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ソマリア内戦における緊急人道支援のディレンマ

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ソマリア内戦における緊急人道支援のディレンマ
ソマリア内戦における緊急人道支援のディレンマ
−人命の救助と武力紛争の解決との両立への模索−
上 野 友 也
1. 序
以下の内容は、1992年10月12日に、ジュネーヴで開催された国際会議において、緒方国連難民
高等弁務官が発言した内容の一部である。
「紛争と危険を絶つための措置が、ソマリア全土とその周辺地域で同時に執られて初めて、我々の努力
は報われるでしょう。ケニア北東部では、連日のように難民や人道機関職員への攻撃があり、彼らの生
命と財産に損害を与えました。どのように紛争が人道支援活動に悪影響を及ぼしたのかを詳しく述べさ
せて下さい。10月8日には、医薬品、避難装備や遊牧民のための道具類を乗せた輸送機が、ケニアから
ソマリアのバイドアに初めて着陸しましたが、その直後に、あるソマリアの武装勢力がこの都市を攻撃
し、この日に予定されていた二度目の飛行も中止されました。世界食糧計画は、バイドアへの国境を越
えた物資の供給を取りやめ、即座に職員と装備を引き上げさせました。もし、我々の救援物資が被災者
の下へ届けられると確信できないときには、人道支援は無益であるだけでなく、我々の職員と協力者を
危険にさらす逆効果をもたらし、軍事指導者や盗賊に利益を与える結果となるのです1」。
ソマリアでは統一ソマリア会議(United Somali Congress; USC)を初めとする反政府勢力が、
1991年1月にシアード・バレ(Siad Barre)政権を打倒した後、氏族などを中心とした十数の武
装勢力が権力をめぐって戦闘を続けた。この戦闘行為や戦争に伴う飢餓や伝染病などによって、
戦闘員だけでなく多くの一般市民が犠牲となり、このような犠牲から免れた人々も、難民や避難
民2として避難所での生活を強いられた。
このようなソマリア内戦の被災者のために、世界食糧計画や赤十字国際委員会といった国際人
道機関3が大規模な緊急人道支援4を実施し、国連難民高等弁務官事務所は、ソマリアからケニア、
エチオピアなどの隣国に逃れた難民を支援し、自発的帰還を促すための様々な援助を実施した。
しかしながら、ソマリア内戦のような内戦の場合、国家間紛争とは異なり国内に安全な地域は少
なく、国際人道機関は隣国に避難できなかった人々を支援するために、国内の危険な地域で緊急
人道支援を実施しなければならなかった。
このような危険な戦闘地域では、紛争当事者が緊急人道支援を戦争に転用することが容易であ
り、このことは戦争を激化・長期化させる結果となった。紛争当事者は、被災者向けの援助物資
を強奪したり、被災者への物資の配給を管理して利益を上げ、軍事資金として流用したりした。
護身用の武器を携帯しない国際人道機関の職員は、このような紛争当事者による緊急人道支援の
戦争への転用を阻止できるはずもなかった。人命の救助という短期的な目標のために、紛争の解
決という長期的な目標の達成を犠牲にしてしまう。これが「武力紛争における緊急人道支援のデ
ィレンマ5」の問題である。
このような緊急人道支援のディレンマは、武力紛争の激化・長期化をもたらすだけでなく、寄
付した人々の国際人道機関に対する不信感を増幅させるかもしれない。ユニセフのポストカード
といった人道支援への寄付活動は世界的に活発であるのだが、寄付者が、前に述べたような紛争
当事者による寄付金流用の事実を知ったら、今後、国際人道機関に対して寄付しなくなる恐れが
ある。国際人道機関は、人道支援に対する市民からの信頼を維持するために、紛争当事者が緊急
人道支援を戦争に転用していると批判するだけでなく、このような戦争への転用をできるだけ回
避するための方策を執る必要にも迫られているのである。
本稿では、このような緊急人道支援のディレンマが深刻になったソマリア内戦初期を事例とし
て取り上げ、武力紛争における緊急人道支援のディレンマの議論を考察し、このようなディレン
マの発生を抑止し、あるいはディレンマを軽減する方法を提示したい。これを明らかにするため
に、初めにこのようなディレンマが発生するパタンを、「紛争当事者による人道支援の戦争への
転用(以下、「転用のディレンマ」という)」と「被災者による人道援助物資への依存(以下、
「依存のディレンマ」という)」という二つのカテゴリーに分けたい。次に、ソマリア内戦を事
例として取り上げて、緊急人道支援のディレンマがどのようなメカニズムで発生したのかを、こ
の二つのカテゴリーを用いて説明し、最後に、ソマリア内戦においてディレンマの発生を抑制し、
あるいは、ディレンマを克服することができたのかを明らかにしたい。
2. 「転用のディレンマ」と「依存のディレンマ」
本章では、これまでの緊急人道支援のディレンマに関する議論を挙げて、その問題点を指摘し、
緊急人道支援のディレンマには、転用のディレンマと依存のディレンマという二種類が存在する
ことを明らかにしたい。すでに拙稿6において、これを議論しており、ここでは簡単に解説するに
止めたい。
緊急人道支援のディレンマに関する議論の中には、現地住民の発展を促す開発援助の方法を緊
急人道支援にも適用すべきだとの主張があり、この代表的な論者としてメアリー・B・アンダー
スン(Mary B. Anderson)、ピーター・J・ウッドロウ(Peter J. Woodrow)の名を挙げるこ
とができる。自然災害やその他の災害に遭った住民は、外部からの援助を待つことなく互いに助
け合うものだとアンダースンらは指摘し、現地住民による共助によっても被災者を救助できない
場合には、外部からの援助が必要であると述べている。このような外部からの援助は、被災者が
目下必要としている物資を提供するのではなく、住民の共助する能力、すなわち住民のもつ危機
への対処能力(people’s capacities to manage and cope)を向上させることを目的として行わ
れ、将来の開発援助を視野に入れた緊急援助をするべきだと主張している7。
アンダースンは、このような議論を踏まえた上で、国内紛争下の緊急援助に関する議論を展開
している。社会には、紛争を引き起こす様々な集団が存在する一方で、紛争を緩和し対立を調停
