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Asian Studies
Asian Studies
Vol. 58, No. 1·2, April 2012
CONTENTS
Articles
Foreign Banks’ Entry and the Stability of Credit Supply:
The Case of Indonesia YAMAGUCHI Masaki
The Formation and Bankruptcy of National Policy in Xinjiang:
The Policy of the Sheng Shih-ts’ai Regime in 1930s KINOSHITA Keiji
The Relation between US Policy toward Northeast Asia in the 1950s and
Contemporary Measures for Solutions to Economic Problems:
The Export Promotion Policy and the Debates Surrounding
Exchange Rates Readjustments KOU Kenrai
1
18
33
Research Notes
The Emergence of the ‘Chinese School’?: The ‘Westernization’ and ‘Sinicization’
of International Relations Theory in China XU Tao
The Eurasian Policy of Imperial Japan and The Axis Allies:
A Focus on Islamic Populations and Anti-Soviet Policies Sinan LEVENT
51
69
Book Reviews
LU Xueying, Yoshimi Furui and China: A Road to the Normalization
of Sino-Japanese Diplomatic Relations KIMURA Takakazu 89
FUJIWARA Kiichi and NAGANO Yoshiko eds., Japan and the Philippines
in America’s Shadow KUSAKA Wataru 93
FUNATZU Tsuruyo and NAGAI Fumio eds., Changing Local Government
and Governance in Southeast Asia TAMURA T. Keiko 98
Nathan G. QUIMPO, Contested Democracy and the Left
in the Philippines after Marcos TAKAGI Yusuke 102
ZHENG Cheng, The Chinese Communist Party and the Soviet Union Relations
during the Civil War Period: Interactions over Lushun and Dalian Area ISHII Akira 107
Summaries in English 111
AZIYA SEIKEI GAKKAI
( Japan Association for Asian Studies )
TOKYO, JAPAN
http://www.jaas.or.jp
ISSN 0044-9237
定価1575円
(本体1500円)
外国銀行の進出と信用供給の安定性
世界金融危機時のインドネシア
山口昌樹
はじめに
1)
インドネシアでは外資銀行の存在感が急速に高まっている 。参入規制の緩和を背景と
して 2000 年以降に外国銀行による地場銀行の買収は 20 件を越えた。銀行部門における外
資銀行のシェアは 2009 年には資産規模で見て 34.8% に上昇しており無視できない状況と
なった。そのため外資銀行の行動が銀行部門全体に少なからぬ影響を与えることは必至で
ある。本稿の関心はとりわけ今般の世界金融危機に際して外資銀行がどのように反応した
かである。外資銀行の貸出行動が地場銀行と異なるのかという比較分析の枠組みを用いて
外国銀行の進出が銀行部門に与える影響を評価することが本稿の課題である。
この課題はまずアジアでの金融的安定というテーマと関心を同じくする。通貨危機で壊
滅的な経済損失を被ったアジア諸国は経済成長に必要な資金を短期の対外借入に過剰に依
存することの危険性を教訓として学び、チェンマイ・イニシアチブにおけるアジア諸国間
での国際流動性支援のネットワーク構築や ASEAN プラス 3 でのアジア債券市場構想の推
進に取り組んできた。こうした経緯を踏まえると社債市場の発展が進まない中で主要な金
融仲介チャンネルである銀行部門における外国銀行のシェア増加には一抹の不安を覚え
る。外国銀行が逃げ足の速い資金の供給者として振る舞い、信用供給を過度に不安定なも
のとしていないかはこの研究領域では大きな関心事となる。また、本稿は開発金融論で分
析が進められている外国銀行の新興国への進出という研究領域とも重なる。この領域では
外国銀行と地場銀行とについて財務的特徴や貸出行動といった観点から差異を検出すると
いうのが主要な分析アプローチであり本稿でもこの枠組みを援用する。
分析には各銀行の財務データを利用してマクロ統計では捕捉できない個別行の動向にま
で目を配って貸出行動の実態把握を試みる。差異の検出に当たっては直感的な判断に頼ら
ずに標準的な統計学的手法を適用する。また、差異を説明する要因についても考察するこ
とで外国銀行の進出が信用供給を不安定化させるのかという問いに答える。
これ以降の構成は次の通りである。第Ⅰ節ではまず外国銀行の相次ぐ進出の背景にある
参入規制の変化を追いかけるとともに政策当局の意図も紹介する。その上で外国銀行の参
入状況を俯瞰しつつ被買収行と戦略投資家の特徴と進出動機を指摘する。次に、第Ⅱ節は
先行研究のサーベイであり外国銀行の進出という研究領域における本稿の位置づけと先行
研究との違いを述べる。貸出行動を検討するための基礎作業として財務面について地場銀
?????
1
行と外資銀行とを比較するのが第Ⅲ節である。第Ⅳ節では外資銀行を 3 つのグループに分
けて地場銀行と貸出動向を現地通貨建て貸出と外国通貨建て貸出について比較する。比較
の中心的な関心は世界金融危機後の 2009 年にどういった反応が見られるかである。むす
びにおいて分析で得られた知見をまとめ、その意義を明らかにする。
Ⅰ 外国銀行の参入
1. 参入規制の変化
外国銀行のシェアが急増した背景にある規制緩和はアジア通貨危機が転機となって大き
2)
く進展したが、それまでは外国銀行の市場参入に対して極めて制限的な状況であった 。
まず、1968 年から 1988 年までは外国銀行の新規参入は認められなかった。1983 年には第
一次金融自由化が実施されたが参入禁止は維持されたままであり、既存の外国銀行につい
ても支店開設はジャカルタでの 2 店のみに制限された。
1988 年の第二次金融自由化では規制緩和について若干の進展が見られた。外国銀行には
合弁形態での参入が認められた。ただし、最低払い込み資本金は 500 億ルピアという要件
があり、外資出資比率は 85% 未満という条件を満たさなくてはならなかった。この参入の
再開によって 1988 年には 11 行であった合弁銀行は 1997 年までに 44 行に増加する設立ラッ
シュが起こった。また、出店制限について外国銀行と合弁銀行は 6 大都市に支店開設が可
能になった。さらに、1992 年に従来の規制を取り纏めて制定された銀行法では外国人によ
る銀行の上場株式の取得を 49% まで許可した。このようにインドネシアは外国銀行への門
戸を漸進的に開いていった。
1997 年のアジア通貨危機を契機として参入規制は大きく変化した。インドネシアでは通
貨危機により不良債権比率がピーク時の 1999 年には 58.7% という壊滅的な打撃を受けた。
多くの銀行が破綻、国有化される事態に追い込まれたため銀行部門の再編のために外資の
導入が図られた。1998 年に 1992 年銀行法が改正されて外国銀行の参入条件が大幅に緩和
されている。外国人が取得できる銀行の株式は 49% までであったのが証券取引所を通じる
3)
か、相対取引によって 99% まで取得できるようになった 。また、外国銀行の支店開設も
1998 年銀行法では再び認められた。ただし、その要件として総資産が世界ランキングで
200 位までに入ること等を満たす必要がある。6 大都市に制限されていた出店制限はなく
なっている。こうした参入規制の緩和によって資本注入で国有化された銀行の政府保有株
の売却が 2002 年から順調に進んだ。この時期は銀行再建を目的として外国銀行の参入規
制が緩和されたと特徴づけられる。
2004 年からは外国銀行の参入に新たな動機付けが与えられた。銀行再建に目途がつきイ
ンドネシア銀行再建庁も解散したこの年にインドネシア銀行は API(Aristektur Perbanken
Indonesia)と呼ばれるインドネシア銀行部門構想を打ち出した。この構想は銀行部門の強
2
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
化を目的に今後の発展についての青写真を示した。その方向性は 6 つの柱として示されて
おり具体的な政策は構想の中に盛り込まれていなかったが、その主眼は銀行数の削減にあ
4)
ると言われている 。
銀行部門が抱える問題として自己資本の不足やリスク管理能力の低さに起因して貸出の
伸びが低いことがある。また、銀行数が経済規模に比して多すぎるとも考えられている。
そこで、資本基盤の脆弱な銀行群を整理して自己資本の充実と経営基盤の強化を図ること
で健全な銀行システムを構築することが目標となった。こうした方向に沿った行動を銀行
が取るよう制度設計によって問題を解決しようとした。
具体策としてはまず 2005 年に自己資本に関する中央銀行規則が公表された。この規則
は資本増強を銀行に強制するものであり、自己資本を 2007 年末までに 800 億ルピアに、
2010 年末には 1000 億ルピアを達成するよう求めた。これが達成できない場合には外国為
替銀行としての業務が営めなくなったり、預金の受け入れを自己資本(Tier 1)の 10 倍ま
でに制限される等の営業上の制限を受ける。こうした規制を回避するには合併によって自
己資本を増強するという方法がある。また、投資家からの出資によって資本基盤を拡充す
るのも 1 つの方法であり、この場合は資金の出し手として外国銀行が候補に挙がってくる。
銀行部門の強化という目的で外国銀行が参入する機会が与えられたのが 2004 年以降の改
革である。
ただし、それと同時に外国銀行の存在感が過剰になることを阻止するような政策も打ち
出されている。2006 年に API 達成のための具体的な政策パッケージである PAKTO2006 が
公表された。PAKTO2006 は 14 の中央銀行規則から構成されるが、外国銀行の参入に影響
を与える規制としては単一持株政策がある。この政策によって 1 つの個人・法人・グルー
プが支配株主となれるのは 1 つの銀行のみに限られた。すでに銀行を複数所有している場
合は株式を売却するか、銀行を合併させるか、持ち株会社を設立することになる。こうし
た対応は 2010 年末までに完了させなくてはならない。単一持株政策は銀行統合のインセ
ンティブを与えるものであると同時に外資買収にブレーキをかけるような制度設計になっ
ていると見られる。
アジア通貨危機以後に外国銀行の参入規制が大きく緩和されたのは銀行部門の再建とそ
れに続く競争力強化という金融監督行政の一連の流れの中に位置づけられる。こうした制
度変更に応じて銀行部門の構造が変化していく時期に多くの外国銀行が次々とインドネシ
アへの参入を果たした。
2. 参入状況
外国銀行による地場銀行の買収案件は表 1 のように 20 件を越えている。この表でまず
目に付くパターンは 2000 年代前半の案件が資産規模の順位が高い銀行が買収対象になっ
ていることである。これらは公的資金を注入されて国有化、あるいは資本再構築された銀
行である。インドネシア銀行再建庁の管理下にあったこれらの銀行を再民営化するため政
外国銀行の進出と信用供給の安定性
3
表 1 外資による買収状況
被買収行
1999 年
2002 年
2003 年
2003 年
2004 年
2004 年
2004 年
2004 年
2005 年
2007 年
2007 年
2007 年
2007 年
2007 年
2007 年
2008 年
2008 年
2009 年
2009 年
2010 年
2010 年
2010 年
2011 年
資産順位 戦略投資家
Bank Pan Indonesia
Bank CIMB Niaga(Bank Niaga)
Bank Internasional Indonesia
Bank Danamon
Bank OCBC Nisp(Bank Nisp)
Bank UOB Buana(Bank Buana)
Bank Permata(Bank Bali)
Lippo Bank
Bank SBI Indonesia(Bank Indomanex)
Bank ICB Bumiputera(Bank Bumiputera)
Bank Nusantara Parahyangan
Bank ICBC Indonesia(Bank Halim)
Bank Hana(Bank Bingtan Manunggal)
Bank Swadesi
Bank Agris(Bank Finconesia)
*
Bank Internasional Indonesia
Bank Ekonomi Raharja
Bank Andara(Sri Partha)
Bank Barclays Indonesia(Bank Akita)
Bank Pundi(Eksekutif Internasional)
Bank Ina Perdana
Bank Mestika Dharma
Bank Kesawan
7
5
9
6
16
20
8
–
96
47
58
60
91
89
107
9
21
119
97
88
100
50
75
保有比率
ANZ(豪)
38.3%
Commerce Asset Holdings(マレーシア)
53%
Temasak(星)と国民銀行(韓)
55.7%
Temasek とドイツ銀行
66%
OCBC(星)
70.6%
UOB(星)
99%
Standard Chartered Bank(英)
44.5%
Swissasia Global(スイス)
52.1%
State Bank of India(印)
76%
ICB Financial Group(スイス)
67%
20, 50%
三菱東京 UFJ、アコム(日)
90%
中国工商銀行(中)
Hana Bank(韓)
61%
Bank of India(印)
76%
Charoen Pokphand Group(タイ)
99.5%
Maybank(マレーシア)
97.5%
HSBC(英)
98%
MCI(国)
42, 20%
、IFC(国)
Barclays(英)
99%
IF Services Netherlands(蘭)
24%
Affin Bank(マレーシア)
80%
RHB Bank(マレーシア)
80%
Qatar National Bank(カタール)
69.5%
(注)資産順位は 2009 年 9 月時点のもの。被買収行欄のカッコ内は旧名称、* は合弁銀行を表す。
(出所)銀行ウェブサイト、各種報道より筆者作成
府保有株式が売却されて外国銀行が落札したのだった。例えば、ニアガ銀行、ダナモン銀
行は国有化銀行が外国投資家に売却された事例である。また、資本再構築銀行としてはバ
ンク・インターナショナル・インドネシアとリッポー銀行、国有化銀行 1 行と資本再構築
銀行 4 行が合併して誕生したペルマタ銀行が政府保有株の売却で外国資本の銀行となっ
た。このような外国銀行による買収を可能にしたのが 1998 年銀行法での出資上限の引き
上げである。
対照的に 2000 年代後半は資産順位から見て分かるように中堅、中小銀行を対象とする
案件が目立つ。その要因としては 2 つ挙げられる。1 つはこれらの案件は API が公表され
た後であることから経営基盤強化を目的として地場銀行が外国資本を受け入れたと考えら
れる。もう 1 つはインドネシアへの新規参入の足がかりとして地場銀行を買収するという
要因である。外国銀行や合弁銀行といった形態で参入できていなかった銀行による買収が
目立つ。
次に、戦略投資家の顔触れをみるとインドネシアの近隣に位置するシンガポールとマ
レーシアの金融機関が多い。その他にも日本、中国、韓国、インドの銀行が名を連ねてお
りアジア地域の銀行が戦略投資家としての存在感を発揮している。新興国における銀行買
4
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
収というとシティバンクや HSBC のようなグローバル展開している銀行を連想しがちであ
る。しかし、インドネシアについてはアジア地域の銀行が戦略投資家の中核を構成してい
る。
この背景にはスーパーリージョナルバンクを形成する動きがアジアで加速していること
5)
がある 。都市国家に拠点を置くという事情があるもののシンガポールの DBS 銀行、UOB
銀行、OCBC 銀行はアジア展開によってアジア太平洋地域からの収入がすでに 3 割を超え
ていて業務基盤の地域分散に至っている。また、マレーシアやオーストラリアの銀行も
スーパーリージョナルバンクとなることを標榜して買収を進めている。ホスト国の規制が
緩和されればアジア諸国の銀行も収益機会を求めて積極的に海外展開を進めている。こう
した事情から戦略投資家としてアジア地域の銀行が目立つことが説明できる。また、保有
比率は支配株主となるマジョリティを取っている案件がほとんどであり、金融投資ではな
く経営を目的とした戦略投資である。
買収の他に外国銀行が関与した合併案件がいくつかある。これは単一持株政策に対応す
るために外国銀行が複数所有する銀行を合併させたものである。2008 年にはハガ銀行とハ
ガキタ銀行を所有するラボバンクが両行を合併させた。同年にはマレーシア政府の投資会
社である Khazanah Nasional 社が傘下の金融会社を通じてリッポー銀行とニアガ銀行の株式
を所有していたため両行を合併させて CIMB ニアガ銀行が発足した。2010 年には UOB ブ
アナ銀行と UOB インドネシア銀行、2011 年には OCBC ニスプ銀行と OCBC インドネシア
銀行といった具合に買収した銀行と合弁銀行との合併が行われている。このように API が
打ち出した銀行数の削減は外国銀行にも影響している。
積極的な進出を手がける外国銀行はどのような動機を持っているのか。大きく 3 つの要
因が指摘できる。第一に、アジア地域での業務展開の一貫としてインドネシアに地歩を築
くという動機である。HSBC のようにすでに外国銀行として進出済みであってもインドネ
シアでの業務基盤をさらに拡充しようと買収を手がける事例もある。
第二の要因は高い経済成長である。インドネシアの経済成長は 2000 年代に 5% 近辺で推
移しており、金融危機後の 2009 年でも 4.5% の経済成長を継続している。また、インドネ
シアは東南アジアの中でも金融サービスの浸透が遅れている国である。金融深化の指標で
ある M2 の GDP 比で比較すると 2007 年のタイが 97.6%、マレーシアが 122.2% であるのに
対してインドネシアは 41.7% でしかない。そのため銀行部門は高い成長性を秘めていると
考えられている。こうした高い成長に着目して外国銀行は業務分野としては中小企業金融
とリテール金融に関心を寄せている。
第三に、参入障壁が近隣諸国に比べて低いことである。成長性の高さという点では中国
やベトナムも進出先として注目を集めているが出資の上限は基本的に 25% までである。ま
た、地理的な近さという点では出資上限の無いタイが挙げられるが、そもそも銀行数が少
ないことや銀行再編の際に目ぼしい投資先にすでに外国銀行が出資しているため進出は難
しい。この他にはマレーシアやシンガポールの銀行にとっては緊密な経済関係や文化的な
外国銀行の進出と信用供給の安定性
5
類似性も進出決定の要因に挙げられるだろう。
上述のような相次ぐ地場銀行の買収によって銀行部門の構成に変化が出ている。銀行部
門は国有銀行、民間商業銀行、外資銀行(外国銀行、合弁銀行、被買収行から構成)、地方開
発銀行、庶民信用銀行の 5 層から成る。このうち地方開発銀行は地方政府所有の銀行であ
り原則的に地方開発を目的とした中長期資金のファイナンスを担っている。また、庶民信
用銀行は小規模経営の銀行であり銀行部門に占めるその資産シェアは 2% 以下である。変
化が大きかったのは外資銀行の資産シェアが伸びた点である。2003 年には 10.7% であった
シェアは 2009 年 9 月時点では 34.8% へと上昇した。一方で多くの銀行が買収された民間
商業銀行のシェアは 38% から 17.6% へと大きく下落した。また、資本注入によってシェア
が 5 割にのぼっていた国有銀行も 36.9% となり寡占の懸念は後退している。外資銀行の
シェア内訳は外国銀行が 8.8%、合弁銀行が 5.4%、被買収行が 20.6% となっており、近年
の買収が外資銀行のシェアを押し上げていることが分かる。
こうした外資銀行のシェア上昇が銀行部門にどのような影響を与えるかは外国銀行の進
出という研究領域においては大きな関心事である。その影響を分析するための切り口の 1
つが信用供給の安定性に与える影響である。とりわけ今般の世界金融危機の前後において
外資銀行がどのような貸出行動をとったかは外国銀行の進出を評価する上で重要な情報を
与えてくれよう。
Ⅱ 先行研究
ここで先行研究を俯瞰することで本稿の研究上の位置づけを確認したい。本分析は外国
銀行の新興国への進出という研究領域に属する。この領域では外国銀行の進出によってホ
スト国の銀行部門にどういう影響があるのかが主要な課題であった。論点の 1 つが貸出行
動の違いであり、本稿での分析もこの論点に属する。21 世紀になってから新興国へ進出し
た外国銀行が現地通貨で現地の企業や家計に貸出をするという行動が顕著である。このこ
とはホスト国における信用供与について外国銀行も一定の役割を担うことを意味する。多
くの地場銀行が外国銀行に買収されて傘下となっているインドネシアのような場合には外
国銀行の動向に注目せざるをえない。先行研究においてはとりわけ金融危機時における信
用供給に関して外国銀行と地場銀行とで相違がないかを検証してきた。また、アジア経済
の文脈では 1997 年の通貨危機時に外国銀行が一気に信用を収縮させたという記憶がまだ
生々しい。外国銀行のシェア拡大が国際流動性危機の蓋然性を高めることを助長していな
いかという視点からも注目すべき論点である。
外国銀行が金融危機にどのような行動を取ったかの検証には外国銀行の行動だけを観察
するというのが 1 つの手法である。Kamil and Rai(2010)は国際決済銀行の国際与信統計
を利用して中南米諸国に対する先進国銀行の貸出を 1999 年から 2008 年を対象期間として
6
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
分析した。結果は外国銀行による貸出という経路を通じて中南米諸国に世界金融危機の
ショックが伝播するという事態は回避されたというものである。これは中南米諸国への外国
銀行の展開における特徴から説明できる。まず、近年では貸出形態が本店からの外貨建てク
ロスボーダー貸出ではなく、現地法人による現地通貨建てが太宗を占める。また、資金調
達は親銀行やオフショア市場からではなく国内預金を増加させている。これらの要因に
よって外国銀行が危機時においても資金供給を過度に不安定にしていないことが分かった。
別の手法としては地場銀行との貸出行動の比較も利用されている。この手法を採用した
分析に De Haas and Lelyveld(2006)がある。分析対象は中東欧地域の 10 カ国であり、1993
年から 2000 年という通貨危機を挟んだ期間を取り上げた。その検証課題は景気循環や銀
行危機に対して地場銀行と外国銀行が異なった対応をしたかである。比較では外国銀行を
買収と新規設立という進出形態によってさらに分類し、これら 3 つのグループ間での差異
を確認する手法を用いている。結果はホスト国での危機時に地場銀行が信用供給を収縮さ
せたのに対して外国銀行にはそうした行動を観察していない。また、新規設立の形態で進
出した外国銀行の信用供与は母国の親銀行の健全性に影響されるものの安定的な信用供給
に貢献するという結果を得ている。ホスト国の景気循環に対する反応は進出形態を問わず
外国銀行は汎景気循環的な行動を取っていたとも報告されている。
同様の手法を採用してアジアを対象とした研究には Jeon et al.(2006)がある。彼らは韓
国について 1994 年から 2001 年というアジア通貨危機を挟んだ期間を対象として、外国銀
行が経済の安定化に寄与したのかを分析した。結果は外国銀行が安定化に寄与するという
見方を支持していない。外国銀行の財務的特徴として充実した自己資本、潤沢な流動資産、
資金調達での外貨預金への依存の高さが分析の中で指摘された。こうした特徴は理論上は
韓国経済が不調であっても貸出の拡大を可能にする。しかし、アジア通貨危機後に外国銀
行は貸出を減少させている一方で地場銀行は景気が下降局面でも貸出を増加させており景
気に対して反循環的な行動によって景気変動の平滑化に貢献していた。つまり、中東欧諸
国とは反対の結果を得ている。
本稿の先行研究との違いはまず親銀行側に国際流動性の逼迫という危機が発生した場合
にホスト国での貸出行動にどのような影響が出たかを取り上げている点である。外国銀行
の貸出行動に関する多くの先行研究はホスト国に危機が発生した場合を対象にしている。
そうした研究状況にあっては今般の世界金融危機は母国側での危機発生の影響を検証でき
る貴重な機会である。もう 1 つの違いは個別銀行の財務データというミクロデータによっ
て貸出行動を検証している点、かつアジア地域を対象に取り上げたことにある。
Ⅲ 財務指標の比較
貸出行動を検討するための準備として財務面について地場銀行と外資銀行とを比較す
外国銀行の進出と信用供給の安定性
7
る。銀行の財務的特徴は貸出行動と密接に関連すると推察されるため、その特徴を捕捉す
るという作業は貸出行動の理解に資すると考えられる。
比較に当たって銀行を地場銀行、外国銀行、合弁銀行、被買収行の 4 グループに分類し
た。地場銀行は民間商業銀行である外国為替銀行(foreign exchange bank)と非外国為替銀行
(non foreign exchange bank)から構成される。比較対象になる外資銀行は商業銀行として活動
しているため資産規模が突出する国有銀行と中長期金融を目的とする地方開発銀行は比較
から除外した。また、被買収行は外資によって買収された銀行であるが買収によって即座
に財務的な特徴に変化が出るとは考えられないため、買収された年は地場銀行に分類し、
翌年から被買収行に分類してある。
比較には 5 つの財務指標を用いる。まず、総資産額によって資産規模を捕捉する。それ
ぞれのグループの経営規模を計測することで銀行部門での位置づけが分かる。また、経営
規模が各グループでどのように分布しているかについても関心がある。次に、不良債権比
率によって資産の質に差が無いかを確認する。さらに、今般の世界金融危機で銀行部門に
被害が及んでいないかについても見たい。3 つ目の指標は資産収益率(ROA)であり収益
性に差があるかを見るのが目的である。収益性についての比較は外国銀行の進出という研
究領域において主要な関心事の 1 つに数えられる。4 つ目は預貸率であり、貸出額の預金
額に対する比率である。この指標でまず預金で調達した資金のうちどれくらいを貸出に回
しているかという貸出への積極性を見ることができる。市場性資金を調達してまで貸出を
実行しているケースでは数値が 100% を超えることになり、銀行の調達構造を確認する指
標でもある。また、銀行業では短期調達・長期運用という金融仲介の期間構造が基本と
なっていることから預貸率で流動性リスクを測るという見方もできる。最後は外貨貸出の
比率である。銀行の主要な貸出先が中小企業やリテールといった現地顧客であれば貸出の
大半が外貨貸出で占められるとは考えにくい。一方で貸出先の多くが大企業や多国籍企業
という場合は外貨貸出の比率は高くなるかもしれない。この比率から貸出の質的側面を確
認したい。
分析に用いるデータは中央銀行であるインドネシア銀行のウェブで公開されている
condensed financial statement から取得した。この統計では個別銀行の財務諸表だけではなく
財務指標も合わせて公表されている。なお、比較は 2009 年時点について行った。
比較手法としては Kruskal-Wallis 検定を用いる。本稿での 4 グループ間での差異の検出
のような多群の比較には t 検定を利用できない。2 グループずつに対して t 検定を適用する
という比較手法では有意水準が上昇してしまいより高い確率で誤った結論を下すという問
題があるためである。つまり、実際には「差が無い」にもかかわらず「差がある」と判断
する可能性が高まる。
この問題を回避するため多群の比較には一般的に分散分析を利用する。ただし、分散分
析を実行するための前提条件として各群の分散が等しいことが求められる。本分析のデー
タが前提条件を満たしているかについて Bartlet 検定を実行したところ、各群の分散が等し
8
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
表 2 財務指標の比較
資産規模
不良債権
ROA
預貸率
外貨貸出
中央値
最大
最小
中央値
最大
最小
中央値
最大
最小
中央値
最大
最小
中央値
最大
最小
標本数
地場銀行
1350
280817
90
1.1
38.3
0.02
1.44
4.9
–22.7
79.0
166.8
21.8
0
14.4
0
42
外国銀行
13380
49687
1480
2.8
7.5
0.8
2.8
11.0
–0.01
72.3
313.5
36.5
68.5
98.7
29.3
10
合弁銀行
5654
27897
742
1.1
3.5
0.5
3.1
11.1
0.3
82.5
200.6
35.0
49.6
92.4
4.8
16
被買収行
21938
106803
1142
1.5
3.5
0.5
1.6
3.5
0.1
79.7
109.4
45.5
12.9
34.9
0
14
p値
0.00
0.14
0.01
0.46
0.00
(注)1)資産規模の単位は百万ルピア。それ以外については % である。
2)p 値は Kruskal-Wallis 検定のもの。
いという帰無仮説は棄却された。そのため、分布を利用することなく検定が可能なノンパ
ラメトリック検定である Kruskal-Wallis 検定を採用した。
比較結果を表 2 に示した。まず、資産規模には 4 グループの間で統計学的に有意な差が
確認できる。中でも地場銀行の規模が相対的に小さい。上位行と中堅行が外国銀行による
買収の対象となったことが背景にあると推察される。資産規模は金融サービスを提供する
ネットワークが充実していることを意味するため外国銀行がこうした銀行を好んで買収し
ていることを示唆する。次に、不良債権比率にはグループ間の差は見出せず押しなべて低
い数値であることからアジア通貨危機に起因する不良債権問題は解決済みであることと今
般の世界金融危機によって銀行部門が大きな打撃を受けたという事態に至っていないこと
が確認できる。地場銀行の最大値が 38.3% であるのが目を引くがこうした銀行は 1 行だけ
であり他の地場銀行については取り立てて高い不良債権比率は見当たらない。
ROA については外国銀行と合弁銀行が他の 2 グループよりも収益性が高いという結果が
出た。これは外国銀行と地場銀行との比較を行った Claessens et al.(2001)と一致する結果
である。外国銀行の中で ROA の数値がマイナスとなっているのはロイヤル・バンク・オ
ブ・スコットランド(RBS)となったかつての ABN アムロ銀行である。親銀行である RBS
の公的資金注入後の再建策の一環としてリテール部門と商業銀行部門を ANZ パニン銀行
に売却したことが ROA がマイナスとなった原因である。また、地場銀行では –22.7% とい
う数値が目に付く。この数値はアキタ銀行を買収したばかりのバークレイズ銀行のもので
あり、世界金融危機を受けた事業再編でインドネシアでのリテール業からの撤退を決めて
おり資産圧縮を進めていることで大きな損失を計上した。被買収行については買収から時
外国銀行の進出と信用供給の安定性
9
間が経過していない銀行が多いことから買収による収益性の向上という効果はまだ見られ
ない。
預貸率には統計学的に有意な差は確認できないものの数値の高さが気にかかる。預貸率
が 100% を越えているのは外国銀行が 2 行、合弁銀行が 6 行、被買収行が 1 行、地場銀行
が 2 行と合弁銀行に多く見られる。これらの銀行では貸出の資金調達を預金だけでは賄え
ず市場性資金へ依存している。預貸率の高い合弁銀行は店舗数が少ない場合が多く、預金
吸収が難しいために数値が高くなっている。その典型例は店舗が 1 つのみである邦銀であ
る。こうした調達・運用構造となっている銀行は銀行間市場での資金需給が緩慢であれば
問題は無いが金融危機によって流動性が逼迫すれば与信を圧縮しなくてはならず信用供給
の不安定性を助長することになろう。
最後に、外貨貸出の比率は明らかに外国銀行と合弁銀行で高い。外国銀行の中では中国
銀行とバンク・オブ・アメリカの比率が 90% 以上である。また、合弁銀行についてはその
半数で比率が 50% を超えている。この数値はこれらの銀行の取引相手が自国からの進出企
業や多国籍企業を多く含んでいることを示唆する。その他に外貨の市場調達が地場銀行に
比べて容易であることからも数値の高さを説明できよう。地場銀行の数値が極端に低いの
は外国為替業務を営まない非外国為替銀行が多いためである。
ここでは貸出行動の差異を解釈するための準備として財務指標の比較から各グループの
特徴を明らかにした。
Ⅳ 貸出行動の差異
地場銀行と外資銀行について貸出行動の違いを分析するに当たって注目すべきは 2008
年と 2009 年である。2008 年はリーマンショックで頓挫した世界的な信用拡大が頂点に達
した年である。この銀行信用の拡大はインドネシアでも同様であった。地場銀行と外資銀
行とで信用拡大期において貸出行動に顕著な差異が見られるかが 1 つ目の検証課題にな
る。とりわけ、外貨建て貸出が急増していないか、そうした急増を外資銀行が助長してい
ないかを確認する。
2 つ目の検証課題は 2009 年に焦点を当てる。世界的な金融・経済危機の影響によって信
用供給がどの程度まで減少したのかに注目する。中でも外資銀行による外貨建て貸出が急
減していないかを確認する。これら 2 つの検証課題は外資銀行が好況期には信用拡大を、
不況期には信用収縮を助長して信用供給の不安定性を増大させていないかを問うものであ
る。言い換えると、アジア通貨危機の轍を踏んでいないかを検証することにもなる。
分析では現地通貨建て貸出と外貨建て貸出に分けて対前年比での増減を 2006 年から
2009 年にかけて確認する 6)。ここでも銀行を地場銀行、外国銀行、合弁銀行、被買収行に
分類し、それぞれの分類の間に差異が存在するかを前節と同様の手法によって検証する。
10
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
なお、Kruskal-Wallis 検定で検証するのは 4 グループ間で差があるかである。どのグループ
とどのグループに差があるかを知ることはできない。Kruskal-Wallis 検定で 4 グループ間で
差が無いと言えない場合には多重比較によってグループ間の差異を検出する。ここでの多
重比較には Steel-Dwass 検定を用いて全ての組み合わせについて差があるかを確認する。
貸出額のデータはインドネシア銀行が公表する銀行部門の condensed financial statement か
ら取得した。使用した項目は credit extended である。
分析に当たって外貨建て貸出は米ドル換算した。インドネシア銀行の統計では外貨建て
貸出の金額は現地通貨建てで表記されている。そのため、リーマンショック直後の 2008
年末にインドネシア・ルピアが大きく減価したことによって外貨建て貸出の現地通貨建て
金額が増加した。為替減価率は対米ドルで 2007 年末に比べて 16% 余りであった。貸出の
動向を観察するには減価による貸出額増加の影響を除去する必要がある。そこで年末時点
におけるインドネシア・ルピアの対米ドル相場で外貨建て貸出を除して米ドル換算してい
る。
比較結果を表 3 にまとめた。表中の数値は各グループの中央値である。まず、現地通貨
建て貸出については 2007 年と 2008 年に貸出の増加が顕著である。危機前に世界的な金融
緩和が観察されているがインドネシアでも信用供給は大幅に増加した。2008 年については
Kruskal-Wallis 検定は有意な結果となっており 4 グループの貸出増加には差異が確認でき
る。Steel-Dwass 検定で差異を比較すると合弁銀行の貸出増加が地場銀行より有意に大きい
と分かった。表から分かるようにこの時期については外資銀行 3 グループの現地通貨建て
貸出には景気の拡大を増幅させるような動向が見られる。
一方、危機後の 2009 年に現地通貨建て貸出が大きく減少するという事態に陥ることは
なかった。全てのグループで変化率はプラスであり地場銀行と被買収銀行では危機後で
あっても 4.5% という経済成長率を背景に 10% を越えて貸出が増加した。外国銀行と合弁
銀行でも与信圧縮の動きは見られず現地通貨建て貸出では外資銀行が信用供給を不安定化
させる動きは観察できない。
表 3 貸出動向の比較
(単位:%)
2006 年
2007 年
2008 年
2009 年
現地通貨建て
外貨建て
現地通貨建て
外貨建て
現地通貨建て
外貨建て
現地通貨建て
外貨建て
地場銀行
8.3
16.9
16.7
21.3
15.9
14.6
14.4
6.3
外国銀行
9.5
35.6
8.2
42.3
35
9.4
4.4
–6.5
合弁銀行
6.8
23.3
54.8
35.8
44.5
24.3
8.4
–10.7
被買収行
9.6
34.6
23.2
53.7
30.3
13.4
12.3
30.0
p値
0.99
0.87
0.13
0.28
0.00
0.95
0.34
0.00
(注)1)数字は各グループの中央値である。
2)p 値は Kruskal-Wallis 検定のもの。
外国銀行の進出と信用供給の安定性
11
今般の世界金融危機後における外国銀行の貸出変化を中南米諸国について検証した
Kamil and Rai(2010)でも現地通貨建て貸出は調達源が安定的な預金であることを背景に
大きな減少に至っていないと報告している。外国銀行の新興国への進出では現地の企業、
個人への金融サービス提供に収益機会を見出して地場銀行を買収するという動向が目立
つ。確立された支店網を有する地場銀行を傘下として預金を吸収することができるため現
地通貨建て貸出は安定的に供給できるわけである。
次に、外貨建て貸出は 2006 年、2007 年とかなりの伸びを記録しており、この伸びは
Kruskal-Wallis 検定が有意でなかったことからも全般的な傾向であった。世界金融危機前の
国際流動性が潤沢な状況においてインドネシアでも貸出増加は顕著であり、地場銀行も外
資銀行と同様に外貨建て貸出に積極的に取り組んだ。外貨建て貸出では 2009 年における
外国銀行と合弁銀行のマイナスの数値が目を引く。それとは対照的に被買収行が貸出を大
きく増加させていることも注目に値する。Kruskal-Wallis 検定では 4 グループの間で貸出変
化率に明らかな差異を示している。Steel-Dwass 検定では合弁銀行の変化率が被買収行より
小さいという結果が確認された。
こうした差異を説明する要因を 2006 年から 2009 年までを対象として回帰式で確認する。
変数の選択は De Haas and Lelyveld(2006)と Jeon et al.(2006)に依拠した。被説明変数は
外貨建て貸出の対前年比での変化率である。説明変数は個別銀行の特徴を捕捉するため資
産規模の自然対数値、不良債権比率、ROA、外貨建て預貸率を採用する。なお、資産規模、
不良債権比率、預貸率について被説明変数から説明変数への逆の因果関係が疑われるため
一期前の数値を用いて内生性の問題に対処する。また、UOB や OCBC のように合弁銀行
と被買収行との二行を保有するケースでは貸出の決定が相互に関連している可能性が排除
できないため、合併後の存続行を合併ダミーによって区別する。さらに、母国の親銀行が
金融危機で甚大な損失を被る事態となれば子会社へ影響が波及することは容易に予想でき
る。この影響は親銀行の母国が大きな経済的ダメージを受けた場合に 1 の値をとる母国危
機ダミーで制御する。
回帰式には資金需要を捕捉するためインドネシアの GDP 成長率と貿易、輸出の対前年
比変化率を含める。外国銀行の貸出行動については Peek and Rosengren(2000)や Soledad
Martinez Peria et al.(2002)のように多くの研究が貸出の供給と需要を考慮する誘導形モデ
ルによって分析してきた。GDP 成長率が資金需要を捕捉する変数として主に用いられてき
たが、今般の世界金融危機では大きな輸出減少が観察されているため、貿易と輸出からの
7)
影響も制御する 。なお、パネルデータでの推計を試みたが F 検定、ハウスマン検定、
Breusch and Pagan 検定の結果、プーリング回帰を採用した。
推定結果は表 4 のとおりである。注目すべきは母国危機ダミーである。母国が金融危機
で大きなダメージを受けた場合に外貨貸出の減少につながることがはっきりと確認でき
る。また、預貸率の係数が有意にマイナスとなっており、市場性資金への依存度が高かっ
たために市場の流動性が低下すると与信圧縮に動かざるを得ないという因果関係が推定さ
12
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
表 4 外貨貸出と母国の危機
規模
不良
債権
ROA
預貸率
合併
母国
危機
GDP
成長率
貿易
推計 1
–45.08* 6.72
–0.65 –1.87* –48.14 –120.72* 1.75
–1.75
(22.81)(4.60)(3.04) (0.80)(57.79)(54.72)(14.08)(3.06)
推計 2
–45.30* 6.77
–0.32 –1.88* –54.3 –123.97* 3.31
(22.76)(4.28)(2.96) (0.80)(64.61)(59.53)(15.94)
輸出
定数項
2
標本数 adj-R
F値
972.54*
(467.09)
194
0.07
3.18**
–2.61 979.67*
(4.31)(467.98)
194
0.08
2.93**
(注)1)*, ** はそれぞれ 5% 水準、1% 水準で有意であることを示す。
2)カッコ内の数字は heteroscedastic-consistent standard errors。
れる。今般の世界金融危機でサブプライム関連商品の保有についての深刻な情報問題に
よって銀行間市場が疑心暗鬼に陥ってしまい国際流動性が枯渇してしまったことの影響が
結果から垣間見える。
しかしながら、多くのデータを簡便な 1 つの回帰式に落とし込むことで情報量が減って
しまいデータから洞察を引き出すことを困難にしている。そこで表 5 に外資銀行について
重要と思われるデータを取り纏めた。なお、母国での金融危機が深刻であった米国と EU
に親銀行がある場合は銀行名に星印を付した。
まず、被買収行が外貨貸出を大きく伸ばすことができた要因が表を俯瞰すると浮かび上
がってくる。バンク・インターナショナル・インドネシアを除いて外貨貸出の外貨預金に
対する比率が 100% を下回っており資金調達源が安定的であることが見て取れる。被買収
行は国際流動性の逼迫に影響を受けにくい調達構造になっている。また、マイナスとなっ
た銀行は 3 つだけであり、そのうち 2 つは親銀行が HSBC とドイツ銀行であり金融的混乱
が深刻であった EU に位置する。母国が金融危機に見舞われなかった親銀行が多いことか
8)
らも被買収行の外貨建て貸出の伸びを説明できる 。
外国銀行について見ると回帰分析で明らかになったように母国での危機が要因として大
きいと分かる。親銀行が危機に見舞われた場合は軒並み外貨建て貸出を減少させている。
例えば、シティバンク、ドイツ銀行、ABN アムロ銀行の減少幅が大きく 20% から 40% 台
の減少であった。また、外貨について預貸率が低く調達構造が安定的であっても貸出が減
少しているため調達構造よりも親銀行が被った損失の影響がより大きく外貨建て貸出に影
響したと解釈できる。
合弁銀行では外貨建て貸出が増加したのが 4 行だけである。合弁銀行について注目すべ
きは預貸率が低く、母国が危機になっていなくても外貨建て貸出を大きく削減させている
ことである。こうした銀行としてはコモンウェルス銀行、UOB インドネシア銀行、OCBC
インドネシア銀行、KEB インドネシア銀行、アグリス銀行が挙げられる。これらの銀行に
よる貸出減少から母国、ホスト国ともに金融危機が深刻でなく、調達構造が安定し、かつ、
近隣諸国の銀行だとしても今般の世界金融危機のような事態にあっては方針を転換して与
信圧縮に動くという連鎖反応が確認できる。与信引き揚げの連鎖についての理論はホスト
国に対する情報の非対称性から危機の伝染メカニズムを説明する。上に述べたような銀行
はホスト国に現地法人を設立していることや親銀行が近隣諸国にあることから非対称性の
外国銀行の進出と信用供給の安定性
13
表 5 外貨貸出と調達構造(2009 年)
(単位:%)
銀行名
外 国 銀 行
合 弁 銀 行
被 買 収 行
CITIBANK*
STANDARD CHARTERED*
HSBC*
BANK OF TOKYOMITSUBISHI
DEUTSCHE BANK*
ABN AMRO*
BANGKOK BANK
JP MORGAN CHASE*
BANK OF CHINA
BANK OF AMERICA*
DBS INDONESIA
MIZUHO INDONESIA
ANZ PANIN
RABOBANK*
SUMITOMO MITSUI INDONESIA
COMMONWEALTH
UOB INDONESIA
RESONA PERDANIA
CHINATRUST INDONESIA
OCBC INDONESIA
KEB INDONESIA
WOORI INDONESIA
WINDU KENTJANA INT’L
BNP INDONESIA*
MAYBANK INDOCORP
AGRIS
CIMB NIAGA
DANAMON INDONESIA*
PAN INDONESIA
PERMATA*
INTERNASIONAL INDONESIA
OCBC NISP
UOB BUANA
EKONOMI RAHARJA*
BUMIPUTERA INDONESIA
NUSANTARA PARAHYANGAN
ICBC INDONESIA
SWADESI
HANA
外貨貸出変化率
–23.0
16.6
–2.9
9.9
–36.2
–45.9
–18.4
–6.4
238.6
–6.6
–0.9
–14.0
51.4
–30.9
–8.1
–30.0
–13.4
–7.5
11.4
–39.2
–16.9
1.7
–7.4
–85.8
13.4
–48.7
30.0
–28.1
41.9
26.3
4.0
–7.4
73.1
–12.6
53.6
57.1
3016.1
28.8
206.9
外貨貸出/外貨預金
76
149
84
217
73
68
343
113
37
94
76
269
67
342
113
19
112
141
89
161
75
134
100
109
397
140
80
94
66
83
116
80
28
41
40
21
12
68
90
(注)1)* は母国が金融危機に見舞われた銀行を示す。
2)外貨貸出 / 外貨預金の数値は 2008 年のもの。
程度は低いと考えられるにもかかわらず貸出を減少させている。このため連鎖反応につい
ては改めて仮説設定とその実証という作業が必要になる。
それでは外国銀行と合弁銀行で顕著であった外貨建て貸出の減少は信用供給を不安定化
14
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
させたのだろうか。この検証には貸出額全体に外国銀行と合弁銀行が与えたインパクトを
確認すればよい。2009 年の対前年比での貸出の変化率は現地通貨建てで 9.3%、外貨建て
では 2.2% となっており貸出額全体は減少しておらず、アジア通貨危機のような巨額の資
本流出には至っていない。なお、今般の世界金融危機においてインドネシアからの資本流
出の中核を占めたのはポートフォリオ投資である。小松(2010)によると 2008 年 9 月から
10 月の 1 カ月で外貨準備の約 13% が流出した。銀行部門全体としては不安定な動きが確
認できない。
外貨建て貸出がマイナスにならなかったのは被買収銀行の貸出増加が外国銀行と合弁銀
行の貸出減少をカバーできたためである。外貨建て貸出に占める各グループのシェアは
2009 年時点では被買収行が 36.5%、合弁銀行が 29.8%、外国銀行が 19.6% である。合弁銀
行と外国銀行を合わせるとシェアは 49.4% にのぼり被買収行を越えるが、被買収行の伸び
が大きかったために全体としてはかろうじて減少に転じることはなかった。つまり、外国
銀行の進出が世界金融危機の勃発を契機として信用供給を不安定化させるまでには至らな
9)
かったと言える 。
むすび
本稿は世界金融危機下において新興国に進出した外国銀行がどのような貸出行動を取っ
たかをインドネシアを対象に検証した。この課題を取り上げた第一の理由は外国銀行の貸
出行動を巡って異なる観察結果が先行研究で報告されていたことである。このため実証分
析の蓄積によってこの課題をさらに精査する必要があった。第二の理由はホスト国で危機
が発生した事例についての分析が多いという研究状況にあって今般の世界金融危機は母国
での危機の影響を検証できる希少な機会だったことである。分析には各銀行の財務データ
を利用してマクロ統計では捕捉できない個別行の動向にまで目を配って貸出行動の実態把
握に努めた。
分析に際してまず外国銀行の進出状況についてその概観を示すことができた。進出の背
景にある規制緩和の動向、銀行部門の問題点と構造変化についても合わせて紹介した。ア
ジア通貨危機後の銀行部門の再建については多くの報告があるが、再建が一段落した近年
においては外国銀行による買収を中心とした変化について俯瞰するという基本作業も放置
されていたような研究状況であった。そこで外国銀行の貸出行動を理解するための事前準
備として進出状況を俯瞰して被買収行と戦略投資家の特徴と進出の動機を指摘した。
分析で得られた知見として、まず、外国銀行と合弁銀行において外貨建て貸出の比率が
高く必ずしも現地化していないことが分かった。21 世紀に入ってから外国銀行は現地の企
業、個人との取引に収益機会を見出して新興国に進出するという動向が目立っている。こ
のパターンが当てはまるのはインドネシアでは被買収行である。外国銀行と合弁銀行では
外国銀行の進出と信用供給の安定性
15
ホスト国へ進出した自国企業を主として金融サービスを提供するという旧来からの顧客追
随仮説で進出動機を説明できる部分が多いと見受けられる。外貨建て貸出の比率の違いは
このことの傍証であり、インドネシアでは新旧の進出パターンが併存する構造になってい
る。
次に、現地通貨建て貸出については世界金融危機を受けて信用供給を大きく削減すると
いう行動は観察できなかった。地場銀行と比較しても外資銀行の貸出に統計的に有意な差
異は無かった。確立された支店網を有する被買収行では成長率の低下にあっても 10% を越
えて貸出を伸ばした。この要因としては現地通貨建て貸出には預金という安定的な調達源
があるため国際金融市場での流動性逼迫からは影響を遮断できることにある。先行研究で
の指摘にあるように現地化を志向する進出は信用供給の安定化に資するということがイン
ドネシアでも確認された。
最後に、外貨建て貸出については外国銀行と合弁銀行で 2009 年に貸出の減少が観察さ
れた。調達構造が安定していても母国の親銀行が危機に見舞われた場合は与信圧縮に動い
ていることから減少を説明する要因としては親銀行による事業見直しの影響が大きいと考
えられる。また、合弁銀行では親銀行が甚大な損失を被っていないにも関わらず貸出を減
少させる事例が散見されることから与信圧縮の連鎖反応が確認できた。
一方で被買収行が外貨建て貸出を大きく増加させたことで貸出全体としての減少は免れ
ており信用供給の安定への貢献が認められる。この結果から相次ぐ買収という進出形態で
