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現地調査報告および研究展望 - IFERI

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現地調査報告および研究展望 - IFERI
文部科学省大学院教育改革支援プログラム
「新領域開拓のための人社系異分野融合型研究」
平成 20 年度前期 合同研究会
人社系異分野融合研究と新領域の開拓の試み
IFERI 第一期プログラム生
現地調査と研究の展望
IFERI 第二期プログラム生
研究構想発表
日
会
主
共
時/平成 20 年 6 月 27 日 (金) ・28 日 (土)
場/筑波大学大学会館特別会議室
催/筑波大学人文社会科学研究科
インターファカルティ教育研究イニシアティヴ (IFERI)
催/筑波大学人文社会科学研究科 FD 委員会
IFERI 第一期プログラム生 現地調査と研究の展望
1. 和久希「六朝言語哲学の東方展開」
2. 黄媚「中国における自発的に設立された業界団体の一考察」
3. 松本明日香「合衆国における東ヨーロッパ政策と表象」
4. 比嘉理麻「現代沖縄におけるヒトとブタの身体(五感)を介した関係の断片化」
5. 林優美子「ケアにおける病いの語り」
6. 李炅澤「東アジアにおける孔子学院事業の比較研究」
7. 飯野知宏「台湾をめぐる国際情勢とその社会変容」
8. 松枝世「自殺総合対策におけるインターネット利用の研究」
9. 斉藤和美「首長族観光研究―北部タイにおける難民カヤンの文化表象―」
10. 長谷川詩織「西部とアフリカをめぐるインターフェイス―進歩主義時代のアメリカ映画
を中心に―」
11. 入山美保「孤立環境における日本語教育―現地人日本語教師養成の観点から―」
12. 田中孝始「社会開発の視点から見た日本語教育の可能性」
13. TSAY Marina「ウズベキスタンにおける朝鮮系民族集団のアイデンティティ、言語と文
化」
14. 磯田沙織「民主的代表制の危機に瀕するペルーとアンデス諸国の学際的比較研究」
15. 中央アジア・日本学生知的交流会議報告(入山・田中・TSAY)
IFERI 第二期プログラム生 研究構想発表
1. 久保朋江「国家における周縁文化の不可視性―被差別部落を事例として―」
2. 前田洋平「20 世紀初頭の中欧とパン・ヨーロッパ運動」
3. 北川直緒「ノルウェーの児童文学における大人と子どもの関係に関する研究」
4. 宮川宗之「アフリカのフランコフォニー形成と複数言語文化主義の実態研究」
5. 小田桐奈美「共生のための言語政策モデルの構築―キルギス共和国を事例として―」
6. 今井真治「先進資本主義諸国における「精神世界」の包括的研究―大衆文化・メディア空
間・ニューエイジ―」
7. 古田高史「戦後の言論界を中心とした昭和期日本の政治・社会・文化システムの変遷―福
田恆存の「批評」を事例として―」
8. 王 冰「マスメディアと政治―商業化と政治規制の板挟みになった中国型のマスメディア
を探る」
松浦正伸「朝鮮近現代情報史の研究」
久保慶明「市町村における税制をめぐる政治過程:「地方政治経済学」の視点から」
「人社系異分野融合研究と新領域開拓の試み」2008.06.27
六朝言語哲学の東方展開―儒教・玄学・文学―
哲学・思想専攻
和久 希(WAKU Nozomi)
[email protected]
1.
2.
3.
研究概要
研究報告
研究計画
1.
研究概要
1.1. 従来の研究状況と本研究の目的
漢代の武帝期から辛亥革命まで、儒教は二千年にわたる中国の国家思想であった。また、儀礼
・律令等、日本にも通底する理念でもある。一方で魏晋南北朝期は政治的動乱期であった。儒教
の衰退と儒・仏・道の三教交渉を指摘する古典的研究に対し、加賀栄治*1は玄学や清談を根拠に、
中国中世思想の根幹を合理的精神による儒教への盲従からの脱却に求め、後の研究に総合的指針
を与えた。さらに堀池信夫*2は形骸化した漢末儒教に対する、三玄の形而上学に依拠した「形象を
超えた真理」への志向を新たな儒教の理想と規定した。また、中国中世文学研究は、魏晋期を漢
代宮廷文学からの解放と把捉する。三曹と建安七子に始まる記名文学を契機として、阮籍・嵆康
・陶淵明らは個人の慷慨や悲憤を詩に託した。これら詩人の思想については福永光司*3が、その思
想と文学との関わりについては大上正美*4が考究するところである。また、六朝期には文芸批評や
文学理論が隆盛し、『文選』等の選集が編纂された。これらの文芸批評には林田慎之助*5が、文学
理論には興膳宏*6が、各々『典論』から『文心雕龍』・『詩品』までの個別的対象を照射しつつ、
その歴史的展開を論じている。これら従来の中国哲学・中国文学研究史は、殆ど各々独立して別
個に存在してきた。それは対象とする文献の性質によって哲学/文学いずれか一方の研究に回収
されてきたことに起因する。両者を統合する根源的論理を探究する包括的研究は未だ僅少である。
本研究は上に述べた儒教・玄学・魏晋文学及び六朝文学理論に通底する問題を、直観知をも含め
た「知」と「言語」に求め、「六朝言語哲学」と題し、その解明を課題とする。その点で本研究
は、従来有機的に連関してこなかった哲学史・文学史について、「言語」を基軸として再構成す
ることになる。その上で本研究の主眼は、その「東方展開」にある。従来、中国中世文献の日本
への影響については語彙レベルでは多く研究されてきたが、一部の道教研究を除き、思想的展開
については十全に検討されてこなかった。本研究は真言宗の開祖である空海の言語思想を対象と
する。空海は最澄と並び、奈良仏教から平安仏教へのメルクマールとして位置づけられる人物で
あり、とりわけ『三教指帰』が哲学・思想研究から着目されてきた。しかし、それのみではなく、
『声字実相義』は音響・言語・実相の定義と三者の関係を、『文鏡秘府論』及び『文筆眼心抄』
は声調や対句・韻律から創作論までの包括的文学理論を論ずるものである。また、『篆隷万象名
義』は佚書である中国の原本『玉篇』を元にして編纂された辞書であり、その現存は、高い資料
的価値を有している。これらの著作は空海独自の思想の発露であると同時に、上述した六朝言語
*1 加賀栄治、『中国古典解釈史(魏晋篇)』、勁草書房、1964
*2 堀池信夫、『漢魏思想史研究』、明治書院、1988
*3 阮籍・嵆康・陶淵明をめぐる論考は著者の没後、福永光司、『魏晋思想史研究』、岩波書店、
2005 に所収された。
*4 大上正美、『阮籍・嵆康の文学』、創文社、2000 及び同、『言志と縁情─私の中国古典文学
─』、創文社、2004
*5 林田慎之助、『中国中世文学評論史』、創文社、1979
*6 興膳宏、『中国の文学理論』、筑摩書房、1988 及び同、『中国文学理論の展開』、清文堂、
2008
-1-
哲学が背景にあると見てよい。十代から漢学に没頭し、また長安の青龍寺に留学した空海は、中
国中世の言語思想に直接的に連続する人物である。ところが従来の中国学を基盤とした空海研究
は、空海の著作の持つ文献的価値に注目し、佚書の発掘作業や純粋な文献の動向に関わる研究を
主眼としていた。例えば『文鏡秘府論』については、古くは小西甚一*7が文献学的にきわめて精緻
な検証を行っている。また、近年では興膳宏や廬盛江*8らの取り組みがある。けれども、六朝言語
哲学を踏まえて、哲学レベルで平安期日本における中国中世の受容をくっきりと照らし出す研究
は絶無に等しい。本研究は六朝言語哲学の解明に基づき、空海の諸著作を検討し、その東方展開
の実相を明らかにするものである。それは中国哲学・中国文学のみならず、日本の平安期に至る
までの知的世界のダイナミズムを根源的視座から開拓するといえる。総じて述べるならば、本研
究は玄学から空海までの「知」をめぐる地理的・歴史的展開を、「言語」を基軸に、哲学レベル
で解明しようとするものである。
1.2. 研究内容
本研究は玄学から空海までの「知」をめぐる地理的・歴史的展開を、「言語」を基軸として、
哲学レベルで解明しようとするものである。その究明には以下の三段階の検討を要する。
(a) 伝統的基盤を有する儒・道と、それらを踏まえた魏晋玄学における「言語」をめぐる思索
を対象とし、その論理構造を解明する。
(b) 検証結果(a)の理論的展開を文学理論・文芸批評や外来思想である仏教思想等に見る言語
への思弁を対象として実証し、中国中世に通底する問題系を形成することを文献学的に実証する。
(c) こうした言語をめぐる「知」の問題が当時の東アジア世界において、いかに受容・反映さ
れたかについての歴史的展開を検証する。
分類(a)は、魏晋玄学の「言尽意・言不尽意問題」が具体的対象となる。何晏『論語集解』や「道
論」「無名論」・王弼の『老子道徳経注』や『周易略例』、欧陽建の言説をもとに、当時の「知」
と言語との関係を解明する。分類(b)についてはまず、文学理論・文芸批評を対象とする。すなわ
ち『典論』論文篇に始まり『文心雕龍』、『詩品』、『宋書』謝霊運伝に至る言説や摯虞『文章
流別集』に始まり『文選』、『玉台新詠』までの撰集から、関連する言説を抽出し、論理構造を
解析し、その言語思想を究明する。また、阮籍・嵆康から陶淵明に至る系譜の中から、広く「知」
をめぐる行論に基づき、魏晋六朝文人の論説を認識論の観点から分析する。これらのいわゆる文
学領域に対する検討を踏まえて、外来思想である仏教思想における「知」と言語の問題を『弘明
集』や僧肇の著作等から論ずる。さらに分類(c)については、これまでの「中国中世言語思想」を
踏まえ、その「東方展開」として空海の『文鏡秘府論』と『声字実相義』に特に着目し、『文筆
眼心抄』や『篆隷万象名義』を踏まえながら、その哲学レベルでの受容と歴史的・地理的展開と
を考究する。以上が本研究の具体的内容である。
2.
研究報告
2.1. 研究支援
本プログラムに採択されて以降、現在までに下記の支援を賜った。
・国内講師招聘:千葉大学大学院加藤敏教授(中国文学)により「唐代士人の文学」と題され
た集中講義が行われた。具体的には唐代諷諭文学を代表する元結の思想と文学を対象として、そ
の中に六朝期の言語への思索が発展・継承された形で内包されていることを文献学的に解明する
ものであった。その意味でプログラム生にとって、直接的に多くの示唆を得るものであった。な
お、今年度も国内講師招聘については出願している。
・IFERI による図書購入と貸与:研究内容に関連する原典および工具書、研究書を購入した。
今年度も同様である。
・RA としての雇用:2007 年度・2008 年度ともに IFERI を通じて、RA としての雇用を受けて
*7
*8
小西甚一、『文鏡秘府論考』、研究篇上・下/攷文篇、大八洲出版社・講談社、1948~1954
廬盛江(校考)、『文鏡秘府論彙校彙考(一)~(四)』、中華書局、2006
-2-
いる。
なお、採択当初の計画にあった海外の研究者との連携──講師としての招聘、合同研究会(海
外)──については、先方の都合により、かなわなかった。
2.2. 研究成果
研究成果
本プログラムに採択されて以来現在(2008 年 6 月 27 日)までの研究成果に以下のものがある。
【論文】
・和久希、「言尽意・言不尽意論考」、『中国文化』、中国文化学会、66 号、2008 年
【研究ノート】
・和久希、「言尽意・言不尽意論考─魏晋玄学とその周辺」、『筑波哲学』、筑波大学大学院人
文社会科学研究科哲学・思想専攻内筑波大学哲学研究会、16 号、2008 年
【口頭発表】
・和久希、「何晏・王弼における形而上学と言語──言尽意・言不尽意問題との関連から──」、
筑波大学人文社会科学研究科哲学・思想専攻哲学分野「哲学コロキウム」、筑波大学、2007 年 10
月
・和久希、「魏晋南北朝期の学問思潮と「言語」─儒教・玄学・文学─」、筑波大学大学院人文
社会科学研究科インターファカルティ教育研究イニシアティブ(IFERI)国際シンポジウム「人文
科学・社会科学の融合研究と国際ネットワーキング」、筑波大学、2008 年 2 月
なお、2008 年 6 月中にはもう一つ、全国学会において口頭発表をすることが下記の通り決定し
ている。
・和久希、「『文心雕龍』の言語思想──「隠」について──」、中国文化学会 2008 年度大会、
中国文化学会、2008 年 6 月
3.
研究計画
3.1. 今年度研究計画
今年度 7 月以降の研究計画として第一に挙げられるのは、10 月に京都大学で開催される日本中
国学会 2008 年度大会における口頭発表である。ここでは 6 月の中国文化学会での口頭発表を踏ま
え、魏晋玄学と『文心雕龍』の言語思想をつなぐ論理的関係について発表する所存である。また、
これら二つの口頭発表は、最終的にはそれぞれ論文として各学会誌へ投稿する。これらに加えて、
昨年度に取り組んでいた魏晋玄学の「言尽意・言不尽意問題」をめぐって、その行論上きわめて
重要な役割を果たす「筌蹄」という語彙について、その用例の歴史的展開を検証する調査報告を
学内紀要に掲載する予定である。
3.2. 次年度研究計画
次年度以降については、今年度までの魏晋玄学および六朝文学理論を対象とした「六朝言語哲
学」研究を踏まえ、その「東方展開」について検討する。現在の所、下記の論文を執筆するため
の調査を行っている。
論文A:空海『篆隷万象名義』等を踏まえつつ、『声字実相義』の言語思想について検討する。
論文B:『文鏡秘府論』・『文筆眼心抄』の言語思想について検証し、これまで論じてきた六
朝言語哲学との関連を考究する。
なお、口頭発表については、これら論文のためのプレ発表と位置づけて行う。論文の投稿及び
口頭発表については日本中国学会、六朝学術学会、中国文化学会及び筑波大学哲学・思想学会と
各々の学会誌を計画している。
-3-
「IFERI 平成 20 年度中間報告(平成 20 年 6 月)
」 第一期生:黄媚(現代文化・公共政策専攻 4 年次)
主指導教員:辻中豊 アドバイザー教員:小嶋華津子 陳剰勇(中国浙江大学)
中国における自発的に設立された業界団体の一考察
-温州市服装商会の事例を通して-
1、はじめに:
中国は 1978 年に改革開放政策を打ち出して以来、計画経済体制から市場経済体制への移行を急速に推
進させている。その過程で、かつての計画経済体制の下では存在する余地がなかった業界団体は著しく
増加している。ここではその要因のうち二つを指摘したい。
(1)
、1990 年代以降、計画経済体制から市
場経済体制への更なる移行過程において、中国の政治、経済、社会領域の分離が徐々に進められている。
こうした背景の中、政府は「小さい政府、大きな社会」のスローガンを掲げ、政府機構改革を進め、か
つて政府が担っていた経済管理権限の一部を業界団体に委譲し始めた。(2)、1984 年に個人経営が公
認されて以来、政府は私営経済に対するスタンスを容認から奨励へと変化させてきた。その中、私営経
済は著しく成長を遂げると共に、私営企業家間の「集合行為問題」を解決する一つ手段として、自発的
に設立された民間型業界団体が成長してきた。
(下図1を参照)その結果、業界団体数が 2000 年の時点
では社会団体のうち 27.9%を占めていたが、2006 年には 31.2%に増加し、近年ではその伸び率が年 10%
となっている1。また、設立の経緯により、今現在中国の業界団体は政府機構改革の下で設立された政
府主導型業界団体と、企業家のニーズに合わせた民間主導型業界団体の二種類が並存している。
市 場
領域
国家
領域
市
非公有制企業
場
公有制企業
全体主
国家
義国家
機関
社会
営利性仲介組織
民間主導型業界団体
政府主導型業界団体
人 民 団
民弁非企業単位
体、官弁
基金会
NGO
社 会
草 の 根
家族、個人、
領域
NGO
自発結社
図1 改革開放以来、中国国家―社会関係の変化及び非営利セクターの発展
2、中国における業界団体研究の政治学的意義
本研究は自発的に設立された業界団体を研究対象にし、東アジア経済発展モデル論及び中間階層論と
いう2つの視点から先行研究を整理していきたい。
まず、東アジア経済発展モデル論とは、日本を始め、韓国、台湾の経済発展経験に見られるように、
官民協調方式による国家の市場介入を特徴とするモデルである。特に、戦後日本の経済発展においては、
「日本株式会社」とも呼ばれた「輸出志向型国家」の構図の中で、政府と業界の連携が構築された。他
方、中間階層論とは、〈経済成長―中間階層の台頭―市民社会の形成―民主化〉という図式を念頭に置
くものである。近年では、私営企業家の業界団体・民間商会の政治参加に注目する研究者も増えている。
以上の先行研究を踏まえ、IFERI に応募した研究テーマ『中国の利益団体行動に見る政治・経済・社
会システムの変容―浙江省の繊維業界団体の事例分析』の一部をなす、自発的に設立された繊維業界団
体の実態について報告を行う。浙江大学の研究チームにより蓄積された研究成果に依拠しつつ、IFERI
の研究支援を受けて 2008 年 3 月に実施した現地調査で得られた一次資料を基に分析を行った。最終的
には、この種の業界団体の成長が今日の中国市民社会の成長において、如何なる意味を持ち得るのか検
討する。
3、事例研究―温州市服装商会:
(1)設立経緯:1990 年代初頭に温州市服装業界に蔓延していた企業間の不正競争を是正するため、
服装会社の経営者である劉松福氏を始めとする企業家が連合し、1994 年に設立された。
(2)商会のリソース:
①業務主管単位(日本では主管官庁に相当する)―温州市工商業連合会(温州市総商会)
②財源―会費、理事会単位による寄付金、社会サービスへの提供、政府の支援金(政府委託プロジェ
クト、情報化管理、展覧活動などの資金)、会誌の販売収入(
『温州服装』)
。
③人事構成―会長1名、副会長 27 名、理事 132 名(会長は差額選挙により、副会長・理事は等額選
挙により選出する)。大企業の会員の中には人民代表大会、政治協商会議に代表者として参加する者も
多い。
④共産党支部―1999 年 6 月 29 日に浙江省の商会の中でも初めて共産党支部を設置した。最近党委書
記が退職したため、活動があまり展開していない。
⑤企業の商会加入率―温州市内約 2500 社の服装企業のうち、1500 社(約 60%)が入会している。
しかし、小企業は商会への入会に対して、関心が低い。
⑥マスコミとの関係―「中国服飾報」、
「服装時報」、
「中国服装報」、
「品牌時報」などの雑誌社、及び
温州市の地元新聞社との連携を図っている。
⑦組織構造―6つの専門機関・委員会(デザイナー委員会、レジャー服装委員会など)、8 つの作業部
会(法制・権益擁護、協調サービスなど)、連携会議会員(2003 年の温州市区・県服装商会の統合を経
て傘下に入った)から構成されている。
「政策決定諮問委員会」の変遷―設立初期に、市工商局、物価局、財務局など政府部門の職員が兼任
する形式で構成された「顧問団」はあまり機能していなかったため、2003 年 6 月 25 日の第四回会員大
会を契機に、廃止された。「諮問顧問委員会」の委員は、会員大会での選挙により選出されると規定さ
れている。委員は温州市服装業界の状況に詳しいキャリアをもつこと、或いは服装業界での知名度が高
い人物であることが「商会章程」第 30 条に明記されている。実際には前副会長などが「政策決定諮問
顧問委員会」の委員となるケースが多い。
⑧社会認知度―2002 年に「市レベル模範単位」
(温州市経済貿易委員会)、2003 年に「地方優秀業界
団体」
(中国工商経済連合会)、2003 年に「優秀社会団体」
(浙江省人事局・浙江省民政局)、2006 年に
「優秀団体」(中華人民共和国人事部・中国紡績工業協会)として認定されている。
(3)活動展開:
①中小企業に対する支援活動―2005 年に商会の主催の下で、温州市の8つの対外貿易服装業界企業
が共同で「上海瓯派連合実業発展有限会社」を発足させた。これらの海外輸入貿易企業が連合し、商品
の仕入れから販売ルートの拡大に至るまで、中小企業の国際市場への進出をサポートしている。
②業界内部の土地問題の解決をめぐって―発展を遂げる温州市服装業界は、必要な土地を如何に確保
するかという問題に直面していた。2003 年 6 月 2 日、当時の会長(陳敏氏)は温州市市長に活動報告
を行った際、服装企業の更なる発展のため、是非とも土地を確保してほしいと要望した。その後、何度
も温州市市政府指導者に対し土地確保を訴えた結果、服装商会は温州市政府指導者の支持を得て、面積
333.5 万平方メートルの工業団地の土地確保に成功した。しかも、取得した土地は交通の便も良いもの
であった。商会の業務主管単位にあたる温州市工商業連合会の会長が後に、「温州市では土地を入手す
ることが極めて難しく、自らも試みたものの、結局失敗に終わった」と述べていることを見ても、当該
商会の影響力の強さが推測される。
③「新労働契約法」の施行に向けて―2008 年 1 月 1 日、国務院が「新労働契約法」を施行した直後
に、服装商会は温州市労働局の関係者を招聘し、会員企業に向けた研修会を開催した。その後、「新労
