...

YEARBOOK-39

by user

on
Category: Documents
53

views

Report

Comments

Transcript

YEARBOOK-39
表紙デザイン
今井 匠
言
スにおけるグローバル人材の育成
村
(HdB 理事、Year Book
年、日本では「グローバル人材」の必要性が
ばれるように、高 化が むとともに少
世代の人
が ってきている。経
化の
員
、
大学
えられている。少
で人
少の
高
・
うような 向き
が
少し海外
を
きるのか
されている。こうした社会の
きる人材が
められている。
)
化社会と
向がみられ
的にはグローバルレ ルでの競争が
の海外 出や人材の国際的な
教
化し、 業
でいる。他方、 年達の海外留学が
向がみられ、これからのグローバル社会に対 で
化に
て競争力を高めることに貢献で
では、必要なグロ バル人材はいかに考えられているのであろうか。ここで、グロ
ーバル人材に関して政府の 問機関がいかに え、また、それと関連して教育政策に
いかに
させようとしているか、
討してみよう。大学教育においてグローバル人
材育成のプログラムも実施されているのでそれも取り上げることとする。それと合わ
せて、 が
スの多文化共生的な生活スタイルが、グローバル人材の育成とどのよ
うな関係にあるか考 してみる。とりわけ、国際的に活 されている OM を多数 出
している
スは、グローバル人材育成の
デルとなり得るのではないかと思うから
である。
「産学人材育成
ー
年)は、
「グローバル化が
グランドをもつ同
的なバ
、取
グランドに
ーシ プ・グローバル人材育成 員会」
(経
展している世界の中で
、
する
て いを理解し、
・・・・新しい
体的に
産業省、2010
事を考え、多様なバ
等に自分の考えや分かりやすく伝え、文化的、
観や特性の
異を り
えて
の
を生み出すことができる人材」と
た、
「産学連携によるグローバル人材育成
場に っ
ている。ま
会議」
(文部科学省、2010 年)は「世界
的な競争と共生が
む現代社会において、日本人としてのアイデンティティを
がら、広い視野に
って
て関係を
するための
われる教養と専門性、異なる言語、文化、
ーシ
ン 力と協調性、新しい
な
を り え
を
する
力、次世代までも視野に入れた社会貢献の意識などを った人間」と定義している。
これらの考え方をみると、グローバル人材の要
ーシ
として、
体性、協調性、
ン 力、異文化理解、日本人のアイデンティティなどを重視していること
1
がわかる。このようなグローバル人材の育成のために政府の「教育再生実行会議」や
「産業競争力会議」において教育政策も議論されている。201 年に前者(第
次提
言)は、初等中等教育段階において、①英語教育の拡充、②日本人のアイデンティテ
ィを高め日本文化を世界に発信するために国語教育、日本の伝統・文化の理解を深め
ることを強調した。その他、理数教育、教員の質向上を挙げている。また、同年に、
後者(第4回会合)は、
「人材強化のための教育戦略」において中高校生の英語力の向
上、高校生留学の増加、国際バカロレア認定校の増加、国語力・英語力の向上、少人
数教育の普及、教師力向上、論理的思考力の向上、中高校生の国際的視野の涵養など
を指摘した。
英語教育に力を入れることが重要でないとはいわないが、今日のように多言語化し
つつある社会において全国の小中学校が画一的に英語のみを重視するのはいかがなも
のであろうか。地方や学校によっては、アジア言語である中国語や韓国語、あるいは
フランス語、スペイン語やロシア語を教える学校があってもよいのではないか。日本
人のアイデンティティの涵養も大切と思うが、知識として教えても児童生徒にとって
強く自覚するに至らないのではないか。異文化と接して日本の特質、日本人の認識に
思いを馳せさせるのがよい方法と思われる。その点から、高校生留学、国際的視野の
涵養は有意義であろう。また、現代のように地方のことが国際社会と関係しているこ
とを考えれば、国民アイデンティティに加えてアジアのような広範な地域のアイデン
ティティや地球市民アイデンティティのことも考慮する必要があるのではなかろうか。
大学教育に関して、文部科学省は、200 ~2010 年度に大学・研究者の協力を得て
「グローバル人材育成のための大学教育プログラム」という研究プログラムを実施し
た。その成果概要によると、12 の大学の革新的教育プログラムが紹介されている。
例えば、関西学院大学は、国連ボランティア計画と連携して「国連学生ボランティ
ア」プログラムを実践している。その中で教育、環境、保険などの分野に学生ボラン
ティアの派遣を行っていて、 ヶ国へ 0 人以上(200 年までに)の学生を送り出し
た。派遣期間は
ヶ月である。同プログラムは、「世界の人々に貢献し、共生できる
次代を担う人材に育成」を目指している。学生達は開発途上国の人々と共に生活し、
仕事をする。国際協力現場で実践経験を積み様々な課題に取り組む。
自然科学系の学生を対象とするものでは、東京大学の国際開発農学専修(学部)、農
学国際専攻(大学院)プログラムがある。統合的な農学の展開を目的に実践性、学際
性、国際性、専門性の
つの観点を重視している。国際性の観点から、英語教育に加
えて海外現場の経験の機会を設けている。特に大学院では、インドネシアなど東南ア
ジアの大学の学生とチームを組み、農村調査や討論会を行っている。
恵泉女学園大学の人間社会学部国際社会学科は、フィールドスダディ・プログラム
を行っている。学生が海外で実体験に基づいて国際問題を理解することを重視し、ア
ジアや欧米の諸国でフィールドスタディという海外体験学習をさせている。それによ
り、社会的公正をグローバルに目指す市民の育成を目的とする。短期のプログラムは、
2
10~1 日間で、人 、
期のものは、タイのチ
、
、ジ
ン イ大学で
Oの
ンダー、
などについて学 。
ヶ月実施する。教員も現地に
して指
・
調 に たっている。
その他、
大学の「 a eda
大学の「国際公 員養成プログラム」、
ro ra 」、
南大学の「 B
どが挙げられている。い
ro e
Ba ed
ear
れのプログラムにも共
に派遣して仕事の実践、国際
、
er
実践教育プログラム」な
にみられるのが、学生た を海外
に外国の学生との共同調査、討論会などを体
験させていることである。
以上のグローバル人材の考え方、育成方法を概観して、京
活と
てみると
スの さが分かってくる。
「国際学生の 」の生
スにおけるレジデン
の生活の
特 を挙げてみよう。
・多様な文化的
を
つレジデン
が同
する多文化・多言語
スである。
・大学教育プログラムにおける海外体験は、短期で ~10 日、 期で
スでは 2 年間にわたり国際
ていたが、
・共同生活を して、
、
ン ール、
ヶ月となっ
、多文化共生社会を体験できる。
ー ング、国際
、ス ー
分担などを共 に体験しつつ、異文化の特質、
シ ンの
方法、 体性、協調性、新しい共生社会のあり方などを 体的に学
・外国人との生活により、国民アイデンティティのみなら
人といった地域市民、あるいは地球市民など多
、 行、
ことができる。
、アジア人、
ーロ
的なアイデンティティを意識する
機会がある。
このような 重な体験を 期にわたって経験できる
スこそ、グローバル人材を
Year Book に OM の
育成するのに さわしい場 ではない ろうか。これまでの
方々から、実社会に出て異文化の方々と一
に仕事をしたり、接したりする に
スの体験が大
の
っているというレ ー
っている。また、実際に、
スの生活を体験した
があり、いくつも
で外国の
者、公
員、大学教員などの仕事に きグローバル人材として活
多い。この
スの共生体験をしたレジデン が、これからも
材の 質を
につけ地球社会で大いに活
してくれるよう
者、会社社 ・経
している方々は
してグローバル人
うものである。そして、
スが、そうした人材育成の デルとして 々発展することを期
3
させてもら
している。
CONTENTS
目次
・村
スにおけるグローバル人材の育成 ·································1
言
····················································································································4
・目次
第I部
・Joseph A. Phillips(House Father) My First Year at HdB················································································10
・
(
ス
・ 海
ー)
ーになって ··········································································12
ス
問題について ·······························14
京 国際学生の (HdB)の
・
行の
・
で ··················································································18
国際学生の への提 ( フ
HdB を
の強化も
) ······························20
って
ア ···········21
・
、 の
をたどる
スイス・ドイ ・ ル
・ 野
ス
の思い出
と 画················································· 26
・
Haus der Begegnung, Kyoto
・Soleymanieh Ali
The Time in HAUS DER BEGEGNUNG·················································29
・Frédéric Sausse
Encounter in Kyoto ···················································································31
・Hans Ågren
My Stay at Haus der Begegnung 1972-1973·············································33
・Khaing Oo
思い出の
1973 年~1974 年
・大
HdB の思い出
1976 年
・
50
年おめでとう
います·······28
·····················································36
·································································37
代と HdB······················································································39
成保
··························································································41
・
思い出の
・野村
思い出の 行 ··························································································42
・Caleb Brown
Impressive Events in HdB ········································································44
・
文
・Colleen Carlston
・ 公
の
京 国際学生の のお さ
···········································47
Good Memories in HdB············································································49
京 「国際学生の 」 員等 ··········································································································51
4
等
、
年度 ·········································································································53
・
・
・ 公
京 「国際学生の 」の略
・ 公
京 「国際学生の 」
··········································································································57
者の 計 ······························································································61
・後 会員 ·························································································································································64
・後 会会
·····················································································································································70
・ 海
後
··································································································71
第 II 部
・PRINCIPLE AND PURPOSE··························································································································74
・2014 年度 京 「国際学生の 」活
・2014 年度
(前期・後期)······································································75
Welcome Party speech(前期・後期) ·····················································································77
イ ン
Common Meal(前期)
代
Kosuke Matsuki·············································79
Sports Day(前期)
代
Runsen Zhang················································80
Seminar(前期)
代
Hidehiko Shirooka·········································81
Dance Party
代
YoungSun Yun ·············································83
