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東北タイ農村における識字女性の宗教実践
Journal of Asian and African Studies, No., 論 文 東北タイ農村における識字女性の宗教実践 持戒行の事例からの考察 加 藤 眞理子 (京都大学) Literate Women’s Religious Practices in Rural Northeast Thailand Consideration from a Case Study of Observance of Buddhist Precepts Kato, Mariko Kyoto University This paper examines the religious practices of village women in northeast ailand, which have been le out by many previous studies. A special reference is given to an understanding how those village women use their central Thai literacy in Buddhist practices due to the national modern education. Data for this paper were based on ethnographic fieldwork with the use of participant observations and in-depth interviews. In this paper, the researcher highlights a case of women’s religious practices through their observance of Buddhist precepts during the Buddhist Lent period. Such practices can be comparable with renouncing the world of women who are institutionally excluded from the ordination. It can also be comparable to men’s entering into the religious world as Buddhist monks in order to seek a refuge in religious life. And women use their ai literacy skill in oral practices such as reciting Pali Sutra, which is a main activity in those practices. Research findings are as follows. Women’s religious practices are very vigorous. Coordination with fellow villagers in reciting Pali Sutra has resulted in creating a sense of communality in religious practices. Widespread printed materials in ai and their ability to read the central ai literacy have enabled women to have access to the traditional sacred knowledge of the Sutra on their own and thereby not through men any longer. It is the oral recitation that they have developed rather than the study of the meaning of the Sutra. The Pali Sutra is embodied by the practice of recitation through national ai language. Such practice can compared with the men’s traditional way of succession of religious knowledge. But women’s embodied knowledge in ai is the new phenomenon of religious practices. It Keywords: Women, Religious Practice, Northeast ailand, Recitation, Literacy キーワード : 女性,宗教実践,東北タイ,暗唱,識字 146 アジア・アフリカ言語文化研究 79 is discussed that ai literacy brought women’s vigor religious practices and embodiment of knowledge. 1. 女性の宗教実践 Ⅰ.はじめに 1. 問題の所在 2. 持戒行参加者 2. 上座仏教における識字と誦経 3. 持戒行における誦経 3. 調査地の概況 4. 持戒行における女性の宗教実践 Ⅱ.東北タイにおける識字 Ⅳ.女性の識字化と宗教実践 1. 東北タイのことばと近代教育 1. タイ語の識字化への影響 2. タイ語訳つき経本の普及 2. 誦経と知識の身体化 3. 調査村における識字状況 Ⅴ.おわりに Ⅲ.持戒行と女性 これまでの実践宗教研究では,出家による Ⅰ.はじめに 功徳を得ることができない女性は,男性より も功徳が必要であるために日常的な積徳行 に励むのだと説明され[Kirsch 1975: 185], 1. 問題の所在 本稿の目的は,東北タイ農村女性にとって また仏教寺院において座る位置が男性の後ろ 重要な仏教実践の事例である持戒行を取り上 であること,行事の指揮は男性が行うことな げ,近代以降,国家による教育を通じて普及 どの実践上の性差は,宗教的位階における女 したタイ語の仏教実践に対する影響を,ミク 性の地位の低さを示すものだとされた[林 ロな視点から検討することである。 1986: 104-105]。しかし本稿で記述するよう タイ国全人口の 9 割以上が信奉している上 1) に,事例に挙げた東北タイ農村の女性は,儀 座仏教は ,均質的なパーリ語経典を保持し, 礼の先導役を担い,他の女性や村落社会をも サンガ(僧団)と出家主義,女性の出家慣行 巻き込んだ活動の拡がりを促進していた。こ 2) の不在を特徴とする 。タイ人の仏教実践を のような女性の積極性は,これまでの研究報 根底から支えるのは,出家や布施などの行為 告には見られず,女性の宗教的役割が低いと を通じて功徳を積み,その多寡によってより も,功徳の不足を補うためとも説明しがたい よい現世や来世の地位を期待する功徳の論理 ものだった。 である。男性は一生に一度出家する慣習があ タイにおける宗教実践研究では,これまで るのに対して,出家を許されない女性は生涯 複雑な宗教現象を統合的に捉えるために様々 を在家信者として過ごす。女性は,寺院を中 な試みが行われてきた[cf. Tambiah 1970; 心とする様々な年中行事への参加,僧侶への Terwiel 1979; 林 2000]。しかしほとんどの 日々の食施や息子を出家させることによって 研究は,男性を宗教実践の重要な担い手とし 積徳行に励んできた。 て捉え,一生在家信者として過ごす女性に焦 1) 2000 年教育省宗教局の統計では,全人口の 93.31%が仏教徒である[Krom Kan Satsana 2002]。 2) 1998 年スリランカで女性の出家慣行が復活した。タイでも 2001 年にタイ人女性がスリランカで 10 戒を受戒し沙弥尼(samaneri 見習僧)になった後,2002 年タイ国内においてスリランカなどか ら比丘尼を招請して初めて女性の沙弥尼得度式が敢行された。しかし調査村の女性は比丘尼になる ことに全く興味を示さなかった。タイ国のサンガもまた,比丘尼の存在を公式に認めていない。 147 加藤眞理子:東北タイ農村における識字女性の宗教実践 図 1.東北タイ・コラート公高原 図 2.調査村周辺図 3) 4) 点が当てられることはほとんどなかった 。 寺院には,貝葉(bailan) の形で宗教・信 例えば,東北タイ農村社会における宗教現象 仰儀礼知識が所蔵されており,出家した男性 を統合的に捉えようとしたタンバイアは,宗 はそれらを学習した経験を生かし,還俗後も 教儀礼専門家の知識や実践に着目した。彼は 村落における宗教儀礼の担い手となることが 宗教儀礼執行者を,識字能力の有無によって 可能だった。つまり男性の宗教実践には識字 分類し位階的に位置づけた。重点的に取り上 または文字自体が必要不可欠であり,研究者 げられた僧侶などの儀礼執行者は,儀礼だけ もまた識字能力の有無によって,エリートと でなく社会生活全般において重要な役割を果 それ以外とを分類してきた。 たす識字者であった[Tambiah 1970]。タン 識字と宗教的知識が固く結びついており, バイアが調査した 1960 年代,調査村ではま その宗教的知識の獲得が社会的権威につなが だ近代教育が浸透しておらず,彼の研究の中 るとする捉え方は,研究者だけでなく,地元 では,農村女性はいかなる言語においても識 の知識人の間にも根強くみられる。そのため 字能力をもたない者として描かれている。 宗教実践の性差が報告されることはあって 上座仏教世界において習得される識字と も,一生在家である女性の宗教実践は,出家 は,そもそも独自の文字を持たないパーリ語 しないことと,宗教的知識を学ぶための識字 による仏陀の教えを,それぞれの国や地域の 能力を習得しなかったことの二点によって, 文字で編纂した経典の読み書きを示す。近代 研究的価値を見出されることはなかった。 教育が普及する前,男性は出家することに 近代以降,教育やメディアなどを通じてタ よって寺院で経典を読むために,このような イ語が東北タイ農村にまで浸透し,女性も義 古い経典文字を学習することができた。仏教 務教育によって識字能力を得るようになっ 3) 例外的に,特殊能力を持つ女性霊媒[田辺 1995],メーチーと呼ばれる女性修行者[高橋 1997; Van Esterik 1982]のように,女性の中でも宗教儀礼的技能や知識に優れるとされる特別な存在を 取り上げた研究がある。 4) ヤシ科コリファ亜科に属するラーン(Coryphalecomtei Becc.)の葉を一定の大きさに切りそろえ, 片面に鉄筆で文字を刻み,凹部に墨を入れた伝統的な書物。多くは経典などの仏教典籍を記したも のであるが,歴史,占星術,民間医療関係のものもある。 148 アジア・アフリカ言語文化研究 79 た。タイ語は,中部地方の言語を元に教育や われている。近代以降,女性は識字能力を獲 メディアによって全国に普及した国家言語で 得し,経典が読めるようになった。現在,一 ある。印刷技術や流通の発展を通じて出版物 部の高齢者を除き,タイ語を全く読めない者 は全国に普及し,タイ語の識字は,文字の読 はいない。しかし近年にいたるまで女性が学 み書きという意味を越えて,人々の生活の 校の外で手にする書物は経本だけであり,女 様々な面に影響を与えた。特に東北地方が国 性の宗教実践における文字の利用は,持戒行 民統合される過程において,日常言語ではな で経本を詠むことに限られていた。特に近代 いタイ語の普及は重要な役割を果たした。 教育を受けた最初の世代の農村女性にとっ 男性の宗教実践にみられるように,識字や て,誦経がタイ語の識字能力を利用できる唯 文字自体が宗教的知識の継承や威信のあり方 一の機会であった。そのため地域における識 に深く関わるならば,義務教育の普及によっ 字と宗教実践との関係を捉えるのに適した事 て女性が識字能力を獲得した近代以降,女性 例であると考える。 の宗教実践も識字との関わりの中で生じてい 事例の検討に入る前に,まず上座仏教世界 ると捉えることができる。