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論文 - 政策研究大学院大学

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論文 - 政策研究大学院大学
伝統的知識の保護と利用に関する一考察
平成18年2月
政策研究大学院大学 修士課程 知財プログラム
MJI05050 鈴木 友紀
【要 旨】
本稿は、現在、様々な国際機関において議論の対象となっている伝統的知識の保護
と利用に関して、法と経済学的な観点から分析を試みることにより、伝統的知識を知
的財産権制度の枠組みの中で保護することの是非について検討したものである。
具体的には、本稿では分析対象を伝統的知識の中でも、植物を用いた医学的知識に
絞った上で、企業による製薬の市場と、製薬の原料となる植物の市場に分けて、それ
ぞれの余剰を分析した。
その結果から、特定の場合を除き、伝統的知識に、独自の知的財産権を新たに付与
することは、望ましくないことが分かった。
目
次
1
はじめに··································································· 3
2
伝統的知識の定義及び本稿における分析の対象 ································· 4
3
伝統的知識に関する議論の概要 ······································································· 5
3−1 生物多様性条約と伝統的知識 ··························································· 5
3−2 各国の主張 ··················································································· 6
3−3 知的財産権制度による伝統的知識の保護の必要性に関する議論····················6
4
知的財産権の側面からの伝統的知識の保護に関する類型化 ······················· 8
5
モデルを用いた分析 ·························································
5−1 植物の市場が独占的な場合 ··········································
5−2 植物の市場が競争的な場合(1)(植物の生産に地域性がある場合) ·······
5−3 植物の市場が競争的な場合(2)(植物の生産に地域性がない場合) ·······
5−4 本章のまとめ ······················································
10
10
13
15
16
6
具体的事例への当てはめ ·····················································
6−1 ニームの事例(インド) ············································
6−1−1 事例の概要 ···················································
6−1−2 事例の考察 ···················································
16
16
16
17
6−2 カニ族の不思議な木の実の事例(インド) ···························· 18
6−2−1 事例の概要 ··················································· 18
6−2−2 事例の考察 ··················································· 19
6−3 フーデイアの事例(南アフリカ) ···································· 21
6−3−1 事例の概要 ··················································· 21
6−3−2 事例の考察 ··················································· 22
6−4 ターメリックの事例(インド) ······································ 22
6−4−1 事例の概要 ··················································· 22
6−4−2 事例の考察 ··················································· 23
6−5 アヤワスカの事例(エクアドル) ···································· 23
6−5−1 事例の概要 ··················································· 23
6−5−2 事例の考察 ··················································· 24
7
伝統的知識に関する新たな知的財産権制度の導入の是非 ························· 24
8
まとめ····································································· 27
参考文献······································································· 29
2
1 はじめに
近年のバイオテクノロジーの急速な進展に伴い、主に発展途上国に豊富にあるとされる遺伝資
源及び伝統的知識に、先進国の製薬企業等が高い関心を向けている。若干熱の収まりも見えると
も言われているが1、「グリーン・ラッシュ」と呼ばれるように、先進国の企業や研究者等が、発
展途上国の有する遺伝資源や伝統的知識を入手し、それを用いて開発を行い、特許を中心とする
知的財産権を取得するケースが相次いでいる2。また、このような高い関心に伴い、先住民の有す
る伝統的知識等を利用した製品は、主に先進国の企業の開発により、既に多く市場に出回ってい
る。例えば、日本国内のみを見ても、このような植物を利用した健康食品の市場規模は、マカが
80 億円、ターメリックが 120 億円(共に 2003 年度の推計値)となっている3。
薬品の研究開発には、多大な資金と時間を要するが、研究開発を行った成果が製品化までつな
がることは少ない。伝統的知識として使用されてきた植物等は、その効果や副作用がある程度伝
統的に証明されていることから、研究開発の基礎的な材料として用いることにより、研究開発に
要するコストを軽減することが可能となる。そのため、先進国の企業等が、こぞって発展途上国
に出向き、伝統的知識等の探索を行ったのである。
しかし、このような先進国による伝統的知識の利用は、時に発展途上国や NGO から「バイオ
パイラシー」
(生物資源の盗賊行為)と呼ばれ、非難を浴びることとなった。バイオパイラシーと
は、「植物品種や土壌中の微生物等の生物資源を、本来の保有者から無断で収集する行為」4を指
し、インドの女性科学者バンダナ・シバなどが強く非難している行為である5。具体的には、先進
国の製薬会社やバイオ企業が、途上国において生物資源を無断で収集し、その分析の結果得られ
た遺伝情報等を特許化したり、インドの伝統医薬に関する知識などをもとに、先進国の企業が特
許を取得したりといった事例がバイオパイラシーに当たるとされる6。
このような先進国と発展途上国の対立を背景として、現在、世界知的所有権機関(WIPO)や
世界貿易機関(WTO)を中心とする様々な国際機関において、伝統的知識及び遺伝資源の保護と
利用の在り方が、大きな争点となっている。しかし、国際機関での議論は、主に法学的な観点か
ら行われており、経済学的な分析に欠けている点が否めない。伝統的知識の利用については、発
展途上国が利益配分を強く主張していることから分かるとおり、経済的な要素が大きい。それに
も拘らず、経済学的な見地からの議論を行うことなく新たな制度を導入してしまえば、結果とし
て経済的な効率性を欠いてしまうことになりかねない。
そこで、本稿では、伝統的知識の利用について、法と経済学的な観点からの分析を試みること
により、伝統的知識を知的財産権制度の枠組みの中で保護することの是非について考察を試みる
1「バイオジャパン 2005 ワールドビジネスフォーラム」
(2005 年 9 月 7 日開催)における大野彰夫氏(三共顧問)
の発言による。
2 大澤(2002a)1頁
3 ニューマガジン社(健食流通新聞)ホームページ(http://www.newmagazine.ne.jp/sko-deta-04-skibo.html)
4 知的創造サイクル専門調査会(第3回)配布資料「知的財産分野の広がりに対応した国際ルールの構築」
5 バンダナ・シバ(2002)は、
「生物略奪に反対することは、生命そのものの究極的な植民地化に反対することで
ある。つまり、生物進化ばかりでなく、自然界に関する古来からの伝統的知識や自然とともに歩んできた非西洋
伝統文化の未来のために、その植民地化に反対することなのである。それは、多様な生物種が進化する自由を保
護するための闘争である。多様な文化が進化する自由を保護するための闘争である。文化的多様性と生物学的多
様性の両方ともを保護するための闘争なのである。」(17、18 頁)と強く批判している。
6 知的創造サイクル専門調査会(第3回)配布資料「知的財産分野の広がりに対応した国際ルールの構築」
3
こととしたい。
本稿の構成は、以下のとおりである。第2章において、伝統的知識の定義について確認を行う
とともに、本稿で分析の対象とする伝統的知識の範囲を示す。第3章では、発展途上国の主張や
国際機関における今までの議論を取り上げるとともに、伝統的知識の保護に関するこれまでの議
論を概観する。第4章では、主に知的財産権の側面から、伝統的知識の分類を行う。第5章では、
簡単なモデルを用いて、法と経済学的な観点から、その保護と利用の在り方について考察する。
第6章では、具体的な事例を紹介した上で、第 4 章及び第5章における分析を踏まえた考察を行
う。第 7 章では、以上の考察を踏まえ、伝統的知識がプライベート・ドメインにあり、かつ植物
市場が競争的な場合を除き、伝統的知識に独占権を付与することは望ましくないため、現行と同
様に契約によって伝統的知識の利用を図ることが望ましいとの結論を導いた。
2 伝統的知識の定義及び本稿における分析の対象
伝統的知識の定義については、未だ確立したものはない。生物多様性条約(the Convention on
Biological Diversity:CBD)第 8 条(j)では、
「生物の多様性の保全及び持続可能な利用に関