する集団も存在している。アンダースンは、前者を分離派(dividers)、後者を統合派(connectors)
と呼び、分離派が、社会を分断し武力紛争を遂行する能力を「戦争遂行能力(capacity for war)」、
統合派が、社会の亀裂を表面化させない能力を「地元の平和達成能力(local capacity for peace)」
とも呼んでいる。アンダースンは、援助物資が分離派の手に渡ることで武力紛争の激化・長期化
をもたらしていると指摘し、現地の住民による和平達成を促進するために、人道・開発機関が統
合派への支援計画を策定し、それを実施に移すべきだと主張した8。
しかしながら、この議論には以下のような問題を抱えている。第一は、援助活動の安全性であ
る。武力紛争下の緊急人道支援では、開発援助とは異なり、被災者や国際人道機関の職員の安全
が十分に確保できないのが通例である。このような場合、アンダースンが述べたように援助計画
を改良し、それを実施しても、紛争当事者や武装集団がこの援助計画やその実施に介入したり、
妨害したりすることは十分にあり得ることである。護身用の武器を携帯しない国際人道機関の職
員は、このような紛争当事者による援助への妨害を阻止できないのである。これは、前に挙げた
緒方高等弁務官の言葉からも明らかである。
第二は、被災者支援の逆効果である。アンダースンは、被災者への支援が戦争の長期化をもた
らす場合を考察していない。国際人道機関が被災者に物資を提供すればするほど、被災者の援助
物資への依存が強まることは広く知られるところである。避難所での生活の方が故郷での生活よ
りも安定し豊かだと考える被災者は、援助物資が得られる限り避難所に定着し、場合によっては
武力紛争の継続を期待するだろう。
難民の帰還と再定住は、武力紛争の解決にとって不可欠な要素である。例えば、難民や避難民
の参加しない選挙によって誕生した政府は正統性を欠き、選挙の敗北側は選挙の無効を訴えるだ
ろう。例えば、西サハラ独立選挙をめぐる難民の選挙人登録が、重要な「政治的」争点となって
いることが挙げられる。また、反政府勢力の支配下にある難民が帰還し再定住を果たすことも、
武力紛争の解決には重要である。カンボジア内戦では、ポル・ポト派を初めとする反政府勢力が、
タイ側の国境で難民を支配し、プノンペン政権はこの難民キャンプからの越境攻撃を恐れていた
ために、難民の帰還は和平合意の条件の一つであった。援助物資の依存が難民の帰還と再定住を
妨げることも、緊急人道支援のディレンマの一カテゴリーとして挙げるべきであろう。
そこで、緊急人道支援のディレンマとして二つのカテゴリーを挙げたい。第一のディレンマは、
「転用のディレンマ」である。これは、紛争当事者などが緊急人道支援を戦争に転用することで、
武力紛争が激化・長期化する場合である。国際人道機関は、このような紛争当事者による転用を
阻止する手段を持っておらず、したがって、国際人道機関の「非暴力性」と「転用のディレンマ」
とは深い関係がある。
国際人道機関は、この「転用のディレンマ」に対して二つの戦略を採ることになる。第一は、
国際人道機関の「非暴力性」を補完するために外部に防衛手段を委託する場合である。この典型
的な例として、人道的介入などで派遣された国際的軍隊に、救援活動の安全を保障させることが
挙げられる。第二は、国際人道機関が防衛手段を委託しない場合、あるいは委託できない場合で
ある。この場合には、紛争当事者による転用に抵抗できないので、紛争当事者が転用する前に被
災者に物資が届けられるように、転用の回避策を計画し実施するほかない。
第二のディレンマは「依存のディレンマ」である。これは、緊急人道支援の「急務性」に由来
し、応急措置として提供された援助物資に被災者が依存した結果、帰還や再定住に支障を来し、
武力紛争の長期化をもたらすディレンマである。この場合には、復興・開発支援を視野に入れた
緊急人道支援を実施して、被災者が緊急人道支援に依存しなくても生計を維持できるような援助
の方法を取る必要がある。
3. ソマリア内戦における緊急人道支援のディレンマ
本章では、ソマリア内戦の事例を通じて、これまで論じてきた緊急人道支援のディレンマに関
する考察を深めたい。以下、初めに、1991年から1993年までのソマリア内戦初期の政治的・軍事
的経緯と人道危機の惨状を手短に述べ、次に、「転用のディレンマ」と「依存のディレンマ」の
二つのカテゴリーに沿って、緊急人道支援のディレンマのメカニズムを探り、最後に、国際人道
機関による緊急人道支援のディレンマの解消策を明らかにしたい。
(1)ソマリア内戦の政治的経緯と人道危機の惨状
本節では、ソマリア内戦初期の政治的・軍事的経緯、人道危機の惨状とこれに対する緊急人道
支援について考察したい。ソマリアでは、シアード・バレとバレの所属するダロッド(Darod)
氏族マレイハーン(Marehan)支族9が権力を恣にし、このことが、他の氏族の反発を引き起こし、
政権崩壊をもたらした。畜産業の盛んなソマリア北部では、家畜取引で利益を上げる政府への反
発が高まり、イサック(Isaaq)氏族母体のソマリア国民運動(Somali National Movement; SNM)
が、1988年5月から6月にかけて反乱を起こし、ソマリア北部を支配においた。その後、政府軍が
報復攻撃を加え、5月に約5千人のイサック氏族住民が死亡し10、約40万人の住民がエチオピアに
難民として逃れた11。政府は、1989年7月に反政府活動家を逮捕して弾圧を行い、9月には、数百
人の人々を殺害し千名以上の市民を負傷させた。このような政府に対して、バレに近いダロッド
氏族オガデニア支族が、対立姿勢を鮮明にし、反政府運動が拡大していった12。そして、これま
で政府を支持してきたハウィヤ(Hawiye)氏族の統一ソマリア会議(United Somali Congress;
USC)が、反政府勢力の呼びかけに応じて、ソマリア中部から首都モガディシオめがけて一斉に
蜂起した。加勢を得た反乱軍が1990年12月に首都を封鎖した後、政府は1991年1月27日に崩壊し、
バレと旧政府軍は、マレイハーン支族の拠点であるゲドー郡の首府ガルバハレに敗走した13。
ところが、紛争各派は、政権崩壊後の暫定政権の樹立に失敗し、その後の内戦は首都だけでな
く全土を覆うことになった。USCの実力者アリ・マハディ(Ali Mahdi)が、暫定大統領に指名