すでに古経典文字 における識字を理解するために,独自の文字 を習得していた男性と,それがなかった女性 を持たないパーリ語の特殊な利用方法につい とでは,タイ語という国家言語の浸透が異 て概観する。続いて 2 章では,東北タイにお なった形で宗教実践に影響を与えたと考える ける宗教実践と識字について述べる。3 章で ことは可能だろう。そこで宗教実践研究にお は寺院で行う持戒行における女性たちの行為 いて前提となる識字の扱いを再考し,女性の を分析する。最後に女性の識字化と宗教実践, 実践を文字,それも国家による教育機関を通 そして誦経とそれによって促される知識の身 じて浸透したタイ語の利用から検討すること 体化について考察する。 によって,近代における多様な女性の宗教実 また本稿では,誦経のように音や声が強調 践のあり方やその変化の一端を明らかにする される実践を「声の実践」と呼ぶことにする 。 ことができると考える。また東北地方は上座 音や声が身体と密接に関わることから,声の 仏教信仰が盛んであると同時に,言語的にも 実践とは,身体的行為に広く関係する 。ま 複合的な状況にあるため,識字と宗教実践に た識字能力とは,具体的に記述しない限り, ついて言及する際,興味深い資料を提供する 現代タイ文字を読む能力を指す。 7) 8) だろう。 本稿で検討を試みる女性の宗教実践の事例 5) 6) 2. 上座仏教における識字と誦経 は,雨安居期(phansa ( ) の仏日(wan Phra) 東南アジア大陸部に広く浸透している上座 に行われる持戒行である。そこでは,経を声 仏教において,識字は経典言語であるパーリ に出して詠む誦経が重要な仏教実践として行 語の特殊な利用方法と密接に関連している。 5) 雨季にあたる陰暦 8 月から 11 月までの 3 ヶ月間のことである。僧侶たちが一カ所に留まり修行に 専念する期間である。 6) タイ陰暦に従い,満月,新月,白分黒分 8 日のことを言う。以前の公式な休日は,仏日であった。 7) アフリカの音の文化の多様な側面を言語学や人類学などの複数の分野において考察した川田 [1998]が扱う音文化の範疇にあるが,東南アジアにおける音文化は本稿でも述べるように,パー リ語で伝播された上座仏教の影響で古くから高度に文字化されている。そのため常に文字と声の相 互関係のなかで,声の実践が生じていることを考慮しなければならない。 8) 文字を声に出してよむ行為に対して様々な漢字が当てられ,それぞれ少しずつ意味が異なる。「読」 は,書に向かってよむこと,「詠」は声を長くひいて詩歌をよむこと,「誦」はそらんじてよむの意 で,書には向かわずによむこと[貝塚他 1973: 1017]。また「唱」は,声をあげてうたうことで, 「唱 和(ひとりの人に他の者が調子を合わせて唱える)」や「唱道(となえはじめる)」などを使用する。 加藤眞理子:東北タイ農村における識字女性の宗教実践 149 パーリ語経典文化における識字とは,パーリ 1992]。彼は様々なバージョンの経典や注釈 語の書承に利用された民族経典文字の読み書 書から,誦経が知識の継承のみならず仏教実 きを指す。例えば東北タイでは,タム(tham), 践の繁栄と存続に貢献したことを示した。 小タイ(thai noi/lao bohan),コーム(khom/ パーリ語はもともと文字を持たない言語で khmen)などと呼ばれる文字がパーリ語経典 ある。それが各地で民族文字に翻字されて書 の記述に使用され,近年に至るまで寺院にお き残されるようになると,仏陀の言葉は,石 いて僧侶によって学習,継承されてきた。し 碑や貝葉といった形で寺院に所蔵された。寺 かし出家することのない女性は,このような 院はパーリ語の書承に利用された経典文字を 文字を修得する機会がなかった。 学ぶ場でもあった。そこでは,出版印刷技術 宗教的知識の維持や継承に文字は利用され が普及するまで,僧侶の手による経典の書承 たが,書くことだけが知識の継承方法であっ が行われていた。書くことが僧侶による経典 9) たわけではない。そもそも仏陀の教えは経 知識の継承方法である一方で,コリンズが記 として,定期的に結集が行われ口頭によって 述したように誦経は欠かすことができない知 後継者に伝えられた。結集は,仏陀の弟子た 識の継承方法であった。寺院では経典に応じ ちが記憶している仏陀の教えの詠み合わせに て,それぞれの暗唱者(bhanaka)がいたと よって内容を確認し合うことだった。それが 言われる[Collins 1992: 124]。経文を彫っ 仏陀の死後,数百年を経てから,経の文字化 た石碑や鉄筆とインクで書かれた貝葉は,戦 により経典編纂会議を意味するようになっ 乱や火災によって消失する危険がある。重要 た。つまり誦経は,かつて仏教知識の重要な な知識の継承が途絶える危険を回避するた 継承方法の一つであった。 め,僧侶に記憶させるといった口承(oral/ 長年に渡って幾度となく各地で民族文字に aural)による方法もとられてきた[Collins 翻字され編纂された経典や注釈書は,パーリ 1992: 127]。つまり経典は,口承と書承の繰 10) 語経典群として知られている 。1820 年代 り返しによって存続してきた。今もなお暗唱 に開始されたパーリ語仏教研究は,それらの による口伝の伝統を受けて,仏教実践には誦 経典を基に厳密な史料批判に基づくテキスト 経のような声を強調する側面が強く残ってい の確立, それによる仏陀の本源的教説の解明, る。彼は,これまで研究対象とならなかった 宗教として成立した仏教の教理史研究などを 声を通じた仏教知識の継承方法の重要性を示 主軸として発展してきた[石井 1975: 1]。こ した。 れらの仏典研究は,文字史料によって経典知 仏教実践における誦経の重要性は,知識の 識が継承されてきたことを前提としていた。 継承だけに止まらない。身体を通じて「知る」 それに対してパーリ語経典研究者のス ことや「理解する」という概念に深く関わる。 ティーブン・コリンズ(Steven Collins)は, コリンズは,パーリ語における「精通するこ それまでの経典学者とは異なり,経典知識の と(paguna ( )」の意味について,英語におけ 継承における文字による知識の継承と併存し る familiar よりも強い意味を持つと述べて た声による方法の重要性を指摘した[Collins いる[Collins 1992: 124]。覚えるためには, 9) 「経」はサンスクリット語のスートラ(sutra)の漢語訳である。もともとは「糸」「線」「法則」な どを意味し,「経」は織物の糸がまっすぐ正しく続いていることから真理を意味する[藤井 1997: 10]。 10) 仏陀の教えは,最初期において修行僧各自の言語で伝えられたが,仏教の伝播とともに西北インド 起源のパーリ語が仏教僧の共通語となった。現在体系化されて伝えられている原始仏教聖典はパー リ語のみである[中村 1992: 575]。 150 アジア・アフリカ言語文化研究 何度も朗唱しなければならず,結果的に暗 11) 唱(recite)を可能にする。止観法 を学ぶ 79 3. 調査地14)の概況 東北地方は,タイ国内で最も面積が広く, 際にも,大きな声で何千回も反復して経の朗 15) I )16) と 人口が多い地方で ,イサーン(Isan 唱を行う。そして言葉の暗唱ができてこそ, も呼ばれる。住民の約 8 割がラオ(lao)と テキストに精通していると言える[Collins 呼ばれるタイ・カダイ諸語族であり,他にク 1992: 127]。テキストの理解や知ること,もっ メール,スウェイ,プータイ,カルン,ヨー と言えば知識のあり方が,誦経という身体実 などの集落が混在している。灌漑設備や道路 践と密接に絡むのである。 などのインフラ整備が後れ,定期的に干ばつ 経を声に出して何度も唱える誦経行為と知 に襲われてきた地域であるため,平均収入は 識の理解との間には,僧侶の身体が介在する。 低く,政治的不安定さと経済的貧困から,東 「聞いたことを貯蔵する宝庫」という表現が 経典のなかに見られるように[Collins 1992: 北タイは常に開発援助の対象となってきた [cf. Suthep 2005]。 128],僧侶は経を身体化し所蔵する役割を果 一方で東北地方は,仏教寺院がタイ国内で たした。彼によれば,知識の所持または理解 最も多く ,瞑想や呪術に名高い僧侶を輩出 のためには,「暗唱するために書き,その書 することでも知られている。20 世紀初頭に東 かれたものを何度も朗唱する」という口述, 北タイで活躍した瞑想に長けた頭陀行僧所縁 記述,暗唱という 3 つの行程[Collins 1992: の護符や仏像ペンダントなどは今も人気があ 128-129]を経て,経を身体化する必要があっ り,王族たちが頻繁に寄進に行く寺院も多い。 12) た 。 17) バンコクを中心とする中部地方から見れ 出家することのない女性は,僧侶のように ば,この地方は野蛮なラオ人が住む辺境地 寺院において経典知識の身体化や書承を通じ として長らく認識されてきた[林 2000: 55]。 た知識の継承に直接関わることはなかったが, タイの一地方としてイサーンが自他共に認識 パーリ語世界で生まれた誦経のような声から されるようになるまでの過程は,19 世紀末 声への実践に導かれ,俗人世界の中で仏教の から 20 世紀初頭のタイ政府による中央集権 13) 布教と発展に貢献していたと推測される 。 次に,東北タイを概観し,宗教実践と識字 の状況について記述する。 化に始まる。近代的な国民国家統合に向けて, 土地登録の制度化や近代義務教育などの行政 改革と並行して,中央サンガによる寺院や僧 11) 教理学習(ganthadhura ( )と止観学習(vipassanadhura)といった僧侶の学習方法においても,知 識の口誦/口承による教育が重要であった[Collins 1992: 123]。 12) 本稿では,このように何度も暗唱しながら口頭で「たたき込む(hammer)」[Collins 1992: 127] ことを,経の身体化と呼ぶことにする。 13) 誦経はまた,人々が集まる儀礼の雰囲気を醸し出す要因となる。そして仏典の中にも声の美しい誦 経を行う僧侶に人気が集まったことが描かれている。誦経が信徒や布施を集める重要な実践となり, 寺院やサンガを維持する結果につながった。現在でも,説法の声がよい僧侶は人気が高い。また特 別な節回しを伴う誦経や説法は,CD や音楽テープとして配布・販売されている。 14) 2000 年 9 月から 2002 年 3 月までの期間,SH 村において悉皆調査を含む長期定着調査を行った。 本稿中の年齢などは,すべて 2001 年のものである。 15) タイ国は,中部,北部,南部,東北部の 4 つの地方に大きく分けることができる。2002 年の統計 によると,東北地方は 168,855.3 平方キロメートルの土地(全土の 32.9%)に,人口 21,609,185 人(全 人口の 34.4%),4,940,797 軒の登録世帯(全国総世帯数の 28.5%)がある[National Statistical Office 2003]。 16) サンスクリット語で「東北」を意味する。 17) 1999 年の全国登録寺院数 31071 ヶ所のうち,東北地方には 14151 ヶ所あり,約 46%の登録寺院が 集中する[Krom Kan Satsana 2001]。 151 加藤眞理子:東北タイ農村における識字女性の宗教実践 侶の登録管理,仏教儀礼の標準化などが行わ 性がある。しかしタイとラオスの二つの国に れた。このような近代的に整備された仏教の 分かれ,タイにおけるタイ語教育やラオスに 普及が,イサーンを形成し,現在見られるよ おけるラオ語の国語化の過程を経た結果,現 うな宗教的状況を醸成した。 在ではラオスにおけるラオ語と東北タイにお 調査村である SH 村は,タイ東北地方のほ ける言語は異なると,実際使用する人々の間 ぼ中央に位置する,人口 418 人,98 世帯(2001 でも認識されている。そして東北タイの人口 年調査時点)の天水に依存する水稲耕作を行 の大多数を占めるラオ人も,自分たちが話す 18) うラオ系タイ人の塊村である 。現在見られ 言語はタイ語の一つの方言であるという意識 る集落の成立は,草分け世代が 1907 年頃に が強い。混在する非ラオ人は,それぞれの言 家屋を建てたことに始まる。