Trip(前期)
代
Nobushige Matohara ·····································85
IFF
代
Haruhi Fujiwara·············································87
Cleaning Day(前期)
代
Winij Ruampongpattana ································89
PR(前期)
代
Yui Arita ························································91
Common Meal(後期)
代
Haruhi Fujiwara·············································93
Sports Day(後期)
代
Igor Almeida··················································95
Oktorberfest
代
Gieon Röder ··················································96
Thanks Giving Day
代
Gieon Röder ··················································97
Trip(後期)
代
Winij Ruampongpattana ································98
Christmas Party
代
Joo Byung Park ···········································100
Cleaning Day(後期)
代
YoungSoo Choi ···········································101
5
Seminar(後期)
代
Hibiki Murakami ·········································103
PR(後期)
代
Chika kin ·····················································105
Year Book
代
Takumi Imai ················································106
・思い出
~2014 年度~
·······················································································································107
レジデン
・Rebekka Liese
(Germany)
Haus der Begegenung ·····················································111
・Yimin Wuriyanghai
( Inner Mongoria ) Second home, HdB ·························································112
・Naoko Toyoizumi
(Japan)
(とよみ)からみた HdB ········································113
・Yukari Nakamoto
(Japan)
もし の人生において HdB が かったとしたら····115
・Yukina Arima
(Japan)
での 年間·································································117
・YoungSun Yun
(Korea)
・Saki Ogawa
(Japan)
・Yui Arita
(Japan)
2014
・Danielly Batistella
(Brazil)
HdB :My first home in Kyoto ·········································121
・Chika Kin
(China)
Lobby life in HdB ···························································122
・Haruhi Fujiwara
(Japan)
・Eriko Saino
(Japan)
・Birte Kimmel
(Germany)
・Meng-Yu "Jennifer" Kuo
(Taiwan)
・Yuri Sugimoto
(Japan)
スでの思い出·························································130
・Yan Jiang
(China)
Happy life ·······································································132
・Artur Sagradyan
(Russia)
How is your life ?····························································133
・Kosuke Matsuki
(Japan)
Life at HdB ·····································································134
・Gideon Röder
(Germany)
My life in HdB ································································135
・Nobushige Matohara
(Japan)
いつもこころにたいようを·········································136
・Hibiki Murakami
(Japan)
英語と HdB ····································································138
・Runsen Zhang
(China)
Life in HdB ·····································································140
・Igor Almeida
(Brazil)
People in HdB ·································································142
of China
HdB で
した 年 ····················································118
ランプ ········································································119
·······································································120
画 あり
スを 業する
·····························124
わたしとお と HdB と ···············································126
理と HdB ····································································128
Life in HdB ·····································································129
6
・YoungSoo Choi
(Korea)
HdB Forever····································································143
・Winij Ruampongpattana
(Thailand)
2nd year in the 2nd place called ‘home’ ····························145
・Takumi Imai
(Japan)
・Hidehiko Shirooka
(Japan)
・Chamika De Costa
(New Zealand) A Journey with friends ····················································151
・Nalaka Geekiyanage
(Sri Lanka)
Not just a Stay at HdB : a Happy Experience··················153
・Joo Byung Park
(Korea)
The Relationship between Years of Livnig
················································································147
一
の ール································································149
and Personal Enrichment :The Merits of HdB ··········154
・Meng-Yu "Jennifer" Kuo,
Takumi Imai
レシ
後
································································································156
ページ
・Black Sesame Pudding
···············································································································117
・Lea’s Famous Quiche
···············································································································121
・Yogurt
Moose
・Goya Champur
・Strawberry Sponge Cake
··············································································································128
···············································································································131
············································································································135
・Kabluli Palao
··············································································································144
・Sri Lankan Chicken Curry
··············································································································153
7
8
第 部
o
者の ーラー
スペアレン 、
201
スペアレン
( a
)
My First Year at HdB
Joseph A. Phillips
(House Father)
I arrived in Japan last January to join my wife, Kaoru, who had joined the faculty of Agriculture
at Kyoto University the previous August. She was living in Uji, in faculty housing at the time,
and I stayed with her in her tiny one room apartment for the month of January, prior to us
moving to HdB. I had been in Kyoto in November when Kaoru and I had visited HdB, attended
a common meal, met executive director Utsumi, the office staff, the then house parents, and of
course, the residents of the Kyoto International Student House. To be honest, that November
common meal is kind of a blur to me now. It was in a sense, a mutual interview, the officials of
HdB checked us out and we checked the community of HdB out. And even though the
particulars of that night are murky, one thing that was clear to me was the fact that this was a
dynamic community of interesting and interested individuals, and ones who could cook up a
pretty good meal as well. We were offered and accepted the job as house parents.
I knew that just like the international students that are recruited to live here at HdB, that I too
would be challenged to adjust, adapt and learn. Just like any new job, there is an adjustment
period and a learning curve. Although I have been a father for some time now (I have two adult
children), I knew that being a "house father" would require a different type of "parenting." But
what these were, I wasn't quite sure.
My biggest challenge of course was not speaking Japanese. I did sign up for lessons at the Kyoto
International Community House in March, but a trip back to the United States for my son's