されたが、USCのモハメド・ファラハ・アイディード(Mohammed Farah Aideed)将軍が、こ
れに反対し、USC内部での権力闘争が表面化した14。アリ・マハディ派がモガディシオ北部を、
アイディード将軍派が南部を支配し、両者間の散発的な戦闘が続いた。USCの内部抗争は、1991
年11月から12月に全面的な軍事衝突に激化し、モガディシオ市民を含む約3万人の死者をもたら
した。ソマリア南部を拠点とする旧政府軍が都市キスマイヨ(Kismayu)を占領し、ソマリア北
部では、現地の武装勢力が一方的にソマリランド共和国の独立を宣言した15。
国連事務総長や国連安全保障理事会(以下、「国連安保理」という)は、このようなソマリア
内戦を収束させるための和平プロセスを開始した。1992年1月23日、国連安保理は決議733を採
択し、紛争各派に対して武器禁輸、休戦、和平の推進、援助物資の安全な輸送を要求し16、その
後、紛争各派は敵対行動の即時停止と休戦の維持に合意した。4月24日、国連安保理はこの合意
を受け決議751を採択し、
「国連ソマリア活動(United Nations Somalia Operation; UNOSOM)」
と、「ソマリアに対する緊急人道支援90日行動計画(Consolidated inter-agency 90-day Plan of
Action for Emergency Humanitarian Assistance to Somalia」の実施を決定した17。モハメド・
サヌーン(Mohamed Sahnoun)国連事務総長特別代表は、紛争各派に対して50名の停戦監視団
と500名の人道援助部隊の展開に関する交渉を行ったが、アイディード派は戦況が有利であった
ために和平交渉に消極的であり、一方、劣勢側のアリ・マハディ派は和平交渉を推進しようとし
た。最終的には、サヌーンがアイディード派を説き伏せ、7月に停戦監視団を、また9月に人道援
助部隊をソマリアに派遣させた。しかし、停戦監視団や人道援助部隊の派遣によってもソマリア
の治安は回復せず、国連による新たな対応が必要となったのである。
1992年11月24日、国連事務総長は国連安保理への書簡の中で、ソマリア内戦への5つの対応策
を提示し、中でも「加盟国による強制措置」と「国連指揮統括による強制措置」が他の案よりも
望ましい案であるという見解を示した18。12月3日、国連安保理は、事務総長提案の「加盟国によ
る強制措置」を採用した上で決議794を採択し、「ソマリアにおいて引き起こされる人間の悲劇
の度合(the magnitude of the human tragedy)」が「国際の平和と安全への脅威」を構成し、
「ソマリアにおける人道援助活動のための安全な環境19を可能な限り早急に樹立するために、必
要なあらゆる措置(all necessary means)を執る権限を(事務総長並びに加盟国に)付与」する
ことを決定した20。これを受け、アメリカ軍を中心とする23カ国・約3万8千人の統合タスクフォ
ース(United Task Force; UNITAF)が編制され、12月9日、治安の回復を目的とした「希望回
復作戦(Operation Restore Hope)」が開始した。16日、UNITAFは、モガディシオ空港、モ
ガディシオ港、バイドアなどの都市を制圧し、28日には、キスマイヨ、バルデラ空港、バルデラ
港、バルデラからバイドアへの輸送路を確保した21。
1993年1月4日、14の政治勢力が、アディスアベバにおいて国民和解予備会談を開催し、8日、
即時停戦と敵対行為の禁止に同意した。3月15日、アディスアベバにおける国民和解会議では、16
の政治勢力、長老、知識人、女性代表が参加し、ソマリアを地方自治を基盤とした連邦制国家と
する新憲法を制定し、新政権を樹立する準備を行うために、暫定国民評議会を設置することを決
定した22。
1993年3月26日、国連安保理は、決議814を採択し、アディスアベバ協定の履行を支援する第
二次国連ソマリア活動(UNOSOMII)の実施を決定した23。6月5日、UNOSOMIIは武装解除の
任務を開始したが、アイディード将軍派による待ち伏せ攻撃を受け、パキスタン兵25名が死亡し
た。翌6日、国連安保理は、決議837を採択し、国連事務総長がこの事件の責任者の逮捕、勾留と
いった必要なあらゆる対抗措置を執る権限を有する旨を確認した24。UNOSOMIIは、この決議を
受けて12日から17日にかけて、アイディード将軍派の拠点を攻撃し、12日には、ヘリコプターに
よる戦闘でソマリア人13名が死亡し、この国連軍による攻撃に激高したソマリア人が、取材中の
外国人ジャーナリストをリンチして、4名を殺害する事件が起きた。17日、国連事務総長特別代
表ヨナサン・ハウ(Jonathan T. Howe)は、UNOSOMIIに対し、アイディード将軍の逮捕を指
示したのだが、その後、10月3日、米軍レンジャー部隊がアイディード将軍の逮捕に失敗し、レ
ンジャー部隊16人を含む米兵18名が死亡し、レンジャー隊員1名が人質となったばかりか、アイ
ディード将軍派と国連軍との戦闘に巻き込まれたソマリア人300人あまりが犠牲となった25。この
戦闘で殺された米兵の遺体が、街でソマリア人に引きずられる映像が世界に報道され、これを契
機に、アメリカの国内世論はソマリアへの介入に消極的になり、アメリカ政府はこの世論の動向
を受け、1994年3月までに部隊をソマリアから撤退させることを決定した26。
ソマリア内戦では、一般市民が、紛争当事者間の武力衝突の犠牲になっただけでなく、そのよ
うな暴力行為から逃れるために避難生活を余儀なくされた。約878万人のソマリアの人口のうち27、
約170万人が避難民となり、約70万人がケニア、エチオピア、ジブチなどの隣国に逃れ、難民と
なった。援助活動が十分に行われていた首都モガディシオに避難した人は、約25万人であり、決
して少なくない数であった28。また、紛争当事者や武装集団などが、戦争の混乱に乗じて一般住
民から金品やその他の財産を略奪し、その結果、略奪や暴力行為から身の安全を守るために、農
地を捨てた農民が多く、その結果、農業生産が停滞し、ソマリア人の栄養状態が急速に悪化し、
飢餓や伝染病による死者が多数出たという。
とくに、深刻な被害に遭ったのは、ジュバ(Jubba)川とシェベル(Shabelle)川に挟まれた
穀倉地域であった。ソマリアの多くの地域では農耕よりも遊牧の方が盛んであるが、この地域で