主な生業は農業 語集団の中では自分たちの言語を話し,隣接 であるが,同時に現金収入の多くを都会での するラオ人と話すときはラオ語を使用する。 出稼ぎに依存している。調査村周辺の村では 現在ではこの地方のほとんどの人が,中部 1930 年代までに寺院が建てられたが,SH 地方の言語を標準とした国家言語としてのタ 村では寺院の建設が遅く,1977 年に集落の イ語を理解する。しかしタイ語を話す能力の 19) 北側に寺院 と僧房が建てられた。同村に 度合いは,出稼ぎ,学歴,地方役所との交渉 寺院が建設されるまで,村人は仏教行事の際, 機会の多寡によって個人差がある。また若者 親族が多く住む隣村 T,NK 村などの寺院に の間では,ラオ語とタイ語の混在が進み,年 通っていた。このような SH 村は,東北地方 配者が話す古いラオ語の意味を理解できない の農村の典型的な社会的状況を示している。 者も出てきた[Ko 1990: 169-170]。 一方,タイ文字の使用は,20 世紀初頭に Ⅱ.東北タイにおける識字 始まる国民統合の過程で,近代義務教育が地 方にも普及されるに従い農村に広がった。す 1. 東北タイのことばと近代教育 現在東北タイで使用される日常言語は,ラ でに述べたように近代義務教育が地方に普及 するまで,東北タイでは,寺院で教えられて 20) lao)またはイサーン語(phasa オ語(phasa ( ( いたタム文字や小タイ文字 isan)と呼ばれている。東北タイのラオ語ま 字が使用されていた。タイでは男子の出家が たはイサーン語は,ラオスの国語としてのラ 慣習化されており,20 歳未満ならば見習僧 などの経典文 オ語やタイの国語としてのタイ語と異なり, (samanen, nen),20 歳をすぎれば僧侶とし 21) 独自の文字を持たず,タイでは,ラオ語をタ て得度する 。見習僧や僧侶は,儀礼や宗教 イ文字で表記している。 知識の口受だけでなく,先輩僧侶に古経典文 メコン河の両岸に住むラオと呼ばれる人々 は,かつて同じ言語文化を共有していた可能 22) 字を学び,経典などを貝葉に書写した 。こ のように書写された経典や仏教説話などは, 18)1971 年に WN 郡 KL 行政区(tambon)第 7 村 SH 村となった。 19) サンガ統治法が規定する土地に満たないため,正式に宗教局に登録,管理されている寺院(ワット wat)ではなく,止住域(thi phak song)である。しかし村人たちは「ワット」と呼び,宗教儀礼 g の場だけでなく,村落の集会場などにも利用され,村落寺院として機能している。 20)14 世紀以降インドシナ半島のメコン川中流域に 14-18 世紀に繁栄したラーンサーン王国から伝え られた。小タイ文字は行政文書や物語などの世俗文学に用いられ,タム文字は宗教的に用いられる と言われるが,単純には区別できない[飯島 1998: 139-140]。また中部タイで経典文字として利 用されていたコーム文字は,東北タイでも使用された。 21) 見習僧は 10,僧侶は 227 の具足戒を遵守する。 22) 北タイではラーンナー王国の頃(13 世紀末から 20 世紀初頭)から継承されてきた貝葉の中に,王 朝年代記などが見られ,研究者によって収集・編纂・管理事業がなされている。現在の東北タ ↗ 152 アジア・アフリカ言語文化研究 一般的にまとめて「ナンスータム(nangsu 23) 79 設や教理学習が始まると同時に,すでにタイ 26) tham 仏法本)」 と呼ばれる。ナンスータム 語学習も行われていた 。つまり近代教育制 には,宗教儀礼知識だけでなく,薬草知識や 度が地方に普及する前に,寺院では僧侶に 地元で伝承されてきた民話などが含まれてい よってタイ語,およびタイ文字の利用が始 る[Tambiah 1968a: 91]。 まっていた。 タイ文字やタイ語の東北地方への普及は, しかし寺院外の在家信者がタイ文字を目に 近代教育制度の発展によって広く進んだが, するには,タイ文字による活版印刷の発展と それ以外に寺院やマスメディアなどの役割も 地方への普及を待たなければならなかった。 重要であった。なかでも僧侶の仏教教理学習 東北タイでは,古経典文字によって,伝統的 は,タイ語の地方への普及に関して重要な な宗教儀礼知識や仏教民話などが貝葉に書き 役割を果たした。僧侶の学習は,パリヤッ 留められ[Dhawat 1995],活版印刷が普及 tham) と 呼 ば れ, 古 テ ィ・ タ ム(pariyatti ( してからはこのような古経典文字を使用した くから古経典文字を使った教育が行われてき 印刷も行われていた。しかし 1938 年から始 た。1902 年にサンガ統治法が制定され,国 まるピブーン政権時代(第一期 1938-1944, 家の統制下に置かれたサンガは,組織を近代 第二期 1948-1957)以降,タイ文字以外の書 化するとともに,教理学習においても体系化 物の出版を禁じる政策がとられた。そのため を図った。1911 年には教育内容が整備され, 地域の印刷所は,活版印刷をラオ文字からタ タイ語とパーリ語教育の二つに分けられ,ど イ文字に代えた。その結果,ラオ語は翻字 24) 25) が始まった 。また 19 世 されてタイ文字で出版されたが,地域に根ざ 紀末より,東北タイでは,ウボンを中心にバ した民衆知の伝達・学習行為において障害を ンコクの寺院で教理とパーリ語を学んだ東北 抱え込むことになった[高岡・タウィーシン タイ出身の僧侶たちの手によって,布薩堂建 2004: 121]。このように東北タイでの言語の ちらも教理試験 ↗ イに散在する貝葉は,ラーンナー王国からラーンサーン王国へ伝わったものが,その頃ラーンサー ン王国の影響下にあったコラート高原の方まで伝わったものであると言われている。飯島の報告 では,東北タイの寺院にもまとまった貝葉本が所蔵されており,現在分析が進んでいる[飯島 2004]。 23) 調査村である SH 村とその周辺の寺には,このような経典文字で書かれた貝葉は存在しない。何人 かの儀礼専門家や薬草師がタム文字,小タイ文字で書かれた 2-3 セットの貝葉や出家していた時, 寺で書写した手書きノートを所持しているにすぎない。行政区レベルの寺院には,より多くの貝葉 が残っているが,読む者がいないため,そのほとんどは欠損,または消失している。現在では,そ れまで貝葉本に書かれていたものが,タイ文字で印刷された経本として市場に出回り,僧侶たちも それらを利用している。東北タイ農村における貝葉本について,詳しくは[津村 2002]参照のこと。 24) かつて行われていた教理試験は,パーリ語をタイ語に翻訳させる口述試験であった[石井 1975: 180]。それが 1917 年からすべて筆記試験となった。それまでの口述・暗唱が中心であった僧侶の 学習が,教理試験の制度化によって,声を使った実践の側面が減少した。 25) 教理試験制度が全国に展開するのは,1915 年である[林 2000: 314]。僧侶の学習段階に対して一 定の評価を与える教理試験制度は,様々な改革を経て現在に至っている。国家が出家者に試験を課 して,教理に関する知識や聖典用語であるパーリ語の読解力を評価し,その結果に基づいて学階, 僧階など社会的資格を付与する慣行は,タイでは遅くとも 15 世紀にはすでに何らかの形で存在し ていた。それを改革して体系的な教理試験制度の礎を築いたのはワチラヤーン親王(1860-1921) である。彼は,ラーマ 5 世王の異母兄弟で,サンガ組織の改革に着手した高僧である。詳しくは[石 井 1975: 168-194]参照のこと。 26) 1853 年にウボンにタマユット派王立寺院スパット寺が建立されてから,ウボンを中心に次々と王 立寺院が建設され,教理試験の地方への導入にもタマユット派の僧侶たちが重要な役割を果たした [Toem 1970: 612-654]。タマユット運動とは,1930 年代に起こったパーリ語聖典への復古運動の ことで,盛んにパーリ語研究がなされた。 153 加藤眞理子:東北タイ農村における識字女性の宗教実践 使用状況は,書き言葉と話し言葉が乖離し, された経本の多くには,タイ語訳がついてい 日常生活を支える基礎的な言語であるラオ語 ることが多いため,次にタイ語訳つき経本の がタイの一つの方言となる複雑な様相をみせ 流れについて概観する。 ている。 タイにおける出版印刷は,経本出版から始 1921 年に初等義務教育化条例が発布され, まった。19 世紀の終わりに印刷技術がもた 28) 7 歳以上の男女は初等教育を受けることに らされ ,バンコク周辺で行われていた出版 なった。東北タイ農村に実際学校ができるま 活動が,資本主義とともに地方都市にも広が 27) で 20 余年要したが ,その後は性差に関わ り,出版・印刷業者が徐々に増加した。それ らずほぼ全員学校に通うようになった。現在, まで古経典文字で書写されていたパーリ語経 タイ文字の識字能力の修得において,男女は は,バンコクの僧侶たちによってタイ文字に 同等の機会を得ている。すでに述べたように, 翻字され,編集されて出版物となった。その 寺院で文字を学ぶことができたのは出家した 結果,東北タイでかつて古経典文字によっ 男性だけであった。女性が初めて学んだ文字 て書写されていた貝葉本は,1940 年代以降, は,近代教育によってもたらされた国語とし 徐々にタイ文字の出版物に取って代わられる てのタイ語のタイ文字であった。 ようになった[津村 2002: 76]。現在,地方 女性が,義務教育を終了した後,最初に識 都市にある書店や仏具屋 29) にはさまざまな 字能力を利用した機会は持戒行である。そこ 仏教関係図書が販売されている。特に在家信 で誦経する際に,タイ文字印刷された経本を 者向けの宗教実践の手引き書や経本の数は非 手に朗唱した。女性の宗教実践と識字との関 常に多い。このような出版物のなかにはパー 係は,タイ文字による出版・印刷の発展,印 リ語経に,タイ語訳をつけているものがあり, 刷物の流通に深く関わっている。 在家信者だけでなく僧侶も利用している。 仏教聖典である三蔵経のタイ語への翻訳が 2. タイ語訳つき経本の普及 行われたのは,ラーマ 3 世時代(在位 1824- 出版物が流通するようになってから,書承 1851)にまで遡る30) [Wells 1960: 267]。ラー における古経典文字の重要性は急速に減少 マ 5 世時代(在位 1868-1910)に,編纂・出 し,それらを読める者はすでに高齢化し探す 版された三蔵経が普及した。その後サリット ことも難しい。現在,タイにおける出版・印 時代(1959-1963) 以降に印刷物が地方へ 刷は,タイ文字によるものである。ここでは, 急速に普及し,タイ語訳が一般民衆の目に タイ文字出版・印刷の全国的展開を述べるこ 触れるようになった。現在村人が使用する とを目的としないが,女性が使用する簡略化 経本の多くは,王宮経本(suat mon chabap 31) 27) 教育普及の初期段階では,寺院が学校としての機能も担った[Wyatt 1969]。 28) タイ国における印刷の始まりは,アメリカ人ミッショナリーが,1836 年に印刷機をタイに持ち込 んでからだとされている。その後,プロテスタント宣教師であり医師でもあったブラッドレー(D. B. Bradley)が,キリスト教普及のため自ら印刷所を建て,タイ文字の活字も作った[Sanguan 1960, 1971]。タイ人ではモンクット親王(後のラーマ 4 世在位 1804-68)が,ボーウォーンニウェー トウィハーン寺(Wat Bowonniwetwihan)で僧衣にあった頃,自ら寺院内に印刷所を設立し仏教 経典の印刷を始めた。その後,1858 年に王宮内に王立印刷所が設立され,官報などが印刷される ようになった。1893 年には,初めてタイ文字を使用したパーリ語三蔵経が印刷された。 29) 仏具屋では,仏教儀礼で使用する道具や僧侶に寄進するための日用具セットなどと並んで,経本や その解説書などの宗教関連図書が売られている。 30) タイ仏教が伝持している三蔵経は,1789 年ラーマ 1 世が校閲・整備を行ったものを元にし,数々 の整備・写経事業を経て,1893 年ラーマ 5 世時代三蔵経 39 巻として出版された[石井・吉川 1993: 142-143]。 31) サリットは,経済発展に力を注ぎ,農村地域の開発や教育の改善に力を入れた。 