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すり込まれている筈の風景

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すり込まれている筈の風景
KITA1201
すり込まれている筈の風景
-増補改訂版-
2012 年 5 月
佐々木 建
目次
まえがき
2003 年 8 月根室行
奇妙なスポーツ賛歌
すり込まれている筈の風景
・・・・
1
・・・・
3
・・・・
・・・・ 18
すり込まれている筈の風景
・・・
18
波止場界隈
・・・
23
不確かな記憶でも見えてくるもの
・・・
33
果てからの声
15
・・・・
35
囁きでも力になる
・・・
35
8 月 15 日のトラウマ
・・・
37
誇りを持てぬまち
・・・
39
バラック
・・・
41
金子牧場と金子のばあさん
・・・・
46
参照文献
・・・・
64
まえがき
私の戦争体験に関わってこの 10 年間に執筆した文章を発表
順に並べて冊子にしてみた.最初の「2003 年 8 月根室行」は
ウェブサイト上で公表したもので,『葦牙ジャーナル』第 52 号
(2004 年 6 月)に収録された.「奇妙なスポーツ賛歌」は以前
に勤務していた名城大学のアメリカンフットボール部イヤーブ
ック『ゴールデンライオン』2004 年度版に掲載された.学生
たちの激励を目的に執筆したものだが,戦時下の体験に触れて
いるので収録した.「すり込められている筈の風景」はウェブ
サイトに公表した.イラク戦争,東京空襲 60 周年,戦後 60 年
の議論,日本と同じ状況で戦後を出発しなければならなかった
ドイツの議論に触発されながら書きつらねたものである.「果
てからの声」は,
「京都グローバリゼーション研究所通信」第 3
号(2008 年 3 月),第 4 号(2009 年 9 月)に公表したもので,
私のウェブサイト上でも読むことが出来る.
1
戦争犠牲者は靖国に祀られる「神々」だけではない.愚かな
指導者の決断によって多くの無辜の民が殺戮され,苦悩の中で
生きることを余儀なくされたことに,一体誰が責任を取り,誰
がその体験を尊重し,敬意を払ってきたというのか.私が体験
した戦争は沖縄戦や東京大空襲などに比べると些細なことかも
しれないが,思い出したくもない記憶をあえて呼び起こし,そ
れを書き連ねることにも意味があることのように思えてきた.
無関心,無視という状況を意図的に作り出して特定の政治的意
図を実現する現代日本の風潮に,たとえささやかなものではあ
っても抵抗する試みでありたいと願っている.
この冊子は,私の執筆構想の半分にも満たない.書きためた
ものはその都度増補し,最終的には電子書籍化するつもりでい
る.感想,意見等をお寄せ頂ければ幸いである.
2012 年 5 月
佐々木
2
建
2003 年 8 月根室行
1
この夏,自分の生まれた場所を訪ねて旅にでた.北海道根室
市本町 3 丁目 9 番地,これがぼくの誕生した場所である.ぼく
は最近ここで 2 度生まれたと考えるようになった.一度は,1936
年 2 月のある日に,1945 年 7 月 15 日の早朝までこの住所に確
実に存在した家で生まれた.もう一度は,その同じ日に,ぼく
はこの場所で幸運にも生き延びられた.その幸運の意味を最近
つくづく考えさせられる.その生死の境を考えてみたい,それ
が旅の目的であった.
国民学校 4 年生で,まだ 9 歳でしかなかった少年が「生と死」
の意味を理解できた筈もない.あの日の体験はぼくの記憶と感
性の中にすり込まれ,ことあるごとに思い起こされはした.し
かし,その体験を,「再び生を与えられた日」と感じとれたの
は,ごく最近のことである.
1995 年 1 月 17 日の阪神淡路大震災の報道で,あの時に自分
3
が「生き延びられた」ことが
思い起こされたのであった.
神戸市の上空を飛び回り,な
すすべもなく燃えさかる長田
のまちを取材するメディアの
無神経で無礼な実況報道に立
腹しながら,ぼくもあれと同
じ,あるいはそれ以上の状況
におかれていたことを実感し
1995 年 1 月 17 日,炎上する神戸市長田区.
神戸新聞社『阪神大震災全記録』1995 年 3
月による.
たのだった.1945 年 7 月 15
日,執拗に爆撃と銃撃を繰り
返すグラマンの攻撃から逃げまどうぼくは,ほとんど後ろを振
り返ることもなく,背後で燃えさかるまちを見る余裕などなか
った.炎上する神戸市長田区のまちは,自分があの時に置かれ
ていた状況を生々しく再現してくれているように思われた.自
分はあの時に幸運にも生き延びられたのだとつくづく思ったの
である.
ぼくの戦争体験はすでに半世紀以上も前のことである.しか
も,ぼくの世代の体験の記憶は危ういもので,切れ切れでしか
ない.戦争体験ほど,説明することが難しいものはない.ぼく
の世代より上のひとびとには,その体験はもっと生々しい記憶
として残っている筈だ.ただ,あまりの生々しさに,語ること
をためらうことにもなる.彼らのまわりにはあまりに多くの死
があった.戦争は彼らの社会的地位を上昇させたり,没落させ
4
もした.だから,彼らはたいていは率直に語りたがらない.あ
るいは死そのものを美化することさえある.特攻隊世代などは
そのよい例であろう.ぼくの世代にはそれがない.あるのは時
々思い起こさせられる,脳髄のどこかにすり込まれた切れ切れ
の情景だけだ.
イラク戦争,有事法制
に関する報道やの議論を
見るにつけ,これらの切
れ切れの記憶をつなぎ合
わせ,思い出したことも
艦載機の攻撃で炎上する根室町本町柳田埋
立地.煙を上げているあたりが私の家があ
るあたり.米軍の撮影写真.根室空襲研究
会 『 根 室 空 襲 』 1993 年 に よ る .
書き残しておく責任があ
ると考えるようになった.
逃げまどう民の体験は日本の国民的体験でもあったことを様々
な機会を捉えて主張しなければならないと思うようになった.
現代の戦争は大衆を巻き込んで,大衆を盾にして,軍事的目的
の貫徹を最優先して展開される.焼夷弾と爆弾で破壊されたあ
のまちの中心部にも軍事施設や部隊が公共施設を利用して展開
されていた.多くの漁船が調達されていた.戦争は民衆を盾に,
民衆の生命と財産を犠牲にして進められること,「誤爆」はプ
ロパガンダ以外のなにものでもないこと,そのささやかな体験
を記憶を綴って書き残さなければならないと,つくづく思うの
である.
5
2
8 月 10 日,この日は金比羅神社の例大祭がまちを挙げて盛
大に行われる.高田屋嘉兵衛の創建になる社である.まちはず
れの港を見下ろす高台にある社から神輿が町の中心にある御旅
所まで練り歩く.台風 10 号の影響で前日の宵宮は最悪の天候
だったが,この日は見事に晴れ上がった.行列を,ぼくはかっ
て柳田家が本店を構えていた本町 3 丁目の通りで見たいと考え
ていた.いまはいくら思いを巡らしても,この 150 メートルほ
どの通りの全体と柳田家の壮大な屋敷の細部を再現できないだ
が,この屋敷は高台にあって,その裏の崖の下に柳田藤吉が私
財を投じて建設した通称柳田埋立地が広がっていた.ぼくの家
はその埋立地に,柳田の邸宅のちょうど真下にあり,柳田家は
大家,ぼくの家は店子であった.柳田本店の真向かいには安田
銀行(戦後富士銀行に改称し,現在はみずほ銀行に統合されて
いる)根室支店の建物があった.柳田が創設した根室銀行が安
田に吸収されてできた支店である.子どもの目にも美しく映っ
た洋風の建築だった.その周りで遊んだ記憶も残っている.
海岸の崖に沿って東西に続く本町の通りは,このまちが持っ
ていた国際性を体現した通りで,いわばこのまちの繁栄の基礎
であり象徴であった.北前船が膨大な富を「内地」に運び集積
させた,その重要な基地であった.昆布,エビ,カニの干物な
どの世界市場商品が商われ,輸出された.柳田家はその象徴で
6
あった.明治期の著名なジャーナリストである横山源之助の『明
治富豪史』にも柳田は藤野,山県とならんで富豪として特記さ
れていたことを思い出す.函館を舞台に幕末から明治に生きた
オランダ語通詞を主人公にした吉村昭の『黒船』にも,英語教
育に貢献した人として柳田の名があったように記憶する.
ぼくは北での成功者の話をあまり好まない.「内地」(北海
道では本州をいまだにこのように呼ぶ人が多い)で生きている
と,アイヌと北の富の収奪がもたらした栄華のあとを方々に見
ることができる.成功物語は様々な地方に逸話として残されて
いる.しかしながら,かっての北前船の寄港地に残る豪華な邸
宅,近江商人たちの大邸宅を見るにつけ,ぼくは自然の富を収
奪しつくされたうえ,戦火によって廃墟にも似たさまに変えら
れたこのまちの悲しみを思わずにはいられない.
祭りの神輿は柳田本店の玄関前で休息し,接待を受けた.だ
から,祭りの行列を見る場所は,いつもここだった.柳田本店
はこのときだけ正面玄関を開け,幔幕を掛け,玄関先に大きな
人形を飾るのが習わしだった.いまこの通りにはまったく何も
ない.柳田と表札のかかった小さな民家があるだけだ.安田銀
行のあったあたりは空き地になっている.だから,祭りの行列
がここに止まることはない.通り過ぎていくだけだ.
7
3
ここに立って思いを巡らしたかったのには,もう一つ理由が
ある.ぼくは 1945 年のあの日の朝の切れ切れだが,なお鮮明
な記憶をつなげてみたかったのである.あの日の朝,ぼくは母
と幼い弟たちと柳田本店の前にあった防空壕に逃げ込んだ.安
田銀行の前かそれよりも少し西にあったと思う.
