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意味の織物:書評『比較文化キーワード』

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意味の織物:書評『比較文化キーワード』
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意味の織物:書評『比較文化キーワード』
渡辺公
私のように文化人類学を勉強する者にとって,「比較文化」の本を評することは我
が身を振り返るためのたいへんよい機会だと思われます。というのも今,人類学はさ
まざまな意味で行き詰まりつつあり,その突破口を探るための示唆を,微妙な方向の
違いをもちながら文化という基本的な主題を共有する比較文化から得ることが期待さ
れるからです。
おおまかにいえば,人類学は異質な文化と遭遇した時の驚きから出発し,異質な文
化のなかにわれわれの文化との共通性を見いだし,人間における不変あるいは普遍の
特・性を取り出してゆく探究といえるでしょう。しかし,その異質性をわれわれの側か
ら「未開・原始」ときめつけることはもはやできません。これに対して私から見る限
りでは,比較文化は基本的に西欧の,あるいは西欧的な意11カkでの「ナショナルな」,
その限りである同一水準にある文化を比較する試みであると見えます。それは人類学
が捨てようとして脱却しきれない文化的な優劣の垂直軸から自由な,水平軸上のより
柔軟な探究のように思えます。もっとも,私自身は,人類学はより「未開」で単純だ
と思われた文化が実際には予想をこえる複雑さをそなえ,われわれの用意できる概念
装置はその複雑さのきわめて粗雑な近似的な像を描くことしかできないという,価値
序列のひとつの転倒があって初めて成立するのだと思っていますが,ただ転倒によっ
ても垂直軸の存在そのものは変わらないともいえるわけです。あるいは百歩譲って,
それぞれの複雑さの質が異なる,たとえば「われわれ」の世界における物質的なもの
を操作する技術体系の複雑さに対する,「彼ら」の精神的宗教的「技術」体系の複雑
さを対比するということもいえるかもしれない。
いずれにせよ,人類学が異質性から共通性へという行程をたどるとすれば,比較文
化はある共通性から微妙な差異と多様性の発見へという行程をたどる,前者が驚きか
ら自明性へ向かうとすれば,後者は自明性から驚きへと向かう,というふうに対比で
きるのではないでしょうか。
118特集比較文化研究
本を読み始める前の心の準備として考えた以上のことは,まだ抽象的な図式,それ
もどれほど当たっているかも分からない図式にすぎません。しかし比較文化がはるか
に具体的な探究であることは,本を開いた冒頭の「まえがき」から見事に言い当てら
れています。曰く「食べたいものから食べよ。」比較文化のキー・ワードの群からま
ず知りたいと思う言葉を読んで見よ。「食べたいものから食べよ」という言葉は,比
較文化の知が,食べておいしく柵となる,具体的で実践的な一面をもつのだという主
張だと読みとれます。生きることに反映するような文化についての省察であろうとい
う姿勢は,「動態的文化モデルの摸索」という表現にも表れていると理解されます。
今日,同時代を生き生きとダイナミックに生きるには静態的な拘束衣のようなモデル
は捨てなければならない。こうした実践的な面も,異質な文化を「翻訳」し「解釈」
することから始める人類学の観照的な姿勢と比較文化との違いなのかもしれないと
「まえがき」と「プロローグ」を読んで感じさせられたわけです。
さて,いざ読み始めてみると,適度な長さでひとつの項目が終わり次に進めるとい
うこともあって,次々と読み進めてしまい,拾い読みにするのはむづかしい。適度な
長さと,主題のきり変わる飛躍とが相挨って飽きさせないからだと思われます。今,
目次を見直して話題の切り変わる飛躍が大きく,それだけ思考の息次ぎのいとまを与
えず読者を駆り立てる部分としては,例えば「た」行などその代表ではないでしょう
か。「大黒柱」に続いて「大衆文化」そして「台湾」「多元主義」と来て「たまねぎ」
「男性」と続く,内容の多様性の幅も考え合わせて,私たちの思考をまさにグローバ
ルなレベルで自在に引き回し遊ばせて既成の思考の枠の拘束を解き捨てさせる,この
主題のヘテロトピックな並びかたは比較文化キー・ワードならではといえないでしょ
うか。
一見きわめてランダムにもみえるこれらの項目を次々に読んでいくと,記憶のなか
でそれぞれの項目から目に見えぬ触手がのびて互いに結びつき,不思議な意味の織物