は、主として農耕が行われ、1980年代のエチオピア飢餓の際には、食糧を輸出できるほど豊かな
土地であった。この地域では、氏族構造に属さないバントゥー(Bantu)とベナディール(Benadir)
という農耕民族と、氏族構造に属しているが軍事的には劣性にあったラハウィン(Ranhanweyn)
氏族が居住していた。アイディード将軍派と旧政府軍は、この地域を賭けて武力闘争を続け、現
地の住民に対する略奪行為を行い、場合によっては暴力やレイプなどを用いて現地住民を支配下
に置こうとした。その結果、この地域の農民は土地を捨ててより安全な地域へ避難し、穀物生産
が滞り、飢餓が発生した29。この地域の主要都市であるバイドア(Baidoa)では、避難民の死因
のうち56.0%が栄養不良による下痢であり、23.0%は麻疹であったという報告がなされているが、
これは当時のバイドア周辺地域の住民のおかれた惨状を如実に示すものと言えよう30。
このような人道上の緊急事態に対して、赤十字国際委員会(ICRC)やソマリア赤新月社(SRCS)、
その他の人道NGO(国境なき医師団、セーブ・ザ・チルドレン、CARE、SOS、International Medical
Corps)が中心となって、緊急人道支援を実施した31。赤十字国際委員会とソマリア赤新月社が連
携し、2年間に約20万トンの物資を提供し、その規模は他のNGOによる規模を圧倒していた。ま
た、ソマリアの農村部において緊急人道支援を実施していたのは、ソマリア赤新月社だけであっ
た32。これに対して、国連人道機関である世界食糧計画(WFP)と国連児童基金(UNICEF)は、
1990年12月に全ての職員をソマリアから引き揚げさせ、その後、赤十字社や他の人道NGOが活
動していた時期にも、職員の派遣に対して慎重な姿勢を示した33。
(2)緊急人道支援のディレンマのメカニズム
本節では、ソマリア内戦の事例を通じて、「転用のディレンマ」と「依存のディレンマ」とい
う二つのカテゴリーに分けて、緊急人道支援のディレンマのメカニズムを明らかにしたい。
a. 「転用のディレンマ」
「転用のディレンマ」のカテゴリーを、二つのパタンに分けて、以下論じてきたい。第一のパ
タンは、「配給用物資の損失」であり、紛争当事者や武装勢力などが、被災者のための救援物資
を、戦争の遂行を目的とする軍事物資や戦争の資金源として転用する場合である。転用の手段は、
例えば、強盗や恐喝といった手段によるものや、法外な運送料や護衛料の徴収という形をとるも
のなど様々である。第二のパタンは、「物資配給の妨害」であり、紛争当事者が、敵対勢力の被
災者への緊急人道支援を阻止して、有利に戦争を展開しようとする場合である。例えば、攻撃側
の紛争当事者が兵糧攻めを戦術として用いる場合、劣勢側への緊急人道支援を阻止することがし
ばしばある。このような場合、国際人道機関が活動を継続すれば、人道目的の支援であれ、劣勢
側に対する軍事支援と同様の効果をもたらすことになり、人命の救助と武力紛争の早期解決とい
う目標を同時に実現できない。以下、ソマリア内戦において、それぞれのパタンがどのように現
れたのかを見てみよう。
初めに、「転用のディレンマ」の中でも、「配給用物資」が軍事物資などに転用された第一の
パタンを考察したい。
ソマリアへの配給用食糧は、その多くが、紛争当事者や武装集団などによって盗まれたり、横
流しされた。例えば、ソマリア赤新月社が挙げた事例によると、配給所に運ばれる食糧200袋の
うち、護衛に100袋、運転手に10袋、長老と配給所の監督者に50袋が流用され、残りの40袋が被
災者に配給されたに過ぎなかった34。また、バイドアの検問所は、国際人道機関がバイドアへ援
助物資を搬入するたびに、一、二台分のトラックの積み荷を要求するのが通例であり、バイドア
の飛行場では、国際人道機関が食糧の空輸を行う際、護衛が一回のフライトにつき600ドルを国
際人道機関に要求したという例も報告されている35。
イスマット・キッタニ事務総長特別代表(Ismat Kittani)は、1992年11月25日の国連安保理
への報告の中で、援助物資のうち70%から80%が失われていると主張し、この数値が根拠となっ
てアメリカ軍による人道的介入「希望回復作戦」が実施された36。しかし、多くの人道機関がこ
の数値に疑義を呈しており、ICRCは、同機関が提供した食糧のうち約20%(暴力的な略奪行為5%、
盗難5%、輸送における横流し10%)が失われたに過ぎないと推測している37。
被災者のための援助物資は、これまで述べてきたような盗難や横流しだけでなく、護衛料の支
払いによっても損失を受けた。ICRCは、これまでの人道支援において、護衛を雇用したことはな
かったが38、ソマリアでは紛争当事者から、活動への同意を得るのは難しく、護衛を雇わざるを
得なかった39。ICRCは、内戦が最も激化したときに、護衛を約1万5千人から約2万人雇用したと
いわれる40。この護衛の職に就いたのは、市場で安い武器を手に入れたばかりの失業中の若者で
あり、国際人道機関は、援助用の食糧の一部を、護衛料として渡していた。多くの若者が武器を
手に入れ、護衛として収入を得ることで、戦前よりも収入を安定させ、しかも生活水準を向上さ
せる結果となった。ソマリア人学者サイード・サマタールは、アメリカのテレビに映し出された
武装したソマリア人の若者の姿を見て、家畜を飼いながら遊牧していた時代に比べ、武装集団に
入ることで、彼らの暮らし向きが、戦時中にもかかわらず良くなったようであると指摘した41。
また、多くの人道機関やジャーナリストが、ソマリアを訪れることで、護衛に対する需要を高め、
その結果、武器に対する需要が高まって、護衛料の高騰にもつながった42。
護衛料として支払われた援助物資や、倉庫から盗まれたり、輸送中に強奪されたりした援助物
資は、武装勢力の軍事食糧として利用されただけでなく、商人を介して市場で売却された。武装
勢力と商人は談合して、食糧を備蓄し、わずかな食糧しか市場に放出しないことによって、穀物
価格を高めに誘導し、武装勢力はその利益を軍事資金に充当した43。
援助物資の一部が紛争当事者の手に渡り、その結果、紛争当事者のもつ軍事資金を増やし、戦
争の遂行に役立ったことは否めない。また、護衛を大量に雇用したことで、人道機関の活動が活
発になればなるほど、武装する若者が増加するという現象も見られた。すなわち、紛争で疲弊し