働契約法」の実効化を視野に入れて、労働者の人材データベースを充実させる動きが見られる。その目
的は2つあると考えられ、第1の目的としては、労働力不足の是正が上げられる。第2の目的は労働ブ
ラックリストを共用することにより、企業は不用な労働紛争を防止したいということである。
(4)事例研究のまとめ
温州市服装商会は設立経緯、財政源、人事構成などからみると自発的に設立された業界団体であるこ
とが分かった。しかしながら商会は、政府から業務の委託を受ける一方で、政府との良好な関係を維持
しつつ、会員(企業家)に有利な働きかけを行っていた。即ち、先行研究で言及した東アジア経済発展
モデルの構造が、現段階において、自発的に設立された業界団体の中でも形成されつつあるではないか
と考えられる。労働組合の機能不全が指摘される中、「新労働契約法」の施行に伴う商会の活動に見ら
れたように、業界団体と政府が労働紛争防止に向けて、主体的に連携関係を構築しつつある。こうした
動きは労働者を排除したコーポラティズム構造に近づくものといえる。
また、市民社会論の視点から見ると、中国においては、民間セクターの成長は 1990 年代以降になっ
てはじめて顕著になったため、業界団体も様々な面でリソースが欠如している現状にある。したがって、
「強い国家、弱い社会」の構図の下、自発的に設立された業界団体であっても、社会資源、政治資源を
確保するため、党組織の設立や政府退職職員へのポストの提供、私的人脈を通じた行政機関との接触を
行っている。団体と政府機関、党との完全な切り離しは現段階では実現できない。
4、今後の課題:
今回の報告は、『中国の利益団体行動に見る政治・経済・社会システムの変容』の研究成果の一部で
あり、浙江省温州市服装商会を焦点に当てて、分析したものである。今年度は、
「国際インターシップ」
科目の履修を活かした二次調査を通じ、他の業界団体を取り入れながら、業界団体と関連する政治・社
会アクター(例えば業界団体の業務主管単位、管理機構の民政部門及び企業家など)に注目していく予
定である。そして、これらのアクター間には如何なる関係が構築されているのか、政治学的意味での力
学を如何に反映し得るのか、さらに、業界団体の研究が中国の市民社会発展において、如何なる意義を
持つのか、今後の研究において明確にしていきたい。
「社会団体」―中華人民共和国民政部の「社会団体登記管理条例」(1998 年 10 月 25 日公布、即日施
行)第 2 条によれば、社会団体とは「中国の公民が自発的に組織し、会員の共同意志実現のため、その
定款に基づき、活動を展開する非営利社会組織」である。また、条例に従って、社会団体は機能別に業
界団体、学術団体、専門団体及び連合団体から構成される。本研究の研究対象とする業界団体とは特定
の業界の管理、服務に従事する業界協会、商会等など非営利組織とされている。
1
松本明日香「選挙レトリックと国家形成―
松本明日香「選挙レトリックと国家形成―1960
「選挙レトリックと国家形成―1960、
1960、1976 年米国大統領候補者テレビ討論を事例と
して―」
して―」
IFERI 現地調査レポート (2008/02/23-2008/03/17)
合衆国における東ヨーロッパ政策と表象
―1976 年フォード、カーター大統領候補テレビ・ディベート史料調査
年フォード、カーター大統領候補テレビ・ディベート史料調査―
史料調査―
調査地 ジョージア州アトランタ市カーター大統領図書館・博物館
ミシガン州ジョージア市フォード大統領図書館
現地時間 2008 年 2 月 23 日午後、パソコンや書籍、防寒具など大量の荷物を抱えて、米国アト
ランタ空港に降り立った。アトランタはハブ空港であるため、今まで乗り換えはしたことはあっ
ても、街に出たことはなかった。ここから、IFERI のサポートを受け、IFERI 科目の一環として
行った 3 月 17 日までのアメリカ合衆国での「現地調査」が始まった。
今回の現地調査の目的は、博士論文の 1 章分に当たる、1976 年テレビ・ディベートに向けた 2
人の主要候補者の選挙準備と外交政策を調査するためだ。4 年に 1 回開催される米国大統領選挙
において、大統領テレビ・ディベートは選挙戦のハイライトになる。しかし、大統領と有権者と
メディアの考え方の不一致が、大きな問題になることがある。1976 年テレビ・ディベートでは、
ジェラルド・フォード大統領(President Gerald Ford)が “there is no Soviet domination of Eastern
Europe.”と述べ、その言葉にマスメディアが注目し、報道の中で繰り返し、強調するという、メ
ディア選挙の負の側面が出てしまった。本研究では、大統領史料を用いながら、その 3 者のずれ
を追っていく。
確かに、在米東ヨーロッパ人の民族集団は、フォードのコメントを非難し、Lev E. Dobriansky
などは、 ウクライナ地域研究誌において、失策であると批判している (1977)。結果的に、その
コメントにより、フォード大統領は、挑戦者のジミー・カーター(Jimmy Carter) に負けたと言わ
れる (Kraus 1976; 2004)。一方で、ここには若干の神話がある。というのは、1976 年テレビ・デ
ィベートの直後、フォードの方が、カーターよりもディベートの支持率が高かったというレポー
トが出されているのである(Moore and Faster 1977, Berquist 1994)。これによると、 ディベート直
後はフォード 44%、カーター 43%ですが、メディアがフォードの東ヨーロッパへのコメントを
繰り返し流し続けた結果、翌日の夜には、フォードの支持率は 16%まで下がり、カーターの支持
率は 62%まで上がった。さらに、ディベート放映後少し時間が経ったギャラップ世論調査では
(Kraus 1977)、カーターが約 2 倍の支持率 [50%-27%] を得ているが、かなり早い段階で取られた
AP news の世論調査によると, カーターの支持率は 3%フォードを上回るだけである。ここに加え
て、今回、史料調査により、フォード陣営が取った世論調査に基づいた、テレビ・ディベート放
映中の支持率の折れ線グラフを手にすることができた。グラフによると、確かに 1975 年のヘル
シンキ協定など東ヨーロッパに関する発言の箇所では支持率はマイナスだが、他のマイナス箇所
と比べると、放映時は極端に大きなインパクトがあったわけではないことがわかった。これらを
踏まえた上で、私はフォード、カーター、マスメディア、有権者の東ヨーロッパ政策に関する一
致、不一致を調査した。
まず、私はジョージア州アトランタ市にあるカーター図書館に、先に訪れた。人権外交を展開
したカーターは、カーター自身の博物館、史料を収蔵する図書館以外に、カーター人権研究所を
持っており、日本からの募金も多いとのことだった。博物館の前には、日本の議員が寄贈した日
本庭園があり、池には大きな鯉が泳いでいた。また、博物館の従業員には朗らかな黒人の方が多
く、庭でお昼にブラウニーを食べていたところ、やれ、花がもうすぐ咲きそうだ、今日は天気が
いいなど、色々話しかけられたのが印象的である。また、現地では東京大学から単独でいらっし
ゃった研究者と図書館で、たまたまご一緒した。図書館へ閉館後は、メディア分析をするなかで
関わることの多い CNN の本社ビルの見学もでき、大変感激した。
カーター図書館は閉架式なので、まず図書館のパソコンなどで必要と思われる文書や文書のま
とまったファイルやボックスを検索し、図書館司書の方に運搬をお願いすることになる。専門の
司書の方であるため、細かな文字の癖、書類の分類のされ方、特定の政策に重要な人物など、さ
まざま相談もできた。文書が出てきたら、日がな一日、ひたすらページをめくり、必要と思われ
るところを、ボックス名やファイル名と共に、デジタル・カメラで撮影する。自前のカメラには
手ぶれ防止機能がついており、画素も高いので、ほとんど失敗することなく撮れ、のちほどパソ
コン等から読むことができる。有料コピーもできるが、デジタル・カメラだとカラーマーカーや
カラーの文書の色を識別できる。データをプリントアウトすることも、データのバックアップを
取ることも可能だ。IFERI の所有する三脚、カメラやミニパソコンは、今回はお借りしなかった
が、別の調査で使用させていただいた。特に三脚は疲れを軽減して、撮影をスムーズにするため、
ミニパソコンは大荷物を少しでも減らし、バックアップを容易にするため、とても便利であった。
最終的に、カーター・モンデール選挙対策文書を中心に、カーター陣営がフォードの外交政策
をどのように評価し、メディア政策をどのように取っていたか、資料を豊富に集めることができ
た。カーターは現職大統領ではなかったので、世論の動向を中心に選挙戦略を練っており、メデ
ィアのフィードバックは、外国のものも含めて細かく集めていた。また、少数民族票を重視し、
スピーチにおいても配慮していていた。あと 1 週間あればレーガン&カーターの 1980 年選挙ま
でも調査できるかも、と多少後ろ髪をひかれたが、1976 年選挙史料もほぼ目を通すことができ、
ひと通り満足し、次の図書館へ移ることができた。
次の図書館は、ミシガン州アナーバー市にあるジェラルド・フォード大統領図書館である。こ
の図書館は他の大統領図書館と異なり、大学の敷地の一角にある。大学は、ミシガンモデルを始
め と する 政治 学研 究やグ ー グル 創始 者を 生んだ 情 報学 研究 など でも有 名 なミ シガ ン大 学
(University of Michigan)だ。問題は、五大湖付近に位置する 3 月頭のミシガンが、東京の真冬より
も寒いくらいで、バスを屋外で待つのも辛い。時差ボケがなかなか治らず、体調がいま 1 つのと
ころ、気候の変化が体に堪え、少し風邪をひいてしまった。しかし、幸い同大学には何人も友人
がおり、だいぶ助けられ、なんとか無事、調査研究ができた。また、ミシガン大学では、ホワイ
トハウスのメディア部門で活躍されたこともある政治コミュニケーション研究者のラッセル・ニ
ューマン(Russel Neuman)教授に、IFERI の副アドバイザーをお願いすることができ、現地で合わ
せて研究計画や調査内容に関してアドバイスをいただけた。現地にお世話になれる先生がいると、
心強い面もある。
史料調査では、フォードの選挙戦略も外交資料も、現職大統領であっただけあり、カーターよ
り膨大にある。今回は最重要と思われるものに絞って、調査をした。選挙史料に関しては、先ほ
ど述べたように、選挙スタッフ・リスト、細かな世論調査結果やメディア対策文書など、重要な
資料を得ることができた。また、ディベート前後の少数民族への対策文書や、決裂する民族グル
ープの長との面会の会議録も手に入った。一方で、ヘルシンキ協定を始めとする外交文書になる
と、キッシンジャーとの会話などが広範に黒塗りされていたり、文書自体が公開されていなかっ
たりで、多少苦戦した。比較検討のため、機会があれば東ヨーロッパ以外のデタント政策の文書
にも目を通したいと思った。それでも、当初予定していた史料は一通り収集できたように思える。
IFERI の現地調査後は、学会での別の研究内容の報告、授業の開始、また別の内容の学会報告
と、かなり忙しい日々を過ごすなか、少しずつ文書を整理している。夏季休暇中に、1976 年ディ
ベートの研究を論文の形にまとめ、紀要や学術雑誌に投稿しようと考えている。また、近年度 11
月には東ヨーロッパで行われる IFRERI の学生会議に参加することになっている。各候補、メデ
ィア、民族グループが語る 1976 年東ヨーロッパを念頭に、新しい東ヨーロッパを目にしながら、
実際に議論をかわせることを楽しみにしている。
参考資料等
Berquist, Goodwin. 1976 Presidential Debate. Robert Friedenberg V. ed. Rhetorical Studies of National
Political Debate 1960-1988. Westport: Praeger, 1994
Dobriansky, Lev E. “The Unforgettable Ford Gaffe.” Ukrainian Quarterly, 3 (1977), pp. 366-377.
Korey, William. The Promise We Keep: Human Rights, The Helsinki Process, and American Foreign
Policy. New York: St. Martin’s Process: 1993.
Mastny, Vojtech. Helsinki, Human Rights, and European Securities: Analysis and Documentation. Durham,
NC: Duke University Press: 1985.
Ribuffo, Leo P. “Is Poland a Soviet Satellite?: Gerald Ford, the Sonnenfeldt Doctrines, and the Election of
1976.” Diplomatic History 14, no3: 385-4-3. 1990.
平成 19 年度現地調査報告
平成 19 年度現地調査報告
研究題目:現代沖縄におけるヒトとブタの身体(五感)を介した関係の断片化
(平成 20 年度題目変更:現代沖縄におけるヒトとブタの感覚(五感)を介し
た関係に関する文化人類学的研究-感覚知覚心理学の手法を取り入れて-)
第一期プログラム生 比嘉 理麻
本報告では、平成 19 年度に計 3 回にわたって実施した現地調査の目的と成果を記述す
る。
具体的な調査内容に言及する前に、現地調査全体を貫く研究目的を記しておくことにす
る。本研究は、人文社会科学全般において軽視されてきた「感覚」を主題に据え、文化人
類学(とくに、
〈感覚の人類学〉
)と感覚知覚心理学の手法を組み合わせ、現代沖縄におけ
るヒトとブタの関係を捉えることを目的とする。主に、ヒトとブタの関係構築において、
感覚が重要な媒体であること、ヒトとブタの関係構築の場が、自家生産・自家消費を中心
とする村落生活から、生産と流通に従事する「専門家」と消費に限定された「一般消費者」
という分業体制を基盤とする商品経済へ移行したことに着目する。
①2007 年 12 月 20 日~2008 年 1 月 8 日
まず、1 回目の調査は、豚肉の大量消費が顕著となる新暦正月の時期に行なった。主に、
シシマチと呼ばれる肉市場を対象とし、豚肉類の売買過程における身体・感覚の媒介性に
焦点をあて、参与観察を行なった。具体的には、売り手と買い手の会話(ことば)や身体
動作に着目し、商品を特定し、品質を吟味する際に、どの感覚器官を媒体としているのか、
どのような感覚情報(感覚によって特定され伝達される情報)が重要とされているのか、
を記録した。
②2008 年 1 月 24 日~2 月 3 日
2 回目の調査は、前回実施した新暦正月期の調査との対照性から、旧暦正月の時期に行
なった。前回と同様のシシマチを対象とし、旧暦正月期の消費行動パターンを抽出し、そ
の行動にみられる身体・感覚の媒介性に関する比較調査を行なった。前回同様、売り手と
買い手の会話(ことば)や身体動作に着目し、商品を特定し、品質を吟味する際に、どの
IFERIプログラム生
第一期生 比嘉理麻
1
平成 19 年度現地調査報告
感覚器官を媒体としているのか、どのような感覚情報(感覚によって特定され伝達される
情報)が重要とされているのか、を記録した。
③2008 年 3 月 8 日~同 24 日
3 回目の調査は、調査対象を生産と流通の現場に移し、実施した。生産は、沖縄本島北
部に位置する北部とんとん農場(仮名)を対象とし、流通は、同じく北部に位置する名護
食肉センターである。
まず、北部とんとん農場では、同農場の歴史、経営形態、業務内容、従業員数、所有品
種、施設規模・使用設備、販路、取引先などの基礎情報を収集した。その後、実際に作業
現場にて参与観察を行なった。農場の 1 日の作業リズムを把握する過程と並行して、ブタ
の種付けから出荷までの成長サイクル別の作業リズムの把握を目指した。主に、成長段階
別および豚舎別の作業を参与観察するなかで、各作業における従業員個々人の身体・感覚
の媒介性を観察した。また、各作業において使用される道具や機械は、従業員の身体・感
覚の使用にどのように影響するのか、あるいはどのような関係があるのかに着目した。
続いて、名護食肉センターでは、ブタの生体検査から屠殺・解体、枝肉検査を経て、出
荷されるまでの一連の作業に関する観察とインタビューを実施した。主に、一頭のブタが
徐々に〈肉〉となる作業過程において、作業レーンに配置される作業員・検査員が、どの
ような身体動作を行なっているのかを観察し、各作業における従業員個々人の身体・感覚
の媒介性についてインタビューを行なった。
計 3 回にわたる調査では、分業体制の敷かれた現在において、ブタの生産から消費まで
の一連の過程を把握することが目指された。主に、ブタの飼育、屠殺、商品化、売買の各
領域において、ヒトがいかに感覚を用い、ブタとの関係を形成しているのかに焦点をあて
た。
ヒトとブタの関係構築の場が各家庭の庭先から、
「産業」の領域に移行した現在の沖縄に
おいて、ヒトはブタといかなる関係を形成しているのであろうか。ヒトとブタの居住環境
を分離し、ブタを様々な段階において「管理」することによって、近代化は何を推し進め
てきたのであろうか。以上の問いを明らかにすることが本研究の目的である。
IFERIプログラム生
第一期生 比嘉理麻
2
ケアにおける病いの語り
Illness arratives in medical care
現代文化・公共政策専攻 2 年
IFERI 第一期生
林
優美子
1.論文概要
1980 年代後半から現在に至るまで、
「語り narrative」の重要性について焦点を当てる研究
はさまざまな分野で進められてきた。人間が行なう様々な行為や関係を「語り」や「物語」
という視点から捉えなおす「物語論的転回」以降、これまでも病いの物語的特徴に目を向
けた研究もなされてきている。今回、私はそれらの中でもとくに、語られたストーリーそ
のもののなか内包している語りのインタラクティヴな側面に焦点を当てながら、病いを語
るということが、患者自身にどのように作用するのか、また語ることで取り結ばれる他者
との関係について考察を行ないたい。
本論文のなかで「病いの語り」あるいは「語り」というときに意味する対象を確認して
おく。
「病いの語り」には、すでに完治し、そのときのことを闘病体験談として完結したス
トーリーとして語るものと、現在病いのただ中にいながらにして、自身が現在経験してい
る病いについて語るというものの、二種類が考えらるが、今回は、前者の語りは考慮に入
れず、後者の語りに焦点を当てることにする。
【論文構成】(予定)
序文
第一章 病む経験を物語化することの意味
第一節 世界の解体
1.1 主観的世界の解体
1.2 病むということの社会的文脈
第二節 物語化による世界の再構築
第二章 ストーリーの変容可能性
第一節 経験のプロット化
第二節 果てなきストーリー
第三節 事例検討:インフォームド・コンセント、余命告知などを予定
第三章 他の経験主体との遭遇
第一節 他者の視点の参入
第二節 事例検討:闘病記、他者に話した経験などを予定
第三節 語りの参加者という聴き手のあり方
終章
第一章では、病むという経験が、語りへと組成されていくプロセスを追いながら、病む
経験を物語化することの意味について考える。そのために、まず患者が病むという経験を
通してどのように生活世界の解体を経験するのかを追い、病むことが主観的世界にどのよ
うな影響を及ぼすのかを考察する。さらに、主観的世界の解体とともに、疾患への文化的
に付与された意味や偏見、他者からの評価、家族関係の変化、経済的問題など、病むとい
うことが社会的文脈においてどのような意味をもつのかを示していく予定である。そして、
一度解体した世界を新たに構築し直す際に、物語化することがなぜ必要になってくるのか
という点を明らかにする。
第二章では、「語り」の中に常に内在している、ストーリーの変容可能性という点につい
て考える。第一章において、一度解体してしまった世界を新たに構築し直す際に、物語化
がいかに重要な役割を果たしうるかを示したうえで、罹患したことで解体してしまった自
らの生活世界の再構築としての「プロット化」という活動に焦点を当てて考察する。そし
て、病いの語りが、常に別のストーリーへと変容していくことの可能性を内在させている
ということを示す。
第三章では、第二章のストーリーの変容可能性の考察を受け、その変容をもたらすきっ
かけとなる他の経験主体との遭遇と、それらの語りへの影響について考える。第二章で述