空襲警報のサイレンとグラマンの爆音とはほとんど同時であ
った.14 日にも空襲があり,前夜から玄関先に準備しておい
た防空頭巾と非常食を持って三洋館前の地域防空壕に飛び込ん
だときには,もう機銃による攻撃が始まっていた.きわどいタ
イミングであった.それがぼくの生家,ぼくと先祖たちのすべ
ての生活記録を失わせ,祖母との永遠の別れの時になるとは予
想だにしなかった.
1993 年 9 月に刊行された根室空襲研究会の手になる『根室
空襲』が紹介する当時の根室支庁報告によると,「午前 5 時 5
分警戒警報,5 時 8 分空襲警報,5 時 11 分来襲」とある.サイ
レンと同時に攻撃が始まったというぼくの記憶は正確だったよ
うだ.
第 1 波の空襲はそれほど激しいものではなかったように思
う.防空壕の上から港内に散開した徴用船(軍に徴用された漁
船が多かった)が機銃掃射によって沈没する様子を眺めていた.
第 2 波の空襲で防空壕の向かいの旅館,三洋館の裏から火の手
8
が上がった.これが空襲による火災の発生の最初であった.米
軍撮影の航空写真がそれをとらえている.逃げ切れずに焼死し
た祖母キノの検視調書には,「7 月 15 日午前 8 時頃,敵空襲に
依り,銃爆撃の為に焼死」と記載されている.三洋館のあたり
からの出火は 8 時頃であったことは確実である.
爆撃の合間に祖母の救出のために現場に残るという父と別れ
て,ぼくたちは三洋館前の坂を駈けのぼり,柳田本店前の防空
壕に逃げ込んだ.第 3 波の爆音が聞こえたかと思うと,すさま
じい銃爆撃が開始された.近くに落とされた爆弾で防空壕は土
煙のなかで揺れ,通気口からガラスの破片が爆風とともに壕内
に突き刺さったことをいまでも記憶している.そこから逃れで
て,ぼくたちは必死に爆弾で破壊されたまちを逃れて,山手に
走った.のちに現場を訪れて,本町周辺,特に柳田家を中心に 10
数発の爆弾が投下されている.最も防空壕に近いものは 100 メ
ートルくらいしか離れていなかった.もう少し壕よりに落ちて
いたら,ぼくの今は確実になかった.
逃げるとき,坂の下に燃えさかる三洋館を見た.少年であっ
たぼくには,あの火炎はあまりに巨大で,今も時々鮮烈に思い
起こされる.
『根室空襲』によると,柳田本店の前に爆弾が投下されたこ
とになっている.ここに収録されている証言のなかに,ぼくた
ちが逃げ去ったあとの状況がよくわかるものを発見した.柳田
9
本店の前には防空壕が二つあった.ぼくが逃げ込んだのは民間
用防空壕で,もう一つ,近くに駐屯していた軍隊の防空壕があ
ったらしい.ぼ
くたちが逃げ去
ったあとにこの
駐屯している軍
隊に対する攻撃
があったものと
考えられる.7
月 16 日 , 父 が
祖母の遺体を荼
毘に付すために
焼け跡にいった
際に,2 人の兵
士の遺体があったという.おそらく崖の上から爆風で飛ばされ
てきたと推測される.
7 月 17 日,祖母の骨を拾うためにわが家の焼け跡に立った
とき,地面はまだ熱かった.兵士たちの遺体はすでに片づけら
れていたが,新しい遺体が発見され,荼毘に付されていた.ぼ
くの家の向かいあたりに住んでいた青年で,崖に作られていた
壕の中で焼死し,爆風で崖が崩れて壕が土砂に埋まり発見され
なかったのだろう.青年の父は頭部だけが焼けた炭化した息子
の無残な遺体を膝上に抱き取って嘆き悲しんでいた.
ぼくの家のまわりの痛ましい遺体の記憶は,生々しく蘇る.
10
そして,あの時生き延びられた幸運を思うのである.
4
ぼくが 1945 年 7 月 15
日の早朝まで住んでいた
まちは,この日以来完全
に消えさった.そこにど
んなまちがあり,誰が住
んでいたかについて記録
柳田埋立地の現在.左手の崖の上に柳田本
店の邸宅があった.私の家は道の左側奥に見
える家の隣あたり.
もない.そのまちがあっ
たことさえ住んでいる人
たちに記憶されていない.賑わったまちがあったことが,たっ
た 50 年の間に否定されているのだ.柳田埋立地はさらに埋め
立てられ,建物が失われただけでなく,かっては賑わった波止
場も消えてしまった.昔の港の風景をしのぶよすがもない.ぼ
くが住んでいた家の当たりには民家が 2 軒あるだけで,すでに
盛りを過ぎた感のある水産加工場や缶詰工場があるだけだ.う
らぶれた情景としか表現しようがない.
この情景と空襲がもたらした戦後の貧窮な暮らしのせいか,
ぼくは崖の上には富豪,資産家の柳田の瓦葺き御殿と崖の下の
11
貧乏人のトタン屋根の家という対立の図式で捉え,かっての賑
わいを思い起こすのは苦痛であった.しかし,崖の上の本町界
隈とはまったく異質の賑わいの風景(そのほとんどはぼくの記
憶をつなぎ合わせた想像の産物なのだが)があったことを,い
まではこだわりなく思い出すことできる.
柳田埋立地は倉庫群と港に関係する業者たちのまちであっ
た.千島列島や歯舞諸島への旅人を運ぶ渡船会社,多数の旅館
が立ち並んでいた.崖の上の高級旅館はなかったものの,収入
と地位に応じた宿泊施設が用意されていた.海産物を商う会社,
倉庫の海産物を出し入れする運送業者,波止場に集う人に軽食
を供する店,そのほかにもいろいろあったと思う.それにして
も記憶に残る一緒に遊んだあの沢山の子どもたちはいったいど
こに住んでいたのだろう.考える限りでのいろんな遊びがあっ
た.あの日以降子どもは消えてしまった.ぼくの記憶の中には
幼なじみなどほとんどいない.
夏祭りには山車があの急な坂を下りて,裕福な家々の前で手
踊りを披露し,祝儀を受け取った.その家の子は誇らしげだっ
た.ぼくの家の前にもとまっただろうか.津軽三味線の門付け,
三河万歳などの旅芸人がいつも軒先に立っていた.富山の薬売
りも毎年決まった頃にやってきた.みな近所に宿をとり,北方
の島にも渡っていったのであろう.
自分の生まれた場所の賑わいを想像して心がなごむようにな
ったのは,本当にごく最近のことだ.
12
5
この日の夕暮れころ,ぼくはあらためて三洋館の玄関があっ
たとおぼしきあたりに立った.この場所から西の海をながめる
と,少年時代の印象的な光景を思い出す.どういうわけか,弁
天島を正面にした波止場の風景,港を一望できた東の海よりも
西の風景の記憶に愛着がある.
ここから,港の防波堤の役割を果たしている弁天島よりも巨
大な軍艦の船影を見たような気がする.帝国艦隊は真珠湾攻撃
のために択捉島に集結したと言うから,その前後のことであっ
たのかもしれない.ここから見た雪を被った知床の山並みは美
しいとしか言いようがなかった.蜃気楼もここに立って見た気
がする.クジラが打ち上げられたこともある.太平洋戦争が激
しくなる中でアザラシの捕獲と処理工場が建設された.軍需工
場だったと思う.おそらく皮が兵士たちの防寒服に利用された
のだろう.あの膨大な肉と脂肪はどうなったのだろうか.あの
年のこの濱はアザラシの血で赤く染まっていた.その栄養はこ
の濱に寄せる魚たちの栄養となった.冬になるとシベリヤから
押し寄せる流氷でこの濱は埋め尽くされる.氷下魚(コマイ)
漁の季節である.1945 年の冬も大漁だった.氷に穿った穴に
釣り糸をおろすだけで大きな魚が面白いように釣れた.それが
毎夕の食卓に上った.
ぼくは自分の骨をこの海に撒いてほしいと思うようになって
13
いる.自分の生まれた土地に還るのが自然のならいだと思うし,
1945 年 7 月に柳田埋立地で見た多くの死,自分があそこで死
なずに住んだという意識を妙に重ね合わせたくなるのだ.小学
校時代からの同級生である K に散骨のアイデアを話したとき,
K は即座に「氷下魚のえさになると言うことだな」といった.
その通り,ぼくは氷下魚が大好きだ.小さいときから沢山食べ
てきた魚のえさになるなら本望だ.これはよいアイデアだと思
った.魚がはたしてぼくのカルシウムを食してくれるかどうか
は解らないが.
14
奇妙なスポーツ賛歌
生まれつき頭が大きかった私は,そのせいか運動神経の鈍い
少年に育った.第二次大戦下の国民学校(現在の小学校に相当
する)では,教師は年端もいかぬ生徒に天皇陛下の御為に兵士
となれ,成績優秀な者は予科練や陸軍幼年学校をめざして幹部
たれと強制していた.体力のない私が戦争目的の学校に入学で
きるはずもない.体操の時間は逃げることもならず,教師に罵
倒,嘲笑された.沖縄が占領されて本土決戦が現実になった頃,
体操の時間は殺人訓練に変わった.上級生は摸擬銃を持たされ
て敵を刺殺する訓練,低学年の私たちは手榴弾もどきの投擲訓
練を強いられた.あの線の向こうに敵がいる,あの線を越えて
投げなければ,おまえも死ぬと教師にどやされたが,私の投擲
は一度もその線を越えることはなかった.私は授業で何度も死
んだのである.
戦争が終わり平和が来て,私の不安は一応は解消された.
「体
操」の授業は「体育」と改称され,鍛錬も自分のためのものに
なった.禁止されていた西側,敵性スポーツも自由にできるよ
うになった.それでも,私は知が勝ちすぎてますます頭でっか
15
ちになっていた.ただ違うのは,体育の授業を上手にさぼり,
体育教師の相変わらずのどやしといじめを上手にかわす術を身
につけたことだ.大学進学以外に将来の選択は残されていなか
った.ところが,期待に胸ふくらませて入学してみると,ここ
にも体育実技があることに驚かされた.自慢ではないが,私の
ように実技科目に合格できず,居残りで再試験を繰り返した学
生はそうざらにはいないだろう.その頃から私は,自分ではど
うあがいても実現できないことに情熱を注いでいる若いスポー
ツマンに畏敬の念を抱いている.これが体育を嫌い,避け続け
てようやく到達しえた私の奇妙なスポーツ賛歌である.若い諸
君の健闘をいつも祈っている.