wedding threw me off track and I am just now attempting to get back on. I must say that I am
grateful for the Japanese residents who attempt to talk to me in English, and I am also thankful
for the residents and scholars who speak fluent English.
My first semester here was definitely an acclimation period: learning people's names, learning
how the common meals and other events were handled, not to mention learning my way around
Kyoto which included learning to ride a bike in this city without getting killed. I did lose a
couple of teeth in a bike accident, but I'll save that story for another time.
I was thinking how different my experience as a house father is to someone who was a house
10
father 50, 20 or even 10 years ago. Due to the advancement of technology and communications
systems, the world is a smaller place. I am just as in touch with what is going on in the United
States and my hometown as if I was living there. I can watch American sports on my T.V. I can
order online food that I might miss eating. I can read the New York Times on my iPad, I know
instantaneously what is going home back home with my friends and family. Previous
non-Japanese house fathers could not do those sorts of things. In that sense perhaps they were
more immersed in the culture of Japan. And yet, as I prepare to return to the U.S. for a visit, I
realize that my first year in Japan and At HdB has changed me. I have been immersed in the
culture of Japan. I have been exposed to different ways of speaking, of cooking, bathing, etc.,
and different ways of seeing the world. For these things I am grateful, and hope that I have
returned the favor by contributing something, however large or small to the community of HdB.
Common Meal, October 31, 2014.
Dessert line: (faces shown from the front) Yui, Joe (HF), Haruhi,
Toyomi,Yukari, Igor, Youngsoo, Gedeon, Iwasaki-sensei, etc.
11
ス
ーになって
(
ス
ー、京 大学農学研究科教 )
と がつくと京 国際学生の に み めてもうす
言
が有るが、この 年は、文
と、な とか 一生
年になる。 中、という
り 中の 年 った。
「その日、その 、次の行事、
こなして た。
」という意 合いもあるが、
「 か現実 にかけ
る、 の中ではなかろうかといった がする。
」という意 合いもある。 わたしの人
生
年、 り って ると、 ーフィンのようなものか、とも思う。大きな が
くれば、くよくよせ
を り える。実際 ーフィンをしたことがない が言うの
はおこがましいが、
年にア
本にもどってきたのも、 と
カに留学したのも、
力が
年に京大の教 として日
思議にも を に せてくれたからかな、
とも思う。 けど、それもこれも、 りの方々の理解と
ー がなくてはできない
こと 。
京 国際学生の との
を ってく さったのは、
った。アル さ は、 にとっては
員の
アル さ
にあたり、同 高校に 年 いで 学して
いたという もあるの けれど、京 に っ してくる までは会ったことがなかった
方 。 そして、前
ス
ーの 本理 さ には、
ス
ーの仕事というのは
どういうものか、 しく 紹介いた いた。お 方に、
「 重な
ありがとう
に
いました。
」とま お を し上げたい。 本
で られる 期と た
ン の多くの方々と い、 た は
ーの
で、
の日本人
スペアレ
スについて全く経験がなかった。 から、ス
ヶ月の間、 本さ からいろいろな
を き げたのはとても かった。 た
考えて 間と 力を しまなかった 本さ と
ス
スペアレン が東京
が京 で新たな まいを必要としていた 期が
うど一 していたのも、
「 」
、としか言いようがない。
カラー に 年 月から
と まし、どうも
し、レジデン
ス
のことを第一に
ると、 はまったくの
き
ーである。 けど、 本さ からは、できる けレジデン に せるのが一
、というアドバイスもいた いていたので、それを言い にな とかやっている。
という人間は、 切 が づいてお に がつかないと 事ができない。でも、これ
は、
ン ールのレシ ーをなかなかくれないレジデン と
るのかも。という で、 フィスの
さ と
うど り合ってい
さ にはしばしば
をかけてい
るけれど、しっかりフ ローしてくれるのがありがたい。レジデン も大目に てく
れているのかな、と思う。 海理事 を め、理事や 事の 様からの信 があって
12
できることでもある。日本に むな て 年前には にも思わなかったのに、思い切
って ってくれたジ ーにも大
い
である。人生の は を がると、思いもかけな
があり、思いもかけない しみも
もある。 から、
い。 さ 、おも
しろい体験をいろいろどうもありがとう。
本さ からは、
ン ールの い のやり方も教えてもらった。 年のイアー
に しく
ン ールのプロ スを いてく さっているけれど、やはり、実
際、 年 後の
ン ールの い出しに連れて行ってく さったのは、 かった。
ン ールというと、 られた
を 大 に って、おいしくバランスの い
ーを実現しなくてはならない。 は 理が
を送って た
で、 は
( チ)でもある。 から、 理が き、というよ
りは、お をかけ おいしいものを
とって 理人のアイドルは、
「バ
である。バ
は、
き 。た 、 く大学院生生活
るのが きなのである。というわけで、 に
の
会
」という 画の 人公
の有 なレス ランの女シ フであったが、人生の
にもまれて、デン ー の海 の しい で、
める。
は、そ な経 は知らないが、バ
た 材からとてもおいしい 理を るのに、日々
の
の 政 として き
が、今までと同
しく られ
する。おいしい
は人を
から せにすることができる。 たことのない人には、
これ以上は紹介しない。い れにせよ、 の
対 は、
く、 くおいしいものを
ス
な
て しい 画なので、
ーとしての
ン ールへの
られれば、それが一 、という けのこと
である。 ったレシ ーは、レジデン が ってくれるので、 の るものはす て
し く
で 上がりなものばかり、もしくは、前回の
ン ールで った材 を
うまく う、とかが多い。あと、お さ というのは、
「野 をもっと
とお 教する
これまでの
である き、というのも の にはいつもある ( )。
スの
で、
回もあるの けれど、
ス
なさい」
、
ス
スフ ー ーの方が京大など教
ーの方が教
ったことは
と言うのは、初めてらしい。
き
ーでも かろうか、と 認く さった 海理事 も、 ーフィンをするよ
うな 分 ったかもしれない。ここ、京 国際学生の には、自分を ばしながら、
国際的に活 したいという
から
に える い人た がたくさ
でいる。よその国
に えて思い切って日本にやって て 学に むレジデン も、国際的に活
したい日本人のレジデン も、いろいろな人が、いろいろな目的を目指しながら、一
に生活をしている。そ な い さ にも、人生の ーフィンをうまくこなしてい
って しいと
する。 い はいつもくるとは らない。大きい も小さい もあ
る。でも、きっとうまく れる がある。この は、
ン もたくさ いる。
スの
スから
っていくレジデ
た が、その後の人生をどのように
ングに り切っていくか、お い知り合うのも しみでないかと思う。
13
イティ
京
国際学生の
(
)の
問題について
海
(
本年設
り る
年を
えて、
目と考えていた
うにという から、
する必要という
して
員 の
(
、京
年前の
計画を
理事しか
、京
大学
、出会いの
府から
は現
がされた。これを
の
理事
の
)の
をしてその
の
教
を
をするよ
に合ってないので
けて
強を
員会は 討を め、
上げた。しかし
ながら
まっていない。
計画
)
が
と
員会の
員会を
員は、
上げる 期
であろう。
するに たって、 ーラ 生と
(
)と
って、その設
に
生の協力によって 設された
世
の活
同したスイスの民
を
り る必要がある。
から多 の
シ ンを
て送られた、国際的な共同事業であったことを
ない。
学 は、
スペアレン
者)が一 に
場で留学生と共に生活し、
「共同の生(
国際
かな「
」を
ーや小 行などの活
として
する人
を
・
める
を して、お
いの異なる国
に対 (
)させ、これらの
として出会う「共同の生」を体験する
し、
に
(
」として
る。この
ー
くの人た
設を
修理 の
は
院の地に
あるいは民
場である。このような
しい
力と体験を
段と考え、京
年)には、このような国際
な
を
回「国際
・
めることは
ー する 政基
初の「留学生
ヶ国、人数は
地域
活
が高く
」を
してい
させることの重要性をどのように
して多
の要になるであろう。
で、 に
を
する けでは、 を える
に しいと
している。それ
が、現
えていることである。
では、留学生
を認識
設された。今年 月までに、この施設を
年(
」の第
の
てえられる
、学者・研究者は
基
の間に 然
ロ ーといったものの
ヶ国、人数は
のような経
活
事会)があり、
いに認め合った上で、一 の人
を達成する有力な
の理解を得るかが、
しかし現
に
の
っている。
され「国際
を
共
年 月に
した学生の国
にの
を
認し合うという、きわめて
)が、人
である。 に
ン ール(
教・ 習・文化、さらにはイデ
れてはなら
み、日本人学生が対等の
)」を行う
で、出会いを
設にあた
がスイスイース ア
ジア
(指
の設
の
では
の 設や、
14
けでなく留学生 の
年に行った大
の修理する場合には、政府、
京 府、京 市などの行政機関に、そのような
などの法人もあり、これらの行政や多くの
が まり、その
生
を
学などネ
は、現
新 (
ー
少
法人大学 ン
や問い合わせに対
を
ー
」
(
の
増やす必要があるという。留学生数の
人となっている。た
国際化
した
は、
市
、
「海外では京
し、留学
合
ムも発
ータル
イ
者の
学 は
年度には
で増えており、
ー
に関連
ール京
で留学生
世
前の東西
戦の
市
や
した
ースを るにつけ、 ーラ 生の
する
人などに
関係(
い」
(市
ールする必要があ
に
にまつわる
留学を
ーディネ
を一
化
するチー
界、京
府
でいきたい」としている。
期に設 された。東西
戦後は、
」という新たな対 に
事
や日本人人質事
設 の意義はいま
われ 、
る。そこで
世 にわ
けでなく「出会い」の重要性を以前にも増して重
に基づく活 をさらに活性化する新しい活
が中 になり、
き、
など) けでは
関係者
けでなく、 業経験のある
討しているところである。これらの人た
員会を ろうと思っている。この
や
度はま
ーシアム京
国に京
年から
を考える必要がある。
生と
加して
年度に
人多い
で、
「今後は大学や経
しなければならないと
視し実践す きことを認識し、その理
そこで、
や
教」、「環境」及 「
などの
の場を提 する
ン
きた
年前より
上げて広くア
の強化に取り組
されている。正月 々のフランスの
を に
を
の 留学生が出
世界は
の活
少した。
が
であることの知
を計上する方
も
東と西の対 ではなく「民 」、「
たる
人に
年は
となる大学
か、京
し
留学」に関する海外からの
力を高めていく。
発信を強化する。
かけ、
に新たな事 にむけて
への留学生をより増やそう
で一定の学生数を保つには、海外からの留学生を
の事
や
も開設する
市
する。
「京
が 大学のま
ー
させる。市は新年度
加を
市や大
が多数増えた で
をみると、全国的には東日本大
年から連
した。新年度には、ネ
ーターを
め
)は新年度に、大学や日本語学校、経
くなど
)といい、関係機関による 同ネ
ると
に
は
京
)を設
人
計されており、京
市
(
ーディネーターを
った国
向にあるが、京
え、海外から京
ーシアム京
ネ
する
人
人になると
少
に留学生を
え、これまで以上に留学生を増やそうという政
っていく
界と「留学生スタディ京
は
日)に「京
ている。
者が
年度に
月
が
を
化で日本の
と、市と公
年
の
に
の
では全て くなっている。
」という 事が出ているが、新しい留学生
もないのに 設
策には、
業の協 をえて
えることができた。しかし、そのような行政や法人の留学
設に関わる
一方では、京
が計上されていたし、日本
分でなく、
行など)、法的関係(
法
ンバーには、 然学生の
関係(
ネ ン、設計事
を
めて
の関係者( 員
など)、
、会計 など)、文教行政関係(留学生問題、
15
海外
問題など)などの専門
ている。
、これを
に 加していた
まれた
き、この 題に対
者で、自分も
し
うとし
たいと思われる方々には 加
して しい。
現 、
に
議員の紹介で、 ンシ
る
を提
階 て
)の一部(
を
年かけて
し、
である。
し自
ら、この
点は、
自
ア
の 大の
シ
の本
及
西
が
いる 地は、
大本
するとなれば再
をして さる
めるのは、現
ではあまりにも
の
っている
年間
の
地を
が
ている。現 、
いて
の
めて、
えない。本
自分が
している
する同意を
設
を修
しなければな
事をしても
が 年
み切れない。
する必要がある。そこ
自体を担保にして
る
性である。
積を 保
理の
い、
えの
計画を
てたいと考え
をする場合の新しい
つの活 につ
の活 は同様に
することを前提にしてい
ー、対
から共生・
間や
教間による
、どの 教が「正しい」とか「 り」という次
ではなく、
後、世界は
、それまで
イデ
い
関係の大学が数多く
を学
きであろう。京
している。また
教などの異なる多くの観