べるような病いの語りの特徴が、他の経験主体の視点の参入を許し、その他者の視点や他
者が患者に向けて発した言葉が、患者にどのように受容され、ストーリーの変容へと反映
されていくのかを理論的に追う。そして最後に、患者の病いの語りに触れることになる聴
き手のあり方について考える。
2.異分野融合型研究
本研究を行っていく上で、医療人類学、医療社会学、医療倫理学、臨床哲学の領域をま
たがった考察が必要であると考えている。というのも、医療現場は身体的痛みや苦悩が日
常的に存在する場であり、人間の経験する「痛み」や「苦悩」には自然科学的視点だけで
は扱いきれない問題が多分に含まれているからである。とりわけ、本研究には医療人類学、
医療社会学、臨床哲学、患者のエスノグラフィーを聞きとる上では人類学的手法が、また
病いの語りの分析や、ケアにおける病いの語りがもたらす倫理的な関係に関する考察には、
社会学的理論や哲学的視点による考察が有効であるというふうに考えている。現在、芸術
人類学、現代思想、社会学をそれぞれ専門とする主指導教員とアドバイザー教員の先生方
の授業や個別の面接指導を通して、それらの分野の視点を習得できる環境が整っている。
昨年度同様、今年度も引き続き、先生方の指導をいただいている。
3.IFERI からの支援
6 月 5 日から 11 日の間に立命館大学衣笠キャンパスで行われたアーサー・W・フランク
教授(カナダ/カルガリー大学社会学部)による集中授業および公開シンポジウム「物語・ト
ラウマ・倫理」に参加した。アーサー・W・フランクの著書 The Wounded Storyteller におい
て展開された病いの語りについての考察やフランスの哲学者E・レヴィナスの思想を取り
入れた病いが取り結ぶ倫理的関係に関する考察は、私自身の研究関心に大きな影響を与え
ている。今回、フランク教授の集中授業および公開シンポジウムに参加したことで、フラ
ンク教授の思想的展開を知ることができただけでなく、多くの点で、新たな着想につなが
る視点を得ることができた。この経験を通して得たものを、中間評価論文を執筆する上で、
大いに役立てていきたい。
IFERI 現地調査報告・合同研究会
現代文化・公共政策専攻 2 年、IFERI 1 期生
李炅澤(イ・ギョンテク)
研究テーマ:東アジアにおける孔子学院事業の比較研究
◎ 研究の概観
今年 4 月、韓国のあるメディアが、日本の対外文化政策担当機関である「国際交流基金」が中国に対
抗して、新しいブランドの下で対外言語普及事業を開始すると報じた1。この誤った報道に対して、国際
交流基金は、事実無根であるとホームページ上に掲載するなどの対応に迫られた2。直接に触れられてい
ないが、中国政府が展開している「孔子学院」という対外言語普及事業を念頭に置いた報道であり、そ
の事業をめぐって奔走している両国の姿が表れた出来事であった。このことは、東アジアにおける対外
言語普及事業の影響力・敏感さを如実に物語っている。
本研究は、ソフト・パワー3ということばで、一概に説明されてしまう対外文化政策について、相手を
引き寄せる力(ソフト・パワー)だけではなく、国際公共財とも言える相互理解のための方法、正しい
異文化理解の方法としての役割検証を目的とする。そのために、上記のように対外文化政策の重要な手
段である対外言語普及事業を検証対象として選択し、その中でも、従来とは異なる体制で運営される「孔
子学院」という対外言語普及事業の実施機関を対象として分析を行う。
「孔子学院」とは、2004 年度より開始された中国政府公認の対外言語普及事業の実施機関であり、そ
の展開規模は、現在全世界に 200 箇所以上の海外拠点を有していると言われている4。この研究では、そ
の「孔子学院」の形態・財政・理念・教育内容などをインタビュー調査及び資料を通して、分析を行う。
その分析に基づき、孔子学院の事業を、財政的な面・形態的な面において、対外文化政策を実施する他
の機関と対照し、望ましい対外文化政策のシステムを提示したい。
◎ 現地調査の進捗状況
今年 1 月に、日本の 3 箇所の孔子学院(立命館大学、愛知大学、大阪産業大学)でのインタビュー調
査、2 月には、韓国の 3 箇所の孔子学院(ソウル孔子アカデミー、東亜大学、東西大学)でのインタビュ
ー調査、そして、3 月には中国の孔子学院本部(北京漢弁)と中国の大学での調査を行った。
今年度は、対象地域を日本に限定して、サンプル数を増やすために再び 3 箇所の孔子学院(北陸大学、
札幌大学、工学院大学-7、8 月予定)でのインタビュー調査を計画している。
1
2
3
4
http://pdf.joins.com/index.asp?paper=joongang&nPage=2&s_year=2008&s_month=04&s_day=28、2008年4月28日
ウェブ版韓国中央日報JOINS。
http://www.jpf.go.jp/j/about/opinion/dl/korea080428.pdf、2008年5月1日 国際交流基金ホームページ掲載。
Joseph S. Nye, Jr(2004)『Soft Power : the means to success in world politics』
http://www.hanban.org/cn_hanban/kzxy_list.php?ithd=gzky、2008年6月現在
◎
現地調査からわかった孔子学院事業の特徴
1)
「孔子」というブランド構築‐「孔子」の復活とそのネーム・バリュー
;フランチャイズ(franchise)展開を成功可能にさせるブランドの存在
孔子学院の場合、そのブランドとして「孔子(Confucius)」という名称を冠している。中国政府が
この名称を選んだ主要な理由は、全世界に広く知られた、名高い中国人であることであった。しか
も、学者の名前であるから政治的な色合いも薄く、古き良き中国のイメージを印象づけることがで
きる、最適なネームと考えられる。
ブランドとは、一般的にマーケティングで使われる用語であり、商品に付加価値を与え、さらに
それを高める役割を果たすものといわれている。ブランド要素の機能について、様々な分類の中か
ら、基本的な機能として、
「所有者表示機能」
「品質保証機能」
「宣伝広告機能」が挙げられる5。その
基本機能から考えたとき、
「孔子」というブランドは、他言語教育機関と差別化をはかることのでき
る斬新さ、中国政府公認の言語教育機関という信頼、そして中国のイメージに親近感を感じさせる
適切な役割を果たしていると考えられる。但し、ブランド構築での問題は、構築されつつあるブラ
ンドが、どれ程の期間でそのブランド価値が高められるのか、という点にある。孔子学院の場合は、
4 年間で 200 箇所という展開自体が、短期間にブランド価値を向上させた証拠とも言える。しかし、
短期間での拡張というのは、ブランドイメージの構築からは確かに良い展開であると考えられるが、
扱う商品(中国語)が長期間の学習という特殊な性質を持っていることで、短期間で高まったブラ
ンド価値を長期間にわたって維持・安定させることがより重要なポイントになってくると考えられ
る。ブランドは諸刃の剣とも言われているように6、孔子学院においても、そのブランドの維持・管
理・安定化が今後の課題になると考えられる。
2)形態的な特徴-フランチャイズ(franchise)展開
孔子学院は、既存の政府支援の対外言語普及期間とは異なり、政府が全額ではなく一部を負担す
る方式で展開している。本稿では、その特徴的な展開方式が、マクドナルドなどのフランチャイズ
展開に対応するものと認識し、直営に対するフランチャイズ・システムと呼ぶ。
フランチャイズ・システムの種類は、ⅰ)商標フランチャイズ、ⅱ)製造フランチャイズ、ⅲ)ビジ
ネス・フォーマット型フランチャイズ、の大きく 3 種類に分けられるが、日本では、一般的にフラ
ンチャイズ・システムと言えば、ビジネス・フォーマット型フランチャイズを意味する。それには
チェイン・レストランやコンビニエンス・ストアなどが含まれる7。
上記の分類を念頭に置き、先ず、一般のフランチャイズ・システムと孔子学院の共通点を考えて
みる。ⅰ) ブランド(商標)の付与が考えられる。つまり、「孔子」というブランドを与えることで、
フランチャイズとしての統一感と信頼感を与え、付与者・使用者共に、ブランドの価値向上によっ
て利益を得る構造になっている。そして、実施母体として現地大学をパートナーにすることは、最
小の費用と最短の期間で、最適な学習環境が整えられるという合理的な判断である。ⅱ)地域割当、
つまり立地管理が行われることが挙げられる。地域割当とは、学習者という需要管理のために、同
5
6
7
小川孔輔(2001)『よくわかるブランド戦略』pp.14~15.
東英弥(2005)『ブランドと広告ビジネス』p.4.
小塚荘一郎(2006)『フランチャイズ契約論』p.6.
一地域で重複して投資しないことを意味する。この特徴からは教育産業の側面が見られ、利益の追
求が根本にある。それは孔子学院が主に私立大学と連携していることからも理解できる。
次に、一般のフランチャイズ・システムと異なる孔子学院の特徴を考えてみる。ⅰ)一般のフラン
チャイズ・システムでは、ブランドを使用する側(フランチャイジー)がブランドを与える側(フ
ランチャイザー)に対して初期のサービス提供などに対する礼金を支払うが、孔子学院の場合は、
ブランドを与える側がブランドを使用する側に初期費用を与えること、ⅱ)ブランドを使用する側は、
使用の代価としてのローヤルティを支払わないこと8、といった一般のフランチャイズ・システムと
は異なる性質を持っている。
孔子学院は、本部が、商標・
(教師)訓練・立地選択・管理支援・広告などの殆どを管理するシス
テム構造であり9、大学各自の運営も本部との協議を基本とし、教材などの統一も議論され始めてい
る10。このような特徴からは、中央本部からの影響力拡大の動きが読み取れ、商標(ブランド)フラ
ンチャイズから、ビジネス・フォーマット型フランチャイズへの転換、ないし、発展が現実化され
つつある段階と考えられる。
3)
「孔子学院」をめぐる 3 つのアクターの存在
;特徴 1)2)による出現
ⅰ.中国本土の大学
-「孔子学院」の原型を最初に作り出した側。中国政府の支援を受ける側。
ⅱ.中国政府
-「孔子学院」の存在を外交手段として、若しくはパイプラインの維持として考える側
ⅲ.日本の私立大学
-「孔子学院」のブランドで、大学価値の向上を狙う側
上記以外の存在として、ⅳ)日本の政府、ⅴ)現地地域コミュニティー、などが考えられるが、現在、
孔子学院に影響力が行使できる主要なアクターとして、
上記の 3 つのアクターに限定して分析を行う。
◎ 孔子学院をめぐる 3 つのアクター構造
母国
中国政
府関係
◎ 既存の対外言語普及機関の構造
中国の
孔子
学院
日本の
大学
大学
外交部門
言語普
及機関
大学
現地
大学
出所-孔子学院関係者とのインタビュー
トーマス・S.ディッキー(2002)『フランチャイジング』(河野昭三, 小嶌正稔訳) p.272.
10 出所-孔子学院関係者とのインタビュー
8
9
2007 年度 現地調査報告
IFERI 第 1 期生 歴史・人類学専攻 飯野知宏
【問題意識】
中間評価論文に向けた問題関心として、歴史学と国際政治経済学の視点を融合させた、人
間活動におけるマクロとミクロの両側面から考察を目指している。
人間が生きる「場」のありようを明らかにすることが究極的なテーマであるが、現在によ
り近接した時期・対象として、 1950~60 年代の台湾における社会建設活動と地域社会の変
容に注目する。
第二次世界大戦後に中華民国政府が実施した近代化政策の中でも、当時の国際情勢の下
でアメリカからの経済支援を活用して行われた活動は、経済的成長を遂げた現在の台湾社
会とも直接的な関係性を有している。そこで、アメリカから人材・資金面の協力を受けてい
た「中国農村復興連合委員会」の事業に注目し、戦後台湾の出発点となるこの時期を国際情
勢の次元から考察を加えることとした。さらに同会を通じて実施された政策のうち、「基層
民生建設運動」とそれに伴う地域社会の変容から、中華民国政府による基層社会の把握・管
理を明らかにする。
政策的視点を上部構造、地域変容を下部構造と位置づけ、両者の関連性を有機的に関連さ
せた分析を目指している。実証的な考察対象として現地調査を実施した台湾の宜蘭県礁渓
郷は、同会によって台湾全土で行われた「基層民生建設運動」の初年度実験区である。
【現地調査の目的・日程】
今回の現地調査はこのような問題関心にもとづいて実施し、その目的の一つが、中華民国
行政文書の閲覧・収集であった。これは、一次史料を重要視する歴史学の手法を踏まえて政
策実施側の意図と受容側の反応を双方向から把握することを目的としていた。
もう一つの目的が、対象地域における住民への聞き取り調査である。これは、政策に伴う
地域社会の変化を、受容側の視点を中心として把握するために行った。行政文書から見えて
くる政策実施側の狙いと、聞き取りによって明らかになった受容側の認識を相互対照させ、
実態に近づこうとする試みである。
■2008 年 2 月 24 日~3 月 22 日の期間、台湾での現地調査を行った。
~
■2.24(日):平日は 9~17 時まで国史館にて政府史料を閲覧・コピー
主に、中国農村復興連合委員会が宜蘭県で行った事業について検索
3.8(土) 平日の 18 時~21 時は国家図書館にて 1950~60 年代の新聞(中央・地方版)
を閲覧、デジタル化されているものから検索・収集
■3.5(水):中央研究院台湾史研究所の 林玉茹先生を訪問、事前に提出したレジュメへの
1
アドバイスと論文集をいただく
訪問学人の身分申請をする際に、御協力いただける旨の了承をいただく
■3.10(月):宜蘭県礁渓郷の郷公所を訪問、秘書長を通じて文書庫内史料の閲覧・収集を
依頼
~
■3.11(火):宜蘭県政府文化中心図書館にて現地史料収集
宜蘭県政府県史館にて宜蘭県に関する新聞記事を 1950~1960 年代の範囲に
3.13(水) 絞って検索・収集
■3.14(金):礁渓郷玉石村元村長 C 氏を訪問、戦後の礁渓郷玉石村の変化に関し聞き取
り
礁渓郷農会を訪問、
「基層民生建設運動」に関与した元農会幹部を紹介しても
らう
■3.15(土):元農会幹部 A 氏を訪問、戦後の礁渓郷の変化・「基層民生建設運動」・農民
活動中心を軸に聞き取り
■3.17(月):元農会幹部 B 氏を訪問、戦後の礁渓郷の変化・「基層民生建設運動」・農民
活動中心を軸に聞き取り
■3.18(火):元幹部 A 氏を再訪問、戦後の玉石村の変化について、
「基層民生建設運動」か
ら 1970 年代以降に質問枠を拡げて聞き取り
【成果と展望】
今回の現地調査・史料収集では、文書史料の閲覧収集後に、調査対象地での聞き取り調査
を実施した。伝統的農村が近代化していく過程を、農村建設事業の被対象者である現地住民
から口述・現地資料の提供を受け、当時の状況に迫ることを試みた。
現地の役場・農会という地域社会と政治を結ぶ機関、そして現地住民との人脈を形成で
きたことが、成果の1つに挙げられる。調査の意図を説明し、聞き取りに応じてもらえたほ
か、次回以降の調査についても協力を得られる体制を構築している。
夏季休業時に予定している 2 度目の現地調査では、調査地滞在日数を最大限確保し、聞き
取り対象者の範囲を拡大し、調査テーマと質をより充実させた調査を実施する。具体的には
「伝統的な祭祀領域と新たに設定された政治領域」・「有力血縁集団と新たな政治的人脈」な
どの問題設定をしている。
今回の現地調査は住民への聞き取りなど、地域を特定した非常にミクロで限定的なもの
を行った一方で、台湾をめぐる国際情勢の政策的反映を追うべく行政文書の収集も行った。
このような地域社会・コミュニティレベルでのミクロな変化を、それが生じた時代の国
内政策・国際情勢などのマクロな次元における構造と関連させて考察を進めることを、よ
り一層意識的に行う必要性があると考えている。
2
【資料編】
参考地図:交通部台灣鐵路管理局編『台灣鐵路年鑑(2001 年)』7 頁 交通部台灣鐵路管理局
2002 年をもとに筆者作成
【聞き取りの一部】
[元農会幹部 A 氏への聞き取り]
Q.戦後にどのような機会で国語(中華民国
語)を学びましたか。成人向けの補習班
などには参加されましたか。
A.「民衆補習班」で国語を勉強した。
Q.国語を学んだのは、どのような理由から
ですか。
A.自分の子供が何を勉強しているのか分か
る必要がある。子供の教育のためだ。
台湾語で会話するが、学校では国語、書類
も国語だ。国語が分からないと書いてあ
ること、子供が何を勉強しているか分か
らない。
[元農会幹部 B 氏への聞き取り]
Q.戦後に日本語が使えなくなりましたが、
国語(中華民国語)を勉強されましたか。
A.貴方が今言った「国語」は日本語か、中国
の言葉か、どちらを指すのか。中国の言葉
なら、勉強していない。
Q.玉石村に託児所・農民活動中心が戦後作
られたと思いますが、そこで国語の補習
があったのは覚えてらっしゃいますか。
(これらは、「基層民生建設運動」の項目)
A.活動中心は、老人館だ。選挙の時に投票所
に行くくらいだ。
国語の学校があるのは知っていたが、行
かなかった。あれは自由だ。子供は行かな
かったし、成人は農業で忙しかった。
3
研究構想報告
「自殺総合対策におけるインターネット利用の研究(仮)」
人文社会科学研究科 現代文化公共政策専攻 情報伝達・メディア論分野 二年次
松枝 世
1.
序論
【研究の背景】
本研究は「インターネットを介した CMC (= Computer-Mediated Communication) は自殺を助長してい
る反面、多くの自殺企図者を救っているのではないか?」という問題設定から出発する。これは自殺勧誘
サイトや心中掲示板などが社会問題として取沙汰され、自殺総合対策上有効な手段としての戦略的イン
ターネット利用の可能性の研究は未だ手つかずのままである現状への疑問でもある。即ち、web2.0 時代
を迎えて久しいインターネットには従来のメディアでは試みがなされてこなかった自殺対策の二領域(事
前予防・危機対応)に踏み込み、自殺予防に寄与出来る可能性があるメディアであると考えるものである。
(図 1)
図 1:自殺対策の3つの段階
Prevention
事前予防
Intervention
危機対応
WHO自殺報道
ガイドラインなど
インターネット利用
による自殺対策
Postvention
事後対応
自死遺族
支援団体など
【研究の意義】
第一に、自殺対策が現在進行形の社会的課題であり急迫性が極めて高いこと。第二に、現在の自殺
総合対策には政策立案に有効なコミュニケーション学・メディア論的視点が欠如していること。そして第三
に IFERI のサポートにより自殺総合対策に求められる各専門領域を横断する包括的研究が可能となるこ
とで実証的なデータに裏打ちされた自殺問題に関わるインターネット利用の問題発見が促されること。ま
た、自殺総合対策における「事前予防」と「危機対応」へのメディア利用の重要性の喚起に努めると共に、
自殺総合対策の一助とすることも期待される。
2.
日本の自殺対策
1998 年に自殺者数が 3 万人を超して以来、10 年間高止まりし続けている状況に直面している今、自殺
を個人的行為とだけ位置づけることが難しくなって来た。『自殺論』において自殺を「社会的イベント」とし
て捉えることでその社会を浮き彫りにしたデュルケムの手法になぞらえるのであれば、現代日本は「生き
づらさ」を訴えている社会である、と言えるだろう。そうした時勢を反映し 2006 年 6 月に制定、同年 10 月よ
り施行された「自殺対策基本法」においては、従来重視されて来た精神保健的な視点だけでなく、社会・
経済的な視点も含めた包括的な取組が総合的に行われる必要性が強調されている。いわば、ミクロ偏重
であった自殺対策にマクロな視点を持ち込むことで社会の問題として捉えようとするパラダイムシフトであ
った。
自殺総合対策の文脈においてメディアの役割が問われるようになったことは既述の通りである。
それはインターネットも同様であり、自殺対策の啓発・周知活動においても今や欠かせない情報発信
源として機能している。一方で未だ心中掲示板や自殺勧誘サイトなどの有害情報源などが問題視され、
自殺総合対策上有効な手段としての戦略的インターネット利用の可能性の研究は未だ手つかずのまま
である。しかし、インターネット、とりわけ CMC には従来のメディアでは不可能だった自殺予防の可能性
があると考える。なぜならば、自殺サイトなどに代表される CMC でのやりとりは、自殺願望の吐露という至
極個人的かつ主観的な行為がある一方で、それらが誰かに見られていることを前提とし、社会的インパク
トが発生することを期待するという至極客観的なコミュニケーションでもあるからだ。こうした両面性が端的
に現われる場として CMC を観察することは、極端なミクロ/マクロ視点に陥ること無く、現代日本の自殺
問題をひも解くとき、非常に有意義であると考える。
3.