学生時代はとてもまじめな学生とは言えなかった私が大学教
師になり,畏敬してやまない学生諸君の勉強ぶりに頭を悩まさ
れるようになるとは,なんという奇妙なめぐり合わせであろう
か.私は大学の自由な雰囲気を最大限に活用し,講義をさぼっ
て「走り回って」いた.試験の成績もよくなかったが,そのか
わりに私は数知れない友情を得たし,教室の窮屈な机に縛り付
けられているよりもはるかに多くのことを学んだ.走り回る私
を理解してくれる教授も多かった.とにもかくにも大学院に進
学できて,学位を取り大学教師になれた.講義を休む学生を叱
咤するとき,いつも「おまえはどうだったのか」と,内なる声
が聞こえる.
授業に真面目に出席するだけが大学生活ではない.グランド
で頑張るのも,まじめに講義にでるのも同じ価値を持っている,
16
両者の間に大学らしい通い合いがあればそれでよい.これは私
の信念に近い.かって私が大学で得たような連帯感が,今度は
教師の立場からであるが,グランドに情熱を注ぐを諸君との間
にいつも通い合っていてほしいと思う.リーグ戦が始まり学生
諸君が教室から姿を消しても,学内でいつも挨拶を交わし,
「先
生,勝ちました」と戦果を報告してくれるなら,そしてその後
で教室での学習に優勝で発揮された情熱とエネルギーの一部で
も発揮してくれるなら,教師としてはうれしいことだ.アメリ
カンフットボールはクレバーなスポーツである.そのクレバー
ぶりを教室でもぜひ発揮して欲しいと願っている.
17
すり込まれている筈の風景
すり込まれている筈の風景
1
戦争の悲惨は,多くの生命が殺戮され,肉親や友人が永遠に
失われことだけにとどまらない.自身の生にかかわった重要な
風景が脳裏から永久に奪われることも耐えがたい.歳を重ねる
ごとに,風景を奪われた人々の苦悩は加重される.
私自身も加齢とともに自分の人生を回想することが多くなっ
た.アメリカ軍の執拗な空襲でまちが燃え切った 1945 年 7 月
15 日以前の生活の記憶が記憶喪失症にでもかかったように消
え去るか,おぼろげになっていることに焦燥感を覚えるように
なった.この日以前の生活の風景は私の記憶の中にすり込まれ
ていることは確かなのだが,私の脳裏に焼き付いているはずな
のだが,それが思い出せないのだ.
あの日,グラマン戦闘機の無差別爆撃によって私の生まれ親
18
しんだまちは炎上して消え去った.住民も離散した.毎日のよ
うに遊んだ友の名も私の記憶からほとんど消え去った.あの場
所にいまあるのは雑草が生い茂る荒れ地と傾きかけた水産加工
場だけだ.思い出すための手がかりとなるものはほとんど残さ
れていない.生家のあった隣あたりにいま民家が一軒だけたっ
ている.この家を数年前に訪ねたことがある.応対に出たこの
家の主人はここに賑わったまちがあったことなどまったく知ら
なかったし,かって私がここに住んでいて懐かしさのあまりチ
ャイムを押したという挨拶にもさほど関心を示さなかった.彼
にとってここは住むにはあまりにさびれきったまちはずれでし
かなく,かってここに住んでいたことを懐かしむ突然の訪問者
を奇異な眼で眺めるのも不思議ではなかったといえるだろう.
戦争体験は体験した人以外にはその悲惨と苦悩は理解できな
いのではないかと思う.戦争体験が継承されないのはそこにも
原因がある.少なくとも私の場合はそうである.家族でさえ理
解者とはなり得ないのだから.まして,まちの風景が消失した
ことにこだわることなど,体験しない人には奇異に映るに違い
ない.
しかし,懐かしい風景が突然消失することの悲惨さは,世界
の各地で今も繰り返されている.イラク,ファルージャに対す
るアメリカ軍の熾烈な攻撃の映像を見るにつけ,私は自分の体
験と重ね合わせて,その体験の悲惨さが繰りかえされているこ
とに胸が痛む.殺戮と破壊の現実はマスメディアに巧みに操作
して隠されてはいるが,その破壊は想像を絶するものであろう.
19
住民たちの生命が奪われ,その生活のよりどころが奪われるだ
けではない.私のようにその記憶を再生しうる風景も永遠に失
われるのだ.この現実は悲惨という言葉だけでは表現しつくせ
ない.広島でも長崎でも,あるいは東京でさえもこの悲しみは
続いている.
私がそれらの悲しみすべてを理解し,共感できるとは言わな
いし,また言えるはずもない.しかし,私は自分の脳裏にすり
込まれている筈の風景をいくらかでも記録しておくことは,そ
れらの無数の悲惨のごく一部を伝えるものとして,意味のある
ことだと考えるようになっている.
2
戦争による風景の消失に追い打ちをかけたのが千島列島,歯
舞諸島のソ連による占領であった.まちの消失は決定的なもの
になった.この場所にふたたび家を建て,営業を再開しようと
いう人はもはや誰もいなかった.まちは再建されなかった.い
うならば,私たちは歴史に翻弄されて,また風景を失ったので
ある.
それに加えて,このまちの行政を担う人たちは先人たちの遺
産ともいうべき風景の価値を認めず,埋立てによって徹底的に
20
破壊してしまった.埋立てがこのまちに新しい価値をもたらす
筈もないのに,愚かな施策だったと思う.このまちの賑わいは,
私のようにそこに生きたものにとってだけでなく,水産物貿易
と北方との交流によるかっての繁栄を呼び戻すためのシンボル
ではなかったのか.その景観も消え失せ,当時の賑わいと生活
文化の雰囲気をうかがわせるものは何もなくなってしまった.
この変貌は悲惨なことだ.そうとしかいいようがない.
3
当時の写真が残されているなら,風景とその色合いをある程
度まで再現できるかもしれない.第二次世界大戦で破壊された
ヨーロッパの都市のいくつかは絵画や写真を参考にして修復が
進められた.その代表例がワルシャワである.1976 年 12 月,
私はこのまちを訪ねた.第二次大戦中にナチスに徹底的に破壊
されたこのまちの旧市街は見事に再現されていた.絵画と写真
が果たした役割は大きかった.旧市街の復興された建物のショ
ーウィンドウには破壊前の建物の写真と破壊の状況が展示さ
れ,市民の再興への強固で熱い意志を感じさせられた.ベネチ
ア出身の風景画家,B・ベロット(1720 - 1780),通称カナレ
ットが当時のワルシャワの景観図を多数描き残しているが,こ
21
れらの絵も写真とならんで都市再興に重要な役割を果たしたの
である.ワルシャワの市民たちの風景へのこだわりに頭のさが
る思いであった.都市の景観に無頓着な,日本人のありかたを
考えさせられたものだった.ドイツ,ザクセン州の首都ドレス
デンの復興でもカナレットの風景画が重要な手がかりとなっ
た.イギリス空軍の無差別爆撃によってエルベ河畔のフィレン
ツェとさえ讃えられた美しいまちは一夜にして廃墟となったの
だが,景観再現の作業は今なお続けられている.
4
2004 年 9 月,前年に続いて根室市を訪れる機会が与えられ
たので,写真を探してみようと思い立った.写真が残されてい
れば,記憶の再生の手がかりになると考えたのである.設立さ
れたばかりの根室市歴史と自然の資料館を訪ねたが,残念なが
ら絵葉書しか収集されていなかった.当時のあのまちにカメラ
を所有する人が多くいたとは考えられないし,かりに写真があ
ったとしても,焼失したか散逸したに違いない.主任研究員の K
さんのご好意で絵葉書の何枚かを送って頂いたので,この文章
を書くことことを思い立った.
不思議なもので,これらの写真を眺めていると,1945 年 7
22
月 15 日以前の少年時代の状景を想い出すことが多くなった.
それが本当にあったことなのか妄想なのかは確かめようもな
い.だが,さまざまな記憶が場所と関連づけられて呼び覚まさ
れる.かりにそれが今の私の思いこみにすぎず,記憶の正確さ
に問題があるかもしれない.そうであったとしても,それを書
き留めておくことは意味のあることではないか.
波止場界隈
1
1931 年 8 月 24 日早朝,アメリカの飛行家 C・A・リンドバ
ーク夫妻の操縦するシリウス号がニューヨークからから南京へ
の飛行の途中,根室港内に着水した.私の生まれる 4 年半前の
このまちの大事件であった.このまちの国際性を示す重要事件
として,いまでも語り継がれている.以下に示す 2 枚の写真は
その時に刊行された記念絵葉書に収録されているもので,1981
年に国書刊行会から「ふるさとの思い出写真集」シリーズの 1
冊として刊行された谷正一編『明治・大正・昭和
23
根室』でも
紹介されている.
1 枚目の写真では,歓迎のために波止場に集まった人びとが
波止場の先
端にカメラ
を置いて撮
影されてい
る.私が生
まれ育った
頃の波止場
界隈のなつかしい建物が多く写っている.この日の気候さえも
感じ取られる.不鮮明なのは写真が古いせいではない.この地
方の夏に毎日のように午前中に濃霧(地元ではガスと呼んでい
た)が発生する.そのせいに違いない.リンドバーク夫妻の上
陸を歓迎しようと集まった群衆,警備する警察官の背後に広が
る風景を凝視するとさまざまな記憶が蘇ってくる.
右手前方にバルコニーが特徴の水上警察署の建物があり,そ
のすぐ後ろに看板を掲げた商店が写っている.多分食堂だった
と記憶する.戦争中に食糧事情が悪化し,昆布入りそばを配給
切符で食べに行列したのはこの店だったような気がする.私の
家はその間の道を右に入って 50 メートルほどの所にあった.