連する伝統的な生活様式を有する先住民の社会及び地域社会の知識、改良及び慣行」とされてい
るが、同条の文言だけでは、どの範囲の知識までが伝統的知識と呼べるのかは定かではない。例
えば、大澤(2002a)によれば、伝統的知識は、非常に幅広い概念であり、またその対象も多岐
にわたるとされる7。具体的には、狭義の伝統的知識とは、「自然との密接な関わりの中で集団に
よって世代を超えて培われてきた農業的知識、科学的知識、技術的知識、生態学的知識、医学的
知識(療法や薬(草)学を含む)及び生物多様性関連知識等の総体」を指し、広義の伝統的知識
とは、狭義の伝統的知識に加えて、フォークロアの表現や言語的要素などを加えたものを指すと
される8(図1参照)。
また、これらの伝統的知識に共通する特徴として、高倉(2001)は、以下の 10 項目を挙げて
説明している9。
①局所的である(特定の社会・文化に融合)。
②共同体(集団)で共有される。
③同じ伝統的知識を異なる共同体がパラレルで所有することが多い。
④文字化されていない。
⑤口承で伝わる。
⑥自然現象の経験・観察に基づく。
⑦直感的である(分析的でない。)
⑧積み重ねで定着する。
⑨時とともに変化する(付加もあれば消失もある)。
⑩自然との対峙ではなくて一体化の中から生まれる。
このように、伝統的知識は、未だ定義が確立されていない上に、広範な概念を含むものとなっ
ている。また、国際機関においては、遺伝資源と併せて議論がなされることも多いため、議論が
7
8
9
大澤(2002a)4頁
大澤(2002a)4、5頁
高倉(2001)346 頁
4
さらに曖昧なものとなりやすいという側面も持つ。そこで、法と経済学的な分析を行う際、様々
な伝統的知識に見られる性質の違いにより、議論が拡散することを防ぐため、本稿では、大澤の
定義する狭義の伝統的知識のうち、医学的知識(特に植物関連のもの)に議論の対象を絞ること
とする。これは、発展途上国からバイオパイラシーとして指摘されている事例が、医学的知識に
関連したものが多いことや、商業的な利用可能性という点からも医学的知識が最も問題となりや
すいことを考慮に入れたためである。例えば、インド、ブラジル等が 2004 年9月にWTOに提
出した文書10において、ニーム、ターメリック、フーディア及びアヤワスカが、バイオパイラシ
ーの例として挙げられているが、いずれも医学的な伝統的知識に関連する植物である。これらの
植物については、第6章においても、事例として取り上げる。
図1 Traditional Knowledge(伝統的知識)
広義の伝統的知識
狭義の伝統的知識
・農業的知識
・科学的知識
・技術的知識
・生態学的知識
本稿での議論の対象
(特に植物関連のもの)
・医学的知識 (療法や薬学を含む)
・生物多様性関連知識
・フォークロアの表現(音楽、手工芸品、物語など)
・言語的要素(名称、地理的表示など)
・文化的動産
(出所)大澤(2002a)6頁より作成
3 伝統的知識に関する議論の概要
3−1
生物多様性条約と伝統的知識
1993 年に発効した生物多様性条約(CBD)では、第 15 条において、各国が「自国の天然資源
に対して主権的権利を有する」と規定した上で、第 1 条(目的)の中で「遺伝資源の利用から生
ずる利益の公正かつ衡平な利益配分」が明記された。CBD の目的規定については、原案では、
「生
物多様性条約」の名のとおり、生物多様性の保全に重点が置かれていた。しかし、交渉の過程に
おいて、発展途上国が、生物多様性の保全に関する責務を途上国側だけに負わせ、遺伝資源に由
来する利益を先進国が独占するのは公平性を欠くとの議論を主張し、条約の中に、遺伝資源の利
用と利益配分の規定を入れることを要求した。最終的には先進国側もそれを了承し、CBD の目的
は、
「生物多様性の保全」
、
「遺伝資源の持続的利用」、
「遺伝資源の利用から生じる利益の配分」の
Submission from Brazil, India, Pakistan, Peru, Thailand and Venezuela Elements of the Obligation to
Disclose the Source and Country of Origin of Biological Resources and/or Traditional Knowledge Used in an
Invention WTO Doc. IP/C/W/429 (21 September 2004)
10
5
3 本柱となった。さらに、この利益配分という目的に対応し、CBD 第8条(j)では、伝統的知
識に関しても、その利用がもたらす利益について衡平な配分を奨励する旨が規定された。このよ
うな妥協の結果生まれた CBD については、高倉(2001)や大澤(2002a)が CBD は「環境保護」
条約から「利益配分」条約に変質したと評価するように11、批判的な見方もある。
3−2
各国の主張
CBD では、利益配分が目的に掲げられ、第 8 条や第 15 条において、それを奨励する旨も明記
されたものの、利益配分の方法等に関する具体的な規定は存在しない。そこで、CBD を踏まえ、
2002 年に、ボン・ガイドラインが策定された。その主な内容としては、(1)利用者は遺伝資源に
アクセスする前に、事前の情報による同意を得ること、(2)公正かつ衡平な利益配分を行うこと、
(3)知的財産権の申請時に遺伝資源の原産国の開示が奨励されること、等が挙げられる。しかし、
ボン・ガイドラインは法的拘束力を伴うものではなく、任意の規定にとどまっている。
そのため、CBD の締約国会議を始めとして、WTO、WIPO 等の様々な国際機関における交渉
の場で、先進国と発展途上国の間で、遺伝資源及び伝統的知識に関する法的拘束力を伴う制度導
入の是非について、激しい議論が続いている。各国の主張は、細部では異なるものであるが、大
まかに3つに分けられる。
まず、発展途上国は、遺伝資源及び伝統的知識の経済的な価値を強く主張した上で、先住民の
権利や環境保護の重要性等を根拠として、伝統的知識等を新たな枠組みで保護することの正当性
を主張している。具体的な保護の態様としては、法的拘束力を伴う国際的な制度の導入を要求し
ている。また、原産国の開示に関しても賛成の立場に立っており、既に自国の特許法を改正し、
原産国開示を義務化した国も存在する12。なお、国内法として、遺伝資源及び伝統的知識のアク
セス及び利益配分に関する独自の制度を導入する国も増加している。
米国と日本は、新たな制度の導入には反対の立場を採っている。両国は、遺伝資源の原産国開
示にも反対しており、現行と同様の契約によるアプローチを支持している。
米国・日本と発展途上国の中間の立場に位置するのが、EUである。EUは、原産国開示の義
務化については条件付きではあるものの、賛成の立場を既に表明している13。
3−3 知的財産権制度による伝統的知識の保護の必要性に関する議論
以上のように、国際機関において、伝統的知識を知的財産権制度で保護するべきであるという
議論がなされているが、知的財産権制度における保護の態様には、
「積極的保護」及び「消極的保
護」の2通りの方法があるとされている。積極的保護とは、先住民及び地域コミュニティ自身に
よる権利化を意味し、消極的保護とは、第三者による権利化の阻止を意味する1415。
11
高倉(2001)340 頁、大澤(2002b)
加藤(2005)が指摘するように、原産国開示の義務化が、今後、デファクト・スタンダードになる可能性があ
ることに注意が必要である。なお、先進国の中でも、既に、ノルウェー、デンマーク、スウェーデン等は、特許
法を改正し、出所開示を義務付けている。
12
An Explanatory Note on Recital27 of the above Directive concerning the Indication of the Geographical
Origin of Biotechnological Inventions (Animal and Plant Aspects), WIPO doc. WIPO/GRTKF/IC/1/8, ANNEX
13
Ⅱ (April 26, 2001)
大澤(2002a)26 頁
15 Dutfield
(2005)は、積極的保護として、(1)Sui Generis 制度、(2)伝統的知識に関するデータベース権、(3)Global
Biocollection Society の創設、(4)補償金請求レジームの導入(第7章で詳述)の 4 点、消極的保護として、(1)原
14
6
まず、積極的保護としては、現行の法制度の枠組みの中で、先住民等が、伝統的知識について、
特許法や不正競争防止法等を活用し、自身で権利を取得していくことのほか、発展途上国が主張
している伝統的知識に関する特別な知的財産権制度(Sui Generis 制度)の導入をその例として
挙げることができる。先住民自身の権利化については、伝統的知識が、その性質上、現行の制度
とはなじみにくい面も多いことから、実際に権利を取得できる知識は一部の例外的な場合に限ら
れている。例えば、特許権について鑑みると、伝統的知識は、発明者の特定が困難であり権利主
体を特定することが難しい場合が多い上に、既に、パブリック・ドメインに置かれてしまってい
るものが多いため、新規性・進歩性の要件を満たすことも困難である。つまり、権利取得できる
ような発明として、
「シャーマンが秘密管理している伝統的知識を元に独自に開発した技術」16な
どを想定することができるが、非常に例外的であることは明白である。一方、伝統的知識に特化
した制度である Sui Generis 制度については、青柳(2005)によれば、既に発展途上国を中心に、
22 か国と3地域により採択・起草がなされており、各国の制度に共通する項目として、①出願時
の出所表示の要件、②アクセスに際しての事前同意の要件、③伝統的知識の事前登録制度、④伝
統的知識へのアクセス拒否権、⑤立法過程への先住民の参加、⑥集団的権利及び慣習法の承認、
⑦能力構築を挙げている。
消極的保護としては、無効審判を活用したいわゆる bad patent の排除を代表的な手段として挙
げることができる。bad patent とは、既にパブリック・ドメインにある伝統的知識について、当
該伝統的知識の所有者以外の第三者が特許を取得してしまう事例を指して、発展途上国等が使用
することが多い用語である。伝統的知識が既にパブリック・ドメインに属している場合、本来な
らば、新規性・進歩性の特許要件を満たさないため、特許が付与されるべきではないが、例えば、
公知の範囲を国内に限っている米国においては、米国以外の国では公知であったとしても、文献
に書かれていない伝統的知識に対しては、特許が取得されてしまうケースが生じやすい。このよ
うな第三者による権利化を事前に防ぐため、既にパブリック・ドメイン化されている伝統的知識
について、文書化・データベース化を行うことも消極的保護の重要な手段の一つである。消極的
保護は、現在の法的枠組みの中でも十分に可能であり、伝統的知識を利用した発明に関する特許
