一つを任される立場にいた。 騎兵一騎にかかる費用は、歩兵一人の比ではないことを考えれば、 中々の大役と言える。 だが、デラロは、現在はわずか7騎を率いて遥か北の地を進んで いた。 自分を含めて8騎だ。 四十人長の地位にありながら、7騎しか連れていないのは、部下 が死んだり、降格を受けたわけではない。 この異様な上陸作戦において、隊が縮小改編されているためだ。 そのため、他の32名は大軍のいる前線に置いてきている。 四十人長に任ぜられてから十年以上、鍛え上げてきた隊を割るの は不本意ではあったが、大司馬の命であれば否やはなかった。 2005 *** 今、デラロは斥候として本隊から先行して敵を探していた。 馬はそれほど速度を上げず、早足程度の速度で駆けている。 全速での偵察を命ぜられてはいるが、これ以上急ぐことはできな かった。 敵地に突出しての作戦であるため、十分な飼料が与えられていな い。 更に悪いのが、道がずっと登り坂であることだ。 これ以上急げば、馬が潰れてしまう。 馬の調子を見ながら、デラロはじっくりと周囲を警戒・観察して いた。 本来、斥候の仕事というのは、常に目を皿にしつつ耳をそばだて、 緊張感を維持するのが肝要である。 だが、趣味で詩歌を吟じているデラロは、目に入ってくる風景か ら、何かを感じずにはいられなかった。 冬に凍てつき、生命の気配が絶えた大地から、春となり草木が芽 吹いてくる様は、始原の地から生命が生まれた原初の清浄を連想さ せる。 空気が澄んでおり、遠くの風景まで良く見えるのも、そのイメー ジに一役買っているのかもしれなかった。 2006 故郷とはまた違う植物相の森。 その中で馬を歩かせていると、まるで異世界に迷い込んでしまっ たかのような錯覚を覚えた。 時刻は正午に近く、夜の間に溜まった寒気が払われきった頃合い のこともあり、敵地の真っ只中だというのに、デラロは清々しい気 分でいた。 その空気の中で、スン、と臭うものがあった。 炭めいた匂い⋮⋮煙の匂いだ。 ﹁煙の匂いがしないか?﹂ デラロは言った。 ﹁します﹂ ﹁わずかに﹂ 部下たちが、口々に答えた。 やはり、勘違いではないようだ。 ﹁難民どものケツが近いのかもしれんですなあ﹂ と、年長の部下が言う。 確かに、この状況では、この時間まで出発に手間取っている難民 の焚き火、あるいは消し忘れかもしれなかった。 あるいは、昼食の炊事という可能性もある。 ﹁警戒しておけ﹂ 2007 デラロは馬の速度を緩めずに、気を引き締め、言った。 デラロは、実のところ専従的に偵察任務をこなしてきたわけでは ないが、その勘所は心得ている。 偵察、特にこのような斥候の任務においては、敵に気付かれぬ状 態で、かつ先に発見するのが最も望ましいわけだが、場合によって は遭遇戦になることもある。 それはある意味では失敗なわけだが、見晴らしのいい平原という わけでもない、こういった森の中では、致し方なく遭遇戦になって しまうということは、ままある。 最も危険で避けなければならないのは、敵が予め偵察の襲来を予 期していて、生かして帰さないことを意図している場合。 つまりは伏撃だ。 閉じ込め式の罠にかかる獣のように、自分から罠に入ってしまえ ば、伏撃を意図している敵は、すっぽりと後背を塞いで斥候を殲滅 してしまう。 そうやって帰らなくなった連中を、デラロは何組も知っていた。 ﹁ハッ! 了解しました﹂ 隊員たちが口々にそう答えた。 その後、隊はさらに歩を進めてゆく。 匂いを嗅いだ所から、さほど進まないうちに、その場所にたどり 着いた。 2008 *** その場所は、川に沿う直線の道が、崖に穏やかな角度で突き刺さ る場所だった。 くの字 に曲がっている。 もちろん、そのまま崖に突っ込んでは仕方がないので、道はそこ で なので、右手は見通しの悪い森になり、先行く道を隠してしまっ ていたが、デラロが注目していたのは、そこではなかった。 崖に向かう道の先は視界が開けており、その先には川が削った崖 があった。 どうも景勝地の展望台のような格好になっており、ちょうど谷と 遙か先の山脈が合わさって見える。 谷は、もはや渓谷と呼んだほうが正しいほど深くなっていた。 そして、その先には、作戦の重要な要素であるところの、橋が見 えていた。 恐らく、作戦会議でさんざん説明された上流に架けられた橋とい うのは、あれのことだろう。 ・ ・ ・ ・ ・ 燃えていた。 橋は、もうもうと煙を吐きながら、全体が炎上していた。 白っぽい灰色の煙がゆるやかな風に吹かれ、今は東のほうにたな びいている。 匂いがしたのは、風向きが少し変わって、一時的に下流側に煙が 2009 流れたのだろう。 デラロは、風光明媚な絶景をぶち壊しにする、ショッキングな情 況に目を奪われながらも、 橋が燃えているということは、もはやこちら側には誰もいないの だろうか? と思った。 敵が来たので、橋を落とす。 そこまでは古今東西、どこの戦場でも行われることだ。 乾燥した木橋であれば、斧で叩き壊すより、燃やしたほうが手っ 取り早いだろう。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ だが、それはあくまで敵が来てからの話だ。 敵は、まだ来ていないのだ。 正確に言えば、自分たちが今まさに接触したところなのだ。 その時点で橋を落とす︱︱。 民を大切にしない非情な指揮官は数多いが、いくらなんでも脅威 が迫ってもいないのに橋を焼き落として通れなくする、というのは 臆病にすぎる。 ごくごく常識的に考えて、敵が攻め上がってくるのを待ってから、 つまり脅威が差し迫ってからやるだろう。 ということは、敵はもう渡ってしまって、今から橋のところまで 行っても、人っ子ひとりいない。 2010 渡河が完了したので、用済みとばかりに橋を落とした。 それが最も考えられるケースとなる。 く デラロは、そういったことを考えながら、漫然と馬を進めていた。 うほう ﹁右方に敵!﹂ そう叫んだのは、部下であった。 の屈折点のところまで進んでしまっていた。 デラロは、炎上した橋と、それに対する考察に気を取られ、 の字 デラロが慌てて屈折した道の先を見ると、二〇メートルほど先に、 木材で出来た簡易な防壁のようなものができていた。 そこには、少勢︱︱三十人ほどだろうか︱︱の、少年少女と言っ て良い年齢の長耳たちがおり、槍を突き出しながらこちらを見てい る。 なんというか⋮⋮少し統制の効いた野盗団などが、お手製の防壁 を作り、防衛戦の真似事をしている感じだ。 が、ただそれだけで、鉄砲どころか矢を射かけてくる様子もない。 また、陣地からまろびでて襲い掛かってくる、という様子でもな い。 デラロは、ひとまず攻撃がないので、巻乗りをして円形に馬を運 びながら、彼らの様子を伺った。 巻乗りに移ったのは、矢の狙撃を防ぐためだ。 さすがに、弓矢の一つも持っていない、ということはあるまい。 2011 敵が見えているのに矢を射掛けない、というのは、消極的な敵に あってはよくあることなので、不思議ではなかった。 矢というのは意外と高価で、かつ使いたいときに数がないものだ。 あの小勢では、百本も持っていないかもしれない。 斥候と分かっている連中のために、貴重な矢は使えない。そうい う意図で惜しんでいると考えれば、おかしいことではなかった。 それより気になるのは、小勢の中から聞こえる指図の声が、女の ような声であることだった。 ﹁⋮⋮女の声がするな。しかし、あれは⋮⋮﹂ デラロは目を細めた。 金髪の女が、惜しげも無く髪を晒して、例の飛べない鳥に乗って いる。 そして、堂々と大声で指図を出している。 とぎれとぎれにしか聞こえないが、むろんデラロには言葉の内容 はわからなかった。 ﹁おい、ディーチェ。珍しい女が見えないか﹂ ディーチェというのは、隊内でもっとも目がいい若者だ。 ﹁確かに金髪です⋮⋮というか、もう一匹いますよ。金髪が二匹か﹂ たった二〇メートル少しの距離なので、デラロにも見えていた。 もう一人の少女は、なんだか猫背のような具合で、弱々しく馬に またがって、なにもしないでいる。 2012 ﹁とんでもねえな﹂ 隊員の一人が言った。 確かに、金髪が二人目の前にいるというのは、とんでもない。 ユニコーン 市場で一角獣のツノと言われるものは見たことがあっても、金髪 の長耳などという存在は、見たことがない。 目の前に幻獣が二匹現れた。というような感覚がある。 敵は、この期に及んでも仕掛けてくる様子はない。 いつ仕掛けてくるか、という臨戦態勢ではあったが、この様子で あれば遠眼鏡を取り出して、じっくりと観察してもよいかもしれな い。 この距離で遠眼鏡を使えば、顔の表情までくっきりと分かるだろ う。 ﹁どうしましょう。突っ込みますか﹂ 部下の声には熱が入っている。 ここで金髪の姫を捕らえれば、値千金どころではない名声を手に 入れられる。 デラロとて、一瞬それを考えないではなかった。 ﹁⋮⋮いや、我々の任務は斥候だ。それに、連中それなりに数が揃 っている。万に一つの見込みもあるまい﹂ ﹁了解﹂ と、部下が言ったその時だった。 ﹁グゥッ︱︱!﹂ 2013 妙な声が聞こえ、そちらを見ると、森の際にいたディーチェが、 刺されていた。 刺しているのは、柄の長い槍。 その槍の持ち手は、体中に腐れて濡れた枯れ葉をくっつけながら、 今まさに土中から現れ、馬上にあるディーチェの脇腹に槍を突き立 てていた。 刺した男は、持っているのは槍だけで防具もつけておらず、土の 水気でじっとりと濡れていた。 土に隠れて伏していたのだ。 ﹁×××!!!﹂ 意味不明の号令がかかると、周囲から同じような格好をした者達 が一斉に現れ、槍を構えて突っ込んできた。 ﹁撤退ィ!!!﹂ デラロはそう叫びながら、馬の頭を返した。 くそっ、曲がってしまっている。 道の先を見て、歯噛みする。 道は、目の前で少し屈折していた。 下り坂であるから、本来であれば馬は一目散に徒歩の人間を撒け るはずだ。 だが、道が曲がっているせいで、ほんの若干ではあるが、速度を 乗せるのに手間取る。 2014 それは、生死を分ける違いだった。 ﹁ウグッ!﹂ 隣で、耳慣れた古参の兵の声が聞こえた。 自分は馬を操りながら、そちらを見る。 横っ腹の防具の隙間から、槍を生やしていた。 彼は、流石は歴戦の猛者らしく、とっさに槍を掴んだ。 捻られて傷が広がるのを防ぐためであり、槍を抜かれるのを防ぐ ためでもある。 ﹁クソがっ!﹂ 曲刀を抜きざまに、槍の柄をすぱっと切り落とした。 が、その行為に手間取った数秒が命取りだった。 刃圏の外から次々に槍が襲いかかり、ざくざくと体中を刺した。 デラロは凄惨な現場から目を外し、馬を操り速度を乗せながら、 カーブを曲がった。 カーブの先には、体中に腐れた葉をかぶせて潜伏していたのだろ う。同じような連中が、これも槍をこちらに構えていた。 ﹁撤退、撤退ィ!﹂ デラロは叫び声をあげながら、槍と槍の間隙につっこんだ。 2015 そこを抜けられたのは、僥倖としか思えなかった。 そして、あとは一目もくれずに、一目散に道を戻った。 2016 第134話 少女の初陣* ﹁報告は、以上です﹂ デラロという男が、偵察報告を終えた。 ﹁ふむ⋮⋮﹂ エピタフは、いつになく真面目な顔で、椅子に深く座りながら考 え込んでいる。 アンジェのほうも、頭の中は激しく思考していた。 橋が落とされ、前線に金髪の姫が二人も出てくる。 彼女らは、こちらが探しに探して、ようやく見つけるものではな いのか。 斥候と分かっていて、脅威には感じていなかったにしろ、彼女ら が最前線に居て、斥候に見られ、こうして報告に上がってくる。 なんとも違和感がある。 もっとも、斥候を引き付けるために姿を晒した、という可能性も あった。 そうやって深入りした結果、デラロという男の隊は六名が死亡し、 彼を含めてニ名しか帰らなかった。 キルゾーン それでも帰ったのだから、偵察としては成功ではあるが、伏撃の 包囲領域に深く入り込んでいたのは事実だ。 2017 キルゾーン 包囲領域に招き入れるために、金髪の姫を使った。 理由としては考えられるが、釈然とはしない。 あれらは、敵にとっては最優先保護対象ではないのか? だとしたら、橋が落ちたのにこちら側に居る、というのは、どう いう理屈なのだろう。 分からない。 何かしら理由があるのだろうが、すっきりこれと分かる理屈は思 い浮かばなかった。 ﹁弱兵に覚悟を決めさせて、我々と正面から戦おう、というわけで しょうか⋮⋮﹂ エピタフが一つの解答を言った。 安直に過ぎるように思えるが、状況にくっつける理屈としては、 一応の筋は通っている。 だが、先ほどデラロは、敵方は多くても百に満たぬようだ。と報 告をしていた。 長耳以外が相手であれば、向こうもこちらの兵力を知っていると は限らないのだから、そういう戦法を取る可能性はある。 つまりは、死を覚悟させ、正面からこちらと戦おうとしている。 だが、今回の長耳は、行軍の途中で、またしても燃える兵器を投 下し、こちら側の補給を焼いた。 あれによって、ただでさえ不安な補給に打撃が与えられ、元々厳 しかったものが更に揉みこすられるように厳しくなった。 2018 てきかた 敵方は巨大鷲を使ってこちらを捕捉しているのは間違いない。 それを考えれば、果たしてこちらの戦力を把握していない、とい うことがありえるだろうか? 千対百であれば、いくら橋を落として死兵と化そうとも、分が悪 い戦いだ。 そういう判断を⋮⋮あの逃避行を演じたユーリ・ホウという者が、 行うものだろうか。 しかし、 ﹁ありえる話ですね﹂ と、アンジェは結局エピタフに追従した。 そもそも、ユーリ・ホウが率いているとは限らない。 何かしらのイレギュラーが起き、金髪の姫が率いているのかもし れない。 アンジェにも、この状況で橋を自ら落としてしまう理由は、エピ タフが述べた理由以外には思いつかなかった。 故郷が近く、逃げ腰になっている兵は弱い。 死ぬ覚悟が揺らいでいるから、命を惜しんですぐ逃げ出すように なる。 父の教えの一つだ。 橋を落としてしまうことで、否が応でも敵と正対しなければなら ない状況を作り出すことは、逃げ腰の兵を叱咤する効果を期待でき る。 2019 この効果は、現実に間違いなくある。 姫が前線に出て指揮することも、励ましにはなるだろう。 ﹁アンジェリカ殿、あの橋の周辺の地理を教えてもらえませんか﹂ ﹁はい。おおよそですが、よろしいでしょうか﹂ ﹁もちろん、構いません﹂ アンジェの頭の中の地図も、必ずしも正確なわけではない。 地図というのは、領主がよほど熱心に取り組んだものでもない限 りは、案外いい加減なものだ。 アンジェは、手元にあった羊皮紙に、簡単に地図を描いた。 <i224336|13912> ﹁矢印が川の流れです﹂ ﹁こちら側に、今通っている道とは別に、二本の街道が通じている のは事実なのですね﹂ エピタフは指差しながら言った。 ﹁街道と言って良いのは、今進んでいる道と、東のほうに通じてい る道だけです。北方の道は、登山道のような小路で、おそらく馬車 も通れません。山脈を貫いて反対側まで通じている、つまり峠道と いうような形でもないはずです﹂ たしか、略奪されて流れてきた本に載っていた絵図だった気がす るが、記憶はおぼろげだった。 どのような意味のある道かもわからない。 色々な本や、シャン人の奴隷の話を聞いて、地図を作ったアンジ ェだったが、今回の遠征では間違いを見つけることが多かった。 2020 わりと大きな街道と思っていたものが、ただ林に入るためだけの 獣道じみた林道だったり、道を進んでいたら急に地図にない大きな 街道が現れたりと、失敗が多い。 ただ、山脈を超える峠道ではないことは、ほぼ確かなように思え る。 ・ ・ アンジェの記憶によれば、ここから川を渡らず山脈を超える道は、 更に北方に山脈を避けるように進み、すそを這うようにして迂回す る道しかない。 