た社会の復興のために、若者の能力が使われるべきなのに、国際人道機関が多くの若者を護衛と
して雇ったことは、社会を疲弊させる戦闘や犯罪行為を増やす原因となったとも言えるだろう。
次に「転用のディレンマ」の中でも、「物資の配給」が紛争当事者などによって妨害され、そ
のことが紛争当事者間の対立を助長した第二のパタンを見てみよう。
1992年11月末から約6週間、アリ・マハディ派がモガディシオ港を閉鎖した。モガディシオ市
内での戦闘において劣勢にあったアリ・マハディ派は、国連による和平プロセスを支持していた
が、1992年11月25日、WFPがチャーターした輸送船を砲撃し、モガディシオ港への入港を阻止
した。国連を支持していたアリ・マハディ派が、国連人道機関による援助物資の輸送を妨害した
のは、この物資が、おもにアイディード将軍派の支配地域に配布される物資であったからである
44
。国際人道機関が援助物資の荷下ろしを強行すれば、アイディード将軍派の戦略上有利な展開
となり、逆に、供給を停止すれば、緊急人道支援によって勢力を拡大したアイディード派将軍派
を押さえ込むアリ・マハディ派の戦略に叶うことになった。
b. 「依存のディレンマ」
次に、「依存のディレンマ」が、どのようにソマリア内戦において生じたのかを考察したい。
表は、モガディシオ市内の穀物価格を、アメリカのNGOであるCAREが調査した表45であるが、
この表から、緊急人道支援による援助物資がソマリア国内に流通し始め、時間が経つにつれて、
穀物価格が下落していることが分かる。ところが、内戦が激化する前の穀物の生産者価格は、ど
の穀物も、1kg当たり1000から2000シリング46であったので、表の示すとおり、穀物価格は、1992
年10月頃には通常の水準に回復した。つまり、これ以降に行われた食糧支援は、過剰なものであ
ったと考えられる。実際、穀物価格の下落によって、ソマリア国内に食糧が十分に行き渡り、と
くに1992年9月から11月までに死亡率はかなり減少したと言われる。サヌーン事務総長特別代表
は、このような経緯を踏まえて、10月には、国際的な食糧支援を停止させるべきだと主張してい
る。さらに、12月には、天候回復のため農業生産が回復した結果、農耕地帯の低地シェベル地方
では、食糧価格がモガディシオ市内より、さらに下落した47。
表:CARE によるモガディシオ市南部の穀物価格の調査(シリング/kg)
1992.7
1992.8
1992.9
1992.10
1992.11
1992.12
1993.1
1993.2
1993.3
ソルガム
3788
2349
1458
866
855
791
720
661
500
小麦
3233
2824
1858
1100
910
824
745
657
550
トウモロコシ
4800
2674
1733
1266
1199
1041
891
763
625
このような状況にもかかわらず、1992年12月からの「希望回復作戦」によって、「無料」の輸
入食糧がソマリア国内に流通し、ソマリアの農業生産競争力を低下させ、多くの農民の反発を買
う結果となった。穀物価格があまりにも低いので、農民は生産をやめ、余剰生産物を腐敗させた
まま放置し、また、農耕地帯で雇用されていた数万人の農業労働者は雇用を失ったままであり、
多くの農民や農業労働者は人道援助物資に依存し、救援キャンプから出なかった48。このような
人道援助物資の過剰な投下と、人道援助物資への依存構造は、戦争の早期解決よりも継続を望む
人々を増やす結果となり、戦争の長期化の一因となったと言えよう。
(3)緊急人道支援のディレンマの解消策
国際人道機関は、紛争当事者や武装勢力に援助物資を利用させないようにするために、あるい
は、被災者が援助物資に依存しすぎないようにするために、食糧の有償販売、商品価値の低い穀
物の配布、炊き出しの実施、地方での人道支援の実施、復興支援の実施、多国籍軍との協力など
の様々な対策を取った。以下、それぞれ具体的にどのように行われたのかを概観したい。
「食糧の有償販売(monetization plans)49」とは、収入が少なく食糧を購入できない人には
無償援助を行い、それ以外の人に対しては、仲買人らに援助物資を売却し、市場に食糧を供給し
て支援する方法である。ソマリアでの援助活動をしていた国際人道機関は、穀物、豆類、調理用
油を、ソマリア北部の港、ケニア、ジブチで商うソマリア人に売却した。この支援方法は、輸送
中の横流しや強盗の問題を緩和し、武装勢力に行き渡る援助物資の割合を減少させ50、多くの民
衆の栄養状態を改善させただけでなく、市場も活性化させた。しかし、その一方で、武装勢力が
蓄えていた援助物資の価値が下がったため、武装勢力はその損失分を埋め合わせるため、それま
で以上に援助物資を盗み、治安の悪化を招くという意図せざる結果がもたらされた51。
「商品価値の低い穀物の配布」とは、盗難の危険性を軽減する目的で、提供する穀物を商品価
値の高い米、小麦などの穀物から商品価値の低いソルガムなどに変えることである。援助物資を
市場で換金する目的で強盗が行われることが多いために、多くの国際人道機関は、米の供給を止
め、ソマリアの貧困層がおもに食べるソルガムを提供したのである52。
「炊き出し」とは、梱包された食糧を提供するのではなく、配給所で食事を提供して盗難を防
ぐことである。また、共同体の長老や富裕層の多くは、このような炊き出し場までの列に並んで
まで食事にありつきたいと考えなかったので、この方法は、人道援助を本当に必要としていた貧
困層の支援に役立つものであった。ICRCと現地の女性団体が、モガディシオ市内で食事を提供し、
1992年11月までに、980の配給所で、1日あたり117万人の食事を提供した。しかしながら、首都
モガディシオを中心に行われたので、多くの農民が土地を捨てて、都市部に避難し、農村が荒廃
したとも言われる53。
「地方への人道支援」は、このような経緯から、都市への避難民の流入を抑制するため、国際
人道機関は都市部から農村部へと援助の拠点を移した。これは都市部への避難民の流入を抑える
だけでなく、援助を分散させ、特定の地域の被災者のみが利益を得ることがないように配慮され
た結果でもある。
「復興支援の実施」は、被災者に対する短期的な支援だけでは、根本的な救済策とは言えず、
被災者が自立できるような復興・開発支援を視野に入れた緊急人道支援が必要だという議論から