が
にきた欧
らの協力と京
合う
教 学生を
教が実践する
い。 に
て地域と
活
きであり、お い
には
などを学
する「国際
16
国際学生の
生として
の 教関係者の協力と
教 に送り、基
す
教の
本
れたい 市京 には文化、
れている。
「京
の基
ロ
されていた民
教とは「 っている」という次 で
の いを認め合い、
を
が
行事を考えており、それを目指して多くの
点 東西 戦の
争いが
ンは、
して
きしたい。
統一が目指されたにもかかわら
もつ。
・
は
会社の協力をえて、
多文化共生
などを学
シ
に
アジ
討している。
年
意 をお
教イース
を担保にすれば、 々が必要とする
に す。 然これまでの
る。 さ
地を担保にするこ
す るであろう。
えた
設
きながら人材も
り ま
を けられる
地を担保にして
には
するとして、
活
されている。
している。
くなった
にしろ、
には、
である。
)基
事には
が つのかどうかを現
意 を
で
ろう。しかし
で 地を担保するのではなく、
年
地は、
(公
定というのでは、
を
は
有していない他人の
している。その
どのような方法を
地を担保
必要である。しかしなが
は必要であることが
ら 、
した
の
々はこれまで り
が
事をしても、
できるかは
会社から
は
ンが保有していて、現
実は、本
でた
)をその会社が ンシ ン経 して
というすばらしい提
とである。
に
して いている。提 された
(計
れる 入で
ン経
や 教
習や
」は、日本の 教や
年 け入れてきた実 を
をえて、 教を学
学生を基
、 方向 教間対
を実現した
り」や地域の
ども達に自国を
紹介してきたが、
に
教を学
もや大人た と、異なる文化、
学生や入
習や
教についての知識を
社会で生き く「多文化共生」という
国際民間
業連携
点
の拡大、国際経
す
学生などの協力をえて地域社会の ど
理について学 場を りたい。
地球環境問題、地域
争の多発、第
業の
京 には数多くの
いた
しかも京
業した
のもと、
「京
を
国際学生の
るとともに、これを入
そのために、地場
開かれた
に
戦後
ンシ
は地域の
業からの入
発生
ア
され
業の
と協力
を活発化す
スへの入
プの機会を
する。
という で協
業から提
中
象が
や
で った自然
年となる東日本大
するなど、
が
では
ンシ
し、地域社会への貢献
けでなく、国 外から入
を
定的な生活を送れる設
全、
な中、大
間
市では
ンを「京
で
国際学
する学生、地場
を
市 の留学生に対して外国語で
システムを
に留学生向けの
、
大化し、
していない。そこで、現
基点になっているが、京 初の
め、
けではなく、
は
している。そ
も
は数々ある。
、地
しく増している。
の
ンがあるが、京
において、京
できるよう、
、海外から高く
する 点として活
年、日本
、まもなく
すような
生の 」で
を
研修に向けてシ
ともいわれる異
も
も
点
大
を
せ
地している。
める。
年前の
で
間、大学や研究機関
」においてこのような地場 業間の国際
留学生のインターンシ
業の果た
かせない。 い、
づくりを行う地場 業が数多く
学生と地場 業との
ティ
化の
は
成している。そこで、これらの地場
業の国際
く。また、入
かで
業の多くは東京に本社を
ランド の基
力いた
、自然
的かつ国際的な
で
る 京
的
と
・ ネル ー・環境問題の解
のためには、地域の自然と文化を大切にする地場
で、
世界の
など、国際社会がより深 化する中で、民間
はますます重要となっている。とくに、
と
して、グローバル
える。とくに
を
やかに伝達
するとともに、自 体等との協力のもと、日 的
などを行う 点として
を活 する。さらに、
ネル、
を設
することにより、
の
が出
世 前
に こると
されている南海
ラフ地
に対しても
とである。
17
る
えた
を
え、今
にするこ
行の
で
(
が
スで生活したのは
ときでした。わ
~
年の
年でしたが、
か
年入
年間、大学
な日々を
争
した
、大成
設
問)
っ りの 回生の
の
はま
に
っております。
スに入る
機は人によってさま までし
ものではありませ
学業の
でした。それまでの
うもおろそかになり自
えたい、
うが、 の場合はけっして高 な
はよそ
に
ばかりしていて
が定まら 、
っておりました。そうした
な自分を
スでの「共同生活」ならそれができるかもしれない、今思えばかなり
思い めた 分があったように思います。
しくしていた留学生の
えもあり、
な とか入れてもらいました。
の様
はよくわかりませ
、
が、
など多くの行事が
ものでした。
にはそれらの
た。こうした
は「自
同 の
事
や
とりわけ
は
、
意され、
加は
スの生活はけっこう しい
の義 と定められておりまし
」を目指す にはむしろ
などのおまけもあり、
ーにおける
合でした。また
スの生活はまことに
生の「チ
」の
は
ませ 。学会の国際会議でたまたま現地におられた 生はチ
の戦
部 に
そのときの
した様
もう一つ
(
され、 然とした
が し
の中で
)に出かけたときのことです。 は高野
そのときの
は
えています。
間と一
大学の学生さ
(すみませ 、どうしても
事なものでした。
を
生のお から
に高野
との
教の教義など日本語で理解するのもなかなか大
スの
日はそのとき言
入した
国されました。
スの
的でした。
れることはでき
に
しと伝わってきたことをよく
れられない思い出があります。
強会)がありました。
、
わした高野
会が
へ
会(
ですが、
前が思い出せない)の同
り上がったのはいうまでもありませ 。
大学の女
学生さ に広い境
を
してもら
いました。
の
生は、
った学生の
18
には
る
でした。 生
は 々の自 な考えを
重され、たしか
しております。
数年前を
実践するに さわしい
)にもおの
活」でしたが、
り、はたして 自
が
ったかどうか・・・。
以上のものは
が、人は自分の
(
り
にもそのことが かれていたと
と
け
の
つくづく
を
るのです
れられないし、他人への
きかけ
度がある、ということです。しかしわ か 年の「共同生
スは自
の場となり、出るときはすい
大人になったよ
うな 分でした。
した
で
は
年 月の送
にあるのはこの一
の中 、
スは
なる
会のときのものです。
けです。 っているのは
とそれ
れの
施設ではありませ
によって
ながら
の
スの
、その
さまです。
。設
にかかわった人た
の高い
まれています、このよき伝統を
まえ、
意の方々の献
的な
を 定的に経
するという ましい課題にも
りっ に再 されるものと 信しております。
年
19
が
行の
で必
や活
と
ス
を 出し、
国際学生の
への提
(
フ
の強化も
)
(
後
を経 した学生の は、
これに対しては、
々学生の
この機会に
に
力されている 海理事
も めた 広い
フ
の機
強化も
学生の は、 々
国
女
強など
生のみの
生という環境 けでは
や
はどうか知らないが、
)
となっている。
を め理事会 ンバーのみなら 、
活
などで対
することが
ましいが、
せ 討を めて いたいと考える。
代を経て、女
にも門
を開いた。しかし、多
分と考える。
ましい環境にありながら けているのは、ディ
の い諸
ードの対策が必
年入
ー が出
る
である。
て海外の国際会議などでの日本人の質問は
的に少ない。また、欧米の要人等の 者会 で、日本のプレスが質問したという例
は ど かない。また、国
ス
等の論調は、 テラシーに
などバランスのとれたものでないことが多いと
事である。日 から国際的なディ
これら日本の現
を
づけてはいけない問題である。
すること、議論をすることが一 大
ー の
の機会に恵まれないことも大きい。
するネタは学生の
に
っている。多国
らが 学する大学、学生の の「場」。例えば、学生の の入
究 等の海外研究者を
め、
し、 生と ー
後などを
シン
の 果を、
ジ
シ
し、議論を
ム等と
ン とし開
し、
等の場を活
ムを一大イ
プに必
加することとし、 ~ グループを
するのも
プに
加する
生の
生、
する大学の研
分
し発
) 論を出す。そ
するのである。
い。 生は、 れかの
成しては
これにより、 生が生まれつき 意識に有する
ー シ
の 女
プを ってはどうか。テー を
め( 回 度で
シン ジ
の 異などが、
や論 の
ている。
これは、日本人のおとなしい国民性ということで
多様な国際社会で生きていくためには、自
け、
生
ー シ
か。
国 有の文化や
、議論の方法
自が認識できるようになるのではな
い ろうか。
以上、日本人の視点から
で
たが、海外の
生に取っても、日本人と
に議論する機会が得られ、日本人を新たな
が学生の
の める国際
理解の
に
20
なテー
から理解することが出 、これ
がるのではない
ろうか。
、
の
をたどる
スイス・ドイ ・
ル
ア
A Travel Tracing the Footsteps of My Grandfather and Father
in Switzerland, Germany and Bulgaria
Asa Inagaki
2007 年の
取りを
(
り、
10 日)の
)の 、2012 年の (
関係を
させるため、
)の の後、 らがたどった
は 42 日間(2014 年 2 月 28 日~4 月
行に出ました。
今回は Hdb と
かりの深い方々と、 が く
した
ル
アの
を 紹介
します。
I decided to visit the country, Switzerland, Germany and Bulgaria. My grandfather and
father who passed away loved those countries very much.
It is necessary that I try to keep good relationship with their friends which they’d preserved
for a long time. Also I wanted to keep in touch with them.
On this page I’ll show you some photographs of my travel.
の まりはスイス、チ
そこで、
る Saas を
き Kohler
ー
。
生の 、Kathrin と Veronika とその
、Kohler
生の
れました。
Kathrin and Veronika are the daughters of Dr. Kohler. I visited their houses at Zurich. And I
mourned to his grave in Saas.
チ
ー
中
フ
ロ
カと。
この後
にて、カ
ン、
ースへ。
Veronika, me, and Kathrin at Zurich
station.
On the way to Saas.
.
21
ーラ
生のお
を
お からの
。
The landscape from his grave.
ました。
I visited the grave of Dr. Kohler where he had been
sleeping.
ン・シ
ラーさ
へ。
・ド
ムー
再会。
ルンにて。
、しの
さ
さ
とも
のお
し
りの
I visited to Mr. and Mrs. Schaller’s house.
Luckily, I got a chance to see Maya who is the
daughter of Mr. Dumermuth at Bern.
フ
ロ
カさ
さ
のアン
の
。
の
ー
、
。
Mark, Veronika’s son, Veronika and her husband,
Henri.
と
の、
の知らなかった一
になれたことがとても
を、たくさ
知りました。そして
しかったです。
I talked with them a lot of things about my grandfather and father.
As I had become a friend with them, I was really happy.
22
I miss them.
らと 達
、
の かりの地、ドイ フライ
ルグへ。
Next, I went to Friburg in Germany. My grandfather and father used to live there.
フライ
ルグ大学の
く
Near the University of Freiburg.
は 1968 年にフライ
、
ス
プロフ
ルグ大学へ
ーとして、
ととも
に 6 か月間
。
スへ
国中の
ーラー
の
とも
の機会に恵まれる。
うどこの
、 にスイ
や F.Dumermuth
My grandfather, Dr. Hiroshi stayed with my
grandmother, Ms. Kazuko at Freiburg working
in the University of Freiburg as a visiting
professor for six months in 1968. They had a
good chance to interact with the sisters of Dr.
Kohler who came back temporarily from Kyoto
to Switzerland and the family members of Mr. F.
Dumermuth on those days.”
ミュンスター Munster.
がこよなく
で、小さな
したライン
を
って
へのおみやげにしました。
ライン
に
む
I picked up small stones at the
shore of the Rhine River which
my grandfather
loved so much.
I brought back the stones to
Japan and gave those to my
grandmother as my souvenir.
Myself standing still at the shore
of the Rhine River.”
ライン
にも行きました。Went to the Rhine River.
23
ル
アへ。
が 5 年間
でいた国です。
のお 達は、
を のようにか
わいがってくれました。
Flied to Bulgaria. My father, Jun Inagaki, had been in this country for 5 years. His old
friends treated me as a real daughter.
、
フィア。
The Capital of Bulgaria at Sofia
アレ
ンダー・ネフス
会の
ンチン
が
ー
院。東方正教
しいです。
Alexander Nevsky Cathedral is one of the most
beautiful Byzantine architecture.
の
達とその
。
My father’s friends and their Family.
24
ラ修
院。なかなか行くのが大
けれど、
らしかったです。世界
産の
一つ。
The Rila Monastery is one of the world's heritage.
It is a marvelous place.
らしい になりました。
さ 有り う
担
の
います。そして、 重な
様にも
を いて
いた HdB イ
ー
し上げます。
These experiences are really precious one for me.
I am most grateful to the editors of this Year Book for having a chance to write this article.
Thank you.