が織られある紋様ができてゆく,あるいは比較文化のテーマ群という経(たいてと)に
そったキー・ワードのクラスターが自ずと形づくられてゆくというべきでしょうか。
それは例えば次のようなまとまりです。
-文化の差異を考える手掛かりとなる観念や制度やさまざまな文物:アイデン
ティティー,エスニシティー,遠近法,戸籍,ヌード,漫画,翻訳,レジャー
など。
-上と同じ意味合いをもちながら観念と行為と制度の交差する場に成り立つよう
懲味の織物:諜評r比較文化キーワード」
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な,容易には分類しにくいもの:あべこべ,外国人,カタカナ表記外来語,仮
Mii,観光,時間,間(ま),メンツ,モード,洋行と中国留学など。
-上のクラスターと重なり合いながら,「大きな主題」の群とも呼べるものとし
て:インテリ,オリエンタリズム,国語と国民国家,国境罪人種,大衆文化
多元主義,伝統,比較,文化のなかの知,文明と文化,民族など。
-今Hにおける生きかたそして関係のあり方を問う,他のクラスターとはやや
トーンを異にするように感じられる,性そしてコミュニケーションに関わる:
エイズ,女,ゲイ,性差,セクシユアリティ,男性,レスビアンなど。
一具体的な「もの」に寄せて文化を比べる:缶コーヒー,衣装,化粧,たまね
ぎ,茶,橋,マクドナルドなど。
-やはり具体的な「もの」でありしかも生きる場としての「家」に直結するもの
として:家庭,壁,大黒柱,陶磁器,扉・ドアなど。
こうしたクラスターを,読者それぞれが違った形で作りうるということ,いわばひ
とつひとつのキー・ワードを積み木のように組み合わせて,各自の比較文化の建物を
構築し,そこからざらにさまざまなインスピレーションを得ることができる点に
キー・ワードとしての面白さがあるように思います。
とりわけ「もの」に寄せた項目を読んで強く感じさせられるのは,それらが長い時
間をかけたたゆみない細心の観察に裏づけられた発見を披瀝しているということで
す。少々突飛かもしれませんが,私はロラン・バルトが「明るい部屋』という写真論
の本で印象的に使っている「ストウデイウム」と「プンクトゥム」の対比を思い出さ
ずにはいられませんでした。バルトの繊細な言葉づかいを損なうことを覚悟で粗雑に
要約すれば,「勉学」としてのスタディや競技場のスタヂアムにもつながる前者は,
「あるものに思い入れする」といった方向から「一般的関心」,ある種のステレオタイ
プ的な関心のあり様という意味をもつ言葉となったといいます。それを「持続的な努
力」という意味で記憶していたのは,私の曲解が勝ってしまったようですが,いつぽ
うのプンクトウムとは「刺し傷,小さな穴,小さな斑点,小さな裂け目…」という意
味から「私を突き刺す偶然」つまり見慣れたはずの情景を異化する何か意表をつく細
部の存在というニュアンスを与えられています。バルトは,本来危険をはらんだ写真
というメディアを私たちと和解させるのがストウデイウムであり,いわばその和解の
なかで私たちの真新しい注意をlllL覚めさせるのがプンクトウムであると言っていると
私は理解しています。バルトにとって,両者は見つめるに値する作品としての写真の
120特集比較文化研究
なかで交差している。それに対して私にとって多くのキー・ワードの解説のなかで,
自明なものを異化し,あらためて異貌のものとして見つめさせる力を帯びるのは,持
続的なストウデイウムの積み重ねの上に達成されたプンクトウムであるように思われ
ます。とりわけ「たまねぎ」や「茶」などには筆者の関心の持続と細心の観察が生き
生きと感じられます。また家にまつわる「もの」の意味の解読には,さまざまな文学
作品と歴史資料の渉猟の跡が感じられます。
こうした,私をはっとさせるプンクトウムは,それこそ枚挙にいとまがないのです
が,ごく-部でも挙げておけば,「カタカナ表記外来語」における外来語にカタカナ
を一貫して適用したのが新井白石の了西洋紀聞』であったという指摘,「家庭は一種
の法人としてあつかわれる」という「家庭」のさりげない-句(それはこの表現が,
逆にあらためて考えると私自身「法人」とは何かほとんど分かっていない,というこ
とを一瞬サーチライトがよぎるようにして理解させるからでもあります),「戸籍」に
おける戸籍類似の制度がフランスで1875年に「家族手帳」として施行されたという指
摘(ポアソナードの来日が1873年であり一寸無理だとしても日本の戸籍の技法がフラ
ンスに輸出されたという可能性はまったくないのだろうか?),日常の惰性的な関係