についての無効審判は、実際に行われている。また、伝統的知識の文書化・データベース化も、
WIPO や各国政府において、取り組みが既に始められている。
消極的保護は、本来独占権を与えるべきではない発明等から独占権を剥奪するという意味で、
経済学的な効率性を達成する上でも必要である。また、現行の法的枠組みの中で、十分実施可能
であることから、必要な保護であると考える。そこで、今後、問題とされるべきは、積極的保護
に関する正当性の有無であると言えよう。そのため、本稿では、法と経済学的な見地から、積極
的保護(独占権の付与、特に Sui Generis 制度の必要性)に焦点を当てて、論じていくこととす
る。
産国開示、(2)先行技術として伝統的知識を利用するためのデータベースの構築、(3)misappropriation regime の
3 点を、それぞれ挙げている。
16 大澤(2002a)27 頁
7
4 知的財産権の側面からの伝統的知識の保護に関する類型化
伝統的知識の経済的重要性や先住民の権利を根拠として伝統的知識の保護を要求する発展途上
国の主張は、完全に非合理的であるというわけではない。しかし、様々ある伝統的知識の性質を
考慮に入れていないため、全体的な整合性に欠けていることは否めない。そこで、法と経済学的
な分析を行うに当たり、本稿では、伝統的知識の性質について、以下の4通りに場合分けをした
上で、積極的保護の在り方を探ることとする。
図2 伝統的知識(Traditional Knowledge:TK)の保護に関する類型
商業的な利用可能性の
ないTK=保全すべきTK
商業的な利用可能性のあ
るTK=利用促進すべきTK
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
パブリック・ドメインにあるTK
プライベート・ドメインにあるTK
(私的所有にあるTK)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
①
②
植物の市場が独占的
(=価格支配力がある)
・・・・・
③
植物の市場が競争的
=(価格支配力がない)
・・・・・
④
(注)植物とは、伝統的知識の使用に当たり必要となる植物を指す。
図2は、知的財産権としての保護を与えるべき伝統的知識を探る上で、必要となる要素を場合
分けしたものである。
まず、伝統的知識全体を、商業的な利用可能性の有無で分ける。商業的利用可能性のない伝統
的知識(①)については、そもそも、伝統的知識を利用した製品の市場が創出されていないため、
利潤が発生していない状況にある。つまり、先進国(先進国に所在する企業)と発展途上国との
間で利益配分という問題は生じようがない。そのため、伝統的知識について、何らかの保護が必
要という場合は、知的財産権の側面ではなく、純粋に、環境政策や文化政策の観点から考慮すべ
きであると言える。
次に、商業的利用可能性がある伝統的知識について考える。この際、まず、伝統的知識がパブ
リック・ドメインにある場合(②)と、プライベート・ドメインにある場合(③、④)とを分け
ることとする。伝統的知識がパブリック・ドメインにある場合とは、主として、伝統的知識が、
公知公用になっており、新規性を喪失している場合を示している。多くの伝統的知識は、長い期
間、広い地域において使用されていたり、また、既に研究者(人類学者、民俗植物学者)や宣教
師等によって記録されていたりするため、新規性の要件を満たさないものが多いと言われている
17。一方、伝統的知識が、プライベート・ドメインにある状態とは、ある特定の先住民コミュニ
ティのみが知識を所有している場合や、知識が先住民の中でもシャーマン等の限られた人によっ
て伝承されている場合など、当該知識を特定のコミュニティ又は特定の個人以外の者が知り得て
いない状態を示している。換言すると、非公知の知識に加えて、いわゆる公知の知識であっても、
17
大澤(2002a)30 頁
8
それがコミュニティ内に留まっている状態にあれば、本稿ではプライベート・ドメインにある場
合として扱うこととする18。
さらに、伝統的知識がパブリック・ドメインにある場合(②)について考える。伝統的知識は、
知的財産の一つであり、公共財的な性質を有していることから、伝統的知識が既にパブリック・
ドメインにある場合、伝統的知識自体の価格はゼロとすることが適当となる。知的財産権制度の
目的は、産業や文化の発展のために過度のフリーライドを防止し、発明等の創作に対して適切な
インセンティブを与えることにある19。そのため、発明者等が不明であり、広い地域で、多くの
者に長年使用されている知識については、創作のインセンティブのために独占権を与え、その代
償として公開を求めるという知的財産権制度の趣旨が、全く当てはまらない。このような知識に
ついては、価格をゼロとし、広く一般に使用させることが望ましいと言える。つまり、伝統的知
識がパブリック・ドメインにある場合、知的財産権として伝統的知識に独占権を付与することは、
経済学的な観点から見て、基本的に不必要であると言えよう。
以上の点から、仮に、知的財産権としての保護を正当化する場合があるとすれば、少なくとも、
伝統的知識がプライベート・ドメインにある場合に限定されると言えよう(③、④)。この場合、
特許法等の既存の知的財産権制度からの類推20によって、(1)知識を改良・蓄積することに対する
インセンティブを与える、(2)知識の公開を促す、という2つの目的から、伝統的知識に独占権を
与えることが正当化される可能性がある。
最後に、プライベート・ドメインにある伝統的知識について、伝統的知識の利用に必要となる
植物が、伝統的知識の所有者によって独占的に供給することができるか否か、言い換えれば、伝
統的知識の所有者が植物に対する価格支配力を持っているか否かによって場合分けを行う。伝統
的知識の中でも、本稿で問題とする医学的知識に関しては、伝統的知識を使用する際に植物が必
要となるため、知識という無体物と、植物という有体物を分けて考えることによって、次章で詳
述する経済学的な分析を明確に行うことが可能となる。
なお、この伝統的知識についての分類は、第6章以降で説明するような実例を考察する際には
有効であるが、現実的に個別の伝統的知識がどれに当たるかを判断することには、難しい面も多
く残されていることを付言しておく。例えば、商業的利用可能性の有無については、伝統的知識
に関連する植物について、成分の抽出及び有効性の判断等、様々な研究・開発を経て始めて判明
するものであり、企業等がその伝統的知識を入手した時点で、当該知識の商業的利用可能性を判
別することは困難である。
18 一般的に「公知」とは、
「不特定人に容易に知られうる状態」にあることであり、
「不特定人」とは、
「発明の内
容につき秘密保持義務を負わない者」を指す(渋谷(2004))。そのため、コミュニティ内における公知も、特許
法を始めとする既存の知的財産権制度の下では、新規性を喪失するものとして扱われる。しかし、本稿は、伝統
的知識を既存の制度によって保護することの可能性について論じるものではない。また、多くの伝統的知識は、
たとえ先住民コミュニティ以外の者に知られていなかったとしても、コミュニティの構成員に対して、秘密保持
義務まで課していることはまれである。そのため、現状に適合する新しい保護の制度について考察するという観
点から、本稿では、コミュニティ内で公知である知識に関しても、知識がコミュニティ内に留まっているかぎり、
プライベート・ドメインにある場合に組み入れることとした。
19 田村(2003)18 頁
20 特許法第1条では、
「発明の保護及び利用を図ることにより、発明を奨励し、もつて産業の発達に寄与すること」
を法の目的として掲げている。また、田村(2003)によれば、特許法とは、
「発明を奨励し、その公開を促すため
に、発明者に特許庁長官に対して発明を出願させ、それを公開する代わりに、一定期間、特許発明の特定の利用
行為(=実施)に対する排他的な権利を付与する」ことを規定した法律であるとする。(164 頁)
9
5 モデルを用いた分析
本章では、伝統的知識の所有形態(パブリック・ドメインにあるか、プライベート・ドメイン
にあるか)とは独立に、次章で具体的事例を分析する前段階として、伝統的知識を用いた薬品の
市場及び薬品の生産に必要となる植物の市場について、植物市場の構造の違いに着目して考察を
行う。このモデルでは、特許を取得し製品化を行う製薬企業が現れたとき、植物市場が、その生
産が競争的であるか、独占的であるかという性質の相違によって、どのような影響を受けること
になるかを明らかにすることを目的としている。
なお、本章で取り上げるモデルにおいては、以下の点を仮定として置いている。
仮定1:同一国内に、植物の生産者(独占の場合はA氏)と薬品の生産者(製薬企業B社)が存
在すると仮定する。
仮定2:伝統的知識を用いて生産される薬品は、特許取得により独占されていると仮定する。
仮定3:植物1単位につき、薬品1単位が生産されると仮定する。なお、これは、植物市場と薬
品市場の単位を合わせることにより、独占利潤について、一つのモデルで考察すること
ができるようにするためである。
仮定4:植物生産における限界費用 C は、各生産者にとっては、 C = α Q であるとする。植物
市場が競争的な場合、生産物に地域性があれば、供給曲線は右上がりとなる。供給曲線
h
h
h
は、 S (Q ) : P = γ Q , γ > α とする。
また、随所で植物の生産が可能な場合は、植物市場にさらに生産者が参入すると考えら
れ、供給曲線は水平となるとする。このとき、供給曲線は、長期的供給曲線となり、
h
h
S ( Q h ) = ACmin となる。
m
h
仮定5:薬品生産の限界費用 C は、その原料である植物の価格 P に、一定値βを加えたもので
あるとする。すなわち、 C = P + β であるとする。
m
h
( )=P
仮定6:薬品が作られる以前の植物の(逆)需要曲線は、 D Q
h
仮定7:薬品の需要曲線は、 D
m
(Q ) = P
m
m
h
h
= A − Q h であるとする。
= B − Q m であるとする。
5−1 植物の市場が独占的な場合
図3−1
図3−2
(薬品の市場)
価格
B
(植物の市場)
生産者:伝統的知識所有者A氏
価格
消費者:製薬企業B社
生産者:製薬企業B社
消費者:一般多数
Dm
Pm*
B社の独占利潤
(ΠB)
A氏の独占利潤
(ΠA)
Cm=Ph* +β
Sh :Ch =αQh =αQm
Ph*
Ch* +β
A氏の独占利潤
(ΠA)
β
Ch*
Q h* =Qm*
MR
Qm*
生産量
10
生産量
5−1では、植物の生産が独占的に行われている場合について考察する。植物の生産が独占的
である場合とは、植物の生産者が、伝統的知識のために植物を利用しているA氏のみである場合
を想定している。この場合、伝統的知識に関連した植物について商業化がなされておらず、製薬
企業の需要が生じて初めて、植物の市場が出来上がる。そのため、植物の消費者が製薬企業B社
のみとなることから、薬品の市場からの需要曲線から、植物の需要も決まることとなる。