インターネットと自殺
【インターネットと自殺の関係】
インターネットが自殺と結びつけられ語られるようになった契機は、1998 年 12 月に起きた「ドクター・キリ
コ」事件1である。その後の 2000 年 11 月に起きた日本初の「ネット心中」事件2が大きなセンセーショナルと
共に報道され、2003 年 2 月頃からより複数の人々がインターネットを介して知り合い、一緒に自殺する事
件の報道が相次いだ。一連の「ネット心中」の群発はインターネットが引き金になってはいるものの、一般
のマスメディアの報道姿勢も大きな役割を果たしたと指摘されている(高橋, 1998;2006a;2006b)。所謂「ウ
ェルテル効果3」によって自殺手段が模倣され連鎖的に発生することから、WHO は「自殺報道に関するガ
イドライン4」を策定し、自殺予防につながる報道姿勢の徹底を訴えている。
実質的に自殺を奨励するようなサイトをすべて規制することは不可能であるが、現在行われているイン
ターネット上の自殺予防の取り組みは、情報そのものをコントロールするタイプと、情報システムなどの技
術的なタイプの2つに大別できる。しかしながら、こうした法整備5による情報コントロールや情報システム
による技術的アプローチには限界があり、なおかつ現実(イタチゴッコ)と規範(「表現の自由」)双方の問
題を抱えてしまう傾向にある。
【インターネットと若者の自殺】
内閣府の自殺対策に関する意識調査(2008)6によれば、所謂自殺サイトの利用者7の大半は 20 歳代の
若者である。彼らはネット上で「知り合いには話せないことを話す」ことや「みんなの前ではできない話をす
る」ことで、「あるコミュニケーションによって別のコミュニケーションを補完する」ことを求めるため、自殺サ
イトや2ちゃんねるにおける活発な自殺願望の吐露に繋がる、と指摘されており(渋井, 2004)、CMC がも
たらしたポジティブな側面であると言える。
一方で、ネット上でのコミュニケーションでは「顔が見えない」ゆえに相手を理想化し、過剰な親密感を
1 札幌市在住の 27 歳の男性が「安楽死狂会」のホームページ上に「ドクター・キリコの診察室」なる掲示板を設け、そこで知り合った東京
都内在住の 24 歳の女性に青酸カリを売り、その女性が服用して自殺。これを受け警察が毒物販売者特定の捜査に乗り出したため、男性
も自殺した事件。
2
福井県の 46 歳の男性と愛知県の 25 歳の女性が自殺サイトで知り合い、一緒に自殺した事件。
3主人公が銃を用いて自殺する「若きウェルテルの悩み」の発表後、ヨーロッパ各地で主人公の服装を真似て銃によって自殺する若者が
相次いだことから。群発自殺を「ウェルテル現象」と呼ぶ社会学者もいる。
4 「自殺を予防する自殺事例報道のあり方について」の WHO の勧告(2000)において「やるべきこと」として「自殺に代わる手段を強調す
る」、「ヘルプラインや地域の支援機関を紹介する」、「自殺が未遂に終わった場合の身体的ダメージ(脳障害、麻痺等)について記述す
る」とし、「避けるべきこと」として「写真や遺書を公表しない」、「使用された自殺手段の詳細を報道しない」、「自殺の理由を単純化して報
道しない」、「自殺の美化やセンセーショナルな報道を避ける」、「宗教的、文化的固定概念を用いて報道しない」としている。
5日本での自殺サイト関連の事件発生を受けてオーストラリアでは 2005 年に自殺サイト管理者を対象とした罰金刑(最高 4500 万円)が制
定された。
6
自殺に対する国民の意識や自殺サイトへの接触などの実態を把握し,今後の施策の参考とすることを目的に、内閣府自殺対策推進室
によって 2008 年 5 月に実施された調査。
7渋井(2004)は、技術的、心理的、物理的障壁により周囲の人間に気持ちを伝えることができない「生きづらさ」系の人々はインターネット
に「人間関係の選び直し」の可能性を見ていると指摘する。
抱く傾向があり、心理的な距離の近さと物理的な距離の遠さというミスマッチを埋めるために心中掲示板
などを介して直接会う(オフ会)という選択に繋がり易いことも指摘されている(渋井, 2004)。これは同じ悩
みを持つ友人が出来る可能性がある反面、ネット心中の危険性を孕んでいることも確かであり、「インター
ネット=悪」というネガティブな図式を作り出す根源となっている。
インターネットを介した CMC が、人々を実際の自殺行動に走らせていることは事実である。これは、自
殺サイトが自殺企図者の自殺願望という意識をある種アクティブにするような触媒のような働きをしている
だけではなく、差し迫った自殺願望を持たない人の意識に作用し、巻き込むほどの影響力を持つことを
暗示している。言わば自殺願望は「感染」するものであり(渋井, 2004)、CMC にはその「感染」を加速させ
る働きがあるのではないかと考える。
一例として、自殺サイトなどでは自殺願望を吐露することで「自分の物語」を提示し、同じく自殺願望を
持つフェローによって行われる一種の物語の「読み替え」がある。これは権威である精神科医には求める
ことが出来ないもので「ヨコのつながり」が生んだ体験談の交換であると言える。この交換を通して「受け入
れられた!」という実感を得ることで精神的充足につながり癒される一方、「自分の物語」が自殺既遂者た
ちのドミナントストーリーに収斂された場合には強烈な自殺願望の加速につながるという二重構造がある
ように思われる。
4.
論文の構成
本論文においては、自殺対策の文脈(とりわけネット心中)においてインターネットを単純に悪者扱いす
ることは得策ではないとの立場から、自殺予防につながるコミュニケーションの場としての CMC の機能に
着眼し、そのあり方についての考察を重ねる。
本論文では、所謂「自殺サイト」における書き込みを、専用プログラムを用いて時系列的に収集したもの
や、「2ちゃんねる」の関連スレッドなどの過去ログなどを一次資料として扱う。併せて「自殺サイト」に関す
る若者の意識を明らかにするためにアンケート調査を実施する。
方法は、収集した一次資料の形態素解析を通した自殺願望を持つネットユーザーのコミュニケーション
の実態把握と並行してデータマイニングを行い、アンケート調査の結果との比較などを通して「自殺サイ
ト」に共感を覚える人々が共有するコミュニケーション、自己承認などの類型や位置づけなどを明らかに
することで CMC が持つ意識への作用の構造とその影響力を観察し、その問題発見に努めたい。他方、
実際に地域ネットワーク作りに従事されている精神科医に外部アドバイザーになって頂くことで、精神医
療や公衆衛生の分野の知見も十分に参考とする。逆説的ではあるが、自殺予防の地域のネットワークで
カバーしきれない対象者を把握することでインターネット利用の可能性があぶり出されて来るからである。
以上の方法により異分野融合プログラムの特性を生かした形の研究を進めたい。
5.
研究の展望
自殺関連サイト・ブログ・SNS の言説分析、自殺企図者のエスノグラフィー調査、自殺企図者とエンドユ
ーザーの調査などを通して、日本における自殺とインターネットの関係性を観察し、将来的にそこで得ら
れた知見を反映させた自殺対策ウェブサイトの管理・運営を想定している。
「自殺サイト」などにみられるインターネット利用の社会学的考察、インターネットを利用する自殺企図者
たちの社会心理学的考察、自殺対策に有効なネットワークデザインの情報システム的考察などを経た自
殺総合対策における有効なインターネット利用のガイドラインの提案を最終目標とする。
「首長族観光研究―北部タイにおける難民カヤンの文化表象―」
現地調査報告
筑波大学大学院
地域研究研究科東南アジアコース
齊藤和美
調査地:タイ北部 メーソート→メーホンソーン→チェンラーイ
調査対象:山地民カヤン(首長族)
調査期間:2008 年3月 10 日~24 日
これは IFERI 後援によって実現した、2008 年3月のタイ北部におけるフィー
ルド・ワークの報告である。本調査は、単独行2週間の日程で、調査地は北部山
地の3地点―メーソート、メーホンソーン、そしてチェンラーイ―を計画した。
今回の調査対象は、ミャンマーからタイ領北部へ流入して点在する赤カレン系
の「カヤン」である。調査手法は、彼らのタイにおける「エスノスケープ(民族
風景)」の実態を参与観察によって概観し、併せてアンケートとインタビューか
ら表象される移動民族の動態、越境後の意識変革や文化変容を図るデータを得
ることを主な目的に考えた。
カレン難民に属するカヤンは、日本のドキュメンタリー番組では度々「首長
族」と紹介され、ガイドブックの類には「パドーン」という呼称で説明がされ
ている。しかし、この民族に関して詳細に記述された民族誌はまったく見受け
られず、カヤンと自称することすら知られていない。断片的に扱った学者の論
稿は見受けられるが、ドキュメンタリー番組と変わらない、誤解に満ちた噂話
の域を出ないものである。恐らくは、特異な風貌に興味を惹きつけられても、
言語の壁や難民という立場が障害となり、充分な咀嚼がされなかったものと推
測される。このことからカヤンを研究対象に選び、これまでの学説を検証する
に至った。フィールド・ワークは本研究の基礎になるため、今回の派遣とそこで
得たデータは重要なものである。
今回の派遣は3月 27 日に帰国するまでの間、タイでの滞在は100日に及び、
フィールド・ワーク以外に以下の用件を兼ねていた。
(1)国際協力としての日本語講師インターンシップ
(2)派遣先でのタイ語学習
(3)国際学会参加
2ヶ月間、国立カセーサート大学付属中高校ではタイ語で日本語を教えるこ
とになり、先方の配慮もあって、主に「日本文化」の授業を行った。大学構内
の環境にも恵まれ、図書館の利用やタイ語授業などの便宜を図って頂き、タイ
語レベルの向上を果たすことができた。特に諸先生方に各方面から取り寄せて
頂いたタイ語文献や資料類は、今後の研究に大きく資するものと思われる。
また、1月9日から3日間、国立タンマサート大学で国際タイ学会が開催さ
れ、日本側からは若手の研究者4名が発表を行った。第 10 回記念大会というこ
とでタイ皇族が来賓として招かれ、学会というよりある種お祭のような盛大な
催しとなった。カセーサートでの勤務が重なったため、初日の午前しか参加す
ることが出来なかったのはたいへん残念だったが、次回には発表者として参加
したいと考えている。
フィールド・ワーク実施のため、バンコクの北バス・ターミナルを出発したの
が3月 10 日。まず、長距離夜行バスでメーソートへ向かった。この地での目的
はカレン系難民キャンプを訪問することにあった。早朝5時に到着し、仮眠後、
違法越境者らが収監されている拘留所を見学。この施設は警察署外に設置され、
朝昼晩の食事時には関係者が食事の差し入れに訪れていた。翌日、ソーンテー
オと呼ばれるピックアップ・トラックの不安定な荷台に山地民と共に乗り込み、
メーサリアンへ。途中、タイ-ミャンマー国境沿いに敷設された巨大な難民キ
ャンプを訪問。私見であるが、数万人に及ぶ集落の衛生環境は必ずしも万全で
はなく、教育問題や帰還問題も棚上げされた様に見受けられた。横向きの荷台
に耐えること6時間、ようやくメーサリアンに到着。ここでバスに乗り換え、
さらに山間道を4時間かけ、メーホンソーンへと向かった。メーホンソーンは
タイ国内において観光地として名高い北部地域だが、飛行機を除くと交通の便
はよくない。亜熱帯気候でありながらも標高が高いため、朝晩の寒暖の差が激
しい場所である。
到着すると予約していたホテルに投宿し、ここを調査の拠点に定めた。通常、
人類学的調査の場合、調査対象の民族の村落に宿泊先を見つけるのが常套手段
とされているが、調査対象のカヤンは難民であり、彼らの居住区域は難民保護
地域とされており、外部者が宿泊することは違法行為に当たるため、利便性か
らも市内中心部のホテルに居を定めた。翌日からは県立の小さな図書館で資料
を探したり、タイ内務省や文化省からデータを頂いたりして調査案の修正を施
し、完成した原稿をホテルに程近い印刷所に持ち込んで、格安に大量の調査票
を作ってもらった。しかし、準備期間に3日を要したのは想定外で、時間の猶
予がなく、至急S村現地に乗り込むことにした。この村落はメーホンソーンか
ら至近で、バイクであれば 30 分程の距離の山中にある。この村では友人のNさ
んの協力を得て、目標のサンプル数を比較的容易く獲得することが出来た。次
の日に向かったのがN村で、この場所へはバイクで崖を上ったり降りたりする
悪路で、所要時間に1時間はかかる難所である。ここではCさんとその仲間を
中心に調査を進めたが、中高校があるためか、サンプルの平均年齢が若い方へ
偏ってしまった。その翌日は、船でしか行くことが出来ないP村へ向かった。
ひとりで一艘のロングテール・ボートを船着場でチャーターし、パーイ河をミャ
ンマー国境方面へ30分ほど進むとP村に到着した。この村ではサンプル数が
目標には達しなかったが、予想していなかったデータを得たのがなによりの成
果だと思う。その後のメーホンソーン滞在ではアポイントメントを取ってあっ
た UNHCR(国連難民高等弁務官)メーホンソーン事務所にお邪魔をし、F氏から
貴重な情報とデータを頂戴した。また、難民を扱う作業にはデリケートな配慮
と、強靭な体力を必要とすることを UNHCR から学ばせて頂くことも出来た。
メーホンソーンでの作業を終え、次にチェンラーイへと移動。再び「いろは
坂」のような道程をバスで進み、6時間かけチェンマイへ。チェンマイのバス・
アーケードで乗り換え、さらに3時間かけてチェンラーイに到着。チェンラー
イでの調査目的はインタビューだけではなく、中心部にある NGO 経営の山岳民
族博物館と、近年比較的新しく建設された民族観光村を訪れることだった。山
岳民族博物館では山地民文化に関する概論を解説して頂き、民族観光村では近
年出稼ぎに来たカヤンにインタビューを行い、メーホンソーンとは異なる興味
深い特徴と越境の裏づけを得ることが出来た。
一連の行程を終え、バンコクに戻ったのが3月 25 日。こうしてタイでの滞在
と目的をすべて果たすことが出来た。
およそ2週間かけたフィールド・ワークだったが、振り返ってみると経験不
足ゆえに非効率的であったり、持ち帰った資料に不足があったりと、反省すべ
き点が多くある。しかしながら、調査上や移動の過程で事故や病気に煩わされ
なかったことは幸いだった。
今回、駆け出しの研究者として、カヤン村落のフィールドに立てたことを嬉
しく思っている。久しぶりのカヤンは、人権擁護者が唱えるネガティヴな議論
とは裏腹に、相変わらずの陽気さで出迎えてくれた。調査の最中でお世話にな
ったメーホンソーンの人々、そしてなによりもカヤンの皆さんには感謝の言葉
もない。今夏も村落にうかがって調査を行いたいと考えている。
なお、今回の調査で得たデータは、仮説を検証し、本格的なカヤン研究を可
能にするものであると確信している。調査の成果を公表するため、現在、学会
発表を準備中である。
以上
IFERI 海外リサーチ報告書
西部とアフリカを
西部とアフリカを巡
とアフリカを巡るインターフェイス
―進歩主義時代に
進歩主義時代に製作された
製作されたアメリカ
されたアメリカ映画
アメリカ映画を
映画を中心にー
中心にー
人文社会科学研究科 文芸・言語 2年次 長谷川詩織
1.アーカイヴ調査
アーカイヴ調査場所
調査場所
実施場所:Margaret Herrick Library(Beverly Hills, California)
実施期間:2008 年 2 月 17 日~22 日
調査資料:William Selig Special Collection,William Selig Core Collection
2.アーカイヴ調査目的
アーカイヴ調査目的
20 世紀初頭、帝国主義時代のアメリカ合衆国における政治政策の正当性を歴史化する試みのなかで、
〈西部〉と〈アフリカ〉が、どのように意味づけされていったのか?
① 政治的言説 Theodore Roosevelt
② 小説 Edgar Rice Burroughs
③ 映画(今回のリサーチ重点領域)
3.アーカイヴ調査
アーカイヴ調査内容
調査内容
Selig Company によって 1911 年から 14 年にかけて製作された〈アフリカン・ジャングル・シリーズ〉を重点的
に調査。
Ⅰ.William Selig Special Collection
出版物:フライヤー・業界紙・ポスター
非出版物:手書きのコンティニュイティ・原稿・メモ・手紙
Ⅱ.William Selig Core Collection
Paste-pot and shears: Selig weekly press news [1915-1917] マイクロフィルム
Selig release herald [1914-1915] マイクロフィルム
William Selig Special Collection, Photocopy Request Date(リサーチの一部・報告者が作成)
FILE
FILE NAME / DESCRIPTION
73
In turn with the wild
258
★Hunting Big Game in Africa
DATE
ITEM DESCRIPTION
PAGES
Synopsis by E.A.martin
9
Scenario by W.C.Clifton
1909
Handwritten cutting continuity
6
Handwritten titles
262
In Old Arizona
1909
Handwritten cutting continuity
3
332
★ On the little big horn or
1909
Handwritten cutting continuity
14
435
Custer’s last stand
Letters from Mrs.Custer (?)
Credit (H-O)
Cutting script
“Hearts of the Jungle”
1
IFERI 海外リサーチ報告書
Edgar Rice Burroughs “Ben, King
16
437
Story Material
1914(?)
454
Correspondence (Authers)
1915
Letters to Mr. Priby
1
454
★Correspondence (Authers)
1914
Letters from Burroughs
1
454
Correspondence (Authers)
June15
Letters from Harris Dickson
1
454
Correspondence (Authers)
1916
Letters to William Selig
2
454
Correspondence (Authers)
1913
Letters from E.W.Howe
1
of the Beasts”
4.アーカイヴ調査
アーカイヴ調査の
調査の成果
①政治的言説との〈インターフェイス〉
File258 ★Hunting Big Game in Africa
◆Theodore Roosevelt 映画 1902 年~: Selig Company のコロラド映画
◆Theodore Roosevelt の東アフリカ探検(1909)
◆African Game Trails: An account of the African wandering of an American hunter-naturalist
(1910) Naturalist としての Theodore Roosevelt
⇒科学(博物学・人類学・民族誌学)と映画 ニューヨーク自然史博物館
②西部・アフリカをめぐる〈人的ネットワーク〉
File332 ★On the little big horn or Custer’s last stand
◆20 世紀初頭の西部:〈現在〉と〈過去〉のあいまい性
カスター夫人の手紙
File454 ★Correspondence (Authers) :Letters from Burroughs
◆Tarzan of the Apes(1914)の作者である Edgar Rice Burroughs の手紙、彼が Selig に寄贈し
た“Ben, King of the Beasts”の生原稿。
⇒〈アフリカ〉をめぐる政治・大衆小説・映画の〈インターフェイス〉そして〈人的ネットワーク〉
③映画と国内観光旅行 “We Want You With Us In California!”
William Selig Core Collection
Paste-pot and shears: Selig weekly press news [1915-1917] マイクロフィルム
Selig release herald [1914-1915] マイクロフィルム
◆国内の風景(コロラド・フロリダ・カリフィルニア・ニュー・メキシコなど)を映画に取り込むことによって、
観客に〈観光している気分〉を提供する、という〈受容〉の問題に留まらず、実際に映画会社が
国内観光ツアーを実施していた。
アーカイヴ調査を通じて、フライヤーの大部分がイギリス向けのものであることが判明した。そこから、輸
出を促進するために、イギリス植民地を扱った〈アフリカン・ジャングル・シリーズ〉、アメリカ的な主題として
〈西部劇〉と、異なる主題を相補的にプロモートしていたことが明らかになった。また、映画会社が、自社作
品を広く公開するために、自ら観光旅行を企画し、営業活動の一環として活用していた事実が確認でき
たことは予想外の成果だった。フライヤーの閲覧により視覚的情報の獲得に成功、それにより、〈観光旅
行〉と〈文化人類学〉という二つの見地から 20 世紀初頭の帝国主義文化の論理を析出することが新たな
課題として浮かび上がった。
「孤立環境における日本語教育-現地人日本語教師養成の観点から-」
現地調査報告と今後の研究の展望
人文社会科学研究科 文芸・言語専攻
入山 美保
1. 本研究の目的
本研究では「日本と経済的、地理的・物理的、文化的、歴史的に関係が浅い地域での日本語教育」
を「孤立環境の日本語教育」と呼び、中央アジアのキルギス共和国での日本語教育を取り上げ、その構
築と発展的維持の方法を見いだすことを目的として、次の点を中心に研究を行う。
・歴史、文化、経済、国際関係等の諸分野から、キルギス共和国が直面する種々の問題を学際的に分
析した上での、当地における発展可能な日本語教育の方向性の考察
・当地の現状から今後特に重要視すべき現地人日本語教師養成の方法(教師研修等)の考察
2. 研究の背景
現在、日本国内における日本語学習者数 14 万人(文化庁文化部国語課 2004)に対し、海外における
日本語学習者数は 298 万人(国際交流基金 2006)である。国際交流基金 2006 によると、海外の 126 か
国と 7 地域で日本語教育が行われており、日本語教育機関数は 13,639 機関、日本語教師は総計 44,321
人である。このうち、日本語を母語とする日本語教師は約 3 割、約 7 割は日本語を母語としない。
こうしたことから、
「日本語教育は日本が本場」といった考え方を捨て、
“主”である海外の多様な日
本語教育の現状と課題を知り、如何に戦略的に日本語教育を展開するかを研究することが必要と考える。
3. 現地調査の目的
3.1 ウズベキスタン共和国日本語教育の現状調査
キルギス共和国の隣国であるウズベキスタン共和国の日本語教育の現状を調査することにより、中央
アジアにおける日本語教育事情を把握する。ウズベキスタン日本人材開発センター、タシケント国立東
洋学大学、サマルカンド国立外国語大学において、現地人日本語教師の授業を参観し、現地人日本語教
師養成の観点からカリキュラム開発を検討する機会とする。聞き取り調査を行い、ウズベキスタンにお
ける現地人日本語教師養成の現状を調査する。
3.2 「日本・中央アジア学生知的交流会議」の共同開催
筑波大学第 6 次中央アジア訪問団に参加し、筑波大学中央アジア国際連携センター(タシケント市 タ
シケント国立東洋学大学内)において、現地の大学生と「日本・中央アジア学生知的交流会議」を共同
開催する。
会議では、以下の 4 つの主要テーマについて扱う。
1.
