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第1章 アフリカ開発の初期条件:その歴史、国々、人間、生業
アフリカ研究会(2006 年度財務省委嘱研究会) 第1章 アフリカ開発の初期条件:その歴史、国々、人間、生業 神戸大学大学院 国際協力研究科 教授 高橋 基樹 1.アフリカの歴史と国々 (1)アフリカとアジアの違い 1990 年代後半以降、インドネシア経済が低迷するようになる前は、開発研究では、ナ イジェリアとインドネシアがしばしば比較されてきた。どちらも人口大国であると共に、 産油国であり、民族が多様であり、また、イスラームの影響が顕著である。いろいろな共 通点を抱えていながら、インドネシアは 1996 年までは表面的には優等生であった。その 一方のナイジェリアは「アフリカ型のオランダ病」に冒されてきたといってよい。「資源 の呪い~curse of resources~」を受けて、開発の最も遅れた国の一つになった。両国の 間に、なぜこのような違いが生じたのかが、開発研究の積年の重要なテーマだった。 ナイジェリアとインドネ 図1 GDP 成長率の推移-ナイジェリアとインドネシア 図1 GDP成長率の推移-ナイジェリアとインドネシア シアそれぞれの経済成長率 の推移をみると(図1)、 イ ン ド ネ シ ア は 1997 ~ 1998 年の落ち込みが極め 2002 2000 1998 1996 1994 1992 1990 1988 1986 1984 1982 1980 1978 1976 1974 1972 1970 1968 1966 1964 1962 て目立つが、それを除くと、 1960 30% 25% 20% 15% 10% 5% 0% -5% -10% -15% -20% 1960 年代から安定した成 長率を記録している。一方 ナイジェリア (出所)World Bank(2004)から筆者作成〔初出:高橋(2005)〕。 インドネシア のナイジェリアは、第一次 石油ショックの直前までビ アフラ戦争後の混乱の中にあったが、1970 年代になると、油価の高騰を受けて、極めて 高い経済成長を経験し、その後、1980 年代のオイル・グラットの際、成長率は、再度、 大きく低迷した。毎年の成長率が上下動し、その振幅も非常に激しい。 ナイジェリアはアフリカの典型的な姿である。輸出収入の大半を依存する鉱物資源は 国際市況に強く左右される。また、鉱業と共にアフリカ経済の柱を形成している農業は、 降水量など自然条件に依存している。このため、アフリカでは、外部環境の変化により、 成長率が大きく影響される。このことは、社会や経済を強く規定している。政府の財政、 あるいは、民間のビジネス、さらに、国民大衆、貧困な人々の生活も、国際市況や自然条 件によって、大きな影響を受ける。この不安定さそのものがアフリカ経済の停滞の原因で あるといえる。 1 アフリカ研究会(2006 年度財務省委嘱研究会) (2)アフリカの歴史と国々 アフリカは巨大な大陸であり、非常に多様性がある。アフリカを理解するには、現代 のアフリカだけをみていてはわからない、いくつかの特徴的な歴史的現象を知る必要があ る。 (イ)前近代のアフリカ A.バンツーの大移動 ナイジェリア、カメルーン近辺に住んでいたバンツーという言語を話す人々が数千年 をかけてジャングルを切り開き、農耕を広げていったという歴史がある。これがバンツー の大移動といわれる現象である(北川[2004a]参照)。現在、ケニアをはじめとした東ア フリカや、モザンビーク、ジンバブエといった南部アフリカ、さらに、南アフリカに至る まで、そこで農耕に従事している人々は、ほとんどがバンツーの子孫である。 鉄器を発見し、自分たちでこれを作れるようになった結果、ジャングルを切り開き、 開墾が可能になったことが、バンツーの大移動の最大の要因となった。バンツーの大移動 は、数千年の非常に長い期間にわたって行われた。それに伴い、地理的な移動はアフリカ 大陸内部に特徴的なこととなった。西ヨーロッパや東アジアでは、定住して灌漑農耕を行 ってきたことが歴史的特徴であるとすれば、サハラ以南のアフリカは、それとは極めて異 なる歴史をたどったといってよい。 現在でもアフリカの人口密度は非常に低く、農村の人々は定着しているようにみえて も、長い間をみると、遊牧と焼畑を織り交ぜた半農半牧の生産を行うなどして、移動をし ていることが多い。生活だけではなくて、生産活動も移動しながら行っている面がある。 移動はアフリカの大衆の生活を理解するときに依然として極めて重要な側面である。逆の いい方をすると、人口密度が低いということは、土地がまだ排他的な所有の対象になりき っていない状況があることを意味している。