154 アジア・アフリカ言語文化研究 79 luang) g 32) を元に在家信者向けに編集された ubasika)が,持戒行でよく使用されていた。 タイ語の説明や訳付きのものである。これは, この経本は朝夕の誦経といくつかの特別な経 一種の儀礼手引書であり,在家信者が持戒行 のみを収録しているため,薄く軽く持ち運び で行う朝夕の誦経とその儀礼形式の他,様々 にも便利で,活字自体も大きく読みやすい。 な仏教行事に必要な経や儀礼作法,護身用の そして各ページの左側にパーリ語,右側に対 経などが編集者の意図に応じて盛り込まれて 応するタイ語訳が載せられている。朗唱する いる。 パーリ語の経にほぼ同じ長さのタイ語訳がつ パーリ語にタイ語訳がついている経は, 「訳つき経(suat mon plaee : tham wat plae)」, き,訳も覚えやすいよう配慮されている。 このように簡潔にまとめられたタイ語訳つ 本 は「訳 つ き 経 本(nangsu suat mon plaee : きの経本や仏教儀礼解説書が流通するように nangsu plae)」と呼ばれる。現在村落寺院の なった。そして女性は,文字を介しタイ語訳 持戒行で頻繁に使用される経本は,一節ごと も読むことが可能になった。 に対応するタイ語訳がつき,訳自体が朗唱さ れやすいように詩の形式をとっている。タイ 語訳自体はほぼ同じだが,出版元によって区 切る節の場所や単語の違いがみられる。 3. 調査村における識字状況 次に,調査対象村における初等義務教育の 普及とタイ語の識字状況について具体的に記 調査村周辺の学校では,義務教育が始まっ 述する。現在,SH 村の子供は隣接する KY た 1930 年代,まだ石板や石筆が使用され, 村内にある KY-SH 村小学校に通う。KY 村 出版書物は見られなかった。その後,1940 小学校では 1943 年に設立された当初,寺院 年代後半に市販された教科書や経本がもたら の建物を校舎として使用していた。1964 年 されたようである。また 1980 年代以降 SH に KY 村の村人が寄付を集めて,寺院の敷地 村でよく使用されるようになったタイ語訳つ 外に小学校校舎を建設した。その後,教育省 き経本は,1985 年頃,同じ行政区内で働く の予算で校舎が新設された。SH 村は,校舎 NGO のフィールドワーカーが,同県内にあ の建設や寄付にも関わることがなかった。 33) るスアン・モーク(suan mok) の地方修行 SH 村の集落は行政上 T 村の一部であった 所(samnak patibat tham)で手に入れ,村の ため,以前 SH 村の子供は T 村の学校に通 34) 年配者に無料で配布したものである 。また うことが多かった。学区が変更された 1974 1990 年代初頭にも他村から来た僧侶が,出 年以降 KY 村の学校に通うよう指導され,校 版元は異なるが同じ経本を持ち込んだ。村人 名も KY-SH 村小学校と変更された。これに の中には,町の葬式に参加した時に配られた より SH 村の子供は全員,同じ小学校に通う 経本を所持する者もいる。筆者の観察によれ ことになった。 ば,スアン・モークの経本(khumu ubasok このような近代教育のなかで教えられた言 32) 1880 年に水死した王女を偲んで,ラーマ 4 世が印刷し供養のときに配った頒布本(nangsu chaek) である。よく知られていた経を集めた経本で,このとき配布された 1 万冊が,民間人の手によって, 王宮の外でも印刷されるようになった[Mahamakutratchawitthayalai 1995; 石井 1964]。この時 以降,王族や高僧の葬式でこのような頒布本を配る習慣が始まった。 33) スアン・モーク(suan mok)は,プッタタート比丘が南タイで作った寺院である。プッタタート比 丘は,平易な言葉で仏法を教えるため,多くの信者を獲得した僧侶である[伊藤 1997]。出版物も 多く出し,タイだけでなく海外にも名を知られるほどである。タイ語訳つき読経の普及にも力を入 れ,1970 年代には現在と同じようなタイ語訳つき経本が作られ,無料で配られるようになったプッ タタートの説教本ならびに経本などの始めに「著作権保護せず(mai sanguan likkasit)」と書かれ ているものもある。誰でも申請・報告のみで,利用し出版することができる。 34) 1983,1984,1985 年発行のものがみられた。 155 加藤眞理子:東北タイ農村における識字女性の宗教実践 表 1.SH 村周辺の小学校/寺院の設立と SH 村女性の小学校入学年 西暦 小学校/寺院 1906 T 村寺院建設 1914 KY 村寺院建設 1939 T 村小学校(T+SH 村学童) 1943 KY 小学校(KY+SNK 村学童) 1973 SNK 村学童は新設 SNK 校へ 1974 小学校再編 SH 村学童は KY 校へ 1977 SH 村寺院建設 (識字第一世代) SH 村女性の世代 小学校入学年 60 歳代 1939-47 50 歳代 40 歳代 30 歳代 1948-57 1958-67 1968-77 *女性の年齢は,2001 年調査時点。(聞き取りにより筆者作成) 語は,日常生活で使用する口語のラオ語とは 70 歳代の男性 6 人は全員,1930 年代に義務 異なるタイ語であった。タイ語・タイ文字で 教育を受けた。そのためタイ語を読むことに 印刷された教科書などは,小学校の設備や人 問題はないが,長期間出家をした者以外,書 材が充実するとともに増加した。しかし一般 くことは難しい。タイ語を聞いて理解できる の村人にとって,義務教育を終えた後,高等 が,話すことに多少の困難がある。 教育機関に進むことは経済的に困難であり, 70 歳以上(1931 年以前の生まれ)の女性 日常生活のなかで文字や書物に接する機会は 7 人は,全員義務教育を受けていない。最高 ほとんどなかった。読み書きを学んだ者でも, 齢である 89 歳の女性は全くの非識字者であ それを利用する機会がないと長い年月の間に り,一切文字に関わっていない。自筆のサイ 少しずつ忘れてしまう。東北タイ農村の村人 ンを必要とする銀行口座も持たない。70 歳 の識字能力は,その後の書物の普及と密接に 代の他の 6 人も書物が読めず,書くことにお 関係し,世代によって明らかな差が見られる。 いても,自分の名前などの簡単な単語しか書 2001 年調査時点において,SH 村の 70 歳 けない。タイ文字が少し読み書きできるのは, 未満の男女は全員,義務教育を受けたことが 学校教育を受けた子供などが教えたからであ あり,タイ語の読み書きができた。結婚後妻 る。70 歳以上の女性は,男性よりもタイ語 の両親と同居する傾向が強い地方であるた を話したり聞いたりする機会が少なく,聞い め,男性はそれぞれ自分の出身村の学校や寺 ても理解できないと言ってテレビやラジオの 院で識字能力を習得する。SH 村出身女性の メディアにあまり興味がない。聞くことによ 中では 69 歳の女性(1932 年生)が,最初に る内容の理解度は,不明である。またタイ語 タイ語の読み書きを,1939 年頃に T 村の小 を話すことができず,外部者に対してもラオ 学校で学んだ。識字能力は聞く,話す,読む, 語を使う。 書くといった行為と相互関係にあり,国語と 60 歳 代(1932-1941 年 生) の SH 村 出 身 してのタイ語の受容とも関連する。以下,主 者は,近代教育の恩恵を受けた世代である。 としてタイ語の使用について,世代と性差に 男性のほとんどは結婚後に SH 村に移住した 留意しつつ SH 村での状況を述べていく。 ため,自分の出身村周辺で識字能力を獲得し 35) 男性は全員,何らかの識字能力がある 。 た。経本や儀礼マニュアルを読みこなし,自 35) 最高年齢である 84 歳と 90 歳の男性は学校教育を受けていないが,出家経験があり,古経典文字 を学んだようである。二人とも認知症が進み,直接インタビューができなかった。 156 アジア・アフリカ言語文化研究 79 分でタイ語を書いて,商売や宗教行事の帳簿, メディアの流入,出稼ぎや外部者との交渉を または儀礼のやり方についてのメモを取るこ 通じた経験の個人差などの複合的な要因をあ とができる。筆者のような外部者を見ると, げることができるだろう。本稿で女性の宗教 タイ語混じりのラオ語を話し,流暢とはいえ 実践の事例として取り上げた持戒行に参加す ないがタイ語での会話に支障はない。 る 60 歳代女性は,1930 年代に生まれ,1940 60 歳代の女性も全員識字能力を持つが, 学校を卒業してから書物を読むことや,文章 を書く必要がなかったため,読み書きが遅い。 年前後に小学校に通った世代(以下,識字第 一世代)である。 近代以降,タイ語の識字は教育制度だけで 一部の女性は家庭の事情で,学校に毎日行け なく,出稼ぎなど他地方の人々との接触,マ なかったため,識字能力自体に疑問がある。 スメディア,仏教の普及などを通して東北地 他地方出身者や役人に対してタイ語で会話す 方の農村部にまで浸透した。そして宗教実践 ることもあるが,タイ語を正しく発音するこ と識字をめぐる近代的状況は,仏教の制度 とができないため,ほとんどの場合ラオ語で 化,経典文字の変化,出版印刷技術の発展と 話す。しかしテレビなどのメディアを好んで 印刷物の普及などの様々な要因が絡んで生成 見聞きするため,聞き取りにはさほど問題は した。しかしタイ語の識字能力を獲得しても, ないようである。この年代の識字率は,男女 女性が男性の代わりに宗教的職能者になる事 でほぼ半々だが,若干男性の方が高い。また 例は,東北タイ農村では見られない。また女 その能力も男性の方が高い。その理由は,政 性の社会的地位の向上にも連動していない。 治的および宗教的役職につく傾向が強い男性 女性にとって識字と社会的権威は直接関連し は,役人や町の人びととタイ語を介して接す ない[Keyes 1991: 121-122]。それは,後述 る機会が多いためである。 するように,パーリ語とタイ語の社会的分布 50 歳代以下(1951 年以降生まれ)になる と,識字率は男女で同等となる。つまりほぼ や権威のあり方における相違やタイ語の浸透 における性差に起因する。 全員が義務教育を受けていた。貧困などの理 由で学校に行けなかった人もいるが,出稼ぎ Ⅲ.女性にとっての持戒行と誦経 経験や役所との連絡を通してタイ語の書類を 扱う頻度が増したため,個人差はあるが,上 の世代より読み書きにおいて問題が少ない。 タイ語を流暢に話し,聞き取りも問題なく行 える。 1. 女性の宗教実践 仏教教理上の究極の目的は,輪廻からの解 脱であり涅槃への到達である。しかし一般仏 教徒にとって,その目的は功徳を積むこと 30 歳代以下(1971 年以降生まれ)の世代 (tham bun)によって,来世や現世でよりよ になると,男女ともほとんどが出稼ぎ経験者 い生活を得ることにある。寺院や僧侶に対す であるため,タイ語は流暢に話すことができ, る布施や出家のような三宝(仏法,僧侶,サ 相手によって話す言語を切り替えることがで ンガ)に貢献する行為は,功徳を積むと理解 きる。彼らは,タイ語で書かれた小説や新聞 されている。この功徳の多寡によって死後, を読み,手紙を書く。しかし若い頃から出身 より早い転生を望む。このような積徳行を支 村を離れて中部タイの文化に接することが多 えるのは,因果応報としての業(kam)で, かったため,古老たちが話すラオ語の表現が 現在の状態は自らの過去の行為の結果であ 理解できなくなっている。 り,現在の行為が来世の状態を決めるという 以上のように識字状況が世代によって異な る大きな理由として,近代教育以外に,マス 論理である。 タイでは,様々な行為が積徳行として認識 157 加藤眞理子:東北タイ農村における識字女性の宗教実践 されている。例えば,村を上げて盛大に催さ 36) れるカティナ衣奉献祭(bun kathin) ,寺院 在家として受けることができる最大の戒律が 八戒である。 内に布薩堂(bot)や講堂(sala)などを建設 雨安居期の仏日に寺院で行われる持戒行で すること,出家することや息子を出家させる は,参加者も僧侶と同じように宗教実践に専 こと,日常的な僧侶への食施などを上げるこ 念する一日を過ごす。そもそも「出家」とは, とができる。そして性や世代によって,功徳 財産や家族を捨てて家を出ることを意味し に対する認識や実践が異なることがこれまで た。