文化とアイデンティティー
2.
共生社会の実現(著者発表)
3.
科学技術とヒューマニティー
4.
開発経済と社会発展
日本側と現地の学生とで各テーマについて発表し、その後、各々のテーマごとに討論する。
学生会議を通じて、歴史、文化、経済、国際関係といった様々な分野から、ウズベキスタンの学生と
の議論を通して、多言語社会が直面している多くの問題を学際的にとらえることを目的とする。
-1-
4. 滞在日程
3 月 14 日(金)午後 出国
夜 タシケント市到着
3 月 15 日(土)現地人教師の日本語授業参観 於:タシケント国立東洋学大学
タシケント国立東洋学大学学長表敬訪問
日本・中央アジア学生知的交流会議打ち合わせ
3 月 16 日(日)日本・中央アジア学生知的交流会議の準備
タシケント市内視察
3 月 17 日(月)国際会議『文明のシルクロード 5』於:筑波大学中央アジア国際連携センター
日本・中央アジア学生知的交流会議の準備
現地人教師の日本語授業参観 於:ウズベキスタン日本人材開発センター
3 月 18 日(火)在ウズベキスタン日本大使館表敬訪問
「日本・中央アジア学生知的交流会議」共同開催
於:ウズベキスタン日本人材開発センター
3 月 19 日(水)サマルカンド国立外国語大学学長表敬訪問
サマルカンド国立外国語大学特別講演会
3 月 20 日(木)現地人教師の日本語授業参観 於:サマルカンド国立外国語大学
世界文化遺産都市であるサマルカンドの主要文化遺産の視察
3 月 21 日(金)タシケント郊外にある日本人抑留者の墓地を訪問
夜
出国
3 月 22 日(土)帰国
5. 現地調査報告
5.1 ウズベキスタン共和国の日本語教育の現状
ウズベキスタン共和国における日本語教育は、1990 年タシケント国立大学東洋学部(現タシケント
国立東洋学大学)に日本語コースが開設されたことにより始まり、中央アジアの日本語教育のさきがけ
となった。当初、日本語教育は、日本人教師によって行われていたが、1995 年にタシケント国立東洋
学大学から第 1 期生が卒業したことにより、タシケントの他の大学(世界経済外交大学)
、中等教育機
関でも行われ始めた。その後、地方への広がりも見せ、1998 年にはサマルカンドで、1999 年にはフェ
ルガナでも日本語教育が開始された。2001 年にウズベキスタン日本人材開発センターが開設され、ウ
ズベキスタン共和国における日本語教育重要拠点として、各種日本語講座、日本語クラブが行われてい
る。2006 年における日本語学習者数は、1875 名、教師数(延べ)は、92 名である。
5.1.1 タシケント国立東洋学大学の日本語講座
2005 年に筑波大学と協定締結。2006 年 9 月、筑波大学と共同で「筑波大学中央アジア国際連携セン
ター」を設置。中等教育機関で 3 年間日本語を学習した後、入学している者が多いので、日本語運用レ
ベルは高い。学士論文は日本語で書くことが義務付けられている。以前は、国際交流基金、日本外交協
会から日本語教育専門家が派遣され、多くの日本人教師がいたが、現在は、現地採用の長期滞在の日本
人教師が 1 名いるのみである。学内でレベル毎のカリキュラムが作成されており、現地人教師が一番育
っている大学であると言える。
5.1.2 ウズベキスタン日本人材開発センターの日本語講座
ウズベキスタン日本人材開発センターでは、
「一般コース」
「年少者コース」
「漢字特別コース」
「ビジ
-2-
ネス日本語」
「帰国子女コース」
「観光ガイドコース」といった多様な日本語講座を設けているのが特徴
である。「ビジネス日本語」以外は、主に現地人日本語教師によって授業が行われている。現地人教師
のほとんどは大学と掛け持ちで教えているが、短期間での離職率が高く、教師の入れ替わりが激しいの
で、一定の教授レベルを保つのが難しいのが現状である。
昨年度、3 か月間、初級の教え方に関する教師研修をワークショップ形式で行い、機関の垣根を超え
て教師同士の情報交換や交流を図ったと聞いている。
5.1.3 サマルカンド国立外国語大学の日本語講座
2006 年に筑波大学と協定締結。首都タシケント市から電車で 4 時間行った地方都市であり、日本人
教師、現地人教師ともに定着率が悪く、経験の浅い教師が多い。第 2 外国語は英語で、第 3 外国語とし
ての日本語を学習しているので、学習時間は少なく、日本語能力を上げるのは困難である。
5.2 ウズベキスタン日本語教育事情のまとめ-キルギス共和国と比較して-
ウズベキスタン共和国と日本の間は、週に 2 回直行便が結んでおり、世界文化遺産都市であるヒヴァ、
ブハラ、サマルカンドを訪れる観光客が多い。そのため日本語学習者の主要な職種は、観光ガイドであ
り、キルギス共和国と違って街中で日本人と触れ合う機会も多い。しかし、日系企業は少なく、日本関
連機関といえば、大使館、JICA、日本センターであるので、キルギス共和国同様、日本語学科を卒業
しても、日本語と関係のない企業や機関に就職するのが現状である。
現地人教師は、労働条件の悪さや海外への移住といった理由で定着率が非常に悪く、個人の教授レベ
ルに差がある。現地人日本語教師による教育の質の向上に向けて、対策を講じ、このような環境でいか
に日本語教育を定着させていくかを検証する必要がある。
5.3「日本・中央アジア学生知的交流会議」の共同開催については別稿を参照されたい。
6. 今後の研究の展望
中間評価論文では最終的に以下の内容について考察する予定である。なお、教師研修の実施、調査の
ために 2008 年 8 月中旬から 4 か月間、キルギス共和国日本人材開発センター日本語コースでインター
ンシップを行う予定である。望むべき現地人日本語教師養成の内容については、実際に行う教師研修の
実施を通して得られた反省を元に、指導体制、指導方法、指導内容、教材等を考察していく。
1. 「孤立環境」の定義
2. 「孤立環境」における日本語教育
3. 中央アジア・キルギス共和国に対する日本の外交戦略(ODA,JICA、シルクロード外交等)キルギ
ス共和国から日本に対する外交戦略、及び日本・キルギス共和国両者の取り組みの相違点
4. キルギス共和国における日本語教育の現状と課題
4. 1 キルギス共和国における外国語教育政策(日本、ヨーロッパやアメリカ合衆国における外国語教
育政策との対比を通したキルギス共和国における日本語教育の位置づけ)
4.2 キルギス共和国の日本に対する関心度調査(日本語学習者、他言語学習者双方から)
4.3 キルギス共和国における日本語教育の構築、定着のために必要な現地人日本語教師養成
4.3.1 日本語教育が定着するために何が必要か(仕事への動機付け、待遇等を中心に)
4.3.2 日本側とキルギス共和国側からの支援内容
4.3.3 望むべき現地人日本語教師養成の内容(教師研修の実施を通して得られた反省を元に、指導体
制、指導方法、指導内容、教材等を考察)
-3-
2008 年 3 月 14 日~2008
日~2008 年 3 月 22 日 ウズベキスタン現地調査報告
ウズベキスタン現地調査報告
地域研究研究科 日本語研究コース 田中 孝始
3 月 14 日(金)
13:30 成田発の OZ101 便でソウルへ、乗り継ぎ OZ573 便でタシケントへ 深夜到着
3 月 15 日(土)
08:30より、タシケント国立東洋学大学706教室で行われていた日本語講座3年生のクラスを参観した。
教師はウズベキスタン人の現地人教師、学習者5名 教室の後方から授業を参観していて、まず驚いた
のは、座っている学生の髪や目の色、顔つきが全員違っていたことだ。前日は深夜に到着したため気が
つかなかったが、ここが多民族の国だということを実感した。ウズベキスタンの人口はおよそ2700万人
(2006年:国連人口基金)
、130以上の民族が混在するそうである。ウズベク人(77.2%)、ロシア人(5.2%)、
タジク人(4.8%)、カザフ人(4.0%)、カラカルバク人(2.1%)
、タタール人(1.4%)、キルギス人(0.9%)、
トルクメン人(0.6%)、そしてソ連時代に沿海州から強制移住させられた朝鮮民族もおよそ22万人在住し、
まさに多民族国家のわけだが、それを目の当たりにした思いがした。
授業はすべて日本語で行われていた。学年論文(各学年終了時に提出する小論文)を書くために、そ
のテーマ設定や、これからどのように授業を進めていくかについての説明が先生からされた。学習目的
は、学年論文としての小論文を書きながら、研究と勉強の違いについて考えるというものだった。日本
語講座では、ロシア語クラスとウズベク語クラスに分かれているが、学年論文も卒業論文も日本語で書
くそうである。具体的なテーマとしてはウズベキスタンの社会問題、例として「経済の問題(出稼ぎや
失業率)」
・「公共道徳と規則の尊重の問題」
・「公害問題(工場増加による自然破壊)」
・
「教育の問題」
・「仕
事(雇用)の問題」・「地方の生活の問題(インフラや過疎)」が挙げられた。このような社会問題につい
て自分で資料を収集し、5 週目にテーマを設定し、15 週目に発表を行うとのことだった。
次に別の校舎で現地人教師による 1 年の初級のクラスを見学。学習者は 9 名だった。基本的には教師
は、絵カードや文字カードを用いて導入や練習を日本語で行う直説法だが、文法説明や補足で、度々ロ
シア語によるフォローアップが入る。後に見学したウズベキスタン日本人材開発センター(以下、UJC)
の授業でも同様だが、初級クラスではロシア語やウズベク語も使用した現時人教師ならではの授業を行
っていた。このクラスでは、教師はあまり板書を行わず会話でのコミュニケーション中心の授業だった。
その後、タシケント国立東洋学大学学長、Mannonov Abdurakhim Mutalovich 氏を表敬訪問した。同学
長は言語学専攻だそうで、今後同大学で、研究者として、日本語学や日本文化の教授ができる博士号取
得者の養成について、筑波大学との協力関係をさらに強化することへの要請があった。
次に、同大学教材開発ルームにて、日本中央アジア学生知的交流会議の打ち合わせを行う。今までは
メールのやり取りだけだったが、スタッフを含めた日本側とウズベキスタン側の全ての当事者が初めて
顔をあわせ、会場の配置や進行の仕方について話し合い、詳細を詰めた。このような会議は、初めての
経験で不安ではあったが、なんとかして成功させたいという気持ちが表れた熱心な打ち合わせになった。
3 月 16 日(日)
大学も UJC もお休みのため、タシケント市内のチョルス・バザールを訪問した。ここは市民から「古
いバザール」と呼ばれているそうだ。文明の十字路のオアシス都市として長い歴史を持ち、2000 年前
には「チャーチ」という名で記録に現われ、11 世紀ごろから「タシケント」という名で呼ばれるよ
うになったというこの都市の、どれくらい古くからこのバザールがあるのだろうと思った。夕刻、
第二次大戦後に抑留され、強制労働に服した日本人捕虜が建設に関わったことでも有名な「ナボイ劇場」
にて、バレエ『スパルタカス』を観劇。盛況だった、独立後も根付くロシア文化の影響力を感じた。
3 月 17 日(月)
タシケント国立東洋学大学において、国際学術セミナー「文明のクロスロード5─ことば・文化・社
会の様相──」が開催され、ビデオ撮影の記録係をする。
夕方より、UJC 訪問
国際交流基金から日本語教育専門家として派遣されている、山口明氏に UJC 日
本語コースの概要の説明を受け、授業を参観させていただいた。コース概要は以下の通りである。
・ 一般コース (ロシア語のクラスとウズベク語のクラスに分けられている。
)
初級 1・初級 2・中級 1・中級 2 (16 歳以上) ・・・上級 1 と上級 2 のクラスは休止中
年少者初級 1・年少者初級 2・年少者初級 3 (10 歳~15 歳)
・ 特別コース
観光ガイドのための日本語コース・ビジネス日本語コース・帰国子女コース(在日経験のある児童)
・
漢字教室・教師研修コース(不定期)
・ 日本語クラブ(カラオケクラブ)
2001 年のコース開設時には、4 クラス、62 名の受講者が、2007 年 9 月時点では、総クラス数 28、受講
者は 403 名(正式に把握していないが、現在はもう少し増えていると山口氏)と順調に受講者は増加し
ている。受講者の年齢は、16 歳から 20 歳が最も多く、次に 11 歳から 15 歳、21 歳から 25 歳、26 歳から
30 歳と続く。また、UJC 日本語コースでは、日本語弁論大会や日本-UZ 高校生テレビ会議、国際交流基
金との共催で日本語能力試験の開催、日本語教育巡回セミナーなどのイベントも行っている。
当日行われている授業を計 7 クラス参観したが、ビジネス日本語コース以外はすべて現地人教師が行
っていた。指導法は指定されておらず、各教師が各々の方法で教えているようだった。
「みんなの日本語Ⅰ 翻訳・
教科書は『みんなの日本語初級ⅠⅡ』(スリーエーネットワーク)である。
文法解説ウズベク語版」が作られ、ウズベク語クラスで使用されていた。1989 年のウズベク語の国語化
により、ウズベキスタン社会のウズベク語化は確実に進行し、ウズベク語による教材開発の必要性から
作成されたそうだ。
山口氏にウズベキスタンの日本語教育の問題点について聞く。
一つには教師が慢性的に不足気味であることが挙げられる。これは教師の給料が安いのが原因である。
大学の教師と比較すると、かつては厚遇と言われていた UJC の非常勤教師の給料でさえ、もはや魅力
的ではなくなり、教師の入れ替わりが非常に激しいそうだ。経験を積んだ教師が、全く日本語とは関係
なくても給料の高い職場へ転職してしまい長く続かない。また、ロシアやカザフスタンへ一家で出稼ぎ
に出たり、移住したり、日本に研究留学へ行ったまま帰国しない例もあるそうである。このような頻繁
な教師の入れ替わりが、経験豊富な教師の不足につながり、どうしても教育の質を低下させてしまうと
いう。また、日本人教師も不足している。1999 年 11 月のデータでは、全日本語教師数 39 名に対し日本
人教師 25 名(64%)と比率が非常に高かったが、2006 年は 93 名中 23 名で、およそ 25%にまで比率を
下げた。日本語教育の現地化が進むのは好ましいことであるが、高いレベルの教育を行う際には経験の
ある母語話者教師が必要であるし、また、現地の学習者の中には母語話者信仰のような感覚があり、日
本人教師は一定数必要であるが不足している。これも待遇の問題が大きな要因となっているようだ。
学習者からすれば、習得した日本語をどう活かすかの問題がある。未だ日本企業の進出は鈍く、日本
語学習者の日系企業への就職は企業数が限られている。(2006 年 5 月時点で日本企業は 15 社)また、一
般的に被雇用者の日本語運用能力ではなく英語運用能力を重視することが多いこと、日本語はわかるが
日本人や日本社会についての理解がない学生を企業は求めないことなどから、学習者の日系企業への就
職は困難を極めている。日本語ガイドの職も、アシアナ航空の乗り入れで観光客は増加したものの、現
地ガイドの職はフリーである場合が多く、不安定である。留学の道も増えたとはいえ、それほど多くは
ない。今でこそ順調に学習者数を伸ばしているが、日本語そのものに対する需要が伸びなければ先細り
するのではないかと懸念されていた。また、隣国のカザフスタンでは、日系企業と日本語教育が合体し
ているケースがあるそうだが、ウズベキスタンでも企業との協力関係を築きたいとおっしゃっていた。
3 月 18 日(火)
午前に、平岡邁在ウズベキスタン共和国日本国全権委任大使を表敬訪問
その後、UJCにて「日本中央アジア学生知的交流会議」の会場設営、準備
12:00 本学の青木三郎教授による開会の辞、沼田善子教授による基調講演「文法と意味-「だけ」
「ば
かり」
「まで」
「など」を例に-」の後、学生による発表が始まる。私はウズベキスタン側発表者、Musaev
Davron Shavkatovichさんと共に「開発経済と社会発展」というテーマで発表を行った。
Davronさんは、
「タシケントにおけるウズベキスタン人の不法滞在の制限」という題で、人口の都市集
中と地方の過疎化の歯止め、国内移動を行う人や目的の明確化によるテロの抑止、不法移民の入国抑止、
ウズベキスタンだけでなく中央アジアの重要地点でもあるタシケントの治安の安定の為に、ウズベキス
タン国籍を持っている国民であってもタシケントでの滞在には登録制度があることについて発表した。
私は、ウズベキスタンでの外国語学習(日本語学習も含む)の動機について聞きたいと考え、日本が
明治期に当時の先進国である西洋列強の言語を学び、知識や技術を導入することで急速な近代化を遂げ
たことを紹介した。また、日本では現実感がまだまだ希薄だが、実際にウズベキスタンのように既に多
言語・多文化の社会では、どのように共生が行われているかについて現地学生に聞いてみたいと考え、
日本では少子高齢化が進み、その人口動態から労働人口が減少し、外国人労働者の増加が見込まれるこ
とを紹介し、日本においても近い将来、多言語・多文化の共生社会が実現する可能性について発表した。
全発表が終わり、各々のテーマについての討論となった。多言語・他民族共生については、現地学生
にとっては、生まれながらに社会は共生社会であり、当然のこととして受け入れていた。多民族という
ことでいえば、分科会のメンバーも各々に容姿が違うことから、遠い昔から様々な人々が現れては去っ
ていったこの地では、多様な人々が混在するのに違和感がないというより、むしろ当然として考えてい
るように思った。多言語という点で見れば、現地の学生は、共通の言語としてのロシア語があったこと
が共生をしやすくしたと考えていた。支配国家の言語であるロシア語をネガティブに見てはおらず、む
しろ互いのコミュニケーションのために必要だと感じているようだ。大学で教科書として使用される書
籍もウズベク語に翻訳されたものは少ないそうで、英語などをロシア語に翻訳したものが使用されるこ
とが多いという。ウズベキスタン人の中でさえ、子供をわざわざロシア語学校へ行かせる親もいて、国
語はウズベク語であり、それが浸透しつつあるが、今も変わらずロシア語は必要とされている。大学の
入学試験はロシア語でもウズベク語でも受けられるそうだ。日本が本当に「多言語社会」になった時に、
日本語はウズベキスタンにおけるロシア語のように、多言語社会を結びつけるコミュニケーションツー
ルになり得るのか、そしてその為にはどうしていくべきかについて考えさせられた。
言語学習の動機という点では、就職が大きな動機となっていた。ウズベキスタンの人口動態は日本と
全く逆であり、25歳以下の人口が40数%もいるそうだ。しかし人口の増加に経済成長が追いつかず、高校
や大学を卒業しても働き口がない者は、ロシアやカザフスタンのようなロシア語圏へ出稼ぎに出る人も
多いようだ。日本に留学したいという学生が殆どだったが、留学して帰国しても仕事が保証されるわけ
ではなく、(できれば日本企業が進出しウズベキスタン国内の日系企業で働ければ良いが、)留学して日
本に残ってそのまま働いても構わないという学生もいた。日本語以外の言語としては、中国語や韓国語
学習者が非常に増加しているという。中国との貿易が増加していることが中国語に人気が集まる原因だ
そうだ。経済面で見れば、日本とは貿易額も多くなく、文化的な面でも日本の存在感はあまりないよう
だ。タシケントの小学校で日本語を教えているのは1校だけだと言っていた。
会議の後、打ち上げの懇親パーティーを行った。20数名が参加したが、多くの学生と話をすることが
できた。全員が、日本に留学経験のある学生、留学が決まっている学生、留学を希望する学生だった。
日本留学の経験がある学生が、現在のウズベキスタンの政治をやんわりと批判し、今はソビエト時代
の人達が政治を牛耳っているが、自分達の時代になったら、海外の経験があり、外の世界を知っている
人間が政治をする!と言っていたのが印象に残った。また、同様に留学経験がある学生から、ソビエト
時代があったからこそ、イスラムの強い文化的影響から逃れられたのだという発言もあり、少し驚いた。
3 月 19 日(水)
午前、タシケントに18年在住し独立前から日本語教育に取り組んできた、タシケント国立東洋学大学
日本語講座菅野怜子助教授と同大学の学生等と共に、タシケントからサマルカンドへ電車で移動。車内
で菅野先生にお話を聞く。先生はウズベキスタンにおける日本語教育の創生期とも言える時期からの学
習者や教育環境の変化について話され、今後の課題として、未だ、東洋学大学の日本語講座のレベルは
日本語学習であり、日本語学や日本研究といった研究分野に迫るレベルまではほど遠く、どうやってそ
のレベルまで学習者をレベルアップさせていくかが課題だとおっしゃっていた。
到着後、サマルカンド国立外国語大学長、Safarov Shahriyor氏を表敬訪問した。学長は言語学専攻(社