の外国銀行の進出が信用供給を不安定化させるという懸念は後退したと言える。むしろ、
外貨建て貸出のシェアを考慮すると既存の外国銀行と合弁銀行の行動に注意が必要であ
る。このように外資銀行であっても進出形態によって外貨建て貸付の安定性に差があるこ
とを示したことが外国銀行の進出という研究領域に対する本稿の貢献である。外国銀行と
合弁銀行の行動については与信圧縮の連鎖という現象も含めて親銀行からの影響の波及経
路がどうなっているかという問題が残っているが、この論点については例えば親銀行との
資金的連関という内部資本市場の機能について検証するという分析が求められよう。
(注)
1)インドネシアには外国資本が入った銀行は参入形態別に外国銀行、合弁銀行、被買収行の 3 種類があ
り、本稿ではこれら 3 グループをまとめて外資銀行と呼ぶ。
2)規制の変遷についての詳しい説明は佐藤(2004)や高安(2005)を参照されたい。
3)銀行が証券取引所に上場できる株式は発行済株式の 99% であることが上限の根拠である。なお、残り
の 1% はインドネシア資本の所有が条件になっている。
4)6 つの柱とは①健全な銀行構造、②効率的な管理システム、③効率的で独立した監督システム、④強固
な銀行産業、⑤適切なインフラストラクチャー、⑥預金者保護である。
5)スーパーリージョナルバンクはそもそもは米国における銀行のタイプを表す用語である。本店所在州 ・
隣接州を越えた複数の州において銀行業務を行っている大銀行をスーパーリージョナルバンクと呼ぶ。
ただし、スーパーリージョナルバンクが指し示す内容は近年においては変容している。特定の地域に強
い基盤を有する銀行が、独自に、もしくは複数統合することによって、ブロック経済圏において総合的
な金融サービスを提供する銀行をスーパーリージョナルバンクと呼ぶ場合が多くなった。
6)2010 年からインドネシア銀行は貸出額について現地通貨建て、外国通貨建てを区別して公表するのを
取りやめている。このため、本稿では 2009 年までしか検証期間に含めることができなかった。
16
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
7)説明変数間での相関係数を確認したところ GDP 成長率−貿易で 0.46、GDP 成長率−輸出で 0.54 と高め
の値が出た。念のために VIF(variance inflation factor)を算出したが値は目安となる 10 を大きく下回り 2
より小さかった。
8)表 5 では Bank of China と ICBC Indonesia という中国系銀行の数値が異常に高く見えるが、2006 年から
2008 年までのデータには増加率が 3 桁という数値が散見されるため推計で異常値として取り扱うことは
しなかった。なお、中国系銀行を異常値として除いた場合でも推計結果に変化はなかった。
9)この背景としては危機発生前の国際流動性が潤沢な時期にインドネシアが過度な外貨建て借り入れに
依存しなかったこともある。貸出全体に占める外貨建て貸出の比率は 2005 年に 19.7% であったものが、
2007 年と 2008 年には外貨建て貸出の増勢を受けて高まったが 24.9% に留まっている。2009 年には為替相
場の増価もあり外貨建て貸出の比率は 21% になった。これにはアジア通貨危機の教訓が生きているのか
もしれない。
(参考文献)
日本語
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、
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アジア新興国の経済構造変化』日本貿易振興機構アジア経済研究所、第 8 章。
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興機構アジア経済研究所、第 4 章。
高安健一(2005)
、
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(高安健一『アジア金融
再生』勁草書房、第 4 章。
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英語
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(やまぐち・まさき 山形大学 E-mail: [email protected])
外国銀行の進出と信用供給の安定性
17
新疆における盛世才政権の民族政策の形成と破綻
木下恵二
問題の所在
ヨーロッパで 17 世紀に生まれた近代国際システムは、19 世紀には世界規模に拡大し、
19 世紀後半には清帝国もそのシステム内に取り込まれることとなった。主権国家によって
構成されるこのシステム内には、国民国家ばかりでなくハプスブルク帝国、ロシア帝国と
1)
いった帝国的主権国家も含まれていた 。清帝国もそのような国家の 1 つとして見なすこ
とができるであろう。これらの帝国的主権国家の転機となったのは第一次世界大戦と、そ
の帰結としての民族自決原則の普遍化であった。ハプスブルク帝国やオスマントルコ帝国
は分裂して崩壊し、ロシア帝国は社会主義イデオロギーに基づく連邦国家へと再編成され
た。清帝国もまた、共和制をかかげる 1911 年の辛亥革命によって滅亡した。清帝国の領
域を継承した中華民国、そして中華人民共和国は国家形態と統治構造においてどのような
2)
3)
変容を遂げたのだろうか 。中華人民共和国建国まで非漢族住民が圧倒的多数を占め 、
現在もウイグルの民族問題が注目を集める新疆における統治の変遷を分析することによっ
て、その問いに答えようとするのが本研究の問題意識であり、本稿はその作業の一環であ
る。
近代国際システムへの包摂過程と並行して、清帝国では従来の文化多元主義から中華的
文化一元主義への移行が起こった(平野、2003: 43)。また清末には、中華的文化一元主義と
の矛盾をはらみながら、それを下支えする漢族ナショナリズムが噴出した。中華的文化一
元主義による統治の再編は、新疆においては 1884 年の省制施行をもたらした。さらに清
末の新政は中華的文化一元主義に基づく清帝国領域内のネイション形成
4)
をすすめる側面
を持ち、新疆においても漢語教育をおこなう新式学堂が設立された。
しかし国家主導のネイション形成は新疆においては本格的に推進される前に頓挫した。
辛亥革命以降 1942 年まで約 30 年間、新疆は基本的に中央政府の権力が及ばない状況下で、
漢族地域権力によって統治された。漢族地域権力は新疆を自らが想定する「中国」(必ずし
も中央政府が代表する具体的国家ではない)の一部として統治し、領土の保全を最重要課題と
した。この時期は新疆の中国への統合を考えるうえで、一般的な国家主導の国民国家形成
がモデルとならない特徴的な段階であり、再び中央政府の支配下に統合される際の重要な
前提を形成した段階であった。
本稿では 1933 年から約 10 年間新疆を統治した盛世才政権の民族政策の形成と破綻を取
り上げ、その政策の目的、内容、破綻の要因を明らかにし、それがウイグルの中国への統
18
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
5)
合という点でいかなる影響を与えたのかを検討したい 。なお、本稿では主に天山山脈以
南の新疆南部(以下、南疆)ウイグル社会を分析対象とする。それは 1 つには史料的な理由
によるが、なによりもカシュガルを中心とした南疆こそが現在中国の民族問題においてし
ばしば取り上げられるウイグルの主要な居住地域だからである。
Ⅰ 民族政策の形成
1. ソ連依存の「ソ連型」国家建設
新疆において支配民族たる漢族は全人口の数パーセントに過ぎない圧倒的少数派であ
り、他の被支配諸民族とは言語、文化、宗教、風貌すべてにおいて完全に異なっていた。
またネイション形成を促す条件は、経済、教育、交通などの諸側面でいずれも未発達で
あった。そのような状況下で、中央政府から自律的であるとともに援助を期待できない新
疆省政府は、領土保全のために、秩序の安定をいかに維持し対外勢力にいかに対応するか
を課題としていた。盛世才はその課題をソ連に依拠し、民族平等政策によって克服しよう
としたのである。
盛世才のソ連への依存は単に功利的な判断によっておこなわれたのではない。彼は新疆
に来る前からマルクス主義、ロシア革命に強い関心を持っていた。彼は回顧録において当
時マルクス主義を信奉していたこと、新疆に行った動機の 1 つが「マルクス主義理論をも
とに建設されているソヴィエト・ロシアの実際の状況を見たかった」ことであると述べて
いる(Whiting, 1958: 207; 盛世才、1967: 53)。彼の日本留学時代の同郷会の友人で、彼が新疆
6)
統治のために招いた「十大博士」 の多くが中国共産党員や社会主義に関心を持つ人々で
あったことや、盛世才が 1927 年から 29 年まで国民革命軍で北伐代理行営参謀処第一科科
長などを務めながらも国民党に加入しなかった事実を見ても、それがうかがえる。またソ
連と関係を持ち始めた 1934 年頃にはすでに、彼は「新疆をソヴィエト化し、中国のソヴィ
エト地域に加わる」という考えを有しており、ソ連指導部に伝えてもいた(Raisa, 2007: 94–
97)
。ただし彼は階級闘争などに関してはほとんど言及しておらず、彼の社会主義に関す
る関心は、むしろソ連型の社会主義国家建設にあったように思われる。
盛世才は 1934 年 7 月ソ連の軍事力に依存して非漢民族の反乱を沈静化させると、軍事、
財政、経済建設に関するソ連の顧問や技術者を受け入れ、さらに自らソ連に統治のための
人材派遣を求め、1935 年 5 月には 25 名の中国人コミンテルン人員を受けいれた。この中
の 1 人であった王寿成
7)
は盛世才の妹婿となるなど盛に重用されると共に、新疆における
民族政策の実質的な責任者となった。
盛世才政権は王寿成が新疆に来る以前から、すでに「各民族の一律平等」を掲げ、省政
府、県長への非漢族の積極的登用、民族区分の確定を内容とする政策を実施していた。し
かしこの民族政策はまだ省政府の基本政策
新疆における盛世才政権の民族政策の形成と破綻
8)
として位置づけられるまでには至っておら
19
ず、これを基本政策に組み込み、他の政策と関連づけたのが王寿成であった。王は盛世才
の指導下に設立された大衆政治組織である「新疆反帝民衆聯合会」の秘書長となり、規約
の修正をおこなった。各族の文化に関する項目において、前規約より各族文化の固有性を
強調し、各民族言語・文化の尊重を明確化したうえで、その後に「それによって民族を形
式とし、団結反帝を内容とする文化を実現する」という文言を付け加えた(共青団新疆維吾
爾自治区委員会、1986: 51–59)
。各民族の文化を尊重することが団結して反帝をおこなうため
であることが明確にされたことによって、
「各民族の一律平等」は「反帝」などの他の基
本政策と関係づけられ、基本政策の 1 つの位置を得たのである。
またこの規定は、王寿成による民族政策の発展がソ連の経験に依拠するものであったこ
とを明確に示している。ソ連では 1923 年から公式に「現地化(コレザーツィヤ)政策」(現
地の民族言語の尊重、その言語による教育と幹部養成、現地民族幹部の優先的登用)が採用されて
いた(塩川、2004: 45)。そしてスターリンはそのような政策を支持して、プロレタリア独裁
下での民族文化とは「内容においては社会主義的、形式において民族的」であること、遠
い将来(全世界的規模での社会主義の勝利後長い時間を経た後)においては民族文化が 1 つの共
通語を持った 1 つの共通文化に融合するだろう(ただしロシア語への融合ではなく、何か新し
い言語が生まれるだろう)が、そのためにはまず諸民族文化を開花・発展させ、すべての潜
在力を発揮させねばならないと述べていた(スターリン、12 巻 1980: 383–393、13 巻 1980: 19–
23)
。
同じような認識が 1935 年 12 月 3 日付『新疆日報』の李文丁「民族を形式とし反帝を内
容とする民族文化を語る」で示されている。記事は「つまり各族固有の文化を発展させる
ことは反帝陣営を強固にすることであり、反帝戦線を拡大させることであり、各民族を真
の平等に至らせ、新疆の永久の平和を保障することである。新政府は新疆の民族が複雑で
あることを知っており、ゆえに彼らの遅れた文化を高めるには各族固有の言語、文字、風
俗、習慣を用いなければならず、そうして初めて各族間の隔たりおよび分立の限界を打ち
破ることができる。このようにしてこそ各族の文化から 1 つの共通の文化を形成すること
ができる」(『新疆日報』、1935 年 12 月 3 日)と説明している。これが盛世才政権の民族政策
の論理であった。
各民族の民族性を尊重することでしかネイションの凝集力を作り出すことができないと
いう認識は新疆の状況からしても妥当であると思われる。しかしそこから共通の文化が自
然に生まれると考えるのは楽観的に過ぎよう。各民族の民族性を尊重しながら、それをい
かに中国ネイションに凝集させるのかという重要で困難な課題に対する認識はここには見
られない。とはいえ実際にはネイションの形成が遠い将来のことであるとしていたため、
文化的同化や融合の圧力はほとんどなく、むしろ各民族の差異が強調されることになっ
た。
20
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
2. 民族教育政策と南疆ウイグル社会
各族文化・言語の尊重の具体的な政策として、省政府が積極的に推進したのが民族言語
による学校教育であった。これに最も強く呼応したのが、
「ウイグル」と民族確定された
9)
テュルク系定住民であった 。この政策を実質的に担ったのは「各族文化促進会」で、お
およそ民族単位ごとに結成され、その民族の言語を用いた教育、出版事業に取り組み、特
に重要な働きとして民族言語で教育をおこなう会立学校の設立があった。
「ウイグル族文
化促進会」は 1934 年 8 月 5 日に他の文化促進会に先駆けて設立された。王寿成の報告によ
れば、
「ウイグル族文化促進会」が 36 年に設立した小学校は 1736 校で、児童数は 12 万
4174 人に上り、他の民族を大きく引き離している(共青団新疆維吾爾自治区委員会、1986:
108–109)
。
「ウイグル族文化促進会」を中心とした民族学校設立運動が特に活発であった理由とし
ては、第 1 に 1910、20 年代に新疆省内の複数のオアシスで展開され挫折した「新方式」
教育運動の歴史が挙げられる(新免、1990; 大石、1996)。すでにテュルク系住民には母語を
用いて宗教的知識に加えて近代的知識を教えようとする教育運動を推進した歴史があっ
た。さらに 30 年代の運動の特徴として、清水(2007: 74–76)は「ウイグル」という概念の
導入を指摘している。第 2 に財源の豊富さがあった。文化促進会の財源は政府からの支出
の他は、民衆からの寄付や地域の宗教財産に拠っていた。
「ウイグル族文化促進会」では
ワクフ、ウシュル、ザカートといった宗教的喜捨や宗教税が用いられており、さらに南疆
ウイグルの最有力軍事指導者であったマフムードが強制的な資金集めをも含めて活動を支
援していたため資金は豊富であった(劉徳賀、1987: 50–52; IOR, 2364: 1935.3.21, 1935.5.16, 2332:
1935.4.4)
。
カシュガルを中心とした南疆においてこの運動を担ったのは当地民族の「改革派」知識
人であった。マフムードは「カシュガル・ウイグル族文化促進会」や独自に組織された「改
革党」(あるいは「改革協会」)に影響力を行使し、積極的にこの運動を推進した(IOR, 2364:
1936.1.30, 5.28, 6.1)
。彼は 1910、20 年代にトルファンで「新方式」教育運動を展開したマク
スードの弟で、1931 年トルファン反乱に参加した後に軍事指導者として台頭し、盛世才政
権下では省政府の権威を基本的に認めてカシュガル区警備副司令を務めていた。彼は独立
国家樹立を究極的目標としながらも、当面現体制を容認し、教育運動に力を入れることに
よって民族の発展を図ろうとしていた。省政府の民族教育政策は彼の意図にかなうもので
あり、そのため彼は軍事力と行政権力を背景に、教育運動に反対するウイグルの「保守派」
を抑え込み、その勢力を弱体化させる政策をとった(賽福鼎・艾則孜、1993: 205–208)。
しかし「改革派」勢力も一枚岩ではなかった。省政府やソ連に対する政治的姿勢に相違
があった。マフムードは当面はその権威を受けいれてはいたが対立的であったのに対し、
10)
カシュガルの「民衆聯合会」 会長のアブドゥル・ガーフル・ダームッラーは省政府やソ
連に好意的な立場であった。彼らは互いに主導権を争いながらも、省政府の民族教育政策
新疆における盛世才政権の民族政策の形成と破綻
21
を支持し、省政府の統制から自律的に活動を進めた。カシュガルの民衆聯合会は独自に
「郷村民聯会」を組織し、カシュガルとその周辺都市の民衆聯合会は職権行使において行
政・司法に干渉しさえしていた(『新疆日報』、1936 年 8 月 4 日、8 月 6 日、10 月 8 日、10 月 9 日)。
カシュガルを中心とした南疆の民衆聯合会、文化促進会は一種の自律的行政権力を形成し
つつあり、ウイグルの地元有力者による自治的状況が生まれていた。
3. 省政府の統制強化と「自治」の崩壊
1936 年には省政府は民族政策を維持しながら、南疆の状況に対し統制の強化に乗り出し
た。ソ連顧問の援助の下に策定し、1936 年 7 月から実施された「第 1 期三年計画」におい
て南疆の各族文化促進会設立学校や教科書に対する教育庁や各区教育局による管理強化の
方針が打ち出された(設計委員会編、1942: 17–28)。それに先立つ 2 月にはカシュガル区に教
育局を設置し、ウルムチから教育部とワクフ部などを担当する約 20 名の漢族官僚が送ら
れた(IOR, 2332: 1935.9.1)。マフムード部隊内の部下に対する籠絡工作を含め、省政府が南
疆の自治的状況を容認せず、省政府の統制下に南疆の基層社会を置こうとしたことは明ら
かである。
ただしこれは民族平等政策そのものの変更を意図したわけではなかった。例えば「第 1
期三年計画」においては、教育内容に関して小学校 5 年より漢族、回族、満族などの学校
ではウイグル語とその他言語を、またその他各族学校では国語を教えなければならず、小
学校卒業後には各族児童が互いに直接会話でき、普通の書物や新聞を読めるようにしなけ
ればならないと規定している(設計委員会編、1942: 21)。ここで「国語」とされているのは
漢語であろう。省政府は「各民族による教育」の到達点として、少なくとも理念上は、
「国
語」(漢語)とウイグル語の二重言語政策を想定していたことがうかがえる。すなわち民族
文化の発展は認めるが、政治的、文化的自治につながるような動きは認めないというのが
省政府の姿勢であった。
他方で、1936 年 2 月にウルムチから漢族官僚が派遣されてきた際に、カシュガルでは地
元住民による大規模な抗議集会が開かれた。民衆が教育とワクフ、すなわち宗教的事象に
関しては現状どおり地元住民自身が管理すべきであると考えていたからであると英国駐カ
シュガル領事は記している(IOR, 2332: 1936.2.13)。ここに省政府と地元住民との争点を見出
すことができる。
省政府によって強行された統制の強化は、ウイグルの「改革派」内に存在していた矛盾
を激化させた。省政府に近い立場にあったアブドゥル・ガーフルは民衆の不満を受ける立
場にたたされ、1936 年 5 月 12 日夜暗殺された。カシュガルの公安管理処の中心にいたウ
イグル共産主義者アブドゥル・カーディル・ハジ
11)
は犯人としてマフムード派の人物を
逮捕した。この暗殺にマフムードがどこまで関与していたのかは現時点では確定できない
が、
「改革派」内の対立の結果である可能性が高い
12)
。その後、カシュガルでの主導権は
市当局、民衆聯合会、改革協会に代わって、アブドゥル・カーディル・ハジの手に移った
22
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
(IOR, 2364: 1936.7.2)
。
政治的孤立状態に追い込まれたマフムードは 1937 年 4 月インドへ逃亡した。残された
彼の部隊は 5 月 30 日に蜂起し、ホータンの回族勢力である馬虎山部隊もそれに呼応した
が、ソ連の軍事協力によって省政府に鎮圧された。こうして南疆の自治的状況は失われ、
思惑の違いこそあれ民族平等政策のもとに生まれていた省政府と南疆ウイグルの民族有力
者たちとの協同関係も失われた。すなわち、民族平等政策において当初企図されていた民
族文化の発展によるネイション形成の展望はここで挫折したのである。
Ⅱ 民族政策の破綻
1. 盛世才の政治目標と政治的野心
盛世才の日本に対する姿勢が非常に厳しいものであったことは、その経歴からも明らか
である(蔡錦松、1998: 1–24; 王柯、1995: 40–42; 伊原、1988: 137–140)。彼は東北奉天省開原県盛
家屯の出身であり、日本留学中に 1919 年ヴェルサイユ講和会議に反対して、帰国運動に
積極的に参加した。また軍人を志した後に知遇を得た岳父郭松齢の張作霖に対する反乱に
留学先の日本から帰国して加わった。結果的に、郭松齢は日本の干渉によって敗れ、命を
失った。このような彼の経歴は、1931 年満洲事変以後の日本の東北分割占領という事実と
ともに、彼の反日姿勢の十分な根拠となっている。それゆえ彼は南京国民政府の「不抵抗
政策」に強い不満を抱いており、彼が「反帝」を言うときの主要な対象は日本であった。
彼は「東北回復と中国の解放」を目的として挙げ、
「新疆の前途はすなわち中国の前途で
あり、中国の前途はすなわち新疆の前途である」と述べている
13)
。
「抗日」は彼にとって
重要な政治目標であった。
それに加えて前述のように盛世才はソ連型国家建設に強い関心を持ち、ソ連に依存して
新疆の統治を進めていた。他方で中国共産党は国民党の「剿共」戦によって大きな打撃を
受け弱体化していた。そのような状況において、彼は自身が中国共産党に並ぶ、あるいは
それ以上の中国における社会主義勢力の代表たる地位を占めるという政治的野心を抱くよ
うになった。そして、そのために社会主義勢力の最高指導者であるスターリンに認められ
ることを重視した。中国共産党との最初の接触であった 1936 年 3 月のモスクワにいる王
明への手紙の中で、盛世才は自らを「中国革命の最も強力な指導者」と位置づけ、新疆を
通じての紅軍への援助を申し出た(Chinese Law and Government, 30(1), 1997: 57–66)。1937 年 10
月ウルムチに「八路軍弁事処」が設置され、12 月に中国共産党への入党を申し出た後も、
相変わらず彼は中国共産党と対等以上の立場を保持しようとした。
さらに 1938 年 9 月に盛世才はモスクワを訪問し、スターリンと 3 度にわたる会談を実現
した。彼はスターリンが 3 度も自分と会い、中国の最高指導者のように扱い、新疆の重要
性と将来についての自分の考えに個人的な関心と承認を表明したことに非常に満足した
新疆における盛世才政権の民族政策の形成と破綻
23
(Whiting, 1958: 204–207; Chinese Law and Government, 30(1), 1997: 70)
。スターリンの自分への信頼
に自信を深め、また新疆で独自の活動をする中国共産党への不信感を募らせた盛世才は、
1939 年 7 月以降新疆を国民党とも中国共産党とも異なる「六大政策政治集団」であると主
張し始め、
「抗戦勝利、新中国建設の際には、最も栄光ある歴史を有する独立した政治集
団となる」として、自らを中国の最も代表的な政治指導者と位置づけていったのであ
る
14)
。
このように盛世才は、新疆の統治者でありながら、東北、中国のために「抗日」をする
ことを政治目標と掲げ、それをソ連の力を借りながら実現しようとした。しかもその過程
で自身が中国を代表する政治指導者となる政治的野心を政治目標と重ね合わせていた。彼
は 1938 年 9 月「新疆は決定的なそしてそれゆえ激しく血の流れる戦争が戦われる最後の
場所である」とわざわざカシュガルの地元指導者を国費でウルムチに招いて訴えてお
り
15)
、新疆における日本との最終決戦をソ連とともに戦い勝利するという願望を実現しよ
うとしていた可能性が高い。
2. 粛清と民族政策の破綻
ソ連の力を借りて「抗日」をおこない、それとともに中国の社会主義勢力、あるいは中
国全体を代表する指導者となるという彼の政治目標と政治的野心の追求は、彼の新疆統治
にも影響を与えた。その重要な影響の 1 つは、1937 年 8 月から 38 年前半にかけておこな
われた盛世才による大規模粛清と、その結果としての民族政策の破綻であった。マフムー
ドのインドへの逃亡とその後の南疆での反乱は省政府にとって予想外の事態であった。省
政府は南疆への統制を強化しようとはしていたものの、民族政策自体の変更を意図しては
いなかった。しかし民族政策は盛世才による粛清の実施によって実質的に破綻することに
なった。ウルムチを中心として新疆各地に波及した粛清の対象は、民族を問わず、思想傾
向を問わず、官僚、教員、富裕商人、コミンテルン人員など多岐に渡り、逮捕された人数
はおよそ 2800 名であった(安甯、1952: 108、109; 張大軍、1980: 3723)。
このような粛清を引き起こした主要な要因は第 1 には、盛世才のクーデタへの危機感で
(1928 年)
、
ある。民国期以降、新疆における政権交代は、楊増新を殺害した「七七クーデタ」
金樹仁を追い落とした「四一二クーデタ」(1933 年)、盛世才が自身の権力掌握のためにお
こなった陶明樾、陳中、李笑天殺害のクーデタ(1933 年)など、すべてクーデタによって
おこなわれてきた。このような状況の下、盛世才が次のクーデタの発生を恐れることは当
然であった。今次の粛清の最初の主要な犠牲者は教育庁長の張馨であった。彼は「七七
クーデタ」と「四一二クーデタ」双方に関与した(あるいは関与を疑われた)人物であり、
盛世才との間に矛盾があった(張式琬、1982: 63–82)。彼の逮捕を皮切りに、省政府、督弁
公署の主要幹部が続々逮捕されていった。
また、粛清開始前の 1937 年 4 月には、カシュガル区におけるウイグルの最有力軍事指
導者であったマフムードのインド逃亡事件が起こり、5 月 30 日にはマフムードの残存部隊
24
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
とホータンの馬虎山回族部隊が共に蜂起した。蜂起軍は一時カシュガル新市を除くカシュ
ガル区、ホータン区の主要都市を支配下に置き、9 月にソ連軍の介入によって鎮圧された。
盛世才の粛清はこの蜂起の最終局面で開始されたのである。
この南疆での少数民族による蜂起が、盛世才のクーデタへの危機感を増幅したことは想
像に難くない。最初の粛清で張馨とともに逮捕された者に、モンゴル族の西里克(新疆省
教育庁副庁長兼ウルムチ・モンゴル文化促進会会長)がいた。彼の娘の回想によれば、マフムー
ドの残存部隊が挙兵する際に、西里克に挙兵への支持と新疆各地のモンゴルへ一致行動を
呼びかけるよう求める手紙を書き、それが盛世才の手に落ちたために逮捕されたという
(西聯華、1981: 118)
。これが事実かどうか確証はないが、逮捕は西里克が張馨らと省政権転
覆を共謀したという名目でおこなわれた(陳声遠、1991: 78、79)。盛世才が省政府部内の反
盛世才勢力と少数民族が結託したクーデタに危機感を抱いており、この危機感が大規模な
粛清の開始に影響を与えていたことがうかがわれる。1937 年 10 月には民族平等政策の象
徴であったホージャ・ニヤーズ省副主席が逮捕され、民族政策の実質的な破綻を印象づけ
た。ただし、粛清がこの範囲でとどまらなかったことは、クーデタへの危機感だけが大規
模な粛清を引き起こした要因ではなかったことを物語っている。
スターリンによる自らの評価を重視する盛世才にとって、すでにソ連で展開されていた
粛清は、スターリンが積極的に進めているがゆえに、新疆でも同じく展開されるべきもの
であった。この点において、盛世才の粛清はソ連の粛清を自身の権力保持のために利用す
る側面を持つとともに、スターリンへの忠誠を示すための積極的な模倣でもあった。1937
年 11 月に王明らがウルムチに立ち寄った際、王明は盛世才にトロツキストとの闘争を提
起した。盛世才はコミンテルンから派遣されてきたなかの誰がトロツキストであるかわか
らないと、王明に全員の写真を見せて尋ねたという(周国全・郭徳宏、1998: 152、153)。王
明は 37 年 11 月 25 日付で、ウルムチからスターリンとディミトロフに手紙を送っており、
その中で新疆に派遣されてきた 25 名の中国人はトロツキストであったとし、特にナニマ
ロフ(王寿成)の名を挙げて訴えている(Chinese Law and Government, 30(2), 1997: 12–14)。当然
盛世才は「トロツキスト」の逮捕に乗り出し、コミンテルンから派遣されてきた人員は逮
捕された。新疆の民族平等政策を実質的に指導していた王寿成もその中に含まれており、
これによって新疆の民族平等政策は大きな打撃を受けたのである。
コミンテルンから派遣されてきた 25 名全員がトロツキストであったのなら、さらに多
くのトロツキストが新疆にいても不思議ではなかった。それまで国民政府寄りの古株の省
政府官僚と少数民族が主であった粛清対象は、一気にコミンテルン人員、ソ連駐ウルムチ
総領事アプレソフ、自身が招いた共産主義者やその傾向のある同郷の留学仲間(「十大博
士」
)などに拡大され、ウルムチを越えて地域的にも拡大された。
こうして盛世才はクーデタへの恐怖心から自身の権力の防衛を図るためと、スターリン
への忠誠を示すために大規模な粛清を引き起こし、その結果民族平等政策を完全に破綻さ
せた。
新疆における盛世才政権の民族政策の形成と破綻
25
3. 民族政策破綻後の南疆ウイグル社会
1937 年 9 月マフムードの残存部隊と馬虎山軍の敗北後、カシュガル区、ホータン区では
軍、警察による反乱者、反乱協力者摘発活動が激しく展開された。盛世才の粛清と並行し
ておこなわれたため、摘発活動は容赦なくおこなわれ、また粛清の影響から行政長が不在
になるなど従来の行政機構は軍隊、警察権力を抑制する力を失っていた。南疆では反乱鎮
圧のために進入したソ連軍とともにやってきた中央アジア出身者たちが各地の警察権力を
握 り、 現 地 の ク ル グ ズ を 警 察 や 軍 隊 へ の 動 員 対 象 と し た(安 甯、1952: 103; IOR, 2383:
1938.7.14)
。こうして南疆では中央アジア出身者が権力を握り、主にクルグズによって構成
される軍隊、警察を中心とする統治体制が形成され、ウイグルは徹底的に抑圧される状況
に置かれた。
このような抑圧と並行して進められたのが、反日宣伝であった。特に第 3 回全疆民衆大
会が開かれ、盛世才が日本との新疆における「決定的な戦争」について言及したことを受
けて、1938 年 11 月からカシュガルのバザールではほぼ毎日反日宣伝活動がおこなわれた
(IOR, 2332: 1938.12.5)
。10 月 31 日にはカシュガルのすべての学童に日本の侵略と暴行の詳
細についての授業がおこなわれ、彼らが大きくなったら国を助けるように、また両親や親
戚に今そうするよう勧めなさいと教えられた(IOR, 2383: 1938.11.3)。また、これらの宣伝に
ともなって抗日募金が繰り返し実行された。1938 年 3 月から 39 年 9 月までに毎回およそ
省票銀 2 千 5 百万両の募金が 24 回にわたってカシュガル区からウルムチに送金されている
ことが確認できる(新疆維吾爾自治区档案局、2008: 32–100)。
このような宣伝を抑圧体制の中に置かれていた住民たちはどのように受け止めていただ
ろうか。それをうかがわせる興味深い演説がある。行政長も兼務していた軍事司令官蒋有
芬は、1938 年 11 月 9 日カシュガルの中心モスクであるイドガー・モスク向かいのバザー
ルの中央でウイグル語の通訳付で演説した。そのなかで彼は「日本を我々共通の憎むべき
敵であるとみなすことは我々全員の義務であり、それゆえ、彼らに全く共感など持っては
ならない。よく知っているように、現在我々は我々の国で戦争をしており、常にあなたに
関係のある無辜の中国人が日本人からおそろしく残酷な攻撃を受けている」と述べている
(IOR, 2383: 1938.11.10)
。このような発言は明らかに、日本を敵と見なさず、日本に共感を
持っている人々の存在を推測させる。英領事はヤルカンドで日本軍が内モンゴルからウル
ムチに迫っているという噂が人々を興奮させたという情報を伝え、新疆の民衆の多くが現
体制の何らかの変化を期待していると観測を述べている(IOR, 2383: 1939.2.2)。
さらに興味深い出来事が、1941 年 5 月にカシュガルで起こった。突然反日のポスターが
すべて取り外され、学童たちが日本を賛美し、演説では「日本は我々の友人である」と語
ら れ た。 こ の 状 況 は 2 週 間 続 き、 そ の 後 な く な っ た(IOR, 2383: 1941.5.29; IOR, 2383:
1941.6.26)
。この背景には、1941 年 4 月 13 日に調印された日ソ中立条約の影響があると思
われる。とにかく、この出来事はこのような反日宣伝が地元住民にとっては全く権力への
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アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
追従に過ぎなかったことをはっきりと物語っている。そして、住民たちは現在の抑圧体制
を変えてくれる外部の力に期待を寄せるほかなかった。
そのような外部の力の 1 つに国民政府の存在も挙げることができる。ここでは、そのよ
うな見解を象徴するものとして、インド逃亡後のマフムードの発言を確認しておきたい。
1937 年 5 月 6 日付の駐カルカッタ中国領事へのマフムードの手紙(IOR, 2387: 1937.7.7)は、
新疆を「私たちの国」(our country)と表現した上で、古い帝国体制の下で長く苦しんでき
たとし、共和国となった中国に期待感を表明しながら、私たちの国が長く共和国と結びつ
き、忠実であったにもかかわらず、臣従している他の民族たちが享受している恩恵を共有
していないと訴えている。以前の反乱(1931 ∼ 34 年の反乱−筆者註)は楊増新・金樹仁の暴
政、抑圧からの解放を目指したものであると述べ、現在新疆は盛世才のもとすべてはボル
シェビキの手にあり、私たち南京国民政府の支持者は弾圧を受けているとして、南京への
助力を求めている。7 月 20 日ペシャワールでの英国代理総督との会談(IOR, 2387: 1937.7.22)
においても、インドに来た目的は南京政府に新疆の現状について充分な情報を知らせるた
めであると説明し、また以前(1933 ∼ 34 年−筆者註)ムスリム共和国樹立に挑戦したが、ロ
シア人と中国人が協力したため我々は敗れたので、最善の道は中国人の協力を得て、新疆
に中国の権力を再建し、ロシアの影響を取り除くことで、私の望みは新疆で「旧来の中国
人の統治を回復する」ことであると述べている。
これらの史料からは、マフムードが本来は「ムスリム共和国」樹立を目標としていたが、
現在置かれている状況においては、
「共和国」となった中国の中央政府による統治を実現
することが最善の道だと考えていることがわかる。
「臣従している他の民族」という表現
から、明示されてはいないが、中華民国が最初に掲げた「五族共和」に対する一定の肯定
的評価をうかがうことができる。この時点で国民政府の政治的正統性を積極的に承認する
姿勢は徹底しており、そのことは、1937 年 5 月 30 日に自分の残した部隊と馬虎山のトゥ
ンガン勢力が反乱を起こした後、帰還を促す馬虎山の使者に対し、彼が南京からの命令を
優先し、南京からの許可を得なければカシュガルへ行くことはできないと答えたことから
もうかがえる(IOR, 2387: 1937.7.22)。英国代理総督との会談でも、反乱の報を受けてカシュ
ガルへ戻ることを希望しており、南京に許可を求めているところだと述べている。
新疆における民族政策の破綻は、新疆における中国ネイション形成の失敗であった。本
来ネイション形成を促す重要な要因でもある外部の「敵」の存在もそのような作用を果た
さなかった。むしろ多くの南疆ウイグル住民はその「敵」が現在の統治体制を崩壊させる
ことを望んだのである。それとともに、マフムードの考えは中国による新疆統合の 1 つの
可能性を示唆するものであった。盛世才の統治下で、南疆のウイグルは教育、宗教面を始
めとして可能な限り民族的自律性を守ろうとした。中華民国の「五族共和」が単なるス
ローガンではなく、制度的な保障をともなう理念として機能しており、国民政府による統
治がウイグルの民族的自律性を守るものであったならば、置かれている環境下の最善の道
としてウイグルが国民政府の政治的正統性を受けいれた可能性は否定できない。少なくと
新疆における盛世才政権の民族政策の形成と破綻
27
も盛世才の統治はソ連の力に依存した新疆の地域権力による統治であったために、むしろ
中央政府による統合の余地は残されていたと言える。
結語
文化的に決定的に異なっている人間集団を近代国家内部に統合する際、統合する側がと
りうる方策は次の 3 つに大別される。強圧的支配、同化の推進(自然同化、強制同化、融合
を含む)
、政治的譲歩(自治権の賦与、民族文化の尊重など)である。実際には、これらの方策
は組み合わせて用いられる。統合される側が独自の民族意識を有していたなら当然独立を
目指すであろうが、独立の成否はその地域をとりまくパワーバランスに依存している。
1930、40 年代の新疆はウイグルらの非漢族が独立を実現できる環境にはなかった 16)。これ
らを前提として、盛世才の統治をいかに評価できるだろうか。
ソ連の社会主義型国家建設に関心をもっていた盛世才は、ソ連から軍事力を含むあらゆ
る面での援助を受けて自身の権力を確立するとともに、新疆の統治をおこなった。省内人
口の 9 割以上が漢族とは異なる民族である新疆の統治のため、盛世才政権は民族平等政策
を実施した。ソ連から派遣されてきた中国人コミンテルン人員の王寿成は民族政策に責任
を負い、ソ連の民族政策にならって、民族平等政策を「反帝のための民族平等」と規定し、
新疆の基本政策の中に位置づけた。このような民族政策の背後には、各民族の民族文化の
発展がやがては 1 つのネイションの形成をもたらすという論理が存在した。しかしこのよ
うな融合論は融合実現までに長期間かかることを前提としていたため、実質的には各民族
文化の尊重、各民族語による教育の奨励を軸とした政治的譲歩の方策であった。このよう
な省政府の民族政策は、省内住民、特に近代化への志向と民族意識を目覚めさせつつあっ
たウイグルの「改革派」から一定の支持を受け、特に民族語による教育運動が急速に発展
した。この点で、この時期の盛の政策に対しては一定の肯定的な評価ができる。
カシュガル区では民族語による教育運動を中心に、地元住民による自律的な行政権力の
形成が徐々に進んだ。しかしこのような政治的、文化的自治の傾向は、省政府の集権化の
動きと衝突した。特に教育と宗教に関する管理が焦点となった。省政府は各民族文化の尊
重、発展は認めても、それが各民族に自治的におこなわれることを認めようとはしなかっ
た。ここに盛の民族政策の限界があった。省政府による集権化の強行は、カシュガルにお
いて「改革派」の内部分裂を引き起こし、省政府とウイグル「改革派」との一種の協同関
係は崩壊した。これはウイグルへの政治的譲歩による統合の挫折であった。
盛世才は新疆を基盤とし、ソ連の力を借りながら、
「東北回復、中国解放」のために日
本の侵略に対抗することを政治目標としていた。それとともに、中国における社会主義勢
力の代表、ひいては中国全体を代表する指導者となることを政治状況の推移の中で政治的
野心とするようになった。そのために彼はスターリンへの忠誠を示すことを重要視した。
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1937 年夏の南疆での反乱などの要因によってクーデタの恐怖を感じた盛世才は、
「危険」
だと感じる人物の粛清を始めたが、それはスターリンの粛清に同調し、積極的に模倣する
ことで大規模に拡大した。粛清によって民族政策は完全に破綻し、行政組織は人材不足に
陥り、警察、軍が権力の中心となった。南疆においてもウイグルに対する抑圧体制が構築
された。また盛の政治目標である反日がさかんに宣伝された。
盛世才は新疆の統治を抗日と自身の政治的野心の実現のためにおこなった。彼は省内の
住民の必要や要求に目を留め、省内を住民の要請に応えて安定的に統治することよりも、
「中国」と自身のために新疆を手段として統治しようとした。彼の視野はその政治的野心
も含めて常に「中国」全体であった。それが統治の方策を政治的譲歩から全面的な強圧的
支配へと転換させた最大の要因であった。強圧的支配への依存は、支配する側に圧倒的な
力を必要とさせるとともに、長期にわたる安定的な統治を困難にする。盛世才が依拠する
力はソ連であり、ソ連の新疆への影響力が第二次世界大戦の勃発を契機に弱体化していく
につれて統治は不安定化していった。
南疆のウイグルは抑圧体制の下、政権の反日宣伝に追従したが、実際にはむしろ外部の
力が現体制を打倒してくれることを期待するようになった。期待の対象は日本や、国民政
府であった。民族政策実施において省政府が期待したネイション形成とは逆に、南疆のウ
イグルは省政府への反感を募らせたが、省政府がソ連に依存しながら中央政府からは自律
的に統治をおこなっていたために、国民政府も期待の対象に含まれていた。国民政府が抑
圧を取り除き、ウイグルの政治的、文化的自治を実現して、ウイグルの期待に応えられた
ならば、そこにウイグルの中国への統合の可能性を見出すことができた。この点で、盛世
才の統治は以後の中国の中央政府が新疆を統合する上での課題を明確化したと言うことが
できる。
最後に 20 世紀中国の新疆統合の再編という観点から、1930 年代の盛世才統治時期を考
えてみたい。まず文化面では、文化的同化が強制されるということはほとんどなかった。
むしろエスニック集団ごとの文化的統合が公的に推奨され、以前よりも強化された。これ
はそれ以前の時代と一線を画す画期的な現象であった。政治面では、民族平等政策の実施
によって一定の権利の配分がおこなわれたものの、それによって生み出された限定的な協
同関係はより強固な共同体意識へと発展する道を歩みだすひまもなく政治的抑圧によって
失われた。政治面での省政権の政治的正統性は 1910 年代、20 年代の楊増新統治時期より
さらに低下した。しかし政権に対抗する政治勢力も、特に南疆においては繰り返された反
乱の鎮圧、粛清によって失われた。
このように見ると、新疆では清末の中華的文化一元主義に基づく清帝国領域内のネイ
ション形成の試みは完全に途絶し、エスニック意識の活性化と強圧的支配が帝国的主権国
家という国家形態のまま進められたことがわかる。安定した統合のための課題としては、
活性化したエスニック意識を前提に、それをいかに「政治的な権利と義務の共有」という
点で慰撫していくか、
「文化的共有」の要素をどのレベルでつくりあげていくか、軍事的、
新疆における盛世才政権の民族政策の形成と破綻
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政治的鎮圧の記憶に対する和解をいかに実現するかが挙げられる。現在の中華人民共和国
に目を向けてみると、このような課題は現在に至るまで大きな進展を得られていないよう
に思われる。問題の構造と課題は 20 世紀前半から大きく変わらず現在まで続いている。
(注)
1)帝国的主権国家とは、近代国際システムにおいて主権国家として行動しつつも、領域内の多民族性を
前提とし、領域内の人々をネイションという共同体として意味づけしない国家を指す。
2)現在の中華人民共和国の国家形態は制度面から見れば、民族区域自治制度を実施する単一国家と規定
できる。しかし、多民族国家を標榜しつつ、
「中華民族」というネイション概念を併用する姿は帝国的主
権国家と国民国家の間を揺れ動いているように見える。侍建宇(2011)は「ポスト帝国化」集団として
の国民国家と「再帝国化」の帝国型国家という類型を設定した上で、中華人民共和国を「帝国型国家」
の方向に向かっていく「準帝国化」の過程にあると論じる。加えて侍は中国が国民国家と帝国型国家と
いう 2 種類のベクトルの間で足踏みと模索が続いているとも論じている。筆者は侍のように中国が「帝
国型国家」の方向に向かっていると明言はできないが、現状については侍の議論に概ね同意する。しか
し中国の辺境統治に対するより具体的な検討が不可欠であろう。
3)斉清順(2010: 245–256)によれば、1944 年の新疆省政府による人口統計で、省全体の人口約 400 万人中、
漢族は約 22 万人で省全体の約 5% であった。カシュガル区のみでは総人口約 95 万人中、漢族は 2,731 人
であった。
4)本稿ではスミス(1999: 176)の議論に依拠し、ネイションをエスニックな要素と、政治的理念の共有
に基づいた権利と義務の平等性、すなわち市民的要素の並存するものと考える。この定義から「ネイショ
ン」は当然「国家」の存在を前提としている。日本語でネイションの訳語とされる「民族」
、
「国民」は
この 2 つの要素の一方を強調するものであるが、本来は「ネイション」という 1 つの概念である。それ
ゆえ本稿では「ネイション」という語をそのまま用いる。
「ネイション形成」とは、ネイションの核とな
るエスニックな要素と市民的要素を定義づけ、民衆に浸透させる過程を指す。アントニー・D・スミス著、
巣山靖司・高城和義ほか訳『ネイションとエスニシティ 歴史社会学的考察』
、名古屋大学出版会、1999
年、176 ページ。
5)これまでに盛世才政権時期を扱った代表的研究として、ホワィティング(1958)
、フォーブズ(1986)
、
王柯(1995)
、蔡錦松(1998)がある。ホワィティングは盛世才の回想録に依拠しながら、盛が本気で社
会主義を信奉しており、新疆を中国におけるソヴィエトのモデルにしようとしたのであり、盛の粛清を
スターリニズムの新疆への拡大と見ることができると論じた。この指摘は現在から見ても鋭い。フォー
ブズは盛世才政権をほぼソ連の影響下にあるものとし、共産主義対イスラムという構図でこの時期をと
らえ、盛世才政権の民族政策は反イスラムであり、それに対しカシュガル人は反感を抱いたとする。王
柯は、盛の民族政策は「
『民族平等』というスローガンの下の安撫策」であったとし、盛世才対ソ連、民
族勢力という構図でこの時期を描き、
「ソ連勢力の存在による新疆省の二重権力構造に対する盛世才の反
発」と「ソ連勢力と民族指導者との連帯に対する盛世才の反感」が、彼の民族政策を 1937 年 10 月に「安
撫策から鎮圧策に転換させた」と論じる。蔡錦松の研究は盛が本質は反動的な「軍閥」であるという中
国大陸の伝統的評価を超えて、盛の社会主義信奉を彼の転向までは「偽装」ではなかったとする大陸の
新しい潮流の代表的研究である。
6)新疆省権力を握った盛世才は、自らの統治を助ける人材を求めて、日本留学時代の同郷の友人であっ
た何語竹、徐廉、郎道衡らを新疆に招いた。彼らは「十大博士」と称された。
7)中共党史人物研究会(1985: 8–20)によれば、本名は兪秀松で、1920 年上海の中国共産党組織設立に関
わった古参党員であった。ソ連留学後コミンテルンで活動した。王明との間には 1920 年代モスクワ中山
大学にいたころから確執があった。
8)1934 年後半に新疆省政府は「三大政策」として「反帝国主義(反帝)
」
、平和、建設」を提起し、ほど
なく「親ソ連(親ソ)
、清廉」を付け加えて「五大政策」として、政権の基本政策と位置づけた。最終的
にこれに「民族平等(民平)
」が付け加えられ、
「六大政策」となった。
9)Roberts(2009: 361)によれば、
「ウイグル」という民族名称は中央アジアに新疆から移住していたテュ
ルク系定住民の中で 20 世紀以降に使用され始め、ソ連の「民族的境界区分」にともなって、1921 年タシュ
ケントでの会議において正式に使用が決定された。
10)「民衆聯合会」は 1930 年代初めの反乱後の秩序回復時に各地で地元住民を集めて、政府の意向を伝え
るとともに地元住民の意見を反映する場として組織されたもので、地元住民の自治組織的存在となって
いた。
11) アブドゥル・カーディル・ハジはカシュガル区の出身者で、タシュケントのウイグル人コミュニ
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ティーで革命運動を展開し、テュルク語の新聞を発行していた。王寿成らとともにコミンテルンから新
疆に送られ、カシュガルの警察組織で活動していた(IOR, 2392: 1938.7.26, p. 12)
。
12)1937 年 4 月にマフムードとともにインドに逃亡した巴衣艾則孜(バイ・アジズ)は回顧録において、
盛世才政権に好意的な宣伝をおこなったためにマフムードが暗殺させたと述べている(巴衣艾則孜、
1980: 141)
13)共青団新疆維吾爾自治区委員会・八路軍駐新疆弁事処紀念館編(1986: 221–238)に晋庸「在国際帝国
主義対中国全線総進攻的時期新疆民衆反帝聯合会応努力的地方」がある。晋庸は盛世才の字である。
1939 年版小冊子から収録されており、これは内容から見て 1936 年の新疆四一二クーデタ記念式典での演
説と推測される。
14)盛世才は 1939 年 7 月新疆学院卒業式で初めてこのような内容の演説をおこなったと、実際にそれを聞
いた趙明(1992: 37)は述べている。また 2 カ月後、李一欧が軍事学校卒業式で同様の演説をし、全文が
雑誌『反帝戦線』に掲載されている(共青団新疆維吾爾自治区委員会編、1986: 191–199)
。
15)盛世才の発言はカシュガルのカーズィ長がモスクで金曜の祈りの後に盛から聞いた言葉として民衆に
伝えた内容である(IOR, 2383: 1938.11.17)
。
16)1930、40 年代にこの地域で決定的な力を有していたのはソ連である。当該時期にソ連は一貫して新疆
が中国の主権下にあることを前提として、新疆に対する自国の影響力強化を目指してきた。その理由は
日本への対抗と、第二次世界大戦後のソ連の国際秩序構想にある。
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アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
1950 年代の米国の対北東アジア政策と
韓国経済の諸問題
輸出と為替レートを中心に
高 賢来
はじめに
本稿は、韓国の 1950 年代をその戦後経済発展の歴史の中にどのように位置づけること
ができるかを考察するものである。そのために本稿は、韓国において戦災復興が終了し、
米国も新興地域の経済開発を模索し始める 50 年代中盤以降の時期が 60 年代以降の経済発
展とどのように連続・断絶しているのかを、米国アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower, 大
イ スンマン
統領在任 1953∼61)政権の対韓政策と韓国李承晩(大統領在任 1948∼60)政権の対応という観
点から明らかにする。この時期の米国の、貿易促進をその重要な要素とする対北東アジア
「経済重視」政策は、日本、台湾、沖縄に適用され、日本と台湾では戦後経済発展の始点
を作り出した。そして、韓国でもそうした 60 年代の経済発展へと続くような変化は見ら
れた。しかし、米国のこうした政策の適用は、韓国においては他の事例に比べ「例外的」
に不徹底なものとなった。本稿はこうした「例外性」が 50 年代と 60 年代の間の断絶に影
響を与えたと考え、それが生じる過程と生じた要因を明らかにすることを目的としてい
る。
1950 年代の米韓関係を扱った代表的な先行研究としては、李鍾元のものが挙げられる。
李は米国による対韓政策への経済重視政策の適用が対日政策に比べて「遅れ」たことを、
当時の米国の対東アジア戦略との関連で経済を担う日本と軍事を担う韓国という「地域内
分業」が存在し、
「軍事重視と経済開発がトレードオフ」であったためとしている。そして、
本稿も李の主張するような「トレードオフ」による「遅れ」は存在したと考える。ただ、
李の研究は主に米国による経済開発に動員する資源の拡大の試みに焦点を当てたものであ
り、本稿がアイゼンハワー政権期における 50 年代中盤以降の「軍事重視から経済開発へ」
の転換において重要だったと考える貿易促進政策については 50 年代中盤までしか扱って
いない(李鍾元、1996: 8–9、105–205)。そして、本稿は李の「トレードオフ」の図式は、経
済重視政策の貿易促進の要素には必ずしも当てはまらないと考える。他にもアイゼンハ
ワー政権による韓国への経済重視政策の適用の有無に注目した研究は多いが、李の「ト
レードオフ」以上に有効な枠組みを提示してはおらず、こうした政策の貿易促進の側面に
もほとんど注目していない(朴、2007; 李哲順、2000; 李ヒョンジン、2009; 鄭一畯、2000; Woo,
1991; Satterwhite, 1994)
。
?????