具体的な価格及び生産量の決定の順序を見ていくと、植物の生産者であるA氏が唯一の買い手
であるB社に対して、独占的に植物を供給する場合、A氏はB社の行動を考慮するため、B社の
利潤は、植物の価格 Ph に依存することとなる。したがって、B社はA氏が提示するPhを所与と
して、利潤関数ΠBを最大化する。利潤ΠBは、
∏B = P
m
( Q )Q
m
Qm
m
−
∫C
m
dq = ( B − Q m )Q m − ( P h + β ) Q m
0
となる。また、ΠBを最大化する条件は、
∂ ∏B
を満足させる Q
m*
∂Q m
∂ ∏B
∂Q m
= 0 であるから、B社は、
= −2Q m* + ( B − β − P h ) Q m* = 0
を選択する。以上より、B社による薬品の生産量 Q
Q m* =
m*
は、
1
( B − β − Ph )
2
となる。
次に、植物の市場について考察する。植物の需要は、 Q だけであり、 Q = Q
m
m
h
m
(Q ) = Q
h
h
で
あることから、A氏は、Ph を変化させることによる Qm、すなわち同量の Q の変化を考えながら、
自らの利潤を最大化するように Ph を選択する。そこで、A氏の利潤関数ΠAは、
Qm
∏ A = P Q ( P ) −
h
m
h
∫ α q( P
h
)dq
0
2
1
= P h Q m ( P h ) − α {Q m ( P h )}
2
∂ ∏A
となる。 ∏ A を最大化する条件は、
= 0 であるから、A氏は、
∂P h
m
∂ ∏ A ⎛ h* ∂Q m
m⎞ ⎛
m ∂Q ⎞
P
Q
Q
=
+
−
α
⎜
⎟ ⎜
⎟=0
∂P h ⎝
∂P h
∂P h ⎠
⎠ ⎝
を満たす Ph*を選択する。
ここで、
∂Q m
1
= − であることを用いると、
∂P
2
∂ ∏A
1
⎛ 1⎞
= − P h* + Q m − α Q m ⎜ − ⎟ = 0
h
2
∂P
⎝ 2⎠
h
となる。これを解くと、Ph*は、
P h* =
(α + 2 )( B − β )
α +4
h*
となる。さらに、A氏が P を選択する時、B社の生産量 Q
Q m* =
1
B−β
B − β − P h* ) =
(
α +4
2
11
m*
は、
h*
となる。したがって、A氏の生産量 Q は、 Q
h*
=
B−β
となる。なお、この時、A氏の利潤は
α +4
( B − β ) であり、さらに、B 社の価格 Pm*と利潤 ∏* は、それぞれ、
=
B
2 (α + 4 )
2
∏
*
A
P m* = B − Q m* = B −
B − β α B − 3B + β
=
α +4
α +4
Q m*
∏ =P Q −
*
B
m*
m*
∫ (P
h*
+ β ) dq =
0
( B − β )2
(α + 4 )
2
となっている。
以上より、A氏が植物を独占的に供給していれば、競争価格 Ch*を上回る価格 Ph*を付けること
(
が可能であり、 ∏ A に独占利潤 P − C
*
h*
h*
)Q
h*
が含まれることが分かった。
なお、植物市場が独占的である場合、植物の生産者と薬品の生産者が協力して生産量を決定する
ことによって、両者の利潤の和を増加させることができる。以下で、この点を説明する。
図3−3
(薬品の市場:A氏とB社が協力して生産量を決定する場合)
価格
生産者:製薬企業B社
B
消費者:一般多数
Dm
A氏とB社の
独占利潤の合計
(ΠT )
T
*
P
Cm = Ch*+β
=αQT +β
β
MR
QT*
生産量
A氏が B 社と協力して生産量を決める場合、両者の利潤の和を増加させることが可能となる(図
3−3)。植物の生産者と薬品の生産者が、あたかも一つの企業のように意思決定する場合には、
m
植物の価格は、植物生産の限界費用である Ch となる。したがって、薬品の限界費用 C は、
C m = P h + β = C h + β となる。
両者が協力する時の利潤関数ΠT は、
∏T = ∏ A + ∏ B = P ( Q )Q −
T
T
QT
∫ C (q)dq
0
2
1
= ( B − β )QT − (α + 2 ) ( QT )
2
∂ ∏T
であり、これを最大化させる条件は、
= 0 であるから、
∂QT
∂ ∏T
T*
=0
T = ( B − β ) − (α + 2 ) Q
∂Q
B−β
T*
よって、 Q =
となる。
α +2
12
また、この時、価格 P 及び利潤 ∏ T をそれぞれ求めると、
T*
*
⎛ B − β ⎞ αB + B + β
PT * = B − ⎜
⎟=
α +2
⎝α +2 ⎠
⎛ B − β ⎞ ⎛α + 2 ⎞⎛ B − β ⎞ (B − β )
∏ = (B − β )⎜
⎟−⎜
⎟⎜
⎟ =
2 (α + 2 )
⎝ α + 2 ⎠ ⎝ 2 ⎠⎝ α + 2 ⎠
2
2
*
T
となっている。
最後に、A社と B 社が独立に意思決定した場合と、協力して意思決定した場合について、利潤
の差を考察する。
A氏と B 社が独立に意思決定した場合、両社の利潤の合計は、
(B − β ) + (B − β )
=
2 (α + 4 ) (α + 4 )2
2
∏ +∏
*
A
*
B
2
(α + 6 )( B − β )
=
2
2 (α + 4 )
2
となる。そこで、両社が協力して意思決定した場合と、独立に意思決定した場合の差である
∏*T − ( ∏*A + ∏*B ) を求めると、
2( B − β )
∏ − (∏ + ∏ ) =
>0
(α + 2 )(α + 4 )
2
*
T
*
A
*
B
(
)
と正の値となるため、 ∏T > ∏ A + ∏ B であることが分かった。つまり、両社が協力した場合の
*
*
*
方が、利潤の和が大きくなることが示された。
したがって、A氏が独占的供給者である場合は、B社と協力してΠT の利潤を分け合うことによ
り、A氏にとっても、利潤をさらに拡大させることが可能となる。
5−2 植物市場が競争的な場合(植物の生産に地域性がある場合)
図4−1
図4−2
(植物の市場)
価格
(薬品の市場)
価格
B
Dm
生産者:多数
消費者:一般多数+製薬企業B社
生産者:製薬企業B社
消費者:一般多数
製薬企業B社
の独占利潤
(ΠB)
Pm*
A Dh
Qm*
Cm =
S (Q h ) : P h = γ Q h
P2h
P1h
β
Q h* = Q2h + Qm *
Q2h Q1h
Qm +
γ
1+ γ
A+ β
MR
Qm*
生産量
γ
1+ γ
生産量
5−2では、植物市場が競争的であり、かつ植物の生産に地域性があるため、供給曲線が右上
がりとなっている場合を考える。
製薬企業B社は、植物の市場の需要曲線も考慮して、自社の最適生産量を決定する。そのため、
B社の限界費用は、 C = P + β であるが、 P の決まり方には注意を要する。
h
h
h
13
P h = γ (Q h + Q m ) であり、 Q h は、 Q h = A − P h を満たす。そこで、まず、 P h を求めると、
P h = γ (Q h + Q m ) = γ
=
γ
1+ γ
{( A − P ) + Q }
h
m
( A + Qm )
となる。したがって、
γ
C m = Ph + β =
γ
Qm +
A+ β
1+ γ
1+ γ
となる。また、B社の利潤関数 ∏ B は、
Qm
∫C
∏B = P Q −
m
m
m
dq
0
Qm
=P Q −
m
m
⎧ γ
∫ ⎨⎩1 + γ Q
m
q =o
+
γ
⎫
A + β ⎬ dq
1+ γ
⎭
2
⎛
2 + 3γ
γA ⎞ m
Qm ) + ⎜ B − β −
(
⎟Q
2(1 + γ )
1+ γ ⎠
⎝
∂∏
∂ ∏B
= 0 である。B社は、 B
= 0 となる点 Q m* で
となり、これを最大化する条件は、
∂Q m
∂Q m
=−
生産を行うことから、
∂ ∏B
∂Q
Q m* =
m
=−
2 + 3γ m* ⎛
γA
Q +⎜B− β −
2(1 + γ )
1+ γ
⎝
(1 + γ )( B − γ ) − γ A
⎞
⎟=0
⎠
2 + 3γ
となる。
(
) で生産が行われていたが、 Q だ
γ
=
( A + Q ) を満たす点となる。
1+ γ
一方、植物の市場では、当初は P = γ Q を満たす P , Q
h
h
h
h
h
け需要が増加することにより、新しい均衡点 P2 は、 P2
h
m*
m*
このことから、
P2h =
h
γ ⎪⎧ ⎛ (1 + γ )( B − γ ) − γ A ⎞ ⎪⎫ γ (2 A + B − γ )
⎨A + ⎜
⎟⎬ =
1 + γ ⎪⎩
2 + 3γ
2 + 3γ
⎝
⎠ ⎪⎭
h
h
となる。 P1 から P2 に価格が上昇したことにより、薬品以外に用いられる植物の需要は、Q1 から
Q2h に減少している。また、植物市場においては、生産量が、 Q1h から Q h* へ増加することによっ
て、生産者余剰は増加するが、消費者余剰は減少する。ただし、生産者余剰の増加分が、消費者
余剰の減少分を上回るため、全体の厚生は増加する。また、植物市場においては、独占利潤は発
生しない。
このモデルでは、供給曲線が短期であるため右上がりとなっているが、植物市場にさらに生産
者が参加すれば、供給曲線は水平となり、生産者余剰もゼロとなることが予想される。この点に
ついては、次の5−3で取り扱うこととする。
14
5−3 植物の市場が競争的である場合(植物の生産に地域性がない場合)
図5−1
図5−2
(薬品の市場)
(植物の市場)
価格
価格
B
生産者:多数
生産者:製薬企業B社
Dm
消費者:一般多数
消費者:一般多数+製薬企業B社
製薬企業B社
の独占利潤
(ΠB)
Pm*
A
Qm*
Dh
S
Cm=Ph +β
S
ACmin=Ph
Q1h
Q2h
MR
Qm*
生産量
生産量
ここでは、植物の市場が競争的であり、かつ植物の生産に地域性がないため、植物生産の限界
費用が水平である場合について考察する。
まず、薬品の市場を考える。 製薬会社B社の利潤関数ΠB は、
∏ B = P mQ m − ( P h + β ) Q m = −(Q m ) 2 + ( B − P h − β ) Q m
であり、これを最大化する条件は、
∂ ∏B
∂Q m
∂ ∏B
∂Q m
= 0 となる。そこで、
= −2Q m + ( B − P h − β ) = 0
を解くと、生産量、価格及び利潤は、それぞれ、
1
(B − Ph − β )
2
1
P m* = B − Q m = ( B + P h + β )
2
1
∏*B = ( B − P h − β ) 2
2
Q m* =
となる。
次に、植物の市場を考える。植物の市場は競争的であり、 P = ACmin であることから、B 社が
h
参入する以前の植物の生産量を求めると、 P = A − Q1 より、
h
h
Q1h = − P h + A
となる。また、B 社参入後は、B 社の需要量の分だけ植物の生産量が増加し、また、仮定3より
植物1単位から薬品1単位が生産されることから、B 社参入後の植物生産量は、