仏教成立の初期において,家に住み着い 報告されてきた。実際,様々な仏教行事の機 たまま救済という最終目標に到達するのは難 会に寺院を訪れると,女性の参加者が男性よ しいため,僧侶は家を出て人里離れた野外で りはるかに多いことが観察される。それだけ 瞑想修行に専念したと言われている。後に出 でなく日常的な僧侶への食施や,仏日に寺院 家はサンガ組織の成員となって集団修業生活 で一昼夜過ごす持戒行に参加するのもほとん を送ることを意味するようになった [石井 どが女性である。それに対して在家男性と仏 1975: 15-16]。出家慣行がない女性は,人生 教との関わりは,集合儀礼的な仏教行事にお の一時を出家して修行に専念する男性と異な いて調整役や進行役を務める数人の年配男性 り,高齢となるまで宗教実践に傾倒した生活 の参加が見られるだけである。自らが出家す をする機会がほとんどない。そのため仏日の る以外に,男性は在家者としてほとんど寺院 持戒行が,女性にとって家族や自宅から離れ に関わることがない。そのため女性の実践が て宗教実践に専念して過ごす初めての経験と 日常において連続性があるのに対して,男性 なる。 の実践は断続的である。実践の性差は明らか 38) 持戒行は,女性の人生のなかで他の宗教実 であり,社会的分業ともいえる状況がある。 践とは異なる位置づけにある。女性は,子供 女性は,仏教実践において息子を僧侶とする の頃から徐々に,母などの年配女性から儀礼 ことでサンガを維持し,日々の食施によって 作法や供物作りを口伝され,宗教実践に関わ 僧侶を養う「仏教の養い手」として位置づけ るようになる。成人女性は家族に対する経済 られてきた[Keyes 1984; 林 1986]。 的責務と同様に,家族を代表して供物を用意 仏教実践のなかで女性の参加者が多い持 し儀礼に参加することによって,家族や親族 戒行(cham sin)とは,仏教における基本的 領域の中で守護に関わる宗教実践を行う。一 37) 戒律である五戒や八戒 を守ることを言う。 方,持戒行は,個人的行為であるとされ,家 東北タイでは,特に雨安居期の仏日に八戒を 庭の責務を終えた年配者の理想的な老後の過 遵守する慣習のことを指し,寺院で遵守され ごし方である。特に女性は出家経験がないた る八戒のことを特別に「仏日戒(sin ubosot)」 め,持戒行における彼女たちの実践はこれま と呼ぶ。出家することがない女性にとって, での宗教的経験や実践の総体である。また他 36) 陰暦 11 月の満月の日(太陽暦 10 月頃)に行われる出安居の次の日から一ヶ月以内に行う黄衣奉 献のことを呼ぶ。そもそも僧侶は,食物や衣服などの生活必需品を在家の喜捨に頼らなければなら ず,捨てられた布を集めて衣としていた。そのため「トート・カティン(thot katin カティナ衣を 捨てる)」儀礼とも呼ばれている。 37) 仏教徒が遵守すべき基本戒律として五戒と八戒がある。五戒は,①不殺生,②不偸盗,③不邪淫, ④不妄語,⑤不飲酒の 5 つの戒律である。これに⑥非時食戒(午後に食事をしない),⑦歌舞観聴戒・ 香油塗身戒(歌舞などの娯楽にふけらず,装身具,香水などを用いない),⑧高広大床戒(高くて 大きい寝台を用いない)の 3 つを合わせて八戒とする。 38) 得度式は,見習僧となるためのバンパチャー(banphacha)と,その後続いて行う僧侶となるため のウパソンボット(upasombot)の二つの部分からなる。一般的には「出家(buat)」と呼ばれ,式 とその前日の祝宴などを含む全部の行程を指す。 158 アジア・アフリカ言語文化研究 79 の若い世代にとっても,持戒行は普段の実践 る。持戒行では,単に戒律を遵守するだけで とは異なる特別なものであると認識されて はなく,心を平安な状態に保つ必要がある。 いる。 多くの人は,家庭における様々な雑事によっ 持戒行によって生み出された功徳は,行為 て心が乱されること(chai bo yu)が戒律に 者自身のものとなる。持戒行の常連参加者が 反すると理解している。そして一度受戒して 39) 「50 回(の持戒行)で,地獄には堕ちない 」 からその戒律を犯すことは,地獄に堕ちるほ と言うように,持戒行は老いと死を考え始め どの悪行(bap)であると考えられている。 た年配者にとって,現実的な意味を持つ行為 悪行とは,それまで積んだ功徳を減少させる である。また家族の経済的責務から解放され 行為である。例えば,筆者が村に滞在してい た年配者が,持戒行を含む宗教実践に没頭す たとき,寺院に毎日通う敬虔な仏教徒として ることは,理想的な老後の過ごし方とされる。 人望を集めていた一人の村人が,バイク事故 持戒行は,寺院で行うだけでなく,受戒し に遭い,生死を彷徨うほどの怪我を負った。 てから自宅で行うことも可能である。調査村 しかし事故の数日後の仏日,持戒行参加者は における聞き取りによれば,この二つは異な 女性 2 人だけで,男性は一人もいなかった。 40) る実践だと考えている人が多い 。いずれも 常連参加者であった男性に不参加の理由を尋 功徳を積むと見なされている点では同じであ ねると「心が乱されることが,悪行になるの るが,その意味付けにおいて男女の間で意見 ではないかと思い怖かった」と答えた。特に が分かれる。例えば女性は,寺院での持戒行 男性は,破戒するくらいなら受戒しない方が の方が,自宅などで行う普通の八戒遵守より いいという。 も多大な功徳を生み出すと考える傾向があ このように男性は,心を落ち着かせるため る。それは一生在家信者の立場にある女性に の修行として持戒行を考えていない。男性は とって,自宅を離れることが,家族や家事な すでに心の平安がなければ持戒による積徳は どの世俗への執着を捨てることを象徴してお 期待できないというのである。つまり功徳や り,より心理的に苦しみを伴うと理解されて 悪行の概念が,持戒行を行う男性の精神性と いるからである。そのため寺院で持戒行を行 密接に関わり,彼らは破戒に対して非常に神 う女性は,自宅を離れて寺院に宿泊すること 経質である。それに対して生涯在家信者の立 自体に特別な意味があることを強調する。持 場にある女性は,寺院で過ごすこと,言い換 戒行を自宅で行うことは不可能であるとする えれば空間的に家族と離れること自体に,特 意見と,僧侶のそばで持戒する方が獲得でき 別な意味付けをする傾向がある。寺院にいる る功徳が多いとする意見があるが,寺院で長 ことで一定の功徳を期待し,なおその上に持 時間過ごすことに意義を見出す点で共通する。 戒行と誦経などの行為による功徳を求めるの 一方,持戒行に参加する男性の意見によれ である。 ば,自宅での八戒遵守も十分な功徳をもたら 以上のように持戒行に対する認識は男女で す。しかし世俗の煩わしさから逃れることが 異なる。このような認識の性差が生じる原因 難しいために,寺院で一日過ごす方が好まれ は,出家経験の有無,社会的に期待される宗 39) 持戒行を行う雨安居期の仏日は,年に 13 日ある。「50 回(の持戒行)」とは,雨安居期の持戒行を 休むことなく約 4 年間続けることである。 40) 年輩男性が数人,自宅から遠く離れた水田の出作り小屋,または自宅屋敷地内に建てた小屋で独居 しているが,一人を除く全員が持戒のためではないという。残る一人は,持戒行を行うため意識的 に家族から離れたところで生活していたが,1995 年に亡くなった。それ以来,自宅で持戒行を行 う者はいない。 159 加藤眞理子:東北タイ農村における識字女性の宗教実践 表 2.2001 年 SH 村寺院での持戒行における常連参加者 性別 年齢 出身村 A M 76 SH チャム 宗教的役割 見習僧 1 僧侶 3 年 出家(持戒行経験) 小学校の所在 NK 備考 B M 69 SH モー・パーム ターヨック 見習僧 1 僧侶 2 年 T C M 61 NK モー・パーム ターヨック 見習僧 7 僧侶 1 年 NK D M 72 SH 見習僧 2 僧侶 2 年 NK E F 69 T 50 歳頃から T D の妻 F F 68 SH 50 歳頃から T 亡夫モー・パーム G F 67 SH 50 歳頃から T 夫薬草師 H F 67 SH 50 歳頃から T B の妹 I F 57 SH 40 歳代から T B, H の妹 夫モー・タム (参与観察により筆者作成) 教的役割,日常生活における宗教的行為の位 年齢が低いのは 57 歳の女性で,最高齢は 76 置づけなどの性差と深く関わるものであろ 歳の男性であった。男性はこの 4 人以外誰も う。次に持戒行に参加する在家信者と持戒行 参加しなかったのに対し,女性は上記 5 人 の模様を記述する。 以外の多くの者が断続的に参加していた。数 回だけ参加する者や,夕方の誦経だけを一緒 2. 持戒行参加者 に行い夜は自宅に帰る者もいた。30 代と 40 雨安居の仏日の夜明け前,持戒行を行おう 代の女性 2 人が,2001 年に初めて持戒行に とする在家信者はござ,蚊帳,水を入れる容 数回参加した。毎年,雨安居期の仏日は全部 器,経本などを抱えて寺院へと向かう。その で 13 日あるが,一度も休まず参加したのは, 後,講堂で 24 時間八戒を守って過ごす。参 女性 E と F のみであった。 加者の多くは上下とも白衣をまとい,白い肩 また E と F は,B とともに同じ小学校で 掛けをかける。そのため一般的に彼らのこと 学んだ同級生である。1939 年頃,T 村に小 khao を「ポー・カーオ・メー・カーオ(pho ( 学校が建設されたとき,B と F が SH 村か mae khao 白衣の男女)41)」または「ポー・オー ら通い,E は T 村から通った。E は D と結 ok mae ok)」と呼ぶ。 ク・メー・オーク(pho ( 婚後,夫方の SH 村に婚入した。E と F は 「オーク(ok)」は,「出る,出す」ことであ るが,得度式のスポンサーの概念と関連して 42) いる [Tambiah 1970: 142]。 村内で最も早くに小学校に通い,識字能力を 得た第一世代の女性である。 E と D のように夫婦で参加する場合もあ 2001 年に SH 村寺院で持戒行に参加者し る。D は昼間,持戒行に参加し,夜は水牛 た者の数は,一回につき 2 人から 14 人であっ の世話と見張りのために自宅に帰ることが多 た。比較的頻繁に参加した特定の男性 4 人と い。また彼は SH 村に寺院ができるまで,T 女性 5 人を,表 2 にまとめた。その中で最も 43) 村寺院のターヨック・ワット(thayok wat) 41) ポーは父,メーは母,カーオは白いことを意味する。 42) イサーン語辞書によれば,ポー・オークは僧侶のスポンサーになる男性のことで,メー・オークは 僧侶の世話をする一般的な在家女性のことである[Wira 2005: 96, 114]。 43) 寺院や僧侶に関する諸事における在家信者代表である。僧侶を招聘したり,寄進する際に儀礼の進 行役を担う。 160 アジア・アフリカ言語文化研究 79 であった。A や B の妻も以前一緒に持戒行 ないが,家事や経済的責務の大部分を負うこ に参加したが,現在は健康上の理由で参加し とができる子供世帯と同居,または近くに住 ていない。H と I は,B の妹で,I の夫はモー・ むことが条件となる。 44) タ ム(mo tham) で あ る。F の 夫 は モ ー・ E と F,および持戒行常連参加者としてあ 45) パーム(mo pham) であり,生前は夫婦で げた者すべてが,子供世帯と同居,または同 参加していた。 じ屋敷地内に住み,農作業を含む経済活動の 男性 4 人全員に,出家経験がある。その内 ほとんどを任せている。兄弟やその子供世帯 2 人は古経典文字を学んだことがあるが,現 に居候する未婚女性や子供のない寡婦が,財 在は高齢のため読むことができない。僧侶と 産や経済活動のすべてを同居者に依存する例 しての出家経験が最も長いのは,76 歳の男 はあまり見られず,継続して持戒行に参加す 46) 性 A である。SH 村のチャム(cham) であ ることは難しい。また親離れしない子と同居 る彼は,持戒行において儀礼や誦経の進行役 していても,持戒行参加は難しい。例えば, を担っている。彼が持戒行に来ない時は,69 D の妻(60 歳 1941 年生)は,持戒行だけで 歳の男性 B がこの役を代行する。B は男性 なく普段から寺院にあまり行かない。