を脱ぎ捨ていわば関係の真空のなかで遊ぶ状態だと考えられがちな観光において,奴
隷制時代を追’億させる擬似的な支配=被支配関係が演出されているというカリブ海域
の「観光」,当用日記の始まりをつきとめ,日記のあり様が「私」の意識の形成に及
ぼしうる影響にまで考察を進める「日記」など。
それにしてもこうした実に多様な方向から立体的に文化を比較する視点を導く項目
の選択は,どのようにして行われたのか,その秘密は「まえがき」にある「ほぼ十年
ほどの摸索期間」と「一九九一年春」からの共同の作業の持続ということにあるので
しょう。そしてその共同研究の作業こそが,先に私が盗意的に大まかに分けてみたク
ラスターの区別を超えて,もうひとつの緯(よこいと)のつながりを作りだしていると
もいえるでしょう。いやもっと生きた言葉のやりとりに近いもの,あるいは項目の間
に交わされている目配せともいうべきものでしょうか。たとえば「間」の冒頭に置か
れた「移動式開閉壁」や「自由にとりはずしのきく扉」に驚く明治初期の日本に滞在
した外国人のエピソードは「壁」や「扉」に直接秤き合っていますし,「うつし世」
と「かくり世」にまで広がるその省察は,たしかに目に見えない者たちの存在を身近
に感じさせた田舎の古い「村の家」の記憶を私たちに蘇らせ,比較文化が無意識の層
位に組みこまれた感性的なものにまで垂鉛を降ろすべきものであることを教えてくれ
ます.あるいは私が,とりわけ人類学という「無文字社会」を主な関心の対象として
意味の織物:i1「評『比較文化キーワード』
12]
いるせいかもしれませんが,私には見逃すことのできない,「カタカナ表記外来語」,
「国語と国民国家」,「戸籍」,「日記」に通底する「文字」による表記という技術のは
らむ問題への関心という緯,これはまた文字表現の音読された時の韻律性を移し替え
る試みとしての「翻訳」,文字とは違ったしかたで「読まれる」「漫画」の問題にもつ
ながります(ところで「戸籍」に引かれたr村の家』という作品の主人公が「翻訳」
に従ヨドしているというのは偶然とはいえ奇妙な符合です)。
こうした緯が,積み重ねられた議論のなかから自ずから形成されたものなのだろう
と思われるのは,たとえば次のようなさまざまなクラスターに分散した多彩な項目の
なかに,ある共通の視角あるいは思考のトーンが感じられる点です。それは「缶コー
ヒー」,「多元主義」,「ヌード」,「比較」,「マクドナルド」,「モード」,「類似と相似」
などで,この最後の項目に引かれたフーコーの言葉を的硴なコメントとともに再;|用
すれば,そこに示されている中心をもった表象としての「類似」と,微細なズレを際
限なく生んでゆく「相似」との対比に凝縮されるでしょう。
「…やがていつの日か,相似が,ある系によって際限無く移転され,相似によってイ
マージュそのものが,それの具える名との同一性を(自己証明)を失ってしまう日が
到来するであろう。Campbell,CanlpbelLCampbeILCampbeⅡ」
CampbeⅡ,Campbellというのはアンディ・ウォーホルの「キャンベル・スープ」
(一九六二年)への連想,というよ')もそのスープ缶の相似の列への呼びかけである。
一切の「類似」の制圧から解き放たれ,上からの権威からも下からの権力からも束縛
を断ち,「背後世界」を拒絶し,国籍からも「文化の伝統」からも自由な,「このよう
な」ではなく「そのもの」の実現へと向かう行為であろうか。…」
「類似」の制圧から解き放たれ「そのもの」の実現へと向かう行為,「生きる行為」
の次元を含むこうした志向'性が比較文化には含意されていると思われます。強引であ
ることを承知でいえば,l際限なく相似した商品の生み出されるCampbellならぬ「缶
コーヒー」の微妙な差異の比較テスト,相対主義の落とし穴を克服するべき「多元主
義」,美の中心的で超越的な規範としての「ヌード」(そこではヌードの正真性はギリ
シャ彫刻への「類似」によって計られる)の否定,優越性と差別の根拠ではない「発
見の方法」としての「比較」の擁護,マニュアルによる画一的な管理が徹底した先端
的なフード産業にさえ見られる文化の微妙な拘束力を説き明かす「マクドナルド」と
いった一連の項目には,この志向性をバネとした細部への感受性が示されているよう
に思えます。そして上の引用のとおり,それが同一性を失わせるというのであれば,
「アイデンティティー」や「戸籍」の項目もこの意味の布置に結びつき,「伝統」や凝
122特集比較文化研究
固した古典的な文化概念の否定という「プロローグ」に提示された比較文化の内包す