25
ス
の思い出
と
画
野
(
年~
年に
スペアレン
ー
した の思い出深い
った
、ド ムー
ーラー
人の 活
ーラー
人
生、ネ
と
ー
画を提
人、
前
生、
人、ド ム
がなつかしくしのばれます。
社前にて
から 人目
から
ーラー
)
します。とりわけ、
ーラー
の
年入
、 人目
生、
ネ
人
26
ラ
、 人目シ
タイ
ー
生
、
に
生
ド
ムー
(みどりさ
人、
)
ド
(初代
ムー
スフ
、
ー
ーラー
生、
生
ー)
(
生と
27
画
)
年おめでとう
います
梁
(
(
梁
年 月から
)の
年 月
梁
京
年
梁
東京大
農 修
取得
年
梁
東京大
農
取得(指
年 月
梁
大
校
生
年 月から
、韓国 )
大農
部農
究施設
修生(指
深海
高
)
、 現
同
年 月
京
大化
究
修生(指
年
東京大
農 修
取得
年
東京大
農
取得(指
年 月
門大
年 月
大
から
野
)
科
校 生
、現
歲
梁
次)
歲
歲
歲
28
同
歲
歲の
歲
生日に
)
The Time in HAUS DER BEGEGNUNG
Soleymanieh Ali (
レ
(1969 年入
は 19
年前の
でした、
から京
に
てこれから大学生生活の
)
ア
、イラン)
まりでした。46
です。
市での高校
代は日本人以外の人を
た留学生を しがってテレ
が取材に
れも知りませ
るくらいでした。
国際学生の では 20 カ国以上の国の留学生が
たいでした。この
しかったでし
が小さな
に入るための
う。
から大海
の
に
的な生活が国際的で るい環境に
たような
み
がでたときはな て
わりました。
でした。
ーティ
ンバーに ばれ会計係となりました。
のルールがどうなっているのかわかりませ が、その
後6
日の
らしていました。 にとって
接がありました。入
そして一年目に国際学生の の
いま国際学生の
でした。イランから
に
ールに
まり、一
を ける学生が
ターを
き で
を
覚えています。
理は留学生が自国の
に
代は必
事をし、その後 くまで ター
ったりしてとても
しかったことを
に
理を紹介していました。いろいろな事につ
いてよく議論をしました。 学、社会、政 、文学等々。
そういうときに
論フ
ーラーさ がフ
ーも積
ーでした。
され、どの分野の
題も
BEGEGNUNG の意
と
ーとしてペ
ン
は
く
がそこで機
ーさ
加されていました。
学の
を
ーティーとか
が入
したとき
生でありながら学生の
によく 加
HAUS DER
いてくれました。た
していたと思います。その後も
もよくみ なと
ろいろなきっかけで学生と
ス ス
的に
をされていました。フ
し人間関係を深めていました。学生の
の海の合 等で、学生と 生た
学生同
スフ
ーた はい
生日とか
の
を考
えておられたと思います。
これらのイ ン
では留学生 けではなく、日本の 者との
実際、国際学生の の
は京
という学生の
て自分の国の文化をみ
ス ス
ーティーがきっかけで
や習 をお いに紹介しあうことを
て、
29
に
象に
でした。
と出会いました。
にいて世界を知りました。学生た
なに紹介したのも
も
がスライド等を っ
っています。
の世界観が大きく
化し、
国の文化
に自国
の文化を深く知りたくなりました。
1985 年再
仕事の
日し、東京で会社を設
らこの 30 年間、
、
、特 なペルシ
、 画や
の を経 しています。
文化などの紹介にも積
的に めて
きました。
は今年で 66
の た
と
です。
3 人に恵まれ今 4 人の
るとき、そして
ときが 高に
の
です。14
せです。
の
ペルシ
30
の
から 1
Encounter in Kyoto
Frédéric Sausse
( Old Member 1972, France)
I was returning to HdB in this hot night of June 1973 after I had spent the evening walking
around in red-light districts of Kyoto. Going along the Pontochô, illuminated by the many
lanterns of bars and restaurants which followed each other everything in the length,
completely satisfied with local colour, I turned off eastward and found myself, once crossed
the River Kamo, in a residential area a stone's throw away from my destination.
And there, which was not my surprise to see on the pavement, three people discussing,
among whom I recognized immediately two of my professors of the School of Oriental
languages of Paris. I greeted them immediately:
good evening Professor Sieffert (René)
good evening Professor Mori (Arimasa), good evening sir (for the one that I did not know) .
It is the latter who showed himself the most interested, finding the meeting extraordinary,
you meet simply like that, on the edge of the
given that they had arrived only two days ago:
pavement
he pointed out. I explained that I had been a student at Kyoto University for one
and a half year, but it did not say anything about the folk dress I had adopted for this visit in
the slums. I had around the neck a red mexican scarf tied by a knot in square which
obviously intrigued this third mysterious man. Doubtless a former boy scout, I thought to
myself, but I made no comment. I could not linger at the risk of being discourteous. And as I
was saluting to leave, the third man, that he had intrigued me as much that I had intrigued
him, introduced himself, with a vigorous handshake, as the recteur Mallet that is the chief
education officer of Paris area, also a well-known poet, but with a very military style.
After that I went home, to meet other preeminent personalities but of the HdB. Actually I
arrived just in time to be invited to drink the evening whisky by Professor Osawa, as usual in
his flat together with Hiramatsu Kozo, another of his favourite students. And this has been a
perfect ending for a perfect day.
31
with Professor Hiramatsu in the Garden Albert Kahn, near Paris, in 1983.
32
My Stay at Haus der Begegnung 1972-1973
Hans Ågren
(Old Member 1972, M.D., Ph.D., Professor emeritus, Gothenburg, Sweden)
I spent the best period of my life in Japan from 1971 to 1973. In 1971, I
had graduated from Uppsala University Medical School, Sweden, and as
a counterweight to my medical studies I had also studied Chinese and
Japanese languages at Uppsala. With this background, I applied for and
received a Japanese Mombush
Scholarship through the Swedish
Institute for studies at a Japanese university. I was exhilarated, and went
east the same year.
The first months were spent at Osaka Gaidai for continued Japanese studies, staying at the
university dormitory at Higashi-Hanazono east of Osaka. I then moved to Kyoto Univer-sity
Department of Psychiatry, to which I was affiliated for more than a year. I had regular contact
with my medical colleagues, and my experiences at Ky dai directly contributed to my
specializing in psychiatry from 1973 on. I had my clinical training in Uppsala, went on to
defend my Ph.D. thesis in 1981, and became a full professor in psychiatry in 1992 — first in
Gothenburg, then for a few years at the Karolinska Institutet in Stockholm, and then back to
Gothenburg in 2006 until my retirement as emeritus in 2013. I have done a lot of research into
the psychobiology of depression and mania.
But perhaps my most important activity while in Kyoto was to immerse myself in Japanese
culture. I was extremely lucky to be able to stay at the Kokusai Gakusei no Ie, the Swiss Haus
der Begegnung, where I met with so many interesting people. I especially remember the Swiss
Hausvater, Ketter-san and his wife, and the parties we had with students from Japan, and, really,
from all over the world. One close contact was science historian Nathan Sivin, Professor of
Chinese Culture at University of Pennsylvania in Philadelphia, USA, and another medicine and
pharmacy historian Paul Unschuld, later Professor of Chinese in Munich, Germany. We made
excursions to nearby mountains, tried to go skiing in the Rokk mountains in slushy snow, and
made many friends, some of whom remain.
I also had the unique opportunity to study Japanese and Chinese history while at the HdB and
went deep into studies of classical Chinese, enabling me to delve into the historical study of
33
traditional East Asian Medicine. I translated medical works in this area from Chinese and
Japanese into English, and later worked also with Joseph Needham and Lu Gwei-Djen in
Cambridge, England, ending up with well over 20 papers in this field.
I also met my wife-to-be in Kyoto, moving to Sweden in 1975. We were married both in
Sweden and Japan in 1976, and we have two now grown-up children. We do keep up our
contacts with family and friends in Japan, and I always long to go back.
I have on several occasions walked around in Sh goin Higashimachi, filled with nostalgia,
feeling young again, watching the tidy white Haus with the open eyes of a 26-year old boy. It’s
a good feeling.
Author right, Mete-san from Turkey middle
Mr and Mrs Ketter & Paul Eubel
Excursion in Konan
Ketter-san and wife (middle) & Paul Eubel (left, Germany)
34
HdB Party 1973
Donald Wagner and Else Glahn, Denmark
Ketter-san is number 5 from left, in 1972.
35
思い出の
年~
年
(
36
)
の思い出
年
大
年入
が
で
した
でした。
の
ス・ペアレン
本 生とは京大
で がっていました。また 場
東レ
さ
会社
は 本正
・
生
事業部門
イ
学部、
大~
は め事
の方々にもお世
ル
院に至るまで
と
い
になりまし
た。
での日
しいイ
ら の
生活で、まさに異なるカルチ
ン や、
ーを体験。
のルールを議論する場で外国人学生と
ン・ ールや
行など
した経験は、京大か
、東レで海外事業に 一 して係わっている の会社人生に生かされています。
に
っ い
、
、
。
代の思い出は
年
い 月を経てなお
行
37
です。
ス
ス ーティ
38
代と
成保
(
年から ネ
ィアに
い。研究 にしばらく
カ は、同
は
年
ど留学し、京
まりし、間
りを
にいた
さ
(現
の門前にある
の
階で、
り、大学はス
で、
らといえば
していた。そ
な を、
は
での生活は、イタ
ス スの
に、カルボ
つけてしのい
京大言語学の教
の京
に
にとって、
をしたことも
かしいが、連れ
がなお
ス
ってお
に
っ
り
を
な国々の学生た
ン ールでは、ア
ティをつくったが、
の学生
に
いによる。その
く え入れてくれた。
ア りであった
行し
です
て大
ったこともあり、インテ アの
っても
ではなく
に向かって
えない
ーム
ではいたが、あまり
る前の大学 、 年のころ
していた(これも思い
間で、
伝い、
い
の中 でバレーボール
と
然大学へは行か
の
とに
りの
出の いが
ンボ・グループ」などと
の
のアルバイ を
た の
む仕事である。こ なアルバイ
ができ
にある
かれ、それが
に入
者さ
でやった。 月と
は「 」と「
で
を学科事
プレー
をどり の
にでる
月のそれ れ一ヶ月あまりの期
場に
験の 期で、 験を
強もたたって成
からは「
ラー、
強していた覚えがない。
さ のお いである)。
を
ろう
が
が、
せば
いいが、 月は期
「 」の
へ
った。
あれやこれやと本は
け
ってで
り出し、フライで取られたらラン
できないことが理解してもらえない、そ な
るのは京
りを
って京大のグランドで野球したことは、とくに
ーは
えを
。
である。
ったことを思い出す。
と
カ人のジ
な思い出である。ルールやプレーの仕方を知らない留学生は、
連 で、
)
に入った
)のお
は学生
た。 ーティには女学生をお いしたが、それが今の
の と一
産業大学学
。
ばかりをやり、学生
ーラのス
ーティでは
、大
に ってきたが、 むところがな
らすことは しく、いまもなお思い出深い。
ンと一
年入
接
けないので
めていた。 月はま
い
然
」しかない「カフカ全
は取れないまま。
ンボに
えることから、
されたりした(
で ることができた
39
)。
」で、成
は、な
には
かの学生た
と全員の成
の京大は、学生が留年して多数たまることより、 業させることを
か、とても
大 で、 ばかりの
ネ ィア留学の後、
の会社の海外研修
より
験を けさせていた
き、 事
業できた。
年 れて大学院を修 し民間の会社に
した。そ
度で、ペンシルバ
ア大学、
大学の教員になることになった。ア
での経験もあった、と思う。そ
今でも
な
ーネル大学に留学し、
カでの
らしを
が、今では大学の学
めた
年イ
から 人目
ー
スフ
本
スフ
ー
ー、 人目
ー
40
ス
は、
させてくれる。
より
ー
国後、
には、
をしている。
代の かしい思い出と、出会いと人生の 思議さを
から 人目
の
ー
思い出の
(
もう
年も前のことになります
ム
と
が
年入
)
。
スペアレン の
代です。
は日本人は
全体の
のみで、
でした。
野球
行
、どこかの部
が
った
で、文化
しい思い出です。
活
41
に
まって、日本語と英語
があって、今でも
思い出の
行
野村
(
切)への
行
(後
42
に
さ
、前
(
年入
に
さ
)
)
生の
への
行
(前
から
国際学生の
が
ルー
ールター・
目に
場さ
の
スフ
43
、
後
に
さ
)
での一
ー
ー、
者(短
ンの日本人)
Impressive Events in HdB
Caleb Brown
( Old Member 1990, America)
I lived at the International Student House from April to August of 1990.I was a curious and
unformed 20-year-old with weak Japanese skills, but the staff and residents at the
International House made me feel comfortable and welcome. I faced all kinds of challenges
during my stay, from earning a living teaching English conversation, to shouldering the
workload at Kyoto Seika University, where I completed printmaking and papermaking
projects under Sensei Akira Kurosaki. The basic kindness of everyone I met at HdB and the
support I received carried me through each difficulty and amplified every success. I suppose
it's not too late to say a hearty thank you?