1
Q2h = Q1h + Q m* = (2 A + B − 3C h − β )
2
となる。なお、植物の市場は競争的であるため、生産者が独占利潤を得ることはない。また、
P h = ACmin と水平になっていることから、生産者余剰も発生していない。
15
5−4 本章のまとめ
本章では、伝統的知識の利用に必要となる植物の市場と、その植物を用いて生産される薬品の
市場に着目し、モデルを構築して分析を行った。その結果、判明したことは以下の3点である。
第一に、植物の市場が独占的であり、植物の生産者が価格支配力を持つ場合は、植物の生産者
は独占利潤を入手できることが分かった。さらに、植物市場が独占的である場合、植物の生産者
と薬品の生産者が協力して意思決定を行うことで、利潤の合計を、両者が別々に行動する場合よ
りも増加させることができることが分かった。
第二に、植物の市場が競争的であるが、植物の生産に地域性がある場合、植物の供給曲線が右
上がりとなるため、植物の生産者は、独占利潤を得ることはできないが、生産者余剰は入手でき
ることが分かった。
第三に、植物の市場が競争的であり、かつ植物の生産に地域性がない場合、植物の供給曲線が
水平となるため、植物の生産者は独占利潤はおろか、生産者余剰すら入手できないことが分かっ
た。
6 事例への当てはめ
本章では、図2の分類②(伝統的知識がパブリック・ドメインにある場合)の代表的な事例と
して、インドにおけるニームの事例を取り上げるともに、分類③(伝統的知識がプライベート・
ドメインにあり、植物の市場が独占的な場合)については、カニ族の不思議な木の実の事例を取
り上げる。さらに、その二つの事例に類似する例として、フーディア、ターメリック及びアヤワ
スカの例を概観していく。また、事例を考察するに当たり、第4章の分類及び第5章のモデルを
活用することとする。
6−1 ニームの事例(インド)
6−1−1 事例の概要21
ニーム(学名:Azadirachta Indica)とは、インドに自生するセンダン科の樹木であり、イン
ドでは生物農薬や薬、歯磨粉として長年にわたり使用されてきた22。また、ニームから作られる
製品は、インドでは 70 年以上前から、既に商業化が行われている。
そのニームに関しては、1985 年に、アメリカ大手化学会社である W.R.Grace 社及び米国農務
省が、抽出法などの特許を取得している。また、米国農務省等が、ヨーロッパにおいても、1995
年に特許を取得している。
W.R.Grace 社は、その後、特許権を行使し、インドのニーム製品製造業者に、技術の買上げを
迫り、これに反発したインド政府、市民団体、グリーンピースなどが特許無効審判を、欧州特許
庁に請求した。なお、訴えの根拠としては、新規性、進歩性、記載不備、特許性の除外による公
序違反(EPC 第 53 条(a))が挙げられている。
21
事例の概要については、主に森岡(2005)を基に記述した。
ニームの性質等に関しては、英国の王宮植物園群・キューガーデン(Royal Botanic Gardens, Kew)のホーム
ページが詳しい。(http://www.plantcultures.org/plants/neem_landing.html)
22
16
欧州特許庁は、当該特許について、インドの伝統的な抽出法と比較し、新規性がないことを理
由として、2000 年に無効の判断を下した。2005 年 3 月には上告も棄却され、特許の無効が確定
した。
この事例については、例えば、Dutfield(2000)は、企業がインドに存在する伝統的知識に由
来する特許を取得したからといって、インドの農民が従来と同様に伝統的知識を使用することの
妨げとなるわけではないことを強調するとともに、新規性等があれば、特許庁が特許を付与した
としても、発展途上国が、搾取されたと感じることはないと主張する。また、特許取得によって
ある発明が独占権を一時的に得ることによって搾取が行われることは、特許に関連する全ての技
術に言えることであり、伝統的知識のみの問題ではないことから、インドの農民が、伝統的知識
を特許権者によって略奪されたと感じる必要はないと説く。
Sculer(2004)は、Dutfield とは異なる観点から、本事例が、バイオパイラシーには当たらな
いことを説明する。具体的には、ニーム関連の製品については、無効となった特許以外にも、数
多くの特許が付与されているため、一つの特許が無効となったことが、ニームの生産者の所有権
や商業的な販売に与える影響は極めて小さいことを説明している。さらに、無効とされた 2000 年
の時点では、Grace 社は既に農薬ビジネスから撤退しており、Grace 社に与える影響もないと述べ
ている。
6−1−2 事例の考察
ニームの事例は、図2の場合分けでは、分類②(伝統的知識がパブリック・ドメインにある場
合)に相当すると言える。この場合は、前述したとおり、伝統的知識の価格をゼロとし、多くの
人に自由に伝統的知識を利用させることによって、社会的余剰を最大化することができると考え
られる。
このように、ニームの使用方法に関する伝統的知識自体は、パブリック・ドメインにあるが、
ニームの主要な生産地は、インドであるため、地域的に限られている。そこで、ニームの事例に
関しては、5−2のモデル(植物の市場が競争的であり、かつ植物の生産に地域性がある場合)
を用いて考察を行う。
仮に、新規参入した製薬企業が、インド以外の場所で植物の栽培を行った場合は、図4−1に
h
h*
見られるような Q1 から Q に生産量が増加したことからもたらされる植物生産者の余剰の増加
は、わずかなものとなる。しかし、ニームの場合、その主な栽培地がインドであったことから、
製薬企業が植物の市場に参入し植物の需要量が増加したことによる生産者余剰を享受するのも、
インドの生産者ということになる。
h
一方、植物生産の限界費用が右上がりであることから、需要量の増加とともに、価格も P1 から
P2h に上昇している。このことにより、製薬企業参入前の消費者の余剰は減少している。つまり、
B社がインドの国内にあれば、生産者余剰のみならず、消費者余剰も全てインドのものとなるが、
事例では、インド国外にある先進国企業によってニームの需要量の増加がもたらされているため、
インド国内の消費者余剰は、かえって減少したものと考えることができる。
現実に照らし合わせても、ニームの需要量が増加したことにより、過去 20 年間において、1ト
ン当たりのニームの価格は、300 ルピーから 8,000 ルピーにまで約 26 倍も上昇している23。この
23
Schuler(2004)165 頁
17
ように価格が上昇したことによって、インド現地において、伝統的にニームを使用してきた者が、
その利用を妨げられるという問題面は残る。しかし、インド国内において、ニームの需要量及び
価格が上昇したことによって、社会的余剰が増加したという点をかんがみると、経済学的な効率
性は達成されていると言える。そのため、現地のニーム利用者に対する経済的な救済が必要であ
るとするならば、それは、インド政府による富の再分配によって、対処すべき問題であると言え
よう。
さらに、ニームの事例の場合、Grace 社が権利行使を行おうとしたため、特許の無効審判にま
で発展したが、そのような特異なケースでなければ、そもそも紛争にまで発展しなかったとも考
えられる。前述したとおり、ニームに関連する特許は、インドにおいて数多く取得されており、
Grace 社の特許は、その一つに過ぎない。そのため、本事例を代表的なバイオパイラシーの事例
として発展途上国が例示することが多いが、ニームに関連する特許によって、先進国の企業が不
当な利益を得たわけでもなければ、発展途上国が不当に搾取されたわけでもない、と考えること
が妥当であろう。つまり、
「ニームに関連した伝統的知識に由来する特許を得ること」という点は、
当該特許が Bad patent に当たらず、新規性・進歩性等の特許要件を満たしている限り、何ら問題
はないと言うことができよう。
6−2 カニ族の不思議な木の実の事例(インド)
6−2−1 事例の概要24
本事例は、カニ族の有する arogyapaacha(学名:Trichopus zeylancius)という植物の木の実
が疲労回復に有用であるという知識をめぐる例である。Leverve (2004)は、カニ族の事例につい
て、伝統的知識に由来する特許によって、製品の確実な市場が確保されたケースであり、さらに、
薬品から生じる利益から、カニ族への利益配分が可能となった成功事例であると評価している25。
カニ族とは、インド南部のケララ州の森に住む先住民である。現在の人口は約 18,000 人と推定
されており、伝統的には遊牧生活を行っていたが、現在は大部分の者が定住生活を送っている。
また、カニ族では、「Plathis」と呼ばれる部族の治療者が、伝統的な医学的知識を伝承し、実施
する権利を慣例として有しており、本事例の木の実の知識も、Plathis の有する医学的知識の一つ
である。以下、カニ族の知識によって、どのような経緯をたどって利益配分がもたらされたかを
概観する。
1987 年に行われた民俗生物学調査プロジェクトにおいて、カニ族の男性がガイドとして同行し
ていた。彼らは、木の実を時折食べており、他のメンバーに比べて疲労の度合いが少なかった。
この様子を目撃した研究者は、ガイドが食べていた木の実に興味を持ち、知識の開示についてガ
イドと交渉を行った。ガイドは、長年の秘密かつ神聖なものであるとして、木の実の正体を明か
すことに当初消極的であったが、度重なる説得の上、研究者がその知識を入手した。
その後、研究者らが、木の実の分析を行い、ストレス抑制、免疫刺激効果等を発見した。さら
事例の概要については、主に WIPO-UNEP(2000)を基に記述した。
なお、Leverne が挙げる本事例の評価としては、他にも、①本来であれば、伝統的知識の保有者である Plathis
に対して事前の情報に基づく同意(PIC)が誰に対してなされるべきであったかが、本事例では明確にされた
わけではないこと、②コミュニティの同意なしに、情報開示を行うインセンティブを、個人に与えてしまうこと
になることから、本事例のようにガイドに対して特別なインセンティブを与えるための金銭が与えることは、推
奨すべきものではない、等がある。
24
25
18
に、TBGRI(Tropical Botanic Garden and Research Institute)が臨床試験を行った上で、薬品
「Jeevani」を開発し、特許を取得した。当該特許については、インドの製薬会社である Arya
Vadiya Pharmacy 社に 7 年間の期限付きでライセンス契約がなされた。この契約では、10 Lakhs
ルピー(100 ルピー;約 25,000 ドル)がラインセンス・フィーとして支払われたほか、 将来的
な薬の売上げについて、その2%をロイヤリティとして TBGRI が受け取ることなどが決定され
ている26。
その後、Jeevani の商品化から得られる利益を円滑に配分するため、TBGRI の協力の下、1997