つまり、アフリカの特徴は、一部の国や都市 などの例外を除くと、土地に市場価値がないことである。ただし、人口密度もアフリカの 中で非常に異なり、例えば、ナイジェリアは、他とは違って密度が高く、アフリカの多様 性を示す一例となっている。このようにアフリカをひとくくりには説明できない。 B.無文字社会 前近代のアフリカのもう一つの特徴は、多くの地域で近代以前まで無文字社会であっ たことだ。これについては、アフリカの人たちは、図像、音声、身体表現など、たくさん の他のコミュニケーションの手段を持っており、文字を必要としなかったという見方があ る(川田[2001]参照)。いずれにせよ、結果として、数百年前までは多くの社会で文字が 使われていなかったという事実がある。文字が使われないということは、法律や決まりご とは全て人の頭のなかにあるということであり、歴史も紙には書かれないということであ 2 アフリカ研究会(2006 年度財務省委嘱研究会) る。これはアフリカの社会を今でも少なからず規定している。 (ロ)前近代の外部との交流 A.古代キリスト教とイスラームの南漸 様々な外的な状況が歴史の上に影響を及ぼす。モハメッドとその後継者たちがサラセ ン帝国を築く前の時代までは、エジプト、スーダン、エチオピア近辺では、今日ではコプ ト教と呼ばれる古代のキリスト教が広まっていた。そこに覆い被さるようにしてイスラー ムが浸透した。その後、イスラームは、サハラ砂漠を横断する形で存在していたいくつか の交易路を通じて、次第にアフリカの南の方へ浸透していった。このイスラームの南下は 現代でも続いており、依然として、サハラ砂漠より南の国でイスラームが増えている状況 がある。 B.ヨーロッパ人到来直前:「海のシルクロード」と西インド洋経済圏の成立 (a)アラブ海洋国家の広域化 サハラという巨大な砂漠があることや、大西洋をヨーロッパ側から南下していく航路 が切り開けなかったことによって、ブラックアフリカといわれる地域は、ユーラシア文明、 あるいは、地中海文明から遠ざけられた形で独自の発展をとげた。これは、アフリカが文 字を持たなかったことの理由の一つともなった。唯一の例外は、「海のシルクロード」と 呼ばれるインド洋側のルートである。中国でいえば、宋や明の時代に、インド洋の東側と 西側の間にかなり活発な交易のルートがあった。特に明の時代には、西インド洋経済圏が 成立していたといわれ、アフリカのインド洋沿岸部は海のシルクロードに相当組み込まれ ていた。この中では、マスカット(現在のオマーン、1960 年代まで存在していたザンジ バルの王朝は、もともとは、マスカットの王朝)などのアラブ人たちが広域の海洋国家を 形成していた。また、インド洋沿岸には交易に依拠する多くの海港都市が形成されていた。 そのルートを使って多くのアラブ人、インド人、シラーズ人などが活躍したという事実も ある。 (b)鄭和の大遠征 海のシルクロードがあったからこそ、15 世紀に、明は東アフリカに鄭和の大船団を送 った。朝日新聞の記事に、鄭和の船隊の子孫と称している人たちがまだ東アフリカのモザ ンビークやタンザニアの近くに住んでいることが報告されていたが、そのような緊密なル ートが実際に存在していた。 3 アフリカ研究会(2006 年度財務省委嘱研究会) C.インド洋南部の交流:マダガスカル社会の形成 アフリカの南東にマダガスカルという巨大な島がある。島の住人がモンゴロイドであ ることはあまり知られていない。インド洋には、オーストラリア、あるいは、インドネシ アあたりから南アフリカをめがけて流れてくる強い海流がある。この海流は南アフリカの インド洋岸に降雨をもたらす恵みの海流であり、この海流を伝って、多くの人が東南アジ アからマダガスカルに渡ってきた。この島の人たちは、必ずしも生産性は高くないものの、 灌漑稲作を行っている。インド洋には何重もの東西交流があったことを示す一例である。 (ハ)西欧近代との出会いと破壊 A.海港都市の破壊とインド洋交易の簒奪 東アフリカの歴史を大きく変えたのは、スペイン人とポルトガル人がインド洋に入っ てきたことであった。1488 年にディアスが喜望峰を発見し、その後、バスコ・ダ・ガマ がインドに渡った。彼らは東アフリカに数多く点在していた海港都市を武力で破壊し、イ ンド洋交易を簒奪していった。 B.大西洋奴隷貿易の拡大 ヨーロッパから喜望峰まで下っていく航路が開発され、コロンブスが発見した大西洋 の反対側の新大陸へ、このルートを使って奴隷が連れていかれた。多くの若い労働力を失 うなど、奴隷貿易は非常に大きな災厄をアフリカにもたらした。技術をもった莫大な人的 資源が失われたため、多くの伝統的な技術がその発展を止めてしまった。