彼女は, C と同じく新築儀礼,結婚式,悪運を祓う儀 両親が外泊すると未婚の娘を一人で家に残す 礼などを執り行うモー・パームである。この ことになり,それが不安であるから参加しな 2 人はターヨック・ワットでもあり,寺で行 いと筆者に語った。未婚の娘を持つ者は,他 われる仏教行事全般を取り仕切る役を担う。 にもいるが,D 夫婦以外の家庭の娘たちは 筆者が SH 村やその周辺の寺院で観察した 出稼ぎのため不在である。大勢の人の輪のな 限り,持戒行に参加し始める年齢は 50 歳代後 かに入ることを好まない本人の性格も影響し 半から 60 歳代である。しかし出家経験があ ているが,親から独立しない娘を持つことも り村内で何らかの宗教儀礼の専門家である夫 参加しない理由となる。 を持つ女性は,他の女性たちよりも少し早い 女性の持戒行への継続参加は,結婚・出産, 時期に持戒行を始める傾向がある。男性たち 子育てを経て自分の子供世帯に経済的に頼る が妻を誘って夫婦一緒に参加することも多い。 ことができる恵まれた老後の環境を築いたこ 年配者の人生において重要な宗教実践とし とを示す。また持戒行に参加する男女は,他 て位置づけられている持戒行であるが,年配 の仏教行事にも頻繁に参加する。男性のよう 者が全員,同じように持戒行に参加するわけ に特別な儀礼知識を学ぶことがない女性も, ではない。誰もが老後,持戒行に参加するこ 寺院での持戒行参加を他者に示すことによっ とは理想的な生活だというが,自宅でラジオ て,村落社会のなかで仏教儀礼知識に通じた の説法番組を聞く方が積徳になるという女性 女性だと認知されている。 もいる。持戒行参加を継続させるためには, 家庭から空間的に離れることを可能にする家 3. 持戒行における誦経 族を持つことが最低限必要である。つまり一 SH 村寺院に止住する僧侶のなかに,出家 日だけとはいえ持戒行のような宗教活動に専 経験の長い高僧はいない。毎年,雨安居の 3 ヶ 念するためには,経済的に裕福である必要は 月間を過ごした後,すぐに還俗する若い僧侶 44) モータム(mo tham)は,仏法起源の力を用いて悪霊を祓うだけでなく,人生の通過儀礼にも関わ る東北タイの在家信者の儀礼専門家である[林 2000]。 45) 民間バラモンと訳されることもあるバラモン儀礼専門家である。農村で行われる新築儀礼,結婚式 などを執り行う。 46) 村の守護霊祭祀の司祭役のことである。彼はこの役を父方の叔父から受け継いだ。 加藤眞理子:東北タイ農村における識字女性の宗教実践 161 表 3.持戒行の手順(2001 年 SH 村村落寺院にて) 4:00a.m. 白衣を着た参加者が,寺院の講堂に集まる 僧侶が僧房で行う朝の誦経(tham wat chao)の終了を待つ 5:00a.m. 一人の参加者が鐘を鳴らし,一人の僧侶を講堂に招聘する 僧侶が八戒を授ける 僧侶が僧房に帰る 参加者だけで朝の誦経を行う 6:00a.m. 村人たちが食事の寄進にやってくる 僧侶から全員が五戒を受戒する 僧侶の食事が終わってから,持戒行参加者も食事をとる 11:00a.m. 村人たちが食事の寄進にくる 僧侶の食事が終わった後,持戒行参加者も食事をとる その後,経本の暗唱,水浴び,昼寝など自由に過ごす 5:00p.m. 僧侶を招聘する 僧侶がタイ語で書かれた仏法解説書を音読する 参加者だけで夕方の誦経(tham wat yen)を行う 4:00a.m. 参加者だけで朝の誦経を行う 僧侶を招聘し,五戒を受戒する(八戒を破棄する) 5:00a.m. 自宅に帰る (参与観察により筆者作成) がみられるだけである。2001 年の雨安居期 続く②タム・ワット(tham wat)と呼ばれる の仏日に,SH 村寺院において行われた持戒 経の一群 行の手順を表 3 に示した。本稿で扱う持戒行 う勤行の際に唱える経のことを指す。パーリ は,僧侶から受戒した後,在家信者が自主的 語での誦経が一般的だが,タイ語訳をつけて に行う仏教実践である。 朗唱することもある。 朝夕の勤行(tham wat)における誦経は, 47) は,僧侶・見習僧が日常的に行 ③の経は,持戒行以外の場において,僧侶 僧侶と見習僧にとっても日常的活動の一つで が在家信者から布施を受けた時に唱える経で ある。僧侶も在家信者も同じ経本に従い誦経 ある。喜捨された衣,食,寝床,薬につい を行うが,同じ場所では行わない。僧侶たち ての心得が詠まれる。次に④の慈悲(metta) は同じ時間に僧坊(kutti)で,在家信者は講 を送る経を朗唱する。この部分だけは,一節 堂で行う。 ごとにタイ語訳の朗唱を入れる。⑤の経は, 現在,持戒行における在家信者の朝夕の誦 小瓶や水碗に酌んだ水を他の器に流し入れ 経は,表 4 のような手順で行われている。誦 nam) ながら朗唱する。ヤート・ナーム(yat ( 経は,男性代表者がまず経の冒頭の一節を唱 と呼ばれる行為であり,村人たちによれば, え,次節から他の参加者も声を合わせて続 その水を境内の木の根元などに灌水すること ける。最高齢男性 A が参加する時は彼が誦 によって,土地の地母神(mae thorani)が 経の先導を行い,それ以外の時は B が行う。 功徳を近親者の霊に送るのである。 ある仏日において参加者が,女性 E と F の ⑥の自由に朗唱してもよいところでは,そ 2 人だけの時があった。その時は二人が一緒 の日唱える経(mon, khata)を選ぶことがで に誦経を始めた。 きる。どのような経を選ぶかは,村や人に ①三宝帰依(仏,法,僧への帰依)は,あ よって異なる。僧侶や出家経験者が勧めたり, らゆる仏教行事の始まりの際に唱えられる。 女性たちが印刷された経本から選んだりする 47) 現在のような形式になったのはラーマ 4 世が編纂し,その後印刷出版したことに始まる。 162 アジア・アフリカ言語文化研究 79 表 4.朝夕の勤行(tham wat)の手順 ろうそくに火を灯し,花を捧げる ①三宝帰依(bucha Phra ratanatrai) ②勤行(tham wat) ③喜捨された衣,食,寝床,薬についての経(p ( hicharana patchai si) metta) ④慈悲を送る経(phae ( ⑤水を流す経(kruat nam) ⑥自由に経を選んで朗唱(suatmon sai) ⑦感謝の経(wantha) (聞き取りにより筆者作成) が,唱える時間や経の数に制限はない。この ような経には印刷された経本以外に,直接僧 リ語の詩の単位のことで,4 脚を 1 カーター (頌)と呼ぶ。 侶から口述されて書き取ったものや,他村の SH 村では,⑤で水を流した後に,詠ま 行事に参加するなかで学んできたものも含ま れた経には次の 6 つがみられた。(a)祝福 れる。 経(thawai phon phra : itipiso),(b)勝兆経 最後の⑦は,朝夕の誦経の最後に唱える経 g ,(c)護呪 (chai monkhon khatha : phahung) で,感謝の辞が述べられる。そしてすべて朗 経(chaya parit : mahaka),(d)八方仏参拝 唱し終わると,しばらく黙祷し,その後は自 (namatsakan phra arahan paet thit),(e) 菩 由時間となる。SH 村において朝夕の誦経に f 薩跡経(khatha phothibat),(f)八方宇宙兆 かける時間は,ほぼ一時間であったが,場合 経(khatha monkhon chakkarawan paet thit) に応じて自由に朗唱する経は省略や挿入さ である。すべてパーリ語経で,市販されてい れる。 る経本に記載されている。 以上,持戒行の詳細を記述した。次に⑥の (b)勝兆経や(c)護呪経 48) は自宅で詠む 自由に朗唱してもよい部分で,どのような経 場合にも人気があり,様々な仏教行事が行わ が詠まれているかを具体的に述べる。 れる寺院などで頒布される小冊子にもよく掲 49) 朝夕の誦経において唱えられる経には, 載されている 。(c)護呪経はまた,死の危 スー(sut),モン(mon),カーター(khatha) 険や悪霊の災いを防ぐものとして,僧侶の毎 などの呼び方がある。スーは元来,糸を意味 日の勤行や葬式などの仏教行事でも誦経され したが,一般的に仏教のまとまった経のこと る。在家信者も,自宅で毎日朗経すれば一層 も指す。モンは呪文や真言,カーターはパー 自らを守護できるとされている 。このよう 50) 48) セイロンの王が国家行事に唱えるために作られたのが王護呪(ratchaparit)で,長老たちが経典か ら語句を選び仏の加護を求める護呪の章句を作った。後に増補されて十二句(sipsong tamnan)ま たは大王護呪(maha ratchaparit)と言われるようになり,旧来の短い方を七句(chet tamnan), または小王護呪(chunla rachaparit)と言うようになった。勝兆経も護呪経もここに含まれる。現 在でもこの両方がミャンマー,モン,タイ,カンボジアで用いられている[石井・吉川 1993]。 49) 例えば 2001 年に 100 歳を迎えた同行政区寺院の高僧が,100 歳記念として彼の経歴や偉業につい て書いた小冊子を無料配布した。最初の数ページが彼の経歴で,残りの部分は中部地方に居住する 有名な高僧が編集した経本をそのまま掲載していた。その中では,特に勝兆経について解説が付け られており,アユタヤ王朝のナレースワン大王(1555-1604)が,その頃特別に編纂された勝兆経 を朗唱することでビルマ軍に勝利したことが引用されていた。毎日朗唱することで繁栄がもたらさ れ,家長が朗唱すると自分自身だけではなく,家族をも災禍から守護することができると説明され ている[Wat Chumphon 2001: 11-16]。 50) 護呪経は,上座仏教世界では一般的に,防御を意味し,ある特定の目的のために編集されたカーター (詩)と仏陀のスー(言葉)を含む経である。護呪経の意味については,青木[1984: 106-149], Tambiah[1970: 199-222]が一部を日本語や英語に訳している。タイの経本の起源・歴史につい ては[Wells 1960]を参照。 加藤眞理子:東北タイ農村における識字女性の宗教実践 163 な経を僧侶が朗唱する場合は,水碗に張った 彼女たちは経のタイ語訳も覚え,雨安居期の 水を準備し,経の守護力が水に伝わることに 持戒行でもパーリ語とタイ語訳の両方で朝夕 よって聖水(nam mon)ができる。その水は の誦経を行っていたが 2 年でやめた。それは 飲んだり体に浴びたりすることによって,病 持戒行に参加する男性たちが「(訳まで)覚 気や傷が治療でき,新たな事故や病気を防げ えられない」「(訳まで唱えると)時間がかか るものとして,在家信者は争うように自宅に るので,座っているのが辛い」などと異議を 持ち帰る。 唱えたためである。E と F を中心とした持 (d) の 経 は, 北・ 東 北・ 東・ 東 南・ 南・ 戒行常連参加者の女性は,それでも 2 つの言 南西・西・西北の 8 つの方角を守護する仏に 語で誦経を行いたかったようだが,男性の意 参拝するためにある。これを詠むと,どこに 見に従いやめた。現在 SH 村の持戒行では, 居るかに関わらず仏らが守護してくれるのだ タイ語訳をつけて行う誦経はごく一部にすぎ と,参加女性 E は説明した。経本には「サ ない。隣村の寺院では,今もタイ語訳つきで ラパンヤ調(thamnong saraphanya)」の注釈 誦経を行っている。そこではタイ語訳つきの 51) がつき,他の経とは異なる節で朗誦する 。 経を詠むかどうかを,女性たちが決めていた。 f (e)と(f)の経も上記と同様に,どこへ 筆者の観察によると,隣村 T 村と NK 村の 旅してもこの経を持っている(mi : thu)と 寺院での参加者は,SH 村での持戒行と比較 安全だと説明された。このときの「持つ」と すると,男性の参加が少なく(1-2 人),女 は,経を暗唱できるまで覚えることを意味す 性の参加が多い(10-20 人)。このように持 る。こちらもまた,サラパンヤ調とは異なる 戒行で女性は男性よりもタイ語訳つきの誦経 が,普段の誦経よりもテンポのよい抑揚のあ を好む傾向が見られる。他方,すでに出家経 る節を付けて詠む。 験のある男性は,女性のように最初から経を このような持戒行における誦経や立ち居振 る舞いなどは,僧侶と同じように行うことを 前提としている。