右手に写る坂道は波止場からメインストリート花咲町通り
と,貿易商,海産物商,金融機関が連なる本町通と交差する.
右折すると本町 3 丁目で,柳田本店,北海道拓殖銀行,安田銀
行等の建物がならび,左折すると本町 4 丁目で,郵便局,海産
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物商の住居と店が並ぶ.波止場から続くこの坂道に名前がつい
ていたかどうか記憶がない.無名の坂道だったと思う.波止場
に続くこの坂はこのまちの玄関口であった.このまちと北方の
島々で成功を願った人びとも失敗して失意の内に去る人びとも
ここで交差した.芸人たちも巡業の力士たちもみなここから上
陸し,このまちに入った.リンドバーク夫妻の歓迎のように多
くの群衆ではなくとも,いつも人が集った場所であった.
この周辺には北海道コロニアルスタイルともうべき当時とし
てはモダンな建物が連なっていた.函館を散策すると通りの建
物の連なりに,説明のつかぬ懐かしさを感じることがあった.
韓国に調査に赴いたときに全羅南道の木浦(モッポ)の海岸通
りを歩いている時も同じ懐かしさを感じたことを思い出す.す
り込まれている筈の風景の記憶が共振したのだろうか.木浦は
日本が朝鮮半島を植民地として支配していた頃の貿易港であっ
た.開発から取り残されたこのまちには日本人の建てた家屋が
海岸の通りにまだ沢山残っていた.ハングル文字がなければ,
北海道のあの頃のまちそのものと言ってもよい風景であった.
坂を上りきる途中から本町 3 丁目の角にかけてこのまちで一
番の旅館,二美喜旅館がある.写真で見るとかなり大きな建物
である.このまちを訪れた,あるいはこのまちを経由して北の
島々に渡っていった富裕で力のある人びとの泊まる宿であっ
た.当時の私にとっては毎年やってくる大相撲巡業の際に横綱
や大関の泊まる宿としての記憶が残っている.宿泊する関取の
名前が玄関前に張り出され,玄関の中に整然と並べられた巨大
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な下駄の列をおそるおそる覗いていた記憶がある.照国という
横綱が来たのも多分その時だったのではないか.
このあたりには収入に応じて宿泊できる旅館が多数あった.
私の家の筋向かいにあった三洋館も大きな旅館だったし,もう
一軒小さな旅館があったと記憶する.貧しい人びとに供せられ
る宿もあった.伊藤通船の息子とは同じ学年で仲良しだった.
彼の家は私の家の筋向かいで,平屋で 2 軒長屋の私の家とは違
い,事務所も備えた 2 階建ての立派な建物だった.そのとなり
にある簡易宿泊所は,北方諸島への交通が途絶する冬季には子
どもたちの格好の遊び場所であった.使い込まれて黒光りする
板の間の真ん中に大きな炉があり,周囲にはぐるりと畳 1 畳の
小部屋が 2 段に作り込まれていた.
二美喜旅館の後ろに北海道拓殖銀行根室支店の建物の一部が
見える.正面には渡船会社の事務室や待合室が並び立ち,その
背後に漆喰壁で二階建の水産会の建物,その右にごく最近まで
残っていた大きな赤レンガ倉庫の屋根が見える(最近の地震で
倒壊したという).さらにその後ろに少しだけ見える大きな屋
根は郵便局だろうか.水産会の前の坂(写真左端の坂)を下っ
てくると右手に税関の建物があった筈である.一番左端に移っ
ている建物がそれだろうか.
26
2
もう1枚の絵葉書は,リンドバーク夫妻が宿泊した二美喜旅
館の玄関の前
の写真であ
る.1 枚目の
写真とは反対
側の坂の上か
ら撮影されて
いる.おそら
く北海道拓殖銀行 2 階の窓から撮影したのだろう.集まった人
びとの服装から見て,午前中のガスがはれた午後で,集まった
人びとの装いからみると,このまちの夏にしてはかなり気温が
高かったようだ.自動車が写っている.当時の安藤石典町長が
この車で表敬訪問したのかもしれない.それにしても何と多く
の人だろう.坂道が人で埋め尽くされている.私の父もこの日
だけは仕事を休んで,この群衆のなかにいたに違いない.家が
近くに世界的英雄がいるというのに,新しもの好きで好奇心旺
盛だった父が行かなかった筈はない.
夫妻とシリウス号の写真がはめ込まれているので波止場の風
景全体を見ることが出来ないのだが,水上警察署や,この港の
天然の防波堤でもあった弁天島との間に沢山の船が停泊してい
るのが見える.艀(はしけ)も見える.波止場とこの坂道がこ
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のまちの玄関口でありメインストリートだったことが実感でき
る.このような賑わいの近くで生きたことを誇りに思う.それ
だけに失われたことに対する悲しみの気持ちは深くなる.
3
絵葉書をもう 1 枚示しておこう.これは前の 2 枚よりかなり
古いもので,上述の谷正一編の写真集では大正期の風景である
とされている.坂道を下りきって私の家に曲がる角の当たりで
撮影されている.波止場の前の渡船会社の建物も違うし,港内
の風景が違
う.私の子ど
もの頃にはも
う見かけなく
なった帆を利
用した船が多
く停泊してい
る.艀(はしけ)も多く写っている.私の子どもの頃には岸壁
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が整備されて波止場は荷揚げの場所としてはほとんど利用され
ていなかったなかったように思われる.艀は倉庫のある岸壁で
直接荷の積み下しをしていたと思う.この写真を凝視している
と,私はあの場所の特有の喧噪と匂いを思い出す.これ以上は
積めないほどの荷駄を積んで走る馬車,あまりの荷の重さに泥
濘に車をとられてあえぐ馬,馬を叱咤して手綱を操る博労(ば
くろう)たちのだみ声が想い出される.日本一遅い春が来て根
雪が溶け,ようやく凍土が溶け始める.道はぬかるみそのもの
になる.子どもたちには,そのぬかるみはぶくぶくと沈み込む
底なし沼にも思われた.この地域は子どもにとって密かな栄養
源でもあった.昆布,ホタテ,エビ,カニ,鱈の干物,どれも
中国への輸出商品が集積されていた.空腹を感じたらその辺の
倉庫に忍び込むか,あるいは通りかかった馬車の荷駄から少々
頂戴したらよかった.
港内に停泊する船の多いことには驚かされる.多くの輸出商
品は北方の島々から運び込まれて,ここで外航船に積み替えら
れた.かってこの港は北前船の寄港地であった.この地の物産
は「内地」に運ばれ,「内地」の富に転化した.私の子どもの
頃にはその富の一部はまだこのまちに残されていたのである.
汽船の他に多くの機帆船が停泊している.補助推進機関とし
てエンジンを備えたこの種の帆船を見た記憶はない.ただ私の
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家と親戚同様に親しい付き合いのあった D さんのことを「機
帆船の機関長」といつも呼んでいた.停泊している D さんの
船を見に出かけた記憶がある.小さな焼き玉エンジンを備えた
船だった.油まみれでエンジンの整備をしている光景に気を取
られて,小さな私の目に帆が焼き付かなかったのかもしれない.
『日本百科全書』を引いてみると,1960 年代までは沿岸航路
で活躍していたというが,私には記憶がない.
4
汽船の船員がボートに乗せてくれて船の中を案内してくれた
ことを記憶している.船内の赤い絨毯を敷いたサロンや船室は,
木造の古い家しか知らない私にとって印象は強烈であった.
1954 年 9 月に北海道を襲った台風 15 号,いわゆる洞爺丸台風
で青函連絡船で使用されていた多数の貨客船が沈没した.その
ため急きょ,宇高連絡船で使用されていた客船を転用した.そ
の年の 12 月の帰省の折,瀬戸内海の穏やかな海を航行してい
た沈没して洞爺丸とは比較にならない小さな客船の船内で私は
表現しがたい懐かしさを覚えたものだった.
これらの絵葉書に写っている船はすべて軍に徴用され,アメ
リカ軍の攻撃で日本のどこかで海の藻屑となったに違いない.7
30
月 15 日には私のまちの港内に 2 隻の汽船が停泊していた.ど
ちらも撃沈され乗客,船員のほとんどが船と運命をともにした.
『根室空襲』によると,東裕丸(貨物船)と浦河丸(客船)と
ある.とくに浦河丸の犠牲者は東北出身の出稼ぎ労働者で,100
人を超えた.犠牲者たちのほとんどは,引き上げられることも
なく今も海底に眠っている.私が汽船に招き入れられたのは空
襲の年,あるいは空襲の直前のことであったかもしれない.そ
うであるとすれば,あの親切な船員も根室海峡の海底に眠って
いる筈だ.
私のまちへの空襲は実際には 7 月 14 日から始まっていた.
この日の攻撃は港湾と軍事施設,船舶に向けられたように思う.
港内に停泊していた船舶に対する攻撃を目撃したような気がし
ないでもない.投下された爆弾による水柱が立つ,文字通り絵
のような風景が記憶にある.しかしこれは,人に聞いた話が子
どもの頃に見た多数の戦争画の印象と重なって作られた錯覚で
あろう.警戒警報のサイレンとともに防空壕に駆け込んだ筈だ
から,波止場まで走っていって見た筈はない.ただ,15 日早
朝,空襲警報とともに防空壕に駆け込んでから,午前 8 時頃に
向かいの三洋館裏からの出火したとの知らせで防空壕を脱出す
るまでの間,私は防空壕の上から海上に展開する徴用船と木造
輸送船がグラマンの執拗な攻撃で沈没するのを眺めていたよう
な記憶がある.グラマンの機関砲を数発吃水線あたりに受ける
と,木造船はゆっくりと浸水し,沈没していった.救助に向か
う小舟にも容赦なく機銃掃射が浴びせられた.この光景の記憶
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は鮮明に残っているから,事実であろう.この朝,機銃掃射に
追われて防空壕に走り込んだ記憶がある.これもこの光景のあ
との出来事だったのかもしれない.