In a spirit of appreciation, I want to share a few events I remember very clearly, even after
almost twenty-five years:
Strolling the Philosopher's Walk during hanami
Our house outing to a renowned ceramics studio, where we inspected rows and rows of
tanukis of ever-increasing size
The Cajun dinner I cooked for my housemates when it was my turn in the kitchen...
The silly adventures I had with new Thai, Malaysian and French friends
Generous conversations with the House Mother and Father, both Japanese and Swiss
Designing the T-shirt to celebrate the 25-anniversary of HdB
Winning a tiny television for my dorm room in a raffle - certainly I was student who
deserved that gift the least!
After my return to the USA in the fall of 1990, I graduated from Brown University, and
became an elementary-school science teacher and artist. My wife and I met teaching
together in the same school. We moved from Boston to California where I began creating
software interfaces for the web, and then we became the proud parents of wonderful twin
boys! My sons are now 14 years old. I still design software and work hard on my art. You can
see some samples at caleb-brown.com.
I would love to hear news from other students who lived at HdB in 1990:
44
Strolling the Philosopher's Walk during hanami
Our house outing to a renowned ceramics studio, where we inspected rows and rows of
tanukis of ever-increasing size (I am in the back row with a flower behind my ear)
45
My son Milo, on the right, is wearing what remains of that HdB shirt I designed.
My son Cyrus is on the left side
46
京
の
国際学生の
のお
さ
文
(
京 大学文学研究科修
の中国人留学生の 文
年間京 国際学生の で
と します。
国の生活習
、みなさ
い思い出を していますが、一
に
)
年
らすのは京
との知り合い、様々な
に対する理解、自分の人生にとってはす て
生活でたくさ
年~
させていた きました。 国の学生と一
国際学生の が初めてです。 初の のやや
年入
年間の
重な経験です。
に
っているのは、 のお
さ のことです。
京 国際学生の
さ とお
は一つの大
さ がいるの
は、 き
の
さ とお さ がいます。どうしてお
初は
に
ろう、
らしているう に、
中国には「
で、お
お さ
とお
思議に思っていましたが、ここで
さ の
の大切さが分かってきました。
るところに 有り」ということわ があります。海外をさすらう人
のようなもので、一
けているのは
の ら
です。この点について、
海外生活経験のある人はよく分かっていると思います。
お さ (
ールや
の レ
スフ ー ー)は仕事があり、
ーの に必
出ます。 とジ
に
が
しいですが、
きで、
ン
にやさしいお
さ です。
お さ (
ス
た。 では、
間に一回
ー)は、
ン
ることになっています。
ールを行い、
ン ールは、
ます。 理は、大体前日から
が
たり、 伝いをしたりし、自分の
カで生活した経験があり、
回 法のようにいろ
の にとっては、スー
で
理も出します。お さ
はも ろ
、
な 理が出るので、
は、
とお
の場となってい
回 理の指 をし
さ
もいろいろなものが
ン ールの
ンでし
生が自分の国の 理を
事による 国の文化
まりますが、お さ
ー ー
一 はア
れます。
、お
さ
の 理や
で京大 院に入院しました。 のみなさ
が
で 日
ー を しみにしていました。
年
月に、 は
47
いに てくれ、お さ
はないの
とか、「
して
い 期にお
さ
って
も のスタ フのみなさ も
って う」とか、
「
養して
」とか、「 日も
とみなさ が で
日本の 人が中国に るとき、お
「 つ のお
の の
りを
」と
か
いに
たいものがある
る
」とか、
てくれました。
「
今度
かい言
ってくる」
で
の一
えてくれて、 強くなりました。
産は
文します。
がいいですかと
がありますから。このような
院には京
48
に、
国際学生の があり、海外
の れる
ます。
かれた
なく
の
のことを今思い出しても も
Good Memories in HdB
Colleen Carlston
( Old Member 2007, America)
I have many good memories from my time in HdB. I lived there as an undergraduate in 2007,
and returned as a visitor in grad school in 2012. I am now a PhD student in molecular biology
at Cold Spring Harbor Laboratory in New York. HdB does such a good job of selecting
interesting, global members and I am glad to have maintained friendships.
House trip to Shirahama
(the fourth from the right: Maekawa House Mother)
49
HdB Cooking group
bowling outing in 2007 (The left edge: Mrs.Hida)
bowling outing in 2007
50
公
法人
京
「国際学生の
」
員等
理事会(2014 年度)
理事
海
教 、NPO 法人さきがけ
(京 大学
会理事 )
理事
(HM、京 大学農学研究科教 )
理
事
上 村 多恵
(京南
代 取
社 )
(京 府 大学教 、
村
HF)
(京 女 大学教 、OM 会員)
(
村 一
学園大学教 、OM 会員)
(京 大学教 、
HF)
RUSTERHOLZ Andreas(関西学院大学文学部 教 )
( 本学園大学 師、公認会計
HF
HM
) HC
OM
事
(市
院
院 )
(大 経 大学 教 、公認会計 )
(
学
員会(
)
)(2014 年度)
員
(
調理師専門学校、OM 会員)
員
(京 大学 教 、OM 会員)
大
義 信
(京 大学 教 、OM 会員)
(
機 、OM 会員)
(京 大学 師)
人
TANANGONAN Jean
(
(
産業 、OM 会員)
大学 師、OM 会員)
51
:House Father
:House Mother
:House Committee
:Old Member
DAVIS Peter
(Telecognix Corporation CEO)
(京 大学教 、
生
(
HF 、OM 会員)
HF、京 大学学際 合教育研究
の 合
PHILLIPS Joseph A.
ンター
開発
(HF)
(HM)
CHAIRPERSON of TEAM
VICE CHAIRPERSON of TEAM
議員会(2014 年度)
(
中
理一
(
義
西
英
研 代 取
社 、OM 会員)
同 社大学教 、OM 会員)
(京 大学
教 、京 産業大学教 )
(京
大学大学院
科学研究科教 )
(京 日 協会会 )
( 調理師専門学校、学
員 、OM 会員)
(社会
協力会理事 )
問(2014 年度)
法人京 国際社会
(京 大学
教 )
SPENNEMANN Klaus (同 社大学
教 、
(公 )日本
スチ ン
アカデ ー理事 )
(京 大学
公
(
教 、OM 会員)
学園理事 ・学 、京 大学
(京 大学
教 )
員(2014 年度)
一
52
教 )
)
年度(
年 月 日~
者
年 月
日
者
一・
多
多
達
達
会社ア テ
・
広
野
小
恵
成
小高
義
部
大
一
市
小
小
東
本
義
上
社会
法人
今
一
上
上
上
地
東海
村産
人科
基
村
本
正
一
重
大
重行
大 保
大関
一
恵
本
外村
高
高
高
高
合
一
覚
重行
中
知
一
有
一
英
村
本
一
中
中
中
中
中
介
上
一
一
カンタ
次
ーレ
ド
53
かよ
ン・アス会
分)
(
略)
者
者
正
本間
あさ
合
カ
文
村
一
多
留
ム
少文
ラジ
シ
ラル
上
ン
ラジ
園
達至
修
理
信
本
村
中
会社中
師
師
ージ
中
正
中村
中村
中
中
中
西
西
代
正
恵
会社
一
初
高
一
上
上
公一
英
恵
本
本
本
本
東村
日高
攻
理
理
カール イン
野
有
恵
有信
本
本 恵
本 修
本
場
信
義
野
スダ
恵
正
イ
フ イ
一
恵
会社
ア
村
村
ロイ
ロイ
研
54
会社
デル
ン
・
(
・その他
年 月 日~
年 月
年度
日
者
者
英人
義
正人
本
一
中
省
理一
中
上野
海
成
大
大
知
大
西
英
西
共
西本
村
野
本
野村
成保
観
野
野
本
本多
小
一
前上 英
小西
施
一
高
高
高
村上 義
修一
分)
村
村
中
公
文
中
中
55
(
略)
者
者
あきえ
充
国際
本
ロプチ ス 京
た ばな
英
日本文化体験
大
・
ン
成
(
年度京 市外国人留学生
ス行事に
等
事業
わせていた いております。)
皆様のご支援に心より感謝申し上げます。
56
ール、ジ
ースなど
57
「
国
際
学
生
の
「
国
際
学
シ 生
の
ン
( 」
日
の ) 日
「
)
出
会
い
の
師
ー
ラ
ー
設 設
発 実
行
人
会 員
( 会
(
一
月 月
」
第
一
回
京
第
一
回
京
ス
イ
ス
東
ア
ジ
ア
開)
」
チを
京
ー
に
実
現
・す
一る
月た
め
の
一
日
)活
(
日本
法
人
と京
ス
(
イ
ス
フ
ラ月
ン
(
日
)
「
け 国
る 際
( よ学
り生
月 の
)
」
設
を
)
の
スフ
ー
(
)
ムー
ーラー
)
(
)
(
日
)
一
月