る「強い」主張の,個別的な事例に即した展開として見ることもできることになるで
しょう。
ただ自明性から驚きへの行程を比較文化の「弱い」志向,鷲きから拘束的な文化概
念の解体への行程を比較文化の「強い」志向ともし呼べるなら(ここでいう「弱い」
「強い」は価値判断ではなく実践への志向の強弱という意味です),私には後者におい
てさらにひとつの大きな問いが開かれるようにも思えるのです。「強い」志向は端的
にいえば,「文化と文明」に読み取られる,国民国家に凝縮される固定的な同一性の
根拠となる限I)での文化の概念を解体せよ,という呼び掛けであろうと私は理解しま
す。そしてそれは,国民国家群の作りだした「国際」秩序の余白にある「未開・原
始」の社会を研究の対象にすると自他ともに認めてきた人類学にとっても切実な問題
提起となるはずです。というのも,人類学の古典的な記述のスタイルにおいては,人
類学者の意図がどうであれ,ひとつの「民族」集団はおそらく国民国家の類似物とし
て以外の姿では描かれてはいないからです。国民国家における|司一性が,国境に画さ
れた国土,国民に共有された血,共通語としての国語の三つの頂点によって描かれる
のを写しとったように,「民族」集団は,その生活圏としての「生態的環境」の記述
からはじまり,血の同一性の等価としての「親族関係」が記述され,国語の模像とし
ての民族語とそれに内包された「世界観」が描出され,これらの三身一体として民族
の同一性が提示される。おそらくこれら国家の模像において根本的に欠けているの
は,国家たるべき強権の集中といったことなのでしょう。そしてそのことは列強によ
る「国際」秩序の形成過程においてこれらの民族が,周辺的な位置におしこめられ人
類学の研究対象になったという事実それ自体と呼応しています。
いずれにせよ,古典的な人類学にはこうした同一性の枠を解体するという比較文化
における「強い」志向に答えうる省察は,今のところ原理的に用意されていないと判
断できます。それではひるがえって,比較文化の動的な文化概念は同一性の解体の方
向を「主題」として提起しうるとして,その可能な「過程」をどのように示すことが
できるのでしょうか。そこには,どのような行為者の像が描きこまれているのでしょ
うか。同一性なき主体,国境からも血の共有からも国語の拘束からも自由などのよう
な主体が呼び求められているのでしょうか。もちろんこうした問いは性急に答えを出
せる性質のものではなく,むしろ比較文化がその問いを適切なしかたで立てるための
最初の浮標を,同時代の流れ動く意味の世界に投じたばかりだというべきなのでしょ
う。たとえそのとおりであるとしても,私にはひとつの原理的な設問が成り立つよう
意味の織物:書評r比較文化キーワード』
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にも思えるのです。比較文化は同一性なき主体を要請する。しかしそうした「主体」
は果たして「文化」への問いから導き出されるものだろうか,と。
さきに「ややトーンを異にするように感じられる」と表現した,性とコミュニケー
ションに関わる一群のキー・ワードは,私の誤解でなければ,こうした設問への解答
のひとつのありかを示唆しているのかもしれません。これらの項'三Iでは,他の項目と
同じく,ある意味ではそれ以上にラディカルに,別の生きかたの可能性,今までとは
質を異にする新たな主体,性への真剣な呼びかけがおこなわれています。しかし私に
は,これらの項目では「文化」への問いからではなく,「関係」の変容から,変容と
いう中立的な言葉でなければ,「関係」の変革からこそ新たな主体性が形成されると
いう方向が探究されているように思われます。新たな「主体性」は,主に体と性に関
わる関係の変容から生成する,というのは単なる言葉遊びではありません。「文化」
と「関係」を対置することにそれほどの意味があるのかは,実は私にもよく分かりま
せん。ましてそれらが二者択一される選択肢であるのか,と問われればいっそう確信
をもって答えられるものではありません。
ただいずれにせよここに集められた比較文化のキー・ワードの描き出す意味の織物
が,新たな問いを開きながら,文化と関係と主体の新たな布置を予感させる,未来の
世界を覗きこむための切子面を読者に提供していることは確かだと思われます。
(これは,1994年7月23日のr比較文化キーワード』合評会での談話をもとに響かれたも
のだが,内容はかなり変更されている)
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