また、多くの場 合、奴隷狩りを行ったのは、実はポルトガル人やスペイン人ではなく、アフリカ人自身で あったことが、さらに大きな害悪をもたらした。アフリカ沿岸部の奴隷狩り国家は、ポル トガル人やスペイン人から銃を買い、内陸部に攻め込み、人々を奴隷にして売り飛ばして いた。これは、依然として現代も、アフリカの伝承や、場合によっては、文学のテーマに もなっている。一説によると、ビアフラ戦争の片方の当事者は、昔、奴隷狩りをしていた とみなされた人々の子孫であり、そうした再生産された「記憶」は、戦争の遠因になった ともいわれる(伊藤[1984]参照)。 C.侵略と植民地化 奴隷狩りによって、アフリカ大陸の内部、特に大西洋岸に近い内部は、深刻な戦争状 態に入った。これにつけ込むことで、侵略や植民地化が進んだといえるだろう。 4 アフリカ研究会(2006 年度財務省委嘱研究会) (ニ)アフリカにおける国家の起原:1884~1885 年、ベルリンの会議室での植民地分割 19 世紀に入ると、「奴隷貿易をやめよう」という動きが徐々に進み、アフリカの中で も奴隷狩りを中止させるという、アフリカ人自身の動きが始まった。中には、日本のよう な形で立憲制の樹立をめざす、アフリカ人自身の試みも生まれたが、ビスマルクに象徴さ れる植民地分割が、こうした自生的な試みの息の根を止めてしまった(北川[2004b]参 照)。 1884~1885 年の年末から年始にかけて、列強がベルリンに集まり、会議室に置いた地 図に線を引いた。アフリカの地図をみると(図2)、ヨーロッパに近い大西洋側の西アフ リカが、かなり細切れになっていることに気づく。うなぎの寝床のような国があり、国々 が細切れになっている。こうした国境線の形は初期の侵略のあり方が原因であった。 図2 列強のアフリカ分割(1902 年) ヨーロッパに近い地域には、 奴隷貿易などを通じて、列強 が既にそれぞれの根拠をもっ ており、彼らの占拠地が港ご とに所狭しとばかりに並んで いた。一方、中部アフリカか ら南アフリカをまわって東ア フリカにかけては、海岸線が 大変長いところがある。ヨー ロッパから遠いところでは、 棲み分けが進んでいなかった。 このため、列強諸国間でルー ルを決め、アフリカ分割を行 う際には、ヨーロッパ近辺の 国で既にそれぞれの勢力が進 出している地域は、「なるべ (出所)S. C. Smith, British Imperialism, 1750-1970, Cambridge, 1988, p.76. 〔初出:北川・高橋編[2004]〕。 く互いに衝突することなく、 互いの勢力圏を認める」方針 を採り、「勢力拡大については、中部から南部や東部にかけた内陸の地域を対象とし、これ ら地域については、最初に実効支配をしていた国のものとする」との内容で結着した。この 結果、東南部アフリカには、海岸線の閉ざされた、極めて大きな内陸国が数多く生まれた。 こうした植民地分割が、現代のアフリカの国境線のもとになった。机上で国境線を引いたた め、それぞれの植民地の中には、違う言語を話し、違う民族だと互いに思っている人々が混 在している。また、別の国に同じ民族が分かれて住む状況が生じることにもなった。 5 アフリカ研究会(2006 年度財務省委嘱研究会) (ホ)植民地化の「遺産」 A.「擬似国家」の成立:課題としての nation-building、外生的な行政機構、公用語と しての旧宗主国言語 植 民 地 分 割 は ア フ リ カ に 国 境 を 外 か ら 与 え る こ と で 、 「 quasi-state 、 擬 似 国 家 」 (Jackson(1990)参照)という遺産をアフリカに遺した。1960 年代に独立したアフリ カの国は擬似国家であり、本当の「国家、nation」ではないとされる。だからこそ、まさ に「ネイション・ビルディング」が課題になってきたのである。 アフリカの多くの国では、植民地政府がほぼ初めて出現した、治安・行政機構であっ たため、行政機構そのものが外生的であった。言語の違う人々が一緒にされたことから、 公用語の選択にも問題が生じた。例えば、ケニアにキクユという有力な民族がいるが、キ クユの言語を公用語にすることは、他の民族にとっては屈辱的なことであり、キクユに、 教育上、文化上のイニシアティブを握られることにもつながる。このため、英語が公用語 に選ばれた。旧フランスの植民地でも同様のことが起こっている。 B.Mono-export アフリカの多くの国は頼るべき輸出産品を大体一つ有している。こうした「モノ・エ クスポート」は植民地政府、あるいは、それと結びついた商社が作りだした極めて人為的 なものである。アフリカの植民地政府はヨーロッパの本国から必ずしも潤沢な補助金を受 けていたわけではなく、独立採算を原則として求められた。