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こうした先行研究の流れをふまえた上で、本稿はアイゼンハワー政権期の対北東アジア
経済重視政策における貿易促進の要素に注目しつつ、1950 年代の米韓関係を分析する。同
政権が北東アジアに適用しようとした経済重視政策は、①軍事負担軽減と外資導入による
開発への資源動員、②貿易促進、③経済開発計画作成の 3 つをその主な特徴としていたが、
これらは不可分であり、貿易促進への考察なしにその全体像を明らかにすることはできな
い。また、60 年代の米韓関係に関する研究は、輸出志向工業化
1)
への転換過程を分析する
ために貿易・輸出促進に関する米韓間協議の分析を重視しているが、こうした 60 年代研
究との関連でも 50 年代をこの視点から分析することは重要であると考える(木宮、2008)。
そして、同政権による貿易促進政策の韓国への適用は、李鍾元の扱っている「軍事から経
済への資源の転用」とは異なり、必ずしも軍事重視と「トレードオフ」ではないにもかか
わらず、やはり「遅れ」た。こうしたことから見て、本稿は、韓国における貿易促進政策、
さらには経済重視政策全体の「遅れ」に作用した力学が「トレードオフ」以外にも存在し
たと考え、これを米国の対北東アジア政策における韓国の「例外性」を生んだ原因として
説明する。
そして、こうした力学を明らかにするために本稿は以下の二点に注目する。一点めは、
米国の経済重視政策への韓国側の対応である。こうした対応は米国の政策の実行度合いに
影響を与えた。上述の貿易促進との関連でいえば、基本的には李鍾元が 1950 年中盤まで
に関して指摘しているような、米国の地域分業志向と李承晩の輸入代替志向の対立という
構図は 50 年代後半にも維持されていた。しかし、本稿はこうした構図がこの時期に、米
国による韓国への経済重視政策の適用過程でどのような意味を持ったのかということに焦
点をあてる。二点めは、米国の思考パターンである。アイゼンハワー政権が当時北東アジ
アの各地で何が自国の戦略に脅威になると認識したかによって、その経済重視政策の適用
の仕方や度合いは異なった。以上のように、本稿では、米国の貿易促進政策に焦点を当て、
韓国が何に関して「遅れ」
、
「例外」となったのかを見定めた後で、韓国側の米国の政策へ
の対応と米国側の脅威認識を分析することでなぜそうなったのかを明らかにする。
本稿ではまず、アイゼンハワー政権がその経済重視政策を北東アジアの韓国以外の国・
地域へと適用していく過程について概観する。その後、米韓間での工業製品の輸出促進に
関する協議と、韓国の為替改革に関する米国当局者内の議論を見ることで、韓国が「例外」
であったという事実を明らかにしつつ、前者によって韓国側による米国の政策への対応
を、後者によって米国側の思考を分析する。最後に、韓国と他の国・地域との比較により、
そうした「例外性」がなぜ生じたのかを考察する。
Ⅰ アイゼンハワー政権期米国の対北東アジア経済政策
米国の戦後の貿易重視はアイゼンハワー政権に始まるものではなく、前任のトルーマン
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(Harry S. Truman)政権の時点ですでに対外経済政策の主軸となっていた。ここでは、まず、
本稿の論旨に関連して重要な両政権の貿易政策の違いについて考察する。
まず注目すべきは、アイゼンハワー政権が財政保守主義路線をとり、国内でのインフレ
を抑えるために均衡予算実現をその経済政策の中心に据えたことである。前任者のトルー
マンも財政に関して保守的ではあった。しかし、在任中に朝鮮戦争が勃発したことで同盟
国の軍事力を支えるために米国の対外援助は膨れ上がっており、政権を引き継いだアイゼ
ンハワーにとって均衡予算達成のためには援助削減は必須であった(Sloan, 1991: 18–19, 69)。
このような状況の中で、アイゼンハワー政権は援助削減と均衡予算実現のために、被援助
国に援助に依らない国際収支改善・自立経済を達成させる必要があり、それらの国々の貿
易、特に輸出の促進がより喫緊の課題となっていった(Kaufman, 1982: 14)。
こうして、トルーマン政権が地域の中心である日本で志向したような貿易促進のための
環境整備を、アイゼンハワー政権は新興地域で試みるようになっていった。輸出促進に有
利な対ドル単一為替レートの設定を例に挙げる。戦後初期から貿易が重視され、ある程度
の条件も備えていた日本では、トルーマン政権期に 360 円対 1 ドルでレートが設定された。
しかし、貿易促進の観点から韓国、台湾、沖縄でこの問題が本格的に考慮されるのはアイ
ゼンハワー政権期の 1950 年代中盤以降であった。その理由としては、上述のような国際
収支改善・自立経済の達成に必要であったことに加え、これらの国・地域がこの時期に
なって比較的安定し、また、輸出に貢献し得る産業を備え始めたことが挙げられる。
さらに、米国が想定した東アジア各国・地域の輸出産業の構成もトルーマン、アイゼン
ハワー両政権では異なった。例えば、韓国に関して言えば、トルーマン政権は日本と韓国
で各々工業製品と農業製品を輸出するという分業体制を念頭に置いていた。日本は重工業
製品輸出を、そして周辺国は軽工業製品輸出を、という考え方も同政権の一部になかった
わけではないが、まだそれを実行に移すことは当時の各国の経済状況においては不可能で
あった(Borden, 1984: 73)。また、東アジア内国際分業の主唱者であるアチソン(Dean G.
Acheson)国務長官は、やはり工業の日本、農業の韓国という相互補完関係を構想しており、
実際に、対日占領期に米国が関わった両国間貿易もこの構図を反映していた(McGlothlen,
1989; 大田、1999: 35)
。しかし、1950 年代中盤以降、日本で鉄鋼のような重工業製品輸出が
伸び、さらに、韓国でも輸出が展望できる程度には軽工業が発展する。こうした中、後述
するように、米国は韓国の軽工業製品の輸出を支持し、後押しするようになっていく。こ
うして、米国が想定する日本、韓国、台湾の輸出産業はアイゼンハワー政権期に一段階高
度化し、また、沖縄についても軽工業製品の輸出が想定されるようになった。
さらに、先述したようにアイゼンハワー政権の対北東アジア政策の重要な特徴であった
新興国・地域の経済開発計画作成への梃入れも、同政権の貿易促進政策と密接に関連して
いた。例えば、1950 年代後半に作成された台湾、沖縄の経済開発計画では、軽工業製品に
重点を置いた輸出促進がその主要な軸の 1 つとなっていた(IPCG, 1961; 琉球政府、1960)。
このように、アイゼンハワー政権では、北東アジアにおける新興国・地域の自立経済達
1950 年代の米国の対北東アジア政策と韓国経済の諸問題
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成のための計画的・効率的な軽工業製品輸出の促進とそのための各国・地域における制度
の整備が、大統領の援助削減方針もあって強く志向されたのであった。そして、同政権の
こうした貿易促進政策は、軍事に主眼を置いた援助の大量放出から、各国の経済的自立の
重視への、つまり李鍾元のいうような「軍事から経済へ」の米国の政策転換の重要な一環
であった。以下に、こうした政策の実行がどのように試みられたのかを考察する。
1955 年に国家安全保障会議(NSC)で採択された米国の対極東(沖縄も含む)政策文書で
ある NSC5506 の貿易についての記述は以下の通りである。
「米国は同地域における諸国の
相互貿易、もしくは他の自由諸国との貿易を増大させるために以下のことを含む支援を与
えるべきである。(a)GATT 加盟国への適切な対策、(b)そのような貿易への障害となる
。後述するように、(a)はすでにある
規制を維持する国家への二国間アプローチ(NA 19)」
程度貿易の条件が整っていた日本に、(b)はアイゼンハワー政権になって貿易促進のため
の環境整備が重視され始めた新興国・地域である韓国、台湾、沖縄に適用されたように思
われる。
このような指針に沿ってか、アイゼンハワー政権は東アジア諸国の貿易を促進しようと
した。そうした戦略の中心となったのは、地域内で最も進んだ工業国の日本であり、米国
は、地域内分業的産業構造を前提とした経済的紐帯の強化のためにも日本と他の東アジア
諸国との関係改善を促そうとした(NA10)。他に、前政権から引き継いだ政策ではあるが
アイゼンハワー政権による日本の輸出促進のための取り組みで注目されるのは、他国への
援助物資の日本での調達や、日本の GATT 加盟への積極的な支援である。特に、日本の
GATT 正式加盟にむけた加盟諸国との関税交渉において米国は日本の交渉を助け、英連邦
系の国々による日本の GATT 加盟への反対に対しても日本を援護した(赤根谷、1992)。
台湾においては、米国当局者たちは 1959 年に台湾政府に規制緩和、為替レート改革、
外資導入、貿易促進を強く働きかけた。その後、台湾ではこうした米国の要求を背景に諸
改革が進められていく(前田、2000: 10–11)。一方、沖縄でも占領米軍によって 1958 年に貿
易・為替および資本取引の自由化、当時の通貨であった B 円のドルへの切り替えが行われ
た(琉球銀行調査部、1984: 567–609)。また、台湾、沖縄における軽工業製品の輸出を重視し
た経済開発計画がこの時期に作成されたことは先述したとおりである。
このように、アイゼンハワー政権はその貿易促進政策を北東アジアにおいて強力に推進
していった。そして、日本と台湾においてはこうした政策が戦後経済成長の開始に資した
ことは明らかであり、特に台湾では輸出志向工業化への転換に直接つながっていった。で
は、韓国においてはこうした政策はどのように進められていったのだろうか。
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Ⅱ 米国の韓国における輸出促進政策と李承晩政権
1. 韓国の工業製品輸出
李承晩政権期には、韓国の輸出総額は輸入総額に比べれば微々たるものであり、鉱産物
や水産物がその大半を占めていた。戦災直後でこそそうした状態も甘受されていたが、復
興が一段落する 1950 年代中盤には、米韓当局者の輸出への関心が高まりだした。
李鍾元は、米国の現地当局者達が本国に韓国の軍事費削減と経済重視政策の必要性を訴
えた事例として、1956 年後半のいくつかの報告書に注目している(李鍾元、1996: 269–274)。
本稿はこれらの報告は貿易促進についても重要な意味を持っていたと考える。例えば、韓
国現地における米国の経済援助の責任者であるウォーン(William E. Warne)経済調整官は
56 年 12 月 11 日にランダル(Clarence B. Randall)大統領特別補佐官に韓国経済に関する覚書
を提出した。同覚書は、援助の大きな割合が軍事部門にとられることで貿易赤字といった
問題の基本的な解決が等閑に付されてきたことを指摘し、国際収支均衡のための輸入削減
と輸出増大による貿易収支改善の必要性を強調した。同じくランダルにチョウナー(Lowell
J. Chawner)経済財政担当経済調整官顧問が提出した文書は、この一年間に米国の対外援助
担当機関である国際協力庁(ICA)の韓国現地人員が行ってきた援助の効率改善にむけた
方策として、国際収支改善を助ける民間の輸入代替・輸出産業拡大の支援や中小企業支援
等を挙げている。同報告の内容は大体においてこの時期の他の文書に見られる現地米国当
局者の志向や本国への提言と重なっているとみていい(NA22)。さらに、同じ時期にダウ
リング(Walter C. Dowling)駐韓大使も本国への電文で 5 年間での国際収支均衡の達成を謳っ
ている。その際の輸出額は 1 億ドルと、当時の額の 4 倍を想定していた。そして、ここで
もやはり大量の軍事援助を要する韓国の兵力水準を減らし、
「輸入を減らすための産業、
原料の輸入を必要としない産業」
「輸出産業(特に鉱業、漁業、手工芸品、そして小規模工業)」
に優先して援助を使うことが述べられている(NA21)。最後に、56 年 9 月から 10 月にかけ
て日本と韓国を歴訪したメイシィ(Robert M. Macy)予算局国際課長が作成した報告書につ
いて触れたい。ここでメイシィは、韓国人の「機械学的・工学的適性」はすべての工業化
計画の重要な基礎となるとしている。そしてメイシィは、韓国の「唯一の目に見える資産
は、潜在的に有能な多数の人々であり、この資産を利用する方法は、小規模の企業を発展
させることであり」
、そうすることによって、
「より大きな企業のための技術を強化し、い
くらかの失業を吸収し、最終的に輸出を増大させるだろう」と、米国の現地当局者たちが
考えているとした(DDEPL)。同報告書には米国の現地当局者による工業製品の輸出重視が
ある程度総括的に述べられているように思われる。このように、この時期には米国当局者
たちの中で、軍事援助削減と国際収支改善のために輸入代替・輸出産業への支援を増やす
ことの必要性が認識され始めていた。他にも、ダウリングとメイシィの文書における「小
規模の企業」の輸出参加への言及は重要であるが、これについては後述する。
1950 年代の米国の対北東アジア政策と韓国経済の諸問題
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そして、このような輸出増大の必要性への認識は韓国側も共有していた。1956 年には
ソン インサン
商工部が「輸出五カ年計画」を作成し、経済関連閣僚を歴任した宋 仁相も一貫して輸出
増大を主張し続けた(韓国貿易協会、1959: 37–38; 宋、1994: 211–212)。ここで、最大の輸出製
品として想定されていたのは米穀であった。ただ、当時主要な輸出先と目された日本の農
業増産や食生活の変化は、韓国の米穀輸出を困難なものにしていた(韓国貿易協会、1961:
116)
。
他方で、韓国側は工業製品の輸出についても大きな価値を見出していたが、その理由と
しては大きく 4 つが考えられる。1 つめは、経済的後進性から脱却したいという民族主義
的思考である。特に商工部は、輸出の一次産業への依存を「経済的後進性」と捉え脱却す
る必要性を感じており、1957 年 11 月に作成した「輸出振興要領」では綿製品をはじめと
する工業製品を海外に輸出するための産業育成を謳っている(同上、1958: 30–31)。2 つめに
は、軽工業部門は将来の成長が予測でき、さらに言えば、すでに 50 年代中盤においても
綿製品のような発展著しい一部の工業部門の生産力を狭小な国内市場が吸収できなくなっ
ていたことが挙げられる(韓国銀行、1955.10: 74)。特に過剰な生産力のはけ口を輸出に求め
ることは不可避だった。3 つめには、国際市場における一次産品への需要には、国際的な
競争の激化に起因する限界があり、また、それらの輸出は先進国の経済の浮き沈みに左右
されすぎるという韓国政府当局者内の認識が挙げられる(『東亜日報』、1959 年 1 月 1 日朝)。
そして、4 つめには、韓国の軽工業製品における比較優位を輸出で利用しようという韓国
政府当局者たちの思考が挙げられる。当時、韓国の高い教育水準と豊富な労働力を利用し
た工業製品の輸出促進は、宋仁相ら政府の経済政策関係当局者によって相次いで主張され
ていた(宋、1959: 7;『東亜日報』、1959 年 1 月 1 日朝)。
このように、1950 年代後半には米韓両国は、少なからず韓国の経済における工業製品輸
出の重要性を認識するようになっていったのである。
2. 綿輸出をめぐる米韓協議
韓国政府は、1956 年末には綿製品の輸出を模索するようになっていた。その主な要因は
農村の消費力不足と国内市場の飽和、遊休生産設備の増大であった。こうした状況で、57
年 7 月には、韓国政府は駐米大使に米国の援助から得た原棉を使用した綿製品の輸出を認
めてくれるよう米国政府に申し入れることを指示した。しかし、米国務省は、不当に安く
手に入る援助原棉は生産業者に対して一種の補助金となっており、これに頼った輸出は輸
出市場の長期的開発の健全な基盤とならないとしてこれを拒否した(大韓紡織協会、1968:
94; NA13)2)。結局、59 年 10 月に、輸出した製品が含む援助原棉の重量の 50∼75% 相当の
原棉を商業的に購入することに輸出収益を充てるという米国案に韓国側は合意した(韓国
貿易協会、1960: 118)
。
しかし、米国側は、援助による助けのない韓国の綿製品輸出が、すぐに国内生産の余剰
分を処分できるかどうかには懐疑的であった。なぜならば、韓国の綿紡織産業は、高コス
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ト、非現実的為替レート、外国との競合、質、デザイン、そしてマーケティングの経験の
欠如等様々な難点を抱えていると考えられたからである(NA23)。ただ、他方で米国は綿
製品の輸出の有益性も認めており、韓国の綿織物産業を「自由国際競争の原則」に則った
「商業ベース」に乗せようともした(NA14; NA25; 史料館)。輸出品に含まれる援助原棉を商
業的に輸入した原棉に代替することはその一環でもあった。そして米国は、対外援助を規
定する相互安全保障法の項目の 1 つである技術協力によって、同産業における韓国企業の
技術を向上させることを試みたが、その際に最優先されたのが、こうした代替過程で必要
となる技術だった。従来、韓国が援助原棉を使用している間は、その品質は米農務省の責
任で保証されていた(大韓紡織協会、1968: 214)。しかし、商業ベースでの原棉購入への移行
は、自己責任での品質管理を韓国企業に強いることとなった。これに対し、米国は自国の
専門家を派遣し、1957 年 10 月に原棉の品選技術および綿製品のマーケティングの訓練を
行うための学校を開所した(同上、428–491)。ウォーンはこうした品選技術が商業ベースで
の原棉調達のみならずコストの浪費をも予防し、輸出に求められるような細く質の良い綿
製品の生産にも貢献すると考えていた。米国は、コスト削減と生産性の向上の支援によっ
て原料コスト増大を相殺しようとしたのである(NA24; NA34)。
また、1956 年まで精紡機や織機といった最終生産施設の拡大に熱中していた韓国紡織業
界は、輸出のためにより細く高級な製品の生産を迫られ、紡績の前段階で使用する混打棉
機、梳棉機の整備を必要とするようになった。当時、こうした設備はまだ数も少なく、戦
災のせいもあって能率が低かったのである。そして、米国もこうした付帯設備の必要性を
感じその導入を援助した(NA23; 大韓紡織協会、1968: 98)。
このように、米国側は韓国側が綿製品の輸出を望んだ際、援助原棉の使用を禁じる一方
で、技術協力による品質向上や設備購入資金の供与によって韓国の綿製品が輸出において
逢着している困難の解決を支援しようとしたのであった。こうして、1950 年代後半に輸出
が試みられ始めた綿製品は 60 年代に韓国の主力輸出産業となっていくのである。
3. 李承晩政権における中小企業の「重視」と輸出振興基金の創設
前節で述べた米国の技術援助の対象となり、また 1950 年代の綿製品輸出の主体となっ
クムソン
サ モ
たのは、ほぼ例外なく金星、三頀といった大企業であった(韓国貿易協会、1959: 122)。しか
し、前掲のダウリングやメイシィの報告書に明らかなように、米国側は韓国の中小企業を
輸出に参加させることが必要だと考えていた。本節では、韓国側が中小企業政策について
どのように考え、そうした政策を米国とどのように協議し、実行したのかを考察する。
1956 年 8 月 15 日、李承晩はその第 3 代大統領への就任演説で、経済政策に関する方針
として、
「中小工業」を発展させ国内需要の充足と輸出の両方を可能にし、また、失業者
の吸収にも役立てると述べた。こうした李の演説と前後して、韓国政府は中小企業育成と
その輸出への参加促進を試みるようになっていった(公報室、1959: 23; 李敬儀、1986: 319)。
この時期に、韓国政府当局者たちが中小企業の重要性を強調し始めたのには、以下の 2
1950 年代の米国の対北東アジア政策と韓国経済の諸問題
39
つの理由が考えられる。1 つめは、韓国政府当局者たちが中小企業の発展が韓国経済にも
たらす効用が大きいと認識したことである。例えば宋仁相は、中小企業は資本効率が高く
雇用吸収も早く韓国の技術能力や経営能力から見ても妥当な形態だと考えていた(宋、
1958: 8)
。こうした宋の考えは前掲の李承晩の中小企業に関する言及とも大体一致する。
2 つめの理由として、当時の韓国の製造業において中小企業が占めていた割合が挙げら
れる。1958 年の時点では、中小企業は製造業全体の生産額の 68.7%、従業員数では 77.7%
を占めており、大企業の発展により恩恵にあずかるのは国民の中でもごく少数であった
(隅谷、1977: 30–31)
。こうして、少なくとも 50 年代中盤には、韓国政府は国民生活の向上
のためには中小企業に配慮せざるをえないと認識するに至る(韓国日報社、1981: 136–137)。
つまり、先述した中小企業重視の言説は、決して大企業を軽視してのものではなかった。
むしろ、大企業が優遇される一方で、韓国経済にとって不可欠であった中小企業の成長が
立ち遅れていたため、後者の重視が殊更に強調されたのであった。
シンヒョンファク
こうした中、1959 年 4 月 3 日、申 鉉 碻 復興部長官は、ICA の中小企業運転資金による
輸出振興基金の設立について協議中であると明かした(『東亜日報』、1959 年 4 月 4 日朝)。そ
グ ヨン ソ
して、5 月 14 日には具鎔書商工部長官が見返り資金の使用による輸出金融基金設立案を発
3)
表した(同上、1959 年 5 月 14 日朝) 。その後、8 月 18 日に開催された合同経済委員会
4)
輸
出振興分科委員会第 1 回会議において最優先で輸出振興基金設立のための議論が始めら
れ、最終的に輸出と在韓米軍向けの製造業を中心に運転資金を貸し出す方向で基金の規定
が作成された(NA36; 韓国貿易協会、1960: 50)。そして、9 月 16 日に合経委本会議において
同案は承認され、基金は 20 億ホァンで始業することとなる(NA35)。最終的な規定は中小
製造業者への貸出を中心とするものにはならなかったが、それらの企業への配慮も見られ
た。同基金は輸出業者への貸出枠を設けることで、そうした業者が輸出のための集荷の過
程で、担保となる物件を持たなかったり融資を受ける手続き自体に慣れていない中小製造
業者に資金を「また貸し」できるようにしていたのである(高、1959: 42; NA37)。そして、
結局 63 年には同基金の業務と資金は中小企業銀行に移管された(韓国貿易協会、1964: 97)。
このように、米韓両当局者は 1950 年代には中小製造業者の育成と輸出への参加促進の
必要性を感じ、少しずつその後押しを試み始めていた。そして、こうした考え方は後の
チャン ミヨン
パク チョ ンヒ
張 勉・朴 正 熙両政権にもある程度受け継がれており、輸出志向工業化への転換後、少な
くとも 60 年代の間は、輸出工業製品の半分弱は中小企業によって担われることとなる(隅
谷、1976: 24)
。しかし、他方で輸出に参加できなかった大多数の中小企業は経済発展から
取り残されていくこととなった(同上、25–30; 李敬儀、1986: 326–327)。
4. 李承晩政権の自立経済論と米国の地域内分業体制論
以上のように、1950 年代後半には、米国は工業製品輸出を必要と考え韓国政府にこれを
促した。しかし、韓国側は一定程度は米国の働きかけに応じたが、結局、積極的な輸出促
進政策はとらなかった。以下に、なぜ韓国側がこのように対応したかを明らかにするため
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アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
に、李承晩の輸入代替的経済政策の中で輸出に割り当られていた役割について考察する。
李承晩が志向した経済的目標とは重工業と軽工業をともに発展させ自給自足型経済を構
築することであった(李鍾元、1996: 128; 鄭眞阿、2007; 149; 公報室、1959: 53)。しかし、韓国
に潜在する資源では完全な自給自足は不可能であり、原料等の国内で生産できない物資は
輸入せざるをえなかった。また、そうした自給自足の達成は遠い未来のことであったため、
当面は産業機械や中間財も輸入する必要があった。韓国政府は、これらの輸入のために外
貨を輸出によって獲得しなければならなかったのである。さらには、綿紡織業等のための
国内市場が飽和状態に達しており、また、国内の失業問題も迅速に解決する必要があった。
こうした状況で、輸出を伸ばせば直面している経済的問題のいくつかが解決することは明
らかであったので、1950 年代後半には理念はどうあれ輸出促進が叫ばれたのである。しか
し、李は、朴正熙政権が輸出をその目標である経済成長の原動力とみなしていたようには、
輸出をその経済目標達成において重要なものとは考えなかった。李にとって輸出とは、そ
の自給自足型産業構造の建設過程や建設後の維持を補完するためのものであったと思われ
る。さらにこうした補完機能が、徐々に削減されつつもこの時期にはまだ莫大な額であり
続けた米国の援助から得られたことも輸出軽視の一因となった。
こうした中、国内市場の飽和を動機とする綿製品輸出は李承晩政権中は試験的なものに
留まり積極的な促進はなされなかった(大韓紡織協会、1968: 111)。中小企業輸出のための基
金は 1960 年代以降の輸出振興政策に比べればその規模は比べものにならないほど小さく、
また、商業銀行に業務を担わせたため、取扱銀行が低利な同基金の融資を回避する傾向が
生じた(『産業経済新聞』、1960 年 3 月 17 日)。さらには、後述するが為替レートも原料輸入や
被援助という観点から輸出に不利に設定された。そして、こうした李政権の志向は、米国
の勧めもあり 50 年代後半に作成された「経済開発三個年計画」にも明確に表れた。同計
画は、労働集約型中小企業への投資や輸出拡大について述べてはいるが、結局、重工業建
設を最も重視していた(企財部、13–14, 39; 鄭眞阿、2007: 200–203)。こうした李政権の志向は、
この時期の韓国を北東アジアにおいて「例外的」な存在としただけではなく、後の輸出志
向工業化につながるような積極的な輸出促進政策やそのための制度の整備を遅らせた。50
年代後半には、米韓双方が工業製品の輸出の必要性を認識し実行に移していくという 60
年代の経済発展へとつながる要素がある一方で、こうした大きな断絶も存在した。
このような韓国側の志向に対し、米国側は貿易の拡大に重点を置いていた。前掲の
ウォーンの覚書にあるとおり米国も、韓国が国内で調達できない品目を輸入するための外
貨を輸出によって稼ぐことで、貿易収支を均衡させることが自立経済の条件であると考え
た。しかし、米韓間には韓国内で調達できない財を何と認識したかについて違いがあった。
米国は韓国における基幹産業・重工業の育成には否定的であり、日本の完成品を輸入すべ
きと考えていた。米国にとって、韓国の経済的自立とは、東アジア内の垂直分業的貿易構
造の一部としてのみ可能であったのであり、こうした貿易は「新興国にありがちな完全自
給自足経済に向けた取り組みを止める最大の手段」なのであった(NA10)。そして、援助
1950 年代の米国の対北東アジア政策と韓国経済の諸問題
41
なしでも国際収支を均衡させつつ、相互補完的な貿易により必要な財をそろえることが、
米国の目標である北東アジア諸国の「経済的自立」であった。つまり、国際収支赤字はそ
のままに、輸出促進によって経済全体のパイを拡大していく中で産業構造を高度化してい
くという、後の韓国の輸出志向工業化のようなパターンは全く想定されていなかった。し
かし、米国の 1950 年代後半のこうした方針は、韓国における輸入代替バイアスの除去と
輸出促進を促す必要性を認識するようになったという点でそうした輸出志向工業化への転
換の前提条件の 1 つを築くものではあった。それは、後述する為替レートをめぐる協議で
も顕著に表れている。さらに、先述した米国の、比較優位に則った地域内分業体制におけ
る輸出の重視と韓国の自給自足型経済建設への否定的な見方は、60 年代には朴正熙政権の
李承晩政権以上に強力な重工業建設の試みを挫折させることとなる。これを契機に韓国は
軽工業製品輸出主体の輸出志向工業化へと転換していった(木宮、2008: 121、184–185)。
Ⅲ 米韓為替レート協議と輸出促進の必要性
次に、米国当局者内で韓国の為替改革がどのように議論されたのかを分析することで、
米国が経済重視政策を韓国に適用する際に働いた思考について考察したい。
韓国は、1953 年 12 月の時点では公定レートを 180 ホァン対 1 ドルに設定しており、同
5)
レートは米国の援助物資公売と 、在韓国連軍が軍事費用等のために韓国政府から貸与を
受けたホァン貨のドル貨による返済の際に適用された(崔、2000: 107–110)。しかし、民間
の外貨保持者同士で市場価格による外貨の取引も行われており、そこでは、55 年以降は大
体において公定レートの 2 倍以上の価格でドルを売ることができた(同上、58–67)。まず、
こうした制度の中で、55 年 8 月に公定レートが 500 対 1 に設定された経緯について説明す
る。
1953 年 12 月に公定為替レートは 180 対 1 と設定されたが、その後、国連軍が必要なホァ
ン貨を得るために、韓国政府からの借り入れの代りに採用した韓国国内でのドル競売制度
の平均落札レートは 480 対 1 を示した。これに伴い、この競売結果と「類似した値」を適
用することで合意されていた援助物資の公売レートも 350 対 1 に引き上げられたため、公
定レートはその存在意義をなくし、韓国政府はレートの上昇傾向を止めるために米国と協
ペクトゥジン
議せざるをえなくなった(同上、119)。交渉のために訪米した白斗鎮経済調整官は、270 対
1 を恒久的な固定レートとしてすべての取引に適用することを主張した(NA9)。当時李承
晩は、平価切り下げは輸入品の価格を引き上げることで止めどないインフレへとつなが
り、米国の援助を盛り込んだ政府予算もホァン建ての歳入が減ることで混乱すると主張し
た(崔、2000: 145)。さらには、米韓双方がホァン換算での援助総額を増大させようとして
いたが、米国はそれをホァンの平価切り下げで達成しようとしたのに対し、李は米国にド
ル換算での援助総額そのものを増大させることで達成しようとしていた(同上、134–139)。
42
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
こうした中、米国は交渉前には、為替レートを 600 対 1 前後で 1 年間固定しようとして
いた(NA32)。これは、国務省ができる限り適正水準に近い価格で援助物資を売却して多
くのホァン貨を財政に吸収し、均衡予算とインフレ防止を達成しようとしたためであった
(NA31)
。米韓双方の意見の相違により交渉は長引いたが、最終的に韓国政府の外貨取引、
駐韓米軍のホァン貨買い入れ、そして、若干の例外を除く援助物資の導入に、1 年間 500
対 1 の固定レートを適用することで妥協がなされた。この数値自体、市価から見てホァン
の過大評価である上に、同合意には秘密条項があった。それは、同レートをこの 1955 年 8
月から 13 カ月間維持し、期間終了時の物価が 55 年 9 月のそれよりも 25% 以上上昇してい
ればその上昇率に合わせてレートを再策定するというものであった(NA12)。同条項によっ
て、米国は適正水準ではないにせよ為替を物価変動に連動させようとしたのである。しか
しその後当初の予想を超え、結局 500 対 1 レートと 25% 条項は 60 年初頭まで維持され、
物価安定と引き換えに過大評価レートは 5 年近くも黙認された。
このように 1955 年の時点では主に韓国経済の安定化の観点から議論された為替レート
であったが、57 年以降米国の現地当局者の認識が変化し、500 対 1 というレートが輸出の
障害となるという主張が登場した。これは、先述した現地当局者内で輸出への関心が強
まった時期と重なっており、前掲のダウリングの電文でもこうした主張がなされていた。
従来、韓国の為替レートは国内物価の変化から算出されていた。しかし、1956 年 11 月、
チョウナーは国際市場とつながった議論が容易になるようにと国内物価と国際市場の物価
の比較によってレートの適正水準を算出すること(購買力平価説)を試みた。そしてチョウ
ナーはその結果をもとに、ホァンを過大評価したレートによって輸入した製品を国内で売
6)
り、
「たなぼた的(windfall)」な利潤を得ている業者がいることを指摘した(NA33) 。チョ
ウナーは別の機会にも、国内生産よりも輸入のコストが安いことで資金が生産的な用途に
向かないことを指摘している(NA34)。ただでさえ少ない資源が制度の不健全性によって
可能となる利益追求に回され、上述したような国際収支改善のための輸入代替、輸出促進
に適した産業に向かわないことをチョウナーは問題視したのである。こうして、輸出の観
点から現実的水準の単一レートが望ましいという思考が米国当局者の中で定着していっ
た。58 年 10 月には ICA の韓国担当者であるネイサン(Kurt Nathan)が、ウォーンらとの会
談で「1955 年 9 月に 500 ホァン対 1 ドルのレートが設定されたときに、これはすでに非現
実的であったが、その時に韓国は輸出する力がなかった。現在、状況は変わり、輸出への
関心が存在するが、為替レートが邪魔になる」と述べ、ウォーンもこれに同調している
(NA27)
。55 年の米韓交渉において米国が輸出の観点からレートを設定することを全く主
張しなかったわけではないが、白斗鎮は韓国は「まだその通貨を切り下げてまで輸出する
余裕を持てる段階ではない」と反駁した(NA1)。こうして最終的に 500 対 1 レートが決定
されたが、ネイサンが回想したように韓国の輸出競争力のために米国側が想定していた
レートから見て、これが 55 年の時点ですでに不当だったことは明らかであった(NA16;
NA18)
。
1950 年代の米国の対北東アジア政策と韓国経済の諸問題
43
しかし、米国は 1957 年前後の段階ですぐに適正単一為替レートの設定を韓国に迫った
キム ヒョン チョル
わけではなかった。57 年 1 月 23 日には、訪米していた金 顕 哲 復興部長官とロバートソ
ン(Walter S. Robertson)国務次官補の間で、500 対 1 レートの 57 年末までの延長が合意され
た(『東亜日報』、1957 年 1 月 25 日夕)。その際、期限終了後のレートの変更は、やはり物価
の上昇が 55 年 9 月の値からみて 25% 以内に維持されるかどうかに関連付けられた(同上、
1957 年 1 月 31 日夕)
。その後、米国が韓国政府に実行させた財政安定計画が功を奏し、物価
の上昇率が大幅に鈍化すると、500 対 1 レートは 58 年以降も維持されることとなる(同上、
1958 年 1 月 1 日夕)
。こうした状況を背景に、ICA 内では 25% の規定を侵してレート単一化
を迫ることは「韓国の安定化方策継続へのインセンティヴを弱めるだけ」と考えられるよ
うになった(NA29)。現地のウォーンらも、レート変更よりも、安定化とレート固定を結
び付ける合意を優先した(NA28)。米国は当時すでに輸出を重視するようになっていたに
もかかわらず、経済の安定化を優先する形となったのである。
しかし、1959 年下半期で物価が 55 年 9 月当初の 130% を超えると、ダウリングの後任で
あるマコノギー(Walter P. McConaughy)大使は 650 対 1 へと公定為替レートを再設定するこ
とを韓国側に要求した(NA26)。ここで注目すべきは、当時市場では 1 ドルの価値は 1,000
ホァンより高かったが、米国がそれを認識しつつも実際にはそれへの変更を強く求めな
かったということである。国務省は 650 対 1 レート適用の延期には強く反対したが、1,000
対 1 といった現実的水準に近い単一レートへの根本的な改革は 60 年の韓国大統領選挙に
悪影響を与えるのでこの時点では行うべきではないと考えていた(NA30)。結局、米国の
強い圧力により、韓国側は 60 年 2 月 23 日に公定為替レートを 650 対 1 に引き上げたが、
根本的な改革はアイゼンハワー政権期には行われなかった。
このように、後に輸出志向工業化に不可欠な条件となり、また、台湾と(通貨改革という
形で)沖縄で 1958 年に行われていた為替レート改革は、韓国でも 56 年以降その必要性が
強く認識され始めていた。しかし、それまでの李承晩政権の抵抗に鑑みたこともあると思
われるが、米国は物価安定を優先することでこれをすぐに実行に移そうとはしなかった。
Ⅳ アイゼンハワー政権の対北東アジア政策における
「例外」としての韓国
このように、アイゼンハワー政権の経済重視政策の重要な構成要素であった貿易促進政
策は、韓国では十分に実行されなかった。同節では、他の日本、台湾、沖縄といった事例
と比較しながら、このように韓国が「例外」となった要因をいくつか提示したい。
1 つめは、上述したような、李承晩政権の持っていた自給自足型経済志向と米国の政策
との葛藤である。例えば、韓国の重工業輸入代替重視の「経済開発三個年計画」に比べ、
同じ時期にやはり米国の肝煎りで台湾政府が作成した「第三次四カ年計画(1961∼64 年)」は、
44
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
軽工業、特に輸出産業に重点を置いた輸出志向的なものであった(IPCG, 1961: 1, 5–7)。そも
そも、同計画では中国大陸への復帰が前提とされており、台湾だけでの自給自足型経済志
向といったような、米国の貿易促進政策と対立する要素は小さかった。また、沖縄に関し
ては、そもそも、その指導者がどのような志向であったとしても米国の意向に抵抗するこ
とは困難で、米国は容易かつ徹底的に規制緩和や経済改革を推し進めることができた。ま
た、沖縄ではその経済規模から元来貿易が重視されていたこともあり、米軍当局と琉球政
府が駐韓米国当局者の助言を受け作成した長期経済計画は、第Ⅱ節第 1 項で述べた駐韓当
局者たちの貿易促進に関する考え方と、韓国の計画よりも直接的に重なっているように見
える(『沖縄タイムス』、1959 年 5 月 29 日朝;琉球政府、1960)。
2 つめに挙げられるのは、韓国の経済状況である。当時の日本の経済水準がアジアで突
出していたことは言うまでもないが、台湾の経済発展も 1950 年代後半には米国政府高官
にことあるごとに賞讃されるまでになっていた(FR7: 469)。しかし韓国では成長よりもイ
ンフレ抑制や経済安定が優先されたことは、為替レートの議論でみたとおりである。
以上の 2 つの要因は、本稿での、米国側の韓国に貿易促進を促す必要性への認識とその
実行過程に関する分析から直接導き出したものである。そして、以下の 3 つめと 4 つめの
要因は、他の事例に比べて韓国においては本稿で示した程度にしか、米国に経済重視政策
の実行が必要だと認識させなかった背景を説明するものである。
3 つめの要因は 1950 年代中盤の冷戦の性格の変化に関係している。その変化は、世界的
な冷戦の政治経済的競争化の他に、北東アジアでは共産主義中国のプレゼンスの増大とい
う形であらわれた。米国は中国の「大躍進」政策について、その成功する可能性にはかな
り懐疑的であったが、成功した際の自陣営への不利な影響については懸念していた(FR8:
522)
。そのため、米国は中国に対抗し得る地域的中心であった日本だけでなく、正統な中
国政府の座や東南アジア華僑への影響力を共産主義中国と争わなければならなかった台湾
の経済発展を国際社会に示そうとした。そして、このような危機意識は台湾に関する NSC
の政策文書にも表れた(FR5: 399; 前田、2002: 143–144)。もちろん、米国の対韓政策にも、北
朝鮮との経済発展による競争という思考は存在しただろう。しかし、李承晩政権期に米国
の対韓政策の根幹を決める NSC の協議や政策文書において、北朝鮮とのそうした競争が
深刻に言及されることはなかったように思われる。
4 つめの要因は、韓国では米国の政策への最も切実な脅威が、他の事例ほどに経済重視
政策の推進による対応へのインセンティヴを持たなかったことである。例えば日本では、
駐日米国大使館が中立主義感情の高まりを恐れ、日本に米国の戦略への軍事的貢献を迫る
前にその政治・経済的安定(物価安定ではなく貧困の解決という意味)の実現が必要だと本国
に提言した。こうして、米国は 1955 年には日本への軍事的貢献増大の要請を棚上げする
一方、GATT 加入を積極的に助けることとなる(FRI: 6–9; NA20; 植村、1996: 266–270)。
次に台湾の事例について考察する。米国が台湾に先述したような諸経済改革を本格的に
促すのは、1958 年の第 2 次台湾危機が収束し台湾海峡がある程度安定して以降であった。
1950 年代の米国の対北東アジア政策と韓国経済の諸問題
45
その際、アイゼンハワーらが抱いていた深刻な脅威認識は、蒋介石の側からの共産主義中
国に対する軍事行動に米国が巻き込まれることに関するものだった(FR4: 98; 前田、2002:
104)
。ダレス(John Foster Dulles)国務長官は、第 2 次危機後の訪台時に、蒋介石に「民生」
を含む「三民主義」を大陸復帰のイデオロギーに据えることを確言させた(FR6: 443–444;
前田、2002: 146)
。こうして米国は、蒋の武力行使を抑えることができ、また、共産党が支
配する中国へのより有効な対抗手段となりえる政治・経済・社会福祉・中国文化といった
分野における闘争を推奨しようとしたのである(FR5: 399–401; 前田、2002: 143–144)。
沖縄では、1956 年 6 月に米軍当局が軍用地を一括払い方式で買い上げるというプライス
勧告の内容が発表されると、
「島ぐるみ」での反対運動が起きた。その後、12 月の那覇市
長選挙では、地下共産主義組織のリーダーであった瀬長亀次郎が勝利する。こうした住民
による運動の中で、土地問題、それまでの米軍統治への不満、本土復帰が問題とされたた
め、国務省ではこれらの諸問題に関する国防省との協議が望まれるようになる(NA2)。ま
た、沖縄の問題は日米関係を脅かしたという点でも緊急に対処の必要な問題であった
(NA1; 宮里、2000: 137)
。こうして、国防省との協議において国務省は沖縄の状況への対処
の一環として、経済開発や投資環境整備の促進を提起した(NA3; 宮里、2000: 142)。また、
島ぐるみ闘争勃発直後である 56 年 11 月に軍部によって招聘され、57 年 3 月に沖縄を訪れ
た「金融通貨制度調査団」も沖縄における通貨のドルへの交換や、投資環境の整備等を提
言した(NA11; 宮里、2000: 170–173)。こうして、軍部は国務省との協議を経て、通貨改革か
ら貿易統制のネガティヴリスト化までもを含む、一連の政策を実施していったのである。
このように、米国にとっての日本、台湾、沖縄における深刻な脅威は経済成長志向的政策
による対応をとることを後押しした。では韓国ではどうであったのだろうか。
当時韓国において米国が最も懸念したのは、北の工作員の煽動や破壊工作に利用される
可能性が高く、また国内の革命的状況にもつながりえる、民衆の経済的不満の増大と政
治・社会的混乱であった。後者はさらに、韓国を支持する米国の国際社会での面子を損な
うという意味でも懸念された(FR2; NA5)。そして、第Ⅱ節で挙げたダウリングやウォーン
らの本国への提言は、1956 年 5 月の正副大統領選挙の結果が米国のこうした懸念に強く訴
えかけたことで引き出されたものであった。経済問題を焦点化した野党候補張勉の副大統
チョボンアム
領当選と、社会民主主義的主張を掲げた元共産主義者曺奉岩の大統領選挙での善戦は、米
国当局者に政治的混乱と、主に経済問題を原因とする韓国国民の左傾化の可能性を突き付
けた(NA4; NA6; 李鍾元、1996: 265–266)。しかし、その後、米国当局者を深刻に懸念させた
のは、政権与党側の非民主的・暴力的な措置による野党抑え込みであった。こうした状況
において米国当局者が感じた脅威は、政治的混乱やそれが国際世論に及ぼす影響への対処
を要請するものであった。他方、米国当局者の韓国経済自体に関する脅威認識は、豊作と
財政安定計画によるインフレ抑制で状況が安定すると、政局に対するそれに比べてある程
度和らぎ、むしろ物価安定という現状維持志向が強まっていくこととなる(NA7)。
その後、1960 年の正副大統領選挙が近付くにつれ、米国当局者内では政権与党の選挙へ
46
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
の不正介入に対する懸念が強まっていった。そして、58 年末以降政権の野党や言論に対す
る弾圧を目の当たりにすることで、米国は自由党指導者が国民への人気回復に取り組むこ
とを放棄し、目的達成のために抑圧的な方法にのみ依存するようになったと判断した
(NA8)
。こうした状況は、民主政治の未来への幻滅を生み出すことで「極左極右両派が利
用するための豊穣な基盤を提供」し、韓国国内を革命にもつながるような混乱状況に陥れ
る危険性を突きつけるものであると米国は認識した(FR3: 585–589)。そして、実際に 60 年
3 月の選挙で大々的に与党による不正が行われ、それに抗議する学生の蜂起によって状況
が混乱すると、こうした認識のもとに米国は李承晩の退陣に大きな役割を果たすこととな
る。このように、50 年代後半における米国当局者の中での最大の脅威は、与野党間の緊張
の高まりに対処する必要性への認識に直結するものではあっても、他の事例ほどには経済
重視政策の実行へのインセンティヴとなる性質のものではなかった。こうした認識を背景
に、物価安定を損ねてまで、そして経済的な方向性をめぐって李承晩政権との強い確執を
生じさせてまで、米国は経済重視政策を実行しようとはしなかった。
おわりに
以上のように、米韓両当局者は、1950 年代中盤から後半にかけて軽工業製品輸出の必要
性を認識するに至り、少しずつではあるがそのための方策を実行していった。また、時を
同じくして現地の米国当局者内には輸出という観点から現実的水準の単一為替レートを実
現しなければならないという意識が生じた。これは、アイゼンハワー政権の貿易重視の姿
勢によるところでもあった。そして、これらの変化には 60 年代以降の輸出志向工業化へ
の転換に向けた米韓協議との連続性を見いだすことができる。しかし、北東アジアの他の
事例と比べると、韓国における米国の経済重視政策は「例外的」に不徹底なものとなった。
これは主に李承晩の輸入代替志向という米国の政策への抵抗が、韓国国内における経済・
物価的安定の必要性、政局の不安定性、そして冷戦におけるその立ち位置等に関する米国
の認識と複雑に絡み合うことで惹き起された結果であった。
(注)
1)輸出志向工業化・経済発展とは、輸出が牽引する工業化と経済発展である。輸出志向工業化が始まる
際には、輸入代替工業化に有利な制度的バイアスや輸出への障害をなくす、輸入自由化、為替レート改
革、金利現実化等の所謂「自由化」
、そして労働集約型工業製品の積極的な輸出促進を伴った(渡辺、
1986: 196–198)
。
2)例えば、1955 年 5 月に米韓が署名した「剰余農産物協定」は、同協定による援助農産物の「国内用途
以外の目的への転用」を禁止している(韓国銀行調査部、1955.9: 54)
。
3)こうした「輸出基金」構想は 1958 年の商工部作成文書にはすでに見られる(記録院:219)
。
4)米韓合同経済委員会(合経委)は、韓国政府と国連軍司令部(つまりは米国)との間の、経済政策に
関する協議の場として 1952 年 5 月 24 日の「大韓民国と統一司令部間の経済調整に関する協定」によって
設置された。企画、財政、輸出振興等の分科委員会を持っていた。
5)米国援助物資の韓国国内での公売で得られたホァン貨は援助資金として中央銀行である韓国銀行の特
1950 年代の米国の対北東アジア政策と韓国経済の諸問題
47
別勘定にプールされ(見返り資金)
、合経委によってその使用先が決定された。
6)購買力平価説の妥当性については、上述した 1955 年の米韓会談で、すでに米国側が指摘していたが、
韓国側はこれを様々な理屈でかわした(NA15; NA16; NA17)
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「1950 年代 外換制度와 換率政策에 관한 研究」
(
「1950 年代為替制度と為替レート政
策に関する研究」
)成均館大学校博士論文。
韓国貿易協会編(各年版)
、
『貿易年鑑』韓国貿易協会。
韓国銀行調査部(各月版)
、
『調査月報』韓国銀行調査部。
한국일보社編(韓国日報社編)
(1981)
、
『財界回顧 第 8 巻』한국일보社。
*公刊資料・一次資料(文中では、以下の分類名の略称と、各文書にふられた番号で記載)
① Foreign Relations of the United States (Washington D.C.: United States Government Printing Office).
(FR と略す)
1. “Telegram from the Embassy in Japan to the Department of State”Jan 10, 1955, FR 1955–1957 Vol. 23
pt. 1(1991).
2. “Staff Study Prepared by an Interdepartmental Working Group for the Operations Coordinating Board” Nov
16, 1955, FR 1955–1957 Vol. 23 Pt. 2 (1993).
3. “Airgram from the Embassy in Korea to the Department of State” Sep 28, 1959, FR 1958–1960 Vol. 18
(1994).
4. “Memorandum of Meeting” Aug 29, 1958, FR 1958–1960 Vol. 14 (1996).
5. “Draft Talking Paper Prepared by Secretary of State Dulles” Oct 13, 1958, Ibid.
6. “Joint Communique” Oct 23, 1958, Ibid.
7. “Memorandum by Secretary of State Dulles” Oct 29, 1958, Ibid.
8. “National Intelligence Estimate” Feb 10, 1959, Ibid.
② National Archives and Records Administration(NA と略す)
1. Dulles to Wilson, Aug 7, 1956, 794C.0221/8-756, RG59.
2. Robertson to Murphy “FEC Desire for Prompt Promulgation of Proposed Executive Order Governing
Administration of the Ryukyu Islands” Dec 26, 1956, 794C.0221/12-2656, RG59.
3. Mar 28, 1957, 794C.0221/3-2857, RG59.
4. American Embassy, Seoul to The Department of State “The 1956 Presidential Election in the ROK (10)”
May 24, 1956, Despatch No. 389, 795B.00/5-2456, RG59.
5. Hemmendinger to Robertson “July 27 Riot in Seoul” Jul 27, 1956, 795B.00/7-2756, RG59.
6. AmEmb, Seoul to DeptSt “Inaugural Convention of the Progressive Party” Dec 11, 1956, Desp.205,
795B.00/12-1156, RG59.
7. AmEmb, Seoul to DeptSt “Situation and Short-term Prospects of the Republic of Korea” Nov 21, 1957,
Desp.333, 795B.00/11-2157, RG59.
8. Dowling to Herter, Aug 4, 1959, Telegram No. 88, 795B.00/8-459, RG59.
9. McClurkin to Robertson “Summary of Korean-U.S. Economic Subcommittee Talks” Jul 1, 1955, 795B.5MSP/7-155, RG59.
10. “Japan” Jan 7, 1957, 894.00/1-757, RG59.
11. The Ryukyu Islands Financial Management Mission to Lemnitzer, Mar 26, 1957, 894.515/3-2657, RG59.
12. AmEmb, Seoul to DeptSt “Annual Economic Report 1955, Republic of Korea” Mar 19, 1956, Desp. 294,
895B.00/3-1956, RG59.
13. AmEmb, Seoul to DeptSt “Weekly Economic Review No. 28” Jul 12, 1957, Desp.32, 895B.00/7-1257,
RG59.
14. “Call of the Finance Minister of the Republic of Korea on the Deputy Under Secretary for Economic Affairs”
Oct 9, 1957, 895B.00/10-957, RG59.
15. “U.S.-ROK Talks: Economic Subcommittee” Jun 30, 1955, Lot58D643&59D407, Box.1, RG 59.
16. “U.S.-ROK Talks: Economic Subcommittee” Jul 1, 1955, Ibid.
17. “U.S.-ROK Talks: Economic Subcommittee” Jul 7, 1955, Ibid.
18. “U.S.-ROK Talks: Economic Subcommittee” Jul 11, 1955, Ibid.
19. “NSC5506” Jan 21, 1955, RG 273.
1950 年代の米国の対北東アジア政策と韓国経済の諸問題
49
20. “NSC5516/1” Apr 9, 1955, RG273.
21. Dowling to DeptSt “Broad Evaluation of U.S. Program in Korea” Oct 25, 1956, Desp.128, Box.62,
Entry422, RG469.
22. Warne to ICA “Report on Briefing of Randall Group” Dec 19, 1956, TOICA A-1020, Ibid.
23. OEC “The Cotton Textile Industry” Aug 7, 1957, Box.66, Ibid.
24. Warne to ICA “Cotton Classing and Marketing School” Feb 6, 1958, TOICA A-2145, Box.95, Ibid.
25. AmEmb, Seoul to DeptSt “Transmittal of Letter Relating to Cotton Textile Exports” Nov 27, 1957,
Desp.346, Box.9, Entry478, RG469.
26. AmEmb, Seoul to DeptSt “Hwan/Dollar Exchange Rate” Jan 7, 1960, Desp.336, Ibid.
27. “Meeting on Exchange Rate” Oct 29, 1958, Ibid.
28. “Korean Evaluation Report” Jan 12, 1959, TOICA A-2306, Ibid.
29. Wiggins to Moyer “Over-Valued Currencies” Jan 22, 1959, Ibid.
30. Dillon to AmEmb, Seoul, Dec 18, 1959, Tel.423, Ibid.
31. Bureau of Far Eastern Affairs, DeptSt “Korean Exchange Rate” Jun 20, 1955, Box.10, Ibid.
32. FE, DeptSt “United States-Korean Economic Talk” Jun 20, 1955, Ibid.
33. OEC “Minutes” Nov 14, 1956, Ibid.
34. “CEB Minutes” Mar 5, 1958, CEB-Min-58-9, Box.3, Entry1277DH, RG469.
35. “CEB Minutes” Sep 16, 1959, CEB-Min-59-37, Box.14, Ibid.
36. “CEBEP Minutes” Aug 18, 1959, CEBEP-Min-59-1, Box.4, Entry1277DI, RG469.
37. “CEBEP Minutes” Sep 1, 1959, CEBEP-Min-59-2, Ibid.
③ Dwight D. Eisenhower Presidential Library(DDEPL と略す)
Macy “Report on Korea” Oct 25, 1956, Box.3, White House Office of the Special Assistant for National Security
Affairs: Records 1952–1961, OCB Series, Subject Series.
④大韓民国企画財政部図書室(企財部と略す)
復興部産業開発委員会(1960)
「経済開発三個年計画」
。
⑤大韓民国外交史料館(史料館と略す)
Edwin M. Cronk to Ku Chai Hong「외무부의 경무대보고문서 v.1」
(
「外務部の景武台報告文書 V.1」
)
1958 年 7 月 18 日、分類番号 704.1、登録番号 5。
⑥大韓民国国家記録院(記録院と略す)
상공부「국무회의 부의 사항 : 수출진흥을위한당면시책에관한건 ( 원안 )」
『국무회의록 ( 제 101 회 - 제
120 회 )』
(商工部「国務会議附議事項:輸出振興のための当面施策に関する件(原案)
」
『国務会議
録(第 101 回–第 120 回)
』)1958 年 11 月 28 日、管理番号 BG0000097。
*新聞資料
①日本語
『沖縄タイムス』
②韓国語
『東亜日報』
、
『産業経済新聞』
*マイクロ資料
Industrial Planning & Coordination Group, Ministry of Economic Affairs, Republic of China (1961) The
Industrial & Mining Program under Taiwan’s Third Four-year Plan (Zug: Inter Documentation Company).
(IPCG と略す)
(こう・けんらい 東京大学大学院総合文化研究科博士課程 E-mail: [email protected])
50
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
[研究ノート]
「中国学派」の登場 ?
現代中国における国際関係理論の「欧米化」と「中国化」
徐 涛
はじめに
周知のとおり、近代国際システムは西欧に起源をもち、西欧諸国の植民地主義・帝国主
義によって世界的に拡大した。この国際システムを研究対象とする国際政治学、とりわけ
国際関係理論も欧米において誕生・発展し、西洋の文化と歴史経験に特徴づけられた学問
であると言える。たとえば、国際政治学の古典『危機の二十年』において E. H. カーは、
国際道義の理論は諸国家のうちの最有力国家ないし国家群がつくり出すものであるとした
上で、1918 年以降の国際道義の理論は最有力集団である英米が自らの優位を永く維持しよ
うとして考えられたものであると指摘する(E. H. カー、1996: 153–154)。軍事・経済・政治
的優位が近代西洋の知のヘゲモニーを生み出し、西洋文明の「普遍性」と「模範性」を支
えてきたという文脈からすれば、近代知の一部である西洋発の国際関係理論が欧州中心主
義的性格を有するのも自然なことであろう。
しかし、1970 年代以降、サイードやウォーラーステイン、フランクらの著作をはじめ近
代社会科学における欧州中心主義に対する反省・批判が現れている(E. W. サイード、1993;
I. ウォーラーステイン、1993; A. G. フランク、2000)
。日本においても、近代文明の抱える諸課
題が明らかになるにつれ、欧州中心主義的世界認識が問われるようになった(溝口、1989;
濱下・辛島、1997)
。
「普遍主義として提示された、近代西欧に起源をもつ社会科学をいま一
度相対化し、新たな理論構築が要請されている」(山田・渡辺、1994: i–ii)のである。
国際関係理論研究においても、非西洋地域発の理論の必要性と重要性を早く認識する者
もいた。たとえば英国学派の H. ブルは、現有の理論がすべて西洋理論であるならば、果
たしてこれらの理論をもって非西洋を主とする世界政治システムを理解することができる
だろうか、との問いを発していた(Bull, 1972: 39)。さらに、B. ブザンらは、ウェストファ
リア体制・主権国家システムという近代欧州の歴史経験の制約を受ける欧州中心主義的国
際関係理論を反省しそれを超えようという問題意識を示した(Buzan and Little, 2000)。ブザ
ンらは、西洋発の国際関係理論は「相当限られた文化と歴史経験しか代表しておらず、し
かも、現在支配的地位を占めている大国の視点と利益というフィルターをもって世界を濾
過しているものである。パワーの分散および文化多元主義の復帰にともなって、国際関係
研究は非西洋の経験を代表する声と視角を必要としている」と明確に述べている(Buzan
?????
51
and Little, 2004: III)
。そして、近年、ブザンと A. アチャリヤは非欧米地域、とりわけアジア
における国際関係理論の展開に注目している(Acharya and Buzan, 2010)。
国際関係理論の欧米中心的性格や「非欧米地域発の国際関係理論」の可能性をめぐる議
論がなされている
1)
背景には、非西洋新興国がすさまじい発展を遂げていること、資本主
義経済のグローバルな拡張にともない、環境・エネルギー資源・生態系危機、世界金融危
機、国際テロ、民族紛争などといった地球的問題群が顕著となり、新しい国際社会像・世
界秩序像が模索されていることがあるように思われる。コスモポリタニズム的立場に立つ
グローバル正義論・倫理論、様々な主体による協調的参加を理念とするグローバル・ガ
ヴァナンス論が興隆する今日において、米欧中心の国際関係理論は非欧米地域発の知の参
入によりグローバルな学問へとシフトしていくのであろうか。
本稿の目的は、現代中国における国際関係理論の「欧米化」(受容)と「中国化」(構築)
のプロセスを考察することを通じて、欧米諸国が支配的地位を占めてきた国際関係理論の
分野における「非欧米地域発の国際関係理論」の発展、および、グローバル秩序の形成に
積極的にコミットするようになった大国中国の視座に対する理解を深めることにある。
R. W. コックスが指摘したように、
「理論は常に誰かのため、何かの目的のために存在し
ている。すべての理論はパースペクティヴを備えている。パースペクティヴは時空間にお
ける位置から生まれるものであり、特に社会的政治的な時空間から生まれるものである」
(Cox, 1995: 215)
。そうであれば、典型的な非西洋的存在である中国―異なる文明に属す
るだけでなく、近代西洋に遅れたオリエンタリズム的他者として支配されていたという異
なる歴史経験を有するうえ、反帝国主義革命の達成により独立し近年驚異的な経済発展を
遂げ、大国として復興することが国民的使命とされている―が、独自のパースペクティ
ヴと問題意識から独自の理論をもとうとするのは自然なことと言えよう。
実際に 1980 年代から欧米製国際関係理論の導入、そして 20 年間に及ぶ論争を経て、
「中
国理論・中国学派」の構築の主張が中国国際関係研究界の主流となってきた(郭、2005)。
しかし、昨今の中国における国際関係理論研究のあり方については、日本の国際政治学
界は十分な関心を示しているとは言えない。すなわち、中国における欧米製国際関係理論
の受容のプロセス、それにともなう国際政治認識の知的基礎の変化をめぐる中国学者の議
論を十分にフォローしておらず、2000 年以降展開された「中国学派」構築をめぐる議論に
目を配っていないのだ(岡部、1997; 菅、2000; 林、2001)。
そこで本稿は、1980 年代以降に生じた中国学者の間における欧米製国際関係理論受容の
プロセスと国際政治観の変化を整理した上で、中国学者がどのように「中国理論」と「中
国学派」の構築を志向するようになったのか、そしていかなるアプローチが模索されてい
るのか、またそれが大国化する中国の自己認識・世界観・形成途上の世界秩序構想をどの
2)
ように映し出しているのか、といった問題を明らかにしたい 。
52
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
Ⅰ 現代中国における国際関係理論の「欧米化」および
その国際政治認識の変容
アヘン戦争以後、近現代中国における国際関係研究は、1)受容期―19 世紀末から 20
世紀前半にかけて近代西洋の知的枠組みを導入する観念の革命的転換期、すなわち朝貢シ
ステムからウェストファリア体制への移行期、2)否定期―冷戦という国際環境の中で
ネーション・ステート・ビルディングのためにソ連に「一辺倒」する政策をとらざるを得
なかった毛沢東時代、3)受容の再開期―1980 年代以降の経済発展を至上視するプラグ
マティズム主導の改革開放期、という軌跡を辿ってきた。ここでは、改革開放期の中国に
おける国際関係研究の「欧米化」の再開・深化を考察し、さらにその過程において見られ
る中国の国際政治に対する認識の変容を確認する。
1. 欧米製国際関係理論の導入
文化大革命と極左思想に対する深い反省から、中国は 1980 年代に入り、経済発展を最
優先する近代化路線に転換し、資本主義諸国を中心とする国際社会への融合を試みていっ
た。そして、知識人たちの間で欧米を模範とする近代化に強い期待が寄せられるなか、国
際関係学を含む欧米の人文社会科学の理論の導入が進められた(許・羅ほか、2007)。国際
関係研究のディスコースにおける資本主義・帝国主義に対する批判、
「革命」
「造反」
「古
い秩序を打ち倒す」という革命時代の表現が次第に消える一方、欧米の概念・理論が登場
し主流となっていった。
ここでは、1978 年以降の中国国際関係理論研究を 1)1978 ∼ 1990 年の前理論段階、2)
1991 ∼ 2000 年の理論学習の初期段階、3)2001 年以降の理論学習の深化段階という 3 つの
段階に分ける秦亜青の議論を参考にしながら、中国における欧米の国際関係理論の導入を
概観する(秦、2008: 13–23)。
1978 ∼ 1990 年の前理論段階では、
「階級分析方法」にこだわり、国際関係理論の「資本
主義性質」と「マルクス主義性質」の区別を強調するマルクス主義国際関係理論が主流で
「権力政治」や「勢
あったが、米国発の国際関係理論の導入(陳、1981; 倪・金、1987)につれ、
力均衡」
、
「総合国力」を論じるリアリズム研究が急増した。
その後、欧米製の国際関係理論の導入が勢いを増し、理論学習の初期段階に入っていく。
1990 年代を通じて、H. モーゲンソーや K. ウォルツ、R. コヘイン、J. ナイ、A. ウェントと
いった米国の主流の国際関係理論家の代表作をはじめとし、欧米の国際関係理論の古典と
される著作が相次いで翻訳・出版された。
第二段階(1991 ∼ 2000 年)では、国際関係研究雑誌が理論志向に転じ、中国への欧米製
理論の導入・普及を促す重要な役割を果たした。そしてリベラリズム研究の勃興がもう 1
つの重要な変化である。主要国際関係研究雑誌(『世界経済與政治』、『欧洲研究』、『外交評論』、
「中国学派」の登場 ?
53
『国際観察』
、
『現代国際関係』の 5 種類、1978 ∼ 2007 年分)を調査したデータによれば、リベラ
リズム研究に分類される論文は第一段階の 16% から 37% へと急増し、それ以前には第一
位であったリアリズム研究(34%)を上回った(秦、2008: 19)。
さらに、2001 年以降、中国の国際関係研究は理論学習の深化期という第三段階に入って
いく。五大出版社(人民公安大学出版社、上海人民出版社、世界知識出版社、北京大学出版社、浙
江人民出版) による欧米製国際関係理論研究の翻訳が爆発的に増大し、2007 年までの間、
第二段階の 10 倍に相当する 74 部もの翻訳が出版されたのである(秦、2008: 17)。この段階
では、米国の国際関係理論だけでなく、E. H. カー、M. ワイト、H. ブルを中心とする英国
学派の代表作品や、R. W. コックスの批判理論、フェミニズムとポストモダン国際関係論、
複雑系システム理論の中国語訳も登場した(E. H. カー、2005; M. ワイト、2004; H. ブル、2003;
Christine Sylvester, 2003)
。とはいうものの、米国製理論に関する研究は 1990 年代から 2007 年
まで増える一方であり、理論研究全体に占める割が 6 割強から 7 割強まで増加していた
(秦、2008: 17)
。
もっとも、上記の翻訳書が出版される以前から原著を利用した研究は見うけられたが、
これらの翻訳書の出版や国際関係研究雑誌の「転向」が中国の国際関係研究におけるマル
クス主義理論の弱体化、研究テーマやアプローチの多元化と多様化をもたらし、中国の国
際関係研究において新たなディスコース=欧米製国際関係理論、とりわけ米国製主流理論
および研究方法がますます重要な地位を占めるようになった。また欧米製国際関係理論の
導入過程と並行して、この学問に向かい合う中国人学者の自主性も育まれ始め、かつ、国
益観・主権観・安全保障観・グローバル化認識を含む中国の国際政治観の変容も見られる
ようになった。
2. 中国の国際政治観に見られる変化
(1)
「国益」をめぐる認識の変容
1980 年代後半からスタートした中国における国益研究を、階級分析の方法を用いて国益
の階級性を強調した伝統段階から、欧米の国際政治概念および学術上の規範に基づいた科
学的研究の段階へと大きく前進させたのは 1996 年に出版された閻学通の『中国国家利益
分析』である(閻、1996)。閻は「国益」を国際政治範疇の「国益(national interest)」と国内
政治範疇の「国益(interest of state)」に分けて、国際政治範疇の「国益(national interest)には
階級性がない」との議論を展開する。国益を「民族国家(nation state)の全体人民の物質的
および精神的需要を満足させるすべてのもの」と定義した上で、国益は客観的な存在であ
ると主張する。また冷戦後の世界における中国の国益を重要度の順に経済利益、安全利益、
政治利益および文化利益に分類している。さらに 2000 年以降、閻は台頭する中国の安全
利益と政治利益を強調し、
「東アジア安全共同体構想」や「同盟論」を含む「台頭戦略論」
を展開している(閻・孫ほか、2005; 閻、2011)。ともかく、閻の国益研究はイデオロギー・
革命理論から脱し、リアリズムのアプローチで国益を分析した点で高く評価されている。
54
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
一方、閻のリアリズムの「客観主義」に対して、ポスト実証主義による「主観主義」的
国益論やコンストラクティヴズムのアプローチによる国益論による疑問や批判が寄せられ
「需要」の観点から定義する閻のリアリズム
た。たとえば、南開大学(当時)の王正毅は、
的国益観が正当性の問題を孕んでいると指摘し、国益は実際には国際システムの規範、国
内状況、他のアクターや他の要素との相互作用のなかで形成され、そして変化するもので
あると主張している(王、1997: 138–142)。そして王は、冷戦後の国際システムの特徴―
地域主義、資本流動的グローバル化・国際化および民主観念の国際化・グローバル化―
が冷戦後の中国の国益に大きく影響していると考える。
代表的な政府系シンクタンクである社会科学院のアジア太平洋研究所所長(当時)張蘊
嶺も、相互依存関係の深化に従って国益が「ゼロサム」から「複雑なプラスサム」構造へ
と変化してきていると見て、
「新しい国益観」を提唱している(張、2000: 5–7)。また、社会
科学院世界経済と政治研究所副所長(当時)の王逸舟は新しい時代状況を踏まえ、外交ニー
ズと大国の風格のバランスを強調し、
「発展」と「主権」のほかに、新しい国益として、
多国間枠組みへの積極的参加を通じて国際社会における大国にふさわしい役割を果たす
「責任」を強調する(王、2003: 307–324)。近年、王は、グローバルな大国として台頭しつつ
ある中国が、
「責任のある大国」という国際イメージをつくり上げるためにも地域紛争に
関与し、国際機関・国際レジームを通じたグローバルな実践に積極的かつ建設的な介入を
行うべきことを主張する「創造的介入」論を展開している(王、2011)。
このように、1990 年代以降、中国学者の「国益」論は概念の定義や分析枠組みの設定な
どの面において欧米製の国際関係理論の影響を受け、国益をめぐる認識枠組みが大きく
「欧米化」
、とりわけ「米国化」していたのである。リアリズム的国益論に対する反論とし
て登場した様々な「新国益観」にはリベラリズム的なもの、ひいては理想主義的なニュア
ンスも含まれていた。
(2)
「主権」をめぐる認識の変化
半植民地化された屈辱の近代を経験したため、現代中国は「絶対主権」論という古典的
な主権観を抱いていた(岡部、1996: 37–45; 牛、2007)。しかし、静態的主権観が冷戦後の新
しい世界情勢に適合しなくなり、タブー視されていた主権研究が中国研究者の間で重要な
テーマとなった。1994 年、王逸舟は新しい時代に主権を制約するものとして、経済のボー
ダーレス化、各国の相互依存、グローバル・イシュー、NGO の発展を含む十個の要素を
指摘し、グローバル化と国家主権との関係を論じた上で、国益に合致すると同時に世界的
視野をも備えた主権観の必要性を訴えた(王、1994: 34–41)。
その後、主権へのグローバル化のインパクトについて多くの学者が指摘するようになっ
たが、経済のグローバル化によって国家主権が弱体したかどうか、国家がどういう役割を
担うべきかについては議論が分かれている。伝統的主権観に立つ「主権強化論」と「主権
不可分論」に対し、多くの学者は「主権の良性譲渡論」(国益全体のために自主的に一部の主
権を譲渡する)
、
「主権譲渡と主権維持論」(一部の主権を譲渡し積極的に国際経済組織や地域経済
「中国学派」の登場 ?
55
組織に参加することを通じてより高い次元で主権を維持する)という「新主権観」を主張してい
る(劉、2002: 77–81)。
また、主権と人権の関係もホットなテーマである。しばしば欧米で唱えられる「主権よ
り人権」論が実質的に覇権主義であり新干渉主義であると批判・反駁する研究が多く見ら
れる(中国人権研究会、2001)なか、主権の範疇の延伸・再定義の必要性を指摘し、人権を
主権の新しい内容と見なすべきと主張する王逸舟らの議論は注目に値する。王は、強権政
治に反対することが主権の第一の役割であるとする従来の基本的な主張を認める一方、グ
ローバル化の進行の発展にともない、主権・使用権・管轄権の間における機能的区別が見
られ、主権が「(多)層化」する趨勢にあると認識する。そのうえ、王は、主権の国内的側
面、すなわち国家と社会の関係に焦点を当て、新安全保障観および国家内部機能の視点か
ら「時代の特徴を代表する人権観念」を新しい主権観の核心内容に据えるべきだと主張す
「安全と主権は、単に(外の世界に対する)防衛的な概念ではなく、(対
る(王、2000: 4–11)。
内的な)自己改造と向上の含意をも有しているのだ」と指摘し、グローバル化世界におか
れた中国の国内政治社会の改革の必要性を強調するのである(王、1995: 47–85)。主権、人権、
安全保障を結び付けて動態的に多角的に捉える必要性を主張し、新干渉主義に対する警戒
と民主・公正・進歩に基づく国内社会政治体制の建設の両立を力説する(王、2003: 317)王
の議論は、概ねリベラリズムに沿ったものと言える。
紙幅の関係で「国益」と「主権」という国際政治学における最も基本的な概念に絞った
が、1990 年代なかばから中国学者の間では「グローバル化(全球化)」とそれとも絡んだ「新
安全保障観」が盛んに議論されており、非伝統的安全保障と協調的・総合的安全保障論、
国際レジーム論やグローバル・ガヴァナンス論が受容されていることを指摘しておきた
3)
い 。要するに、改革開放期の中国においては、国際関係研究の「欧米化」が急速に進行
するとともに中国学者の国際政治観も大きく変わっていったのである。言うまでもなく、
資本主義諸国を中心とする国際社会への融合を意味する近代化路線に国内政治が転じたこ
と、1990 年代から中国の国際政治研究の中堅勢力を担ってきた閻学通、秦亜青、王逸舟、
王正毅等の多くが米国留学経験者であること、世界経済の相互依存関係の深化や非伝統的
安全保障、地域主義などにみられるグローバル化に関する認識が深まったことが、欧米製
理論の受容および国際政治観の変容の重要な要因と考えられる。
Ⅱ 国際関係理論の「中国化」論―
「中国学派」の登場 ?
他方、欧米製理論の大量導入に対して、
「中国の特色のある国際関係理論」
、
「中国視角」
、
4)
「中国学派」の必要性が中国学者の間で相次いで提唱され、国際関係理論の「中国化」 、
すなわち中国の主体性も主張されるようになった。そして約 20 年に及ぶ論争を経て、
2004 年頃、
「中国学派」の構築の主張が中国国際関係学界の主流となったのである。
56
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
本節では、1980 年代から現れた「中国の特色のある理論」をめぐる論争から、
「中国理
論・中国学派」の構築を求める意見が主流に成長していく過程を素描し、代表的な学者の
議論を紹介した上で、欧米製国際関係理論の受容過程において登場した「中国学派」構築
という主張が理論における中国学者の主体性の自覚を強く表していることを確認する。
1. 論争の推移:
「中国の特色のある理論」から「中国学派」へ― 2004 年まで
1980 年代半ば頃、国際関係理論の階級性を強調するマルクス主義理論のスタンスをとる
学者が「中国の特色のある国際関係理論」建設を主張したことをきっかけに、中国学者の
間で「中国の特色のある理論」の命題をめぐる論争が起こった(王・林・趙、1986: 1–7)。
はじめは、
「中国の特色」が政治的イデオロギー的色彩の濃い表現であったこともあり、
欧米の理論の導入に熱心に打ち込む大多数の学者の間では大きな反響は見られなかった。
しかし 1990 年代に入り、国際関係学学科の発展とそこで教授されるべき国際関係理論
を「中国化」する課題が広く認識されるようになるにつれ、
「中国の特色」の脱政治化・
イデオロギー化が試みられ、論争の拡大を刺激していた。北京大学の梁守徳は、理論は普
遍性と特殊性の統一であり、
「中国の特色」は理論自身の法則によるものであると「中国
の特色」命題の必然性と正当性を主張した上で、中国の国情と国益に立脚点を置く国際政
治学理論研究を「中国の特色」とし、さらに国際政治が「権利」をめぐって展開されるこ
とに着目する「権利政治」を中国の国際政治学研究の視角として提唱した(梁、1994: 15–
21、2005: 5–7(+14)
)
。また復旦大学の倪世雄はいかなる政治理論研究にも内在するスタン
スと視角の問題があると指摘し、
「中国特色」を強調することは狭隘な民族主義やイデオ
ロギーの突出を意味するものではないことを力説する(倪、2001: 505)。
一方、
「中国の特色のある国際関係理論」という命題への反対派あるいは懐疑派は、学
術理論の目的は問題を解釈・説明することにあり、必ずしも「特色」を有しなくてもよい、
「中国の特色」を強調することにより理論の実用性が突出し、学術性が弱められてしまう、
「特色」はあらかじめ設計したものではなく理論自身の成熟によるものである、などの理
由をあげて反論した。社会科学院米国研究所の資中筠は、社会文化の産物である研究者が
民族あるいは国家の歴史や社会文化、思考様式の影響を受けることを認めつつも、短命に
終わる実用目的の「理論」に反対し、理論家の天職はあくまでも自らの理論が客観的法則
に一致するように全力を尽くすことであると主張した。
「中国特色のある理論」の構築と
いうよりも中国人の優れた見識をもって世界を舞台とする理論争鳴に参加し、自らの貢献
をなすべきという資のスタンスが反対派・懐疑派を代表している(資、1998: 38–41)。
しかし、21 世紀に入り、
「中国の特色のある国際関係理論」をめぐる論争は次第に沈静
化に向かった。学術研究の客観性のイメージを兼ね備えた「中国視点」
・
「中国学派」を提
唱する「第三の道」が次第に主流となったからである。王逸舟は、今日の中国における国
際関係理論研究が欧米の理論や分析方法、パラダイムを借用する段階にある事実を客観的
に認識し、
「特色」という表現を使うべきではないと主張した。代わりに、王は「中国視点」
「中国学派」の登場 ?