しかし在家信者の実践であ 覚える必要がなく,またタイ語訳で朗唱する 必然性も感じていない。 これまでみてきたように,在家信者の持戒 るから,以下のような僧侶との相違点もある。 行では,僧侶の説法を聞く以外に自ら誦経す 僧侶を招聘して受戒・破戒しなければならな ることに特別の意味がある。誦経の形式は決 いこと,説教(thet)は行えないこと,僧侶 まっているが,様々な出典の経を集めて詠む 52) は布薩堂(bot)に集まって懺悔する のに ことは自由であり,守護的な力を期待される 対して,在家は講堂で勤行を行うことなどで 経を選ぶことが多い。そして自由に経を選べ ある。 ると同時に,その朗唱のしかたも自由であり, 朗唱する経はパーリ語である。そのため, 普段とは異なる節のついた経が好まれる。 女性だけでなく出家経験のある男性も経の内 容を説明できない。通常朝夕の誦経の中でタ イ語が混じるのは,慈悲を与える経だけだが, 4. 持戒行における女性の宗教実践 次に,これまで見てきた持戒行参加者の行 翻訳つきの経本もあるため希望すれば他の経 動の性差について検討する。持戒行における もタイ語訳つきで朗唱することができる。 在家信者の実践を観察した結果,女性の実践 E と F が持戒行を始めた 1990 年代初頭, には参加者数の多さだけではなく,積極的な 51) 東北タイの書店で広く販売されている『儀礼経(mon phithi)』[Prian 1992]による。サラパンヤ 調で朗誦することをサラパンヤ読経(kan suat saraphanya)と呼ぶ。学童がその読経の声の美しさ を競い合う全国規模のサラパンヤ読経コンテストも開催されている。 52) 仏日は,僧侶が遵守する 227 の具足戒を誤りなく読み上げ,自らの行為を悔い改める日である。 164 アジア・アフリカ言語文化研究 79 態度が顕著に見られた。特に女性は誦経に没 持戒行に参加するのであって,持戒行自体が 頭し,なかでもタイ語訳つきの誦経にこだ 苦行であると考えているわけではない。 わった。出家経験のある男性にとって,持戒 SH 村の E と F のように,どの村の寺院 行やそこで行う誦経を含めた儀礼自体は目新 にも 1 人か 2 人,仏日の持戒行における誦 しいものではなく,若い頃の出家を追体験す 経や儀礼手順を絶対に間違わない,記憶のよ ることである。一方,ほとんどの女性にとっ い女性がいる。このような女性は,女性のた て,寺院での宿泊,持戒,誦経などは初めて めの誦経指導者として行動する。経の最初の の経験である。 言葉が思い出せない男性が,彼女たちに誦経 実践の性差を最も表す行為に,他者の勧誘 の先導を頼むこともあった。男性の儀礼指 の有無がある。出家経験のない男性は高齢に 導者が手順や誦経を間違った場合,彼女た なっても持戒行に参加せず,持戒行に参加す ちははっきりとした口調で「間違っている る男性も他の男性を誘わない。しかし頻繁に ( (phit )」と言うか,彼の行動とは別に自ら声 参加する女性は寺に行く際,他の女性たちを をより一層張り上げ「正しい」誦経によって 誘う。例えば,F は仏日前日になると 2 人の 他の者を導く。仏教や地元の伝承について 妹に「明日,行くか?」と声をかける。誘う 質問がある女性は,E や F に尋ねることが 相手は,親族や仲のよい隣人だけではなく, あっても,他の人たちに聞くことはない。こ なかには公金横領や薬物中毒など,夫や子供 の 2 人が代表して疑問点を男性に聞くこと の社会的に不適切な行動によって村のうわさ もある。彼女たちは,誦経にまだ慣れていな 話の対象となっていた女性もいた。その誘い い女性に一行ずつ経を何度も唱えていけば覚 に応じて彼女は,夕方の誦経のみに参加した。 えることができると,例を示して励ましてい 僧侶の説法を聞くことや持戒することは,ど く。他の女性たちは,E や F の誦経のリズ ちらも功徳を積む行為であるが,在家信者が ムを追って黙々と経を唱える。E と F もまた, 誦経することもまた,重要な積徳行である。 経を覚える指導を行うだけでなく,自分たち 自分の家族が村のうわさの対象にされている も暇があれば,次々とまだ覚えていない経を ことを知っていた彼女は,寺院で開催される 覚えようと努める。このようにリーダー的存 行事にも参加していなかった。しかし持戒行 在である年配女性を中心に,持戒行での女性 の一部に参加した後「気持ち良かった。また の実践が進められていく。 来たい」と言って,その後も夕方の誦経に数 また誦経の間の自由時間の過ごし方も,男 回参加した。また参加しようと考える女性は, 女で異なる。男性は,他の参加者との雑談を 常連参加者の女性 E や F に,用意する物を 避け静かに過ごす。また参加者の男性は全員 聞いて経本や白衣などを買い求めていた。 出家経験者であるため,改めて経を暗唱しよ 大きな声で誦経する E や F の先導に従っ うとしない。仏日の持戒行の手順や,いつど て経を朗唱する女性参加者の多くは,大勢で の経を選ぶのが適切なのかを学んだことがあ 一緒に同じ経を大きな声で唱えるのが「気持 り,忘れている部分を思い出すためだけに経 ちいい(sabai)」ことだと感想を述べた。ま 本を参照する。 た E や F も,誦経しているとき,家族に関 それに対し女性は,自由時間になると熱心 係した悩み事などを考えないため,心が晴れ に経を覚えようとする。出家することのない て気持ちよくなることを勧誘文句にしてい 女性は,持戒行に参加するまで経を積極的に た。女性は,世俗の苦から解放されるために 覚える機会はない 。そのため持戒行に参加 53) 53) 近年,小学校の道徳教育において,三宝帰依などの基礎的で簡単な経を覚えさせている。 加藤眞理子:東北タイ農村における識字女性の宗教実践 165 した最初の年に,まず経本を買うか,字のう 院詣や持戒行を高齢女性が敬われるべき対象 まい女性にタイ文字で経をノートに書き写し となるための社会的評価の一つの規準である てもらう。誦経の際には,誦経に長けている と捉えた上で,持戒行に参加する女性にとっ E や F といった女性の後ろについて,ノー て,その目的はより個人的な実践に向かい, トを見ながら経の暗唱に努める。そのような 積徳の目的や範囲が社会関係に限定されない 本やノートは一度覚えてしまうとその後,使 と述べている[林 2000: 231-232]。この考察 用されない。誦経する声が大きく,多くの経 を別の観点からもう少し詳しく述べてみよう。 を覚えている女性は,誦経に自信を持ち多く 出家経験が還俗後の社会的役割や実践に直 の経を覚えていることを自慢にしている。そ 接関係する男性と異なり,女性の場合はライ して自由時間になると,経を覚え始めた女性 フステージの移行が実践を変化させる。日常 たちに本を見ないで暗唱するよう積極的に指 的な積徳行や家族内での儀礼を担う立場にあ 導する。持戒行参加経験の少ない者たちは, る成人女性は,子供世帯が経済的に独立する 持戒しながら寺院で過ごす一昼夜,経の暗唱 に伴い,長幼の序に従って親族内の年配女性 に努めるだけでなく自宅や田畑でも経本を見 として母系親族を中心に広い範囲で子孫や祖 ながら覚えようとする。後述するが,誰もパー 先に関わる儀礼や施餓鬼供養に関する発言権 リ語で書かれた経の翻訳された意味を尋ねは を持ち,自らが率先して行うようになる。そ しない。ただ「どの」経を「いつ」使用する のような親族の長となる年配女性のなかに のかについてだけを確かめる。 は,事例でみた E と F のように限定された 以上のことから女性の実践の特徴として, 親族関係を越えて,村落社会のなかで他の女 次の二点を指摘できるだろう。第一に,持戒 性を宗教実践において先導する者が何人か存 行における識字女性の宗教実践の積極性であ 在する。E と F は,村落内で執り行われる り,第二に実践の共同性である。男性の行動 すべての結婚式に招待され,女性参加者の中 が個人的であるのとは対照的に,女性の誦経 心となって儀礼に必要な供物を作る。 は個人的行為であると同時に共同的行為でも 彼女たちが,そのような社会的役割を担う あった。女性は誦経に誘うことを通じて,他 には,単に高齢であることの他に,宗教実践 者の参加を促す。誦経することを勧めるのは, に専念できる家族の生活環境が整っているこ 持戒行に誘いやすいというだけではない。誦 と,個人的な資質,身近に特別な宗教儀礼知 経という共通の目的を持つ同好会的な集まり 識を持つ者がいることなどが背景にある。そ への参加を促すという側面がある。 して前述したように,寺院詣や持戒行に参加 ここでいう同好会的な集まりとは,成員権 する宗教的な敬虔さを他の村人たちに見せる がある機能的な集団のことではなく,同じ目 ことによって,逆に宗教的役割を期待され, 的を持つ人々の集まりを指す。その目的は楽 親族関係になくても村落内で行われる冠婚葬 しみや趣味に関わるものであり,参加・不参 祭に関わる儀礼に招かれるようになる。そこ 加は個人的に決定することができ,誰でも参 で見せる行動に,的確な儀礼知識の伝授や儀 加できる。時に同じ場に集まり共同的行為を 礼の進行に対する助言があれば,人々の信頼 行うが, 必ずしも継続性があるわけではない。 が集まることになる。その結果,一部の年配 誦経の他に謡いや踊りを通じた同好会的な集 女性を中心とした,宗教儀礼知識の交換や伝 54) まりも見られる 。 東北タイ農村で調査をした林は,老後の寺 授が行われる緩やかなつながりを持つ集まり が生じる。特にそのようなつながりは,寺院 54) 年配女性が多く参与する仏教讃歌を歌う集まりもある。 166 アジア・アフリカ言語文化研究 79 において一緒に誦経するといった共同的行為 ができるようになった。当時は現在より参加 を通じて強化される。 者数が多く,今では高齢化して寺院に行くこ 持戒行の場で,誦経を一緒に行う行為を通 と自体が少なくなっている非識字者 55) の参 じて,女性は個人的に功徳を獲得し転送する 加もあった。SH 村の非識字者である 70 歳 だけでなく,それまで誦経できなかった人に 代以上(1930 年代以前生まれ)の女性たち 誦経のやり方を教えて,他者が功徳を積む機 も,かつては持戒行に参加していた。その頃 会も増やす。先行研究では,出家やカティナ 女性は,「ナモー(namo)」で始まる三宝帰 衣奉献祭のような集合儀礼によって生じた功 依の最初の部分と五戒,八戒のみを唱え,後 徳が多くの人々によってシェアや分配される は静かに座っていたという。女性にとって持 ことが指摘されてきた[林 2000: 165-187]。 戒行に参加するために,家族と暮らす生活圏 しかし持戒行における女性の実践は,個人的 を長時間不在にすることは,しばしば苦痛を に功徳を積むことを目的としながらも,多く もたらす。心配や不安と戦いながら寺院で一 の他者を巻き込み相対的に功徳を増やし,結 日過ごすことに,女性は功徳を生むための意 果的に共同性を持つようになるところに特徴 義を見出す。この点は識字者も非識字者の女 がある。 性も同じだが,非識字者の方がそう考える傾 また持戒行における観察から,女性の実践 向は強い。なぜならほとんど誦経することが には誦経に没頭する傾向が見られた。経を意 なく,誦経によって得られる功徳をあまり期 味づけすることよりも,唱えるという行為自 待していないからである。 体に宗教実践としての重要性を見いだしてい すでに持戒行に参加しなくなった年配者 るかのようであった。しかもこのような誦経 は,以前と比べて今の方が詠む経の数が増え に対する積極性は,タイ語の識字女性に見ら たと言う。識字女性が経本から好きな経を選 れた現象である。次に女性の宗教実践とタイ び,誦経する数を増やしたからである。現在, 語の識字との関係,および誦経と宗教的知識 高齢による体調不良を理由に参加していない のあり方について検討する。 女性は, 「文字を知っている人たちには勝て ない。(彼女たちは)次から次へと暗唱する。 Ⅳ.女性の識字化と宗教実践 あの経もこの経もと増やしていくから,年々 朗唱が長くなってきた。昔はもっと簡単なも 1. タイ語の識字化への影響 現在,SH 村寺院における持戒行参加者は, のだった」と不満を漏らした。隣村の寺院に おいて,筆者も女性が僧侶に,次に覚えるべ 全員学校に通った経験がある。