会言語学)で、ウズベキスタンの言語政策について筑波大学で講演されたこともあり、日本の文化習慣
や伝統的な哲学に興味があるとおっしゃっていた。また、日本人はウズベキスタン人と共通点があり、
メンタリティーが近いのではないかともおっしゃっていた。同大学で、本学の青木三郎教授による特別
講演会「近代日本と国語の成立」が開催され、サマルカンド国立外国語大学日本語講座の教員や学生が
聴衆として参加した。その後、同大学構内の言語学教室の施設を見学した。
3 月 20 日(木)
午前中は、サマルカンド国立外国語大学での東洋語講座日本語コースのクラスを参観させていただい
た。日本語コース長は、日本シルバーボランティアから派遣されている新海啓先生。サマルカンド外大
では、2年生から第2外国語として日本語を勉強する。第1外国語は殆どが英語だそうである。週4コマ(1
コマ80分)で4年生までに初級が修了するのが目標だそうだ。1時限目は2年生の17名、2時限目は3年生14
名、現地人教師による授業で、教科書は「みんなの日本語」
。誤用の訂正や説明が不十分で、学習者も集
中しておらず、教師の教授経験が少ないことが見てとれた。新海先生も教師は給料が安いので人材の移
動が激しいとおっしゃっていた。UJCの山口先生の言葉を思い出す。学生に、日本に対して一番興味があ
ることを尋ねると、奨学金の制度だそうだ。日本社会や日本文化に対する知識はあまりないが、漠然と
した憧れのようなものが、留学したいという希望となっているように思われた。
午後、サマルカンド旧市街等を見学した。サマルカンドは世界遺産の認定も受けている貴重な遺跡都
市である。当地出身の学生から、サマルカンドは市民の多くがタジク人であり、三カ国語(ウズベク語、
ロシア語、タジク語)以上の言葉を話す住民が珍しくないと聞いた。特に、家庭内ではタジク語で話す
場合が多いという。まさしく多言語社会であり、日本人にとっては実感として感じない、
「多言語」や「多
文化」という概念について考えさせられた。夕方、電車にてサマルカンドからタシケントへ
3 月 21 日(金)‐
日(金)‐3 月 22 日(土)
東洋学大学の菅野先生等とともに、タシケント郊外にある日本人抑留者の墓地を訪問した。
21日・22:30発のOZ574便で帰国の途に着く。 22日ソウルでOZ104便に乗り換えて帰国 13:40 成田着
IFERI 第一期生
地域研究研究科 ヨーロッパ研究コース 2 年 Tsay Marina
平成 19 年度現地調査レポート
研究テーマ:「ウズベキスタンにおける朝鮮系民族集団のアイデンティティ、言語と文化」
調査実施期間:2008 年 3 月 4 日(火)~2008 年 3 月 22 日(土)、学生知的交流会議(2008 年
3 月 17 日~18 日)を含む。
場所:ウズベキスタン共和国タシケント市。
① ウズベキスタン国立図書館
(100047 Tashkent, Khorezm st., 51 TEL:
(998-71)239-47-09; 239-11-38; 239-48-75 FAX: (998-71)233-09-08)
ウズベキスタン国立図書館は、首都タシケントにあり、国内最大の図書館である。1870
年に創立され、1920 年には国立図書館として承認された。図書館は政府の支援を受け、国
内外の様々な蔵書を充実させてきた。今回の調査の目的はウズベキスタン国立図書館で、
ウズベキスタンの朝鮮人に関する新聞記事や本 (ロシア語資料であり、日本国内では入手困
難) を収集することである。
② タ シ ケ ン ト 国 立 東 洋 学 大 学 (100047 Tashkent, Lokhuti str.,25 TEL: (998-71)
133-34-24)
タシケント国立東洋学大学は、韓国語学科が設立されたことをきっかけに、朝鮮系ウズ
ベキスタン人の学生が多くなった。今回はアンケートの実施に協力してくださる先生を見
つけることが目的であり、そのために、タシケント国立東洋学大学を数回訪れた。今後は
所属学生を対象にアンケート調査を行う予定である。
③ 韓 国 教 育 セ ン タ ー (100005 Tashkent, Mirabad, Fetisoba st., 3 TEL: (998-71)
191-81-82)
韓国教育センターはウズベキスタンと韓国との友好関係を促進させるために、1992 年に
創立された。現在、無料で受けられる韓国語の授業や語学留学が整備されており、朝鮮系
ウズベキスタン人をはじめ、様々な民族の代表者が利用している。タシケント国立東洋学
大学の場合と同様、アンケートの実施に対する協力者を得るために、韓国教育センターを
1
訪れた。
現地調査の必要性及び目的:
今回の現地調査の目的は、①今年 (2008) の夏に行うアンケート調査のための文献の収
集・調査であり、②アンケートの協力者を見つけること、の 2 点である。
文献資料は、主にロシア語で書かれた資料、特に、ウズベキスタンで出版された新聞、
雑誌、書籍を対象にした。日本においてはこの種の資料の入手が困難だからである。
日本からアンケートの協力者を探そうとしたが、電子メールだけでは連絡が取れなかっ
た。ウズベキスタンは日本のようにインターネットがそれほど普及していないためである。
ウズベキスタンに直接赴き、調査の目的を説明して、アンケートに協力してくれる人を確
保する必要があった。
現地調査の結果:
①資料収集 - ウズベキスタン国立図書館においてウズベキスタンに限らず中央アジアの
朝鮮人に関する雑誌や新聞の記事を含む文献リストを作成し、さらに今後の調査のために
次の文献を入手した。
Ким, Г. Н., Корейцы за рубежом: прошлое, настоящее и будущее, Алматы, 1995
(Kim, G. N. Korejcy za rubezhom: proshloe, nastojashee i budushee, Almaty,
1995).
Ким, Г.Н., Коре сарам: историография и библиография, Алматы, 1995 (Kim, G. N.
Kore saram: istoriografija i bibliografija, Almaty, 1995).
Ким Г. Н. & Д. В. Мен, История и культура корейцев Казахстана, Алматы, 1995
(Kim G. N. & D. V. Men Istorija I kul’tura korejcev Kazahstana, Almaty, 1995).
上の文献の著者ゲルマン・キム氏は、カザフスタンの歴史学者であり、現在カザフスタ
ン国立大学韓国語学科科長である。キム氏は長年中央アジアの朝鮮人を研究対象にしてき
た。今月、来日する予定があるので、筆者は氏から研究のアドバイスを受けたいと考えて
いる。
②アンケートの協力者 - 電子メールを利用するだけでは、アンケートに協力してくれる
人を見つけるのが非常に困難であったが、今回の現地調査によって、以下の方々から協力
を得ることができた。
2
Kim, V. N. (タシケント東洋学大学韓国語学科長。哲学博士)。キム学科長の学生を対象に
して、
「ウズベキスタンの朝鮮人、特に若い世代はどういうアイデンティティを持っ
ているのか」、「韓国語を勉強することにより、韓国や自分に対する意識がどのよう
に変化したのか」ということを明らかにするためのアンケートを実施したい。
Kim, I. (韓国教育センター、教員)。韓国教育センターの学生はほとんどがウズベキスタ
ンの朝鮮人なので、キム先生の協力を得て、学生にアンケートを実施する。
③学生知的交流会議への参加 - 3 月 17 日~18 日にタシケント市にある日本・ウズベキス
タン人材開発センターで行われた学生知的交流会議に参加し、そこで「文化的アイデンテ
ィティ」というテーマの発表を行った。ウズベキスタンの学生とディスカッションをした
際に、自分の研究課題に関する大きなヒントを得ることができた。多民族国家で生まれ育
った多民族の代表者が持つアイデンティティに関する様々な意見を知ることができた。そ
れをまとめると、民族に関係なく、次の共通点が挙げられる。
・一人一人の自民族意識が強いものの、コミュニケーションに関しては民族性は影響し
ない。友達が何人でよいかということは問題でないものの、結婚相手に関しては、そ
れぞれの意見が異なる。
・自民族の言語が重要であると思いながら、自民族の言語が話せない人が少なくない。
それをもとに、自民族の言語が話せないと、その民族の一員ではなくなるのではない
かという疑問が出てくる。
・ウズベキスタンを自分の故郷とするのがほとんどである。
今回の現地調査を行うにあたり直面した問題は、個人向けのアンケートに関することで
ある。アンケートを行うのが機関ではなく、私個人であったために、協力をしてくれる人
が最初に不信感を抱いたことがあった。今回は筑波大学の英文在学証明書を持参したが、
ウズベキスタンではロシア語の証明書があった方がいいということを実感した。
今後の課題:
今回の調査結果によって、研究課題を違う角度から見直すことができた。つまり、ウズ
ベキスタンにおける朝鮮人はどういうアイデンティティを持つのか、そして将来、そのア
イデンティティがどのように変化するのか、朝鮮人がマイノリティの一つとして生き残る
のか、そして朝鮮人の若い世代がそれを必要だと感じるのか、といったことをさらに追及
していきたい。
なお、次回の調査は今年の 8 月に予定しており、アンケート調査を行う予定である。
3
「民主的代表制の危機に瀕するペルーとアンデス諸国の学際的比較研究」
現地調査報告書
平 成 20 年 6 月 13 日
IFERI 第 一 期 生
現 代 文 化 ・公 共 政 策 専 攻 二 年
磯田沙織
今回の現地調査の目的は、外部アドバイザー教員による指導を受け、
今 後 の 研 究 の 方 向 性 を 確 定 す る と と も に 、本 格 的 な 調 査 の た め の 予 備 調
査 を 実 施 す る こ と で あ っ た 。2 月 26 日 か ら 3 月 5 日 ま で は 、J AICA 勤 務
の 添 田 ロ ド ル フ ォ ・ ヒ ト シ 氏 の 自 宅 に ホ ー ム ス テ ィ し な が ら 、首 都 リ マ
に あ る ペ ル ー 問 題 研 究 所( 以 下 IE P と 省 略 )に お い て 、ア ド バ イ ザ ー 教
員 で あ る Martín Tana ka 主 任 研 究 員 に よ る 指 導 を 受 け る と と も に 、 同 研
究所付属図書館にてライブラリアンの指導の下、資料調査を実施した。
続 い て 、3 月 6 日 か ら 3 月 13 日 ま で 、地 域 研 究 の 視 野 を 広 め る た め 地 方
視 察 を 行 い 、バ ル ト ロ メ・デ・ ラ ス・カ サ ス 図 書 館 に て ラ イ ブ ラ リ ア ン
の 指 導 の 下 、資 料 調 査 を 実 施 し た 。そ の 後 再 び 首 都 に 戻 り 、3 月 17 日 か
ら 3 月 19 日 ま で 、筑 波 大 学 と の 協 定 校 で あ る ペ ル ー ・カ ト リ カ 大 学 に お
い て 政 治 社 会 学 の 関 連 講 義 を 聴 講 し 、同 時 に 同 大 学 付 属 図 書 館 に お い て
資料調査を実施した。
この報告書では、まず首都リマで行った調査について述べ、続いて、
地方視察の際に行った調査についてまとめる。
ま ず 最 初 に 、社 会 科 学 研 究 の 重 要 な 拠 点 で あ る IEP に お い て 、ア ド バ
イ ザ ー 教 員 の Mart ín Tanaka 主 任 研 究 員 と 面 談 し た 。80 年 の 民 政 移 管 後
の ペ ル ー 政 治 、特 に フ ジ モ リ 政 権 以 後 の 政 治 状 況 と 分 析 を 教 示 し て 頂 い
た。今後の研究を進める上で、重要な指導であったと考えている。
続 い て 、主 査 で あ る 遅 野 井 茂 雄 教 授 よ り 紹 介 を 受 け た 、京 都 大 学 地 域
研究統合情報センターの村上勇介准教授に同研究所を案内して頂き、
Carlos Contreras 主 任 研 究 員 、 Carmen Mo ntero 主 任 研 究 員 、 同 研 究 所
付 属 図 書 館 の ラ イ ブ ラ リ ア ン で あ る Vi rgi nia García 氏 、 同 研 究 所 付 属
1
書 店 の 担 当 者 で あ る Elizabeth An drad e 氏 を 紹 介 し て 頂 い た 。 特 に
García 氏 か ら は 、同 図 書 館 の 利 用 方 法 に つ い て 指 導 を 受 け 、他 の 主 任 研
究員の方々からは、先行研究に関して助言を賜った。
ま た 、遅 野 井 教 授 よ り 紹 介 を 受 け た 在 ペ ル ー 日 本 大 使 館 専 門 調 査 員 の
篠 江 み ゆ き 氏 と 面 会 し 、現 在 の 政 治 状 況 を ご 教 示 頂 く と と も に 、ペ ル ー ・
カトリカ大学を案内して頂いた。
同 大 学 に お い て は 、 J uan Carlos Callir go s 教 授 の 「 ペ ル ー 社 会 の 思
想 分 析 ( Ánalisis de Procesos y Pensam ien tos Sociale s Peru ano s)」、
Romero Grompone 教 授 の 「 政 治 学 入 門 ( Introducción a la C iencia
Política)」そ し て 、 ア ド バ イ ザ ー 教 員 で あ る Tanaka 主 任 研 究 員 の「 ラ
テ ン ア メ リ カ の 政 党 と 政 党 シ ス テ ム ( P ar tidos y si stema de p artidos
en América Lat ina )」 を 聴 講 し 、 院 生 と の 意 見 交 換 を 行 っ た 。 そ の 際 、
遅 野 井 教 授 よ り 紹 介 を 受 け た ペ ル ー ・カ ト リ カ 大 学 の 留 学 生 セ ン タ ー
(Área de Relacione s I nternacionales)の 担 当 者 で あ る Jeanne tte Sampe
氏 及 び Bérangère Per ret 氏 か ら の 支 援 を 賜 っ た 。
次 に 、地 方 視 察 に つ い て 報 告 す る 。先 住 民 研 究 の 重 要 な 拠 点 で あ る ク
ス コ の バ ル ト ロ メ ・ デ・ラ ス・ カ サ ス 図 書 館 に て 、ラ イ ブ ラ リ ア ン で あ
る Mary Chino 氏 の 指 導 の 下 、 現 代 政 治 及 び 先 住 民 文 化 に 関 す る 資 料 収
集 を 実 施 し た 。報 告 者 の 研 究 課 題 は 現 代 政 治 で あ る が 、そ の た め に は 政
治 文 化 の 理 解 が 不 可 欠 で あ る こ と か ら 、全 人 口 の 半 数 近 く を 占 め る 先 住
民に関する資料は重要である。
そ の 他 の 訪 問 地 で は 、観 光 業 や 小 売 店 の 従 業 員 、或 い は バ ス で 乗 り 合
わ せ た 運 転 手 や 乗 客 な ど 、現 地 住 民 に 対 し て 、現 状 に 対 す る イ ン タ ビ ュ
ーを行った。その中の一人、アレキパ市で小売店に従事している
Virginia 氏 に 対 す る イ ン タ ビ ュ ー で は 、 8 0 年 代 以 降 の 全 て の 大 統 領 に
対 す る 不 満 を 漏 ら し て お り 、強 い 政 治 家 不 信 が う か が え た 。こ の こ と か
ら 、伝 統 的 政 治 ア ク タ ー に 対 し て 不 信 感 を 抱 い て い る の で は な い か と い
う報告者の推察が裏付けられた。しかし、いわゆる「アウトサイダー」
に 対 し て も 不 満 を 持 っ て い る と い う こ と か ら 、「 ア ウ ト サ イ ダ ー 」 に 対
す る 更 な る 分 析 の 必 要 性 を 痛 感 す る こ と と な っ た 。プ ー ノ で 運 転 手 を し
2
て い る Lucho 氏 に 対 し て イ ン タ ビ ュ ー を 行 っ た と こ ろ 、彼 は フ ジ モ リ 派
で あ る こ と が わ か っ た 。こ れ に よ っ て 、貧 困 層 が フ ジ モ リ 派 で あ っ た こ
とを確認することができた。
ま た 、ク ス コ 市 内 の 最 高 級 ホ テ ル で あ る モ ナ ス テ リ オ ・ デ ル ・ ク ス コ
で マ ネ ー ジ ャ ー を 務 め る 、 Rocío Sole s 氏 に イ ン タ ビ ュ ー を 行 っ た 。 彼
女 は 第 二 次 フ ジ モ リ 政 権 期 に 言 論 が 統 制 さ れ 、ト レ ド 政 権 期 に は 言 論 の
自 由 が 保 障 さ れ て い た こ と に 注 目 し 、前 者 を 権 威 主 義 的 、後 者 を 民 主 主
義 的 で あ る と 捉 え 、フ ジ モ リ 以 後 の 政 権 に 対 し て 一 定 の 評 価 を 与 え て い
た 。 一 方 、 ク ス コ で 同 じ 観 光 業 に 従 事 す る Ruth 氏 に 対 し て も イ ン タ ビ
ュ ー を 行 っ た 。彼 女 は Soles 氏 よ り 貧 し く 、現 状 に 対 す る 強 い 不 満 を 漏
ら し 、変 化 を 求 め る た め に 抗 議 活 動 を 行 う べ き で あ る と 考 え て い た 。歴
代 の 大 統 領 に 関 し て も 不 満 を 訴 え て お り 、現 在 の ガ ル シ ア 政 権 が 発 足 し
たことについては、優れた候補者の不在を理由に挙げていた。
以 上 の よ う に 、短 い 期 間 で は あ っ た が 、IEP や ペ ル ー ・カ ト リ カ 大 学 な
ど を 訪 問 し 、様 々 な 研 究 者 や 院 生 と 意 見 交 換 を 行 う こ と で 自 身 の 議 論 を
深 め る こ と が で き た 。ま た 、 地 方 視 察 を 行 う こ と で 、 地 元 の 人 々 と 交 流
し 、現 状 を ど の よ う に 捉 え て い る の か と い う こ と の 一 端 を 観 察 す る こ と
が で き た と 思 わ れ る 。今 後 の 研 究 を 進 め て い く 上 で 、今 回 の 調 査 は 重 要
なものとなった。今回遅野井教授より紹介を受けた研究者の方々とは、
今 後 も 交 流 を 続 け 、将 来 的 に は 筑 波 大 学 へ の 招 聘 を 進 め て い き た い と 考
えている。
3
「日本・中央アジア学生知的交流会議」についての報告
「日本・中央アジア学生知的交流会議」についての報告
2008 年 3 月 18 日(火)
、ウズベキスタン日本人材開発センター(タシケント市)において、筑波
大学人文社会科学研究科インターファカルティ教育研究イニシアティヴ(IFERI)、タシケント国立
東洋学大学、ウズベキスタン日本人材開発センターの共催による「日本・中央アジア学生知的交流
会議」が開催された。
この会議は、「文明間の対話」をキーコンセプトに据えながら、人類が直面している諸問題につ
いて、学生の立場から真剣に議論することを目指したもので、IFERI プログラム生が中心となり、
タシケント国立東洋学大学の学生と協力して企画・運営された「異文化間学生対話」という取り組
みである。
昨年 12 月にこの会議の企画が立ち上がり、準備を開始した。ウズベキスタン側学生との会議の
打ち合わせは電子メールで行い、ウズベキスタン到着後、3 月 15 日(土)にタシケント国立東洋学
大学内の教材開発ルームにて、日本側とウズベキスタン側の発表者が初めて顔を合わせて打ち合わ
せを行った。この際、会場の配置や進行の仕方について話し合い、詳細を詰めていった。このよう
な会議は、初めての経験で不安ではあったが、なんとかして成功させたいという気持ちがあらわれ
た熱心な打ち合わせになった。
当日は、ウズベキスタン日本人材開発センターの協力の下に、会場設営・準備が行われた。
定刻の 12 時には、70 名収容の会場が満員の参加者で埋め尽くされ、立ち見がでるほどの盛況で、
確認できただけで 84 名の参加があった。
会議は 2 部に分かれ、第 1 部では4つのテーマごとに発表が行われ、茶話会を挟んで、第 2 部で
はテーマごとに討論が行われ、それぞれ非常に真剣な議論が交わされた。