生まれてきたものである。ケニアに逃れた難民を帰還させ、新たな難民の発生を予防するため、
UNHCRは、NGOに資金を提供して、ソマリア南部において即効プロジェクト(Quick Impact
Projects; QIPs)を実施した54。これは食糧支援にとどまらず、学校や診療所などの社会基盤の整
備、食糧自給のための農業と畜産の復興を目的にしていた。このような緊急人道支援と復興支援
との連係によって、ソマリア内戦の場合、UNHCRは、難民を武力紛争の最中であっても帰還さ
せることに成功し、難民の緊急人道支援への依存を弱めることができたと言えよう55。
最後に、国際人道機関やその関係者の中には、紛争当事者による援助物資の転用や治安の悪化
に対する処方箋として、国際的な軍隊の介入を要請した者もいた。アメリカ国際開発局(USAID)
のアドヴァイザーであったフレッド・カニー(Fred Cuny)56は、ソマリアの劣悪な治安の下で
も人道支援を円滑に行えるように、小規模でかつ迅速に対応できる軍隊を派遣する案を構想し、
国際開発局に提案した。結局、アメリカ国防省は、この案より規模の大きい軍隊の派遣を決定し、
「希望回復作戦」として実施するに至った。カニーの提案と「希望回復作戦」とは異なったが57、
カニーの働きかけは、緊急人道支援における人道的介入という理念を提供し、その実現に大きな
働きをしたと言えよう。
また、三つの国連人道機関と、CARE、Oxfam-America、IRC(International Rescue
Committee)という人道NGOが、記者会見の中で、国際的な軍隊の派遣による治安の回復がな
い限りソマリアでの活動はできないと声明を出した58。同日、アメリカ政府は、国連安保理に人
道的介入の用意があると通知しており、この声明が、人道的介入に関するアメリカ政府や国連安
保理の政策決定に幾分効果を及ぼしたと言えよう。
このような人道的介入は、緊急人道支援のディレンマの解消に、次の点で役立ったと評価でき
る。第一に、UNITAFが、国連人道機関の活動を護衛したことで、国際人道機関はソマリア人護
衛や横流しをしていた輸送業者との関係を解消することが可能となった。第二に、国際人道機関
が、UNITAFの出動を要請して、武装集団による強盗を防止できた。例えば、100人以上の武装
集団が、低地シェベル地方において人道機関の職員に食糧を渡すよう要求したことがあったが、
この職員は米軍部隊に無線で救助を要請し、米軍がヘリコプターで出動し、武装集団による物資
の奪取を防いだことがあった59。
しかし、国際的な軍隊による治安回復は成功せず、ディレンマ解消の効果は限定的なものであ
ったと言えよう。緊急人道支援の戦争への転用を根本的に解決するためには、紛争当事者間の和
解と治安の回復が必要であった。ところが、UNITAFは、国際人道機関の活動を保護したが、紛
争当事者の武装解除まで踏み切ろうとしなかった。UNITAF後のUNOSOMIIは、アイディード将
軍派と交戦状態に陥り、同派の武装解除に失敗した。
4. 結び
これまで、ソマリアの事例を通じて緊急人道支援のディレンマのメカニズムとその解消策を考
察してきた。この論文では、緊急人道支援のディレンマには、「転用のディレンマ」と「依存の
ディレンマ」の二つが存在し、ディレンマのメカニズムやその解消策を具体的に明らかにできた
といえよう。しかしながら、ソマリアの事例からも明らかなように、国際人道機関の手によって
このような緊急人道支援のディレンマを完全に解消することは非常に困難である。この点につい
て、国境なき医師団のロニー・ブローマンは以下のような発言をしている60。
「このディレンマを解決するうまい方法はありません。むしろ、人道支援の構造的な矛盾として、この
事実を捉える必要があります。現実のものとしてこの矛盾を見なければ、無分別あるいは日和見主義に
よって、あなた方は誤りを犯すことになるでしょう。戦争の全体構造のなかに、人道援助が必然的に組
み込まれている。このことはこの上なく自明のことです。しかし、だからといって、被災地に関与して
はいけない理由になるでしょうか」。
紛争被災者が多数亡くなるような緊急事態に際して、国際人道機関がこのようなディレンマを
恐れ、緊急人道支援をしないとすれば、それは人道に反する行為にはならないだろうか。人道主
義とは、生命が他のすべての価値よりも優先するという思想である。人道主義を掲げる組織が、
人間の生命よりも武力紛争の早期解決を優先すれば、組織の基本理念を放棄したことになるので
ある。ブローマンの言葉にあるように、国際人道機関は、緊急人道支援のディレンマを抱えなが
らも緊急人道支援を止めるわけにはいかないのである。
しかし、国際人道機関がディレンマを軽減する方法を取らないで、その活動の成果ばかりを強
調すれば、「無分別」あるいは「日和見主義」に陥るであろう。もし、国際人道機関が緊急人道
支援のディレンマを軽減するための努力を怠っていれば、国際人道機関に対して寄付した組織や
市民は人道支援に対する不信感を増大させるかもしれない。この点について、ブローマンは、さ
らに以下のように述べている61。
「人道支援が、戦争を長期化させるという背徳的な効果を有するという事実を認識することは、成し遂
げるべき行動の基準、実施されるべき調整、維持すべき援助の水準に関して、納得のいくまで自問する
機会を少なくとも与えてくれます」。
国際人道機関は、武力紛争下で緊急人道支援をする際に、ディレンマを抱えながらも、ディレ
ンマをできるだけ緩和するための方法を模索し続けなければいけないのである。武力紛争におけ
る緊急人道支援のディレンマを根本的に解決するためには、武力紛争自体が収束し、和平を達成
する必要があろう。
本稿では、緊急人道支援のディレンマや武力紛争の解決をもたらす方法の一つとして挙げられ
る人道的介入について十分に考察しなかった。今後の研究課題として、緊急人道支援における軍
隊の役割や、国際人道機関と軍隊との協力のあり方、さらには、国際人道機関と軍隊の接近がも
たらす否定的な効果について考察していきたい。
1
Sadako Ogata, “Statement by the United Nations Commissioner for Refugees at the International
Conference on Somalia”, Geneva, 12 October 1992.