つまりここで き経を経本の中から選んでもらって誦経の数 観察してきた持戒行は,タイ語の識字が村落 を増やした場面をみたことがある。現在見ら に浸透した後の実践である。そして識字第一 れる誦経に傾倒する女性の実践は,学校教育 世代の女性が中心となって他の女性の実践を を受けたことがある E や F が持戒行に参加 導いていた。ではその他の世代において,宗 し始めてからの現象であると考えることがで 教実践と識字との関係はどうなのだろうか。 きる。 SH 村に寺院ができた 1977 年以降,それ 女性が自主的に経の知識を獲得するために まで近隣村の寺院で持戒行を行っていた SH は,識字能力の他に,タイ語出版物が村落に 村の年配者たちは,自分の村の寺院で持戒行 まで流通している必要がある。男性たちは 55) UNESCO の統計によると,1995 年タイ国の識字率(15 歳以上)94.2%。女性の識字率 92.0%, 男性 96.3%である[UNESCO 2002]。 167 加藤眞理子:東北タイ農村における識字女性の宗教実践 1940 年代,すでに印刷された経本を使用し る方向性の実践が見られるのである。例え ていたが,当時の持戒行に参加していた女性 ば,調査地周辺の行政区寺院では,1947 年 は全員非識字者であったため,女性は印刷さ から住職が特別に僧侶向けのナクタム(nak れた経本を利用することがなかった。村落女 tham)教理試験以外に,在家信者向けのタ 性がタイ語出版物を手にするようになった時 ンマスクサー(thamma suksa)受験のための 期は男性より遅く,1980 年代以降のことだ 勉強を在家信者に教え始めた。タンマスク と推測される。タイ語訳つき経本が農村に導 サー試験が始まった最初の年,男性の在家者 入された 1980 年代は,SH 村で初めて義務 は積極的に受けようとはせず,受験したのは 教育を受けた女性たちが家庭の様々な責務を 15-6 歳の未婚女性 5 人だけで,全員第 3 級 子供たちに任せ,持戒行に参加し始めた時期 (tri)を獲得した。その後,彼女たちは結婚 (1980 年代後半)と合致する。そのため女性 し,自らの家庭を持ったため勉強する時間も の持戒行において,現在のような積極的な態 なく,それ以上高い段階の試験を受けること 度が見られるようになった。つまり識字化と はなかった。現在彼女たちは,70 歳を過ぎ, タイ語出版物の普及,そして識字女性の最初 持戒行も含めて寺院で行われる様々な活動に の世代が,持戒行を始める年齢の 3 つの条件 積極的な参加をみせている。 が重なった 1980 年代頃から,持戒行で本を 教理試験は,テキストの暗記を目的とする 手にした女性の誦経が始まった。そしてこの 一種の資格試験である。地元の言語で,文字 世代にとってタイ語の識字能力の利用は,経 を知り,読み書きができることを「書物を知 本を読むためという目的に限定されていた。 る(hu nangsu)」と表現されるように,そこ また SH 村における E や F のような識字 で扱われる知識は,書物を媒体として継承さ 第一世代は,長期出稼ぎで村落を不在にした れた知識である。仏教への興味が,このよう ことがない。これより後の世代は,学業や出 な仏教的知識やその意味の習得へと向かわせ 稼ぎなどでタイ語や文字媒体に接する機会が た。出版資本主義によって ,宗教的知識が より増加し,上記の識字第一世代とは,タイ 文字化されるだけでなく,一般人にも理解で 語との親和性が異なる。 きるようにタイ語で整理・編集され,容易に 56) 経本を持つことで,仏日以外の日にも自宅 人々の手に渡るようになった。このような知 で何度も繰り返し唱えて覚えることが可能に 識の一般化は,宗教的知識を秘儀的なものか なった。またタイ文字に翻字されタイ語に翻 ら誰でも手に入れることができるものへと変 訳された市販の経本の普及によって,女性は, えた。 経の意味づけや解釈を男性に聞く必要がなく しかし出版印刷物を通じて得られる宗教的 なった。識字能力の獲得は,女性が宗教的知 知識は,次に述べる知識とは体系やそのあり 識を自主的に手に入れようとする機会を増や 方自体が異なる。事例でみたように,識字に したといえる。 よって年配女性は,誦経行為自体に傾倒する。 識字第一世代の女性は,識字能力を利用す ることで,二つの異なる方向性の宗教実践を 誦経によって身につく知識も存在するのであ る。次に,経の身体化について検討する。 活発化させた。一つの方向は教理学習に,も う一つは,誦経による経の身体化へと向かっ た。そして同じ人物にこれらの二つの異な 2. 誦経と知識の身体化 持戒行の事例では,本を見ながら朗唱して 56) ヨーロッパでは,出版資本主義によって俗語で書かれた聖書の安い印刷物が普及したことにより, ラテン語をほとんど知らなかった女性を含む大規模な新しい読者が生まれ,宗教革命の成功に大き く貢献した[アンダーソン 1997: 76-81]。 168 アジア・アフリカ言語文化研究 79 いたのでは,誦経しているとは認められず, 符を身体に彫り込んだり,紙に書いて飲み込 持戒行の常連参加者は経を暗唱する必要が んだりすることによって,ウィサーの担い手 あった。暗唱できることが「誦経できる(suat やその継承者は,護身に利用する。信仰する mon pen)」ことであり,体得してこそ経を ことをタイ語やラオ語で「持つ(thu)」とい 「知る」と言えるのである。このような経の身 うことばで表すように,対象地域では,宗教 体化は男女とも同じ過程を経るのだろうか。 的知識は身体に入り維持されることで,身体 唱えられる経のほとんどはパーリ語であ を守護する力の源となる。宗教的知識のあり る。対象村周辺においては,在家信者だけで 方自体が身体と密接に関わるが,ここでもま なく僧侶にさえもパーリ語を理解する者はい た文字を通じて身体に注入する必要がある。 ない。経を「知る」または理解することは, 近代以降,識字女性もまた僧侶のように, 経の訳や内容を知ることに結びつかない。し 誦経によって経典知識を身体化することが可 かしどの経がどのような効力を持つのか,い 能になった。女性による経の身体化は,国語 つ詠むのかについての理解はある。パーリ語 としてのタイ語と多くの人々が同時に同じも が持つ聖なる力は,パーリ語経の意味の理解 のを手にすることができるタイ文字の出版印 に直接関連しない。重要な点は,パーリ語の 刷物を介してなされた。つまり女性の知識は 意味がわからない人々にも,その経が偉大な 秘儀的ではなく,地域限定でもないのである。 知恵を含有するものだと信じられていること 世俗の言語であるタイ語自体に,聖なる力が である[Tambiah 1968b: 182]。 付随しているとは考えられていない。タイ文 パーリ語は,声の文化のなかで生まれ,宗 字出版印刷物の普及によって,女性の実践の 教的知識を継承するために使用されてきた言 なかで誦経の重要性が増加した。誦経する女 語である。声に出された仏陀のことば自体に 性は,パーリ語経を唱えることによって知識 聖なる力が付随し,誦経は聖なる力を身体化 を身体化し,その守護力の発現に期待してい する。この聖なる力が,死者の霊を鎮め,家 る。しかし誰でも手に入れることができる知 族や自分自身を災禍から逃れさせてくれる。 識であるため,個人の身体のみならず,それ このように仏教が広く伝播した東南アジア大 を不特定多数の人々に伝えることも容易にで 陸部のパーリ語世界では,ことばと力の概念 きる。女性にとって,宗教的知識の獲得は排 が強く結びついている。そしてパーリ語世界 他的ではなく,そのためにその実践に共同性 の文字は,ことばを声に出して詠むために存 が見られる。 在した。かつて文字を介する誦経は誰にでも もちろん男性もタイ語の経本を手にし,出 できる行為ではなかった。そのためパーリ語 家せずに宗教的知識を習得することが可能に 経は,僧侶を始めとした宗教儀礼の専門家だ なった。しかしタイ語の浸透が与えた影響は けに許された秘儀的知識であった。そして戒 男女で異なる。これまで寺院を中心に担って 律を遵守する僧侶の身体のなかで知識が貯蔵 きた宗教的役割や地元の宗教的価値観から, され,別の僧侶へと継承された。 男性は変化に対応することが難しい。出家経 一方で,東北タイには, 「ウィサー(wisa)」 験によって身体化した知識を秘儀的知識とし と呼ばれる師弟関係を通じてのみ継承され て維持しようとする。他方,女性は寺院を中 る,様々な悪霊や災禍から身を守ることが 心に継承されてきた知識体系から離れたとこ できる超自然的力に関する信仰がある[林 ろに位置していたがゆえに,タイ語といった 1996: 20-21]。ウィサーの語源は,パーリ語 日常語とは異なる言語によって,全国的に標 の「vijja」であり,もともと解脱のための最 準化された宗教的知識を受けることが容易で 高の知識を意味した。古経典文字で書いた護 あったと考えることができる。 加藤眞理子:東北タイ農村における識字女性の宗教実践 169 ができないように,男性の実践も出家経験の Ⅴ.おわりに 有無だけで論じることはできない。出家しな い男性や出家経験はあるが見た目には全く宗 本稿では,持戒行に参加する女性の宗教実 教的な場に参加しない男性にとって,識字と 践を東北タイ農村の寺院というローカルな場 宗教実践との関わりとはどのような意味を持 で詳細に観察し,その実践の特徴を近年,農 つのだろうか。在家女性の宗教的知識のあり 村部にまで浸透したタイ語の識字や文字との 方と継承において,在家男性はどのように関 関わりから検討した。事例の検討から明らか わっているのか。寺院外で行われる地元の宗 になったことは,識字第一世代の女性の宗教 教的知識の継承や分布,他者との知識の交換 実践がタイ語の識字の浸透によって触発され といった側面からも考える必要があるが,今 た近年の現象であったことである。これまで 後の課題としたい。 の研究では,儀礼における女性の立ち位置が 男性の後方であることや,女性には出家慣行 付記 がないことから,出家者や出家経験のある男 性を中心に宗教実践が論じられてきた。しか 本稿執筆に当たり,査読の先生方から貴重 し,実践の場においてタイ語の識字を獲得し, な指摘と細やかな指導を賜った。心より感謝 タイ文字出版印刷された経本を手にした女性 いたします。また本稿は平成 20 年 4 月に京 は,必ずしも男性の後方に位置しない。彼女 都大学に提出した学位申請論文「東北タイ農 たちも重要な宗教の実践者であり,宗教的知 村女性の実践宗教と社会変容―〈声の実践〉 識の継承者であった。そしてパーリ語やタイ の動態―」の一部を加筆修正したものであ 語の識字や文字,および文字を介した声の実 る。指導教官ならびに長年の調査に協力して 践などの相互関係に着目したことによって, いただいた東北タイ農村の方々にもこの場を 身体化される宗教的知識のあり方と身体化に 借りて深く感謝いたします。 おける性差が浮かび上がった。 また東北タイ農村での事例が示したもの 参 考 文 献 は,近代における国家と地域の宗教実践のダ イナミズムである。仏教サンガ,近代教育, 印刷技術,マスメディアなどを通じて,タイ 国家と一つの地域である東北地方が繋がりを 強めるなかで,古くから高度に文字化されて きた上座仏教文化に,国家文化としてのタイ 文字と地元の言語文化が複雑に重なりあって 地域宗教が醸成した。個別の地域の歴史やそ こに生きる人々の身体を通じて,宗教が継承 されてきたのである。 本稿では,持戒行に参加する年配女性の宗 教実践が,女性の人生における実践の総体で あると捉え,女性の宗教実践を代表するもの として考察した。しかし宗教実践は,性,年 齢,経験,社会的環境などによって多様に差 異化される。女性を一つの範疇で捉えること ア ン ダ ー ソ ン, ベ ネ デ ィ ク ト.1997.『想 像 の 共同体』 (白石さや・白石隆訳)NTT 出版。 (Anderson, Benedict. 1983 (1991) Imagined Communities) 青木 保.1984.『儀礼の象徴性』岩波書店。 Collins, Steven. 1992. “Notes on Some Oral Aspects of Pali Literature.” Indo-Iranian Journal, 35(2-3): 121-136. 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