戦争の記録はいつでもそうなのだが,地上の犠牲者について
は死者の数が数えられるが,海上の犠牲者についてあまり触れ
られることがない.まして「外国人」となると無視されてきた
のではないだろうか.波止場界隈の切れ切れの記憶には朝鮮人
たちの記憶がすり込まれている.あの頃,波止場界隈で朝鮮人
徴用工の集団を見かけるのは日常的風景であった.
『根室空襲』
によると,海軍の牧の内飛行場やそれ以外の軍事施設の建設に
多くの朝鮮人が使役されていたという.伝染病その他で死者が
あったことは確かなのだが,その実態は明らかにされていない
し,空襲被害者の有無についても同様である.私がこの文章を
書いている頃,いくつかの新聞は,亡くなった徴用工の遺骨が
戦後 60 年を経てもいまなお遺族に返されることもなく各地に
保管されていることを報じていた.今なお知られることのなく
歴史に記録さえされていない多くの戦争犠牲者の冥福を祈りた
い.
三浦綾子が 1994 年に発表した傑作『銃口』は,戦前の北海
道の地方都市を舞台にして生活綴り方運動に加わって弾圧され
た教師たちとその家族を中心にした時代史的小説である.この
物語は戦時下に逃亡した朝鮮人徴用工をかくまい,交流すると
いう事件を軸に戦後史に旋回する.私のまちにもあの時期には
このようなエピソードが無数に存在したと思う.私にも鮮明な
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記憶がある.1 人の徴用工が私の家に飛び込んできて,空腹を
訴え食べ物を乞うた.祖母がにぎりめしを差し出し,玄関先で
ほおばっていたという記憶がある.上半身裸で毛布状のものを
被っていたのは,逃亡させないための方策だったのだろうか.
不確かな記憶でも見えてくるもの
古い絵葉書 3 枚を手がかりにして,波止場には始まり汽船か
ら徴用工にまで及んだ私の記憶の連鎖を書き連ねてきたが,こ
の連鎖は確かなものではない.汽船の記憶のようにあやしいも
のもある.半世紀以上も前の記憶をたどりつなぎ合わせる作業
とは,どうしてもこのような水準のものになる.それは決して
楽しい作業ではない.とりわけ私の場合は,あのいまわしい戦
争の記憶の再生と重ねあわされて,表現しがたい悲しみの雰囲
気に包み込まれる.これを書いている間に,3 月 10 日に東京
大空襲はその 60 回目の記念日を迎えた.あの体験を語り継ぐ
ことは重要な仕事ではあることは言うまでもないが,
「つらい」
とか「苦しい」体験などという月並みな言葉で一括りにしても
らいたくないものだ.あの悲惨な状況を生き抜いた人々の数だ
け悲しみがあるからだ.
次々とたどられる記憶とおぼしき想念を書き連ねながら,私
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は一つの重要な思いに突き当たった.私のあのまちへの記憶は,
坂の下で紅蓮の炎に包まれる三洋館の光景とともに消えた.過
去を再生できるものはほとんど残されてはいない.死者たちを
弔うモニュメントも,あの日の出来事を記録,保存する場所も
ないのだ.
これほどまでにあらゆる痕跡がかき消されてきれぎれの記憶
を再生できないでいるのは,私に限ったことではない.現代日
本に共通の姿なのではないかと,最近つくづく考えるようにな
った.いま住む人々の利便性と機能性を追求する都市改造によ
ってあらゆる歴史的痕跡が急速に失われている.古い,あるい
は忌まわしい記憶を呼び起こすと判断されるものは容赦なく破
壊されている.その破壊は戦争を決断し遂行した集団が意図的
に行っているようにも見える.都市は過去の死の体験の集積さ
れた場所である.戦争と革命,抵抗,刑死等,さまざまな死の
体験がその都市に集積されている.その集積が都市の文化の深
層に潜められている.それらの体験を都市の内部か消し去った
まちに生きることは,あまりに非人間的で息苦しいことだ.痕
跡が意図的に消されていくのであれば,戦争と近代化が民に与
えた苦悩と悲惨を私も書き続けなければならない.
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果てからの声
囁きでも力になる
人は過去を率直に語りたがらないものだ.数え切れないほど
積もった悔悟の念がそうさせる.だから語るのは自己顕示欲の
強い人,回想録を書きたがる人ばかりだ.手柄話や美化された
エピソードが続き,真実を表現するにはほど遠いものになる.
特に高齢になるとその感が強くなる.私にとっても過去を語る
ことは高齢であることを自ら証しするようにも思われ,先を見
て生きることがまだ自分に課せられているのだと信じていた.
体験した過去を想像によって美化し,意図的にふくらますたぐ
いの「繰り言」に辟易としていたためか,証明のない過去を自
ら語ることには消極的になっていた.
多くの人が私のような態度をとり続けるなら,書かれた資料
の少ない民衆の姿は歴史には残らない.過去を書くことは先を
見ることと同じように重要なことと,最近考えるようになって
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いる.
高齢に特有の語りと自ら蔑むこともないと思う.すでに 70
年あまりを生きて,その生の体験をふまえずに書くことなどで
きない筈だ.かって文字通りの若者であった頃には,書くもの
は論理的でなければならず,その論理を通じて真理に迫ろうと
する意欲に満ちていた.論理への憧れは今でも変わらない.そ
れどころかますます強まっている.しかしその憧憬は今では 70
年を超える私の人生体験をふまえて実現されるものではないの
だろうか.
それに加えて,最近の言論の状況,政治状況を見ていると,
私のささやかな体験など簡単に否定され
歴史から抹殺されか
ねない状況が生まれている.この恐怖感が強くなったのは沖縄
戦での島民の集団自決をめぐる最近の論調である.教科書から
記述を抹殺した輩(やから)が抗議の声の高まりに抗しきれず,
教科書の改訂を容認せざるを得なくなった.
ところがである.軍の命令でなく「関与」によって集団自決
したのだという.あの時代に軍部が持っていた絶対的権威を経
験した人ならだれでもこの表現の嘘に抗議するだろう.こんな
いい加減な歴史認識は到底認めるわけにはいかない.集団自決
を指示した文書がなければ指示はなかったことになるというの
か.体験した多数の民衆の声は真実ではないというのか.体験
者が次々と逝ってしまう今,声を発することは重要なことだと
思う.
このような流れに抗して,地の果てから,生の果てから私も
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声を発したいと思う.私の声はつぶやきか囁きか,それとも叫
びか.嘆きか,それとも抗議か.その判断は読む人に委ねなけ
ればならない.
8 月 15 日のトラウマ
2007 年 8 月 15 日,数年ぶりの帰郷に旅立つ日,私は列車待
ちの時間をつぶすために,新幹線京都駅の待合室に入った.普
段はホームに出て待つのだが,あまりの蒸し暑さに冷房の効い
た場所を求めたのだ.正午の時報とともに千鳥ヶ淵の戦没者慰
霊式典の中継が映し出された.君が代の斉唱が始まった.この
中継になると私はいつもテレビチャネルを切り替えるか切るこ
とにしている.待合室のテレビではそれもならず,私は外に出
た.
戦時下に国民学校の生徒であった私にとって,天皇は現人神
(あらひとがみ)であり,白馬に跨って全軍を統帥する大元帥
であった.「神」が統帥するのだから敗北するはずはないと,
教師たちにたたき込まれた.
サイパン,アッツ,キスカ等で「玉砕」が続き,沖縄で敗北
して,子どもにも戦争の行方に不安が芽生えはじめていた.と
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ころが,教師から隣組指導者にいたるまで,本土決戦を叫んで
いた.沖縄は日本ではなかったのかと疑念を持ったが,それを
口に出すことはできなかった.米英が攻めてくれば,かならず
「神風」が吹き,敵は水際で殲滅されるとも教え込まれた.
結局「神風」は吹かなかった.それどころか,私たち家族は 7
月 15 日の空襲で肉親をなくし全財産を失って絶望のどん底に
突き落とされたのであった.地方の小都市でこんな悲惨な状態
に陥るとは想像だにしていなかった.私たちにとって戦争は,
「玉音放送」のあった 8 月 15 日ではなく,絶望したこの日に
実質上終わったのである.あの日は,私とわたしの家族にとっ
て,機銃掃射に怯えることなく生きられる,米軍の上陸作戦で
命を落とすことないという,なにがしかの安堵感を得られた日
にすぎなかったのではないか.
戦争を決断し遂行したものたち,天皇の権威をあがめ,その
名の下に小さな子どもまで戦争協力に駆り立てた輩(やから)
がその責任を認めて謝罪することはなかった.戦争を遂行した
輩は国民をまもることなどしなかった.国体を守り通すための
盾として国民を利用したのだ.兵士として戦争にかり出されて
死んだものたちには経済的補償が行われたが,貧窮のどん底に
落ち込んだ私たちには何の補償もなかった.権力を握っていた
ものたちへの憎悪と不快な体験の記憶は,私の深層にすり込ま
れて消えることはない.8 月 15 日を迎えると,この記憶は蘇
る.しかも年を追う事に記憶は尖鋭になる.
そこまで執念深く記憶を反芻する必要はないのでは,そこま
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でこだわることもないのではと言う人もいる.私はかって軍国
少年として育てられ,戦争で痛めつけられて生きた.いまや少
数となった私の世代の体験が抹殺されつつあるこの時,記憶の
反芻は繰り返されなければならない.
誇りを持てぬまち
あまりにも落ちぶれ落剥したあのまちを「故郷」として紹介
することには,私にもなにがしかの躊躇があった.このまちに
住む友人の言うには,最近ではこのまち出身であることを隠す
若者さえいるという.私の場合は社会的地位からそれほどまで
劣等感を抱いてはいなかったので,新聞社その他のデータベー
ス,自分の著書の略歴,自分のウェブサイトにも公開している.
それでも出身はと聞かれると,相手の出方をうかがうかのよ
うに,まず「北海道です」と答えることが多い.
「札幌ですか」
と必ず問い返される.外国にいて日本人だというと「東京出身
ですか」と問い返されるのと同じだ.「いや東の端ですよ」「あ
あ釧路ですか」
「いや根室です」.ここから会話がわかれる.