57
を提唱するとともに着実な具体的な問題研究の積み重ねを通じて徐々に「中国学派」を形
成していくべきとの見方を示している(王、1993: 6)。理論は「使用する言語、表現形式お
よび思考様式は文化背景、歴史伝統および民族性格によって異なる」という意味で、国際
政治学理論の「欧州大陸学派」
、
「米国学派」
、
「日本学派」
、
「ロシア学派」
、
「中国学派」等
「中国視点」
・
「中国学派」の
が存在しうるとする王の主張(王、1998c: 17–26)からすれば、
表現は国益主張の側面を含みつつも、一国の歴史文化とコンテクストをより強調するもの
であり、理論の個性、理論の国家属性とともに学術研究の客観性に努める姿勢を表してい
たと言える。
他方、極少数ではあるが、
「中国学派」の提唱にも反対の意を表明し、国際関係理論の
普遍性および科学研究方法=実証主義の普及を主張する学者も現れた(張、2004: 22–23; 閻、
2006: 1)
。ここには、解釈と理解に基づいた仮説ないし観念の体系としての「理論」が本来
的に孕む相対的性質や哲学・歴史・文化の基底性を強調する人文主義の見方と、
「理論」
の客観性と因果関係を論証する科学的研究方法の重要性を強調する科学主義の立場との対
抗軸も垣間見える。
ともあれ、
「中国理論」
・
「中国学派」の構築を主張・賛成する声はその後も勢いを増し、
2004 年には「中国理論を構築し、中国学派を創建せよ」を主題に掲げた第三回全国国際関
係理論研究会議が開催され、
「中国理論」
・
「中国学派」の建設が必要であるとの認識が中
国国際関係研究界の主流に位置付けられたのである。
これは以下の諸要因による結果と言える。まずは、欧米製の国際関係論学習の深化にと
もない、中国学者が国際関係理論研究と政策研究の違いを認識し、国際関係理論と理論の
流派がこの学科の発展を推進する原動力であることを意識するようになったことである
(秦、2008: 317)
。理論学習が中国学者に学術上の自覚をもたらし、
「中国学派」論の展開を
刺激したのだ。
次に、論争を通じて、中国学者の間で学術研究上の規範の遵守が促されるとともに、
「国
際関係理論」の普遍性と特殊性の性質に対する理解が共有されていった点である。多くの
中国の学者は国際関係理論を規定する「個人属性」
・
「時代属性」
・
「国家属性」の三者とも
直接に国益に奉仕しない部分、すなわち普遍性理論がありうると認めつつ、基本的に国際
関係理論と国益の間にある種の関連性があると見ている(王・但、2008: 350)。
第三に、米国製理論への過度の傾斜および国際関係理論における米国の覇権に対する反
省の意識が強まったことがある。社会科学院米国研究所所長王緝思は早くから若手研究者
の間で欧米の理論モデルが新たな「教条」になりつつあると警鐘を鳴らしていた(王、
1998: 307)
。その後、王逸舟も中国の国際政治学の「米国化」
・
「米国中心」の問題を反省し、
「中国理論」
・
「中国学派」の必要性を認識するようになった(王、1998a: 57–78)。
第四に、中国の台頭および中国政府のニーズである。2003 年に中国外交部副部長王毅は、
これまで先進国が自国の国益に奉仕する国際関係理論の建設に力を注いできたと指摘した
上で、
「中国も社会主義方向を堅持する大国として独自の国際関係理論と理論体系を必要と
58
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
しているのは明らかだ。これは外交工作のニーズであるが、中国国際関係学者の当然の責
務である」(王、2003: 5)と訴えた。その後、社会科学院や中央党校、国防大学、外交学院、
北京大学といった中国の代表的なシンクタンクの学者が「中国の平和的台頭」をテーマと
する学術シンポジウムに参加し、中国の平和的台頭戦略について議論を進めた(「『大国崛起
;
與中国的選択』筆談」
、2004: 51–63(+205–206)
「中国平和崛起的国際環境與国際策略」
、2004: 2–17)
。
第五に、非主流理論、とりわけ批判理論と英国学派が中国学者の脱米国中心的国際関係
理論の志向に大きな影響を与えた。批判理論が「中国学派」の形成に学理上の正当性を与
えたとすれば、英国学派は「中国学派」の創設に良き手本を提供したと考えられる。後述
するように、2000 年前後から「英国学派に学べ」というブームが起こっている。
したがって、イデオロギー色の強い「中国の特色のある国際関係理論」に代わって中立
的学術のイメージを表す「中国理論」
・
「中国学派」の構築が求められる原動力は、中国学
者の学術理論における主体意識および大国意識の自覚であることが明らかである。
2. 「中国学派」の構築を試みる諸アプローチ
ここでは、2004 年に開催された第三回全国国際関係理論研究会議の成果である『中国理
論の構築を呼び掛ける(国際関係:呼喚中国理論)』(郭、2005)と題する文献はもとより、関
連する昨今の議論を踏まえながら、
「中国理論」
・
「中国学派」を模索する複数のアプロー
チを概観することにしよう。
第一に、欧米の理論および研究方法を吸収し、それを応用するスタンスに立つアプロー
チである。科学的方法が理論の構築に決定的な役割を果たしており、中国学派の構築は科
学的方法=
「実証方法」に依拠しなければならないことを強調する(王勇、1994: 34–39; 閻、
2004: 17)
。このアプローチは、欧米の理論を応用・検証するケース・スタディを通じて、
理論の改善や理論のイノベーション(創新)を進めるというスタンスを採用し、ネオリベ
ラル制度論やコンストラクティヴィズム理論を応用した中国外交研究を多く生み出してい
る(郭、2005: 243–260; 方、2002、2002: 21–26(+109–11))。
第二に、正統派のマルクス主義理論的アプローチがある。このアプローチは、科学的方
法=
「実証方法」の限界とりわけその背後にある欧米中心主義的イデオロギーを強調し
(李、2004: 19–24)
、マルクス・レーニン主義理論の古典と中国指導者の国際政治思想と外交
思想こそが中国国際関係理論の基礎と思想の源泉になると主張する(傅、2005: 58–69; 張、
1998: 37–41; 楊、2003: 33–34)
。また、公正で平和な世界を打ち立てるには社会主義が最も良
い選択であることを理論的に国民に納得させるために、
「国際倫理と世界正義の倫理の研
究」に重点を置くべきであると主張する(李、2005: 37–44)。
第三に、中国の伝統政治文化思想を理論化するアプローチである。中国の歴史と独自の
伝統文化、政治思想、国際関係思想を資源に中国理論の構築と中国学派の形成を模索する
このアプローチの研究は増えており、テーマも国際秩序論(規範理論)、戦略文化、ソフト・
パワーなど多岐にわたる(兪、1996: 73–76; 門、2005: 308–318)。世界的に近代化と文明の多様
「中国学派」の登場 ?
59
性の課題が顕著になりつつあるなか、急速な発展を遂げてきた中国は非西洋の自己意識、
中華文明の正当性、中国の自主性を主張するようになり、近代以来批判されてきた歴史や
伝統文化も動員され再構築されるようになった。このアプローチでは、中国特有の概念・
「天下理論」
「和諧(世界)理論」
「和合学」―といったマクロの視点から世界秩
思想―
序理念を論じる規範理論が際立っている(夏、2007: 3–12; 張、2001)。
第四に、中国外交実践(外交思想)を理論化する立場からの取り組みである。北京大学
の葉自成をはじめとする学者は、春秋戦国時代の外交・外交思想に関する研究を進めてい
る(葉・龐、2001: 24–29; 葉、2003; 葉・王、2006: 113–132; 閻・徐、2009)。豊かな資源である古
代中国外交(外交思想)のケーススタディから新たな概念・ディスコースが生まれ、新た
5)
な国際関係理論の形成につながる可能性は高く、実際に、その成果も現れ始めている 。
また、このアプローチは近代以来の中国外交(外交思想)の歴史を独自の理論を形成する
ための豊富な資源と見る。昨今、中国の平和的台頭をいかに説明するかは重大なテーマと
なっている(趙・倪、2005: 273–275; 任、2005: 290–307)。また、中国外交政策研究が国際関係
理論に融合することにより国際関係理論に貢献できる、とハーバード大学の A. I. ジョンス
トンは指摘している(Johnston, 2006: 64–73)。
第五に、英国学派を参考にするアプローチである。近年中国学者の間で参考になる手本
6)
として英国学派が注目されている 。彼らは英国学派の特徴や米国と英国の国際関係理論
の違いを分析した上で、英国学派から学び得る点として、①独特な理論視野、②理論の核
心をなす問題の設定、③存在論と方法論における歴史研究、④国際関係に対する倫理的思
考などをあげ、さらに、台頭する「今日の中国」に関連した問題意識を確立する上でも、
参考になるという(石、2005: 9–16、2004: 1–24; 周、2005: 133–143)。
第六に、現代国際政治の実践と国際社会を対象とするアプローチである。グローバル化
をこれまでの歴史に例を見ない世界規模の社会的変遷のプロセスと見て、大きく変容する
国際社会に対する考察を中国の特色のある国際関係理論を生み出すチャンスととらえる
(蔡、2005: 200–211; 兪、2005: 1)
。世界秩序、グローバル・ガヴァナンス、価値規範をめぐる
構想、国際認識と秩序構想、グローバル政治社会学など様々な論点に及んでいる。
良く言えば百家争鳴状態にあるこれらのアプローチからして、
「中国学派」の構築はま
だ胎動段階にあることが見て取れる。
「国際社会」というキーコンセプトや古典的アプロー
チといった明確な特徴を有するとされる「英国学派」を基準にすれば、
「中国学派」は明
確な方向性さえ見えてこないと評されるかもしれない。しかし、実際、非常に限られた範
囲・メンバーで発展し継承されてきた英国学派でさえ、この学派の特徴や学派を築いた中
心メンバーの理論や研究方法をめぐって学派内部で意見の違いや対立が見られる
(Suganami, 2003: 253–255; Little, 2000: 395)
。英国学派に比べ、はるかに広い範囲・多くのメン
バー―全国に広がる国際関係学や他の分野の学者―から成る「中国学派」が、多様な
視角・資源・アプローチを内包するだろうことは驚くべきことではない。むしろ、確立途
上にある「中国学派」は複数の流派から構成される可能性が大きいと考えられる。
60
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
「中国学派」の議論を促進し支えているのは中国の台頭という現実であり、中国の主体・
視角・資源に拠った新しい理論が構築される可能性は大いにあると思われる。そして、中
国の主体性・資源を中核とする第三、第四のアプローチは「中国学派」の主要な方向とな
る可能性がある。この 2 つのアプローチは補完し合う関係にあるだけでなく、さらに欧米
の理論および研究方法や英国学派のアプローチ等を吸収・応用することも考えられる。
次節では、中国の台頭を「中国理論」の核心となる研究問題に据え、
「中国学派」の構
「天下」
築に精力的に取り込んできた秦亜青の議論、そして中国の古代政治哲学理論―
理論を再解釈し世界秩序(制度)の理念を提示した哲学者趙汀陽の議論に焦点を当て、昨
今の「中国学派」構築の最新動向を跡づける。
Ⅲ 「中国学派」の構築―秦亜青と趙汀陽の議論を中心に
1. 「中国学派」の核心理論問題の提唱―秦亜青の議論
秦は科学哲学者ラカトシュ(Imre Lakatos)の科学的研究プログラムの方法論に基づき、
中国学派の理論に連なる核心問題(core problematic)を明確化する必要性を強調する。まず、
秦は、コックスが批判理論で指摘した問題意識が、アクターおよび文化・言語的概念によ
り社会的に構築される、異なる「表象体系」によって表出されるため、異なるパースペク
ティブをもつと主張する(秦、2005: 167–170)。すなわち、秦は理論の核心問題が時間・空
間・文化的特徴と関係しているとの立場を採用し、中国パースペクティブ、中国の理論、
ひいては中国学派の形成が可能だと強調するのだ。
秦は、社会理論が本質的かつ必然的に地域文化に依拠するものであると強調すると同時
に、社会理論が普遍的意義を有することも認めている。また、形成されるであろう「中国
学派」の特徴として、中国に由来する地域文化を有することと、発展過程において普遍的
意義を獲得することができること、という 2 つをあげている(秦、2006: 10)。
「中国
理論が研究課題(research question)から生まれるというスタンスをとる秦亜青は、
学派」を構築する上で、多くの中国学者が強調している思想の淵源や国際政治に対する思
考様式の影響よりむしろ中核理論をつくり出す研究課題の意義をより強く意識し、中国理
論のハードコア(hard core)にあたるものを生み出すことが喫緊の課題であると考える。
そこで秦は、まず、独創的な理論をつくり上げるために理論のコアとなる研究課題が満
たすべき 3 つの条件―特有性、すなわちあるアクターがある歴史発展段階において直面
する実際問題であること、一般的な理論命題に導かれる学理上の意義があること、人類発
展のニーズと進歩の観念を代表するという将来志向の目的を有すること―を提示する。
これを踏まえて、中国の国際関係理論のオリジナリティを生み出す核心問題として、
「台
頭する中国と国際システム・国際社会との関係」を提起する。この問題は一世紀以上にわ
たって中国を悩ませ続けてきた基本的なアイデンティティにからみ、新たな理論の形成に
「中国学派」の登場 ?
61
つながると秦は指摘する(Qin, 2007: 326–335)。
さらに、秦はその核心問題を、国際社会への中国の平和的融合という課題に結び付ける。
すなわち、
「台頭する世界的社会主義大国」の平和的社会化のプロセスを理論化すること
である。この核心問題の研究については、秦は国際システムの構造とプロセス、国内構造
とプロセス、集団的アイデンティティ(collective identity)の形成という三方面を軸に研究を
展開する構想をも指摘している。
また、中国学派の依拠すべき中国独自の思想と実践の資源として、儒家文化的な天下観
および朝貢システムの実践、近代中国の主権思想および中国の革命実践、中国の改革開放
思想および国際社会への融合の実践があげられている。
秦のアプローチは、いかに中国本土の文化・思想・実践を資源として動員し、中国と国
際社会との関係(中国がいかに平和的に国際社会に融合するか)という中心問題を中核に据え
て普遍性のある中国理論、ひいては中国学派を構築するかであり、理論に関するスタンス
は問題解決型である。
2. 中国の政治哲学に基づく世界政治制度構想―趙汀陽の「天下」理論
趙汀陽は政治哲学の視点から、今日の世界に矛盾・紛争をもたらす根本的原因である
「国民国家 – 国際」認識枠組みを批判した上で、最大かつ最高の政治的単位である「世界」
=
「天下」の存在の正当性を謳った中国式世界政治理論=
「天下」理論を提示する(趙、2005)。
西洋の歴史経験と政治哲学に基づく「国民国家 – 国際」認識枠組みでは、個々のユニッ
ト=国家の利益すなわち国益の追求が至上視され、
「世界」は単なる争奪される生存空間
にすぎない。このような世界意識を欠くシステムと思想を生み出した根本的な原因は、近
「敵意識」
・
「対立意識」
・
「排除意識」にあると趙は考
代西洋政治哲学の根本的な欠陥―
える。敵をつくるホッブズ的文化、ライバルをつくるロック的文化はもちろん、
「永久平
和論」を主張するカントの思想でさえ、国際法ないし国際社会に加わるべき共同体の資格
を「文明国=法治国」に限定し、他の共同体を排除しただけでなく、友人と同盟を結ぶ意
識が働いており、同盟を結ばない他者が潜在的敵とされる。すなわち、カント思想を含む
「西洋の政治思想の根底にあるのは自我と、疎外された他者であり、そこにあるのは分裂
した世界であり、決して他者を含む全世界的なコスモポリタンではないのである」(押村、
2010: 92)
。要するに、近代西洋政治哲学は国益のための「世界に関する哲学」であり、普
遍的利益を代表する「世界のための哲学」ではないのである。
「世界に関する哲学」およ
びそれに基づく世界観は世界自身(world qua the world)に対して無知か無関心であるため、
知識論および倫理学上の正当性を欠いており、世界的な問題を解決する能力をもちあわせ
ていないという。
そこで趙は、
「世界のための哲学」として中国政治哲学の基礎である「天下」理論を提
示する。趙は「天下」理論を西洋にない「敵を友に化する」第四タイプの文化とし、この
「天下」理論を「排除のない世界」
「完全な政治的世界」を導く理論の基盤とする。趙によ
62
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
れば、中国式の政治的世界観―
「天下観」は、物理的世界(世界全体の大地)、心理的世界
(世界全体の人民・民意)
、政治的世界(世界制度)という世界のすべてを含むものであり、そ
こに受け入れられない他者や敵、異教徒は存在しないという(趙、2005: 123–126)。天下理
論の根本的な創意は「無外(外部たる他者なし)」の原則―世界全体を内部と見なし、調
和のできない「外部」を解消することにあると趙は強調する。国家ではなく、
「天下」=世
界を最も基本的な政治概念および政治原則とし、
「国家 – 国際 – 世界」の認識枠組みを提
供する「天下」理論は、国家主義的ではなく世界主義に基づく政治理解の方法を構築する
「世界理論」として、完全な政治理論・正当な世界観として、グローバル化した世界的問
題の解決に資すると趙は主張する。
おわりに
本稿は、1978 年以降の中国における国際関係理論の受容過程および中国学者の国際政治
観の変化を考察した上で、中国学者の間で展開された「中国の特色のある国際関係理論」
や「中国学派」をめぐる論争、
「中国学派」を構築するために模索される諸アプローチを
整理し、
「中国学派」の構築に取り組む代表的な学者の議論を見てきた。
1980 年代以降、中国の改革開放期の国内政治による後押しを受け、膨大な翻訳書の出版、
国際関係研究雑誌の理論転向、米欧留学組の台頭により、米国の国際関係理論を中心とす
る欧米製国際関係理論の受容は急速に進められてきた。その結果、正統派のマルクス主義
理論に代わって欧米の国際関係理論が主流となり、中国における国際政治認識の知的基礎
が「欧米化」していた。
さらに、1990 年代から、グローバル化の進行と国際情勢の変容の現実を受け、学術研究
の対象としてタブー視されてきた「国益」や「主権」といった国際政治の重要な概念をは
じめ、広範にわたる様々なテーマが中国学者の研究対象となるにつれ、学者の国際政治観
は大きく変容していった。1980 年代、1990 年代、そして 2000 年以降にそれぞれ興隆した
リアリズム、リベラル制度論、コンストラクティヴィズムは中国の国際関係理論研究の 8
割近くを占め、中国学者の国益観・主権観・世界観の枠組みを提供することとなった。
一方、1980 年代後半から、国際関係学学科の発展とそれにともなう国際関係理論の教授
内容を設定する課題に直面した中国人学者の間で「中国の特色のある理論」をめぐる論争
が起こるが、欧米製理論学習の深化や、米国理論への偏りおよびその支配的地位に対する
反省、英国学派と批判理論に対する注目、中国の台頭にともなう現実的ニーズといった複
合的諸要因によって、学術の客観性に努める姿勢を表す「中国学派」の構築が主流のディ
スコースに押し上げられた。そして、中国の伝統文化思想の再構築、中国外交(外交思想)
の理論化を含む「中国学派」を構築する複数のアプローチが模索されている。なかでも、
中国の平和的台頭と国際社会の関係を「中国理論」の核心問題に位置付ける秦亜青の研究
「中国学派」の登場 ?
63
や、中国古代の世界観―
「天下観」をベースに中国式世界秩序理論=
「天下理論」を提示
した趙汀陽の議論は代表的と言える。
だが、客観的に見て、国際関係理論の「中国学派」はまだ萌芽状態にあると言わざるを
得ない。しかし、米国製理論、批判理論および英国学派の理論を導入した結果、中国学者
は独創的な知や理論の生産者になるべく自らの主体性意識を強化したことは重要であ
7)
る 。米国製の主流理論を中心とする欧米製理論研究が中国における国際関係理論研究に
おいて支配的地位を占めるようになったことから、
「中国の国際関係理論界は米国および
その他の欧州国家の国際関係理論の競馬場と『植民地』となってしまった」と現状を強く
「中国学派」を構築し、欧米製理論を相対化さ
批判・反省する声が現れた(張、2005: 183)。
8)
せる意識が強まった 。言わば、受容が達成され、構築が新たな課題となった。自分の理
論と学派を構築するにあたって、中国学者は、英国のほか、ロシア、ドイツ、フランス、
印度における国際関係理論の発展や、ポストモダン理論の可能性にも注目している(熊、
;厳・陳、2009: 59–65(+5)
2009: 52–58(+4–5)
)
。また、
「国際政治理論は永遠に大国の理論で
ある」(王、1998b: 4)という王逸舟の言葉はまさに今日の中国学者の大国意識の自覚を表
している。したがって、
「中国学派」とは中国学者の主体意識および大国意識の自覚によっ
て支えられ、非西洋地域の歴史・文化・国際的地位を反映するパースペクティブを求める
ものと言える。
中国学者の議論にある「台頭する大国中国と転換期にある世界」という中国視角、ある
いは共通の問題意識からすれば、中国と世界との関係、国際秩序・世界秩序構想が台頭す
る大国中国のパースペクティブの中心にあるように思われる。数千年に及ぶ中華帝国の歴
史文化、近代西洋に敗れて国際システムのどん底に落ち、システムの革命者を経て、世界
に開国・融合してきたという中国の独特な言語・文明・文化・歴史の資源を活かせば、現
存の国際関係理論に貢献できるだけでなく、非西洋的視角から「もう 1 つ」の国際関係理
論を導き出せるかもしれない。当然のことではあるが、
「中国学派」
・
「中国理論」の形成
は、国際関係理論の生産に立ち遅れを見せる中国学者による独創的な研究にかかっている
が、同時にそれは国際学術共同体に認められることによって可能となるものであろう。
「中国理論・中国学派」を求める動きは、グローバル化の深化する世界という時空間に、
世界的な大国として台頭しつつある中国が、自分のアイデンティティを再構築し世界にお
ける新しい役割を模索していることを意味する。
「今日の中国と世界との関係には歴史的
変化が生じており、中国の前途や運命と世界の前途や運命の結びつきがかつてないほど密
接なものとなった」(『人民日報』、2007 年 10 月 25 日)。戦略としてだけでなく規範としても
多国間主義を主張している中国は現存の国際秩序の現状維持者あるいは漸進的改良主義者
と言える(劉、2004; 秦、2003; Johnston, 2008; Shirk, 2007)が、いまだに国際社会の「普通」の
一員として見られておらず、時には異質者のイメージと重ねて認識されるため、中国の世
界秩序構想とグローバルな役割が制約されている。その原因は中国自身にもあるのだと中
国学者は深刻に受け止め、世界秩序を構想すると同時に中国の自画像をも描き始めている。
64
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
王逸舟らのようなリベラリストだけでなく、
「民族主義者」と言われる学者も、国内の
政治改革と社会の進歩が中国の台頭の重要な側面であると認識している(「『大国崛起與中国
;
的選択』筆談」
、2004: 51–63(+205–206)
「中国平和崛起的国際環境與国際策略」
、2004: 2–17)
。国
内体制の進歩、国内社会の健全な発展は国家の拠って立つ基盤であり、国益そのものであ
り、外交と世界秩序構想を支える基礎であるという共通認識を中国の学者は共有している
ように思われる。南開大学(当時)の龐中英は、グローバルなガヴァナンスに大きな役割
を果たしたいのであれば、価値体系の転換期にある中国は、世界と共有できる価値を再構
築しなければならないと強調する(龐、2006: 7–13(+4))。台頭する中国は経済・軍事といっ
た物質的側面だけでなく、政治、社会、文化、知、価値体系といった精神的側面をも含む
全面的発展を進め、国際社会の基本的観念・価値を共有する一員となる必要があると言う
のである。新しいアイデンティティを模索し転換期にある中国は新しい国際政治思想を求
める世界と歩みを同じくしている。
(注)
1)日本国際政治学会の英文雑誌 International Relations of the Asia-Pacific は議論の陣地を提供している。本
雑誌の 2007 年(vol. 7, No. 3)
、2011 年(vol. 11, No. 1 and No. 2)を参照されたい。
2)本稿が直接に取り扱わない中国における国際関係学の歴史については、林(2001: 29–49)のほか、王・
但(2008: 7–107)
、Shambaugh(2011: 339–372)をも参照されたい。
3)余(2008: 208–239)
、蔡(2008: 266–305)
。なお、1990 年代以降の中国における国際関係理論の展開に
ついては、それを詳細に紹介する王・袁(2006)
、王(2008)を参照されたい。
4)後の議論からもわかるように「中国の特色のある国際関係理論」
、
「中国視角」
、
「中国学派」はそれぞれ
異なる性質を有するが、
「中国化」という言葉で一括りにし、中国独自の理論形成の動き全体に光を当てる。
5)たとえば、許田波(Victoria Tin-bor Hui, 2005)は、春秋戦国時代の中国は分裂から統一の秦帝国に向かっ
たのに対し、なぜ欧州は中世から近代にかけて分裂した多国間システムを保っていたのかという問いに
説明を与えるべく、この 2 つの国際システムにおける戦争と国家の形成に関する比較研究を行い、新た
な「世界政治の動態理論(A Dynamic Theory of World Politics)
」を打ち出した。
6)房(2001: 18–23)
、任(2003: 70–71)
、さらに『欧洲研究』雑誌の 2004 年第 4 期、2005 年第 1 期・第 4
期は英国学派研究の特集(計 10 本の論文)を掲載している。また、2003 ∼ 2004 年、E. H. カー、M. ワイト、
H. ブルなど英国学派の代表者の著作は翻訳・出版された。
7)王(2006: 1)
。世界システムの知の構造が「中心部―生産者」と「周辺部―消費者」から成るもの
であると見て、
「中国学派」の構築は知の消費者から生産者へ転換することを意味するという北京大学の
王正毅の指摘は代表的である。もっとも「中国理論・中国学派」の構築に賛同する学者は、自発的に国
益に奉仕する民族主義者、財政的に政府による制約を受けるため政府のニーズに協力する政府系シンク
タンクの立場、知の生産者を目指す中立的アカデミズムのスタンスなどのいくつかのグループに分けら
れるが、本稿は基本的に中立的アカデミズムのスタンスに重点に置いて議論をしてきた。学術が政治に
従属させられた歴史がある中国でも、鄧小平南巡講話(1992 年)以後、
「宣伝は規律があり、研究はタブー
(禁区)なし」が規則となっており、政府の政策や指導者の認識に対する批判さえ許容されるほど、学術
研究は大きな自由を保っている。転換期にある国内政治社会のあり方を批判する北京大学の賀衛方、夏
業良などといった「公共知識人」
(
「批判的知識人」
)はその代表であるが、外交についても、中国政府・
指導者の観点と違った認識を示し、さらにそれを批判する学者も現れた。たとえば、張睿壮論文は今日
の中国外交哲学思想の理想主義的性格を批判した。張(2001: 20–30、2007: 81–88)
。
8)「中国学派」生成の可能性を必然的と見る今日の中国国際関係学学界の共通認識は、中国学者の自分の
理論のニーズの正当性に対する過度な単純化および自己中心的理解を反映しており、中国の国際関係理
論の孤立を招くと同時に国際関係理論のさらなる分裂をもたらす恐れがあるという極めて冷静でかつ稀
な指摘も見られる。魯(2010: 101–118)
。
「中国学派」の登場 ?
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[研究ノート]
戦間期における日本の「ユーラシア政策」と
三国同盟
「回教政策」
・反ソ戦略の視点から
シナン・レヴェント
はじめに
20 世紀において「ユーラシア」とは単なるヨーロッパとアジア両大陸をつなぐ地域名称
ではなく、政治的・民族的な 1 つの大共同体の名称としての意味合いを有するようになる。
アンダーソンの指摘する「想像の共同体」が一国・一地域を想定しているのに対して、
「ユーラシア」はその広大な版図ゆえに、様々な民族・国家が、自己中心的に「ユーラシア」
像を描いてきた。歴史的に見てこの「ユーラシア」意識の高揚が最も顕著に現れたのは 20
世紀初頭以降のロシアであった。新興国家として遅れた帝国主義に目覚めたロシアでは、
20 世紀初頭頃より「ユーラシア」における巨大覇権国家としてのロシアを夢見る様々な思
想家たちによって「ユーラシア主義」が唱えられるようになった。その担い手は両大戦期、
とりわけ 1917 年のロシア革命からヨーロッパ方面に逃れたロシア知識人・亡命者たちで
あった。彼らの唱える「ユーラシア主義」とはロシアを、ヨーロッパでもアジアでもなく、
1)
その双方を架橋する独自の文化圏たる 「ユーラシア」とした反革命主義的な思想であっ
た(Mirsky, 1927/1928: 311–320; Riasanovsky, 1967: 39–72; 浜、2010)。
一方、同時期において日本においてもアジア主義の高揚に基づき、日本を盟主とする
「ユーラシア」像を唱える動きが現れだした。こうした日本の「ユーラシア主義」を初め
て提唱したのは嶋野三郎(1893 ∼ 1982)である(Hama, 3/2010: 227–243)。嶋野は、南満州鉄
道株式会社調査部の「ロシア通」として知られ、大アジア主義の結社である猶存社と行地
社の構成員であり、北一輝や大川周明とも親交があった(富田、2010: 310–315; 満鉄会・嶋野
三郎伝記刊行会編、1984)
。嶋野はソ連の多民族性を弱点として捉えており、反革命亡命者
の立場からソ連と共産主義を批判していた。嶋野はシベリアおよび東北中国で日本軍と白
系ロシア人との間で連絡作業も行っており、こうした反革命者、あるいはその思想を日本
の満蒙政策に利用するべきものとして見ていた。すなわち早い段階で嶋野は、ロシアの
「ユーラシア主義」に対抗して、日本の「ユーラシア主義」を模索していたのである。
本稿は、20 世紀において様々な「ユーラシア主義」が交錯するなかにあって、戦間期に
おいて日本がロシアを意識・対抗しながら推進していった「ユーラシア政策」に関して、
?????
69
主に中央ユーラシア地域である蒙疆・中央アジアを
2)
舞台にして展開した工作および同工
作の三国同盟との関連を取り上げながら、その実態解明を試みるものである。
筆者が三国同盟に注目するのは、戦間期のブロック化された国際社会において、日本と
同じ枢軸側を構成するドイツとの関係が日本の「ユーラシア政策」展開上において重要で
あったからである。1933 年が戦前・中期の国際関係における大きな転回点であったことは
周知の通りである。すなわち日本とドイツはともに国際連盟から脱退し、ユーラシア大陸
において「日・独盟主論」を基軸とする世界新秩序の形成に向けての第一歩も踏み出した。
1936 年 11 月には「日独防共協定」
、ついで 1940 年 9 月にはイタリアをも加えて「日独伊
軍事・三国同盟」が結ばれ、
「ベルサイユ・ワシントン体制」を打破するための協力体制
が枢軸国の政府・軍部の要人、またマス・メディアによって唱えられるようになった。こ
の過程において、ドイツの対コーカサス戦略およびイタリアの地中海における勢力拡張と
連携を図る上で、日本において、本稿で取り上げる反ソ的な「ユーラシア政策」が重要課
題として浮上してきたのである。
ロシア革命の後、ロシア領内のムスリム(=イスラーム教徒)たちは、中国東北を経由し
て日本に流入し始めた。この状況のなかで 1931 年の満州事変以降、善隣協会をはじめ日
本のアジア主義者たちは、こうした在日ムスリムを利用して自国本位なイスラーム政策、
すなわち同時代表現でいうところの「回教政策」を実行し始めた。この政策の中で、クル
バンガリー、イスハキ、アブデュルレシト・イブラヒムなどの在日ムスリム指導者たちを
用いて、華北やソ連領内におけるムスリムに対する宣伝工作が展開された。すなわち日本
のアジア主義は中央アジアに至るまでの勢力拡張を目指したのである。こうしたイスラー
ム政策と連動して、1937 年に駐独日本大使館付武官を通じての対ソ諜報活動が本格化され
た。さらには、日独伊三国同盟を背景に 1940 年代初頭には「中央アジア横断鉄道論」
、す
なわち日本とベルリンとを陸路で結ぶ鉄道の建設構想が浮上してきた。
だが第二次世界大戦の敗戦により、日独伊主導の世界新秩序は実現せず、日本の「ユー
ラシア政策」も従前まで等閑視されてきた。しかし最近になって日本ばかりでなく各国の
研究者の資料発掘・検証に基づく諸研究により、日本の「ユーラシア政策」の実態が解明
されつつある。中国における西北研究やドイツにおけるナチス政権下の対外政策研究、日
本においても松浦正孝により「広域アジア主義」として日本・中国・ロシアをつなぐ
「ネットワーク論」が提示されている(松浦、2010)。さらには「謀略史観」に基づくノンフィ
クションと分類される一般的著述においても取り上げられるに至った(関岡、2010)。こう
したなか本稿は学術研究として先行研究、とりわけ松浦の詳細なるネットワーク論の学恩
を受けつつ、諸資料の探索・調査に基づき、戦間期とりわけ 1930 年代から敗戦に至るま
での「回教政策」および「反ソ戦略および活動」を検証しながら、日本の「ユーラシア政
策」の全体像を提示するものである。
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アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
Ⅰ 「回教政策」
1. 「回教政策」の起点
日本の対イスラーム世界ないしは対ムスリム(=イスラーム教徒)世界政策、すなわち同
時代表現である「回教政策」の起源は日露戦争後・明治末期に遡るものである。1909 年 2
月にイスラーム運動指導者アブデュルレシト・イブラヒム(1857 ∼ 1944)が来日したこと、
さらに政財界や国枠主義の要人と会見したことは、戦間期の日本におけるイスラーム政策
の起点となった。イブラヒムの来日によって日本社会におけるイスラーム関心が高まり、
当時の軍・官・民の指導者がイスラーム世界をも対外拡張理念の射程に入れるようになっ
た。イブラヒムは滞在中に玄洋社の頭山満、黒龍会の内田良平、政治家の犬養毅と河野広
中、さらにアジア主義者として知られる中野常太郎(天心)および退役軍人の大原武慶な
3)
どに会い(小松、2008: 75–93)、テュルク系ムスリム を圧迫するロシアを打倒するために
日本の援助を求め、イブラヒムのこうした反ロシア的な言動は日本を「東亜の盟主」とし
てアジア民族の団結を目指す日本の指導者をさらに鼓舞した(東洋大学アジア文化研究所、
2008: 4)
(日中善隣を唱えた国家主義の民間団体、
。その結果、1909 年 6 月 18 日に「東亜同文会」
1898 年結成)の大原と『大東京』新聞記者の中野常太郎が中心となる「亜細亜義会」が設
立された。同会は中野が以前から個人で刊行していた『大東京』新聞を『大東』と改称し、
その機関誌とし、宣伝活動にも力を入れたとされる(三沢、2002: 60–63; 東洋大学アジア文化
研究所・アジア地域研究センター、2008)
。
亜細亜義会の結成と同時期に在東京モスク建設も計画された。日本滞在中にイブラヒム
は日本を盟主に大アジアを建設するのにムスリムの存在が欠かせないことを力説した。
「中国とインドの人口の三分の一、東南アジアのマレー半島、蘭領東インドの住民の殆ど
が回教徒であり、アジア民族の連帯・統一を図るのに対ムスリム政策が不可欠であり、そ
のためにもモスクを建てる必要がある」と主張したが(イブラヒム、1991: 264–266)、この考
えを歓迎した大原と中野が東京でモスクを建てるように動き出したといわれる。しかし、
この際には東京モスク建設計画は挫折し建設には約 30 年を要した。
こうした日本とイスラーム世界の関係は実際には相互の目的意識が異なるものの、表面
的な利害の一致を前提に展開したが、その関係は長く継続せず、1911 年の辛亥革命後「亜
細亜義会」も「大亜義会」と改称され、本部を東北中国の奉天に移した。その理由として
は、イブラヒムの離日と当時の日本外交が朝鮮併合問題、あるいは辛亥革命後の対中政策
といった東アジア問題に忙殺されていたことがあげられよう。しかしながら、イブラヒム
が日本の指導層にムスリムの反ロシア謀略的な意義を視野に入れさせた結果、イスラーム
圏がいずれ日本の対外拡張主義の一環をなす可能性を齎したことは特筆すべきである。
戦間期における日本の「ユーラシア政策」と三国同盟
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2. 在日テュルク系ムスリム・コミュニティの形成
こうした明治末期におけるイスラーム世界ないしはムスリム(=イスラーム教徒)世界へ
の短期的な日本の関心は、シベリア出兵の際に新たに高揚することとなった。周知のよう
に、1918 年 8 月から 1922 年 10 月まで日本軍は「シベリア出兵」を展開した。1917 年のロ
シア革命後、ボルシェヴィキ派の圧迫から逃れたメンシェヴィキ派たるテュルク系ムスリ
ムは、この過程で日本軍と接触したのである。このなかで参謀本部付陸軍大尉としてシベ
リアへ従軍していた神田正種は、彼らを日本へと導いた(小村、1988: 316)。神田の肝煎り
で 1920 年 11 月に 20 人のテュルク系ムスリムが初めて日本に到来した。彼らの指導者たる
4)
前述のムハンマド・アブテュルハイ・クルバンガリー(1889 ∼ 1972) は東京において政財
界・軍部・アジア主義活動家の様々な要人たちと面会し、テュルク系諸民族の独立の支援
を訴えた。こうして東京などを中心に在日テュルク系ムスリム・コミュニティが形成され
ることになった。テュルク系ムスリムは、1920 年代後半から東京において「東京回教団」
を結成し、さらに「東京回教学校」を設けて同学校内に付設された東京回教印刷所におい
て、
『ヤポン・モフビリー』(後に『ヤニ・ヤポン・モフビリー』と改称)というタタール語雑
誌やコーランなどの様々な書籍を刊行やそうした刊行物のイスラーム圏諸国に寄贈する動
きを見せていた。こうした活動の中核を担ったのは、1938 年まではクルバンガリーであっ
5)
た。クルバンガリーは来日直後の 1922 年に、
「大亜細亜協会」 の「ツラン会」発会式に
おける講演で、テュルク系ムスリムの対日接近の理由としては、日本を大国とし、日本の
援助に頼りつつロシア革命以後中央ユーラシア大陸に誕生した様々な自治政府の独立を図
ることであると述べている(クルバンガリエフ、1922: 19)。その一方、1933 年に在独テュル
ク民族主義者たるアヤズ・イスハキ(1878 ∼ 1954)が極東テュルク系ムスリム・コミュニ
ティの組織化、および反ソ運動への支持を求めることを目的にして来日した。イスハキは
1919 年にソ連から亡命し、その後満州、トルコ共和国、ドイツ、フランス、ポーランド、
フィンランドなどのヨーロッパ各地を経回り、筆の力によって外部からテュルク・タター
ル民族解放工作、あるいは反ソ・反共活動に従事していた(イスハキ、1934: 98)。イスハキ
が満州事変以降、日本軍部による大陸進出を反ソ・反共的な国際社会の団結にむかう機会
をうかがっていた(松長、1999)。
他方、日本の外務省をはじめ政府および陸・海軍は、日中が全面戦争に突入し日独伊防
共協定が結ばれた 1937 年頃より、ムスリムの存在を重要視してきた。それまでイスラー
ム世界に対する関心が低かった外務省は、対イスラーム政策に本格的に力を入れ始め、民
間アジア主義者らと協力しながら外務省主宰で「回教及び猶太問題委員会」という秘密機
関を設けた。同委員会をもって外・陸・海の三省と民間結社が共同で「回教政策」を立案
するに至った。
上記のようなテュルク系ムスリム世界との関係を踏まえて展開された日本の「回教政
策」において、1938 年は最も重要な年であり、
「日本のイスラーム元年」(関岡、2010: 119–
72
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
122)ともいわれる。この「回教政策」に基づき、先ずクルバンガリーに代わって、日本内
外のムスリムに支持されており、1933 年に再来日したアブデュルレシト・イブラヒムが
1938 年に在日ムスリム・コミュニティの指導者に据えられた。同時にそれまで在京ムスリ
ムを束ねてきた「東京回教団」は解消され、
「東京イスラム教団」が設立された。そのほか、
反ソ・親独伊路線の延長線上に、東京モスク(東京回教礼拝堂)が建設され、イブラヒムが
「日本が如
同モスクのイマーム(宗教指導者)とされ、同年 5 月にその開堂式が行われた。
何に回教に対し理解あるかを全世界に散在する回教徒に示し益々日本と回教徒の接近親善
を図る為め」と称して同モスクが建てられたが(内務省警保局、1980: 150)、この開堂式典に
日本政府・財界・民間運動結社を代表として各界の有力者が参列した(小村、1988: 426–
427)
。さらに 1938 年 9 月に前内閣総理大臣で退役陸軍大将の林銑十郎(1876 ∼ 1943)を会
長に「大日本回教協会」が設立されたが、林は現役時代から中近東に在住するムスリムへ
の関心が高く、満蒙政策の延長線として新疆を中心とする西北中国、さらには中央アジア
のテュルク系イスラーム世界までを視野に入れる傾向があった。林はスラヴ民族(ロシア)・
漢民族(中国)に対抗する北進論的な側面が強かったものの(松浦、2010: 367)、1926 年に
東京湾要塞司令官(少将) を勤めていた時代に初めて知り合ったモンゴル通の笹目恒雄
6)
(1902 ∼ 1997) に「西北支那の回教徒について調査する考えはないか」と尋ねたといわれ
る(笹目、1991b: 31)。初対面のときのこの話が記憶に残った笹目はその後、杉並区高円寺
にある林の自宅によく訪問した。2 人の会合においてはほとんどムスリム・イスラーム圏
の話が中心となり、林が蒙古地域と同じく西北中国においても笹目の活動力を借りるのを
期待していたようである(笹目、1991b: 32–33)。
周知のように第一次世界大戦後の世界新秩序形成過程において、アジア諸民族の中で
「大日本帝国」のみが列強に伍していたことが他のアジア民族の指導部に「頼れる同胞民
族の大国」の期待を与えた。テュルク系ムスリム少数民族の上記のような指導者たちは、
日本は全世界のテュルク系ムスリムに属する兄弟国であり、明治維新以降飛躍的に発展し
た日本が短い間にアジアの中からの唯一列強の 1 つとなり、アジア諸民族の最も恐ろしい
敵であるロシアと中国を抑えられる国家であると考えていた。こうした日本の力を借り、
ソ連および中国の内政を不安定化させ、あるいは国内混乱を齎す可能性があることから、
両国により弾圧されているテュルク系ムスリムの独立が可能となると想定されていたと理
解される。
その一方、日本側にとって明治末期から関心があったロシアの極東領土への侵入、さら
に中央ユーラシア大陸への勢力拡大のためにこれらの少数民族は最も相応しい存在であっ
た。結局両者は共通の敵たるソ連を対象に相互利害に基づく接近を図ったのである。こう
した関係において、テュルク系ムスリムは日本が盟主に立つことを許容し、その力に依存
する関係を選択した。周辺においてオスマン帝国だけでは充分な対抗勢力になれず、多数の
ムスリムを包容するインドは対英独立運動に腐心してテュルク系ムスリムを省みることはな
かった。同時代の世界的戦略的構造から日本という選択肢は極めて現実的なものであった。
戦間期における日本の「ユーラシア政策」と三国同盟
73
こうしてユーラシア大陸におけるムスリムの存在は、日本にとって次第に重要なものと
なり、そのために旧ロシア領出身のテュルク系ムスリム知識人たる著名なイブラヒムの国
際的な人望が必要とされた。すなわち日本は特に西アジアの「回教圏」においてイスラー
ム活動家として知名度の高いイブラヒムを介して同世界に日本の存在を宣伝し、そうした
イスラーム・ネットワークを利用しながらイスラーム世界に「アジア主義」さらにはそれ
と表裏一体をなす「天皇主義」を広めながら、ムスリムの抱く「反ロシア」感情を日本傘
7)
下に取りこむことを目論んでいたと判断される 。
3. 西北イスラーム国家論
上記のように日本のムスリムへの関心を一層高めたのは、日本軍の中国大陸進出に際し
て占領した地域にムスリムが数多く住んでおり、日本の進出政策にとって彼らが重要であ
ることに気付いたことによるものである。こうして、
「回教政策」は本格化して、国内に
留まらず、中国西北部において日本傀儡のイスラーム自治国家の設立まで立案されるに
至った。関東軍は 1932 年に満州国を建国してから、1933 年に内モンゴル東部の熱河省を
占領し(江口、1993: 253–254)、その後、国際的非難を考慮し、1937 年まではさらなる西漸
を控えた。従来行ってきた軍事侵略の代わりに政治工作を行い、内面からの浸透を進める
戦略を遂行し始めた。そのために満州・熱河省に特務機関を設立し、これらを通じて対
外・内蒙古工作活動を行い、蒙古人を日本側に懐柔してソ連と中国共産党、あるいは国民
党の影響力を阻止する活動を進めていた。
こうした特務機関の目的は、中国およびソ連の勢力を弱体化させる親日自治政権を各地
に建設し、日本の勢力を華北全体へ拡大することにあった。1937 年 7 月に盧溝橋事件が勃