つまり、それぞれの植民地は、 自力で金銭を稼ぐ必要があった。そのため、ヨーロッパに輸出・販売できる産物を意識的 に導入し、港から産地まで鉄道を敷くなどの投資を行った。そこで多くの農民は既存のイ ンフラへの利用に依存した商品作物を作ることになり、この傾向は現在でも続いている。 「モノカルチャー、単一栽培」とよくいわれるが、アフリカの農業の状況は、実は単一 栽培ではない。例えば、コーヒーがモノ・エクスポートの対象だとしても、それを生産す る農民は、一番の有力産品であるコーヒーだけを作っているわけではない。リスクを分散 する知恵を働かせて、様々なものを自分の畑に植えている。 C.細分化された国境と民族言語の多様性 計量分析を好む開発経済学者の間で頻繁に使われる指標に、それぞれの国における民 族言語の多様性 Ethno-linguistic Fractionalization を測るものがある。数学的にいうと、 「国民の 1 人が他の同国国民に会ったときに、違う言語をしゃべっている人と会う確率 がどのくらいあるのか」を測る指標である。これによると、アフリカの民族言語多様性は、 世界 183 カ国の中で著しく高いことがわかる。 日本は 173 番目に位置づけられ、韓国、ベトナムは、日本より、さらに下である。指 標が示す言語の多様性は、経済成長あるいは紛争を説明する要因であると主張する人がい る。しかし、129 番目のルワンダと 120 番目のブルンジは、アフリカの中で民族言語多 6 アフリカ研究会(2006 年度財務省委嘱研究会) 様性の非常に少ない国ということになるが、有名なツチとフツを抱え、日本のマスコミ用 語では「部族」紛争の国であり、ルワンダでは、数ヶ月のうちに 100 万人近い命が失わ れる大虐殺が行われた。これは、この指標だけで、アフリカの人たちがお互いに殺しあう ことを説明するのが難しいことを示している。しかしいずれにしても、民族言語の多様性 が植民地化の遺産であることは指摘しておきたい。 D.内陸国と沿岸国への分裂 上述の通り、アフリカは内陸国と沿岸国とに分裂しており、さらには、内陸国が非常 に多い。ジェフリー・サックスは、これがアフリカの発展しない原因であると指摘してい る。アフリカの地図をみると、東南アジアまでを含んだ東アジアと違うことが一つある。 それは半島や入り江、散らばった島嶼群が極めて少ないということである。これは良港や 比較的近距離の海上交通が発達しにくかったことを意味しており、市場の発展、あるいは、 海を通じた交易の発展の妨げになってきたと推測される。アフリカの経済史を考えるうえ で、非常に重要なことであろう。 2.アフリカにおける人間の状況 (1)人口増加 1960 年代からの先進諸国における人口の推移を年齢階層別にみると、子供の割合が 徐々に減ってきている。日本では、1970~1980 年代あたりから、子供の割合がさらに低 下し、少子高齢化が進んでいる。中国や韓国でも速いスピードで少子高齢化が進んでいる。 一方、アフリカは全く違う傾向にあり、少子高齢化の兆しすらみえない。アフリカの 人口の半分は子供である。アフリカの子供はよく働くとはいえ、やはり、扶養人口であり、 アフリカは人口の半分を残りの半分である労働人口が扶養している。 これは、いくつかのことを示唆している。例えば、子供の数が絶対数として増えてい ったときに、彼らにきちんとした職場、雇用が与えられるのか。子ども兵や、都会におけ る若年失業者というのは、深刻な問題になっている。その原因の一つとして、子どもの職 場、あるいは、子どもが大人になったときの職場がない、社会参加の機会が限られている ということが指摘できる。西アフリカのいくつかの国では、以前は仲良く隣人として付き 合っていた周辺国からの出稼ぎ労働者に対する排他的な動きが強まっている。こうした問 題の背景には、人口構成の問題、若年層の機会の喪失があると考えられる。 (2)人間開発の前進と後退 次に、世界銀行のミレニアム開発目標(MDG)そのものに関わる「人間開発指数」を みてみる。人間開発指数は、出生児平均余命、教育、そして、所得という 3 つをあわせ 7 アフリカ研究会(2006 年度財務省委嘱研究会) て計算する。極端な例だが、南アフリカ、ボツアナ、ケニア、ザンビア、コートジボアー ルといった国々では、人間開発指数が低下している。これらの国々ではエイズの猛威によ り、出生児平均余命が下がっている。ボツワナは平和で、経済的なパフォーマンスもよい 国であり、国債の格付けが日本と同じであったりする。しかし、出生児平均余命をみると、 下から 10 番目となり、1992 年に出生児平均余命は 64 歳だったものが、2004 年には 35 歳に下がり、12 年間に 29 歳も平均余命が下がるという、異常な事態となっている。 