2
「難民(refugees)」という用語は、1951年に採択された「難民の地位に関する条約」第1条において定
義されているが、1969年に採択されたOAU条約における難民規定によって、「迫害の結果だけでなく、
自国又は国籍を有する国の一部あるいは本土において、外国の侵略、占領、外国による支配、公的秩序を
著しく乱す事件が発生したため出国を余儀なくされた人々」に、難民の対象範囲が拡大され、1984年に
中米諸国を中心に採択された「難民に関するカルタヘナ宣言」においては「大規模な人権侵害」によって
出国した人々も難民として保護される対象に拡大された。OAU条約や難民に関するカルタヘナ宣言は、
地域特有の規定であり、国際慣習法ではないが、本稿においては拡大された「難民」の定義を採用したい。
また、「(国内)避難民(internally displaced person)」という用語は、国際法上明確な規定がないが、
難民と同様の理由で住み慣れた土地から「国籍国の内」に避難した者を指す言葉として、一般的に用いら
れている。
3
本稿において、「国際人道機関」という用語は、以下の三種類の国際的な人道支援機関を指すものとする。
第一は、国際連合によって設置された人道機関であり、国連難民高等弁務官事務所(Office of the United
Nations High Commissioner for Refugees; UNHCR)、国連児童基金(United Nations Children's
Fund; UNICEF)、世界食糧計画(World Food Programme; WFP)などが代表的なものである。第二
は、国際的に赤十字運動を展開している人道機関であり、具体的には、赤十字国際委員会(International
Committee of the Red Cross; ICRC)と国際赤十字・新月社連盟
(International Federation of Red Cross
and Red Crescent Movement; IFRC)である。そして、第三は、人道支援を実施している非政府組織
(non-governmental organizations)であり、例えば、国境なき医師団(Médecins Sans Frontières Doctors Without Borders; MSF)、オクスファム(Oxfam)、ケア(Cooperative for American Relief
Everywhere; CARE)などがこれに当たる。
4
本稿において、「緊急人道支援」という用語は、以下の二つの機能を指すものとする。第一は、援助
(assistance/aid)であり、食糧、水、毛布、医療物資や住居などの物資を、被災者に提供することなど
である。第二は、保護(protection)であり、これには、避難所における、暴力や人権侵害から難民や避
難民を保護し、安全な地域へ避難させたり、難民を本国へ帰還させ、再定住を支援することがある。緊急
人道支援の具体的な活動に関しては、以下の資料を参考のこと。UNHCR (Office of the United Nations
High Commissioner for Refugees), Handbook for Emergencies, 2nd ed. 2001, Geneva.; The
Sphere Project, Humanitarian Charter and Minimum Standards in Disaster Response, 1998,
Oxford: Oxfam Publishing.; Frederick C. Cuny and Richard B. Hill, Famine, Conflict, and
Response : A Basic Guide, 1999, West Hartford, Conn.: Kumarian Press.
5
「緊急人道支援のディレンマ」という言葉は、国際人道機関の関係者や国際人道支援の研究者の中で一般
的に用いられているのだが、その言葉の明確な定義は存在していない。例えば、国境なき医師団の元理事
であるロニー・ブローマン(Rony Brauman)は、緊急人道支援活動に携わるNGOは、国家から財政的
に自立して活動するのが望ましいが、実際には、国家からの資金援助なしでは活動できないというディレ
ンマを、緊急人道支援のディレンマの一つとして取り上げているのだが、これは、緊急人道支援に固有の
問題とは言い難い(Rony Brauman, and Philippe Petit, Humanitaire, le dilemme : entretien avec
Philippe Petit, Conversations pour demain ; [no 1], Paris: Editions Textuel, 1996, pp. 29-30)。本
稿においては、緊急人道支援活動によって武力紛争が激化・長期化させる場合のみを、緊急人道支援のデ
ィレンマの対象として扱った。なお、以下の拙稿も参考のこと。上野友也「緊急人道支援のディレンマに
関する一考察:ソマリア・ボスニア・ルワンダにおける武力紛争の事例を中心に」、『法学(東北大学)』、
第65巻第4号(2001年10月)、89-124頁。
6
上野友也、同論文、96-104頁。
7
Mary B. Anderson and Peter J. Woodrow, Rising from the Ashes : Development Strategies in
Times of Disaster, 1998, Boulder: Lynne Rienner Publishers, pp. 1-2.
8
Ibid., pp. 23-35.
9
ソマリアには、ラハウィン(Rahanwein)、ディギル(Digil)、イサック(Isaaq)、ダロッド(Darod)、
ディル(Dir)、ハウィヤ(Hawiye)と呼ばれる六つの氏族がある。その氏族から枝分かれした集団が
「支族」であり、さらに、その「支族」の下位に「ディヤ集団」と呼ばれる集団が存在する(柴田久史『ソ
マリアで何が?』、岩波書店、1993年、19頁)。
10
Mohamed Sahnoun, Somalia : the Missed Opportunities, Washington, D.C.: United States Institute
of Peace Press, 1994, pp. 5-6.
11
柴田久史、前掲書、46頁。
12
柴田久史、同書、47頁。
13
Mohamed Sahnoun, Somalia : the Missed Opportunities, pp. 8-9.
14
アリ・マハディは、ハウィヤ氏族アブガル氏族に所属し、これに敵対するアイディードは、ハウィヤ氏族
ハブルゲディル氏族に所属しており、両者の対立は、「支族」間の対立と見なすこともできるのだが、両
支族間には宗教的・文化的相違はなく、伝統的に敵対関係に至ったことはなく(柴田久史、前掲書、53
頁)、性急に「支族」間の対立と結論するべきでないだろう。権力者が権力闘争を目的として、氏族・支
族間の相違を強調し、対立を扇動した結果、このような氏族・支族間の武力闘争をもたらしたと言えよう。
15
Mohamed Sahnoun, Somalia : the Missed Opportunities, pp. 8-9.