山脈の谷となっているところを選び、山脈超えをする峠道は、も っと南のほうにしかないはずだ。 ・ ・ ・ ・ ・ ﹁なるほど⋮⋮では、こうしましょう。幸いなことに、敵は橋付近 の道に陣取って待ち構えてくれている﹂ エピタフは、アンジェの描いた地図を引き寄せ、自らもペンを取 った。 朱色のインクをつけると、 ﹁そこで、部隊を運動させ、こうします﹂ すっ、すっ、と赤い線を引いてゆく。 <i224337|13912> ﹁どうでしょう。こうすれば、悪魔どもは一網打尽にできます﹂ やはり、こう来るか。 と、アンジェは思った。 2021 逃げる道があるのでは、千の兵で正面から打ち破っても、敵の何 割かは逃げてしまう。 補給が貧弱なこちらは、それをどこどこまでも追っていく、とい うことは難しい。 だが、こうやって街道を塞げば、逃走は難しくなるだろう。 エピタフの意図は、そういうことだ。 実務をやる者にとっては億劫で面倒くさい類の作戦になるが、合 理的ではある。 だが、問題も多い。 ﹁アンジェリカ殿には、この二つの道を抑える役目をして頂きたい﹂ 問題の一つは、遠隔の作戦であるため、指令が届かないことだ。 だが、それは指揮官の頭数が二人⋮⋮つまりアンジェがいること で、事足りる。 ﹁連絡はどうします﹂ ﹁これを使います﹂ エピタフは、荷物の中から奇妙な形をした矢を取り出した。 かぶらや ﹁竜帝国の鏑矢ですね﹂ やじり 鏃の代わりに笛がついた鏑矢というものは、クラ人の軍では通常 使われない。 野戦などで号令をかける場合は、ラッパが使われる。 2022 ﹁こういった森の中では、号令は届きにくい。これであれば、聞こ えるでしょう﹂ 確かに、空で鳴り続ける鏑矢であれば、森を挟んでも聞こえるか も知れなかった。 別に、何十キロも遠くで仕事をするわけではないし、恐らく耳に 聞こえる範囲の作戦になるだろう。 いっきかせい ﹁では、我々の展開が完了したら、こちらから鏑矢を放ち、それを けが 号令に一気呵成に攻め込む。ということでよろしいでしょうか﹂ ﹁その通りです。異教徒の穢れた武具を使うのは本意ではありませ んが、悪魔狩りにはふさわしいでしょう﹂ エピタフは相変わらず不気味なほほ笑みを浮かべながら言った。 ﹁まあ⋮⋮そうですね﹂ さほど信心深くないアンジェは、いつまでたってもエピタフの宗 教観⋮⋮というより、世界観に慣れない。 戦場での会議というのは、戦理だけを追い求める純粋なものだ。 差別からくる侮りだとか、蔑みなどは必要ない。 なんだか、軍略に水を差された、というか、不純物を混ぜられた ような気がする。 ﹁それでは、引き受けて頂けますか﹂ ﹁もちろん、引き受けます﹂ 2023 と、アンジェは述べ、 よく ﹁ただし、私が連れてきた兵は、わずか五〇名にすぎません。確実 に漏らさぬためには、森の中にも翼を張るべきです。また、北方の 小道にも、念のために兵は置くべきでしょう。そのために、挺身騎 士団から兵を三百ほどお貸し頂きたい﹂ と付け加えた。 ﹁わかりました。そういうことであれば、兵を貸しましょう﹂ よかった。 これで包囲は完全になる。 ﹁それでは、私は兵に飯を食べさせてきます﹂ アンジェは席を立った。 頭が興奮し、やる気に満ちているのを、自分でも感じる。 決して気が進む役割ではないのに、鳥肌まで立ってきた。 ひぞく アンジェにとっても、これは初陣であった。 匪賊討伐などではない、初めての戦争なのだ。 2024 第135話 内部の不調和 ﹁戻った﹂ 俺の目の前に現れたドッラは、普段通りの顔をしてそう言った。 肩には愛用している薙刀形の槍を担いでいる。 ﹁お前、なんでここにいる﹂ 喧騒から少し離れたところで、俺は椅子に座っていた。 閑散としているが、本陣のつもりだ。 それにしても、こいつはなんでここにいるんだろう。 ドッラには、顔見せが終わったテルルを、速やかに向こう岸にま で送り届ける仕事を命じていたはずだ。 ﹁お前に言われた仕事が終わったからだろうが﹂ ドッラは不本意そうに言った。 もうテルルには本当に用がないので、そのまま先に行っちまって いい、と言っておいたんだが。 てっきり、王都方面に進んでいってるものと思っていた。 ﹁テルルの護衛はどうしたんだ? 橋の向こうに放ってきたのか?﹂ ﹁向こうに行ったら、なにやら王家の連中が現れて、引き取りたい と言ってきたから、預けてきた﹂ そう報告した後、 2025 ﹁もしかして、まずかったか﹂ と、若干不安そうな様子でドッラは言った。 いや⋮⋮。 王都の連中⋮⋮王家の遣いの者であれば、預けちまって構わない だろう。 ここまでくるのは王剣だろうが、そうでないにしろ、ドッラより かは行き届いた世話をしてくれそうだ。 問題は、偽物だった場合だ。 この状況で現れるとなったら、情報に強い魔女家になるか。 かどわ だが、魔女家にしろ将家にしろ、王家を騙って王女を拐かすなど ということをすれば、ただでは済まない。 それほどのリスクに見合う価値がテルルにあるとは思えん。 やはり、タイミングからしてみても、立場からしてみても、王剣 で間違いないだろう。 ﹁まずかないが、どうやって戻ってきたんだ﹂ 民衆を押しのけてきたなら問題である。 ﹁欄干を走った﹂ えぇ⋮⋮。 なにこいつ⋮⋮。 まぁ、こいつだったら激流にポチャっても普通に岸に這い上がれ そうだから、構わないっちゃ構わないんだが。 へい ﹁一人で来たのか。兵どもはどうした﹂ 2026 ﹁流れの整理をやっていた奴が、人手が足りないというから、貸し てきた﹂ ﹁ふーん⋮⋮﹂ 別にいいか。 列整理とかって気の利いた性格が必要な仕事だしな。 ぶっちゃけドッラには向いてないし、預けたほうがいい仕事しそ うだ。 ﹁それにしても、お前、もう少し説明したほうがいいんじゃないか﹂ と、ドッラは何やら眉間に軽く皺を寄せながら言った。 ﹁何をだ﹂ ﹁あの子、ずいぶん怯えてたぞ﹂ あの子、というのはテルルのことだろう。 そういや、なんだか青ざめたような顔をしていたな。 さすがに、彼女のナイーブな側面を気遣っているような状況では ないから放っておいたが。 ﹁お前が⋮⋮その、敵に身柄を売ると思っていたらしい﹂ なんだそりゃ。 そんなこと考えてたんか。 ﹁ありえん。何を考えとんだ﹂ 元々ちょっとアレな子だとは思っていたが。 被害妄想かよ。 まあ、年齢と身の上を考えれば、視野が狭窄したっておかしかな 2027 いか。 それにしたって、自分が助かるために姫を売るなんて、そんなこ とをしたら俺が騎士として終わることくらい分かるだろうに。 我先に姫を売る騎士など、誰が認めるわけもない。 キャロルがとっ捕まって、その身柄と交換なんて場面なら、多少 は話が違ってくるだろうが、そういった異常事態でない限りは、看 過されようもないことだ。 ちなみにキャロルはかなり渋ったが、今は鷲に乗って対岸に渡っ ている。 ﹁理解に苦しむな、女の考えは﹂ ﹁そうか? 隊の連中も似たようなもんだろ。さっきから、お前を 不信な目で見ていく奴が多いぞ﹂ ﹁まあ、橋燃やしたからな﹂ なんの意味があって橋を燃やすのかとか、まったく説明してない し。 橋を一時通行止めにまでして、生木を運んできて橋の各部にぶっ 刺して燃やし⋮⋮その行為の意味も分からない。 不信感を抱かれるのは当たり前だ。 だが説明している時間もないし、大多数が説明を理解できるとも 思えない。 むしろ、説明して理解されず、反対された時のほうが厄介だ。 ﹁殺気立ってピリピリしてやがる﹂ ﹁これから戦って死ぬかもしれないと思っているからな。わけの分 からんことをする指揮官の命令に従って、大して思い入れもない民 2028 を守って﹂ ﹁教えないのかよ﹂ ﹁教えたら誰もが理解できるわけじゃない。反乱が起きなけりゃ、 構わん﹂ 過程でどんだけ不信感を抱かれようとも、結果が良ければ何も問 題はない。 そもそも、軍行動というのは常に下に全てを話し納得してもらう 質のものではない。 キャロルがリャオに対して言っていた意見は、なにも特殊なもの ではないし、同じメンタリティを持っている奴らは、隊内に相当数 いるだろう 民を守る、守らないで意見は割れる。 命令違反も起きるかもしれない。 そんなんだったら、最初から何も知らせないまま命令に従わせた 方が楽だ。 しんがり ﹁まったく、お前は⋮⋮﹂ ﹁どうせ来たんだ。殿をやってみるか? 刃を交える機会があるか もしれん﹂ ﹁あるかもしれん、ってなんだ。今からくる敵と戦うんじゃないの か﹂ ﹁いや﹂ 俺は懐中時計を取り出して、開いた。 ﹁あと十五分だな。それだけ待って報告がなかったら、兵は引き揚 げる﹂ 2029 ﹁⋮⋮? どういう意味だ?﹂ ﹁十五分経って報告がなかったら、隊を率いて向こう岸に渡る。正 面からぶつかるのは無意味だ﹂ ﹁避難民がいるぞ﹂ ﹁割り切るしかない﹂ ぶつかること前提に避難民を守って粘るというのは、ただの自己 満足にすぎない。 純粋に高貴だとは思うし、他人がやったら尊敬もするが、俺には 無理だ。 あとで吐くほど悩むことになるかもしれないが。 ﹁むう⋮⋮﹂ ドッラは複雑な顔をして、押し黙った。 何か意見するつもりはないらしい。 こういうとき正義感を持ち出されると厄介だから、助かるよな。 こいつも正義感がない人間ではないが、世界を己の正義に染める ために生きている類の男ではない。 ﹁⋮⋮んっ?﹂ ドッラは、唐突に顔を上げて、あらぬ方向を見た。 そちらを見ると、こちらに走ってくる影がある。 ギョームだ。 俺が座っているところまで駆けてきた。 運動は苦手そうだが、騎士院にいただけあって、ふぅ、と一息つ 2030 くと、既に息は整っているようだった。 ﹁どうした﹂ ﹁リャオ殿の命令で意見を伺ってくるように言われたのだ。どうす るおつもりだ﹂ ギョームは若干早口で、焦っているように見える。 斥候に橋を見せたときの前線基地は、まだ生きている。 再び斥候が来たとき、石橋を見られたら困るからだ。 斥候が来ても橋が見えない場所に前進させ、来たら追い返すよう にさせている。 リャオが指揮しているのは、そこだ。 ﹁前線はピリピリしてんのか﹂ ﹁ピリピリしてるなんてもんじゃない。俺たちにだけ戦わせるつも りかと殺気立っておるぞ﹂ そうなんか。 考えてみりゃ、連中はルベ家出身の奴らが多いもんな。 対してこっちは、難民誘導の仕事にかかりきりなのでサボってい るわけではないとはいえ、安全なところにいるのは事実だ。 自分たちに被害担当をさせるつもりか、見捨てるつもりか、と思 われているんだろう。 つまりは、戦々恐々とした気分が行き過ぎて、殺伐としているわ けだ。 リャオがミャロのように俺の判断を信じ切っている人間であれば、 2031 また話は違うのだろうが、あれはあれで大分反対していたからな。 考えることが多い。 追いついてないな。 ﹁まぁ、ちょっと休んでけ﹂ ﹁⋮⋮どういうおつもりか﹂ こいつも空気に飲まれているのか、余裕が無いようだ。 怖い目つきをしている。 ﹁報告待ちだ。あと⋮⋮十分ちょい経って報告が来なかったら、前 線は撤退させる。その連絡を持って戻れ﹂ わざと生かして帰した斥候は、もうとっくに報告を済ませ、指揮 官は意思決定を済ませているはずだ。 そろそろ軍本体が止まらないのであれば、そろそろ接触してしま う。 敵が止まるとは限らないわけで、そのまま突っ込んでくる可能性 もある。 接触するまでは待てない。 ﹁⋮⋮そういうことであれば、待つとしよう﹂ ギョームはそこらにあった木箱に尻をおろした。 ﹁ギョーム、お前は俺の狙いがわかってるんだろう。なんでお前ま で焦っている﹂ ﹁⋮⋮偶然に頼りすぎている。機会を逃せば酷いことになるぞ﹂ 2032 ﹁敵さんの考えることを読むのは、偶然に頼るとは言わねえよ﹂ しんがり 極論を言えば、撤退戦で殿を準備したり、包囲を警戒した陣を敷 くのだって、敵の判断を読んでやることだ。 しんがり この状況だから、当然追ってくるので殿を用意する。包囲を狙っ てくるだろうから、それをさせないよう兵を置く。 今回のとの違いは、それが学校で教わるような常道なのか、ある いは前例のない独創なのか、という部分でしかない。 冒険的ではあるにせよ、独創であれば偶然頼み、と評価するのは、 自分ではリスクを見積もれませんと言っているに等しい。 ﹁だが、事実止まっていない﹂ ﹁止まるとしたら、接触する間近だろう。分離するにしても、でき るだけ道を使う﹂ このあたりは、俺が前に強行軍をしたところよりかなり北で、か つ標高も高くなっている。 木々や下生えの密度が低く、歩きやすいが、それだって一応は舗 装されている道を歩いたほうが、よっぽど速く歩ける。 可能な限りそれを使いたいはずだ。 遠くで止まればそれだけ即応性も失われ、同期して一気呵成に攻 めるといったことも難しくなる。 遠くで止まる理由はないが、近くで止まる理由は多い。 敵からしたら、前線陣地の至近、目の前で停止したって構わない のだ。 それだって、問題はそう多くはない。 2033 プレッシャーをかけすぎると包囲を完了する前に逃げてしまうか も、という恐れがあるから、その選択はしないかもしれないが、し てもおかしくはない。 ・ ・ ﹁だが、敵が虫並の脳みそしかない連中だったら、全てがわやにな る策ではないか﹂ ﹁虫だったら、船を使っての作戦なんて思いつかねえよ﹂ ﹁たとえばの話だ﹂ ﹁つまらん仮定だ。虫と戦っているわけじゃあない。相手が虫だっ たら策が成り立たないなんてのは、例えになっていない﹂ 俺がそう言うと、ギョームは悩ましげに首を振った。 ﹁さっぱりわからぬ。貴殿にはおれとは違うものが見えているのか ? なぜそんなに平然としていられるのだ。なにか、よほどの確信 でもあるのか﹂ ﹁確信⋮⋮?﹂ なんでそんな話になるのか、それこそさっぱりわからん。 ﹁敵が止まる確信なんてあるわけねえだろ﹂ 敵の指揮官の人となりを事細かに知ってるってならまだしも、会 ったことも話したこともない指揮官の判断に確信なんぞ持てるはず がない。 ﹁では、なぜ平然としている。衝突して、踏みにじられるのが怖く ないのか﹂ ﹁お前⋮⋮生きるの死ぬので目が曇ってるんじゃねぇか﹂ ﹁なに?﹂ 2034 ﹁俺は最初から逃げると言ってる。結果的に逃げる過程で撤退戦を 演じることになるかもしれないが、それは失敗の結果だし、最小限 の被害になるように工夫すりゃいい話だ。最終的には避難民を壁に して逃げてもいいんだから、不安になる必要はない﹂ ﹁まあ⋮⋮それはそうだが﹂ ﹁兵に犠牲が出るとしても、最初から勝ち目のない無意味な戦いで の損失と、負けないための工夫の結果としての損失では、意味合い がぜんぜん違うぞ。最初からなにもしないための言い訳にするな﹂ ﹁⋮⋮だが、敵が止まらなかったら、多少なりと兵に損失はでるぞ。 それでいて民は守れない。そうしたら、貴殿はいい面の皮ではない か。そういう怖れはないのか﹂ ﹁そんときは、俺が無能だったってだけだろう﹂ ぶっちゃけ、これで思いっきり叩かれて無能呼ばわりされても、 どーでもいいしな。 落ち目国家で多少の名誉を得たり失ったりすることに、なんの意 味があるのかとも思うし。 ﹁お前ら、ずいぶん親しげに話してるが、そいつは誰だ?﹂ ドッラが口を挟んできた。 立ったまま、腕組みをしながら、不審人物を見る目でギョームを 見ている。 ﹁以前紹介した場にお前もいたんだが﹂ ﹁隊の面子の顔は大抵覚えたはずなんだがな﹂ ﹁いや⋮⋮﹂ 2035 まあいいか。 恐らくドッラが言っているのは、シヤルタからの面子の話なんだ が。 こいつも、あんときは姫様のお守り始めたばっかりで右往左往し てたしな⋮⋮。 ﹁おれはギョーム・ズズだ。リフォルムより加わり小隊を一つ任せ られておる﹂ ギョームが端的に自己紹介をした。 ﹁ふうん、そうか。覚えておく。