「そ
んなまちありましたかね」「よくあんな田舎の高校を出て大学
教授になれましたね」.訪ねたことのある人ならいつも次のよ
39
うに答える.「駅前に何もないまちですね」.「あのまちでも空
襲がありましたからね.まちの財産のほとんどが燃えてしまっ
たのですよ」というと,「あんな辺鄙なまちでも空襲があった
のですか」といぶかしげな顔つきになる.この種の会話はこれ
までに数え切れないほど,うんざりするほど繰り返されてきた.
自分が生まれ育ったまちに誇りを持てないなど,さびしいこ
とだ.そうはいっても,現在のあのまちに誇るべきことを見出
すのは難しい.これは私の故郷に限ったことではない.誇りを
失わせる状況が地方都市や農漁村で広がっている.まちや村や
集落が消滅している.町村合併によって地図の上から歴史的に
価値のある名称が消滅している.誇りの喪失に何の後ろめたさ
も感じない輩が推進したに違いない.
このまちの零落ぶりは私の家族の貧窮と重ね合わされている
だけに,私にはなかなか説明できないことにもなったのである.
「内地」の大学に進学して,貧窮生活とは正反対の方向に人生
を踏み出した私にとって,この重ね合わされた零落は簡単に説
明できることではなかった.あるときはアイヌの「族長」の子
孫ではないかといわれ,ある時は裕福な網元の子ではないかと
も尋ねられた.髭を蓄えてからこの種の評価はますます勢いを
増した.いつも私は否定も肯定もせずに笑っていた.「大学」
という自称エリートが群がる世界に入った以上,このような誤
解や評価もやむを得ないと思っていた.
40
バラック
今度の旅の目的は中学・高校時代の旧友に再会することであ
ったが,ついでに私の戦後の貧窮生活の跡を確かめるてみたい
と考えていた.空襲ですべてを失った私の家族が住んだ家,お
よそ人間的とはいいがたい暮らしを強いられた現場であり,私
の人生に最も大きな影響を与えた場所を確認してみたかったの
である.
数年前にこのまちを訪ねたと
き,この建物はまだ残っていた.
家を失った家族に用意された急
造の掘立て小屋同然の 4 軒長屋
である.すでに取り壊されてい
るものと思っていたのに,まだ
人が住んでいた.私の住んでい
た家は隣の家を加えて 2 階が増
築され,窓枠その他はサッシュ
で仕上げられていたが,地形と雰囲気はそのままだった.その
奥にはかっての長屋の雰囲気がまだ残っており,倉庫に利用さ
れていた.
当時は押し入れ付きの 4 畳半の畳部屋,小さな台所,物置,
トイレ,1畳ほどの板の間,これがすべてであった.ここに家
族 7 人が住んだのだから,過密ぶりたるや想像を絶するものだ
41
った.父が押し入れをつぶして 6 畳間に広げたので少しは過密
が解消されたが,焼け石に水で,隣家の声も物音も筒抜けだっ
た.
1945-46 年の冬はことのほか寒さが厳しく,雪が多かった.
立付けが悪いので,隙間から雪が吹き込み,建物は完全に雪に
埋もれていた.毎日学校に行く前に近くの井戸に天秤棒でバケ
ツを担ぎ,水をくみに行くのが私の日課であった.私のひ弱な
肩が家族のライフラインを維持していたのだった.私の右肩下
がりの姿勢と肩こりはこの家事を 5 年間も続けた後遺症であろ
うか.天秤棒で歩いた細道もあの時のまま残されていた.
千島町 1 丁目 22 番地のこの家に私が住んでいたことは,か
っての同級生たちも知らない.友だちを招じ入れる余地はなか
ったからだ.いくらかは恥じてもいた.爆撃,焼失を免れた同
級生の家と比較して,劣等感を持つのは当然であったろう.君
の家に遊びに行きたいといわれたとき,あの頃の私はどのよう
に言葉を濁して答えていたのだろうか.今に続く私の屈折した
引っ込み思案の性格は,いくらかはこの時代の体験に影響され
ているのかもしれない.多くの被災家族はこのまちを去り,去
れない家族は防空壕や仮小屋に,あるいは消失を免れた親類の
家,お寺などに身を寄せていたのだから,あの貧窮状態は私だ
けではなかったのだと,冷静に判断できるようになったのずっ
と後になってからのことだった.私は寝ることと食事の時以外
はこの家にあまりいたくなかった.物理的にも自分の身の置き
所がなかったからでもあった.何とかこの家と何もなくなった
42
このまちから逃れたいと思った.
この建物をバラックと呼んでいた.入居当時からこのように
呼んでいたのか,誰が最初に使ったかは確かではないのだが,
なんとモダンで逆説的な表現ではないか.英和辞典を引いてみ
ると,バラック(barrack)とは,駐屯兵士(将校ではない)の
ための細長い兵舎,そしてそれが転じて粗末な建物,仮小屋と
いう意味に使はれるという.あの建物に入居してから 8 年後,
仙台の大学に入学した頃には,かっての第二師団駐屯地の跡地
にアメリカ占領軍の兵士たちのバラックがまだ残っていた.バ
ラックの本当の形を初めて自分の目で確認して,バラックとは
いいながら私の場合とは似て非なるものであることを実感し
た.かって私の住んだ長屋はバラック以下の非人間的なものだ
った.
2005 年夏,スリランカに前年 12 月の津波被害義捐金を持参
した時,海岸沿いに多くの罹災者の仮住まいを見た.とても人
間が住むとは思われない仮小屋であった.物置ともいえない建
物であった.かっての私のバラックを思いだし,彼らがこの貧
窮からどのようにして逃れられるのかを考えさせられた.私の
家族の場合,父ははるばる礼文島まで出稼ぎに行って必死に働
43
いた.郷里にはもう仕事らしい仕事はなかったからだ.父のお
か げでなんとか
小 さいながら家
ら しいものがで
き ,バラック暮
らしから 5 年か
か って脱出でき
た .スリランカ
の 人びとは彼ら
の仮小屋から脱出できただろうか.
私のバラックは消えていた.建物はすべて撤去され,雑草の
生い茂る細長い土地に変わっていた.私は突如感傷的な気分に
襲われた.私の戦後の出発点となった場所,私の戦争に対する
憎悪をかき立てた原点,あのまちから逃れたいと切に願った場
所が永遠に失われた.この家の前に何度も立って自分自身を考
えることはもう出来なくなったのである.考えてみれば,あの
ような仮小屋が 60 年以上も残されていること自体が不思議な
ことであった.あの家も,私の記憶にしか残っていない「すり
込まれている筈の風景」に変わったのである.
このまちを離れる前日に,私はもう一度この場所を訪ねた.
44
当時の記念になるものものはないかと斜面を探してみた.木く
ず以外めぼしいものは何もなかった.
そ の 土 の 独 特の
に お い に 懐 か しさ
を 覚 え た . 私 の家
族が住んで以来の,
あ る い は 空 襲 で失
わ れ た 以 前 の 住人
の 生 活 の 集 積 を感
じ取れた気がした.雑草が生い茂りはじめていた.空襲の翌年,
1946 年にはこの辺り一帯にアカザが茂った.アカザの茎は太
く,背の低い私にはジャングルにも思えた.今生えている雑草
もアカザのように見えた.そうだとすれば,何という強靱な生
命力であろう.
考えようによってはここは私のあの戦争への憎悪や屈折した
心情の出発点であっただけでなく,70 歳を超える今に至る私
の生命力と活力の源でもあったような気がする.感傷に浸りな
がらも,新しい力を得たような気がした.
45
金子牧場と金子のばあさん
1
JR 根室駅を降りて 200 メートルほど海側に進むと東西に延
びる広い道路に出る.このまちに初めて降り立った人は誰でも
駅のみすぼらしさとこのだだっ広い道,賑わいのない駅前に寂
寥とした雰囲気を感じるに違いない.この道は幕末から繁栄を
誇った歴史上著名なまちに昔からあった道ではない.このまち
は海運によって各地と結ばれていたから,このまちは海沿いに
発展した.1921 年に釧路からこのまちまでの鉄道路線が開通
し,駅が高台に建設されたことでこのまちの様相は変わった.
海沿いの市街地と駅のある高台の段差が幾本かの傾斜の急な坂
道で結ばれ,それを束ねるかのようにこの広い道が作られた.
この道の両側には主に役所の建物が配置された.この配置によ
って役所はたびたび発生した大火による罹災を免れることもで
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きた.
北海道根室支庁,営林署,裁判所,測候所,警察署,町役場
と公会堂.私の通った高等学校もこの通りの近くにあった.逓
信次官として大礼服を身にまとった小池仁郎の銅像もあった.
もっともこの銅像は砲弾に「リサイクル」するために献納とい
う名目で撤去され,私がこの辺りを歩いた戦後には台座しか残
っていなかった.私の母は小池の血縁で新潟から彼を頼って身
一つでこのまちにやってきて,小池の家の養女となり,縁あっ
て父と結婚した.小池は私の周囲では最も成功した移住者であ
った.このまちにも功績のあった人と聞いていた.母は小池が
後見人であったことを自慢げに話してくれていたが,戦後の極
貧状態からの脱出して大学に進学したいと切に願っていた私に
は,私の生まれた年に亡くなった成功者の存在などなんの慰め
にも足しにもなりはしなかった.
あれやこれやで私はこの通りの雰囲気を好きにはなれなかっ
た.急な坂道を息を切らして登らなければなかった.もっとも
その頃の私の体重は 55 キロで痩身であったのだが.高校への
通学のために雨の日も雪の日も風の日も学校正門にいたる急な
坂道を登った.舗装されていないこの坂道は豪雨の時や雪解け
の時には川のように水が流れ,冬はいつも表面が凍って滑った.
いつもうつむいて登っていた.
それに加え得て,空襲の被害をまぬがれたこの地域には,札
幌からやってきて数年すると転勤していく役人たちが住んだ.