発し、関東軍は張家口、大同、包頭、綏遠を次々と支配した。その後、特務機関の工作に
よって張家口に「察南自治政府」
、大同に「普北自治政府」
、厚和に「蒙古聯盟自治政府」
が設立された。続いて、これらの 3 政権の連絡・調整機関として先ず「蒙彊聯合委員会」
が結成され、さらに 1939 年には上記の 3 政権を統轄する独立政権として「蒙古聯合自治
政府」が成立した(坂本、2008: 39–41)。この統治体制は「蒙彊政権」とも称され、本部を
張家口に置き、形式的に徳王(1902 ∼ 1966)を首班とした統一自治政府であった(ドムチョ
クドンロプ、1994)が、満州国の次、日本軍が築いた第二の傀儡政府でもあった。蒙彊政権
の領土は、南部の長城から北の外蒙古共和国まで、東の満州国から西の寧夏までの一帯で
あった(新保、2000: 1)。これらの地域にはモンゴル人と共に 8 万のムスリムが住んでおり、
これを重視した日本軍が対蒙古族政策と共に積極的に対ムスリム工作も行い始めた。1935
年の内蒙古地域に対する政策の中で、
「回教徒懐柔の為其習俗を審かにし、先ず彼等の好
感を求め、更に所要の援助を与へ、遂に満蒙回教徒の団結を促進し、以て其団体的勢力を
利用し得る如くを努むるものとす」と述べられているが、実際に 1937 年の盧溝橋事件に
てさらに西漸し、西北中国に在住する回教徒もその支配下に置く施策が取られた。これを
裏付ける 2 つの展開がある。第一は 1937 年 12 月に組織された「西北回教民族文化協会」
74
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
である。第二はその翌年の 1938 年末に結成された「西北回教聯合会」そのものである。
両組織とも満州事変以降の大陸進出を徐々に西漸させ、内蒙古の西部まで至った軍事戦略
をさらに中央アジアに面する西北中国まで拡張することを目的に成立したものだと判断さ
れる。
「西北回教民族文化協会」については、外務省外交史料館が所蔵する資料を参考として
紹介する。この資料は在張家口総領事代理の松浦が 1937 年 12 月 18 日に当時の広田弘毅外
相へ送信した機密第 374 の電報である。この電報は、同年 11 月 22 日に張家口に「西北回
8)
教民族文化協会」が組織され、その発会式を通知する内容である 。すなわち「今次事変
勃発以来軍側ニ於テハ外蒙方面ヨリ内蒙及西北支那ニ對スル蘇聯勢力ノ浸透及ビ共産主義
ノ侵入ヲ防遏排除スル為之一策トシテ各地ノ回教徒ヲ懐柔シ排蘇反共運動(?)ヲ起サシム
ヘク対策(?)中ナリシカ去ル十一月中旬奉天ヨリ松林亮及ビ天津ヨリ山口某ノ両名来張シ
特務機関ト連絡シ当地在住回教徒ヲ糾合去ル十一月二十二日当市新民大街清眞寺ニ於テ西
北回教民族文化協会発会式ヲ挙行別表ノ通リ役員ヲ決定セリ。尚発会式ニハ特務機関、察
南自治政府代表及顧問其他各機関代表臨席シ在張各清眞寺教長同附設学校教員ヲ始メ中流
以上ノ回民約二百名列席シタリ」とある。
他方「西北回教聯合会」については、文献が比較的豊富であるが、同聯合会の 51 葉の
会則はそのまま外務省外交史料館に保管されている。西北回教聯合会の会則には目的とし
て「本会ハ回教徒の一致団結二依リ其ノ文化ノ向上経済的発展ヲ促進シ教養ヲ宣揚シ民族
9)
復興ヲ図リ以テ回教徒全体ノ利益ヲ確立スルヲ目的トス」と記述されているが 、その結
成過程と目的については、東亜研究所の『蒙彊視察・旅行報告』はより詳しい
10)
。
「今次
事変―盧溝橋事件―進展に伴ひ、對回教徒政策は漸次重大性を帯ふるに至りたる為、
ここに『彼等ヲシテ、西北ニ回教国家ヲ建設セントス』る理想的目標を与へ、且つ北支蒙
彊に営まる、一切の文化事業の内、いささかたりとも回教に関連することあるものは、悉
く、この線に沿つて遂行せしめんが為めに北京に於いて成立せる「中国回教總聯合会」と
密接なる連携をとりつつ、
〈中略〉
、蒙彊における回教徒を組織、統轄する目的を以つて、
『西北回教聯合会』の結成に着手するに至つた」
。西北回教聯合会は本部を厚和に置き、そ
のほかに、大同、張家口、包頭および本部の厚和にも支部を開いたが、総数 4 個のこれら
の支部の下に各清眞寺単位に分会が設置されており、また支部所在地以外の地に連合分会
が置いてあった(小村、1988: 449)。
現存する資料から見ると、西北回教聯合会の事業の中で最も積極的に推進されていたの
は対ムスリム教育訓練および西北民衆の経済的厚生に集中している。前者については、支
部に青年学校、聯合分会に小学校などムスリムを教育する学校などが開設され、これらの
学校から卒業した者は日本の駐蒙軍による蒙彊・西北地域で行われる諜報・軍事工作など
に利用された。対ムスリム教育の件について駐蒙軍参謀部によって「極秘」とされた 1938
年 12 月 15 日付の「回教青年指導要綱」に次のように指摘される。
「第一・方針 各支部ニ於テ回教青年ヲ教育シ以テ西北工作ノ原動力タラシム。第二・
戦間期における日本の「ユーラシア政策」と三国同盟
75
要領(一)西北地域ニ防共親日蒙ノ政権ヲ樹立スル工作ニ献身努力スル如ク指導ス〈中略〉
(三・人員)成績優秀ナルモノ約十名ヲ選抜シ更ニ約四ヶ月間特別教育ヲ行フモノトス。
(四・教育期間)一期四ヶ月トシ年二回トス。
〈中略〉
(七)修業後ハ西北回教聯合会ノ中
堅分子トシテ働ク義務を負ハシム。
(八)本教育ニ要スル経費ハ各機関ニ配当セラルル回
11)
教工作費ヨリ支出スルモノトス」 。さらにその翌年の 1939 年 9 月に発行された前述の東
亜研究所の報告には青年学校の第一回卒業生の就職状態について、次のような情報が載せ
てある。
「
(一)蒙彊学院・回教徒として別に扱ふ(二)兵団高等課学生・軍事教練を行ふ
(三)善隣協会・包頭病院にて医学を習ふ(四)蒙彊汽車公司・自動車、エンヂニヤーと
なす(五)西北保商特弁公処(六)帰郷(優秀なる学生にして、諸般の都合上帰郷せざるを得
ぬ者あれば、これを許可すると共にその営む営業については何等の制限を課せず、唯一週間に二回、
其の地方の住民を教育する者には、一ヶ月 10 円の補助を支給する)
。第二回以後の卒業生も、大
凡以上と同様の方針の下に、之れを教育し、配備する予定である」(東亜研究所、1939: 5)。
西北回教聯合会は上記の対ムスリム教育対策と共に西北貿易を進展させることを重視
し、そのために 1939 年 3 月 10 日に包頭に「西北保商特弁公処」を設けた。その目的とし
て「宗教的には回教徒民衆の結成・独立のために西北回教聯合会に協力し、政治的には自
ら回教軍を養成して西北奥地の将領と聯絡し、経済的には貿易促進のためこれが保護の任
務を担当する」と述べられている(東亜研究所、1939: 34–35)。しかし盧溝橋事件後、日中両
軍の対峙状況がより激しくなった結果、衝突の中心となっている蒙彊政権の周辺地、すな
わち寧夏・甘粛・青海などの西北地における通商はその影響を受けたとされる。
上記のことから、日本軍は特務機関にて蒙彊、さらに西北中国のムスリムを教育し、経
済力を振興させた上で、日本に懐柔・協力する傀儡国家を建国させる計画があったといえ
よう。特に「西北回教聯合会」の存在こそはこうした企図の証拠とみなされよう。西北回
教工作の関係者たる小村不二男
12)
の次の記述が注目に値するものである。
「この連合会こ
そ、将来の『東トルキスタン汗国』という独立イスラーム政権を樹立した暁の母胎となり、
前提機関とならしめる性質を、その内部構造の中に秘めていたのである。従って秘匿され
ていた将来への使命、責任は、他のそれとは同日の論ではなかった。たとえば、会の名称
それ自体を一例にとっても他の協会が『満州回教協会』とか『中国回教連合会』とか称し
ているのであるから、当然『内蒙回教連合会』とか『蒙彊回教連合会』など国名、地名を
冠称するのが一般的である。しかしここだけが『西北』としたのは実は中国の西北四省を
目標にしていたからである」(小村、1988: 449)。勢力圏を西北中国の 5 つの省(寧夏・陝西・
甘粛・青海・新疆省)に拡張し、同地に反ソ・反漢的政府を建設したならば、中央アジアに
もイランにも日本の影響力を浸透させることが容易になるとの構想があった(今岡、1939:
5)
。
76
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
II 反ソ戦略と親独論
1. 反ソ方針
在ロシア被支配民族との協力を中心とする日本の反ソ謀略論は、実際には日露戦争当時
から残っているものである。日露戦争中、日本の在ロシア公使館付の武官明石元二郎大佐
(1864 ∼ 1919)がロシア帝国内の革命分子(=社会主義者)と民族独立派と結託、ロシアを内
部から揺す戦争を優位に導いた歴史にならったものだった
13)
。日露戦争後の「帝国国防方
14)
針」 に基づき、日本軍部はロシアを仮想敵国と捉え、ロシア内の非ロシア民族居住地域
であるウラル以東の極東領土に対して野望を持つようになった。前述した 1909 年のイブ
ラヒムの来日と同時期の「亜細亜義会」の結成や東京モスクの計画など、あるいはロシア
革命後のシベリア出兵をその好例として前面に押し出すことができる。すなわち在日ムス
リム・コミュニティの形成過程、および日本によるセミョノフ、ホルヴァート、デルベル
などの反革命運動者支援(細谷、2005: 100–119)は、従前より日本が極東ロシア領に強い関
心を有していたことを示すものであり、そのためシベリア出兵に際してバイカル湖以東の
ロシア領を占領して同地に反革命政権樹立を目指していたものと理解される。
ロシア革命は東アジア国際関係に大きな変動を齎した傍ら、日本軍部にも期待を持たせ
た。日露戦争以来国家の生存性・発展性を北満州からシベリアに至る東北アジアに求める
日本軍部、特に陸軍は、ロシア革命による東北アジア秩序崩壊を日本の有利に導くべく大
陸政策への積極的な意欲を示した(細谷、2005: 33–40)。1918 年アメリカ・フランス・イギ
リス・イタリアなどの連合国と一緒にシベリアにチェコ軍の救援のために出兵した日本軍
は 7 万余り(北満派遣の 1 万 2 千も含め)の巨大な兵力を派遣したが、これは他の連合国に
比べて圧倒的兵数であった。他の連合国の撤兵要求にもかかわらず、最後のチェコ軍が
チェコスロバキアに送還された 1920 年 9 月から 1922 年 10 月まで日本軍はシベリア駐屯を
続けた。
ところが、共産軍の勢力が次第に強大となり、反革命軍の自治政府が共産軍の傘下に入
ることによって日本のこうした構想は破綻したとはいうものの、日本陸軍の北進論的な対
ロシア強硬論、あるいは北方への執着は相変わらず持ち続けられていた。1925 年 1 月 20
日に調印された日ソ基本条約によって両国は新たに国交を結んだ結果、両国関係の正常化
への期待が一旦高まったにもかかわらず、日露戦争以来の伝統的な双方の敵対意識は容易
に双方の当事者、特に軍部指導者層には強くその傾向がうかがわれる。
周知のように日ソ関係は満州事変によって一変した。満州事変後、関東軍は北満を支配
下に置き、さらに満州傀儡国家を建設した。それにより従来極東ソ連領と関東軍の支配地
たる南満の間に位置する北満州は、緩衝地帯としての特徴を失い、日ソ両軍は満ソ国境で
軍事的に衝突するようになった
15)
。満州国建国後、満・ソ・蒙国境画定は日ソ間の最も重
要な問題として出現したが、双方とも譲歩しなかった、この問題に対応してソ連は極東軍
戦間期における日本の「ユーラシア政策」と三国同盟
77
力を年々増加させ、1935・36 年の時点において、満鮮をあわせた日本軍とソ連極東軍との
兵力を比較すると、1 対 3 でソ連に有利であった(細谷、1963: 228; 富田、2010: 103–119)。そ
の一方、1935 年半ば頃に外務省にすら知らせず大島浩(1886 ∼ 1975)とリッベントロップ
(1893 ∼ 1946)の間で行われた日独同盟交渉がソ連諜報網のスパイたるクリビッキーによっ
てモスクワへ通報された結果、クレムリンは 1935 年 7、8 月の第七回コミンテルン大会で
それまでの対日穏健方針を変えて日本をドイツ、ポーランドと共にコミンテルン活動の主
目的とすることを発表した。こうした外交展開に沿って広田内閣も 1936 年 8 月 7 日「帝国
外交方針」を定め、ソ連をあらわに第一の仮想敵国に置いた。ソ連を明確に敵対視した「帝
国外交方針」に合わせて「国策大綱案」も採決されたが、これによって日独同盟は国是と
された(細谷、1963: 27)。
これらの展開と平行してソ連と日本両国軍が総兵力を増強したことによって、前述した
国境紛争がより激化するに至った。特に 1937 年 6 月のカンチャーズ事件や 1938 年 7 月の
張鼓峰事件および 1939 年 5 月のノモンハン事件などはその代表的な例である。一連の事
件、とりわけノモンハン事件により、日本軍はソ連の軍事力が強大であり、日本の軍事力
を凌駕するものであることを強く認識した。それゆえに日本軍はユーラシア大陸に跨るソ
連の軍事力の均衡を極東に集中せず、ヨーロッパにその軍事力を割かざるを得ない状況に
追い込むために、ソ連と敵対するヨーロッパ国家であるドイツへの接近を模索し始めた。
同時代資料として松岡外相の外交顧問たる斎藤良衛の次の言及が的を得ている。
「陸軍が
第二次近衛内閣成立早々、三国同盟連動に急ピッチをかけた理由の一つもここにあって、
弱まりつつあった日本軍の威力を、ドイツとの握手で補強せねばならぬ羽目に陥っていた
からだ」(斎藤、1955: 130)。
2. 日独両軍の反ソ諜報活動・白系ロシア人独立運動への協力
満州事変前後の未遂のクーデータや 1932 年の「五・一五事件」によって軍部の政治干
渉が著しく増大し、さらに「二・二六事件」によって軍部、特に陸軍は内政、さらには外
交にまで強大な発言権を持つようになった。軍部大臣の現役制そのもの
16)
は軍部の政治
独裁、あるいは外交干渉を容易にする 1930 年代の政情の中、政治外交の面でも各国日本
大・公使館付の武官任務は大きな役割を果していた。こうした時代に展開したナチス・ド
イツと日本との関係は、前述の在独大使館附属武官たる大島の努力により、名目上コミン
テルン、事実上ソ連を対象に 1936 年 11 月 25 日に初めて防共協定によって実現された。こ
こでは同協定の詳細には触れないが、従来知られることの少なかった当時の「回教政策」
とりわけ在日ムスリム・コミュニティ政策、あるいは日本軍の白系ロシア人懐柔論とに結
び付けて考えるべき展開が日独間で見られた。それは対ソ軍事情報交換と白系ロシア人の
独立運動に対する共同援助とについての準備作業が開始されたということである。1936 年
の日独防共協定の付属議定書には、コミンテルンの活動に関する情報交換並びにコミンテ
ルンに対する啓発および防衛措置協議のために常設委員会を設置することが規定された
78
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
が、ドイツの国内事情―ノイラート外相、ゲーリング、リッベントロップ三者間の微妙
な関係―によって実現されることはなかった(大畑、1963: 55)。しかし当時の在ドイツ大
使館付武官大島は 1937 年 2 月 5 日の参謀本部からの訓令に基づき、こうした委員会の代わ
りに対ソ軍事情報交換・白系ロシア人独立運動への援助を目標とする協定提案をまとめ上
げた。参謀本部から大島少将への訓令は次の通りであった
17)
。
「貴官ハ日独防共協定附属
秘密協定ノ精神ヲ有効且適切ナラシムル為帝国陸軍代表トシテ別紙ノ案ニ基キ独国国防大
臣ト折衝スヘシ」
。
大島は上記の訓令により、カナリスとの間に 1937 年 5 月 11 日付けで「了解事項」とし
て対ソ情報交換
18)
および対ソ謀略の協力を目的とする 2 つの協定を締結した。これは対ソ
協同工作の基準をなすものであった。特に対ソ謀略に関する協定は前述した反革命運動お
よび白系ロシア人の独立運動にも大きくかかわっている。同協定は「対ソ謀略ニ関スル日
独附属協定」と称され、次の 9 条で構成される。
「
『一』協同工作ハ左ノ諸件ヲ実施ス(イ)
全少数民族運動ノ強化(ロ)反共産主義宣伝(ハ)戦争勃発特ニ於ケル革命行動、
「テロ」
行為、擾乱破壊行動実施ノ為ノ諸準備。
『ニ』実施スヘキ準備ハ全ソ連邦ニ對シテ行ハル
モノトス(イ)芬蘭ヨリ勃牙利ニ至ル欧州西方国境方面ハ独逸ノ主タル利害関係地域トス
(ロ)西南国境方面(トルコ及イラン)ハ両国共同利害関係地域トス(ハ)亜細亜東方国境方
面 ハ 日 本 ノ 主 タ ル 利 害 関 係 地 域 ト ス。
『三』 協 同 工 作 ハ 別 紙 五 ケ 年 計 画 ニ 基 キ
千九百三十七年ヨリ千九百四十一年ニ亘リ行ハルヘキモノトス。
『四』共同利害関係地域
ニ於ケル経費ハ両締盟者各、折半シテ負担スルモノトス。
『五』両締約者ハ各、其主タル
利害関係地域ニ於ケル謀略ノ状況ニ関シ相互ニ絶エス之ヲ知悉スルモノトス。
『六』相互
ノ同意ナクシテ第三国ヲ本協同工作ニ介入セシメサルモノトス。
『七』軍部当局ハ政治当
局ト協力ヲ必要トスル範囲内ニ限リ彼トノ円滑ナル協調ヲ行ウ如ク努ムルト共ニ、責任ナ
キ方面ヨリノ望外ニ對シ本工作ヲ推進スルモノトス。
『八』両締盟者ハ一方カ「ソ」邦ト
ノ戦争ニ引入レラル場合他ノ締盟者ハ第二條ニ揚ケタル其主ナル利害関係地域並ニ共同利
害関係地域ニ於テ一切ノ手段ヲ挙ケテ謀略工作ヲ強化スルモノス。
『九』毎年行ハルヘキ
合同研究ノ際ニ於テ全地域ニ亘ル其業績ヲ精査シ且共同利害関係地域ニ於ケル次年度ニ對
スル業務実行方法ヲ前記五ケ年計画ニ基キ決定スルモノトス」とされている
19)
。
大島はカナリスとの会合のほか、カイテル陸軍中将と協議した上で、最後にドイツ軍部
も国防大臣ブロンベルグもこの問題を認可するに至ったと述べている
20)
。この協定の署名
はノイラート外務大臣(1873 ∼ 1956)の反対やチェコ問題など、ドイツ側の都合にて容易
ではなかったが、ついに 1938 年 10 月 7 日にカイテルと大島との間に署名された。
実際に日本軍部はドイツ軍部と上記の交渉を開始した直後から、同国を軸にヨーロッパ
における対ソ情報活動を一層深めている。たとえば、参謀本部は 1937 年の春頃から駐独
大使館の武官とは別に対ソ謀略専門家として臼井茂樹中佐(1898 ∼ 1941)と馬奈木敬信大
佐(1894 ∼ 1979)をドイツに派遣した。また、河辺虎四郎(1890 ∼ 1960)によるとその活動
費として年間 30 万円ぐらいの資金が配分されていたようである(The Tokyo War Crimes Trial,
戦間期における日本の「ユーラシア政策」と三国同盟
79
Volume 14, 1981: 33.765)
。こうした活動は日本側での第一責任機関が参謀本部・陸軍である一
方、ドイツ側ではカナリスが局長を務める国防省諜報局であった(ゾンマー、1964: 40–53)。
臼井中佐は 1937 年 5 月から翌年 1938 年 1 月までドイツを中心に反ソ諜報・宣伝活動を
遂行した
21)
。大島の東京裁判における口述によると、
「日本軍部は以前からソ連に関する
情報を獲得するためにワルシャワ在住の白系ロシア人を利用しており、防共協定締結後参
謀本部のロシア担当局はこうした反ソ諜報活動をさらに強化することを図った。そこで参
謀本部から独軍に接近するように訓令を受け、ドイツ軍部のケイテル中将に共同諜報活動
を提案した。
〈中略〉実際の活動は私の部下であった臼井中佐によって行われた。臼井は
ベルリン在住の白系ロシア人から獲得した情報を東京の参謀本部・ロシア担当局に送って
22)
いた。こうした仕事は私の武官室にて遂行されていた」 。臼井中佐は後にベルリン郊外
のファルケンセーに土地を借り、6 人の白系ロシア人を使って反ソ宣伝文書を印刷し始め
たとされる(The Tokyo War Crimes Trial, Volume 3, 1981: 6027)。
臼井中佐の後任として 1938 年から馬奈木大佐がドイツにおいて反ソ諜報・宣伝活動を
担ったが、馬奈木は山本中佐、樋口少佐の 2 人を補佐官として、それにトルコ語を話す日
本人嘱託とドイツ人、白系ロシア人の 2 人の女性を秘書に使い、在ドイツ日本人とも接触
を絶って細心の注意を払いながら活動していた。馬奈木はソ連の隣接国たるフィンラン
ド、エストニア、リトアニア、ボーランド、トルコなどに年間 30 人ぐらいの工作員を送
り込んでいた。これらの工作員はソ連領内に侵入し、情報収集を行っていた。馬奈木の任
期中、こうした反ソ諜報・白系ロシア人援助活動はルーマニアとウクライナ国境に跨るカ
ルパート山系のカルパーテン・ウクライナにて遂行されていたようである。ここでウクラ
イナから亡命した 2 万人ほどの白系ロシア人を対象に反ソ集団教育が行われていた。大勢
の白系ロシア人を集め、ソ連政府転覆後の事情に備えて教育を与えていた。この中心人物
は元ロシア帝国将校、コノワレス大佐とヤーリー大尉であった(鈴木、1979: 93)。
上記のような日本とドイツの対ソ諜報活動、または白系ロシア人独立運動への援助は実
際どのぐらいの効果を出せたか、またはドイツ側が日本軍部ほど積極的であったかどうか
は議論の余地があるが、こうした反ソ活動は当時の国際関係において決定的な要素にはな
らなかったことは確かである。こうした活動はソ連についての情報入手、並びに戦争の場
合における宣伝謀略のために白系ロシア人を利用することを主観とする準備であり、共通
の敵たるソ連に対する防共協定に続く日独軍間の協力の成果の 1 つと捉えるべきである。
すなわち、満州事変以降、日本軍部はヨーロッパ、なかんずくワルシャワやパリでの白系
ロシア人の間で独立運動を遂行していた者を通じて対ソ情報を獲得し、またその運動およ
び日ソ開戦の場合同運動の反ソ的な利用価値について検討していた。防共協定によって日
独両軍の関係が親密となることを契機に参謀本部のロシア部局関係者は対ソ諜報活動・白
系ロシア人の独立運動などの面でドイツ軍部と協力を図り、在独白系ロシア人をもヨー
ロッパにおける反ソ独立運動の枠組みに入れることを想定していた。大島の極東国際軍事
裁判での口述によると、こうした共同活動は正式な形を持たなかったことも事実である。
80
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
「日本軍とドイツ軍は反ソ・白系ロシア人運動とソ連軍に関して共同活動をするように合
致した上、協力しはじめた。
〈中略〉これはきちんとした文書による協定ではなく、メモ
ランダ形式(memoranda)のものであった」(The Tokyo War Crimes Trial, Volume 3, 1981: 6022)。
3. 親独方針と枢軸国の新秩序論
日本のドイツへの接近において「大島浩の武官外交」が大きな役割を果たしたことは周
知の通りである(Carl, 1972)が、1934 年 5 月から在独日本大使館付武官として着任した大
島はドイツ語が非常に堪能であり、当時ドイツ在住邦人の中でも卓越していたといわれる
ほどであった。こうした大島の主なる任務は独ソ関係を観察し、とりわけ日ソ戦争の場合
のドイツの動向を観察すること、また対ソ情報入手のためにドイツ側の協力を得ることに
あった(ゾンマー、1964: 32)。大島はヒトラーの政策立案側近たるリッベントロップと、ド
イツ軍の上層部との間に密接な関係を作り、日本陸軍の伝統的な反ソ論をヒトラーの反
ソ・東欧進出計画と結びつけるように両国間の架け橋役となっていた。大島浩を介して日
本陸軍とリッベントロップ派を中心とするナチス党との間に行われていた日独同盟論に、
さらに白鳥敏夫(1887 ∼ 1949)をはじめとする外務省革新派と称される一部の官僚も加わ
り、日本における親独擁護論は一層強まるようになった(斎藤、1955: 57)。
その一方、ドイツはヒトラーのナチス党が政権を奪ってから間もなくの間に国際連盟、
さらに軍縮会議から脱退し、ヴェルサイユ条約の軍事条項を廃棄して一般兵役義務などを
発表し、結果的には日本と似たような内外政策を取ろうとしていた。ヒトラーの政権掌握
当時、ドイツ側には明確な対日政策はなく、同国の対極東政策はむしろ中国に傾注してい
た(Spang and Wippich, 2006: 11; 江藤・田嶋、2008: 8–55)。コンスタンチノ・ヴォン・ノイラー
ト外相時代(在位:1932 ∼ 1938)にノイラートと対立したリッベントロップ派が 30 年代半
ばからナチス党での勢力を増加させ
23)
、ヒトラーの信任の厚いリッベントロップはさらに
1938 年に外務大臣に就任した。同じく日本でも陸軍の肝煎りで大島は駐独大使に昇格し、
それまで個人的関係として続けられてきた大島・リッベントロップ外交(ゾンマー、1964:
40–53)は政府間レベルに引き上げられる形になった。
1933 年の両国の国際連盟脱退以来、ヨーロッパとアジアというそれぞれ異なった磁場に
ありながら既存のヴェルサイユ・ワシントン体制に基づく国際秩序に逆らい、しかもその
ことによって国際的な孤立化に陥ろうとしていた日独両国が相互に影響しあうのは、ある
意味ではむしろ必然的でもあった。ドイツは一時的にソ連と不可侵条約を結んでも、ヒト
ラーの反ソ的な東部進出夢想、または当時の国際政治事情は日本とドイツ両国をさらに接
近させた。こうして枢軸同盟の原型が構築され、1939 年 7 月の米国政府の日米通商航海条
約廃棄通告、さらに同年 9 月のヨーロッパ大戦の勃発以降には反欧米的な政策を展開する
日本とドイツの紐帯が一層強まった。ドイツは同年以降、イギリス・フランスの警鐘を無
視してヨーロッパにおける領土獲得に乗り出し、他方、日本もヨーロッパでの紛争を利用
し東南アジアや中国華南におけるイギリス・フランス・オランダなどの植民地や権益圏を
戦間期における日本の「ユーラシア政策」と三国同盟
81
侵略していった。この結果、日本とドイツ両国は共通の敵に対してイタリアを巻き込みつ
つ 1940 年 9 月に「三国同盟」を結んだ。こうした国際情勢を契機に日独両国において枢
軸国の世界盟主論は堂々と唱えられるようになった。日本軍部は大戦参戦が決定された
1941 年 9 月頃からドイツ軍の東部進出と日本軍の西アジア進出を 2 つの戦域を結ぶ作戦と
して考えられていた(ベルント、1993: 247–248)。リッベントロップがベルリンのホテルカイ
ザー・ホーフで行った講演における以下の発言は、新秩序作成のための両国の接近につい
ての一例でもあった。
「諸君、而して今や枢軸国及び友好国の指導下にある新欧羅巴秩序に呼応して東亜新秩
序は日本及びその友好国の指導により相共に前進しているのである。何人と雖もこの恒久
的事態の発展を阻止し得ない。この目的が達成されるまでには尚甚大な努力と犠牲が必要
であろうが、併し乍ら猶太的商買人や自国民を政治的に圧迫する者よりなる国際的法律顧
問の一味に対抗し、新秩序を確立せんとする若い民族の闘争が絶対的勝利を獲得する事は
疑う余地がない。
〈中略〉一つの目覚めた世界のこの新秩序に対抗する侵略者を徹底的に
殲滅する……」(リッベントロップの講演、1941: 29–30)。
他方、日本側においては、軍部・民間アジア主義者の支援を受けた外交官の白鳥敏夫の
発言は興味深い。白鳥は三国同盟を世界秩序条約、あるいは世界新秩序同盟と称しており、
「後世歴史家は、これを世界新秩序条約と呼ぶやうになりはしないかと思ふ」と述べてい
る(白鳥、1940: 159)。白鳥は日独両国同盟を当時の国際政治が齎した当然の帰結ととらえ、
第一次近衛内閣の東亜新秩序建設のためにこそヨーロッパにおける独伊の同盟を必要だと
力説している。
「……欧州に於いて新秩序を建設しようといふ国が勝ち得るといふことでなければ、日
本国民がアジアに新秩序を建設するといふことは有り得ないことである。欧亜の旧秩序は
大体英仏によつて代表されて居る。その旧い秩序を維持せんとする側が破れなければ、新
秩序は西洋にも東洋にも出来ない。日本もドイツもイタリーも共に世界の新秩序を作るこ
とを使命として居る国々である。条約は結ばなくても三国の目的は一つである。ドイツ人
はよく云つて居た。
『吾吾は何も日本に欧州に援助に来て呉れといふのではない。日本に
は自らの使命としてやらなければならぬことがある。そして東洋に於ける旧い秩序を壊し
て新秩序を建設すれば、それで日本の条約に對する義務は済むのである。何でも東洋から
英国の勢力を駆逐すること、それが実は吾吾が此の同盟に於いて日本に求むる所の義務で
ある、それ以上は求めない』
」(白鳥、1940: 30–31)。
4. 中央アジア横断鉄道論
上記のような日独同盟成立、さらにヨーロッパとアジアに於ける第二次世界大戦の初
期、戦局が枢軸側に有利であったことは、日本社会の一部に既存国際秩序の打破、さらに
は日独を軸とする新秩序建設への高い期待を齎した。鉄道省・帝国鉄道協会の関係者もそ
の一例である。彼らが 1930 年代末からアジアとヨーロッパとを結ぶ「中央アジア横断鉄
82
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
道論」を提唱し、この鉄道建設こそは欧亜を結ぶ政策であると主張していた。
「中央アジア横断鉄道論」の発案者は、鉄道省監察官である湯本昇(1889 ∼ 1972)であっ
た
24)
。湯本は「伯林滞在中の昭和 5 年末頃か 6 年初頭」に当時のドイツ鉄道国際課長のホ
ルツ博士にこの考えを初めて示したという。ただ当時はまだ私的な構想であり、公表は
1938 年 2 月であると述べる(湯本、1939: 5)。当初、多くの人に机上の空論と批判された湯
本の「中央アジア横断鉄道論」は、1942 年に帝国鉄道協会に受け入れられ、鉄道省の後援
も受け、同年 11 月 4 日に東京丸の内鉄道協会において「中央亜細亜横断鉄道調査会」が
発会された。
こうして鉄道関係者を結集する同調査会は、東京からベルリンまで直通列車路線を建設
することを目指した(引田、1942: 51–52)。具体的には、北京を起点とし、万里の長城を越
えて張家口、大同を経て、蒙彊政権の支配地たる綏遠省の包頭まで走る京包鉄道の包頭と
結び、それから五原を経て、アラシャン砂漠を渡り、甘粛省の甘州に出て、新疆省のハミ
に向かうが、その後次のようなルートで建設すると構想されていた「ハミ ⇒ 有名な天
山南路のトロハン・カシガルなど ⇒パミール高原 ⇒ アフガニスタンの首都カブール
⇒ イランの首都テヘラン ⇒ イラクの首都バグダット」
。バグダットを終点とし、そ
こで同鉄道をバグダット鉄道に接続することによって東京をベルリンに連絡させるような
大計画であった(帝国鉄道協会、1942: 11)。
同論は「反赤論」および「日独を結ぶ内陸鉄道の代案」という発想から想起され、帝国
鉄道協会と鉄道省に受け入れられたと判断されるが、同鉄道の建設目的を湯本は、
「……
鉄道の方向を見ると、依然帝政時代のロシヤの伝統を受けて、海へ出たい、それから南へ
出たい、この二つの方向を目指している。かういふものをこの儘放つて置くと、ロシヤの
勢力は何処迄延びるかわからない。これが完成しないうちに、何処かで切断して、共産主
義の南下を防がうといふのが、この中央アジア横断鉄道の目的の一つとなつている。それ
でこの鉄道は欧亜の連絡と防共との二つの目的を持つて居る訳であります……」と記して
いる(湯本、1939: 7)。
上記の記述に加えて当時の国際情勢も重視する必要がある。1939 年 9 月にヨーロッパ、
1941 年 12 月に太平洋において始まった第二次世界大戦を契機に生じた不安定な国際状態
は、世界を二分する形となった。これにより日独両国は、共産主義ソ連によって支配され
た大陸の「シベリア鉄道」と、アメリカとイギリスの支配の傘下にあった多くの海路とに
よって孤立化させられるに至った。こうした状況に追い込まれて、枢軸国を形成するドイ
ツとイタリアを日本に結ぶための独自の新路線として中央アジア鉄道計画が相応しいと判
「……今陸路を通つ
断されたものであろう(今井、1943: 1–12)。この問題について湯本は、
て欧羅巴へ行くには、シベリヤ鉄道で行くより外にない。処が、このシベリヤ鉄道はロシ
ヤ側で色々と妨害をして居ますので、最近一年有余の間に、ごく僅かの外交官などを除い
て、一般の日本人は通さないといふ状態でありまして不便不利これより甚だしきはないの
であります……」(湯本、1939: 5)と言及する。
戦間期における日本の「ユーラシア政策」と三国同盟
83
さらに同鉄道は日本の「回教政策」にも適うものであり、鉄道の通過する新疆省、中央
アジア、アフガニスタンは前述したように日本軍が勢力を浸透させようとしたムスリムの
居住地域でもあった。湯本は「回教問題」に関しては「……回教の問題は最近日本でも非
常にやかましくなつた。日本が大陸政策を行ふに当たつて、回教徒を手なづけなければな
らなぬという考へから、いろいろの方策を考へて居るやうであリます。回教徒をなつける
(湯本、
手段としては、私は彼等に鉄道を造つてやることが一番良いのじゃないかと考へる」
1939: 8)と表現している。
中央アジア横断鉄道の枢軸同盟への意義について、1942 年 12 月 1 日に帝国鉄道協会の
中央亜細亜横断鉄道調査部の講話における、外務省嘱託の今岡十一郎(1888 ∼ 1973)の次
の発言は有意義である。
「……大東亜戦争が勃発致しましてからは、さらに世界新秩序の
建設、枢軸文化の創造の上から致しまして、東亜共栄圏とヨーロッパ共栄圏、つまり、東
西両新秩序圏を結びつけるところの紐帯として、
〈中略〉この地帯(=中央アジア横断鉄道の
通路)が非常に重要となつて参つたのであります。大東亜戦争の最終の目的と致しますと
ころは、つまり、世界新秩序の建設であるのであります。中央亜細亜横断鉄道のこの線と
いうものは東西新秩序の文化の交流、また両新秩序の一体化、即ち枢軸国間の有機体化の
上からして、非常に重要なる路線になつて参つたのであります……」(今岡、1942: 4–5)。
おわりに
本稿で言及してきた戦間期ロシアから来日した 「 回教徒 」 とは、すなわちムスリム・ア
イデンティティーを持つ白系ロシア人と同義であり、ソ連からみれば、クルバンガリーや
イブラヒムのようなムスリムは共産主義ソ連を脅かすメンシェヴィキ派の一員であり、極
めて危険な存在であった。こうして日本のイスラーム政策と白系ロシア人独立運動は関連
してくるが、そうした中、1936 年の防共協定、その延長として翌年の日独両軍による反ソ
謀略協力といった共同活動の構想とその具体化は興味深い展開であった。従って、ロシア
革命当時から日本陸軍が後援していた白系ロシア人独立運動、またはソ連の支配下にあっ
た中央ユーラシア地域に在住するムスリムの自己認識・独立運動を活発させることはソ連
帝国という巨大国を内面から崩壊させ、とりわけソ連領の東部地域を日本支配下に置く企
図の実現を図るためであったといえよう。だが、結果的に見ると日本・ドイツ両国の白系
ロシア人独立運動への支援・協力が期待されたほどの成果を産まなかったことは疑問のな
い事実である。
ところが、前述のように 1941 年 6 月にドイツはロシアに侵入し、日本は 1942 年前半東
南アジアにおけるヨーロッパ列強の植民地を次々と占領し両国の新秩序論への確信・期待
が高まった。ドイツは 7 月 17 日からヴォルガ河を越えて東方のキルギス平原に迫り、7 月
25 日コーカサス方面の攻撃を開始した。この攻撃を起点としてドイツのなかには、エルブ
84
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
ルーズ山脈を越えて南コーカスを勢力圏に組み込み、さらに遠くイラク・イランを経てペ
ルシャ湾への進出を模索する勢力が存在した。こうしたドイツの「ユーラシア政策」は、
日本の「イスラーム政策」
「白系ロシア人独立運動への後援方針」と「中央アジア横断鉄
道論」と結び付くかにみえた。しかし、すぐに戦局は枢軸国に不利となり、こうした構想
は現実化することなく挫折した。
「黄色人種」の日本に対する人種差別主義者「ナチス・
ドイツ」の意図、一方で白人の支配からアジアを解放することを目的とする「大日本帝国」
の反西欧的な理念は、国際社会において両者の連携に大きな疑念を抱かせるものであっ
た。それゆえに日独同盟が成功することはほとんど不可能であっただろう。また、世界新
秩序に関しても、日独両国が実際に異なった軍事攻撃の方向を択び、同敵たる連合国に対
して軍事力をあわせて動くような協力関係はなく、相互に同盟国を助ける意図および活動
力もなかった。
「回教政策」と「反ソ戦略」とを通して、戦前・中期における日本が目指した「東亜新
秩序」が、単に東アジア・東南アジアに限定されることなく中央ユーラシア大陸までをそ
の射程に捉えていたことが伺われる。特に新疆を中心とする西北部は日本を盟主とする
「東亜新秩序」の外廓地域として想定されていた。これが実現したならば、ドイツとの間
に仲介地となる中央アジアおよび中近東(イラン・トルコ・アラブ諸国)にも日本の影響力
を浸透させることが可能になるだろうと期待された。そのため、先ず西北中国に満州国、
蒙彊政府についで回教傀儡国家を建設するように構想していた。これは戦前・中期におけ
る日本の「ユーラシア政策」として集約されるものであり、最終的に日独伊三国同盟が唱
導していた目的たる「世界新秩序」の一環をなすものでもあった。
本稿が提示した「ユーラシア政策」の詳細は、筆者を含め日本さらには国際的な資料発
掘・調査・研究によって、今後にその細部が検討・検証されることが期待されるものであ
る。そのためにも研究基盤となる日本の学界において、先ずは本政策にかかわる活発な議
論がなされることを望むものである。
(注)
1)「独自の文化」とは政治的な理由で画定されたロシアの国境および地理的境界を前置きとし、多民族が
複合した文化特徴を示すものである。
2)モンゴル(=蒙彊)
、東トルキスタン(=西北中国)
、中央アジア諸国を含有する領域である。詳しく
は小松(2000: 3–5)を参照。
3)中央アジアを中心にシベリアから東ヨーロッパまで跨る広域に居住する、アルタイ言語族系のテュル
ク諸語を母語とするムスリムの民族総称である。
4)クルバンガリーは、1889 年にロシア治下オレンブルクに生まれた。幼児からイスラーム教育を受け、
1917 年のロシア革命に際して、バシキール独立運動に従事し、白軍と共闘した。その後に日本軍の仲介
で満州に亡命し、1924 年に東京に移住した(西山、2006: 325–350)
。移住を前に 1920 年、1921 年に仲間
とともに短期ながら日本を訪問し、大隈重信ら要人と会談を果たしている(大隈侯八十五年史会編、
1926: 487–489)
。
5)ここに言及される「大亜細亜協会」とは後に 1933 年に設立される団体とは同名異団体と判断される。
しかしながら資料に乏しく、今後も調査を継続する。
6)笹目は 1924 年(大正 13)にモンゴル・パルチョン親王家の養子となってから 1928 年(昭和 3)にモン
ゴルチャムスルン財団を結成し、北京に満蒙義塾を設置した。その後、1933 年(昭和 8)蒙彊自治政府
戦間期における日本の「ユーラシア政策」と三国同盟
85
徳王私設顧問となった(笹目、1991a:「奥付」
)
。
7)ムスリムにとって日本の天皇を日本人のように崇拝することは全く不可能である。この矛盾は日本の
敗戦まで解決することはできなかったが、アジア主義の喧伝のなかで皇室崇拝も強く訴えられていた。
8)外務省外交史料館『各国ニ於ケル協会及文化団体関係雑件 / 中国ノ部 52.西北回教民族文化協会』
、
1937。
9)防衛省防衛研究所『西北回教聯合会会則の件』
、1938。
10)この報告は東亜研究所の小林宗三郎が 1939(昭和 14)年 5 月中旬から 8 月初旬まで蒙彊地方旅行の際、
現地当局者やそのほかの関係者から得た資料に基づいたものである(東亜研究所、1939: 1)
。
11) 防衛省防衛研究所『回教青年指導要綱』
、1938。
12)1935 年から内蒙・西北方面で回教徒の親日連携運動に献身し、西北回教連合会の結成にも参加し、同
連合会の本部に主任顧問として勤務した(小村、1988: 奥付・著者紹介 ; 新保、2000: 8–9)
。
13)明石は戦局を日本の有利に進めるように帝政ロシア領内の被支配民族、社会主義者などに武器、資金
援助などの工作を遂行し、反政府的な内乱を起させ、ロシアを打破させようと企図しており、そのため
にポーランド、フィンランド、アルメニア、グルジアなどの民族主義者と接触していたとされる(黒羽、
1983: 74–84)
。
14)「帝国国防方針」は最初に 1907 年に制定されるが、当初ロシア、アメリカ、フランスが仮想敵国とさ
れていた。その後 1918 年に一部が訂正されたが、またロシアが中国とアメリカと一緒に仮想敵国とされ
る(防衛庁戦史室、1967)
。
15)満州事変勃発から 1934 年までの 2 年半で 152 件の紛争は 1935 年には 136 件、1936 年に 203 件と急速に
増加した(日本国際政治学会・太平洋戦争原因研究部編、1963: 77)
。
16)すなわち、現役将官の任免および移動が三長官会議で議決されなければならなかった制度である。陸
海軍の現役将官の補任叙位などが軍部三長官と軍部の長老で組織されていた軍事参議官会議の議決を必
要な条件としていた。そうすると、現役軍人を陸海軍大臣として内閣に送るかどうか、いわば内閣がで
きるかどうかの決定は軍部三長官と軍事参議官会議の手にあった。またはすでに成り立っている内閣か
ら陸海軍大臣を引き上げさせて後任を送らずに同内閣の倒壊を可能としていた権利があった。30 年代の
広田内閣、その後を受けた宇垣一成内閣や米内内閣などは皆同政治体制の犠牲たるものであった。また
その一例をなす平沼内閣の倒壊についても当時の陸相板垣の回想は興味深いのである。
「あの内閣を倒し
たのは私で、その後三国同盟に反対しない首相をもってくるつもりだった」と(斎藤、1955: 86–87)
。
17)同訓令に当時の陸軍大臣たる中村孝太郎と参謀総長たる載仁親王の印がある(防衛省防衛研究所「参
訓第六号」
、1937 年 2 月 5 日)
。
18)防衛省防衛研究所「ソ連邦ニ関スル日独情報交換附属協定―於:伯林」
、1937 年 5 月 11 日。
19)防衛省防衛研究所「対ソ謀略ニ関スル日独附属協定―於:伯林」
、1937 年 5 月 11 日。
20)防衛省防衛研究所「日独軍事協定ノ経緯」
、1938 年 10 月 7 日。
21)極東国際軍事裁判における河辺虎四郎の口述を参照(The Tokyo War Crimes Trial, Volume 14, 1981:
33.764)
。
22)大島浩の極東国際軍事裁判・供述書参照、The Tokyo War Crimes Trial, Volume 3, 1981: 623–624)
。
23)1936 年に防共協定の調印式に当時外相のノイラートが参加しなかったことは両派の対立を立証する絶
好例であった。
24)湯本は群馬県吾妻郡生まれであり、1920(大正 9)年 6 月に東京帝国大学仏法科を卒業し、一時的に横
浜正金銀行に入職すぐ退職し、同年鉄道省に勤務した。1947(昭和 22)年 4 月に戦後第一回の衆議院議
員選挙に立候補したが敗れた。晩年は弁護士を開業していたが、1972(昭和 47)年 5 月 24 日(84 歳)に
東京で逝去した(湯本昇伝記編纂会編、1973: 125–127)
。
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88
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
[書評]
鹿 雪瑩著
『古井喜実と中国
―日中国交正常化への道』
木村隆和
本書は、戦前は内務省高級官僚として、戦
制限や、低い生活水準と激しい労働といった
後は自民党親中派の代議士として活躍した古
問題点も、帰国後に公表した『訪中所見』で
井喜実(1903–1995)の生涯について、戦後の
指摘している。また古井は、中国の共産主義
日中交流に対して彼が果たした多大な貢献に
に つ い て「共 産 主 義 以 上 に 民 族 主 義 が 強」
焦点をあてつつ詳述したものである。以下本
く、
「単なる物質主義ではなく、多分に精神
書の概要と業績について述べる。
主義の要素があり、物質否定の道教的な色彩
本書の第 1 部「自民党内親中派の結集と
LT 貿易協定の成立 ―古井喜実を中心に」
さえある」という独特の分析を示した。
古井は新安保条約に関して、極東条項の定
では、古井が東京帝国大学法学部を卒業して
める地域から金門・馬祖を除外するべきだと
高級内務官僚として活躍し、戦後は公職追放
主張した。古井は革新政党のように新安保条
を受けた後、自民党親中派の代議士となるま
約自体に反対したのではなく、日本が無関係
での経歴を紹介している。
な戦争に巻き込まれないよう「しっかり枠を
公職追放が解除された後、古井は 1952 年
はめ杭を打っておこう」としたのである。
に改進党から立候補して初当選し、1955 年
評者は古井が、一般的な自民党の政治家と
の保守合同で自民党に合流する。当時の古井
も革新政党の政治家とも異なった、特異な中
が主張する日本の外交政策とは、自由主義陣
国観と安全保障観を有していた点を指摘した
営の集団安全保障への参加を基本としつつ、
本書の業績は大きいと考える。
「共産陣営に対しても、不必要に挑発的政策
続く第 2 部は「古井喜実と日中 LT・MT 貿
をとるべきではない」というものであった。
易交渉」である。1962 年 9 月の第二次松村訪
古井は日米協調の重要性は十分に理解してお
中に続いて、同年 10 月末には自民党親中派
り、
「日中国交回復には時間がかかる」という
長老の 1 人である高碕達之助が訪中し、中国
認識を、石橋湛山や松村謙三と共有していた。
側の対日工作の責任者であった廖承志との間
1959 年、松村訪中団の一員に加わった古
に覚書が調印された 。期間 5 年の長期総合
井は建国からわずか 10 年の中国が着々と成
バーター協定である LT 貿易協定の成立に
果をあげ、また中国人が懸命に国家建設のた
よって、それまで革新勢力に握られていた日
めに働いていることに強い感銘を受けた。そ
中交流に保守勢力も本格的に参入することと
の一方で共産主義体制における自由と権利の
なった。しかし、その後の佐藤栄作内閣の対
書評/?????