年に、 Kerala Kani Samudaya Kshema Trust が設立された。基金は、(1)ケララ州のカニ族の
福祉と発展、(2)カニ族の知識を文書化するための生物多様性記録(biodiversity register)の準備、
(3)生物資源の持続的利用と保全を促進するための方法の発展及び援助、を目的としている。カニ
族の 60%以上の者が、この基金のメンバーとなっており、その運営もカニ族によって行われてい
る。また、基金は、TBGRI の得るロイヤリティの 50%を受け取っている27。
なお、カニ族が木の実を主に採取していた Augustatayar Forest は、インド森林省によって保
全すべき熱帯雨林に指定されている。この地域では、ケララ州の森林局による許可を得ていない
行為は全て禁止されており、先住民が森林からの産物を少量利用することは、例外的に許されて
いる行為となっている。そのため、arogyapaacha の乱獲や過度の栽培等を危惧した森林省は、当
初、arogyapaacha の商業的利用を禁止しており、製薬のための原料が不足した状態にあった。そ
の後、TBGRI と森林省の間で協議が行われた上で、現在では、森林省は、カニ族による
arogyapaacha の栽培を許可している。
6−2−2 事例の考察
カニ族の事例については、図2の分類では、③(伝統的知識がプライベート・ドメインにあり、
植物の市場が独占的な場合)に当てはまると言える。また、森林省によって、arogyapaacha の主
な生息地が保護地区に設定されていることを背景として、カニ族による独占的な供給が比較的高
い水準で保証されている事例であることから、5−1(植物の市場が独占的な場合)のモデルを
使用し、考察を行うことが適当である。
植物生産者によって独占的に当該植物が供給されている場合、5−1で説明したとおり、植物
生産者及び製薬企業は、それぞれが独占的に行動することで、双方ともに独占利潤を得ることと
なる。つまり、伝統的知識の所有者が、物権的な側面から植物の供給を独占し、価格支配力を持
つ場合は、特に伝統的知識に関して知的財産権としての独占権を与えなくとも、図3−1のよう
な独占利潤を得ることができるのである。この独占利潤があれば、伝統的知識の所有者に対する
伝統的知識の蓄積・改良や、伝統的知識の公開というインセンティブも、ある程度保証されると
言えよう。
以上のことから、伝統的知識の所有者によって、植物を独占的に供給できる場合は、伝統的知
識に対して新たな知的財産権を設定しなくとも、インセンティブとなる独占利潤は発生しており、
TBGRI は、ライセンス期間は、販売促進のためのベンチャー事業としてのものであり、仮に、7 年間で市場が
開拓できたならば、ライセンス・フィーについて適切な値上げを行い、より多くの利益をもたらすことが可能な
別な企業にライセンスすることもあり得るとしている。(WIPO-UNEP(2000) 115 頁)
27 カニ族の中でも、基金の設立に反対の者もおり、基金及び利益配分の方式に批判的な者も存在する。
(WIPO-UNEP(2000) 117 頁)
26
19
新たな知的財産権の設定は不必要であると言える。つまり、カニ族は、特に伝統的知識について
知的財産権としての独占権を持たずとも、植物の市場から独占利潤を享受することができるので
ある。
また、この事例のように、植物を物件的に支配しており、独占的な供給が可能な場合は、植物
生産者側の交渉力も大きくなるため、契約による利益配分も成功しやすいと言える。さらに、契
約によって、植物生産者と製薬企業が協調して意思決定を行うことができるならば、図3−3で
示したとおり、社会的余剰は、別々に意思決定した場合よりも増大する。このことから、知的財
産権としての独占権を付与せずとも、契約によって協調することで、社会的余剰を増大させ、経
済的により効率的な結果をもたらすことが十分可能であると考えられる。
しかし、カニ族のように植物を独占的に供給できる事例とは異なり、例えば植物が他の土地で
栽培可能であるような場合、つまり、図2の分類③(伝統的知識がプライベート・ドメインにあ
り、植物の市場が独占的な場合)から④(伝統的知識がプライベート・ドメインにあり、植物の
市場が競争的な場合)に移行してしまう場合には、以下のような問題点が残る。
第一の問題点としては、植物の市場が競争的なものになってしまった場合、伝統的知識の所有
者は、図5−1で示したように、植物の市場から独占利潤を得ることができず、伝統的知識の蓄
積・改良のインセンティブが生じないため、知識の公開の促進も図られないという点が挙げられ
る。伝統的知識を私的に所有していたとしても、伝統的知識自体に知的財産権としての保護がな
ければ、伝統的知識に対する独占権を行使し、利益配分を企業に求めることはできず、あくまで、
利益配分は交渉に委ねられることとなる。そのため、企業が、伝統的知識の所有者との交渉及び
事前の同意なく、何らかの方法で伝統的知識とそれに関連する植物を入手し、当該植物を他の土
地で独自に栽培してしまえば、知的財産権的な側面からも、植物の生産という物権的な側面から
も、伝統的知識の所有者は何らの利潤を得ることもできないのである。
第二点目としては、伝統的知識が私的に所有されていたとしても、伝統的知識に知的財産権的
としての保護がなければ、伝統的知識の所有者が、事後的に経済的・精神的な損害を回復するこ
とが困難である点が挙げられよう。そもそも、伝統的知識の所有者が製薬企業との間で契約を締
結していない場合、契約に基づく利益配分が行われず、債権的な保護が存在しないことは言うま
でもない。その上、植物が他の土地で栽培可能であった場合は、土地又は植物に関する所有権侵
害に基づく不法行為を理由とする損害賠償請求を主張することもできず、物権的な保護も存在し
ない。さらに、一般的に、伝統的知識は文書化されず、伝承的手法によって保有されていること
から、カニ族が無効審判等によって、特許の無効を主張したとしても、伝統的知識の存在を立証
することが困難であるため、事後的な救済を図ることは難しく、訴訟手続による保護も存在しな
いと言える。
以上のことから、伝統的知識が私的所有にある場合、植物が独占的に供給することが可能であ
れば、知的財産権としての保護は必要ないが、植物が競争的な栽培に移行する場合は、知的財産
権としての保護が、インセンティブ確保及び事後的な救済の困難性の2点から必要となると言え
よう。
20
6−3 フーディアの事例(南アフリカ)
6−3−1 事例の概要28
フーディア(学名:Hoodia gordonii)とは、アフリカ南部に居住するサン族が、狩猟に行く際、
食欲や喉の渇きを抑制するために、伝統的に使用してきたサボテンの一種である。サン族とは、
カラハリ砂漠に住む先住民であり、その居住地域は、南アフリカ、ボツワナ、ナミビア及びアン
ゴラにまたがっている。以下では、フーディアの商業化までの流れを概観する。
1970 年代に、CSIR(the African Council for Scientific and Industrial Research)は、地域の植
物の伝統的利用方法を調査する一環として、フーディアの利用方法をサン族より入手した。しか
し、当時は、フーディアから有効成分を単離し、特定する技術が不足していたため、フーディア
の研究は 1980 年代初頭まで停止されていた。また、知識の入手時点では、CSIR とサン族との間
で、契約が取り交わされることはなかった。
1980 年代に入り、技術的な困難性が解消されたことから研究が再開され、1995 年に、CSIR
は、フーディアの食欲抑制に関する成分である「P57」の利用方法について、南アフリカにおい
て特許を取得した。1998 年には、南アフリカ以外の国においても、CSIR に特許が付与されてい
る。
さらに、1998 年には、CSIR は、更なる開発と商業化のため、英国の製薬会社 Phytopharm 社
とライセンス契約を締結し、同年、Phytopharm 社は、米国 Pfizer 社とライセンス契約を結んだ。
なお、2003 年に Pfizer 社が商業化のための P57 開発から撤退し、翌年、Phytopfarm 社は、改
めて英国の Unilever 社とライセンス契約を締結している。
このように、先進国企業において、フーディアに関して、商業的な利用のための研究が続けら
れていたが、サン族はこうした動きについて情報を得ていなかった。しかし、2001 年、「The
Observer」誌の報道により、こうした先進国企業の動向について情報を入手しことを発端に、サ
ン族は、CSIR の特許はサン族の知識を基にしたものであると主張し、CSIR との間で交渉が開始
された。
交渉の末、2003 年にサン族と CSIR との間で、利益配分契約が締結された。その主な内容とし
ては、Phytopharm 社から CSIR が受け取る全ロイヤリティの6%をサン族が受け取ること、ま
た特定の目標が達成された時に Phytopharm 社から CSIR が受け取ることになっている収入
(milestone income)の8%をサン族に支払うこと、等を挙げることができる29。また、2004 年
には、San Hoodia Benefit Sharing Trust が設立され、CSIR からもたらされる収入の管理がな
されることとなった。
なお、2004 年に、フーディアの乱獲を防止することを目的として、フーディアがワシントン条
約の付属書Ⅱに登録されている。ワシントン条約付属書Ⅱに登録することのできる種とは、
「現在、
必ずしも絶滅のおそれのある種ではないが、その標本の取引を厳重にしなければ絶滅のおそれの
ある種となるおそれのある種、又はこれらの種の標本の取引を効果的に取り締まるために規制し
なければならない種」30のことであり、国際取引を行うには、輸出国の許可書が必要となる。
事例の概要については、主に Wynber (2004)を基に記述した。
Wynber(2004)は、利益配分が、金銭的利益に限られていることを問題としており、非金銭的な利益配分(例え
ば、技術移転など)も重要であるとしている。
30 外務省ホームページ(http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kankyo/jyoyaku/wasntn.html)
28
29
21
6−3−2 事例の考察
フーディアの事例は、図2の分類によれば、③(伝統的知識がプライベート・ドメインにあり、
植物の市場が独占的な場合)から、②(伝統的知識がパブリック・ドメインにある場合)に移行
してしまった事例であると言える。この事例は、カニ族の場合と類似する点も多いが、サン族に
より私的所有されてきた伝統的知識が、商業的利用等に関する事前の同意なく、過去の調査の一
環として、パブリック・ドメインに移ってしまった点が異なる。それゆえ、発展途上国からは、
バイオパイラシーであると指摘されているが、最終的にはサン族と CSIR との間で利益配分契約