(
事
開
事
及
増
西
ン
ー
発
行
(
月
日
)
月
日
日)
)
第
一
年
事成
(
発
生
(月
自西
O.Pfenninger
ペ
月
I.Uchida
中
K.Nakayama
月
」の略
月
「国際学生の
月
)京
F.Dumermuth W.Kohler
ド
月 月
H.Inagaki
(学 地 4
開献 学
教
文 法 (( ス 開
法月
(・
人 設 ( 第(人
一 京 月月 チ 一
京日
)事 月
一月ー
) 「 日 ム年
「
中
の 国 一) 日
国
際 を ) ・ 際 日 )生
学
京 学)
対生
生
(
の 中
府象の
(
教と
」
月
育な 」
る
日
月
員
と
)
行
会験
研定
日
、
員究 (
法
)定
(
(人
等月
月と
月
し
て
日 日
日
)認 )
)
理
事
スイス
ー
月
(公
ア
O.Bar
月
問
題
発
生
事
修
上
け
、
を
協
会
よ
り
法
人
問
題
解
年
の 」
発
正 行
(
法 『 年
人 出
京 会
い
「 』
国 第 (
際
学
月
生 「
の
日
」 年 )
諸
月
一
日
)
月
I.Uchida
月
海
H.Utsumi
月
ター
J.Kotter
月
大
M.Ohsawa
月
G.Putnum
ム
本
M.Yamamoto
月
58
年
度
・
一
年
度
日 の
)
をラ
基イ
本
ン
産
に
組ラ
み
入(
れ京
、
「
ラ
イ
ラ
ン
)
基よ
り
月
定
(
」
を
要の
を
月
)
(
と
の
よ
りム
の
と
し
か
し
学
日
)
月
(
・
初
代
理
事
ルー
行
を
よ
り
の
強
の
学
ム
一
日
)
(
一
月
に
上
野
代
理
事
月地
一
日の
)
分
に
よ
り
第
(京
(
年
一
日
)
日
)
日 日
月 ) ) 月
を
地
域
年 月
度
国
際 日
)
(
第 第 年 (国
際
代 代 第 月
一
理 理
日基
事 事
) 年
・ に
よ
「
上
り
野
( 月 」
発
行
月
(
(
ー
ラ
ー
ー
・
ル
者
・
ールター
M.Burkolter
月
A.Furukawa
Y.Kotoura
「国際学生の
月
)京
月
(公
月
日
)
日
)
月
(
一 成
月 (
」 」
諸
ン
フ
の レ
「
国
際
学
生
の
法 法
人 人
京 京
「
国
際
学
生
の
レンバイダー
月
(
に
代
理
事
第
K.Otte
一
日
)
テ
本
S.Yamamoto
月
(月
一
月日
)
理
)事
(第
広
代
女理
学事
院
大・
学
学
S.U.Vollenweider
フ
月
海
H.Utsumi
月
」の略
59
に日
出)
日(
、
月
他
会
ィダー
D.Wider
テ
K.Otte
年
J.Toguchida
村
K.Yoshimura
月
月
月
)京
人
ー
ー
ス
フ
、
と
の
法
的
関
係
解
月
日
)
月
正
(
の
行
高
H.Takahasi
月
(公
再再
事開
)
員修
の
・
事 (新 行
開
事
・ 月員 開
全(
日 (
生 月 )(
月
の初
月
) 一
日一
(
)日
)
月
全大
「国際学生の
Y.Kido
月
」の略
日
日 )
)
(
一 月 日
)
月
(
一
月
海 会
(
代 代
理 理
事 事 生
を
・ ・
第 第
前
K.Maekawa
月
日
)
月
(
人
ー
ラ
ー
・
ル
人
者
日
)
月
(
ー
ン
ー
・
ペ
ス
代
第
M.Matsuhashi
月
60
月
(
(
年
月
日
一
) 日 月
)
日
)
月 (
(
理 理
事 事 議
・ ・ 員
・
村 西
米
)
一
日
月
(
月
一
日
)
(
法
人
認
法
人
行
公
公
本
M.Yamamoto
月
)京
K.Kitajima
月
(公
「国際学生の
」の略
(公
)京
学生の部(レジデン
国
「国際学生の
」
者の
計
)
者実数
年 月から
アフ
ア
年
月までの合計
国
スタン
ー ジ アール
イール
カ
アル ンチン
シン
イ
スイス
ス
ール
イスラ ル
ス
ーデン
イタ ア
スーダン
イラ
スペイン
イラン
ス ランカ
インド
ネ ル
タイ
インドネシア
スタン
ジプ
タン
ス
ア
チ
チ
ア
中国
ア
スロバ ア
ース ラ ア
ース
チ
ア
ランダ
ドイ
ー
ド
カ
カ ダ
ル
韓国
イジ
ア
日本
カンボジア
ージーランド
プロス
ネ ール
ル ス
ル
グルジア
ー
スタン
ア
ン
ロン ア
ー
バングラディシ
ン
61
フィ
ン
レーシア
フィンランド
ラジル
南アフ カ
フランス
ン ー
シ
ータン
ロ
ム
ネ
ン ル
ラ
ー スラ ア
ペルー
ラ ス
ーランド
ボ
ア ア
ア
ル
ルー
ル
ア
レバ ン
ンジ ラス
学者・研究者の部(
国
年
ス
)
者実数(同一人
の
月から
月までの合計
年
・同行
を
まない)
国
( 国
アイルランド
ルグアイ
アフ
ジプ
ア
スタン
チ
カ
アルジ
ア
ース ラ ア
ア
アル ンチン
ース
アル
ランダ
イ
ア
ア
ー
ス
イスラ ル
カ ダ
イタ ア
カ ルーン
イラ
韓国
イラン
カンボジア
連
インド
インドネシア
ル ス
ンダ
シ
ライ
ア
スタ カ
スタン
62
なし
)
ロン ア
ン
ー
ン
バングラディシ
イール
フィ
ン
フィンランド
ジアラ ア
ラジル
ン ア
フランス
シ ア
シン
ル
ール
ア
ム
スイス
ス
ペルー
ーデン
スーダン
ル ー
スペイン
ーランド
ボ
ス ランカ
スロ
ア
ル
ア
ル
ル ア
ンジ ラス
タイ
ダ スカル
タン
レーシア
ア
チ
南アフ カ
スロバ ア
中国
ン ー
チ
シ
ジア
ロ
( 日)
チ
ン ル
デン ー
ー スラ ア
ラ ス
ドイ
ド
ラ
カ
ア
ア ア
ル
イジ
ルー
ア
ル
日本
ン ルグ
ロシア
ージーランド
ネ ール
ル
ア
ー
スタン
バーレーン
63
後
法人会員
(
(50
会員
(2014年12月現 )
略)
)今日
(
) 々
(有) 野
(公 )体質研究会
げ
野
(
)
人会員
今
省
大
(50
村 機 (
略)
(京 府)
(京
府)
(京 府)
(京
府)
( 知 )
(
(
)
(広
)
(京 府)
(京
府)
)
(
野
(大 府)
中上
村
(京 府)
中
(
成
野
小
)
(京 府)
正広
機
組
(
小
)
一
理
)
)
(京
府)
(大
府)
(
西本
観
(
)
)
(京 府)
(京
府)
小
(京 府)
(京
府)
加
(
)
(京
府)
(京 府)
(京
府)
(大 府)
(大
府)
(京 府)
(京
府)
(大
府)
(京
府)
合
(
)
京
(京 府)
文
小
英人
(京 府)
(京
府)
小
一
(京 府)
(京
府)
理
(
(京
府)
(大
府)
(京
府)
(京
府)
)
野
(東京 )
本
(
本
)
一
(京 府)
一
(
本
米
)
英
(
64
)
OM(Old Member)
1965
会員
Ardianto C.
(入
年度
海
充
Floriano S.
Hoh Ching F.
G.A.P.
Htun Myint
H. Reinfried
Julizar S.
方
Vichai M.
関野
行
Pham Tri N.
少文
保
村
Ragai W.I.
一
Htun Hla
中
Domenico C.
John. F. W.
Ly Kim Hoa
Farid D.
1968
Umesh C.V.
Silvio M.L.
S.K.P.Dasa
研一
Gehlot N.S.
Setrak G.K.
世
Pairath S.
小
Uri Werner
信
H. Stieger
1967
Soegyo M.
S.M, M.S.
Myo Win
野
Jaime Schapiro
1966
)
正人
人
S.M.P.W.
Vacek A.
Ohn Kyaw
Anwar H.
英
正
C.M.Tahir
K.Velupillai
Oh Koh Lin
Chuchawal S.
Lubomir O.
Paul Wills
C.S. Asumen
Mashala R.
Suthasupa P.
J. T.N.S.
Nguyen H.A.
保
Le Sinh
Norman T.M.
Abdul F.
Woltgang L.
野
小
Banasik M.
Numic Refik
Nem H.B.
Jalit T.
間中
William Chu
東
Mohammad Z.U. P.P.B.F.
深
実
加
Ronald E.K.
1969
1970
Ta-Yan L.
Prachak C.
Thomas M.P.
Yue-him Tam
Ali S.
Liew Sen C.
Richard W.L.G.
Hakan E.
Maung T.K.
中
John R. Z.
Mohammad H.E.
Ahmet M.T.
John T.W.
Mohammad A.A.
小
Muhammad K.A. Renaud N.
小野
Daroon P.
Krisada V.
Ooi S.L.
増
Edwin S.
理一
Lai-ping Tam
中
Kanchana V.
大
基
正
信
正
1971
B.G.Sheldon
David A.J.
Paul Eubel
中
一
S.R.D.D.J.
西本
観
Fok Tou-Hui
Joe Du Gum
Zachary O.K.
Robert L.J.
Koung Nyunt
Michael F.S.
Pham N.L.
1972
Alejo G. G.
Hans Eric A.
1973
Frederic S.
Kodakkat T.V.
Djoko S.S.
Japhet I.E.
Prochaska E.
Ernst L.
一
成
Nguyen Hao
Khaing Oo
野
野
人
Phan Si P.
村
Turgut B.
正
大
65
T.T.Scott
重行
Lim Eow Hoe
1974
Ardi P. P.
Hla Tun
Luong Truc
Bruno G.
Jerzy A.B.
P.A.F.N.
Eugenie S.
高
1975
理
Ruttikorn V.
本
Keo I.
Erol K.
Khin M.W.
R.Moller
Sengli J.D.
Fakhr E.S.G.
Soren U.
Sandor M.
実
Vacek V.
Reino Y.O.H.
Rungsun L.
小
M.J.Maricar
攻
Craig W.R.
Heng Phala
Vlayko N.
部
一
Yves-Marie A.
南
Kamchai L.
1976
Artemio S.S.
Salehi S.A.
John P.K.
中
1977
M.J.Fidel
部
大
K.P.Mishra
Ali M.E.
Kasem T.
Anatoliusz L.
村
Norberto N.
成保
Khosrow J.
Nguyen T.B.
Laszlo H.
R.Delawary
行
Samuel C.C.
Zacky D.M.M.
Sujarid K.
Johann S.
Richard D.F.
Yap S.K.
Sellam R.
小
Nicos J. R.
Sayed A.A.
James B.B.
1978
Jacobi Aart
Kazimier K.
Aldo G.P.T.
本村
開
一
中
Ladislav A.
Hoi Won Lon
信
Peter F.R.
Luong Van C.
M.A.Bring
Anthony L.K.
Gal Tibor
M.I.A.Khan
A.H.Ghailan
Igor L.F.
Vai J.
Lui Kin-Yip
学
Jacques M.T.
1979
William M.K.
人
Sirikiat A.
F.N.C.Meng
民
本
小
1980
Arief M.