俺はドッラ・ゴドウィンだ﹂ ドッラは付け足すように自己紹介した。 ﹁別に覚えてもらわなくてもよい﹂ ﹁ユーリと掛け合いができる者はあまりいないからな。覚えておく﹂ ギョームの皮肉めいた返答には気づかなかったらしい。 覚えておいて損はないので覚えておく、ということだろうか。 自分から名乗っておいて、覚えられてはたまらないから忘れろ。 という理屈はないので、ここはドッラの勝ちであろう。 ﹁俺は誰とでも話はするぞ﹂ ﹁お前、張り合いのない相手と話す時は、仮面を被って中身のない 話をするからな。つまらないんだな、とすぐ分かる﹂ ﹁⋮⋮っ﹂ 反論しようと思ったが口に出なかった。 2036 確かに話しててもつまんないな、こいつ話が通じないな、と思っ た時は、モードを切り替える部分はある。 それにしても、ドッラにそれを見透かされていて、指摘されると いうのは、ショックが大きい。 ﹁せめて如才ないと言え﹂ ﹁如才なくなるからな。すぐ分かる。如才なくなくない⋮⋮ん、違 うか﹂ ドッラは、口に手を当て、考え込むような仕草をした。 ﹁あー⋮⋮もういい﹂ 言葉がこんがらがったらしい。 解きほぐすのも面倒だし、ぶっちゃっとけ、という感じであった。 その時、影が落ちて、体が受けていた陽光の温かみが一瞬消えた。 ﹁来たな﹂ と、俺は上を見て言った。 雲や小鳥とは影の過ぎ方が違う。 ﹁ここに降りてくるのか。危険ではないか﹂ ﹁選り抜きの腕っこきだ。問題ねぇよ﹂ 降りてきたのは、やはり偵察を任せていたミーラの鷲だった。 老熟した雌の鷲は、貴婦人を思わせる落ち着きを見せながら、狭 い林冠部に取り乱しもせずに、するりと抜けてきた。 2037 減速をし、申し分のない着地をすると、ミーラは帯を急いで取り 外し、地面に降りた。 すぐさま、短い距離をこちらに駆けてくる。 ﹁報告いたします! 敵は、動きを止め一部を分け、その一部は森 の横断を始めました!﹂ ﹁よしッ!﹂ 俺は思わず膝を打った。 ﹁ちゃんと太陽に隠れてきたか﹂ ﹁御言いつけどおり﹂ ﹁敵は、どれほど別れた﹂ ﹁三分の一ほど⋮⋮かと﹂ 三分の一か。 三百人から四百人ほど⋮⋮と考えても、こちらとぶつかるには十 分な数だ。 向こうからすれば、包囲戦の一正面に過ぎないのだから。 散り散りになって逃げた場合に備えて、森の中にいくらか残すに しても、それだけいれば無理はない、と考えたのだろう。 ﹁ギョーム、お前は情報を持って帰って、もうしばらくそこに居ろ と伝えろ。よほど心配なら、こっそり敵陣を見に行ってもいい﹂ ・ ・ ・ ﹁了解した﹂ ﹁あと、カカシの用意もしておけ、と言っておいてくれ﹂ ﹁カカシ?﹂ リャオには話をしておいたはずだが、まだ用意をしていないらし 2038 い。 やはり、かなり疑っているみたいだな。 しんがり ﹁リャオに言えば分かる。ドッラ、殿をするつもりがあるなら、一 緒に行け﹂ ﹁おう﹂ ドッラはそう言って、石突を地面に突いていた槍を翻し、ひらり と肩に担いだ。 いわゆる薙刀状の槍なのだが、先に付いているのは長刀のような ものではなく、鉈のように短く重ねの分厚い剣だった。 およそ美術的価値のなさそうな無骨な槍だが、親が持たせたとい うことは、名のある刀工の作なのだろうか⋮⋮。 ドッラは、腹が減っていたのか、俺のそばにあった干し肉とパン をひったくり、先に駆け出したギョームを追いかけるように駆けて いった。 2039 第136話 走る伝令* ヒイィィィィ︱︱︱︱︱︱⋮⋮。 と、尾を引くような音を残しながら、鏑矢の音が聞こえて消えた。 この矢は、アンジェが射たものではない。 北方から射られてきたものだ。 ﹁良し、射よ﹂ アンジェがそう下令すると、部下の者が﹁ハッ﹂と頷き、長弓に 鏑矢をつがえた。 引き絞ると、弦をはなした。 ピイッとけたたましい音が一瞬聞こえ、バキッという音とともに 絶えた。 太い枝に当たって、矢が折れてしまったのだ。 ﹁なにをやっておる﹂ アンジェはクスリと笑いながら、部下を叱った。 ﹁す、すみません﹂ 慌てた様子で頭を下げてくる。 ﹁まだ四本ある。落ち着いてやれ﹂ 部下がもう一度射放つと、今度の鏑矢は見事に森を抜け、ピイイ ッ︱︱︱︱と音を伸ばしていった。 2040 暫くすると、エピタフのいる本陣のほうから、鏑矢の音が聞こえ た。 音が聞こえた、という返答だ。 こちらから山の方へ最後の鏑矢を射放つと、準備は整った。 サーコート アンジェは、鞍を掴みながら鐙に足をかけ、介助なしにひらりと 馬にまたがる。 アンジェが身につけているのは、外套の下には軽い細目の鎖帷子 だけだ。 あとは軽量の金属兜と、戦場で女を隠すための薄布が鼻部から下 を覆っている。 纏っているのはそれだけで、板金鎧を身にまとっている時と比べ れば、身軽なものだった。 ﹁進軍を開始する。小休止をやめさせよ﹂ ﹁了解︱︱休憩終了! 全軍、前進の準備をせよ!!﹂ 副官が大声で号令をかけ、皆が動きはじめた。 ***** 部隊を前進させ、発見した敵の前線陣地には、木材で作った簡易 な柵⋮⋮といっても、大小様々な木をただ積んだだけの防壁があっ た。 形だけ作ったもので、こちらに向かって尖った木枝が突き立って 2041 いるわけでもなく、容易に乗り越えられそうだ。 そこからかなり遠くに、道路を縦断するように、一本の太い白線 が引いてあった。 なんらかの目印なのだろう。 石灰粉だろうか? ﹁五十歩前進せよ﹂ ﹁五十歩前進せよ!﹂ アンジェの言葉を副官が大声で復唱し、隊は動き始めた。 そして、白線にかかるかかからぬか、というところで、銃声が鳴 った。 遠雷のような発砲音が聞こえたかと思うと、次の刹那、カァン! と小気味いい音が聞こえた。 挺身騎士団から借りた兵の頭が弾け、その場に倒れる。 ﹁止まれっ!﹂ そう大声で号令をかけると、副官の復唱を待たず、全隊が停止し た。 唯一馬上にあるアンジェから見ると、止まった兵のうち最前線に いる者が、しゃがみこんで兵を世話しているのが見えた。 撃たれた騎士団員は、さすが精鋭だけあって、目を覚ますように 頭を振りながら、起き上がった。 彼らは板金鎧こそ着ていないが、兜を被り、鎖帷子を纏っている。 撃ったところから、ここまでの距離は、ゆうに百歩はある。 2042 つぶて 肉に当たれば弾け飛ぶ距離ではあるが、兜を貫ける距離ではない。 空気に乗って飛ぶ矢と違い、丸い礫を射放つ鉄砲は、初速は早く とも距離での減速が著しい。 恐らくは、敵方の銃は、こちらの物を奪った⋮⋮つまりは鹵獲品 だろう。 殺された斥候が持っていたものかもしれない。 ﹁ふむ⋮⋮﹂ ﹁射掛けてきませんな﹂ 今回の遠征にあたって、副長を勤めているギュスターヴ・オルデ ナントが、老年にさしかかったしゃがれ声で言った。 ギュスターヴは、父の代⋮⋮つまりレーニツヒト・サクラメンタ に仕え、そのままアンジェリカの家臣になった男である。 射掛けてこない、というのは、続けて発砲してこない、という意 味だろう。 続けて射掛けてくるなら、突撃なりなんなりする必要があるが、 そうではない、ということだ。 もちろん、こちらにも銃はある。 だが、もう少し近づいて銃撃戦をするというのは、無理な話だっ た。 敵が築いている防壁は、もちろん銃弾を通さないが、こちらは丸 裸で盾も用意してきていない。 こちらが消耗するばかりの展開となる。 もっとも、百歩という距離は、銃撃戦をするにしても遠すぎた。 敵は豆粒ほどにしか見えないし、そんな小さな標的を狙うのは無 2043 理がある。 さっきは偶然命中したようだが、一般的に見て、これほど距離が 離れていては双方弾と火薬を浪費するだけで、じれったいダラダラ とした戦闘になる。 それならば、壁を乗り越え刃を交えるため、突撃の命令を下せば 良い。 が、アンジェに任された仕事はそれではなかった。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ アンジェの仕事は、エピタフが担当する本隊が押しに押し上げ、 押されてきた部隊を逃げ散らぬよう抑えることであって、こちらか ら敵に戦いを挑み、彼らを撃破することではない。 それに専心すれば、金髪が万一森に逃げた時に手が足らず、逃げ 漏らす怖れがある。 どれだけ戦闘で勝利しようとも、それを逃してしまってはなんの 意味もない。 アンジェがここに居るのは、肝心の標的を万が一にも取り逃がさ ないためなのだ。 つまりは、ここで部隊の前進を止め、敵の動きを待ちつつ森の中 に部隊を広げ、用意を万端にしておくのが正解であろう。 ﹁我が部隊は、打ち合わせ通り両翼に浸出せよ。挺身騎士らは前進 せず、この場に残れ﹂ アンジェは、以心伝心の行き届いた部下を森に置き、手元に借り 物の兵を残すことにした。 2044 ***** ヒィィ︱︱︱、と、また鏑矢の音がした。 ﹁先程から何なのだ。ギュスターヴ、なにか聞いているか?﹂ 少し苛立った声で、アンジェは言った。 ﹁いいえ、聞いておりませぬ﹂ 待ち構えるように鎌のような陣を敷いたアンジェは、エピタフ率 いる本陣からやたらと飛来する鏑矢の音に、不安を感じていた。 アンジェは、エピタフとの間で、鏑矢の回数や種類で符丁をつく るとか、二度目の鏑矢はこういう意味だとか、そういった打ち合わ せは全くしていない。 それなのに、鏑矢はやたらと鳴り響いてくる。 つまりは、鏑矢の音が何度聞こえても、まったく意味がわからな いのであった。 最初の2∼3回は、もしやかして伝達が不備に終わっているのを 怖れて、念のために射ているのか、と思ったのだが、ここ三十分ほ どの間に、鏑矢の音は10回ほども聞こえてきていた。 なにやら不穏なものを感じる。 しかし、戦力差から言って、エピタフの本隊がなにかしらの危機 に瀕するというのは、少し考え難い。 だが、戦場では何が起こるかわからない。 父が言っていた言葉であった。 2045 千、二千という数の騎兵が大挙坂を登ってきて、疾風のように背 中を突いた、というような可能性も、考えられないではない。 敵が橋を落とし、退路を断ったのも、そういった勝算あってのこ となのかも。 ﹁分からん。彼らは危機を伝えているのだろうか⋮⋮﹂ 矢の音だけでは、危機を伝えているのか、援軍を求めているのか、 そんなことは分かりようもなかった。 わたくし ﹁私にも分かりませぬ。ただ、寄せてくるはずの敵は、焦ってもお らぬ様子﹂ 副長のギュスターヴが言った。 ﹁まだ早い。エピタフ殿が突撃なさってから、まだいくらも時間が 経っていない﹂ ・ ・ ・ 怒涛の勢いで前線を崩し、即座に敵の潰走が始まったとすれば、 そろそろ玉突きされるようにして、こちらに飛び出してきていても おかしくはない。 だが、そう簡単に突き崩せているとも限らない。 まだ敵が出てこない、というのは、不思議ではなかった。 ﹁そうですな﹂ ギュスターヴは、さすが色々な戦闘の局面を経験してきただけあ って、アンジェの言いたいことはすぐに察したようであった。 ﹁どう思う?﹂ と意見を求めると、 2046 わたくし ﹁私には、判断できかねます﹂ と、ギュスターヴは言った。 ﹁そう、か⋮⋮﹂ その瞬間、アンジェの心を不安が撫でた。 大勢の人命を生死の現場に立たせているというのに、正確な判断 を下せる確証がない。 判断の正誤が運任せになってしまう。 領地経営でやってきた様々な判断とは違い、失敗に取り返しがつ かない。 それは、圧倒的な現実感を伴う、始めての経験であった。 ﹁我らはアンジェリカ様の命に従うのみです。もし誤断の結果死せ るとも、誰一人不満には思いませぬ﹂ ギュスターヴは、歴戦の猛者だけあって、アンジェの心情を見透 かすように言った。 ﹁⋮⋮そうか﹂ だからこそ、全員に勝利の栄誉を持たせてやった上で帰りたい。 だが、戦争での勝利とは、多かれ少なかれ人命の犠牲を引き換え にして得るものなのだ。 ﹁だが、アンジェリカ様はやめろ⋮⋮、何回言わせる﹂ とアンジェが言った時だった。 2047 ﹁伝令! 伝令ーーーっ!﹂ 大声で叫びながら、森の中から現れた人影があった。 ***** 叫びながら出てきた男が、森を抜け全身を晒すと、あろうことか ズボンのほかは、上半身は肌着しかきていなかった。 走るのに邪魔になるものを全て脱ぎ捨て、今まさに走ってきたの だろう。 伝令は、アンジェの姿を認めると、立ち止まり、しかし耐えきれ ぬ様子で膝をゆるめた。 崩れ落ちそうな膝に両手をかけ、お辞儀をするように腰を曲げ、 必死に息を整えている。 ﹁ハァ、ハァ、ハァ﹂ ﹁ど、どうした。落ち着かれよ﹂ アンジェは言った。 ﹁はぁ、大司馬殿から、今すぐ﹂ 男は息を荒げながら、片手でまっすぐ左を指差した。 そちらには、今も見えているが、敵方が作った急作りの防壁があ る。 ﹁攻めよ、と﹂ 2048 ﹁なに⋮⋮﹂ ﹁ハァ、ハァ﹂ 男は息を荒くしている。 血の気が引いてしまっているのか、今にも倒れそうだ。 ﹁疲れているところすまないが、もう少し詳しく頼めぬか。何があ った﹂ ﹁はっ⋮⋮おえっ﹂ いくさ 男は、げろげろとその場で吐瀉をはじめた。 戦の前に腹に入れたらしい食事が、汚物となって足元に落ちてゆ く。 限界を超えて、森の中を走ってきたのだろう。 途中幾度転んだのか、上の肌着は汗と泥で汚れ、何箇所か裂けた 皮膚からは血が出ていた。 男は、手の甲で口についた吐瀉物を拭った。 ﹁しっ、失礼、を⋮⋮﹂ さけい ﹁構わぬ。貴殿は十二分に任務を果たしておられる﹂ ﹁⋮⋮大司馬殿は、詐計であったと。敵は今も、橋を渡っている、 すぐさま攻め寄せよ、と言っておられました﹂ アンジェは、頭の中に冷えた刃が刺さったような思いがした。 斥候の無能に対する憤怒が頭を満たし、次いで冷静な思考力が疑 問を産んだ。 2049 いや、橋が燃えていた、というのは事実のはずだ。 教皇領の精鋭が務める斥候が、それを見誤るはずもない。 敵方に転んでいて、故意に誤報告をした、という可能性も絶無だ ろう。 いや、そんなことを考えている場合ではない。 お ﹁敵は、居らなかったのです。防壁に立っていたのは、斥候の屍体 でありました。鎧を着せ替えた⋮⋮﹂ アンジェは、首を返して、自分が対面しているほうの防壁を見た。 ゾンビー そこでは、人影が動いている。 ブードゥー 南方異端の屍人のような存在でなければ、こちらはカカシではな いのだろう。 ﹁ご苦労であった。別命ないなら、貴殿はそのまま休んでおれ﹂ アンジェは男をねぎらうと、 ﹁大司馬から緊急の命である!! これより我々は前進する!!﹂ 馬をゆっくりと一回転巡らしながら、声を張り上げた。 そして、剣を抜き、射抜くように道の先を指し示した。 ﹁進めェ!!﹂ ***** 2050 あぶみ そして、馬を進ませようと、鐙で腹を叩こうとした時だった。 足を掴まれ、それを阻止された。 ﹁姫様、お待ち下さいッ!﹂ ギュスターヴであった。 ﹁なんだッ!?﹂ アンジェは馬を押しとどめながら返す。 ﹁この小勢の上、敵は銃を持っています! 加えて、姫様は甲冑を 置いて参られたでしょう!﹂ サーコート 確かに、アンジェは薄手の金属兜の他は、外套の下にこれまた細 目の鎖帷子を羽織っているだけであった。 顔の半分を女を隠すための黒布で覆っているが、鋼の面頬と違っ て防御効果はない。 この行軍では、厚目の板金鎧などは、エピタフを除いては全員が 船に置いてきたのだ。 ﹁こちらで馬に乗っているのは姫様のみ! あまりに危険すぎます﹂ 馬は森の中を進むには比較的不向きなので、本隊からは騎馬隊は 着いてきていなかった。 つまりは、この別働隊の中では、アンジェだけが馬上にあり、体 一つ分ほども高い ﹁構わぬ!﹂ ﹁では、せめて前線に出るのはお控えくだされ!﹂ ﹁くッ︱︱﹂ 2051 うるさい、黙れ と言いかけた。 が、アンジェはギュスターヴの発言に一理あることに思い至り、 喉元でそれを押しとどめた。 