1)
89
中姿勢の強硬化、および文化大革命による中
喜実文書』の調査なくして、今後の日中国交
国外交の硬直化のために、その継続交渉は困
回復に関する歴史研究を進めることは、ほぼ
難を極める。
不可能だというものである。また、本書第 2
他の自民党親中派ですら慎重な姿勢を示す
部については『古井喜実文書』の活用だけで
なか、古井がイニシアティブを採り、中国側
なく、同時代の新聞や雑誌の記事などを中心
の主張に大幅に譲歩しながらも、MT 貿易と
とする公刊史料の徹底した博捜ぶりに、大い
いう「政治的パイプ」を守り抜くのである。
に評者は驚かされた。
LT 貿易が期限切れとなった 1968 年 1 月に
最後となる第 3 部は「古井喜実と日中国交
なって古井らはようやく訪中することができ
正常化 ― LT・MT 貿易の延長線から見る
た。その時期、中国側の廖承志を中心とする
日中国交正常化」である。日中国交正常化に
対日工作の関係者は、文化大革命の影響で失
関する先行研究は豊富であるが、本書のよう
脚するか、造反派から厳しい監視を受けてお
に古井を中心とした自民党親中派が果たした
り、古井らには強硬姿勢で臨まざるを得な
役割に焦点をあてた研究は少なかった。
かった。中国側は、佐藤内閣を米帝国主義の
公明党が日中国交正常化に際しての日中政
一番の共犯者であると批判し、
「政治三原則」
府間交渉に大きな役割を果たしたことは周知
と「政経不可分」について、古井らに同意を
のとおりであるが、そもそも公明党と中国政
せまった。一度交渉を中断すべきとする意見
府の間を取り持ったのは古井であった。ま
もあったが、古井のイニシアティブによって
た、1971 年 3 月に中国卓球団の副団長として
MT 貿易を継続させるために、日本側 MT 貿
来日した王暁雲は秘密裏に大平正芳と会談し
易代表団は中国側の主張を受け入れた。これ
たが、これを仲介したのもやはり古井であっ
以降、古井のイニシアティブによって日本側
た。さらに古井は、1972 年 2 月頃から大平と
MT 貿易代表団は、1969 年度のコミュニケで
中国問題について数回にわたり意見交換をし
は日米安保条約の侵略性について、1970 年
た後、同年 4 月 21 日には田中角栄を加えて
度のコミュニケでは日本軍国主義の復活につ
三者の秘密会談を持ち、田中内閣による日中
いて、中国側の主張に大幅に譲歩することで
国交回復を目指して活動を開始した。
MT 貿易を存続させる道を選んだ。この決断
また 1972 年 5 月、秘書 1 人をともなって
について自民党親台湾派から激しい批判を受
訪中した古井に、周恩来総理が 1973 年中に
けることとなった古井は、非常な苦難を背負
在台米軍は撤退し、中国も台湾を「武力解
うのである。
放」しないという密約が米中間に存在すると
古井がこのような決断をした理由につい
古井に極秘裏に告げ、これを田中と大平に伝
て、古井は 1968 年の時点ですでに早期の米
えるよう依頼した、と本書は指摘している。
中和解を予測しており、そのときに日本が取
古井は、自民党親中派の田川誠一、松本俊
り残されることがないよう、MT 貿易という
一とともに日中国交正常化の最後の調整のた
「政治的パイプ」を守ろうとした、と本書は
め、1972 年 9 月 9 日に北京へ派遣された。北
説明している。
本書第 2 部を読んだ評者の感想は、
『古井
90
京に到着した古井は、早速周総理や廖承志ら
と会談し、日本政府の日中共同声明の草案に
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
ついて説明を行った上で、この会談内容を橋
が岸内閣であり、それに必要となる米国政府
本恕外務省アジア局中国課長に託して日本政
からの条件付き了解を取り付けたのも岸内閣
府に伝達した。
であったことが、近年公開された外務省記録
ほぼ時を同じくして、自民党日中国交正常
2)
から明らかになっているのである 。
化協議会会長の小坂善太郎が率いる大訪中団
次に、本書は古井の発言に基づいて「池田
も北京入りしたが、団員の派閥構造は極めて
内閣期、LT 貿易には政府の好意的なバック
複雑で、古井らと対立する者も含まれてい
アップがあった」が、
「MT 貿易は政府のバッ
た。そこで大平は、
「自民党内に刺激を与え
クアップを失った孤児」であったと断じてい
る」のを避けるために、古井らには早急な帰
るが 、この評価は MT 貿易の複雑な側面を
国を求めた。こうして日中国交正常化に対す
十分に捉えていないと評者は考える。例え
る多大な貢献にもかかわらず、古井は北京に
ば、北京に設置されていた日本側の MT 貿易
おける日中共同声明の調印という歴史的瞬間
事務所の連絡事務所(通称「北京事務所」) に
に、立ち会うことはなかったのである。
は、LT 貿易が MT 貿易となった 1968 年 3 月
3)
本書第 3 部は、1971 年 7 月のニクソンショッ
以降も、事実上の外務省職員が派遣されてい
クから 1972 年 9 月の日中国交正常化にいた
た 。加えて、北京事務所が必要とした年間
るまでの経緯の中で、古井がいかに大きな役
約 1 億円にのぼる経費は「全額国庫負担」と
割を果たしたかを、主に公刊史料を丹念に渉
されていたのである 。
4)
5)
猟・分析することで明らかにしている。今後
この他にも、本書が明らかにした 1970 年
の日中国交正常化に関する研究において、古
度の MT 貿易交渉の時だけに止まらず 、古
井や田川のマスメディアに対する発言や回顧
井は 1972 年 5 月に訪中する直前にも、京都
録を、より信頼性の高い非公刊の一次史料を
産業大学教授の若泉敬を随員として訪中させ
発掘することで、検証していくことが重要な
るべく中国側に働きかけていたことを 、評
課題になると、評者は考える。
者は指摘しておきたい。確かに 1970 年 4 月
6)
7)
以上のように本書の業績は高く評価される
の段階では、若泉と佐藤首相の特別に緊密な
べきであるが、評者は以下のような問題も指
関係を古井が知らなかった可能性もあるであ
摘せざるを得ない。
ろう。しかし、1972 年 1 月に佐藤首相の「腹
まず、新たな先行研究の成果を十分に取り
心」として、若泉は日本のマスメディアに
入れていない箇所が、本書には散見される。
大々的に取り上げられている 。ニクソン
例えば、本書第 2 章では、鳩山・石橋内閣は
ショック以降における古井は必ずしも、本書
親中国政策を採用したが、岸内閣は中国敵視
第 9 章が主張するようにポスト佐藤だけを見
政策を採用したと単純に分類されている。し
据えて日中国交正常化への道を模索していた
かし、鳩山・石橋内閣による対中政策の基本
わけではないように、評者には思われるので
は、米国政府や国民政府からの反発を回避す
ある。
8)
るために日本政府は中国政府と政府間接触を
最後に『古井喜実文書』の使用法について
しないというものであった。日中政府間接触
も問題点を指摘したい。1970 年から 1971 年
へ向けて大きく日本の外交方針を転換したの
にかけて、信頼性が高く詳細な記録が現存す
書評/鹿 雪瑩著『古井喜実と中国―日中国交正常化への道』
91
る計 3 回分の周総理と日本側 MT 貿易代表団
の会談記録について、本書は全く論評してい
9)
ないのである 。例えば、1971 年 12 月 20 日
の会談で周総理は、昭和天皇の戦争責任に言
及するとともに、
「日中国交回復については、
長期にわたって奮闘する必要があるようです
ね」と発言をしていることは、評者にはとて
も興味深い。紙幅にして計 50 ページ以上に
なる極めて貴重な史料に、あえて筆者が論評
を加えなかった理由を、評者は理解すること
ができないのである。
1968 年から 1972 年の間、日本の主要マス
メディアは、MT 貿易を継続するという古井
の決断に好意的な態度を示すか、批判しても
控えめなものに止めていた。佐藤内閣も苛烈
な中国側からの批判に、よく忍耐して MT 貿
易の継続を認めたものだ、と評者は思う。日
本側が文化大革命中における中国の強硬外交
に対して高い柔軟性を示したからこそ、MT
貿易は継続されたのであり、それが 1972 年 9
月の日中国交正常化にもつながったのではな
いか、という評者の感想は日本人の独善的歴
史解釈として批判されるべきであろうか。し
かし、仮に今日、当時の状況をよく知らない
普通の日本人の若者が、MT 貿易の政治会談
コミュニケを読むことがあるならば、どのよ
うな反応を示すのであろうか。
本書が明らかにした多くの歴史的事実は、
今後の日中関係を考える上で極めて重要な手
がかりを与えてくれると評者は考える。是非
とも一読をお勧めしたい。
92
(注)
1)「高碕達之助・廖承志覚書貿易」は、調印者であ
る廖(Liao)と高碕(Takasaki)の頭文字から、一
般に LT 貿易と呼称された。1967 年末に 5 年の LT 貿
易の協定期間が終了すると、文化大革命下の中国で
は廖や高碕といった個人名は機関の名称として使用
できないという理由で、1968 年 3 月から「覚書貿易」
に改称される。覚書貿易の英語名は Memorandum
Trade となることから、MT 貿易ともよばれた。協
定期間が 5 年であった LT 貿易と異なり、MT 貿易の
協定期間は 1 年であり、古井らは MT 貿易の継続の
ために毎年年初に訪中して長期の政治会談を行った
上で、会談コミュニケに調印しなければならなかっ
たのである。
2)木 村 隆 和「岸 内 閣 の「中 国 敵 視 政 策」 の 実 像」
(
『日本歴史』741 号、日本歴史学会、2010 年 2 月)
。
3)本書、169 ページ。
4)木村隆和「LT 貿易の軌跡 ─官製日中「民間」
貿易協定が目指したもの」
(
『ヒストリア』216 号、
大阪歴史学会、2009 年 8 月)
。木村隆和「佐藤内閣
末期の対中政策 ─外務省内における議論を中心
に」
(
『国 際 政 治』 第 164 号、2011 年 2 月)
。1966 年
6 月から派遣されていた田熊利忠(1980 年に在広州
総領事)は、1969 年 9 月に小林二郎(2001 年に駐
バングラディッシュ大使)と交代した。両名とも北
京事務所に 2 年程度派遣された後は、外務省へ復職
することが予め約束されていた。
5)中国課「日中覚書貿易在北京連絡事務所費用(昭
和 47 年度予算案)について」1972 年 1 月 13 日(
「外
務省移管ファイル」2009-00764、外務省外交史料
館)
。
6)本書、296 ページ。
7)「文書名なし」1972 年 3 月 10 日申出、4 月 14 日訂
正(
『古井喜実文書』京都大学文学研究科現代史学
研究室管理)
。
「若泉敬」という文字の左に(×)が
あることから、中国側は古井の要請を断ったようで
ある。
8)後藤乾一『
「沖縄核密約」を背負って─若泉敬
の生涯』
(岩波書店、2010 年)
、279 ページ。
9)「松村 ・ 周会談における周総理発言要旨」1970
年 4 月 19 日、
「周 MT 会 談」1971 年 3 月 1 日、
「周
総理との会見(要旨)
」1971 年 12 月 20 日(
『古井喜
実文書』
)
。
(思文閣出版、2011 年 10 月、A5 変形版、340 ページ、
定価 3,800 円[本体]
)
(きむら・たかかず 防衛省防衛大学校)
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
[書評]
藤原帰一・永野善子編著
『アメリカの影のもとで
─日本とフィリピン』
日下 渉
Ⅰ はじめに
Ⅱ 本書の内容
日本とフィリピンは、これまで有意義な比
日本とフィリピンは、どのようにしてアメ
較の対象とは捉えられてこなかった。日本は
リカの影のもとへと導かれていったのだろう
いわゆる先進国として経済的繁栄を謳歌して
か。序章「二つの帝国の物語─後発植民地
きた一方で、フィリピンは経済発展に失敗
主義としての日本とアメリカ」(藤原帰一)に
し、未だに深刻な貧困問題を抱えたままであ
よれば、日本とアメリカは共に 19 世紀末に
る。日本とフィリピンの間に共通性を見出す
出発した後発の植民地帝国であり、互いに競
ことは難しいとされ、両者の関係は優劣とい
い合う関係にあった。ただし、アメリカは進
う序列的な差異の言葉で語られてきた。こう
歩的な普遍主義を掲げて、公式の植民地を維
した一般的な感覚に対して、本書は両者の間
持しない非公式の帝国を拡大させたのに対し
にアメリカという第三者を持ち込むことで、
て、日本は人種的な汎ナショナリズムを掲げ
これまで省みられてこなかった日米比という
て、領土的支配に固執した。周知のように、
三者間の相互関係に光をあてる。
これら 2 つの帝国の競合はアメリカの圧勝に
日本とフィリピンはともにアメリカとの戦
終わり、日本はアメリカの支配下に置かれ
争に敗れ、その圧倒的な影響のもとで錯綜し
た。この時、アメリカによる日本の占領政策
た関係を結んできた。清水(本書:257)の言
は、実はフィリピン植民地統治の経験に基づ
葉を借りれば、
「日本とフィリピンはアメリ
いていた。こうして日本は、フィリピンと共
カの明確な意図と戦略のもとで親米的心性へ
にアメリカの影のもとに入ることになったと
と飼いなされてしまった同類」
、
「アメリカを
いうのである。
父とするアジアの異母キョウダイ」として捉
それでは、そもそもアメリカはフィリピン
えることができる。さらに永野(本書:156)
でどのような統治を行ったのだろうか。第 1
が指摘するように、日本におけるバブル崩壊
章「フィリピンと合衆国の帝国意識」(ジュリ
以降のグローバル化の進展を背景に、日本と
アン・ゴウ) は、その特徴を明らかにする。
フィリピンをアメリカ化という同じ枠組みの
アメリカの帝国主義をめぐっては、アメリカ
中に改めて投入することが可能になってきた
の「価値」や「伝統」ゆえに、支配地の住民
のである。
に自由と民主主義を与えるリベラルな特徴を
持ってきたとする意見がある。しかしゴウに
書評/?????
93
よれば、アメリカによるリベラルな帝国の起
り、そのモデルはアメリカによるフィリピン
源は、自由・民主主義・自治政府を求める現
統治であった。アメリカは両国の現地エリー
地エリートのなかにあった。アメリカは、
トとそれぞれ協働することで、ホセ・リサー
フィリピンの支配を正当化し効率化するため
ルを神格化し、象徴天皇制を導入した。ただ
に多くの調査を行い、フィリピン人の積年の
し、リサールの神格化は、穏健な改革主義者
願望と要求を理解すると同時に、それらを自
としての性格を強調することで、独立を求め
らの言葉で作り直して流用し、統治政策に反
る革命のエネルギーを遮断することが目的で
映させていったのである。
あったのに対して、象徴天皇制の導入は、昭
アメリカはこうしたフィリピン統治の経験
に基づいて、戦後の日本でもエリート支配を
和天皇の戦争責任を不問に付しながら日本の
戦後復興に利用するためであった。
再構築した。ただし、第 2 章「戦後日本と
こうしてアメリカの影響下で両国の戦後復
フィリピンのエリートの継続性─アメリカ
興がすすめられたものの、アメリカとの戦争
の影響」(テマリオ・リベラ) が主張するよう
の記憶が簡単に忘却されたわけではなかっ
に、その帰結は両国で大きく異なった。日本
た。第 3 章「日本との戦争、アメリカとの戦
では、GHQ が戦争を主導したエリートの公
争─友と敵をめぐるフィリピン史の政争」
職追放と農地改革を断行した後に、反動的な
(レイナルド・C・イレート) が指摘するよう
「逆コース」を行った。その結果、政官財に
に、アメリカは 1902 年以降、検閲や学校制
おける保守的エリートのヘゲモニーが確立
度を通じて、多大な犠牲をもたらした比米戦
し、そのもとで日本は繁栄を謳歌した。他
争の記憶を忘却させ、アメリカはスペインの
方、戦後のフィリピンでは、貧農の支持を得
圧制からの解放者であるという記憶を創出し
たフク団がエリート支配に対抗する新興勢力
ていった。フィリピン革命も無慈悲なカシケ
として台頭したものの、アメリカはそれを共
と非合理な群衆が引き起こした騒乱にすぎ
産主義の脅威とみなして弾圧し、農地改革を
ず、1898 年に設立された共和国も未熟でア
求める声も蔑ろにした。またマッカーサーが
メリカの後見的指導が必要であったというの
対日協力者のロハスを戦後政治の指導者に仕
である。しかし日本軍による占領が始まる
立て上げたため、対日協力問題をめぐるエ
と、改めて比米戦争の記憶を呼び起こそうと
リート間の亀裂がエリート支配を揺るがす可
する試みが行われた。しかし日本軍の暴力に
能性も回避された。こうして寡頭エリート支
対する怒りを背景に、フィリピン人とアメリ
配が持続し、その下でフィリピンは苦しみ続
カ人兵士による共通の受難、死、復活という
けたのである。
解釈が強まり、比米戦争の記憶は再び忘却さ
またアメリカは、占領国における親米的な
せられていった。
国民統合を促進するために、現地のシンボル
第 4 章「二つの戦後 60 年 ─比米戦争と
を無害化して活用した。第 5 章「象徴天皇制
第二次世界大戦の記憶と哀悼」(中野聡) も、
(永
とホセ・リサールの神格化との比較考察」
戦争の記憶に着目する。中野によれば、フィ
野善子) によれば、戦後日本の復興を基礎づ
リピンでは、喪われた革命と比米戦争に対す
けたのは GHQ と日本人エリートの協働であ
る哀悼の欠如に対する記憶の反乱として、革
94
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
命家の魂と会話する能力をもった者たちが民
の支配といった表象に収まりきらない日比夫
衆蜂起を繰り返した。他方、日本人による戦
婦間の交渉や力関係の逆転を明らかにしてい
没者慰霊も、戦没者を忘却する社会に対する
る。日本でもフィリピンでもアメリカはモダ
記憶の反乱であった。ただし、日本の「英
ンの象徴として憧憬の対象であり、日比夫婦
霊」が戦地で救出を待ったのに対して、フィ
の関係性はこうしたアメリカに対する夢想の
リピン人革命家の魂は時空を越えて民衆反乱
もとで偶発的に形成されている。フィリピン
者に取り憑いた。こうした魂の自由奔放さ
人女性は、英語といったアメリカのシンボル
は、圧倒的な力による敗北の経験の積み重ね
を活用し、また「優しいアメリカ人」のよう
によって、過去と現在の記憶が同一の平面状
に振舞うことを日本人の夫に求めることで、
にちりばめられたためだと解釈できる。日本
既存の権力構造に交渉する。しかし、日本人
における記憶の反乱は、戦没者慰霊に協力す
男性がフィリピン人女性によって自らの優勢
るフィリピンという他者の助けを得て悲哀の
性が覆されたと認識すると、暴力によるヒエ
仕事を完結した。だが、フィリピンにおける
ラルキーの回復を試みることもある。
悲哀は完結しておらず、日本人による戦争の
忘却は新たな抗議を生じさせかねない。
個人に投影されたアメリカの影は、時に政
治の世界で重要な役割を果たす。第 8 章「ア
アメリカとの戦争、日本との戦争という経
メリカの磁場のなかの自己形成─山口百恵
験は、フィリピンに相対立する影を投影する
と小泉元首相をとおしてみるヨコスカと戦後
ことになった。第 6 章「対抗する陰影〈日本〉
日本のねじれ」(清水展)によれば、横須賀で
と〈アメリカ〉─フィリピン系アメリカ人
生まれ育った小泉元首相は、米軍基地が体現
のなかで」(アウグスト・エスピリトゥ)によれ
する暴力的なアメリカを忌避すると同時に、
ば、日本とアメリカは「対抗する陰影」とし
映画や音楽のなかのアメリカに憧憬を抱くと
て異なる形でフィリピン人の人生を形づく
いう分裂した志向を抱きながら自己形成をし
り、彼らの忠誠心を支配してきた。親日的な
た。こうした両者を行き来し、どちらにも安
見解は、アジアにおける日本の指導力や東洋
住できないという疎外感・違和感は、小泉の
の精神に価値を見いだすと同時に、アメリカ
虚無とニヒリズム、そしてその反面としての
の植民地的権力や人種差別主義を否定する。
率直さを形成した。小泉は、横須賀において
これに対して、親米的な見解は、アジアに対
アメリカによって劣位に位置づけられてきた
する日本の帝国主義と残虐さを非難し、アメ
日本の受苦と受動性を直接的に経験したが故
リカのリベラリズムを希望とみなし、アメリ
に、それを諦観しながらも、覚めた情熱を持
カはフィリピンと日本の上部もしくは外部に
ち政治に積極的にかかわっていった。
位置しているとみなすという。
このように、各章の着想は大変興味深く、
日米比の権力関係は、親密圏の政治にも重
非常に刺激的な議論を提示している。とくに
要な影を投げかけている。第 7 章「権力の三
リサールの神格化と象徴天皇制の比較や、エ
重奏─フィリピン人、日本人、植民地権力
リート支配の再構築がもたらした対照的な帰
の居場所」(鈴木伸枝)は、日米比の三者関係
結への着眼は、日比比較研究の重要な可能性
に着目することで、北の男性による南の女性
を提示している。また度重なる抑圧からの解
書評/藤原帰一・永野善子編著『アメリカの影のもとで─日本とフィリピン』
95
放を求め、時空を越えて憑依するフィリピン
まず、本書によって喚起されるのは、父の
人革命家の魂には、思わず胸が熱くなった。
暴力と支配についての忘却された記憶であ
ただし、十全に展開しきれていない議論も
る。私たちはフィリピンという異母兄弟を通
散見された。とくに、なぜ日本とフィリピン
じて、アメリカの戦略のもとで生まれ育てあ
はアメリカによる類似の支配を受けながら
げられた自らの姿を改めて知ることになる。
も、かくも異なる戦後を歩んできたのか、と
アメリカはフィリピン支配の経験に基づいて
いう共通性から生じた差異についての説明が
戦後の日本を統治したのであり、そこには重
不十分であるように思われた。政治学的にい
要な共通点が存在する。その特徴は、圧倒的
えば、なぜフィリピンではアメリカ支配のも
な軍事力によって侵略した後に、進歩的かつ
とで「強い社会、弱い国家」(Migdal, 1988)が
改良主義的な統治によって他国の支配や軍部
形成されたのに対して、日本ではその逆が生
の暴走から両国を「解放」し、ナショナリズ
じたのかという問題である。さらに惜しむら
ムを親米的心性の鋳型のなかに封じ込め、飼
くは、本書には全体を包括する章がないた
い慣らしたことであった。アメリカは、この
め、本書が切り開いた新たな視座から導き出
「解放」のプロジェクトにおいて厳しくも優
しうるメッセージが拡散してしまった感を否
しき父として立ち現われてきた。本書の多く
めない。次節では、本書から受けたインスピ
の章は、フィリピンと日本におけるこうした
レーションをもとに、私なりの解釈を加えて
解放の物語の欺瞞を暴き出している。
みたい。
次に、本書はフィリピンとの知られざる血
縁関係を示すことで日比関係に再考を迫る。
Ⅲ 「恩恵」に反乱する異母兄弟
一般に日本とフィリピンの関係は、先進国と
本書は、知らなかった親類が突然現れて、
途上国といった二項対立で捉えられてきた。
自分の知られざる過去について語りだしたよ
しかし、フィリピンは劣位の他者などではな
うな当惑を与える。
「アジアの異母キョウダ
く、同じ父を持ちながらも戦争による遺恨を
イ」という清水の比喩を援用して議論を展開
抱え、またより困難な境遇を強いられてきた
するならば、日本もフィリピンも、周到に準
兄弟であった。日本の帝国主義はアメリカの
備されて祝福されながら生まれた子供たちで
ヘゲモニーを打開する可能性を秘めていたも
はなかった。アメリカによって母なる大地が
のの、日本軍の暴力は皮肉にもフィリピンの
強姦されて産み落とされたうえに、親米的心
親米感情を強化させた。しかも、日本は経済
性のもとへ去勢され、その暴力的な出自につ
成長に成功した一方で、アメリカの寵愛を受
いても忘却させられて育て上げられた子供た
けたはずのフィリピンは経済的停滞を余議な
ちである。こうして育った 2 人の異母兄弟が
くされた。私たちは、こうしたフィリピンと
邂逅し、複雑に絡まりあったお互いの出自と
の数奇な血縁関係を再発見することによっ
苦渋の歴史を改めて知る。だが、自らに刻み
て、遺恨の歴史と非対称的な権力関係を孕
込まれた父なるアメリカの影を消し去ること
む、矛盾に満ちた奇妙な歴史の共約可能性を
は、もはやできない。本書は、そのような困
見出すことができる。
惑の契機を読者に突き付ける。
96
そして、この着想を敷衍することによっ
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
て、フィリピンだけでなく、インディアンに
着想は、今日グローバル化の名のもとでアメ
始まり、ベトナム、アフガニスタン、イラク
リカの影が有無を言わさずに世界を覆い尽く
へと続くアメリカの「解放」の対象とされた
し、日本でも閉塞感と不安感が立ち込めるな
無数の人びととの間に、忘却された血縁関係
かで、アメリカが標榜する恩恵の欺瞞を看破
を再発見することができる。アメリカから受
し、そのヘゲモニーに対する抵抗と解放の基
けた共通の受難の発見は、こうした他者を自
盤を練り直していくにあたっても重要な契機
己とは切り離された無関係の存在ではなく、
にもなろう。
様々な軋轢や矛盾を孕みながら自らと何かを
共有する理解可能な存在として捉え直すこと
を可能にしよう。
とりわけアジアにおけるアメリカの長子
フィリピンが 110 年以上にわたって経験して
きた苦渋の歴史は、アメリカの愛が繁栄を保
(参考文献)
Migdal, Joel S. 1988. Strong Societies and Weak States:
State-Society Relations and State Capability in the
Third World, Princeton: Princeton University Press.
(法政大学出版局、2011 年 6 月、四六判、
320 ページ、定価 3,200 円[本体]
)
(くさか・わたる 京都大学)
証するものではないことを露骨なまでに示し
ている。こうした数奇な共約可能性に対する
書評/藤原帰一・永野善子編著『アメリカの影のもとで─日本とフィリピン』
97
[書評]
船津鶴代・永井史男編著
『変わりゆく東南アジアの地方自治』
田村慶子
Ⅰ はじめに
民主主義は、選挙による政権交代や政治の
分権化を不可欠の要件とする。東南アジア諸
国も「開発主義の時代」を経て、1980 年代
後半から 90 年代に民主化の波が押し寄せ、
同時に地方分権制度が整えられた。本書は、
東南アジアの主要民主主義国であるインドネ
シア、タイ、フィリピン、マレーシアを取り
第 4 章 タイの地方自治 ―「ガバメント」
強化の限界と「ガバナンス」導入
第 5 章 タイ農村部基礎自治体の創設と環境
の「ガバメント」
第 6 章 フィリピンの地方政府―地方分権
化と開発
第 7 章 フィリピン沿岸州自治体の環境「ガ
バナンス」
上げ、
「地方政府における公共サービスや開
第 8 章 多民族社会マレーシアの地方行政
発政策の決定・実施は誰が行うのか」という
―一党優位体制下における安定し
問題意識の下、
「ガバメント」(中央・地方政
た行政
府によるサービス配付) と「ガバナンス」
(中
このように、マレーシア以外は各国 2 つの
央・地方政府以外の多元的主体が、政府に協力し
章を立て、前の章はそれぞれの地方自治制度
て資源を提供し、公共サービス・開発政策の決
の歴史と概要、後の章は地方の個別の事例や
定・配付・実施のいずれかの段階に加わって実施
テーマを取り上げて、
「ガバメント」と「ガ
される、公共サービスの手法) という分析概念
バナンス」の問題を論じるという構成になっ
を設定し、長期的変化を念頭に置いた各国の
ている。
制度分析とその特徴の比較を試みた、共同研
究の成果である。
第 1 章は、全体の問題意識や概念の説明、
分析課題をまとめている。
続く 2 つの章は、近年の著しい経済成長に
Ⅱ 本書の概要
よって世界の注目を集めるインドネシアの分
本書の章立ては以下のようになっている:
権化である。この国はスハルト体制崩壊直後
第 1 章 変わりゆく東南アジアの地方自治
から急進的な分権化を進め、それまでの「集
第 2 章 逆コースを歩むインドネシアの地方
権的ガバメント」から一気に「分権的ガバメ
自治―中央政府による「ガバメン
ント」や自治体での「ガバナンス」導入をめ
ト」強化の試み
ざしたものの、その混乱の反省から、改革の
第 3 章 インドネシア分権化時代の村落改革
「行き過ぎ」を是正し、制度を作りなおすプ
―「村落自治」をめぐる理念と現実
ロセスの途上にある。第 2 章は、そのインド
98
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
ネシアの「行き過ぎた」分権化、その「揺り
第 7 章は、フィリピンの地方政府(「ガバメン
戻し」である 2004 年地方行政法によるガバ
ト」
) を非政府アクター(
「ガバナンス」
) の参
メント強化のプロセス、さらなる再中央集権
加が変える可能性があるかどうかを、バター
化強化の動きをまとめている。第 3 章は、村
ン州総合沿岸管理事業を取り上げて考察した
落を取り上げ、スハルト後には村落自治を掲
もので、両者の関係は、
「ガバメント」自身
げた村落再編・改革が行われたものの、自治
が自らのもつ資源を活用して、
「ガバナンス」
を支える財政基盤は脆弱なままであったこ
が作用するための環境を整えたときに「ガバ
と、2004 年以降になると村に対する上位政
ナンス」は有効に機能することなどを明らか
府のコントロールが強まり、村を県・市政府
にした。
の末端と位置づける傾向が強くなっているこ
とが分析されている。
第 8 章は、特異な地方行政をもつマレーシ
アを取り上げ、その政治体制が持続的である
インドネシアの地方分権化が劇的に実現し
理由の 1 つが、中央政府の地方政府に対する
たこととは対照的に、漸進的な地方分権プロ
「ガバメント規律」の強さにあると考え、そ
セスを踏みながら、個々の自治体の行政能力
れを検証するために、1971 年から本格化し
向上をめざしてきたのがタイである。第 4 章
た開発体制の浸透にともなう連邦 – 州の関係
は、タイの地方分権化のプロセスと特徴を整
に着目して、地方行政の実態と変化を明らか
理し、個々の自治体の「ガバメント」能力強
にしている。
化は一定の成果を上げているものの、地方自
治制度全体の「ガバメント」権力強化はなお
Ⅲ 本書の意義
ざりにされたままであり、今後は不可避的に
本書は、東南アジアの地方自治についての
「ガバナンス」の要素を導入せざるを得ない
初の本格的な研究書である。東南アジアの地
ことなどを指摘している。第 5 章は、農村部
方自治や地方政治の研究はまだ始まったばか
自治体創設の制度的意味と自治体による環境
りであり、本書は初学者のための入門書とし
の「ガバメント」の現状と課題について論じ
ても必読の書となるであろう。さらに本書
たもので、農村自治体創設は大きな制度変化
は、東南アジア主要民主主義国の地方自治の
と権利を農村住民にもたらしつつあるもの
歴史や現状を俯瞰するのではなく、公共サー
の、重要な業務分野において農村自治体への
ビスの決定や配付方法という具体的な制度分
権限委任が不十分なために、
「ガバメント」
析を手掛かりに、分権化にともなう地方自治
上の機能を果たしづらい状況にあると述べて
制度と政治の変化を「ガバメント」と「ガバ
いる。
ナンス」を用いて分析して各国の状況を比較
第 6 章は、インドネシア同様に急激に地方
分権を進めたように見なされているフィリピ
しているため、分析の視点が定まり、優れた
比較研究の書ともなっている。
ンの分権化のプロセスが、実はアメリカ統治
2 章ずつ設けられた 3 カ国分析の章は、そ
期から漸進的に進んできたこと、また、1991
れぞれにかなりの読み応えがある。まず前半
年地方政府法以降の「ガバナンス」制度導入
で、インドネシアの地方行政法やタイの地方
の変化を、セブ市の事例から明らかにした。
分権推進法、フィリピンの地方政府法という
書評/船津鶴代・永井史男編著『変わりゆく東南アジアの地方自治』
99
各国の地方分権を促進した法とそれに基づく
ンス」が導入されることで、住民が地方政治
分権化の推進を紹介し、整備された地方自治
家に求めるものが徐々に変化し、政策志向の
制度をわかりやすく丁寧にまとめている。後
首長の誕生につながっている。読者は、地方
半の章では、具体的な事例やテーマを取り上
分権の推進が地方にも市民社会を生成させる
げて、3 カ国の変わりゆく地方の姿を「誰の
ことを、具体的な事例で理解することができ
資源を用いて、誰が公共サービスの中身を決
るだろう。
め、それをいかに配付するのか」という全体
分析対象にマレーシアを加えたことも、本
を貫く問題意識に応えながら、描写してい
書の意義を高めている。政権与党が独立以来
る。前半と後半の章で重複する記述はあるに
変わらないマレーシアを他の東南アジア民主
せよ、読者は前半でそれぞれの国の地方分権
主義国と同列に論じることはできないため、
の状況についておおまかな知識を得て、後半
本書にマレーシアが含まれることを奇異に感
で「ガバメント」の現状と課題、
「ガバメン
じた読者もいるかもしれない。しかし、著者
ト」が「ガバナンス」に補完されている状況
はマレーシアの政治体制がこのように持続的
や、
「ガバナンス」の推進によって「ガバメ
である理由を、地方政府が連邦政府の「アメ
ント」が強化されていることなどを、取り上
とムチ」政策によってその集権的「ガバメン
げられた事例で知ることができる。
ト」を受け入れている/受け入れざるを得な
さらに、3 カ国の比較を通して、例えば、
いこと、さらに、開発促進のために中央から
タイでは中央政府が地方行政に事前に関与し
末端部への行政の強固なシステムが構築され
てくること、それに対して、インドネシアや
ていて、住民が一定のサービスを享受できる
フィリピンは分離型地方自治をめざそうとし
からだと分析している。州の立法、行政権限
ていること、強固な官僚制をもつインドネシ
から財政を含む地方行政制度についても、他
アやタイに比べて、フィリピンでは「ガバナ
の章同様にわかりやすい説明がなされている。
ンス」の余地が大きいことなど、それぞれの
差異や特徴を理解することができるように工
Ⅳ 本書の課題
夫されている。平易で明快な日本語も、それ
このように東南アジア諸国の地方分権を
ぞれの地方自治制度の特徴の理解を多いに助
扱った初の本格的研究書であり、読み応え十
けている。
分の書ではあるが、若干物足りない点もあ
ところで、東南アジアの主要民主主義国と
る。以下、的外れであることも承知の上でい
いえども、地方レベルでは依然として親族
くつか感じたことを、細かいことも含めて述
ネットワーク中心の政治が展開され、パトロ
べてみたい。
ン – クライアント関係という強固な論理が強
第 1 は、インドネシアでの内務省による逆
く残存することはよく知られている。そのな
コース(再中央集権化強化)の動きがますます
かで、地方自治制度が構築されて予算が付い
加速され、一方、村落では地方首長直接公選
たとしても、その配分はなかなか公正なもの
制が導入されるなか、村が地方政治家や政党
にならない。ただ、フィリピンの章が指摘す
の票田として政治的に利用・動員される可能
るように、
「ガバメント」が変わり、
「ガバナ
性があると、地方政治の現状と将来に著者は
100
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
疑問を抱いているように思われる。であるな
方政府の「ガバメント」と連邦政府の集権的
ら、逆コースを歩む現状に対して、
「自治体
「ガバメント」の対立はどのような様相を見
サイドが結束して反対するような動きがな
い」(64 ページ) ことの意味は何なのだろう
か。
せているのだろうか。
また、これら野党政権を誕生させた州で、
「ガバナンス」導入の動きはあるのだろうか。
第 2 は、タイの都市部と農村部での大きな
野党政権が成立した州には開発予算の配分は
亀裂と、それをそのまま是認、制度化して地
少ないから、州政府は住民や民間セクターに
方分権化が推進、定着しつつあることの問題
行政のパートナーとして協力を求めていくの
点である。タイの都市住民や伝統的エリート
ではないかと考えられる。これまでマレーシ
が、農村住民を「自分たちと同じ市民」とは
アの地方行政にほとんど見られなかった「ガ
見なしていないのはよく知られている。首長
バナンス」導入がなされるのかどうか、その
の学歴要件も都市と農村では異なるし、都市
可能性についてもできれば言及して欲しかっ
部と農村部では地方自治の構成原理が異な
た。
る。ただ、農村部とくに都市近郊の農村部で
最後に、できれば「おわりに」の章を設け
住民の教育程度や所得が上昇するなか、現状
て欲しかった。第 1 章の「おわりに」に全体
のままの地方分権化の推進は、長期的に農村
のまとめや課題が短く述べられているとはい
部に安定をもたらすのだろうか。
え、東南アジア諸国の地方自治や地方政府の
第 3 は、2008 年総選挙の結果を受けて、マ
研究の今後の展望やその意義について、著者
レーシアの連邦と州の関係がどのように変化
なりの意見をじっくりと展開して欲しかっ
しているのか/していないのか、についての
た。
記述が見られなかったことである。2008 年
以上、いくつかの細かい点を上げたが、本
総選挙では、マレー人の UMNO(与党連合を
書の果敢な挑戦によって東南アジアの地方政
率いるマレー人の与党)離れが加速され、かつ
治や地方分権の研究が広がりを見せるであろ
民族を越えた政党連合が大きな支持を集め、
うことに、心から感謝したい。
前回に続いてクランタン州で、さらにペラ、
スランゴールなど 5 州で野党政権が成立し
(アジア経済研究所、2012 年 2 月、A5 判、
275 ページ、定価 3,400 円[本体]
)
た。総選挙から数年を経て、これらの州で地
(たむら・けいこ 北九州市立大学)
書評/船津鶴代・永井史男編著『変わりゆく東南アジアの地方自治』
101
[書評]
Nathan G. Quimpo
『Contested Democracy and the Left in the
Philippines after Marcos』
高木佑輔
Ⅰ はじめに
第 3 章 拡大しつつある左派の市民社会への
「本書は、
『新たに再興された』民主主義の
参加
深化とその深化のプロセスにおける左派の役
第 4 章 左派、選挙と政党システム
割に注目した、権威主義後のフィリピン政治
第 5 章 公職と統治への左派の関与
に関する著作である」(5 ページ)。すでに出
第 6 章 特別な関心領域―政治教育と政治
版から 4 年が過ぎたものの、本書の価値は未
だに減じていない。第 1 に、著者が本書で注
改革
第 7 章 町(municipality)レベルにおける政党
の仕事
目した新興左派勢力の代表であるアクバヤン
は、現ニノイ・S・アキノ政権において大方
結論
の予想を超える存在感を示している。第 2
に、著者の提示した「競合する民主主義」と
第 1 章から第 3 章までが分析視角の提示と
いう概念は、現在においてもフィリピン政治
明確化、第 4 章以降が実際の事例分析となっ
分析の最新の分析視角の 1 つであることに変
ている。以下、分析視角を要約した後、事例
わりはない。本書評では、現代フィリピン政
分析の成果をより丁寧にみていきたい。とい
治の現状分析とフィリピン政治研究の双方の
うのも、本書の最大の魅力はその事例分析に
展開に大きく貢献している本書の内容紹介、
あると考えるためである。
評価と課題について整理したうえで、本書以
著者自身が提示する分析視角のキーワード
降のフィリピン政治研究が取り組むべき課題
は、下からの民主主義、新興左派勢力、そし
についても検討したい。
て覇権型市民社会論である。下からの民主主
Ⅱ 要約
本書の構成は以下のとおり。
義は、エリート支配の下で維持されてきた形
式的民主主義を批判し、より参加型で平等を
目指す民主主義の在り方である。この下から
はじめに
の民主主義の中心を担うのが、第 2 章で詳述
第 1 章 競合する民主主義―フィリピン政
される新興左派勢力である。現在のフィリピ
治のもう一つの解釈
第 2 章 民主主義に対する脅威か民主化勢力
か?