が行われたことから、Kate and Laid(2004)が指摘するように、いったんはパブリック・ドメイン
となった知識から先住民が利益配分契約を締結することができた成功事例としてとらえることが
妥当であろう。
経済学的な観点から当該事例を考察すると、フーディアが、ワシントン条約付属書Ⅱに登録さ
れたこともあり、サン族はフーディアの供給を比較的独占に近い形で行うことが可能である。そ
のため、カニ族の事例と同様、サン族は、フーディアの市場から独占利潤を得ることができる(図
3−1参照)
。このように、植物の生産を独占していれば、伝統的知識の所有形態に拘らず、たと
え、伝統的知識がパブリック・ドメインにあったとしても、植物の生産者は、独占利潤を得るこ
とが可能となる。
そのほか、本事例で顕在化した問題点として、Wynber(2004)は、フリーライドの存在を挙げて
いる。Wynber(2004)によれば、正式に CSIR とライセンス契約を行っている Phytopharm 社や
Unilever 社以外の企業が、近年、フーディアを利用したダイエット・サプリメントのような製品
の商業化を進めており、これらの企業は、CSIR は Phytopfarm 社の行った研究開発に、フリー
ライドする形で、商品化を行っているという。このフリーライド問題については、企業側の研究
開発のインセンティブ確保という面からは問題が残されていると思われるが、サン族自体は、フ
ーディアの市場が独占的であることから、独占利潤を得ることが可能である。そのため、伝統的
知識の所有者たるサン族が、フリーライドしている企業からのライセンス料を受け取っていない
という点は、サン族に対するインセンティブの付与という側面からは大きな問題とならないと言
うことが可能である。
6−4 ターメリックの事例(インド)
6−4−1 事例の概要31
ターメリック(ウコン)
(学名:Curcuma longa)とは、ショウガ科の草本であり、スパイスや
黄色の染料など様々な用途で使用されている32。また、世界の需要量の 94%がインドにおいて生
産されている。
インドでは、ターメリックは長年にわたり、傷や発疹の治療薬として使用されてきた。このタ
ーメリックの持つ効能に着目し、米国在住のインド人研究者2名が、米国において、ターメリッ
クの創傷治療法について 1993 年に特許出願を行い、1995 年に特許が付与された。
この特許付与に反発し、伝統的知識と特許の問題をインドに広く啓蒙した人物として知られる
31
事例の概要については、主に森岡(2005)を基に記述した。
ターメリックの性質等に関しては、英国の王宮植物園群・キューガーデン(Royal Botanic Gardens, Kew)の
ホームページが詳しい。(http://www.plantcultures.org/plants/turmeric_landing.html)
32
22
米国在住のインド人 Dr. Mashelkar を含む CSIR(Indian Council of Scientific and Industrial
Research)(インド政府科学技術省の外郭団体)が、当該特許の無効を主張し、米国特許庁に再審
査を要求した。その際、提出された証拠は、12 世紀のサンスクリット文献等、多岐にわたる。1997
年に、米国特許庁は、新規性が欠如しているとして、当該特許を取り消した。
6−4−2 事例の考察
ターメリックの事例は、伝統的知識がパブリック・ドメインに属しているという点や、生産地
が主にインド国内に限られている点など、ニームの事例と共通するところが多い。しかし、大き
く異なるのは、ターメリックの場合、問題となった特許を基として、薬品等が商品化されていな
いことから、薬品の市場は創出されておらず、特許権者は独占利潤を享受していないという点で
ある。植物の市場を見ても、薬品の市場がないことから、たとえ特許権が取得されたとしても、
h
h*
図4−1に見られるような、 Q1 から Q の生産量の増加といった現象は、ターメリックの事例で
は起こりえない。つまり、特許取得による植物市場の影響はなかったということができよう。
また、ニームの事例と同様、ターメリックについても、多数の特許が、既に取得されている状
況にある。例えば、Schuler(2004)によると、米国において、ターメリックに関連する特許は、1974
年に取得されたものを皮切りに既に 400 件近く取得されており、そのうち 7 件は、医学的知識に
関するものであると言う。そのため、ターメリックの事例においても、伝統的知識に関する議論
の高まりを背景とした CSIR の主導がなければ、そもそも特許の無効審判にまで発展しなかった
とも考えられる。
以上の点を鑑みると、ターメリックに関する特許については、経済的な観点ではなく、主に精
神的な観点から、バイオパイラシーであると主張し、無効審判にまで発展した事例であると言え
る。森岡(2005)が指摘するように、伝統的知識が先進国の私企業によって独占され、公共への
貢献が阻害されるという発展途上国の危機感の現れであると言えよう。
6−5 アヤワスカの事例(エクアドル)
6−5−1 事例の概要33
アヤワスカ(Ayahuasca、学名:Banisteria cappi)とは、幻覚作用を持つ物質が含まれている
キントラノオ科の植物である。アヤワスカは、アマゾン周辺の先住民にとって神聖なものである
と考えられており、長年にわたり、宗教や治療の目的で利用されている。
アメリカ人薬理学者である Loren Miller は、エクアドル国内のアマゾン地域に居住する先住民
の農場において、アヤワスカのサンプルを採集した。その後、Miller は、そのサンプルから新た
な品種「Da Vine」を育種したとして、植物特許を出願し、1986 年に米国特許庁から植物特許が
付 与 さ れ た 。 報 道 に よ り 、 こ の 事 実 を 知 っ た ア マ ゾ ン 近 隣 の 先 住 民 組 織 で あ る COICA
( Coordinating Body of Indigenous Organizations of the Amazon Basin)及び Amazon
Coalition は、1999 年3月に、米国特許庁に再審査請求を行った。これに対し、米国特許庁は、
いったんは、新規性を欠くとして特許を取り消す判断を下したものの、Miller による反証の提出
により、2001 年1月に改めて、残存期間について特許を認めたという事例である。
33
本事例については、主に青柳(2004)、Schuler(2004)を基に記述した。
23
6−5−2 事例の考察
本事例は、ターメリックの事例と同様に、問題となった特許によって薬品が商品化されておら
ず、特許権者である Miller は独占利潤を得ていない。また、取得された特許によって、新たな市
場が創出されていないため、植物の生産量の増加といった植物市場への影響も存在しない。その
ため、本事例も、バイオパイラシーの一つとして発展途上国から示される事例ではあるものの、
利益配分の欠如を非難するという経済的な観点からと言うよりも、精神的な観点から、特許の無
効を求めたものと考えることができる。特に、アヤワスカの場合、先住民が長年にわたり使用し
てきた事実に加え、アヤワスカが神聖なものであり、その使用方法が祭祀的な性格を帯びたもの
であったため、精神面での問題が顕在化しやすかったと考えることができよう。
伝統的知識は、技術的要素と宗教や儀式などの文化的要素が密接していることが多く、先住民
のアイデンティティと強く結びついていることが指摘されている34。アヤワスカに関する知識も、
先住民のアイデンティティと強く結びついているが、事例から見て取れるように、精神面での損
害について、現在の知的財産権制度の中で事後的に救済することは、難しい状況となっている。
7 伝統的知識に関する新たな知的財産権制度の導入の是非
第5章のモデルによる分析と第 6 章の事例からの考察によって、知的財産権としての保護が必
要となる場合は、伝統的知識がプライベート・ドメインにあり、かつ伝統的知識の利用に関連す
る植物が競争的に生産される場合(図2分類④)に限られることが明らかになった。特に、植物
の生産に関して、地域性がなく、伝統的知識の所有者以外の者が、広く植物を栽培することが可
能な場合(図5−1)、伝統的知識の所有者は、独占利潤を得ることはできないことはもちろん、
生産者余剰すら得ることができないため、インセンティブの付与の観点から最も問題となる。
植物の生産が競争的である場合、伝統的知識に対して知的財産権的としての保護がない現状で
は、伝統的知識の所有者は、企業が商業化に成功したとしても、知的財産としての側面から利益
配分を得ることもできず、その上、植物生産に地域性がないときは生産者余剰を得ることもでき
ない。このような場合、伝統的知識を私的に所有している者に対して、伝統的知識の保有・蓄積
に対するインセンティブが付与されず、伝統的知識の公開が滞ることが予測される。ひいては、
企業等による伝統的知識を基とした後続研究が困難となるおそれも生じよう。
しかし、現実に見られる伝統的知識の多くは、既にパブリック・ドメインにあるという点や、
大多数の伝統的知識は市場の商業的価値がないか、あっても小さいという指摘35を考慮に入れる
と、伝統的知識全般について、一律に新たな知的財産権を付与することは、経済学的に見て非効
率性が大きいと言える。独占権を付与することは不可避的に死重の損失を生じさせる以上、理論
的には、独占権を付与すべき対象は、図2分類④に限るべきであり、制度設計を行う際も、でき
る限り、独占権付与の対象を限定することが望ましい。しかし、前述したように、図2のような
分類は理論的には可能であるが、商業的利用可能性の有無を、商業化がなされる以前の段階で判
断することは困難であるため、現実的には、図2分類④に限って独占権を認めるような制度を構
34
高倉(2001)347 頁、大澤(2002a)51 頁。高倉(2001)は、伝統的知識を保護しなくてはならないとする普
遍的理念を、伝統的知識が共同体としての社会的・文化的アイデンティティであることに見出しており、伝統的
知識に関する「人格権的アプローチ」を提唱している。(350、351 頁)
35 高倉(2001)349 頁
24
築することは、極めて困難であると言える。
以上のことから、伝統的知識については、新たに独占権を与えるのではなく、個別具体的な事
例に則して、現行のまま契約によるアプローチによりその利用を図ることが望ましいと思われる。
特に、図3−3のように、先住民と企業が協調して行動することによって、社会的余剰を増大さ
せることができる点を鑑みると、当事者である企業及び先住民の自主的な交渉に委ねた方が、余
剰の増加が達成されやすいと考えられる。契約によるアプローチに関しては、先住民の交渉力の
方が企業よりも弱いため、十分な利益配分がなされないという点が、発展途上国からたびたび指
摘されているが36、先住民を支援する NGO 等の活動が活発化している上に、企業側もイメージの
失墜を恐れる昨今の風潮を鑑みると、一概に、先住民は十分な交渉力を持たないとは言い難いと