2052 第137話 追う者、逃げる者* 号令が染み透ると、まず正面の挺身騎士団が列を組みはじめた。 ﹁ヤッコ、ギリナン! 両翼に伝令、全力で森を進み、防壁両翼か ら包み込むように攻撃に加われ、と伝えろ! 行け!﹂ きか アンジェは、伝令に残しておいた麾下の人員に命令を下した。 ﹁ハッ!﹂ ﹁直ちに!﹂ ヤッコとギリナンは、飛ぶように駆け、両翼の森の中へと消えて ゆく。 その間にも、またたく間に列を整えた挺身騎士団が、各長の号令 の下、行進するように前進していった。 隊形がアンジェを残して進みはじめ、集団の最後尾に至った時、 アンジェはようやく馬を進めはじめた。 隊の速度が考えていたより遅い。 決して悪いわけではないが、感覚と合わず、知らぬ兵を使ってい る、というのが実感できる。 アンジェが手ずから教練した兵ではないので、当然であった。 手足のように動かせるわけではない。 ただ、行けと命じれば行くし、退けといえば退く。 程度が非常に良い傭兵と考えれば良いのかもしれない。 2053 少し待ち、挺身騎士団が五十歩ほど前進した時、再び銃声が鳴っ た。 最前線にある兵が一人斃れる。 腹を撃たれたようだが、この距離で鎧が鎖帷子だけでは、弾は防 げない。 挺身騎士団はまったく怯む様子もなく、機械的に穴を埋め、前進 していった。 その間にも、かなり早いペースで発砲が行われてゆく。 が、早いといっても、やはり銃は一丁しかないらしく、大勢を覆 すわけではない。 そして、更に二十歩ほど進んだ時、 ﹁総員、突撃せよ!!﹂ とアンジェは叫んだ。 ヤ・オーラン・イースス ﹁神とその御子のために!!﹂ オ・カーサス・ドーラン 将官格が叫び、 ﹁身を挺する戦士やある!!!!﹂ 兵隊が応答した。 話には聞いていたが、初めて聞いた。 挺身騎士団が突撃の時に発するという、特徴的な号令だ。 ﹁オオオオオオォォォ!!!!﹂ 雄叫びとともに、挺身騎士団は一斉に駆け出した。 2054 あっという間に距離を縮め、防壁に取り付くと、一斉に丸太に足 をかけ、乗り越えてゆく。 防壁は胸ほどの高さしかなく、乗り越えるのは容易だ。 が、乗り越えた瞬間、下から突き上げられるように、後ろへつん のめった。 防壁の影で、敵がしゃがみこんで待ち構えており、体ごと飛び上 がるようにして槍を突き込んだのであろう。 最前列を突き崩したあとは、敵兵たちは防壁の上に乗り、上から 下へと槍を突き刺し始めた。 ﹁攻め続けよ!﹂ ここまで近づけば分かるが、敵勢は厚みがない。 おそらく、五十人前後しかいないのではないか。 その殆どは防壁の両脇を固めており、迂回を防ぐことに専念して いる。 防壁を守っているのは、更に少ない。 防壁での防衛が上手くいったとしても、左右から攻撃の手が入れ ば、耐えられるわけがない。 が、そこで敵勢は、妙なことを始めた。 列となった兵士の一人が、裏手から出てきた男と交代したと思う と、鍋のようなものをあおりかけるように振り、騎士団員の頭上に 液体を降らせたのだ。 ﹁ああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛︱︱︱︱!!!﹂ 2055 ここまで聞こえるような絶叫が聞こえた。 それで、何をされたのか、すぐに分かった。 熱した油だ。 大ぶりの鍋はそのまま此方に投げつけられ、残った油を散らしな がら、一人の者の兜をしたたかに打った。 グワワワァン、と銅鑼を鳴らしたような音がした。 ﹁怯むな! 進めェ!!﹂ 前線の長たちが激励する。 かたびら もう一度防壁から鍋を持った者が現れるが、今度は後ろの者が前 列の者の帷子を掴んで引き、取り付いた壁から引き離した。 直撃は免れたようだ。 が、それからはうって変わって攻め手に勢いがなくなった。 熱した油に恐れをなしたのではない。 丸太で作った防壁全体に、油が巻いてしまったのだ。 今まで一足で八分まで乗り越えられていたものが、五分までしか 乗り越えられていない。 乗り越える手足にも油が移ってしまっているので、ズルズルと滑 ってしまっているようだ。 もりりょう 敵の面前でそんなことをしていれば、良い的であった。 ざくざくと、銛漁の獲物のように槍の餌食になっている。 2056 アンジェは、チッ、と思わず舌打ちをした。 明らかに弱兵としか思えぬ連中に、強兵が串刺しにされている。 たまらず、兵を押しのけるように強引に馬を進めた。 ﹁どうしたァ! 青史に名高い挺身騎士団の武勇とは、そんなもの かァ!!﹂ 精一杯の声を張り上げた。 ﹁その程度の壁、先頭の尻を押してでも乗り越えてみせよ!!﹂ そう言いつつ、防壁の両脇を見ると、人が重なって見えにくいが、 木と木の間に太い針金が巡らしてあるのが見えた。 針金が張ってある高さは腰丈程度だったが、それが逆に悪い。 ほふく 頑張れば乗り越えられそうで、かつ下をくぐって通るのにはギリ ギリ匍匐が必要な高さで、絶妙にいやらしい。 そのせいで、大きく迂回するにしても踏ん切りがつかず、中途半 端に押し通ることに拘泥してしまい、針金を境とした遅々とした攻 防戦になってしまっている。 たかが針金一本張られただけで、こうなってしまうのか。 よく考えられている。 感心するほどに。 だが、もはやアンジェの手勢も両脇を侵攻しつつある。 針金がどれほど遠大に張ってあるか知らぬが、敵もいない状況な 2057 らば切断できぬということもあるまい。 どう考えても、突破できぬはずはない。 アンジェは、そのまま前進していった。 ﹁退け、退けええぇ︱︱ッ!!﹂ 戦場の怒号の隙間から、一筋のシャン語がアンジェの耳に飛び込 んできたのは、その時であった。 アンジェは、ほとんど反射的に、 ﹁敵は退くぞ! 追い上げよ!﹂ と叫んだ。 その時だった。 ある男が防壁に際に現れ、酒瓶のようなもので前線の兵士の頭を 殴った。 酒瓶が割れた瞬間、物凄い勢いで火が包み込む。 これは、鷲から落とされたものと同じ兵器だ。 アンジェは瞬時にそう思い、同時に、こちらの兵の攻め手が鈍る、 とも思った。 はらから 目の前で同胞が火だるまになれば、いかな挺身騎士団の精鋭とて、 一歩も腰が引かぬというわけにはいくまい。 また、純粋に火は熱いので、そこに突っ込むというわけにはいか ない。 兵を叱咤するため、アンジェは鞘に収めていた剣を抜こうと、目 を腰元に移した。 2058 ﹁姫!﹂ 副官の声が聞こえた。 とっさに前を見ると、先程瓶を使った男が、そのままそこにいた。 片足をかけて防壁に立っている。 半身になり、構えているのは銃であった。 目の前に居て、彼を突き殺すはずの兵は、今まさに火にまかれて、 踊るように狂っている。 サーコート 銃口が丸く見えると同時に、脇腹の外套が強く引かれた。 同時に、頭に強い衝撃を受け、アンジェの意識は絶たれた。 ***** ﹁︱︱めっ! 姫様っ!﹂ ﹁んっ︱︱﹂ アンジェの目が開き、視界に見慣れた顔が飛び込んでくる。 ﹁どうした⋮⋮? ギュスターヴ⋮⋮﹂ 副長の名前をつぶやいていた。 ﹁姫様、意識ははっきりしておられますか?﹂ ﹁姫扱いはやめろと⋮⋮言っておるのに⋮⋮﹂ ﹁申し訳ない。ですが、今は戦争中でございます﹂ 2059 戦争。 その単語を聞いた途端、頭がはっきりしてきた。 頭がずきずきと痛んでいる。 ﹁うっ⋮⋮どうなっている﹂ ﹁頭に被弾したのでございます。ですが、弾は兜が弾きました﹂ 頭の感覚から判断するに、兜は脱がされ、代わりに包帯が巻かれ ているようであった。 鈍痛がする。 ﹁起きないでくださいっ!﹂ アンジェが起き上がろうとすると、ギュスターヴが止めた。 ﹁大丈夫だ⋮⋮なんとかな﹂ アンジェはそのまま上体を起こしたが、目眩がするわけではない。 ﹁本当でございますか﹂ ﹁ああ﹂ 痛みの元は、額の左、髪の生え際の当たりにあるらしい。 そこを元に酷い鈍痛があり、脳も揺れているような朦朧とした気 分だが⋮⋮気を失うほどではない。 歩けないほどの体調不良も、感じない。 鼻や耳を手でさわっても、幸い何も出ていなかった。 2060 頭蓋を割られた場合、鼻や耳から血や粘液が出て来ると聞く。 耳に水が入った時のように、首を傾げてトントンと耳を打ってみ たが、液体が漏れ出てくる感覚はない。 大丈夫なようだ。 ギュスターヴが差し出した手を掴み、立ち上がった。 ﹁どのくらい寝ていた﹂ ﹁三分ほどです﹂ ﹁クッ⋮⋮﹂ 三分というのは、短いようで長い。 特に戦況の転換期においては。 戦場に目を移す。 目の前に、ぼうぼうと燃える盛大な焚き火があるのを、アンジェ は呆然とした目でみつめた。 あぁ、油が巻いた防壁に、火が移って燃えさかっているのだ、と すぐに察する。 鼻を使うと、火にかけすぎた油鍋のような、揮発した油の独特な 臭いがした。 挺身騎士団の連中は、焚き火を乗り越えることはできないので、 左右を大きく迂回して進もうとしているが、こちら側にまだ残りが いるようだ。 ﹁包囲は、どうした﹂ ﹁敵は射撃の後、風のように引きました。両脇から襲った分隊をか わすと、転身して攻撃に移り︱︱今、向こう側は混乱しているよう 2061 です﹂ 全部、何から何までお見通しだったのか⋮⋮。 教科書通りにやったものを、一つ一つ丁寧に逆手に取られてしま った感じだ。 号令によって一斉に突っ込んだものをかわされれば、横からの攻 撃に対しては陣が整っていない。 叩かれれば容易に混乱してしまう。 ﹁指揮をしに行く﹂ ﹁⋮⋮ハッ﹂ ギュスターヴは少し迷ったそぶりを見せたが、敬礼をした。 アンジェとて、悔しくないわけではない 意趣返しをしてやりたい。 そのためには、敵を追い詰めればよいのだ。 橋が無事だというが、今は使えないのだろう。 恐らくは、大量の難民が渡り終えるのを待っているのだ。 でなかったら、こんなところで防衛戦をする必要はない。 後ろに何も守るものがないのであれば、こんな戦闘は無意味なの だから。 つまり、引きしろは無限にあるわけではない。 そして、追うためには兵を混乱から救わねばならない。 2062 ﹁また銃に撃たれぬとも限りませぬ。あまり先頭に近づかぬよう﹂ ﹁わかっている!﹂ アンジェは、副官が捕まえていてくれた馬にひらりと跨ると、進 みはじめた。 頭には、未だ激しい鈍痛があった。 2063 第138話 勝利の行方 ﹁ユーリくんっ、向こうは大丈夫です! 時間通りにやれます!﹂ カケドリに乗って駆けてきたミャロが、到着するなりそう言った。 時計を見る。 今朝、リャオと時刻合わせした時計は、打ち合わせの時間の一分 前を指していた。 ﹁橋はどうだ!﹂ ﹁もう渡り終えます!﹂ ﹁わかった! お前は先に橋を渡れ!﹂ ﹁はいっ︱︱︱では、ご無事で!﹂ ミャロはそう言うと、橋の方角に駆けていった。 ﹁撒菱の残りを撒けッ!!﹂ 俺が叫ぶと、何人かが腰袋に手を入れ、撒菱をひっつかみ、迫り くる敵の頭上にばらまくように投げた。 数が少ないのでちびちび使っていたが、もう最後だ。 リャオの担当正面は、敵に向かって下り坂になっているので、燃 えた荷車を突っ込ませるといった派手なこともできるが、こちらは 勾配がないので、やれることが限られている。 こちらは圧倒的劣勢なので、まともにぶつかりあえば、子供と大 2064 人が力比べをするように、一瞬にして力負けしてしまう。 撒菱を投げれば敵列の中でランダムに足を負傷する者が出るので、 そいつらがいわば障害物となり、勢いが鈍る。 ﹁よし、最終線まで退くぞっ!! 退け、退けえッ!!﹂ 手で大きくあおりながら叫ぶ。 同時に、自分も走り出した。 足が痛む。 勢いで敵の大将を狙撃した時に負った火傷だ。 足の裏の皮が、一歩踏みしめるたびに、焼き付くように痛む。 敵方も負けじと追いすがってくる。 目と鼻の先には、一際目立つように付けられた白線があった。 後ろを見て、ひどく遅れている後続がいないことを確認したあと、 ﹁切り倒せっ!!﹂ 大声で叫んだ。 森の少し奥まったところでスタンバイしていた木こりを見ると、 戸惑った顔をしている。 なにをのんびりとしていやがる。 一瞬、殺意が沸いた。 ﹁いいから、切り倒せッ!!!﹂ もう一度そう言うと、木こりは斧を振り上げ、既に大きく切り込 2065 みの入った木に叩きつけた。 一度では倒れなかったようで、二度、三度と斧が打ち下ろされた。 全員が線をまたいでから、たっぷり三秒ほど後、ギギギィ⋮⋮と 繊維が千切れる音を響かせながら、木が倒れてきた。 その時、敵は眼前に迫っていたが、最前列の連中は、倒れてくる 木に気づき、上を見ながらタタラを踏んで止まった。 押しつぶせなかったのは痛いが、こちらに残る敵がおらず、応戦 する必要がないのは助かる。 ﹁よし、このまま橋を渡るぞ︱︱! 傷を負っている者は、荷物を 全て捨てて走れ!!﹂ 後ろを見ながら駆け出すと、倒れた木が、ズゥン⋮⋮と地面をう ち、枝のついた樹冠を道に横たえているのが見えた。 ***** 橋に辿り着くと、ほぼ同時に等距離の木を切り倒してきたらしい リャオの隊が、到着したところだった。 リャオの隊もまた、こちらと同じように、ボロボロだ。 ﹁リャオ﹂ ﹁ユーリ殿﹂ さすがに疲れた様子で、肩で息をしている。 眼と眼が合うと、お互い通じ合うものを感じた。 2066 ﹁おまえら、先に渡れ!﹂ 俺が言うと、 ﹁ユーリ殿に従え! 渡れるものから渡れ!﹂ と、リャオのほうも指示を飛ばした。 手勢がぞろぞろと渡り始める。 橋には、難民のしっぽが残っているくらいで、殆どは向こう側に 渡っていた。 向こう側は大分詰まっているようなので、ただ通り抜けるように 渡って終わり、というわけにもいかないだろうが、そのうちには渡 りきりそうだ。 このタイミングを測るのはミャロの役目だったが、本当に過不足 がない。 最良と言って良いタイミングで、同時にたどり着くことができた。 ﹁すまんな。結局、戦うことになっちまったようだ﹂ 俺がそう言うと、リャオは心外そうな顔をした。 いくさ ﹁こういう戦いなら構わない。俺は絶死の戦が嫌だっただけだ﹂ まあ、そうだよな。 玉砕死守前提の戦いと、通常の撤退戦では話が違ってくるし。 ﹁できれば、その戦いもしないで済ませたかったがな。まあ、無理 だったか﹂ 俺の方でも死人が出たし、リャオのほうでも犠牲者は一人二人で 2067 は効かないだろう。 幸運にも生き残った兵どもは、必死に橋を渡っている。 死にたい人間など一人もいない。 特に、死地から逃れられる寸前とあれば、なおのことだ。 ﹁そちらのほうも、ずいぶんと怒り心頭の様子だな﹂ と、リャオが言った。 リャオも、こちらも、稼げている時間は一分もない。 嵌められたことが解っていても、いや、だからこそか、敵は血眼 になって迫ってきている。 まだ若干遠いとはいえ、十分に目視できる距離だ。 リャオが登ってきた登り口のほうからも、攻め上げてくる兵ども が見える。 次々に木を乗り越え、もう木は先頭の後ろに隠れ、上の方の枝し か見えなくなっていた。 ﹁お前のほうもな。ずいぶんからかったんだろう﹂ ﹁まあな﹂ ふっ、と自然に笑みが浮かんだ。 おかしみが湧いてくる。 敵が死が壁となって迫っているのに、それほど恐ろしくもない。 それは、いかな逆境にあっても、自分が彼らをコントロールでき ているという感触があるからだろうか。 2068 ﹁んで、あいつは何をやっている﹂ ﹁研いでるんだろう﹂ 俺が見た先では、ドッラが道端にしゃがみこんで、一生懸命に槍 を研いでいた。 見るからに荒い砥石で、水筒の水をかけながら、ガシガシガシと 煙をふきそうな勢いで研いでいる。 とにかく刃が付きゃいいんだ。って感じだ。 その姿は、異様であった。 ふたえ 幾度も剣を受けたのか、横に置いてある兜も傷だらけなら、なぜ か二重に羽織っている鎖帷子も、ボロ布のように所々千切れている。 眉のあたりに被せるように、鉢巻のような布を巻いていて、これ は真っ赤に染まっていた。 おそらく頭に傷を負っていて、血が目に入らないよう巻いている のだろう。 