3.生業=食糧生産の今日 (1)人口の過半は農村に アフリカの人口の過半数は、広義の農村に住んでいる。農村では、すべての人々が農 業に従事しているとは限らず、場合によっては口減らしのため、成年男性は都会に出稼ぎ に行っている。しかし、この場合でも、出稼ぎ先において故郷に錦を飾ることを考えてい る人が多く、日本のように都会に出て以降、定住してしまうことが多いのとは異なり、い つでも農村と強い結びつきを保ちながら生きているといわれる。 (2)農民の大半=依然として、半自給的生活、市場経済の未発達 農民の大半は、依然として、半自給的な生活をしている。半自給的生活が人々の暮ら しや生産を規定しているとすると、その裏返しとして、市場経済が未発達であるといえる。 自給自足的な初期の状況を踏まえて、農業を振興させるために一体どのような努力が必要 であるのかについては、世界銀行などでも充分な議論がなされていないと思われる。 (3)持続的で固定的な農業生産組織の不在 既に述べたように、アフリカの多くの地域で、農村に住む人々は、依然として、非常に 低い人口密度の中で、出稼ぎも含めた移動を織り交ぜながら生きている。その中では、散 居形態が選択され、生産は世帯ごとに行われる傾向が強い。このため、共同で生産活動を 行っていく、持続的かつ固定的な農業生産組織が未発達だと考えられている。例えば、日 本の農村には、灌漑組織のように、極めて強固な絆で、場合によっては、村八分という制 裁手法を用いながら共同生産を行う組織があったが、このような組織がアフリカには見出 されにくいといってよい。ただし、これには地域によって違いがあることを指摘しておく。 (4)教育の遅れとジェンダー 教育は、依然として、かなり遅れている。特に女性の教育レベルは、少なくとも、学 8 アフリカ研究会(2006 年度財務省委嘱研究会) 校教育のレベルでいえば、非常に低いといわざるをえない。多くのアフリカの国々では女 性が家族の再生産を担っているために、女性自らが食糧を作っている。畑から食糧を日々 刈り取り、家族に分け与えるのは、母親の仕事である。しかし、女性の教育レベルがあま り高くないため、自給自足生産の生産力を向上させることを困難にしている。この点も国 際開発援助の中では十分に議論されていないように思われる。 (5)アフリカにおける食糧生産の問題 (イ)労働力の増加と耕地拡大による増産は頭打ちに-低い労働生産性 食糧の中でも一番重要 図3 2005 年の穀物土地生産性(kg/ha) 図3 2005年の穀物土地生産性(kg/ha) な穀物の生産状況をみて 5,000 みたい。2005 年の時点 4,500 での地域ごとに平均した 4,000 生産性をみると(図3)、 3,500 アフリカはアジアのほぼ 3,000 4 分の 1~5 分の 1 とい 2,500 う極めて低い数字である。 2,000 アフリカだけが貧困なの 1,500 ではなく、南アジアにも 1,000 大きな貧困があるという 500 が、こと穀物生産につい ていえば、南アジアは緑 0 アフリカ 東アジア・太平洋 南アジア 中近東 中南米 (出所)Agricultural Data FAOSTAT に基づき、筆者作成〔初出:高橋・小川(2006)〕。 の革命の成功により、ア フリカよりもパフォーマ ンスがはるかに良い。中近東は砂漠が多いが、例えば、ナイル流域では土地生産性が大き く上がっている。この生産性向上を主因に、中近東の穀物土地生産性はアフリカの 2 倍 になった。 1960 年代からの穀物土地生産性の推移(図4)を各国で比較してみる。日本は 1960 年代から土地あたりの農民の数を急激に減らしながらも、土地生産性は上昇してきた。小 回りのきく田植え機などを導入することで、人間の労働を代替していったため、非常に少 ない人数でも 6t/ha という、世界最高の穀物土地生産性を挙げられるようになった。韓国 も、このパターンを追いかけるように変化を遂げてきた結果、現在では、日本よりも高い 土地の単収を挙げている。さらに、中国は日本や韓国よりも、はるかに相対的に多数の農 民が農村にいたが、おそらく都会に流出したことや、一人っ子政策で成人する農民の数が 減ってきたことなどから、その数は頭打ちになり、土地あたりの農民数が減少した。現在 は、人を相対的に減らしながら生産性を上げていくという韓国や日本のようなパターンに 移りつつある。 