大
民
村
一
E.L.M.B.
本
1981
Pyi Thein
Lui Kin Yip
重
Torok T.I.
Suvinai P.
一
英世
Arun S.
Inoti Isaac
E.F.B.
K. R. Sreekanta
Lau Yew Hoong
Silvio Vita
Romeo B. M.
行
Amatya N.M.
F.K.G.
1982
Ahmet S.S.
John D.C.
Michal Kosc
外村
野村
Sakda T.
野
野
Selim S.T.
Sidney J.A.
中
Harka I.I.
一
Jirost I.
前上
1984
英
Tapan K.M.
Wison L.
Mehmet E.D.
1983
Damber P.R.
一
Nihar R.M.
John L.V.
恵一
Ravinder K.
R.R. Valle
Pichit P.
Prateep V.
Bruno R.
Jackson M.B.
大
Chang C.C.
Jairo B.C.
Keshav L.M.
D.M.
Jean B. T.
国
Jorge T.
66
知
Oscar Higa
Serigne M.N.
達
村
1985
1986
Ali K.A.R.
Jamy Gul N.
Githae W.
Jon Tamio T.
本
L.A.V.F.
Philip J.S.
M.H.S.
大
B.M. S. R.
正人
F.M.L.
Kalala K.
F.J.J.C.
Lim Wee H.
Maung A.C.
一
Peter Blum
Rajiv Ranjan
本
Supakij N.
Luiz K.
Veerapot L.
1987
Paul Driscoll
Hendrayana
Nazar A.N.A.
C.V.N.
Nelson V.G.
Harry Halim
M.L.M.T.K.
1988
英
1990
大
本
O.M.B.N.
Supot K.
Lee P.P.
Rewat L.
Low S.C.
Antariksa
Eko Cahyono
Bachtiar A.
Farhad F.I.
文
Garry M.M.
Anura V.B.A.
方
生
月
正
Nguyen T.D.
Miguel V. G.
Young A.C.
Ricardo
全
Fung Cho K.
有信
中村
一
Lopez Gulliver
本
南
大
Lim Chun R.
Caleb Reuben
義
Tan Kok Kee
正
Reo H.R.
本
本
1991
信
Sepanta H.
Janusz S.
A. Kamil T.
V.K.
Mehmet A.A.
人
Alistair D.S.
1989
Praveen K.
小
Ashenafi T.A.
本
Teeraboon T.
Htay A.W.
修
Aniekwu A.N.
Jorg F.
Luis A.C.P.
Nah Wee P.
Julio R.N.
Lothar K.
Ronald L.B.C.
Brahim M.
高
次
Whitney R.H.
Yangyuoru M.
John P.C.C.
1992
Henry Y.L.
高
市
Luiz C.K.
Pablo O.V.
範
Zeidan A.F.
Ricardo C.I.
S.R.Pandian
Neo Eng C.
基
1993
Ahmet Onat
代
Danford P.M.
1994
大
西村
的場
Seah K.G.W.
政
一
大村
一
後
義信
正
海
人
人
Ignacio A.F.
Mike Matsuno
出
Hans-H. R.
強
Ian J.M.
本
Jaroonsak J.
成
東
Wasarin J.
Andreas S.
深
1995
Makhanu K.S.
加
Benjebbour A.
Tan K.H.
Z.Shaikh
大
Jiri Stetina
大
関
正
Ian Hodor
Grincourt Y.
Mark S.
大
Stefan Pompe
Mitchell M.B.
Welton H.N.
P.英
1996
Matthew W.B.
S.
Malcolm J.M.
Kwan W.L.
Sachi G.H.
高
泉
Viengrat N.
Daniel P. A.
Zegrari Fathi
Elizabeth S.S.
加
わかな
Cesar G.M.
Fadil Hicham
See Tian Wei
本
代
67
1997
Ai Maryam
Isabel M. L.
全
David Y.T.
Antonic Ira
恵
Chuleeporn P.
Micah L.A.
Lim Chee Wooi
Moussa A.D.
西
1998
野
介
Lee Wee Tiong
中
村上
前
Carly G.T.
Veng S.
Emil S.
前
村
M.
Rosyid R.M.
高
信
MAJELLA
成
L.
基
T.
W.
範
V.
2000
知
D.W.
関
1999
本
世
Andrew J.K.
知
Thai Saray
文
あきえ
POON
出
.
達
成
A.
中
恵
中
G.
T.
L.
T.
文
P. D.
野
2001
N.H.
L.T.WILLY
E.G.
A. O.
人
留
S. J.
新
本
本
理
SOK KHA
村
2002
D.
A.
O.C.H.
Q.
J.
2003
西
小
K.
C.
国
合
留
M.
海
修
重
2004
F.
恵
H.
B.
L.
高
野
V.
一
K.
中村
S.
児
上
野
代
本
2005
T. T. H.
一
P.
P.
M. H. S.
I.
O.
2006
野
村
小野
M. C.
野さやか
L. S.
H.
普
O.
本
L.
L.
F.
まど
68
2007
C.
T.H.N
T.
中
S. E.
東
日野
2008
V.
E.K.
成
J.
T. Kanate
E. R.
Jong Sik Kim
市村
日
村
.H
I.A.M.
村上
S. M.
小
野
西
Rey Sopheak
東
Ari I. R. D.
2009
C.
研
Nicolas J. L.
Mattias O.
文
修
世
野
D.P. Thao
基
2010
Zhang Yao
野
Ehsan Borhani
ドー
施
一
後
B. N.
Likanan Luch
覚
英
実
間
一
Kesinee J.
一
ティ
I. W.
N. Hai Minh
N.E.Crabb
理
研
上
理
大
H.F.S.Sherida
大
さやか
J. Hamidreza
小
K.Rusudan
2011
々
Liis.Seinberg
J.
Eklou K.
Petra S.
Julius F.W.W.
Thinn Thinn
Khamsuk Sunisa
野
Ilona Aleksiuhaite
2012
Anjelica Lim
Nyein Chan
B.Borgil
Pontjowinoto.R.S Dang Q. K
中
E.Schulze
Hakimov Aibek
Dang N. Vo
修
B. Borgil
W. Koontanakulvong
2013
Phan Van Tien
Doan Huy Loi
Lea Duempelmann
Stefanie Garrelts Claudia Hollederer Jasmin Jaeger
Arias Jonathan
Artur Sagradyan Michiel H. Boerwinkel
2014
Amin Niazi
Birte Kimmel
Rebekka Liese
69
Gideon Roder
法人京
公
国際学生の
後
会会
(目的)
第
この
は、公
員の入会及
法人京
会
国際学生の (以
に会 の
という。)の後 会
入に関し、必要な事 を定めるものとす
る。
(会員)
第
の事業に
同し、
を
する意を有するものは、後
会員となる
ことができる。
会員になろうとする者は、
定の
を、代 理事あてに提出するもの
とする。
(会 )
第
会員は理事会で定められた会
年会
は会員
に
を、入会
て
(
)
人会員(
(
) 法人・ 体会員
に 入するものとする。
のとおりとする。
会員)
年
一
年
一
、
生
( 会)
第4
会員は、いつでも 会
を
に提出することにより、
会することがで
きる。
前
の場合、
年度の会
が
のときは、これを
入しなければなら
ない。
の会
は、いかなる理
があってもこれを
しない。
( 正)
第
この
の
正は、理事会の議
この会 の施行に関し、必要な事
この会 は、公
法人の設
を経て行うものとする。
は に定める。
の日(
成
年
月
日)から施行す
る。
この
正会
は、
回理事会にて
成
年
月
日より施行する。( 成
)
70
年
月
日第
後
海
(
村
理事による
言「
めた行政等がグロー
ー
ル化に えた人材育成を
会議」を
上げ、 し
年に開
2年
生達が
と、本学
を
第一部の
HM である
の
ら、
の生
性と本学
・ oe
な
スペアレン
例であった HdB の
が いたところから修正して
について「京
、 意
やアイデアや
のことで、
で初めて、
の
はま
プも開
生の
い。
行の
e
が多い。そ
問題について」を
を
せて
した。
さった。
で」という言 が
けているのはディ
の活 に
ー
は「
象的である。
ができる
考になる。しかし
と現
で
と
く英語でディ
する
ー し、
できるかと思われる。
者の 1 人であり
かしい HdB の
れ
前理事
のお さ
かりの深い人達との出会いの
o er
さった。
る aa を
、
日本語でつくり、 a
な英語になっている
の
が意
ましい環境にありながら、
また、
を送って
の仕事をこなしなが
をお いしたい。
と
施設では
ー
が がる。一方 H の oe
と 段に日本人の英語力が上がっているので、 すること
とても
ス
いている。
国際学生の
ある」との指摘は、今後の
ー シ
スフ ー
カ人である。これまで HdB で す言語は、日
eaker でない者が英語に していたため、
は
が
であり、これまで外国人の H は全てス
ラーという専門
本語と英語ということになっていたので、 々の
の「
である。
が理事となった。HM は多 な教
イス人であったが、初めてのア
スは なる
としての
学を研究していることから海外出 も多いにもかかわら
者のカ ン
こで、
られている。
スペアレン
ン ールなどの HdB の行事をこなされているタフさに
は、
ってはいないが、
の重要性が
の新しい
ー
めることが
京大教
ヶ月となっている。
・多文化共生社会を体験していることを考える
されている。今回は本 に
ー H が理事を
)
員会」や「産学連携によるグローバル人材
も前から、グローバル人材育成とは
ーラ
には、
教
めようとしているが、現実には、大学教育プロ
年間も国際
設した
大学
年に「産学人材育成
げて、
グラムにおける海外体験は、短期で ~10 日、 期で
スでは 0 年 1
、京
スにおけるグローバル人材の育成」では、政府を
ーシ プ・グローバル人材育成
育成
理事
生の
、 a
r
りは、
くない新しい
と ero ka とその
もあり、スイス H の
71
からの
・ド ムー さ
、 o er
の
な
どの りは、
また
い出、
い OM 達にとっては、とても
人の
から
等を送って
すばらしい活
で生活しなければ得られなかった 重な体験や思
いた。 らが
で得た経験を生かして、この国際社会で
をされているのには
づけられる。送られた
に
重な
かったかと思う。分かるものには
な
を
展
ル
を
させられるし、
には、
201 年京
かしい りになっている。
イン
もあるが、
人達が
「
72
することに
を
文があればより
けた。
つ」
(
海
)
公益財団法人 京都「国際学生の家」へのご寄付に対する
寄
付
金
控
除 に つ
い
P.70
イ
今井
匠
Meng-Yu Jennifer Kuo
ン
て
Fly UP