どんだけ戦ってきたんだ。 ﹁ドッラ、やれんのか?﹂ 俺がそう声をかけると、ドッラは仕上げに水筒の水を槍にかけ、 砥糞を落とし、立ち上がると、水筒の残りを飲みほした。 砥石と水筒を、道端に放り捨てる。 砥石は、上質の仕上げ砥ともなれば軽々に捨てられないほど価値 があるが、荒砥はぶっちゃけただの砂岩なので、捨てても問題ない。 ﹁そのために休んでいた﹂ 2069 ドッラは言った。 槍を片手に近寄ってくると、汗の乾いた濃い体臭と、血臭の入り 混じった独特の臭いがした。 少し見なかっただけなのに、圧力が違う。 人が変わったというか。 仮にも戦場を経験したからだろうか。 ﹁頼めるか﹂ ﹁おう﹂ ﹁鉄砲が出てきたら、欄干に寄れ。どうにかする﹂ 俺は持っていた鉄砲を掲げて見せた。 これは最初に会敵した斥候が持っていたもので、俺がアルビオ共 和国から輸入したものよりモノが悪いが、あれより銃身が短く、取 り回しが良い。 ﹁よし、じゃあ、行くか﹂ ﹁ああ﹂ リャオが歩きはじめた。 俺も追うようにして橋に足をかける。 敵はもうすぐそこまで迫っているが、こちらの兵は橋を渡りきれ ていない。 やはり、向こう側がつかえているようだ。 俺は、橋を真ん中まで来ると、欄干に背をつけて鉄砲の用意を始 2070 めた。 もう、鉛玉は二発しかない。 ﹁後ろから八名、槍衾の用意!!﹂ たまたま、列の最後尾にいたのがリャオの兵だったため、リャオ が指示を出した。 ﹁お前もだ、ガーニィ!! 槍を立てておけ!!﹂ 俺が名を知らない兵に指示を飛ばす。 俺とドッラが取り残されているので、槍は構えず、立てておくの だろう。 たいせい 刺さったら大変だ。 ﹁来いっ!!﹂ れっぱく ドッラの裂帛の大声が聞こえた。 敵が追いついたのだ。 顔を上げてそちらを見ると、敵の集団の眼前で、ドッラが槍を担 ぐようにして天に突き刺し、構えていた。 橋は、敵味方の怒号が入り混じり、喧騒に包まれている。 その中でさえも鮮烈に響いた声は、敵を威嚇するに十分だったろ う。 が、恐れをなし最前列が怯えたところで、後ろからの勢いがある。 いっとき止まることすらなく、敵は押し寄せてきた。 間合いに入った瞬間、﹁オラアッ!﹂という掛け声とともに、ド ッラの槍が凄まじい勢いで振り下ろされた。 訓練によって鍛え上げられ、技を覚え込んだ巨身から繰り出され た槍は、騎士がとっさに掲げ上げた盾を、苦もなく砕く。 2071 肩口から侵入した鉈状の穂先が、細い縄網でも裂くように、鎖帷 子ごと敵の胴体を割った。 真っ二つに切り開かれたのかと思うほどの斬撃を見舞った後、ド ッラは止まらず動いた。 その場で一回転し、勢いを乗せて小さく一歩を踏み込みながら、 這うように身をかがめた。 足元を一迅の風が撫ぜるように、槍が走った。 たやす 竹でも割るような容易さで、足が四本、橋上にはじけ飛ぶ。 ドッラは足を大きく振って、踊るように体勢を整えると、石畳を 蹴って距離を作った。 豪快だ。 ドッラの恵まれた体格だからこそできる芸当で、俺では無理な立 ち回りであった。 一瞬、憧れに似た感情が胸に去来する。 が、戦場に物語的な情緒などはなく、橋は一人の英雄の独壇場で はなかった。 敵は止まることなく押し寄せてくる。 足をぶった切られた騎士は揉むようにして後ろに流れ、あるいは 頭をかばいながら踏み越えられ、敵の流れは大して滞らない。 俺は後ろを見た。 列はまだ橋の四分の一ほども残っている。 ドッラは真ん中くらいの地点にいて、ジリジリと下がっている。 ああ、糞。 2072 最後の火炎瓶、取っとけば良かったか。 ﹁もたねえぞ! もっと早く下がれねえか!﹂ リャオが叫んだ。 ドッラは後退しながらも槍を繰り出し、敵を屠っているが、集団 の圧力はいかんともしがたい。 一歩下がり、二歩さがり、それが十歩になり、隊列の後端まで迫 るのは、あっという間だった。 俺は羽織っていた服を脱いで、欄干の外、つまり川に放り投げた。 ﹁おいっ! まだ渡りきっていないぞ!﹂ リャオが焦った声で言う。 ﹁大丈夫だ! 全部は崩れん!﹂ たぶん。 俺の合図に従って、上流の森の中から弓手が二人現れ、持ってい た松明の炎を矢に移し、射放った。 火矢が尾を引いて、橋の中央、橋脚のところに放たれる。 俺は欄干から身を乗り出し、橋脚の根本を見た。 燃え落ちた橋の反対側に置かれているのは、燃えやすい枯れ葉を たっぷりと付けた枯れ枝の山だ。 火矢の一本がそこに入ると、一瞬の間を置いて、勢い良く燃え上 がった。 2073 ***** ﹁その火を消せ!﹂ その声は、敵のほうから聞こえてきた。 クラ語だ。 聞き覚えのある女の声⋮⋮というより、叫びだった。 男どもが放つ大声の中では、微かにしか聞こえないが、良く通る 異質な声は、妙に耳に残った。 女は、橋の反対側に立って、一生懸命に声をあげているようだ。 ﹁水筒の水でもなんでもいい、火に水をかけろっ!!﹂ なんてことを言うやつだ。 というか、良く火に気づいたな。 まあ、でも無理だろ。 火が燃えてるのは橋脚の根っこのところだ。 橋の上からはよっぽどある。 水筒の水を撒いたところで、落ちる間に散ってしまい、水しぶき になるだけだ。 ﹁ドッラ! 巻き込まれるなよ!!﹂ 俺がそう叫んだ時だった。 2074 ・ ・ ボムッ、というくぐもった爆発音がしたのと同時に、橋が大きな せきをしたように震えた。 上手く崩れるか、一瞬緊張が走る。 くさび 俺は、橋脚の根本を少しばかり石工に崩させ、そこに火薬をしこ たま詰めた。 その時、輪石を爆発で割るように、楔も据えておいた。 かなめ 石造のアーチ橋は、アーチを形作る輪石が要となっている。 整って輪状に組まれた石は、上から下へと寄りかかる形で半円を 作り、アーチの上に積まれた何トン、何十トンもの石塊の重みを支 えている。 支えているだけでなく、その重みによって輪石同士がぎゅうぎゅ うと押され、接触面に強烈な摩擦抵抗が生まれることによって、横 に動かないようになってもいる。 そこを崩せば、どうなるだろうか。 ・ ・ ・ 橋は、全体が緩んだ。 敷き詰められたまま動かなかった石畳に隙間ができ、力学的な寄 る辺をなくした橋は、自らの重みで形を失いはじめた。 ﹁おい、ドッラ!﹂ ドッラは、俺の声が聞こえていないのか、揺れる橋の上、槍を構 え一歩も引かぬ様子を見せていた。 いやいや、引けよ。 そこは引こうよ。 変なテンションになってんのか。 2075 奥州平泉での弁慶的な。 ﹁聞こえねえのか!﹂ 俺は一歩橋のほうに足をのばし、ドッラの腰帯を引っ掴んで思い 切り引っ張った。 ﹁うおっ﹂ ドッラが変な声を出した。 ﹁死ぬぞ!﹂ たたらを踏んだドッラを、重い荷物を放り投げるように転がした 後、ふわりと、ひどく懐かしい感覚を覚えた。 エレベーターが下がる時というか、飛行機が降りる時のような、 あの感覚だ。 うわ、崩れてる。 崩れ行く石畳を蹴るが、固い地面ではなく、蹴ったぶん反対へ動 いてしまう何かを蹴った感触しかしなかった。 それでも体は少しながら動き、俺は右手を伸ばした。 腰下まで落下したところで、誰かが手を掴んだ。 何者かの手を掴み返しながら、崩れた橋の石くれの壁面に足をつ く。 握った手を頼りながら、踏み上がるように壁を踏み上がり、一足 で橋を登った。 力強い手に引っ張られながら、よたよたと立ち上がる。 2076 ﹁大丈夫か﹂ 手を取っていたのは、リャオだった。 ﹁おお、助かった﹂ 危なかった。 興奮と、今頃やってきた恐怖で、ゾクッと体が震えた。 間抜けなことに、左手には鉄砲がまだ残っている。 捨てりゃ良かったのに、持ったままだった。 まあ、助かったならいいか。 俺は、後ろを振り返った。 ***** 橋は、消滅していた。 し 下を見ると、細かい砂煙をわずかに立てながら、瓦礫が川に洗わ れている。 け 川面まで達した瓦礫に取り付いている敵兵も幾らかはいるが、時 化の日の岸壁のように、冷たい水がざっぱざっぱと叩きつけられて いる。 これでは、すぐに流されてしまうだろう。 意外なことに、崩れる時の勢いがあったのか、真ん中の小島の上 に残っている奴はいなかった。 2077 あれだけ橋に満ち満ちていた敵兵は、ほとんどが海ならぬ川の藻 屑となったようだ。 反対側からこちらへ通ってくる方法は、なさそうだ。 そして、俺はもはや、祖国に居た。 ﹁終わった⋮⋮のか﹂ 思わず口をついて、言葉が出ていた。 シヤルタを出てから、これほど長い期間、精神をすり減らし、気 を揉み続けてきた難題が、今終わった。 その実感があった。 帰るまでが戦争とはいえ、ひとまず終わった、と考えてもいいの だろう。 ﹁ああ、勝ったな﹂ リャオが言った。 勝った。 それは、まるで初めて耳にする概念のように、耳に響いた。 確かにそうだ。 そうか、勝ったのか。 2078 第139話 鬨 敵兵たちは、崩れた橋の反対側に、まだ残っていた。 どれだけ恨みがましい目で見ても、俺たちとの間には川が刻んだ 深い谷がある。 俺たちの勝ち逃げだ。 こちら側に、森の中までぎっしりと敷き詰められた人々も、徐々 にばらけはじめ、超密集状態は緩和されつつあった。 これから難民を収拾するのも、一苦労だ。 だが、とにかく、終わった。 ﹁勝ち鬨でも上げるか﹂ リャオが言った。 ﹁エイエイオーってやつか?﹂ めんどくさい。 ﹁いや、せっかく敵がいるんだし、なにか声明を出したらどうだ﹂ ﹁声明か﹂ 勝ったぞー、ってか。 それは、やっておいたほうが良いかも知れない。 2079 歴史だの事実だのなんてのは、所詮は言ったもん勝ちだ。 しゃく こんだけ苦労したのに、なんか曲げられて﹁負け犬みたいに逃げ 帰った﹂みたいに伝えられたら癪だ。 ﹁まあ、気が進まんならいいが﹂ ﹁いや、言うぞ﹂ ﹁そうか、じゃあ、これを使え﹂ リャオは拡声器を渡してきた。 銅かなにかの金属製で、メガホンのように円錐状になってるやつ だ。 リフォルムで買ったのか、再会して以来カケドリの鞍に下げてあ ったが、一々使うのが面倒だったらしく、使っているところを見た ことがない。 ずっと吊るしっぱなしだった。 ようやく日の目を見るか。 ﹁悪いな、借りる﹂ と、俺は拡声器を受け取った。 ***** さて、どうするかな。 俺はしばし考え、文章を組み立てた。 2080 挑んでみると、なにやら膨大な時間を要するように思われた。 おおいくさ 一晩机に向かって考えなきゃ納得できるもんができそうにない。 考えてるうちに、敵は飽きてどっか行ってしまうだろう。 もうアドリブしかねえ。 よーし。 ﹁十字軍諸兄!! 遥々北の地までご足労痛み入る!!﹂ と、まずはおちょくった。 きどう ﹁我が名はユーリ・ホウ! 手勢が少々足りぬ故、正々堂々の大戦 とは参らなかったが、ここは奇道も兵法の内とさせて頂きたい!!﹂ と繋ぎ、 みやげ ﹁この勝利、我が初陣の何よりの土産とさせていただく!! それ では、道中お気をつけて帰られよ!!﹂ 勝手に勝利宣言をし、締めくくった。 ﹁よし﹂ ま、こんなもんだろう。 ﹁いや⋮⋮さっぱり意味が分からなかったが﹂ リャオが不満げに言った。 いや、シャン語で言っても意味ないしな。 2081 それにしても、橋のきわに出てきている、あの妙に派手派手しい 紫色の外套を着ている男は、相手方の総大将かなんかか? 俺とやりあった、あの顔に布をかけた女騎士みたいなのは違った のか。 紫という色はあちら側じゃ高貴色らしいので、上官が地味な服装 をしているのであれば、普通部下のほうは紫を着ないだろう。 やはり、あいつが総大将のはずだ。 もしかしたら、あいつが教皇の弟とかいうエピタフ・パラッツォ か? さすがにないか。 こんな危険な浸透作戦を現地で指揮するとか、立場的にちょっと 考えづらい。 じゃあ、俺の相手をしてた女は、紫のあれの⋮⋮愛人かなんかか? うーん、よくわからん。 あとで情報を集めてみるか。 そう考えながら、じっと観察していると、 ﹁射殺すのだ!﹂ という声が、谷の反対側からにわかに聞こえた。 紫の横にいた男が弓を掲げあげ、引き絞りながら、こちらに狙い を定めた。 ﹁危ないっ!﹂ 2082 リャオが俺の服を握った時には、もう矢は放たれていた。 といっても、不意打ちでもなく、弓を構えたところから見ていた ので、普通によけたのだが、避けた後﹁あ、後ろにいる奴に刺さる かも﹂と思った。 が、矢は誰かに刺さる前に、ガンッと金属音を発して弾かれてい た。 ドッラの槍の鉈のような穂先が、盾のように矢を弾いたのだ。 ﹁ったく、シャレの分からねえ野郎だ﹂ さっきの演説でキレたんかな。 ﹁そういう問題でもねえだろう。気をつけろ﹂ ドッラが言った。 さっきは俺に助けられたくせに。 ていうか、俺の方も、ドッラを援護する用に持ってた鉄砲がある んだよな。 せっかくだから撃っとくか。 鉄砲の火蓋を開いて、火皿の中を確認した。 飛んだり跳ねたりの間でこぼれてしまったかと思ったが、大した もので、ちゃんと残っていた。 俺は鉄砲を構えると、紫の男に照準を合わせた。 構えた直後、周囲がそれに気づき、焦った様子で男の肩や服を引 2083 っ張った。 が、男は頑然とした様子で動かない。 おらぁ、撃ってみろ! 鉛玉がなんぼのもんじゃい!! チャカが怖くてヤクザがつとまるか! みたいな感じか。 いや、違うか。 ヤクザじゃねえもんな。 しかし、度胸あるね。 まあ、ちょっと狙って当てられる距離ではないから、高をくくっ てるのかもしれない。 たぶん、敵方が鉄砲でなくて弓矢を使ったのも、名手であれば弓 矢のほうが命中率が高いからだろうし。 その代わり初速が遅いので、避けるのはそこまで難しくないのだ が。 と思いながら、誤差を適当に修正しつつ引き金を引くと、火縄が カチャンと落ちた。 火薬が炸裂し、耳元で起こった轟音に耳がキーン、と痺れた。 外れた。 頭の横を掠めるまでいったが、隣のやつにあたってしまった。 薬莢でカートリッジ化して、機構を組み入れて連射できるように なれば、すぐに狙いを修正して撃てるんだけどな。 銃口から詰め直すんじゃ修正どころじゃない。 2084 やっぱり、前装式はまどろっこしい。 今後の課題だな。 ともあれ、向こうも一発、こっちも一発だ。 もう一発込めて放つころには、向こうは退避するだろう。 そんな気がした。 ﹁引き揚げるぞ! 矢が来る前に兵を引かせろ!!﹂ 大声でそう叫んで、俺は戦場に背を向けた。 2085 第140話 戦勝の夕べ その晩、最寄りの宿場町ともなっている町の境界あたりに、俺た ちは陣取った。 陣幕はすべて避難民に貸し与えられ、広場に張った幕の中では、 敷き詰められるように人々が寝ているはずだ。 既に臨時徴発されていた家屋の中もまた、同じ状態であった。 そんな町の外側︱︱何もない、つい最近木が伐採され、一辺がさ さくれ立った切り株の群れと、無造作に放っておかれた乾燥中の倒 木だけがある、そんな寝るに適さない場所に、俺たちは集まってい た。 三百と数十人は、夏のうす曇った空の下に、ただ身のままだった。 しかし、寒いわけではない。 皆が囲んでいる真ん中には、キャンプファイヤーのような大型の は 焚き火があった。 パチパチと爆ぜる薪の炎は、周囲を赤く照らし、放射される熱は 人々を温めている。 そして、全員はめいめいに酒を持っていた。 足に傷を負っているものは倒木に座っているが、他は皆、立って いた。 ﹁お前ら、今日はよくやってくれた!!﹂ 2086 と、俺は盃を手に持ち、焚き火を囲む輪から一歩内側に立ち、大 声で言った。 ﹁お前らの勇戦のお陰で、敵は何一つ得るものなく尻尾をまいて逃 げた! 我々の勝利である!﹂ 遅ればせながらの勝ち鬨をあげると、皆は一斉に唱和し、オォォ ーー!!! とコダマするような声が響いた。 大声の余韻が過ぎると、 ﹁このような状況ゆえ、浴びるような量の酒は確保できなかったが、 どうか今日は飲んでくれ!﹂ と言って、 ﹁と、まあ俺からはこれくらいにしておこう。