9 アフリカ研究会(2006 年度財務省委嘱研究会) 図4 各地域の平均穀物土地生産性・労働土地係数の推移・労働生産性の推移 図4 各地域の平均穀物土地生産性・労働土地係数の推移・労働生産性の推移 労働生産性=2,000kg/人 7,000 00s 6,000 韓国 00s 日本 5,000 穀 物 土 地 4,000 生 産 性 00s 60s 00s 労働生産性=1,000kg/人 ( 60s 00s Y 3,000 / A 中南米 東アジア・太平洋 ) 00s 00s 2,000 中近東 60s 60s 1,000 00s 南アジア 中国 60s インド 60s 60s 60s 60s 00s アフリカ 0 0 0.5 1 1.5 2 2.5 労働土地係数(L/A) 3 3.5 4 (出所)Agricultural Data FAOSTAT に基づき、筆者作成〔初出:高橋・小川(2006)〕。 この 3 カ国に共通しているのは、労働生産性(図の中の任意の点と原点を結ぶ直線の 傾き)が勢いよく上昇してきていることであり、これが、東アジア地域のパターンである。 また、南アジアも、実は、土地生産性を 1960 年代以降、急激に上げており、インドがそ の代表である。南アジア(あるいはインド)の場合、また、昔の東アジア(中国)の場合 は、労働を土地あたりで増やしながら、それに応じて土地生産性も上がってきた。しかし、 中近東の場合は、ほとんど土地あたりの農民の数を増やさずに、土地生産性を 2 倍にし た。中南米では、大規模経営の特徴と思われるが、地主が機械化を積極的に導入したため、 土地あたりの農民の数は減っている。これにもかかわらず、土地生産性は上がるという状 況である。 最後にアフリカをみると、穀物生産において土地あたりの農民数が少なく留まってい ると同時に、農民 1 人あたりの労働生産性が下がっている。アフリカの労働生産性は約 1,000kg/人の水準で一定時点までは推移してきた。しかし、1980 年代以降は土地生産性 が 1,000kg/ha 弱で停滞したため、労働生産性が低下した。これは現在のアフリカの深刻 な問題であり、より端的にいえば、アフリカの農民は近年ますます貧困になっていること を示唆している。 意外なことに、1980 年代から 1990 年代は、アフリカで穀物生産が順調に伸びた時代 である。これは、図5のように、収穫面積の拡大と軌を一にしており、土地生産性は、そ の間、あまり伸びなかった。アフリカの人口は、独立以後、ほぼ 3 倍以上になっており、 増え続けた人口を養うため、未開墾地を畑に次々と転用していくことで、穀物生産を伸ば してきた。 10 アフリカ研究会(2006 年度財務省委嘱研究会) 図5 アフリカの穀物生産量と収穫面積の変遷 図5 アフリカの穀物生産量と収穫面積の変遷 90,000 (1,000トン) (1,000Ha) 90,000 80,000 80,000 70,000 70,000 60,000 60,000 50,000 50,000 40,000 40,000 30,000 30,000 20,000 2.34% 年平均増加率 0.11% 4.98% 0.52% 10,000 穀物生産量 収穫面積 20,000 10,000 0 19 61 19 63 19 65 19 67 19 69 19 71 19 73 19 75 19 77 19 79 19 81 19 83 19 85 19 87 19 89 19 91 19 93 19 95 19 97 19 99 20 01 20 03 20 05 0 (出所)Agricultural Data FAOSTAT に基づき、筆者作成〔初出:高橋・小川(2006) 〕 。 1997 年前後から、耕地面積および穀物生産の伸びが鈍化していることは、深刻な問題 となっている。これは、畑を切り開くことが限界に近づいてきたことを示している。この 理由には、森林を切り開くことが、環境の面から耐えがたい状況になっていることがある かもしれない。あるいは、大規模な灌漑施設でもつくらなければ、耕作に適さないような 土地がアフリカ農民の目の前に広がっているのかもしれない。 収穫面積の伸びと共に穀物生産が増加する傾向は、1983~1984 年以降、変わっていな い。しかし、収穫面積の拡大に限界がみえている状況で労働生産性を上げるためには、土 地生産性を上げなくてはならない。アフリカでも、1980 年代前半以前は穀物生産の伸び 率が収穫面積の伸びよりも高かった。これは、正にアフリカの農民は勤勉であり、工夫に 満ちた努力の人々であることを示すものであると指摘されている(平野[2003]参照)。し かし、その努力が、アフリカの人口を養うための必要に追いつかなくなっており、何かが 付け加えられなくてはいけない。 (ロ)国際穀物市場への圧力に? 「私たちは遠いアフリカに関心を払わないといけないと、いつも新聞には書いてあるが、 なぜなのか、よくわからない」といった声を一般国民の方からよく耳にする。