学生会議の内容は以下の通りである。
★ 開会の辞
青木 三郎(人文社会科学研究科教授、IFERI 運営委員長)
★ 基調講演
沼田 善子(人文社会科学研究科教授)
「文法と意味-「だけ」
「ばかり」
「まで」「など」を例に-」
★ セッション
セッション1「文化と
1「文化とアイデンティティ
1「文化とアイデンティティ」
アイデンティティ」
TSAY Marina(地域研究研究科修士課程)
OLKHOVSKAYA Julia(タシケント国立東洋学大学)
グローバル化が進んでいる今、異なる背景の人が共存できる社会が求められている。その社会の
モデルとしては多民族国家が挙げられ、その社会の各民族の歴史、文化や言語が保持されることに
より各人のアイデンティティが形成されていく。そこで、ほぼ単一民族とされる日本人と多民族国
家であるウズベキスタン人が持つ文化的アイデンティティはどのようなものなのか、そして共生社
会を築くには何が必要なのかを考えた。
この発表では、ウズベキスタンにおける朝鮮人のアイデンティティについて話を進めていった。
ロシア語が母語となり、文化がロシア・ウズベキスタン・朝鮮の混合である朝鮮系ウズベキスタ
ン人は、自分のアイデンティティをどのように意識しているのかが発表の中心となった。
ウズベキスタン側の発表者もウズベキスタンの朝鮮人、タタール人について発表した。
1
テーマ別討論では、ロシア、ウズベク、タタール、朝鮮系等が入り混じったグループで議論を進
め、子供の頃から様々な民族に囲まれながら育ったウズベキスタンの人にとっては、民族の違いは
重要ではないということに改めて気付かされた。自分がある民族に帰属するという意識を強く持つ
のと同時に、皆が同じ人間であり、コミュニケーションや個人の友情に民族の違いは関係ないとい
うことを忘れないことが大切である。
★ セッション
セッション2「共生社会の実現」
2「共生社会の実現」
入山 美保(人文社会科学研究科博士課程)
MAKHMUDOVA Nilufar(タシケント国立東洋学大学)
日本の総人口に占める外国人登録者の割合は,1.5%だが、日本は徐々に「多言語社会」になっ
てきている。しかし、日本人がその準備ができているかというとそうではない。ウズベキスタンは
日本と違って「多民族、多文化、多言語」がすでに共生している社会である。
日本側の発表では、今回の会議を通して、「多言語社会」を迎えるにあたって、どのような準備
が必要なのかを草の根レベルで考えていくことを主な目的とした。
ウズベキスタン側は、主に多言語社会の中にある言語の問題について取り上げた。
130 以上の民族が住むウズベキスタンの憲法では、教育は 7 つの言語(ウズベク語、ロシア語、
カラカルパク語、タジク語、カザフ語、キルギス語、トゥルクメン語)で行われるように定められ
ている。その地に住む学生にとっては、「多言語社会」は当然のこととしてとらえられているが、
今までこのような問題について深く考えたことがなく、このテーマは新鮮に写ったようである。
「多
言語社会」であるが故の問題点まで掘り下げて討論できなかったことが残念であったが、自分の所
属する社会を客観的にとらえる 1 つの契機になったのではないかと思われる。
★ セッション
セッション3「科学技術とヒューマニティ
3「科学技術とヒューマニティ」
3「科学技術とヒューマニティ」
益田 岳(中央アジア国際連携センター非常勤研究員 所属は当時のもの)
MUTALOV Abduhamid(タシケント国立東洋学大学)
日本側は「技術の持続的発展-西陣織から Nintendo-Wii まで」の題で、6 世紀に日本に伝えら
れた伝統的な工芸品である西陣織が、昔そのままの技術を用いるのではなく、時代の風雪にさらさ
れながら、常に新しい「技術者の創意工夫」によって継承されてきたこと、そしてその創意工夫は、
新しい日本の技術の産物である Nintendo-Wii にも活かされていることを発表した。
ウズベキスタン側の発表は、現代社会の科学技術の進歩が人間に与える影響についてであった。
新しい技術を開発する際に、その技術は果たして人間の心や活動にもたらす影響まで考えて開発さ
れているのか。また、最近世界の大都市ではストレスから、精神的な病を抱える人々が増えている
が、科学技術の進歩は本当に人々の幸福に役立っているのかという問題提起がなされた。
★ セッション
セッション4「開発経済と社会発展」
4「開発経済と社会発展」
田中孝始(地域研究研究科修士課程)
MUSAEV Davron(タシケント国立東洋学大学)
日本側は、明治期に西洋列強の知識や技術を取り入れ、近代化を進めるために外国語学習が行わ
れたことを紹介し、当時の外国語学習の動機と外国語学習を通じての社会発展について発表をした。
また、官公庁や諸機関の報告書を基に日本の人口動態を紹介し、少子高齢化による労働人口の減
少から外国人労働者が必要とされ、日本が未だかつて経験したことのない「多言語・多文化共生社
2
会」が、近い将来到来する可能性について発表した。
ウズベキスタン側は、首都の治安の安定や人口の都市集中を防ぐためにウズベキスタンで行われ
ているタシケントへの滞在制限についての発表だった。政府によるこのような内政上の制限と国民
の自由との兼ね合いなど、その功罪についての考察がなされた。
テーマ別討論では、ウズベキスタンの人口動態は日本とは正反対で若い層が多く、より良い職を
得たいということが外国語を学習する主な動機であること、ウズベキスタンでは、これも日本とは
逆に、ロシアやカザフスタンなどのロシア語圏へ出稼ぎ労働者として行く人が多いこと、多言語・
多民族社会をウズベキスタンの学生達は当然のように受け入れているが、ウズベキスタンの多言語
社会の下で、共通のコミュニケーションツールであるロシア語が非常に重要な役割を果たしている
ことなどが話題となった。日本が本当に「多言語社会」になった時に、日本語はウズベキスタンに
おけるロシア語のように、多言語社会を結びつけるコミュニケーションツールになり得るのか、そ
してその為にはどうしていくべきかについて考える契機となった。
★ 茶話会
松田妃佐子(芸術専門学群)
日本の代表的な食べ物である「梅干」「とろろ昆布」「鰹節」「納豆」を使用した簡単な日本食を
作り、ウズベキスタンの学生に紹介した。ウズベキスタン側も伝統的なウズベク料理「スマラック」
「チャクチャク」等を作ってくださり、食の文化交流をしながらの歓談となった。
また、折り紙講座を設けて、日本の伝統的な遊びを紹介した。
★ 各セッションごとにテーマ別討論
★ 閉会の辞
KARIMOV Akramdjan(タシケント国立東洋学大学教授 極東・南アジア言語学部長)
この会議は日本語学を専攻する学生が中心だったため、日本語を作業言語として行われた。日本
語がわからない参加者のために、ロシア語やウズベク語で通訳を行い、発表原稿も翻訳して配布し
た。
ウズベキスタン側の学生は、議論に必要な日本語能力が十分であることはもちろん、論点や論理
展開においても非常に洗練されていた。
短い時間だったにもかかわらず、会議に参加したすべての学生が、テーマ別の各セッションにわ
かれ、議論を深め、なんらかの合意にたどりつけたことは、日本側、ウズベキスタン側双方にとっ
て大きな満足感をもたらした。
KARIMOV Akramdjan 教授も通訳をつけて会議の各テーブルの議事進行を見守っていた。閉会の辞
では、ウズベキスタン側の学生達が、日本の大学院生相手に日本語で対等な議論を展開しているこ
とに強い感銘をうけたと述べていた。
日本語講座の教師からは、この会議が卒業論文を抱えている 3、4 年生にとって日本語による研
究発表とはどういうものかを体験できる貴重な機会となり、大いに刺激を受けたとの声も聞いた。
日本とウズベキスタンの学生がお互いに問題を設定して議論し合う機会をもてたのは、画期的な
ことであった。現代は、民族や国家を越え地球規模で私たちの世界を考えなくてはならない時代で
ある。「文明間の対話」をキーコンセプトに開催されたこの会議を通して、お互いをよりわかり合
い、様々な問題に取り組んでいけるよう、今後も継続して対話を進めていきたい。
3
IFERI 研究構想
『国家における周縁文化の不可視性 -被差別部落を事例として-』
国際公共政策専攻 1 年次
久保朋江
被差別部落の文化は、現実にも歴史叙述においても、主流社会の語りからは常に排除さ
れてきた。現在では、被差別部落の存在すら知らない世代も出てきている。被差別部落は
今日、ますます見えなくなっているといえるだろう。しかし被差別部落が「見えにくくな
った」ということは、被差別部落が「なくなった」ことを意味するのではない。被差別部
落が存在し続けているにも関わらず、その実態が「不可視」だということは、人々がその
存在に対していかに「目を逸らして」生きているのかを指し示しているといえよう。つま
り被差別部落が「見えない」ということは、その状況が静的で自然なのでは全くなく、そ
の存在を「見えなくする」何かしらの力が働いた状態なのである。本研究では、被差別部
落の人々の生き様が主流社会に浮かび上がらないという現状を、そこに働く力学を分析す
ることによって考察してゆく。
被差別部落は、現代の伝統芸能の源流がそこに見出せるように、豊饒な文化がそこには
ある。芸術や芸能のみならず、被差別部落民の生業が多様な文化として存在している。た
とえば部落産業のひとつに食肉産業がある。そして、その産業が「屠場文化」と呼ばれる
ように、被差別部落の人々は、牛や豚、馬などの屠蓄・解体を担ってきた。しかし、この
「屠場文化」こそ、主流社会から排除された「不可視」な文化だといえる。
現在の日本社会では、魚市場は頻繁にテレビ番組や雑誌の特集記事に取り上げられる。
しかしそれに対し、食肉市場がメディアに現れることは比較的少ない。たとえば今日の「築
地」は、日本文化を代表するものとして、多くの人が訪れる観光地となっている。だが、
現代の日本人の食生活を見ればわかるように、魚文化だけが日本の文化であるとはもはや
いえない。デパートなどで行われる「まぐろの解体ショー」が人を集める一方で、牛や豚
の解体作業に目を向ける人はほとんどいない。
日本社会には、被差別部落は差別と深く結びつくため、「部落」という言葉を公で発言す
ることが憚られる緊張感がある。そのため「下手なことを言ってはいけない」という意識
が先行し、人びとは被差別部落に対して目を向けることや語ることを回避しようとする。
「差別をなくそう」と人権の尊重が声高にうたわれる現代では、なおさらこの傾向は強ま
る。それゆえ被差別部落は語ってはいけない「タブー」なものとなり、その存在は公式な
場には現れなくなる。しかしその結果、インターネットのサイバー空間といった非公式な
場で「部落」という言葉が非常に差別的な内容とともに現れているのも現実である。
以上のとおり本研究では、現地調査や言説分析をもとに被差別部落の実態を考察するこ
とによって、国家の主流社会のなかで周縁文化がいかに「見えないよう」位置づけられて
いるのかを明らかにする。
20 世紀初頭の中欧とパン・ヨーロッパ運動—人物史から構成する国際関係史
学籍番号:2008201266
氏
名:前田洋平
本研究の主人公であるリヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーは 1894 年 11 月 17 日東
京に生まれた。父親はハプスブルグ帝国の代理公使のハインリッヒで、母親は青山みつこ
という日本人だった。
1913 年にウィーン大学で博士号を取得したリヒャルトは第一次世界大戦後、「ヨーロッ
パの分裂した二十六の民主国家」を統一することで、ヨーロッパの平和を獲得しようとい
う「パン・ヨーロッパ」の実現を夢見る。当時、まだ 30 歳にも満たないこの青年は、この
思想の実現のためにかつてのハプスブルグ帝国伯爵という人脈を生かし、政治家、文化人
など欧米の上流階級の人びとと接触し世界規模で「パン・ヨーロッパ運動」を展開する。
その運動の影響は著大で、運動開始から 20 年後にはイギリスのチャーチルをはじめ、アメ
リカのトルーマンらの支持を受けるまでに至った。その他にも、トーマス・マンをはじめ
とする文化知識人もこの運動に参加し、支持を表明している。にもかかわらず、現在、リ
ヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーの名を知るものはわずかしかいない。それは、な
ぜか。本研究は歴史を新たな視点から読み替え、再構築するによって、その理由の一端を
解き明かすことを目的とするものである。
歴史を扱うにあたっては、いわゆる国際関係史と呼ばれる国家単位の歴史のみならず、
運動に関わった人間一人ひとりの個人史にも焦点を当てる。思想は、それを実現しようと
する個人によって捉え方が様々だからである。リヒャルトの崇高な理念も例外ではなく、
その崇高さゆえ、多くの権力者に利用され、政治の道具とされた。たとえば、ベニート・
ムッソリーニやヒトラーの右腕であるヨーゼフ・ゲッペルスはパン・ヨーロッパ主義を表
明することで、自らの侵略戦争を正当化したのである。このように、思想が現実に降臨し
た場合にどのように実現化されるのかは、当時の社会の状況やその思想を取り巻く人間関
係などが大きく左右するのだ。
本研究は、そうした個人、社会についての考察に重点をおきながら、パン・ヨーロッパ
運動の歴史の再構築を目指すものである。
「ノルウェーの児童文学における子どもと大人の関係に関する研究」
研究構想
現代語・現代文化 1年 北川直緒
本研究の目的は、ノルウェーを中心とした第二次世界大戦以後の北欧の児童文学に描かれた子どもと
大人の関係の変化を、文学・文化史的、歴史的、社会的な観点から探ることにある。また同時に、児童
とそれをめぐる文化環境が変動している現在、社会の中で児童文学が担っている諸機能を明らかにする
ことにある。この研究を遂行するために、歴史や社会、家族をめぐる環境など様々な側面での知識を深
めていきたいと考えている。
1)研究対象・目的
1990年に国際アンデルセン賞を受賞したノルウェーの児童文学作家トールモー・ハウゲン(Tormod
Haugen)による『夜の鳥』(1975)は、両親の不和、別離から崩壊していく家族と、そこで初めて浮き
彫りにされる子どもと大人の生々しい剥き出しの姿が描かれた作品である。この作品は第二次世界大戦
後の、「家族」「子ども」「大人」のあり方の変化を、北欧の社会問題を絡めながら色濃く映し出した
作品であり、子どもとは何か、大人とは何か、という関係を真剣に考えようとしてこなかった社会に、
鋭い批判的な視線を投げかけている。
修士論文では、この『夜の鳥』とその続編にあたる『少年ヨアキム』を中心にしながら、ハウゲンの
諸作品と他のノルウェー児童文学作家の作品を対象に研究し、北欧の児童文学における子どもと大人の
関係の描かれ方の変化と、『夜の鳥』が与えた社会的影響を明らかにする。
2)作品分析
ハウゲン等の作品に登場する人物の家庭、友人、学校との関係を、文芸学的、児童心理学的、社会学
的なアプローチで多角的に分析していく。
3)作家研究
1945年生まれであるハウゲンを中心に、作家の生い立ちが作品に与えた影響を、文学以外の資料(雑
誌、新聞など)から分析し、同時にまたノルウェーにおいて直接資料を収集しながら、時代背景や家庭
環境、人生観などを探る。
4)作品に描かれた時代・社会の分析
1970年代から80年代にかけてのノルウェーの政治、経済、それに伴う社会の状況を考察し、それらが
この作品にどのような影響を与えているのかを現代史的、社会学的側面から総合的に明らかにする。
5)受容に関する比較研究
ハウゲンの作品が本国においてどのように評価され、影響を与えたかについて探る。同時に、国際ア
ンデルセン賞を受賞するにいたった経緯も分析する。次に70年代の北欧の児童文学が日本でどのように
受容され、日本の児童文学作家にどのような影響を与えたかに関して、ノルウェーと日本の子ども観、
大人観の違いや、社会・文化環境の違いに着目しながら明らかにする。
大学院教育支援プログラム「新領域開拓のための人社系異分野融合型教育」
Inter Faculty Education & Research Initiative
平成 20 年度研究構想
研究題目「アフリカのフランコフォニー形成と複数言語文化主義の実態研究」
宮川 宗之
人文社会科学研究科 文芸・言語専攻 フランス語学領域
博士課程一年次
元来、植民地政策の副産物であったところのフランス語が、アフリカ各国の独
立後に地域・国際共通語としてのフランス語圏 (francophonie : フランコフォニー) とい
うものを生み出し、現在では OIF(Organisation Internationale de la Francophonie : 仏語圏
国際機関)をはじめ多くの国際組織によって推進されるものになっています。その背景
には世界のグローバル化や近代化といったものがあり、当事者側にとっては国際社会に
通用する言語をもつ、ということのメリット、またグローバリズムというものが言語・
文化的には英語一辺倒になりがちであるという現状に対して、非英語圏からのひとつの
アプローチであると考えることができます。
しかしながら、アフリカにおけるフランス語も元来は土着の言語というわけで
はなく、ある意味強制されて習得したものです。つまり、そこには何がしかの軋轢が生
まれる可能性があります。そして当研究では、そのような諸問題に関して言語学的なア
プローチを試みることに主眼があります。すなわち、今年度は対象をまず北アフリカの
主要なフランコフォニー国であるチュニジアに限定し、当地でのフランス語使用の実態
がどのようなものであるのかを探ります。
チュニジアにおいてはアラビア語が公用語でありますが、フランス語も広く使
用されています。まず母語としてのアラビア語が初等教育の中で主に使用されています
が、その後中等教育ではフランス語による授業の割合が増え、高等教育においては、フ
ランス語の占める割合は大きなものになっています。しかしながら同時に、1956 年の独
立以来アラブ語化の推奨が公的になされているという、明らかに複雑な関係を持ってい
ます。そして全体としてみると緩やかに複数言語という状態が機能している。そこには
単純な伝統と近代化という単純な二項対立に収まりきらない言語状況があり、それを一
つのモデルケースとして詳細に検討することを目的としています。
「共生のための言語政策モデルの構築―キルギス共和国を事例として―」
人文社会科学研究科 国際地域研究専攻 1年
小田桐 奈美
Ⅰ.問題意識
旧ソ連の解体によって生まれた国家は、「民族化する国家」(nationalizing states)と呼ばれ、各国の国
名を冠する民族(名称民族)中心の国家運営が進められつつある。
独立に先立つ1989年、キルギス語は国家語の地位を獲得し、その発展が目指されることとなった。ソ連時代
には「民族間共通語」としてのロシア語が確立され、教育、行政等のあらゆる領域においてロシア語が権威あ
る言語として機能した一方、キルギス語は文章語としての歴史が浅く、その地位は低かった。
しかし、従属的な地位に甘んじていた「民族語」であったキルギス語が、「国家語」として定められること
により、独立国家としての象徴的な意味を担い、特に1991年の独立以降共和国内の他の民族にもキルギス語で
話すことを要求するようになった。
このように、キルギス語の発展を推進しようという動きが見られるが、キルギス共和国は他の中央アジア諸
国に比べ、民族化の度合いは緩やかである。現に他の民族への配慮から、ロシア語を公用語として定め、ロシ
ア語で話す権利を保障している。しかし、ロシア語公用語化の背景は、積極的な理由というよりは、寧ろやむ
を得ないという側面の方が大きく、排他的な民族化の危険性は排除できない。
実際に、ロシア系住民だけではなく、他の民族への排外的な動きも現れている。例えば、キルギス政府当局
のウズベク語への警戒心は益々高まっている(ウズベク人はロシア人の割合を超え、第二の民族となった。)
また、名称民族中心といっても、「キルギス人」自体が決して一枚岩で動いているという訳ではない。民族
主義的な様相を見せつつ、キルギス語の発展と権利の拡大が求められる場合がある一方、「キルギス語を話さ
ないキルギス人」も多数存在し、彼らに対する批判もある。
このように、キルギス共和国における言語状況は、単純な「名称民族」対「マイノリティー」という構図だ
けでは捉えきれないのである。キルギス語が使用者数の点では“majority”であるにもかかわらず、教育や行
政等の場における機能の点では未だ“non-dominant”であること、逆に、ロシア語が人口学的には“minority”
であるにもかかわらず、社会の重要なコミュニケーション領域では未だ“dominant”であるという複雑な要因
も存在する。さらに、地域差、社会的地位、年齢、民族等もこれに関連してくる。