お前らを讃えてやり たいのは山々だが、野郎の演説なんざ、あんまり耳に良いもんじゃ あないからな﹂ そう締めくくると、気がほぐれている兵どもの中からは、ぱらぱ らと笑いが沸いた。 あっさりと下がって、椅子に座った俺の代わりに出たのは、キャ ロルだ。 キャロルは、戦塵で煤けた金髪を焔火で赤く照らしながら、一歩 進み出た。 それだけで兵たちから賑やかしい声が消え、スッ︱︱と耳を澄ま す音が聞こえた気がした。 それほど静かになった。 2087 俺には実感がないが、封建社会に生まれ育った人々にとり、王女 たるキャロルの存在は、やはり特別なのだ。 それは、シヤルタの民にとっても、キルヒナの民にとっても変わ りはない。 ましてや、城の奥にいるはずの王女が、今ここにあり、まさに勇 を労おうとしている︱︱。 大人になり、政治を知り、忠義を横に置いてでも守らなければな らない家庭を持ったなら、また感じ方が変わってくるのかもしれな い。 だが、今ここにいる少年あるいは青年は、まだ無垢な世界の中に 生きている。 ﹁まずは、諸君に感謝を述べたい。今、この村にいる民の命がある のも、そして私の命があるのも、諸君の今日の働きのお陰だ。本当 に良く戦ってくれた﹂ そして、キャロルは目を瞑って、一瞬下を向いた。 何気ない仕草が、劇的に見える。 ﹁そして、惜しむらくも今日、戦場に散った十四名の魂に、祈りを 捧げたい﹂ キャロルは、ちらと焚き火の横を見る。 そこには、小さなテーブルに、同じように酒が注がれた盃が十四 杯乗っている。 この十四杯の酒は、今日飲まれることはない。 死者に捧げられた杯なのだ。 2088 十四名の中には、最初の五十六名の学院生も、二人入っている。 俺は、彼らの親族に、彼らの死を伝えなければならない。 そして、キャロルは目を瞑った。 めいめいが俯き、俺もまた瞼を閉じる。 こうべ まも しばらくして目を開けると、キャロルはまだ黙祷を捧げていた。 たみぐさ だが、さほど待たぬ内に頭を上げた。 むこ ﹁諸君は今日、万の無辜の民草を救い、そして姫を護った︱︱﹂ そし 姫というのは、キャロルのこともあるが、もう一人のことも含ま れているのだろう。 おお ﹁今、この巨きなる半島にあるどの人でさえも、諸君の功を謗るこ とはできぬ。なぜならば、今日、諸君が為したことこそが、騎士た る者の栄誉、そのものだからだ﹂ キャロルは一瞬区切り、息を吸った。 ﹁誇れ! 諸君にはその資格がある! そして⋮⋮﹂ 若干もったいぶって、続ける。 ﹁勝ち鬨を上げた戦士には、しばしの休息が必要だ。それでは、今 日の勝利と、散っていった仲間たちに!﹂ キャロルは、手に持っていた杯を掲げ上げた。 皆が一斉に追従する。 2089 ﹁乾杯!﹂ キャロルがそう言うと、乾杯! と、折り重なるように三百人の 声が続いた。 ***** 宴会は、酒も料理も少ないながら、戦が終わった興奮で賑やかし いものになっている。 おのおの 各々の若者が、槍を並べた仲間と歓談し、あるいは別の方面で戦 った者の話に聞き入り、ガヤガヤと武勇伝を言いあっていた。 一人数杯しかない酒でも、特に酒に弱いのか、顔を赤くしている 奴もいる。 いい夜だ。 俺は、椅子に座って、少し離れたところから、ただそれを見てい た。 ﹁どうしました? 気が乗りませんか?﹂ 傍観を決め込んでいた俺に、隣に来たミャロが言う。 軽く横を見ると、鎖帷子を含め、軍服の類は全て脱いで、町民の ような格好をしていた。 そうしていると、本当にただの少年のように見えた。 2090 いや失礼か。 でも、男ものの服を着ているのだからしょうがない。 ﹁いや、楽しそうだな、と思っていた﹂ 再び視線を火に戻し、俺は言った。 ﹁それは、そうでしょう。勝ったんですから﹂ ﹁だが、ここに居ない奴らもいる﹂ 十四名ほど。 ﹁それを考えていたんですか﹂ ﹁そうだ﹂ ﹁戦争を始めれば、必ず犠牲者は出ます﹂ ミャロは、何かを察したのか、死に水で言葉を濡らしたような声 で言った。 ﹁それはそうだな。当たり前のことだ﹂ 戦争で人が死ぬのは、路面を走れば車輪が削れるように、当たり 前で必然的な結果だ。 敵幾人に対してこっちの被害が何人、とかの比率はあろうが、人 対人の戦争である限り、ゼロにはならない。 消耗は最初から見込まれているし、人死にが出るとは思わなかっ た、などという戦争はない。 ﹁まあ、感傷に浸っているだけだ﹂ ﹁⋮⋮生者にも慰めは必要です﹂ 2091 この戦勝の宴を批判しているように思われただろうか。 勝利を祝うのではなく、死者を悼めと。 ﹁分かってるさ。兵たちは十分な働きをしたし、勝利を楽しむべき だ﹂ この宴が気に入らないわけではない。 誰かに必要性を諭されて許可をしたわけでもないし、むしろ自分 から行うように言い、盛り上がるよう工夫さえした宴だ。 戦勝には祝いが必要だ。 そうでなければ命をかけた兵は報われないし、勝ったのに葬式の ような雰囲気では、戦う甲斐もない。 ﹁ユーリくんのことです﹂ ミャロはぴしゃりと言った。 ﹁ユーリくんは、大変苦労して務めをこなしました。今くらい、気 を楽にしてもいいと思います﹂ 俺のことか。 ﹁⋮⋮いや、どうかな﹂ 死んだ連中は、戦わなければ死ななかった。 それを考えると、やはり思う部分がある。 だが、戦っていなかったら、今眠っている避難民のほうに死者が 出ていただろう。 恐らく、百倍、千倍の数が犠牲になっていた。 2092 それでも、死者は数字では計れないのだ。 死んだ人間には、それぞれの人生があり、それぞれの物語があっ た。 一人一人の人間として、彼らの人生を終わらせたのは、俺の判断 の結果なのだ。 一つ違っていたら、ここで輪に加わって酒を飲み、勝利の日を謳 歌していた死者たちがいる。 今、俺の目の前で宴に興じている人々と、なにが決定的に違った わけでもない。 それなのに、俺には判断に後悔があるわけでもない。 それが不思議な感覚だった。 これがホウ社の仕事であったら、人死にが出るような事故があれ ば、後悔も自責もしただろう。 二度と起こらないよう、再発防止の措置もしただろう。 だが、人が死んだというのに、そういうものが一切ないのだ。 後悔も自責もなく、俺は自分がよくやったと思っている。 ﹁どうやったら責任を取れるんだろうな﹂ ぽつりと言うと、 ﹁え⋮⋮?﹂ ミャロは意味が理解できない、というように不思議そうな顔をし、 ﹁応募要項の免責事項にありましたし、責任を問われることはない と思いますが﹂ 2093 と言った。 あぁ、それはそうなんだが。 ﹁そういう意味じゃなくてな﹂ ﹁では、償い⋮⋮ということですか?﹂ ﹁まあ、そうだ﹂ ﹁償いという事なら、お亡くなりになった二人の家には金銭的な保 障はできるでしょう。既にご報告しましたが、お二人とも嫡男では ありませんので、世継を亡くしたという意味の問題も起こりません﹂ ﹁分かってるよ。もう聞いた﹂ ﹁では、もしかして、死者への償い、ということでしょうか⋮⋮?﹂ ミャロが訝しげに言った。 まさか、俺がそんなことで悩むとは思っていなかったのかもしれ ない。 ﹁まあ⋮⋮そうだ﹂ ﹁それは⋮⋮死者はなにも話しませんし、こちらから何かを渡して ⋮⋮その、嬉しがってもらう事もできませんから⋮⋮。難しいです ね﹂ ミャロの口調に、馬鹿にしたような響きはない。 真面目に考え込んでいるようだ。 ﹁魂の行く先には諸説ありますし、命が絶えた瞬間に消えるという 説もあります﹂ 2094 シャン人の宗教観というのは、宗教というより神話のようなもの で、死生観をきっちりと定義するようなものではない。 せいしょう 色々とアバウトなところがある。 古式ゆかしい信仰では、聖沼の底に沈んで輪廻転生のような形で 再利用される。という教えがあったが、聖沼を離れて長い今では、 シャンティニオン 極楽浄土のようなところにいく、という考えも生まれたりもしてい る。 聖沼というのは、つまりは黒海のことで、大皇国の首都が健在で あった頃には、一種の聖地でもあった。 ﹁何らかの形で弔っても、それで償いになっていると思うのは、自 己満足なんだろうな﹂ 死者は何も意思表明をしないのだから、自分で何かをやって、そ れで償いになったと思うのは、自分を慰める意味しかない。 それでも、何かをしたいと思うから、名誉を称え、家族に勇敢に 戦ったと伝え、遺族の生活を保障をしたりする。 さきほどキャロルが黙祷を捧げ、大勢の前で死を悼んだというの も、その一端にはなるのだろう。 実際、それは無価値なことではない。 死後の霊魂に意思が宿っているなら、かなりの確率で慰められる と思うのは、間違いではないだろう。 だが、そのことで俺が何かを果たしたと思うのは、違う気がする。 ﹁でも、償いが難しいのは死者に限った話ではありませんよ。騎士 院にいてさえ、骨が粉々に折れて、手や足が不具になる事故は起き ます。そういう人にどれだけ償いをしても、謝罪やお金で手足が治 るわけではありません。人生は台無しですし、悲観して自ら死を選 2095 ぶ生徒もいます。他人に取り返しのつかないことをしてしまうこと は、悲しいですが起こってしまうものです﹂ ﹁⋮⋮まあ、そうだな。深手を負っている奴もいるし﹂ 斬り傷や矢傷を負った者は数え切れないほどいる。 おおかたの処置は終わったが、包帯を取ってみれば神経が切れて いて手が動かない、という者も居るかもしれない。 また、破傷風かなにかで状態が悪化して死んでしまう。という者 も居るかもしれない。 そいつらに対して、俺はなにができるわけでもない。 ﹁あっ⋮⋮。いえ、そうじゃなくて⋮⋮、特別に責任を感じる必要 はないと言いたかったんですが⋮⋮﹂ ﹁ああ、そうか﹂ 別に、責任を感じているわけではないけどな。 ミャロの言っていることは、いちいち正論だ。 俺は、単に戦争という行いの特性に、面食らっているだけなのだ ろう。 酒を初めて飲んだとき、酔う感覚に戸惑うのと同じで、やがては 慣れる。 そんな予感がする。 それを好むようになるかは分からないが。 ﹁ボクは⋮⋮駄目ですね﹂ 2096 ミャロがぽつりと言った。 何がだ? ﹁きっと亡くなった方々も、ここでお酒を飲んで、楽しんでいます ⋮⋮とか、もっと上手くお慰めできれば良かったのに﹂ なんだそりゃ。 思わず、フッ、と吹き出してしまった。 どういう気休めだ。 ﹁あいにく、そういうのは苦手でな。さっきくらいのほうがいい﹂ ﹁そう、ですか⋮⋮﹂ ﹁それに、俺は落ち込んじゃいない。もう一度⋮⋮﹂ もう一度、なんだ。 ああ、そうか。 ﹁もう一度、戦うことがあっても、やっぱり⋮⋮同じようなことを、 そば できればもっと上手くやるだろう。だから、心配しなくていい﹂ ﹁わかりました。でも、お傍には居させてください﹂ 本当に物好きなやつだ。 ﹁勝手にしろ﹂ 2097 第141話 もう一つの戦い 前編* アンジェは、傷ついた狼のように道を歩いていた。 となかい ここは、現地の言葉で﹁馴鹿街道﹂と呼ばれている道で、ここを 北西に進むと、トナカイの放牧を糧とする民が暮らしていることか ら、そう名付けられたらしい。 略奪で奪われ、二束三文で流れてきたシャン語の本で、読んだこ とがあった。 ここらの地名と名所、街道などについて書かれた、旅行のための 本だった。 あれは、なんという題名だったか⋮⋮。 頭の中が霞がかったようで、思い出せなかった。 アンジェは、あっさりと思い出すのを諦めた。 ﹁姫、馬車にお乗りください﹂ ギュスターヴが何度めかの発言をした。 ﹁やめてくれ。最後の意地なのだ﹂ 既に馬車を引いている馬は、疲労が限界に達しつつある。 だから、本来なら御者席にいるはずの者も、降りて前に立ち、手 綱を持って馬を引いていた。 女の体重といえども、アンジェが馬車に乗るのは、さらなる負担 になるだろう。 2098 それに、自分だけ馬車に乗って楽をするわけにはいかない。 この有様は、自業自得なのだから。 ***** 四日前⋮⋮。 アンジェは呆然としながら、打ち崩れた橋の向こうを見ていた。 たまぐすり 橋は、真ん中を中心として、五分の四ほどが崩れてしまっている。 あたりにはまだ薄く煙がたちこめ、煙からは弾薬の焼けた臭いが していた。 みやげ ﹁この勝利、我が初陣の何よりの土産とさせていただく!!﹂ 崖の向こうで、ユーリ・ホウと思わしき者が、勝ち鬨を上げてい た。 負けた。 橋が健在であると聞いたときから続いていた、魔術にかけられて いるような感覚が、たった今、敗北という名の実感に変化したのを 感じた。 勝てる戦いだった。 少なくとも、こちらが向こうの戦力や実力を見誤っていて、最初 から勝てる見込みがなかった、という戦いではなかった。 つまり、いわゆる﹁戦う前に負けていた﹂という戦いではなかっ 2099 た。 ⋮⋮いや、本当にそうだったのだろうか。 こちらの勝利条件が、シャン人の姫を手に入れることだったとす れば、斥候が見た姫二人の姿は、あれも罠だったのだろう。 斥候が去って後、すぐに姫が退去したとすれば、この作戦が勝利 条件を満たす可能性は、万に一つもなかったということになる。 やはり、負けたのだ。 最初から最後まで、ユーリ・ホウの指図で踊っていたようなもの だ。 ﹁道中お気をつけて帰られよ!!﹂ リギティマ・アクセント 一連の作戦をやってのけたユーリ・ホウは、見事なまでに訛りの ない正統発音で、最後にそう言い放った。 しんがり その男は、今崖際に立ち、彼が守った人々を背にし、我々に真正 面から対峙している。 英雄︱︱︱。 その言葉が、アンジェの頭をよぎった。 かんなんしんく すべての艱難辛苦をはねのけ、民も兵も率いて連れ戻し、殿に残 って最後の一兵とともに脱出する。 せんぼう 戦場を脱出する最後の一人となることが将の理想であるとは思わ どうけい ないが、英雄的ではあるとアンジェは思った。 ふんまん 憤懣と悔しさで心をかき乱されながらも、憧憬と羨望の念が胸の 2100 うちに湧いた。 超えたい。 この男を超えて、王の中の王になりたい。 子どもじみた野望が、胸に去来する。 ﹁弓手はあるか! 前に出てきて奴を射よ!!﹂ エピタフが、怒りをあらわにした声で叫んだ。 すると、たまたま近くにいたのか、人混みの中から弓を携えた一 人が出てきた。 最前列の崖際に到着するなり、 ﹁早く射殺すのだ!!﹂ と命令が下される。 すぐさま弓手が弓を引き絞り、射放った。 シュパッ、と風を切りながら飛んでいった矢は、軽い⋮⋮本当に ゆるやかな曲線を描いて、吸い込まれるようにユーリ・ホウに向か った。 が、怖気づく様子もなく、ユーリ・ホウは少し動きながらフイと 半身をずらし、横にした。 体が横になれば、胸と腹の大部分が隠れる。 体の横は肩と腕でカバーされているのだから、頭に命中でもしな ければ、命の危険はなくなると言ってよい。 決闘代理人が良く行う防御術だ。 2101 冷静な判断だった。 みっともなく慌てふためいてくれれば、多少の意味はあったろう が、それもなかった。 それ以前の問題として、矢はユーリ・ホウに届く前に、やたら身 長の高い大男に、槍で落とされてしまった。 さきほど、橋の上で勇ましい戦いを演じたという男だろうか。 アンジェは、後方にいたため、橋上での戦いは良く見られていな かった。 不意打ちの矢が落とされたあと、ユーリ・ホウは鉄砲を構え、こ ちらへ向けた。 アンジェは、先程頭を撃たれたことを思い出した。 ユーリ・ホウの射撃の腕は、なかなかのものがある。 ﹁危ないっ! エピタフ殿を守れっ!﹂ と反射的に叫ぶと、 ﹁よしなさいっ! 必要はない﹂ え、とアンジェの頭の中に空白がよぎる。 ﹁悪魔の弾丸が私に当たるはずはありません﹂ エピタフは、わけのわからない事を言った。 対岸を見ると、のんびりと狙いを定めているのか、ユーリ・ホウ がその場で銃を構えて立っていた。 撃った。 妙に響く、一つの発砲音が渓谷に響いた。 