日本は世界 最大の穀物輸入国であり、それを追いかけるようなパターンで、韓国も、高度成長期以降、 穀物輸入を増やしてきた。そして、当然心配になるのは、「世界は豊かになり、肉食を増 やす中国を養えるのか」ということだろう。1995 年、レスター・ブラウンが『誰が中国 を養うのか』(Brown[1995]参照)という本を著した、まさにその年に、中国の食糧輸入 が大きく増えた。ところが、その後、中国は穀物自給率を顕著に増やし、輸入を減らした。 11 アフリカ研究会(2006 年度財務省委嘱研究会) これは、上述の穀物土地生産性の上昇が背景となっている。しかし、近年は、また輸入が 増加しており、心配されるところではあるが、中国とインドは、自国生産も増やしており、 おそらく、それほど問題にはならないと思われる。 むしろ問題は、中国やインドを越えて輸入を増やしているアフリカである(図6)。 アフリカを一つの国と考えると、現在、サハラ以南のアフリカは世界第 2 位の穀物輸入 国である。一般国民への講 図6 穀物輸入量の推移 図6 穀物輸入量の推移 35,000,000 演で、「日本が世界に食糧 を依存しなくては生きてい (トン) けない国だとすると、撹乱 アフリカ 30,000,000 要因はアフリカの輸入だろ 日本 韓国 う」と説明すると、アフリ 中国+インド 25,000,000 カの問題も決して対岸の火 20,000,000 事ではないと大抵うなずい 15,000,000 てもらえる。アフリカの穀 10,000,000 物輸入の特徴は、米の輸入 を増やしていることである 5,000,000 (図7)。世界の米市場は 0 1960 1965 1970 1975 1980 1985 1990 1995 2000 (出所)Agricultural Data FAOSTATに基づき、筆者作成。 小さく、アフリカの輸入は 大きな圧迫を与えている (平野[2004]参照)。 図7 世界の米輸入量 図7 世界の米輸入量 7,000,000 6,000,000 5,000,000 4,000,000 アフリカ 中国+インド 日本 韓国 3,000,000 2,000,000 1,000,000 0 1961 1964 1967 1970 1973 1976 1979 1982 1985 1988 1991 1994 1997 2000 2003 (出所)Agricultural Data FAOSTAT に基づき、筆者作成。 12 アフリカ研究会(2006 年度財務省委嘱研究会) (ハ)粗放的生産の継続:技術革新の著しい遅れ アフリカの土地生産性、労働生産性が上がらないことについては二つの大きな理由が 考えられる。第一には、肥料の投入量の絶対的な少なさであり、他の途上国地域と比べて も、相対的に少ない。1960 年代、途上国地域では、肥料投入量はどの地域でも非常に少 なかった。しかし、化学工業技術の発達により、化学肥料が普及するようになって以降、 肥料の投入を急速に増やしたのが東アジアであり、これに南アジアが続いた。この大量の 肥料投入が両地域における「緑の革命」の一つの要因であったことは間違いない。だが、 アフリカは全くその例に遅れをとっている(図8)。 第二の理由は灌漑の遅れである。東アジア・太平洋地域では 2000 年代に、灌漑面積の 増加比率がその伸びを止めたが、南アジアは現在も伸びている。これが南アジアにおける 穀物の土地生産性向上の背景にあると思われる。さらに興味深いのは、中近東の灌漑率の 高さである。中南米は必ずしも高くはなく、また、ヨーロッパ的なスプリンクラー灌漑が 主流のため、若干事情が異なるが、アフリカよりは、はるかに高い数字である(図9)。 図8 耕地あたり肥料投入量(kg/ha)の変遷 図9 灌漑面積の耕地に対する比率(%)の変遷 アフリカ 40 35 30 25 20 15 10 5 0 アフリカ 180 160 140 120 100 80 60 40 20 0 中南米 中近東 中南米 東アジア・太平洋 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 中近東 南アジア (出所)Agricultural Data FAOSTAT に基づき、筆者作成 東アジア・太平洋 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 南アジア (出所)Agricultural Data FAOSTAT に基づき、筆者作成 〔初出:高橋・小川(2006)〕。 〔初出:高橋・小川(2006)〕。 (ニ)高投入高収量よりはまず、低投入農業の改善 なぜ、アフリカは、他の国の農業革新や技術革新についていけないのか。