このような複雑な状況の下、キルギス政府による民族化政策路線の一環としての国家語政策は、行き詰まり
を見せていると考えられる。つまり、民族主義者の「キルギス人はキルギス語を話せ」、「キルギス共和国に
居住するキルギス国民なら、民族を問わずキルギス語を話せ」といったスローガンが飛び交う一方、現実には
ロシア語なしにはやっていけないという悲観論に覆われており、身動きが取れない状況にある。
そこで、「共生社会」という観点から、それを打開しようというのが本研究の試みである。急速に民族化す
る旧ソ連の国々の中で、キルギス共和国はいかにして多民族の共生を実現できるかという問題を、従来の言語
政策論の枠組みを超えて検討することを目指している。本論文では、多民族共生社会を実現するための一つの
手段として言語政策を位置づけ、その展望を論じる。
Ⅱ.論文の構成、研究方法
①「共生社会学」の観点から「共生」を定義し、その上でキルギス共和国の言語状況を踏まえた「共生」とは
何かを検討する。
②キルギス共和国の現行の言語法成立の背景および言語法の条項を整理、考察する。
③言語法の内容を「共生社会の実現可能性」という観点から批判的に分析、評価する。
④他の中央アジア諸国の言語政策の事例を取り上げ、キルギス共和国との共通点と相違点を明らかにする。
⑤キルギス共和国において、インタビュー調査を行う。(キルギス共和国南部に居住するウズベク系住民、地
方出身のキルギス人、「キルギス語を話さないキルギス人」等)
⑥結論
先進資本主義諸国における「精神世界」の包括的研究
―─大衆文化・メディア空間・ニューエイジ─―
A Comprehensive Study of "the Spiritual World" in Advanced Capitalist Countries:
Popular Culture, Media Space, ew Age
哲学・思想専攻
今井 信治
● 研究背景と課題
研究背景と課題
1960年代以降、宗教社会学分野において宗教の世俗化が議論の的となっているが、今日、この
概念は宗教の拡散化と言われる状況の中で更なる混迷に陥っている。宗教の拡散化とは、たとえ
ばオカルトや占い、「癒し」ブームに見られるように、教団や儀礼のような宗教の構成要素が後
景化し、宗教的な主題が個人の中で消費される状況を指す。このように、宗教組織の存在抜きで
個々人に内面化された宗教的なるものを、T. ルックマンは「見えない宗教」と呼んだ。
本研究は特定の宗教組織に拠らない領域に焦点を当てたものである。それは時として類似宗教
や疑似宗教と呼ばれる文化や運動であり、明示的な組織あるいは中心性を有さないが故に可視化
されにくい。こうした領域を生きる人々のリアリティは如何にして担保されているかが本研究の
課題である。いわば宗教の「周縁」を丹念に辿ることにより、近代社会において宗教がただ撤退
したのではなく、その主題が断片化・拡散し、そして取捨選択の後に浸透していることが示され
るであろう。
● 研究範囲および対象
宗教社会学の鼻祖の1人とされるデュルケーム以来、宗教の主要な機能は共同体の統合にある
とされてきた。しかし今日、とりわけ先進資本主義諸国においてはマッキーヴァーが論じるよう
な「地縁」による共同体は鳴りを潜めている。現代ではむしろ、ジャーゴンや特定の知識を共有
することによって喚起される共同社会感情の重要性が増進したと考えて良いだろう。
本研究ではこうした宗教の機能的側面に着目し、まずは大衆文化の中から日本の「オタク文化」
と呼ばれるものを対象としている。宗教と大衆文化では火と油のように交わらないように思われ
るが、「オタク文化」のコンテンツには伝統宗教から題材を借用したものが多く、またイベント
群およびその開催地に対しては「祭り」や「聖地」といった宗教的語彙が多用される。そして「地
縁」によらない多種のメディアを媒介として起こる共同社会感情の生起を見ると、「情報縁」と
呼べるもので選択的に他者と繋がる人々が描出される。個々人のニッチな、しかし強烈な関心を
充足するためのインフラは、双方向性の高いメディアが徐々に浸透していくことで整いつつある。
個々人のリアリティを担保するために不可欠な「重要な他者」の存在は、今日「情報縁」の中に
も求めることが出来よう。また、その「情報縁」の基となるインターネットは、開発当初、万人
に平等なコミュニティの創成を目指すニューエイジ運動と交わって発展していった。「カリフォ
ルニアン・イデオロギー」と呼ばれるそれは、反機械文明を標榜するニューエイジの潮流とは異
なった展開を見せ、今でも科学と宗教との結節点としてみなすことが出来る。そのために「カリ
フォルニアン・イデオロギー」は「ハイブリッドな宗教」と評されるが、ニューエイジの特徴と
される組織や中心を持たないアノニマスな思潮であることは疑いない。
宗教の「中心」から遠ざかるニューエイジ運動と、断片的な宗教資源の借用や宗教との構造的
類似から宗教へと近付く大衆文化とは、情報技術や消費のコンテクストにおいて宗教の「周縁」
で出会う。ベクトルの異なる両者の検討から、教団・組織に依拠したいわゆる「教会志向型宗教」
が後景化した世界で個々人が抱く「見えない宗教」の実態を明らかにしたい。
研究の展望
2008/06/28
発表題:戦後の言論界を中心とした昭和期日本の政治・社会・文化システムの変遷
発表題:
―福田恆存の「批評」を事例として―
人文社会科学研究科
国際日本研究専攻 3 年
古田 高史
1. 学術領域
「文学」
「思想史」→「国際日本研究」
本研究は,
「文学」
,
「思想史」研究における人物研究を土台に,戦中・戦後の福田恆存の軌跡を追うもの
である。さらに,同時代の中での位置づけや外国の知識人との比較という視点を加えることで,福田の生
きた昭和期日本の社会構造の特色を描き出すことを目的とする。以上のように,
「文学」
,
「思想史」研究を
出発点に,単なる人物研究や抽象的な日本論に留まらない「国際日本研究」領域の創造を目指している。
2. 「福田研究」
福田研究」の意義
昭和期日本における「文学」のありよう→社会構造の理解へ
① 外国文学受容の問題
福田は,シェイクスピアの翻訳者として知られている。また,彼は卒業論文以来,D.H.ロレンス
研究を続け,日本の「チャタレイ裁判」においては,特別弁護人を務めた。こうした英文学受容
から,福田が何を得たのかは未だ明らかにされていない。
② 「政治と文学」論争での独自性
福田は,終戦直後の「政治と文学」論争において,
『新日本文学』
,
『近代文学』の両派とは異質
な議論を展開した。それは,
「政治と文学」の「二元論」という発想である。i福田の「政治と文学」
論は,
「文学」の「自律性」を確保しようとするものであった。しかしながら,このような福田
の主張は十分に理解されているとは言えない。
③ 「文学論」/「政治・社会評論」
先行研究において指摘されている通り,福田の「文学論」に対する評価と「政治・社会論」への
評価にはズレがある。iiこうしたズレは,彼の内面から考察した時にも見られるものなのか。この
点には,福田の生きた昭和期日本の社会構造が関係しているはずである。
3. 研究構想/
研究構想/今後の展望
福田恆存の戦中・戦後
福田恆存の戦中・戦後
本研究では,福田の「文学」とは如何なるものかを,彼の戦中・戦後の軌跡を辿りながら,明らかにし
ていく。
①
戦中期における「批評」の「形成」(~1945 年)
⇒「近代日本文学」
,更には日本の「近代化」への問題意識→唯美的な「文学」観iii
② 「戦後文学」の出発点での「批評」の「成立」(1945~51 年)
⇒「文芸批評家」としての福田恆存
③ 「チャタレイ裁判」
,国語問題,平和論,演劇などへの「展開」(1952 年~)
⇒「保守系知識人」という福田像
以上のような「形成」
,
「成立」
,
「展開」過程の中で,福田の「文学」が,時代状況の中で如何に変わり,
彼の「政治・社会評論」など戦後の諸活動につながるのか。各論文の初出誌(紙)におけるコンテクストを
踏まえた考察をしていきたい。そのため,日本近代文学館などでの資料収集を行う予定である。
i福田恆存「一匹と九十九匹と―ひとつの反時代的考察」(『思索』1947 年春季号)
『福田恆存全集』
,文藝春
秋,1987 年,第 1 巻。以下,
『全集』と略記。
ii 坪内祐三「批評家の書いた『文芸批評』
」(坪内祐三編『福田恆存文芸論集』(講談社文芸文庫)講談社,2004
年)
iii「傍観と観察と受容とではなく,伝統をになふもののひとりとして,また同時代の社会の一員として,そ
れ(「文学」―発表者註)は他我と相渉らうとする行為であり,常住さうした日常生活の完成をこころがけつ
つ,しかもこの日常性のうちに人間性と社会性とを生かしきることに自己の生活の主題を見いださうとす
る態度―これはたしかに新しい,いや,もつとも古い芸術家概念であるといはねばならない。」福田「素材
について」(『文學界』1943 年 12 月)『全集』
,第 1 巻,514 頁。下線は引用者による。
マス・メディアと政治
―商業化と政治規制の板挟みになった中国型のマス・メディアを探る―
Mass Media and Politics: How China’s Mass Media Survive the Dilemma of
Commercialization and Political Control
王
冰(Wang Bing)
1.研究の課題
本研究は異なる政治体制下のマスメディアの仕組み、報道活動を研究対象とするものである。1978年に
改革開放政策が導入されて以来、中国社会は激変してきた。社会の様々な分野が市場経済化の波に呑み込
まれ、かつての国家主導の計画経済から脱皮しつつある。こうした背景を踏まえ、本研究は中国のマスメ
ディアの市場化に着目するものである。
中国のマスメディア研究は、過去数十年間、専らソビエト共産主義の枠組で展開されるものが多かった。
しかしながら、改革開放以降、変容を遂げつつある中国のマスメディアを研究対象とする場合、かつての
ソビエト共産主義の枠組を乗り越え、中国型のマスメディアの実態を把握するのは大きな研究価値がある。
本研究は中国のマスメディアに留まらず、日本や米国などの自由民主主義国家と、社会主義から民主主義
へと転換した東欧諸国との様々な政治的パターンにおけるマスメディアの位置づけを比較しながら、商業
化と政治規制の板挟みになった中国のマスメディアの置かれた状況をできる限り探ってみたい。
2.研究の意義
政治コミュニケーション研究は最初はラザースフェルドをはじめとする社会学者が主導した研究であっ
た。その後1940年代から60年代にかけて社会学や心理学をベースにしたマスコミュニケーション研究が盛
んに行われるようになった。そうした研究は政治学全体から見ると選挙や投票活動といった一部の分野と
関連するものでしかなかったであろう。今日において政治コミュニケーション研究は政治におけるマスメ
ディア、宣伝、メッセージ、受け手及び周囲の政治的影響力、政府とマスコミの関係、社会運動、公衆討
論などまで研究の範囲を広げてきた。しかし、政治学において極めて傍流にとどまっている(蒲島、2007)。
また政治過程におけるマスメディアの影響力を扱った研究は選挙や政治意識を軸とするインプット(入力)
過程に関する研究が盛んである反面、アウトプット(出力)にあたる公共政策の形成・決定過程でマスメ
ディアがどう機能しているかに関する研究は著しく遅れている(岩井、1999)。それに対して蒲島(1986)
は「メディア多元主義」の理論を提出し、日本政治におけるマスメディアの中立性と役割を考察した。し
かし、異なる政治体制下の中国マスメディアを研究する場合、盛んになった選挙や投票活動に関連する研
究は当てはまらないため、別のアプローチで研究する必要がある。一党支配の政治体制下の中国では、マ
スメディアが当局の規制を受けていることが見逃せないため、政治と市場の板挟みにあるメディアのジレ
ンマの現状が本研究の最初の出発点である。それゆえ、こうした中国型のマスメディアの実態を解明する
ことが政治コミュニケーションにおいて重要な意味を持つと思われる。
3.研究内容
IFERIプログラムの支援を受けて、本研究は政治学とマスメディア分野の研究を融合した異分野研究を行
っていきたいと考えている。先行研究を踏まえ、異なる政治体制下のマスメディアを比較する分析枠組を
用い、中国型のマスメディアの実態を捉えるのを通じ、中国の政治システムをマクロなレベルで究明する
研究は決して十分に行われていない。さらにマスメディアの社会科学的研究アプローチを援用しながら、
グローバリゼーションの只中における世界共通の課題(食の安全、環境問題、知的財産権問題、ジェンダ
ー)に関する各国の報道検証を行い、その中から現代中国の政治システムをミクロなレベルで解明する研
究もほぼない。こうした現況を踏まえ、以下の二つの方向で研究を進めていきたい。
①中国のマスメディアを比較分析の枠組をもって考察する研究が未だに十分ではないと考えられる。こ
れから日本や米国などの自由民主主義国家のマスメディアと、そして社会主義から民主主義へと転換した
東欧諸国のマスメディアと比較することを一つの研究アプローチとする。 ②具体的なケーススタディを
行う際、グローバルな課題を選び、中国のマスメディアの報道に留まらず、様々な国のメディア報道を検
証する。これにより、現代中国の政治システムをグローバルな視点から浮き彫りにしたい。
研究構想
「朝鮮半島をめぐる『インテリジェンス研究』の新地平」
朝鮮近現代情報史の研究
人文社会科学研究科国際公共政策一年次
国際関係コース 松浦 正伸
What is Intelligence?
インテリジェンスとは情報の収集、加工、統合・分析・
評価・解釈などを行なう「情報活動」を表す語である。一
般的に、国家がインテリジェンスを求める場合、それは安
全保障政策を立案・執行するために必要な知識を意味し、
企業の場合には、行動・判断するために必要な知識を意味
している。そこにはインテリジェンスを提供する側(情報
サイド)とその受け手(カスタマー)がいる。
Delay in Intelligence research in Japan
近年、日本におけるインテリジェンスへの関心が高まっ
ている。最近では書籍のタイトルにも使用されるようにな
り、マスコミなども日本のインテリジェンスについて論じるようになった。また、日本国際政治学会
(2004)や軍事史学会(2005)などのアカデミニズムの場においても、インテリジェンス研究が発表さ
れている。
しかし、インテリジェンスに関して、日本ではスパイ・盗聴・暗殺など物騒なイメージが先行してい
る。また、今後の日本のインテリジェンスを考える上で、近現代、特に戦前の日本のインテリジェンス
活動を検証することの重要性が説かれ、以前より欧米の研究者などによって関連論文や書籍が出版され
てきたが、日本国内ではあまり言及されていない。その主要因として終戦時に情報関係史料の多くが破
棄されてしまったことが一般に挙げられるが、戦後の国内の風潮がそのような研究を許容してこなかっ
たことが根本にあると考えられる。
斯様な研究の立ち遅れが、戦前日本のインテリジェンスへの誤解を招き、現在でも特務機関や憲兵、
特別高等警察など、本来区別されるべきものを一括りにして議論される傾向がある。例えば、今後の日
本のインテリジェンスの話になると、
「米国型か、英国型か」という紋切り型の議論になりがちである。
我が国における近現代インテリジェンスの検証が急務であるといえる。
Object of This Research
一般的に、対外危機が顕在化する地域であるほど、インテリジェンス・リクワイアメント(情報要求)
はより一層大きくなる。本研究では、インテリジェンスの一般的理論として知られる『情報収集』
、
『情
報分析』、
『情報利用』の三点から近現代(1930~1970 年代)の朝鮮半島におけるインテリジェンス・ヒ
ストリー(以下、IH)の変遷について考察・検証を試みる。
戦前、日本の統治下にあった朝鮮半島は北方にソ連、西方に中華民国などの大国に隣接しており、国
境沿いを中心に朝鮮軍警のインテリジェンスが最も活発に展開された地域であった。戦後半島から日本
が引き揚げていくと、今度は異なる 2 つの政治イデオロギーにより、北緯 38 度線を境に朝鮮半島は南
北に分断された。この分断体制が朝鮮戦争、対南工作・対北工作、思想宣伝、拉致など、現在にまで連
なる政治的問題群に発展し、それに対する積極的なインテリジェンスが半島に関連する国家間で展開さ
れてきた。
IH の観点から見れば、通信情報というものは二十世紀前半の国際関係に多大な影響を与えた要因のひ
とつである。米国の第一次世界大戦参戦を決定付けた「ツィンメルマン事件」や、第二次大戦の帰趨を
大きく変えた「ウルトラ情報」などはその最たるものである。
朝鮮半島では、1932 年の満州国の建国以降、日・ソ両国の勢力圏が直に接する関係となり、両国では
旧ソ連領・沿海州に居住する朝鮮系住民を間者として育成し、競って互いの情報を集めさせるなどのイ
ンテリジェンスやカウンター・インテリジェンスが続けられていた。その結果、スターリンはインテリ
ジェンス保護の観点から、1937 年に同地の朝鮮系居住者を中央アジアの地へ強制移住させている。
このようにインテリジェンスは、国際関係の舞台にしばしば影響を及ぼす。このことが、インテリジ
ェンス研究を国際政治学、外交史など政治学的観点からの検討に押し留めている。斯様な状況に鑑み、
本研究では、既存の学問分野に基礎を置きつつ、シギントやイミントなどの情報学分野からの接近を試
みる。一次史料の収集には、韓国国家記録院、ソウル大学中央図書館、国防部などを利用する。
市町村における税制をめぐる政治過程:「地方政治経済学」の視点から
久保 慶明
現代文化・公共政策専攻3年次
1.
問題意識
地方分権の進展、道路特定財源の政策課題化などにより、地方自治体における税財政政策への
注目が高まっている。市町村における戦後の地方独自課税(超過課税・法定外税)の実施状況を
みると、法人住民税の法人税割の超過課税を採用している自治体数が現状維持あるいは漸増傾向
であるのに対し、個人税均等割、法人税均等割、固定資産税、法定外税の採用自治体数は減少傾
向にある。この持続と変化を説明することが主たる問題意識である。
具体的には、市町村レベルでの独自課税の実施状況を記述的に明らかにするとともに、政治的
要因・社会経済的要因との連関を明らかにする。これにより、「地方政治経済学」という学問領
域を開拓することを目指す。
2.
課題設定
第1に、政治的な要因あるいは社会経済的な要因が、いかなる租税システム(税制の採用・税率)
を生み出すのかを、定量的に明らかにする。1951(昭和26)年度から2007(平成19)年度までの、
市町村レベルにおける超過課税、法定外税を扱う。データは、総務省が1951(昭和26)年度から
各都道府県を通して実施している「市町村の税率等に関する調」である。独自課税の実施状況と
政治変数の連関を探る際の首長、議会に関するデータは、新聞記事や各種の統計を用いる。
第2に、税制改革が進展するプロセスを定性的に明らかにする。首長、議会、地方官僚、利益集
団、有権者、中央官僚など、政治的アクターの行動原理と、アクター間での言説に着目し、アク
ターの選択を規定する様々な制約条件との関係性を明らかにする。
3.
研究の展望
申請者が開拓しようとしている「地方政治経済学」という政策領域は、歴史的視点、定性的研
究による理論的観点、定量的研究と定性的研究の補完関係という、3つの点で新規性を持つ。
第1に、戦後約50年間を分析期間とすることにより、歴史的な視点を持って研究を進める。国で
はなく地方の側から分析すること、行政ではなく政治の視点から分析することによって、従来の
地方自治研究の間隙を埋める。同時に、実証的なデータに基づいて戦後の地方財政を論じること
を可能にする。
第2に、定性的研究による理論的な新規性を持つ。政治学と経済学・財政学の中間、あるいは政
治過程分析と公共政策分析の中間に位置する研究分野であった従来の政治経済学は、アクターの
行動原理とその制約条件を論じてきたものの、「制約条件」に関して体系性を欠いていた。経済
学・財政学の視点を導入することによって、「制約条件」を体系的に明らかにすることができる。
第3に、方法論的な新規性として、定量的研究と定性的研究を相互補完的に用いる点がある。定
量的な分析は、変数(要因)間の因果関係を明らかにすることに長けているものの、その因果メ
カニズムを明らかにすることができない。それに対して、定性的な分析は、変数間の因果メカニ
ズムを明らかにすることに長けているものの、一般的な因果関係を明らかにすることができない。
2つの分析手法を補完的に用いることにより、より立体的な研究を行なうことを目指す。
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