16
S/RES/733(1992), 23 January 1992.
17
S/RES/751(1992), 24 April 1992; S/23839/Add.1, 21 April 1992.
18
S/24859, 27 November 1992.
19
この国連による強制措置の目的が、ソマリア内戦の武力による決着ではなく、ソマリアにおける緊急人道
支援の促進にあったことに留意したい。
20
S/RES/794(1992), 3 December 1992.
21
S/24976, 17 December 1992; S/25126, 19 January 1993.
22
UNDPI, The United Nations and Somalia, 1992-1996, pp. 264-266.
23
S/RES/814(1993), 26 March 1993.
24
S/RES/837(1993), 6 June 1993.
25
国連軍による人権侵害については、次の文献を参考のこと。African Rights (Organization), Somalia :
Human Rights Abuses by the United Nations Forces, London: African Rights, 1993.
26
UNDPI, The United Nations and Somalia, 1992-1996, pp. 51-54.
27
国連人口部(United Nations Population Division)による2000年の人口推計値を参考にした(United
Nations Population Division, Total population by sex and sex ratio, by country, 2000 (mediumfertility variant), available in web site: http//www.un.org/esa/population/wpp2000at.pdf)。
28
UNHCR, The State of the World's Refugees, 1993, New York: Penguin Books, 1993, p. 149.
29
Alex de Waal, Famine Crimes : Politics & the Disaster Relief Industry in Africa, African issues,
London: African Rights & the International African Institute in association with James Currey
Oxford & Indiana University Press Bloomington, 1997, pp. 163-166; Andrew S. Natsios,
"Humanitarin Relief Intervention in Somalia : The Economics of Chaos," in Walter S. Clarke and
Jeffrey Ira Herbst, eds., Learning from Somalia : the Lessons of Armed Humanitarian Intervention,
Boulder, Colo.: Westview Press, 1997, pp. 78-80.
30
Michael J. Toole, "The Public-Health Consequences of Inaction," in Kevin M. Cahill, ed., A
Framework for Survival : Health, Human Rights, and Humanitarian Assistance in Conflicts and
Disasters, New York: Routledge, 1999, p. 18.
31
Mohamed Sahnoun, Somalia : the Missed Opportunities, p. 18.
32
Alex de Waal, Famine Crimes, p. 168.
33
Ibid., pp. 172-176; Mohamed Sahnoun, Somalia : the Missed Opportunities, pp. 20-21.
34
Mohamed Sahnoun, Somalia : the Missed Opportunities, p. 2.
35
Ibid., p. 3.
36
Alex de Waal, Famine Crimes, pp. 183-184; S/24859, 27 November 1992.
37
African Rights, Somalia : Operation Restore Hope : A Preliminary Assessment, London: African
Rights, 1993, p. 4.
38
Alex de Waal, Famine Crimes, p. 169.
39
武力紛争下の緊急人道支援では、支援する地域を実質的な支配に置く紛争当事者や現地の指導者に、治安
の維持や物資輸送の護衛などを依頼することが一般的に行われている。ただ、ソマリア内戦のように、紛
争が刻々と変化し、支配者が次々に交代するような状況では、現地の紛争当事者に治安維持を依頼するこ
とには困難が伴ったであろう。
40
Andrew S. Natsios, "Humanitarin Relief Intervention in Somalia : The Economics of Chaos," p.
84.
41
Ibid., p. 85.
42
Ibid., p. 170; Mohamed Sahnoun, Somalia : the Missed Opportunities, p. 38.
43
Andrew S. Natsios, "Humanitarin Relief Intervention in Somalia : The Economics of Chaos," p. 83.
44
Mohamed Sahnoun, Somalia : the Missed Opportunities, p. 37.
45
CARE monetization programme, “Cereal Prices in South Mogadishu (Somali shillings per kg)”,
quoted in African Rights, Somalia : Operation Restore Hope, p. 9.
46
シリングは、ソマリアの通貨単位である。
47
African Rights, Somalia : Operation Restore Hope, pp. 10-11.
48
Ibid.
49
食糧の有償販売に関しては、次の文献を参考のこと。Frederick C. Cuny, and Richard B. Hill, Famine,
Conflict, and Response : A Basic Guide, West Hartford, Conn.: Kumarian Press, 1999, pp. 76-86.
50
ソマリア商人は、氏族に所属しており、仮に商品が盗難にあった場合であっても、その盗難を行った人が
所属する氏族から、その補償を受けられたので、国際人道機関が援助物資を輸送・管理するよりもソマリ
ア人商人が行った方が、目減りは少なかったと推測できる。
51
Andrew S. Natsios, "Humanitarin Relief Intervention in Somalia : The Economics of Chaos," pp.
86-92.
52
Ibid.
53
Ibid.
54
John Kirkby, et al., "Field Report : UNHCR's Cross Border Operations in Somalia : The Value of
Quick Impact Projects for Refugee Resettlement," Journal of Refugee Studies, Vol. 10, No. 2 (1997),
pp. 181-198.
55
UNHCR, The State of the World's Refugees, 1993, p. 117.
56
フレッド・カニーは、緊急人道支援に関するコンサルタント企業INTERTECTの代表であり、国際機関に
対して様々な助言をしていたのだが、チェチェン共和国で活動中に消息を絶った(Scott Anderson, The
Man Who Tried to Save the World : the Dangerous Life and Mysterious Disappearance of Fred
Cuny, 1999, New York: Doubleday)。カニーの著書としては以下のものを挙げておきたい。Frederick
C. Cuny and Richard B. Hill, Famine, Conflict, and Response : A Basic Guide, 1999, West Hartford,
Conn.: Kumarian Press.
57
Alex de Waal, Famine Crimes, p. 183.; James L. Woods, "U.S. Government Decisionmaking
Processes During Humanitarian Operations in Somalia," in Walter S. Clarke and Jeffrey Ira Herbst,
eds., Learning from Somalia : the Lessons of Armed Humanitarian Intervention, Boulder, Colo.:
Westview Press, 1997, p. 157.
58
Alex de Waal, Famine Crimes, p. 183.
59
African Rights, Somalia : Operation Restore Hope, p. 5.
60
Rony Brauman, and Philippe Petit, Humanitaire, le dilemme, pp. 29-30.
61
Ibid., p. 41.
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