2102 弾丸は川を渡り、エピタフを貫いた⋮⋮かように見えた。 だが、実際には、弾丸はエピタフの頬を浅く切り裂いたのみで、 エピタフを庇おうとしていた隣の騎士の顔面に命中した。 悲鳴を上げる間もなく、その騎士は倒れ伏した。 ﹁ほら、言ったでしょう。神は我々を祝福しています﹂ なんでもなかったように言う。 エピタフの中では、勝ちなのだろうか⋮⋮。 アンジェには、どちらかといえば、こちらが神に見放されている ようにしか思われなかった。 この世に運命や、運の流れというものがあったとすれば、それは あちらに傾いている。 神はなにもしてはくれない。 神は、腕を地上に伸ばしてなにかをすることはない。 だから、頼ったりあてにする存在ではない。 聖職者は、幸や不幸が起こると理由を後づけして神の意思の代弁 者を気取るが、神は地上に影響を与えるものではないのだ。 父はそう言っていたし、死に様をもってそれを証明した。 神の定める王道を体現していた父は、まったくもって不運に散っ た。 それとも、エピタフのあれは兵を励ますための上辺だけの嘘で、 彼自身はそうとは思っていないのだろうか? 2103 アンジェには、わからなかった。 ﹁さあ、我々は道を引き返して、帰りましょう。船が待っています﹂ エピタフはそう言った。 ここでの戦争は、終わったかにみえた。 ***** しんがり ﹁それでは、我々は殿を担当させていただきます﹂ しんがり アンジェは、早々といい述べて、集団の最後尾を取ることに成功 した。 そもそもが、後ろからの追手の可能性など絶無なので、殿に危険 はない。 船に乗り込むのは最後になるので、その点で危険ではあるが、ア ンジェはひしひしと感じる嫌な予感に従って、そのようにした。 一度上手くいかなかった仕事というのは、えてして続けて上手く いかないものだ。 それは最初から見込みが違っていたからで、最初のズレが後々ま で糸を引いてしまう。 今回のことがそれだ。 その予感は、その日の夕方、早々に的中することになる。 2104 ***** ﹁我が軍は、前線にて有力な部隊と激突。アンジェリカ様におかれ ましては、援軍の用意を⋮⋮とのこと﹂ 挺身騎士団の伝令がそう言った時、アンジェはおぞましい危機感 が這い上がってくると同時に、やっぱりそうなったか、と奇妙な納 得を覚えた。 この作戦は、敵地の奥深くに進出しても、敵の増援が出てこない ことを前提にしている。 それは、全く根拠のない前提条件ではなかった。 敵は大敗した敗勢の軍であるから、積極的に反撃をしにくること はないだろう。 エピタフはそれを理屈として提示したし、アンジェもまた、一応 は理屈になっていると思った。 だが、敵は来た。 後からならどうとでも言える結果論ではあるが、今思えばあまり にも楽観的な見通しだったのだ。 ﹁了解した。貴殿は戻りたまえ﹂ ﹁はい﹂ アンジェは、伝令が十分に遠ざかったのを確認すると、初めて口 を開いた。 2105 ﹁全軍を、撤退させる﹂ そう言ってから、その表現におかしな齟齬を感じた。 撤退といっても、そもそもが現在撤退中なのであって、今アンジ ェが歩いているのが撤退路となる。 ﹁来た道を戻れ﹂ ﹁ハッ! ですが⋮⋮﹂ 副長のギュスターヴが応じる。 ﹁後ろから、騎兵の影が見えた。追わなければならない﹂ アンジェは、はっきりとそう言った。 ﹁⋮⋮いいのですか?﹂ ﹁見えたのだ。分かるな﹂ 敗北を味わって、意気消沈しない軍団などはない。 神に忠誠を誓った挺身騎士団であっても、それは変わらない。 ウシリス スケルニト どれだけ鍛え上げようが、訓練をしようが、中身は人間なのだ。 物語に出てくる、死者の王率いる髑髏の軍のような、物も言わな ければ感情もない骨で出来た軍ではない。 一人ひとりが意思を持っているし、恐怖もすれば落ち込みもする。 たゆまぬ訓練と、誇りに支えられた軍ゆえに、目に見えて瓦解は していないが、士気は間違いなく下がっているのだ。 その上、馬には禄に飼葉を与えておらず、兵も飯を食っていない。 2106 そんな状態では、誰と戦えるわけもない。 アンジェとて、今手勢を率いて何者かと戦えといわれても、かな り難しいだろう。 ﹁私にも見えました。これより彼らを追います﹂ ギュスターヴはそう追従した。 ﹁私は前線を見てくる﹂ ﹁姫﹂ ギュスターヴは、咎めるように言った。 ﹁お前は撤退を指揮しろ。私もすぐに追いつく﹂ ﹁姫! 危険です!﹂ ﹁反論はなしだ。敵の陣容も分からぬでは対処のしようもあるまい。 それに、エピタフ殿の動きも見なければならぬ﹂ 敵の様子によっては、最悪の場合、部隊を道を使って戻すこと自 体が危険になりかねない。 まさか挺身騎士団が鎧袖一触で蹴散らされることはないとは思う が、もしそうなった場合は、街道を進むのは危険だ。 その場合⋮⋮皮肉な話だが、ユーリ・ホウがやったように、道な き森の中を進むことになるだろう。 ﹁わかりました。このギュスターヴ、指揮をお預かりします。くれ ぐれもお気をつけて﹂ ﹁分かっている。見てくるだけだ﹂ 2107 アンジェは馬首を返した。 ***** ﹁エピタフ殿!!﹂ 挺身騎士団をかき分けながらアンジェが往くと、エピタフは馬上 からこちらを見た。 ﹁アンジェリカ殿! いかがなされました﹂ ﹁どうもこうも、戦況を見に来たのです!!﹂ ﹁そうですか﹂ そう言うと、エピタフは一瞬だけ目に失望の色を浮かべ、ふいっ と顔をそむけた。 なんだ? ﹁それで、悪魔どもは止まらぬのか﹂ ﹁おそらく⋮⋮いえ、無理でございます﹂ と答えたのは、エピタフが跨った馬の下で跪く一人の騎士であっ た。 跪きながらも、顔は上げてエピタフを見ている。 見覚えがあった。 アンジェに貸し出された三百の兵にいた、四十人長の一人だ。 ﹁なぜだ。根拠をいいなさい﹂ 2108 ﹁根拠︱︱﹂その騎士は、一瞬呆然としたような表情をした。﹁い え、恐れながら申し上げれば、そういった段階ではないのです! 大司馬におかれましては、今すぐにでも引き返していただかなけれ ば、御身が危険なのです!!﹂ ああ、とアンジェは前線の様子を察した。 戦列は、恐ろしく仕込まれた調練によって、圧倒的劣勢にあって も粘り強い戦いをしているのだろう。 士気が落ちていることだけが原因ではなく、そもそもが彼らは完 全武装ではない。 行軍速度を上げるため、装甲となる鎧は船に置いてきており、軽 歩兵化している。 本来であれば、普通の軍であれば、とっくに崩壊して潰走に至っ ている状態で、ようやく持ちこたえているのではないか。 ﹁ファレンテ殿! 敵は鳥に乗って攻めてきているのか!!﹂ アンジェは、その騎士の名を名指しにして問うた。 あいろ ﹁はい。敵は、全兵が騎兵です!! 隘路が幸いして衝突の勢いは 鈍っておりますが、敵部隊も練度が非常に高く︱︱︱﹂ ﹁わかった!﹂ アンジェは男の言葉を遮るようにして言った。 ﹁エピタフ殿、速やかな撤退を!! 早急に兵を取りまとめなけれ 2109 ば︱︱﹂ ﹁黙りなさいッ!!﹂ ﹁︱︱︱ッ⋮⋮﹂ アンジェを面罵したエピタフは、今まで見たことのない顔をして いた。 口端を歪ませ、歯を噛み締めた渋面を作り、何かを睨むように目 に力が入っている。 アンジェは、それ以上なにも言えなくなった。 こういう時に口を出すとまずいことになる。と思っているのか、 挺身騎士団の他の面々はなにも口にしない。 緊急事態の最中であるにも関わらず、エピタフを中心として将兵 たちは不気味なほどに止まり、そのまま三十秒ほどが経った。 ﹁引き返します﹂ エピタフははっきりとそう言った。 ちょうく ﹁アンジェリカ殿、言うからには引き返すルートはあるのでしょう ね﹂ ﹁かなりの長駆となりますが、あります﹂ アンジェが言うと、エピタフは、 ﹁ファレンテ、あなたの一隊は、ここに留まって最後の一兵となる まで敵を押しとどめなさい﹂ 2110 と平然と言った。 アンジェは、一瞬思考が止まり、茫然となる。 ﹁エピタフ殿ッ! それはあまりにも⋮⋮っ!﹂ 思わず口が出た。 エピタフが下したのは、つまりは捨て石になれ。という命令だ。 ここで決死⋮⋮いや、絶死の抵抗をして、本隊を活かせというこ とだ。 これが普通の軍であったら、そんな命令はできない。 しんがり どれだけ激しい撤退戦の殿であっても、必ず死ぬと決まっている わけではない。 生き残れば褒美や賞賛が待っていると思えばこそ戦えるのだ。 死ぬまで戦え。という命令では、将も兵もやっていられない。 兵を駒として扱う指揮官としての立場からすれば、そういった命 令を下したい場面はいくらでも出てくるだろう。 だが、下したところで拒絶されるか、受諾したふりをして逃げら れてしまうので、意味がないのだ。 と言っているのと同じなのだから、それ と命令されて、自ら命を断つ徒弟がどこにい 自殺しろ 国家や自らの主への忠誠が、自らの命に勝るものでなかったら、 そんな命令は 自殺しろ は当然のことだ。 親方に るだろう。 が、エピタフ麾下の挺身騎士団であれば、信仰と家名にかけて実 2111 行するだろう。 エピタフへの信望がそうさせるわけではなく⋮⋮。 ・ ・ アンジェには、その輝かんばかりの忠誠と献身が、このような扱 いで消費されるのが、あまりにも哀れに思えた。 ﹁では、オルファンの隊もつけます。彼らは四十名、無傷で残って いるはず。頑張りなさい﹂ ﹁くっ⋮⋮﹂ アンジェは歯ぎしりをした。 話が通じていない。 ファレンテは幾らか逡巡したあと、 ﹁⋮⋮⋮了解しました。我ら三十二名、彼らと協働して任務に当た ります﹂ と言った。 ﹁頑張りなさい﹂ エピタフは同じセリフを繰り返すと、馬首を翻し、前線の方向へ 向かっていった。 撤退を指図しに往くのだろう。 ファレンテの悲壮な決意に対する言葉ではない。 ﹁ファレンテ殿!﹂ アンジェは、一時は自分の指揮下に編入されていた男に声をかけ、 近寄ると馬を降りた。 2112 緊急時ではあったが、声をかけずにはいられなかった。 ﹁なんと申し上げたらよいかっ⋮⋮﹂ ﹁いえ、元より我らに死を覚悟せず来ている者はおりません﹂ ファレンテは毅然とした様子で言った。 ﹁ですが⋮⋮﹂ ﹁いいのです。きっと祖国は家族に良くしてくれるでしょう。独り 身の若者には申し訳ないことになりますが﹂ ﹁私が強く反対していれば⋮⋮﹂ ﹁いや、そうしないでよかった。言っていたら、どうなっていたか 分かりません﹂ そう庇われながら、アンジェは心の中に、ささくれが刺さるよう な引っかかりを感じていた。 反対? 口では抗議のようなことを言ったが、反対しようとしていたのだ ろうか? いや、私は反対しようなどとは思っていなかった。 口だけのことだ。 彼に上辺だけのことを言うのは、誠実ではない。 ﹁申し訳ありません。私は⋮⋮私は、反対しようとは思っていませ んでした。作戦に、拒否感を抱いただけで⋮⋮。エピタフ殿の作戦 は、合理的です﹂ エピタフの作戦は、非道ではあるが、この場面においては最も効 2113 果的だ。 アンジェは、そのことを認めた。 エピタフの態度を外道のように感じながらも、心の何処かでその 決定を諸手を挙げて歓迎している自分があった。 ﹁⋮⋮そうですか﹂ 男は、切なげに微笑んだように見えた。 ﹁いやぁ⋮⋮将に命を惜しまれるというのは、いいものだ﹂ ファレンテは、アンジェの態度から何かを感じ取ったのか、感慨 深げにそう言った。 惜しんでいる。 惜しんでいるのだろうか。 しかし、そう思われる資格が、果たして自分にあるのだろうか。 ﹁ファレンテ殿、私は﹂ ﹁もう十分です﹂ ファレンテは、会話を区切ると、右手を低く差し出した。 もう言葉は欲していないのだろう。 アンジェはその右手をつかみ、固く握手をした。 パラダ ﹁助けていただく御恩⋮⋮貴方がたのことは一生涯、忘れません﹂ ﹁はい。それでは、天府で会いましょう﹂ ﹁⋮⋮ええ﹂ 2114 ﹁あなたは生き残ってください。ここで命を散らすのは惜しい﹂ ファレンテはそう言うと、 ﹁では﹂ と踵を返し、自分の部隊のほうへ向かっていった。 アンジェには、その背中を見送ることしかできなかった。 2115 第142話 もう一つの戦い 中編* <i227446|13912> 撤退を始めてから、五日が経った。 アンジェは、鉛のように重い足で、それでも背筋を伸ばしながら 歩いていた。 足に出来た水疱はあらかた潰れ、当初は濡れた感触が気持ち悪か ったが、今はその感覚も強い痛みで、まぎれてしまっている。 それでも、一歩一歩あるけば、希望はある。 エピタフ率いる挺身騎士団は、後方についている。 人数は、最初こそ千名いたものが、今では百と少ししか残ってい なかった。 ほふ 度重なる捨て石作戦で、ほとんどが使い捨てられてしまったのだ。 その人々は、全員が敵の騎兵に屠られたのだろう。 だが、幸か不幸か⋮⋮数日に渡った追撃の手は、ついに止んでい た。 補給線が限界に来たのに加え、大鷲の行動範囲を超えたため、偵 察によって戦力を測ることができなくなったのが原因だろう。とア ンジェは読んでいた。 残っているのが、たった百五十名程度の軍勢と知られていれば、 無理を押して追撃を続行したかもしれない。 2116 だが、そうされたほうが、イイスス教圏にとっては、幸福な結果 を招いたのかもしれなかった。 ***** アンジェは、重い足取りで、地面を踏みしめて歩く。 腹が空いていた。 体中から精気が抜け落ち、パサパサの干し肉にでもなったような 気がする。 肉体が過酷な状況に置いた主人を責めるように、足からは痛みが 這い上がってきていた。 ぼーっとした頭は、ただ定期的にやってくる痛みとして、それを 淡々と処理する。 みっともないところは、見せられない。 その思いだけが、背筋を伸ばさせていた。 ﹁アンジェ様﹂ 兵の一人が声をかけてきた。 このところ、兵たちは呼び方を間違わない。 おふざけをしている場合ではないと思っているのだろう。 ﹁なんだ?﹂ 2117 ﹁前方にて民間人を捕らえたとの報が入っております﹂ ﹁そうか。私が会おう﹂ ﹁では、馬車にお乗りください﹂ むっ、とアンジェは一瞬顔をしかめた。 馬車には乗りたくなかった。 ﹁アンジェ様⋮⋮失礼ながら、徒歩では侮られます﹂ それは口実で、本当は身を気遣って乗せたいのだろう。 だが、それを断るのは別の意味で難しかった。 前方に行くには、今より早く歩まねばならない。 というより、走らねばならないだろう。 アンジェの足の状態では、それは無理があった。 ﹁⋮⋮わかった﹂ ﹁本当でございますか! では、早速馬車を連れてまいります﹂ その騎士は、アンジェより年上で、年齢は二十三歳くらいだった はずだ。 元気いっぱいとはいかないようだが、さして苦にする様子もなく、 走って馬車を呼びにいった。 足の皮がむけて、ただ歩いているだけでやっとのアンジェとは、 全く鍛え方が違うのだ。 調練を指図したのはアンジェ自身なのだが、調練に参加していた わけではない。 帰ったら、少しは体を鍛えなければな、と思う。 2118 すぐに馬車が連れられてきたので、アンジェは見栄を張って、ま だ動いている馬車に飛び乗った。 ﹁速やかに進め﹂ 指示をすると、﹁ハッ!﹂と返答があり、隊列より少し早い速度 で動き始めた。 すぐにやることがなくなる。 さいな 馬車は、ガタゴトと走っている。 痛みに苛まれずして、勝手に進んでいくのは、感動的なまでに楽 であった。 今まで当たり前に利用していたものなのだが、なにやら画期的な 発明を目の当たりにしているような新鮮さがある。 馬は、昨日訪れた村に残っていた、越冬用の飼料を少し食えたお 陰で、まだ力強い。 鎧も纏っていない細身の女一人、荷物に増えたところで、大した 負担は感じていないだろう。 ともすると、この楽さに慣れてしまいそうだった。 慣れてもいいのかもしれない。 兵たちは赦してくれるだろう。 