思われる。
しかし、契約によるアプローチのみでは、伝統的知識はプライベート・ドメインにあるが、植
物市場が競争的な場合(図2分類④)に生じる問題点を解消することは困難である。さらに、当
初は植物が独占的に供給されていたとしても(図2分類③)
、先進国企業の参入を契機として植物
市場が競争的なものに移行した場合も、同様の問題が生じる37。再度、問題点を整理すると、伝
統的知識の私的所有者たる先住民と企業等との間で、事前の交渉や同意がないまま、伝統的知識
とその関連する植物を企業が入手した場合、(1)インセンティブの付与がなされず、知識の公開も
促進されない、(2)いったん知識が流出した場合、事後的な救済が困難である、という 2 点を挙げ
ることができる。
このような課題を解決する手段として、どのような制度が考えられるであろうか。
伝統的知識を保護する手段として既に存在する制度には、既存の知的財産権制度(特許法等)
及び発展途上国が導入を開始している Sui Generis 制度の二つがある。伝統的知識はプライベー
ト・ドメインにあるが植物市場が競争的な場合(図2分類④)であっても、仮にいずれかの制度
を導入できたとすれば、上記(1)、(2)の問題点を解決することは不可能ではない。しかし、本稿で
既に指摘したとおり、両制度に共通する根本的な課題として、図2分類④に限った制度設計を行
うことが困難であるため、どちらを導入したとしても経済的な非効率性が大きくなることが予想
される。
たとえ、このような場合に限った制度設計が可能であったとしても、各制度に残される課題は
多い。既存の知的財産権制度(特許法等)によって伝統的知識を保護しようとする場合、伝統的
知識は特許法等の要件を満たさないことが多いため、権利が付与される可能性のある伝統的知識
は例外的なものに限られてしまう。仮に、伝統的知識に知的財産権が付与されたとしても、 当該
知識を利用して後続の研究を行う際には、権利者との事前の契約が必要となり、交渉コスト、取
引コストが大きくなる。また、このような契約が成立せず、権利者が技術供与を拒否した場合は、
後続研究が大きく遅れることとなる。一方 Sui Generis 制度は、既存の知的財産権制度に比べて
より広い範囲での権利保護が可能であると評価されている38。、それでも、現行の Sui Generis 制
度では、第 3 章で述べたとおり、伝統的知識へのアクセスに対して事前同意や、アクセスの拒否
権が規定されていることが多いため、伝統的知識を基とした後続研究の遅れにつながる可能性が
36
高倉(2001)354 頁
本稿では分析の対象外としたが、薬品の生産において、原料として植物を用いず、専ら化学合成する場合につ
いて、本稿で分析した植物の市場が競争的、かつ地域性がない場合から類推して分析を行うことも可能であると
思われる。
38 青柳(2005)
37
25
高まると考えられる。
そこで我々は、契約アプローチにおいて生じてしまう二つの問題点を解決し、かつ経済的な非
効率性を最小化するような、新たな方策を考えていかなくてはならない。その候補の一つとなり
得 る と 考 え ら れ る の が 、 Reichman and Lewis (2005) が 提 唱 す る 補 償 金 請 求 レ ジ ー ム
(compensatory liability regime)である。この制度は、後続研究の遅れという弊害をもたらす
ことなく、契約アプローチにおいて生じる二つの問題点を解決する手段として有効であると思わ
れる。
補償金請求レジームは、発展途上国が国内に導入を開始している Sui Generis 制度とは異なる
制度であるが、伝統的知識の積極的保護の一形態として位置付けることができるものである。補
償金請求レジームは「use now pay later(今使え、後で支払え)」39を基本としており、所有権とし
てではなく債権的な観点から伝統的知識の保護を図ることに主眼を置いている。
補償金請求レジームの導入の目的は、ノウハウの一つとしてとらえることのできる伝統的知識
に対して、債権的な保護を与えることにある。伝統的知識のように、特許権の要件を満たさない
ことが多く、小規模(small-scale)な知識について、所有権として排他的独占権を与えることは、
当該知識を基にした後続研究の障壁となるため、過度に知識を保護することにつながる。そこで、
Reichman らは、伝統的知識の所有者と、後続研究を行う者とのバランスを鑑み、伝統的知識の
所有者に対して事後的に補償をすれば、事前に所有者の許可を得ずとも、自由に知識を使用でき
るという制度を提案している。具体的な制度の内容としては、だれしもが伝統的知識を利用する
ことができるよう、伝統的知識の利用法、利用期間、補償金額ないしその算定方法を明確にして
おくことを挙げている。また、伝統的知識の所有者には、知識を利用して付加価値的な改善を加
えた者から補償金を受け取る権利等が与えられる40。つまり、補償金請求レジームに基づき、伝
統的知識を登録・公開することによって、ある特定の期間について、伝統的知識は言わばセミコ
モンズとしての扱いを受けることとなるのである。
この補償金請求レジームを応用することができれば、伝統的知識はプライベート・ドメインに
あるが、植物市場が競争的(図2分類④)である場合に生じた二つの問題点を双方とも解消する
ことが可能となるであろう。すなわち、事後的な補償が可能となることによって、伝統的知識の
所有者には、知識の改良・蓄積に関するインセンティブが与えられ、知識の公開が促進されるで
あろう。補償金請求レジームはインセンティブの観点も、事後的な救済の観点も解決している。
このように、補償金請求レジームの下では、伝統的知識の公開が促進される上に、知識へのアク
セスが自由であるため、後続研究を促進させ、技術の発展に寄与することが可能であると言えよ
う。
さらに、補償金請求レジームは、伝統的知識を使用した者が事後的に補償を行うという手法を
採用するため、事前に商業的な利用可能性の有無等を判明することが不要であり、伝統的知識が
プライベート・ドメインにありかつ植物市場が競争的である(図2分類④)という特定の場合に
限った保護を、比較的容易な手法で達成することができる点も評価できる。また、事後的な補償
を行う義務が、知識を利用して後続研究を行う全ての者に生じるため、フーディアの事例で見ら
れたような、フリーライドの問題も解決できよう。
Dutfield(2005)
Reichman and Lewis(2005)は、このほかにも、伝統的知識の所有者に対して、大規模な複製を差し止める権利、
権利者地自身が後発者の行った改善を利用する権利を付与することを提案している。
39
40
26
補償金請求レジームは、まだ実際に導入されておらず、導入に当たっては具体的な制度設計が
必要となる。また、権利を付与するに当たっては、権利者を特定することが必要であるが、伝統
的知識は、権利者を特定することが困難であるという問題も残る41。このように、導入に至るま
での課題は多く残るため、更なる分析は今後の検討課題としたいが、既存の知的財産制度及び Sui
Generis 制度と比較して、補償金請求レジームは、保護による弊害を減らすことが可能であるた
め、経済的な効率性を保ちつつ、伝統的知識の保護及び利用を図る手段として、有力な候補であ
ると考える。
8 まとめ
本稿では、伝統的知識について、新たな制度を導入し独占権を付与することの是非について、
以下の方法で、検討を行った。
まず、第2章では、様々な伝統的知識の中でも、商業的利用可能性が高いものが多い上に、発
展途上国からバイオパイラシーの事例として取り上げられることの多い医学的知識(特に、その
使用に植物が必要となるもの)に焦点を絞ることについて説明を行った。
第3章では、伝統的知識に関する今までの議論を整理した。その際、既にパブリック・ドメイ
ンにある知識について第三者が知的財産権を取得すること(いわゆる bad patent)を防止するこ
とは重要であることから、消極的保護は必要となることを説明した。それゆえ、今後、問題とさ
れるべきは積極的保護に関する正当性の有無であることを指摘し、本稿では、積極的保護を議論
の対象とすることを示した。
第4章では、伝統的知識について、特定の性質に着目し、4つに分類した。具体的には、①商
業的利用可能性のない場合とそれ以外を分け、さらにその中で、②パブリック・ドメインにある
場合とプライベート・ドメインにある場合を分けた。後者については、伝統的知識の使用の際に
必要となる植物について着目し、③植物の市場が独占的である場合と④植物の市場が競争的であ
る場合とに区別した。この分類により、知的財産権としての保護が必要性となる可能性のある伝
統的知識は、③又は④のプライベート・ドメインにある場合であることが示された。
第5章では、ミクロ経済学の手法を用いて、伝統的知識に関連する植物及び伝統的知識を用い
た薬品についての市場を考察することで、いかなる場合に、伝統的知識に知的財産権としての保
護が必要となるかについて、考察を行った。本章の分析により、伝統的知識に関連する植物が伝
統的知識の所有者たる先住民により独占的に生産されている場合は、知的財産権による保護がな
くとも、先住民は独占利潤を入手できることが分かった。
第6章では、第5章における経済分析を踏まえた上で、具体的事例(ニーム、カニ族の不思議
な木の実、フーディア、ターメリック及びアヤワスカの5例)を考察した。本章の分析により、
伝統的知識が私的に所有されていたとしても、伝統的知識に関連する植物を、先住民が独占的に
生産できる場合は、インセンティブ付与のために、新たな知的財産権制度を導入する必要性はな
いことが判明した。さらに、保護が必要となる場合としては、伝統的知識がプライベート・ドメ
インにあり、かつ植物の生産が競争的である場合(図2分類④)に限られることが示された。
第 7 章では、以上のような分析結果と、伝統的知識が既にパブリック・ドメインにあるものが
41
これは、既存の知的財産権制度、Sui Generis 制度とも共通する課題である。
27
多く、かつ、商業的に価値のあるものが少ないという現状に鑑み、伝統的知識に一律に知的財産
権としての独占権を付与することは、経済的な効率性を損なうことになるため、適当ではないと
結論付けた。その上で、現行のまま、基本的に契約アプローチによることが望ましいと提案した。
しかし、契約によるアプローチだけでは、仮に、企業が、先住民と事前に交渉を行うことなく、
何らかの方法で伝統的知識とそれに関連する植物を入手した場合、図2分類④のように植物の市
場が競争的である時には、伝統的知識の所有者は、何らの利潤を得ることもできないため、(1)
知識を改良・蓄積するインセンティブの付与、知識の公開の促進、(2)事後的な救済の困難性、と
いう2つの問題点が残る。本章の最後では、既存の制度でこれらの問題点を解決した場合にもた
らされる弊害を指摘し、新しい制度が必要となろうことを提言した。
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