前述の半自 給自足生活が大半をまだ占めていることが大きい要因ではないかと考えられる。彼らには、 お金を出して農業投入物を買うインセンティブがない。食糧を他人に売るためには作って いないため、自分たちが食べる分さえ生産できれば十分ということになる。 他人に商品として販売すれば現金収入が入る。現金収入を増やすというインセンティ ブを得るようになれば、収益、さらには、生産性を上げるための投入物を購入するであろ 13 アフリカ研究会(2006 年度財務省委嘱研究会) う。アフリカやアジアの国々において、市場向けの食糧、つまり、自家消費分以上の生産 を行っている生産量の比率が高いほど、肥料の投入量、その比率は上がっている。この状 況に鑑みれば、半自給自足生活のアフリカでまず必要なことは、市場で買わない有機的な 肥料を増やすことかもしれない。日本の昔の知恵もそのあたりで活かすことができるかも しれない。 一方、灌漑の遅れは、人口が非常に少ないという、アフリカの歴史に関係している。 人口の少なさの背景には、厳しい自然環境と高い死亡率があった。つまり、人口密度の低 い地域、裏を返せば、広大な土地が利用可能な条件の下で生活してきたため、日本人やベ トナム人のように狭い土地を一生懸命に耕し、固定した土地で、水を利用し、肥沃度を毎 年回復させながら生きていく必要が、つい最近までなかったのである。土地が痩せてしま った場合は移動することで対処でき、固定的な灌漑施設を作るために必要な社会組織を築 く歴史的必要性がとぼしかった。ただし、一部では、昔から灌漑を行っている地域もあり、 日本が灌漑稲作プロジェクト支援で成功したキリマンジャロ山麓はその一例である。その ような歴史的背景を持った地域であれば、日本の灌漑稲作プロジェクトによる技術移転が 成功しやすいともいえる。ケニアのムエアにもそのような事例がある。アフリカをみる際 には、社会の成り立ちや歴史からみていく必要があることを示唆しているといえるだろう。 (ホ)「日本・韓国の経験」はアフリカには不適正 日本の穀物労働生産性は、1960 年代から 2000 年代にかけて上昇してきた。アフリカ では依然として低迷し、さらに低下している。少なくとも、この点において、1960 年代 以降の日本の農業の技術革新の経験はアフリカにとっては適正でないと思われる。 日本、アジアの経験が TICAD4 のアジェンダになるとすると、重要なことは、日本、 アジアの経験を単純にアフリカにあてはめるということではなく、アフリカにとって適正 な経験は何であるかということを見極めていくことであると思われる。少なくとも、現代 における日本やアジアの農業の技術革新の経験は不適正である。日本の経験は、むしろ、 近代開始前後ぐらいにまでさかのぼって掘り起こしていく必要があると思われる。以前の 日本は、現代の日本よりは、現在のアフリカと類似した状況にあり、南アジア的なルート (労働力投入を増加させながら、土地生産性も上昇させた)をたどっていた時期があると 考えられる。その後、労働投入を減らし、技術革新による労働生産性の上昇を遂げるとい う軌跡をたどった。そのような歴史にていねいにさかのぼる発想が必要と思われる。 14 アフリカ研究会(2006 年度財務省委嘱研究会) 参考文献 伊藤正孝[1984]『ビアフラ-飢餓で亡んだ国』講談社 川田順造[2001]『口頭伝承論』平凡社 北川勝彦[2004a]「近代以前のアフリカ経済」北川勝彦・高橋基樹編『アフリカ経済 論』ミネルヴァ書房 北川勝彦[2004b]「植民地化とその経済的影響」北川・高橋編『アフリカ経済論』 高橋基樹[2005]「サハラ以南のアフリカにおける貧困削減と人間の安全保障」『貧困 削減と人間の安全保障 Discussion Paper』国際協力機構 国際協力総合研修所 高橋基樹・小川いづみ[2006]「アフリカにおける食糧問題と政府の役割-マルサス的 危機の克服のために-」『国際開発研究』15 巻 2 号 平野克己[2003]「アフリカ経済と〈リカードの罠〉」平野編『アフリカ経済学宣言』 アジア経済研究所 平野克己[2004]「農業と食糧生産」北川・高橋編『アフリカ経済論』 Brown, Lester R.[1995] Who will feed China? : Wake-up call for a small planet, World Watch Institute. Jackson, Robert H.[1990] Quasi-states: Sovereignty, International Relations and the Third World, Cambridge: Cambridge University Press. 15