このまちの人びとの一部には中央の役人にこびを売るかのよう
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な雰囲気があったように思う.その雰囲気にはなじめなかった.
このまちには,戦争が生み出した絶望的なまでの貧困の中で暮
らし,脱出したくてもできずにもがく私には違和感があった.
その感情は 70 歳を超えたいまでも残っている.
それなのに,この数年はあのまちを訪れるときはいつもこの
通りの宿に泊まる.この閑散とした大通りの西の端にあるホテ
ルである.このまちでホテルといえる宿は少ない.駅の近くで,
空港行きのシャトルバスも止まる.しかし,ここに泊まる最大
の理由はあの 1945 年 7 月 15 日大空襲の日の体験を再確認する
最終の作業に取りかかってみたいという気持にもかられるから
だ.私の記憶深部にすり込まれている筈の風景を活力あるうち
に呼び覚まして書き留めたいからだ.この記憶に触れることは
つらいことで,ある意味では私にとってタブーであったともい
える.
ホテルのある場所には,あの頃憲兵隊が駐屯していた建物が
あった.真向かいに北斗小学校がある.この小学校は私の母校
の花咲小学校より設立が遅いのに,公的な序列はいつも上であ
った.理由ははっきりしている.1936 年,私の生まれた年に,
昭和天皇が陸軍大演習のついでにやってきてこの学校のグラン
ドで拝謁の式典をやったからだ.この「行幸」については親た
ちの世代から話を聞かされた.土砂降りに近い雨の日に土下座
して迎え,頭を上げたらもう通り過ぎていたいたという.軍服
にマントを羽織って出迎えの人びとの前を通りすぎるこの日の
天皇の写真が残っている.時代劇で大名の駕籠を土下座して迎
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える領民たちのシーンを思い出させる.「行幸」を記念する石
碑はいまもグランドの片隅に残っている.
この学校の位置はあの頃と変わって,グランドと校舎の位置
が逆になっている.このあたりを歩くといつもあの空襲の体験,
この校舎の隅での仮住まい,2年以上にわたるこの校舎での二
部授業のことを思い出す.私の通っていた花咲国民学校は空襲
で全焼したので,この校舎で学んだ.あの頃の木造校舎はもう
ない.私がこのまちを離れてから鉄筋で建て替えられてしまっ
た.
2
あの日,空襲は早朝に始まった.前日の空襲で翌日も空襲が
あることは誰もが予想していた.夕食を明るいうちに慌ただし
くすませ,その夜は停電だっ
たから早いうちに寝た.枕元
に防空頭巾その他を整え,服
を着たまま寝たと思う.国民
服にゲートルを巻いて寝たは
ずだ.当時の服装の一部が私
の手許にある.戦闘帽だ.この帽子を見るたびに,国民学校で
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体験した恐怖,これをかぶることを強制された教育,教師たち
の暴力,差別といじめの行為を思い出す.今の人たちには尋常
小学校と国民学校の区別はどうでもよいことかもしれない.私
にとっては受けた傷はいまでも忘れられない.
空襲警報のサイレンと敵機の轟音が頭上に聞こえたのとはほ
ぼ同時だったと思う.とるものもとりあえず町内の共同防空壕
に飛び込んだときは機銃掃射が間近に迫っていた.8 時頃にな
って,私の家の筋向かいにあった旅館三洋館裏から出火したと
の連絡があり,母が一番下の弟を背負い,私とすぐの弟の 4 人
でちょうど三洋館の真向かいにあった地域防空壕から脱出し
た.父は足が萎えて歩くことができなかった祖母を助けるため
に残り,金子牧場で落ち合うことを決めた.祖母に別れをいう
いとまもなかった.
子どもの足で歩ける距離はしれている.逃避の途中でなんど
も休み,艦載機の波状攻撃をなんとかくぐり抜けた.1 度目は
柳田本店前の防空壕に駆け込んだ.近くに爆弾が落ちた.2 度
目は根室劇場の前で遭遇し,防空壕を発見できず,側溝に伏せ
た.3 度目は北斗小学校の前で,その筋向かいの通称「ドング
リ林」の中にに逃げ込んだ.どの坂道を登ったかは記憶に残っ
ていない.ただ,駅前の道で暴れ狂う馬に遭遇したように思う.
馬も人間と同じではじめての体験に恐怖し,逃げ場を失ってい
た.この記憶が正確だとすると,根室劇場の角を折れてまっす
ぐ坂を登ったはずだ.
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「ドングリ林」は今でも一部が中学校の敷地内に残っている.
当時はもっと大きな林だった.飛び込んで驚かされたのは,そ
こが軍隊の基地の一部だったことだ.大量の軍需物資が積み上
げられていた.いま考えると,あそこに爆弾や機銃が直撃すれ
ば私の生命は即座に失われていたであろう.林の中に多数掘り
込まれていた「たこつぼ」の一つに皆で飛びこんだ.ちりぢり
になった家族の無事を神仏に祈った.
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3
金子牧場をめざしたこの道のりを思いだし,記憶をつぎ合わ
せる作業は,私と私の家族に突然襲いかかり,今に至るまで私
を苛んでいる過酷な運命を思い出させ,とてもつらいことだ.
ドングリ林を脱出したのは米軍機の攻撃が止み,空襲警報が
解除されてからであろう.根室空襲研究会『根室空襲』による
と,報告によって時間が違うが,おおむね午後 4 時半から 5 時
頃と推定される (注).空襲警報が解除されたが,断続的に続い
た空爆が終わって静寂が戻っても俄には信じられなかったか
ら,完全に爆音が聞こえなくなるまでかなりの時間ここにいた
と思う.
金子牧場にどのように歩いて行ったかは,まったく記憶がな
い.私の記憶にすり込まれているのは,牛舎の前で父と一番上
の姉と再会した情景である.闇の中にランプの明かりで浮かび
上がる情景である.私が先についたのか父が先についていたの
か定かではない.再会でお互い無事でいたことを,生きていた
ことを喜び合うといった情景ではなかった.父は祖母を伴って
はいなかったからだ.祖母の生死をどのように父に問うたかか
は記憶していない.呆然とする父と泣きじゃくる私を思い出す
だけだ.父は寝たきりの祖母の布団に防火用水から水を十分に
かけてきたと説明した.私は祖母の部屋だけが焼け残っている
状況を想像し,ただ祖母の生存を望んだ.
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翌日,父は一人で自分の母の死を確かめ,現場で荼毘に付し
た.翌々日,私と家族は祖母の骨を拾いにまちに戻った.高み
からまちを眺めて息をのんだ.まちの中心部はほどんど焼失し
ていた.私の家だけが焼け残っているかもしれないという願望
などいっぺんに消し飛ばされた.家の焼け跡で荼毘に付された
祖母の骨を拾った.焼けたトタンの上の骨はことのほか多く,
近くで拾った焼けた石油缶を骨壺代わりにしたが入りきらず,
父が原形をとどめていた頭蓋骨を手で割った.脳が炭化して残
っていた.祖母は頭が大きかった.石油缶の骨壺を抱いて皆で
金子牧場に戻った.
金子牧場に何日か留まったあと,北斗小学校の体育用具置き
場に移った.家財道具はなにもなく,体操用マットが布団にな
った.ドアには無数の爆弾片が切り裂いた穴があった.爆弾は
地上で爆発すると無数の大型ナイフのように鋭利な弾片を周囲
に飛散させて,人を殺傷する.テレビ映画で最近多く見る空襲
シーンはこの弾片の飛散を正確に描写していない.先年ベトナ
ムのホーチミン市を訪問したとき博物館に米軍の投下した爆弾
と一緒に弾片が積み上げられて展示されているのを発見した.
戦争の惨劇が共有されていたことを感じ,こみ上げてくるもの
があった.
(注)根室空襲研究会『根室空襲』1993 年 9 月刊,32 ページ.
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4
金子牧場が本当にあったのか,それがどこであったかを突き
止めることが躊躇われたのは,あの日にまちの高みから眺めた
状況と私の深層に潜めれられた感情を呼び起こすことへの怖れ
からであったろう.その潜められた感情は私の人生の節々で引
き出され,増幅された.多数の第二次大戦記録映画,朝鮮戦争,
ベトナム戦争,イラク戦争,アフガン戦争,ガザに対する非人
道的無差別爆撃等の報道や記録に接していつも深層に潜む感情
を有無を言わさず引き出された.阪神淡路大震災のような自然
災害の体験も引き出しの契機となった.私の体験と感情はそれ
らの歴史的体験とただ共鳴しただけでなく,増幅されていった
と思う.
戦争体験を語り継ぐことが重要なこはいうまでもない.しか
し,伝えられるのは被害の事実だけであって,現実に体験した
人の内部に潜められた感情は到底伝えられない.被害の事実に
ついてさえも,体験したことのない人たちやバーチャルな殺し
あいの世界に浸りきっている若者たちにはさほど深刻な数字に
は見えないだろう.私は,戦争の「語り部」たちのようには自
分に体験を流ちょうに語る器用さもない.まして家族の不幸を
回避できなかったことへの後悔と非難の入り交じった複雑な感
情など到底表現できないのだ.
そうはいいながらも,私はあの体験を書きたいと思うように
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なった.自分のことを,いわば自分史として子孫に書き残して
おきたい気持はさらさらない.戦争の惨禍の語り部の役割を果
たしたいわけでもない.今の時代を見ると,私自身とその家族
の体験など簡単に無視,抹殺される状況が作り出されている.
そのことにいいようのない恐怖を感じる.自分の存在そのもの
が全否定されるような気になるのだ.それほどまでに戦争体験
は私の生涯の中で重いことに気づきはじめている.
編纂された歴史は,私たち民衆の体験を無視して,国の支配
者や大企業のリーダーたちの歴史として記述され,それが国の
歴史として教えられる.広島や長崎,沖縄を除けば,戦争が国
内でも闘われ多くの人びとが殺されたことを示すものは何もな
い.