102
ン共産党は 1968 年に結党されたが、1993 年
に決定的に内部分裂し、それまでの路線を堅
持しようとする勢力と新興左派勢力とが誕生
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
した。新興左派勢力は、参加型で平等な民主
り組織的な参加を実現しつつあることが事例
主義の実現を求め、選挙政治や統治といった
と共に紹介されている。
領域で活躍を始めている。第 3 章では、こう
第 5 章では、公職と統治への関与が議論さ
した新興左派を含む政治の在り方を覇権型市
れている。ここでも左派のアプローチは手段
民社会論という分析視角の中に位置づけてい
型と統合型の 2 つに分類される。ただし、こ
る。著者は、国家との対抗関係を前提とする
れらの左派内部のアプローチに加え、さらに
対抗型市民社会論と、市民の自発的結社の存
世界銀行等が主唱する「良い統治」を進めよ
在を重視する結社重視の市民社会論とは異な
うとする改編新自由主義アプローチ(統治機
る市民社会論として覇権型市民社会論の重要
構の効率性を追求するアプローチ) が存在し、
性を強調する。覇権型市民社会は、寡頭支配
これら 3 つのアプローチが従来のエリート支
層と労働者・農民階級およびその同盟者が覇
配の象徴である利益誘導政治と競合している
権を巡って争う空間であり、競合を通じて平
という。著者は、新興左派勢力が一定程度の
等で参加型の民主主義が実現する可能性を秘
成果を上げていることを紹介しているが、新
めるという。以上を要するに、本書は異なる
興左派勢力が、改編新自由主義アプローチを
勢力間の競合こそがフィリピン政治の動態を
とる勢力と接近し過ぎることに警鐘を鳴ら
形作るものであるとし、その競合を本格的に
す。というのも、著者によれば、改編新自由
分析しようとするものである。
主義アプローチはエリート支配構造を批判す
第 4 章では、左派による選挙政治への参加
について分析がなされる。著者は左派による
るものではなく、政治参加を重視する左派の
目標とは相いれないためであるという。
選挙政治の捉え方に関して、手段型アプロー
第 6 章は、左派にとって重要な 2 つの課題
チと統合型アプローチという 2 つを区別して
である政治教育と政治改革についての分析が
いる。手段型アプローチは、旧来型左派の考
行われる。著者は、政治教育の分析ではこれ
え方で、選挙を通じて現存の権力構造の矛盾
までとは異なる 2 つのアプローチを提示して
を広く知らしめることに重点を置くが、選挙
いる。一方には、民衆の生活から学ぼうとし
を通じて議会多数派を形成したり、特定の政
ない一方的な政治教育スタイルがあり、他方
策を実現することは目標としない。選挙参加
には、活動家と民衆との間の双方向の学びを
は現状の矛盾を広く大衆一般に知らしめる手
重視するスタイルがある。しかしながら、現
段としてのみ意識される。他方で、統合型ア
状では後者のスタイルを実践する勢力は少な
プローチは、新興左派勢力の考え方であり、
いという。他方、政治改革に関しては、新興
選挙参加を参加型民主主義の必須の一部とみ
左派勢力を中心に一定の成果を上げてきたと
なし、選挙戦を勝ち抜くこと、多数派を形成
いう。具体的な成果として、政党名簿法(下
して政策を実現することを目標とする。実際
院における部分的比例代表制)
、選挙近代化法
に、新興左派勢力は、国政レベルでは未だに
(投票結果集計の自動化)
、不在者投票法(在外
従来のエリートの影響力を乗り越えるに至っ
フィリピン人に対する選挙権付与) が列挙され
てはいないが、町(ミュニシパリティ)レベル
ている。
やさらに下の行政区分(バランガイ) ではよ
第 7 章は、新興左派勢力の代表として著者
書評/Nathan G. Quimpo『Contested Democracy and the Left in the Philippines after Marcos』
103
が注目するアクバヤンによる市や町レベルで
式的民主主義との間の競合という独自の分析
の政党活動に焦点を当てている。実際の事例
視角を提示した点は評価できる。また、著者
分析の対象となるのは、アクバヤンの活動が
自身が提唱したものではないが、民主化以降
確認できる 9 つの町である。考察対象となる
の多数派工作の特徴として連合政治という分
町は、ルソン島南部、ヴィサヤ諸島東部、ミ
析視角を応用した点も参考になる 。著者
ンダナオ南部などフィリピン各地から選ばれ
は、連合政治の議論を応用して左派勢力と既
ている。著者の手際のよい事例分析を通し
存のエリート勢力との連合関係を整理し、さ
て、アクバヤンが既存の政治勢力と対立した
らに連合政治の状況のために少数派である左
り協調したりしながら、地方行政に積極的に
派勢力が、特に下院の委員会の委員長職を得
関与してきている様子が浮かび上がる。
るなどして立法過程に実質的な影響を与え得
1)
結論では、これまでの議論を要約し、フィ
る点を指摘している。このことは、勝者総取
リピンにおける「競合する民主主義」の現状
り的な政治過程が強調されるフィリピン政治
の総括と今後の課題が整理されている。現状
分析に新たな視点をもたらしている点で、重
の総括について、エリート民主主義は依然と
要な貢献といえる。
して支配的であるものの、下からの民主主義
第 2 に、左派に注目しながらも、左派の活
は一定程度の実質的な影響力を持っていると
動や理念の分析のみに深入りすることなく、
いう。下からの民主主義を推し進めるための
その他の政治勢力との対立と協調、さらに選
課題の 1 つは、左派勢力内部における手段型
挙、国政(議会政治)、地方政治とさまざまな
アプローチと統合型アプローチをとる勢力間
領域における左派とその関係する勢力が織り
の路線対立にあるという。著者は、統合型ア
なす政治の動態を活写している。そうするこ
プローチを採る新興左派勢力が短期間に非常
とで、静態的なエリート支配のみに還元され
に多くの経験を積んできたことに希望を見出
ない新しいフィリピン政治像を提示してい
すようにして本書を閉じている。
る。特に、国内外に散らばる左派政治の主要
活動家とのインタビューが随所に引用されて
Ⅲ 評価
おり、本書の事例分析の説得力を高めてい
本書を高く評価できる理由は 2 つある。第
る。また、地方自治の実態を描写するための
1 に、特定の制度や運動のみの分析に終始せ
フィールドワークも、フィリピン政治全体に
ずに幅広い先行研究が取り上げられており、
おける左派の関わりという本書全体の問題関
2000 年代のフィリピン政治研究の見取り図
心からそれることなく適度に盛り込まれてお
を示している点である。特に、著名な歴史学
り、新興左派勢力の政治活動の実態を幅広く
者 レ イ ナ ル ド・C・ イ レ ー ト(Reynaldo C.
読者に伝えている。
Ileto)が提起し、
『フィリピン政治学ジャーナ
ル(Philippine Political Science Journal)』上で論
Ⅳ 課題
争を巻き起こしたオリエンタリズム論争を冷
本書の課題は、分析視角と事例分析の間の
静に整理し、これまでの政治分析におけるエ
ずれにある。例えば、第 3 章で整理した覇権
リート偏重を反省し、下からの民主主義と形
型市民社会論という分析視角は第 4 章以降の
104
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
分析でほとんど登場しない。また覇権を巡る
は考えられない。実際に、第 5 章では、左派
闘争と、競合という本書の中核概念の関係性
内部の路線対立に加え、エリート内部の路線
は必ずしも明示的ではない。むしろ、第 4 章
対立も示されている。第 5 章の論点の 1 つは、
以降の分析で重要なのは左派内部における手
利益誘導政治とは異なる、政策に基づく政治
段型と統合型のアプローチ間の対立にある。
の実現である。著者は従来の統治の在り方を
さらに、分析視角と事例分析の間のより深刻
非効率として批判する新たなエリートとして
なずれは,エリート民主主義と下からの民主
改編新自由主義者の存在を指摘している。著
主義が競合しているという前提にある。この
者は、改編新自由主義者を結局は利益誘導政
点は著者自身の事例分析からも明らかであ
治を温存する勢力になりかねないとして警鐘
る。
を鳴らすものの、実は左派勢力が利益誘導政
第 1 に、左派勢力は一丸となって下からの
治を駆逐できるという議論を明示しきれてい
民主主義を支えているわけではない。著者の
るわけではない。新興左派勢力であるアクバ
記述から、左派勢力の中でも新興左派勢力こ
ヤンが主導する政治改革においてもパトロ
そが「競合する民主主義」における主要勢力
ネージ政治の継続や強化の傾向が見られたと
であることがわかる。しかし、旧来の左派と
指摘するのは著者自身である(182 ページ)。
新興左派勢力を分かつのはエリート民主主義
確かに突き詰めていけば、左派と改編新自由
と下からの民主主義との競合ではない。左派
主義者は相いれないかもしれない(最終目標
内部の相違は、民主主義を革命のための 1 つ
として前者は平等を、後者は自由を志向してい
の手段と見るか、平等を実現するための必須
る)
。しかし、例えば利益誘導政治を問題に
の過程の一部として見るのかに基づく。ま
し、統治に関与しながらそれを是正しようと
た、それぞれの左派勢力は異なる組織の在り
悪戦苦闘している点では、著者が指摘するほ
方を模索してきた。それは旧来の左派が前衛
ど両者の相違は大きくないように思える。第
勢力に指導された革命を志向するのに対し、
5 章の記述から浮かび上がる競合は、利益誘
新興左派が参加型民主主義や平等といった価
導政治を継続しようとする勢力とそれを乗り
値を重視することの反映である。左派勢力の
越えて政策本位の政治を実現しようとする勢
強さの背景として、著者はしばしば経済格差
力との競合である。
を指摘しているが、そうであれば、左派勢力
内部の対立は無視できる程度のものとなるは
Ⅴ おわりに
ずである。左派勢力内部の深刻な路線対立を
著者が鮮やかに切り取った現代フィリピン
考えれば、エリート民主主義と下からの民主
政治の動態について、本書の分析視角を離れ
主義とが競合していると考えるよりも、それ
て再考すれば、今後のフィリピン政治研究に
ぞれの政治勢力の掲げる理念の相違が複数の
残された 2 つの課題が浮かび上がってくる。
政治勢力間の対立と協調の構図に反映される
本書から浮かび上がる以下の 2 つの課題を提
と見るのがより自然な見方とはいえないだろ
示して拙稿の結論に代えたい。
うか。
第 2 に、エリート民主主義もまた一枚岩と
第 1 に、著者はエリート民主主義論の有効
性が 1986 年の民主化以降に揺らいでいると
書評/Nathan G. Quimpo『Contested Democracy and the Left in the Philippines after Marcos』
105
論じている。しかし、著者自身の記述から
選挙戦術の一環としてのみ左派勢力との共闘
も、左派勢力の台頭は 1930 年代にはすでに
を志向する勢力の存在ですら、最終的には新
見られた現象であること、左派の中で手段型
興左派勢力の一員となることがある。また、
アプローチが主流になるのは 1968 年以降か
一員とはならないまでも互いに協力可能な関
ら 1990 年 代 ま で で あ る こ と が わ か る。 エ
係を築く事例も存在する。新興左派勢力が、
リート支配を相対化する分析視角は、1986
著者のいうところの「従来のエリート政治」
年以前のフィリピン政治理解の再考の必要性
の領域とされてきた選挙政治と統治への参加
を示しているともいえる。特に、いわゆる
を強め、政策の相違に基づく複数政党からな
「下からの民主主義」が停滞していたように
る政党政治の実現を模索しているとすれば、
見える 1950 年代から 1960 年代半ばごろまで
競合する民主主義論は、エリート対民衆とい
の時期の再検討が必要とされるのではないだ
う図式を超えたフィリピン政治理解の必要性
ろうか。
を示しているといえる。
第 2 に、より重要なのはエリート政治支配
という図式の相対化である。はたして貧困層
に対峙する政治勢力を、エリートとして一括
りに理解する図式は未だに有効なのであろう
か。著者自身が若干ふれているように、新興
左派勢力の重視する政治的価値を理解し、共
闘した「エリート」は、改編新自由主義者に
限らず存在してきた。また、地方政治に関す
(注)
1)著者自身が指摘しているとおり、連合政治の概念
は 1986 年以降のフィリピン政治を理解する概念と
して政治学者のパトリシオ・アビナレス(Patricio A.
Abinales)やフェリペ・ミランダ(Felipe B. Miranda)
らが提唱したものである(167–168 ページ)
。
(Yale University Press、2008 年、405 ページ、
9×6.2×1 inches、US$38.0)
(たかぎ・ゆうすけ フィリピン大学社会科学
哲学学部第三世界研究所)
る著者の事例分析で例示されているように、
106
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
[書評]
鄭 成著
『国共内戦期の中共・ソ連関係
―旅順・大連地区を中心に』
石井 明
Ⅰ 本書の構成と概要
め、中共と国民党の間を自由自在に往来し
本書は筆者が早稲田大学アジア太平洋研究
て、明確なスタンスの表明を 1946 年春まで
科に提出した博士号学位請求論文に手を加え
たものである。まず本書の構成と概要を紹介
する。
避けていた、と指摘している。
第 2 章「進駐初期における中共とソ連の接
近」では、当初、旅大地区進出の試みに失敗
1940 年代後半、中国東北の旅順と大連地
した中共が、ソ連進駐軍のバックアップを得
区(以下、旅大地区と記す)はソ連軍の軍政下
て、地方政権を樹立できた過程を明らかにし
にあった。序章で筆者は、本書執筆の目的と
ている。筆者は本章第 1 節に「ソ連軍の暴行」
して、当時の旅大地区での中国共産党とソ連
を置き、ソ連軍軍人による暴行被害が解放者
軍の協力関係に焦点をあて、その協力関係の
として旅大に現れたソ連軍のイメージを大き
実態を明らかにすることで、中ソ同盟関係確
く悪化させ、中国人の強い不信を招いたこと
立前の中共とソ連の関係を地方の基層組織レ
を指摘している。
ベルの視点から考察し、その特質を把握する
ことを挙げている。
第 3 章「中共旅大とソ連軍の共同行政運営」
では、中共とソ連軍当局による共同政権運営
さらに序章で、著者は 2 点、本書で検討す
の実態を考察し、ソ連軍主導の二重統治構造
べき課題を設定している。1 つ目は、中共と
の特徴を明らかにしている。中共旅大とは旅
ソ連軍の間に対等的なパートナーシップが形
大地区の中共組織を指す。二重の統治構造と
成できたかどうかということであり、2 つ目
は、筆者によれば、中共が行政機構の各部署
は、1 つ目の問題の結論がいかなるものであ
を掌握して表舞台に立って日常的行政管理を
れ、その背後にいかなる要因があったのかと
運営するが、最終的決定権はソ連軍当局の手
いうことである。
にあるというものであった。
第 1 章「国共内戦中の中共とソ連の関係」
中共・ソ連関係の転機になったのが、1947
では、第 2 次世界大戦直後の東北地域を取り
年 6 月、国民政府の旅大視察が国民政府から
巻く内外情勢および東北をめぐる中共、国民
見て成果をあげることができなかったことで
政府とソ連の三者間の複雑な関係を概観して
あった。以後、中共とソ連軍の協力関係が一
いる。第 1 章の最後で筆者は、東北のソ連軍
気に加速された。しかし、大衆の支持を集め
当局は、自らの権益を最大限に確保するた
るための土地改革はソ連軍側に阻害され、中
書評/?????
107
共旅大はその代替策として「住宅調整運動」
ことを挙げている。2 点目の対等な関係がで
を展開した。1946 年、47 年の 2 年間で、中
きなかった要因としては、両者の間に利益対
共旅大は 2 万人の兵員を募集して前線に送る
立を調整するための健全な体制が終始形成さ
ことができたが、この実績の背後に「住宅調
れなかったことが一番の要因だったと指摘し
整運動」の役割が大きかったと思われる、と
ている。
筆者は指摘している。
Ⅱ 本書の評価
第 4 章「経済分野における中共とソ連の協
筆者は、中ソ関係の先行研究を検討して
力と対立」では、筆者は経済分野では双方の
いる箇所で、中国ではイデオロギーの束縛
間に利益衝突の要素が少なからず存在してい
が緩和された 1990 年代以降、中ソ関係研究
た、すなわち現地の経済資源の利用につい
が一気に活気を呈し、多くの研究成果が現
て、中共側は国民政府軍との戦いに優先的に
れたとして、それらの問題点を含め成果を
転用したいという考えが強かったのに対し
紹介している。むろん、1990 年代以前にも
て、自国経済回復の課題を抱えるソ連軍側
中ソ関係の研究書はあった。第 2 次世界大戦
は、同地の資源を国内の経済復興に充てたい
後の旅大地区の中共・ソ連関係についての
という動機が強かった、と指摘している。
モノグラフというと、まず評者の念頭に浮
しかし 1947 年の国民政府の大連接収の失
かぶのがボリーソフの次の著作である。О.
敗以降は、国民政府の進入による秩序再編の
Борисов, Советский Союз и Маньчжурская
恐れが解消し、両者の経済協力の物的基礎が
Революционная база 1945–1949,《мысль》
, 1975
出来上がり、緩やかな経済協力が生まれたと
(ボリーソフ著『ソ連と満州革命基地 1945–1949
して、大連船渠(大連ドック)など 4 つの中ソ
年』
)
。
合弁企業の経営生産の状況を詳しく紹介して
同書は、ソ連が中国東北における革命根拠
いる。さらに、ソ連軍の庇護のもとに大型軍
地の形成と強化のため、いかに大量に援助し
需生産拠点―建新公司が設立されたことも
たかを強調しており、特にソ連軍の旅大駐屯
詳しく紹介している。建新公司は中共の軍事
について、一般的には中国革命の将来と、特
的勝利を大きく支えることになる。
殊的には満州革命基地の存在にとって決定的
第 5 章「対外宣伝面における中共とソ連の
なイシューであったとし、国民党司令部は南
協力」では、旅大で 1946 年 8 月から 5 年間、
満の革命軍の背後をつくために、その軍隊を
ソ連軍当局が発行した新聞『実話報』に焦点
上陸させる意図を持っていたが、その意図を
をあてて、
『実話報』社内の中共とソ連軍の
挫折させた、と指摘している。同書はさらに
協力実態を探り、あわせて『実話報』掲載記
1947 年以降、中国革命のセンターが毛沢東
事の分析を行っている。
のいた延安から東北に移っていたとも主張す
終章では、序章で設定した問題提起に対し
る。中ソ対決下で書かれた同書は、毛沢東主
て答えている。1 点目の対等なパートナー
義をたたくという狙いがはっきりしており、
シップが形成できたのかという点に関して答
政治的な性格が強かった。
えは否であるとして、その理由として両者の
このような見解は中国で厳しい批判を受け
協力関係が終始ソ連軍の主導下で進められた
た。例えば、国防大学の徐焔は、
「ソ連が満
108
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
州で中国共産党に与えたという援助」につい
いのだが、1 つだけ例を挙げておく。第 5 章
て次のように評した。
「中ソ関係が悪化した
で、旅大地区でソ連軍当局が発行した中国語
とき、ソ連も『恩人』顔で、その援助が中国
新聞『実話報』に焦点をあてて、
『実話報』
革命の勝利に『決定的な役割』を果たしたと
社内の中共とソ連軍の協力実態および、
『実
自賛した。しかし、当時の中国共産党と国民
話報』の掲載紙面の 2 つの側面から考察を
党との実力を対比し、共産党に対するソ連の
行っているが、我々は著者の研究によって
援助と国民党に対するアメリカの援助を対比
『実話報』という新聞が存在していたことを
すれば、完全に異なる結論が導かれる。圧倒
初めて知った。創刊にあたりソ連共産党中央
的なアメリカの援助を受けた国民党がわずか
委員会によって紙面の大きさがソ連共産党中
な援助しか得られなかった共産党との戦いに
央委員会機関紙『プラウダ』の半分と決定さ
敗れたのは、まず自らの内に主要原因を探さ
れた、とあるが、この新聞はロシア語表記では
なければならないであろう」(徐焔著 朱建栄
голос правды(真実の声)となっており、まさし
訳『1945 年 満州進軍』
株式会社三五舘 1993
く旅大地区の『プラウダ』であったのである。
年 245 ページ)
。
著者の言う通り、1990 年代以降、学会の
Ⅲ 本書の問題点
本書の問題点として評者が感じたことをさ
主流は、従来の革命史観中心の研究への反省
しあたり 2 点、指摘しておきたい。第 1 点は、
から、ソ連、中国の公文書および档案を利用
著者が序章で、中共旅大とソ連軍の間に、対
して、マルチアーカイブのアプローチから中
等的なパートナーシップが形成できたのかと
ソ関係の歴史実態を考察する方向へと大きく
いう問題設定をして、終章でその答えは否と
方向転換した。しかし、こうした研究は、延
記している点である。ソ連軍は旅大地区に進
安とか、モスクワとか、重慶国民政府といっ
駐した後、軍政を敷いた。軍政とは、戦時に
た、いわば「中央の視点」から考察するとい
おける占領軍による占領地の行政を指す。そ
う傾向があったように思える。それに対し、
こでは軍司令官の発する軍法が最優先され
著者は、国共内戦中の旅大地区に進出した中
る。旅大の中共政権自体、著書が指摘する通
共組織とソ連軍当局の関係を「地方の基層組
りソ連軍の主導下で発足したものであった。
織レベルの視点」から考察を加えた。ここに
何をもって「対等的なパートナーシップ」と
著者の研究方法の最大の特色がある。
考えるのかを明らかにしたうえで、ソ連軍当
著者の研究内容について言えば、
「本書の
構成と概要」で紹介した通り、中共旅大とソ
局にそのような関係を受け入れる可能性が
あったかどうか議論すべきであったろう。
連軍当局の協力関係について、協力関係の形
なお、旅大におけるソ連軍政について考察
成経緯、旅大地区の行政運営、経済活動、対
するには、北朝鮮におけるソ連軍政と比較す
外宣伝という、それぞれの側面から、その実
るとよいのではないか。中共旅大とソ連軍の
態を考察しており、著者によって、両者の協
関係と、金日成とソ連軍の関係を比較するの
力関係の全体像が初めて明らかにされた、と
である。徐焔は前掲書で、ソ連は満州からの
評価してよいだろう。
撤退を終了したのち、その支配下にある大連
著者の研究によって初めて知った実態は多
地区と北朝鮮を中国共産党と軍隊の事実上の
書評/鄭 成著『国共内戦期の中共・ソ連関係―旅順・大連地区を中心に』
109
「庇 護 所」 に し た、 と 記 し て お り(216 ペ ー
ておきたい。第 1 点は、228 ページに載って
ジ)
、旅大地区と北朝鮮で似たような政策が
いる、旅順の蘇軍烈士陵園の入り口の写真で
進められた可能性もある。
ある。ガイドさんによると、入り口のソ連軍
第 2 点は、著書 30 ページで、ソ連軍が「強
兵士の銅像はもともと大連市内の街頭にあっ
い執念と地政学的な現実戦略」を持って旅大
たが、後に陵園の入り口に移動された、と記
占領に臨んだと指摘していることに関連して
されている。これは蘇軍烈士記念塔といい、
である。ソ連軍は当初、どのような「強い執
ソ連が対日宣戦し、中国東北解放のため戦っ
念と地政学的な現実戦略」を持っていたと筆
た際、犠牲となった将兵を讃えるため立てた
者は考えているのであろうか。評者の考えは
もので、1955 年完成。しかし、1999 年、中
次の通りである。スターリンらソ連の指導者
国当局は市の中心部、スターリン広場(現、
は 1945 年夏の中ソ友好同盟条約締結交渉の
人民広場)にあったこの塔を 30 キロ以上離れ
際、執拗に旅大を確保しようとする。その理
た蘇軍烈士陵園正面に移してしまった。おか
由は、スターリンが、敗北した日本は 20 年、
げで陵園の正門が小さく見えてしまう(この
30 年先にはその力を回復させると信じてい
写真では隠れてしまって見えない)
。旅大地区の
たからだ。旅大を確保するのは日本に立ち向
中国人のソ連・ロシアに対する微妙な感情が
かう戦略的な地位を強化するためだと主張し
うかがえる。
た。旅大を確保すると、その北方のシベリ
第 2 点は、40 ページで、ソ連軍の暴行に触
ア・極東で日本軍捕虜を、例えば軍港ソビエ
れた際、
「小鼻子をやっと追い出したが、ま
ツカヤ・ガワニとソ連中央部をつなぐバム鉄
た大鼻子がやってきた」(小鼻子と大鼻子とは、
道(バイカル・アムール鉄道) 建設工事などに
それぞれ日本人とソ連人を指す)という「俗話」
投入した。日本軍捕虜を使って日本の再起に
が紹介されている。しかし「小鼻子」
、
「大鼻
備えた国防システムを作り上げようとした。
子」がらみの「俗話」はもっと前からあった
しかし、スターリンの脅威認識は変わって
のだ。評者の手元に、李方晨著『俄国史話』
いく。著書 65 ページでも、旅大を占領して
(台湾開明書店、1990 年) という書籍がある。
まもなく、ソ連はアメリカの東北進出の可能
李方晨は自序の冒頭で、幼い時、故郷の老人
性から新たな脅威を感じ始めた、と指摘され
から、大鼻子と小鼻子が戦った物語を聞いた
ている。日本からアメリカへと、スターリン
ことがある、と記している。日露戦争のこと
の脅威認識が変わっていったことはおさえて
だ。大鼻子と小鼻子の軍隊は規律がひどく乱
おくべきではないだろうか。中ソ友好同盟条
れていて、殺人放火強盗強姦やりたい放題
約の付属協定である「旅順口に関する協定」
、
で、聴いた後、憤りが胸に満ちてきたという
「大連港に関する協定」とも有効期間 30 年と
のだ。旅大地区を含め中国東北地区の中国人
なっており、当初、ソ連側は旅大を長期間確
が侵入してきたロシア人と日本人に苦しめら
保していくつもりであったが、脅威認識の変
れてきた歴史を改めて想起する。
化により旅大を確保しようという「強い執
念」を喪失していったのではあるまいか。
最後に 2 点、補足的なコメントを書き加え
110
(御茶の水書房、2011 年 2 月、A5 判、
ⅸ+ 259 ページ、定価 8,400 円[本体]
)
(いしい・あきら 東京大学名誉教授)
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
SUMMARY
Foreign Banks’ Entry and the Stability of Credit Supply:
The Case of Indonesia
YAMAGUCHI Masaki
The number of foreign banks entering Indonesia has increased in recent times, and they now
account for over 30% of the Indonesian banking system. This rapid entry of foreign banks poses
a concern as in the event of a financial crisis they could pull out funds and destabilize the supply
of loans. This concern is due to the fact that, before the Asian currency crisis, Indonesia was
dependent on short-term foreign borrowing and suffered huge losses. Above all, the lending
behavior of foreign banks during the global financial crisis is a key element in any discussion of
financial stability in Asia. Therefore, this study will investigate the fear of destabilization by
comparing lending behavior between foreign banks and local banks.
This study uses financial data of the respective banks and will try to examine lending behavior
before and after the global financial crisis caused by the bankruptcy of Lehman Brothers. The
detection of differences in changes of foreign currency loans and local currency loans between
foreign banks and local banks employs standard statistical methods: the Kruskal-Wallis test, the
Steel-Dwass test, and regression analysis. Furthermore, we will answer the question as to whether
the entry of foreign banks destabilizes the loan supply by studying factors which explain the differences in lending behavior.
It is found that both foreign as well as local banks showed an increase in the disbursment of
local currency loans in spite of the global financial crisis. In particular, acquired local banks
increased their loan amounts by more than 10% due to the availability of dense branch networks.
We did not find that foreign banks destabilized local currency loans. In contrast, both foreign
banks and joint-venture banks decreased their issuance of foreign currency loans. The explanation is that parent banks which suffered losses restructured their businesses. Moreover, some
joint-venture banks whose home countries had not been hit by the financial crisis decreased foreign currency loans. However, attention should be paid to the behavior of foreign banks and
joint-venture banks because their share of foreign currency loans is high. Meanwhile, acquired
local banks increased the provision of foreign currency loans dramatically. This huge increase
covered the decrease in loans by foreign banks and joint-venture banks and contributed to the
stability of the loan supply. These results proved that the entry of a string of foreign banks does
not destabilize the loan supply even in the event of a global financial crisis.
SUMMARY
111
SUMMARY
The Formation and Bankruptcy of National Policy in Xinjiang:
The Policy of the Sheng Shih-ts’ai Regime in the 1930s
KINOSHITA Keiji
This paper analyzes the objectives, content, and causes of the bankruptcy of the national policy
practiced by the Sheng Shih-ts’ai regime in the 1930s, and examines how it influenced the identity of the Uygur people in south Xinjiang.
Under the patronage of the Soviet Union, Sheng introduced ‘Soviet model’ national policies,
which helped the development of each ethnic group’s culture in Xinjiang. These policies were
based on the theory that the development of individual ethnic groups would eventually lead to the
formation of a new unified nation. ‘Uygur reformers’ gave a degree of support to these policies,
and education based on the native language developed.
In Kashgar region, native inhabitants planned to establish autonomous power through an education movement. However, these attempts at political and cultural autonomy conflicted with the
reinforcement of control by the provincial government in 1936. The provincial government permitted development of the culture of ethnic groups, but did not allow these groups to have any
autonomy.
Sheng’s political objective was to resist the Japanese invasion by relying on Soviet aid. After
establishing his regime in Xinjiang, his principal political ambition was to become the political
leader of the socialists in China, and if possible, the political leader of the whole of China. Therefore, he expressed his loyalty to Stalin from a relatively early stage. The purge that Sheng initiated in October 1937 was based on his fear of a coup, and was an imitation of Stalin’s purges.
National policy, however, broke down because of it.
The Uygur people in south Xinjiang, who faced oppression, were forced to participate in the
campaign against Japan. Many of them, however, anticipated that outsiders, such as Japan and
the Nanking nationalist government, would overthrow the provincial government. The least they
hoped for was political and cultural autonomy. Sheng’s regime specified certain issues that
needed to be settled in order for the central government of China to integrate Xinjiang.
112
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
SUMMARY
The Relation between US Policy toward Northeast Asia
in the 1950s and Contemporary Measures for Solutions
to Economic Problems: The Export Promotion Policy
and the Debates Surrounding Exchange Rate
Readjustments
KOU Kenrai
This paper examines the significance held by the 1950s for the history of the Republic of Korea
(ROK)’s postwar economic development. It focuses on points of continuity and discontinuity
between the 1950s and the ROK’s economic development from the 1960s onward, from the
perspective of the US Eisenhower administration’s (1953–1961) policy toward the ROK and the
response of Syngman Rhee’s administration (1948–1960). In this era, the US applied its
economic development policy toward Northeast Asia to Japan, Taiwan, and Okinawa, and created
the beginnings of postwar economic development in Japan and Taiwan. As a result, similar
changes connected to economic development in the 1960s also became visible in Korea. However, the application of the US policy was, as an exception, flawed in the ROK. Since this ‘exceptionality’ appears to relate to the discontinuity between the 1950s and 1960s, this paper seeks to
explain the process and reasoning that created this ‘exceptionality’.
The paper analyzes US–ROK relations in the 1950s in terms of: (i) trade promotion policy in
the Eisenhower administration’s economic development policy toward Northeast Asia; (ii) the
ROK’s response to US economic development policy; and (iii) the US’s pattern of policymaking.
The officials from both the US and the ROK recognized the necessity of exporting laborintensive products and gradually undertook measures to achieve this from the mid-1950s. In
addition, US officials in the ROK simultaneously came to recognize the necessity of readjusting
the ROK’s exchange rates to a realistic, single rate for export promotion. The Eisenhower administration’s emphasis on trade was one significant reason for these changes in recognition. These
changes appear to demonstrate continuity in US–ROK dialog during the process of shifting the
ROK’s economic policy to export-led growth in the 1960s. However, US economic development
policy in Korea appears flawed when the Korean case is compared with other cases in Northeast
Asia. This circumstance resulted from Syngman Rhee’s resistance to the US policy of importsubstitution, and its complex intertwinement with US recognition of the need for economic and
price stabilization, political instability in the ROK, and the ROK’s standing in the Cold War.
SUMMARY
113
SUMMARY
The Emergence of the ‘Chinese School’?: The ‘Westernization’
and ‘Sinicization’ of International Relations Theory in China
XU Tao
Western international relations theory (IRT) has held a dominant position since the discipline of
international relations came into existence. However, as Barry Buzan emphasized in his critique
of the Eurocentrism of IRT, the voices and perspectives that represent the experience of the
non-Western world are essential to understanding today’s pluralistic world. The purpose of this
paper is to understand the development of non-Western IRT and the perspective of China as a
rising superpower by examining the process of the ‘Westernization’ and ‘Sinicization’ of IRT in
China since the 1980s.
The ‘Westernization’ process of IR study in China (re)started in the 1980s when China undertook a policy of reform and opening-up. Since then, most of Western IRT has been introduced
into China, including American IRT, the English School, critical theory, and feminism. Not only
has a large body of Western IRT work been translated into Chinese and published, but also some
important IR journals have turned their attention to IRT. As a result, Marxism has been weakened
and lost its dominant theoretical position, and Western IRT, especially American IRT, has become
the mainstream. Consequently, Chinese views of ‘national interests’, ‘sovereignty’, and ‘security’
have changed or are changing under the strong influence of Western IRT.
However, in the mid-1980s, through learning Western IRT, a debate among some Chinese
scholars arose in relation to the ‘Sinicization’ of IRT. In the first phase, the focal point was on
‘Chinese-style IRT’. Later, the debate evolved into new forms regarding ‘Chinese theories’ and
a ‘Chinese School’. Since 2004, an understanding that ‘Chinese theories’ and a ‘Chinese School’
need to be constructed has become established among Chinese scholars.
However, in juxtaposition to the English School, the construction of a ‘Chinese School’
requires various resources and approaches. Among others, there are two representative arguments.
One is put forward by Qin Yaqing, who considers China’s rise as the core research question of
‘Chinese theory’; and the other is by Zhao Tingyang, who intends to provide a Chinese vision of
a world order through reinterpreting the traditional Chinese world view, tianxia (天下).
Self-awareness as a superpower and the self-awakening of academic independence following
the absorption of Western IRT among Chinese scholars are the motivating forces of the emerging
‘Chinese School’. Hence, the construction of ‘Chinese School(s)’ indicates that a rising China is
seeking a new world order image, a new self-image and a new identity.
114
アジア研究 Vol. 58, No. 1 • 2, April 2012
SUMMARY
The Eurasian Policy of Imperial Japan and The Axis Allies:
A Focus on Islamic Populations and Anti-Soviet Policies
Sinan LEVENT
The term Eurasia is more than just a geographical statement; it acquired political meaning in the
first half of the 20th century. As the term is capable of various definitions, here we restrict the
meaning to former-Soviet lands. This paper examines the political intentions of imperial Japan
towards the region in the interwar period in terms of Japanese policy towards Islamic populations
and the Axis allies, especially German–Japanese military co-operation. The sources are mainly
those that relate to questions about Islam and anti-Soviet feelings during this period.
The strategy of supporting those who opposed the regime in Russia dates back to the Russo–
Japanese war. Based on this experience, Japan, in an attempt to play a more important role in
international issues after the Paris Conference in 1919, tried to make Tokyo an émigré-center, like
Berlin, Paris, and Istanbul at the time. From early 1920s Turkic-Muslim people were recruited
and formed a community in Japan under the leadership of the influential Muhammed Abdulhay
Kurbanali. Subsequently, Abdurresid Ibrahim arrived in 1933 and took the initiative by replacing
Kurbanali in 1938. It was assumed that Japan was utilizing these anti-Bolshevik Muslim factions
to foster the anti-Sovietism adopted by the military; this explains the infiltration of Japanese
influence into the Muslim groups, especially those suppressed by Soviet Russia.
As is well known, imperial Japan and Nazi Germany signed the Anti-Commintern Pact in
November 1936 against international communism in name, but in fact against Soviet Russia.
Hiroshi Oshima, Japanese military attaché to Germany at the time, made an agreement with
Wilhelm Canaris on behalf of the German army covering two areas: (i) anti-Soviet intelligence
co-operation; and (ii) aid to support propaganda of anti-regime minorities based on an order from
the Chief of the Army General Staff of imperial Japan. To summarize the agreement: ‘To
collaborate with the German army concerning the intelligence of the Soviet Union so that the
independence movements of minorities in the Soviet Union and anti-communist propaganda can
be easily supported. This would assist the Japanese army to understand the deficiencies of
Soviet Russia and move accordingly in the case of war between Japan and Russia’.
Finally, the plans mentioned above did not bear fruit in terms of putting Eurasia under Japanese
influence due to the fact that Japanese military operations on the Asian mainland and the German
invasion in Russia ultimately ended in failure.
SUMMARY
115
編集後記
第 58 巻の第 1 号・第 2 号の合併号をお送りしま
す。前号の編集後記でも書いたように、構造的に原
稿が少ない中で、取りうる数少ないオプションとし
て合併号の発行があります。ところが、4 号分の学
会費を払っているのに、その会員がその対価を得ら
れないという問題もあり、その意味で合併号の発行
は応急措置にしかなりません。それ以外の方法で採
録できる論文数を増やす方策を考えなければなりま
せんが、特集号の定例化、投稿規則の一部緩和など、
いくかの具体的対策が先日の理事会・評議員会合同
会議で議論されました。今後、編集委員会での持ち
回り審議で、具体的な提案を練り上げていくことに
なると思いますが、まずは本号の刊行が恙なく進ん
だことを喜びたいと思います。本編集委員会が編集
業務を担当するのは、多くてあと 2 号。今期の執行
部の就任期間が短いからですが、残りの任期をしっ
かり全うしたいと思っています。
(園田茂人)
[編集委員会]
園田茂人(委員長)
・渡邉真理子(副委員長)
・阿南友亮・
大島一二・梶谷懐・中岡まり・益尾知佐子・木宮正史・
川上桃子・中野亜里・藤田麻衣・夏田郁・佐藤仁・
遠藤元・玉田芳史・中溝和弥
[書評委員会]
三重野文晴(委員長)
・星野昌裕・大澤武司・寶剱久俊・
倉田徹・山形辰史・舛谷鋭・中西嘉宏・後藤健太・
福味敦
投稿要領(2006 年 7 月 1 日改訂)
1. 『アジア研究』は、アジア研究に関する論説、研究
ノート、書評論文、書評などにより構成され、1 年に
4 号刊行する。投稿については随時受け付ける。
2. 投稿できるのは、アジア政経学会の会員および編
集委員会・書評委員会が依頼した人とする。会員の
場合、投稿する当該年度までの学会費が納入済みで
あることとする。
3. 投稿原稿は未発表のものでなければならず、同一
の原稿を『アジア研究』以外に同時に投稿すること
はできない。
4. 同一会員による論説、研究ノート、書評論文を 2 年
以内に 2 回以上掲載することは原則としてしない。た
だし、書評はこの限りではない。
5. 『アジア研究』に掲載されたすべての原稿の著作権
は財団法人アジア政経学会に帰属する。
6. 原著者が『アジア研究』に掲載された文章の全部
または一部を論文集等への再録などの形で複製利用
しようとする場合には、所定の様式の申請書にて事
前に編集委員長に申請する。特段の不都合がない限
り編集委員長はこれを受理し、複製利用を許可する。
7. 『アジア研究』に掲載されたすべての原稿は、アジ
ア政経学会のホームページ(http://www.jaas.or.jp)に
おいて PDF ファイルとして公開する。
8. 投稿に際しては、
「編集要領」および「執筆要領」
(本
学会ホームページに掲載)の内容を踏まえ、その規
定に準拠した完成原稿と論文要旨 (1200 字程度 ) を提
出する。
9. 『アジア研究』の本文で使用できる言語は日本語と
する。ただし、注記などにおいてはその他の言語を
使用できる。特殊な文字、記号、図表などを含む場合
は、予め編集委員会および書評委員会に相談する。
「アジア研究」第 58 巻第 1 • 2 号
発行 2012 年 4 月 30 日
発行者/アジア政経学会
(連絡先)〒112-8610 東京都文京区大塚 2-1-1
お茶の水女子大学 理学部 3 号館 204
特定非営利活動法人 お茶の水学術事業会
アジア政経学会担当 Tel/Fax: 03-5976-1478
発行責任者/金子芳樹
編集責任者/園田茂人
制作協力/中西印刷株式会社
印刷所/中西印刷株式会社
10. 投稿する原稿の本文には、執筆者名を記入せず、
執筆者名、そのローマ字表記、所属機関、職名、お
よび原稿表題の英文表記は、本文とは別にまとめて
付記する。
11. 投稿する原稿の枚数は、40字×30 行を 1 枚と換算
して、論説が 15–20 枚(注・図表・参考文献を含む)
、
研究ノートが 10–20 枚(注・図表・参考文献を含む)
、
書評論文が 10–15 枚(注・図表・参考文献を含む)
、
書評が 2–5 枚とする。原稿に挿入される図表につい
ては、大小にかかわりなく 3 点を 1 枚と換算して、全
体の枚数から差し引く。
12. 投稿原稿は、E-mail の添付ファイルとして送付す
る。ファイル形式は、MS-Word、一太郎のいずれか
とする。やむをえずハードコピーで提出する場合は、
ワープロ原稿を 2 部提出する。採用が決定した原稿
の提出方法は、編集委員会から再度通知する。
13. 投稿された原稿は、レフェリーによる審査結果を
考慮の上、編集委員会が採否を決定する。
14. 採用された場合、約 400 語の英文要旨を提出する。
英文要旨は、提出前に必ずネイティブ・チェックを
受ける。
15. 執筆者は、別刷り(抜刷)の作製を印刷所に依頼す
ることができる。費用は執筆者の自己負担とする。
16. 原稿の投稿先および問い合わせ先は次のとおりと
する。なお、投稿者は、連絡先住所・電話番号・メー
ルアドレスを明記する。
〒 113-0033 東京都文京区本郷 7-3-1
東京大学東洋文化研究所
園田茂人気付『アジア研究』編集委員会
E-mail: [email protected]
Aziya Kenkyu (Asian Studies) is published quarterly in January,
April, July, and October by the Aziya Seikei Gakkai (Japan
Association for Asian Studies).
Editorial office: Aziya Seikei Gakkai, c/o Shigeto Sonoda, Institute
for Advanced Studies on Asia, the University of Tokyo, Hongo
7-3-1, Bunkyo-ku, Tokyo 113-0033, Japan
Subscription rates: ¥6,300 per year. Multiple-year subscriptions
are available.
© 2012 Aziya Seikei Gakkai
アジア政経学会
Asian Studies
第 58 巻 第 1・2 号 2012 年 4 月
目 次
· 論 説 ·
外国銀行の進出と信用供給の安定性
―世界金融危機時のインドネシア 山口昌樹
1
新疆における盛世才政権の民族政策の形成と破綻 木下恵二
18
1950 年代の米国の対北東アジア政策と韓国経済の諸問題
―輸出と為替レートを中心に 高 賢来
33
徐 涛
51
シナン・レヴェント
69
木村隆和
89
藤原帰一・永野善子編著『アメリカの影のもとで―日本とフィリピン』
日下 渉
93
船津鶴代・永井史男編著『変わりゆく東南アジアの地方自治』
田村慶子
98
Nathan G. Quimpo, Contested Democracy and the Left in the
Philippines after Marcos 高木佑輔 102
· 研究ノート ·
「中国学派」の登場?―現代中国における国際関係理論の
「欧米化」と「中国化」
戦間期における日本の「ユーラシア政策」と三国同盟
―「回教政策」・反ソ戦略の視点から · 書 評 ·
鹿
雪瑩著『古井喜実と中国―日中国交正常化への道』
鄭 成著『国共内戦期の中共・ソ連関係―旅順・大連地区を中心に』 石井 明 107
英文要旨
111
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