そんな考えが頭をかすめると、触れてはいけない傷に触れた時の ように、慰められてはならない何かが慰められた気がした。 アンジェは、灯籠の火を吹き消すように、意識的にその考えを消 した。 2119 ﹁アンジェ様、あれではないでしょうか﹂ 手綱を引いていた騎士が言う。 向こうからは、一応の偵察のため先行させていた部下の一人が、 手に縄をうたれた二人の長耳を連れて歩いてきていた。 ﹁そのようだな﹂ 十分近づき、馬車が止まると、アンジェは馬車から降りた。 長耳を見分する。 一人は少し年増の女で、もう一人は、少女といってよい、年端も ゆかぬ女の子であった。 二人は、憔悴した顔で、訝しげにこちらを見ている。 ﹁貴様ら、この道で何をしている﹂ アンジェがシャン語で聞くと、年増のほうの女は軽く驚いた顔を した。 ﹁私どもは、国もとから避難しているところですっ︱︱﹂ ようやく言葉の通じる者と出会った興奮からか、勢い込んで言っ た。 まあ、そうであろうな。 アンジェは思った。 ﹁どうか、どうかお見逃しを⋮⋮﹂ ﹁その子は?﹂ ﹁娘でございます﹂ 2120 親子連れか。 ﹁どうか、どうか娘の命だけはお助けください。お願いします⋮⋮ お願いでございます⋮⋮﹂ 年増の女は、哀れを乞うように膝をつき、縛られた両腕を土につ け、頭を垂れた。 十歳ほどに見える娘は、戸惑っている様子でその場に立っていた が、 ﹁お願いしますー﹂ と、こちらも頭を下げた。 ﹁お前ら、この女を犯したいか?﹂ アンジェは、クラ語に切り替えて言った。 こうよう そう聞いたのは、犯したいのであれば与えるつもりであったから だ。 それで我が軍の士気が高揚するのであれば、構わなかった。 年増の女は、やはりシャン人の通例に従ってそれなりに顔が整っ ているが、それでも四十路には見える。 その上、出自は農民らしく、腕や足には余分な贅肉や筋肉がつい て、恰幅が良い。 十八歳のアンジェにとって、隊員たちがこの女に抑えがたい劣情 を抱くかどうかは、判断できかねた。 2121 ﹁⋮⋮うーん﹂ 二人の騎士は、顔を見合わせる。 何を考えているのかわからないが、質問に困っている様子であっ た。 ﹁俺は別に、必要ではないです﹂ ﹁こっちも、特には﹂ ﹁遠慮をする必要はないのだぞ。私にはよく分からぬ問題だから、 聞いているのだ﹂ ﹁隊の男たちの総意は分かりかねますが、ちょっとこいつはトウが 立ちすぎですな﹂ ﹁子どものほうは幼すぎます⋮⋮まあ、うーん⋮⋮﹂ アンジェの騎士は幼女を見た。 ﹁駄目ですね﹂ 駄目らしかった。 そもそもが、アンジェからしてみれば、このような幼女は考察す る余地もなく性対象外であろうと思っていたので、騎士が悩んだの は意外であった。 アンジェの中で、その騎士は株を一つ下げた。 ﹁そうか﹂ アンジェは首肯したあと、 2122 ﹁では、縄をとけ﹂ と命じた ﹁行ってよいが、食料は置いていってもらう。我らも食に貧してい るのだ。慰みものにならぬだけ良しとしてもらおう﹂ こくぎゃく 少し恨みがましい目をしながら頭を下げた年増の女に対して、ア ンジェは酷虐をせずに済んだことを安堵していた。 言葉を覚え、会話することができるからだろうか。 やはり、人の形をした肉のようには思えない。 *** ﹁お姉さん、お耳がまるいのね﹂ と、状況を知ってか知らずか、少女が言った。 同じ言葉が喋れることで、同種と勘違いしているのかもしれない な。とアンジェは思った。 ﹁ああ﹂ ﹁あたしの見たおんなのこの中でいちばんかわいいわ﹂ ﹁そうか﹂ アンジェは、美しさを褒められるのは慣れている。 だが、シャン人から可愛いと言われたのは初めてであった。 本当であれば、少女にお返しの世辞でも言うところだったが、今 2123 まさに略奪をした戦争中の種に対して思いやりをするのは、何かが 違う気がしたので、アンジェはやめておいた。 ﹁行け。もう少し行けば、我らを追っている軍に保護してもらえる かも知れぬ﹂ ﹁は、はい⋮⋮それでは﹂ 年増の女は、恐る恐る荷袋から金目のものを取ると、荷袋を置い たまま少女をかばうようにして、アンジェが来た道に行った。 ﹁ユーニィ、ついていって、二度捕らわれぬよう後続に連絡してお け﹂ ﹁⋮⋮ハッ﹂ 斥候をしていた騎士が首肯し、送り狼のように親子を追った。 と言っても、アンジェたちが止まっているうちに、本隊は先行分 を詰めてしまっており、道の向こうに姿が見えていた。 ﹁ふぅ﹂ アンジェは乗ってきた馬車の足掛けに尻を乗せると、短いため息 よど をついた。 淀んだ思考の中で、自分が偽善を為したのではないかという考え が浮かび、少しだけ考えてやめた。 2124 第143話 もう一つの戦い 後編* ﹁アンジェさば!﹂ 鼻づまったような聞こえにくい声で、背中からそう話しかけられ た時、アンジェは相変わらず歩いていた。 ﹁ん?﹂ アンジェは振り向いた。 そこには顔を腫らした騎士がいた。 ユーニィだ。 ﹁おまっ⋮⋮どうしたその顔は!!﹂ 彼は目と鼻に大きな青あざをこしらえていた。 見るからに、殴られたあとだ。 鼻からは血が溢れているようで、真っ赤になったハンカチでしき りに鼻の穴を擦っていた。 ﹁まさか⋮⋮﹂ アンジェは、驚きもないままに言った。 驚かなかったのは、頭の中で一瞬で組み上がった論理の帰結が、 あまりにも取るに足らぬ、くだらないものだったからだ。 2125 それは、よほどの馬鹿にでも可能な推論であり、従って、子ども にも分かる問題の正解が分かった程度の驚きしかなかった。 霞が晴れてきた頭で思ったのは、それに今の今まで気づかなかっ た自分への驚きであった。 ユーニィは、血まみれのハンカチを鼻に当てると、ブッ︱︱とか んで、無理矢理に鼻を通した。 ﹁申し訳ありませんッ! あの二人を、挺身騎士団どもに奪われて しまいました﹂ ***** 馬に乗ったアンジェが急行し、そこで見たのは、なにもかもが手 遅れな状況であった。 死体が二つ。 死体は、二つの木でお互いを見つめながら、吊るされていた。 裸に剥かれた上、爪を持つ獣が戯れに殺した肉のように、体中を はらわた ズタズタに引き裂かれていた。 腸が割られた腹からこぼれだし、足を伝って地面にまで接触して いる。 親子ともそうであった。 今まさに生きたまま嬲り殺しにされ、まだ肌が瑞々しい屍体は、 目を開けたままぶらさがっている。 2126 ついさっき話をした子どもの屍体を見た時、アンジェは思わず吐 き気を催した。 ﹁うっ⋮⋮﹂ 吐き気を堪え、口を覆う。 ﹁おや、どうしました? アンジェリカ殿﹂ 近くにいたエピタフが言った。 というより、エピタフは休憩中であり、この残忍な絵を鑑賞しな がら休んでいたようであった。 ﹁なぜ、このようなことを⋮⋮﹂ ﹁ああ、貴方の部下のことなら謝ります。ですが、わけのわからな い事を言っていたのですよ。悪魔を無事送り届けるとか、なんとか ⋮⋮﹂ ﹁ええ、そう命じました。私の不手際です﹂ あんな簡単なことに思い至らなかった自分が情けない。 ああなるくらいであれば、いっそ森の中で通り過ぎるのを待って いろとでも言っておいた方が良かった。 そちらのほうが、万倍も安全だったろう。 単純に、彼女らの進路に挺身騎士団がいることが、頭から抜けて いたのだ。 ﹁命令の不備は良くないが、仕方がないですね﹂ やはり、エピタフは勘違いをしていた。 2127 ﹁いいえ、そうではありません。私は彼らを無事に逃したかった。 私の不手際は、あなたがたの存在を忘れてしまっていたことです﹂ ﹁まさか、生かして通すつもりだったのですか?﹂ ﹁その通りです。だがあなた方は私の騎士を殴り、護送していた彼 女らを殺してしまった﹂ アンジェがそう言うと、エピタフは困ったような顔をした。 ﹁やれやれ、アンジェリカ殿は悪魔どもに感化されすぎているよう だ﹂ ﹁私は同情しているわけではない。無意味な残酷を起こしたくなか っただけです﹂ ﹁無意味⋮⋮? これだけのことでも、見せしめになります﹂ ﹁見せしめになると思っているということは、彼らにも心があると は認めているわけでしょう。それなのに、貴方はこういった残酷を する。これまでもしてきた﹂ アンジェは、道中で見てきたエピタフの凶行を思い出していた。 戦に負けた腹いせのように、置いていかれた死体を切り刻み、今 のように飾っていた。 もっとも、それはいい。 既に死んだあとのことで、彼らの人生はそこで終わっているし、 死体が切り刻まれようと彼らが痛がるわけではない。 だが、彼女らは⋮⋮恐らくは違うだろう。 ﹁あなたの趣味でぶらさげてきた、年若い敵兵たち。敵の騎兵があ れほど激しい追撃戦をしてきたのは、あれを見たからだ。貴方一人 2128 の趣味のために、どれほどの兵を失うおつもりか﹂ ﹁もう敵は追ってこないという判断には、貴方も同意されたはずで は?﹂ ﹁私は現状の話をしているのではない。戦争の流儀の話をしている﹂ ﹁流儀⋮⋮? 戦争には流儀などありませんよ﹂ ﹁これをしてしまえば、逆の立場になったとき、我らは絶やされて クル も文句は言えません。敵が我らが領に迫り、無辜の民を殺しはじめ ようとも、慈悲を乞う資格もない﹂ セイダーズ ﹁アンジェリカ殿、時が時なら異端審問ものですよ。そもそも、十 字軍はヒトと悪魔の生存闘争のために結成されたもの。どちらかが 絶やされるのは当たり前のことです﹂ アンジェリカは、ここ数日で何度も味わってきた、諦めに似た感 覚をおぼえた。 話が通じない。 だめだ、この男は。 心が閉じている。 ここで喧嘩をしても意味がない。 ﹁わかりました。だが、彼女らの遺体は我々で葬らせていただく。 これを敵の目に晒されれば、この危難の状況をさらに悪化させる可 能性がある。それは看過できません﹂ アンジェは適当に理由をくっつけた。 本当は、二言三言とはいえ話をした二人を、せめて埋めるだけで 2129 も弔ってやりたかった。 ﹁いいでしょう。好きになさい﹂ 目元に薄い不快感を滲ませながら、エピタフは言った。 ***** ﹁アンジェ様、斥候の報告です。村を発見したそうです﹂ ギュスターヴがそう報告を伝えた時、アンジェは馬車に座ってい た。 ﹁そうか。今日はその村で夜営を張る。戸数は?﹂ ﹁⋮⋮五戸、ということです﹂ ﹁そうか﹂ アンジェは、内心でがっかりしていた。 このあたりの土地は、人々が逃げ延びるのに使う主要道ではない ため、食料が軒並み尽きているということはない。 だがその代わり、人家そのものがなかった。 春の今はそれほどの寒さも感じず、生存すら険しすぎる地域とは 感じられないが、冬は凍てついた世界になるのだろう。 狩猟や耕作が成り立たないほどの極寒なのか、大多数が定住地を 持たぬ遊牧生活を営んでいるのか⋮⋮。 詳しいことは分かりかねたが、人家が少ないことだけは事実だっ 2130 た。 たかだか百五十余りの兵といえど、五軒の民家の食料⋮⋮しかも 冬を越した残りの食料では、百五十名余りの腹を満たせるはずもな い。 こういったときは、猟師あがりの弓兵などに野生動物を狩らせれ ば、食料の足しにできたりもするものだが、精鋭を集めてきたのが 逆に災いし、そういった生きるに長けた徴募兵の類はいなかった。 犬に追い立てられてきた狐を射る程度の経験では、まったく見知 らぬ土地の野生動物を狩るのは難しい。 ﹁アンジェ様、歩くのはおやめに?﹂ ギュスターヴが、少し嬉しそうな様子で聞いた。 やはり、苦しげに足を引きずって歩いているよりも、素直に馬車 に座っていたほうが嬉しいのだろう。 ﹁ああ、やめた﹂ ﹁なぜなのか、聞いてもよろしいでしょうか﹂ ﹁私は、今日判断を一つ誤った。意地を張って歩いたせいで、まと もな判断ができなくなっていたからだ。将たる者は常に意識を明瞭 にしておらねばならぬ。無理をしてでも歩くのが仕事ではないと知 った﹂ ﹁ご立派でございます。このギュスターヴ、感銘いたしました﹂ ギュスターヴは、なにやら脱帽した様子で頭を下げた。 2131 だが、アンジェのほうは、まったくさっぱり感銘してはいなかっ た。 ただただ、自分に失望するばかりだ。 自分は才気溢れる者だったと信じていたが、どうやら違ったらし い。 無能であれば、せめて如才なくいれば良いものを、あのように噛 み付いてしまった。 ここで教皇領と対立しても得なことは何一つないというのに。 自分を止める自制心すらなかった。 呆れるばかりだ。 ﹁お前も、このアンジェを見限りたくなったろう。これが終わった ら、離れてもよい﹂ ﹁はて﹂ ﹁私はどうやら、それほどの人物ではなかったらしい﹂ アンジェがそう言うと、ギュスターヴは鼻で笑った。 ﹁ふっ、若者らしい挫折を味わっておられる﹂ ﹁⋮⋮そうだな﹂ 挫折とは思っていなかったが、言われてみれば挫折なのかもしれ なかった。 ﹁少し厳しいことを言ってもよろしいでしょうか?﹂ ﹁勝手にするがいい﹂ 2132 ﹁我々は、たかが十八歳の小娘の判断に、さほどの期待はしており ませぬよ﹂ ギュスターブの言葉は、内容に反して優しげな声色だった。 ﹁⋮⋮そうか﹂ ﹁たかだか十八歳で、神の如き名将たりえるなどという人間が、世 の中にあるとお思いですか?﹂ どうだろう。 十八歳にして既に百戦を率いた、というのは流石に聞いたことが ないし、難しいところだろう。 ﹁アンジェ様はお若い。ですから、未熟なのは当たり前です。そん なことは、皆分かっております。皆が期待しておるのは、成長でご ざいます。教訓を得て戻れば、アンジェ様ならば必ず秀でた名将、 名君になってくださる。皆、そう考えておるからここにおるのです。 でなければ、誰も一回りも年下の少女に命など預けますまい﹂ ﹁⋮⋮⋮﹂ アンジェは答えられなかった。 感極まって、しかし涙してはならぬと自分に言い聞かせていた。 今のアンジェの配下には、父代の者は少ないが、父に近く仕えて いた者たちの子弟は多い。 彼らは、アンジェを自分たちの王と見なし、ついてきてくれてい る。 2133 ﹁失礼を申し上げました。それでは、少し仕事が残っていますので﹂ ギュスターブは、アンジェの視界に入らぬよう後方に消えた。 自分は、なんという身に余る献身を受けているのだろう。 だが、その献身に応えるすべを、アンジェは持っていない。 ギュスターヴの言うとおり、成長することで応えればよいのだろ うか? そもそも、自分に、そのような将器がほんとうにあるのだろうか? あるのだろう。 もしなくとも、努力をして嘘を真にせねばならない。 アンジェリカ・サクラメンタは、目尻に浮いた涙を、汚れた手で 拭った。 2134 第143話 もう一つの戦い 後編*︵後書き︶ というわけで、今回の更新はこれで終わりです。 次章の構成を考えていないので分かりませんが、次はまたシヤルタ に戻っての日常? 編になると思われます。 楽しみにお待ち下さい。 2135 PDF小説ネット発足にあたって http://ncode.syosetu.com/n5677cl/ 魔王は世界を征服するようです 2017年2月11日19時16分発行 ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。 たんのう 公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、 など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ 行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版 小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流 ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、 PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。 2136