無差別に民を殺傷して戦意を削ごうとする無差別な攻撃が現
代の戦争の核心であることは百も承知していながら,パキスタ
ンでもパレスチナでも誤爆といいのがれをしながら殺傷が続け
られている.戦火がこのような地方のまちに及ぶまで負け戦を
続け,多くの家族を耐え難い不幸に陥れた指導者たちの無責任
ぶりはが追求されることもなく今日に至っている.それどころ
か,その責任追求は私どもの世代を最後に忘れ去られようとし
ている.私はこのことに耐えられないのだ.原爆症患者にさえ
補償を渋る政府が,私たちが被った損害を補償するなどあり得
ないことだ.彼らはただひたすら私どもの声が小さくなり,死
に絶えることを待っているのだ.
55
5
2007 年夏,旧友 I 君が金子牧場の係累の女性を探し出し,
訪問の機会を設定してくれた.これまで未知の人にお会いする
機会は無数にあったが,今回は秘密を解き明かせるかも知れな
いと心が騒いだ.私より数歳若い方で,私と学校で交差するこ
とのなかった人だった.
金子牧場はあったのでしょうか,確かにありましたよ.どの
当たりだったでしょう.I君は駅裏と推定していたが,急斜面
で牧場など経営できないはずで,私はもっと遠い場所と考えて
いた.駅裏の斜面を降りきって沢をわたると道は上りになり,
落石の方角に右に折れる.折れずに再び上った辺りの平地がそ
うではないかと,私は考えていた.高校時代に何度かこの場所
を体験する機会があったので,いくらかは土地勘があった.半
島を南北に走る道は当時はなかった.だから金子牧場はこの沢
を登り詰めた辺りと推定していたのである.違いますよ,もっ
と南ですよ.I君はすぐに合点がいったようだった.
この金子牧場は本当に私の言う金子牧場なのだろうか.戦後
何年かたった頃,わが家の茶の間で金子牧場のご主人が野つぼ
に落ちて死んでいたことについて話題になったことがある.冬
のことだ.この辺りの吹雪は危険きわまりない.一面の銀世界
のなかで方角が分からなくなり,道路も原野も沢もどこがどこ
かわからなくなってしまう.原野に点在する野つぼなど判別の
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仕様がない,これに落ちたら這い上がることはできず死に至る.
金子牧場のご主人のある意味で不名誉な死についておそるおそ
る尋ねてみた.そうなんです,おじいさんは遊び好きで,まち
に出かけて飲んだ帰りの事故でした.私のおぼろげな記憶は事
実となった.
祖母と金子牧場の家族との間にどのような接点があったのだ
ろうか.おじいさんの出身は新潟と聞いています.おばあさん
はどこと言っていました,たしか「はくえ」とか・・・「ああ,
それは羽咋のことですよ」.私の祖母と同郷であることは考え
もしていなかった.酪農の人と漁業に関わる家族にどのような
関係があったのか,これまで抱いていた疑問が氷解した思いで
あった.
私 の 祖 母キ ノ は , 戸 籍に よ ると
1861 年(慶応元年)に石川県羽咋
郡西海村字風戸(現在は志賀町に編
入されている)に生まれた.父親不
詳の私生児であったという.何歳の
時に北海道に移住したのかは定かで
はない.佐渡出身の佐々木岩蔵と所
帯を持った.岩蔵とどこで知り合っ
たかはわからない.岩蔵はすでに所帯を持っていて子どもが数
人いたが,先妻を離縁しキノと暮らし始めた.岩蔵とキノの長
男が 1888 年(明治 21 年)8 月に誕生していることから推定し
て,その前年の 1887 年(明治 20 年)には一緒に暮らしていた
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のではないだろうか.岩蔵は 1853 年(嘉永 6 年)生まれ,1887
年に一緒になったとすると 34 歳,当時としては分別盛りの年
齢であった.1 歳下の女房を離別し,26 歳の若い女と一緒にな
ったわけだ.いまでいうキノの略奪婚とでもいうべきか.先妻
は子どもを連れて佐渡に帰っている.おそらく祖母はおそくと
も 20 歳前後には移住していたと推定する.もっと若い時だっ
たかもしれない.また,岩蔵は 1906 年に 53 歳で死去し,祖母
は魚の行商などをしながら一家を支えた.
祖母は読み書きはできず,そろばんもできなかった.このま
ちでは掛け売りが一般的で,場合によっては半年ごとの支払も
あった.祖母はすべてを記憶していて息子や孫たちに「書き出
し」(請求書)を作らせていたという.移住した女たちは働き
者だった.郷里での生活以上のものを望んで移住したのだから
当然のことなのだが.金子さんの祖母も働き者だったと述懐す
る.
若い女たちがどうやって能登半島の寒村から北海道の東端に
まで移住できたのだろうか.女手一つでどうやって生活を維持
できたのだろうか.移住を支える船のルートと同郷人の扶助組
織が作られていた.先に移住し安定したものが後に来るものを
支える慣習があったと思う.金子さんの祖母も N 家に養女に
入ったという.おそらく同郷か親戚であったろう.いまも強固
な組織として機能しているかどうかは知らないが,私の少年時
代には同郷者の組織がこのまちに網の目のように張り巡らされ
ていた.石川県人会,羽咋郡友会,西海郷友会と村単位にまで
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組織されていた.しかも能登あたりは北前船の寄港地が多く,
船主,船乗りも多かった.移住は現代で考えるほど苦難の道で
はなかったと想像する.冠婚葬祭の支援から頼母子講にいたる
まで相互扶助が行われていた.私の祖母は移住者としては古顔
であったから,移住の仲間として,あるいは移住者たちのリー
ダーとして金子さんのおばあさんと親交があったのだろう.
あの日の前日,7 月 14 日夕刻に起きたことのおぼろげな記
憶がよみがえり,つなぎ合わされた.金子牧場のどなたかが馬
車で疎開を勧めに来た.牧場から私どもの海岸の家まではかな
りの距離だったのに,その距離を馬車を走らせてきたことに感
動する.この行為は同郷人としてこの気候きびしい地で支え合
って生きてきたものたちにしか理解できない人情がさせたこと
だったのだろう.
あの時疎開をしていれば,私の家族の家族の不幸は避けられ
たのにと今でも思う.その申し出を断ったのは,おそらく祖母
自身であったろう.父は祖母の意思に逆らって決断できる人で
はなかった.しかも,翌日に待ち受けていた悲惨な結末を誰が
予想できただろうか.結局姉たちの晴れ着を入れた行李をいく
つかお願いしただけだった.姉たちのものをお願いするなら,
私の「宝物」もと私は親たちに懇願したが,こっぴどく叱られ
た.宝物と行っても,ノートや鉛筆の類だったから,親の叱責
も当然だった.しかしなぜ姉たちのものだけがと言う不満はい
まに至るまで残っている.もっとも姉たちの晴れ着も戦後すぐ
に罹災者の足元を見て物々交換で法外な対価を求めた農家の手
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に渡ってしまったのだが.私の深部に潜められた親たち,特に
父の優柔不断への不満は今でもくすぶっている.
そういえば,子どものころに「金子のばあさん」という呼び
名をよく聞いた気がする.姉に尋ねると,わが家と親戚だった
のではないかと言う.私にとっては金子のばあさんと祖母であ
るカクサ(佐々木の屋号,□のなかにサを書いた)のばあさん
が親戚であったかどうかはどうでもよいことだ.金子牧場と金
子のばあさんが一致し,あの日の関係を説明できる親しい仲で
あったことを知っただけで十分であった.
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I 君に車で金子牧場の跡地に連れて行ってもらった.私はこ
の道を歩いてみたい,あの時を自分の足で追体験したいと願っ
ていたが,ホテルの窓からでも確認できない遠方だった.地図
で確認するとドングリ林から 4 キロに近い距離である.しかも
二つの深い沢を越えての場所で,いまの私の脚力では歩くこと
はかなわぬ距離であった.
車を降りてみると,何もないただの原野であった.木が一本
もないこの原野はもともとの自然の姿ではない.開墾され後に
放置された跡なのだ.馬の力を借りながら大地に強く根を張る
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切株をひとつひとつ掘り起こした結果なのだ.
I 君の祖父は屯田兵としてこの地に入植したという.屯田兵
の和田村開墾地
跡と接している
ことを発見して
感慨深げであっ
た.もちろんそ
の開墾地跡も当
時を偲ばせるも
のはなにも残っ
ていない.考えてみると,この場所は記念碑や説明板こそない
が,このまちの開拓を象徴する場所ではないか.屯田兵と働き
者の能登衆の女性というこのまちの開拓者の集団が交差した場
所ではないか.そのことをこのまちの住民も歴史家も知らない.
ここは名もなき人びとの労苦の跡なのだ.ほかの人はいざ知ら
ず,私にとっては戦争体験に留まらない重要な思索を可能にす
る場所であった.
金子牧場に逃れた翌日から米軍の艦砲射撃があるという噂が
流れ,日中は茂みに隠れた.いま考えるとまったく意味のない
行動だったが,体験したことのない恐怖と情報の不足が人の理
性を狂わせた.茂みは斜面にあり,南に面していたと記憶する.
探してみると,金子邸と畜舎があったとおぼしい場所のすぐ裏
の沢に面して茂みがあった.茂みが半世紀以上も同じままとい
うことはあり得ないのだが,ここに違いないと確信した.私の
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脳裏に焼き付けられている半世紀以上前の情景はベトナム戦争
と同じではないか.映像で見たアメリカ軍の攻撃に逃げ惑うベ
トナムの農民たちの姿と重ねられる自分を思った.
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参照文献
神戸新聞社編『阪神大震災全記録』神戸新聞総合出版センター,1995 年
谷正一編『ふるさとの想い出写真集
明治・大正・昭和
根室』国書刊行
会,1983 年
根室空襲研究会『根室空襲』根室空襲研究会,1993 年
根室・千島歴史人名事典編集委員会編『根室・千島歴史人名事典』根室・
千島歴史事典刊行会,2002 年
三浦綾子『銃口』小学館,1994 年
横山源之助『明治富豪史』社会思想社,1989 年
吉村昭『黒船』中央公論社,1991 年
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